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◆◇◆秦◆◇◆

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 21:56:03 ID:TZhz0PIJ0.net
紀元前221年に中国を統一し紀元前206年に滅亡した
首都咸陽。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 13:15:45 ID:33ShAuPe0.net
統一してから滅亡までは短かったけど、
それまでの春秋戦国時代の期間が長いからね。

特に西方世界からは、中国への入口に当たる位置にあっただけに、
影響は大きく、秦=シーナが、Chinaの語源ともなっている。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 15:30:27 ID:ZDGrm4b1O.net
中華の歴史上、明確に儒教を否定した政治を行った人物って始皇帝だけかな?

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 15:34:47 ID:QIvK669hO.net


5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 15:28:10 ID:fQwQyriC0.net
秦って春秋戦国時代に簒奪なんかはなかったのかな。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:35:18 ID:bj6yZ9qX0.net
wikiから

秦(? - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在し、紀元前221年に中国
を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代
と呼ぶ。国姓は嬴(えい)。統一時の首都は咸陽。

歴史
周代
秦は伝説によれば殷の紂王に仕えた奸臣悪来の末裔とされる。しかしこの始祖伝説はおそらくは秦が中国に入った
後に作られたものと思われる。秦の本当の出自は後に穆公が西戎の覇となることから考えて、西戎そのものではない
かと考えられる。

紀元前900年ごろに周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、
秦の地に領地を貰ったと言う。しかしこれも実際にあったことなのかは不明である。

秦が最初に興った所は現在の甘粛省礼県であったらしく、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つかっている。
紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地である岐に封じられ、
これ以降諸侯の列に加わる。

春秋戦国時代
春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、風俗的に中原諸国と大きく異なり、当初は野蛮であると蔑まれていた。
代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。紀元前677年
には首都を雍(現在の陝西省鳳翔県)に置いた。

九代穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎
の覇者と為り、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力を付けた。晋が驪姫の乱で混乱する
と、恵公を擁立するが、恵公は背信を繰り返したので、これを韓の地で撃破した。更に恵公が死んだ後に恵公の兄重
耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君・文公となり、その治世時には晋にやや押されぎみになるが、文公
死後には再び晋を撃破して、領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。

しかし、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。
それでもそれなりの力は保持していたものの春秋中期以降の主役は北の晋と南の楚であり、それに西の秦と東の斉
が脇を固める変則的な四強時代を作っていた。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:35:50 ID:bj6yZ9qX0.net
戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三国に分裂した。この内
の魏が戦国初期には名君・文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる。

この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅で
ある。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制へと生まれ変わらせた。この商鞅
の変法運動により秦は徹底的な法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元
前350年に咸陽へと遷都した。

その後、孝公の子の恵文王の紀元前324年に王を名乗る。紀元前316年に恵文王は蜀(四川省)を占領し、この地の
開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃が行えるようになり、
圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し、楚の懐王を捕ら
えることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。

恵文王の子の昭襄王の時代に宰相・魏冄と白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。しかし魏冄の権力があ
まりにも大きくなったことを憂慮した昭襄王は魏冄を退けて、代わりに范雎を登用する。范雎が進言したのが有名な遠交
近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られる
のは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば
近くの土地が手に入り、それはすぐに秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を
宰相とした。紀元前260年に白起を趙に進行させ、白起は長平の戦いで趙軍を撃破し、趙の捕虜40万を坑(穴埋にして
殺すこと)した。さらに紀元前255年に完全に周を滅ぼしてその領地を接収した。

この時期、東では斉が伸張しており、殷の末裔である宋を併合するなど周辺諸国を圧迫していた。紀元前288年には
斉を東帝、秦を西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、こ
の時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。

しかしその斉は強勢を警戒され楽毅が指揮する五国連合軍により、首都臨淄が陥落。亡国寸前まで追い詰められた。
このことで秦の覇権は決定的なものとなり、統一へ向かっていく。


8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:36:30 ID:bj6yZ9qX0.net
統一王朝
紀元前247年に即位した政は、李斯を丞相として国力増強に努め、ついに紀元前221年に中国を統一し、自ら皇帝を
名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものである。


秦の地図始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族へ
の備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設した。万里の長城の建設は
主に農民を使役して行われたが、過酷な労働と極度の法治主義に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。匈奴に
対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、
南方には、南海・象・桂林の3つの郡が置かれた。これは、中国王朝によるベトナム支配の始まりでもある。

始皇帝の死後、宦官趙高が太子扶蘇・丞相李斯や始皇帝の血族者ら権力者を次々に暗殺し、暗愚な二世皇帝を傀
儡として、権力をほしいままにして暴政を敷いた。始皇帝が死んだ事で一辺にたがが緩み、翌年には陳勝呉広の乱が
勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。

二世皇帝と趙高は章邯を将軍として討伐軍を送る。章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破し、さらにその後を受
けた項梁軍も撃破した。しかし項梁のおいの項羽との決戦に破れ、章邯たちは捕虜となる。項羽は咸陽に向かう途中
で造反の気配を見せた秦兵20万を穴埋めにして殺してしまった。

章邯が大敗したことを聞いた趙高は狼狽し、二世皇帝を暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を立てて民意の安定
を図ろうとするが、子嬰らによって誅殺された。

その後、劉邦が咸陽へ入ると、子嬰は降伏し、秦は滅亡した。劉邦は子嬰を殺さないことにしていたが、後から咸陽
にやってきた項羽は子嬰を殺し、咸陽の美女財宝を略奪して、火をかけ、咸陽は廃墟となった。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:37:17 ID:bj6yZ9qX0.net
政治
秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢が前後400年の長きに渡った理由の一つは秦の
制度を人民の反発を受けることなく踏襲できたことがある。

秦の成立は単なる中国の統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点
で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。


官制
秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・太尉(軍事)・御史大夫(監察・あるいは副首相)の三公を頂点とする三公
九卿制である。

地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)の県に細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。
統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位である郡を置き、
太守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である
(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、
李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、
これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。ちなみに、胡亥の代になると郡県制により各地の役人の数が減らされ
る結果となり、各地で相次いで起きた反乱を抑えられなくなってしまった。

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:38:07 ID:bj6yZ9qX0.net
法制
秦と言えば商鞅により作られた法家思想による厳しい法律と言うイメージだが、実際にどのように法律が運用されてい
たかは資料が乏しく分からないことも多い。

漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「律九章」と呼
ばれる法律を作ったと言う。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としてると考えて良いだろう。この「律九章」は
盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『晋書』にはある。しかしこの記載が『漢書』にはないので、この記事
自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。

そして秦の法律に関する一次資料として『睡虎地秦簡』と呼ばれるものがある。これは1975年に湖北省雲夢県で
発掘された秦の法官であったと思われる喜と言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載
されている。

経済
始皇帝は統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭
への統一、車の幅の統一などを行った。

ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律に
ついては、再考の余地があるようである。殊に、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治して
いた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、
それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。これが真実とすれば、世間に伝えられる暴君としての始皇帝像
は、誤ったものであり、秦が滅亡した一因として、二世皇帝の経済政策の誤りが考えられる。

