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戦国ちょっといい話42

1 :人間七七四年:2015/05/10(日) 22:22:40.48 ID:eYQSqNlb.net
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話41
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1412513898/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話41 [転載禁止](c)2ch.net
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1418311460/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

2 :人間七七四年:2015/05/10(日) 22:44:41.16 ID:UYDuZruA.net
        ∬ ∬    ∬ ∬    ∬ ∬  +
   +     人      人      人     +
         (__)    (__)    (__)
  +    (__)   (__)   (__)     +
.   +   ( __ )  ( __ )  ( __ )  +
<丶`∀´> <丶`∀´> <`∀´>
 +  (( (つ   ノ (つ  丿 (つ  つ ))  +
       ヽ  ( ノ  ( ヽノ   ) ) )
       (_)し'  し(_)  (_)_)

3 :人間七七四年:2015/05/11(月) 10:50:15.45 ID:eRrALTHT.net
この板でも途中で落ちるんだな

4 :人間七七四年:2015/05/11(月) 18:31:18.92 ID:9yEUVtvr.net
永禄6年(1563年)正月11日、松永久秀は居城の多聞山城に新しく作った茶室で
その開庵の茶事を行った。
招かれた客人は成(西)福院の住職・真名瀬道三・若狭屋宗可・松屋久政・竹内下総守秀勝の5名。
このうち松屋久政は当時の茶会の様子を記録に残している。
九十九茄子の茶入、平蜘蛛の釜を使用した茶会は濃茶→薄茶→会席料理と進行し
会席料理の品揃えは以下のようなものであった。

「本膳 煮昆布 汁チサ 揉み瓜 牛蒡 飯 塩 山椒 箸の台に白い箸
 二之膳 蓮 独活 芹焼 汁、各々土器に 干瓢・漬け物 アツメ五黄 上に結び昆布
 ツクツクシ
 三之膳 絵を書きて金の桶 宇治梅漬けて 亀足に刺して蒟蒻 金箔にて飾り 煎麩
 菓子は七種 結び昆布に作り花二種刺して青芽 美濃柿 慈姑 銀杏 焼栗 亀足刺して胡桃 楊梅」
(松屋会記)

(補足)
チサ=チシャ、レタスの仲間
芹焼=芹の炒め煮
土器(かわらけ)=使い捨ての素焼きの器、当時最も清浄な器とされた
アツメ五黄=投稿者の知識では不明 「棗(ナツメ)・牛黄(漢方薬の一種)」の意?
ツクツクシ=土筆
亀足(きそく)=串焼き等の串の持ち手部分に紙を巻き、捻って留めたもの

5 :人間七七四年:2015/05/11(月) 18:56:40.07 ID:UWP2O2tL.net
で、何がいい話?
保守のために、とりあえず投稿しているの?

6 :人間七七四年:2015/05/11(月) 19:23:16.44 ID:C/newK1P.net
こっちか

『今川家の赤薬』と言えば、世の中では急病に用いた場合効能の在る薬だと言われている。
この薬はそもそも、足利将軍光源院(足利義輝)の馬が患った時、乞食斎の僧が三条河原で
この馬を見て「たやすく治せる病なのに」と言っているのを、義輝が聞いて治療を望んだ所、
乞食が薬を用いると、たちまち患いは癒えた。

この時、義輝は一宮随巴という弓の師に言って、その薬法を学ばせ書き留めさせた。
そののち義輝が。永禄の変で斃れると、一宮随巴は駿河に下った。
駿河において、今川氏真は薬法などを面白がる人であったので、一宮は氏真にこれを教え、
そうして今川家の薬として世に広まったのである。

(明良洪範)

7 :人間七七四年:2015/05/12(火) 06:26:14.78 ID:VtUQjXB1.net
なぜ専門の医者ではなく、弓の師範の武士に学ばせたのか謎だ

8 :人間七七四年:2015/05/12(火) 06:53:31.95 ID:5z1PL6WJ.net
すでに出家してるかもしれんじゃろ

9 :人間七七四年:2015/05/12(火) 15:32:03.05 ID:8QhSMnKN.net
天下五剣 【大典太】他国宝15点 一般公開

北陸新幹線開業記念特別展「加賀前田家百万石の名宝−尊経閣文庫(そんけいかくぶんこ)の名品を中心に−」は24日、
金沢市の石川県立美術館で始まった。国宝の日本刀や古写本をはじめとする前田家伝来の秘宝が空前の規模で一挙公開され、
壮麗な加賀藩の文化遺産に来場者が目を見張った。
公益財団法人前田育徳会(東京)が管理する前田家の史料コレクション「尊経閣文庫」の収蔵品を中心に、国宝15点、
重要文化財(重文)35点を含む約120点が展示された。

http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/event/7event.html

国宝「太刀(たち) 銘光世作(めいみつよさく)」は、前田利家の四女豪姫(ごうひめ)が病気になった際に豊臣秀吉が利家に貸し与え、
枕元に置くと病が治ったという逸話がある。漆地に金箔を押した絢爛(けんらん)な具足(ぐそく)(重文)や、
お松の方の手製と伝わる「刺繍菊鍾馗図陣羽織(ししゅうきくしょうきずじんばおり)」(同)など、利家所用の品々も注目を集めた。

国宝となっている万葉集や土佐日記の古写本など、貴重な書籍、典籍類も数多く並んだ。
金具類などの実物資料やデザイン見本帳などを集めた「百工比(ひゃっこうひ)照(しょう)」も展示され
「工芸王国・石川」の礎となった加賀藩の文化政策をしのばせた。

展示は6月7日まで。期間中、一部は展示替えを行う。入場料は一般千円、大学生600円、高校生以下300円となっている。

10 :人間七七四年:2015/05/12(火) 20:07:12.74 ID:NZTF7fg3.net
利家がセコく秀吉から掠め取った名刀か(偏見

11 :人間七七四年:2015/05/12(火) 20:08:02.19 ID:K8EBCMLY.net
借りパクなんですかね?

12 :人間七七四年:2015/05/12(火) 20:31:29.79 ID:iS2UwS+t.net
慶長年中のこと。
尾州名古屋の城を建設の時、加賀の前田、池田、福島と言った諸侯はそれぞれ力を尽くしていた。
そんな中、天守を建てるための土木の事始めの日に至り、地鎮祭を行う旨を奉行の面々が沙汰したが、
徳川家康はこれを着くと、こう申し下した

「天守こそは、その城の鎮めであるというのに、それにまた、何の祈祷をするというのか?
そもそも城の盛衰というものは、城主たるものの武備、政治によるのだ。どうして地祭りを頼むべきか。」

これにより、地鎮祭は中止に成ったと、これはその当時を知る古老が語ったことである。

(明良洪範)

13 :人間七七四年:2015/05/13(水) 06:46:17.53 ID:jMiHk/Ke.net
東郷重位が、悪久に斬りかかられたのを扇子でかわした、という逸話ってもう出てたっけ?

14 :人間七七四年:2015/05/14(木) 22:58:36.16 ID:F/gHNE03.net
葵徳川三代見て、ふと思い出したから書かせてほしい。
ドラマ中じゃ、何かとコミカル的役割で描かれた常高院ことお初さんだけど、
大河やら戦国ゲーム等で浅井三姉妹の知名度が上がるずっと前に
知ってるつもり!?で彼女らを特集した時(常高院視点で描かれてた)に、
大坂の陣後の晩年、常高院が大坂の陣について秀忠に言ったという
「半ば恨み半ば喜ぶ」って言葉が印象に残った。
つまりこの戦で姉や甥などの肉親を死に追いやった事は万死に値するが、
太平の世が来た事でこのような戦で肉親が引き裂かれるような悲しい事はもうないって意味。
姉と妹の板挟みになって落城を四度も経験した姉妹随一の苦労人ならではの言葉だよなと思った。

15 :人間七七四年:2015/05/15(金) 01:45:56.17 ID:BTdMBp9q.net
家康公の危機を救った満光寺とニワトリ


元亀年間家康が若い頃、甲斐の武田信玄に敗れ、山の吉田まで落ち延びて来た。
夕方のことで疲れも激しく途方に暮れていたところちょうど満光寺という寺が目に止まった。

そこで住職に一夜の宿を頼んだ。住職は家康たちを一旦見て戦乱の常とは
いいながら大変気の毒に思い、心良く泊めることにした。

家康はたいへん喜んで住職にお礼を述べ更に

「ご住職誠に相済まぬが、私どもに故あって明朝早立したいと思う。
 よって一番鶏が鳴いたら必ず起こして戴きたい。」

と頼んで寝についた。そして真夜中になった頃であった。
不思議なことにその夜に限って、寺の鶏が真夜中に刻を告げた。

16 :人間七七四年:2015/05/15(金) 01:46:54.12 ID:BTdMBp9q.net
住職は随分早く鳴いたものだ、と思いながらも約束のことを思い、早速家康たちを起した。
家康たちは厚く住職にお礼を行って大急ぎで闇の中を出発した。

ところが家康たちが去って間もなく、武田の一隊が家康討伐のために寺を包囲したが、
家康一行は一瞬の差で危機を脱することができたと伝えられている。

後天下を統一した家康は、満光寺の鶏によって危うく命を救われたことを思い
寺領三石を与えて恩に報いたという。

その後、慶安二年(一六四九)三代将軍家光から寺領二十石が与えられた。
「山の吉田の満光寺さまの、とりになりたやにはとりに」
と今でも民謡として唄いつがれている。


以上、昨日ドライブで立ち寄った青龍山満光寺の立て札から書き起こしました。

17 :人間七七四年:2015/05/15(金) 10:53:07.75 ID:cxuy6oUb.net
寺領三石だの寺領二十石だのせこくね?

18 :人間七七四年:2015/05/15(金) 18:05:21.32 ID:H3nuxdTt.net
それなりの大名の菩提寺だと、数百石が相場だっけ?
増上寺はさすがに二万五石ほど貰っていたらしいが

19 :人間七七四年:2015/05/15(金) 18:25:46.52 ID:OFOyQM8N.net
>>7
なら氏真は医者かよ
この武士も薬法などを面白がる人であったのだろうな

20 :人間七七四年:2015/05/15(金) 19:32:38.25 ID:s4zE5pkM.net
羽犬塚

筑後にはかつて、「羽犬」と呼ばれる。羽の生えた獰猛な犬が居た。
羽犬は旅人を襲ったり家畜を食い殺すなど、住民から恐れられていた。

天正15年(1587)、豊臣秀吉の軍勢が島津征伐のためこの地を通った時、この羽犬に行く手を阻まれた。
これに秀吉は、大軍を繰り出し戦い、やっとの思いでこれを退治した。

秀吉は羽犬の賢さと強さに感心し、この犬のために塚を作り、丁重に葬った。

筑後市には今も、この伝説に基づく「羽犬塚」の地名が残る。

(筑後市の伝説)

秀吉の九州遠征軍、謎のモンスターと戦っていたらしいというお話。

21 :人間七七四年:2015/05/15(金) 19:37:07.11 ID:03diKZl+.net
九州ならそれくらい居てもおかしくない

22 :人間七七四年:2015/05/15(金) 19:59:58.15 ID:3qS2i5/P.net
犬猿の仲・・・?

23 :人間七七四年:2015/05/15(金) 20:10:18.87 ID:s4zE5pkM.net
ちなみに筑後市にはこの羽犬の像があちこちにあるそうで
http://shinshizo.com/wp-content/uploads/2013/02/%E7%BE%BD%E7%8A%AC%E5%83%8F1.jpg
http://shinshizo.com/wp-content/uploads/2013/02/%E7%BE%BD%E7%8A%AC%E5%83%8F2.jpg
http://shinshizo.com/wp-content/uploads/2013/02/%E7%BE%BD%E7%8A%AC%E5%83%8F3.jpg

24 :人間七七四年:2015/05/15(金) 20:37:35.07 ID:8wddwc6e.net
>>23
悪魔マルコシアス…?

25 :人間七七四年:2015/05/15(金) 21:25:52.80 ID:hq8BC2Bh.net
翼の生えた猫なら知ってる http://karapaia.livedoor.biz/archives/51236452.html

26 :人間七七四年:2015/05/15(金) 22:16:31.61 ID:kpTcVJOQ.net
大軍を繰り出しって、どんだけ強かったんだよw

>>23
この像って、由来を知らなかったら意味不明だろうなw

27 :人間七七四年:2015/05/15(金) 23:41:40.47 ID:S1/8elDP.net
>>15-16
また家康公負けたのか
いつも武田軍から逃げてんじゃねえか

28 :人間七七四年:2015/05/16(土) 00:24:39.11 ID:S/RpVYMB.net
松江城天守、国宝に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150515-00000116-jij-soci

29 :人間七七四年:2015/05/16(土) 08:05:24.71 ID:+eeeJb8u.net
>>27
何度負けても、武田軍からは逃げ延びた権現様の生存能力の素晴らしさ
なお、茶屋のお婆さんからは逃げられなかった模様
この場合、武田騎馬武者がお婆さんより鈍かったのか
お婆さんが凄すぎたのか・・・?w

30 :人間七七四年:2015/05/16(土) 08:23:12.40 ID:aONeWj6R.net
>>28
まだ国宝じゃなかったんだね。馬鹿でかい縄張りに黒い天守。かっこいいよなあ。良いものつくるわ、堀尾さんは。

31 :人間七七四年:2015/05/17(日) 19:52:46.25 ID:5mtJsH7g.net
近世では、僧俗ともに床の間と呼ぶ書院座敷には、必ず書画などの掛け物を掛けるが、これは古には、
押板といって禅室に始まった。
京鎌倉において、臨済宗を崇敬している人々が、和尚に頼み本則を書いてもらうことを乞い、和尚は
一千七百則の要文を二三五字で書いて出した。これを押板に貼り付けて壁に掛けたのを、掛け字と呼び、
その字の心より悟入の工夫をしたのである。

禅室に入るには、睡眠を第一に戒められたため、眠気をもたらさないため芳名香茶を飲んで参禅したため、
自然と茶の一道が起こった。その後、征夷大将軍であった足利尊氏が禅学を尊んだため、
茶のことも徐々に盛んとなり、佐々木道誉、高師泰などが茶に耽って、掛け字も異国に求めた。
虚道の墨跡はこの時から世の中で賞翫され、天下第一の墨跡と成った。
後醍醐帝も茶を翫び、吉野山にて茶器を作らせられたのが、金輪寺の茶入れである。
虚堂を掛ける時に、必ず金輪寺の茶入れを置くようにするのは、一伝のあることなのだとか。

また、床の間に絵を掛ける習慣は、将軍足利義政より始まったことである、
当時は皆、唐宋の名画を用いた。馬遠玉子昴舜挙東坡などの類である。
日本の書画を初めて用いたのは、三好左京大夫(義継)が将軍義輝の御成の時に、新たに
狩野元信に書かせたものだという。
その後、阿倍仲麻呂の、小倉百人一首にある天の原の歌を色紙にしたものを掛けたところ、
人々大いに賞賛した。これが本朝の墨跡を用いるものの始まりだという。
これ以後、好事家の人々は藤原定家の小倉百人一首の色紙を、千金に変えて賞翫するようになった。

松永久秀は八重むぐらの色紙を所持し、これを「茂るの宿」と号し秘蔵していた。
これを所望する人々は多かったが、誰にも与えなかった。
ところが、千利休の茶道に掛ける志を久秀が感じて、彼に与えた。
これは利休の秘蔵第一の品とされていた。

その頃、大徳寺高月和尚の老父で、宗及という人が居て、この色紙をかねてから執心していたが、
利休はそのことを少しも知らず、ある時、かの茂の宿を掛けて宗及を招いて一服を進めた。
宗及が茶室に入ってこの掛け物を見ると大いに驚き、気鬱のあまり茶を飲むことも出来ず、
そのまま自分の家に帰って嘆き臥した。

その理由を利休は聞いて哀れに思い、翌日、色紙を手ずから持参し宗及に取り伝えたという。
やさしき心である。
(明良洪範)

32 :人間七七四年:2015/05/19(火) 12:59:21.94 ID:UTKPfOmn.net
徳川家康没後400年記念【大関ヶ原展】

先の5/17で江戸東京博物館の東京の展示会は終わりましたが、京都と福岡の展示会はこれから

ただし開催期間中に展示品の入れ替えがあったり、「東京(前期・後期)」「京都(前期・後期)」「福岡(前期・後期)」「前期や後期に関係なしに期間限定スポット展示」でしか見られない品もある等、
過去最大級のイベントながらなかなかに大人の都合で全ての展示品を見ようとするのは困難

現時点では
東京会場限定…蜻蛉切、井伊直政の甲冑
京都会場限定…大名物茶入初花、知音院蔵徳川家康木像
福岡会場限定…黒田長政一の谷形兜

東京会場では当日券購入列も待ち時間があり、入場制限120分待ち等もあり
近畿と九州の方はローソンのロッピーで前売券が買えますので、こちらをお勧めしてみます

(´・ω・`)東京会場では本多忠勝の甲冑の数珠が前後逆にセットされたまま展示され、図録の数珠も左右掛けが逆の写真が掲載されていました

物販の図録は321点の宝物と解説・釈文で計393ページの人の殺せる厚み
歴史好きの人にはこちらも購入をお勧めさせて頂きます

33 :人間七七四年:2015/05/19(火) 13:16:36.52 ID:UTKPfOmn.net
東京会場の入口を入ったところにあったフリーペーパーの展示品「作品リスト」では東京で展示されたのは図録掲載321点中約160点。
前期後期通して全期間展示されたのはその内約30〜40点程。
見に行ける機会が一回な人は会場やタイミングも重要という罠…
…という訳で図録(図録のみ税込¥2800、トートバッグとのセットで税込¥3000)は本当に重宝しています

※「大関ヶ原展」で館内は撮影禁止

※東京会場でスタッフの方に聞いたところ、鉛筆とシャープペンでのメモは可能でした

34 :人間七七四年:2015/05/19(火) 13:51:01.87 ID:UTKPfOmn.net
東京会場の前売券はローソンでしたが
京都会場の前売券はセブンイレブンとファミマのようです

おまけ
東京会場の様子
(東京会場限定の真田昌幸の甲冑が徳川秀忠の鎧の脇に展示されている)
http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=592

※館内は撮影禁止

35 :人間七七四年:2015/05/19(火) 19:03:38.42 ID:dccwnytO.net
黒田孝高(官兵衛)・長政父子が、豊前において城井鎮房と戦っていた折のこと。

野中左京大夫、その弟の兵庫助はこれも豊前の国人で、他の者達より領地広く、殊に勇気人に優れた
者達であったが、城井方に付き、兵を多く集め、左京大夫は下毛郡津民村の長岩城に籠もり、
兵庫助は上毛郡友枝村の雁股ヶ岳城に立て籠もった。
両城共に堅固なる要害であった。

黒田長政は彼らを攻めるため、士卒を引き連れ向かうと、野中も居城より出て、井手の口と言う所で
対陣した。長政はここで大いに合戦して、野中勢を切り崩し、敵勢尽く城に逃げ入った。

その後、野中勢は籠城して手出ししてこようとしなかった。しかし彼の地は難所であるため、
急に攻め落とすことは困難であり、長政は孝高と相談し、栗山四郎右衛門(利安)に

「野中の城に馳せ向かい、何か手立てを以って攻め落とすように。」

と命じた。しかし四郎右衛門
「かの両城は切所であり、殊に敵は大勢です。私が小勢で攻めて、もし戦に負ければ、
お為になりません。他の者に仰せ付けられるべきです。」


長政はこれを聞くと激怒した
「四郎右衛門、臆したる返答なり!」

「そのように私を臆病者とお考えなら、なおさら他の者に仰せ付けなされ!」

「お前を選んで申し付けたのだ!どうあっても出陣しろ!」

そう再び命じた。
(長政是を聞て、四郎右衛門臆したる返答なりとて、以の外怒り給う。四郎右衛門申けるは、
左様に我等を臆病者とおぼしめさば、猶以余人に仰付られ候へと申しければ、
汝をえらびて申付るにてこそあれ、是非発向すべきよしふたたび命ぜられる。)


四郎右衛門は「この上はとかく申すに及ばず」と了承し、士卒を率いて彼の地へと赴いた。

彼はこの時『家臣多き中に、今度の打ち手に選ばれ指を向けられたことは、武士の面目、
これに過ぎる事はない。であれば、今度の戦に打ち勝って敵を平らげれば、生涯の大幸である。
もし撃ち負ければ、何の面目があって主君にも朋輩にも再び顔を向けられるだろうか。』と思い、
諸卒を励まし精力を尽くして戦った。

敵は山中より出て度々戦ったが、四郎右衛門はその度に戦の利を得たので、敵はその勇気に挫かれ、
叶わないと思ったか、ついに両城を放棄し退いた。

その後、野中兵庫助は豊後に逃げて身を隠していたのを、黒田孝高より大友に通報したため、
彼の地にて誅殺された。

今回の戦で、栗山四郎右衛門は度々の戦に打ち勝って敵を退治し、両城を乗っ取ったこと、
孝高・長政父子は甚だ感じ入り、その褒賞として野中の所領を四郎右衛門に与えた。

(黒田家譜)

なかなか面倒くさい、栗山利安の野中氏攻めの記事である。

36 :人間七七四年:2015/05/19(火) 19:07:43.50 ID:UTKPfOmn.net
城井さんの石高ってどれぐらいあったんだろう?

37 :人間七七四年:2015/05/19(火) 21:05:01.61 ID:De3nPYMt.net
10万程度

38 :人間七七四年:2015/05/20(水) 05:54:28.96 ID:78f3vBWR.net
十万石程度の相手に、卑劣な騙まし討ちをしないと駄目だった豊臣・黒田
城井がそれだけ凄かった、と考えるべきなんだろうか

39 :人間七七四年:2015/05/20(水) 09:03:51.00 ID:bRuGbdwU.net
城井さんと一族かわいそうだな クソ黒田&豊臣め

40 :人間七七四年:2015/05/20(水) 09:08:39.46 ID:tzsugiDo.net
勝てる見込みのない戦いはしないのが秀吉官兵衛であって勝つつもりで戦うのが長政

41 :人間七七四年:2015/05/20(水) 14:29:31.28 ID:1et9E2AO.net
>>38
程度っていうけど、12万石に封じられた大名が10万石の在地勢力を潰すって
かなり大変な気もする
秀吉が全面的に後援してなきゃさ

42 :人間七七四年:2015/05/20(水) 16:18:47.83 ID:O5wfIdSV.net
秀吉はそこの土地やるから鎮撫はお前らでやれというスタンスではなかったか

43 :人間七七四年:2015/05/20(水) 17:17:58.71 ID:R6AXP4Pj.net
>>42
んで、手に負えなくなって秀吉に泣きつくと、
改易が待ってる。佐々だの木村親子だの…

44 :人間七七四年:2015/05/20(水) 17:34:59.81 ID:gvyvudER.net
【雑談】大関ヶ原展

http://sekigahara2015.com/

「東京展」が終わり、これから「京都展」と「福岡展」。
行ける人は行った方がいい。そして買える人は図録も買った方がいい!

45 :人間七七四年:2015/05/21(木) 06:44:25.68 ID:zW4gQv0C.net
大名行列の様に並んで、館内でも前の人の列に続いて流れ作業的にぞろぞろと展示物を見る様な状態だった。
4分間の関ヶ原のプロジェクションマッピング最後の「島津隊」の戦場離脱にはあちこちからどよめきと笑い声が起きてた。

会場と期間によっても見られなかった物があったのは後で知って痛かった…

46 :人間七七四年:2015/05/21(木) 13:34:09.39 ID:goU9eGLy.net
名古屋ではやらんのか....
これじゃあ関ヶ原行くほうが近いな。何もないけど。 (´・ω・`)

47 :人間七七四年:2015/05/21(木) 13:39:39.53 ID:T6mp2egz.net
関ケ原町歴史民俗資料館があるじゃない

48 :人間七七四年:2015/05/21(木) 13:44:14.56 ID:8YK/QazJ.net
関ヶ原ウォーランドがあるじゃない

49 :人間七七四年:2015/05/21(木) 14:48:16.83 ID:b+gF+i9v.net
飛ばされてこそ名古屋でしょ

50 :人間七七四年:2015/05/21(木) 15:09:37.53 ID:zW4gQv0C.net
石田正宗と蜻蛉切と徳川四天王全員分の甲冑の展示は東京だけかな?

京都限定・福岡限定の展示もある様。

行ける人はコンビニでの前売券購入で、当日券購入待機列の待ち時間をカットだ(京都展の前売券はセブンイレブンとファミマだったか)

http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=592
※大関ヶ原展は撮影禁止
※東京展で聞いたところ鉛筆とシャープペンでのメモはOKですた

51 :人間七七四年:2015/05/21(木) 15:39:45.39 ID:vH1plfPz.net
13日に行ったけど、大入りだったな
石田正宗がカッコよかったな

52 :人間七七四年:2015/05/21(木) 16:26:57.90 ID:e2/fTsRZ.net
>>29
最強BBAは次の無双系ゲームにぜひとも登場させてほしいな

キャラデザインは漫☆画太郎先生で是非

53 :人間七七四年:2015/05/21(木) 19:42:45.37 ID:CkbZKKly.net
東京の大関ヶ原展は
西国大名関係がイマイチ弱くてかなC
いま九博で九州の戦国武将展やってるのでそっちも見たが
大関ヶ原展と展示品が割とかぶってるんだなw

54 :人間七七四年:2015/05/22(金) 00:58:24.40 ID:nWgigd4P.net
紀伊國屋書店で九州国博の図録みたいな本が売られていた。
大友氏関連の物が多い様だけど、これに福岡の関ヶ原展ではどれくらい東国や近畿の展示物が加わるんだろう?

55 :人間七七四年:2015/05/23(土) 00:10:21.86 ID:fjqI42L/.net
>>51
石田正宗はトーハクで良く展示されてるけど
チラ見で素通りされてる

56 :人間七七四年:2015/05/23(土) 01:12:08.39 ID:ztRMeDO9.net
この前ここのスレみんが石田正宗の写真うpしてた稀ガス
俺も別の展示のときに見てきたな

57 :人間七七四年:2015/05/23(土) 17:22:40.65 ID:eWFh9jwA.net
刀剣乱舞という糞ゲーの影響で
ヲタが名刀に群がる異常

58 :人間七七四年:2015/05/23(土) 21:19:47.98 ID:LaXWbfSK.net
ヲタっつうか腐女子だろそれ

59 :人間七七四年:2015/05/23(土) 21:22:46.22 ID:8AduwBas.net
ここの住人も戦国ヲタが大半だろうから人のこといえんのでは
それに博物館に来る客が多くなることのどこに問題が

60 :人間七七四年:2015/05/23(土) 21:57:06.52 ID:waYCXyMN.net
ブームの恩恵には与れるし二年もしたらいなくなるだろうし問題ないだろ、多分

61 :人間七七四年:2015/05/23(土) 21:57:56.12 ID:Vg/aNVPg.net
名刀に興味もってもらうのは良いことじゃないか。

62 :人間七七四年:2015/05/23(土) 22:27:07.37 ID:NRdc/Hqp.net
関ヶ原展では客層のまんべんなさにビックリしたもんだが
(十代の子も多かった)例の名刀ゲームの影響もあったんだなw

63 :人間七七四年:2015/05/23(土) 22:53:05.22 ID:42ZDHsJt.net
>60-61
にかわ的に騒ぐ人に対して良い感情を抱かないのも理解できる
だけど新規のファンが入らないとジャンルとしては先細りしていくだけだから長い目で見ると新世代開拓は大事な事でもある

64 :人間七七四年:2015/05/23(土) 23:04:18.97 ID:LqKtIBUu.net
茨城の徳川ミュージアムには新規会員が寄付金を募っているそうだ。
学校の先生が「学割が効いても入場料を落としてあげて」と言っている商売下手な徳川美術館も入場者増と寄付金増でひと息つけているそう。
新たに興味を持つ人でもマナーが良ければ悪い事ではない。

65 :人間七七四年:2015/05/23(土) 23:05:27.14 ID:QZO3831n.net
まあ戦国ネタのゲームが出たら必ず排斥論は出るもんだからな
どうせお前ら、20年前は信長の野望から戦国好きになった奴をニワカだ殺せって言ってて、10年前は無双とかBASARAから戦国好きになった奴をニワカだ殺せって言ってたんだろw

66 :人間七七四年:2015/05/23(土) 23:12:22.22 ID:63iM2JB+.net
むしろそのニワカだったのが他人をニワカ扱いしてるのでは
自分もそのニワカに入るから強く主張はできんが

67 :人間七七四年:2015/05/23(土) 23:44:30.65 ID:XhOLNTjL.net
ミラクルワールドブッシュマンめ!

68 :人間七七四年:2015/05/24(日) 03:20:07.71 ID:dRszBFOX.net
むしろ最近のノブヤボのシステムのについていけない;;

69 :人間七七四年:2015/05/24(日) 11:15:35.54 ID:jncOzvIq.net
まだノブ野暮やってるの?w
もうオワコンでしょ

70 :人間七七四年:2015/05/24(日) 14:43:57.97 ID:dRszBFOX.net
今日は伊達政宗の命日か

「杜の都」の誕生

1610(慶長15)年、仙台城の大広間の完成式に招かれた良悦は杉苗2800本を持ち込み、政宗に杉の植樹による国家百年の富国策を講じた
持ち込まれた杉は本丸・花壇・領内の諸寺に植えられ、その数は7年間で2万本にも及んだ
この功により良悦は寺領として田畑2貫文を賜る

「杜の都」は、この杉の作る木立の名称であると言われる

71 :人間七七四年:2015/05/24(日) 14:50:30.62 ID:AT2hFnzK.net
杉は火災に強いからなあ

72 :人間七七四年:2015/05/24(日) 15:29:45.48 ID:dRszBFOX.net
防火・防風・防雪の江戸時代植樹の屋敷林に用いられた杉・松・唐松よりも、今の人には欅(けやき)並木の方が「杜の都」仙台のイメージが強くなってる

※街中の屋敷林は仙台空襲で焼失したり、戦後の道路拡張で伐採され、多くが姿を消した
欅はそれに代わる新植樹と言われる

73 :人間七七四年:2015/05/24(日) 16:32:12.66 ID:gYF3FGYa.net
>>69
オワコンって言葉使いたいだけか

74 :人間七七四年:2015/05/24(日) 16:37:26.88 ID:en1X08S6.net
とオワコンにしがみついてるニワカが発狂しています

75 :人間七七四年:2015/05/24(日) 17:02:46.21 ID:OS54wcIc.net
ニワカって言いたいだけだろ

76 :人間七七四年:2015/05/24(日) 17:11:22.89 ID:9l1gsEe+.net
お前ら何がきっかけで戦国好きになったのか教えてくれ
俺は戦国コレクションな
笑えばいいよ

77 :人間七七四年:2015/05/24(日) 18:07:50.26 ID:1azH/130.net
昔、学研で出てた信長の漫画。

78 :人間七七四年:2015/05/24(日) 18:19:06.87 ID:AF5p5I8t.net
他所でやれ

79 :人間七七四年:2015/05/24(日) 18:30:13.16 ID:yG6n96NO.net
天正12年(1584)、佐々成政は、前田利家の重臣・奥村助右衛門永福の守る、能登末森城を囲んだ。
世に言う末森城の戦いである。

成政は旗本を以って前田利家の後巻(救援)を抑え厳しく攻め立て「この城を打ち破れば
能登一国は即座に我々に従う。後巻が来ない内に乗っ取れ!」と下知した。

奥村はわずかに300ばかりの兵でここを守っていたが、あまりに激しく責め立てられたため、
「もはやこれまでである。自害しよう」と言い出した。

ところが、この奥村の妻は、小袖をたすき掛けにし鉢巻をして、刀を横たえ粥を煮て、
手桶に入れて下女に持たせ、城内の人々に手ずから汲んで食させながら、こう言って回った

「昔、楠木という大将は日本国を敵に受けて籠城したと聞き伝えられています。
明日には金沢より後詰めの軍が到着するでしょうから、今宵、ただ一夜だけ防いで下さい!」

奥村はこれを見て「今日の振る舞い男子にも優っている。さりながら女の力によってこの城を
持ちこたえるというのは口惜しいことだ。」とつぶやいた。

一方、佐々成政方は負傷者も増え、敵も容易くは落城しそうもないのを見て、これは火攻めに
すべきだと進言するものもあった。しかし成政は
「この城の大手の門を取って富山の城門とするのだ。また石動山の衆徒も私に心を合わせた。
慌てて火攻めを行う必要はない。」と下知し、既に二、三の丸を攻め取って夜が明けるのを待っていた。

この末森城から前田利家のいる金沢まで九里ばかり。その日の酉の刻(午後6時頃)、末森城より、
夜が明けるまではなんとしても城を守るという注進が入った。

前田利家はこの報告を聞くや金沢城の広間に出て、嫡子利長を呼んで
「汝はこの城の留守をせよ!」と命じた。しかし利長は

「いいえ、私が真っ先に出て佐々を打ち破ります!ここに残り留まるなど思いもよりません!」

これを聞くと利家
「ならば父子で打ち向かおう。敵の不意を打ってこそ利もあるだろう。兵を整える必要はない、
馬に鞍を置き次第一騎がけに打ち出よ!一足でも早く出る事こそ今夜の功だと思え!」
そして富田与五郎に
「おまえは津幡に行って不破彦三に末森の後巻きの先手をするように申せ」と下知した。
富田は直ぐに自宅に戻って馬を引き出し、不破彦三の元へと駆けた。

利家は士卒に「皆汁をかけて飯を食え!」と言いつつ具足を着て庭に自身の黒毛の馬を用意させていた。
この時、前田利家の婦人(芳春院)が三方にのし鮑を入れて入ってくると、利家・利長父子に従う者達に
向かって語りかけた

「おのおの、よく聞いて下さい。私は利長の母です。今日の後巻きは誠に大事の軍です。
それぞれ心を合わせて功名して下さい。

もし、末森城を的に取られたなら、皆々、討ち死にしなさい。
私も人手にはかかりません!」

そして利長の側近くに進んで我が子に対し「末森が落城したなら、あなたも討ち死にしなさい。」と言った。
利長これに「生死の別れですね。」と答えた。

利家はこれを見て「荒心であることよ。成政を打ち破ること必定である!」と言い放つやいなや、
具足の上帯を締めて、結ぶ端を切り捨てて馬に打ち乗り出撃した。
この時前田父子の兵はわずかに100人余であった。利家は馬上で
「味方が少数である事こそ吉事である!佐々が思いもよらない所に斬りかかって打ち勝つであろう!
奥村を死なせては生きる意味もない!」と叫んだ。
(明良洪範)

末森城の戦いにおける、前田利家出陣までの逸話である。

80 :人間七七四年:2015/05/24(日) 21:41:29.28 ID:58nrnPEJ.net
このスレや悪い話スレでも度々紹介されているとおり、前田利常は正室の珠姫と大変仲がよく、珠姫が若くして亡くなった際はたいそう嘆き悲しみ、ひと目もはばからず号泣したと言われている。
利常は珠姫の死後、姫の菩提を弔うため、金沢城よりほど近い場所(現在の金沢市小立野)に天徳院という寺院を創建した。
創建当時の敷地は4万坪ほどで、寺領は五〇〇石という立派なものであったといい、加賀藩から天徳院に宛てた知行宛行状は現在も当院で保管されている。
また、天徳院は昭和63年から一般公開されており、寺内では、珠姫の位牌と坐像、珠姫手製と伝わる紙雛人形、枕屏風、御膳など、珠姫縁の品々が展示されている。
珠姫縁の品々以外には、前述の知行宛行状のほか、前田光高が死去した際に八条宮智忠親王が納めた経なども展示されている。


先日立ち寄ったら、お寺の方が「団体客はそこそこ来てくださるが、個人のお客様が少ない」とおっしゃっていたので紹介がてら。
展示のほかに珠姫と利常のからくり人形なんかもあるし、立派な庭も深緑が美しかったので、石川県立美術館の『加賀前田家百万石の名宝』とセットでいかがだろうか。美術館からなら散策しながら徒歩で行かれる距離にあります。

81 :人間七七四年:2015/05/25(月) 20:18:24.03 ID:b5cGOzqd.net
毛利勝永の妻

毛利勝永は関が原の戦いで石田三成に与力して領地を没収され、父勝信と共に土佐にて蟄居した。
父勝信の死後、勝永は茶道を嗜んでいたためその家臣である窪田甚三郎を京大阪に遣わして、茶器を
求めさせた。時に大野治長は、この窪田甚三郎の従弟であったので、このつてを頼り秀頼の様子を聞いていた・

慶長15年の冬、秀頼はついに挙兵に及び、勝永もそれを勧誘された。かれはそれに応じようと思ったが、
その夜、密かに妻に語った

「私が先年、誤って石田方に属したために、現在妻子まで困窮させていることは見るのも忍びない。
いま、私にはひとつの志願があるが、濫りに口外できないことである。」

勝永の妻は言った
「私がこの家に嫁いだのも、前世よりの宿因のためでしょう。どうしてそのように
深く嘆くことが在るでしょうか?
女が、一度嫁いでより夫とともに浮沈するのは、女の道というものです。
これを憂うことなどありません。
どうかあなたの御志願を言って下さい。」

