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アンパンマンの顔の美味しい食べ方考察スレッド
- 1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/10(水) 17:12:26.14 ID:5RF7D8YW.net
- 鼻が美味しそう
- 2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/02/11(木) 22:04:56.03 ID:+6tVr/zh.net
- そもそもアンパンマンの顔は食べ物じゃない
- 3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 17:20:10.32 ID:lCMaTo65p
- 栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。
- 4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 17:31:41.13 ID:lCMaTo65p
- 考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨が何度も消えたり出来たりする。――
- 5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 17:43:11.82 ID:lCMaTo65p
- それが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。
- 6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 17:54:42.28 ID:lCMaTo65p
- 馬琴はとうとうふき出した。
- 7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 18:06:12.77 ID:lCMaTo65p
- が、笑いの中ですぐまた語をつぎながら、
- 8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 18:17:43.45 ID:lCMaTo65p
- 癇癪を起しちゃいけませんって。」
- 9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 18:31:13.97 ID:lCMaTo65p
- 「おやおや、それっきりかい。」
- 10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 18:42:44.46 ID:lCMaTo65p
- 太郎はこう言って、糸鬢奴の頭を仰向けながら自分もまた笑い出した。
- 11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 18:54:14.88 ID:lCMaTo65p
- 眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨をよせて、笑っているのを見ると、これが大きくなって、世間の人間のような憐れむべき顔になろうとは、どうしても思われない。
- 12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 19:05:45.39 ID:lCMaTo65p
- 馬琴は幸福の意識に溺れながら、こんなことを考えた。
- 13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 19:17:16.04 ID:lCMaTo65p
- そうしてそれが、さらにまた彼の心をくすぐった。
- 14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 20:01:42.19 ID:q8xH99IDV
- 馬琴はとうとうふき出した。
- 15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 20:24:43.92 ID:q8xH99IDV
- 癇癪を起しちゃいけませんって。」
- 16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 20:36:15.11 ID:q8xH99IDV
- 「おやおや、それっきりかい。」
- 17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 20:57:05.47 ID:q8xH99IDV
- 独りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝を開いて見た。
- 18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 21:09:24.33 ID:q8xH99IDV
- 偶然開いたところは豹子頭林冲が、風雪の夜に山神廟で、草秣場の焼けるのを望見する件である。
- 19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 21:20:55.44 ID:q8xH99IDV
- 彼はその戯曲的な場景に、いつもの感興を催すことが出来た。
- 20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 21:32:26.85 ID:q8xH99IDV
- が、それがあるところまで続くとかえって妙に不安になった。
- 21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 21:43:58.26 ID:q8xH99IDV
- 仏参に行った家族のものは、まだ帰って来ない。
- 22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 21:55:29.38 ID:q8xH99IDV
- うちの中は森としている。
- 23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 22:07:00.40 ID:q8xH99IDV
- 彼は陰気な顔を片づけて、水滸伝を前にしながら、うまくもない煙草を吸った。
- 24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 22:18:31.71 ID:q8xH99IDV
- そうしてその煙の中に、ふだんから頭の中に持っている、ある疑問を髣髴した。
- 25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 22:34:02.90 ID:q8xH99IDV
- それは、道徳家としての彼と芸術家としての彼との間に、いつも纏綿する疑問である。
- 26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 22:45:34.67 ID:q8xH99IDV
- 彼は昔から「先王の道」
- 27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 22:57:06.31 ID:q8xH99IDV
- 彼の小説は彼自身公言したごとく、まさに「先王の道」
- 28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:08:37.31 ID:q8xH99IDV
- だから、そこに矛盾はない。
- 29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:20:08.05 ID:q8xH99IDV
- が芸術に与える価値と、彼の心情が芸術に与えようとする価値との間には、存外大きな懸隔がある。
- 30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:31:38.79 ID:q8xH99IDV
- 従って彼のうちにある、道徳家が前者を肯定するとともに、彼の中にある芸術家は当然また後者を肯定した。
- 31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:43:09.54 ID:q8xH99IDV
- もちろんこの矛盾を切り抜ける安価な妥協的思想もないことはない。
- 32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:54:40.52 ID:q8xH99IDV
- 実際彼は公衆に向ってこの煮え切らない調和説の背後に、彼の芸術に対する曖昧な態度を隠そうとしたこともある。
- 33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:06:12.66 ID:OaI0tzcoO
- しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。
- 34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:17:44.16 ID:OaI0tzcoO
- 彼は戯作の価値を否定して「勧懲の具」
- 35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:29:15.12 ID:OaI0tzcoO
- と称しながら、常に彼のうちに磅する芸術的感興に遭遇すると、たちまち不安を感じ出した。――
- 36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:40:45.89 ID:OaI0tzcoO
- 水滸伝の一節が、たまたま彼の気分の上に、予想外の結果を及ぼしたのにも、実はこんな理由があったのである。
- 37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:52:16.69 ID:OaI0tzcoO
- この点において、思想的に臆病だった馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強いて思量を、留守にしている家族の方へ押し流そうとした。
- 38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:03:47.99 ID:OaI0tzcoO
- が、彼の前には水滸伝がある。
- 39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:15:18.79 ID:OaI0tzcoO
- 不安はそれを中心にして、容易に念頭を離れない。
- 40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:26:49.73 ID:OaI0tzcoO
- そこへ折よく久しぶりで、崋山渡辺登が尋ねて来た。
- 41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:38:20.50 ID:OaI0tzcoO
- 袴羽織に紫の風呂敷包みを小脇にしているところでは、これはおおかた借りていた書物でも返しに来たのであろう。
- 42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:49:51.74 ID:OaI0tzcoO
- 馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎えに出た。
- 43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:01:22.43 ID:OaI0tzcoO
- 「今日は拝借した書物を御返却かたがた、お目にかけたいものがあって、参上しました。」
- 44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:12:53.50 ID:OaI0tzcoO
- 崋山は書斎に通ると、はたしてこう言った。
- 45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:24:24.27 ID:OaI0tzcoO
- 見れば風呂敷包みのほかにも紙に巻いた絵絹らしいものを持っている。
- 46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:35:55.04 ID:OaI0tzcoO
- 「お暇なら一つ御覧を願いましょうかな。」
- 47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:47:25.83 ID:OaI0tzcoO
- 「おお、さっそく、拝見しましょう。」
- 48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:58:56.58 ID:OaI0tzcoO
- 崋山はある興奮に似た感情を隠すように、ややわざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹をひらいて見せた。
- 49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:10:27.29 ID:OaI0tzcoO
- 絵は蕭索とした裸の樹を、遠近と疎に描いて、その中に掌をうって談笑する二人の男を立たせている。
- 50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:21:58.67 ID:OaI0tzcoO
- 林間に散っている黄葉と、林梢に群がっている乱鴉と、――
- 51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:33:29.49 ID:OaI0tzcoO
- 画面のどこを眺めても、うそ寒い秋の気が動いていないところはない。
- 52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:45:00.22 ID:OaI0tzcoO
- 馬琴の眼は、この淡彩の寒山拾得に落ちると、次第にやさしい潤いを帯びて輝き出した。
- 53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:56:31.09 ID:OaI0tzcoO
- 「いつもながら、結構なお出来ですな。
- 54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 04:08:01.87 ID:OaI0tzcoO
- 私は王摩詰を思い出します。
- 55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 04:19:32.60 ID:OaI0tzcoO
- 食随二鳴磬一巣烏下、行踏二空林一落葉声というところでしょう。」
- 56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 04:31:03.93 ID:OaI0tzcoO
- 「これは昨日描き上げたのですが、私には気に入ったから、御老人さえよければ差し上げようと思って持って来ました。」
- 57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 04:42:34.68 ID:OaI0tzcoO
- 崋山は、鬚の痕の青い顋を撫でながら、満足そうにこう言った。
- 58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 04:54:05.74 ID:OaI0tzcoO
- 「もちろん気に入ったと言っても、今まで描いたもののうちではというくらいなところですが――
- 59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 05:05:36.51 ID:OaI0tzcoO
- とても思う通りには、いつになっても、描けはしません。」
- 60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 05:17:07.32 ID:OaI0tzcoO
- いつも頂戴ばかりしていて恐縮ですが。」
- 61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 05:28:38.18 ID:OaI0tzcoO
- 馬琴は、絵を眺めながら、つぶやくように礼を言った。
- 62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 05:40:09.42 ID:OaI0tzcoO
- 未完成のままになっている彼の仕事のことが、この時彼の心の底に、なぜかふとひらめいたからである。
- 63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 05:51:40.48 ID:OaI0tzcoO
- が、崋山は崋山で、やはり彼の絵のことを考えつづけているらしい。
- 64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 06:03:11.23 ID:OaI0tzcoO
- 「古人の絵を見るたびに、私はいつもどうしてこう描けるだろうと思いますな。
- 65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 06:14:41.98 ID:OaI0tzcoO
- 木でも石でも人物でも、皆その木なり石なり人物なりになり切って、しかもその中に描いた古人の心もちが、悠々として生きている。
- 66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 06:26:12.73 ID:OaI0tzcoO
- あれだけは実に大したものです。
- 67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 06:37:43.71 ID:OaI0tzcoO
- まだ私などは、そこへ行くと、子供ほどにも出来ていません。」
- 68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 06:49:15.05 ID:OaI0tzcoO
- 「古人は後生恐るべしと言いましたがな。」
- 69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 07:00:47.21 ID:OaI0tzcoO
- 馬琴は崋山が自分の絵のことばかり考えているのを、妬ましいような心もちで眺めながら、いつになくこんな諧謔を弄した。
- 70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 07:12:18.28 ID:OaI0tzcoO
- 「それは後生も恐ろしい。
- 71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 07:23:49.67 ID:OaI0tzcoO
- だから私どもはただ、古人と後生との間にはさまって、身動きもならずに、押され押され進むのです。
- 72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 07:35:20.81 ID:OaI0tzcoO
- もっともこれは私どもばかりではありますまい。
- 73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 07:46:52.03 ID:OaI0tzcoO
- 古人もそうだったし、後生もそうでしょう。」
- 74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 07:58:23.64 ID:OaI0tzcoO
- 「いかにも進まなければ、すぐに押し倒される。
- 75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 08:09:54.71 ID:OaI0tzcoO
- するとまず一足でも進む工夫が、肝腎らしいようですな。」
- 76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 08:21:25.57 ID:OaI0tzcoO
- 「さよう、それが何よりも肝腎です。」
- 77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 08:32:56.52 ID:OaI0tzcoO
- 主人と客とは、彼ら自身の語に動かされて、しばらくの間口をとざした。
- 78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 08:44:27.35 ID:OaI0tzcoO
- そうして二人とも、秋の日の静かな物音に耳をすませた。
- 79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 08:55:58.21 ID:OaI0tzcoO
- 「八犬伝は相変らず、捗がお行きですか。」
- 80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 09:07:29.66 ID:OaI0tzcoO
- やがて、崋山が話題を別な方面に開いた。
- 81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 09:19:00.51 ID:OaI0tzcoO
- 「いや、一向はかどらんでしかたがありません。
- 82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 09:30:31.25 ID:OaI0tzcoO
- これも古人には及ばないようです。」
- 83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 09:42:02.18 ID:OaI0tzcoO
- 「御老人がそんなことを言っては、困りますな。」
- 84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 09:53:33.33 ID:OaI0tzcoO
- 「困るのなら、私の方が誰よりも困っています。
- 85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 10:05:04.25 ID:OaI0tzcoO
- しかしどうしても、これで行けるところまで行くよりほかはない。
- 86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 10:16:35.47 ID:OaI0tzcoO
- そう思って、私はこのごろ八犬伝と討死の覚悟をしました。」
- 87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 10:28:06.28 ID:OaI0tzcoO
- こう言って、馬琴は自ら恥ずるもののように、苦笑した。
- 88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 10:39:37.06 ID:OaI0tzcoO
- 「たかが戯作だと思っても、そうはいかないことが多いのでね。」
- 89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:02:46.21 ID:RKDo9Xlyw
- 「とにかく、それよりほかはないようですな。」
- 90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:14:17.31 ID:RKDo9Xlyw
- 「そこでまた、御同様に討死ですか。」
- 91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:25:47.93 ID:RKDo9Xlyw
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:37:19.42 ID:RKDo9Xlyw
- 笑わなかったばかりではない。
- 93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:48:50.06 ID:RKDo9Xlyw
- 馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。
- 94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:00:20.54 ID:RKDo9Xlyw
- それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。
- 95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:11:51.05 ID:RKDo9Xlyw
- 「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。
- 96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:23:21.65 ID:RKDo9Xlyw
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:34:52.29 ID:RKDo9Xlyw
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:46:22.86 ID:RKDo9Xlyw
- 崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。
- 99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:57:53.42 ID:RKDo9Xlyw
- が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。
- 100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:09:23.90 ID:RKDo9Xlyw
- 崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。
- 101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:20:54.40 ID:RKDo9Xlyw
- 先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。
- 102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:32:25.09 ID:RKDo9Xlyw
- そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
- 103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:43:56.63 ID:RKDo9Xlyw
- すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。
- 104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:55:27.19 ID:RKDo9Xlyw
- 字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。
- 105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:06:57.88 ID:RKDo9Xlyw
- 彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。
- 106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:18:30.23 ID:RKDo9Xlyw
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:30:00.98 ID:RKDo9Xlyw
- 書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」
- 108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:41:31.68 ID:RKDo9Xlyw
- そう思って、彼はもう一度読み返した。
- 109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:53:05.52 ID:RKDo9Xlyw
- が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。
- 110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:04:36.12 ID:RKDo9Xlyw
- 彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽し出した。
- 111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:16:06.79 ID:RKDo9Xlyw
- 「このもう一つ前はどうだろう。」
- 112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:27:37.46 ID:RKDo9Xlyw
- 彼はその前に書いたところへ眼を通した。
- 113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:39:08.12 ID:RKDo9Xlyw
- すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然としてちらかっている。
- 114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:50:39.51 ID:RKDo9Xlyw
- 彼はさらにその前を読んだ。
- 115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:02:10.03 ID:RKDo9Xlyw
- そうしてまたその前の前を読んだ。
- 116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:13:40.57 ID:RKDo9Xlyw
- しかし読むに従って拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。
- 117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:25:11.15 ID:RKDo9Xlyw
- そこには何らの映像をも与えない叙景があった。
- 118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:36:41.74 ID:RKDo9Xlyw
- 何らの感激をも含まない詠歎があった。
- 119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:48:12.87 ID:RKDo9Xlyw
- そうしてまた、何らの理路をたどらない論弁があった。
- 120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:59:43.46 ID:RKDo9Xlyw
- 彼が数日を費やして書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、ことごとく無用の饒舌としか思われない。
- 121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:11:13.97 ID:RKDo9Xlyw
- 彼は急に、心を刺されるような苦痛を感じた。
- 122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:22:44.50 ID:RKDo9Xlyw
- 「これは始めから、書き直すよりほかはない。」
- 123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:34:15.14 ID:RKDo9Xlyw
- 彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘ついてごろりと横になった。
- 124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:45:45.72 ID:RKDo9Xlyw
- が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。
- 125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:57:17.37 ID:RKDo9Xlyw
- 彼はこの机の上で、弓張月を書き、南柯夢を書き、そうして今は八犬伝を書いた。
- 126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:08:48.02 ID:RKDo9Xlyw
- この上にある端渓の硯、蹲の文鎮、蟇の形をした銅の水差し、獅子と牡丹とを浮かせた青磁の硯屏、それから蘭を刻んだ孟宗の根竹の筆立て――
- 127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:20:18.53 ID:RKDo9Xlyw
- そういう一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでいる。
- 128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:31:49.05 ID:RKDo9Xlyw
- それらの物を見るにつけても、彼はおのずから今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるような――
- 129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:43:19.62 ID:RKDo9Xlyw
- 彼自身の実力が根本的に怪しいような、いまわしい不安を禁じることが出来ない。
- 130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:54:50.36 ID:RKDo9Xlyw
- 「自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでいた。
- 131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:06:20.91 ID:rGHydWygh
- が、それもやはり事によると、人なみに己惚れの一つだったかも知れない。」
- 132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:17:51.42 ID:rGHydWygh
- こういう不安は、彼の上に、何よりも堪えがたい、落莫たる孤独の情をもたらした。
- 133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:29:21.94 ID:rGHydWygh
