困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る
- 114 :人間七七四年:2008/07/24(木) 09:48:40 ID:ahiEuqvG.net
- 土崎湊に築城建設に反対したっつーか、佐竹にとって家臣団統制は鬼門だったんだわ。
北条とかと違って家に家人がいるんじゃなくて、
佐竹は「義重の近臣」と「義宣の近臣」という風に人に家人がついていた。
例えば「義重は隠居したあとも実権をふるった」とよく言われるが、
そうじゃなくて、人に家人がつくために、例え隠居したとしても
自分の家人に対しては自分で政務を行わなくてはならない。
つまり二頭体制になってしまうわけだ。
例えば武田で、晴信が信虎を追放したり、信玄が義信を廃嫡したりしたのは、
この二頭体制の克服を目指したものなんだわ。
佐竹は武田ほど激情型ではなかったので、やんわりと家督交代が行われてきたが、
それでも最終的には義宣が義重の家臣をブチ殺すことで、
ある意味「義重の息の根」を止めたということ。
実は義宣vs義重の戦いだったということだぬ。
義重時代も義重の近臣筆頭の車斯忠と、死んだ義昭の近臣筆頭の和田昭為が争って、
結局義重は和田昭為を追放してる。
あとはやっぱり豊臣を見ていて、三成派と清正正則派で争ったのとかを見て、
二の舞にはならないように先手を打ったんだろうな。
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