2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

戦国時代の南部氏について語り合うスレ

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 00:37:47 ID:2CyR2sda.net
語れ

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 00:42:35 ID:mpL90nbC.net
  / ̄ ̄ヽ  
  |__T_i_  
  |ミ/●-●l    
 (6 〈 / Jヽ〉  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
 | .メ Д|< もみみん、見ろ、>>1がチチのようや    
 / `\___ノ \__________________
 / __  /´>  )  
 (___|_( /<ヽ/
  |      /
  |  /\ \
 | /    )  )
  ヒl    ( \
       \二) 

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 01:11:19 ID:kbKz+ydQ.net
葛西程度の勢力に一度も勝てなかった弱小大名

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 07:17:13 ID:EJ3E/DSb.net
津軽の人々はそろそろ南部に謝罪 普通に10
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1153706393/



ここでいいだろw

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 21:41:19 ID:/vLnNf7e.net
そんな超糞スレに誘導されても・・・

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/08(金) 01:28:13 ID:t8jfb6Jd.net
超糞スレというよりも
山口と福島のお国自慢板住人が日本史板に出張しているスレ
戦国時代でも日本史でもない

7 :名無しさん@お腹いっぱい:2006/09/08(金) 23:49:48 ID:Tdox+Tsx.net
>>4
やっぱり南部は執念深い。未だに…

そういえば子供の時に通った塾、南部。
紋も本物の南部の紋だったし、「世が世ならば」ってよくそこの家の婆様が言っていた。
函館の教育大学の近くにあった。なつかしい。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 07:45:37 ID:NrwtRgtk.net
三日月が丸くなるまで南部領

9 :名無しさん@お腹いっぱい:2006/09/12(火) 22:04:41 ID:5ZS2HIHX.net
>>7
南部の末流
予習塾の南部こうよう先生、今どうしているかな。

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 23:07:12 ID:eAMtHx1v.net
>>4
そのスレのどこが南部家を語っているんだ?
南部の津軽たたきのいかれたスレだろ

11 :名無しさん@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 21:33:34 ID:r+THXtYD.net
なんだかちっとも面白くないね。
誰か南部の面白いカキコしろよ〜〜

12 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/09/25(月) 21:53:27 ID:HT5grWS4.net
三日月が丸くなったら津軽領

13 :DJ.南部鳥:2006/09/25(月) 22:00:57 ID:NaYxC1Hf.net
北方にいるのに南部

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/25(月) 22:13:12 ID:wzyHPzO3.net
糞南部黙っておれ!

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 23:55:12 ID:ov76MQ1C.net
晴政・安信以前の宗家の系譜で、各当主の事績とか列伝についての正確なことは
よく分かってないことが多いらしいな。南北朝から戦国初期まで、ってことは
室町時代として認識される時期ずっと、か。戦国時代に戦火で記録が消失した
ことと、分家に圧倒されてたことが影響として大きいらしいが。

ってことは、強力なリーダーシップを持った晴政が現れなければ、四分五裂を
起こす危険性があって危なかったな。特に南部は家臣の多くを一門が占めてた
みたいだから、すげー危険な状態だったと思う

16 :名無しさん@お腹いっぱい:2006/09/27(水) 10:44:05 ID:tsC8p0S9.net
八戸根城の根は根本の根で、
あそこが宗家ではなかったかという話を聞いたことあるが、
どうなんだろう。
後に遠野に移らされた南部だけど。

17 :名無しさん@お腹いっぱい:2006/09/27(水) 10:49:35 ID:o+/dKYI1.net
煎餅は美味いな

18 :名無しさん@お腹いっぱい:2006/09/27(水) 10:55:54 ID:tsC8p0S9.net
伝説によるとあれは長慶天皇に捧げたものらしいね。
ゴマがいっぱいのやつが好き!
今や青森名物の一つで、津軽衆がいろいろ売ってるけどさ。
やっぱ津軽衆はちゃっかりしてるね

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 18:35:39 ID:HILOTz7J.net
なんにもついてない白い煎餅に蜂蜜塗って食べると
おいしいよ ちょっとビンボくさいけど

20 :名無しさん@お腹いっぱい:2006/09/27(水) 21:21:33 ID:tsC8p0S9.net
もとは蜂蜜ではなくて、飴だよ、水飴。
う〜〜んと昔、神社とかの夜店で売ってたな〜〜(スマソ年食ってて)
青森名物のねぶたの絵の付いた缶に入ってる水飴を割り箸でくるくるして
それを南部せんべいに載せるというか付けて食べるんだよ。
おいしよ。
南部と津軽の合体か? 南部気分わるいかな。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 01:21:18 ID:hDaAHKfU.net
ねぶたは津軽ではなく青森です。
津軽はねぷたです。
江戸時代、弘前藩領土だったのでよく勘違いされるが
青森は津軽の一部ではありません。
古代から陸奥湾沿岸(現在の青森市周辺)は
外ヶ浜と呼ばれており津軽とは区別されていました。
ちなみに津軽は現在の青森県西側の岩木山を中心とした平野、
日本海側の部分、簡単に言うと津軽半島のあたりを指していました。

22 :名無しさん@お腹いっぱい:2006/10/02(月) 11:44:18 ID:jeb9CNTm.net
>>21
「ねぶた」「ねぷた」はもともと同じなのです。
眠たいという言葉をその地方で発音すると
「ねむた」→「ねぷた」です。BUともPUともつかない微妙な発音です。
それを50音表記で表すのはむずかしく、
弘前ではねぷた 青森ではねぶたと表記されたのが、
いつも間にか違うことのように思われるようになりました。

元の津軽地方は21さんの言われるとおりかもしれませんが、
「ねぶた」と「ねぷた」の差はそもそもはありません。



23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 20:42:19 ID:M5EMCBsG.net
>>16
>八戸根城の根は根本の根で、
糠部に根を張る拠点に…、だから根城。

>あそこが宗家ではなかったかという話を聞いたことあるが、
どうなんだろう。
三戸南部晴政が台頭するまでは間違いなく根城南部家が宗家でした。

最近の郷土史研究では、南部家の本家は根城南部家との説が有力かも。




24 :名無しさん@お腹いっぱい:2006/10/02(月) 21:23:18 ID:jeb9CNTm.net
>>22
16を書いたものです。やはりそうですか。
ありがとうございました。

25 :名無しさん@お腹いっぱい:2006/10/02(月) 21:24:52 ID:jeb9CNTm.net
↑ごめんなさい>>23>>22と間違えました。
22は私が書いたのに(苦笑)


26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 17:39:09 ID:uURbkzSO.net
>>強力なリーダーシップを持った晴政が現れなければ
戦闘政治は叔父の高信にまかせきり
晴政は自分では何もしていない

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 23:54:51 ID:4rhDcjo2.net
晴政の功績・・・一門の武将を纏めて統率。
一門の頭領なんて統率力が有れば、人材を適材適所に置けば治まる。


28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 01:45:28 ID:e5RzKstw.net
その点、甲斐武田氏と似てるよね

29 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/10/09(月) 08:41:58 ID:TVS8gEgc.net
一応同族だし。

30 :名無しさん@お腹いっぱい:2006/10/26(木) 17:32:32 ID:yOodx3VR.net
八戸せんべ汁がヒットし始めているというじゃあないですか。
全国制覇をめざしているそうな。
うふふふふ。がんばれ

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 17:41:56 ID:r6hE/yrp.net
一揆が多かった南部

32 :名無しさん@お腹いっぱい:2006/11/11(土) 19:34:47 ID:r/9AR5cC.net
このごろ誰もカキコまんの〜
つまらんよ〜〜〜〜

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 21:56:54 ID:Wb89OtnC.net
あんなに広大な所領を持ちながら10万石程度だったんでしょ?
やはり奥州の中心は奥州南部だったんでしょうね。
あ、奥州南部の南部は"southern part"の意味で"Nanbu"ではありませんから。

34 :名無しさん@お腹いっぱい:2006/11/11(土) 22:39:52 ID:r/9AR5cC.net
>>33 その南部かよ。ズコーーー

農作物を収穫するのにあまりよい土地ではなかったということよね。
戦前まで東北でも太平洋側はたいへんだった。
放牧には適していたんだろうけど。


35 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/11/11(土) 23:02:10 ID:fi9cLe59.net
せんべ汁、旨いんだってね。

36 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 21:51:40 ID:UYfda/RI.net
嫌になるほどの山地の上やませが来て
未だに満足に米を作付けできているわけでないからなあ。県北はタバコ畑がずいぶんある。
商品作物の発想は江戸期にもあまり南部には入らなかったっぽいので
大変だったろうな。

ゲームでの南部エースといえばやはり北(南部)信愛かな。
彼一人居るおかげで進行がどれほど楽になっているか。
寿命が長いのも見逃せない好ポイント。


37 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 21:58:43 ID:UYfda/RI.net
>33
紫波から花巻を入手したときは嬉しかったろうな。
南部領で満足に米作れるのはあの辺くらいだろう。
当時の盛岡は治水の抜本的解決がまだまだで
なかなか安定した取り入れが出来ない土地だったからね。


38 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/20(水) 09:39:52 ID:hazsS6av.net
石川高信については語らないんですか?

39 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 11:34:58 ID:w2ECuJl/.net
age

40 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 15:05:16 ID:84AP6I+3.net
南部せんべいはピーナッツのやつ以外いらない件。

41 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/23(土) 00:02:11 ID:q8g0hD1H.net
わたしはゴマが好きだ
ゴマ以外はいらない

42 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/23(土) 00:04:53 ID:w2ECuJl/.net
>>38
立派過ぎるとなかなか後が続かないのね


43 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/23(土) 03:29:11 ID:G1ugRUn1.net
南部鉄器を買ったけど、一度も使わずに飾りになってる件。
やっぱり南部せんべいはピーナッツがうまい件。

44 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/23(土) 20:40:22 ID:9cj4YL07.net
南部スレってなんでこう、無駄におおいんだろうな

45 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/24(日) 02:04:40 ID:JmYbE5S1.net
>>39-42
一日経ったのにID変わってないね・・

46 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/24(日) 13:12:55 ID:ECcRPA/w.net
ロシア王朝と交流があったというのが凄いね。

47 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/24(日) 22:41:49 ID:a3WLc6AW.net
45さんよく気が付かれた。
実は私も変なことだと思ったよ。

48 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 13:35:50 ID:Wi1QXLhf.net
石川高信は為信の乱の折に生き延びて天寿を全うしたという説があるな
もしそうだったら嬉しいんだが・・

49 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/01(月) 01:51:38 ID:jWq/jIgE.net
今年もヨロシク

50 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 00:34:31 ID:KOHx+23t.net
南部鉄瓶

51 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 13:28:39 ID:qBu9KuL+.net
新春 あげまして おめでとう

52 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 00:24:05 ID:lVv5k5nY.net
見事なタイトルですね。江戸時代の南部はクソということに反論できない、逃亡した連中の集まるスレはここですか。


53 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 00:38:04 ID:LfVHdnhu.net
誰だったかな為信が攻めたのは高信ではなく政信だと言う人がいる
ttp://www6.tok2.com/home/bego/akimoto.html
ここでは高信の留守中に城が襲われたとある

54 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 10:26:44 ID:d6XB5bif.net
南部氏と津軽氏との資料じゃそのあたりの記述がぜんぜん違うってことだったかな

55 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/01/11(木) 23:10:15 ID:75GaMVin.net
落城後、石川高信の出現記録とかがないんじゃなかったっけ。

56 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/13(土) 17:27:55 ID:Pjx9xP1Q.net
南部信景カワイソス

57 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/05(月) 15:09:11 ID:/OC53Nwz.net
九戸政実もかわいそう・・・

58 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/05(月) 20:42:16 ID:HEhe4ZST.net
盛岡南部は偽源氏♪

59 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 18:35:42 ID:cjpK3C3s.net
大坂の陣で豊臣方に味方した北信景カワイソス

60 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 01:37:49 ID:1K+CgGOe.net
南部の光り武者と言われた人か…

61 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 21:46:25 ID:uecRNbWz.net
盛岡南部は偽源氏♪

62 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 00:25:58 ID:59M5Y/xy.net
南部家には不遇な人が多いな・・・

63 :人間七七四年:2007/02/12(月) 17:22:24 ID:PzaeqrOq.net
せんべい〜汁♪汁♪

64 :人間七七四年:2007/02/23(金) 01:23:31 ID:L2Eplbt8.net
今度わんこそば食べに盛岡に行きます!

65 :人間七七四年:2007/03/01(木) 23:28:47 ID:dndB831V.net
義信を預かった説とか…

66 :人間七七四年:2007/03/02(金) 08:36:24 ID:1G4DlGiX.net
南部藩の実高おしえて

67 :人間七七四年:2007/03/02(金) 23:04:49 ID:5E16JVyu.net
南部氏(・><・)巻之四 落ちました。
クソ南部にふさわしい結末ですね。

68 :人間七七四年:2007/03/02(金) 23:53:12 ID:UVcZ5+So.net
俺のばあさんの実家が三戸にあって、お寺に墓参りに行きました。
その寺に白虎隊?番隊々士の墓があった。南部と何か関係あるのか?

69 :南部美濃守利敬:2007/03/03(土) 00:29:21 ID:LLSd55GN.net
五万石の赤穂浅野家には忠臣大石がおったが、二十万石のわが南部藩にはおらぬか

70 :人間七七四年:2007/03/04(日) 06:53:01 ID:8hYwKRRC.net
父方、母方の祖母の生家がそれぞれ盛岡藩・八戸藩の家老家でした。因に母方の祖母は旧津軽藩士族の家(つまり私の母方の祖父)と結婚しました。まあ、いろいろ有ったみたいW

71 :人間七七四年:2007/03/04(日) 14:56:51 ID:qxuoaOST.net
同じ南部なのだから
そんなの関係ないだろ

72 :人間七七四年:2007/03/04(日) 16:32:59 ID:8hYwKRRC.net
>>71は私へのレス? 「いろいろ有った」と書いたのは、私の母方の祖父と祖母の実家同士で、それぞれは津軽藩と八戸南部藩士の家系です。というか殆んど没交渉だったんですけどね。

73 :人間七七四年:2007/03/04(日) 22:28:16 ID:i9b7M+4d.net
>>68
斗南藩ですよ。後のむつ、三沢、田子(三戸一部)は。

74 :人間七七四年:2007/03/10(土) 00:00:59 ID:cVhxCG4T.net
今の靖国神社宮司が南部家の当主
豆知識な

…って、このスレにくるぐらいの人はみんな知ってるか。
偉そうにしてすまん(つД`)

75 :人間七七四年:2007/03/13(火) 12:16:52 ID:PDGJzUSe.net
北信愛の二番目の息子の馬鹿さ加減について

76 :仙台藩百姓:2007/03/13(火) 15:14:20 ID:rms9JIhu.net
南部式で知られる銃器メーカー
旧中央工業創始者・南部麒次郎は陸奥南部氏
とは多分関係ないお( ^ω^)

77 :人間七七四年:2007/03/14(水) 00:02:47 ID:WcF8mguO.net
>>75
kwsk

78 :人間七七四年:2007/03/15(木) 18:46:42 ID:3jreOnUV.net
北定愛(きた さだちか、生年不詳 - 1634年(寛永11年))は戦国時代の武将で南部氏家臣。北愛一とも言う。北信愛の後妻の子。異母兄に北愛清、同母弟に北秀愛、北直継、北愛邦がいる。子は北直愛。

信愛の子の中では一番無能であったらしく、『参考諸家系図』には「信直公の時父の功を持って(中略)二千五十石を給う」とある。また、異母兄北愛清と家督を巡って争っていたが、父信愛は、当初から
愛清を後継者に定めていたので、定愛の一人相撲であった。大館城代の時安東氏との戦いの最中に異母兄愛清を罠にはめ安東氏の捕虜にさせるなどの行いをしたために信愛に勘当される事態となった。異母
兄愛清の嫡子三戸清乗が信愛の後継者に正式に定められた後は、南部利直の娘を自分の子北直愛の嫁に迎え南部氏の閨閥として、清乗と北氏の家督を争ったが、北家譜代家臣の支持を得られず北家の家督を
あきらめる事態となった。その後、定愛の家系は、主流になれず、直継の家系が南氏系北氏の主流になっていく。

うぃき抜粋

79 :人間七七四年:2007/03/18(日) 10:20:29 ID:TuXTHoq0.net
かなり「愛」にこだわっているのに直江兼次ほど有名じゃないな

80 :人間七七四年:2007/03/19(月) 16:58:00 ID:Z+Jkd/Zx.net
そりゃ某漫画になっていないから。

それはともかく定愛は人望がないだけで、
かなりの謀略野心の武将という感じがする。

81 :人間七七四年:2007/03/29(木) 22:29:45 ID:dRuJxOPm.net
北信景はあまり知られていないよね
光り武者なのに

82 :人間七七四年:2007/04/05(木) 14:46:50 ID:lMvITN0G.net
実際もう少し取り上げられても良い気がする・・・
南部視点のドラマとかやらないかなぁ

83 :人間七七四年:2007/04/05(木) 23:43:49 ID:rGiWprh3.net
NHKで朝やってんじゃん

84 :人間七七四年:2007/04/06(金) 11:30:55 ID:3uav03y8.net
>>84 つ「雲の絨毯」

85 :人間七七四年:2007/05/06(日) 18:45:34 ID:ASY6ZRTh.net
 

86 :人間七七四年:2007/05/06(日) 18:46:50 ID:ASY6ZRTh.net
 

87 :人間七七四年:2007/05/25(金) 15:28:36 ID:gtK/5ywi.net
>>74
宮司利昭氏の親父殿利英氏は、一条公爵家から養子に入ってるんだね
と、現代の話題申し訳ない

88 :人間七七四年:2007/06/03(日) 00:46:17 ID:3E+I4Gl7.net
三戸城行ってきました。
あの城には小規模な水堀があったんですね。
小さな側溝になってたが。

89 :人間七七四年:2007/06/05(火) 10:44:43 ID:Z5sot9Ey.net
晴継公が存命なされた場合、現在の廃藩置県はいかに?津軽は独立出来たのか?九戸七戸もどーなってたんだろうね

90 :人間七七四年:2007/06/05(火) 10:52:51 ID:wd+qLQzn.net
晴継が存命でも津軽の独立には影響ないだろうね。
九戸は滅亡せずに済んだかも知らんが。

91 :人間七七四年:2007/06/05(火) 10:58:41 ID:Z5sot9Ey.net
問題は小田原参陣の順位だろうとは思うのですが晴継存命で九戸の反乱危惧なければ名代が先に参陣できた可能性も、、、
本人幼少すぎて参陣不可かな

92 :人間七七四年:2007/06/06(水) 18:31:34 ID:BnYtRTXG.net
>>89
もともと津軽の豪族は独立しているんだよ。
三戸の傘下に入っていたわけじゃない。
南部家は豪族の連合体。
それと津軽家は津軽だけじゃなく
糠部の豪族を滅ぼして領土にしている(堤、七戸)

93 :人間七七四年:2007/06/06(水) 18:42:36 ID:BnYtRTXG.net
>>92
三戸の主張が認められたどうかということだよ
三戸の主張は糠部五郡の南部領は三戸のものであり
九戸、七戸、大浦は家臣であり大浦は謀反を起こした。というもの


94 :93:2007/06/06(水) 22:20:35 ID:WwIMmVIL.net
あれ?IDが同じ?
93はアニメイトから書き込んだだけど
もしかして同じ店?

95 :人間七七四年:2007/06/07(木) 16:56:24 ID:gEeLqoP4.net
なんか嫌な一致だな

96 :人間七七四年:2007/06/07(木) 17:58:50 ID:dzy807uQ.net
蔵王に晴政が山賊退治した折に立ち寄った湯治温泉があるとかなんとか
仕事忙しいけどいつか行ってみたいな。
しっかし蔵王まで行ったんかいな、やるなぁ

97 :人間七七四年:2007/06/09(土) 04:33:01 ID:hPv2VUwM.net
北十左衛門といえば山芋と白根金山。
この人は北家の家督を継いだわけじゃなかったのか。

98 :人間七七四年:2007/06/09(土) 12:21:22 ID:IT7r3ga0.net
十左衛門は赤石から剣吉さ行った養子だべ。
わかるよね?(地名)

99 :人間七七四年:2007/06/09(土) 14:40:41 ID:aenfthB8.net
100ゲト支援

100 :右馬助:2007/06/27(水) 18:38:23 ID:yvHt2t4G.net
南部の人って今だに忠誠心あるとおもわない?
意味ないけど

101 :人間七七四年:2007/06/28(木) 02:39:56 ID:Y6teJcuy.net
せんべえ汁食いてえ。

102 :人間七七四年:2007/06/30(土) 18:20:02 ID:+ZTSHxBq.net

平成南部藩があるんだから、
平成南部軍作って南部藩領をまもろうよ。

軍旗は南部鶴、割菱、花菱、八幡大菩薩の旗!
一の備は陸上自衛隊を吸収して
二の備は海上自衛隊を(ry
三の備は航空j(ry

103 :人間七七四年:2007/06/30(土) 19:02:59 ID:oL5yQ1v5.net
くだらん!

104 :人間七七四年:2007/07/05(木) 18:25:52 ID:jjtwJPl8.net
七戸の柏葉台の城っていつなくなったんだろう?

105 :人間七七四年:2007/08/06(月) 13:39:58 ID:6tIwT/eZ.net
島津と南部、相馬は幕末まで残った大名としては
家系の古さがすごいよ。奇跡だね。

106 :人間七七四年:2007/08/06(月) 13:41:16 ID:6tIwT/eZ.net
南部も島津と同様「辺境」を支配してたことが大きいと思う。

107 :人間七七四年:2007/08/08(水) 22:38:30 ID:iGhFs7OJ.net
何百年も同じ一族に支配されるってはどんな気分なんだろうな。

108 :人間七七四年:2007/08/09(木) 06:24:11 ID:UEvO3CIj.net
伊達と佐竹も加えとけ

109 :人間七七四年:2007/08/09(木) 06:56:37 ID:ckGlYC9a.net
伊達はそこまで古くないし、佐竹も転封されているからな


110 :人間七七四年:2007/08/09(木) 07:48:16 ID:FoapRIgl.net
ちょ、伊達が南部より古くないって…。それに佐竹の転封を言うなら南部・相馬両氏だって鎌倉期からの奥州入植なんて怪しいもんだし、島津氏だって遥か昔に分かれた伊作氏に当主が移ってる(戦国期)。日向伊東氏当たりはどうなんだか分からんが。

111 :人間七七四年:2007/08/09(木) 11:07:12 ID:ckGlYC9a.net
中村朝宗と戦国の伊達氏は支配領域も違えば血縁も不透明なんですが。

112 :人間七七四年:2007/08/09(木) 11:28:04 ID:sBqd7XUN.net
南部の方がひどいけどな
著名な武将である晴政の三戸南部氏さえ分かっていない
信直の権力奪取の過程もなお不明だ

113 :人間七七四年:2007/08/10(金) 10:10:23 ID:PoY+Q2HW.net
何が不透明なのか詳しく>>111
佐藤兄弟の本拠地を叩いた功績で
源頼朝から伊達郡、信夫郡を拝領したというのは捏造とか?

114 :人間七七四年:2007/08/10(金) 11:23:03 ID:4YbafOxh.net
>>113
伊達氏初代とされているのが中村(伊佐)朝宗
元は常陸の豪族であり、また外祖父に源為義がいるとされている
伊達氏の家伝では、朝宗とその子たちが奥州征伐の際に軍功を上げて
陸奥伊達郡を賜ったとされている
しかし吾妻鏡の記録に中村(伊佐)朝宗なる人物ではなく、
代わりに常陸入道念西という名が見られる
しかしこの常陸入道なる人物が、伊達氏と系譜上どのように繋がるのかがイマイチ不明

115 :人間七七四年:2007/08/10(金) 11:41:45 ID:qOzgnHTi.net
この時点では信夫郡は拝領してないべ。信夫佐藤氏が信夫郡からほぼ完全に逐われるのは南北朝時代以降だべ。佐藤氏の本流は足利尊氏から伊勢や近江に新領地を賜っているよ。>>113

116 :人間七七四年:2007/08/10(金) 18:39:29 ID:PoY+Q2HW.net
へぇーへぇー

117 :人間七七四年:2007/08/10(金) 19:34:15 ID:fucJrD5v.net
津軽の裏切り者が出るまでは伊達と並ぶ雄族だったもんなあ・・・

伊達と違うのは一族がまとまっていないことだが

118 :人間七七四年:2007/08/11(土) 16:37:43 ID:TBIjIKK6.net
津軽為信は今年の弘前ねぷたに題材として使われていた。
地元では愛されているんだね。
つまり南部は統治者として津軽地方では懐かしがられていないということ。
やっぱり南部はクソなんだよ。

119 :人間七七四年:2007/08/11(土) 17:18:47 ID:SJ8eprPt.net
大した理由もなく一地方を執拗に叩く奴こそクソ

120 :人間七七四年:2007/08/11(土) 19:11:00 ID:VOEkeNgC.net
津軽じゃなくて安藤氏を懐かしがる人は・・・

121 :人間七七四年:2007/08/12(日) 19:59:36 ID:sZAf2jN+.net
>>114
そもそも南北朝期の伊達行朝自体、その前後とちゃんと繋がっているかが定かではない。
南北朝以降の伊達は、偽藤原氏だという説もあったりなかったり。

122 :人間七七四年:2007/08/13(月) 07:23:35 ID:r3cYZ6aI.net
南部藩は百姓一揆大杉。当時のあの辺の百姓達に南部領と伊達領ならどっちに入りたい?と聞いてみたい。いや、聞くまでもないか…

123 :人間七七四年:2007/08/13(月) 14:39:20 ID:i+QXBNGF.net
>>122
南部藩領農民:どっちも嫌です。ご公儀の領地にしていただきたいw

124 :人間七七四年:2007/08/22(水) 18:09:04 ID:VJ0/qhXd.net
あげ

125 :人間七七四年:2007/08/25(土) 21:24:26 ID:vOvHGdvt.net
>>117-118
津軽事態も南部の一族なんだがね
大浦のあれはよくある一族同士の争いに過ぎない

126 :人間七七四年:2007/08/25(土) 21:25:15 ID:vOvHGdvt.net
>>117-118
津軽事態も南部の一族なんだがね
大浦のあれはよくある一族同士の争いに過ぎない

127 :人間七七四年:2007/08/25(土) 21:27:20 ID:vOvHGdvt.net
南部系の家の末路
大光寺→大浦によって滅亡
七戸→九戸の乱で滅亡
八戸→晴政にクーデターをおこされ属国化
九戸→九戸の乱で滅亡
千徳→大浦によって滅亡
堤→大浦によって滅亡
久慈→九戸の乱で滅亡
三戸→数多くある南部系の家の一つに過ぎなかったが秀吉に大名として認められる
大浦→数多くある南部系の家の一つに過ぎなかったが同じ南部系の家や北畠をつぶしていき秀吉に大名として認められる。なお直径は断絶する。

128 :人間七七四年:2007/08/25(土) 21:35:36 ID:vOvHGdvt.net
>>127
南部晴政が自由に動かすことが出来たのは三戸だけで
他の南部の家々は自由に好き勝手してたんだろうな
信玄や謙信のように他の豪族に干渉したり指示したりなんて出来るほど
影響力はなかったんだろう
三戸南部が上に建てるようになるのは太閤検地からか

129 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/08/26(日) 00:13:44 ID:ozNcH+iL.net
以前他スレでも書いたけど、信直は三戸南部に分類するべきじゃないと思う。

130 :人間七七四年:2007/08/26(日) 18:10:32 ID:eHP7BixA.net
鹿角奪還での諸豪族の篭絡とか信直の強制擁立とか、北信愛ってかなりの豪腕だな
こいついなかったら、南部は芦名みたいに零落してたかもしれないし
関が原で稗貫・和賀を落とされていたかもしれないし
評価的にはどのくらいなんだろ?

131 :人間七七四年:2007/08/29(水) 12:01:52 ID:v4vMmaFG.net
このときの南部家って
細川の吉兆と長岡のように
分家と宗家の関係にあったけど
主従関係にはなかったんでしょ

132 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/08/29(水) 23:51:09 ID:cjicM87P.net
京兆だ京兆。

133 :人間七七四年:2007/08/30(木) 09:59:09 ID:G+YGAbes.net
蘆名と猪苗代、結城と白河の関係を思い出した

134 :人間七七四年:2007/09/07(金) 17:24:10 ID:1E++tAk1.net


135 :人間七七四年:2007/09/09(日) 06:47:47 ID:GBgF43j2.net
> 「島津氏だって遥か昔に分かれた伊作氏に当主が移ってる」、戦国時代の伊作氏はかな〜り怪しくて本当に島津の一門なのかどうかマユツバ。

136 :人間七七四年:2007/09/28(金) 14:59:13 ID:JzvaUG9B.net
三戸と八戸

137 :人間七七四年:2007/10/05(金) 05:02:46 ID:h1d1YOr2.net
晴政時代の優れた南部家の武将って大浦為信、石川高信、北信愛以外に
いるの?信長の野望で急速な領土拡大に成功した割に人材がいない
から登録で作ろうと思っているんだけど、散々探してもろくなのがいない・・・

138 :人間七七四年:2007/10/05(金) 09:09:51 ID:tgFJPzty.net
既に精一杯の過大評価ですもん

139 :人間七七四年:2007/10/06(土) 08:21:27 ID:UK2kIuf/.net
一門&譜代衆を登録すればいいだろうよ。
南・石亀・毛馬内・楢山・野沢・奥瀬・櫻庭とか

140 :人間七七四年:2007/10/06(土) 14:52:19 ID:LCRpSNZT.net
>>139
それらは南部系の家の一つである
三戸南部の譜代にすぎない

141 :人間七七四年:2007/10/06(土) 14:58:48 ID:ks0GvAzP.net
いいんだよ、どうせ野望に出ている南部家は
三戸(と大浦)だけなんだから。

142 :人間七七四年:2007/10/06(土) 16:02:02 ID:T9yCLkOe.net
九戸は?

143 :人間七七四年:2007/10/08(月) 10:03:15 ID:OulwkyMk.net
今日は南部杯です

144 :人間七七四年:2007/10/26(金) 14:27:09 ID:Hbwhsq3A.net
八戸南部は南北朝期までは主導権握っていたんだけどね。

145 :人間七七四年:2007/10/30(火) 02:55:29 ID:Rsko1xuu.net
いまいち戦国時代後期、というか安土桃山時代以前の南部氏が良くわからん。
こういう理解で良いのか?

南北朝から戦国時代まで
宗家・八戸(根城)南部

戦国時代後期
三戸南部晴政
宗家を倒し宗家化
(八戸の分家?)

田子南部信直
(三戸の分家?というかそもそも南部一族なのか?
一族だとしても家中の主導権をとりたかった北にまつりあげられた傀儡?

でもって
津軽為信
(南部の分家の出、三戸の?八戸の?
三戸の晴政には従ってたようなので南部家中の反信直派?)

九戸政実
(南部一族では無いが南部家を筆頭とした豪族連合の中で力をつけた豪族?
晴政には従ってた(協力していた?)みたいなので反信直派か?)

146 :人間七七四年:2007/10/30(火) 15:32:46 ID:R1BhFWYB.net
>>145 ある本の受け売りだと最初に断りつつ

>宗家・八戸(根城)南部
三戸南部は晴政の時の三戸城放火及び寛永年間の盛岡城炎上で、中世史料が殆ど失われ、動向が判然としないようだ
対して八戸南部には多くの中世文書が残された
それはそれとして、
鎌倉期…鎌倉にいた後の三戸が宗家、後の八戸は甲州にいた庶子家
南北朝期・・・八戸が南朝方として活躍、三戸は鎌倉方→南朝方→北朝方に転向、八戸が主導権
応永年間・・・三戸が安東氏との合戦の折、八戸に出兵を命令、三戸が主、八戸が従の関係に・・・以後略

以下血筋のみについて
>田子南部信直
石川高信の子(高信は三戸晴政の父安信の弟)

>津軽為信
南部の分家説(三戸守行の子孫)説もあるが?、他に平泉藤原氏説、大浦光信以前不明、などがある

>九戸政実
始祖南部光行の子行連の子孫(手持ちの本に系図は載っていないが)、一族の大身

147 :人間七七四年:2007/11/08(木) 07:52:31 ID:pe49JqfL.net
でも師行って北畠幕府じゃ在地大名じゃなくて出向組の派閥だよな
鎌倉か六波羅に在地してたのか?

148 :人間七七四年:2007/11/10(土) 00:24:17 ID:5QFbysus.net
南部氏が奥州に土着したのは南北朝期以降のこと

149 :人間七七四年:2007/11/10(土) 03:33:42 ID:sPEgTZ3k.net
はい?南部系図によれば光行は頼朝に近従が、六人の息子の内、実長を除く五名が
糠部郡に居住し、一戸・四戸・七戸・九戸の祖になってるわけで
嫡家(八戸)は代々北条執権に出仕してたけど
大体、南北朝時代の時点で、師行の弟の政長は在地してたし

しっかし、顕家と一緒に下向した割りには
式定評衆に名前を連ねて無くて謎(一緒に下向してきた伊達・結城・二階堂・冷泉は首脳格なのに)
安藤氏も含めて、この頃の北奥はまったく不透明だ
南部氏はなんであそこまで南朝一筋だったんだろう

150 :人間七七四年:2007/11/10(土) 11:10:16 ID:5QFbysus.net
で、自家の系図以外に裏付けの史料でもあるの?