- 彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に謙遜であることを忘れるものではない。
- 134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:40:52.98 ID:rGHydWygh
- が、それだけにまた、同時代の屑々たる作者輩に対しては、傲慢であるとともにあくまでも不遜である。
- 135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:52:24.21 ID:rGHydWygh
- その彼が、結局自分も彼らと同じ能力の所有者だったということを、そうしてさらに厭うべき遼東の豕だったということは、どうしてやすやすと認められよう。
- 136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 01:03:55.83 ID:rGHydWygh
- しかも彼の強大な「我」
- 137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 21:31:40.70 ID:aa5yjpXIa
- 「とにかく、それよりほかはないようですな。」
- 138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 21:42:41.27 ID:aa5yjpXIa
- 「そこでまた、御同様に討死ですか。」
- 139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 21:53:41.78 ID:aa5yjpXIa
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:04:42.41 ID:aa5yjpXIa
- 笑わなかったばかりではない。
- 141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:15:43.17 ID:aa5yjpXIa
- 馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。
- 142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:26:43.67 ID:aa5yjpXIa
- それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。
- 143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:37:44.25 ID:aa5yjpXIa
- 「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。
- 144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:59:29.89 ID:aa5yjpXIa
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:10:31.60 ID:aa5yjpXIa
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:21:32.90 ID:aa5yjpXIa
- 崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。
- 147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:32:34.39 ID:aa5yjpXIa
- が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。
- 148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:43:34.93 ID:aa5yjpXIa
- 崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。
- 149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:54:35.88 ID:aa5yjpXIa
- 先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。
- 150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:05:36.60 ID:0ZnJyvUSB
- そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
- 151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:16:37.15 ID:0ZnJyvUSB
- すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。
- 152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:27:38.46 ID:0ZnJyvUSB
- 字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。
- 153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:38:39.77 ID:0ZnJyvUSB
- 彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。
- 154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:49:40.42 ID:0ZnJyvUSB
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:00:40.96 ID:0ZnJyvUSB
- 書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」
- 156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:11:41.46 ID:0ZnJyvUSB
- そう思って、彼はもう一度読み返した。
- 157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:22:41.97 ID:0ZnJyvUSB
- が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。
- 158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:33:42.51 ID:0ZnJyvUSB
- 彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽し出した。
- 159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:44:43.03 ID:0ZnJyvUSB
- 「このもう一つ前はどうだろう。」
- 160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:55:43.60 ID:0ZnJyvUSB
- 彼はその前に書いたところへ眼を通した。
- 161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:06:44.13 ID:0ZnJyvUSB
- すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然としてちらかっている。
- 162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:17:44.66 ID:0ZnJyvUSB
- 彼はさらにその前を読んだ。
- 163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:28:45.17 ID:0ZnJyvUSB
- そうしてまたその前の前を読んだ。
- 164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:39:45.76 ID:0ZnJyvUSB
- しかし読むに従って拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。
- 165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:50:46.29 ID:0ZnJyvUSB
- そこには何らの映像をも与えない叙景があった。
- 166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:01:47.23 ID:0ZnJyvUSB
- 何らの感激をも含まない詠歎があった。
- 167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:12:47.79 ID:0ZnJyvUSB
- そうしてまた、何らの理路をたどらない論弁があった。
- 168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:23:48.44 ID:0ZnJyvUSB
- 彼が数日を費やして書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、ことごとく無用の饒舌としか思われない。
- 169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:34:49.81 ID:0ZnJyvUSB
- 彼は急に、心を刺されるような苦痛を感じた。
- 170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:45:50.53 ID:0ZnJyvUSB
- 「これは始めから、書き直すよりほかはない。」
- 171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:56:52.03 ID:0ZnJyvUSB
- 彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘ついてごろりと横になった。
- 172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:07:53.12 ID:0ZnJyvUSB
- が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。
- 173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:18:53.85 ID:0ZnJyvUSB
- 彼はこの机の上で、弓張月を書き、南柯夢を書き、そうして今は八犬伝を書いた。
- 174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:29:54.54 ID:0ZnJyvUSB
- この上にある端渓の硯、蹲の文鎮、蟇の形をした銅の水差し、獅子と牡丹とを浮かせた青磁の硯屏、それから蘭を刻んだ孟宗の根竹の筆立て――
- 175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:40:55.63 ID:0ZnJyvUSB
- そういう一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでいる。
- 176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:51:56.20 ID:0ZnJyvUSB
- それらの物を見るにつけても、彼はおのずから今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるような――
- 177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:02:57.63 ID:0ZnJyvUSB
- 彼自身の実力が根本的に怪しいような、いまわしい不安を禁じることが出来ない。
- 178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:13:58.52 ID:0ZnJyvUSB
- 「自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでいた。
- 179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:24:59.66 ID:0ZnJyvUSB
- が、それもやはり事によると、人なみに己惚れの一つだったかも知れない。」
- 180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:36:00.43 ID:0ZnJyvUSB
- こういう不安は、彼の上に、何よりも堪えがたい、落莫たる孤独の情をもたらした。
- 181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:47:01.02 ID:0ZnJyvUSB
- 彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に謙遜であることを忘れるものではない。
- 182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:58:01.53 ID:0ZnJyvUSB
- が、それだけにまた、同時代の屑々たる作者輩に対しては、傲慢であるとともにあくまでも不遜である。
- 183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 06:09:02.04 ID:0ZnJyvUSB
- その彼が、結局自分も彼らと同じ能力の所有者だったということを、そうしてさらに厭うべき遼東の豕だったということは、どうしてやすやすと認められよう。
- 184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 06:20:02.54 ID:0ZnJyvUSB
- しかも彼の強大な「我」
- 185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 11:35:37.73 ID:PQhUff/5V
- と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
- 186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 11:47:23.80 ID:PQhUff/5V
- 「しかし絵の方は羨ましいようですな。
- 187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 11:59:09.47 ID:PQhUff/5V
- 公儀のお咎めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」
- 188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:10:55.17 ID:PQhUff/5V
- 今度は馬琴が、話頭を一転した。
- 189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:22:40.94 ID:PQhUff/5V
- 御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
- 190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:34:26.76 ID:PQhUff/5V
- 「いや、大いにありますよ。」
- 191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:46:13.49 ID:PQhUff/5V
- 馬琴は改名主の図書検閲が、陋を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙げた。
- 192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:57:59.26 ID:PQhUff/5V
- そうして、それにこんな批評をつけ加えた。
- 193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:09:44.90 ID:PQhUff/5V
- 「改名主などいうものは、咎め立てをすればするほど、尻尾の出るのがおもしろいじゃありませんか。
- 194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:21:30.71 ID:PQhUff/5V
- 自分たちが賄賂をとるものだから、賄賂のことを書かれると、嫌がって改作させる。
- 195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:33:16.79 ID:PQhUff/5V
- また自分たちが猥雑な心もちにとらわれやすいものだから、男女の情さえ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ誨淫の書にしてしまう。
- 196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:45:02.63 ID:PQhUff/5V
- それで自分たちの道徳心が、作者より高い気でいるから、傍痛い次第です。
- 197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:56:48.79 ID:PQhUff/5V
- 言わばあれは、猿が鏡を見て、歯をむき出しているようなものでしょう。
- 198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:08:34.44 ID:PQhUff/5V
- 自分で自分の下等なのに腹を立てているのですからな。」
- 199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:20:20.04 ID:PQhUff/5V
- 崋山は馬琴の比喩があまり熱心なので、思わず失笑しながら、
- 200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:32:05.80 ID:PQhUff/5V
- 「それは大きにそういうところもありましょう。
- 201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:43:51.60 ID:PQhUff/5V
- しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。
- 202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:55:37.62 ID:PQhUff/5V
- 改名主などがなんと言おうとも、立派な著述なら、必ずそれだけのことはあるはずです。」
- 203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:07:23.55 ID:PQhUff/5V
- 「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。
- 204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:19:09.33 ID:PQhUff/5V
- そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る件を書いたので、やはり五六行削られたことがありました。」
- 205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:30:55.13 ID:PQhUff/5V
- 馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。
- 206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:42:40.96 ID:PQhUff/5V
- 「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」
- 207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:54:26.86 ID:PQhUff/5V
- 「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」
- 208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:06:12.64 ID:PQhUff/5V
- 私にはそうも思われませんが。」
- 209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:17:58.74 ID:PQhUff/5V
- 「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。
- 210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:29:44.46 ID:PQhUff/5V
- 焚書坑儒が昔だけあったと思うと、大きに違います。」
- 211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:41:30.15 ID:PQhUff/5V
- 「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」
- 212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:53:15.91 ID:PQhUff/5V
- 「私が心細いのではない。
- 213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 17:05:01.69 ID:PQhUff/5V
- 改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」
- 214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 17:16:47.40 ID:PQhUff/5V
- 「では、ますます働かれたらいいでしょう。」
- 215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 17:52:05.58 ID:PQhUff/5V
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 18:03:53.61 ID:PQhUff/5V
- 笑わなかったばかりではない。
- 217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 18:50:59.95 ID:PQhUff/5V
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 19:02:46.01 ID:PQhUff/5V
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 20:48:38.45 ID:PQhUff/5V
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 21:47:29.71 ID:PQhUff/5V
- 「このもう一つ前はどうだろう。」
- 221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 22:22:47.70 ID:PQhUff/5V
- 彼はさらにその前を読んだ。
- 222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 22:34:33.57 ID:PQhUff/5V
- そうしてまたその前の前を読んだ。
- 223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 02:41:36.65 ID:6wmxFEFmV
- しかも彼の強大な「我」
- 224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 02:53:22.98 ID:6wmxFEFmV
- とに避難するにはあまりに情熱に溢れている。
- 225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 03:05:08.64 ID:6wmxFEFmV
- 彼は机の前に身を横たえたまま、親船の沈むのを見る、難破した船長の眼で、失敗した原稿を眺めながら、静かに絶望の威力と戦いつづけた。
- 226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 03:16:54.42 ID:6wmxFEFmV
- もしこの時、彼の後ろの襖が、けたたましく開け放されなかったら、そうして「お祖父様ただいま。」
- 227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 03:28:40.38 ID:6wmxFEFmV
- という声とともに、柔らかい小さな手が、彼の頸へ抱きつかなかったら、彼はおそらくこの憂欝な気分の中に、いつまでも鎖されていたことであろう。
- 228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 03:40:26.06 ID:6wmxFEFmV
- が、孫の太郎は襖を開けるや否や、子供のみが持っている大胆と率直とをもって、いきなり馬琴の膝の上へ勢いよくとび上がった。
- 229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 03:52:11.76 ID:6wmxFEFmV
- 「お祖父様ただいま。」
- 230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 04:03:57.95 ID:6wmxFEFmV
- 「おお、よく早く帰って来たな。」
- 231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 04:15:43.66 ID:6wmxFEFmV
- この語とともに、八犬伝の著者の皺だらけな顔には、別人のような悦びが輝いた。
- 232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 04:27:29.59 ID:6wmxFEFmV
- 茶の間の方では、癇高い妻のお百の声や内気らしい嫁のお路の声が賑やかに聞えている。
- 233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 04:39:15.26 ID:6wmxFEFmV
- 時々太い男の声がまじるのは、折から伜の宗伯も帰り合せたらしい。
- 234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 04:51:01.02 ID:6wmxFEFmV
- 太郎は祖父の膝にまたがりながら、それを聞きすましでもするように、わざとまじめな顔をして天井を眺めた。
- 235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 05:02:46.85 ID:6wmxFEFmV
- 外気にさらされた頬が赤くなって、小さな鼻の穴のまわりが、息をするたびに動いている。
- 236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 05:14:32.89 ID:6wmxFEFmV
- 「あのね、お祖父様にね。」
- 237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 05:26:18.72 ID:6wmxFEFmV
- 独りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝を開いて見た。
- 238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 05:38:04.53 ID:6wmxFEFmV
- 偶然開いたところは豹子頭林冲が、風雪の夜に山神廟で、草秣場の焼けるのを望見する件である。
- 239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 10:29:25.22 ID:arnJOS45i
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 10:41:25.78 ID:arnJOS45i
- 笑わなかったばかりではない。
- 241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 11:29:28.77 ID:arnJOS45i
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 11:41:29.35 ID:arnJOS45i
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 13:29:37.26 ID:arnJOS45i
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 14:29:41.46 ID:arnJOS45i
- 「このもう一つ前はどうだろう。」
- 245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 15:05:43.81 ID:arnJOS45i
- 彼はさらにその前を読んだ。
- 246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 15:17:44.30 ID:arnJOS45i
- そうしてまたその前の前を読んだ。
- 247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 19:30:00.62 ID:arnJOS45i
- しかも彼の強大な「我」
- 248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 19:42:01.32 ID:arnJOS45i
- とに避難するにはあまりに情熱に溢れている。
- 249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 19:54:01.87 ID:arnJOS45i
- 彼は机の前に身を横たえたまま、親船の沈むのを見る、難破した船長の眼で、失敗した原稿を眺めながら、静かに絶望の威力と戦いつづけた。
- 250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:06:03.50 ID:arnJOS45i
- もしこの時、彼の後ろの襖が、けたたましく開け放されなかったら、そうして「お祖父様ただいま。」
- 251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:18:04.35 ID:arnJOS45i
- という声とともに、柔らかい小さな手が、彼の頸へ抱きつかなかったら、彼はおそらくこの憂欝な気分の中に、いつまでも鎖されていたことであろう。
- 252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:30:05.42 ID:arnJOS45i
- が、孫の太郎は襖を開けるや否や、子供のみが持っている大胆と率直とをもって、いきなり馬琴の膝の上へ勢いよくとび上がった。
- 253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:42:06.02 ID:arnJOS45i
- 「お祖父様ただいま。」
- 254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:54:06.67 ID:arnJOS45i
- 「おお、よく早く帰って来たな。」
- 255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:06:08.64 ID:arnJOS45i
- この語とともに、八犬伝の著者の皺だらけな顔には、別人のような悦びが輝いた。
- 256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:18:09.46 ID:arnJOS45i
- 茶の間の方では、癇高い妻のお百の声や内気らしい嫁のお路の声が賑やかに聞えている。
- 257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:30:10.09 ID:arnJOS45i
- 時々太い男の声がまじるのは、折から伜の宗伯も帰り合せたらしい。
- 258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:42:10.65 ID:arnJOS45i
- 太郎は祖父の膝にまたがりながら、それを聞きすましでもするように、わざとまじめな顔をして天井を眺めた。
- 259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:54:11.60 ID:arnJOS45i
- 外気にさらされた頬が赤くなって、小さな鼻の穴のまわりが、息をするたびに動いている。
- 260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:06:12.79 ID:arnJOS45i
- 「あのね、お祖父様にね。」
- 261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:18:13.56 ID:arnJOS45i
- 独りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝を開いて見た。
- 262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:30:14.09 ID:arnJOS45i
- 偶然開いたところは豹子頭林冲が、風雪の夜に山神廟で、草秣場の焼けるのを望見する件である。
- 263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:42:14.58 ID:arnJOS45i
- 彼はその戯曲的な場景に、いつもの感興を催すことが出来た。
- 264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:54:15.16 ID:arnJOS45i
- が、それがあるところまで続くとかえって妙に不安になった。
- 265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:06:16.48 ID:arnJOS45i
