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信長包囲網はなぜ失敗したの?

679 :人間七七四年:2017/11/01(水) 01:05:30.35 ID:O6GhqbEq.net
>>676
>>659に関しましては、>>661でこちら側も述べさせていただいているわけなのでございますけれどねえ。
>現実は織田は出兵する余裕あったし、
これに関しまして、なのでございますけれど、本当に織田側に余裕が存在したのでしょうかねえ?
と思う次第なのでございますけれどねえ。
信長の細川宛の三月初頭の書状におきましては「謙信が武田領土に侵攻してくれれば、
武田勢のこちら側に対する圧力が減少するので、その間に上洛して存分にしたい。」的な事を述べておりますし、
信玄の書状や軍鑑の記述では、この三月初頭ごろには、信長が東美濃まで大物見に軍勢を率いて来ていた事が伺えるわけですし、
結局、信長は武田勢の動向を警戒して、京都に向けて出兵したのは3月25日、
そして、出兵したら出兵したで、「和睦の条件は義昭様のお望みでいいですから、和睦しましょう!」と
義昭に申し込み、それを義昭に拒否されたら上京を焼き打ちし、それでも義昭が承諾しなかったら、
朝廷に要請して勅命講和の形にまでし、和睦が締結されたら義昭に対して「和睦してくれてありがとうございました!」と
使者を送って御礼を行い、その後はそのまま美濃に戻り、4月11日には岐阜に到着、という流れで、
その間わずかに2週間余り、という感じなわけで、かなり信長は急いでいる事が伺えると思われる次第でございますしねえ。
(途中で百済寺を焼き打ちしてる、と言う人もおられるかもしれませんが、
これでさえ、4月11日に焼き打ちし、その日のうちに岐阜に到着している事から、
かなり急いでいる感じが伺えるわけですしねえ。)
これらから考慮しまするに、信玄率いる武田西上軍の圧力を込みにした状態で、
それへの警戒や対応をしながらの、包囲網勢への対処・対応は、
まさしく当時の織田家にとっては「方々手ふさがりの由」というのにふさわしい状況であったように思われる次第なのではございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

義信事件に関しましては、うがちすぎの様にこちら側には思われてしまう感じではございますし、
義信が死亡した後も普通に武田は同盟継続を求めているわけですしねえ。

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