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/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門134m (ワッチョイ無)

1 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 09:04:57.11 ID:vgBFPRF2.net
【アフィサイトへの転載・誘導禁止】

富士山は、夏の暑さと冬の寒さを一日で体感する過酷な環境です。
>>2〜のテンプレを参考に「余力を残して登頂・余裕を持って下山」でご安全に。


■ ご覧の皆様へ
登山キャンプ板にはブログ宣伝荒らしや業者が常駐しています。
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1500267844/1
「wi1d28jp」(栗城ハンター)などの悪質スパムは踏まずにNG登録を。
踏んでしまった人は関連cookieを削除し、ネットショッピングは別ブラウザから。

■普段からアフィ対策を!
ブラウザにadblockやuBlock導入+国内フィルタ全部載せが推奨です。
スマホは広告ブロッカーも多いのでお好みのものを(フィルタ追加できるものが効果的)。
勝手な広告やスパイウェアをブロックして安全で快適なネットライフを♪
スマホ通信量の節約、時短にもなります。


※前スレ
127m http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1502426392/
128m http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1504257381/
129m http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505746304/
131m http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1506049117/
132m http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1511685239/
133m http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1512444556/

2 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 09:07:25.80 ID:vgBFPRF2.net
 
開山期間は山梨県側で7/1〜9/10。静岡県側で7/10〜9/10です。
初心者が登れるのは山小屋が営業する期間に限られます。
  
初冠雪(積雪)は例年10月初旬ですが、9月でも降雪の可能性があります。
10月以降、風雪と強風に磨かれカチカチに凍った急斜面は氷の滑り台のようになります。
毎年のように滑落事故があります、十分なご注意を。
 

3 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 09:08:35.95 ID:vgBFPRF2.net
 
高度が100m上がるごとに気温は0.6℃下がり、風速1m/sごとに体感温度は1℃下がります。
富士山では台風並みの強風が吹くこともあり、夜明け前の山頂は真冬のような寒さに、体感温度は氷点下になります。
冷えた体を温めるために多くのエネルギーが消耗され、真夏でも低体温症や疲労凍死のリスクがあります。
万全の準備で臨みましょう。  
 

4 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 09:09:03.20 ID:vgBFPRF2.net
 
5ちゃんねるの書き込みは、釣りや冗談、初心者以下の知識で語る人や受け売りも多いので気をつけましょう。
また、各種業者のステマやアフィリエイト目的のブログ誘導などにも注意、まずは対策から>>1。  
「自分はこれで大丈夫だった」「他の人もこうしてる」という話は鵜呑みにせず、信頼できる情報源から総合して慎重に判断しましょう。
 

5 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 09:09:30.65 ID:vgBFPRF2.net
 
■リンク
(公共性の高いものを抜粋。不適切サイト、推奨サイトお知らせください)

・富士登山オフィシャルサイト
ttp://www.fujisan-climb.jp/
・静岡県「世界遺産 富士山とことんガイド」
ttp://www.fujisan223.com
・環境省「富士箱根伊豆国立公園」
ttp://www.env.go.jp/park/fujihakone/data/index.html
・富士山ガイド.com(富士吉田市)
ttp://www.fujisanguide.com/forms/top/top.aspx
・富士宮市「富士山」
ttp://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/index.html
・御殿場市「富士登山」
ttp://www.fujisan-climb.jp/hospitality/resource/link.html
・小山町「富士山」
ttp://www.fuji-oyama.jp/kankoubunka_mtfuji.html
・山梨県警察「富士登山情報」
ttp://www.pref.yamanashi.jp/police/p_tiiki/sangaku/fujitozan.html
・静岡県警察「夏の富士登山情報」
ttp://www.pref.shizuoka.jp/police/kurashi/sangaku/fujitozan/index.html
・富士山五合目観光協会
ttp://www.fujiyama5.jp
・フジヤマNAVI 
ttp://www.fujiyama-navi.jp/fujitozan/
 

6 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 09:09:52.70 ID:vgBFPRF2.net
 
■富士山の天気
 
・気象庁HP
ttp://www.jma.go.jp/jp/yoho/
・富士山の天気 - 日本気象協会 tenki.jp
ttp://www.tenki.jp/mountain/famous100/5/25/150.html
・snow-forecast.com
ttp://www.snow-forecast.com/resorts/Mount-Fuji/6day/top
・富士山山頂の天気 - てんきとくらす
ttp://tenkura.n-kishou.co.jp/tk/kanko/kad.html?code=19150004&;amp;amp;amp;amp;;;type=15&;amp;amp;amp;amp;ba=kk
 

7 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 09:10:16.73 ID:vgBFPRF2.net
 
■気象について

雨の日に登っても楽しくありません。天気が悪ければ延期する決断を。予報が晴れでも、夏は局地的な夕立や雷雨があります。
雨具や荷物の防水も忘れずに。降水確率と雨量は無関係です。確率が低くても大雨ということも。 
風の強さも確認を。天気概況で「大気の状態が不安定」「急変する恐れ」「雷を伴い」と予報されていたら、登山は中止してください。
冷たい風が吹き降ろしてきたら夕立の合図です。降り出す前に雨具を着用しましょう。
 

8 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 09:10:43.84 ID:vgBFPRF2.net
 
■装備 ◎必須○有効△状況しだい×余計な荷物
 
◎ザック....防寒着が嵩張るので、30〜35gが適当
○ザックカバー.雨のとき被せる防水カバー。砂埃除けにも
○スタッフバッグ ..小物をまとめ、パッキングが楽に。電子機器、着替えなどは防水袋へ
◎登山靴....防水のミドルカットが最適。ハイカットは必要ないが、スニーカーはNG
◎雨具.....予報にかかわらず必要。ポンチョ、100円雨合羽はNG。傘は不可。強風で雨が下から
吹き上げるので、上下セパレートタイプが必須。強風時はウィンドブレーカーとして使える
◎ヘッドランプ.日帰りでも下山遅れに備えて必ず必要。予備の電池も忘れずに

◎帽子.....風に飛ばされない対策を。ご来光待ち用にニット帽も
◎サングラス..目も日焼けする。安物はレンズに歪みがあるのでNG
◎手袋.....軍手と防水の手袋を別々に。転倒時に怪我をしないように、下りでは必ず着用
◎防寒着....夜明け前は真冬並みの寒さ。ダウンなど、脱ぎ着しやすいものを
◎長ズボン...伸縮性の物が良い。ジーンズは濡れると動き難くNG。半ズボン、短パンは、風が吹くと寒い
◎化繊の下着..必ず100%のものを。綿は濡れると乾きにくく、体温を奪う
◎中厚手の靴下.長時間歩行のクッションとして。柔らか過ぎず、網目が密でしっかりしたものを

◎日焼け止め..汗で落ちたら塗り直し、首筋、耳も忘れず
◎登山地図...下山時に道を間違う人が多い
◎飲み物....2〜3gが目安だが個人差がある。怪我や目に入った砂埃を洗う真水も必要
◎救急セット..下痢止め、バンドエイド(靴擦れ対策にも)、テーピングテープ、保険証のコピーなど
◎その他....飴や干し梅など行動食を定期的に摂ろう。タオルや日本手ぬぐい。ゴミ袋

×保冷水筒...重く嵩張るのでペットボトルが良い
○保温水筒...ご来光待ち用に。山小屋でお湯を売っていれば出発時に補給
△スパッツ...砂や小石が靴に入るのを防ぐ
○ストック、金剛杖.腕の力を活かし、足(特に下りの膝)の負担軽減に有効
△その他....マスク(下山時の砂埃対策)、ウェットティッシュ、カイロ
△頭痛薬....高山病の頭痛も和らげるが、症状を隠すので却って危険という意見も
×酸素缶....吸っている間しか効果ない
 

9 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 09:11:08.90 ID:vgBFPRF2.net
 
■登山の注意点

余計な荷物は体力を消耗するので無駄は省きましょう。
といって必要以上の軽装も本末転倒です。必要品は省かず、背負える体力をつけてから登りましょう。

登り始めは靴一足分の歩幅で、ゆっくりと登りましょう。追い抜かれても慌てずに。
オーバーペースではバテます。また高所は乾燥していますから、水分は少量をこまめに。

グループで登る方は、途中はぐれないように2人以上で組んで行動しましょう。
登山中は最も遅い人のペースに合わせ、また子供には単独行動をさせないようにしましょう。
初心者は列の中央、経験者が前後で目を配りましょう。

全員が地図のコピーを持ち、どのルートで登って来たかを覚えておきましょう。
はぐれた場合の待合せ場所、下山の分岐点についても事前に確認し共有しておきます。

万一の体調不良、ケガの時は全員での下山が原則です。
体調不良は高度障害の可能性もあり、休憩や小屋待機よりもすぐに下山した方が良いケースも。
分かれて登山を続行する場合でも傷病者には必ず誰か付き添い、下山をサポートしましょう。
スケジュールが決められたツアーでは自分のペースで登れず、無理をすると高山病にかかる場合もあります。

トイレは有料のため、100円玉を用意しておきましょう。順番待ちも多いので出来るときにお早めに。

下山時は重心を軽く前へ、歩幅は小さく一足分。滑りやすいところでは足を逆八の字に開きます。
富士宮ルートの平らな岩場では岩の角に靴底の溝を掛けると滑りません。  
爪先で踏ん張らず、力を抜いて足裏全体で接地するか、親指の付け根を意識します。
 

10 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 09:11:33.17 ID:vgBFPRF2.net
 
■高山病の予防と対策
 
高山病は体質に起因すると言われ、年齢や性別、体力やスポーツ経験もあまり関係ないようです。
自己の体力を過信せず、登り始めはゆっくりと時間を掛け、身体を慣らしながら登りましょう。

息を吸う事よりも吐く事を特に意識してください。有圧呼吸法も有効とされています。
大きく息を吸い込み、2秒ほど息を止めるとともに、胸に圧力をかけるように力を入れた後、口先を
すぼめてゆっくり吐き出す。これを5〜6回繰り返すと、血中の酸素濃度が上がり、楽になります。

水分を定期的に摂ることも大切です。行程の時間から逆算して必要量を算出し、計画的に摂取し
ましょう。1時間あたり、体重kg×5mlを4回ぐらいに分けて飲むのが良いそうです。(間隔や量は各自
調整してください)

・Yutaka Miura's home page:私の高山病の治療方針
ttp://www.med.nagoya-cu.ac.jp/igakf.dir/chyo_AMS.html

睡眠中は呼吸が浅くなるため、高山病になりやすいです。なるべく低い標高の山小屋を選択し、着い
てからすぐ横にならずに、しばらく身体を動かして高度に慣らしましょう。催眠成分を含有する頭痛薬
なども呼吸を浅くするため、高山病を誘発しやすいようです。

高山病になったら悪化する前に下山させるのが一番の解決策です。無理に動かしたり、引っ張って
登らせてはいけません。重篤な場合には、診療所・救護所へ助けを求めましょう。

初期症状は、頭痛、息切れ、むくみ、不眠症、食欲不振、脱力感、吐き気など。さらに、激しい頭痛、
嘔吐、空咳、 意識障害(支離滅裂なことを言う、問いかけに無反応など)になると、とても危険な状態
です。登山は諦めて付き添いの人と共にすぐに下山してください。高山病は最悪の場合死に至ります。
 

11 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 09:12:53.35 ID:vgBFPRF2.net
 
■ご覧の皆様へ

現在、前スレでは埋め立て荒らしが再発しています。
>>1の注意喚起とadblock周知を妨害しようとする者でしょうか。

ここが同様に荒らされた場合、さらに新スレを立て対処していきます。


・荒らしの状況
128m http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1504257381/639-n
129m http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1505746304/
131m http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1506049117/126-n
132m http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1511685239/130-n
133m http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1512444556/

・異常者による荒らし予告
SN7P4m6n
http://hissi.org/read.php/out/20170917/U043UDRtNm4.html
YmBsHqVJ
http://hissi.org/read.php/out/20170918/WW1Cc0hxVko.html

・連投荒らしの抽出(冒頭にアフィスレへ誘導しています)
55THIflI
http://hissi.org/read.php/out/20170917/NTVUSElmbEk.html
 

12 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 09:13:27.32 ID:vgBFPRF2.net
 
ちなみに異常者はIP表示スレは荒らせないようです。
 
こちら。
 ↓
/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門131m
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1505904686/
 

13 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 10:53:40.71 ID:KdKKCLKu.net
富士宮市
富士山の画像・動画 無料でウェブ公開
https://mainichi.jp/articles/20171206/k00/00e/040/254000c

静岡県富士宮市は、市富士山情報局「MI9(エム・アイ・キュー)」の取材班が富士山で今夏撮影した画像や動画のデータをウェブサイトで公開し、無料提供を始めた。個人の楽しみ、企業などの商用を問わない。担当者は「年賀状や新年の広告などに活用を」と呼びかけている。

14 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 10:53:56.06 ID:KdKKCLKu.net
MI9は、マウントフジ・インフォメーション・9合目の略。9合目の山小屋を拠点に7月に初めて開設。情報発信課の職員がシティープロモーションに生かすため、取材活動と情報発信を行った。

15 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 10:54:58.72 ID:KdKKCLKu.net
公開しているのは5日現在、写真35枚と動画15本。
写真は、山頂の景色や御来光、登山風景など。
動画は市役所屋上からの景色も加えた。
適時、新しい素材を追加する。

16 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 10:55:27.85 ID:KdKKCLKu.net
利用の際、申請や届け出は必要なく、色調の変更やイラストを重ねるなど加工も可。
「富士宮市提供」などのクレジットも不要としている。

17 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 10:55:56.64 ID:KdKKCLKu.net
ダウンロードは、トップページから「ダウンロード素材集」。問い合わせは、同課(0544・22・1119)。

18 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 11:16:34.78 ID:Q/QhkoUT.net
今日もライブカメラよく見えてるな

19 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 12:11:30.86 ID:7OesheqH.net
初霜、初氷、初雪 便り続々...
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00378477.html

6日朝、北海道・陸別町では、最低気温氷点下21度を記録した。また、西日本でも今シーズン一番の強い寒気が入り、初霜や初氷、初雪の便りが続々と届いた。

20 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 12:12:18.26 ID:7OesheqH.net
6日朝は、全国的に冷え込みが強まり、北海道・陸別町では、最低気温が氷点下21.0度と、富士山以外では、全国で今シーズン初めて氷点下20度台まで下がった。

21 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 12:13:03.28 ID:7OesheqH.net
最低気温が0度未満の「冬日」は、全国のアメダスのおよそ6割と、今シーズン最も多くなり、東京都心でも最低気温が2.8度と、今シーズン一番の冷え込みになった。

22 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 12:13:26.89 ID:7OesheqH.net
また、愛知・名古屋市と京都市、香川・高松市、高知市で初氷、岡山市と徳島市で初霜と初氷が観測されたほか、愛媛・松山市で平年より15日早い初雪、広島地方気象台では極楽寺山の初冠雪を観測している。

23 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 12:13:53.89 ID:7OesheqH.net
全国的に気温の低い状態は、来週にかけても続く見込みで、体調管理に注意が必要となる。

24 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 13:34:45.76 ID:x4//S+yB.net
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県
(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、
山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。
標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、
その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られて
いる。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与
えただけではなく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を
与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成
され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特

25 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 13:35:00.90 ID:f+98COVJ.net
に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。
噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅
間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士
上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝
が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化
し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、
富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富
士登山が盛んである。日本三名山(三霊山)、日本百名山、日
本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11
年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1
952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年
)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関
連する文化財群とともに「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」
の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては1
3件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふじやま」と
いう呼称は誤りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士山(とみ
すやま)とは字も呼び方も異なる。富士山についての最も古い
記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であると
言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは不
尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝
説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転
じて富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説とし
ては、宣教師・バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味す
るアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。
しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフ
チカムイ」からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源
説として、マレー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等があ
る。明確に「富士山」と表記されるに至るにおいては駿河国富
士郡に由来するとするものがあり、記録としては都良香の『富
士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」と
ある。富士山に因む命名富士山が日本を代表する名峰であるこ
とから、日本の各地に「富士」の付く地名が多数存在している

26 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 13:41:43.63 ID:x4//S+yB.net
ィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフ
と駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長し
た交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点(英語版))
となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレー
トのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山のマ
グマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来
するものである。富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で
他にない均整のとれた山体であること、日本の火山のほとんど
が安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄武岩
マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いことがある。
富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)が
ありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つの峰
がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰が
あり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m20
14年4月1日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、
富士白山。標高3756.23m2014年4月1日改算)が
設置されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部
の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口
の直径は780m、火口底の直径は130mとある。登山道を
除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私
有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。2014年
1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事
の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を定めないことを明
言している。国土地理院がインターネット上で公開している地
形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所
、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確
定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示され
るという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定す
ると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指
摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示に
なるよう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほう
えいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した

27 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 13:42:02.69 ID:iGtHUu4y.net
側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2
,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いてい
る。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されて
いる。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活動富士山の噴火
詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了した約1万1
千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴
出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士
が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に

28 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 13:43:01.04 ID:zECtUa6v.net
ふむふむ

29 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 13:48:21.11 ID:x4//S+yB.net
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)と
して発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶
岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43
回あったとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にと
もなう山体崩壊(岩屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確な
ものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計1
2回起きたとされている。また、直下に存在が示唆されている
活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊
も懸念されている。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流)
:東斜面で大規模(約18億立方メートル)な山体崩壊が発生
し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺
を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。1331
年の元弘地震に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災
害対策火山噴火予知連絡会(気象庁)−富士山のみを限定する
ものではないが、日本の火山活動についての検討を実施する。
状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表す
ることはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時
開催される。2000年10月に富士山の低周波地震が増加し
た際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関する基礎
データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法な
どが集中的に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(
内閣府防災担当)−噴火時の広域避難のために必要なハザード
マップの作成が、検討委員会を通じて進められている。富士直
轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発生する大規
模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山
梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルートマッ
プ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1月2
2日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山で
滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登
山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘ
リで救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたこ
とを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技

30 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 13:48:36.13 ID:f+98COVJ.net
術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大
学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。国
土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測
所および江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPS
の電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目
、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、
空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(
萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化システム(V
IsualizationsystemforVolcani
cActivity)噴出物災害などへの対策国土交通省、富
士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し火砕流、溶岩流などの
火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討を実施しハザード
マップが作成されている。しかし、山体崩壊を想定したハザー
ドマップは2012年現在未作成である。富士山と気象気候山
頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃しかなく、ケッペンの気
候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気
候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、
3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測
史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−30℃未満の日も
過去に数回観測されていて−30℃を上回ることがない1日と
いうのは北海道でも例がない。富士山での気象観測かつて気象
庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が
富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となっ
ており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。詳細
は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻
き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積も
り、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り
積もったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(
現在の山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m
付近に現れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によ
って、農作物が豊作になる・凶作となるという言い伝えがある

31 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 13:55:12.33 ID:x4//S+yB.net
として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合目付
近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓にお
ける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メ
ートル以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されて
いる例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流
)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念
物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉
群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河湾
や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医
薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士
山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖コウ
モリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成
されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓
周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都
留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている
。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念
物に指定されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の
高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山
が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返した
ために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山
系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺
ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタ
デ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザ
ミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界
の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山
にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がってい
る。人間史富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰
の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として
考えることなどを指して富士信仰と言われるようになった。特

32 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 13:55:30.34 ID:f+98COVJ.net
に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサ
クヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在する。
浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(
浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂に
ある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。詳細は「富士信仰
」を参照古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が
普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」
(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富
士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良
香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐
の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共
有の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イ
エズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「
富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河
国という関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上
人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初
の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立
したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村
山口、須山口、須走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外
ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特
別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(125
9年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(
村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』に
は神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称
が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」
と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年−12
75年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」と
ある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。江戸
時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの
造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府

33 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:02:05.62 ID:x4//S+yB.net
する記述がある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い
甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年9月に太
子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富士山を
越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。天
智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島
から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山
はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、

34 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:02:20.60 ID:f+98COVJ.net
記録は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされて
いた。貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富
士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ
火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際
に見た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、
または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約10年
前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった。久
安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を
繰りかえしたとある。回数は一致するものかは不明であるが、
登山を多く行った人物として知られる。江戸時代に入ると富士
講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした。
特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落
共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口
だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文政11年182
8年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子である二宮
敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬
の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定
では3794.5mと算出されている。天保3年1832年高
山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代であ
る。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名とし
て初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主
人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士
登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸
と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い
始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、
これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても
寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」
と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目より
も下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという
所)そこで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内
緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎ

35 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:08:58.88 ID:x4//S+yB.net
などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭は相当額にな
るため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分
だけでも1年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当さ
れる計算になるという。内院散銭の権利は、大名などに与えら
れた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「
須走」と「大宮」である。村山においては、1533年(天文
2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取
得権を与えられている。須走は1577年(天正5年)に武田
氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取
得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳
川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位
権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を
取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ
った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管
理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安な
ど富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を
利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建
てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」
は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし
、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争って
いる過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社
)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士
浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富
士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった
。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたこ
とへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「
富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走
の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取
得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっていると
し、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに
対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地

36 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:09:13.94 ID:f+98COVJ.net
内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営し
たものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾い
の慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に
委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛
けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院
散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走
が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守され
た。安永の争論安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支

37 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:16:27.15 ID:x4//S+yB.net
県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地
図センターにより認定された(富士山からは308kmの距離
にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山から
も眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされ
ていた京都府から2014年に撮影に成功したことにより、2
0都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、見
る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名
が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の
朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をは
じめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪
化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロ
ート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合があ
る。逆さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。
D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜
ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモンド富士(201
5年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈
む時、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイ
ヤモンドのように光る現象。富士山が見える西又は東の場所か
ら、年に2回見ることができる。影富士朝日や夕日で富士山の
山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部
から、雲海の上に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を
伴う。富士山の頂上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、
次第に麓では曇りまたは雨になることが多い。「表富士」と「
裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小
屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみら
れ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿
を裏富士として認知されているが、これには歴史的背景がある
。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では既
に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35
ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口
・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ
裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通した記述

38 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:16:46.50 ID:iGtHUu4y.net
がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般
的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言
葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延
川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など
、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術に
おける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(
伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリ
ーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名
所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はない
ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題と
して描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は
法隆寺献納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵
伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒
駒に乗った聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士
は中国山水画風の山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶
碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型
富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩
図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富
士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれ
た。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の
山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在とし
て認識されていた。室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼
羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山と
その富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池
が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富
士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北斎作江戸
時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富士』
を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵の
ジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画
『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様
な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を

39 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:23:53.63 ID:x4//S+yB.net
ていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓
していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の
茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている。5
0銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山か
らの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、
写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われてい
る。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本
を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザイン
などに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近
代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道
路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や
保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作
しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として
富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士山をモチ
ーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、
このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。189
3年(明治26年)、日本を旅行していたオーストリア=ハン
ガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、
日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。いった
い、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ば
れる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでもっ
とも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、
金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染み
だ。??8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴
として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描か
れた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放され
た「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子
らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的
画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして
富士を描く傾向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で
富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも
富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こず

40 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:24:08.59 ID:f+98COVJ.net
っている」という。日本画全般の題材として「富士見西行」が
あり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見
上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札
、旧五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙
幣や切手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のデザ
インに用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の5
0銭政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でる。その後の19
51年と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山か
らの富士山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2
004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である。富
士山を描写した切手が郵便局から発売された。河口湖、西湖、
精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛飾北
斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・山梨県(
2005年(平成17年))文学における富士山富士山は和歌
の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には
、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆ
うち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.
318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、
この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…
燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・3
19・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、
(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時
の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今
和歌集』から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙
の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都
人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学で
は都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。『
竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや
姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じ
て天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それか
らその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられた
とする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市

41 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:31:03.88 ID:x4//S+yB.net
で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」富士山と地域振興
富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相
手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉
地として成立する規模の湯量は湧出していない。富士山の利用
について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、
山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権問題
、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問題等
、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化

42 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:31:18.92 ID:f+98COVJ.net
している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の知識や経
験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山開き
から9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間
外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。と
くに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登
山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場
所は著名な観光地となっていることが多い。箱根−箱根は富士
山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の
乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶
えない。また、夏は避暑地としても有名である。富士五湖−富
士五湖は富士山周辺の観光地として著名であり、本栖湖の逆さ
富士が日本銀行券に採用されている。白糸の滝−白糸の滝は上
流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す
非常に珍しい形成をしている滝である。また、音止めの滝と共
に日本の滝百選に指定されている。朝霧高原−朝霧高原は富士
山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自然と広大な
土地もあり過去に第13回世界ジャンボリーも開催されている
。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド富士などがはっきりと拝め
る田貫湖や山中湖といったスポットも有名で、特に写真撮影を
目的として訪れる観光客もいる。ドライブ−富士スバルライン
や富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマイカーで
上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間があり
、冬期は閉鎖される。富士山の日(2月23日)2月23日を
「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富士山の
日」として制定している自治体がある。2001年(平成13
年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。
2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を中心に、山梨県
の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2009年(平
成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可決
。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富
士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当たり前」
の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各自

43 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:37:43.05 ID:x4//S+yB.net
山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であ
った。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代
は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,
886メートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,19
3メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メ
ートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,844メートル。
文字この節には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示でき
ない文字(Unicode6.0の絵文字)が含まれています
。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文
字コードのUnicode6.0では、携帯電話などで使われ
ていた絵文字も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI
」として富士山も含まれている。続けられている。これは「近
江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝
説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返
し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」
という[82][83]。2014年には日本富士山協会と中
華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結さ
れている[84]。標高3,952メートルの玉山は台湾の日
本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)−日本統治時代は新
高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,952メートル
。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番
目に高い山であった。標高3,886メートル。北岳−日本で
2番目に高い山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)
−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト−世界最高
峰。標高8,844メートル。文字[編集]この節には、一部
のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unico
de6.0の絵文字)が含まれています(詳細)。和文通話表
で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのU
nicode6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字
も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士
山も含まれている。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静

44 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:38:06.14 ID:f+98COVJ.net
岡県学術日本政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士
山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の本州島の中央部、
日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦す
る資産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から
成り、現行の行政区分に基づく各構成資産の所在地については
以下に記すとおりである。構成資産所在地No.所在地座標計
測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場
市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口

45 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:44:01.00 ID:x4//S+yB.net
している。上記のような自然的環境を持つ富士山は、古来自然
物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていた日本人に畏敬の
念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合した信仰の対象と
された。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所と考えら
れた山頂への登山という宗教行為が一般化するとともに、山体
及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・湧水といった自然
物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設けられ、登山のた
めの道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた
。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講(富士山
信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域な
いし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域ではさらに
、山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(
森林地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草
山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と
穢れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯
は神聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活の
ために利用される地域でもあった。また、富士山山麓に見られ
る湧水は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代に
おいても柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱われてい
る。また、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた
姿、周辺の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代
を超えて多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的
な創造意欲を掻き立てた。富士山体のうち、標高約1500m
以上の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が
重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い
。各登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「
馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能にな
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマ
サマ」と呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的に
は山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の
境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象

46 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:44:16.21 ID:f+98COVJ.net
とされることが多い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、
日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神社や
御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作
品の視点場(又は舞台)となった地点から構成される。富士山
体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要素が含まれて
いる。これらの構成資産が一体となった推薦資産「富士山」は
、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山と人間と
の精神的な関係を生み出した景観の見本であるとともに、芸術
的作品との関連がある山岳である。表構成資産/構成要素の分
類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A2
大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山
道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、
記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺
跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B
5遺跡B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9
遺跡B10遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B
15遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮
浅間神社河口湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走
浅間神社)河口浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素
忍野八海船津胎内樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅
間神社御師住宅山中湖673)構成資産の説明富士山(富士山
体)・展望地点富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を
始め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋
といった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在
する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領
域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も
高い。特に本栖湖や三保松原は、何度も紙幣の図柄に採用され
た写真の撮影地や富士山を描く典型的な構図に含まれる景勝地
であり、主要な展望を供する展望地点である。また推薦範囲は
、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標
高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世
界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境

47 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:51:00.84 ID:x4//S+yB.net
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登
山道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最
も多くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用され
た。また、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の
外、須山口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べ
られている。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、
随所に小屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システム
を語る上で、登山道は欠かすことのできない構成要素である。
A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A
5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御
師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造された。古
くから富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間神社などは古代か
らの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、律令
国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の
富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮め
るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山
活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が活発
化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神
社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神社
や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山口の起点にも浅
間神社が建立されるようになる。なかでも、北口本宮冨士浅間
神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大いに利用され
た吉田口登山道の起点であったが、その北には、富士講徒の案
内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も残されてい
る。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神
社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社)A6北
口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨士御
室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地とな
った風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から爆発的に
流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけで
なく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水
地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開祖とされ

48 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:51:16.22 ID:f+98COVJ.net
る長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五湖を
始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講
徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。
また、長谷川角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてら
し)元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間
明神を祀ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎
内樹型など、特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となってい
る資産もある。B9山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A
9本栖湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹
型B14人穴富士講遺跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入
)(改頁)A.富士山(富士山体)説明富士山には、山頂部に
点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機能
してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の証として建
てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や
展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の
側面における比重が9最も高い。また推薦範囲は、山体の神聖
性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高1500m
以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えら
れた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた
八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごと
に異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づく
ほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、
1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、こ
の理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び
宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座すると
の信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は
富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ
、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼ
この境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16
世紀ごろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたと
され(1561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩
れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道とし

49 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:58:22.18 ID:x4//S+yB.net
登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用し
て修行を行った。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者
を「道者」と言う。)も開始され、その様子は16世紀の作と
される「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。道者の数は
18世紀後半から19世紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録よ
り、御縁年で2,000人前後、平年で数百名程度と推測でき
る。また1860年、初の外国人登山を行った英国公使オール
コックがこの登山道を利用した。101889年、鉄道(東海

50 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 14:58:38.24 ID:f+98COVJ.net
道線)の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これ
への対策として1906年、村山を経由しない新道が建設され
たため、大宮から現在の六合目(標高2600m)までは登山
道としての機能を失った。この区間は一部除き登山道跡の推定
は困難な状態である。現在は1970年に標高2400m地点
まで開通した自動車道を利用しての登山が行われている。(推
薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道富士山南東
麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山道である
。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486年にそ
の存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神
社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理されて
いた。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行
場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究
が進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由
来する60年に1回の記念の年)に約5,400人、1840
年代前半は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約
3,600人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2
050m)に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年
、東海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの
道者を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用
不可能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在
に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる
部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称
で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道として整備さ
れた旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東麓の
冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流し山頂
東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六合目
からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資料で
は1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも17
世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の
山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂
部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村

51 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:04:43.30 ID:x4//S+yB.net
立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされ
る。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮
本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつながり
が強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進
によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰
組をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東
宮本殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿
とも、各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して
、それぞれの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮
冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に
所属しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ね
られていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点と
して富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御
師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に
特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に
伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財保護法制定に
伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿及び
西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。19
52年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962〜63
年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜74年に
本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。1981
〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に
本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8
.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によって形成され
た堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り
が多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の水行から
いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後述
の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあ

52 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:05:13.48 ID:iGtHUu4y.net
り、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本
の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり、
重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プ
ロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なか
でも、生涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1
935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」と
いう写真は有名である。この写真は、1984年に採用された
五千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用

53 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:11:12.21 ID:x4//S+yB.net
に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保
存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼
門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195
0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化財とされた。
1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根の修
理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修理等が行
われた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等が行われた(
部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行われた。1
3文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅間大社の
社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位置す
べき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるの
みという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めている
と推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いてい
る。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用さ
れたと推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献上では
1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577
年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が
開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間
大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現時点では神が4
月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神とし
て里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行
われていた。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸
道という。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な
くとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡
に指定される。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀
前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており
、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興
法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(資産
範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。富士山に

54 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:11:31.21 ID:f+98COVJ.net
おける修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し
、その様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図
」に描かれている。1868年、神仏分離令により浅間神社と
大日堂は分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者と
も衰微した。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続さ
れた。また、村山の修験者の影響を受けた地域では現在でもそ
の宗教行事が継続されている。法的保護、修理・整備の経緯2
001年から2003年にかけて富士宮市教育委員会により発
掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とと
もに史跡富士山として指定される予定。B4.須山浅間神社説
明須山口登山道の起点として遅くとも1524年には存在して
いた神社である。1707年、宝永噴火により社殿は登山道も
含め大きな被害を受け、現在の社殿は1823年に再建された
ものである。神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者とも関わ
りを持ち、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈祷が
行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。14
B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に
社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点となった神社であ
る。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部
の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火
で崩壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使
用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれてい
る。神社には富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心
に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約
80基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社
殿が小山町の有形文化財となる。2009年に本殿・参道の修
理が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B6.河口浅間神社説明古くから
富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社が執り行っていたが、8
64〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間

55 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:17:50.41 ID:x4//S+yB.net
を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で
欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経
緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社
は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが
最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献
もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点と
して役行者堂が整備されたようである。山中という厳しい条件
の下に所在するためたびたび破損し、1189、1275、1
475、1525年と加修され、1564には地元領主による
大修理が行われている。現在の本殿は1612年建立と認めら
れ、その後も1698年、1867年に修復が行われていた。
1973−74年には里宮の地にそのままの形で移設された。
里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するた
めに河口湖畔に建てられたとされる。修験や登拝といった様々
な富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地
の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社である
。法的保護、修理・整備の経緯1973〜74年に吉田口登山
道二合目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985
年に移築された二合目本殿が文化財保護法の下に重要文化財に
指定された。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に
宿や食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝
の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的
なのは、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北
西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田
の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面し
て引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建
物が建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が
設けられている。1768年に建てられ最古の部類に数えられ
る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士

56 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:18:05.43 ID:iGtHUu4y.net
講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代表的で
ある。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講の流
行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では1
860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経
緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財
に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修理等が行
われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行わ
れた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ
れる予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動
によって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷
川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。こ
の巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り
行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったかは、定ま
っていなかった(少なくとも、明らかになっていない)ものの
、人々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心として、
周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護、修理・
整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B
11.忍野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、そ
れぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富
士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川角行
が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元
八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士
講道者によって再興されたとされる。法的保護、修理・整備の
経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物
に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内
に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し
、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船
津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際

57 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:25:03.66 ID:x4//S+yB.net
長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、
富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景
勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。
法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原
説明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」
の舞台となった。15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的
な構図に含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作

58 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:30:08.21 ID:x4//S+yB.net
拝した後、頂上を目指した。登山道には茶屋や山小屋が建てら
れ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的に整備されたの
もこの頃である。また、富士講においては長谷川角行ら指導者
の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修行の地とされ
、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊地・巡礼地は庶民
の信仰の場として定着し、山の結界が開放される二ヶ月間に年
平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山を行うように
なった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面においても、
とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学、絵画、
工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げられ、
三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に
代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与
えた。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期
的な転機を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに
、その富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一
つとされてきたのである。日本を訪れた外国人が富士山からイ
ンスピレーションを得て記述した紀行文の中でも、富士山のア
イコン的側面を綴ったものが多い。近世以前も富士山は日本一
有名な山であったが、19世紀後半の開国によって日本が近代
国家としての体制を整えるにつれて、日本を代表する山から日
本を象徴する山へと変貌した。廃仏毀釈と登山の利便性向上1
9世紀半ばより、明治政府を中心に行われた日本の近代化・西
欧化政策は富士山にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道
禁止の方針を打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀
釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設に再編されたが、
1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁の影響もあり
富士山への登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道
・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南
麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900年前
後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登
山がさらに活発になった。自動車道としては、1929年に北

59 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:30:38.95 ID:f+98COVJ.net
口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専
用道路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始ま
った。第二次大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により
、富士山への登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧
れを主な動機とするものに変化した。また、1964年に中腹
までの自動車道として、北麓の富士山スバルラインが、197
0年に南麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、中腹(
標高2300〜2400m)を起点とした登山が主流になった

60 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:36:47.20 ID:x4//S+yB.net
寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入
水する往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁
起絵絵巻1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を
越えて河口に進む背後に富士山。大阪・久保惣記念美術館伊勢
物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の
主人が富士山麓を進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち
小屏風15世紀十二月風俗図の一場面。鎌倉初期に行われた富
士山麓の巻狩を題材とする。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼
羅図掛軸16世紀霊山である富士山に参拝する行者達の登山風
景、山頂に三尊あり。狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵
野図屏風17世紀武蔵野の状景を装飾的に描いた名所図屏風の
一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。山梨県立博物館曽我物
語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝が主催した富士の巻狩最中に
果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士山の美術(2)室
町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式時代(年代)説明
東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存最古の水
墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉画派の祖とされる
。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟子、
建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。
東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な
日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富士山の一典型作
。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中
心に活躍した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作
品。個人(?)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺
の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手に日輪
を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富士山
指定流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清
東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的にも著名
な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造型化する
。狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江戸狩野派
の祖、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静
岡県立美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山楽の養子とし

61 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:37:03.98 ID:f+98COVJ.net
て京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾形光琳奈良
・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世紀)世界的に
著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文人画
派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本文人図(
南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登山し、
三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山佐藤
美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人
者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人画派野呂
介石和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図1821紀
州藩の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染まっ
た富士、赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館富士山図
屏風1835江戸文人画の大家。諸国諸山の風景を写実的に描
いた写生派の草分け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士三
保松原図屏風1784装飾性と写実性とを融合し、独自の画境
を開いた、いかにも応挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田
県立近代美術館富岳図1777秋田藩士。日本で最初に西洋画
を学んだ、秋田蘭画の創始者。江戸出府の折の作。洋風画派司
馬江漢静岡県立美術館薩?山富士遠望図1804平賀源内らと
蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋風写生画の第
一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博物館日金山富岳展望図
(18世紀)長崎に渡来した清人画家より写生的花鳥画を学び
、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴大分・
自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国を遍
歴、布教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北斎
山梨県立博物館版画富岳三十六景1831世界的に著名な浮世
絵師。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影響し
た。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(
19世紀)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十
三次など風景画に新境地を開き、印象派に与えた影響は大きい
。浮世絵派歌川貞秀神戸市立博物館三国第一山之図1849幕
末の浮世絵師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂
之図など多くの作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家

62 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:43:54.26 ID:x4//S+yB.net
朝陽1945ルノアールに学び、日本洋画に存在感ある独特の
装飾技法を樹立した。その金字塔とも言うべき作。〃田崎広助
長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の平面的装飾に
新しい一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻
の森美術館赤富士1967主として第二次大戦以後洋画壇をリ
ードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。膠画(日本画)富
岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最
後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神
聖性をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術
館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉天心と共に日本画
壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマに富士
山が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風
1919横山大観とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統
的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記
念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。
激しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁
三の丸尚蔵館富岳茶園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統
的日本画に透明感のある新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京
都国立近代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本画
壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立す
る富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富士1966第二次
大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士を描いたが、
赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士19
82第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた
。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代
美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本画界をリ
ードした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリーズの
一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチ
ュアながら当時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念
に皇室に託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤
富士1894文字通り富士山の写真家。富士山のあらゆる表情
を写真に収め、広めた。木版画萩原英雄山梨県立美術館三十六

63 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:44:20.04 ID:f+98COVJ.net
富士1926本県出身の日本を代表する木版画家。新しい視点
からの富士山シリーズ。富士山の文学歴史書「六りっ国史こく
し」(奈良−平安)菅野すがのの真ま道みちら「続日本しょく
にほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわらのみちのり「本朝ほん
ちょう世紀せいき」(平安)伝皇こう円えん「扶桑ふそう略記
りゃっき」(平安)※作者未詳「吾妻鏡あづまかがみ」(鎌倉
)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこう年表ねんぴょう」(
江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう詔「常陸ひたち国のく
に風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「日本にほん霊異記
りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃく物語集もの
がたりしゅう」(平安)和歌集大伴家持おおとものやかもち「
万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち・紀貫之
きのつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村上む
らかみ天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)
後鳥羽ごとば上皇じょうこう「新古今和歌集しんこきんわかし
ゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院
してんのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫
木和歌抄ふぼくわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明
あきら「新拾遺和しんしゅういわ歌集かしゅう」(室町)25
記録・紀行文都良香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさ
んき」※作者不詳(鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(
鎌倉)「東関紀行とうかんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ
(室町)「富士紀行ふじきこう」堯孝ぎょうこう(室町)「覧
らん富士記ふじき」堯恵ぎょうえ(室町)「北国紀行ほっこく
きこう」※作者不詳(室町)「富士御覧日記ふじごらんにっき
」道興どうこう(室町)「廻国かいこく雑記ざっき」宗牧そう
ぼく(室町)「東国とうごく紀行きこう」紹巴じょうは(室町
)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠州こぼりえんしゅう(
江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅井了意あさいりょ
うい(江戸)「東海道名所記とうかいどうめいしょき」岩佐い
わさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記」松尾まつお芭蕉ば
しょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわかげき(江戸

