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【瀧川】滝川一益ら滝川氏を語る【忍者】

1 :人間七七四年:2011/03/28(月) 03:08:51.00 ID:+gVqz/RQ.net
忍者出身と言われるなど正確な出自不詳ながら、
信長に重用され織田家四天王とまで言われた滝川一益の生涯や逸話、
血縁者や末裔など滝川一族について語りましょう。


滝川一益 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A


■武家家伝_滝川氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takiga_k.html

257 :人間七七四年:2013/01/11(金) 23:49:26.21 ID:GikJcbUb.net
>>237-241
何が2千石だよ お前ら揃って駄目すぎ
過去レス全部読んでからレスしろ

7/12秀吉→滝川八(一時)宛書状 (寛永諸家系図伝の佐久間一時の項にある書状写し)
>入庵(一益)江 壱万五千石令契約知行 今度改三千石之通入庵江遣候
>相残而壱万二千石分 其方可有領知 向後諸事無御油断御励有之 全可有御領知状如件

全訳

7/12(蟹江城の戦い後)
入庵(一益)へ 【一万5千石】で約束した知行について、今回改め【3千石】を入庵へ使わしてそうろう
残り【一万二千石】は そなた(一時)に使わす 今後励め 領地の件

そして>>215に感謝

258 :人間七七四年:2013/01/12(土) 00:41:17.73 ID:FBKwiaIL.net
一益の出自で有力なのは甲賀の滝城高安氏と尾張の滝川某一族だが詳細はわからない

一益のストーリーは、
あの蟹江城を服部友貞から奪い自力で城主となったことから始まる
その後の伊勢方面攻略の主役となるのは当然だろう

そして最後の蟹江城合戦だが、この戦こそ一益の生涯最高の戦いと言ってよい
むしろ断言したい

まず徳川家康と織田信雄は、まさか滝川一益が海から上陸するとは思いもよらないことだっただろう
しかも3つの城を落とし、4つめの大野城までも陥落寸前だったのだから恐ろしい

259 :人間七七四年:2013/01/12(土) 01:06:07.80 ID:FBKwiaIL.net
蟹江城落城の報を聞いた徳川家康と織田信雄は、その日のうちに駆けつけ、
半月以上もこの戦場に釘付けにされている。小牧などは放置状態だっただろう
徳川家康と織田信雄は文字通り命懸けで蟹江城を攻め立てている
一益が寡兵で後の天下人家康を上回る知略を見せつけたと言ってよい

ただ惜しむらくは、秀吉の予想をも遥かに上回ってしまったことだろう
そしてこれが敗因となった
秀吉にしてみれば寡兵の一益がここまでやるとは考えもしなかったのだろう
一益の謀略が明らかになった時には戦線を離れており、戦線に戻った時には既に勝機は去っていた
さぞ秀吉は悔しかったはず
この合戦に限って言えば、一益にも家康にも及ばなかったのだから

260 :人間七七四年:2013/01/12(土) 01:23:29.61 ID:FBKwiaIL.net
最後にニミッツ提督が小沢治三郎を評して言った言葉を

「勝った指揮官は名将で、負けた指揮官は愚将だというのは、
ジャーナリズムの評価にすぎない。指揮官の成果は、むしろ、
彼が持つ可能性にある。敗将といえども、彼に可能性が認め
られる限り名将である。オザワ提督の場合、その記録は敗北の
連続だが、その敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている。
おそらく部下は、彼の下で働くのを喜んだにちがいない」
( 児島襄『指揮官』(上))。

(一人で盛り上がってスマソ(丁丁))

261 :人間七七四年:2013/01/12(土) 14:17:00.82 ID:DJcqAeTZ.net
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る 6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発 6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた 6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った 三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

262 :人間七七四年:2013/01/12(土) 15:05:07.29 ID:DJcqAeTZ.net
信雄・家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ
大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし
蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離
谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが。大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが。独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる

263 :人間七七四年:2013/01/13(日) 07:45:30.90 ID:VINMPVxV.net
短くまとめられないのはちゃんと理解出来てないからだってばっちゃが言ってた

264 :人間七七四年:2013/01/19(土) 04:36:54.63 ID:ZsAFRjtb.net
ここも単なる「好きな武将崇拝スレ」だったか
キモいのばっか

265 :人間七七四年:2013/01/20(日) 16:00:30.60 ID:WagvSvCs.net
いや、好きな武将を崇拝してるわけじゃなくて
定説ってだけでしょ

一方的な偏った意見がキモい、というのであれば
「滝川一益は、名ばかりが有名で実力は皆無。その証拠に禄高も大したことない。
晩年もきっと惨めな人生を送ったに違いない(キリッ」って自論を展開してる人はいたけど
そういう「嫌いな武将を叩く」レスというのは、キモいのには当たらないのかい?