- 仏参に行った家族のものは、まだ帰って来ない。
- 266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:18:17.41 ID:arnJOS45i
- うちの中は森としている。
- 267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:30:17.97 ID:arnJOS45i
- 彼は陰気な顔を片づけて、水滸伝を前にしながら、うまくもない煙草を吸った。
- 268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:42:18.46 ID:arnJOS45i
- そうしてその煙の中に、ふだんから頭の中に持っている、ある疑問を髣髴した。
- 269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:07:00.15 ID:s2sq8Qt2p
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:19:16.34 ID:s2sq8Qt2p
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:31:32.06 ID:s2sq8Qt2p
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:43:47.72 ID:s2sq8Qt2p
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:56:03.36 ID:s2sq8Qt2p
- なども到底この「西遊記」
- 274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 15:08:19.10 ID:s2sq8Qt2p
- も愛読書の一つである。
- 275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 15:20:34.68 ID:s2sq8Qt2p
- これも今以て愛読してゐる。
- 276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 15:32:50.24 ID:s2sq8Qt2p
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 15:45:05.89 ID:s2sq8Qt2p
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 15:57:21.66 ID:s2sq8Qt2p
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:09:37.45 ID:s2sq8Qt2p
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:21:53.03 ID:s2sq8Qt2p
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:34:08.81 ID:s2sq8Qt2p
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:46:24.65 ID:s2sq8Qt2p
- だから人の事は笑へない。
- 283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:58:40.41 ID:s2sq8Qt2p
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 17:10:56.16 ID:s2sq8Qt2p
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 17:23:12.02 ID:s2sq8Qt2p
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 17:35:27.65 ID:s2sq8Qt2p
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 17:47:43.31 ID:s2sq8Qt2p
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 17:59:58.91 ID:s2sq8Qt2p
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 18:12:14.67 ID:s2sq8Qt2p
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 18:24:30.33 ID:s2sq8Qt2p
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 18:36:46.02 ID:s2sq8Qt2p
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 18:49:01.64 ID:s2sq8Qt2p
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 19:01:17.28 ID:s2sq8Qt2p
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 19:13:33.08 ID:s2sq8Qt2p
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 19:25:48.71 ID:s2sq8Qt2p
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 19:38:04.30 ID:s2sq8Qt2p
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 19:50:20.16 ID:s2sq8Qt2p
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 20:02:36.19 ID:s2sq8Qt2p
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 20:14:52.34 ID:s2sq8Qt2p
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 20:27:08.08 ID:s2sq8Qt2p
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 20:39:23.63 ID:s2sq8Qt2p
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 20:51:39.21 ID:s2sq8Qt2p
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 21:03:54.83 ID:s2sq8Qt2p
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 21:16:11.15 ID:s2sq8Qt2p
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 21:28:26.76 ID:s2sq8Qt2p
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 21:40:42.41 ID:s2sq8Qt2p
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 21:52:58.03 ID:s2sq8Qt2p
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 01:56:40.48 ID:M1F4oolxV
- その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。
- 309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 02:08:56.13 ID:M1F4oolxV
- 俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。……
- 310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 02:21:11.95 ID:M1F4oolxV
- 信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。
- 311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 02:33:27.93 ID:M1F4oolxV
- 同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。
- 312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 02:45:43.75 ID:M1F4oolxV
- 殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、)
- 313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 02:57:59.50 ID:M1F4oolxV
- 一層これが甚しかつた。
- 314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 03:10:15.28 ID:M1F4oolxV
- 信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。
- 315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 03:22:31.06 ID:M1F4oolxV
- 従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。
- 316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 03:34:47.01 ID:M1F4oolxV
- 所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。
- 317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 03:47:02.97 ID:M1F4oolxV
- さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。
- 318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 03:59:18.68 ID:M1F4oolxV
- その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。
- 319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 04:11:34.33 ID:M1F4oolxV
- 同窓たちは皆不思議がつた。
- 320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 04:23:50.25 ID:M1F4oolxV
- その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。
- 321 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 15:36:20.98 ID:V5eJ/SAl4
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:14:35.69 ID:V5eJ/SAl4
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:27:07.21 ID:V5eJ/SAl4
- なども到底この「西遊記」
- 324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:39:38.45 ID:V5eJ/SAl4
- も愛読書の一つである。
- 325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:52:09.12 ID:V5eJ/SAl4
- これも今以て愛読してゐる。
- 326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 18:54:43.00 ID:V5eJ/SAl4
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 19:07:13.77 ID:V5eJ/SAl4
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 19:19:44.55 ID:V5eJ/SAl4
- だから人の事は笑へない。
- 329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 20:59:52.43 ID:V5eJ/SAl4
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 23:42:32.93 ID:V5eJ/SAl4
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 09:56:17.51 ID:Y98O+MFR5
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 11:35:04.81 ID:Y98O+MFR5
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 11:47:50.64 ID:Y98O+MFR5
- なども到底この「西遊記」
- 334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 12:00:37.14 ID:Y98O+MFR5
- も愛読書の一つである。
- 335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 12:13:22.65 ID:Y98O+MFR5
- これも今以て愛読してゐる。
- 336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 13:17:12.09 ID:Y98O+MFR5
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 13:29:57.82 ID:Y98O+MFR5
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 13:42:43.61 ID:Y98O+MFR5
- だから人の事は笑へない。
- 339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 15:24:49.91 ID:Y98O+MFR5
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 18:10:42.46 ID:Y98O+MFR5
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 22:09:55.71 ID:Y98O+MFR5
- その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。
- 342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 22:22:41.66 ID:Y98O+MFR5
- 俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。……
- 343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 22:35:28.29 ID:Y98O+MFR5
- 信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。
- 344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 22:48:13.94 ID:Y98O+MFR5
- 同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。
- 345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 23:00:59.54 ID:Y98O+MFR5
- 殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、)
- 346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 23:13:45.06 ID:Y98O+MFR5
- 一層これが甚しかつた。
- 347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 23:26:30.91 ID:Y98O+MFR5
- 信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。
- 348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 23:39:17.31 ID:Y98O+MFR5
- 従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。
- 349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 23:52:02.89 ID:Y98O+MFR5
- 所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。
- 350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 00:04:48.38 ID:kQiU6xysq
- さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。
- 351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 00:17:34.19 ID:kQiU6xysq
- その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。
- 352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 00:30:19.72 ID:kQiU6xysq
- 同窓たちは皆不思議がつた。
- 353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 00:43:06.14 ID:kQiU6xysq
- その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。
- 354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 00:55:51.66 ID:kQiU6xysq
- 或者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。
- 355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 01:08:37.18 ID:kQiU6xysq
- 又或ものは彼女を疑つて、心がはりがしたとも云ひふらした。
- 356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 01:21:22.87 ID:kQiU6xysq
- が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。
- 357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 01:34:08.75 ID:kQiU6xysq
- 彼女はなぜ俊吉と結婚しなかつたか?
- 358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 01:46:55.15 ID:kQiU6xysq
- 彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必この疑問を話題にした。
- 359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 01:59:40.81 ID:kQiU6xysq
- さうして彼是二月ばかり経つと――
- 360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 13:43:11.25 ID:0wJS3xeDG
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 14:22:13.55 ID:0wJS3xeDG
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 14:35:14.15 ID:0wJS3xeDG
- なども到底この「西遊記」
- 363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 14:48:14.84 ID:0wJS3xeDG
- も愛読書の一つである。
- 364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 15:01:15.43 ID:0wJS3xeDG
- これも今以て愛読してゐる。
- 365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 15:27:16.88 ID:0wJS3xeDG
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 15:40:17.49 ID:0wJS3xeDG
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 15:53:18.21 ID:0wJS3xeDG
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 16:06:18.95 ID:0wJS3xeDG
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 16:19:19.70 ID:0wJS3xeDG
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 16:32:20.47 ID:0wJS3xeDG
- だから人の事は笑へない。
- 371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 16:58:22.02 ID:0wJS3xeDG
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 372 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 17:11:22.69 ID:0wJS3xeDG
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 17:24:23.36 ID:0wJS3xeDG
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 374 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 17:37:24.28 ID:0wJS3xeDG
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 375 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 17:50:25.08 ID:0wJS3xeDG
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 376 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 18:03:26.15 ID:0wJS3xeDG
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 18:16:26.87 ID:0wJS3xeDG
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 18:29:27.45 ID:0wJS3xeDG
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 18:42:28.02 ID:0wJS3xeDG
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 380 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 18:55:28.76 ID:0wJS3xeDG
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 19:08:29.75 ID:0wJS3xeDG
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 19:21:31.85 ID:0wJS3xeDG
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 19:34:32.93 ID:0wJS3xeDG
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 384 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 19:47:33.62 ID:0wJS3xeDG
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 20:00:35.50 ID:0wJS3xeDG
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 20:13:36.70 ID:0wJS3xeDG
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 20:26:38.19 ID:0wJS3xeDG
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 388 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 20:39:39.54 ID:0wJS3xeDG
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 389 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 20:52:40.12 ID:0wJS3xeDG
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 21:05:40.76 ID:0wJS3xeDG
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 21:18:41.78 ID:0wJS3xeDG
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 21:31:42.95 ID:0wJS3xeDG
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 21:44:43.71 ID:0wJS3xeDG
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 21:57:44.78 ID:0wJS3xeDG
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 395 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 22:23:46.46 ID:0wJS3xeDG
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 22:36:47.47 ID:0wJS3xeDG
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 397 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 22:49:48.15 ID:0wJS3xeDG
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 398 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 23:02:49.83 ID:0wJS3xeDG
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 399 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 23:15:50.80 ID:0wJS3xeDG
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 400 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 23:28:51.66 ID:0wJS3xeDG
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 401 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 23:41:52.44 ID:0wJS3xeDG
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 402 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 23:54:53.15 ID:0wJS3xeDG
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 01:30:42.51 ID:31HY7Hz1q
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 02:10:30.61 ID:31HY7Hz1q
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 02:23:46.60 ID:31HY7Hz1q
- なども到底この「西遊記」
- 406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 02:37:02.78 ID:31HY7Hz1q
- も愛読書の一つである。
- 407 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 02:50:18.70 ID:31HY7Hz1q
- これも今以て愛読してゐる。
- 408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 03:56:38.47 ID:31HY7Hz1q
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 409 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 04:09:54.69 ID:31HY7Hz1q
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 04:23:10.68 ID:31HY7Hz1q
- だから人の事は笑へない。
- 411 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 04:36:26.51 ID:31HY7Hz1q
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 06:09:21.57 ID:31HY7Hz1q
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 413 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 09:01:49.39 ID:31HY7Hz1q
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 414 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 12:20:20.04 ID:rDP87FY/i
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 13:00:51.57 ID:rDP87FY/i
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 13:14:22.11 ID:rDP87FY/i
- なども到底この「西遊記」
- 417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 13:27:52.60 ID:rDP87FY/i
- も愛読書の一つである。
- 418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 13:41:23.07 ID:rDP87FY/i
- これも今以て愛読してゐる。
- 419 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 15:49:25.96 ID:rDP87FY/i
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 420 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 16:02:56.50 ID:rDP87FY/i
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 421 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 16:20:19.88 ID:rDP87FY/i
- この男の前を向いた顔。
- 422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 16:33:50.37 ID:rDP87FY/i
- 彼は、マスクに口を蔽った、人間よりも、動物に近い顔をしている。