「…我家が、武名を以って天下に振るうこと6代にわたる。なのに今、この辺鄙な場所に流されて
虚しく朽ちるという事、本意ではない。
幸いにも今、天下が東西に分かれて戦いが起ころうとしている。私は秀頼君に属して今の汚名を雪ぎたい。

だが、私がこの地を逃れ出れば、きっと妻子は捕らえられ禁錮と成るだろう。これを私は憂いているのだ。」

所が妻は、これを聞いて笑い出した
「あなたの言うことは、間違っておられます。
大丈夫たらん者が妻子のためにほだされて武名を汚すなど、真に恥ずべきこと。
速やかにこの地を去って、先祖の家名を興すべきです!
その時心に、妻子のことを止めてはなりません。

あなたがもし討ち死にすれば、私もこの海に身を投げて死を共にしましょう。
勝利すれば、再度お顔を拝しましょう。」

勝永はこれに大いに喜び、大阪に至ろうとしたが、土佐では厳重に監視されていたため、国主である
山内忠義の元に、関東に味方するためと言って、嫡子を連れて土佐を脱出し大阪に籠城した。
はたして忠義は勝永の妻子を捕らえて、駿府の家康にその処置を尋ねた。

家康はこれを聞き
「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。
彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」
そう命じた。
これによって山内忠義は勝永の妻子を高知城中に入れて養育した。

毛利勝永は翌年5月5日、大阪落城の時、天王寺において奮戦し、潔く自害したが、
これらの名誉はすべて、その妻のおかげであった。

(明良洪範)

82 :人間七七四年:2015/05/25(月) 22:12:44.27 ID:yMD7iU0O.net
いい話だなぁ

83 :人間七七四年:2015/05/26(火) 20:49:13.15 ID:FAT8l6IJ.net
阿茶局

阿茶局は、武田家の家臣であった飯田久右衛門の娘で、今川家の家臣、神尾孫兵衛久宗の妻と成った。

かつて、徳川家康が今川家で人質として生活を送っていた時、この神尾孫兵衛夫婦は家康に、
厚く礼を以って保護していた。
今川義元が桶狭間で戦死した時、神尾孫兵衛も同じく討ち死にした。
その妻はこの時妊娠していたが、実家の甲州に帰り、そこで男児を出産して猪之助と名づけた。

武田家滅亡の時、家康が甲州に入ると、この妻が息子を携えて道の傍で拝伏しているのに家康は気づいた。
家康は彼女が甲州に居る故を聞き、旧情を思い出し、彼女を召し出し、遠江にて奉公するようにと命じた。
すると、この妻が非常に明敏で、奉仕すること怠らず、家康はこれを高く評価し、後に奥の老女となり
阿茶局の名付けられた。

慶長19年大阪冬の陣の時、彼女は講和交渉の使者として大阪城中まで数度にわたって往復し、
大阪方の大蔵卿局、常光院(淀殿妹お初)などを説得した。
大阪冬の陣でついに講和が調ったのは、この局の功なのである。

この講和交渉の時、彼女が乗っていた肩輿は鉄で作られていて、矢石を防ぐようになっていた。
この肩輿は今、遠山七之助の家に伝わっているそうである。

後年、東福門院(秀忠娘)の入内の時に、御母代となり、従一位に叙任し慶賀を執行した。
没後、霊光院殿従一位尼公松誉周栄大姉と号す。

(明良洪範)

84 :人間七七四年:2015/05/27(水) 21:48:19.61 ID:9GfvjNwH.net
初めて書き込みさせていただきます。至らないところもありますがお願いいたします。

大河ドラマ化に弾み 島津義弘小説、6月からウェブで公開
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=66690
 戦国武将・島津義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区の
「義弘公大河ドラマ誘致委員会」は、徳間書店と共同で、義弘の生涯を描く小説を企画している。
作家・井川香四郎さん書き下ろしの「島津三国志」。6月から、ウェブマガジン「歴史行路」
で公開する。関係者は「ドラマ化には原作の必要性も指摘されており、弾みになる」と期待を寄せる

85 :人間七七四年:2015/05/27(水) 23:12:39.29 ID:9GfvjNwH.net
84の続き
小説は約一年間毎月掲載され、閲覧は無料で書籍化も予定しているそうです。
(南日本新聞2015年5月27日記事より)

少し前に「義弘公大河ドラマ誘致委員会」主催の講座を聞きに言った時、
「最近の大河が振るわないのは、歴史に関心のある人が脚本を書いてなく、
いい原作がないからと思い徳間書店と共同で企画を考え、小説を書いて
もらっています。夏にはウェブで公開予定です。」と言ってましたが
本当に予定通りに進んでる…
あと、宮崎県えびの市に義弘の銅像を立てる計画も順調に進んでいる
そうです。

86 :人間七七四年:2015/05/28(木) 00:35:05.46 ID:LkWj94pc.net
ウェブマガジンってのはどうなのよ?
もっとメジャーな文芸誌や新聞とか週刊誌じゃないと
知名度上がらないし…

87 :人間七七四年:2015/05/28(木) 07:26:31.84 ID:Yy790yKb.net
島津だけでは正直薄いよなあ
やはりあの時代は暗黒太閤と化した秀吉あってこそ
しかし秀吉のキャラ立ちは圧倒的なので島津が食われかねない
だからといって九州内の覇権争いだけを描いてもなあ

88 :人間七七四年:2015/05/28(木) 13:38:32.93 ID:w8Exbow6.net
義弘を主役に派手さを狙うのは甘え
義久を主役にして権謀術数渦巻く知略戦を描くべき

89 :人間七七四年:2015/05/28(木) 14:31:42.63 ID:3nQUdxjC.net
義弘が主役なのは、義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区
の所が企画しているから当たり前のことですしねぇ。
(日置市と姶良市は義弘にまつわる歴史的なつながりなどから姉妹都市ですし
姶良市の市長さんの名前は笹山義弘さんですが、父親が島津義弘にあやかって
名づけたそうです)
義久を主役にした小説…読みたいけれど、多くは望みません。
ただ、今回の小説で義久が悪く書かれないよう祈るだけです。

90 :人間七七四年:2015/05/28(木) 14:36:24.17 ID:3nQUdxjC.net
なぜか、IDが変わってました。
84・85・89は同一人物が書きました。

91 :人間七七四年:2015/05/28(木) 18:26:02.21 ID:4mhNMucy.net
幸田彦右衛門尉は、織田信孝の家臣であった。

天正年中、賤ヶ岳の戦いの前、信孝は羽柴秀吉によって激しく攻められ、信孝は力尽きて
和睦を受け入れ、その母及び幸田の母を人質として送った。

しかし程なく和睦は破れた。秀吉は怒ってその人質を殺そうとした。幸田彦右衛門尉は孝子であったため、
この事態に心揺れ動いた。これを聞いた母は、書状をしたため彦右衛門尉を諭した

『お前が、この老婆の身の上を思って二心を懐かないように。
お前は硬く節を守って、我が君を補翼せよ。
然らば君に忠、母に孝であり、であれば幸いにも忠孝両全と成る。

私は殺されても悔いることはない。』

これによって幸田は志を決して、秀吉に叛いた。
秀吉は怒り、その母を磔にした。幸田はますます信孝に忠勤して、尾張内海で信孝が自殺した時、
奮戦して潔く戦死した。

(明良洪範)

92 :人間七七四年:2015/05/28(木) 21:09:57.42 ID:3nQUdxjC.net
84・85の補足です。
南日本新聞2015年5月27日記事の紙面の方には
井川さんは「これまでの猛々しいイメージとは異なり、東アジアから
世界へ向けた視線、家族愛や同胞愛など慈愛に満ちた義弘公を描きたい」
としている。
姶良市誘致委員会の会長さんは「多くの人に読んでもらい、大河ドラマ
の実現へ向けた機運の醸成につながれば」と話した。

93 :人間七七四年:2015/05/29(金) 00:15:09.60 ID:1I/mC1ZA.net
既に怪しい雰囲気が醸し出されてるなあ

94 :人間七七四年:2015/05/29(金) 00:59:48.83 ID:kUwDtlwJ.net
加藤清正のタイガードラマはよ

95 :人間七七四年:2015/05/29(金) 03:12:59.38 ID:6LcORnJI.net
>>92
つまり、島津ドラマ化のネックになっている朝鮮人皆殺しや琉球侵略を
「きれいなジャイアン」でごまかすってことかw

96 :人間七七四年:2015/05/29(金) 06:26:43.57 ID:05Bd7qhS.net
>>85
平清盛を見れば現実離れした見解だよなぁ

97 :人間七七四年:2015/05/29(金) 07:20:57.75 ID:uBMgoFHx.net
バカ知事が何か言いそうw

98 :人間七七四年:2015/05/29(金) 07:51:37.37 ID:X1R2YQCf.net
>>92
義弘が、「儂は戦は嫌じゃ」とか言い出しかねんなw

99 :人間七七四年:2015/05/29(金) 07:55:35.24 ID:mcDINiea.net
>>92
部下に優しくて敵には猛々しい義弘にできんのか。火鉢エピとか大工エピとか性格出てると思うんだが。

100 :人間七七四年:2015/05/29(金) 08:33:20.77 ID:TH6fkjnm.net
島津は映像化できないだろ・・・色々と悲惨すぎる

101 :人間七七四年:2015/05/29(金) 10:54:25.41 ID:5bj3lFUm.net
奴隷を南蛮に売ってたっけ?

102 :人間七七四年:2015/05/29(金) 17:01:26.02 ID:zdzYrMsl.net
日本じゃなくて東アジアからって書いてある時点で制作スタッフ臭すぎでしょ

103 :人間七七四年:2015/05/29(金) 20:46:50.48 ID:wwV7liSe.net
鉄砲伝来とか重要イベントあるから(震え声)

104 :人間七七四年:2015/05/29(金) 21:09:32.57 ID:7e3CBtA7.net
>>101
うん、大友とか大村とかもね
インドのゴアでは原住民対策の兵員として重宝したらしい

105 :人間七七四年:2015/05/30(土) 02:18:09.14 ID:CWM9Z+LL.net
>>98
代わりに義久さんが全ての原因になるんですねわかります

106 :人間七七四年:2015/05/30(土) 07:17:33.57 ID:5P1QqS+E.net
戦国の世の家族愛や同胞愛ってとっても猛々しいよねw

107 :人間七七四年:2015/05/31(日) 00:32:49.85 ID:DaNyHf8r.net
ラスボスの秀頼への家族愛で何人も死んだ

108 :人間七七四年:2015/05/31(日) 16:05:45.71 ID:EF3ETCaI.net
家族愛に満ちた父の教えを受け継いだ息子はその教え通り子を沢山成したというわけですね

109 :人間七七四年:2015/05/31(日) 16:22:36.31 ID:HMaA3uKM.net
大母殿は徳川秀忠の乳母で、賢良な女性であった。しかしその子の某は山中源左衛門の党類であったため、
流罪となった。(旗本である山中源左衛門が、江戸市中で無頼行為をしていたことが発覚し切腹となった事件)

しかしその後も、大母殿に対する秀忠の尊敬は衰えること無く、彼女の徒然を慰めるため、月に3,4度は
茶の子(菓子)を贈った。彼女はこれを近習の女中などに遣わし、話などして彼女たちの労を慰めた。

この大母殿には月に1,2度ずつ、決まって行うことがあった。
それは、大きな切板に飯をうずたかく盛って、六尺(雑務係)や中間たちまで自由に呼び入れ、
自身でこの飯を振る舞うことであった。

本多佐渡守(正信)これを聞き、初めてその様子を見て大いに驚き、大母殿に意見した
「ここには夫々の女中も多いのですから、誰かに申し付ければよいではありませんか。
ご自身で飯を盛るなど、あまりに軽々しいことです。」

これを聞いた大母殿は、飯を盛っていたしゃもじを止めて佐渡守に振り向き
「最近、あなたが驕っていると人々が言っていますが、私はそれは虚説だと信じていました。
しかし只今の一言で、そういった人々が言っていることも事実なのだと思いました。
その方、弥八郎と呼ばれた頃の事を忘れたのですか!?

この婆は三河では賤しき者であったのに、思わずも上様に御乳を差し上げ、今はこのように
御厚恩を蒙り、大変に結構にして頂いております。

私が三河にて賤しき時分は、5,6人の客人へ飯を振る舞う事も出来ませんでした。
しかし現在では、何人に振る舞うとも自由となりました。
それ故、賤しき時のことを思い出しこのように時分で飯を盛るのです。

現在は富貴の身となりましたが、この婆は昔を忘れません。
しかし其の方は、早くも弥八郎の時のことを忘れたように見えます、そんな心得では、大事のご政務に
預かっていることも心もとなく思います。」

これには流石の佐渡守も殊の外困惑して帰っていった。

その後、大母殿は病にかかり、甚だ心もとない体調であると聞こえたため、将軍秀忠は見舞いに行き
こう声をかけた
「思ったよりも顔色が良いではないか。しかし、今のうちに言っておきたいことが有れば、何事でも
申し置くように。どんなことでも叶えたい。」

その時、大母殿は
「何もありません。

今の私の願いといえば、ただ上様が、権現様の御条目を御違いあそばされず、天下のご政務が、
人に後ろ指をさされぬよう、常々ご油断の無きように願い奉る以外に、何も申すことはありません。」

秀忠も、大母殿の思いを理解した。
「しかし、それ以外に願うことはないか?」

「このように結構にして頂いているというのに、これ以上何の願いもありません。」

こうして秀忠は立座し部屋を出ていこうとした時、彼女は「上様」と呼び返した

「上様は先頃から、再三に何か願いはないかとお尋ねに成りました。この事は、私の伜のことを、
この婆が臨終に際して気にかけるとお考えに成ってのお言葉だと思います。

しかし、絶対に御赦免してはなりません。
もしこの婆に免じて御赦免されたなら、御乳を差し上げた馴染み故天下の大法を犯されたということであり、
後代まで政道に傷のつく、有るまじき事であり、それこそ私の黄泉への障りとなります。
どうか必ず、御赦免なされませんように。」

そう言い終わると、間もなく卒した。人々はみな、その志の程に感嘆したという。
(明良洪範)

110 :人間七七四年:2015/05/31(日) 20:58:07.51 ID:nVSvJ3lg.net
で、正信は?

111 :人間七七四年:2015/05/31(日) 22:17:41.98 ID:TLw/66af.net
いい話だ…
けどその後息子はどうなったんだろう。
あと、89歳とは長命だが、55歳で乳母って本当?

112 :人間七七四年:2015/05/31(日) 22:38:07.67 ID:EF3ETCaI.net
乳母といっても母乳を与える人だけをさすのではなく
母親の代わりに子育てや教育をする人も乳母というみたいですよ

113 :人間七七四年:2015/05/31(日) 22:43:19.34 ID:bw12OwFu.net
乳母も傅も「めのと」だしな

114 :人間七七四年:2015/05/31(日) 23:09:52.54 ID:utGOVjQL.net
秀忠は実母を早く亡くしてるからか乳母とか大切にしてそうなイメージあったな
個人的に

115 :人間七七四年:2015/06/01(月) 22:06:22.26 ID:u3nXAbjb.net
伊達遠江守秀宗が行列で通行していた時、旗本の某が、かんの強い馬に乗って通りかかった所、
どうしたわけかその馬が暴走し、秀宗の方に向かって駆けてきた。

この時、秀宗の供の武士である大藤某という者、即座にこれに立ち向かい、この馬の口をとって
動きを止めた。この間に秀宗は通り過ぎた。

この旗本某の供の者達は、暴走した馬を抑えようと後から追いかけてきたのだが、大藤が馬の口を取って
立っているのを見て、何を勘違いしたのか彼に向かって刀を抜こうとした。
これを見た伊達の供の者達が、大勢で駆けつけ取り押さえた。この混乱に馬上の旗本某も鑓を
取ろうとしたが、大藤は馬を抑えながらもう片手でその鑓をしっかりと握りったところ、
旗本は鑓を全く動かすことが出来なかった。そして大藤は

「こういう事はあるものです。御馬がかんが強くて駆け出てきたため、止めたに過ぎません。
慮外なことは少しもやっていません。」

しかし旗本某
「このように取り押さえるのは慮外ではないというのか!?」

「それはあなたのご家来が粗忽なことをしそうだったので止めたまでの事です。慮外、無礼と
言われるような事は行っていません。」

そう言うと、伊達家の者達は退いた。これに、馬上の旗本某もそのまま通り過ぎた。

この大藤某という人は大力無双の勇士であり、よく物の道理に通じた人手あったので、
大藤の一言で、この騒動も事無く済んだのである。

(明良洪範)

116 :人間七七四年:2015/06/01(月) 23:38:29.44 ID:fMzXZk0C.net
島津貴久の乳母も乳母になった時に50歳を越していたらしい
と聞いたことがあるから、珍しいことではなかったのかも。

117 :人間七七四年:2015/06/02(火) 00:43:01.72 ID:e34da1J/.net
>>115
もうあったでござる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8575.html

118 :人間七七四年:2015/06/02(火) 20:16:36.29 ID:XBzNw/+v.net
戦国武将のリストラ逆転物語 2015/6/1時点の記事一覧
 http://www.zakzak.co.jp/society/rensai/society-r21202.htm

・安倍貞任の末裔、秋田実季 勇猛で気骨あふれる性格がアダに?
・偉大な父とは対照的 2代目のボンボン・加藤忠広 強引な年貢徴収&土地没収
・大和一国制す筒井順慶 追われた筒井城奪還、宿敵・松永久秀倒す
・たぐいまれなる処世術の達人・織田信包 信長、秀吉、家康… 3つの3つの時代生き延びる
・越後の「鬼神」本庄繁長 反旗翻した謙信からも信頼獲得
・京文化にかぶれ転落した伊東義祐 周囲にイエスマンしか配置せず
・元就の孫・毛利秀元 秀吉や家康の評価、発揮しきれず
・「のぼうの城」の主人公・成田長親 秀吉の小田原攻めで徹底抗戦
・津軽為信、危険顧みず忠義 三成の遺児を庇護、弘前城に秀吉の木像安置
・父・家康に疎まれ冷遇 松平忠輝、各地を転々とするも趣味を見つけ長生き
・結城晴朝 ドライで世渡り上手 家康の次男・秀康との養子縁組に成功
・流浪の幼少期から大出世 加藤嘉明 積極性が奏功、水軍率い政治手腕も発揮
・太田資正、軍用犬を駆使 執念で宿敵・北条氏の最期見届ける
・関ヶ原での窮地脱出 鍋島直茂、米を買い占め家康に献上するしたたかさ
・佐竹義宣 26歳で全国8位の大大名 関ヶ原後に左遷も秋田で内政に尽力
・直江兼続が仕えたただひとりの君主・上杉景勝 ピンチを3度切り抜けた強運
・最上義光、知略を駆使して生き抜く 政治家としても山形繁栄の基礎を築き
・処世術に長けた猛将・三好政勝 信長・秀吉・家康に仕え
・浅野長政 家康暗殺はえん罪? あえて徳川領地内で謹慎
・三成に仕えた名軍師・島左近 黒田長政軍に決死の攻撃
・商人から大名に出世した切れ者小西行長 死刑免れ朝鮮水軍壊滅の大奮戦
・吉弘統幸 黒田如水隊に捨て身の突撃
・関ヶ原の戦い西軍総大将の毛利輝元 祖父を真似た謀略、あえなく失敗
・細川忠興、信長・秀吉・家康に仕えて生き抜く 非情さと情報収集力で危機回避
・大友義統 誤報信じた1度のミスで秀吉を激怒させる
・本多正純、ピンチから一転 陰謀でライバルを潰す
・タフな名将 明石全登 関ヶ原→大坂の陣でも敗北……でも生き残った
・九鬼嘉隆、本拠地失った水軍の将 信長に仕え大名出世も
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・宇都宮国綱 養子縁組を断りパワハラされ改易
長宗我部盛親 改易のどん底から大坂の陣で奮戦
滝川一益、ヤンチャが過ぎて追放の憂き目
武田家に造反したエリート 穴山信君 別行動をとった理由は痔
信玄と激闘、村上義清 プライド捨て上杉家の家臣に
武勇に優れながら冷遇され続けた結城秀康 「豊臣家への恩」家康に警戒され
父の遺言に背き徳川に臣従  前田利長 前田利長 自らの死でお家分裂を回避
賤ヶ岳の七本槍 片桐且元 豊臣と徳川の調整役として奔走
リストラから復活果たすも切腹 佐々成政  改革に反発する肥後国人の一揆鎮められず
お家断絶免れるも生き地獄の人生 有馬直純
落城で処刑危機も敵将が助命嘆願 信長の孫「三法師」織田秀信
黒田長政と確執 後藤又兵衛 出奔後も諸大名からスカウト続々
四国統一の礎を築いた長宗我部国親 少年時代に城を追われた恨み忘れず
豊臣五奉行の生き残り前田玄以 思慮深く、私利私欲のなさで時の権力者から重用
武士の道を捨てて帰農した開拓者・井田是政 北条氏滅亡で失業、先祖代々の土地で再出発
石田三成の仕打ちに激怒 蜂須賀家政 「恩人は家康」豊臣方のスカウト断る
両替商に転身して大成功の小川祐滋 関ヶ原で不当解雇も幕府お墨付きに
武田信虎 息子・信玄に追放されるもしぶとく生き抜く

119 :人間七七四年:2015/06/02(火) 20:45:09.32 ID:NjYek0MW.net
【雑談】大関ヶ原展京都展開幕

(´・ω・`)茶器初花に骨喰藤四郎か…
東京展では開催期間が終わってからの「終わってたの?」等の悲鳴が凄かった

120 :人間七七四年:2015/06/03(水) 00:46:24.04 ID:VATj5Zxx.net
わたし、昼間は女子大生で、夜は名古屋のヘルスで働いています。
今夜そんなわたしをデートに誘ってくれたのは、名古屋で一番いい大学に通うAクン(23)。
そんな彼は何かにつけてすぐ下ネタを絡めてくるんです。こんなに下衆な話ばかりするヒト、
風俗のお客さんでもそうそういなくて、ちょっと引いちゃいます。

今日も得意気に「この岐阜城をノブナガが攻めるために墨俣城を建てたんだぜ!
お前はヘルスのスマタ嬢だけどな」なんて大きな声で言っちゃってるんです。

普段こんなこと言ってるけど、このひと実はお勉強ばっかりの童貞なんじゃない?
なんて思ってた私は、ちょっと彼を試してみたくなって
「じゃあ、今日はわたしのお股城に攻めてきてよ!」って誘ったら
カレは一気に鼻息を荒くして「今すぐホテルに行こう!一夜でお前を攻める。まさにスマタ一夜城だぜ」
って、車に乗せられてラブホに直行させられちゃいました。

金華山では暗がりで分からなかったけど、明るいホテルで見たら
もう彼の股間はムクムクと美濃のマムシのごとく立派なものになっていたんです
(童貞っぽいし、スマタでイカセて終わりにしよ)なんて思ってた私のアソコは
美濃のマムシに見とれて、すでに長良川のごとくヌレヌレ。
「こんやは長良川の鵜飼じゃ〜」なんて言いながら、美濃のマムシは
まるで鵜飼のような突きで、わたしのお股城に攻めてきました。
「あぁ〜ん。いくぅー」と叫びながら、私は不覚にも絶頂を迎えました。

お股城で美濃のマムシをスマタで一夜で攻め落とすはずが、
逆に一時間もかからずに攻められてしまいました。

121 :人間七七四年:2015/06/04(木) 09:24:05.94 ID:DmYZl92r.net
加藤肥後守清正が茶会を催すという時、所持している名物の茶碗を出して置いたままにしていたが、
ここに小姓たちが集まって、撫でさするなどして見ていた所、その中の一人が誤って落とし、
これを割ってしまった。

皆驚いたが、さすが武功の者達の子供だけあって、「この事決して、割った当人の名を言わない。
たとえどれほど厳しい詮議があっても、互いに言うことはない」と誓った。

清正が席に戻ると、名物の茶碗が割れ置かれている。
立腹して小姓たちを呼んで詮議したが、彼らは清正の問に一言も答えず黙然としていた。
清正は睨みつけ、

「その方共は若輩とはいいながら、臆病なる者共かな!何れも父は武功の者であるというのに
かくも臆病なる有り様、父の名を汚す者共だ!」

この怒声に、加藤平三郎という14歳になる者が、頭を上げて清正の顔を見
「我々がどういう理由で、父の名を汚す臆病だと言うのでしょうか!?」

清正いよいよ怒って
「名物の茶器を割った科によって切腹をもさせられると思い、命を惜しんで割った者の名を言わないのであろう!
これによって臆病者といったのだ!」

「我々の中に命を惜しむ臆病者は一人もおりません!茶碗を割った者の名を申し上げないのは、どれほどの
名物の茶碗であっても、それは無くても事に欠けるものではありません。そんな器物のために、我々の内
一人足りとも、傷のつくことを惜しんで名を申し上げないのです。

無くても事に欠けないと申した理由は、国家を治められるのに器物が何の御用に立つでしょうか?
いまにも、御領国を奪おうと敵軍が押し寄せてきた時は、我々は命を捨てても敵を討ち取り御領国を
守護いたします。また、状況によっては主君の命にも代わり討ち死にいたします。

であれば、どれほどの名物の茶碗であっても我々の中の一人に代える理があるでしょうか?
これ故に、割った者の名を申し上げなかったのですが、我々の親たちの武功までも仰せだされた上は、
猶以ってその者の名は決して申し上げられません!」

清正はこの、まさに理の当然伏し
「あっぱれなる小姓共である。ゆくゆくは、父にまさるとも劣るまじき武士と成るだろう。
頼もしき者共かな。」と讃えたという。

(明良洪範)

122 :人間七七四年:2015/06/04(木) 19:21:04.25 ID:hzq95kPr.net
ぐぬぬ…次に戦が起こったら、こいつら先陣だな

123 :人間七七四年:2015/06/04(木) 19:41:37.51 ID:sHXMCJ0d.net
仕えてたのが清正殿でよかったな三斎殿ならどうなっていたやら

124 :人間七七四年:2015/06/04(木) 19:52:52.92 ID:Fpk8mbag.net
茶器を割られたこと自体には大して立腹してないんだな

125 :人間七七四年:2015/06/04(木) 20:26:42.62 ID:VYwm1czs.net
いい話か?これ
適当に言いくるめただけじゃん

126 :人間七七四年:2015/06/04(木) 21:50:40.89 ID:lnWP1Ttc.net
>>121は既出
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5818.html
名将言行録にも収録されてる事は知ってたけど
既出の方には出典無しなので出典明記thx

127 :人間七七四年:2015/06/04(木) 22:53:15.39 ID:QtANnKKS.net
清正なら割れた茶器見て、良い道具が出来たぐらいにしか思わないだろ。

128 :人間七七四年:2015/06/05(金) 00:41:25.97 ID:Cm6ghtPS.net
>>123
自分だったらそもそも
その辺に三斎様が放り出しといた名物茶器を
手に取って触れてみる勇気が出ない

129 :人間七七四年:2015/06/05(金) 06:48:23.58 ID:hzmwGSOp.net
名物の茶器割りすぎぃ

130 :人間七七四年:2015/06/05(金) 07:34:37.53 ID:UY1KKN2U.net
>>123
それについて、いい歌が詠めないと切腹

131 :人間七七四年:2015/06/05(金) 07:48:12.64 ID:LG4jWxex.net
手討ではなく切腹とはお優しい三斎様

132 :人間七七四年:2015/06/05(金) 09:04:39.23 ID:4WknGMYa.net
ことさら機嫌がいい日には切腹だけで許すこともある

133 :人間七七四年:2015/06/06(土) 23:54:15.63 ID:3+sHj+DJ.net
継げば趣がでるジャマイカ(鼻糞ホジホジ)

134 :人間七七四年:2015/06/07(日) 00:04:09.67 ID:qZFD/2I3.net
織部はすっこんでなさい

135 :人間七七四年:2015/06/07(日) 01:55:54.17 ID:hvMzztQS.net
武辺者の清正だから大した茶碗など持ってなかったのだろう
文化系大名だとこうなる。
http://livedoor.blogimg.jp/guusoku/imgs/9/8/987a1c74.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/guusoku/imgs/0/b/0b26f79d.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/guusoku/imgs/9/4/9450d5b6.jpg

136 :人間七七四年:2015/06/07(日) 09:52:14.21 ID:DFE7lzNk.net
中途半端なまーくんは自分で割るんですね?

137 :sage:2015/06/07(日) 11:43:16.67 ID:ifUBeCSR.net
>>135
打ち割りて接がれぬものは備前鉢 つかふものにも用心をせよ

138 :人間七七四年:2015/06/07(日) 17:21:06.42 ID:ecbDPL9G.net
天正14年(1586年)の事。
浜城城主・長与純一は兄の順平の死後その領地を押領し、親戚一同が諌めるにも関わらず
乱暴狼藉を働き、ついには主君である大村純忠に反乱を起こしました。
大村純忠は浜城に討伐軍を差し向けましたがその抵抗は激しく、また浜城は山城である為
攻め手は皆息を切らし、喉の渇きに苦しんでいました。
そんな中大村勢の中のある武者が \梅干し!梅干し!/ と大声で叫び出しました。
「梅干し」という言葉を聞いたため、兵士達は口の中に溜まった唾を飲みこみつつ奮戦し
無事浜城を攻め落とすことが出来ました。
こういう事があった為、浜城はこれ以降「唾飲城(つのみじょう)」と呼ばれるようになりました。

ちなみに\梅干し!梅干し!/と叫んだのは大村彦衛門という人物で
彼と彼の子孫は江戸時代には永代家老として長く大村藩に仕えたのだそうです。
(長崎県西彼杵郡の民話)

139 :人間七七四年:2015/06/07(日) 18:01:58.25 ID:6W5fCB+Y.net
曹操「パクんな」

140 :人間七七四年:2015/06/07(日) 18:13:18.11 ID:mDwpJFzN.net
梅林止渇の故事に倣ったら城を攻め落とせました

141 :人間七七四年:2015/06/07(日) 18:29:58.63 ID:rLUE+A1a.net
梅干しと聞いた大村方の兵たちは
「このまま城を落とせなかったらこめかみを拳骨でグリグリされてしまう!」
と必死になったのであったとさ(大嘘

142 :人間七七四年:2015/06/07(日) 23:05:43.45 ID:RARX4r5x.net
梅干し食べてスッパマン

143 :人間七七四年:2015/06/07(日) 23:49:18.50 ID:/OfgG08C.net
梅干しを食べたら忍者になるの?

144 :人間七七四年:2015/06/08(月) 00:35:42.57 ID:boPiY47B.net
止渇問題ですね

145 :人間七七四年:2015/06/08(月) 02:45:45.11 ID:w+a0g1Ia.net
清正が宇多尾の城を攻めた時の事。
戦後の論功行賞で清正は庄林隼人を戦功第一、第二を森本儀太夫とした。
しかし儀太夫は
「隼人は首を一つも取ってこなかったけど、俺は首を二つも取って来た。
それなのに俺の戦功が隼人より下なんて納得いかない!」
と呟き
「こんな見る目のない主君に仕えても俺には何の益も無い!」
と言い捨てて席を立とうとした。

すると清正は儀太夫を呼び止め、以下のように評価の理由を説明した。
「確かに今回の戦では隼人は首を一つも取ってないね。
でも隼人は俺を手伝って勝利に貢献したからこそ個人的な戦果は挙げられなかったのね。
おまえは首を二つ取って来たけど、俺が首を確認したらそれをすぐ投げ捨てたでしょ?
自分が功を立てる事ばかり考えて、主君を助けることは二の次にしてるから
そんな行動をしたんだなーと思ったのね。
だから今回の戦の論功行賞では隼人を一番にして、おまえを二番にしたのね。」

「ぐぬぬ…。」
こう言われては儀太夫も納得せざるを得なかった。
(名将言行録)

146 :人間七七四年:2015/06/08(月) 07:18:03.54 ID:Ai3rzuJe.net
ぐぬぬ…(子供の頃こいつに剣で勝ってれば)

147 :人間七七四年:2015/06/08(月) 09:30:11.18 ID:eScDMtkg.net
剣てw

148 :人間七七四年:2015/06/08(月) 10:00:08.08 ID:FPCtpOyh.net
>>145
へうげもののちょっちゅね清正で脳内再生された

149 :人間七七四年:2015/06/08(月) 13:46:30.65 ID:aPwIQt1M.net
初投稿失礼します。
普段、まとめサイトの方を見て楽しませて貰っているものです。

母方の群馬の実家に「大日向の火とぼし」という火祭りがあるのですが。

「火とぼし」は南牧村の大日向地区に4百年以上も昔から伝えられてきた、
県内に残されている最大級の火祭りです。火祭りの方式は「あばれ祭り」の型です。
住民の先祖が永禄4年、武田信玄軍が上州に攻め入った際、武田勢を助け、
領主勢の軍を打ち破った時の喜びを「火祭り」の形で伝えたものといわれています。
笛や太鼓とともに、南牧川に架かる大日向橋の上から、長さ2〜3メートルの縄に
くくり付けたワラ束を燃やし、2〜3人ずつでぐるぐると回します。
丸い炎の軌跡が闇の中に浮かび上がり、真夏の夜のひととき、力強さと幻想的な雰囲気が辺りを包みます。

https://www.youtube.com/watch?v=-dbVHSKoubE&amp;feature=youtu.be

(南牧村HPから転載)

気になってまとめサイトを調べてみたら、まさにその時の話がありました。

「武田信玄の国峯城攻め・いい話」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2244.html

500年以上前の出来事を地元の人達が文化として綿々と伝えてきたいい話?でした。

150 :人間七七四年:2015/06/08(月) 16:38:28.27 ID:yb1ny3h6.net
>>148
本家がそろそろクライマックスだからその後はこんなちょっとした話を集めた
デフォルメ武将たちのスピンオフでもやってほしいな

151 :人間七七四年:2015/06/09(火) 02:29:39.68 ID:8aW1a38G.net
有名な話なので皆さん既にご存じかと思うのですが
既出チェックしたら未投下のようなので書いてみます。

加藤清正の中備の吉村又市が釜山海で敵と戦い、戦闘は日暮れにまで及んだ。
清正は「そろそろ兵を退かせなければ危険だね。誰に頼もうか…」と考えて辺りを見回し
遠く離れた所に居た庄林隼人を呼んで兵を退かせるよう命じた。
隼人は早速采配をとって馬を交戦中の両軍の間に乗り入れ、無事兵をまとめ引き揚げてきた。
さてこれで良し…と思った清正がふと隣に視線をやるとΣ(゚Д゚)
直ぐ側に控えていた森本儀太夫が(´;ω;`)ブワッて感じで泣いていた。
しかも何やら怒っているようにも見える。

驚いた清正が泣いている理由を尋ねると儀太夫はこう答えた。
「隼人と俺は同じように殿に従ってずっと一緒に戦ってきたから
俺が決して隼人に劣らない事は殿もずっと見てきて知っている筈と思ってたんだけど、
俺が側に居なくて隼人だけが殿の側に居たんだったらどうも思わないんだけど、
すぐ隣に居る俺に(兵の撤収を)命じずにわざわざ遠くに居る隼人を呼んで命令するなんて
殿は俺より隼人の方が優れてる、役に立つと思ってるんだー!!。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン」

ウァーン・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )ナクナ
清正は泣き続ける儀太夫に笑いかけ、以下のように言って宥めた。
「そんなことは無いのね。二人共同じように俺の手足みたいに大事な家来なのね。
 ただ仕事をしてもらう時は性格や能力に合わせた仕事を頼むようにしてるのね。
(「汝等は均しく予が股肱腹心なり、使ふ所は其器に従ふのみ。」)
 もしお前に兵の撤収を頼んだら、お前は勇敢な気性だからきっと一戦交えてくるでしょ。
でもそうしたらかえって兵に損害が出ちゃうでしょ。
隼人は敵に取り合わずにさっさと引き揚げてくるだろうから彼にお願いしたのね。
もし強い敵や堅固な陣地を攻める時が有ればその時は必ずお前にお願いするよ。
お前に頼めば倍以上の敵だって怖くないね。
そういう強い敵を打ち破ることにかけてはお前に及ぶものは居ないよ。
儀太夫の良い所ってそこなんだからね。」

「殿がそう言ってくれるなら面目が立つような気がします…(´Д⊂グスン」
これを聞いて儀太夫は泣き止み、機嫌を直した。
(名将言行録)

152 :人間七七四年:2015/06/09(火) 03:20:50.41 ID:QT0enhVZ.net
力士うぜーなw
それにしても清正いい殿やね

153 :人間七七四年:2015/06/09(火) 04:13:16.97 ID:7/phbquE.net
たぶん、これに類する話って他でもあったんじゃなかろうかね

154 :人間七七四年:2015/06/09(火) 07:55:21.61 ID:Fz4IUy28.net
清正は脳筋家臣との友情話が多いな。西の清正、東の義光って感じか。

155 :人間七七四年:2015/06/09(火) 08:14:07.46 ID:pAiKCJVZ.net
>これを聞いて儀太夫は泣き止み、機嫌を直した。

お前は彼氏と喧嘩した女子大生かとw
てか、武士って結構すぐ泣くよなw

156 :人間七七四年:2015/06/09(火) 14:14:28.45 ID:YEEyi+y6.net
面倒くさいのは三河武士だけかと思ってたけど
ほとんど全ての武士が面倒くさい性格してるように思えてきた