64 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:48:42.72 ID:GWGjnCz/.net
あげあげ

65 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:50:13.93 ID:x4//S+yB.net
和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和)「富嶽
百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明治−大
正)「富士の大観」中村星湖なかむらせいこ(明治−昭和)「
少年行しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)「
富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや
(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合
直文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆき」夏目
漱石なつめそうせき(明治−大正)「三四郎さんしろう」「虞

66 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:50:30.60 ID:f+98COVJ.net
美人草ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系図け
いず」「春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」
徳富とくとみ蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜ
んと人生じんせい」(随筆)永井ながい荷風かふう(明治−昭
和)「新帰朝者日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和
)「富士山頂ふじさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−
平成)「岳麓点描がくろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじ
ゅん(大正−昭和)「富士ふじ」武田百合子たけだゆりこ(大
正−昭和)「富士日記ふじにっき」新田にった次郎じろう(大
正−昭和)「強力伝ごうりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙
蓉ふようの人ひと」「富士ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう
」「冬山ふゆやまの掟おきて」「富士ふじ山頂さんちょう」川
端康成かわばたやすなり(明治−昭和)「東海道とうかいどう
」白井喬二しらいきょうじ(明治−昭和)「富士ふじに立たつ
影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明治−昭和)「神州纐纈城
しんしゅうこうけつじょう」松本まつもと清せい張ちょう(明
治−昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せりざわこう治じ良ろう
(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人間にんげんの運命
うんめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くずれ」27
詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥−奈良)「柿本
集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「万葉集まんようしゅ
う」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たか
はしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「
清きよ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平安)「業平
集」藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集」
藤原ふじわらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」
「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね
(平安−鎌倉)「明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊
とし成なり(平安−鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)
右う大臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守
為忠朝臣家百首」慈じ円えん(平安−鎌倉)「拾玉集」西行さ
いぎょう(鎌倉)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」源実

67 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:57:02.51 ID:x4//S+yB.net
麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれた)にある
神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「深山」な
どと呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経ながら、砂礫地帯
(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あるい
は他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵画
や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識
が成立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さ
らに多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼
ばれる富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、1
8世紀後半から19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の
神聖な山としての景観認識が定着した(※4)。この認識は近
代工業社会の自然に対する考え方が一般化する以前の山と人間
との良好な精神的関係を示すものであった。、31(※3)富
士山は神仙思想における不老不死の象徴である「蓬莱山」や仏
教における世界の中心である「須弥山」に見立てられた。また
、主に18世紀後半より富士山の信仰上の景観認識を立体化し
た「富士塚」が東京を中心に建設され、女性を含め山頂への登
拝ができない人にとっての代参施設となった。(※4)登拝者
には登山口の浅間神社や御師の発行する富士山の信仰上の景観
認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起の良いものと
して富士山やその図像を拝したり、眺めることが行われた。右
「富士山のゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準(E)顕著
な普遍的意義を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信
仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連
がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ま
しい)。評価基準(E)の適用富士山と周辺の特徴的な自然が
醸成する優秀な景観美や火山としての活動は、日本人の山に対
する信仰の形成の一翼を担い、今日まで継承されている山頂へ
の遥拝と参詣を中心とした文化的伝統は、アジア地域に顕著で
ある山を神聖視する文化と深い関りを有している。写真写真焼
山(ハゲ山)木山(深山)草山(カヤ原)32また、これらの

68 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 15:57:22.28 ID:f+98COVJ.net
富士山の特色は古くから様々な芸術活動の母胎ともなり、「万
葉集」や「竹取物語」をはじめとする日本固有の和歌、俳句、
物語文学やこれらを主題とする絵画などの対象として日本人に
良く知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは
海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えて
きた。したがって、富士山は、顕著な普遍的意義を持つ生きた
伝統、芸術的作品・文学的作品と直接的・実質的に関連がある
景観である。・顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統との直接的
・実質的関連アジア地域、特に東アジア地域では特異な形態を
持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道教(神仙
思想)、儒教と結びついて修行の場や宗教施設を設置する場と
した。これらの伝統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝えられ
、日本固有の山岳信仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生
んだ。現在の富士山においてはこれらの信仰の核心部分が登拝
などの形態や儀式に伝えられている。また、富士山のみならず
日本各地の山岳やアジア地域の山岳においても形態は異なると
はいえ山を神聖視することをその根本に据えた文化的伝統が数
多く行われている。したがって、富士山は顕著な普遍的価値を
持つ生きた伝統と直接的・実質的に関連がある景観である。・
顕著な普遍的意義を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立
峰である富士山の周囲には湖や海と組み合わされた富士山の優
れた景観を望む展望地があり、今日に至るまで多くの芸術作品
を創造する場となった。これらの富士山を題材にした芸術作品
のうち、最も海外に影響を与えた作品は葛飾北斎の浮世絵「冨
嶽三十六景」である。19世紀前半に作成されたこの一連の作
品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮世絵とともに
その構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋における日
本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった印象派の画家に大
きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因となった。そ
のほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝説をモチ
ーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに影
響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀初頭

69 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 16:04:07.23 ID:f+98COVJ.net
対象として日本人に良く知られていた。特に富士山を題材にし
た「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に
様々な影響を与えてきたものである。さらに、これらの芸術と
富士山やその景観美を紹介した外国人の著作を通じて、富士山
が一つの国の文化を代表する「名山」であることは国際的に認
知されるに至っている。34写真写真本栖湖からの富士山三保
松原からの富士山c)比較検討による証明1)比較軸の特定富
士山の顕著な普遍的価値を表す要素を特定し、他の同種の遺産
がそれらの要素に該当するか否かを検討することによって比較
を行う。富士山の顕著な普遍的価値は、以下の3つの要素に整
理できる。(1)山に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす
物証として稀有な存在:富士山では山頂への参詣などの特徴を
持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、山体とその周
辺の地域には、神社、登山道、霊地・巡礼地となった風穴・湧
水地・湖沼などが残されている。そこでの儀礼や活動を通じて
、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承されてい
る。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周辺の景観は、
類いまれな美しさ、神聖な空間として認知され、日本における
自然美の典型として、多くの人々に世界の山の中でも最も著目
なアイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍的意義を
持つ芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美は、近現代
の西洋美術に影響を与えた芸術的作品などに「関連する景観」
である。信仰の山については、2001年9月に和歌山県で開
催された国際会議「アジア・太平洋地域における信仰の山の文
化的景観に関する専門家会議」(以下、「信仰の山会議」とい
う)において、信仰の山の認定及び保護に関する様々なテーマ
と問題が討議された。ここで、信仰の山の遺産としての価値は
、有形的価値、無形的価値の形態をとって現れるとされた。ま
た、信仰の山の自然的特性についても評価が可能とされた。信
仰の山会議で示された指標を参考に、富士山の顕著な普遍的価
値を表す要素を勘案して、自然的要素としては、「形状・標高
」(独立峰かどうか、富士山と同程度の標高か)、「岩盤や岩

70 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 16:09:56.93 ID:f+98COVJ.net
立公園オーストラリア2サバラン山サバラン−イラン3スライ
マン−トースライマン−トー聖山キルギス4プーカオ山チャン
パサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群
ラオス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山、オトゴン・
テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブルカン・カ
ルドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6ヒマラヤ山脈
サガルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナウルホ
エ山、トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰
山泰山中国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建築物群中
国11廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中国
13武夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)
施設中国15三清山三清山国立公園中国16五台山五台山中国
17華山、衡山、恒山、崇山泰山の登録拡大として四つの聖山
−中国18雁蕩山雁蕩山−中国19南山慶州歴史地区韓国20
漢拏山済州火山島と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21ア
ダムスピークピーク野生保護区、ホートンプレインズ国立公園
、ナックレス山脈−スリランカ22アパラチア山脈グレート・
スモーキー山脈国立公園アメリカ23キラウェア山ハワイ火山
国立公園アメリカ24ロッキー山脈カナディアン・ロッキー山
脈自然公園群、恐竜州立自然公園、ウォータートン・グレーシ
ャー国際平和自然公園、イエローストーン国立公園カナダ・ア
メリカ25シナイ山聖カトリーナ修道院エジプト26サント・
ヴィクトワール山サント・ヴィクトワール山とセザンヌに関連
する土地−フランス27ペルデュ山ピレネー山脈−ペルデュ山
スペイン及びフランス28アトス山アトスギリシャ29オリン
ポス山オリンポス山周辺−ギリシャ30ドロミテ山塊ドロミテ
イタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア32ワ
スカラン山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(
ユングフラウ−アレッチュ峰、ビチホルン峰ほか)スイス・ア
ルプスユングフラウ−アレッチュスイスアジア・太平洋地域以
外34キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア3
7表2:信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有

71 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 16:24:42.80 ID:7YXRthlv.net
飛び飛びで糞ワロw

72 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 16:41:48.42 ID:x4//S+yB.net
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県(
富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨
県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3
776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美
な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多
くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけでは
なく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸
垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は
駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神

73 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 16:48:07.68 ID:x4//S+yB.net
が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため
律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。ま
た、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場と
しても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。こ
れら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった
一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多く
ある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(
三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また
、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定さ
れている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、20
11年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)
6月22日には関連する文化財群とともに「富士山−信仰の対象
と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺
産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふ
じやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士
山(とみすやま)とは字も呼び方も異なる。富士山についての最
も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であ
ると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは
不尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝
説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じ
て富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては
、宣教師・バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイ
ヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、
これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」
からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、マ
レー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富
士山」と表記されるに至るにおいては駿河国富士郡に由来すると
するものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富
士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む命
名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「
富士」の付く地名が多数存在している。富士山の麓として静岡県
に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富士河口湖

74 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 16:48:24.04 ID:f+98COVJ.net
町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が見える場
所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似て
いる山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士な
ど)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山
を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士見」および「富
士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、321座を超え
る数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細
は「郷土富士」を参照なお、地名以外にも「富士」を冠した名称
は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異名として芙蓉峰
とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の
地形図富士山の構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であ
り、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富士山の山体
は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたも
のだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小御岳(
こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山こ
の中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山
である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリン
グ調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明
した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付
けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続
け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱ま
で成長した。山頂は宝永火口の北側1?2kmのところにあった
と考えられている。2009年10月に、GPSによる富士山の
観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始
以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変
化が現れ、富士宮市−富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマ
グマが蓄積している(活火山である)現れとされている。プレー
トの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレ
ート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に
糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位
置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マ
リアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域

75 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 16:54:58.04 ID:x4//S+yB.net
動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了
した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩
を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体であ
る新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の
東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約
2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大

76 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 16:55:14.12 ID:iGtHUu4y.net
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8
,000年前の3,000年間と、約4,500年前?約3,2
00年前の1,300年間と考えられている。山頂部からの最後
の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は
無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生
している。延暦19年−21年(800年−802年)に延暦噴
火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火
。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大
噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が
降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山
が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、
今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最
も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(78
1年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に
成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であ
ったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実
録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代
中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写
がある。宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りた
く柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている
。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から
見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永
大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり
、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられて
いた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測され
ており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり
、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業
技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)とし
て発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が
流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あ

77 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:00:37.82 ID:x4//S+yB.net
気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、
鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上
井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研
究所:火山活動可視情報化システム(VIsualizatio
nsystemforVolcanicActivity)噴出
物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨
県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐため
の調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しかし
、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で
ある。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃
しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1
月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ1
0を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−3
0℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ること
がない1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気
象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所
となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。
詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が
巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり
、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積も
ったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の
山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現
れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作
物が豊作になる・凶作となるという言い伝えがある。富士山では
山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英国海外航
空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記
念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:
1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称
変更)、「富士風穴」(天然記念物:1929年12月17日指

78 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:00:53.93 ID:f+98COVJ.net
定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨や
雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる
。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高
1670m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に
分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で
1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧
出量の減少が確認されている例がある。地域名称南東麓されてい
柿田川(日本三大清流)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がって

79 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:08:07.39 ID:x4//S+yB.net
の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り
。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」
(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹
取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲
斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有
の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズ
ス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山
は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という
関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた
登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言
われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂
部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つように
なった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木
造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。
鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩
薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の
8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、
文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』には「い
ただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の
記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による
庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得た
ことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富
士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大
社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講な
どの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆
盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道で
は発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つように
なっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」と

80 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:08:28.55 ID:iGtHUu4y.net
いい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「
此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」と
ある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先
達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年
」とあり)などが確認されている。明治以後慶応4年(1868
年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく
崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しな
どが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社と
なり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅
間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった。仏
教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1
883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治
39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(201
1年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史
跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」とし
て包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾野市・駿東
郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村
である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(
登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部
、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富士登山
の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存
在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年
平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の
上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹の
中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年
9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富
士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという
。天智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大
島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山は
マルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録
は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた

81 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:13:51.45 ID:x4//S+yB.net
本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。
回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物と
して知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参
拝者が富士登山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数
存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を
持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)
があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシ
ーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度
測定を行った。伊能忠敬の測量では2603m−3732mとさ
れていたが、この測定では3794.5mと算出されている。天
保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷か
れていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)
が近世大名として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、
造り酒屋の主人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平
宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗
秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう
と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであ
り、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であって
も寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と
呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下
の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そ
こで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山
を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に
着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行っ
た唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコッ
クが外国人として初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山に
ついての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)があり、
「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨
にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し
、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オー
ルコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日

82 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:19:35.53 ID:x4//S+yB.net
で支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入
である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行
なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越
されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信
奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社
奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目よ
り上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂

83 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:25:20.48 ID:x4//S+yB.net
が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳
図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉
時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とと
もに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反
弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態
で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作とさ
れる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要
文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であっ
た浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるもの
である。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、
葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵
本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した
。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響
を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連
作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。
多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料
を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波
と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広
重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六
景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケ
ッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士
山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作
により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地
点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸
品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情
を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(193
8年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富
士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆ
る美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に

84 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:31:05.03 ID:x4//S+yB.net
士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』
の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子
の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(
3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また
、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…
燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・31
9・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山
頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士
山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』
から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえ
てゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富
士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士
日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語
後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老
不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山
頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因
んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記してい
る。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」と
して言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語
』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要
な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置すること
が正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していた
ため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが
、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、
どの方角から見ても整った美しい形を表している。中世から近世
には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸と
して俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富
士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑
目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口
大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多く
の紀行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多くおり

85 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:36:48.82 ID:x4//S+yB.net
回世界ジャンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイ
ヤモンド富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったス
ポットも有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる
。ドライブ−富士スバルラインや富士山スカイラインなどを利用
して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン中は
マイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の日(2
月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合
わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。2
001年(平成13年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)
にて条例を制定。2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を
中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2
009年(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会
一致で可決。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どち
らも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当た
り前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、
各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加す
る事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルと
しても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて
富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの
期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に対して
2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とす
るよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓
である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない
。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士
山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設に
も富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。なお、富士山
の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY−Ser
ve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で
、1996年1月1日にネット上で発表した。富士山ナンバー静
岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を
対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして2008年11月4

86 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:45:15.37 ID:x4//S+yB.net
らの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレー
ト、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにその
下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点
に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴
出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先小御岳

87 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:45:38.74 ID:f+98COVJ.net
産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の本
州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資
産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現行の行政区分に
基づく各構成資産の所在地については以下に記すとおりである。構成資産所在地N
o.所在地座標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市
・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町)県境未確定地富
士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲
を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分を示す図面は以下のとおりであ
る。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積、
資産の総面積及びその緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。構
成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積
(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の説明富士山は、標高3776mと
日本一の高さを誇る独立峰である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい
懸垂曲線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成層火山で
ある。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面からの実質的な高さは世界的
にも有数である。富士山は、日本列島のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート
、ユーラシアプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにそ
の下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点に存在する。富
士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴出物からなる地層の上に第四紀更
新世に造り上げられた先小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富
士、さらにそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口はおよ
そ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プレートが北進しユーラ
シアプレートを南南東方向から押し続けているため割れ目が発生することによって
、山頂を通って北北西に向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火

88 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:50:56.62 ID:x4//S+yB.net
湖673)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山
には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施
設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅
間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は、
何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典型
的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点
である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬
返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、その中
でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山
本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割
した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375
m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識され
てきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三
保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の
浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12
世紀前半から中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけにな
ったと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山
道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多
くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。ま
た、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられている
。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や
石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登
山道は欠かすことのできない構成要素である。A2大宮・村山口
登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉田口登山道(写
真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住宅登山道の起点や
周辺地域には浅間神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対
象であり、山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめてい
る。噴火活動の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富

89 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:51:12.69 ID:f+98COVJ.net
建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た
可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本
栖湖や三保松原は、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典
型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点である。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高1500
m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界よ

90 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:56:39.66 ID:x4//S+yB.net
が、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と
呼び宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座する
との信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は
富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、
神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの
境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ご
ろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」という
危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用された
。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山
の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構
成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山頂部には、火口
壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在する。富士
山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部にお
いて寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部
での宗教行為が体系化されていった。道者は山頂周辺において「
御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来
光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとされる神
仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝
し、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世
界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行
為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世
紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定される
ものが最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像
等(1302年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋納
や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮
・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉
田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。
1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によっ
て撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の

91 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 17:56:55.14 ID:f+98COVJ.net
、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付
けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づく。標高約2500m
付近の森林限界より上方は富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と
呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境域に沿
い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろに富士講の祖とされる長
谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び1580年とされる)、その後
「大沢崩れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用され
た。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山の顕著な普遍的
価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A1.山頂信
仰遺跡富士山山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所
在する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において
寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化
されていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケ
ン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとさ
れる神仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁
にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢め
ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教
的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸
仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最
古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀
には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須
走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教
的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、

92 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:02:20.82 ID:x4//S+yB.net
勺以上の部分及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である
)A4.須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八
合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山道である。その
起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏
が出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認でき
る。登山道は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所
在地の須走村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部
などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と
争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕
府に裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の
宝永噴火の際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に
覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し
、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされ
た参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に
23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成
により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用はほ
とんどなくなり、一部道としての確認ができない区間がある。(
推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5.
吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東部を
目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけ
でなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世
紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登
るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷
川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講
隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信
者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者が
次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山
口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している
。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な
道である。(推薦範囲は登山道全体である。)11法的保護、修
理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名
勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士箱根)

93 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:08:01.94 ID:x4//S+yB.net
た。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高
裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅
間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大
社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖な
る水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14
万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。
なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする
池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が身を清

94 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:08:17.82 ID:f+98COVJ.net
長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後
述の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作
品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された
写真の撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は
、プロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわ
たり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から
撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1984年に採用
された五千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用された。山体
の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春
」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。法的保護、修理・整
備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富士山本宮浅間大
社説明社記によれば806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社か
ら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富士山南麓地域の中心
的神社であった。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰
されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んに
なるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とともに大宮・村山
口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中で
の諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお
さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現在の「浅間
造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営されるとともに、1609年山頂
部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を
行うようになり、1779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配権が認
められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高裁判決に基
づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅間大社境内には富士山の湧

95 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:13:43.14 ID:x4//S+yB.net
定。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は南麓
の浅間神社が執り行っていたが、864〜866年に北麓で起こ
った噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった
。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかっ
た河口浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心とした河口
の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登
拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた。しか
し、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛
により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退して
しまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結び
ついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上で欠かすことのできない資産である。法的保護、修理
・整備の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅
間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえた
のが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文
献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点とし
て役行者堂が整備されたようである。山中という厳しい条件の下
に所在するためたびたび破損し、1189、1275、1475
、1525年と加修され、1564には地元領主による大修理が
行われている。現在の本殿は1612年建立と認められ、その後
も1698年、1867年に修復が行われていた。1973−7
4年には里宮の地にそのままの形で移設された。里宮は、二合目
の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建
てられたとされる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点と
して位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮
が一体となって機能してきた神社である。法的保護、修理・整備
の経緯1973〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里
宮の地に移築された。151985年に移築された二合目本殿が
文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B8.

96 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:13:59.12 ID:f+98COVJ.net
受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊
し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2009年の修理も
含め何回かの修理がおこなわれている。神社には富士講道者が多く立ち寄り、20
世紀前半を中心に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80
基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文化財
となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文化財保護法の下に他の文

97 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:19:26.88 ID:x4//S+yB.net
発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって
現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の
際に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとって
の富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的保護
、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892
年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒
は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士
山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御師団が管
理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴
富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとさ
れる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残
る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間
大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅く
とも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、
その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によれば人穴は
16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行により浅間大菩
薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、入滅
した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と
述べ、これらの結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を
行う者も見られた。また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、
墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942年付近が軍用地
となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954
年神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参
詣者はみられるものの1964年以降碑塔の建設は行われていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡と
なる。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とす
る数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜1
6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えることを

98 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:19:41.29 ID:f+98COVJ.net
野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士
信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った
。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」
と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者によって再興された
とされる。法的保護、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の
下に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷川角
行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩
樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講
道者によって現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に
、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが
行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫などが
祀られている。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道
者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き
、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士
山北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴富士講遺跡説明富
士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者に
よる約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描か
れ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅くとも1
603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られて
いた。富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行
が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、
入滅した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これ

99 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:25:07.31 ID:x4//S+yB.net
』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世
紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文学の題材と
なったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)
をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるように
なった(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が
京都から鎌倉に移動し、この二つの都市を結び富士山南麓を通る
街道の交通量が増加したことで、富士山の情報は多くの人に記録
され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山岳信仰
と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化した
ことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が
習合した「修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け入り、
霊力を獲得するために修行する山へと変化していった。当時一般
的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂
部に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15〜
16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率
された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設
置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に開
かれたとされている。このころには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた。登拝の大
衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる日本国内での
戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的な発
展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このよ
うな中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周辺の風穴などで
修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まったとされる富士
信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富士講」と呼ばれる信仰集
団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が登拝するよう
になった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」という。)は
原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する
神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で
水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した。登山道
には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支える施設

100 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:25:23.48 ID:f+98COVJ.net
東方向に連なる側火山からの噴火を続け、1200年前から後には少なくとも80
0〜802年、864〜866年、937年、999年、1033年、1083年
、1435〜1436年、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確認され
ている。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は
恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日
本における古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火
を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を浅間神として祀るよ
うにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に
位置づけられるようになった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境
が芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば
)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、数多く
の和歌・物語など文学の題材となったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(1
1世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるようになっ
た(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し
、この二つの都市を結び富士山南麓を通る街道の交通量が増加したことで、富士山
の情報は多くの人に記録され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山
岳信仰と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士
山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した「修験道」の道場と
もなり、修験者が山中に分け入り、霊力を獲得するために修行する山へと変化して
いった。当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部に至ることが重
要な意味を持つようになった。この結果15〜16世紀には登拝する山として一般
に広く知られ、修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。
登山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に開かれ

101 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:30:49.48 ID:x4//S+yB.net
理が行われている。21表富士山の美術(1)日本古来の伝統様
式によるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年代
)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士
山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。神奈川清浄光寺
外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水す
る往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵

102 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:31:05.40 ID:f+98COVJ.net
響もあり富士山への登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道・自動車道
の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南麓へは1889年に東海道線が
開通し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東
京からの登山がさらに活発になった。自動車道としては、1929年に北口本宮冨
士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道路が開削され、1937
年には大型バスによる輸送も始まった。第二次大戦以降、日本の価値観や経済状況
の変化により、富士山への登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧れを主
な動機とするものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道として、北
麓の富士山スバルラインが、1970年に南麓の富士山スカイラインが開通し、こ
れ以降、中腹(標高2300〜2400m)を起点とした登山が主流になった。こ
の結果富士山への登山者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った(2
007年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これらの登山者の行動様式
の中には富士山への信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰
の形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わりが明らかになっ
たことが、環境保護活動の活性化につながった例などがある。最近の保全の歴史2
0富士山体は文化財としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山
麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に自然
公園法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の対象となっている。さ
らに、第二次世界大戦後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道
以下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)
指定され、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(のち、19
99年及び2006年に改定)、静岡県は2006年に「特別名勝富士山」の保存
管理計画を策定し、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の
近代以前の修理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含めた富士山

103 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:36:31.60 ID:x4//S+yB.net
に早く油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃
和田英作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)1926日本近
代洋画を技法的に確立した先駆者の一人。写生の確かさを見よ。
〃梅原龍三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノアールに学び、
日本洋画に存在感ある独特の装飾技法を樹立した。その金字塔と
も言うべき作。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975
日本独特の平面的装飾に新しい一頁を開いた田崎ならではの自然
景観。〃林武箱根彫刻の森美術館赤富士1967主として第二次
大戦以後洋画壇をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。
膠画(日本画)富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図
屏風1898最後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に
登り、その神聖性をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国
立近代美術館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉天心と共
に日本画壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマ
に富士山が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図
屏風1919横山大観とともに明治日本画壇を背負った作家が伝
統的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記
念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。激
しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の
丸尚蔵館富岳茶園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本
画に透明感のある新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京都国立近
代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本画壇に独自の
新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立する富士。24
〃横山操東京・五島美術館朱富士1966第二次大戦後の日本画
壇をリードした新星。多くの富士を描いたが、赤富士と電光の対
比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士1982第二次大戦後の
日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた。郷土山形や大自然に
魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代美術館面構葛飾北斎数年
前に没したが、最も現代日本画界をリードした女流画家。本図は
女史のライフワーク面構シリーズの一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁
三の丸尚蔵館富士1894アマチュアながら当時の技術を駆使し
た大版写真を御成婚25年記念に皇室に託した。〃岡田紅陽山梨

104 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:36:47.52 ID:f+98COVJ.net
蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋
派宋紫石東京国立博物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家よ
り写生的花鳥画を学び、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴大分
・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国を遍歴、布教した。禅
画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景18
31世界的に著名な浮世絵師。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文芸に大きく

105 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:42:13.87 ID:x4//S+yB.net
「大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものが
たり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)
紫式部むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむ
らさき)」(平安)藤原兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太子伝暦
しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※作者不詳(平安)「平
中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語ものがたり」(
鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳
「源平げんぺい盛衰記せいすいき」(鎌倉)※未詳「承久記じょ
うきゅうき」(鎌倉)浅井あさい了りょう意い「東海道名所記」
(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ原作(室町)「富士山ふじさ
ん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽草紙「富士の人穴ひと
あな草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※作者不詳(江戸)「竹斎ち
くさい」滑稽本十返舎一九じっぺんしゃいっく(江戸)「東海道
中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ」仮名垣魯文かなかきろ
ぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣こっけいふじもうで」26浄瑠
璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記
」竹田たけだ出雲いずも・三好松洛みよししょうらく・並木千柳
なみきせんりゅう(江戸)「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうし
んぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ(明治−大正)「富士山ふ
じさん」(「ふじの山」)海野うんの厚あつし(明治−昭和)「
背せいくらべ」随想・随筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折
おりたく柴しばの記」田山たやま花袋かたい(明治−昭和)「富
士を望む」小島烏水こじまうすい(明治−昭和)「すたれ行く富
士の古道」、「不二山ふじさん」永井ながい荷風かふう(明治−
昭和)「日和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和
)「富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明
治−大正)「富士の大観」中村星湖なかむらせいこ(明治−昭和
)「少年行しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)
「富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや
(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合直
文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆき」夏目漱石
なつめそうせき(明治−大正)「三四郎さんしろう」「虞美人草

106 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:47:55.97 ID:x4//S+yB.net
わ丈山じょうざん(江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけ
らが花」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣も
とおりのり長なが(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すず
のや集」契沖けいちゅう(江戸)「詠富士山百首和歌」村田むら
た春海はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しまぎあかひこ
(明治−大正)土井どい晩翠ばんすい(明治−昭和)「大敵迫る
」斉藤さいとう茂吉もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路」前
田まえだ夕暮ゆうぐれ(明治−昭和)「富士を歌ふ」若山わかや
ま牧水ぼくすい(明治−昭和)「海の声」北原きたはら白秋はく
しゅう(明治−昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かねこ光晴みつ
はる(明治−昭和)「富士」「五つの湖」草野心平くさのしんぺ
い(明治−昭和)「富士山」小野おの十とお三郎ざぶろう(明治
−平成)「重油富士」「風景詩抄」28俳句松尾まつお芭蕉ばし
ょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん(江戸)小林こば
やし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)「宇良うら富士紀
行」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子たかはまきょし(明
治−昭和)飯田いいだ蛇笏だこつ(明治−昭和)「山りょ集」富
安風生とみやすふうせい(明治−昭和)水原みずはら秋桜子しゅ
うおうし(明治−昭和)「葛飾」永井ながい荷風かふう(明治−
昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さんき(明治−昭和)「
旗」「変身」渡辺わたなべ水すい巴は(明治−昭和)「富士」加
藤楸邨かとうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」「慟哭」「都塵
抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)評価基準への適合
性証明1)条約上の遺産種別「富士山」は、世界遺産条約第1条
及び『世界遺産条約履行のための作業指針』(以下、『作業指針
』という。)第45項に規定にする「記念工作物」、「建造物群
」及び「遺跡」に該当する。2)評価基準への適合性証明以下に
示す理由に基づき、「富士山」には、世界遺産一覧表への記載の
ための評価基準のうち(B)、(C)、(E)が適用できる。評
価基準(B)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化
的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なく
とも希有な存在)である。評価基準(B)の適用富士山では神聖

107 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:48:11.99 ID:f+98COVJ.net
わこう治じ良ろう(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人間にんげんの運命う
んめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くずれ」27詩歌伝柿本かきのもと
の人麻呂ひとまろ(飛鳥−奈良)「柿本集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「
万葉集まんようしゅう」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たか
はしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「清きよ正ただ集」在
原業平ありわらのなりひら(平安)「業平集」藤原ふじわらの公きん任とう(平安
)「公きん任とう集」藤原ふじわらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首
」「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(平安−鎌倉)「
明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊とし成なり(平安−鎌倉)「(藤原兼
ふじわらのかね実ざね)右う大臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹
後守為忠朝臣家百首」慈じ円えん(平安−鎌倉)「拾玉集」西行さいぎょう(鎌倉
)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」源実朝みなもとのさねとも(鎌倉)「金
槐和歌集きんかいわかしゅう」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんいん
の四条しじょう五百首ごひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅうきゅう(室町)「梅香
無尽蔵」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和歌集」水無瀬みなせ氏成うじなり(安土桃
山−江戸)「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはまおみ(江戸)田安宗たやすむ
ね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山はやしらざん(江戸)「丙辰へいしん
紀行」石川いしかわ丈山じょうざん(江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけ
らが花」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もとおりのり長なが
(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すずのや集」契沖けいちゅう(江戸)「
詠富士山百首和歌」村田むらた春海はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しま
ぎあかひこ(明治−大正)土井どい晩翠ばんすい(明治−昭和)「大敵迫る」斉藤
さいとう茂吉もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路」前田まえだ夕暮ゆうぐれ(
明治−昭和)「富士を歌ふ」若山わかやま牧水ぼくすい(明治−昭和)「海の声

108 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:53:38.08 ID:x4//S+yB.net
礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あ
るいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵
画や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が
成立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さらに
多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼ばれる
富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、18世紀後
半から19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の神聖な山と

109 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:53:54.16 ID:f+98COVJ.net
は他界(死後世界)とされてきた。このため富士山では富士山の神(※1)を祀っ
た山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下の絵図(類似の登山案内図が数
多く作成された)に示されたように、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参詣
する「登拝」を中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山活動によって生成され
神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修行
することで治病・除災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消して生まれ変わる
(擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と呼ばれる行為(儀礼・活動)が成
立し、18〜19世紀にかけて富士山は体系化された登拝のための宗教施設も含め
、大規模な大衆による宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然へ
の畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)や仏教(特に密教
)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表する遥拝及び登拝・登山の様式は今日
でも命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士
登山の特徴を成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社に対する信仰や
今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継がれ、富士山は日本を代表する神聖
な山として知られている。(※1)この神は、1868年の神仏分離令まで神仏習
合の影響を受け仏の化身と考えられていた。また、この神は一つの神に限定されず
、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名称を持ついくつかの神または仏が信仰さ
れていた。(※2)「禅定」とは本来は心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑
想・状態、あるいはその結果仏と一体化することを示す言葉であり、その後、主に
修験道において富士山などの霊山に登って修行することも意味するようになった。
写真「絹本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅
図」(16世紀ごろ)評価基準(C)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集
合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。評価基準(
C)の適用富士山では、富士山信仰の形成の中で神社等の建築群・登山道・宗教

110 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:59:20.35 ID:x4//S+yB.net
の証明の結果として、「富士山」は以下に記す観点から顕著な普
遍的価値を持つ。顕著な普遍的価値の言明富士山は、日本を代表
し象徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山
として世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤と
して日本人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた
葛飾北斎や歌川広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵
」などの日本独特の芸術文化を育んだ「名山」である。富士山は
、山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超え
て一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝
統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係
を示す景観の傑出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著
な普遍的価値を持つ山である。富士山の山体とその周辺の地域に
は、宗教的な儀礼・活動の場となった神社、登山道と関連遺跡群
、霊地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残され、そこ
での儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰
の核心が継承されている。また、富士山信仰の中で山体・樹叢・
湖沼などの自然環境を基盤とし、体系化された神社等の建築群・
登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成
立した。これが発展し、18〜19世紀にかけて富士山は大規模
な大衆による宗教的登山及びその体系の典型的存在となり、この
体系の核心は現代の登山に継承されている。現在でも、富士山は
日本を代表し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ
「名山」である。加えて、富士山と周辺の特徴的な自然が醸成す
る美しさと崇高さは、信仰上の景観として捉えられただけでなく
、古くから様々な芸術活動の母胎となり、「万葉集」をはじめと
する日本固有の和歌や俳句、絵画などの対象として日本人に良く
知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海外に
も広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えてきたもの
である。さらに、これらの芸術と富士山やその景観美を紹介した
外国人の著作を通じて、富士山が一つの国の文化を代表する「名
山」であることは国際的に認知されるに至っている。34写真写
真本栖湖からの富士山三保松原からの富士山c)比較検討による

111 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 18:59:36.29 ID:f+98COVJ.net
岳やアジア地域の山岳においても形態は異なるとはいえ山を神聖視することをその
根本に据えた文化的伝統が数多く行われている。したがって、富士山は顕著な普遍
的価値を持つ生きた伝統と直接的・実質的に関連がある景観である。・顕著な普遍
的意義を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立峰である富士山の周囲には湖や
海と組み合わされた富士山の優れた景観を望む展望地があり、今日に至るまで多く
の芸術作品を創造する場となった。これらの富士山を題材にした芸術作品のうち

112 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:05:02.44 ID:x4//S+yB.net
。2)海外同種資産の特定同種資産の特定にあたっては、評価基
準に関するものとしては、@「信仰の山会議」で信仰の山と紹介
されている山岳、評価基準に関するものとしては、A世界遺産リ
ストの概要で芸術への明確な関連性が示されている山岳、B海外
の専門家による研究書等で芸術の山として紹介されている山岳等
を抽出した。また、両方の基準に関するものとしては、Cイコモ
スによる研究書「FillingtheGaps」の類型別分析
・テーマ別分析、D文化的景観に関する研究書の分析を行った。
具体的には、Bでは、の三つの文献を対象として資産を抽出した
。Cでは、「文学・芸術への関連性、演劇」、「聖なる山」、「
アジア・太平洋地域の土着信仰」に関する山岳等を抽出した。D
では、ユネスコ世界遺産センターから刊行されたPeterJ.
Fowler氏による研究書の中で、山が特徴として挙げられて
いる資産のうち、「美的資質」、「集団のアイデンティティ」、
「信仰、聖地、神聖性」の特徴を持つ資産を抽出した。以上より
、富士山の比較対象とする海外の同種資産は表1の34件となる
。その中では富士山との共通性のあるものに、共通性の大きいも
のにがしてある。信仰面では、上記の無形的側面での共通性があ
るもの、芸術面では山自体が絵画の題材とされ、画派等を生むな
ど、美術史への影響力があるものを共通性が大きいとしている。
が付された比較対象について、1)で示した比較軸である信仰の
物証(自然的特性、有形的側面、無形的側面)、芸術作品との関
連性により、同種資産を整理すると表2、表3のとおりになる。
36表1:比較対象とした海外の山岳等(34件)番号山名資産
名評価基準国名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュタウルル−カタ・
ジュタ国立公園オーストラリア2サバラン山サバラン−イラン3
スライマン−トースライマン−トー聖山キルギス4プーカオ山チ
ャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産
群ラオス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山、オトゴン・
テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブルカン・カル
ドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6ヒマラヤ山脈サガ
ルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナウルホエ山、

113 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:05:18.33 ID:f+98COVJ.net
こでの儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承さ
れている。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周辺の景観は、類いまれな美
しさ、神聖な空間として認知され、日本における自然美の典型として、多くの人々
に世界の山の中でも最も著目なアイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍
的意義を持つ芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美は、近現代の西洋美術
に影響を与えた芸術的作品などに「関連する景観」である。信仰の山については、
2001年9月に和歌山県で開催された国際会議「アジア・太平洋地域における信
仰の山の文化的景観に関する専門家会議」(以下、「信仰の山会議」という)にお
いて、信仰の山の認定及び保護に関する様々なテーマと問題が討議された。ここで
、信仰の山の遺産としての価値は、有形的価値、無形的価値の形態をとって現れる
とされた。また、信仰の山の自然的特性についても評価が可能とされた。信仰の山
会議で示された指標を参考に、富士山の顕著な普遍的価値を表す要素を勘案して、
自然的要素としては、「形状・標高」(独立峰かどうか、富士山と同程度の標高か
)、「岩盤や岩(洞窟を含む)・水域」「火山」(火山であることに由来する特徴
的な風穴・湧水地・湖沼などがあるか)、有形的価値としては、「洞窟」「歴史的
な巡礼路又は参詣道」「神社」「寺院」「眺望・展望地」がそれぞれ存在するかど
うか、無形的価値としては、「継続性」(崇拝儀礼などが今も行われているか)、
「存在」(山自体が信仰の対象か)、「慣習」(登拝、遙拝を行っているか)、「
アイデンティティ」(山自体が国、民族の象徴となっているか)、「知名度」(富
士山と同程度(山頂までの登山者が30万人、山麓が4,000万人)の訪問者が
あるか)、といった観点から、評価することとする。同様に、顕著な普遍的意義を
持つ芸術的作品との関連性については、山の景観美が芸術作品を産み出す母胎とな
ったかどうか、またそれらの作品群が海外にも広く知られ、世界史に大きな影響を
35与えたかどうか、といった観点から、評価することとする。2)海外同種資