新たな歴史資料が発見されたのならばともかく
文献文献言ってる人いたけど、そんなものあったら歴史研究家がとっくに解明してるよ

266 :人間七七四年:2013/01/22(火) 13:18:32.34 ID:eVABsiZe.net
これだから崇拝はキモい
このスレの定説=滝川最強なんだから、一般の定説は滝川を貶めるための新説になるんだろうな
それに息をするかのように悪意をねじ込む
ロムってみたが「その証拠に禄高も大したことない。
晩年もきっと惨めな人生を送ったに違いない(キリッ」
とは書いてるが「滝川一益は、名ばかりが有名で実力は皆無」なんて書いてない
悪質なカルト宗教の信者に似てるよほんと

267 :人間七七四年:2013/01/22(火) 16:18:19.02 ID:3uHx32jd.net
「俺は滝川のファンだけど」とオブラートに包んでネタを提供しようと一生懸命だったけど
書いてることは中学生並の根拠と理論と煽り文句しか書いてなかったし

そもそも2チョンネルなんてのは悪質なカルト宗教みたいなもんだ
ネトウヨがチョンコ連呼してるか、馴れ合いでナァナァやってるスレだけだよ

新説を唱えたいなら大学の研究室でやってくれ

268 :人間七七四年:2013/01/22(火) 22:09:55.91 ID:qGyaN20u.net
そーだーそのとおりだーー

269 :人間七七四年:2013/01/22(火) 22:19:37.05 ID:/S585fi2.net
このスレの定説=滝川最強だっけ?アンチ意見を書いたらダメというような風潮は無かったと思うが。

崇拝でも執拗なアンチでも、偏っている意見はどちらもキモくないの?との問いに
これだから崇拝はキモイ、悪質なカルト信者だ、というのはどうもねえ。

270 :人間七七四年:2013/01/22(火) 23:37:01.30 ID:qGyaN20u.net
>269
そんなのどうでもいいじゃん
それよりこれからは語尾にたっきー最強って入れて話そうぜーたっきー最強!!

271 :人間七七四年:2013/01/22(火) 23:40:43.53 ID:/S585fi2.net
たしかにどうでもいいいね。たっきー最強!

272 :人間七七四年:2013/01/23(水) 23:27:22.17 ID:WtVySQbf.net
>>264
めでたく満場一致で貴方の意見が採択されました

YOU COMPLETE GAME OVER!

273 :人間七七四年:2013/01/24(木) 01:47:43.04 ID:KefBhMmo.net
あーあ
通説をまず事実としてない時点で中学生レベルなのはどっちだか
前のやつの言ってた「晩年は不遇」のどこが新説?
通説=事実を言ってただけだろう
それを覆そうとして「〜だから××なはず」なんて憶測ばかり
だからこのスレのみで通用する通説・定説・事実は滝川最強なんだと分かったよ
それを揺さぶるやつは集団で煽る
ここしばらくのスレ遡ればクソスレなのはよく分かるからいいか

274 :人間七七四年:2013/01/25(金) 00:15:44.33 ID:RLe1Wsfq.net
まったくそのとーりだー みんなは改心したぞー

275 :人間七七四年:2013/01/25(金) 01:05:36.17 ID:NGDbo+v1.net
たっきー、と聞くと滝沢を連想するよね?たっきー最強!

276 :人間七七四年:2013/01/27(日) 17:56:55.40 ID:VvWsdVuZ.net
よくわからないけど滝川一益は最強ではないよねぇ、たっきー最強!

277 :人間七七四年:2013/01/30(水) 00:21:23.41 ID:ctk/mpgw.net
>>276
どっちなんだよwたっきー最強!

278 :人間七七四年:2013/02/06(水) 09:52:42.96 ID:l8dXy11M.net
読売新聞の記者だったりしてな たっきー最強!

279 :人間七七四年:2013/02/24(日) 11:37:54.50 ID:0dNw9UW1.net
あの身分と子供の数で妻が不明って凄い

280 :人間七七四年:2013/02/26(火) 15:48:27.53 ID:ew/M2TZP.net
○売新聞の隔週企画では、冴えない晩年を送った
みたいな事が書かれてたな
しかも、五段階評価で
統率3・教養4・実行力3・企画力2・先見性2
と平平凡凡の絵に描いたような凡将

こいつの認識では、完全に名前だけの武将なんだろうな

281 :人間七七四年:2013/02/27(水) 11:44:20.21 ID:pN5KkRXp.net
しかし一益は、真面目なんだろうけど状況判断の拙さは感じるな。
本能寺の時なんて関東なんか北条に任せてさっさと畿内に反転すればよかったんだよ。
それをくずくずと関東確保しようとするから神流川になる。
畿内を落ち着かせれば関東なんて後でどうとでもなるんだし、本質を見失っている。
そのあたりが秀吉との決定的な差だな

282 :人間七七四年:2013/02/28(木) 08:41:08.20 ID:NdGvQNa7.net
神の目線で見れる後世の人間が何を偉そうに
よほど自分の人生は失敗のない人生なんだろうねえw

283 :人間七七四年:2013/02/28(木) 20:38:48.25 ID:l3IlEeJz.net
>>282
危うく似たようなことを書くところだったが
俺は思い留まったよ
これからも書くつもりは無い

284 :人間七七四年:2013/03/03(日) 23:30:03.43 ID:ZTf5q2Sk.net
>>280
静岡大学の教授だっけ?
個人の主観で左右されるのは擁護派アンチ派どちらにも言えることだな。

