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岡山の城

1 :人間七七四年:2012/09/02(日) 12:21:30.30 ID:uMY2hFtb.net
天守のある江戸期の城ではなく
県内に無数にある戦国期の城を語る。
....................................................
.....................................................
...................................................

2 :人間七七四年:2012/09/02(日) 12:26:00.66 ID:Kx0CX3tT.net
期待

3 :人間七七四年:2012/09/02(日) 12:30:52.22 ID:uMY2hFtb.net
総社の士良計城が感激。無名に近いが、2対の城からなり、山上に電波塔が立ち片方は破壊を受けてるが
尾根を歩くともう一方の城の主郭?に着く。そこを下ると手を広げるように郭面が段々とあり
石垣、土橋など遺構が多い。1メートル以上の高石垣には言葉がでない。

4 :人間七七四年:2012/09/02(日) 12:41:27.22 ID:uMY2hFtb.net
同市の鳥越城。山一つが城郭で巨大。山上から下の方まで帯曲輪がめぐり
切岸も立派。土橋もあり、なにか複雑な形をした土塁らしきものも。
テレビ情報では山を囲むように山下に堀が巡らされてたらしい。
国人領主の域を超えてる。

5 :人間七七四年:2012/09/02(日) 12:45:56.90 ID:uMY2hFtb.net
倉敷?の鼻高山城。電波塔のすぐ近くに存在してた。大きくはないが、土の
削平がされており、城跡とわかる。何度か戦場になったらしい。

6 :人間七七四年:2012/09/02(日) 12:52:08.33 ID:uMY2hFtb.net
同市、庄城。木曾義仲がこの辺りまで来て築城を命じたらしい。その後
毛利氏の出城として機能した。現地は寺を囲むように水路があり、かつての
水堀か?看板には「城の内」と文字が見える。民家などに遺構もありそう。

7 :人間七七四年:2012/09/02(日) 12:58:20.82 ID:uMY2hFtb.net
総社の赤浜城山城。田んぼの中に土塁による積み上げられた所がある。
周囲に小川もあり堀跡か?砦か兵站基地と思うが、城何々と地名があり
当時の認識は城か。発掘調査もされたらしいが。

8 :人間七七四年:2012/09/02(日) 13:04:23.06 ID:uMY2hFtb.net
同市?、造山古墳の上に築かれた造山城。期待してなかったが、土塁や郭面など良好。
土塁も高さがあり、労力いっただろう。さらに公民館に城跡に関する資料があり思わぬ収穫。
堀切は確認しずらい。

9 :人間七七四年:2012/09/02(日) 13:12:41.98 ID:uMY2hFtb.net
真備の鳥ヶ獄城。猿掛城と連携して機能したらしい。遠目から山上が平らなのがわかる。
登ると郭面もよくわかり、人口的に切られた石や、兵が腰を下ろしてただろう石がある。
三の丸ぐらいを藪こきすると、崩れかけの積まれた石垣が出現。
形からしても臨時の城ではなかった思われる。

10 :人間七七四年:2012/09/02(日) 13:18:06.47 ID:uMY2hFtb.net
倉敷市、流山城。神社の裏手に登山道。城主が毛利氏に従い出陣中に攻められ
防戦むなしく落城。石垣、郭面確認できたが、いまいち全体像がわからない
何か神聖な感じのする岩?があり、当時のご神体か?

11 :人間七七四年:2012/09/02(日) 15:02:00.82 ID:K85+8fiI.net
備中高松城
何もなかった。結構平野だったので、これらが全部水没したのが信じられなかった

12 :人間七七四年:2012/09/02(日) 15:48:15.94 ID:+rGlAGRT.net
幸山城と福山城ってどんくらい離れてるの?

13 :人間七七四年:2012/09/04(火) 15:37:41.27 ID:zwBHF7Jd.net
>>5
ハナターカダッカー!!

14 :人間七七四年:2012/09/05(水) 11:33:55.79 ID:mmPrhoK5.net
倉敷市、青江城。近くの神社に城の遺構ありとの看板。城跡は寺と幼稚園になってる。
小山ぐらいだが、人目もあり遺構確認できず。何度か戦乱になったらしい。

15 :人間七七四年:2012/09/05(水) 11:36:29.44 ID:mmPrhoK5.net
12  30分ぐらいじゃないですかね。猪出没するみたいですが。

16 :人間七七四年:2012/09/05(水) 11:40:55.27 ID:mmPrhoK5.net
同市、小野ヶ城。山下の防御に不向きな場所に城跡の看板があり、おかしいと感じたが
城跡は明治ぐらいに山もろとも削られ、消滅した。永遠に資料が消えた。

17 :人間七七四年:2012/09/05(水) 11:47:19.58 ID:mmPrhoK5.net
同市、戸山城。旧指定史跡にも関らず、地元民だれ一人知らんとの回答。
寺の住職はさすがに知ってた。遺構はよく残り、石垣や郭面、犬走り?など
満足のいくものだ。

18 :人間七七四年:2012/09/05(水) 11:54:06.02 ID:mmPrhoK5.net
同市、北面城。一言でいうと、石垣が多い.町史によれば城のか後世の民家の跡か
わからないとの事。どちらにしても古そう。ミニチュアだが武者返しの形をしてる
所もある。社に5メートルの石垣があるが、あれは否定せざる得ない。

19 :人間七七四年:2012/09/05(水) 12:00:52.12 ID:mmPrhoK5.net
同市、桜山城。墓所になり破壊を受けてるが、堀切や土塁の跡らしき物がある。
後、切岸、郭面も。一度破壊されてるのでなんとも言えない。

20 :人間七七四年:2012/09/05(水) 12:10:08.93 ID:mmPrhoK5.net
同市、川越城。峠の道路からすぐに着く。小城ながら切岸は見事。
曲輪や土橋?もよくわかり、城郭研究会によると狼煙の装置があり、天守台(楼台)が
下から来る兵に向け、心理的圧力を加える形に作られてるらしい。
埋蔵金伝説で掘り返された。歴史的には城跡との資料はない。

21 :人間七七四年:2012/09/05(水) 12:16:50.96 ID:mmPrhoK5.net
同市、城の首城。岬にあり公園化されてるが、大掘り切りなど今でも確認できる
土塁跡も微かに残り、厚さから当時はかなりの高さがあったのではと。
浜辺に井戸跡有り。在地支配ではなく、純軍事目的で築かれたと推測されてる
あたりまえか看板などない。

22 :人間七七四年:2012/09/05(水) 12:37:15.36 ID:mmPrhoK5.net
d



23 :人間七七四年:2012/09/05(水) 12:41:04.75 ID:mmPrhoK5.net
同市、要害山城。古びた石碑がある。宅地化により城跡は完全?に
破壊されてる。名の通り一筋縄では抜けない要害な城だったらしい。
消滅したため、歴史検証は永遠にできない。


24 :人間七七四年:2012/09/05(水) 13:25:20.89 ID:mmPrhoK5.net
同市、亀崎城。小丘の社に亀崎城と見える。今は陸だが海城だったらしい。
特別、防御遺構など確認できなかった。ここではないとの説もあり謎。

25 :人間七七四年:2012/09/05(水) 13:30:19.74 ID:mmPrhoK5.net
同市、片島城。同じく海城。山陰から尼子氏に攻められ落城。寺と墓だけだが
高台や郭面だろうという場所もあり、遠目からも城っぽい雰囲気をもってる。
山肌に遺構有り情報もある。

26 :人間七七四年:2012/09/05(水) 13:36:41.87 ID:mmPrhoK5.net
同市、本太2城。石碑のある1城の詰めの城らしい。土塁、高台、土橋あるが公園化
によりわからない。土橋などは公園化とは関係なさそう。
1,2城は城郭研究会によれば、岬の3城とは作りが、まったく違い時代差があり
別ものと考えるべきと提唱してる。

27 :人間七七四年:2012/09/05(水) 13:41:20.78 ID:mmPrhoK5.net
同市、宮前城の内城。平城。スーパーなどで破壊。民家の庭などに石垣など
あるかも。どんな城かわからないが、秀吉もたちよったりしてたり?。

28 :人間七七四年:2012/09/05(水) 13:47:03.15 ID:mmPrhoK5.net
同市、黒山城。丘ぐらいの小山に奇跡的に完存?。なにか知性を感じる
掘り切り、周囲を巡る土塁。石垣は後世の物らしい。わかりやすい虎口。
看板なし。5星城郭。

29 :人間七七四年:2012/09/05(水) 13:51:01.52 ID:mmPrhoK5.net
同市、楯築陣城。なにか伸びた土塁らしき物があるが、それ以外わからない。
楯築陣城の事を書いた本もなさそう。

30 :人間七七四年:2012/09/05(水) 13:55:18.83 ID:mmPrhoK5.net
総社市?,河屋城。寺だが道路側から見ると、城の風格有り。段差など
郭面と思う。領主は戦後、毛利氏に従い広島方面へ。

31 :人間七七四年:2012/09/07(金) 11:23:34.70 ID:G+9p9yrM.net
倉敷市、万寿城。小丘を道路と線路と宅地により破壊。踏み切りに城丸と看板。
丘の間を線路が通り堀跡か?。雑木林に遺構あるかも。万寿城説は他の地域にも

32 :人間七七四年:2012/09/07(金) 11:31:04.85 ID:G+9p9yrM.net
岡山市、正木城。苦労して崖を上ったが城の遺構らしき物見つからない。
宅地化されてるとこも城域。宇喜多の軍勢に包囲され、城の奥方が山から
駆け降り身投げした、井戸が近くにある。

33 :人間七七四年:2012/09/07(金) 11:34:42.15 ID:G+9p9yrM.net
同市、石山城。岡山城内の会館の花壇に石碑がある。小山だが石垣化
され、名残はないだろう。

34 :人間七七四年:2012/09/07(金) 11:42:08.15 ID:G+9p9yrM.net
同市?片岡城。登山道がなく、城の大半が藪で覆われてる。
石垣はないが、土の削平がよくされており、くの字形城郭。
町史によれば貧乏殿様の城と伝えられ、城の上から村に向かい「味噌を
もってこい」と叫んでたらしい。猪の糞が多く注意が必要。

35 :人間七七四年:2012/09/07(金) 11:46:20.72 ID:G+9p9yrM.net
同市、高柳城。岡山の中心地に近く、建物で消滅か?
民家や空き地に石垣、土塁らしき物あるかも

36 :人間七七四年:2012/09/07(金) 11:52:04.07 ID:G+9p9yrM.net
同市、明見山城。公園化されてる。舟山城の出城。曲輪が三段ぐらいあり
城遺構だろういわれてる。山なので斜面の草原に堀もある思われる。

37 :人間七七四年:2012/09/07(金) 11:58:56.64 ID:G+9p9yrM.net
同市?、坪井城。道路で破壊だが看板もあり城主の墓にも看板あり。
城は焼け落ち、城主も暗殺された。焼け焦げた成分が検出された場所から
城跡を断定したらしい。今は楚石がわずかに残る。高松城戦では毛利氏
が利用。

38 :人間七七四年:2012/09/07(金) 12:05:23.79 ID:G+9p9yrM.net
同市?、生石城。神社に城の名が見える。城の郭面らしき物もあり、
つなぎの山には、長く伸びた土塁らしき物も。加藤清正が陣城にも利用した。

39 :人間七七四年:2012/09/07(金) 12:56:37.12 ID:G+9p9yrM.net
倉敷市?、末森松山城。「末森政所で敵首討ち取り比類なき働き」と文献が残る。
城跡は道路で削られ、宅地化で消滅。一番の高台が主郭か?
一部、自然地形もあり、遺構も残るらしいが、民家周りを回るのは勇気がいる。
畑山城との距離も近い

40 :人間七七四年:2012/09/07(金) 13:01:58.89 ID:G+9p9yrM.net
井原市、米持城。北条早雲が若き日に縄張りしたとの伝承が残る。
切岸や曲輪などから城跡だが現状では単郭に見える。
というのも、崩落箇所があり重機か何かで破壊されたらしい。残念

41 :人間七七四年:2012/09/07(金) 13:08:11.77 ID:G+9p9yrM.net
岡山市、西幸川城。小城ながら大堀きりをそなえて、そこが重要な意味を要したのがわかる。
秀吉の書状にも出てくる。ただ中途半端に堀切が切れてる箇所もあり
謎が残る。

42 :人間七七四年:2012/09/07(金) 13:12:54.39 ID:G+9p9yrM.net
美袋?金頭山城。中継塔で破壊されてるが、それでも段々が遺構らしく見える
先端に腰曲輪らしき物も。確か発掘調査もされたらしいが、建物跡は検出されず。
こちらが美袋城との説も。

43 :人間七七四年:2012/09/07(金) 13:17:35.33 ID:G+9p9yrM.net
美袋の美袋城。石垣が多く、崩れかけの高さのある石垣。大堀切など
見ごたえ有り。看板もなく、かつての美袋の中心地としては寂しい。

44 :人間七七四年:2012/09/07(金) 13:21:22.51 ID:G+9p9yrM.net
瀬戸内市、大着城。案内看板はあるが、現地は学校。
小丘で多分破壊されてる思われる。

45 :人間七七四年:2012/09/07(金) 13:26:34.37 ID:G+9p9yrM.net
同市、上城。宅地地域に小さな丘。丘自体は小さく、規模は不明。
鎧を埋めたと伝承があり、掘り返されたが、何もでなかったらしい。

46 :人間七七四年:2012/09/07(金) 13:30:55.54 ID:G+9p9yrM.net
同市、智間城。山下に昔は川が流れており、それに沿うような位置にある。
確かに斜面に削平地があり、平面にも人口的な土の整形があるが
よくわからない。智間氏の名は太平記に出てくるらしい。

47 :人間七七四年:2012/09/07(金) 21:03:27.51 ID:ndXreQXf.net
丘、古墳、古城、戦国城、寺、神社

48 :人間七七四年:2012/09/19(水) 11:23:12.52 ID:6zNU4r+7.net
瀬戸内市、佐井田城。昔から地元で城山と呼ばれ、「三宅某、犬死す」とある。
城跡は緩やかな平面で単郭(正直、草山でわからない石垣?らしきものもあるが)
町史によれば農民が自衛のため築いた城だろうと。規模からして同感。

49 :人間七七四年:2012/09/19(水) 11:57:26.82 ID:6zNU4r+7.net
金光町,西山城。--さま屋敷、など地名が残るが、はっきりした場所
わからないらしい。現地わ山裾に少し拓けてるが。茶屋敷が城の砦跡らしい。
西山氏の墓が至る所にあるらしく、西山氏が根を張ってたのが裏ずけれるとの事。
鴨山城の家臣団にその名が見える

50 :人間七七四年:2012/09/20(木) 19:32:53.72 ID:0LU15Yaw.net
保木城行きてーな
十字架とか埋まってるかも知れん

51 :人間七七四年:2012/09/21(金) 11:26:18.34 ID:kWBeWfGk.net
倉敷市、平田城の内城。田んぼと民家でよくわからない。私有地らしいので
ウロウロできない。近場の墓場に土台があるが?
しかし、変わった城名だ。

52 :人間七七四年:2012/09/21(金) 11:29:12.98 ID:kWBeWfGk.net
50さん 何歳代すか?

53 :50:2012/09/22(土) 17:55:07.34 ID:tIdCD3t2.net
>>52
俺ですか?39ですよ
宇喜多家臣団の持ち城に少し興味があるもんで…

54 :人間七七四年:2012/09/23(日) 11:45:00.98 ID:aWzgyoKe.net
53 城に詳しくはないんですかね?。戦国の城のファン少ないですからねえ。

55 :53:2012/09/23(日) 21:29:34.74 ID:0XOR7KHC.net
>>54
好きだからそこそこ知ってるつもりですが
こういう掲示板は
自分が"〜に詳しい"と自認するにはハードルが高すぎて…ww
多分、一生初学者ですな

56 :人間七七四年:2012/09/25(火) 11:19:29.03 ID:1O7k9r9Q.net
55 頼もしいですね、山城巡りのネットワークあればいんですが(一人では情報集め
大変ですね)

57 :人間七七四年:2012/09/26(水) 15:01:53.26 ID:6EWffHrE.net
撫川城跡は行った?
江戸期も庭瀬藩の陣屋として使われてたから
石垣や土塁の現存状態がいいよ

58 :人間七七四年:2012/09/28(金) 11:17:59.61 ID:LjJvg13O.net
岡山県内は100城ぐらい行きました(笑)。浦上氏の天神山城とか
まだで面白そうですが、行ったことあります?

59 :人間七七四年:2012/10/08(月) 11:56:26.16 ID:OyIc6y/m.net
井原市?神戸山城。看板もある。お椀を裏返したような主郭部分。小笹丸城思いださせた。
道を外れると猪の跡だらけ、注意が必要。

60 :人間七七四年:2012/10/08(月) 12:02:51.52 ID:OyIc6y/m.net
鴨方町?安芸守山城。登城時、草も刈られ、まるで公園。郭面や石垣も
よくわかり、想像がふくらむ。城主の骨を埋めた伝承があり、実際、明治ぐらい
人骨が出土したらしい。

61 :人間七七四年:2012/11/06(火) 13:51:07.67 ID:+0iY5DhV.net
もうすぐ戦国の城シーズン到来。ワクワクします。蜂、蛇が山から消えるが、イノシシが凶暴
な時期、それだけが不安です。

62 :人間七七四年:2012/11/11(日) 20:59:16.22 ID:2Gaq3L5F.net
この 板見てる人で休みの日に山城巡りやられている方いますか?
今の時期に

63 :人間七七四年:2012/11/12(月) 11:21:49.42 ID:FXfjMMV0.net
私は無名の城が好きです。歴史的資料は皆無に等しいのに
重厚な造りの城をみつけると、楽しいです。

64 :人間七七四年:2012/11/13(火) 22:52:06.38 ID:TFH8Sgu7.net
旧御津町の金川城は史跡はあんま残ってないけど、
山登りは面白かった。

65 :人間七七四年:2012/11/15(木) 20:35:29.87 ID:fho+9iKY.net
乙子城は是非。
こんな小城から始めて備前、美作を斬り取ったのか
と感慨深かったです。

66 :人間七七四年:2012/11/15(木) 22:17:35.93 ID:NprMZ3o0.net
砥石城 この間登ってきたけれど どなたか伊部城登られた
方、おられますか?

67 :人間七七四年:2012/11/16(金) 11:18:08.43 ID:eJwBnnBt.net
まだないですね。森本氏の(岡山の戦国山城を攻略する)
とか読んで登れば楽しそうですよね。

68 :人間七七四年:2012/11/18(日) 15:45:11.13 ID:Sxwmo7qa.net
岡山市、龍ノ口城。土塁や切岸をよく残す。主郭下の切岸は絶壁、
難攻不落も頷ける。主郭下、土塁部分に堀切も確認。
現状、神社で破壊うけてるが、城当時と大きな改変ないのでは?感じた
離れに出丸もある。

69 :人間七七四年:2012/11/18(日) 15:54:07.62 ID:Sxwmo7qa.net
同市、船山城。墓で破壊うけてるが本丸?部分に土塁、堀切が見事に残る
絵図には本丸から山ずたいには何もないが、堀切一本の尾根の防御は
不思議であり、実際歩けば、石垣(後世の物?)や土塁もあり、土の成形も
一見、不成形ながら人口的な感じもする。リベンジしたい。

70 :人間七七四年:2012/11/18(日) 16:00:46.80 ID:Sxwmo7qa.net
同市、高柳城。矢坂富山城の出城らしい。二面の郭で構成されそれぞれ属将を配したと
記述がある(幸山城みたいな感じか?)岡山中心部に近く現状破壊。

71 :人間七七四年:2012/11/18(日) 16:09:02.02 ID:Sxwmo7qa.net
倉敷市、福山城。崩れた石垣は福山合戦以降の戦国期の物か?
三の丸辺りにも大きな窪みがあり井戸跡か?
列石はなんだろう?
毎回城跡で思うが、地盤の削平が完全でない所が多く、なぜ?
年月での地形変化か?わからない、
戦国期はまだ原始的な空気が残ってたのか?
登山道に岩の門跡らしき箇所もあり、そこでの攻防も想像する。

72 :人間七七四年:2012/11/18(日) 16:18:03.99 ID:Sxwmo7qa.net
同市、幸山城。6年前に来た時とイメージがかなり違い、記憶の曖昧さを感じる
二対の主郭からなり、片方が落城しても、もう片方で耐え
援軍を待つようにできてるらしい。土塁は高い所で5メートルぐらいあり
当時は西日本中に轟いたらしく攻め上がるのが困難な絶壁の崖にある
大堀きりもあり、この城は面白い。

73 :人間七七四年:2012/11/18(日) 17:04:53.07 ID:Sxwmo7qa.net
同市?、撫川城。県下で珍しい沼城。
石垣も意外と5メートルぐらいある。城域はあの辺り民家の方も含まれてた?
土塁の高まりも良好。
攻防戦では城兵の決死の構えで堀外に人が歩けないぐらいの織田兵の残骸が
築かれたと記述が残る。

74 :人間七七四年:2012/11/18(日) 17:13:06.20 ID:Sxwmo7qa.net
同市?、庭瀬城。神社公園になり、何か戦国の土臭さがなく陣屋時代の遺構か?
撫川城のすぐ横にあり、撫川城の一部と推測するが
なぜ、別々に表記するのかわからない。(二対の城か?)
この辺りは川が多く、平地ながら防御には抜群だっただろう。

75 :人間七七四年:2012/11/18(日) 17:25:51.36 ID:Sxwmo7qa.net
同市、松島城。備中七城(後世の虚作)でただ一つ落城しなかった海城。
病院が建ち、前は登れたのに、今回は立ち入り禁止。
山端の神社で遺構を探すが草と素人目には厳しい、が山端は死角になり
当然ここにも櫓かなにかが築かれた思う。
病院以前は遺構が残り、絵図が残るらしい。

76 :人間七七四年:2012/11/20(火) 18:55:34.31 ID:Yp0tJWyT.net
早島町、早島城。公園になり破壊をうけてるが、曲輪らしき
箇所も見られ城跡の雰囲気を持つ。
秀吉と関係のある武将の墓があるが、よくわからないらしい。

77 :人間七七四年:2012/11/20(火) 19:14:24.34 ID:Yp0tJWyT.net
矢掛町、茶臼山城。巨大,天守台の石垣はすばらしい(見えずらいが)
天守があったかは発掘調査されてないためわからないらしい。
整備保存で破壊(なんのための保存か?)うけてるが郭面が広がる
山下には水堀を備え、今も川として残る。
秀吉を歓待した所とあって、かつては壮大で矢掛の象徴的な顔が浮ぶ。

78 :人間七七四年:2012/11/20(火) 19:28:50.66 ID:Yp0tJWyT.net
岡山市、長野城。大きな城ではないが、最新技術が投入されこの辺りの
盟主層の城ではないか言われてる。石垣はわずかだが曲輪を覆う土塁は尋常ではない。
堀切もある。あまり知られてないためか、藪コキの嵐。

79 :人間七七四年:2012/11/20(火) 19:42:56.84 ID:Yp0tJWyT.net
同市、矢坂富山城。やはり岩だらけで、ボコボコした所がある(ここはどう使われたのか?)
本城?までの土橋がほんと土の橋であり芸術的。門石、石垣もある。
戦国城から近世城郭への脱ぴ中の城らしい。
土砂採取で破壊された先端の崖の岩に階段とはいえない荒々しい足掛け階段らしき
物があるが非常に危険で、当時物見に利用されてたらそれだけで昔の人の
気性がわかる気がした。

80 :人間七七四年:2012/11/20(火) 19:55:46.54 ID:Yp0tJWyT.net
同市?、鍛冶山城。中継塔で破壊、戦時中や陣屋にも利用された。
毛利対の織田方の最前線で秀吉も来ただろうに、看板すらなく竹薮で
荒れ放題。しかし近世城郭を感じさせる石垣(陣屋時代の物)や
すぐに出会う戦国の跡を残す堀切、切岸,曲輪群の跡など見応えあり
途中、尾根を降りると大きな広場があり、その下にも又広場が。何かしら利用されただろうが
なんだろう?竹なので何とか進めるが、猪の堀返した跡があり、動きずらい
あそこでの遭遇は避けたい。以外と巨大な城。

81 :人間七七四年:2012/11/20(火) 20:02:04.06 ID:Yp0tJWyT.net
瀬戸内市、今木城。看板もあるが現地は破壊受けてるらしく,わかりずらい
犬走りのような所があり石碑の裏あたりにも、何か人口的な臭いのする
土の成型がある。しかし、確か場所もここが城跡か確かでないらしい。

82 :人間七七四年:2012/11/20(火) 20:07:31.77 ID:Yp0tJWyT.net
同市、尾張城、平地の神社に石碑。今では想像できない宅地化への変貌だが
現地はわずかに地面に高低差があり、城ノ内とか堀切とか地名が残る
確か絵図があったような。

83 :人間七七四年:2012/11/20(火) 20:16:15.51 ID:Yp0tJWyT.net
同市、砥石城。神社?に利用され破壊、石垣もあるが後世の物も混じる。
二ノ段、三ノ段の郭が草に覆われ行けず残念。以外と小城?。
支城の方が戦国の跡をよく残し、切岸や帯曲輪、土塁など見応えあり。
郭面など、どこまでつずくのかわからない。尾根伝いに人口的な切岸があり
そこも気になった。

84 :人間七七四年:2012/11/20(火) 20:22:56.60 ID:Yp0tJWyT.net
同市、はっとり丸山城。小山に看板。山上が開け、腰曲輪?もある。
どんな城だったんだろう?。大きな城ではないので福岡合戦で簡単に落城したのだろうか
史書のない興味深い城。

85 :人間七七四年:2012/11/23(金) 11:49:54.58 ID:FScUrq6Y.net
同市、高取山城。かつては城の周りに木はなかったから、登山道の斜面から見れば
壮大な感じをうけただろう。堀切、切岸、曲輪群よく残る。
井戸跡にもいってみたが、斜面に少し平らな面があり、湿気を含んでる所が
荘だろうか?。2箇所目の堀切など今だ現役で這い上がるのに苦労した。
保存良好な城。

86 :人間七七四年:2012/11/23(金) 12:00:53.00 ID:FScUrq6Y.net
笠岡市、笠岡山城。小山の上の元海城。
遺構は公園化で破壊されてるが平地の上の小山が遺構か?
室町将軍、足利義昭が一時ここで、避難し戦況を伺ったらしい。
 
ほとんどの戦国期の城は破壊をうけてるが、戦後の反戦の高まりから
古墳などにくらべ、戦国の城は研究を放棄されてきたらしい。
しかし戦争も、人間の営みには違いないという事から少しずつ
最近注目されだしてるらしい。

87 :人間七七四年:2012/11/23(金) 12:11:42.59 ID:FScUrq6Y.net
川上町、国吉城。土塁、曲輪群、模擬矢倉、切岸ある。
馬出曲輪から城に取り付く時、迂回せねばならず、その間射撃の嵐にさらされる
破壊もあるが曲輪群の段差がよく残り当時のままだろう。
城兵300名が助命嘆願したが許されず落城(人権すらない時代はつらい)
すぐ隣の山にも第6感が働いたので登るとやはり、人工的な削平が
(城関連かわからないが距離が真近なため勝手に城遺構と思う)

88 :人間七七四年:2012/11/23(金) 12:20:06.35 ID:FScUrq6Y.net
美星町、小笹丸城。小城ながら機能的な感じのする造り。
さすがに看板に書いてある、武者隠しなど個人では気ずけない。
井戸など総石垣であり、主郭のお椀形切岸もいい(削っていったんだろう)
コンパクトながら至る所、入念な感じの造りの城。

89 :人間七七四年:2012/11/23(金) 12:27:16.88 ID:FScUrq6Y.net
鴨方町、鴨山城。岩の城と印象。自然石に見えたが、よく見れば
意図的な箇所もあり城跡と再認識(主郭部分の岩の組合わせなどいい仕事
してるらしい)。堀切いわれる所はあと何年かで消滅するぐらいわずか。
山尾根方面いくが曲輪とわかるが猛烈な藪こきで途中断念。

90 :人間七七四年:2012/11/23(金) 12:37:02.45 ID:FScUrq6Y.net
総社市?下倉城。小城だが防備を神経質に仕掛けてる(緊迫した状況化
に置かれてたのだろうか?)切岸でズっこける。
どのくらいの兵力を動員できた城なのだろう。
一揆で落城とあるが、この城の戦闘員も一揆に加担したのだろうか?
堀切、切岸、土橋、曲輪、出丸。

91 :人間七七四年:2012/11/23(金) 12:43:06.11 ID:FScUrq6Y.net
同市、真壁城。平城。現地は切り株の下に石垣(城遺構?)
土塁跡が名残を残すらしいが発見できない。
ここの城主の薬師寺氏が太平記にでるらしいが?地元民でも
ここの城館の事を知る人間はまれだろう。

92 :人間七七四年:2012/11/23(金) 12:55:13.53 ID:FScUrq6Y.net
倉敷市、本太城3城。まず土橋が怖い。1メートルぐらいしか間道がなく
、両側崖。(落ちたらアウト、やはり戦国は命が懸かってるから
こんな危険な造りにするのだろう)
主郭?の周りに石垣が施され、土留めいうより、装飾的な意味合いが
強いだろうと(石垣は後世持ち去られた所もあるらしい)
山斜面に大きな窪みがあり謎?
主郭?の奥に進むと大井戸跡(堀切兼)があり圧巻。
その先は猛烈なイバラで断念。 この辺りには3つ城があり
この城と後の2城では造りから時代背景が合わず、別城と考えるべき
と城郭研究本で提唱されてた

93 :人間七七四年:2012/11/28(水) 17:38:54.44 ID:ToSL2iTF.net
岡山市?、備中高松城。途中武者一人がやっと通れる道と看板にあるが、
開けた所で現代では想像できない。城跡も公園化?で破壊されており
僅かに土塁らしき高まり、再現された沼が残る。
宗治は忠義の人いわれるが、忠義という思想を持ってた言うより
小早川隆景に対する信頼という物が大きかったんじゃないだろうか?。

94 :人間七七四年:2012/11/28(水) 17:52:06.31 ID:ToSL2iTF.net
同市?小山城(仮)。城の名称が無いほど謎の城。
一説に秀吉が信長を迎えるために築かれた陣城ともいわれる
高所に神社があり階段状に曲輪群。社の裏にも曲輪があり、尾根伝いを
大堀切で断ち切ってる。その先には崖沿いに長土塁があり、下に堀切
(ただの道?)と曲輪群。大堀切を登り帰ろうとするが
曲輪に小さな堀切あり先に土塁(遭難したらしく違う所に出た。
薄暗い竹藪であせり、光が漏れる崖部分から無理やり下り助かる
、小山でも山は怖い)
陣城以前にも、在地領主の城があってもおかしくない規模。

95 :人間七七四年:2012/11/28(水) 18:04:07.59 ID:ToSL2iTF.net
瀬戸内市、肩背城。切り通し(現通路)の中堀切を通る。
本丸までの道にも平面があり腰曲輪?。
山上は大体削平されている。堀切言われる場所も400年?の時を得れば
僅かにしか残らず(通常わからない)。堀切上の切岸は当時のままだろう。
この城に限らず石垣あったかもしれないが、転用されたり土に埋もれたりで
現状はなし。山先まで行くとそこから、なだらかな崖だったような
石碑あり。

96 :人間七七四年:2012/11/28(水) 18:12:28.48 ID:ToSL2iTF.net
総社市?長良山城(出城?)。展望台に行くと斜面沿いに僅かに土塁
らしき物がある、崖に突き出した岩に行くと石垣?(崖で覗けない)らしき物。
正直、城跡とも自然地形ともとれるが、ここは出城か?
山上を歩き神社に行き、ここに城の高石垣があったはず(昔の記憶)だが確認できない。

97 :人間七七四年:2012/11/28(水) 18:26:03.29 ID:ToSL2iTF.net
総社市?、長良山城。さらに道を進むと歩道沿いに曲輪らしき箇所が、
何かを感じ、藪コキで強引に登ると曲輪群が広がる(この段階ではまだ
自信ない)、さらに奥に進むと山斜面に高さ1−2mの長土塁があり下に帯曲輪(歩道?)
が取り付いてる。
そして福岡城を思わす高台(楼台?上は緩やかな平面で窪みあり)があり下を掘り切りが巡る
さらに右側にも一縄の堀切があり端に土橋。どれも明らかに人工的で
長良山城の遺構と確信する。そこから先は特に遺構なし。
長良山の一番の高所にも何かありそうだが,登山道がわからない。

98 :人間七七四年:2012/11/28(水) 18:27:38.94 ID:3t5uh0wJ.net
猿掛城って規模大きいの?

99 :人間七七四年:2012/11/28(水) 18:54:30.40 ID:ToSL2iTF.net
城巡り駆出しのころ登ったんですが、記憶が正しければ、規模ある思います。

100 :人間七七四年:2012/11/28(水) 23:20:31.65 ID:sxjlzweq.net
>>95
岡山市東区瀬戸町じゃね?

101 :人間七七四年:2012/11/29(木) 20:32:30.25 ID:rMRMNtJ1.net
私もそう思いますが、岡山県岡山市東区瀬戸町肩背ですよね。

102 :人間七七四年:2012/11/29(木) 20:41:16.78 ID:rMRMNtJ1.net
ちなみに 明後日土曜日に玉野の常山城登山しますが、どなたかご一緒しませんか、
今、私を含め3名です。興味あれば連絡下さい。dragonxxx0@gmail.com
夜はカキコ出来ますが昼は携帯なので規制掛かって連絡とれないので。

103 :人間七七四年:2012/11/30(金) 11:24:22.91 ID:jsGNVEpf.net
102 いい加減ですいません。
皆さんどういう方なんですか?
本格的な縄張図とか描くんですか?

104 :人間七七四年:2012/11/30(金) 17:22:58.75 ID:xEHzcPU2.net
>>103
102です 家帰りましたので 質問にお答えします。まず常山は単に登山目的です。
私は山城巡りをしますが他の方はただハイキングで手ごろな所がないですか?と言われたので
常山が候補に挙がっただけです、縄張図ですが私は岡山県下の山城を
散策したいだけですので基本そこまでしません。とこんな所で宜しいでしょうか。

105 :人間七七四年:2012/12/01(土) 11:34:39.18 ID:2AMoM2TV.net
そうですか。縄張図とろうとしたら趣味の範囲超えるエネルギー
使いますしね。自分は散策とは少し違うかもしれないですが
城の防御遺構を時間をかけて探すのが好きです。

106 :人間七七四年:2012/12/01(土) 11:46:53.51 ID:2AMoM2TV.net
倉敷市、片島城。高台の寺の裏切岸の下に非常に良好な6縄ほどの
連続竪堀?(敵の斜面での横移動を遮り狙撃しやすくする装置)発見。
ここが城跡と見事に裏ずける。横には腰曲輪もあり(崩落の危険)
、近世城郭のような石垣(これは後世のものだろう)
連続竪堀は戦国時代さながら保存状態がいい。
城跡を示す看板がどこにもないのが残念。

107 :人間七七四年:2012/12/01(土) 11:59:02.23 ID:2AMoM2TV.net
船穂町、簗場山城。看板がなぜか徹去されてる。
一番の高台に2基の土塁の高まりがある。
窪んだ所は堀か?高台の下に曲輪、その下が石碑のある広場(崖沿いの
低い土山は土塁か?)元校舎側の山にも頂上辺りに平坦な削平地が
あるが藪コキが激しく断念(物見櫓設けてた?)
刀剣が出土したらしいが、どこに保存されてるのだろう?。
(城と無関係だが、元校舎跡から人がいないだろうに、走る音がしてた
少し不気味)。戦国城巡りのきっかけをつくってくれた城。

108 :人間七七四年:2012/12/03(月) 20:54:30.90 ID:Eqzr2vpg.net
テスト

109 :人間七七四年:2012/12/07(金) 11:32:57.16 ID:hIu5coec.net
追記。倉敷市、青江城。
寺の前が大手道か?小高い山があり一番の高台(主郭)は墓と民家で破壊。
だが裏が崖と川で要害。相当破壊受けてる思われるが外観は変化少ないのでは?
(往年の姿が想像できそう)。
隣の小山が人手がなく遺構の期待できそうだが、フェンスがあり入るのは
難しそう。
落城も経験してる城。

110 :人間七七四年:2012/12/07(金) 11:39:49.58 ID:hIu5coec.net
総社市?市場古城。尼僧が住んでた所を城にした。
小丘に高台から演説できそうな曲輪が下に広がり主郭?は大半が藪。
畑など改変されてるが姿をよく残す。
石垣など当時の物か疑問なほど真新しい。
井戸あるらしい。当然看板なし。
城主は関が原で行方不明。

111 :人間七七四年:2012/12/07(金) 11:55:02.69 ID:hIu5coec.net
同市、伊予部山城。
2面の曲輪からなり高い方の主郭(中心部も土盛ってるか?)より
約1m下にもう1面の曲輪。
二ノ丸の遊歩道が土塁跡にも見える。
見える範囲崖沿いも見てみたが、主郭方面は急な崖(草木でみえない)
で天然の要害に頼ってる、二の曲輪方面の山岸は自然地形。
城としては小城(二万の軍勢の駐屯地思えず、かつて住民は気のたってる武者の
数に怯えただろう)だが城郭体系によると、ここの立地が戦略的によかった
のだろうと。
ここを拠点に三村氏の諸城を攻め潰したらしく、看板もあり訪れやすい

112 :人間七七四年:2012/12/07(金) 12:05:27.72 ID:hIu5coec.net
倉敷市?小山崎城。場所の特定が上手くできなかったが、丘陵地で
高台(畑)を主郭とすると周りを一段下がり曲輪(畑)が巡る。
もう一つの特定地はやや独立の小山で高台墓地で、崖沿いに小土塁。
下ると緩やかな斜面で人工的な土の段差あり(藪で部分的にしか見てない)
。毛利と尼子の激戦地で五輪塔あるらしい
地元で6人ぐらい城について尋ねたが、知らんと(知ってても
城=天守閣となるから知らないとなるのだろう)

113 :人間七七四年:2012/12/07(金) 12:14:53.81 ID:hIu5coec.net
追記。同市、亀崎城。小山の斜面に堀切らしき3縄発見。
神社の裏の突き出しの平坦面も気になる(下に石垣?)
山斜面に岩の平坦面。山伝いの小山も城域か?
周辺の5城(末森松山、畑山、小山崎、亀崎、要害山)は場所も近くどれも訪城しやすい(ゆえ破壊多し)

114 :人間七七四年:2012/12/07(金) 12:22:46.04 ID:hIu5coec.net
なるべく世に知られてない城も行きたいが(岡山の戦国は未開の地が
まだ多い)、登山口がわからず登山道もあるかどうか、、、、労力と
時間がいる。
城郭体系(岡山、広島)

中世城郭大辞典

城郭研究会

戦国山城を攻略する

岡山全権gis
以外で城(岡山)について書かれた物はないだろうか?

115 :人間七七四年:2012/12/07(金) 12:33:08.56 ID:hIu5coec.net
同市、畑山城。
丘陵の山、畑や墓地で破壊だが見事に山頂に切岸が残る(畑地も曲輪
にみえる)が城遺構か現状判断難しい(個人的には城遺構思う、雑木もある)
末森松山城と目と鼻の距離でどんな関係性があったのだろう?
城主が関が原で真田の六モンセンの下で働いたらしい(柏島にそんな
人物がいたとは)。当然看板なし。

116 :人間七七四年:2012/12/07(金) 17:08:46.07 ID:h2JzU5BP.net
和気町天神山

117 :人間七七四年:2012/12/07(金) 17:13:14.96 ID:h2JzU5BP.net
備前市富田松山

118 :人間七七四年:2012/12/07(金) 17:22:33.43 ID:h2JzU5BP.net
赤磐郡吉井町周匝 茶臼山

119 :人間七七四年:2012/12/11(火) 19:03:36.64 ID:Thz7IBJ2.net
岡山市、加茂城
田んぼと民家の真ん中、戦国の城には珍しく看板あり。
堀や土塁ことごとく消滅だが、わずかに土台?残る。
小城ながらここでの戦いは裏切りが起こり、記録を読めばこの時代の
戦国武士の建前より現物的な考えがよくわかる。

戦時下では兵は曲輪などで布団もなく地肌で寝てたのだろうか?
冬など今より寒冷化で気温も低く、籠城戦は精神も不安定にするだろうし
心的障害を抱えた兵もいただろう。

120 :人間七七四年:2012/12/11(火) 19:13:49.78 ID:Thz7IBJ2.net
同市、鷹ノ巣城?門石らしきものあり、尾根伝いの堀切にも石垣が
施され、その先にも堀切らしき物(二重堀切か?)
その先に水攻めで戦局伺っただろう展望台(斜面に石垣らしき物、岩に毘
と刻まれてる)。
藪コキで曲輪面確認(登山道以外藪が多く未知の遺構が隠れてる思われる)
登り途中、池の近くに段々の削平面があり
これはおもしろい!
城外の兵の山麓の守り兼駐屯地か?

121 :人間七七四年:2012/12/11(火) 19:25:00.35 ID:Thz7IBJ2.net
倉敷市、練尾氏城。
鷹ノ巣城と尾根伝いにある作手倉山だが登山道から尾根伝いを遮断
する堀切確認できず。
確かに山頂は平面だが周辺雑木、雑木の奥にも平面が続き、進めば
いきなり遺構現れるかも(遭難心配)
藪コキで一方面も見たが緩やかな斜面。登山道に曲輪面もあるが、
館程度か、それ以上か、雑木が邪魔でわからない。
備中高松戦ではここも陣所に使用されたのだろうか?

122 :人間七七四年:2012/12/11(火) 19:34:53.22 ID:Thz7IBJ2.net
追記、同市、要害山城
宅地化で破壊だが、高台に通称「天守の段」が絵図に描かれ、
二の丸、三の丸とあり、ささやかな天守閣があったかもしれない
現状、確認できず。(ある教員が破壊されてく城を記録しようと動いたが、時すでに遅く
僅かに堀立柱の跡や生活具、武具が検出された)
刀を研磨する道具を発見した時、戦時に備え懸命に刀を研ぐ
武士の姿を想像したらしい。

123 :人間七七四年:2012/12/11(火) 19:41:35.00 ID:Thz7IBJ2.net
同市、上河原城?。
平地の神社に高台(福岡城似)がある(城の占地から付近の状況を探るため
城域に取り込まれてた思うのだが)。
没落した家系の城で規模はたいした事ない思うのだが、見てないので
可能性でしかいえない。
もう1つの城、中大道城も近距離で2対の城か
民家、田んぼで破壊

124 :人間七七四年:2012/12/11(火) 19:50:57.25 ID:Thz7IBJ2.net
ついでに同市、陶山城にも行ってみたが、登山道は広かったが
道がもはや雑草で生い茂り(過疎化か)遭難、イノシシとの遭遇も考えられ断念
やはり一人では山は厳しい面もある。
だれか城の構造自体(虎口、曲輪、堀切、土塁など)に興味ある方
いないでしょうか?
歴史資料の域を出た発見がありおもしろい思うのですが。

125 :人間七七四年:2012/12/11(火) 20:07:07.28 ID:Thz7IBJ2.net
同市、城ぃ山城。
黒山城近く、口碑のみの伝承で期待してなかった(見張り所程度?)が
まず山斜面に堀切があり、その上に切岸あり下に小さな堀切が崖沿いを
巡り土塁(兼犬走り)も付属して(僅かに石垣も)竹藪の奥まで続く
斜面には曲輪群が下方まで築かれ、山頂にも曲輪が複雑?に築かれてる
(全体に非常に丁寧な造り)
岡山gisでは種別{館}だが、これは間違いなく城で、歴史資料がないが
(領主が没落したため消えたのか?)、これだけの城だれが築いたのだろう
専門家の調査が期待される(竹やぶで一部しか見てない)
この城が人々の言い伝え(城があった程度)でしか残らなかったのは
残念

126 :人間七七四年:2012/12/13(木) 14:41:35.99 ID:huYxmfke.net
追記、同市、鼻高山城。
看板ができてる。
城の登山口は最後で長く急な斜面になり、この城の特徴だろう(敵は何十キロ
の鎧を着けて登りながら攻撃に曝される)
長い主郭部あり、両端に一段下り曲輪面と腰曲輪。
裏の崖沿いの曲輪にはカナメ手口?(城兵が落ちる時使う道)らしき細い道跡
井戸跡らしき窪み。
小城だが城の形がよくわかる
常山城主の弟が兄と決別して守備についた城。

127 :人間七七四年:2012/12/13(木) 14:54:15.41 ID:huYxmfke.net
同市、熊城山城
途中隕石が落ちて割れた様な岩がある。
主郭(削平が不十分なのか緩やかな斜面)を中心に一段下がった左右
に曲輪面、藪コキで山尾根を下ると出丸らしき曲輪面(山尾根から攻め
られた時の警戒だろう)。
規模も小さく削平も十分でない。
城郭大系にも載っておらず農民の自衛の城か、この地域で戦の緊張が
高まり、その後短期間で不要になった城か?
堀切も見た感じ確認できず、砦程度の印象。

128 :人間七七四年:2012/12/13(木) 15:09:21.00 ID:huYxmfke.net
同市、小川城の辻城。
城名が忘れられ地名が残ったからこの名か?
平地に近く墓場と道で破壊だが、墓場が曲輪面にも見え裏の藪には
堀切(と思う)ある、山麓にも山沿いに帯曲輪。
隣の小山にも主郭?の下に二段の帯曲輪が巡り、さらに道下にも曲輪群
もう一方の丘の峰先は藪嵐で断念だが、そこにも曲輪面あり(正し、平地
に近いため後世の可能性も)。
丘陵全体を利用した城か?
この城も読み通りの規模なら、ある程度の力をもった在地領主がいたの
かもしれないが、ここも歴史が消えてる謎の城?か。

129 :人間七七四年:2012/12/21(金) 10:46:43.26 ID:ItBod0J+.net
追記、同市、万寿城。
平地で破壊多いが高台の道路沿いに2段(3段?)の削平された曲輪面がある
窪みの線路(堀切跡?)を隔てて、民家の高台。
僅かな曲輪面と「城丸」の地名が名残か?
発掘調査したら表面ではわからない下層から武具、生活具はもちろん
石礫に使った軍用石、石垣が全国の例のように出土するかも

130 :人間七七四年:2012/12/21(金) 11:03:08.15 ID:ItBod0J+.net
同市、浅尾城。
看板には城となってる所ある(陣屋以前に城あったのか)
社の裏に四角い土塁跡あり(硝煙倉跡)あり横に下り門跡
硝煙倉裏に山伝いを遮断する堀切(現歩道)あり、その先にも
小堀切らしき物が何縄か伸びてるがわからない。
郭面も要所に見えるが,城、陣屋、後世かわからない
城とかかれており、訪れたのだが、城に近い陣屋なのかも(陣屋がどういう
物か知らないが)

131 :人間七七四年:2012/12/21(金) 11:38:15.52 ID:ItBod0J+.net
同市、経山城。
広い主郭を中心に曲輪が取り囲む様にあり、城の入り口に崩れかけの
切岸(威圧感あり)に一部崩れた石垣施してる(石垣は装飾的な意味
も兼ねてた?)
さらに切岸上に土塁を設け、内部に空堀らしき跡
逆方面にも突き出し曲輪?の真下に堀切あり、さらに土塁をかさ上げ
して、突き出し曲輪にも空堀あり。
要所で城の弱点を重厚にして補ってる感じ。
主郭は歩ける範囲で凹凸(戦国の山城は緊急避難所のため普段番兵のみ
で丁寧な削平必要なかったのか?)だが長い石列が曲輪内に伸び
曲輪を仕切る柵と門跡か?
信仰の対象のような岩溜りあり
占地が高所で、いつ寝首を狩られるかわからないあの時代に
一回、一回ここまで避難してくるのも大変だ。
石垣も要所に見られ、全体に城の雰囲気を感じれる

記録では攻め寄せた敵が威勢を発っしても、静まりかえり、城内を
空に見せ、城門近くで一気に攻勢に転じたと、、、柵では身を隠す
場所がなく、土塀が存在したのだろうか?

