豊臣恩顧どもはカス(福島加藤浅野・・・)part2
- 1 :人間七七四年:2013/11/19(火) 14:49:55.98 ID:mVg+Cbgt.net
- 豊臣恩顧のくせに家康の天下手伝って豊臣まで結局滅ぼされるw
なんなのこいつら?不忠以外の何者でもないだろ
前スレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255151293/
- 2 :人間七七四年:2013/11/19(火) 22:31:25.52 ID:zXsLWZxm.net
- 別に東軍についた恩顧の諸大名をカスとも不忠とは思わないが
加藤や福島ら武断派も豊臣政権が続いていれば
政権内で冷遇はされても家自体は大名として残っただろうにとは思う
そういう意味で、加藤(どっちも)にせよその他もろもろの東軍についた
豊臣恩顧の大名の家がのちに徳川から改易されたのにはまったく同情しない
- 3 :人間七七四年:2013/11/19(火) 22:40:18.94 ID:E5f+GEaC.net
- 豊臣崩壊の元凶が家康に篭絡されたアホ武功派と
総大将に奉り上げられながら何もできず戦力を分散しまくり大敗した馬鹿輝元と
家康の示威行動にビビッて即効土下座したヘタレ浅野・前田だよな。
- 4 :人間七七四年:2013/11/20(水) 00:09:32.80 ID:lHH2MA0S.net
- 前田はあのタイミングで利家が死んじゃったらまぁね仕方ない
浅野は速攻土下座というよりむしろそれなりに頑張った方だと思うが
- 5 :人間七七四年:2013/11/20(水) 01:41:17.74 ID:mKthOG7l.net
- 利家が死んだから仕方ないとかいいわけ乙だな
利家が死のうが生きようが前田がヘタレだった事に変わりはない
しかも利家の死から一年半も経ってるし言い訳にもならん。
- 6 :人間七七四年:2013/11/20(水) 01:42:39.85 ID:Q//skizc.net
- 浅野が頑張ったって何の話だ?
家康がいちゃもんつけて示威行動して攻めるそぶりみせたら即効土下座したじゃん。
- 7 :人間七七四年:2013/11/20(水) 03:07:23.98 ID:aWLOz0X9.net
- 自分の家を守るために、強者に土下座することが何かおかしいか?
結局土下座するなら、最初から土下座した方が利口。
ケンカして負けて、一族郎党を道連れにするのが最も下策。
- 8 :人間七七四年:2013/11/20(水) 06:12:52.95 ID:6GLUdHcc.net
- まだ攻められてもいないし、攻められるべきちゃんとした理由もなく、
勝てるか負けるかもわからない相手(つか、当時の徳川の規模からしたら、敵対勢力の方が強大で、徳川が勝てない可能性のが高い)に対して
戦わずして土下座とか情けないにも程があるわ。何のための武士なんだか。
- 9 :人間七七四年:2013/11/20(水) 10:55:49.38 ID:YNtZV8o5.net
- >>2
逆だろ
豊臣政権が近江系に支配されたらそれこそ武断派は妻子もろとも処刑にされかねない
秀次事件での妻子処刑と尾張系家臣団の大量連座を見れば彼らにそうした疑念が生まれるのは仕方のないこと
徳川政権によって少なくとも命は助かっただろう
それに両加藤と福島以外の武断派は全員家が存続しているし
両者の改易にしたってあくまで家康死後の話だしね
- 10 :人間七七四年:2013/11/20(水) 11:38:32.61 ID:aWLOz0X9.net
- >>8
攻められる(難癖つけられる)前に手を打つべきだし、存在自体が責められる理由。
大身であったり、豊臣家の縁者であったり、権力を行使出来る地位にいる等。
戦って勝つ、負けるしか判断軸がないところにリアリティが欠ける。
大名の立場なら、一族郎党を守る、養う、報いるなどの要素が当然入る。
それが主従関係。土下座で解決出来るなら、歯を食いしばってするさ。
- 11 :人間七七四年:2013/11/20(水) 12:36:49.49 ID:dO9hTE0l.net
- いまだに近江系とか尾張系とか昔のネタを自信満々にレスしてるやつがいるのかよ。
それ北政所と淀が対立していたってネタのために作られたでっち上げ構図なのに…
そもそも秀吉の古い家臣らねは出身地なんて不明なやつ多いし、
明白なやつの中には藤堂高虎みたいに近江出身のも普通にいるし。
黒田長政みたいに播磨出身もいる。
- 12 :人間七七四年:2013/11/20(水) 16:03:51.89 ID:hj9HTnmx.net
- というか、全く本質じゃない所に噛み付いてもな。。。
第三者的にはキミがアホに見えるぞ
- 13 :人間七七四年:2013/11/20(水) 16:30:51.27 ID:WnyHmsPx.net
- 近江系に支配されたら尾張系は処刑されるwアホ丸出しwww
だいたい大阪冬の陣の時点で 福島正則、黒田長政、加藤嘉明、蜂須賀家政、細川忠興らは
内通を疑われ江戸で人質にされ、大坂へ出陣を許されなかったように
すでに家康生前から冷や飯を喰わされてるし。
(浅野幸長・池田輝政・加藤清正はすでに死去)
家康からまともに信用されていたのは藤堂高虎くらいなもんだ。
- 14 :人間七七四年:2013/11/20(水) 21:29:31.91 ID:/CeVQllj.net
- 蜂須賀や細川あたりが冷や飯食わされてるとは到底思えないが
大坂夏の陣後、蜂須賀は冷遇どころか加増されてる
松平姓貰ったのも外様のなかではここん家早いし
細川も忠利なんて秀忠・家光の時代はむしろ寵臣で優遇されてる
実際肥後加藤改易の後、転封で大加増されてるわけで
反対に息子がどう考えても馬鹿だった加藤(両方)は改易
かなりの馬鹿だった黒田も黒田騒動であやうく改易の危機なので
結果論として息子の代が馬鹿だった豊臣恩顧の東軍が
わりと順当に潰された感が強いんだが
- 15 :人間七七四年:2013/11/20(水) 21:41:45.13 ID:PQ9R5tqc.net
- 細川に関しては忠利の信頼と貢献が大きくて
それに比べると忠興が当主の時代は徳川と微妙な距離はあるね
- 16 :人間七七四年:2013/11/20(水) 23:47:11.01 ID:sAyP3abR.net
- 冬の陣のような見極めが必要ない、
夏の陣なんて豊臣滅亡確定消化試合だから、
江戸監禁から開放されてるだけだろ。
- 17 :人間七七四年:2013/11/20(水) 23:52:16.09 ID:wY6bLfJf.net
- 家康や秀忠の小姓になってた息子世代を持ってきて、
武断派は冷や飯待遇ではなく、
むしろ優遇されていたとか言い出して痛すぎる。
- 18 :人間七七四年:2013/11/21(木) 00:19:23.52 ID:ZfoWSInc.net
- 別に豊臣恩顧だからという理由で一律に冷遇・改易されたのではなく
要するに武断派のなかでも文治に対応できた賢いやつは豊臣恩顧でも残った
それには当然ながら将軍家や幕閣と人脈つくるなり
それなりの教養や大名間の遊泳術などのスキルが必要で
武断派のなかでも本当の脳筋はそんなことできないから
やっぱり子孫の代には滅びましたって話
至極もっともだと思うが
- 19 :人間七七四年:2013/11/21(木) 00:32:10.27 ID:yYtQhFvZ.net
- >>9
だからそんなもんは最初から武士とは呼べないって。
いざという時主家を守って家康の簒奪行為を見過ごすどころか、結果的に貢献する事になったんだしな。
大体攻められるべき大義名分も家康が勝手にデッチ上げただけの物の可能性が高く
何ら自分らに責任もなく、しかも、戦って負ける可能性が高いとはいえない、当時の勢力差の相手に対して
戦う前からヘタレ土下座とかウンコ武士もいいとこだろ。
- 20 :人間七七四年:2013/11/21(木) 08:42:41.70 ID:UimDDhod.net
- 関ヶ原後に豊臣恩顧大名が西国に転封され、
江戸から遠ざけられてる時点で
事実上、冷や飯食い状態だからな。
藤堂高虎は上杉討伐の時に、三成挙兵を知って、
武断派が家康を棄てて西上した際に、
不安に思った家康が長政宛に書状出した際に、
高虎と相談するようにって命じていて、
相当に家康から高虎は信用されているのがわかる。
だから後世に高虎は裏切り者と非難されないどころか、家康の覇業を手伝ったとされ、幕府では譜代並み扱い。
- 21 :人間七七四年:2013/11/21(木) 11:17:42.76 ID:7TV2yH/c.net
- >>19
今時珍しいゲーム脳丸出しのレスだな。
一騎駆けの葉武者と、一族郎党や領民に責任を持つ大名を同列に論じる辺り、アホ過ぎるぞ。
- 22 :人間七七四年:2013/11/21(木) 11:43:16.19 ID:ZOddeP6y.net
- まだ江戸が中心でもない時勢に、西国転封が冷や飯食いの理屈がわからん
- 23 :人間七七四年:2013/11/21(木) 12:19:17.17 ID:hMknC7WH.net
- >>21
一族郎党や領民に責任を持つからといって家康に土下座が良い選択肢であるとは限らない。
家康が東軍勝利後前田や浅野に手を出さなかったのは運が良かったとしかいいようがない。
福島加藤みたいにいちゃもんつけられて改易される可能性もおうおうにしてあった。
まして戦うと負けが決まった相手では全くなく、攻められるべき名分もなく、
いざという時主家を守って家康の簒奪行為を見過ごすどころか、結果的に貢献する事になったんだしな。
大体攻められるべき大義名分も家康が勝手にデッチ上げただけの物の可能性が高く
ただ家康の専横を助長するだけになったヘタレ土下座をした前田や浅野は武士としてはウンコとしかいいようがないだろ。
- 24 :人間七七四年:2013/11/21(木) 13:00:29.96 ID:UimDDhod.net
- >>22
関ヶ原を経て事実上、天下の主権を握った家康が、
自分の本拠地からできる限り遠方に飛ばしてるし、
さらに大坂を中心に対西国用に伊賀上野城やら、
藤堂高虎指揮の元に増強やら築城やらし始めてるじゃん。
- 25 :人間七七四年:2013/11/21(木) 14:28:24.44 ID:ZOddeP6y.net
- 関ヶ原前後の石高が変わらずに遠方なら確かに冷や飯なんだが、
石高は大幅に増えてるよな?こういうのは冷や飯って言わないだろ?
西軍大名の多くは西国なんだから、その後に入るのは普通の話じゃないか?
東軍大名も含めて玉突きで配置換えは現実には極めて非効率だし、意味ないだろ。
- 26 :人間七七四年:2013/11/21(木) 17:18:48.31 ID:s17UwsEC.net
- >>25
いやいや、黒田如水からして、長政には宇喜多秀家の領地をくれ
それが無理なら、兎に角も上方にて御知行を、私とは別家として領地をくれって要求してるじゃん。
やっぱり当時の大名は上方に領地が欲しいんだよ。西国なんて完全に左遷人事。
>>24
篠山城も完全に京へ向けて東進してくる対豊臣恩顧大名用の長期篭城型城郭だもんな。
- 27 :人間七七四年:2013/11/21(木) 17:35:05.72 ID:pdP+kQXL.net
- >>23
そもそも豊臣政権自体の成立にしてからが主家(織田家)から権力を簒奪したものである以上
いかに恩顧の大名といえども忠義を期待するほうが難しいんじゃないかな
とくに前田なんかは旧織田系の大名なわけだし
- 28 :人間七七四年:2013/11/21(木) 17:55:55.22 ID:s17UwsEC.net
- >>27
秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だったし、
彼らを関が原後に改易したのは家康であり、
大坂陣の時も、巻き添え滅亡にならない限界ギリギリまで家康に抵抗して大坂城にいたのも信雄や有楽斎なんだけどw
むしろ三方が原や長篠の御恩があるはずの家康の方が故信長に対してひどくないかね?
- 29 :人間七七四年:2013/11/21(木) 18:17:40.68 ID:pdP+kQXL.net
- 家康は信長に一方的に助けてもらってたわけじゃないでしょ 姉川とかね
力関係に差が有ったから対等な関係でなかったとはいえ信長の軍事行動を補助している
家康と信長の関係は家と家との関係であり秀吉と信長の関係は主君と家来の関係
これを一緒に考えるのはちょっと無理があると思うんだけど
- 30 :人間七七四年:2013/11/21(木) 18:27:40.26 ID:pdP+kQXL.net
- 織田の御恩というなら家康のそれより秀吉の方がどう考えても大きいわけで
その織田家から体よく権力を簒奪して信長の子供や孫を自分の家来にしていた秀吉が
自分の引き立てた家来に生死を賭すレベルでの忠義を期待するのはちょっと無理があるよ
- 31 :人間七七四年:2013/11/21(木) 18:50:43.35 ID:s17UwsEC.net
- えっ?信長はロクに家臣に援助もせずに
家臣自らの武辺と才覚で、俺の要求を一刻も早く達成しろって
パワハラ恫喝と改易脅迫で精神圧迫していただけで
信長自身は、鷹狩り、茶道具や武具の没収コレクション、鹿狩り、相撲遊び
衆道、女装しての女踊り、乗馬パレードや競馬観戦、幸若舞、豪華な食材取り寄せ
など遊びほうけていただけじゃん。
だから信長死んだら細川忠興くらいしか信長の死を悼んでないし、
清洲会議の池田や丹羽や勝家ら信長遺領分配も
みんな自己努力と自力救済による当然の権利だと思ってるでしょ。
だけど、家康は武田家の攻撃で存亡の危機に至り、
信長からの援軍や織田との安保同盟を背景にしなければ、つなぎとめていられたかも怪しいよね。
水野みたいに、家康なんていつでも改易できたにも関わらず、信長は家康に駿河まで加増してくれたしね。
- 32 :人間七七四年:2013/11/21(木) 18:51:49.58 ID:GaLWgLR+.net
- つーか秀信は単に尾張が欲しかっただけだろ
- 33 :人間七七四年:2013/11/21(木) 18:58:23.58 ID:pdP+kQXL.net
- なんだ、自分で理解してるじゃないか
秀吉死後の遺領分配はみんな自己努力と自力救済による当然の権利
家康にしろ豊臣恩顧武将にしろね
- 34 :人間七七四年:2013/11/21(木) 19:48:37.70 ID:hMknC7WH.net
- そもそも主家簒奪の名分として自分を利用するだけ利用してポイ捨てしたり
自分にいちゃもんつけて改易した秀吉の恩によって信雄や秀信が西軍についたというのは相当無理があるだろ。
恩どうこう言うなら高い身分まで取り立ててもらった秀吉の方が、ろくに援軍も出さず畿内平定にこき使われまくってた家康より遥かに恩を受けてるわな
つか、一番秀吉から恩を受けてるはずの福島加藤浅野らが家康に篭絡されてる時点で、
武功派が主家を考えず自分の好悪の感情だけで動いていたのがハッキリわかる。
- 35 :人間七七四年:2013/11/21(木) 19:54:05.56 ID:mX/oDPzj.net
- 家康が信長から恩を受けていたとか、もうね、笑わせるなと。
畿内平定に狩り出され、大国武田に攻められてもろくに助けてもくれず
散々いじめられてただろうが家康。
立身出生を全面的にお膳立てと棚ボタであげてやった秀吉の方が異常に恩受けてるだろうがクズ
- 36 :人間七七四年:2013/11/21(木) 19:55:31.51 ID:6KK61MgM.net
- 織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
- 37 :人間七七四年:2013/11/21(木) 19:55:58.51 ID:IPRauWoH.net
- 家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
- 38 :人間七七四年:2013/11/21(木) 19:57:41.05 ID:qzneOQXK.net
- 秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
- 39 :人間七七四年:2013/11/21(木) 20:08:09.02 ID:mX/oDPzj.net
- 散々こき使われまくり同盟とは名ばかりの援軍なし放置状態(しかも大国と交戦中なのに)の、
恨みばかり残ってもおかしくない状況で織田家を再興してやったのが家康。
恩を受けまくり、信長のおかげでトップにたてたといってもおかしくないくらいなのに
主家を崩壊簒奪し、役に立たなくなったと思ったらポイ捨てしたのが秀吉。
だからこそ、織田家は江戸期でも細々とながら残り、豊臣家あっさりは滅亡し、家康が天下取れたんだろうな。
- 40 :人間七七四年:2013/11/21(木) 20:54:31.02 ID:mX/oDPzj.net
- 清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
- 41 :人間七七四年:2013/11/21(木) 20:56:16.25 ID:mX/oDPzj.net
- 秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえに利用しただけ
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。
小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。
山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
- 42 :人間七七四年:2013/11/21(木) 22:10:04.35 ID:uAWZFBK1.net
- 19時48分からアンチ秀吉の基地外織田チョンの自演発狂コピペ爆撃が発動しててワロタw
- 43 :人間七七四年:2013/11/22(金) 01:51:39.90 ID:3W26quSp.net
- ああ、だがに与する気はないけど、秀吉も清州会議での取り決めを思いっきり破って勝家の怒りを買ったらしいね
- 44 :人間七七四年:2013/11/22(金) 10:45:21.82 ID:9BXQiSd1.net
- >>8
>当時の徳川の規模からしたら、敵対勢力の方が強大で、徳川が勝てない可能性のが高い
徳川の真の敵対勢力なんて文治官僚連中とせいぜいが宇喜多くらいしかいないよ
武断派に限らず大半の豊臣恩顧は秀吉によって政権運営から排斥されたのであって
家康を倒しても政権参画できるわけではないから命がけで戦う意味がない
毛利や上杉も所詮は徳川と同じ外様大名であって豊臣のために命を捧げる義理もない
彼らが文治官僚連中と歩調を合わせて戦うというのは無理なんだよ
まして三成に仕切らせてその指揮に服従するなんて毛利はもちろん大半の豊臣恩顧には受け入れられない
だから史実の通り家康は全員合計して100万石に届くかどうかという一派閥を倒すだけで天下を取れた
そういうシステムを秀吉が作ったのだから仕方がない
- 45 :人間七七四年:2013/11/22(金) 13:05:58.51 ID:fIsOMC4t.net
- 土下座が正解。
- 46 :人間七七四年:2013/11/22(金) 16:52:07.87 ID:AcYC7kp1.net
- 信雄と信孝が対立して何も決めれない無能揃いだったから秀吉が動くのは仕方ないだろ。
信長の百日供養からして、やったのは秀吉と市だけだからなー。
葬儀は誰もやらなかったから秀吉が朝廷から供養のために
故信長の従一位昇格を引き出してから秀吉だけがやったが誰も出席しなかったから無駄になった。
秀吉は信長の後妻の小倉氏の娘の鍋の生活を援助していたりと
亡くなった主君の妻も保護している家臣の鏡のような働きをしているのは褒めてもいい。
ちなみに天正11年6/1の信長1周忌の法会をやったのは秀吉ただ一人。
これに出席後に、秀吉は今までの拠点だった山崎城から、大坂新城へ移転している。
信雄の官位官職をアホみたいな速さで急速に引き上げて自分に次ぐ立場にまで登らせて後援したのも秀吉。
それなのに、なんら感謝せず増長し、家康家臣団が一生懸命、不満も言わず関東転封の作業をしている最中に、
転封なんてするわけねーだろ!本気にすんな無視!とか言って、関白秀吉を挑発したから逆鱗に触れたわけで
完全に信雄が悪いし、その代わり、秀信をちゃんと取り立てて、織田家を継続させてるし、
信雄への怒りも、秀吉は一ヶ月も経たずにすぐ水に流して許しているほど甘い。
- 47 :人間七七四年:2013/11/22(金) 18:26:11.32 ID:VgVMTFFO.net
- 無能ぞろいだから簒奪していいとかもうね、アホかと。
自分を高い身分まで取り立ててくれた最も恩義のあるはずの主家を、
信長や信忠が殺され、明智が主殺しの大義名分を背負ってくれたからといって、自分が当主になっていい資格があるわけではない。
信雄や秀信、信孝など、トップにするべき人物がいるにもかかわらず、織田家の合議制を良い事に、専横しまくり、
謀略を謀り廻らし、ついに漁夫の利的に簒奪した秀吉など、初めから主家の当主の家柄の信雄からすりゃ、家臣であるのに主家を簒奪した大罪人であって
その後大した理由もなく攻め込んだり、改易したり、十分反逆すぎるといっていい行為を秀吉はやってる。
最初から主家を乗っ取った秀吉に対して、結果的にすずめの涙程度の待遇を与えたからといって
甘いも寛容も糞もない。超凶悪大罪人の「超」の部分が幾分薄れるかどうかという程度であって、
自分を取り立て出世させてくれた恩義のある主家に対して大反逆行為をやらかした事に何ら変わりはない。
- 48 :人間七七四年:2013/11/22(金) 20:26:29.14 ID:ssjfn6eH.net
- 秀吉は充分に主家に義理立てしたじゃんよ。
信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいたくらいで、
信雄と信孝は超アホで調停不能で、
信長の葬儀すら誰もやろうとしなかった中で、
秀吉は朝廷から故信長の昇進を土産に弔ったし、
信雄の官位官職も上げまくって後ろ盾になってんじゃん。
秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝してたから、
実際、関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝していたのと同時に、
織田が家康を嫌ってたのは明白だろ。
だいたい、秀吉や光秀らは、佐久間や柴田らと違い、
自らの武辺と才覚で國持ちになったようなもんで、
信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔ばかりしてたし、
猜疑心を解くために献上品たんまり信長に送ってんじゃん。
池田も丹羽も柴田も本能寺の変後にすぐ信長遺領分配を指揮してたくらい人徳がなかった。
逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけで大した武将いないだろ?
秀吉は信雄や秀信を見捨てたりしなかった。
しかし、家康は秀頼どころか国松まで殺し、
秀信を高野山に幽閉し22才で死に至らしめた。
信雄だって公家や寺社に強い影響力を公使できる
京都五山の僧侶達が全力で擁護で助命を何とか勝ちとったほど難航した。
勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おっておいて、
いざ勝てない相手が死ぬやたちまち態度を豹変させて、
どんだけ織田や豊臣に対して冷酷非道だよ。
実力を競って勝ち取る下克上ならまだいい。
しかし家康は幼君が成長しきる前に、
圧倒的立場を築き上げて、
国内が平和になっていたにも関わらず、
平時に乱を望んで天下を盗んだに過ぎない。
- 49 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:12:51.45 ID:VgVMTFFO.net
- >>秀吉は充分に主家に義理立てした
主家織田家の当主に当たる秀信や信雄を利用するだけ利用しといてポイ捨てしておいて義理立てしたとかないわ。
>>信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいた
だから秀信をトップに据えて兄弟の対立をこれ見よがしに対立を煽ったりして崩壊させたのが秀吉だろ。
>>信雄と信孝は超アホで調停不能
だからこそ秀信を据えたり兄弟のうちどちらかを立てて主家のために忠義をつくすのが家臣としてあるべき姿
秀吉の場合はそれどころではなく清洲会議の合議も無視して好き勝手な専横で織田家を簒奪した極悪人。
>>信雄の官位官職も上げまくって
そりゃ信雄なんて主筋で一時期は当主に据えるほど、大いに利用させてもらったのが秀吉だからな。
その負い目や、大した理由もなくいちゃもんつけて攻め込んで、和議を結んだと思ったら改易までやらかすなど、散々な専横をしまくったのが秀吉。
>>秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝
ソースくれ。織田の当主になって秀吉に命令を下すべき人間がハナクソみたいな領土と地位を与えられただけで感謝も糞もねーわw
>>関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
関ヶ原ではむしろ豊臣恩顧系ほど東軍についたし、西軍は秀吉と繋がりの薄い連中ばかりだから
西軍=秀吉への恩義とかもう馬鹿かと。
>>大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄などは両家の和解のためいたんじゃないのか?家康が遣わした可能性も往々に考えられるのに
自分の意思で豊臣に感謝してたからとか勝手な決めつけだろ。
>>信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝
主家を乗っ取り簒奪に利用されるだけ利用されてポイ捨てされたのに感謝してるわけねーだろw
>>織田が家康を嫌ってた
ハイハイ、根拠なし。織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康。 信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許している
>>秀吉や光秀は自らの武辺と才覚で國持ち
いやほとんど信長や信忠のお膳立てだよ。長浜という鉄砲の名産地・交易・流通の絶好の場所
守護の赤松・小寺・別所・山名など衰退期もいい所で、しかも中国地方からは山中ら反毛利国人まで与力として味方がなだれ込んできてる状況
永禄末期や天正の第一回目の織田家での侵攻など見る限り播磨・但馬は元々ほとんど織田方で、抵抗勢力などたかがしれてる。
それを秀吉の失態自爆で敵が増え、別所など雑魚に信長や信忠や山中ら尼子残党らの後援を受けながら苦戦しまくり、2年近く費やしたのが秀吉。
>>信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔
そんな事全くやってない。信長は秀吉のためにわざわざ信忠ら主力を派遣して播磨の中枢の諸城を悉く砦や小城の普請などでいつでも攻められるようにお膳立てして帰ってる。
ちなみに明智光秀まで援軍として播磨に来ていたらしい(兵庫県史資料編の中で明智が別所攻めに加勢として遣わされてる文書があったはず)
>>逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけ
そりゃあんたの主観だろ。秀吉なんて小牧長久手とか紀州征伐あたりまではともかく
他はほとんど部下に戦をまかせきりで物見遊山とか茶会とかやって遊んでただけじゃん。
あげくのはてには朝鮮出兵など愚行に走り、人徳を失い、子飼い系も含め悉く徳川に篭絡される事になった。
- 50 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:16:51.77 ID:nAlG5A8m.net
- >>勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おって
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
- 51 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:17:30.32 ID:c0PDK86P.net
- 家康は信長から恩なんて欠片も受けてない。大国武田に一人でガチンコで立ち向かってるのに
援軍なかなかよこさないどころか姉川金ヶ崎上洛志賀の陣など畿内平定戦には次々狩り出され、
武田に勝てたのは長年武田を抑えてくれた徳川の働きによる所が大きいのに
駿河しかよこさない身勝手ぶり。
秀吉に関しては秀吉がビビリまくって家康に気を使って顕如や信雄に取り成しやってもらったり自国の15分の1程度の国力の相手にもかかわらず
肉親を差し出したり中央から遥か離れた辺境の関東に移封し、240万石の大国の国力と、中央集権化と、五大老や千姫との婚姻という
豊臣継承の大きな大義名分を与えた秀吉が馬鹿なだけで、取り立てて恩を感じる事もなかっただろ。
織田に関してはむしろ酷使されてたにもかかわらず、それまで良好だった秀吉との友好捨てて
信雄を助けてるし、信雄が秀吉に追放された後徳川がやはり救って領土与えるし秀信も正面から歯向かったのに
殺さずに改易で済ませてるし、むしろ温情あふれる処置といっていい。
- 52 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:18:38.45 ID:yezrjAr+.net
- 信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
- 53 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:19:13.81 ID:c0PDK86P.net
- 戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
- 54 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:19:55.62 ID:nqJK01y5.net
- 秀康は史実で家康に嫌われまくってたから(秀康年譜)豊臣家から戻ってきた後も徳川家なんて継がなかったし
秀忠もいるし、子なんて作ろうと思えばいくらでも作れるから家康にとってそんな大きな存在じゃない。
その証明として秀忠が問題なく継いでるし、翌年は、家康は秀吉に屈服どころか>>130のように抵抗して
秀吉も家康討伐を進めていたし、戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
その証拠に家康は翌年も秀吉に抵抗しまくってたが、秀吉は殺害対象とはしていない
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
なんで信康が死んで、離縁した後の信長の娘持ち出して家康の敗北感に繋がるんだよボケ
宣教師の記録は>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
- 55 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:20:25.15 ID:z4xy+q5u.net
- 豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
- 56 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:21:20.99 ID:yezrjAr+.net
- なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
- 57 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:22:44.60 ID:RnbSb+Gq.net
- 秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
- 58 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:38:06.02 ID:ZD+R1ubN.net
- ぶっちゃけ信雄が転封を受けて、
甲斐、信濃、駿河、遠江、三河の大領地を統治していれば、
官位官職も家康よりも上だし、
秀吉死後には前田を代表に旧織田系家家臣を従えた
信雄政権が成立していたとは思う。
そういう意味でも信雄は凄まじいアホ糞。
- 59 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:41:15.16 ID:nqJK01y5.net
- 清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)
三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。
10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。
秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか 10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。
日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。
(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある) 名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので
御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。
ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。 信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。 濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。 尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。
- 60 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:42:39.15 ID:z4xy+q5u.net
- 10/6 柴田→堀
秀吉批判の書状 清洲において誓った置目の条々に相違している。 仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが
御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。 誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。
我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して 信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして
守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。
家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である
佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。
信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。
丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。
1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部 同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。
信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。
- 61 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:44:22.91 ID:nqJK01y5.net
- 清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
信雄追放について イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが父の形見なのでと申し出た。関白殿はただちに、
その所領も他の国も有することまかりならぬ。汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略 じつに従順な姿勢で願ったというのに。
日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。
家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが
信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。
さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している)
そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。秀吉の野心を嗅ぎ取って柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。
それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄3を擁立。逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。その後、信雄は秀吉への屈辱から家康の後援を得て戦うと
秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる.そして北条戦では家康の岡崎城には吉川広家を入れて接収し
関東移封を拒否できないようにしている。信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡 木造家の傀儡北畠信雄政権樹立 秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。
秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。
- 62 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:45:32.99 ID:nqJK01y5.net
- 光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえに利用しただけ
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。
小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。
山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
- 63 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:51:13.47 ID:g0UiNrgK.net
- 残虐な上に、粘着質で執拗に根に持つ暴虐の王の秀吉が
信雄を大国に封じるとは到底考えられない。
つか、もしそれほど秀吉が信雄を厚遇したというなら転封を断ったくらいで、
改易とかありえないからな。
明らかに秀吉は秀信も信雄も織田秀勝も使える時は利用するだけして、いらなくなったらポイ捨てして
禍根を残す事がないように綺麗に後片付けしてる。
信雄は佐々攻めの時とかまだ講和の使者として秀吉に利用されまくってたし、
秀吉からしたらまだまだ使えると見られてたが、北条征伐終了後はもう邪魔なだけで使えないと判断されて改易になったんだろ。
そういえば信包とか他の織田一門の連中も秀吉が主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやられて事実上失脚させられてるよな。
- 64 :人間七七四年:2013/11/22(金) 21:53:49.97 ID:c0PDK86P.net
- 家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
- 65 :人間七七四年:2013/11/22(金) 22:24:26.66 ID:ZD+R1ubN.net
- 次々と言いがかりで脅迫して敵認定しまくっては、
ケンカふっかけてくる家康は基地外だったよな。
家康には秀吉のような公儀の元に大義名分を掲げる秩序構築力が全くない、
ただの反乱クーデター政権。
- 66 :人間七七四年:2013/11/22(金) 22:47:11.90 ID:7DY2gaEq.net
- 菅沼君大ハッスルだな
- 67 :人間七七四年:2013/11/22(金) 22:50:10.28 ID:CWbRDD57.net
- >>59>>60>>61>>62
これらはだいぶむかしにSUBがレスした内容をコピペしたもんで、
お前が作ったレスじゃないだろ。
勝手に他人のレスをコピペ爆撃に盗用すんなよ基地外織田チョン君。
- 68 :人間七七四年:2013/11/22(金) 23:13:02.81 ID:tVnPRBye.net
- 脅迫して敵認定して喧嘩ふかっける無理矢理なやり方も
大義名分を掲げてそれを利用するやり方も、結果的に自分にいいように相手や自家などを利用するやり方に変わらないし
それで個人の性格がわかるってもんでもないだろ。
- 69 :人間七七四年:2013/11/22(金) 23:32:23.59 ID:c0PDK86P.net
- 家康は信長から恩なんて欠片も受けてない。大国武田に一人でガチンコで立ち向かってるのに
援軍なかなかよこさないどころか姉川金ヶ崎上洛志賀の陣など畿内平定戦には次々狩り出され、
武田に勝てたのは長年武田を抑えてくれた徳川の働きによる所が大きいのに
駿河しかよこさない身勝手ぶり。
秀吉に関しては秀吉がビビリまくって家康に気を使って顕如や信雄に取り成しやってもらったり自国の15分の1程度の国力の相手にもかかわらず
肉親を差し出したり中央から遥か離れた辺境の関東に移封し、240万石の大国の国力と、中央集権化と、五大老や千姫との婚姻という
豊臣継承の大きな大義名分を与えた秀吉が馬鹿なだけで、取り立てて恩を感じる事もなかっただろ。
織田に関してはむしろ酷使されてたにもかかわらず、それまで良好だった秀吉との友好捨てて
信雄を助けてるし、信雄が秀吉に追放された後徳川がやはり救って領土与えるし秀信も正面から歯向かったのに
殺さずに改易で済ませてるし、むしろ温情あふれる処置といっていい。
バーカ織田が武田に勝って滅ぼしたのは長年寡兵で大国武田相手に敢闘してきた徳川と、ガチンコ侵略を受けながら、迅速な攻略と
2年にわたる甲斐侵攻によって新府築城させるなど武田を多いに疲弊させた北条の功責であって
織田は何もやってねーよハゲ
信長なんて国力的に格下相手の畿内平定戦で家康をこき使いまくったのに領土はおろか援軍すらなかなかよこさなかったじゃねぇか
どっちが恩受けまくってると思ってんだ
長年寡兵でろくな援軍もなく大国武田の侵略に耐え抜いてきた徳川の功責からすりゃ駿河だけではなく甲斐信濃もあげていいくらいだからな。
大国武田に単体で立ち向かうとか初めから無理ゲーなんだよ。
当時の徳川なんて三河+遠江7割程度だし
信長の畿内平定戦にいやいや付き合わされてるし
織田が武田に勝って滅ぼしたのは
長年寡兵で大国武田相手に敢闘してきた徳川と、ガチンコ侵略を受けながら、迅速な攻略と
2年にわたる甲斐侵攻によって新府築城させるなど武田を多いに疲弊させた北条の功責であって
織田は何もやってねーよハゲ
信長なんて国力的に格下相手の畿内平定戦で家康をこき使いまくったのに領土はおろか援軍すらなかなかよこさなかったじゃねぇか
どっちが恩受けまくってると思ってんだ
>>ろくな働きしなかったくせに
アホかお前w
長篠合戦時も鳶ヶ巣山砦を落とし勝利のきっかけをつくり
三方が原のときも織田の大軍は瞬殺されて使い物にならなかったが徳川軍は敗北後も浜松城に篭もり武田方は攻略諦めてるし
武田崩れの時も高天神城の時も徳川や北条軍の働きで武田は崩壊しただけで
織田方なんて何もやってねーよボケ
徳川の働きからいったら旧武田領全部徳川にやっていいくらいだわアホ
- 70 :人間七七四年:2013/11/22(金) 23:33:01.00 ID:z4xy+q5u.net
- ぶっちゃけ織田が武田を滅亡させる事ができたのはほとんど北条と徳川のおかげ。
武田は長篠以降も謙信の関東出兵に対して北条と結託して上野方面に外征したり遠州で徳川方を撃退したりと
全くといっていいほど衰退していないし勝頼は、翌年に武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので
まだまだ自力は大きく残ってたんだろう。北条との同盟決裂後も関東において北条を押しまくっていたが
天正8年・9年の甲斐の都留軍への侵攻をゆるした(撃退してるが)ため、新府城の築城を北条対策として行ったが
これが多いに失策だったため、武田領国の国人は大いに不満が高まり後の離反フラグになったんだろう。
徳川も田中城や高天神城に手も足も出てなかったし武田が謙信に対応した天正3・4年の関東派兵や対北条戦のため関東に出兵したのと
甲江和与の影響で武田が軍備解除してた隙をついて居留守泥棒的に二俣城や高天神城を奪回するがその周辺の拠点や
田中城には手も足も出ず、北条が駿河伊豆国境地帯の長窪城や天神ヶ尾城を落とし、武田がその方面に出兵した隙をついて開城勧告で
なんとか開城させたにすぎない。
よって「北条が滅亡寸前の武田に上野で負けた」ではなく「武田は北条戦で大いに出費面や戦力集中の観点から犠牲を払い
その隙をついて甲江和与詐欺を生かして武田領国を無防備にさせた所に織田・徳川で奇襲をかけたら離反の連鎖になって運よく滅んだ」が正しい
- 71 :人間七七四年:2013/11/22(金) 23:35:13.63 ID:VgVMTFFO.net
- 例えていうなら徳川さんや、北条さんが長年頑張って弱らせておいてクタクタに疲弊しきった所を
後からその喧嘩に協力もろくにしてなかった織田さんがズカズカ入っていって弱りきってた武田さんを殺し
武田さんの財産遺産土地全て奪ったから徳川さんからしてみりゃ恩どころか
迷惑きわまりねーだろボケって話だろ。
- 72 :人間七七四年:2013/11/23(土) 03:35:22.13 ID:37fYDBPG.net
- 菅沼遼太とSubの浸透度じゃ菅沼遼太が万倍も上だからなあw
そもそも3年前のWiki民のSubが2chで今も連投しているとか現実的じゃなさすぎて
むしろ5年前から今なお書き込み続けている菅沼遼太だと思われても仕方ない
- 73 :人間七七四年:2013/11/23(土) 08:32:07.55 ID:ECZkvuS1.net
- wiki民は織田チョンだろがw
- 74 :人間七七四年:2013/11/23(土) 22:29:26.01 ID:LHnrFrK1.net
- 最悪のカスは石田三成で決定
- 75 :人間七七四年:2013/11/23(土) 22:53:13.49 ID:2avRzqld.net
- >>70
長篠以降では、武田と上杉は戦ってないぞ
勝頼の上野攻めは、北条と戦うためのものだ
膳城の素肌攻めとかな
あと武田軍がノーダメージなら、もう1回信長と戦えば良い
美濃岩村城でも攻めればよい
しかし実際は高天神城の救援もしない有様だった
- 76 :人間七七四年:2013/11/23(土) 22:59:21.93 ID:N8uKLdSz.net
- 黒田基樹氏によれば天正3年・4年の続けての謙信の関東遠征に際し北条方の援軍要請に応えて