151 :人間七七四年:2007/11/10(土) 18:43:48 ID:sPEgTZ3k.net
じゃあ南部家文書も信じないですか?

152 :人間七七四年:2007/11/10(土) 19:44:19 ID:tWa0DtY5.net
>>150は南北朝以前は南部は土着していないっていう史料価値の高い資料を当然持ってるんだよね

153 :人間七七四年:2007/11/10(土) 21:22:06 ID:ngy6LW+N.net
>>152
土着しているという主張の論拠を提示するのが先なのは当たり前なので、
>>150の質問(何が論拠?)に対し、>>151が「南部家文書」を挙げているわけ。

肯定側の論拠を崩せば「否定」が確定されるため、
否定側が「史料価値の高い資料」を明示する必要は無い。
悪魔の証明論争を惹起させるのはバカバカしいので、くだらないレスは自重しろ。

154 :人間七七四年:2007/11/10(土) 21:35:20 ID:tWa0DtY5.net
>>153
>>150が主張の論拠を提示するのが当たり前と考えてるなら
なんで俺のレスをくだらないというのかわからんな
有耶無耶にしたいだけですか?

155 :人間七七四年:2007/11/11(日) 01:47:25 ID:rF3tPIUw.net
>>154
よく読め。
提示するのが当たり前なのは150じゃなく149。で、「南部家文書」を151で提示している。
史料が明示されている以上、悪魔の証明論争を呼びかねない152のレスは不要。
151側を指示するならそれはそれで構わないんだが、余計なことを言うなってこと。
有耶無耶も何も、「南部家文書」が南部氏の南北朝以前の土着化の論拠になれば肯定、
論拠になりえないなら否定になるだけなんだしさ。

重ねて言うが、否定側が「史料価値の高い資料を当然持」つ必要は無い。
否定側に論拠を求める気持ちはわかるんだが、論争で152のようなことを言ってはダメだ。

156 :人間七七四年:2007/11/11(日) 02:43:25 ID:2ej59lKe.net
>土着しているという主張の論拠を提示するのが先なのは当たり前なので、

この日本語で差してるのが>>149ってのは無いだろ。>>154が勘違いするのは当たり前だ。
よく読めっていうより先に、>>155は自分の文章の推敲をすべきだと思う。
そもそもID:sPEgTZ3kは>>149の時点で南部系図っていうソースだしてるし、
ID:5QFbysusが資料明示しない限り、適当な事言ったのは ID:5QFbysusというシンプルな構図。

真面目な話をすると
南部家文書は鎌倉時代の文献を元に編纂されてるから史料価値は高い。

157 :人間七七四年:2007/11/11(日) 04:21:22 ID:CDN/qYoX.net
普通に読んで意味取れるんだけど…

158 :人間七七四年:2007/11/11(日) 06:43:44 ID:KuuBQbwl.net
>>145
為信は久慈の出身。
晴政にしたがっていた七戸南部の領土を奪い取っているから
反信直どころか、織田信長のように他の同族の領土を
全部自分のものにしようとしていたと思われる
秀吉によってタイムオーバーになってしまったが

159 :人間七七四年:2007/11/11(日) 06:48:55 ID:12xi+4V9.net
戦国時代の南部系の家の末路
大光寺→滅亡
七戸→滅亡
八戸→新田行政にのっとられ滅亡
九戸→滅亡
千徳→滅亡
櫛引→滅亡
堤→滅亡
三戸→晴政が死んだ時点で滅亡
大浦→久慈からやってきた為信に家をのっとられて滅亡

生き残った南部
信直の家系だけ

160 :人間七七四年:2007/11/11(日) 15:02:51 ID:Hz58W1ad.net
上野国出身の軍師?の沼田氏の経歴もよくわからんし津軽為信も津軽なんて詳しくないのによく旗揚げして短い期間に南部を圧迫し北畠まで滅ぼして拡大しまくりましたね。
秀吉が小田原に来援しなかった場合、安東や蛎崎、九戸や北、戸沢などとの戦いが拡大していくと思いますが勢いがあったしドコまで拡大できたかな?
八戸や三戸あたりは久慈と近いし土地勘もあったろうから南部を併呑できたんじゃないかな?九戸の抵抗は激しいだろうけど…。
安東あたりも破って秋田まで進出し角館あたりで戸沢と戦ったり。
最上義光とは馬が合いそうな気がするからw小野寺や由利本荘は一時的にプレゼントw


161 :人間七七四年:2007/11/11(日) 17:40:04 ID:zhx18iol.net
南部を圧迫というかいくつか南部系の家をいくつか滅ぼしている
>>最上義光とは馬が合いそうな気がするから
策略の熟練者の義光と「普通の策略」しかやっていない為信と
それに為信は最上と敵対していた大宝寺と同盟していたのでなおさら最上と組むことはない
>>安東あたりも破って秋田まで進出し
比内には野心を持っていたかもしれないが
秋田まで行く気はあったのかな?大宝寺につきあって出兵する可能性はあるが
>>上野国出身の軍師?の沼田氏
それと有力武将の板垣将兼、小笠原信清もおそらく甲信あたりから流れてきた武将

162 :人間七七四年:2007/11/11(日) 23:22:38 ID:Ij+STl/p.net
>>157
南部氏はちゃんと土着していたってことだけはわかったよ。

163 :人間七七四年:2007/11/12(月) 01:10:23 ID:AnlhZ9ZF.net
↑お前の脳内だけでなw。学界の趨勢は否定派が主!

164 :たられば君:2007/11/12(月) 07:33:15 ID:E6MGKKec.net
>>159
北・東・石亀とか残ってんじゃないか?

165 :人間七七四年:2007/11/14(水) 02:11:30 ID:ZB/U3JH9.net
信直は三戸の傍系にはならんのか?

166 :人間七七四年:2007/11/14(水) 16:51:22 ID:dzU7s3eI.net
信長公記に出てくる「奥州津軽の南部氏より南部宮内少輔が鷹五匹を進上してきた。」
この「津軽の南部氏」って大浦のことだよな

167 :人間七七四年:2007/11/16(金) 09:21:05 ID:ynSGS36q.net
大光寺はそのころもう滅亡しているんだっけ

168 :人間七七四年:2007/11/20(火) 20:40:08 ID:/YFBXwG5.net
南部宮内少輔は南部政直じゃなかった?

169 :人間七七四年:2007/11/21(水) 16:04:11 ID:ynMHCPsh.net
安東家臣の南部季賢説もあるね
晴政、信直説も

170 :人間七七四年:2007/11/22(木) 10:49:15 ID:dnpe3Np/.net
「津軽の南部」なんだから大浦しかいないだろ

171 :人間七七四年:2007/11/22(木) 11:51:08 ID:hcSHOUzd.net
>>160
石川高信の死は1571年説が有力だってよ

>>南部を圧迫し
為信も南部の一族なんだから「圧迫」とは言わない
織田弾状忠家が織田大和守家を滅ぼしたことを
「織田を圧迫」と言うか?
檜山安東家が港安東家を併合したことを
「安東を圧迫」と言うか?

172 :人間七七四年:2007/11/23(金) 11:47:50 ID:oZphKrRI.net
晴政は何もしていない

173 :人間七七四年:2007/12/10(月) 13:57:25 ID:GwoOzmVF.net
晴政在世中の出来事といえば
安東に鹿角郡を奪われるも奪回
津軽地方の反乱を平定
九戸政実の反乱騒動を平定 ぐらいかな。
石川高信・信直 八戸政栄 九戸政実の功績が大きいといえば それまでですが。


174 :人間七七四年:2007/12/12(水) 16:27:29 ID:ZrPYDRi8.net
安東に鹿角郡を奪われるも奪回
津軽地方の反乱を平定
九戸政実の反乱騒動を平定

九戸は晴政死後でしょ
三戸南部は津軽に領土などもっていない
津軽に領土を持っていたのは大光寺とか千徳である
反乱を鎮圧したのは大光寺でしょ

175 :人間七七四年:2007/12/13(木) 03:37:57 ID:LPZK34Kh.net
晴政の事跡があまりかかれていないのも当然

晴政の家系は滅んでいるから
それと大火事で記録が燃えてしまったから
残っているものと言えば晴政と仲が悪かった
家系が記した書類だけ。

まあ南部だけではないが
そういった文献あ割り引いて考えた方がいい

例えば本当は晴政が行った業績なのに別な人の手柄にされているかも

176 :人間七七四年:2007/12/14(金) 13:13:56 ID:/Ikop7r3.net
一次資料がすくないのが問題なんだよね
実際何があったのか永久に闇の中

177 :人間七七四年:2007/12/21(金) 12:44:21 ID:h5jUf+Pz.net
南部家
同族同士の仲は扇谷上杉と山内上杉のように良好であり
分家の統制は大崎・最上間のように強力であり
豪族、国人の統制力は政豊時代の山名のように強力である

178 :人間七七四年:2007/12/21(金) 21:50:22 ID:HbPK0PQU.net
パラレルワールドの話か

179 :人間七七四年:2007/12/24(月) 18:25:39 ID:f2qteM5p.net
扇谷上杉は山内上杉の分家だから大崎・最上間に当てはまるなw

180 :人間七七四年:2007/12/27(木) 14:28:17 ID:UmL847pS.net
>>177
秀吉の奥州征伐までは南部家もそんな感じだったんだろう

181 :人間七七四年:2008/01/16(水) 16:10:32 ID:tPJvcOJW.net
せめて津軽を何とかせにゃ。

182 :人間七七四年:2008/02/04(月) 14:23:59 ID:A78NQdMv.net
それが出来れば苦労しない。

183 :人間七七四年:2008/02/15(金) 15:44:36 ID:xk7PH7JT.net
後継者争いがなければ安東ごとき・・・

184 :人間七七四年:2008/02/15(金) 20:13:10 ID:xk7PH7JT.net
南部といえば新渡戸稲造の曽祖父の財政再建

185 :人間七七四年:2008/02/18(月) 16:57:03 ID:JkN6UL6G.net
南部信直を補佐した三戸南部の守護神!
北信愛90歳。

三好長慶と同じ歳に生まれ北信愛の死の2年後に豊臣秀頼が死亡。
なにげに戦国の一番おいしい時期をガッツリ生き抜いている辞典みたいな男。

186 :人間七七四年:2008/02/18(月) 17:36:29 ID:ATxGLWAt.net
天を衝くの政実のかっこよさは異常

187 :人間七七四年:2008/02/19(火) 14:56:44 ID:148Dauh6.net
津軽為信参上!
やい南部ども何か書き込みしてスレを活性化させろ。

188 :人間七七四年:2008/02/19(火) 15:27:43 ID:Rso73I7S.net
南部氏に滅ぼされた家の末裔な俺が来ましたよ

確かに東北では強かった部類の大名なのはわかるが信長の野望で優遇されすぎじゃね?
特に天翔記、気付いたら東日本一円南部領ってどんだけwwwwwww
三日月が五回は丸くなるまで南部領って感じじゃんか

189 :人間七七四年:2008/02/19(火) 15:48:25 ID:W/44v0jr.net
>>188
三日月が五回は丸くなるまで南部領って感じじゃんか

チョットワロタw

190 :人間七七四年:2008/02/21(木) 01:04:48 ID:XtZ+GKWl.net
青森ってゲームで言うところの空白地って感じだよな。南部の支配もいい加減っぽい感が…。


191 :人間七七四年:2008/02/23(土) 11:08:47 ID:qhBKto3a.net
畠山マンセーマンセーマンセー!!!

192 :人間七七四年:2008/02/24(日) 22:07:23 ID:0A8cSgmW.net
ところでいまでは南部と津軽の対立はそうとう薄まったそうだが、
南部と田村はまだ対立感情があるとか。なぜなんだろうか?

193 :人間七七四年:2008/02/24(日) 22:22:39 ID:/QNKYXUl.net
>>192
南部と田村の対立感情?
んなもん最初からねーよwwww
仮にあったとしても、まあどーせ田村側からの一方的な嫉妬でしょ
南部は端から田村なんて眼中にねーしwwwww
岩手日報でも県南の歴史関連だと平泉しか特集組まないし
南部の特集はよくやるけどなwwwww

194 :人間七七四年:2008/02/26(火) 19:34:19 ID:mMfljrSM.net
↑それにしても下卑た物言いだなw

南部の品位を貶めるのが目的かw?

195 :人間七七四年:2008/03/04(火) 08:28:49 ID:HqVNKJGC.net
南部家が主役の大河ドラマはまだか?

196 :人間七七四年:2008/03/04(火) 10:13:41 ID:QpaBEaQI.net
そんなの見たくもない

197 :人間七七四年:2008/03/04(火) 15:44:33 ID:XssmdBeJ.net
南部の主な合戦は
斯波進攻戦
鹿角奪取戦
晴政、信直の確執
九戸平定戦位しかないから@年持たないな。大阪の陣では南部の軍は大砲の音にびびって逃げまどっただけだし。

それよりは北東北戦国時代の武将それぞれを短編でやってほしいな。
津軽、南部、安東、戸沢、九戸、大宝寺、葛西などなど...。

198 :人間七七四年:2008/03/04(火) 17:27:18 ID:xNdSRdbQ.net
伊達家と南部家の関係ってどうだったの?

江戸時代ではなく戦国時代。

199 :人間七七四年:2008/03/04(火) 17:56:40 ID:QpaBEaQI.net
>>198
戦国末期までは接点無しじゃないの?
それぞれ北の英雄・南の覇者って感じで好き勝手やってたでしょ
でも政宗以降は領国も接する事になったし、関が原の時なんか和賀を煽動されてるし
あまり良好な関係じゃなかったのでは?

200 :人間七七四年:2008/03/18(火) 16:09:32 ID:4QXxuQoG.net
>>197
安東は面白いかも

201 :人間七七四年:2008/03/18(火) 19:06:11 ID:4CyTeIV/.net
>>199
> それぞれ北の英雄・南の覇者

前者はいいとしても、後者が覇者って何やねん。南の鼻つまみ者だろ。

202 :奇矯屋onぷらっと@FreeTibet ◆SRGKIKYOUM :2008/03/22(土) 13:35:19 ID:t5g+NELF.net
南の寝業師だな。

203 :人間七七四年:2008/04/08(火) 16:12:27 ID:jba3NfGx.net
>>195
九戸政実はどうだろ、小説あるし

204 :奇矯屋onぷらっと@FreeTibet ◆SRGKIKYOUM :2008/04/09(水) 00:57:07 ID:cOYNYGCo.net
東北の大河は渡辺謙+村田雄浩のスケジュールが押さえられないと無理。

205 :人間七七四年:2008/04/12(土) 14:16:59 ID:4uKl94D2.net
>>204
政宗を史実の数万倍過大評価させるきっかけになった謙はもう不要。全て彼が悪い。

206 :人間七七四年:2008/04/26(土) 15:41:54 ID:qgnEx3Tm.net
蠣崎や安東 九戸や津軽みんな絡めれば 面白い話になると思うがな。

207 :人間七七四年:2008/05/13(火) 13:52:23 ID:GJVUuoHt.net
安東を希望する。

208 :人間七七四年:2008/05/27(火) 15:20:34 ID:ZsjkE3tI.net
安東となると当然蝦夷地の話も出てきて 面白そうな。

209 :人間七七四年:2008/06/12(木) 14:50:53 ID:U8ayXMtm.net
天文八年の三戸城焼失で殆ど史料を失ってしまってからね、三戸は

210 :人間七七四年:2008/06/27(金) 14:20:32 ID:6ym4BiaB.net
領域が最大なのは安信の頃かな?

211 :人間七七四年:2008/06/30(月) 06:39:52 ID:So7fdM0Q.net
晴政が所領を急拡大させたってのは嘘なのかな

212 :人間七七四年:2008/07/01(火) 23:10:10 ID:0kyuDXCA.net
実際に戦で勝利を重ねていたのは九戸政実だった。
領民にも支持されていたが、軍事部門的な要員だったと思う。
九戸家の祖先が小笠原を系統としても南部家と祖先で繋がりがあったという、
恐らくは遠戚同士の軍団が南部の基礎で、次いで信直や北信愛のような武将が
南部宗家を乗っ取ったと言える。九戸政実が室町幕府で晴政と同格に扱われていたとすると、
幕府の方で彼の系図がなんらかの形で明確にされていたのだろう。
年齢についても若干の諸説があるらしい。当時の政実元服が15歳でなく12・13歳でされていた場合は
生年が少し遡る事になるからだ。



213 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/07/02(水) 00:36:09 ID:x9m6zLvr.net
石川や石亀だって頑張った。

214 :人間七七四年:2008/07/02(水) 03:04:37 ID:9xMeYvov.net
晴政でさえ信直に攻められて殺されたなんて言われるぐらいなのに
この一族ほど謎に満ちた大名家も珍しいな

215 :人間七七四年:2008/07/02(水) 16:05:24 ID:sMRNi0Fj.net
実際に晴政の嫡男が生まれた後、晴政と信直確執が表面化し戦を交えている。
南部抗争には10年のズレがあると言われているが、大浦為信の独立化も南部信直・北信愛に対して
敢行したものであれば、九戸政実と遠戚でもある大浦為信はそれによる呼応であったと思われる。

九戸政実自身は元来晴政の嫡男晴継の後見人であった為、晴政・晴継を暗殺する必要はそもそも無い。
晴政と戦を交えた信直・北信愛側は九戸政実の着々と進む縁戚化を恐れて和解後晴政・晴継を暗殺したと言えるだろう。
また、九戸乱後各地に散った九戸側の一部武士は津軽家に仕官したのではないかと思われる。
その後津軽家でお家騒動が何度か起るが、津軽のそうした彼らが熊千代側に付いたりして、
津軽藩が一時瓦解する状況に陥ったのではないかと私は推測する。
信牧の後継騒動(三成娘の子・満天姫の子)はまさに秀吉側の血縁者に対する
一部津軽・九戸側の猛烈な反発があったのではないか、
熊千代時もそうだがそれらのお家騒動のいきさつ等を経て現在まで至っていると考える。
黒石藩の流れもまさにそうだろう。

216 :人間七七四年:2008/07/02(水) 17:21:36 ID:sMRNi0Fj.net
石川高信の死も諸説あるな。
南部家は信直よりも利直の方が器としてあると感じる。
北信愛の長寿は皮肉すぎる。

秀吉軍の北条氏攻めでの八王子城撫で切りも凄まじいが、
九戸城の撫で切り(二の丸大量焼殺)もひどすぎるな。


217 :人間七七四年:2008/07/02(水) 17:38:01 ID:u6t01X23.net
南部利直って前田利家が利をあげて後ろ盾になってるんだろ。
八王子城なんかも利家が攻めてる。一向宗殺戮とかやってるし。
あいつ撫で斬り大好きな極悪人だよなw

218 :人間七七四年:2008/07/02(水) 22:25:31 ID:sxFzfQEV.net
>>215
黒石藩の流れについて詳しく

219 :人間七七四年:2008/07/16(水) 13:42:41 ID:SrRUqr/N.net
なかなか複雑なのね

220 :人間七七四年:2008/08/02(土) 15:44:25 ID:QVheD1Ss.net
火事が痛かったな。

221 :人間七七四年:2008/08/18(月) 14:38:58 ID:RmecyQaY.net
岩手で何か話題ないかい?

222 :人間七七四年:2008/08/29(金) 19:40:02 ID:Tu0lRg6C.net
きたのぶあい

223 :人間七七四年:2008/08/29(金) 19:41:57 ID:bhFSpqX3.net
North believe love

224 :人間七七四年:2008/09/02(火) 16:24:01 ID:+OzNsvBc.net
南部に名君なし、って噂は本当か?

225 :人間七七四年:2008/09/03(水) 10:26:59 ID:YeLpHn2D.net
名君居たらもう少しまとまってるだろう

226 :人間七七四年:2008/09/03(水) 11:15:36 ID:0+LV7f57.net
石川高信、九戸政実が死んでからはまともに戦で勝ってない気がする。まぁ秀吉のせいでもあるが。
斯波だって和賀だってたいして強くなかった。
鹿角一帯だって津軽、安東と睨み合いに近いし。最終的には安東だけど。
津軽が南部家臣だったら九戸と組んで葛西領、鹿角一帯くらいまでは南部領地だったと思う。
軍事部門では石川、九戸はかなり優秀なのでは??
ただ南部には政治部門で人がいなかったなぁと感じる。

227 :人間七七四年:2008/09/03(水) 13:01:36 ID:RGznkm6T.net
>>226
葛西とは大昔からやりあったりしてたが、
結局南部の影響力が低下して、葛西と戦うこともなくなっていった
葛西や大崎なんてgdgdの代表格だが、外の敵には比較的団結して戦うしね

228 :人間七七四年:2008/09/03(水) 14:50:32 ID:22smPN7g.net
南部は政治・経済が弱いからなあ。

229 :人間七七四年:2008/09/03(水) 14:57:51 ID:0+LV7f57.net
悪政のオンパレードな気がするし。三閉伊一揆なんか日本最大級でしょ??
余程の人材不足。北信愛は普通レベルだな。
せめて明智光秀クラスの統治ができる将が居ればなぁ。

230 :人間七七四年:2008/09/03(水) 15:23:02 ID:tUuGUHFa.net
>>229
せめてのレベルが高い件

231 :人間七七四年:2008/09/03(水) 16:11:13 ID:0+LV7f57.net
>229ですが、貧乏でだだっ広い国だからせめて光秀くらいじゃないとうまく統治できないと思うんですよ。
蒲生氏郷とか。

232 :人間七七四年:2008/09/03(水) 19:04:05 ID:YDKcF8iA.net
図式としては、
九戸政実・南部晴政VS北信愛・石川信直
大浦為信VS石川信直(石川家の仇)
七戸家国・櫛引清長VS八戸政栄
八戸政栄は当初晴政を支持していたが最終的に北信愛の調略に乗る
晴政と信直の戦後信直は田子家に蟄居、その後石川家を大浦為信が攻める
七戸家は大浦為信と揉めていたが九戸政実の下では協力を一致させたが八戸家はそれを拒んだのだろう


233 :人間七七四年:2008/09/03(水) 19:10:35 ID:YDKcF8iA.net
光秀は波多野家攻略の時も懐柔な策を用いていたから、もし光秀のような者が対九戸として陣取っていれば、
撫で切りのような事は回避できただろう。

蒲生氏郷では秀吉に意見する力としては年齢差的にも不足だったろう。
蒲生・秀次が望んで大量虐殺をするとは思えにくいが責任は重大である。
蒲生自身秀吉に謁見するよう前後して要請を受けていたからな。自身の保身も胃癌の病の他にかなり危ぶまれていた筈だ。

234 :人間七七四年:2008/09/04(木) 03:03:06 ID:MNp38drM.net
光秀のようなキレ者が南部家に仕えるわけがない。

というか南部家は人材登用システムがダメでしょ。

235 :人間七七四年:2008/09/04(木) 07:24:36 ID:8h+jVzm4.net
さすがに光秀は士官しないだろうけど、でも譜代の家臣や一族に@人くらい有力な将がいても...って思ったけども、こんな北の僻地にいてもね(^o^;)
北の大地で有力なのは安東と津軽くらいしかいない。どっちも大名だしよ。

236 :人間七七四年:2008/09/04(木) 14:12:47 ID:dR3z1e1z.net
上層部が無能で無害な人ばっかりだったから
徳川家から警戒されずにすんだ、ってのは怪我の巧妙か?

237 :人間七七四年:2008/09/05(金) 12:21:47 ID:GFGLI/tT.net
>>217
> あいつ撫で斬り大好きな極悪人だよなw

でも、東北じゃぁ二番目だなチッチッ

238 :人間七七四年:2008/09/05(金) 16:04:17 ID:kdzb1HqM.net
江戸時代以降の南部家は八戸南部の弱体化とその吸収と同時に血縁関係の無い藩士の粛清と強化に力を注いでいる。
外部からの意見を取り込めないようにしていたとも言える。

津軽家も諸問題を抱える事になる。大本を辿ると、津軽為信の嫡男信建は早逝し、三男信牧と信建の嫡男で若年の熊千代を擁立した津軽建広との家督争いから津軽のお家騒動は始まっている。
その後、幕府により建広は津軽追放を命じられ信牧が当主となったが、更に信牧の正室側室絡みのお家騒動が勃発する。

黒石藩の起源は、度重なる藩内のお家騒動による弱体化に対する強化と、分藩する事で騒動を和らげ人材の編成を試みたというのが幕府の狙いだったろう。


239 :人間七七四年:2008/09/05(金) 19:12:50 ID:8+K4/hTe.net
幕府としても、遠隔の地でゴタゴタがあるってのは
雰囲気的にイヤだったろうな。

240 :人間七七四年:2008/09/06(土) 15:14:39 ID:HZJA6gh0.net
北信愛(ホク シンアイ)は某アニメに出てくる萌え系キャラ・・・


241 :人間七七四年:2008/09/16(火) 07:38:26 ID:V54vr9en.net
南部氏の沿岸沿いにはどんな大名??がいたんでしょうか(^_^;)
自分は八戸氏と久慈氏、大槌氏しかわからないです。

242 :人間七七四年:2008/09/16(火) 15:08:04 ID:pL2QXcvA.net
キタノブチカ、ジャネーノ?www

243 :人間七七四年:2008/09/18(木) 09:51:20 ID:OplkBAX2.net
なんつっても東北三大LOVEのひとりだからな

244 :人間七七四年:2008/10/02(木) 14:18:36 ID:MWovnlTG.net
>>241 千徳とか

245 :人間七七四年:2008/10/18(土) 14:22:07 ID:pJgkJfZ0.net
千徳は津軽に滅ぼされたんだっけ?

246 :名無し:2008/10/24(金) 20:05:06 ID:8eeh/8xU.net
石川家は虐殺されたけど生き残りはどうなったの?
津軽にも一部残ったの?どんな生活だったんだろう 

247 :人間七七四年:2008/10/24(金) 22:53:08 ID:PCxE21rO.net
>>246
スレを最初から読み返すことをおすすめします。
いえ、煽りじゃなく。

248 :人間七七四年:2008/11/07(金) 15:24:41 ID:Cr87+TTr.net
焼けて史料がないことはわかった。

249 :人間七七四年:2008/11/20(木) 15:38:30 ID:LAaqX+q7.net
八戸は南朝方なんだよね。

250 :人間七七四年:2009/01/04(日) 10:44:17 ID:PzCpxsI0.net
なんか南部ってとことん不幸な連中だよな。

251 :人間七七四年:2009/01/08(木) 11:40:23 ID:oZ2cuiAM.net
南部家当主死亡だと

252 :人間七七四年:2009/01/17(土) 15:11:54 ID:CT/X5pZC.net
数年前に話題になった有名な宮司さんですね、週刊誌で見ました

253 :人間七七四年:2009/02/02(月) 16:02:13 ID:aSTfFZOf.net
あの時はだいぶ取上げられましたね。

254 :人間七七四年:2009/02/16(月) 16:22:11 ID:qds5xXRW.net
一條さんの血筋だそうで

255 :人間七七四年:2009/03/02(月) 15:37:06 ID:AZfEEJhD.net
電通に勤めていたんだよね。

256 :人間七七四年:2009/03/16(月) 15:34:53 ID:Kfzj+SlZ.net
昭和天皇の件はご存知だったんでしょうね

257 :人間七七四年:2009/04/01(水) 14:35:49 ID:gMWKzyjV.net
意外と心労はあったと思う

258 :人間七七四年:2009/04/04(土) 10:06:46 ID:0iljDe5T.net
大変だね

259 :人間七七四年:2009/04/15(水) 15:28:03 ID:Gp4qlMot.net
華族の会って何て名前だっけ?

260 :人間七七四年:2009/04/25(土) 09:02:14 ID:y3T2X5fv.net
北国・盛岡に桜の便りが届いた12日の日曜日。1月7日に73歳で急逝した南部家第45代
当主、南部利昭氏の「お別れの会」が行われ、達増拓也岩手県知事、谷藤裕明盛岡市長を
はじめ、約700人の市民らが参列した。
南部氏は元広告マンで、平成16年から靖国神社宮司を務めた“異色の殿様”。昭和55年に
当主となり、盛岡に居を移した。穏やかな人柄が愛され、旧南部藩士の子孫や盛岡ロータリー
クラブ会員らと深く交流した。

「しぐさや立ち居振る舞いに気品があった。興に乗ると謡(うたい)や都々逸(どどいつ)も飛び
出した」と懐かしむのは、南部家ゆかりの桜山神社の坂本広行宮司。「例大祭で扇を手に馬に
またがる姿は殿様そのもの。どんな暴れ馬もこなし、神社の象徴でした」

もう一つ、出席者の話題になったのが、盛岡と靖国神社の関係だ。靖国神社の前身は、幕末期の
戊辰(ぼしん)戦争で朝廷側に付いた薩摩、長州などの戦死者を慰霊する「東京招魂社」。南部藩は
幕府側に付いて敗れただけに、南部氏の宮司就任に多くの盛岡市民が驚いたという。

廃藩置県で得た土地を共同管理する「旧盛岡藩士桑田(そうでん)」の下山寛理事長も涙を浮かべ、
このことに触れた。「殿様は“南部の領民”への気づかいから、就任するかどうか、長く悩まれていた」
と。

靖国神社は国に殉じたすべての人をまつる場所。南部氏もA級戦犯の分祀(ぶんし)を明確に
否定していた。

南部氏の宮司就任をきっかけに、長年のわだかまりも消えたようだ。「靖国神社を訪れる人が増え、
殿様は温かく迎えてくれた」(盛岡ロータリークラブの長野隆行会長)。出席者は春遅い盛岡から、
生前の南部氏と、すでに散った靖国の桜に思いをはせていた。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090425/acd0904250835003-n1.htm

【地域/岩手】"殿様そのもの" 南部家45代当主・靖国神社9代宮司、南部利昭氏の「お別れの会」…森岡
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1240617429/


261 :人間七七四年:2009/04/25(土) 10:09:53 ID:iuSNw2Kk.net
幕末の圧倒的勝ち組は明治天皇の外戚になった肥前松浦氏

262 :人間七七四年:2009/05/09(土) 00:57:59 ID:X7ogvsm/.net
南部氏系はなになにがいたんだ??九戸、八戸、三戸、七戸しかわからん。

263 :人間七七四年:2009/05/13(水) 10:19:13 ID:QBRoJ8k6.net
三戸城は200名城スタンプラリーに選ばれた名城だよ駅からタクシー使ってネ

264 :人間七七四年:2009/05/13(水) 15:12:04 ID:s1uvxho+.net
南部なのになぜ東北に?

265 :人間七七四年:2009/05/14(木) 21:19:00 ID:UYfb50X1.net
一戸系や四戸系もあった。
あと、東系や南系、北系そして、西系もあった。

266 :人間七七四年:2009/05/26(火) 15:20:38 ID:xA2XVwDe.net
二戸や六戸とかは?

267 :人間七七四年:2009/05/29(金) 23:08:13 ID:IRsz9UBN.net
ティターンズ南部信直
バスク大佐→北信愛

268 :もろ初心者だが:2009/06/01(月) 22:37:53 ID:AUUxd3eI.net
こんばんは、初心者ですが、南部家は好きなの参加したいです。
二戸系は確かあります。ただし「にのへ」とは読まずに「にこ」と読むはずです。

269 :人間七七四年:2009/06/01(月) 22:53:39 ID:2fT67ik8.net
長篠で武田勝頼の身代わりになった河西肥後守は甲斐に残った南部だよな

270 :人間七七四年:2009/06/05(金) 00:03:43 ID:POq7wdP/.net
自分久慈住みっすけど「東」と「西」の名字いますね。血繋がってんすかね。もちろん「久慈」もいます。

271 :人間七七四年:2009/06/22(月) 16:46:58 ID:S+ACvaEc.net
久慈って諸国にあるね。

272 :人間七七四年:2009/06/30(火) 20:21:00 ID:Avqq87Xn.net
南部駒は、戦国時代最高。
必然的に騎馬隊も良馬で構成される。
強くて当たり前。

273 :人間七七四年:2009/07/01(水) 08:11:47 ID:KOv9L9RC.net
江戸時代の3大飢饉で領内で餓死者をだすも、対策たてない。
村丸ごと隣国仙台藩に逃亡。南部の圧政を直訴しているが幕府が放置。
領民の事思えば、無能な殿様より津軽氏に乗っ取られた方が良かったと
思う。

274 :人間七七四年:2009/07/01(水) 11:53:41 ID:bHVB6tOW.net
晴政→勇将
信直→知将
しかし自分が考えるに、北信愛が居たから成り立つ戦国時代の南部。
信愛が居なきゃ江戸時代の腐れ南部になる。

275 :人間七七四年:2009/07/02(木) 19:19:06 ID:xkUHL0Dz.net
勇将と知将が逆だ

276 :人間七七四年:2009/07/07(火) 14:47:08 ID:k960LZDN.net
南部って秀吉が来る前は南部一族がみんな独立大名みたいなもんだよな。

277 :人間七七四年:2009/07/07(火) 21:35:04 ID:PbnHsqyW.net
津軽や九戸、八戸との絡みが面白い。

278 :人間七七四年:2009/07/17(金) 15:57:30 ID:kPdgPhmo.net
三戸も本家的だが決して本家ではないし。

279 :人間七七四年:2009/07/30(木) 16:01:42 ID:z0oYOCC4.net
八戸正統説。

280 :人間七七四年:2009/08/07(金) 23:40:56 ID:4mYjgltZ.net
のりピは波木井にいるの?