285 :人間七七四年:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN ID:6k9gwfEo.net
でもな、一族郎党討死。家断絶なんてのは多くある話だし
後世に血筋を残せただけでも立派なもんだと俺なんかは思うんだがなー

286 :人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:ZzDBQK5p.net
>>207

> 敵方の家康からも評価が高く、

家康は三方ヶ原で世話になった義理がある。

287 :人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:ZzDBQK5p.net
>>281

毛利は秀吉を追撃しなかったが、北条は追撃したと思うね。

288 :人間七七四年:2013/09/08(日) 06:20:08.34 ID:d0RbzSv5.net
なんだここもただの狂信者の巣か
ねじまげて曲解して裏の裏の裏までこじつけて英雄視するだけで、良いも悪いも全て飲み込もうとしないのな
北朝鮮国民と同じで一益様最強最高万歳だなw

289 :人間七七四年:2013/09/08(日) 06:29:58.29 ID:YYChAss4.net
>>287
追撃っつーか、北条はそのあとで織田領に攻め込んでるので(天正壬午の乱)

290 :人間七七四年:2013/09/08(日) 06:53:05.09 ID:FuRfjxl9.net
http://hissi.org/read.php/sengoku/20130908/ZDBSYnpTdjU.html

291 :人間七七四年:2013/09/08(日) 11:09:27.74 ID:24Sqr1T9.net
>>289
息子が1万2千石の大名なのに不遇な晩年説だったと言い張る
その根拠は?

292 :人間七七四年:2013/09/08(日) 11:22:57.73 ID:24Sqr1T9.net
やっぱどうでもいいや。
不遇な晩年かどうかなんて一益本人にしかわからないし、
半端者相手にトコトン追及するほど興味わかねー。○ノシ

293 :人間七七四年:2013/09/10(火) 01:24:01.23 ID:Ch07Pp8P.net
>>281>>287
秀吉は播磨戦役で粘り勝ち、但馬を一蹴、宇喜多を調略、鳥取や高松での物量戦で圧倒してたからな。
長年、戦っていた毛利は秀吉を恐れていたんだろう。

一方、北条は滝川に対してそういう感情はない。
一益が畿内へ仇討ちに行ったら、ガラ空きの上野は北条に取られるだろう
森みたいに新領地を投げ捨てて逃げるか、残って戦うしかない。

294 :人間七七四年:2013/09/10(火) 02:04:27.59 ID:alhQ/q2Y.net
実際には但馬平定は天正8年になって光秀の援護を受けながらようやく終わっただけだし
毛利から寝返った宇喜多・南条に毛利が苦戦したせいで、但馬・播磨戦線まで出てこれなくなっただけで秀吉は特に何もやってない。
天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
播磨戦線でも毛利に3000殺されるガチンコ負けして西播磨一帯を占領され尼子衆ぶち殺されてるし
天正10年の高松攻防前の鴨城攻防戦でも
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事
と秀吉方が敗戦してるのがわかる。
また秀吉が備中・美作・備前戦線に加わりだす天正9年頃から、それまで単独で大国毛利相手に辛川合戦・戸倉合戦・祝山城などで大勝するなど優勢だった宇喜多が
備前児島・忍山城・篠茸・宮山城が奪回されだし宇喜多家も窮状に追い込まれてる。
あと、秀吉が毛利を単体で攻めきれず信長に援軍を請うたというのは陰徳太平記のデタラメくさいと思ってたが、山本浩樹氏によれば一次資料による裏付けがとれる
ようで、「信長の御動座」を待ち一気に決着をつけるつもりだったらしい。

295 :人間七七四年:2013/09/10(火) 02:11:28.76 ID:GejM5S0X.net
播磨口の攻防は信忠ら大軍の援護受けまくってたからな
毛利も秀吉を蹴散らすと兵站の長さと対大友戦を理由にさっさと本国に退却しちまうしかなりラッキーだった。

296 :人間七七四年:2013/09/10(火) 11:13:21.85 ID:vxfJzo51.net
またキチガイアンチ秀吉のアホか。
相変わらず狂ってるな。

297 :人間七七四年:2013/09/10(火) 11:16:40.31 ID:I8WnkgQn.net
Λ_Λ  
<=( ´∀`) <またキチガイアンチ秀吉のアホか。 相変わらず狂ってるな。
(    )     
| | |   
〈_フ__フ


          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  Λ_Λ  < ふぅ、後はついでに織田を叩いておけばいいニダ
  <丶`∀´>   \______________
  ( ̄ ⊃・∀・))
  | | ̄| ̄
  〈_フ__フ