上野に出兵してる事になってる。
ただ謙信の関東出兵のソース元とされる文書の年代比定が必ずしも学説上一致していないので、
確定的事項とはいえないが。
- 77 :人間七七四年:2013/11/24(日) 04:04:49.40 ID:Y/NYbijY.net
- 黒田が北条贔屓で年代比定してるから、
おかしな時系列になってるだけだ。
黒田を無視すりゃいい。
- 78 :人間七七四年:2013/11/24(日) 04:27:27.97 ID:tLQLs9Ef.net
- >>75
逆だ逆。
むしろ武田との戦いを徹底的に回避してたのは信長の方なんだが…
- 79 :人間七七四年:2013/11/24(日) 11:36:40.26 ID:VlkFFc4n.net
- >>77
ハイハイ、お前の願望乙
- 80 :人間七七四年:2013/11/25(月) 13:11:05.89 ID:pqdV4eln.net
- 七本鑓を筆頭に明治まで安泰だったのは極僅かだろ
やっぱり寝返り者は信じれませんな
- 81 :人間七七四年:2013/11/25(月) 13:17:32.53 ID:fctCO5XH.net
- 寝返りという発想がもうダメだね
石田や宇喜多や小西は明治まで安泰だったのかw
- 82 :人間七七四年:2013/11/25(月) 22:19:51.34 ID:pYvdaHH3.net
- 秀吉から直接指名された筆頭大老に従うことが寝返りであるわけがないのにね
むしろ石田・宇喜多・小西こそが筆頭大老から権力を奪おうとした謀反人だろ
- 83 :人間七七四年:2013/11/25(月) 23:40:21.15 ID:SpQ8dn93.net
- 結果論で、豊臣を滅ぼしたのが徳川だからフィルターかかっちゃうんだよねぇ。
徳川中核の政権にしようとしたのは、他でもない秀吉だからな。
それに従えなかったのが、毛利・上杉・石田等というのが正しい構図。
- 84 :人間七七四年:2013/11/26(火) 08:25:07.98 ID:gUJeX1Yz.net
- 秀頼の育てられ方もひどいしね。
秀吉の遺言とはいえ、大坂城から出すなではまともに育たない。
関白と言っても、所詮は軍事政権だ。
- 85 :人間七七四年:2013/11/26(火) 10:06:41.92 ID:rvVTjYD+.net
- 中井氏
一般に秀吉は自分の死後、秀頼成人までの政務代行者を家康に委ねた、との見方がされることが多い。
これは浅野家文書の「豊臣秀吉遺言覚書」等の記述が典拠になっているが、
原文を素直に読むと、あくまで家康は政務執行者の一人として位置づけられている。
秀吉の死後、三成はくどいほど、
十人衆(いわゆる五大老・五奉行)での合議を強調し、
秀吉薨去後の誓詞にも盛り込んでいる。
- 86 :人間七七四年:2013/11/26(火) 16:49:00.32 ID:+eiTHrGD.net
- 最強の軍事力と最大の石高、最高の官位を有し、豊臣宗家の外戚である政務代行者な。
十人が平等の一票を持って合議が成立すると思っている奴は、バカとしか言いようがない。
- 87 :人間七七四年:2013/11/26(火) 17:29:25.48 ID:jQ0hGp8e.net
- 秀吉は充分に主家に義理立てしたじゃんよ。
信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいたくらいで、
信雄と信孝は超アホで調停不能で、
信長の葬儀すら誰もやろうとしなかった中で、
秀吉は朝廷から故信長の昇進を土産に弔ったし、
信雄の官位官職も上げまくって後ろ盾になってんじゃん。
秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝してたから、
実際、関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝していたのと同時に、
織田が家康を嫌ってたのは明白だろ。
だいたい、秀吉や光秀らは、佐久間や柴田らと違い、
自らの武辺と才覚で國持ちになったようなもんで、
信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔ばかりしてたし、
猜疑心を解くために献上品たんまり信長に送ってんじゃん。
池田も丹羽も柴田も本能寺の変後にすぐ信長遺領分配を指揮してたくらい人徳がなかった。
逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで
身が引き立てられただけで大した武将いないだろ?
秀吉は信雄や秀信を見捨てたりしなかった。
しかし、家康は秀頼どころか国松まで殺し、
秀信を高野山に幽閉し22才で死に至らしめた。
信雄だって公家や寺社に強い影響力を公使できる
京都五山の僧侶達が全力で擁護で助命を何とか勝ちとったほど難航した。
勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おっておいて、
いざ勝てない相手が死ぬやたちまち態度を豹変させて、
どんだけ織田や豊臣に対して冷酷非道だよ。
実力を競って勝ち取る下克上ならまだいい。
しかし家康は幼君が成長しきる前に、
圧倒的立場を築き上げて、
国内が平和になっていたにも関わらず、
平時に乱を望んで天下を盗んだに過ぎない。
そして女子供を含む20満員大虐殺し、大坂を秀吉時代の痕跡をすべて消して更地にした。
想いっきり屈折した嫉妬と屈辱の人生を思い出す風景を消そうとするキチガイ老人の醜い人間性が垣間見える。
- 88 :人間七七四年:2013/11/26(火) 18:16:27.22 ID:A2mN/1I9.net
- >>85
この中井ってのは多分三成大好きな中井俊一郎なんだろうな
- 89 :人間七七四年:2013/11/26(火) 20:02:01.51 ID:InR8BgVL.net
- 毛利本領、伊予安国寺領、筑前筑後隆景領などがあって家康に対抗できたのに、
隆景が死んでアホ秀秋が継いだのが痛かったからな。
予想を超えたアホだった。
- 90 :人間七七四年:2013/11/26(火) 20:30:59.80 ID:CDuImz44.net
- >>秀吉は充分に主家に義理立て
主家織田家の当主に当たる秀信や信雄を利用するだけ利用しといてポイ捨てしておいて義理立てしたとかないわ。
>>信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいた
だから秀信をトップに据えて兄弟の対立をこれ見よがしに対立を煽ったりして崩壊させたのが秀吉。
>>信雄と信孝は超アホで調停不能
だからこそ秀信を据えたり兄弟のうちどちらかを立てて主家のために忠義をつくすのが家臣としてあるべき姿
秀吉の場合はそれどころではなく清洲会議の合議も無視して好き勝手な専横で織田家を簒奪した極悪人。
>>信雄の官位官職も上げまくって
そりゃ信雄なんて主筋で一時期は当主に据えるほど、大いに利用させてもらったのが秀吉だからな。
その負い目や、大した理由もなくいちゃもんつけて攻め込んで、和議を結んだと思ったら改易までやらかすなど、散々な専横をしまくったのが秀吉。
>>秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝
ソースくれ。織田の当主になって秀吉に命令を下すべき人間がハナクソみたいな領土と地位を与えられただけで感謝も糞もねーわw
>>関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
関ヶ原ではむしろ豊臣恩顧系ほど東軍についたし、西軍は秀吉と繋がりの薄い連中ばかりだから
西軍=秀吉への恩義とかもう馬鹿かと。
>>大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄などは両家の和解のためいたんじゃないのか?家康が遣わした可能性も往々に考えられるのに
自分の意思で豊臣に感謝してたからとか勝手な決めつけだろ。
>>信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝
主家を乗っ取り簒奪に利用されるだけ利用されてポイ捨てされたのに感謝してるわけねーだろw
>>織田が家康を嫌ってた
ハイハイ、根拠なし。織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康。 信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許している
>>秀吉や光秀は自らの武辺と才覚で國持ち
いやほとんど信長や信忠や織田家のお膳立ての背後で楽な戦やってただけだよ。長浜という鉄砲の名産地・交易・流通の絶好の場所
守護の赤松・小寺・別所・山名など衰退期もいい所で、しかも中国地方からは山中ら反毛利国人まで与力として味方がなだれ込んできてる状況
永禄末期や天正の第一回目の織田家での侵攻など見る限り播磨・但馬は元々ほとんど織田方で、抵抗勢力などたかがしれてる。
それを秀吉の失態自爆で敵が増え、別所など雑魚に信長や信忠や山中ら尼子残党らの後援を受けながら苦戦しまくり、2年近く費やしたのが秀吉。
>>信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔
そんな事全くやってない。信長は秀吉のためにわざわざ信忠ら主力を派遣して播磨の中枢の諸城を悉く砦や小城の普請などでいつでも攻められるようにお膳立てして帰ってる。
ちなみに明智光秀まで援軍として播磨に来ていたらしい(兵庫県史資料編の中で明智が別所攻めに加勢として遣わされてる文書があったはず)
>>逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけ
そりゃあんたの主観だろ。秀吉なんて小牧長久手とか紀州征伐あたりまではともかく
他はほとんど部下に戦をまかせきりで物見遊山とか茶会とかやって遊んでただけじゃん。
あげくのはてには朝鮮出兵など愚行に走り、人徳を失い、子飼い系も含め悉く徳川に篭絡される事になった。
- 91 :人間七七四年:2013/11/26(火) 20:31:53.13 ID:CDuImz44.net
- >>勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おって
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
- 92 :人間七七四年:2013/11/26(火) 20:32:49.87 ID:CDuImz44.net
- 秀康は史実で家康に嫌われまくってたから(秀康年譜)豊臣家から戻ってきた後も徳川家なんて継がなかったし
秀忠もいるし、子なんて作ろうと思えばいくらでも作れるから家康にとってそんな大きな存在じゃない。
その証明として秀忠が問題なく継いでるし、翌年は、家康は秀吉に屈服どころか>>130のように抵抗して
秀吉も家康討伐を進めていたし、戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
その証拠に家康は翌年も秀吉に抵抗しまくってたが、秀吉は殺害対象とはしていない
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
なんで信康が死んで、離縁した後の信長の娘持ち出して家康の敗北感に繋がるんだよボケ
宣教師の記録は>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
- 93 :人間七七四年:2013/11/26(火) 20:33:50.23 ID:CDuImz44.net
- 家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
- 94 :人間七七四年:2013/11/26(火) 21:13:48.95 ID:CDuImz44.net
- 小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
- 95 :人間七七四年:2013/11/26(火) 22:33:10.24 ID:K9v57SNO.net
- >>85
十人衆での合議というのは裏を返せば十人衆以外を排斥して十人衆による専横を行うということ
つまり外部の人間から見れば合議を主張している三成自身も専横者なんだよね
だから家康が話し合いをしないといくら三成が外部に訴えたところで成功するはずがなかった
そもそも訴えた相手の大半と三成自身も話し合う気が全くないのというジレンマを抱えているのだから
要するに十人衆での合議というのは合議を成立させる努力も十人衆内部が負担するしかないわけよ
だから関ヶ原で必死に戦ったのは三成とその派閥舎弟連中だけだったのは必然の結果だった
- 96 :人間七七四年:2013/11/27(水) 00:00:29.27 ID:Cs+EsEOM.net
- 信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
- 97 :人間七七四年:2013/11/27(水) 00:01:22.69 ID:O/DOptGL.net
- 秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
- 98 :人間七七四年:2013/11/27(水) 00:02:16.70 ID:O/DOptGL.net
- 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
- 99 :人間七七四年:2013/11/27(水) 00:03:10.45 ID:O/DOptGL.net
- >>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
- 100 :人間七七四年:2013/11/27(水) 00:04:17.38 ID:O/DOptGL.net
- 基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
>秀吉にガンガン侵食されていくばかり
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない。11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>高木貞利の敗北と福田の降伏という流れ
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
>この地域での秀吉の優勢をはっきり示す
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの
報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛。美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった
犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
- 101 :人間七七四年:2013/11/27(水) 07:15:45.64 ID:O/DOptGL.net
- >秀吉の大戦略により王手がかけられ
全くかけられていない。
信濃の諸侯が寝返ったのは天正12年春(木曽)と戦争終結後の天正13年夏〜秋にかけてで
時期が全くずれてるし真田は天正壬午の時の徳川の恩賞問題で勝手に寝返っただけ。
木曽は天正12年春時点で離反してるし小笠原も真田も離反したのは翌13年であり家康が小牧長久手の戦い(秀吉との戦い)中に恩賞約束なんてしてねぇよクズ
天正10年〜11年にかけて小笠原や真田は家康の支援受けて勢力拡張し天正壬午の頃安曇筑摩の全域支配を任せる予定だったが
天正11年12年と連続で上杉との麻績・青柳の戦いに敗れるなど北信濃方面の拡張が滞り翌年小笠原は石川の人質連れてビビリまくって秀吉の下に参じたのと
天正壬午の恩賞問題やら沼田割譲問題やらで離反しただけで秀吉との戦いにおける恩賞なんて全く関係ない。そもそも秀吉との戦闘の部隊は美濃尾張伊勢が主なのに
なんで関係ない信濃で恩賞だされるんだよアホ
石川は小笠原が人質連れて離反したから離反しただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
>ついには信雄も本拠地の長島まで秀吉軍がやってきた為に降伏。
信雄は降伏なんてしてねーよボケ。
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
- 102 :人間七七四年:2013/11/27(水) 07:16:53.09 ID:iz/bCDdG.net
- >>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
- 103 :人間七七四年:2013/11/27(水) 07:18:35.35 ID:iz/bCDdG.net
- 当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で
抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく11/13秀吉→伊木、
池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている。そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっているこの時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
家康はおろか織田家で最も無能な信雄相手に135000で挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木城・松ノ木城・河波城・東駒野城・二重掘砦では散々敗戦し
浜田城・長久保城・蟹江城・前田城・下市場城は秀吉方陣地のほど近くなのに見事に奪回されるアホっぷり。
雑魚すぎて涙が出てくるわw
結局会戦早々から三重臣、池田・森、尾張毛利氏はじめ離反の嵐だった信雄方に対して1年つかって自力では尾張半国すら切り取れないとかw
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
- 104 :人間七七四年:2013/11/27(水) 07:19:25.29 ID:O/DOptGL.net
- 伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
- 105 :人間七七四年:2013/11/27(水) 07:20:17.27 ID:iz/bCDdG.net
- ●二重掘合戦 細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ
大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし。蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明。大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
- 106 :人間七七四年:2013/11/27(水) 08:42:44.18 ID:yERaneZQ.net
- 家康は圧倒的に不利になると願望妄想の架空援軍話をでっち上げて虚勢を張る。
北条と戦った時は追い込まれた挙句に、
もうすぐ秀吉や勝家らの援軍が来ると言い出し、
秀吉と戦った時は切羽詰まり、
長曾我部相手に北条の援軍が来ると大ウソを吐いた。
- 107 :人間七七四年:2013/11/27(水) 08:44:38.83 ID:U5vtyaiw.net
- 新種の荒らしですか?
- 108 :人間七七四年:2013/11/27(水) 08:58:50.84 ID:iz/bCDdG.net
- >>家康は圧倒的に不利になる 秀吉と戦った時は切羽詰まり、
全く切羽詰ってねーよアホ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
信雄が和議に応じたのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
- 109 :人間七七四年:2013/11/27(水) 08:59:20.82 ID:iGfNALai.net
- そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶり
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>> 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
- 110 :人間七七四年:2013/11/27(水) 08:59:53.21 ID:O/DOptGL.net
- 小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
- 111 :人間七七四年:2013/11/27(水) 09:00:15.89 ID:iz/bCDdG.net
- 秀吉はhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/440-447
のように領国中の兵力総動員して短期決戦に臨んだが、秀吉の指揮采配能力があまりにもクズすぎたせいで
わずか16000の雑魚信雄・徳川勢に10000人殺された上に、その後の攻防でも下記のように膠着状態に陥ってる。
長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
- 112 :人間七七四年:2013/11/27(水) 09:01:04.87 ID:iGfNALai.net
- 小牧長久手の戦いでは徳川方の甲斐・信濃衆は大方領国に残されて北条の変心と
上杉の信濃侵攻の留守を任されてたから北条との同盟自体ほとんど関係ない
そもそもほとんどが信雄軍と秀吉軍の交戦で家康は8000そこそこを連れて来ただけ(当代記・御当家記念録・御年譜徴考・家忠日記など)
大久保兄弟、鳥居、岡部、石川家成、平岩、保科その他多くの徳川家臣の活躍は徳川史料には一切見られない
江戸期の講談とか軍記などでは別だがな
そもそも南伊勢も美濃も尾張の一部、木曽谷まで会戦そうそう織田方から羽柴方に寝返ってるってて
残りの地域でしか戦闘は行われてないじゃん
領国から遥かに離れた戸木城も秀吉方は敗北
秀吉方本陣から近距離の松ノ木城でも秀吉方は敗北(4月〜6月頃は戦闘が確認でき、信雄方から何回も戦功を賞されてる)
二重掘合戦では信雄方に奇襲くらって楽田から敗走(4月下旬→5月上旬にかけて)
おまけに前田・下市場・浜田・蟹江・長久保あたりは秀吉方本陣の大垣・伊勢浜田などから近距離にある拠点なのに信雄方に奪回されてる
信雄や家康は降伏なんてしてない
一時講和停戦しただけ。翌年も家康なんか浜松会議で抗戦する気まんまんなくらいに軍議開いたり
北条との同盟強化や諸城普請、人質収集など会戦に備え、秀吉方も秋には着々と出兵計画進めていたが
直前の天正14年春になったら秀吉がビビッて織田信雄に取り成し仲介を必至に依頼して、おまけに母と妹を人質に出して
「ワシに従ってくれ〜」とばかり土下座してきたので余りにかわいそうになった家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と離反の連鎖で領国軍事機密露見&天正11年からの徳政連発で極度に疲弊してたのに
ビビリまくってたのが実態
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り 5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人 フロイス日本史一万人
当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
- 113 :人間七七四年:2013/11/27(水) 09:01:43.21 ID:O/DOptGL.net
- 徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
- 114 :人間七七四年:2013/11/27(水) 09:02:09.54 ID:iGfNALai.net
- >>家康は追い詰められてた
それは完全に秀吉の方だな
何せ長久手合戦後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず長久保戸木松ノ木東駒野河波二重彫り蟹江浜田など砦クラスの小城軍で負け続け
尾張半分すら切り取れなかったんだからこのままガチンコ戦闘継続してたら秀吉は戦死してたのは間違いない
- 115 :人間七七四年:2013/11/27(水) 09:02:44.25 ID:O/DOptGL.net
- 秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
- 116 :人間七七四年:2013/11/27(水) 09:26:00.75 ID:U5vtyaiw.net
- スレタイを読めない
キチガイに占拠されてしまった
- 117 :人間七七四年:2013/11/27(水) 11:08:13.11 ID:Cs+EsEOM.net
- >>家康が優勢だったなんて歪曲意外にあり得ないのにチョンは馬鹿だなワロスw
羽黒で大敗、小牧長久手で1万人戦死の大敗、戸木・松ノ木・河波・神戸・二重堀・蟹江・浜田で敗北
ちなみに兵力差は7倍ほどもあり信雄方は合戦当初から尾張でも美濃でも伊勢でも寝返りでまくりの圧倒的秀吉有利な状況
>>家康は八方塞がりで秀吉の攻勢に常に籠城してただけで、其の間に味方がどんどん切り崩されていっただけじゃんw
秀吉が切り崩したの木曽川筋の家康が出てこれないわずかな城だけだろ
他東駒野・河波・松ノ木・戸木・蟹江・二重堀・神戸・浜田など各城郭で敗北
結局秋になって秀吉が諦めて納馬しようとしてたところに信雄がヘタレ和睦してきて助かっただけ
>>秀吉がいなくなると、ちょっかいを出すが秀吉が来ると逃亡
むしろ至近距離で滝川が蟹江・前田・小口など奪って家康と決戦する大チャンスなのに
信雄と家康にビビッて逃げてったの秀吉だろ。滝川が蟹江合戦起こした当初最低でも至近距離の大垣にいたのに
いつでも後詰できるのにしなかったのは秀吉が小牧長久手で1万人も戦死する大損害だしたからヘタレビビリまくって逃げてただけ
>>根本的な解決策はなく、時間稼ぎ籠城してるだけ
家康単体では8000そこそこしか軍出せないのに根本的な解決できるわけねーだろアホ
- 118 :人間七七四年:2013/11/27(水) 11:08:56.20 ID:P+edf/sM.net
- 佐竹や毛利や上杉相手にデタラメ戦果書きまくって必死に家康の味方にならないよう気遣っていたのは秀吉の方じゃん
- 119 :人間七七四年:2013/11/27(水) 11:09:38.14 ID:O/DOptGL.net
- >>118
秀吉の戦果捏造はガチで悪質だからな。
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
>>が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
なら9月や11月に秀吉が勝利まじかと書いていたって勝利が近い信雄を追い詰めた状況の証明には全くならないわけで。
しかも家康も春頃勝利眼前・上洛まで程なくとか秋にも勝利まじかと書いていて全く追い詰められて焦ってる文面ではない
- 120 :人間七七四年:2013/11/27(水) 11:10:10.64 ID:iGfNALai.net
- フロイスの日本史とかも秀吉が史料を改竄しまくったせいで、歪曲された情報がそのままあたかも史実かのように書かれてるからね
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
- 121 :人間七七四年:2013/11/27(水) 11:10:59.77 ID:iGfNALai.net
- >>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
- 122 :人間七七四年:2013/11/27(水) 12:24:45.39 ID:KPKeSkWy.net
- 中井氏
一般に秀吉は自分の死後、秀頼成人までの政務代行者を家康に委ねた、との見方がされることが多い。
これは浅野家文書の「豊臣秀吉遺言覚書」等の記述が典拠になっているが、
原文を素直に読むと、あくまで家康は政務執行者の一人として位置づけられている。
秀吉の死後、三成はくどいほど、 十人衆(いわゆる五大老・五奉行)での合議を強調し、
秀吉薨去後の誓詞にも盛り込んでいる。
秀吉は死後の体制を合議制にして、特定大名の暴走を牽制できるようにしてるし、
それは歴史上、幼君を傀儡として専横する奸臣が現れることを危惧したから。
秀吉は利家らには実力、人望で全く勝てない家康は卑屈に振舞っていたが、
彼らが死ぬや豹変増長し、 威嚇脅迫を以って望み幼君の諸権力を盗み奪い、ついには殺し
女子供を含む大坂20万人を虐殺し、大坂を更地にするほど徹底的に痕跡を消し、屈辱を思い出せないように破壊に偏執した。
醜く汚ない老人家康は屈辱が忘れられず秀吉の墓を暴き神号を奪うなど暴虐無道な行いをし、
朝廷すら脅迫し好き勝手したキチガイ奸臣。
一.自然於喧嘩口論者致堪忍可属理運事
一.無実儀申上輩在之者双方召寄堅可被遂御糺明事
一.何たる儀も内府大納言殿へ得御意其次第相究候へと被成御意候事
一.諸事御仕置等之儀其軽重を決し十人之衆中之多分に付而可相究事
家康の耳に入れ、10人衆の裁判を催し相談を究めて鼎の軽重を決し御仕置きをすること。
つまり家康には独裁権など付与されてない。
信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、
22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。
12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質として浜松を出発させた。
20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる。
信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、正親町天皇が譲位の思召を伝えると
すぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、
後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
- 123 :人間七七四年:2013/11/27(水) 12:50:48.69 ID:yERaneZQ.net
- この基地外アンチ秀吉の織田朝鮮人は結局、
朝日姫が家康の人質だったと捏造しまくって、
一次史料を出せずにコピペ連投で逃亡してるだけなんだよな。
- 124 :人間七七四年:2013/11/27(水) 13:04:06.09 ID:iGfNALai.net
- >>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
- 125 :人間七七四年:2013/11/27(水) 13:04:53.03 ID:O/DOptGL.net
- 近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
秀吉⇒和仁親王 銀20枚
7月 秀吉⇒天皇 白鳥三 蝶子三十
⇒誠仁親王 白鳥ニ 綿百吊
⇒和仁親王 太刀
⇒若御方 料紙
と献品しまくり
また寺社衆への所領安堵もしまくっている 長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
そもそも秀吉は政権なんて取ってない。実力のない公家とか朝廷とかが形式的に従えてるのと同じ
秀吉が天下取ったというなら公家や朝廷が天下取ったというのと同じ事
秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
家康三成のごたごたでめちゃめちゃになるなんておかしい
結局皆うわべだけ従ってただけ。武力で統一したわけじゃなく停戦令を通達して
戦いをやめさせただけの間接支配だったからあっさり瓦解しただけ。
それで敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
- 126 :人間七七四年:2013/11/27(水) 13:05:19.94 ID:iz/bCDdG.net
- >>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
- 127 :人間七七四年:2013/11/27(水) 13:05:58.72 ID:O/DOptGL.net
- そもそも主家簒奪の名分として自分を利用するだけ利用してポイ捨てしたり
自分にいちゃもんつけて改易した秀吉の恩によって信雄や秀信が西軍についたというのは相当無理があるだろ。
恩どうこう言うなら高い身分まで取り立ててもらった秀吉の方が、ろくに援軍も出さず畿内平定にこき使われまくってた家康より遥かに恩を受けてるわな
つか、一番秀吉から恩を受けてるはずの福島加藤浅野らが家康に篭絡されてる時点で、
武功派が主家を考えず自分の好悪の感情だけで動いていたのがハッキリわかる。
家康が信長から恩を受けていたとか、もうね、笑わせるなと。
畿内平定に狩り出され、大国武田に攻められてもろくに助けてもくれず
散々いじめられてただろうが家康。
立身出生を全面的にお膳立てと棚ボタであげてやった秀吉の方が異常に恩受けてるだろうがクズ
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
散々こき使われまくり同盟とは名ばかりの援軍なし放置状態(しかも大国と交戦中なのに)の、
恨みばかり残ってもおかしくない状況で織田家を再興してやったのが家康。
恩を受けまくり、信長のおかげでトップにたてたといってもおかしくないくらいなのに
主家を崩壊簒奪し、役に立たなくなったと思ったらポイ捨てしたのが秀吉。
だからこそ、織田家は江戸期でも細々とながら残り、豊臣家あっさりは滅亡し、家康が天下取れたんだろうな。
- 128 :人間七七四年:2013/11/27(水) 13:06:38.89 ID:iz/bCDdG.net
- 清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か
>>秀吉は充分に主家に義理立て
主家織田家の当主に当たる秀信や信雄を利用するだけ利用しといてポイ捨てしておいて義理立てしたとかないわ。
>>信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいた
だから秀信をトップに据えて兄弟の対立をこれ見よがしに対立を煽ったりして崩壊させたのが秀吉だろ。
>>信雄と信孝は超アホで調停不能
だからこそ秀信を据えたり兄弟のうちどちらかを立てて主家のために忠義をつくすのが家臣としてあるべき姿
秀吉の場合はそれどころではなく清洲会議の合議も無視して好き勝手な専横で織田家を簒奪した極悪人。
>>信雄の官位官職も上げまくって
そりゃ信雄なんて主筋で一時期は当主に据えるほど、大いに利用させてもらったのが秀吉だからな。
その負い目や、大した理由もなくいちゃもんつけて攻め込んで、和議を結んだと思ったら改易までやらかすなど、散々な専横をしまくったのが秀吉。
>>秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝
ソースくれ。織田の当主になって秀吉に命令を下すべき人間がハナクソみたいな領土と地位を与えられただけで感謝も糞もねーわw
>>関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
関ヶ原ではむしろ豊臣恩顧系ほど東軍についたし、西軍は秀吉と繋がりの薄い連中ばかりだから
西軍=秀吉への恩義とかもう馬鹿かと。
>>大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄などは両家の和解のためいたんじゃないのか?家康が遣わした可能性も往々に考えられるのに
自分の意思で豊臣に感謝してたからとか勝手な決めつけだろ。
>>信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝
主家を乗っ取り簒奪に利用されるだけ利用されてポイ捨てされたのに感謝してるわけねーだろw
- 129 :人間七七四年:2013/11/27(水) 13:07:07.34 ID:O/DOptGL.net
- >>織田が家康を嫌ってた
ハイハイ、根拠なし。織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康。 信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許している
>>秀吉や光秀は自らの武辺と才覚で國持ち
いやほとんど信長や信忠のお膳立てだよ。長浜という鉄砲の名産地・交易・流通の絶好の場所
守護の赤松・小寺・別所・山名など衰退期もいい所で、しかも中国地方からは山中ら反毛利国人まで与力として味方がなだれ込んできてる状況
永禄末期や天正の第一回目の織田家での侵攻など見る限り播磨・但馬は元々ほとんど織田方で、抵抗勢力などたかがしれてる。
それを秀吉の失態自爆で敵が増え、別所など雑魚に信長や信忠や山中ら尼子残党らの後援を受けながら苦戦しまくり、2年近く費やしたのが秀吉。
>>信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔
そんな事全くやってない。信長は秀吉のためにわざわざ信忠ら主力を派遣して播磨の中枢の諸城を悉く砦や小城の普請などでいつでも攻められるようにお膳立てして帰ってる。
ちなみに明智光秀まで援軍として播磨に来ていたらしい(兵庫県史資料編の中で明智が別所攻めに加勢として遣わされてる文書があったはず)
>>逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけ
そりゃあんたの主観だろ。秀吉なんて小牧長久手とか紀州征伐あたりまではともかく
他はほとんど部下に戦をまかせきりで物見遊山とか茶会とかやって遊んでただけじゃん。
あげくのはてには朝鮮出兵など愚行に走り、人徳を失い、子飼い系も含め悉く徳川に篭絡される事になった。
- 130 :人間七七四年:2013/11/27(水) 13:07:30.76 ID:iz/bCDdG.net
- >>勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おって
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
- 131 :人間七七四年:2013/11/27(水) 13:07:53.26 ID:O/DOptGL.net
- 清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)
三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。
10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。
秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか 10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。
日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。
(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある) 名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので
御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。
ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。 信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。 濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。 尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。
- 132 :人間七七四年:2013/11/27(水) 13:42:08.22 ID:O/DOptGL.net
- 豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
- 133 :人間七七四年:2013/11/27(水) 13:50:31.28 ID:iGfNALai.net
- 家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
- 134 :人間七七四年:2013/11/27(水) 14:17:27.54 ID:sCGxuSE6.net
- 当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
- 135 :人間七七四年:2013/11/27(水) 14:18:07.59 ID:sCGxuSE6.net
- 和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
- 136 :人間七七四年:2013/11/27(水) 14:20:03.18 ID:Cs+EsEOM.net
- 天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
- 137 :人間七七四年:2013/11/27(水) 14:21:05.12 ID:sCGxuSE6.net
- >>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は
>>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
- 138 :人間七七四年:2013/11/27(水) 14:37:55.46 ID:tSRS11QG.net
- 看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。
当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
- 139 :人間七七四年:2013/11/27(水) 14:40:44.84 ID:iGfNALai.net
- 跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
- 140 :人間七七四年:2013/11/27(水) 14:41:41.41 ID:Cs+EsEOM.net
- 秀吉は天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
- 141 :人間七七四年:2013/11/27(水) 15:12:01.67 ID:KPKeSkWy.net
- >>128の前半部分(>>の部分はこのキチガイ織田チョンが作っている)
>>131
この辺りは昔のSABのレスだな。
相変わらず他人のレスを盗用して成りすます
偽装工作行為でSABのフリがしたいらしいw
さすが織田朝鮮人のやることは気持ち悪いなw
- 142 :人間七七四年:2013/11/27(水) 15:48:31.96 ID:tSRS11QG.net
- そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
- 143 :人間七七四年:2013/11/27(水) 15:49:27.49 ID:O/DOptGL.net
- 信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
- 144 :人間七七四年:2013/11/27(水) 15:51:23.48 ID:2ou1GHyj.net
- 京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
- 145 :人間七七四年:2013/11/27(水) 15:52:56.63 ID:2ou1GHyj.net
- 天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
- 146 :人間七七四年:2013/11/27(水) 17:04:38.34 ID:z2+iJaIa.net
- >>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は
>>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
- 147 :人間七七四年:2013/11/27(水) 17:05:34.85 ID:z2+iJaIa.net
- >>年老いてすぐ死にそうになっている母親と将来の多い大名当主の長子では同じ交換でも格が違う
子供は女さえいりゃいくらでも作れるし実際家康も作りまくってるし史実で秀康なんかいなくても問題なく秀忠が継いでるし秀康は単なる養子だし
(信雄書状で秀吉は秀康を人質として扱ってないとか書いてる)母はたった一人の自分を育ててくれた人間だし妹も長年の自分の家族だし
母+妹なんだから長子と比べても遜色ないでしょ。しかも当時の秀吉家康は国力差10倍かそれ以上あるし
>>信雄や家康は秀吉から掠め取った領土など寸土もないわけだが
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
- 148 :人間七七四年:2013/11/29(金) 04:54:38.04 ID:D6E86YQV.net
- 菅沼はこんなところでなにしてるのん
- 149 :人間七七四年:2013/12/02(月) 06:17:06.58 ID:i5jinaW0.net
- 東日本大地震に引き続いて発生した福島第一原発の事故は、日本の歴史に巨大な爪痕を残した。当時、菅直人首相の下で官房副長官を務めていた
福山哲郎氏は、本書において当時の官邸の動きについての克明な記録を残している。これは、後々まで参照されることになる一級の資料となるで
あろう。政治家は過去ばかりでなく、未来にも責任を持つ。それでは、震災後の官邸は、未曽有の原発危機にどのように対応したのか。われわれ
国民が想定していた以上に、官邸は原発事故の深刻さに緊迫していた。最悪の事態へと発展すれば、東京にまで被害が及んでいただろう。3月11
日の深夜、「燃料被覆管破損」と「燃料溶融」、いわゆるメルトダウンに至る深刻な危機が発生した。張り詰めた空気の中、現場は直ちにベント
をして、爆発を避けるために圧力を逃がす決断をした。しかし、東電本店はそれを許可しない。菅首相は直接現地に赴き、吉田昌郎所長に指示を
出す形で、ベント実施へと動かしたかった。菅首相の現地視察が、仇となった。それだけではない。海水注入により冷却化を目指していた所長の
指示に対して、本店は官邸に配慮してなかなかその決断ができない。本書によって、官邸にいた東電元副社長の武黒一郎フェローが、その中断を
求めていたことが明らかとなる。現場が重要な決断を行いながら、本店が幾度となく壁となる。菅首相は、困難な状況で決死の対処を続ける現場
に厳しく指示を出し、責任を持って事故に対処するよう告げた。それはまさしく、政治主導であった。しかし同時に、現場は繰り返し「政治主導
の混乱」に苦しむ。官邸の外にいると、その実態がよく分からない。分からないまま、東電・保安院に対する批判が続いた。本書はそれに対する
有効な証拠となる。後の歴史は、いくつかの重要な決断を行った東電や当時の野党に対して、より正しい評価を与えるかもしれない。
- 150 :人間七七四年:2013/12/12(木) 20:00:22.85 ID:Yae3+9Sw.net
- 長文読むのメンドイんだけどどうすればいいの?
