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武田信玄は過大評価されすぎ part4

1 :人間七七四年:2014/02/23(日) 15:12:34.36 ID:E/jMwCDP.net
武田信玄
戦国時代の戦国大名。日本史上、有数の暴君。
あと少しで信濃統一を果たすところまでいくが上杉に阻まれる
同盟や和睦をやぶるなど謀略を尽くしての領土を拡大し、奪った領土からの略奪により家臣や国内をまとめあげた。
しかし、国境を接する弱小豪族をすべて倒したあたりから領土拡大に急ブレーキがかかる。
このような相手国からの略奪によって家臣や国内の領民の不満を封じこむやり方は、領土拡大のペースが落ちると家臣や国内の不満を生むこととなった。
息子である勝頼は家臣や領民の不満を封じるため、無理な拡大路線を強いられることとなった。
また、信玄の度重なる外交に関する不義により武田家の他国への信用性はゼロに等しいこともあった。
その結果、勝頼は、他国との連携作戦もできずにやがて孤立していくこととなる。
結局、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することができなかった。
そして、武田家は一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
織田信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。

前スレ
武田信玄は過大評価されすぎ!!part3
http://www.logsoku.com/r/sengoku/1325991921/

878 :人間七七四年:2015/08/27(木) 15:02:13.49 ID:zDLLI/7Z.net
長い
以上

879 :人間七七四年:2015/08/27(木) 16:14:14.15 ID:k2MYaQIY.net
このキチガイ在日織田チョンのコピペ爆撃まじうぜぇ。
他人のレスを盗用改竄の上で武田厨のフリをして自演して気持ち悪いし。
鴨川達夫先生も小牧長久手での秀吉軍の被害は3000であり、
1万というのは家康側の誇張吹聴だと断じてますね。
2011年5月に鴨川氏が発表したあと、
誰も反論する人がいないよね。なんで、ほぼ決着したね。

そうだね。鴨川の発表に反論した学者は誰もいないよね。
そりゃ今までのは徳川幕府史観のただの家康贔屓だから反論できるわけがない。
キチガイ在日コピペ爆撃アンチ秀吉の織田チョンは
藤田達生編 小牧・長久手の戦いの構造
っていう2006年の大昔の糞本を持ち出して必死なだけのアホだから
相手すんな。白峰旬や谷口などと、さも分けて書いているが
すべてこの本に書いている古いもんばっかで
誰もいまさら見向きもしない。

鴨川氏は小牧を半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画だとしているね。
楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、捨て身で戦闘を挑んできても
要害堅固にして守る大網戦略。
しかし秀次が暴走して岩崎より先に進出してしまったのだろう。
それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。

鴨川氏は秀次の迅速な侵攻は見事で、まんまと家康を出し抜いて
岩崎城を落してしまってそれを知って焦った家康がなんとか巻き返しただけと書いていますね。
鴨川氏が指摘するように長久手は主戦場ではなく、一次史料などを見ても岩崎の戦いと書いていて
後世に長久手の戦いと呼んでいるのも徳川史観いよる捏造歪曲なのでしょうね。

織田在日アホすぎwお前こそ自分の都合よいものだけしか抽出してねーし、
しかも捏造歪曲しまくりじゃんw
鴨川は一次史料の原文書状を確認し一字一句レベルでキチンと読み込む達人だしw
鴨川は武田、毛利に続いて秀吉研究をしていたからな。 だから誰も反論できないのよ。
原文書状確認作業やれる人は限られてるからな。
むしろ小牧・長久手の戦いの構造って本の方がまったく
史料列挙してねーじゃん。ウソはいてんなよ。
幕府史観のままに疑念もなく家康勝利を前提にした結果ありきの
願望妄想を背景に戦を論じてる本だろうが。
そんな8年も前の当時の常識で語った本なんて読む価値すらないわ。