157 :人間七七四年:2015/06/09(火) 14:46:01.42 ID:yywcjHnx.net
武者はヌコとも言え畜生とも言え、面倒くさき事が本にて候

158 :人間七七四年:2015/06/09(火) 15:34:49.62 ID:zqv3JMd7.net
確かにヌコも面倒くさいwww

159 :人間七七四年:2015/06/09(火) 19:07:35.37 ID:wS1pXIFy.net
加藤清正の家臣、飯田覚兵衛は、始めは6石取りであったが、後に2千石の部将となった。
その後、清正の命に違うことがあって牢人し、伏見に退居し、草履や馬踏などを作って生計を立てた。

福島正則はかねてより飯田の武勇を知っていたので、4千石で招きたいと言ったが、飯田は仕えようとしなかった。
その後も正則の下より度々使いが来たが、全て断った。この使いに飯田は言った

「私は清正の不興を蒙り、このように浪士の身となりましたが、二君に仕える心は持っていません。
今でも、清正の出陣が有るなら一番に馳せ付け、清正の馬前にて討ち死に致す覚悟です。」

正則はこれを聞いて深く感じ入り、早速清正にこの事を語った。
このため、清正はやがて飯田を呼び戻し、元の通り2千石を与えた。その後度々の武功で、6千石にまで成った。

(明良洪範)

160 :人間七七四年:2015/06/09(火) 22:50:04.06 ID:OQCpTe6Q.net
なんか前もみた覚えあるんだが

161 :人間七七四年:2015/06/09(火) 23:42:38.23 ID:QT0enhVZ.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8517.html?sp&sp

既出やね

162 :人間七七四年:2015/06/10(水) 01:15:57.60 ID:34KnPauR.net
       /´⌒ヽ
     /〆    i
   / /′    ,i       _,..r:ァ
  /"  i;       ノ'{`゙ヤ'"´⌒ /
./´     リ_,ィ:‐;''´   `   ``' ,/
                 ヽ
                     ヽ
           -=ュ、      i
              ・\心    ,!
              ゙`  ,ノ
                      ゙、
                    '_シ
       -‐_ニ==`   _ノ;'=.、
      ‐  ̄ /´'/ " ̄´  丶`ヽ
         '   ′

>>157
武者はヌコとも言え畜生とも言え、面倒くさき事が本にて候

163 :人間七七四年:2015/06/10(水) 02:45:26.69 ID:2vPuCum7.net
>>162
うちが撮ってデスクトップに貼ったヌコそっくりや

164 :人間七七四年:2015/06/10(水) 05:10:11.95 ID:bxb4SBnb.net
キャットぅ清正

165 :人間七七四年:2015/06/10(水) 22:28:02.23 ID:HAFLfQDK.net
龍造寺高房「鍋島を呪ってやるにゃっ」

166 :人間七七四年:2015/06/11(木) 00:56:18.40 ID:WFJ6n8Hm.net
池田備中守長幸の家臣、水野善右衛門は、文武に達し、至忠の老臣であった。

長幸が10歳の時のこと、善右衛門は長幸を強く争諫したことがあった。長幸はこれに大いに怒り、
物も言わずその席を立った。

一時程して、善右衛門は長幸に呼び出された。
「その方の先刻の諫言、心から承知した。
私のこの頃の行いは、甚だ心得違いであった。誤り入るものであった。
今後はその方の諫めの通り、行いを必ず改める。
それについて、その盃を飲んで、私に差し出してほしい。」

主君に盃を差し出すという行為を、善右衛門は僭越なことだと考えこれを硬く辞した。
長幸は再び言った

「その方の先刻の諫言によって、私は本心に立ち返ったのだから、その方は私のための
良き師である。ならば、身分は君臣であっても、道においては師弟である。
師より弟子に盃を与えることを、どうして固辞することがあるだろうか?
さあ、差し出してほしい。」

善右衛門は平伏したまま号泣し、再び頭を上げることも出来なかった。

世の人は浅野長幸を良将であると言う。これは水野善右衛門が彼を良将としたのである。

(明良洪範)

167 :人間七七四年:2015/06/11(木) 04:57:45.14 ID:EcOF5DD+.net
池田なのか浅野なのかはっきりしてくれ

168 :人間七七四年:2015/06/11(木) 06:49:38.64 ID:WFJ6n8Hm.net
>>166
>>167
池田です。申し訳ない。

169 :人間七七四年:2015/06/11(木) 10:59:26.83 ID:Dq6A5+cE.net
毒入り盃かと勘繰ってしまった

170 :人間七七四年:2015/06/11(木) 17:09:41.67 ID:G2dBjRRI.net
同じく勘繰った。

盃飲み干して「ぐはっ」
長幸「出過ぎたことを申すからじゃ」
とか思ってたら、そうそういい話の方だったと。
長幸公はお歳の割には老成しておられますな。

171 :人間七七四年:2015/06/11(木) 19:44:23.07 ID:WFJ6n8Hm.net
伊賀の住人であった日比惣八郎は、徳川家康がまだ三河一国の時代に招かれ、
鉄砲鍛冶棟梁として召し抱えられた人物であった。

ある時、冬の中鉄砲増産に励む惣八郎の姿を見ていた家康が、このように言った。

「日々に増えるものは胝(あかぎれ)であるなあ。よし、日比の姓を改め、胝と名乗るように!」
あかぎれのひびと惣八郎の苗字の日比をかけたわけである。

こうして日比惣八郎は胝惣八郎となった。
当初は”胝”と書いて本の姓と同じ”ひび”と読ませていたらしいが、やがて”あかがり”と読むようになった。

胝惣八郎はその後も家康とともにあり、関ヶ原、大坂の陣も徳川家の武器製造職人頭として活躍した。
また、江戸においては隅田川流域の土地を家康より直々に拝領し、ここを鉄砲町とした(現在の中央区本町)。
配下の職人たちを移住させ、惣八郎家は代々、この鉄砲町の名主役と成った。

(胝家文書)


家康命名シリーズ。胝惣八郎編

172 :人間七七四年:2015/06/11(木) 19:49:49.33 ID:xObTtLXF.net
>>171
ほんと、権現様のネーミングセンスって…

173 :人間七七四年:2015/06/11(木) 20:49:06.57 ID:Ztm/hrp0.net
>>171
内容は頑張る職人さんを労ういい話なのに
権現様のネーミングセンスが悪い話でもある…

174 :人間七七四年:2015/06/11(木) 21:02:36.78 ID:DR3qRAZ6.net
また権現さまの被害者が出てしまったのか

175 :人間七七四年:2015/06/12(金) 08:39:44.80 ID:loM7he5t.net
珍名だな。そんな名前は聞いたことないな。

176 :人間七七四年:2015/06/12(金) 08:52:14.28 ID:Hy7VMFPA.net
>>175
珍名だからこそ、聞いたことないんでそ。
あと、権現様由来の名前って、維新期に変えてしまう例もあるしなぁ

177 :人間七七四年:2015/06/12(金) 13:14:46.81 ID:NjHw0L8m.net
家事をがんばるママの手を見て「お前、名前手湿疹な」て言うような…?

178 :人間七七四年:2015/06/12(金) 18:26:48.14 ID:NF0l0HPn.net
薩隅の戦国お菓子 ふっかん

少し前に見た、鹿児島のテレビ番組で地元のタレントさんが鹿児島各地の
商店街などを巡るコーナーがあるのですが、とある和菓子屋さんに
「浜の市名物 ふっかん 期間限定」と書かれた看板が…
タレントさんが、お店の奥さんに「ふっかん」のことを聞いてみると
「富隈城に(島津)義久公がいらした時に献上されたお菓子で」
「皆に福が来るようにということで福+羹(かん)でふっかんです」
といわれてました。
ふっかんを検索しましたら、とあるHPでは

ぷるぷるつるんとして、もちもちの食感。口の中に広がる黒糖の風味は、
何だか懐かしさを感じます。「ういろう」にも似たその食べ物は「ふっかん」
といい、隼人町の浜之市で昔から作られてきた伝統菓子です。

ふっかんを製造・販売している○○庵(隼人町富隈地区)の(和菓子屋の
ご主人)さんは「浜之市は琉球との交易で黒砂糖が手に入ったので、
それを使って作るようになったようです。富隈城のお殿様に献上したところ
大変喜ばれ、自分だけでなく多くの民にも食べてほしいと言われたことから、
人々に福が訪れる”福の羹(かん)(羊羹(ようかん))“ と呼ばれる
ようになったという説もあります。私の母が商品化しましたが、母の死を機
に販売を辞めたところ、続けてほしいと多くの声をいただきました。
地域の食文化と食べてくれる人のうれしそうな笑顔を守らねばと今も作り
続けています」と話します。

HPには家庭用にアレンジされたレシピも載ってました。
ふっかん(20個分)
〈材料〉
小麦粉300g、黒砂糖(粉状)300g、片栗粉20g、水700t

〈作り方〉
1.小麦粉、黒砂糖(粉状)、片栗粉を混ぜ、ふるう。
2.1. の中に水を入れ、ざるでこし、型(直径7p程度のわん型)に流し入れる。
3.20 〜 25分蒸す。
4.冷めたら竹串を使って型から取り出す。

タレントさんが食べたときの感想は「さっぱりしていて、餅と羊羹の
間みたいな感触です」
このお菓子は浜の市地区でしか知られてないお菓子で、田植えの時の
お茶菓子として昔は各家庭で手作りしていたそうです。
お昼ごろには売り切れる人気商品で、田植えの時期から7月くらい
までの期間限定品だそうです。
(MBC 南日本放送 ズバッと!鹿児島 のぶらり商店街2015年6月6日
放送分より霧島市隼人町の「霧島市はやとサン・シティ通り篇」)

179 :人間七七四年:2015/06/12(金) 18:36:01.47 ID:5Afn7Ytw.net
春駒を思い出した
(黒くて太長いから「馬の魔羅」と呼んでたが薩摩殿様にその名で献上するのはちょっと、
てことで「春駒」に名前が変えられたういろうっぽい菓子)

180 :人間七七四年:2015/06/12(金) 19:41:09.87 ID:K8meW4ni.net
(´・ω・`)由来はともかく春駒も美味しいお

181 :人間七七四年:2015/06/12(金) 20:15:23.31 ID:NF0l0HPn.net
春駒については、とある鹿児島のお菓子屋のHPでは
>明治五年時の明治天皇が鹿児島に行幸された際、このお菓子を献上した処、
この名前をお尋ねになり、県知事がとっさに「春駒」とお答えしたと云う
エピソードが今も伝えられております。
となってますね。

ふっかんについては義久に関連するお菓子が400年以上絶えることなく
残っていた事が嬉しいです。

182 :人間七七四年:2015/06/14(日) 00:08:51.24 ID:rsqBmLUF.net
春駒#菓子
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E9%A7%92#.E8.8F.93.E5.AD.90
 > 昔は数十cm程に長く作られた為、その形状から馬の陰茎を指す、
 > うまんまら(馬ん摩羅)と呼ばれていた。
 > 春駒と呼ばれる様になったのは、この菓子が献上され、その名称を
 > 尋ねられた時に、「うまんまら」と言う表現が直接的だった事から、
 > 周囲が閉口してしまった為、言い替えられた物であるとされており、
 > その時に献上された人物については、当時の島津藩主や、行幸で
 > 鹿児島を訪れた皇族等、諸説様々な話が伝えられている。

黒人陰茎とか呼べばいいのに

183 :人間七七四年:2015/06/14(日) 02:43:24.23 ID:jSLh0mmt.net
武将所縁でも加勢以多や長生殿とかだと茶人だからかお上品なんだよなあ

184 :人間七七四年:2015/06/14(日) 03:11:27.95 ID:93mxXO27.net
寒河江広俊の遺書

慶長19(1614)年1月18日、雪の残る山形城で最上義光が69歳で没すると、葬儀は2月6日に慶長寺(現在の山形市三日町長源寺域。寺名は光禅寺に後に変えられ、鳥居忠政の時代に郊外に移された)で執り行われ、
その日の酉刻(18時頃)に4人の家臣が腹を切って殉死した

殉死の筆頭は寒河江領主2万7000石の寒河江肥前(寒河江広俊)
1580年代に楯岡満茂を介し、早くから最上義光に味方の意を示し、山形に協力を惜しまなかったために信任を得、義光も大いに広俊に報いた

「霧となり霞と消える夕べかな」
「神去りまします悲しみにたへず。従ひたてまつらんと思ひつめ(最上義光公の死で生きる支えを失いました。殉死してあの世のお供をさせて頂きたいと考える所存です)」

「寒河江文書」

最上義光の死には山家河内(山家良干入道)、長岡但馬、寒河江広俊の息子の十兵衛(寒河江元茂)が追腹を切り
主人があの世で道に迷わない様に、酉刻前に寒河江肥前の従者が2人腹を切った

現在の鉄砲町光禅寺の最上義光の墓所前には
寒河江親子、長岡但馬、山家河内ら4人の墓が死後も義光に付き従っている

185 :人間七七四年:2015/06/14(日) 08:27:01.40 ID:c4WaetCm.net
まあ、追い腹を切る気持ちもわかるんだけど、次代の支えになろうとは思わんものか
最上は義光一代で大きくなってるから、譜代(というより一族か?)と新参の軋轢ってかなり酷いのかな?

186 :人間七七四年:2015/06/14(日) 09:38:41.42 ID:4WT0tT0O.net
あくまで一主君に忠節な臣で、こういうのは
社稷の臣にはけしてなりえないんだよな
殉死って俺は全く評価しないし

187 :人間七七四年:2015/06/14(日) 09:40:09.04 ID:BCV+LkPd.net
殉死を拒否してお家の戦力低下を招いたのが宇喜多やんかw

188 :人間七七四年:2015/06/14(日) 11:44:37.44 ID:easPcFdM.net
最上の場合は譜代が全員腹切ってた方が良かったかもしれんぞ

189 :人間七七四年:2015/06/14(日) 16:32:16.03 ID:qbnFJWNt.net
泰平の世になり合戦で家臣が適度に討ち死にしなくなったせいだな
やっぱ天下泰平ってクソだわ

アレ?

190 :人間七七四年:2015/06/14(日) 17:02:09.88 ID:93mxXO27.net
最上騒動は義康暗殺や家親の急死の他に、譜代より中途採用組たち(鮭延秀綱)らが義俊擁護を拒否したのも原因だから…

一門…楯岡光直(義光の弟)、山野辺義忠(義光の子)、松根光広(義光の甥)
譜代…氏家光氏(成沢氏からの養子)、新関久正、谷柏直家
他…鮭延秀綱(元独立勢力)、本城満慶(楯岡満茂、元天童派)

191 :人間七七四年:2015/06/15(月) 00:17:21.53 ID:1Qtzb3vr.net
178・181です。
>浜之市は琉球との交易で黒砂糖が手に入ったので
とあるように義久は交易に力を入れていたようです。
秀吉に対して恭順の意を示すため富隈城を築いた…
のではなく、数年前に見た霧島市の情報誌では秀吉は義久には
北薩に行くよう言われていたが、なんやかんやで理由をつけて浜の市に移り
富隈城を築いたと…それは貿易を行う為に浜の市港に目をつけていたのだと…

>その僅かな在城期間に城下の浜之市の港を整備して商人を招き、江戸時代
には坊津、山川等と並ぶ薩摩藩内では栄えた港の一つとなった。この地で
行った開発を義久は国分で引き続き行っており、実験的な城下町の一つだった
と考えられる。(ウィキペディア)

富隈城在城期間に義久は「唐人(外国人)との喧嘩口論禁止」のおふれを
出しています。貿易を円滑に行うための配慮のようです。

192 :人間七七四年:2015/06/16(火) 20:18:30.75 ID:Bp4z5vzR.net
今日は嘉祥の日だから
江戸城行ったらお菓子もらえるな

193 :人間七七四年:2015/06/16(火) 22:44:11.83 ID:AvPKovL1.net
つ 一六タルト

194 :人間七七四年:2015/06/17(水) 09:57:36.83 ID:1eeJbUS9.net
権現様の味噌話も付いてきます

195 :人間七七四年:2015/06/17(水) 23:42:17.52 ID:SvDsH68R.net
播磨の上月城攻めに出陣中の吉川元長が、非常に親しい間柄である西禅寺の以徹に書き送った書状がある。
そこからは対織田最前線の戦況とともに、意外と御茶目な元長の人柄を垣間見ることができる。


播州佐用郡より以徹尊老禅室下へ 黙然(吉川元長)

お送りいただいた翠の硯を拝覧いたしました。恐悦であります!恐悦であります!恐悦であります!恐悦であります!!
お互いに伊勢物語の歌のようにございますな!おもふ事も我にひとしき人なければ、言わで止み申し候。誠にをかしいですね!
(伊勢物語の歌・・・「思ふこと言はでぞただにやみぬべき 我と等しき人しなければ」)

一、この山に陣を張って以降、通信が不自由で誠に心外ななか、御音信をお預けいただいたこと心より感謝しております。何分遠方ですのでご容赦くださいませ。
書面を見るに具合が悪いようですが、いかなることかと心細く思っております。
ご来翰の際にはぜひ詳細をお教えください。

一、この山に陣取ったのは4月18日、敵が陣取ったのは5月4日です。

一、老臣が申すところによると、こちらの人数は3万に及ぶとのこと。敵は1万以内と見受けられるとのことです。

一、この陣の普請、陣取、切搦にあたった諸侍に対し、公方様が真木島昭光を通じて感状を差し出されました。各々ありがたく思い、お役に立つべく覚悟を新たにしております。
この様子、そして陣中の若者たちを尊老のお目にもかけたいものです。

一、我らごときものが申すことは、皆に取り上げられませんでした。追って詳細を申し上げます。

一、この山陣はことのほか霧が深く、用心が悪いです。でも風情はありますね。

一、城内には(尼子)勝久・(立原)源太・鹿以下の者が籠っておりますが、水・兵糧は全く無いと落人が申しております。

一、敵陣にいるのは羽柴筑前守先木下藤吉郎・荒木以下です。

一、この間、伊勢の滝川と申す者と佐久間の両人の所と、羽筑(秀吉)・荒木の所へ狂歌を送ったと聞きました。

あら木弓はりまのかたへおしよせて いるもいられず引もひかれず

なにしおふさよ(佐用)の朝霧たちこもり 心ぼそくも鹿やなくらん
一笑々々

一、尊老のことを朝夕懐かしく思っておりますが、目的はもちろん果たしますよ。
色々と取り乱しておりますゆえ書面は整っていませんが、我らはことのほか気分よく過ごしておりますのでご安心ください。
なお後の喜びを期しております。恐惶謹言。

(天正六年)五月晦日 花押

196 :人間七七四年:2015/06/18(木) 08:19:15.85 ID:xMhbDd1U.net
醜男だからオマイラと気が合うかもなw

197 :人間七七四年:2015/06/18(木) 09:33:34.31 ID:UX6sE5sI.net
急にどうした、容姿にコンプレックスでもあるのか?

198 :人間七七四年:2015/06/18(木) 11:43:25.60 ID:yzQz14Hj.net
と醜男が反応してます

199 :人間七七四年:2015/06/18(木) 14:14:13.13 ID:thj7Sfa9.net
毎日IDコロコロ買えて他人バカにすることしかないのって虚しくならない?

200 :人間七七四年:2015/06/18(木) 14:16:37.72 ID:AjNx7w6X.net
と単発IDの醜男が惨めな投稿を繰り返してます

201 :人間七七四年:2015/06/18(木) 14:45:28.22 ID:qi4+EWto.net
けんかすんな

202 :人間七七四年:2015/06/19(金) 10:26:13.57 ID:soOODYAu.net
>笑々々

これはwwwという意味だな?

203 :人間七七四年:2015/06/19(金) 21:42:46.88 ID:I2LVEqUk.net
>>202
「一笑々々」だよw
意味はあってる。

204 :人間七七四年:2015/06/19(金) 23:02:05.65 ID:uHyfaiYn.net
秀吉が隠居所としてつくった最初の伏見城(慶長地震で倒壊して破棄された方)の跡が発見されたそうですね

205 :人間七七四年:2015/06/20(土) 00:26:47.36 ID:j0eYCWS1.net
慶長8年、徳川家康公に将軍宣下があった後、長井直勝に命じて、この新しい将軍家の書式法令等の
制定が命ぜられた。しかし当時、そのような故実に通じた人間は関東に居なかったため、当時の故実者である
細川玄旨法印(幽斎)に室町将軍家の儀式作法を質問した所、当時、有識者の間で評価の高かった
曽我又左衛門助興を推薦され、これを召し出すことに成った。
彼を中心に、徳川家の制法を元に改正され、御内書、御奉書の令式その他、将軍家の法令が定められた。

総じて神君が、甲州を手に入れられた時には武田家の法令を以って甲信駿に掟され、その後
関東に入られた時は北条の家法を用いられた故に、速やかな治平を成し遂げられた。
ただし、年貢のことだけは三河の旧例を用いられて、軽い収納のみ行っていた。
このことだけは古から代えなかったので、諸民もその御恩澤に浴して『この君万世』と謳ったのである。

ところで曽我助興について、彼はもともと室町将軍の牢客であった。そのような人物が新たに
幕府に召し抱えられたため、関東の諸士は彼を軟弱な京都の者と思って侮った。
ある時、土井利勝が座興に彼に聞いた。「あなたは有名な曾我氏の子孫ですが、曽我兄弟について、
実家に伝えられていることはどあるでしょうが、兄弟について世上に言われていることをどのように
考えていますか?」

曽我はこれに
「そうですね…、私は若輩者ですから、曽我兄弟が何をしたかなんて覚束きません。」

この答えを聞いた時、一座の人々は彼が只者ではないことを初めて悟り、感服したのである。

(明良洪範)

何故

206 :人間七七四年:2015/06/20(土) 13:10:57.03 ID:HPlK6aeZ.net
「仇討ちで高名な曾我兄弟の末裔でありながら、それを誇らないとはこやつ只者ではない…ッ!」
って事?

207 :人間七七四年:2015/06/20(土) 13:14:02.15 ID:HPlK6aeZ.net
あ、末裔じゃないや間違えた
「曾我兄弟の仇討ちで高名な曾我の一族」か

208 :人間七七四年:2015/06/20(土) 17:47:27.80 ID:/+dwaIqv.net
曽我五郎の「人の太刀わろしと言ふ人定めてよき太刀は持ちぬらん」っていう台詞からかな
しっくりこないが

209 :人間七七四年:2015/06/21(日) 09:47:21.54 ID:nTQPsGUx.net
天正16年の秋の末(実際には、天正15年10月1日)、豊臣秀吉は北野の社において大茶会ということをされた。
秀吉はもとより茶の湯を好み、宇治の里の茶を貴び、唐の壺の形の良い物を賞翫していた。

その頃、その道に名のある千宗易(利休)といって、和泉国堺の物頭が出頭し時めき、彼にその道を学ぶ者
数を知れなかった。
上の好むことに下が従うのは世の習いであるから、その様は言わずと知るべきであろう。

北野の御社をめぐる馬場の左右、松の木の下、梅の木陰、岩の狭間、千尋の陰などに、茶屋を作るべき
場所を計らい、茶の志ある人々に与えて、それぞれの工夫に従い茶屋を作った。
あるいは茅葺きに柴の垣して縄のすだれ、竹の網戸、あるいは苫葺きに檜垣して渡し、あるいは
蘆葺きに葦の垣、或いは篠葺き、様々にしつらえ、岩を鼎にして藁のむしろを敷き、松の下枝より
縄をおろして、茶釜を作った上、瓶を割って水をたたえ、藁札を敷くなど、それぞれの心々のいとなみ、
言の葉に表してしまえばその多くを漏らしてしまう。

彼らは、伝持してきた墨跡、花瓶、茶壺、花入れ、水挿し、茶碗、茶杓、様々な茶の器物、唐物大和の
値高き物ども、ことのき面々取り出し、この会のためにと出してきた。
これはかねてから企画し世に宣伝された会であったので、遠き国のものまで、この道に心傾ける者は
我も我もと上り集い、おおよそ千人余りと成った。

秀吉は拝殿を屏風で囲い、その頃収集した茶の器物を取り出し、その道に長ぜる者5人にて、
5ヶ所に座を構えて、今回この会に参加した輩、6,7人ずつ組にして、残らず茶を飲ませた。

その間に秀吉は作り並べた人々の茶屋などを見まわった。経堂の傍らに、地ぶきの茶屋を構え、
松かさを燻べ、炭窯ように煙の立ち上っている所があった。
この前まで行って見ると、亭主は50ばかりの法師で、さすがこの道の数寄と見える人物であった。
「茶はあるか?」と尋ねると、「持たぬ」とふくべに麦こがしを入れて、松の枝に掛けてあったのを
取り出し献ずると、秀吉も非常に感じ入った。

秀吉は終日このように茶屋を見て廻り、酉の刻(午後6時頃)聚楽に帰って行くと、集った人々も、
日数をかけて心を尽くし、巧みにこしらえた茶屋などを皆取り払って元のように戻し、退散した。

この会は後々まで人の口ずさみに先ず出てくる話題であった。
(豊鑑)


豊鑑より、北野大茶会に関する記事である。

210 :人間七七四年:2015/06/21(日) 10:42:11.08 ID:IWGHGpvY.net
【国際】キリシタン大名の高山右近「福者」に…バチカン審査委了承
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1434848601/

211 :人間七七四年:2015/06/21(日) 14:43:26.82 ID:f/EHBiN5.net
福者とか聖人ってのは殉教者でないと認められないのかー
右近はべつに磔になったわけじゃなく、追放だからあんまりピンと来ないな


まあジジイになってから、北陸から九州まで護送されて
船旅も楽じゃなかったろうから、すぐ向こうで死んじゃったわけだが

212 :人間七七四年:2015/06/22(月) 06:24:01.80 ID:SvJtWPb1.net
秀忠公の時代、大久保忠鄰が井伊直孝の預かりとなった。
井伊直孝は参勤に向かうにあたり、大久保忠鄰に、

「大久保さん、あなたは人の讒言により無実ながら罪の身となり、
私のところへ預かりになったと、世上でもっぱらの噂になっています。
このたびの参勤で江戸に上がり、このことを将軍さまのお耳に入れ、
すぐにでも帰参のお許しが出るようにしたいと思っています。
ですから、詳しい話を聞かせてください。」

大久保忠鄰は、

「ありがたいお心づかいです。
しかしながら、私は無実ではありません。おそらく、根も葉もない世間の噂話でしょう。
それをさも讒言があったとしてお許しをいただくとなると、はなはだよろしくない。
私のことなら心配無用です。」

と断った。

「見事な態度です。
ですが、このことは世間の噂として私一人が知っているのではなく、
大久保殿の無実については、証人も数人名乗り出ているのです。
天下の御政冶に今回のような理不尽があっては、幕府のためにもなりません。
いずれこの非を正し、御帰参となるようにするつもりです。」

と井伊直孝も譲らない。(1/2)

213 :人間七七四年:2015/06/22(月) 06:51:46.83 ID:SvJtWPb1.net
すると大久保忠鄰は、

「井伊殿はなにもかも知っていると見える。
それならば、私も本心をお話しようと思う。
私がもし讒言にあったことを無念に思ったなら、すぐにでも弁解しています。
しかし今ようやく天下が治まり、日本国中が幕府を見習おうという時に、
役人の中に悪い者がいて、無実の者を讒言で陥れたと世間の噂話となったらば、
秀忠さまに悪名をお着せすることになり、諸大名たちも不穏の心をいだくかもしれません。
だからこそ無実の証明をせず朽ち果てることが、この時節の奉公であると覚悟したのです。
たとえ帰参出来ても、これほどの奉公を出来ることはないと思っているので、なんの苦もないのです。
出世の望みもないので、ここで何も言わず朽ち果てることがひとかどのお役に立つわけですから、
御とりなし御無用にお願いします。」

と本心を打ち明けた。
井伊直孝はとても感心して、

「貴方ほどの忠義の臣を埋もれさせるのは、天道にも反することでしょう。
私の出来るかぎりの力を使い、必ずや帰参出来るようにしたい。」

とさらに譲らない。
すると大久保忠鄰は怒りだし、

「私が、心底残らず本心を話しても、貴方は聞き入れてくれない。
どうしようもないので、このまま餓死いたす。」

と言い切り口を閉ざした。
井伊直孝は、

「それほどまでの覚悟ならば、もはやすべて大久保殿のお心にお任せします。
それにしても貴方の忠節、比べるものもございません」

と、感涙を流した(1/2)  【葉隠】

214 :人間七七四年:2015/06/22(月) 06:53:38.38 ID:SvJtWPb1.net
>>212
大久保さん→大久保殿でお願いします

215 :人間七七四年:2015/06/22(月) 15:31:04.52 ID:MTMHuJgH.net
先ほど悪い話スレに場違いな逸話を投稿してしまったのでお詫びに有名だけどまとめに無かった話を一つ

太田資長(道灌)が京に上がった時、将軍の義政が饗応するといった。
資長は、義政が一匹の猿を飼っていて、その猿は見知らぬ人と言うと、
必ず引っ掻いて傷をつけていると伝え聞いていたので、猿師に銭を与えその猿を借りた。

そして旅宿の庭にその猿をつなぎ出仕の装束で側を通るとその猿は飛びかかってくる
資長は思いっきり鞭でその猿を打ち伏せると猿は首を垂れて怖れ入ってしまった
資長は猿師に厚く感謝をして猿を返した。

そして饗応の日がきた、義政は例のごとく猿を通路につないでおき、資長の様子を見ようと待ち受けていたが、
その猿は資長を見るや否や地にひれ伏してしまった

資長は悠然と衣紋をひき繕い、素知らぬ態で通り過ぎたので、
義政は「尋常な人ではない」と言って大いに驚き入ったという事だ。

「名将言行録」の太田道灌が凶暴な猿を調教した良い(?)話、
政宗にも似たような逸話があったような気が、、、

216 :人間七七四年:2015/06/22(月) 18:45:35.48 ID:SvJtWPb1.net
>>213
何度もすみません。
(1/2)→(2/2)でしたね

217 :人間七七四年:2015/06/22(月) 21:48:39.97 ID:XdcpUGeK.net
>>215
立花道雪にシバかれた大友宗麟の猿といい、
この時代の猿はよく殴られるなw

218 :人間七七四年:2015/06/22(月) 21:50:31.93 ID:IpAvlnDm.net
サルのペット化はステータスなのかそれとも何かの暗喩なのか

219 :人間七七四年:2015/06/22(月) 22:23:24.45 ID:bXJSOZYX.net
猿は魔除けで飼うとかじゃなかったっけ?

220 :人間七七四年:2015/06/22(月) 22:31:19.32 ID:+Le+v5ss.net
子孫繁栄みたいな意味もあったような気がする

221 :人間七七四年:2015/06/22(月) 22:53:39.45 ID:J0EE1+V0.net
馬の守り神としてよく厩で飼ってたから
江戸時代以前の武士には馴染み深いペットだったんだろう

222 :人間七七四年:2015/06/23(火) 06:05:52.95 ID:B5AQbp3J.net
太田資長が松山城を築いた時の話、
資長「この城に何か欠点があって文句がつける者があれば、重賞を与えて感謝する!」
という一書を東門にかけた。

すると一人の旅人が城の周りに植えてある松を見て
旅人「松は終始風を含み、松籟といって颯々たる響きがあるから忍び込むには便利だ、
城の周りに松を植えるべきではない」と言って去って行った。

資長はこれを聞きとても驚きこの旅人の行方を追わせたがついに見つかることは無かった
世にその旅人は神人だと言い伝えられている。

「名将言行録」謎の旅人に新築の城の欠点を見抜かれる話

223 :人間七七四年:2015/06/23(火) 07:16:02.75 ID:9vUPh6Xn.net
呂不韋と呂氏春秋の話に似てるな
あっちは城じゃなくて百科事典だが

224 :人間七七四年:2015/06/23(火) 07:48:54.23 ID:5rId61GS.net
松の代わりに何を植えたのだろう
とすると松山じゃなくなるよな

225 :人間七七四年:2015/06/23(火) 08:46:58.98 ID:JgRv8cn3.net
城の周りなら松か竹を植えるのが多いんじゃない

226 :人間七七四年:2015/06/23(火) 08:54:02.01 ID:FRsbJcyr.net
城は敵が隠れないよう見晴らしを良くしないといけないから、みんな切っちゃったんじゃないかね?

そういえば今の城跡の多くは桜が植えられてるけど、桜の根が伸びて石垣を崩し
全国で結構な問題になっているらしい。

227 :人間七七四年:2015/06/23(火) 09:33:54.51 ID:lwcX4nWk.net
>>226
実用ではなくイメージでやるからそうなるw

228 :人間七七四年:2015/06/23(火) 10:35:25.41 ID:LkICDGu3.net
実用なら梅かな

229 :人間七七四年:2015/06/23(火) 11:06:33.67 ID:Ip0Rxk1t.net
桜と城は合うからなあ。

230 :人間七七四年:2015/06/23(火) 11:50:16.14 ID:eztrH43z.net
成富茂安がこのスレを発見しました

231 :人間七七四年:2015/06/23(火) 12:29:21.48 ID:MT8d1vxG.net
>>228
如水さんこんなとこで何してますのん

232 :人間七七四年:2015/06/23(火) 20:55:48.50 ID:FRsbJcyr.net
天正17年の春、秀吉公が思われたことは、
『私は今、日本を心のままにはかり、よろず乏しいという物はない。金銀を多く積み置いても何に代えるというのか。
用いないのならこれはただ、石のたぐいを蓄えるのと変わらない。
このごろ従った家臣たちに配り与えて、その家をも賑わいさせよう。』

こうして貴きも賤しきも、宮仕する人々を書き記して、その人の品により、金銀の分量を定め、
聚楽の南、三の門の中で、二町(約218メートル)あまりの白洲の上に隙間なく、どれほどの数か
限りない台に据えならべ、その人の名を付け、かねて定めていたように、一人ひとり出て、この金銀の
受け取りをさせた。

この事は、古よりも伝え聞いたことはないと、古き人々なども言い合った。
人となって誰が富を好まないということがあるだろうか。多い上にもなお多く、集める上にも集めたいと
思うものなのに、このように宝を分け施して人を富ませようとのこころざし、有り難きわざであると
人々は語り合った。

(豊鑑)

天正17年の、秀吉の金配りに関する記事である

233 :人間七七四年:2015/06/23(火) 23:27:28.06 ID:AoMip4TV.net
金で集めた家臣は金で裏切る

234 :人間七七四年:2015/06/23(火) 23:48:08.21 ID:ahZ2YJHv.net
巨人軍みたいなもんか

235 :人間七七四年:2015/06/27(土) 05:47:06.90 ID:Z6m1tptU.net
昔の広報が出て来たので一筆

「地元の方々に祖先が慕って頂ける事はありがたい事です」

最上公義氏「祖先の愛した郷土に人物を顕彰する施設を設けて頂き、うちの蔵にあったものを広く皆様に見て頂ける機会も得ましたので、これも縁とこの度家宝を山形に寄託する事に致しました
昔、我が家が危機だった際に隣の伊達家が助けてくれた事がありました
そのように現在の私たちも助け合っていきましょう」

個人蔵だった最上義光の兜・鉄指揮棒・文手紙・書物・書きつけ等数百点すべてを旧領の自治体に寄附

氏は先年世を去られたが、氏が寄贈なされた最上家の宝物は山形市で現在入れ替えを含め無料で一般に展示公開されている

236 :人間七七四年:2015/06/27(土) 05:56:51.09 ID:Z6m1tptU.net
近江大森最上家に伝来した宝物と先代最上家当主最上公義氏
http://samidare.jp/yoshiaki/note?p=log&lid=80276

237 :人間七七四年:2015/06/27(土) 12:31:20.52 ID:dpfjbPjM.net
さすがに最上スレでやれ

238 :人間七七四年:2015/06/27(土) 12:37:28.15 ID:Bn5kcBVI.net
こいつに言っても無駄よ

239 :人間七七四年:2015/06/27(土) 13:02:59.46 ID:QF3Nrmxm.net
この後IDを変えて反論するまでがセットの投稿

240 :人間七七四年:2015/06/27(土) 18:58:58.95 ID:vtG9DPCY.net
>>616
亡き王女のためのパヴァーヌ

>>634
おっぱいもパンツもない

241 :人間七七四年:2015/06/27(土) 18:59:53.22 ID:vtG9DPCY.net
誤爆

242 :人間七七四年:2015/06/27(土) 20:46:37.86 ID:xqp76Vam.net
それ長門ちゃんの話だろ

243 :人間七七四年:2015/06/27(土) 21:04:49.53 ID:6wHvgJx2.net
藤林長門か木村長門か
それとも軍艦か

244 :人間七七四年:2015/06/27(土) 23:20:49.16 ID:l/46ygc6.net
>>240
誤爆にあれだが何の話しだよwww

245 :人間七七四年:2015/06/27(土) 23:29:13.95 ID:vtG9DPCY.net
>>244
>>242が正解

246 :人間七七四年:2015/06/28(日) 00:05:08.36 ID:cXegKPsH.net
つまり、木村重成の嫁さんは貧乳だったと?

