【六分一殿から】戦国山名氏【交代寄合】
- 1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 15:18:55 ID:dRdf1/mm.net
- 中国地方東部の覇者、山名氏のスレッドです
但馬山名氏、因幡山名氏どちらの話題も桶
- 2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 15:24:49 ID:k+QE7e5u.net
- 山名豊国は悲惨
- 3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 15:55:57 ID:Xbsq12FY.net
- 今名古屋にいるのはどちらの家系?
- 4 :右京太夫 ◆riQy7en7pA :2006/07/01(土) 16:17:23 ID:ponLR3FQ.net
- 六分一殿も満幸さまと氏清さま、御所さまの悪巧みに乗らはったのが運のつきどしたなあ。
- 5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 18:09:20 ID:dRdf1/mm.net
- >>2
餓死するよりよっぽどましでは?
悲惨なのは勝算のない鳥取城に送り込まれ、
飢餓地獄を味わった吉川経家の方でしょう
- 6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 18:53:49 ID:QcMfkAvS.net
- 豊国ってヘタレ武将扱いされてるけど
戦績は何にもないのか? 守護家として親父から家督相続しただけなん?
- 7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 19:41:20 ID:vjLu0hGl.net
- お前チンチンついてるのかっていわれた豊国たんハァハァ
- 8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 00:01:49 ID:tg0hcli8.net
- 細川の子孫の有名人はたくさんいるのに、山名はさっぱりですな。
- 9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 08:12:17 ID:nyRaU4TD.net
- 豊国はけっこういろんな意味で出来る武将なんじゃない?
運だけじゃ生き残れないだろあの時代は。
てか祐豊−堯煕−堯政−恒豊の資料って少ないんだなぁ。
いちおー但馬山名家の宗家なのに。
- 10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 08:25:17 ID:SBFdqfNY.net
- >>1
中国地方なんて表現を用いる国賊が山名スレを立てるな!!
中国だ。豊葦原中国。
- 11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 14:59:27 ID:aLQM7qzY.net
- やまなっちは、滅亡しなかっただけでも
かなりの能力はあるね!
- 12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 15:44:16 ID:o46pfAeC.net
- 四職の勝ち組度
細川 S
山名 B
斯波 E
赤松 E
結局時流に乗れるか乗れないかだな
山名は江戸時代以降も存続してるしいいほうだろ
- 13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 19:19:54 ID:lnlwvsWJ.net
- 四職の組み合わせがおかしい
- 14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 19:45:48 ID:1GNtSKXJ.net
- >>6
権臣の武田高信を暗殺したり、武将としてもそれなりにしたたかだよ
>>12
名前すら出てこない一色はFかな
庶流はけっこう残ってるけど
- 15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 20:23:00 ID:W4D0RCpG.net
- >>12
三管領=細川、畠山、斯波
四職 =京極、山名、赤松、一色
覚え方は京都の山は赤一色ダ!!
- 16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 00:26:53 ID:qGVa/i1b.net
- >>14
岩松城主時代には毛利軍の侵入を撃退して
自ら敵兵の首を取ったりしていると伝えられる。
尼子、毛利、織田と時流を見るに敏なるは戦国大名向きだが
家臣団編成が守護大名的なままだったのだろう。
- 17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 02:50:16 ID:FZXBiYVZ.net
- だれか秀吉時代の豊国たんの領地どこだか知らない?
