【瀧川】滝川一益ら滝川氏を語る【忍者】
- 302 :人間七七四年:2013/09/10(火) 15:55:53.16 ID:vxfJzo51.net
- 天正6年5月に山名氏政が挨拶にきた際に
秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)
秀吉→山名宛書状
条々
一此方別而御入魂之上者御身 上之儀於我等聊不可存疎意候事
一御居城不可有別儀之事
一出石郡之儀進之置候条無異儀可被仰付事
右旨八幡大菩薩愛宕山相違有 間敷侯依而如件
天正六 羽柴筑前守
五月十六日 秀吉
山名殿
余人々御中
上記のように年号まで入ってるのは非常に珍しく、おまけに神仏にまで誓っているのは
この書状が約束を違えない重要な書状であることを示していて、
先にレスした12/10の秀吉→黒田・別所重宗宛書状(黒田家文書)でも両家の婚姻についてなので
同様に年号と神仏への誓いが記している非常にレアな秀吉書状として有名。
ちなみにお前が偽書状だと連呼してる12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状(下村文書・三鬼清一郎氏の認定)も
上記文書とリンクしていて、この書状の冒頭は
一但州悉以如存分隙明候条 去廿七日至作州境目〜と書いていて
秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて、その後、美作へ進出している。
そして戦後統治政策の一環として山名へ上記安堵状が発給されてる。
この書状はおもしろく秀吉は信長を無視して安堵状が発給できる実力者になっていることの現われで
この調子で調子に乗って宇喜多も安堵したところ、秀吉が連戦連勝して圧倒していたこともあり、
信長は宇喜多みたいなザコは滅ぼすつもりだった為、勝手に許したと激怒することになる。
しかしのちに本願寺顕如が美濃の坊主や門徒衆へ宛てた書状で、
宇喜多の寝返りで毛利が岩屋・兵庫・尼崎から引退し帰国したことを挙げていて
秀吉の宇喜多調略が決定的な戦略的効果を与えていたのがわかる。
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