298 :人間七七四年:2013/09/10(火) 14:44:20.71 ID:MeUHDRuV.net
子孫がおもてなしの心を世界に伝えた

299 :人間七七四年:2013/09/10(火) 15:27:52.92 ID:vxfJzo51.net
天正5年に一旦、秀吉によって但馬平定されたのは事実だし
朝来郡と養父郡を占拠し生野銀山を手に入れ
出石・城崎・美含・二方の4郡を山名親子に安堵
天正6年春には武田城の秀長の元へ山名氏政が挨拶にきてるほど安定していた。
しかし天正7年に垣屋豊続が元春を訪れ但馬侵攻を哀願したので、
元春は今度の但馬侵攻の目標を八木・竹田両城を手に入れないと但州の儀は正儀あるべからず
と書いていて但馬支配の要が両城であるとしている。まぁ実質、生野銀山を奪い取ることが目標だわな。
そして元春は8月くらいに但馬へ侵攻したと考えられている。
しかし秀吉の調略に応じた宇喜多や南条が離反した為に9月には元春が但馬から逃亡し、
一ヶ月に満たない但馬訪問に終わる。
天正8年に入り織田軍が謀反者追討で但馬へ入ると、
垣屋氏が但馬山名氏の居城だった有子山城に逃げ込んだが5/16に開城。
山名祐豊は5/21病没し、氏政は因幡へ逃亡し但馬を織田領に組み込み完了。
垣屋豊続は水生山城→余部城→田井城と逃亡を続けたが宮部善祥坊に降伏斡旋され帰順。
垣谷豊続が織田軍に勝ったなどと主張してて笑えたわ。さすがキチガイアンチ秀吉の織田朝鮮人だわ。
光秀の援護とか意味不明なもんを付け足したりとアホ杉。

300 :人間七七四年:2013/09/10(火) 15:50:39.02 ID:vxfJzo51.net
さらに言えば天正10年5/4小早川→冷民少の書状でもって
秀吉が鴨城(加茂城)で敗戦と主張しているが、

5/6には秀吉が亀井茲矩に宛てて備中国の巣蜘塚城・河屋城・加茂城・亀石城を落城させたので
備中国の平定の目処が付いてきたことを書き送ってるし、
勢いがますますついて5/7には備中国高松城を包囲して水攻めを開始してる。
ちなみに5/19に秀吉は柴田勝家の与力の溝江大炊允に戦況がうまく言ってると報告してる。
はっきり言って毛利方の糞書状なんてまったく信用できないもんなんだよカス。

301 :人間七七四年:2013/09/10(火) 15:50:52.92 ID:QwZOlZbj.net
>>299
ほとんど公記と太閤記の妄想話じゃん

302 :人間七七四年:2013/09/10(火) 15:55:53.16 ID:vxfJzo51.net
天正6年5月に山名氏政が挨拶にきた際に
秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)

秀吉→山名宛書状
条々
   一此方別而御入魂之上者御身 上之儀於我等聊不可存疎意候事
   一御居城不可有別儀之事
   一出石郡之儀進之置候条無異儀可被仰付事
右旨八幡大菩薩愛宕山相違有 間敷侯依而如件
    天正六         羽柴筑前守
      五月十六日   秀吉
      山名殿
          余人々御中

上記のように年号まで入ってるのは非常に珍しく、おまけに神仏にまで誓っているのは
この書状が約束を違えない重要な書状であることを示していて、
先にレスした12/10の秀吉→黒田・別所重宗宛書状(黒田家文書)でも両家の婚姻についてなので
同様に年号と神仏への誓いが記している非常にレアな秀吉書状として有名。

ちなみにお前が偽書状だと連呼してる12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状(下村文書・三鬼清一郎氏の認定)も
上記文書とリンクしていて、この書状の冒頭は

一但州悉以如存分隙明候条 去廿七日至作州境目〜と書いていて
秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて、その後、美作へ進出している。
そして戦後統治政策の一環として山名へ上記安堵状が発給されてる。
この書状はおもしろく秀吉は信長を無視して安堵状が発給できる実力者になっていることの現われで
この調子で調子に乗って宇喜多も安堵したところ、秀吉が連戦連勝して圧倒していたこともあり、
信長は宇喜多みたいなザコは滅ぼすつもりだった為、勝手に許したと激怒することになる。
しかしのちに本願寺顕如が美濃の坊主や門徒衆へ宛てた書状で、
宇喜多の寝返りで毛利が岩屋・兵庫・尼崎から引退し帰国したことを挙げていて
秀吉の宇喜多調略が決定的な戦略的効果を与えていたのがわかる。

303 :人間七七四年:2013/09/10(火) 15:57:58.42 ID:QwZOlZbj.net
>>はいはい偽書状乙w5月の秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
>>秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて
お前天正8年にやっと但馬が平定した事もしらんのか。天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書で)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
>>あっ?そもそも日記形式じゃねぇんだから大久保の記憶違いだろ。庚午の年の出来事って記憶してるだけでもすげぇだろ
そんな3ヶ月も重要合戦の日付を間違えるような糞記憶力じゃ話にならん。完全に記憶違いで合戦の存在自体噂で聞いたか後であやふやな記憶をデタラメに思い出したか知らんし
>>つかそもそも東海方面は三嶋暦を使ってるんだからズレるのはおかしくないだろ。
何がおかしくないのか不明。そんな3ヶ月も重要合戦の日付がずれる糞史料を直接的ソースとして用いるとか話にならん。
>>それに越前出兵への依頼を家康に申し出たのが2月とも解釈できるしな。
なぜそう解釈できるんだ?
>>それにの一色藤長の5/4付け書状の内容には金崎城に秀吉・光秀・池田勝正らが残されたのは
>>北郡の儀 相下され 重ねて越国乱入有るべき候などと再度の越前侵攻のためとの言い訳を丹羽から聞かされているのがわかる。
再度の越前侵攻のため残されたなら金ヶ崎の退却のため残されたという論拠には全くならない。他の目的に備えられたと考えるのが普通
三河物語にも信長が撤退したときに家康へは何も連絡なく捨ておかれたが秀吉の案内で家康は撤退できたと書いた後に
>> あくまで信長は越前への再度の侵攻を考えていたが、越前衆が機先を制して3万で出陣してきたと書いていて
んで、実際に金ヶ崎で残留部隊と朝倉が衝突したというソースは?
>>月のズレなんてよくあることだし、むしろ丹羽から聞いた内容と同じ内容を大久保も書いてる正確さの方がすげえわ
そんなデッチ上げの全く記憶違いの嘘文書が直接ソースになると思ってるお前の脳味噌の方が凄いよ