- 423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 17:47:52.46 ID:rDP87FY/i
- 何か悪意の感ぜられる微笑。
- 424 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:01:23.09 ID:rDP87FY/i
- 少年はこの男を見送ったまま、途方に暮れたように佇んでいる。
- 425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:14:55.32 ID:rDP87FY/i
- 父親の姿はどちらを眺めても、生憎目にははいらないらしい。
- 426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:28:26.12 ID:rDP87FY/i
- 少年はちょっと考えた後、当どもなしに歩きはじめる。
- 427 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:41:56.70 ID:rDP87FY/i
- いずれも洋装をした少女が二人、彼をふり返ったのも知らないように。
- 428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:55:27.26 ID:rDP87FY/i
- 近眼鏡、遠眼鏡、双眼鏡、廓大鏡、顕微鏡、塵除け目金などの並んだ中に西洋人の人形の首が一つ、目金をかけて頬笑んでいる。
- 429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 19:08:57.76 ID:rDP87FY/i
- その窓の前に佇んだ少年の後姿。
- 430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 19:22:30.43 ID:rDP87FY/i
- ただし斜めに後ろから見た上半身。
- 431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 20:48:06.83 ID:rDP87FY/i
- 「さう思はれるだけでも幸福ね。」
- 432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:01:53.33 ID:rDP87FY/i
- 二人の間には沈黙が来た。
- 433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:15:38.97 ID:rDP87FY/i
- 彼等は柱時計の時を刻む下に、長火鉢の鉄瓶がたぎる音を聞くともなく聞き澄ませてゐた。
- 434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:29:24.58 ID:rDP87FY/i
- 「でも御兄様は御優しくはなくつて?」――
- 435 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:43:10.09 ID:rDP87FY/i
- やがて照子は小さな声で、恐る恐るかう尋ねた。
- 436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:56:56.83 ID:rDP87FY/i
- その声の中には明かに、気の毒さうな響が籠つてゐた、が、この場合信子の心は、何よりも憐憫を反撥した。
- 437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:10:42.34 ID:rDP87FY/i
- 彼女は新聞を膝の上へのせて、それに眼を落したなり、わざと何とも答へなかつた。
- 438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:24:27.89 ID:rDP87FY/i
- 新聞には大阪と同じやうに、米価問題が掲げてあつた。
- 439 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:38:13.56 ID:rDP87FY/i
- その内に静な茶の間の中には、かすかに人の泣くけはひが聞え出した。
- 440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:51:59.78 ID:rDP87FY/i
- 信子は新聞から眼を離して、袂を顔に当てた妹を長火鉢の向うに見出した。
- 441 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 23:05:46.40 ID:rDP87FY/i
- 「泣かなくつたつて好いのよ。」――
- 442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 23:19:31.98 ID:rDP87FY/i
- 照子は姉にさう慰められても、容易に泣き止まうとはしなかつた。
- 443 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 23:33:17.57 ID:rDP87FY/i
- 信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震へる肩へ無言の視線を注いでゐた。
- 444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 23:47:03.26 ID:rDP87FY/i
- それから女中の耳を憚るやうに、照子の方へ顔をやりながら、「悪るかつたら、私があやまるわ。
- 445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:00:48.74 ID:1cmGruhNK
- 私は照さんさへ幸福なら、何より難有いと思つてゐるの。
- 446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:14:35.52 ID:1cmGruhNK
- 俊さんが照さんを愛してゐてくれれば――」
- 447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:28:21.03 ID:1cmGruhNK
- と、低い声で云ひ続けた。
- 448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:42:07.33 ID:1cmGruhNK
- 云ひ続ける内に、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。
- 449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:55:52.87 ID:1cmGruhNK
- すると突然照子は袖を落して、涙に濡れてゐる顔を挙げた。
- 450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 01:09:38.48 ID:1cmGruhNK
- 彼女の眼の中には、意外な事に、悲しみも怒りも見えなかつた。
- 451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 01:23:25.05 ID:1cmGruhNK
- が、唯、抑へ切れない嫉妬の情が、燃えるやうに瞳を火照らせてゐた。
- 452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 01:37:10.99 ID:1cmGruhNK
- 御姉様は何故昨夜も――」
- 453 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 01:50:56.56 ID:1cmGruhNK
- 照子は皆まで云はない内に、又顔を袖に埋めて、発作的に烈しく泣き始めた。……
- 454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:04:42.07 ID:1cmGruhNK
- 二三時間の後、信子は電車の終点に急ぐべく、幌俥の上に揺られてゐた。
- 455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:18:27.56 ID:1cmGruhNK
- 彼女の眼にはひる外の世界は、前部の幌を切りぬいた、四角なセルロイドの窓だけであつた。
- 456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:32:14.37 ID:1cmGruhNK
- 其処には場末らしい家々と色づいた雑木の梢とが、徐にしかも絶え間なく、後へ後へと流れて行つた。
- 457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:45:59.88 ID:1cmGruhNK
- もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄雲を漂はせた、冷やかな秋の空だけであつた。
- 458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:59:45.40 ID:1cmGruhNK
- 彼女の心は静かであつた。
- 459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:13:31.06 ID:1cmGruhNK
- が、その静かさを支配するものは、寂しい諦めに外ならなかつた。
- 460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:27:17.09 ID:1cmGruhNK
- 照子の発作が終つた後、和解は新しい涙と共に、容易く二人を元の通り仲の好い姉妹に返してゐた。
- 461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:41:03.41 ID:1cmGruhNK
- しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかつた。
- 462 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:54:48.93 ID:1cmGruhNK
- 彼女は従兄の帰りも待たずこの俥上に身を託した時、既に妹とは永久に他人になつたやうな心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせてゐたのであつた。――
- 463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 04:08:34.44 ID:1cmGruhNK
- 信子はふと眼を挙げた。
- 464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 04:22:20.38 ID:1cmGruhNK
- その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を歩いて来る、杖を抱へた従兄の姿が見えた。
- 465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 04:36:05.92 ID:1cmGruhNK
- それともこの儘行き違はうか。
- 466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 04:49:52.34 ID:1cmGruhNK
- 彼女は動悸を抑へながら、暫くは唯幌の下に、空しい逡巡を重ねてゐた。
- 467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 05:03:37.89 ID:1cmGruhNK
- が、俊吉と彼女との距離は、見る見る内に近くなつて来た。
- 468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 05:17:23.89 ID:1cmGruhNK
- 彼は薄日の光を浴びて、水溜りの多い往来にゆつくりと靴を運んでゐた。
- 469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 14:33:28.09 ID:NgVt5Z6A7
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 15:15:30.34 ID:NgVt5Z6A7
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 15:29:31.43 ID:NgVt5Z6A7
- なども到底この「西遊記」
- 472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 15:43:32.13 ID:NgVt5Z6A7
- も愛読書の一つである。
- 473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 15:57:32.81 ID:NgVt5Z6A7
- これも今以て愛読してゐる。
- 474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 17:07:36.40 ID:NgVt5Z6A7
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 475 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 17:21:37.11 ID:NgVt5Z6A7
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 17:35:38.75 ID:NgVt5Z6A7
- だから人の事は笑へない。
- 477 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 17:49:39.87 ID:NgVt5Z6A7
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:03:40.48 ID:NgVt5Z6A7
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:31:41.98 ID:NgVt5Z6A7
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 480 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:45:42.63 ID:NgVt5Z6A7
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:59:43.30 ID:NgVt5Z6A7
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 482 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 19:13:44.23 ID:NgVt5Z6A7
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 483 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 19:27:44.92 ID:NgVt5Z6A7
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 484 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 19:41:45.67 ID:NgVt5Z6A7
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 485 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 19:55:46.41 ID:NgVt5Z6A7
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 486 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 20:09:47.38 ID:NgVt5Z6A7
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 487 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 20:23:48.12 ID:NgVt5Z6A7
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 20:37:48.86 ID:NgVt5Z6A7
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 489 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 21:52:20.88 ID:NgVt5Z6A7
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 22:06:21.62 ID:NgVt5Z6A7
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 491 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 22:20:22.36 ID:NgVt5Z6A7
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 22:34:23.06 ID:NgVt5Z6A7
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 22:48:23.83 ID:NgVt5Z6A7
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 494 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:02:25.19 ID:NgVt5Z6A7
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:16:25.93 ID:NgVt5Z6A7
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:30:26.78 ID:NgVt5Z6A7
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:44:27.51 ID:NgVt5Z6A7
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 498 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:58:28.35 ID:NgVt5Z6A7
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:12:36.23 ID:sGpEr7tTx
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:26:37.08 ID:sGpEr7tTx
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:40:37.90 ID:sGpEr7tTx
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 502 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:54:38.70 ID:sGpEr7tTx
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 503 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 01:08:39.97 ID:sGpEr7tTx
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 504 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 01:22:40.88 ID:sGpEr7tTx
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 505 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 01:36:42.04 ID:sGpEr7tTx
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 506 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 01:50:42.77 ID:sGpEr7tTx
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 507 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 02:04:43.60 ID:sGpEr7tTx
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 508 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 02:18:44.33 ID:sGpEr7tTx
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 509 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 02:32:45.17 ID:sGpEr7tTx
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 510 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 02:46:45.97 ID:sGpEr7tTx
- その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。
- 511 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 03:02:31.36 ID:sGpEr7tTx
- 俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。……
- 512 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 03:16:32.40 ID:sGpEr7tTx
- 信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。
- 513 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 03:30:33.35 ID:sGpEr7tTx
- 同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。
- 514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 03:44:34.20 ID:sGpEr7tTx
- 殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、)
- 515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 03:58:35.11 ID:sGpEr7tTx
- 一層これが甚しかつた。
- 516 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 04:12:35.83 ID:sGpEr7tTx
- 信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。
- 517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 04:26:36.93 ID:sGpEr7tTx
- 従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。
- 518 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 04:40:37.97 ID:sGpEr7tTx
- 所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。
- 519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 04:54:38.61 ID:sGpEr7tTx
- さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。
- 520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:08:39.42 ID:sGpEr7tTx
- その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。
- 521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:22:40.32 ID:sGpEr7tTx
- 同窓たちは皆不思議がつた。
- 522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:36:41.52 ID:sGpEr7tTx
- その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。
- 523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:50:42.26 ID:sGpEr7tTx
- 或者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。
- 524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 06:04:42.91 ID:sGpEr7tTx
- 又或ものは彼女を疑つて、心がはりがしたとも云ひふらした。
- 525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 06:18:43.85 ID:sGpEr7tTx
- が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。
- 526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 06:33:00.41 ID:Aj90aUpox
- 彼女はなぜ俊吉と結婚しなかつたか?
- 527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 06:47:16.32 ID:Aj90aUpox
- 彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必この疑問を話題にした。
- 528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:01:32.11 ID:Aj90aUpox
- さうして彼是二月ばかり経つと――
- 529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:15:47.93 ID:Aj90aUpox
- 全く信子を忘れてしまつた。
- 530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:30:03.65 ID:Aj90aUpox
- 勿論彼女が書く筈だつた長篇小説の噂なぞも。
- 531 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:44:19.52 ID:Aj90aUpox
- 信子はその間に大阪の郊外へ、幸福なるべき新家庭をつくつた。
- 532 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:58:35.26 ID:Aj90aUpox
- 彼等の家はその界隈でも最も閑静な松林にあつた。
- 533 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:12:51.09 ID:Aj90aUpox
- 松脂の匂と日の光と、――
- 534 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:27:07.02 ID:Aj90aUpox
- それが何時でも夫の留守は、二階建の新しい借家の中に、活き活きした沈黙を領してゐた。
- 535 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:41:23.13 ID:Aj90aUpox
- 信子はさう云ふ寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きつと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまつてある桃色の書簡箋をひろげて見た、書簡箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあつた。
- 536 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:55:39.54 ID:Aj90aUpox
- もう今日かぎり御姉様と御一しよにゐる事が出来ないと思ふと、これを書いてゐる間でさへ、止め度なく涙が溢れて来ます。
- 537 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 09:09:56.81 ID:Aj90aUpox
- どうか、どうか私を御赦し下さい。
- 538 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 09:24:12.80 ID:Aj90aUpox
- 照子は勿体ない御姉様の犠牲の前に、何と申し上げて好いかもわからずに居ります。
- 539 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 09:38:29.40 ID:Aj90aUpox
- 「御姉様は私の為に、今度の御縁談を御きめになりました。
- 540 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 09:52:45.21 ID:Aj90aUpox
- さうではないと仰有つても、私にはよくわかつて居ります。
- 541 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 10:07:00.98 ID:Aj90aUpox
- 何時ぞや御一しよに帝劇を見物した晩、御姉様は私に俊さんは好きかと御尋きになりました。
- 542 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 10:21:16.98 ID:Aj90aUpox
- それから又好きならば、御姉様がきつと骨を折るから、俊さんの所へ行けとも仰有いました。
- 543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 10:35:32.70 ID:Aj90aUpox
- あの時もう御姉様は、私が俊さんに差上げる筈の手紙を読んでいらしつたのでせう。
- 544 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 10:49:50.66 ID:Aj90aUpox
- あの手紙がなくなつた時、ほんたうに私は御姉様を御恨めしく思ひました。
- 545 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 11:04:07.77 ID:Aj90aUpox
- この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。)
- 546 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 11:18:23.60 ID:Aj90aUpox
- ですからその晩も私には、御姉様の親切な御言葉も、皮肉のやうな気さへ致しました。
- 547 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 11:32:39.41 ID:Aj90aUpox
- 私が怒つて御返事らしい御返事も碌に致さなかつた事は、もちろん御忘れになりもなさりますまい。
- 548 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 11:46:55.21 ID:Aj90aUpox
- けれどもあれから二三日経つて、御姉様の御縁談が急にきまつてしまつた時、私はそれこそ死んででも、御詫びをしようかと思ひました。
- 549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 12:01:10.98 ID:Aj90aUpox
- 御姉様も俊さんが御好きなのでございますもの。
- 550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 12:15:26.63 ID:Aj90aUpox
- (御隠しになつてはいや。
- 551 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 12:29:36.21 ID:Aj90aUpox
- 私はよく存じて居りましてよ。)
- 552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 12:43:51.87 ID:Aj90aUpox
- 私の事さへ御かまひにならなければ、きつと御自分が俊さんの所へいらしつたのに違ひございません。
- 553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 12:58:07.65 ID:Aj90aUpox
- それでも御姉様は私に、俊さんなぞは思つてゐないと、何度も繰返して仰有いました。
- 554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 13:12:23.33 ID:Aj90aUpox
- さうしてとうとう心にもない御結婚をなすつて御しまひになりました。
- 555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 13:26:40.14 ID:Aj90aUpox
- 私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらつしやる御姉様に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覚えていらしつて?