247 :人間七七四年:2015/06/28(日) 07:47:50.83 ID:fosTrykK.net
徳川秀忠が鷹狩を行った帰りに、鶴の料理を家臣たちに振る舞った。
この時秀忠より、自身の侍医である「野間玄琢にも食べさせよ。」との上意があり、
そのため玄琢は頂戴したのだが、あまりの有り難さのあまり、鶴の御汁を頂きすぎて、
自分の頭から襟の周りまで暑い汁をかけてしまい、散々の体となってしまった。

この様子を秀忠は見たのであるが、この時脇差で頬杖をした状態であったのを、その姿のまま眠ったような
様子になり、玄琢の方を見ることはなかった。
これは自分が玄琢の散々な様子を見てしまうことで、彼に迷惑がかかるのを防がれたのだという。

(明良洪範)

248 :人間七七四年:2015/06/28(日) 07:55:02.91 ID:ULF/8Hgm.net
狸の子寝入り

249 :人間七七四年:2015/06/28(日) 11:14:02.70 ID:+ODgI+P4.net
笑ってはいけない秀忠

250 :人間七七四年:2015/06/28(日) 12:11:30.05 ID:nNBLEnjZ.net
「ありがたき幸せ〜」って頭の上に持ち上げすぎちゃったのか

251 :人間七七四年:2015/06/28(日) 12:52:36.35 ID:A/lytio3.net
頂きすぎって汁を持ち上げすぎたってことか
大量に頬張っておかしくなったのかと思った

252 :人間七七四年:2015/06/28(日) 12:59:45.11 ID:4XJCWfrc.net
大きい器だとこぼしやすいよね

253 :人間七七四年:2015/06/28(日) 15:18:04.31 ID:CcgXm/9j.net
玄琢「かけるなよ、かけるなよ…」

254 :人間七七四年:2015/06/28(日) 18:13:35.46 ID:N3cZFedN.net
部屋のポットでションベン沸かす奴

255 :人間七七四年:2015/06/28(日) 23:04:54.18 ID:2+qsOagc.net
示現流と家久公の奥方

 現在は鹿児島県民以外でも学ぶ事の出来る示現流兵法。但し、女性の入門は受け付けていないそうで、戦前は東郷宗家の女性でも稽古を拝見する事も出来なかったそうです。

 が、かつて島津家久(彼と島津斉興だけが、示現流で免許皆伝に相当する四段の段位を授けられたそうです)の奥方が示現流を修行し二段まで習得。
 殿方が城を出た後の城を守る為の心得として、示現流の小太刀の技や他流の薙刀の技などを奥向きの侍女や奥女中にも習わせたそうです。

 数年前、示現流史料館で説明役の御婦人が詳しくお話ししてくださり、「鹿児島の古武道」という昭和61年に先々代の御宗家が講演された時の史料も(写しを)拝見したのですが…。

 この史料にも「奥方」というだけで、実名の記載はなかったと記憶しているのですが、これはやはり正室であり嫡女であった亀寿なのでしょうね。

 江戸中期に記された久保之英の「示現流聞書喫緊録」によると、昔の門弟は両度(七つの段位で下から二番目の段位。鑓留を含む)なら本当に槍を止める事が出来たが、今は三〜四段でも本当は鑓留が出来ないと嘆いているので、夫婦ともに本当に強かったのでしょう。

 ……この「奥方」が本当に亀寿だとして、本当に「殿方の留守」を守る為に武芸を修めて……いえ、何でもありません。

256 :人間七七四年:2015/06/29(月) 14:42:36.93 ID:w4LglWID.net
>>254
沸騰させると苦味が消えるからマジお奨め
検尿日の夜はお腹たぷたぷだぜ

257 :人間七七四年:2015/06/30(火) 19:00:11.83 ID:NGPAoWiZ.net
天守は、始まりは井楼より起こったものである。
材木を丈夫に組み上げ塀を塗ったのが、次第に高く大きくなり、後に天守となったのである。
信長公の時、安土において初めて五重の天守が出来た。
秀吉公の時代に七重となった。

侍屋敷も、古は周りを築地にしていたのを、後世には昔の多聞の形を写し、長く建て続けた。
これを多聞とは言わず、長屋と呼んだ。

また、石垣を築くのに穴生築と呼ぶ言い方があるが、これは近江に穴生という所があり、
そこでは古より寺院のための五輪を切り出しており、そのほか都の近くで石切の上手が多く
集まっている場所であったので、信長公が天守を作られる時、同国のことであったので、穴太より
石工を多く呼び寄せ仰せ付けられた。このため諸国でもこの穴生の石工を用いたため、次第に
石垣のこと上手になって、後には五輪を切り出すことを止め、石地築のみを業とした。
以来、諸国でも通名となり、石垣築者をさして、穴太と呼ぶようになったのである。

(明良洪範)

城の天守、侍屋敷、石垣についての逸話である。

258 :人間七七四年:2015/06/30(火) 20:41:32.45 ID:BgKhEbjU.net


259 :人間七七四年:2015/06/30(火) 21:17:02.54 ID:R/rkazry.net
で、どこがいい話なんだよ

260 :人間七七四年:2015/07/01(水) 00:10:53.27 ID:/gYb3G0s.net
亀寿が示現流を修行したのは自分が島津本家の家督を決定する権限もしくは拒否権を有していたから
責任がある身の上なのでかも。(桐野作人先生の講演会で亀寿が家督を決定する権限を持っていたと
おっしゃってました)
この話を読んだら、前に個人の人のサイトで見た義久が国分城を作ったのは「亀寿を守るため」ではいう仮説を
言ってましたが、なんとなく納得できるかも。
その前に住んでいた富隈城にくらべて格段に国分城のほうが防御力があるもの。
(富隈城も国分城も館作りの平城ですが、国分城は後詰めの城「隼人城」があります
この隼人城は隼人の反乱の時に使われた’曽於乃岩城’(そおのいわき)という説が
あり篭城するのに向いています)
義久が国分城下は京都風の碁盤の目をしき、明より商人を招いて「唐人町」を作るなど国分城下の町を太平の世向けに整備したのに、
城をこんな感じ(戦国の世向け)に作ったのは自分が亡くなった後亀寿の「拠り所」を用意したのかな…

261 :人間七七四年:2015/07/01(水) 00:45:02.67 ID:FXoHaFYy.net
戦国屈指の名将、島津義弘の息子なのに何であんなに陰険で屈折してるのか
毛利元就の息子とかなら納得出来るのだが…

262 :人間七七四年:2015/07/01(水) 00:57:27.51 ID:RrEm5voZ.net
子は親を写す鏡
義弘の本性がじつは陰険だったのさ

263 :人間七七四年:2015/07/01(水) 01:09:26.25 ID:tjIhPMHR.net
子は親を写す鏡
貴久の本性もじつは陰険だったのであろう

264 :人間七七四年:2015/07/01(水) 01:09:38.74 ID:/gYb3G0s.net
別に子供が親に似る場合ばかりではないと
思うけどね。悪久の場合は、伯父と父と兄への
コンプレックスと自分が権限を持っていない
ことの苛立ちのせいでしょね。
子供が親に必ず似るのだったら宇喜田さん家
はどうですかね?

265 :人間七七四年:2015/07/01(水) 01:21:00.86 ID:i7nOamuV.net
土井利勝「むしろ子が親に似てないことの方が多いよな」
豊臣秀頼「せやな」

266 :人間七七四年:2015/07/01(水) 08:12:54.72 ID:go7F/+Bs.net
>>264
本当に直家の子供だと思ってるの?w
おふくは売女だぜ

267 :人間七七四年:2015/07/01(水) 09:12:40.65 ID:siEv70qe.net
伊達政宗「」

268 :人間七七四年:2015/07/01(水) 19:36:14.03 ID:zfj9tnZI.net
明智光秀の家臣に、野々山彦助(後に丹波と号する)という者が居た。
彼は実義第一の人物で、仮初にも虚を嫌う人であった。

ある時、中国の尼子の家臣である山中鹿之介が、織田信長に随身し尼子家再興の事を願い、
明智光秀を頼って推挙を望み、尾張へと来訪した時、この野々山彦助は喜び、彼を私邸に招き、
茶を進め、敬服して語った

「貴殿は武勇の誉れ並びなきお方ですので、お尋ねしたい事があります。
私はこれまで武役を三度勤めましたが、その場のことは前後とも、はっきりと覚えておりません。
これはひとえに、私の武勇が薄く生来臆病である故なのでしょう。無念至極のことです。

この事は恥ずかしくて、同僚にも語ったことがありません。しかし貴殿は首供養までなされた方ですから、
思い切って申し上げました。このような事について、どうすればいいかお尋ねしたいのです。
また、私が生まれつき臆病な事についても、ご指南を仰ぎたいのです。」

野々山の顔に真剣さが顕れてるのを見た鹿之介は大いに感じ入った。

「さてさて、偽りなき申し様、真に珍しき勇士だと思いました。
その心がけなら、きっと首供養もやがて成されるでしょう。末頼もしき所存です。
あなたの真義に対し、私も有り体に申します。

私も、初陣より首を取ること四,五度までの間は、あなたと同じように前後の弁えもありませんでした。
その後、七,八度に及んで、夜が明けたかのようになり、自分の働きから、人々の剛臆までも明らかに
見えるように成りました。それゆえ戦功の善悪をも定めることが出来、十度以上になると、戦場でも
日常と同じような感覚と成りました。

この事は、武士たる者誰でも、口外致さぬことではありますが、今の貴殿の真義に対し、
心底を残らず申しました。」

(明良洪範)

山中鹿之介の、戦場における感覚についてのアドバイスである。

269 :人間七七四年:2015/07/01(水) 20:03:20.52 ID:7cVLmXmS.net
鹿之介「慣れじゃ」

270 :人間七七四年:2015/07/01(水) 20:20:40.41 ID:wtqwGbrj.net
鹿之介「厠から逃げるのも慣れ、経験にござる…野々山どの、さあやってごらんなされい」

271 :人間七七四年:2015/07/01(水) 21:53:40.35 ID:/gYb3G0s.net
鹿児島県垂水市に新田(あたらだ)神社という神社がある。
昔、漁師が海中に網を張っていたところ、網の中に光るものがあり海上を照らした。
その網を収めると中に布の幣帛と石とがあり、石の光明は止まなかった。ある老人が、
これは海宮の神で邑里を加護するために出現されたものと告げたという。人々はこれを
霊異として尊崇し、社殿を建立して阿多羅多大明神と称え、後新田と改めた。
一説に、この石は竜宮より出現したという。

この神社には、こんな話があります。
島津義久が垂水に来臨し、梅雨で降り続く雨で出帆出来ず滞留した際に、
「五月雨の 雲の名残も おさまりて ながめ尽きせぬ 西の海原」という
和歌を詠じて短冊に書き、新田神社に奉納したところ、忽ち晴れ渡り順風を
得て帰ったという。(短冊は残念ながら焼失したそうです)
(参考 「垂水市史」「薩隅日地理纂考」)

これ以上大雨による被害が出ませんように…

272 :人間七七四年:2015/07/01(水) 23:12:06.04 ID:CQUGjNOU.net
…「沈めェ〜 沈めェ〜」

273 :人間七七四年:2015/07/01(水) 23:21:19.48 ID:lmB6mT5K.net
>>268
揚げ足取るつもりはないけど、
似たような話を見たことがあるな。
どこでだっけか?

>>272
ひしゃく要ります?

274 :人間七七四年:2015/07/01(水) 23:26:16.29 ID:go7F/+Bs.net
>>270
トンスル製造してればワケないよ

275 :人間七七四年:2015/07/01(水) 23:27:56.94 ID:/gYb3G0s.net
>>273さん、これですね。
山中鹿介幸盛「最初からできる人なんていない」・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/2218-7368f12c

>>272さん
ひしゃくどうぞ、穴開いてますけど。

276 :人間七七四年:2015/07/01(水) 23:29:44.51 ID:lYZ8s2bf.net
ボケかけの頭ン中にすぐ食いついたw

277 :273:2015/07/01(水) 23:44:20.39 ID:lmB6mT5K.net
>>275
かたじけない。
他家での逸話だと思ってたんだけど、
俺が見たってのも鹿之助のだったんですな。
自分のなかでは立花道雪が言いそうなことだなぁと思ったものでw

278 :人間七七四年:2015/07/01(水) 23:46:00.43 ID:JLPxzHuv.net
島原で切支丹の乱が起きたとき、板倉重昌、石谷貞清を差し向けられたが、
なかなか落城の報せが来ないので、酒井忠朝が出陣を仰せつけられた。
するとその後すぐ、松平信綱が御前へとまかり出て、

「此度の件、酒井殿に島原への出陣を御命じになられましたが、結果は出ないと思われます。
何故かと言えば、酒井殿はいまだに屋敷で準備し、出発しておりません。
このことが、もはや、将軍さまのお心に叶わぬふるまいでございます。
もし、私に御命じくださるならば、ただちに出発し、即座に一揆ばらを踏み潰してみせましょう。」

と申し上げたので、これを伊豆守(松平信綱)に仰せつけられ、彼は即座に出発した。
同時に酒井忠朝には、島原には行かずともよし、というお達しが届いた。
備後守(酒井忠朝)はこれを聞くやいなや、

「知恵伊豆の仕業に決まっている。討ち手の先を越されては人前に出す顔もない。
こうなれば、追いついて伊豆守を討ち果たすより他にない。
すぐに馬を出せ」

と言いつけ屋敷を飛び出した。(1/2)

279 :人間七七四年:2015/07/02(木) 00:11:33.65 ID:iuERsWdI.net
そして二度と帰ることはなかった

280 :人間七七四年:2015/07/02(木) 08:03:19.12 ID:hRrAHJlE.net
結局酒井は島原に行ったのかい?
大久保彦左との逸話があるから行ったようだけど記録がない
数年後に廃嫡されてるから何かの責任を取らされたのかな

281 :278続き:2015/07/02(木) 12:25:51.40 ID:l3ekoU/Z.net
すると、父の酒井忠勝が、

「待て」

と声を掛け、

「はやまるな。仕損じるぞ。まず落ち着いてよく聞け。
土井利勝が最期、私に向かい、
『伊豆守に気をつけろ』
と遺言された。
伊豆守が小細工をすることはかねてから私も知っている。
追いかけ伊豆守を討ち果たしたなら、お前は本望で、
世間の者たちもお前を剛の者よと称えるだろう。
しかしながら忠節のところは微塵もない。
あの程度の伊豆守だが、あれでひとかどの器量を持った男だ。
幕府のお役に立つことも多い。
その伊豆守を討ち果たせば、まずは幕府に御迷惑をおかけすることになり、
さらには、
『幕府の指図が雑だから、酒井殿が鬱憤を晴らしたのだ』
などと日本中で噂されるようになれば、主君に悪名を着せることになり、
重ね重ねの不忠である。
いま、お前が耐え忍び生きながらえるのはとても苦しく難しいことだろう。
しかし、我が身の難儀や恥までも耐え忍び、
主君を支えていくような者が、誠の忠臣なのだ。
自分ひとりの潔さに走るべきではない。」

と諭したので、忠朝もたちまち納得した。
そのうえで、忠勝は、

「理解したなら、隠居せよ。世の人々が嘲るだろう。」

と忠朝に奉公を退かせた。
家督は二男の忠直が継いだとのこと 【葉隠】(2/2)

282 :人間七七四年:2015/07/02(木) 18:16:07.22 ID:Q3aqugVa.net
DQN目竜「敵もろとも伊豆守も殺して手柄を奪うが良い」

283 :人間七七四年:2015/07/02(木) 18:27:09.63 ID:TWKN05ff.net
じんぼぅ失っても知らんぞ

284 :人間七七四年:2015/07/02(木) 22:13:24.44 ID:tAa6nbpC.net
271の追加
新田(あたらだ)神社の御祭神は
•上筒男命(ウワツツオノミコト)
•中筒男命(ナカツツオノミコト)
•底筒男命(ソコツツオノミコト)
の住吉三神(海の神、航海の神、また和歌の神とされる)

285 :人間七七四年:2015/07/04(土) 19:14:01.62 ID:dNqcmn2M.net
1593年1月の平壌陥落に伴い加藤清正・鍋島直茂も同年2月に撤収する事となった。

その際清正の部下達が各所で敵に囲まれ援軍が必要であるとの要請が来ていた為
清正は捕虜としていた朝鮮の二王子を直茂に預け、自身は部下達を迎えるべく出立した。

2月24日に長橋を出立し27日には鳳井城に着いたが雪が深く兵卒たちが疲弊していたため
そこで4、5日休息の為に逗留する事になった。

その間に蔵床に駐屯していた近藤四郎左衛門以下500人、銀山城の加藤余左衛門以下500人、律青の小代下総守以下500人合わせて1500人が駐屯していた城を焼き払い、
自力で敵兵の包囲を突破し鳳井城の清正の軍に合流してきた。

斥候からの情報により彼らが合流してくることを知った清正は、
大釜を沢山用意して飯を炊き、大樽から酒を移して温めさせ、
自身で握り飯を作るのを手伝いつつ「握り飯+干魚+熱燗一杯」というお食事セットを1500人分用意させた。

そうして近藤四郎左衛門以下の軍が到着した際には
「近藤四郎衛門、岡田、佐々、皆来たかな?兵左衛門、九鬼四郎兵衛もこっちにおいで。
出田、井上、小代、大脇、長尾、お前達もここに来なさい。
去年以来お前達には本当に苦労をさせた。まして今回皆自力で包囲を突破してくるなんて
その武功をどういう言葉で褒めたらいいか分からない位だ。
ともあれ皆と無事再会できて嬉しいよ、まずはこれを食べなさい。」
というように声掛けしつつ
身分の上下問わず1500人全ての兵士達に自ら前述のお食事セットを配り労った。

親類縁者と無事再会できた事への喜びと、この清正の心遣いへの感動に1500の将兵達に泣かない者は居なかった。
(朝鮮征伐記)

286 :人間七七四年:2015/07/04(土) 23:37:11.05 ID:mcl8CC95.net
いい話なんだけど、兵糧は完全に尽きたよねコレ…

287 :人間七七四年:2015/07/04(土) 23:53:42.17 ID:+0kRFIht.net
日本人は元来草食なんだから草木を食えばよいって牟田口様も言ってるから大丈夫だよ!

288 :人間七七四年:2015/07/05(日) 00:03:54.44 ID:uGuToqX5.net
牟田口閣下は牛食えと言ったのだ

289 :人間七七四年:2015/07/05(日) 00:34:14.33 ID:SxpbM99m.net
牟田口閣下は諫言した部下に糞食らえとも言ったのだ

290 :人間七七四年:2015/07/05(日) 01:07:09.00 ID:b+v0jdHx.net
糞食らえ、て閣下を食えってこと?

291 :人間七七四年:2015/07/05(日) 09:16:33.51 ID:ODY/qvB9.net
再会記念を兼ねた最期の晩餐

292 :人間七七四年:2015/07/05(日) 09:55:30.68 ID:08DZp3wK.net
清正はいい兄貴だなー

293 :人間七七四年:2015/07/05(日) 10:09:19.70 ID:Rd/tfmMV.net
超兄貴だな

294 :人間七七四年:2015/07/05(日) 10:23:18.45 ID:xeP6A4OW.net
一応「清正高麗陣覚書」にも類話が有って(というかそっちが元?)
そっちではこの逸話の後 鳳井城=「ほくせん」は穀類が豊富な土地で
住民達が兵糧を供出してくれたので
陣払いする時他の城と違い焼き払わなかった…という記述がある

295 :人間七七四年:2015/07/05(日) 15:08:27.60 ID:Vu9vQmGk.net
兵糧が底をついても、治部少への怒りをエネルギーに変換して戦うよ

296 :人間七七四年:2015/07/05(日) 16:16:57.18 ID:xeP6A4OW.net
>>295
実際三成からの讒言が在ったかどうかはともかく
これ三成から讒言されるより時系列的に前の話やで

297 :人間七七四年:2015/07/05(日) 17:53:18.67 ID:VrjnPUgZ.net
加藤「いいか?兵糧が尽きたら砂を食え!バクバク」

298 :人間七七四年:2015/07/05(日) 18:08:39.55 ID:vpUrqda7.net
「兵糧がなければ、ういろうを食べればいいだぎゃあ」

299 :人間七七四年:2015/07/05(日) 20:26:59.94 ID:ZEmQywQ/.net
城を包囲され食糧が尽きた清正は一計を案じこう言った
「あそこに治部がいるぞ!」
これを聞いた諸将は皆怒り狂い、忽ちのうちに腹の減りを忘れたという

300 :人間七七四年:2015/07/05(日) 22:00:54.06 ID:iJg/3h2l.net
兵糧が無ければ肉粥を食べればいいじゃないか!

301 :人間七七四年:2015/07/05(日) 22:31:38.66 ID:qwzeyAtf.net
しばちゅうさんは鬼嫁にしばかれといてください

302 :人間七七四年:2015/07/06(月) 02:02:00.36 ID:hL4CxDTF.net
兵糧事情が苦しくなろうとも
部下を思いやって士気を高めるのは大事な事だろうなあ

303 :人間七七四年:2015/07/06(月) 02:23:00.38 ID:lx9vSX1P.net
新田義貞だっけか
籠城戦から打って出るときに倒した敵兵の内腿肉で喉を潤したとかなんとか

304 :人間七七四年:2015/07/06(月) 14:40:03.38 ID:HQudLpG9.net
昨日、東京国立博物館に行って来た
相変わらずのお宝尽くしだったが戦国関連のいくつか紹介

榊原康政像(重要文化財)
http://i.imgur.com/fPtEbOu.jpg

榊原康政所用 黒糸威二枚胴具足(重要文化財)
http://i.imgur.com/J398Pqq.jpg

徳川徳川頼房所要 大釘後立一の谷兜
http://i.imgur.com/rhBwpAl.jpg

武田逍遙軒作 普賢延命像
http://i.imgur.com/WOMnEXV.jpg

オマケ 

三日月宗近の見学に並ぶ刀剣乱舞ヲタ
http://i.imgur.com/KlYRQJv.jpg

305 :人間七七四年:2015/07/06(月) 15:08:32.93 ID:hwcyjchQ.net
>>304
小平太の鎧かっこいいな

306 :人間七七四年:2015/07/06(月) 16:46:38.94 ID:l9yaohVx.net
慶長くらいになると甲冑の袖って無くなるよね
鎧はだんだん軽装化していく流れがあったのかな

307 :人間七七四年:2015/07/06(月) 16:58:39.50 ID:RPShjNjo.net
>>306
雑兵だと紙子の上着だけなんてのも居たらしいからなあ。もう完全に防御力より機動力って感じだったっぽい。
戦国時代がもう少し長く続いたら、近代ヨーロッパみたいに甲冑のない軍隊に成ってたかもね。

308 :人間七七四年:2015/07/06(月) 17:55:01.00 ID:WafE7F0k.net
小平太の鎧なら同じくトーハク所蔵の南蛮胴具足もいいよな

309 :人間七七四年:2015/07/06(月) 17:55:11.14 ID:8Yqs3qU3.net
寒河江白岩落居之事

寒河江橋間の羽柴勘十郎(大江頼綱)が最上軍の銃撃で討たれると、大江軍の勢は「せめて一太刀」と城外へ斬り出て名乗りを上げて討ち死にする者や、老母妻子を思い落ち行く者もいた
昨日の平穏は今日の戦乱の前には夢の滴に等しい

最上軍の将兵は大江軍の残軍を掃討しようとしたところ、義光は鶴声を発っした
(義光)「追撃を止めよ。狼藉もするな。兜を脱ぎ武器を捨て投降する者は羽柴の一族であろうと害(殺傷)してはならぬ
落ち行く者は見逃せ。守りを固め備えを崩さず控え、暫く攻撃を休め」

寒河江城内にもこの義光の声を聞き、兜を外し旗を巻き、続々に降伏する者が現れた

最上義光は戦死者の塚(墓)を築き、寒河江の戦死傷者の一族を労り、怪我人には薬や米を与え、名のある者やいくさ働きで最上軍によく反撃した士卒を召し出し、旗本へ加えた

降参した兵共には「恥は去物。新恩に励み努め」と声を掛け
最上義光を昨日迄は敵と見做していた者も、情は味方怨は敵と、人質や誓紙を用意し、武装を解いて臣従してきた

白岩城には松永右衛門といった大江家の重臣で近郷遠村を纏める者が「勘十郎様の弔い合戦ぞ」と気勢を上げていたが
松永に味方し最上軍に弓を弾こうとする者はなかなかに集まらず
白岩に篭っていた者も「いくさは止めじゃ」「我も我も」と兜を脱ぎ城門を出
松永勢は目も当てられない有り様となり
ついには右衛門を先頭にまとめて氏家守棟の陣に降伏を請取りに来た

守棟は右衛門を義光の下に連れて行き
義光は松永父子の本領を安堵すると「政を糾し猶忠勤を励むように」と命じると
代官を右衛門につけ
寒河江で新たに幕下に加えた旗本を引き連れ山形城へと帰っていった

「羽源記」

最上義光のいくさの後始末の話

310 :人間七七四年:2015/07/06(月) 17:58:13.81 ID:mPv56eu4.net
>>307
鉄砲足軽はそうなってたな。鉄砲相手だと鎧の破片で怪我が余計ひどくなったらしい

311 :人間七七四年:2015/07/06(月) 18:07:37.90 ID:b67TShaf.net
袖で防ぐ様な矢なんかもう飛んでこねぇよって感じなんかね

312 :人間七七四年:2015/07/06(月) 19:15:53.35 ID:hvua1bAK.net
>>304
こういうのって撮影禁止じゃないの?

313 :人間七七四年:2015/07/06(月) 19:33:07.77 ID:8Yqs3qU3.net
>>312
施設や展示品による

※この場合撮影禁止品は劣化対策、個人寄託品や限定公開品等

314 :人間七七四年:2015/07/06(月) 19:38:17.21 ID:HQudLpG9.net
>>312
撮影禁止の展示物には撮影禁止マークがある

撮影禁止されてなくても、フラッシュ炊いたりするのは厳禁
AF補助光は、どうか知らんが俺は消して撮影してる

315 :人間七七四年:2015/07/06(月) 19:38:50.95 ID:8Yqs3qU3.net
○東京国立博物館の総合文化展(旧平常展)の撮影については、ホームページに下記の通り記載されています。
※なお、平成館2階は特別展の会場です。他の建物・室で特別展が開催されるときもあります。

○特別なイベント(博物館に初もうでなど)の期間や土日・祝日でなければ、館内は広いので混雑することはあまりありません。
通常は、午前中の早い時間帯や、閉館前の時間帯はかなりすいています。


TOP >> 来館案内 >> お客様へのお願い
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=127

撮影
* 平成館2階の展示室内は撮影禁止です。
上記以外の展示室であっても撮影を禁止することがあります。
* 撮影可能な展示室においても、撮影禁止マークのついている作品に関しては、所蔵者の意向により撮影ができません。
* 撮影可能な展示室においてはカメラを手で持って撮影してください。 フラッシュ、追加照明、一脚・三脚は使用できません。
* 携帯カメラなどシャッター音が出る場合は特に、他のお客様の迷惑とならないよう、ご配慮ください。

TOP >> 東博について >> よくある質問
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=156

トーハク=東京国立博物館の館内施設などについてのQ&A
Q:展示室で写真撮影はできますか?
A:総合文化展については、個人利用にかぎって写真撮影ができます。ただし、撮影禁止マークのついている作品は、所蔵者の意向により撮影をお断りしています。
また、一脚、三脚などの使用とフラッシュの使用はできません。他のお客様のご迷惑となるような行為(割り込んだり、撮影のため長時間その場にとどまるなど)はおやめください。撮影した画像を営利目的で複製・配布することはできません。
特別展会場については、写真撮影は禁止です。
総合文化展か特別展かわからないときは、係員にお尋ねください。

316 :人間七七四年:2015/07/06(月) 20:03:43.98 ID:hvua1bAK.net
>>313-315
へー、撮影OKな場合もあるんだ。勉強になった。ありがとう。

317 :人間七七四年:2015/07/06(月) 20:13:37.76 ID:A0Bx4ZtG.net
>>307
逸話準拠だと加藤清正の足軽隊がそういう装備だったと言われてる(名将言行録とかでも記載有)。
頭部を保護する為兜は付けさせたけど鎧は無し、んで鉄砲隊の場合は塹壕を掘らせる。
もうここまで来ると近代歩兵とさして変わらんな。

318 :人間七七四年:2015/07/06(月) 21:35:56.71 ID:tKnnyIQM.net
>>310
幕末はそうだったって聞いた記憶があるけど、戦国ですでにそうなっていたってことか

319 :人間七七四年:2015/07/06(月) 21:48:44.53 ID:iNl9VvN2.net
幕末はとんがり帽子にズボンが最先端。あとはモフモフをつけてたらそれは偉い人。

320 :人間七七四年:2015/07/06(月) 23:26:17.42 ID:ON1KkSTM.net
やっぱ銃の発明の影響って半端ない

321 :人間七七四年:2015/07/07(火) 02:36:26.50 ID:YBIfurp9.net
それいうなら伝来でしょw

322 :人間七七四年:2015/07/07(火) 03:30:49.37 ID:C4Min6L8.net
いや、火薬の発明でしょ

323 :人間七七四年:2015/07/07(火) 10:20:01.98 ID:EQChTYcS.net
シナチクが紛れてるなw

324 :人間七七四年:2015/07/07(火) 17:54:45.25 ID:ERjYv+84.net
延沢満延ン番勝負

最上(※秀吉の太閤検地以前の山形盆地。現在は村山)には山形義元(※最上義光。元の字は癖字か光の誤字と思われる)と、出羽国司を名乗る天童八楯盟主の一色修理太夫貞久(天童頼久)がいた

威勢強大な義光に対し頼久は「伊達に介入され権威を失った最上氏に今更指図される謂れわない」と城を堅め、尾羽沢(尾花沢)、六田、蟹沢、里見、小田島、鳥越等の山形以北の有力国人と優秀な軍兵を纏めて篭城したために、義光も天童をなかなか攻めあぐねていた

義光が天童を攻め暫くしていたところ千手堂で戦いがあり、優勢となった最上軍が天童軍を天童城へと追っていた際
味方の兵が追われる様を城山の上から見ていた天童方の将延沢満延が一人天童城の大手門(現在の舞鶴山の南東山道)からただ一騎打ち出して来た

満延の出で立ちは八頭形の兜に黒糸威の鎧と鎖帷子、鴇毛の馬。手には愛用の五尺一寸の鉄棒

味方を城へと逃がすと満延は鉄棒を振り回し、遠慮もなしに最上軍の中に突進すると
破羅利はらりと最上兵を撲倒していった

さしもの最上軍も群々追い立てられている所に山形勢の中から洗革の鎧に太刀・弓・白首の兜をまとった高松光親といった馬上武士がそれまで討ち取った天童兵の首級三つほどを鉾に貫き従者に預けると

光親「そこの大将!ひと勝負願いたい!」と満延の方に馬を走らせ近付いた

満延「わ主もこの鉄棒を喰らいたいのか哉?」

そう言い放ち満延が鉄棒を振るうと、光親の首は胴に減り込み、乗馬もとんでもない方向に弾き飛ばされてしまった

最上兵はこれを見ると蜘蛛の子を散らす様に満延から離れ始めたが
また六尺余りの大男が満延に勝負を挑んだ

黒烏帽子に黒糸威の鎧、栗毛の馬の武士は手に五尺余りの鉾を持って「安間道願!」と大声で名乗った

道願「この辺りで鬼神と言われるのはお前か?俺は尾州右府(織田信長)様に一騎当千と称えられ禄を頂いていたが、訳ありて武者修行のさなか義光の殿に声を掛けられこのいくさに加えさせてもらっている
つまらんもの相手に辟易しておった故、豪の者を破り手柄の一つも立てんといけない
この鉾でおまえに引導を渡してやろう!」

満延の金棒と道願の鉾が火花を散らし幾度か打ち合わされた

平地では最上兵、城山からは天童兵がこの戦いを遠巻きに見守った

道願「埒があかん。力勝負でどうだ?」
満延「乗ってやろう!」

双方がらんと打物を投げ捨てるとむんずと組み合った
−かに見えたが
満延「残念だ。口ほどにもない」

満延は道願をひょいと抱え上げると深田に投げ飛ばした

道願は頭から深田の泥に杭の様に突き刺さった!

325 :人間七七四年:2015/07/07(火) 18:45:20.66 ID:vHo5z9R3.net
  (\    _
   | )   / )
   / |  ( /
  / /   ||
  / |   ||
  \ \  / |
   \ \/ /
  _|   /__
    ̄三三三二 ̄

↑道願

最後の一行読んでもうこのAA貼るしかないと思った

326 :人間七七四年:2015/07/07(火) 18:46:00.66 ID:ERjYv+84.net
また最上兵の中から一人頭巾兜に袈裟を着け、腰旗白馬赤鞍に天狗団扇と小太刀を構えた法師武者が満延に戦いを挑んだ

三位(女三)法師「いざひと勝負!」

満延「見た目は坊主なのに修羅道に迷いこんだか?」

女三はかんらと打ち笑い「見た目で判断すると痛い目に遭いますよ
満延殿は武勇だけでなく、智慮もあると伺います
拙僧山城の生まれではあり腰に刀を差していますが、羽黒山の千日業を成遂し、武道・破戒にも興味を持っております
戦いの仏神もおりますし、鎮護国家の則には武を知る事も必要
この腕是非試させてもらいましょう」

女三の刀の腕前は言うだけありなかなかのもので
満延は幾度か切りつけられ、深手浅手を五傷ほど負った

満延「遊びが過ぎたか」

満延は金棒を投げ捨て太刀を抜き直した

-そこに天童城から一色右近といった者が「満延殿潮時です!そろそろ城にお戻りください!」と100騎ばかりの兵で駆け付け、満延を囲む様に引き退こうとした

最上兵「天童兵が出て来た!女三坊を討たせるな!」

女三も満延相手に善戦はしていたが、小太刀は打ち折れ、顔や身体のあちこちに痣や切り傷を負い、袈裟は血で朱に染まっていた

327 :人間七七四年:2015/07/07(火) 18:47:05.54 ID:ERjYv+84.net
最上天童双方が再激突し、志村光安配下の強弓が満延の乗馬を射倒した

満延は少し離れた所で替え馬に乗り、腹帯を締め直している所に
突如満延に切りつける者があった

カツン−刀は満延の兜の先をかすめただけだった

満延「おまえは俺が怖くはないのか?」

腹帯をそのまま締め直しながら満延は相手の方を見た

満延「とりあえず、おまえは何者だ?名前ぐらいあるだろう?」

本間七郎「本間左馬介の子、本間七郎。今年で17才だ!」

満延は「かんらかんら」と笑い

「健気な若者じゃなwwwwおまえの様なヒヨッ子をここで討つのはたやすいが、俺を畏れもしないで打ち掛かってきた心意気が気に入った。成長が楽しみだから助けておこう」といって七郎を尻目に城に帰って行った

七郎も味方の勢の方に戻って来るとしっちゃかめっちゃかに質問攻めにされた

「よく殺されなかったな」
「おまえの様なガキにあの鬼神が討てると思ったのか?」

七郎はしれっと答えた

七郎「満延は比類無い豪傑だと言うのはわかってる。自分の腕前じゃとうてい敵わない事も理解はしてる
しかし戦場で敵を直前にしているのに腹帯を締め直すなんてこちらを舐め過ぎてはいないか?
一太刀目で腕に怪我を負わせていれば、きっと勝ち目はあったはずだ!
腹帯を締め直していたせいで腕まで距離があり刃が届かなかった!
満延を討ち取れなくてくやしい!」

これを聞いた周りの兵は「若者にしては豪胆だな」と七郎の勇気を褒めた

「羽源記」

3勝(圧勝2、優勢1)棄権1?

