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豊臣秀頼がハンニバル級の武将なら。

1 :戦国オタク:2010/07/31(土) 10:52:51 ID:uh46JyCf.net
総大将の秀頼がハンニバル級の才能があれば如何振舞ったのか考えて見ます。如何観ても家康との一戦避けられないと
考えるでしょう。ものを言うのは軍事力と視る筈です。
軍の整備に掛かるでしょう。四万の野戦軍と5千の文官兼務の守備隊整備可能と思います。
この時点の豊臣家は65万石が領地ですが蔵入地もまだ残っており、備前、伊勢、大和にも飛び地があり、
実質100万石程度の領地があったようです。又大阪は商業地なので、30万石相当の収入見込めたと推察できる。
根拠としては摂津の慶長検地の石高35万石に対して江戸期の統計だが人口80万程度だったようだ従って
摂津の国の豊臣領は30万石程度多く見積もれる、合わせると130万石程度の経済力有していたと思われます。
又大阪城落城後約2万8千枚の金(約28万両)と約2万4千枚の銀(約24万両)が 残っていたので
篭城時はその倍はあったと推定できます、金50万両の価値ですが、参考として文化年間で三両あれば
一年間生活できたと言います、慶長の一両は米価や賃金で比較すると文化の五倍と推定されます、
慶長時代の家族の生活費は年間0,6両、1,2両も出せば兵士一名が雇えたと考えられます。
130万石の大名だと4万程度の兵士雇えたでしょう。残りの5000の兵士を雇う費用は年6000両程度。
4万五千の兵力維持充分可能と考えます。
>>2-7

2 :戦国オタク:2010/07/31(土) 10:57:24 ID:uh46JyCf.net
秀頼が使用可能な時間は慶長16年(1611年)清正が死亡するまで、
清正健在中に秀頼に手を出せば、加藤清正、福島正則、浅野幸長、
池田輝政らを敵に回すことになる、池田輝政(16000)、
浅野幸長(7000)、加藤清正(15000)、福島正則(12000)
計52000程度の動員兵力、これに大阪城4万加えれば軽く9万、
徳川勢は西日本の大名は日和見決め込むだろうから当てに出来るのは東国の兵のみ、
かなり危険。1611年時点で秀頼は18歳、16歳時より準備始めたとして
約2年部隊の訓練期間として充分です。
戦略としては夜が長く、未だ余り寒くない11月の晴天の日の夜間に奇襲をかける。
江戸城の大番組は8組あり常時二組が勤務、朝、夕、夜の3交代制とあるから
夜間城内に居る兵員は全部隊の10分の一程度と推察されます。
五個の備えを一手とし20の独立部隊を作ります。
備の定員400、鉄砲組4隊、弓組一隊、槍組五隊を基本単位とする。
一個部隊定員2000。内六個部隊1万2千を全員乗馬の高速機動部隊とする
(全馬牝馬とし口取り不用)。砲兵隊創設、砲は木砲、外径20センチ、
内径10センチ、砲長150センチ、重量30キログラム。
駄馬一頭で二門輸送可能、一門で二回発射を原則とする。一組100名、
砲は正規20門、予備10門。6組創設、全員乗馬、砲及び関連装備輸送のため
一組当たり駄馬25頭、口取り25名全員乗馬の機動砲兵部隊創設。



3 :戦国オタク:2010/07/31(土) 11:00:01 ID:uh46JyCf.net
以上の軍備整え領内で夜間行軍に習熟さす。歩兵部隊の移動速度は通常4km/h,
急行軍時5km/h乗馬部隊は通常7km/h,急行軍時9km/hと仮定します。
豊臣領内の枚方より伏見まで10キロ、伏見より京まで10キロ、
京より膳所まで10キロ、膳所より彦根まで60キロ。
又布石として京に豊臣屋敷を構え方広寺、豊国神社警備の名目で
兵200人程度を常駐させる。
秀頼が攻略すべき拠点は高槻城、伏見城、二条城、膳所城、彦根城、
大和郡山城の6箇所と想定します、
1611年当時高槻城には城主はおらず守備兵力は100前後留守番のみで
接収には戦闘不要だったでしょう。
大和郡山城は城番が筒井定慶、兵力は200乃至300前後、
大阪夏の陣では守備兵の大半が逃亡したそうですから戦意は相当低いと思えます。
伏見城:城主松平定勝、5万石 兵員 1300名。
二条城:大番組1組、兵員400名、膳所城:城主戸田氏鉄、3万石、兵員800名、
彦根城:城主井伊直継、18万石、兵員4500名、以上です。