281 :人間七七四年:2009/08/08(土) 00:38:35 ID:S64ivuT4.net
南部諸家のそれぞれの勢力範囲がわかりづらいですね

282 :人間七七四年:2009/08/21(金) 14:58:24 ID:5yrZEQOI.net
入り組んでるんだよ。

283 :人間七七四年:2009/09/03(木) 15:08:20 ID:+U1DoT06.net
甲斐出身なのね。

284 :人間七七四年:2009/09/03(木) 16:32:43 ID:OaZYNpeg.net
将軍家からもらった「晴」の字を嫡子に与えるのはどうなんだ?

285 :人間七七四年:2009/09/03(木) 19:48:50 ID:zmdDi2tr.net
>>284
仮名じゃ可哀想だからもっともらしい晴継って名前をつけただけじゃないか?
晴継発給や晴継宛の文書なんてあるのだろうか?
家督を継いで数日後に死亡したし、文書を発給する暇なんてなかったように思うなぁ

286 :人間七七四年:2009/09/10(木) 15:22:20 ID:QpPSqde5.net
>仮名じゃ可哀想だからもっともらしい晴継って名前をつけただけじゃないか?
誰がつけたんだろうね。

287 :人間七七四年:2009/09/11(金) 20:24:16 ID:yjzSncg5.net
>>286
やっぱ北尾張とか南遠江辺りの親信直派の老臣じゃね?
名前書かないと尾張や遠江の一地域みたいだなw

288 :人間七七四年:2009/09/12(土) 03:27:45 ID:1ryt40gF.net
南部大好き。信直時代が。

289 :人間七七四年:2009/09/23(水) 13:35:59 ID:BLfWaOEf.net
信直いいよね。

290 :人間七七四年:2009/09/29(火) 15:30:42 ID:ospG5cP1.net
信直は地味ながら光ものがある。野球ならA番セカンド的な。

291 :人間七七四年:2009/09/29(火) 17:27:47 ID:APahVQ+1.net
なあ、いつになったら十三湊と白神山地と十和田湖かえしてくれるの?
あのへん全部安東の土地だが・・・

292 :人間七七四年:2009/10/01(木) 00:54:21 ID:SeF4aZEw.net
信直が鉄砲の名手だったことは
あまり知られていない

293 :人間七七四年:2009/10/01(木) 13:23:42 ID:HSQViEQO.net
まぁ大将が鉄砲上手でもなぁ。九戸と立場が逆だったらなぁ。

294 :人間七七四年:2009/10/01(木) 14:27:19 ID:IWu8R3AO.net
南部は、書物の捏造がひどくて後世の歴史家が苦労してる。
困った人たちだ。

295 :人間七七四年:2009/10/03(土) 05:17:59 ID:AmWqBl9l.net
捏造狂いの津軽に言われたくないw

296 :人間七七四年:2009/10/03(土) 05:30:38 ID:T992ypz9.net
南部産の馬は有名だけど相馬より騎馬武者多かったのか?

297 :人間七七四年:2009/10/13(火) 16:07:49 ID:yysOJHjl.net
奥州藤原はどんな戦い方をしたか。

298 :人間七七四年:2009/10/22(木) 14:25:17 ID:OAM7/ti6.net
義経が得意とした奇襲戦法とか。本当かいな。

299 :人間七七四年:2009/11/04(水) 15:20:59 ID:Fe9uds5u.net
どうだかな。

300 :人間七七四年:2009/11/05(木) 11:16:48 ID:pQHqt1+3.net
ぼくのまさむねはてんさいだからなんぶはうそつきでしんようできないのはじょうしきだ

301 :人間七七四年:2009/11/06(金) 11:37:00 ID:POYfWwF0.net
ぼくのよしあきはじんぎあついじんかくしゃ
こまひめをひでつぐにさしだしたとかいたなんぶはきちがいうそつきあほしね

302 :人間七七四年:2009/11/07(土) 10:24:55 ID:DG+YIne4.net
南部は北より南下してたらどうなっていたかな

303 :人間七七四年:2009/11/07(土) 22:36:46 ID:WPT/pgFF.net
>>302
一応南下もしてたけど、険悪だったのは東だからあんまり変わらんのじゃないか?
北の津軽も騒動は東が元だから、南は放置せざるをえない。
斯波・阿曽沼・和賀とかとはそこまで敵対関係じゃないし。
味方とは言わんけど。

304 :人間七七四年:2009/11/08(日) 10:18:15 ID:pKsUlZaY.net
葛西と戦ったけど負けたんじゃなかった?

305 :人間七七四年:2009/11/08(日) 18:42:22 ID:i2PV+Esl.net
葛西家中の柏山氏とよく戦ってる
葛西家臣でも柏山や江刺は和賀・阿曽沼とも関連があるから
南部の南下戦では共同して対応とかもしてる

306 :人間七七四年:2009/11/18(水) 15:16:23 ID:hIVxQgMI.net
葛西のスレ立ったね。

307 :人間七七四年:2009/12/09(水) 13:59:22 ID:Oy+qE2wQ.net
賑わってはないね。

308 :人間七七四年:2009/12/16(水) 00:21:41 ID:9DnUkQu/.net
未だに津軽・南部で抗争が…

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091214-00001158-yom-soci

309 :人間七七四年:2009/12/16(水) 01:31:37 ID:Wewgb++t.net
>>308
津軽と南部の抗争とは青森対岩手じゃなくて、
青森内部の津軽地方(弘前)対南部地方(八戸)のことだろ。

310 :人間七七四年:2010/01/04(月) 12:13:54 ID:RervCUF0.net
青森の南部地域と岩手の関係はどうなの?

311 :人間七七四年:2010/02/20(土) 11:32:55 ID:GQ2iF42v.net
>>310
二戸、九戸、久慈あたりは八戸と仲良いよ。

気になるんだが、南部信直と九戸の戦あるじゃんね。
信直が弱かったの??
九戸が強かったの??

312 :人間七七四年:2010/05/15(土) 15:12:15 ID:g5Ennv01.net
九戸は強いね

313 :人間七七四年:2010/05/16(日) 04:13:30 ID:3DZ+YGbg.net
実のところ南部総本山の盛岡の連中は
八戸藩の津軽コンプなんてどーでもいいらしい

314 :人間七七四年:2010/05/20(木) 21:03:33 ID:JtjYN2CB.net
南部氏の甲冑とか見たいなら
盛岡市中央公民館&岩手県立博物館?

315 :人間七七四年:2010/05/21(金) 11:37:26 ID:ykjLUffV.net
いやBASARA3

316 :人間七七四年:2010/06/10(木) 12:44:10 ID:QqcRK30d.net
南部上げ

317 :人間七七四年:2010/06/11(金) 03:53:42 ID:fvx/V8XS.net
南部煎餅はマジで上手い
日本で一番だよ

318 :人間七七四年:2010/08/19(木) 08:16:16 ID:Wi0omXJp.net
保全

319 :人間七七四年:2010/10/31(日) 07:14:54 ID:PefAkVTo.net
三戸城が要害過ぎてビビった。

320 :人間七七四年:2010/11/06(土) 21:54:32 ID:I+VkDJrI.net
>>295
294は盛岡藩の文書は近隣大名家の記録と、事柄や時間が噛み合わないが多いって事言ってんだよ

321 :人間七七四年:2010/11/08(月) 14:39:06 ID:eXvsV0pc.net
三戸は意外と山上が広いからね。コンサート会場まであった記憶が。
桜見の季節は賑やかだからオススメだな。
ちょっと遠いが駅へ歩いて帰ることも可能な距離。

322 :人間七七四年:2010/11/10(水) 00:00:10 ID:BV6CCOZ8.net
盛岡市中央公民館(郷土資料展示室)は11月29日で公開中止だって
来年「もりおか歴史文化館」てのがオープンして、そっちで展示公開するらしい

323 :人間七七四年:2010/11/14(日) 21:55:00 ID:ilr1z30F.net
南部は金山をたくさん持ってた

324 :人間七七四年:2010/11/15(月) 09:26:15 ID:uWnlfVr9.net
金さん銀さんとか古いネタだな
そのココロはどちらも長くは無いということで

325 :人間七七四年:2010/11/19(金) 00:50:21 ID:EKlCsWYP.net
金山尽きても銅山ザクザクの南部

326 :人間七七四年:2010/12/23(木) 20:19:52 ID:K2w1qzy6.net
清和源氏ナンブリオン

第壱話 晴政、誕生
第弐話 見知らぬ、工藤(八戸氏)
第参話 消えない、火事
第四話 赤沼、逃げ出した後
第伍話 三戸城、西のむこうに
第六話 決戦、長牛城
第七話 晴政の遺したもの
第八話 晴継、惨殺
第九話 合議、心、重ならず
第拾話 クーデター
第拾壱話 騒がしい合議の中で
第拾弐話 詮直の価値は
第拾参話 小田原、参陣
第拾四話 関白、魂の座
第拾伍話 所領安堵と憤怒
第拾六話 葛西大崎一揆、そして
第拾七話 二人の兄弟
第拾八話 籠城の選択を
第拾九話 兼信の戰い
第弐拾話 蝦夷のかたち 源氏のかたち
第弐拾壱話 奥州武者、見参
第弐拾弐話 せめて、天を衝き
第弐拾参話 企
第弐拾四話 和議と薩天
第弐拾伍話 終わる大戦
最終話 京儀の中心で人の道を叫んだけもの

327 :人間七七四年:2011/01/15(土) 21:58:23 ID:5UQa4dhB.net
三戸城あれ攻め込むのは大変な気がする。
東北地方の城跡とか見るのが趣味だけど、
あそこほど天然の要害って城は初めて見た。
湧き水もあるらしいし野望での評価はちと低い気がする(三戸城だけ)

328 :人間七七四年:2011/01/16(日) 03:22:38 ID:ZcY+V041.net
三戸は山上が見た目と違い広く、それでいて険しい。
良い場所に目をつけたね。

329 :人間七七四年:2011/01/17(月) 22:20:05 ID:tsrVrHL7.net
のぶやぼでは南部晴政は戦闘だけの突撃バカだが、
実際は政治家としての功績の方が大きい。
政治は南部晴政、軍事は九戸政実の両輪がうまく稼働してた時が南部の絶頂期だった。

330 :人間七七四年:2011/01/17(月) 22:40:26 ID:hyXHDSTA.net
コーエーだし仕方ないだろ
ノブヤボ(笑)

331 :人間七七四年:2011/01/18(火) 13:23:41 ID:jp7Nsj8r.net
>>327

なにげに良い情報だ。

332 :人間七七四年:2011/01/18(火) 20:45:12 ID:pU2bKXNS.net
津軽為信の独立は南部晴政が
津軽斬り取り次第って命令出したのって本当なんですかね?

333 :人間七七四年:2011/01/20(木) 19:49:19 ID:a4KTHkJr.net
津軽切り取りというよりは石川高信討伐を
九戸政実を通じ指示したと見るべきかと。
結果的に信直の最有力支援者を潰し
廃嫡に成功してる。

334 :人間七七四年:2011/01/28(金) 22:41:36 ID:+9dktsB/.net
>>330
南部信直は政治よりは戦闘の能力が高い武将。
鉄砲の名手って話もあるけど何度も南部晴政と九戸政実に命を狙われたにも関わらず
生き永らえるのが出来たのは運もあると思うけど
それ以上に武芸に長けていたからだろうね。

335 :人間七七四年:2011/02/02(水) 11:00:51 ID:G1o4ELr0.net
モバゲーじゃ最大勢力になってて伊達家滅ぼす勢いだな

336 :人間七七四年:2011/02/02(水) 11:03:59 ID:G1o4ELr0.net
ところで南部家最盛期の石高ってどんだけあったの?

同じく安東家と戸沢家の最盛期石高もご存じのかたよろしくお願いします

337 :人間七七四年:2011/02/02(水) 16:16:28 ID:aMn5J9yl.net
南部の場合、書類上の石高はともかく
実際の石高は夏場の天候(気温とか)でかなり上下変動したはず。

338 :人間七七四年:2011/02/02(水) 18:58:57 ID:umi4djU/.net
藩政になってからは20万石。それを基準にすると、最盛期だと
岩手の3分の2+青森全土で、30〜35万石くらいじゃないの?

339 :人間七七四年:2011/02/02(水) 22:02:48 ID:Ajh1OPkA.net
米が採れんからもっと低い。
当時は小氷期だったし。

340 :人間七七四年:2011/02/02(水) 22:23:26 ID:TCEMtv3b.net
>>336
最盛期でも10数万石でしょ。
津軽地方には浪岡北畠氏もいたし津軽での南部の石高は
多く見積もっても2万石くらい。
それに太閤検地での石高を合わせたのが最盛期。

ただ北奥羽に関しては石高だけじゃ語れないものがあるのも事実。
九戸の乱で動員した兵の数は南部側が5千に対し九戸側が6千。
石高の割には兵の数が多いのが南部の特徴。

341 :人間七七四年:2011/02/03(木) 00:42:57 ID:dxCj1zvD.net
このページによると、実高は約27万石ほどだったらしい。
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/fjitu60.html

ついでにいうと、江戸初期のころの南部藩は、金山・銅山などの鉱山収入や
馬や紫根などの特産物で「諸侯に冠たり」といわれるほど裕福だったとか。

ビンボーになったのは、鉱山が枯れてから。

342 :人間七七四年:2011/02/03(木) 05:28:27 ID:JNdiSfAc.net
20万石格は藩政が安定して開墾しまくった後だから
戦国時代は領土関係もふくめて10万石格だね

343 :人間七七四年:2011/02/03(木) 18:23:51 ID:76NvHHWu.net
石高以上に兵力が多いのは、やはり副収入(>>341に書いてるような)があるから?

344 :人間七七四年:2011/02/03(木) 19:58:26 ID:e8X70dtl.net
南部とムバラクは財政が苦しくても兵数をそろえてくる。

345 :人間七七四年:2011/02/03(木) 22:37:40 ID:2Uzl+fV/.net
>>341
岩手の民謡南部牛追い唄でも、
「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」と高らかに歌われているほどだしねぇ。
当時はそうとう潤っていたんだろう。

346 :人間七七四年:2011/02/03(木) 23:12:24 ID:Lgpfv6gC.net
>>343
石高という測定では米が最も高くカウントされ
南部氏の領内での主食の
粟、稗、麦、芋類は石高のカウントが低いからだよ。
太閤検地でも畑類は低いランクに区分されるからね。

347 :人間七七四年:2011/02/05(土) 17:45:34 ID:ig8oj6XC.net
あと単純に搾取酷いからだな
江戸時代通じて一揆最多藩は伊達じゃない

348 :人間七七四年:2011/02/06(日) 07:59:58 ID:mwNdP+lH.net
もしお家騒動が起きなかったら
北東北くらいは支配出来てたかもな。
島津と同じように地の利もあるし。
ただなんかしていけばいいだけだから。

349 :人間七七四年:2011/02/06(日) 09:11:48 ID:LTmMDtfP.net
ゲームじゃないんだからww

350 :人間七七四年:2011/02/06(日) 09:50:15 ID:LTmMDtfP.net
そんなことより南部信直の津軽への関心が小さいような気がする。
家督継いでからは比内調略(後に安東に奪還されてるが)とか
斯波氏滅ぼしたりしてるけど津軽とは目立った合戦はしてない。それが不可解。

351 :人間七七四年:2011/02/06(日) 10:42:49 ID:ehL4rqL8.net
>>348
そもそもお家騒動なかったら八戸南部さんが本流じゃないですかーヤダー

352 :人間七七四年:2011/02/06(日) 12:34:02 ID:ZCv+8thz.net
>>350

なにかと多忙で余力がなかった。

津軽は小規模戦闘がうまいから、本気で戦争するとやっかい。

353 :人間七七四年:2011/02/06(日) 13:35:40 ID:mSHQHLFS.net
>>351
八戸南部氏が本流だったのは、南北朝時代まででは?


354 :人間七七四年:2011/02/06(日) 18:59:38 ID:mwNdP+lH.net
>>350
>ゲームじゃないんだからww

身も蓋もないこと言うね。アンタ。
あと津軽に進行しなかったのは羽後と陸中中央の方が
石高というか魅力的な土地だったからでしょ。


355 :人間七七四年:2011/02/06(日) 22:16:25 ID:FsPf/BR4.net
津軽に侵攻するとして、いつするの?
誰と戦うの?

356 :人間七七四年:2011/02/06(日) 22:51:19 ID:LTmMDtfP.net
>>352
確かに津軽為信は戦上手ですからね。

>>354
答えてくれたお礼に俺も答えてあげる。
岩手に関しては今の花巻辺りまでが限界。その南の葛西氏大崎氏は無理。
秋田は比内と北秋田郡の一部まで。桧山城は北東北でもトップクラスの堅城なので、
そう簡単には落とせない。農繁期と冬場は大規模な
進攻は難しいから。

357 :人間七七四年:2011/02/06(日) 23:12:38 ID:iQLVvmMd.net
桧山城は北東北でもトップクラスの堅城ってのは知らなかった。

東北北部の堅城というと、他にどの城があるの?

358 :人間七七四年:2011/02/06(日) 23:30:39 ID:ehL4rqL8.net
>>353
南北朝の趨勢が決まったあとも南朝勢力として力を保持してきたのが南部氏
三戸南部と交代するのは室町中期でもっと後になる

359 :人間七七四年:2011/02/07(月) 00:24:02 ID:4VtwxZYx.net
>>350
まったく同じことを考えてた。
信直自身、斯波と比内には出陣しているけど、
津軽には行っていなかったはず。
南部の主張どおりなら実の父と弟の仇のはずなのになぁ。

為信に領地を侵犯された七戸が結局九戸に付いてしまったのも気になる。

360 :人間七七四年:2011/02/07(月) 18:37:38 ID:Rm4ZMl83.net
>>359
不来方(今の盛岡)一帯と比内(今の大舘)一帯に比べると、
津軽は不毛の土地だからじゃないかな。それに遠いし。
心情としては進攻したかったかもね。

361 :人間七七四年:2011/02/07(月) 20:05:38 ID:s/KrxZ8V.net
信直にそれだけ実権があったのか。血は繋がってるとはいえ、嫡流ではないし、
北信愛の後押しが大きかったわけだから、北をはじめ重臣達の意見が大きいの
ではないでしょうか。

362 :人間七七四年:2011/02/07(月) 20:42:37 ID:EQFM3BYT.net
津軽を奪還するメリットがなかっただけだろ。
上の方で書いてる人もいるけど
南部が支配してた地域は津軽の半分もなかった。
メリットが希薄な合戦なんてそりゃ北も八戸、九戸も
乗り気はしない。


363 :人間七七四年:2011/02/08(火) 17:52:29 ID:B4Igiyb7.net
>>348
南部晴政は斯波を屈服させて以降は目立った戦はしてない。
三戸城を本拠地にしてる限りそれ以上領土を拡げるのは難しいかと。

364 :人間七七四年:2011/02/11(金) 21:03:42 ID:06Msq8N9.net
中世大名の支配可能は領域は地元から100キロメートル。
上杉謙信も武田信玄も大体そんなもの。

365 :人間七七四年:2011/02/11(金) 21:49:38 ID:BFWaq57F.net
先生。島津君と毛利君を忘れてますwww

366 :人間七七四年:2011/02/11(金) 21:54:47 ID:xomDMGMO.net
それらは凡そ支配地と呼べないような所ばかりだから

367 :人間七七四年:2011/02/11(金) 23:06:18 ID:BFWaq57F.net
立派な支配地でしょうよ。そんなこと言ったら
毛利ファンと島津ファンに怒られちゃうよ。

368 :人間七七四年:2011/02/11(金) 23:25:30 ID:06Msq8N9.net
>>365
それらは当主の力量のお陰だよ。


369 :人間七七四年:2011/02/12(土) 00:55:09 ID:6Nr3DM0/.net
寄親寄騎制と呼ばれる支配力があまり伴わないただ参加してただけみたいなもんだから。
家臣団による当主追放と擁立の輪廻を克服した強い支配を目指す大名を嫌い離散して集まってきたやつらの集まりみたいなもん。

370 :人間七七四年:2011/02/13(日) 08:04:55 ID:xDmtDD/j.net
つまり御家騒動が起きなくても南部の領土は
大して増えないでFA?

371 :人間七七四年:2011/02/13(日) 08:18:28 ID:EepnQeYm.net
>>370

寒村や荒地ならなんとかなっただろうが。

372 :人間七七四年:2011/02/13(日) 09:18:01 ID:FlB1rfjX.net
近世大名として脱皮しない限り無理。
唯一それが可能なのは九戸くらいしかいない。
九戸政実がもっと早く乱を起こし、
中世大名から近世大名になれていたら違ってただろうがね。

373 :人間七七四年:2011/02/13(日) 10:02:23 ID:EepnQeYm.net
>>372

九戸政実は戦闘指揮官としては有能だったかもしれないが
それ以上は無理。

374 :人間七七四年:2011/02/13(日) 10:18:13 ID:qkZnt2S2.net
東北にいるのになぜ南部・・

375 :人間七七四年:2011/02/13(日) 10:19:07 ID:EepnQeYm.net
北海道にも南田さんや南野さんは住んでいるよ。

376 :人間七七四年:2011/02/13(日) 10:44:23 ID:FlB1rfjX.net
>>373
近世大名に脱皮できるとしたら九戸しかいないってこと。
九戸政実の資質とかは置いておいて、
強力な中央集権型の権力構造を作れた可能性があったのは九戸だけ。


377 :人間七七四年:2011/02/13(日) 13:50:22 ID:QUkCQxSz.net
九戸は政治感覚が欠如しているような
近世っていうなら、むしろいち早く中央(信長秀吉)に近づくか、南部家内部に
味方作ってから跡継ぎ名乗るなり、謀反するなりしないと。
北信愛に主導権とられて、単に駄々っ子のように謀反しただけの人が近世大名とか
無理だと思う

378 :人間七七四年:2011/02/13(日) 14:06:24 ID:PO9YqGnH.net
そういう外交や政治感覚云々の話じゃなく>>376が言いたいのは
強権専制的な、いわゆる戦国大名としての近世大名の事を言いたいんでしょ

379 :人間七七四年:2011/02/13(日) 14:35:06 ID:QUkCQxSz.net
いや、「強力な中央集権型の権力構造を作れた」にしても「強権専制的な」にしても、
根拠が何も書かれてないので、私の個人的意見を書いたまでです。
跡継ぎ名乗るにあたり何もしていない九戸に、武勇一辺倒というイメージしか。。。
徳川幕府になって武辺頼みの大名が次々粛清される中で九戸が残れるとは思えません。

380 :人間七七四年:2011/02/13(日) 16:23:23 ID:EepnQeYm.net
>>379

> 徳川幕府になって武辺頼みの大名が次々粛清される中で九戸が残れるとは思えません。

同意。軍事的能力はあっても政治・外交・経済の能力はなかったと思う。

381 :人間七七四年:2011/02/13(日) 16:26:34 ID:EepnQeYm.net
南部信直は大阪冬の陣の時には、
供回りの者だけ連れて急いで関西にやってきて家康に挨拶したというしな。

(大部隊はあとから来た)


中央政権にペコペコする外交ができた。

九戸は武勇があるぶん自尊心が高いから、中央政権とトラブッタと思う。

382 :人間七七四年:2011/02/14(月) 00:40:11 ID:t8pHaKN5.net
>>381
南部信直は大阪冬の陣の時には死んでるよ

383 :人間七七四年:2011/02/14(月) 11:06:15 ID:t8pHaKN5.net
南部信直死去・・・1599年
大阪冬の陣・・・1614年

384 :人間七七四年:2011/02/14(月) 20:27:54 ID:KlzSMF8B.net
中央集権にしろ強権政治にしろ大名に権力を集中させるってことは
国人領主を土地から引き離し、妻子ともども大名の城下に住まわせることだからな。
武田信玄も上杉謙信はもちろん毛利元就も出来なかったことをやれるわけがない。

385 :人間七七四年:2011/02/15(火) 13:02:47 ID:elF/7lq1.net
五所川原にあった中三百貨店…
大館にあった正札竹村…


386 :人間七七四年:2011/02/16(水) 19:39:00 ID:IS1/JGad.net
>>377
上手いこと手綱を握ってくれる人が居て
はじめて力量を発揮するタイプだろうね。
滝川一益と同じような人かもしれない。

387 :人間七七四年:2011/02/17(木) 16:06:49 ID:IjAstY3X.net
九戸も国人の寄せ集めって点では三戸と変わらんと思うよ
三戸が五戸や鹿角・岩手郡方面へ勢力を扶植したのに対して、
九戸は久慈や四戸(櫛引)なんかの国人を婚姻で取り込んで大きくなったわけで
その他にも独自勢力の一戸・七戸・八戸なんかがいるわけだから
集権的な権力構造を確立するのは(政実でも信直でも)難しい事だったと思う

388 :人間七七四年:2011/02/17(木) 16:13:48 ID:27CPFrcM.net
>>387

島津も室町初期はそんな感じだったが
だんだん強化していった。

389 :人間七七四年:2011/02/17(木) 17:03:44 ID:dqJbxvZ4.net
>>388
奥州仕置が無くてもう一世代くらい戦国時代が続いていたら
三戸か九戸のどっちが主導権握るにしろ、南部もそうなっていたかもね

390 :人間七七四年:2011/02/17(木) 20:10:58 ID:dlODZRnL.net
詳しそうな人が居るのでお伺いしたいのですが、
南部は北畠に対しては進攻もせず保護していたのに、
同じような室町時代の名家である斯波とはどうして
良好な関係を保たなかったのでしょうか?


391 :人間七七四年:2011/02/17(木) 21:49:45 ID:OGFlFSUQ.net
単純に言えば北畠→南朝、斯波→北朝だから

南北朝時代の南部氏の宗家は八戸の南部師行
彼は土着していた訳でなくて幕府に出仕していた人物
北畠顕家が奥州下向するに伴い、師行も下向
土着していた弟の南部政長と一緒に顕家を支えることになる。

尤も、顕家時代の南部氏の役割は北部の鎮圧で
顕家の第一次西征には南部氏は参加していない
第二次西征には随行、顕家と共に師行は戦死している
南部氏は師行の弟である政長が掌握して、一貫して南朝、というより北畠氏を支える姿勢を見せた。
これ以降の奥州に於ける北畠氏の後ろ盾は結城→伊達→南部と変遷していった
つまり北畠顕信は北に追いやられていったわけで、最終的には出羽に行ったとか色々言われている。
その過程で奥州に土着したのが浪岡北畠氏であり、顕家の血とも顕信の血ともされている

話は戻るが、この南北朝初期における奥州戦線で顕家と対峙していたのが斯波家長であり
奥州総大将および関東執事として鎌倉で足利義詮を擁して顕家と睨み合った。
この家長は顕家に討ち取られたが、その後石津の戦いで顕家が戦死するに及び
南朝は顕家の代役に顕信とその父・親房を奥州に送り込もうとする。
しかし親房と、顕家の片腕だった結城宗広は船が難破したために奥州に渡れず(宗広はこの時に病没)
そのタイムラグが関東、奥州における南朝勢力の衰退を決定づけたといっていい。
関東は高師冬が、奥州は石塔義房が送り込まれて、南朝勢力を打ち破っていった。
ただし石塔義房の奥州攻略は北畠顕家のそれを踏襲していたもので
顕家が独自に用いていた郡検断権を旗下の大名に与えるというシステムをそのまま用いている。
だからこの時期の和賀氏なんかへの恩賞の沙汰は南部政長が行ってるのが史料に残っている。

北畠顕信と南部政長は稗貫氏、葛西氏らを合わせて南下する構えをとり
石塔義房は周囲に泣きつく程、追いつめられたけど、援軍を得て勝利
そのまま里屋城や八幡城を攻略して南部氏攻略を行ったけど、そこは挫折した。
ために、南部氏は一定の勢力を奥州の北部で維持することができた。
石塔氏は解任されて、吉良(直義派)、畠山(尊氏派)が奥州に派遣される。
概ね、畠山氏が有利にすすみ、その間隙を縫って顕信が国府を奪回したりするが
斯波氏が奥州で台頭するのはさらに後になる。家長(高経の子)ではなく家兼(高経の弟)
その頃、斯波氏は尊氏方に帰参し、尊氏死後は執事として幕府の全権を握った為に
吉良、畠山、石塔らとの奥州管領を巡る戦いに勝利することができた




392 :人間七七四年:2011/02/17(木) 22:07:26 ID:CTPAU3W1.net
浪岡北畠は南部が創立したと言っても過言じゃないから。
あと羽後や北奥羽の大名、国人にとっては上方との重要なパイプであり
北東北では最も高家だった。
一方の斯波は元から仲が悪い上にちょくちょく
岩手郡にチョッカイを出していたので南部にとっては
例え高家でも滅ぼすのに何の躊躇いもなかった。

393 :人間七七四年:2011/02/17(木) 22:26:25 ID:dlODZRnL.net
>>391 >>392
詳しい説明ありがとうございました。

394 :人間七七四年:2011/02/18(金) 23:12:25 ID:1Duq9Amq.net
津軽為信が浪岡北畠を滅ぼしたことが
安東と蠣崎の津軽侵入の理由になったからな。
その際、国人も蜂起した。
浪岡北畠という存在はある意味北奥羽や羽後にとって
不可侵な存在だった。

395 :人間七七四年:2011/02/18(金) 23:24:32 ID:IvLuPtd0.net
浪岡御所は安東愛季の娘婿でもあったからね。
南部と安東は昔からいがみ合ってたにも関わらず、
共に北畠を保護し続けてた。
北畠の滅亡は、結果として南部と安東の歴史的な和睦につながる。(一瞬だけど)

396 :人間七七四年:2011/02/18(金) 23:40:47 ID:2vzHrM25.net
南部の栄華は戦国時代たけでしょ?
津軽、九戸、飢饉。

397 :人間七七四年:2011/02/19(土) 01:44:47 ID:OlwNMvyu.net
津軽為信は安東の攻撃で敗北寸前まで追い込められているんだよね
それでも挽回するあたり、為信は本当にしぶとい武将だと思うわ

>>396
南部の栄華はむしろ南北朝。北畠から検断権もらってブイブイ言わせてた
飢饉は金山尽きて重税課すようになった江戸時代中期以降が本番ね

398 :人間七七四年:2011/02/19(土) 01:58:47 ID:ZSOVsefm.net
確かに検断を貰っていたけど、ブイブイ言わせるほどの勢力も無かったと思う
滴石近辺での恩賞沙汰はごたついてるのが見て取れるし、比内から青森にかけては
曽我氏や成田氏などが健在で影響力を及ぼせなかったわけだし

南部氏の最盛期はやはり八戸南部時代ではなく三戸南部氏
ただし戦国時代ではなく、室町時代
つまり安藤氏を津軽から駆逐した時期が一番輝いていたと思う
でも、安藤氏の持ってた制海権は得られなかったんだよな

399 :人間七七四年:2011/02/19(土) 02:15:28 ID:OlwNMvyu.net
あー、確かにそうかも。安東追い落として安東太傀儡に立てたころな。すぐに離反されたけど
あとその頃にちょうど八戸が田名部を領土にしてんだよな


400 :人間七七四年:2011/02/19(土) 12:58:16 ID:cTXtJoor.net
>>398

> でも、安藤氏の持ってた制海権は得られなかったんだよな


安東水軍を吸収合併すればよかったのだが
それができなかったのは水軍にかかる経費を惜しんだんだろうな。

水軍はカネがかかるからな。

401 :人間七七四年:2011/02/19(土) 13:58:43 ID:PMjwchsU.net
ここの諸兄ならご存知かと思うが、黒石市で南部信直の署名入った書状が発見されたね。
http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2011/20110213140726.asp?fsn=eb33f76037153e93cde084f7e7644d6f

写しみたいだけど、津軽で見つかったのは初めてらしい。

402 :人間七七四年:2011/02/19(土) 14:55:58 ID:VWrb8Ije.net
>>400
吸収合併したかったから師季を傀儡立てたんだけど、逃げられた訳で
やり方が下手くそだったった感は否めないが


403 :人間七七四年:2011/02/19(土) 15:35:07 ID:BrL3TNOe.net
>>399
安東太傀儡
>>402
師季を傀儡

すまん無知過ぎてわからんから説明お願い致します。

404 :人間七七四年:2011/02/19(土) 16:04:46 ID:QzXiFFR8.net
安東太=安東師季(政季)でおk

安東師季は元々後潟安東氏の人で、
本家の下国安東氏が津軽から追い出された頃南部氏の捕虜となった。
その後南部氏に仕えて田名部に所領を与えられている
安東太政季の名乗りは南部氏の配下として田名部に知行した際に名乗った名前
その後下国安東氏の直系が絶えた後、下国安東氏を再興して南部から離反、
後の蠣崎氏の先祖となる武田信広らと共に蝦夷地へ出奔するわけ

405 :人間七七四年:2011/02/19(土) 16:40:07 ID:vviLdR94.net
>>404
訂正
後潟→潮潟

406 :人間七七四年:2011/02/19(土) 18:03:06 ID:BrL3TNOe.net
おぉ親切にありがとう。
それってだいたい年代はどのくらいと思われるの?