- 151 :人間七七四年:2013/12/26(木) 22:06:42.65 ID:+jWmUIUS.net
- 無視すればいいよ
中身ないし
都合悪くなると流れを断ち切るために連投するんだとさ
- 152 :人間七七四年:2013/12/29(日) 15:12:47.47 ID:qSuCFJTm.net
- 全部史料の書写とか綱文とか、歴史的事例が並んでるだけじゃん
- 153 :人間七七四年:2013/12/29(日) 17:21:25.47 ID:qSuCFJTm.net
- 三成はかわいそうだよな。
豊臣政権維持のために全力で頑張ったのに
欲に目のくらんだ馬鹿な武功派や、戦力分散させまくったアホ毛利のせいで
自分が巻き添え食って処刑されて。
- 154 :人間七七四年:2013/12/29(日) 21:54:46.90 ID:3VXIoJol.net
- 総大将に馬鹿毛利を担ぎ出したのは、三成唯一の失策。
三河や遠州方面に、西軍総力で攻撃をかけるなど、三成の構想していた戦略自体はかなり秀逸だった。
だが石高・地位・縁故関係など、三成にはあまりにも西軍を主体的に中心となって動かす土台がかけていた。
それゆえ三成や奉行衆らに、秀吉はもっと大領や官位や豊臣との縁戚関係などを与えてれば、間違いなく西軍は大勝利し、豊臣家は存続していた。
- 155 :人間七七四年:2013/12/30(月) 16:48:16.12 ID:aH158u22.net
- 毛利が総大将じゃなきゃ頭数が揃わないから、そもそも。
- 156 :人間七七四年:2013/12/30(月) 17:53:49.20 ID:LahdJ2DG.net
- 三成が秀頼を担ぎ出してもだめか・・・ところで秀頼の後見人って誰だったんだ?
- 157 :人間七七四年:2013/12/30(月) 18:03:51.35 ID:3fE9x9zv.net
- 家康
- 158 :HONGANZI:2013/12/30(月) 18:39:24.78 ID:zlEYoWoV.net
- 五大老 関ヶ原の戦い後
徳川家康→最終的に豊臣家に弓を引く
石田三成→処断される。
毛利輝元→大幅減封されそのショックで隠居&出家
上杉景勝→大幅減封、領地が上手く治められない。
前田利家→既死。
- 159 :人間七七四年:2013/12/30(月) 18:52:04.72 ID:3fE9x9zv.net
- >>158
お前は高校日本史から勉強しなおせ
- 160 :人間七七四年:2013/12/31(火) 09:50:48.04 ID:1ZdfbP+A.net
- >>154
三成や奉行衆らに大領も官位も豊臣との縁戚関係も必要ない
むしろ貰いすぎだからもっと削った方がいいくらいだろう
その代わりに如水に大領も官位を与えて大老に取り立てて
武断派が如水に従う形にしておけばいいだけ
奉行衆は雑用係程度に留めておくだけで十分すぎるくらいだ
- 161 :人間七七四年:2013/12/31(火) 14:30:31.25 ID:zEO9x4Yg.net
- 家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
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- 162 :人間七七四年:2013/12/31(火) 16:29:56.08 ID:Gv7qchwB.net
- 秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
- 163 :人間七七四年:2013/12/31(火) 18:18:44.13 ID:zEO9x4Yg.net
- 家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
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- 164 :人間七七四年:2013/12/31(火) 18:56:37.74 ID:qhhSFJRo.net
- 秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない
- 165 :人間七七四年:2013/12/31(火) 20:54:20.39 ID:tLvoSXpS.net
- 敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
- 166 :人間七七四年:2014/01/01(水) 10:04:09.02 ID:U7hNo7uX.net
- 秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。
蟹江城を取り尾張への
中入り戦略なんて、
太閤記には、
「滝川思ふやう、蟹江之城を調略し尾州に至て中入をし、家康卿などおびやかし見むと謀て」
などと滝川が勝手に妄想して行動し自爆した話に出てくるだけで、
太閤記でさえ、秀吉の了解していた話じゃないし、
三河物語でも滝川が秀吉と連携していたなんて全く書いてないのになwww
一次史料どころか、三河物語や太閤記にすら秀吉が事前に知っていた戦略なんて書いてない。
だから秀吉は尾張にいる滝川なんて知らんぷりで竹鼻城陥落の目処が立つとさっさと伊勢に陣替えしてる。
秀吉了解での蟹江中入り策など完全なまでに妄想。
6/10秀吉→石川
これ偽書状で有名じゃん。
秀吉が今日十日竹鼻で拝見って書き出しは、
多聞院日記の城ヲ筑州へ請取云々
もしくは、
顕如日記の尾州竹鼻城、六月十日、筑州へウケトラレ
などを読んで、6/10に落城した竹鼻城を秀吉自ら請取ったと誤読して偽書状を作製しただけ。
実際の秀吉は美濃にいて、
6/9に美濃墨俣で戦勝の茶会を宗無、宗二、宗及を呼んで楽しんでから、
6/11もしくは6/12に美濃大垣へ入馬したのが秀吉と同道していた秀包書状でわかる。
三河物語の石川がすでに秀吉に心を寄せていたとする話は、
大久保が後からそうだったのだろうと穿った解釈をしてるだけ。
大久保がリアルタイムで石川の心読出来る異能者なんて主張すんなよw
- 167 :人間七七四年:2014/01/01(水) 12:42:36.66 ID:9ZJMkYEW.net
- >>秀吉は尾張にいる滝川なんて知らんぷりで竹鼻城陥落の目処が立つとさっさと伊勢に陣替え
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
>>秀吉は6/8に墨俣で茶会
東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
- 168 :人間七七四年:2014/01/03(金) 20:30:03.90 ID:KLqy97tS.net
- スレタイ読めよ馬鹿共
- 169 :人間七七四年:2014/01/03(金) 23:32:25.41 ID:jxj1oDaY.net
- バカだからスレタイも読めないんだよ。
- 170 :人間七七四年:2014/01/04(土) 13:40:12.28 ID:txe8wK74.net
- 在日チョンくんさぁー、
お前、煩いという言葉を使用したことで、
虫気まで無意識に是認してしまっていたのを速攻で指摘されて、
あわててあれは仮病ニダって開き直り、
日本史板で火病起こしてたろw
即レス自演警備員のお前が、
さんざん返答まで時間をかけて言い逃れの曲解を考えていたくせに、
もう少しマトモな取り繕いストーリーくらい作れなかったのかよwww
とかバカにされてたよなw
- 171 :人間七七四年:2014/01/04(土) 14:12:45.45 ID:QI7kt4uT.net
- >>秀吉は体調が悪く出陣日が確定できない
いやいや秀吉は滝川が退城したらすぐに出兵日を7月から8月中旬に変更確定してるよ。
6/25→木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7/6秀吉→秀長や7/20秀吉→蜂谷や7/28秀吉→中川でもそれはしっかり決められてて
7月3日秀吉は『来る15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてるだろうが。
虫気の病気程度で出兵できなくなるわけねーだろクズ。
そんな短期間で治癒するような仮病くさい嘘病で、滝川が作った大チャンス無駄にするわけねーだろクズ。
つか秀吉が病気になったのは大坂に退却後であって、退却前じゃねーよ。
退却後にたまたま病気になった事をもって退却前の退却理由が病気とかありえんわ。
顕如日記でも退却理由には、病気というのは全く触れられてねーし。
現に秀吉は一時的に大坂→有馬と移動した後7/9には坂本15日には大垣7/29大坂
8/11には京8/14坂本8/15大垣8/19犬山8/27楽田と動きまくってるじゃねーか。
病人とは思えない程の機敏さだなw
つか出陣するのがしんどいなら秀長やらに代理してもらえばいいだけだろ。
なんだかんだ言い訳つけて、信雄や家康にビビリまくって戦争から逃げ回ってるのを
グダグダ擁護してんじゃねぇよボォケwwww
一週間程度で直るような嘘病で出兵取りやめたとか帰陣したとかグダグダ言い訳してんじゃねぇよクズ
秀吉が病を患ったとか仮病だろ。しかも秀吉が病気とか書いてるのは7月になって秀吉が大坂にヘタレ敗走した後だから。
病気だから退却ではなく、ビビリまくって退却した後に仮病使って休んでただけだわ。
秀吉は来月15日前後に出兵計画木曽などに書いてて、この時点では何の病気も患っていなかったのがわかる。
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと考えられるし、秀吉がビビリまくって
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
と秀吉が大垣に居座って、眼前の距離にある蟹江で信雄と家康領国を分断できる大チャンスに対して
長久手合戦でわずか自軍の7分の1の兵力の徳川や信雄に1万人殺された秀吉はビビリまくって
大坂にヘタレ敗走しただけだろ。滝川の力投むなしく蟹江も前田も下市場も奪回されるアホっぷりだし
休戦どころか、滝川が力闘してたのをむざむざ見殺しにして大坂まで大敗走したのが秀吉。
- 172 :人間七七四年:2014/01/04(土) 14:33:12.68 ID:QI7kt4uT.net
- >>170
日本史板まとめ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/388-400
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/402-406
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/488-411
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/415-428
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/430-434
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/287
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/289
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/291
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/294-296
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/298
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/300-304
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/306-309
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/311-313
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/317-324
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/327-329
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/332-340
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/344-346
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/348-350
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/355-357
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/359-371
- 173 :人間七七四年:2014/01/04(土) 14:34:26.06 ID:RgNql4f4.net
- >>172
低脳ID:txe8wK74 のあまりに酷い蹴散らされっぷりに吹いたw
- 174 :人間七七四年:2014/01/04(土) 19:33:19.30 ID:rPp7VgTu.net
- 家康は圧倒的に不利になると願望妄想の架空援軍話をでっち上げて虚勢を張る。
北条と戦った時は追い込まれた挙句に、
もうすぐ秀吉や勝家らの援軍が来ると言い出し、
秀吉と戦った時は切羽詰まり、
長曾我部相手に北条の援軍が来ると大ウソを吐いた。
- 175 :人間七七四年:2014/01/04(土) 20:13:47.41 ID:RrGSfhUo.net
- 秀吉が困った状況を隠すためにハッタリパフォーマンスするのはいつもの事。
例えば小牧長久手合戦で1万人殺され諸城の攻防でも長久保・浜田・戸木・松ノ木・二重掘・蟹江・前田・下市場・東駒野など
負けまくり奪回されまくってたが、下記のようにハッタリと捏造でもみ消してる。
パフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
むしろそれは兵糧や物資に困ってて早期に決着つける必要があったため
相手の戦意喪失を狙ったものとみるべき。
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。
あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。
- 176 :人間七七四年:2014/01/04(土) 20:17:06.17 ID:RrGSfhUo.net
- >>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
- 177 :人間七七四年:2014/01/04(土) 20:17:42.66 ID:dhmFcOuX.net
- >>家康は追い詰められてた
それは完全に秀吉の方だな
何せ長久手合戦後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず長久保戸木松ノ木東駒野河波二重彫り蟹江浜田など砦クラスの小城軍で負け続け
尾張半分すら切り取れなかったんだからこのままガチンコ戦闘継続してたら秀吉は戦死してたのは間違いない
- 178 :人間七七四年:2014/01/04(土) 20:18:47.17 ID:u0aiMORl.net
- 秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
- 179 :人間七七四年:2014/01/04(土) 20:19:20.18 ID:RgNql4f4.net
- 5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
- 180 :人間七七四年:2014/01/04(土) 20:20:34.35 ID:QI7kt4uT.net
- >>175>>176
秀吉の戦果捏造はガチで悪質だからな。
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
>>が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
なら9月や11月に秀吉が勝利まじかと書いていたって勝利が近い信雄を追い詰めた状況の証明には全くならないわけで。
しかも家康も春頃勝利眼前・上洛まで程なくとか秋にも勝利まじかと書いていて全く追い詰められて焦ってる文面ではない
- 181 :人間七七四年:2014/01/04(土) 20:21:50.91 ID:SN1tkWAv.net
- >>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康
全く圧倒されてねーよアホ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
信雄が和議に応じたのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
- 182 :人間七七四年:2014/01/04(土) 20:22:30.41 ID:u0aiMORl.net
- そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶり
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>> 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
- 183 :人間七七四年:2014/01/04(土) 20:23:07.39 ID:RrGSfhUo.net
- 小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
- 184 :人間七七四年:2014/01/05(日) 08:34:06.19 ID:GygGskUB.net
- 結局、家康vs利家スレは、
浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野での城攻めで、
秀吉本人が撃退されていたとする一次史料を教えてください。
上記の質問から逃亡爆撃コピペ埋めでスレストに追い込んで誤魔化したのかよワロスwww
- 185 :人間七七四年:2014/01/05(日) 11:09:46.67 ID:c1zTj27z.net
- >>184
論破されてもその度に逃げ回ってるのお前だろバーカ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255967241/906
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255967241/908-910
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255967241/913
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255967241/916-921
- 186 :人間七七四年:2014/01/05(日) 11:11:06.01 ID:Y89KdHyt.net
- >>184
秀吉が指揮した合戦なんて大半は後方の離れた場所から悠々と命令出してただけだから
上記合戦が秀吉の敗戦じゃないというなら、三木城や鳥取城やら高松城やら加賀野井城やら大半の攻略戦は
秀吉の功責じゃなくなるだろバーカ
九州征伐や小田原征伐に至っては、100%秀吉とは関係なくなるなw
- 187 :人間七七四年:2014/01/05(日) 11:21:11.92 ID:hbR0XqXH.net
- 上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が
わずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!
ってまるで漫画だな。
アホすぎる
さすが戦国最強豊臣軍
- 188 :人間七七四年:2014/01/05(日) 11:22:20.44 ID:Epo44GnI.net
- 秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
- 189 :人間七七四年:2014/01/05(日) 11:22:58.54 ID:1d49mOxM.net
- 秀吉はある意味最強だよな
信雄・輝元・氏政にボロクズのように負ける武将なんてそうそういないだろうし
- 190 :人間七七四年:2014/01/05(日) 11:23:55.67 ID:bb5C8Cof.net
- 秀吉が過大評価されるのは太閤記とか豊臣秀吉譜とかの徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
- 191 :人間七七四年:2014/01/05(日) 11:24:38.63 ID:c1zTj27z.net
- 秀吉は伊賀攻めで大敗した暗愚の凡将織田信雄より戦下手。
信雄家臣の吉村・木造などに大敗した雑魚
- 192 :人間七七四年:2014/01/05(日) 11:38:12.58 ID:2nHlce7X.net
- 佐藤忠康
- 193 :人間七七四年:2014/01/05(日) 12:17:13.82 ID:A5j/oPo7.net
- 結局のところ尾張系や黒田を始めとした古参恩顧たちが一生懸命に秀吉を担いで
関白までしてあげたのに秀吉自身が勘違いして
自分と近江系によって天下を取ったと誤解してしまったんだよな
それで家康が欲しかった古参恩顧たちを片っ端から取られて
残った無能な近江系は内通者を続出したことにも気付かず関ヶ原で瞬殺された
- 194 :人間七七四年:2014/01/05(日) 14:13:29.75 ID:pJKblRSN.net
- 菅沼遼太理論ではそうなるな
- 195 :人間七七四年:2014/01/05(日) 14:49:47.43 ID:bb5C8Cof.net
- 豊臣崩壊の元凶が家康に篭絡されたアホ武功派と
総大将に奉り上げられながら何もできず戦力を分散しまくり大敗した馬鹿輝元と
家康の示威行動にビビッて即効土下座したヘタレ浅野・前田だよな。
- 196 :人間七七四年:2014/01/05(日) 14:54:05.21 ID:Y89KdHyt.net
- 三成ばかりが罵倒されるが、三成は単に政権運営に必死になってただけだろう。
やってる事も外様の禄高削減や、蔵入り地の増大や家康の専横への弾劾状など
豊臣政権が正常に運営するために必要な事ばかりしかやってない。
豊臣崩壊の真の元凶は家康に篭絡されたアホ武功派と
総大将に奉り上げられながら何もできず戦力を分散しまくり大敗した馬鹿輝元と
家康の示威行動にビビッて即効土下座したヘタレ浅野・前田だよな。
- 197 :人間七七四年:2014/01/05(日) 14:56:41.39 ID:rmANKzgx.net
- 黒田は貪欲過ぎる領土欲から家康へ
細川は借金を家康が肩代わりしてくれたばかりか勝手に加増してくれた恩がある。
藤堂は秀長の養子が怪死後に熱意が冷めたのかよくわからんが一番豊臣から恩を受けた人間なのは確か。
- 198 :人間七七四年:2014/01/05(日) 15:01:15.96 ID:Y7+qUW/u.net
- >>184
またアンチ秀吉の基地外が自演でレス埋めしまくって、
解答を誤魔化して逃げてるようだわ。
- 199 :人間七七四年:2014/01/05(日) 15:05:06.54 ID:f3AdvD5f.net
- そもそも三成に豊臣家に対する赤心があったんですかね
冷たい見方をすればこの人はただ単に自分の才能を思う存分に揮える地位を維持したかっただけじゃないかと
- 200 :人間七七四年:2014/01/05(日) 15:16:09.77 ID:zZ63Yoe2.net
- >>198
>>185>>186
- 201 :人間七七四年:2014/01/05(日) 15:18:36.32 ID:c1zTj27z.net
- 豊臣政権の最大の問題点は讒言を繰り返し政権を混乱させてきた奸臣連中だった
奸臣連中の讒言により利休や秀次が粛清され豊臣政権はそのたびに新しい形を模索する羽目になり
秀吉は政権としての基盤を固めることが出来なかった
家康は豊臣政権から奸臣とその支援者達を排除することにより日本の安定統治を目指していたが
そういう家康の姿勢にこれまでやりたい放題を享受してきた奸臣が反発するのは当たり前だろう
彼らは秀次の時と同じ謀反人と糾弾する戦法を繰り返せば家康を排除できると考えたが
奸臣たちの糾弾騒ぎに多くの大名が辟易していたことに気付かなかった
その結果関ヶ原ではほとんどの西軍大名が戦闘を蜂起してしまい惨敗を喫するのは必然の結果だった
- 202 :人間七七四年:2014/01/05(日) 15:21:08.17 ID:rmANKzgx.net
- 家康に地位と石高を与えたのは確かだが豊臣家が家康中心になるような体制までは秀吉は構築してないし
豊臣家を蔑ろにしたり、豊臣の天下を崩壊させてよいなどとは一言も秀吉は言ってないわけで。
三成は豊臣家の天下を守り、外様の暴走を防ぐのに必死だったが
武功派は自分の石高や欲しか考えないような馬鹿だったから家康にマンマと篭絡されて、主家を崩壊させただけ。
三成が五大老筆頭、200万石レベルの石高、豊臣家の外戚の地位についていたら間違いなく
すんなりと秀頼への後継はうまくいっていた。
- 203 :人間七七四年:2014/01/05(日) 15:30:28.70 ID:kJyGE2BJ.net
- 一族郎党や領民に責任を持つからといって家康に土下座が良い選択肢であるとは限らない。
家康が東軍勝利後前田や浅野に手を出さなかったのは運が良かったとしかいいようがない。
福島加藤みたいにいちゃもんつけられて改易される可能性もおうおうにしてあった。
まして戦うと負けが決まった相手では全くなく、攻められるべき名分もなく、
いざという時主家を守って家康の簒奪行為を見過ごすどころか、結果的に貢献する事になったんだしな。
大体攻められるべき大義名分も家康が勝手にデッチ上げただけの物の可能性が高く
ただ家康の専横を助長するだけになったヘタレ土下座をした前田や浅野は武士としてはウンコとしかいいようがないだろ。
- 204 :人間七七四年:2014/01/05(日) 16:01:34.33 ID:eRGQ41kS.net
- >>195と>>196は、どう見ても内容同じだよな。
で、わずか5分でIDは違うと。
こういうの見ると、説得力がなくなるよなぁ。
- 205 :人間七七四年:2014/01/05(日) 17:21:43.53 ID:99A8hZBA.net
- 家康は生前の盟約破って私婚すすめまくったり島津の領内問題に介入して恩売りつつちゃっかり
豊臣蔵入り地を減らそうとしたり前田や浅野にいちゃもんつけて攻め込むそぶりみせて降伏させたり
家康への糾弾を武功派連中を使って実力で排除したり好き勝手やりまくってたもんな
家康の横暴に異を唱えて豊臣を守ろうと懸命に努力したが
欲に目のくらんだ武功派諸侯が家康に篭絡され、総大将のアホ毛利がクズすぎて滅んだのが豊臣家。
三成は秀吉生前の大儀や盟約に基づいて賢明に豊臣の体制を守ろうと努力してただけ。西軍諸侯は畿内方面だけで18万も集まったが
これは三成の懸命な努力の結果だろ
- 206 :人間七七四年:2014/01/05(日) 18:20:59.29 ID:zCZJ+vvW.net
- 仕方がないだろ。豊臣は関ヶ原の戦いでも動かなかったんだし。巨大な力を持っていてもただの木偶の坊だよ。
木偶の坊の豊臣を助けようなんざ、福島も加藤も考えんよ。
- 207 :人間七七四年:2014/01/06(月) 00:29:20.21 ID:w6RdeygG.net
- 関白を粛清して空位にしたうえに幼児一人の状況にして
250万石で秀吉死亡時に武家・公家併せて唯一の大臣を筆頭大老にして
そいつの孫と秀頼の婚姻を決定したら
好き勝手やりまくっていいに決まっているだろ
そもそも三成は10年以上も奉行として豊臣の中枢部で働いてきたのだから
このように家康を台頭させた政権運営の失敗は三成にも責任があるわけ
それを自分の派閥以外誰も戦わない関ヶ原で自爆テロをしたから豊臣を守ろうとした忠臣だなんて
そんな詭弁が通用するわけないだろ
- 208 :人間七七四年:2014/01/06(月) 07:00:13.46 ID:h6ze+IRc.net
- >>207
そもそも「好き勝手」が何をさしてる?
アンチ徳川は、蔵入地の問題と大名同志の結婚と島津の内乱を騒いでるけど
豊臣の暴挙で、大陸と戦争やって国内が疲弊してるのに最大の戦犯豊臣が巨利を貪ったままじゃ内戦が始まる
島津の内乱にしても、ほっときゃ日向、肥後あたりの連中は絶対に参戦する
そうなりゃまた九州で大戦だ
筆頭大老(笑)としてほっとける訳ないだろ?
大名同志の結婚は、確かにほっといて良い気はするが、
そもそも、太閤が死ぬ前に申請が出てたのを奉行衆が握り潰してたのが幾つか有ったんじゃね?
アンチ徳川の理屈は豊家独裁政権下の執権になりたい石田三成に逆らったのは許せないの一点だろ
石田三成が好き勝手やろうとしたのを当時一番力があった大老が止めただけじゃね?
