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171 :※以下引用:2014/09/30(火) 16:40:31.43 ID:zQUjNCJAA
【造語「従軍慰安婦」問題化の歴史的背景 】 >>168のソースをもとに…

◆1956年:フルシチョフの最高指導者であるスターリンを批判し,
社会主義・共産主義の信奉者たちに衝撃を与えた.*81/194

◆1956年:ソ連が民主化を求めるハンガリーを武力で鎮圧し信奉者を一層失望させたが
それでも、社会主義・共産主義が理想化され、革命が目指されていた時代

◆1957年:問題はソ連の「一国社会主義」路線であり、トロツキーの掲げた「世界革命」
路線にこそ希望があるという見方が広まる。
「日本トロツキスト連盟」が結成→「革命的共産主義者同盟」に改称

◆1958年:「共産主義者同盟」(ブント)結成
これらの党派が既成左翼と立場を異にし日本共産党に批判的な「新左翼」の先駆けとなる
1960年の日米安保保障条約の改定を阻止するためにブントは「全日本学生自治会総連合」
(「全学連」)を実質的に率いて中心的な役割を果たした。

◆1960年:日米安全保障が改定され、安保闘争に敗北
◆1965年:アメリカが北ベトナムを爆撃。「べ平連」が結成されベトナム反戦運動が広まる
◆1965年:日韓条約反対運動が起こる
◆1967年:10月に第一次羽田闘争が始まる
◆1968年:全共闘運動が拡大し、既成の党派に属さないタイプの活動家「ノンセクト・ラジカル」が増える

◆1968年:日本ではこの時期に@「『戦後民主主義』の肯定から否定へ」、
A『近代合理主義』の肯定から否定へ、B『被害者意識』から『加害者意識』へ
と転換がなされたとされる場合が少なくないとし、ただし「事態はそれほど単純ではない」と
議論を展開している。(小熊英二)

◆1969年:3月に在日中国人・台湾人らが「華僑青年闘争委員会」(「華青闘」)を結成

◆1970年:2月「侵略=差別と闘うアジア婦人会議」が活動を開始。この組織名に表れている
運動が構想・華青闘7.7告発よりも前から加害者性に対峙する感性を持っていたといえる。
中心的な立場にあった松岡洋子や飯島愛子は、元々は社会党系の婦人組織である
日本婦人会議に所属しており新左翼運動の活動家だったというわけではない。それでも
60年安保を闘い1966年に東大ベトナム反戦会議を結成した所美都子の論文「予感される
組織に寄せて」に飯島が影響を受けているなど、新左翼運動から生み出されたものと
関わり合いながら運動が形成されていった。

◆1970年:Bに関わる新左翼の思想的特徴を表す、日米関係を米国への従属的な関係と
とらえず、日本が独自に帝国主義的再編をしているとみなす見解がある。
そのような認識の転換が決定的になった出来事として、華青闘による「7.7告発」。
7月7日盧溝橋事件33周年の集会で新左翼運動を担う日本人を「抑圧民族」と批判した。
会場にいたセクトやノンセクトの活動家たちは衝撃を受け、セクトの代表が登壇して
自己批判し、後日機関紙でもやはりセクトは自己批判を展開した。

小熊英二は『日本人』という『われわれ』を設定して行われた七〇年のパラダイム転換は、
『日本人』総体を『加害者』として糾弾するものになっていった」と述べる(小熊 2009:237-4)。
<日本人>であることの意味が、加害者性をまとい再編成されたのだ。
「ウーマン・リブ」は1970年を前後して始まった日本の女性解放運動である。
リブの活動家には全学連や全共闘などの新左翼運動の流れを汲む学生運動に関わっていた
人々も多く、彼女たちは学生運動の内部にもあった性差別に疑問を感じていた。←★★★

そして、男性中心の運動と決別し、各地で小規模なグループを結成し、リブの運動を開始した。
新左翼運動に関わっていた訳ではない人々も、職場での性差別や日常生活における性規範への
違和感など個々に感じていたものに批判的な意識を向けるなかで、リブ運動を始めた。
ここに、リブの源流として新左翼運動があり、かつ、そこから分岐していく必然性があった
ことを確認しておきたい。*83/194

◆1970年代には「慰安婦」制度を問題視し過去の発掘をおこなったジャーナリストや
著述家の著作が発表され始めた。

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