- 18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 09:26:45 ID:hq1+KSKR.net
- 一日も早く、雅子が皇室から駆除されるを希求す。
皇太子の妻である雅子は、跡取りを作ろうとせず、精神病を装ってぐうたらな生活をし、
挙げ句の果てにはオランダで療養するときた。
バカ面の娘の授業参観に行く体力があるなら、夜な夜な励んで男を産め。
音楽会に出て行く暇があるなら、まじめに公務しろ。
皇太子が繁殖能力を有しているうちに、新しい皇太子妃を迎え入れなければ、
我が国の「天皇制」は根幹から揺るがされることになる。
この期に及んでも、雅子は、ありもしない色気を駆使して、
女性に免疫のない皇太子をたぶらかしたり、娘の養育を盾に取って、
お心優しい皇太子を言いくるめるなど、実に罪深い悪女である。
日本国民は、この歴史上最も怠惰な皇太子妃・雅子を徹底的に糾弾し、
一日も早く皇室から追放すべきである。
なお、この際、万が一、皇太子が雅子の肩を持って、我が国のあり方を脅かす場合、
皇太子も皇籍を剥奪し野に追放されることやむなしとする。
- 19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 12:34:36 ID:FZXBiYVZ.net
- 誰か真の山名厨はいないのか?
- 20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 16:26:49 ID:hWJUVOZw.net
- 豊国は寛永三年(1626)まで生き残ってるんだよね
交代寄合として但馬村岡六千七百石を領したんだから、完全に滅亡した家よりましでしょ
細川?
幽斎は京兆家ではなく、和泉上守護を継いでうまく時流に乗った存在
京兆家は跡形もなく消え去っちゃったし
京極没落していたのを信長に助けられ、更には松丸殿のお陰で大名になっただけだし
畠山は高家、斯波は完全にさよならだし、赤松は関ヶ原でさよなら
一色の分家は旗本になったが数代で没落
山名結構マシだ
- 21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 19:45:49 ID:FZXBiYVZ.net
- ちなみに但馬山名家も旗本で残ってるよ。
でも祐豊や堯煕って影薄いよなぁ〜。やはり凡将だからかな?
- 22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 16:28:33 ID:3Xi8BDOk.net
- >>21
祐豊は本来の因幡守護家の誠通を、攻め滅ぼしてるけどね
豊国の父豊定が因幡守護になれたのは、兄祐豊のお陰
だから他国と比べればなんとも言えないが、只の凡将ではないような
堯煕、堯政は大坂方についた先見性のなさ(言いすぎかな?)はどうなのかな
- 23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 17:13:54 ID:Rs9zhSs8.net
- 堯煕、堯政親子は当時秀頼の家臣だったから仕方ないんじゃない??
まぁ堯政の子の恒豊君が家康に取り立てられただけでも幸せだよな。
実は豊国が家康に働き掛けたらしいけど。
- 24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 17:22:37 ID:3Xi8BDOk.net
- ちょっと言ってみたかっただけです、申し訳ない
>実は豊国が家康に働き掛けたらしいけど
そうなんですか、豊国は堯煕の従兄弟ですからね
ありそうですね
- 25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 17:28:49 ID:Rs9zhSs8.net
- 豊国って結構いいヤシだよな。
但馬山名をタヌキに頼んで再興させてるし、
村岡に6700石もらったときは昔鳥取城から自分を追い出した旧臣たちを呼び寄せたりしてるしさ。
- 26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 21:09:45 ID:oCIYcKoe.net
- 徳川は大事にした=名門
由良新田なんかもあるし
- 27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 00:34:03 ID:Wst3irPI.net
- 特に源義国から出た、清和源氏の没落名門を厚遇したね
吉良なんか、世良田の系図を出した功で高家に列した
- 28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 20:57:42 ID:Wst3irPI.net
- >>25
それどころか武田高信の息子まで呼び寄せちゃってるから
人がよいのもほどがある。
- 29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 22:20:19 ID:Ovajhkwr.net
- 山名のブランドが通じる範囲がそれこそ落ちぶれた
旧家臣相手程度になっちゃってたってことでは
- 30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 13:51:01 ID:HPo1UOz5.net
- 山名四天王
垣屋続成
南条宗勝
田結庄是義
八木豊信
徳川四天王や武田四名臣には負けません。
- 31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 16:11:39 ID:tf39Nwiy.net
- 山名家があんな状態で家名を残せたのは凄い事だと思う。
- 32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 16:38:25 ID:KojK1AQ9.net
- 豊国の江戸期に入ってからの逸話
コピベだけど許して頂戴
ある日、豊国が古い所々破れた羽織を着て家康の前に出ます。
家康の「禅高(豊国の号)、物持ちが良すぎるのも考え物だぞ」との言葉に、
豊国は「これはかつて足利義晴様よりいただいた物なのです」と答えました
家康はこれを聞き、「禅高は古い恩義にも背かない律儀者だ」と関心したといわれて
家康自身もすごい節倹家なんですけどね
- 33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 16:47:59 ID:POqydG1r.net
- 山名四天王って
垣屋
太田垣
田結庄
八木
じゃなかったっけか?