328 :人間七七四年:2015/07/07(火) 19:24:35.54 ID:nkXvVfWk.net
大作だな

329 :人間七七四年:2015/07/07(火) 19:31:02.71 ID:ERjYv+84.net
高松光親

   ___
 /´∀`;:::\
/    /::::::::::| |
| ./|  /:::::|::::::|
| ||/::::::::|::::::|

330 :人間七七四年:2015/07/07(火) 22:21:16.52 ID:Kgo9ySgB.net
延沢満延といい三浦義意といい、
東国では頭は体にめり込むものなのか。

331 :人間七七四年:2015/07/08(水) 08:34:52.27 ID:0RoVaAwS.net
亀なら可能

332 :人間七七四年:2015/07/08(水) 09:34:06.36 ID:+XA+R0Ud.net
寒河江口の戦い

山形境寒川の江(寒河江)並びに谷地といった地に大江尭元と城取武任(白鳥長久)といった領主がいた
郎党には羽柴勘十郎(大江頼綱)、曾根文弥、熊野三郎といった豪傑がおり
慈恩寺成盛、金峯大夫坊、地獄谷鬼眼坊といった寺社勢力も地縁人結でこれらの領主と仲が深かった

去際白鳥長久が最上家伝統の出羽守を詐称し、山形を軽んじた事に怒衝した最上義光は謀を巡らし長久を暗殺

義光は山名一吽と氏家守棟と詰膝し、残る河北(大江)対策を論じた

一吽「…重ねて申し上げますが、かように軍を勧め申す事は民の痛み軍卒の疲を存ぜぬにはあらず
もし此義お任せ頂ければ計略を以て諸士御手に属し申し趣…」
守棟「内々面々示し合わせ、計略を仕る旨応申し上げます」

評定は離間計を大江と寒河江の国人や寺社に用いる事が肝要と決し、義光は密使を走らせた

天正12(1584)年寒河江領内の有力勢力の幾人かの内応を取り付け、義光は寒河江攻めを決行

対最上の喉元に突き付けられたる新田や高屋といった大江方の城館に大将義光が真先を駆け、例の鉄棒を奮い味方を卒して突出して働けば、大江勢は寄りつくしまも無し、最上軍は早々に数城を陥落させた

「羽源記」「山形軍談」ほか

333 :人間七七四年:2015/07/08(水) 17:57:26.90 ID:+XA+R0Ud.net
いま一と もかみのつちをふみ申度候 みつを一はいのみたく候

おおよそ100年前に最上義光の業績を調べていた方の資料を頂いたので
その内で気になった部分を

文禄元年(1592)年3月17日公(最上義光)47(歳)
「猶々用所候て 喜成相下候間 可傳達候以上
三月十七日に 洛中打立 同廿八日に境自渡海候て 唐御陣へ打立候 築紫なこやと申所まてなるよしに候
可御心易候
何様秋中者下向可及面談候 爾し其許普請以下 火之用心等□入申候 又者細々と出仕候て 総領殿へ可被掛詞事所希候 事々重而 恐々謹言
此由船越同左馬殿 両人へ傳言□入申候
三月廿八日 義光
蔵増大膳亮殿」

文禄二年(1593)年5月18日公48(歳)
渡海五陣亦は十五陣予定→特別に帰国予定
「(幾字か不明)勅使は明國二人こにしてまへへこし候 たたさへ日本仁かうらいのみやこをにけ候はんと存候みきりの事に候間 よき事に候て 無事之おつかいになし候て 勅使両人をめしつれかうらいのみやこを みなみな引候て ふさんかいへ御みかたほつみ申候
今十五日に 勅使みやこつき被成候 ちとは無事
一 かうらいへの人を御こし候 あか國のうちほくそしろをせめ候へと おほせこされ候
なにと候はんしられ不申候
こそよりかうらいに候御みかたは ちからもなき体にきこへ申候
一 ふんこのやかた
はた三河守 しま田又六郎
かうらいにておくひやうを申候とて しろしろへ御代官入申候
一 木村ひたち
はせ川藤五郎 をはしめ ほそ川けい州のちやくしなとこそ 霜月ほくそうしろにてはいくんを申候
木常なと御やく申て候かにけ候 しんたいめしかられ候かと下々申候
さりなからいままては たた御しかりにはかりにて候 すへもよくあるましきと申候
ふんこのやかたなとの 身の上を御らんし候ても おのおのここもとのさむらいとも あすは我か上と おも□□候へく候 又いまはしんたいほしくもなきやからに 成たきよしもなく候と 人々おほせ
あたまをすり候て いつくの山のおくにも候て いのちをかきりに ありたきとのねかいを おのおのおうせ候
一 われらとかいの事ありさうもなく候
ひたとのへたつね候も かうらいの御みかた 一所にあつまり候て 又はんまいなく候間 人しゆにことはかかす
こめはなく候間 あとよりかうらいへは 人しゆ御こし候ましく候間
心やすく候へと 御かたり候
あわれあわれ そのことくにて いのちのうちに いま一と もかみのつちをふみ申度候
みつを一はいのみたく候
一 上さまは 六月十日のうちに 御上洛と申候
一 いへやすさまへ からちんのやとをなされ候へと うへさまよりおほせつけ候よし 承候間 はしにてもけつり可申と申候て つかいをこし申候へは
そのときわれわれかたへ御ことはりには 不しきに出羽も我等ま此度の命をみつけ候
やかてやかて 國へくたり たかをつかい候はん事 ゆめかうつつかとよろきひ候よし承候
あわれあわれ さやうに候へかし
一 其元うちたてのほりふしんいかか候哉 一度にはまかりなるましく候
一所つつも きわめきわめつかまつり候て よく候わんと存候
ほりは地のしききかたよりほり候て みつをおとしおとし 地のあかりのかたへほり候へはよく候
あわれあわれ ふしんなかはにくた□候て いけんを申度候
一 火の用心 よく候よし候て 火事も無出候よし めてたく存候
干要に候
一 のへさわ家内 おのおのけんこのよし ふみ申候て満足申候
いつかいつかくたり申候て 又五郎ふうふのものに申度候
一 うちたてへ ねうほふ衆 一両人もおき候よし申こし候
尤可然候
わかくよく候を とてもおきてたまわり候へく候 まかりくたり候へは □□しられ不申□□さやうに申候ての ねかひに候へ めてたくかしく
五月十八日 出
いらこしなのとのへ」
包 添 畧

伊佐早氏資料並びに厩氏資料

334 :人間七七四年:2015/07/08(水) 18:43:19.30 ID:+XA+R0Ud.net
後期の手紙が平仮名だらけになったのは、唐陣の為に山形を長く離れていたストレスで不安がかなり高まっていたからだと勝手に想像している。

335 :人間七七四年:2015/07/08(水) 19:20:19.21 ID:nMspfqpB.net
武田信玄公は人を試みるのに、まず甲州の中での河川改修、普請、その他鷹狩などにおいて、
在郷の山に、竹木大小の有るのをよく覚えられていて、それを知られないよう、人々に尋ねられた。
そして人々の中から詳しく見憶えていて申し上げる者には

「その場所を度々見たのか?それとも私の供をした時だけで見憶えたのか?」

そう重ねて尋ねた。そのような事が幾度も重なった上でも詳しく説明の出来る人物を、信玄公は
他国への検使に遣わし、国境の模様などを観察させた。

或いは、信玄公はくどく物をお尋ねに成り、その人の心を汲み取ろうとするのが常の儀であった。
その様子は、例えば御前衆の親に患いなどあれば、その者に煩いの様子を詳しく尋ね、その者が親に
孝不孝のどういう感情を持っているかを知ろうとされたが、人々はそれを知らないので、
「信玄公の癖で一つのことを何度もお尋ねになる」と話したりしていたが、それは僻事である。
我らも、よくよく思案、工夫して信玄公の儀に至るべきなのだ。

古人に曰く、『金は火を以って試し、人は言葉を以って試す』というではないか

信玄公はこのように試みて、又その上側近くに置いた近習の内、無二無三に御屋形様の御用に立つだろうと
思われる若者を6人選び出し、彼らの発言を聞こうと考えられ、彼らから、諸人、または他国より来た新参衆の
手柄の虚実について聞き、

「或いは、手柄が在っても嘘を常に申す者か、朋輩で良く近づくものに頼もしさの無い者か、
大身衆にばかり慇懃で、諸朋輩に慮外な人間か、酒を過ごして酔狂をするひとか、総じて諸人に
腹を立てぬようにする人か、武具には万事嗜みのない人か、分限にて諸道具をよく嗜んでも、
弓矢に心を入れない武道への心がけのない人か、一切の善悪を言え」

と仰せに成った

この6人は、曽根孫次郎、金丸平八郎、三枝勘解由左衛門、真田源五郎、三枝新十郎、曽根与一の助の
事である。この内、金丸平八郎は土屋右衛門と、真田源五郎は武藤喜兵衛と呼ばれていたが、これは
勝頼公の時代、長篠合戦において彼らの兄が討ち死にしたため、その後を継いで名が変わったのである。
真田は、この頃は真田安房守と申している。曽根孫次郎は内匠と称している。
三枝勘解由左衛門は長篠で討ち死にした。

彼らはいずれも、弓矢鍛錬は覚えの武士にも劣らぬ人々であるが、それは信玄公のおそば近くで召し使われ、
よろずその御発言を承り、覚えた故である。
(甲陽軍鑑)

336 :人間七七四年:2015/07/08(水) 22:47:46.10 ID:lst1SqUk.net
「討ち死に」と「討たれ死に」

鬼美濃と言われた原虎胤の孫で歴戦の勇士として知られ、
晩年は大久保彦左衛門と喧嘩したりしていた横田尹松であるが
  参考 大久保忠教と横田尹松が・いい話
     http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1658.html
寛永11年(1634年)7月、さすがの尹松も寄る年波に勝てず病にかかり危篤状態となった。
譜代の家士が尹松のそばにあって
「戦場にて討ち死にを遂げ、最期まで功名を顕されるであろうと思っていたのに
このように畳の上でお亡くなりになろうとするとは思いもかけぬことです。」
と涙を流しながら言ったところ
尹松はかっと目を見開き、その家士を睨んでこう言った。
「なんとお前は侍の道を知らぬ愚か者なのだ。
我は若年より数度の戦いに挑み、多くの城を破り、敵を数多討ち取った。
そのうえで、今静かに死ぬことこそ、『討ち死に』と言うべきである。
お前たちが言うところの死にざまは、『討たれ死に』とでも言うべきだ。」

尹松はこの月の5日息を引き取った。享年82歳。

干城録(出典表記は古井之埋草)より雰囲気訳で。
戦国の世を生き抜いた老武人らしい死にざまがちょっとかっこいい話?ということで。

337 :人間七七四年:2015/07/08(水) 23:57:14.80 ID:dA26JpKv.net
某宗滴「武者なら犬死にじゃ」

338 :人間七七四年:2015/07/09(木) 00:37:39.09 ID:NgHgD0xL.net
資正「犬死にってたって犬だって使い道あんだろ」

339 :人間七七四年:2015/07/09(木) 16:45:56.25 ID:ob7I3cXM.net
いま一と もかみのつちをふみ申度候 みつを一はいのみたく候

関連
名護屋からの手紙
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8934.html

包み・添え文を含めて全文のわかりやすい解説があればな…

340 :人間七七四年:2015/07/09(木) 16:50:18.96 ID:6gzFGVb1.net
>>338
食糧になるニダ

341 :人間七七四年:2015/07/09(木) 20:32:42.23 ID:E31MnvT5.net
メジャーではないけど、日本でも犬は食されていたけどね
たしか伊達に記録あったでしょ

342 :人間七七四年:2015/07/09(木) 20:43:09.46 ID:rRcJJjxo.net
江戸時代、江戸の薩摩藩邸周辺は野良犬が居ないことで有名だったそうな。理由はもちろん(ry

343 :人間七七四年:2015/07/09(木) 21:43:52.78 ID:GehJTn1n.net
ひえもんとり?

344 :人間七七四年:2015/07/09(木) 22:21:03.84 ID:Uc/gZAEc.net
えのころめし

345 :人間七七四年:2015/07/09(木) 22:23:38.95 ID:o7gK08JH.net
生類憐みの令が出るまでは江戸の町には野良犬がいなかったというが

346 :人間七七四年:2015/07/09(木) 23:35:00.30 ID:rRcJJjxo.net
>>345
逆。生類憐れみの令で野良犬を隔離したため、江戸の町から野良犬がいなくなり、狂犬病なども激減した。

347 :人間七七四年:2015/07/10(金) 00:06:07.16 ID:xrBTqrdP.net
避妊が処理してました

348 :人間七七四年:2015/07/10(金) 01:09:21.15 ID:jvju8zY3.net
横田尹松って、この話だと武骨で頑固なジジイという感じだが、
高天神の戦い方を見ると、割と冷静で現実的なんだよな

349 :人間七七四年:2015/07/10(金) 03:19:24.33 ID:2McPgj1c.net
生類憐れみ令って、子どもを間引くなとか、現代人的なところもあるよね

350 :人間七七四年:2015/07/10(金) 07:36:00.39 ID:TP3m9KUp.net
世界的にも先進的な福祉&動物愛護法制だよ。
動物愛護のとこだけ、へんな切り口で見られてきたけど。

351 :人間七七四年:2015/07/10(金) 08:10:38.76 ID:ejFrH2zc.net
江戸時代は少年法もあるし、拷問なんかも老中なんかの許可が必要だったみたいだし
同時代のヨーロッパなんかと比べたら、はるかに現代的

352 :人間七七四年:2015/07/10(金) 09:15:38.48 ID:Yn/oX+Ad.net
山形新聞、小説「最上義光」7月11日から一年間連載

山形新聞(寒河江社長)ではいよいよ7月11日より小説「最上義光」の連載が始まる。
県外にお住まいの方でもパソコン・タブレット・スマホの有料会員申し込み登録で購読が可能。
現時点では連載後の製本化や県外書店での販売等は未定。
http://kuwabou.com/?page_id=33
http://kuwabou.com/wp/wp-content/uploads/2015/06/img002.jpg
http://yamagata-np.jp/e_yamashin/

353 :人間七七四年:2015/07/10(金) 09:32:38.49 ID:WMMFzQoz.net
>>352
読みたいけど山形新聞かよw
製本化されるのを期待して待つか。

354 :人間七七四年:2015/07/10(金) 09:42:56.36 ID:2McPgj1c.net
>>353
ネットでも見れるじゃないか

355 :人間七七四年:2015/07/10(金) 10:30:48.99 ID:44rNAWm5.net
>>351
欧米が列強化するまでは法分野は東洋の勝ち

356 :人間七七四年:2015/07/10(金) 12:26:30.17 ID:DIwbz5R7.net
さすがに新聞の連載の話題まではスレチじゃねーの最上信者は

357 :人間七七四年:2015/07/10(金) 12:37:22.06 ID:blAxTnpG.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9294.html
島津の連載小説ネタの時には特に文句はなかったのに最上につっかかるのはどうかと

358 :人間七七四年:2015/07/10(金) 12:41:15.37 ID:blAxTnpG.net
さすがに気持ち悪い

359 :人間七七四年:2015/07/10(金) 13:22:39.01 ID:m8scZw/D.net
必w死ww

360 :人間七七四年:2015/07/10(金) 14:40:12.45 ID:DIwbz5R7.net
スマンそのときスレ見てなかったわ
見てたら同じように苦言呈してたと思うよ

361 :KD182250250039.au-net.ne.jp357:2015/07/10(金) 14:41:49.05 ID:zgIyRQQ+.net
信じてくれないだろうけど>>358は自分じゃない

362 :人間七七四年:2015/07/10(金) 15:28:47.00 ID:3FbJ0ypw.net
小分けにして多数意見装うの
別スレ何故か特にNGMSの話題のスレで見かけてた(最近だと関ヶ原関連スレで散見する)
なんか流行りなの?

363 :人間七七四年:2015/07/10(金) 15:36:53.37 ID:blAxTnpG.net
>>360
最上の人は全部同じ人が反応してると思ってるんだろうね
本当に気持ち悪い

364 :KD182250250039.au-net.ne.jp357:2015/07/10(金) 15:44:31.25 ID:zgIyRQQ+.net
>>363
そつちもfusianasanしてくれないか
いっしょにされると面倒になりそうだし

365 :人間七七四年:2015/07/10(金) 17:18:52.69 ID:BILPZogj.net
自分は九州人だから最上の話題は知識の少ない東北の戦国事情を教えてくれるし
大方楽しんで読んでるけど

住民のレス書き込み等の反応を待たずに大量に関連記事を投下する若干独りよがりな傾向や
(まとめスレでの記事数を増やす意図があると思われる)
他の大名の書状や新聞記事ネタもブーイングされるべきとか
他へのヘイト稼ぐ行動してるから時々アンチが湧くんだと思うよ

366 :人間七七四年:2015/07/10(金) 17:30:12.13 ID:Oy3Bga/K.net
357だが、
他へのヘイトを稼ごうとおもったんじゃなくて
批判するなら公平にしないといけない、
と指摘したんだけど
一応いっておくが自分は鹿児島生まれで島津義弘大河があれば応援したいと思っている

367 :人間七七四年:2015/07/10(金) 17:48:28.01 ID:K90sBMHc.net
公平も何も常習犯だから叩かれてるだけだろ。

368 :人間七七四年:2015/07/10(金) 18:22:32.51 ID:nN8ry0W2.net
最上が出てくるだけの逸話でも何でもない話なら最上スレでやれ
この人がその種の話を持ち込む頻度は雑談の種振るレベルでは無い

369 :人間七七四年:2015/07/10(金) 19:28:13.48 ID:2McPgj1c.net
博物館の話題だって出るしどうでもええわ

370 :人間七七四年:2015/07/10(金) 21:59:37.60 ID:1HHf/Qog.net
嫌なら見るな
わざわざ見てきて苦言を呈するなんて愚の骨頂

371 :人間七七四年:2015/07/10(金) 22:03:51.04 ID:lsuNbcP2.net
わぁ、まるでどこかのTV局のよう

372 :人間七七四年:2015/07/11(土) 06:20:51.94 ID:1qn6nIVI.net
最上に対する常軌を逸した憎しみはなんなのだろうか

373 :人間七七四年:2015/07/11(土) 06:46:25.36 ID:F0MYE/QS.net
前には、ゲームの話題も出ていたし
最上の新聞小説の話しはちょっと前に
すでに出ていた。戦国武将のことを
話題にしているから目くじらをたてる
のではなく、これを元に話題を広げれば
いいのでは。

374 :人間七七四年:2015/07/11(土) 08:21:34.80 ID:fmXIHGCT.net
まあ、もがみんの投稿の仕方が気に入らんというのはわからんでもないが

375 :人間七七四年:2015/07/11(土) 12:12:20.04 ID:JHjdHFJb.net
言っても聞かないし話題に出すだけで荒れるからスルーしとけ
最上には触るな

376 :人間七七四年:2015/07/11(土) 14:13:22.36 ID:vXVUaBlC.net
と伊達厨のキチガイが喚いてます

377 :人間七七四年:2015/07/11(土) 18:38:29.09 ID:0DNVlM2p.net
里見民部「くくく…」

378 :人間七七四年:2015/07/12(日) 01:29:10.48 ID:FgGhBJ51.net
なんか変な流れにしてすまんかった
俺もまた図書館辺りで本漁って逸話仕入れてくるわ・・・
誤字脱字はめげない

379 :人間七七四年:2015/07/12(日) 01:42:50.30 ID:Av1+5g3f.net
いや、めげないとかじゃなくて
書き込みボタン押す前に一呼吸おいて見直せば済む話だからそれは
なんにせよまだ見たことないきちんとした逸話紹介に期待してるよ

380 :人間七七四年:2015/07/12(日) 03:38:00.06 ID:FgGhBJ51.net
書き込む前に見直さない奴なんていないって

381 :人間七七四年:2015/07/12(日) 03:55:15.27 ID:M0A1DRGL.net
「我が武田は新羅三郎義光公以来、書き込む前に見直したためしは無い!」

382 :人間七七四年:2015/07/12(日) 04:32:10.98 ID:ApVgA0xx.net
三斎「書き損じを間違って送るくらいあるし」

383 :人間七七四年:2015/07/12(日) 07:36:08.29 ID:c/gAYgy0.net
ここでは逸話を投稿する人が正義だが
ミスがあれこれ残ってるのは見直したとは言い難いと思う。

精進してくれ

384 :人間七七四年:2015/07/12(日) 09:37:26.15 ID:18qPYxLC.net
でも書き込みボタン押した瞬間以上に間違いを見つけちゃうタイミングはないからなあ

385 :人間七七四年:2015/07/12(日) 09:44:59.23 ID:0iAXJUpJ.net
>384
これは本当にある
あの瞬間の集中力は何なんだろうか

386 :人間七七四年:2015/07/12(日) 10:08:59.17 ID:t1C7o4pq.net
他人に読ませる文章はちゃんと推敲してから見せるのがマナーだよ

387 :人間七七四年:2015/07/12(日) 10:22:58.38 ID:amZEJISB.net
便所の落書きにそこまで求めんでもええやんの
批判ばっかでやる気削いで投稿減ったらそれこそ元も子もないぜ

388 :人間七七四年:2015/07/12(日) 13:20:04.33 ID:yACFuXM2.net
>>387
お前はこんなとこに書いてないで便所の壁に書いてこいよ
NGする手間が省けるから

389 :人間七七四年:2015/07/12(日) 13:26:33.00 ID:48Bx1Lrp.net
>>384
激しく共感
誤訳とか文法が変とか大きなミスの修正に紛れてどうでもいい誤字が残って
書き込みボタン押した瞬間誤字が目に入る感じ
何度も読み返してるから目が慣れちゃうのかねぇ

390 :人間七七四年:2015/07/12(日) 14:12:38.62 ID:Av1+5g3f.net
それ推敲はしてるけど校正がきちんと出来てないってことだから
多少なりともモノ書くならやっぱり今のうちに自分自身でどうにかした方がいいよ
逸話投稿する場合はまとめに転載されてずっと残っちゃうってのもあるし

391 :人間七七四年:2015/07/12(日) 14:57:20.02 ID:eXcoy5er.net
誤字以前に投稿したい最上関連ネタを5つも6つも
雑談ネタになるかどうか吟味もせずレスさせる暇も与えず
焦って自己満足的に連続投下してるのが一番アカンのだと思う
ネタはそもそも逃げないし(新聞小説とか博物館展示関連は除く)

最上ネタは軍記物から内政ネタも
落ち着いて投稿してる時はとても勉強になるし
鮭様の魅力も十分伝わってるから
落ち着いて投稿してくれたらきっと皆WinWin関係になれると思う

392 :人間七七四年:2015/07/12(日) 15:03:30.17 ID:dywjlcHJ.net
なんでもちょっといい話なら投稿すれば。読みたくない話は読まないから。最上でもなんでも。

393 :人間七七四年:2015/07/12(日) 19:12:58.46 ID:sv7UXEw/.net
小田原の役において、3月30日、山中城が陥落すると、北条の本営である小田原城内は大いに驚き騒いだ。

翌4月1日、豊臣秀吉の20万の軍勢は、箱根の山を平押に押し上がった。
山に道のないところは、秀吉の下知により、大石を修羅に乗せて幾所にも引き通らせたため、
士卒はその後を心やすく通った。北条家がさしも頼みにした剣難の地を、たちまちに難なく越えて行ったのである。
まことに快き事であった。

秀吉という人の天性才覚の巧みなること、皆このたぐいであった。

(黒田家譜)

394 :人間七七四年:2015/07/12(日) 21:48:28.54 ID:DLMe9nFN.net
ロードローラーだッ

395 :人間七七四年:2015/07/12(日) 22:50:21.68 ID:/sbBkIfo.net
でも小田原城内には、全然侵入出来なかったのは内緒だぜ

396 :人間七七四年:2015/07/12(日) 22:51:01.00 ID:pXJoCb2M.net
あれは修羅って言うのか

397 :人間七七四年:2015/07/12(日) 23:30:09.19 ID:Ja7QA00a.net
工場長「ワシに任せろ!」

398 :人間七七四年:2015/07/12(日) 23:36:40.69 ID:Um0ZYnOL.net
蒲生と兵部が
小田原目指して
修羅しゅしゅしゅー♪

399 :人間七七四年:2015/07/12(日) 23:50:10.42 ID:QLHbjjy/.net
一柳直末「俺も小田原城みたかった…」

400 :人間七七四年:2015/07/13(月) 00:18:41.57 ID:HY+GyM7o.net
出典の『黒田家譜』には官兵衛ヨイショという先入観がござったが、
発案者は官兵衛ではなく秀吉というのが、
また誠にいい話にござる。
「工場長」はどちら様にござるか?

401 :人間七七四年:2015/07/13(月) 15:42:46.21 ID:T5YBCeN3.net
≫400
ここでは蒲生氏郷のことだな
由来は人材再生工場と言われる(このスレでは)ほど他家では役立たずと思われた人材を活用し
またポイポイ蒲生姓を家臣に下賜した結果
量産型蒲生と(このスレでは)言われるほど蒲生姓の武将を生産したため

ここで名前が出るのはジャンプ漫画の男塾を思わせる
京都で石曳きしながらの直進行軍を強行した逸話が在るから
詳しくはまとめブログの蒲生氏郷の項目参照

402 :人間七七四年:2015/07/13(月) 23:31:14.33 ID:SiPwLPjQ.net
小田原の役、秀吉の軍勢は小田原城を囲み日々これを攻めたが、これを落城させることが出来ず、
無為に日々を多く送ったため、諸軍の士卒も長陣に飽きてきた様子が見えた。

ここで秀吉は尾張清州城に置いていた小早川隆景を呼び、この状況を打開する策はないかと聞いた。
隆景は答えて曰く

「この度の長陣は、秀吉公のたやすき勝利の基本となるものですから、ご心配も然るべきものです。
ですので、先ず城攻めを止め、弓鉄砲も止められ、その代わり仕寄等に念を入れ、敵の夜討などが
入らぬようにし、用心堅固に仰せ付けられ、若き輩には音楽をさせ、下々には小唄を歌わせ踊りを踊らせ、
味方の気をくつろがせ。長陣の覚悟をさせ、敵の気の屈するようにするのが、然るべきでしょう。」

秀吉はその旨に従って軍勢に下知したため、味方の諸軍は戦を止め、あちこちの陣所で謳い、舞、
囃子の音、踊りの声がしきりに聞こえるように成った。これにより味方は長陣の窮屈を忘れ、
敵方はこれを聞いて気を屈し力も弱まった。

その後、黒田孝高(官兵衛)、小早川隆景は敵の気が屈した時節を考え、秀吉に申し上げた
「今や良き時分です。徳川家康は東国の案内者であり、特に北条とは縁者ですから、秀吉公は
家康とご相談なさって、和議を持ちかけるべきでしょう。
現在、小田原城中は追い詰められていますから、必ずこれに同心するでしょう。」

秀吉も尤もだと思った。北条氏直は家康の婿であったのである。
秀吉より、北条を降参させるようにと家康に相談するため、黒田孝高がその使いとして度々家康の元に
派遣された。
ある時、使いの孝高が家康の御前を下がった後に、家康は孝高をこう絶賛した

「西国にて第一の弓取りは、黒田勘解由である。」

この頃、黒田孝高は秀吉の御用が無いときも、しばしば家康の元に行って物語などした。
これによって孝高は、いよいよ家康に君徳があることを知り、かねて志を属したのだという。

(黒田家譜)

403 :人間七七四年:2015/07/14(火) 05:26:29.50 ID:x6VFdDis.net
あれ?この話前に出ていませんでした?

404 :人間七七四年:2015/07/14(火) 06:36:03.79 ID:Cop9a00z.net
孝高「今日は内府に馳走になってのう…内府自らわしの手を取り案内をしてくれたわ」
長政「それはどちらの手ですか」
孝高「右手じゃ」
長政「その時、父上の左の手はどうしていたのです」

405 :人間七七四年:2015/07/14(火) 12:51:01.58 ID:k4FcCftr.net
あいにく手元に村正がなくてのぉ

406 :人間七七四年:2015/07/15(水) 17:26:47.17 ID:4nAIg+QN.net
武将の妖怪退治の話ならたくさんあるよね。

407 :人間七七四年:2015/07/15(水) 19:17:44.37 ID:ia4mS2CO.net
>>406
政元「全くすぐ退治などと野蛮な。皆仲良くが一番。どれ、友好を深められるよう試しに誰か喚んでこようかな」

408 :人間七七四年:2015/07/16(木) 20:28:50.29 ID:TdQT5SGj.net
文禄の頃、伏見が栄えていた時分、豊臣秀吉の近習である早川源蔵というのは、早川主馬(長政)の息子で
勤仕していた。

ある日この源蔵が常番にて伏見城に出仕しているその留守に、彼の屋敷に武士が一人駆け込んできて
「何卒かくまってくだされ!」
と頼み込んだ。屋敷の者達、主人の留守ではあったが、武家屋敷を見込んで駆け込んだ者を
追い出すべきではないので、まず匿うと、この者は小出大和守の家来で、後から同家の者達
2,300人が、弓鉄砲を取り揃えて追ってきて、早川の屋敷を取り巻いた。

この屋敷は奥行き13間ばかりある、細長い屋敷で、留守居の者達14,5人はなんとか内を防いでいたが、
追手は大勢のため町並の表門がとうとう打ち破られそうに成った。内からは破られてはならぬと
双方打ち合いとなった。

この時、この屋敷の近所に堀丹後守直寄という人があった。これは堀久太郎家老の同名監物の子であり、
去る天正18年、小田原の陣の後に、丹後守が未だ若年であるのを、秀吉の眼力にて、兄弟3人の中から
この丹後を選び側にて召し使っていたのである。

そしてこの日の騒動、堀丹後にとって屋敷の近所のことであり、そのうえ早川源蔵は、同僚21人の中でも
常に心安い関係だったので、見捨てることは出来ぬと追取刀にて鑓を取って駆け行った。その時、
家来もたまたま居合わせなかったので、ただ一人が弓を持って従った。

堀が源蔵宅の裏の小門より入って13間の細小路を槍一本弓一張にて、主従二人が駆け出てみると、
もはや表門は打ち破られ、追手たち2,3百人がどっと入ってきた。
堀主従は表門と屋敷の間の4間ばかりの所で、これに出合い頭に対峙したのである。

「不慮なる所に入り込んでしまった。討ち死にするにはどういう時節だろうか」

そう思いながらも是非無く名乗った

「私は堀丹波守である!弓取りは我が家来なり。この家主は御城の御番にて留守である!
諸士の家に押し込み、そのうえ亭主の留守をかかる狼藉に及ぶこと前代未聞の所業なり!」

こう大音に叫ぶと「弓を引いたまま射つな!」と下知し、鑓を5つ6つ振り回すと地を叩いて
押しかかってきた。この時の様子は夢幻のように見えたという。

ここで、追手の中に年寄の者2名ほどいたのだが、この言葉を聞いて尤もだと思ったのか、
もしくは堀丹後の必死の有り様に恐れたのか、左右の者達を制して門外に引き退いた。
そこを堀が走りより門を閉め貫抜の木を挿して一息ついた所に、堀丹後の父監物を始め、
寺尾筑後、稲葉兵庫、山岡石見、早多帯刀、富田左近といった人々が追々に駆けつけてきて、
双方の間に入り、この衆の扱いによって漸く無事と成った。

この日の騒動は堀丹後守一人の働きによって、早川源蔵、父主馬をはじめ、一類に至るまで
外聞を失わなかったと、諸人賛美したとのことである。

(明良洪範)

409 :人間七七四年:2015/07/17(金) 00:43:17.83 ID:07EA/uqe.net
>>401
ご教示かたじけのうござる。
蒲生再生工場、言い得て妙にござる。
404-405の流れも感服仕った。

410 :1/2:2015/07/18(土) 23:30:41.18 ID:BFyGo3JW.net
将軍徳川秀忠が上洛の時、荒井の渡を通過して本陣に入ると、井伊掃部頭(直孝)を召し出して言った

「今度の上洛につき、荒井の渡に船橋が駆けられていたが、一体誰が命じたのか?老中共の指図であるか!?
昔より、頼朝公を始めとして権現様までも、箱根荒井というのは関東第一の関所である。それに船橋をかけ
平地にしてして渡った例はない。であるのに、今度私の沙汰無しにこのような事をするなど、不届き千万である!
一体どうしてこのような事に成ったのか、直ぐに詮議して報告するように。
それが済まないうちは行水も食事も不要である!」

殊の他の立腹に、老中たちもどう説明すべきか分からずあぐみきった中、ついにこの結論に達した

「そうだ!立花飛騨守(宗茂)を呼ぼう!」

即座に早馬を出し『急に御用これあり、御本陣へ早々御出あるべし』と呼び出した。
宗茂の宿舎と本陣の間は1里ばかりも離れていたが、宗茂も何事かと馬で駆けつけると、老中たちから
「実はかくかくしかじかこういう事で、どうにも出来ないのです。飛騨守殿、どうか上様が、機嫌を直し
行水なされ御夕食を取られるようしていただけないでしょうか?お頼み申す!」

宗茂「はあ…。私を呼んだのは誰の指図でしょうか?」

老中たち「我々が頼んだのです!もはやこの上は船橋のことは言わぬ。ただ上様がお湯に入り
御膳を召し上がって頂ければ、それでいい!だから御機嫌の事についてのみ、偏にお頼み申す。」

しかし宗茂
「ですが、私が申し上げて機嫌が治るかどうか解りませんが…。とにかく、私がこちらに罷り越したことを
上様にお伝えいただかないと…」

「大丈夫!上様は貴殿の咳払いをいつもよくご存知である!」
「咳払い…?これですか?ゴホンゴホン」宗茂、試しに咳払いをしてみたところ
秀忠「!、その咳払いは立花ではないか。我が前に出よ!」
即座に呼ばれた。

宗茂早々に御前に出ると、秀忠から問われた「其方、どうしてこちらに罷り出でたのか?」

411 :2/2:2015/07/18(土) 23:31:25.68 ID:BFyGo3JW.net
「はっ。本日ここまで、ご機嫌よくご到着されたこと目出度いと存じ奉り、そのため宿舎からこちらに
参ったのです。」
「いや、今日は散々なことがあった。ここの渡に船橋をかけたのは不届き至極であるので、必ず糾明するよう
命じた。この詮議が解らぬうちはこのままここを動かぬつもりだ。」
そう言う秀忠の機嫌はまったくもって悪い。ここで宗茂

「さてさて、日本国を治められている将軍様と、私のような者の所存とは白黒の違いがありますな。
荒井の関所を、公方様のご威光に寄って船橋をかけられたために、平地のように感じられ上下誰もが安々と
これを渡れること、真に公方様のおかげと、私もありがたく思いながら宿舎に到着いたしました。」

この時、御次の間では老中たちが秀忠の機嫌を案じ、宗茂との会話の様子を耳を澄まして聞いていた。

秀忠「いや、そうではない!頼朝卿、神君までも、人馬の渡河する拠点であるから殊の外大切になされていた。
そんな場所に船橋を心の儘にかけて往来する事は、畢竟神君のお心入れを浅ましく扱っているようになり、
何とも是非無き次第ではないか。」

「恐れながら」宗茂は反論した。「私のような者の考えは、そうではありません。
そもそも頼朝卿や権現様の時代に、関東の要衝である荒井川に船橋をかけゆるゆると渡るような事をすれば、
何方より横矢を射掛けられるか解りません。ですから、そういったことを恐れて大切にされていたのです。

しかし、御当代の御代は、弓を袋に、太刀を箱に納める、千秋万歳の時代です。御上のご威勢ますます強く、
それ故全国津々浦々まで、今度のご上洛を陰ながら喜んでいます。
下々まで喜び、ご威光強く、また御仁徳も備わられている将軍様というのは今までに無かったことです。
この事は唐土まで聞こえ、東朝の誉れ、これに過ぎません。
そういう時代なのですから、荒井に船橋をかけても、お気遣いなされることは少しもありません。
そこを将軍様が渡られ、ここまで無事にお着きになった事は、平和な時代を象徴した、誠に目出度い
事であると存じます。

私も御次の間で老中の方々から、この船橋のことに関して色々とお聞きしました。
しかし私は、これほど目出度いことはないとご挨拶いたしました。」

「…」秀忠はこれを聞いて、何の意見も言わなかった。しかし「飛騨守は夕食はもう取ったのか?」
「私は宿舎に到着して直にこちらに参りましたから、未だ食事はとっておりません。」
「そうか、では相伴せよ。私は先に行水をする。」

そして入浴し食事が済むと、井伊直孝を呼び出し
「先程言った船橋のことだが、飛騨守の言うことを聞き、尤もに思った。
今度の上洛も目出度いことなのだから、船橋はあのまま差し置くように。」

こうしてこの一件は相済んだ。それより酒宴が始まった。宗茂は元より上戸であるので大いに飲み
「これほどの御喜びの時節ですから、私の仁王舞を上覧に入れ申す!」
と舞始めると、秀忠も殊の外喜び、希代なる飛騨守であると、秀忠自身も酒を過ごし、
夜九つ(深夜0時頃)まで続いた。やがて宗茂が退出する時、老中たちは彼を待ち受け
「今日は不意な事にてご苦労千万でした。貴殿の取り成しのお陰で早速ご機嫌も治り、
我々も大いに安堵いたしました」と、厚く礼を述べ、また宗茂の宿舎にも使者を出して
感謝を伝えたという。

(明良洪範)

412 :人間七七四年:2015/07/18(土) 23:49:17.15 ID:OLvomVf/.net
忠長「大井川に船橋をかけて兄上(家光)の上洛をしやすくしよう」
家光「大井川は関東第一の要地であり権現様でさえ浮橋を使わず渡ったのに何事か」
忠長「・・・」

このときまだ秀忠も宗茂も生きてたのに何が悪かったんだろう

413 :人間七七四年:2015/07/19(日) 00:15:53.68 ID:xyAb/G9H.net
権現様が絶対正義やもん
そこから外れたことは出来ん

414 :人間七七四年:2015/07/19(日) 02:11:03.53 ID:76uak5PJ.net
そう、権現さまが味噌と申されたからには味噌なのでございます

415 :人間七七四年:2015/07/19(日) 02:32:50.94 ID:2eE22z30.net
>>412
やくざと一緒

416 :人間七七四年:2015/07/19(日) 06:06:26.03 ID:6+kB7YtG.net
>>415
さくざと一緒?