132 :人間七七四年:2012/12/21(金) 11:51:53.00 ID:ItBod0J+.net
江戸時代より昔の時代の物が現代に残り、城郭の形などから、昔の人
が何を考えてたか読み取れるたりするとは、不思議な事だ。
戦国時代というと、どこか、おとぎ話の様だが、実際に遺構を見ると
過酷な時代が実在したんだとリアルになる。
山肌しか存在しない山奥に急に人工物が現れた時は、映画で狭く苦しい
洞窟で財宝を見つけた気分になる。
不気味な山中に一人突入できるエネルギーは、やはり創作話より
現実的な方に興味を惹かれる性格に起因するものか。

133 :人間七七四年:2012/12/21(金) 12:05:22.98 ID:ItBod0J+.net
同市、井山城。
宝福寺の裏だが登山道がなく?強引に登ると山尾根にハッキリした堀切
あり、その先に出丸?(自然地形に近く怪しいかも)ありだが
藪コキの嵐で、遭難恐れ、途中断念(帰り目印つけてながら迷い、
毎度ながらあせった)
本城が発見できなかったので先の遺構も怪しいかもしれない。
資料はないが三村氏系の城なら、毛利方に攻め潰されたか、その前に
自落したのだろうか(想像)
宝福寺と関係の城だろうか?。
備中兵乱では一体の寺が焼かれ、この寺だけ辛うじて一部残ったらしく
戦火の凄まじさが伺える。

134 :人間七七四年:2012/12/21(金) 12:47:17.03 ID:ItBod0J+.net
岡山県の城跡

135 :人間七七四年:2012/12/26(水) 21:50:29.86 ID:fgkjWjre.net
むかし岡山に住んでた時に新庄山城に昇ったよ
なかなか急な山城だったが眺めは良かったね

136 :人間七七四年:2012/12/31(月) 11:14:56.75 ID:HvGyjRn7.net
あそこは確かに急ですね
まだ、中途半端だったんで沼城と合わせて再登城します

137 :人間七七四年:2012/12/31(月) 12:29:35.38 ID:+L3ZK3kk.net
沼城も近かったので行きましたよw今じゃ学校立ってるしすぐ近くに新幹線
両方共に謀将宇喜多直家の居城だったので歴史に思いを馳せたものでした
もう20年近く昔のことです…

138 :人間七七四年:2012/12/31(月) 19:23:01.33 ID:wu5uDwsY.net
>>136さん
機会が有ればご一緒させて下さいね。宜しければお願いします。

139 :人間七七四年:2013/01/01(火) 11:45:43.72 ID:jRxt6Ni/.net
岡山城、姫路城みたいなのが城と思ってた私は、たまたま通った田舎道で
発見した城看板は{なに?}で非常に興味深いものだった。
そこで戦国の城はコンビ二のように、いたる地域に築かれてる事を知った
私は、最初は登るだけで満足してたが、知恵をだし敵をどう退けるか、
という構造的なものにも興味が湧いてきた。
また、城跡は調査する人間が少なく、謎だらけで岡山の戦国史に対し
潜在的な可能性をかんじてしまう。
愛知城郭研究会など岡山まできて、地元民も知らないような城を調べあげ
城から見えてくる支配構造や実態背景など考えてる、頭が下がる。
素人(実は歴史に詳しくない、書いてる内容にも記憶違い多し?)の私には
真似できない

140 :人間七七四年:2013/01/01(火) 12:07:18.75 ID:jRxt6Ni/.net
しかし猪には困る。
一度ある山で想像を絶っする巨大猪が目の前に現れ、こちらに向き直り
「やるか」と襲われかけた(通常、人間を見たら逃げるのだが、餌付け
されてるため、人間を恐れない種だった、餌付けは罪だな)
無事逃げたが、全身の力が抜けて倒れこんだ。
岡山では訪城を計画してた矢先、その地域で大人2人が襲われたと
二ュースに。
タイミングといい暗示性を感じながら当日、登山道に行くと
そこにウリ坊が!、親が近くにいると勘くぐった私は飛ぶように逃げた
戦国大名並みの危機管理意識(倉敷図書館横に熊より大きい猪が展示
してる。オスの成獣の前には人間はなす術がない)
めったに事故にならないと知ってても、トラウマというものは、どうにも
ならないらしい。


遭難も怖い、今まで登山道がない場合は計画性なしで強引に登り、
案外戻れたが、プチ遭難(山から出よう思い、まったく出られない
思った瞬間,死がよぎる)以来、慎重になりすぎ思うように
城巡りができず、影響がある。

141 :人間七七四年:2013/01/01(火) 12:31:21.19 ID:jRxt6Ni/.net
倉敷市、西山城。
口碑のみ(歴史を知る人間が絶え、城跡の存在のみ口移しで伝えられた)
で主郭(全体に藪、石組井戸あり)を中心に段々と帯曲輪が巡り、
要所に石垣も見られる(連島自体、石垣が多く城のものか不明)
電波塔や畑地?で改変あるが基台(切岸)、帯曲輪よくわかり城跡の
雰囲気あり。
藪が多く堀切、土塁確認できず。
ある程度は規模あり、郷土本では島(かつて)の要所(3城ある)を
占地するにも抜群の地であり、資料ないがここは城跡だろうと。
歴史は沈黙だが、海賊大将が存在(沖縄を占領しようとしたといわれ
鹿児島で処刑,離れ業すぎ俄かに信じられず、死人に口なしで真意
はわからないが、船団で沖縄を目指した事は確からしく、情報のない
時代に先見性を持ってた人物か)したらしく、その後、毛利方の
武将が守ったのか?。


隣の山にも道があり登ると山頂(竹藪)に緩やかな平面あり、2段の曲輪
(というには斜面すぎるが土橋、石垣あり)ある。城関係か?

142 :人間七七四年:2013/01/01(火) 12:52:22.45 ID:jRxt6Ni/.net
追記、真備町、南山城。
場所間違えてた、登山口は怖いぐらい坂で、城は小城だがかなり労働力
行使されたらしく非常に良好に残る。
連続竪堀など圧巻!(100城ぐらい見てきたが、ここまでのは初めてで
規模のわりに、これだけの竪堀を築く理由はなんだったのだろう)
大土塁も築かれており、土塁の間は門跡か?
堀切と土塁を上手く組合わせ、敵を殲滅するため?の複雑な箇所も見られる
堀切も3縄ぐらいあり、離れの山尾根の先にも1縄の堀切。
江戸時代にこの城の事は論じられたらしいが、説得力にかけ謎の城らしい

だが非常に機能的で繊細な感じを受け、攻防戦の内付けたされていった
感ある。
この城は規模も小さく、城の要素を凝縮した感じで、戦国城を理解
する見学にいいだろう(整備されれば)
楽しめる城である。

143 :人間七七四年:2013/01/04(金) 11:32:09.42 ID:7u3o3QrL.net
倉敷市 稗田城
城山は崖崩れを起こしてる所が目印。
古老に聞くと、今は登山道はないだろうと、実際に行くともはや道跡すら
見えず、藪コキしたらなんとか道跡が見えるぐらいのため断念。
古老の話では〜〜合戦 〜〜そこが御前通り(奥方が使ってた道か?)
など何か城に関する重要な事を言ってるのだろうが聞き取れない。


やはり城巡りしてて感じるのは、一部いま戦国ブームといわれるが
実際は昔あったはずの登山道も消え去り、城がある地元で尋ねても40〜50代の
年齢では「知らない」の回答が多く、もっと上の世代に聞かないといけない
(悲しい事だが、後10年もすればいたる地域でどんな城だったかわからない
という事が増えるだろう。
研究者などあまり大局に関係ない思われるこんな城でも、以外な事実が
落ちてる可能性があり、今の内聞きとりなどするべきだと思うのだが)

144 :人間七七四年:2013/01/04(金) 11:45:19.08 ID:7u3o3QrL.net
同市、田ヌヌヌヌ城?(漢字が読めない)。
山頂を眺めると長く伸びてて面白そうだが登山道がわからない(強引に
登れそうだが怖い、お供がほしい)。
ただ山下に山」を囲むような長大な堀切+土塁がある(城のものなら
凄い事実だが後世のものか?だとしたらこれはなんだろう)
もう一方の山の墓地上にも立派な曲輪群?(これもわからない、畑跡か
民家跡か?。城遺稿の判断はこんなの見てると難しい感じる)

稗田城とこの城は山上にあり遺構が残ってると期待したが
どちらも道が消えてる思いあきらめてしまった。
なお、謎の城も本に資料がないだけで古老に聞けば知ってるかもしれない

145 :人間七七四年:2013/01/04(金) 11:55:35.42 ID:7u3o3QrL.net
同市、稗田土井ノ鼻城。
土井とつく事や占地から平時の館と思うのだがぎgisでは種別{城}である。
現地は小丘で宅地あり、墓がある方の藪に曲輪面やそれに沿うように
一縄の堀切あるが、判断できない。

田ヌヌヌヌ城や稗田城に近い事から戦時はそちらに逃げこんだのだろう
また、基本的、訪城時は藪コキの凄まじい所は進入してないので
まだ色んな遺構が隠れてるかも

146 :人間七七四年:2013/01/04(金) 12:06:41.10 ID:7u3o3QrL.net
同市、稗田城ノ辻城。
こちらも小丘だが、立派な曲輪群が段々と築かれてる。
しかし一方面だけ重厚で、横方面は小堀切が丘に沿うようにあるぐらい
山尾根も一縄の堀切しかない
また、どれも後の世のものかも知れない。
ここも山上の城に近く、力をもった存在(といっても一領主?)が
多重権力で存在したのだろうか?(親と独立した息子とか)
資料があるのかわからないからなんとも言えない。

147 :人間七七四年:2013/01/04(金) 12:19:34.06 ID:7u3o3QrL.net
同市、向山城。
宅地化で破壊だが、頂部は辛うじて残ってる感じ。
主郭?(天守?)は広さ5mぐらいしかないが端に土塁(最高2m)が
付属しており、二ノ丸曲輪(天守よりやや広い)にも土塁あり。
大きな岩が天守下の曲輪にある(落石用?)。
帯曲輪群も段々とあるが、小山のため畑跡(藪の嵐)の可能性も。
どこまで城域か頂上ギリギリまで人の手が入りわからないが、
頂上は狭い上に土塁で囲まれており、面白い形をしている(海側には
土塁がなく、大した曲輪もなくその事から陸側を意識した海賊衆の城か?)
是非後世に残してもらいたい。

148 :人間七七四年:2013/01/04(金) 12:32:17.98 ID:7u3o3QrL.net
同市、田ノ口城。
小山だが電波塔のため登山道があり助かった(有名城以外、建造物がないと
まず道が消えてる)
主郭は平面とはいえないが、登山道側に二段の帯曲輪(くぼみ井戸跡?や
曲輪奥に三段目の曲輪)
海側に二ノ丸(主郭より広い)ある。
向山城とも近く、小城だが(登山道や主郭以外藪の嵐でもう少し遺構
あったかもしれないがあきらめた)瀬戸内海の景観も綺麗で満足できた。

この城も資料見つけれてないが、書いた内容の城で誰か知ってる事
があったら教えてください。

149 :人間七七四年:2013/01/04(金) 15:25:07.95 ID:9Z8DK8k/.net
なわて【縄手/畷】とは。
1 田の間の道。あぜ道。なわて道。
2 まっすぐな長い道。
3 縄の筋。なわ。「いかりおろす舟の―は細くとも命の限り絶えじとぞ思ふ」

150 :人間七七四年:2013/01/08(火) 11:45:39.73 ID:wTQt0CPL.net
玉野市?、常山城。
麦飯山城に登ろうかと考えてたが、致命的に山登り道具を忘れ、安全な
登山道のある常山城に再登城。
主郭には帯曲輪があり、そこに立派な石垣もある。
下の曲輪から見ると主郭切岸など壮大で現在階段が付いてるが常山合戦当時は
敵の侵入を防ぐため、一人やっと通れる道しかなかった?
一部の曲輪にはこれはもはや近世城郭だろう石垣ある(転用された残りか?)
一方面の曲輪は藪が多くあまりみれてないが、先端が凹凸で、
もしかしたらここが常山合戦当時の三村氏時代の遺構か?(隣の三村方の片岡城
が土の削平が丁寧な所を見ると関係ないか)
何度も改修を受け歩いた感じ、三村氏時代をベースに拡張されてる気がする。

主郭に伝説で城主の腹切り岩があり、最後を迎えるには好立地で伝説は事実だろう。
井戸水も枯れる勢いがなく、車道方面に城から落ちてきた城兵を斬ってた
言われる広場があった(土砂崩れで現状知らないが)
山下にも大きな広場や堀切、門跡らしきあるが何だろう?(番所か?)
山の中腹にも土塁らしきあり(一見しただけだが、攻め寄せた敵に城内で
待つだけではなく、地の理を活かして至る所で防戦しただろうから、ありえる)

151 :人間七七四年:2013/01/08(火) 11:52:51.86 ID:wTQt0CPL.net
玉野市、砂山城。
登山道がわからない。(消えてる?)
強引に登れそうだが(藪コキの方が遺構見つけた時の感動は大きいが)
地形もあまりわからず、気になるが諦めた。
本の縄張り図では山尾根を細長い曲輪群があり、堀切もある。
築城方法から毛利氏の技法が見られ(八浜合戦時か)、それ以前に
在地者がいたのかもしれないと。
占地場所もよく、関所としても機能したのではと。

152 :人間七七四年:2013/01/08(火) 12:09:15.64 ID:wTQt0CPL.net
玉野市、丸山城。
小丘で雑木も邪魔というほどではなく訪れやすい。
資料には名のある武将の城となってるが、現地を無視したものらしい。

一番高い山端に遺構があり、主郭(謎の土台がある、土塁ではない)
には入口に土橋が取り付いてて、端に一部土塁。
主郭下にも一方面良好な土塁と堀切で防いでる。
やや斜面な曲輪面もある(本では全国の例から元堀切の可能性)
山斜面に竪堀も何縄かある。
小城だが単郭?の主郭に虎口が2つあり(1つは1人通れるぐらい)珍しい
らしく、防御遺構も規模によれば簡素ではなく、(八浜合戦で宇喜多方と
衝突があったためか?)、八浜城方面を意識した造りで(土塁、堀切など
確かに)、謎の城だが、ここも毛利方の技法が見られ八浜合戦時に
使用したのではと

保存状態もよくハッキリした遺構が残り、わりと訪れやすい。

153 :人間七七四年:2013/01/08(火) 12:17:39.75 ID:wTQt0CPL.net
倉敷市?、日畑城。
今では城域を知るのは容易ではないが、石碑の上に小山あり丁寧な
削平地見られる。
近場の民家の土台も城域だろう。

この城も高松戦、防備を凝らしたらしいが、毛利の譜代が裏切り落城。

154 :人間七七四年:2013/01/08(火) 12:28:32.64 ID:wTQt0CPL.net
岡山市、山崎城。
丘陵だが、宅地化され、小山が2つ残る。
1つは畑化してるが山頂平面(中心に小堀切?)で段々と曲輪(畑)が
築かれてる。
2mの切岸もある、竹藪に畑ではない帯曲輪。

もう1つの山は頂上自然地形(藪山)らしく、窪みや堀切あるが?
たぶん、こちらは城域は薄い。

古老に聞くと60年前からいるが城の事は知らんと、ただ地元では
城山いうらしい。
幸川合戦の時の宇喜多方の城か?。
破壊が進んでおり、どの程度の規模かは、もはや不明。

155 :人間七七四年:2013/01/08(火) 12:49:05.76 ID:wTQt0CPL.net
岡山市、甫崎天神山城。
道路で一部破壊だが、墓地や社がある方では曲輪面が段々とあり、
土塁も伸びてる。

道路を挟んだもう一方面でも山下に数えきれないほど、曲輪群が構築されてる。
山上にも曲輪面が何段かあり頂部に窪み(井戸跡?)や土塁(土のかさ上げ)
、石碑?だが大体でしか見れてない。
山尾根を少し下ると巨大堀切(見てきた中で最大)あり崖に腰曲輪
付いてて、登る敵を射撃するのだろう。
巨大堀切は山間の谷間を利用し掘り下げており、、谷間は道としても
使用されたらしくやがて土橋に変わる(堀切下はマイナスイオンが出てた)
大堀切の先の山にも曲輪群が構築されてるが、道もなく不気味なので止めた。

陣城はいまいち興味をもてないのだが、実際には城と遜色なく、山の
至る所に人工的な削平が見られ、織田の脅威に曝されながらも大毛利氏の
勢いが感じられる。
また、陣城以前に毛利氏に組み込まれた領主の城がやはりあったのだろうか?
岡山gisでは色々なものが発堀で検出されたらしい。
巨大堀切の壮大さは一見の価値あり。

156 :人間七七四年:2013/01/08(火) 13:08:49.29 ID:wTQt0CPL.net
今度、玉野市の麦飯山城と、砂山城登ろういってみたら行く人いますかね?

麦飯山は登山道ある思いますが、城は藪コキ予想されます。

砂山城は小山ですが、登山道すらない思います。

藪コキで心折れ大変思いますが、それでも好きな方いますか

157 :人間七七四年:2013/01/08(火) 14:24:54.65 ID:RdAZUqK0.net
>>156 是非参加したいです、一応捨てアド貼って置きます。城址でメッセ下さい。
dragonxxx0@gmail.com

158 :人間七七四年:2013/01/10(木) 11:27:12.68 ID:29PEhMRw.net
何歳代です? 自分は30代です。

159 :人間七七四年:2013/01/10(木) 21:10:22.47 ID:r26eWlJ1.net
私は50歳です、昼間は規制掛かってカキコ出来ないのでヨロシク。

160 :人間七七四年:2013/01/12(土) 11:18:00.53 ID:mgFr/j7v.net
すいません、家にパソコンがないもので。
昼は仕事されてるんですかね。


面識がないんで、ですが、ごくごく一般の方ですよね?。

161 :人間七七四年:2013/01/12(土) 19:24:55.04 ID:1MSf/9J5.net
iPhone規制の為、家からカキコしてます、土、日休みの普通の会社員ですよ。
山登りが好きで手軽なのが山城かなと思い岡山県下の山城制覇を目標にしてます。

162 :人間七七四年:2013/01/13(日) 03:08:48.22 ID:Bbhf8tnx.net
出来れば、県南東部で山城めぐり好きな方居ませんかね?

163 :人間七七四年:2013/01/21(月) 11:40:17.87 ID:Lm6dqNHr.net
岡山市、徳倉城。
山斜面に長大な見事な堀切あるが、城と少し離れており急な地形的にも
ここに築く意味が謎(戦争など貧弱な考えでは想像できないものなのだろうが、
美袋城、下倉城でも山下までのびる立派な堀切見たが、伐採した木を落とす所?
とかってな想像してた、やはり堀切なのだろうか?)
本丸は近世城郭風の総石垣で固められており、端の土塁も石垣構築で多門櫓の存在
が伺える。
大手道の石垣などお勧めであり、見映えを意識した感があり城主の権威を表す
ため築いたのだろうか
山を下る時、本丸を見上げると僅かに木々の間から石垣が見えるが、当時は木は
伐採されてただろうから、この石垣構築の壮大さが見えただろう。
他に土橋や堀切、段々曲輪や長曲輪見れるが、本丸石垣だろう(戦国真っ只中
の石垣にしては作りが丁寧で余裕が感じられ、恐らく松田氏から宇喜多氏に
移り戦国の終焉の頃ものだろう)

宇喜多氏の重臣、遠藤氏が最終所領したらしいが、城郭大系には個々の曲輪群に
独立性が認められず、その事から宇喜多の重臣ながら遠藤氏に家臣団の形成が
まだ未熟だった事が伺えるらしい。
しかしあれだけ立派な石垣を築くと主家からにらまれる思うのだが、どういう経緯で
築かれたのか謎?

戦国の城の要素もあるが、本丸のみ近世城郭に変貌してる珍しい城。

164 :人間七七四年:2013/01/21(月) 12:01:11.53 ID:Lm6dqNHr.net
岡山市、金川城。
山頂には石垣が散乱しており、総社の鬼ノ身城で同じ光景をみている
(鬼ノ身城は関が原で西軍が敗退したため、急ぎ自ら石垣を砕き恭順の
意を示した。この城が面白いのは石垣を崩しながら、山頂にもっていき
降伏はするが攻めてくるなら戦うぞという意思が見える、が一城令で
崩しただけかも)
山頂は井戸が3つぐらいみえ、天守井戸など「こんなに掘り下げれるもの
なのか!」と怖いぐらいの大井戸。
土塁や曲輪、枡型虎口や堀切の構築もよく見え、あともう一歩で戦国大名
に成りかけた松田氏の力が伺える。
出来るだけ見たが巨大で途中から集中力切れた。
本城とは離れた巨大出丸(土塁、二重堀切あり)や独立系の曲輪群(道林寺丸)
から、松田氏の動員兵力の強大さや、家臣団の繋がりの強固なのが
伺えるらしい(裏切りが日常的な中で本城と離れた曲輪に独立性が
認められるためか?)、
だが末期は宇喜多に攻められ2日で落城したらしく、栄枯盛衰の弱体化がみられる)

石垣は残念ながら崩れてるが、巨大で保存状態もいい。

165 :人間七七四年:2013/01/21(月) 12:12:12.88 ID:Lm6dqNHr.net
岡山市、寺山城。
小山で金川城とも近く行ってみたが、現地で人に聞くと登山道はもうないと。
小山だが藪コキの体力はもうなかった。

城というよりは屋敷跡で緊急時、隣の能谷城に逃げ込んだのだろう、石垣が
僅かにあるだけ、といっていたが屋敷を平地に築かず、微小ながら小山
に築くのは、ある程度の戦闘の予測をし、微弱ながら防御機能を
備えてたのでは。
後でわかったのだが、尋ねた方が実はここの城主の末裔だった(能谷城主で
松田氏の家臣)。

166 :人間七七四年:2013/01/21(月) 12:31:11.85 ID:Lm6dqNHr.net
真備町、馬入堂山城。
今、山に人が入らず全国的に道が廃れる中、最近登山道が整備された。
遠回りしてしまい、大変なルートをとってしまった(山頂まで登ると
また下りだし、山奥の湿地帯を一人心細く通過し、また登る)
主郭には中?程度の井戸跡や主郭下の岩垣?(自然のだろう)ある
主郭を中心に曲輪が整形され、この城の特徴としては飛び曲輪が何段かある。
下る時、山腹に堀切があり中間に土橋あるが城遺構か?

一般の言葉を借りると今は何も無いだが、曲輪面に柵を設け、門、物見櫓、屋敷
などがあった思うと興味深い。
山下の池からも、かつては山上の城がよく見えただろう。

167 :人間七七四年:2013/01/21(月) 12:45:00.41 ID:Lm6dqNHr.net
総社市、カヤ越城?(漢字が読めない)
木村山城とつながりの山で、一応独立してる占地だが両城は連携がなされてた
のだろうか?。
丘陵上の尾根を整形し切岸を造りだし、自然堀切にし、曲輪間には土橋も認められる。
小曲輪に小さな石垣井戸(石垣散乱)あり、その曲輪下に人工の小曲輪を構築。
道跡らしきあるが基本藪コキ。
丘陵先端に広い曲輪あるが整形いまいち。

一番の山頂目指して突入したが藪の嵐で小曲輪を認めながら、遭難や
猪との遭遇を考え途中断念。
丘陵上からは道がなかったが、山頂に本城の構築があるのかも(メインを逃した)

城郭大系には郭面11、城主渡辺某、とある。

168 :人間七七四年:2013/01/28(月) 11:45:54.33 ID:GLH/Z+sZ.net
岡山市、忍山城。
有名な城という印象あったが(戦国の城事態マイナーだが、、)看板もなく
登山道も軽くふさがれてる(人が来ないらしい)。
城跡は藪コキいうほどではないが雑草多い。
北?に進むと曲輪内に空掘りらしきあり切岸下に堀切、土塁、小曲輪あり。
南に進むと大堀切があり、ここで終わりか?思うと端に土橋があり先にも
曲輪あり、また堀切で、先に結構な高さの切岸になっており、その先は
自分の容量超えたため止めた。(だいぶ歩いており、戻れるか不安もあった)

宇喜多が毛利に攻勢を考えてた拠点だったが、気ずかれ逆に攻め込まれたらしい。
拠点だけに城は大きい思うのだが、典型的な山城で石垣など無さそう。
山尾根に堀切も多数見られ、当時の建物が見てみたい。

今回は切岸よじ上るのに掴む木が少なく苦労した(当時は木は伐採されており
、攻撃を受けながら素手で登るのはまず無理だな、と感じた)
また疑問点は切岸下の障害物のはずの土塁が一部にしかない箇所があり、
横から通れ、土塁を築く意味が非常に中途半端に思える。
なぜなのかわからない?
登山道はまだ荒れてなかった。

169 :人間七七四年:2013/01/28(月) 12:00:52.27 ID:GLH/Z+sZ.net
岡山市、忍山城(出城)。
道路建設で一部消滅だが、細長い山尾根に中?堀切があり、山下まで伸びてる
主郭?は自然地形に近い平坦面だが、道路側(採掘の崖)に帯曲輪が
一人余裕をもって通れるぐらいの幅で尾根先を伸びてる
主郭を挟んだ逆側にも少し広い曲輪がある。
どちらも主郭から2,3M下にあるのが印象的。

山尾根さらに先にも遺構あるのだろうが、猛コキが酷いため断念のため
gisでいう土塁見つけれず。
全様が見れてないので、どんな城か理解しずらいが、道路建設に伴う
発掘調査では生活具など多数出土してるらしい。

170 :人間七七四年:2013/01/28(月) 12:20:46.31 ID:GLH/Z+sZ.net
岡山市、勝尾山城。
忍山城と近く、これは付城として築かれたのか?(宇喜多の退路を断つ
ため毛利方の吉川広家など入城したらしい、心理的な圧力もあっただろう)
登山道やや少し草木に埋もれだしてる所もあるが、
城は見事で堀切がよく巡らされ、コの字状の堀切(堀切内で迷はさせ攻撃するのか)
や土塁と堀切を組み合わせた連続竪堀(横堀?)、
主郭に登る土橋(関が原で運命を握ってた吉川広家と同じ通路を通ってる
思うと感慨深い)などよく残る。
主郭にも2段の帯曲輪。

小城だが毛利氏の技術力の奥深さが垣見え、実戦を想定してよく造られてる。
堀切など近代戦争の塹壕みたいな錯覚を抱く。
散弾銃の弾?が落ちてたので注意が必要だが
この城は面白い。

171 :人間七七四年:2013/01/28(月) 12:30:18.96 ID:GLH/Z+sZ.net
岡山市?、冠山城。
前倒れてた遺構を示す看板が綺麗になってる。
この城は独立の丘なので不安なく登れた。
主郭は戦時の矢竹が今に残り、落城悲話が書かれた看板もある。
土の削平も丁寧で曲輪もよく築かれてる。
本でいう竪堀発見できず。

猛攻撃に曝されたらしいが、よく耐えただけあって城の雰囲気をよく残す。

172 :人間七七四年:2013/01/28(月) 12:40:27.34 ID:GLH/Z+sZ.net
岡山市、横尾城。
この地域の盟主層の城という事で期待したが、城山の神社から登山道は
なく、つながりの道に登山道らしきあるがすぐ藪に消える。
強引に登る事も考えたが藪が猛烈で、遺構を目の前にして断念。
離れに曲輪面が段々とあるが出城か(ただの畑跡か)

冠山城とも遠くなく、城主は毛利から織田(宇喜多)に上手く旗を
切り替えたのか、それとも、抵抗して圧到的な力で攻め潰されたのか?

173 :人間七七四年:2013/02/01(金) 11:52:52.92 ID:8SzhNN1y.net
なぜ岡山県南には城郭ネットワークがないのだろう。
一応、政令指定都市だし宇喜多直家という傑作を出しながら、、、不思議だ。
城郭大系も古本屋にないから遺構の知識も深められない。
城も登山道があれば一人で間に合うが、道のない山が多く正直不気味。
都会にいけば山城研究会などあるんだろうな、、
また、地元の戦国史に興味を持つのは、かなりコアな人間なんだろう

174 :人間七七四年:2013/02/01(金) 12:08:44.35 ID:LslVJxIT.net
岡山で領主と言えば池田、と塗り替えられてるからじゃね?

175 :人間七七四年:2013/02/02(土) 23:02:14.21 ID:+Z/L7glz.net
>>173
県南?
どういう分別の仕方がよいかよくわからんが大雑把に・・・
  (地域別、時代別、城主、荘園)

備前
備前市・和気・赤磐市(一部)・・・浦上氏(明石氏、日笠氏)
瀬戸内市・・・・宇喜多氏、島村氏、邑久・長船周辺
岡山市東区・・・宇喜多氏、中山氏、沼周辺
岡山市中区・・・松田氏(サイ所氏)、宇喜多氏、龍の口周辺
岡山市北区(南部)・・・松田氏(須々木氏、金光氏、中島氏)、宇喜多氏、岡山周辺
岡山市北区(北部)・・・松田氏、金山周辺
岡山市南区・中区(一部)・・・海でした。
玉野市・・・児島周辺

備中
高梁市、総社市、早島、倉敷市、矢掛、岡山市北区(一部)
    ・・・三村氏、松山城周辺、高松城周辺
井原、浅口、笠岡・・・知らん。

176 :人間七七四年:2013/02/04(月) 11:18:22.10 ID:8yb3Xax6.net
浅口市、鬼打山城
神社から登山道ある。
途中長山城と看板あるが間違いか?
山上の社も城の曲輪跡と思うが、その先に僅かな道跡あり二ノ丸になってる
(やや斜面なのは敵が攻め寄せた時、狙える的は大きく、息は切らせるためか?)
二ノ丸も藪は多く本丸下の切岸は雑木ないが、本丸はさらに藪嵐で断念。

信濃から武田信玄に圧迫され、この地に落ち着いた豪族の城らしい。

この城のさらに山上に「須恵竜王山城」あるが、専門家の話では造りが戦国より
古く、しかし一部戦国遺構らしい所も見られ、その事から戦国期も使用されたのではと。

177 :人間七七四年:2013/02/04(月) 11:34:40.48 ID:8yb3Xax6.net
浅口市、長山城。
登山道がどれも途中で藪に消えてる、もう道はないだろうとの事。


鬼打山城の隣、昔から地元で城跡と伝承だけだが、調査したら確かに
平坦面が確認できるらしい。
特に攻め手を2手に分散させるような虎口は珍しいらしい(工夫が凝らされ
曲輪もそこそこ広いという事は、ある程度の軍事力が存在しただろうに、
県内には歴史が沈黙した城がそこらかしこにあり、当時の事はわからない
事のほうが多いのだな、と感じた。歴史が残った城と、文章で一文ぐらいしか
残らなかったような城では運命が分かれる。
この地域は歴史が消えてる部分が多いらしく、それが今の登山道に反映され道がない?。

178 :人間七七四年:2013/02/04(月) 11:54:54.01 ID:8yb3Xax6.net
倉敷市、佐方竜王山城。
先の二城の事もあり、絶望的な気分で登山道はないだろう、思ってたが
看板があり、道もよく整備され、さらに城跡の全体像もよく見えるぐらい
草木も刈られてる(よく展望台だけで伐採というのが多いのに感謝)

盟主?がいる鴨山城にならったのか岩を組み合わせて利用してる所があり
段々の3段の曲輪群で切岸下に堀切跡らしき箇所、人工的な平らな岩は
門跡か?、それとも裏切り者の首を曝した所か(結構あるらしい)
岩を利用してる所が特徴的な城。

資料少ないがこの地域もある時期まで争乱が絶えなかったらしい。
看板には北条氏、、官軍として、、など古い時代の事が僅かに載ってる。

しかし高い山で疲労したが、日常的に使用してた当時の人は命が懸かってるから
、しんどいなど言ってられなかっただろう。

179 :人間七七四年:2013/02/04(月) 12:03:27.72 ID:8yb3Xax6.net
里庄町、鷲尾城?(読めない)。
主郭部は模擬矢倉が再現されてる(やはり戦国の城も立派なものだ)
宇喜多と毛利の攻防の地だが、建物などで頂上は破壊か?(急な切岸や帯曲輪?
らしきものあるが)
城まで道路が整備され、山の登山道わからないが二ノ丸や井戸跡はどこだろう。

180 :人間七七四年:2013/02/04(月) 12:09:28.47 ID:8yb3Xax6.net
笠岡市、鳴ヶ端城。
横島城とつながりの山だが学校建設で山は削られ破壊(ここに建設しなければ
いけなかったのだろうか?貴重な資料が、、)
現状往年の姿はなし。

笠岡山城の端の守りとして、後に村上水軍城になったらしい。

181 :人間七七四年:2013/02/04(月) 12:22:46.60 ID:8yb3Xax6.net
笠岡市、横島城。
細長い山尾根だが、自然地形に近く最低限の削平しかされてない感じ。
ただし、山尾根直下の帯曲輪群は2,3段以上?あり、こちらは人工的な形で
力入れてたのかも。
尾根にも切岸や堀切跡らしき見える。
小曲輪は山中腹にも段々と見える。
もう一つのつながりの丘は、畑や墓地で破壊。

本では村上水軍の海城(現、陸地)として重要だった、としか書いてないが
帯曲輪以外は簡素で、海城だけに城に籠もるより、積極的に海で戦う意識の現われか
破壊もあるからわからないが。

182 :人間七七四年:2013/02/10(日) 11:52:04.15 ID:0nz7wZ/o.net
岡山市、鼓山城。
看板あり、相変わらず一人での山は不気味(ほとんど猪という物質的な恐怖だが)
途中、山斜面に小さな平坦面あり出丸小曲輪か。
古墳もあり、盗掘されたのか穴が空いてる。

城跡はそこそこの広さで(羽柴秀長が何千の軍勢で駐屯したかしれないが
当時の喧騒さはなく嘘のように静かだ)、土塁あり、本丸には土台あり岩群(使用目的
がわからない、信仰か)ある。
本丸下は切岸で曲輪、帯曲輪が成型されてる。

草が多いが木がないので歩きやすく、広々として当時を思うにはよさそう
(土の成型など見えるが臨時城かな?)

敵近くの境目の番兵など、不安な緊張感と同時に治安を乱す乱暴者が多かったらしく
、そんな者にも思いを馳せ山を下った。

山下に運命的な信長の死を知らせ、情報が漏れるのを恐れた上層部に処された
伝令兵の墓があるらしいが(組織というものは感情というものが流れにくく
恐ろしい感じた)

183 :人間七七四年:2013/02/10(日) 12:04:00.63 ID:0nz7wZ/o.net
岡山市、洲浜城。
神社に2,3段の平坦面が見え、神社裏に小土塁がある。
その先に高さ2,3mの大土塁が岩垣を含み四角い形?である(墓側から登れ
すばらしいが、浅尾陣屋の例から陣屋時代の硝煙庫跡だろう、南山城にも
似た大土塁あるが、、)
丘上は畑で、当時の姿は知れないが、屋敷跡と伝わる所に石垣ある。
ただ推測であり、城が丘のどこにあったのか謎らしい)
平家方の城として知られ戦国期は知らないが、その後は陣屋となる。

本では城主は妹尾の町の基礎を作ったのに、地元の無関心で荒れてると
嘆いてたが、最近看板ができたみたいだ。

184 :人間七七四年:2013/02/10(日) 12:15:38.78 ID:0nz7wZ/o.net
倉敷市、鳥羽城山城。
山頂手前で猛烈な藪に阻まれ断念(多分ゴルフ場になって破壊されたか)

丘先端には、かなりの削平の丁寧な曲輪群があり、中間に堀切、そして
山上にも曲輪と池跡。
池跡に水道が掘られ、その事から丘先端は城遺構ではなく畑跡か?(郷土本にも
載らない城にしては立派すぎる、当城はゴルフ場で破壊だろう、
僅かに残ってるかもしれないが)

区画が整理された近世城郭と違い、戦国の城は個人の見え方により
(さほど知識もないが)印象が大きく変わるという言葉を思い出した。

近くの松島城主が鳥羽とあったので、関係人物の城か館か?。

185 :人間七七四年:2013/02/12(火) 11:32:42.95 ID:QtxdlCpv.net
井原市、才崎城。
井原には巧みな築城法の城が多いらしく、その事からこの地域は積極的な
軍事介入や緊迫した状況化におかれてた事が伺えるらしいが、対象的に
歴史はあまり伝わってこないらしい。
この城もその一つ。

堀切らしき道から、かなり急な切岸を童心に返りながら這い上がった(途中、
小曲輪も形成され、堀切がなくてもここは十分な防御力があったと思う)

山頂を中心に、主郭はお椀を返した形で、一段下に曲輪を巡らし一方面には
そこそこの広さの出曲輪も成型されてる。

小城(山下の曲輪群を合わせるとそうでもないか)だが、実戦をよく想定され
中世の姿が現代によく残ってる(戦国の城に興味ない人間には全部同じに
見えるだろうが、、)。
連続竪堀があったはずだが、確認できず。

186 :人間七七四年:2013/02/12(火) 11:43:39.65 ID:QtxdlCpv.net
井原市、白実城。
丘先端は神社で破壊?、採土でえぐられてもいる。

先端神社から上は3面の曲輪で、中心の高台が主郭か(切岸下に小堀切あるが
怪しい、又逆側には丁寧に切られた石垣があり、畑で改変された事の裏ずけ)

帯曲輪が曲輪群の下を巡り、先端で犬走りや絶壁?の土橋になってるが
そこも採土でえぐられ、自然にできた地形か(迂闊に近ずくと崩落の危険)


本では白実城の裏に巨大な城があると、書いてた記憶があるが
、道が途中で消える。

187 :人間七七四年:2013/02/12(火) 11:56:34.14 ID:QtxdlCpv.net
井原市、小菅城。
山上だが、城下まで道路がある。
しかし、かなり寂しい所である。
城は2段の曲輪で中心に土橋(後世か?)ある、主郭裏に腰曲輪と確かにgisがいう
2縄の堀切が道路に分断破壊されある。

もう一方面の尾根伝いの曲輪群は藪でよくわからなかった
駐車場も曲輪の一部だったのかも。

主郭側は手入れされてるが、全体像は見えずらく、遺構が整備で一部破壊
されてるのも残念。

関東から下った那須与一、一族の城言われてる。
合戦があったか知らないが、武者が刀さげて走り回る姿や、避難してきた
村人の姿を想像してしまった。
今は静寂な場所。

188 :人間七七四年:2013/02/12(火) 12:07:16.67 ID:QtxdlCpv.net
井原市、青蔭城。
山上から谷平野を監視してただろう、山下からも山上の城がよく映る。

途中「猪の罠」看板があり、あまり道をはずせない。
三ノ丸と二ノ丸の間の通路は窪みで堀切だったかも。
堀切の先は祠があり、曲輪群が何面か形成されてる。

主郭(先端に小曲輪造りだしてる)と二ノ丸は建物で破壊で、どの程度
だったか知らないが雰囲気は残り石碑もある。

裏の尾根には通常、堀切を設ける思うが埋められたか、そこまでさしつまった
必要がなかったのか見あたらない。

189 :人間七七四年:2013/02/12(火) 12:12:52.43 ID:QtxdlCpv.net
井原市、中堀城。
城跡の手前に木製の碑がある。

城域は平地だけに畑や民家に変貌だが、わずかな高低差や深い落ち込み
が堀跡か?
面影を探すのは容易ではない。

足利尊氏が20日ぐらい?滞在したらしいが、gisでは「館」の可能性を示唆

190 :人間七七四年:2013/02/12(火) 12:22:27.63 ID:QtxdlCpv.net
井原市、鎌田城。
道路と運動公園に挟まれた、細長い丘。
丘上は墓地で破壊(山上に土の切岸らしきあるが?)。
gisでいう石垣、犬走り確認できず。
墓地の間に凹みあるが堀切跡か?

かつては段々と曲輪があったのだろう、山上に道跡あるが、すぐ藪に変わる
そちらに何かあるかも。

住民に城の事を聞いても「知らん」と一瞬。
又、道を間違え山上の新興住宅地に出たが、いい雰囲気の町だった。

191 :人間七七四年:2013/02/12(火) 12:34:56.16 ID:QtxdlCpv.net
井原市、横手山城。
結構な高さの山だが、山頂は畑や民家?あり、後は藪。
登山道?(この道は選択してない)から祠あり、先の藪の郭面に石垣
あるが畑跡かも、堀切も藪で確認できず。

gisでは尾根上一体、郭面8だが畑などで改変の可能性ある。
城に沿うように道あるが遺構を探すのは困難だろう。

知識なしで俄かに訪れてしまった。

192 :人間七七四年:2013/02/12(火) 12:54:55.78 ID:QtxdlCpv.net
矢掛町、太郎丸城。
2,3登山道らしき登るが藪にすぐ消える。
近くに「城跡」と文字が見える俳句?の碑と、近世城郭の様な立派な
城門?ある。

遭難しそうな山ではないので、強引に登ると削平地にでたが、それ以上は
引き返した。

しかし変わった名前の城だが、強烈な個性の持ち主の存在を城の名につけたのか?
占地的に神戸山城の支城だと思うのだが。

またこの時代、盟主の兄弟、親族だろうとそれぞれ独立した城を持ち、考え方の違いや
すれ違いから、血縁の争いはごく普通で、疑心暗鬼に陥りやすく、
上から威圧的な態度でいても、信を失い滅びるし、結局の所は人を見る目が重要だったのだろう
感じた。

193 :人間七七四年:2013/02/12(火) 13:17:27.33 ID:QtxdlCpv.net
矢掛町、龍山城。
今回、1日で7城訪れたが、山に登った感覚もあまりなく、時間もあったので
登城したが間違いだった。

神戸山城の支城となってるが、山上には確かに小さな主郭?とその下に
曲輪が2面ぐらい成型されており、尾根の先端もやや比高が高く
電波塔があるが、広場の下に三段ぐらいの曲輪が石垣を含み巡ってる様な
(ほとんど藪山で見れてないが)
小堀切らしきあるが、堀切見れず(山斜面の墓地に堀切らしきあるが、わからない)
井戸跡か窪みも2,3ある。
藪山だが、鉄塔で何とか道は確保されてる、低山。

どの段階でか、わからないが急に疲れがきてしまい、あまり見れなかった
気がする。

194 :人間七七四年:2013/02/19(火) 11:34:47.17 ID:sr/gZKy+.net
浅口市、石井山城。
鴨山城直下の丘で現状畑で破壊だが、城遺構を利用して畑にしたか?、とぐらい
城遺構に見えてしまう(切岸、曲輪群)

一方の先端には切岸沿いに土塁あるが、畑で作られたものか

この城も鴨山城の一部であったと書いてたような。

195 :人間七七四年:2013/02/19(火) 11:40:38.71 ID:sr/gZKy+.net
浅口市、杉山城。
今回、一番のメインに考えてたが、登山口が発見できず、地元に聞いても
「ここに城はない」と不思議な顔される有様で(完全に忘れられてる、、)
気分も削げ今回は諦めた。


杉山合戦が資料に見え、城の岩には軍旗を立ててた穴があるらしいが。

196 :人間七七四年:2013/02/19(火) 11:56:13.01 ID:sr/gZKy+.net
笠岡市、馬鞍山城。
人が来てたのか、赤い目印が山上まで結ばれてる。
主郭?には土台があり、そこに小石垣も見える(この石たちは凄惨な落城を
目撃してるのだろうか)
主郭中心に一方向に段々と曲輪群(そこにも石垣が埋まってそう)。
もう一方は尾根伝いで、曲輪が築かれてた可能性ありで、だいぶ進んでみたが
終わりが見えず、一人では不気味なので引き返した。

登城時は気ずかなかったが、帰りに途中雑木が少ない斜面に、人工的に
整形された4段の小帯曲輪が巡ってた。

小田氏の城だが、土の削平も必要最低限で、ハッキリした所が少なく(あくまで
個人のみえ方)あまり長期間使用されなかったか?

一応道は確保されてるが、普段とても人が登ってそうな山には見えない
(人気のない山で一人もがいてると、変わった趣味を持ってしまったと感じる)

197 :人間七七四年:2013/02/19(火) 12:09:57.97 ID:sr/gZKy+.net
笠岡市、諏訪山城。
丘上に切岸(よく見れば、石垣が埋もれてる)あり三段の曲輪からなり
帯曲輪、土橋、小土塁兼、堀切(土塁築く上で自然にできたか)ある。

畑化した所があり、どこまで城域かわからないが、三段の曲輪は土の削平も
丁寧で館としても機能してたか。

小田氏と村上氏が抗争した時に、小田氏の居城を守るために?突破口となる
この関所を隣の政所山城と連携して守ったのか?