- 34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 17:03:41 ID:KojK1AQ9.net
- そうみたいだね
垣屋に田結庄は対立してるし、
主君を守り立ててる感じはないね、この四天王
- 35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 17:57:43 ID:POqydG1r.net
- 祐豊と堯煕のときには但馬山名家は分裂状態だったらしいしね。
てかタヌキもケチだよな。
どーせ与えるなら村岡みたいな僻地じゃなくてせめて出石とか豊岡を与えてあげればいいものを…
- 36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 19:06:53 ID:RV2Qt1+M.net
- このサイトいいですよ
↓オススメ
http://www.geocities.jp/wainsann_1985/
- 37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 14:39:19 ID:4/7hER/w.net
- >>35
天正三年(1575)の垣屋と田結庄の野田合戦ですか
織田派の田結庄是義はこの戦いで敗死したと伝えられる
ちなみに当時の毛利派は主家を含め、垣屋、太田垣、八木
その垣屋も豊続に続き、光成も主君に先んじて、秀吉に降っている
八木も同様
太田垣は比較的後まで秀吉と戦うが、居城が落城し没落
- 38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 08:57:22 ID:jYIPKSA2.net
- 宗全以降豊国まで山名って全然語られないね
細川の方は結構いろいろなエピソード語られてるのに
- 39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 15:55:24 ID:lWvccOQ0.net
- 垣屋続成は長生きでえらく現役期間が長いのな
- 40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 05:26:19 ID:zXE1n4kD.net
- 政豊・俊豊・致豊・誠豊・祐豊・誠通・豊定
- 41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 15:17:59 ID:z438m1Hw.net
- >>38
すごく簡略にいうと、播磨、美作、備前を巡り赤松氏と激しく争い、最終的には破れ、
但馬と因幡に籠もっちゃったということ
中央に影響力があったのは、政豊まで
応仁の乱時には他に備後や石見、安芸などの守護でもあったがここらはあっさり失い
比較的後まで勢力があった伯耆もやがて失う
- 42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 15:21:54 ID:b7GW1ncB.net
- 豊国と家康とのエピソードといえば、日之本六分の一を失った太主と称されたのがあったね
- 43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 16:24:19 ID:z438m1Hw.net
- そのエピソード知らないので、良ければ教えてください
- 44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 20:32:58 ID:Man4tv76.net
- >>41
山名澄之はがんばったほうかな?
- 45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 20:36:29 ID:hsZNh6SG.net
- 澄之は尼子経久に追われちゃうな
- 46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 23:17:38 ID:iRcDWxlC.net
- 山名澄之はどうなったの?
- 47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/12(水) 16:49:52 ID:a0oePZNo.net
- 不明だね、因幡にでも逃げたのかな?
ちなみに澄之の子に豊興、豊隆
- 48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 17:49:21 ID:AHjEoA4W.net
- 一時は出雲進攻もしてるのに、山名方
- 49 :あぼーん:あぼーん.net
- あぼーん
- 50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 00:02:51 ID:1bouoFNb.net
- 侍所頭人(所司)は足利義稙の時代に終わってしまったみたいだ。
四職というが幕政に関与してた期間はわずかなんだな
- 51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 06:53:31 ID:4hG+natp.net
- 但馬山名家で
祐豊〜堯煕〜堯政〜(清水)恒豊
の続きが分かる人いない?