417 :人間七七四年:2015/07/19(日) 06:19:06.45 ID:GpAykuLV.net
鬼393

418 :人間七七四年:2015/07/19(日) 08:19:57.13 ID:DQ0gO075.net
徳川実紀
東照宮御実紀巻一(全文)

青字は「森山崩れ」の記述。

かけまくもかしこき東照宮のよつて出させ給ふその源を考へ奉れば。天地ひらけはじめてより。五十あまり六つぎの御位をしろしめしたる水尾のみかど。
御諱惟仁と申しき。是は文徳天皇第四の皇子。御母は染殿后藤原氏明子と聞えし。太政大臣良房の女なり。
このみかどを後に清和天皇と称し奉る。天皇第六の御子を貞純親王と申す。中務卿。
兵部卿、常陸大守をへ給ひ。桃園の親王と号せらる。親王の御子二人おはす。経基。経主といふ。
経基王は清和のみかどの御孫にて。第六の親王の御子たるゆへ六孫王と称し奉る。此王はじめて源の氏を賜はり。
筑前。伊予。但馬。美濃。武蔵。下野。信濃等を歴任し。太宰大貳。左衛門権佐。式部少輔。内蔵頭等を累任せられ。鎮守府の将軍に補し。正四位上に叙せらる。」
後に神霊をあがめて六宮権現といつぎ祭られ。旧邸の地を蘭若となし。大通寺遍照心院と号す。経基王の御子八人。
満仲。満政。満季。満實。満快。満生。満重。満頼といふ。長子満仲朝臣。朱雀。村上。冷泉。圓融。花山。一條の五朝に歴任し。
春宮帯刀の長より兵庫右馬允。兵部少輔。春宮亮。治部大輔。左馬権頭。蔵人頭。摂津。越前。伊予。美濃。武蔵。下野。信濃。陸奥等の守。常陸。
上総の介に累暹し。正四位上に昇られ。老年の後多田院を造営し。剃髪して多田新発智満慶と称す。満仲の子六人。頼光。頼親。源賢。頼信。頼平。頼範といふ。
第四の子頼信。一條。三條。後一條。後朱雀の四朝につかへ。従四位上。伊勢。美濃。河内。甲斐。信濃。相模。下野。伊予等の守。上野。常陸の介。
刑部民部の丞。左衛門尉。兵部治部少輔。皇后宮亮。左馬権頭。冷泉院の判官代。鎮守府将軍に補任し。内の昇殿をゆるさる。河内国壷井の通法寺にをさめ。
今に祀典絶ず。頼信の子頼義。河内。伊豆。甲斐。信濃。武蔵。下野。陸奥。出羽。相模。伊予等の守。常陸上野介を歴て。左近将監。兵庫允。左衛門尉。民部少輔。
左馬頭。小一條院判官代。鎮守府将軍になり。正四位下に叙し。内院の昇殿をゆるされしが。鎮守府に年をふること九年にして。夷族安倍貞任を征討して功勤世にいちじるし。

419 :人間七七四年:2015/07/19(日) 08:25:31.20 ID:Dv/Zflj3.net
>>418
コピペはやめろ
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg534.html

420 :人間七七四年:2015/07/19(日) 10:13:40.80 ID:aFpPCIlN.net
>>411
宗茂の元主君と比べたら秀忠はかなり扱いやすそうだな

421 :人間七七四年:2015/07/19(日) 11:45:07.35 ID:hGSWm65G.net
舟橋なら有事にはすぐ撤去できるしそこまで問題視する必要無い気が

422 :人間七七四年:2015/07/19(日) 12:07:31.09 ID:uwCXzDg7.net
信長公記、天正十年四月十六日の条だと

家康が甲州征伐から戻る信長のために、奉行人三人に命じて
「甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、
川の面寒、渺貼として、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず」
と説明されている、天竜川に舟橋を架けさせるなど、信長を歓待するために
大変な気を配って尽力したため人々に賞された、
と書かれているのに。

権現様もしたことを息子や孫が批判するとは

423 :人間七七四年:2015/07/19(日) 12:21:47.47 ID:+TMhyEgo.net
本拠地がどこにあるかで違う
安土なら瀬田か

424 :人間七七四年:2015/07/19(日) 12:25:15.80 ID:zpVlv4rz.net
秀忠ってホント宗茂好きだよな

425 :人間七七四年:2015/07/19(日) 21:09:32.42 ID:YllLvnMf.net
(前略)
上杉宣政が下総に出兵した時、山と海が接した場所を通る必要があったが
宣政は山上から弩を射かけられないだろうか、また満潮であったらどうしようと
大変不安がっていた。
その為夜半であったけれども太田持資は「では私が確認してきましょう」と
海の状態を確認しに行った。
そうして暫くして戻って来た彼は「今は干潮です。」と報告した。
何故それが分かったのかと宣政が問うと、持資は
「『遠くなり近くなる身の浜千鳥鳴く音に潮のみちひをぞしる』という歌が有るでしょう。
千鳥は潮が引くと広がった干潟に沿って移動して遠くに行く習性があり、その鳴き声は遠くに聞こえるようになります。それで今は干潮だと判断したのです。」
と答えた。

またある戦において退却中、夜間で視界が悪い中で利根川を渡る必要が生じた。
この時も持資は
「『そこひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波はたて』という歌が有るだろう、
その通り水音の騒がしい位置が浅瀬であるから、そういう場所を選んで渡れ。」
と部下達に指示し、無事利根川を渡り退却する事ができた。
(常山紀談)

前略部分は例の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ哀しき」の故事
道灌さんは以降和歌をガッツリ勉強して役立ててました、という後日談。
彼の主君が上杉「宣政」なのは原文ママ。

426 :人間七七四年:2015/07/20(月) 04:15:14.47 ID:8TeZX/ko.net
(●Д゚)伊達昭宗

伊達家の当主は足利将軍から諱名の一字を拝領する慣わしがあったが、
伊達政宗公の元服の際に時の将軍義昭公が織田信長によって京を追われていた事により、中興の祖政宗公の名をそのまま頂く事となった

「伊達治家記録」

本来なら仙台藩主伊達政宗の名は伊達昭宗であったかも知れない話

427 :人間七七四年:2015/07/20(月) 07:28:09.75 ID:riSqZPPi.net
頼義の子三人。義家。義綱。義光といふ。義家はそのはじめ石清水の寳殿にして元服せられしかば。八幡太郎とは称せられき。此人世々にこえて弓矢の道にすぐれ。
膽略またゆゝしかりしかば、東国の武者贄をとりて御家人と称するもの少からず。正四位下。左衛門尉。左馬頭。左近将監。治部兵部の少輔。武蔵。相模。陸奥。出羽。下野。河内。伊予等の守を経て鎮守府の将軍たり。
弱冠のむかし父頼義にしたがひ奥に下り。九年の苦戦に勇略をあらはしければ。東奥の夷これを恐るゝ事鬼神のごとし。また東奥の任にありて清原家衡。武衡をせめふせて其武威いよ/\かゞやけり。』


義家の子六人。義宗。義親。義國。義忠。義時。義隆といふ。第三の子義國は従五位下。帯刀長。加賀介。式部大輔。ゆへありて都を出下野國に下り。足利の別庄に幽居し。薙髪して荒加賀入道と称しける。その子義重。義康。李邦とて三人あり。」
長子義重に新田の庄を譲り。次子義康に足利の庄をゆずられける。新田足利の両流に分るゝ其本源こゝにおこれり。義重幼より新田にありて上西と号し。上野國新田郡寺尾の城に住す。この時都には平相國浄海入道すでに薨じ。
平氏やゝ衰ふるしるしあらはれしかば。諸国の源氏蜂起するに及びて。義家朝臣の曾孫頼朝。伊豆国蛭小島より旗あげして。諸国の源氏をつのられしに。上西入道もとより自立の志ありし故に。その招に応ぜざりしかば。終に鎌倉幕府に於てもしたしまれず
。是しかしながら新田一流の祖なれば。はるか年へだてゝ慶長十六年に鎮守府将軍を贈り給へり。入道の子七人。義俊。義兼。義範。義李。経義。義光。義佐といふ。』
四郎義李は鎌倉幕府に給事し。常に供奉の列に候し。右大将家入洛の時も騎馬の随兵たり。後に髪きり捨て新田大入道と号す。新田庄世良田の郷徳川の邑に住せられしより。其子孫徳川世良田を称する事とはなりぬ。」
義李の子三人。頼氏。頼有。頼成といふ。長子頼氏。始は世良田孫四郎といふ。鎌倉将軍頼嗣并に宗尊親王に仕へ結番衆に加へられ。従卯五位下三河守に叙任す。世良田長楽寺に寺領寄附の文書を蔵せり。頼氏の子経氏。教氏。有氏とす。
(大系図には経氏を江田三郎満氏とす)」二子教氏は世良田次郎とも。又三河次郎とも称し。又徳川を称し。後に静眞と号す。(此二世三河守に任じ三河次郎と称せられしも。後に三河にて龍起し給ふ先徴とすべし。豈奇遇ならずや)」
教氏の子を家時とす。世良田又次郎また孫太郎とも称し。父に先だちてうせらる。(長楽寺へ父教氏寄附ありし文書に見えき)」
家時の子を満義とす。世良田弥次郎また孫四郎ともいふ。新田左中将義貞に属し。南朝に仕へて忠勤を励みしが。義貞うせられし後。一族とおなじく上野國にかへり。新田世良田徳川の間に隠れ住む。後に宗満と号す。(世には此満義を太平記にのせし江田三郎光義とす。
又教氏の弟三郎有氏の子江田弾正行氏を光義の事なりともいふ。何れ是なりや)」

428 :人間七七四年:2015/07/20(月) 11:23:49.62 ID:WnaibkCp.net
南部氏ちょっといい話42

429 :人間七七四年:2015/07/20(月) 11:25:04.42 ID:WnaibkCp.net
誤爆

430 :人間七七四年:2015/07/20(月) 20:50:04.95 ID:TgQAjEmj.net
関ヶ原の時、本多正信はこの合戦を甚だ心許なく感じており、内藤四郎左衛門(正成)を呼んで言った

「私は今度のご出陣はなんとも覚束きません。第一に、上方の軍勢は15万と称しているのに、
我々は御父子合わせても漸く5万ばかりです。
危うい事ですがご出陣されずにはおられぬ情勢ですので、お留めすることも申し上げられず、
ただ朝夕案じているばかりです。

あなたは老功ですから聞きますが、これをどのように考えておられますか?」

内藤はしかし
「私はそう思いません。必ずご勝利あるでしょう。
何故かといえば、私はご幼少の頃よりお側でお仕えしていますが、殿様(家康)は御耳臆病ですが
目は剛胆です。この江戸でお気遣いしているように見えても、神奈川あたりから剛胆になっていき、
上方まで出て実際の状況が見えるようになれば、鬼のようになられるでしょう。
そこから突き掛れば、たちまちご勝利なされるでしょう。

殊に今回幸運なのは、突き掛かるすべき人が此方側に3人もいることです。
一には井伊兵部(直政)、二には福島左衛門(正則)、三はすなわち我が殿様です。
この3人が突き掛かれば一体誰が押しとどめることが出来るでしょうか?
であれば、ご勝利すると考えています。」

そう語ったが、果たしてそのとおりに勝利された。
(明良洪範)

431 :人間七七四年:2015/07/20(月) 20:58:19.81 ID:0uppXI6Y.net
何と、兵部と家康、両方とも突きだったとは
どうやってやるんだろう?

432 :人間七七四年:2015/07/20(月) 21:36:03.26 ID:f5kM8Wzr.net
>>431
ちょっと待て何を想像した

433 :人間七七四年:2015/07/20(月) 22:24:17.38 ID:vS13F+8k.net
>>430
市松ってどの戦での戦功で評価が高いのかしら?
賤ヶ岳以外で大した手柄を立てていないように思うんだが。

434 :人間七七四年:2015/07/20(月) 22:29:00.68 ID:w5/+45hA.net
>>431
69すればいい

435 :人間七七四年:2015/07/20(月) 23:54:35.42 ID:1071id/0.net
正信なら家康と一緒に謀を巡らしてそうなんだけど
そんなに心配だったのかなあ

436 :人間七七四年:2015/07/21(火) 00:07:02.68 ID:eFOY7ELI.net
>殿様(家康)は御耳臆病ですが 目は剛胆です。
この表現に似たものが
新納忠元「耳なんとか目なんとか」・悪い話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/1404-92b2101e
にもありますね。
>忠平様は”耳臆病、目かいがいしい大将”であられます
>家久(善)様は”耳かいがいしく、目臆病な大将”であられます
この頃によく使われていた言葉なのかな?

437 :人間七七四年:2015/07/21(火) 01:34:52.19 ID:2FhXIjUV.net
臥龍梅

伊達政宗が渡海(朝鮮出兵)の折りに、日本では見かける事のない、幹が黒く、野獣が力強くのたうつ様な枝ぶりをした梅の木を見つけた

(●∀゚)「!こいつは良い土産物が出来た!
おい、そこの!お前の兜を貸せ!」

政宗は家来の兜を奪うとその中に土を盛り、梅の鉢代わりにして陣に戻った

政宗は帰国するとこの梅を岩出山に植え、仙台城が出来ると本丸に植え直した



現在松島の瑞巌寺の境内に政宗が朝鮮から持ち帰った梅が植えられている
これは慶長14(1609)年の瑞巌寺の上棟の祝いに分枝されたと伝わるもの
(境内の紅梅と白梅)

政宗が愛した臥龍梅(白梅)は政宗が隠居した後若林城に植樹され、こちらは今も若林区の古城地区(現・刑務所敷地内)に現存している
(普段は刑務所の内のため非公開。11月に申請者の一部の人が拝観可能な模様)

「瑞巌寺縁起」「伊達治家記録」

438 :人間七七四年:2015/07/21(火) 03:31:02.03 ID:ezSRQwjz.net
先週のブラタモリで出てたな仙台刑務所の梅

439 :人間七七四年:2015/07/21(火) 06:02:42.96 ID:2FhXIjUV.net
臥龍梅は実は他にも朝鮮から持ち帰ってたり、分枝や根分けで仙台のあちらこちらにあったりする。
http://www42.atpages.jp/_/mgw/gw?_ucb_u=http%3A%2F%2Fwww42.atpages.jp%2Fijin%2Fdoutiyo103.html

440 :人間七七四年:2015/07/21(火) 07:42:58.24 ID:0pss5mx+.net
ブラタモリ仙台編面白かったな。

441 :人間七七四年:2015/07/22(水) 19:41:08.81 ID:6FzOzcwY.net
>>430の耳臆病目剛胆つながりで


武者に聞き逃れは苦しからず候 見逃れは悪しき候 悉く討たれ候では叶わぬ物に候
聞き逃れは行にて候間更に逃げたるにてはあるまじき候
総じて大事の退口には込め懸かり候わでは逃れざる物に候
故に古今より申し伝え候「耳は臆病目は健気なるが本にて候」故に申し習わし候事

 『朝倉宗滴話記』より


情報で敵を避けるのは兵法、いざ目にしたら腹をくくれということですかね

442 :人間七七四年:2015/07/23(木) 02:43:24.57 ID:fjcy2PWW.net
乗阿と義光

最上義光は豊臣治世の折りに上方あり
山科言継、細川幽斎、里村紹巴、古田織部らの文人と交流し、文学や茶を学んだ
また京に滞在中に源氏物語の研究者である一花堂乗阿に直接指導を頂き、切り紙(免許)を許された

それからも義光は乗阿を師と仰ぎ交流を深め
慶長8(1603)年に乗阿を山形に招く事に成功した

乗阿は赤松氏の出で、甲斐源氏の武田信虎の養子とも言われ、なかなかの歳ではあったが義光の礼応じ山形を目指した

中途の旅で落馬をして腰を痛めて駕籠に乗り、ついに越後本庄を経て鶴岡から山形へ向かう

乗阿「山形も近くなれば、つくり並べたる家々数多く、柳桜植ゑぬ門もなく、見る目かがやくばかりなれば、おぼえずして又もとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはベりぬ」
「(山形は)見る目かがやくばかり」
「又もとの都のうちに帰り入るか」

田舎とばかり思われた出羽は義光の街普請で活気に満ちていた

そんな乗阿を迎えに義光自身が山形城の三ノ丸外まで赴いていた

乗阿「はるばるとさ迷い下ってきた心細さも、力がついた心地」

乗阿は山形城そばの光明寺の住職となり、大石(知行)の他にも事あるごとに米や布を持ち切れぬほど給せられ、連日義光やその家臣団に勉強会や連歌の集い、説法等に声を掛けられ持て囃されたという

「道記」

現在光明寺は山形城東大手門前(現山形美術館と最上義光歴史館敷地)から七日町の東側に移されたが、乗阿の墓所は最上家始祖斯波兼頼の墓の左側に佇んでいる

443 :人間七七四年:2015/07/23(木) 04:31:12.71 ID:ghkLyUV1.net
ヤクルト乗阿

444 :人間七七四年:2015/07/24(金) 23:36:04.90 ID:vSlE0Vs5.net
内藤四郎左衛門(正成)がある時、徳川家康の御前にて「私ほどの者はおりません。」と言った。

その場には諸朋輩も並んで居たため、彼らから「どうして私ほどの者無しといわれるのか、
理由を聞きたい。」と尋ねられた。この時内藤

「武田信玄が生きていた頃、いつも私が武田軍の先手の押さえをしていたが、
一度も後れを取ったことはなかった。
信玄の死後、信玄ほどの敵は居ない。今後とても、我らにとって信玄ほどの敵は出てこず、したがって
私のような者も出来ることはない。」

そう語ったという。

(明良洪範)

445 :人間七七四年:2015/07/25(土) 07:55:54.71 ID:P2LJRRAI.net
そ、そんなこと言われてもどう反応したらいいんだ・・

446 :人間七七四年:2015/07/25(土) 08:24:52.74 ID:LufT3XG1.net
三方ヶ原は?

447 :人間七七四年:2015/07/26(日) 04:04:07.27 ID:b54Whb5k.net
>>408
早川源蔵・・・早川九右衛門、のち細川氏家臣
早川主馬・・・早川長政
堀丹後・・・堀直寄。直政次男。
父監物・・・奥田直政
寺尾筑後・・・?
稲葉兵庫・・・稲葉重通
山岡石見・・・?
早多帯刀・・・?
富田左近・・・富田一白

わからない人がいっぱいいる。

448 :番外編:ある騎馬武者の話:2015/07/26(日) 21:35:36.70 ID:eyZ380dP.net
『相馬野馬追』は、その名の通り相馬氏領で行われる神事であり、平将門が下総相馬郷において
野生馬を追って軍事訓練をした事に始まるとされる、古式ゆかしい祭りである。
慶長7年(1602)、相馬義胤が江戸より改易の報を受けとったのも、野馬追の最中であったという。


「それがし北郷が組頭、中橋安彦!供養のため畏れながら、北郷騎馬先頭組頭として本年も
出陣させていただきます!何とぞ御加護を賜りますよう、お願い申し上げます!よしなに!」

相馬北郷組頭・中橋安彦は、大音声で縁者・先祖に告げて、馬上の人となった。

例年は五百騎を揃える騎馬隊が、今年は八十騎を連ねるのみ。それでも沿道には三万六千の民が詰めかけた。
苦しい日々の中で集まってくれた人々に応えるかのように、中橋は声を張り上げた。

「沿道の方々に物申す!ただ今、北郷騎馬隊、進軍開始!!」
武者たちは威風堂々と練り歩き、一刻半ばかりの武者行列を終えた中橋は乗馬とともに自宅へ向かった。

ガレキの山となった、自宅の跡へ。

平成23年(2011)3月11日。大震災に襲われた中橋が急いで帰宅した時には、自宅は津波に飲み込まれていた。
翌12日、中橋はガレキの下から冷たくなった妻を発見した。

毎年、中橋は妻に具足を着付けてもらっていた。今年は、着付けだけで一時間を要した。
7月22日生まれで「野馬追のせいで、誕生日を祝ってもらえない」そうムクレつつ、手伝ってくれた妻だった。
震災から数か月後の野馬追参加も、亡き妻への供養と、自分自身の勇気を取り戻すためのものであった。

「これで一歩踏み出せる。俺はもう大丈夫だと、どこかで見てくれている妻に、この甲冑姿で伝えたい。」
自宅跡前で黙祷を終えた現代の騎馬武者は、明日へ向けて一歩を踏み出した。
(NHKスペシャル他より、敬称略)

平成27年7月。奥州相馬に、四百五十余の騎馬武者が帰って来た。

449 :人間七七四年:2015/07/27(月) 21:14:05.27 ID:5zjdTLTt.net
石田三成は己の才知を誇り、常に人を見下していたが、大谷刑部(吉継)とは親しみ深く、
彼からは異見であっても聞いた。

大谷刑部は元より知謀深き者ゆえ、太閤秀吉にも取立てられ五奉行の列にも加わった。
そんな吉継がある時、三成にこのように言った

「貴殿は常に金銀を貴く思い、人に対しても、金銀を与えさえすれば何事も成るかのように思い、
自分の家人たちに対しても、そのようにしているように見える。
だが、それは心得違いである。

もちろん、金銀は世の宝の第一である。だが、用い方が悪ければ害にもなり、特に家来には
別して実意を以って接しなければ、心服することはない。実意によって服していなければ、大切の時の
用には立たない。であれば、人は使いようによるものなのだ。

主人が貧しい時は、利を与えることが出来ないため、おのずから家来に対しても礼儀が厚くなる。
そのため、家来も主人への思い入れが深くなる。

主人が富んでおり、禄も多く与え、その他の物も快く与える家では、家人も悪い顔はせず、主人も
それを見て心から仕えていると考えてしまうが、家人の方は仕えている以上この位のことはするものだと、
その待遇が過分などとは思わず、君臣共に実義薄くなり、初めはその家を望んで来た者でも、後には
見劣りするようになり、貧しき主人の礼儀厚き者ほどには、思い入れてもらえないものなのだ。

だが、一概にそう言えるわけではない。
貧しくて礼儀なければ心離れ、少しの困難でも家が滅びてしまう者も多い。
貧しくても、常に甘苦を分かち、家来の風雨寒暑をも自身が受けるように思う、志深き将であれば、
困窮の中にあっても、命を惜しまず主の先途を見届ける者も有る。
源義経の漂泊に従った者達の諸行を考えてみるべきであろう。

金銀で人を使おうと思うのは、人心の離れる元だ。何事であっても、実意には帰服するものなのだ。」

三成はこの吉継の異見を忝く思い、その誠意に起伏し心から謝礼した。

(明良洪範)

450 :人間七七四年:2015/07/27(月) 21:37:40.13 ID:0UPdA6rn.net
【激ヤバ拡散】サルでもわかるTPPがヤバい9つの理由 1分55秒辺りから TPPと中韓や安全保障の影響 他
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/diplomacy/1423801232/7
.

451 :人間七七四年:2015/07/27(月) 22:50:12.73 ID:bsfrDP5Y.net
>>448
現代のとてもいい話にござりますなあ

452 :人間七七四年:2015/07/27(月) 23:51:39.02 ID:7c4EnYQv.net
感涙した!

453 :人間七七四年:2015/07/28(火) 02:17:32.49 ID:elWaZyez.net
>>449
世間知らずな宗茂とかも浪々の折はみんなよく尽くしてくれてたもんなあ

454 :人間七七四年:2015/07/28(火) 09:08:35.06 ID:IHKs+A9Y.net
宗茂「おっと、雨が落ちてきたか、干し飯を取り込まんと…いや、いかん、いかん、そんなことをしたらかえって家来共が悲しむ」

455 :人間七七四年:2015/07/28(火) 09:50:16.81 ID:8FKcYLz6.net
高粱飯うめー

456 :1/2:2015/07/28(火) 19:59:24.16 ID:hrig4mSX.net
黒田長政の家臣である林田左門という人は、剣術の大名人として、西国では隠れなき人物であった。

ある時、黒田家中の者達5,6人が寄り合いをした時、このおり林田左門なども来て話をしていたが、
兵術の話になり、その中で若年の者が、彼は力量も強かったため、己が血気に任せて所持強きことのみを
好んでおり、このように語った

「兵法は武士の勤道とは言うが、あながちこれを学ばなくても、武道が成らない、というわけではない。
心さえ臆さなければたとえ兵術は知らなくても、高名を遂げることは出来る。」

そう居丈高に言い放った。
林田左門はこれを聞くと、
「其方の申されること、一理はあるように聞こえる。しかしながら、心剛なる上に
兵法優れていれば鬼に金棒というものではないか?」

しかしかの若侍は血気の者ゆえ
「いや、一心さえ動かずば、たとえ木刀の試合であっても無下に劣るとは思わない!
ちと試合してみたいものだ。」

左門、これを聞くや
「それは良い志である。いざ参らん!」
若侍も「心得たり!」と即座に座を立ち庭に飛び降りると、漆の木に結びつけてあった
長さ一間ばかりの丸太があったのを、「これにて仕らん」と引き抜き、土のついた所を拭い
2つ3つ打ちふるって左門を待った。

左門も座敷を立って縁側を見ると、小さな木刀があるのを見つけ、これを取ると庭に降り
「随分心の及ぶほど精を出し、出来る限りの大力を入れてみられよ。」と声をかける。
「言われるまでもなし!」若侍は丸太を打ち振りかかった。
左門は小太刀を引き上げ、そろそろと寄り、太刀の届く間合いになったと見えた時、若侍が
一打ちにと打ってきた所を、左門は一体どうやったのか、引き外し、飛び違いざまに、太刀の先で
彼の者の額を少し打って「参りたり!」と声をかけた。

若侍「どうやら木刀が当たったようだ。思ったよりも太刀が早い。なかなかあのようには出来ない」と、
持っていた丸太を投げ捨てた。しかし左門は「いや、残念なこと多い試合であった。今一度試合すべし」と
誘ったが、若侍は「いやいや、出来ない」と断った。

457 :2/2:2015/07/28(火) 20:00:02.89 ID:hrig4mSX.net
双方座に戻り、左門が「今後は私を祈られよ」と言うと、「なるほど心得たり」と答え、
これに一座の人々も笑った。しかしそれから、彼の者の額はみるみる腫れ上がり血も滲んだ。
彼は表には素知らぬ体で居たものの、内心にはよほど面目なく無念にも思っていた。
しかしどうすることも出来ず、その場を立ち退いた。

この次第を黒田長政が聞いて、その若侍を呼び出し
「お前はこの前、左門と試合をし負けたそうだが、そのとおりか?」と尋ねた。
「御意のごとくです。」と答えると、長政

「若者には似合いの良い心ばせである。林田左門であっても打つべし、と思うのは、勇気の
優れた所であり、若年にてその志無ければ物の役には立ち難い。

さて、お前が試合に負けたことは、少しも恥ではない。
何故なら、あの林田左門は兵法の名人としての名を世に許された者である。
その方は素人であれば、どうやっても勝つことは出来ない。負けるのは道理である。

であるが、あの左門に武辺で負けてはならぬ。
剣術が上手だからといって、合戦の時必ず勝つわけではない。兵法不得手であっても、高名は
出来るものだ。こういったことは格別の詮議である。
しかし、だからといって、武芸を修行しないのは、武士の家に生まれた道理に背く。

その方が左門に試合で負けた事を、何時までも心に掛ける必要はない。
上手が勝ち下手が負けるのは定まったことだ。
私も昔、柳生但馬、疋田文五郎などに兵法を習った時、我意を立てて打たれたこと度々であった。
おまえも、今後左門の弟子になって兵法を学べ。習い得れば、かならず人に勝つ。勤めて稽古を
怠ってはならぬぞ。」

これを聞いて若侍は落涙し、そこから直に左門に家に参り、この次第を語り、師弟の契約をなした。
それ故に、後年この若侍は剣術の上手となった。

そしてこの話を聞いた人々は、黒田長政が君主の徳を持っていることを賞賛したのである。
(明良洪範)

458 :人間七七四年:2015/07/28(火) 20:15:13.32 ID:QYbT+Hsr.net
>>456
同じものを呼ぶ時は同じ名称で書いてね、木刀・小太刀・太刀・丸太
若者は丸太のみで、もう一人は短い木刀だけに読めたが
途中で新しい呼び方が出てくると、もう一回それが登場しているか最初の方を読んで、また戻るの繰り返しになるから
俺の理解が違ったら謝るが、真面目に読んでいるからちょっと気になった

459 :人間七七四年:2015/07/28(火) 20:17:54.95 ID:hrig4mSX.net
>>458
二人の得物に関する名刺がバラバラなのは原文のままなんだよ

460 :人間七七四年:2015/07/28(火) 20:58:24.73 ID:IHKs+A9Y.net
原文左衛門はかく語りき

461 :人間七七四年:2015/07/28(火) 21:12:31.49 ID:D5y49FXO.net
面白く拝読した。お疲れ様。
ただ私も>>458氏に賛成で、これくらいの量になると、
原文尊重もよいが、それなりに読みやすさも配慮して欲しいかなあ。
「所持」は「諸事」の誤変換?
「今度は私を祈られよ」のあたりは意味がよくわからないが…

462 :人間七七四年:2015/07/28(火) 21:18:33.82 ID:upKQN8/x.net
>>461
>今度は私を祈られよ
俺は「これからは私に倣って武芸に励め」みたいな意味にとった

463 :人間七七四年:2015/07/28(火) 21:24:29.29 ID:MU9UrZAt.net
何偉そうなこといってんのこいつ

464 :人間七七四年:2015/07/28(火) 22:21:23.77 ID:NyGfnV/b.net
>>457
もっと簡単にまとめろよ、長政。

465 :人間七七四年:2015/07/28(火) 22:36:23.57 ID:IHKs+A9Y.net
だから、せっかちな又兵衛に逃げられんだよ

466 :人間七七四年:2015/07/29(水) 05:03:33.94 ID:d8kVuJ23.net
原文尊重かどうかは投稿者に任せるべきだ。
ヘンな注文をつけるヤツの方が迷惑だ

467 :人間七七四年:2015/07/29(水) 06:52:55.92 ID:gP9xh+Uw.net
いい話、悪い話スレは原文重視より読みやすさ重視でいいんじゃないかな。
元々、学術的に検証しようってスレじゃなくて、こんな愉快な話があるよ、ってネタスレに近いんだし。

468 :人間七七四年:2015/07/29(水) 07:20:39.73 ID:d4KHU6tz.net
丸木戸佐渡守の家臣に原文左衛門と申す者がおりました
主君や同僚からは名を縮めて「原文」と呼ばれていました

ある日、原文は主君の丸木戸佐渡守より、こう問われました
「当家の家臣に不満があるわけではないのだが、更に良い人材を求めたい。如何したら良いだろうか」

原文はこう答えました
「古の唐土の君子が千里の名馬を求め、ある者に大金を授けて探させたそうです」
「しかし、その者は死んだ馬の骨を大金を出して買って戻って参りました。当然、主君はたいそう腹を立てました」
「それに対し、その者は主君にこう申し開きしたのです。」
「『死んだ馬の骨にすら大金を出すのだから、千里の馬ならいかほどで売れようかと、向こうの方から集まってきましょう』と」
「そして、その者の申した通りに名馬が主君の元に集まり、千里の馬を手に入れることが出来たとのことでございます」

原文は更に佐渡守ににじり寄ると、こう続けました
「さようにございますから、わが殿よ、まずはこの原文を尊重なさいませ」
「さすれば、あの原文すら尊重されるのだからと、自ずから優秀な人材が当家に集まりましょう」

佐渡守は少しの間、思案げに考えていましたが、やがてこう言いました
「なるほど…今の喩えでは、お主が死んだ馬の骨ということじゃな」

原文が丸木戸家から放逐されたのは、翌日のことでした

469 :人間七七四年:2015/07/29(水) 08:00:48.60 ID:p5GJjyFN.net
なんで放逐されたん?

470 :人間七七四年:2015/07/29(水) 08:07:03.00 ID:lQ/UayEp.net
マルキド・サドと原文重視にひっかけたよくわからんネタだな

471 :人間七七四年:2015/07/29(水) 11:05:43.30 ID:zcyO64MN.net
先ず隗より初めよをベースにしたのか

472 :人間七七四年:2015/07/29(水) 11:34:24.98 ID:yTnx3SlM.net
正直面白くない

473 :人間七七四年:2015/07/29(水) 18:11:09.25 ID:Oh1t7bf1.net
何考えてこんなの作ったんだ?

474 :人間七七四年:2015/07/29(水) 21:25:45.80 ID:d8kVuJ23.net
スレ違いの阿呆とか

475 :人間七七四年:2015/07/29(水) 22:51:55.84 ID:7yH0RuSE.net
己れを誇示したいのじゃろ

476 :人間七七四年:2015/07/30(木) 21:14:07.67 ID:pBDvaDS2.net
>>463
左門「今度は私を祈られよ」

477 :人間七七四年:2015/07/31(金) 02:25:08.68 ID:IeNYOPmK.net
供物は15の生娘でよいぞ

478 :人間七七四年:2015/07/31(金) 22:13:09.50 ID:NxEb3sBj.net
この事ばかりは信州信濃の早太郎には知らせるな〜

479 :人間七七四年:2015/08/02(日) 05:23:58.38 ID:j5wdK5Go.net
age

480 :人間七七四年:2015/08/02(日) 09:08:53.43 ID:S4HvM1GE.net
面白そうなスレだ……

天正十四年 豊臣秀吉の九州征伐が始まると信種は娘を逃し、自身は居城の高祖城籠城を決める。
しかし小早川隆景の軍に囲まれ、黒田官兵衛の降伏勧告を受諾。信種は秀吉の前に引き出された。

秀吉「僕に楯突くなんて中々やるじゃん。それで君の領地はどこだったかなぁ?」
信種(これはチャンス。過小報告すれば全部の領地を取り上げられずに済むぞ)「私は伊都のみを治めているものでございます」

信種の言葉を聞くと秀吉は急に恐ろしい顔つきになり、こういった。

秀吉「お前は嘘つきだ。事前調査でお前の領地は全て把握している。この場で嘘をつくなど、人の上に立つ器ではない」

信種は一言の失言により全ての領地を没収され、佐々成政の配下に組み込まれてしまった。
秀吉に嘘をつき、それが即バレした事が記録に残ってるおそらく唯一の人。

佐々が懲罰で切腹した後は、後釜の加藤清正配下となる。
朝鮮出兵の際は、清正に付き従い朝鮮へ従軍したが、名護屋城に信種をしたって五百人余りの旧臣が集結し、そのまま朝鮮へ帯同したという。
しかし帰国後、次代の原田嘉種が清正と対立し追放されてしまう。
原田家は次に寺沢広高の配下となった。
島原の乱の際は富岡城に立て篭り、城代が戦死すると、代わりに指揮を取り富岡城を守りぬく。
が、島原の乱の責任で寺沢も改易。
にっちもさっちも行かなくなった原田は江戸に出て天海に窮状を相談すると……

天海「原田が豊臣に反抗したのは、徳川に尽くしたのと同義だ」

そう言葉をいただき、会津の保科正之を紹介されその配下となった。
漢の霊帝を祖先と公称し、元寇で功を上げ、朝鮮出兵にも胎動した生粋の九州人が、
一言の過ちで秀吉の怒りを買い、ついには故郷を去ることになった顛末。

481 :人間七七四年:2015/08/02(日) 09:11:44.02 ID:S4HvM1GE.net
戦国時代ではないが、それから数百年後……
慶応四年の幕末の戊辰戦争時、上は松平容保から下は兵卒の女房子供まで抱えて、会津藩は籠城戦を行った。
その中には原田氏の子孫、原田対馬がいて、彼はその優秀さから籠城戦突入時に家老にまで引き上げられていた。
戊辰戦争の会津の悲惨さは白虎隊などで伝えられている通りであるが、
実はそれ以上の悲劇が、籠城した城内で起こる寸前だった。
急な籠城戦になったため、食料の備蓄が足りなくなっていたのだが、
この解決方法を下問された家老が、口減らしのために
一緒に立てこもっていた婦女子全員を斬首することを提案し、あわやこれが実行寸前にまでなる。
その時、敢然と異を唱えたのが原田対馬であった。
原田の反対もあり婦女子の斬首は取りやめとなり、その後すぐに会津は降伏した。
なんとなく後の戦陣訓ってこの辺の東北の風土から出た気がするのと、
九州人は生きる事に意地汚いというお話し。

……というよりも原田氏からすれば、たかだか一度の籠城戦に敗れた程度で
死のう死のう団になる東北人が理解できなかったのかもしれない。

戦国時代までは悪い話だけれど、数百年後に会津の婦女子を救う、原田氏のいい話。

482 :人間七七四年:2015/08/02(日) 09:14:06.86 ID:S4HvM1GE.net
あ、前半の出典は糸島戦国史と糸島伝説集です。

483 :人間七七四年:2015/08/02(日) 09:52:34.57 ID:FR9tdf2C.net
いきなり信種と書かれても困っちゃうのう
ちゃんと原田信種と書いて欲しかったわさ

484 :人間七七四年:2015/08/02(日) 10:51:37.45 ID:pqHJNuIX.net
いや、分かるだろ

485 :人間七七四年:2015/08/02(日) 12:46:39.59 ID:tzOLS/j8.net
浅利信種「…俺の知名度って」

486 :人間七七四年:2015/08/02(日) 14:48:02.11 ID:L9+UiHdj.net
高祖城でああ原田ねってわかるな。

487 :人間七七四年:2015/08/02(日) 19:55:06.55 ID:HZpB4AaW.net
どうせいつもの面子なんだし
所謂ここはわかってる奴同士の集いだから別にいいが
知識ない人に分かりやすく説明出来ない奴ってこんなのなんだろね

488 :人間七七四年:2015/08/02(日) 21:28:08.81 ID:FkO6tnR5.net
大関ヶ原展・福岡展

福岡会場の出品リスト速報がアップされました。
出品件数は、東京157件、京都187件に対し、福岡は最大となる209件。しかもそのうち86件は福岡会場限定。8月7日(金)開幕!

http://pbs.twimg.com/media/CLTKo4iUsAAnd3e.jpg
(´・ω・`)福岡が最大の出品って羨ましいのぉ。ところで東京や京都の出品リストを見られるサイトはあるのでしょうか?