114 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:10:43.62 ID:x4//S+yB.net
山・マオリにとってこれらの山は文化的・宗教的な重要性を持っ
ており、そのコミュニティと環境との間の精神的なつながりを象
徴している。・山自体が信仰の対象であり、遙拝といった信仰形
態をもつ。8泰山・参詣道、寺院・小泰山(山頂まで登れない人
が泰山の代わりに祈る場所)・儒教・仏教・道教の聖地である。
・秦の時代より、皇帝即位の際の儀式である「封禅の儀」を執り
行っていた。・宗教施設が山頂、山中に点在するため、参拝が登
山の形態をとるが、登山行為自体に宗教的な意義を求める登拝と
は異なるものである。11廬山参詣道、寺院・中国の近代政治上
、重要な場所とされている。・山自体ではなく、山に築かれた宗
教施設が信仰の対象である。・仏教、道教、儒教の聖地とされ、
キリスト教、イスラム教の施設も建てられている。12峨眉山・
同程度以上の標高(万仏頂3099m)・参詣道、寺院・中国に
おける仏教の最初の聖地。・山に築かれた宗教施設や日の出・ブ
ロッケン現象といった自然現象が信仰の対象。宗教施設が山頂・
山中に点在するため、参拝が登山の形態をとるが、登山行為自体
に宗教的な意義を求める登拝とは異なる。13武夷山・参詣道、
寺院・南中国での道教と新儒教の源であり、朱子が生涯の大部分
を過ごした地である。・山自体ではなく、山に築かれた宗教施設
が信仰の対象。16五台山・同程度以上の標高(葉頭峰3058
m)・参詣道、寺院、小朝台(朝台を簡略化した祈る場所)・中
国仏教四名山の一つで、文殊菩薩が悟りを開いた地とされる。・
自然景観を神聖なものとしているが、5つの台頂に築かれた寺院
に参詣すること(「朝台」)が最大の願いである。20漢拏山・
独立峰、火山・参詣道・韓国の最高峰の火山で、聖なる儀式の場
としても使用された溶岩洞窟を多く持つ。・山自体よりも山中の
石に対する信仰が強い。21アダムスピークストゥーパ、沐浴場
・釈迦が訪問した地とされる。・山頂に聖なる足跡があり、仏教
、ヒンドゥー教、イスラム教それぞれの聖地とされ、巡礼者が訪
れる。25シナイ山修道院・シナイ山は、旧約聖書において、モ
ーセに神からユダヤ教の聖典と十戒が渡された場である。28ア
トス山寺院、修道院・古代ギリシャの聖なる山であった。・10

115 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:11:02.78 ID:f+98COVJ.net
20漢拏山済州火山島と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピークピ
ーク野生保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス山脈−スリランカ22
アパラチア山脈グレート・スモーキー山脈国立公園アメリカ23キラウェア山ハワ
イ火山国立公園アメリカ24ロッキー山脈カナディアン・ロッキー山脈自然公園群
、恐竜州立自然公園、ウォータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエロー
ストーン国立公園カナダ・アメリカ25シナイ山聖カトリーナ修道院エジプト26
サント・ヴィクトワール山サント・ヴィクトワール山とセザンヌに関連する土地−
フランス27ペルデュ山ピレネー山脈−ペルデュ山スペイン及びフランス28アト
ス山アトスギリシャ29オリンポス山オリンポス山周辺−ギリシャ30ドロミテ山
塊ドロミテイタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア32ワスカラン
山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(ユングフラウ−アレッチュ峰
、ビチホルン峰ほか)スイス・アルプスユングフラウ−アレッチュスイスアジア・
太平洋地域以外34キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア37表2
:信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有形的側面無形的側面1ウル
ルカタ・ジュタ・ウルルは単一の岩石・アボリジニにとって、ウルル−カタ・ジュ
タの岩は伝統的な信仰の中で不可欠なものである。・山自体が信仰の対象であり、
遙拝といった信仰形態をもつ。3スライマン−トー・参詣道、岩面陰刻・中央アジ
ア随一の聖なる山とされ、ムスリムの聖地である。前イスラム教とイスラム教を融
合した信仰形態が残る。・山頂を目指すという行為自体に宗教的意義付けがない(
登拝といった信仰形態をもたない)。4プーカオ山寺院、山頂のリンガ(シバ神の
象徴)・シバ神の住む山である。・山頂から麓の川に至るまでに建てられた寺院群
はヒンズー教の宇宙観を表現する配置である。6ヒマラヤ山脈・同程度以上の標高
(エベレスト8848m)・修道院、寺院・神々の住処として崇拝される空想的な
山であるメール山(スメール山、須弥山)が地上に顕現・チベット仏教、ボン教

116 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:16:25.78 ID:x4//S+yB.net
ウルル等に代表されるような)原始的な山岳信仰のあり方から、
(泰山等の中国の山々やアトス山やシナイ山等に代表されるよう
な)多様な宗教の介入によって生み出された信仰のあり方まで、
そのいずれも失うことなく現在に至るまで継承している。信仰に
関連する山の多くは、山自体ではなく、山麓に点在する宗教施設
や石仏が信仰の対象であり、そうした宗教施設等を参詣するため

117 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:16:41.82 ID:f+98COVJ.net
5895m)・地域の神が住む場所と考えられ、東アフリカの人々は死者を埋葬す
る。・チャガ族(キリマンジャロ山麓に居住する部族)は、神の住む場所としてお
り、彼らの伝承や慣習には、山への高い敬意が表されている。38表3:芸術関連
の山岳等番号山名芸術作品との関連性8泰山・数多くの詩や文が残る。・山頂の風
景が紙幣の図柄になるなど、中国人の精神的シンボルと捉えられている。9黄山・
絵画は数多く描かれ、黄山画派と呼ばれた。11廬山・山水画、山水詩は多数作ら
れ、特に「観瀑図」は日本の画家にも大きな影響を与えた。22アパラチア山脈・
フレデリック・チャーチやトーマス・コールといったアメリカの風景画家に描かれ
ている。24ロッキー山脈・19世紀のアメリカ人画家、アルバート・ビエスタッ
ドの描く絵画は、ロマン主義運動の理念を最も劇的に具現化しており、”ロッキー
マウンテン画派”の指導者であった。・富士山と同程度以上の標高(エルバート山
4401m)26サント・ヴィクトワール山・20世紀の初頭、フランス人画家、
ポール・セザンヌによって、風景画に対して根本的に異なるアプローチが始められ
、西洋美術作品の中でも最も有名な山となった。27ペルデュ山・この風景は生活
の伝統(牧畜との暮らし、国境の文化、ピレネー独特の文化)と芸術・文学作品が
関連して、顕著な普遍的価値を構成。(レイモンド・デ・カルボニエ、ヘンリー・
ラッセル、ヴィクトル・ユゴー等)。・ヨーロッパ芸術の中でロマン主義が発展し
ていく上で重要な役割を果たした。・富士山と同程度以上の標高(3352m)3
3スイスアルプス(ユングフラウ峰、ビーチホルン峰、ほか)・印象的な風景はヨ
ーロッパ芸術、文学等において重要な役割を担った。・レオナルド・ダ・ヴィンチ
はモンテ・ローザのスケッチをモナリザの背景として描いた。・富士山と同程度以
上の標高(フィンスターアールホルン4274m)3)国内同種資産の特定同様の
方法で、日本国内の資産について、世界遺産登録物件または暫定リストから抽出す
ると、表4のとおり3つの山が考えられ、特に共通性が認められる2件について

118 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:22:06.90 ID:x4//S+yB.net
な題材とする作品が多い。富士山は、和歌や俳句、絵画、文学の
多くの分野においても、数多くの作品を輩出し、その中には葛飾
北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」のように西洋の美術史に大きな影
響を与えた作品もある。その多様性や生み出した芸術作品の影響
の大きさの面でも富士山の優位性は明らかである。(4)結語こ
のように、富士山においては、登拝等により、信仰の核心が現代
の多くの人たちに受け継がれ、また、浮世絵等により、近代の西
欧芸術史に大きな影響を及ぼした。富士山は、信仰のあり方、芸
術の両面で、古代から現代まで影響を与えている唯一の山であり
、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山岳である。
42d)真実性及び完全性1)完全性推薦資産の範囲は、「ある
文化的伝統の存在を伝承する物証として希有な存在」として神聖
視され、「歴史上の重要な段階を物語る景観を代表する顕著な見
本」として認知された富士山の範囲が適切に確保されているとと
もに、「顕著な普遍的意義を有する芸術的作品及び文学的作品と
の直接または実質的な関連性」を示す富士山体の範囲も、数々の
顕著な普遍的意義を有する作品に共通して描かれた最大の範囲に
相当しており、資産の重要性を伝える諸要素・過程を完全に表す
上で適切な範囲が確保されている。(図面挿入:主要な展望地点
から見た資産範囲を示した正面図)また、登山道、神社並びに富
士五湖などの儀式・修行・巡礼の場や、適切な展望線を確保した
主要な展望地点といった、顕著な普遍的価値を表すのに必要な全
ての要素を包含している。登山道は、信仰登山が盛んに行われて
いた18〜19世紀に認識されていた登山道を全て含み、登山道
の起点となる浅間神社も不足なく資産に含まれている。その他、
御室浅間神社や河口浅間神社といった富士山信仰を語る上で欠か
すことの出来ない重要な浅間神社や、富士講を迎えて登拝の世話
を行った御師の住宅、富士講がオプショナル・ツアー的に巡礼・
修行を行った地として代表的な湖沼、滝、風穴・溶岩樹型も全て
資産を構成する要素として推薦範囲に含めている。それらは、周
辺に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定しており、負の影響を与え
る可能性の行為に対して適切な法的規制を行うとともに、包括的

119 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:22:22.93 ID:f+98COVJ.net
は、世界遺産一覧表には一般の人々が一様に認めている火山の多くが含まれていな
いことは興味深いとし、その例として、イタリアのエトナ火山や富士山などを挙げ
ている。とくに富士山は、火山とその周辺地域に訪れる年間の観光客が地球上のど
の火山よりも多い点で重要とされている。こうしたギャップを埋めるために、知名
度、科学的重要性、文化及び教育的価値を基準に個々の長所を検討すべきとしてい
る。41(2)海外の芸術関連の山岳との比較独立峰であり、高い標高を持つ富

120 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:27:49.00 ID:x4//S+yB.net
石碑などの状況証拠から、内八海巡りや富士御手洗元八湖が行わ
れていたことがわかっている。人々の信仰心を駆り立てた湖沼の
水そのものは、顕著な普遍的価値の核心として現在に継承されて
いる。さらに、周辺環境においても、自然公園法や景観法に基づ
く景観計画などにより風致景観との調和を図る景観保全が行われ
ており、景観全体の真実性は確実に保証されている。白糸ノ滝に
おいては、長谷川角行の修行地がどこであったかを明確に示す文
献はないが、富士講講徒が滝壺で修行したことは講徒の記録及び
その挿図で確認できる。船津胎内樹型及び吉田胎内樹型の中には
祠などが祀られ、穴自体を神聖視する精神、宗教空間としての機
能は現在も受け継がれている。入洞者の安全のため、船津胎内樹
型の入り口部分は改変が加えられているが、それ以外の形状・位
置の真実性は、自然崩落の場合を除き、確実に継承されている。
人穴富士講遺跡においては、碑塔のほとんどに建立者、講の名称
や年号(創建年号や関係者の死亡年号)などが記載されており、
真実性に疑いの余地はない。444.保全状況と資産に与える影
響a)現在の保全状況「富士山」の17個の構成資産については
、すでに多くの修理や整備の事業が適切に行われており、自然的
な要因に基づく一部の資産を除き構成資産の保存状況も良好であ
る。特に神社の建造物及び境内については、所有者である宗教法
人により適切な維持的措置が恒常的に行われており、保存状況は
良好である。1)資産全体の保全状況(1)主要な展望主要な展
望としての構成資産は、本栖湖と三保松原であり、展望点及びそ
こから展望した山体の大部分である。展望面に関しては本栖湖の
場合構成資産に含まれており、三保松原の場合は展望点より山体
まで距離の距離が約45qと遠方であり、かつ、その間のかなり
の部分が海面及び人口密集地(富士市市街地)であるため、展望
点より山体までの範囲は構成資産に含めてはいない。現状におい
てこれらの資産範囲及び展望面は三保松原の一部を除き良好な状
態を保っている。これらの資産範囲については、信仰の核心であ
る御中道より上の範囲は文化財保護法(特別名勝及び名勝)及び
自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域)により厳密に保

121 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:28:08.07 ID:f+98COVJ.net
範囲の緩衝地帯を設定しており、負の影響を与える可能性の行為に対して適切な法
的規制を行うとともに、包括的保存管理計画の下に保全又は改善のための対策を明
示している。したがって、資産の周辺環境の保全に関する完全性も揺らぎはない。
2)真実性推薦資産は、所有者をはじめ、国及び地方公共団体によって適切な維持
管理が行われ、文化資産としての価値を失することなく良好な状態を保っている。
以下に、『世界遺産条約履行のための作業指針』第82項に示された文化遺産の評
価に適用される真実性の属性に基づいた、構成資産の種類ごとの分析を示す。(1
)富士山体(遺跡(site))富士山は、1707年を最後に噴火しておらず、
以降、形態に変更はない。また、今後噴火によって形態上の変化が起こったとして
も、富士山の荒ぶる姿は人々の信仰心を鼓舞し、芸術活動に駆り立てることから、
真実性が損なわれるものではなく、むしろ、有史以来時代を超えて、精神・機能の
観点からみた真実性は確実に維持されている。神聖性が最も高いとされる、山体中
腹以上の核心となる区域には、文化財保護法により厳格に保護されているほか、そ
の周辺地域や展望線及び主要な展望地点は、自然公園法などの国内法により展望・
眺望への妨げとなるものの除外や風致景観との調和を図る景観保全が行われており
、景観全体の真実性は確実に保証される。また、登山道や山小屋、信仰関連遺跡な
どの諸要素が総体的な登拝システムを構築し、その機能は良好に遺存している。登
山道は、人為による現状の変更には厳しい規制がかけられており、地下に埋もれた
遺構を含め、価値の真実性の伝達については、将来にわたり確実に保証されている
。また、宗教空間としての用途・機能を何百年も維持してきた。レクリエーション
のために登43山を行う人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信仰
の核心の証左として、それらは機能している。(2)神社・御師住宅(記念工作物
・建造物群・遺跡(site))神社について、建築の歴史的価値を表す平面形式
、構造様式、内外の立面意匠は顕著な普遍的価値を表す時代のままである。近代

122 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:33:31.12 ID:x4//S+yB.net
存在する個々の歴史的建造物の保存修理事業を行うに当たっては
、文化財保護法の下に、それらの歴史に関する調査、伝統技法に
関する調査、地下遺構に関する発掘調査、破損状況及びその原因
に関する調査など、事前の学術調査を周到に行い、その結果に基
づいて、所有者・学識経験者・行政経験者等から成る修理及び整
備委員会における保存修理や環境整備の方針の決定及び指導に基
づき実施している。また、それらの修理完了後には、修理に係る
記録をまとめた修理工事報告書を刊行している。さらに、重要文
化財である建造物については、火災による焼損防止のために自動
火災報知設備及び各種の消火施設・避雷施設を設置し、防火・消
火に関する組織の運営についても万全を期している。また、建造
物の所有者である宗教法人及び市並びに個人は、県又は各市町村
が策定した保存活用計画に基づいて、それらの確実な保存管理に
当たっている。また、建造物の軽微な補修等の日常管理について
は、所有者の依頼により、専門の建築技術者によって実施されて
いる。(4)その他信仰関連遺跡(遺跡(site))これらの
構成資産は、湖沼、風穴・溶岩樹型、滝・湧水、石造工作物(人
穴の碑塔)である。これらの構成資産については、その自然的価
値から湧玉池が特別天然記念物に、白糸ノ滝が名勝及び天然記念
物に、富士五湖が名勝に、風穴・溶岩樹型及び忍野八海が天然記
念物に指定されているとともに、その一部が史跡に指定されてい
る。これらの構成資産については、県及び市町村が、各史跡等の
規模・形態・性質・立地・環境等に応じて保存管理計画を策定し
、確実な保存管理に当たっている。したがって、各史跡等を構成
する諸要素及びそれらと一体をなす周辺の地域は、良好な状態を
保っている。さらに、指定地内で行われる現状変更等については
、文化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている。2
)構成資産の保全状況(A)山体(眺望の対象である富士山、あ
る文化的伝統を伝承する物証である、連続性のある資産としての
富士山)登録範囲における自然的環境については、おおむね良好
な状態である。資産範囲の上部は文化財保護法(特別名勝)及び
自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域、第2種特別地域

123 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:33:47.05 ID:f+98COVJ.net
体までの範囲は構成資産に含めてはいない。現状においてこれらの資産範囲及び展
望面は三保松原の一部を除き良好な状態を保っている。これらの資産範囲について
は、信仰の核心である御中道より上の範囲は文化財保護法(特別名勝及び名勝)及
び自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域)により厳密に保全され、下部(
標高1500〜2000m以下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、
第1〜3種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護されて
いる。また、展望面の周辺部については自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特
別地域、普通地域)及び森林法(保安林)、景観法に基づく景観条例、景観計画に
より保護されている。これらの法令の許可制に基づく保護により、景観面に関して
資産に影響のある開発は厳重に管理されている。また、資産範囲及び緩衝地帯に含
まれていない三保松原の展望面についても海面において実質的に開発行為は起りえ
ず、市街地においても景観法に基づく景観条例、景観計画により保護されているた
め、特に問題は生じない。(2)登山道(遺跡(site))これらの構成資産は
富士山体及びそこに所在する登山道である。これらの構成資産については、真実性
及び完全性が担保できる部分が史跡に指定されるとともに、その大部分の範囲が特
別名勝に指定されている。これらの構成資産については、県が、各史跡及び特別名
勝としての保存管理計画を策定し、構成資産の所在する市町村とともに確実な保存
管理に当たっている。したがって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体を
なす周辺の地域は、良好な状態を保っている。さらに、指定地内で行われる現状変
更及び保存に影響を及ぼす行為(以下、「現状変更等」という。)については、文
化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている(富士山体の保護措置につ
いては次項で詳しく述べる。)。(3)神社・御師住宅(記念工作物・建造物群・
遺跡(site))これらの構成資産はいずれも社殿などの木造建造物を中心とし
ている。それら内のいくつかは、富士山本宮浅間大社本殿などのように重要文化

124 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:39:12.25 ID:x4//S+yB.net
を与えている。また、松原においてもマツクイムシ(マツノザイ
センチュウ)による松枯れがみられるため、薬剤注入・散布によ
る予防措置及び植林、枯れた松の除去が実施されている。現在こ
れらの対策により、資産の現状を保ち、将来においてはより良好
な保全状態となることは確実である。なお、三保松原の象徴的存
在である羽衣の松は1707年の宝永噴火とその前後の地震によ
り初代とされる松が失われたため、現在の松(樹齢約650年)
を指定した。しかし、この松も台風による幹の損傷で樹勢が衰え

125 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:39:28.24 ID:f+98COVJ.net
文化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている。2)構成資産の保全状
況(A)山体(眺望の対象である富士山、ある文化的伝統を伝承する物証である、
連続性のある資産としての富士山)登録範囲における自然的環境については、おお
むね良好な状態である。資産範囲の上部は文化財保護法(特別名勝)及び自然公園
法(特別保護地区及び第1種特別地域、第2種特別地域)により厳密に保全され、
下部(標高1500〜2000m以下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護
地区、第1〜3種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護
されているため、景観および文化的価値のどちらの点においても資産に影響を及ぼ
す行為は発生しない。た46だし、山体西側には山頂部付近から標高2200m付
近までを源頭部とする土砂崩れ(以下、「大沢崩れ」という。)が、約1000年
前より継続して発生している。このため山体西側の一部でかつての信仰に関わる道
(御中道)の通行等が禁止されている区域がある。山頂及び登山道周辺では、多く
の人々によって行われる登山行為に起因する廃棄物・し尿が発生するが、山小屋組
合などにより適切に管理・除去されている。なお、山腹において、山小屋の維持・
廃棄物の撤去のためにブルドーザーが通行する道路があるが、使用は必要最小限に
とどめられている。山頂部周辺の文化的環境についても、現時点における保全状態
は良好である。ただし、降雪・強風等に常時さらされるため、小規模な変更は常時
行われてきた。(A1)山頂信仰遺跡現時点における保全状態は良好である。(A
2〜5)登山道富士山は脆弱な火山地質であるとともに、雪崩・強風等に常時さら
されるため、登山の開始以降登山道小規模な経路の変更は常時行われていた。した
がって、継続的な観点における保全状態について明確に述べることはできない。し
かし、現在も登山道として使用されている部分については毎年登山期前に県、地元
保存会(須山口)又は山小屋組合により整備が行われ、適切な状態に保たれている
。(A6)北口本宮冨士浅間神社北口本宮冨士浅間神社は定期的な維持修理が行

126 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:44:53.35 ID:x4//S+yB.net
H20の38年間で約60m・3400メートル地点・523万
?・年13.8?の土砂が流出)。ただし、噴火・地震等がなけ
れば少なくとも200年後までは富士山の景観に大きな変化はな
いと予測されている(「富士火山」P407〜)。酸性雨を含む
大気汚染が引き起こす被害については、現段階では確認されてい
ない。白糸ノ滝では、滝自体の浸食により年2cmの割合で後退
しており、10年程度の間隔で自然崩壊が発生する。砂嘴である
三保松原では20世紀後半に土砂供給源の川での土砂採取が活発
になり、堆積活動が減少したことで海流による海岸浸食が進んで
いたが、現在は土砂採取の禁止等により、堆積活動が回復してい
る。また、三保松原における松にはマツクイムシ(マツノザイセ
ンチュウ)による被害が見られる。これに対しては、薬剤注入・
散布による予防措置及び植林、枯れた松の除去を資産の所在する
静岡市とNPO法人が行っており、被害の拡大を防止している。
3)自然災害と危機管理資産の所在地域における自然災害として
は、第一に富士山特有のものとして山体及び側火山からの噴火及
びそれに伴う噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥
流、降灰、降灰後の降雨による土石流などが予想されるとともに
、数年単位で発生する山体における雪崩(特に大量の水分を含ん
だ雪が流動する雪泥流)や大沢崩れ及びそれに伴う土石流、強風
、雨水による浸食などが考えられる。また、富士山を含む駿河湾
沿いの地域はM8クラスの海洋プレート内地震の発生が予測され
ている。第二に日本列島の太平洋側における一般的自然災害であ
る台風・大雨・洪水並びに火災等が予測されている。第三に三保
松原に関しては海岸浸食に伴う高潮などの被害がある。これらに
ついてそれぞれ以下のような防災対策を講じている。噴火及びそ
れに伴う災害に対しては、気象庁をはじめとする研究・防災機関
が常時観測を行うと同時に、国の富士山ハザードマップ検討委員
会報告書(2004年)に基づき県及び市町村において火山防災
計画(ハザードマップ・避難計画)などを策定している。雪崩に
ついては、吉田口登山道では馬返より上の登山道に浸透桝を設け
、雨水や雪崩による崩壊を防いでいる。土砂崩れ・土石流(主に

127 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:45:09.88 ID:f+98COVJ.net
界遺産両県協議会」(設置予定・仮称)では、両県の知事・市町村長を中心に、許
認可・保存に関わる国機関も加わり、開発の状況を把握し、コントロールのあり方
について検討を行う予定である。開発計画のうち、現在北麓(山梨県)においては
都市計画区域用途地域または都市計画区域外では5ha以上、都市計画内(用途地
域外)では10ha以上の計画については、山梨県内の組織である「山梨県土地利
用調整会議」に事前協議書が提出され、知事の同意が必要とされている。その同

128 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:50:34.70 ID:x4//S+yB.net
れている。(御殿場口はなし、須走口は1軒・東富士山荘)4)
来訪者及び観光の圧力富士山の構成資産のうち私有財産である小
佐野家住宅(御師住宅)を除いた資産はすべて公開されている。
ただし山体資産範囲については登山道及び山頂部以外は土地所有
者(国、県、富士山本宮浅間大社)の了解が必要であり、安全上
の観点からも県が登山道からの逸脱を好ましくない行為として事
実上立入を制限している。山体以外の資産については、き損・悪
戯・盗難等の被害から建造物等の構成資産を護るために、防犯警
備施設を設置するとともに巡視及び監視の体制を整備し(山宮・
村山・人穴等では防犯システムは採用されていない)、来訪者に
よるゴミの増加等に対しても地域住民や関係市町村が適切な管理
を行っていることから、観光による圧力が資産の価値を著しく低
下させるようなことは起こり得ない。山体に関しては、観光客に
よるごみ及びし尿、並びに自動車で訪れる来訪者(富士山スカイ
ラインでは4月〜11月の合計で年平均127,000台・19
99〜2009年、富士スバルラインで年平均410,000台
・2006〜2008年)による環境への負荷及び混雑の軽減を
目的に以下の対策を行った。ごみに関しては国・県及びNPO法
人(富士山ネットワーク・富士山クラブ)、ボランティアによ5
1る清掃作業が活発に実施されるとともに(平成20年実績・9
2回、約64t、延べ参加人数約7000名)、外国人も含め登
山者に対してマナー向上を呼びかけ、登山道周辺のごみは減少し
ている。山頂部で発生するごみについては山小屋組合(富士山吉
田口旅館組合等)により、山麓に搬出し、適切に管理・処理され
ている。し尿対策に関しては登山道及び山小屋のトイレ48箇所
を2006年までにバイオ処理式等に改良し、環境への負荷を軽
減した。さらに、登山者の増加や設備の老朽化に対応するため、
環境配慮型トイレ適正管理委員会を設けて対策を検討しており、
今後は業者と連携を密にしてメンテナンスをきちんとしていくこ
とが確認された。自動車に関しては、土日・休日を中心に各登山
道の利用者数に応じて自家用車の利用を規制し(利用者の多い富
士スバルラインで最大12日間、利用者の少ない御殿場口はなし

129 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:50:50.78 ID:f+98COVJ.net
の水分を含んだ雪が流動する雪泥流)や大沢崩れ及びそれに伴う土石流、強風、雨
水による浸食などが考えられる。また、富士山を含む駿河湾沿いの地域はM8クラ
スの海洋プレート内地震の発生が予測されている。第二に日本列島の太平洋側にお
ける一般的自然災害である台風・大雨・洪水並びに火災等が予測されている。第三
に三保松原に関しては海岸浸食に伴う高潮などの被害がある。これらについてそれ
ぞれ以下のような防災対策を講じている。噴火及びそれに伴う災害に対しては、気
象庁をはじめとする研究・防災機関が常時観測を行うと同時に、国の富士山ハザー
ドマップ検討委員会報告書(2004年)に基づき県及び市町村において火山防災
計画(ハザードマップ・避難計画)などを策定している。雪崩については、吉田口
登山道では馬返より上の登山道に浸透桝を設け、雨水や雪崩による崩壊を防いでい
る。土砂崩れ・土石流(主に大沢崩れ)については国が中心となり、源頭部におけ
る水分と土砂の分離、山麓における土石流災害防止を目的とした遊砂地の設置など
を行っている。また、登山道を管理する県では導流堤を設置し、落石の落下先をコ
ントロールしている。これらの災害は発生自体を防止することは困難であるため、
その被害を最小限にとどめることを対策の骨子としている。50地震に関する対策
としては、大規模地震対策特別措置法(1978年)に基づき、予知を目的とした
観測体制、予知を前提とした非難・警戒体制、防災施設整備が行われるとともに、
東海地震対策大綱(2003)に基づき国・県・市町村の防災計画が策定されてい
る。また、今後各神社等の耐震化が行われる計画となっている。台風は1996年
9月に富士山南側の人工林地区(ヒノキ)に風倒の被害(標高1100〜1200
m中心、計1125ha、富士山では約935haうち国有林620ha)をもた
らしたことがあるため、1997年より静岡県が中心となり、被害地に対して自生
種(ブナ・ミズナラ)の植栽(のべ22・68ha)を実施している。また、風倒
による被害を防ぐため人工林における下刈を実施している。大雨・洪水に関して

130 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:56:15.90 ID:x4//S+yB.net
山の指定予定(A7)西湖1936年2月1日:富士箱根国立公
園の指定(名勝富士五湖の指定予定55(A8)精進湖1936
年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定
(A9)本栖湖※本栖湖からの展望面含む1926年2月24日
:天然紀念物富士山原始林の指定1936年2月1日:富士箱根
国立公園の指定(2010年3月8日:天然記念物富士山原始林
及び青木ヶ原樹海の指定名勝富士五湖の指定予定(B1)富士山
本宮浅間大社1907年5月27日:特別保護建造物浅間神社本
殿の指定1944年11月7日:天然紀念物湧玉池の指定195
2年3月29日:特別天然記念物湧玉池の指定史跡富士山の指定
予定(B2)山宮浅間神社史跡富士山の指定予定(B3)村山浅
間神社史跡富士山の指定予定(B4)須山浅間神社史跡富士山の
指定予定(B5)冨士浅間神社(須走浅間神社)史跡富士山の指
定予定(B6)河口浅間神社史跡富士山の指定予定(B7)冨士
御室浅間神社1985年5月18日:重要文化財冨士御室浅間神
社本殿の指定史跡富士山の指定予定(B8)御師住宅1976年
5月20日:重要文化財小佐野家住宅の指定重要文化財旧外川家
住宅の指定予定(B9)山中湖561936年2月1日:富士箱
根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定(B10)河口湖1
936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指
定予定(B11)忍野八海1934年5月1日:天然紀念物忍野
八海の指定(B12)船津胎内樹型1929年12月17日:天
然紀念物船津胎内樹型の指定(B13)吉田胎内樹型1929年
12月17日:天然紀念物吉田胎内樹型の指定(B14)人穴富
士講遺跡史跡富士山の指定予定(B15)白糸ノ滝1936年2
月1日:富士箱根国立公園の指定(1936年3月6日:名勝及
天然紀念物白糸ノ滝の指定(C)三保松原1922年3月8日名
勝三保松原の指定1977年4月1日名勝三保松原の一部指定解
除1990年3月29日名勝三保松原の追加指定及び一部指定解
除c)保護の実施手段1)資産各構成資産については、遺跡、記
念工作物、建築物群のみならず、それらと密接な関連を持つ展望
線など、富士山の本質的価値を構成する諸要素を厳格かつ的確に

131 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 19:56:31.89 ID:f+98COVJ.net
国・県及びNPO法人(富士山ネットワーク・富士山クラブ)、ボランティアによ
51る清掃作業が活発に実施されるとともに(平成20年実績・92回、約64t
、延べ参加人数約7000名)、外国人も含め登山者に対してマナー向上を呼びか
け、登山道周辺のごみは減少している。山頂部で発生するごみについては山小屋組
合(富士山吉田口旅館組合等)により、山麓に搬出し、適切に管理・処理されてい
る。し尿対策に関しては登山道及び山小屋のトイレ48箇所を2006年までにバ
イオ処理式等に改良し、環境への負荷を軽減した。さらに、登山者の増加や設備の
老朽化に対応するため、環境配慮型トイレ適正管理委員会を設けて対策を検討して
おり、今後は業者と連携を密にしてメンテナンスをきちんとしていくことが確認さ
れた。自動車に関しては、土日・休日を中心に各登山道の利用者数に応じて自家用
車の利用を規制し(利用者の多い富士スバルラインで最大12日間、利用者の少な
い御殿場口はなし)、山麓の臨時駐車場と五合目駐車場間のシャトルバスによる輸
送を行っている。吉田口においては2011年夏には富士吉田IC付近に1400
台の駐車場を整備し、自家用車の利用規制を15日に拡大する予定である。5)資
産と緩衝地帯の居住者人口構成資産内人口:人緩衝地帯内人口:人合計:人集計年
:2010年No.構成資産の名称構成資産範囲内人口(人)緩衝地帯内人口(人
)合計(人)富士山A1山頂信仰遺跡A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A
4須走口登山道A5吉田口登山道A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A
A9本栖湖B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅
間神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社
B8御師住宅52B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B1
3吉田胎内樹型B14人穴冨士講遺跡B15白糸ノ滝C三保松原535.資産の保
護の管理a)所有関係各構成資産の所在地及び所有者については、以下に記すとお
りである。b)法に基づく指定保護資産を構成する重要文化財に指定された「記

132 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:01:57.92 ID:x4//S+yB.net
かの資産においては、資産範囲が文化財としての登録範囲よりも
狭く設定されているため、緩衝地帯の一部は文化財保護法により
保護されている。これらの地域では適用する法令等に違いはある
が、緩衝地帯において行われる建築物・工作物の新築、増築、改
築、土地の形質変更等に係る行為については、許可制ないし承認
制・届出制に基づく規制が定められ、資産の周辺環境の万全な保

133 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:02:13.80 ID:f+98COVJ.net
重要文化財冨士御室浅間神社本殿の指定史跡富士山の指定予定(B8)御師住宅1
976年5月20日:重要文化財小佐野家住宅の指定重要文化財旧外川家住宅の指
定予定(B9)山中湖561936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富
士五湖の指定予定(B10)河口湖1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定
(名勝富士五湖の指定予定(B11)忍野八海1934年5月1日:天然紀念物忍
野八海の指定(B12)船津胎内樹型1929年12月17日:天然紀念物船津胎
内樹型の指定(B13)吉田胎内樹型1929年12月17日:天然紀念物吉田胎
内樹型の指定(B14)人穴富士講遺跡史跡富士山の指定予定(B15)白糸ノ滝
1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(1936年3月6日:名勝及天然
紀念物白糸ノ滝の指定(C)三保松原1922年3月8日名勝三保松原の指定19
77年4月1日名勝三保松原の一部指定解除1990年3月29日名勝三保松原の
追加指定及び一部指定解除c)保護の実施手段1)資産各構成資産については、遺
跡、記念工作物、建築物群のみならず、それらと密接な関連を持つ展望線など、富
士山の本質的価値を構成する諸要素を厳格かつ的確に把握し、それらをすべて含む
範囲について、価値の中核をなす部分は文化財保護法の下に指定(特別名勝又は名
勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡)され、また、価値の中核
をなす部分を取り囲む地域の大部分は自然公園法の下に国立公園(国立公園、県立
自然公園)に指定している。これら範囲のうち、富士山の顕著な普遍的価値を証明
するために必要不可欠な範囲を資産範囲とした。これらの範囲の大部分においては
、国の許可無くそれらの現状を変更することはできない。文化財保護法、自然公園
法の及ばない地域は国有林であり、開発行為が行われることはない。また、森林法
に基づき森林の伐採に関しても適切な管理が行われている。文化財保護法の定める
ところにより、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重57要文化
財、史跡の保存管理・修理・公開については、所有者又は管理団体が適切に行う

134 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:07:39.13 ID:x4//S+yB.net
いては、たとえそれが緩衝地帯におけるものであってもできる限
り抑制することとし、やむを得ず設置する場合であっても、最小
限の数量・規模とするとともに、色彩等の観点から景観にも十分
配慮するよう関係者への理解と協力を求める予定である。なお、
既存の鉄柱・看板・広告塔など構成資産に影響を及ぼすものにつ
いては、撤去または修景に努め、公益上必要と考えられる施設に
ついては、現状の利用状況を尊重しつつ、将来的に撤去又は移転
等について検討するとともに、当面の間、資産に対する影響の軽
減を図ることとする予定である。図保存管理計画の構造図「富士
山」包括的保存管理計画62各構成資産の都市計画保存管理計画
等観光計画(山梨県・静岡県・各市町村)整備計画等632)保
存管理体制包括的保存管理計画に定めた上記の基本方針に基づき
、静岡県・山梨県と関係市町村は、広範囲にわたる富士山の構成
資産及び緩衝地帯を包括的保存管理計画に基づき統一的に管理す
るため「富士山世界遺産両県協議会」(以下「両県協議会」とい
う。仮称)及びその支部組織である「静岡県世界遺産協議会」・
「山梨県世界遺産協議会」(以下両者をまとめて「各県協議会」
という。仮称)を設置し、各構成資産を成す重要文化財、史跡、
特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物の保存管理計
画を共通の基準に基づき確実に実行する予定である。両県協議会
及び各県協議会は、資産及びその周辺地域において、国・静岡県
・山梨県・関係市町村等・民間団体等が実施する予定の事業等に
ついての情報を総合的に把握し、それぞれの事業が、資産の保存
管理に負の影響を及ぼすことなく、適切に実施されるように関係
各機関の連絡・調整を行う。両県協議会・各県協議会における調
整結果に基づき、静岡県・山梨県及び関係市町村は、民間事業者
等に対して権限に基づく適切な指導や助言を行うこととする予定
である。また、両県協議会には国関係機関(文化庁・環境省・国
土交通省・防衛省・林野庁)、国内の大学及びイコモス会員等の
研究者・専門家が参加し、学術的な観点からの助言を行う予定で
ある。各県協議会の下には、各県庁内の実務担当者レベルの調整
組織として、静岡県(山梨県)庁内連絡会議を設置するとともに

135 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:07:54.98 ID:f+98COVJ.net
大臣の許可(特別地域)、届出(普通地域)自然公園法(県立自然公園)県立自然
公園条例三保松原(一部)工作物の新築等、ごみ捨て又は放置、木竹の採取、土石
の採取、車馬の乗り入れ等県知事の許可(特別地域)、命令景観条例及び景観計画
(景観法に基づく)富士市・富士宮市静岡市・忍野村・山中湖村・富士河口湖町建
築物の新築等、工作物の新設等、開発行為、土石の採取・堆積等(高さ・色彩・形
状を規制)市町村長への届出勧告、指導・要請(問題があった場合)景観条例(

136 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:13:21.07 ID:x4//S+yB.net
いる。なお、上記の補助金とは別に、2006年より構成資産の
整備活用及び保護に関する教育プログラムのための基金を設けて
おり(「富士山基金」)、基金には国内の経済界を中心に民間か
らの資金提供も行われている。g)保全及び保存管理の技術にお
ける専門的知識及び研修構成資産の保存管理については、所有者
(宗教法人を含む)をはじめ、静岡県・山梨県教育委員会及び各
史跡等の管理団体に指定された各市町村教育委員会が実施してい
る。静岡県・山梨県教育委員会とその関連機関である財団法人静
岡県埋蔵文化財調査研究所及び山梨県埋蔵文化センターでは、そ
れぞれの組織内に文化財の高度な保存・管理技術を持つ専門職員
及び技術者を配置し、管理団体である各市町村が行う保存管理に
対して適切な技術的支援を行っている。また、独立行政法人国立
文化財機構は、全国の史跡等における整備活用事業の円滑な推進
と専門職員及び技術者の技術や能力の向上のために、地方公共団
体の専門職員を対象として定期的に研修を開催しており、静岡県
・山梨県をはじめ関係各市町村の職員も当該研修等に積極的に参
加して、資産の整備活用の技術向上に努める予定である。さらに
、独立行政法人国立文化財機構(201年度より国内の大学の研
究者及びイコモス会員を含む富士山世界遺産両県協議会の助言者
及び両県協議会も含まれる予定である)の助言・指導に基づいて
行われている保存・管理技術は、高い水準を維持する予定である
。重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天
然記念物を維持するための措置として簡単な修理又は復旧を行う
場合は、事前の届出に基づき、文化庁が適切な技術的指導を行っ
ているため、管理技術の水準はきわめて高く保たれている。資産
の見回りや清掃等の日常的な維持管理については、静岡県・山梨
県教育委員会から嘱託された文化財保護指導員(静岡県3名、山
梨県2名:構成資産の所在地区を担当する人数)のほか、地域住
民・民間団体・管理団体が協働して積極的に行っている。表技術
者の資質向上のために行われているおもな研修h)来訪者の施設
と統計構成資産の大部分は、周囲に展開する景勝地とともに日本
を代表する優れた名所として国内のみならず海外に広く知られて