880 :人間七七四年:2015/08/27(木) 16:15:50.95 ID:k2MYaQIY.net
鴨川氏 戦いの模様を再現する時はやはり当事者の書状をおいて他にはありません。
後世の著作家による伝記や家譜、合戦記や軍記物語などは
当事者の書状とは同一視できませんし、してはいけない。
合戦記や軍記物語もそれなりに真面目に作られているのでしょうが、
今日の学術的な研究とは違います。

谷口氏 後世の著作物の性質については例えば、
戦国武将たちの死去の年月日や享年を確かめる作業についても
「何の裏づけもなく作られたいい加減なものばかりである」

堀氏 徳川史観に影響され続けていることにわれわれは注意しないといけない。
江戸幕府は林羅山に秀吉が足利義昭に養子入りを断られ仕方なく関白になったと
書かせていますが、実際の秀吉は多聞院日記によれば、
天正12年10/16条において秀吉は天皇に将軍任官を勧められたが断ったと書かれています。
史観によっていつのまにか源氏しか将軍になれないとする言説が流され信じられてきました。
また小牧長久手の戦いと徳川史観も密接でその虚構性がよく現れています。
小和田氏が指摘したように家康は実際「長久手の戦い」と呼ばれている局地戦で勝利したのみでした。
実際の戦場は小牧長久手よりも遥かに広範囲にわたっています。
美濃や伊勢なども含めて全体像をみると、実際は秀吉の勝利だったのです。
だからこそ跡部氏が指摘したように信雄も家康も秀吉に人質を提出して停戦したのです。
(秀吉の人質策 藤田達生編「小牧・長久手の戦いの構造)
そして家康が勝利したという「長久手の戦い」も実際には岩崎城を奪われた家康が、
何とか長久手で秀吉軍を捕らえて逆転勝利に持ち込んだに過ぎません。
この局地戦の焦点は岩崎城の攻防にあったのですから、本当は「岩崎城の戦い」と呼ぶべきでしょう。
しかしいったん岩崎城を奪われたことを隠蔽して家康の勝利を強調するため「長久手の戦い」と呼ばれるようになったと
鴨川論文で明らかになりました。

881 :人間七七四年:2015/08/27(木) 16:19:02.66 ID:k2MYaQIY.net
続く2014年6/10発表での鴨川氏は三河から尾張を分断すべく
小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画だとしているね。
楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。
それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。
しかし秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう。
森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)
鴨川氏は陸軍参謀本部の妄想戦記の思考を踏襲した岩澤愿彦氏が2000年に発表した
愛知県史研究「羽柴秀吉と小牧・長久手の戦い」という論文の定説化に対して下記のように論難してる。
【三河行きの部隊に誘き出された家康を楽田の本陣と一緒に挟撃するのが秀吉の策だと断じた件を批判し、
秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わないと言っており、
家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています】
小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。
これについても鴨川への批判はいまのところ皆無です。
はっきり言って原文の正確翻訳の達人鴨川への反論など不可能ですしね。

鴨川氏は秀次の迅速な侵攻は見事で、まんまと家康を出し抜いて
岩崎城を落してしまってそれを知って焦った家康がなんとか巻き返しただけと書いていますね。
鴨川氏が指摘するように長久手は主戦場ではなく、一次史料などを見ても岩崎の戦いと書いていて
後世に4/9に勃発した戦を長久手の戦いと呼んでいるのも徳川史観による捏造歪曲なのでしょうね。
一年に渡る小牧対陣をあたかも長久手での家康の勝ち戦だけをクローズアップさせて
天正12年戦役全体を家康の勝利にミスジャッジさせてきた徳川史観が鴨川によって論破された。