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:38:43 ID:bj6yZ9qX0.net
文化
統一前の秦に関する資料として石鼓文・詛楚文と呼ばれるものがある。

石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京の故宮博物院に保存されている。発見された
のは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟
の様子などを韻文にして書かれている。

詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わ
っている。

この2つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書
体も改めて新しい篆書と言う書体を流通させた。

思想的には法家が当然強いが、しかし道家も同じように強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分がある
と指摘されており、『史記』で司馬遷が老子と韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。
後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。

世界遺産に登録されている、始皇帝陵は始皇帝が13歳の時から建築が開始され発掘された始皇帝陵から、今まで
不明瞭だった秦の時代の文化が伺えるようになっている。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 23:52:26 ID:VrroZAlQ0.net
滅ぼされた六国の支配階層は一般的にどうなっていたか。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 23:48:57 ID:X6vs+Uuq0.net
始皇帝が死んで、秦が崩壊する時に、担ぎ出されている。
地方の豪族みたいになっていたんじゃないのか。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 22:18:25 ID:ytTibeqn0.net
春秋戦国時代、秦と西域の交流ってどんなものだったんだろうね。
商人の往来なんかがあったのかな。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 23:50:17 ID:162yLwmk0.net
東西交易路はかなり昔から確立されていたようだしね。
タクラマカン砂漠のどこかで発見された2000年以上前のミイラが、
人種的にはコーカソイドだったらしいし。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 23:53:21 ID:1aOMKual0.net
咸陽の都には西域からやって来た胡人もかなり往来していたんだろうか。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 23:52:04 ID:5a0Z0OfY0.net
>>16

>>2のようなChinaの語源になったぐらいだから、
相当交流があったんじゃないかな。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 21:11:03 ID:jneFhV8/0.net
秦の時代の関中はかなり肥沃な土地だったんだろうね。
古代の華北には大森林が広がっていたようだし。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 23:05:45 ID:P4E6hWHY0.net
秦は人気ないのか……

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 00:03:20 ID:I5CwO0RnO.net
戦国時代は斉が失墜してから秦のワンサイドゲームになるからつまらん

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 21:54:26 ID:3gWhZThV0.net
>>14>>15
咸陽には胡人もかなり居住していたのかな。

22 :燕人:2007/05/18(金) 23:06:40 ID:BRzWkHFp0.net
責任をとってケイカを送り込んで最末期を盛り上げたので許してください

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/05(火) 23:20:02 ID:8N+94JMl0.net
>>20
最後に楚も力をつけて、天下を二分する対決みたいな感じに持ち込んでくれると、
すごく盛り上がっただろうね。
どちらも広大な後背地があるんだし。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/06(水) 01:29:36 ID:S06yA2Gt0.net
商鞅について調べたいのですが良い概説書とかはあるでしょうか?

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/06(水) 05:22:50 ID:SSxYIBy/O.net
商子

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/02(月) 22:13:18 ID:3EGqbRT20.net
始皇帝陵、地下に巨大建築物=30メートルの「高楼」−中国

7月2日22時0分配信 時事通信

【北京2日時事】中国陝西省西安市郊外にある秦の始皇帝(紀元前259年〜同210年)陵の地下に、土を打ち固めて
造った高さ30メートルの巨大な建築物が存在することが考古研究チームの調査で明らかになった。中国紙・北京日報
が2日報じた。
 同紙によると、この「高楼」は下へ行くほど広くなる形で、9層の階段式となった4面の壁を持つ。陝西省考古研究院
の段清波研究員は「常人には考えもつかない建造物で、中国古代の墳墓史上、前例がない」としている。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070702-00000165-jij-int

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/08(水) 21:55:29 ID:MCt9Trgb0.net
始皇帝陵って、後の唐朝とかの陵墓より大きいのかな。
国力だけなら後の時代の方が伸びているだろうし。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/09(木) 16:11:37 ID:DEVPzjL1O.net
国力は前漢や唐のほうが文化の進行度もあって強いかもしれないけれど、
強制的な動員力は秦の時代のほうがありそう

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 16:10:59 ID:ToOeICBS0.net
 2007年8月31日、陝西省西安市の始皇帝陵について、兵馬俑博物館の
曹ウェイ(ザオ・ウェイ)副館長は「遺跡の現状を長期的に維持するため、
当面いかなる発掘計画もない」と言明した。皇帝陵の地下には巨大地下
宮殿などの存在がすでに確認されているが、発掘による全容解明は
持ち越しとなりそうだ。

 2002年、中国政府はまだ謎の多い始皇帝陵について、遠隔探査技術
などを利用した調査を実施。その結果、巨大な地下宮殿と墓室の存在が
確認された。しかし、本格的な発掘を始めれば遺跡の現状維持は難しく、
ダメージを与えることにもなりかねない。そこで将来、技術的な条件が
整うのを待って発掘するとの方針が固まった。

 その時期について曹副館長は「少なくとも私が生きている間には
(発掘は)ないだろう」と、かなり先になるとの見通しを示した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070901-00000017-rcdc-cn

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 22:24:09 ID:mIsQUBVR0.net
そんなに発掘が難しい構造になっているのかね始皇帝陵。

図面で見てみたいけど、発掘しないことには分からないだろうしなあw

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 23:10:36 ID:YzA8zbmX0.net
>>30
構造の問題より、急に外気にさらして、内部が劣化するのを恐れているのでは?

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 23:12:33 ID:YzA8zbmX0.net
しかし・・・始皇帝の墓には水銀で海を作ったんだろ?
もしも・・・死蝋かなんかになって、始皇帝の遺体が残っていたら
すごいだろうな

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 23:55:16 ID:aZ7XrAbSO.net
ただの伝説かもしれないけど英布が暴いた墓ってのはなんだったんだろ?

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 10:28:24 ID:882jIp7C0.net
歴代秦王家の墓……とか?

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 22:06:58 ID:bGtK0nqO0.net
そういえば、長沙市で1971年に発見された馬王堆漢墓
[前漢初期の丞相、軟侯利蒼(だいこう・りそう)の妻の墓]から出てきた
女性の遺体は、少しも腐敗せず、外見をほとんど残しており、
身体には弾力が残っており、死後まもない遺体のようで、
解剖したら、胃から瓜の種まで出てきた。

遺体が何故残っていたかは不明だが、遺体からはかなり水銀と鉛が検出された、
という話があったね。

もし、始皇帝の遺体が出土いたら、世紀の発見なんてもんじゃあるめ。


36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 22:41:46 ID:Z7aHZe/i0.net
>>35
新末後漢初の動乱で暴かれた呂后の墓からも、呂后の死体が死後まもないような状態で発見され、暴徒が屍姦にまで及んだそうで

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 10:21:53 ID:h0siFerx0.net
>>36
それは、「古事談」だったか、あまり信頼性のない本に載っていた話で、
あくまで伝説に過ぎないのでは?