- 209 :人間七七四年:2014/01/06(月) 09:56:14.98 ID:7ue0SGFp.net
- まだ基地外が単発ID自演を続けてるのか。
こいつガチで無職か、仕事としてアンチ豊臣やってる在日のどちらかとしか思えんな。
つか、執権になりたい石田三成とかどこにそんな主張が書いてんだアホw
- 210 :人間七七四年:2014/01/06(月) 10:16:08.13 ID:xz4dTSkA.net
- 清正は小西憎さの余り
朝鮮から撤退する時に
安全撤退をして宗氏に被害が及ばないように
明と交渉していた小西らを放置して
日本へさっさと帰国。
そのため戦力ダウンした日本軍を明が侮り
交渉が見事瓦解して
島津や小西らが困難な撤退戦になった。
また清正らと三成は本来、仲が悪かったわけでなく
福原長堯との朝鮮での現地トラブルが原因。
三成の妹と結婚してるために、後世の講談で
三成派閥と武断派の対立話にされてるだけ。
(三成を嫌っていた細川忠興の話も混合された)
実際、三成は朝鮮戦での政治軍事的な内容に口を挟んでいないのが史実。
- 211 :人間七七四年:2014/01/06(月) 11:45:47.71 ID:w6RdeygG.net
- 宗と小西に明と交渉させたらどんな売国行為が行われるか分かったもんじゃない
まして秀吉の死亡直後の混乱期ならどんな売国行為も通用してしまう
豊臣どころか日本そのものが危機だったことを考えれば
加藤の機転のおかげで日本が救われたと感謝すべきだろう
そういった愛国行為を憎いだの派閥対立だのと矮小化する奴は許せない
- 212 :人間七七四年:2014/01/06(月) 13:33:36.47 ID:YMHiP1Ij.net
- キチガイチョンは相変わらず無知だな。
清正の勝手な行動のせいで、
危機に瀕した小西と島津を助ける為に、
三成が筑前に下向し、
藤堂高虎が軍舟を出してるくらい大変なことになったのも知らんとかw
- 213 :人間七七四年:2014/01/07(火) 14:26:15.65 ID:hgRlhFuW.net
- 三成が関ヶ原なんてやったから豊臣家の寿命が縮んだんじゃないの
- 214 :人間七七四年:2014/01/07(火) 15:47:17.31 ID:PKo3d+NR.net
- >>212
小西が死のうが日本国には何の損害もないだろw売国奴が一人消えてなくなるだけだ
逆に加藤のとっさの機転がなければ小西は安全な撤退を大義名分にして
全面降伏を受託し日本を明や朝鮮の臣下に貶めていた
秀吉の死で混乱状態に陥り撤退しか選択肢がなかった日本軍にはそれを破棄することは不可能であり
加藤が出来る唯一の日本を守る手段は後方支援を絶つことで敵の方から交渉を破棄させる策だけだった
小西の卑劣な売国行為のせいで日本全体が大変なことになるのに
三成が筑前に下向したとかくだらないことで加藤の救国の策を非難するお前こそキチガイチョンだろ
- 215 :人間七七四年:2014/01/08(水) 11:45:44.50 ID:ZNhRxvDU.net
- 小西に野望なんてねーよ。
関が原の時に大垣にある、8/27はやし村や9/5赤坂西圓寺に出した禁制ですら、
署名順は、三成、小西、義弘、秀家で、
島津より下の地位なんだぞ。
なにも出来ねーよアホ。
まぁ三成より地位が上な程度だ。
島津亮二氏も秀吉がメンツを守った形での明との講和条約にあげていた、
朝鮮の王子の人質の入朝という条件を、
秀吉が死んだ際に全面撤退方針が朝鮮在陣諸将に伝わった後も、
小西は義弘と寺沢らは死んだ秀吉の意志を尊重し、
龍涯を通じて明との講和交渉をしており、
島津亮二氏も日本の対面が保てる条件による講和締結を土壇場まで模索し続けたのであり、
その努力が実って明側から二人の人質を得ることに成功したと書いており、
看羊録の記事にある
清正は朝鮮の王子を待たずに、陣営を焼き払ってあわてて退却し、
和議そのものを、ほとんど成功させる寸前にぶちこわした。
私と島津とは唐の質官を連れ、落ち着いて殿をつとめながら、後からもどったのだ。私が怯懦か、清正が怯懦かと宣言した。
毛利輝元らは和議不成立の咎を清正のせいにしたと書いている事実に触れている。
結局、清正が和睦をぶち壊した為に、
最前線で殿をしていた小西の順天が包囲を受けるなど日本軍は撤退に苦戦。
小西は秀吉の面目を立てる形で、
朝鮮から王子を人質に帰国する忠義を示していた。
これは生前の秀吉が朝鮮の王子に南朝鮮の支配を任せようとした戦略を奉じていたからである。
- 216 :人間七七四年:2014/01/08(水) 12:44:52.57 ID:GpTkWD3l.net
- 秀吉が小西を重用してたのは間違いだった
素直に清正を西征軍にしておけば北京まで進軍してた
- 217 :人間七七四年:2014/01/08(水) 14:43:46.62 ID:hZYV1pmc.net
- 小西は文禄の時点で勘合貿易もなしの一方的な秀吉の明への服従を飲み
朝鮮南部の支配権も放棄して即時撤退などというふざけた条件も受け入れた
小西のあまりの売国行為に加藤が激怒するのは当然であるが
小西は自分の売国を誤魔化すために三成と組んで秀吉に讒言を吹き込み
加藤を蟄居処分に陥れるなど売国のためになりふり構わなかった
そもそも慶長でも小西が明と交渉しようとすること自体がおかしい
さらなる売国の謀略を企んでいることは誰の目にも明らかだった
加藤の機転で救国の策が実行され日本の独立はなんとか守られたが
小西の順天が包囲を受けることは当然の報いであり何の問題もない
むしろ小西や三成は関ヶ原ではなく朝鮮の責任によって斬首されるべきだった
- 218 :人間七七四年:2014/01/08(水) 21:20:32.74 ID:FFBfKdga.net
- >>217
はいはい絵本太閤記の記述まんまの内容しか書いてないアホ乙w
そもそも秀吉は最初から最後まで小西を信用して外交を一任しているし、
小西が二心を抱いていたなんて誰も批判していない。
君は誰が小西が二心を抱いていたと批判したと言ってるんだ?一次史料を出してねw
清正は朝鮮出陣諸将が集まっての会議すら出席しない身勝手さなのに、
そんな清正に外交を任せられるわけねーだろ。
- 219 :人間七七四年:2014/01/09(木) 00:20:23.57 ID:gT/LVTj3.net
- 司馬遼は石田・小西・宗が秀吉を騙したと断定してるが
そんな馬鹿な事はありえない。
最初から秀吉の指図で戦争の落としどころを探してたよ。
表向きは天竺まで征服!と景気の良い事を言わなきゃならないが
最初から朝鮮半分程度で手を打つ気だったよ。
ただし半島の半分すら得られず無条件降伏に近い形で小西らが交渉まとめちゃったので
激怒(面子を保つためにも激怒しなくてはならない)しただけ。
本当に怒ってたら三成・小西・宗は100%磔されてたよ。
- 220 :人間七七四年:2014/01/09(木) 09:41:22.99 ID:sEj1eROg.net
- 秀吉も外交を知り尽くしているからね。
秀吉自らがハッタリを効かせたり、饗応して見せたりと剛柔織り交ぜた駆け引き謁見してる。
そもそも日本国内にいたら、
武功や領地を欲し、謀を始める当時の荒くれ者たちの、
日本からの厄介払いで、うまくいけば国内の領地を蔵入地にして、
朝鮮へ移封し明まで追い払ってしまおうと考えてやり始めたことだからね。
猛々しい功臣らの処理に困っていたんだわ。
- 221 :人間七七四年:2014/01/09(木) 11:39:10.38 ID:gvUsO7cu.net
- 大勢の大名が、外交を担う小西に、
ひっきりなしに、俺らいつ日本に帰れるの?
などと聞いていたからね。
みんな日本に帰たがっていた。
清正だけが空気が読めてなかったので孤立してた。
そもそも清正は実現性皆無な話を主張し無謀すぎた。
明入りは出来ると主張して、
秀吉の後判断を誘い、
現地で実情を把握した朝鮮奉行らは、
秀吉の命令に反抗して、
朝鮮国境を越えると、物資も人もいない不毛地帯になるから兵糧も尽きるので、
今年の明入りは断念し、
朝鮮統治に力を入れるように命令しましたと、
現地で命令変更してるし、
秀吉はそれに怒ってもいないし。
虚勢をはる清正の話を秀吉も信じなくなってる。
- 222 :人間七七四年:2014/01/09(木) 17:47:09.96 ID:V22ZJ+wP.net
- 小西は口先だけで実際に日本側の条件を飲ませたことなど一度もない
加藤が朝鮮王子の人質を取った時も敵に言われるまま無償で返すという間抜け振りを見せている
そのくせ敵の条件だけは何でも受け入れ文禄の時点で日本軍の即時撤退&南部の支配権放棄を平気で受諾しているうえ
秀吉を日本国王に貶めた上に自分は明から大都督の位を貰って大喜びする有り様
さらに看羊録には小西が慶長において日本軍の上陸航路を敵に漏洩したことがハッキリと記述されるなど
小西が身も心も売国奴へと堕落していることが明確に描写されている
秀吉が最初から最後まで小西を信用してしまう過ちを犯したのは小西が三成を引き入れ
三成の言葉巧みな讒言によって小西が罪を免れていただけに過ぎない
実際に秀吉死後の豊臣政権は加藤たちの言い分を認め文治派の讒言でもたらされた処罰を取り消し
三成の手先として活動していた福原長堯・熊谷直盛・垣見一直への恩賞を取り消すなど
文治派が不正を働いていたことは豊臣政権として事実上認めていたわけ
だからこそ文治派は権勢を取り返すために謀反に走らざるを得なかった
- 223 :人間七七四年:2014/01/09(木) 19:28:32.26 ID:QdRG67pW.net
- >>222
だからね、秀吉も了解してるから、小西も罰せられてないわけ。
島津亮二氏も小西の外交を秀吉は了解していたと指摘してる。
朝鮮王子の返却も、小西の独断でやれる話じゃないわけ。
フロイスの日本年報でも、秀吉は三人の朝鮮の王子を釈放してやったのに、
国王自らが謝意に表れないことに憤っていたと書いてある。
現場で帳尻あわせをして、なあなあで取り決めたことには秀吉は容認姿勢だった。
公に表面化してメンツに関わる状況にならない限り、秀吉は文句を言ってない。
だから秀吉が日本国王に明が任命した時も秀吉は文句ひとつ言ってないわけだ。
明の冊封に秀吉が激怒したのは後世の創作話だと山室恭子氏も指摘してる。
しかし謁見後に上機嫌な秀吉が豹変したのは、
小西との間で調停してあった朝鮮での一部、陣営の破却で有耶無耶にしていた話を
秀吉が上機嫌で、謁見後に何でも要望していいぞって高僧を派遣してきた時に、
明使が、秀吉の上機嫌さから読み誤まって、
朝鮮の全陣営を破棄し、全軍撤退して欲しいと要望する大馬鹿をやっちまったから和睦破棄に至っただけだ。
秀吉は朝鮮から全面撤退する意思なんてないんだからな。
小西はその秀吉の意向に沿って交渉してんだよ。清正はそれがわからないほどにアホ。
- 224 :人間七七四年:2014/01/09(木) 21:28:04.44 ID:V22ZJ+wP.net
- いくら君が小西を庇っても小西が文禄から慶長に至るまで何の成果も上げられなかったという事実は変えられないんだよ
当然ながら日本に帰りたい武将達にとっては小西の無能ぶりは辟易されていた
だから加藤が蔚山で包囲された時は大勢の大名が助けに来たが
小西が包囲された時は三成の取次先である島津と立花のみが仕方なく助けに来ただけだなの
加藤以外の大名もみんな小西は見捨てていいと考えていたわけ
加藤が孤立していたとか書いている馬鹿がいるけど孤立していたのは小西の方だから
そして帰国後に小西が加藤たちの撤退を訴えたところでまるで相手にされていない
逆に文治派が蔚山の件を秀吉に訴えて引き出した処罰は全て無効の処分を受けている
秀吉を上手く騙して罰は免れていたが結局は文治派が悪いという流れには逆らえず
最期は無謀な謀反を起こしてあえなく斬首刑という売国奴たちにふさわしい末路を辿ってくれた
- 225 :人間七七四年:2014/01/09(木) 23:10:11.25 ID:Lm+9fNmo.net
- >>224
清正に限らず、誰が対象であっても
援軍にかけつけないと秀吉から罰せられるだろうが。
それに和睦に失敗してるのは、
清正の勝手な行動が不信感を与えてるからだろ。
小西らが殿をやってるんだから援軍が来るわけねーだろ。
全て無効の処分になったのは武断派クーデターで三成が佐和山城に行った直後だろうが。
武断派の要求を拒否し秀康を護衛に三成を保護し、増田への糾弾に耳をかさなかったため、
蜂起し納得しない武断派を宥める為にやったに過ぎず、
(しかも家康は婚姻や邸訪問や誓詞交換で武断派を手懐けようと努力していた)
ロクに調べてすらいないわ。
このクーデター事件をチャンスに伏見城政庁に復権を果たした家康に輝元は親子の誓いをさせられており、
奉行派に恩を売った家康は、独裁を強めていった為に、
五大老五奉行合議制に、もはや見切りをつけ前田と上杉は帰国するわけだ。
- 226 :人間七七四年:2014/01/10(金) 08:37:44.34 ID:jzPD0euC.net
- 下記の話は当時のどの大名の発言なの?
根拠になる一次史料をよろしく。
秀吉が最初から最後まで小西を信用してしまう過ちを犯したのは小西が三成を引き入れ
三成の言葉巧みな讒言によって小西が罪を免れていただけに過ぎない
むしろ家康も朝鮮から帰国してきた小西の優秀さと勇敢さを高く評価して、
仲間に引き入れようとしてるわけだが。
- 227 :人間七七四年:2014/01/10(金) 13:11:32.16 ID:3m73rMtf.net
- そもそも小西悪人論なんて、
江戸中期に書かれた清正記の捏造じゃんよw
w
- 228 :人間七七四年:2014/01/10(金) 20:12:46.25 ID:5ZCTJcS2.net
- >>225
>清正に限らず、誰が対象であっても
>援軍にかけつけないと秀吉から罰せられるだろうが。
無知丸出しだな
清正を救援しに行った連中は援軍にかけつけたことを理由に
文治派の讒言を受けた秀吉から処罰されているんだよ
処罰を恐れるなら援軍にかけつけず見捨てるのが正解だったのに
そういう危険を伴っても清正を助けてくれる大名はいたってこと
そんな条件で小西や石田を助けてくれる大名なんていない
それにクーデターなんて文治派が負け惜しみで主張しているだけで
実際は単に奸臣をクビにしたに過ぎない
- 229 :人間七七四年:2014/01/11(土) 10:22:09.82 ID:j1O9coOV.net
- 下記の一次史料を書いてください。
清正を救援しに行った連中は援軍にかけつけたことを理由に
文治派の讒言を受けた秀吉から処罰されているんだよ
- 230 :人間七七四年:2014/01/13(月) 14:51:42.38 ID:coVnNXhG.net
- バカ大名
嫡男を見捨てた最上義光・伊達政宗・細川忠興
秀頼近侍していた最上義康、伊達秀宗、細川興秋を廃嫡するハメに追い込まれるw
ちなみに浅野幸長が死去した際も、
嗣子が無く、秀頼近習をつとめた次弟の長晟の相続を阻止するべく、
末弟長重を跡目にする動きがあった。
- 231 :人間七七四年:2014/01/14(火) 07:23:59.28 ID:/hoRw1O+.net
- 最上義光 娘と娘婿を豊家に殺された
細川忠興 嫁を豊臣方奉行に殺された
伊達政宗 掠めとった領地をカツアゲされたw
豊家に怨みの方が多い人間を当てにする方がどうかしてる
- 232 :人間七七四年:2014/01/14(火) 10:48:52.66 ID:MHi2IQ1p.net
- ほとんどの大名は秀頼の誕生によって迷惑しか被っていないからな
秀頼はこの世に生まれるべきではなかった存在なんだよ
- 233 :人間七七四年:2014/01/14(火) 12:09:39.69 ID:qBrSEuxm.net
- 義光は自分から喜んで娘を側室に献上したのが、
伊達と南部の記録からわかる。
しかも実際には娘の母が誰だかもわからないのが実情。
光秀の娘で細川忠興の妻のガラシャは事実かどうかもわからない風聞を聞いて勝手に、私を殺してくれと要求したDQNキリシタン。
しかも黒田家ら他の武断派の妻は華麗に脱出成功していた為に、
実際には風聞だけで捕縛命令なんて出てなかったとも言われる。
秀頼の小姓として嫡男を出していた伊達と最上は、
内府たがい条が出され、
家康の会津攻めが断念され、
江戸に帰って行くや上杉に降伏していた。
伊達とは家老の人質提出折衝を開始し、
人質をすぐ出さない最上の態度を表裏と捉え、
討伐を直江が開始した。
- 234 :人間七七四年:2014/01/16(木) 12:51:13.31 ID:8hi/7rEb.net
- >>233
>最上は
殺してくれって出したのが読めるんだw
超能力者だね
>細川
勝手に死んだんだから豊家は悪くないって発想が出る奴を世間では人でなしっていう
犯罪被害者にだって落ち度はあるだろう。
その落ち度ゆえに加害者を無罪って考えられる奴は人間じゃない。
- 235 :人間七七四年:2014/01/16(木) 12:56:40.99 ID:8hi/7rEb.net
- >>232
秀頼のせいかどうかはなぁ
何年かしたら、妙な書簡が現れて、あれは秀吉子飼い(なんでもかんでも石田三成)対大名の権力争い(浅野他)でしたってなるかもしれん。
- 236 :人間七七四年:2014/01/17(金) 17:12:03.20 ID:xPj0pWgo.net
- >>233
内府たがい状に、
家康が諸大名の妻子を贔屓屓に国元に帰したことを弾劾してるから、
大坂には人質なんていなかった。
完全に作り話。
- 237 :人間七七四年:2014/01/17(金) 18:28:56.46 ID:ROYTWpH0.net
- >>236
で、史実としては忠興の嫁は何時何処でしんだことになるんだ?
- 238 :人間七七四年:2014/01/17(金) 23:42:13.71 ID:EpeP8hju.net
- >>237
一次史料が無いから分からないが正解だろ。
まぁ少なくとも大坂にいなかったのは間違いないだろ。
挙兵した西軍が伏見城を落とした辺りで、
帰属してきた美濃諸将から人質を取り始めたりしてるしな。
- 239 :人間七七四年:2014/01/18(土) 00:50:26.37 ID:PHyJiAvY.net
- 内府違い条を全文信じてる馬鹿って本当にいたんだ(笑)
- 240 :人間七七四年:2014/01/18(土) 01:09:10.50 ID:DaTLwPTk.net
- >>239
で、なんて学者が内府たがい条の内容は信じられないと主張してるんだね?
- 241 :人間七七四年:2014/01/18(土) 12:17:02.97 ID:hWXG766J.net
- 内府たがい条には署名した大老・奉行が全員出陣して戦いますなんて書いていないからな
輝元たちも戦場に行くかのように騙されて西軍に入ってしまった大名達が馬鹿なんだよ
騙されたと知ってから慌てて内通して生き残ろうとしたって遅い
ちゃんと内府たがい条を一字一句確認してから行動しないとダメだろうに
- 242 :人間七七四年:2014/01/18(土) 13:40:27.07 ID:nEA1oOzk.net
- >>241
意味不明。
輝元の名代として秀元が出陣してんじゃん。
毛利軍として広家も出陣して、
伏見や大津や伊勢諸城を攻めたり進駐してる事実すら知らんとかw
ひょっとして超バカ?
- 243 :人間七七四年:2014/01/18(土) 20:17:50.28 ID:hWXG766J.net
- 輝元の名代として秀元が率いる毛利軍が家康と内通して戦わないことを決定したのだから
それが西軍の正規の意思なんだよ
三成たちが関ヶ原で戦いたいと言ったところでそんなものは西軍総大将の意思に反する我侭でしかない
それをもっと早い段階から知っていれば騙されて西軍に巻き込まれずに済んだ大名は多かっただろうが
内府たがい条を呼んで勘違いした西軍大名たち自身が馬鹿なだけだ
- 244 :人間七七四年:2014/01/19(日) 09:26:56.48 ID:NJWQGq0j.net
- >>243
でさ、輝元や秀元が家康に内通してたとする一次史料を出してくれよwww
- 245 :人間七七四年:2014/08/24(日) 16:47:16.78 ID:RgunrFlA.net
- 豊臣家臣団で初めて大名になった奴はどっち付いたの?
- 246 :人間七七四年:2014/11/08(土) 15:56:23.40 ID:FwEQNy+m.net
- test
- 247 :人間七七四年:2014/11/09(日) 00:37:56.62 ID:R24R7kRw.net
- どうせなら「豊臣恩顧どもはウンコ」 にしてほしかった
- 248 :11/9生トラ年52歳(一般:歴史研究は、趣味レベル):2014/11/09(日) 01:21:04.44 ID:P8G2ppJi.net
- こんばんは。初めまして。
伏見城での、太閤殿下の地震被災について。
かなり、怖がられたようで、なんと女装してしまったというエピソードがあります。
助けに駆けつけた加藤清正公の行いは、立派だったと思いますが…。
ちょっと気になりましてね。
- 249 :11/9生トラ年52歳一般人:歴史研究は、趣味レベル:2014/11/09(日) 01:24:09.47 ID:P8G2ppJi.net
- >>245さん、詳しい人の登場を待つか、私も調べてみますね。
- 250 :人間七七四年:2014/11/09(日) 12:54:02.29 ID:LT09eIKV.net
- >>245
どっち付いたも何も、そういった状況が生じる前、
豊臣の惣領である秀吉よりも先に死去した
大和国の大名になった羽柴秀長
- 251 :人間七七四年:2015/02/03(火) 01:24:55.61 ID:aGObCrYN.net
- そういう古参的なのは普通に寿命で死んでるか、でなきゃ秀次事件で連座…
- 252 :人間七七四年:2015/02/04(水) 20:49:43.81 ID:fC4d7EJP.net
- こんな糞スレ立てた石田信者は死ね!人間のクズ!
石田信者は本当石田と一緒でクズだな。
ウンコ漏らし出っ歯姑息卑怯小物石田に殉じて死ね!wwwwww
- 253 :人間七七四年:2015/02/04(水) 20:56:33.84 ID:fC4d7EJP.net
- 大体、豊臣恩顧ていうけど、出っ歯の石田も思いっきり豊臣恩顧だろーが!www
このスレ主とことん馬鹿だなwwwwwwwww
バーカ!wwwボケ!wwwクズ!死ね!wwwwwwウンコ漏らしwwww
だっせ〜wwwwwwwwwww
- 254 :人間七七四年:2015/04/08(水) 01:18:10.65 ID:xLHdpj+w.net
- 家康が上杉討伐で東に下るときについてった武将が
誰だったか忘れたけど(おそらく一人は福島だろうが)
「家康殿は中国返しのときの亡き太閤殿下と違い落ち着いておられる」
「あたりまえだ、あのときの太閤はせいぜい80万石程度の
信長公の一武将にすぎなかったが、今の家康殿は250万石を治める
大大名だからな」
とか会話して家康のご機嫌とってた、って話があった。
そのときこいつらヘタレと思った。
- 255 :人間七七四年:2015/04/08(水) 08:44:01.69 ID:S+zNxaAn.net
- ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2246.html
多分これなんだろうが家康のいない所で話してるからご機嫌とりじゃねーよバーカ
- 256 :人間七七四年:2015/04/09(木) 20:00:37.40 ID:V2znE1Ag.net
- いや徳川の監視役が当然いるだろ
いつ裏切るやもしれん連中を野放しにしてるわけない。
こいつらの会話なんかすべて家康公には筒抜け。
それを見越したうえでわざわざそんなおべんちゃら言ってる。
- 257 :人間七七四年:2015/07/28(火) 21:43:01.64 ID:qi3ze++8.net
- 最近興味があって秀吉の老年期を調べたけど、ここまでぼけ老人ぶりを発揮さ
れたら家臣がなにを言っても止まらなかっただろうな。今まで家康を過剰評価
してたと思ったよ。オウンゴールの連続と言っていい。秀次一族など藩屏を殺
さず、無駄な朝鮮出兵をせず、戦国乱世を終わらせる戦いだと言って諸兵を糾
合して家康だけ潰せば、いくら戦下手でも、小田原征伐みたいに数で終わらせ
られたはず。豊臣恩顧が家康の甘い罠にひっかかったのも秀吉のせい。もっと
言えば秀吉の子種が少ないか、無かったためと、痴呆になったという不運・不
摂生のせいかな。
- 258 :人間七七四年:2015/07/28(火) 22:25:25.94 ID:AVTlPziB.net
- >>256
それの元ネタがちゃんとあったはず。
秀吉を褒めてて、家康を貶していた。
- 259 :人間七七四年:2015/07/28(火) 23:37:59.63 ID:OhDKdWBX.net
- まあ、史実じゃないからな。
ゲームのキャラを評価してるのと変わらんよw
- 260 :人間七七四年:2015/07/30(木) 01:22:55.27 ID:/VfsW9fU.net
- 秀吉と石田が馬鹿なんだよ
- 261 :人間七七四年:2015/07/30(木) 22:36:40.13 ID:XrZUtXfg.net
- どれも共通しているが、豊臣恩顧は加藤清正、福島正則、浅野長政の
一代で終わっており、誰一人息子には伝達していない。
浅野長政の息子、幸長に至っては、秀次に連座して島流しにあった上、
秀頼を激しく憎み、最後まで大阪と敵対していた。
- 262 :人間七七四年:2015/07/31(金) 14:55:22.86 ID:pqRMV8ct.net
- 本人達は良心に咎められ、祟りとかを恐れ自滅していった部分もあるかもな。
- 263 :人間七七四年:2015/07/31(金) 15:46:15.80 ID:NKIe6OtP.net
- >>261
在日織田チョンくん相変わらず大ウソばかり吐くね。
浅野は秀次事件に連座してないしwwww
浅野は蒲生改易問題から「御身上果」となって
能登へ蟄居になるところを利家に擁護してもらって救われてる。
- 264 :人間七七四年:2015/07/31(金) 16:22:36.97 ID:lrtIvbzS.net
- \
 ̄ヽ、 _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`'ー '´
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l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....|
l:,;'"`'、, ‐=・-; -・=‐ ;〈
. ';i l :::i;;,, ::' ` ̄,:  ̄´ .:゙,
l;゙、',.::l;;;i ゚人,,__,,人:.. l, と思う菅沼遼太であった
l;;;;`‐;;;;;ヽ , __ij..__ 、: l;;;,,
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
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- 265 :人間七七四年:2015/08/01(土) 12:15:43.10 ID:CvUvacxW.net
- 秀頼を激しく憎み敵対していたのは他ならぬ三成だよ
秀頼に恨みを持った旧秀次家臣を大量に抱え込み謀反を起こして秀頼を監禁し
聚楽第を破壊されたお返しに伏見城を焼き払う暴挙を敢行した
そして秀頼の叔母の家を攻撃して秀頼の後ろ盾を完全に絶ってから秀頼にトドメを刺すつもりだった
- 266 :人間七七四年:2015/08/01(土) 18:09:40.43 ID:4yJoOIxZ.net
- >>265
一次史料の根拠を出してみろよ。
織田朝鮮人であるお前の願望妄想のラクガキはいらねーんだよ。
- 267 :人間七七四年:2015/08/01(土) 18:51:50.54 ID:LCer8bHT.net
- >>266
石田朝鮮人はだまってろよ
- 268 :人間七七四年:2015/12/24(木) 10:34:59.33 ID:AMQP6Si8.net
- 良スレ
- 269 :人間七七四年:2015/12/30(水) 11:56:40.03 ID:3C1jPH0X.net
- 豊臣の天下取りという悪魔の所業に加担した過去があったわけだから、
豊臣を滅ぼすことに加担するのも、過ちを清算する方法の一つだな
- 270 :人間七七四年:2016/04/16(土) 11:58:14.68 ID:T5uwObRj.net
- 福島正則あたりは大坂の陣で参陣して討ち死にしてたら
アホだけど豊臣思いの忠臣として真田幸村より評価上になったかもしれないのに馬鹿だよな
- 271 :人間七七四年:2016/04/16(土) 15:35:25.10 ID:mdWJlZDC.net
- 福島は淀・秀頼が現場の意見をまったく聞かない人間であることを知っていたからな
勢力の大小よりもこっちの方が深刻な問題でとても参陣できなかった
真田幸村はそんなこと何にも知らないので無知の強みで馬鹿をやれた
- 272 :人間七七四年:2016/04/17(日) 07:23:39.60 ID:d0IXQNZA.net
- >>270
逆。
49万石の大大名が、一族郎党の犠牲を顧みず大坂入城したら、愚かな大名の代名詞になってたわ。
- 273 :人間七七四年:2016/04/17(日) 20:57:22.17 ID:mcKDoclt.net
- 現代人は福島の改易を知っているから、「生き恥晒すより……」と考えるけど、
大坂入城が改易理由のIF歴史では、それはそれで馬鹿にする人も多かろう。
ただ、命と家は失っても、名声的には日本史上最高レベルの「悲劇の英雄」扱いは
間違いない。局地戦で一度は派手に勝つのが条件だけど。
本人も配流先で「こんなことなら……」と思ったかも知れない。
- 274 :人間七七四年:2016/04/17(日) 21:06:27.62 ID:bOIw0egu.net
- 実際、大坂の陣では裏切りまでいかなくとも怪しい動きはしていたらしいな
幕府方に参加した一部大名。
どちらが勝っても家が残るように密かに大坂方に武将を入れていた大名も居たし。
- 275 :人間七七四年:2016/04/17(日) 22:51:47.58 ID:L5OZkPkA.net
- >>273
そうかなぁ?
だったら関ヶ原の時から西軍につけよ、と批判されそうだけど。
- 276 :人間七七四年:2016/04/17(日) 22:58:26.23 ID:AZiA5rzo.net
- 東海大名に何の話もしないで勝手に武装蜂起して味方につけなんて無理な話だろ
援軍や兵站なんか何も伝えないけど西軍様のため篭城して死ねとかふざけるにも程がある
福島も含めて諸大名は三成たちの家臣ではないのだからあまりにも生意気な態度を取られたら謀反人として掃討せざるを得ない
- 277 :人間七七四年:2016/04/26(火) 21:08:10.83 ID:MWLVzlaw.net
- 120万石から240万石に加増してもらった上に正二位内大臣の位に
推挙してもらっている家康はいわば豊臣恩顧の筆頭だけどな
- 278 :人間七七四年:2016/04/26(火) 23:29:46.41 ID:S/QZvZn5.net
- 400万石は貰わないと割に合わない不当だと考えていたから豊臣恩顧ではないだろ
- 279 :人間七七四年:2016/04/27(水) 16:39:38.66 ID:jgiIPfu5.net
- 豊臣恩顧とは、
秀吉の地位向上に伴って、
本来は小身だったのに大名級の大身に引き上げられた、
秀吉の部下を勤めた者のことだ
織田家からの配属で秀吉の部下となった与力の出自では、
浅野長吉、蜂須賀正勝、前野長康、堀尾吉晴、中村一氏、山内一豊、
田中吉政、一柳直末、仙石秀久、黒田孝高など
秀吉と血縁・姻戚であったため織田家を経ずに直接秀吉配下からスタートした者、
あるいは秀吉自ら地侍の子弟から発掘した者は秀吉子飼いと言い、
羽柴秀長、福島正則、加藤清正、大谷吉継、
石田三成、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元などがいる
これらが豊臣恩顧と定義される連中であり、
秀吉の事績と無関係に大名だった家康は断じて豊臣恩顧ではない
- 280 :人間七七四年:2016/04/27(水) 19:07:50.16 ID:BzJevNXi.net
- >>279
で、ソースは?
- 281 :人間七七四年:2016/04/27(水) 19:41:16.21 ID:lIM10jUn.net
- >>277
先祖伝来の三河、必死に切り取った遠江、甲斐、南信濃を召し上げられて
恩顧とは言わん
- 282 :人間七七四年:2016/04/27(水) 19:49:45.62 ID:0XxNaSur.net
- >>280
まずは、定義とは何かを勉強しよう。
- 283 :人間七七四年:2016/04/27(水) 20:24:30.53 ID:BzJevNXi.net
- 給料が倍になって開発余地も大きい土地を貰った上、正二位内大臣という
官位をもらって恩義ではないならこれは仇というのか?