大関ヶ原展の図録は本気で購入をお勧め!

489 :人間七七四年:2015/08/02(日) 22:04:59.62 ID:L9+UiHdj.net
>>487
無知ならググって調べろよ
楽して得た知識なんぞ数日で忘れるぞw

490 :人間七七四年:2015/08/02(日) 22:10:09.20 ID:XZbo58V4.net
一時期に比べてだいぶ過疎ったのって割とそういう排他的なのあると思う

491 :人間七七四年:2015/08/02(日) 22:57:50.36 ID:L9+UiHdj.net
おいおい自分で調べることすら出来ないお子ちゃまが消えただけだろw

492 :人間七七四年:2015/08/02(日) 23:13:34.22 ID:HZpB4AaW.net
>>489
>>491
ググるだけで苦労しちゃえる君は脳が衰えてるんだろうから
そりゃ十分大人ではあるんだろうけどさ・・・
むしろお年寄り?

493 :人間七七四年:2015/08/03(月) 00:42:45.50 ID:sFnpp7/5.net
そろそろ、供々留政景のネタを出す頃かな

494 :人間七七四年:2015/08/03(月) 02:16:09.66 ID:jhniYpaG.net
これは書き手がちょいと推敲すればよかっただけじゃん?
みんな暑いからってカッカするんじゃないわさ

495 :人間七七四年:2015/08/03(月) 09:04:59.89 ID:Z7ueFhkK.net
最近変な語尾で論点ずれた文句ばっか書き込んでるやついるだろ

496 :人間七七四年:2015/08/03(月) 09:38:30.68 ID:HLwO+UvV.net
正論でまともに言い返せないからって
そんな愚痴を書き込まれてもそれはそれで困るが

497 :人間七七四年:2015/08/03(月) 09:43:55.46 ID:yG50ztBF.net
正論(笑)

498 :人間七七四年:2015/08/03(月) 10:47:05.13 ID:fX+DuQ2V.net
すりらんか

499 :人間七七四年:2015/08/03(月) 10:56:19.25 ID:sFnpp7/5.net
コロンボ

500 :人間七七四年:2015/08/03(月) 11:21:25.83 ID:dD1Zxuix.net
最近アホが増えた気がする
やっぱ夏休みだからガキが徘徊しとるんかな

501 :人間七七四年:2015/08/03(月) 12:12:44.29 ID:vh6Nrxc3.net
>>500
ニュー速とかもっと酷いぞ

502 :人間七七四年:2015/08/03(月) 13:00:09.58 ID:zGh5vPDx.net
なんや、共産主義とか言う怪物が徘徊しとるんか?

503 :人間七七四年:2015/08/06(木) 03:32:26.74 ID:YEMkiODt.net
×僧は推す月下の門
○僧は敲く月下の門

504 :人間七七四年:2015/08/06(木) 05:54:13.32 ID:r5m4tBub.net
現代で言えば、歩きスマホは危ないという故事成語だな

505 :人間七七四年:2015/08/06(木) 14:27:20.54 ID:K9fAhqy/.net
で?

506 :人間七七四年:2015/08/07(金) 15:49:10.25 ID:AXNhViST.net
祝田郷徳政之事、去寅年以 御判形雖被仰付候、銭主方令難渋、于今就無落着、本百性令許詔之条、任先 御判形旨許詔、不可許容者也、仍如件、
永禄十一[辰] 十一月九日
 関口 氏経(花押)
 次郎 直虎(花押)
祝田郷 禰宜
 其外百性等

507 :人間七七四年:2015/08/07(金) 20:33:07.77 ID:vtwNp2Jb.net
黒田如水は、石田三成の讒言により太閤秀吉の御前より疎くなった。
ただ折々に、連中に出仕はしても、久しく対面を許されることがなかった。

ある時、秀吉が諸大老と朝鮮での戦略を評議しているのを、如水は壁越しに聞いて、秀吉の耳に入るよう
大声で語りだした

「去年、大軍を朝鮮に遣わした時、徳川家康か前田利家のどちらか一人を総大将として遣わされ、
万事一人の下知より出していたなら、軍法はよく行われ滞りは無かったでしょう。
もしまたこの両将の使わされる事が出来ないのなら、軍の道を存じた私を遣わされれば、
軍法定まって上手く行ったでしょう!

その上で和を以って人を懐かせ、朝鮮人が安堵して日本人に帰服すれば大明を征伐することも
安かるべし!

しかし、加藤清正、小西行長らは若き大将ですから、血気の勇のみにて軍の道を知らず、
その上両人は仲悪しく、清正の仕置を行長は破り、行長の法令を清正用いず、仕置一様ではありません。
それ故に、朝鮮の人民は日本の下知法度を信用せず、頼みなく思って、山林に逃げ隠れて
安堵することがありません。

日本より朝鮮への路遠く、兵糧武具等、日本より持続的に輸送するのは難しいことです。
朝鮮の民を懐け、耕作を元の通りにさせ、兵糧を敵であった彼らから徴収する事こそ然るべきなのに、
仕置き悪しく、日本人が通った朝鮮の三道は、人民散逸し、荒れ野となって五穀なく、
このように朝鮮は将に亡国となってしまいましたから、大明に入るべき基礎ができていません。

朝鮮の人民散逸し、日本からの運送もまた、持続がなり難いのですから、今後、味方の大軍は
兵糧が尽き、異国の在陣は不自由であり、ありますから、士卒の苦労は耐え難いほどになり、
殿下が思し召された大功は、絶対に成就することは出来ません!」

そう高らかに言うと、これを壁越しに聞いた秀吉も、たしかにそのとおりだと思い
「来年、異国を討つときは私自ら朝鮮に入るか、そうでなければ私は上洛し、秀次を名代として
朝鮮に遣わすであろう。」
と語ったという。

(黒田家譜)

508 :人間七七四年:2015/08/07(金) 20:45:15.46 ID:q0lUqLcp.net
何も理解してない秀吉w

509 :人間七七四年:2015/08/07(金) 21:04:35.47 ID:08oRjCCl.net
子飼いは温存しておいて
油断ならない徳川、伊達を朝鮮で消耗させれば一石二鳥なのに
逆だからな

510 :人間七七四年:2015/08/08(土) 08:25:33.61 ID:nIQNXiUD.net
むしろ失敗したという歴史を知ってて、あとから好き勝手に書いてるのが黒田家譜
秀吉自身は当初から渡海する気満々だったし

511 :人間七七四年:2015/08/08(土) 19:28:50.41 ID:xYPPspqx.net
うーん黒田家譜がソースかぁ。

512 :人間七七四年:2015/08/08(土) 19:40:15.56 ID:vFyxtPXh.net
ラスボスの計算では前哨戦で子飼いを使い、
明との本戦で東国の大名を投入する予定だったのに
前哨戦で躓いたのかね

513 :人間七七四年:2015/08/09(日) 11:34:32.58 ID:WlkuYOw/.net
子飼い関係無く西国大名が先鋒なだけだろ
子飼いの多い近畿東海道軍は秀吉親征のために温存したままだ。

514 :人間七七四年:2015/08/09(日) 13:21:44.49 ID:6YzWbgGD.net
戦場に近い大名が先陣するのが豊臣政権のセオリーだもんな

515 :人間七七四年:2015/08/09(日) 16:24:11.68 ID:DBc4ZSEo.net
>>514
となると徳川家の転封先を九州にしておけばよかったのか

516 :人間七七四年:2015/08/09(日) 16:50:13.85 ID:WlkuYOw/.net
小田原征伐の時に関東を与えることによって徳川を当事者にして他大名より大兵力の提出させ
軍事力的空白地となった徳川領の防衛治安維持の名目で豊臣の兵を入れて
全ての主要城を一時的にしろ明け渡せたことによって徳川の完全服従を内外に示したという
プロセスが無くなるという事は、徳川は独立性を保ったままより厄介な勢力になる訳で、下策やね

517 :人間七七四年:2015/08/09(日) 18:46:38.12 ID:6YzWbgGD.net
>>515
旧北条領並の石高となると九州全域になるから、小田原征伐の時点だと
九州の大名、国衆を転封させる手間がかかりすぎじゃないかな

そもそも関東に徳川クラスの大勢力がいないと奥州仕置のあとの一連の
一揆がとめどなく広がって大変なことになってた可能性も…

518 :人間七七四年:2015/08/10(月) 21:24:39.55 ID:XTcEjwde.net
まあ西軍びいきの徳川封じはどうしても難しいものになってしまうね

519 :人間七七四年:2015/08/10(月) 21:29:18.55 ID:o3fZ4DbG.net
そもそも豊臣政権における家康の処遇は秀吉の失敗、っていう考え方自体がなあ。
少なくとも秀吉にとってはベストに近いベターだったと思う。

520 :人間七七四年:2015/08/10(月) 22:04:18.92 ID:eu5gA80S.net
家康はラスボスが死ぬまでは、律儀で義理堅いキャラの仮面をかぶって完全に演じ切ってた


豊臣武断派が騙されたのはしょうがない。

521 :人間七七四年:2015/08/10(月) 23:09:39.35 ID:kemX0IPL.net
家康の死後に政宗が野心むき出しで天下狙うくらいに、有り得ない話だったんだろうな。

522 :人間七七四年:2015/08/11(火) 01:02:43.30 ID:Jypm79KZ.net
本気で信じてたら前田を対抗馬にしたり形振り構わない遺言したりしないだろな

523 :人間七七四年:2015/08/11(火) 02:13:50.24 ID:SpSvfI1H.net
結局は秀次を処罰してしまったのが家康に好機を与えてしまったんじゃないの?

524 :人間七七四年:2015/08/11(火) 05:59:35.70 ID:8wQ5baPO.net
家康の律儀というと「戦争の日本中世史」を書いた呉座勇一先生がツィッターで

>『学生は「戦国時代は騙し合い、裏切りの世界」と思っているので、「一番律儀だった家康が最終的な勝者になったという事実から、戦国時代を見直してみる必要がある」と話すと、みんな驚きます。』

なんて言ってるな

525 :人間七七四年:2015/08/11(火) 06:41:07.20 ID:SpSvfI1H.net
まあ、秀吉が亡くなって、実質的に政権トップとなってしまって慌てたという話もあるらしいけど、ソースを知らんので何とも言えんが

526 :人間七七四年:2015/08/11(火) 08:27:02.54 ID:hIOUkM6k.net
秀吉は遺言で家康や利家に政権運営を頼んでるのに、奉行衆が合議制へと
ひっくり返したのが対立の根本原因だと思うけどな

豊臣家中である奉行衆としては当然の反応でもあるけど、あれで家康との
関係がおかしくなってしまった

527 :人間七七四年:2015/08/11(火) 21:56:48.51 ID:wmmR1HwC.net
>>522
前田も賤ヶ岳で柴田を裏切ってとどめをさしたしな

528 :人間七七四年:2015/08/12(水) 07:11:30.84 ID:8lbm1Qo/.net
肥後国入江白川という所に、加藤清正の菩提所がある。霊屋を建て、秦勝院と呼ばれる。
肥後では現在でも、国中の者達が清正の霊を大変に尊崇している。

さて、その秦勝院の門前の道は一里ほどの直線で、道の幅約二十間(約36メートル)、その両側には梅の木が
植えられている。
梅が最初に植えられた時、木々の間隔が広く取られたため、人々から「これは広すぎるのではないか」と
批判があった。しかし梅が成長し大きくなると、その枝々の間隔も丁度良いほどになった。
これは後世のことを考えて植えさせたものなのだという。

また、寺の後方はほぼ栗の大木の林となっている。これは他の木は薪などにするため切っても、
栗は実を付け人々が生きていく上での助けともなるので、切ることを禁止させたためだという。

何事によらず、名将には深慮遠謀が有るものである。格別のことだ。

(明良洪範)

529 :人間七七四年:2015/08/12(水) 08:41:00.05 ID:IDMAzZTI.net
泰勝寺のこと?
もし泰勝寺なら忠興のいいお話だよね
携帯でググってみたけど、よそ者には地理を含めてちとわかりづらかった

530 :人間七七四年:2015/08/12(水) 13:32:45.16 ID:JaIo0zrb.net
所詮紙の上の知識で踊ってる人間か

531 :人間七七四年:2015/08/12(水) 19:25:36.88 ID:n1kJko3v.net
清正の菩提寺は本妙寺じゃなかったっけ?

532 :人間七七四年:2015/08/12(水) 19:51:54.21 ID:tYH+ulrQ.net
子孫が改易になったのに清正公の愛され方は異常

改易されて、新しい藩主が来たら過去の殿様は完全に忘れられる
蒲生とか最上とか福島とか森とか田中などなど...

533 :人間七七四年:2015/08/12(水) 20:22:41.89 ID:Wxtj+KHf.net
細川家の菩提寺=泰勝寺(三歳様が幽斎パパの為に立てた小倉の泰勝院を移転したもの)と
加藤清正が埋葬された浄池廟のある本妙寺が混同された逸話やね

花の咲く木(桜)の並木のある直線状の長い参道があるのは本妙寺の方だし

泰勝寺は今は廃寺で「泰勝寺跡」として
立田山の「立田自然公園」の一部になってて三歳様とガラシャさんのお墓も在る
静かで夏でも木陰が多くて比較的涼しい綺麗な場所だよ
ただ今の時期は虫よけスプレーが必須 by熊本市民

534 :人間七七四年:2015/08/12(水) 20:44:32.51 ID:4T5F2vu3.net
>>532
会津は伊達でもなく上杉でもなく蒲生だったぞ。まあ一番は幕末だが。

535 :人間七七四年:2015/08/12(水) 20:59:13.58 ID:tYH+ulrQ.net
>>534
会津は完全に松平一色。
蘆名、伊達、蒲生、上杉、加藤は空気

一応、蒲生氏郷の墓はあるけど、街中にひっそりとある感じ
http://i.imgur.com/oQmMMit.jpg
http://i.imgur.com/UjwPxqv.jpg
http://i.imgur.com/3M3LqhJ.jpg
http://i.imgur.com/aJ4QwQD.jpg

536 :人間七七四年:2015/08/12(水) 21:01:29.73 ID:wVpXyK/9.net
>>532
次きたお家が良い所だったんだろうな

537 :人間七七四年:2015/08/13(木) 07:16:44.81 ID:ujHdEatt.net
>>536
確か忠興は熊本に入るさいに清正の廟のほうに拝礼して貴方の業績はきちんと護りますよとか言っていたような

538 :人間七七四年:2015/08/13(木) 09:22:19.63 ID:BuDgiuY7.net
>537
忠興は隠居済、やったのは忠利

539 :人間七七四年:2015/08/13(木) 09:43:30.84 ID:qnCAdDSX.net
また3代目世代の出来杉君の忠利か。
黒田さんちの忠之君は爪の垢でも飲ませてもらえばよかったのに

540 :人間七七四年:2015/08/13(木) 11:32:30.93 ID:2LflWE2J.net
>>532
佐々成政も地元で愛されてないか?
たった2年しかいなかったのに

541 :人間七七四年:2015/08/13(木) 12:29:30.08 ID:ngctAjqP.net
佐々は失政で一揆が発生し、それを鎮圧してたのになんで愛される?

542 :人間七七四年:2015/08/13(木) 12:31:25.55 ID:AT5rNIIo.net
現代人の佐々さんが色々やろうとしたけど地元民は忘れてて失敗した…ような

543 :人間七七四年:2015/08/13(木) 12:32:07.44 ID:qnCAdDSX.net
金沢前田へのアンチテーゼちゅうだけ

544 :人間七七四年:2015/08/13(木) 14:48:15.16 ID:pZnZRH1B.net
越前・朝倉氏の配下国人衆で猛将として近隣諸国にまで名が知れ渡っていた武将に
”真柄十郎左衛門直隆”という人物が存在した
彼は2.2m、250kgの巨躯を誇り、5尺三寸(約175cm)の大太刀を自在に操る豪傑であった

そんな武勇の誉れ高い彼も姉川の合戦において自軍の敗走を助けるために敵陣深く切り込み
同じく豪傑の弟・直澄や嫡男・隆基共々、徳川家康配下の向坂三兄弟に討ち取られてしまう
一族の重鎮を軒並み失ってしまった真柄一族ではあったが越前・真柄庄において
その後も朝倉氏の配下として細々とではあるが存続していた

1573年に織田氏配下となっていた朝倉旧臣達の主導権争いに端を発した越前一向一揆において
真柄庄に大挙押し寄せた一揆勢達によって真柄一族は長く治めた真柄庄から追放されてしまう
名高き武勇の前当主達不在の真柄一族では越前国内を席巻する一向宗を食い止める力は既になかったのだ
一族はそれぞれ各地へと散り散りに逃れここに真柄の名は歴史の中から消えていったのだった

545 :人間七七四年:2015/08/13(木) 14:50:11.41 ID:pZnZRH1B.net
その後の戦国史からは消え去ったかのように見えた真柄氏の名前ではあったが越前国から遠く離れた地で
武勇とはかけ離れた功績で実はその名を残していたのであった
直隆の次男といわれている真柄家最後の当主・隆重は浪人として流れ着いた越後・柄目木(がらめき)で
越後・真柄家を再興し新津油田(現在の新潟市新津地区)という日本の歴史上最大の油田を開発している
この新津油田はその後、平成8年まで採掘が続けられ現在は「日本の地質百選」に選ばれているほどである


さらに遠く離れた筑後・溝口では全国行脚中であった越前・今立生まれの日源上人の指導のもとに
恵まれた水源や豊富に採れるコウゾ等を活かして上質な手すき和紙の製造が始められていた
この日源上人こそ猛将・真柄直隆の実弟であり入仏以前の俗名を直基といった
越前追放の憂き目にあっていた直隆の子息達(直基にとっては甥)を呼び寄せ
姓も矢箇部(矢加部)と改めさせた後、その和紙制作の技術を藩変え等もあって
久留米・唐尾村、八代・宮地村等にまで広めていったのだった
これらの和紙は筑後手漉き和紙等と呼ばれ現在もこれらの地の特産品としてそれぞれ受け継がれている

一見、歴史の狭間へと消えかかっていた一族が実は日本各地で成功をおさめ、花開いていたイイ話

546 :人間七七四年:2015/08/13(木) 15:00:17.18 ID:pZnZRH1B.net
小学校時代に住んでいた福井で一学年下にいたいつも鼻を垂らしていた
ガキ大将の真柄君の事を思い出しながら書き込んでみました

547 :人間七七四年:2015/08/13(木) 17:24:29.00 ID:C0n2W45M.net
>>541
佐々は常願寺川の治水工事やってて
佐々堤とか殿様林とかの史蹟が残ってる
国土交通省のサイトにも載ってるで

その功績を地元民に称えられて成「正」大明神として一夜泊稲荷神社に祭られとる

548 :人間七七四年:2015/08/13(木) 17:31:11.03 ID:YJahM2q9.net
なぜ「正」
後水尾天皇の避諱かなんか?

549 :人間七七四年:2015/08/13(木) 17:34:18.30 ID:ngctAjqP.net
>>547
ああ、越中時代の話だったのね
肥後では失敗して切腹させられたから違和感があったんだ

550 :人間七七四年:2015/08/13(木) 18:47:41.09 ID:C0n2W45M.net
>>548
一応富山前田家を慮った結果らしい<成政でなく成正

>>549
失策があったら取り潰そうという下心以外にも
その越中時代の実績を半ば期待されて肥後に配属された面も
あるんじゃないかなと最近は思ってる
せいしょこさんが肥後で慕われてる一番の要因は治水だし

せいしょこさんに殉死した大木土佐(大木兼能)は元々佐々の元で治水関係の仕事してて
そのノウハウを清正に伝授しつつ自身も川普請奉行として大活躍したという話もある

551 :人間七七四年:2015/08/13(木) 21:42:49.68 ID:qbALGzvB.net
治水といえば武田信玄も信玄堤とかで領民に慕われたのかね
神君家康が恐れてた人として江戸時代にも一定の評価はされてた
と思うけど、どうなんだろうね

現在の山梨の信玄公ブームは大河ドラマによる経済効果ありきだから
全く評価出来んが

552 :人間七七四年:2015/08/13(木) 23:16:54.55 ID:h/7Hm2BC.net
金吾様踊りと焼酎「金吾さあ」

鹿児島県薩摩郡さつま町中津川地区には祁答院島津家の祖で島津十五代貴久の三男金吾左衛門尉歳久
を祀る大石神社がある。
「大石神社」は武の神・安産の神・稲作の神として崇敬されていて、4月と9月に大祭があり、
特に9月は金吾様踊りが奉納され、近郷近在の参詣客で賑わいます。鳥居に掲げてある額には、
島津家の定紋である『丸に十の字』が彫り込んであり、また社殿最下部の軒瓦には一枚毎に、やはり
丸に十の字の定紋をうった瓦が並べてあります。ご神体は、1.5mの大石で、その下方に歳久と渋谷良重
(歳久の前の領主)の法名が刻み込まれています。
金吾様踊りは、大石神社秋季大祭・奉納踊りのことで中津川地区の6集落で約400年踊り継がれてきたとされる
伝統の舞で、「六尺棒踊り」,「鷹刺し踊り」,「三尺棒踊り」,「兵児踊り」,「虚無僧踊り」 などを披露され、
中津川小学校の文化財少年団による「俵踊り」や恵光保育園児による「鹿児島ハンヤ節」も披露されます。
9時半頃から午前の部で演目全てが披露され、12時頃からお昼休みとなり、13時から午後の部(午前と演目同じ)
が行われます。
お昼休みにはお楽しみ抽選会があり、賞品には焼酎「金吾さあ」があります。

焼酎「金吾さあ」は地域興しのため市民団体が企画立案したもので、かつて薩摩地方を治めた島津歳久公の
奉納踊り金吾様踊りの実行委員会の皆様が造ったもので、原料はもちろん地元のもので地元の全住人が芋掘りし、
米麹の原料にいたっては約250人が少しずつ薩摩米を持ち寄って造りました。
また焼酎のビンに書かれている丸に十の字のお馴染み薩摩のマークは現在の島津のご当主より許可を頂き作り上げたそうです。

この焼酎が造られるようになったのは、今のご時勢だんだん人口が減ってきてお祭りを行うことが危うくなりつつあるので
地域活性化と金吾様踊りの資金確保の為だそうです。
(続く)

553 :人間七七四年:2015/08/13(木) 23:35:51.60 ID:h/7Hm2BC.net
(続き)
昨年金吾様踊りを(日帰りバスツアーで)見に行った時は雨だったので近くの中津川小学校の
体育館で見ました(午後から)ので焼酎「金吾さあ」は見ていません。
金吾様踊りの様子の感想は中津川地区の皆さんの生活に密着しているお祭りだと感じました。
「俵踊り」が終わった子供たちが踊りの格好のまま観客席に来て次の踊りの人を応援したり、
「兵児踊り」の人がアドリブで「虚無僧踊り」の人を切ったり(次の人も合わせて切られたふりをする)
最後に踊りの人全員が「鹿児島ハンヤ節」を踊るとき(観客も飛び入り参加あり)
踊りの人が「○○さん、こっちこんねー」と見ていた知り合いに声をかけたりと・・・
金吾様踊りを見ていて和んじゃいました。

2015年は9月20日の日曜日に行われるそうです。
(参考 金吾様踊りのパンフレットやツアーのときに聞いた話など、焼酎「金吾さあ」のことは検索しました)

554 :人間七七四年:2015/08/13(木) 23:44:10.44 ID:h/7Hm2BC.net
歳久の誕生日(天文6年7月10日(1537年8月15日))と命日(天正20年7月18日(1592年8月25日))がもうすぐなので書いてみました。

555 :人間七七四年:2015/08/14(金) 11:12:34.80 ID:xzgFMRc5.net
キンタマ蹴る踊りかと思ったよ

556 :人間七七四年:2015/08/14(金) 11:57:03.57 ID:2vA3bygj.net
え、ちがうの?

557 :人間七七四年:2015/08/14(金) 16:21:15.58 ID:Ksr4TGqt.net
>>544-545
新潟方面には、先祖は朝倉の落ち武者、と名乗る伝承が多い。
日本海交易の影響なんだろうけど、どれもまぁ本気で相手したらダメ。

真柄氏の領地の真柄荘と越前和紙の今立大滝は少し距離があり、
ましてや武門の一族がその技術持ってたってのも考え難い。
上記と一緒。

江戸以降のブームに乗っかったんでしょうな。

558 :人間七七四年:2015/08/14(金) 19:07:33.85 ID:kzh71wmE.net
キンタマ?

559 :人間七七四年:2015/08/14(金) 19:33:20.84 ID:x5cVvJ67.net
>>558
真柄一族が居住していた真柄館跡から
越前和紙生産の中心地となる五箇地域(不老・岩本・大滝・新在家・定友)まで
現代の舗装された道路で全ての地区に徒歩30〜40分で到達できる距離なのにこれって遠いうちに入るかな?
水田と川しかないあの土地なら当時でも全ての地区に行くのに現代の1.5〜2倍もあれば十分着くんじゃないの

真柄氏健在の頃は佐々成政の居城の小丸城もまだ建つ前なので
あの近隣には鞍谷氏が存在してたぐらいだから(鞍谷臣下の池田氏は山一つ向こうの地域だし)
当然、あの近辺の産業の保護育成、奨励には関係してきてるんじゃないかな
真柄氏は朝倉氏が越前に土着する前からいる勢力なんだし
1000年以上前から伝わる地場産業に通じてないはずはないと思うけどな

560 :人間七七四年:2015/08/14(金) 19:34:26.29 ID:x5cVvJ67.net
ごめん>>557だった

561 :人間七七四年:2015/08/14(金) 20:24:07.34 ID:5bRlChHp.net
上方方面には逃れるの難しいから新潟方面に行ったのかな。

562 :人間七七四年:2015/08/14(金) 23:16:32.43 ID:2nta8FKw.net
>>551
農民にとっては治水最強だからな。

563 :人間七七四年:2015/08/14(金) 23:56:13.23 ID:vJe7nlBP.net
>>558さん、これを参考にしてください。

小早川秀秋の死に方いろいろ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/6073-5f976e22

564 :人間七七四年:2015/08/15(土) 01:05:03.43 ID:eboqfsz8.net
近江八幡市で秀次は名君として慕われてるね

565 :人間七七四年:2015/08/15(土) 08:07:38.44 ID:GNU7YZqN.net
真柄の末裔だけでなく富田長繁に越前を追われた魚住一族の末裔も新潟・阿賀野在住だったような
真実かウソかは別として新潟に並んで長野も朝倉家所縁の自称末裔多い地域だね
朝倉氏の末裔を騙る芸能人といえばマイク真木・真木蔵人親子とか島倉千代子

566 :人間七七四年:2015/08/15(土) 20:20:30.65 ID:t/hO8BD6.net
>>545
真柄の子の矢箇部新左衛門が、支援してくれた立花宗茂を慕って肥後の八代や
柳川の唐尾に移住して紙漉き技術を広めていったって結構凄い話だよな

567 :人間七七四年:2015/08/15(土) 20:30:59.10 ID:kzBvZAr2.net
徳川秀忠の御代、常陸国鹿島社の鳥居が破損したため、幕府により新たに建立された。
鳥居の完成後、その御礼として鹿島社の神主が江戸に出て、島田治兵衛を頼んで、
この建立に尽力した本多正信の元に参った。この時神主は正信への進物として、杉原紙三百枚を
持参していた。しかし正信はこれを見ると

「遠方よりお越しいただいてかたじけない。殊に音物まで念を入れられたこと、祝着に思います。
しかしながら、これはお返しいたします。」

そう言って進物を返した。神主はこれに困り
「少分の品ですのでお恥ずかしいですが、遠方より持参したものですので何卒御収納下さい。」
神主に同道した島田治兵衛も
「神主が、今回の鳥居建立の悦びとして持参いたしたものなのですから、御収めあって然るべきです」と
執り成した。しかし正信は笑いだし

「この進物は、社人達から代金を集め、それによって購入したものを神主は持参したのでしょう。
しかし神前に対しては、私こそ寄進すべきものです。」

そういって受け取ること無く返した。

(明良洪範)

568 :人間七七四年:2015/08/15(土) 23:43:24.79 ID:8iBRHnmX.net
552・553・554の追加
大石神社の名前の由来は歳久が石で切腹に及んださいに、妊婦の出産もこのように痛むのかと
案じたことから、別名御石様と呼ばれたので御石が転じて大石になったようです。
あと、歳久の史跡・遺跡は、神社が15箇所、供養塔が14箇所、墓・墓跡が8箇所、
位牌が6基確認されています。
秀吉に最後まで抵抗していたということで戦前・戦中時には武の神として祀られ
神社や供養塔に祈願をしてから出征する人が多かったそうです。

569 :人間七七四年:2015/08/16(日) 08:35:31.57 ID:XJawBFQf.net
清正の浄池廟は癩患者が多かったらしいけど、何かいわれがあるんかね

癩って使用しちゃあかんのかね
うちの携帯じゃ、どの読みでも出てこなかったわさ

570 :人間七七四年:2015/08/16(日) 09:07:17.00 ID:G3tLV9If.net
うちのPCでも変換されないぞw<癩

それは法華経との関連が指摘されてる
法華経の中に白癩に言及する箇所が有り(この経を護持する人を侮辱すると白癩になるぞ、みたいな脅し文句)
その為当時癩者は法華経に帰依する事で病苦から逃れられるとする考えがあったらしい

清正公さんが熱心な日蓮宗(法華宗)信者で護法神として祀られたので
それにあやかろうとしたらしい
彼に祈って病が癒えたという伝承もいくつか伝わっている
歴史というより民俗学の清正公信仰についての書籍を見ると大体書いてあると思う

571 :人間七七四年:2015/08/16(日) 11:20:21.87 ID:AWzoi27L.net
それにしてもあれだな。清正信仰は日本一かもしれんな。

572 :人間七七四年:2015/08/16(日) 14:44:09.10 ID:G3tLV9If.net
いやいや人神信仰(厳密には御霊信仰?)日本一は菅公でしょ
皆受験の時お世話になってるだろうし

573 :人間七七四年:2015/08/16(日) 19:23:36.70 ID:JTTfWTDC.net
八幡信仰→応神天皇
天神信仰→菅原道真
太子信仰→聖徳太子

ぶっちぎりで八幡宮が多いはず

574 :人間七七四年:2015/08/18(火) 08:55:58.62 ID:NBpl909+.net
黒田如水が隠居した頃、嫡男長政にこのようなことを語った

「武士を使うのに一つの伝授がある。これは私も、ようやく30歳を越えて合点したものだ。
小さな家中であっても、必ず心得あるべきものである。

『夏の火鉢、日照りの傘』

この言葉をよく味わい、堪忍を守らなければ、家臣は心服しないものである。」

そう、教え諭した。

(明良洪範)


どういう意味なんでしょうね?

575 :人間七七四年:2015/08/18(火) 09:03:11.66 ID:FKrYwSyZ.net
必ず使う時が来る?

576 :人間七七四年:2015/08/18(火) 09:31:18.24 ID:4JvV4sSu.net
単純に考えれば、夏の火鉢も日照りの傘も(日除けという意味ではなく雨を防ぐ傘として)無用の長物だけど、
持っていれば、万が一の時には役に立つこともあるってことだと思う

いわゆる、古代中国の食客ってやつだな

577 :人間七七四年:2015/08/18(火) 13:15:32.83 ID:f7a13/2H.net
鶏鳴狗盗的な?

578 :人間七七四年:2015/08/18(火) 13:33:53.42 ID:arYbfGFK.net
使えない物はあっても邪魔になるだけだから、
どんどん捨てろって言いたかったりして・・・

579 :人間七七四年:2015/08/18(火) 14:20:11.18 ID:7o0KyfLQ.net
いやいや、冬には火鉢が必要になるし、雨が降れば傘もいる
万が一と言うより、今は必要なくともいずれ必要になるときが来る
だから、堪忍して人は使えということだろ

580 :人間七七四年:2015/08/18(火) 14:26:54.13 ID:gwafkbli.net
痴呆かよw

581 :人間七七四年:2015/08/18(火) 14:59:06.61 ID:/vWoNJNT.net
のび太が「壊れた扇風機は暑くない時に必要
壊れた電気スタンドは停電の時に必要」
とか言ってたなそういや

582 :人間七七四年:2015/08/18(火) 15:02:52.16 ID:qoulYF5T.net
有事にだけ非常に役に立つ系の人材に埃かぶせるなって事か

583 :人間七七四年:2015/08/18(火) 17:13:57.33 ID:YmcjVABZ.net
麦わら帽子は冬に買え
商人の心得を説いている

584 :人間七七四年:2015/08/18(火) 20:46:15.20 ID:vM79DdxU.net
ちょっと弓片付けて犬煮てくるわ

585 :人間七七四年:2015/08/19(水) 08:14:36.35 ID:+dCwQzYX.net
武田信玄在世の頃のこと。
比田武右衛門という牢人が、武田家への被官を望み、これに担当の武者奉行が尋ねた
「お主はこれ以前に、どのような武功をどこで成したか?」

ところが武右衛門、合戦において自身の失敗や悪しきことのみを数え立てて奉行に語った。
これには同席した、彼の肝入として推薦した者が怒りだし

「どうしてそんなことを言うのか!?のべて身代を稼ぐものは、覚えある手柄をこそ数え上げて申すものなのに、
そのように悪しき事のみ申しては扶持していただけるわけがない!」

「いいえ、真に信玄公ならば、御思慮あるでしょう。」

武右衛門がそう云うので、武者奉行もありのまま信玄に伝えた。
信玄はこれを聞くと感心した

「その牢人こそ知者である。今は手柄というものを飾り立てて申す習いであるのに、そのように
後れたることを隠さず申す所に、その器量が察せられるではないか。」

そして早々に呼び出すと直々に対面し、相応の手当を申し付けた。

この信玄の眼鏡に違わず、武田の鬼武右衛門と称せられたのが、この者である。
彼は後に、比田の姓を改め奥村と号した。

(明良洪範)

586 :人間七七四年:2015/08/20(木) 11:51:19.55 ID:D164uGun.net
上杉景勝の家臣に、河津作兵衛という者があった。
彼は相撲を好み、家中の若侍などに多くの弟子を持っていたが、彼は力量があるだけではなく、
書を読み琴を弾き、普段はまるで柔弱な人のように見えた。

彼は門人に対し、いつもこう言っていた
「何事も、人は心を広く持たねばならない。学ぶときは何事も、無用のことは無いものである。
自分の気力が盛んだからといって、人の気力が弱いのを侮り、また自分が発明だからといって、
人が愚かなのを見下すなどというのは、拙い心であり、藝の至極には至らぬものである。

たとえば、人の賢愚というのは、人の背丈の高い低いのように目に見えるものならば恥ずかしさも
あるだろうに、師とも呼ばれ、また上などと言われては、己を高ぶり、終いには身の程を忘れて
大きな不覚を取るものである。この事をよくよくわきまえて、何事も修行しなければならない。」

(明良洪範)

587 :人間七七四年:2015/08/20(木) 13:06:11.78 ID:Hav+ORCQ.net
>>586
ありがたきお言葉いただいた

588 :『佳子様』の『秘密』を『暴露』:2015/08/20(木) 19:30:48.16 ID:jNWr97Pp.net
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589 :人間七七四年:2015/08/21(金) 20:48:27.49 ID:f6HlWhp6.net
そういや前に出てた天下三槍のペーパークラフト
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9079.html

素槍(普通の槍)も出来てたようだ
大身槍の大きさがわかるなあ

http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=391137
http://samidare.jp/yoshiaki/box/sus.jpg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/su2s.jpg

590 :人間七七四年:2015/08/22(土) 12:45:31.60 ID:TeIEx+B7.net
スレに話が投下された後
それに対してほとんど反応レスもなく
まとめに掲載後も全くレスがつかない

それなのにイイねがどの話より多く押される
そんなイイ話もあるんです

591 :人間七七四年:2015/08/22(土) 21:08:21.08 ID:I1EJ7iBi.net
島津成分足りねェなァ

592 :人間七七四年:2015/08/22(土) 22:05:37.96 ID:H0f8AbJ6.net
>>589
御手杵って本当にそんなに太かったのかよ?