表面観察では政所山城もだが、兵を籠めるだけに重きをなした、あまり
防御に凝った城ではない?気がした。

また領主間の争いといっても、ほとんど血を流さなければいけないのは
兵として徴集された農民だから、たまったものじゃない。

198 :人間七七四年:2013/02/19(火) 12:22:09.19 ID:sr/gZKy+.net
笠岡市、政所山城。
諏訪山城と共にどちらも丘上を数段の曲輪面がみられる。
主郭?下には犬走りや窪みも見れるが、全体に単純な感じを受ける。

道路で分断されており、一方の山つたいにも自然地形に近いが郭面
らしき段々がある。

さらに先には切通し(堀切か)あり上に曲輪群らしきあり。

丘だけに後世の破壊もうけて純粋に見れないが、この城は向かいの城より
やや大きな城だったのかも(表面観察なので、発掘調査で以外な事がわかる
いうから実際の構造はわからない)

199 :人間七七四年:2013/02/19(火) 12:32:23.54 ID:sr/gZKy+.net
笠岡市、園井城。
配水タンクで破壊だが、削られた裏山は小さな土台があり、そこそこの
広さの曲輪となってる(主郭だろう)。
奥の切岸下に小曲輪も形成され、横下には帯曲輪から犬走りに変わる曲輪もある。

20−30mにわたる土塁があったらしいが、破壊(最近では調査して記録に残して破壊
するのだろうが、昔は戦国の城の価値が認められてなかったから記録も
残さず破壊して、どんな城だったかわからないだろう)


移動中、周辺の山にも山頂が平らに削られた様な山が複数みえ、発見されてない
戦国城はまだまだあるのだろうな感じた。

200 :人間七七四年:2013/02/19(火) 12:45:26.52 ID:sr/gZKy+.net
笠岡市、鳶ノ子城。
鉄塔で破壊だが、皮肉にも鉄塔のお陰で道は快適で景観もいい。

曲輪があっただろう鉄塔下は急斜面で岩群や腰曲輪、石垣らしき物も。
反対側には犬走りがある。

単郭か二つの曲輪からなってたのか判断できない。

先の山尾根には堀切築くべき場所にも堀切確認できず(埋められたか)
長曲輪の様な尾根続くが城遺構か疑ってしまう。


城主は小見山氏、陶山氏ハッキリしないらしいが、隣の園井城を見下ろせ
、園井城内の様子を見透かす事を目的とした付け城砦か?(そうだとしたら
城にいながら24時間監視され心理的圧力があっただろう)

201 :人間七七四年:2013/02/19(火) 12:56:41.72 ID:sr/gZKy+.net
笠岡市、広浜城。
「萩藩閥閲録」には毛利氏が備中進出を企て、家臣に与えた城となってる。

実際に細長い山尾根を歩いてみるが、途中隆起した地点は何面か見え曲輪とも
とれるが、自然地形だろう。

山先端のみ削平された単郭の曲輪があり(帯曲輪も見た感じ認められない)
、敵最前線の城にしては危うく、どのように記録が残ったのか知らないが、
実際の所は農民が戦火を避けるために築いた自衛城ぐらいだろう感じた。

国土調査が入った跡があり、近く山は削られるのだろうか。

202 :人間七七四年:2013/02/26(火) 11:29:43.70 ID:iNa+4uL7.net
瀬戸内市、殿山城。
道路から見た裏に切り通し(堀切?)がある。
そこから斜面を登りきった所に小土塁が築かれ、城内は空堀になってる。
中規模?の井戸跡のような窪みもあり、切岸には長蛇?の石垣(城遺構か不明)ある。

尾根を少し下ると畑地で、ここも城遺構の残骸のような所が端側に見える。

畑地を通過すると山先端部で、藪に覆われてるが道跡を進むと平坦面となってる

歴史は不明だが、近くの社に城主思われる人物の名が見えるらしい。

203 :人間七七四年:2013/02/26(火) 11:42:24.55 ID:iNa+4uL7.net
瀬戸内市、上山田城。
登山道が判明しなかった。

占地は街道を抑えるには好立地で、歴史は残ってないが
山上に曲輪、堀切が残存するらしい。


岡山市、作州山城。
こちらも登山道がわからず、山裏から薄暗い竹やぶを強引に登れそうだが
竹のしなる音などかなり不気味。

城らしい雰囲気をもった山(曲輪が何面かありそう)だが一部、無残に採土で
えぐられてる

歴史はわかった事はないらしい。

204 :人間七七四年:2013/02/26(火) 11:48:42.18 ID:iNa+4uL7.net
岡山市、茶屋城。
場所が少しわかりずらく、特定できた自信がないが、現地は山斜面に
二段の曲輪(上の段は墓地、下の段はやや広く雑草だが切岸に目立つ石垣)

さらに下に二段の小曲輪(十字架の墓あり)あり、末端は堀切跡らしきや
土塁が築かれてる。

連郭式山城らしいが、場所を間違えてるかもしれない。

205 :人間七七四年:2013/02/26(火) 12:00:26.84 ID:iNa+4uL7.net
岡山市、朝日山城。
この地域の盟主層、片岡氏(水軍として、宇喜多氏に従う)の居館では
といわれてる。

現地は山下の大着城の近くで、城跡は墓地や畑で破壊だが、山頂に
祠のある小山があり(矢倉台か墳墓か?)、そこを中心に緩やかな
斜面(居館には不便思うが、いつでも逃走できるためのものか?)の曲輪になってる。
下にも二段ぐらいの帯曲輪が巡ってたような(藪で一部埋もれ)

山上の中心にある、象徴的な小山が印象的(上ると呪われる、ような雰囲気)

206 :人間七七四年:2013/02/26(火) 12:09:17.66 ID:iNa+4uL7.net
岡山市、紅岸城。
現地は丘で看板あり。
前立ち寄った時は単郭ぐらいに思ってたが(説明板には防御向きではなく
館程度では、とある)、しかし主郭下の畑も城域と見ると、連郭式山城として成立する。

主郭の道路側は小さく突き出しがあり、兵が見張りに使用したのだろうか

有名な宇喜多能家、忠家の自画像が収められた寺があった場所でもあり
、その事から宇喜多氏と関係の深い城(寺)という事が伺えるらしい。

207 :人間七七四年:2013/02/26(火) 12:15:40.43 ID:iNa+4uL7.net
岡山市、城島城。
大きな?山の隣、独立の小山である。

頂部には確かに平坦地があり、人為的な岩垣ある。
すぐ後ろ下には腰曲輪?があり、そこには石垣。

三段の曲輪が見えるらしいが、一つの曲輪の段からは猛烈な竹やぶで進めない。

島とつく事からここは元海城か?。

208 :人間七七四年:2013/02/26(火) 12:25:22.23 ID:iNa+4uL7.net
岡山市、乙子城。
小さな城というイメージだったが、主郭を中心に曲輪が段々と築かれ
神社方面も城域だったらしく?合算すると小規模な城ではない。

宇喜多直家、国盗始まりの地と知られ、初期の頃は貧しさから家来と
共に断食を設けたり、辻斬りで食を確保してたらしく
侍といえ、この時代身分が固定化しておらず(侍=農民=商人みたいに)
生命をつないでいくのは想像以上に厳しかったのだろう感じた。

209 :人間七七四年:2013/02/26(火) 12:37:33.73 ID:iNa+4uL7.net
岡山市、長沼城。
宇喜多、島村の攻防地、砥石城、高取山城とも近く郷土本にもこの城に関し
宇喜多、島村と関連する名が見えるが古字で上手く解読できない。

山尾根を藪コキで登ると、主郭?に取り付く(石垣あるらしいが、藪で確認できず)
主郭下には二段の小曲輪が見れる。

小曲輪の下に墓がある長曲輪のような(両面に帯曲輪ある)所あるが
城域かわからない。
堀切も現状なし

自分が見た範囲のものなら規模は砦程度である。

210 :人間七七四年:2013/02/28(木) 11:21:36.11 ID:ci060nXG.net
岡山市、向山城。
陣の山ともよばれる事から、ある勢力がここに進出してきた事が伺えるのだが
歴史不明。

現地は山の住宅地にある墓地で破壊だが、自然地形が残る、山斜面側に郭群らしき
土の削平が見られる(これを直ちに城遺構とは判断できないのだろうが)
墓裏の藪が気になった

一日で多くの城を訪れる弊害で、あまり遺構もみれず、最悪、場所を間違えてるかもしれない

211 :人間七七四年:2013/02/28(木) 11:28:55.70 ID:ci060nXG.net
岡山市、浜城。
以前訪れた時は、看板がなかった気がしたが木碑がある。

現地は住宅地の小さな宮で、祠があり土塁のような土山に石群がある。

本では宇喜多能家の曽祖父の城と書いており、宇喜多一族が代々使用したの
だろうか。

又。gisではこの地域一体らしく、この周辺に他にも遺構は眠ってるか。

212 :人間七七四年:2013/03/01(金) 11:27:16.02 ID:iPL3fsxv.net
岡山市、金山城。
学校や社で破壊だが、学校裏に切岸や曲輪があり、それがもしかしたら遺構
なのかもしれない。
近世城郭のような丁寧に整えられた石垣あるが、形から戦国期のものではないだろう

どんな歴史をもつ城だったのか?
今は地元でもこの城を知る人間は少ないだろうが、
門をぶち破る兵や、物見櫓や土塀ごしに必死に抵抗する武者を想像した。

しかし丘城ぐらいでは跡が残るのは難しい。

213 :人間七七四年:2013/03/01(金) 11:41:33.27 ID:iPL3fsxv.net
岡山市、射越城。
名主層、射越氏の城。
どこかの記録にこの城が出てて、今回一番楽しみにしてた城。

田んぼに囲まれた平地に細長い小丘で目立つ。

丘上は墓地で破壊だが、主郭を頂部に曲輪も見え、あり日の姿が想像できる。
丘下は田んぼだが、堀が巡らされてたのだろうか?
又、丘上だけが城ではなく、下の平地も城域だっただろうから、
丘を中心にこの周辺に中世社会が存在した思うと感慨深い。

戦国というと、武将同士の戦いと目がいきがちだが、この時代農民も
領主から一方的に搾取される存在ではなくなりだし、農民の意向も
汲み取らないと、逃走や結集など自衛の手段をとられ、領主の存在
を転覆しかねない意識を持ち始めた。
農民が労使される存在には変わりないだろうが、ここでも領主の立場
からいえば、両者の間で物事が複雑になり、物言う農民の「ギリギリの
駆け引き」に悩まされたりしたのだろうか)

214 :人間七七四年:2013/03/05(火) 09:30:34.21 ID:VVXxeNxr.net
テスト

215 :人間七七四年:2013/03/05(火) 09:56:48.81 ID:VVXxeNxr.net
鏡野町 葛下城にて展望http://i.imgur.com/rsQxz3s.jpg

216 :人間七七四年:2013/03/05(火) 11:33:02.63 ID:r2brEx5a.net
倉敷市、下津井城。
石垣が多い(戦国期の終わりの僅かな期間しか機能してないため、近世城郭?
ながら戦国城のような土塁、堀切みえる)
井戸や大手門は藪に埋もれわかりずらい。

岡山城のような高石垣とはいかないが、石垣は破却され散乱しており、ある程度
持ち去られたり、土に埋もれてるのだろう。

絵図では五層の天守閣が描かれ、本では(豊臣家包囲網の城たち?)要所に
多聞櫓が配され、天守の石垣も5メートルあったらしい(今はわずか)

宇喜多時代に砦が築かれ、その後豊臣包囲網として、又は西国大名の押さえとして
家康の内意をうけ、孫が入城した。
しかし短期間で脅威が去り、不要となり破却。

通路以外は石垣が草に埋もれ見えずらいが、石垣の角が崩されてるとこが印象的。

217 :人間七七四年:2013/03/05(火) 11:44:31.25 ID:r2brEx5a.net
倉敷市、下津井古城。
下津井城真下の海に面する丘。
現在、社になってるが、看板には「ここは室町期の長浜城」とある。

社の祠、裏の崖っぷちに、土台の高まりがあり、物見楼か(下に2段ぐらい
の曲輪の様な平坦地)
丘上の周りは崖で城には好立地だっただろう。(中世城郭研究会に縄張り図あり)

足利尊氏が何日か滞在したらしい。

218 :人間七七四年:2013/03/07(木) 11:58:47.43 ID:yp56ENf8.net
倉敷市、笹間城。
あまり、場所も調べず訪れたのが失敗だった。

福岡神社の裏道の山を登るが、中世城郭研究会で書かれたような縄張り遺構は
見当たらない。
時間とエネルギーを無駄使いしてしまった。

城は何面かの細長い段々曲輪を有し、研究会では縄張りや占地から寺社勢力を
背後に抱えた、在地豪族の有時篭城型の城ではと、考察してる。
この周辺の城は歴史が不明ながら、中世城郭研究会により、縄張り図からの
考察がなされており、面白い)

倉敷市、神水山城。
池の辺に、電波塔がある山道あるが、城につながってるかわからない。

歴史は不明だが縄張り図からは、戦国期以前の特徴が見られ、戦国以前の城か
旧来型の築城術を備えた勢力の存在が伺えるとある。

219 :人間七七四年:2013/03/10(日) 11:25:03.73 ID:4XbZfIMI.net
倉敷市、湊山城。
地元で聞いても「城!」とビックリされるのみで、知らないと。
山道につずく道あったが、作業されてたので止めた。

ある程度歴史も知れてるのだが、看板など無さそう。
常山合戦の折、常山城の支城として近くの「城の首砦」がある社に、湊山城主夫妻
が、襲いかかる毛利軍を前に戦勝祈願した事が書かれてたはず?だが城下も焼き打ち
に合い(大毛利氏とはいえ、兵たちの戦時の権利?の強盗や強姦を抑える強い
抑止権は備えてなかっただろうから、乱取りが行われたのだろう。
物質的豊かさを持たない人間の凶器性を感じた)
城も防戦したが落城。

220 :人間七七四年:2013/03/10(日) 11:31:26.17 ID:4XbZfIMI.net
倉敷市、城山城。
海近くの独立の小山。
一方は墓地になり、道跡らしきから登るが、山上から山下に段々と平坦地
が築かれ(畑跡らしい)、山頂も平坦地だが藪が酷く引き返した(主郭部
も後世の畑で改変だろう)

城がどんな縄張りか、どのような城主かもわからない不明城か。

221 :人間七七四年:2013/03/10(日) 11:48:33.18 ID:4XbZfIMI.net
総社市、尾崎城。
山先端の施設や民家?がある所に、目立つ土台があり祠鎮座。
先の山尾根は帯曲輪や尾根内に小堀切あるが、後世の改変も考えれる、
藪が酷くなり退散。

中間の墓地から登ると、そこにも二重帯曲輪や、土塁が伸び虎口を形成。
後は古墳なのか、土の高まりがあり、頂部は窪み(盗掘か)。

藪山で一部を除いて歩行困難(進入できなくはないが、限定的にしか見れてない、
長良山城のような土塁群や高台あるか)

現地は丘陵で鳥越城とも近く、備中高松戦の陣城か。

222 :人間七七四年:2013/03/10(日) 12:06:31.21 ID:4XbZfIMI.net
岡山市、すくも山城。
発掘調査報告書では小山の遺構を残す形で畑化にするとあるが、現地は
微高地でなぜか小山は完全に破壊(周りは田んぼなのに、ここを破壊しなくても、、)
報告書では城は後世の畑で改変されており、石垣や堀切が地層から出土(やはり遺構は
埋もれてるのか)。
城以前は中世墓地で人骨出土。
地質調査や掘立柱など建物跡が検出されない事から、高松戦のおり織田勢を
意識した急造的な冠山城の出城と明らかに!?
秀吉が児島郡年寄中に宛てた書状に「すくも塚の城乗崩、一人も不残打果候」
として秀吉軍に包囲落城された事が示されてる。
こんな砦を大軍で包囲し、地響きの大音声をあげ一斉に攻め上がる、、
城兵の気分は{風前の灯}で自分なら心が解離しそう。
記録に数多く残るこの城が消滅したのは残念

223 :人間七七四年:2013/03/10(日) 12:12:23.26 ID:4XbZfIMI.net
岡山市、日近城。
軽く登山道を探してみたが、城道は見当たらない。
直登りで登れそうだが、宮地山城で体力が尽き止めた。

gisでは郭、門跡等遺存とあり、中世城郭研究会?では縄張り図が描かれ
考察がなされてる。

城は山先端で裏は急斜面で守りには向いてるか。

224 :人間七七四年:2013/03/10(日) 12:30:02.32 ID:4XbZfIMI.net
岡山市、宮地山城。
高松戦の折、毛利方の最前線の城(戦う前に調略で落城)、記録には土塀の
存在も。

電波塔があるラクダのこぶのような山。電波塔まで登るのきついが、更に
道のない山斜面を這い上がる(何度も諦めかけた)。
やがて岩群が見え、上に曲輪形成(一方に土塁、下に犬走り,郭面内に石列?、井戸跡)
、先は切岸で端の道跡たどると、段々曲輪(丁寧に切石された門跡2つ、
門土橋には石垣)
主郭?には建物礎石?や端の岩群に井戸跡あり、側に土塁構築。
下は切岸で四角い広場(ここは馬場か、素人には知れないが、同一方に
2,3mの土塁あり門跡のような開閉口2箇所)。
その先は藪が酷くなり退散。

いい加減な周り方のためか、縄張り図で見るような堀切確認できず、全体の
半分も見れてないかも知れない。
保存良好で印象的な遺構が多く再訪したい城。

225 :人間七七四年:2013/03/12(火) 11:21:26.19 ID:Ux3rFIz5.net
[訂正」宮路山城× 立石城○
どうも自分が歩いた感じと縄張り図が違う感じがした。

場所も近く土塁が毛利方の宮路山城に沿って築かれてる?から織田方の城か。
いつの時代に築かれたか知らないが、見所も多く規模もそこそこで(半分も歩け
て無いかも)、城普請からは重要な存在感が伺える、が歴史は不明か
(当然、高松戦にも使用されただろうから、境目7城というのは後世の創作という
材料になるような所と感じた)

226 :人間七七四年:2013/04/03(水) 11:19:44.23 ID:eZVoBlS/.net
倉敷市、平松城
庄城と近く、ここも松島城の出城として機能したのか。
庄城が毛利方の松平氏が守備につき、宇喜多勢が襲いかかった事が記録に見える
から、ここも僅かな城兵で庄城と共に猛攻に曝されたのだろう
(運命に翻弄されつずけた乱取りから逃れる避難民や地侍を中心に城内の混乱の
様子が浮かぶ)

現地は平城で石碑もあり、宅地や田んぼで破壊に見えるが現在の川を水堀に
利用した何郭かの曲輪で構成されてたのだろう(研究会の考察があったはず)

227 :人間七七四年:2013/04/05(金) 11:28:46.59 ID:YLCIP7IR.net
戦国城シーズン終了
不思議なもので城巡りを計画してる前日まではワクワクするのだが、当日になると
遭難や心臓が止まるぐらい怖い大型猪の事を考え苦痛でもあった。

無情な現実があった中世は、人間のさまざまな感情が見え、戦国の跡を現代に
生なましく残した城跡に、少しでもこの時代の空気を理解したい思ってた。

残念ながら天守閣のある城に比べ、戦国の城ファンは皆無に等しく、現在も宅地化などで
消滅していく中、これからも人気がでるとは思えないが、言葉を借りれば
「幾多の戦火を潜り抜けた土の城」として理解が進む事を思う。

228 :人間七七四年:2013/04/30(火) 11:32:37.10 ID:a1JsIghT.net
趣味の範囲で記憶を元に書いてる部分もあるのでいい加減差や城遺構と思ってた
所も後から考えれば畑の跡か?と感じる所もある。
あまり紹介されてない城で跡をよく残す、印象的な城は
総社市、士良計城
倉敷市、戸山城
倉敷市、片岡城
真備町、南山城
岡山市、立石城
やはり人が訪れない城(戦国の作品)ほど予測ができず面白い
ある意味、命がけであまり訪れてないが、、

229 :名無しさん:2013/06/03(月) 23:53:29.19 ID:YmIY6pcl.net
瀬戸内市 砥石城

230 :人間七七四年:2013/06/09(日) 13:19:57.20 ID:agsajdaH.net
ネットで[岡山の城跡」に、玉野市の鍛冶山城が以前、周囲が総石垣で堅められてる
と書かれてた記憶があったが、何かの間違いだろうか?
たぶん間違いだろうが、非常に興味深い。
ツワモノ共が立派な痕跡だけを残して、その姿がまったく見えない、不思議としかいえない
ような城は大好きですね。

奇跡的に玉野市の鍛冶山城について知ってる人間はいないだろうか?

231 :人間七七四年:2013/06/14(金) 11:52:31.64 ID:GXMBv27Y.net
最近は、googleマップの航空写真を見るのが趣味
ちょっとした山、丘、古墳が城跡だったのではないかと
あと、学校、神社、寺もあやしかったり
田んぼの道なりなどもあやしく見えたり

232 :人間七七四年:2013/06/16(日) 12:25:16.46 ID:GbNFP3Sd.net
岡山県内の山城巡り 本日は和気美しい森から天神山城迄 今、本丸到着 此処は吉井川から上がる登山道も有るがとてもじゃないが俺には無理だね。

http://i.imgur.com/1f5v3Zm.jpg

233 :人間七七四年:2013/06/22(土) 10:50:24.84 ID:62xWrw6P.net
確かに山上が平らに削平されてる所を見ると城跡ではないかと思え、むしょうに
登りたくなりますね(あんな所で命の削り合いしてたとは、、戦争という悲惨な
極限の中で様々な人間ドラマが、ほとんどの現代人には知られてないが繰り広げられたのか思うと)
また城跡内部の作りからも、どのような勢力が存在し、どんな思想を持ってたのか
読み取れるような妄想ができ興味深いです(あまり知られてない城なら,なお更)




天神山城、まだ行った事がないが興味深い城です。

234 :人間七七四年:2013/06/22(土) 11:32:34.82 ID:HZxxEOuJ.net
>>233 都合が合えばいつでも案内しますよ。(^_^)

235 :人間七七四年:2013/06/22(土) 11:35:11.83 ID:jVCqmaCc.net
>>131

これって中島元行の居た城のこと?
読みは、きょうやまで良いの?

236 :人間七七四年:2013/06/22(土) 12:14:25.15 ID:62xWrw6P.net
巡ってるわりに、あまり詳しくないですが、そうだと思います。
今の季節、城めぐり大変じゃないですか?
天神山では虫とか蛇どうでした?

237 :人間七七四年:2013/06/22(土) 22:05:02.94 ID:HZxxEOuJ.net
>>235 そうですよ、副将として高松城に籠城しましたが落ちてから廃城に成った様です。
>>236 一応、春から秋にかけて岡山県内の山城巡りしてますので苦には成りません。虫はいますが蛇はまだ観た事ないですね。(^_^)

238 :人間七七四年:2013/06/24(月) 19:57:59.44 ID:MhaNxzZT.net
今日は仕事休みだったので、地元の富田松山城址登りました。城址からの景色は素晴らしい。

http://i.imgur.com/5l6IHq5.jpg

239 :人間七七四年:2013/06/28(金) 10:47:31.85 ID:awXTpaNf.net
行きたい城は沢山あるが、どうしても有名じゃない城が気になる
総社市 井山城
総社市 馬首城
倉敷市 古地城
岡山市 迫川城
岡山市 トンギリ山城
倉敷市 田ヌヌヌヌ?城

挙げると終わりがない
どれも世間にあまり知られておらず登山道もあるかどうか?

240 :人間七七四年:2013/06/28(金) 14:23:44.17 ID:lM6aBRSd.net
>>239 其れは言える 井山城址は高梁川沿いの城山だったが藪の中、馬首城址は場所は吉備CCとアンテナの家の間だと思うが、行った事は無い近くは有るが、
とんぎり、はざかわはまだ無いな、隣りの片岡と常山は有るが。

241 :人間七七四年:2013/06/30(日) 11:22:11.10 ID:Ft4300Xe.net
井山城は挑戦したんですかね?

片岡城は一部を除いて小藪の海ですよね
イノシシとの遭遇に怯えたものです。

一人での探索なんで、、、仲間と訪れたんですか?

242 :人間七七四年:2013/06/30(日) 13:33:30.44 ID:3a+7XjwX.net
>>241 井山挑戦しましたが、ここも藪の中、今はだいたい一人ですね。秋になれば山城コミの方々と散策するのですが、今日午前中は虫明城址登って来ました。

http://i.imgur.com/qfonh3b.jpg

243 :人間七七四年:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN ID:qkmg56No.net
隣の士良計城なんかも石垣がなかなか良くて、有事篭城型いうより
常駐者がいた感じで、かなりの攻防戦があったのかと、井山城にも期待してるんですが
鬼ノ身城の隣の峠を監視するような位置にある
高丸古城?ともう一城もきになります。

244 :人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:RnCM5zs4.net
大都会・岡山

245 :人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:Ahcn7xFm.net
自分の先祖は最近知ったのだが、日本の中枢で国防のトップにまで登った人らしく
その血が城巡りという変わった趣味に引き付けられるのかもしれない(知識は4流だが)

今度、北区の半田山城に登ってみたいですが市の中心に近い事もあり、登山道 
あるか知ってる人いますか?
草深くなければチャレンジしてみたいな。

246 :石破茂元国防相:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:hFacayum.net
石破茂元国防相

247 :人間七七四年:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN ID:cK4zbYWM.net
岡山の城サイト発見!
「岡山鉄城」

城数は少ないが、興味のある未開の城が記載されてて、うれしい発見。
城紹介サイト、他にもあれば、どなたか教えて下さい。

248 :人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:O2kYWPOj.net
図書館で岡山県大百科事典ってのを見てたら
幸山城の項目に高梁川をはさんで真向かいに猿掛城跡が見える
って書いてあったんだけど本当に見えるんかの?

249 :人間七七四年:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN ID:GWsaoCdO.net
どうでしょう?

追加記入
倉敷市、戸山城。  当時登山道はないが、城跡は以外に茂りが少なく、山斜面
に連続竪掘あり?(まだ経験浅であれが何だったか謎)

岡山市、石山城。  確か宇喜多直家終焉の地だったはず?(ビルに囲まれ
石碑以外は感傷的になりにくいが)

岡山市、鍛冶山城。  秀吉や黒田官べぇも前線視察に来てるだろうに、あの荒れようは残念。
近場の立石城も土の削平が丁寧で両城ともいい城なのだが

岡山市、片岡城。  途中土塁か楼台か土の高まり。

総社市、士良計城。  登城時経験浅だったが物見岩から高梁川の景観が現在でも
望め、容易に番兵の姿が想像できる。
曲輪を補強した小石列多し。
登山道にも古い石垣多く、屋敷跡?

250 :人間七七四年:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN ID:GWsaoCdO.net
追加記入
赤浜城山城。  城山は破壊されたらしい。 雪舟の生家と近距離で雪舟が
なんらかの形で出仕してた姿を想像した。

倉敷市、城ぃ山城。  発見時テンション上がったが、後世の人工物も見られ
純粋に城遺構とは今思えばとれない。

倉敷市、田ノ口城。  どの城郭本や(田ノ口の歴史)にも記載されておらず
城郭研究会のみ記載。
ここからの瀬戸内海の景観は個人的に岡山一。

倉敷市、田ヌヌヌヌ城?。  山上が平らに削平されてるのが見え期待できそう

鴨方市、石井山城。  現地は畑で、秀吉が西国に下る時滞在したらしいが
畑主も知らないのでは思うぐらい畑。

岡山市、寺山城。  金川城攻略時、宇喜多直家が本陣。本陣が城に近いのは
松田氏の力の衰えの表れか。

書いてる内容は極めて感覚的なので間違いある思う。

251 :人間七七四年:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN ID:GWsaoCdO.net
倉敷市?海賊の番城(仮)。
ローカルテレビで海賊の番をしてたと知り、溜まらず訪問。
沙美ビーチにある小山。
山上は削平されており、登山道以外は絶崖、曲輪は登山道側に小曲輪、
やや高低差を設け主郭(中央に土の高まり有り、内部窪み周囲に石垣、井戸?)
の二曲輪で構成(やはりこんな小城でも味方に知らせるだけでなく籠もって
防戦したのだろうか)
社があったのか、近世石垣や瓦散布で改変され、どの程度跡を残したか不明。

船の脱着場か船隠しか、島がえぐり込まれ場所が岩場から覗ける。
海に突き出した番には最良。

252 :人間七七四年:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN ID:4Jw6Yw9M.net
どなたか、総社の鬼ノ身城、ご一緒しませんか?

253 :人間七七四年:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN ID:0OZaGQPG.net
>>252 いつ行かれるのでしょうか?

254 :人間七七四年:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN ID:4Jw6Yw9M.net
まだ夏場で正直、山の状態がわかりませんが、土、日ぐらいでいければ思います。

255 :人間七七四年:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN ID:0OZaGQPG.net
まだ、山はまだな暑いですよ、私は仕事土日休みですので、連絡下さい、只 来週の土曜日は仕事ですので。tigerseedragon@gmail.com
城廻りでお願いします。

256 :人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:7HEwSDN8.net
テスト

257 :人間七七四年:2013/09/14(土) 13:09:19.98 ID:YRmQJv6z.net
岡山の城サイト発見
「かさおか戦国城址めぐり」

歴史紹介が主で城遺構の写真があまりないのが残念

258 :人間七七四年:2013/09/21(土) 20:36:29.28 ID:4eNJOktq.net
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/

259 :人間七七四年:2013/10/12(土) 10:53:24.87 ID:gQT/yTk+.net
イノシシがまた人を襲ったか、、、

260 :人間七七四年:2013/10/12(土) 19:58:08.15 ID:cvQePwd+.net
備中松山藩家老山田方谷あげ

261 :人間七七四年:2013/10/24(木) 20:28:11.34 ID:bLfNZXQ4.net
葛飾区の青砥にあった葛西城がある。
今は環七の地下に埋まってる。
http://mirai660.net/castle/

262 :人間七七四年:2013/11/10(日) 18:05:05.96 ID:Hz7MEJgy.net
二俣城の模型があった。
http://mirai660.net/castle/

263 :人間七七四年:2013/11/30(土) 09:46:37.04 ID:L7nVWFyp.net
そろそろ城の季節。
有力豪族?小田氏の支城、太郎丸城は強引に登れそうだが、もう一つの支城、
岩屋山城には
登山道はあるだろうか?(どんな城か資料がないだけに期待がふくらむ)
イノシシ、野犬、猟銃、遭難に気をつけねば

264 :人間七七四年:2013/11/30(土) 12:17:06.60 ID:L7nVWFyp.net
佐方竜王山城では登山中、雷のような轟音が響き猟銃だと思い慌てて存在を
知らすため爆竹銃を3度鳴らしたのを思い出したが、あれが銃音なら怖い。
猟師も夢中だろうから、、

書いてきた内容も暇人の空回り感が否めず、見てきたものは正直に書いたが
いい加減で90%記憶頼みてのは「2ちゃんねる」でしかできない。

265 :人間七七四年:2013/12/07(土) 10:25:51.81 ID:gz4CLbT/.net
倉敷市 碑田城 (追記)
教えられた場所をいくが、もはや藪。やがて工事場に出てそこから目の先(ここから
くれば楽、城も近じか消滅か)

二段の小曲輪あり(窪み有り)その上は長曲輪(ただの山尾根?)
山先端でやや土が高まり下に一段の小曲輪でその下は自然な山斜面。

細長い山尾根にあり、平時は使用されない城で、更に籠城というほど防衛も
期待できない簡素な感じを受ける。
戦国より古い時代、見張り所、農民の城?か

期待はずれで場所を間違えてない思うが御前通りと地名が残るだけ残念だった。

266 :人間七七四年:2013/12/07(土) 10:43:18.70 ID:gz4CLbT/.net
倉敷市 戸山城(追記)
旧指定史跡、常山城の支城とも児島高徳の城とも繊細不明。
寺裏の墓地の道跡から途中から藪こきに

山尾根に出、山斜面を上がると岩群を積んで崩れた形跡がある石垣(一瞬
、近世城郭?ではなく自然石積み重ね)
その上に小曲輪、やや高さ設け中曲輪(端に土塁のような犬走りのような、、両方か)
その上か1,2mの差を設けた主郭(祠有り)
主郭の先にも二段の曲輪あり(二段目にも人頭大石垣)
主郭横には高さ設け曲輪があり、そこが城門跡か城の顔のような小石垣
下に更に自然地形の曲輪(地表から岩ゴツゴツで土塁?もあり敵の進入を困難に)
横に竪堀あり前方を岩群を組み(大人数での作業だろう)進入遮断。

267 :人間七七四年:2013/12/07(土) 10:55:33.69 ID:gz4CLbT/.net
(続)
主郭もう一方は切岸でそこに井戸のような謎の大穴、端に人工的土橋。

大きな城ではないがその他でも石垣が要所で見られ、土の整形もされ
確かな築城集団により築かれた感じ(柵列破られ武士より避難民の悲鳴をフと感じた)

登城時間15,20分だったが主郭にきた時、カラスたちの巣があるのか
すぐ頭上で尋常じゃないぐらい旋回し叫び出し、一時城探索どころでなくなり参った
(恐怖を感じ、やむ得ず爆竹銃で駆逐)

石垣の荒々しさが現代に残した戦国の生々しさを伝える。

268 :人間七七四年:2013/12/10(火) 20:36:49.60 ID:2n3W4vYN.net
第14代仲哀天皇陵墓と比定される前方後円墳に三好勢が臨時築城した岡ミサンザイ古墳城
http://mirai660.net/castle/okamisanzaikofunjyoh_model.html

269 :人間七七四年:2013/12/14(土) 12:17:58.98 ID:8pClNPMy.net
矢掛町 伽藍山城
猿掛城支城で毛利の武将が守衛した

整備された登山口あり、朽ちた鯉幟ある。
登りきった山尾根に畝状竪堀らしき有り?
先に二段の削平面、
そこから切岸と岩が見えだし、戦国城の雰囲気出てき!!切岸下に馬出し曲輪状?の
土塁と竪掘。
切岸上は八浜城を思わす曲輪を土塁(内は空堀)で囲う
二段の小曲輪あり上も二段曲輪?(藪で曖昧)

頂上の主郭は中心に高まり有り主郭下に一段の曲輪、切岸は雑木で見れない
「北に二段、南に三段の保塁」と看板にあり、北の切岸滑り下ると途中斜面に空堀土塁
山谷で堀切、向かいの山も平坦面

帰り切岸の枝を掴み登るが息切れが酷く、木すら伐採されてた当時攻城がどのように
行われたか理解に苦しむ(切岸からは不可能だろう)

城と反対の山頂も平坦で岩群みる

国道から見れば印象的な山で藪がない全体像が見てみたい

270 :人間七七四年:2013/12/14(土) 12:36:19.52 ID:8pClNPMy.net
矢掛町 太郎丸城 (追記)
gisでは「古くより城跡と伝える」とある。

丘ぐらいとなめてると大変な藪コキになった

一方の低い山先端には小土塁空堀?、斜面に段々平坦面(どちらもただの
畑跡だろう)
山尾根は平坦といえば平坦。
そこから頂上への山斜面登るが藪嵐で1,2小郭らしき見えるが人工のものか?

頂上は二手に派生して削平されてると言えばそうだが自然地形にも見える
一方はやがて山谷で先端に二段の曲輪

藪嵐で確認困難で、長い年月で遺構の埋没も考えられるがgisがいう直線的な段差
も見れず、はっきりした城遺構は歩いた限りみれない。

密かに期待してたが知識の乏しい自分には知れない所で
近くの龍山城合戦が記録に残るから、その時敵が築いた臨時の
付城程度か、城と伝わる伝説はただの伝説か?

程度か

271 :人間七七四年:2013/12/14(土) 13:05:19.43 ID:8pClNPMy.net
矢掛町 岩屋山城
小田政清、築城でこの家系は有名な歌人?を輩出したはず
本城、神戸山城の支城。

尋ねるが「道はないし,ここに城はない」

禅源寺の墓地から藪コキ、頂上城跡には道あり連郭式山城か
自然地形に近い三段曲輪(藪で曖昧、穴がある)、上に祠ある主郭含めた
二段曲輪(削平十分は二段目のみ)

主郭横には二段の帯曲輪(石碑あり覗き込むと南無阿弥陀仏、、戦死者の
弔いか恐い)

主郭裏が端に高さ2,3mの土塁構築され大穴状になってる(井戸、堀切、目的知れず)

先に進む尾根やもう一山にも平坦面、下り尾根に穴が2つ空き堀切状になってる場所
その先は広場ある

石列一ヵ所だけ確認でき後、岩垣(自然か人工かわからない)

大穴が謎だが有事籠城型の範囲を超えるものではないか?(戦国城は個人の見え方による
いうほど遺構の判断が難しい、素人は尚更。
こういう所で攻防があった思うから訪れるのだが)

272 :人間七七四年:2013/12/15(日) 22:47:35.76 ID:JyP9NPNV.net
今日は久しぶりの山城オフ開催、皆さんと共に瀬戸の物理城址(もどろい)と保木城址制覇、どちらも久しぶりに苦労しましたが。皆さんと楽しい一日を過ごしました。

273 :人間七七四年:2013/12/21(土) 10:18:48.06 ID:giyYbmii.net
いいですね

岩屋山城 (追記)
町史には三村氏征伐に際し毛利輝元を迎えたとある(輝元が動けば大軍になる思うが
あの城で収まるか、どう駐屯したのか、昔の人の機敏がわからない)
城も大きいとニュアンスで

岡山城のような平和な時代に余裕をもって築かれた城と違い、社会が疲弊し
実戦を最優先課題として築かれた土台しか残さない戦国の城は感覚的で難しい

また倉敷市史には市内の中世の書物に城と出てくるのは7,8だが近世の書物には46に
膨れ上がるという。
これは創作と、逆に言い伝え+痕跡という事実が残ると言う事は書物が断片的な物
という側面ゆえだろう
真備の南山城など緊張の高まりからか、大工事を起こした個性的な城だが
だれが築いたかも知れない、、魅力を感じえない

274 :人間七七四年:2013/12/30(月) 12:05:27.08 ID:rdGdj7cV.net
立石城を読み返すと石が2つある所を門石といったり、窪みを井戸と表記してる
歴史認証せず直感だけのスタイル?(面倒屋)ゆえ
 
ただ見ただけでも土塁が三箇所(大土塁1、土塁上は犬走り)や主郭部の明瞭な井戸跡、
そして建物礎石(むき出しのは珍しい思うが)、丁寧な土の削平。

水攻め戦の関連城にも近いから、この黙して語らない城を専門家に調べてほしい

映画プライベートライアンでは戦争の生生しい描写として、ドイツ兵とアメリカ兵
が折り重なり、力の利を得た体上のドイツ兵が念仏を必死に祈り囁きながら
「ばか、やめろ」と叫ぶアメリカ兵に短刀をゆっくり押し当てていき絶命していく
惨状が描かれてるが、城がもつ性格が英雄伝とは程遠い「戦争遺跡」である以上
そんな過酷な現実がここでもあったのだろうか

275 :人間七七四年:2013/12/30(月) 12:16:31.85 ID:rdGdj7cV.net
本では戦国の城を考える上で
文字に残された知見とは別に掘り起こされた城跡から中世に対する多くの
情報が得られるのが現代の考古学
しかし城の築城年代を特定するまでには至らず、文献に頼らざる得ない

ところが最も重要視されてる文献にも城の記載が見られるのは稀であり
、多くは後世の戦記物(全面的には信頼ならず)とある

これだけ人々の息ずかいが聞こえてきそうな立石城でもミステリー

中世の人は紙面や書き手の制限もあるが、戦争に対する嫌気気分が漂ってて現代人
の様な遺跡的な価値観では捉えなかったか

276 :人間七七四年:2014/01/03(金) 11:48:56.53 ID:mj+X7Kq7.net
真備町 猿掛城

町史にも周辺の城とは別格とある
繊細不明であれば猿掛の支城いわれるのも仕方ない壮大な巨城

こんな山上で重機もない時代に土木を強制させられた人々の迷惑は相当だったろう

個々の曲輪が大きく6段ある(全10段)
連郭式山城で側面の攻撃を警戒して帯曲輪を両面に巡らす
小石垣や石垣跡か石散乱。
矢竹が生え、井戸跡や大手門の看板
主郭には3mの土塁築かれ、先の山尾根から攻められるのを怖れ、苦心の巨大堀切
主郭下武者溜まり曲輪の先端にも竪堀

城に着くまでの山斜面にも曲輪みえ、倉庫跡や、猿掛城主が三村毛利の圧力に負け
移り変わった砦(縁組したいえ本城の下、この時代いつ上から押し寄せるか不安な日々だったろう)

土の削平丁寧で、個性的ではないが巨大で大手門などの建物群も、戦国の終焉まで
長きに渡りこの地に君臨した城だけあって立派だったか
大土木の城

277 :人間七七四年:2014/01/03(金) 12:14:40.24 ID:mj+X7Kq7.net
昔武士が威張ってた時代、殿様の側にいた者は横暴で、民はこれを見ると
非常に嫌い逃れ避け従うふりをしていた
時に歯向かう者がいれば切り殺され

荒木文十郎(信長に反旗した荒木村重14世)は下道郡尾崎村の人
伯父に剣を学び、性格剛直で正義を好む

鹿児島の殿様が帰国に尾崎を通り過ぎた時、先発隊の江藤と浜島は茶店で
茶屋の婦と金の事でもめ、婦恐れ隣家の荒木に助けを求め
荒木謝れば更に激昂し
「抜刀し打ち込む太刀、奪ひ取り切掛かれば、、息絶えけり
通行の人、皆麦畑を踏み越え我先にと逃去

隣の浜島恐れ矢掛まで逃げ卑怯を恥、切腹(建前社会だな)

薩州の目付追ひかけれど、血刀提げ決死の体なれば近ずく得ず引退きたり」

領内で起きたこの事件を小藩の岡田藩恐れ、自首した荒木を刑場で処刑

今ごろは罪状をよく調べ刑を決定し、身分で刑を決定した昔と天地の差である

荒木は身分低く正当防衛しただけである   
                真備町史
事件場に石碑あり?、、、封建制に拘束された江戸時代も怖い 

278 :人間七七四年:2014/01/03(金) 13:13:00.61 ID:mj+X7Kq7.net
真備町 妹諏訪山城
要塞堅固だが城主不詳
猿掛城の庄氏が全盛期、隣の鳥ヶ獄城と防衛点の1つではと

聞くと昭和30年代は道が、、近場から直登り

城跡の巨石群に出、城直下と一方に帯曲輪
曲輪端に石垣?

下に降りると石橋?で切岸(下に堀切、右に採土の高まり、左帯に繋がる
腰曲輪)

その先の尾根にも堀切あり、引き返す

物見に使われてた巨石組合わせあるが、崩れぬよう小石で補強され
他の用途にも使用感が謎

ここまで岩や凹凸地形を晒し部分で、崖登った敵への更なる障害としてか

前方に堀切跡と10mの切岸あり、左に腰曲輪
上は削平された曲輪

更に上に5mの切岸あり主郭、右に主に繋がる郭

その先、切岸下に堀切(端土橋)で歪曲した長曲輪(先端石碑?)


主郭に行くまで3段の高さある切岸が特徴的で地形を巧みに活かし
堀切の多さから、この地域の緊張状態が伺える

猿掛と連動し糧道を断ち、苛立つ敵来れば城に逃げ込み待ち構えたか

埋もれた古城感が楽しめ、野生のフクロウ見たが
崖と藪に守られお勧めできない

279 :人間七七四年:2014/01/18(土) 11:56:32.06 ID:Nq4PReWC.net
倉敷市、流山城 (追記)
古地、軽部山登城 失敗!


今回手作り感ある道が整備されてる
登りきった横斜面に占地的不自然な2m幅の小石垣 近場に土塁跡?
展望台周囲に前回5カ所部分的だが石垣、竪堀?見えたが茂りが酷く断念


山頂は平面だが周囲は緩やかな斜面になり、周囲から攻め上がる敵に対し
主郭を守る筈の曲輪群の造成が見れない
山頂先は物見岩

つながりの電波塔山も気になり訪れたが尾根に堀切?見れただけで削平部なし自然地形

登山道以外 藪の制限があるがここで篭城戦があったとは疑問なほど造成が甘い



簗場山城 (追記)
分校跡 尾根にも猛烈な藪コキで2段の削平 井戸状窪み発見

280 :人間七七四年:2014/02/08(土) 11:53:58.93 ID:l2yb18A4.net
小説 スタンドバイミー

テディが皿を割った事で父親はテディを掴まえキッチンで側頭を10打ち付け
逆側頭にも同じ仕打ちをした
そして病院に電話し息子を連れにきてくれ
受話器を置くと棚から銃を取り出し座り込み昼ドラマを見入った
隣家のミセスバウロズが悲鳴を聞き訪ねると父親は銃口を向け彼女は高速
で自宅に逃げ込み警察に電話した

救急車が到着するとミスターデュシャン(父親)は看護人を家に入れ
テディが救急車に積まれる間 裏のポーチで張り番を勤めた

281 :人間七七四年:2014/02/08(土) 12:05:49.91 ID:l2yb18A4.net
父親は看護人に くそ将校連中はこの地域異常なし言うがドイツの狙撃兵
は至る所にいると説明
看護人の一人が死守できるか? 尋ねると父親は微笑いし 町の冷蔵庫店が
地獄になるまで と答え看護人が挙手すると父親も素早く挙手の礼を返した

救急車が去り数分後に州警が到着しミスターデュシャンの任務を解いてやった

父親は一年に渡り猫を撃ったり郵便箱に火を付けたり奇矯があり
息子を見舞った後、医師の簡単な問診を受け軍人神経症として退役軍人管理局に送られた


戦場での緊張の糸が張ったままなのか、日常と戦場の区別ができてない

282 :人間七七四年:2014/02/08(土) 12:21:11.42 ID:l2yb18A4.net
平氏有力武将 妹尾兼康か!

刀傷や殴打の跡
年代伝承とも一致
吉野口遺跡から出土した頭骨が鑑定の結果、板倉合戦で討死した武将
の首である可能性強まる

岡山理科大では男性40〜70で頚椎跡残る事から首が切断され
前頭部に3の刃物傷
左側頭部と顎に非常に強い打撃を受け陥没

木曽義仲と兼康が衝突し兼康の墓地点
斬首後も祭祀的遺物伴う

時代劇チャンバラと違い有力武将だろうが集団で殴打され、倒れた頭
に刀振り下ろされたか
人を殺めるなど狂わねばできず、血走った集団が浮かぶ
戦場では有力将ですら尊厳もない

283 :人間七七四年:2014/02/08(土) 14:51:48.33 ID:l2yb18A4.net
ホームページが開設する力量があれば、、
長良山城の大土塁や造成された土の高台はなにか?
写真撮ッても掲載できない


不思議なぐらい戦国城にハマリ、ここに書く事により誰か訪れネットで
掲載してくれたら本望(訪れた城に関しては参考なるなら??転用してくれても)

284 :人間七七四年:2014/02/13(木) 21:31:31.59 ID:OvTxuunq.net
>>283
写真載せるだけならホームページを作らんでも
upロダに上げれば良いじゃない

個人でなくとも戦国版のスレで城や武将をまとめた
まとめwikiとか無かったっけ?

285 :人間七七四年:2014/02/15(土) 10:46:15.25 ID:0uvfMLu2.net
なるほど



縄張りがどの方面を警戒して造られてるかを専門語?で城が持つ「指向性」いう
らしい
薄っすら意識していたが、言葉として明瞭にされた感がある
一方面のみ曲輪や堀切を何重に築き、背後を脅かす山伝いに遮断物が堀切一つ
ないのを不思議に思う事が多々あるが、曲輪が陥落し、これ以上防衛が困難
な時、早急に脱出するためらしい

{城取りの軍事学}
歴史を排除し現存する遺構から純粋に当時の人や意識を浮きぼらせる考え面白い
いつも無数に存在しながらも幻の様な、戦国の城「中世城郭」とは何か?を考えて
しまうが、何せ知識がなく知識人を呼んでの勉強会あればいいが

286 :人間七七四年:2014/02/15(土) 12:32:08.90 ID:yLRqchB9.net
当時の人が城をどう使ったか?使うつもりだったか?ということは、
城跡を見ただけではわからないことも多いので、文献史料とかも見るべきだと思います。
群書類従にある『築城記』とかも読んでみてはどうでしょうか。

287 :人間七七四年:2014/02/16(日) 18:22:38.06 ID:YfbKacIk.net
>>285
そういう城って岡山県にもあるんですか?

288 :人間七七四年:2014/02/17(月) 01:57:20.44 ID:yQ5ruvz6.net
当たり前じゃん

289 :人間七七四年:2014/02/23(日) 11:40:13.47 ID:WgN/l4JQ.net
286 そうですよね
 築城記面白そうですね


資料と城跡を別個として、頭を空にして考える多角的な視点を研究者にほしい
岡山では資料が主で、豊富に城跡を残しながらこちらからからの視点が鈍い気がする
どちらも歴史に対する手掛りで比重が一方に偏る事ではダメだと思う
(戦国史研自体マイノリティーに支えられてるが)

自分は人力で普請されながら繊細不明という城を見て歩くのが好きなだけの趣味人で
とても研究なんて真似は力量及ばない(200城以上巡りながら堀切、郭面程度の知識
しかなく横矢掛け、虎口など意識できない学レベル)が
豊富に研究者の手に城跡からの考察が手にはいれば違う角度からの視点が見えてきて
城跡には潜在性を感じながら山を写した写真が出るだけで
こちらが活発になれば戦国史研も進むと思う

中世社会を生きた現代人など居らず、色々な研究本を面白く読むが
資料も現場も最終的には人の頭で考える
机上の話で、想定が実態と外れる事は常で、タイムマシンがない限り
追求もある意味途方もなく無駄な事かもしれない

290 :人間七七四年:2014/02/23(日) 11:56:21.93 ID:WgN/l4JQ.net
総社市、井山城(追記)
城郭大系に僅かに載る

前回寺方面から城の警戒線となる明瞭な堀切確認し
権現岳登山口から進入
尾根一方に山下に伸びる大堀切
先の山尾根谷に堀切跡
中国電力が「お、ここにいい所あるや」と破壊した?所が城の中心か
二段の平坦(山頂狭く制限あるため切岸下を、規模は藪で不明だが
緩やかな傾斜の曲輪造成でそちらが主防衛か)
先の山頂も同じ手法で尾根と下に曲輪
先の尾根には土塁状の土の高まり、堀切跡
やがて山下り藪酷く退散
土の高まり2基、土橋

矢竹が茂り帰り山を見上げ、当時侍大将が山尾根を見ながら指示し
兵が山に取り付き山上で防戦する兵がいて(必ずしでないが)
様々な音が飛び交ってた思うと感慨深い
有事篭城型か

291 :人間七七四年:2014/02/23(日) 12:13:49.02 ID:WgN/l4JQ.net
総社市、荒平山城
三村征伐で毛利の手柄に焦る兵が暴発的に山に火をつけ攻めたてたが
城方の鉄砲などで容易に落せず、鬼ノ身城落城で戦意損失し降伏

昔は薄暗い山道を蜂が怖く走り抜けたが古墳発掘調査?で歩き易い
歩道に拡張された堀切あり
前方に切岸立ちはだかる!(上に土塁構築)
本郭は何段かに分かれ下にやや広い2段の腰曲輪?ある
主郭にも腰曲輪
その先は堀切跡?と小郭?
荒平山城井戸と看板にある場所は石組で固められ、驚くは今でも水源がある
看板に平時の館は山下に城平?と地名が名残だけをを残す

歩道に急に立ちはだかる切岸が見所で硝煙を上げ防戦したか
曲輪の造成甘くないがやや整備破壊され?
昔は瓦などの遺構も散布してたらしい

292 :人間七七四年:2014/03/02(日) 15:56:49.88 ID:kWYhvJXb.net
【近江高取山城(滋賀県彦根市)】
湖東山中に眠る謎の城塞、高取山城(別名:男鬼入谷城)。
http://mirai660.net/castle/takatoriyamajyoh_model.html

293 :人間七七四年:2014/03/05(水) 03:29:16.12 ID:rogKtesb.net
スレ読んでたら興味出てきたので岡山の城散策にお薦めの本があったら教えてください

294 :人間七七四年:2014/03/05(水) 08:35:26.83 ID:Jw4qlYLK.net
>>293 城は建ってる城ですか?其れとも山城ですか?

295 :人間七七四年:2014/03/05(水) 19:48:54.92 ID:rogKtesb.net
>>294
レスありがとうございます
観光パンフに載るようなお城は見に行ったりしたので山城等、マイナーなお城について知りたいです

296 :人間七七四年:2014/03/05(水) 20:18:10.48 ID:Jw4qlYLK.net
>>295 私の持ってたのはのは「岡山の山城を歩く」 吉備人出版 かな 大抵山城巡りする時は詳しくはスマホ利用するのでもう友人にあげましたが。もし山城に興味あるなら案内しますよ。色んな処行ってますから。

297 :人間七七四年:2014/03/06(木) 01:18:12.53 ID:mV88OVDS.net
岡山に住んでたらお願いするとこなんですが、残念ながら県外住みなもんでお気持ちだけ頂きます
吉備人出版なら帰省した時に万歩書店で探した方が安く買えそうですね。ありがとうございました

298 :人間七七四年:2014/03/15(土) 12:05:28.93 ID:hBjkHRYb.net
総社市、鬼ノ身城
城の起源は少なくとも源平の頃まで遡り、三村征伐に際し一族のこの城も
攻められ、最初こそ善戦したが毛利の圧倒的な物量を前に次第に戦況が傾き
昼夜関係なく攻め立てられ(相手がいつ来るか精神負担大きい)城内動揺し
祖父が孫で20歳の城主に腹を切らすから自分たちの助命を懇願し
避難者も自分たちの事だけを喜び、、皆で城主の腹切を待ち望むという
戦争で追い込まれた人々の無情を感じた

TVでは関ヶ原で西軍が勝てば備中松山城でなく、ここが近世城郭化されたが
敗れた為、急ぎ恭順のため石垣を砕きその石がゴロゴロ散乱してる
虎口辺りは総石垣の感ある

城直下の歩道に攻め登る敵に対し有効な張り出し占地の出丸状土高まり
その先に土塁あり付属が山下に土橋状に変化する間道?で何処に続くか

本城は雑草邪魔だが木も少なく公園みたいで城郭に包まれるようで壮大である

299 :人間七七四年:2014/03/15(土) 12:22:11.38 ID:hBjkHRYb.net
(続)
「扇の縄」と県下では珍しい縄張り
主郭の崩落した石垣を見、マイナー城でもたまに類似が見えこれが石垣
か疑うが、明らかに戦国の野面積み?でなく近世に移る段階の見栄えを
意識した角を揃えた石垣を見 疑い解けた
主郭周囲に石垣あり、三ノ段から四ノ段には3mの高石垣
四ノ段に長列の石垣 五ノ段にも崩落石垣
六ノ段も石垣群あり近世城を知る者による専門語知らないが
象徴的な武者返し石垣?残存で驚き!