その待遇を悪用できたから簒奪もできたんだぜ
後の幕府には都合が悪いから左遷という事を強調した
でも家光あたりは秀吉が恩人である事を理解していたようだけどね
- 284 :人間七七四年:2016/04/27(水) 21:25:09.61 ID:p1cQG4WO.net
- 恩顧大名とは言わない。
- 285 :人間七七四年:2016/04/27(水) 23:34:52.96 ID:2cGwaI0K.net
- >>283
官位をくれたのはあくまで朝廷だし
開発余地が大きい土地は開発を命じるための天下権力があって始めて意味を成すから
秀吉からの恩義とはいえないな
むしろ家康は豊臣が泥沼化させた朝鮮から兵を撤退させてあげたし
現場とトラブルを繰り返していた奸臣をリストラしてあげた
奸臣が謀反を起こしたら関ヶ原で鎮圧してあげたことも考えれば
豊臣の方が家康に恩義があるといえる
- 286 :人間七七四年:2016/04/27(水) 23:44:40.73 ID:BzJevNXi.net
- >>285
すごい理屈だわ(呆
- 287 :人間七七四年:2016/04/27(水) 23:52:17.01 ID:BzJevNXi.net
- >>285
まず将軍が開く幕府とは違って武家関白は朝廷と一体化していて
帝が認める官位は秀吉が授けたものと同然なんだわ
第二に当時の北条旧領は徳川家に下賜されたものだから家康の裁量で
自由にできる。天下権力など必ずしもいるわけではない
あとの理屈は反論する価値もない(釣りとしか思えない)
- 288 :人間七七四年:2016/04/27(水) 23:57:56.66 ID:v0byn2QX.net
- 冗談として「家康が一番の豊臣恩顧じゃないか!」と言われることはあるけど、
ガチの研究者でそういうことを言う人間がいない時点で家康は恩顧大名に分類されないと気付け
- 289 :人間七七四年:2016/04/28(木) 00:12:12.73 ID:GYCAuPkW.net
- それな。
小説ですら、家康を豊臣恩顧大名に分類したものを観た事ない。
- 290 :人間七七四年:2016/04/28(木) 02:19:43.21 ID:9RpI/d3M.net
- 三河のほうが関東より良い場所だしな
織田時代からの大名クラスでも、前田利家なんかは、豊臣恩顧にみえる
配置換えもなく、秀吉時代にもとの5倍になっているから
堀もそうかな
子飼いとか、浅野、黒田、山内らは10倍を超えているのばかりだし
当然豊臣恩顧
- 291 :人間七七四年:2016/04/28(木) 07:00:36.86 ID:fjhA392Y.net
- でも江戸時代に改易された大名は譜代のほうが多いんだよね。
そもそも外様とか譜代とかは幕政事情で重要視はあまりされてない。
現代ではやたら誇張されて教えられるけど。
外様四品は老中が出迎えるほどのお客様待遇。藩政頑張ってね程度。
- 292 :人間七七四年:2016/04/28(木) 09:25:31.35 ID:9RpI/d3M.net
- いや、外様のほうが多い
- 293 :人間七七四年:2016/04/28(木) 10:42:52.39 ID:1PghJwft.net
- 改易された外様大名 …127
改易された譜代・親藩…121
- 294 :人間七七四年:2016/04/28(木) 11:38:03.00 ID:1PghJwft.net
- >>288
>冗談として「家康が一番の豊臣恩顧じゃないか!」と言われることはあるけど
いや、言っている連中は、本気で「豊臣恩顧」という用語を知らなくて、
自分勝手な解釈に家康を当てはめて勘違いしていると思われる
- 295 :人間七七四年:2016/04/28(木) 13:05:10.02 ID:QNmsyjoO.net
- 用語の定義とか勝手に決められたものだし、どう使おうと自由じゃないのか
単に恩を受けたら恩顧だろ
この意味では島津あたりは本領安堵なんで恩顧ではないだろうが、家康は実際に加増されてる
- 296 :人間七七四年:2016/04/28(木) 13:29:49.12 ID:1PghJwft.net
- >>295
>用語の定義とか勝手に決められたものだし、どう使おうと自由じゃないのか
>単に恩を受けたら恩顧だろ
全 然 違 う
北条家を潰してから概ね10年間、豊臣政権が全国規模で機能していた間の大名配置が、
豊臣政権前の諸大名の顔ぶれとはかなり異なるものになっていた
新顔の大名は秀吉の部下だった者が多く、分類の都合上「豊臣恩顧の大名」の命名の下にカテゴライズされた
「徳川政権下で藤堂高虎は加増されてるから徳川家に恩がある。だから徳川譜代大名だ」
用語の使用において定義を踏み外して自由気ままに使うということは、
このように無茶苦茶な展開に至り、トンデモ以外の何物でもない
- 297 :人間七七四年:2016/04/28(木) 18:38:48.48 ID:4MwrhgCy.net
- >>295
戦国板じゃなくて、日本史板に行ってそう主張すればいいよ
- 298 :人間七七四年:2016/04/28(木) 23:27:29.64 ID:FQqk77xJ.net
- 家康は朝鮮出兵や三成謀反など豊臣が対処不可能となった事案に対しても
撤収や鎮圧などを実行して解決してあげるなど豊臣に対して大恩を与えていた
恩というと領地や官位のことばかり考えている者もいるが
そんなものは権力を握れば誰だってできる下等なものでしかない
豊臣の無能を尻拭いしてあげる家康の行動こそ恩義といえる
豊臣は家康が与えた大恩を無視して浪人を集めて世を乱そうとしたので滅亡して当然だろう
- 299 :人間七七四年:2016/04/30(土) 21:08:55.14 ID:JU8ozFTm.net
- >>295
別に家康を豊臣恩顧にするのは自由だけど
三成の謀反を関ヶ原で鎮圧することで逆にお釣りが必要なほど恩を返しきっているわけだから
この時点では豊臣恩顧でもなんでもないな
- 300 :人間七七四年:2016/05/15(日) 17:12:34.41 ID:wKeniYPK.net
- 毛利や上杉なんかは外様だけど恩顧でいいと思う
信長生きてたら武田みたいな運命になってたかもしれないし
- 301 :人間七七四年:2016/05/16(月) 18:25:21.60 ID:cpy8DuBC.net
- >>300
全然、よくない
毛利や上杉は、秀吉の権限で大名に取り立てられたわけじゃない
- 302 :人間七七四年:2016/05/20(金) 14:00:09.96 ID:JvtFbRqh.net
- 恩があれば恩顧でいいんじゃないか
宇喜多なんかも外様だけど恩顧イメージあるし
- 303 :人間七七四年:2016/05/30(月) 11:40:33.59 ID:uYMP1v/U.net
- >>302
ダメ!
「恩顧」は学術上の用語で、
実際に恩があったかどうかは 全 然 関 係 な い
- 304 :人間七七四年:2016/05/30(月) 16:17:47.78 ID:D3YzmDKc.net
- 1-1.戦国前の大名家の分類
1-A.守護大名家
室町政権から任命された大名家
2-1.戦国時代の大名(戦国大名)家の分類
(1-Aの中の一部が該当する)
2-A.守護出自大名家
元々、室町政権から守護大名に任命されていたが、
応仁の乱後に室町政権が衰えると、自領で独立国家化した勢力
(以下の2-Bと2-Cは、1-Aには存在しなかった新顔)
2-B.守護代出自大名家
守護大名領の一部を担当する地方政権代行者だったが、
属する守護大名家の衰退に伴って台頭した勢力
2-C.その他の出自の大名家
守護代以外の国人領主が勢力拡大した例が多い
他には宗教勢力の代表者が戦国大名化したもの、
国司が戦国大名化したもの、公家が戦国大名化したものなど
3-1.豊臣政権下の大名家の分類(1590年代)
(2-1の中の一部が該当する)
3-A.戦国大名の生き残り
2-A、2-B、2-Cの各大名家のうち、豊臣政権時代に残っていた諸大名家
(2-1には存在しなかった新顔)
3-B.豊臣恩顧の大名家
豊臣秀吉の部下だった者から大名に取り立てられた家
4-1.徳川政権下の大名家の分類(1600年代以降)
(3-1の中の一部が該当する)
4-A.外様大名家
3-A、3-Bの各大名家のうち、徳川政権時代に残っていた諸大名家
(以下の4-Bと4-Cは、3-1には存在しなかった新顔)
4-B.譜代大名家
徳川家関東転封までに徳川家に仕えていた家系から大名に取り立てられた家
4-C.親藩
徳川家の主要親族から成る大名家
- 305 :人間七七四年:2016/05/30(月) 20:23:12.38 ID:k2hk3gPc.net
- >>303
どうせ史学なんて学問とは言いがたいただの趣味なんだから
お前が禁止する権利ないだろ
- 306 :人間七七四年:2016/05/30(月) 21:17:48.54 ID:k7DXYdA/.net
- 豊臣おんこだとおもっていたら実は豊臣うんこだった
- 307 :人間七七四年:2016/05/30(月) 23:38:56.66 ID:WXXAvyyv.net
- おこぼれで官僚仕事を貰っている文治派を除けば恩顧とされる大名の大半はむしろ逆だろう
俺たちが何もない秀吉を担ぎ上げて天下人にしてやったんだから
豊臣の方が俺たちに感謝して恩賞をよこすのが当然くらいにしか思っていない
おこぼれを貰うだけの三成と同レベルで豊臣恩顧扱いされたら不快感を抱いて
徳川にすげ替えようとするのも無理はない
- 308 :人間七七四年:2016/05/31(火) 08:22:11.54 ID:OQ6v5GXS.net
- >>305
史学なんか関係なく、
恩顧というのが学術用語だと言ってるんじゃね?
封建的君臣の関係に、別時代の思想である恩顧を持ち出すのが、おかしいと言いたいんだろ
- 309 :人間七七四年:2016/05/31(火) 14:13:46.00 ID:IO52o/Fk.net
- >>305
お前が「どうせ史学なんて学問とはいい難いただの趣味」と認識していることは、
用語を間違って適用することを咎められることに対して反論する根拠になっていない
全くもって理論構築が支離滅裂
- 310 :人間七七四年:2016/06/01(水) 12:59:59.53 ID:kPKIGxpc.net
- どうせ万引きなんて凶悪犯罪とは言い難い遊びなのだから、
社会的ルールを捻じ曲げて解釈し、罪にはならないと主張して実行
↓
タイーホ!
↓
窃盗罪の定義なんて(俺の許可無しで)勝手に決められたものだし、
どう適用しようと自由じゃないのかと言い張る
↓
世間は、こいつは救い様の無い阿呆だと知る
- 311 :人間七七四年:2016/07/03(日) 13:16:29.62 ID:8DOidLLb.net
- 下剋上の時代に武士道持ち込むからいけないじゃないかと。
- 312 :人間七七四年:2017/04/04(火) 06:54:56.76 ID:2eG4f87v.net
- age
- 313 :人間七七四年:2018/05/12(土) 22:17:07.93 ID:PYZ/lRak.net
- 熊本城の昭君之間の昭君は将軍に掛けたもので
‟有事”の際に秀頼を迎えるためのものだったって主張するやついるけど
眉唾だと思う。
だいたい秀頼は将軍じゃないじゃん。
- 314 :人間七七四年:2019/04/07(日) 00:44:14.45 ID:spH9a+Cz.net
- 同意
- 315 :人間七七四年:2020/02/28(金) 23:56:41 ID:84CEBPKE.net
- 今は豊臣大名と一括りだな
- 316 :人間七七四年:2020/05/22(金) 01:45:41 ID:0X+HHRaQ.net
- 池田輝政、浅野長晟とも、中古マンコであっても懸命につとめた結果、大封を得た
- 317 :人間七七四年:2020/05/23(土) 05:54:43 ID:4j4FRaGS.net
- 浅野は恩顧か?
長政は失脚同然に秀吉がして、幸長は危うく秀次事件で殺されかけて追放だけで済まされたんだぞ。恩顧より怨念だろう。
- 318 :人間七七四年:2020/05/25(月) 08:49:54 ID:vXVhTJrh.net
- >>313
「秀頼を迎えるための部屋」なんてのが熊本城に作ってあるって
徳川にバレたらそれこそやばいだろが。
だから「将軍を迎えるための部屋」という形にしたんだろ。
- 319 :人間七七四年:2020/05/30(土) 09:56:55 ID:y/47l8zD.net
- >>273
現実的は何も変えてない加藤清正が何故か忠臣扱いだもんな。
二条城の会見で秀頼の警護しただけでこうだもん。そしてなぜか家康が自ら供応して
直後に病死。
それまで明らかに豊臣裏切って徳川に尻尾振振ってた過去は無視。
だから福島正則が大阪入城してたら全然評価変わったろうね。
逆に広島籠城の方が良いかもしれんが、今みたいに裏切り者の哀れな末路って評価はないだろ。
- 320 :人間七七四年:2020/05/30(土) 12:50:00 ID:25c4zThM.net
- >>319
清正が豊臣裏切って家康に尻尾振ってた過去って具体的に何?
正則を裏切者の哀れな末路と評価してるのは誰?
ソースも頼むわ
- 321 :人間七七四年:2020/05/31(日) 01:46:10 ID:a7+9/UCF.net
- そもそも、秀吉が家康との関係を強化しに行ってる事を知らないのか?
婚姻施策で、徳川家に最もメリットがあった相手は、蜂須賀家でも福島家でも伊達家でもない。豊臣家だからな。
清正と正則を裏切者と思ってる奴はただの無知。
- 322 :人間七七四年:2020/06/01(月) 02:52:01.04 ID:wFlcYDQd.net
- 言ってる事が支離滅裂だな
- 323 :人間七七四年:2020/06/01(月) 12:37:34 ID:njSPq+O8.net
- 無知にはわかるまい。
- 324 :人間七七四年:2020/06/13(土) 18:57:05 ID:KG3yBhAA.net
- >>158
石田じゃなくて宇喜多でしょ
- 325 :女上司マホーバ:2020/06/26(金) 13:58:14.21 ID:/fRRKOOc.net
- あんなに淀君は人気があるのにAVの動画でないのは謎です
- 326 :女上司マホーバ:2020/06/26(金) 13:58:14.50 ID:/fRRKOOc.net
- あんなに淀君は人気があるのにAVの動画でないのは謎です
- 327 :人間七七四年:2020/07/05(日) 03:40:56.01 ID:ypH4Po2w.net
- 裏切られ馬鹿秀吉政権は捨てられる。
哀れww
- 328 :人間七七四年:2020/07/05(日) 06:41:20.89 ID:DzdFcyl4.net
- >>320
徳川と婚姻関結ぶ
秀吉が禁じてたのに
その時点で豊臣家に味方するつもりなかった
- 329 :人間七七四年:2020/07/07(火) 06:21:52.12 ID:xEBeXBu1.net
- t
- 330 :人間七七四年:2020/07/07(火) 06:24:20.61 ID:xEBeXBu1.net
- 確か秀吉死んですぐ加藤福島黒田は徳川と婚姻関係結んで
徳川と親戚関係になってるはず
三成関係なく豊臣切り捨ててたろ
- 331 :人間七七四年:2020/07/07(火) 14:31:34 ID:HOXsUegH.net
- 関ヶ原前の時点でその先の事を一切知らない当時の人が
その時点で豊臣政権の筆頭大老だった徳川と関係を強化する事が
なんで豊臣を見捨てることになるんだ?
未来から結果を逆算してないか
- 332 :人間七七四年:2020/07/08(水) 06:04:08 ID:Dz7td1yQ.net
- >>331
徳川がそこまで信用できるかな?
どういう意味で縁組するか理解できない馬鹿じゃないだろ
- 333 :人間七七四年:2020/07/08(水) 07:40:18 ID:zJnPNy62.net
- >>332
真面目に聞くが、誰なら信用できるんだ?
秀吉には譜代が存在しない以上、先祖代々からの忠節なんて存在しないから
そういう意味なら本質的に誰も信用できんぞ
秀吉への忠節がイコール豊臣への忠節にはならないという事になるからな
それに豊臣政権における徳川は立場的には朝廷における藤原氏と
ほぼ変わらないから、政権を自分にとって都合よく改造する可能性はあっても
政権そのものを滅ぼす理由がこの時点では存在しない(つまり、信用できる)
勿論天下を2つに割るような大規模な反乱がおきて、豊臣政権そのものの
信用が失墜してしまい、政権を支えるメリットがなくなれば話は別だけど
まあ残念なことに史実ではそうなっちゃったわけだが
- 334 :人間七七四年:2020/07/08(水) 17:48:04.00 ID:qDGu4AoPn
- 徳川はただの同盟者
豊臣恩顧ですらないから秀頼に頭を垂れる理由も無し
少なくとも秀吉が死んだ後様子見するのが普通
秀吉死んですぐ婚姻関係結ぶなんてただの強者に媚びた狗でしかない
どうせ遺言違反するなら信頼できる者同士で徒党を組めばいいだけ
- 335 :人間七七四年:2020/07/09(木) 06:20:36 ID:heCI3JAP.net
- >>333
前田利家と秀吉の弟
- 336 :人間七七四年:2020/07/09(木) 13:19:41.37 ID:l7/D8B/DE
- どっちも死んでるだろ
- 337 :人間七七四年:2020/07/10(金) 20:29:25 ID:ljWQL996.net
- 古参の神子田と尾藤をちょっとしたことでクビにしたのだから
こんな奴にまともに忠誠心持つ方が逆におかしい
- 338 :人間七七四年:2020/07/10(金) 23:15:00 ID:uA992HwP.net
- >>337
現実に利家は秀頼を案じて亡くなる
加藤福島黒田蜂須賀はすぐ徳川に鞍替え
- 339 :人間七七四年:2020/07/11(土) 00:09:28 ID:lCvMKIsf.net
- 大友義統も勘違いで撤退しただけなのにそれまでの功績無視して即改易だしな
どれだけ実績あっても一度の落ち度や機嫌損ねただけで死罪か解雇なんだから豊臣のために忠節尽くせって方が無理だわ
徳川前田上杉毛利佐竹といった大大名なら秀吉も躊躇するかも知れないが小大名はビクビクだったろう
- 340 :人間七七四年:2020/07/11(土) 02:42:43.78 ID:hsSAUz79.net
- >>337
ちょっとした事?人前で主君に対して暴言とか普通に切腹でも仕方ないのだが?
古参だからこそ、そういう主従の礼儀無視されたら解雇だろ。
蜂須賀だって悪く言われるけど有る時期は多分秀吉の方が家来だったろうに、人前では礼儀守ってるぞ。
尾藤や神子田って能力的には滓だぞ、それでも忠誠心あれば大名成れただろうに馬鹿。
- 341 :人間七七四年:2020/07/11(土) 06:55:20.08 ID:0IHovj2b.net
- >>338
一個人の話をされても困るんだけど
そいつ個人が豊臣をどう思うかじゃなくて、そこの御家がその政権を
支持するような状況になっているかどうかって話をしたいんだけど
当たり前だけど、その政権を支持するメリットがないのに
忠誠を誓えとか言われても正直困るんだよ
- 342 :人間七七四年:2020/07/11(土) 08:23:44 ID:lCvMKIsf.net
- >>340
信長は佐久間の口応えにも我慢したし家康なんて本多作左の度重なる暴言にも関わらず彼を重用してきた
だから信長家康の古参家臣で裏切ったの皆無だろ?
尾藤の慎重論も釣り野伏せなどを警戒した結果だと俺は思うがね
それを即改易は流石にやりすぎだわ
ちょっとしたミスすら許さない反対意見は言うなじゃ自己保身のイエスマンしか残らないのは当たり前だ
- 343 :人間七七四年:2020/07/11(土) 22:52:24.31 ID:yGj8rh+X.net
- 真面目な話、利家なら家康の方が遥かに信用出来る。
- 344 :人間七七四年:2020/07/12(日) 06:14:11.17 ID:x/MXQFLY.net
- >>343
家康は豊臣滅ぼしたろ
加藤福島も改易された
家康死後の改易でも家康の命令で加藤福島は改易
- 345 :人間七七四年:2020/07/12(日) 07:00:33.16 ID:cd3yT5QT.net
- >>344
反家康派が関ヶ原なんていう馬鹿な行動を起こさなければよかっただけだろ
加藤も福島も改易に相当するようなバカな行動をしなければよかっただけの話だ
豊臣家も現実を直視して身の程をわきまえりゃいいだけだ
- 346 :人間七七四年:2020/07/12(日) 08:18:00 ID:cwPvoV6b.net
- >>345
その辺がプロパガンダやね、例えば福島の場合、交渉のやり取りみれば徳川の本音は
容易に推測可能。
「お前なんで広島城を要塞にしてるんだ、籠城抗戦が可能な城塞持ってるだけで謀反」って言いたい訳よ。
豊臣恩顧の福島が籠城可能な城塞持ってるだけで改易理由に成ると言ってんだよ。
要するに、「お前は要注意人物なんだから広島城なんて破却しろ」が徳川の本音。
結局ね、籠城可能な城塞なんか破却しろが幕府が言いたい本音な訳。
でも大阪城の外堀埋めて焚殺が直前に有った訳だしwwwwww家康怖いね。
- 347 :人間七七四年:2020/07/12(日) 18:07:08 ID:v98Bpo61.net
- >>346
交渉のやり取りをよく読めば、恩顧である事が関係無いことは一目瞭然なんだが。
もちろん、一時史料の話だよね?
- 348 :人間七七四年:2020/07/14(火) 07:14:38 ID:ENNB6YSl.net
- >>344
福島は広島城の件を度外視しても改易されて当然。
大坂の陣で大坂方につこうとして、江戸の屋敷で軟禁されたんだぞ。
加藤が改易されたのは、お家騒動が酷かったからで、豊臣云々とは
無関係。
- 349 :人間七七四年:2020/07/14(火) 08:12:23 ID:lOatotXb.net
- 子飼いではないが最大の豊臣恩顧といっていい前田は生き残ってるんだから
単に福島加藤が大名としての能力に欠けてただけの話だわな
- 350 :人間七七四年:2020/07/14(火) 10:01:27 ID:PtLK2HQe.net
- >>348
福島家は大阪の陣でも徳川についてたが
- 351 :人間七七四年:2020/07/14(火) 10:03:45 ID:PtLK2HQe.net
- >>349
寧々が徳川に政権譲れのスタンスってよく聞く
寧々は利家の妻まつと大親友だった
寧々の意志はどれくらい関係してるんだろ
- 352 :人間七七四年:2020/07/15(水) 00:19:52 ID:ZqHpuPya.net
- >>347
江戸時代は本音と建て前の時代で、内高を一石一斗一升単位まで調べた資料有るのに、表向きは
表高ですべて動くとかの時代。
福島正則が何度も改修工事したいって嘆願してた事実あるやん。
如何見ても、広島城が要塞に成ってる事自体を気に入らないんだなって思うよ。
しかし、直前に大坂の陣が起こってる訳で、幕府の言う通り本丸以外破却しても同じだろ。
- 353 :人間七七四年:2020/07/15(水) 01:34:19.09 ID:SKGSCwcx.net
- >>352
福島正則が何度も改修工事をしたいって嘆願してた事実、がないんだけど。
洪水でダメージを受けた城の補修を申請していただけですけど?
- 354 :人間七七四年:2020/07/15(水) 02:21:46.09 ID:ZqHpuPya.net
- >>353
少し誤解があったかな?この場合の改修は壊れた所の修理の意味だ。
でもさ、幕府の言い分は、本丸のこして二の丸、三の丸破却だから悪意は見え見えじゃん。
大坂の陣の堀埋めを如何しても連想するね。もう改易は決めてるんじゃないかって感じで。
- 355 :人間七七四年:2020/07/16(木) 01:50:22.12 ID:FoXUU5np.net
- >>354
誤解してないですよ。
福島正則が『何度』も改修工事したいって嘆願してた事実、はないという話。
また、幕府の言い分は、本丸のこして二の丸、三の丸の『補修箇所の破却』。
福島正則は、無断補修を正式に幕府に詫びており、幕府もこれを許している。
許す条件として『補修箇所の破却』は当然だし、これを履行しなかった福島正則に責任があることは明白。
幕府が許さなかったのは、福島が豊臣恩顧だからでもなく、無断補修でもなく、約束(補修箇所の破却)を守らなかった事なわけ。
- 356 :人間七七四年:2020/07/16(木) 06:13:46.09 ID:LpDkWLCR.net
- >>355
あのね、大規模な増改築ならわかるけど、福島正則がやったのは壊れた場所の修理だからな。
台風で壊れたのを修理したいって言ったら、無視されててた訳。
修理不可って嫌がらせ目的だろ、明らかに。
で、判決が本丸のみ残して破却ってさあ...( ̄▽ ̄;)
まあ、なんつうか露骨やねとしか思わんよ。
後、当時の記録でも「広島ご陣」とか有ったりするし、城受け取りの幕府軍も馬鹿みたいな大軍を
動員してるぞ。
- 357 :人間七七四年:2020/07/16(木) 07:27:48 ID:FoXUU5np.net
- >>356
繰り返すけど、無断補修については福島正則が幕府に詫びて完結している。
幕府が許さなかったのは、その後破却の約束を福島が守らなかった事。
ちなみに、福島正則の届けは、事前の届けではなく事後。
キミさ、少し史料読んだ方が良いよ。一昔前の講談レベルの話してるよ。
- 358 :人間七七四年:2020/07/16(木) 08:31:38 ID:WXpLApMH.net
- >>356
福島家と肥後加藤家の改易に関しては笠谷氏の「歴史の虚像を衝く」が
分りやすく纏めてあると思うから夫を読んだ方が良いよ
ついでに福島家は高級旗本として再興して貰っている
- 359 :人間七七四年:2020/07/16(木) 10:01:07.05 ID:RAll+zd+.net
- せっかく参考文献を提示されても
読みもせず頭から疑ってかかり自分の信じる旧来の俗説は全く疑わない
に一票
- 360 :人間七七四年:2020/07/16(木) 15:25:03 ID:iuLAYdBb.net
- >>356
こいつ、他のスレでも非難されてた例え話君じゃないのか。今度はこっちのスレに逃げてきたのか
- 361 :人間七七四年:2020/07/17(金) 02:32:32.79 ID:jnvRMdLg.net
- >>344
徳川政権が意図的に豊臣系主要大名を潰したのは福島正則だけだ
他は自業自得
- 362 :人間七七四年:2020/07/18(土) 04:14:06 ID:hIXdKa3t.net
- >>361
加藤清正は家康に毒殺された噂があるが
無名の豊臣恩顧大名には徳川に改易されたのが多い
関ヶ原で徳川についたのにな
- 363 :人間七七四年:2020/07/18(土) 07:28:21 ID:dgzIFCLY.net
- >>362
噂っていうか、二条城の会見の後に、異例にも家康が自ら供応だからね。
そんで、3日かそこらで死亡なら、そりゃあ毒殺の噂立つだろ、常識的に。
というか、当人なんとか肥後まで帰ろうとして船中死去だぞ、絶対「あの爺を甘く見た堂々と毒殺とか
本気で手段...」って思いながらしんだろ。
- 364 :人間七七四年:2020/07/18(土) 07:39:34 ID:dgzIFCLY.net
- >>357
係の物が披露し忘れてたってふざけた言い訳ですよねwwwwwそんで、その係の物が披露し忘れた
事の責任問われた形跡もなし。
まあ、当然だよな武士の嘘は武略と言うの世界wwwwwwww
「主君裏切った滓が、騙されたとかどの口で言うwwww」とか思ってたんでしょ。
あとさあ、確か17万とかまで言われる城受け取りの幕府軍の大動員如何思うよ。
幕府も無茶な言い掛かりなんで、呼応して挙兵する奴が出る事まで警戒してたんでは?
- 365 :人間七七四年:2020/07/18(土) 14:11:38 ID:lBQLJM6T.net
- >>362
徳川の場合は、武家諸法度のこの条項に違反したという法治主義の体裁を取るけど
豊臣の場合は、三成が報告して秀吉が怒ったから処罰するという人治主義丸出しだから
無名の豊臣恩顧大名こそ危険な三成を排除する必要があった
報告する三成がいなければ豊臣から処罰を受ける心配はないという結論になるからね
豊臣の人治主義が嫌で関ヶ原で徳川についたのだから豊臣恩顧の目的は果たしたと言える
- 366 :人間七七四年:2020/07/18(土) 14:45:57 ID:Zav7b6ek.net
- そういわれると豊臣政権て他の政権と違うのは法整備を全くといっていいほどしてないことだよな
秀吉が死ぬ間際に慌てて雑駁な遺言覚書を残したぐらい
豊臣は重商主義で農本主義の徳川より近代的だったとか司馬信者辺りが評価してそうだが
このことひとつとっても近代的どころか古代の専制王権的なアナクロ政権だったと言える
それとも同じく短期間に崩壊した平氏政権同様形骸化した律令制に立脚してたのかな
少なくとも自ら作り出した武家関白制を固めるための法制度や組織づくりに関心があったようには思えない
秀吉にそういう教養やセンスが無かったのはわかるが教養があったと見なされることが多い
三成とか前田玄以とか、その辺が献言することもなかったのだろうか
彼らもそういう発想ができない独裁者に追随するだけが能の連中だったのか
- 367 :人間七七四年:2020/07/18(土) 16:42:48 ID:GgZvSwB6.net
- >>366
豊臣政権が実質秀吉政権でしかなかったって事だろう
そもそもそういう事は周りは指摘しないだろう
その辺がなあなあであればあるほど、当代が亡くなった後に
自分の権勢を拡大できるチャンスが増大するのだから
- 368 :人間七七四年:2020/07/19(日) 04:56:07 ID:ynHke1nx.net
- >>365
三成に嫌われ役させてたのは秀吉の失敗だったな
三成が嫌われて豊臣政権の結束がなくなった
- 369 :人間七七四年:2020/07/19(日) 18:21:43.89 ID:rbgRVFJH.net
- >>364
繰り返すけど、無断修復については福島正則が詫び、幕府が許して完結している。
披露し忘れたとか関係なく、福島正則が非を認めて詫びたわけ。
幕府が許さなかったのは、許す条件であった約束を福島が守らなかった事。
福島豊臣恩顧だからでも、無断修復したからでもなく。
同じ事を何度も言わせないようにね。
- 370 :人間七七四年:2020/07/19(日) 18:21:51.81 ID:rbgRVFJH.net
- >>364
繰り返すけど、無断修復については福島正則が詫び、幕府が許して完結している。
披露し忘れたとか関係なく、福島正則が非を認めて詫びたわけ。
幕府が許さなかったのは、許す条件であった約束を福島が守らなかった事。
福島豊臣恩顧だからでも、無断修復したからでもなく。
同じ事を何度も言わせないようにね。
- 371 :人間七七四年:2020/07/19(日) 22:22:53 ID:9/XkXZIz.net
- 壊せと言われた場所と別の壊してOKじゃ悪しき前例を残すことに成りかねないからな
幕閣はそれでも許しそうな感じがあったみたいだけど、冷徹な政治人間である秀忠が
許さなかったからな
- 372 :人間七七四年:2020/07/20(月) 08:56:47 ID:hAqLlYVE.net
- >>370
だから、本丸のみ残して二の丸三の丸を破却じゃ城としては無意味になりますよね。
通常、二の丸三の丸には上級家臣の屋敷があり、戦時には要塞になるんだから。
そんで、他の大名の城には普通に二の丸三の丸が存在するのに福島家のみ破却しろって
言う訳ですよ。
そんな条件を福島正則が飲むとは思えないんですが?実質城を破却しろって言ってんだもん。
記録でそうなってるとしても、最初から改易前提の交渉に見えるな。
大阪城の外堀埋めと同じじゃん。
- 373 :人間七七四年:2020/07/20(月) 12:30:13.37 ID:ZfNQI4fS.net
- >>372
繰り返しますけど、城として無意味になろうとなんだろうと、福島がその条件を飲んだから無断修築について幕府に許されたんですよ。
飲むと思わないのは、あなたの主観。史料で示せないのなら、小説と同じですよ。
福島が約束を守れば改易にならないわけだから、改易前提ではありません。
- 374 :人間七七四年:2020/07/20(月) 13:34:24.55 ID:64hkMGWr.net
- 1ビット脳が沸いてて笑ったww
- 375 :人間七七四年:2020/07/20(月) 23:26:48.84 ID:hAqLlYVE.net
- >>373
だからね、50万石クラスの大名に対して、実質的に城を破却しろって要求してる訳。
他の大名に対して、本丸残して城を破却しろって要求した例が他に有りますか?