304 :人間七七四年:2013/09/10(火) 16:04:58.79 ID:vxfJzo51.net
やっぱり糞アンチ秀吉のお前のしわざかよwwwww

305 :人間七七四年:2013/09/10(火) 16:07:45.92 ID:QwZOlZbj.net
但馬守護の山名は上洛して信長に謁見してるから明らかに織田方。
信長の援助もらいながら但馬に復帰してるんだから最初から織田方も糞もない
11/21今井宗久自筆書札留で宗久と山名が同道して岐阜へ下向しているのがわかる
4/19信長→山名入道、太田垣、八木、垣屋、田結で信長が山名を援助して銀山経営にあたろうとしているのが読み取れる
信長軍に追われた山名紹煕が許されて但馬入国するが、それは信長の監軍がつけられ
山名四天王が自立大名化を進める中、紹煕はその次のクラスの伊吹、下津屋、宮、森本などの諸氏を擁して国中に点的に勢力を及ぼす大名であった。

306 :人間七七四年:2013/09/10(火) 16:08:48.93 ID:QwZOlZbj.net
天正5年10月23日 秀吉、信長の命令で中国を平定に着手、是日、京都を発す
播磨小寺孝隆の姫路城に入りて、同国諸士の質を徴し、更に但馬に赴きて、岩洲城を攻略する
12月3日秀吉、竹中重治、小寺孝隆をして、備前宇喜多直家の属城播磨福原城を攻略せしめ、自ら同国七條城(上月城)を囲み、之を赴援する直家と戦ひて、之を破り、是日、七條城を陥る、尋で、秀吉、尼子勝久、山中幸盛を播磨三木城より同城に移らしむ
12月5日羽柴秀吉、播磨龍野に入る、尋で、上京す
天正6年2月23日秀吉、再び播磨に入り、書写山に陣す、尋で、同国三木城別所長治、毛利氏等に通じ、兵を挙ぐ、
3月15日秀吉、播磨中島隆重等に基本領を安堵せしむ、
3月29日羽柴秀吉、別所長治を播磨三木城に攻む、
4月3日羽柴秀吉、播磨三木の属城同国野口を攻め、是日、城將長井四郎左衛門を降す、
4月4日織田信忠、摂津石山城を攻む、尋で、軍を班す、
4月18日吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲む、
4月29日信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援させる
5月1日 信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む、
5月4日 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5月6日信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5月16日羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5月21日羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、
是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5月24日羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報じる
6月16日羽柴秀吉、入京して信長に謁す、信長、秀吉をして、播磨高倉山の営を徹し、神吉、志方の両城を攻めしむ、
6月21日毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
6月26日羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す、明日、織田信忠等と共に、別所長治の属城神吉を攻めて克たず
6月29日信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7月5日播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、
尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
7月7日織田氏の兵、毛利氏の兵を摂津木津の砦に攻む、
7月20日 織田信忠、羽柴秀吉等、播磨神吉城を攻めて、之を陥れ、秀吉、同城を守る
8月10日織田氏の軍、播磨志方城を攻略す、尋で、同国三木城を囲む
8月17日織田信忠、播磨より岐阜に帰る、
10月9日信長、摂津に出陣し、諸將を遣して、荒木村重を打たしむ、尋で、耶蘇会宣教師を遣し、同国高槻城高山友祥を誘降せしむ、
10月17日 荒木村重、新五郎父子、義昭、毛利氏及び本願寺光佐(顕如)と通じて、信長に背く、是日、光佐、村重と盟約す、
10月22日羽柴秀吉の兵、別所長治等と播磨三木城下に戦ひて、其弟治定を斬る、
11月14日織田氏の諸將、荒木村重を摂津在岡城に攻め、之を破る、
11月24日信長、摂津刀根山の塁に陣し、茨木城中川清秀を誘降す、尋で、瀧川一益等を遣し、同国兵庫等に放火せしむ、
12月11日信長、陣を摂津古池田に移し、將士をして、諸塁を守らしめ、羽柴秀吉等を播磨に、惟任光秀を丹波に遣す、尋で、安土に帰城す、
12月23日毛利輝元、荒木村重に援兵を遣す、是日、之を湯浅將宗に報ず、