城郭大系に見る高石垣、井戸未確

帰り山見上げ1郭を守る将が内通し人々の混乱悲鳴を想像
また城直下の広場で粗ぶる兵に戦争加担したと意味分からず
3分で簡易断罪され首落とされた者想像し戦争の恐ろしさ感じる

一見戦乱の「土の城」だが崩落石垣多く枯れ草、土除去し切岸見て回る
と近世の幕開けを感じる?城
多くが破壊残念で、建造当時が見てみたい

300 :人間七七四年:2014/03/15(土) 12:40:20.80 ID:hBjkHRYb.net
総社市 蓑越城(追記)
真備町史には調査されず総社史に
鬼ノ身城の砦で毛利が迫ると城兵は戦わず鬼ノ身城に逃亡したある

gisでは郭面11を数える有り、その点疑問で、もしや砦という束縛的な
ものでなく一つの独立的な性格を備えた城でないかと期待!

山という物は違う角度から見ると別山に変化し隣山も上平坦で迷う
それらしき道から登ると人がおり「山頂には子供がよく登る」いわれ
楽勝思うと道はすぐ藪の中(昔の話らしく、甘い話はない)
結果、低山だがどこから登っても相当の藪コキ予想され、準備も悪く断念

前回山尾根先端にも土造成甘いが城遺構らしき見え(盗掘古墳を井戸と誤記)そこも
城遺構か


総社市、馬首城
大精兵の勇士で高松城に篭城した将の城とある

お前にこれが登れるか!と威圧感ある堅固なシャープな山で、築城者の意図を
現代に薄っすら感じる
人に聞くが道はない
目指す物が城という防衛目的の物だけに登るのは大変で前城同様
個人的好きなマイナー城で、いつか挑戦したいが楽ではない。

301 :人間七七四年:2014/03/15(土) 20:41:11.55 ID:96oG+PHh.net
>>296
岡山文庫シリーズは重宝しますね。

302 :人間七七四年:2014/03/22(土) 10:38:11.96 ID:igKzOCxL.net
倉敷市、高鳥居城
gis高松水攻めの際毛利方陣地とある

見えずらいが登山口ある
山尾根は一体が平坦で、尼さん井戸看板、寺跡らしきある
高鳥居山頂は大岩があり崖側岩が小郭群らしき形を造る
堀切状や岩削り見えるが藪制限もあり点と点が線にならない様子の
ハッキリとした城跡という場所でなく自然地形とも見える
山尾根一体が兵士の駐屯地とも捉えれる
表面観察=城遺構なしとはならないが

多くが藪で見れない現状、防備をあまり意識してない急造的な陣営と見た

陣以前に寺あれば戦争ゆえ毛利がどけろ!言えばそれまでで僧集団は追いたてられたか
 
吉川元春が陣した帝釈山?が大部隊が駐屯する容量には見えず、昔のやり方は知れないが疑問
小早川隆影が陣した日差寺の裏山池には段々の帯曲輪状が見えるが

303 :人間七七四年:2014/03/29(土) 12:04:55.94 ID:l61mxZwQ.net
倉敷市、軽部山城?
誰がいつ築いたか知れず、人工的な痕跡だけが残るとある
毛利が織田に引きずり出された時、或いは川辺大合戦と大規模衝突時か

軽部山城と聞いても「ああ、福山城なら、、」がオチになりそうなので聞かず
軽部神社から登城
途中斜面に造成された段々みるが城というほど空間性はない
山頂手前斜面に僅か浅い土塁状というか空堀というかある(gisが指すのはこれ?)
山頂も東尾根も平坦だが、ただの山尾根に見える
西の谷部に唯一城遺構らしき尾根を遮断し山下に伸びる堀切

山尾根は長く、見れた範囲だと郭面というほど造成区画されたり
相互連結も見えず、多少の不安から堀切だけ設け自然地形を利用し
ある時期緊急に必要となり、その後簡単に放棄された陣城
単純に城域に辿り着けてない可能性大

304 :人間七七四年:2014/03/29(土) 12:25:15.79 ID:l61mxZwQ.net
倉敷市、古地城?
同じ尾根上の城

堀切の山頂平坦で、下り堀切跡らしき
又登り曲輪面に穴跡らしきあり兵士が何か集めて置いてた?
そこから長い斜面を下りるた所に今はないが、大きな堀切を想定
やがて藪酷くなるが平坦でそこを抜けきると水溜りある展望の利く崖にでる
その先にはモハヤ道なし

素人が見れる範囲で、いい加減スタイルから両城場所間違い(自信なし
知る方いれば教えを)可能性大だが平坦面を有する山尾根にしか見えず
緊急的な陣城かわかりずらい
gisが指す場所が知れず要領得ない下山となった
兵士、建物、年月埋没の今 色々理屈付けはできるが、ここが城跡か
土台しか残さない戦国城の難しさで知れない

縄張り図で見る遺構が全っく確認できず色々書いたが自分が見たのは
ただの山尾根で蓑越、馬首に次ぐ連敗

305 :人間七七四年:2014/04/05(土) 10:41:23.58 ID:W69ESGtV.net
倉敷市、戸山城(追記)
大きな城でないが石垣多用や土の造成が行き届き、町史には切岸にある大きな
窪みを井戸跡でないかといってた?が本太城にも酷似したものが見え、これが
何か知れないが違う気もする(井戸がない城がよくあるが城を包囲され緊張の中
水なしで何日も持つか?2,3日が限度では 未だ多くが謎言われる戦国城ゆえ
自分には知れない)
この城も士良計城同様、部分的だが2mに迫る石垣ある

城の首脳ともいう主郭を守るように曲輪が配され、ここで城攻めがあったなら
攻め手は他方面では気を反らし一局集中的に主郭めがけて猛攻を加えたのだろうか

一番の高所の指揮統括者がいる主郭が陥落すれば、この城を守る兵は混乱し
他曲輪は自落する弱点を持つ城と素人考

306 :人間七七四年:2014/04/05(土) 11:02:05.51 ID:W69ESGtV.net
戦場の軍法会議

太平洋戦争の生き証人に戦時の法、逃亡罪を尋ねると取材者をジ-と凝視
した後突然声を荒げ「あんたがた逃亡いうけど私はそれを逃亡思ってないんですよ
食うもの食わせて、飲むもの飲ませとったら逃げやしませんよ

この時期の日本軍はもはや軍の体を成さず、ジャングルに逃げた部隊に食料はなく
戦争するどころでなく日本兵同士で撃ち食料を奪い合い、略奪殺人、上官殺人、死体損壊(人肉食)
餓死か逃亡の二択を迫われ部隊を抜ける兵士が相次いだ

特攻の意味を尋ねると
「切り込みの事ですよ もういって死んでこい 生きて帰ってくるな
これで帰ってくれば今度は味方にやられるわけですよ
上官にとって兵の数が減れば口減らしになる
酷いものですよ 生きる為に何でもする 動物と同じです
だけど食料がないから人を減らすしかない
だけど口減らしの為直接部下に手を掛けたら問題になる
だったら一時でも部隊を離れた兵を「敵前逃亡」と罪を擦り付け決死隊に送れば
誰も反論できないし責任も咎められる事もない

想像を絶する戦場の実体だ

戦場を知らない自分は武勇や戦局に目が行き勝ちだが
そこに横たわる現実は非情なものという事を忘れてはいけない

307 :人間七七四年:2014/05/03(土) 11:29:46.46 ID:+vN8PcUE.net
高梁市、大松山城
有力国人がこぞって城主を目指し攻防を繰り返した事実が物語るように
重要な位置にあり松山城を収める事が国中に武威を示す最短の方法とある
三村氏頃には小松山が本城で軍記物だが滅亡時、天神丸が裏切り城主期待の
精鋭が籠もる大松山の兵に天神丸攻めを指示すると、まさかの大松山衆も裏切り
主人の小松山に攻め寄せ、固い結束に結ばれた城兵はいつしか恐怖心理に支配されだし
(人質と言葉が多々見え、信頼を人の命で保ち現代と次元が違う世界)
人間のもろさ、移ろいやすさ感じた

戦国城大松山も有事の際、小松山近世城の防衛考に組込まれてたらしく
改修受けたがほぼ完存?
天守白壁石垣ある小松山から大松山へは、まるで江戸から戦国にタイムスリップ
する感覚で、戦国城には多数の観光客も皆無でかわりに大蛇や猿が仲間に
警戒を知らすキ、キが聞こえた
城の弱点を補う築かれた小郭など巡ると全部見れるか知れず。大松山は
多くの死傷者を出した思えないぐらい静か

小覇王、三村氏の力を知る上での縮図の様な場所で熊蜂、蛇が消える冬が楽しみ

308 :人間七七四年:2014/05/03(土) 11:58:37.99 ID:+vN8PcUE.net
高梁市、寺山城
歴史はあまり知れず過去2名の城主の名と三村征伐に際し三村方が守り
敵わず松山城に逃げ小早川隆景の松山攻め陣城となる

中世は戦争、疫病で人口が少ないはずに山中でこれだけの城を築く労働力
があったかと感心
遠望から山上伐採で城跡がよく見え、この城の繊細を書くのを投げ出す巨大さ
(曲輪自体特に規格外などないが山尾根一体に連なり、更に個々が急峻な削りだし
の切岸に守られ、要所に堀切、小郭群を築き造成も丁寧)
手懐けるべき村人が嫌う城普請を押してまで、この巨城を築く理由が不勉強には解らない
大兵力を収容できる勢力は毛利か三村しかおらず毛利の一時使用陣なら三村の巨大城か

この城を築いた勢力も凄いが通常、山城で見れない急斜面の草木まで刈り
城の雄大さを際立ててる城保存会も凄い

典型的な山城だが、長辺に渡り無数の曲輪群があり、一人の侍大将が全体を見れる
場所でなく何名かの武将が独立した持ち場で委任指揮を取ってたか
個々の切岸がシャープに映り、戦国物の映画ロケによさそう

場所により城直下かなり下まで草刈りして、城にとっての切岸の威力を教えてくれる


309 :人間七七四年:2014/05/10(土) 11:55:16.42 ID:CqpTCVcq.net
本から

城の研究は築城した時からありましたが、歴史研究としての取り組みは遅れました
文献史学は文字資料にもとずく研究ですから実際の城跡を調べる事はほとんどありませんでした
また考古学は長らく文字のない縄文、弥生、古墳時代をおもに研究し
中世の寺院や窯を発掘しても城跡を研究対象にしてきませんでした

廃城から400〜500年しか経ってない城跡は完全には埋没しておらず、地表面から
堀や土塁が観察できます
だから特別な専門家でなくても城を訪ねて調査を行い、その成果を学界に提供できるのです
そうした状況の中、世界大戦後、市民が中心となった民間学とし
現地を歩いて城の形を調べる縄張り調査が活発に重ねられてきました
日本列島のどこに、どんな城があったのか基礎的把握は市民の城郭研究者が
明らかにしてきました

様々な学問の中で市民がこれはど成果をあげた研究分野は他にないと思います

310 :人間七七四年:2014/06/07(土) 12:15:54.96 ID:pJ3kVRUW.net
本から
宮沢賢治、山中で平安時代の僧侶に遭遇!?

賢治は特異体質だったらしいが、生活に困窮した家庭が娘を売ってた時代
不思議体験を語るのは地方社会のタブーであり、父からも怪力乱神を
語ってはいけないと咎められて折、著者の中でも言葉に配慮しながらも
「ただ確かに記録されたこれらの景色は記録されたその通りのこの景色で」
と精一杯の書き方をしてる

何百年も前の若い坊さんに出会う!
自然家の賢治は地元の人に厳かな山と言われる早池山で野宿しようと考え
河原の辺りでウトウトしかかった時、山の暗い中で何かがうごめき、荒々しい
地響きが山を駆け下ってき、何が起きたか立ち上がろうとするが、体は金縛り
にあったように動けない

後、賢治が話した回想録
早池峯山に登った時でしたかねえ あすこの麓に大きな大理石がごろごろ転がってる
所がありまして その谷間は一寸の平地になってて、そこの近所に眠ってしまったんですよ
うつらうつらしてたら山の上の方から谷あいをまるでしっ風のように
黒い衣の二人の若い坊さんが念仏を唱えながら駆け降りてくるんですよ
瞬く内に私の前を通り過ぎ、裸足でどしどし駆けていったんです
不思議な事もあるもんだと見送ってたが念仏は段々細かく微かに、やがて
聞こえなくなったんですよ
後調べると密教系の大きな寺として栄えた所らしい

ありのままの疑いのない目に映る現象なのか、信じたい気持ちが幻覚を見せてる
のか知れないが、オカルトと捉えるのでなく当時の容姿など細かく事実考証し符合すれば
(詩集の「河原坊」に臨場感ある描写)戦国城にも試せ様々な事が明らかに?
現代において中世人を肉眼で見えるとはロマンがある
怖くて城跡に枕を持ってく試験者は現れないだろうが

311 :人間七七四年:2014/06/27(金) 13:11:25.81 ID:1/UwdOKn.net
本から
私は80才を超えた
かつての末期の軍隊の体験者として今大変気にかかってる事がある

相当長い間若い人たちと平和運動に関わってきたが、若い仲間から軍隊生活に
ついて尋ねられた事が一度もないのである
もし戦争が可能になった場合、兵隊にとられた若者はいきなり戦場に送られるのでない
まず軍隊に入れられ、そこで特定の、つまり平気で人を殺せるような人間に
作り変える教育・訓練を受けてから戦場に送られるのである

私が属した中隊は他中隊から「殺人中隊」と呼ばれた最悪の中隊だった
先任区隊長のAが異常性格者であり、残虐行為が繰り返されたからである
Aは中国戦線での血の臭いを異様にまで漂わせ赴任してきた
同じ中隊に属する残る三人の区隊長たちは、この激烈な人格に対抗するだけの
自己はなく、心ならずとも引きずり回され同調したのだろう

ある生徒が病気のため軍医から休むように指示された後、当然ながら体重が
増加した事を仮病のせいだと詰められ、三階の区隊長室の窓際に立たされ
突飛ばされて頭から転落、意識を失っているのを、氷の張った防火用水に頭を
突っ込んで意識を戻させ、剣道場に連れ込み連打したため、また失神したので止めた
この話が伝わると一同は震えた
朝の点呼の時から何かと難癖をつけ殴る蹴るの暴行が繰り返される
それは全て「鍛える」名目の下で行われた
しかし、そうした制裁の際我々が見たものは決して教育者の眼ではなかった

敗戦となり旧区隊の仲間が次々やってきて「やろうじゃないか」という
この「やる」は勿論「殺る」である。私はあんな連中を殺して生涯人殺しの汚名
を着るのは馬鹿馬鹿しいと、断った
他方で区隊長が現れ「ちょっときてくれ」とついて行くと,元の中・区隊長たちが
いて酒肴が並んでおり盛んに飲め、飲めと勧める
魂胆が見え透いており馬鹿馬鹿しくいい加減帰ってきた

8月末に学校で解散式が行われ、私たちは自由の身になった。しかし彼らから
解放され全てが解決とはいかなかった
私はAに屈しなかったつもりだが、それなりに人間性に歪みが生じていた

私は思う、当時私たちが感じたA区隊長の臭いは日本軍に流れた中国人たちの
流した血であった
戦争の残虐性は参加者自らの人間性をも荒廃させてしまったのである
Aは血臭いを漂わせ、信頼や愛情などという人間としての感情を全て失っていた
ように見えた
中国人の血が彼の人格を媒介して我々に報復を加えたといってもよい

あとがきの「戦争か平和かと聞かれれば誰でも平和と答えるでしょう、私もそうです」
と政治家がいった言葉に、そんな者に戦争を語ってほしくない、自らの無知を
認めた言葉であると、憤りに戦争を肌で感じた人の深い思いを感じた

城とは何か、自分なりに知りたく密接な「戦争」を知ろう思い読んだが
地元に忘れられてる城にも城内になだれ込んだ兵が行う行為によって
文字に残らなかった人々の「強い思い」があるように思えてならない

312 :人間七七四年:2014/07/03(木) 12:30:44.96 ID:oV6K26G3.net
本から
今世界中の戦場で子供の兵士が前線に立ってる、大人より安上がりに勇敢
な兵士になると理由で軍や武装組織が好んで徴兵するためだ(戦争で家族
を失なった子供は暴力の世界以外知らない、自分たちの行為がどんな結果を
招くかについても十分に理解してない場合が多い。
実際、子供たちは未熟で経験不足だからこそ利用される)
今こうした瞬間にも三分に一人の子供が死ぬ状態が丸10年続いてるわけだ

証言
ー武装組織に仲間になれと言われたけど、いやだといった。そしたら弟を
殺された、だから仲間になったー
ー奴らは捕まえた人間を連れてくる、訓練を受けさせるために。
僕の部隊は3人殺さなくちゃならなかった。最初の1人が殺された後、指揮官から
明日からお前がやれと言われた。ショックだったし、ぞっとした
頭を撃たされた、僕は震えてた。それから食べ物が喉を通らなかった、相手の
血が見えるんだ。訓練では毎日3人か4人殺していた。
いろんな分隊が毎日交替でやらされた。殺される人達の中には泣き叫ぶ人もいた
指揮官は僕たちにいった、、どうやって人を殺すか覚えるんだぞ、ってー
ー子供たちを甘く見るな、彼らはわれわれ以上に戦える、ただ徹退するという事が
彼らにはなかなか理解できないのだー
ーある子供は自分がなぜ処刑されるのか理解してないみたいだったー
ー二度目のほうが簡単さ、どうでもよくなるんだー
ーみんなしょちゅうマリファナを吸ってた、戦う前に組織の連中がコメカミに
浅く傷をつけて、粉を入れて絆創膏を貼る。そしたらどんなものにも価値がないような
気がした。どんな人間にも価値がないような気がした、ふわふわした感じだったー
ー彼らを見る度に息子を思い出す、本当に小さいんだ。ここ(戦場)にいると
運命を神の手に委ねる時があるんだー
-六歳から戦いはじめた、銃を引き渡したのは、まだ学校に行きたかったからー
ー子供たちは11歳か12歳で徴集するほうがいいー
ー今は両親と暮らしている、最初話した時、両親は僕を怖がった、自分たちにも
同じ事をするんじゃないかとー
ー捕まえた将校を殺さなくちゃならなかった。ひどいのは憎めと言われたこと
敵は痛みを感じない、僕たちとは違うってー
ー 人殺しはしないようにしてるけど事故は起きるさ、騒ぎの中ではねー
ー悪い事した奴は起訴するべきだ、法廷に立たせて。自分がどんな役割を
果たしたか考えると、、たぶん僕は法廷に立つべきなんだと思うー
ー軍の新兵募集部隊が村にやってきて、新兵を2人だせっていった
300チャト払えないと軍に入らなきゃならなかったー
ー友達のユタ二アが困った事になって、兵士になる前からずっと友達でテントも同じだった
友達でも関係ないって指揮官はいった。彼女はミスをした、殺さなきゃならないって
目を閉じて撃ったけど当たらなくて、だからもう一度撃った。埋めるのも土を
かけるのもワタシがやらされた。指揮官はいったわ「よくやった、泣きはしたが、よくやった
こんな事はこの先いくらでもある、次は泣くなよ」
ー小さい子を平気で撃てるような奴はどこかおかしいんだ、俺は平気じゃない
1日じゅう撃たれていると相手が兵士だろうと子供だろうが、RPGがこっち
を向いてると、、俺はやるべき事をやったー
ー子供に志願なんてできる?おれが志願したって自分が何してるかわかってないかも
しれない。けどあんた達大人はわかるはずだろ、志願して兵士になるのを
あんた達が止めてくれなきゃ、おれが選んだんじゃない、兵士にならなきゃ
なんなかったのは選択なんかじゃなかったー
ー過去十年間の経験から導き出せる教訓があるとしたら、それは子供兵の
使用が人道的な問題をはるかに超えてるという事ー

313 :人間七七四年:2014/07/07(月) 12:01:27.61 ID:Iz2pO7N6.net
映画「ホテル ルワンダ」
内戦が激化し仲介に入ってる平和維持軍まで殺害され、頼みの国連軍までが
徹退の動きを見せ、見放される中、世界のメディアからも黙殺され難民と共に
窮地に立たされる4つ星ホテルの支配人をモデルにした映画
軍も国民も集団ヒステリーの様に至る所で殺害に走り出し、その現場を一部メディア
が撮影し危機に瀕するホテルの支配人が「感謝します、あの映像を流せば世界が私たち
を助けてくれる」と礼をすると、撮影者が沈黙し、疲れたように「もし誰も
助けに来なかったら?世界の人々はあの映像を見て”怖いね”と言うだけで食事を続ける」
とショッキングな言葉
モデルの支配人が内戦で人々が狂気に走るコメレンタリーが生々しい

「シティーオブ・ゴット」
スラム街の日常を描いた、日本の常識では考えていけないんだなと、思わせる世界
貧困が社会構造に及ぼす、正義のない街で治安がどう守られるか教えてくれる

時代、国、武器が違っても人間の普遍的なものを映画から感じ
タイムスクープハンターじゃないが、戦国時代に証言がとれても映画と似た話が
ゴロゴロ出てくるのだろう感じた

314 :人間七七四年:2014/07/11(金) 12:50:28.44 ID:e9w9ef94.net
鳥越城=山下まで造成見えるが畑跡か、ただ山下に堀が巡ってたと話で山の規格
から規模を誇ってたか

長沼城=単純にたどり着けてしまい場所間違いか

妹諏訪山城=猿掛と連携と書いたが、当時の防衛ラインの構築法知らないが やや距離あり

白実城=郷土史がいう裏の巨大城が気になって仕方がない!!

小山城=信長を迎える、場所違いか

長良山城=高台は古墳か?巡る堀状が謎。区画された郭が守備の法則性がなく畑跡?

すくも塚砦=「すくも塚の城乗り崩し、一人も不残討果候」 遠路から徴兵され地侍と共に抗えない戦局の駒として
絶望的な場所に配置された兵の無念を思うとやりきれない
痛みも麻痺し薄れゆく意識の中、虐殺の砦内でどんな「強い思い」が生まれ
天に昇っていったのだろう

境目7城の宮路山が全体に造成甘いと書いてた記憶するが、隣の立石は洗練
された感じを受け、水攻め以降にも足場を固めなければいけない不安定な状態
がこの地域にあったのだろうか
強度のある建物を築くには礎石が必要、と事で立石に天守の初期型を夢想
鍛冶山とこの地域に睨みを利かす役割を果たしたか

湊山に吉川、小早川が寄せてきた際、兵の乱取で八幡宮の本殿を残すのみと
なった時、急に本殿がガタガタ揺れだし兵が恐れ逃げ出した、と記録にあり
面白く訪れたが別段変わった所なし。看板に戦火の事が書かれてるが読めない

玉野市の城が情報が少なく、この地域を明らかにしたい先駆者にお勧め

戦国史や城の知識のない自分は妄想家に過ぎず、専門家からすれば苦笑いだろうが
知識に頼らない直感を大切にしたい、と不勉強の言い訳しとこう

315 :人間七七四年:2014/07/18(金) 11:54:56.87 ID:UHRY/JrNZ
すくも塚砦の妄想

「一人も不残討果候、、周囲を包囲し恐ろしいぐらい静まりかえった後
砦に轟音の一斉射撃を加え、硝煙後には多くの砦兵が絶命しており間髪入れず
地響きの大音声で四方から攻め来る
首級に焦る兵に仲間が引き倒され、馬乗りになり必死に念仏をいい聞かせながら
首に小刀を差し込む
痙攣を起こしてる仲間を眺めながら遠のく意識の最後の思いは

まもなく訪れる死が直視できず現実を見るのを止めた者。
毛利の為と疑う余地が入り込まなかった自分の気持ちに最後の最後で「自分は
正しかったのか」と感じた者。
自分より残した家族を心配して尽きる者。
自分たちを死地に追いやり、自分だけは言葉巧みに安全地に逃げた上層部を
敵以上に恨む者。
攻め手にも立場を忘れ死ね言われた環境に置かれた兵を見「人間とはこうも
おぞましい事が出来るのか、自分の運命もわからない」と心を冷やす者。
隣の冠山城からは次は我が身で、砦が攻め潰される様子をどう見たか
轟音の後には女、子供の悲痛な苦痛の表情が浮かぶ
狭い城内で赤子が泣き続け、緊張の糸が張る怖い侍に取り上げられ母子の最後の別れか

戦争の暗い部分を見せるな、考えあるが 世界では悲惨な死があり
豊かさの中で不都合なものは見たくないとは残酷な事と思った

316 :人間七七四年:2014/07/29(火) 12:15:37.86 ID:ZWK0q7HZS
映画七人の侍が村の城を連想させるある
野武士に搾取される百姓に懇願された浪人が村を要塞化し訓練を施すが
飢えに苦しむ弱者の筈の百姓が落武者狩をしてた事がわかり、「落武者になって
竹槍で追われた者でなければこの気持ちはわからん」と一気にやる気をなくし
百姓を斬りたいとまでいう
そこに一人の浪人が「百姓ってのはケチんぼで狡くて泣き虫で意地悪で間抜けで人殺しだ
だがな、こんなケダモノ誰が作ったんだ 侍だってばよ 戦のためには村を焼く
田畑踏ん潰す 食い物は取り上げる人夫にはこき使う 女はあさる 手向かや殺す」
浪人の素性がバレ戦争の複雑さを感じた
焼討ちの小屋から親を失い泣く赤子を助け出し、自分が誰か知ったように
「こいつは俺だ」と叫ぶ百姓侍に負の連鎖を感じた

映画はあくまでエンターテイメントだが「何人の居城ナルコト知らズ」とは
村人の自力救済の城である可能性もあり、地元では先祖が苦痛を被い籠った城も
あるだろうに忘れたように荒れるに任せるは残念
地域に管理も酷だが

317 :人間七七四年:2014/07/29(火) 12:35:04.20 ID:ZWK0q7HZS
本から{城とまじない}

城は常に生死に直面する空間である、それだけに多くのまじないが息ずいてる
築城にあたり人身を御供にする人柱の伝承も城の安穏と堅固を願う所に発する
渇水は敗戦に繋がる。白米で軍馬を洗い水の豊かさを見せかけるなど
危急な事態の解決する手法として、まじないが一つの世界を作りだしてる

夜討は戦う者の恐れるべき事態だった、未然に知り対応するための術がある
渇水、火攻め、包囲軍を睡魔に落とす、様々な困難に対するまじないがあり
読んでて笑ってしまうし筆者も全く非科学的というが、極めて生死に関わるだけに
繊細にきめ細かく用意され、構築されてると書く
死を目の前にし、どうしようもできない環境の中で、生への執着がまじないを
生かせるのだろう

この時代、飢えに対する恐怖も常にあり、現代からは理解しにくい感覚だが
不作になれば人々がバタバタ倒れてくのが記録に見え根拠のない事にも
すがりたい気持ちはわかる

318 :人間七七四年:2014/07/29(火) 12:57:18.28 ID:ZWK0q7HZS
戦国城を書いたこのスレは相当好きな人でないと覗かない思うので
気になる所のみ訂正
立石城に天守は強引で館程度か。軍用石?あり
 

戸山城では藪が防いでくれなかったらカラスの襲撃受けただろう
巨大猪に比べれば余裕だったが。下山時、墓場から人いなかったのに
男女の話声してた、太陽の下ささやく感じで怖さはなかった

片岡城では藪コキ中、前方で土をドン!と蹴る音がした。心細さからの空耳か

立石城では大土塁から主郭?切岸に取り付いた時、背後で木がおもいっきり
音を立て反り返り一瞬で顔が引きつった

山に一人で登ると、たまに微かな声?が聞こえる(山上で長時間停止するのは
草木など色々な音が聞こえキツイ、動いてるとそうでもないが)
流山城の下社では男か獣か知れないが、3秒ぐらい唸る声が微かだが鼓膜まで聞こえた

脳の錯覚とも、霊的なものともいわず、今の科学ではわからない事なので
モヤモヤにしておく事が賢明

319 :人間七七四年:2014/07/29(火) 13:13:00.54 ID:ZWK0q7HZS
建部町 筒井城
1546年に落城後再建されるが1570年火災にあい消失とある

尼子晴久に攻略された茶臼山城とは道路を挟んだ隣だが民家のある所か?
茶臼山が小山に対し筒井城は平地(削平されたか)
素通りであまり見てないが、隣の工事場に明瞭な土塁らしきが鋭角を描いてる
のが見えたが無関係か
夏場で茶臼山は諦めたが山下から山上の者に「木材はどれだけいるんだ」
と叫ぶ姿浮かぶ。
この地域は狭い範囲に城とされる場所が密集しており面白い!
本城に対する支城群だろうか

川を挟んだ白石城も城主が目まぐるしく変わり、先に対する何の保証もない
戦国の煽りをこの地域も受けたか

320 :人間七七四年:2014/09/16(火) 12:16:55.41 ID:uC1f5k5Cm
合戦は領土拡大以上に飢えや労力不足など領内の不安定を領外に求める事による
食料強奪や人身略奪が目的だったと最近の研究にある
軍隊の後方には戦場で発生する難民を足軽から買い取る奴隷商人が付属していた
戦場では乱暴人が女、子供を数十人引き連れ帰ってくるので道も混雑していた
と記録にあり、合戦後には直ぐ奴隷市場が開かれたともある
秀吉が対策とし、当時戦場における人の略奪は当然の行為と認識されてた考えを
改めさせるため禁止令を出したが、本では秀吉の人身売買禁止令は様々な
側面があるものの、倫理的な問題より人の略奪により労働力が移動する事により
耕作地が荒れる事を問題にし重視されたのだろうとある

奴隷に身を落とせば当時労働法も存在せず財産の一部とし逃亡を防ぐため
身体障害を加えられる事もあったらしい

321 :人間七七四年:2014/09/16(火) 12:28:47.03 ID:uC1f5k5Cm
瀬戸内市の佐井田城が表面調査されたらしく?侍でない村人が主体
となって築かれた城とされており、当時飢えに恐怖を持ってた村人たちは
非常に厳しい自身に課す法「村の掟」の中、共同体として生きており(勿論
辛い事だけでなかったろうが)、そんな人たちが籠もった場所とは
どんな所だったか楽しみ

戦争遺跡という本に戦国城が載ってなかった気がするが?(謎多きゆえか)
近世城で武将のイケメンは受けるが裏で戦場のリアリズムも片隅で内省的に必要か
安価な労力とし略奪で奴隷に身を落とす民衆。
逃れるための「村の城」。
武将を通して戦国城を身がちだが、戦国時代の城に占める民衆の関わりは
多きそうだ

322 :人間七七四年:2014/09/16(火) 12:51:01.31 ID:uC1f5k5Cm
南山城=瀬戸内国際芸術祭に出品できそうな土の芸術(軍事施設だが)

青江城=城の裏は川が天然の堀となり、当時の跡なら「古城の岸、洗う酒津川」
と句ができそうな落城を経験した思えない静観な所

妹諏訪山城=祭壇、藪未踏に間道に続く堀切?虎口?

碑田城=電柱に「御前通り」と札があり高貴な存在の影を見たが、城が
場所違いでないなら残念

八幡山陣=水攻め最前線とし宇喜多の150mの土塁(戦後破壊で残存)と
鉄砲曲輪群が秀吉に心底を量られ計画的布陣を見せてるある。
夏制限と社への改変で遺構確認難しく無念の下山だったが、何気に頭を上げると
水攻め高松城が近距離で望め、重要な場所と急に実感が沸いた

御崎陣=高松方との交渉口とあり、早急な裏事情を隠し秀吉(側近?)
が毛利と講和草案成立させた場であり?秀吉天下取りへの最初の試練、
看板もない寂しい小山
日本史の大回転の始まりとしては滑稽な場所

323 :人間七七四年:2014/09/16(火) 13:07:57.53 ID:uC1f5k5Cm
スタンドバイミーより

なににもまして重要だという物事は、なににもまして口に出して言いにくいものだ
なぜなら言葉というものは、物事の重要性を減少させてしまうからだ
頭の中で考えてる時には無限に思える事でも、いざ口に出してしまうと
実物大の広がりしかなくなってしまうのだ
言葉は有害なものだ。だが本当はそれ以上のものだ
物書きにとって、そう言わなければならないのは忌々しいが、私は言葉で生計を立ててる
だからそれがよくわかるのだ

もしかすると自分でも何を言ったかわからないまま、あるいは、泣かんばかり
に話ながら自分は何故こんな事が重要だと考えていたのだろうと疑問に
思いつつ打ち明けてしまうかもしれない
その結果は人々の名状しがたい奇妙なまなざし、という高い代価を払う
ことにしかなるまい
それを最悪だと私は思う
己の人生のよりよきものを、他人に大切にしてもらうのは難しい


石垣や天守など技術的発達をみなかった戦国時代の城は「登ってもなにもない
砦程度でしょ」と言われ続け代弁してる

324 :人間七七四年:2014/09/19(金) 06:27:53.51 ID:C/U2R6fE.net
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325 :人間七七四年:2014/11/12(水) 11:40:11.43 ID:jPl8+KHZ.net
本がいう「現地に何かある」という感覚
士良計城も伝承は少ない筈だが石垣など見れば「城に歴史あり」を感じる
(高山で社の改変が見られず遺構なら)

廃城から今日に至るまで城は風雪に耐える中で随分と丸くなり貴方を迎えるとある
18世紀に入る頃には崩れる箇所は崩れ、埋まる箇所は埋まり丸みを帯びた姿になった
堀の痕跡を残さない部分でも発掘では恐怖心すら覚える深く削り込まれた堀が
出土する。逆に総石垣の城が見つかり調査すると地元の人が積んだという事も

発掘された堀写真には人間的な執念を感じたし表面観察の限界も感じた

不景気世代としてはコンパクトなマイナー城が気になる
意外に周囲の無名城は地域を知る上で重要なのに情報がない(予測できない楽しさあるが
江戸初期ぐらいは無名城も古老に迫力おび語られたか

戸山城では断続的にウォーウォー聞こえ、命を落とした兵士の声に聞けたが(実際は
風で木の擦れる音だろう)、「自分はここから逃げ出す事ができないんだ」と
もはや現世と繋がり失った者の嘆きの思え切なくなった
ここで合戦あったか知らないが武骨な戦国城を妄想。

326 :人間七七四年:2014/11/12(水) 12:01:50.63 ID:jPl8+KHZ.net
岡山市、新庄山城
浮田大和を敗死させた功で乙子城から宇喜多直家が移ったある

内山城目指すも断念(電波塔あるが道発見できず。上道郡史古絵図に楼台あり)

まず頂部に着く前、城下に緩やかな長曲輪ある
社が主郭か直下に帯郭(敵が出世の夢見て首級を狙うのに多くの山城が
尾根上にとれる空間は限られ城内で逃げ回るなんて不可能。
大将も必死に指揮する中心細い。主郭に侵入された時点で白兵戦か脱出の選択を迫われる)。
二段目にも下に犬走りらしき所を伴う、場所によっては尾根だけでは手狭か
急な帯郭も。城最後尾?の端の上に削平地を持つ土高まりあり警戒兵がいたか
そこから谷に下ると歩道端に土塁が長く伸び下に石垣(歩道整備時か)

離れの尾根伝い展望台下にも削平された広場見え、上の展望台から城が
望める(ここも離れの城域?)

素人の歩いただけの感想だが破壊が進み、もはや区画が曖昧で年月を得て
風化したとしても直家の名から考え簡素な感じ受ける
しかし地方の国人衆の和の一人とし未だ微弱な力だった頃わ考えれば妥当
防備より目立つ事の危険、脅威を抱かせない方が、この頃の直家には重要か

327 :人間七七四年:2014/11/12(水) 12:20:13.14 ID:jPl8+KHZ.net
岡山市、明善寺山城
後詰め大合戦のポイントになった城

藪に突入すると先端?に一段低い広がる帯曲輪が見え(造成する兵士が浮かぶ)
竪堀らしきが北1と西に連続3?あるが自然地形?
横堀痕跡もあるが藪方面、緩やかな造成(戦国城の多くは地域から不安定要素が
消えると使い捨てられる)
主郭に向かい竪堀、尾根断ち切る堀切(発掘したら人が埋ま深さ出土するか、
関東では2mの深さで出るらしく、城は本質的に侵入を拒むバリアと忘れべからずとある)
手前の曲輪も反っており当時は土塁を想定。
岩が見えだし立ちはだかる曲輪の切岸上から盾を置き弓鉄砲礫の抵抗を想像
帯郭には大岩と土橋により穴が出現し目的もち築かれたか異様
その先帯郭、下にも郭?(切石場、土塁、石垣)

小城郭と記載あるが実際には必ずしも小規模な感じ受けない
主郭方面は石垣が多く後世の手が入ったか、藪側の先端?のファーストコンタクト、敵を
迎え撃つ帯曲輪が当時に近い形かと妄想(後知りだが、そこからさらに
三段郭あるらしい)

328 :人間七七四年:2014/11/12(水) 12:43:31.56 ID:jPl8+KHZ.net
岡山市、徳吉城
「操山を歩く」にしか記載がなく浮田河内とある
市史に徳興寺一町許にて庄元祐を打ちとりけるとある
(伝承が嘘でもなにも情報がないよりいい)
ネットで調べても戦国?城の事は記載なく、かつて「塔の山」いわれる
この一体は墓地群で不気味だったらしい

寺背後の小丘で二面の曲輪。駐車場と墓地(直家妻五輪等あり)になってるが
やや高低差あり、それが痕跡か(高場は土塁囲みの残骸が端に見えるが、
駐車場整地時のものか)。
丘下も城内かもしれないが宅地化。
小丘だけに常駐者がいたのかもしれない、。無縁仏の集合地に更地時に
出土した明善寺合戦の謎の供養等を妄想。

丘を中心に城域だったが廃城になり墓地群とし有名になったか?
他本に記載が見れず一時的な城か。 
お福?の墓が2基鎮座し、城との縁を妄想

宇喜多が数で勝る三村を打ち破った明善寺合戦とこの城は関係あるか
平地に出撃するに易く、丘から遠望も効き、防備は知れないが占地良好。

329 :人間七七四年:2014/11/12(水) 13:01:03.29 ID:jPl8+KHZ.net
岡山市、比丘尼山城
松田氏に従った名主層の国富源左衛門の居城とある

城は寺付近とあるが遺構らしき見えず寺が館以上の城塞なら背後に山が迫り
防備に難儀な気がする。

近場に徳吉城に似た小丘があり城名に「山」が付くから、そこが城跡か
(ここも防備にどれほど力を発揮するか知れないが戦況を見、出撃にはいいか。
ネットでは丘下まで城が広がってたとありマイナー城だが実態は規模を誇ったか)
丘は私有地か断念。

岡山城を中心に近世を生きた人々も、現代的な平和とは遠い存在だったろうが
一般に知られてない戦国城の、ひっそり静寂の中残影を残す、命懸けの戦いを演じた
土臭さ漂わす所はいい

ここは明善寺合戦で何らかの機能をいたのだろうか?

330 :人間七七四年:2014/11/26(水) 12:02:08.92 ID:jC5WNQqdz
岡山市、大日幡城
福岡合戦に松田方陣地、戦国後半に浦上宗景従う島村貫阿弥

静けさ以外何もない山奥をドンドン進み、谷を下った時はもう帰れないのではと
心細く感じたが、谷を登ると道横斜面に細い竪堀?が長く延び、上に帯曲輪と
切岸が重厚に整然と存在感を放ち、すぐ「城だ!」とわかり嘘の様に気持ちが晴れる
本城は造成の甘い所と丁寧な所が混同してるが、何か居住性の良さを感じ、
囲う切岸も全体に鋭く、頂上に小さな楼台ある(石が足場になる事で削れる様に
ここも人の往来で丸く小さくなっ他?。楼台囲う堀跡と竪堀有り、敵にここまで到達
されたら落城思うが死守の構えか)

主郭から西下り?に曲輪あり、更に下り斜面歩道にも高さ1m土塁?が藪側で
山下に伸び、沿うように土採取痕跡見え電波塔

主郭から南も帯郭と城を半囲いする勢い!の小土塁、下り段々郭(窪みあり)
先の塔、横藪にも長曲輪

文献に山一体に陣で埋めたという通り周辺の尾根も出丸痕跡や平坦地見える
やや中途半派な造成残すが要所で手抜きのない一貫性感じ、報告書がいう通り
陣城とは明らかに違う(出丸発掘調査からは土塁、堀切備えながら侵入拒む
柵穴すら検出せず、一般に無数に存在しながら戦国城の姿は専門家の間でも推測の
域を出ず、戦国攻防がどう行われたか謎すぎる、平時の純軍事的な城は裸山で
有事に盾を並べたか、或いはもっと単純に切岸、逆茂木のみに頼り案外それが
現実に合ったか)
隣の新庄山城に比べ遺構良好。

331 :人間七七四年:2014/11/26(水) 12:21:23.88 ID:jC5WNQqdz
岡山市、藤井城
中山備中の籠もれる?所なりといふ

小山の中心は畑化で両端森(片方が城跡)
高尾城諦めた反動で猛烈な藪に不屈の精神で突入。背丈以上の藪で足場
も知れぬ中、頂上にはgisいう輪郭式曲輪あり中心に見事な楼台あり
(どの城でもある物でなく、この地域楼台多し?、技術の共有か)
楼台上は平面でなく凹凸で無残にも動物の巣になってるが、形から確かな構築物
を想像
狭い楼台内に虎口あるが楼台に設ける意味解らず後世の破壊道か。

主郭は藪も浅く土台からの眺めも良く、ではでは遺構を探ろうと台を降りた
瞬間、マムシが足横におりゾッとする(冬眠状態で動かず助かった。虫も
殆どおらず蛇の類は今まで見なかったのに、城跡は藪の中、急に怖くなり
遺構巡り処でなく退散!)

殆ど見れてないが丘の一方だけ城なんてあるだろうか?
楼台に後世の遺物もあり、畑が近くまで迫り山上のどこまで城か知れないが
輪郭の何段かの郭ある。畑に尾根遮断する堀を想定。

不意をつくマムシの恐怖は忘れられない。猛烈な藪から楼台を発見した
時も忘れられない(農家の方が「ありゃ〜わしが造ったんじゃ」と
オチなければ)

何故か地元の?看板には内山城の記載はあり藤井城の記載なし。
老人に城について尋ねるが誰も知れず。

332 :人間七七四年:2014/11/26(水) 12:43:59.32 ID:jC5WNQqdz
岡山市、龍王山陣
秀吉最初の水攻め本陣跡

山頂はガス霧が漂っており交通の便が悪かった当時、現場視察で山下る時
健脚な当時の人でも溜息もので頻繁な軍隊の行動制限し、曖昧な命令ができず
それが、ここに限らず戦局への影響及ぼしたろう(秀吉ほど頭脳明晰なら
この山だけで物を考えず忙しく動き回ってたろうが)

奥之院がある頂上は石塔群で破壊(痕跡から本段など区画あり、中心郭を備えた
輪郭式山城か)
石塔群から外れた寺裏の山肌斜面に一部、山頂下を囲う土塁と切岸痕跡が見え遺構か。
破壊免れた藪方面に遺構眠るかもしれないがバリケードが人を拒み、諦める

寺参道から尾根下るが後世の手で不明。

寺入口の出丸?展望台にも土塁痕跡(頂上裏は道路で削られたか、人手が
入った場所では正直、遺構と思えなくなる)

一番城跡残すであろう頂部は破壊され、寺が城より後の建設なら基礎工事は
楽だったろう。
元々誰ぞれの城か、一時的陣城かも不明。
ここも多くの訪れた城と同様、粒さな藪突入してないので、はっきり言えないが
籠もるより駐屯地的な感じで、頂上のみ曲輪群造成し(破壊ありそれも
不明だが)、長い参道が収まらない兵の受け場になったか。

離れの龍泉寺に太閤岩あった気もするが、もしかしてそちらが城跡?
(知識も裏付けもない妄想遊びで無責任に書いてるので、致命的間違い
なら誰か教えを請いたい)

333 :人間七七四年:2014/11/26(水) 13:07:07.71 ID:jC5WNQqdz
石井山陣城
龍王山から、より高松城に迫った場所に移した本陣

城への歩道端に細長い丘あり曲輪間が小高シャープな切岸で段々郭形成
登ると頂上も削平され曲輪半面が僅かに土台状に造成され伸び、これが
用途不明(長期戦に備え兵士長屋を素人妄想)
その端、段々郭の逆側も堅固な切岸が削り落とされている。
尾根は断切る横堀あるが、垂直に削られ堀遺構とは違う後世の道か?
下に畑迫り、それから考えると丘の遺構も畑跡かもだが、いずれにせよ
以前に陣城が築かれてたか(藪で軽く見ただけだが、元々高松城に
突き出した本営の守りの要、重要な出城的な先端部だったのかも)

入山口にも虎口?と両端帯郭?が重厚。
本陣とされる場所は中心がやや高まり藪制限あるが曲輪形成も手薄?
(官兵衛が秀吉に天下取りを進言した場所はここ?)

その先頂上も削平面見せ、古墳と藪に遺構を想定

その先が太閤岩があり、腰掛に良さそうで
戦いで目印にされたある。

大河ドラマ影響も早くも過ぎたか、誰も人おらず、本陣着いた途端に
雨が降りだし、急ぎ見になる。
人手が入り遺構判断怪しいが山の所々に削平地有り、藪突入に本腰入れたら
ポテンシャルもつ陣城か(遊歩道が城の外を通るためか?中世辞典の
縄張り曲輪が余り見えない)
しかし、それでも空間に占める人数計算できないが、見た感覚では秀吉本体が
連れてた兵は膨大圧倒的とは言えなかった気がする。

先端の丘と頂上の削平地が気になる。

334 :人間七七四年:2014/11/26(水) 13:24:43.60 ID:jC5WNQqdz
岡山市、御崎陣城(追記)
堀尾の陣で高松方との交渉等、窓口とある

奉られた本殿に続く道の微かな跡から何面かの連郭式曲輪あったかもだが
山肌に帯郭見れず、ここは休戦的な地帯か。
本殿裏斜面にやや手薄考慮し帯郭と竪堀?虎口?ある(本殿後方部は僅かに
土高まり)。ここで官兵衛や毛利の外交僧が交渉した?この多兵を込めれない
ぐらい狭い独立丘なら、どちらの勢力の影響も薄く、感情的にならず冷静に
話せたか。(話逸れるが平和な世で「人の命は尊い」を疑う人間はいないが
精神も肉体も追い込まれ人間荒廃をおこす戦場で個の責任はどこまで問えるか)

本殿抜けると腰郭あり、下が谷間でそこが大堀切?。
対岸に立派な石垣で登ると太閤の名が冠むられた台地の集合住宅に出る


表面観察では(というほど見識ないが)山肌にとり付く敵を防ぐ郭があまり
見れず陣というより武力を背景としない、この時の秀吉の毛利に対する
外交姿勢が見てとれる場所か(書いてる内容は個人的な素人いい加減妄想遊び
ですので参考にしないで下さい)

335 :人間七七四年:2014/11/26(水) 13:46:31.06 ID:jC5WNQqdz
加茂川町、勝山城
毛利勢の虎倉城攻めの時、美作勝山城主が伊賀氏応援のため、ここまで
来て滞陣したある(虎倉城までやや距離あり、ドサクサに紛れ乱取り
しただけで引き返した事もある?)