4 :戦国オタク:2010/07/31(土) 11:04:15 ID:uh46JyCf.net
作戦としては11月の午後六時頃(日没後1時間)枚方付近から快速部隊6部隊、機動砲兵隊6組出撃、
伏見城、二条城に各一隊、膳所城に一隊と砲兵隊一組、彦根城に三隊と砲兵隊5組、指揮は秀頼がとる。
7時頃に1隊で伏見城奇襲、伏見城夜間の兵員は130名前後、外堀突破は容易に出来、
城下町に宿泊中の大半の兵員は簡単に掃討可能、城内進入路は五箇所、
守備兵は多く見ても一箇所15名、戦闘にもならない、
城兵少数なので城の攻略短時間で可能。
京、豊臣屋敷に交代要員と称して計400名集結、鉄砲二組、弓三組、槍五組からなる備を編成、
七時に二条城襲撃、二条城は現在は本丸、二の丸の二重構造だが
1411年時点では本丸のみの「単郭式」であり、夜間の守備兵40名前後大手門の守備兵15名前後、
容易に門を破り内部に進入可能、天守にこもり抵抗できる兵力数十名、
残兵は非武装のまま掃討可能、急襲時はなるべく弓と槍で攻撃し周辺に事態を悟られないようにする、
午後八時過ぎ到着の2000の兵力で京を制圧。
午後九時半、膳所城奇襲、膳所城は築城兵員80前後、城下を制圧し築城人員増加させないようにする、
さらに砲兵一組20門で大手門砲撃、大手門破壊の上城内進入、
守備兵80だと容易に制圧可能。

5 :戦国オタク:2010/07/31(土) 11:07:02 ID:uh46JyCf.net
残り三部隊六千で彦根城直行、早朝5時前後に奇襲、この時点では彦根城は内堀しかないので
城下を蹂躙、築城人員400名程度。彦根城は表門、大手門、黒門の三箇所の進入路があり
一箇所の守備兵80名前後、大手門、表門には砲兵各二組、黒門には1組配備、五門づつの
一斉砲撃数回にて各門破壊。守備兵掃討、大手門、表門突破後には天秤櫓が防御、守備兵50名、
同じく砲撃にて櫓門破壊、続く太鼓門櫓守備兵20名がせいぜい、
砲撃で破壊、搦め手の黒門も砲撃で破壊、守備兵掃討、西の丸に攻め込む。
この時点での守備兵90名前後二箇所からの襲撃で全滅。
大和郡山城はにはあらかじめ大和大納言の菩提寺(城内に存在)で法要を行うと称し、
秀頼名代として片桐且元、貞隆兄弟を派遣、南都の名刹の高僧を招聘、
道中警護のためと理由付けして片桐兄弟隷下900の兵を入城させ、
法要後筒井定慶及び守備兵を武装解除、大阪城より1000の兵を入れ守備を強化。

6 :戦国オタク:2010/07/31(土) 11:10:40 ID:uh46JyCf.net
奇襲部隊以外の野戦軍14隊、2隊は予備として大阪城内に、
2隊は京に2隊は彦根城に、8隊1万六千は近江、美濃国境線に陣地構築して
待機。守備隊5000の内3000は大阪城守備、伏見城、膳所城には各500の守備兵配置。
秀頼はこの戦闘終結後速やかに京に向かい、豊臣屋敷に入る。急襲部隊は全軍帰還し再編成。
徳川方の動き。冬の陣では9月26日開戦準備、10月11日出陣、
10月23日京都着ですから、戦闘まで一ヶ月弱の余裕があります。
この間に募兵厳選して約四万、将としては真田幸村、長宗我部盛親、大谷大学、増田盛次、
毛利勝永後藤又兵衛、明石全登、仙石秀範、氏家行広、京極備前、御宿政友、塙直之の面々、
4千づつの10隊編成。ついで朝廷に奏上して関白に就任、徳川追討令を発して
諸大名に参陣を命ずる。加藤清正、福島正則、浅野幸長、蜂須賀至鎮、黒田長政計4万は
参加せざるを得ないと思います。


7 :戦国オタク:2010/07/31(土) 11:11:58 ID:uh46JyCf.net
徳川方はこのまま放置すればジリ貧となるので兵を集めて西上、
総兵力は徳川宗家7万、松平忠輝1万8千、松平忠直1万3千、
徳川義直1万2千、徳川頼房9千、徳川頼宣1万2千等合して15万程度。
西上可能兵力12万、秀頼方は総兵力12万5千、戦場に動員可能兵力10万。
美濃、近江国境付近で決戦。


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