882 :人間七七四年:2015/08/27(木) 16:20:36.37 ID:k2MYaQIY.net
森は羽黒の戦いで敗北するや、鬼武蔵の異名を穢した汚名返上したいと秀吉の助力を嘆願するようになる。
秀吉は伊勢戦線と紀州一揆が気にかかり、東美濃戦線にはあまり興味が無かったため、
森は26日にむさしの名で自筆遺言書を書き、死を決意し、宛先には秀吉軍監だった尾藤になっており、
尾藤この由御申し候べく候と書き、自分の死後に遺された家族の身の振り方を指図してる。
つまり最初から死ぬつもりで無謀な進軍をするつもりで秀吉に嘆願していた。
ちょうどそのタイミングで家康が28日に小牧山を占拠したこともあり秀吉も対応し29日に楽田に集結。
この際、秀吉文書目録を作り上げて秀吉研究の第一人者になられた方である
三鬼氏は秀吉軍戦力を10万は誇張で実際は6万と指摘しており、
その中から別働隊に割ける兵力も少ないながら、死に急ぐ森らを危惧し三好秀次を支援に付ける温情を示した。
しかし秀次は素人丸出しで、徳川軍に背後を襲われ不意だったために混乱。
敗因を作ったのは秀次であり、 しかも元々、汚名返上のために死ぬ覚悟だった森らが、
(名古屋市博物館蔵で森の遺言状が存在してるように最初から死ぬつもりだった)
秀次を生きて帰すことが恥辱をそそぐことにつながると考えた結果、森らが生還を考えず勝手に討ち死に。
しかし秀次や長谷川や堀らは無事生還したので、 森や池田が討ち死にしたが、
その後も池田や森は秀吉の元で動いていることからも大した損害にもならなかった。
絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと苦心していた。
そのため甲斐にいる平岩らにさえ、池田、森、堀、長谷川、その他に大将分(秀次)
ことごとく一万討ち捕らえたと、 戦果を過大に言い触らし回っている。
無論、1万討ち捕らえた根拠として挙げられた秀次、堀、長谷川ら秀吉直轄人員は無事に生還しており、
自立勢力であった池田と娘婿森らだけが討ち死にしただけである。
天正12年4/11 秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)
孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候
などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を
池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
東京史料編纂所の所属だった染谷氏の訳は「兄弟からその失態によって縄で縛られることでしょう」と訳している。
この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白で、
池田家中を納得させるためには敗戦を呼び込んだ秀次に対するケジメが必要だった。

883 :人間七七四年:2015/08/27(木) 16:21:32.37 ID:k2MYaQIY.net
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
天正15年正月時点で、
本多重次は岡崎城代で、
酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
天正17年6/22時点ではまだ重次は岡崎城代を続けているのがわかる。

884 :人間七七四年:2015/08/27(木) 19:01:04.46 ID:zDLLI/7Z.net
長いあげいん
以上

885 :人間七七四年:2015/08/27(木) 20:46:19.41 ID:vgB7ktfiQ
あほや

886 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:48:05.32 ID:IRZTHX+t.net
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである


谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

887 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:48:24.73 ID:lj8fAG8p.net
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

888 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:49:48.90 ID:IRZTHX+t.net
>>小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
>>長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画

そんな事秀吉の書状のどこにも書いてないし秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。



あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる

889 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:50:07.39 ID:daq0iy3+.net
>>楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
>>要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。

そんな事秀吉はどこにも書いてないし、秀吉が持久戦戦法に変わり出すのは小牧長久手合戦より後の事だよ
しかしそれでも何回も三河遠州への大々的な出兵画を何回も書状で書いてる
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

890 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:50:22.91 ID:IRZTHX+t.net
>>柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言

それが書かれてるのは小早川隆景の5/2の書状だけど原文を読むと
三河衆勝利を得、其後は一円取り合わず、小牧山を要害に取り誘い持ち固められ
と書かれてて明らかに家康の事なんだがw

>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう

秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ

>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)

彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

891 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:50:42.88 ID:bFOIwU1x.net
>秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わない