もっとも、馬王堆漢墓の話を聞くと本当かもしれないとは思うけど。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 14:24:50 ID:LNVWJkdf0.net
あの時代の貴人の埋葬法は、偶然にも遺体の保存に適していたんだろうね。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 23:20:30 ID:q9Sdwdtw0.net
遺体に宝玉をいっぱい貼ったような埋葬法だね。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 09:24:10 ID:4M1xWBs80.net
始皇帝は、全国行脚の途中で死んで、
その死を隠すため、魚の干物を積んだ車をそばに置いた、
というから、埋葬されたとき、遺体は、もうかなり痛んでいたと思うから、
駄目かもしれない


41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 22:52:25 ID:o6L4OBiZ0.net
遺体が出てきたら、そこら辺の話がどこまで本当なのかも分かるかもな

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 10:50:49 ID:0vl8OG/50.net
司馬遷からしたら、たかだか100年前の話だからそう無茶な伝説化はないと
思うけどね


43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 12:43:20 ID:xl+VC9hB0.net
大英博物館で兵馬俑展が始まる!約120点を展示―ロンドン

  2007年9月13日、イギリス・ロンドンの大英博物館で中国秦代兵馬俑展が開催された。

 今月11日、大英博物館で中国秦代兵馬俑展の開幕式が行われ、13日から一般に向け正式公開された。秦の
始皇帝の兵馬俑や楽俑のほか、秦代の青レンガや瓦当など、陝西省西安市の「秦始皇兵馬俑博物館」から2000
年以上前の中国文物が約120点展示される。

 同展は中英の文化交流の一つとして、来年の4月6日まで開催される。兵馬俑展は1967年3月から海外出展を
始めて30年間、世界30か国以上で開催されてきた。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g11299.html

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 15:18:30 ID:4l3LBCEe0.net
>>42
百年でも、今の日本で言えば日露戦争の頃の話だし、
昔は寿命も短くて時間間隔が違っただろうし……

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 13:16:40 ID:zKoQ5ZnJ0.net
>>32
水銀ってどういうふうに採掘していたんだろう。

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 09:22:36 ID:vkaR7JB50.net
 中国陝西省西安市郊外にある秦の始皇帝陵近くで古代の大型の墓が
見つかり、考古学者らは秦朝(紀元前221−同206年)最後の王、子嬰
の墓ではないかとみて調査している。新華社などが29日までに伝えた。

 墓は始皇帝陵を取り囲む外城の北西約500メートル付近で2003年に
見つかり、南北109メートル、東西26メートル、深さ15メートル余り。
規模や造り方、陪葬坑などの状況から、子嬰が埋葬された可能性がある
という。

 中国紙、北京日報によると、歴史書などでは子嬰は第2代皇帝、胡亥の
兄の子とされる。秦王に即位して間もなく、漢朝を打ち立てた劉邦に投降
したが、その後殺害され、どこに埋葬されたか不明だったという。

ソース(イザ!・共同通信) http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/87448

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 17:11:38 ID:AGdeLPqDO.net
こりぁ大発見ですな
子嬰は項羽に処刑されたけどちゃんと墓はあったのね

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 22:12:51 ID:JG3fIDTo0.net
劉邦が項羽を悪役にするために、
手厚く葬ったんじゃなかったかな。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 06:02:21 ID:hToQX1tX0.net
劉邦は秦の遺産を上手く取り込んで漢を建国しているからね。
長期政権となった漢は、半ば始皇帝が創業したとも思えるほど。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 23:27:32 ID:tyyK9ZPf0.net
もし天下を獲ったのが項羽だった場合、
かなり楚の色彩の強い国家が成立していたのかな?


51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 17:50:14 ID:tsOSmbW70.net
多分、またすぐ分裂するよ。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/15(土) 13:42:01 ID:r+NB3Eyy0.net
★複製展示が発覚し、中止 独ハンブルクの兵馬俑展

中国の秦の始皇帝の兵馬俑(へいばよう)を展示しているとの触れ込みだったドイツ北部の展示会が
14日までに中止された。ドイツの業者が複製を納入していたことが発覚したためだ。

先月末から始まったハンブルクでの兵馬俑展では、8体の兵士と2体の馬などが展示され、約1万人が
来場した。しかし、関係者から「本物」ではないとの指摘が寄せられ、警察も捜査を開始。結局、独東部
の展示業者が独メディアに対し、中国から入手した複製であることを認めた。博物館側は来場者への
払い戻しを直ちに始めた。

独国内の専門家は今回の事態について、「ドイツの美術史上、最大の犯罪」と強く批判。中国の兵馬俑
管轄部局も「人々を欺く行為」と業者への提訴も辞さない構えだ。(ベルリン 黒沢潤)

(MSN産経 2007.12.14 21:02)
http://sankei.jp.msn.com/world/asia/071214/asi0712142102004-n1.htm

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 23:14:18 ID:tkkbL20w0.net
秦って統一までにかなり長く続いているけど、
本当に簒奪とか、起こらなかったんだろうか。

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 01:28:32 ID:vybPjpdO0.net
te

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/05(金) 17:49:02 ID:zhiiwxbQ0.net
>>53
古い時代になると資料も少ないし、よく分からないんじゃない

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/20(土) 23:58:52 ID:pODFwy0F0.net
秦って何族?漢族?

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/21(日) 13:37:48 ID:rnBo2hE4O.net
西戎じゃないの?

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/22(月) 22:45:11 ID:Kwu8Mo6j0.net
秦があった頃に漢民族とか中国人とか言う概念はないと思う。
だけど秦には李斯、白起、范雎、張儀、趙高といった、
現在の中国人に近い姓を持つ人がいるのは確かだ。
彼らは多分、現在の中国人の先祖だと思うけど、
民族的には漢民族(の先祖)に近いんじゃないの?

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/22(月) 22:56:18 ID:Kwu8Mo6j0.net
他にも呂不韋、王翦、章邯とか居るからね。
現在の章姓の人物といえば中国で女優している人でいたと思うが(名前忘れた)、
民族的には漢民族なのは確か。

もっとも秦があった頃に民族的概念や国籍的概念があったとは思えない。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/25(木) 05:08:15 ID:mPVjlAI70.net
秦は西戎系って聞いた事あるけど。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/25(木) 09:50:50 ID:DewUgWcDO.net
当時の中原の連中から見れば、秦も楚も夷狄蛮族の類い

だけど、現代の漢族の先祖の一部ではある
ただ、「漢族」という言葉の元となった漢王朝は、秦の後だから、「秦は漢族か」って問いは時系列的に変な質問になるね

一応、史記の系図を見ると、秦の王統は殷末に趙氏と別れ、さらに遡ると最後は黄帝にまで行き着くから「漢族=黄帝の子孫」ってことなら、漢族(の先祖)ってことになるね
まぁ、王室と支配民が同じ種族とは限らないし、系図も古い時代はあんまりあてにならんだろうけど
ぶっちゃけ、素姓の怪しい諸侯まで黄帝に連なる系図を偽装した結果として「漢族=黄帝の子孫」ってのが定着したとも考えられるし

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/12(日) 04:15:08 ID:0VcSPvrl0.net
漢籍のルーツな世界では、
漢族以外の民族も「黄帝の子孫」ってことになってるんだが…。
日本人だって呉太伯の子孫とされてて、つまりは「黄帝の子孫」だろ(笑)。

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/17(金) 05:54:56 ID:ePRqxebF0.net
ウィキペディアの漢民族の項目に↓の記述があるけど、ここに書いてある秦族ってのが秦を建国したの?