307 :人間七七四年:2013/09/10(火) 16:09:48.29 ID:vxfJzo51.net
>>305
それ俺が昔レスしたもんなんだけどwwwww
毎回、毎回、よくもまぁ他人のレスを盗用して飽きないなwwww

308 :人間七七四年:2013/09/10(火) 16:16:28.51 ID:kfXdeKJ9.net
>>307
ちげーよアホ
http://www.logsoku.com/r/sengoku/1325991921/
ここで俺がかいたもんでお前のレスじゃねーよクズ

309 :人間七七四年:2013/09/10(火) 16:25:13.70 ID:vxfJzo51.net
たしかその時に
他にもいろいろ書いていたが文章を削除して改変bしてんのか?
永禄12年の但馬への織田軍の侵攻で、山名祐豊は堺へ逃亡していたが
今井宗久と坂井政尚(のち志賀の陣で朝倉に討たれる)に信長への口ぞえを依頼し
信長へ礼銭1000貫文を払った。もちろん今井が半分肩代わりし、
もう半分は年利4割の利息を取ることにした。
そして信長は「御公用吹屋銭」の上納を山名祐豊に命じた。
ちなみに吹屋とは今井宗久の屋号。
これで永禄6年に但馬復帰するも、
信長の取次窓口の坂井政尚が討ち死にすると山名祐豊は毛利と接近し、織田を離反。

310 :人間七七四年:2013/09/10(火) 16:25:20.73 ID:3MviHKL7.net
>>293

> 森みたいに新領地を投げ捨てて逃げるか


結果論になるが、こっちのほうが良かったのではないか?

311 :人間七七四年:2013/09/10(火) 16:43:06.40 ID:vxfJzo51.net
>>309の続き

訂正 永禄6年は間違い。永禄13年ね。

蛇足だが山名祐豊は堺では渡辺宗陽を頼っていて
彼は銭屋の屋号を持つ金融業者で今井の友人であった。
要するに生野銀山の金づるの山名氏は商人と信長の搾取を嫌い
朝倉軍が坂井を討った機会に毛利を頼ったわけだ。

しかも生野銀山は天文11年にはじめて発掘され、天文23年(1554年)に
山名祐豊が朝廷に白銀300両を献上し、2年後にも白銀200両献上と言う(元亀元年が1570年ね)
むちゃくちゃ驚かれた新鉱脈でその利権こそが但馬国の価値を急浮上させた。
だから織田軍は上洛に成功するやすぐ但馬へ秀吉らを派兵した。

312 :人間七七四年:2013/09/10(火) 17:00:39.72 ID:vxfJzo51.net
>>310
うまいとこ北条に滝川が勝ってしまうマグレが発生してたら
甲斐信濃も徳川の手に落ちなかったかもな。

313 :人間七七四年:2013/09/10(火) 19:36:37.62 ID:ka5t23dF.net
だがさんはNG

314 :人間七七四年:2013/09/10(火) 22:58:20.40 ID:FLLpn1s0.net
>>312
日程的に無理っぽい
一益が敗北した6月19日の時点で、毛利長秀、森長可は信濃にいないし、
河尻は死亡してる。

6月8日  森長可、越後二本木の陣を払い撤退
6月不明 毛利長秀が南信濃の領地を放棄
6月不明 森長可が北信濃の領地を放棄
6月13日 滝川一益、藤田信吉の反乱を鎮圧 
6月17日 神流川の戦い(第1次)滝川一益勝利
6月18日 甲斐に残り続けた河尻秀隆が殺害される 
6月19日 神流川の戦い(第2次)滝川一益敗北
6月不明 森長可、美濃上恵土城を攻める
6月不明 森長可、美濃大森城を攻める
6月22日 森長可が美濃米田城に攻め込む

315 :人間七七四年:2013/09/10(火) 23:04:08.55 ID:GejM5S0X.net
まだ二本木に侵攻してたとか馬鹿な妄想展開してる奴がいるのか
長沼も奪回できてないのに二本木なんか侵攻できるわけねえだろカス

316 :人間七七四年:2013/09/10(火) 23:05:27.76 ID:4zE+LbOk.net
長沼どころかそれより南西部の仁科地方(安曇・筑摩)にすら上杉方の島津忠直が駐屯してるのが
4/20頃の景勝書状でわかるしな

317 :人間七七四年:2013/09/10(火) 23:11:44.47 ID:FLLpn1s0.net
そりゃすまなかったねぇ_○_

318 :人間七七四年:2013/09/11(水) 08:20:27.57 ID:vnMZP2tB.net
>>314
北条を撃退した滝川には真田らがいるので、
信濃の佐久郡〜上田のルートが確保出来てるから、
そっから甲斐へ川尻が侵入すれば家康も織田軍には敵対しないだろうし、
真田は信濃国人調略に使える。

319 :人間七七四年:2013/09/11(水) 10:21:39.70 ID:HDPt9YGB.net
>>300
加茂城→鴨城と表記を見事に間違える冷泉民部少輔の子孫による後世作成偽書状wwwさすが先祖の武功を捏造する毛利家臣団www
冷泉元満は水軍の将なのになぜか備中高松城の近くでめちゃくちゃ内陸地の加茂城www

320 :人間七七四年:2013/09/11(水) 12:02:50.86 ID:IYorSGx5.net
>>299-300
参照文献は?

