2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

たまゆら 101枚目

392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/21(木) 02:53:20.18 ID:HuUXGnzfG
当然彼らは第三帝国の理念など理解しなかった。
ただ共通していたのは、彼らがアカ野郎とユダ公が大嫌いだったことである。
戦時においては敵に対する憎しみさえあれば、それで十分であった。
ブラニスラフ・カミンスキーは、そんな武装親衛隊の外人部隊に所属していた師団の司令官である。
かの部隊は「SS武装突撃旅団 RONA」、「カミンスキー特務旅団」、「武装親衛隊第29装甲擲弾兵師団」など、様々な名で呼ばれた。
カミンスキーはロシア帝国で生まれた大学出のインテリである。
ポーランド人の父親とドイツ人の母親の間で生まれた。
外国人インテリゲンツィアのカミンスキーはボリシェヴィキによって粛清され、ブリャンスクの強制収容所に叩き込まれる。
カミンスキーはアカが大嫌いになった。
バルバロッサ作戦後、ドイツ軍がブリャンスクを占領すると現地民はドイツ軍を解放者として迎えた。
カミンスキーは現地の自警団組織「ロシア国民解放軍(=RONA)」の隊長補佐的立ち位置で参加し(後に隊長になる)、以後この組織がカミンスキー旅団の基礎となっていく。
RONAはドイツ軍に協力を申し出、当初は拒否されるが兵員不足からブリャンスク近郊の自治をドイツ軍に認められ、彼の支配する領域には170万人の市民がいた。
治安は安定し平和と繁栄の天国になったと言われるほどだ。
反共のロシア人がこの自治区に続々集まってきた。

だがドイツ軍は劣等民族スラブ人という偏ったイデオロギーを徹底的に教え込まれていたため、カミンスキーの自治領域以外では住民に対する虐待行為やアインザッツグルッペンによる組織的虐殺が横行していた。
これに対しカミンスキーはドイツ軍に対して抗議したといわれている。
独第2装甲軍は、ソ連に勝利した暁にはカミンスキーに一定の領土を与えることを約束し、奴隷としてではなく高い士気を持って戦わせることにした。

旅団の規模は拡大し1942年には20000名に達した。加えてドイツ軍より、鹵獲したT-34戦車や機関銃、野砲などを受領し、戦力が大幅に増強された。
歩兵5個連隊、T-34戦車24両を持つ戦車1個旅団、工兵1個大隊、警備1個大隊、機関銃部隊で構成されていた。
カミンスキー旅団は主にパルチザンを相手に戦っていた。
ドイツ軍が大作戦をやっている最中もパルチザンから補給ラインを守る後方での戦いに従事していた。

1942年6月、カミンスキー旅団はパルチザン狩りの大規模な作戦(フォーゲルザンク作戦)に参加した。
作戦地帯はブリャンスク北の森林地帯である。
この作戦にはRONAの他に、ドイツ軍第5装甲師団や第216歩兵師団、ハンガリーの軽師団数個が参加していた。
10月までに1193名のパルチザンが殺され、1400名が負傷し、498名が捕縛された。12000人の民間人が難民となった。

総レス数 1001
450 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★