中国の歴史は絶え間ない民族・人種の混合であった。古くは殷周交代にまでその傾向を見ることができる。当時中原に住み、より東方起源と推定される殷族と西方からやってきた周族が混交し、今にいう漢民族の母胎ができあがったのだが、その母胎はすぐに秦族に撹乱された。
また、春秋戦国時代の国家である楚、越も中原とは多分に異なる民族であったと考えられている。
また中国は4世紀頃から北方の遊牧民族に北部を支配されるが、その過程で多分に北方民族の血が混ざっている。日本の学界では唐王朝の皇帝の一族もまた鮮卑系の北方民族に近いものであると考えられている。


64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/07(金) 23:17:33 ID:YswPtoxu0.net
700 :世界@名無史さん:2008/03/02(日) 09:24:49 0
宋までタブガチュですか。
でも、宋も唐の血を引いてますからね。
思うんですけど、実は漢崩壊後、漢民族というのは最早無くなったと考えても良いのでは
ないかとも考えます。
自称、中原中原言ってるけど、実は以降はほとんどがタブガチュ系国家。
ちなみに漢以前も、実は漢民族では無いでしょ。秦、楚、呉越、周もみな非漢民族。
西戎か北族か南蛮系。

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/07(金) 23:30:36 ID:Ib3G5TbW0.net
>>58-59
それってだいたい他国出身の人じゃね?

66 :tiger:2008/12/04(木) 16:42:04 ID:Hs1Lq0a20.net
秦國=軍國主義國家=以戰養戰=耕戰制度

67 :正則JP:2009/01/06(火) 03:53:52 ID:0oqEgUxW0.net
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
日本の在日とハーフとは、例えるならベトナム戦争時の、韓国兵と
現地ベトナム女性との混血児を、強く連想されます。アメリカはベトナムを
傷つけましたが、韓国兵は更に、現地女性をレイプして混血児まで残した
アメリカはベトナムを傷つけたが、韓国兵は更にレイプして混血児まで残した
日本国内の、在日とハーフの位置づけは、ベトナム戦争時の韓国兵による現地
ベトナム女性との混血児を、強く連想させます
アメリカは混血児は残していません。在日とハーフは、韓国兵とベトナム女性
との混血児と全く同じです
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない

68 :正則kQ:2009/01/06(火) 23:04:04 ID:0oqEgUxW0.net
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69 :正則JP8497:2009/01/07(水) 05:47:09 ID:g+FRdbR60.net
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70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/07(水) 15:39:39 ID:BiGqO7mR0.net
どうしても気になることがあるから質問するね。
この前、中国人の事を猛烈に非難している奴が居たわけ。
中英出身な俺は腹が立ったから、そいつの事叩いて見たわけ。
そしたら「白起さん中国からお疲れ様です^^」
って言われたんだけれど、これってどういうこと?
なぜ白起なのか誰か説明してくれると嬉しい。
長文スマソ。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/08(木) 00:51:15 ID:GBt6jp9+0.net
知ってるけど、お前の態度が気に入らない

72 :正則:2009/01/08(木) 07:41:50 ID:LRBqnIar0.net

アメリカは日本に混血児は残していない
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73 :70:2009/01/09(金) 16:37:10 ID:0dIp91k90.net
お願いします。どうか説明して下さい。お願いします>>71様!!!

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/18(土) 13:15:48 ID:/sueitWPO.net
胡亥と叔孫通の「盗か賊か」というやりとりは馬鹿げたものに思えるけど
この問題は現代の日本人だからこそ馬鹿げたものに思えるんだよな。
中国では秦から千年後の明でも永楽帝と「腐儒」方孝儒(なんて名前だ)
の例があるし、今でも命は取られないまでも論文の内容次第では刑務所
行きと未だに続いている問題だ。

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/23(木) 19:43:12 ID:ZkWD0JHe0.net
さすがに最近では言論を理由に逮捕というのはないんじゃないのか
日本や他の国の学者が中国で討論会に参加したりしてるし

サイト閉じられたり、集会禁止されたりはしてるみたいだから
まだまだ自由な国とは言えないだろうけどさ

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 18:07:00 ID:mdOzds+u0.net
さすが中国、やることのスケールが違う

【歴史】始皇帝陵は完全に捏造だったとフランス・ベルギーの調査団が断定【捏造大国】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news7/1291458746/

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/05(土) 07:53:43.57 ID:JrvhRBB20.net

殷の元子分だった。

で馬の生産を始めて、初めて、オリエントに通ずる移動集団を作った。そしてオリエント文化、民族、影響で巨大になった。
このとき、秦中進に膨大なオリエント文化が流れてきたんだけど、で強かったから
統一して、事実上最初にシナに国家、社会制度作った。

それまでは明らかに部族集団の歴史しかないんだよね。むしろ強かったシナの様子がゼロ。

で制度、やオリエント文化などを整備したんだけど、シナは馬鹿だったからうけいれられなかった。
むしろ秦の逆(退廃シナ制度)をやってしまう。そして社会の文化も秦コピーなんだけど
その文化を否定してもろ衰退。


で秦はそのあと、半島南部(チョンいないんだが)に流れ着いて
辰を作って分度をもたらした。
でそこで代々秦王族末裔をなのっていたんだが、戦争で日本に逃げてくる。

そこで機織、そして、シナで忌諱されたオリエント思想 都市計画?を日本に伝えた。
五行とかもほぼオリエントの学問のコピーなんだよね。この当時シナで忌諱された、オリエント思想は日本で奇異
され受け入れられ、膨大な影響を与えた。
そして秦は日本でもいちお地方で代々王をなのって(便宜)だけど、なんか都市計画やって失敗
追い出される。

そして追い出されて、スラムのチンピラだったんだけど
12世紀の戦争でかれらは脱出して拾われる。
そしてそれ以降武士と名乗る。
そしてそれから
島津、長祖壁、宗、など武士になった。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/03(土) 17:05:12.77 ID:KlzMOWxV0.net
ストレートな秦氏(はたうじ)は?

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/05(木) 06:58:59.56 ID:3fss0800O.net
趙高は趙の元王族で復讐の為に近づいたって話は眉唾?

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 17:26:54.85 ID:cApbfYj3O.net
文人で書物残してたり、李斯をハメたり有能な所と
滅亡時の無能通り越して敵意あんじゃないかって行動を
矛盾なく説明しようとすると、そんな珍説が出てくる

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/12(木) 08:02:21.73 ID:2w9aHkQHO.net
いつから秦は周王朝や覇者たちのように盟主になるのではなく
中華全土を統一するつもりになったんだろ?