大阪城の堀埋めぐらいですよね、類似の事件は。
最早改易前提だと思うんですが?仮にね、この条件飲むとすれば福島正則は笑いものです。
奴はあれで男かって事になります。つまりこの時点で詰み。
- 376 :人間七七四年:2020/07/20(月) 23:26:49.54 ID:hAqLlYVE.net
- >>373
だからね、50万石クラスの大名に対して、実質的に城を破却しろって要求してる訳。
他の大名に対して、本丸残して城を破却しろって要求した例が他に有りますか?
大阪城の堀埋めぐらいですよね、類似の事件は。
最早改易前提だと思うんですが?仮にね、この条件飲むとすれば福島正則は笑いものです。
奴はあれで男かって事になります。つまりこの時点で詰み。
- 377 :人間七七四年:2020/07/21(火) 00:06:59.12 ID:0wnOgDsW.net
- >>376
繰り返しますけどね。
『実質的に城を破却しろ』というのはあなたの主観でしかなく、史料では福島が幕府の提示した条件を飲んだ事で幕府に許されただけです。
他の例があろうとなかろうと、福島正則が男かどうかも関係ないんですね。上記の事実しかありません。
改易前提なら、無断修築の時点で待ったなしですよ。条件付きで許す必要などありません。
改易前提とあなたが思うのは自由です。史実は異なるというだけです。小説を史実だと思う人は大勢いますしね。それは自由です。
- 378 :人間七七四年:2020/07/21(火) 06:17:28.73 ID:l1p0F9QH.net
- >>377
あの時代の武士気質で言うと、笑われる事は死ぬより辛い屈辱ですよ。
武士は笑われない為に戦場で命を賭けるんですからね。本城を破却しろって言われて、「はいそうですか」で
納得する奴は武士じゃないです。
最初から改易前提の措置で、「お前籠城抗戦する気有るの?」ってやり取りだと考えた方が良いと思います。
浅野氏時代の広島城には、普通に二の丸三の丸が存在してる事実は如何説明するんですか?
まさか、実質本城破却後の福島正則が本領安堵されるとでも?
あれはね。
実質的に、「籠城抗戦する気無いんだったら二の丸三の丸を破却して頂戴ね」って意味だよ。
17万も幕府軍動員して城攻めする気満々で幕府動いてるんんですが。
資料が大事も良いのですが、当時の常識も考えるべきですよ。
福島正則が笑いものになるって事実も。
- 379 :人間七七四年:2020/07/21(火) 08:15:35 ID:0wnOgDsW.net
- >>377
繰り返しますけどね。
武士気質の検証根拠に、幕府の提示条件の諾否は証明出来ないんですよ。単なる想像です。
史料上で判ることは、『福島が幕府の条件を飲み、一旦許された』という事のみです。浅野時代の話もその検証とは関係ありません。
これも繰り返しますが、改易前提なら無断修築の時点でアウトです。条件付きで許した場合、福島が素直にいう事を聞いて、改易を回避してしまうリスクがあるからです。
当時の常識を今生きるあなたが語る事に可笑しさを覚えます。その常識は、どこから入手したんですか?史料からでは?
- 380 :人間七七四年:2020/07/21(火) 14:26:55 ID:8uyFD7nP.net
- >>378
すごく興味あるので、あなたが読んでる豊臣徳川に関する本教えて貰っていいですか?
オススメの専門書もあったらお願いします
- 381 :人間七七四年:2020/07/21(火) 18:23:31 ID:fgV0QWWH.net
- そもそも大坂城の外堀云々言っている時点で知識が小説どまりなのがわかるだろう
まさか今度は方広寺の鐘銘とか言い出さないだろうな
- 382 :人間七七四年:2020/07/22(水) 04:26:19.98 ID:Pa4Mmx2b.net
- 加藤清正と福島正則は改易が既定路線
家康は遺言してたろ
- 383 :人間七七四年:2020/07/22(水) 16:10:24.38 ID:959hrKfL.net
- してない
- 384 :人間七七四年:2020/07/22(水) 20:06:01 ID:Pa4Mmx2b.net
- 秀吉が家康対策スルーして朝鮮出兵に夢中
その為に豊臣家が滅亡する
誰よりもわかってる家康が福島正則と加藤清正の家の対策は
取らないで死ぬわけないだろ
- 385 :人間七七四年:2020/07/22(水) 21:11:32 ID:9mk38jvf.net
- いつもの如く、史料無しの妄想に拠る決め付けか
- 386 :人間七七四年:2020/07/22(水) 22:03:18 ID:iQr+GfR2.net
- 1ビット脳と妄想にはたいした違いないだろw
- 387 :人間七七四年:2020/07/23(木) 08:32:44 ID:Jz8bIKSC.net
- 加藤も福島も徳川政権だから改易程度で済んでラッキーだった
三成が権力を握ったら加藤も福島も秀次のように妻子もろとも処刑されていた
- 388 :人間七七四年:2020/07/23(木) 08:43:09 ID:jvoukSZO.net
- >>384
家康対策してるよ。
他大名に比して圧倒的に優遇している。石高、官位、縁戚関係等々。豊臣政権を支える柱石に取り込もうとしている。遺言にも任せてるだろ?
豊臣家を滅ぼした後の加藤・福島は、もはや取るに足らない存在。彼らのためだけに、当別な対策を打つ必要もない。
- 389 :人間七七四年:2020/07/23(木) 08:58:00 ID:I6sMlnCV.net
- >>388
少なくとも加藤清正が生きてれば話は違った
加藤清正が生きてれば大阪の陣ができたか怪しい
加藤清正が大阪の陣で秀頼の味方すれば福島正則も秀頼の味方したろ?そうなれば豊臣に味方する大名は増えたはず
- 390 :人間七七四年:2020/07/23(木) 09:11:40 ID:5ote2m+0.net
- ぶっちゃけ織田家を乗っ取った秀吉の背中見て育った連中だからお察しだろ
- 391 :人間七七四年:2020/07/23(木) 09:18:03 ID:jvoukSZO.net
- >>389
ほぼほぼ加藤清正に大坂に味方しない。
勝ち目ゼロだから。
豊臣家に対する清正一個人の忠誠心のために、配下の将兵に犠牲を強いるほど愚かな武将ではない。
広島改易の際、福島正則が家老以下の籠城を止めさせたのと同じ。
大坂の役起こさないよう、全力で豊臣徳川の間を奔走するだろう。これも福島と同じ。
つまり、豊臣家の大坂城退去を促すだろう。
- 392 :人間七七四年:2020/07/23(木) 09:30:55 ID:5ote2m+0.net
- 豊臣の狂犬ぶりがやばすぎてあんなにどんな忠義の士でも見捨てて当然なんだよなあ
一山あてたい浪人どもばかりが集った
- 393 :人間七七四年:2020/07/23(木) 09:38:07 ID:tnxxVz0C.net
- 清正が大坂城に入城することはありえなかったろうね
娘を頼宣と婚約させるほど徳川に深入りしてたし二条城会見でも俗説の秀頼護衛のためでなく
頼宣の護衛役として出席している
会見終了後秀頼が清正のもとで休息を求めたのを断ったという話もあるくらい
伊達政宗が関ヶ原後に書いた手紙で秀頼の処遇は家康の好きにしたらいい(秀頼を大坂城から出して
家康の手元で育て、適当な領地を与えて一大名にするべき)という意味のことを書いてるが、
清正も福島正則も政宗より豊臣への愛惜の情はもちろんあったろうが
同じような気持ちだったと思う
- 394 :人間七七四年:2020/07/23(木) 10:27:36 ID:QDkcW59N.net
- >>391
でも家康は加藤清正と福島正則に警戒してた
家康は慎重で用心深いからあらゆるケースを想定した、関ヶ原から大阪の陣まで待つのは慎重さだ
- 395 :人間七七四年:2020/07/23(木) 10:28:04 ID:2wxvtfsV.net
- 大阪の陣の時ではもう引っ繰り返せないでしょ
それこそ、なんらかの事情で家康父子が死んで世が混乱するとかでないと
- 396 :人間七七四年:2020/07/23(木) 10:30:24 ID:2wxvtfsV.net
- 秀吉も家康も主家簒奪だから
そう言われないように警戒して、準備に時間を要しただけじゃないかな?
結局のところ、主家簒奪したいじょう、配下が簒奪しても理には適う
- 397 :人間七七四年:2020/07/23(木) 11:39:20.45 ID:jvoukSZO.net
- >>394
清正、正則くらいなら、毛利や上杉、島津ら西軍大手大名や、前田100万石や伊達の方がよっぽど警戒すべき対象。
戦国を生き抜いた家康にすれば、清正・正則は一段下。
- 398 :人間七七四年:2020/07/23(木) 11:55:23.98 ID:jvoukSZO.net
- >>394
すまんすまん、大坂の役までの話ね。
それはもちろん、加藤福島を警戒はするだろう。
でもそれは家康目線の話であり、両家が大坂入城することは、やはりあり得ない。
- 399 :人間七七四年:2020/07/23(木) 12:03:02 ID:Jz8bIKSC.net
- >>398
そもそも大坂城に入城したところで淀や秀頼が指揮権をくれるわけもないし
こいつらが加藤や福島の言うことなんて聞くわけもないだろ
この母子の治しようがない性格は加藤や福島が一番よく知っている
素人がプロの助言を無視する状況では戦えないのだから
行き場所のない浪人でもなければ入城する意味がない
- 400 :人間七七四年:2020/07/23(木) 12:26:36 ID:tnxxVz0C.net
- 関ヶ原後のあの豊臣首脳のメンツを見て自分と家と家臣の命運を賭ける気になれるかって話だ
残った自分とこの領地すら自前で治められず徳川に助けてもらってる有様なんだから
- 401 :人間七七四年:2020/07/23(木) 12:34:22 ID:I6sMlnCV.net
- >>398
どうかな?大阪の陣の頃には家康は寿命が後2年くらい
加藤清正が家康より長生きすれば家康抜きの徳川になる
秀忠と秀頼なら秀頼を守る気持ちが出ても不思議じゃない
- 402 :人間七七四年:2020/07/23(木) 13:14:45 ID:jvoukSZO.net
- ない。
やはり勝ち目がないから。
豊臣家に対する清正一個人の忠誠心のために、配下の将兵に犠牲を強いるほど愚かな武将ではない。
『清正が生きていれば』というIFに、新たに『清正が家康より長生すれば』というIFを加えたわけだけど、もう2つ3つ加えないと無理だろう。
清正が豊臣に傾斜するだけではダメで、全国規模で豊臣に傾斜しないと無理。
- 403 :人間七七四年:2020/07/23(木) 14:58:07 ID:I6sMlnCV.net
- >>402
加藤清正が家康より生きて豊臣に付いて福島正則も豊臣につけば、家康亡き徳川ならどう転ぶかわからない
- 404 :人間七七四年:2020/07/23(木) 15:54:48.10 ID:jvoukSZO.net
- >>403
もういっそ、『秀吉が家康が長生すれば』でいいんじゃないの?1つでいいし。
これでキミの目的も達成できるよ。良かった良かった。
- 405 :人間七七四年:2020/07/23(木) 15:55:41.08 ID:jvoukSZO.net
- ↑『秀吉が家康より長生きすれば』
- 406 :人間七七四年:2020/07/23(木) 16:14:11 ID:I6sMlnCV.net
- 家康だから加藤清正と福島正則は徳川の味方した、徳川が秀忠なら勝てる勝機ありとみて
秀頼をお守りする為に豊臣について徳川成敗したかもしれないぞ
- 407 :人間七七四年:2020/07/23(木) 17:02:08 ID:I6sMlnCV.net
- 加藤清正は家康に毒殺された噂がある
タイミングよく清正が死に
家康は自分が死ぬ前に秀頼を殺せた
家康も秀忠の能力は疑問符があったので
加藤清正を毒殺した可能性はある
あくまで噂だが
- 408 :人間七七四年:2020/07/24(金) 03:04:58 ID:9YzC6ldd.net
- >>1
福島正則・加藤清正・浅野幸長らは豊臣秀頼を担いで豊臣二代目政権を作りたかったわけじゃないだろ
秀吉が信長政権を乗っ取ったように家康が豊臣政権を乗っ取ることは,戦国の習いであり、
当然のこととして受け入れつつ、秀頼が徳川政権下でそれなりの待遇をもって生き延びられるように
努力しただけだ
まさに忠義の者だろ
幸長の父・浅野長政が人間性がクズだったことは認める
- 409 :人間七七四年:2020/07/24(金) 06:37:28.87 ID:QUqS7+2l.net
- >>408
それは寧々の考え
加藤福島は豊臣家が潰される予感あったろ
家康が動かないように見てたんじゃないか
家康が先に死んだらチャンス
でも加藤清正が先に毒殺されたぽいが
- 410 :人間七七四年:2020/07/24(金) 08:11:03.24 ID:Wz+/oqSd.net
- 加藤福島程度が家康に睨みをきかせてたって言うの?
ちょっと買い被りすぎだな
- 411 :人間七七四年:2020/07/24(金) 16:40:19 ID:QUqS7+2l.net
- 関ヶ原で加藤清正と福島正則が豊臣の西軍に付いてれば家康も危なかったで
豊臣恩顧が家康に付いてなければ豊臣は残った
関ヶ原後も加藤清正福島正則などの豊臣恩顧が
大きく勢力伸ばした
加藤清正と福島正則も大きく領地広げた
関ヶ原後に豊臣恩顧の大名が勢力伸ばした
家康はそれを放置したまま死ねなかった
- 412 :人間七七四年:2020/07/24(金) 16:45:48 ID:9YzC6ldd.net
- >>411
福島正則が西軍につくことはないわ
秀吉の死後、利家と家康の間で緊張が走った時、浅野親子、加藤清正、加藤嘉明、細川忠興は
利家方についたけど、福島正則は家康方についたんやで?
- 413 :で:2020/07/24(金) 16:53:33 ID:QUqS7+2l.net
- ほとんどの豊臣恩顧大名が関ヶ原で徳川に付いた
だから関ヶ原後は豊臣恩顧大名が勢力伸ばす
でも家康がそういう連中を完全に信用してたかどうか
もし家康亡き後もおとなしくしてたか
家康は秀頼殺害の機会はずっと考えてた
- 414 :人間七七四年:2020/07/24(金) 18:56:54 ID:4Oam42+Y.net
- 今時清正毒殺説を信じてたり、家康が秀頼を最初から殺害する気だったとか知識が十数年前から停止しているのか
- 415 :人間七七四年:2020/07/25(土) 09:13:54.23 ID:prDpJviE.net
- 家康が秀頼殺さず加藤清正より先に死んでいく間抜けなわけないだろ?秀吉は間抜けだったが
- 416 :人間七七四年:2020/07/25(土) 11:08:41 ID:uZybHtPl.net
- そもそも秀頼が生まれなければよかっただけ
加藤・福島も含めて全ての豊臣恩顧は秀頼から迷惑しか受けていない
秀頼は豊臣恩顧にとってコロナウイルスのように悪質な存在と言える
- 417 :人間七七四年:2020/07/25(土) 13:19:53 ID:vh9FzroJ.net
- >>416
秀頼がうまれなければ、秀次は切腹にならなかったのだろうか?
秀次がいれば、奉行衆は豊臣秀次・前田利家を担いで政権を維持しようとするだろう
しかし、利家はすぐに死ぬ
その後は?
(A) 秀次・三成方と家康方が衝突
(A)-? 秀次・三成方と家康方の戦いを経て、家康が勝利し天下人となる
三成は処刑、秀次は改易
(A)-? 秀次・三成方と家康方の戦いを経て、まさかの秀次・三成方が勝利し秀次が天下人となる
しかし、さらなる混乱へ・・・
(A)-? 秀次・三成方と家康方の戦いは天下分け目の戦いというほど拡大せず
統一政権不在の群雄割拠の戦国時代へ戻る
(B) 重鎮利家不在で、三成は勝負にもならず武功派の突き上げで失脚
特に戦いもなく、あっさり家康の天下へ
しかし、戦いがなかったおかげで、秀次・三成は徳川政権下の大名として生存
しかし、その後は本人またはその子の代で減封・改易
その子供たちが辛うじて徳川家の旗本として細々と命脈を保つことに
- 418 :人間七七四年:2020/07/25(土) 13:43:52 ID:uFhhHxUh.net
- 秀次は自前の家臣団を持っているので
生存していたら三成らの影響力は史実ほど強くはならない
- 419 :人間七七四年:2020/07/25(土) 14:02:39 ID:1jPgeLYw.net
- 秀頼ってさ、豊臣家存続の鍵を握るメインキャストの一人なわけで。
その秀頼が生まれてなかったら、って仮定が大きすぎて議論の意味ないでしょ。
家康が秀頼より先に死んでたら、とかも同じ。
仮定が大きくて、妄想に花を咲かせてるだけにしか見えない。
- 420 :人間七七四年:2020/07/25(土) 14:10:24 ID:1jPgeLYw.net
- 何でもありなら、秀吉が家康より長生きすれば、で全て解決すると思うよ。
- 421 :人間七七四年:2020/07/25(土) 14:30:24 ID:uZybHtPl.net
- 関白は既に秀次に譲渡されており、秀次には男子もいた
既に豊臣は3代まで確定している状況だったのに
突然現れた秀頼ウイルスが今までの準備をすべて破壊しつくした
まるで突然現れて膨大な準備を積み重ねた五輪を潰すコロナウイルスのようだ
当時の加藤・福島を含めた豊臣恩顧の心情は
まさにコロナウイルスに振り回される現代人と同じだろう
秀頼ウイルスが誕生しない仮定をしても意味がないけど
秀頼ウイルスさえいなければ、という思いは現代人と同じく加藤・福島にもあったのは間違いない
- 422 :人間七七四年:2020/07/25(土) 14:52:32 ID:1jPgeLYw.net
- であれば、秀吉死後、加藤福島が大坂のために奔走する必要はないはず。
大坂攻防の際、福島正則の甥は明らかに代理入城してるし、筆頭家老福島丹波の嫡男は入城しようとして藤堂隊に全滅させられている。
陪臣がそんなことする必要もないのに。
どう説明します?
- 423 :人間七七四年:2020/07/25(土) 15:08:05 ID:prDpJviE.net
- >>422
加藤清正が死んで家康が生きてて豊臣に勝ち目ないから、加藤清正が生きてて家康が死んで秀頼が残ってれば望みがあったと言ってる
福島正則が薄情なのは事実だが光秀と変わらないので
- 424 :人間七七四年:2020/07/25(土) 15:50:06 ID:prDpJviE.net
- 福島正則も結果は家康選び豊臣家崩壊に参加
明智も信長殺害
福島正則も明智光秀も主君崩壊に導いた
- 425 :人間七七四年:2020/07/25(土) 16:00:18 ID:1jPgeLYw.net
- >>423
『秀頼ウイルスさえいなければ、という思いは現代人と同じく加藤・福島にもあったのは間違いない』を私は否定したんですけど、その説明が欲しいんですよ。
- 426 :人間七七四年:2020/07/25(土) 16:04:11 ID:1jPgeLYw.net
- >>424
家康に政権主導を託したのは秀吉ですけど、加藤や福島に何か問題あります?
大坂の陣の際、大坂に味方しないのは当然でしょう。あなたは福島正則を大名としてではなく、一個人で評価していません?
- 427 :人間七七四年:2020/07/25(土) 17:24:22 ID:prDpJviE.net
- >>425
加藤清正と福島正則が秀頼より秀次に継いで欲しかったと言いたいのか?
秀次死後は秀頼しか豊臣の跡継居なかったのに
誰に豊臣家継がせるつもりだったの?
- 428 :人間七七四年:2020/07/25(土) 18:36:34 ID:1jPgeLYw.net
- >>427
加藤・福島が秀頼の存在をネガティブに捉えてるわけないだろ?と言いたいんですよ。
秀頼さえいなければ、なんて思ってるわけないでしょ?と言いたい訳。
加藤・福島は豊臣政権より、豊臣家ひいては秀吉に忠誠を持っている。
- 429 :人間七七四年:2020/07/25(土) 18:45:49.28 ID:1jPgeLYw.net
- >>427
あなたの話(>>423)は、仮定が多すぎるので語るに値しないと思ってます。
- 430 :人間七七四年:2020/07/25(土) 21:23:27.22 ID:uZybHtPl.net
- 秀頼はまるでウイルスのように突然現れて
豊臣が10年かけて進めていた関白制度を跡形もなく破壊し
代わりに招聘された筆頭大老に対する日本中を巻き込んだ大戦争を招く原因となり
最後は自分の我儘三昧で大坂を滅茶苦茶にした
秀頼が日本中に混乱をまき散らす悪質さはコロナウイルスに匹敵する
加藤・福島に限らずほとんどの人間は秀頼ウイルスから迷惑しか被っていない
利益が迷惑を上回ったのはそれこそ家康くらいしかいない
- 431 :人間七七四年:2020/07/25(土) 22:07:01 ID:prDpJviE.net
- >>428
秀吉は豊臣政権望んでたろ
秀吉も信長から織田政権奪ってるが
秀吉は家康が政権奪いにくるのわかってなかったのか
朝鮮で戦争して政権固め疎かにした
家康にも朝鮮行かせて徳川の力削ぐくらいしてればな
徳川は朝鮮行かず無傷だったはず
秀吉がアホ
- 432 :人間七七四年:2020/07/25(土) 23:21:00.69 ID:1jPgeLYw.net
- >>431
??
秀吉が豊臣政権望んでるのは当たり前では?
同時に、秀頼が親政出来るわけないのも、秀吉は当然わかってる。
なんの実績も経験も踏んでない秀頼が自ら正しく国政をリードできると思う?
当然、秀頼を誰がサポートするか、という話になる。秀吉が選んだのは家康なわけ。
実際、当時秀吉に伍する人物がいるか?
秀吉が家康をどう遇したか、一回調べてごらんよ。小説じゃなく史料でね。
- 433 :人間七七四年:2020/07/26(日) 05:38:12.69 ID:iLfiLkiG.net
- >>432
だからそれが秀吉のアホな所
秀吉も信長の織田家奪ってるのに
家康が秀頼守って豊臣家に政権返上すると信じてたのか?
家康信じてた秀吉がアホ
- 434 :人間七七四年:2020/07/26(日) 09:12:37 ID:p1wu0ZJq.net
- >>433
その程度の事は、秀吉でなくても誰でも想像出来ることだと思わない?
外様実力No.1の家康を親族に取り込んで、豊臣家を支えてもらうのがベストなわけ。
逆に、家康に任せないで、政治的実力ゼロの秀頼を支え、豊臣政権永続させる方法是非教えてくれないか?
きっとアホじゃない方法があるんだよね。
- 435 :人間七七四年:2020/07/26(日) 12:35:40.61 ID:rNokaxxb.net
- >>434
政略結婚って、実は裏面に出る事も多いんだよね。
宿敵の血筋が入るから、下手すれば乗っ取りの大義名分に成ってしまう。
イングランド王家なんか典型で、元はフランスのノルマンディー公爵家に過ぎない。
娘を近隣の宿敵のアンジュー伯爵に嫁がせたら、男の子が全滅して吸収されちゃった。
百年戦争の原因だって、当時のイングランド王の生母がフランス王女だった事にある。
よくある政略結婚ですが、フランス王家の本家が断絶した為大義名分に成った。
本家の外孫と、分家の当主のどちらがフランス王にふさわしいかって事。
ま、家康を甘くみたんでしょうね。家康って権力しか愛しない。
- 436 :人間七七四年:2020/07/26(日) 12:48:07.29 ID:Dc6dvmcr.net
- >>435
あなたの読んでる豊臣徳川期の本教えてもらえますか?いつの、誰の著作かも
オススメの専門書もあったらお願いします
すごく興味あるので
- 437 :人間七七四年:2020/07/26(日) 12:53:36.88 ID:2yF20jeM.net
- >>435
平安藤原摂関政治や鎌倉執権北条政治のように
政略結婚で外戚に権力を握られても体制そのものは存続する形式は珍しくない
秀吉も上記のような形式を目指して秀頼と千姫の政略結婚を決めたと言える
むしろ権力しか愛さない三成が暴走したことで豊臣政権が不要になったことが大きい
秀吉は三成の権力欲を甘く見ていたのだろう
三成は戦下手だから大規模な戦を起こさないと秀吉はすっかり油断していた
- 438 :人間七七四年:2020/07/26(日) 13:46:52.96 ID:p1wu0ZJq.net
- >>435
で、徳川家と縁戚関係を強化し、家康に秀頼のサポート、豊臣政権を主導させる以外に、どんな手法があるのかな?
豊臣政権を永続させるためには?
もちろん、その仕組を崩壊させたのは三成な訳だけど。
- 439 :人間七七四年:2020/07/26(日) 16:58:31 ID:iLfiLkiG.net
- >>434
子供が居ないのが致命的だが秀吉は
子供が居ない場合は家康に奪われるのが宿命か
秀吉の弟が生きてれば秀吉は弟に頼っただろうが
- 440 :人間七七四年:2020/07/26(日) 21:09:09 ID:p1wu0ZJq.net
- >>439
質問の答えに全くなってないんですけど。
対案なし、ということで良いのかな?
そうすると、アホは秀吉ではなく、考えなしのキミということになるけども。
- 441 :人間七七四年:2020/07/27(月) 09:03:24 ID:28oKTqgn.net
- >>440
子供が秀頼だけ身内の秀次一族皆殺し
秀吉の弟が先に死んだの
が決定的なダメージ
秀次一族皆殺しがなければまだ救いがあったが
やはり秀吉は家康より秀次に秀頼の事は託しておくのも
手だった
秀次が信用できないなら家康はもっと信用できないのに
- 442 :人間七七四年:2020/07/27(月) 09:35:06 ID:CPAP1jud.net
- 家康は秀吉から任された東国惣無事の務めも関東の統治も着実にやってるし
自領の統治に失敗した秀次などよりよほど信用できただろう
- 443 :人間七七四年:2020/07/27(月) 20:22:25 ID:28oKTqgn.net
- >>442
家康が天下狙ってたのは歴史が証明してる
- 444 :人間七七四年:2020/07/27(月) 20:56:50 ID:oIjWPIPQ.net
- >>442
日本における天下というのはハッキリしているようで曖昧だからね
関白になるのか?将軍になるのか?平家方式か?執権北条氏方式か?他にも色々ある
場合によっては既存の政権がそのまま存続したり、名目だけの家がそのままお飾りとして残る可能性もある
西軍だって家康が将軍になって幕府を開くなんて一言も言っていない
つまり家康が天下を狙っていても豊臣政権下で権勢を握るだけかもしれないし、豊臣家が残る可能性もある
家康が将軍になって幕府を開くことを証明できなければ、家康が天下を狙っていると騒いでも仕方がないというのが当時の多数意見だよ
- 445 :人間七七四年:2020/07/27(月) 22:08:04.38 ID:tronDIHe.net
- >>443
関ヶ原の後の行動をもって関ヶ原前の家康の行動を判定するのはやめろ
秀吉の本能寺後の動きを見て、
『秀吉は初めから関白に就任して地方大名を討伐し、天下統一する事を狙っていた、
それは歴史が証明している』なんて評価する奴がいたら、どう思う?
私は何言ってるんだこいつ…としか思わないけどね
人間、天下が大きく動くような大事件や、きわめてショックを受けるような
衝撃的な出来事、そういうものでいくらでも考え方や
認識を変えたり改めたりしてしまうものだろう、普通
そして関ヶ原ってのは充分にそのレベルの出来事だろうよ
- 446 :人間七七四年:2020/07/27(月) 22:31:40 ID:1Lcy6SVm.net
- >>441
家康ではなく、秀次が秀頼のサポートをするということで良いのかな?
秀次で天下に号令出来る?
かつての戦国大名達が、大領を有して未だ現役でゴロゴロいるけど、秀次で大丈夫??
親族の徳川家康の方が、実力的に遥かに頼りになると思うけど???
秀次が生きていたところで、秀次も含めた豊臣家のサポート体制を考えなければならないだけでしょ。
- 447 :人間七七四年:2020/07/27(月) 23:40:28 ID:ErkHLnYT.net
- >>446
秀次は、尾張、伊勢、近江で150万石くらい領地持ってたはずですよ。
これに東海道の豊臣恩顧加えると400万石分くらいの兵力が確実に動かせる事に成る。
幾ら凡庸でもこの兵力は大きいです。
史実の様に家康が私婚したら直ぐに秀次総大将で討伐軍が出ます。
- 448 :人間七七四年:2020/07/28(火) 01:26:50 ID:RDR6CiYV.net
- >>447
秀次が殺されず、秀吉遺言で家康が豊臣政権政務を託されないことが前提ですよね?
問題の私婚て、豊臣家との関係を強化する事が主目的ですよ??
伊達があるにせよ、婚姻対象は福島・加藤・蜂須賀・黒田と、豊臣恩顧・子飼がズラリです。
まして、家康の直孫は秀頼と婚約してますよ。最強の縁戚関係強化ですね。なぜ、豊臣家に討伐されるんですかね???
仮に、秀次主導の豊臣政権成立したとしたら、毛利・上杉・島津・伊達あたりは大喜びでしょうね。心ならずも秀吉に服従した彼らが、秀吉死後まで豊臣家に従う必要はありません。しかも、史実と異なり、徳川家も豊臣家を支えないわけですから。
秀次で大丈夫ですか?天下を統べることができますか??
- 449 :人間七七四年:2020/07/28(火) 05:32:59.88 ID:8m5/xh3n.net
- >>444
家康は関ヶ原後には江戸幕府開くが
もちろん朝廷が家康のこと征夷大将軍にしてだが
お前は歴史知らないの?
- 450 :人間七七四年:2020/07/28(火) 05:35:57.34 ID:8m5/xh3n.net
- >>448
家康は秀次が生きてれば大阪の陣のように動けなかったのでは?秀頼成敗なら秀次も動くぞ
- 451 :人間七七四年:2020/07/28(火) 05:42:04.84 ID:ps+874ir.net
- >>448
秀次は普通に子だくさんだからそもそもその場合、
家康は史実のような動きしないでしょ
なんで秀次生存前提なのに家康は秀次死亡時と同じ動きするのさ?
しかも当初は秀頼は秀次の娘と婚約してる
千姫と秀頼の婚姻の話は秀次事件以後の話だ(つまり秀次生存ならこの関係はない)
それになんで徳川が豊臣を支えない前提なの?支えない理由ないよ
家康が天下を取ったのはあくまで歴史が史実をなぞったことによる
単なる偶然であって、野心云々の話とは全く関係ないだろう
秀次は関白だから権威の上では盤石だし、政権の安定度も史実より高い
なら、諸侯が豊臣政権に逆らう理由が何もない、政権が史実で崩壊したのは
家康の権威が関白より弱く、政敵が家康を引きずりおろせるとみたのが大きい
要は家康の権威が足りてないのが大きい、もっというなら関白の地位が
秀次事件により空欄になってしまったのが最大の原因だから
豊臣一族がその枠を埋めている秀次生存なら豊臣が倒れるわけがないし、
諸侯が豊臣つぶしに動く理由もない
敢えて可能性を見るとしたら、秀次が秀頼に政権を返さなかった場合のみだが
その場合最悪でも応仁の乱になるだけだから豊臣滅亡にはならん
どっちが勝っても豊臣は残るのだから
- 452 :人間七七四年:2020/07/28(火) 07:19:30 ID:RDR6CiYV.net
- >>451
よく読んでくださいね。
そもそも、『史実の』私婚は、豊臣家に成敗される事由にはなりませんよ、と言っているんです。
家康も史実の毛利や上杉と同じ立ち位置になります。
で、仰るとおり秀次が生きていれば、豊臣家と関係を強化する縁戚を進める必要がありません。
順番が逆で、諸侯が従順なら政権が安定するんですよ。その諸侯が豊臣家に従い続ける理由などないんですよ。
権威が従う理由になるのだとしたら、下克上は存在しませんね。
- 453 :人間七七四年:2020/07/28(火) 12:46:25 ID:cfYUsjaZ.net
- >>449
関ヶ原前の時点では、家康が将軍になって江戸幕府を開くなんて西軍ですら言っていない
現代人が結果として知っているだけで、当時の人間は家康がどういう形式で権力を握るかは知らない
もしかしたら豊臣家を形式的にトップに据えて豊臣政権下で権勢を握るかもしれない
それまでの日本史でこういう権力の握り方をした例は多い
家康が将軍になって江戸幕府を開くことを事前に証明できなければ、三成の行動はやり過ぎとなる
特に秀次事件などでの過剰な対応に不満もたまっていたし
たとえ家康が天下を狙っていても関ヶ原はやり過ぎという考えの方が当時では多数派だった
西軍諸大名の戦意の低さも納得できる
- 454 :人間七七四年:2020/07/29(水) 06:22:25.24 ID:tQ4PNvRk.net
- 秀次一族皆殺しが響いてるな
秀吉の弟が先に死に、前田利家が死に
秀次一族まで皆殺しで家康は動けるようになった
秀次が生きてれば家康とお互いに牽制して先に家康が死んでくれてたかもな
- 455 :人間七七四年:2020/07/29(水) 06:31:33.04 ID:tQ4PNvRk.net
- 秀次が総大将なら加藤福島黒田らも豊臣についてたかも
- 456 :人間七七四年:2020/07/29(水) 08:31:02 ID:Ludt8K2y.net
- 秀次体制が続こうが続くまいが関東に徳川家が諸侯最大の石高で蟠踞している以上
秀吉以降の豊臣政権にとっては最大の脅威なんだから懐柔しつつ付き合っていくか
勢力削減を図っていくか、政権安定のためには何らかの対応をしていかなきゃならない
それは毛利上杉ら他の大諸侯に対しても同じことで、中長期的に見た豊臣政権の難しさってそういうところなんだよな
関ヶ原のように短期で一気に削減を進められればいいが大博打だし
下手打つと室町幕府の二の舞になりかねないしその可能性のほうが高かったろう
- 457 :人間七七四年:2020/07/29(水) 18:37:55 ID:IhvcIqLN.net
- >>454
家康が動けるようになった、って家康が何をしたのか教えて欲しいんだけど?