407 :人間七七四年:2011/02/19(土) 18:54:56 ID:lgtcD5m8.net
いやなことでもあったのかサブ?w

【臼井城の戦い】上杉謙信が北条に戦略的勝利
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288120313/93
93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/19(土) 14:50:15 ID:BrL3TNOe
北条厨無知過ぎて参加できずw

【どちらが】織田信長 vs 北条氏康 【民政家?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/316
316 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/19(土) 14:53:56 ID:BrL3TNOe
北条すげー悪政ワロタ

【武田完勝☆】三増峠の戦い【北条涙目wwww】
624 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/19(土) 14:56:03 ID:BrL3TNOe
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194134285/624
小田原フルボッコされたのに涙目で勝利宣言してたら駿河まで失いましたw

408 :人間七七四年:2011/02/19(土) 19:02:52 ID:hesS1z3n.net
>>398
領土で言えば南部晴政の頃が最盛期だろ。
今の青森県全域と傘下に収めた斯波も入れれば、
岩手は盛岡から上だし、鹿角郡も領有してた。


409 :人間七七四年:2011/02/19(土) 19:20:21 ID:FTW6DiQN.net
三増峠の戦いは北条氏康が戦場に到着するのが1日だけ遅れた。

410 :人間七七四年:2011/02/19(土) 20:28:52.07 ID:5oG3iIqp.net
>>406
師季が捕虜になったのが1450(宝徳2)年
蝦夷地に渡ったのが1454(享徳3)年だね、確か

411 :人間七七四年:2011/02/20(日) 16:09:30.32 ID:DsTbaEQ4.net
1585年に南部が津軽に進攻して敗北したとも戦わずに
引き上げたとも言われてますが実際のところはどうだったんでしょうか?

412 :人間七七四年:2011/02/20(日) 20:32:22.19 ID:gcWdXMzw.net
>>411

威力偵察だったかも。

413 :人間七七四年:2011/02/20(日) 20:33:46.81 ID:vSD8RyRB.net
宇杭野の合戦に関しては色々と不明点が多いから
実際には無かったんじゃないかって説もある。
あの時代に大軍を八甲田越えさせるのは
難しいんじゃないかと考えられている。
秋田へ行くんなら途中に村もあるし手引きの者も容易に得られるけど、
津軽はそうもいかない。何てったって途中大軍が宿営可能な
村なんてないし。

414 :人間七七四年:2011/02/20(日) 20:56:17.50 ID:xafK5dXp.net
そもそもあれはなんで浅瀬石を狙ったのかがわからんわ
津軽の史書が正しいなら、当時の浅瀬石は敵中のど真ん中じゃない
実際敗走は敵中突破になったみたいだし
そんなリスキーな作戦せず、
順当に街道通って七戸方面から外ヶ浜奪還したほうが補給的にも楽だろうに

415 :人間七七四年:2011/02/20(日) 22:20:57.52 ID:DsTbaEQ4.net
地図を見てみたら確かに八甲田山を越えないと行けないですね…
北から進攻するにしても外ヶ浜を通らないとならないですし、
南から進攻しても石川城を通らないとならない。
あり得ないですね。これ。

416 :人間七七四年:2011/02/20(日) 23:33:48.26 ID:vSD8RyRB.net
>>414
補給的な事を考えるなら外ヶ浜よりも
鹿角を通っていった方が楽。
当時の街道としては安代→鹿角→碇ヶ関→弘前
のルートが最もメジャーと考えられる。

>>415
恐らく何らかの合戦はあったと思われる。
それを面白く脚色したのが宇杭野の合戦だろうね。
戦国時代では馬頭楽しくもない。

417 :人間七七四年:2011/02/20(日) 23:34:54.30 ID:vSD8RyRB.net
珍しくもないです。

418 :414:2011/02/21(月) 00:14:04.33 ID:0IqifH0R.net
>>416
石川城落ちた時も八戸の軍勢が鹿角から大鰐通って進軍してるしね。引き返したけど
ただ、攻撃されたのは外ヶ浜の油川なわけで
(横内については津軽側に史料の作為があって、この時は落ちてないらしい)
奪還するなら当然外ヶ浜に向かうのが自然なわけで
その意味で七戸方面〜って書いた。浅瀬石を目標に選んだ南部の作戦意図がわからんなぁと

419 :人間七七四年:2011/02/21(月) 10:13:09.07 ID:GWO6AQoK.net
>>413

そうだよな。

420 :人間七七四年:2011/02/22(火) 00:30:52.97 ID:hQcjFMMD.net
八甲田を越えることはそんな難しくはないんじゃないか?
戦国時代でも雫石仙北間はちゃんと軍が通ってたんだから。

421 :人間七七四年:2011/02/22(火) 08:47:32.16 ID:ElQybVkF.net
>>420

不可能ではないのかもしれないが、でも難しいのではないだろうか?

422 :人間七七四年:2011/02/22(火) 22:58:49.31 ID:/e+xMSDC.net
鹿角道があるのに何故そんな山をいかないとならないんだよwww
この当時の八甲田山はマタギか修験者くらいしかいないだろ。
古くからある秋田街道と同等に語るのは間違ってるから。

423 :人間七七四年:2011/02/22(火) 23:53:20.63 ID:hQcjFMMD.net
人の出入りそのものは昔からあったよ。
酸ヶ湯や蔦温泉は戦国期前から知られてるので、
それなりに道があってもおかしくはない。

424 :人間七七四年:2011/02/23(水) 14:03:49.22 ID:F+ouE4Rz.net
奇襲効果を狙ったのかも?

425 :人間七七四年:2011/02/23(水) 16:58:54.05 ID:cPmdIvZ6.net
ぶっちゃけ山なんて地元住民に道案内させれば大体通れそうじゃないか?

426 :人間七七四年:2011/02/23(水) 17:04:16.61 ID:C2tI/n2c.net
一般的な軍装で進軍できるかどうかの問題ではないのかに

427 :人間七七四年:2011/02/23(水) 19:47:10.91 ID:pcFD85Bm.net
軍装も大事だけど軍馬を率いて進めるかと言われたら
無理っぽい気がする。というか途中で遭難する。

428 :人間七七四年:2011/02/24(木) 07:26:46.17 ID:4UrHwTE2.net
陸奥南部一族に略図だけど進軍地図と解説があるね
それだと伝法寺から西へ月日山の南を通り、十和田湖の手前で北へ転じて
焼山から石倉岳の南を通り再び西へ向かい、酸湯へ出て中野川渓谷沿いにそって山を降り
大河原・黒森山麓を抜けて宇杭野に着く――ってルートみたいね
地元民じゃないからどのくらい険しいから分からんけど
今は道路通っているくらいだから、通れないことはなかったんじゃなかろうか
ただ三千人の軍となるとわからんな

429 :人間七七四年:2011/02/24(木) 20:26:59.24 ID:JouZUxOX.net
凄いルートだな・・・
補給と撤退の概念が最初から全くないwww


430 :人間七七四年:2011/02/24(木) 20:35:15.00 ID:RMlYz0kn.net
略奪品持って帰れないとやる気でないでしょに

431 :人間七七四年:2011/02/24(木) 22:07:56.19 ID:x3zDeszz.net
浅瀬石落としたらそのまましばらく居着くつもりだったんじゃね?

432 :人間七七四年:2011/02/24(木) 22:43:25.81 ID:KvGtyP+C.net
三戸
八戸
九戸
中野
喜多
大浦
津軽
松前
蠣崎

433 :人間七七四年:2011/02/24(木) 23:22:03.53 ID:uMpqpVhC.net
酸ヶ湯の標高が1000メートルだからなぁ。3000の軍が進むのは不自然極まりない。
当時は八甲田に街道はないし道無き道を鎧着て刀と槍を抱えながらの
行軍は流石にあり得ないかと。

434 :人間七七四年:2011/02/25(金) 10:02:54.90 ID:/Q7mBjdB.net
途中で引き返す気満々の示威行動だったとか。

435 :人間七七四年:2011/02/26(土) 22:44:11.96 ID:5VrzS94V.net
十和田からなら普通に油川城を目指した方が
楽だし早いんじゃないかな?
示威行為と言っても鹿や熊に見せつけても何の意味もない。

436 :人間七七四年:2011/03/15(火) 21:32:04.54 ID:rhKAqTbZ.net
今回の地震。岩手青森も被災したけど
古い町ってのは意外と被害が無いもんだね。


437 :人間七七四年:2011/03/16(水) 06:21:47.61 ID:77ei1Sxd.net
北方でも八戸港や久慈あたりは津波被害があったみたいだな

438 :人間七七四年:2011/03/16(水) 07:12:01.16 ID:NAarcNw6.net
八戸の被害が大分小さいね。
漁業施設とか工場が多い割には
人的被害が宮城、岩手、福島より小さいのが驚いた。

439 :人間七七四年:2011/03/16(水) 08:30:09.35 ID:NG4UmFhz.net
リアス式海岸の地域と比べれば波低くなるから被害も少なくなるよ。

440 :人間七七四年:2011/03/17(木) 07:16:32.35 ID:HjrQbRCI.net
なるほど八戸と三沢、久慈からそんなに
離れてるって訳じゃないのに被害が少ない理由が分りました。

441 :人間七七四年:2011/03/17(木) 22:06:25.46 ID:ggj78Bu3.net
>>436
上北郡、三戸郡、二戸郡、岩手郡といった昔の有力者が住んでた郡は災害に強いよ。
建築技術が今より圧倒的に低いからだけどな。

442 :人間七七四年:2011/03/17(木) 22:24:03.37 ID:XYxLA4b5.net
俺、東北が復興したら、旅行に行くんだ…
弘前〜青森〜八戸〜三戸〜九戸〜盛岡〜花巻遠野あたりを
ひたすら城をめぐりニヤニヤしつつ
変な土産買ってせんべい汁食べて
弘前城と小岩井農場の桜を見て新幹線乗って帰ってくる
そういう旅行がしたい

443 :人間七七四年:2011/03/18(金) 12:40:36.42 ID:ASY2sVx0.net
南部家のもっとも豊かな土地であった野辺地、烏帽子山を、津軽家は、二百年前と同じように武力をもって無理矢理奪いとったのである

444 :人間七七四年:2011/03/18(金) 20:06:18.43 ID:bYJY+sNd.net
野辺地戦争てのがあつたな


445 :人間七七四年:2011/03/18(金) 20:48:23.75 ID:mjb15I+H.net
ここ戦国スレなんだけど・・・

446 :人間七七四年:2011/03/19(土) 00:20:38.87 ID:eqfPC1BH.net
一方井氏って影薄くね?
高信の長男なのに、晴政婿養子の話が出るまで
母方の実家に放置プレイの信直
南部一族じゃない新参者だから?それとも勢力が小さかった?


447 :人間七七四年:2011/03/19(土) 01:18:47.68 ID:3+hH/sJw.net
一方井の所領の規模は江戸時代初期時点で七〇〇石(一方井周辺で六〇〇石)
有力だけど大きいってほどではないね。
高信の時代に取り込まれた新参だし、元は安東系っていうのも影響あったのかも。

448 :人間七七四年:2011/03/19(土) 12:44:08.49 ID:xNPACls2.net
石川高信が岩手群を制圧したって話も
本当かは疑わしいけどな。


449 :人間七七四年:2011/03/19(土) 15:19:12.46 ID:RVeITx5S.net
まあ制圧したかどうかはともかく、岩手郡に出てたってのは恐らく本当でしょう
でなきゃ信直生まれねえw

450 :人間七七四年:2011/03/19(土) 16:23:22.63 ID:8AnKTHi5.net
謎の多い人物だからな。
今のところ分かってるのは田子城が本拠地で石川城には群代と入ってたことくらい。

451 :人間七七四年:2011/03/20(日) 08:56:35.95 ID:OE2Feb5J.net
郡代というよりは代官と言った方がいいんじゃね?
治めてたのはせいぜい南津軽郡くらいなんで
郡代と呼べるほどではないかと。

452 :人間七七四年:2011/03/20(日) 15:01:02.71 ID:J8iRBhc+.net
>>451
クワシク。

453 :人間七七四年:2011/03/20(日) 16:23:18.63 ID:pzPFboIs.net
>>451
そうか? 確かに当時の津軽はご存じ、北畠に大光寺・大浦その他豪族が割拠する地域で、
高信個人の所領はせいぜいそれと同等程度で相対的にはそれほど大きくない。

ただ高信が津軽方面の南部勢力の元締め(つうか豪族達の頭を押える要石)であったことは確かで
その役割の重要性って意味で、個人的には郡代って呼ぶのもあながち間違いじゃないと思うが。
南部で郡代が置かれんのって統治の危うい占領地だし(北信愛の和稗地域とかな)

454 :人間七七四年:2011/03/20(日) 19:44:11.73 ID:OE2Feb5J.net
>>452 >>453
郡代ってのは1カ国かそれ相応の石高を有する
領域を支配する役職の名称だと思うんだが。
当時北津軽は朝日氏、外ヶ浜を含む青森市は浪岡北畠氏がいて
彼らは南部の支配下にあったわけじゃない。
あと郡代を名乗るには大浦氏や千徳氏と比べても
直轄で支配してた地域が大差ないのもどうかと思う。

455 :人間七七四年:2011/03/20(日) 21:18:17.70 ID:RnQvBNte.net
>>454
直接支配している領地だけでなく、大浦や大光寺なんかは(もちろん名目上でしかねえけど)
南部の旗下にあり、北畠なんかもある程度南部の介入を受けている立場にある(朝日は知らね)
どの諸氏も南部の出先機関である石川の支配にある程度は服しているわけで、
その意味で郡代と言っても問題ないと思うんだがな。もちろん内実はアレでも。

456 :人間七七四年:2011/03/20(日) 23:30:47.92 ID:uEraXK9N.net
>>455
朝日は北畠家臣

457 :人間七七四年:2011/03/21(月) 01:44:12.33 ID:/E+aj3EM.net
>>456
サンクス

458 :人間七七四年:2011/03/21(月) 04:14:17.71 ID:nItLbXAn.net
津軽為信が現れなくてもどの道津軽地方は南部氏から離れていったろうな。
北畠氏にしろ千徳氏も大浦氏も真っ先に小田原参陣しそうだし。


459 :人間七七四年:2011/03/21(月) 08:41:59.55 ID:hDEitM41.net
南部家の資料が豊富な資料館とか博物館に行きたいんだけど、おすすめはどこですか?
岩手県立博物館が一番無難ですか?

460 :人間七七四年:2011/03/21(月) 09:04:11.26 ID:2TbT7HSB.net
>>458
一理ある。

>>459
どの時代や何処の南部かで変わるんじゃない?

461 :人間七七四年:2011/03/21(月) 09:18:36.18 ID:hDEitM41.net
戦国から江戸ですね。
広範囲ですが、南部家の総合的な資料館みたいなものは無いのでしょうか?
青森の管轄になるのかな?

余談ですが、僕は秋田なんですけど今の今まで南部屋敷って名前の歴史資料館が岩手にはあると思ってました。
でもあれはただのウドン屋なんですね。

462 :人間七七四年:2011/03/21(月) 09:47:08.00 ID:lzvfAJ27.net
>>458
和賀稗貫のように小田原不参加っていうのも意外とありそうだけどなー。
為信・信直は危機感があったからこそあれだけ素早く動けたわけだし。
北畠は予想がつかん。

463 :人間七七四年:2011/03/21(月) 12:19:33.82 ID:mMxAcoGS.net
>>458
北畠は安東家のからみもあるし、案外あっさり独立するかもね
千徳はどうだろう? 自身は為信の同盟者のつもりだったみたいだけど
小田原参陣の時は何も行動起こしてなかったっぽいし、
当時の当主にその器量があったとも思えんが。位置も内陸だし

>>461
南部家単独の総合的資料館ってのはないと思う
青森は八戸市博物館が比較的南部氏の展示物があるって聞いたことはある

464 :人間七七四年:2011/03/21(月) 14:24:18.53 ID:hDEitM41.net
>>463
サンクスです。
南部ほどの大名ならそういうのあっていいのにな・・・。
中規模だけど、佐竹ですら専用の資料館が秋田にはあるのに・・。

465 :人間七七四年:2011/03/21(月) 17:36:39.76 ID:2TbT7HSB.net
>>463
八戸南部みたいに上手いこと言いくるめられたんじゃない?
「俺の留守を任せれるのはお前だけだ」とかなんとか。
単に想像だけど。

466 :人間七七四年:2011/03/22(火) 22:33:01.76 ID:Tr7jMuin.net
>>461
岩手なら岩手県立博物館がある。夏くらいに「もりおか歴史文化館」てのも開館するそう

>>464
佐竹ですらって、結構でかい家だしょ

467 :人間七七四年:2011/03/22(火) 22:51:42.96 ID:ljIti5Rz.net
南部氏に関しては領地が青森・岩手・秋田で分断されてるから
『南部氏』ってくくりの博物館は作りにくいんじゃない?

468 :人間七七四年:2011/03/23(水) 18:13:59.87 ID:3BOrzQ8P.net
元三戸城が放火されて多くの資料が失われたからな。
博物館開けるほど物がないんじゃないか。

469 :人間七七四年:2011/03/23(水) 19:46:04.14 ID:7cSY+cYz.net
>>462
和賀稗貫阿曽沼は行きたくても行けなかったのが実情だろう。
当時は東回り航路はまだ無かったんで
小田原行くには陸路を南下するしかない。
南部信直が陸路で向かう時に1000騎率いたというのも
それくらいの軍勢がいなくては陸路で向かうのは難しいから。
国元に守りの為の兵力を残しつつ1000騎近い
軍装の兵を連れ陸路で小田原に向かうのは和賀稗貫には無理。

470 :人間七七四年:2011/03/24(木) 12:25:05.28 ID:I/9G97Ou.net
和賀稗貫なら出羽ルート使えそうな気がする。
南部は絶対無理だから仕方ないけど。

471 :人間七七四年:2011/03/24(木) 14:55:39.04 ID:gEd3IRp/.net
>>448

地域を制圧したというより、要地を占領したということかも。

472 :人間七七四年:2011/03/25(金) 19:11:42.53 ID:YMkjx09J.net
江戸時代初期は大規模な築城をはじめとした公共工事が多かったのが意外。
一揆数が最多だったのに不思議な感じがする。
幕府のお手伝いでそれすらままならない藩が多いのにね。

473 :人間七七四年:2011/03/25(金) 21:38:27.67 ID:dcjD8KUg.net
>>472

徳川幕府は草創期から島津や毛利や伊達を警戒していたが
南部は警戒されていないかったみたいだな。

474 :人間七七四年:2011/03/25(金) 22:37:41.33 ID:EmoM5w+j.net
>>472
九戸の乱でリストラが自然と行われたからな。
あと和賀郡・稗貫郡・閉伊郡に関しても元々そこにいた
有力者やそれに準じる勢力を抱えず直轄で支配出来たことも大きい。

その逆が伊達や毛利。伊達藩は譜代の数が多すぎた為
藩の石高は高かったけど藩そのものにはそれ程収入が入らなかった。
毛利はそれ以上に悲惨。100万石から20万石に減封されたんで
少々のリストラじゃ間に合わず領内に重税を課した為に
山代慶長一揆まで起きてしまった。

475 :人間七七四年:2011/03/25(金) 23:11:42.01 ID:V24GJ6pe.net
>>472
あと江戸初期の南部藩は超がつく金満藩だからね。
特に白根金山が見つかってからは、後に『富貴諸侯に冠たり』なんて語られるほどの金を持っていた。
飢饉の時金で米買いまくって殆ど死者出さずにおさめた、なんて後の南部藩士が聞いたら泣いて羨むようなことまでしてるし。
あと南部藩の一揆が急増したのは寛政以後。江戸初期の南部藩をそれ以降と一緒にしちゃだめだよ。

476 :人間七七四年:2011/03/25(金) 23:20:00.41 ID:HjXwUhn9.net
金が尽きた後も銅が出たから助かったよね。
伝統技術の南部銅のやかん欲しいわ。
いい仕事してるわ

477 :人間七七四年:2011/03/25(金) 23:36:25.20 ID:BBnWNt3P.net
ロシアに眠る幕府の大砲 江戸後期の紛争略奪品・東大調査
ttp://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201009060087.html

時の流れは残酷である。津軽、南部両藩がロシア相手に大友宗麟の「国崩し」で戦う(文化露寇)が戦意喪失で逃走。


478 :人間七七四年:2011/03/26(土) 06:20:30.09 ID:B03ELx3b.net
>>474
まあそれでもリストラし足りなくて、利直が浄法寺を改易したり
阿曽沼を家臣の謀反で追放したり、八戸南部を遠野に移封したり
息子の重直が家臣召し放ちしたりしてさらなる権力の確立を目指すんだよな

479 :人間七七四年:2011/03/26(土) 17:05:09.95 ID:mI3m+CB7.net
>>478
利直は北氏すらおさえてるからねー。
戦国末期の南部は内紛で地獄見ただけに、利直もだいぶ厳しくやったね。

480 :人間七七四年:2011/03/26(土) 18:56:19.78 ID:I8k67ZDW.net
仮に九戸の乱が起きなかったら
初期の南部藩もキツキツの財政だったかもな。
九戸氏、七戸氏は応分の知行を与えないとならないだろうし
それ以外にも九戸についた家の所領も没収出来ないだろうから。


481 :人間七七四年:2011/03/26(土) 22:18:49.74 ID:imApeCP3.net
>>478
和賀郡稗貫郡閉伊郡で五万石近くの加増になったのに
どんだけ欲張りなんだよって感じだな。


482 :人間七七四年:2011/03/27(日) 06:58:26.11 ID:xbBpZODM.net
>>481
新しい領土手に入れたと言っても、和賀稗貫の旧臣(あと葛西系も)雇ったりしてたし
直轄領も増えたけど重臣の領土も増えたわけで
相対的には大名権力が強くなったわけじゃないからねえ
信直は領内の安定を優先したのかその辺手つかずで残したから
利直が粛清を行うのはある意味必然だったんじゃないかな

483 :人間七七四年:2011/03/27(日) 08:47:01.93 ID:YxlyQmnh.net
>>482

> 利直が粛清を行うのはある意味必然だったんじゃないかな


それで揉めると幕府が介入してくるリスクはあったのではないか?

484 :人間七七四年:2011/03/27(日) 09:07:51.40 ID:xbBpZODM.net
>>483
うん、だから浄法寺のように戦場離脱という正当そうな口実で改易したり
阿曽沼みたいに最上領に置いといて、留守の隙にすみやかに占拠させてるわけだし
潰す時はかなりタイミング見計らっていると思う
信直の時は九戸戦後の平和な時だったから、潰すきっかけやミスがなかっただけかもね

485 :人間七七四年:2011/03/27(日) 09:16:57.84 ID:k6K+1pMC.net
>>482
でもやり過ぎじゃね?
そこまで家臣のリストラをする必要あったのかは疑問だと思うが。


486 :人間七七四年:2011/03/27(日) 09:55:44.26 ID:xbBpZODM.net
>>485
関ヶ原の時点で南部には千石以上の大身が29人いたとされていて
しかもそいつらだけで七万石以上の領土をもっていたそうだ
それら大身を押さえて大名としての独裁権を確立するには
自分の自由になる領地をどうしても捻出しなければならなかったんじゃないかな

そんで削るとなれば外様からしかないわけで
外様という不安要素を取り除くという面から見ても
リストラは不可欠だったんじゃないかな

487 :人間七七四年:2011/03/27(日) 15:10:57.72 ID:xwoLZStd.net
あと新しく領有することになった領域のインフラ整備と
開拓の費用を捻出するためにもリストラは必要不可欠だったろうな。


488 :人間七七四年:2011/03/27(日) 22:21:44.70 ID:k6K+1pMC.net
>>486
それにしてもやり方が酷い気がする。
特に八戸南部に関しては当時の藩港を抱えてた
地域を召し上げたり加増もなしで遠野に移封したりと
信直時代あれだけ世話になったのにそれはないんじゃないかと思うんだが。

489 :人間七七四年:2011/03/28(月) 07:37:25.33 ID:nLK4p1vr.net
八戸からすればひどいだろうねえ
ただ、当時の遠野は城代政治の失敗で治安が極度に悪化していた
伊達との国境にあり、領内有数の産金地帯でもあった地域が不安定だったわけで

そういった重要な地域を立て直すからには誰でもよいわけではなく
利直は八戸をある程度信用していたからこそ遠野に移封したんでしょう
彼としては小友金山などもある、価値ある土地を替え地としたつもりだったかもしれないよ

もちろん八戸を、盛岡の完全な統制下に置く意図がなかった、とは思わないし
元は同格の意識がある八戸側からすればたまったもんじゃないと思うだろうけどね

490 :人間七七四年:2011/03/28(月) 19:34:18.05 ID:5Nk8yVfG.net
盛岡藩の藩港って野辺地と宮古じゃなかった?


491 :人間七七四年:2011/03/29(火) 10:29:37.75 ID:VyluLWy7.net
そもそも江戸初期に藩港の明確な指定があったのか知らないけど、
田名部は対外交易用の重要港だし、藩港と言おうと思えば言えるんじゃない?

492 :人間七七四年:2011/03/29(火) 14:26:44.52 ID:lE8NuzYH.net
阿曾沼

家康の上杉征伐のために山形に南部軍に従ってやってきていたが
ひそかに政宗&和賀に内通していた為に
和賀一揆で南部軍が山形から急ぎ帰る時に
「はぁ?和賀が反乱?俺にはまったく関係ねーしw」と言い放つが
自分の留守中に居城を任せてた家臣が裏切り南部へ降伏したので伊達領に逃走。

493 :人間七七四年:2011/03/29(火) 18:32:28.22 ID:6Zd+3lSm.net
>>490 491
南部藩は南北に長いから特定の藩お抱えの港はなかったんだと思う。
八戸藩が成立するまでは八戸港がその役割を果たしてたけど
別藩になったもんだから自前でなんとかする必要に迫られ各港を増強したんだと。

494 :人間七七四年:2011/03/29(火) 21:22:43.98 ID:pEFaANH7.net
江戸に米を運ぶ際に使ってたのは伊達藩の石巻港だからな。
宮古は藩港というよりは秋田、津軽、蝦夷から江戸に
物資を運ぶ経路にある中継港として栄えていた。


495 :人間七七四年:2011/03/29(火) 22:04:07.38 ID:dRKmjxWy.net
森進一の港町ブルースの歌詞の港悉く壊滅したね

496 :人間七七四年:2011/03/30(水) 00:10:57.37 ID:X59qXwgq.net
宮古は慶長大津波の時一度壊滅してそこから立て直してる。
今回だって出来るよ、他の街もね。

497 :人間七七四年:2011/03/30(水) 04:28:51.73 ID:6KWdQtvA.net
>>495

昭和歌謡ファン 乙

498 :人間七七四年:2011/03/30(水) 23:41:38.22 ID:kO+mdgFv.net
>>494
もう少し捕捉しておくと大阪などの上方から
物資を輸入するとき使用されていたのが
野辺地をはじめとした北郡の港と宮古。


499 :人間七七四年:2011/04/01(金) 20:22:23.65 ID:pjRwt4L6.net
>>493
よく分らんが石巻港だって伊達藩なんだから
八戸港だって普通に使ってたんじゃない?


500 :人間七七四年:2011/04/01(金) 23:29:22.50 ID:bHs7S9ho.net
500


501 :人間七七四年:2011/04/21(木) 00:08:53.08 ID:x2gHniFJ.net
南部は高清水斯波氏を1588年に滅ぼしたとありますが
この行為は惣無事令違反ではないのでしょうか?


502 :人間七七四年:2011/04/21(木) 08:13:34.65 ID:AP+4sV+T.net
>>501
本来惣無事令違反ですが、不問にされています
南部氏は秀吉政権が出来た後、北奥でいち早く臣従を表明した貴重な勢力なので
それに一定の配慮をしたものと思われます

503 :人間七七四年:2011/04/21(木) 19:49:40.68 ID:ZjOcZ7Sd.net
ぶっちゃけ違反だけど前田利家とのパイプが太かったから無問題。
惣無事令違反はもちろんその後の九戸の乱でもお咎めなし。
佐々成政、村木親子、伊達正宗と比べて破格の処遇。


504 :人間七七四年:2011/04/21(木) 23:44:48.15 ID:x2gHniFJ.net
>>502
やっぱり違反だったんですね。
中央政権から多めにみてもらったと。

>>503
確かに挙げられた人たちに比べれば優遇されてますね。
でも太閤蔵入地くらいのペナルティは受けてもよさそうだと思いますが
そういったペナルティすら受けなかったのは何故でしょう?
一応所領が安堵された津軽氏、安東氏は蔵入地という罰則があったのに。
まして九戸の乱を自力で鎮圧出来なかったのに・・・

505 :人間七七四年:2011/04/22(金) 01:25:13.09 ID:e+sVq9ZU.net
何故ペナルティを受けなかったのかは定かではありませんが
理由として言われるのは
・面従腹背も多い奥羽地域の中で一貫して豊臣政権を支持し、いわば『与党』と思われていた為
・津軽を潰すはずだったのに結果として反故にした秀吉側の遠慮から
・去就がはっきりしない伊達への対抗上

てなところでしょうか
九戸に関しては、和賀稗貫一揆で浅野重吉を救出するなどで得点を稼いでいますし
第一次の奥州仕置以前から『叛徒はちゃんと処理するから』と
既に言質を取っていた様子もうかがえるので
豊臣方は九戸の叛乱をペナルティにする事はあまり考えてなかった
(もしくは出来なかった)んじゃないかと

506 :人間七七四年:2011/04/22(金) 06:51:09.58 ID:eg5FQ8QS.net
南部に来年は津軽と安東を征伐するからと利家からもレターもらってるくらいだしな。
利家は蒲生らとも仲がよく名護屋でも津軽や安東や伊達を虐めてるが南部は安泰。

507 :人間七七四年:2011/04/22(金) 07:29:41.53 ID:0ANsep/m.net
小田原に政宗より遅刻したのに
秀吉に叱られるどころか「よく来たよく来た」と羽織を手づから着せてもらって
「国許が大変なんだろう?」とさっさと帰国させてもらってる
おまけに反乱鎮圧してもらったらいつのまにか領土が増えてる

508 :人間七七四年:2011/04/23(土) 00:43:22.28 ID:0TT4EGfa.net
>>506
中央への接近ということでは安東氏が
北東北で最も先駆けてたはずなのに
いつの間にか南部に追い抜かれていたのが不思議。
奥羽では最も早く侍従の官位を信長を通し受けていたはず。

509 :人間七七四年:2011/04/23(土) 01:49:04.23 ID:dwDR/2M2.net
柴田三人衆のなかで勝ち組のトッシー(前田利家)と
懇意にしたからだろうな。恐らくトッシーを選んだのは北信愛。

510 :人間七七四年:2011/04/23(土) 02:57:28.30 ID:15+74tS+.net
天下人になった秀吉とも繋がりはあったんだから優位は築けたと思うんだがな<安東
まあけど結局愛季死んで湊合戦起こるから同じことか…
南部はやはり接触のタイミングが良かったんだと思う

511 :人間七七四年:2011/04/23(土) 19:40:02.29 ID:tf1R27Ck.net
何だかんだで南部は中央への気配りや取り入る為の配慮が凄いよな

512 :人間七七四年:2011/04/25(月) 19:05:35.55 ID:6e0xjHd0.net
>>509
柴田三人衆じゃなく府中三人衆な。


513 :人間七七四年:2011/04/29(金) 23:28:45.35 ID:meBGA2jn.net
>>511
そりゃあ本来なら仙台どまりのはずの新幹線を
盛岡まで引っ張ったり、熊しか乗らないって揶揄された
鉄道を敷いたりしてるからなwww

514 :人間七七四年:2011/04/30(土) 08:28:05.45 ID:jxxRZULE.net
向こうは東條英機とか小沢一郎とか強力なやつらが輩出されているからね。

515 :人間七七四年:2011/05/06(金) 23:41:43.94 ID:t3WtJ571.net
津軽為信が石川城を襲撃した際に津軽方面の南部勢は
なぜ救援に行かなかったんでしょう?
郡代が襲撃を受けていたら我先にと駆けつけるのが普通だと思うのですが…
北畠はともかく大光寺、堤、奥瀬といった有力者が動かないのが不自然な気がします。

516 :人間七七四年:2011/05/07(土) 02:44:20.77 ID:GtTEaisL.net
>>515
理由はいろいろ考えられると思うけど
この時期糠部は三戸のお家騒動でぐっちゃんぐっちゃん。高信がどういう態度だったかは知らんが、晴政との関係はかなり微妙になっていたと思われる。
晴政と為信に密約があったとまでは言わないけど、情報が入りにくい小さな家は余計に動きづらかったのでは。

517 :人間七七四年:2011/05/07(土) 08:31:26.46 ID:lXHxfOHy.net
石川城は奇襲されてわずか半日で陥落してる
救援しようにもその余裕すらなかったでしょ

518 :人間七七四年:2011/05/07(土) 17:33:49.56 ID:cJvMqul4.net
まぁ石川氏が郡代かどうかってのも否定する声は強いから
仮に長引いても救援はなかったと思うけどな。

519 :人間七七四年:2011/05/07(土) 23:02:50.39 ID:qWeJR2Zc.net
すぐに落城したんですね。
確かにすぐそばの大光寺氏が向かわなかったのも
それなら納得です。

>>518
Wikiにもそういう意見がありましたけど
どういった根拠で郡代ではないと言われるのでしょうか?