あといつから山名に復姓したとか
- 52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 11:27:41 ID:9OYjOJEo.net
- ごめんわからない
旗本としてはずっと存続したのかな?
- 53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 00:44:56 ID:6JdwM7Ix.net
- 武田高信って清和源氏?
- 54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 15:41:44 ID:aCMKNkm0.net
- 安芸武田の庶流でしょ
家系図体系には載ってないけど
- 55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 17:51:59 ID:oWmpDnKe.net
- おれは但馬豊岡の出身だが、
小山の上に城あとがあるが、ここの城主は山名一族か?
- 56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 19:40:22 ID:DA+Hrz+E.net
- 俺は豊岡市日高町の人間だけど、小山って今の豊岡高校裏の神武山のこと?
それとも新田小あたりのこと?
- 57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 23:06:12 ID:vmpWJEta.net
- >>54
稲葉民談記には
若狭武田の庶流と書かれている
- 58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 05:07:28 ID:0Z5rozGH.net
- 山名豊弘っていたなぁ
- 59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 12:22:20 ID:JKIBdTxE.net
- >>57
そうですか、ありがとうございます
>>58
但馬守護祐豊の弟、最初仏門に入り、後に出家
因幡道竹城主となるが、因幡守護家と対立し、毛利家と結ぶ
永禄七年(1564)因幡の山名豊数に急襲され、討死
- 60 :あぼーん:あぼーん.net
- あぼーん
- 61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 16:30:49 ID:PepjP9zi.net
- 山名が衰えた原因は、政豊が赤松に敗れたからかな?
- 62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 17:48:02 ID:fSU9u/xo.net
- 吉岡定勝が小さい城で秀吉から3回防衛したらしいんだが
図書館で兵庫県史見たけど見つからなかった(もしや兵庫じゃない?)
このスレにも名前が見つからなかった(もしや山名家臣じゃない?)
- 63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 20:29:56 ID:fEmFvtnV.net
- 吉岡定勝 よしおかさだかつ ?〜?
因幡の国人。吉岡春斎の男。通称将監。因幡丸山城主。定は山名豊定の偏諱か。
1581年の因幡鳥取城攻めにおいては防己尾(つづらお)城に籠城し、
毛利方として激闘して秀吉軍を悩ませたが、糧道を断たれて自落した。
ここまでコピぺ
山名→吉川に移ったらしい
- 64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 22:55:19 ID:S67b7Sga.net
- 石見亀井文書の秀吉書状に三度の敗戦を伺わせる記述がある(歴博所蔵)
取り敢えず、地上戦で推論できるのは
設楽原の馬防柵とか、九州攻めの根白砦での島津、宮部戦と似た攻防があったと十分に創造できる遺構が残っている。
質問は受け付けんから、学べ教えて君はくず、、、
- 65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 23:46:20 ID:9V6WZK5y.net
- >>63
どこのサイトもそんな感じで簡略化して書かれている
どう防衛したんか知りたいところだ罠
恐らく豊国が毛利についたから毛利方として、と考えられる
>>64
別に追撃して敗走させた訳じゃないし、最終的に落城させてるわけで
「敗戦」とはならんのだろう
因みに信ヤボでは生没年1932-1606とはっきり書かれていた
- 66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 14:53:55 ID:ZZeon/Lu.net
- 待って、豊国は毛利に降ってないんじゃ?