城入口は両側に掘切が貫通。
畝状竪堀という立派な構築物あるが、構造としては頂上に細長い主郭を配し
下に主郭を半囲いする帯曲輪で、先端は帯郭が2,3段?、で城は造成も丁寧
ながらシンプル。防備にある程度気を使いながらも、籠もるより収容的な感じか

本がいう畝状竪堀は藪にあり(一部、コの字状化してる)、簡略見で
事前に情報なければ墓もあり、ここは城ではなく後世の削平地でないか
、思い帰る所だった(音楽が部分的にでなく一曲丸ごとコピーして
分かってくる事がある様に、戦国城も藪に分け入りトータル完踏して考えなければ
本来はダメという事だろう、不勉強には無理だが)

余り時間がないため本にある無数の畝状竪堀群の全貌を見ておらず
人間の叡智を感じれなかったと後悔。

あれだけ畝竪を築けば上に沿うようにある帯曲輪から狙撃が容易で(横移動
を阻害する、一縄の畝竪堀を実際に横切るのに何歩、何秒かかるか体感すれば
よかった)、主郭まで到達が容易な分、弱点補強で大掛かりな囲い畝竪群が築かれたか

城自体はシンプルなため、その分、立派な畝竪群とのバランスが気になる城。

336 :人間七七四年:2014/11/26(水) 14:05:01.51 ID:jC5WNQqdz
加茂川町、福山城
松田氏、伊賀氏の最前線の備えの城で、軍記物に福山城を落とし虎倉城
を攻めたとある

最初に虎倉城から目指すつもりが県南では滅多にない濃霧が発生し、
雲海見ながら目指す。
福山公園といっても寂しい山奥で城も簡素な物をイメージしてたが
裏切ってくれた。
2つの高台を持ち一方は物見台?で山肌に石垣見れる。そこから下り
堀切隔て土塁曲輪、先も堀切で竹藪曲輪。なお遊歩道から堀切見える

もう一方の主郭?は広さあり帯曲輪が巡る。
先端に石碑土台あり(楼台?)、そこから急な切岸を結構下ると空堀土塁
下に曲輪で次に堀切(次から次への遺構に困惑、この城は番狂わせ)

両方、曲輪どこまで延びるか藪で不明だが、2つの高台が連郭式に曲輪をもち
、残念にも2つの高台をつなぐ元曲輪だろう接続間は公園破壊で?
主郭方面もやや破壊受けたか(昔なら遺構の現状保存という考え浸透してない
から仕方ない言えば仕方ない)

物見台方面は畝状竪堀か、思える竪堀も多く、土塁形成など神経使ってる
気もし、この城をターゲットにした何度かの戦闘を想像

看板には歴史背景の説明もないが、藪には遺構良好で「城に歴史あり」

337 :人間七七四年:2014/11/26(水) 14:32:06.46 ID:jC5WNQqdz
御津町、虎倉城
この地域における国人層の歴史的展開の一拠点を担ったため備前国
で有数の規模で、二ヶ所に戦闘拠点を設け多極化が図られ、動員兵力の
範囲と家臣団の構成、命令系統と防御体制における近世的要因を示してるある

この城から戦国時代を見ると主従関係より、生き残り第一主義で狡猾に策謀を
巡らす中、相当タフでなければ、お互いに疑心暗鬼に怯える人々が浮かぶ
、この時代は過酷だ!。
城看板から急な歩道を登ると出丸あり不慮の事故の長船一族の石碑?ある
出丸先端小堀切。
出丸過ぎ下りにも削平地あり、そこから登りには土塁というには大きな
4m?の小山が歩道と同じ方面に伸び、小山上は先端郭、そして上に犬走り伸びる
やがて堀切に出会い、そこから本郭下を巡る感じで、当時の道知れないが
仮に現歩道なら曲輪上から優位な攻撃に曝される
主郭切岸に石垣見える(持ち去りの可能性も考えると、主郭辺りは
ある程度石垣造りを想像)
主郭には列石や礎石、狭い二ノ丸にも崩れた石垣(矢坂富山城を思わす)
、三ノ丸には石組井戸(縄張り図に載ってないが後世の物?円形だが突出口らしき)

もう一方の二ノ丸は広くとられ。大きな窪みと横堀?、先端に石垣。
そこから切岸下は出丸あるらしいが、既に藪中心細くなり止める。

どの方面も急な切岸に囲まれてるが(まさに要害、斜面の枝木が伐采されてた
思うと恐怖。当時の人は崖に縄を腰に付け鋭く削ったのか)、所々幅のある
現歩道が城に食い込んでる気もし気になる
総延長で図れば知れないが一つ一つの郭はさほど大きくない
登るに疲労した山で日常は生活できる環境でないはずが、山上に確かな
環境が存在しており、山上での生活を選ばざる理由があったか。

338 :人間七七四年:2014/12/15(月) 11:57:04.64 ID:wyOYRPDl.net
岡山市、平井城
戦国時代中頃に松田氏に従った平井備中守利政、習ノ進の居城とある

墓石群の丘上で、周辺の丘も墓地群で圧倒される
現地の看板には、岩に源平の頃の武将の馬蹄痕が残ると確かに穴があるが真実味
がない前置きをして?「そうだ池、又は血の池と呼ばれ古墳から南に平井城が
あったと伝わる」とある(看板にはわかり易く城といっても砦ですよ的な付属あるが
現代人の知る豪華な近世城が出現しだしたのは戦国終盤で、当然実戦にも乏しく
戦国真っ只中はこれが城要害であり、本来の城とはここみたいな所をいうと思う
しかしずれるが作家が武田信玄や毛利元就の本を出したいというと、出版者から
嫌な顔をされ、一般人が興味あるのは信長、秀吉、家康だけと書いてたが
そう考えると地方のましてや城郭をアレコレ論ずるなど興味がない、の一言だろう

南に100米といっても平井城自体に看板がなくよくわからない
ここだろう、林に曲輪と楼台というか土山あり(岡山市極南には楼台多い!?
土山は藪上部まで忘れられた墓ある)、そこを中心に城が広がってたのだろうか
土山が城辺りか推測でしかないが、見渡す限り墓なので楼台を残し?遺構も
破壊されたろう(藪を取り周囲を見渡せたなら楼台だろう)

丘逆側も高場を持つ古墳で城への警戒として利用されたか(野犬、スズメ蜂の巣
に防がれ断念)

血の池があるという事で、この城での戦闘があったのだろうか。
映画「戦場のピアニスト」は平和な世で見せない人が持つ凶器性が剥き出し
になってるが(私たちは自分でも気ずかない凶器性を秘めてるという事を
戦争を起こさせないためにも、不本意ながら認め考えないといけない)
中世社会にも無茶苦茶な環境で育ち、精神構造が理解を遥かに超えた歪みを帯びた
者が、やはりいただろう

339 :人間七七四年:2014/12/15(月) 12:21:34.37 ID:wyOYRPDl.net
玉野市、楠城
gis記載で調べる限り知れず

城でなく山で調べれば登山口が案外わかる城がある
道というより斜面登る感じがキツい

登りきると端に二段の小段々、尾根は削平されてるような自然地形のような微妙
次の浅い尾根谷に堀なし(埋め戻しなら調べようがない)
次に出丸高まり、途中尾根谷に小段々

本城と思われる所は広い曲輪で内側井戸跡か窪む感覚あり、そこから
藪支脈を下ると僅かに鋭角土塁跡
又戻り、広い曲輪から小段々登り草茂る主郭か、やや区画見れる下段に長曲輪
先端小土塁。岸に3つの石列と2本の畝竪堀(上土塁が切れる位置にあり
畝竪は土塁形状だが1つは半端で間の堀が存在せず違うか)

城は何個かの尾根谷にも堀は存在せず、山の尾根が続き所々帯郭らしき
あるが、何というか城切岸の造成が緩やかで遺構なのか、どこにでもある
山肌にも見え全体に区画性が緩く城域がどこまでかよく分からない
3つの石列から人手が入った事は間違いないだろうが、土塁も小さく枯葉で
よく分からない(ここに限らず、無いに等しい足の甲ほどの簡単に踏み越えれる
微土塁を築く意味が全く分からない。多くの戦国城は実戦以外の無駄労力を
省くだろうから、やはり何らかの意味があったのだろうか)
戦国城は個人の印象で変わり易く、一概にいえないがボヤけた印象の城
古い城、未完成の城か
八浜城に近く何か期待したが、占地を有しながら八浜合戦にも使用されなかったか

340 :人間七七四年:2014/12/15(月) 12:54:26.17 ID:wyOYRPDl.net
岡山市、怒塚城
町史に弱肉強食の乱世を玉野方面では細川氏の勢力下にあった土豪たちが
、この乱世をいかに切り抜けたか繊細を知る由もないが、、とし土豪三宅氏の
一族宇多見氏が居城とある

何も常山だけが城ではなく、周辺にも城は沢山あり合戦では山々の城から
戦火の黒煙を妄想。
朝日と児島湖に架かる一本の橋を通るのが気持ちいい。

途中離れ支脈に長曲輪あり先端囲う半?帯郭、下は郭といえないほど傾斜だが
人工的な段々が下る
他の支脈にも先程より造成甘いが同じ形状(段々の替わりに竪堀進入口?)
これらが戦国遺物か知れないが、山の高さから後世の畑ではないだろう
希望的観測は陣跡)

城直下はタバコで山火事が起こり迷惑したと、せっかくボランティア整備された方の
恩を仇で返された事えの注意喚起看板がある(火捨ては止めましょう)
看板上登ると切岸に小石散乱させた物見台がある(石垣みれず、石は礫石妄想)

そこから尾根伝いに登ると藪で怪しいが城を回り道して小郭を設けながら
頂上の城到達。先端半周する小土塁空堀、南は急な切岸
頂上以外は笹覆われで全貌見えないが小規模な要害と印象
本当に武者が籠もった所かと思いながら金甲山方面の切岸下れば、すぐ下に
手の込んだ土塁と堀切が残存しており、やはりここでの戦闘を想定してたのかと感じる
(記録に簡素に城を落とす、とよくあるが実際に山城に登れば現代でも
息がやっとで、それを重くて戦闘ギリギリ直前まで着けなかったといわれる
鎧と上からの攻撃に配慮しながら攻めるのは不可能な気する
肉弾戦より心理戦で落城を常としたのが実態か)
 
その先々の小頂部にも削平地あるが堀切など確認できず城外域で?仮に
頂上のみ城域とするなら宇多見氏の実力も知れてる(100人籠もれるたら
いい所、居城というより臨戦的な要害)

古城山目指す金甲山下りで足が疲労で3回ズっこける。
山全体には所々大掛かりな山下に伸びる土塁堀切らしき見えるが
どれも城と離れた場所に築かれ、これが何か不明。

341 :人間七七四年:2014/12/15(月) 13:22:40.09 ID:wyOYRPDl.net
岡山市、古城山城
怒塚城の隣山だが調べる限り知れず、個人が県内の城を編纂記録した
本に南谷城が当たるか

堀返された猪痕跡にビビるが岡山では滅多に遭遇する事がないと最近
分かりだし少し余裕が持てる(巨大猪は最大2m、夜の道路のせいか
馬蹄のような音をだす巨大猪のまさに猪突猛進を喰らいかけた身としては怖い)

電波塔といい急な城登口といい鼻高山城を思い出す城
城跡は周囲を急な切岸に囲まれ、進入口に窪み
城先端西側に土塁高まり有り、隣に小腰郭?
そこから高さのある怖いくらいの切岸下ると(切岸石垣?曖昧見だが
東に竪堀?)大堀切備えてる。
堀は城側から見ると城切岸逆側が土塁に見え、尾根から登る敵は傾斜で
見えない堀切に戸惑うか
その先は尾根下りで斜面で先端小郭。その先は人工物見えず藪酷く退散

造成丁寧で明瞭な跡残すが、本城の区画が藪の性か曖昧で(怒塚もだが
藪に列石、井戸あるかな)、個人的見た範囲では連郭式山城というより単郭(
と、いうにはやや広く2郭?)で小規模?
しかし尾根伝いに大堀切を設け(大はやや大袈裟か)本郭は急な切岸に
頼り孤高な印象も受ける(当時の侍は木もない切岸をどう登ったか
脈略もなく鳥帽子つけた着物と刀つけた端正な顔立ちの男性が城巡り中
浮かんでた)

簡素見で本来いい加減な事いえないが、隣合う怒塚、古城山限定で考えると
山高低こそ違うが痕跡良好、ながら小規模。そこから考えると固執勢力
はいたが微弱で、あくまで局地的側面を担う地域か

帰り塔で小休憩すれば四方山に囲まれ日常を忘れさしてくれる
帰りに気ずいたため曖昧だが本郭山下の尾根も平坦に見え
藪未踏のそこも城域なら小規模でないか(諦めたが連郭はそこに連なってたか)

342 :人間七七四年:2014/12/15(月) 13:57:31.47 ID:wyOYRPDl.net
岡山市、高山城
古城山の隣で城郭大系、町史共に記載なく?個人の本には健武年間
飽浦氏が築城し、後に大持弾正親成が居城した12の段形を備え大規模な
ものである。毛利氏に攻められ落城

登山口を丁寧に農家の方に教えてもらい感謝し多数の人が作業する畑を
恐縮しながら通る
山麓も藪に畑跡か段々ある。山上の城は遠目みれば絶崖要害に見え、暴風
で木の葉が山々を舞い幻想的気分

急な山肌登ると削平された二ノ丸で、その上が、、なるほど主郭で地域の
城から考え先にも下り一郭あり、その規模かな?と推測すれば小連郭4段あり
長曲輪。先に尾根横ぎる土塁有り、城の中間点を突かれるのを恐れたか
南山谷には土橋伴うやや大規模?な段々あり谷からの攻撃に対応した造りか
(城先端点も内側に向かい段々築く、谷を降りたが井戸発見できず)
尾根戻り歩道に石垣あり切岸上は1mぐらいの土塁をもつ曲輪を構築
主郭は奥にあり切岸には明らかな元石垣だろう石僅かに散乱
又、歩道に一瞬石垣虎口か思える石垣あるが、城関係か重々しい石碑あり
石垣は土台使用か
裏の石碑にも石垣使われ、その先5段?の郭が下り列してる(窪みあり)
その先藪酷く見た範囲城に堀は存在せず

登山道の隣の頂上も藪コキで登るが小頂部で郭いうほどではない

周辺城から小城ぐらいの先入観だったが高低を設けながら連郭に連なり
主郭は一部石垣仕様だった感がある(石碑に使われたか)
城郭からの背景考察などできないが怒塚城でなく、ここか居城クラスに相応しく
小中の郭に構成されながら連10郭以上もち(個々の郭落とすに何人死傷者だすか)
区画も整然としており、土豪の域を出た統制された組織が携わった城か
この地域の求心的な城か
暴風でゴーと凄い風だったが夢中にさせてくれたマイナー城
児島は全踏してないが常山城に次ぐ規模か

343 :人間七七四年:2014/12/28(日) 11:56:24.19 ID:TkQKxj1g.net
岡山市、岡之鼻陣
信長の第四子にして秀吉の養子羽柴秀勝は五千人を率いて平山村に陣し、御次丸本陣
立田山陣に四敵する陣城

gis示す竜王山支脈の陣城目指すが山上に建物ありながら登山口わからず

丘ぐらいの場所で横に池がある(何段かの曲輪あったか、だが畑墓地で改変か純粋に
遺構を残してる思えない)。一方、急峻な岸を備えてる

頂上には広い曲輪の中心に古墳か?と言われる土山あり、良く造られ(信長の子に相応しい
と素人感心。古墳でないなら彩土で築いたか?やや規模もあり元々の地形を
削っていったのか)
登るに裏道以外は全て笹覆われで頂部は眺めが良く、鳥の巣を持つ僅か3本の
木が自生し祠がある。下には頂部の守りか帯曲輪が巡る

養子として迎えた、ここにいた?信長の息子を秀吉はどう扱ったか(指揮の長とし、
ここでは絶対的な存在でならねばならず、一方猜疑心の強い信長に息子から
何が伝わるか、その辺りの配慮で秀吉の気兼ねを思う)

陣城は丘で跡をどのくらい残したか知れないが、静かな所で見事な楼台は価値あり。

344 :人間七七四年:2014/12/28(日) 12:17:45.94 ID:TkQKxj1g.net
岡山市、八幡山陣
宇喜多秀家は一万人を率いて八幡山に陣した。銃口を並べるための
三段構えの縄張りとある

水攻め高松城方面の斜面に段々ある(途中広い曲輪、奥に連郭3?と竪堀?
その奥は未踏で何かあるか)
八幡山に向けた中心歩道逆側にも段々
山上神社の裏墓地に現歩道谷が堀切?

主郭は神社で改変か、木茂る所に小郭、裏斜面にも所々土埋まりかけた
小郭らしきみえるが自然地形
社の辺りは段差あり、そこが帯曲輪と違う鉄砲曲輪跡らしい


高松城に向けた方面以外は何もない、というぐらい明瞭な跡は余り見れず
山上の神社も改変か宇喜多が総力を上げた陣営という雰囲気が伝わらない
山斜面の段々は見事だが畑跡か、で高松城に向けた山斜面もどの程度であったか
(後気ずきだが山南麓に高松城に撃ち込んだであろう鉄砲土手があるらしい)
中世辞典は高松水攻め陣城群は他大規模合戦に比べ、城郭としてはるかに劣ると
あり、時間の問題か、としてるが大軍の衝突点としては知名度ほどの城が確かに存在せず
後世の人手が入り易い地と考慮しても危機感がないのか、力の分散でまだ発見されてない
陣城があるのか、そこに別の理由が存在するのか、当時の水攻めの実態を考えずにはいれない

345 :人間七七四年:2014/12/28(日) 12:36:54.06 ID:TkQKxj1g.net
岡山市?、長良山城(追記)

先の2陣城ではもの足りず、前回引き寄せられるように見つけた長良山城の
土山目指す。神社から尾根先北東、建物を下に見る竹藪から岸を伝えば辿り着く

削平尾根に突如姿を現す土山(最近楼台と縁がある、なぜ岡山市には土山が多いのか)
は下から6,7mで、台上は穴を持つ広さ6mだろうか。
簡素見だが支脈?から堀切土塁を突破した侵入者に楼台を直接ぶつける感じが
珍しく、庇うように空堀が半巡り半面谷?
やはり経験からここは城遺構で岸の警戒としての指揮、狙撃、いずれにせよ
城のポイントか
岸にやや後世の人手が入った痕跡もあるが長良山で城の跡を良く残し
藪奥に時空を超えた錯覚を起こす現代人でも近世人でもない中世的な考えをもった
中世人が築いたものに興奮(農家の方も薄ボンヤリ「これはなんじゃろな〜」
と考えてたろうが、戦国城郭を巡る者は県内はおろか全国に皆無に等しい少数で
少しの労力で自分だけの遺構見つけられる(笑))

神社から尾根は削平地多く、大土木の先端?楼台から尾根は後世の跡とも
言い切れず、城の中心がどこにあったか、長良山城の規模は広いか
無数の造成尾根に他遺構眠るか。

346 :人間七七四年:2014/12/28(日) 12:58:40.28 ID:TkQKxj1g.net
倉敷市、末森松山城(追記)
宇喜多直家が鴨山を攻め柏島一帯で激戦が展開され、今度は尼子勢が攻め入り
急を聞いた毛利は援軍を送り、又しても激しい戦いが繰り広げられた
(末森政所で敵首打取り比類なき働き?)
柏島に城が集中しており戦国時代柏島が如何に重要な場所であったか伺えます
(紹介城は真田幸村の将、兵士の悲恋,天守の段と興味を惹く)

城の場所は曖昧か、今回は先端小丘目指す(前回gis指す裏の宅地小山)
北に先端帯曲輪、次に3mの切岸(上郭に堀切跡?)、その上も3m切岸
上は本丸か広い曲輪で中心と端に土高まりあるが古民家跡もあり遺構かわからない
カラスが騒ぐ
皆既日食が起きた源平合戦の陣城にも利用されたらしく石碑ある(記録上では
世界史的に例のない珍しい戦いらしい)

道路を隔てて南西曲輪に最高1.6mぐらいの囲い土塁(断ち切る道路に破壊され
どの程度規模だったか、だが遺構良好(なぜ戦国城が好きかと言われれば
「そこに山があるから」ぐらいカッコよくシンプルに言えればいいが
知識もなく戦国城考が病的に止まらない)

先に見た分断された城小丘の北側も一見遺構に見えるが農地や墓もありどうか
(低山の宿命)
城域は道路に分断された二つの小山ぐらいか、もっと規模あったか?

347 :人間七七四年:2014/12/28(日) 13:25:57.99 ID:TkQKxj1g.net
浅口市、寄島竜王山城
青佐山城を出た細川通董が9年間在城

曇り空に風が強くなり風か獣か知れない声にビビる
途中狭い尾根に信仰か巨石積み

城はまず長曲輪に出会い、そこから急な高い岸を登る(谷に石積み)
一番の高所、主郭は祠があり余り広くない(北東は先の曲輪一つに頼るが
高い岸がガード)
海を望めば暗い空に一点朝焼けオレンジの日差しがカーテンの様に海に漏れ落ち
自然の神秘に魅せられる。ここからも海側に監視の目が届くか

主郭から下り西に2,3郭あり、尾根が派生し?藪側除々に高まり伸びる
先端に二郭あり、その先端曲輪(ここも余り広くないが、こちらが主郭にも思える
土留めか、見栄えか巨石岩垣も見える(鴨方方面は伝統技法か巨石組が多い)

派生する?岩垣曲輪の下道を通ると削平された少し広い空間の曲輪
(内部の竪堀?虎口?から土高まり間道に変化?)
その先細尾根に遮る凹状の石列(城木戸だろうか素人妄想)
その先電波塔で止める(周辺尾根にも遺構がないか巡りたいがキリがない)

楽しめた要素もあるが見た範囲、地域の盟主?が10年近く在城したわりに
意外と曲輪が地形制限で小ぶりで守りを複雑にする帯郭もなく?並の城か
(戦国時代の城は不安定な治世から落城という宿命を常に背負い、敵の手に
堕ちたら意味がなく、この曲輪群からは建物も簡素だったか
利用はされど相次ぐ戦火による技巧的発達は見せてないか)
居住性の曲輪造成は成されており番兵はいたが頻繁に籠もる状況要因は
存在しなかったか(妄想で、物事は複雑な絡み合いであり事実は知れないが)

348 :人間七七四年:2014/12/28(日) 13:58:04.05 ID:TkQKxj1g.net
浅口市、泉山城
町史に秋田左衛門尉同九右衛門、細川通董の家臣で永禄年代この城を固めたと記す

山下は立派な寺。看板に「秀吉、陣中」と見えるが
山入りすぐ上に岩組合わせある。道は途中消えたりして険しい

城尾根に出、下り斜面に一見何もなさそうだが南に後世道か帯曲輪

城は浅い堀切を隔て3m切岸、上に小郭
そこから7m?切岸(good job!)迂回すれば、くの字型城郭で主郭下に
浅堀を隔て尾根が北に下る(ここも段々郭だった思うが人為的に狭い尾根を更に
狭め攻城兵の足踏み障害に当てるのか巨石虎口??3
この辺りは土塀が存在した可能性低そうだが2つの虎口は両脇に岩を置いただけ
1つは組まれたか岩垣化してる)

高所の本丸は建物があったか、やや広く(ここなら多くの予備兵を下郭の
手薄方面に効率的に投入できるか)、急な岸を備え南端に巨石群と小土塁(石列で
小郭に区画?)

主郭南下に藪で曖昧だが腰郭的役割か小土塁囲いの郭!と下に堀?、犬走り、他遺構眠るか

造成も良く、立ちはだかる二段の切岸に威厳、威圧感があり大城でないが
ダイナミックで個人的好みの城(巡るのは好きだがリアルに主郭で血痕の
付いた首検分をしてたか思うと、兵士として篭城したいか?と自問すれば
別問題、、。
雑兵物語に戦場=猛烈な飢えだ、とあり?世界大戦を経験した方が
「最近の世代はお腹が空く事は知ってても飢えるという事を知らない」と
話たが、中世も宗教、組織など建前はあるが飢えが命の争いの根源に思え
代表される者の一見無縁の行動も<人々の総意の不安>が行動原理に
常に圧をかけたか(司馬遼太郎は飢えに対する緊張感と表現した)
現代人が感じ難いこの感覚は中世にあっては見落とせない感覚か)

倒木も多く他にも遺構眠るかもしれないが藪嵐は未踏
見た範囲では本丸に侵入してくる全ての方面に何かしら防御構築が見え
、非力な村の城でなく戦いに馴れた集団が携わった城か

349 :人間七七四年:2015/01/13(火) 11:30:23.44 ID:SAD21JSz.net
浅口市、茶臼山城
大内義隆の築城により、大内摂津守が居城し後に毛利氏に帰属する

道がやや消えてる所あり険しい。山下直下斜面に巡る帯郭あり狙撃場?
尾根に着くと谷に堀(他道と繋がり後世の切通しか)
尾根斜面登ると削平された細長い曲輪(切岸に段々郭?)
そこから尾根をやや長く登り傾斜ある郭?、上が面積のない?茶臼山山頂で
小さな札ある、藪中に矢竹。
山頂南西やや下ると両面に石列あるが土流れ埋まりかけ小郭?。そこを下る谷に堀なし

山頂から東に小郭群らしきあるが明瞭でなく怪しい、下の谷にも堀なし(実は
この先が城らしく地形を良く調べず山頂にあると思い込み山を降りてから気ずく
寒い中、早朝起きて薄暗い藪中に自分が持ってしまった趣味を後悔しながら
突入してこの決果に落胆)
本城に到達できてないが茶臼山山頂より下の三郭目が比べ広く明らかな造成で
人の居があったか。城跡近くまで到達しながら残念




寄島竜王山は土石流で曲輪が埋まり、加賀山城も山上だが大分往来の姿を崩してる
らしい(やはり山上の城でも変化してないようで変化してるみたいだ。個々の城
には特性があり地道に城跡とされる場所は全て調べ上げ「記録に残す」事が
後世のため、謎が多い岡山戦国史を考える上で今成されるべき事か)

350 :人間七七四年:2015/01/13(火) 11:53:10.95 ID:SAD21JSz.net
笠岡市、青佐山城
細川通董が毛利氏の援助を受け築城したとも伝えられ、七年間在城したのち
竜王山城に移り青佐山城は家臣、原田種雅に守らせた

簡素ながら城看板、展望から海が見える城はいい
土塁言われる切岸に岩垣?あり、上が土塁高まりと小郭、逆に横堀落とされ逆にも竪堀
本城は細長い輪郭式で主郭に朽ちた神社あり、帯郭が巡り二段状。
更に下が3m?の切岸を備え同じように広い?帯曲輪が巡る(井戸か窪みあり)
一方は急岸だが、もう一方は下にも曲輪があり小さいが深い井戸跡
場所により下に更に郭

一部藪で見えないが、造成もよく全周要所で迂回を阻害する竪堀、横堀が落とされ
(堀は5,6はあった、手の入れようから戦闘想定があったか。
資料にするのか堀を丹念に撮影するカメラマン遭遇)
主郭下の切岸が良く、場所によっては見た範囲四段ぐらい郭が連なる

城には整然さが漂い海の監視に抜群なパノラマで統制された組織かと妄想
(今は宅地になった城でも記録では境目の緊張から夜襲に脅え松明を昼のように
明々と焚き怒号が飛びかってたとあり?、ここの兵士も有事に景色を楽しむ余裕はなかったか)
目の肥えた人は知れず地元の戦国城郭が好きな方なら海とのコラボも楽しめ満足できる城
(記憶歪み起こしてないなら、この地域争いが絶えず名家を盟主に迎える事で
治めようとし、ここを最初に徐々に力を養い内陸に城を移していった思うが?
のちに付け足したのか意外と遺構良好)

351 :人間七七四年:2015/01/13(火) 12:22:41.14 ID:SAD21JSz.net
浅口市、上竹の城山城
分限帳には上竹の武姓の武士四名が細川氏の家臣として数えられ武氏と
上竹城山の何らかの関係が推測される

戦前の畑段々から登るが一段一段がキツい。
途中大岩たちが散乱しており、侍がここで何か工作してたか
城は藪(藪コキはできるだけ避けたいが遺構を見つけた時の感動を演出してくれる)
本丸の曲輪は広く外周を半分、微土塁囲い(最高50cm?土流出も考えると当時は
もう少し高かったかも)
尾根繋がり東隅下に両面腰郭、挟まれる形で竪堀が間に落ちてる(城の
弱点補強箇所か、感じたが後世の破壊道辺りらしい?)更に横にも虎口?
本丸中心に石列跡?と横堀(というには小さく屈曲しており違うか)
尾根繋がり北西隅から西端に石垣が3箇所見れたが北西以外は後世の畑の石垣にも見える
(後調べでやはり半分畑化されたらしく、この辺りも本来土塁があったか)

本丸下、南は傾斜を持ち段々に見えるが藪で城遺構か畑跡か知れない(無防備さ
を考えると畑跡としても元城遺構か)。その下両端が堀状に窪み堀跡?

神社には城の事は書かれておらず低山だが痕跡を残しながら藪中に城は埋もれ
幻的な所がいい(明治でも知れない事だらけ、言われるのに戦国時代となると、、
追い詰められた状況で精神肉体伴に衰弱し、皆自分の事しか話さなくなり
その状況での首脳部の息を殺した口論を想像
太平洋戦争の帰還者も多くは加害者、被害者になった経験を一言も語らず亡くなり
中世にあっても手柄といえ武勇は迷惑がられたとあり?、人が戦争の鮮明な場面を
語りたがらない生き物なら、戦国城が無数に存在しながら幻のような捉えられ方される
のも多角的視点から一つの理由として理解できるか)

城は竪堀や土塁見れるが後世の破壊もあり判断難しいが、構造はシンプルで?
本丸は広く他郭の存在は薄く攻められる事も配慮しながら収容的な所かもしれない

352 :人間七七四年:2015/01/13(火) 12:43:29.56 ID:SAD21JSz.net
岡山市、横尾城(追記)

秀吉龍王山のさほど距離のない裏丘。城直下の神社に1m土山あるが城
とは無関係か

城跡には途中石崩れや堀りかと思う所あるが、藪山で観察する余裕なく
多分自然地形だろう。頂上近くには高さ50cm、横3m以上の石垣あり
一瞬驚くが、何か整然としており、案の定上に祠がある

城跡思う頂上はやや広く削平されてるが半分草むらで周囲を下るどの方面
も岸が緩やかで?防御性を感じず、藪中を巡る範囲では遺構なし

ここまで藪コキしてこのままでは帰れないと、繋ぎの尾根にも行くが
堀はなく、その先は平らな?尾根地で、こちらが本城域かと少し可能性感じたが
藪草で見えず諦める

山上は道跡あるが藪のわりに遺構らしきが余り見れず疲労感だけが残った
場所間違いでないだろうが、そもそもここが城か怪しい?
見えない藪に遺構、訪れた所は実は出丸、表面観察の限界で発掘すれば
地下から礎石、溝が出土という可能性もありそうだが、見た範囲では
名主層の居城というより水攻め陣の攻められる事を意図しない駐屯地かと妄想




高山城(追記)
調べると毛利の小早川隆景が態度を翻した宇喜多征伐の拠点城にしたが西から
織田が進出してきて深入りした形になり、逆に包囲を恐れ慌てて退いた
というニュアンスの城か?土石流を起こしたという事で曲輪が崩れたか

比丘山城もろくに調べないため当時とは地形改変を大分起こしてるらしい
山下の城は山上の城以上にわからない

353 :人間七七四年:2015/01/13(火) 13:16:19.59 ID:SAD21JSz.net
岡山市、日近城
在地領主と被官契約を結ぶ村落レベルの侍、日近修理進の居城
とあるが、毛利が鍛冶山城攻撃の際の防御に特化した陣城かとある

竹藪から登れば溝穴2つの間に虎口。主郭は素晴らしい土塁囲いで後部のみ
傾斜はなく平坦で中央祠と微土高まり。
西に3m切岸、下は傾斜郭、浅土塁
土塁囲い外の北急斜に規模のある畝竪群(何とか主郭に侵入しようとする
敵と、そうはさせじ、と築城者の思惑感じる)
主郭裏、尾根伝いに堀切あり、その先の尾根にも土を削った空間があり
初めよくわからなかったが高場から見れば二重堀(山下に伸びる)を
設け虎口と内部空間が武者の待機場だった武者溜り、と複雑ながら
そんな所か(尾根側は鍛冶山と逆だが大衝突を起こす前に国人が生き残りを賭け
織田方の調略に乗りかけてたらしく?毛利は危機的崩壊で、ここは味方の中に
潜む内通者に向けた守りかと素人妄想。又、連想で鳶ノ巣城の展望台に小さく刻まれた「毘」は
不利な状況での毛利方の誰かの必死の暗示的な祈りに思えた、深く刻まれ違うだろうが)
その先尾根は平坦続きだが止める

西に傾斜した広い曲輪あり、そこにも規模のある畝竪群
主郭東は急な岸に頼り浅削り腰郭1のみ

素人の自分でも意識できる明瞭な虎口が5?あり出撃時の便か
本がいう通り大部分が傾斜地に築かれてるが、要所で深い竪堀も落とし
主郭は高くないが全周土塁囲いで外部は二段の帯郭群、畝状竪堀、二重堀
急岸と固めてる
自前情報では期待しなかったが、水攻め関連陣城として築かれたのなら
城土台だけでも見所が多く、当時の喧騒が聞こえてきそうで見てきた範囲では
陣城としてどこよりも遺構を残してる気がする
高松陣城群より造りが良く?、改変される前の?当時の高松陣群もこの城ぐらい
の造りだったか(個人的には陣以上の緊急時に籠もる城としても見えたが
急造の城なら重機で削ったような深い堀など1,2日での構築は無理で
かなりの人員を動員しただろう)

354 :人間七七四年:2015/01/13(火) 13:33:49.97 ID:SAD21JSz.net
岡山市、綱濱ノ熊城
市史に阿比六郎居る、綱濱合戦あり

二日市の寺境内。小丘ぐらいと考えれば周りは全の住宅街で境内は寺と
住家で老犬が吠えて役目を果たしてるだけで城?の名残は確認できず
裏手に個人的な庭があるが、入る訳にいかないので止める
弓場、馬場など地名が残るかと寺の外を軽く一周するが確認できず

意外と岡山城の近くには知れない城があり、単純に考えれば岡山城は
近世化され、戦国時代の城という感じを余り残さないが?隣の川を利用した
南の支城か(豪族阿比氏の屋敷跡で宇喜多直家が岡山城入城に至って
寺院として整備されたようである伴あるが)
当時の地形も規模も知れないが(境内が居館なら城自体はもっと規模あった?)
緊迫の中豪族ながら立派な鎧を着けた武者を妄想

人が生きるためには必ず身の置き所を持たねばならず、館といえど弱肉強食の
戦国時代であり、更に合戦があったからには戦いに備え堀囲い、土塁など
存在した城郭か

355 :人間七七四年:2015/01/22(木) 11:51:36.42 ID:bpuT7lmI.net
玉野市、麦飯山城
三村氏vs宇喜多―毛利連合。三村氏亡き後の毛利vs宇喜多の最前線が
当城辺りで衝突から合戦に至った

常山、麦飯山の間の小山も気になる
途中二段の石垣有りこれが遺構か知れず

城は岩塊あり、頂上は笹覆われで先が思いやられたが木碑あり、少し開け出し
明瞭に確認できないが全部で3,4段曲輪あり、先端微土塁
下る切岸下にこの城の見所、土塁挟む二重堀(これだけのものを見ると城建物も
一瞬立派だったのでは感じる。小石が多い所をよく削れたなと感心、詰込み石?)
ここまでが横田山城(笹で曖昧だが腰郭もなく?矢竹が靴を貫通し武器になるを知る)

そこから傾斜、長い曲輪(谷に小段々)、更に谷や小頂をえて山頂手前浅い尾根両脇削れ

麦飯山城は登りきると土山が見え(素晴らしい)尾根を土塁と石削り?堀切ある
土山に見えた上が主郭で下に帯郭を巡らし周囲が急岸で南西更に下にも郭あり
下に支脈断ち切る堀切(山下から戦国城の威風感じる)
主郭に戻り先にも曲輪が高低で4,5段?あり先頭が帯郭状で高い岸がガード
更に下にも郭が続くが止める

城域は広く感じるが途中の頂上は付属郭も少なく城外か。奥が麦飯山城らしく
主郭を守るように曲輪が配されてる(確かに二城は距離があり別城説もわかる
内に堀を設け一方だけ攻めたなら挟み打ちか)
どの堀切も明瞭で曲輪の造成もよく成されてる(明石源三郎はどの曲輪で死んだのだろう
、思えば水の手を押さえられ城から出ざる得なかったらしい)
最初こそ笹の洗礼受けるが当時の戦いを思わす遺構良好。

356 :人間七七四年:2015/01/22(木) 12:17:02.83 ID:bpuT7lmI.net
玉野市、木実山城
繊細不明、又は佐々木国秀という人物で飽浦その他の同族と共に熊野社長床衆
と対立していた

山頂は遠目からだと急峻な山にも見える。
城とは初耳らしく、奇妙になぜこんな所に来るか?と何度も聞かれたが
マイナー城が好きだし、城の大小や遺構など関係なく実見したいのだ、と
話しても仕方ないので心で呟く。

頂上直下歩道に3本?の堀群らしき穴が藪に見えるが違うか
山頂の傾斜登ると石槌山で、岩と電波塔の削平地に出て小さな主郭跡?(電波塔
に破壊されてるが?塔が不要な時代が来れば殆どの山上の戦国時代の城は訪城不可能だろう)
岩に小穴2つ。
そこから郭の区画が曖昧だが横に歩道3つの石列えて、巨岩上に祠が祭られる長曲輪?となる
(曲輪半分が不思議と巨大岩で占められてる)
引き返し主郭から尾根側に下れど断ち切る堀切もなく下に電波塔が二基あり
曲輪跡かと考えたいが、、

多くが岩と急岸に固められ(切岸も岩群多くあり岩組合わせも見れる
城の規模から考え後世の物か)、腰郭は存在せず?削平された二段ぐらい
の曲輪で後世の跡があるので遺構の程も知れず
石槌山としての方が有名で、居合わせた人に聞くと砦的なものがあったのは
確からしい。
本では跡を良く残すと書いてた記憶あるが(改変前か、記憶違いか、隣の
鬼味城の事か)常山城と麦飯山城が望め占地から戦況を支配し小隊なら
込めれそうで狼煙や音など信号を発する陣地、物見(案外こんな記録なき
所が勝敗を握ったりしたか)、或いは村の避難所(面白がって戦いの観戦いてた
者を想像)ぐらいの所か。
神聖な場とし雨乞いもされたか

357 :人間七七四年:2015/01/22(木) 12:33:27.57 ID:bpuT7lmI.net
倉敷市,笹?間城(追記)
占地から寺社の権力をバックとする者の築城で侵略勢力の戦略的構想
せはなく郡内に点在する在地勢力の標準的縄張りと考えられる

熊野神社には人が多い。山道には途中「室町時代、−−上人」と木碑が
出来ており、上に城を示す碑もあるかと期待したがない
城跡は神社として改変を受けてるみたいで(一度目はこの神社が城と気ずがず
更に山上を無駄に登ってしまった)
遺構らしきは現状手前小さな段と上に広い段の二段で社裏に郭らしき
あるが違うか

遺構は失われてる感じで規模はこの地域の平均的な大きさ?
寺社勢力を背後に抱えた集団と推測されており、遠望が利き僧兵などを
置いた警戒城だろうか(外国俳優が「真実なんかクソだ」と吐き捨てたが
坊主が武装して集団を成すなだ現代では考えれないが、寺院とし大きな権力
の庇護を受けていても、不安定な社会で自力救済の戦国時代であり、一言で
いえば時代か)

寺院と密接な城なら、この城が寺院の保護を担ってた部分もあるのだから
看板もなく忘れ去られるに少し寂しい。

358 :人間七七四年:2015/01/22(木) 12:55:51.41 ID:bpuT7lmI.net
倉敷市、神水山城(追記)
繊細不明、郡内を越える大勢力の技法か在地小土豪の技法か種々の要素が
混じり誰々とは言いがたいが、勢力を形成した集団の技法である事が伺える

帰り山中の開けた池で自然を満喫するも近くに意味深な御札を見つけてしまい
ビビる
鉄塔道から登ると山深い所に築いたなぁ〜と感じる。
塔の上が城らしく、主郭は小笹に覆われ曖昧だが一番長広く入口に土塁あり
横も微土塁のようだ、中間にも1m土塁あり。奥部は祠あり南に帯郭(後世道?)
先に最高1.6m?の谷からの攻撃を警戒したこの城の見所土塁が尾根上岸を
伸びる。北東谷に片方が岩の小?堀切

下の二段の広場を遺構ととるか造成も緩く複雑で自然地形にも見えるが
二ノ段は尾根両端に明らかな人工的な土塁状になり内部に溝穴など見える
、先端土塁は突き出し。
更に下の段も先端に井戸状の穴あり、横に禿山復旧記念の碑

見れた範囲。主郭から二ノ段まで土塁らしきあるが、主郭以外の曲輪
は自然地形にも見え、主郭も削平はされど複雑構造には見えず、戦国時代より
古い時代とも頷ける
しかし主郭は小笹で曖昧だが僅かに半土塁囲いの様にも見え、絶え間ない
争いの戦国時代にも引き続き使用されたか(いったいどんな人物が居たのだろう
、今は草が生え自然山に戻ってるが、土塁で侵入を拒むほど重要な城なら
城内で白兵戦にまで至ったのだろうか)

359 :人間七七四年:2015/01/22(木) 13:31:00.32 ID:bpuT7lmI.net
倉敷市、湊山城(追記、大分記憶違いを起こしていた)
何十年に一度の珍しい大法会を盛大に執行した時、湊山城主山田源次郎が
米二石、白銀二枚。常山城主が米十石、同室姫が白銀五枚を寄進
吉川、小早川が押し寄せ八幡本社、般若院を全焼させ城を攻撃し城主一族は
城を枕に討死した

遭難しそうな山でないので支脈から強行突入
城下尾根に一方のみ竪堀。岸登ると本城で細長いやや広い曲輪で(現代風に
いうと大量殺人現場で曲輪に血の海がそこらじゅうに出来たか、発掘では
血痕成分など調べれる?。場所が違えど篭城を経験した者の夜0時を
過ぎたら死んだ者の話声がし、それが怖かったとあり?そんな現象が事実か
どうかは別にして、そんな事を山中で一人一瞬でも考えたら終わりだ)
後世の遺物あり。中心に目立つ信仰らしき巨石あり(戦国の土着信仰?存在感は
あるが城に着たら心の乱れを整えるため1,2回手を合わすぐらいで座り込み
何時間も念仏を唱えるのとは違うか)
その先矢盾か岩を立たせた所。東西切岸に一瞬石垣にみえた岩群
その先が主郭に含まれる二段ぐらいの区画明瞭でない郭?(先端岩塊)
下にも岩群あり祠が祭られた所が帯郭に見えるが?尾根谷にも一郭?
(藪で見えない反対側には竪堀3?)
そこから微土塁?が海側尾根先に続くが途中広くなったりし違うか

主郭は削平されてるが他の付属郭が明瞭でなく数も少ない
城下の尾根断切る堀切もなく北にのみ竪堀がある?意味もわからない
(但し城支脈は行ってない)
主峰しか歩いておらず海側尾根に続く微土塁が気になるが(藪で途中断念、土高まりも
後世のものか)場所間違いでないなら、城は造りとし御神体らいき巨石と
岩群が印象に残るだけで簡素言わざるえない(専門家が見れば判断変わる
かもしれないが、伝え通りなら、吉川・小早川を引き受けるには勝算のない
絶望的な死を強いられる城で、さほどの抵抗もできず落城したか
後に毛利の改修も受けてないようで?三村氏滅亡時の微弱な力が伺えると
意味では貴重な場所か(湊山衆は農耕的な武士というような集団ではなかったか。
海が近く水軍との関係も妄想)
常山城と運命を共にした城とし期待したからかやや残念な縄張り

360 :人間七七四年:2015/02/05(木) 11:53:03.11 ID:I1wxJWc5.net
高梁市、有漢常山城
有漢郷土史に周辺の発掘から全国的にも珍しい品が出土しており往時に於ける
盛大さと文化的に進んだ地域を物語る、城跡は50年前ぐらいまで、かなり盛大な
祭りもやっていた。城が何時頃出来たか御崎神社跡の出土品から見ればもっと
古い歴史をもっているのではないかと思われる

模擬天守が有りいつもの城巡りとは違う感覚が味わえる
天守の裏にある城は有名な城とイメージだが整備された歩道もやや草茂り場内も
浅藪(戦国時代の城は相変わらず人気がない)
一日5城目になったため感動が薄れてる。看板縄張り図と実際の城は少し違うか
模擬天守方面を三重の堀で力を入れてる
切岸から主郭によじ登るが、当時のまま小枝も少なく一歩一歩が慎重に成らざる得ずキツい
(勢いよく登るなど無理で、これは梯子か下からの援護射撃がないと無理だろう)
主郭は土塁あり虎口や二郭、三郭とある
三重堀横の10m?岸には畝状竪堀あり、下谷には大きな横堀

岡山北の城は安定期が遅れたためか?小城ながら重厚な城が多い気がする(遠路は
メジャー城しか訪れないためか)
この辺りが先進的な地域というなら、それだけ「守る財産」を持つため小城ながら
複雑な縄張りを呈してるか、遺構良好

361 :人間七七四年:2015/02/05(木) 12:18:46.47 ID:I1wxJWc5.net
高梁市、台ヶ鼻城
有漢歴史発祥の地。
戦功あり、秋庭重信ただちに台ヶ鼻に城を築く。広大な要所をと物色し
高梁松山に目をつけ台ヶ鼻には在番を置いたが最後の城主毛利軍のために
攻め滅ぼされ比丘尼橋にて戦死する、比丘尼橋の悲史と言う。落城後
一族四散土着した。平野に面して高く美しい台地にあるので詩人これを
賦して、、
伝承では城の抜け穴と言われた人工の穴が城方向にかなり長く続いていた


「ようこそ有漢へ」の看板見れるが、その後も山道がしばらく続く
城は遠目からかつてこの地を制していた情景を思う
木碑があり、丘ながら急峻な岸に守られ、山上は段々畑の跡で城の名残は
残してないか。岸は土砂崩れを起こしてる所あるが竪堀などあるか?
虎口か畑岸に凹みあるが違うか。
後部の頂上は小郭ながら削平されており、石列?もある、祠や下に犬走り
もあり、頂上手前は藪だが掘切ってるようにも見えた(登る時、上から
一瞬迫りくる人影が見え仰け反ったが、光の関係での視覚の勘違いか、動いた
ように見えたが)
頂部横下、小規模墓地に物凄く簡素な五輪等(これが中世の文明エネルギーか?
墓はここでの戦死者か)

小頂上が跡を残すと記載され、崩れた穴あるが小さく、抜け穴伝説とは
無関係か。後に支城ではなく台所とし使われたともある
居館ととるか城ととるか微妙な比高だが、どちらの役割も果たせそうな城
往来の人々を思う

362 :人間七七四年:2015/02/05(木) 12:43:14.58 ID:I1wxJWc5.net
吉備中央町、矢倉城
矢倉は説明するまでもなく城にあった矢倉を意味する
出張りとは城の南方を守る為の砦であろう。
上原、杉原、有地、梨羽の備後勢は当城に押寄る、大敵を見て少しも屈せず
精兵の手だてを揃えて射さず、寄手これを事ともせず堀際まで攻寄りて
(どこまで事実を伝えてるか知れないが、この時代の気性の激しさを感じる)
、塀に熊手を打ちかけ、打ちかけ既に乗入らんとす、城兵ここを破られては
叶わじと、槍、長刀を持って突落とす、寄手少し漂ふ所を城兵散々射かくれば
、今は攻あぐみしと虎口を甘らげ陣を取係る処に、城中反忠者ありしかば
田中(城主)は城を維持する能はず、遂に城を棄て松山に逃げ込み、、

全く別山を登ってしまった
道路に看板あり。城跡は峠から山道を登りきると断ち切る堀切
上が城で枯れ草が邪魔だが全周を土塁で囲う。外は急岸で、その下も
帯曲輪のように見えるが。北東下に井戸看板と石垣?の窪み地
土塁上に大きな木が生え時代の移り変わりを感じる。城中心に文字消え看板

少し傾斜して見える所あり、シンプルな造りだが遺構良好で井戸があり
、このクラスの城にしては珍しい?(付近に関連地名あるらしく、ここも
城の一部に過ぎないか)
上竹城山、日近城と類似しており、広く知れた技法か。高い山で?攻める方も大変だ。

363 :人間七七四年:2015/02/05(木) 13:02:44.12 ID:I1wxJWc5.net
吉備中央町、大和山城
城主、土肥頼秀、天正の兵乱に松山天神丸にて力戦す。約三百年間、当地方紙
に土肥氏の名が出ないことや、大和山付近に大豪族にふさわしい跡、地名、記録が
ないのはどうしてか、不思議である

山道は間隔置きに論法?札があり、町起こしか面白い。
頂上は小さく無関係な?碑があり周囲の藪も自然傾斜に見える
やや下る手前に施設群が現状水平で、こちらに城があったか思えるが、こちらも
広大地ではない。(前に他県の城調査が実施され戦国以前は簡素な城が少数点在し
、乱世が近ずくと小規模ながら膨大に城が増しだし、その後戦国後期に大名勢力が
現れると村の城や豪族城は淘汰され、地域の自立性を失い、城の数自体は減少をたどり
変わりに少数ながら大規模な城が増してる事がわかったと実地調査の統計からわかり?
面白かった)

頂上に楼があったか?施設破壊あるが周囲の岸を軽く覗き込んでも遺構らしき見れず
余り城という感じのしない所で、場所間違いでない思うが城として見るには怪しいか

364 :人間七七四年:2015/02/05(木) 13:25:18.71 ID:I1wxJWc5.net
吉備中央町、古和田城
野山庄勝が築城し毛利方の属将とし活躍し戦功を上げた

看板あるらしいが発見できず。城は殆ど藪で三段の細長い輪郭式?で
空堀土塁を巡らす(当時は土塁も高く掘りも深かったか)
主郭は石垣あるが整然さから上にある祠の付属か(と素人思えば城の石垣
らしい?、よく見ておけばと後悔。人気のない山なのに突如金属音が
聞こえだし、霊か!とビビるが、正体は犬で突然の事で対抗する余裕もなく
ポケットの爆竹銃を触るのがやっとで焦る。小型の猟犬らしく、帰り銃を
持つ猟師と二匹の犬に道を塞がれ、横をゆっくり通るが一匹が外れに逃げれば
いいのに道路上を沿うように逃げ出し、道を空けた後方の犬がなぜか追いかけてき
噛まれる思えば、追い越し何故か前方に踊り出て、同じように怯え振り返りながら
逃げてく、犬の考える事はわからない。しかし猪を狩る犬なので
気性が強そうで非常に怖かった)
主郭から二段目郭は2m?で土塁が見える。更に三段目郭は上から7m?で
、そこにも空堀土塁が見える。

本で読むのと実際に訪れるのでは印象が違う、大名権力が介入した結果の
ようにも見え?、中世の権力の跡という感じで遺構良好の戦国時代の空気感を漂わす
詰めの城にしては良く造られ何度か緊張状態に置かれたのだろう
(又、当時の当人たちは考えもしなかったろうが、城を彫刻物としての
芸術性を感じてしまうのは自分だけだろうか)

365 :人間七七四年:2015/02/21(土) 11:56:56.49 ID:0+TxOKdW.net
矢掛町、山本城
太平記に書載されていると地元は伝えるが、所見なし(城名錯綜)

丘ぐらいの山で墓地から藪を登ると支脈に出、三基の土高まり(墳墓?)、井戸状穴
、土橋、郭。頂上目指し少し自然地形登ると、切岸見える城の雰囲気もつピークに出
、浅くなった堀切が断ち切る。
上が本丸で広くとられ、横岸を急に削り落としてる。北西、尾根続きから弾避け?1m土塁。
下の堀が見所で、城から4m?で幅狭く深堀(形名称忘れた、堀底から犬走りで腰郭につながる)
その先尾根にも小谷に浅堀、先に後世の遺物伴う削平尾根に出て止める。

戻り本丸から北下にも腰郭、その横、支脈つながり?腰郭にも土塁あり

天下泰平の豪華な近世城郭と対象的に、実際の戦闘に使用された雰囲気を備え
広くとられた本丸に腰郭、堀切で防ぎ、尾根下支脈の離れにも郭防備をもち?
支城クラスで地域性に収まり包も、戦国期に発達した一拠点として築かれたのは
間違いなさそうで、必要に迫われ築いた感じがヒシヒシと伝わり、半端な仕事を
しておらず、本では城は抑止力として築かれ、全ての城で戦いがあった訳ではない
、あるが境目として小競り合いからの収めどころを失った争奪戦を妄想
(応仁の乱前夜の新見地域と京都?東寺の頻繁な手紙のやり取りを追った「戦乱の中の情報伝達」
という本に、当時の人々の認識と伴に、命を落としかねない、と肉声の村の殺伐とした
緊迫の情景が描かれてる)
隣の要害山城との関係も気になる(町史はこちらが山本城とある)
記憶の限りでは、この辺りで余り見れない?狭く深い堀が珍しいか(よく崩れ埋もれず
残ったと思う。当時は一度落ちると脱出が困難な削り込みだったか?)