- 556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 13:40:56.11 ID:Aj90aUpox
- 私は飼つてゐる鶏にも、私と一しよに御姉様へ御詫びを申して貰ひたかつたの。
- 557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 13:55:12.08 ID:Aj90aUpox
- さうしたら、何にも御存知ない御母様まで御泣きになりましたのね。
- 558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 14:09:28.18 ID:Aj90aUpox
- もう明日は大阪へいらしつて御しまひなさるでせう。
- 559 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 14:23:44.15 ID:Aj90aUpox
- けれどもどうか何時までも、御姉様の照子を見捨てずに頂戴、照子は毎朝鶏に餌をやりながら、御姉様の事を思ひ出して、誰にも知れず泣いてゐます。……」
- 560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 14:37:59.91 ID:Aj90aUpox
- 信子はこの少女らしい手紙を読む毎に、必涙が滲んで来た。
- 561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 14:52:16.25 ID:Aj90aUpox
- 殊に中央停車場から汽車に乗らうとする間際、そつとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思ひ出すと、何とも云はれずにいぢらしかつた。
- 562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 15:06:31.85 ID:Aj90aUpox
- が、彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。
- 563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 15:20:47.51 ID:Aj90aUpox
- さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。
- 564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 15:35:03.23 ID:Aj90aUpox
- 信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。
- 565 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 15:49:19.15 ID:Aj90aUpox
- そのうちに外の松林へ一面に当つた日の光が、だんだん黄ばんだ暮方の色に変つて行くのを眺めながら。
- 566 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 16:03:34.80 ID:Aj90aUpox
- 結婚後彼是三月ばかりは、あらゆる新婚の夫婦の如く、彼等も亦幸福な日を送つた。
- 567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 16:17:50.58 ID:Aj90aUpox
- 夫は何処か女性的な、口数を利かない人物であつた。
- 568 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 16:32:06.40 ID:Aj90aUpox
- それが毎日会社から帰つて来ると、必晩飯後の何時間かは、信子と一しよに過す事にしてゐた。
- 569 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 16:46:22.21 ID:Aj90aUpox
- 信子は編物の針を動かしながら、近頃世間に騒がれてゐる小説や戯曲の話などもした。
- 570 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 17:00:38.15 ID:Aj90aUpox
- その話の中には時によると、基督教の匂のする女子大学趣味の人生観が織りこまれてゐる事もあつた。
- 571 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 17:14:53.81 ID:Aj90aUpox
- 夫は晩酌の頬を赤らめた儘、読みかけた夕刊を膝へのせて、珍しさうに耳を傾けてゐた。
- 572 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 17:29:09.62 ID:Aj90aUpox
- が、彼自身の意見らしいものは、一言も加へた事がなかつた。
- 573 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 17:43:25.28 ID:Aj90aUpox
- 彼等は又殆日曜毎に、大阪やその近郊の遊覧地へ気散じな一日を暮しに行つた。
- 574 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 19:14:42.15 ID:lcm1TX1c7
- 実際身綺麗な夫の姿は、そう云ふ人中に交つてゐると、帽子からも、背広からも、或は又赤皮の編上げからも、化粧石鹸の匂に似た、一種清新な雰囲気を放散させてゐるやうであつた。
- 575 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 19:29:12.90 ID:lcm1TX1c7
- 殊に夏の休暇中、舞子まで足を延した時には、同じ茶屋に来合せた夫の同僚たちに比べて見て、一層誇りがましいやうな心もちがせずにはゐられなかつた。
- 576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 19:43:43.59 ID:lcm1TX1c7
- が、夫はその下卑た同僚たちに、存外親しみを持つてゐるらしかつた。
- 577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 19:58:14.35 ID:lcm1TX1c7
- その内に信子は長い間、捨ててあつた創作を思ひ出した。
- 578 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 20:12:44.89 ID:lcm1TX1c7
- そこで夫の留守の内だけ、一二時間づつ机に向ふ事にした。
- 579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 20:27:15.95 ID:lcm1TX1c7
- 夫はその話を聞くと、「愈女流作家になるかね。」
- 580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 20:41:48.98 ID:lcm1TX1c7
- と云つて、やさしい口もとに薄笑ひを見せた。
- 581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 20:56:20.23 ID:lcm1TX1c7
- しかし机には向ふにしても、思ひの外ペンは進まなかつた。
- 582 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 21:10:50.72 ID:lcm1TX1c7
- 彼女はぼんやり頬杖をついて、炎天の松林の蝉の声に、我知れず耳を傾けてゐる彼女自身を見出し勝ちであつた。
- 583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 21:25:21.23 ID:lcm1TX1c7
- 所が残暑が初秋へ振り変らうとする時分、夫は或日会社の出がけに、汗じみた襟を取変へようとした。
- 584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 21:39:51.78 ID:lcm1TX1c7
- が、生憎襟は一本残らず洗濯屋の手に渡つてゐた。
- 585 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 21:54:22.30 ID:lcm1TX1c7
- 夫は日頃身綺麗なだけに、不快らしく顔を曇らせた。
- 586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 22:08:53.06 ID:lcm1TX1c7
- さうしてズボン吊を掛けながら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」
- 587 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 22:23:23.56 ID:lcm1TX1c7
- と何時になく厭味を云つた。
- 588 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 22:37:54.10 ID:lcm1TX1c7
- 信子は黙つて眼を伏せて、上衣の埃を払つてゐた。
- 589 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 22:52:25.01 ID:lcm1TX1c7
- それから二三日過ぎた或夜、夫は夕刊に出てゐた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減出来ないものかと云ひ出した。
- 590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 23:06:55.97 ID:lcm1TX1c7
- 「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」――
- 591 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 23:21:27.43 ID:lcm1TX1c7
- そんな事も口へ出した。
- 592 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 23:35:57.97 ID:lcm1TX1c7
- 信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾の絽刺しをしてゐた。
- 593 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 23:50:28.55 ID:lcm1TX1c7
- すると夫は意外な位執拗に、「その襟飾にしてもさ、買ふ方が反つて安くつくぢやないか。」
- 594 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:04:59.09 ID:9c+mUSTct
- と、やはりねちねちした調子で云つた。
- 595 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:19:29.64 ID:9c+mUSTct
- 彼女は猶更口が利けなくなつた。
- 596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:34:00.16 ID:9c+mUSTct
- 夫もしまひには白けた顔をして、つまらなさうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでゐた。
- 597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:48:30.68 ID:9c+mUSTct
- が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けた儘、「もう小説なんぞ書きません。」
- 598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 01:03:01.33 ID:9c+mUSTct
- と、囁くやうな声で云つた。
- 599 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 01:17:31.82 ID:9c+mUSTct
- 夫はそれでも黙つてゐた。
- 600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 01:32:03.03 ID:9c+mUSTct
- 暫くして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。
- 601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 01:46:33.54 ID:9c+mUSTct
- それから間もなく泣く声が洩れた。
- 602 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 02:01:04.59 ID:9c+mUSTct
- 夫は二言三言彼女を叱つた。
- 603 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 02:15:35.48 ID:9c+mUSTct
- その後でも彼女の啜泣きは、まだ絶え絶えに聞えてゐた。
- 604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 02:30:06.82 ID:9c+mUSTct
- が、信子は何時の間にか、しつかりと夫にすがつてゐた。……
- 605 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 03:45:08.88 ID:9c+mUSTct
- 翌日彼等は又元の通り、仲の好い夫婦に返つてゐた。
- 606 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 03:59:39.44 ID:9c+mUSTct
- と思ふと今度は十二時過ぎても、まだ夫が会社から帰つて来ない晩があつた。
- 607 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 04:14:09.96 ID:9c+mUSTct
- しかも漸く帰つて来ると、雨外套も一人では脱げない程、酒臭い匂を呼吸してゐた。
- 608 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 04:28:40.48 ID:9c+mUSTct
- 信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着換へさせた。
- 609 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 04:43:11.00 ID:9c+mUSTct
- 夫はそれにも関らず、まはらない舌で皮肉さへ云つた。
- 610 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 04:57:41.50 ID:9c+mUSTct
- 「今夜は僕が帰らなかつたから、余つ程小説が捗取つたらう。」――
- 611 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 05:12:11.99 ID:9c+mUSTct
- さう云ふ言葉が、何度となく女のやうな口から出た。
- 612 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 05:26:43.06 ID:9c+mUSTct
- 彼女はその晩床にはいると、思はず涙がほろほろ落ちた。
- 613 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 05:41:14.00 ID:9c+mUSTct
- こんな処を照子が見たら、どんなに一しよに泣いてくれるであらう。
- 614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 05:55:45.93 ID:9c+mUSTct
- 私が便りに思ふのは、たつたお前一人ぎりだ。――
- 615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 06:10:16.51 ID:9c+mUSTct
- 信子は度々心の中でかう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、殆夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打つてゐた。
- 616 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 06:24:47.43 ID:9c+mUSTct
- が、それも亦翌日になると、自然と仲直りが出来上つてゐた。
- 617 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 06:39:17.94 ID:9c+mUSTct
- そんな事が何度か繰返される内に、だんだん秋が深くなつて来た。
- 618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 06:53:48.79 ID:9c+mUSTct
- 信子は何時か机に向つて、ペンを執る事が稀になつた。
- 619 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 07:08:20.32 ID:9c+mUSTct
- その時にはもう夫の方も、前程彼女の文学談を珍しがらないやうになつてゐた。
- 620 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 07:22:50.94 ID:9c+mUSTct
- 彼等は夜毎に長火鉢を隔てて、瑣末な家庭の経済の話に時間を殺す事を覚え出した。
- 621 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 07:37:21.47 ID:9c+mUSTct
- その上又かう云ふ話題は、少くとも晩酌後の夫にとつて、最も興味があるらしかつた。
- 622 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 07:51:52.55 ID:9c+mUSTct
- それでも信子は気の毒さうに、時々夫の顔色を窺つて見る事があつた。
- 623 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 08:06:23.18 ID:9c+mUSTct
- が、彼は何も知らず、近頃延した髭を噛みながら、何時もより余程快活に、「これで子供でも出来て見ると――」
- 624 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 08:28:30.26 ID:Dq5b/Hkk2
- するとその頃から月々の雑誌に、従兄の名前が見えるやうになつた。
- 625 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 08:43:16.15 ID:Dq5b/Hkk2
- 信子は結婚後忘れたやうに、俊吉との文通を絶つてゐた。
- 626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 08:58:01.83 ID:Dq5b/Hkk2
- 大学の文科を卒業したとか、同人雑誌を始めたとか云ふ事は、妹から手紙で知るだけであつた。
- 627 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 09:12:49.49 ID:Dq5b/Hkk2
- 又それ以上彼の事を知りたいと云ふ気も起さなかつた。
- 628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 09:27:35.36 ID:Dq5b/Hkk2
- が、彼の小説が雑誌に載つてゐるのを見ると、懐しさは昔と同じであつた。
- 629 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 09:42:21.07 ID:Dq5b/Hkk2
- 彼女はその頁をはぐりながら、何度も独り微笑を洩らした。
- 630 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 09:57:06.72 ID:Dq5b/Hkk2
- 俊吉はやはり小説の中でも、冷笑と諧謔との二つの武器を宮本武蔵のやうに使つてゐた。
- 631 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 10:11:52.39 ID:Dq5b/Hkk2
- 彼女にはしかし気のせゐか、その軽快な皮肉の後に、何か今までの従兄にはない、寂しさうな捨鉢の調子が潜んでゐるやうに思はれた。
- 632 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 10:26:37.96 ID:Dq5b/Hkk2
- と同時にさう思ふ事が、後めたいやうな気もしないではなかつた。
- 633 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 10:41:23.66 ID:Dq5b/Hkk2
- 信子はそれ以来夫に対して、一層優しく振舞ふやうになつた。
- 634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 10:56:09.28 ID:Dq5b/Hkk2
- 夫は夜寒の長火鉢の向うに、何時も晴れ晴れと微笑してゐる彼女の顔を見出した。
- 635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 11:10:54.92 ID:Dq5b/Hkk2
- その顔は以前より若々しく、化粧をしてゐるのが常であつた。
- 636 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 11:25:40.54 ID:Dq5b/Hkk2
- 彼女は針仕事の店を拡げながら、彼等が東京で式を挙げた当時の記憶なぞも話したりした。
- 637 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 11:40:26.27 ID:Dq5b/Hkk2
- 夫にはその記憶の細かいのが、意外でもあり、嬉しさうでもあつた。
- 638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 11:55:12.13 ID:Dq5b/Hkk2
- 「お前はよくそんな事まで覚えてゐるね。」――
- 639 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 12:09:57.78 ID:Dq5b/Hkk2
- 夫にかう調戯はれると、信子は必無言の儘、眼にだけ媚のある返事を見せた。
- 640 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 13:25:13.99 ID:Dq5b/Hkk2
- が、何故それ程忘れずにゐるか、彼女自身も心の内では、不思議に思ふ事が度々あつた。
- 641 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 13:39:59.86 ID:Dq5b/Hkk2
- それから程なく、母の手紙が、信子に妹の結納が済んだと云ふ事を報じて来た。
- 642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 14:55:16.10 ID:Dq5b/Hkk2
- その手紙の中には又、俊吉が照子を迎へる為に、山の手の或郊外へ新居を設けた事もつけ加へてあつた。
- 643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 15:10:01.76 ID:Dq5b/Hkk2
- 彼女は早速母と妹とへ、長い祝ひの手紙を書いた。
- 644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 16:25:17.95 ID:Dq5b/Hkk2
- 「何分当方は無人故、式には不本意ながら参りかね候へども……」
- 645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 17:40:34.58 ID:Dq5b/Hkk2
- そんな文句を書いてゐる内に、(彼女には何故かわからなかつたが、)
- 646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 17:55:20.36 ID:Dq5b/Hkk2
- 筆の渋る事も再三あつた。
- 647 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 19:10:36.39 ID:pMIpD1EX8
- すると彼女は眼を挙げて、必外の松林を眺めた。
- 648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 19:25:22.07 ID:pMIpD1EX8
- 松は初冬の空の下に、簇々と蒼黒く茂つてゐた。
- 649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 20:40:38.41 ID:pMIpD1EX8
- その晩信子と夫とは、照子の結婚を話題にした。
- 650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 20:55:24.89 ID:pMIpD1EX8
- 夫は何時もの薄笑ひを浮べながら、彼女が妹の口真似をするのを、面白さうに聞いてゐた。
- 651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:10:41.53 ID:pMIpD1EX8
- が、彼女には何となく、彼女自身に照子の事を話してゐるやうな心もちがした。
- 652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:25:27.46 ID:pMIpD1EX8
- 「どれ、寝るかな。」――
- 653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:40:13.08 ID:pMIpD1EX8
- 二三時間の後、夫は柔な髭を撫でながら、大儀さうに長火鉢の前を離れた。
- 654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:54:58.75 ID:pMIpD1EX8
- 信子はまだ妹へ祝つてやる品を決し兼ねて、火箸で灰文字を書いてゐたが、この時急に顔を挙げて、「でも妙なものね、私にも弟が一人出来るのだと思ふと。」
- 655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 23:09:44.47 ID:pMIpD1EX8
- 「当り前ぢやないか、妹もゐるんだから。」――
- 656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 23:24:30.84 ID:pMIpD1EX8
- 彼女は夫にかう云はれても、考深い眼つきをした儘、何とも返事をしなかつた。
- 657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 23:39:16.92 ID:pMIpD1EX8
- 照子と俊吉とは、師走の中旬に式を挙げた。
- 658 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 23:54:02.65 ID:pMIpD1EX8
- 当日は午少し前から、ちらちら白い物が落ち始めた。
- 659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 00:08:50.44 ID:/r78AGupt
- 信子は独り午の食事をすませた後、何時までもその時の魚の匂が、口について離れなかつた。
- 660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 00:23:36.06 ID:/r78AGupt
- 「東京も雪が降つてゐるかしら。」――
- 661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 00:38:22.50 ID:/r78AGupt
- こんな事を考へながら、信子はぢつとうす暗い茶の間の長火鉢にもたれてゐた。
- 662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 00:53:08.10 ID:/r78AGupt