家康が豊臣家の枠組に収まらなくて良くなったのは、関ヶ原で反徳川となりうる勢力が一掃され、全国が徳川支持に傾斜したからだぞ?
関ヶ原までは、秀吉の遺言範囲内、かつ豊臣政権の主導的役割として当然の行動しかしていない。
- 458 :人間七七四年:2020/07/30(木) 06:20:03 ID:sDvpBAlc.net
- >>457
関ヶ原で石田三成潰す
大阪の陣で豊臣政権潰す
秀次が生きてれば豊臣政権の力が大きく家康は迂闊に動けなかった
秀次も迂闊に秀頼殺害できなかった気もする
- 459 :人間七七四年:2020/07/30(木) 08:09:53 ID:wLAGrsqg.net
- 秀次も家康も秀頼が邪魔だから
どのみち秀頼はおしまいだろう
- 460 :人間七七四年:2020/07/30(木) 14:13:19 ID:ZVkXes/H.net
- 秀次が家康に敵うと本気で思ってる書き込みばかりで草
格が違い過ぎるわ
- 461 :人間七七四年:2020/07/30(木) 17:20:46 ID:hxmoYrAy.net
- >>460
格なら秀次の方が圧倒的に上だぞ?
秀次は関白で家康は権大納言程度でしかないし(内大臣になったのは秀次事件後)
それに秀頼は当初秀次の娘と婚姻予定だったから、秀次生存なら
当然家康は秀頼の外祖父になどなれない、つまり政権への影響力も低下する
ついでに言うなら、家康は派閥形成もあまり上手ではない
史実でも石高三分の一程度の前田利家が派閥的に家康と張り合えるレベルだ
東海道諸侯も元々秀次付きだから対立したって味方にならない
秀頼を抱き込もうにも秀次生存だと接点があまりない(秀次よりは関係が薄い)
こんな状況で無理やり反乱するほど家康はバカではないだろう
- 462 :人間七七四年:2020/07/30(木) 22:59:06 ID:s7/5ttZl.net
- >>459
秀次にとっては、秀頼はガキのくせに自分よりたくさんの所領を持ち、
関白の座を自分から奪うこと約束されている相手
でも、秀次という敵がいる場合の家康にとって、秀頼は秀吉にとっての
三法師のように前政権から権力を奪うのにちょうどよい道具だ
邪魔とは言えない
- 463 :人間七七四年:2020/07/31(金) 00:26:32.60 ID:jPF183fI.net
- >>458
いずれも『秀次一族皆殺しで動けるようになった』とは関係ないだろ。
しかも関ヶ原は三成が仕掛けたものだし、大坂の陣は、もはや秀次死亡は関係ない。
関ヶ原の結果、家康天下人はほぼ確定したわけで、秀次死亡から関ヶ原までの期間で、家康が何を動いたのか説明しないとダメでしょ。
- 464 :人間七七四年:2020/07/31(金) 13:27:07 ID:mJGzs1tB.net
- >>462
秀頼の選択肢は、秀次に殺されるか家康の傀儡になるかだけなんだよね
秀吉もそれを理解していたからこそ、秀次を殺して徳川との政略結婚を推し進めた
だけど三成、淀、さらには秀頼本人が状況を理解しないまま暴れてしまった
- 465 :人間七七四年:2020/07/31(金) 14:49:32.49 ID:pRQDBzMP.net
- >秀次で大丈夫ですか?天下を統べることができますか??
↑この秀次じゃ天下を統べる事ができないって妄想の根拠は?
- 466 :人間七七四年:2020/07/31(金) 16:42:40 ID:NFKilydc.net
- >>463
家康が天下狙うなら関係ある
秀次も家康と戦う理由ができる
関ヶ原では秀次と交流あった多くの大名が東軍についた
三成よりは兵が動員できたのでは?
家康は三成が嫌われてるの利用したからな
- 467 :人間七七四年:2020/07/31(金) 17:31:55 ID:jPF183fI.net
- >>465
豊臣家親族、相応の地位、所領を有していながら、秀吉に処分されてしまう程度の処世力、対人力。
一国の蓋をする力量はないと言わざるを得ない。
家康と言わず、秀次より上の人材は大勢いる。
- 468 :人間七七四年:2020/07/31(金) 20:48:20.87 ID:QMQ31t7z.net
- >>467
それ単に秀吉がその時点での最高権力者だったってだけだろ
秀吉死亡後は秀次は徳川をはじめとした他の諸侯とは立場が違う
天下は一個人の能力で決まるものじゃないんだぞ
秀次はれっきとした豊臣政権における関白なんだから
秀吉ならともかくそれ以外のものが秀次を倒そうとするのはそう簡単ではない
迂闊にそんなことをすればただの天下の謀反人、逆賊扱いで終了だ
先に言っておくが、秀頼を抱き込めばとか下らん戯言を言うなよ
- 469 :人間七七四年:2020/07/31(金) 21:34:25.00 ID:5vMw65le.net
- >>462
嫌だから、秀次生存ルートでも外様の大身大名「家康がその最大の者」が沢山居るんだぞ?
なんで豊臣の勢力同士で内紛起こすの前提なんだよ?
勿論徳川からみれば内紛起こして欲しい状況ですが、秀次ってそこまで馬鹿かな?
野戦で自分を打ち破った化け物が生存してるのに内紛って?
- 470 :人間七七四年:2020/07/31(金) 21:58:28.54 ID:s087saXp.net
- 秀次VS家康で豊臣恩顧が、何故家康の味方する可能性があるのか
秀次が生きてるのに、何故秀頼が秀信みたいに家康の傀儡になるのか
何故秀次が生きてたら、秀頼を殺そうとするという前提で話を進めるのか
↑秀次じゃ天下を統べる事ができない根拠が無理矢理過ぎるだろ
- 471 :人間七七四年:2020/07/31(金) 22:43:18 ID:jPF183fI.net
- >>468
秀吉が最高権力者だから成立し得たのが豊臣政権なわけ。秀吉の下で、大身外様大名が従順だから安定し得たんだよ。
秀吉のいない豊臣政権にどれだけの求心力があるのかって事ね。求心力のない政権の関白にどれだけ意味がある?室町幕府と同じ事。
なんで秀次を倒しに行かないといけないのさ?
家康は母国に帰って、中央と距離を置くだけでいい。史実の上杉と同じ。
豊臣を支えなくていいんだから、上杉・毛利、伊達あたりと結んで、地方で好き勝手やってればいい。豊臣に服従させられたかつての地方覇者達には喜ばしい話。
係る状況は、豊臣家が天下を統べている状況と言える??
毛利・上杉等外様大名抜きで関東征伐出来ますか???
- 472 :人間七七四年:2020/07/31(金) 23:11:38 ID:QMQ31t7z.net
- >>471
まず、秀次に求心力がないという前提がおかしい
そりゃ秀吉生前なら秀吉の方が立場が上だがね(だから秀次事件を理由にするな)
諸侯が政権を支えなくてもいいという理屈もおかしい
豊臣政権が事実上秀吉政権になったのは「秀吉が秀次事件を起こしたから」だぞ?
それがない以上、権力は秀次に正当継承されたという事なのだから
全国政権たる豊臣政権を支えないこと自体が政権に対する反逆だからな
つまり、中央から距離を置こうとした時点で政権に対する謀反です
そもそも史実で上杉がまんまそれやって征伐対象になったじゃないか
関白が空白で家康が政権代行、おまけに内部がグダグダの極みの状況でさえ、
そういう事が起こるのに、そのゴタゴタが大幅に軽減される秀次政権で
諸侯が意味もなく一斉反攻なんて馬鹿なことになる訳ないだろ
- 473 :人間七七四年:2020/08/01(土) 00:32:04 ID:BwDnQlzi.net
- >>472
秀吉死後の政権求心力は、秀吉生前のそれを遥かに下回るよ。秀次の生死に拘らずね。当たり前過ぎでは??
史実と異なり、秀吉は家康に政務を託さない訳でしょ?そういう意味で、家康は政権を支える必要がない。史実の上杉同様、帰国すれば良い。
謀反でいいのでは?討伐出来ないなら、ただの言葉遊び。そして、その時点で秀次は天下を統べていないと言える。
一斉反攻なんてしなくていいんだってば。
地方で好き勝手すればいい、という話。つまり戦国期に巻き戻し。
- 474 :人間七七四年:2020/08/01(土) 00:57:16.87 ID:G4zFlaA0.net
- >>473
だから、主君である秀次の許可なく大名が帰国できるわけないだろ
それやったら当然討伐対象だよ?政権の統制に従わないのらね
当たり前の話だけど(むしろなぜ討伐軍が結成されないと思うのかがわからん)
諸侯は当然秀次に従う『絶対に』、そこに疑問の余地は一切ない、ある方がおかしい
だって秀次は全国政権たる豊臣政権の正統なる後継者なのだから
従って諸侯が好き勝手することも出来ない、そんなことをすれば
御家が潰されてしまう、海外遠征まで可能な豊臣政権にたかが地方の
諸侯が勝てるわけがない、家督継承も問題なく終わっているのだから
- 475 :人間七七四年:2020/08/01(土) 01:47:00.44 ID:BwDnQlzi.net
- >>474
許可貰えばいいだけでは?秀次は一歩引いて秀頼が主君になってるかもしれんし、貰えないと断定する方がおかしい。
秀次がよほどの馬鹿でない限り、討伐軍は組織しない。秀吉同様、家康を懐柔する。
つまり、結局家康の力を借りることになるというわけね。
家康が中央と距離を置く以上、孤立を避け上杉・伊達あたりと秘密裏に結ぶのは当然の話。家康に後顧の憂いなく、討伐軍は家康の旧領を通過する必要がある他、そもそも家康と秀次では武将としての質、経験が段違い。かつての小牧長久手よりも勝算は薄い。費用対効果を考えても、討伐軍より懐柔一択。秀吉すら一目置き、当時最も老練な戦国大名であった家康を、秀次総大将で討伐とか非現実的過ぎる。
豊臣政権を絶対視し過ぎでは?
そんなに完成された組織ではないよ。
- 476 :人間七七四年:2020/08/01(土) 06:52:34 ID:G4zFlaA0.net
- >>475
だから、秀次後継なら徳川をはじめとした諸侯は
別に政権にも秀次にも喧嘩売らないって言ってるの、そんなことする理由ないから
確かに豊臣政権は未完成だし、史実でも秀吉死後は酷いものだった
ただし、その最大の原因はトップの事実上の不在だ
秀頼は関白でなく、家康は政権代理人でしかない(しかも権限は中途半端)
秀次政権ならこの問題がほぼ解消される、これだけでも安定度は段違いだ
そして、史実の不安定な政権でも家康が政権をほぼ掌握した状態だと
上杉征伐軍を組織立てる位の事はできるわけで
で、秀次は当然家康より政権運営はスムーズにできる、政権の正統後継者だから
後、私は全国政権であれば末期でない限りトップの資質はもう致命的な問題に
ならないと考えている、世界史に名が残るレベルの有害な人物でなければ
秀次程度のレベルならまあ組織は回るだろうな、という認識
- 477 :人間七七四年:2020/08/01(土) 08:58:14.98 ID:cV7GkM79.net
- >>417
実はその前提は成り立たない。
秀次は確かに独自の家臣団、それも官僚集団を持っていた。
池田輝政、田中吉政、木村重これ、前野長康らだ。
ところが、田中吉政と石田三成は宿敵の間柄で、その他池田輝政ら
秀次の官僚と三成の関係は非常に悪かった。(だから、池田輝政は
秀吉の死後、三成を福島、加藤らの武闘派と全く違う理由で襲撃に
参加したんだけどね。)
ある意味、三成と秀次は共存はあり得ないほど仲が悪かった。
秀次派官僚は秀次事件ですべて失脚し、殆どが死を賜った。
池田輝政は秀次のナンバーツーなのに、福島正則に皮肉られたように、
家康の娘婿故に命が助かっている。もちろん、池田輝政は生涯
福島正則も許さなかった。
- 478 :人間七七四年:2020/08/01(土) 09:09:54.54 ID:v2AIi/hq.net
- 秀次が秀吉ほどは無理にしてもそれに準ずるだけのリーダーシップを発揮できるかどうかだな
それにただ関白でごさいってふんぞり返って大軍を組織してりゃいいわけじゃなく
関白であると同時に創業期の武家政権の長でもあるのだから大事なことをやらなきゃならない
武家政権としての法整備と官僚組織の構築で、秀吉はこれをほぼやらずに古代王権的な独裁者と側近政治に終始した
これでは政権の安定的な継承など到底無理で秀次とその吏僚にその認識とセンスがあったのかどうか
さらにはこれも政権安定に欠かせない大大名の勢力削減
家康を始めとした海千山千の戦国生き残りの大大名を相手に秀次がそれをやっていけるのかどうか
江戸幕府は関ヶ原のおかげで一気に削減できたが
政治的主導権を握る前に死んだからできるともできないとも断定は永遠に不可能だが
かなりハードルが高く、秀次自身に秀吉と同等かそれ以上の相当な能力が求められたのは確かだろう
- 479 :人間七七四年:2020/08/01(土) 19:21:29 ID:CfVxEitK.net
- >>476
むしろ、秀吉死後も豊臣政権に服属し続ける理由がない。
言うまでもなく、徳川、毛利、上杉、伊達、島津、長宗我部等の独立系戦国大名は、秀吉に服従した経緯がある。秀吉の死、政権の弱体化は願ったり叶ったりでしょ。本来のあるべき位置に戻れるチャンスなわけだから。
で、キミの考察は順番が逆。豊臣政権の安定は、後継者が秀次云々はほとんど関係なく、大身外様大名が政権に従順であるかどうかが肝なんだよ。
仮に、徳川・毛利・上杉あたりが、心底豊臣政権ファーストで支えに行ったら、たとえ後継者が秀頼でも安定度は鉄板だよ。
しかし史実ではそうはならない。秀吉が死ぬや否や、毛利は三成と密約、派閥を構成。上杉は帰国後、政権の上洛要請に応じない。
秀次が徳川・毛利・上杉を御することが出来るのか?無理ですよね、って話だよ。
史実において、筆頭大老を政権に組み込んだ秀吉の方針は、間違いなく正解ということがわかる。
- 480 :人間七七四年:2020/08/01(土) 19:36:09.36 ID:CfVxEitK.net
- >>479
自己レス
筆頭大老を政権に組み込んだ → 筆頭大老を政権運営側に組み込んだ
- 481 :人間七七四年:2020/08/01(土) 19:43:31.39 ID:+PZ9vzyo.net
- 横だけどもうそういうのはいいよ
徳川史観、家康英雄史観的な論拠は…w
もうここまで来るとスレ違いだから
相手が一歩譲ったレスしてるのも分からないんだろうな
こういう人は…w
- 482 :人間七七四年:2020/08/01(土) 19:59:32 ID:CfVxEitK.net
- 徳川史観が論拠かどうか、読み手に任せるよ。
- 483 :人間七七四年:2020/08/01(土) 20:12:59.27 ID:+PZ9vzyo.net
- いや、自分は横レスだから分からないよ
同じく読み手に任せましょう
この議論自体がスレ違いかどうかも含めてね?
- 484 :人間七七四年:2020/08/01(土) 20:14:44.72 ID:G4zFlaA0.net
- >>478
そこらへんはほぼ心配してないかな
秀次は自分が秀吉に及ばぬことを分かったうえで、諸侯に配慮できるみたいだから
実力よりも血統による領地の継承の重要性を理解してるみたいだし
蒲生氏に対する秀吉とのスタンスの違いを見る限りね
>>479
そいつらむしろ政権が安定してくれた方が助かるしなあ
なんか勘違いしてるみたいだけど、別に自分たちの立場が保証されてるなら
別に無理に中央政権に逆らう必要性が無いんだよね
史実での混乱は政権トップの不在と家康の権限の不足が大きな原因だし
- 485 :人間七七四年:2020/08/01(土) 20:28:19 ID:5/AK7Hfr.net
- 清正は秀頼に加藤十六将の一人・赤星親武を家臣として送り込んでいるね
親武は夏の陣で戦死、その子・赤星道重は天草の乱で一揆方の幹部になって死亡している
- 486 :人間七七四年:2020/08/01(土) 21:35:28 ID:CfVxEitK.net
- >>484
毛利・上杉は、政権不安定にした張本人だけど?
自分達の立場を保証する豊臣政権安定を最優先とするならば、上杉は上洛すべきだし、毛利は大坂城占拠せずに、三成を殲滅すれば良い。
加賀征伐で頭を下げた前田利長は、全く減封されてないし、立場は守られているけど?
- 487 :人間七七四年:2020/08/01(土) 23:22:57 ID:G4zFlaA0.net
- >>486
そりゃ政権のトップが不在だからね、しょうがないね
秀頼は関白じゃないし、家康は力不足の政権代理人に過ぎないからだよ
だから野心も芽生えるし、中央政権の枷も外そうとする
秀次が後継なら関白に就任した豊臣の正統後継者になるから
この問題が一気に解決する、私は全国政権のトップに個人の能力の高さを
求めるつもりは一切ないし(歴史に名が残るレベルの有害でなければよい)
- 488 :人間七七四年:2020/08/02(日) 02:21:57.83 ID:eXYT9iqq.net
- >>487
家康が力不足?
豊臣政権が抱える構造的問題は、大身外様大名がゴロゴロいる事。
秀吉死後の政権への再服従を、家康は力技で遂行しているけど?豊臣政権筆頭大老、かつ豊臣家縁戚としてね。
秀次には無理。関東征伐など出来るわけがない。この先は>>475ご参照。
- 489 :人間七七四年:2020/08/02(日) 07:07:27 ID:J1fyesu0.net
- >>488
力不足だよ、だから牽制の拡大を家康は図ってたんだ
関ヶ原前の家康が行っていたのはまさにそういう事
権威も足りない、実力も足りないから政権をスムーズに回すために必死だったわけだ
反家康派が盤面をひっくり返そうとして何もかも台無しにしたけど
何が酷いって、政権そのものの信用性や信頼性が大幅に落ちてしまって
徳川が政権を支えるメリットすら消滅してしまった事
これじゃ家康も政権に見切りをつけざるを得ない
シンプルに自分がトップでやった方がマシだとなってしまう
実際そうしたら諸侯がほぼおとなしくなったからな(抗議したのは豊臣くらいだ)
- 490 :人間七七四年:2020/08/02(日) 08:55:37 ID:eXYT9iqq.net
- >>489
言ってることが、滅茶苦茶になってきたよ?
実力不足だったら、権勢の拡大なんて出来ないでしょ?
家康が実力不足で行った権勢拡大って具体的に何?
戦国期に勢力を拡大した大名は、実力不足だったからなのか?実力不足の大名は淘汰されてるだろ。
秀次生きていても、彼こそが力不足で結局家康を頼る事になろう。
- 491 :人間七七四年:2020/08/02(日) 15:34:29 ID:aJi1sW2v.net
- はいはい家康ageの自演確定
これ以上つまらん自演レスバ続けるなよ
見苦しい
- 492 :人間七七四年:2020/08/02(日) 20:13:17 ID:J1fyesu0.net
- >>490
実力が足りてないと反家康派から思われたから関ヶ原が起きたんだよ?
そして実力が足りないと認識したからこそ家康は権勢拡大をしようとしたんだ
婚姻政策が典型だろうね、諸侯に対する影響力を高めることで、
家康への支持者を増やそうとしたわけだ
で、反家康派から結構な反発が起きたから今度は政権内のトラブルの仲裁を行う形で
その功績を既成事実として積み重ねるという方向で進めることにしたのだろう
まあそんな家康の努力も反家康派が挙兵して台無しにしちゃったけど
もちろん、秀次が後継ならこういう問題は発生しない
- 493 :人間七七四年:2020/08/02(日) 23:40:01 ID:eXYT9iqq.net
- >>492
どれもこれも珍説過ぎて、反論したら家康ageの自演と思われても仕方ないレベルだね。
念のため、確認していい?
・関ヶ原は、家康の実力不足だと判断した西軍が挙兵した。
・家康は、婚姻施策(いわゆる私婚問題)で、諸侯の支持者を増やそうとした。
・私婚問題と合わせ、いわゆる七将襲撃問題の解決も功績の一つとして、権勢拡大に注力した。
関ヶ原の発生原因と、私の質問である『家康の権勢拡大って具体的に何?』の回答は以上でいいのね?
加えて、一点だけ。これだけはどうしても教えて欲しい。反家康勢力が、家康を実力不足だと判断した根拠を教えて。切り口が斬新なので。
小説や漫画、ゲームが根拠でも、ここまでのものは見たことがないので、とても興味深い。
- 494 :人間七七四年:2020/08/05(水) 18:55:10 ID:eUuXJtm1.net
- 話はかなり変わるんだが
福島は関ケ原で東軍側で戦った事をかなり後悔してたらしいな
徳川側が天下を望んでると事前に察知していたら東軍側に着いたとしても史実みたいに奮戦する事は無かったのかね?
- 495 :人間七七四年:2020/08/05(水) 20:56:17 ID:l1KaxGFk.net
- >>494
福島に限らず東軍大名は家康が天下を望んでいるから関ヶ原で一生懸命戦ったんだよ
信長だろうと秀吉だろうと家康だろうと天下を取るためには金や領地をばらまいて人心を買う必要がある
天下を狙う人間の下で戦えばとてつもない恩恵があることは当時の武将は身をもって体験している
天下を取ろうとしてくれることが当時の最大のビジネスチャンスであり景気振興策なわけ
戦は命がけでボランティアじゃないんだから天下を望んでいない人間の下で必死に戦っても意味がないだろ
逆に家康が天下を望んでいないと事前に察知していたら福島を含めた東軍大名は奮戦する事は無かった
- 496 :人間七七四年:2020/08/05(水) 22:00:30 ID:g43ljJrW.net
- というか。
まず福島正則が東軍についた事を後悔した一次史料など存在しない。
そりゃクーデター軍は本気で潰さないとまずいでしょ。
- 497 :人間七七四年:2020/08/06(木) 05:30:33 ID:nzM+pweI.net
- 秀吉が織田家から天下略奪した
秀吉が秀次一族皆殺しした
朝鮮行き命じられる加藤清正福島正則など
これが多くの豊臣大名が徳川についた原因だろ
石田三成と合わないのもあるが
- 498 :人間七七四年:2020/08/06(木) 15:12:46 ID:JRWlsZii.net
- という事はそれだけ徳川に犬の様に媚びたのにも関わらず結果残せなかったって事で
加藤も福島も戦国武将としてはショボいって結論でいいんじゃないか?
家康不必要に持ち上げてまで無能な豊臣恩顧達を擁護する意味が分からん
- 499 :人間七七四年:2020/08/06(木) 15:36:25 ID:JRWlsZii.net
- 連続で書き込むが上でも指摘されている通りスレに沿った話をしてくれよな?
家康ageの自演の為のスレじゃないからな
家康の豊臣天下簒奪の正当性なんかどうでもいいんだよ
- 500 :人間七七四年:2020/08/06(木) 18:58:14 ID:EEpiZqd1.net
- 本質が見えない単純な人には、そういう結論になるという典型。
- 501 :人間七七四年:2020/08/07(金) 10:31:13 ID:k4nKmzXd.net
- 女の書き込みってヒステリックで鼻息の荒らさまで文字で伝わって来るから笑える
- 502 :人間七七四年:2020/08/07(金) 14:33:51 ID:GSey6QO5.net
- 自演かは知らんけど女性っぽいね
「東軍大名は家康が天下を望んでいるから関ヶ原で一生懸命戦ったんだよ」って…
本気で言ってるんだろうな、こういう感情論を
- 503 :人間七七四年:2020/08/08(土) 00:03:33 ID:jpLHr1+h.net
- >>502
天下を望んでない人の下で関ヶ原を必死に戦ってどうするの?
天下を目指している人だから大規模な恩賞バラマキが期待できて大名が命を賭けられるんだろ
信長も秀吉も家康もそこは変わらないよ
どうも戦をゲームやドラマの感覚で考えているようだね
命がけの殺し合いをする以上は、それに値する報酬が貰えるかを気にするのは当然のこと
それを豊臣への美しい忠義により無報酬で戦ってくれるとか、ドラマのような非現実な思考を入れてしまうから話がおかしくなる
- 504 :人間七七四年:2020/08/08(土) 00:32:40 ID:lLPveDe4.net
- 関ヶ原の本質を勘違いしている。
筆頭大老豊臣恩顧によるクーデターの鎮圧なんだけど。
結果、家康の天下取りが可能な条件が揃ったという事。
いわゆる『関ヶ原』の全国長期化の展開も十分あり得た。
- 505 :人間七七四年:2020/08/08(土) 17:00:55 ID:9m5Fw/oh.net
- >>503
報酬ってのは、見え難い物も実際には含まれてますからね。
武家は子飼いとか譜代とか優先で、他家からの寝返りって可成り危険な状況に成りますよ。
関ヶ原で豊臣恩顧が大量に寝返ったのは「逆も又真実成り」って事だと思います。
豊臣恩顧大名だからこそ、家康の天下取りで武功あげないと消されるって危機感があったんでしょ。
実際、1660年頃の大名配置とか見れば、豊臣恩顧が大量に消されてる事がよくわかります。
勿論、幾ら尻尾振ったとしても「狸妖怪は信用できない、恥欠くぐらいなら戦って死ぬ」って考えも
あり得るわけで。
実際福島正則なんか大恥欠いて死んだし、武家の常識としては異常でも無い末路。
- 506 :人間七七四年:2020/08/08(土) 18:02:44 ID:lLPveDe4.net
- 三成が正しいという思いが文章か溢れ出てるな。
- 507 :人間七七四年:2020/08/08(土) 20:58:59 ID:jpLHr1+h.net
- 秀次は三成が聚楽第に乗り込んで糾弾してきた時に無抵抗を貫いて
関白辞任や高野山に行くことまで受け入れたのに
無抵抗をいいことに妻子もろとも命を奪われる羽目になったからね
これで福島をはじめとした豊臣恩顧は三成への信頼を失った
「三成は信用できない、無抵抗で妻子もろとも殺されるくらいなら三成と戦う」という考えを抱くのも当然だろう
実際福島は三成を倒したことで家族を含めて命は助かったわけだし
徳川だって無抵抗の豊臣恩顧を殺すことはしていないから東軍を選んだことは正解だった
- 508 :人間七七四年:2020/08/08(土) 22:57:51 ID:3LZBViNV.net
- >>507
福島正則は、武断派の軍令違反を告発して豊臣家内紛のきっかけとなった福原長堯といっしょに
親族である秀次に無慈悲な切腹を命じる検死役を務めてるけどなw
そして、秀次の所領である尾張清洲もらってるしw
- 509 :人間七七四年:2020/08/09(日) 00:04:14 ID:J/hWhsX5.net
- そこが三成の恐ろしいところだよね
相手が無抵抗になると無慈悲に追い打ちをかけて残虐さをどんどんエスカレートさせる
関白辞任や高野山に行くことを飲ませたら、終わりにするどころか今度は秀次殺害を企てる
福原に秀次の切腹を命じさせて成功したら、終わりにするどころか今度は妻子の処刑に突っ走る
福島も間近で見て、このままでは自分も三成に妻子もろとも殺されると危機感を抱くのも当然だろう
特に尾張なんて徳川の後方支援がなければ、三成が殺しに来たら絶体絶命になる場所だ
秀次事件で福島は徳川について三成を打倒する覚悟を決めたと言える
- 510 :人間七七四年:2020/08/09(日) 09:43:51 ID:PRuWdaSv.net
- >>509
それはないから
- 511 :人間七七四年:2020/08/09(日) 10:15:39.48 ID:aFfcsYdN.net
- 小説のタイトル忘れたけど、秀吉の親族意識の強い福島正則は、秀吉の甥というだけで
その境遇の甘えまくっている秀次のことが大きっらいで、秀次の切腹も当然とばかりに
冷酷に執行するって描写があったのを思い出す
- 512 :人間七七四年:2020/08/09(日) 10:48:11.76 ID:qU7bKecs.net
- >>508
検死役に立候補したわけでも、尾張をくれと言ったわけではあるまい
- 513 :人間七七四年:2020/08/10(月) 11:50:24 ID:uUY3iM/B.net
- 福島が、三成を嫌っていたり恐怖感を持っていたとする心情を示す史料はありません。
秀吉遺言である家康主流と逆を行く三成を追放する側に回った、としか言えない。
- 514 :人間七七四年:2020/08/10(月) 13:47:33 ID:QWgmjbAx.net
- 内儀を任された利休や関白を任された秀次も
数年もしないうちに三成に糾弾されて命を狙われたからね
代わりとして政務を任された家康にも三成はすぐに同じことを繰り返そうとした
豊臣の政治を混乱させ続ける三成を福島が排除するのは当然の行為と言える
- 515 :人間七七四年:2020/08/10(月) 23:16:05 ID:3loJGjIJ.net
- 上杉攻めで江戸に下る道中、豊臣恩顧の二武将が
「明智を討ちに京に向かうときの太閤は気が逸り取り乱してたがそれに引きかえ今の内府殿はじつに落ち着いて堂々となさっていることよ」
「そりゃおま当たり前よ。当時の太閤は80万石ほどの織田の一武将に過ぎなかったが今の内府殿は250万石の大守だからな。」
みたいな見え透いたおべっか言い合ってたのが情けない。
- 516 :人間七七四年:2020/08/11(火) 07:48:50.18 ID:tHHm2wtM.net
- というか、豊臣政権の総意として反逆者を討伐に行くだけ、の予定だったし、落ち着いてて当たり前
- 517 :人間七七四年:2020/08/11(火) 19:28:34 ID:A+i0BF85.net
- 豊臣恩顧ってか尾張土豪衆でいいと思いますが
彼らの意識的には豊臣家なんて尾張(美濃)領主衆の代表でしかなかったからこそ、
秀吉が死んだら離反だらけになっていったんだと思いますよ
少なくとも「仕えるべき相手」ですらないはず
それがわかっていたからこそ秀吉は「お拾いのこと頼む」としか言えなかったんじゃないかな
- 518 :人間七七四年:2020/08/13(木) 07:39:10 ID:97me2NqQ.net
- >>513
加藤福島黒田などが三成殺そうとして、その時は家康が助けたはず
三成がいる方が豊臣が不協和音になるからな
三成が嫌われてる証拠だろ
- 519 :人間七七四年:2020/08/13(木) 22:41:31 ID:q4ZHJDWo.net
- 羽柴四天王の尾藤・神子田を殺さずに生かしておけば・・・
- 520 :人間七七四年:2020/08/16(日) 03:15:58 ID:T31tcTwt.net
- >>518
加藤福島黒田などが三成に対し訴訟を起こし、筆頭大老の家康が公正に裁いた。
三成は政権運営から外され、反家康勢力は縮小した。
三成が嫌われているというレベルの低い話ではなく、秀吉遺言と真逆を行く『反家康勢力』の中核を排除したという事。
- 521 :人間七七四年:2020/08/16(日) 05:37:18.77 ID:fwr709V7.net
- >>520
言い伝えでは三成は嫌われて殺されかけた
らしいがな
- 522 :人間七七四年:2020/08/16(日) 11:30:28 ID:T31tcTwt.net
- 前々から、武力による七将襲撃には疑問を持っていたんだよね。
武力による七将襲撃が事実なら、
・七将の行動は、惣無事令違反であり豊臣政権への謀反と同義。豊臣政権を不安定化させる張本人となるが、揃いも揃って本当にそこまでバカなのか?