366 :人間七七四年:2015/02/21(土) 12:15:03.73 ID:0+TxOKdW.net
矢掛町、小林山城?(gis神子山城)
城主、小林左馬丞ある

神子山城向かいの丘山(占地的には地域の状況把握には良さそうだが)
後部から登るが道は藪に消え、藪コキすれど遺構らしき見えず。

前方、社のある崖から登れば藪に阻まれ抜けると井戸状穴。
尾根上を進めど城雰囲気伝わらず、排水溝など見え、削平広場にでる(後知りで
ここが城跡か、スルーしてしまったが簡素見だと斜面も造成された跡見えず自然地形?)
奥が畑跡で手前にコンクリート穴、小屋などあるが遺構ありかな?思える端尾根
は猛烈な藪で、この辺りは細長く多くが傾斜。
その先尾根に進みたかったが、藪が酷く種子が大量に付着し諦める

藪コキのわりに割りに合わない城。前後両面作戦で攻めたが遺構らしき見えず
尾根で自分の位置を見失い、もしかすると訪れてない藪奥に城あるか
しかし場所間違いでない思うので(過去に誰か訪城したと聞く)多分、
戦国初期かそれ以前の屋敷跡ぐらいの所だろう。
ここは伝承地で本来の城は別山の可能性もあるか(後知りで能仁寺背後の山、
木野山神社に小林山城とある)

367 :人間七七四年:2015/02/21(土) 12:38:36.41 ID:0+TxOKdW.net
矢掛町、神子山城(gis小林城)
毛利氏の臣、武野宗円在城。子息は大力の勇士、矢掛の千法師に打ち果たされ
滅亡

小丘で登山口から畑段々らしきが築かれてる(城遺構?)。
頂上には神社があり、立派な神子山城と碑。
本丸奥には横矢的なものか、突き出し部があり西下に1m?土塁、横本丸下に
岩垣や山下に続く竪堀。
西にも竪堀あり上曲輪(本丸ほど広さある?)に微土塁らしきあり。
本丸から川方面、北急岸の浅腰郭?にも竪堀

社、畑で遺構破壊もあるが?城遺構も残し、冠山城を思い出した(個人的に)
本丸下周囲を廻れば所々石垣あり、下曲輪群が畑跡という感じも濃厚にあるが
(情けないが素人には畑と曲輪の違いもよくわからない、古い写真では
禿げ山が畑に見える)、畑でなければ段々が小高く重なり、小山一体に
築かれ重厚な感じを受け、力ある勢力かと妄想。
畑跡なら本来の城は、山本城から本丸を守るように(当時の語では主郭いう
のだろうが、ここは2ちゃんねるなので、、)
腰郭を備える程度か(造り自体は良さそうなので畑破壊なら、山のどこまで
城塞化されてたか規模が知れず惜しい)
無難に茶臼山城、猿掛城の支城群か

368 :人間七七四年:2015/02/21(土) 12:56:22.89 ID:0+TxOKdW.net
矢掛、要害山城=寺から登れど道は消え、裏のコンクリート道から尾根
を藪コキ道で一時間近く辿れど、尾根は延々と続き、別山道らしく?
古代山城の石垣みたいな積石場で道は消え、根負けし諦める。
前方の寺から遭難注意で強引藪コキすれば行けるか。

小林山城=目印の寺がわからず、だいたいで登るのは懲りたので諦める

蓮池城=尾仲池、横の小山だが、ここかな?思える山道登れど、城雰囲気
はなく山上は藪で場所も正確把握でないため諦める。

中山城=運動公園、蓮池の近場の丘だが2,3あり正確把握できず諦める。

原ノ砦=御土井という地名看板、近くに林丘があるが別遺構か
     原という看板辺りを巡るが写真のみで正確把握できず諦める。
     (やはり地図がないと困難)

要害山城は是非行きたかったが、どなたか、これらの城を訪城された方いられる
でしょうか?。

369 :人間七七四年:2015/03/02(月) 11:14:07.42 ID:taImTUso.net
日本最古?の石の城
鬼ノ城

370 :人間七七四年:2015/03/10(火) 11:43:17.00 ID:z3O8hwg6.net
総社市、蓑?越城(追記)
連郭式山城、全長120m。城主、渡辺某。城兵は毛利が迫ると戦わず鬼ノ身城
に逃亡した

前回、先端尾根を見たので今回は山上を目指す。
登ると北へ三段の削平地?がある、裏は堀切土橋。さらに上の山頂岸に竪堀
山上は物見台が建てれるほどの造成空間が後世遺物とあるが、見た範囲そこ以外
周囲は傾斜して曲輪に見えない(というか猛烈藪で視界が利かず)
つながり尾根にも削平地ありそうに見えたが、藪で足が止まり迷った挙句リタイヤ
(この先が見所だったらいやだが、、)

頂上方面にも数郭みれるが、土塁など見た範囲なく(最奥、猛烈藪にあるか)
全体に堀切状がやたら多く(浅いし、石組古墳?の横にあり城遺構か知れないが)
本城は先端尾根が見た範囲相応しい気がする(城によくある祠あり)
この城に限らず地形をしっかり頭に入れておらず、明瞭でない城は登城できたか
やや不安だが、城は尾根先がそれなりに造成を見せ、悪くないが中途半端で
あまり高度な感じを素人は感じず、鬼ノ身城の小規模ながら近世を象徴する
曲線を描いた石垣に比べたら、対比のせいか古めかしい時代のものに映ってしまう
(実見してきた城は様々であり、戦国時代は争いの時代だけでなく、矛盾するようだが
一部織田圏で文化が進んだように、時代の先進期でもあったかと感じ、
城は時代の変遷期を映してるみたいだ)

371 :人間七七四年:2015/03/10(火) 12:10:20.02 ID:z3O8hwg6.net
総社市、馬首城
城主、荒木兵庫頭。上田家に与力した大精兵の勇士、水攻め高松城に篭城

獣道なのか道跡も消えたりし、藪コキで行けども、行けども到達できず
心が折れる。やっとたどり着いた頂上手前に、後世道にも見える虎口堀切?
(竪堀に近いか)、横に竪堀。切岸上が先端小郭?上に石垣?
やや上に後世遺物ある細尾根が切岸端に伸び、土塁の役目か。同じ尾根上
横下のやや傾斜地に四?郭(箱車付けた二人乗りバイクの様な位置関係
、削平地は少ない、又は多くは狭い)端に犬走り?。その先が中郭?、小郭で
城外に下れば、尾根谷に堀切でなく一方に竪堀
その先、尾根を進めど広場などあるが、遺構らしき見えず

竪堀らしきが所々見え、地元で聞くと出土遺物もあったらしいが、城という
感じが余り伝わらず、自然地形にも映り早々に下山(大名権力が介入する以前の
戦国初中期の地域間の村落エネルギーなのかな?ととれば感慨深いが
(村人たちも鎧をつけ「陣取り」など言葉を使い?軍勢さながら、現代
では測れない困難に対し対抗してたらしい。人の言と実際の行動は必ずしも
一致しないというが、これほど人間性を突き詰められる社会もないだろう
ふと、「真実はクソだ」とは、後ろ向きな廃れた気持ちでなく、現実を直視した
怒りの声かもしれないと感じた)
見た場所が城なら?地域性を出たものでなく、やや独創的な形状で村のオリジナル性
かと解釈妄想。城主は大精兵の勇士とあるが(伝承など事実無根であると
研究者はいってたが、仮に信じるなら週間城?に秀吉時代の立派な姫路天守
想像図が描かれており、戦乱の時代にあれだけの物を築く国力を擁されてたら
、土着的な雰囲気を持つ馬首城などの国人は動揺するのは想像に難くないだろう
聞きに及んでた織田兵に初めて遭遇した者の心境とは?)
城からは安定が訪れた時点で惜しげもなく破脚された、ある時期から
争いが少なくなった地域か?

372 :人間七七四年:2015/03/10(火) 12:43:01.37 ID:z3O8hwg6.net
総社市、亀山城
三郭で構成された連郭式で、両脇に幾つもの腰郭を付設し、石川氏の
名代を努めるほどの有力国人、佐野忠職

丘にあり前回、堀切土塁が道路に突き出してたような記憶をしてたが
違った。中間点から進入するが丘上曲輪は猛烈竹藪、端に通路があり進むと
下に帯郭と横堀が沿う様に長く伸び、道が消える切岸斜面に、枯葉でわかりずらいが
4連?の畝状竪堀!(下帯郭からの攻城を諦め、直接岸に迂回した敵に障害として
造られたようだ、怪しんでた下帯郭も畝竪を見つけてから後世造りでないと
連携がわかった。藪コキで切岸つたえば他にも畝竪あるか。下付属横堀は
竪堀に変わる)
腰郭から土橋渡り引き返し、城尾根凹んだ地形曲輪?(後世削り?何の空間か
山上の連郭つながりにも関わらず低場となり、誘導して殲滅する曲輪かと
思ったが、現状そんな造りに見えない空間?。城郭大系の馬出郭とはこれ?)
先が3m?土塁で、そこから堀底が6,7?mの大?堀切(一方は丘下近く
まで断ち切る土塁堀切は伸び、先が二手に派生(間に土塁を含み派生させる
意味が素人解せない)。もう一方は谷で埋められたか、堀はなく土塁のみが
下に伸びる(記憶たどり曖昧だが、途中から堀を消し隣の横堀帯郭への誘導か
、横堀は浅くなってるが、こちらもなかなかいい)相当な数の軍勢を食い止める
役割か、毛利が織田方水攻め陣には消極的で後方に主戦城を想定して築いたかと
知識なき妄想。下る隣斜面も段々)
尾根上は大堀切越えた先にも削平地、その先に浅堀
そこから緩やか斜面下ると構造として明瞭でないが?土塁堀切見え?道路に出る

採掘された城前面から登っても1.6mの土塁あり、先に水たまりあるが
猛烈な竹藪と採土でわからず諦める(破壊が惜しい)

城は半分が竹藪で覆われてるが、切岸も高く、畑改変か、思うぐらい
整然としており、ややこの辺りでは大規模(とは言い過ぎか)な計画性を
持って築かれた感じを受け、城上のポイントから望めば城土台がよくわかり
、城が機能してた頃を思い、想像力を掻き立てる。
毛利が織田に対し最終整備を施したか、城郭大系に載るだけあって遺構良好。

373 :人間七七四年:2015/03/10(火) 13:15:14.49 ID:z3O8hwg6.net
総社市、岡谷城
石川久式が備中松山城から幸山城に逃げ戻り、宿老城主の友見石見守高盛
を頼り(留守居として幸山城に残ってたが、毛利勢が進行すると早々に降伏した)
石見守は落ち延びた久式を密かに匿ったが、まもなく毛利勢が押し寄せて
きたため久式は館で自害して果てた(石見守は匿った罪に問われる事なかった)
大きな改変受けてる見れるが、土塁の跡が有力国人の面影を伝える
霊を弔う小祠を伴う腹切り岩という巨石あり

案内看板を見ても「腹切り岩」という現代的ポップさを持たない地名は
載ってない。山手公民館の先で山から延びてくる尾根先小丘。
尋ねた方が案内してくれ非常に助かり感謝だったが、年配の方で足も悪そうで
城跡まで付いてきてくれるのに対し、登るにすぐだが怪我でもされては、と
内心ヒヤヒヤ焦った。
門を潜と古民家で広場。家に隠れるように腹切り岩あり、裏に見所!の1.6m
土塁が岸をガード。城から少し離れた尾根沿い道路に進入口塀の役割か
堂々たる2m、長さ10m?の長く延びた土塁らしきが小石垣含みあるが
改変受けてるなら、どちらも元々囲いつながりの伝えの土塁か(マイナー城
だが幸山城に負けない?土塁を見れば貧弱な勢力に見えない)
意識できなかった後々考えだが、登り口は堀切か

伝承なので少し違う伝えもあるが、旧主と新主に挟まれた城主は悩んだか
旧主を売っても匿っても疑いを受ける。小早川隆景も倫理観に悩む相手の
立場を理解できる人格を備えてたから咎めなしか、厳罰は人心を失うだろうし。
岸に段々もあり?後世人手のほどが不明で館といえる規模でもあるが、
尾根先と後部に立派な土塁残骸を残し、充分防備にも気を使ってる様に見え
毛利が取り囲んだ情景を思わずにいれない
「過去に目を背けるものは現代において盲目になる」と言葉があるように?
歴史というのが現代につながってるのを意識させ、小規模ながら土臭い
まさに戦国治世の気構えを現代に表す土塁群。

374 :人間七七四年:2015/03/16(月) 11:13:34.75 ID:zP1oJAGQ.net
岡山の城で印象に残った城を教えて下さい。

375 :人間七七四年:2015/03/30(月) 11:51:04.31 ID:X4cnj9PR.net
最近、総社地域にスポットを当てた城本が出版され専門化というのは膨大な知識
を有してるのだなと、右から入り左からすぐ出ていく愚脳は感心
総社は小規模な城が多いらしいが?進化論の「強いものが生き残るのではない、
環境に適応したものが生き残る」?から考えると大城でなく小城の方が有効な場合もあるか。
亀山城が縄張り図と出ておりうれしい発見

岡谷城も土塁規模から毛利氏の関わりが見れるか?

もはや記憶が曖昧になりつつある士良計城の石垣群が気になり(微々だが総社地域では
珍しい?)、鬼ノ身城が改修された時に高橋川の交通監視とし同時に部分改修されたかと妄想

加茂福山城の遺構はよかったが、地域でやや異例の規模を誇る事が調査でわかったらしい

最近、古城写真展が開催され、猿掛落武者が財宝埋めた伝説ある井戸を二基備えた
早朝山城や、玉島陶山城の隣、船岩山が城伝承が残るらしく境目7城もいいが
個人的趣向を惹く城がわかり、一時間かけ観終るまで満足ものだった。

私たちは日々進化する生活の中で、もしかすると退化してるのかもしれない、
とあるが昔の人は災難に対し現代人より人智を超える脳の稼働率をみせたか

先祖も国防に関し、実戦以外の装飾など必要ない?、と苦言を呈してるが
華のない戦国城が好きなのは遺伝か

色々な本で戦国城が最近盛り上がってると書かれてて、地元を巡ってても実感は
全くなく、メディアの一方通行に過ぎないかと考えてたが、確かに都市部では
高山にも関わらず多数の人と出会った記憶があり、都市と地方の格差ながら
気運はあるのか?(登山とし有名なだけか)

376 :人間七七四年:2015/05/04(月) 11:39:12.56 ID:zmk/UPgPR
彼はコロンブスについて嘘をつくことを拒んでる
大量殺人の話も省いてない、嘘もつかず事実も省いてないが
真実をさっと述べ、彼にとっていっそう重要な事柄へと話を移してるのだ
公然たる嘘や目立たない省略は見つかれば読者は著者に反感を抱くかもしれない
しかし事実を述べ、その後でその事実を沢山の他の情報の山に埋め込んでしまう
、{大量殺人は行われたが、しかしそれは重要な事ではない、我々が最終判断を下す際
に殆ど考慮しなくてもよい事だ}というわけだ
コロンブスの英雄的性格を強調し、彼らが行ったジェノサイドを強調しない事は
イデオロギー上の選択である

コロンブスを攻めたり非難しなければならない、という事ではない
残虐行為を嘆かわしいが進歩のために支払わなければならない代償だ、と
安易に受け入れてしまう事は、今日我々が当面してる問題なのだ




「征服と殺人を静かに受け入れる」
破壊された戦国城に、そんな事実はなかったように現代建築が建つのは珍しくないが
岡山戦国史に載らなかった声を知る由もない

377 :人間七七四年:2015/05/04(月) 11:39:58.18 ID:zmk/UPgPR
彼はコロンブスについて嘘をつくことを拒んでる
大量殺人の話も省いてない、嘘もつかず事実も省いてないが
真実をさっと述べ、彼にとっていっそう重要な事柄へと話を移してるのだ
公然たる嘘や目立たない省略は見つかれば読者は著者に反感を抱くかもしれない
しかし事実を述べ、その後でその事実を沢山の他の情報の山に埋め込んでしまう
、{大量殺人は行われたが、しかしそれは重要な事ではない、我々が最終判断を下す際
に殆ど考慮しなくてもよい事だ}というわけだ
コロンブスの英雄的性格を強調し、彼らが行ったジェノサイドを強調しない事は
イデオロギー上の選択である

コロンブスを攻めたり非難しなければならない、という事ではない
残虐行為を嘆かわしいが進歩のために支払わなければならない代償だ、と
安易に受け入れてしまう事は、今日我々が当面してる問題なのだ




「征服と殺人を静かに受け入れる」
破壊された戦国城に、そんな事実はなかったように現代建築が建つのは珍しくないが
岡山戦国史に載らなかった声を知る由もない

378 :人間七七四年:2015/06/05(金) 11:57:39.65 ID:xp94vV77.net
宇喜多氏の本を読み宇喜多氏の出自には謎が多いらしいが、今以上に
知識経験のない時代に1,2日で訪れた砥石城周辺の城群の多くが丘規模で破壊が
著しい城が多く、場所間違いや「西大寺の城跡」には初耳城も2,3あり
曖昧だが、なぜ砥石本城(支城が明瞭な跡)と高取山城は敵対しながら?密接な距離にあるのだろう
素人主観では砥石本城規模は周辺城にもなくはないが?高取山城が圧倒的で?
最終的な地域の軸かと妄想。両城に距離、条件と近い?長沼城が訪城できなかったのが残念

人間はアリと同じように組織の力で他を圧倒する生き物である、それは頭脳を
組織化する生き物だからと思う。人間は集まりつつも距離を保たなければならない、その法則を無視
すると人間同士の戦いが始まってしまう、ある

黒人奴隷の歴史、ルーツというドラマからアメリカ史に興味が出たが飢饉が襲い
ある者は排泄物を、ある者は眠る妻を刺し頭を残し、とうとう全て食べてしまった
と記録にある、現代人が知らない度々襲い来るこれらの環境が人々の意識や思想に
どのような陰を落とし影響を育んだか

本に女真族の城があり戦国城に似ているが外国だけに構造など考えに違いがあるらしい

ほとんどの城は有事以外は使用されない、思われてるが?発掘では楚石や儀礼的な物が
検出される事もあるらしく、泉山城では空間的に館など山下の機能を一部、山上に移したか妄想

城の首砦の方が湊山城より小さいながら遺構がわかり易いかったが?湊山城は
訪問できたのだろうか

立石城の列石は何だろう?

巨大井戸といえば金川城と本太城か

古和田城の離れに大きな?横堀らしきありフリーズしたが城外警戒遺構だろうか

岡山市で堀囲いの居館が発掘されたらしいが商人の居住と推測され?商売も堀を構えて
しなければ、とは物騒だ

青佐山城は地域性に収まりつつ堀や削平が良く、軍事的要素の強い組織的な統一規格を
備えた?毛利氏関連の最終系の城か

なぜ戦国時代は人気なのに戦国城は人気がないか→まず中世城郭の存在自体知られてない
→認知されても地味さから「へ〜そんなのあるんだ」と一言で、その後、すっかり忘れられる
空想家でないと難しいか

楠城=陣城に利用されたらしく?造りかけて止めたような、確かな小規模畝竪土塁?は
戦況の変化で放棄されたものか

379 :人間七七四年:2015/06/05(金) 12:08:22.14 ID:xp94vV77.net
岡山市、寺山城(福岡城)
福岡合戦は有名だが城郭体系にゴルフ場の土山ではなく河川を挟んだ小山が
本来の城の比定地ではなかったか、ともあるらしい

「出雲の山城」を読み、だいぶ遠慮してた城にまた行きたくなった
小丘にも関わらず虫や蜘蛛の巣が酷く、注意を削がれ城巡りは、やはり
寒いが冬がいい。
山下墓地に横堀らしきあり、丘上は二段ぐらいの広場で二段目墓地、上広場は
先端に微土塁らしき見える。岸に畝竪あるかな?と城の痕跡を残してるようにも見えるが
、ここも丘自体が道路に横断されたり墓地破壊で知れない

ここが城跡と仮定しても福岡城の全体の僅かな面影しか残してないか。

380 :人間七七四年:2015/06/05(金) 12:33:12.38 ID:xp94vV77.net
岡山市、王子山城
寛和年中(平安時代?)河本左近進武政居城したるよし岩熊八幡宮の社記に見ゆ

(書いてきた事を読み返して、このサイトも一過性で終わらずここまで書けてきたのは
、我ながら本当に戦国時代の城郭が好きなんだな〜と感じた。
四流素人の確信的な(笑?)情的主観怠惰書きから{歴史に元々道はなく
語られる事により道ができてしまう}に加担する事もあるが?、一般の人は
戦国時代の城の存在自体知らないのが普通なので(実体験)、これきっかけとは
恐れ多いが、県内の戦国城関連書籍も少なく、優秀公正な方々が戦国城について
考える「芽」になれたら、これ程幸いな事はない)

城は尾根の先端で横に川。
案内看板で見つけたが地図では微かに見える地形で、現地に行っても山の尾根先傾斜以外
見れずはっきりしない。更地道の僅かな空間辺りか?冬になれば山肌にチャレンジ

場所違いか、消滅したか(本では戦国初期ほど戦闘に従事する者が少なく土造成が甘く
、後期ほど戦闘動員数の増大化という社会の流れにより?技巧的になるとあったが?
これではわからない。近代戦争では後方から補充され、その日に死を迎える
新兵の名前を覚える無駄を思った、とあるが時代が下るにつれ大規模化か)
城所が掴めない、社記がある八幡宮も訪問できず。
ここが城砦館の跡なら?福岡合戦にも至近距離であり、利用された可能性もあるか。

381 :人間七七四年:2015/06/05(金) 13:05:44.27 ID:xp94vV77.net
岡山市、円山城
松田氏の部下、寺井十左衛門之を守るといひ一説には宇喜多の臣、寺尾作衛門
同弟七兵衛が宅址なりといふ、山下に本段又総門などいふ字残れり 石高は
伝承で二千石余り、城は寺辺りで付近には古い石垣、古書に代々城主の墓所がある
ひさ{明治9年生まれ}という女性が「円山の墓守ができなくなったら、この壺を
川北の寺尾家に持っていけ」と先祖からの遺言により背負ってきたものや
戦国の武勲を忍ばせる槍、脇差、旗などが伝えられてる、ある

寺は小山頂上手前の傾斜地にあり、小道が何通りか通じてるが、隣の石段神社辺りから?
道路あり。寺に石垣が施されてるが近世的なものだろう(城石垣はどこか?)
周りを一周して集積墓(中世的な?小規模な墓が密集、写真にある立派な城主たちの墓群は
柵があり許可が入るらしく見れず)。寺背後の裏山が気になるが遺構はないのだろうか
寺札を見ても城の事は触れてない。

城付近いわれる場所は傾斜地で古民家も多く?地形改変も考えられ、当時の城の
面影を残すかわからない、やや離れ正面から見れば当時の姿が想像できそうだが(裏山
が気になる)。総門と言われる建物があったのだろうか(先の大戦では街から色が
消えていった言うが、戦争が物質的豊かさを奪うなら、戦国城の華のない感じが
戦乱時代を象徴しており(別にも理由あるが)、総門というのも名前負けした物だったかも
しれないし、立派な物だったかもしれない。
岡山城とも近く、宇喜多直家との関わりも深いか、
宅地化しており,発掘調査も困難か。

382 :人間七七四年:2015/07/03(金) 11:43:51.39 ID:pH1iuBHI.net
ある城で古老に城道を尋ねると藪に覆われた道を一緒になって登りだし、耳が
聞こえず止める手段もなく、大木で塞がれた所で止まり、後ろを振り返り
「わしは九十○才じゃ」と衝撃カミングアウトを受け、手話でもう結構ですと
必死で伝え下山できたが、尋ねた事で思わぬ展開に慌てた

アメリカ史に反乱を起こす際、リーダーを隠すため円形に名を描くやり方、
ホテルルワンダのコメレンタリーで監督に「それは賄賂?」と聞かれ、必死に
否定し「この国では渡さないと物事が進まないんだ」?的な話、日本の歴史でも
あったような

イラク軍が築いた防塁があったが?現在でも土造りの城は廃れてなく?戦いの城とは
こんなものか

水攻め宇喜多の鉄砲土塁、戦前は30mぐらい残ってたらしい、道路破壊で現僅か
千引砦など消滅したらしいが、水攻め遺構なら秀吉からどんな指示を受け、どんな
武将が守ったのだろう?発掘調査からある程度情報がわかり見たかった。

長良山城の楼台?穴は狼煙装置?

楠城のが畝竪残骸で毛利氏の技術なら水攻め前哨戦?八浜城有する宇喜多が肉薄されてた事もありうるか

秀吉が毛利と対峙した高山城とは幸山城の事か?高山城は崩落し登れないとの
事だったが普段登り者なら可能だろう

本太3城の土橋は「何かの間違いだろ」と引き返したぐらい危険で、珍しい土橋だな
思ったが後世削りか?

吉川元春の城館調査から元春らが何を食べてたか細かく分かるらしく、主食はヒエ、イネ
副食に野菜果物、コイ課の淡水魚を生、あるいは火をよく通さず食べてたらしい
。現代人にはプライバシーがあるが、過去の偉人は便器も丁寧に調べられプライバシー
が存在しないのは歴史のおかしみか。

383 :人間七七四年:2015/08/19(水) 12:03:56.94 ID:WRioNGWb.net
馬首城は竪堀が何本か見えたが、今思えば後世改変受けてるか。戦国時代の城を
肉眼でみる事は、鉄の塊が空を飛ぶ現代でも未だ不可能だが、城規模に関わらず
どんな人達がいたか、戦国のどんなリアルがあったか

戸山城は地域の戦国城範囲で石垣が多いが町史では城時代かしれないとの事
だが知識なしが見た感じだと曲輪改変も見れず城石垣か

雑兵物語に戦場では梅干一つを眺めて腹を空想で膨らませ、最後の最後まで絶対に食べるな
、と書いてた記憶があったが?、このような状況に陥り易い戦場での食料事情の悪さを想像させ
強盗すら容易でなかったか。
沖縄戦に郷土隊として国のために戦った少年が足を怪我し健常にも関わらず、軍医に
毛布を掛けられ射殺される現場を目撃したとあるが、軍医の行動は戦場での反射的なものか、
組織的な処置か、考えてしまう。
境目7城、鍛冶山城?辺りでも捕まった兵が色々訊問され協力したにも関わらず最後は処刑された、
と淡々と書いてた記憶あり?心の中で急速に冷めるものを感じ、こんな事は秘密ではなく
知らないだけなんだろう
戦争はダメだ、とはよく聞くが、戦場の苛烈が直接語られる事は少ないか

歴史上の事象とは、ほとんどの場合、数多くの事象や現象が平行して進んでいく
すべての事象が横一線に並んで同時に進むのではなく、ある事は先に起こり、
別の事は遅れて起こるので、横一線どころかデコボコなままに進行する。
これが歴史叙述が複雑になる要因だが、この事を無視して歴史学者たちが重要とする事だけで
歴史を叙述すると、わかり易いかもしれないが受験用の教科書になってしまう、とある
マイナー城が好きなのは、こんな理由もあるか

384 :人間七七四年:2015/09/02(水) 20:47:25.90 ID:rCyeG8jG.net
「岡山県中世城館跡総合調査」の「調査員だより」最新版を掲載

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/joukan-tayori-h27.html

385 :人間七七四年:2015/09/05(土) 18:41:43.83 ID:oUjS7VV6.net
縄張り図とか書けますか?

386 :人間七七四年:2015/09/06(日) 12:33:44.56 ID:JyxxywGq.net
縄張り図どころか知識すらない素人なので、、、申し訳ないです
巡った後に記憶をもとにイメージを簡素には書きますが。

力量不足ですが、描けてしまう方ですか?

387 :367:2015/09/06(日) 19:00:53.45 ID:/yVFC6tx.net
>368

全く出来ません 笑
専門家の方が描くように出来たらいいなと思っております。

縄張り図を書いて、さらにCGでイラストが書けたら最高なんですが。。

388 :人間七七四年:2015/09/07(月) 12:10:10.70 ID:M4A7q+GN.net
藪をかき分けてまで描けてしまう方はやはり勤勉なストイックな方なんですかね。
とても真似できない敬意に値します。

県内の方ですか?
いつか描けるようになったら参考にさしてもらいたいものです。

389 :人間七七四年:2015/09/08(火) 12:36:00.42 ID:so5JG+JU.net
>367

福山に「山城志」か何か会らしきものがあるみたいです
講演に前に訪れた時に縄張り図とイラスト貰いました。

後、関西圏にも城郭研究会があるみたいですね。

390 :人間七七四年:2015/10/20(火) 11:57:00.27 ID:C92CTN9E.net
岡山市、伝賀陽氏館
吉備津神社の神官を務めた館伝承、土豪の館の典型、地元では城とも呼ばれてる
一部に2mの土塁残存。発掘調査はされてないが700年前に造られた可能性
時代的にも数少ない貴重といえる

吉備津神社近くの田んぼの中、平地にある微高地。車では通れない狭道路から
臨めば幅10m?ぐらいの水が残る堀状の沼場?が城を巡る。
そこ以外は田んぼ?で堀消滅か藪でわかりずらい。居館は平地よりやや高く築かれ
城内部は私有地で民家あり、入るには躊躇われる(手前、のぞける位置から見るが
囲い土塁は見れず、別藪にあるか)


私有地化したらしいが城周りを一周しても城の面影あり、城台地を水?堀で
囲う景色が今でも想像できる。
川利用の天然要害か、深い堀で囲い、かき揚げた土で築いた居館か?
何度か攻略しようと押し寄せる敵と小競り合いを妄想。今は浅くなってる沼城
を思わす、見所の大規模な堀状が遺構なら(かなりの幅で、深さも当時は相当深かったか)
マイナーな平地の城館ながら、なかなかの建物群が立ってたか、思ってしまう
地元民らしきに尋ねるがやはり「知らない」と回答
城の内部空間も広く?占地的に大大名同士が衝突した水攻め戦に近距離だけに、
沢山の部隊が行き来し、ここも誰かしら抑え利用したか

391 :人間七七四年:2015/10/20(火) 12:20:09.57 ID:C92CTN9E.net
岡山市、板倉城
陶山道勝、当城に妹尾兼康敗走、のち道勝寺建立。学校一体が城にあたると考えられてる

伝賀陽氏館、吉備津神社近くで、奥坂陣城群(地図で眺めると異常に砦が局地集中しており
ゴルフ場の古墳看板には鬼ノ城の砦とあるが、水攻め戦の戦略上重要度が増した所か妄想)
の登山口を探すついでに訪れる。
どこかの情報で城として学校が載ってたので半信半疑で訪れたが、見事に”城跡”
という文字が見え心踊る。
平家武将の碑、薄れた看板に「板倉城で戦死した屍を城に埋めた、寺が建ち
その後学校になった」と学校柵の現地看板。城は現在学校になっており
場所は平地で周囲は畑もあるが宅地化している。
小さな用水路らしきが学校を巡るが住宅地のただの水路か。近くに武将碑あり
(生生しい斬られた跡を残す武将として特定された?珍しい骨出土?)
碑には微土山があるが、城とは無関係か

板倉城という碑は見つけれず、城跡は軽くみた感じ後世建物で破壊され
、平地で区画もわからず、もはや城域がどこまでか発掘されない限り不明か
当時の地形や、源平から戦国まで使用されたかも不勉強には知らないが、現在からは
想像できない中世的な武骨な門に、中世的な表情をして立つ番兵を妄想
落城時に起こる恐怖の光景も妄想(城は別城説もあり、賀陽氏館とも、かい盾を並べた
簡単な陣地だったとも)

392 :人間七七四年:2015/11/25(水) 12:28:12.21 ID:6oVQ/fg8.net
妹尾陣屋の社の裏?にある硝煙庫囲い土塁、墓地が迫りきずかれず破壊されなければいいが

人は争わずにはいられない生き物である事は歴史が証明してる
抑止力と大儀名分を信じる人々が決果的に争いを起こすのでは

奥坂陣城群は水攻め前哨戦?の冠山攻撃に備えられたのではとあったが?
図書館にある遺跡地図で眺めると境目七城に隠れて城とされる場所が新たに15ぐらい
載ってて驚き
特に下足守の山には長蛇の?土塁、方形土塁など謎の興味的【山深そうで単独では無理か)
いい加減の的ハズレには無理で他力本願だが、誰か遺跡地図の城を調べてくれないだろうか
【岡山市、倉敷市合わせれば110万人いるのに?それをやる者がなぜ今まで1人としていない?のか)
一つ一つの城を調べたら水攻めの真実に近ずけるのでは。訪れてないため程度がしれないが
冠山周辺?には城が無数に築かれ、高松城包囲陣に日近城のようなポテンシャルが見えず?
高松城が包囲される前段階の?冠山戦辺りが主戦場で、毛利は万策尽き、ものがよく見え
大胆な行動をとる秀吉の性格が、必要性の無さから水攻め包囲陣の半端な造り?に現れ
【戦場に漂う危うい緊張感を無視してるか】、勝利の確信で、そこに至り毛利の
手も足も出ない状況を、知識なし妄想

いずれにしても{城?}と紹介されてるところもあるので、たいした収穫もないかもだが
既存の情報だけではない、誰も調べてない??冠山周辺の15ぐらいの城を
遺構が残る?今、調べられないだろうか。水攻めの実像に迫る新展開を期待したい。

393 :人間七七四年:2015/11/25(水) 12:48:05.34 ID:6oVQ/fg8.net
玉野市、貝殻山城
全国?遺跡地図に貝殻山遺跡?の下に貝殻山城と表記、又は個人編纂?の本に記載

足を怪我した痛々しい野犬と出会う(今回の旅で野犬二匹と遭遇、田舎では当たり前?)
貝殻山は山深いが道路と駐車場があり、城下まで容易に到達できる
頂上は瀬戸内国立公園となり、展望がきき、海と周辺の山々が見渡せ、整備された
長いやや傾斜を持つ平坦尾根と1mぐらい下に帯郭(破壊道?)が沿うように尾根を伸びる
つながりの北東下尾根には傾斜がない平坦地がある【岩を伴う窪地)。
それら以外は周囲は藪で、緩やかな下り斜面らしきに見える。
登山口から頂上手前の岸に長い竪堀状や、藪に小郭らしきあるが自然地形だろう

公園破壊で尾根を断ち切る堀も見れず?、ここが城跡なら?尾根が緩やかに傾斜してる事から
戦国より古い時代、一時的な陣城、北東の下郭を小さな砦として使用か。
山深いが簡単に到達できる、しかし現状からは平坦が確認できる以外に城痕跡を探すのは難しいか
【調べる限り、城として記載が少なく存在した根拠はなにか。しかしここはともかく
実際に訪れる事で戦国時代を物語でなく過去に実在した時代として感じれる事は大きい気がする)

394 :人間七七四年:2015/11/25(水) 13:21:43.78 ID:6oVQ/fg8.net
玉野市、相引城
詳細不明、東西に主軸を置く

地図で探すのは簡単でも、現地ではなかなか見つからないだろうと思ってたが
城山の下に人がおり、簡単に教えてもらった。
キノカワ城?【忘れた)ともいい、詳しい方が近くに住んでおり尋ねる事を進められたが
、煩わしてしまう事に遠慮し断りをいれさせてもらった。

海に近い「相引バス停」の隣、八丈岩山から伸びる支脈先の丘。
途中からコンクリートに変わる登山口もある。途中に塚【城主関係?)や段々曲輪(畑?)
あり山頂に祠。
そこから尾根は浅藪で緩やかな平坦尾根、右岸に人工の削り痕、途中から尾根上中央にわずかな土塁らしきが少しだけ伸びる
そこから先、猪柵。超えても平坦尾根が続き、やがて丁寧造成の帯郭?整形された土段々が見えるが、そこから先は
本格的な斜面の山になり藪も酷く諦める(ここからが城らしくも感じれたが不明)


太閤記によると、信長三男秀勝の初陣を海路児島地方の反織田軍攻めに向かわせ
(かつての玉野地域は大きな島?)、黒田官兵衛などと麦飯山城を中心とする諸城は
一つ一つ落とされていったとあり、それがまったく信憑性がないものでもなかったとしても
、小丘で簡単に見た範囲では(あくまで)細長い平坦地で、先端に段々が二段?
あったようであるが?、余り遺構らしき見れず(しかし祭られる祠の意味は)
尾根にありそうな堀切もなく、改変や年月の流れを無視すれば、圧倒的な?織田軍の防戦もかなわず
織田が迫るまでにはこの城は廃城か従う道を択んだか。
常態化する戦国乱世以前に海が近い事から、簡単な海賊集団などの砦を構えたか妄想
(地元に詳しい方がいられるみたい?なので、長い歴史もあるのかもしれない、尋ねる場合は配慮を)

395 :人間七七四年:2015/11/25(水) 13:48:41.01 ID:6oVQ/fg8.net
玉野市、胸上城
戦国時代後半に児島郡東部を支配した国人高畠氏一族の居城

漁港がある海に面した独立小山。五輪塔が祭られるコンクリート登山道があるが
人が来ないのか、やや荒れてる。
山頂に廃社?があり、藪だが平坦地で中央に土高まり?が少し伸びてるように見える
社の海側は帯状犬走り?と急岸、社曲輪の前方にもともとは郭だろう本郭?を守る付属郭もある
社の裏に幅の多きな堀切。
堀切を渡った先に山頂から海側に帯郭段々が3,4段主郭?を守るよう丁寧に築かれてる(山頂に
後世のコメ溜めか、壺が埋められここは改変受けてるか)
一部帯郭には見落とすぐらい浅く明瞭でないが、畝状竪堀状が20以上(斜面でない
曲輪内の平地に築かれてる。勝尾山城の横堀に比べれば洗濯板の波々程度で防御に
使用できる思えないが、やはり微かだが高低が連続して長く続く、枯葉除去して
見てみたい、なんだこれ?)
その先も造成地が続くが藪が酷く途中断念。


もしかして遺構を良く残す城かもしれないが、藪が酷く侵入困難(せいぜい社までが
限度で、裏の大?堀切を見たら退散か。だいぶ歩いたが削平地が延々?と続く)
堀の先は壺も埋められ、削平段々が小山のため素人には城遺構かしれないが(後世の畑跡?城は
廃社方面のみ?)国人が築けるレベルでない?大名クラスの介入を感じさせる
大堀切が、この城の規模を表してるようにも感じさせる。
海から望む、丘に築かれた中世戦国の城を妄想。

396 :人間七七四年:2015/12/10(木) 12:54:51.96 ID:TWdy/xA6.net
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Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)


397 :人間七七四年:2015/12/10(木) 13:14:35.03 ID:TWdy/xA6.net
岡山市、鳥山城
笹ヶ迫城ともいわれ、以前は藪で調査できず?。妹尾兼康の謀略で藤野の監視役を
切り殺し遁走、木曽義仲は追手を差し向け、僅かな手勢を率い「佐佐迫」の城に
立て籠もり奮戦したが落ち延び戦死した(城は文献から中世城郭のような城郭というより
阻塞なものと想定される)

岡山市の中心部に近く半田山の山上近く?に学校があり、近場の神社から尾根に出る
(大学の私有地あり立ち入り禁止もある。悪い事をするのではなく前日から準備し、
寒い中何度も迷いここまで来て断念とは無念すぎる。しかし訪れるさいは
登山道から出ず、遺構を見させてもらうだけと配慮を)
登山道ありほぼ間違いないだろうが、場所が正しいかやや不安。本丸だったろう頂部は
電波塔?破壊(山城が山上の好立地で破壊され易い運命なのは残念)。
頂上を中心に斜面などに痕跡を確認できる。南3m?下に帯曲輪。北東に後世の
土削り破壊だが二段?の曲輪(下段に大?岩(虎口?)、竪堀?あり)
北に小腰郭、西の岸に微土塁らしきある曲輪?。
城から離れの独立尾根頂部に小さな緩やか削平地(物見?)

簡素見で小規模?で(他に曲輪あるかも)肝心の頂上が塔破壊だが、本丸頂上を
守るように曲輪痕跡が見え(やや明瞭さに欠けるが、場所によりしっかり削平)
僅かに土留め?石散乱も見える。現状は戦国期に改修された残骸だろう。
城は雑木で遠望が余りないが、当時は周囲が監視できたか。
破壊された今では城の指向が現状判断だが、近距離の半田山城との関係も気になる。

398 :人間七七四年:2015/12/10(木) 13:44:35.52 ID:TWdy/xA6.net
岡山市、半田山城
周辺に多くの遺跡が存在するにも関わらず中世の御野郡の開発領主と支配拠点
との関係は全くといっていいほどわかってない。戦国時代の城と思われる
、実戦があったか不明、岡山大学が測量調査を行い、大きさなどかなり詳しい
事がわかった。城主「林玄蕃」

岡山中心部と余り離れておらず、ある意味都会に残る山城。鳥山城と谷を隔てた
つながりの尾根で、城直下までしか道がなく(半田山城は大学私有地で?基本は
立ち入りを禁止されてる可能性もある、それなら遠慮したい)
山道から上に整形された岸が見える、山肌登ればしっかり整形された3m?級の切岸が
出迎えてくれ(近隣?の山崎城の切岸も城遺構か)、地図上では単調な平地に見えたが
現地は段々が整形されてる。
主郭には区画か微土塁らしきあり、東南下に3m?岸あり曲輪(竪堀、主郭から
望めばわかり易い僅かな微土塁痕跡)下岸も整形。
主郭から西に最下段に帯郭設けた6?段。こちらも3m?岸が2つぐらい見え
威風堂々と美しいと表現しとこう。(この戦国城に一般的にみえる段々曲輪は、
下郭が破られそうな時に上郭に安全早急に脱出できるか?、この時代兵の消耗は嫌うだろうが
現代的な人命重視観はないし(現代戦でも戦場では人はあっさり死ぬというが)
、上郭に逃げるさいの負傷率は?)