- が、口中の生臭さは、やはり執念く消えなかつた。……
- 663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 01:07:54.06 ID:/r78AGupt
- 信子はその翌年の秋、社命を帯びた夫と一しよに、久しぶりで東京の土を踏んだ。
- 664 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 01:22:39.76 ID:/r78AGupt
- が、短い日限内に、果すべき用向きの多かつた夫は、唯彼女の母親の所へ、来々顔を出した時の外は、殆一日も彼女をつれて、外出する機会を見出さなかつた。
- 665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 01:37:25.75 ID:/r78AGupt
- 彼女はそこで妹夫婦の郊外の新居を尋ねる時も、新開地じみた電車の終点から、たつた一人俥に揺られて行つた。
- 666 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 01:52:11.46 ID:/r78AGupt
- 彼等の家は、町並が葱畑に移る近くにあつた。
- 667 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 02:06:57.13 ID:/r78AGupt
- しかし隣近所には、いづれも借家らしい新築が、せせこましく軒を並べてゐた。
- 668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 02:21:42.72 ID:/r78AGupt
- のき打ちの門、要もちの垣、それから竿に干した洗濯物、――
- 669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 02:36:28.38 ID:/r78AGupt
- すべてがどの家も変りはなかつた。
- 670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 02:51:14.01 ID:/r78AGupt
- この平凡な住居の容子は、多少信子を失望させた。
- 671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 10:08:03.13 ID:ywZwrxTQF
- 俊吉は以前と同じやうに、この珍客の顔を見ると、「やあ。」
- 672 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 10:23:03.69 ID:ywZwrxTQF
- 彼女は彼が何時の間にか、いが栗頭でなくなつたのを見た。
- 673 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 10:38:04.23 ID:ywZwrxTQF
- 信子は妙に恥しさを感じながら、派手な裏のついた上衣をそつと玄関の隅に脱いだ。
- 674 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 10:53:04.77 ID:ywZwrxTQF
- 俊吉は彼女を書斎兼客間の八畳へ坐らせた。
- 675 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 11:08:05.27 ID:ywZwrxTQF
- 座敷の中には何処を見ても、本ばかり乱雑に積んであつた。
- 676 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 11:23:05.79 ID:ywZwrxTQF
- 殊に午後の日の当つた障子際の、小さな紫檀の机のまはりには、新聞雑誌や原稿用紙が、手のつけやうもない程散らかつてゐた。
- 677 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 11:38:06.33 ID:ywZwrxTQF
- その中に若い細君の存在を語つてゐるものは、唯床の間の壁に立てかけた、新しい一面の琴だけであつた。
- 678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 12:53:37.29 ID:ywZwrxTQF
- 信子はかう云ふ周囲から、暫らく物珍しい眼を離さなかつた。
- 679 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 13:08:37.91 ID:ywZwrxTQF
- 「来ることは手紙で知つてゐたけれど、今日来ようとは思はなかつた。」――
- 680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 13:23:38.86 ID:ywZwrxTQF
- 俊吉は巻煙草へ火をつけると、さすがに懐しさうな眼つきをした。
- 681 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 13:38:39.56 ID:ywZwrxTQF
- 「どうです、大阪の御生活は?」
- 682 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 13:53:40.15 ID:ywZwrxTQF
- 信子も亦二言三言話す内に、やはり昔のやうな懐しさが、よみ返つて来るのを意識した。
- 683 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 14:08:40.69 ID:ywZwrxTQF
- 文通さへ碌にしなかつた、彼是二年越しの気まづい記憶は、思つたより彼女を煩はさなかつた。
- 684 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 14:23:41.21 ID:ywZwrxTQF
- 彼等は一つ火鉢に手をかざしながら、いろいろな事を話し合つた。
- 685 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 14:38:41.69 ID:ywZwrxTQF
- 俊吉の小説だの、共通な知人の噂だの、東京と大阪との比較だの、話題はいくら話しても、尽きない位沢山あつた。
- 686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 14:53:42.31 ID:ywZwrxTQF
- が、二人とも云ひ合せたやうに、全然暮し向きの問題には触れなかつた。
- 687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 15:08:43.33 ID:ywZwrxTQF
- それが信子には一層従兄と、話してゐると云ふ感じを強くさせた。
- 688 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 15:23:43.87 ID:ywZwrxTQF
- 時々はしかし沈黙が、二人の間に来る事もあつた。
- 689 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 15:38:44.53 ID:ywZwrxTQF
- その度に彼女は微笑した儘、眼を火鉢の灰に落した。
- 690 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 15:53:45.28 ID:ywZwrxTQF
- 其処には待つとは云へない程、かすかに何かを待つ心もちがあつた。
- 691 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 16:08:45.87 ID:ywZwrxTQF
- すると故意か偶然か、俊吉はすぐに話題を見つけて、何時もその心もちを打ち破つた。
- 692 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 16:23:46.63 ID:ywZwrxTQF
- 彼女は次第に従兄の顔を窺はずにはゐられなくなつた。
- 693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 16:38:47.29 ID:ywZwrxTQF
- が、彼は平然と巻煙草の煙を呼吸しながら、格別不自然な表情を装つてゐる気色も見えなかつた。
- 694 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 16:53:47.82 ID:ywZwrxTQF
- その内に照子が帰つて来た。
- 695 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 17:08:48.47 ID:ywZwrxTQF
- 彼女は姉の顔を見ると、手をとり合はないばかりに嬉しがつた。
- 696 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 17:23:49.05 ID:ywZwrxTQF
- 信子も唇は笑ひながら、眼には何時かもう涙があつた。
- 697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 17:38:49.77 ID:ywZwrxTQF
- 二人は暫くは俊吉も忘れて、去年以来の生活を互に尋ねたり尋ねられたりしてゐた。
- 698 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 17:53:50.26 ID:ywZwrxTQF
- 殊に照子は活き活きと、血の色を頬に透かせながら、今でも飼つてゐる鶏の事まで、話して聞かせる事を忘れなかつた。
- 699 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 18:08:50.82 ID:ywZwrxTQF
- 俊吉は巻煙草を啣へた儘、満足さうに二人を眺めて、不相変にやにや笑つてゐた。
- 700 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 18:23:51.28 ID:ywZwrxTQF
- 其処へ女中も帰つて来た。
- 701 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 18:38:51.83 ID:ywZwrxTQF
- 俊吉はその女中の手から、何枚かの端書を受取ると、早速側の机へ向つて、せつせとペンを動かし始めた。
- 702 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 18:53:52.30 ID:ywZwrxTQF
- 照子は女中も留守だつた事が、意外らしい気色を見せた。
- 703 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 19:08:52.81 ID:ywZwrxTQF
- 「ぢや御姉様がいらしつた時は、誰も家にゐなかつたの。」
- 704 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 19:23:53.57 ID:ywZwrxTQF
- 「ええ、俊さんだけ。」――
- 705 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 19:38:54.73 ID:ywZwrxTQF
- 信子はかう答へる事が、平気を強ひるやうな心もちがした。
- 706 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 19:53:55.38 ID:ywZwrxTQF
- すると俊吉が向うを向いたなり、「旦那様に感謝しろ。
- 707 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 20:08:55.89 ID:ywZwrxTQF
- その茶も僕が入れたんだ。」
- 708 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 20:23:56.41 ID:ywZwrxTQF
- 照子は姉と眼を見合せて、悪戯さうにくすりと笑つた。
- 709 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 21:39:27.45 ID:ywZwrxTQF
- が、夫にはわざとらしく、何とも返事をしなかつた。
- 710 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 21:54:27.96 ID:ywZwrxTQF
- 間もなく信子は、妹夫婦と一しよに、晩飯の食卓を囲むことになつた。
- 711 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 22:09:29.45 ID:ywZwrxTQF
- 照子の説明する所によると、膳に上つた玉子は皆、家の鶏が産んだものであつた。
- 712 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 22:24:30.37 ID:ywZwrxTQF
- 俊吉は信子に葡萄酒をすすめながら、「人間の生活は掠奪で持つてゐるんだね。
- 713 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 22:39:30.98 ID:ywZwrxTQF
- 小はこの玉子から」――
- 714 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 22:54:31.46 ID:ywZwrxTQF
- なぞと社会主義じみた理窟を並べたりした。
- 715 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 23:09:32.93 ID:ywZwrxTQF
- その癖此処にゐる三人の中で、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違ひなかつた。
- 716 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 23:24:33.90 ID:ywZwrxTQF
- 照子はそれが可笑しいと云つて、子供のやうな笑ひ声を立てた。
- 717 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 23:39:35.06 ID:ywZwrxTQF
- 信子はかう云ふ食卓の空気にも、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思ひ出さずにゐられなかつた。
- 718 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 23:54:36.13 ID:ywZwrxTQF
- 話は食後の果物を荒した後も尽きなかつた。
- 719 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 00:09:38.45 ID:mta9pjh4l
- 微酔を帯びた俊吉は、夜長の電燈の下にあぐらをかいて、盛に彼一流の詭弁を弄した。
- 720 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 00:24:39.29 ID:mta9pjh4l
- その談論風発が、もう一度信子を若返らせた。
- 721 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 00:39:39.95 ID:mta9pjh4l
- 彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書き出さうかしら。」
- 722 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 00:54:40.50 ID:mta9pjh4l
- すると従兄は返事をする代りに、グウルモンの警句を抛りつけた。
- 723 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 01:09:42.31 ID:mta9pjh4l
- それは「ミユウズたちは女だから、彼等を自由に虜にするものは、男だけだ。」
- 724 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 01:24:43.09 ID:mta9pjh4l
- 信子と照子とは同盟して、グウルモンの権威を認めなかつた。
- 725 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 01:39:44.00 ID:mta9pjh4l
- 「ぢや女でなけりや、音楽家になれなくつて?
- 726 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 01:54:44.63 ID:mta9pjh4l
- アポロは男ぢやありませんか。」――
- 727 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 02:09:46.08 ID:mta9pjh4l
- 照子は真面目にこんな事まで云つた。
- 728 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 02:24:46.82 ID:mta9pjh4l
- 信子はとうとう泊る事になつた。
- 729 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 02:39:47.52 ID:mta9pjh4l
- 寝る前に俊吉は、縁側の雨戸を一枚開けて、寝間着の儘狭い庭へ下りた。
- 730 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 02:54:48.45 ID:mta9pjh4l
- それから誰を呼ぶともなく「ちよいと出て御覧。
- 731 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 03:09:49.96 ID:mta9pjh4l
- 信子は独り彼の後から、沓脱ぎの庭下駄へ足を下した。
- 732 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 03:24:50.50 ID:mta9pjh4l
- 足袋を脱いだ彼女の足には、冷たい露の感じがあつた。
- 733 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 03:39:50.98 ID:mta9pjh4l
- 月は庭の隅にある、痩せがれた檜の梢にあつた。
- 734 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 03:54:51.59 ID:mta9pjh4l
- 従兄はその檜の下に立つて、うす明い夜空を眺めてゐた。
- 735 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 04:09:53.83 ID:mta9pjh4l
- 「大へん草が生えてゐるのね。」――
- 736 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 04:24:55.14 ID:mta9pjh4l
- 信子は荒れた庭を気味悪さうに、怯づ怯づ彼のゐる方へ歩み寄つた。
- 737 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 04:39:56.03 ID:mta9pjh4l
- が、彼はやはり空を見ながら、「十三夜かな。」
- 738 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 04:54:56.87 ID:mta9pjh4l
- と呟いただけであつた。
- 739 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 05:09:58.94 ID:mta9pjh4l
- 暫く沈黙が続いた後、俊吉は静に眼を返して、「鶏小屋へ行つて見ようか。」
- 740 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 05:25:00.01 ID:mta9pjh4l
- 鶏小屋は丁度檜とは反対の庭の隅にあつた。
- 741 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 05:40:01.26 ID:mta9pjh4l
- 二人は肩を並べながら、ゆつくり其処まで歩いて行つた。
- 742 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 05:55:01.77 ID:mta9pjh4l
- しかし蓆囲ひの内には、唯鶏の匂のする、朧げな光と影ばかりがあつた。
- 743 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 06:10:03.23 ID:mta9pjh4l
- 俊吉はその小屋を覗いて見て、殆独り言かと思ふやうに、「寝てゐる。」
- 744 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 06:25:03.73 ID:mta9pjh4l
- 「玉子を人に取られた鶏が。」――
- 745 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 06:40:04.32 ID:mta9pjh4l
- 信子は草の中に佇んだ儘、さう考へずにはゐられなかつた。……
- 746 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 06:55:05.45 ID:mta9pjh4l
- 二人が庭から返つて来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電燈を眺めてゐた。
- 747 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 07:10:06.87 ID:mta9pjh4l
- 青い横ばひがたつた一つ、笠に這つてゐる電燈を。
- 748 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 07:25:07.64 ID:mta9pjh4l
- 翌朝俊吉は一張羅の背広を着て、食後々玄関へ行つた。
- 749 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 07:40:08.18 ID:mta9pjh4l
- 何でも亡友の一周忌の墓参をするのだとか云ふ事であつた。
- 750 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 07:55:08.67 ID:mta9pjh4l
- 午頃までにやきつと帰つて来るから。」――
- 751 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 08:10:10.92 ID:mta9pjh4l
- 彼は外套をひつかけながら、かう信子に念を押した。
- 752 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 08:25:11.63 ID:mta9pjh4l
- が、彼女は華奢な手に彼の中折を持つた儘、黙つて微笑したばかりであつた。
- 753 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 08:40:12.17 ID:mta9pjh4l
- 照子は夫を送り出すと、姉を長火鉢の向うに招じて、まめまめしく茶をすすめなどした。
- 754 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 08:55:12.68 ID:mta9pjh4l
- 隣の奥さんの話、訪問記者の話、それから俊吉と見に行つた或外国の歌劇団の話、――
- 755 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 09:10:14.31 ID:mta9pjh4l
- その外愉快なるべき話題が、彼女にはまだいろいろあるらしかつた。
- 756 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 09:25:14.97 ID:mta9pjh4l
- が、信子の心は沈んでゐた。
- 757 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 09:40:15.57 ID:mta9pjh4l
- 彼女はふと気がつくと、何時も好い加減な返事ばかりしてゐる彼女自身が其処にあつた。
- 758 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 09:55:16.60 ID:mta9pjh4l
- それがとうとうしまひには、照子の眼にさへ止るやうになつた。
- 759 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 10:10:18.15 ID:mta9pjh4l
- 妹は心配さうに彼女の顔を覗きこんで、「どうして?」
- 760 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 10:25:18.94 ID:mta9pjh4l
- と尋ねてくれたりした。
- 761 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 10:40:19.50 ID:mta9pjh4l
- しかし信子にもどうしたのだか、はつきりした事はわからなかつた。
- 762 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 10:55:20.01 ID:mta9pjh4l
- 柱時計が十時を打つた時、信子は懶さうな眼を挙げて、「俊さんは中々帰りさうもないわね。」
- 763 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 11:10:21.52 ID:mta9pjh4l
- 照子も姉の言葉につれて、ちよいと時計を仰いだが、これは存外冷淡に、「まだ――」
- 764 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 11:25:22.50 ID:mta9pjh4l
- とだけしか答へなかつた。
- 765 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 11:40:23.21 ID:mta9pjh4l
- 信子にはその言葉の中に、夫の愛に飽き足りてゐる新妻の心があるやうな気がした。
- 766 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 11:55:23.73 ID:mta9pjh4l
- さう思ふと愈彼女の気もちは、憂欝に傾かずにはゐられなかつた。
- 767 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 12:10:25.09 ID:mta9pjh4l
- 「照さんは幸福ね。」――
- 768 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 12:25:25.69 ID:mta9pjh4l
- 信子は頤を半襟に埋めながら、冗談のやうにかう云つた。
- 769 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 12:40:27.64 ID:mta9pjh4l
- が、自然と其処へ忍びこんだ、真面目な羨望の調子だけは、どうする事も出来なかつた。
- 770 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 12:58:30.88 ID:2JK4YCD4b
- それからすぐに又「御姉様だつて幸福の癖に。」
- 771 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 13:13:46.73 ID:dcG5FnLTV
- と、甘えるやうにつけ加へた。
- 772 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 13:29:02.64 ID:2JK4YCD4b
- その言葉がぴしりと信子を打つた。
- 773 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 13:44:18.48 ID:dcG5FnLTV
- 彼女は心もちを上げて、「さう思つて?」
- 774 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 13:59:34.46 ID:2JK4YCD4b