321 :人間七七四年:2013/09/11(水) 16:36:42.16 ID:E9SOHzDH.net
>>320
そんなもんない。兵庫県史や山口県史の資料編とかくまなく漁ってもそんな文書ないし

322 :人間七七四年:2013/09/11(水) 17:06:08.87 ID:qNU47uZ4.net
>>320
>>302でOKじゃん。
それで不満なら兵庫県朝来郡和田山町・和田山町史編纂室長の宿南保氏が詳しく書いてる。
ただだいぶ前に読んだから文献名は忘れた。
多分宿南氏が執筆した下記のどれかにあるはず。
但馬史、八鹿町史、出石町史、養父町史
もし興味あるなら読んで見れば?

323 :人間七七四年:2013/09/11(水) 23:21:39.91 ID:KN/Ka1R1.net
一益がどう移動して関東から伊勢に帰国したんだっけ?
以前、どっかで読んだ気がするが忘れてしまった…

324 :人間七七四年:2013/09/12(木) 12:18:07.47 ID:ohy4Sg2w.net
>>310
森に関しては、在地土豪のほぼ全てが離反したので選択肢が一つしか無かったんだろう。
北関東の諸将はそれまで常に北条への脅威を感じていたから、離反せずに
滝川の指揮下に残るのを選択したんだろう。
敗戦後、一益は無条件で諸将に人質を返還して、お互い涙ながらに(本当か分からんが)別れたという逸話もあるし
本能寺後に残って戦えるような体制は出来てたんだろう。
河尻は逃げた方が良かった気もするけど、国主の体面もあるしな。

速攻でトンズラしても穴山みたいな例もあるから一概にどれが正解とも言えない。
森も家康も紙一重の逃走劇だったしね。

325 :人間七七四年:2013/09/12(木) 12:25:29.54 ID:C20vlyAb.net
森は信長の敵討ちのためにいち早く上洛したのであって逃げた訳ではない。

森家譜「ホントだよ。だよ!」

326 :人間七七四年:2013/09/12(木) 12:35:51.12 ID:rE7IfGhM.net
そういいつつ、信長の意志を無視して団忠正が本能寺で死んだ機会に
岩村城を奪い取って見事に織田家へ謀反したのでした。

327 :人間七七四年:2013/09/14(土) 00:25:28.79 ID:LaJszNQD.net
>>318
それどういう意味?
滝川方が19日の戦いにも勝利したとしても、河尻は前日に死んでるんだけど。


それから上杉に対する守りがきつい。
上野も防衛しなくちゃならないのに、北信まで入手しようとすると
上杉の本拠地の目の前なんだけど。
むしろ下野方面の宇都宮や佐竹と上手く連携して北条に対処したほうが良い方向のような気がする。
どちらにせよ上杉方面が厳しいけど。

328 :人間七七四年:2013/09/14(土) 11:21:27.70 ID:5uXjcqkJ.net
そっから甲斐へ川尻が侵入すれば
のトコの川尻ってのが、本来、滝川と書くつもりで間違えたんだろ?
北条を大破した滝川織田軍を見れば家康も信濃経営に協力するしかないんじゃないかな。
もう光秀も討ち取って、一応は、織田家の混乱も落ち着き始めているし。

329 :人間七七四年:2013/09/14(土) 14:12:55.76 ID:LaJszNQD.net
>>328
河尻を川尻と書く程度のドジだけなら話続けてもいいけど、
更に実は滝川の間違いでしたなんて言う大ドジとは話続けられねーってばw
時間かけて真面目に考えるこっちの身にもなってみろ。

「自己チェック」できるようになってからまたレスよろ。

330 :人間七七四年:2013/09/14(土) 14:20:16.01 ID:LaJszNQD.net
ちょっと言い過ぎたかな。
また荒らされたら困るから謝っとく。

331 :人間七七四年:2013/11/16(土) 15:34:28.71 ID:b3oxd1ld.net
長文ばっかでウザくて読んでないけど、ここも滝川マンセースレ?
それとも公平な味方で事実を探してるスレ?

332 :人間七七四年:2013/11/16(土) 15:35:12.80 ID:b3oxd1ld.net
公平な見方だなwww
味方しちゃマンセースレだwww

333 :人間七七四年:2013/11/16(土) 18:05:36.94 ID:KPszZGt0.net
川尻と河尻・・・どっちでも構わねーじゃん。心底くだらねぇ。

334 :人間七七四年:2013/11/16(土) 23:16:46.44 ID:b3oxd1ld.net
なに?
やっぱりマンセーどもが騒いでるスレなん?

335 :人間七七四年:2013/11/17(日) 00:43:19.21 ID:oHWq4p0Y.net
公平な味方だと一益は忍者でOK?

336 :人間七七四年:2013/11/17(日) 12:11:41.68 ID:pecfg4yS.net
おまえがそう思うならそれでいいんじゃね?