簡素見だと連郭式で尾根以外に斜面には防御がなく?(破壊道らしきあるが)
城自体に草藪が多く、不明が多いが、礫石も多く散乱してるらしく、岸の整形が
しっかりしており、地に足のついた勢力が伺える。周囲に竪堀を何本も入れるものでなく
、築かれた当初は明確な目的があっても、技巧から戦国末期まで使用されたか不明
(書いてる内容は素人が”ふり”遊びをしてるだけで、事実を慎重に積み重ねていくものでなく、
いい加減妄想です、汗)。だが城には現地に行ったならでは感じる軍事だけでない
生活感も漂う(どこを見て感じたか自分で不明、領主の一時でも山上での生活妄想)。
鳥山城方向に段々が多く築かれ対立か
この地域では中規模?だがポテンシャルが感じられ、草藪だが城雰囲気を備え
(まさに戦国時代は物語りでなく実在したのだ)、歴史を残さないが?城からは
古文書に本来城主の動向が見えてもいいのでは?と感じる、息ずかいが聞こえてきそうな良好な城

399 :人間七七四年:2015/12/10(木) 14:17:16.24 ID:TWdy/xA6.net
吉井町?、大仙山城
刀のツバ?出土。以前の調査では茶臼山城が本丸で大仙山が出丸となっていた。
しかし大仙山の方が水の手等の施設も整備され規模が大きく茶臼山が出丸という
見方が有力になってる(茶臼山、大仙山は別城説もある)
そのまぎわらしさは3つの城郭群が一元的に有機的配置になっていないためで、
築城時期が違い、その時の戦略目的が異なっていたためと思われる。
笹部氏が浦上宗景に属した時代は大仙山を本丸で北の作州からの攻撃に備えたのだろう。
その後宇喜多氏との関係が悪化し南の防御を固める必要から茶臼山の出丸を拡張改修した
と思われる。何分資料に乏しい

茶臼山城の途中道にあり、城詳細がある看板から時間は余りかからない
途中、山尾根に何本かの警戒?堀切。隣にやや高い独立?の曲輪を設け3本の横堀が
元?曲輪内部に築かれてる(不自然で緊急か)。
主郭に到達するには看板いわく「多数の侵入を防ぐため、一本の土橋が架かり?」の
土橋あり、その先に驚きの主郭が高い岸で守られ(薄っら霧がかかり幻想的で、
山上から弓鉄砲を構えた武者が出てきそう)、主郭切岸の前には二重?の大掛かりな
堀切土塁ある(重厚な防備の上に一人ずつしか侵入させないとは優位性がよく考えられてる)。
高い主郭にも整形段があり、横切岸に畝状竪堀が(主郭からでなく斜面岸から
直接見れば分かり易い、転落注意)。主郭周囲の付属曲輪も多く?、生命線の
現在でも水がたたえられた池が土塁に囲い守られ、そんな曲輪が何個かある

もっと大規模な城は県外に多いだろうが、無数?の竪堀も下にどこまで伸びてるか知れず、
戦国史が城の規模だけで語られるものでもないだろうが、大土木の作事の跡で
大軍勢が籠れるのは間違いない。これだけの城だから一つ一つ丁寧に遺構に説明看板があり、
土の芸術を楽しみながらハイキングできそう(欲をいえば遠路から限られた時間しか
ない者の為、順路があればなおいい)
地域に大切にされてるのがわかる、何度も感嘆した戦国真っ只中を感じる立派な土の城、
計算された?技巧的な城。大多数が関わり築城したろう、これだけの城が資料に少なく歴史から
消えてる断片が面白い(気のせいか県南海側にも毛利、織田が迫ってきた筈なのに
、なぜ県の中間?北部には技巧的な城が多いのか)

400 :人間七七四年:2015/12/10(木) 14:49:21.54 ID:TWdy/xA6.net
吉井町?、茶臼山城
浦上宗景に従う武将として北辺防衛を担ってた段階と、浦上氏滅亡後の
宇喜多氏との一戦を覚悟した(落城)段階の二時期が内在していると判断される
瓦片が認められ、瓦葺の主要建物も所在していたと推定される

看板や旗が多く城が大切に思われてるのが分かる。山下に城主の子で乳母に守られ逃げたが、
捕まり殺害された子供の墓看板がある(戦国時代は怖い)。城跡まで道路があり
駐車場あり。主郭は模擬天守(史実より町起こしが優先された決果か?大衆が史実より
作られた物語を好むのは常か。改変前の写真には主郭周囲に微土塁?らしきあり。
天守は今では立派なシンボル)や復元遺構に戦国城に珍しい大穴(用途忘れた)ある。
主郭周囲の下切岸はダイナミックな高い切岸に守られ、下に帯曲輪。堀も明瞭で一部曲輪に井戸?穴。
主郭前方の山下に伸びる竪堀には、やや荒れた通路があり、途中竪堀の横に2条?ぐらい竪堀あり、
縄張図の畝竪と間違え、もっと下に築かれた畝状竪堀群?を見逃す(ついでに離れの
3つの城の一つ?も見逃す。大仙山城に無料の縄張図あるが茶臼山城に先に来てしまった)
模擬天守がある道路つながり尾根には、離れに現状独立郭に見える?二ノ丸あり、
周囲に堀痕跡、更に先にも道路破壊の警戒?堀切ある。
雲海見にきた方に今日は霧が濃い、と告げられる

模擬天守や遺構の道路破壊(両城共に本丸までに堀切を執拗にいれてる)があるが
遺構良好。畝竪がみれなかったのは残念。茶臼山といわれる通り?岸が見事で、落城
させるのも楽ではなかったろう。両城はセットに近い城だとしたらかなり大規模で?
天神山より作事がいり?徐々にしても誰がこれだけの作事を動員できたか
(昭和の軍人には「優しい人もいたが、そんな人は出世できない、脳まで筋肉
みたいな者でなければ」あったが、確かに人間性より機械性な方が軍人として使え、
不偏的素養出世構造があれば、悲壮な落城を経験した者は及ばず、筋肉脳な人々が
過去を文字として書き起こす率は低いか)

401 :人間七七四年:2015/12/10(木) 15:12:25.53 ID:TWdy/xA6.net
佐伯町?、北山方城
天津神社々地は戦国時代に富り、豪族此の地に城壁を設けて守りせり。
人民は貢米を入れ、背負い之を運び、似て上納せしといふ。又は詳細不明

イボ地蔵?近くの道から小川沿う車一台やっとぐらい?の道路を山にかなり?長く行き
山上に集落見え、近くだが迷った。
神社の参道で破壊されてるが参道横に段々曲輪が確認でき(犬走り、土塁、上段のない石列石垣)。
参道上がった神社が主郭で主郭から両脇谷の南下にも破壊道?に破壊された?小郭ぐらい
の削平段あり、ここも石列石垣?と散乱石垣らしき。
神社裏に岩だらけのさほど長くない尾根平坦あり、その尾根前方下に堀切と土高まりと小郭(その先は
下り斜面だが遺構あるか)。東南にも堀切、土塁、下帯郭。北に僅かな堀切痕、曲輪と数条の竪堀。
(岩尾根郭を守るように三方それぞれ配置)

簡素見で小中規模。占地的に浦上宗景の息がかかった城だろうが、それ以前に貢米伝承も
受け継がれた事実かも知れない。集落があるから村と関わりの深い城を軍事改修したか。
標高も高く?山々が見渡せ、山深い所に築かれた城だが?場所さえ分かれば到達すぐ(神社だから
問題ないだろうが、こっちを眺める人がおり猪檻もあり、城巡りは地元の方に歓迎される
事も多いが、必ずしもそうでない事も頭に入れておきたい)
主郭は神社改築だが、神社前後に良好に遺構を残し、3つの堀切の数から主郭を守る意識が見える
静かにひっそり神社の下に埋もれてる戦国の跡感がいい。

402 :人間七七四年:2015/12/10(木) 15:53:17.56 ID:TWdy/xA6.net
佐伯町?天神山城
備前国トップクラスの城。この城を中心に備前国の歴史が展開したのは事実であり
地理的環境を凌ぐ政治利点が内在していたのかもしれない。宇喜多直家に攻められ
落城するまで45年の歴史があり、城主が数氏に及ぶ城郭ではまれな例である。
全体に5ヶ所の戦闘拠点を内包し近世城郭の内容を示すが、立地から有事篭城型の性格が強い

天神山向かいの川沿い山にも登山看板あり、限られた時間の焦りが不審に見えたか
地元の方に止められ、城の事を話すと「いい趣味だ、この山に城はないが天神山に向けた
鉄砲段があった、が今は近ずけない」との事(地元情報?が全体に共有されないまま消えてくのは惜しい)

この城は来たかった城。看板も巨大。登山口から途中小さな見張り場到着、途中崩れた
岩場多いが石垣?(息切れが酷く、当時を思うと山下に居れば命が危うく大名ですら
歩いて登ったか、狼煙を間違えれば重罪で?これだけでも昔の人の難儀を思う)
頂上でやっと石垣が迎えてくれ、枯葉が邪魔だが大名クラスの城とあって石垣多い。
造成もよくされ、曲輪ごとに丁寧な説明看板。近世城のような高石垣は見れないが、
新城は尾根両脇に全体に石垣見える(崩れてるのは残念、しかし土止め?とし長期に使用
された城である事わかる)
本丸には子孫建てた石碑、城郭イラスト、小社。過ぎると高い土で造成の楼台、堀切あり。
更に先には異様な岩だらけの岸が尾根に立ち塞がる。岩落とし集積郭(小石をかませ
巨石を立て有事に小石を外し転落させる仕掛け)。
奥に進むほど山谷があり,旧城はやや荒削りな感じある。

典型的な?連郭式で、細尾根に曲輪を無数に並べるのは玉野市の高山城、岡山市、鍛冶山城を思わせる
(こっちのほうが装飾で大きいが)、石垣崩落や埋まりが惜しいが、新城は石垣も多く造成丁寧。
覚悟してきたが、今回の旅で4城目で登山道あるのに経験した事ない長蛇の?曲輪群で
遺構を見る感激も次第に薄れ旧城の堀辺りで断念(欲張り進み疲労空腹で一時動けなくなる、
菓子がなければ下山できたか、余裕もっての登城必要)
一つ一つの郭は大きくないが?、区画が多く戦国大名?宗景がいかに多くの将を抱えていたか分かり?
凡将ともいわれるが、これだけ城を拡張し統帥するのはやはり並の男ではなかったろう(武将の能力はゲームのように
数値化できるものでなく、全盛期と落ち目が浦上宗景にもつきまとったか)
自分の容量を遥かに超えた、謀多きは勝利し、少なきは負ける?世に宗景がここ(又は居館)
から各地に指示を出したり思考し、さすが戦国大名?の壮大な城

403 :人間七七四年:2015/12/22(火) 17:46:54.45 ID:dS7BPhVR.net
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404 :人間七七四年:2015/12/31(木) 11:54:00.68 ID:ByafENBV.net
テスト

405 :人間七七四年:2015/12/31(木) 12:11:29.36 ID:ByafENBV.net
岡山市、二軒茶屋の城(仮)
丘陵斜面および尾根部に平坦面がある

半田山城とも近い?郵便局裏の山から派生した先小丘。城直下に小道あり、登れば丘斜面に
3,4段の墓地段々になり、上の尾根は浅藪で平坦地ある(両脇は緩やか斜面で北に一部尾根に達した
二本の山下に伸びる竪堀状の人為的な遺構あるが違うか)。
そこからさらに山尾根に登りで貯水施設?などあり止める。

調べる限り歴史わからず(遺跡地図に載せるには全く根拠のないものでもないだろうが)、
記憶ではgisにも載ってない?。斜面の墓地が帯郭段々で裏の平坦地が武者の溜り場だったか、
その程度の小中規模。古い時代や陣城を想定させる?。現状からは城遺跡と知らされなければ
気ずかないか。街道が見渡せ物見監視や狼煙の中継点、小中隊の防備も意識した有事の際の
戦略構想の一つとし、場合により出撃場を妄想(政財界に猛威を奮ったもう一人の
ご先祖様ま自身の栄達の中、戦場の暗い部分が目に映らないタイプだったか?、{極限状態にある
人間性、両陣営で戦った全員が同一のジレンマに閉じ込められてた}とある。
人権すらない自力救済の戦国時代だが{国家の問題がどうであれ、一人の兵隊が
自分を殺そうとする者たちを殺さなければならない単純な精神に裏ずけられた衝動、悲しいまでの
現実主義}を体験なみに想像など不可能であろう)。

406 :人間七七四年:2015/12/31(木) 12:30:09.08 ID:ByafENBV.net
岡山市、蜂矢城
室町。名主層の蜂谷氏の居館の詰の丸。

球場の近く、山頂から伸びてくる途中の頂部。裏尾根道路から小規模果樹園?の
小道跡を進み、荒れてるがすぐ着く。
浅い藪山だが周囲に小堀状巡る、山頂支脈方面に土塁?、そして周囲は輪郭式?に帯郭段々。
二本派生する下の支脈方面には無数の?統一的?な造成された段々。下って一支脈に行けば
(分岐に破壊道につながる堀切跡?)片方に立派な長蛇の排水?塹壕土塁らしき伸びていく
(支脈内部にやや大きい石垣井戸あり)。
もう一支脈方面にも削平あり、先端に二段?の腰郭らしき(こっちは改変少ないか?)。

無数のしっかりした造成が見え大規模作事の城、、、と一昔前の自分ならいいそうだが、
戦前の食料難の時代の畑跡だろう?。部分的に城遺構も残してるようにも見えるが、
知識なしには城配置の方程式?はわからず、畑と郭の判別が難しい(城遺構のごとく
後世跡が紛れ込む事もあるらしい)。山下に近く元々籠城と居館を兼ねた遺構良好の可能性も
ありそうに見えたし、マイナーだけに蜂矢城は別場所の可能性もあるか。
いたる所が造成され、簡素見で、見た場所が城なら、実戦を想定した造りとはやや解離した
部分が多く?畑跡に埋もれたか。

407 :人間七七四年:2015/12/31(木) 12:53:21.95 ID:ByafENBV.net
岡山市?、辛川市場城(仮)
辛川城の支城か、第一次長州征伐に築かれた土塁も現存。小規模な城砦と考えられるが。

山崎城近くの独立小山、丘下は住宅街と畑で周囲を見渡せ{良尾崎神社}になっており、
参道門に武家人形祀られる。社がある主郭はやや広い平坦地で裏周囲の3m?削った切岸(下は
帯郭痕跡らしきや希望的妄想では門痕跡?土山ある(かたちだけの出陣とされた長州征伐土塁か?、
30,40年前は一目でわかったらしい))。神社から下段尾根は参道となる細長い曲輪、さらに
下に近世石垣が築かれた2段が形成され、その丘下の学校横の看板に{小丸山、
古墳と思われてたが調査で裏ずける資料は発見されず、形状から辛川城の支城の可能性や
幕末に長州征伐の土塁を築いた経緯あり歴史的興味を引かれる}とある(この看板を
見ただけで来たかいがある)

平地の小丘だが周囲を見渡せ、その後発掘で確かな城としての証拠の有無が出たか知らないが、
連郭式の威厳のある豪族の城山という感じはあり(大多数の人は戦国城を土山としかみず、
興味をもたないが、中世の権力の跡という感じがあり、境目ならもっと緊迫した事情が
あったろう面白い)。
支城なら山頂の二段目までか?、どこまでが城域か後世跡でわからないが原型は留めてそう?。
地表面上は複雑構造でないが?曲輪も小さくなく全山が城ならそこそこの規模で?、
西辛川城の支城規模を越えるかもしれない。
子供たちが談笑してたが、ここが城跡なら中世の人々はどんな思いでこの丘を見上げたのだろう
(町名の市場とは市が開かれてた?、この城が市の保証を担ってたか、素人妄想)

408 :人間七七四年:2015/12/31(木) 13:17:32.87 ID:ByafENBV.net
岡山市?、西辛川館(仮)
室町?、館

辛川市場城と川を隔てた向かい、郵便局の横。場所は平地で住宅地になり、ここも
看板あるか思ったがなさそう。近くに古い墓が隠れるように小規模密集。

川と造成土手が近くで当時の地形がわからないが、当時は典型的な館土塁囲いで
民家に隠れた土塁痕跡や地名残りあるかも、妄想したが、ウロウロすると不審者になる事間違いなし。
調べる限り知れないが、毛利vs宇喜多の辛川合戦の時まで使用されたのだろうか。


今回の旅では(仮)が付くほどマイナー城ばかりの上に(戦国時代の城自体超マイナーだが)
丘城ばかりで遺構があまり見えなかった。二軒茶屋の北、堂敷山の城(廃寺跡で
城?となっており歴史でなく現場の形状判断?)が山上だけに期待できたかもしれないが、
登山道も消え断念(ネットで調べると藪こきになるか)。

ヒトラーが自死の直前に秘書に語ッた「ナチスが滅んでも100年後に同じ思想は戻ってくるぞ」
というニュアンスの言葉、負け惜しみではなく自身の敗因の中で客観的に見た冷静な言葉に思えゾっとした。

天神山城の対向鉄砲段=観音山城の事か?(後気ずきだが備前軍記に天神山落城後に飽浦氏らの支援を
受け児島に城を築いたという説があるらしく、似ているスリランカ?の○○宮殿?を彷彿させる高山城(岡山城100年史?
に載ってた)があり、直家に攻撃を受け亡くなったといわれる宗景の終焉地か知識なし妄想)

貝殻山城=中世の山城で簡単な城館を構築したもので、50m下ったところに湧き水があり
水の手にした形跡、天正以前に消滅した山城の一つと考えられる
(発掘報告?を見る限り城遺構検出はなさそうだが?。)

409 :人間七七四年:2016/01/15(金) 12:03:29.05 ID:aMX4OyQ7.net
総社市、名越1号砦
土塁は不整形な方形を呈し、腰曲輪につながる通路が開いてる。千引砦より良好な位置を
占めてるいえよう。呼称はあくまで仮称とし、実体を不明な他砦同様考えられてきた。しかし7ヵ所の
遺構が確認され、すべて同時期の一連の所産で機能的関係があると考えると(砦}と捉えると理解が容易。
千引砦に見られるような柵列はなく(省き)主曲輪同様、腰曲輪にも柱穴は一切認められなかった。
尾根に続く宮路山城が水攻めに先立ち羽柴方の攻撃により落城した記録が残り、羽柴方の在陣が落城後約一ヵ月と
されてるが、この見地に立つと遺物等が一切見れず、周辺尾根も全く加工していない点など、非常に臨時応急的な施設であることが
理解できる(確証は得られず類例の増加を待ち再検討)

(上文は後調べで内容矛盾)冠山城に近い奥坂陣城群(こんな呼び方があったか忘れた)の一つ。地図では簡単に見えても
現地を歩けば場所がいまいちわからない。二つある池の端小道から谷道を進み、目安をつけ谷を直登ると電気柵?がある尾根道に出る。
ゴルフ場方面に続くらしく進むと2m?の土山岸が山尾根にあるが山道整備時の破壊残骸に見える。更に進むとゴルフ場に出て、山道に破壊された、そこに
細長い小丘あり(丘中間のゴルフ場側斜面に後世の排水?設備が沿うように伸び、下は段々)丘上は尾根を断ち切る浅い2つの堀切あるが、細尾根の削平はなされず?自然地形に近い。
つながり奥の尾根は藪コキで平坦地が続くが、ここが城跡か確信が持てず途中で止める。

やはり後調べで見た場所は城跡と全く違う所みたいだったが?、堀切状などが中世の城跡っぽく見える(しかし折れ破壊道が沿うように貫通し?片方はゴルフ場が目の前で後世の破壊受けてる?)。
同じ尾根道にある?名越1,2号砦も(4号砦まであり?)いい加減スタイルから場所を元々曖昧憶えで、持ってる地図精度も悪いか歩いた範囲では発見できず。
歩いた範囲で場所間違いでないなら、尾根藪に報告書での写真を見る限り残骸は残してる可能性は持ち?
名越1,2号砦供に消滅したか?(後の天下人秀吉も猿が綱を渡る俊敏差できてるか?)

410 :人間七七四年:2016/01/15(金) 13:01:26.83 ID:aMX4OyQ7.net
総社市、牛神砦
秀吉の進出ルートにあたる、極小規模のテクニカルな城郭群とそれらをつなぐ土塁が
確認されてる、多くはゴルフ場建設に伴う発掘調査で明らかになったものだが、牛神砦は現在も
よく残ってる。織豊系陣城の一つ。これだけで守りきれるタイプの城ではない,幸山城攻めの足場を
確保するために応急的に構えた施設と見てよい


名越砦もある二手に派生した?支脈尾根先端近くにある。1号砦のある?山道から支脈に通じ尾根上の獣道を進む。
開けた猪のヌカバ(もて余す力で暴れ回る猪想像し一応百円のわりによく鳴る爆竹銃鳴らしとく)
を過ぎると、猪も使わないような藪嵐になり,不安ながら進むとすぐ矢竹が自生しており、1mもない四角形の土塁の角が
出迎えてくれ(土取りで内部空堀状,全体に陣砦らしく内部空間は甘い平坦地?)
土塁は伸び,南西角は1mはあり,東南角も1mはある(唯一こちらは外部に帯曲輪が2段ある).そこから土塁は折り返し戻る。
土塁囲いを出た尾根先端側(土塁外の片方に浅堀状)は馬場になるか平坦地の尾根でやがて下る。

小規模ながら北東の一部をのぞき?全周土塁囲い。犬走りらしきも外斜面にあるが、全体にシンプルで陣砦といわればいかにも思い、
こんな造りが水攻め陣には多いのだろう?(古代山城砦、在地領主館の可能性もある?)。
埋もれた藪跡に遥か昔の戦国人が築いたものに現代人が出会える感激があり遺構はよく残すが、日近城を基準に比べた差し迫る緊張感はなく?、
土塁囲い以外造成のすくなさから短期間の宿営地で?将と雑兵がいたのだろう。
守勢より奇襲を警戒して丘上に築いた出撃型の城?。
帰り強引に藪コキで下ったら最初に通った池直下に出た。

411 :人間七七四年:2016/01/15(金) 14:06:09.29 ID:aMX4OyQ7.net
総社市、大陣屋砦
地元呼称。昭和初期に開墾を行った際に鉄刀数本出土し伝えられ、砦、もしくは古墳が
存在した可能性が考えられ、試掘をおこなったが開墾による地形改変が著しく遺構確認できず。

高松城水攻め関連の奥坂陣城群の一つ?で、城跡は六道峠と地図表記され近くに境目7城の宮路山城がある。
古代山城方面には小陣屋砦がある。
古墳看板を道路から見てゴルフ場施設がある(ここが千引砦周辺?)斜面から山肌を直で登る(山は管理地の可能性ある
なら遠慮したい)。藪斜面を登れば途中斜面にこしらえた直線的な微土塁空堀あり(設備あり後世削り跡?)
山頂本丸には祠あり、やや長広い平坦地(全周?に1m前後の整形岸が見える。
登ってきた山頂手前は緩やか斜面から本丸空間に進入する?どんな意図か理解に苦しむ?2本の立派な土塁挟む畝状竪堀ある)。
本丸から西、緩やかに下る尾根(兵の駐屯地?)の北東端に浅堀土塁状が長蛇に伸び(後世跡?)、下り終わりに石垣ある。東南端には斜面に2,3段の
帯曲輪が大規模?に沿う。
本丸から北東下りには堀切跡?の登山道あり(道のない更に北東に浅くなった7段?ぐらいの小郭と道跡か浅竪堀状),登山道をつたい下りれば
長蛇の土塁状と尾根挟み逆側整形段々。

大陣屋がそういう意味か規模が大きい?(実際は知れず)訪れた時点で畑改変をしらず半信半疑での遺構観察となった。
作事のわりに連郭式のような尾根上に段々郭はなく、やや大味で?そういう意味で陣といえるかも。
原型は留めながら?畝竪以外技巧的に見えず、広域の?畑跡に陣砦があった元々が知れないが、やや大軍収容できる陣を妄想。又、陣以前に在地領主が
簡単に構えてたのかもしれない。(造成跡が多く、間違い易い類似後世跡の説明は本にもあまりでてなく
どこで城と判断すればいいか、簡単でいいので無知にご教示願いたい)

412 :人間七七四年:2016/01/15(金) 14:50:19.96 ID:aMX4OyQ7.net
総社市、小陣屋砦
丘陵、尾根頂

鬼ノ城麓のトイレ下の小川から鉄塔道ある。猪が堀返した道を進み、鉄塔到着(近くのゴルフ場から
人の声響く)、上に破壊整地された?元帯郭を通り山頂は緩やか?平坦地。東端に20mぐらいの高さ1mない?
土塁が伸び、下は藪で見えないが犬走りある傾斜地思う。
反対、鬼ノ城方面は藪で見えずらいが土塁はない(但し、先に進むと本丸から二ノ丸に高低差があり、そこに明らかな
区画する人工岩垣が出現し、ここから土塁も見られだす).更に北に藪で不明だが突出部に最高1m以上の囲い土塁がある。

鉄塔も山頂には築かれておらず、奥坂陣群と少し離れた?古代山城の山ろうを守る砦と見ていいような
独立に近い山容。藪で全体像が曖昧にしかとらえられなかったが、細尾根頂上がほぼ?全周土塁囲いで、簡素見で小中規模だが
想定外の石垣もあり、陣以前の城を妄想。
自分が見た範囲以外にも遺構ありそうで、畑改変の大陣屋と違い(類似名から大陣も遺構存在したか)遺構良好で小陣という名称も
規模は天地ほどはなく、安易な?後ずけ名?。
城構造の事は知らないが牛神砦を大きくしたような?忙しく作事する織田方の兵が浮かぶような所で?
水攻めが高松城と境目7城だけで語られるべきでないようなテクニカルな所なら又来たい。

413 :人間七七四年:2016/01/25(月) 12:49:48.08 ID:gloNoEM8.net
岡山市、赤坂城(仮)
室町?、城?。 八幡宮の東にある丘陵。頂部が平坦になってるが人工的かどうかは不明
堀、土塁などはない、城跡か?

電柱表記にはテラサカとある。水攻め激戦地?冠山を囲うように?配置された城の1つで、
山脈(というほど高くない)から道路に分断された小さな高原?にある山先端の小山、近くには八幡宮
(この丘も冠山に近い)ある。
山下に水の手の池がある、そこから藪があまり酷くないので直に登る。すぐ到達でき、山頂は小中規模の平坦地で
、十字を切る区画跡らしきが占めてるが、小さな石列や寺か墓地跡の土塀残骸が倒れず残っており、その他にもやや禿山で雨水流れを
起こしてるみたいだ。帯郭らしきも主郭下周囲に連続性なく?何段かみえる?(藪で正直不明)
冠山城がある反対側には犬走り状以外帯郭はない?(こちらは藪が酷くなく歩け、下斜面に腰郭状平坦あるが竪堀も見えず)

遺跡地図と少し矛盾してるかも?だが場所は間違えてないはず?。山より丘に近いが
冠山城内が見渡せるような位置にあり、又実際に見渡せ、遺跡地図が城?と示すように陣砦のようなものが
あったのかもしれない(地元民らしき居たが、ここの陣?の事は知らないだろう思い尋ねず、、{戦前の在野の考古学者の中には
何人も中世城郭に関心を広げた方がいる事実に驚く。しかも今日の私たちにはその成果がほとんど伝わってない}とある。
その学者たちはどこにいってしまったか、、。
北と西に3つ小陣屋砦でみたような土塁残骸も確認できたが、必ず近くに後世の土塀跡らしきあり、
ここが冠山攻撃の陣城なら、遺構はほぼ消滅したか(但し、山頂周囲を簡素に見ただけ。
次は洪庵トンネル上の城に行こうか)

414 :人間七七四年:2016/01/25(月) 13:34:23.10 ID:gloNoEM8.net
岡山市、吉備津神社裏山の城(仮)
山頂、段取り、掘切遺存。 清水宗治らによって社領の検地が行われ、吉備津宮は毛利氏に支配
されたと思われる。水攻めが勃発し両軍に挟まれた吉備津宮は苦しい立場にたったらしい
羽柴方を応援しなかったので社領も安堵されなかったらしい

吉備中山と道路を挟んだ神社と少しだけ距離のある裏山、近くに加陽氏館や板倉城の伝承地ある。
世の中には偶然とは思えないような{こういう時に限ってがあり}遅れ気味の上に大渋滞が発生しており焦る。
仕方なく埋蔵センターから尾根を進むが距離がある気がし、タイムアップの焦りからハイカー多数遭遇の自然が
満喫できそうな、山に沿う小川谷から崖斜を登る(場所を選べば浅藪程度)。
尾根頂上近くになると道はないが電塔が貫通してる。
山頂手前は笹の生えた急斜面で、明らかに加工された岸が出迎えてくれ、感激し丁寧削平の下郭に到着。次の上郭は端に
土橋ある。その上が主郭でやや細長い郭(内部に井戸跡?か後世の印か小さな円形の石列。端に土高まり)
その次がやや下り主郭を守るための堀が断ち切る(中央土橋あるが、優位性を考えたらやや広い)
掘り切りをえて土橋状がのび(見間違い?)、そこは削平地というには緩やかだが、
岸を加工したようなやや広がりを見せる3段?の郭(捨て郭か)

寺の鐘で心細くなり早々下山で後悔。平地側は崖に守られ城がこれを頼りにしてるのがわかる
連郭式に6段?並び(事実上3段?)、城前後を警戒してるが城横に郭はなく、全体に何度も戦場になる
ような神経質さは見れない?。
陣城と違い在地系の水攻め以前の城を妄想。山上に小中規模だが中世戦国の跡を色濃く残し、調べる限り知れないが
神官の加陽氏館とセットの詰めの城か、社への警護と称した圧力を与えてた城を妄想。

415 :人間七七四年:2016/01/25(月) 13:53:21.34 ID:gloNoEM8.net
岡山市、秀天城(仮)
頂部から東に1段下って平坦面あり、東端は急峻。西側の尾根は比較的広く平坦であるが
、堀切などの施設はない。城跡か?。

常山城と麦飯山城に挟まれた小山で合戦時ここを放置する理由はなく、気になってたが遺跡地図に
載ってた。墓地道から直藪登り。
北西の小頂上につき下周囲が緩やかに犬走りぐらいが巡るように見える、更に竪堀状?。
麦飯山方面には整形岸があり、下に1段(端に土橋状、補強石列2つ)。
尾根を北西に藪こきでやや下っていくと長い平坦地(場所により帯郭?)が続くが
区画もなくやがて神社に出る(登山道あり、常山がのぞめる)


簡素見で最高点にやや加工されてるように見え、人馬が駐屯しててもおかしくないが
、しかし戦況が長期化し陣の域を出た城として発展したようなところには見えない。

416 :人間七七四年:2016/01/25(月) 14:17:52.35 ID:gloNoEM8.net
岡山市、迫川城
記録に残ってるが城跡を確認するに至ってない。しかし候補地として左の3ヶ所をあげ、、
(常山合戦の陣跡とし遺構らしきみえないがと陣山を上げてる)
湊山城を攻略して常山攻撃の緒戦を展開した。常山を中心とした上野方も多くの城を
郡内において、これを防いでる。毛利家は1城ずつ抜いて本城に迫る確実な手段。
嫡子三村孫太郎親親(アンチ三村)は宇野津、迫川に陣を取り、1200騎伝々

陣山から下った支脈。かつて山下は浅海?。gisに載り池近くから直登り。
尾根線にでるが、登りに2つぐらいの小頂上が(城らしくない)途中あるぐらい。陣山まで行けそうな気もしたが
、曖昧登りは危険なので止める。
引き返し、尾根傾斜の中央に土橋状と周囲に削平地あるが、これも違う気がする。
(更に下かと下れど藪酷く退散).


周囲の山にも険しい山容あるが、誰も戦国時代の城に興味を持たないから知れない。
地元に聞くも「長年住むがここが城とは聞いた事ない」いわれる。
迫川城が別山にあるなら、いつかmy戦国城を発見してみたい。

417 :人間七七四年:2016/01/25(月) 15:00:04.83 ID:gloNoEM8.net
岡山市、トンギリ山城
三村行清と伝えられ、一説には児島高徳。城山とも呼ばれ、とんぎりという名称も
かかる山型から生じたのだろう。実に要害。焼石が発見され、城麓の谷を勝負谷と呼び、
五輪等が多い事は注目に値する。馬場、木戸口、札場、城裏門など地名が今なお残ってる。
常山合戦当時戦場になった事も考えられるが、実証するに足る記録は残ってない。

池道から進み(ここが勝負谷?)道が消え、城裏から浅藪を直に登る。息を切らしながら
カラスに騒がれる。
西下に小郭、上に石垣跡?らしきある整形小郭。上が山頂曲輪群で隅に1m土塁(土塁と郭で山側、戸山城方面を
警戒してる、下り谷に堀跡らしき?)。山頂を歩けば浅藪だが高低のある郭が連郭式に並び、平野方面の端に到着。
視界が少しだけ利き、少し下れど郭いうほどのものはない。


地域の範囲で中規模で片岡城と並び遺構良好だが竪堀は見れない?。
1山折れを持つ頂全てが作事の丁寧区画あり(作事跡を見ると平素は戦国人も現代人と変わらない感覚を備えてたか思う)
、小郭も合わせると長く6,7段あり、楚石跡か転がった石散乱も2,3見える。
前に訪れた時に石垣もある、と聞いた気がするが、埋もれたか跡らしき?しか見えない。
遺構良好だが、典型的な山城でシンブルにも見え、周囲の険しい崖に守られ郭を並べるぐらいで
防備も十分発揮したのかも。
今は人気のない寂しい藪山で信じられないが、多勢が籠もり危機に瀕し大声を張り合い、
走り回って防戦する戦国武者を妄想。

418 :人間七七四年:2016/01/25(月) 15:29:43.21 ID:gloNoEM8.net
岡山市、丸山城(灘崎)
九十九山頂、消滅。 川張合戦当時常山城兵が出城として使用したと伝えられてる。
又は、小早川隆景、兵1万余りをもって児島に入り常山から西のところどころに陣取り、陣山
九十九山は当時の陣跡である。

気になってた城だが、ネットで調べ登りたくなる。場所がわからず城直下の住宅街の竹やぶから進む。
丘陵に出て、畑跡か?削平地が多く見え、最後尾に囲う勢いの堀切らしき?ある。
そこから一気に険しい崖になりキツイ(身軽な身でぜぃぜぃいい、戦国の肉弾戦が知略をもちいたろうが
どう行われたか不思議)
山頂は小笹が生える中規模?平坦地で、視界利けば眺めよさそう。
周囲の岸が急峻以外、簡素見で何も見えない。帰り印つけながら迷い、斜面に腰郭らしき
1つだけ見つける。

遠望は小規模ながらやや急峻な如何にも城がありそうな山容で、実際に低山だが
孤高な印象を受け、達成感を感じさせる山。
しかし城遺構らしきはあまり見えず?gisがいうとおり?消滅も考えれる?。
おそらく山上の屋敷地か常山合戦時の広さが限られた事から首脳クラスが詰めた陣跡か
(後気ずきだが、つながりの尾根線を見忘れた)
途中の丘の方がやや遺構にも見え、畑跡か宿営地?。

419 :人間七七四年:2016/01/25(月) 15:55:55.20 ID:UKjEpOPq.net
姫路城くらいしか知らないもんな普通w

420 :人間七七四年:2016/02/04(木) 16:43:27.23 ID:Q/snpkuIU
中道?バランスがほしいですね。

玉野市、砂山城(追記)
交通の要を押さえる絶好の位置にあり、城郭が想定される。伝承に
佐々木盛綱の城言われるが、不明。八浜攻防において小丸山の補給線
に位置する結果、毛利勢の構築と考察する。  又は砂山城という
名称以外なく史実等不明である。倉屋敷という名称も残り
(悪い者を入れていたと伝承)、城兵に利用された思われる
井戸も残っている。付近に東土井と地名。頂上は概ね平坦で畑地。


別山登ってしまい体力消耗。八浜合戦場近くの高地の小山。
戸立峠のある北側池路肩から登る。途中畝状竪堀らしき見つけ藪に
分け入ると、思わず叫んだ立派な畝竪が5本はある(通過した中央傾斜した
土橋?以外通さないという感じに造られてる?。池下まで伸びる)。
山頂はやや藪が酷い削平とまではいえない?細尾根で、進めば土山が見え
曲輪到着(楼台建ててたか、禿山で展望がきく)。更に尾根道を進み
主郭思われるやや広い郭に着き、下にも1段あり虎口岩?見て尾根下り
になり3重の堀切跡らしき。更に下り縄張図でみた竪堀あるか
思ったが藪が酷くなり断念。


地元で城山と呼ばれ、畑らしい雰囲気はなく?城らしいが、
実際に現在でも効果を発揮しそうな立派な畝竪見つけ
城伝承は事実だろう。
藪で限られた範囲しか見てないが畝竪が何本あるのか?
他にも遺構ありそう。
尾根上の明瞭な郭は間隔を空け3で(尾根道も郭?)、畝竪と郭のバランスを
考えたら在地の城を毛利が改修した事も考えれるか(在地でも築ける?)。

421 :人間七七四年:2016/02/04(木) 17:11:02.17 ID:Q/snpkuIU
玉野市、西田井城
室町。山頂は低平で本丸、二の丸、三の丸確認。詳細不明。
田井城には南北長期の国人、田井信高の居城。


砂山城と山間の峠を両城で押さえるように築かれてる。
別称田井古城、矢の端陣屋?。周囲の路地には立派な武将墓らしきあり。
2つある池の墓地道から藪こき。麓には土塁囲いが2段?あるが
畑跡?。途中架かる橋ある。だいぶ歩いた気がし藪もやや酷い。
(低山だが印付けないと必ず迷う)。
やっと山頂近くに着き、緩やか斜面に曖昧だが全長5m?、
深さ2M?の3本?の畝竪(本丸背後の備えだろう、横がやや手薄に見えたが)
ある。その上が本丸城で2段のやや広い郭。
くの字に折れた尾根崖下ると隅に土塁が伸び削平地あるが、谷に
段々もあり畑跡か。その先にも土塁が見れたが藪が酷くなり止める。
本丸戻り、逆側尾根にも2段の郭らしきあり、尾根渡り時に斜面に
4本?ぐらいの明瞭と曖昧な畝竪思われる発見。


今回は畝竪な旅になった。藪や体力の関係で大体にしか見れてないが
、加工された崖に守られた本丸を中心に、そこから下る尾根伝いに
郭が分散してる。峠に近い西の頂上も気になる。
畝竪が2ヶ所で発見でき、藪山だが損をさせない城?。毛利勢が
畝竪技術を使い峠を封鎖した事も考えれるか無知妄想
(本丸背後の畝竪は配置的には城遺構思うが、素人は畝竪類似
後世跡を知らず、専門家の判断を待ちたい)

422 :人間七七四年:2016/02/04(木) 17:25:10.43 ID:Q/snpkuIU
玉野市、丸山城(下山坂)
室町。長谷川の流れを北に、三方は低く崖となる要害の地。
宇喜多の臣、高畠市之正。

丸山城という名称は周辺にも3つあり間際らしい。
「平地の城で石垣も何もない、削られた」言われる。
土手の小川を背にし、土台状の高まりが見え、後世跡思われる?
段もあるが、裏に民家もあり畑や藪で諦める。

周囲の山々にも城らしい形状の認知されてない?城が
ありそう(児島郡史で調べると、この地域にも初耳城が次々?みつかり
城巡りは永遠か、、)。
山に囲まれた平地で現状からの想像では土台が小山跡で、そこに
築かれてたか。「三方が崖」とは今とは大分様子も違ったか。
理解されての破壊ならまだいいが。

423 :人間七七四年:2016/02/04(木) 17:48:38.57 ID:Q/snpkuIU
玉野市、番田城
南に突出した台地上。完全に削平されてるが、南端部に加工面が遺存。
また土器、サヌカイト採取と伝える。高畠左近の居城。

海に面した丘で知識なしにはここは元々埋め立てた島にも見える。
裏から住宅道あり、山頂は宅地街の一本道で、先端のみ山肌加工の
祠が祭られてる。

海への景観から宅地化し、周囲も崖で一方は岩盤の海に面し、岬先端に
僅かに遺構を残す?。海と関係を持つ勢力が丘に連郭式に郭を
並べてたか。海上からの船団に緊張がはしり、合戦があったかは
今となっては分からない?。




玉野市、杭原遺跡
館。鎌倉ー室町。標高20mの頂部に長方形の平坦面、東西南に四段の加工。

近くには相引城、両翼に池が突出する小丘。
先端の小川小橋から渡る。丘には畑跡と思われる?周囲に帯状に3,4段
巡り、石垣も僅かにあり、上郭に土高まりある。
その上の山頂は土台加工され広地で草木が自生する。
尾根伝い背後に堀切はない。

平地が見渡せるすぐ到着の低丘で居館のありそうな所だが
、歴史も知らず遺構を残す可能性は持ち、消滅したか。
象徴的に巨石が立つ背後の山塊に可能性は低いが詰めの城があるか。

424 :人間七七四年:2016/02/04(木) 18:11:11.22 ID:Q/snpkuIU
玉野市、梶岡城
本丸、二の丸、三の丸などの平坦面、堀切、土塁遺存。
ゴルフ建設に伴い発掘調査。平坦面はあるが城に関連する
遺構は確認されず、江戸時代の陶磁器を数点採取したのみ。
又は小字名の白坂をもって城跡の転化したものと見なしたのかも。
石を張り付けており戦国期の石垣とは思われない。畑作の営まなれていた
。砦程度の可能性も否定できない。

現状保存の方向だったらしいが破壊。池から斜面森を登る。
すぐゴルフ場に出て、ボールが散乱し危険で、場内に入らないように
近くの丘まで進むが、それらしきはない。

元々城らしい場所でないか?、一体はゴルフ場で完全消滅したか?。
この城から高畠城が望めるが、巨大な大名権力が介入してきて
時勢が急速になり、在地の上下もなく翻弄され、寂しく取り残される
城を妄想。





玉野市、屋敷山城
底平な丘陵上南麓に東郷屋敷あるが、佐々木一族の居城か。
細尾根によって高畠城に続くが、その間に低平地が2ヶ所。

高畠城の南の守りか、角度から急峻な高畠城が望め、付近に
畑石垣も多く、元々城石垣も持ち出したか。
屋敷山城は高畠城からゴルフ場内で森を越えた先か?。
もはや破壊されてるか。

425 :人間七七四年:2016/02/04(木) 18:38:19.44 ID:Q/snpkuIU
玉野市、高畠城
戦国時代の国人、高畠和泉守の居城。東児島に勢力を張った豪族であった
。三段の郭面、帯状の馬場、堀切、土塁、井戸。
北西部の突先に西の丸、番所。東の丘陵頂部に東出丸。東出丸の
金比羅宮へかけて大手路も遺存。

高畠氏は玉野市でよく聞く名、支城とされる城も多いが?ここが本城?。
山下から山頂に目立つ社が見え、細道の先にある社から大手路?の
登山道を進む。山頂は山間一体を支配したろう、平野が見渡せ2段あり、
裏に土高まり(ここまで出丸)。
そこから細尾根を進み、背後の山、本城は薄藪程度で尖った郭到着。
上が半?土塁囲いの主郭(全部でやや広く3段、北西下に井戸穴と守り郭)。
圧巻の高い切岸をもって下にも本丸を守るように帯?郭が配されてる。
更に下に土塁か?盛土あり。

尾根伝いは藪で断念し、簡素見で竪堀らしきは離れで1本確認したのみ
だが、一部土塁で郭を守り、切岸の高さがそのまま高畠氏の権力を
表してるみたいで、国人の域ではあるが?、御城と敬称したい威風堂々
とした城。鉾を立ててたか別称鉾立城とも呼ばれ?、地元が
「あそこは城があるから」と一部整備するように、高畠氏には
その先の大名化の道も少なからず見えていたのでは思う感じの城
(書き込み内容は言いたい事を言ってるだけです)。
周囲の城は破壊が多いが、看板がないのが不思議な遺構良好で、
高い切岸に政治効果を期待し、様々な人物が挨拶に登城してたか妄想。

426 :人間七七四年:2016/02/15(月) 12:28:54.81 ID:bRutLmRC.net
砂山、西田井地、高畠と畝竪群、高切岸と良好だったが何故かスレ表示できてない。
{玉野市、高畠城}で検索を。





矢掛町、山田古城
古くより城跡と伝えられる。城主蓮地和泉九郎とされる。

隣の城と峠を監視するように築かれてる。角度から急峻な山。
地元でどう思われてるか知りたく三人ぐらい尋ねるが城認識はなく、猿掛城や
隣の船ヶ迫山城を教えられる。城途中まで畑あり作業されてる方に「道はない、
行きたいなら猪柵越えていい」と許可をもらうが、柵を壊しそうで無念だが諦める。
猪糞多く注意。
他県の有名城より地元の小城に興味がある身としては、峠封鎖の関所には絶好地で
、コンパクトに何かありそうな城山だが。

427 :人間七七四年:2016/02/15(月) 12:49:33.40 ID:bRutLmRC.net
矢掛町、庄氏館(花房氏館)
鎌倉以来猿掛の城主で、備中の至る所に一族を配し、庄氏全盛時代を誇った。
土塁の名残らしい高まりあり。

「御土井」と看板。近くには立派な庄屋門。微高地?で竹薮手前には庄氏館と小石碑あり、
隣には一部重複と言われる花房氏知行所址と石碑。
裏の竹薮に進入するが、藪隅に低土塁が石碑方面長く伸びてる(内部は藪で
簡素見だが遺構らしきは見れない平地)。
畑に接する横隅部にも土塁?や石垣らしきあるが、館遺構か知れない(藪内に
上部をセメントで固めた、現在でも深く水を湛えた石組井戸があるが城遺構か)


簡素見で竹薮内が本丸で?、周囲を土塁で囲ってたのかもしれない。
藪背後に祠を奉り、付近も平地?の畑や民家で配置想定できそうで?、弓場、馬場など
いつ命を落とすか知れない乱世にあって、戦国武者が武練や教養を磨いてたか。
隣に古そうな江戸時代?の庄屋館があり、戦国城が下地となり後世館に便利よく利用されたか。

428 :人間七七四年:2016/02/15(月) 13:07:02.67 ID:bRutLmRC.net
矢掛町、原ノ砦
水田から比高50、60m。猿掛城の出城だったと伝えられる。


庄氏館近く、宝泉寺向かいの山魂先端の円形?小山。
小川から藪こき、相当藪が酷く丘上までが猛烈竹藪で絶望的気分。
削平された帯郭状の二ノ段に到着し、主郭を囲うように横堀と一部土高まりが巡る
(堀先に井戸穴らしきや主郭へとつながる通路があり、堀は後世排水設備?)。
4m?ぐらいの切岸登れば、そこが頂上主郭で、こちらも削平されてるが猛烈藪。

2城目で藪コキ体力限界で、コンパクトだけに城遺構見れるかと期待したが、
城内が猛烈竹藪で規模、遺構などほとんど見れず。
城らしくも見えるが低丘だけに畑改変も考えれるか。
少し離れから臨んでも二段あるのが確認でき、楼台か何か建てていたか(主郭も
極狭ではない)。
輪郭式に城館が築かれていたのかもしれない。
猿掛城の出城とは確かな理由があるか。

429 :人間七七四年:2016/02/15(月) 13:36:23.99 ID:bRutLmRC.net
矢掛町、要害山城(追記)
山本の城、妹尾の城として城主江木平四郎がある。
東、西、堀切から北にも段が続いている。


国勝寺横山道から藪コキ。
加工岸が出迎えてくれ、尾根に4段?ある(後世道か虎口3?、浅堀、郭内に珍しい?
巨大?2m土塁土橋で厳重警護に囲い、土止め石垣で補強した微穴跡?らしきあり
、井戸守土塁?)。
広くとられた主郭到着(背後に土塁、腰郭2?、窪み)。裏の尾根続きは二重堀切で
断ち切る(そこから藪酷く止める)。
主郭から北西にも帯郭、犬走り持つ長く4段?あり、(郭内に郭が二重構造?に土台とし造られてる)。
先端郭の谷下途中には石垣を持つ堀切土塁が構えられ、更に下谷周辺にも竪堀など
遺構あるが止める。

谷と加工された崖に守られ段形造成も丁寧な遺構良好で、堀切など当時の緊張感が伝わる。
遠望角度から緩やかな?200mの?低山だが、主郭から三方?(一部想定)に郭を配し、
単に郭を並べる一辺倒でもなく、郭内に幅をもって県内では珍しい?用途不明?の構築物を築き(少し
近いのは矢掛岩屋山城?あるが)、一部?谷にまで神経を使い、隣の茶臼山城で存在感が薄れるが、
見れた範囲で放射型?連郭式に10段近くあり、やや大きく確かな造りで、縄張り図の何も知らないが、
描くのに丸1日はかかるか。
採掘場が近くに迫ってる?のが気になるが、刀を提げた一体誰が築いたのだろう。
討死者も後世人は誰も知るよしもないが出てるのだろうか?。

430 :人間七七四年:2016/03/17(木) 11:10:11.50 ID:xqha9rsK.net
てすと

431 :人間七七四年:2016/03/17(木) 11:31:29.46 ID:xqha9rsK.net
岡山市、洪庵トンネル上の城(仮)
室町。宇喜多の将が鍛冶山城で毛利に抵抗している。毛利方では命じて
これを討たしている。鍛冶山城は取り返され再び宇喜多方が入城す。


鍛冶山城と宮地山城に対抗するように築かれてる先端丘。トンネル横の墓地から藪コキ。
浅藪程度でいけ、斜面には畑跡か段々ある。
城跡は帯郭らしきえて山頂は平坦で、背後に幅2、3m?、高さ2mない土塁構築。
下切岸下れば中央に土橋設けた、浅いがやや幅のある堀切が断ち切る。
その先にも二ノ丸にあたる?加工平坦地あり、2つ目の堀切?。その先は鍛冶山城に
ずく尾根で止める。(乾燥山火事注意の消防車がしきりに訴えてたが火のスピード
考えれば山城巡りなどひとたまりもない)


藪で本丸内部が見れてなく、周囲が畑段々?で不明だが前方に帯郭、後方に堀と土塁あり、
4段ぐらいの小中規模?。鍛冶山城方面に手の込んだ作事を行い?こちらを警戒し鍛冶山攻撃陣と
見るのが素直か。
水攻めにも使用されたろうが、加工が丁寧で館城の可能性も?。砦クラスだが
抑えておきたい占地で?、ここでも局地的な奪還戦があったか。

432 :人間七七四年:2016/03/17(木) 11:58:28.46 ID:xqha9rsK.net
岡山市、宮路山城
賀陽義藤。毛利氏の境目7城のうち最北に位置した城。3月16日秀吉宮路山城を攻める。
一時に攻落させようと包囲するが、弓鉄砲を放って防戦する。和平の策略が行われ
、その結果案内者であった船木が密通しあっさりと城を明け渡した。これを見て
乃美元信は備後の居城に帰ってしまった。


足守陣屋公園から藪こき(帰り同公園内に鉄塔道、但し立ち入り禁止ある)。
塔上の猛烈藪内に冬眠覚めの蛇。藪超えれば尾根は順調で、山下に伸びる堀切。
城近くになると、三重?堀切。北?にもくの字に折れる二重堀切。
城横腹斜面にかなり下に伸びる6?の畝状竪堀。横にも二、三重の堀切。
重厚な堀に周囲を守られた城内は(瓦散布多く藪もさほどでない)細尾根に土塁が伸びる。
城虎口辺り横腹にも大規模?畝竪。
その先にも尾根上に郭段々と虎口?あり、周囲を二、三重の堀切で守る箇所が多い。


鍛冶山城方面の一方を多勢の軍を引き受ける事も想定か、隙ょ与えないほど堀が見え、
尾根上郭は10段ないが?、全容を書くのを諦めた土塁と堀の組み合わせ。
毛利?が神経を使いこの城に賭けた思いが伝わり、調略で落城したとは相当落胆したろう。
この周辺の城は鍛冶山、立石、日近と明瞭に遺構を残すが地元の関心は低い?。
しかし高松城が包囲される頃には大局が決まってたか思わす城?。
訪れた者に圧倒的に重厚な堀数がインパクトを与える城。

433 :人間七七四年:2016/03/17(木) 12:23:02.58 ID:xqha9rsK.net
岡山市、大井城(仮)
室町、尾根上。

宮地山城から近い大井神社がある足守川への先端?丘。城直下の畑墓から登山道ある。
途中帯郭もつ平坦地。その上の山頂は緩やか斜面と小平坦で城らしくないが、
川と平野が臨める景観で、西?に小郭状の2、3段で藪止め。
山頂を挟み、逆側切岸下に城証拠になりうる堀切状が尾根端に見れる(横下に土塁土橋?)。
その先尾根続きはやめる(この先が本城域か)。

さっきまで猪が居た跡が多く怖くて早々の下山となった。
一見城には見えないが、小規模な段形状や堀があり、山頂と周辺に築かれた砦程度か?。
しかし農作業をされてた方に聞くと城を指し[おじいさんの話で向こうの方に見張り場があった]と言い、
向こう、がどのくらい先か知らないが城はやはり存在したか、見た場所は出丸か(後調べ遺跡地図には少し奥に
示されてる)
全貌が見れてないためなんとも言えないが、宮路山城の監視砦で織田方が迫るとあっさり放棄散逃を妄想。

434 :人間七七四年:2016/03/17(木) 12:36:54.07 ID:xqha9rsK.net
岡山市、吉?城(仮)
室町、尾根先端、連郭式。

日近城の隣丘。
丘横斜面から尾根への切り通し登山道あり。尾根上からは浅藪だが傾斜をえて、
すぐ警戒堀切あり(足守地区?には必ず簡素城でも堀切あり?)。
その先はシンプルな平坦地で(片方に沿う緩やかな帯郭状)、丘先端に窪み郭?
と土高まりを見せ、下に加工一段。

5分ぐらいで城到着で、見た範囲は加工跡と堀切あるが尾根は二段のシンプル構造で
日近城でも合戦があったらしいから?、その隣に迫った付け城か。
藪斜面に畝竪などあるかな?。こんな城でも地域の謎の多い戦国史にはヒントなのかもしれない。

435 :人間七七四年:2016/03/17(木) 13:06:48.86 ID:xqha9rsK.net
金光町、長山城
注意深く観察すると面白い遺構(土塁状に細長く削りだし、侵入者は左右に分かれて
主曲輪に進む)。「城ヶ平」と地元では昔から伝えられ、鬼打やま城の出城とも。
中途半端な造成部が目立つ。しかし見張り場のようなものでない、むしろ規模が大きく
大人数が収容できるようなものである。


国道2号側から急斜な墓地上の畑を進み、鉄塔到着。そこから尾根線の浅藪渡り、
小頂上をえて、虎口状と低加工岸が見え城到着。
山頂はよく慣らされたやや広い平坦地で(地元いう石垣見つけれず)、北?に行けば虎口あり、
下郭が検問場か郭段が2、3見える(城前方を守るように帯状に本郭をやや包む)。
城の逆側は高さ1m、幅3m?の現状では素人目で土橋に見える?土塁と言われるものが長く伸びてる。
その先も尾根は平坦に近いが積極的な城域というほどではない。


角度が悪いか思ったほど美しい山に見えない。山間街道?を監視するような占地で、
加工跡が明瞭に残り(町史のいう中途半端な造成とは構造上の事か)、全周を1Mから4M?
の岸で囲ってる。町史に従えば前後両方に防備を備えてる(自分が進入した虎口?は横腹だが)。
しかし周囲の尾根に警戒する堀切もなく?加工が丁寧だが城ヶ平だけに、シンプルな陣城的な城か(相手の
裏をかく事に必死だった戦国にあって兵の往来を妄想)。
絶えない争いを鎮めた?細川氏入国以来、城郭発展しなかったか無知な妄想。

436 :人間七七四年:2016/03/17(木) 13:25:55.21 ID:xqha9rsK.net
金光町、松本城(仮)
城?、尾根は幅広で郭面らしき平坦面。西側に石列?認められる。
上竹には環境とし中世的なものが残り、地元の記憶では厚みが1mもあるような
土塀の跡があったという。大築地のようなものであったと推測され興味深い。

上竹城の対比のような位置にある丘で、感社という小社から上る。
近世城のような石垣群があり、大きく採掘されたような場所で、遺構らしきもあるが?諦める。
今度は背後の池畑から登るが山頂は小平坦なだけで城らしくない(急に崖場となり注意)。

帰り先端の山頂が見れてない気がするが、後世の採掘などでも消滅か?.