137 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:13:37.10 ID:f+98COVJ.net
画62各構成資産の都市計画保存管理計画等観光計画(山梨県・静岡県・各市町村
)整備計画等632)保存管理体制包括的保存管理計画に定めた上記の基本方針に
基づき、静岡県・山梨県と関係市町村は、広範囲にわたる富士山の構成資産及び緩
衝地帯を包括的保存管理計画に基づき統一的に管理するため「富士山世界遺産両県
協議会」(以下「両県協議会」という。仮称)及びその支部組織である「静岡県世
界遺産協議会」・「山梨県世界遺産協議会」(以下両者をまとめて「各県協議会」
という。仮称)を設置し、各構成資産を成す重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝
、特別天然記念物又は天然記念物の保存管理計画を共通の基準に基づき確実に実行
する予定である。両県協議会及び各県協議会は、資産及びその周辺地域において、
国・静岡県・山梨県・関係市町村等・民間団体等が実施する予定の事業等について
の情報を総合的に把握し、それぞれの事業が、資産の保存管理に負の影響を及ぼす
ことなく、適切に実施されるように関係各機関の連絡・調整を行う。両県協議会・
各県協議会における調整結果に基づき、静岡県・山梨県及び関係市町村は、民間事
業者等に対して権限に基づく適切な指導や助言を行うこととする予定である。また
、両県協議会には国関係機関(文化庁・環境省・国土交通省・防衛省・林野庁)、
国内の大学及びイコモス会員等の研究者・専門家が参加し、学術的な観点からの助
言を行う予定である。各県協議会の下には、各県庁内の実務担当者レベルの調整組
織として、静岡県(山梨県)庁内連絡会議を設置するとともに、各市町村担当者や
民間業者(観光協会、登山組合、神社関係者)などの代表者との調整組織として静
岡県(山梨県)保存管理協力者会議を設置し、十分な連携を図る予定である。さら
に、静岡県・山梨県文化財保護審議会をはじめ各市町村文化財調査委員会は指定文
化財及び文化財全体に関する事項を審議し、それぞれ、静岡県・山梨県教育委員会
及び直接的な構成資産の管理を行う各市町村教育委員会に対して建議を行っている
。これらの組織の運営は静岡県・山梨県の世界遺産推進課が行い、専門の職員名

138 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:19:03.33 ID:x4//S+yB.net
山小屋では、民間の気象予報会社と連携し山岳気象情報を共有し
ている。事故に対しては県警察山岳救助隊及び消防本部や市町村
消防署が対応し、場合により自衛隊の出動も要請する。また、気
象条件が一般の登山を行うには危険となる冬季は登山道・山小屋
を閉鎖(山梨県側は10月初旬、静岡県側は11月末より翌年7
月初旬)することにより十分な装備と経験を有する者以外の登山
は不可能である。冬山登山者は各登山口所轄警察署(御殿場署・
富士宮署・富士吉田署)に登山計画書の提出を推奨されている(
また、おおむね11月末〜4月末まで静岡県側の登山用自動車道
は閉鎖され、山梨県側も積雪・凍結等の状況に応じて段階的に閉
鎖される。)山体以外の構成資産については、おおむね来訪者数
に応じた駐車場・トイレ等を整備しており、今後、これらをさら
に整備する予定が立てられている。i)資産の整備・活用に関す
る方針・計画静岡県・山梨県では、構成資産及びその周辺を対象
とした保存管理に関する事業計画を定め、地域住民による活用の
取組をも取り込んで計画的に実施している。こうした諸計画に基
づき、富士山地域の歴史的背景を展示する「富士吉田市歴史民俗
博物館」「裾野市立富士山資料館」「富士市立博物館」の活用や
、富士山に係る包括的な保存・管理や利用者ニーズに適切に対応
する拠点の整備を検討するなど富士山の適切な保全・管理・活用
を図っていく。加えて、富士山についての市民向け講座の開催を
はじめ、児童・生徒を対象とした体験学習などの情報発信施策が
定期的に実施されている。個別の資産については、「遺跡」であ
る特別名勝又は名勝、天然記念物、史跡をはじめ「記念工作物」
・「建造物群」である重要文化財に指定されている建造物につい
ては、一部を除き所有者・管理団体が年間を通じて一般に公開し
ている。なお、登山については、登山期間(基本的に7月1日〜
8月31日)が公開時期に当たる。この時期以外の登山も禁止さ
れてはいないが、道路・山小屋等の閉鎖、および冬季の気象条件
などにより専門家以外の登山は困難である。j)専門分野・技術
・管理に関する人的措置68静岡県・山梨県教育委員会の委嘱を
受けた文化財保護指導員(以下、「指導員」という。)が定期的

139 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:19:19.34 ID:f+98COVJ.net
体に指定された各市町村教育委員会が実施している。静岡県・山梨県教育委員会と
その関連機関である財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所及び山梨県埋蔵文化セン
ターでは、それぞれの組織内に文化財の高度な保存・管理技術を持つ専門職員及び
技術者を配置し、管理団体である各市町村が行う保存管理に対して適切な技術的支
援を行っている。また、独立行政法人国立文化財機構は、全国の史跡等における整
備活用事業の円滑な推進と専門職員及び技術者の技術や能力の向上のために、地方
公共団体の専門職員を対象として定期的に研修を開催しており、静岡県・山梨県を
はじめ関係各市町村の職員も当該研修等に積極的に参加して、資産の整備活用の技
術向上に努める予定である。さらに、独立行政法人国立文化財機構(201年度よ
り国内の大学の研究者及びイコモス会員を含む富士山世界遺産両県協議会の助言者
及び両県協議会も含まれる予定である)の助言・指導に基づいて行われている保存
・管理技術は、高い水準を維持する予定である。重要文化財、史跡、特別名勝又は
名勝、特別天然記念物又は天然記念物を維持するための措置として簡単な修理又は
復旧を行う場合は、事前の届出に基づき、文化庁が適切な技術的指導を行っている
ため、管理技術の水準はきわめて高く保たれている。資産の見回りや清掃等の日常
的な維持管理については、静岡県・山梨県教育委員会から嘱託された文化財保護指
導員(静岡県3名、山梨県2名:構成資産の所在地区を担当する人数)のほか、地
域住民・民間団体・管理団体が協働して積極的に行っている。表技術者の資質向上
のために行われているおもな研修h)来訪者の施設と統計構成資産の大部分は、周
囲に展開する景勝地とともに日本を代表する優れた名所として国内のみならず海外
に広く知られており、夏季の登山をはじめとして四季折々の自然の姿を求めて来訪
する観光客でにぎわい、現在も国内有数の観光地となっている。図富士山への登山
者数の推移(各登山口推計登山者数)静岡県山梨県富士宮口御殿場口須走口県計吉
田口合計図富士山への来訪者数の推移(7・8月における各登山口五合目への入

140 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:24:44.49 ID:x4//S+yB.net
状況H21.10.30学術委員会評価分析結果備考富士山両県
未着手分析結果A:富士山の価値を証明するのに必須の資産C:
富士山の価値を証明するのに不可欠ではない資産平成21年10
月30日の各県学術委員会(両県合同開催)での評価A:顕著な
普遍的価値を有する資産B:顕著な普遍的価値についてさらに調
査等が必要な資産C:顕著な普遍的価値を有しない可能性がある
資産保留:評価を保留平成22年度第1回静岡県学術委員会・第
2回山梨県学術委員会資料3世界文化遺産富士山包括的保存管理

141 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:25:00.40 ID:f+98COVJ.net
することにより十分な装備と経験を有する者以外の登山は不可能である。冬山登山
者は各登山口所轄警察署(御殿場署・富士宮署・富士吉田署)に登山計画書の提出
を推奨されている(また、おおむね11月末〜4月末まで静岡県側の登山用自動車
道は閉鎖され、山梨県側も積雪・凍結等の状況に応じて段階的に閉鎖される。)山
体以外の構成資産については、おおむね来訪者数に応じた駐車場・トイレ等を整備
しており、今後、これらをさらに整備する予定が立てられている。i)資産の整備
・活用に関する方針・計画静岡県・山梨県では、構成資産及びその周辺を対象とし
た保存管理に関する事業計画を定め、地域住民による活用の取組をも取り込んで計
画的に実施している。こうした諸計画に基づき、富士山地域の歴史的背景を展示す
る「富士吉田市歴史民俗博物館」「裾野市立富士山資料館」「富士市立博物館」の
活用や、富士山に係る包括的な保存・管理や利用者ニーズに適切に対応する拠点の
整備を検討するなど富士山の適切な保全・管理・活用を図っていく。加えて、富士
山についての市民向け講座の開催をはじめ、児童・生徒を対象とした体験学習など
の情報発信施策が定期的に実施されている。個別の資産については、「遺跡」であ
る特別名勝又は名勝、天然記念物、史跡をはじめ「記念工作物」・「建造物群」で
ある重要文化財に指定されている建造物については、一部を除き所有者・管理団体
が年間を通じて一般に公開している。なお、登山については、登山期間(基本的に
7月1日〜8月31日)が公開時期に当たる。この時期以外の登山も禁止されては
いないが、道路・山小屋等の閉鎖、および冬季の気象条件などにより専門家以外の
登山は困難である。j)専門分野・技術・管理に関する人的措置68静岡県・山梨
県教育委員会の委嘱を受けた文化財保護指導員(以下、「指導員」という。)が定
期的に文化財を巡回・点検し、両県教育委員会に対して保護に関する助言を行って
いる。静岡県・山梨県は、指導員の調査報告に基づき、所有者や関係市町村に対し
て文化財の保存管理に関する指導を行っている。このように、将来的に良好な状

142 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:30:26.58 ID:x4//S+yB.net
極めて強力な関連性であることを示している。このような価値を
もつ「富士山」の構成資産は、山梨県と静岡県の二県にまたがっ
て分布している。これら一連の構成資産を世界文化遺産「富士山
」の総体として確実に保存し、確実に次世代へと継承するために
は、両県共通の考え方を基に、各構成資産全体を一つの資産とし
て包括的に保存管理していくための方法を整理していく必要があ
ることから、個別の構成資産についての保存管理計画に加え、構
成資産相互の関係性を保全し全体の価値を継承していくための包
括的な保存管理計画を策定しておくことが必要である。そのため
、山梨県・静岡県は、文化庁・環境省の指導・助言の下に関係市
町村、関係各機関等と調整を図り、本計画を策定した。「富士山
」包括的保存管理計画−5−各構成資産の都市計画保存管理計画
等観光計画(環境省・山梨県・静岡県・各市町村)整備計画等図
包括的保存管理計画の体系2計画策定の経緯富士山包括的保存管
理計画は、構成資産に係る個別の保存管理計画を基礎とし、世界
遺産の推薦に当たって必要とされる保存管理及び整備に係る理念
・基本方針とその具体的内容について明示するため、学術研究者
等により構成される山梨県・静岡県学術委員会及び二県学術委員
による審議を経て策定されたものである。学識経験者等により構
成する各県学術委員会のもとに、保存管理計画の原案を検討する
保存管理計画検討部会を設置した。原案を検討するにあたり、県
庁内の関係部署との連携や共通認識を得るため、それぞれ「山梨
県保存管理計画検討プロジェクトチーム」(表)及び「静岡県保
存管理計画検討庁内連絡会議」(表)を設置し、連携・確認を行
った。また、富士山の効果的かつ確実な保存管理を行うためには
、地元関係者など幅広い方々の協力・助言が不可欠であることか
ら、関係自治体・地域住民・観光関係者・神社関係者などで構成
する「山梨県保存管理計画策定協力者会議」及び「静岡県保存管
理計画協力者部会」を設置し、連携を図った。さらに、二県学術
委員会のもとに設置した「包括的保存管理計画検討部会」におけ
る検討とあわせ、文化庁の指導・助言の下、201■年■月に策
定した。(1)各県における検討の経緯両県の経緯(包括的保存

143 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:30:42.48 ID:f+98COVJ.net
未着手分析結果A:富士山の価値を証明するのに必須の資産C:富士山の価値を証
明するのに不可欠ではない資産平成21年10月30日の各県学術委員会(両県合
同開催)での評価A:顕著な普遍的価値を有する資産B:顕著な普遍的価値につい
てさらに調査等が必要な資産C:顕著な普遍的価値を有しない可能性がある資産保
留:評価を保留平成22年度第1回静岡県学術委員会・第2回山梨県学術委員会資
料3世界文化遺産富士山包括的保存管理計画原案−1−世界文化遺産富士山包括

144 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:36:07.75 ID:x4//S+yB.net
いて2008年2月21日平成19年度第3回山梨県・静岡県学
術委員会・各県保存管理計画検討部会の審議結果2008年7月
16日平成20年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・包括的
保存管理計画検討部会の報告・静岡県保存管理計画について20
08年9月9日平成20年度静岡県保存管理計画検討部会第1回
庁内連絡会議・富士山の世界文化遺産登録推進の取組について・
静岡県保存管理計画の策定について2009年2月12日現地調
査2009年6月1日平成21年度第1回静岡県保存管理計画策
定協力者部会・富士山の世界文化遺産登録推進の取組について・
静岡県保存管理計画の策定について2009年6月17日平成2
1年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・静岡県保存管理計画
の策定について・富士山の緩衝地帯に関する考え方2009年7
月13日平成21年度静岡県保存管理計画検討部会第1回庁内連
絡会議2009年10月29日平成21年度静岡県保存管理計画
検討部会第2回庁内連絡会議2009年11月25日平成21年
度第2回静岡県保存管理計画策定協力者部会2010年1月29
日平成21年度第3回静岡県保存管理計画策定協力者部会201
0年3月16日平成21年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・
保存管理計画の考え方について2010年6月30日平成22年
度第1回静岡県保存管理計画検討部会(2)学術委員会・保存管
理計画検討部会組織学術委員会及び保存管理計画検討部会の組織
は図に示すとおりである。また、その構成は表〜のとおりである
。(1)行政計画との関連・連携構成資産及び緩衝地帯を有する
山梨県・静岡県及び関係市町村では、まちづくり、観光、防災な
どに関する各種計画を策定し、実施している。これらの計画は、
包括的保存管理計画と密接に関連し、日常的に連携を図りつつ実
施されている。表包括的保存管理計画に関連する計画(山梨県)
計画名称策定年等F資産に影響する可能性がある個別の開発計画
大規模集客施設等の立地に関する方針(山梨県)2010年1月
ゴルフ場造成に事業に関する今後の取扱いについて(山梨県)1
993年10月−17−明神峠自然環境保全地域保全計画昭和5
0年策定静岡県森林共生基本計画平成19年3月策定富士地域森

145 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:36:23.56 ID:f+98COVJ.net
てきた。それらの作品群は、地球上の特定の地域において独自の文化的伝統が形成
・発展するのに当たり、富士山が重要な源泉となった極めて強力な関連性であるこ
とを示している。このような価値をもつ「富士山」の構成資産は、山梨県と静岡県
の二県にまたがって分布している。これら一連の構成資産を世界文化遺産「富士山
」の総体として確実に保存し、確実に次世代へと継承するためには、両県共通の考
え方を基に、各構成資産全体を一つの資産として包括的に保存管理していくための
方法を整理していく必要があることから、個別の構成資産についての保存管理計画
に加え、構成資産相互の関係性を保全し全体の価値を継承していくための包括的な
保存管理計画を策定しておくことが必要である。そのため、山梨県・静岡県は、文
化庁・環境省の指導・助言の下に関係市町村、関係各機関等と調整を図り、本計画
を策定した。「富士山」包括的保存管理計画−5−各構成資産の都市計画保存管理
計画等観光計画(環境省・山梨県・静岡県・各市町村)整備計画等図包括的保存管
理計画の体系2計画策定の経緯富士山包括的保存管理計画は、構成資産に係る個別
の保存管理計画を基礎とし、世界遺産の推薦に当たって必要とされる保存管理及び
整備に係る理念・基本方針とその具体的内容について明示するため、学術研究者等
により構成される山梨県・静岡県学術委員会及び二県学術委員による審議を経て策
定されたものである。学識経験者等により構成する各県学術委員会のもとに、保存
管理計画の原案を検討する保存管理計画検討部会を設置した。原案を検討するにあ
たり、県庁内の関係部署との連携や共通認識を得るため、それぞれ「山梨県保存管
理計画検討プロジェクトチーム」(表)及び「静岡県保存管理計画検討庁内連絡会
議」(表)を設置し、連携・確認を行った。また、富士山の効果的かつ確実な保存
管理を行うためには、地元関係者など幅広い方々の協力・助言が不可欠であること
から、関係自治体・地域住民・観光関係者・神社関係者などで構成する「山梨県保
存管理計画策定協力者会議」及び「静岡県保存管理計画協力者部会」を設置し、

146 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:41:48.70 ID:x4//S+yB.net
号にかけての富士山側を計画していたが、国際専門家から飛び地
の資産である、富士山本宮浅間大社や山宮浅間神社を緩衝地帯に
含めるべきだとの指摘があり、市道を境に緩衝地帯を設定した。
その際、富士山本宮浅間大社からの富士山の眺望を確保するため
、富士山に向かって約36度の広がりで設定した。この範囲につ
いては、文化財保護法以外の法律を適用し、自然公園法、森林法
、景観法で保護されている。保全管理区域の範囲については、三
保松原から富士山を眺望する際、その阻害要因を軽減させるため
に、溶岩が流出した範囲を基本として設定した。そのため、静岡
県側においては、裾野市、御殿場市、小山町に流出している溶岩
流の範囲については、保全管理区域とはしていない。なお、保全
管理区域についても、森林法と景観法で保護されている。富士山
山体の東に位置する、演習場(北富士演習場・東富士演習場)に
ついては、従前より大規模開発が予定されていないことから、緩
衝地帯同様に資産を緩衝することが可能な区域であると言える。
3構成資産の概要構成資産及び保存管理状況の概要については、
以下に記すとおりである。構成資産の詳細については、推薦書本
文にて説明を行っている。保存管理状況等の詳細については、構
成資産毎に策定されている個別の保存管理計画等において、それ
ぞれ具体的内容を含めた説明を行っている。なお、p18,19
表のA〜Cは次のように分類し、整理したものである。A富士山
山体及び登山道B信仰に関わるものC富士山の眺望に関わるもの
(1)富士山山体及び登山道A富士山標高3776mを測る富士
山は、日本を代表し、象徴する日本最高峰の秀麗な独立火山であ
る。その自然的な美しさと崇高さを基盤として、日本人の自然に
対する信仰のあり方や、日本独自の芸術文化を育んだ名山でもあ
る。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、
時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生き
た文化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で継
続的な関係を示す景観の傑出した類型として、世界的にも類例を
見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。世界文化遺産としての
富士山とは、富士山山体の内、標高約1500m以上の範囲であ

147 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:42:04.69 ID:f+98COVJ.net
部会・保存管理計画について−7−2008年1月23日現地調査2008年1月
30日平成19年度第2回静岡県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討
部会の審議結果・静岡県保存管理計画について2008年2月21日平成19年度
第3回山梨県・静岡県学術委員会・各県保存管理計画検討部会の審議結果2008
年7月16日平成20年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計
画検討部会の報告・静岡県保存管理計画について2008年9月9日平成20年度
静岡県保存管理計画検討部会第1回庁内連絡会議・富士山の世界文化遺産登録推進
の取組について・静岡県保存管理計画の策定について2009年2月12日現地調
査2009年6月1日平成21年度第1回静岡県保存管理計画策定協力者部会・富
士山の世界文化遺産登録推進の取組について・静岡県保存管理計画の策定について
2009年6月17日平成21年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・静岡県保
存管理計画の策定について・富士山の緩衝地帯に関する考え方2009年7月13
日平成21年度静岡県保存管理計画検討部会第1回庁内連絡会議2009年10月
29日平成21年度静岡県保存管理計画検討部会第2回庁内連絡会議2009年1
1月25日平成21年度第2回静岡県保存管理計画策定協力者部会2010年1月
29日平成21年度第3回静岡県保存管理計画策定協力者部会2010年3月16
日平成21年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・保存管理計画の考え方について
2010年6月30日平成22年度第1回静岡県保存管理計画検討部会(2)学術
委員会・保存管理計画検討部会組織学術委員会及び保存管理計画検討部会の組織は
図に示すとおりである。また、その構成は表〜のとおりである。(1)行政計画と
の関連・連携構成資産及び緩衝地帯を有する山梨県・静岡県及び関係市町村では、
まちづくり、観光、防災などに関する各種計画を策定し、実施している。これらの
計画は、包括的保存管理計画と密接に関連し、日常的に連携を図りつつ実施されて
いる。表包括的保存管理計画に関連する計画(山梨県)計画名称策定年等F資産

148 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:47:30.83 ID:x4//S+yB.net
2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山と
して指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を巡る行為は
、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継が
れている。13世紀後半の資料には「いたゞきに八葉の嶺あり」
との記載があり、このころには山頂の峰々に信仰的意義を見出し
ていたことが伺える。16世紀前半には地元為政者が「八要メサ

149 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:47:46.95 ID:f+98COVJ.net
から標高1,500mの区域については自然公園法と森林法で保護されている。緩
衝地帯との境については林班により線引きを行い、県道などの人工物の改修工事等
への影響が軽減するよう配慮した。そして本栖湖、精進湖、西湖までを富士山の山
体として考え、範囲付けしたことは、展望地点から山頂までを連続して保護するた
めの措置である。緩衝地帯の範囲については、当初国道469号から県道72号に
かけての富士山側を計画していたが、国際専門家から飛び地の資産である、富士山
本宮浅間大社や山宮浅間神社を緩衝地帯に含めるべきだとの指摘があり、市道を境
に緩衝地帯を設定した。その際、富士山本宮浅間大社からの富士山の眺望を確保す
るため、富士山に向かって約36度の広がりで設定した。この範囲については、文
化財保護法以外の法律を適用し、自然公園法、森林法、景観法で保護されている。
保全管理区域の範囲については、三保松原から富士山を眺望する際、その阻害要因
を軽減させるために、溶岩が流出した範囲を基本として設定した。そのため、静岡
県側においては、裾野市、御殿場市、小山町に流出している溶岩流の範囲について
は、保全管理区域とはしていない。なお、保全管理区域についても、森林法と景観
法で保護されている。富士山山体の東に位置する、演習場(北富士演習場・東富士
演習場)については、従前より大規模開発が予定されていないことから、緩衝地帯
同様に資産を緩衝することが可能な区域であると言える。3構成資産の概要構成資
産及び保存管理状況の概要については、以下に記すとおりである。構成資産の詳細
については、推薦書本文にて説明を行っている。保存管理状況等の詳細については
、構成資産毎に策定されている個別の保存管理計画等において、それぞれ具体的内
容を含めた説明を行っている。なお、p18,19表のA〜Cは次のように分類し
、整理したものである。A富士山山体及び登山道B信仰に関わるものC富士山の眺
望に関わるもの(1)富士山山体及び登山道A富士山標高3776mを測る富士山
は、日本を代表し、象徴する日本最高峰の秀麗な独立火山である。その自然的な

150 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:53:12.77 ID:x4//S+yB.net
当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均
約1,700人、続く1860年の御縁年には約3,600人で
あった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883年、
須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿された。また、
1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上によ
り須山口からの登拝者や登山者が減少することとなった。191
2年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となった
ため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二
合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみであ
る。また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でか
つての登山道の一部が復興された。写真須山口登山道の写真A4
須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉
田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登山道である。その起
源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が
出土している。文献からは「勝山記」の1500年6月の項に、
関東地方での戦乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者が須走口に
集中したことが確認できる。遅くとも17世紀までに、冨士浅間
神社及び須走村が登山道山頂部までを支配し、薬師嶽(現久須志
岳)における石室建設の独占、薬師堂の開帳・入仏などを行った
。また、内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利を
有していた。冨士浅間神社及び須走村は、1703年と1772
年の2回幕府に訴え、これらの権利について八合目以上の支配権
を主張する浅間大社と争い、正式に権利を認められた。−25−
登山道の施設は1683年の資料等で詳細が確認でき、大日堂、
御室浅間神社、古御岳神社等の宗教施設と共に、小屋・石室が山
頂部まで設置されている。1707年の宝永噴火では、これらの
施設及び麓の浅間神社、須走村は約3mの降砂に覆われ壊滅した
が、江戸幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し
、多くの登拝者を集めた。18世紀半ばには800名前後に減少
したとの資料があるが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の
道了尊とセットにされた参詣の流行で登拝者数は増加し、年平均
約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピークを迎え

151 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:53:28.64 ID:f+98COVJ.net
設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は
神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の
行為は現代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信仰の核心
が現代に受け継がれている。写真奥宮の写真表法的保護、修理・整備の経緯192
4年所在地が史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国
立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の

152 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:58:54.75 ID:x4//S+yB.net
、吉田口登山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津
彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に
祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、148
0年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神
社の社殿が整っていたとされる。当神社は領主からの崇敬が厚く
、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年、16
15年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講との
つながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清
の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる
境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士浅間神社の支配権は
外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の管理
も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に登
山門があり、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が
伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展し
た神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の写真(本殿、西宮本
殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1907年古社寺
保存法の下に東宮本殿が特別保護建造物の指定1952年所在地
が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1952年東
宮本殿・解体修理工事を行う1953年文化財保護法の下に本殿
、西宮本殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解体修理工
事を行う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理計画
」を策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(〜74年)
1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1997
年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の葺替え
修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口本宮冨
士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に
他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年「
史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)A7西湖富士山の火山
活動により形成された堰止湖で、富士山の北北西に位置する。富
士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この西
湖にも多くの富士講徒が訪れた。西湖と精進湖はかつて「?の海
(せのうみ)」と呼ばれる一つの湖だったが、日本最古の歌集・

153 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 20:59:10.68 ID:f+98COVJ.net
た須山村により管理されていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いにな
った際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図
で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの施設
及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の1740年に
復興したが永続せず、1780年にようやく復興した。また、1880年代の記録
では御室浅間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが
確認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使用さ
れた。登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本・東日本両方からの
登山者があったことが、宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数は御縁
年に当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均約1,700
人、続く1860年の御縁年には約3,600人であった。登拝者は神仏分離令後
も継続していたが、1883年、須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿
された。また、1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上により
須山口からの登拝者や登山者が減少することとなった。1912年には、登山道の
一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰
退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部
のみである。また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でかつての登
山道の一部が復興された。写真須山口登山道の写真A4須走口登山道富士山東麓の
冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登
山道である。その起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏
が出土している。文献からは「勝山記」の1500年6月の項に、関東地方での戦
乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者が須走口に集中したことが確認できる。遅く
とも17世紀までに、冨士浅間神社及び須走村が登山道山頂部までを支配し、薬師
嶽(現久須志岳)における石室建設の独占、薬師堂の開帳・入仏などを行った。

154 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:04:35.70 ID:x4//S+yB.net
信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大
社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿
坊が周辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水
垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由し
た登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図に
は、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々
の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が
構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604
年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取
得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・
支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部
の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、
村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由しない登
山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が訪れた。ま
た、明治政府の政策により、一時国有地とされていた八合目以上
の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社
に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保護、修
理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下に特別保護建
造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1929年本殿
は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理1
936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定
に伴い重要文化財に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行
われた1970年本殿の屋根の修理等が行われた1988年本殿
の屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査
を行った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005
年本殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵
文化財調査研究所により境内の発掘調査が行われ、その成果に基
づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」を策定2010年
文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定湧
玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2,500uの
池である。池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き
出す一日平均14万?(2008年)の水を源としている。湧水

155 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:04:51.85 ID:f+98COVJ.net
登山者は激減したが、六合目以上については、現在残る登山道の中で最も多くの道
者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している。し
かも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口
登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀念
物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国
立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定
1978年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2006年改訂)
1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整備199
9年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理
計画」を改訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史
跡富士山として指定−26−2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定
)A6北口本宮冨士浅間神社富士山北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭神とし
て木花開花姫命、天津彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝
所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富
士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる
。当神社は領主からの崇敬が厚く、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1
594年、1615年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講とのつ
ながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内
の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。北口本
宮冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神
社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に登山門があ
り、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田
御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の
写真(本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1907年古

156 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:10:16.89 ID:x4//S+yB.net
を支える宿坊の存在が現存する大日如来の銘(1478)で確認
できる。1482年には修験道本山派の本寺である聖護院と関係
を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊
が村山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属
する山伏は夏に「富士峯修行」を山中及び山頂で行った。また、
富士山への一般の登拝者も増加し、夜間に白装束をまとい、仏が
いるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著色富士曼
荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富士峰修行の際に東麓

157 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:10:32.74 ID:f+98COVJ.net
梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖
湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に
指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)信仰
B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であり、この神社とともに
発展してきた富士宮市の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売
命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮とされている。境
内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ
、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとされ
る。創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的と
していた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し
た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹で
ある「浅間大菩薩」と見なされるようになり、12世紀頃より政治の実権を掌握し
た武士階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれ
て、浅間大社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周
辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置
づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹
本著色富士曼荼羅図には、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する
人々の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されてい
く中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年現在の社殿が造営されるとと
もに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は
山頂部の管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部の
大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、村山浅間神社の衰退
と1906年の村山浅間神社を経由しない登山道の開削などにより、浅間大社には
多くの参拝者が訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地とされていた

158 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:15:58.00 ID:x4//S+yB.net
使用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれてい
る。境内には水路があり、水垢離に利用された。18世紀末から
19世紀初頭にかけて富士講が隆盛を迎えると須走口にも関東か
らの登拝者が登山又は下山の際立ち寄った。その数は1800年
の御縁年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀
前半まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営
した。また、神社には神社神官や御師が発行した木版印刷による
神影や神符の版木が保管されている。写真冨士浅間神社の写真B
6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社(
山宮浅間神社か?)が執り行っていたが、864年〜866年に
北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられるこ
ととなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の
届かなかった河口浅間神社であるとされる。浅間神社を中心とし
た河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、
富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた
。しかし、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師
の隆盛により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰
退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接
に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富
士山信仰を語る上で欠かすことができない資産である。写真河口
浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯2011年文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)
2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7冨士
御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮座した本宮(
もとみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成されている。
8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初と
され、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もある。
富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室
浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂
が整備されたようである。また、社記によると958年、二合目
は冬季における参詣が難儀であることから河口湖畔の現在地に里
宮が建立されたという。江戸時代以降富士講の隆盛にともない、

159 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:16:13.83 ID:f+98COVJ.net
神社に至る。道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な
くとも四箇所残っている。写真山宮浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社
の南東約4km、富士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位
置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範囲には、現在
別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在している。これらは1
868年の神仏分離令までは一体のものであり、富士山興法寺(村山興法寺)と

160 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:21:40.03 ID:x4//S+yB.net
ら2007年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008
年4月から富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開
されている。写真旧外川家住宅の写真表法的保護、修理・整備の
経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田市歴史
民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「山梨県
指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文
化財保護法の下に重要文化財として指定小佐野家住宅は、富士講
によって大きく発展した御師集落である富士吉田市上吉田地区に
あって、富−33−士山に登拝する人々を宿泊させた宿坊として
、代表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の雪代の被害を
避けるため、1572年に旧地である古吉田地区から集落ごと移
転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北東方向の傾斜面に沿
って短冊状に町割が行われたと伝えられている。小佐野家住宅は
、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150mほどの長大
な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元亀の集落移転に合わ
せて現在地に移転してきたと伝えられる。代々御師を勤め、屋号
を堀端屋と号し、江戸時代には当主は小佐野壱岐あるいは小佐野
大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参詣者は年間1,000人
に達したとされる。現在、屋敷地の東側には所有者が住む住居が
建築されており、小佐野家住宅には所有者の親族が居住している
。写真小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯197
6年文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消防設
備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの
補修を行う1997年主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵
の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画
」を策定B9山中湖富士山の火山活動によって形成された堰止湖
で、富士山の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する
内八海巡りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式
ホテルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかりの
ある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。富士
山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイアモンド富士と呼ば

161 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:21:56.17 ID:f+98COVJ.net
め、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受けなかったため、須
山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景観を保っている部分が多い。写真須山
浅間神社の写真B5冨士浅間神社富士山東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花
開花姫命を主祭神とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古
来、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のために祭事を行い
、翌年噴火が収まったことから、807年に祭事の跡地であるとされる現在の地に
お礼のために社殿を造営したとされる。その他の文書で確実に存在が確認できるの
は、1571年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保護を受け
、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀以降、須走浅間神社は当時の須
走村の御師などと共に須走口登山道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須志岳
)の薬師堂開帳の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これら山頂部の
権利については八合目以上の支配権を主張する富士山本宮浅間大社と争いになり、
須走村は1703年と1772年の2回、幕府に裁定を求めている。この結果、こ
れらの権利は幕府によって認められた。また、冨士浅間神社神主や御師は須山の場
合と同じく、京都吉田家より神道裁許状を得て権威を高めている。社殿は、記録の
残っている範囲では1662年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原藩主稲
葉氏などの援助によって修造が行われた。しかし1707年の宝永噴火では3m以
上の降砂に埋もれ崩壊したため、1718年に再建された。この後もこの際の部材
を使用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水
路があり、水垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭にかけて富士講が隆
盛を迎えると須走口にも関東からの登拝者が登山又は下山の際立ち寄った。その数
は1800年の御縁年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀前半
まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営した。また、神社には
神社神官や御師が発行した木版印刷による神影や神符の版木が保管されている。

162 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:27:21.19 ID:x4//S+yB.net
然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定B13吉
田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備さ
れた「御胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富
士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。
樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠があり、そ
の下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が天
津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る
母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方
まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。−35−本穴につい
ては、古くから冨士山北口御師団が管理している。写真吉田胎内
樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天
然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天然記念物
吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山
西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開花
姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士講の人
々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長
さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年前に流出した
犬涼山溶岩流中に生成したものである。1300年前後に成立し
た文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所であり、地元では
「浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。
この内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にそ
の存在が知られていた。富士講関連の文書では1558年、開祖
とされる長谷川角行が役行者のお告げにより人穴に至り、洞窟内
で立行等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとしている。角
行は人穴を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主
に19世紀以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め
、参詣だけでなく修行を行う者も見られた。その大部分は吉田口
登山道の利用者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊と
の関係もあったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確で
はないが、1648年及び1665年、その前身である光?寺が
富士講二世日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により
再興された記述があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎に

163 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:27:37.11 ID:f+98COVJ.net
神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに
史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予
定)B8御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話をすると
ともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的なのは
、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に
沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし
、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が
建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の
部類に入る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の
典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川家住宅は、富士北麓の信仰登
山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割
によって成立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建て
られている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋(しおのや)と号し、富
士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家とした富士山御師である。157
2年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記
されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。また、1669年の「
検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸末期
頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所
有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、2006年から200
7年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008年4月から富士吉田市歴史
民俗博物館の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表法的
保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田市歴
史民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「山梨県指定有形文化財
旧外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に重要文化財と

164 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:33:03.14 ID:x4//S+yB.net
、19世紀に至るまで日本画・浮世絵において富士山を描く際の
典型的構図とされた。また、20世紀には和田英作が「羽衣の松
」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松原は16世紀以降
、江戸幕府の直轄地となり松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は
内海側の開発が進んだが、外海側の景観は保たれ、1922年、
国内初の名勝として国文化財に指定された。現在、砂礫の供給減

165 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:33:19.20 ID:f+98COVJ.net
予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富
士山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧水地(出口池、御
釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八
大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの
水で穢れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞられ「富士御手洗(み
てらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者に
よって再興されたとされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺図
表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定2010年忍野村景観計画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に
指定2010年街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜14
年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予定)B12船津胎
内樹型1617年、富士講の祖とされる長谷川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹
型の南方に焼入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと
考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清によ
り現船津胎内樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が遷宮された。浅
間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出産し
たという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた。富士道者は、富士登拝の際
に、樹型を入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付け
が行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫など
が祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929
年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留郡
富士河口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定
B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備された「御
胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富士講にとっての富士山の

166 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:38:45.88 ID:x4//S+yB.net
叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼
窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・
白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・
音止の勝景・富士山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三
保松原・特別規制A地区・特別規制B地区・第1種規制地区・第
2種規制地区・第3種規制地区@自然地形(山林、河川など)・
宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの
噴出物による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然
記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹
木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の植栽樹木など)・自然
林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理等保
護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理又は公
開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総
合案内標識、解説板C道路とその他の人工物(生活用道路、電柱
、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる
諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設@自然的
要素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文化財、社寺境内
、伝承地など)成する諸要素周辺環境を構B人文的要素(農耕地
、市街地、道路、その他人工物)上表において分類した諸要素に
ついて、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値を構成する諸
要素@富士山山体及び登山道A富士山富士山体のうち、標高約1
500m以上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望
地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面に
おける比重が最も高い。各登山道における山体の神聖性に関する
境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点
からも不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している
。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ
」又は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあっ
た。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と
「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画な
どの対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには
、現在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿っ

167 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:39:01.27 ID:f+98COVJ.net
6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天
然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年富士宮市により「白糸
ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市により保存管理計画が改定され、こ
れにともなった整備計画に基づき、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保
松原富士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂嘴
をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松が外海側海岸線4km

168 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:44:26.51 ID:x4//S+yB.net
期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考えられる。
江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土記』には「ソノ名一定
ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカニカゾヘバ、十二
バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する峰も、またその名
称も一定でないことがわかる。峰の名称は、明治8年に廃仏毀釈
により仏教色を払拭したものに変更された。以下、平成20年度
の静岡県埋蔵文化財調査研究所による発掘調査報告書で示された
9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの回り方である
時計回りの順に、記述する。なお、浅間大社では、伊豆岳以外の
8つをもって「八神峰」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(
標高約3,776m)]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた
。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ立っているためにこの
名があるという。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多く
は登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、
採取を禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行わ
れていた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白
山岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた。
現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、また
二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)]か
つては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。
他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥居が火口の方
向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存し、首か
ら上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄」
の文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標
高約3,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥
居が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約
3,748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅
間神社の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻
の険を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」と
ある。頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733
m)]伊豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされ
る。頂上に鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である

169 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:44:42.43 ID:f+98COVJ.net
田須走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2
大宮・村山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5号建物
跡・8号建物跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎内(溶岩洞穴)
・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社
・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽
子岩A6北口本宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮本殿・大
塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖湖・湖水・中ノ倉峠からの
展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿
・拝殿・幣殿)・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜
の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定)・随身像・
狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)
B2山宮浅間神社・溶岩流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・
石塁・玉垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜
頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂(興法寺)
・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手
水鉢)・石段(参道)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠
・手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢
(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥
居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨
士御室浅間神社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・
移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)・主屋・離座
敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八
海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・
湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群B13吉田胎内

170 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:50:08.51 ID:x4//S+yB.net
る。また、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現
し、8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が
生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解け
水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現
し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−
かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山頂の難所
として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石組みが
ある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあっ
たとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を噴
火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を拝む場
所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付近
に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで
きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の
火口を臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山
スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立ってい
る鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在
している。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は
、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山
明細図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。こ
のしろが池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、
それぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1543)、寛永
元年(1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも
、剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山
・大宮拝所跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上
の神官が銅仏の破片と一石経を採集して下山、それを受けて昭和
5年に三島岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や
木槨、土器片などの遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、
現在10巻分の経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容
を確認できる。経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさ
かのぼる可能性が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内
浜道山頂を周回し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ
峰を下り西安河原の北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り

171 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:50:23.53 ID:f+98COVJ.net
登山道頂上に位置し、7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売
命である。『本朝世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士山に
数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋納下した」とある。江戸
時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に
より山中の仏像を取り除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥
宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18p
)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵が
彫られている。天保年間(1830−34)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮
國之山(高さ146×幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之
山」と彫られている。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑された
。後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1967)に再建された。・東北
奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口
登山道、吉田口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須志岳(
旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場で
あった。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称
した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらた
かな「御霊水」として珍重された。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の
柵で囲われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験
あらたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如何なる旱にも
水の涸れることはない」と記している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a
)石碑@(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2
つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑A
(高さ162×下幅76×上幅63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている
。(c)石碑B(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑

172 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 21:56:15.57 ID:f+98COVJ.net
奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立入が制限されている。[駒
ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息
をとったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からで
きている。[三島岳(標高約3,734m)]−43−かつては文殊岳とも呼ばれ
た。頂上に木製の鳥居と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三
島岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見された付近に、10体の
石像が安置されている。これらは原位置を留めておらず、周辺にあったものが集め
られたと考えられる。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存
在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院(噴火口)は中央に
ある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の
居る所であると信じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場か
ら、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁止されている。
写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、
大内院との対比で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写真小
内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り
の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地されている。火
口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らなかった
といわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である
。かつては現世と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を
積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭が投げ込
まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付
近の平坦部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置
する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうず
くまる姿に似ていることから名付けられた。・割石かつては「釈迦の割石」と呼

173 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:02:17.47 ID:f+98COVJ.net
建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年
七月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保1
4年(1843)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、安
政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた
」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある井戸跡を指
すものと考えられている。井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5号建

174 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:02:31.35 ID:ugtGWN8y.net
たと伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺
に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここにて
富士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日間の
断食修行を経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十八六月十三