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/13(金) 05:11:25.69 ID:GgbUQPeI0.net
他国に秦が負けるってことが一切想像できなかったんだろうなあ

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 10:33:13.29 ID:4q3wapHM0.net
統一を考え出したのは昭襄王の頃からじゃないかな

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 22:31:04.85 ID:uIo1B6NL0.net
秦と他国の差がついたのは孝公の頃からかな

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 02:26:40.16 ID:8g/iAfkOO.net
孟子の頃に天下国家っていう言葉が流行ってたらしいけど

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/18(金) 08:14:21.59 ID:WwjCin8p0.net
胡亥

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/10(日) 20:07:51.61 ID:3aKpPk6I0.net
やっぱり武王が最高だな

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/07(土) 23:48:38.80 ID:j6mzhnHq0.net
天下大秦

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/23(木) 17:06:15.13 ID:GVoNV57r0.net
西戎やテュルクは分かるが、いまだに秦人をユダヤ人にしたがるやつらの精神構造がわからねえ

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/30(木) 19:32:04.02 ID:ojIUUNkY0.net
いやいやテュルクもユダヤに負けず劣らず珍妙ですよ

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/30(木) 22:08:40.99 ID:gRcwqeh20.net
ですねえ…
>>84
孝公期は魏を河西から追い出せなかったり
先代献公期とさして変わらないところがあるぞ
差がついたのは斉と楚が没落した昭王期半ばだろう

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/07/31(金) 17:16:07.02 ID:Ufkh0stJ0.net
軍事的にはやや停滞してる感あるよね、孝公
もちろん進展はあるけど、まだ真正面から魏軍と戦えば苦戦する

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/01(土) 22:50:44.20 ID:oia2UWW40.net
国土でかくないのに商於15邑とかいう大封を受け取る寵臣商鞅たん
・・・そりゃ恨まれるし殺されますわ

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/02(日) 14:44:52.42 ID:+0YqvR1g0.net
楚に亡命は無理だったのか?騙し討ちの件で嫌われてる魏より位置的に逃げやすそう。
まぁ封地からそう遠くない咸陽急襲してクーデター成功させる自信があったのかもだが。

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/02(日) 17:38:24.79 ID:k72uSLN80.net
嫪毐の乱みたいなもんか

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/03(月) 00:40:39.52 ID:Qf3NqWfG0.net
戦国秦の謀反も結構いろいろあるよねw

有名な嫪毐そして趙高、未遂?の王稽、あと昌平君もか
新君主に対する謀反という意味で商鞅の件と似てる季君の乱

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/03(月) 01:48:58.59 ID:lahUYoMf0.net
わからないのが支配者層は殷に蹂躙されてきたやつらで周に秦へ封じられた趙の同族だから
秦王は西戎ではない別の人種になるのかな
発見されている始皇帝のガキからDNAのサンプルが取れればなぁ

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/03(月) 18:17:36.30 ID:GbL2+rEm0.net
秦人「東から来ますた」
秦王「呂不韋の胤じゃないよ」

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/04(火) 16:32:27.70 ID:sAs1BIS80.net
日本の秦氏はただの秦韓人という新羅人

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/10(月) 05:45:12.07 ID:eWly8lWX0.net
支配者層ねえ…
戦国後期の秦って楚文化が流行ってそう

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/11(火) 19:20:38.86 ID:yOZ4siw10.net
(死後)嫁さんに「先王が私を枕代わりにして寝るの嫌だったわー(意訳)」と外交の場でネタにされた恵文王は泣いていい

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/14(金) 00:49:22.97 ID:hR6Zb9xX0.net
戦国期随一の女傑だからしゃーない

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/18(火) 15:13:45.60 ID:psu/h1Hr0.net
始皇帝ママンはそのレベルまでいけなかったなぁ…

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/30(日) 23:07:30.57 ID:dUsFsAYO0.net
無駄に有名な母太后(車輪チンコ)のせいで影が薄い華陽太后

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/08/31(月) 19:28:27.60 ID:mDuVpfWL0.net
キングダムじゃ華麗にスルーされましたな

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/29(金) 12:59:04.74 ID:5bwnabC80.net
40万人生き埋めしたんだから凄い

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/04/29(金) 16:53:21.73 ID:5bwnabC80.net
40万生き埋めは事実!!!

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/05(日) 02:49:48.76 ID:my4UQNgv0.net
40万生き埋めは事実!!!
ガリア戦争の場合だとヘルウェティイ連合が同様の手段を使って単独で36万の兵力を集めているので
まぁがんばれば不可能ではないかなという数字

http://www.geocities.jp/hgonzaemon/BelloGallia.html
>29ヘルウェティア人の陣営内で、ギリシア文字で書かれた一覧表が見つかり、カエサルのところにもたらされた。
>その表には故国を脱出した者たちの人数と、そのうちで武器を扱かえる者の氏名の一覧が作られていて、さらにそれとは別に子供と老人と女の数の一覧が書かれていた。
>総数はヘルウェティア人が26万3千人、トゥリンギ人が3万6千人、ラトブリギ人が1万4千人、ラウラキ人が2万3千人、ボイイ人が3万2千人で、全部合わせて36万8千人だった。そのうち、武器を扱かえる者は約9万2千人だった。

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/06/06(月) 05:21:52.31 ID:KKj/Nwwz0.net
↑何この人

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/07/01(金) 10:18:02.34 ID:vfhuvjli0.net
 
 
      膨張する集団がコントロールされる。

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/24(火) 03:23:43.97 ID:59I4wf6y0.net
http://video.fc2.com/content/20170124eGfHkVyU

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/01(水) 23:03:36.54 ID:70+AS31i0.net
>>53
お前は異民族だというだけで鼻を削がれる法治国家で簒奪なんかしようと思うのか?

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/05(金) 16:33:57.98 ID:c31dybqq0.net
秦建国を前にして
言えることはただ一つ
焚書坑儒に気をつけなはれ

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/01(土) 17:12:44 ID:DFrpDkRs0.net
Twitterで「秦が統一できた」で検索すると、秦が中国を統一できた理由について
いろんな人がいろんなこと言ってるけど、ほとんど他の諸国にも該当することが多い。
歴史学者も知っててはっきり言わないこと、
(学術論文だと出てるが雑誌や書店の本では書かない)
本当の理由は国家予算規模の莫大な賄賂を敵国の将軍や大臣たちに
バラマキ続けたのが最大の理由。
どんな見事や兵法も外交術も、みんなこれで崩壊させられた

それ以来、中国人はこの「成功体験」から逃れられない。

孔子も孫子もカネには勝てないというのが中国人の信念

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/02(日) 18:24:44 ID:+8MIijH40.net
この国家予算並の莫大な賄賂で諸国の重臣を全部買収して
拒否した者は刺客で殺したのが統一できた理由だろうね
こんなことをやるから李斯は地獄に落ちた

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/04(火) 00:06:32 ID:WSXDkQIg0.net
秦が強くなったのは孝公から?
それとも恵文王から?