それはおそらく5月9日の毛利宛書状とか6/4の佐竹宛書状の秀吉のハッタリ喧伝書状を曲解した解釈だと思うが
どちらも小牧長久手合戦前後で秀吉の戦略が少し変更された後だし、
原文を読むと小牧表10町15町陣を張り、野合之合戦を挑むと雖も、家康小牧山城中一切罷出候間、便々在之も不入儀と存じ
などと書いてて、家康が秀吉からの合戦の挑戦を受けないと書いてるだけだぞ。
しかもこれも秀吉のハッタリ誇大喧伝で、実際には秀吉からの挑戦受けて小牧長久手で秀吉を木端微塵にしたからね

>家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています

小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

892 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:50:58.98 ID:IRZTHX+t.net
>小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。

それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね
小幡城=家康方の拠点
小牧山=家康方拠点
だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は
小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように
という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ
鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。

169 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:16:41.87 ID:kZloFQJ/
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである


谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

893 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:51:18.06 ID:daq0iy3+.net
秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから


小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)


小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

元春は秀吉との関係が悪いどころか広家を人質に出したりして関係は良好だったからねえ
ドラマは無理矢理すぎて違和感だらけだった。

秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

894 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:51:33.31 ID:IRZTHX+t.net
◎小牧長久手合戦の戦死者は1万人以上

4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人

戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる

吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

895 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:51:54.21 ID:VPegq1VP.net
別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた

896 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:52:08.85 ID:IRZTHX+t.net
小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく
決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』
とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河
へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨
を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被
仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。
その後も秀吉の決戦構想は
は秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる

伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、
細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、
小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、
加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、
一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい

21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)
これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われる
し、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている

897 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:52:45.03 ID:IRZTHX+t.net
秀吉は元々家康を潰す気満々でいたが家康どころか雑魚の信雄に主力決戦で大敗したので、結局家康に土下座して関八州240万石・チート官位・秀吉縁戚の地位・五大老筆頭まで献上するハメになっただけ
秀吉は小牧長久手合戦後でも家康を潰す気満々で出兵計画立てまくってたが
天正14年初頭の出兵直前になるとビビリまくって家康に信雄を送って仲介したり母や妹を差し出したりして土下座してるからな

秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
\
秀吉は下記のように家康を滅ぼす気満々だった。
実際に領内の主力を総動員して決戦しかけてるので実行にも移してる

3月13日丹羽宛書状 「半月程度で決着つけてやる」
4月8日丹羽宛書状 「康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための進軍であり
また「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。
龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し
家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。
桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし
小早川秀包に同道してた渡邊清忠『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる
長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も
『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)
と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。
5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、
この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)
秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

898 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:53:16.29 ID:Q+GQ/mbV.net
秀吉は家滅ぼしまくりだぞ
家康や信雄も当初は滅ぼすき満々で書状に徳川を討ち滅ぼすとか何回も書いてるが
実力では全く歯が立たなかったので母や妹や関東250万石まで差し出して土下座講和した。


・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
・利休の愛弟子の山上宗二を耳と鼻を削がれた上で打ち首にする
・利休は秀吉に完全に心を閉ざすようになりツッケンドンな態度を示すようになり、利休を殺してる
・宇留津城で城主の加来与次郎は討ち死に降伏した男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することになり、周防灘が赤く染まる
・天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国・美作国・播磨国
の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)した

899 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:53:33.47 ID:IRZTHX+t.net
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

秀吉が一万人殺されたのは徳川方史料はもちろんの事秀吉の同盟者の毛利の部下の書状とか
秀吉の家臣の細川側近の松井の書状にしっかり書いてあるんだが…

別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな

秀吉はできるとなれば光秀、柴田、信雄や宇都宮や南奥州の大名や東北の諸侯を改易しまくったり殺しまくってるし
信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させてる
何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込んだあげく信雄と和睦した後特に理由もなく失脚させてるし
佐々成政にいちゃもんつけて改易したり
関東攻めでも中国計略や朝鮮出兵でも降伏する人々を殺しまくってる