520 :人間七七四年:2011/05/08(日) 00:12:54.24 ID:2Hjx6YQv.net
>>518
救援がないってことはないでしょ。
郡代云々以前に大光寺は親南部だから、南部派の同盟相手である石川を見捨てることは多分ない。
戦いが長期化すれば、いくら糠部が荒れていても八戸あたりが援軍を出すだろうし(史実でも討伐軍出してるし)
千徳あたりは微妙だけど、あそこはもとは石川の家臣格だったから
石川が潰れなければ為信と対決姿勢を取った可能性は高い。

521 :人間七七四年:2011/05/09(月) 20:25:51.32 ID:pXnv+ojN.net
>>519
津軽地方の南部系有力者の多くが八戸南部なので
三戸南部の石川氏が郡代というのもおかしな話。
あと石川氏が直轄で支配していたのは石川城近郊だけなのも理由の一つ。

>>520
八戸氏が向かったのは大光寺をはじめとした八戸系の
有力者の為でしょ。

522 :人間七七四年:2011/05/10(火) 07:36:50.61 ID:A5yrqXxN.net
天文年間はじめに石川高信が津軽地域の叛乱の討伐をしている事例を見るように
この頃三戸が津軽で勢力を伸ばしたのは事実
三戸が南部の主導権を握っていく過程で、津軽に勢力を拡大し支配を強化しようとし
その一環として石川高信を郡代に任命してもなにもおかしくないでしょ
あと高信のバックには千徳などの一戸系もついていた。七戸系も津軽には多く、八戸はこの頃の津軽ではむしろ退勢気味

大光寺は八戸系じゃない。系譜的には三戸だし、むしろあれは堤系と言うべき
八戸との関係はそれほど深くない
よしんば八戸が自勢力の為に出兵したのだとしても、石川が生きてても普通に出兵して協力するでしょ
大浦領を奪えばさらなる権益の拡大になるし

523 :人間七七四年:2011/05/10(火) 20:07:31.58 ID:fPe+weUE.net
南部は難しいな。
あと堤系って何?初めて聞いたんだけど。

524 :人間七七四年:2011/05/10(火) 20:58:37.59 ID:A5yrqXxN.net
三戸南部二〇代南部信時の四男南部光康が、横内の堤ヶ浦城を領して津軽郡代となり
代を経てその一族が大光寺に移ったのが大光寺氏の始まり
そこそこの独立勢力だし、血統的に一緒だから堤氏と大光寺氏あわせて堤系ってことらしい
普通に大光寺系と言ってもいい気もするけど

525 :人間七七四年:2011/05/10(火) 21:09:14.68 ID:A5yrqXxN.net
すまん訂正
× 横内の堤ヶ浦城を領して津軽郡代となり
○ 横内の堤ヶ浦城を領して津軽郡代となり、堤氏を名乗った

526 :人間七七四年:2011/05/10(火) 23:54:01.98 ID:fPe+weUE.net
ということは津軽の本当の郡代は実は大光寺?

527 :人間七七四年:2011/05/11(水) 01:31:20.81 ID:ocw2qLAH.net
>>526
郡代の変遷についてはぶっちゃけよくわかってない
明応7年(1498年)から光康以後、1〜2代位は津軽郡代をやっていたらしいけどさだかじゃない
天文2年(1533年)の津軽の叛乱以降は、その討伐の功で石川高信に変わっている
南部の史料だとこの後石川政信→楢山帯刀・南右兵衛尉と続く
郡代職は必ずしも世襲ってわけでもないっぽい

528 :人間七七四年:2011/05/13(金) 21:42:17.83 ID:0WobU9Vl.net
>>522
戦国時代では系譜はあまり意味をなさないよ。
それと七戸氏は八戸南部の重臣。
大光寺氏に関しても比内へ南部勢を手引きした際には
八戸南部を通して行ってるんで
三戸南部よりは八戸南部に属した家だと思われる。

529 :人間七七四年:2011/05/14(土) 07:12:55.14 ID:cvi+UtcI.net
系譜を無視する時点で問題外。せめて大光寺が八戸系であるという明確な証拠を出してもらわないと、貴方のは反論にならないっす
大光寺の出自について異説は六説ほどあるそうだけれども、そのどれもが八戸とは関係ない
一族に箔をつけるために系譜上で主家と縁続きに改竄するのはよくやられることだけど
大光寺が元来の本家である八戸との縁を隠す必要性はまったくない
少なくとも大光寺家自身が、自分達は八戸とは縁がないと考えていたってことでしょう

あと七戸は重臣じゃない。いかに分流であっても、この当時は既に独立勢力
九戸の乱の際に七戸の大方が九戸方に付いたように、八戸と足並みが一緒だったわけじゃない
むしろ勢力としては九戸との関係のが深い

大光寺の比内占領が八戸南部を通して行っているってのは初耳なんだけど、何の史料に載っているか教えてくれない?
大光寺は五十目秀兼と共謀して大館占拠したあとは、普通に信直自身に注進して南部軍を誘い入れているはずだけど

530 :人間七七四年:2011/05/15(日) 11:29:45.47 ID:tL26PFTI.net
八戸が1572年と1590年に津軽に進攻したってのが不思議だ。
あんな遠くまで(車で4時間)かかるとこまで行くくらいなら
閉伊や紫波辺りの方が近いし実入りもいいと思うのに。

531 :人間七七四年:2011/05/16(月) 03:24:59.62 ID:iQZ0phzM.net
閉伊や志和は一戸や九戸他の取り分になってたから手を出しづらかったんじゃない?
あと津軽は沿岸交易の利益もあったからそれの維持もしくは奪取を狙ったんじゃないかとおも

532 :人間七七四年:2011/05/16(月) 20:56:32.69 ID:KeO992xe.net
>>530
本当に行ったかどうかはわからんけどね。
七戸や浄法寺あと堤といった勢力が動かずに根城南部が
向かうというのも不自然な話だから。

533 :人間七七四年:2011/05/17(火) 02:16:50.77 ID:Rsa97vto.net
七戸は九戸の時に実質滅亡してるから史料無くてどんな動きを取ったかわかんないんだよねぇ
あと浄法寺は津軽に行くにゃ遠いし、堤は勢力が小さすぎて救援は二の足だったんじゃない?

比較的史料価値があるという永禄日記だと
『8月2日 南部八之戸殿此度石川大膳被打候を無念二被存、宿川原迄3000余騎押寄候処、九戸甲斐殿は八之戸留主を幸に、その城を乗取らんと相催候段聞候、八戸殿当麻より帰り候』
とあって、もちろんこれは伝聞だから完全に信じられるものではないけど、八戸が何らかの動きをしたのは信じていいと思う
もしくは津軽の史料だと討伐軍の主将は鹿角の瀬田石隠岐だから、鹿角勢が要請を受けて動いた、と考えることも出来る。鹿角は峠を挟んで石川とは近いからね

534 :人間七七四年:2011/05/17(火) 23:44:54.46 ID:uv5jghCk.net
>>533
勘違いしてるみたいだけど浄法寺は鹿角のすぐそば。
根城南部より近い。それに浄法寺は
三戸、九戸、八戸に次ぐ大身。

535 :人間七七四年:2011/05/18(水) 00:17:55.30 ID:8cfBZWB8.net
鹿角から近くても津軽へは鹿角一郡縦に挟んでるから普通に遠いでしょ
あと浄法寺領は浄法寺一円だけで他と違って津軽に利権持ってるわけじゃない。利権ないのになんで単独兵隊出さないかんの?


536 :人間七七四年:2011/05/18(水) 00:23:25.21 ID:8cfBZWB8.net
訂正
誤 鹿角から近くても津軽へは鹿角一郡縦に挟んでるから
正 鹿角から近くても、津軽へ行くには縦長の鹿角を南北に横断しなきゃならないから

浄法寺街道って津軽に行くにはかなりの遠回りになる。少なくとも近いとは言えないよ

537 :人間七七四年:2011/05/18(水) 00:32:52.22 ID:8cfBZWB8.net
あと三戸・九戸・八戸に次ぐってのは確実に嘘。為信の挙兵の時点なら一戸や櫛引のほうが大きい
それに南部とは別流の外様だから南部への影響力は深くない。津軽の騒動にほっかむりしても別に責められない。

538 :人間七七四年:2011/05/18(水) 08:14:39.84 ID:XV4xxpSo.net
>>535
八戸よりは近いんだから、浄法寺が津軽に出ない理由を距離にしたのでは
説得力がないってことなのでは。他の意見はともかく

>>537
あと七戸もいれといて

為信蜂起の時三戸は分裂中で南部各氏の統率ができず
他の勢力も多くが津軽にかまけられる状態じゃなかった
だから津軽討伐軍は有志で行わざるを得ず、津軽に利権があり
かつ大浦に対抗できる八戸が主力になったってことでしょう
別に派遣先への距離が問題なわけじゃないと思う

539 :人間七七四年:2011/05/18(水) 19:42:37.79 ID:o8f8SrKx.net
八戸って津軽に利権持ってたの?
治めてたのは北郡と今の八戸一帯だったと思ったが。

540 :人間七七四年:2011/05/19(木) 08:48:12.65 ID:m2aiy29k.net
>>539
土地というより交易路
西ヶ浜を支配する大浦の離反は、日本海航路へのアクセスを妨げる
田名部他の貿易で稼いでいた八戸にとってはわりと大きな問題
あと西ヶ浜は外ヶ浜の隣だから、外ヶ浜取られでもしたら蝦夷地貿易からも追い出される可能性があるし
海路下北半島に攻められるかもだし

541 :人間七七四年:2011/05/19(木) 20:02:21.59 ID:0k0PXYre.net
>>540
この時代の交易港として栄えていたのは
野辺地や平内だよ。八戸が栄え出したのは江戸以降。

542 :人間七七四年:2011/05/19(木) 21:05:27.26 ID:m2aiy29k.net
>>541
はい、知っています。だから田名部と書きました

543 :人間七七四年:2011/05/19(木) 21:26:57.28 ID:m2aiy29k.net
あ、田名部を含めての八戸領、という意味ならちょっとそれは違うかと
田名部は戦国期当時から既にかなり大きな湊です。朝鮮出兵の時信直が蝦夷船作らせたりもしています
あと地味ですが下北半島のむつ市あたりも蝦夷交易の要所です

544 :人間七七四年:2011/05/19(木) 22:47:43.58 ID:1pVSjpwE.net
西ヶ浜って今の深浦町ですか?


545 :人間七七四年:2011/05/19(木) 23:46:16.88 ID:tcYk7srJ.net
>>541
野辺地が港として発展したのは、油川なんかを津軽に取られて代替港として割り振られてからじゃなかった?

>>544
中泊町から深浦町あたりまでの青森県日本海沿岸と考えておけばいい

546 :人間七七四年:2011/05/21(土) 21:25:00.08 ID:iDBCDm4R.net
>>545
七戸は古い遺跡から各地との交易を伺わせる
様々な調度品が発掘されてる。
それらを手に入れる港として野辺地が使われていたのは想像に難くない。


547 :人間七七四年:2011/05/23(月) 23:39:17.02 ID:bGCprsgg.net
>>537
南部領内での六千石は大身でしょ。
石高で言えば北家以上。
あと比内進出時には浄法寺も参加してたし
実質的には南部家臣。

548 :人間七七四年:2011/05/23(月) 23:55:33.59 ID:tKdvKYtQ.net
関ヶ原と大阪の陣といった遠方にまでかなりの兵数を派遣してるのが不可解なんだけど
戦国時代で南部家はどのくらい兵力を動員することが出来たんでしょう?
石高のわりには多い気がするですけど。

549 :人間七七四年:2011/05/24(火) 01:39:49.15 ID:Z2xbiiRG.net
>>547
大身であることも南部の風下にいたことも否定はしないよ、けど図抜けて大きいわけじゃなく、外様でもあるので相対的に発言力があったわけではないし
逆に諸勢力が割拠均衡する南部の政治情勢の中にいるのだから独立性が低かったわけでもない。三戸が晴政と信直で分裂中の時期ならなおのこと。規模は違えど九戸と同じだよ
あと比内の時には九戸勢も出ている(九戸を南部家臣とは言わないよね?)ように、三戸以外の諸勢力も相当数が参加しているから、半独立勢力の浄法寺が参加しても別におかしくない。各勢力が三戸の統制なくバラバラだった大浦蜂起の時とは比較にできないよ

550 :人間七七四年:2011/05/24(火) 20:22:07.52 ID:YZH00S7q.net
>>548
安東愛季との鹿角合戦の時に出たのは1万余って聞いたことがあるから
それがひとつの目安になると思う
それでも南部の全兵力が動員された訳じゃないから、もう少し上積みはあるかと

関ヶ原や大坂の時の動員兵力って不可解かな?
確かに動員兵力については一万石250人とか100石につき3人といったことが言われるけど
関ヶ原の時はどの奥羽諸侯も一万石につき400〜500人を動員しているし
それほど変でもないと思うけど

551 :人間七七四年:2011/05/24(火) 21:07:07.94 ID:fInYyYfr.net
>>548
八戸氏が津軽地方に兵3000を率いたとあるし
三戸氏も宇杭野の合戦で3000を率いたと言われてる。
恐らくどちらも単独での行動。
九戸氏に関しては参照できる資料がないけど三戸八戸を凌ぐ力があったとも
伝えられてるんで兵4000程度とすれば糠部だけで
1万をかき集めてある程度遠方まで行くことが出来た思う。

552 :人間七七四年:2011/05/24(火) 23:02:43.00 ID:uNjZkVH4.net
50万石級の戦力とか伊達の押さえとも書かれてたのは
あながち誇大広告ではないということですね。
どうして10万石なのに伊達の押さえなんて出来るのかが分からなかったものでして。

553 :人間七七四年:2011/05/25(水) 07:33:40.86 ID:DBnkB4Np.net
50万石はさすがに誇大だと思うけど…
伊達の押さえってのは南部だけでなく、南の蒲生上杉佐竹最上も含めてのことだろうからね
伊達は南進が基本だから、南部は後ろから圧力を掛けてればいいだけの立場

554 :人間七七四年:2011/05/26(木) 23:09:05.70 ID:wiaklH4c.net
>>551
どちらも嘘くさいけどなwww
東氏の残雪が残る八甲田を超えたって話が論外なのはもちろん
根城八戸氏にしたって今でさえ八戸から
弘前行くには高速を使っても3時間くらいかかる。
仮に戦に勝ってその地域を得たとしても
守るにはあまりにも飛び地過ぎる。

555 :人間七七四年:2011/05/27(金) 00:23:39.03 ID:Ar7/QhS8.net
>>554
十和田湖町史の上巻では、宇杭野へ到るルートについて現地調査を含めて検証されていて
それによると南部軍が現れた旧暦4月頃は今の5月頃初旬で、この時期の八甲田山中は残雪が残っているけど、圧雪によって堅雪状になっていて
行軍はむしろ楽であるそうだよ。また、ルートを検証するとどれも街道や古い旧道を通っていたり、現在の国道(103号や394号)とほぼ同じルートを通っていて
難所はあるけど進軍は可能、って結論してたよ。兵力については誇張があるかもだけど、嘘って断じられるものではないと思うよ

大浦攻めに関しても、大浦を潰せば反抗する勢力なんてほぼいないんだから、長期間兵隊を貼り付ける必要性なんてない
潰したら適当な人物を代官にして現地でやりくりすればいいだけ。必要なら大光寺の助けも得ればいい
それに飛び地というなら、糠部や閉伊郡のみならず、岩手郡や鹿角、津軽にまで氏族を広げている一戸氏もいるし、そこまで問題にならないでしょ

556 :人間七七四年:2011/05/27(金) 21:36:41.58 ID:ry5fyXmt.net
>>555
宇杭野で不可解なのはルートだけじゃなく場所でしょ。
なんであんな津軽のど真ん中を狙ったのか・・・
落とせてもすぐに奪還されに来るのが確実なのに
後詰が難しいところを選んだ理由が見当たらない。
あと人選もおかしい。東氏は晴継派の人で
信直とは敵対してた武将。そんな人物に大軍を与えるのは理解に苦しむ。

557 :人間七七四年:2011/05/27(金) 21:42:54.83 ID:ry5fyXmt.net
それと大浦を潰せばと簡単にいうけど
当時の大浦氏は北畠・大光寺と同じくらいの勢力だったので
潰すだけで長期間兵を滞在させないとならない。

558 :人間七七四年:2011/05/27(金) 22:08:40.86 ID:qrniYT1d.net
何この真面目な流れ。
2chだよ。ここ。


559 :人間七七四年:2011/05/28(土) 01:42:22.90 ID:WJc1/q53.net
ふざけた流れがいいならVIPにでも行けば?
ここ専門板だし

560 :人間七七四年:2011/05/28(土) 02:50:28.34 ID:Hs8uh2pP.net
これは青森県史に書いていたのだけれど、外ヶ浜は天正十三年に全域が陥落したかのように書かれるけれども、実際は違う可能性がある
晴政との抗争の時期とされていた、南慶儀の書状のひとつが天正十七年に年代比定し直されていて
そこの時期に当てはめると、明らかに横内(城)や浜口(外ヶ浜の通路)が天正十七年時点でも南部の手によって保持されていた様子がうかがえる
県史では天正十三年に陥落したのは油川以北のみで、津軽一統志などはストーリーを劇的にする為に、横内が落ちたのも十三年に押し込めたのでは、と指摘している

で、もしこの時点で横内が落ちていないなら、浅瀬石(黒石)を落とした後浪岡を陥落させれれば、外ヶ浜への道が通じることになる
ならば当時津軽の反南部勢力のひとつである浅瀬石千徳の本拠を、八甲田越えの強襲で叩き潰し、その後浪岡を占領して、いままでの失地を一気に回復する、という作戦も
確かにリスキーだけど、わからないほどの作戦じゃない。当時の浪岡にはそれほどの戦力は置かれていなかったはずだし

東氏は晴政との抗争の時には反信直派だったけど、家督相続の時は最終的に賛成派に回っているし不思議じゃないよ
むしろ東氏自身が忠誠を示す為に志願した可能性だってある

大浦の兵力は為信自身が石川を叩く前に動員したようにだいたい千。三千の大軍で攻めれば、うまくいけば一会戦で倒せる
もちろんそううまくいく可能性は低いとは思うけど、大光寺も巻き込めれば兵力差はもっと広がるし、八戸がそれを狙ってもおかしくはない

561 :人間七七四年:2011/05/28(土) 03:03:11.99 ID:Hs8uh2pP.net
訂正
誤 浪岡を陥落させれば、外ヶ浜への道が通じることになる
正 浪岡を陥落させれば、南部が保持していた外ヶ浜東半地域への道が通じる、という事になる

562 :人間七七四年:2011/05/28(土) 18:42:43.71 ID:RqXbhkHP.net
>>当時津軽の反南部勢力のひとつである浅瀬石千徳の本拠を、八甲田越えの強襲で叩き潰し、その後浪岡を占領して、いままでの失地を一気に回復する、という作戦

普通七戸→青森→浪岡→黒石だと思う。

563 :人間七七四年:2011/05/28(土) 21:13:19.12 ID:KdVpD1xx.net
>>562
常道ならそうだろうね。けど街道から順繰りに進んだら津軽に兵を集める猶予を与えることになる。南部もさすがに同程度の兵力との衝突は自信がなかったんでしょうよ
あと南部の浅瀬石に対する過小評価もあったんでないかと思う。浅瀬石の兵力は千に満たなかったから、すぐ倒せると侮っていたんでしょう
結果は民衆まで動員した予想以上の抵抗で敗北。はっきり言って南部の作戦失敗だわな

564 :人間七七四年:2011/05/29(日) 08:59:07.18 ID:e0s8W+bd.net
>>560
すぐ傍に九戸氏がいるのにあまりにも無謀すぎる。
それに志願したとしてもそれまで敵対してた人物に
三戸氏が動員できるほぼ全ての兵を与えるのは信じがたい。
あと鼻和郡は広いので数か月でましてや
一回の進行で全域を制圧するのは無理。

>>562
七戸家国は九戸政実の妹を正室にするなど
反三戸的な動きが目立つのでそのルートは使えなかったと思われる。
だからこそ無謀な八甲田超えなんて話が語られるようになったかと。

565 :人間七七四年:2011/05/29(日) 13:48:16.33 ID:iBjJTCdL.net
七戸の支配地域はどの程度だったんですか?
昔は野望にも出たりしてたようだけど。

566 :人間七七四年:2011/05/29(日) 21:03:49.04 ID:63QF9JUl.net
>>564
九戸の押さえは八戸氏にやらせていたと考えれば無謀ではない。大軍を出す以上留守の手当ても当然してたでしょう
信直が八戸政栄に、三戸に屋敷を構えてほしいと願い、八戸が三戸の準家臣化したのもこの頃だったはず
信直の家督相続後に東氏が冷遇されたという話は全くない。むしろ参考諸家系図の孫(息子?)の東直義の項には「専ら国家の大務を掌る」とも書かれていて、重用された様子すらある

為信の勢力元は大浦周辺と鰺ヶ沢町あたりに集中しているから、そこらへんさえ抑えれば、残りの勢力は調略なりすればいいだけ
為信さえ討ち取れば後はゆっくり進むなり代官に任せればいい。全域を完璧に支配する必要はない

567 :人間七七四年:2011/05/29(日) 22:36:54.58 ID:iBjJTCdL.net
してたでしょうとか信じがたいとか、大分主観が入るようになってきたなww
っていうかあんたら歳幾つ?かなりマニアックなようだが(笑)

568 :人間七七四年:2011/05/29(日) 22:42:30.24 ID:Gp7h2G+b.net
>>565
七戸氏について調べた本だと、平内(小湊)から野辺地・下北半島の横浜に田名部の一部の陸奥湾沿岸部
それから七戸周辺から現十和田市の奥入瀬川北岸におよぶ地域を領していたと考えられる
ただ七戸氏は系図が混乱していて、七戸家国などの本系とは別の系統の存在も見聞されていて
当時の本家が何処まで領有していたかは定かじゃない

569 :人間七七四年:2011/05/29(日) 23:49:47.44 ID:iBjJTCdL.net
>>568
面積だけなら南部家中でかなりの領域なんですね。


570 :人間七七四年:2011/05/30(月) 01:19:26.40 ID:pmvVaOjN.net
>>567
だって南部も津軽も史料が少なすぎる上に捏造や省略が多いから、推測するしかないもの。新史料がどっかから発掘されないか、切実に思うもの
ちなみに俺は566だけど、あなたが思うより多分若いよ

571 :人間七七四年:2011/05/30(月) 20:47:58.85 ID:4GSRHiVX.net
>>566
どこまで他人任せなんだよ。
秀吉の元に参陣したときも連れて行ったのは1000人で
それ以外は地元に残らせてる。
それと九戸も晴政晴継が存命中の頃は三戸に屋敷を構えていた。
あと東氏が冷遇されてたとは言ってない。
ただ寝返って間に無いのに大軍を与えるのは不可解と言ってるだけ。

石川城を奪い大浦城を落とし鰺ヶ沢や深浦まで
進出するのは一回の進攻じゃ無理。
どれだけ離れてると思ってるんだよ。

572 :人間七七四年:2011/05/30(月) 23:59:15.07 ID:dgtqiMIt.net
津軽人同士が議論してるのか?

573 :人間七七四年:2011/05/31(火) 02:04:28.89 ID:QUIjFY6m.net
他力使って九戸潰してもらったのが信直でしょ

小田原参陣が千人なのはそれしか連れていけんかったからでしょう。三千人連れて小田原まで行く能力は南部にはないし、必要性もない
それに宇杭野なら途中で何かあれば無理すりゃ戻れるけど、小田原じゃ戻れない

冷遇されたわけでもないなら、大将として使っても別におかしくもないでしょう
信直は政実の弟の中野吉兵衛だって対斯波戦で重要な役につけてる。要注意人物だからって重要な役に起用しないわけじゃない

つか津軽の蜂起は為信さえ討ち取ればそこで終わる話。一回大浦を叩いてそこで討ち取れなかったら、進めるだけ進んで、後は岩手郡の高信みたいに地元の豪族味方につけるなり調略して、拠点を作って時間かけて地道に鰺ヶ沢まで進んでいけばいいだけでしょ
一度相手の戦力削ったなら回復に時間がかかるし、豪族を味方につけたなら大軍張り付ける必要もない。そんで最終的に鰺ヶ沢まで行けば為信は無力化するし、弱っているところを再び臣従させてもいい。一回の進攻にこだわる必要はない

574 :人間七七四年:2011/05/31(火) 20:35:21.51 ID:FSCVKqvG.net
>>573
おかしいから。長く信直を支えていた北氏、南氏を
差し置いて寝返ってすぐの東氏が総大将ってのは。
それと中野吉兵衛は斯波氏の娘婿だったんで
対斯波戦において斯波家臣を調略できたから重要な役を与えられた。
東氏に対千徳戦でそういう期待は出来ない。

浄法寺氏や鹿角の国人なら時間かけれるとは思うが、
八戸氏はそうもいかない。国元で何かあってもすぐ戻れる距離じゃないし
短期間で大浦氏の主要な居城を幾つも落とさないとならない。
おまけに鼻和郡は広いと来てるし。

575 :人間七七四年:2011/06/01(水) 00:15:11.27 ID:gP6fCfdZ.net
オマエラが何処に住んでるか興味がある。


576 :人間七七四年:2011/06/01(水) 03:08:05.63 ID:Vfpaee6/.net
だから前に東氏が重用された可能性にも言及したでしょ。少なくとも他の家臣と同等の扱いなら、東氏が起用されてもおかしくない
だいたい、過去の経歴を気にして重臣を重要な役から遠ざけるなんてことしてたら、それこそ当主の力量が疑われることにもなりかねない

あと中野吉兵衛に関しては、起用したこと自体がそもそも危険なことでしょう
もし斯波との不仲が計略だったなら、斯波どころか九戸にまで情報流れて変な動きをされかねない
そんなリスクを負ってでも信直が吉兵衛を起用したってことは、彼が危険人物でも起用する意識を持っていたって事でしょう
もちろん吉兵衛の真意の裏取りはしただろうけどね

八戸氏の意図としては時間かける気無かったんでしょう
広いって言っても為信の兵力が千+αであることを勘案すれば、それぽっちの兵力で西ヶ浜や鼻輪郡全体をカバーすることは出来ない
多くの城に少ない兵力を分散して籠城させればそれこそ相手の思う壺。後詰めを期待できない立場である以上、どこかで兵力を集中して決戦を挑まなきゃならない
八戸氏としては大軍でそれを叩いて為信を討ち取ればいいだけ

もし討ち取れなくても、大浦あたりまで奪えた時点で為信の勢力は半減も同然なんだから、為信につく国人も減るだろうし、為信もすぐには動けんだろうから
周囲の豪族への手当てと調略が済んだら、代官に任せて本隊は撤収すればいい。後は代官が、築いた地歩を元に地道に攻めてきゃいい
必要なら次の年位にまた兵を起こしてその時こそ為信をすり潰せばいい。石川高信が岩手郡でやったのと同じやり方だよ

577 :人間七七四年:2011/06/01(水) 17:37:59.34 ID:gP6fCfdZ.net
江戸時代じゃないんだから代官置いたくらいで統治できんだろ。
だからこそ簡単に独立許したんであって

578 :人間七七四年:2011/06/01(水) 20:56:46.58 ID:sPzqEoGM.net
>>576
東氏ってのは晴政派の急先鋒として信直派の重臣北氏や
八戸氏(まだ家臣ではないが)の城を攻めた過去があるわけ。
そういった重臣たちとも確執があったのに
いとも簡単に彼らを押しのけて総大将になるのはどう考えても不自然。

無理だから。大浦氏にしてみれば別に決戦する必要は全然ない。
時期を待てば否応なく引き上げるのが確実なのに
わざわざ短期戦を挑む必要性は全くない。

579 :人間七七四年:2011/06/01(水) 22:24:36.47 ID:gP6fCfdZ.net
東正勝が帰参を赦されたのは晴政を暗殺したからとも言われてる。


580 :人間七七四年:2011/06/02(木) 07:38:44.47 ID:sj7Sx5aK.net
宇杭野の東政勝といえば、田舎館町史に
『名杭日向というのは東政勝ではなく、名久井日向守兼隆という別人だ
 名久井兼隆は宇杭野の敗戦によって南部の史書から存在を抹消されたのだ』
っていう説が乗ってたなぁ。これこそ眉唾もんだけど、面白い話ではあったな

581 :人間七七四年:2011/06/02(木) 23:48:29.34 ID:cQzpgjUT.net
>>577
別に高信みたいな津軽全域を管轄する代官ってわけじゃなくて、大浦から取った占領地の代官って意味だからね
無論押さえの兵力とセットで、大浦以外の勢力と友好的な関係築いてある程度やりくり出来る土地さえあれば普通にやってけるでしょ

>>578
そうだね、けれども見方を変えれば、一番重要な家督相続の時に味方してくれた恩人でもあるわけだ
ただでさえ政権基盤が脆弱な信直が、重要な時に味方してくれた人物の意向を無碍に出来るわけがないでしょ
あと簡単だったかはわからんよ。史料がない以上、この時期の三戸内でどんな権力争いがあったかなんてわかるわけない
大浦にはその時間を稼ぐ兵力が無いのよ
支城に全て兵力を分けると、少ない戦力がさらに細切れになって時間稼ぎにも使えなくなるから、どこかの城にまとまった数を置かなきゃならない
しかし仮に石川あたりに半分の五百置いたとしても、三千対五百じゃ数でもみ潰されて数日で陥落するのが落ち。岩屋城張りの守城が出来る奴がいれば別だけど、そんな都合の良いことはない
もし石川が陥落した場合、残り五百+αでどう八戸の大軍をとめるよ。石川城から大浦城まではそう遠くない、支城もさほど多くない
そんくらい相手が減れば八戸も多少無理してでも相手を潰そうとするわな

大浦城まで取られれば為信についてた国人は確実に動揺するし、下手すりゃ家臣からも離反者が出て軍勢の維持すらままならなくなる
ならば為信としては兵力が削られる前に適当な城で持ちこたえて、残りの兵で奇襲かけて撤退に追い込むまで削るか、劣勢覚悟の野戦かける位しかない。待ちの戦術とれる立場じゃないんだよ大浦は

582 :人間七七四年:2011/06/03(金) 19:11:42.73 ID:dw86+cjs.net
>>581
じゃなんで負けたの?

583 :人間七七四年:2011/06/04(土) 03:14:12.60 ID:CGewMiVu.net
>>582
えーと、1572年の八戸の方だよね?
そもそも戦ってないんだから負けてすらいない
途中で九戸が八戸領狙う為に動いて、それ抑える為に撤退しちゃってるんだから。大浦はそれに助けられたに過ぎない
八戸が失敗したというなら、九戸の動きを考えてなかった事前見込みの甘さだろう。もし九戸の動きが無かったら、八戸はそこそこ優位に戦えてたよ

584 :人間七七四年:2011/06/04(土) 09:14:02.00 ID:NPD3dBFC.net
>>581
記述だと東氏が自ら志願したのではなく信直が命じてるとある。
だけど信直が北氏、南氏を差し置いて敵対して東氏を
総大将に任命する合理的な理由がないわけであって。

一時的に押されても八戸氏はいずれは戻らなきゃならない。
それに長期戦になれば八戸から弘前に兵糧を届けるだけでも
相当の負担になり兵数の多くを荷駄隊に人員を割かなきゃならなくなる。
八戸氏にしてみれば短期決戦しか道はないよ。

585 :人間七七四年:2011/06/05(日) 01:52:34.31 ID:s4RB9V+7.net
信直が東氏に討伐を直接命じたのって自分は秋元家の由緒書しか知らないけど、あれは軍記調になっていて、信直の命ずるシーンも主将決定の経緯を正確に書いたものでない
南部根元記あたりだと、御一族筆頭に南氏や北氏をおいて東氏が来る
これは東氏が過去の経緯にかかわらず、普通に三戸内で重きを成していたからと考えるべき
討伐を直接命ぜられたのも、東氏が晴政の件で遺恨を持たれてなかったと考える方が自然

だから八戸は短期決戦狙いだって言ったでしょ。そして大浦には長期戦に持ち込もうにも時間稼ぎできる兵力が無い。数で押し込まれて大浦まで攻め込まれる
もし大浦城まで取られたら、その時点で勢力としての為信は半分アウト。少なくとも再起にはかなり時間がかかる
そこまでいきゃ八戸側に撤退しなきゃならん理由などない。普通に領土化して経営すればいい

兵糧については、進攻から一月もすれば米の収穫時期になるから兵糧の心配は断然軽くなる。占領地を統治して普通に収穫すればいいし、最終手段として敵地からの苅田って手だってある

586 :人間七七四年:2011/06/07(火) 19:51:51.72 ID:ylycD426.net
重きをなしていたと言っても石高では北氏、南氏の方が上。
あと南部信直が家督を継ぐ前年には一戸氏も九戸派に転向してるし
九戸氏にも出兵をさせず単独で全軍を遠征させるのは無理がある。

大浦氏が動員できる兵力がたった1000のわけがないでしょ。
あれだけ広大な所領だったんだからさ。
千徳氏ですら防衛戦において1000をかき集めてるってのに。
あと苅田ってのは自国に米と麦を持ち帰る場合に行うものだからね。


587 :人間七七四年:2011/06/07(火) 22:53:32.81 ID:s+s13V9w.net
水掛け論みたいになってるんで東はもういいんじゃないかな。


588 :人間七七四年:2011/06/08(水) 22:40:49.36 ID:4x8Kqf8D.net
>大浦氏が動員できる兵力がたった1000のわけがないでしょ。
>あれだけ広大な所領だったんだからさ。

安東と同等以上に渡り合ってた様子も有り
一時的に八森も支配下においてた。
それを考えるとはじめから下手な大名よりも勢力はあったろうな。

589 :人間七七四年:2011/06/14(火) 22:44:58.69 ID:i7PoMHAr.net
南部って家康からはあまり厚遇されてなかったの?
関ヶ原が終わってから津軽と伊達は
それぞれ加増されてるけど南部は加増されてないよね。

590 :人間七七四年:2011/06/15(水) 23:42:11.53 ID:Ttrtc+z4.net
働いてないからねwww


591 :人間七七四年:2011/06/16(木) 22:07:52.38 ID:2p6pq6M+.net
側用人南部遠江守直政あげ

592 :人間七七四年:2011/06/19(日) 22:17:32.53 ID:GE5EZSn0.net
確かに和賀一揆で引き返したけど
それは不可抗力じゃないか?