175 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:07:59.55 ID:x4//S+yB.net
は立ち入りが禁止されている。寛文10年(1670)の浅間大
社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘
調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧
玉池(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、国指定特別天然記
念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水と
なり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末端
で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下池に
分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御手洗川と呼
んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後山中へ向かう
という、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富士山山開
きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉池の写
真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万8千uにわたってス
ダジイ、ケヤキ等の樹木が生育しており、富士宮市保存樹林に指
定されている。また、野鳥の生息に適した環境でもあり、「野鳥
の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・
楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に造営され
たという。かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の浅
間神社の総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9〜
11年(1604〜06)に徳川家康が造営したものである。写
真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財
である。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他
に例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上
層は桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治
40年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造
物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。
写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝
殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間・梁間3
間の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれ
ていないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間
ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるよう
に描かれたと推測される。県指定文化財として保護されている。
[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床は幣殿より2段高くなってい

176 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:08:14.98 ID:f+98COVJ.net
という。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9合
目(3,570m付近)に建てられている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師
と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。元禄
16年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師之小
屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに祀られていたものと考え
られる。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を
降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前は登
山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側を通るようになって
いる。迎久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を
遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれて
いた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ御子石」
はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の
浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目、本7合目
、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置され
ている。・狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥
居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山道脇に富士講
関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所にあったが、雪崩によって流され
て別の場所に転がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したとい
う。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉田口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神
社を起点とし、富士山頂を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者
が吉田口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要素として、現存する吉田口
登山道や沿道の宗教施設や山小屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返こ

177 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:15:07.29 ID:x4//S+yB.net
像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられている
。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸道首標の碑明
治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道の首標
が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未年十
一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれて
いる。昭和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見さ
れ、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に、淺間第三御子
神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之宮
本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神社」
が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立石が置かれ
ている。明治の初めまで行われていた山宮御神幸の際、神の宿っ
た鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神路橋、神路枚橋
)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている。島の西側が神路
橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年(1670)の絵図で
は西側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年
の絵図B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図
・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至る
までの区域は北山溶岩流上に展開している。また、遥拝所が位置
する小高い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の
西岸には、天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成され
る丘陵地が展開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近
の北山溶岩流を含め、4つの異なる溶岩流地形が広がっているこ
とになる。遥拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,00
0年前の噴火によって流出した比較的新しい溶岩流であるため、
この部分は他の区域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられ
る。そのために、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見
渡せていたため、この場所で山を遥拝する行為が行われたと考え
られる。写真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・
社叢目通りの幹周が3mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9
,780uの社叢を形成しており、富士宮市の保存樹林に指定さ
れている。・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠
屋が建てられている。籠屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮

178 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:15:24.39 ID:f+98COVJ.net
のである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の向拝をつける一間社流造
の形式である。東宮本殿は、本社本殿はもとより西宮本殿に比較してやや小規模で
あるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿
中最も古い建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は
、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わる本殿として建立され
たが、1615年、鳥居成次の本殿建立により現在地に移され西宮となった。本殿
の形式は東宮と同じ一間社流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝をつけ
る。西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、やがて豪華な本
社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴重な建物である。−49
−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝
した地であり、ここを浅間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに、
788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社として日本武尊を分
祀したと伝えられる。現在この地は、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を
祀る祠が建てられている。写真大塚山の写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火
祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が
行われる。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。
写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点在している平面図富
士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、
いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり
、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自
然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖図以下に示す要素が点在し
ている平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によっ
て行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景
勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する

179 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:22:12.89 ID:x4//S+yB.net
、富士登拝の道者が垢離をとって身を浄めた場所で、間口約6.
5m、奥行き約4mの長方形で、深さ約0.6mに掘り込み、底
に石を敷きつめ周囲は石積みとなっている。造成年代は不明。水
垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍頭池湧水を引き、上の段から樋
で落とし垢離を取るようにしてある。水の落ち口には山伏修行の
ときの主尊とされる不動明王の石像が安置されている。写真水垢

180 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:22:28.39 ID:f+98COVJ.net
護建造物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本殿全
体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝殿含む)[幣殿]本殿と拝殿
をつなぐ部分で、桁行3間・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図
には幣殿は描かれていないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間
ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるように描かれたと推測
される。県指定文化財として保護されている。[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床
は幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺
、正面に1間の向拝が付いている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している
。県指定文化財として保護されている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、その外側
、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を囲む1棟−51−の計2
棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文化財として保護されている。[楼門]三間
一戸、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左
右には随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保護されている。写真楼門
全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門から東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934
)に付加されたものである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清め
るために手や口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれの灯籠が境内各所に
設置されている。・石鳥居本殿へ続く参道に石造りの鳥居が建てられている。昭和
33年3月に寄進されたものである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端にそ
れぞれ朱塗りの鳥居が建てられている。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り行われ
る馬場が約200mに渡って東西に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行っ
た際、流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町時代の初期にはすでに神事が
行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両側に御神木の桜が植えられて
いる。・禊所湧玉池の上池と下池の境部分が禊所とされ、池に下りるための石段が
組まれている。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への流出口に石造りの橋

181 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:28:28.34 ID:x4//S+yB.net
モミの根本にブナ、イヌシデの種子が生え、宝永噴火の火山灰土
が、降雨により流亡しながらモミが成長したため、根が爪を立て
た状態で生育し、根上がりになったと考えられる。縁結びの木と
も呼ばれている。・社殿平成18年8月24日に小山町の文化財
(建造物)に指定された。宝永噴火により大きな損害を受けたが
、享保3年(1718)に再建された。その後蟻害や老朽化によ
り改修したものの、部材は享保年間(1716〜36)のものが
今なお使用されている。社殿は本殿・幣殿・拝殿が連結した権現
造である。拝殿は入母屋造で千鳥破風を据え、本殿は享保年間の
遺構を残した流造りとなっている。−57−構造は、拝殿が桁行
5間・梁間2間の入母屋造で、向拝1間、正面千鳥破風付。幣殿
が桁行3間・梁間2間の両下造。本殿が三間社流造、向拝1間、
屋根は全て銅板葺きとなっている。写真社殿の写真図社殿の図面
・楼門二階建ての随神門で、上層の周囲に高欄付きの縁を巡らし
ている。北の櫛岩窓神、南の豊岩窓神が随神として配神されてい
る。宝永噴火により社殿とともに大破しており、現在のものは明
和4年(1767)随神が寄贈された当時に再建されたものと考
えられる。楼門の構造は、三間一戸楼門、茅葺型入母屋造、銅板
葺き。軒廻りは二軒繁垂木に組物は出組で、腰組も二手先として
いる。・参道大鳥居参道入口には、花崗岩の石鳥居が建てられて
いる。春日造で、額束には「不二山」と刻まれている。明治33
年(1900)に奉納された。・裏参道鳥居西側駐車場から本殿
へ至る裏参道の入口に石鳥居が建てられている。・富士塚狛犬楼
門前参道の両側に、富士塚が築かれ、その上に狛犬が置かれてい
る。・富士講講碑群明治より昭和にかけて、各地の富士講より寄
進された記念碑が多く残されている。多くは、数多く富士登山が
成就されたことを感謝し、先達や講名を高く掲げ信仰の証とした
もので、境内地の西側部分裏参道周辺に、多くの碑塔が建てられ
ている。写真富士講講碑群の写真図富士講講碑群の配置図B6河
口浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図河口浅間神社
は、864〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓でも
浅間神社が建てられることになったが、その神社である可能性が

182 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:28:46.14 ID:f+98COVJ.net
15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図石
塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されてい
る。戦中もしくは戦後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製
の門扉が取り付けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うことを目
的として築造されたと推定される施設である。南北約15.2m、東西約7.6m
の長方形で、30〜40p程度の溶岩を用いて石列等によって組まれている。富

183 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:34:53.71 ID:x4//S+yB.net
であり、棟札から1768年に建設されたものであることが判明
している。また、主屋は「平面座敷型」をとっており、近世にな
って御師住宅の様式が確立される以前の御師住宅として最古の部
類の建築物である。離座敷は、富士講が盛んになるととともに主
屋だけでは収容人数に限りがあるなどの理由から主屋の東側に増
設されたとみられる。ただし、御神殿が上段・下段の続きの手前
に配置され、上吉田の一般的な御師住宅に比して独自の構成を有
している。写真主屋等の写真図旧外川家住宅現状平面図等・小佐
野家主屋、蔵主屋は一部二階、切妻造、妻入の居室及び座敷部の
前面北寄りに台所部を背面南寄りに神殿部を付設した形式になる
。居室及び座敷部は間口11.8m、奥行き15.5m、正面南
寄りに式台、背面北寄りに庇、北側面には下屋を設ける。蔵は主
屋台所の前方に建つ。土蔵造りであるが、東西に庇を付けた切妻
造、板張りの覆屋をかけてい−59−る。この住宅は、部分的な
改変や増設がみられるほか保存がよく、富士講御師の住宅として
の形態を、屋敷地も含めてそのまま残している。全国でも比較的
少ない社家の一遺例として重要である。写真主屋外観写真図小佐
野家住宅現状平面図B9山中湖図以下に示す要素が点在している
平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士
講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象とし
て数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品と
ゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然
地形(湖水)などがある。写真山中湖の写真B10河口湖図以下
に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代
も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地で
もあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構
成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写真河口湖
の写真B11忍野八海図以下に示す要素が点在している平面図忍
野八海は、富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八
大竜王を祀る冨士信仰に関わる巡拝地(霊場)であった。顕著な
普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湧水)がある。

184 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:35:10.18 ID:f+98COVJ.net
在は「高根総鎮守」と呼ばれ、元村山集落の氏神社となっている。「明治十八年五
月十七日奉再建冨士大神社」と記された棟札が残されている。現在の社殿は、平成
15年に再建された。・石鳥居村山浅間神社へと登る石段の途中に、石鳥居が建て
られている。昭和28年(1953)に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神
社(高嶺総鎮守社)へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。平成15年の
再建に合わせて建てられたものである。・手水舎(手水鉢)村山浅間神社へと続く
参道入口の左側に、手水舎が設置されている。明治16年(1883)に設置され
たものである。・石段(参道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くものと、大日堂
へ続くものの2本が平行して造られている。・狛犬昭和5年に奉納された狛犬2体
が、参道脇に設置されている。B4須山浅間神社図以下に示す要素が点在している
平面図・社叢樹齢500年を超えるスギの巨木が22本あり、中には樹高37m、
目通りの太さが7mを超えるものも見られる。社叢全体が市指定天然記念物として
保護されている。・社殿大禰宜・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によれば、天元4年(
961)に駿河国司・平兼盛が社殿を修理したとの記録がある。その後の記録とし
て社殿の存在が確認できるのは、大永4年(1524)と記された修築時の棟札に
よる。現在の社殿は、文政6年(1823)に再建されたとされている。写真社殿
の写真図社殿の図面・神輿殿須山浅間神社の例大祭で使用される神輿を納めた神輿
殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内には、社殿前と石段手前の参道脇
に計二対の狛犬が設置されている。社殿前の一対は平成12年に、参道脇の一対は
平成13年に奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てられている。
登り口のものは平成13年に、階段を登ったところにあるものは、それぞれ寛保2
年(1742)、文政6年に奉納されたものである。・手水舎石段に至る参道の脇
と、社務所西側の2箇所に、手水舎が建てられている。社務所そばには、文政7−
56−年と刻まれた水盤も置かれている。・参道鳥居から10mほどは石畳が敷

185 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:41:31.61 ID:x4//S+yB.net
洞穴中央部でくの字型に曲がっている。入口から約30mの屈曲
部手前中央には、直径約5mの溶岩柱がある。全体として幅広く
、奥に入ると広々として平坦な空間となっている。最奥部までは
約80mで、そのまま閉塞していると考えられる。写真溶岩洞穴
の写真図洞穴の図面・社叢(周辺の植生)人穴集落では主に製炭
と農業を中心とした生活が営まれたため、薪炭材のコナラ・クヌ
ギ等を中心に育林していた。しかし、昭和30年代に薪炭の消費
が減少し、境内地とその周辺は建材としてのヒノキ・スギに改植
された。御神木に相当する大樹等は存在しない。・碑塔群人穴浅
間神社の境内地には、富士講信者が建立した232基の碑塔が存
在する。そのうち碑塔に建立年が刻まれたもの89基についてみ
ると、一番古い碑塔は寛文4年(1664)建立のものである。
建立目的によって大きく分類すると、個人の戒名や行名を記した
墓碑・供養碑である「墓碑供養碑」、修行による大願成就を祈願
する「祈願奉納碑」、個人の富士登拝や講の人穴参拝を記念する
「顕彰記念碑」の3種とそれ以外に整理される。「墓碑供養碑」
が最も多い。−61−写真碑塔群の写真図碑塔群の配置図・参道
洞穴入口や浅間神社社殿のある平場へ至る参道が、境内地内を南
から北へ伸びている。現在はコンクリートで覆われている。・建
物跡大小2つの建物跡が人穴洞穴直上の平場で検出されている。
西側に規模の大きな1棟と、その東側にやや小規模の1棟があり
、大規模なものの方がより古い遺構とみられる。また建物跡の周
辺には石積みが施されている。・参道跡建物跡へ向かう参道跡が
、建物跡南側の平場から斜面を下り、井戸跡の所在する平地まで
約34m続いている。溶岩角礫や露出している溶岩を利用して2
1段の石段が構築されている。・道跡2本の道跡と思われる石列
が参道跡の上り口、石垣の西側に位置する。建物跡と洞穴や碑塔
群などを結ぶ機能を有していたと考えられる。・炭焼窯跡指定地
の北側を通る林道に沿って、5箇所の炭焼窯跡が検出されている
。昭和初期まで使用されていたものであるが、富士講に関わる遺
構は検出されていない。・井戸跡参道跡の南側に位置する。内部
が溶岩角礫や土砂によって埋没し、涸れ井戸となっている。B1

186 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:42:23.94 ID:f+98COVJ.net
破しており、現在のものは明和4年(1767)随神が寄贈された当時に再建され
たものと考えられる。楼門の構造は、三間一戸楼門、茅葺型入母屋造、銅板葺き。
軒廻りは二軒繁垂木に組物は出組で、腰組も二手先としている。・参道大鳥居参道
入口には、花崗岩の石鳥居が建てられている。春日造で、額束には「不二山」と刻
まれている。明治33年(1900)に奉納された。・裏参道鳥居西側駐車場から

187 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:48:06.95 ID:x4//S+yB.net
する標識がある。B眺望C三保松原図以下に示す要素が点在して
いる平面図三保松原は、静岡市清水区南東部に位置する三保半島
にあり、半島の東岸真崎から海岸線に沿い、南北に約4キロメー
トルに及ぶ松林と内陸部に散在する松林が主体をなしている。真
崎から海岸線に沿う松林は、国有地又は市有地が大半を占めてい
るが、内陸部の松林と松林の景観を維持している背後地について
は、ほとんどが民有地となっている。松林には、300年を経た
老木から幼令木が約54,000本、幅広く分布している。図三

188 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:48:24.02 ID:f+98COVJ.net
りであるが、東西に庇を付けた切妻造、板張りの覆屋をかけてい−59−る。この
住宅は、部分的な改変や増設がみられるほか保存がよく、富士講御師の住宅として
の形態を、屋敷地も含めてそのまま残している。全国でも比較的少ない社家の一遺
例として重要である。写真主屋外観写真図小佐野家住宅現状平面図B9山中湖図以
下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが
多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普
遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写真山中湖の写
真B10河口湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡
拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆか
りが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがあ
る。写真河口湖の写真B11忍野八海図以下に示す要素が点在している平面図忍野
八海は、富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る冨士信
仰に関わる巡拝地(霊場)であった。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、
自然地形(湧水)がある。B12船津胎内樹型図以下に示す要素が点在している平
面図船津胎内樹型は、1673年に富士講の指導者である村上光清により発見され
、富士講の開祖である長谷川角行が洞穴に祀った浅間明神が遷宮された溶岩樹型で
ある。顕著な普遍的価値を構成する諸要素には、宗教的な意義付けがされている地
形空間(溶岩樹型)などがある。・胎内樹型船津胎内樹型は、承平噴火(937)
で流出した剣丸尾第1溶岩流の西縁に所在する。本穴自体も大小様々な樹型が複雑
に交叉して形作られている。本穴の側面では垂れ下がった溶岩が肋骨のように見え
、そのうえ溶岩は鉄分のため赤色を帯び、あたかも内臓を摘出したあとの胸控の如
く見える。胎内の名称はこれに基づくものであり、極めて貴重な形態と言える。

189 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:55:00.84 ID:x4//S+yB.net
の滝(清めの滝)境内地の池で汲み上げた水が、石鳥居南側の「
信しげの滝」まで流れている。B6河口浅間神社B7冨士御室浅
間神社B8御師住宅中門をくぐると川(水路)が流れており、か
つては当家に宿泊する富士講の禊ぎの場となっていた。B9山中
湖B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型・構成岩石質
、地質学的形状(平面的、立体的)等B13吉田胎内樹型溶岩流
の流出時の表面の状態がほぼ保たれている。地域を覆う玄武岩溶
岩流をはじめ、スコリアなどの火山活動に伴う噴出物が顕著に見
られる。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)−66−構成資
産の土地には丘陵や河川などの自然地形が見られ、構成資産を成
立させる重要な要素となって存在しているものがある。B15白
糸の滝構成資産の土地には丘陵や河川などの自然地形が見られ、
構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているものがあ
る。ウ眺望C三保松原なしA森林、植栽樹木構成資産の土地には
、富士山の景観を構成している天然林、富士山原始林及び青木ヶ
原樹海、人工林などからなる森林が存在しているほか、社叢林・
境内林などが存在している。ア富士山山体及び登山道A富士山標
高3,300m付近より上方の地域にコケ類・地衣類が生育して
いる。A1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・草山部分
の植物村山浅間神社から中宮八幡堂跡の下までにあたり、植物の
垂直分布では、丘陵帯から山地帯にあたる。戦後、スギ・ヒノキ
・モミなどの植林が行われ、道沿いはほとんどが人工林であるが
、天照教社から富士山麓山の村を経て中宮八幡堂跡に至る道沿い
には、ブナ・ミズナラ・カエデなどの落葉広葉樹の自然林が残っ
ている。林の下にはササ(スズタケ)が視界を遮るほど生い茂っ
ている。・木山部分の植物中宮八幡堂跡付近から新5合目の森林
限界(2,400m付近)までにあたり、植物の垂直分布では、
山地帯から亜高山帯にあたる。高所に上がるにつれてブナ・カエ
デなどの広葉樹からウラジロモミ・シラビソなどの針葉樹に変わ
り、標高1,600m付近で落葉樹とササがなくなる。・焼山部
分の植物森林限界である標高2,400m付近から上で、植物の
垂直分布では高山帯にあたる。この付近の植物は7月下旬から9

190 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 22:55:17.26 ID:f+98COVJ.net
成するものである。この地層は、塊状礫岩と平行層理を持つ砂岩が不規則に互層し
ているものである。写真写真・白糸溶岩流新富士火山の土台となっている溶岩流の
ひとつであり、白糸ノ滝付近0.3平方キロメートル程度にある。白糸溶岩流は4
枚の溶岩流層からなると考えられており、白糸ノ滝では2枚の溶岩流層が確認でき
る。溶岩流層の境目にはマグマの急冷時に形成された粉砕部(クリンカー)が発達
している。また、溶岩流内部には、マグマが冷え固まった際の収縮により形成さ

191 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:01:26.07 ID:x4//S+yB.net
丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、敷地内において植栽
された樹木等が存在している。B3村山浅間神社構成資産の土地
には、丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、敷地内におい
て植栽された樹木等が存在している。B4須山浅間神社構成資産
の土地には、丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、敷地内
において植栽された樹木等が存在している。B5須走浅間神社構
成資産の土地には、丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、
敷地内において植栽された樹木等が存在している。B6河口浅間
神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅B9山中湖B10河口湖
B11忍野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人
穴富士講遺跡(人穴浅間神社)構成資産の土地には、丘陵を構成
する社叢林・境内林などのほか、敷地内において植栽された樹木
等が存在している。B15白糸の滝イロハカエデ、ヤブツバキ等
の自然林や植栽等の植物がある。ウ眺望C三保松原松の生立木が
植栽及び自然植生している。B保存管理又は公開活用を目的とし
た建造物構成資産の土地には、保存管理、公開活用のための各種
展示施設・管理棟・防災施設のほか、解説板・誘導案内板等が存
在している。ア富士山山体及び登山道A富士山−69−富士山に
おける標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された案
内標識等の整備が進められている。A1山頂信仰遺跡富士山にお
ける標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された案内
標識等の整備が進められている。A2大宮・村山口登山道富士山
における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された
案内標識等の整備が進められている。A3須山口登山道なしA4
須走口登山道富士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデ
ザインで統一された案内標識等の整備が進められている。A5吉
田口登山道富士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザ
インで統一された案内標識等の整備が進められている。A6北口
本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖・2006年3
月22日より、自然環境や適切な利用環境の保全を図るため、本
栖湖水面は動力船の乗り入れ禁止区域に指定された。こうした規
制内容を説明するための説明板や水上バイク等動力船乗り入れ禁

192 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:01:42.51 ID:f+98COVJ.net
木が約54,000本、幅広く分布している。図三保松原の地区区分図表地区区分
詳細表地区境界@特別規制A地区真崎灯台の内海側の第2種規制地区との境界は、
隣接する特別規制B地区と第2種規制地区との境界(松が途切れる所)の延長線上
とする。A特別規制B地区特別規制A地区との境界は防潮堤外側とし、その他の規
制地区との境界は、羽衣参道は道路外側、それ以外は平成元年4月1日現在におい
て松原を形成している地区、ただし、真崎先端の境界は真崎灯台と建設省財産、運
輸省財産及び民地側の境界を結んだ線とする。B第1種規制地区真崎付近の第2種
規制地区及び第3種規制地区との境界は、都市計画道路の中心線とし、字広道の第
2種規制地区との境界、字羽衣脇の三保第一小学校を中心とする第2種規制地区と
の境界及び大字折戸地区における第2種規制地区との境界は、隣接する道路の中心
を境界とする。ただし、羽衣参道西側の第2種規制地区との境界は、羽衣参道中心
より25mの位置とする。C第2種規制地区真崎付近第3種規制地区との境界は、
市道本村海岸58号線の中心の延長を境界とする。その他の地区との境界は、@A
Bを参照。D第3種規制地区各地区との境界はABCを参照。(2)顕著な普遍的
価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素@自然地形構成資産の土地には、山並
み、湧水や富士山及び側火山の噴火等の火山活動によって形成された溶岩樹型など
の自然地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているもの
もある。ア富士山山体及び登山道A富士山−64−・テフラ噴火の際、山頂火口か
ら粘性の小さい玄武岩質のテフラと溶岩を繰り返し多量に噴出したため、山頂付近
はテフラに覆われている。・大沢崩れ「八百八沢」と呼ばれる多くの浸食谷の中で
最も大きなもので、富士山西斜面の山梨県との県境に位置する。山頂直下から標高
2,200m付近まで延長2.1q、最大幅約500m、最大深さ約150mに渡
る。崩壊は現在も進行中で年平均約15万?の岩石・土砂を流出し、大沢川流域に
扇状地を形成している。写真大沢崩れの写真図大沢崩れの図面A1山頂信仰遺跡

193 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:08:03.52 ID:f+98COVJ.net
0河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型・構成岩石質、地質学的形状(平面的
、立体的)等B13吉田胎内樹型溶岩流の流出時の表面の状態がほぼ保たれている
。地域を覆う玄武岩溶岩流をはじめ、スコリアなどの火山活動に伴う噴出物が顕著
に見られる。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)−66−構成資産の土地には
丘陵や河川などの自然地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって存
在しているものがある。B15白糸の滝構成資産の土地には丘陵や河川などの自然
地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているものがある
。ウ眺望C三保松原なしA森林、植栽樹木構成資産の土地には、富士山の景観を構
成している天然林、富士山原始林及び青木ヶ原樹海、人工林などからなる森林が存
在しているほか、社叢林・境内林などが存在している。ア富士山山体及び登山道A
富士山標高3,300m付近より上方の地域にコケ類・地衣類が生育している。A
1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・草山部分の植物村山浅間神社から中
宮八幡堂跡の下までにあたり、植物の垂直分布では、丘陵帯から山地帯にあたる。
戦後、スギ・ヒノキ・モミなどの植林が行われ、道沿いはほとんどが人工林である
が、天照教社から富士山麓山の村を経て中宮八幡堂跡に至る道沿いには、ブナ・ミ
ズナラ・カエデなどの落葉広葉樹の自然林が残っている。林の下にはササ(スズタ
ケ)が視界を遮るほど生い茂っている。・木山部分の植物中宮八幡堂跡付近から新
5合目の森林限界(2,400m付近)までにあたり、植物の垂直分布では、山地
帯から亜高山帯にあたる。高所に上がるにつれてブナ・カエデなどの広葉樹からウ
ラジロモミ・シラビソなどの針葉樹に変わり、標高1,600m付近で落葉樹とサ
サがなくなる。・焼山部分の植物森林限界である標高2,400m付近から上で、
植物の垂直分布では高山帯にあたる。この付近の植物は7月下旬から9月上旬にか
けていっせいに花を咲かせる。オンタデ、ムラサキモメンヅル、ミヤマオトコヨモ
ギなどが見られる。A3須山口登山道・木山部分の植物植物の垂直分布では、須

194 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:13:50.68 ID:f+98COVJ.net
て植栽された樹木等が存在している。B4須山浅間神社構成資産の土地には、丘陵
を構成する社叢林・境内林などのほか、敷地内において植栽された樹木等が存在し
ている。B5須走浅間神社構成資産の土地には、丘陵を構成する社叢林・境内林な
どのほか、敷地内において植栽された樹木等が存在している。B6河口浅間神社B
7冨士御室浅間神社B8御師住宅B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12船
津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)構成資産の
土地には、丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、敷地内において植栽された
樹木等が存在している。B15白糸の滝イロハカエデ、ヤブツバキ等の自然林や植
栽等の植物がある。ウ眺望C三保松原松の生立木が植栽及び自然植生している。B
保存管理又は公開活用を目的とした建造物構成資産の土地には、保存管理、公開活
用のための各種展示施設・管理棟・防災施設のほか、解説板・誘導案内板等が存在
している。ア富士山山体及び登山道A富士山−69−富士山における標識類総合ガ
イドラインに沿ったデザインで統一された案内標識等の整備が進められている。A
1山頂信仰遺跡富士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一さ
れた案内標識等の整備が進められている。A2大宮・村山口登山道富士山における
標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された案内標識等の整備が進めら
れている。A3須山口登山道なしA4須走口登山道富士山における標識類総合ガイ
ドラインに沿ったデザインで統一された案内標識等の整備が進められている。A5
吉田口登山道富士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一され
た案内標識等の整備が進められている。A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精
進湖A9本栖湖・2006年3月22日より、自然環境や適切な利用環境の保全を
図るため、本栖湖水面は動力船の乗り入れ禁止区域に指定された。こうした規制内
容を説明するための説明板や水上バイク等動力船乗り入れ禁止看板が湖畔の川尻地
区などに設置されている。・中之倉トンネル脇の山腹は旧五千円札(現千円札)

195 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:14:05.99 ID:rpYCqBhr.net
合に利用されている。・神田川ふれあい広場施設昭和39年に
富士宮市が浅間大社境内地の一部を児童公園として整備され、
さらに平成6年から7年にかけて親水広場を備えた「神田川ふ
れあい広場」として再整備された。現在は、同時期に改修され
た神田川護岸も含め、中心市街地の親水空間として市民の憩い
の場となっている。広場内には、トイレ、各種遊具、ベンチ、
時計、水飲み場等の施設・設備が設置されている。・御手洗橋
神田川ふれあい広場の南東側には、長さ7.3m、幅11.5
mの御手洗橋が架けられている。『大宮町誌』には、明治26
年(1893)に架けられたとの記述がある。・弓道場第1駐
車場西側に、弓道場が整備されている。・消防団詰所鉄骨2階
立ての富士宮市消防団第1方面隊第3分団の詰所が、神立山南
西の端に建てられている。・案内板・説明板本殿や湧玉池など
が、文化財に指定されていることを案内・説明する高札が建て
られている。・古神札納所拝殿東側に、古い神札を納めるため
の屋根付きの箱が置かれている。・大金剛杖古神札納所西側に
、大金剛杖が置かれている。開山祭に使用されていた。・藤棚
水屋神社の南側に、藤棚が設けられている。・駐車場指定地の
南西部分には、自動発券機(料金収受機)を設置した第1駐車
場が整備されている。B2山宮浅間神社・案内板・説明板籠屋
の南側に、案内板等が建てられている。山宮浅間神社の由緒を
記したもの、山宮浅間神社の概要と、市指定文化財であること
を記したもの、山宮浅間神社の概要と、富士宮市「歩く博物館
」のコースであることを示すものの3本である。・手すり籠屋
から遥拝所へ向かう石段の脇に、手すりが設置されている。・
鉄柱籠屋から遥拝所へ向かう参道と石段の両脇に、祭祀で利用
する鉄柱が設置されている。・トイレ籠屋西側に、水洗トイレ
が設置されている。・水道籠屋南側に、コンクリート製の水道
施設が設置されている。−71−・水飲み場水道施設の南側に
、コンクリート製の水飲み場が設置されている。・ベンチ休憩
用のベンチが設置されている。・鳥居駐車場横の参道に、コン
クリート製の鳥居が建てられている。・燈篭コンクリート製

196 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:14:58.49 ID:x4//S+yB.net
合に利用されている。・神田川ふれあい広場施設昭和39年に
富士宮市が浅間大社境内地の一部を児童公園として整備され、
さらに平成6年から7年にかけて親水広場を備えた「神田川ふ
れあい広場」として再整備された。現在は、同時期に改修され
た神田川護岸も含め、中心市街地の親水空間として市

197 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:22:46.07 ID:x4//S+yB.net
回する形で復興した。・鳥類相富士山域で観察された鳥類は約1
60種である。固有種は存在しない。・陸生哺乳類富士山の山域
には、6目14科35種程の陸生哺乳類が生息する。その中には
、特別天然記念物に指定されているニホンカモシカや天然記念物
に指定されているヤマネが含まれる。また、ツキノワグマも生息
するが、落葉広葉樹林が少なく、生息できる環境が限られ、生息
数は少ない。A4須走口登山道・御胎内(溶岩洞穴)須走口登山
道6合目の北側(標高2,630m付近)にある溶岩洞穴。開口
部は腰をかがめなければ進めないほど狭いが、内部は数名が立つ
ことのできる空間が広がっている。・小富士標高1,959mの
側火山で、須走口登山道5合目からほぼ北に600mほど離れた
場所にある。延暦19年(800)とそれに続く噴火により形成
されたとされている。須走口5合目から高低差の少ない小富士遊
歩道が整備され、気軽に訪れることができる。周辺は針葉樹林(
シラビソ・コメツガ・トウヒ)に覆われているが、頂上部分はス
コリアに覆われて樹木がなく、山中湖・箱根など東の眺望が楽し
める。小山町観光協会によるコンクリート製の標識と、大正13
年(1924)に扶桑教によって建立された祠がある。祠内部に
仏像が三体あったというが、現在は残っていない。・鳥類相富士
山域で観察された鳥類は約160種である。固有種は存在しない
。・陸生哺乳類富士山の山域には、6目14科35種程の陸生哺
乳類が生息する。その中には、特別天然記念物に指定されている
ニホンカモシカや天然記念物に指定されているヤマネが含まれる
。また、ツキノワグマも生息するが、落葉広葉樹林が少なく、生
息できる環境が限られ、生息数は少ない。A5吉田口登山道A6
北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖北側・西側
・南側の山は御坂層基盤により構成されている。北側から西側に
かけては、標高1100m〜1300m前後の山が連なっている
。また南側には標高1485mの竜ヶ岳が位置している。イ信仰
B1富士山本宮浅間大社・神田川−78−湧玉池の湧水を水源と
する神田川が、約1,000mを流れ潤井川に注いでいる。かつ
ては禊所より下流(下池)の部分も含めて御手洗川と呼ばれてい

198 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:23:03.71 ID:f+98COVJ.net
と大スギの幹に掲げられている。・石柱村山浅間神社が、大正14年(1925)
に縣社に昇格したことを示す石柱が、参道入口左側に設置されている。また、昭和
62年(1987)に寄贈された「富士根本宮村山浅間神社」と刻まれた石柱が、
参道入口右側に設置されている。・児童公園六道坂入り口付近に、すべり台等の遊
具を備え、またプールを併設した児童公園が整備されている。・駐車場境内地西端
に、参詣者用の駐車場が整備されている。−72−・村山水道完成記念碑社務所

199 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:30:02.44 ID:x4//S+yB.net
にある。登山道の西側には日沢が南北に走っており、北側と東側
には斜面が迫る。周辺は天然林で、下草にスズタケが生い茂って
いる。平場は東西約8m、南北は約6mで、南側の縁には一部石
組が確認された。南側中央部には石段が確認された。『富士山村
山口登山道遺跡調査報告書』はここを「矢立・新小屋」にあたる
としているが、後世まで木の切り出しなどの休憩小屋として使わ
れていた可能性をも指摘している。・6号建物跡5号建物跡から
北北東に約450mの位置(標高約1,985m)にある。周囲
は西向きに傾斜するやや急な斜面である。登山道の西側は、日沢
に向けて急激に落ち込んでいる。登山道の東側には、東西約12
m、南北約10mの平場がある。平場の南縁には石組が見られ、
登山道を挟んで東西12mにわたって延びている。平場の北側の
斜面にも石組が確認できる。・岩屋不動岩屋不動は、役行者から
の伝法で村山三坊が毎年年番で行っていた札打ちや勤行等を行う
富士峯修行の修行所の1つであった。江戸時代の絵図には、高所
にある洞穴と、その脇を流れる滝の情景で描かれ−80−ること
が多い。洞穴内には不動明王が安置されていたという。慶長7年
(1602)に書かれた「富士山持場之事」に記述があるが、宝
永4年(1707)の宝永噴火で堂室が消失したと言われている
。また、文化13年(1816)〜天保5年(1834)に執筆
された『修訂駿河国新風土記』には、岩屋不動に、家のような板
葺きの建物があり、登山者の休憩所であったことが記されている
が、嘉永7年(1854)の「富士山室小屋建立古帳面写」では
「堂室無之」と記載され、この時点では再び堂室が消失している
と推測される。その後、岩屋不動の所在は不明となっていたが、
平成19年に候補地たりうる洞穴の存在を確認した。不動沢を標
高約1,820mの地点まで登りつめ、地上から7mほどの高さ
の場所にある。洞穴の内部は、高さ2m、幅6.4m(最奥)、
奥行9mを測る。洞穴内は人が立つことのできる程度の高さがあ
り、内壁は全体的に赤みがかっている。中央部向かって右側から
入口付近に向けて崩落した大岩が多く転がり、入口は半ば塞がれ
たような状態である。最奥の向かって左側については人工的に開

200 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:30:20.40 ID:f+98COVJ.net
、登山道に沿って鉄杭、ロープ等が設置されている。須走口登山道は、茶色地に赤
色の帯が入り、白い文字で統一された登山道案内標識が設置されている。この標識
は富士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一されている。吉
田口登山道が合流する八合目より上部は、さらに黄色の帯が加わる。A5吉田口登
山道富士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された案内標
識等の整備が進められている。A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9
本栖湖湖西側に位置する水力発電用取水口は、(株)日本軽金属蒲原製造所の工場
群に電力を供給する自家用水力発電所の一つ、本栖発電所のものである。イ信仰B
1富士山本宮浅間大社指定地の南西部分には、自動発券機(料金収受機)を設置し
た第1駐車場が整備されている。B2山宮浅間神社乗用車3台程を駐車できる駐車
場が、県道から入って境内地を横切る道沿いに設けられている。−75−B3村山
浅間神社境内地西端に、参詣者用の駐車場が整備されている。B4須山浅間神社裾
野市と須山振興会によって、須山口からの登山道の案内図が設置されている。B5
須走浅間神社社務所東側には、参拝者用の駐車場乗用車6台分が設けられている。
B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅国道139号に面した敷地入
口には、御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)の内容を示す解説板が設置され
ている。B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型河口湖フィー
ルドセンターの開設に伴い整備されたトレイル(遊歩道)が設けられている。遊歩
道には石造物の分布が確認でき、自然散策路としての要素以外に歴史散策路的要素
も兼ね備えている。B13吉田胎内樹型・参詣道吉田口登山道の「中ノ茶屋」から
、吉田胎内本穴に向かうものである。古くから富士講の信者等に利用され、「甲斐
国誌」には「胎内道」として記述されている。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神
社)2本の道跡と思われる石列が参道跡の上り口、石垣の西側に位置する。建物跡
と洞穴や碑塔群などを結ぶ機能を有していたと考えられる。B15白糸ノ滝市道

201 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:36:11.88 ID:x4//S+yB.net
」と呼ばた。甲府市から国道358号線を経て精進湖赤池交差点
より国道139号に入り、静岡県の富士宮市・富士市に至る道で
ある。こうした交通の要地であることから本栖湖周辺には中道往
還に関連する遺跡が複数確認できる。イ信仰B1富士山本宮浅間
大社・浅間大社遺跡(埋蔵文化財包蔵地)浅間大社周辺の南北5
00m・東西200mの範囲は、縄文時代から近世にかけての複
合遺跡として埋蔵文化財包蔵地となっており、遺構や遺物等が発
見されている。写真出土遺物の写真・大宮城跡浅間神社大宮司の
居館としての大宮城が、現在の県道富士宮富士公園線の東側に位
置していた。・神田宮第2駐車場から100mほど南にある水田
を備えた神社である。五穀豊穣を祈願して米を作り奉納する「御
田植祭」が毎年7月7日に行われる。・大鳥居昭和30年(19
55)に寄進された大鳥居が、第2駐車場に設置されている。・
大灯籠昭和35年(1960)に奉納された大灯籠2基が、第2
駐車場南側入口に設置されている。B2山宮浅間神社なしB3村
山浅間神社なしB4須山浅間神社なしB5須走浅間神社・須走護
国神社−82−西南の役から太平洋戦争に至る期間の、須走地区
の戦没者24名が祀られている。・鎌倉往還指定地南側には、相
模から駿河、甲斐への連絡路であった鎌倉往還が通っていた。中
世の幕府所在地鎌倉から放射状に存在した複数のルートの一つで
、当時の御家人らが鎌倉と自領との往還に利用した道である。ま
た、生活必需品を運ぶ商人や各国々に旅する人も多く、須走地区
が、古くから富士北麓地域と静岡県駿東部を結ぶ交通の要衝とし
て利用されていたことがわかる。写真鎌倉往還の写真B6河口浅
間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅なしB9山中湖B10
河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型・社寺等溶岩洞穴等に
ついては、洞穴本体あるいは富士山の関連として信仰の対象と位
置づけられたものが多く見られ、周辺には社寺等の宗教的施設が
みられ、船津胎内樹型に伴う無戸室浅間神社などの設置形態は、
洞穴と一体になって信仰が行われている事例である。・信仰的意
味を付された地形・空間B13吉田胎内樹型・参詣道吉田口登山
道の「中ノ茶屋」から、吉田胎内本穴に向かうものである。古