337 :人間七七四年:2013/11/17(日) 12:44:55.90 ID:fEePUQB/.net
最近は一益が忍者じゃないとも言い切れなくなったよな?
雑賀孫一なんかも広義の忍者になってるし

338 :人間七七四年:2013/11/17(日) 18:05:26.51 ID:pecfg4yS.net
何をもって忍者とするかだろ
情報収集するのも忍者で、その支持出すのも上忍というなら、斥候物見部隊はみんな忍者だし、大名はみんな上忍だ

339 :人間七七四年:2013/11/17(日) 18:07:02.92 ID:pecfg4yS.net
支持× 指示○
河尻を川尻とかいただけで真っ赤になる人に怒られちゃう///

340 :人間七七四年:2013/11/17(日) 18:16:07.76 ID:fEePUQB/.net
>>338
「忍者」っていうより、「忍者大名」の定義が必要だと思われ
っていうか、漢字苦手なんだねw

341 :人間七七四年:2013/11/17(日) 18:22:30.57 ID:pecfg4yS.net
上でうだうだやってたのは俺じゃないぞ
昨日初めてこのスレきたID:b3oxd1ldだ

342 :人間七七四年:2013/11/17(日) 18:42:55.75 ID:fEePUQB/.net
忍者大名数えてみた

百地丹波
藤林長門守
服部半蔵
佐治為次
滝川一益
風魔小太郎
雑賀孫一
土橋守重

一万石以上だとこんな感じ?

343 :人間七七四年:2013/11/17(日) 18:55:14.16 ID:tXxkKvLP.net
信長書状には、川尻とも河尻も書かれている。

344 :人間七七四年:2013/11/17(日) 19:16:48.78 ID:pecfg4yS.net
自分でも言ってたが忍者大名の定義が先じゃね?
もちろん何をもって「忍者」というかにもつながるけど

345 :人間七七四年:2013/11/28(木) 00:21:19.69 ID:VT5HeY2y.net
忍者大名の定義でも作るか

一.幼少の頃忍者の里に居た、又は、忍者に育てられた
一.諜報や離間工作が得意
一.忍者集団を率いている形跡がある
一.一万石以上の所領がある

これで決まりだ!

346 :人間七七四年:2013/11/28(木) 00:32:27.31 ID:vnw5x8xa.net
服部正成と風魔小太郎は1万石無いから除外すか。どうでもいいけど

347 :人間七七四年:2013/11/28(木) 21:24:22.76 ID:VT5HeY2y.net
大名の条件だから仕方がない

348 :人間七七四年:2013/11/29(金) 16:42:00.41 ID:GFqq2jng.net
江戸時代の大名の条件で室町末期の大名を定義されてもなあ
こういっちゃなんだが「忍者」というくくりも「大名」というくくりも幼稚なゲーム感覚のカテゴライズに思えてしょうがない
黒衣装に覆面して刀背負ってる忍者や、石垣に白亜の城にいる大名をイメージしてるんじゃないの?

349 :人間七七四年:2013/11/29(金) 16:46:44.43 ID:Zm8oCix3.net
江戸時代前半だと大名の定義は3000石以上ですよ。どうでもいいけど

350 :人間七七四年:2013/11/30(土) 00:50:22.41 ID:1agDNSei.net
>>349
初めて聞いた。何に書いてある?
忍者、侍、武士道の定義も娯楽や願望の中でイメージが積み重ねられているものだから、
楽しく真面目に定義しておけばいいと思う。

351 :人間七七四年:2013/12/01(日) 10:57:14.65 ID:IUmjfqfj.net
賤ヶ岳の時って本当に7月まで籠城してたの?
一益の史実って本当か嘘かよくわからないの多いね

352 :人間七七四年:2013/12/07(土) 13:11:06.53 ID:UdgsuoRd.net
>>131
詳しくたのんます

353 :人間七七四年:2013/12/09(月) 22:32:27.76 ID:pMADVYI/.net
>>14
追放までは佐久間が副社長で
柴田、丹羽が譜代の現場のツートップ
滝川、明智、羽柴の順で外様スリートップ
佐久間追放後は柴田、明智、羽柴、丹羽、滝川の順
本能寺前は柴田、羽柴、明智、丹羽、滝川の順

あんまり自信無いけどこんな推移だと思う
こういうのって興味深いね

354 :人間七七四年:2013/12/10(火) 01:47:14.25 ID:/NPUWVHq.net
関東取次ぎをどれぐらい評価するかだな

355 :人間七七四年:2013/12/11(水) 22:15:02.07 ID:21lw6vxh.net
>>353
出世は信長の心次第だからね。
案外、本拠地の安土城や大阪城普請の丹羽や、
信忠付家老で甲斐を与えられた川尻の方が、
柴田や羽柴より重用されてたのかも。

356 :人間七七四年:2013/12/11(水) 22:19:37.11 ID:FZ0We1Co.net
丹羽はトップ5どころかトップ15にもはいらんだろ。
丹羽なんて若狭数万石程度だから国高でいえば前田佐々佐久間川尻蜂谷宮部筒井池田あたりに余裕で負ける。
瀧川や明智あたりとは比較するのもおこがましい。

357 :人間七七四年:2013/12/19(木) 23:21:13.44 ID:CwdLsgZg.net
知行の話をしてる訳じゃないからなぁ

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