593 :人間七七四年:2011/07/02(土) 21:20:48.02 ID:GltZ9ybv.net
うm

594 :人間七七四年:2011/07/02(土) 21:57:54.76 ID:isCcRvol.net
石亀城=田子町でいいの?

595 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/07/03(日) 07:31:01.80 ID:DZwbhyoV.net
石亀村は旧上郷村だから、回答に困る設問だねおい。

596 :人間七七四年:2011/07/03(日) 21:36:32.60 ID:p2rZzFOI.net
石亀信房が南部安信に任されたのは
旧上郷村を含む田子町だろうけど
石亀城に関してはよく分って無いのが実情。
田子町は南部信直の父親である石川高信の根城との見方も強いし・・・

597 :人間七七四年:2011/07/08(金) 12:52:35.00 ID:fOlTtXVy.net
南部一族の配置って意外と混乱しとるね

598 :人間七七四年:2011/07/09(土) 16:26:30.75 ID:3SRgNPE2.net
九戸の乱と南部利直のリストラでかなりの家が潰れたから
相当の資料が失われたんだろうな。あと本拠地を
南部町→三戸町→二戸市→盛岡市と移したのも
資料が失われた一因かと。

599 :人間七七四年:2011/07/09(土) 18:11:06.57 ID:puDhG0NR.net
天文八年に本三戸城(聖寿寺館)が放火に遭って古文書等々が焼失した事が
資料が失われた一番の要因ですよ

600 :人間七七四年:2011/07/09(土) 23:40:30.35 ID:0kVW2qeG.net
というかどうして本三戸城からあんな山に居城を移したんだろ?
特に移さなければならない理由が思いつかないんだけど。
周りは身内で囲ってたしあんな山に住んでたら普段の生活はかんり不便そうな気がする。

601 :人間七七四年:2011/07/10(日) 07:48:38.96 ID:K9LeA6o0.net
普通に防衛力の強化でしょ
それから城下の再編と拡大、って意図もあったらしい
城下を広げるのに聖寿寺舘の位置はちと手狭

602 :人間七七四年:2011/07/10(日) 13:11:56.09 ID:tNrHcjUk.net
周りを親族で固めてるとはいえ不測の事態に備えることは大事かと。
家臣二人に簡単に放火されましてや全焼してしまうってことは
合戦になったら簡単に落城してしまうことを悟ったからじゃないかな。

603 :人間七七四年:2011/07/11(月) 22:25:30.34 ID:Z1z9nndt.net
城下町の拡大は思いつかなかった。
そういう意図もあったのか。

604 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/07/11(月) 23:05:30.82 ID:d9EOrPDo.net
城や館というほど現代のイメージほど大きくないからだろうな。

605 :人間七七四年:2011/07/12(火) 19:35:48.28 ID:e1DmxcTZ.net
戦国時代の城下町なんて重臣と
宗家の上級武士の屋敷があり多少商人が居た程度。


606 :人間七七四年:2011/07/13(水) 00:31:40.93 ID:Tch42tAv.net
その後、不来方に拠点を移したのが八甲田を津軽に奪われる要因になってしまった。

607 :人間七七四年:2011/07/18(月) 22:50:18.99 ID:jm5DB/+9.net
どういうこと?ヒバ紛争の事?

608 :人間七七四年:2011/07/21(木) 10:58:50.97 ID:PALxNbBL.net
檜山騒動のことなら南部の準備不足が原因であって
盛岡に首都移したのが要因じゃないだろ。牽強付会にもほどがあるべ

609 :人間七七四年:2011/07/22(金) 00:12:30.54 ID:io0r8rlq.net
檜山騒動って何だったの?
たかがヒバを巡っての騒動だったとは思えないけど・・・

610 :人間七七四年:2011/07/24(日) 14:22:04.54 ID:KXWx4c3j.net
>>608
文献が少ないから何とも言えないけど
戦国時代の主だった家臣を岩手方面に移動させたのが原因じゃね?
それによって準備できる人材が居なくなってしまったのが
八甲田を奪われた主因だと思うが。

611 :人間七七四年:2011/07/26(火) 15:01:41.68 ID:VUq0MQ2u.net
南部領の広大さが凄まじい。

東北道宇都宮辺りでみる
仙台まで180km
盛岡まで360km
の標示からして隣藩の本拠が180キロ離れてることにも驚きだけど
livedoor地図機能で一般優先で検索してみると
新旧拠点の距離で
盛岡城→三戸城 90キロ
本拠と重鎮石川氏拠点の距離は
三戸城→弘前城 (旧石川城の場所が分からなかったから地点登録)110キロ
        これだと十和田湖の南西をかすめるルートとってたけど
        平地を選んで連結するとしたら青森方面経由だろうから
        もっと距離が出る。

612 :人間七七四年:2011/07/26(火) 23:28:40.81 ID:v8xlg0E/.net
まあ広いだけなんですけどね

613 :人間七七四年:2011/07/28(木) 00:24:46.76 ID:hloT5UBv.net
戦国当時の三陸海岸事情はよく知らないけど
盛岡から宮古までの距離も普通に凄まじい。
海産や鉱山などの利益も独占かな。

614 :人間七七四年:2011/07/28(木) 23:51:39.06 ID:8kTwqvi3.net
>>613
戦国時代は鹿角の鉱山は発掘されてないし
三陸海外は世界有数の難所として交通では使われてなかった。
あと鉱山関係は殆どが旧斯波領や旧阿曽沼領のもの。

615 :人間七七四年:2011/07/29(金) 00:09:30.87 ID:p1iQyvCa.net
阿曾沼領の金山は中華政宗が
伊達領側から地下を堀り進み南部領側に入り込んでぜんぶ掘り出してしまったので幕府の裁判待ちをして良い子を演じてた南部涙目w

616 :人間七七四年:2011/07/29(金) 00:17:08.98 ID:BeUWDI/z.net
自演楽しい?

617 :人間七七四年:2011/07/29(金) 03:07:44.92 ID:T7FIW19B.net
一応突っ込んどくけど、下閉伊・久慈・岩手郡、さらに九戸や上北周辺は有数の鉄鉱山地域
鹿角自体も金山の発見が江戸初期ってだけであの当時から鉱山地域だぞ

618 :人間七七四年:2011/08/01(月) 00:25:43.20 ID:vls6mQcp.net
戦国時代の鉱山って大名の直轄だったの?
それともそこの領主のもの?

619 :人間七七四年:2011/08/03(水) 22:07:47.74 ID:vZbPBzRh.net
武田今川といった戦国大名に脱皮してたところは
自らのものにしてたみたい。
一方の南部は豪族の連合体から脱皮出来ていなかったんで
八戸氏が支配してた北郡、九戸氏が支配してた九戸郡といった
地域では採掘出来なかったと思う。

620 :人間七七四年:2011/08/04(木) 13:57:33.17 ID:iuWS59xw.net
三日月のうんたらってどういう意味かわかんない

621 :人間七七四年:2011/08/04(木) 14:45:36.58 ID:olsRNuvA.net
三日月が満月に変わるまで歩き続けても南部領から出られないって比喩

622 :人間七七四年:2011/08/04(木) 16:36:15.81 ID:iuWS59xw.net
なるほどー

623 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/08/05(金) 23:39:02.41 ID:MvSl4aN1.net
丸くなったら津軽領・・・

624 :人間七七四年:2011/08/06(土) 12:10:33.40 ID:JzPmSMGV.net
見えなくなったら安東領…

625 :人間七七四年:2011/08/06(土) 12:30:35.94 ID:IAabU3Eq.net
また丸くなったら松前領

626 :人間七七四年:2011/08/06(土) 19:06:16.37 ID:HpOS/TZa.net
南部晴政時代と信直時代どちらが広大だったの?


627 :人間七七四年:2011/08/07(日) 02:20:15.43 ID:ke1Udjpe.net
信直でしょ。紫波郡、和賀郡、稗貫郡、閉伊郡を領内に組み込み
一時的とは言え比内も南部領だったからね。


628 :人間七七四年:2011/08/13(土) 13:23:12.87 ID:ZAT99Wcp.net
それだけ広大な版図を持ちながら
水軍一つ持ってないのも不思議な希ガス。


629 :人間七七四年:2011/08/13(土) 18:09:22.95 ID:a8tvu/qP.net
なんで必要が無いものを持つ必要があるんだ

630 :人間七七四年:2011/08/13(土) 23:43:57.55 ID:pnKwop8Q.net
>>626
津軽はもちろん斯波も服従させてた南部晴政だと思う。

631 :人間七七四年:2011/08/14(日) 00:11:09.93 ID:2ulWUxQz.net
>>628
斯波家、葛西家、大崎家、伊達家といった
東北地方太平洋側の有力大名は水軍を持ってません。
というのも当時は東回り航路がなく
水軍をもつ必要性は全くなかったからです。

632 :人間七七四年:2011/08/14(日) 07:28:44.19 ID:KQvhTxhV.net
葛西は気仙沼水軍なかったか?
熊谷が海路から留守応援に行ったり
本吉が歌津衆と戦ってたり、葛西所属かと言われれば疑問なやつもいるけど

633 :人間七七四年:2011/08/14(日) 12:29:59.48 ID:oW1LnC+w.net
葛西は存在する資料の殆んどが出鱈目。

634 :人間七七四年:2011/08/15(月) 14:17:43.11 ID:QntgoRQz.net
気仙沼水軍はあったよ。後に伊達に遣えてる。
南部に水軍があったという話しは聞かないけど
もしかしたら八戸南部だったら居たかも。
蠣崎の乱のときに水軍衆が奇襲をかけて勝利したともいうからな。

635 :人間七七四年:2011/08/15(月) 15:40:36.44 ID:1fGHnDqK.net
水軍って別に海賊ってわけじゃないからな

636 :人間七七四年:2011/08/20(土) 16:48:46.44 ID:+4HkwlKW.net
ノブヤボ脳

637 :人間七七四年:2011/08/23(火) 00:13:50.49 ID:oLQQDqBC.net
光星学院は南部なのか?

638 :人間七七四年:2011/08/23(火) 08:01:56.63 ID:Vxkw7jma.net
八戸

639 :人間七七四年:2011/08/23(火) 23:28:46.16 ID:oLQQDqBC.net
八戸と南部は似て非なる者。
よほどの戦国オタクじゃない限り
普通は区別がつかない。

640 :人間七七四年:2011/08/23(火) 23:29:37.48 ID:oLQQDqBC.net
ということですね。
ググってみたら別物だと分りました。

641 :人間七七四年:2011/08/27(土) 21:47:40.27 ID:MIPOTv0f.net
南部光行の子が八戸氏の始祖では?

642 :人間七七四年:2011/08/28(日) 02:44:40.68 ID:H0jY4/bA.net
よく分らんがなんでわざわざブログに飲酒を書き込むんだ?


643 :人間七七四年:2011/08/29(月) 18:48:12.27 ID:7RbwyNTD.net
坊やだからさ

644 :人間七七四年:2011/08/31(水) 15:10:07.05 ID:n756LYGB.net
「人は城、人は石垣」とスローガンを掲げて
人質戦術で戦に勝とうとする卑劣な武家があったそうな。

645 :644:2011/08/31(水) 16:00:23.52 ID:n756LYGB.net
スレ間違えた
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263523504/l50

646 :人間七七四年:2011/09/08(木) 20:47:31.84 ID:tJrEzpWE.net
m9(^Д^)プギャー

647 :人間七七四年:2011/09/11(日) 07:08:00.53 ID:B9ByYv5i.net ?2BP(0)
晴政

648 :人間七七四年:2011/09/14(水) 23:20:14.05 ID:XxRVrMpZ.net
>>601
三戸城の標高はそれほど高くないけど
絶壁と言っても過言じゃない部分が多く
登れる箇所は限られてるからねえ。
実戦で使われた事はないようだけど・・・

649 :人間七七四年:2011/09/15(木) 22:35:12.95 ID:f1F/2/0q.net
もし南部の本拠が三戸のままだったら・・・・

650 :人間七七四年:2011/09/15(木) 23:09:21.62 ID:q2HH3A7j.net
>>649
藩南部の一揆に全く対応できてなかっただろうね

>>648
良い城だよね三戸城
川に囲まれて防備に良し流通にも良し
支城も整っていて、地味だけど侮れない城だと思うわ

651 :人間七七四年:2011/09/16(金) 00:13:38.73 ID:yahve+ck.net
>>650
盛岡藩の一揆の原因は藩南部に藩士を集め過ぎた事じゃないか?
意外かもしれないが何故か生産力の高い南部の方が
生産力が低い北部より一揆の件数が多く規模も大きい。


652 :人間七七四年:2011/09/16(金) 00:26:54.00 ID:p/IQP9ns.net
>>651
生産力の高い藩南部からの収奪が酷すぎたのは確かだよね>一揆
ただ、三戸が本拠のままだったら、という仮定だったので
タイムラグが大きくなる分対応も遅くなる、ってこと
三戸のままじゃ現岩手県域の実情把握も遅れただろうしね

653 :人間七七四年:2011/09/16(金) 18:33:06.60 ID:yahve+ck.net
>>652
収奪が酷いというよりは北部の統治がザル過ぎて
穏田(今でいう脱税)の取り締まりが出来なかったからじゃないかな?
結果的に藩南部から過剰に税を徴収せざるを得ないのが実情かと。
二戸辺りに支城があったら多少は違ってた気がする。

654 :人間七七四年:2011/09/19(月) 22:09:33.30 ID:XzeEe+1b.net
一戸、二戸、三戸、五戸辺りは
本貫の地だから年貢の取り立てが緩やかだった。


655 :人間七七四年:2011/09/23(金) 12:13:02.29 ID:pkB2JTzq.net
そうなんかー

656 :人間七七四年:2011/09/23(金) 13:44:53.17 ID:6/B8hTTI.net
二戸郡、三戸郡でここまで台風被害が大きいって珍しいね。
あの辺りの河川は氾濫しにくいと思ってたのに。

657 :人間七七四年:2011/09/25(日) 20:31:05.41 ID:LDZojltl.net
浄法寺氏は5000〜6000石の大家と聞いたんですが
本当でしょうか?浄法寺氏の支配域は旧浄法寺町だけだったと思うんですけど
あの地域だけで5000石もあるもんですかね?

658 :人間七七四年:2011/09/26(月) 07:22:31.42 ID:H9olAGo4.net
浄法寺氏の領土は八幡平市や旧二戸市の一部にまで広がっている
さらに言えば、領土としていたのは安比川流域の穀倉地帯だ

659 :人間七七四年:2011/09/26(月) 19:03:59.73 ID:I60VJEma.net
>>658
あの辺、穀倉地帯なんですか?
平地は結構少ない感じですけど・・・

660 :人間七七四年:2011/09/27(火) 08:38:33.93 ID:gW0xI8Y4.net
米の採れない糠部の中ではね
平地が少ないってのは糠部ではどこも同じようなもんだし、流域全体で見れば結構な広さがある
あと浄法寺は十文字川沿いの上斗米あたりにも領地があったそうで
その辺の生産力も加味してたっぽい

661 :人間七七四年:2011/09/27(火) 22:13:11.61 ID:s+gZ6iWV.net
>>659
やませの影響が小さいからねえ。
あと五戸から八幡平にかけての山々は標高が低い事もあって
田畑を切り拓きやすい。

662 :人間七七四年:2011/10/01(土) 06:59:43.79 ID:WN1Q4BVN.net
>>654
単純に隠し田がやりやすかっただけ。
平地だと難しいけど北部は山が多いから
簡単には見つからない。

663 :人間七七四年:2011/10/02(日) 21:44:08.62 ID:trR+fa2y.net
ほほう

664 :人間七七四年:2011/10/04(火) 15:38:07.80 ID:j+/GTNJb.net
南仏家

665 :人間七七四年:2011/10/07(金) 18:06:36.01 ID:r0motI9+.net
いくらなんでも隠し田なんて
あの当時にあっただろうか。
告発されて瞬殺されてしまうのでは

666 :人間七七四年:2011/10/07(金) 22:49:08.81 ID:/LTUolSD.net
隠し田が完全に無くなったのは明治の地租改正以後みたい。
戦国・江戸時代は農耕技術が急激に発達した為
隠し田が最も隆盛を極めた時代かと。
気になってグーグルアースで糠部を見てみたら
結構山に田畑が多かった。

667 :人間七七四年:2011/10/12(水) 21:18:19.40 ID:hu43afNy.net
ほほう

668 :人間七七四年:2011/10/15(土) 00:06:35.37 ID:RGRhmtRH.net
>>649
まあ信直存命時に拠点は二戸に移ってたけどな・・・

669 :人間七七四年:2011/10/21(金) 21:36:36.69 ID:/z0YVa3O.net
よんのへ

670 :人間七七四年:2011/10/21(金) 23:44:05.50 ID:JZgCu7SU.net
四戸宗春の残念具合ときたら

671 :人間七七四年:2011/10/23(日) 07:26:38.62 ID:cj8zgExv.net
岩手の戦国大名・武将なんて残念なとこばかり。

672 :人間七七四年:2011/10/29(土) 17:15:30.98 ID:PFgJS2a0.net
(#^ω^) ビキビキ

673 :人間七七四年:2011/11/04(金) 21:46:29.98 ID:S27z1ieo.net
南部信信

674 :人間七七四年:2011/11/04(金) 22:16:13.96 ID:2C8SelJN.net
岩手県もおもてなし武将隊やれよ

675 :人間七七四年:2011/11/04(金) 22:34:07.97 ID:+3Wc/Mkq.net
北から九戸、斯波、和賀、稗貫、阿曽沼、大崎、葛西か。
もてなされたくねえwww

676 :人間七七四年:2011/11/05(土) 18:50:06.30 ID:j+xYmvjE.net
雫石さんと江刺さんを忘れないでくれ

677 :人間七七四年:2011/11/05(土) 22:25:35.96 ID:UpGVVV5k.net
一関田村子や花巻北信愛子のおもてなし隊とかは?

678 :人間七七四年:2011/11/06(日) 19:36:09.48 ID:2yeHgB7H.net
>>676
雫石氏は斯波家臣。江刺氏は葛西家臣。

>>677
田村氏は福島出身。北氏は青森出身。

679 :人間七七四年:2011/11/08(火) 14:09:45.96 ID:bSZ9kLy2.net
別に出身地にこだわらなくても良くね?
そんなこと言ったら秋田県なんて…茨城県出身の佐竹。
津軽も岩手県久慈市説が…

680 :人間七七四年:2011/11/09(水) 15:02:53.02 ID:vBNZSp03.net
家康だって愛知県出身だ

681 :人間七七四年:2011/11/10(木) 07:49:04.29 ID:EijJQK5+.net
北信愛出せるなら花巻の祭りと絡められるな
意外と北信愛由来の伝承とか多いしあそこ

682 :人間七七四年:2011/11/10(木) 20:58:57.10 ID:1xt9gmZ7.net
岩手の大名といったら普通に九戸政実だろ。
斯波氏を傘下にしたのも実質的には政実だったし
金ヶ崎へ遠征し(何回か失敗したが)城を手に入れ
更には大軍を率いてやって来た葛西氏を
撃退したといった功績もある。


683 :人間七七四年:2011/11/11(金) 12:22:03.05 ID:dIsR+ajP.net
別に九戸でも南部でも葛西でも全部出しゃええやん
武将隊なんてそんな『他の大名や武将は認めません』みたいなもんでもなかろう

684 :人間七七四年:2011/11/12(土) 08:19:34.17 ID:kqjNZxtH.net
ユルい萌え女武将九戸政実とかヤダなあ。

685 :人間七七四年:2011/11/12(土) 10:14:10.28 ID:cTyV/ZvM.net
マサミちゃんか。

686 :人間七七四年:2011/11/12(土) 13:30:15.96 ID:qsUvu7ro.net
どこぞのエロゲならチョイ役で出るかもしれんw

687 :人間七七四年:2011/11/13(日) 15:22:50.97 ID:aSMlhyYP.net
>>682
けど金ヶ崎一帯は木村領になりその後は伊達藩の領地になってるけど
本当に落としたかは疑問符がつくが…

688 :人間七七四年:2011/11/14(月) 22:58:34.47 ID:IjQtto7O.net
伊達成実ちゃん

689 :人間七七四年:2011/11/15(火) 17:36:33.27 ID:9R/DAkNw.net
和賀を屈服させたことで葛西との戦闘が本格化したんじゃね。


690 :人間七七四年:2011/11/15(火) 23:13:35.43 ID:OW1Trm/s.net
和賀氏も最盛期は7万石と言われてたのに
残念な大名だった。
名代を送るなど中央の情勢もそれなりに把握していたのに
秀吉の理不尽な裁定で改易されてしまった哀しい大名。

691 :人間七七四年:2011/11/16(水) 15:37:04.61 ID:BAOmLVTx.net
伊達が俺に任せろと言うから
和賀が、すべて任せますのでお願いしますと
頼んでる時点でバカ

692 :人間七七四年:2011/11/16(水) 20:10:34.79 ID:mjPnQsRn.net
和菓子食いてえ

693 :人間七七四年:2011/11/20(日) 21:03:08.65 ID:Yq3ufLJq.net
>>690
あれだけ南部にフルボッコにされてたのに
よく戦国末期までもったよ。
斯波みたいに従属しなかったし
もっと評価されてもいいと思う。

694 :人間七七四年:2011/11/21(月) 00:15:27.79 ID:HqQQNhDh.net
そして斯波と和賀に挟まれて空気の稗貫ェ・・・

695 :人間七七四年:2011/11/22(火) 00:38:23.55 ID:E1JlL+3T.net
>>694
  そだ  |------、`⌒ー--、
  れが  |ハ{{ }} )))ヽ、l l ハ
  が   |、{ ハリノノノノノノ)、 l l
  い   |ヽヽー、彡彡ノノノ}  に
  い   |ヾヾヾヾヾヽ彡彡}  や
  !!    /:.:.:.ヾヾヾヾヽ彡彡} l っ
\__/{ l ii | l|} ハ、ヾ} ミ彡ト
彡シ ,ェ、、、ヾ{{ヽ} l|l ィェ=リ、シ} |l
lミ{ ゙イシモ'テ、ミヽ}シィ=ラ'ァ、 }ミ}} l
ヾミ    ̄~'ィ''': |゙:ー. ̄   lノ/l | |
ヾヾ   "  : : !、  `  lイノ l| |
 >l゙、    ー、,'ソ     /.|}、 l| |
:.lヽ ヽ   ー_ ‐-‐ァ'  /::ノl ト、
:.:.:.:\ヽ     二"  /::// /:.:.l:.:.
:.:.:.:.:.::ヽ:\     /::://:.:,':.:..:l:.:.
;.;.;.;.;;.:.:.:.\`ー-- '" //:.:.:;l:.:.:.:l:.:


696 :人間七七四年:2011/11/22(火) 11:13:36.15 ID:f/IRvYkk.net
まあ金山資金あった地域だし

697 :人間七七四年:2011/11/23(水) 09:24:31.44 ID:sCj3c56A.net
>>690
7万もないでしょ。南部藩が10万石だったのに
どう考えても計算が合わないよ。

698 :人間七七四年:2011/11/24(木) 12:11:41.09 ID:jzRxEJ/l.net
7万石の実際は検地繰り返しの高直しで出した数字かも
あと戦闘能力は無いけど生存能力には長けたのって結構いるからね

そういえば話は変わるけど盛岡藩は財政難で藩士のほとんどがタケベラだったらしいよ
金山経営が自由に出来た戦国時代の方が裕福だったんだろうな

津軽為信に叛かれたとはいえ南部晴政は名将だったし
為信に叛かれたことと、実子が中々産まれなかったことが落ち目の始まりだったのかね
為信が叛かず、信直を養子に取る前に晴継が産まれてたらもっと違ったのかも

699 :人間七七四年:2011/11/24(木) 18:38:35.64 ID:v5BrNKgy.net
7万石って、戦国期に書かれたって伝わるのに
石高表記している信憑性薄い史料からだろ
和賀領なんて出来るだけ多く見積もっても2万石程度だろ

700 :人間七七四年:2011/11/25(金) 02:32:50.96 ID:PmwlmwGs.net
age

701 :人間七七四年:2011/11/25(金) 13:46:06.14 ID:/90dCj26.net
>>699

> 和賀領なんて出来るだけ多く見積もっても2万石程度だろ

まあ、そんなもんだろうな。


702 :人間七七四年:2011/11/25(金) 14:08:56.80 ID:a7C5qOKR.net
広域権力が成立しなかったのはなぜだ?
割拠できるだけの金山などの経済力があったから?
大地震や大津波でやられたから不毛地帯だったから?

703 :人間七七四年:2011/11/25(金) 17:54:17.61 ID:bM/s3Krn.net
>>697
金山からの収入も含めて7万石と言われてる。南部藩の石高には鉱山収入は入ってないし
幕府に石高を過小申告してるっぽいから頭ごなしに否定するのはどうかと。

704 :人間七七四年:2011/11/26(土) 01:16:28.20 ID:sJvhHDqC.net
>>702
知らね

705 :人間七七四年:2011/11/26(土) 15:04:17.19 ID:8vAMKKA8.net
>>703
開拓が頭打ちになった江戸中期でも、和賀稗貫2郡でようやく実高8万石なのに
戦国時代で和賀ひとつで7万石とか普通にありえん
あとその和賀氏の石高を書いた史料(小田島家記録)では鉱山収入を3千〜4千両としている
仮にそれを1両=2石としても8千石で、たいした割合じゃない

706 :人間七七四年:2011/11/26(土) 15:57:26.57 ID://JFu1Rq.net
和賀氏は石高の割には兵が強かった(というか粘り強い戦いができた)印象があるのだが。

707 :人間七七四年:2011/11/27(日) 01:58:43.36 ID:0eJ79DEL.net
葛西と小野寺の助力のお陰だろ。
彼らにしてみれば和賀は南部の侵攻を防ぐ重要な盾。

708 :人間七七四年:2011/11/27(日) 20:59:53.75 ID:oJUWls/y.net
>>705
詳しそうなので聞きたいんだけど
根城八戸氏は遠野に転封される前は1万6千石だったと言われてるけど
支配域はどの程度のものだったのかな?

今の青森県の東部は北郡5千石。三戸郡8千石で両方合わせても
足りてないのが不可解。まして三戸方面は
三戸南部の領地が大部分を占めてる・・・・・

709 :人間七七四年:2011/11/27(日) 22:11:05.78 ID:forRq74I.net
江戸中期の南部藩の実高って20万じゃなかった?

710 :人間七七四年:2011/11/27(日) 22:58:01.85 ID:oJUWls/y.net
遠野に移されたのは江戸初期の話しでしょ。

711 :人間七七四年:2011/11/29(火) 20:50:27.49 ID:FFl4QNvL.net
>>708
ちょうど図書館行く用事あったんでちょっと調べてみた
元和4年に南部利直が八戸内儀(ねね)に出した知行宛行目録(新編八戸市史近世資料編T収録)
だと、だいたい現在の八戸市域と階上町、それから下北半島に所領が分布してるみたい(田名部は召し上げられた後)

あと岩手郡にも若干の飛び地があり、しめて1万2千5百石となっている
後世との石高との矛盾の理由は分からんけど、知行宛行目録は一次資料だし
記載された村ごとの石高は根拠のないものではないと思う

>>709
だいたい25万石位

712 :人間七七四年:2011/11/30(水) 00:43:31.25 ID:f2XplThL.net
>>708
所領に関しては711の言うとおり。
石高の矛盾に関しては南部藩は石高を過少申告していたことがその理由かと。
沢内村3000石を申告しなかったことからも
南部藩は幕府に対し領内の実高を隠していたかがうかがえる。
あと三戸郡が8000石なのに今の五戸町を拠点にしていた
南氏は3000石。名久井城を拠点にしてた東氏は2000石を有してたらしいが
この2つの家だけで三戸郡の半分以上を占めているわけがない。
これも過少申告の根拠と見ていいと思う。

713 :人間七七四年:2011/12/01(木) 22:24:10.43 ID:HCVGKPBr.net
石高を詐称していたとは面白い見方ですね。
ただ宇都宮家や柳生家がそれによって
改易されたこともあるしリスクは高いのではないでしょうか?

714 :人間七七四年:2011/12/03(土) 08:03:55.58 ID:vJ8WT3PU.net
>>713
この時代の検地は中央の役人の胸先三寸でどうとでもなった。
事前の根回しさえしっかりやっておけば
それほど危険な行為ではなかったと思われる。

715 :人間七七四年:2011/12/03(土) 16:18:39.94 ID:Syk98lsn.net
>>698
>そういえば話は変わるけど盛岡藩は財政難で藩士のほとんどがタケベラだったらしいよ
>金山経営が自由に出来た戦国時代の方が裕福だったんだろうな

「タケベラ」ってなんだろう?
竹光(たけみつ)のことなのかあ? 南部鉄器もあるから違うとは思うんだが。

716 :人間七七四年:2011/12/03(土) 16:28:38.34 ID:rVxxu4yN.net
戦国時代に雪の降るところで稲作は無理なんですよNE

717 :人間七七四年:2011/12/03(土) 20:17:14.32 ID:79eq6KSa.net
金山開発進んだのはむしろ江戸初期
重直が死ぬくらいまでが南部の一番裕福な時期

718 :人間七七四年:2011/12/06(火) 01:04:38.74 ID:BGvQSV8t.net
晴政の頃が一番裕福な気もするけどな

719 :人間七七四年:2011/12/06(火) 21:39:34.57 ID:xH8b8qyK.net
>>712
っていうか、東北の大名は僻地なのを良いことに
過少申告しまくる傾向だよね

720 :人間七七四年:2011/12/10(土) 09:08:24.60 ID:UQp2pzBL.net
>>715
武士が内職してたってことじゃない?

721 :人間七七四年:2011/12/13(火) 22:04:40.32 ID:EjZ7HsBd.net
わびしいね

722 :人間七七四年:2011/12/20(火) 14:46:24.65 ID:7bSiUARL.net
素人が内職で作ったものが売れるのは大都市でないと無理だろ。

723 :人間七七四年:2011/12/20(火) 19:17:16.73 ID:gK8ZNiza.net
>>719
単純に検地が行き届かなかっただけ、土豪の強い地域だで

724 :人間七七四年:2011/12/23(金) 16:00:11.06 ID:qHZ/6d2h.net
幕府への内高の過少申告については、萩藩、徳島藩にも藩内史料が残っていて、
最終的に数割カットの数字を幕府に報告している。
薩摩藩も江戸中期〜後期に人口が倍増しているのに、内高は変わっていない。

不作時のために余裕を持たせて内高を低く出したとも、
稲作以外のカロリー源が増えたとも見なせるが、
要は過少申告は中央から離れれば、どこもやっていること。

現在でも脱税で、真のGDPなんて分かりっこない。


725 :人間七七四年:2011/12/26(月) 19:11:00.98 ID:I9nKs4iB.net
薩摩藩は実高以上に高い石高を設定されてたぞ。

726 :人間七七四年:2011/12/28(水) 12:11:29.96 ID:Qd9BdOAI.net
>>725

幕府が警戒していたのは島津、毛利、伊達などであって、
南部は警戒されていなかった。

727 :人間七七四年:2011/12/28(水) 15:35:35.85 ID:/jCQVieg.net
津軽に叛かれ、伊達に煽られ、飢饉で領民退散したのが南部氏

728 :人間七七四年:2011/12/28(水) 16:35:26.99 ID:sX6Inban.net
>>725
それは江戸時代初期の段階での話。

よく薩摩は領民に8割という高い税金を掛けていたとか言われるが、
それは分母となる課税対象が江戸時代初期の検地の数字で、
本当にぎりぎりの生活を強いられているのなら、
江戸時代後半の東北地方のように人口増加率が停滞するはず。

明治維新になっても薩摩藩は地租改正に抵抗したので、
明治初期の石高も実態を反映してない。


729 :人間七七四年:2011/12/29(木) 19:22:22.54 ID:rB/Xhr5C.net
>>727
欺くってのは違うでしょ。為信の独立は南部晴政のお墨付きかと。

730 :人間七七四年:2012/01/04(水) 22:19:24.64 ID:6+4CEohG.net
実収入は盛岡30万石くらいでしょ

731 :人間七七四年:2012/01/04(水) 22:29:53.12 ID:1BPVZupq.net
公式記録では最大で28万石ほど
その後は飢饉による耕作放棄→再開墾の繰り返しで20〜25万を行ったり来たり
(無論凶作の年は除く)

732 :人間七七四年:2012/01/07(土) 20:36:06.21 ID:3E6Wkwhz.net
盛岡藩は弘前藩、久保田藩、仙台藩に比べて
あまり開墾に力を入れてないように見えるけど理由とかあったの?

