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困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る

440 :人間七七四年:2010/08/05(木) 12:34:42 ID:aYX/HphH.net
続き

 そこで益子氏は、佐竹義宣が転封を命ぜられた時、国元の家老に夏年貢の取立てを指示した書状があることをあげて、
前の手代というのが佐竹氏の配下で、後から督促に来たのが、交代した領主側の役人であったとしたならば、この騒動は
慶長七年の領主交代の混乱に伴う偶発事件とも考えられ、地元の伝承とも一致するとされる。実に耳を傾けるべき説明であるが、
交代した新領主というのは、当然武田信吉ということになるが、武田が正式に水戸城主となったのは、慶長七年十一月であるから、
村民皆殺しという事件が起こった十月には、まだ正式に水戸城主はいなかったわけである。この時期の旧佐竹領は、
一時的ではあったが、幕府の直轄支配地だったわけで、それを治めるために派遣されたのが、芦沢らだったことになる。
 この領主交代に至るまでの、城主不在の空白時には、すでに述べたことではあるが、七月下旬の家臣車丹波らによる
水戸城奪回の計画があり、十月には車らが水戸で処刑されるという、大きな事件があった。生瀬の乱はこうした時に起こった
ということになると、まず佐竹領接収のため家康から派遣されて、水戸、太田などを中心として各地の治安維持にあたった
重臣大久保忠隣、本多正信の連名で六月に出された条例を思い出さざるを得ない。それによると、佐竹の家臣の中には、
禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、
勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない山林を盗伐する者も出たという(『水戸市史』上巻)。
 一方佐竹の領国引渡しが進み、七月中旬に大体終わった直後、例の車丹波の一揆である。このように生瀬乱前の情勢を概観すると、
旧佐竹領内農村では、不測の事件が起こってもおかしくない情勢だったことが分かる。かくて生瀬乱の慶長七年十月説は、
他の諸説とくらべて、最も有力なものとなる。私も以前の主張の不十分だった点を反省して、慶長七年説をとることに躊躇しない

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