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/05(水) 01:53:33 ID:/4PUAlKN0.net
孝公の時の商鞅の改革は過大評価できない
秦だけが国制改革したわけじゃないから

晋の六卿のうち韓魏趙だけが中央集権的な統治システムをもってた
斉でも田氏だけがそう
だからこの4者が戦国七雄になって生き残っていく
燕は一旦斉につぶされたおかげで昭王の時に改革できた
ただ楚だけは呉起が殺されて中途半端になってしまったが

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/21(金) 21:32:36 ID:UxYmIMmk0.net
本当に秦の法律だけが厳しかったのだろうか

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/24(月) 22:38:41.69 ID:cADk398R0.net
>>116
実際のところはわからないが(秦って春秋期から覇者晋と良い勝負する強国枠だし)

孝公の父=献公の代から強そうな記述が出始める

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/03(火) 16:01:34 ID:+4F9H87o0.net
単に「強そうかどうか」みたいな漠然とした話してもな。

秦の絶対優位が確立したのは昭王の時だろ

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/06(金) 01:55:35.28 ID:BXVVKYRx0.net
始皇帝死後あっさり滅亡してるけど、始皇帝が長生きしてても滅亡は免れなかっただろうな

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/27(金) 15:51:01 ID:Gwc2n6ee0.net
始皇帝がちょっと長生きして反乱に対応するシナリオ

帝国の課題と統治システムをそのまま引き継いだであろう二世皇帝期
そして王莽&新王朝が参考になりそうやね

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/11(土) 12:00:08 ID:UCRJcIWg0.net
どんなに高性能なスーパーコンピュータだって
でたらめなデータぶちこんだら役に立たない

都合のいい情報しか耳い入らなくなったら独裁体制は崩壊すんの当たり前では

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/11(土) 12:39:22 ID:auNGcNFC0.net
スーパーコンピュータ(笑)

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/12(日) 00:39:38 ID:ktoCNZHs0.net
秦末に旧六国が復活したけど、燕だけは復活しなかったな

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/12(日) 00:56:00 ID:c73xQ8y80.net
旧燕の王家の血を引いてはいないけど韓広が王となり燕を建国してるぞ

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/12(日) 07:41:18 ID:bIndI99M0.net
たとえ二世皇帝が普通に陳勝呉広の乱に対応できていたとしても
郡県が突然の陳勝蜂起を阻止するのは難しく、陳勝軍は史実とさして変わらぬ難敵に育つ可能性がある

まともなデータぶち込んでも鎮圧できるかどうか…

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/12(日) 17:11:04 ID:iraAiuPn0.net
春秋時代は晋楚の天下二分(プラス秦斉)
春秋後期、晋楚呉三強
春秋末期、晋楚斉越で四強時代(この斉は田斉)
戦国初頭は魏が覇権(?)
--------------
春秋後期から戦国突入まで秦の動きが音沙汰ないが
この頃どうなってたんだろうね?
(一回だけ呉に王都を陥落させられた楚に救援軍を送ってるが
目立ったのはその一回ぐらいで、国内事情もわからない)

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/14(火) 00:27:43 ID:s1xtWsAT0.net
春秋秦の史料は少ないし仕方ない(春秋前期も含む)

とはいえ楚を援けて呉軍を破ったり、関中の諸勢力を征伐したり、秦嶺を越えて南へ進出していたことを窺わせる記事がある
依然として強国であり、地味ながら戦国期の雄飛を準備していたのかもね

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/14(火) 10:53:47 ID:rzBNP2Dr0.net
>>126
だから旧王家は復活していない
族滅にされたのかな

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/24(金) 09:45:35 ID:/pgQZkCW0.net
>>130
太子丹だっけ、始皇帝暗殺もくろんであと一歩まで追い詰めたから
始皇帝の怨みを買って皆殺しにされたのかな

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/24(金) 13:44:45 ID:W/7JhLPA0.net
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133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/13(水) 21:00:49 ID:Pq285quo0.net
秦本紀の冒頭は趙の起源神話で、秦と関係なかったりする

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/13(水) 22:02:37.04 ID:qlCd00mR0.net
15世皇帝くらいまで強大な秦帝室が続いてたら、たぶん同祖説ってこの世に存在しなかった気がする
秦周関係史も半ばなかったことになってそう

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/14(木) 05:47:01 ID:B0w+Rgfx0.net
始皇帝の代は、非王統疑惑、相次ぐ反乱、暗殺未遂、中華統一、長城、兵馬よう、焚書坑儒、度量衡、言語強制統一やら賑やかすぎるくらいドラマチックやな 
もっと映画やドラマになってもよかろうに

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/26(火) 14:40:22 ID:TWztz8yS0.net
>>135
結構いろんな映画やドラマ、小説もあるでそ

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/21(月) 12:32:40.23 ID:hzlZhi6+0.net
Twitterみてたら
中国人学者が戦国の七雄から韓をはずそうってキャンペーン張ってるらしい

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/21(月) 12:44:51.05 ID:eaKROeZD0.net
七雄でなく六雄?
それとも韓の代わりに宋か中山を入れるとか?

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/21(月) 16:20:56.68 ID:nFML3pSc0.net
>>133
秦と趙は同族

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/21(月) 16:22:13.44 ID:nFML3pSc0.net
>>137
韓非子が千乗の大国と書かれている韓を外すなんて、、、

韓国と歴史問題で揉めているからかな

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/21(月) 19:13:43.92 ID:nFML3pSc0.net
>>134
皇帝の名前の文字は使えないなんてやってるから千とか万まで続いたら文章が書けなく案る

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/21(月) 23:43:07.00 ID:WDzH3ni10.net
晋から分裂した国のうち韓だけ除くのか

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/21(月) 23:59:22.79 ID:NFD+6QV60.net
確かに韓だけしょぼい気がするけど、張良を排出してるし
ぎり残存希望

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/22(火) 06:36:00.39 ID:MwxvBAcT0.net
>>141
同じ読みの字を使ったな!死刑!
似た読みの字を使ったな!死刑!

こういう人もいましたねぇ

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/23(水) 19:23:03.53 ID:Gc3aBvf40.net
思考実験してみた
始皇帝が生きているあるいは父祖が後を継いでも
討伐軍は盲点や大瓜になるだろうけど
ショウカンとかも出たとして
結局は項羽に巨六で敗れると思う
そこで二世を批判するけど
大瓜軍三十万にショウカン軍二十万の合計五十万は恐らく秦のほぼ大半
その後はもうまともな抵抗もできなくなっている、、、

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/23(水) 19:23:58.01 ID:Gc3aBvf40.net
二億年続いたらもう文が書けなくなる
中国のこの変な慣習は10代ちょっとで革命なる要素な気がする

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/24(木) 19:16:06.40 ID:AAOZMfDW0.net
日本でやっていたら
家は使えない
光は使えない
忠は使えない
宗は使えない
慶は使えない

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/24(木) 21:37:02.71 ID:AAOZMfDW0.net
日本人をJapanneseと呼んだら死刑とか
中国人をChineseと呼んだら死刑