- 問ひ返して、すぐに後悔した。
- 775 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 14:14:50.26 ID:dcG5FnLTV
- 照子は一瞬間妙な顔をして、姉と眼を見合せた。
- 776 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 14:30:05.93 ID:2JK4YCD4b
- その顔にも亦蔽ひ難い後悔の心が動いてゐた。
- 777 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 14:45:21.63 ID:dcG5FnLTV
- 信子は強ひて微笑した。――
- 778 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 15:00:37.29 ID:2JK4YCD4b
- 「さう思はれるだけでも幸福ね。」
- 779 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 15:15:52.88 ID:dcG5FnLTV
- 二人の間には沈黙が来た。
- 780 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 15:31:08.52 ID:2JK4YCD4b
- 彼等は柱時計の時を刻む下に、長火鉢の鉄瓶がたぎる音を聞くともなく聞き澄ませてゐた。
- 781 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 15:46:24.11 ID:dcG5FnLTV
- 「でも御兄様は御優しくはなくつて?」――
- 782 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 16:01:40.14 ID:2JK4YCD4b
- やがて照子は小さな声で、恐る恐るかう尋ねた。
- 783 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 16:16:55.78 ID:dcG5FnLTV
- その声の中には明かに、気の毒さうな響が籠つてゐた、が、この場合信子の心は、何よりも憐憫を反撥した。
- 784 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 16:32:11.39 ID:2JK4YCD4b
- 彼女は新聞を膝の上へのせて、それに眼を落したなり、わざと何とも答へなかつた。
- 785 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 16:47:27.14 ID:dcG5FnLTV
- 新聞には大阪と同じやうに、米価問題が掲げてあつた。
- 786 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 17:02:42.77 ID:2JK4YCD4b
- その内に静な茶の間の中には、かすかに人の泣くけはひが聞え出した。
- 787 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 17:17:58.45 ID:dcG5FnLTV
- 信子は新聞から眼を離して、袂を顔に当てた妹を長火鉢の向うに見出した。
- 788 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 17:33:14.04 ID:2JK4YCD4b
- 「泣かなくつたつて好いのよ。」――
- 789 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 17:48:29.64 ID:dcG5FnLTV
- 照子は姉にさう慰められても、容易に泣き止まうとはしなかつた。
- 790 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 18:03:45.20 ID:2JK4YCD4b
- 信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震へる肩へ無言の視線を注いでゐた。
- 791 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 18:19:00.86 ID:dcG5FnLTV
- それから女中の耳を憚るやうに、照子の方へ顔をやりながら、「悪るかつたら、私があやまるわ。
- 792 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 19:34:47.01 ID:2JK4YCD4b
- 私は照さんさへ幸福なら、何より難有いと思つてゐるの。
- 793 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 19:50:02.77 ID:dcG5FnLTV
- 俊さんが照さんを愛してゐてくれれば――」
- 794 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 19:57:48.70 ID:2JK4YCD4b
- と、低い声で云ひ続けた。
- 795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:05:34.37 ID:dcG5FnLTV
- 云ひ続ける内に、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。
- 796 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:13:22.70 ID:2JK4YCD4b
- すると突然照子は袖を落して、涙に濡れてゐる顔を挙げた。
- 797 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:21:09.36 ID:dcG5FnLTV
- 彼女の眼の中には、意外な事に、悲しみも怒りも見えなかつた。
- 798 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:28:55.87 ID:2JK4YCD4b
- が、唯、抑へ切れない嫉妬の情が、燃えるやうに瞳を火照らせてゐた。
- 799 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:36:41.55 ID:dcG5FnLTV
- 御姉様は何故昨夜も――」
- 800 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:44:27.23 ID:2JK4YCD4b
- 照子は皆まで云はない内に、又顔を袖に埋めて、発作的に烈しく泣き始めた。……
- 801 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:52:12.87 ID:dcG5FnLTV
- 二三時間の後、信子は電車の終点に急ぐべく、幌俥の上に揺られてゐた。
- 802 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:59:58.61 ID:2JK4YCD4b
- 彼女の眼にはひる外の世界は、前部の幌を切りぬいた、四角なセルロイドの窓だけであつた。
- 803 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:07:44.29 ID:dcG5FnLTV
- 其処には場末らしい家々と色づいた雑木の梢とが、徐にしかも絶え間なく、後へ後へと流れて行つた。
- 804 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:15:29.97 ID:2JK4YCD4b
- もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄雲を漂はせた、冷やかな秋の空だけであつた。
- 805 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:23:15.57 ID:dcG5FnLTV
- 彼女の心は静かであつた。
- 806 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:31:01.28 ID:2JK4YCD4b
- が、その静かさを支配するものは、寂しい諦めに外ならなかつた。
- 807 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:38:46.95 ID:dcG5FnLTV
- 照子の発作が終つた後、和解は新しい涙と共に、容易く二人を元の通り仲の好い姉妹に返してゐた。
- 808 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:46:32.61 ID:2JK4YCD4b
- しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかつた。
- 809 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:54:18.25 ID:dcG5FnLTV
- 彼女は従兄の帰りも待たずこの俥上に身を託した時、既に妹とは永久に他人になつたやうな心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせてゐたのであつた。――
- 810 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:02:03.90 ID:2JK4YCD4b
- 信子はふと眼を挙げた。
- 811 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:09:49.59 ID:dcG5FnLTV
- その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を歩いて来る、杖を抱へた従兄の姿が見えた。
- 812 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:17:35.38 ID:2JK4YCD4b
- それともこの儘行き違はうか。
- 813 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:25:21.16 ID:dcG5FnLTV
- 彼女は動悸を抑へながら、暫くは唯幌の下に、空しい逡巡を重ねてゐた。
- 814 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:33:06.79 ID:2JK4YCD4b
- が、俊吉と彼女との距離は、見る見る内に近くなつて来た。
- 815 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:40:52.47 ID:dcG5FnLTV
- 彼は薄日の光を浴びて、水溜りの多い往来にゆつくりと靴を運んでゐた。
- 816 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:48:38.17 ID:2JK4YCD4b
- さう云ふ声が一瞬間、信子の唇から洩れようとした。
- 817 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:56:23.84 ID:dcG5FnLTV
- 実際俊吉はその時もう、彼女の俥のすぐ側に、見慣れた姿を現してゐた。
- 818 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:04:09.51 ID:2JK4YCD4b
- が、彼女は又ためらつた。
- 819 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:11:55.10 ID:dcG5FnLTV
- その暇に何も知らない彼は、とうとうこの幌俥とすれ違つた。
- 820 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:19:40.75 ID:2JK4YCD4b
- 薄濁つた空、疎らな屋並、高い木々の黄ばんだ梢、――
- 821 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:27:26.38 ID:dcG5FnLTV
- 後には不相変人通りの少い場末の町があるばかりであつた。
- 822 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:35:12.03 ID:2JK4YCD4b
- 信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみかう思はずにゐられなかつた。
- 823 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:42:57.99 ID:dcG5FnLTV
- やはらかく深紫の天鵞絨をなづる心地か春の暮れゆく
- 824 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:50:43.97 ID:2JK4YCD4b
- いそいそと燕もまへりあたゝかく郵便馬車をぬらす春雨
- 825 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:58:29.78 ID:dcG5FnLTV
- ほの赤く岐阜提灯もともりけり「二つ巴」
- 826 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:06:16.62 ID:TsEbgy+lI
- の春の夕ぐれ(明治座三月狂言)
- 827 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:14:02.40 ID:BKAuYioNk
- 戯奴の紅き上衣に埃の香かすかにしみて春はくれにけり
- 828 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:21:48.11 ID:TsEbgy+lI
- なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れゆく
- 829 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:29:33.73 ID:BKAuYioNk
- 春漏の水のひゞきかあるはまた舞姫のうつとほき鼓か(京都旅情)
- 830 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:37:19.43 ID:TsEbgy+lI
- 片恋のわが世さみしくヒヤシンスうすむらさきににほひそめけり
- 831 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:45:05.07 ID:BKAuYioNk
- 恋すればうら若ければかばかりに薔薇の香にもなみだするらむ
- 832 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:52:50.72 ID:TsEbgy+lI
- 麦畑の萌黄天鵞絨芥子の花五月の空にそよ風のふく
- 833 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:00:36.30 ID:BKAuYioNk
- 五月来ぬわすれな草もわが恋も今しほのかににほひづるらむ
- 834 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:08:21.97 ID:TsEbgy+lI
- 刈麦のにほひに雲もうす黄なる野薔薇のかげの夏の日の恋
- 835 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:16:07.67 ID:BKAuYioNk
- うかれ女のうすき恋よりかきつばたうす紫に匂ひそめけむ
- 836 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:23:53.34 ID:TsEbgy+lI
- 桐 (To Signorina Y. Y.)
- 837 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:31:38.93 ID:BKAuYioNk
- 君をみていくとせかへしかくてまた桐の花さく日とはなりける
- 838 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:39:24.56 ID:TsEbgy+lI
- 君とふとかよひなれにしあけくれをいくたびふみし落椿ぞも
- 839 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:47:10.28 ID:BKAuYioNk
- 広重のふるき版画のてざはりもわすれがたかり君とみればか
- 840 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:54:55.91 ID:TsEbgy+lI
- いつとなくいとけなき日のかなしみをわれにおしへし桐の花はも
- 841 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:02:41.48 ID:BKAuYioNk
- 病室のまどにかひたる紅き鳥しきりになきて君おもはする
- 842 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:10:27.08 ID:TsEbgy+lI
- 夕さればあたごホテルも灯ともしぬわがかなしみをめざまさむとて
- 843 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:18:12.77 ID:BKAuYioNk
- 草いろの帷のかげに灯ともしてなみだする子よ何をおもへる
- 844 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:25:58.41 ID:TsEbgy+lI
- くすり香もつめたくしむは病室の窓にさきたる芙藍の花
- 845 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:33:44.18 ID:BKAuYioNk
- 青チヨオク ADIEU と壁にかきすてゝ出でゆきし子のゆくゑしらずも
- 846 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:41:29.86 ID:TsEbgy+lI
- その日さりて消息もなくなりにたる風騒の子をとがめたまひそ
- 847 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:49:15.47 ID:BKAuYioNk
- いととほき花桐の香のそことなくおとづれくるをいかにせましや
- 848 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:57:01.16 ID:TsEbgy+lI
- すがれたる薔薇をまきておくるこそふさはしからむ恋の逮夜は
- 849 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:04:46.80 ID:BKAuYioNk
- 香料をふりそゝぎたるふし床より恋の柩にしくものはなし
- 850 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:12:32.44 ID:1pTknO4Fu
- にほひよき絹の小枕薔薇色の羽ねぶとんもてきづかれし墓
- 851 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:20:18.11 ID:BKAuYioNk
- 夜あくれば行路の人となりぬべきわれらぞさはな泣きそ女よ
- 852 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:28:03.80 ID:1pTknO4Fu
- 其夜より娼婦の如くなまめける人となりしをいとふのみかは
- 853 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:35:49.42 ID:BKAuYioNk
- わが足に膏そゝがむ人もがなそを黒髪にぬぐふ子もがな(寺院にて三首)
- 854 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:43:35.06 ID:1pTknO4Fu
- ほのぐらきわがたましひの黄昏をかすかにともる黄蝋もあり
- 855 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:51:20.73 ID:BKAuYioNk
- うなだれて白夜の市をあゆむ時聖金曜の鐘のなる時
- 856 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:59:06.38 ID:1pTknO4Fu
- ほのかなる麝香の風のわれにふく紅燈集の中の国より
- 857 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:06:52.01 ID:BKAuYioNk
- かりそめの涙なれどもよりそひて泣けばぞ恋のごとくかなしき
- 858 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:14:37.69 ID:1pTknO4Fu
- うす黄なる寝台の幕のものうくもゆらげるまゝに秋は来にけむ
- 859 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:22:23.29 ID:BKAuYioNk
- 薔薇よさはにほひな出でそあかつきの薄らあかりに泣く女あり
- 860 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:30:08.92 ID:1pTknO4Fu
- 初夏の都大路の夕あかりふたゝび君とゆくよしもがな
- 861 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:37:54.74 ID:BKAuYioNk
- 海は今青きをしばたゝき静に夜を待てるならじか
- 862 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:45:40.38 ID:1pTknO4Fu
- 君が家の緋の房長き燈籠も今かほのかに灯しするらむ
- 863 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:53:25.97 ID:BKAuYioNk
- 都こそかゝる夕はしのばるれ愛宕ほてるも灯をやともすと
- 864 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:01:11.58 ID:1pTknO4Fu
- 黒船のとほき灯にさへ若人は涙落しぬ恋の如くに
- 865 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:08:57.19 ID:BKAuYioNk
- 幾山河さすらふよりもかなしきは都大路をひとり行くこと
- 866 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:16:42.78 ID:1pTknO4Fu
- 憂しや恋ろまんちつくの少年は日ねもすひとり涙流すも
- 867 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:24:28.48 ID:BKAuYioNk
- かなしみは君がしめたる其宵の印度更紗の帯よりや来し
- 868 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:32:14.11 ID:1pTknO4Fu
- 二日月君が小指の爪よりもほのかにさすはあはれなるかな
- 869 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:39:59.75 ID:BKAuYioNk
- 何をかもさは歎くらむ旅人よ蜜柑畑の棚によりつゝ
- 870 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:47:45.45 ID:1pTknO4Fu
- ともしびも雨にぬれたる甃石も君送る夜はあはれふかゝり
- 871 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:55:31.10 ID:BKAuYioNk
- ときすてし絽の夏帯の水あさぎなまめくまゝに夏や往にけむ
- 872 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:03:16.78 ID:1pTknO4Fu
- うら若き都人こそかなしかりけれ。
- 873 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:11:02.43 ID:BKAuYioNk
- 失ひし夢を求むと市を歩める。
- 874 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:18:48.17 ID:1pTknO4Fu
- 橡の花もひそかにさけるならじか。
- 875 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:26:33.77 ID:BKAuYioNk
- 夢未多かりし日を思ひ出でよと。
- 876 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:34:19.39 ID:1pTknO4Fu
- たはれ女のうつゝ無げにも青みたる眼か。
- 877 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:42:04.99 ID:BKAuYioNk
- かはたれの空に生まるゝ二日の月か。
- 878 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:49:50.75 ID:1pTknO4Fu
- しのびかに黒髪の子の泣く音きこゆる。
- 879 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:57:36.40 ID:BKAuYioNk
- 初恋のありとも見えぬ薄ら明りに。
- 880 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:05:22.19 ID:1pTknO4Fu
- さばかりにおもはゆげにもいらへ給ひそ。
- 881 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:13:07.90 ID:BKAuYioNk
- 緋の房の長き団扇にかくれ給ひそ。
- 882 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:20:53.58 ID:1pTknO4Fu
- なつかしき人形町の二日月はも。
- 883 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:28:39.20 ID:BKAuYioNk
- 若う人の涙を誘ふ二日月はも。
- 884 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:36:24.88 ID:1pTknO4Fu
- いとせめて泣くべく人を恋ひもこそすれ。
- 885 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:44:10.54 ID:BKAuYioNk
- 黄蝋の涙おとすと燃ゆる如くに。
- 886 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:51:56.13 ID:1pTknO4Fu
- 湯沸器の湯気もほのかにもの思ふらし。
- 887 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:59:41.84 ID:BKAuYioNk
- 我友の西鶴めきし恋語りより。
- 888 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:07:27.60 ID:1pTknO4Fu
- ほゝけたる花ふり落す大川楊。
- 889 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:15:13.23 ID:BKAuYioNk
- 水にしも恋やするらむ大川楊。
- 890 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:22:58.90 ID:1pTknO4Fu
- 香油よりつめたき雨にひたもぬれつゝ。