・筆頭大老である家康の裁定は、七将にお咎めなし、三成は強制隠居。不公平極まりないものであり、普通に家康は信用を失う。国政を担う立場として、政治生命が命取りとなる判断を本当に下すのか?
・惣無事令違反と、不公平な裁定。これだけの大問題、多くの一次史料で記録されてもおかしくないのに、これが全くない。
- 523 :人間七七四年:2020/08/16(日) 11:53:28 ID:aA97y1OQ.net
- 七将は朝鮮出兵における石田・小西の振る舞いに問題があると訴えただけ
それに不満を持った石田が兵を集めようとしたため惣無事令違反で奉行を解任された
強いて言うなら惣無事令違反の時点で石田は奉行解任どころか改易になるべきだったということ
- 524 :人間七七四年:2020/08/17(月) 08:08:23 ID:imjVWecZ.net
- 確かに、黒田長政や藤堂高虎がこの程度の政治判断を誤るとは思えないなぁ。
- 525 :人間七七四年:2020/08/17(月) 14:01:54 ID:mPdf6c0N.net
- そもそも7将とはだれなのかもよくわからない。
黒田長政がそのうちの一人とされてるけど
関ケ原でとらえられた光成にねぎらいの言葉掛けて
羽織を着せてやったりしてるからな。
- 526 :人間七七四年:2020/08/17(月) 22:56:52 ID:kM0Mc+Ai.net
- >>522
それはさ、家康が何をしたいのか?によると思いますね。
家康が豊臣家の忠臣を演じたいのなら、喧嘩両成敗で双方閉門あたりをすべきでしょう。
実際、前田利家が生きてる状況なら7将は下手すれば謀反認定で改易、それやると政権が
不安定化するというなら関係者全員閉門謹慎あたりが公平だと思う。
まあ、既にこの時点で自分が秀頼の家臣だなんて思ってないんでしょうね。
傷がつくのは秀頼の権威で、家康ではないと思う。
- 527 :人間七七四年:2020/08/18(火) 00:10:17 ID:UFtVoLLw.net
- >>526
忠臣演じるって、意味がわからない。
公正に裁くだけの話だろ?
そして、実際には武装襲撃ではない可能性が高いわけだから、前田に改易されるという流れも意味がわからない。
- 528 :人間七七四年:2020/08/18(火) 18:07:06 ID:Kkr+SA7l.net
- 豊臣家にとって秀頼って生まれてきちゃいけない子だったんだな
- 529 :人間七七四年:2020/08/19(水) 06:11:12 ID:FeP2Ghpe.net
- >>523
命狙われてる三成は家康が救う
しかし三成は解任される
これはNHKのテレビでも言われてたが
歴史変えるな
- 530 :人間七七四年:2020/08/23(日) 09:23:54 ID:oR8YoKv8.net
- >>522
そもそも、ここで三成を殺してしまえば争いの火種が消えてしまう。
逆に三成を生かしておけば火種はくすぶり続け、彼らは三成憎しから
わしに味方するであろう、
ってのも不自然。
むしろ三成を匿えば、血気盛んな7将は
「おのれ内府も三成派だったか! 三成もろとも滅ぼしてくれようぞ!」
ってなるはずなんだよね。
- 531 :人間七七四年:2020/08/23(日) 11:25:11 ID:BGwfcI+b.net
- >>530
七将は朝鮮出兵における石田・小西の振る舞いに問題があると訴えただけ
それに不満を持った石田が兵を集めようとしたため惣無事令違反で奉行を解任された
強いて言うなら惣無事令違反の時点で石田は奉行解任どころか改易になるべきだったということ
- 532 :人間七七四年:2020/08/23(日) 18:59:22 ID:AKs2Pdet.net
- はい、はい、惣無事令、惣無事令
- 533 :人間七七四年:2020/08/24(月) 01:43:53 ID:+wHwJ+xY.net
- 家康が将軍任官前の1601、1602年に亡くなってたらどうなったかな
体制に変化なしかな?
- 534 :人間七七四年:2020/08/24(月) 07:18:17.73 ID:fRtrkFJq.net
- >>533
そりゃあ、反徳川の挙兵が全国で起こって大混乱では?
家康は、関ヶ原の論功行賞で最早後戻り出来ない事を色々しちゃってますからね。
家康が野戦の名人って評判で抑えてたのに死ねば徳川に恨み持ってる奴が喜んで挙兵
しますよ。
1 西軍大名の領地を大量に没収したけど、実は一番領地減らされたのは豊臣秀頼である。
「222万→65万石」
2 本領安堵の甘い約束を反故にされた大名が沢山居る「毛利とか」
3 わざわざ揉めるような加増転封の組み合わせ沢山してる。「毛利の本拠の安芸備後に
大阪城退去を進めた福島正則とか」
4 徳川自体、三男の秀忠後継って不自然な事してるから割れる要素がある。
本能寺の変後の甲斐みたいな状況に成る場所多数でしょ。
- 535 :人間七七四年:2020/08/24(月) 07:54:01.26 ID:+HD6Vv7y.net
- 1→朝鮮出兵を含めてあれだけ戦をさせて恩賞なしとはいかないから
豊臣の領地負担は避けられないし誰も文句を言っていない
2→そもそも自分から西軍大将になっておいて本領安堵されて当然という思考回路の方が問題
3→そもそも安芸備後からすぐに大坂を襲撃できるということが西軍結成を招いたのだから
毛利の本拠に福島を代わりに入れることは安全保障としてはむしろ豊臣に対する配慮となる
別に家康はそれほどおかしい措置はしていないんだよね
とはいえ毛利のような思考回路のおかしい奴らにまともな論理は通用しないから
家康が生きて抑え続けることが当時の豊臣にとっても必要なことだった
そうなると秀吉が家康を重用して政務を任せたのは別に悪いことでもなく当然の選択だろう
- 536 :人間七七四年:2020/08/24(月) 15:08:55 ID:8ilCgJzP.net
- そもそも、豊臣恩顧の大名たちは豊臣家を存続させようという気があったのかなぁ
秀吉が老害になって、明攻めが失敗して、秀次が殺された時点で、
もう豊臣家の求心力というのはなくなっていた気がするけど
そりゃみんな口では豊臣家のため、豊臣家のためというけど
本心ではとっくに豊臣家を見限ってそう
- 537 :人間七七四年:2020/08/25(火) 08:12:52 ID:0PRy51kZ.net
- >>536
豊臣家は存続させたかったと思うよ
豊臣政権を存続させたかったかどうかは別としてね
- 538 :人間七七四年:2020/08/25(火) 23:33:46.09 ID:r+Q4Hprn.net
- そもそも政権存続ってどういう事なんだろうな
豊臣政権のトップって関白(太閤含む)なんだろうけど
秀頼って関白には就任してないんだよな
関白の役職自体、1601年には藤原氏にとられちゃってるんだよね
御家を継承する事と、政権を継承して存続させる事って全く別の話だし
(御家断絶、政権存続の例が鎌倉、御家存続、政権崩壊の例が徳川)
- 539 :人間七七四年:2020/08/29(土) 20:24:35 ID:IXgRBVbb.net
- 大坂城に居座り続けている以上、反徳川の旗頭になってしまうので秀頼の代は乗り切っても最終的には取り潰しになると
江戸住まいの高家か公家しか豊臣家存続はないでしょう。捨扶持1〜5万石 官位だけは
従2位〜従3位で格式だけで命脈を保つ 家康の首だけ取るなら二条城の会見がラストチャンス
- 540 :金吾秀秋:2020/09/03(木) 02:48:07.95 ID:pJ9WgShJ.net
- まったくカスどもには呆れたもんだぜ(´・ω・`)
- 541 :人間七七四年:2020/10/10(土) 13:29:12.30 ID:FaVtTVSA.net
- 家康=司馬懿
- 542 :人間七七四年:2021/04/23(金) 01:55:33.95 ID:5yVACdiS.net
- 福島正則の養子の遺児は三成の血縁の津軽家の重臣になっていた
そこで大名福島家を再興する為に江戸に行く
と言い出し生母と別れの酒宴の直後に突然死
福島家の再興は成らなかった
- 543 :人間七七四年:2021/06/26(土) 01:20:21.98 ID:/5TBV8w1.net
- 津軽藩には浅野重臣だった大石氏もいたが
勤皇で古学(山鹿流)を藩学とする重臣たちとそりが合わず
遂に知行を没収された
山鹿素行は「士は二君に仕えるべし」「主君の為に命を捨てるは愚か者」とし朱子学(武士道)を批判した
この副作用として長州の高杉晋作は主君の萩城めがけ発砲している
- 544 :人間七七四年:2021/11/09(火) 16:00:00.27 ID:Z0pXsTyl.net
- >>535
1 誰もって、東軍大名が文句言う訳ないだろ。しかし事実上家康首謀者で
豊臣家の領地山分けですからね。
2 家康のやり口汚いから恨むなって言うても恨むだろ。家康が直ぐ死ねば全国で
挙兵まつりだな
ま、家康はやらかしてるから直ぐ死ねば逆に徳川家滅亡みたいなもんでしょ。
あんな強引な事出来たのは、家康が野戦の名人の称号持ちだから。
次男の秀康生きてる状態なら、普通に徳川家自体割れる要素まであるし。
史実だと、家康の前に秀康死んでるけど
- 545 :人間七七四年:2021/11/11(木) 11:50:46.96 ID:QOWjK+wH.net
- 言うても福島加藤らに何ができたっつうのよ
秀吉の遺言でも覚書でも一切ハブられてて政権運営に何の発言権も実力もないんだから
秀吉が自身取り立てた本当の意味での恩顧よりもともと独立していて所詮他人でしかない外様の大大名を政権に取り込むことを選んだんだから
どうなろうが秀吉の選択の結果であって福島加藤らがどうにかできるなんてものじゃない
責めるなら秀吉をこそ責めるべきであって福島加藤を責めるのは全くの筋違い
- 546 :人間七七四年:2021/11/11(木) 12:04:11.10 ID:QOWjK+wH.net
- 大体豊臣政権が潰れたのは誰でもない秀吉に一番責任があるのに
秀吉信者はやれ徳川が悪い、福島加藤が悪い、誰それが悪いとどんだけ責任転嫁してんだか
みみっちいったらありゃしない
- 547 :人間七七四年:2021/11/11(木) 12:16:59.45 ID:ZO9ZWD7P.net
- 豊臣政権の歪みが発露したのが豊臣崩壊の嚆矢だしなぁ。
七将らも豊臣の天下とかどうでもいいし。
- 548 :人間七七四年:2021/11/11(木) 16:55:44.21 ID:VyuDyErl.net
- 家中が派閥に分かれて云々は避けられん話だけど
豊臣は早過ぎた
- 549 :人間七七四年:2021/11/12(金) 22:32:47.47 ID:Dw04g30n.net
- 清正「俺が死ねば徳川に忠節尽くせるから早く死にてぇなぁ」
Σ(゚д゚;)
- 550 :人間七七四年:2021/11/17(水) 19:56:33.60 ID:9RIfB3pt.net
- 信長恩顧は江戸時代を通じて厚遇されたんだよね
織田の家臣だったか否かが分かれ目だね
家康から見ると同僚的感覚なのかもしれん
- 551 :人間七七四年:2021/11/20(土) 14:45:19.12 ID:JyioY1Ck.net
- 加藤福島浅野は家康の天下は認めつつ豊臣家の存続ができればよしってスタンスだったんでしょ?
三人とも家康が天下獲ろうとしてることは分かってたでしょ
- 552 :人間七七四年:2021/11/20(土) 17:41:37.57 ID:BjfYwdHB.net
- >>551
獲ろうというか、もう獲ってるよ
要は徳川が藤原氏になるのを認められるかどうかの話だし
西軍が勝手に政権を博打の抵当に当てちゃったんで、しょうがないから
目標を豊臣家存続に切り替えた(豊臣家が現実を受け入れることが条件だが)だけだろ
- 553 :人間七七四年:2021/11/20(土) 19:43:56.37 ID:ROB3APe6.net
- >>552
いや
関ヶ原の時点で家康が天下狙ってることは分かってたでしょってこと
三成憎しの脳筋の福島はともかく加藤清正はわかってたでしょ
- 554 :人間七七四年:2021/11/20(土) 21:12:58.60 ID:BjfYwdHB.net
- >>553
だから、もう天下は獲ってるんじゃないの?
関ヶ原前の時点で家康は既に豊臣政権の第一人者なんだから天下を狙う立場じゃないだろ
分かるも何も天下政権である豊臣政権の実権を握ってるのは家康なんだから
- 555 :人間七七四年:2021/11/20(土) 21:53:20.49 ID:dNxds3d9.net
- 仮に家康が負けたら、自分たちの仇敵である三成が主人になるって事だからな。
誰が天下人とか考える余裕も余地もなかったろ。
- 556 :人間七七四年:2021/11/20(土) 22:16:36.40 ID:Ko7SyMxD.net
- 秀吉が元気なうちに三成粛清出来てたらなあ
- 557 :人間七七四年:2021/11/20(土) 23:25:00.00 ID:5OtB9mm+.net
- 唐入りで立場の対立のあった清正はともかく福島は特別対立の要因があったわけではない
- 558 :人間七七四年:2021/11/21(日) 04:09:35.40 ID:oJJ+buLZ.net
- そも家康以外号令かけれる経験も度量も国力ももった人物が他に居らんから、家康が死んで困るのは豊臣家では?
- 559 :人間七七四年:2021/11/29(月) 21:31:12.37 ID:0GgN0xJ7.net
- >>557
福島は池田輝政、田中吉政に騙されて東軍についた。
だから、死ぬとき、豊臣の真の敵、池田、田中に騙され、忠臣の
石田一族を討ったのは死んでも死に切れぬ過ち、と遺している。
- 560 :人間七七四年:2021/11/29(月) 21:55:59.38 ID:3AXZiikx.net
- 創作で他人に絡むな
- 561 :人間七七四年:2021/11/29(月) 22:40:40.38 ID:kFSYONd1.net
- >>559
久々にワロタ!
- 562 :人間七七四年:2021/11/30(火) 19:55:45.81 ID:gQPIDsF7.net
- 昔小説で加藤福島が家康に騙された三成すまんって挙兵してた小説あったな
- 563 :人間七七四年:2021/12/02(木) 07:37:55.30 ID:G/fc32CA.net
- 池田輝政、田中吉政は石田三成との政争で敗れた豊臣秀次の残党で、
秀頼を激しく憎んでおり、豊臣家を潰すためにあらゆる汚い手を使って
家臣団を分裂させ崩壊させたからな。むしろ、彼らに騙された豊臣系の
東軍の方がダメダメだろう。
- 564 :人間七七四年:2021/12/02(木) 10:26:45.60 ID:8I+e1bfT.net
- たまに出没するけどこの残党君ってなにを元ネタに喋ってんだろ、小説?
主要研究者でこんな事言ってる人いないし
- 565 :人間七七四年:2021/12/03(金) 02:05:48.24 ID:tvVmQcq1.net
- 豊臣秀次と福島正則は不仲で
太閤は謹慎か追放で殺すまでは考えてなかったが
使者が福島正則だったので秀次はもはや万に一つも助かるまい
と思い込み勝手に自害したという説もある
それを聞いた太閤は激怒し一族を極刑にしてしまった
- 566 :人間七七四年:2021/12/04(土) 12:37:22.50 ID:lrawkPgH.net
- いや、使者は使者でしかないだろ
秀次そう考えた手記でもあれば別だが
秀次の「考えた、思った」を妄想するのは勝手だが
- 567 :人間七七四年:2022/02/04(金) 12:19:41.27 ID:8CuybUJd.net
- そもそも恩顧とは何ぞや
豊臣の場合はいつから秀吉に従ってるかがいいだろう
分け方は
- 568 :人間七七四年:2022/02/04(金) 13:28:05.37 ID:EF5M1QZI.net
- だからそういう分け方は昭和になってから歴史ファンの間で広まったんだよ
- 569 :人間七七四年:2022/02/05(土) 10:43:06.55 ID:cI0eEueh.net
- >>567
実は豊臣家は古い家臣を大切にはしない。
織田時代から仕えた人間は、殆ど秀次事件で粛清されるか、
切り捨てられている。
- 570 :人間七七四年:2022/02/05(土) 10:44:31.76 ID:cI0eEueh.net
- そして、豊臣家の生き残った旧臣は団結し、秀次の仇を討つために
池田輝政を擁立し残党集団を結成し、関ヶ原で豊臣家を崩壊させるべく
動いている。
- 571 :人間七七四年:2022/02/21(月) 21:35:04.10 ID:jxJ+JAOw.net
- 佞臣石田を除こうとしたら家康が甘々採決してしまって、大人しくしてればいいものをクーデター起こしたから豊臣政権を任された筆頭大老としてそれを討伐しました
家康のミスが結果的に徳川の天下にした
- 572 :人間七七四年:2022/03/11(金) 00:08:32.59 ID:2nyc2hyn.net
- >>571
増田や大谷は?
- 573 :人間七七四年:2022/03/11(金) 10:06:59.74 ID:OkLpRvgW.net
- 大谷吉継は宇喜多騒動での家康調停に不服だった、それで西軍に加わったという話が卜斎記に載ってるらしい。
増田長盛はまぁ良くある両建てしようとして失敗したってやつだな…
- 574 :人間七七四年:2022/03/11(金) 11:34:00.94 ID:JZoB9yx8.net
- 除こうとしたのは増田もセットということでは
結果的には石田だけで済んだけどさ
- 575 :人間七七四年:2022/08/09(火) 02:32:47 ID:s0v5lloO.net
- 加藤清正は家康から信頼されてて、清正も徳川家とガチガチに何重もの婚姻関係を結んでいた。なのに二代目がそれでもフォローできないくらいやらかしちゃって取り潰しになった。
清正の娘が紀州徳川家に嫁いだ関係で徳川吉宗が清正を尊敬していて、それで清正は名誉回復プラス知名度アップしたらしいね
- 576 :人間七七四年:2022/10/26(水) 06:17:32.16 ID:79l2ZMKo.net
- 家の運営は結局殿様が一人でなんとかするに行きついてしまうんやなと感じる熊本のほうの加藤家
>>569
そもそも豊臣が気をつかってるのは徳川と前田と強いてあげれば毛利と上杉くらい
最大勢力の家康が妙に忠実だったから主要な大大名以外は軽い扱いでもいいかと勘違いしたフシありそう
なお前田は利長以降は知らん顔で毛利と上杉は乱を起こして体制崩壊させ最終的に徳川が太閤の子孫を根絶やしにする模様
>>573
増田だけでなく豊臣家自体がどっちが勝っても損する二股してて笑える
二股してどっちが勝っても損しないのは鍋島や真田みたいな地方の中小大名くらいや
- 577 :人間七七四年:2022/10/27(木) 11:10:48.07 ID:m4JIb8/O.net
- 豊臣恩顧と広い意味でいえば徳川だって恩顧にならないわけではない。
結果、反逆したから敵扱いだが、普通に職務に忠実にしてたら豊臣恩顧のポジションだし。
そもそも戦国時代を経た武将たちにとって恩顧とは何か。
裏切りに裏切りが当たり前で戦いに明け暮れてたのに恩顧もクソもないよだろ?
今の価値観で見るから変なことになる。
織田恩顧の秀吉が織田の天下を乗っ取った時点で。
- 578 :人間七七四年:2022/10/27(木) 11:43:11.15 ID:Zp9FdLGd.net
- 豊臣に都合いい古くさい解釈だな
家康は別に秀吉のおかげで世に出たわけでも大名になれたわけでもない
秀吉が織田子飼いの家臣だった頃かられっきとした独立大名で恩顧といえるほどの恩義など受けてない
逆に秀吉の天下統一に政権参加で協力したんで恩義を受けたのは秀吉のほうとも言える
それは毛利も上杉も島津も同じで単に政権傘下に入って安堵されることを恩顧と言うなら
江戸幕府下の諸大名も外様含めて徳川恩顧と呼んでいいことになる
あと徳川は反逆などしてないぞ
豊臣が勝手に天下人の座から転がり落ち諸侯も見限り徳川を新たな秩序の担い手に選んだのに
何の実力も無いくせに過去の栄光に縋って不遜な態度を取り続け最終的に秩序の紊乱者になったため
当時朝廷も公家も武家も公認の公儀に反逆したとして滅ぼされたのが実情
- 579 :人間七七四年:2022/10/27(木) 16:02:05.88 ID:VHQVrx9i.net
- 最近の史学の研究成果を見るかぎり、大坂の陣は開戦の経緯から講和、そして再び開戦から終局に至るまで何につけても全面的に豊臣に非があるとしか言いようがないからね
自分の都合で巻き込んだ民が乱取りされてるのを蔵に篭って見殺しにして家臣に腹切らせて自分だけ助かろうとしてる無責任野郎が英邁だの未完の大器だの言われて判官贔屓されてるんだから実態を知らないということはそら恐ろしい
- 580 :人間七七四年:2022/10/27(木) 16:36:01.78 ID:N8AliurZ.net
- 徳川って浪人を京都で暴れさせて敵対勢力のせいにするのが得意だしな
豊臣の時は勝ったから有耶無耶にできたけど幕末の方は負けて隠蔽できなったけどw
- 581 :人間七七四年:2022/10/27(木) 19:23:34.67 ID:CeKKFKYS.net
- 家康には運があったしどうしようもない
ボロボロでこれいじょう戦続いたら滅びるって時に大地震とか
それ以前には養女までくれて厚遇してくれた主君が戦死とか
従属先の大名が暗殺とか
信玄に攻められれば、その信玄は病死
運がありすぎてどうしようもない
- 582 :人間七七四年:2022/10/29(土) 09:07:02.58 ID:dhyJBErA.net
- そもそも家臣が団結出来なかったのは秀吉自身の分断競合統治が原因
要するに秀吉自身が自分の権力を最後まで守るために将来を犠牲にしたに過ぎない
家康を粛清しなかったのもその方が秀吉自身にとっては都合が良かったからだし
- 583 :人間七七四年:2022/10/30(日) 08:12:35.23 ID:358BqpFm.net
- それは徳川も一緒だけどな
徳川の為に貿易を制限かけたり、無駄に江戸まで来いとかやってみたり
難癖付けて潰したりと
所謂、徳川幕府による徳川幕府の為の徳川幕府による政治ってやつ
- 584 :人間七七四年:2022/10/30(日) 12:03:35.38 ID:kF8f402O.net
- 徳川は徳川という組織だが豊臣は秀吉の個人商店だったからな
だから秀吉の死と共に自然解体したに過ぎない
- 585 :人間七七四年:2022/10/31(月) 15:28:41.22 ID:jVvsd8zT.net
- 正確には違うよ
豊臣政権=豊臣氏という氏族の者が首班になって運営される政権
は、秀吉が潰した
秀次の切腹で運営首班が不在になった後、組織の再構築をせずにそのまま解体した
代わりに、秀吉自らが独裁で仕切った
豊臣政権解体後は秀吉個人の独裁であり、豊臣政権ではない
秀吉が潰す前には確かに「豊臣政権」が存在した
その「豊臣政権」は、秀吉の個人商店ではなかった
豊臣政権と秀吉独裁を混同した発言ぽいぞ >豊臣は秀吉の個人商店だったからな
- 586 :人間七七四年:2022/11/01(火) 00:05:58.78 ID:1JLrWBai.net
- 文革後の毛沢東政権みたいな物か
- 587 :人間七七四年:2023/01/07(土) 10:51:11.45 ID:OKBBPHQI.net
- 三成を選んでたらもっと早く潰されていたかもしれない
少なくとも当時の彼らにとってより敵だったのは三成の方だっただろうし
- 588 :人間七七四年:2023/01/28(土) 11:24:41.06 ID:iFRxzdv1.net
- 最大の豊臣恩顧大名は家康説。
関東八州の領土、内大臣の官位、実妹を自分の室に、義妹(妻の妹)を息子の室に。ここまで優遇された武将は鎌倉時代まで遡ってもなかなかない。
- 589 :人間七七四年:2023/01/28(土) 13:51:05.76 ID:Rg7reiou.net
- 家康は三成が仕掛けた謀反も関ケ原まで行って鎮圧したわけだし
優遇された以上に返したでしょ
- 590 :人間七七四年:2023/01/29(日) 13:19:07.67 ID:1XawmyHF.net
- そういう側面があるのは、その通りだと思うし、理屈も分かるけど、豊臣家から蔵入地150万石没収して自領を150万石プラスして、さらに息子たちに計100万石くらい与えてるしね…。しかも自分は将軍にまでなって「これで豊臣家への恩は返した」と言われても「いや、それお前自身のためだろ」って思われてもしょうがないよね。
- 591 :人間七七四年:2023/01/29(日) 13:33:42.36 ID:IS40gMae.net
- そもそも御恩と奉公は一代限り。しかも秀頼は家康に噛み付いた訳で無事に命を助けられただけでも感謝せんといかんかった。
- 592 :人間七七四年:2023/01/29(日) 14:04:34.73 ID:Fuu4IJyp.net
- >>590
謀反人三成を討伐してもらったお礼として豊臣家が家康に恩賞を差し出すのは当たり前だろ
150万石なら安いくらいで問題ない
家康の功績は例えるなら、ウクライナに居座るロシア軍を一日で壊滅させて追い払ったようなもの
ウクライナ人だって感謝して報酬を払うに決まっている
- 593 :人間七七四年:2023/01/29(日) 18:16:42.00 ID:1XawmyHF.net
- それは例えとしては下手すぎる。
ロシアはウクライナの内部でクーデターを起こした訳ではないからなあ。
- 594 :人間七七四年:2023/02/01(水) 01:09:09.61 ID:rQZbHTJn.net
- >590
秀頼の立場の微妙さから蔵入地を維持できる大義名分もないでしょ
- 595 :人間七七四年:2023/02/01(水) 02:49:20.71 ID:nt16NZgp.net
- >>590
そもそも朝鮮出兵の恩賞で豊臣家が吐き出さなけりゃならない分だと思えばむしろ少ないくらいだろう
- 596 :人間七七四年:2023/02/01(水) 02:51:26.00 ID:nt16NZgp.net
- >>594
蔵入地の解消は諸大名も望む物だから反対の起きるわけもないし
- 597 :人間七七四年:2023/02/22(水) 20:30:27.75 ID:3fcAbEN1.net
- 武田信玄が三方ヶ原の戦いのときに徳川家康を討ち取っておくべきだったよな。
徳川家康を殺せる最初で最後のチャンスだった。最強武田軍あと一歩だったのに。
- 598 :人間七七四年:2023/02/22(水) 23:24:38.54 ID:4OVp5rcW.net
- 徳川家康が上方に滞在してる時に暗殺するチャンスは十分あったのではないかと思うのだが、
どうだろうか?
この際きれいごとは抜きにして、忍びによる暗殺、鉄砲を用いた狙撃、会見場での刺殺、
毒殺、徳川家康が滞在している徳川屋敷へ密かに兵力を集め包囲する、といったことは
石田三成は考えたのかな? こういうことを大胆に継続的にやらないと豊臣家を守れないと思う。
- 599 :人間七七四年:2023/02/23(木) 00:16:25.77 ID:wVAPTrly.net
- 豊臣関白を殺した直後に豊臣筆頭大老を殺害を企てるということを
大胆に継続的にやろうとしたから豊臣家が滅んだ
- 600 :人間七七四年:2023/02/23(木) 07:24:41.00 ID:5E0uhYYT.net
- >>598
豊臣家を守っていたのは家康なんだけどな
- 601 :人間七七四年:2023/02/23(木) 09:30:37.05 ID:HNIITe3V.net
- >>600
守る気があるのなら秀頼に将軍就任を勧めるべきだろ
- 602 :人間七七四年:2023/02/23(木) 14:16:45.38 ID:wVAPTrly.net
- 豊臣家は将軍職に何も関係ないし、就任資格もないだろ
- 603 :人間七七四年:2023/02/23(木) 14:38:27.91 ID:zUTWn0pW.net
- 豊臣家は明らかに徳川家より高貴だし、下手すれば準皇室みたいな扱いでもよいと思う。
豊臣秀頼は関白兼征夷大将軍にふさわしいといえる。
- 604 :人間七七四年:2023/02/23(木) 18:24:45.92 ID:P9lsEshp.net
- なんで関白目指してる秀頼が将軍になる必要があるのか全く分からん
そもそも関白は摂関家が1601年に就任してしまってるから(家康の将軍就任より早い)
文句をつけるべきは徳川でなくて摂関家の方だろう
まあ関白って16歳未満で就任した前例がないらしいからどのみちしばらくは豊臣家は動けん
猶子に一時的にでも就任させる手もあるが、この時期だと最有力候補が結城秀康になるぞ
関ヶ原後の話だから天下は完全に徳川一強、秀家は没落済で秀秋は死亡寸前だもの
- 605 :人間七七四年:2023/02/23(木) 18:55:12.77 ID:JR3VgvpX.net
- あの信長に征夷大将軍、関白、太政大臣就任打診あったぐらいだから
それほど前例に雁字搦めだったわけではないよ
- 606 :人間七七四年:2023/02/24(金) 12:54:27.79 ID:DJNb06sI.net
- そりゃ源氏が許さんからな。公家源氏にとって将軍は源氏長者の利権が絡む。秀頼程度には渡さん。
- 607 :人間七七四年:2023/02/24(金) 13:33:38.77 ID:MA3SF+Gu.net
- え?
征夷大将軍は源氏しかなれないという林羅山の大嘘を信じてるの?
頭大丈夫ですか?
- 608 :人間七七四年:2023/02/24(金) 13:48:49.63 ID:twoEcLei.net
- 逆だぞ。源氏のみが征夷大将軍になれるって言ってるんじゃない。征夷大将軍になると源氏長者になれるから公家源氏は可能な限り征夷大将軍は拒否したいって話。だから秀吉すらも拒絶した。関白と藤氏長者の関係性と同じ。とどのつまり源氏だけが征夷大将軍になれるってのはこの事を言ってる。
- 609 :人間七七四年:2023/04/01(土) 07:43:08.03 ID:OlMoevQH.net
- >>601
あくまで一大名になるならな
- 610 :人間七七四年:2023/04/23(日) 22:22:18.16 ID:Hu4FuRTYs
- 家康は自分が秀吉の死後に権力を簒奪した経験を反面教師にして
徳川体制では外様の大大名を権力に近づけなかったね。
老中・若年寄は、すべて譜代大名か旗本から出してる。
秀吉も五大老なんてのを作ったのが間違いの元、
側近だけで政治運営すれば良かった。
- 611 :人間七七四年:2023/04/23(日) 22:28:12.55 ID:Hu4FuRTYs
- 小田原の北条を滅ぼした後なら、いつでも徳川やれたじゃんか。
信州と甲斐は、織田が制圧したものを後から徳川が拾った領土だから
放棄しろ、とか因縁つけてさ。
- 612 :人間七七四年:2024/02/25(日) 03:38:35.57 ID:/pqTKAr1.net
- 秀吉は「殿下」だからな
皇太子や皇族と同じ扱いだった
- 613 :人間七七四年:2024/02/25(日) 03:42:05.74 ID:/pqTKAr1.net
- 将軍家足利義昭は豊臣秀吉に降伏臣従して知行貰って家臣になってるのよ(御伽衆)
秀吉天下の時代は源氏の長者よりも豊臣氏の方が格上なんだから格下の源氏とかどうでもいいだろ
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