ただし、英語が不得意な者は日本人という意味だと思って使ってしまうこともあるので考慮する
アメリカ人、カナダ人、イギリス人、オーストラリア人、ニュージーランド人、スウェーデン人が呼ぶことは許さない

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/24(木) 21:37:38.68 ID:AAOZMfDW0.net
どうでもいいけどロシアやベトナムでは中国のことをキタイ、契丹と呼ぶらしい

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/24(木) 23:27:34.86 ID:j9BeHhbU0.net
日本は一文字やるから使えって文化もあるな
佐久間信信殿は誠に果報者でござるな

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/24(木) 23:52:03.22 ID:LlRoFrTc0.net
漢は皇帝の諱をあまり使われない字から選ぶ様になったな

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/25(金) 20:01:41.12 ID:xY4xj56b0.net
だからよく使われる字の奴は本来後継者候補じゃなかった
秦王趙正、これを跡継ぎにする気はなかったんだろうな

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/25(金) 22:18:54.07 ID:xY4xj56b0.net
>>150
でも、名前では呼ばない
今でも部長を太郎とか花子とか呼ばない

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/26(土) 10:31:43.54 ID:R5edo3ur0.net
秦は申である

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/26(土) 10:36:10.50 ID:R5edo3ur0.net
彼氏いない歴2000年

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/26(土) 10:38:35.20 ID:R5edo3ur0.net
秦の始皇帝は、始皇帝を名乗ってはいない、皇帝である

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/26(土) 10:50:36.95 ID:R5edo3ur0.net
秦は滅びる運命だった

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/26(土) 10:50:55.55 ID:R5edo3ur0.net
始皇帝は早く死んだのが幸福だった

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/26(土) 10:51:24.24 ID:R5edo3ur0.net
前秦も滅んだ
北魏も滅んだ

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/10/14(水) 22:47:16.73 ID:swvOSXi30.net
「優秀な労働力」とはどういったものなのでしょうか?命令を理解し、指示に従順に従う事を言います。工場労働は集団行動ですので、集団行動に適した人間である必要もあります。軍隊が求めている「質の良い兵隊」と全く一緒じゃないですか!!これが理由です。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/10/21(水) 11:19:10.22 ID:oj6in5qi0.net
いったい何の話をしてるんだよw

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/10/23(金) 07:34:32.65 ID:7BkWW74O0.net
>>149
ロシアや東欧でキタイと呼ぶのはわかるけど

ベトナム? 本当か?

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/10/25(日) 17:01:40.90 ID:wNKxOl3T0.net
中国のことを英語でChina、ギリシャ語でΚίνα=キナ、トルコ語でÇin=チン、ロシア語でКитай=キタイと言う。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/10/30(金) 12:47:14.26 ID:tyq8H3310.net
>>163
ベトナム語では?

googleだと "Trung Quốc" だがこれカタイやキタイの系統じゃなくて
「中国」って漢字のベトナム音だろこれ
googleが中共に忖度してんのかな?

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/10/30(金) 12:52:32.60 ID:tyq8H3310.net
>>139
秦が「俺らは趙の同族だ」と自称して系譜こじつけて
趙の神話に接続したんだろ

本当の先祖は狄だろうと思うが

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/10/30(金) 12:54:36.42 ID:tyq8H3310.net
>>141
それは周の礼だからということで避諱が廃止になったりして。
秦の礼は新たに制定。もしくは法をもって礼となす?

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/10/30(金) 13:03:12.35 ID:7+gTXA2J0.net
政が使えないときついな
政と同じ意味の言葉ってなんだろう

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/10/31(土) 12:22:52.52 ID:kHgXWok30.net
「政」じゃなくて「正」だったらしいね

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/11/07(土) 21:29:26.63 ID:cX601fNL0.net
秦は申だったとか
政は正月に生まれたからと言っているのだから正だろうね
政だったら、その文字が禁止されて政治のことを別の字で言うようになったはず
滅びて従わないとしても政のことは何々と言うがない

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/11/12(木) 22:50:25.56 ID:ttBp570k0.net
卑弥呼は公孫氏の女と史書に書かれているのを日本の学界は無視し続けている

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/11/14(土) 08:39:24.55 ID:kwpWYlDc0.net
>>170
当時、邪馬台は遼東の公孫家の支配下にあっただけじゃないのか

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/11/17(火) 20:47:01.18 ID:6Cbptf850.net
>>171
支配下にあった国の中で邪馬台国の卑弥呼だけ公孫氏女と書かれている

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/11/22(日) 14:15:32.65 ID:0OYHQs+G0.net
>>170
漢文を読めないやつの戯言だよ

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/11/24(火) 01:10:50.36 ID:NHPqeKMu0.net
どの史書だよw

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/11/24(火) 20:04:24.50 ID:Eeu8bE1o0.net
>>160
言葉の通じる人間でさえ2割未満

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/12/06(日) 14:14:02.36 ID:9uEWuF820.net
 関羽・張飛は武勇に優れ、一身を捧げて世を正し、主上を奉戴扶翼し、雄壮果敢であった。

 左右の守りとなり、電の閃くが如く飛びまわり、
 主上の難儀を救い大業を助け、韓・耿と同じ功績をあげ、並ぶ名声と徳義を打ち立てた。

 人との交際・応対に礼儀がなく、共に凶事を将来する事になった。

 彼らの浅慮と、身を滅ぼして国を救った態度が悼まれる。

                                                    関雲長・張益徳を賛える

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/12/28(月) 19:24:16.49 ID:jBebhuzl0.net
邪馬台国の女王卑弥呼は遼東で燕王を自称した公孫氏の娘である
倭人の中で王を立てようとすると争いになるため
彼らの宗主国である燕の王女を王とした

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/12/30(水) 19:53:19.33 ID:WK+qID/o0.net
春秋戦国時代末期においては、秦、斉、宋など殷の末裔の国々では日本語が喋られていた。

これ本当かな

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/01/01(金) 09:34:49.99 ID:XpyjyqiC0.net
>>178
んなわけない

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/01/03(日) 11:58:00.14 ID:LVPgq7+f0.net
#十八史略全文訓読プロジェクト、戦国時代までを終わらせた。#共通テスト #漢文
https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/sp/pages/356.html

漢文法基礎
https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/371.html

まったく意味不明かもしれませんが、無理やり漢文訓読しながら中国語を学習する試みをわたくしは行っております。
漢文訓読で解読するまいにち中国語2020年
https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/372.html
#漢文訓読中国語
#中文訓読
#文言文基礎
#漢文法基礎
#漢文

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/01/05(火) 13:16:53.85 ID:ltOdE84S0.net
>>177,>>178
どっちも電波説、トンデモ

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/01/06(水) 02:51:55.11 ID:8q30Nwss0.net
エイ氏が築いてきた身代を呂不韋の子孫が台無しにした

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/01/07(木) 20:19:36.38 ID:Zdu33aY/0.net
周と秦の子孫のY染色体ハプログループDNAは同一
呂不韋は相邦呂不韋と書かれている
通常李斯も丞相斯と書かれているのに