- 67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 19:56:08 ID:QeIxPwKP.net
- 何かその時代は毛利織田尼子残党とかに囲まれて流れが読めん
- 68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 02:31:30 ID:PMMFp0nY.net
- >>66
山中らの尼子残党を追い出すために毛利と結んだ。
降ったわけではない。
- 69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 15:15:03 ID:EPr7+mWz.net
- 豊国と尼子勝久は結んでいると思うのだが
もちろんそれ以前は、尼子と山名は仇敵だけど
- 70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 17:19:56 ID:PMMFp0nY.net
- 豊国は、尼子、毛利、秀吉と時流にあった勢力とうまく結んでいる。
先を見る目はあるのに、人望がまったくなく、人がよすぎるのが残念。
- 71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 18:46:50 ID:PDI0cYC6.net
- 田結庄是義
烈風伝の顔グラや低能力から
農夫っぽい印象
- 72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 19:07:39 ID:dnUinzFq.net
- かつて自分を裏切った旧臣呼び戻したり同族を再興させてやったり…
ここまで人のいい大名っていないよなW
- 73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 20:26:34 ID:TzSd8HjO.net
- >>70
秀吉ってさ、勢力の名前なんだ。
- 74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 00:15:54 ID:xeXSBGJ3.net
- 吉岡 定勝(よしおか さだかつ、天文元年(1532年) − 慶長11年(1606年))は因幡国山名氏の家臣。将監・安芸守との記録もある。
吉岡氏は南北朝以来、湖山池西岸を本拠とした国人領主で、代々因幡山名氏に仕えたが、定勝の代である1573年(天正元年)に因幡国に進出した吉川元春により本領を安堵された。
1581年(天正9年)織田信長の命を受けた羽柴秀吉による鳥取城攻撃の際は毛利氏に与し、居城・防己尾城に拠って羽柴軍を迎え撃っている。
秀吉軍の防己尾城攻撃は合計3回行われたが、定勝は湖水が入り組んだ地形を巧みに生かしたゲリラ戦法で、いずれの時も秀吉軍を撃退している。
特に2度目の攻撃の際は、秀吉自慢の千成瓢箪の馬印を奪取するほどの大勝だった。しかしその後は秀吉軍の長囲による兵糧攻めにあって落城する。
城を出た吉岡氏一族は帰農したとも、毛利氏を頼って安芸国へ去ったとも伝えられている。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E5%AE%9A%E5%8B%9D" より作成
- 75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 16:37:06 ID:uFIsn5e+.net
- >>72
元大名、今は気のいいお爺さん
- 76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 18:18:06 ID:dAS2OvHI.net
- なぁなぁ、だれか但馬山名家を語ろうよ↓
堯煕、堯政、恒豊の三代ってそんなにマイナーかな?
- 77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 16:49:30 ID:NpIkDzPc.net
- 祐豊の方が豊定の兄だし、二人の父致豊は但馬守護なんだから、
本来豊国じゃなくて堯煕の方が本家なんだけどね
- 78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 10:43:15 ID:GPUZ56rm.net
- じゃ本家である但馬山名はどーなった?
豊国チャソのおかげで堯煕の孫の恒豊が大阪の陣後に旗本になったらしいが…
だが清水とかいう旧臣の養子という形で石高は僅か300石にも及ばない程度。
のちに山名に復姓したらしいがそこからの情報誰かしらね?
詳細キボンヌ
- 79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 15:45:01 ID:ZsIQ2lOL.net
- 江戸幕府旗本人名事典. 石井良助監修 ; 小川恭一編著 原書房 1−4巻+別巻
でも入手(図書館でもいいけど)しないと、わからんかも
- 80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 15:57:21 ID:tFnnQq9w.net
- ところで時代は遡るけど、宗全の評価ってみなさんどう?
- 81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 02:35:33 ID:mi9n9Phh.net
- 宗全はよく頑張ったほうだな。
祐豊も頑張ったほうだが運と先見の明がなかった。
- 82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 15:20:29 ID:0wDa9DoC.net
- 赤松に負けたのが痛かった
勝ったからって、勢力を伸ばせるとも思えないけどね
- 83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 04:16:08 ID:fnBHmLSZ.net
- 祐豊が信長裏切ったのが痛す
- 84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 04:22:57 ID:ha82ZbhK.net
- 山名は応仁の乱後は赤松と細川にネチネチやられた上、内部崩壊で衰退ってとこか
- 85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 08:03:37 ID:fnBHmLSZ.net
- いやぁ〜でも交替寄合で生き残れたんだからいいじゃん
- 86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/14(木) 17:33:47 ID:8pBxaMMO.net
- 細川は畠山より、山名が目障りだったでしょね
赤松を上手にけしかけたかな?