202 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:36:29.48 ID:f+98COVJ.net
いう言い伝えが残っている−77−(日本霊異記)。登山道から幕岩の直下に降り
る道がある。・側火山登山道沿いには宝永山(標高2,698m)、二ツ塚(標高
1,926m、1,804m)、アザミ塚(1,626m)などの側火山が見られ
る。宝永4年(1707)の宝永の噴火により須山口旧登山道は崩壊し、その後、
宝永山を東に迂回する形で復興した。・鳥類相富士山域で観察された鳥類は約16
0種である。固有種は存在しない。・陸生哺乳類富士山の山域には、6目14科3
5種程の陸生哺乳類が生息する。その中には、特別天然記念物に指定されているニ
ホンカモシカや天然記念物に指定されているヤマネが含まれる。また、ツキノワグ
マも生息するが、落葉広葉樹林が少なく、生息できる環境が限られ、生息数は少な
い。A4須走口登山道・御胎内(溶岩洞穴)須走口登山道6合目の北側(標高2,
630m付近)にある溶岩洞穴。開口部は腰をかがめなければ進めないほど狭いが
、内部は数名が立つことのできる空間が広がっている。・小富士標高1,959m
の側火山で、須走口登山道5合目からほぼ北に600mほど離れた場所にある。延
暦19年(800)とそれに続く噴火により形成されたとされている。須走口5合
目から高低差の少ない小富士遊歩道が整備され、気軽に訪れることができる。周辺
は針葉樹林(シラビソ・コメツガ・トウヒ)に覆われているが、頂上部分はスコリ
アに覆われて樹木がなく、山中湖・箱根など東の眺望が楽しめる。小山町観光協会
によるコンクリート製の標識と、大正13年(1924)に扶桑教によって建立さ
れた祠がある。祠内部に仏像が三体あったというが、現在は残っていない。・鳥類
相富士山域で観察された鳥類は約160種である。固有種は存在しない。・陸生哺
乳類富士山の山域には、6目14科35種程の陸生哺乳類が生息する。その中には
、特別天然記念物に指定されているニホンカモシカや天然記念物に指定されている
ヤマネが含まれる。また、ツキノワグマも生息するが、落葉広葉樹林が少なく、生
息できる環境が限られ、生息数は少ない。A5吉田口登山道A6北口本宮冨士浅

203 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:43:27.72 ID:x4//S+yB.net
場口登山道明治5年(1872)に女性の富士登山が許可された
後、手軽に登れる登山道をめざし、御殿場在住の伴野佐吉らが中
心となって明治16年(1883)に完成した。同地の浅間神社
から滝ヶ原、馬返、太郎坊を経て、須山口登山道2合8勺に接続
する経路であった。明治22年、東海道線(現JR御殿場線)が
開通し御殿場駅が設置されたことにより、登山道が富士山東表口
新道本社浅間神社を通る現在の経路に変更された。御殿場口登山
道は須山口よりも距離が短い上に道も良く、関東方面からの登

204 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:43:44.38 ID:f+98COVJ.net
真建物跡の写真図建物跡の図面・3号建物跡登山道跡と県道富士宮富士公園線が交
差する地点から約60m南に下りた位置にある。周囲はなだらかな傾斜の天然林で
、地面は落葉に覆われている。むき出しになった岩石には一面に苔がむしている。
東西4m弱・南北6m弱の方形の石列があり、その北東側に小さなくぼみを確認し
た。『富士山村山口登山道遺跡調査報告書』は、このくぼみを便所跡としている。
写真建物跡の写真図建物跡の図面・4号建物跡富士山スカイラインと村山登山道が
交差する地点から北北東の方角に約600mの位置にある。登山道の西側には日沢
が南北に走っており、北側と東側には斜面が迫る。周辺は天然林で、下草にスズタ
ケが生い茂っている。平場は東西約8m、南北は約6mで、南側の縁には一部石組
が確認された。南側中央部には石段が確認された。『富士山村山口登山道遺跡調査
報告書』はここを「矢立・新小屋」にあたるとしているが、後世まで木の切り出し
などの休憩小屋として使われていた可能性をも指摘している。・6号建物跡5号建
物跡から北北東に約450mの位置(標高約1,985m)にある。周囲は西向き
に傾斜するやや急な斜面である。登山道の西側は、日沢に向けて急激に落ち込んで
いる。登山道の東側には、東西約12m、南北約10mの平場がある。平場の南縁
には石組が見られ、登山道を挟んで東西12mにわたって延びている。平場の北側
の斜面にも石組が確認できる。・岩屋不動岩屋不動は、役行者からの伝法で村山三
坊が毎年年番で行っていた札打ちや勤行等を行う富士峯修行の修行所の1つであっ
た。江戸時代の絵図には、高所にある洞穴と、その脇を流れる滝の情景で描かれ−
80−ることが多い。洞穴内には不動明王が安置されていたという。慶長7年(1
602)に書かれた「富士山持場之事」に記述があるが、宝永4年(1707)の
宝永噴火で堂室が消失したと言われている。また、文化13年(1816)〜天保
5年(1834)に執筆された『修訂駿河国新風土記』には、岩屋不動に、家のよ
うな板葺きの建物があり、登山者の休憩所であったことが記されているが、嘉永

205 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:50:42.23 ID:x4//S+yB.net
当時の道はところどころ途絶え、正確にたどる事はできない。・
御神幸道標石御神幸道沿いに、一丁(約109m)毎に標石が建
てられていた。現在ではそのほとんどが失われたが、山宮浅間神
社周辺には四十七丁目石、四十九丁目石が残っている。写真道標
石の写真・東山宮二区区民館山宮二区の住民が、会合等で利用す
る区民館が建てられている。・県道180号富士宮富士公園線山
宮浅間神社東南側には、浅間大社前交差点を起点とし、富士山山
頂が終点の「県道180号富士宮富士公園線」が通っている。B
3村山浅間神社・宿坊跡(大鏡坊、池西坊、辻之坊)江戸時代に
は、村山三坊のうち「辻之坊」は東屋敷跡が現在の児童公園付近
に、西屋敷跡が北西に300m離れた酪農用牛舎付近に、「大鏡
坊」は辻之坊東屋敷のさらに西側に、「池西坊」は現在の児童公
園の南側にあったとされる。児童公園から西へ道沿いに宿坊跡の
ものとされる石垣が残り、大鏡坊の入口跡と考えられる痕跡を見
ることができる。写真宿坊跡の写真・見付跡(東見付、西見付)
集落の出入り口となる東西のはずれに「東見付」「西見付」と呼
ばれる、村山に入る不審者を取り締まる関所があった。−87−
西見付跡は村山浅間神社門前から西へ約550m、東見付跡は神
社門前より南に約200mのところにある。B4須山浅間神社・
浅間橋朱塗りの欄干を持つ橋が境内地の南側に架けられている。
B5冨士浅間神社・駐車場(トイレ)境内地の南西側、裏参道を
出たところに、参拝者用の駐車場が設けられている。また駐車場
東端には、トイレも建てられている。・国道138号線及び県道
150号線足柄停車場富士公園線境内地の西側には、国道138
号線が、また東側には県道150号線足柄停車場富士公園線が通
っている。県道の終点は富士山頂となっている。B6河口浅間神
社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅来訪者のための駐車場とし
て、また緊急時や災害時の緊急車両の配置ができるよう駐車場敷
地が整備されている。B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B
12船津胎内樹型・産業関連施設・その他の人工物B13吉田胎
内樹型富士スバルライン料金所付近から、吉田胎内本穴方面に向
かう、林業施業のための物資搬出路がある。B14人穴富士講

206 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:50:59.60 ID:f+98COVJ.net
0)に奉納された大灯籠2基が、第2駐車場南側入口に設置されている。B2山宮
浅間神社なしB3村山浅間神社なしB4須山浅間神社なしB5須走浅間神社・須走
護国神社−82−西南の役から太平洋戦争に至る期間の、須走地区の戦没者24名
が祀られている。・鎌倉往還指定地南側には、相模から駿河、甲斐への連絡路であ
った鎌倉往還が通っていた。中世の幕府所在地鎌倉から放射状に存在した複数のル
ートの一つで、当時の御家人らが鎌倉と自領との往還に利用した道である。また

207 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:56:53.89 ID:f+98COVJ.net
、砂走館(7合5勺)、わらじ館(7合4勺)、日ノ出館(7合目)、(※休館:
見晴館(8合目)6合目小屋)がある。山小屋周辺にはトイレ、自動販売機、ベン
チ、椅子等が設置されている。・避難小屋登山道沿いの2箇所(7合8勺、2合8
勺)に、気象庁の避難小屋が建てられている。富士山頂測候所に勤務する職員用の
施設であったが、測候所廃止に伴い現在は使用されていない。・救急搬送・荷物搬
送区域登山道の南西側に、救急用・緊急用避難道としての役割を持つ道路等の施設
が設けられている。搬送にはブルドーザーが使われる。歩道との交差部には、進入
禁止柵・注意看板等が設置されている。・下山道(大砂走)登山道の南西側に、下
山道(大砂走り)がある。標高約3,000mの日の出館(7合目)付近で登山道
と分岐する。宝永山脇のスコリアで覆われた斜面を一気に下り、御殿場口新5合目
(標高1,450m付近)に至る。写真下山道の写真・御殿場口登山道明治5年(
1872)に女性の富士登山が許可された後、手軽に登れる登山道をめざし、御殿
場在住の伴野佐吉らが中心となって明治16年(1883)に完成した。同地の浅
間神社から滝ヶ原、馬返、太郎坊を経て、須山口登山道2合8勺に接続する経路で
あった。明治22年、東海道線(現JR御殿場線)が開通し御殿場駅が設置された
ことにより、登山道が富士山東表口新道本社浅間神社を通る現在の経路に変更され
た。御殿場口登山道は須山口よりも距離が短い上に道も良く、関東方面からの登山
客の多くが同登山道を利用し、須山口登山道衰退の契機となった。現在は、須山口
登山道と接続する2合8勺から頂上までの部分も、御殿場口登山道と呼ばれている
。写真御殿場口登山道の写真・須山口登山歩道須山浅間神社を起点とし、弁当場、
水ヶ塚水源地、水ヶ塚駐車場、御殿庭を通り、宝永火口の西側火口壁を抜けて富士
宮口登山道六合目に通じる登山道である。平成9年に富士山須山口登山歩道保存会
が中心となって復興した。道筋の一部は裾野市と御殿場市の市境に沿っている。宝
永噴火後から明治時代までの須山口登山道とはルートが異なるため、区別する意

208 :底名無し沼さん:2017/12/06(水) 23:57:40.63 ID:x4//S+yB.net
特に吉田口登山道と合流する8合目から上部の混雑が激しいた
め、頂上部から8合目までのブルドーザー道が下山道として利
用されている。写真ブルドーザー道の写真・駐車場・附属施設
200台収容の駐車場が5合目に設けられている。付属施設と
して、登山シーズンの夏季のみ在番の交番と観光案内所、小山
町により設置・管理されている公衆トイレがある。写真駐車場
(交番・観光案内所)の写真A5吉田口登山道A6北口本宮冨
士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖・建築物及び工作物
本栖地区集落の人口は156人(2008年4月1日現在)国
道139号線と300号線が分岐する本栖交差点周辺を中心に

209 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:04:09.98 ID:zk1Q08c6.net
駐車場バス専用入口の東側に宮町交番が建てられている。・売店協同組合富士山特
産品振興会」が、第2駐車場内に、富士宮の特産品を取り扱う販売所「ここずらよ
」を設置し営業している。・富士山せせらぎ広場第2駐車場から200mほど南に
富士山せせらぎ広場がある。入口には大鳥居が建てられており、神田川に沿って散
策できる遊歩道をはじめ、トイレ、無料駐車場などの施設が整備されている。写真
広場の写真・道路神田川東側には、浅間大社前交差点を起点とし神田川に沿って北
へ向かう県道180号富士宮富士公園線が通っている。この道路は富士山スカイラ
イン、富士宮口登山道を経て富士山山頂まで続いている。また、湧玉橋から約13
0m北上する区間が、山宮御神幸の経路である「御神幸道」と重複している。第2
駐車場南側には、県道76号富士富士宮由比線が東西に伸びている。この道路はか
つて「甲州街道(中道往還)」と呼ばれ、駿河と甲斐を結ぶ主要街道であった。B
2山宮浅間神社・御神幸道御神幸道は、祭儀「山宮御神幸」で浅間大社と山宮浅間
神社を往来した道である。石鳥居から南方向へと伸びていたが、区画整理や道の付
け替えのため当時の道はところどころ途絶え、正確にたどる事はできない。・御神
幸道標石御神幸道沿いに、一丁(約109m)毎に標石が建てられていた。現在で
はそのほとんどが失われたが、山宮浅間神社周辺には四十七丁目石、四十九丁目石
が残っている。写真道標石の写真・東山宮二区区民館山宮二区の住民が、会合等で
利用する区民館が建てられている。・県道180号富士宮富士公園線山宮浅間神社
東南側には、浅間大社前交差点を起点とし、富士山山頂が終点の「県道180号富
士宮富士公園線」が通っている。B3村山浅間神社・宿坊跡(大鏡坊、池西坊、辻
之坊)江戸時代には、村山三坊のうち「辻之坊」は東屋敷跡が現在の児童公園付近
に、西屋敷跡が北西に300m離れた酪農用牛舎付近に、「大鏡坊」は辻之坊東屋
敷のさらに西側に、「池西坊」は現在の児童公園の南側にあったとされる。児童公
園から西へ道沿いに宿坊跡のものとされる石垣が残り、大鏡坊の入口跡と考えら

210 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:05:18.16 ID:flRqeZ4U.net
白糸ノ滝なしウ眺望C三保松原なし2保存管理計画の基本方針
−88−山梨県・静岡県に分布する構成資産について、将来に
わたり確実に保存管理していくために、各構成資産の保存管理
計画の調整事項や、資産全体として考慮すべき周辺環境保全の
あり方など、保存管理の目標を踏まえ、保存管理計画の基本方
針を以下の5項目とする。(1)構成資産の適切な保存管

211 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:10:47.66 ID:flRqeZ4U.net
1−4地区2−1地区2−2地区2−3地区2−4地区特別名勝
御中道下500m〜頂上まで富士山有料道路五合目終点施設習合
区域以外富士山有料道路五合目終点施設習合区域A富士山(富士
山体)(御中道含む)天然記念物青木ヶ原樹海地区精進口登山道
地区道路地区大室山周辺概ね標高2000m以上富士山原始林及
び青木ヶ原樹海周辺富士五湖周辺地域概ね1500m以上その

212 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:11:04.42 ID:zk1Q08c6.net
過観察の実施顕著な普遍的価値に対して与える負の影響の可能性について、様々な
角度から検討を行い、その原因となる可能性のある諸要素について確実に把握する
とともに、それらに対する監視及び適切な対応を行う。(4)整備・公開・活用推
進資産の顕著な普遍的価値を確実に保存するとともに、総合的な理解を深めること
ができるよう、適切な整備・公開・活用の施策を推進する。@多様な構成資産から
なる富士山総体としての価値の理解が深められるように、山梨県・静岡県の関係市
町村が一体となった適切な整備活用をおこなう。a富士山の価値の持続的な利用b
適切な公開範囲の設定A都市計画、観光計画、防災計画等との調整を図り、資産の
価値の保存と来訪者の安全に配慮した施策を推進する。B適切な整備活用を推進す
る。(5)保存管理体制の整備と運営確実な保存管理を推進するために、各々の構
成資産を管理する山梨県・静岡県や関係市町村、所有者や環境省、林野庁、国道交
通省などの関係諸機関を中心として組織体制を整備する。その際には、地域住民が
資産の資産の適切な保存管理と整備活用の施策に積極的に参加できるよう配慮する
とともに、関係諸機関との連携を強化し保存管理の運営に関する方法・体制の整備
を図る。−89−第4章構成資産の保存管理1現状の把握(1)富士山山体及び登
山道A富士山登録範囲における自然的環境については、おおむね良好な状態である
。資産範囲の上部は文化財保護法(特別名勝)及び自然公園法(特別保護地区及び
第1種〜2種特別地域)により厳密に保全され、下部(標高1600〜2000m
以下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特別地域、普通
地域)及び森林法(保安林)、山梨県及び静岡県有林管理計画により重層的に保護
されているため、資産に影響を及ぼす行為は基本的に発生しない。ただし、山体西
側には山頂部付近から標高2200m付近までを源頭部とする土砂崩れが約100
0年前より継続して発生し、これは「大沢崩れ」と呼称されている。この土砂崩れ
のため山体西側の一部でかつての信仰に関わる道である「御中道」の通行等が禁

213 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:17:48.30 ID:flRqeZ4U.net
教的な意義が付与された自然物については、現状維持に努め、き
損した場合には適切に復旧・整備する。(エ)境内地・社叢内の
植物の採取、動物の捕獲、木竹の伐採・植栽については、景観の
保全に関わるもの、安全確保の措置及び学術研究を目的とするも
の以外は厳しく規制する。イ歴史的要素となるもの(ア)社殿等
の建築物や鳥居・石碑等の工作物、遺構等については、現状維持
に努め、き損した場合には適切に復旧・整備する。(イ)お鉢巡
り、登山道については現状維持に努め、き損した場合には適切に
復旧・整備する。(ウ)建築物・工作物等の復旧・整備に地面掘
削を伴う場合には、必要に応じて発掘調査等を実施し、遺構・遺
物の適切な保存・整理に努める。−98−ウ社会的要素となるも
の(ア)山小屋等の建築物、橋等の工作物については、現状の規
模の維持に努める。また、景観を現に阻害しているものについて
は、除却するか更新時に改良を行い、景観との調和に十分配慮す
ることとする。(イ)安全確保等に関わる地形の形質変更、建築
物及び工作物の設置に当たっては、景観との調和に十分配慮する
。本質的価値を構成する諸要素と密接に関わる要素ごとの考え方
ア自然的要素となるもの(ア)土地の形状・土壌の性質を変える
行為、及び植生に影響を与える行為については、安全確保の措置
及び学術研究を目的とするもの以外は厳しく規制する。(イ)土
壌・岩石の採取については、安全確保の措置及び学術研究を目的
とするもの以外は厳しく規制する。(ウ)歴史的な意義を持つ自
然物については、現状維持に努め、き損した場合には適切に復旧
・整備する。(エ)植物の採取、木竹の伐採・植栽については、
景観の保全に関わるもの、安全確保の措置及び学術研究を目的と
するもの、森林施業に関わるもの以外は厳しく規制する。イ歴史
的要素となるもの(ア)境内社・末社等の建築物や鳥居・石碑等
の工作物については、現状維持に努め、き損した場合には適切に
復旧・整備する。(イ)建築物・工作物等の復旧・整備に地面掘
削を伴う場合には、必要に応じて発掘調査等を実施し、遺構・遺
物の適切な保存・整理に努める。ウ社会的要素となるもの(ア)
社務所、公会堂等の建築物、案内板等の工作物については、現

214 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:18:04.86 ID:zk1Q08c6.net
建物に関する専門的な調査はほとんど行われたことがないため、基礎や構造物の状
況など現状把握を早急に行う必要がある。現在、居住の用に供しており、敷地内部
及び建物は一般公開されていない。B9山中湖文化財保護法(名勝)及び自然公園
法(特別地域)により適切に保護されており、現時点における保全状態は良好であ
る。B10河口湖文化財保護法(名勝)及び自然公園法(特別地域)により適切に
保護されており、現時点における保全状態は良好である。B11忍野八海天然記

215 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:23:47.56 ID:flRqeZ4U.net
基づいて保存管理する。本質的価値を構成する諸要素と密接に関
わる要素ごとの考え方ア自然的要素となるもの第1種保護地区と
同じ考え方に基づいて保存管理する。対象となるのは、自然的要
素の維持に関し、危険防止及び安全管理のための工作物や計測機
器の設置、森林施業に係る行為、砂防工事、登山道(歩道)整備
等である。イ歴史的要素となるもの石碑等については、第1種保
護地区と同じ考え方に基づいて保存管理する。ウ社会的要素とな
るもの(ア)登山道における安全確保のために行う道路関連の工
作物の新設・更新については、周辺植生への影響、土壌の性質へ
の影響を精査し、景観との調和を図ることとする。(イ)登山者
向けの指導標の設置、危険防止及び安全管理のための工作物の設
置については、第1種保護地区と同じ考え方に基づくこととする
。(ウ)公園施設等における、建築物・工作物等の扱いについて
は、景観との調和を図りつつ、適切に維−100−持管理を行う
こととする。ウ周辺地区良好な自然景観が残される周辺区域現に
ある良好な景観を保全し、かつ良好な景観の形成に貢献するよう
、以下の方針に基づいて適切に保全を図ることが望ましい。ア建
築物・工作物の新設・更新については、眺望の著しい妨げになら
ない規模とし、また眺望に著しい支障を及ぼすものでないものと
する。イ建築物・工作物の新設・更新については、屋根及び壁面
の色彩並びに形態が指定地の景観と著しく不調和でないものとす
る。ウ建築物・工作物の撤去については、跡地の整地を適切に行
うこととする。エ登山道周辺の森林管理については、国有林野施
業実施計画に基づき適切に施業し、森林の適正な整備及び保全を
図る。開発の進んだ周辺区域ア富士山と一体となった良好な景観
や指定地の景観を阻害することのないよう、景観法や条例に基づ
く施策に沿って、周辺地域の景観の保全に努める。イ景観を阻害
している建築物・工作物等は、更新時に規模・形態・色彩・材質
等において改良し、周囲の景観の保全に努めることが望ましい。
B三保松原ア現状変更の制限文化財保護法に基づき、名勝「三保
松原」の海浜と松原の保護並びに景観の維持を図るため、特別規
制A地区、特別規制B地区、第1種規制地区、第2種規制地区

216 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:24:04.88 ID:zk1Q08c6.net
についての考え方本来、文化財保護法は文化財を保存し、かつ、その活用を図り、
もって国民の文化的向上に資することを目的としたものであり、文化財の保存が適
切になされることを原則としている。また、自然保護法は、優れた風景地を保護す
るとともに、その利用の増進を図り、もって国民の保健、休養及び教化にしするこ
とを目的としたものであり、風致景観が適切に管理されるとともに適切な利用を促
進することを原則としている。しかしながら、一方ではそこを所有し生活している
住民が存在することも事実であり、住民生活もまた尊重されなければならない。し
たがって構成資産の諸要素の現状に変更が生じる場合には、構成資産の保存と住民
生活との調整を図りつつ、適切に行われる必要がある。そのため、構成資産のうち
特別名勝地だけでなく、史跡や遺跡、眺望地点などは文化財保護法や自然公園法、
景観法などにより保護措置を講じる必要がある。世界遺産としての地区区分として
、「文化財保護法を基本に保存管理する地域(第1種保護地区)」及び「自然公園
法を基本に保存管理する地域(第2種保護地区)」という2つの地域に区分し、そ
れぞれ現状変更の取扱いを定め、住民生活との調整を図りつつ構成資産の保存管理
を行っている。その概要については以下に示すとおりである。(2)地区区分につ
いての考え方各構成資産における保護に関する基本的な考え方としての地域区分並
びに想定される現状変更等の行為とその具体的取扱方針の概要は、以下に示すとお
りである。なお、構成資産ごとの詳細な情報は、個別の保存管理計画に示している
。図富士山地区区分図−94−表保存管理のための地区区分(富士山北側)第1種
保護地区第2種保護地区1−1地区1−2地区1−3地区1−4地区2−1地区2
−2地区2−3地区2−4地区特別名勝御中道下500m〜頂上まで富士山有料道
路五合目終点施設習合区域以外富士山有料道路五合目終点施設習合区域A富士山(
富士山体)(御中道含む)天然記念物青木ヶ原樹海地区精進口登山道地区道路地区
大室山周辺概ね標高2000m以上富士山原始林及び青木ヶ原樹海周辺富士五湖

217 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:29:52.84 ID:flRqeZ4U.net
関わるが、希少野生動植物種等保護の観点から、特別名勝の保存
管理の方法と調和するものである。特定外来生物による生態系等
に係る被害の防止に関する法律この法律では、特定外来生物の施
設以外での繁殖・生育を禁止しており、指定地全域における在来
植生の維持の観点から、特別名勝の保存管理の方法と調和するも
のである。山梨県景観条例優れた景観の保全・創造を図ることを
目的にしており、大規模な工作物の新築・増改築等が規制されて
おり、包括的保存管理計画の方針と調和するものである。静岡県
森林と県民の共生に関する条例森林と県民が共生していくための
努力目標等を規定しており、特別名勝の保存管理の方法と調和す
るものである。山梨県環境基本条例静岡県環境基本条例自然と人
との共生を確保することを目指した理念等をまとめており、特別
名勝の保存管理の方法と調和するものである。−102−山梨県
屋外広告物条例静岡県屋外広告物条例登山道沿いに規制区域が定
められており、広告物のうち、著しく破損し老朽化しているもの
、倒壊又は落下のおそれがあるもの、信号機・道路標識等に類似
するものなどを規制している。安全確保を図ると伴に、優れた景
観の保全にも資するものであり、特別名勝の保存管理の方法と調
和するものでもある。指定地及び周辺地域の安全の確保に関する
法令砂防法大沢崩れ源頭部下方における国の直轄砂防地に関し、
砂防事業を推進し、潤井川流域等の安全確保を図っており、特別
名勝地の地形の維持にとって必要とされる事業を含んでいる。土
砂災害警戒区域等における土砂災害防止対策の推進に関する法律
南・西斜面に規制地区が広がる。指定地内の沢地形等における土
砂災害を防止し、安全確保を図っている。以上のことを踏まえ、
特別名勝富士山を適切に保存管理する上で、現状変更等の取扱い
に係る共通事項を次のとおり定める。@必要最小限の内容であり
、富士山の保存管理上支障をきたすものでないものとする。A自
然公園法・森林法など関係する各法令との調整を図るものとする
。B原則として、外来生物による生態系等に対する被害の防止を
図るものとする。C建築物は、その外観(形態・材料・色彩)が
周囲の景観と調和したものとする。D屋外広告物等の工作物は

218 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:30:09.24 ID:zk1Q08c6.net
六道坂以東の境内地六道坂以西の境内地宿坊跡、見付跡周辺住宅地、森林−97−
B4須山浅間神社境内地全域境内地周辺の社叢周辺住宅地、森林B5冨士浅間神社
境内地全域─西側駐車場、周辺住宅街、西側森林B14人穴富士講遺跡境内地全域
、地下洞穴─森林B15白糸ノ滝本体〜滝つぼ、両岸の崖音止の滝市街化調整区域
C三保松原特別規制A地区及び特別規制B地区第1種規制地区第2種規制地区第3
種規制地区@第1種保護地区この地区は、富士山の本質的価値を構成する宗教的な
建造物、信仰の対象となった自然物等、史跡及び眺望地点として重要な要素を含む
区域とする。登山道においては、歴史上使用された登山道跡と断定できる道跡、及
び登山道跡に存在する石碑や建物跡等を含む区域である。神社等においては、社殿
・遺構・石碑等歴史的な価値のある要素が存在し、指定地の中核を成す区域である
。歴史的に価値のある社殿・石碑・遺構等史跡として重要な要素が存在し、指定地
の中核部をなす地区であるため、特に厳格な保存管理を行う。そのため、本地区で
は、土地の形状、建築物・工作物に関し現状の維持に努め、それらがき損した場合
には適切に復旧・整備する。また、建築物・工作物等の更新等についても、遺構破
壊及び景観阻害を防ぐため厳しく規制する。また、地面掘削を伴う場合には、必要
に応じて発掘調査等を実施するなど、遺構・遺物の適切な保存・整備に努めること
とする。本質的価値を構成する要素ごとの考え方ア自然的要素となるもの(ア)土
地の形状・土壌の性質を変える行為、及び植生に影響を与える行為については、安
全確保の措置及び学術研究を目的とするもの以外は厳しく規制する。(イ)土壌・
岩石の採取については、安全確保の措置及び学術研究を目的とするもの以外は厳し
く規制する。(ウ)湧水や御神木、札打場等宗教的な意義が付与された自然物につ
いては、現状維持に努め、き損した場合には適切に復旧・整備する。(エ)境内地
・社叢内の植物の採取、動物の捕獲、木竹の伐採・植栽については、景観の保全に
関わるもの、安全確保の措置及び学術研究を目的とするもの以外は厳しく規制す

219 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:33:46.80 ID:ZH3ZpszI.net
ホイサのサ

220 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:37:04.97 ID:flRqeZ4U.net
改設については、災害復旧または公益上必要と認められる場合に
限り認めるものとする。ただし、安全確保の措置及び国有林野施
業実施計画に基づくもの、その他公益上必要と認められるものに
ついては、この限りでない。(2)第2種保護地区@建築物の新
築・増築・改築ア建築物の新築・増築は、原則として許可しない
。ただし、次の各項についてはこの限りでない。(ア)宗教活動
に必要不可欠で、伝統的工法・建築様式を用い景観に配慮したも
のの新・増・改築(イ)学術研究、防災、その他の公益上必要

221 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:37:22.05 ID:zk1Q08c6.net
りつつ、適切に整備する。(カ)8合目以上の下山道、救急搬送・荷物搬送区域に
ついては、現状の維持に努める。A第2種保護地区この地区は、第1種保護地区に
隣接し密接に関わる区域とする。登山道においては、現在登山道として実際に利用
されている範囲のうち、山頂信仰遺跡に含まれる8合目以上を除く範囲である。−
99−また神社においては、境内地における公園等社会的な活用が進む区域や古絵
図に描かれている区域、社叢と連続する森林等の区域である。民有林や市民生活の
中で活用される区域等を含むが、境内地として史跡の構成要素の一部が存在し、ま
た社叢等の森林が境内地や登山道の景観及び周辺の風致を考える上で重要な地区で
あるため、厳格な保存管理を行うこととする。この地区では、土地の形状、土壌の
性質、建築物・工作物に関して現状の維持に努め、き損した場合には適切に復旧・
整備する。特に建築物・工作物等の更新等に当たり、遺構破壊及び景観阻害が発生
しないよう厳しく規制する。また、地面の掘削を伴う施設の更新にあたっては、必
要に応じて発掘調査等を実施し、遺構・遺物の適切な保存・整理を行う。本質的価
値を構成する要素ごとの考え方ア自然的要素となるもの(ア)木竹の伐採・植栽以
外の行為については、第1種保護地区と同様に厳しく規制する。対象となるのは、
土地の形状・土壌の性質を変更する行為、土壌・岩石の採取、植生に影響を与える
行為、植物の採取、動物の捕獲の行為などである。(イ)木竹の伐採・植栽につい
ては、安全確保の措置、学術研究、森林施業に関わるもの以外は規制する。イ歴史
的要素となるもの(ア)鳥居や祠等の工作物については、現状の維持に努める。(
イ)登山道については、現状維持に努め、き損した場合には適切に復旧・整備する
。(ウ)建築物・工作物等の復旧・整備に地面掘削を伴う場合には、必要な範囲内
に応じて発掘調査等を実施し、遺構・遺物の適切な保存・整理を行う。ウ社会的要
素となるもの(ア)登山道の各山小屋については、第1種保護地区と同じ考え方に
基づいて保存管理する。本質的価値を構成する諸要素と密接に関わる要素ごとの

222 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:43:55.48 ID:flRqeZ4U.net
築後の建築面積)が120uを超え1,000u以下のもので3
月以内の期限を限って設置されるものの新築、増築又は除却イ道
路の設置、改修又は除却(当該道路の設置期間が1年以内のもの
に限る)(2)(1)の現状変更等についての許可の基準は、次
のとおりとする。ア(1)のアについては、当該建築物が公共性
の高いもの又は広く一般の利用に供されるものであって、景観等
に著しい影響を与えず、かつ、その設置期間終了後に原状に復さ
れることが確実な場合でなければ、原則として認めない。イ(1
)のイについては、当該道路が海岸保全のために必要な工事に伴
って設置されるものであって、その設置期間終了後に原状に復さ
れることが確実な場合でなければ、原則として認めない。第1種
規制地区(1)本地区に係る現状変更等については、その全部を
対象とする。(2)(1)の現状変更等についての許可の基準は
、次のとおりとする。本地区における次のアからカまでのいずれ
かに該当する現状変更等については、原則として認めない。ア高
さが17mを超える工作物(学校施設、体育施設その他の教育又
は文化に関する施設における照明灯、旗柱その他これに類するも
の(以下「施設内照明灯等」という。)にあっては、その高さが
25mを越えるもの)イ高さが17m以下の工作物の増築又は改
築であって、増築又は改築後の工作物の高さが17m(施設内照
明灯等にあっては、25m)を超える場合ウ高さが17mを超え
る工作物の増築又は改築であって、増築又は改築後の工作物の高
さが増築又は改築前のもの(施設内照明灯等にあっては、25m
)を超える場合エ規模、形態、意匠又は色彩が景観を損なうおそ
れがあると認められる工作物の新築、増築、改築又は除却オ環境
を損なうおそれがあると認められる塵芥、汚泥、産業廃棄物その
他こ−107−れに類するものの投棄又は埋立てカ松の生立木の
枝打ち又は伐採(所有者及び管理団体による同意のある場合を除
く。)第2種規制地区(1)本地区内の現状変更等については、
その全部を対象とする。(2)(1)の現状変更等についての許
可の基準は、次のとおりとする。本地区における次のアからカま
でのいずれかに該当する現状変更等については、原則として認

223 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:44:13.39 ID:zk1Q08c6.net
の指定地全域に係る適切な保存管理の方法と調和するものである。森林法森林計画
・保安林その他の森林の基本事項を定めた法律であり、8合目以下における国有林
の森林管理・保全は特別名勝の保存管理の方法と調和するものである。鳥獣の保護
及び狩猟の適正化に関する法律8合目以下の国有林における鳥類又は哺乳類に属す
る野生動物の保護の観点から、特別名勝の保存管理の方法と調和するものである。
絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律指定地の全域に関わるが

224 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:50:25.37 ID:flRqeZ4U.net
然環境についても同様である。構成資産の所在地域における自然
災害については、台風・大雨・地震・洪水・噴火などが想定され
、それぞれについて綿密な防災対策が講じられている。保全管理
区域については、各々の構成資産間の関係を良好に保ち、富士山
の景観の一体性・連続性を保証するために、緩衝地帯を含め広く
設定した。設定については、富士山を周辺から展望した際、資産
範囲を含め良好な景観を形成する範囲を基準としている。図緩衝
地帯全体図以下にそれぞれの現状を記す。(1)富士山山体及び
登山道A富士山(御中道含む)標高約1,500m以上は構成資
産内に含まれている。A1山頂信仰遺跡(御鉢巡り含む)標高約
1,500m以上は構成資産内に含まれている。A2大宮・村山
口登山道標高約1,500m以上は構成資産内に含まれている。
A3須山口登山道標高約1,500m以上は構成資産内に含まれ
ている。A4須走口登山道標高約1,500m以上は構成資産内
に含まれている。標高約1,500m〜800mにおいては、保
全管理区域として保護されている。A5吉田口登山道全体が緩衝
地帯で保護されている。A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8
精進湖A9本栖湖(2)信仰B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅
間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5冨士浅間神社全体
が緩衝地帯で保護されB6河口浅間神社ている。B7冨士御室浅
間神社B8御師住宅B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B1
2船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡(人穴
浅間神社)B15白糸の滝(3)眺望C1三保松原海浜に面した
南側のエリアが構成資産であり、水際線から50mの範囲につい
ては、海岸法により保護されている。北側エリアは緩衝地帯とし
て保護されている。2保全管理の基本的な考え方各構成資産の保
存計画の策定状況については、本推薦書の7.資料、e)参考文
献、3)保存管理計画書に示すとおりである。特に山梨県・静岡
県教育委員会は、文化庁及び関係各市町村の教育委員会との十分
な調整の下に『「富士山」包括的保存管理計画』を策定し、資産
の全体を視野に入れた総括的な保存管理を行っている。包括的保
存管理計画に定めた基本方針に基づき、管理団体である県・市

225 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:50:42.70 ID:zk1Q08c6.net
b老朽化に伴う改修や安全確保を図る目的で強度等を向上させる場合には、現状の
形態・色彩を踏襲するとともに、周囲の景観にも調和したものとするよう努める。
c顕彰碑等については現状の維持とし、新規の設置を許可しない。(イ)文化財の
活用に資する工作物照明設備、文化財等の説明板・地図等の案内板等については、
規模・形態・色彩・材質等に関し、周囲の景観に調和するものとする。(ウ)登山
道の整備に必要な工作物a安全確保を目的とする道路関連の工作物については、周
囲の景観に馴染む形態・色彩とする。b危険防止及び安全管理のための工作物につ
いては、安全確保の機能を前提として、周囲の景観に馴染んだ形態・色彩とする。
c指導標、屋外広告物等については、富士山標識関係者連絡協議会が策定する「富
士山における標識類総合ガイドライン(仮称)」に沿ったものとする。(エ)学術
研究を目的として設置する工作物計測機器類については、規模・形態・色彩・材質
等において、景観を阻害しないものとする。(オ)その他の工作物期限を限って設
置する仮設の工作物については、周囲の景観に馴染んだ形態・色彩とする。イ既存
の工作物において、史跡としての本質的価値を有しないものまたは史跡の保存・活
用に資するものでないものについては、老朽化または耐用年数経過等の時点をもっ
て、除却する。B土地の形状・土壌の性質の変更、土壌・岩石の採取ア土地の形状
・土壌の性質を変更する行為、土壌・岩石の採取は許可しない。ただし、安全確保
及び学術研究を目的とするものついては、この限りでない。イ地面の掘削を伴う復
旧・更新・整備に当たっては、必要に応じて発掘調査等を実施し、その成果を十分
踏まえて遺構・遺物の保存・整備を行う。C動植物の捕獲・採取、木竹の伐採・植
栽ア動植物の捕獲・採取は許可しない。ただし、安全確保の措置及び学術研究に基
づくものについては、この限りでない。イ木竹の伐採・植栽については許可しない
。ただし、次の各項に該当するものについては、この限りでない。(ア)景観の保
全に関わるもの(イ)病害虫木の伐採及び危険木の伐採等の森林管理及び安全管

226 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:57:29.65 ID:flRqeZ4U.net
士宮市ほか)、三番目が各市町村独自の景観条例や土地利用事業
指導要綱(山梨県富士吉田市の一部・静岡県裾野市・御殿場市・
小山町)である。三番目の地域に関しては将来的に二番目の保護
措置に移行する予定である。なお、三保松原などいくつかの資産
においては、資産範囲が文化財としての登録範囲よりも狭く設定
されているため、緩衝地帯の一部は文化財保護法により保護され
ている。これらの地域では適用する法令等に違いはあるが、緩衝
地帯において行われる建築物・工作物の新築、増築、改築、土地
の形質変更等に係る行為については、許可制や届出制に基づく規
制が定められ、資産の周辺環境の万全な保護措置が講じられてい
る。保全管理区域については、富士山の信仰と緊密に関わる湖沼
・湧水、神社などの構成資産は、富士山の火山活動とも深く結び
ついており、富士山の火山噴出物(溶岩等)の到達範囲及びその
外縁部に立地するため、富士山の景観の一体性を保全するために
、火山噴出物(溶岩等)の到達範囲を基本とし、現在の土地利用
形態をも十分考慮した上で、演習場や緩衝地帯を含め広く設定し
た。保全管理区域は、条例や協定等により十分な保全の仕組みが
講じられている。(2)都市計画との調整資産とその緩衝地帯に
おいて、道路の整備や公共下水道の整備などの施設を整備する場
合には、資産の保護及び緩衝地帯の保全の観点から、関係機関の
間で相互に連携を図りつつ、調整を行うこととしている。現在、
資産と緩衝地帯は一部都市計画区域に含まれており、これらの区
域では引き続き山梨県・静岡県が定める「都市計画区域マスター
プラン(都市計画区域の整備、開発及び保全の方針)」や関係市
町−111−村が定める「市町村マスタープラン(市町村の都市
計画に関する基本的な方針)」に基づく様々なまちづくりの施策
を進めることとしている。これらのマスタープランにおいては、
都市計画区域の将来像が明示されており、これにより道路などの
都市施設の整備事業や市街地開発事業が行われる場合には、適切
な距離を考慮して緑地を配置し、自然的環境の整備又は保全の視
点との調和を図ることとしている。なお、資産とその緩衝地帯に
ついて、今後、都市計画区域の変更やマスタープランの見直し