仮説だが、呂不韋は呂が氏で不韋が名ではなく、呂不韋で名

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/01/10(日) 14:47:25.44 ID:C2An4TB/0.net
秦の一族800人、官人5000人が処刑された

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/01/23(土) 05:39:46.37 ID:A5yPI3Vq0.net
>>183
子孫?
中国は何度も異民族が侵入してぐちゃぐちゃ
どうやって周王朝だの始皇帝以前の秦王家だの呂不韋だのの遺伝子を特定したんだ?
アホも休み休みいえ

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/01/24(日) 04:27:07.32 ID:BwRk+6pS0.net
>>185
Y染色体の遺伝子は父からだけ
ミトコンドリア遺伝子は母からだけ
男系遺伝子が一致したという話
また、周は王族と国民で遺伝子が異なる
定説では同じ民族のはずが文化は同じでも遺伝子が違っていたのが判明したりもある
遺伝子研究の成果では95%以上の生物は20万年前までに誕生して進化していない

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/01/25(月) 19:37:46.59 ID:H/hD/Qyz0.net
秦と漢は韓に乗っ取られた

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/03/23(火) 15:08:00.28 ID:hsh6w5gF0.net
>>186
>どうやって周王朝だの始皇帝以前の秦王家だの呂不韋だのの遺伝子を特定したんだ?

これ↑に答えろよ。サンプルどっから採ったんだ?
与太話もいい加減にせいよ

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/03/23(火) 15:41:48.64 ID:D9EF8p3v0.net
>>188
墓らしい
貴族と人民で遺伝子が違うんだって

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/03/24(水) 00:34:24.08 ID:82dr70sQ0.net
は? 呂不韋の墓って特定されてんの?

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/03/24(水) 10:55:47.76 ID:55j3rGSf0.net
>>190
呂不韋ではなく秦の王族みたい

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/03/24(水) 15:14:57.47 ID:55j3rGSf0.net
>>190
周の貴族の複数の人骨と、庶民の複数の人骨で
Y染色体ハプロDNAが異なる別民族(どっちも周族だけど)

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/03/24(水) 16:18:26.11 ID:KoRR+4mQ0.net
周に秦も何百年も続いてるのに
どの時代の人骨だよw

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/03/26(金) 19:32:35.62 ID:F5i5yY+C0.net
>>193
複数の時代で同一のハプロらしい
それで周は支配階級と国民は別の遺伝子だと分かった

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/03/30(火) 11:32:34.51 ID:GYDMR3LG0.net
総論として書いておきたいのは、私が良く言う周の時代の国民と王族は同じではないって書き方がある。
これ証拠と言えるか?まだ分からないけど、実際墓、装飾品などから平民と貴族で区別が出来、そのハプロが違ったからになる。
周の貴族のハプロはQ系になる。これ複数の場所からとられていて、それが重なってるのも大きい。
1つは西の方でウイグルに近いのでなんともいえないが、ここで出たハプロはQ系だった。
後は山西省だったと思いますが、ここで平民と貴族でくっきりハプロが別れます。平民はO2系ばかりで、稀にO1がある程度です。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/03/30(火) 11:33:40.60 ID:GYDMR3LG0.net
周人とは何か?となると、周の王族ではなく、国民だという話しになります。

私は黄帝もこれだと見ています。
黄帝が実在したか?してないか?は重要じゃなくて、
中国の多数派の象徴として移住の歴史を子孫として脚色されてる可能性があると言う点です。
黄帝が象徴だとは思っていません。それと言うのも舜の末裔と言われる子孫のハプロが01B1で、
中国では南方のハプロです。何故中原の支配者が?となると、今と違う民族構成だったのでは?と見ています。

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/03/30(火) 11:34:53.47 ID:GYDMR3LG0.net
古代中国語には発音的に南方の要素があって、
南方系が初期支配者だった可能性があると見ています。
そういった代表的人物は居たが、
後から追加して民族の代表者となってしまった部分があると見ています。
実在は事実でも逸話は大半象徴として描かれてると見ています。

鮮卑系と書きましたが、
私はこれでイコール唐の皇帝がこうだったとは思って無いです。
内モンゴルやウイグルに多い。それは、遊牧民系。
これが中国内部にも入り込んでいる。それは後から入り込んだのでは?って話です。
唐の皇帝が率いた部族にいたO2系がこの系統だった。
それと言うのも中国が騎馬民族化したわりにはC2系の割合が少なすぎます。
元々騎馬民族は少数の支配者とそれにつならなる連合軍の形を取っていて、
清もそうです。大して2度も本格的に支配を受けたのに、C2系の割合高く無いです。

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/03/30(火) 11:36:34.53 ID:GYDMR3LG0.net
ゆえに、唐の皇帝は実際はC2系だった可能性もあります。
鮮卑に関しては子孫の話を聞いてなくて、中国で多いハプロだからって雑な予測で、
周もおなじです。もう1つ多い劉邦系と始皇帝系は、
子孫からの類推がきちんと考慮されています。
周の場合古すぎて胡散臭いのが大きいです。それを言うと舜も十分胡散臭いです。
中国最古の孔子より古い2系統ですからね。

その最古で信用できる家系が3つのハプロを絞れないとなっています。
孔子は貴族の出らしくて、それで当時の貴族に多かったQ系が怪しいとは見ています。

夏はまだなんとも言えませんが、孔子が殷の貴族だったらしいので、
2王朝ともQが当時の貴族の血統だった可能性は高いです。
このQどこから来たのか?でモンゴルの当時の遺跡でN、Q、C2がのハプロが確認されています。
おそらく遊牧民だったのでは?と推測されています。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/03/30(火) 11:38:03.84 ID:GYDMR3LG0.net
それと言うのも、甲骨文字のルーツが東夷系で発掘された原始的な文字じゃないか?と推測されてるからです。
じゃ遊牧民じゃないだろ?これ実は遼河文明は初期からモンゴルに近い地域は微妙にモンゴルに近い文化になってる部分があり、地域差があります。
後の時代には完全にモンゴルが混ざります。それゆえ東夷にモンゴル系が入り込むのは全くおかしなことじゃないです。

周は当時匈奴の前身となる部族と争っていたらしくて、
匈奴の中心グループはQだと見られています。それゆえQのいる地域だとしたら、
周もありうると見ています。元々別の所に住んでいたと記録があるのですが胡散臭いとは見ています。

これらに似た話しは、百済や高句麗がその典型です。
高句麗は漢族が支配していた地域に入り込んだので、
当然国民の大半は王族と血統は違うでしょう。百済は国民が分かりにくいので、
ハプロでO1B2の地域にやってきた、高句麗から分かれたC2C系の騎馬民族です。
ちなみに高句麗の王家はO2系です。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/05/02(日) 03:08:21.14 ID:bq4bK6mL0.net
更始や赤眉との戦いのつづき。なるほど!ものすごく、よく理解できた。更始がほろび、赤眉がほろびたあと、みなが頼ったのは、じつは劉永かも知れないなあ!いちはやく皇帝を名のっても、指示を得られない。後漢末のだれかと、おなじだ。

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