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何故、魏は大国でありながら呉と蜀に苦戦したのか

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/08(土) 14:47:37.72 ID:4WiuvDKW0.net
訂正
×夷陵の戦いが終結したのは222年6月
○夷陵の戦いが終結したのは222年8月
陸遜が劉備を打ち破ったのが222年6月で
曹丕の三方面の戦いが始まった222年9月では軍が帰還しきっていない
劉備追撃を止めたのは陸遜の上申によるもので
現場判断が無ければ孫権はアホ面で曹丕の侵攻軍を援軍と勘違いして迎えて大打撃受けた可能性もあり

>于禁降伏後に曹操が遷都を考え、司馬懿らが止めた時の策が孫権をもって当たらせる策

これは孫権が従属勢力でないと考えられない策なので
例え孫権が219年合肥に襲来してても本気ではなかったから打ち出せた策
だから保険で呉方面の張遼すら融通聞かせて関羽への後詰めに使った
もし呉が本当に敵対するなら張遼を呉方面へ留めておけばいいだけの話

>このころ魏領では反乱が多発し

反乱のピークは吉本の乱や侯音の乱の有った218年〜219年初で
219年は魏諷の乱は未遂に終わり他の関羽に呼応した反乱も首謀者名伝わらないぐらい小さいのばかり
前年からの流れで曹操が精神的に嫌になって遷都考えてもおかしくないが
実際は関羽が快進撃していた頃は国内の反乱のピークは過ぎている

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