733 :人間七七四年:2012/01/09(月) 01:26:45.52 ID:g1gWSFni.net
十和田市、八幡平市の開拓が江戸後期だったことから考えて
財政的に困窮していなかったのがその理由かと。
南部藩は九戸の乱での大身の処分。あと新参の斯波氏、阿曽沼氏を
滅ぼしたり追放したり浄法寺氏を改易したりして直轄地は隣藩とは比べ物にならないくらい大きかった。

734 :人間七七四年:2012/01/09(月) 10:49:02.13 ID:EPI+41MR.net
>>731
南部藩は畑作が比較的多かったことも理由
畑作だと同じ面積でも生産力は低くカウントされる
南部藩だと水田が三百坪一反に対して、畑作は九百坪一反で計算している

それに弘前とか久保田とか仙台みたいな、周囲の米所に比べるとどうしても下田が多かったから
同じ位の面積を開墾しても、石高はどうしても劣る

735 :人間七七四年:2012/01/10(火) 20:14:42.15 ID:mhzvK08D.net
高給取りが少ないから新田の開墾に力を入れずに
畑作メインでやってたということ?

736 :人間七七四年:2012/01/11(水) 00:29:47.66 ID:4ILI0CHE.net
冷夏リスクを考えると畑作が無難だったのかな。

737 :人間七七四年:2012/01/11(水) 01:33:39.57 ID:XmvtVvjZ.net
やませのリスクは青森県の東部だけだよ。
岩手圏域の内陸部はほとんどやませの影響はない。

738 :人間七七四年:2012/01/11(水) 01:59:49.04 ID:gCsHMGRc.net
実収では庄内藩20万石、津軽藩32万石、伊達藩300万石から推察すると、南部藩の
実収28万石は、いかにも少ないわけである。


739 :人間七七四年:2012/01/11(水) 04:45:18.80 ID:oTSy8OGX.net
>>735
高給取りが少ない=直轄地が多くて本家に入る収入が多い、と言いたいのかと
畑作メインってワケではなく、稲作出来ない土地が多かったという事
青森県南部地方や三陸沿岸は基本アウト

>>737
ヤマセは貴方が思うよりもっと大規模な自然現象
直接的に吹き付ける地域だけが影響を受けるのではない
http://www.jma-net.go.jp/sendai/wadai/touhokukikou/kikou-index.htm
つか岩手の内陸部に影響ないとか、1993年の凶作のこと知らない世代?

740 :人間七七四年:2012/01/11(水) 15:34:50.00 ID:dBM1yvNT.net
>>738
「実収」って何だよ?

てかいつ仙台藩が300万石にインフレした?


741 :人間七七四年:2012/01/11(水) 15:44:27.24 ID:imi153d0.net
仙台は御用商人2件潰れているよ。

742 :人間七七四年:2012/01/11(水) 23:32:52.00 ID:XmvtVvjZ.net
>>737
それって相当酷い年じゃ・・・
福島が盛岡よりも低いし・・・

743 :人間七七四年:2012/01/11(水) 23:33:50.21 ID:XmvtVvjZ.net
間違えて自分にレスしてしまった。
正しくは>>739宛て

744 :人間七七四年:2012/01/12(木) 03:17:29.84 ID:qjq5cOU7.net
>>742
この規模の冷害が十年に一回、小規模なのだと三・四年に一回は起こってたのですが
あと当時は今以上に稲が寒さに弱かった上に、江戸時代半ば以降は小氷期

寒気が北上山地を越えるだけで、容易に稲が成育しなくなる条件が当時は揃ってた
三年に一回不作・十年に一回凶作が起こる土地柄では、たとえ内陸でも畑作してリスク分散せんとやってけなかった

745 :人間七七四年:2012/01/12(木) 19:43:27.21 ID:IXHeid6w.net
剣道も柔道もサムライも文化財も韓国の文化になってしまっている。
泥棒だな。でもマスコミも民主も韓国人だから抗議しない。

もうだめなのか日本は?

http://www.youtube.com/watch?annotation_id=annotation_720065&feature=iv&src_vid=RnnLj7ChmL8&v=sW4H2PGj6JU





746 :人間七七四年:2012/01/13(金) 10:59:04.98 ID:5UBrawyc.net
日本はまだ大丈夫だが,南部藩はもうおしまいだ。

747 :人間七七四年:2012/01/13(金) 11:02:21.01 ID:5UBrawyc.net
ウィキペディア「南部利恭」の項が簡潔すぎてどうしようもないので
誰か加筆すれ。

748 :人間七七四年:2012/01/13(金) 23:45:24.17 ID:9AV/FgjS.net
青森県南部地方、岩手県、宮城県、福島県東部は
やませの影響が大きかったから日本海側に比べ農業は大変だったらしい。
基本的にその構図は昭和まで変わらなかった為
太平洋側は工業化でそれらを乗り切るしかなかった。

749 :人間七七四年:2012/01/15(日) 12:21:28.53 ID:1gKtn9Bm.net
>>732
稲作はリスクが高いし商人が力をつけてきてからは
大名達は安く米を買い叩かれるようになってきたからだな。
そういったこともあって南部藩は鉱山や馬産、
北廻航路に利用されてる田名部(現むつ市)の開発整備に力を注いだ。

750 :人間七七四年:2012/01/20(金) 23:25:55.71 ID:flIkAgFe.net
大光寺合戦についてですが、津軽側では天正3年にやった事になってます。wikipediaの『大光寺城』の項目では大光寺城に北信愛が入っていたことになっていて、
さらに信愛の子が大光寺光愛であるとか、光愛が死んだため滝本播磨が入ったとか、言っていることがおかしいです。南部側の記録でも、大浦為信の讒言を聞き入れた浪岡城に居た石川政信のせいで、大光寺光愛は鹿角に落ちたとか言われてます。
これを天正10年のこととしていますが、浪岡御所はこの時点では既に為信に落とされているので、石川政信がこの時点で浪岡に居て云々というのは合点がいきません。
『岩手県史』では大宝寺義氏の書状を挙げて、大光寺攻めは天正10年の事だと言っていて、大光寺城が落ちた時期だけは一致しています。
大光寺攻め及び大光寺光愛の真実は実際はどうだったんでしょうか?

751 :人間七七四年:2012/01/21(土) 23:28:11.29 ID:fWevaJgO.net
>>750
私は大光寺攻めは2回あったのではないかと思ってます。
一度目は天正3年。そして2回目の天正10年もあったのかなと。
六羽川の合戦で惨敗を喫した津軽為信が
安東愛季にもう暴れません。奪い取った大光寺は返しますと
約束し実行したという説もありますし、そんなおかしいことではないのかと。

752 :人間七七四年:2012/01/22(日) 13:56:49.94 ID:MsG1zzJc.net
大光寺は名前がかっこいい

753 :人間七七四年:2012/01/24(火) 19:17:27.95 ID:IC0bJOkA.net
大光寺流超奥義。

754 :人間七七四年:2012/01/30(月) 19:57:06.57 ID:s1+J59/g.net
保守

755 :人間七七四年:2012/02/06(月) 22:34:22.85 ID:hyX8fZsY.net
>>732
平地が少ない

756 :人間七七四年:2012/02/12(日) 10:31:05.38 ID:VNTwe72p.net
南部信直はが興の祖と言われてるのは何故?
これといって大したことしてないのに。

757 :人間七七四年:2012/02/12(日) 11:05:42.56 ID:2L9RAnPi.net
中央政権と良好な関係を構築したのがでかいのかも。



758 :人間七七四年:2012/02/12(日) 22:17:59.97 ID:asBoC8nN.net
江戸幕府に報告した南部藩の公式の内高(支藩を含む)

正保 538村 10万5065石9斗5升1合
元禄 531村 12万8000石
天保 542村 28万8874石7斗9升3合

    元禄(1697年)頃 天保(1830年)頃
和賀郡 2万1885.660石 3万8362.692石
稗貫郡 1万5112.203石 4万2447.666石
志波郡 1万6380.004石 4万7185.279石
岩手郡 1万2223.414石 3万5903.389石
鹿角郡  8272.325石 1万8983.063石
閉伊郡 1万3666.780石 2万6725.210石
九戸郡  7453.368石 1万2891.971石
二戸郡  8148.304石 1万3888.542石
三戸郡 1万8874.014石 3万8575.259石
北郡   5983.928石 1万3911.722石

なお中村哲の計算によると、地租改正直後の明治10年〜明治12年の農産表から計算した
陸中国の農産物米換算石高は68万7770石(日本全国で4684万石)。

地租改正直前の明治5年の陸中国の石高は46万9073石(日本全国で3222万石)なので、
南部領の天保期の実際の農産物米換算石高は、推定42万石程度。

288,875×687,770/469,073≒423,558

明治15年の陸中国の田畑面積は、
田 5万0587.2町
畑 7万4818.8町


759 :人間七七四年:2012/02/12(日) 22:18:23.45 ID:HBWId/96.net
中興の祖:ちゅうこうのそ
衰退し危機的状況に陥ったものを再び興して盛んにした人。

信直が家督を相続(略奪?)したときの情勢は
散々たるものだったからでしょうね。
為信は津軽地方で南部側の勢力を駆逐し
斯波氏には反逆され晴政が勝ちとった岩手群を奪われ
九戸氏は我こそ正当な宗家と主張する有様。
そういう危機的な状況から何とか盛り返したからでしょう。

760 :人間七七四年:2012/02/16(木) 21:03:49.62 ID:FdwJLa1A.net
分裂を中央の力で防いだから中興の祖って呼ばれてるってことか。
もしそれに失敗してたらどういう感じに分裂したんでしょう?

761 :人間七七四年:2012/02/24(金) 22:32:42.88 ID:jknChiiP.net
そりゃもう、めっちゃくちゃにw

762 :人間七七四年:2012/02/26(日) 07:48:28.76 ID:VGP26dEV.net
北から八戸藩、三戸藩、九戸藩、斯波藩、和賀藩、阿曽沼藩
てな感じで乱立しまくってたかも。

763 :人間七七四年:2012/02/26(日) 08:08:01.56 ID:Zk3TXRF8.net
実際九戸は秀吉に土下座、八戸は政栄に土下座して独立を防いだようなもんだしね〜
個人的に、信直の政治力もさることながら、
あれだけ暗殺されかけたのに尽く切り抜けた強運っぷりを評価したいw

764 :人間七七四年:2012/02/26(日) 16:00:44.80 ID:Rv17t7ze.net
南部の殿様は運だけは最高に強いよな。

相馬大作のテロから逃れたり、鳥羽伏見の後で薩長についたのに助命されたりで。


765 :人間七七四年:2012/02/26(日) 18:20:21.58 ID:QXBhrmS3.net
三日月が丸くなるまでほにゃららって
そんなに広くないのにww

766 :人間七七四年:2012/02/26(日) 21:26:50.92 ID:dThxIfVY.net
広さだけなら江戸期でもトップ5に入ってたはず。
まあ広さだけならなwww

767 :人間七七四年:2012/02/29(水) 22:53:52.59 ID:GK72sye0.net
南部は獣

768 :人間七七四年:2012/03/02(金) 00:46:25.88 ID:m2PuTSDP.net
『北斗太平記』全3巻、おもしろかった

769 :人間七七四年:2012/03/06(火) 21:32:13.58 ID:fRM9GSY2.net
へえ〜

770 :人間七七四年:2012/03/11(日) 21:32:21.18 ID:UAV0dw6k.net
>>763
なかなか波乱に満ちた人生を送った大名だよな。
若いころは斯波や和賀、安東と戦ったり
次期当主として扱われてたのが一転して命を狙われる立場になったり・・・
おまけに親父と弟は津軽為信に殺されたし(晴政の密命?)
そっからまた這い上がってくるとか、ようやるわって気がする。

771 :人間七七四年:2012/03/19(月) 22:05:27.24 ID:7TDj8hRr.net
大河化決定だなw

772 :人間七七四年:2012/03/20(火) 05:06:19.01 ID:IcHjphql.net
戦国時代の南部氏と、出羽国の諸勢力は戦闘または同盟したことがあるの?

773 :人間七七四年:2012/03/20(火) 19:26:09.54 ID:gKwxiWBa.net
もっと所領がでかかったら大河化も有り得たろうなw
今の青森全域、秋田の北半分、岩手全域が支配域だったら
伊達政宗みたいに取り上げられたかもw

774 :人間七七四年:2012/03/27(火) 23:37:25.46 ID:oou0J28W.net
そうはいかんざき

775 :人間七七四年:2012/04/02(月) 22:15:49.74 ID:jhxsO49S.net
>>772
浅利氏くらいじゃね?基本的に戦国時代の
南部の戦略は南下がメインだし。

776 :人間七七四年:2012/04/04(水) 18:33:15.55 ID:KML7lrwJ.net
明日花巻城見に行くからよろしく

777 :人間七七四年:2012/04/10(火) 22:20:11.83 ID:Dw8gTLrW.net
>>776
どうだった?w

778 :人間七七四年:2012/04/22(日) 00:34:30.50 ID:B6Q5xPs5.net
南部氏は仮冒

779 :人間七七四年:2012/04/22(日) 07:37:00.19 ID:Ei0CI0AW.net
>>765
三日月の〜は、端から端まで移動してるうちに三日月が満月になっちまったって意味じゃないの?
南部領抜けるのに半月くらいかかったって事。

780 :人間七七四年:2012/04/29(日) 12:47:16.91 ID:WoSGmQ/W.net
大間から花巻まで300キロくらいあるからな。

781 :人間七七四年:2012/05/12(土) 23:15:20.00 ID:U3/WkhLs.net
>>778
てめえ、宝賀厨か

782 :人間七七四年:2012/05/13(日) 21:17:57.69 ID:3cTI/FF3.net
何で九戸政実が攻略したはずの金ヶ崎一帯が
いつの間にか伊達領になってるの?

783 :人間七七四年:2012/05/14(月) 07:05:17.01 ID:xYZkzT87.net
>>782
「はず」 ←ここに注目

実際は、大坂政権→江戸政権によって、線引きされた。
こういう細かい部分の領土のやりとりは、あちこちで行われており、
整理整頓が行われた。
整理整頓するのが、中央政権の役目ともいえよう。

そもそも九戸が攻略した土地が、自動的に南部領かはかなり疑問だ。

784 :人間七七四年:2012/05/14(月) 19:49:02.62 ID:rVAlg1Q1.net
南部の殿様が馬を牛と読み間違えたからって聞いた事がある。

785 :人間七七四年:2012/05/17(木) 14:50:39.46 ID:EdLCnHVk.net
南部の殿様は盛岡バスセンターと中野ブロードウェイを区別できないらしい。

786 :人間七七四年:2012/05/23(水) 20:05:46.79 ID:PABLn9zE.net
>>782
伊達の前に木村親子に与えられてるから。

787 :人間七七四年:2012/05/31(木) 23:29:15.36 ID:0Y4U3vBe.net
なーるほど

788 :人間七七四年:2012/06/04(月) 23:53:52.70 ID:W+rz05LH.net
よし明日久々に
南部城行って風呂入ってくる

789 :人間七七四年:2012/06/11(月) 22:52:52.36 ID:n7TGTiq4.net
>>788
どうだった?

790 :人間七七四年:2012/06/14(木) 23:08:42.49 ID:VmLgQxuE.net
報告なしw

791 :人間七七四年:2012/07/01(日) 11:45:46.87 ID:Rtei05Dg.net
あげ

792 :人間七七四年:2012/07/01(日) 12:01:58.03 ID:Rtei05Dg.net
age

793 :人間七七四年:2012/07/01(日) 12:18:42.34 ID:E1oYpIwa.net
報告が無いのは風呂で溺れたに違いない。

794 :人間七七四年:2012/07/07(土) 00:22:36.66 ID:GK4wdTiu.net
ですよねーw

795 :人間七七四年:2012/07/09(月) 22:54:25.73 ID:8M20aFwV.net
城を枕に討死されたのか

796 :人間七七四年:2012/07/10(火) 22:41:30.46 ID:jvG7x7/X.net
というか北信愛をはじめ三戸南部の家臣が
あれほど信直擁立に拘ったのかが分らないんだけど・・・
いくら庶子とは言え仮にも当主晴政の息子より
信直を推す理由が思い当たらないんだけど。

797 :人間七七四年:2012/07/11(水) 16:34:41.54 ID:02ltdrCD.net
まだ赤子でモノになるかもわからんガキを擁立するより
信直のがましだって思っただけだろ

798 :人間七七四年:2012/07/13(金) 16:18:59.85 ID:UQ6MugqO.net
>>796
取るに足らない家臣ならまだしも、信直は高信の子。
盛岡藩の史書を信じるなら、高信は九戸政真と並ぶ当時の軍事トップでしょう。
晴政派 VS 高信派で南部全体が割れてたことが想像できる。
東政勝とか右往左往してるし

799 :人間七七四年:2012/07/13(金) 21:50:43.93 ID:sj1FTp1n.net
晴継が継いだら九戸一派の勢力が
勢いずくことを恐れたからだろ。
三戸南部が八戸南部から権限を奪ったように
九戸政実が当主格になるのが我慢ならなかったんじゃね。

800 :人間七七四年:2012/07/18(水) 22:29:12.18 ID:t2jUig1E.net
色んな見方があるもんだ。

801 :人間七七四年:2012/07/25(水) 23:49:30.16 ID:eklY8FQp.net
南部はドロドロだったのねー

802 :人間七七四年:2012/07/29(日) 21:34:19.46 ID:Cd0wF1Bi.net
>>798
>>晴政派 VS 高信派で南部全体が割れてたことが想像できる

これ分らないんだが・・・
石川高信が南部晴政と争ってたなんて初耳。

803 :人間七七四年:2012/07/30(月) 13:01:38.30 ID:CiUH+9GX.net
もともと高信は晴政の後見やってたけど信直が跡継ぎから外されたあたりからそりが合わなくなったってことではなかったっけ?

804 :人間七七四年:2012/08/11(土) 20:54:48.36 ID:RqgumLcJ.net
小説『天を衝く』と史実を混乱しているような気がする。

805 :人間七七四年:2012/08/12(日) 00:52:09.36 ID:cSUafMrF.net
つまり晴継出生の時点で急速に悪化したのか

806 :人間七七四年:2012/08/13(月) 18:31:03.49 ID:O7F9/AaI.net
晴政の世継ぎが生まれず焦って養子としたのが信直。
それで安心してたのに実子の晴継が生まれて、
そうなると実子に継いで欲しくなった→信直邪魔
という流れじゃなかったっけか?
石川vs晴政なんてもんだったかどうかは知らんけど。

807 :人間七七四年:2012/08/14(火) 13:31:48.84 ID:9MUrXf46.net
信直の実の父が高信だからなあ
実の子供に権力握らせたいのはどちらも同じかと


808 :人間七七四年:2012/08/14(火) 23:05:19.92 ID:s2hd1z32.net
信直も田子城に隠居なんて半端な真似をせずに
親父の元に避難してればあんな騒動起きなかったのかもな。

809 :人間七七四年:2012/08/25(土) 21:54:43.05 ID:Zteku4L1.net
>晴政の世継ぎが生まれず焦って養子としたのが信直。
>それで安心してたのに実子の晴継が生まれて、
>そうなると実子に継いで欲しくなった→信直邪魔

追記すると
信直の後見人、石川高信が邪魔。
おい大浦為信あいつをやったら津軽をお前の好きにしていいぞ。

810 :人間七七四年:2012/09/02(日) 16:47:22.58 ID:I81O+oYG.net
山梨県の南部町はもっと南部氏をプッシュしていいんじゃよ

811 :人間七七四年:2012/09/07(金) 20:29:52.59 ID:7WHBd+t/.net
http://www.nikkeibookvideo.com/item-detail/16825/
http://www.nikkeibookvideo.com/goods_img/168253.jpg
。 。
 /  / 
( A )

812 :人間七七四年:2012/09/07(金) 20:50:49.38 ID:rO2X1sVD.net
小国なのか・・・軍記物で恐縮だが
鹿角奪還とか斯波氏率いる連合軍との戦い、
あと九戸の乱とかで1万人以上動員してるのに。

813 :人間七七四年:2012/09/27(木) 21:54:03.25 ID:ZZer/OK/.net
工藤業綱って実在の人物?
信直を暗殺には、失敗したが鉄砲の腕を見込まれて
登用されたとかまるで漫画みたいな話しだけど。

814 :人間七七四年:2012/10/22(月) 23:47:02.55 ID:wE2J/arr.net
>>811
!?

815 :人間七七四年:2012/10/24(水) 13:53:17.95 ID:uB7KMeGU.net
晴政の馴れ初めの逸話がすごい好きなんだが
道歩いてたら農民の娘がいきなり跳びかかって来て縁起がいいからって泥をベタベタ塗りたくって
その時に一目惚れかなんかしたのか嫁にして生まれたのが晴継

晴継さんが家を継いでたらロマンチックだったのになって思っちゃう

816 :人間七七四年:2012/10/24(水) 20:50:45.32 ID:SYcempkt.net
七戸家家臣の末裔がきますた

817 :人間七七四年:2012/10/25(木) 13:43:45.39 ID:NuVYBbNT.net
八戸氏庶流の末裔がきました
弘前藩士で明治をむかえたらしいけどね

818 :人間七七四年:2013/01/12(土) 20:59:21.38 ID:DocW4l8a.net
大名同士はいがみ合ってても民間はそれなりに交流があったみたいだね。
南部領から駆け落ちで津軽藩に逃げる人も多かったみたいだし。

819 :人間七七四年:2013/01/31(木) 00:07:23.96 ID:mtlTXbiA.net
強いのか弱いのかハッキリしてくれ。の南部さん

820 :人間七七四年:2013/02/10(日) 23:45:46.83 ID:Rouy2pp3.net
普通に強いだろ。ただ領土が広すぎて
統治しきれなかっただけであって。

821 :人間七七四年:2013/02/11(月) 20:49:01.43 ID:Hh2Z8Hf4.net
南部ってつまり南部一族の連合体ってこと?

822 :人間七七四年:2013/02/13(水) 17:59:56.66 ID:YjkVCoyh.net
南部一族に津軽地方の浪岡北畠と大浦、
岩手県央の斯波と阿曽沼、あと鹿角郡の諸将を
合わせて南部家って呼ばれるのが一般的。

823 :人間七七四年:2013/02/16(土) 20:56:28.92 ID:1B1FI248.net
なるほど、地域連合みたいなもんだったのか
サンクス

824 :人間七七四年:2013/02/17(日) 12:04:42.23 ID:kMjNMRgI.net
>>822
斯波は違うだろうがよ明らかに。あと
北畠も文献を鵜呑みにするなら南部とは別個で別格の存在ってことになる。
南部の血でなくても南部に仕えた一族は多いが
そうでないのまでいっしょくたに南部とは呼ばん。

825 :人間七七四年:2013/02/21(木) 20:40:47.36 ID:7I/FHYMP.net
斯波は中野康実を受け入れさせられたりしてたし
事実上、従属してたと考えていいんじゃないか。
北畠に関しては確かに南部家ってのは言い過ぎだったと思う。

826 :人間七七四年:2013/02/22(金) 00:09:05.16 ID:WrRjSrSR.net
>>825
戦国もだいぶ終わりに近づいたころじゃない・・・
信直の代になってからだよね

827 :人間七七四年:2013/02/26(火) 23:28:56.33 ID:qz/iUyg0.net
せっかく政実の弟が斯波の娘を嫁にしてたんだから
後世に斯波家は残しておいて欲しかった。

828 :人間七七四年:2013/04/30(火) 21:50:27.90 ID:xmZlIxH9.net
age

829 :人間七七四年:2013/05/24(金) 20:11:27.28 ID:Ebg1J+FA.net
>>824
浪岡北畠っていつの間に津軽地方で最大勢力になったんだろうか・・・
当初は旧浪岡町くらいしかなかったはずなのに

830 :人間七七四年:2013/05/26(日) 14:31:07.76 ID:3tCvvYbY.net
普通に考えて南部が安東を追い出したときだろ。
一般的には南部家が安東をと言われてるけど、
もしかしたら北畠が主導で安東と戦ったのかもしれん。
でないと説明がつかない部分が多々あるし。

831 :人間七七四年:2013/05/26(日) 17:18:56.94 ID:G1x5Khc9.net
最大だったかどうかはともかく、
北畠って言えば太平記の頃の南朝奥州小幕府の将軍。
北畠顕家でググれば当時における重要性が分かる話がなんぼでも出て来る。小説にもなってるし。
安東や南部なんかはその下で足利勢である斯波らと戦ったわけ。
安東はともかく南部は相当最後の方まで北朝に帰順しなかった南朝の鑑みたいな一族だから
南北合一の時のどさくさにかつての上司に棲家を献上しててもおかしくはない。

832 :人間七七四年:2013/06/01(土) 11:33:44.94 ID:GL/BCA+h.net
大浦、千徳、大光寺といった豪族と比べて版図も広いし
独自に朝廷と関わってることからも戦国大名として見られてる。

833 :人間七七四年:2013/06/02(日) 19:40:38.78 ID:QXM/uXE6.net
親戚同士クソみたいに仲悪いし極寒僻地の広大な領土を行軍するだけでも1割くらい離脱しそう
おかげで津軽に離反されても動けずに領土の4分の1(しかも本領)をみすみす逃す体たらく
後半なんとか仲良くなって斯波を滅ぼしたがそのころには葛西家とまともに戦う勇将も国力も無い
ついでに九戸に裏切られて領土の半分を失う(もう南部家ってどこが主家なの?)
運が良い事に秀吉と仲良くしておいたおかげで九戸を討伐してもらうが宿敵だった葛西も瞬殺されて愕然
自分たちの誇った領土も中央に換算するとせいぜい10万石。三日月(爆
正直呪われてると思う

834 :人間七七四年:2013/06/02(日) 20:38:29.96 ID:QXM/uXE6.net
動員できる兵力は全力でせいぜい3000人ってことになるがこれが青森岩手を縦横無尽に駆け回れるわけもない
安東と津軽に半分振り分けるとして1500人しか運用できない
これに葛西伊達とも敵対してるから如何に四面楚歌かが判る
しかも一族仲悪い
なんで強いって言われてるのか解らん

835 :人間七七四年:2013/06/02(日) 22:36:46.72 ID:6M6u+rWs.net
>>832
「見られてる」って誰に?
出自が公家の国司なんだから朝廷と関わって当たり前なんだけども。
一族の権益を守るため武装して土地を取り合った戦国大名として
浪岡の北畠を見ていいかどうかは疑問。

>>833
強力な主家が一族を纏める、といった戦国大名になっていなかったのを
太閤秀吉のお達しで代表ひとりってことになったから揉めたのが九戸の乱。
九戸には「主君たる三戸への裏切り」なんて意識は微塵もなかったはず。
三戸と八戸どっちが主家だったか、なんて基礎的なことにすらいくらでも説がある。
おまけに八戸はバリバリの日蓮宗だが他は違うとか、それぞれの体質が随分違っていた。
晴政の時代にまとまりかけたが世継ぎで揉めたことが引き金で津軽の独立となった。
これらをして「一族仲悪い」と一概に言っていいものかどうか。
そりゃノブヤボで「南部家」とまとめてしまうと不自然な「一族」だけど、
太閤サンの時代まではそれが普通だったとも言えるわけで。
伊達家のゲームでの顔ぶれとかも似たようなもん。

あと「強いって言われてる」って誰に?

836 :人間七七四年:2013/06/02(日) 23:56:54.52 ID:QXM/uXE6.net
>>835
>>820

岩手の大名と言えば南部だけど歴史は古くてもやってることは地味すぎるんだよ
歴史の教科書でも色つきで領土書いてるけど大したことないし
あと晴政がいたのに「主家は三戸じゃない」ってのもおかしいよ
晴政いなかったら安東に滅ぼされててもおかしくなかったんだから
しかも八戸が折れて三戸主家でいいよってなってる筈

立地は悪いけど某小説で言ってたみたいに、もし晴政の時代に一丸となってれば
伊達家に匹敵してたかもしれないだけに無念だったろうね
まあ九戸も信直も晴政も戦犯なんだけどさ

837 :人間七七四年:2013/06/05(水) 21:00:34.41 ID:viYT8uRO.net
>>835
戦国大名の定義そのものが難しい問題だけどな。
ただ浪岡北畠は独自に検地を行ったり、津軽地方の約半分を支配下に治め
津軽の政務は北畠が担ってると書かれてるし、
単なる一国人の枠を突き出てる存在なんだから普通に戦国大名と見られてる。

838 :人間七七四年:2013/06/06(木) 21:03:41.02 ID:QJMrLQK4.net
北東北の城や古戦場なんかも非常に地味だよな。
どこか面白いところないかねぇ〜

839 :人間七七四年:2013/06/06(木) 21:54:00.57 ID:LQatlG4v.net
>>836
戦国時代じゃ地味な印象だろうけどねえ。
足利将軍直属の軍勢を一度は破った南北朝期を忘れないであげて。

晴政の時代に安東が攻め込んだのは鹿角。
要するに南部のテリトリーの中でも辺境で
南部そのものを駆逐する意図があったとはとても思えん。
つかその時安東を降伏させたのが他ならぬ九戸なんだがねえ。

晴政の時代が特別視されているのは単に、三戸南部にはこの時期以降の史料が多く
しかもそれ以前の史料がほぼ真っ新に焼失しているからとしか思えないんだが。
実際戦争で活躍してるのは晴政より信直。斯波を滅ぼしたのもそう。
つか応仁以前にも他勢力とのいざこざが絶えなかった南部の歴史の中
鹿角防衛戦がどれだけの意義を持っていたかは疑問。
一族を統一して攻めて来た安東に対抗するため一族が結束したことには意義があるが
Wikiに書かれているような「有力支族を旗下におさめ」なんてものだったかも疑問。

異説諸説がまかり通っている南部史をWikiの知識ひとつで語ってもしょうがない。
あと「言われてる」「されている」なしには語れませんか。とても気持ち悪いです。

840 :人間七七四年:2013/06/07(金) 04:01:55.97 ID:D80XL6I8.net
>>839
自分がソースで語る方が気持ち悪いわ
らしいらしくないで語るなってタイムスリップでもしてきたのか?
南部の大まかな流れを知ってる上で敢えて全部否定してる様だけど随分齟齬だ目立つな
鹿角は安東と南部の境界線だろ
国力が互角の安東がそこを越えてくるって時点で十分危機だっつの

841 :人間七七四年:2013/06/07(金) 23:19:17.17 ID:DkWTsD5Z.net
>>836
南部晴政も伊達輝宗も共に最盛期を築くけど
後継ぎに失敗してる点もそっくりだけどな。
輝宗は長男が想像以上にイカれてたし、
晴政は庶子の長男に無理やり家督を継がせようとしてお家騒動を引き起こしちまった。

842 :人間七七四年:2013/06/08(土) 00:27:52.47 ID:AqAj+f0c.net
>>840
津軽の北畠が権勢らしきものをふるうのは戦国大名が生まれるずっと前で
安東愛ちゃんや南部のはるるんが辛うじて戦国大名に相応しい体裁を持った頃には
お飾り集団に堕しているね。
津軽北畠にもいい時代があったことを言いたいなら戦国大名を持ち出すのが変だし
北畠戦国大名説なるものがあるならどこで言われてるかソースを示すべきじゃない?

843 :人間七七四年:2013/06/08(土) 07:30:53.43 ID:FzTPF1/h.net
>>834
南部の真骨頂はその外交力。戦国末期にあれだけ
中央政権を上手く使った大名はいない。
例えば斯波氏を滅ぼしたのは、明白な惣無事令違反だが
お咎めなしどころかそのまま支配を認められてる。
また奥州仕置に乗じて、失った津軽郡の代わりとして加増されたが
南部が支配してたのはせいぜい南津軽程度なので
失ったものよりも遥かに得た物の方が大きい。

844 :人間七七四年:2013/06/09(日) 10:31:43.82 ID:l0mLCkc0.net
斯波氏があまりにも政治力無さすぎが原因だと思う
斯波氏はほんといいところが宗家も含めてない。まぁ吉良なんかも糞だが。

845 :人間七七四年:2013/06/09(日) 10:47:20.47 ID:FYorIRs3.net
斯波氏の宗家 = 足利なんだが。

846 :人間七七四年:2013/06/10(月) 21:49:12.19 ID:CGQTB9ad.net
>>842
浪岡北畠の最盛期は戦国時代の
浪岡具永・具統親子の代だったんだけど・・・

847 :人間七七四年:2013/06/11(火) 03:08:06.00 ID:nCLEwRfb.net
閉伊氏なんかも戦国大名と言っていいなら浪岡もそうなのかもだけどね。
津軽は浪岡を攻めたけど南部や安東からは「保護」されていたはず。
名家ではあるが南部に従属してる浄法寺、工藤が戦国大名と言われないところを見るに
南部らの世話になっていた浪岡北畠を戦国大名と呼ぶのは違和感があるよ。
戦国大名っていう身分があったわけじゃなく、後世の評価がその定義になるような単なる言葉だから
どうでもいい話ではあるけど、例えば南北朝以降居座っている南部が戦国大名なんて言われるだけの
格を得たのは晴政あたりってことになっている。浪岡具永なんかよりずっと後だ。

オレも「浪岡北畠は戦国大名だ」と積極的に主張しているものを見たことがない。
あるなら素でソースきぼん。

848 :人間七七四年:2013/06/11(火) 19:54:01.09 ID:0LcY9AMy.net
県史だったか町史だったかは忘れたが
それに書いてたと思ったな。
というか大名じゃないなら浪岡北畠は何に当たると
考えてるんだ?