秀吉は結局実力では家康はおろか信雄にすら敵わなかったからな
だからその結果家康に母妹関東250万石と官位と大老職まで土下座して差し出す事になり、結果家を滅ぼされただけだし
実力がない者が家を滅ぼされるという当たり前の事が起きただけだよ

900 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:53:53.64 ID:Se2CmqGF.net
秀吉はできるとなれば光秀、柴田、信雄や宇都宮や南奥州の大名や東北の諸侯を改易しまくったり殺しまくってるし
信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させてる
何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込んだあげく信雄と和睦した後特に理由もなく失脚させてるし
佐々成政にいちゃもんつけて改易したり
関東攻めでも中国計略や朝鮮出兵でも降伏する人々を殺しまくってる

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに

6 名前: 名無しさん@chs :2014/12/02(火) 11:16:15 ID:9c5dfae37
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

901 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:54:20.30 ID:IRZTHX+t.net
秀吉は元々家康を潰す気満々で135000の兵力(3/22渡辺清忠→元行書状や4/8秀吉→長秀書状
6/2小早川秀包→藤四朗書状享禄以来年代記)を率いて短期決戦志向で戦を望んだ
(3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」3月22日渡辺清忠書状3日桂書状佐竹義重宛書状)
が信雄相手に1万人を戦死させられる大敗を喫し全く歯が立たなかったので
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して 和睦が成立しただけだよ。
そんな状況なんだから滅ぼせるわけがない

そもそも豊臣家自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。

ありえないような事実と言われても秀吉が雑魚の信雄に10000人殺されたのは4/13北条氏政・氏直書状
5/2小早川隆景書状イエズス会年報 フロイス日本史当代記 に書かれてるし
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだか

902 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:54:38.05 ID:a9j1v9VC.net
小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

天正14年初頭までは出兵計画を散々部下や諸大名に具体的に話しておきながら
天正14年初頭には信雄を仲介に送って交戦さけてるんだからビビりまくってるからに決まってるじゃん
秀吉は11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
と書いていて、戦争する気満々だったんだよ。
木曽・小笠原・真田・石川・水野が寝返っていて家康なんて100万石弱程度だから
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 、信雄対策には顕如に土下座して仲介してもらって
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

903 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:54:53.85 ID:IRZTHX+t.net
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである


谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

904 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:56:30.89 ID:IRZTHX+t.net
>>柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言

それが書かれてるのは小早川隆景の5/2の書状だけど原文を読むと
三河衆勝利を得、其後は一円取り合わず、小牧山を要害に取り誘い持ち固められ
と書かれてて明らかに家康の事なんだがw

>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう

秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ

>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)

彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

905 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:56:55.72 ID:wllPoPW4.net
>>小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
>>長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画

そんな事秀吉の書状のどこにも書いてないし秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。



あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる

906 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:58:32.66 ID:wllPoPW4.net
>>そもそも最初に徳川側が1万人以上討ち取ったとした書状には
>>総大将の秀次や堀秀政らそうそうたるメンバーをすべて討ち取ってることになっている。

敵の首が一万以上あっただけ。それで家康が、堀や長谷川や秀次の影武者の首を本人の物と錯誤して彼らが戦死したと報告しただけ。
敗戦直後の4/9には堀長谷川秀次が戦死したと家康が錯誤してたため、誤った戦果が平岩らに伝わってるが
その後には4/21家康→皆川や5/3信雄→香宗我部5/7織田信純→香芸でも堀長谷川秀次らが戦死したというのは書かれておらず
4/9や4/10時点での堀長谷川秀次戦死というのは、誇大喧伝目的ではなく、戦闘直後で首実験が十分にされていない事による
家康や信雄の錯誤による物とわかるし、それが修正された後でも壱万人とか壱万五千人という数字はちゃんと変わらず書かれており
(むしろ信雄書状などでは8000→15000などと首実験の結果数がちゃんと正確に把握され、戦闘直後には計上されていなかった首まで計上されてより正確な数になってる)
1万人戦死の根拠は秀次堀長谷川の戦死ではなく、むしろ壱万人討ち取ったからこそ、秀次堀長谷川も死んだと推測して書状に書いていたから、1万人かそれ以上戦死というのは
正確な数字か実際より少ない数なのがわかる。

吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい。
其の証拠に秀吉は規格外の兵力差と、会戦当初から寝返り続出で崩壊状態の雑魚信雄相手に手も足もでなくなって
ビビリまくって楽田からヘタレ敗走して家康らが絶対でてこれない木曽川を超えた先にあるデルタ地帯の小城数城をマンマと火事場泥棒するのがやっとだったし

907 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:59:22.76 ID:wllPoPW4.net
>>それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。

大嘘

秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

秀吉は下記のように家康を滅ぼす気満々だった。
実際に領内の主力を総動員して決戦しかけてるので実行にも移してる

3月13日丹羽宛書状 「半月程度で決着つけてやる」
4月8日丹羽宛書状 「康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための進軍であり
また「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。
龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し
家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。
桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし
小早川秀包に同道してた渡邊清忠『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる
長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も
『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)
と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。
5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、
この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)
秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

908 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:59:42.46 ID:IRZTHX+t.net
3/13秀吉の丹羽長秀宛書状

此表十四五日之内ニハ、世上之物狂も酒酔の醒たることく二、筑前以覚悟しつめ可申候間、

4/8秀吉→丹羽書状
去6日に池勝入・森武・孫七郎・左衛門督人数二万四五千にて至小幡表差遣、小幡城二ノ丸迄攻入首百余討取、則龍泉寺山を根城二拵、柏井・大草
何も取積丈夫之普請申付候、今名中に首尾候間、然者小幡・森山其他不残令放火、至参州表令手遣可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼国へ差遣候事
家康さへ討果候へは彼等儀者不入儀候間、助首城を可請取由申遣候間、彼表人数二万余も五三日中に可令着陣候、併泉州表為番勢備前衆一万計相越候条、
岸和田・大阪に達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令着陣候事
家康を取巻、即時可討果候間、少しも御気遣有間敷候事

5/9秀吉→毛利輝元書状

必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす

長岡越中宛5月11日書状 

小牧表人数討入刻、家康於相慕者、遂一戦可討果処

『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)

3月22日渡辺清忠書状

家康尾州境陣取候之条、可被討果之由候て、筑州御人数十万余にて至濃州御陣替候、一両日中二家康城清0州申へ
被成御取寄候、天下之御弓御一大事之儀候間

3/23桂広繁→棚守書状

徳川事三介殿後見被仕候付而、可被討果之由候て尾州表へ陣替候
佐竹義重宛書状
清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たす
29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」

4/10 秀吉→亀井書状
家康小牧山二居陣候間、拾四五町二押詰陣取候、急度可討果候間可心易候

3/24秀吉→生駒書状

此表儀越川清州可押詰ため今日岐阜へ相移候

3/29秀吉→木曽書状

家康小牧山上居陣、其節為先手森武岩渓山・窪、稲葉伊予青塚、其外諸勢十町・十五町に陣持せ申候、我等儀ハ
楽田城着申事候、大略今明内に可為敗軍候哉、於相踏者悉可討果事案内候

4/1 秀吉→羽柴秀勝書状

敵小牧山取上候条、十五町計に責詰、荒手を上堀構を申付候間、急度可討果候、可御心安候

4/8秀吉→毛利輝元

我等者楽田と申所に致居陣候、小牧山十四五町におし寄、
不罷退様に陣取候条、急度可討果事案之内候事

5/9秀吉→毛利輝元
加賀野井城二屈強之者相籠候間、彼等を於取巻者、
必家康後巻可仕儀にて候間、此口へ引出及一戦可討果と存

909 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:00:16.98 ID:KFQwrHnG.net
>>小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
>>長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画

そんな事秀吉の書状のどこにも書いてないし秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。



あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる

910 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:00:32.36 ID:IRZTHX+t.net
>>柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言