- 891 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:30:44.44 ID:BKAuYioNk
- たそがれの銀座通をゆくは誰が子ぞ。
- 892 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:38:30.08 ID:1pTknO4Fu
- 恋すてふ戯れすなる若き道化は。
- 893 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:46:15.65 ID:BKAuYioNk
- かりそめの涙おとすを常とするかも。
- 894 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:54:01.53 ID:1pTknO4Fu
- 何時となく恋もものうくなりにけらしな。
- 895 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:01:47.20 ID:BKAuYioNk
- つめたくなりまさる如。
- 896 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:09:32.92 ID:1pTknO4Fu
- うつゝなきまひるのうみは砂のむた雲母のごとくまばゆくもあるか
- 897 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:17:18.85 ID:BKAuYioNk
- 八百日ゆく遠の渚は銀泥の水ぬるませて日にかゞやくも
- 898 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:25:04.49 ID:1pTknO4Fu
- きらゝかにこゝだ身動ぐいさゝ波砂に消なむとするいさゝ波
- 899 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:32:51.30 ID:BKAuYioNk
- いさゝ波生れも出でねと高天ゆ光はちゞにふれり光は
- 900 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:40:37.08 ID:1pTknO4Fu
- 光輪は空にきはなしその空の下につどへる蜑少女はも
- 901 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:48:22.72 ID:BKAuYioNk
- むらがれる海女らことごと恥なしと空はもだしてかゞやけるかも
- 902 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:56:08.31 ID:1pTknO4Fu
- うつそみの女人眠るとまかゞよふ巨海は息をひそむらむかも
- 903 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:03:53.93 ID:BKAuYioNk
- 荘厳の光の下にまどろめる女人の乳こそくろみたりしか
- 904 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:11:39.58 ID:1pTknO4Fu
- いさゝ波かゞよふきはみはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ
- 905 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:19:25.28 ID:BKAuYioNk
- きらゝ雲むかぶすきはみはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ
- 906 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:27:11.00 ID:1pTknO4Fu
- 雲の影おつるすなはちふかぶかと弘法麦は青みふすかも
- 907 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:34:56.71 ID:BKAuYioNk
- 雲の影さかるすなはちはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ
- 908 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:42:42.36 ID:1pTknO4Fu
- 支那の上海の或町です。
- 909 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:01:51.12 ID:P4dzTfHYM
- 昼でも薄暗い或家の二階に、人相の悪い印度人の婆さんが一人、商人らしい一人の亜米利加人と何か頻に話し合っていました。
- 910 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:09:36.75 ID:1bpYtp0Er
- 「実は今度もお婆さんに、占いを頼みに来たのだがね、――」
- 911 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:17:22.43 ID:P4dzTfHYM
- 亜米利加人はそう言いながら、新しい巻煙草へ火をつけました。
- 912 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:25:08.09 ID:1bpYtp0Er
- 占いは当分見ないことにしましたよ」
- 913 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:32:53.70 ID:P4dzTfHYM
- 婆さんは嘲るように、じろりと相手の顔を見ました。
- 914 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:40:39.31 ID:1bpYtp0Er
- 「この頃は折角見て上げても、御礼さえ碌にしない人が、多くなって来ましたからね」
- 915 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:48:24.94 ID:P4dzTfHYM
- 「そりゃ勿論御礼をするよ」
- 916 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:56:11.13 ID:1bpYtp0Er
- 亜米利加人は惜しげもなく、三百弗の小切手を一枚、婆さんの前へ投げてやりました。
- 917 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:03:56.72 ID:P4dzTfHYM
- 「差当りこれだけ取って置くさ。
- 918 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:11:42.32 ID:1bpYtp0Er
- もしお婆さんの占いが当れば、その時は別に御礼をするから、――」
- 919 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:19:27.89 ID:P4dzTfHYM
- 婆さんは三百弗の小切手を見ると、急に愛想がよくなりました。
- 920 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:27:13.52 ID:1bpYtp0Er
- 「こんなに沢山頂いては、反って御気の毒ですね。――
- 921 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:34:59.11 ID:P4dzTfHYM
- そうして一体又あなたは、何を占ってくれろとおっしゃるんです?」
- 922 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:42:44.86 ID:1bpYtp0Er
- 「私が見て貰いたいのは、――」
- 923 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:50:30.52 ID:P4dzTfHYM
- 亜米利加人は煙草を啣えたなり、狡猾そうな微笑を浮べました。
- 924 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:58:16.20 ID:1bpYtp0Er
- 「一体日米戦争はいつあるかということなんだ。
- 925 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:06:01.85 ID:P4dzTfHYM
- それさえちゃんとわかっていれば、我々商人は忽ちの内に、大金儲けが出来るからね」
- 926 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:13:47.43 ID:1bpYtp0Er
- 「じゃ明日いらっしゃい。
- 927 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:21:33.03 ID:P4dzTfHYM
- それまでに占って置いて上げますから」
- 928 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:29:18.77 ID:1bpYtp0Er
- じゃ間違いのないように、――」
- 929 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:37:04.52 ID:P4dzTfHYM
- 印度人の婆さんは、得意そうに胸を反らせました。
- 930 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:44:50.17 ID:1bpYtp0Er
- 「私の占いは五十年来、一度も外れたことはないのですよ。
- 931 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:52:35.73 ID:P4dzTfHYM
- 何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですからね」
- 932 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:00:21.45 ID:1bpYtp0Er
- 亜米利加人が帰ってしまうと、婆さんは次の間の戸口へ行って、
- 933 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:08:07.07 ID:P4dzTfHYM
- その声に応じて出て来たのは、美しい支那人の女の子です。
- 934 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:15:52.74 ID:1bpYtp0Er
- が、何か苦労でもあるのか、この女の子の下ぶくれの頬は、まるで蝋のような色をしていました。
- 935 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:23:38.37 ID:P4dzTfHYM
- 「何を愚図々々しているんだえ?
- 936 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:31:24.09 ID:1bpYtp0Er
- ほんとうにお前位、ずうずうしい女はありゃしないよ。
- 937 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:39:09.72 ID:P4dzTfHYM
- きっと又台所で居睡りか何かしていたんだろう?」
- 938 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:46:55.31 ID:1bpYtp0Er
- 恵蓮はいくら叱られても、じっと俯向いたまま黙っていました。
- 939 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:54:40.88 ID:P4dzTfHYM
- 今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そのつもりでいるんだよ」
- 940 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:02:26.64 ID:1bpYtp0Er
- 女の子はまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙げました。
- 941 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:10:12.29 ID:P4dzTfHYM
- 印度人の婆さんは、脅すように指を挙げました。
- 942 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:17:57.93 ID:1bpYtp0Er
- 「又お前がこの間のように、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。
- 943 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:25:43.53 ID:P4dzTfHYM
- お前なんぞは殺そうと思えば、雛っ仔の頸を絞めるより――」
- 944 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:33:29.20 ID:1bpYtp0Er
- こう言いかけた婆さんは、急に顔をしかめました。
- 945 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:41:14.85 ID:P4dzTfHYM
- ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓際に行って、丁度明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているのです。
- 946 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:49:00.47 ID:1bpYtp0Er
- 「何を見ているんだえ?」
- 947 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:56:46.45 ID:P4dzTfHYM
- 恵蓮は愈色を失って、もう一度婆さんの顔を見上げました。
- 948 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:04:32.62 ID:1bpYtp0Er
- 「よし、よし、そう私を莫迦にするんなら、まだお前は痛い目に会い足りないんだろう」
- 949 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:12:18.26 ID:P4dzTfHYM
- 婆さんは眼を怒らせながら、そこにあった箒をふり上げました。
- 950 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:20:04.11 ID:1bpYtp0Er
- 誰か外へ来たと見えて、戸を叩く音が、突然荒々しく聞え始めました。
- 951 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:27:49.94 ID:P4dzTfHYM
- その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかった、年の若い一人の日本人があります。
- 952 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:35:35.59 ID:1bpYtp0Er
- それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆気にとられたように、ぼんやり立ちすくんでしまいました。
- 953 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:43:21.23 ID:P4dzTfHYM
- そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。
- 954 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:51:07.20 ID:1bpYtp0Er
- あの二階に誰が住んでいるか、お前は知っていないかね?」
- 955 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:58:53.06 ID:P4dzTfHYM
- 日本人はその人力車夫へ、いきなりこう問いかけました。
- 956 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:06:39.62 ID:1bpYtp0Er
- 支那人は楫棒を握ったまま、高い二階を見上げましたが、「あすこですか?
- 957 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:14:25.98 ID:P4dzTfHYM
- あすこには、何とかいう印度人の婆さんが住んでいます」
- 958 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:22:11.59 ID:1bpYtp0Er
- と、気味悪そうに返事をすると、匆々行きそうにするのです。
- 959 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:29:57.28 ID:P4dzTfHYM
- そうしてその婆さんは、何を商売にしているんだ?」
- 960 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:37:43.04 ID:1bpYtp0Er
- が、この近所の噂じゃ、何でも魔法さえ使うそうです。
- 961 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:45:28.78 ID:P4dzTfHYM
- まあ、命が大事だったら、あの婆さんの所なぞへは行かない方が好いようですよ」
- 962 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:53:14.44 ID:1bpYtp0Er
- 支那人の車夫が行ってしまってから、日本人は腕を組んで、何か考えているようでしたが、やがて決心でもついたのか、さっさとその家の中へはいって行きました。
- 963 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:01:00.18 ID:P4dzTfHYM
- すると突然聞えて来たのは、婆さんの罵る声に交った、支那人の女の子の泣き声です。
- 964 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:08:45.82 ID:1bpYtp0Er
- 日本人はその声を聞くが早いか、一股に二三段ずつ、薄暗い梯子を駈け上りました。
- 965 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:16:32.18 ID:P4dzTfHYM
- そうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。
- 966 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:24:17.76 ID:1bpYtp0Er
- 戸は直ぐに開きました。
- 967 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:32:03.58 ID:P4dzTfHYM
- が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、もう支那人の女の子は、次の間へでも隠れたのか、影も形も見当りません。
- 968 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:38:49.11 ID:1bpYtp0Er
- 婆さんはさも疑わしそうに、じろじろ相手の顔を見ました。
- 969 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:45:35.61 ID:P4dzTfHYM
- 「お前さんは占い者だろう?」
- 970 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:53:21.53 ID:1bpYtp0Er
- 日本人は腕を組んだまま、婆さんの顔を睨み返しました。
- 971 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:01:07.16 ID:P4dzTfHYM
- 「じゃ私の用なぞは、聞かなくてもわかっているじゃないか?
- 972 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:08:52.80 ID:1bpYtp0Er
- 私も一つお前さんの占いを見て貰いにやって来たんだ」
- 973 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:16:38.40 ID:P4dzTfHYM
- 「何を見て上げるんですえ?」
- 974 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:24:24.10 ID:1bpYtp0Er
- 婆さんは益疑わしそうに、日本人の容子を窺っていました。
- 975 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:32:10.03 ID:P4dzTfHYM
- 「私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。
- 976 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:38:56.59 ID:1bpYtp0Er
- それを一つ見て貰いたいんだが、――」
- 977 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:46:42.89 ID:P4dzTfHYM
- 日本人は一句一句、力を入れて言うのです。
- 978 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:54:29.25 ID:1bpYtp0Er
- 「私の主人は香港の日本領事だ。
- 979 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:02:14.96 ID:P4dzTfHYM
- 御嬢さんの名は妙子さんとおっしゃる。
- 980 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:09:50.80 ID:1bpYtp0Er
- 私は遠藤という書生だが――
- 981 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:17:36.59 ID:P4dzTfHYM
- その御嬢さんはどこにいらっしゃる」
- 982 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:25:21.49 ID:1bpYtp0Er
- 遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。
- 983 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:33:08.30 ID:P4dzTfHYM
- 「この近所にいらっしゃりはしないか?
- 984 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:40:54.21 ID:1bpYtp0Er
- 香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫ったのは、印度人らしいということだったが、――
- 985 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:48:40.23 ID:P4dzTfHYM
- 隠し立てをすると為にならんぞ」
- 986 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:56:25.90 ID:1bpYtp0Er
- しかし印度人の婆さんは、少しも怖がる気色が見えません。
- 987 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:04:11.50 ID:P4dzTfHYM
- 見えないどころか唇には、反って人を莫迦にしたような微笑さえ浮べているのです。
- 988 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:11:57.09 ID:1bpYtp0Er
- 「お前さんは何を言うんだえ?
- 989 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:19:42.64 ID:P4dzTfHYM
- 私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」
- 990 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:27:28.30 ID:1bpYtp0Er
- 今その窓から外を見ていたのは、確に御嬢さんの妙子さんだ」
- 991 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:35:13.92 ID:P4dzTfHYM
- 遠藤は片手にピストルを握ったまま、片手に次の間の戸口を指さしました。
- 992 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:42:59.78 ID:1bpYtp0Er
- 「それでもまだ剛情を張るんなら、あすこにいる支那人をつれて来い」
- 993 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:50:45.68 ID:P4dzTfHYM
- 「あれは私の貰い子だよ」
- 994 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:58:31.54 ID:1bpYtp0Er
- 婆さんはやはり嘲るように、にやにや独り笑っているのです。
- 995 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 12:06:17.30 ID:P4dzTfHYM
- 「貰い子か貰い子でないか、一目見りゃわかることだ。
- 996 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 14:20:22.10 ID:1bpYtp0Er
- 貴様がつれて来なければ、おれがあすこへ行って見る」
- 997 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 14:28:07.85 ID:P4dzTfHYM
- 遠藤が次の間へ踏みこもうとすると、咄嗟に印度人の婆さんは、その戸口に立ち塞がりました。
- 998 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 14:35:53.45 ID:1bpYtp0Er
- 見ず知らずのお前さんなんぞに、奥へはいられてたまるものか」
- 999 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 14:43:39.02 ID:P4dzTfHYM
- 遠藤はピストルを挙げました。
- 1000 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 14:51:24.62 ID:1bpYtp0Er
- いや、挙げようとしたのです。
- 1001 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 14:59:10.28 ID:P4dzTfHYM
- が、その拍子に婆さんが、鴉の啼くような声を立てたかと思うと、まるで電気に打たれたように、ピストルは手から落ちてしまいました。
- 1002 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 15:06:55.99 ID:1bpYtp0Er
- これには勇み立った遠藤も、さすがに胆をひしがれたのでしょう、ちょいとの間は不思議そうに、あたりを見廻していましたが、忽ち又勇気をとり直すと、
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