227 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 00:57:47.01 ID:zk1Q08c6.net
告物については、富士山標識関係者連絡協議会が策定する「富士山における標識類
総合ガイドライン(仮称)」に沿ったものとする。(エ)学術研究を目的として設
置する工作物計測機器類については、規模・形態・色彩・材質等において、景観を
阻害しないものとする。(オ)その他の工作物公園施設等における建築物・工作物
、期限を限って設置する仮設の工作物については、周囲の景観に馴染んだ形態・色
彩とする。イ土地の形状・土壌の性質の変更、土壌・岩石の採取第1種保護地区と
同様の取扱基準とする。ウ動植物の捕獲・採取、木竹の伐採・植栽(ア)動植物の
捕獲・採取については、第1種保護地区と同様の取扱基準とする。(イ)木竹の伐
採については許可しない。ただし、次の各項に関するものはこの限りでない。・病
害虫木の伐採及び危険木の伐採等森林管理及び安全管理に関わるもの。・国有林野
施業実施計画に基づくもの。(ウ)植栽については、原則として周辺の在来植生と
調和した植物とする。エ登山道・道路等の新設・維持第1種保護地区と同様の取扱
基準とする。(3)三保松原静岡市教育委員会は、文化財を保護・育成する立場を
堅持し、予想される開発計画との適切な調整を図るため、文化庁及び静岡県教育委
員会と協議の上、『名勝「三保松原」保存管理計画書』及び『名勝「三保松原」保
存管理計画書解説』を平成元年4月15日に改訂し(解説:平成4年10月29日
一部改訂)、現状変更申請等に対応している。名勝三保松原地内における文化財保
護法以外の法令・条例による規制は、静岡県立自然公園条例、静岡県風致地区条例
等がある。さらに、指定地域を特別規制A地区、特別規制B地区、第1種規制地区
、第2種規制地区及び第3種規制地区の5規制地区に分け、管理のための基本方針
を定め、管理している。また、『三保松原保存管理計画書』には、取扱基準に関す
る解説が下記のとおり明示されている。詳細は『三保松原保存管理計画書』を参照
。@人命の安全を確保するためのもの−106−A海岸保全上必要なもので、景観
等に著しい影響を与えないもの。B既存の飛行場の各設備の整備C都市公園とし

228 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:03:36.17 ID:flRqeZ4U.net
は起こり得ない。「富士山世界遺産両県協議会」では、両県の知
事・市町村長を中心に、許認可・保存に関わる国機関も加わり、
開発の状況を把握し、コントロールのあり方について検討を行っ
ている。開発計画のうち、現在北麓(山梨県)においては都市計
画区域用途地域または都市計画区域外では5ha以上、都市計画
内(用途地域外)では10ha以上の計画については、山梨県

229 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:03:53.14 ID:zk1Q08c6.net
に該当する現状変更等については、原則として認めない。ア高さが21mを超える
工作物(施設内照明灯等にあってはその高さが25mを超えるもの)の新築イ高さ
が21m以下の工作物の増築又は改築であって、増築又は改築後の工作物の高さが
21m(施設内照明灯等にあっては、25m)を超える場合ウ高さが21mを越え
る工作物の増築又は改築であって、増築又は改築後の工作物の高さが増築又は改築
前のもの(施設内照明灯等にあっては、25m)を超える場合エ規模、形態、意匠
又は色彩が景観を損なうおそれがあると認められる工作物の新築、増築、改築又は
除却オ環境を損なうおそれがあると認められる塵芥、汚泥、産業廃棄物その他これ
に類するものの投棄又は埋立てカ松の生立木の枝打ち又は伐採(所有者及び管理団
体による同意のある場合を除く。)第3種規制地区(1)本地区内の現状変更等に
ついては、その全部を対象とする。(2)(1)の現状変更等についての許可の基
準は、次のとおりとする。本地区における次のアからウまでのいずれかに該当する
現状変更等については、原則として認めない。ア規模、形態、意匠又は色彩が景観
を損なうおそれがあると認められる工作物の新築、増築、改築又は除却イ環境を損
なうおそれがあると認められる塵芥、汚泥、産業廃棄物その他これに類するものの
投棄又は埋立てウ松の生立木の枝打ち又は伐採(所有者及び管理団体による同意の
ある場合を除く。)−108−第5章緩衝地帯の保存管理本章では、富士山の世界
文化遺産としての価値を将来にわたり適切に保存・管理するために緩衝地帯を設け
、その施策について記述する。富士山の効果的かつ確実な保存管理を行うためには
、地元関係者の協力・助言が不可欠であることから、関係自治体・地域住民・観光
関係者・神社関係者で構成する「山梨県保存管理計画策定協力者会議」(第1章表
)を平成年月に、「静岡県保存管理計画協力者部会」(第1章表)を平成年月にそ
れぞれ設置した。協力者部会の委員それぞれの立場から、富士山を良好な状態で守
っていくための課題や、今後検討する必要があると考えられる事項等を幅広く提

230 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:09:39.25 ID:flRqeZ4U.net
。また、三保松原における松にはマツクイムシ(マツノザイセン
チュウ)による被害が見られる。これに対しては、薬剤注入・散
布による予防措置及び植林、枯れた松の除去を資産の所在する静
岡市とNPO法人が行っており、被害の拡大を防止しており、将
来的に改善される見通しが付いている。(3)自然災害と危機管
理資産の所在地域における自然災害としては、第一に富士山特有
のものとして山体及び側火山からの噴火及びそれに伴う噴石、火
砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥流、降灰、降灰後の降
雨による土石流などが予想されるとともに、数年単位で発生する
山体における雪崩(特に大量の水分を含んだ雪が流動する雪泥流
)や大沢崩れ及びそれに伴う土石流、強風、雨水による浸食など
が考えられる。また、富士山を含む駿河湾沿いの地域はM8クラ
スの海洋プレート内地震の発生が予測されている。第二に日本列
島の太平洋側における一般的自然災害である台風・大雨・洪水並
びに火災等が予測されている。第三に三保松原に関しては海岸浸
食に伴う高潮などの被害がある。これらについてそれぞれ以下の
ような防災対策を講じている。噴火及びそれに伴う災害に対して
は、気象庁をはじめとする研究・防災機関が常時観測を行うと同
時に、国の富士山ハザードマップ検討委員会報告書(2004年
)に基づき県及び市町村において火山防災計画(ハザードマップ
・避難計画)などを策定している。雪崩については、吉田口登山
道では馬返より上の登山道に浸透桝を設け、雨水や雪崩による崩
壊を防いでいる。土砂崩れ・土石流(主に大沢崩れ)については
国が中心となり、源頭部における水分と土砂の分離、山麓におけ
る土石流災害防止を目的とした遊砂地の設置などを行っている。
また、登山道を管理する県では道流堤を設置し、落石の落下先を
コントロールしている。これらの災害は発生自体を防止すること
は困難であるため、その被害を最小限にとどめることを対策の骨
子としている。地震に関する対策としては、大規模地震対策特別
措置法(1978年)に基づき、予知を目的とした観測体制、予
知を前提とした非難・警戒体制、防災施設整備が行われるととも
に、東海地震対策大綱(2003)に基づき国・県・市町村の

231 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:09:56.59 ID:zk1Q08c6.net
びそれらの関連施設、その他の人工物などの人文的要素により構成される。緩衝地
帯等においては、資産の周辺に良好に残る自然的要素及び歴史的要素を保全すると
ともに、人文的要素については資産を保護するための緩衝地帯の特質にふさわしい
ものとなるよう適切に誘導することが必要である。したがって、そのために緩衝地
帯の範囲を適切に確保するとともに、自然公園法や山梨県、静岡県関係各市町村が
定める条例に基づき行為規制を行い、緩衝地帯の保全対策を講ずることとしてい

232 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:15:40.51 ID:flRqeZ4U.net
均410,000台・2006〜2008年)による環境への負
荷及び混雑の軽減を目的に以下の対策を行った。ごみに関しては
国・県及びNPO法人、ボランティアによる清掃作業が活発に実
施されるとともに(平成20年実績・92回、約64t、延べ参
加人数約7000名)、外国人も含め登山者に対してマナー向上
を呼びかけ、登山道周辺のごみは減少している。山頂部で発生す
るごみについては山小屋組合(富士吉田口環境保全推進協議会等
)により適切に管理・処理されている。し尿対策に関しては登山
道及び山小屋のトイレ48箇所を2006年までにバイオ処理式
等に改良し、環境への負荷を軽減した。自動車に関しては、土日
・休日を中心に各登山道の利用者数に応じて自家用車の利用を規
制し(利用者の多い富士スバルラインで最大12日間)、山麓の
臨時駐車場と五合目駐車場間のシャトルバスによる輸送を行って
いる。※オフロード車の進入等書くべきか※保存管理計画で車対
策を充実させなくて良いか(立ち枯れの問題を記述する場合特に
)2負の影響を与える要因の観察1で示した観察指標として考え
られるものについて、測定すべき内容、周期、記録組織の概要を
以下の表に示す。指標の具体的な測定内容等については、表に明
示している。表観察指標一覧表※斜字は富士山を守る指標から指
標周期記録組織(1)資産の視覚的結a)視点場における景観阻
害要因数毎年両県びつきの保護b)電線の地中化延長毎年両県a
)富士山環境教育開催数・参加者数毎年両県b)パンフレット・
HPによる情報提供数毎年両県c)主要地点での観光客の入込み
数毎年両県(2)資産の関連性の保護d)登山者数(5合目以上
)毎年市町村−117−e)登山者数(8合目以上)毎年環境省
f)森林伐採面積(森林の整備形態?)毎年両県a)文化財保護
法における現状変更の数毎年両県b)自然公園法における許可行
為の数毎年両県・環境省c)生活排水クリーン処理数毎年両県(
3)個別資産の保護d)富士山5合目以上のごみ収集量毎年両県
a)自然公園法における許可行為の数毎年両県・環境省b)ゴル
フ場面積毎年両県c)森林伐採面積(森林の整備形態?)毎年両
県(4)緩衝地帯の保護d)廃棄物の不法投棄量毎年両県−1

233 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:15:57.77 ID:zk1Q08c6.net
において積極的な情報交換が行われている。また、各市町村担当課の役所には地域
住民からの問い合わせに迅速に対応するための体制が整備されている。3具体的な
施策鉄塔・看板・広告塔などの景観に負の影響を与える人工物については、規模、
色彩、素材等の観点から、外観の調和に努める。構成資産の周囲において人工物の
設置計画がある場合には、構成資産に与える影響からそれらの位置、規模等に関す
る十分な検討を行うとともに、設置をする場合においても、条例及び関係法令に定
める規模・色彩・素材等の観点から景観に十分配慮するよう関係者への理解と協力
を求める。既存の施設で、特に資産の顕著な普遍的価値に著しい負の影響を及ぼす
可能性のあるものについては、撤去・修景を含めた対応により影響の軽減に努める
。公益上必要な施設については、利用状況を尊重しつつ、修景を行うことにより景
観に対する影響の軽減を図る。資産とその緩衝地帯において予定されている開発計
画で、顕著な普遍的価値に影響を与える可能性があると判断されているものについ
ては、あらかじめその影響を最小限にとどめるような施工方法について検討し、事
前協議を行うよう関係機関との調整を図る。以上の取扱い内容の詳細については、
付章に事業計画一覧表として示している。また富士山は、山頂から駿河湾の海浜に
至るまでの広い裾野を有している。そのため多様な植生がみられ、広範囲に湧水が
分布しており、周辺では古くから人々の生活が営まれ、市街地化や企業の進出など
開発が進んでいる。このような特性をふまえ、富士山及び富士山周辺の環境を、良
好な状態で一体的に保全するためには、以下の項目について施策を実施することが
必要である。−112−(1)ゴミ、不法投棄対策の取組マナーの啓発や清掃活動
を実施するとともに、あわせて不法投棄防止のための監視体制を強化するなど、良
好な環境を保全するための対策をより一層進める。(2)自然環境の保全富士山の
自然的特性に配慮し、自然環境を保全するための体制整備や、体制が実施する取組
の検討を早急に進め、検討を重ねて実施していく。また、自生種の植樹・植栽を

234 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:22:12.60 ID:flRqeZ4U.net
伝達するために必要な質及び量を考慮する。そのため、現在「環
境省生物多様性センター」、「山梨県立富士ビジターセンター」
、「山梨県環境科学研究所」、「富士吉田市歴史民俗博物館」、
「河口湖フィールドセンター」などにおいて行っている、構成資
産の解説については、顕著な普遍的価値の観点から一層の充実を
図る。表資産の顕著な普遍的価値の伝達に関する公開・活用施設
一覧NO名称解説対象備考1環境省生物多様性センター自然2山
梨県富士ビジターセンター富士山全般大型映像施設あり3山梨県
環境科学研究所自然4富士吉田市歴史民俗博物館歴史5旧外川家
住宅歴史4の附属施設6富士吉田市世界遺産センター歴史7河口
湖フィールドセンター自然8富士市立博物館歴史9裾野市立富士
山資料館富士山全般(4)国内外からの観光客への対応富士山地
域は、優れた名所として知られており、広く国内外から多くの来
訪者を受け入れている国内有数の観光地となっているため、地域
住民に向けた公開・活用のみならず、資産の価値に対する理解促
進と普及啓発に向けた積極的な宣伝に努める。山梨県及び各市町
村では、景観や環境の保全にも十分配慮した観光計画を策定して
おり、その計画に基づき来訪者の受入れ態勢の整備などを進めて
いく。また、富士山山体においては、登山者の安全と利便を図る
ため、統一されたデザインによる4ヶ国語(英語・中国語、ハン
グル、日本語)の道標や解説板の整備を進めている。表富士山へ
の来訪者数の推移(7・8月推計)単位:人年吉田口富士宮口御
殿場口須走口合計※吉田口:富士吉田市富士山課で集計(六合目
安全指導センター調)※富士宮口、御殿場口、須走口:富士宮市
観光協会等の推計表主な構成資産の来訪者数の推移(推計等)単
位:人富士吉田・河口湖・三つ峠周辺本栖湖・精進湖・西湖周辺
山中湖・忍野八海周辺三保松原浅間大社白糸ノ滝※「山梨県観光
客動態調査」(山梨県)2整備と公開・活用富士山体及び富士山
周辺には、富士山の価値を示す多くの貴重な文化財が、広い範囲
に分布している。それらを確実に保存管理するためには、適切な
整備を進め、地域住民や来訪者に対し、効果的な情報提供を行う
ことが重要である。資産の整備及び活用は、資産の管理者であ

235 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:22:29.90 ID:zk1Q08c6.net
フ場・スキー場)A廃棄物処分場又は清掃工場B工場又は工業団地C道路整備(ブ
ルドーザー道)また、資産の保全状況及び資産に与える影響の概要については、推
薦書本文において記述しているとおりである。これらの影響などについて顕著な普
遍的価値の適切な保存管理という観点から、「資産の視覚的結び付き」、「資産の
関連性」、「個別資産の保護」の3つに分類し、影響の程度を観察する指標を設定
した。資産の顕著な普遍的価値を確実に保護するためには、資産に影響を与える要
因について、監視の方策及び負の影響が及ばない方策を検討する必要がある。その
考え方の概要については以下の表に示すとおりである。−114−表資産に負の影
響を与える要因とその考え方顕著な普遍的価値を構成する諸要素資産に対する負の
影響観察指標として考えられるもの富士山の顕著な普遍的価値眺望・信仰知識の提
供・普及活動等の停滞による影響・資産の知覚的結び付き、関連性の未理解による
影響気候変動による影響・酸性雨による影響(建造物等の腐食)・温暖化による影
響(植生への影響)自然災害による影響・大雨による影響(遺跡、建造物のき損)
・噴火(遺跡、建造物のき損)・虫害、樹木の成長等による影響(遺跡、景観のき
損)観光圧力による影響・観光客増加による影響(遺跡、建造物のき損、周辺環境
の変化)開発圧力による影響・周辺地域の大規模開発による影響(埋蔵部下材の消
失、景観阻害要因の設置)・住民の多様な意識による影響(統一性のない町並みデ
ザイン)資産の視覚的結び付きに関して・視点場における景観を阻害する要因の数
・規制(景観条例等)に適合しない要因の数資産の関連性に関して・知識の提供、
普及状況(整備の進捗、ガイダンス施設、研究報告、発掘調査、パンフレット、H
Pなどによる各種情報提供、国内外専門家による現地確認、各種研修会、セミナー
等の開催)・観光客数の動向(入込数、便益施設と収容能力など)個別資産の保護
に関して・酸性雨の状況(PHなど)・水系の状況(水質、水量、生物など)・植
生の状況(樹種とその割合など)・遺構の状況(礎石の位置など)・現状変更数

236 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:28:10.73 ID:flRqeZ4U.net
連絡調整のための会議を年に複数回開催し、保存管理等の状況や
今後の管理運営についての情報交換を行うなど、さらなる連携の
強化に努めることとしている。−123−(3)広報関係保護・
保全に対する意識を高めるためには、世界遺産登録の意義を理解
することが重要であることから、地域住民をはじめ、来訪者への
広報や啓発活動を推進する。(4)(仮称)富士山世界遺産両県
協議会包括的保存管理計画に定めた上記の基本方針に基づき、静
岡県・山梨県と関係市町村は、広範囲にわたる富士山の構成資

237 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:28:28.04 ID:zk1Q08c6.net
や雪崩による崩壊を防いでいる。土砂崩れ・土石流(主に大沢崩れ)については国
が中心となり、源頭部における水分と土砂の分離、山麓における土石流災害防止を
目的とした遊砂地の設置などを行っている。また、登山道を管理する県では道流堤
を設置し、落石の落下先をコントロールしている。これらの災害は発生自体を防止
することは困難であるため、その被害を最小限にとどめることを対策の骨子として
いる。地震に関する対策としては、大規模地震対策特別措置法(1978年)に基
づき、予知を目的とした観測体制、予知を前提とした非難・警戒体制、防災施設整
備が行われるとともに、東海地震対策大綱(2003)に基づき国・県・市町村の
防災計画が策定されている。台風は1996年9月に富士山南側の人工林地区(ヒ
ノキ)に風倒の被害(標高1100〜1200m中心、計1125ha、富士山で
は約935haうち国有林620ha)をもたらしたことがあるため、1997年
より静岡県が中心となり、被害地に対して自生種(ブナ・ミズナラ)の植栽(のべ
22・68ha)を実施している。また、風倒による被害を防ぐため人工林におけ
る下刈を実施している。大雨・洪水に関しては堤防・遊水地・砂防堰堤の建設や河
川の改修などにより、大雨時の洪水に対する防止策を講じている。山火事に対して
は、防火帯を設けており、大規模な火災に対して最大限の対応を可能としている。
建造物の火災に対しては自動火災報知設備・ドレンチャー設備・消火栓、放水銃な
どを設置しているほか、自主防火組織も整備するなど、万全を期しているので問題
ない。万一、上記の災害が発生した場合においても、速やかに原状復旧の対策を講
じるための制度及び体制を完備しており、資産の価値が減じることはない。三保松
原においては、安倍川(土砂供給源)下流部での砂利採取を1968年より海岸浸
食の原因の一因と考え禁止するとともに、1989年より34年計画(2034年
まで)でヘッドランド・離岸堤の設置や養浜による海岸保全対策を行い、現在、海
岸と平行した方向に年250mの割合で砂浜の回復が進行している。現在ヘッド

238 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:35:09.23 ID:flRqeZ4U.net
き、山梨県・静岡県は、世界遺産の保存管理を専任とする職員の
組織を整備するとともに、連絡調整会議を設置して関係市町村の
教育委員会との十分な連携を図っている。山梨県・静岡県教育委
員会では、文化財・世界遺産担当の組織を設け、現在名の職員に
よって資産全体の保存管理に当たっている。富士宮市教育委員会
では世界遺産推進係を、富士吉田市では世界遺産推進室を設置し
、専任職員によって構成資産の保存管理に当たっている。また、
これ以外の市町村においても他の文化財とともに構成資産の保存
管理を担当する職員を定めている。これらの組織体制については
、さらなる充実化に努めることとしている。さらに、国・山梨県
・静岡県と関係市町村は、広範囲にわたる「富士山」の構成資産
及び緩衝地帯を包括的保存管理計画に基づき統一的に管理するた
め「(仮称)富士山世界遺産両県協議会」(以下「協議会」とい
う。)を設置し、各構成資産を成す重要文化財、史跡、特別名勝
又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物の保存管理計画を共通
の基準に基づき確実に実行している。協議会では、資産及びその
周辺地域において、国・静岡県・山梨県・関係市町村・民間団体
等が実施する予定の事業等について、それぞれの事業が、資産の
保存管理に負の影響を及ぼすことなく、適切に実施されるように
連絡・調整及び各法令を管轄する行政機関に対する助言を行う権
限を有する。協議会における調査結果に基づき、静岡県・山梨県
及び関係市町村は、民間事業者等に対して権限に基づく適切な指
導や助言を行うこととしている。協議会には、国内の大学及びイ
コモス会員等の研究者・専門家が参加しており、協議会に対して
学術的な観点からの助言を行っている。さらに、静岡県・山梨県
文化財保護審議会をはじめ各市町村文化財調査委員会は指定文化
財及び文化財全体に関する事項を審議し、それぞれ、山梨県・静
岡県及び各市町村に対して建議を行っている。付章1保存管理に
関する事業計画一覧表富士山包括的保存管理計画を適切に実施し
ていくため、「(仮)富士山保存活用両県協議会」が毎年開催さ
れている。現状の把握及び保存管理の方向性については、その概
要を本文第4章1・2、第5章1・2に示している。また、実

239 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:35:26.28 ID:zk1Q08c6.net
る顕著な普遍的価値を顕在化させる整備計画を策定し、修復及び整備を進めること
とする。また、山梨県・静岡県及び構成資産所有の市町は、「(仮称)富士山フォ
ーラム」を始めとする資産の関連性を含めた富士山の顕著な普遍的価値を理解する
ための講座及び研修会等を実施し、情報の伝達を行うことについて配慮する。さら
に、日常的な情報提供の一環として、ガイドブック等の充実を図るほか、地域の児
童・生徒を対象とした学校教育及び地域住民を対象とした社会教育活動との連携

240 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:42:01.31 ID:flRqeZ4U.net
調査推進・公開富士山及び構成資産の関連書籍のデータベース作
成10モデルコースの設定・周知誘導看板の整備富士山に関する
顕著な普遍的価値を考慮した公開・活用「便益施設」の計画的な
整備資産等の巡視・監視体制の強化民間団体等ガイドの養成11
神社関連施設及び遺跡の調査・整備宗教法人等神社関連施設及び
遺跡の公開・活用宗教法人等遺跡に関する顕著な普遍的価値を考
慮した公開・活用自然関連の情報収集・調査民間団体等富士山総
合研究の実施大学、行政、民間団体等12歴史的事実に基づく真
実性の担保富士山研究機関の設置民間団体等13適切な公開活用
施設の設置「(仮称)富士山センター」の充実各種ガイダンス施
設の整備・拡充14国内外からの観光客への対応外国人観光客の
受け入れ態勢の整備民間団体等資産の価値に対する理解促進に向
けた積極的な宣伝適切な経路の設定トイレ等の便益施設の設置シ
ャトルバス等の交通渋滞の緩和策の実施−130−−131−平
成22年度第1回静岡県学術委員会・第2回山梨県学術委員会参
考資料1顕著な普遍的価値の登録基準2005年2月版「世界遺
産条約履行のための作業指針」77項より(@)人間の創造的才
能を表す傑作である。(A)建築、科学技術、記念碑、都市計画
、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値
観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(B)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統
又はある文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくと
も希有な存在)である。(C)歴史上の重要な段階を物語る建築
物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕
著な見本である。(D)あるひとつの文化(または複数の文化)
を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利
用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれ
あいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりそ
の存在が危ぶまれているもの)(E)顕著な普遍的意義を有する
出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるい
は文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基
準とあわせて用いられることが望ましい)(F)最上級の自然

241 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:42:18.44 ID:zk1Q08c6.net
慮した整備計画の検討を進める。計画は以下のとおりである。ア富士山山体及び登
山道A(A1〜A9共通)・誘導看板の設置・登山道及びブルドーザー道の整備・
破損した石造物の修復・土砂崩落防止柵の整備イ信仰B1〜B15共通−120−
−121−・継続的な文化財調査・社殿を始めとする建造物や境内地の修復および
保存・解説板、案内板等の設置・良好な景観の維持・永続的に行われている習俗の
継承、保存ウ眺望C三保松原・継続的な植生及び海浜の調査・解説板、案内板等の
設置・良好な景観の維持・永続的に行われている習俗の継承、保存・病害虫の駆除
−122−第8章保存管理体制の整備と運営1保存管理体制の整備と役割分担構成
資産及び緩衝地帯の確実な保存管理のためには、関係する行政機関、所有者、地域
住民、市民団体などが相互に意思を疎通し連携を図る組織や、運営体制を整備する
ことが重要である。効果的かつ確実な保存管理の体制を整備するため、以下の4点
に留意することが必要である。(1)行政機関の連携国・県・市町の役割を明確に
し、相互に連携を図る協力体制を整備する。また、一元的な体制整備についての検
討も進めるとともに、関係市町村は、それぞれ保存管理に必要な体制の整備を行っ
ている。山梨県、静岡県においては、関係市町村と緊密に情報交換を行い、資産の
保存管理に関して行政的な助言を行っている。また、山梨県、静岡県とその関連機
関である山梨県埋蔵文化財センター及び静岡県埋蔵文化財研究所では、それぞれの
組織内に文化財の高度な保存・管理技術を持つ専門職員及び技術者を配置し、市町
村が行う保存管理に対して適切な技術的な支援を行っている。また、独立行政法人
国立文化財機構は、全国の史跡等における整備活用事業の円滑な推進と専門職員及
び技術者の技術や能力の向上のために、地方公共団体の専門職員を対象として定期
的に研修を開催しており、山梨県・静岡県をはじめ関係各市町村の職員も当該研修
等に積極的に参加して、資産の整備活用の技術向上に努めている。また、構成資産
の保護に関しては、必要に応じて文化財補助金制度等の財政的、技術的な支援を

242 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:48:53.04 ID:zk1Q08c6.net
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市
、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)
に跨る活火山である。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で
、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多くの芸
術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけではなく、気候や地層など地
質学的にも大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で

243 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:49:40.29 ID:flRqeZ4U.net
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県
(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、
山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。
標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、
その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られて
いる。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与
され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特

244 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:55:03.23 ID:flRqeZ4U.net
が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため
律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。ま
た、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場と
しても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。こ
れら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった
一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多く
ある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(
三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また
、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定さ
れている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、20
11年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)
6月22日には関連する文化財群とともに「富士山−信仰の対象
と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺
産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふ
じやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士
山(とみすやま)とは字も呼び方も異なる。富士山についての最
も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であ
ると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは
不尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝
説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じ
て富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては
、宣教師・バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイ
ヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、
これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」
からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、マ
レー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富
士山」と表記されるに至るにおいては駿河国富士郡に由来すると
するものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富
士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む命
名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「
富士」の付く地名が多数存在している。富士山の麓として静岡県
に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富士河

245 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 01:55:19.55 ID:zk1Q08c6.net
構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間
大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家によ
り浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされ
る富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるよ
うになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一
派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズ
ンには富士登山が盛んである。日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百
選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園
に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(
平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文
化財群とともに「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録さ
れた。日本の文化遺産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「
ふじやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士山(とみすやま
)とは字も呼び方も異なる。富士山についての最も古い記録は『常陸国風土記』に
おける「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不
二山もしくは不尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝説も
ある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたと
いう説もある。近代以降の語源説としては、宣教師・バチェラーは、名前は「火を
噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。し
かし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤
解であるとの反論がある。その他の語源説として、マレー語説・マオリ語説・原ポ
リネシア語説等がある。明確に「富士山」と表記されるに至るにおいては駿河国富
士郡に由来するとするものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富
士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む命名富士山が日

246 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:01:37.52 ID:flRqeZ4U.net
町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が見える場
所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似て
いる山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士な
ど)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山
を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士見」および「富
士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、321座を超え
る数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細
は「郷土富士」を参照なお、地名以外にも「富士」を冠した名称
は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異名として芙蓉峰
とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の
地形図富士山の構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であ
り、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富士山の山体
は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたも
のだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小御岳(
こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山こ
の中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山
である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリン
グ調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明
した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付
けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続
け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱ま
で成長した。山頂は宝永火口の北側1?2kmのところにあった
と考えられている。2009年10月に、GPSによる富士山の
観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始
以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変
化が現れ、富士宮市−富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマ
グマが蓄積している(活火山である)現れとされている。プレー
トの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレ
ート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に
糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位
置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マ
リアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界

247 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:01:53.99 ID:zk1Q08c6.net
代表する名峰であることから、日本の各地に「富士」の付く地名が多数存在してい
る。富士山の麓として静岡県に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・
富士河口湖町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が見える場所を富
士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似ている山(主に成層火山)
に「富士」の名を冠する例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人た
ちも、居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士見」および
「富士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、321座を超える数の富士と
名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細は「郷土富士」を参照なお、地
名以外にも「富士」を冠した名称は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異
名として芙蓉峰とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の地
形図富士山の構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特
有の美しい稜線を持つ。現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山
活動によって形成されたものだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山
小御岳(こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山この中で先
小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究
所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山
体があることが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名
付けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火
山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北
側1?2kmのところにあったと考えられている。2009年10月に、GPSに
よる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来
初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市−
富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)現
れとされている。プレートの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北ア

248 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:07:32.32 ID:flRqeZ4U.net
三重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込ん
でおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平
洋プレートに由来するものである。富士山の火山上の特徴は、日
本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること、日本の火
山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士
山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いこと
がある。富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お
鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つ
の峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰
があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m20
14年4月1日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、富
士白山。標高3756.23m2014年4月1日改算)が設置
されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部の標高
が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は
780m、火口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目
より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが
、県境と市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世
界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平太と山梨
県知事の横内正明は県境を定めないことを明言している。国土地
理院がインターネット上で公開している地形図では2013年1
0月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表
示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの
帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているた
め、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示
されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の
住所表示については非表示になるよう変更された。宝永山宝永山
と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)
の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東
斜面に位置し標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大
な噴火口が開いている。これらを間近で見ることができる登山コ
ースも整備されている。詳細は「宝永山」を参照富士山と火

249 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:07:48.62 ID:zk1Q08c6.net
カプレート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡
構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフ
と駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプ
レートの境界域(三重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山の
マグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来するものである。
富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること
、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄
武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いことがある。富士山頂山頂火
口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これ
を囲むようにして8つの峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣
ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m2014年4月1
日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.23m
2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構造は、国土地理院によると
、最深部の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は7
80m、火口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目より上は、富士宮市
にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。
2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平
太と山梨県知事の横内正明は県境を定めないことを明言している。国土地理院がイ
ンターネット上で公開している地形図では2013年10月から地図上の地点を指
定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地
点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示されるという設定になっている
ため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山
梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示に

250 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:14:41.89 ID:flRqeZ4U.net
動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了
した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩
を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体であ
る新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の
東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約
2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部

251 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:14:58.29 ID:zk1Q08c6.net
よう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(
1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面
に位置し標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている
。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されている。詳細は「宝永山
」を参照富士山と火山活動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期
が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量

252 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:21:48.14 ID:flRqeZ4U.net
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8
,000年前の3,000年間と、約4,500年前?約3,2
00年前の1,300年間と考えられている。山頂部からの最後
の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は
無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生
している。延暦19年−21年(800年−802年)に延暦噴
火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火
。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大
噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が
降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山
が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、
今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最
も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(78
1年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に
成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であ
ったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実
録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代
中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写
がある。宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りた
く柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている
。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から
見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永
大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり
、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられて
いた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測され
ており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり
、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業
技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)とし
て発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が
流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回

253 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:22:03.78 ID:zk1Q08c6.net
出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その
後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていた
と見られるが、約2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新富士の山頂から溶
岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8,000年前の3,000年間と、
約4,500年前?約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部
からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は無いが
、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。延暦19年−
21年(800年−802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩
を噴出した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝
永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった
。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性
の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代
が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781
年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語
』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安
時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、
平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。
宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした
文書、絵図等により多数残されている。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残され
ているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝
永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代
まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山に
はいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止

254 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:28:01.11 ID:flRqeZ4U.net
たとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山
体崩壊(岩屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含め
て南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたと
されている。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動に
よるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(
約18億立方メートル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺
から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下、
山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に伴い発生。
1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会(
気象庁)−富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活
動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表するが、
噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年3回実施
されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に富士
山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され
、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火
山情報発信の方法などが集中的に検討された。富士山ハザードマ
ップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広域避難のために
必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められて
いる。富士直轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発
生する大規模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実
施中。山梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルー
トマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1
月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山
で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登
山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘリ
で救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたことを
明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技術研究
所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大学(東京
大学地震研究所)などにより観測が行われている。国土地理院:
地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所および江刺
観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの電子基準

255 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:28:17.43 ID:zk1Q08c6.net
ことも重なり、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業技術
総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ
富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016年には修正加筆が終
了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43
回あったとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩
屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側に3
回、東側に4回の計12回起きたとされている。また、直下に存在が示唆されてい
る活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約18億立方メー
トル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島
周辺を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に
伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会(気象庁
)−富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活動についての検討を実施
する。状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表することはない
。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に
富士山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関
する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的
に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広
域避難のために必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められてい
る。富士直轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発生する大規模な土石
流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山梨県は2015年6月11日
、「富士山噴火時避難ルートマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は20
16年1月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山で滑落し
た登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登山者が死亡した事故を

256 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:34:36.67 ID:flRqeZ4U.net
気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、
鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上
井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研
究所:火山活動可視情報化システム(VIsualizatio
nsystemforVolcanicActivity)噴出
物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨
県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐため
の調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しかし
、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で
ある。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃
しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1
月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ1
0を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−3
0℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ること
がない1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気
象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所
となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。
詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が
巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり
、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積も
ったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の
山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現
れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作
物が豊作になる・凶作となるという言い伝えがある。富士山では
山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英国海外航
空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記
念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:
1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称
変更)、「富士風穴」(天然記念物:1929年12月17

257 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:34:52.89 ID:zk1Q08c6.net
、再発防止策として、市消防局がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと
上限を設けたことを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技術研
究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大学(東京大学地震研究所
)などにより観測が行われている。国土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測
所、水沢測地観測所および江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの
電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、鳴沢
塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎
坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化システム(V
IsualizationsystemforVolcanicActivity
)噴出物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し
火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討を実施しハザー
ドマップが作成されている。しかし、山体崩壊を想定したハザードマップは201
2年現在未作成である。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃
しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンド
ラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5
月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高
気温が−30℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ることがない
1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測かつて気象庁東京管区気
象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は富士
山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行ってい
る。詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻き上げられ
、周辺の自治体に降ることがある。2010年12月15日には、神奈川県の西部
から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風
に乗り降り積もったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(現在

258 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:41:03.21 ID:flRqeZ4U.net
定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨や
雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる
。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高
1670m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に
分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で
1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧
出量の減少が確認されている例がある。地域名称南東麓されてい
柿田川(日本三大清流)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がっ

259 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:41:19.52 ID:zk1Q08c6.net
梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現れる農鳥(鳥の形に
見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作になる・凶作となるという言
い伝えがある。富士山では山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英
国海外航空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記念物とし
て、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:1926年2月24日指定
、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念物:1

260 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:47:42.70 ID:flRqeZ4U.net
玉池(特別天然記念物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念
物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの
、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があ
るとされている。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で
製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。ま
た、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネ
ラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形
成されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周
辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡
富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その
他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定
されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較
すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が
終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態
系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進
入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植
物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼
)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生して
いる。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広が
っているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、そ
の代替にカラマツ林が広がっている。人間史富士山本宮浅間大社
古代古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山と
して、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と
言われるようになった。特に富士山の神霊として考えられている
浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社で
あり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富
士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮
」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。詳
細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであると
する考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる

261 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:47:59.14 ID:zk1Q08c6.net
9年12月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨
や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点
から湧き出す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合目付近
)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は
1968年で1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧出量
の減少が確認されている例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流
)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念物)、白糸の滝(国
指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)
またの、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされて
いる。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業な
どの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含ん
でいるため、ミネラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成されている。そ
の中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一
の長さを誇る。また、山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨
県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その他、鳴
沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定されている。植生富士山
は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これ
は富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の
生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたた
めである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタ
デ科オンタデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士
薊)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっ
ているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマ

262 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:54:34.34 ID:flRqeZ4U.net
の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り
。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」
(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹
取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲
斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有
の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズ
ス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山
は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という
関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた
登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言
われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂
部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つように
なった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木
造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。
鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩
薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の
8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、
文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』には「い
ただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の
記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による
庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得た
ことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富
士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大
社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講な
どの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆
盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道で
は発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つように
なっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者

263 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 02:54:50.80 ID:zk1Q08c6.net
が広がっている。人間史富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰の対象
とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富
士信仰と言われるようになった。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神
とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在する。浅間
神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士
宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。
詳細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普
遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』
)や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂
の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河
の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を
跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、
イエズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に
帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考え
られる。登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが
最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在してる
。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようにな
り、特別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年
銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時
代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」と
いう呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶこと
も神仏習合に由来し、文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』

264 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:00:56.99 ID:flRqeZ4U.net
いい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「
此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」と
ある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先
達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年
」とあり)などが確認されている。明治以後慶応4年(1868
年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく
崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しな
どが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社と
なり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅
間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった。仏
教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1
883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治
39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(201
1年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史
跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」とし
て包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾野市・駿東
郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村
である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(
登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部
、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富士登山
の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存
在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年
平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の
上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹の
中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年
9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富
士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという
。天智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大
島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山は
マルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録
は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされてい

265 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:01:13.39 ID:zk1Q08c6.net
「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認で
きる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内
院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された
経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社
の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され
、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興
宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立
つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程
度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』
の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須
走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、
先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)など
が確認されている。明治以後慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、
これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像
の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり
大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護
摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の
呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年
(明治39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(2011年)2月
7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資
産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮
市・裾野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村
である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定さ
れた。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が

266 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:06:47.41 ID:flRqeZ4U.net
貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富士山記』
の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があ
り、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でな
ければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した
者に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火で
はないが有史最大の貞観大噴火があった。久安5年1149

267 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:07:03.71 ID:zk1Q08c6.net
指定された。登山史富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じってお
り、諸説存在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年平安時
代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の上を越えたとする記述が
ある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬
であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き
、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。天智天

268 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:12:36.98 ID:flRqeZ4U.net
本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。
回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物と
して知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参
拝者が富士登山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数
存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を
持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)
があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシ
ーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度
測定を行った。伊能忠敬の測量では2603m−3732mとさ
れていたが、この測定では3794.5mと算出されている。天
保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷か
れていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)
が近世大名として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、
造り酒屋の主人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平
宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗
秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう
と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであ
り、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であって
も寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と
呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下
の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そ
こで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山
を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に
着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行っ
た唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコッ
クが外国人として初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山に
ついての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)があり、
「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨
にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し
、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オー
ルコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、2

269 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:12:53.17 ID:zk1Q08c6.net
年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、富
士山へ登ったという伝説が残る。役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この
役小角の登山はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は
改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。貞観17年875年
平安時代の学者である都良香が『富士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂に
は常に沸き立つ火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見
た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材
したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大
噴火があった。久安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰
りかえしたとある。回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物
として知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山
(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落
共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿
坊(山小屋)があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシーボ
ルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠
敬の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定では3794.5
mと算出されている。天保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制
が敷かれていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名
として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した「袖
日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の
6番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう
と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、これを逸脱し
たコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても寄り道することは許されないため
、富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得る

270 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:18:55.48 ID:flRqeZ4U.net
に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解かれる。明治時代
になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポー
ツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れ
られることになる。明治25年1892年英国人のウォルター・
ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を出版し富士山
などの日本の山々を世界に紹介した。明治28年1895年野中
到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年1
0月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年192
3年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須
走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩に
て登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、
御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王
の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。
奥宮を参拝後、下山。昭和2年1927年中村テルが冬季女性初
登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和63年
1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登山
で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され
る。平成20年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富
士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権
争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域に
は各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来
の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭
を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争い
を起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種
になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両
を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。
内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地
域によって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村
山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」
が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は1
577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社
)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1