それが書かれてるのは小早川隆景の5/2の書状だけど原文を読むと
三河衆勝利を得、其後は一円取り合わず、小牧山を要害に取り誘い持ち固められ
と書かれてて明らかに家康の事なんだがw

>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう

秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ

>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)

彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

911 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:00:56.84 ID:KFQwrHnG.net
>>楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
>>要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。

そんな事秀吉はどこにも書いてないし、秀吉が持久戦戦法に変わり出すのは小牧長久手合戦より後の事だよ
しかしそれでも何回も三河遠州への大々的な出兵画を何回も書状で書いてる
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

912 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:01:13.65 ID:IRZTHX+t.net
小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

天正14年初頭までは出兵計画を散々部下や諸大名に具体的に話しておきながら
天正14年初頭には信雄を仲介に送って交戦さけてるんだからビビりまくってるからに決まってるじゃん
秀吉は11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
と書いていて、戦争する気満々だったんだよ。
木曽・小笠原・真田・石川・水野が寝返っていて家康なんて100万石弱程度だから
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 、信雄対策には顕如に土下座して仲介してもらって
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

913 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:01:35.01 ID:VPegq1VP.net
秀吉は元々家康を潰す気満々で135000の兵力(3/22渡辺清忠→元行書状や4/8秀吉→長秀書状
6/2小早川秀包→藤四朗書状享禄以来年代記)を率いて短期決戦志向で戦を望んだ
(3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」3月22日渡辺清忠書状3日桂書状佐竹義重宛書状)
が信雄相手に1万人を戦死させられる大敗を喫し全く歯が立たなかったので
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して 和睦が成立しただけだよ。
そんな状況なんだから滅ぼせるわけがない

そもそも豊臣家自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。

ありえないような事実と言われても秀吉が雑魚の信雄に10000人殺されたのは4/13北条氏政・氏直書状
5/2小早川隆景書状イエズス会年報 フロイス日本史当代記 に書かれてるし
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

914 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:02:04.19 ID:VPegq1VP.net
>小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。

それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね
小幡城=家康方の拠点
小牧山=家康方拠点
だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は
小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように
という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ
鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。

169 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:16:41.87 ID:kZloFQJ/
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである


谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

915 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:02:21.57 ID:IRZTHX+t.net
>秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わない

それはおそらく5月9日の毛利宛書状とか6/4の佐竹宛書状の秀吉のハッタリ喧伝書状を曲解した解釈だと思うが
どちらも小牧長久手合戦前後で秀吉の戦略が少し変更された後だし、
原文を読むと小牧表10町15町陣を張り、野合之合戦を挑むと雖も、家康小牧山城中一切罷出候間、便々在之も不入儀と存じ
などと書いてて、家康が秀吉からの合戦の挑戦を受けないと書いてるだけだぞ。
しかもこれも秀吉のハッタリ誇大喧伝で、実際には秀吉からの挑戦受けて小牧長久手で秀吉を木端微塵にしたからね

>家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています

小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

916 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:02:40.66 ID:sUlPj+d/.net
>>楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
>>要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。

そんな事秀吉はどこにも書いてないし、秀吉が持久戦戦法に変わり出すのは小牧長久手合戦より後の事だよ
しかしそれでも何回も三河遠州への大々的な出兵画を何回も書状で書いてる
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

917 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:04:56.70 ID:sUlPj+d/.net
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然

なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。

実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん

秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す

918 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:06:11.28 ID:sUlPj+d/.net
別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた

919 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:06:26.11 ID:IRZTHX+t.net
小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく
決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』
とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河
へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨
を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被
仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。
その後も秀吉の決戦構想は
は秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる

伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、
細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、
小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、
加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、
一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい

21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)
これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われる
し、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている

920 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:06:44.08 ID:X81WA+4+.net
秀吉は元々家康を潰す気満々でいたが家康どころか雑魚の信雄に主力決戦で大敗したので、結局家康に土下座して関八州240万石・チート官位・秀吉縁戚の地位・五大老筆頭まで献上するハメになっただけ
秀吉は小牧長久手合戦後でも家康を潰す気満々で出兵計画立てまくってたが
天正14年初頭の出兵直前になるとビビリまくって家康に信雄を送って仲介したり母や妹を差し出したりして土下座してるからな

秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
\
秀吉は下記のように家康を滅ぼす気満々だった。
実際に領内の主力を総動員して決戦しかけてるので実行にも移してる

3月13日丹羽宛書状 「半月程度で決着つけてやる」
4月8日丹羽宛書状 「康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための進軍であり
また「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。
龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し
家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。
桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし
小早川秀包に同道してた渡邊清忠『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる
長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も
『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)
と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。
5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、
この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)
秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

921 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:07:02.91 ID:IRZTHX+t.net
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

秀吉が一万人殺されたのは徳川方史料はもちろんの事秀吉の同盟者の毛利の部下の書状とか
秀吉の家臣の細川側近の松井の書状にしっかり書いてあるんだが…

別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな

秀吉はできるとなれば光秀、柴田、信雄や宇都宮や南奥州の大名や東北の諸侯を改易しまくったり殺しまくってるし
信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させてる
何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込んだあげく信雄と和睦した後特に理由もなく失脚させてるし
佐々成政にいちゃもんつけて改易したり
関東攻めでも中国計略や朝鮮出兵でも降伏する人々を殺しまくってる

秀吉は結局実力では家康はおろか信雄にすら敵わなかったからな
だからその結果家康に母妹関東250万石と官位と大老職まで土下座して差し出す事になり、結果家を滅ぼされただけだし
実力がない者が家を滅ぼされるという当たり前の事が起きただけだ

922 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:07:24.50 ID:tnZGcqua.net
秀吉は元々家康を潰す気満々で135000の兵力(3/22渡辺清忠→元行書状や4/8秀吉→長秀書状
6/2小早川秀包→藤四朗書状享禄以来年代記)を率いて短期決戦志向で戦を望んだ
(3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」3月22日渡辺清忠書状3日桂書状佐竹義重宛書状)
が信雄相手に1万人を戦死させられる大敗を喫し全く歯が立たなかったので
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して 和睦が成立しただけだよ。
そんな状況なんだから滅ぼせるわけがない

そもそも豊臣家自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。

ありえないような事実と言われても秀吉が雑魚の信雄に10000人殺されたのは4/13北条氏政・氏直書状
5/2小早川隆景書状イエズス会年報 フロイス日本史当代記 に書かれてるし
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

923 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:07:41.73 ID:IRZTHX+t.net
>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう

秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ

>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)

彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

924 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:07:59.58 ID:NBeu8IBE.net
>小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。

それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね
小幡城=家康方の拠点
小牧山=家康方拠点
だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は
小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように
という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ
鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。

258 :人間七七四年:2014/12/01(月) 14:10:22.94 ID:mxc/WJMy
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし?長久手町史102号103号?
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである


谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」?長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。?


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

925 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:08:18.62 ID:IRZTHX+t.net
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし?長久手町史102号103号?
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである


谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」?長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。?


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

926 :人間七七四年:2015/08/27(木) 23:08:37.43 ID:DRL20OXh.net
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

927 :人間七七四年:2016/10/20(木) 12:34:04.57 ID:RgLGogd5s
武田信玄の過大評価はまず家康5男が穴山家を相続したのが始まりで、その後は信玄次女が保科正之母子を匿い、家光が死んだ時は家綱が元服してなかった為正之が代理役を務めるようになったこと。
さらには綱吉が将軍になったので柳沢吉保が実権を握るようになったため権威づけのために利用されるようになったこと。
そして新井白石の親父の主君土屋直樹も武田家ゆかりの人物であったことから、江戸幕府文治政治の流れの原点を担ったといってもいい存在だったからだ。

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