437 :人間七七四年:2016/03/17(木) 13:55:11.37 ID:xqha9rsK.net
鴨方町、益坂城(仮)
城、鎌倉ー室町。郭面、北に堀切確認。

背後に西地山城を控える支脈先端丘、給油場の裏丘。
前方に登山道あり、すぐ藪に消えるが城には直ぐ到着。
主郭は小中規模で小薮に覆われてるが急峻な加工?岸に守られ、緩やかな帯郭らしき
も付属する(横に判断しかねる竪堀土塁状)。
裏には二の段目になる平坦地あり、そこから山尾根続きに深さ2Mない、幅も5M?の
後世道にも使用されたような堀切が断ち切る。


地元で聞くと、竜王山城を教えられ「ここに城はない、畑を作り桃を売ってた」と話す。
二段とやや立派な堀切で小規模だが城らしい雰囲気はあり、根拠が遺跡地図のみだが、
若干後世改変された在地の城館のようなものがあったのかもしれない。
一部薮だが比較的簡単に全容が見れる城。


今回の旅は事実上の2城で物足りず、倉敷?ポリテクセンター側の道路からすぐの善昌寺近くの
朝日山城目指すも場所がいまいちわからず。
近くには伝承の船岩山城(仮)があり、狭い農道が山頂まであるが、城が山頂なら
畑や後世施設で多くは破壊か。次回持ち越し。

戦国城シーズン終了。戦国当時のテンションを肌で感じれる城が多く感慨。

438 :人間七七四年:2016/06/08(水) 11:17:07.06 ID:0Q4hdGqz.net
テス

439 :人間七七四年:2016/06/08(水) 11:46:45.74 ID:0Q4hdGqz.net
岡山市、上中野城
金川城主の松田氏に従った名主層の前田氏代々の居館。周溝及び地名が残る。

遺跡地図に載る岡山中心部に近い、周囲に山は見れない宅地化した平地の城。
周囲には「属将を配した」とある高柳城がある。
城周辺思われる場所は宗忠神社と完全な住宅街で、電柱にも城を思わす地名表記は
簡素見ではない。
場所違いでないなら施錠された小規模墓地が中心辺りにあり、そこの石碑?に城痕跡あるか。


わずかな滞在で宮司や地元民に尋ねても知らない、という回答で城根拠に自信をなくすが、
綱濱ノ熊城のように宇喜多直家が岡山城に入城するまで、乱世の均衡を保ってた城館か?。
現状では小川はあるが、地理的要害性はみれず?、戦国当時の風景はだいぶ違い、
典型的な土塁囲いの城が存在したか。戦国以前のさらに中世臭い城館か?。
宇喜多氏の本拠に近く、生活の中に溶け込む、間もない泰平の世にあって物騒な城から
役割を変えた近世的建物と、いまだ中世的色彩を残す城痕の混同を妄想。
「城とは聞いた事がない」という話だったが、戦が迫ったり、現代人と同じように
さまざまな配慮に神経を摩耗した人物がいたか。

440 :人間七七四年:2016/06/08(水) 12:08:35.88 ID:0Q4hdGqz.net
洪庵トンネル上の城、土塁に厚みがあった気がし鍛冶山城から尾根伝いに攻め寄せる
敵に対し、一台の戦車のように切岸と楼門で防いでたか(火災の原因になるらしく無理か)

西田井地城の小谷と土橋の畝竪、マイナーゆえか?圧巻

矢掛要害山城の段岸に見えた奇妙な土塁、、後世削りか?、専門家がみれば即答?

山に行くと唸る音や微かに言語らしきを発する音を聞く事が多い。釈迦は霊の存在を
否定も肯定もせず「現世にあって非科学を語る事は意味のない事」と話すし、
妖怪大先生は「人間は100年しか生きないのに、そういう事に簡単に答えを出してはいけない」
と話すが、学者の本分とし研究されてる方はいるか。


城の数では圧倒的ながら一般人にはその存在すら知られてない中世城。
戦国と冠り、縁の薄い??江戸時代の城しか紹介しないbs番組には裏事情があったとしても閉口する。
どちらも大切にされたい。

道もない山を藪コキし不安の中、山頂間近を示す空が見え、人工痕を見た時の感動はかえがたい

歴史は先の見えない将来に対し、「その後」をすぐ教えてくれるのが魅力とある。

441 :人間七七四年:2016/06/08(水) 13:34:35.92 ID:0Q4hdGqz.net
testo

442 :人間七七四年:2016/08/14(日) 16:37:18.30 ID:jHA0AjNO.net
真備の南山城、やはり現在消滅の畏れがあるみたいだ゜
城郭体系の縄張り図は簡単だが、倉敷市で上位に遺構残す゜
地元の宝、保護を切実に望む。

443 :人間七七四年:2016/08/14(日) 19:15:01.51 ID:vsM7g1G4.net
山中鹿介の上月城くらいか備前・美作

444 :人間七七四年:2016/08/16(火) 18:45:39.67 ID:m1GInVhC.net
長文糞野郎は岡山県民か

445 :人間七七四年:2016/08/19(金) 10:48:42.42 ID:vgzeAH9e.net
テスト

446 :人間七七四年:2016/08/19(金) 11:21:49.25 ID:vgzeAH9e.net
高梁市、丸山城
本丸、二の丸、三の丸あり。近くに根小屋。土塁残る。赤木忠房、忠直の居城と伝える


180号から来れば素晴らしき映画のような理想的な山間の平地に広がる田園風景の景観があり、
城がある現地も狭い山間地域で、現在も人口は少なく?、それを物語るように、この周辺には
小規模な城が築かれていると現地看板(縄張り図と濃厚な説明のある看板がそれぞれ4つ設置
されておりうれしい地区。大群に包囲されながら知恵を絞り撃退した伝承がある城があるが
山上は自然地形に近いらしい

丸山城は舌状の?の山で寺や民家もあり、他に夏場の城巡りを想定していなかったため
観察できない(縄張り図には段形が築かれてたみたいだが古老に教えられた丘先端の一部を
見ただけで、後で確認すると山上?の方みたいだ)

現地看板に水攻め以降の戦局の移り変わりを見越して改修された、とあった気がする。
ここを含む看板で見つけた4つの城群の中には館的な要素の城もあり、地域クラスの城ばかり?
だけに、大名の介入もあるみたいだが、狭い地域だけに領主と住民の結束が否応なしに強かったかと妄想。
領主?の鎧も現在に伝え、地域の人も城に篭ったかと妄想し、現場に立てば戦国城も
戦争遺跡である事が実感でき、戦国に限らず昔を知る事は価値観を揺さぶられる楽しさがあり、
記録にほとんど残らない?地域の災いを生きた証?である城も見てみたい。
遺構も見てなく、登山道こそ示されてないが、道沿いにそれぞれ設置された看板があり
満足できる城旅とあいなった。

447 :人間七七四年:2016/08/19(金) 12:14:17.50 ID:vgzeAH9e.net
笠岡市、園井土井舘
中世から近世までの居住跡、中でも40近い礎石が用いられた大規模な館跡が見つかった事は意義深い、
中世から近世にわたる多数の土器や古銭などがあまた出土した(現地看板)
園市の事を○?の市とも書く、中世村落の自治組織の事である。土井や石丸(石で囲った砦)が
小字名として残り中世へと誘われる。
北条早雲ともいわれるが、その前身の伊勢盛定が園井、尾坂を領したという。

現地は関所のような山と山の谷間の関所のような地形で?近くには詰めの城の?園井城がある。
高さのある立派な高架橋が横断しており、高架下は柵のある草地で隣は民家と畑で、その辺りが
城館だろうが、遺構が眠っているのか?ウロウロできない(人生初の職務質問を受け「城!?」と戸惑い例の不思議な顔をされ、
そして考えるように興味を示され楽しめたが、その後体を触られ財布の中身まで調べられ
、あくまで愛想はよく仕事なので、という話だったが、周囲からは犯罪者みたいで、職質はいいもの?ではない)

「諏訪神社は園井に居住する後藤氏の先祖が奉祭したもので、県道の西側では堀と柵で区画された館跡が見つかっており」と
社看板にあり現状から栄えた当時を想像など全く困難だが、平地であり地表面に遺構が眠るかもしれない?。
職務質問を受けたように余り遺構探しができなかったが、近世以前の?豪壮な城館なら
当時の情勢の反映や、挟み込む両翼の山にも警戒した山上の城砦があったかもしれない?。

448 :人間七七四年:2016/08/19(金) 12:44:51.29 ID:vgzeAH9e.net
笠岡市、小平井城
現在は大井運動場になっているが、かつては土塁残存。

山から伸びる支尾根丘先端、園井土井館から距離少し。児童の下校時と重なり又あの入念な
職質受けたら敵わない(なぜほとんど破壊されているような城まで訪問してしまうか自嘲するが、
現地にはゾワゾワー!ッとする高揚があり、補えない心の欠陥が戦国城への渇望となって現れてるのだろうか)
現地は丘で山頂は周囲から少し小高く、完全に整地された平地の広いグラウンドで柵に覆われ中には入れない。
改変受けてるだろうが、4m?ぐらいの切り岸状がグラウンド下を巡り、下に並ぶ倉庫辺りが帯郭?。
帯郭?には屈折する2mぐらいの横堀状が大きく?周囲を巡り囲う(丘背後の警戒?
ガチャガチャ刀槍の小競り合い妄想、隣の民家のある丘先端方面にも横掘り?。
更に先端斜面にも遺構眠るか?)
グラウンドから東は多くが寺と畑化。


丘上まで道路が通じ静時なら展望のある気持ちのいい場所か。
近くの社には「備後国の渡部○?之ジョウ正が平井村の領主となり」とあり、
大半がグラウンドに占められてるわりに、民家、寺、幼稚園と所狭しとある。
看板もなく?痕跡はほとんど消滅してるだろう惜しいが、現状でも当時の城が空想できる雰囲気はある場所で、
グラウンド下には城痕跡思われる遺構も見られる?。
狭い山間地域ながら丘上から景観も効き、丘上と丘下両方からあり日しの堂々とした城を妄想し
、戦国戦乱を生きた{領主の思い」に思いを馳せる。

449 :人間七七四年:2016/10/28(金) 16:40:16.97 ID:8/6ivfst.net
テスト

450 :人間七七四年:2016/10/28(金) 17:10:41.59 ID:8/6ivfst.net
徳吉城の端の土高まり、今思えば土塁痕跡か。

士良計城、発掘すれば部分的に可能性は低く総石垣?

境目7城の西知山城の圧倒的な畝竪と二重堀りの組み合わせ、記憶のかぎり?
知らない

玉野市は島だったわりに楠城、砂山城、西田井地城などなど畝状竪堀が多い?のは意外(スレ表示
できず、{戦国時代板 デスクトップ}で確認)。
八浜城でも見つかり?毛利と宇喜多の激戦時の遺物か無知妄想。地理に当時の軍勢の痕跡が
刻まれてるのが面白い。

道迷いの山城巡りには車一台の幅でもストレスのない、小回り&快速&低燃費の原付並み車体の小型バイクは重宝。
気分は物見兵。

男のロマンのように戦国時代が好き、と語る方は多いが、[大阪夏の陣」や「関が原の戦い」止まりで、
地元派は少数派か。

親族が酷評するように、山崎豊子?の小説の中でも先祖が悪役なのには複雑な心境。

「未来は不安と希望でできている」とあったが?、藪山城巡りは恐怖とワクワクでみちている。


継続して書くと義務のように思え、書いてきた安易な無責任書きが痛々しい。
文字だけのスレなので建設的な意見、感想がほとんどこず、スレ閲覧がされてないのは幸いでもあり、
不幸でもあり。
ただ自己満足以外に苦痛を伴う城巡りをして書き込む意義があるか自問自答。
脳裏に焼きついた{戦国城依存症}と診断でき、意識の潜在パターンの反復が、まるで
前世のカルマを消化するように今年も巨大イノシシに脅え、一人薄暗く寒い藪山に突入する思うと憂鬱。

451 :人間七七四年:2016/10/28(金) 17:40:39.73 ID:8/6ivfst.net
本に「実際に激戦があった城はさほど多くない。文献資料で城攻めが確認されても、
考古学的にその痕跡が確認される事はさらに少ない」とある。
戦国時代が何年続いたか知らないが、1400?以上の城があれば乱立の長い歴史の中で威嚇程度の
小競り合いは多くの城であったか?、と考えるが白兵戦のような激戦となれば事実はそうなのかもしれない。
しかし素人愚問として、戦後処理として城内は清められるのでは?。

銃(遺跡)は剣(記録)より強し?
遠くの親戚(大城)より近くの他人(地元小城)?

無人島の過酷を思うと文明?は尊いが、利便性の為に、よりによって瀬戸内国際芸術祭りへ出品級の土木遺産、
真備南山城が犠牲になるとは、、。
市民レベルの価値の再確認はされたか?。本では最近戦国城も注目されだした、と景気よく載るが?
地方の現実は厳しく{普通に生活してる人}には存在すら知られず、知らないでの消滅は残念。
優秀な(敬意と社交辞令)専門家の方々には{山肌にしかみえない}という中世城郭の魅力の難しさを克服し、
古墳という言葉程度には知名度を世間に浸透させて頂ければありがたい。


城の首砦、夏場でも通仙園と平坦な岬道が整備され、雨水流れを起こしてる中に
重厚な面影を見る?。
先端の砦から瀬戸内海?の島々を望み、看板もない小規模砦だが重視された造り。
現代とは比にならない中世兵の苛烈過酷?を代弁し、島唄の「島唄よ 風に乗り 
届けておくれ 私の涙」が浮ぶ美景観。
発掘すればどんな情報が出土するか。

452 :人間七七四年:2017/02/16(木) 11:14:14.04 ID:GW1Cx/fV.net
テスト

453 :人間七七四年:2017/02/16(木) 11:41:06.91 ID:GW1Cx/fV.net
倉敷市、田ヌヌヌヌ城(漢字読めない、追記)
簡素に調べる限り、室町と以外に情報なし。

この城は気になってた城!。
ほぼ独立系の低山で八幡宮沿いの道路から山道に入り、山麓に二本の4m級の深堀状を
見て(何の跡?、城と後世の類似跡は間違い易いのでガイドラインがあればいいが)
、自然地形を登るが藪というほどは困難なく到達。
城がある細尾根は前後に土塁高まり(東土塁は明瞭加工で、郭内の両脇に犬走り状、
土塁下に2mない切岸あり、下に採土堀切)。
その先は自然地形で緩やかに下る尾根。


登山道もないが?誰もいない人工物もない、全くの自然の中で早朝の朝焼けを受け、
清清しい城廻となった。
城には傾斜のある帯郭らしきも付属するが?細尾根の単郭城と印象で、城横腹を警戒すべき
斜面にも竪掘りもなく?、明瞭と曖昧な加工跡が入り交じり、緩やかな尾根伝いの攻め上がりを警戒した
小中規模の城か、隣の稗田城と同じようにやや改修された古い時代の城、陣と無知妄想。
簡素だが重点部も見え、常山合戦時には湊山城を足掛かりに毛利勢が児島に攻め込んだと記憶するが?、
ここも誰かしら中継点として守備したのだろうか。

454 :人間七七四年:2017/02/16(木) 12:23:10.77 ID:GW1Cx/fV.net
倉敷市、岩山城
由加山へ至る道を見下ろす山頂に所在する。築城時期や城主名などは伝わっていない。
堀切の多重化と畝状竪堀群の存在、更に両者の連携など新しい要素が見られ、
毛利氏の影響を受けた築城が考えられる。
又は、進行勢力による純軍事的な要請から構築されたものと見る。

田ヌヌヌヌ城の近くで、この城は公機関の調査もなされ?ネットにも多少載っている。
池がある児島墓地?のトイレ背後に鉄塔道があるが、城には途中から、わかりずらい獣道らしき
を行く羽目になり多少時間がかかった。

主郭までの明瞭な二重堀(中央土橋)。造成された主郭と付属守備する帯郭。
主郭背後の切岸下の二方面には浅堀らしき2か所?
畝状竪堀も3本?ややわかりずらいが、明瞭土塁で斜面に築かれてるのを発見。


池を透かして望む城はいい景観だが、城は藪がやや覆い、遺構を探索する気が失せ、
早々に下山してしまい後で後悔。
{村民が協力的でないが、城の完成を急ぐように}と現代に残らなかった幻の書状を妄想。
岩山城というように?多少ゴツゴツ岩が城の一部のように散乱しており、意外と藪城で、
2セットの畝状竪堀の内、1セットしか見つけられず、岡山図書館にある縄張り図を
もっと参考にしておけばよかった。
小中規模だが支城?になったのは間違いなさそうで、曲輪造成と堀切があり、後世の作事跡と違い、
城跡なのはわかる。
埋もれ忘れられた戦乱時代の城として、マイナー城ファンにはいいか。

455 :人間七七四年:2017/02/16(木) 12:44:22.54 ID:GW1Cx/fV.net
倉敷市、山村城?
小早川伊豆守の陣屋、又は詳細不明。

多分常山合戦当時の陣跡で、それ以前に豪族の城があったのかも知れない。
情報が少ないので。占地も曖昧なまま、ユガ山の山麓の蓮台寺が陣跡か、山頂のユガ山が陣跡かと勝手推測。
寺は霊山の由加山として有名で?、観光バスが来るほど渋滞。
観光客と山斜面に大規模?な寺が築かれ、新たに山を削る工事も進められており、
陣跡を探す余裕がない。
寺にある遊歩道を使い寺最高峰?の展望台まで行くが城らしき跡はない(山肌を覗き込む不審者で、
誰が「ああ、陣跡を見に来たのか」と思ってくれるだろうか)。
当然、寺の来歴にも陣の事は一字も書かれていない(なぜか真田幸村の顕彰?碑)。


寺は興味ないがなかなか味わいのある寺。
背後のユガ山も実見してみたいが、寺が合戦時に陣場になる事は多いから、蓮台寺が陣跡か?。
常山合戦当時、少数の上野方から攻められる想定も少ないだろうから?、ここが陣場なら陣所造りも簡素だったか、
或いは後世破壊で遺構は奇跡的でないと残存してないか。

456 :人間七七四年:2017/02/16(木) 16:39:29.20 ID:NqTKQTPr.net
な、畷
なぜか変換できる

457 :人間七七四年:2017/03/09(木) 13:59:28.91 ID:F5FQUw1a.net
備中高松城水攻めしか知らんのお〜〜〜

458 :人間七七四年:2017/03/17(金) 11:25:24.12 ID:i6ZhnB1Mr
456> 都合上たまにしか覗けないですが、また建設的な教示お願い致します。

459 :人間七七四年:2017/03/17(金) 12:07:05.12 ID:i6ZhnB1Mr
真備町、木村山城
南北に8郭が連なる連郭式山城。
おそらく備中守護細川氏の代官であった安富氏の一族に次いで、
上野氏が早くから他の多くの国人諸氏を押さえて勢力を張っていたことは
確かである。
荒平山城攻撃の時、毛利元清の本隊がこの城に陣を構えた。
一ノ壇が主郭で、この郭は瓦葺きだったのか、瓦が採集できたのは、
この城と猿掛城だけである。


ネットにも多少載り、池がある登山口から逆順路を進む。
馬入堂山城が途中築かれ、セットで行くのがお勧め(太平の天守も高石垣も
ない戦国時代真っ只中?の馬入堂山城を見て、如何に戦国の城が原始的な
風景をもってたか思ったが、プランにもとずいた丁寧な加工を見る度に
その考えは誤りかと感じた。 この城は{中世城郭の縄張りと空間}と
いう本に畝状竪堀の存在が示され、縄張図を忘れたが標識51辺りで
自然地形に近い畝竪?を確認)。

木村山城は主郭が整備されてるが(感謝)、後は城内の登山道以外は
藪で遺構確認をほぼしてないので何ともいえないが、明瞭加工で
一部高い切岸も備えた段々が築かれてるのがわかる。
石列もあるが江戸時代の人が「城にあらず、寺跡なり」書いてた
記憶があり?、城直下で竪堀りらしきを一本見たのみで、
馬入堂山城よりは緊張感なくシンプルな印象。
ただ空間的に城らしさも十分あり、三村征伐時に連なる
馬入山と木村山どちらが主力だったか?。
やや規模もあり、両利用だろうがここは城か寺跡か?
誰がこれだけのの加工段を築いたか?]
無言の存在感が不思議な感覚。

460 :人間七七四年:2017/03/17(金) 12:40:04.13 ID:i6ZhnB1Mr
真備町、沖城(仮)
小田川と真谷川の合流部方向へ突き出た小丘陵先端頂部
平坦部あり浅く切り通し状になっている。帯曲輪等の施設なし


遺跡地図に載る。
東の近場には消滅する予定の南山城があり(工事伐採され戦国当時の光景
が甦った今が最後の見学チャンスかと思ったが、今回立ち入り制限
されてた。
戦国城の標本のような素人でもわかる見事な城で、高橋川を
挟んだ土手道路から望めば中世の城、間違いなく人目を惹く景観で、
建物復元して観光化か公園化かできないだろうか、、100年先に
戦国の城が注目される時代が来るかも知れず、
色々問題があるのだろうが、破壊すればそれまでで、長い目で考え
可能性があるなら工夫して頂きたい)

川土手の小道から城がある藪を直接登ると、本当に丘上でなく、
珍しい?先端に近い場所に築かれ、すぐ到着。
小さな楼台状の1mから?ぐらいの高まった平坦部があり、
背後には切通しというか、当時の深さが知れない浅い掘切りあり、
それだけの遺構。

ここが城なら?訪城前まで中世の地理は知らないが、前方の川を利用した
城かと空想したが、郭幅は精々2,3人が居れる極小規模で
加工跡は明瞭なので個人的好み城だが、砦とも言えず、番兵の心理的不安
となる盲点の高所、背後尾根からの斬り込みを防ぐ為に、堀切を
設けた川の物流を監視した?物見場だろう、無知考。
高台に立つ兵を空想すればいい景観か。

461 :人間七七四年:2017/09/06(水) 20:20:28.90 ID:A0GbCF56.net
☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆

462 :人間七七四年:2017/11/18(土) 15:26:55.74 ID:jilG/C4Z.net
河川道路から見た倉敷市の南山城、威風堂々《ここにあり〉と存在感がやはり抜群であります。
武骨な中世の櫓や柵、建物など復元して、古墳と同時に歴史公園化はやはり治水問題?となるとテクニカル的な問題があり無理なのでありましょうか?。
あの辺りは観光資源もあまりありませんし?、専門家の方々が一目置く南山城。
現代にあって中世的な気分も味わえ、戦国時代のお城がどういうものであったか、市民の学習の場となれば、歴史公園化としての史跡保存を思うのでありますが。

463 :人間七七四年:2017/12/14(木) 08:20:53.27 ID:k0CAu87W.net
岡山市、野殿城
富山城と一連の関係がある遺跡。環濠集落を利用。戦国時代末期に宇喜多左京亮が形成。
明智光秀に近い中川清秀に対し返書を送っていて、それによれば野殿で貴下の書状を読んだが、、。
富山城主宇喜多忠家がその子に城を譲って自分は今の野殿の地に屋敷を構えこれに隠棲したといい、、。
野殿の全域を見るとき、大川と称する沼にとりまかれた全村59ヘクタールの還濠集落−−野殿そのものが、構想雄大な平地の城郭の建設地として条件を備えていたことに気付くであろう。
宇喜多左京亮が富山城の建物を野殿に移したのは城ノ内であったか知れないが、戦争気構えののこる当時の武将として、水に守られこれほどの要害を見のがす筈はない。また富山城の根小屋があったとしても究竟の場所である。


この城はネットで検索すれば詳細が詳しく載ってる。警察署の裏、新興住宅地と宅地が多く建ち、わずかに?畑が残り、そこに墓地があり、 その近くの道路看板に【野殿と中国大返し】とあり矢坂富山城の支城があったとある。
城周辺は小さな用水路が巡っているが、住宅が多くあり、ウロウロもできず綿密な下調べをしていないため、軽く通過するだけでは何が何だか分からない 。
浮島を持つ?水堀の城→のどかな田んぼ化→城の面影ない宅地化、というのもノスタルジーか。
天下人、豊臣秀吉この生活感のあるどこかで腰を下ろし、天下取りの構想の為、(信長は生きている)と撹乱情報を発していたか。宇喜多本家から睨まれる曰く関連城でもあり、秀吉が勝機を掴む大事な時期の城でもあり?日本史的に重要な場所なので大事にしてほしい土地である。
現在は面影は少ないが?〈岡山市史〉に掲載された古い写真で見れば沼地で、いかにも城がありそうな場所で、専門家と歩きで観察していけば、消滅した野殿城が薄っすら浮彫になってくるようなところかもしれない。

464 :人間七七四年:2017/12/14(木) 08:27:15.13 ID:k0CAu87W.net
岡山市、辻川城
辻将監(名主層か)の居館。
径約80mの巡る地割があり備前焼や磁器が散布。
周辺に「木戸口」「築出」の地名あり。

野殿城の近い、川を背後にもつ平地の城。この城もあまり調べてない為、繊細位置は曖昧だが、航空写真で形状らしきがわかり、おそらく土手沿いの土が高まった台地状が城跡と思われるが?。
行ってみると台地上にはシャベルカーが入っており、現在土の造成がされており、 GIS に乗ってるような遺構も消えてるかもしれない 。
わずかに小さな溝も見えたが田んぼのものか。
シャベルカーで整地してる土の高まった台地部分が見えるだけで(これも工事用に持ち込まれた土か)城らしい跡はもはや消滅してしまったか。
作業員がおり、遺構探しは怪しいので通過する程度と、遠目から臨んだ程度で曖昧だが、城跡がある周辺は未だ田園風景が残る場所だが、城跡には何か建物が建設されるのか作業場と化してる。
築出などの地名も残り、入念な防備が施され?番兵がいた城館が存在したか思ったが平城の宿命(立地がいいのか、なぜ城がある場所にピンポイントで後世構造物が建設される事が多いのか、、)。
辻川城から望める矢坂富山城にも包囲するようシャベルカーが山上に登っており、辻川城につぎ、この有名な山上の城も近い将来消滅するか。

465 :人間七七四年:2017/12/14(木) 08:34:19.04 ID:k0CAu87W.net
岡山市、大窪
室町、福谷-大窪 山頂。
又は詳細不明

毛利と宇喜多が衝突した幸川合戦(小早川隆景が15000の軍勢を率いて備前岡山城に攻めようとしていた。
宇喜多直家は報せを受けるも、病気で動けない。
代わりに弟の宇喜多忠家が軍勢を率いて岡山城を発し富山城を過ぎ、矢坂村から一宮村までの間に七段の備えで毛利勢の侵入を待ち受けた)の舞台となった近辺?の城。山の先端部に近く、対岸に西辛川城がある。
勘違いか?記憶では gisには記載されておらず?遺跡地図記載。
‎宗形神社方面から[城山墓地参道改修]と小石碑がある墓地群を登る。
そこから薮コキで2段ぐらいの段形があり(横に幅のある竪堀状がある)。
さらに藪漕ぎして登ると岩群を利用した歪曲させた虎口らしきがあり。
その上は酷い藪となっており、今回登山口探し程度の計画だった為、準備部足で諦める、、、のつもりがなぜか体が城へと進む。
‎ 薮コキの中、無数の岩群を見てやっと山頂主郭に到達する(内部は丁寧造成とまではいえない?)。
‎主郭端に石積みがあり、最初この城跡は岩が多いだけに岩が偶然重なったものに見えたが、それが高さ1m?、延長10m?と結構の長さであり、崩れてるが、あまりに自然岩群というには均等に並列し、これは人為的な石垣だろう。
‎主郭背後には尾根を断ち切る堀切はなく、幅のある竪堀状が2本落とされてる?。
背後の尾根には物見岩らしき巨石が2個あり崖となり終わり。
来た道を戻り長大?石垣群の逆側にも自然岩を利用した岩群形成の虎口らしきあり。

薮コキと、下調べ程度に考えてた準備不足の為、曖昧だが、城は低山で前後に細尾根を持つ単郭の主郭のみで?、大きな竪堀状が辛川合戦時のものか?、おそらくそれ以前は石垣から国人領主の館があったのかもしれない、と素人妄想。
単郭?のイメージゆえ、あんまり厳重な城には見えないが、無数の岩が自然の防御にもなり、その中に時代の経過か一見乱雑に見えるやや延長のある石垣群には驚き。
城山麓の墓地が城内に含まれたかはわからないが、主郭下の離れの丁寧な二段の削平地は後世跡だろう?(辛川合戦使用?)。

予定にないまま登り結構大変な目にあったが、単郭城?に不釣り合いな竪堀状と石垣群を見れたので満足な城となる。
城が存在した根拠も遺跡地図のみだが?城山という小石碑から城跡との言い伝えが存在するのだろう。
西辛川城辺りで毛利と宇喜多の大激突?があったなら?、近距離のこの城も、人声や轟音が飛び交う緊張の中、当然武者達が詰めただろう。

466 :人間七七四年:2017/12/14(木) 20:53:41.06 ID:tZUp0D+G.net
遠隔操作手法によりますが、一般に遠隔操作が不正アクセスだとすると、その行為は、3年以下の懲役または100万円以下の罰金が課される犯罪(不正アクセス行為の禁止等に関する法律3条・11条)に該当します。
犯罪になるかはどうかは盗聴の方法にもよります。例えば、通信操作によって外部から不正に侵入してやりとりされる会話の音声情報を取得して場合には不正アクセスの問題も生じるでしょう。
民事上の損害ですが、一般に秘匿性が保証されいる環境下で、実はアプリや盗聴器で盗みぎきされていた、それを外部に漏らされたということになると、プライバシー侵害による慰謝料請求ができるでしょう。

467 :人間七七四年:2018/01/18(木) 13:32:37.17 ID:RyY8QdsR.net
美星町、法雲山城

三村氏の居城と伝えられる。頂上近くの墓地には30基を越す五輪塔片や残存。

国道48号407号の分岐点辺りに、小田氏の神戸山城の登山道を示す看板を見て、そこから内陸らしく高地となりだす。
高い台地まで道路が続いてる(現在は道路や車があり、だいぶ便利だが、中世は高地での生活は楽だったのだろうか)

城は中興寺隣で細長い小山。道もありすぐ城内に入れ、お墓や五輪塔がある(五輪塔は無造作に集積されてるようなものもあり) 墓の後ろは土塁のように高まっているが墓地造成時のものに見える。
墓所から東へ3段の小郭群があり、 そして中規模?の堀切で遮断。
堀切の先を行くと細長い帯郭らしきあり(後世道?)、 その先は山の両側が削られてる感があるが、端に1mない土塁らしきものがまた出現する。
その先に遺構まだありそうだが猛烈な籔になり諦める。

城の登城自体は簡単で、籔に埋れた堀切からここへ城があったことがよくわかる。
おそらく墓所辺りが一番高いので主郭だろうが、山自体はだいぶ後世に削られた感じがあるので、城がどの程度かわからないが、墓所から離れた所にも土塁らしきがあり、堀切の先の細長い小山先端にも遺構があるかもしれない?。
すぐ着ける割には城の跡が僅かだが明確に見えた場所。 今はうっすら籔に覆われてるが堀切を境に武者たちが罵倒したり小競り合いをしてたかと妄想。
城の歴史はあまり知れないが?、五輪塔の多さが?この城の歴史事実を物語ってる?。
城の前面は駐車場と畑跡?、横は道路と作業場?で、棒崩しのように本来の姿を失ってるように見えるが?、寺と歩んだ城なら?(歴史に詳しくないのでわからないが)価値が再認識され、これ以上の城の亡き姿がしんこうしない事を望みたい。

468 :人間七七四年:2018/01/18(木) 13:34:41.54 ID:RyY8QdsR.net
美星町、金黒山城
三村氏は三村家親の時に星田より鶴首城に移り、その後は叔父の三村為親がこの辺りの城を守っていたようである。
備中兵乱で小早川隆景の軍勢によって落城。
城の北隣の山地で、古銭が一端を地表に現して土中に埋っていたといわれる。


大名化の道を進みつつあった三村氏の出自がこの辺りだったかもしれない?とは初耳。
城山下の全く人気がないところへポツンと城看板がある。その先の電塔道から登る。
電塔まで快適な道があるが、城跡はまさか!のやや藪の中に覆われており 、単郭の城というイメージだったが、本丸を中心に前方と両端に帯郭(下段内部に2m?幅の穴、看板が云う井戸跡か)が施されている。
本丸後方の尾根に、この城の見所の中規模と小規模の堀切を三重に配置し、厳重に警戒している。
高場頂上の本丸は半々?土塁囲いで、 石柱がある。

ここは城と言えばそれまでだが 、主郭円周の切岸も整然としており、もの言わぬ中世の施設という感じがする所である。
城近くで銭が出土したのは(城続きの尾根?、すぐ近くに資産を隠すとは)、持ち主が落城で戻れなかったからか?、掘り返す間もなく離れる必要があったか?、どういう理由だろう。
小規模?ながら丁寧な加工がいきとどき、厳重に尾根続き背後を警戒した見応えある城。

469 :人間七七四年:2018/01/18(木) 13:36:25.53 ID:RyY8QdsR.net
美星町、星田茶臼山城
杵築神社のある小高い独立丘。俗に茶臼城と伝える。周辺にこれと関連するように古墓が点在。


美星辺りは極南地域より台地がかなり高いが?、その高い台地に小山あり。
登山道を登ると主郭跡思われる頂上に神社があり、背後の一段下がった籔によく加工された三日月状?の帯郭状が巡ってる(帯郭内に立派な江戸時代の年号が刻まれた石塔があり〈古等殿諸精霊塔〉とある。
石塔の横に小さな五輪塔が二基?あり、城主の墓かと妄想。
又、同じ社の背後には帯郭状とは別に竪堀状が一本落とされてるが、こちらも祭綱が山頂に飾られ、城遺構ではなく籔化した後世道にも見える?。

頂上主郭、神社の下を囲うように帯郭状が巡るが、帯郭状が戦国時代のものか、立派な石塔から江戸時代に整地されたものか、わからないが、伝承通りに城があったとしても、せいぜい土塁と僅かな段形を持つ単郭に近い城だっただろう?。誰が居たのだろうか。

城山自体も緩やかに下るイメージで要害性が感じれない?。激しい攻防の中の城というより、政務を行う国人の城館のようなものが小山上に築かれていたのであろう?。
神社裏の下段の籔にある江戸時代の年号が刻まれた石柱に刻まれた「妹尾頼朝」という人物は誰を指しているのであろうか?

470 :人間七七四年:2018/01/27(土) 10:19:52.78 ID:IEFbkoBv.net
岡山市、寺山城(追記)
小丘陵上、数段の平坦面。
直家百余騎を似て矢原村に陣し、城近き山の峰々谷合河原より攻寄す。

川を挟んだ対岸に、西備前最大の国衆勢力誇ったとある松田氏の本拠地、金川城がある。
前回、[松田攻め寺山城が宇喜多直家の本陣]と、それらしき事が本に記載されてた記憶あり。
それについて直家本陣が金川城に肉薄していた?と書いた記憶あるが?、今回の簡素調べでは矢原の寺山城が直家本陣とは確認できず。
記憶違いか?もう少し離れた標高のある熊谷城が本陣か?。
距離が金川城に近いのは地図上の事で、現場は丁度いい緊張感が保てる距離で、松田攻め最終戦?には最適な地で宇喜多直家本陣跡は事実であるか?。

電波塔がある丘上に城があるのだが、登山道がわからず裏の池側から籔を登る。
藪コギで曖昧だが、途中に後世石垣や土塁、堀らしき見れる(後世の畑に改変された跡か)。
‎城の本尾根に到着し、墓地が現れ、そこへ主郭へと通じる中央を貫通した後世の現在も使用されてるように見える登山道も見える。
数段の城段形岸を通り、奥の主郭辺りに電波塔が立っている。
‎電波塔超えた奥の民家が見下ろせる切岸には、だいぶ補強された石垣が見える。

入山口を調べてないが、登山道はあるみたいだ?。
城郭大系では寺山城は熊谷城の根小屋か、と書いてた記憶するが?、根小屋にしても一定のまとまった人員が籠めれ、
宇喜多直家がここに本陣を置いたなら?金川城も見渡せ、松田攻めの集大成とし諸将と陣馬を集結し?、
用意周到な作戦を練り、この寺山城から長槍、鉄砲、弓を備えた宇喜多軍主力が川を超え、金川城に向かい、攻防の中落城する姿も見えたか。
城跡は丘の宿命で電波塔、登山道、墓地などの後世改変で掴みづらいが、今でも4、5段の段形がわかり(登った池側の畑跡?を加えればもう少し規模あるか。
4段目には井戸らしき水の残る穴あり)、歩いた範囲、石垣も後世石垣を含むと、簡素見で四ヶ所で確認でき、加工はよくされてるように見え、籔で確認してない斜面に畝状竪堀か何かあるかもしれない?。
今は城看板すら無いが?、宇喜多直家はこの城で?脅威だった?松田氏に対し、どのように指揮を取り、滅び去る松田氏を目前にどのように考え、
象徴的な言葉一つでも従者に漏らしたのだろうか。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
前前回に書いた、真備の木村山城と、消滅予定?の南山城近く?の沖城(仮、遺跡地図参照)がなぜか表示されていない。

471 :人間七七四年:2018/01/27(土) 10:28:30.56 ID:IEFbkoBv.net
岡山う市、菅城(仮)
正 八幡宮建立の際に大幅に削平されたようで、神社裏の尾根筋に堀切が一条残るだけである。
「七曲神社旧事の書」に「松田此地に来りし時に菅村に居住して玉松の城ならびに金川の郷を取立て移住・・・」とある。(中略)菅には殿屋敷の地名があって、近くの正八旛宮は中世の砦があったのか、西側には空濠(堀切)が見られる。


遺跡地図に載る。神社をネット検索すれば多少当たる。
松田氏の本拠地、金川城からさほど離れておらず、城跡は〈正八幡宮〉がある丘上の境内。
城跡の神社まで結構な長い一直線の参道を登る(石段に傾斜があり、ゼェゼェと藪コギよりしんどいか?)。
神社看板には[宇喜多孫一郎発願の再建棟礼に、、]と見えるが、無知には誰の事かわからない、城の人物に関係か?。
この城には堀が残ってるということで、神社の裏へ行くと1m?の高さの分厚い土塁状らしきが築かれている。
そこから籔へ分け入ると、伝え通りに、すぐに確かに3 M ぐらいの幅の堀があり、その先に又土塁状が築かれている。
更に先に二重堀りだったのか、尾根端に竪堀に変化する堀痕跡らしきある。
その先は平坦尾根が多少続き、城丘から更に山斜面となる。


城は丘程度の高さだが、石段がきつく要害地に思える印象。
山頂の城は神社へと変貌しているが、前方は急峻な斜面?と、背後は平坦なつながりの山尾根を警戒して、遮断すべく二重堀り?と分厚い土塁?を設け、城遺構が確かに見える場所。
土塁状が城遺構なら?、削平前は厚みから当時は高さがあったか。
二重堀と、高さのある二壁の土塁なら、かなり強固な裏山への備えかと無知妄想。
簡素見で現状からは帯郭のようなものは見れず?山頂に神社があるだけの単郭城に見えるが(注、大幅に削平)、まさに要害な立地を活かした金川城の出城か。
あるいは松田氏の詰め城館のようなものがこの丘上に築かれてたのだろうか(丘とはいえ、毎度登り降りするには大変な地形の為?、平時の館とは違うか?)。
歴史を知らない無知は松田氏のこの地での原型がこの辺りかと素人空想。

ここは神社に城が埋れた地であるか?、現在では誰にもここが城跡かすら定かでないが?、明日の安全の保証もない激動の乱世、ここで誰が何を考え、行動してたのであろう?。

472 :人間七七四年:2018/06/10(日) 08:20:37.26 ID:u5CgmB70.net
LocalNEWSにて総社市水内河原(美袋近辺)で熊出没との情報。
山尾根に三城が連なる?珍しい?山本城に訪城を考えてた矢先、山本城に関する単冊も有り、興味が湧いたが。
これからは極南地域においても熊が出没するかもしれない。


真備南山城の現地説明会、旗も立てられ多くの方が参加され、気持ちよく参加できた。
城だけでなく歴史全般に言える事かもしれないが、ほぼ若い方が見受けられないのは残念だが、深く掘り込まれた堀切(岩盤?まで削られており、中世の人はどのように削ったのだろう。山下まで掘込まれてる!)。
高い切岸、畝状竪堀、築いた当時の人々も戦という臨戦態勢の中ながら誇らしさを持った城ではなかったろうか。
残念ながら消滅という事は決定事項になったが、多くの方が「なぜ、勿体無い」という惜しむ声が聞けたのは慰めか(治水関係で地元の問題ゆえ、部外者には無責任にとやかくは言えない。)
ただ江戸時代の人々も見学してる?絵図が残るにも関わらず、今まで看板も登山道も無く?、藪中だったゆえ、今までもう少し関心が持たれてれば、もう少し考慮の余地がうまれたかもしれない?。
全く報道関係でも話題として聞かないし?、戦国期の城の認知の低さを感じる。

消滅は残念だが、これだけ洗練された城ながら歴史が不明のこの城が、これから発掘されどのような情報が出てくるか、期待したし。

473 :クバの化身:2018/06/11(月) 11:55:04.15 ID:L4w3JMdT.net
が、大物であるはずのまことは、あっさり
初心者に論破される

474 :人間七七四年:2018/06/15(金) 09:48:26.71 ID:FUBCVrJ6.net
>>472
動画付きでブログで扱ってたね。
http://kasaoka.sub.jp/18/0525/4.html
暑い日だったのによくこれだけ老人が集まったもんだ。
破壊される前に上から全体像を眺めたいんだが、
東向かいの八幡山山頂の西にある鉄塔からは見えないのかな?

475 :人間七七四年:2018/07/07(土) 19:36:09.79 ID:P5lW5EtY.net
南山城を破壊する前に小田川氾濫で
真備に洪水が来ちゃったね。

476 :人間七七四年:2018/12/05(水) 03:55:17.62 ID:EVOiZAia.net
2018.9.13>gooニュース>ローカル>速報>毎日新聞>朝刊>P24
岡山 【天満屋グループの賃金未払い訴訟】請求額支払いで和解 地裁
 天満屋グループの警備会社「山陽セフティ」(岡山市北区)の元社員ら7人が、会社側に未払い賃金約2400万円及びこれに対する遅延損害金約700万円の支払いを求めた訴訟が12日、岡山地裁で和解した。
会社側が請求額と同額を支払うとの内容。
 訴状によると、元社員らは2015年1月~17年2月、山陽セフティに正社員の警備員として勤務。
夜間の仮眠時間も緊急時の出動に備えて車両などで待機していたが、車両待機手当(月7500円)や緊急出動手当(深夜勤務1回につき700円)などが支払われるだけだった。
 元社員らは「仮眠時間も会社の指揮命令下にあるため労働基準法上の労働時間に当たり、賃金が発生する」と主張。
ある元社員の場合は時間外労働時間が月平均172時間だったのに、月55~96時間分の賃金が未払いになっているとし、支払いを求めて17年4月に岡山地裁へ提訴した。
これに対し、会社側は争う姿勢を示していた。
 和解について、山陽セフティの代理人弁護士は「一切コメントしない」としている。(朝日新聞)

477 :人間七七四年:2019/04/02(火) 02:38:10.76 ID:JwLvsCze.net
#天満屋>行政処分>事件>求人>新卒>採用>評判>社長>年収>本社>管制センター>移転>電話番号>倉敷>福山>柔道部>パワハラ >Facebook>Twitter
2018.9.13>gooニュース>ローカル>速報>毎日新聞>朝刊>P24
岡山 【天満屋グループの賃金未払い集団訴訟】請求額支払いで和解 岡山地方裁判所
 天満屋グループの警備会社「山陽セフティ」(岡山市北区)の元社員ら7人が、会社側に未払い賃金約2400万円及びこれに対する遅延損害金約700万円の支払いを求めた訴訟が12日、岡山地方裁判所で和解した。
会社側が請求額と同額を支払うとの内容。
 訴状によると、元社員らは2015年1月~17年2月、山陽セフティに正社員の警備員として勤務。
夜間の仮眠時間も緊急時の出動に備えて車両などで待機していたが、車両待機手当(月7500円)や緊急出動手当(深夜勤務1回につき700円)などが支払われるだけだった。
 元社員らは「仮眠時間も会社の指揮命令下にあるため労働基準法上の労働時間に当たり、賃金が発生する」と主張。
ある元社員の場合は時間外労働時間が月平均172時間だったのに、月55~96時間分の賃金が未払いになっているとし、支払いを求めて17年4月に岡山地方裁判所へ提訴した。
これに対し、会社側は争う姿勢を示していた。
 和解について、山陽セフティの代理人菊池弁護士は「一切コメントしない」としている。(朝日新聞)

478 :人間七七四年:2020/04/02(木) 12:37:04.28 ID:TaSc6xq5.net
保守

479 :人間七七四年:2020/04/03(金) 05:39:36.72 ID:PzlkF1qM.net
保守

480 :人間七七四年:2020/04/10(金) 13:04:00 ID:uNV0Lizs.net
岡山城いきたいなぁ

481 :人間七七四年:2020/04/10(金) 19:04:52 ID:SOCub1yZ.net
テスト

482 :人間七七四年:2020/04/10(金) 21:47:37.86 ID:MQOZ+AEG.net
保守

483 :人間七七四年:2023/07/13(木) 16:36:45.55 ID:I4H8xrmSy
ルフィの身元にたどり着けなかったた゛の,複数人か゛名乗ってるた゛の言いなか゛ら,渡邊逮捕とかどう脈絡を付けるつもりなのか見ものた゛よな
結局四六時中スパイ通信してるスマホの情報を集中管理してる日本に原爆落とした世界最悪のならず者國家機関からICPO経由で得た情報た゛ろ
日本人か゛海外旅行中に空港で突然スマホの中身検閲されて口リポ儿ノ持ち込みで逮捕懲役にされたり、侵攻前に囗シアの内部情報を得てたり
こうした現実を理解て゛きずに,スマホに個人情報を詰め込んて゛るお前らのケツの穴から変態性癖、顔情報,指紋.学歴,犯罪歴.知能指数.
SNSアカウント、ロ座情報、位置情報にと.エシュロンにテ゛ー夕ヘ゛‐ス化されてる現実を理解せす゛に何かやらかすのはバカた゛けだからな
近年のならす゛者國製ΟSは全て四六時中スパヰ通信してて、これを回避するには.χP以前を使うか.LinuΧなと゛0SSを使った上に
Τоrやらて゛発信元偽装しないとその監視網から逃れるのは不可能なわけた゛が.そんなダタ゛漏れの現実を知った上て゛か知らす゛か.スマホに
マイナンバ‐機能まて゛搭載しようとか、個人情報を意識してる者ならこのクソシナ顔負けのダダ漏れ監視社会化に怒りを覚えたほうか゛いいな

創価学会員は、何百萬人も殺傷して損害を与えて私腹を肥やし続けて逮捕者まで出てる世界最悪の殺人腐敗組織公明党を
池田センセ―か゛口をきけて容認するとか本気て゛思ってるとしたら侮辱にもほどがあるそ゛!
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