271 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:19:11.75 ID:zk1Q08c6.net
馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場所
であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そこで宗秀は嘉永6年(1
852)6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始
め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を
行った唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコックが外国人と
して初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社
奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書
寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、
不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オールコックは7月24
日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人
禁制が解かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽
やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れられるこ
とになる。明治25年1892年英国人のウォルター・ウェストンが登頂。翌年に
も登頂した。その後本を出版し富士山などの日本の山々を世界に紹介した。明治2
8年1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年
10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年1923年皇太子裕仁
親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬に
て登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印など
を行った後、御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王の登
山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。
昭和2年1927年中村テルが冬季女性初登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性
2人と共に。昭和63年1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日
の登山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念される。平成2
0年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富士宮口を出発後、御殿場

272 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:24:57.96 ID:flRqeZ4U.net
9年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、
内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山よ
り登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝
する慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口
は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮
司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」
の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山
小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「
吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起
こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っ
ている過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)
を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間
神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏ら
を相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは
浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服
、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入
仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯す
ものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾
いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社
が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大
社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂
の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅
間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないというこ
とを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、
その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:
4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり
、以後これらは遵守された。安永の争論安永元年(1772年)
に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を
相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間
大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大

273 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:25:14.25 ID:zk1Q08c6.net
山道に入り登頂。富士山を巡る利権争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山
』山麓の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来
の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を徴収していた。
これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭は相
当額になるため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1
年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。内院散
銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「
村山」と「須走」と「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に
村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走
は1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の
内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家康
が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の
大宮司が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝す
る慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理し
ている「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山
役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道
を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」は
1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」
では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある。元禄の争論元禄16
年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社
)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御
師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。
訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めた
ことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入

274 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:31:57.56 ID:flRqeZ4U.net
で支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入
である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行
なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越
されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信
奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社
奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目よ
り上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった

275 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:32:13.91 ID:zk1Q08c6.net
勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの
、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となってい
るとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた
浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏につ
いては浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2
番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内

276 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:37:54.29 ID:flRqeZ4U.net
の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定め
られることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士
山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され
、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富
士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・
山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地
域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御
殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複し
ない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山道
(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・
コモンズには、各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリが
あります。富士山への良好な眺望が得られる128景233地点
を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景として、20
05年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内
便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案
内するアナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見る
ための遊覧飛行便も運行される。富士山の眺望の最遠は2013
年現在、和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(
妙法山とは別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一
番遠く最も西にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1
月16日に福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919
m)と日本地図センターにより認定された(富士山からは308
kmの距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三
原山からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能
とされていた京都府から2014年に撮影に成功したことにより
、20都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、
見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名
が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝
、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめ
とした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧し
た富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(
ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。逆

277 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:38:10.29 ID:zk1Q08c6.net
いう扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾
いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された。安永の
争論安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして
浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側
の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争
論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれる
こととなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持
ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたと
いう幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁
許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決
定された。この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の
支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった
。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士山は昭和27年(1952年)10月
7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨
県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村
)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山
道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域
、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山
道(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・コモンズには、
各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望
が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景
として、2005年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便な
どでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンス

278 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:45:00.59 ID:flRqeZ4U.net
士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の
裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)
から望む日の出時のダイヤモンド富士(2015年12月5日撮
影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時、太陽が富士山
の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る
現象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることが
できる。影富士朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出さ
れる風景。富士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場
合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に傘をかぶ
せた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になる
ことが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏
富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「
裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表
富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これに
は歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八
葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲
斐国志』巻35ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口
、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表ト
シ、北面ヲ裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通
した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方
は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」とい
う言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身
延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など
、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術にお
ける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)
峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲
載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く
名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記
録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれて
いたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物
である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博
物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖徳

279 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:45:17.12 ID:zk1Q08c6.net
ることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行される。富士山
の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士
見峠(妙法山とは別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も
西にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島県川俣町と飯
舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地図センターにより認定された(富
士山からは308kmの距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三
原山からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされていた京都
府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府県となった。様々な表
情の富士山富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する
。富士と名が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝、露出
した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士」
を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。
「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。逆
さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の裏の図案に、
本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモン
ド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時
、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る現
象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることができる。影富士朝日
や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部か
ら、雲海の上に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に
傘をかぶせた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になることが多
い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小
屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県
から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、

280 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:51:08.22 ID:flRqeZ4U.net
が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳
図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉
時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とと
もに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反
弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態
で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作とさ
れる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要
文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であっ
た浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるもの
である。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、
葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵
本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した
。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響
を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連
作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。
多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料
を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波
と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広
重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六
景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケ
ッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士
山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作
により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地
点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸
品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情
を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(193
8年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富
士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆ
る美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近

281 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:51:24.52 ID:zk1Q08c6.net
には歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では
既に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記
述がある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略
)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通した
記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であっ
たと言える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏
不二』『冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士
』など、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術における富士山
三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)峰型富士の例(上図)と同じ
構図の実写富士は、ギャラリーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた
諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記
録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられて
いる。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物である延久元年(1069年)の『
聖徳太子絵伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗っ
た聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図とし
て描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分
かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』な
ど物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画
としての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に
着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認
識されていた。室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間
大社所蔵、重要文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった
浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富士
山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北斎作江戸時代には明和4年

282 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:57:25.90 ID:flRqeZ4U.net
殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけ
られ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画にお
いては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制
作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多く
の文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を
題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画など

283 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 03:57:42.24 ID:zk1Q08c6.net
767年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを
提示した。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(
天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠
近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き
、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描

284 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:04:34.44 ID:flRqeZ4U.net
している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがい
る。富士山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く
流通しており、このことから富士山もヨーロッパで広く知られて
いた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオースト
リア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント
大公は、日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。
いったい、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと
呼ばれる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでも
っとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、
金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染みだ
。??8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴とし
て位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。
戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本
のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を
描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアン
チテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾向
も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小細工
を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが、
その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。日
本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆
粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨
画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札のモデルとなっ
た本栖湖からの富士山近代では紙幣や切手のデザインにも用いら
れている。富士山が紙幣のデザインに用いられる例は数多くある
。古くは1913年発行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山からの
富士山でる。その後の1951年と1969年発行の旧五百円札
は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士山を元にしている。1984年
発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔から
の富士山である。富士山を描写した切手が郵便局から発売された
。河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成1
1年))葛飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグ
サ・山梨県(2005年(平成17年))文学における富士

285 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:04:50.86 ID:zk1Q08c6.net
『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広重も北斎より後の1850年代に
『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅し
て実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を
題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士
見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題とし
て開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山
の風情を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(1938年発行)
岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品
や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われている。日本画
においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけ
られ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き
継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網など
交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞
在し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残してい
る画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士山をモチーフと
した美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨー
ロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオー
ストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、日記
に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴――
ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者などいるのだろうか?
ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、金
属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染みだ。??8月15日付
戦時下には国家により富士は国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボ
ルとして様々に描かれた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放

286 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:11:25.00 ID:flRqeZ4U.net
士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』
の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子
の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(
3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また
、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…
燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・31
9・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山
頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士
山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』
から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえ
てゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富
士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士
日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語
後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老
不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山
頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因
んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記してい
る。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」と
して言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語
』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要
な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置すること
が正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していた
ため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが
、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、
どの方角から見ても整った美しい形を表している。中世から近世
には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸と
して俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富
士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑
目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口
大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多く
の紀行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多く

287 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:11:41.46 ID:zk1Q08c6.net
た「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を描いた。
また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアンチテーゼとしてパロディや
風刺、アイコンとして富士を描く傾向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中
で富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが
、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。日本画全般の題材
として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)
が見上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札の
モデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙幣や切手のデザインにも用いられて
いる。富士山が紙幣のデザインに用いられる例は数多くある。古くは1913年発
行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でる。その後の1951年と19
69年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士山を元にしている。19
84年発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山で
ある。富士山を描写した切手が郵便局から発売された。河口湖、西湖、精進湖、本
栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛飾北斎(1999年(平成11年)
)オオマツヨイグサ・山梨県(2005年(平成17年))文学における富士山富
士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山
を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富
士の高嶺に雪は降りける」(3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)で
ある。また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる
火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「(噴火の)燃
える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」
)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌
集』から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもし
らぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富士は遠く神秘的な山として

288 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:18:24.66 ID:flRqeZ4U.net
、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書
いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記
録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地
質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の
時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。
また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や
戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富
士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。太
宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の
一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨
県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家
である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、
富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力
伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆し
ている。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美し
い富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている
。「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ
花の姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登
山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しか
し、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出してい
ない。富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重
視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、
山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺
産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相
違が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の
山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。
期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。
とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登
山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場所
は著名な観光地となっていることが多い。箱根−箱根は富士山が
望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の乗

289 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:18:40.97 ID:zk1Q08c6.net
され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹
取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不
死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことに
なっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられた
とする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹
採塚」として言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語』や『伊
勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少な
い。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、古代においては駿
河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多い
が、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。また、「八面玲
瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい
形を表している。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期に
は地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾
野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れ
るようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書き
、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多
くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、
妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記し
ている。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士
を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。
また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人
文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文
芸の振興にも務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富
嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県

290 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:24:23.98 ID:flRqeZ4U.net
が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。
また、夏は避暑地としても有名である。富士五湖−富士五湖は富
士山周辺の観光地として著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本銀
行券に採用されている。白糸の滝−白糸の滝は上流に川は存在せ
ず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成
をしている滝である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指
定されている。朝霧高原−朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポッ
トとして著名であり、その自然と広大な土地もあり過去に第

291 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:24:40.43 ID:zk1Q08c6.net
河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家である新田次郎は富士山
頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描い
た直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執
筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見
て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。「とある停車場富士の裾野で
竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教

292 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:31:28.90 ID:flRqeZ4U.net
回世界ジャンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイ
ヤモンド富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったス
ポットも有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる
。ドライブ−富士スバルラインや富士山スカイラインなどを利用
して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン中は
マイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の日(2
月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合
わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。2
001年(平成13年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)
にて条例を制定。2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を
中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2
009年(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会
一致で可決。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どち
らも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当た
り前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、
各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加す
る事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルと
しても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて
富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの
期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に対して
2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とす
るよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓
である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない
。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士
山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設に
も富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。なお、富士山
の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY−Ser
ve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で
、1996年1月1日にネット上で発表した。富士山ナンバー静
岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を
対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして2008年11

293 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:31:45.03 ID:zk1Q08c6.net
や避暑、富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しかし
、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出していない。富士山の利用
について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に
観光開発を重視しており、山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題
、世界遺産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面
化している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の知識や経験、装備が不可欠
である。一般的には、毎年7月1日の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、
登山が可能である。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている
。とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登山」を参照その
他の観光その優美な姿から、富士山が見える場所は著名な観光地となっていること
が多い。箱根−箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や
各種の乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。また
、夏は避暑地としても有名である。富士五湖−富士五湖は富士山周辺の観光地とし
て著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本銀行券に採用されている。白糸の滝−白糸
の滝は上流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍し
い形成をしている滝である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されてい
る。朝霧高原−朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自
然と広大な土地もあり過去に第13回世界ジャンボリーも開催されている。ダイヤ
モンド富士−ダイヤモンド富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったス
ポットも有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる。ドライブ−富士
スバルラインや富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマイカーで上がる
ことができる。シーズン中はマイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士
山の日(2月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで
読み「富士山の日」として制定している自治体がある。2001年(平成13

294 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:38:35.24 ID:flRqeZ4U.net
日から富士山ナンバーの交付が開始された。管轄支局が二県にま
たがるナンバープレートは珍しい。富士山検定「富士山検定実行
委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商
工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、
NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。地域間交
流富士山頂の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流
が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続
けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵
琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖
へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ
ことを「お水取り」という。2014年には日本富士山協会と中
華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結され
ている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に
新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉山
(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった
。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高
山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メ
ートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル
。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベ
レスト−世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には
、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Uni
code6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表で、「
ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUnico
de6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加され
たが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
いる。続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りそ
の穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水
を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山
頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。2014
年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉
山の友好山提携が締結されている[84]。標高3,952メー
トルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の

295 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:38:51.64 ID:zk1Q08c6.net
山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。2002年(平成14年
)山梨県富士吉田市を中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承
。2009年(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可決。
同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶
け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である。そのため「富
士山の日」に、各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する
事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰と
して再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺産登録に向けた動きを
地元から活発化したいとの期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村
に対して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよう要
望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会で
は「特定日を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年以降
休業日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富
士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設にも富士山の日に
ちなんだ事業実施を要請している。なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソ
コン通信「NIFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYA
MAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。富士山ナンバー静岡運
輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆる
ご当地ナンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始され
た。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは珍しい。富士山検定「富士山検
定実行委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、
静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検定協会の
5者により行われている。地域間交流富士山頂の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富
士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間

296 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:45:09.89 ID:flRqeZ4U.net
峰であった。その他[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)−
日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,
952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ
、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メートル。北
岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル。日和山(
仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト−世
界最高峰。標高8,844メートル。文字[編集]この節には、
一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unic
ode6.0の絵文字)が含まれています(詳細)。和文通話表
で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUn
icode6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追
加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含
まれている。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静岡県学術
日本政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東
アジアの東端に当たる日本列島の本州島の中央部、日本の東海地
方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資産は17個
の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現行の行政
区分に基づく各構成資産の所在地については以下に記すとおりで
ある。構成資産所在地No.所在地座標計測位置緯度経度A静岡
県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・小山町)山梨県(富
士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町)県境未確定地富士山
(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の
位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分
を示す図面は以下のとおりである。f)資産面積及び緩衝地帯の
面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積、資産の総面積及
びその緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。
構成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(h
a)緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全
体の説明富士山は、標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰
である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線
を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成
層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海

297 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:45:26.21 ID:zk1Q08c6.net
けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」と
いう伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、
琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」という。2014年には日本富士
山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結されている
。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の
最高峰であった。その他他山の標高玉山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ
、日本最高峰であった。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は
次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メートル。北岳
−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最
も低い山。標高3メートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,844メートル。
文字この節には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unic
ode6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富
士山のフ」という。文字コードのUnicode6.0では、携帯電話などで使わ
れていた絵文字も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も
含まれている。続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵
琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お
水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」という[82]
[83]。2014年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と
玉山の友好山提携が締結されている[84]。標高3,952メートルの玉山は台
湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他[編集]他山
の標高[編集]玉山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であっ
た。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日
本で2番目に高い山であった。標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高
い山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高

298 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:51:44.63 ID:flRqeZ4U.net
らの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレー
ト、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにその
下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点
に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴
出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先小

299 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:52:00.87 ID:zk1Q08c6.net
ートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,844メートル。文字[編集]この節
には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode6.
0の絵文字)が含まれています(詳細)。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士
山のフ」という。文字コードのUnicode6.0では、携帯電話などで使われ
ていた絵文字も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含
まれている。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静岡県学術日本政府が世

300 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:58:29.06 ID:flRqeZ4U.net
火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さらにそ
れを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口は
およそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ
レートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続けて
いるため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に
向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を
行ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物は、
適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら
、山頂を中心として約15〜20km(最大約30km)の範囲
に広がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ
、溶岩流の末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とする豊
富な湧水(日量約450〜680万t、現在最大の湧水は日量約
100万tの柿田川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水
や降水を起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的環
境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を
持っていた日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教
の融合した信仰の対象とされた。遥拝や山中での修行のみならず
、神仏の在所と考えられた山頂への登山という宗教行為が一般化
するとともに、山体及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・
湧水といった自然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設け
られ、登山のための道や施設及びそれを支援する包括的なシステ
ムが作られた。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士
講(富士山信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖
な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域では
さらに、山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山
」(森林地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「
草山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と
穢れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯は
神聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のため
に利用される地域でもあった。また、富士山山麓に見られる湧水
は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代においても
柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱われている。ま

301 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 04:58:45.62 ID:zk1Q08c6.net
産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の本
州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資
産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現行の行政区分に
基づく各構成資産の所在地については以下に記すとおりである。構成資産所在地N
o.所在地座標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市
・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町)県境未確定地富
士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲
を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分を示す図面は以下のとおりであ
る。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積、
資産の総面積及びその緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。構
成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積
(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の説明富士山は、標高3776mと
日本一の高さを誇る独立峰である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい
懸垂曲線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成層火山で
ある。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面からの実質的な高さは世界的
にも有数である。富士山は、日本列島のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート
、ユーラシアプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにそ
の下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点に存在する。富
士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴出物からなる地層の上に第四紀更
新世に造り上げられた先小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富
士、さらにそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口はおよ
そ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プレートが北進しユーラ
シアプレートを南南東方向から押し続けているため割れ目が発生することによって
、山頂を通って北北西に向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も

302 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:04:36.68 ID:flRqeZ4U.net
富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺の湖
や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代を超えて多くの
人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造意欲を掻き
立てた。富士山体のうち、標高約1500m以上の範囲は、周辺
の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸
術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山体
の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的
にも、宗教的観点からも不可能になる地点)の標高以上の範囲と
ほぼ一致している。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を
指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲とみ
なす地域もあった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくな
り「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲
線を描き絵画などの対象とされることが多い範囲である。2)資
産の構成推薦資産は、日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と
、周辺の浅間神社や御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹
型・湖沼、芸術作品の視点場(又は舞台)となった地点から構成
される。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要
素が含まれている。これらの構成資産が一体となった推薦資産「
富士山」は、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山
と人間との精神的な関係を生み出した景観の見本であるとともに
、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/構成要素
の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A
2大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山
道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、記
念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺跡B
1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B5遺跡
B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9遺跡B1
0遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15遺跡C
遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口
湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河口
浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津胎内
樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅

303 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:04:52.90 ID:zk1Q08c6.net
活動を行ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物は、適度な粘度
を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら、山頂を中心として約15〜
20km(最大約30km)の範囲に広がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型
等の地形が見られ、溶岩流の末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とする豊
富な湧水(日量約450〜680万t、現在最大の湧水は日量約100万tの柿田
川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水や降水を起源とする湖沼が点在して
いる。上記のような自然的環境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信
仰の伝統を持っていた日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合
した信仰の対象とされた。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所と考えられ
た山頂への登山という宗教行為が一般化するとともに、山体及び山麓周辺に神社な
どの宗教施設や風穴・湧水といった自然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が
設けられ、登山のための道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた
。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講(富士山信仰の集団の一つ)
信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた
。北麓地域ではさらに、山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」
(森林地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草山」)と死の世界
(「焼山」)を往復することでこの世の罪と穢れを消すという富士登拝の区分と関
連付けていた。森林地帯は神聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生
活のために利用される地域でもあった。また、富士山山麓に見られる湧水は登山前
に身を清めるために必須のものであり、現代においても柿田川をはじめ各所で「霊
水」として取り扱われている。また、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を
戴いた姿、周辺の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代を超えて多く
の人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造意欲を掻き立てた。富士山
体のうち、標高約1500m以上の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見

304 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:11:15.20 ID:flRqeZ4U.net
湖673)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山
には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施
設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅
間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は、
何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典型
的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点
である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬
返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、その中
でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山
本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割
した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375
m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識され
てきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三
保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の
浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12
世紀前半から中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけにな
ったと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山
道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多
くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。ま
た、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられている
。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や
石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登
山道は欠かすことのできない構成要素である。A2大宮・村山口
登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉田口登山道(写
真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住宅登山道の起点や
周辺地域には浅間神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対
象であり、山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめてい
る。噴火活動の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半

305 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:11:31.38 ID:zk1Q08c6.net
視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山道
における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも
、宗教的観点からも不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地
元住民が、とりわけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と
呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大
きくなり「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵
画などの対象とされることが多い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、日本列
島のほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神社や御師住宅、霊地・巡礼地で
ある風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作品の視点場(又は舞台)となった地点から構成
される。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要素が含まれている
。これらの構成資産が一体となった推薦資産「富士山」は、山に対する固有の文化
的伝統を表す物証であり、山と人間との精神的な関係を生み出した景観の見本であ
るとともに、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/構成要素の分類
No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A2大宮・村山口登山道遺
跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮
冨士浅間神社遺跡、記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺
跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B5遺跡B6遺跡B7
遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9遺跡B10遺跡B11遺跡B12遺跡B
13遺跡B14遺跡B15遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山
宮浅間神社河口湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河口浅
間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津胎内樹型吉田胎内樹型人
穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中湖673)構成資産の説明富士山(富
士山体)・展望地点富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山
の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の証と

306 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:17:01.66 ID:flRqeZ4U.net
士山を神体とする浅間神社(後の富士山本宮浅間大社)が、9世
紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11
世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞
台とする修験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅
間神社や冨士御室浅間神社へと発展していった。登拝の大衆化に
伴って、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、
登山口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、
北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によ

307 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:17:18.08 ID:zk1Q08c6.net
建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た
可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本
栖湖や三保松原は、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典
型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点である。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高1500
m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界

308 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:24:07.63 ID:flRqeZ4U.net
大いに利用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、
富士講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も
残されている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村
山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社)
A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨
士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地と
なった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から爆発的に
流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけでな
く、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水地な
どを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開祖とされる長谷
川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五湖を始めとし
た八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講徒はこれら
の地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また、長谷川
角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と
唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったこと
にちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の
富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山
中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍野八海
B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B
15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士
山体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、
信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といった
宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦
範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合
う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高い。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当
する標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死
後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の
境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ
。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、山
頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目
以上は、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とさ

309 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:24:22.53 ID:zk1Q08c6.net
上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した
目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近
づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A1山頂
信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には
、麓の浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半か
ら中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけになったと考えられる大宮・村山
口登山道や、六合目から1384年の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などが
ある。吉田口登山道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多
くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。また、1200年の
資料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、それ以外には登
山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随
所に小屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登山道は
欠かすことのできない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道
A4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御
師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造された。古くから富士山は遥拝
の対象であり、山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動
の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後
の富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭
祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台
とする修験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅
間神社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神社や富士浅間神社
(須走浅間神社)8など、登山口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。な
かでも、北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大いに利
用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、富士講徒の案内し、宿

310 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:30:08.42 ID:flRqeZ4U.net
が、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と
呼び宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座する
との信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は
富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、
神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの
境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ご
ろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」という
危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用された
。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山
の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構
成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山頂部には、火口
壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在する。富士
山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部にお
いて寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部
での宗教行為が体系化されていった。道者は山頂周辺において「
御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来
光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとされる神
仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝
し、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世
界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行
為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世
紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定される
ものが最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像
等(1302年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋納
や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮
・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉
田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。
1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によっ
て撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上

311 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:30:24.87 ID:zk1Q08c6.net
世話や祈祷を行った御師の住宅が今も残されている。B1富士山本宮浅間大社B2
山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社
)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社
(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・
湖沼18世紀後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に
登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水地などを
巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開祖とされる長谷川角行は、人穴(富士
講遺跡)で修行をし、富士五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った
。後の富士講徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また、
長谷川角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた
忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったことにちなんで整備された船津胎
内樹型や吉田胎内樹型など、特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資
産もある。B9山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍野八海
B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B15白糸ノ滝(写
真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士山体)説明富士山には、山頂部に点
在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小
屋といった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は
、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の
側面における比重が9最も高い。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであ
る「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界
(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされ
た八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3
200〜3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識され
てきた。八合目以上は、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされ

312 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:36:59.01 ID:flRqeZ4U.net
行為は現代の登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信
仰の核心が現代に受け継がれている。A2.大宮・村山口登山道
富士山南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南
側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろの、修行僧末代
の活動により、富士山南麓における登山が本格的に開始されたと
され、14世紀初めには修験者による組織的登山が始まったとさ
れる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた
3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行う
とともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また
、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も
開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼
羅図」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初
頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,000人前後
、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国人
登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。1
01889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利用者の
増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山を経由
しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標高26
00m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除
き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は1970年に標高
2400m地点まで開通した自動車道を利用しての登山が行われ
ている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道
富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山
道である。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486
年にその存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅
間神社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理され
ていた。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行
場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究が
進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来す
る60年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前
半は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60
0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2050

313 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:37:15.32 ID:zk1Q08c6.net
、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付
けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づく。標高約2500m
付近の森林限界より上方は富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と
呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境域に沿
い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろに富士講の祖とされる長
谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び1580年とされる)、その後
「大沢崩れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用され
た。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山の顕著な普遍的
価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A1.山頂信
仰遺跡富士山山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所
在する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において
寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化
されていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケ
ン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとさ
れる神仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁
にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢め
ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教
的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸
仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最
古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀
には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須
走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教
的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され

314 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:43:39.69 ID:flRqeZ4U.net
に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線
開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さ
らに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったた
め、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二合
八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみである
。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称で使用されている二

315 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:43:55.92 ID:zk1Q08c6.net
院は神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上
記の行為は現代の登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信仰の核心が現
代に受け継がれている。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点
とし、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろ
の、修行僧末代の活動により、富士山南麓における登山が本格的に開始されたとさ
れ、14世紀初めには修験者による組織的登山が始まったとされる。15世紀

316 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:50:15.20 ID:flRqeZ4U.net
勺以上の部分及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である
)A4.須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八
合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山道である。その
起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏
が出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認でき
る。登山道は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所
在地の須走村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部
などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と
争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕
府に裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の
宝永噴火の際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に
覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し
、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされ
た参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に
23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成
により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用はほ
とんどなくなり、一部道としての確認ができない区間がある。(
推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5.
吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東部を
目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけ
でなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世
紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登
るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷
川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講
隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信
者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者が
次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山
口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している
。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な
道である。(推薦範囲は登山道全体である。)11法的保護、修
理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名
勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士箱

317 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:50:31.52 ID:zk1Q08c6.net
19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法
寺)と登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行っ
た。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始され
、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。道
者の数は18世紀後半から19世紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年
で2,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国
人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。101889年、
鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの対策
として1906年、村山を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合
目(標高2600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除き登
山道跡の推定は困難な状態である。現在は1970年に標高2400m地点まで開
通した自動車道を利用しての登山が行われている。(推薦範囲は六合目以上である
。)A3.須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至
る登山道である。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486年にその存
在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及びその所在地の須山
村(現裾野市須山)により管理されていた。また、登山道のいくつかの宗教施設は
村山の修験者の行場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究が
進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来する60年に1回の
記念の年)に約5,400人、1840年代前半は年平均約1,700人、186
0年(御縁年)は約3,600人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2
050m)に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線開通に
よる御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年、一部が
陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現
在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部の

318 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:56:58.64 ID:flRqeZ4U.net
国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下に名勝、
ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢崩れに対す
る砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台風による
森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A6
.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間
明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富士山
」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整って
いたとされる。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594
年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつ
ながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の
寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境
内の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組
をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本
殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、
各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞ
れの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神
社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており
、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社
殿の背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂まで
吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持
ちながら発展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯19
07年に東宮本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定さ
れた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国宝とされた
。1950年の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財
とされた。1953年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に
重要文化財に指定された。1952年に東宮本殿の解体修理工事
が行われた。1962〜63年に西宮本殿の解体修理工事が行わ
れた。1973〜74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工
事が行われた。1981〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行
われた。1997年に本殿の部分修理工事が行われた。文化

319 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 05:57:14.90 ID:zk1Q08c6.net
ある。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分
及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東
麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山
道である。その起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が
出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くと
も17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の山頂部までを
支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅
間大社と争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定
を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施
設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌
年には復興を完了し、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにさ
れた参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人
とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成により、新五合目(標高約200
0m)以下の登山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認ができない区
間がある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5.吉田
口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15
世紀には、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっ
ていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人
々が登るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉
田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は
、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため
、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山
口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。しかも、古道と
しては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。(推薦範囲は登山道

320 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:02:54.98 ID:flRqeZ4U.net
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定
。A7.西湖A8.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動に
よって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行
の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたの
が、後述の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、
日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり
、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プ
ロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかで
も、生涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、193
5年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写
真は有名である。この写真は、1984年に採用された五千円札
及び2004年に採用された千円札の図柄として使用された。山
体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの
展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現
在も残している。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下
に名勝として指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社
記によれば806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅
間神社から現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古く
から富士山南麓地域の中心的神社であった。現在全国に約130
0社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰されている。創建当
初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んにな
るにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とと
もに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された
。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で
、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をおさめ統一政権
である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現在の「
浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営されるとと
もに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これ
を基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、177
9年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配権が認め

321 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:03:11.21 ID:zk1Q08c6.net
である。)11法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士箱根)国立公
園に指定された。1952年に文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定さ
れた。1969年に国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年
に国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保護
法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A6.北口本宮冨
士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起
源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社
の社殿が整っていたとされる。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年
に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつながりが強く、17
30年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工
事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・
檜皮葺の本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組をもって
支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・西宮本殿はともに桧皮
葺・一間社流造である。3本殿とも、各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金
具を配して、それぞれの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間
神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の管理も
御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後には登山門があり、この
神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師と密
接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯1907
年に東宮本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1929年の国
宝保存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財保護法制定に伴い
、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法
の下に重要文化財に指定された。1952年に東宮本殿の解体修理工事が行わ

322 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:10:02.55 ID:flRqeZ4U.net
た。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高
裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅
間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大
社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖な
る水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14
万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。
なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする
池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が身

323 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:10:18.73 ID:zk1Q08c6.net
。1962〜63年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜74年に本
殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。1981〜82年に東宮本殿の
部分修理工事が行われた。1997年に本殿の部分修理工事が行われた。文化財保
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8
.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖である。富
士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われた

324 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:17:12.43 ID:flRqeZ4U.net
める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記でその様
子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行われた
。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保
護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社寺保存法の下に特
別保護建造物に指定された。1923〜26年に本殿・拝殿・楼
門等の補修が行われた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本
殿は国宝とされた。1933〜34年に楼門の修理を行った。1
936年に袖廊・廻廊を附した。1950年の文化財保護法制定
に伴い、本殿は重要文化財とされた。1951〜52年、197
0年、1988年に本殿の屋根の修理等が行われた。1969〜
70年に本殿の屋根の修理等が行われた。1987〜88年に本
殿の屋根の修理等が行われた(部分補修)。2005年に本殿の
屋根の修理等が行われた。13文化財保護法の下に他の文化財と
ともに史跡富士山として指定される予定。B2.山宮浅間神社説
明富士山本宮浅間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、
拝殿・本殿等が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥
拝所が設置されるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀
の形を止めていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山
方向を向いている。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では
神事に使用されたと推定される12〜15世紀の土器が出土し、
文献上では1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも
1577年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる
儀式が開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、
浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現時点では神が
4月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神とし
て里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行わ
れていた。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道と
いう。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少なくとも
四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていない。法的
保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡に指定され
る。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀前半から中

325 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:17:28.49 ID:zk1Q08c6.net
長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後
述の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作
品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された
写真の撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は
、プロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわ
たり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から
撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1984年に採用
された五千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用された。山体
の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春
」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。法的保護、修理・整
備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富士山本宮浅間大
社説明社記によれば806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社か
ら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富士山南麓地域の中心
的神社であった。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰
されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んに
なるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とともに大宮・村山
口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中で
の諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお
さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現在の「浅間
造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営されるとともに、1609年山頂
部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を
行うようになり、1779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配権が認
められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高裁判決に基
づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅間大社境内には富士山の

326 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:24:18.85 ID:flRqeZ4U.net
の修行僧末代の活動が創建の起源とされており、1868年の神
仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺
または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺
院である大日堂が含まれる)。富士山における修験道の中心地で
あり、14世紀初めには、その活動が組織化された。15〜16
世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16世紀の制作
とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。1868年
、神仏分離令により浅間神社と大日堂は分離され、1906年の
登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、修験者の活動
は1940年代まで継続された。また、村山の修験者の影響を受
けた地域では現在でもその宗教行事が継続されている。法的保護
、修理・整備の経緯2001年から2003年にかけて富士宮市
教育委員会により発掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B4.
須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅くとも1524年
には存在していた神社である。1707年、宝永噴火により社殿
は登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1823年に再
建されたものである。神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者と
も関わりを持ち、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈
祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。14
B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に社
殿を造営したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。
16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭
取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊し
1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、20
09年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。神社には
富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達
成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。
法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文
化財となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定され

327 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:24:35.13 ID:zk1Q08c6.net
を起源とする湧玉池がある。浅間大社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考え
や、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14
万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。なお湧玉池は、浅
間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする池である。16世紀前後、湧玉池は
浅間大社により道者が身を清める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行
記でその様子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行われた。現在
でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保護、修理・整備の経緯1
907年に本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1923〜2
6年に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保存法制定に伴い
、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼門の修理を行った。1936年に袖
廊・廻廊を附した。1950年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化財とさ
れた。1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根の修理等が行われ
た。1969〜70年に本殿の屋根の修理等が行われた。1987〜88年に本殿
の屋根の修理等が行われた(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行わ
れた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予
定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅間大社の社伝によれば、浅間大社の前身
とされ、拝殿・本殿等が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設
置されるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定さ
れている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。具体的な創建年代は不詳
だが、発掘調査では神事に使用されたと推定される12〜15世紀の土器が出土し
、文献上では1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577年まで
には浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは4月と
11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現
時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神とし

328 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:31:42.24 ID:zk1Q08c6.net
へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山
宮御神幸」に使用される経路を御神幸道という。道には1691年に置かれた距離
を示す石碑が少なくとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていない
。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡に指定される。文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B3.村山浅
間神社説明12世紀前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており
、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺
または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である大日堂が
含まれる)。富士山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動
が組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16
世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。1868年、神仏
分離令により浅間神社と大日堂は分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両
者とも衰微した。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村
山の修験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続されている。法的
保護、修理・整備の経緯2001年から2003年にかけて富士宮市教育委員会に
より発掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定される予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅く
とも1524年には存在していた神社である。1707年、宝永噴火により社殿は
登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1823年に再建されたものである
。神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者とも関わりを持ち、1940年頃まで境
内で修行の一環としての祈祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。14B5.富
士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に社殿を造営したとされ、須走
口登山道の起点となった神社である。16世紀には地元支配者(武田氏)の保

329 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:33:15.74 ID:flRqeZ4U.net
定。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は南麓
の浅間神社が執り行っていたが、864〜866年に北麓で起こ
った噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった
。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかっ
た河口浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心とした河口

330 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:38:17.97 ID:zk1Q08c6.net
受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊
し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2009年の修理も
含め何回かの修理がおこなわれている。神社には富士講道者が多く立ち寄り、20
世紀前半を中心に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80
基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文化財
となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文化財保護法の下に他の

331 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:38:55.85 ID:flRqeZ4U.net
御師住宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の
世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口
本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をな
し、表通りに面して引き込み路を設け、

332 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:44:11.28 ID:zk1Q08c6.net
財とともに史跡富士山として指定される予定。B6.河口浅間神社説明古くから富
士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社が執り行っていたが、864〜866年に北麓
で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった。それが、
富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社である可能性
が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役
割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた。しか
し、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御
師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は
、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って
、富士山信仰を語る上で欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備
の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。
B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合
目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとす
る文献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅
間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたようで
ある。山中という厳しい条件の下に所在するためたびたび破損し、1189、12
75、1475、1525年と加修され、1564には地元領主による大修理が行
われている。現在の本殿は1612年建立と認められ、その後も1698年、18
67年に修復が行われていた。1973−74年には里宮の地にそのままの形で移
設された。里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するために河口
湖畔に建てられたとされる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置
づけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してき
た神社である。法的保護、修理・整備の経緯1973〜74年に吉田口登山道二合
目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985年に移築された二合目

333 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:44:34.51 ID:flRqeZ4U.net
住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥
部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古の部類
に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建て
られ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代
表的である。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講

334 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:50:15.93 ID:flRqeZ4U.net
発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって
現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の
際に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとって
の富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的保護
、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892
年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒
は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士
山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御師団が管
理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴
富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとさ
れる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残
る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間
大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅く
とも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、
その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によれば人穴は
16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行により浅間大菩
薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、入滅
した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と
述べ、これらの結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を
行う者も見られた。また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、
墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942年付近が軍用地
となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954
年神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参
詣者はみられるものの1964年以降碑塔の建設は行われていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡と
なる。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とす
る数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜1
6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるこ

335 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:50:32.34 ID:zk1Q08c6.net
が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下に他の文化財と
ともに史跡富士山として指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や
食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うこと
を業とした。富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口本宮
冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の
御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、
敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き
、最奥部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古の部類に数えられ
る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の御師住宅
の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。1861年に新築された小佐野家
住宅同様、富士講の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では
1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経緯1976年に小
佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。1979年に小佐野家
住宅の屋根の修理等が行われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が
行われた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される予定。B9
.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖である。
富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが
、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前
述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。この巡礼行為について、具体的に湖
沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったか
は、定まっていなかった(少なくとも、明らかになっていない)ものの、人々の信
仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心として、周辺地域も含めた範囲が文化財
とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保
護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B11

336 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:56:58.62 ID:flRqeZ4U.net
その起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷
川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士講
を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地とし
ても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、
修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に
名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明三保松原は
、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。
15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景
勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海外にも広
く知られている(又は海外に影響を与えた)芸術作品の視点場、
又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・整備の
経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定さ
れた。18b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40〜1
0万年前、周辺の火山とともに活動をはじめ、先小御岳火山が形
成された。その後これを覆うように標高約2500mの小御岳火
山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火山
が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り
返し、小御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火
山に成長した。約1万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の
富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約
5600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶
岩の流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部
には山体への降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出す
る形で各所に形成された。富士山北麓においてはこれらの湧水や
降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された
。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。
山頂からの噴火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが
、歴史時代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴火
を続け、1200年前から後には少なくとも800〜802年、
864〜866年、937年、999年、1033年、1083
年、1435〜1436年、1511年、1707年の九つの時
期の噴火が確認されている。神々しい山容と「鎮爆」このよ

337 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 06:57:14.97 ID:zk1Q08c6.net
野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士
信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った
。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」
と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者によって再興された
とされる。法的保護、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の
下に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷川角
行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩
樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講
道者によって現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に
、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが
行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫などが
祀られている。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道
者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き
、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士
山北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴富士講遺跡説明富
士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者に
よる約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描か
れ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅くとも1
603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られて
いた。富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行
が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、
入滅した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、こ

338 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 07:04:05.51 ID:flRqeZ4U.net
噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と
考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日本におけ
る古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り
返す噴火を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座す
る神を浅間神として祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅
間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるよう
になった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が
芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『万

339 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 07:04:21.58 ID:zk1Q08c6.net
の結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者
は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942
年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954年
神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみられるもの
の1964年以降碑塔の建設は行われていない。法的保護、修理・整備の経緯19
99年に富士宮市の史跡となる。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡

340 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 07:11:13.94 ID:flRqeZ4U.net
』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世
紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文学の題材と
なったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)
をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるように
なった(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が
京都から鎌倉に移動し、この二つの都市を結び富士山南麓を通る
街道の交通量が増加したことで、富士山の情報は多くの人に記録
され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山岳信仰
と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化した
ことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が
習合した「修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け入り、
霊力を獲得するために修行する山へと変化していった。当時一般
的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂
部に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15〜
16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率
された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設
置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に開
かれたとされている。このころには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた。登拝の大
衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる日本国内での
戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的な発
展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このよ
うな中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周辺の風穴などで
修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まったとされる富士
信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富士講」と呼ばれる信仰集
団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が登拝するよう
になった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」という。)は
原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する
神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で
水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した。登山道
には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支える

341 :底名無し沼さん:2017/12/07(木) 07:11:30.52 ID:zk1Q08c6.net
山として指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする数百の
流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜16万?)の噴出が数百条の
白糸が垂れているように見えることをその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連
の文書によれば長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士
講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地としても有名であり
、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、修理・整備の経緯1936年に史
蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説
明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。15
〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景勝地として数多く描か
れ、歌川広重等の作品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を与え
た)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・
整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定された。18
b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40〜10万年前、周辺の火山ととも
に活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後これを覆うように標高約25
00mの小御岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火山
が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小御岳火山
をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成長した。約1万年前には大量
の溶岩を噴出する形で現在の富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆い
つくし、約5600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の流
出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山体への降水を起源
とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形で各所に形成された。富士山北麓にお
いてはこれらの湧水や降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成さ
れた。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山頂からの噴
火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが、歴史時代になっても北西

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