- 87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 00:32:36 ID:VVGVj4W0.net
- なぁなぁ、話変わるんだけど豊国が村岡に封地された頃には
どんな家臣がいたわけ??
- 88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 16:40:02 ID:+QVYtvgO.net
- 三上氏や田結庄氏がいたらしい
- 89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 22:03:38 ID:hpnnMFNr.net
- 三上って確か親族衆だよな?
垣屋氏の末裔は脇坂氏の家臣になってるけど他はどーなんだ?太田垣や吉岡や八木とか。
- 90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 00:37:53 ID:bJK4G1ZO.net
- 山名家って分家かなりあるよな?丹波夜久野とか。
みんな消滅したのか?
- 91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 14:54:35 ID:mMKEspSl.net
- (..................................................... ..........\
/........../ノ........ノ........ヽ.人..........ヽ...............)
(........../ )...ノ....ノ ) ソ ヾ............丶....ヽ
(........./ ノ ノ .. ./)) ..........)
(........../ ...........)
( .......// ̄ ̄ ̄ ̄ヽ===/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ |.........)
| =ロ -=・=- ‖ ‖ -=・=- ロ===
|./ ‖ / /ノ ヽ \ ‖ ヽ|ヽ
|/ ヽ`======/ .⌒ ` ========ノ. ..| |
.( 。 ・:・‘。c .(● ●) ;”・u。*@・:、‘)ノ /
( 。;・0”*・o; / .....l l... ... \ :。・;%:・。o ) <カイオウの毒ガスをなめたらあかんで
(; 8@ ・。:// ̄ ̄ ̄ ̄\.\.”・:。;・’0.) \
.\。・:%,. )....|.  ̄ ̄ ̄ ̄ | ....(. o`*:c/
\ ... o .........\____/ .......... /
(ヽ ヽ.... _- ..... ⌒.. ........ -_ ノ
\丶\_.._....._.... ....._/.... /
| \ \ ........... .......... ... ..__/|
- 92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 12:41:37 ID:52/hK/9k.net
- たしか真田氏の配下に山名氏が居たと思うんだが、
やっぱり一族なのかな?
- 93 :92:2006/10/06(金) 12:44:47 ID:52/hK/9k.net
- 今ググったら出てきた
山名義季 やまなよしすえ ?〜?
真田氏家臣。上野下川田城主。1582年川田衆は多く北条氏に味方したため、その責任を取らされて所領を三分の二に減ぜられた。息子主水は1584年北条氏邦の沼田城進撃の際に禰津幸直に所属して戦ったが戦死した。
戻る
- 94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 04:10:57 ID:5uXVF6Y8.net
- 山名家って但馬山名家が宗家にあたるんだね。
- 95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 05:33:44 ID:5hPZt0yW.net
- >>93
山名氏って上野国山名郷が起源らしいから、古い時代に分かれた庶流かもね
- 96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 14:51:50 ID:XuAX0Emd.net
- 幕末の時点で本家以外の庶流の家ってどんなのがあったんだ?
- 97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 15:45:39 ID:ke2Z418q.net
- >>95
山名宗家が山名郷から出たのは、時氏のころ、即ち南北朝期
時氏は初め新田義貞に従い、中先代の乱以後尊氏に従う
最初の守護職補任は、暦応元年(1338)の伯耆守護
このとき本拠を移した
- 98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 21:55:47 ID:f8jS8HY8.net
- 山中幸盛を主人公にしたコミックが雑誌に載っていたが、
山名豊国が登場してないぞ! 不満だ。
- 99 :前田 ◆LIBERALCQY :2006/11/29(水) 00:40:37 ID:8sGR0KHV.net
- 100ゲットしちゃうよ。
- 100 :100:2006/11/29(水) 01:19:57 ID:VsXl9rNs.net
- 100
224 KB
新着レスの表示
掲示板に戻る
全部
前100
次100
最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★