849 :人間七七四年:2013/06/11(火) 22:05:19.83 ID:rIJzYMtX.net
大名じゃないなら国人だろう。二本松の畠山も本家なのに零落してそんな扱いだ。

850 :人間七七四年:2013/06/12(水) 21:15:13.55 ID:ND51MXOj.net
国人はねえだろ。WIKIで戦国大名の欄をみると
一応、北畠も入ってるぞ。

851 :人間七七四年:2013/06/12(水) 22:46:30.54 ID:Tf3zwHL8.net
二本松も入ってるけど、二本松はどう見ても国人だ。

852 :人間七七四年:2013/06/13(木) 02:01:45.63 ID:lqKqpLsC.net
二本松氏を国人とか・・・

853 :人間七七四年:2013/06/13(木) 11:18:02.89 ID:FyVhEwfC.net
北畠は戦国大名かどうかは知らないが大名は大名だろ

854 :人間七七四年:2013/06/13(木) 16:21:32.49 ID:qKPdenEi.net
じゃぁ奥州管領から転落して二本松に逃げ延びた畠山氏と戦国大名化する以前の国人時代の毛利氏と
どれくらい違うものか俺に教えてくれ。

855 :人間七七四年:2013/06/13(木) 21:25:11.58 ID:RnPucNm6.net
どーでもいい。引っ張り過ぎ&必死過ぎ
そもそも北畠があの北畠の末裔かどうかまで怪しいんだぞ?
しかも戦国大名だったと書いてあったらしいのは
東日流外三郡誌なんかを平気で郷土資料にまとめる
悪名高き青森県の郷土史家なんだろ?
2chの噂レベルでくだらねーこと言い合うくらいならちゃんと史料集めて来い。
戦国大名の定義をテコに議論してたらマトモな結論なんて出っこねーよ。

856 :人間七七四年:2013/06/14(金) 09:11:41.16 ID:FPiBJTms.net
ある程度の広域領主権を持って
国人たちに安堵状を発給するのが大名じゃないかな。
二本松畠山・浪岡北畠はそういう意味では戦国大名へ昇華できなかった。
ただ、ただの国人とも違う古びたものの権威は持つ高貴な家柄で
問題が生じたときは権威をひっぱりだして解決が図れる一目置かれる土着国人と貴族の中間に位置するもんだろう。
ただあくまで権威であって権力ではない

857 :人間七七四年:2013/06/14(金) 22:31:34.77 ID:3ZesG02w.net
津軽地方の半分が勢力圏だったわけだし石高は確実に
1万石を超えてるだろうから戦国大名だろ。

858 :人間七七四年:2013/06/14(金) 22:43:55.04 ID:AKZeEKsB.net
1万石というのは江戸時代の基準では無かろうか。

859 :人間七七四年:2013/06/15(土) 10:26:01.40 ID:w3FDH/ou.net
東北の北端ともなると領域支配がそもそもあやふやだったんじゃないのか?
南部からしてはっきりと安堵状を通じての主従関係をきっちり結んでいたか怪しい。

860 :人間七七四年:2013/06/15(土) 22:58:33.90 ID:0+2sZFQ5.net
そもそも戦国時代の大名は領域ってのが明確になってない。
基本的には豪族連合みたいなもんだしな。
だからこそ求心力を保つために合戦や中央工作をしてた

861 :人間七七四年:2013/06/15(土) 23:20:19.45 ID:UvYDXJmy.net
戦国時代に東北の北の方って米取れたの?

862 :人間七七四年:2013/06/16(日) 02:21:44.37 ID:iJFdil6w.net
取れない。近代現代に西洋の農業技術や品種改良が成されるまで
ロクに取れなかった。
平成になってもおてんと様の具合一つで収穫ゼロなんてことがあった。

863 :人間七七四年:2013/06/16(日) 20:55:25.11 ID:jJCfyvSc.net
当時、米がとれる北限は太平洋側が北上盆地辺りまでで
日本海側は鹿角と大館くらいまで

864 :人間七七四年:2013/06/17(月) 13:46:59.91 ID:2FjyX5Bn.net
鹿角って南北朝期は南部氏の勢力範囲だったよね

865 :人間七七四年:2013/06/17(月) 17:04:30.10 ID:sUHx797d.net
なんで北の大名なのに南部って言うの?

866 :人間七七四年:2013/06/17(月) 17:33:52.63 ID:opO94+9i.net
甲斐の国に南部という土地があってそこからやって来た。

867 :人間七七四年:2013/06/17(月) 20:48:11.58 ID:qyrx0tVF.net
>>857
そういうこと言いだすと和賀まで戦国大名になってしまう気がする

868 :人間七七四年:2013/06/22(土) 20:06:12.38 ID:/GGGoqYQ.net
>>864
鹿角四天王とは何だったのか・・・

869 :人間七七四年:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:8CcFxg9a.net
>>862
米が採れない=経済力が弱い。なはずなのに
周りの米が採れる大名相手に優位に立てたのかが不思議。

870 :人間七七四年:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:K8ICTdDS.net
不思議は無いだろ。北東北は何処も取れないんだから。
「周りの米が採れる大名」は存在しない。

871 :人間七七四年:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:8bbTGnrZ.net
関ヶ原の戦いの時の伊達…

872 :人間七七四年:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:X/dho6fX.net
>>870
クマ狩りや動物狩りはあったぞ。毛皮がないと真冬過ごせないからな。
つまり動物の肉は採れてた。

873 :人間七七四年:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:3Qci7c9i.net
北上平野と秋田は割と早くから稲作が行われてたから。
特に北上平野は稲作以外にも古くから金が採掘されてたし
東北地方では割と拓かれていた方。

874 :人間七七四年:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN ID:ScDYagMy.net
寒冷化したからな

875 :人間七七四年:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN ID:st38I76Q.net
岩手県民だが、大学入って盛岡行くまで南部藩主代々の墓の場所(高松公園)すら知らなかった。
由緒正しい南部藩士の末裔とかは別として、俺含む岩手県民一般の認識ってそんなもんだと思う。
名君・暗君以前に「空気」w

876 :人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:7XuXhns2.net
>>869
確かに糠部郡は米がとれないけど鉄や漆、馬といった合戦に
欠かすことは出来ない物は豊富にあったからでしょ。

877 :人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:93QpczOG.net
WIKIの南部信直の項目に『天正18年(1590年)1月津軽へ兵を進める』
ってあるけど、北国での1月に軍事行動は可能だったの?

878 :人間七七四年:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN ID:uGBDwb8L.net
無理。あの時代に雪中行軍なんて出来るわけがない。
恐らく間違った資料でも読んで書いたんだろ。

879 :人間七七四年:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN ID:Apm2Hhem.net
史実の方は知らんが、一応

旧暦天正18年1月29日 ≡ グレゴリオ暦1590年3月5日

3月も雪積もってそうだけど

880 :人間七七四年:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN ID:7Z3dqSlN.net
1000年に一度の異常気象で降雪量が少なかったとか?

881 :人間七七四年:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN ID:Apm2Hhem.net
とりあえず『南部史要』によると、
天正18年正月の祝いの席で、大浦為信が浪岡城の郡代と喧嘩したのが原因とされる

実際の戦闘開始は天正18年旧暦3月26日(西暦1590年4月30日)に大浦為信が浪岡城を襲った時で、
南部信直が軍を津軽に向けたは、それよりも後

南部信直の軍は先鋒が野辺地まで進んだものの(本人は七戸まで)、
本軍は特に戦うことなく小田原攻め撤退している

ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763427/37

十八年正月十日浪岡城の具足餅開きに際し、
態と郡代と争論して無礼の言を放ち、諸士にその理非を問ふ。
諸士その威に恐れて皆為信を是とす。
窃に喜で愈兵を挙ぐるに決し、
三月秋田実季の臣秋田四郎兵衛に使を遣して援兵を乞ふ。
(中略)
三月二十六日秋田の援兵至るや、即夜急に浪岡城を攻む。
城中事不意に出でたるを以て大に狼狽し、
士卒城を陥れて為信に帰する者多し。
二十八日城遂に陥り両軍代出奔して三戸に帰る。
(中略)
公この敗報に先ち、自ら兵を率て津軽を討たんとし、
先鋒の任に当らしむべく九戸政実を召す。

882 :人間七七四年:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN ID:PkRhvygB.net
佐々成政のさらさら越えみたいなもののあるけどな。

883 :人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:pmCyQR1m.net
伊達の芦名攻めで雪かき進軍してたような。

884 :人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:czC9GRoJ.net
ニューカスで南部が在日姓扱いされてた
そりゃ北なのに南部なのに疑問持つのはわかるがあんまりだ

885 :人間七七四年:2013/09/03(火) 21:52:28.13 ID:7WstMYCI.net
>>884
あっちの住人がいかに根拠なく人を叩きたいか分かったんだから
よかったじゃねえか。これを機にネトウヨ卒業汁。

886 :人間七七四年:2013/09/05(木) 00:24:13.55 ID:pn92LWu0.net
ネトウヨは金や木下の苗字ってだけで在日認定するからな。もともと日本にある姓なのになw教養なさすぎ。
木下がみんな朝鮮人なら秀吉は同族相手に戦争したのかと。

887 :人間七七四年:2013/09/09(月) 22:41:35.04 ID:hpLb0Ibb.net
第22代の南部政康って家譜じゃ1461-1507になっているけど
南部安信の後の世代の人物に思えてしょうがない。

・千徳村黒森神社の棟札に天文十年「南部右馬允安信」に比べ
二戸郡斗米村の月山神社棟札の永禄二年「南部新四郎政康」、
二戸郡御返地の新山神社棟札の天正五年丁丑「源政康」
活動時期が逆転していること。
・三戸南部氏から偏諱と思われる南家歴代の諱が、南「信」義(長義)―南「康」義であること。
・永禄、元亀頃に活躍した桜庭光康が南部政康、安信に仕えたと伝わること。
安信も天文頃まで生存しているから、政康が安信の後にくればこの伝えの辻褄は合う。

このくらいしか根拠ないが、第21代の南部信義との関係が曖昧だし、
子とされる毛馬内秀範が1521年生(鹿角志の大光寺縁起によれば1508年生。)である。

安信以前の家譜が相当疑問なのはわかっているけど、
実際のところ、信義―安信―政康―晴政の順ではないのかなぁ。どうだろうか?

888 :人間七七四年:2013/09/16(月) 21:00:29.62 ID:wCV0odlM.net
南部当主の正統後継者は晴政じゃなく
石川高信だったという説もあるからねえ
実際のところは誰にも分からないし
今後も分かりそうにはない

889 :人間七七四年:2013/09/22(日) 14:01:04.45 ID:AnC5gjXE.net
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/

890 :人間七七四年:2013/12/21(土) 19:31:27.65 ID:1jjk3T/9.net
>>835

> おまけに八戸はバリバリの日蓮宗だが他は違うとか、それぞれの体質が随分違っていた。


なるほど。宗教までは頭が回らなかったよ。

891 :人間七七四年:2014/04/01(火) 23:58:23.22 ID:tOskXxXK.net
伝説の当主南部輝政

892 :人間七七四年:2014/05/25(日) 14:09:53.91 ID:oyrSgGnm.net
晴継の本名乗とか?

893 :人間七七四年:2014/06/13(金) 01:57:17.04 ID:veAV/CNo.net
九戸政実の乱鎮圧で活躍してたね

894 :人間七七四年:2014/06/21(土) 10:06:21.04 ID:EkSvx9Vo.net
パチ乙

895 :人間七七四年:2014/10/02(木) 07:29:56.30 ID:bZIF/SUf.net
南部氏最古の家紋か 南部・聖寿寺館跡で出土
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201409/20140930_25007.html

896 :人間七七四年:2014/10/08(水) 03:25:52.82 ID:liNj28WM.net
聖寿寺館跡は公園になるらしい
近くの三光寺には信直夫妻の墓所や利直の霊屋なんかがあり町のHPにも載っているが寺側が非公開にしていて見られなかった
住職に遠方から来たと言ったら見せてくれたという人の話もあるがあまり観光向けではないのだろうな

897 :人間七七四年:2015/01/23(金) 00:30:46.06 ID:0A6q+d6H.net
九戸の乱ってどんな感じだったんですかね
アイヌの毒矢と伊達政宗の騎馬鉄砲隊が活躍したとか
色々言われてますけど、攻城戦で毒矢や騎馬鉄砲は
あんまり意味がない気がしますが

898 :人間七七四年:2015/02/02(月) 22:49:39.73 ID:YCU/3Ey9.net


899 :人間七七四年:2015/02/13(金) 00:39:01.49 ID:Ir2Bt14J.net
一次資料ではあっさりとしたものしかないから上方軍の詳細は不明。
九戸抜刀隊、九戸鉄砲隊の逸話も基本的には口伝を
後世の人が纏めたものだから信憑性には疑問符が付く。
ただ10倍以上の髪型軍が謀略を使わざるを得なかったことから
初戦は九戸側は善戦したと思われる。

900 :人間七七四年:2015/07/15(水) 23:45:27.65 ID:gfKgwlO0.net
滝本重行って南部側の資料に載ってますかね?
大光寺城及び大光寺氏のことを調査してるんだけど、意味不明すぎる。
やっぱ津軽側の創作話ですかね。

901 :人間七七四年:2015/07/16(木) 07:56:14.95 ID:ucyyn8nS.net
あの時代は基本的に南部側の資料のほうが色々怪しいからなぁ

902 :人間七七四年:2015/07/16(木) 16:07:15.54 ID:F7YKmRhd.net
近世史料でいいなら奥南落穂集に『瀧本播摩守頼喜 仕高信 大光寺同意為信と戦死』とか
『下根杭日向守鎮元 瀧本播磨守頼喜と同断』とかある。

903 :人間七七四年:2015/07/16(木) 21:58:43.05 ID:kWrx5Mff.net
>>902
ありがとう助かります。
下根杭って下名久井、つまり東氏か工藤氏だよね。
奥南落穂集の津軽の欄、読みなおしてみる。

904 :人間七七四年:2015/07/17(金) 06:49:31.23 ID:mFTxq58A.net
>>227

> 葛西や大崎なんてgdgdの代表格だが、外の敵には比較的団結して戦うしね

アウェイでは弱いが、ホームゲームには強いんだっけ?

905 :人間七七四年:2015/07/17(金) 20:36:55.34 ID:hkGJubM2.net
南部氏の津軽への影響力は
戦国時代になると大分落ちてるみたいだからねえ
色々と調べてもせいぜい南津軽郡しか
支配できてないっぽいし

906 :人間七七四年:2015/07/18(土) 11:20:51.67 ID:viuMqmPj.net
石川高信がいる頃は完全に支配してたんじゃない?
横内、油川、大浦、石川、和徳、大光寺、田舎館、浅瀬石、ってこれ全部南部の城だよね

907 :人間七七四年:2015/07/18(土) 19:30:29.67 ID:yK3WG8Wb.net
信直の父親だからだいぶ良いように書かれてるので実態はどうだったのか

908 :人間七七四年:2015/07/18(土) 21:49:41.92 ID:HBtyCJ/L.net
大浦が出兵要請を断れないくらいには支配してたんじゃない?

909 :人間七七四年:2015/07/18(土) 21:51:42.25 ID:su5+GSdC.net
そもそも津軽は平穏無事だったから、そんなに気合入れて支配したわけじゃないんじゃないかな。
俺の知ってる限り、下国家を津軽に追いやってから大浦為信が反乱起こすまでに津軽で起った戦闘って、
・安東政季が糠野城を拠点として津軽奪回を目論むも地盤が緩すぎて失敗
・大浦氏と小山内氏の喧嘩
ぐらいだし、郡代を置いとくぐらいで充分な支配だったと思われる。
結局大浦為信に全て掠め取られてしまうのは、お家騒動で対応できなかったのもあるけど、
やっぱり奥羽の戦国大名にとって山間部を越えての支配はキツかったんじゃないかな。
特に南部氏は領土の広げ方と、占領した土地の治め方がチグハグすぎる。
その点、やっぱ織田・武田・後北条辺りは凄い。

910 :人間七七四年:2015/07/18(土) 21:54:46.06 ID:su5+GSdC.net
失礼

下国家を津軽
じゃなくて、下国家を渡島
です

911 :人間七七四年:2015/07/18(土) 23:10:37.73 ID:8iEy0sss.net
伊達は福島県の伊達郡・信夫郡と山形県の置賜郡を支配してるじゃん。
どう考えても大変そうなのによく取られなかったもんだ。

912 :人間七七四年:2015/07/19(日) 15:55:35.23 ID:DBOoDkEp.net
>>909

> やっぱり奥羽の戦国大名にとって山間部を越えての支配はキツかったんじゃないかな。

もともと道路網が貧弱なのと、冬だな。

913 :人間七七四年:2015/07/19(日) 15:57:46.46 ID:DBOoDkEp.net
>>906

> 横内、油川、大浦、石川、和徳、大光寺、田舎館、浅瀬石


これは関東以西基準だと、城ではなく砦でしょう。

914 :人間七七四年:2015/07/19(日) 17:09:08.19 ID:eJMcWvRb.net
1500年ぐらいに奥羽統一を目指す英雄が南部家の当主になったとしたら、まずどうやって領土を広げたんだろうね
津軽と鹿角から安東を滅ぼしにいくか、斯波氏を滅ぼして厨川、盛岡あたりに城作って本拠を移すとかかな

915 :人間七七四年:2015/07/19(日) 18:06:33.46 ID:iECawUGB.net
そもそも領土を増やすというのが当時として合理的かどうか、という面もあるぞ。
無理に増やせば敵も増え面倒の種を背負い込みまくるだけだし

916 :人間七七四年:2015/07/19(日) 21:15:10.30 ID:Ks+Ee+l8.net
南部内部の勢力をもう少し整理しない限り、外側を征服しても元の木阿弥になるだけ

917 :人間七七四年:2015/07/20(月) 00:51:35.43 ID:zham1+rl.net
>>906
当初は南部氏が持ってた支配権がどういうわけか
次第に浪岡北畠氏に移ってる

>>914
春秋戦国時代の秦みたいな改革が出来たらやれたかもな
基本的に生産性が低い土地だから攻め込まれにくいし
生産性が高い土地を手に入れるって目的があれば
兵の士気も高めやすい

918 :人間七七四年:2015/07/20(月) 06:23:51.52 ID:GD3UMwhw.net
奥羽のような農業生産の低い土地でも
1万石につき250人動員という基準は当てはまるのだろうか?
当てはまらないとしたら
どれくらいが妥当なのだろうか?

919 :人間七七四年:2015/07/20(月) 07:09:48.07 ID:QqnHU8VP.net
ちと、聞いてよいですか?ここのスレにでてくる北畠と伊勢の北畠は親類なんすか?  

あと、九戸の乱の時は南部さんはボコられてたの?

920 :人間七七四年:2015/07/20(月) 08:47:25.19 ID:J+nfkR/f.net
>>919

>ここのスレにでてくる北畠と伊勢の北畠は親類なんすか?  

親類というか、同祖。

921 :人間七七四年:2015/07/20(月) 08:49:34.88 ID:J+nfkR/f.net
>>919

> あと、九戸の乱の時は南部さんはボコられてたの?

火だるま炎上状態

922 :人間七七四年:2015/07/20(月) 09:11:05.26 ID:QqnHU8VP.net
>>920
教えていただきありがとうございますm(__)m

923 :人間七七四年:2015/07/20(月) 14:57:44.14 ID:H1rYalC0.net
>>918
農業生産が低いから領土の広さや人口に比べて他国より石高が低くなるので、まあ妥当なんじゃない?

924 :人間七七四年:2015/07/20(月) 19:09:46.09 ID:ApoQKFQB.net
岩手とか高知とかって
今でも山林ばっかりなのに

戦国時代だと更に開拓されてなくて
統治大変だっただろうな

925 :人間七七四年:2015/07/21(火) 03:07:54.48 ID:qqSlLEWg.net
まあ米が作れなくても稗や粟みたいな雑穀は作ってただろうからへーきへーき

926 :人間七七四年:2015/07/21(火) 09:05:01.56 ID:jOz0aIHl.net
>>924
信濃なんか良い例だよね?特に木曽を統治するのは信玄でも無理だったから、婚姻で従わせた殆どだしね

927 :人間七七四年:2015/07/21(火) 09:18:52.16 ID:k+XraZ26.net
米作れんかったんか?
津軽の話になるけど、垂柳や砂沢遺跡だってあったわけだし

928 :人間七七四年:2015/07/21(火) 09:22:23.61 ID:k+XraZ26.net
南部氏って山城作ったことないし、信濃とか西日本の本格的な山城とか見たらファッてなっただろうね

929 :人間七七四年:2015/07/21(火) 20:35:03.36 ID:slfi/Q6i.net
>>914
基本的には晴政と同じ南進政策だろうね
出羽に進出したとしてもせいぜい比内郡止まり

930 :人間七七四年:2015/07/22(水) 00:45:33.72 ID:TBlsdtEi.net
岩手の内陸北部というか中山間地でも平安時代の遺跡に稲昨、雑穀栽培の痕跡あり

931 :人間七七四年:2015/07/22(水) 10:48:11.77 ID:uQUSAZg8.net
>>929
南北に戦線伸びすぎー!
だと思うけどなぁ

932 :人間七七四年:2015/07/22(水) 15:56:32.61 ID:ay+OBnVp.net
>>931

俺もそう思う。占領できるが、維持が難しい。

933 :人間七七四年:2015/07/23(木) 18:49:53.11 ID:Ad+AmFc3.net
>>929
斯波本体は弱くても、その頃の奥羽だと足利一門が結束しているだろう
南進なんて無理無理

934 :人間七七四年:2015/07/23(木) 20:57:36.22 ID:IRj70WQQ.net
>>931 >>932 >>933
他に侵攻先がないから仕方ない。秋田とか遠すぎだし
北上盆地以上に維持が難しい

935 :人間七七四年:2015/07/23(木) 22:45:30.44 ID:8lWprfzE.net
例えば実現性の可否は置いといて、安東氏と同盟結ぶとするじゃん?
で、後顧の憂いなく斯波氏攻めに大軍を送るとする
すると稗貫、和賀、葛西勢が斯波に援軍出すんかなやっぱ

めんどくせーな岩手

936 :人間七七四年:2015/07/24(金) 09:12:10.43 ID:vnB8o11H.net
南部の場合、近隣に南部を滅ぼせるような大勢力がないから、どうしても危機感が弱い。

937 :人間七七四年:2015/07/24(金) 19:11:32.15 ID:Qwb4DlQV.net
>>932
逆のパターンで
安東愛季が一時期南部領の鹿角郡奪取したけど

やっぱり維持はできなかったな

938 :人間七七四年:2015/07/24(金) 22:22:27.98 ID:xjFi2doC.net
>>935
南部vs斯波、和賀、稗貫連合は度々衝突してたよ
耐えきれなくなった斯波は九戸政実の弟を娘婿に迎え
実質的に南部の傘下に入らざるを得なかった

939 :人間七七四年:2015/07/24(金) 23:24:49.72 ID:RM/ZxmJZ.net
九戸弥五郎改め高田吉兵衛改め中野修理亮改め康実改め直康やっぱ康実のことですね

940 :人間七七四年:2015/07/25(土) 00:21:05.56 ID:f7BhWe4j.net
南部はむしろ鹿角をよく維持したほうだよ

941 :人間七七四年:2015/07/26(日) 14:42:34.44 ID:1y9t6eP5.net
仮に晴継が生まれなかったら南部はどの程度まで伸長できたかな?

942 :人間七七四年:2015/07/26(日) 16:01:41.27 ID:XvLbyfFD.net
南部としては、早期から本格的な城を領内にいくつか建てておけば良かったような気がするんだが。

943 :まこと:2015/07/26(日) 16:06:32.86 ID:Q5Hu+ynL.net
俺に会いたかったら、立教大に来な

944 :人間七七四年:2015/07/26(日) 16:07:20.64 ID:Q5Hu+ynL.net
( ´,_ゝ`)y―-~~.はっはっはっ

945 :人間七七四年:2015/07/26(日) 17:13:38.65 ID:XvLbyfFD.net
立教大学は耶蘇教やバテレンの根城だろ。

946 :人間七七四年:2015/07/26(日) 19:05:15.19 ID:9IrFICFl.net
立教大学はホモの聖地

947 :人間七七四年:2015/07/28(火) 20:57:39.23 ID:MwLcWChV.net
>>941
和賀を降すのは時間の問題だろうがそっから先は微妙
斯波と和賀を従えて葛西領に殴りこむだろうけど
葛西、小野寺の連合相手だとそう簡単には領土を拡げられないかと

948 :人間七七四年:2015/07/29(水) 10:18:20.31 ID:qB4YRMBK.net
晴継が生まれてなかったら、津軽も大浦氏に奪われてなかった可能性が高いのか
もし津軽の領土を維持したまま江戸時代迎えてたら飢饉と一揆でお家潰れてそうだな

949 :人間七七四年:2015/07/29(水) 14:02:39.17 ID:iUs5CGE/.net
>>948

江戸幕府が南部氏には異様に甘いから、その場合でも幕末まで家が持ちこたえたと思うね。

950 :人間七七四年:2015/08/03(月) 14:39:31.04 ID:sSLeX/z9.net
サーバーダウン

951 :人間七七四年:2015/08/08(土) 20:20:55.18 ID:YeUTqgwE.net
>>948
浪岡北畠がいるから、どのみち津軽地方は南部から離れていく定め
歴史にもしはないが浪岡北畠藩とかできてたら
外様でありながら要職とか幕府から与えられそう

952 :人間七七四年:2015/08/09(日) 16:20:10.14 ID:aNd/4oDM.net
>>951
浪岡北畠を過大評価しすぎでない?
いくら安東と組んでたと言っても戦国末は衰勢激しくて、津軽全土を取るのは無理だろ

953 :人間七七四年:2015/08/09(日) 20:29:08.67 ID:fZjR6+CC.net
浪岡城

これは防御力が低そうな感じだが、どうなの?

仮に上杉謙信が攻めてきたら20分くらいで落城しそうなんだが

https://youtu.be/_5oJoqytoBY 

954 :人間七七四年:2015/08/09(日) 22:57:19.15 ID:npixdbTg.net
>>952
当時の津軽地方は浪岡北畠を筆頭として大浦、大光寺の三勢力が領有してたけど
秀吉の小田原参陣の情報を得やすい大浦が、南部の傘下で大人しくしてるわけがない
大光寺も小田原に行くだろうし津軽地方はどの道南部から離れていく

955 :人間七七四年:2015/08/10(月) 04:36:21.17 ID:1rsqD1WU.net
浪岡なんか大浦の蜂起が無くてもいずれ南部諸勢力の草刈り場になってたよ

956 :人間七七四年:2015/08/12(水) 00:13:58.69 ID:vSlDxOJs.net
大光寺が単独で小田原に行く?
笑わせてくれる
大光寺なんて三戸南部の分家の分家じゃねーか
大光寺が独立勢力のように見えるのは、石川城が落ちて、本家の援助を充分に得られずに大浦氏に独力で対峙してたからだろ
どちらかといえば千徳氏のほうが小田原行ってそうだわ

957 :人間七七四年:2015/08/12(水) 08:07:47.74 ID:CUQYpoYP.net
大光寺は「半」独立勢力のような気もするんだが…。

常陸佐竹氏の例でいうと、真壁氏や江戸氏のような感じだな。
事実上は独立勢力なんだが、戦場に出た時には佐竹氏の指揮下に入るという感じの。

958 :人間七七四年:2015/08/13(木) 23:56:50.94 ID:6FGOzk8n.net
残りそうなのは大光寺だけだな

959 :人間七七四年:2015/08/17(月) 12:31:50.41 ID:kl3vsbAy.net
>>947
>>葛西、小野寺の連合相手だとそう簡単には領土を拡げられないかと

大崎や最上と組んで葛西と戦うかもしれないし
意外といけそうな気がする
仮に葛西領を手に入れたらそのまま南下するか
横手盆地に進出するかどっちだろうな
だけど面白いのはこれからだって時に、
グダグダの内乱が始まるんだよな

960 :人間七七四年:2015/08/17(月) 16:12:37.59 ID:ubg2Apd8.net
テスト

961 :人間七七四年:2015/09/23(水) 20:39:12.18 ID:oEv3umO4.net
九戸の乱で九戸方に付いた豪族で生き延びた連中は周辺に散った?

962 :人間七七四年:2015/10/14(水) 01:01:13.58 ID:b0hX7QcO.net
秋田とか津軽に逃げ落ちた国人が多かったらしい
まあ南部信直は残党狩りはしなかったから
領内に隠れてた国人も多いだろうね

963 :人間七七四年:2015/10/14(水) 20:43:28.14 ID:A/9v6IBk.net
南部って東北のあの地方にしかいなかったの?

源氏なのに珍しいね

964 :人間七七四年:2015/10/14(水) 21:04:46.05 ID:IgeNTt2t.net
>>963

山梨県にとどまった人がいるかもしれないが
記録に残っていないのかもしれない。

965 :人間七七四年:2015/10/14(水) 21:11:41.84 ID:CFUr7ErQ.net
南部氏の本貫(苗字の地)は甲斐なのでそっちにも居た。
「あの地方にしかいなかった」のは佐竹氏の方。

966 :人間七七四年:2015/10/14(水) 21:46:58.48 ID:8wTLs6m7.net
明治時代
土佐藩出身の男爵に南部姓の人が居たけど
この人も南部光行の末裔らしい

あと加賀出身の陸軍中将で南部辰丙て言う人が
系譜は不明だけど多分一族だと思われ

967 :人間七七四年:2015/10/14(水) 21:51:16.44 ID:IgeNTt2t.net
>>966

南部甕男
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E7%94%95%E7%94%B7

968 :人間七七四年:2015/10/15(木) 00:54:22.12 ID:i7XG5HPI.net
>>965
なんでや!佐竹は土佐にいたやろ?現に長宗我部元親の家臣で佐竹ってのはいたやん

969 :人間七七四年:2015/10/15(木) 02:46:43.06 ID:f2OHA9H9.net
若狭にも南部姓の人が居たし、京都にも南部姓の人間が細川典厩家に仕えている

970 :人間七七四年:2015/10/15(木) 08:14:17.44 ID:35U5WqgO.net
戊辰戦争の佐竹は弱かったのうw
南部の前に鹿角郡奪われとるし庄内の連中にフルボッコwwww

971 :人間七七四年:2015/10/15(木) 08:18:42.70 ID:AS+FOKAE.net
>>970

佐竹は茨城の入り組んだ地形で戦うからそれなりに強かったのであって
秋田では無理。

972 :人間七七四年:2015/10/15(木) 14:00:45.50 ID:b2zIO0oV.net
伊勢にも南部氏がいるよね

973 :人間七七四年:2015/10/15(木) 17:59:19.51 ID:w3RhIuKc.net
そろそろ次スレたのんます

974 :人間七七四年:2015/12/04(金) 06:08:49.97 ID:OxVYBzvU.net
( ´,_ゝ`)y―-~~.はっはっはっ

975 :人間七七四年:2015/12/04(金) 06:13:04.26 ID:OxVYBzvU.net
( ´,_ゝ`)y―-~~.はっはっはっ

976 :人間七七四年:2015/12/04(金) 06:15:42.44 ID:OxVYBzvU.net
( ´,_ゝ`)y―-~~.はっはっはっ

977 :人間七七四年:2015/12/04(金) 06:17:33.59 ID:OxVYBzvU.net
( ´,_ゝ`)y―-~~.はっはっはっ

978 :人間七七四年:2015/12/04(金) 06:19:59.20 ID:OxVYBzvU.net
( ´,_ゝ`)y―-~~.はっはっはっ

979 :人間七七四年:2015/12/04(金) 06:21:39.34 ID:OxVYBzvU.net
( ´,_ゝ`)y―-~~.はっはっはっ

980 :人間七七四年:2015/12/04(金) 06:22:59.34 ID:OxVYBzvU.net
( ´,_ゝ`)y―-~~.はっはっはっ

981 :人間七七四年:2015/12/04(金) 20:32:01.37 ID:8/ez0LiJ.net
そろそろ次スレたのんます

982 :人間七七四年:2015/12/05(土) 16:44:30.46 ID:V3IIoPn8.net
南部が天下を取っていたら・・・

過激な見世物で日本だけでなく南蛮人をも魅了していたに違いない
(例:ふんどしに刀をはさんで曲げる)

983 :人間七七四年:2015/12/06(日) 18:15:43.91 ID:j/u/LyDv.net
http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
ヤクザグッズ!指定暴力団各組織!代紋バッチ!金箔代紋入り大灰皿!代紋彫刻ジッポーライター!代紋バックルエルメス方式!品揃え多数!一度画像ご覧くださいませ!

984 :人間七七四年:2015/12/07(月) 09:13:31.65 ID:jSIQtgHD.net
そろそろ次スレたのんます

総レス数 984
227 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★