593 :人間七七四年:2015/08/22(土) 22:32:17.41 ID:4Rrg7XOT.net
島津「かまいたち!」

594 :人間七七四年:2015/08/22(土) 23:42:09.42 ID:aeW3gL0R.net
そんな服が切れておっぱいぺろーんと出る程度のかまいたちじゃ
戦場じゃ役に立たんぞいいぞもっとやれ

595 :人間七七四年:2015/08/23(日) 00:31:34.81 ID:7XGnR0jg.net
>>592
実物こんなんだぞ
そりゃ太いさ
ttp://winners-auction.jp/productImage/23244

596 :人間七七四年:2015/08/23(日) 01:38:37.46 ID:tuUo6M3j.net
旦那の業物と同じ太さで胸熱です。

597 :人間七七四年:2015/08/23(日) 10:19:59.14 ID:xCiPFpwB.net
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Otegine_replica.jpg

例の復元したレプリカの太さはこうだから、実物写真ってもっと細いよね。
ペーパークラフトの太さはこっちにあわせたんでしょ。

つか復元した人たちは、最初はこの写真を知らずに想像で復元したからそうなったらしいぞ。
これは悪い話かw

598 :人間七七四年:2015/08/24(月) 18:30:55.00 ID:SwsAnAYe.net
本能寺の変の報を聞いた羽柴秀吉が、いわゆる中国大返しから姫路城に入ると、大村由己がこのように
挨拶を申し上げた

「今の世間の様子を物に例えれば、名花の桜、ただいま花の盛りと見えます。
お花見されることがご尤もと存じ奉ります。」

この大村由己は下天第一と呼ばれるほど歌道に深い造詣を持つ人物であった。
その場の人々は「由己には流石に、似合いたる挨拶である。」と感じ言った。

ここで、黒田官兵衛が突然大村由己に向かって言った

「あなたは申し上げにくいことを申したなと、人々言い合っていると承りました。
殿様(秀吉)はおおいに嘆いているかのように見えていますが、その底意を推量すれば、
実に目出度いことが起き、博奕をも遊ばされます。大村由己が申し上げた通り、
吉野の花も今が盛りです。

桜の花というものは寒のうちに見たいと思っても、時が来なければ見ることは出来ない花です。
春の雨風の陽気をうけて、おのがままに咲き出るものですから、見る者の心には任せる事は
出来ません。

この上は明智光秀との天下分け目の御合戦、御尤もに候。目出度いことだ、お花見初めと
覚え申候。」

そう戯れに申し上げた。

秀吉は官兵衛の発言を聞いて、心のうちでは「我が心中と同じだ」と思ったのだろう。
その場でただ、にこりと笑ったという。

(川角太閤記)

599 :人間七七四年:2015/08/24(月) 23:34:44.22 ID:UwNEzgok.net
山崎はよいけや

600 :人間七七四年:2015/08/25(火) 01:13:04.02 ID:xfQW/kFg.net
慶長5年9月20日、南部氏の重臣北信愛(当時剃髪して松斎)は、
伊達領から攻め込んできた和賀忠親率いる一揆の攻撃を受けた。
彼の守る鳥屋ヶ崎城は侍わずか十数名しかいなかったが、民や女性まで動員してこれを撃退した。

一揆の襲撃を除けたその二日後のこと、城下の農民商人が城にやってきて、大きな太鼓を献上した。

「私どもは百姓町人ですので、武事に預かる事は恐れ入る事ですが、
もし今後鳥屋ヶ崎城へ一揆が来たなら及ばずながらも馳せ向かい、
後詰をして賊徒を討ち散らし御報恩に仕りたく、この儀をお許し願いたい。
城中にまた何か異変があれば、この太鼓を乱拍子に叩いてください、しからばこれを合図として馳せ参ります」

信愛はこの志を賞して願いを聞き、太鼓を受け取って家臣の熊谷惣三郎にこれを任せた。

さてこの頃、信愛の親戚の高橋伝助という男が三戸から来て城に入った。
だがこの男、大酒飲みで常に酔っぱらっており、いつも戯れを起こしていた。

城中に入った伝助は、そこで大きな太鼓を見つけた。
この時太鼓を管理する熊谷惣三郎はおらず、伝助はバチを持ってこれを思いっきり叩いまくった。

驚いた信愛は近習を遣わす。近習は伝助の姿を見てこれを咎め、伝助は事情を知り大いに恐れた。

近習「伝助は民が集まる事を知らず、ふざけて太鼓を叩き、今は大いに後悔しております」
信愛「……酔っていたとはいえ、その故を知らなかったのであれば仕方がない」

と信愛は急ぎ人を走らせて、酒数石分を買わせた。
そして数百人もの農民商人たちが城中に集まってきた。
信愛は多くの蓆を敷かせて席を設け、また酒器を並べ、自ら彼らの前に現れて言った。

「このたび上方の風説に、我がお館様がかの表において抜群の勲功を上げられ、
 その賞として将軍家より格別の御加増を賜るべきとの風説がきた。
 しかしながら未だその実否は詳らかではないけれども、まことに目出度きこと恐悦なれば、
 その方らも一層身命をなげうって働いてほしい。
 私はそなたらの志を知っているので、一刻も早くこの事を知らせ、
 我らと共に喜びを分かち合おうと思い、太鼓にて呼び上げた次第である。お上を祝して心よく飲むべし」
 この言葉に集まった者たちは大いに喜び、数石の酒を飲み干し帰っていった。

熊谷惣三郎はこれを無益な事だと思い、それが態度に出ていたようで、信愛は言った。
「酒を費やした事は無益の事だと思うけれども、三戸の客人が酒によっていたずらに太鼓を打ったななどという事実を告げたら、
 我らが法令を軽んじているなどと知らしめ、その後は太鼓も合図にならなくなってしまう。
 よって、本意でもない偽言をもって空太鼓の誤りを取り繕った。
 諺にも下郎は喰に着くというだろう、祝いの席と称して酒を勧めて喜ばせて、今後の合図を違わぬように計らったのだ」

この言葉に熊谷は伏したという。
また信愛は周りに語り
「人は皆酒は好物であるものだが、我が親類高橋のごときは酒に飲まれるというものだ。いずれ酒は量の問題だが、
(南部家臣の)石井伊賀親子や中野吉兵衛、岩清水右京、桜庭安房、大槌孫八郎等は真の上戸と言える。羨ましい酒飲みだ。
 この者たちはいくら飲んでも酔っぱらうという事は無い。しかしながら孫八郎や右京は一升枡で一息に三升の酒を続け飲みするという。
 これは確かにすごいが、下郎の如き振る舞いで不愉快だ。
 戦いでは少し酒気を帯びれば、勢いに乗じて日の中水の中も怖れることなく、また大雪や寒風の中でもいささかも厭う事がない。
 敵前での働きも一層潔くなる、そう考えれば酒は実に徳のある物だ。
 しかし高橋のごとく心を放しては、酔酒飲に劣りたり、と言うものだ」

 この言葉に周囲の皆は感服したという。

(公国史)

601 :人間七七四年:2015/08/25(火) 09:15:01.69 ID:0Nk9RM79.net
>>600
北さんは隠れた名将だよな。

602 :人間七七四年:2015/08/25(火) 10:21:51.35 ID:sibtuP1o.net
>>598
>目出度い事
ちょっちょっと官兵衛さん!
ラスボスも顔はにっこりでも....。

603 :人間七七四年:2015/08/25(火) 13:04:53.06 ID:oVT5umCk.net
夏場に桜のたとえてのはなんとも…

604 :人間七七四年:2015/08/25(火) 17:24:24.86 ID:YltpjxhE.net
信愛なる北様へ

605 :人間七七四年:2015/08/25(火) 17:35:57.91 ID:W6OO8im/.net
ラスボス化以前とは言えなんか「にこり」がすごく怖いんですけど、毒されてるかなぁ

606 :人間七七四年:2015/08/26(水) 10:22:21.17 ID:qFGHTyTr.net
甲陽軍記

607 :人間七七四年:2015/08/26(水) 12:29:51.97 ID:fo1/gzqN.net
すみません
誤爆しました

608 :人間七七四年:2015/08/26(水) 18:50:25.96 ID:KiNWDPYW.net
高橋のおっさんは最後まで改心もしてないし評価もされてないんだな

609 :人間七七四年:2015/08/26(水) 20:30:28.75 ID:5Z8Nmoaf.net
福島正則の家臣に、草野介惣という者があった。彼は正則と同じ在所の者であり、扶持は切米(米の現物支給)で
使われていた。その後正則が安芸備後領国を拝領した時、五人扶持三十石取りとなった。

そんな介惣がある時、正則に対して目安を上げた
『さてさて、最近になって家中に加わった木造(長政)殿には、二万国が下されたそうです。
しかしこの介惣は伊予の頃から御奉公しているのに僅かな切米しか下されていません。この事を
人はみな笑って、なんとも迷惑しています。』

これを読んだ正則は、殊の外機嫌よく大笑いし、その後御咄衆との物語の時

「あの介惣は大の横着者でな、知行などくれてやれば百姓を痛め取り倒してしまうだろう。そのため
少ない知行すら取らせないのだよ。

あの介惣が果報の傷と言っているもの、アレを皆は鑓傷だと思っているようだが、アレはな、
奴の親がつき竿を持っていたのだが、その竿に誤って突かれた傷なんだよ。

あいつにこの前、酒奉行を申し付けたことがあったのだが、あいつは殊の外上戸でなあ、酒を盗み飲んでしまった。
だからその後、飲むことの出来ない油奉行を申し付けたよ。」

そう笑いながら言った。その後、正則は介惣を、十人扶持三五石に加増して取らせたそうである。

(福島太夫殿御事)

610 :人間七七四年:2015/08/26(水) 23:01:49.10 ID:2FSza23c.net
逸話が出るたびに「市松は素面だったら名君」説を裏付けることとなるなw
てか、気前良すぎだろw

611 :人間七七四年:2015/08/27(木) 00:10:54.87 ID:csNgw4df.net
十人扶持三五石なら悪化してるがな

612 :人間七七四年:2015/08/27(木) 12:13:48.57 ID:U8VGrv+W.net
扶持米のことやろ

613 :人間七七四年:2015/08/27(木) 12:22:03.78 ID:EcLGcZqT.net
お米50俵と35石か

614 :人間七七四年:2015/08/27(木) 13:30:00.36 ID:d703bSfp.net
30石で5人養ってたのを35石で10人養うって意味じゃないの?

615 :人間七七四年:2015/08/27(木) 13:38:28.26 ID:zKBezFLt.net
>>614
10人扶持の切米で、三十五石の「格」って事よ。
軍役は石高にかかるから、支出は殆ど変わらず収入が倍になった感じ。

616 :人間七七四年:2015/08/28(金) 15:08:37.93 ID:MeO/QaIv.net
【黒田長政の銀色兜、実は金色だった 修復中に確認 福岡】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150828-00000030-asahi-ent

液晶テレビ、実は金色だった

617 :人間七七四年:2015/08/28(金) 16:22:05.04 ID:+Ndy3hTn.net
正則「金の兜をあいつにやるのは癪だから、銀色にしとけや」

618 :人間七七四年:2015/08/28(金) 21:59:55.26 ID:4C+tbux8.net
>>616
あの兜をかぶった有名な肖像画でも銀色なわけだから、やっぱ正則の時が金色で、長政が銀箔塗らせたんだろうな

619 :人間七七四年:2015/08/28(金) 23:09:01.83 ID:hwvx/3ga.net
利家様が度々お話されことに、

立ち合いの合戦の時には、双方が一万と三千の数であったら、大将それぞれの分別で、三千の数の方が度々勝利を得るものである。
それは、少人数ではもはや一か八かと兵共が分かりきっているからだ。
そのため、大軍の大将は油断しないものだ。

というものがありました。

(利家夜話)

620 :人間七七四年:2015/08/28(金) 23:12:27.51 ID:KP8JUIn7.net
織田軍は少人数でも勝ってきた実績があるから説得力があるな

621 :人間七七四年:2015/08/29(土) 00:35:47.51 ID:4sq+V+h+.net
>>619
これまさしく天王寺砦の戦いだね
救助された光秀、助けた信長、諸々考えさせられる

622 :人間七七四年:2015/08/29(土) 00:40:19.30 ID:ro/xanhY.net
光秀「石ころ同然の境遇から信長様は私をおとりたててくださったばかりか、御自身で救いに来てくださるとは」
きっと感謝したんだろうね

623 :人間七七四年:2015/08/29(土) 01:53:30.36 ID:KvH0oWBI.net
殺し間にて候

624 :人間七七四年:2015/08/29(土) 17:05:15.69 ID:42ZUql1l.net
光秀「此度の御恩、生涯忘れませぬ。もし、殿の首級頂戴つかまつることがありましても晒すことは致しませぬ」

625 :人間七七四年:2015/08/29(土) 19:48:37.00 ID:XI9aKwmb.net
>>622
光秀って簡単やな!はよ尻だせ

626 :人間七七四年:2015/08/30(日) 02:16:34.31 ID:xkkO1eh3.net
伏見での地震の時、大納言(前田利家)殿のお屋敷と肥前守(前田利長)殿のお屋敷は隣り合っていました。
地震の時は父子共に庭へお出になられ、互いにお言葉を掛け合いなされました。
何れも大丈夫と者どもは涙を流して申されました。

さて大納言殿は、小姓五六人に、
「上様は御城の周囲へお出になられましたか。大納言めを呼んでください。」
と仰せ付けられました。
小姓達はその意を得て、叫んでいると
太閤様がお答えなされました。

「ここにいるぞ。無事に出たから、心配しなくてよい。大納言も無事であるか。」

との上意であった。退出して、其の件を利家様へ申し上げました。


それから大納言殿は御一人で、何の構いもなく城中へお入りになさったとき、太閤様はご機嫌が好く、秀頼公を利家様へお渡して抱かせました。

とのことを帰って話されました。




以上のようには、震災でお取込のときに太閤様の身を案ずる判断は素晴らしいと、利家様を名大将と上下の者どもは申しました。

さてその後に、太閤様は伏見山に御城を拵えて、移りなされました。
(利家夜話)

慶長伏見地震の逸話です。秀頼を抱かせるとは、秀吉も利家をたいそう頼りにしていたのですね。

627 :人間七七四年:2015/08/30(日) 06:12:17.33 ID:g2cHYBCN.net
「この両腕で秀頼君を抱かせてもらうたわ」
「その時、父上の両足は何をしていたのです?」

628 :人間七七四年:2015/08/30(日) 09:20:26.77 ID:jiqRsAPz.net
蹴る?両輪の如く駈ける?
正解は?

629 :人間七七四年:2015/08/30(日) 11:08:21.50 ID:48J3e4yl.net
かがんでたんだろ

630 :人間七七四年:2015/08/30(日) 11:27:17.53 ID:vE03DJbH.net
>>626
天正地震で利家は弟を亡くしたからな

631 :人間七七四年:2015/08/30(日) 13:06:58.11 ID:lrmaBUfO.net
あの時代にデカい地震あったら建物ボロボロになっただろうな

632 :人間七七四年:2015/08/30(日) 15:29:02.92 ID:DZwRT9CX.net
内ヶ島の皆さんが何か言いたげです

633 :人間七七四年:2015/08/31(月) 08:18:06.51 ID:Np+DniM0.net
一緒にいた東さんも忘れないであげて

634 :人間七七四年:2015/08/31(月) 20:02:46.21 ID:YeDWUlNT.net
「いやあ、めでたいめでたい…我が内ヶ島家もこれでおしまいかと一時はあきらめかけておったが…」
「誠に祝着至極にございまするな」
「いやいや、父上…このような時こそ気を引き締めて事に当たりませぬと…」
「そちの申すこと尤もなれど、今宵ばかりは心おきなく飲みたいぞ」

「ああ…いかぬわ、これは飲み過ぎたわい…ゆらゆらと建物が揺れて見えるわ」
「だから程々にと申し上げたではありませぬか父上…ひっく…」
「うるさいのう、あまりくどく言うようでは貴様にこの城譲らんぞ」
「こんなぐるぐると回るような城など、こちらから願い下げです」

635 :人間七七四年:2015/08/31(月) 20:33:20.87 ID:e1M5yoch.net
>>634
盛大に山ごとスベッておるぞ

636 :人間七七四年:2015/08/31(月) 20:40:56.71 ID:/0iPTnfK.net
黒田如水はどんな事でも馬鹿な行いを好み、無造作な生まれつきであった。
(如水は者毎に、馬鹿の行を好み、無造作なる生付なり。)

中津川において下屋敷に作事を申し付けた時、手塚久左右衛門という者は、殊の外の
どもりで、何かを話し伝えるなど全くかなわないのだが、心立てが正直なる者であると
不憫を加え、徒歩の者達や無足たちにどもりであることを気付かれないよう召し使っていた。
そしてこの下屋敷の作事において、作事奉行を申し付けられたのである。

ある時、如水は自身で作事の様子を見廻って帰ると、広間を開け放ち、上座において碁を打っていた。
ここにかの手塚が、なにか用があるようにやって来た。その間は6,7間(約12メートル)も隔てており、
如水が「何か用か!?」と声高に問うと、手塚は歩きながら、なにやら4つ5つどもると、如水、
碁を打ちながら答えた

「そうか、材木がなければ買え。」

実はもとより材木が足りず、手塚は買うべきか、役人に切らせるべきかを伺いに参ったのであるが、
如水はたちまちそのどもりを聞き分けたため、彼は物も言わずに帰っていった。

如水にとってこのたぐいはいつもの事であった。
常に戸や障子を立てて屏風のようにして囲われた場所にいることを嫌い、幾間にも開け放ち、
目見の者が来れば即座に見つけ、言葉をかけられるように、寒い日でも大方は、夏住居で
過ごしていた。

(古郷物語)

馬鹿かどうかはともかくやっぱり変な人ですね如水

637 :人間七七四年:2015/08/31(月) 20:48:27.50 ID:Nszt6VJ4.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5544.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5025.html
何回か出てる

638 :人間七七四年:2015/08/31(月) 20:59:11.91 ID:lOg2cNV0.net
しかもコピペじゃねーか

639 :人間七七四年:2015/09/01(火) 00:01:39.87 ID:gPggWEVp.net
ニュース「仙石秀久、圧政イメージ覆す 農村復興促す文書発見 兵庫・豊岡の旧家で」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150831-00000002-kobenext-l28

ごんべえさん、年取って丸くなったということか

640 :人間七七四年:2015/09/01(火) 00:10:18.75 ID:z/7p6W1K.net
天正3年、佐竹義重が白河結城義親の領地である陸奥国白河郡棚倉を攻め取ると、
翌4年4月27日、白河勢は小峰城にて逆襲の軍議を開き、棚倉を夜討ちすると決議した。
そして此の作戦が功を奏し、棚倉の佐竹勢は壊乱、主将の渋江内膳は逃亡した。

さて、白河勢が棚倉城内に突入し、佐竹勢を生け捕ること無く一人残らず討ち取っている中、
白河勢の斑目織部少輔、斑目能登守兄弟は、渋江内膳が置き残した2歳の女児を発見した。
兄弟はこれを見て思った

「侍の身として、この2,3歳の女児を敵だからといって、刺し殺さなければ
勝つべき戦が負ける、などということもあるまい。此のような少女を殺すのはあまりに情けない
振る舞いではないか。」

そういって、小貫五郎左衛門という者に兄弟は口上を言い含め、女児とともに渋江方へと送った。

斑目兄弟の使者は常陸太田に着くと渋江の館に入り、斑目の書礼、並びに2歳の女児を渡した。
渋江内膳はこれに大いに感動した

「さてさて、斑目兄弟は聞きしに勝る勇士である。これを送って来られたこと、その志忘れがたい。
この事は我らの大将に申し上げその上で返答を申す!」

そう言って佐竹義重に申し上げると、義重も
「敵ではあるが心優しい者である。直ちに返礼を遣わさねばならない。」と、書礼を認め渡した。
渋江は急ぎ館に帰るとかの使者にこれを渡した。

その後、天正4年7月3日、佐竹義重は再び大軍を発し白河へと攻め入った。
この陣には農民を集め、全員に手に鎌をもたせ
「青田を刈り取るのだ!白河の慶民を困窮に及ばせ、その飢饉の惨状に乗じて以後の戦いの利を得るべし!」
この青田刈りの奉行には、渋江内膳が任命された。

渋江は様々に思案した
「この4月、棚倉が夜討された時、私の2歳の娘を返した、東館の住人、斑目の志忘れがたい。
今度の合戦、彼の領地の青田は刈ることから除こう。」

そう思いたち、斑目のもとに使者を立てた
「あなたの領地の青田には、何でも良いので目印を立ててほしい。そうすればその場所は
刈ることはありません。」

斑目はこれを聞くと言った
「勇士たるもの、合戦において容赦の道はない!我ら斑目兄弟は不肖ではあるが、佐竹を頼るのは
道に非ず!2歳の女児を返したその縁で、今度の合戦に容赦を得るなど何たることか!
ただ運を天に任せるだけだ。返礼にも及ばぬ!」
そう激怒し、寄せてくる敵を待ち受けた。

佐竹勢は小野崎、大縄を先手として棚倉に攻め入った。大軍であったため白河勢の要害も
歯牙にも懸けず攻め入ったため、白河勢は防ぐ手段無く釜子まで侵入された。
渋江、刎石勢が青田を刈って通って行くのは情けない限りであった。
しかし彼らは、斑目兄弟の領地だけは、青田を刈らず通り過ぎた。
そして佐竹勢は常州へと引き上げた。

(白河関物譚)

641 :人間七七四年:2015/09/01(火) 00:32:39.29 ID:7780Uvzg.net
>>639
そもそも圧政するイメージが無かったたが地元じゃ嫌われてたのか

642 :人間七七四年:2015/09/01(火) 01:59:12.96 ID:VX0DtwpI.net
開拓に精を出しすぎて逃げられてるし

てか、なにげに水野勝成とか後藤又兵衛とか従えてたことあるんだよね

643 :人間七七四年:2015/09/01(火) 02:02:23.82 ID:aEKoGx/h.net
仙石秀久って粗暴で戦の事しか頭に無い野蛮人みたいに誰かに言われてたよな

644 :人間七七四年:2015/09/01(火) 05:05:44.57 ID:Mc62K6oN.net
仙石イエス

645 :人間七七四年:2015/09/01(火) 10:59:17.99 ID:yiWI6kZJ.net
先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)「戦国 奇跡の生き残り術 島津義久」
http://www4.nhk.or.jp/chieizu/x/2015-09-08/31/20669/1494095/
9月8日放送です。
義弘でなく義久が単独で出るとは・・・
うれしさ半分、どんな放送になるか不安が半分。

646 :人間七七四年:2015/09/01(火) 11:46:12.20 ID:Zqe9LgQX.net
知恵伊豆、かと思ったら

647 :人間七七四年:2015/09/01(火) 17:03:46.91 ID:z/7p6W1K.net
>>640の続き

その後、佐竹の大軍が釜の子まで攻め入ったが、白河方は棚倉の保住大学を始めとして所々で防ぎ戦った。
しかし敵は大軍、味方は少勢であり完全に不利であり、さらに青田が刈り取られたことで大規模な飢饉も
起ころうとしていた。

所がそんな中、斑目の領分だけは青田が不思議と残されているとの注進が入った。
結城義親はこれを聞くと、「斑目兄弟は佐竹との境を守る者だが、定めて心変わりをしたのだろう。
かの兄弟を呼び寄せて討って捨てるべし!」そう考えて斑目兄弟を小峰城に呼び寄せた。

小峰城では、石井弥源太、箭内内蔵之介という、身分は軽いが心剛にして日頃より度々手柄を表した者達に
30人ほど兵を付けて待ち構えていた。

義親からの内輪の話だからと、斑目兄弟は密かに座敷に入れられた。と、ここで遣いの者が戸の側で
飛びかかった。斑目兄弟は「何事か!?」と刀を抜いて走り回ったが、そこに大勢が喚きながら掛かり
ついに両人は殺された。

こうして斑目兄弟が結城義親によって滅ぼされたため、棚倉に居住する者達は佐竹に追い詰められ、
度々戦い知略をめぐらしたものの、ついに棚倉、赤館まで佐竹の手に入った。

(白河関物譚)

648 :人間七七四年:2015/09/01(火) 17:37:16.93 ID:eyPy9V51.net
>>640>>647
これっていい話なの?なんか渋江の内部分裂作戦がうまくいった風にも受け取れるけど?

649 :人間七七四年:2015/09/01(火) 18:40:48.10 ID:UiaD4USc.net
たぶん斑目兄弟の遺児が加賀藩に召し抱えられて、その子孫が猫侍になるなんて後日談があるんじゃ…

650 :人間七七四年:2015/09/01(火) 23:48:35.17 ID:/1TGz7gC.net
白河の斑目さんも弱い物は殺せないんやねw

651 :人間七七四年:2015/09/02(水) 09:45:32.99 ID:EayWawI5.net
>>648
良かれと思ってやった事がひどい結末になりましたってことでしかないのでは
いい話といえるかどうかは疑問だが

652 :人間七七四年:2015/09/02(水) 09:54:49.73 ID:Ic3r2CMl.net
青田刈りを免れた時点で裏切りを考えないからこうなる

653 :人間七七四年:2015/09/02(水) 11:25:48.00 ID:iTV8Jiyu.net
青田をば
刈られず己の
首刈られ

〜斑目織部、心の俳句

654 :人間七七四年:2015/09/03(木) 20:53:18.32 ID:5AXdqxaN.net
徴古館 青漆塗萌黄糸威二枚胴具足
http://www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=display_itemdetail&id=6

鍋島勝茂が島原の乱で着用したこの甲冑、青漆とは漆に藍や石黄を混ぜて青く(実際は緑色)
した技法である。なお、この技法自体は江戸時代後期からのものとされる。

最近、この甲冑のレプリカが甲冑師の西岡文夫氏に発注され復元されたが、驚くべき事実が
明らかになった。

西岡氏は当初、レプリカにごく普通に青漆を塗ってみたが、経年劣化を考えても実物と色合いが
全く違う。そこで国立文化財機構 東京文化財研究所保存修復科学センターの北野信彦氏に
科学的調査を依頼し、徴古館の甲冑を調査したところ、青漆ではなく西洋絵画の油絵具に近い技法で
作製された塗料であることが明らかになった。

なお、日光東照宮の平成の大修理で、陽明門羽目板の下から松と鶴絵図が発見されたのはニュースで
報道されましたが、この絵にも同じ技法の塗料が使用されているとのこと。

陽明門壁画公開について
http://www.toshogu.jp/blog/2013/12/post-24.html

詳細は日本甲冑武具研究保存会の会報、甲冑武具研究191号を参照のこと


西岡氏は最初に塗った漆を全て剥がしてまた新塗料を塗りなおしたので、相当難儀されたそうです。

655 :人間七七四年:2015/09/04(金) 02:53:48.83 ID:Nusp8EWX.net
甲冑は1家に一つは欲しいですな

656 :人間七七四年:2015/09/04(金) 06:11:55.42 ID:NRmHK520.net
加藤清正から福島正則への書状

「羽柴左衛門大夫様 
              人々御中

確かに申します、駿府城の普請について穴生(穴太)衆を雇うようにと、
本多正純より命じられました。そうではあるけれど、穴生衆ばかりを進上す
るのもどうであろうか、胸のうちを考えて、手代の者四・五百人程を一緒に
遣わすべきかと考える、派遣した人夫に相応の普請を命じられなければ、江
戸へ遣し、拙者の屋敷の普請を命じるつもりです、きっと貴方へも穴生衆に
ついて命じられると思うので、心積もりのため伝えます、上方で何かありま
したら、手間をかけるが、飛脚にて私にも伝えてください、私の意が伝わり
ますように。謹んで申します、

加肥後守 
十二月廿日 清正(←花押)

追伸ですが、上方の情勢に変化はないでしょうか。こちら(熊本)は遠国
なので、関東の様子なども聞こえてきません、何かありましたら返信の際
に聞かせてください。来春はお互いにゆっくり在国したら満足ですね。き
っと貴方もそうでしょう。よろしく。」

(大阪府柏原市 今町・三田家所蔵)

657 :人間七七四年:2015/09/04(金) 06:16:03.02 ID:NRmHK520.net
656は戦国武将の書状スレが無くなっていたのでこちらに。

658 :人間七七四年:2015/09/04(金) 06:34:35.25 ID:7p9P/dyi.net
PSOBB iYo鯖掲示板
http://jbbs.shitaraba.net/netgame/14889/

659 :人間七七四年:2015/09/04(金) 08:22:16.42 ID:yYyhqmta.net
甲冑のは鍋島家が勝茂の頃から新技術の取得に熱心だったという話か

660 :人間七七四年:2015/09/04(金) 12:58:43.77 ID:Ctdhxo+n.net
羽柴、と書かせながら
清正「俺も羽柴姓をもらいたかった」
と思ってたりして

661 :人間七七四年:2015/09/04(金) 17:53:14.67 ID:ZoXY4Ml6.net
 武田信玄の家臣として知られる山本勘助は主君の命により、河内の国の三好勢の様子を探りに行った。
三好の本拠地の小山城の城下にやってきた勘助は正体を悟られぬために名前を浅野文吾と偽り、
潜伏中の生活のためにうちわを作ることにした。
 勘助の作るうちわは丈夫で柄を下に置いても倒れず、涼しい風を送ることに優れていたのですぐに評判となり、
人々は珍しがってうちわは良く売れた。勘助はおよそ二年の間、うちわを作って売りながら河内の国の様子を
調査した。無事に調べ終えた勘助はいよいよ甲斐の国に帰ることにして、帰り際に城下で世話になった家の者に
自分の正体を明かし、世話になった礼としてうちわの作り方を伝授した。
 その家の者たちはその後、浅野文吾の名を取って「浅野屋」という屋号で店を開いてうちわを売り出した。
それは「小山の勘助うちわ」と呼ばれてこの地方の名産品となった。

 勘助うちわの作り方は一子相伝で後世に伝えられたが、昭和45年に最後の後継者が亡くなったことで
うちわ作りの伝統は途絶えてしまった。しかし、近年になって地元の藤井寺市ではこのうちわ作りを
復活させようとする活動が始まっているようである。

662 :人間七七四年:2015/09/04(金) 19:24:50.79 ID:Nusp8EWX.net
勘助扇風機も欲しい所だな

663 :人間七七四年:2015/09/04(金) 20:34:19.85 ID:lm0fmTk1.net
こうして三好の領地で団扇を作っていた人々が十河の香川にいって
日本の9割の団扇を作っている丸亀を本拠地に
って話はないのか

664 :人間七七四年:2015/09/04(金) 22:35:15.09 ID:SI6t+mtc.net
真田の真田紐といい武田家の武将は芸達者だなw

665 :人間七七四年:2015/09/04(金) 23:35:59.62 ID:FqdL8LFr.net
商人になる奴だっているんだから侮れない

666 :人間七七四年:2015/09/05(土) 03:10:56.89 ID:tBoF3EZS.net
温泉宿を経営したものもいるな

667 :人間七七四年:2015/09/05(土) 07:16:38.43 ID:hfftT60N.net
真田職業訓練校開設まったなし

668 :人間七七四年:2015/09/05(土) 11:17:11.72 ID:FWbGzfwy.net
「勘助うちわは、わてのところだけで作らせてもらいますわ」
「何、言うてんねん。わての所も勘助はんにはよう世話させてもろうたわ…独り占めすんなや」
「これこれ、内輪揉めはいかん」

669 :人間七七四年:2015/09/05(土) 15:12:58.19 ID:tcrYQkNJ.net
勘助のだじゃれに、天を仰ぐ(扇ぐ)御館様

670 :人間七七四年:2015/09/05(土) 15:15:34.35 ID:lB30KJ/g.net
うちわがダメなら扇子にすればいいじゃないか、うわっなにをすry

671 :人間七七四年:2015/09/05(土) 16:34:54.11 ID:ShhLJWcK.net
もうファンやめます

672 :人間七七四年:2015/09/05(土) 17:21:22.91 ID:SvZ2m+do.net
>>670
センスイイね

673 :人間七七四年:2015/09/05(土) 18:48:22.26 ID:tBoF3EZS.net
>>672
褒美をとらす!

674 :人間七七四年:2015/09/05(土) 19:22:15.26 ID:FljfpJkN.net
関ヶ原の役が勃発した時、大阪の黒田長政の屋敷には、その母と妻が残されていた。

つけ置かれていた家老の母里友信と栗山利安は相談し、母里が医者に行くと見せかけ
その乗り物に密かに両人を乗せ屋敷の外の宿に潜ませた。

その夜、船に載せようとしたが、船までどうやって両人を遣わすか、方法がなく困り果てた。
最初は彼女らを俵に入れ、粮米に紛らわせて船に載せようと考え、二人を俵に入れたのだが、
暑気甚だしい頃であったので「息が切れる!このように苦しいのならいっそ刺し殺してほしい!」
と声高に泣かれ、母里も思案に苦しみ、『このような事で大阪方に露見するのも口惜しい事だ。
二人共に害し、腹を切るべきか…』などとも考えたが、『いやいや!出来るだけなんとかなるよう
才覚せねば!死ぬのは全て叶わなかった時だ!』と思い直し、宿の亭主に相談することにした。

相談の結果、櫃の中に両人を入れ、夜に紛れて茶船に乗せ、そこから本船に移す。仮に大阪方の警備に
見咎められればその時のことだ、と決まり、すぐさま出発の準備を始めた。
亭主も共に出発しようとするのを、母里が止めた

「私は主のためであるから、捨てて惜しまぬ命である。二人の女房衆にとってはいたわしい事だが、
侍の妻子として生まれた以上、これも生前の因果の道である。
しかし、其の方は町人である。黒田家に対して殊に日頃の恩があるわけでもない。
我らと同じように相果ててしまっては気の毒千万である。

この宿の門まで出て見送ることも無用だ。もし我々が見つかり、咎められても、決してこの宿のことは
人に知らせない。であれば、ここに難儀はかからないだろう。」

そう申し聞かせたが、宿の亭主は言った
「日頃、黒田正のお屋敷に出入りし、久しく御恩を被っていた奴原が、今回お頼みしても
御宿を仕ろうとせず、他人のようなふりをしているとのこと。畜生とも言い難い所業です。

私は近年御台所にも罷り出て、似合いの御用を仰せ付けられるように成りました。
尤も甲州様(長政)からお言葉をかけて頂いたことは未だ有りません。ですが、
私をお頼みにされた栗山様の一言が打ち捨て難く、この事お受けし、一命を捧げたのです。

あなた様がどれほど止めようとも、本船までは、私はお供仕ります!」

そう言い切ると母里よりも先に外に出たため、母里も力及ばず、彼の同行を許した。

この亭主は納屋小左衛門といって、堺の納屋一党の者であった。母は浅野殿の家来、丹羽大膳という人の
娘だそうだ。丹羽大膳と言う人は、その勇ましさ人に聞こえのある人物であった。

亭主の物を切ったような決断は、なかなか筆にも詞にも為し難い。

(古郷物語)

675 :人間七七四年:2015/09/06(日) 03:58:43.39 ID:NfWTuxJ9.net
「納屋小左衛門は男でござる」
小左衛門の頑とした決意に打たれた母里太兵衛は、彼の船までの同行を許した

そして明日の乗船を控え、小左衛門宅で一夜を過ごすこととなった黒田家主従であったが、
太兵衛は今生の最後にと、昼に目をつけていた女中の部屋に夜這いをかけた
部屋の中に忍び込み、布団の中に身を潜らせた太兵衛が相手の股間に手をやると、思わぬ叫び声がこだました

「納屋小左衛門は男でござる!」

676 :人間七七四年:2015/09/06(日) 07:45:20.20 ID:HQXPEQKJ.net
忠臣蔵の天野屋利兵衛のセリフだし
そのジョークも天野屋利兵衛であるし

677 :人間七七四年:2015/09/06(日) 16:18:31.37 ID:fp5VtXEX.net
>>675
これは実につまらん。>>674がかわいそう

678 :人間七七四年:2015/09/06(日) 21:59:44.39 ID:XjpplL1f.net
ある時中村伯耆守(一忠)より、神部甚右衛門という者が使者として福島正則のもとに派遣された。
正則は彼に直に対面すると、盃を出し甚右衛門に盃を指した。
甚右衛門はこれを頂戴すると、臆面もなく一杯を飲み干した。
正則も上戸であるので、この甚右衛門の飲みっぷりを殊の外気に入り、
「その盃を返杯してくれるか?」「畏まり候」
そうして正則も酒を飲み干すと、甚右衛門に二杯目を進める。
そして肴を挟んだ後、さらにもう一杯盃を指した。

この時正則は中村伯耆守への返事に、『今後私の方に御使者を遣わされるときは、必ず
この甚右衛門を下していただけますよう』申し入れた。

その後、中村伯耆守が病死し、中村家が無嗣断絶となったとき、この神部甚右衛門は
福島正則が召し抱え、三百石にて供番となった。
人々はみな、くだんの酒のよしみであると語り合った。

(福島太夫殿御事)

福島正則、他家の家臣を酒の飲みっぷりで気に入る、というお話。

679 :人間七七四年:2015/09/06(日) 22:49:13.02 ID:obgJbM5z.net
本当に基本的な部分は名君なんだよなこの人…

680 :人間七七四年:2015/09/07(月) 00:33:08.66 ID:85ayoEtI.net
市松さんが飲んでるのに珍しくいい話しやね

681 :人間七七四年:2015/09/07(月) 01:50:39.21 ID:sEot3JTO.net
どうしても盃が呑取博多人形みたいな相撲取りの賜杯用サイズで再現されるけど実際どうなん。

682 :人間七七四年:2015/09/07(月) 02:44:04.13 ID:T401pucK.net
飲んでみろとばかりに指し示すあたり、じゅうぶんでかいように思える
まあ、イメージ先行だけど

683 :人間七七四年:2015/09/07(月) 09:15:35.21 ID:eroRrUSG.net
でも、下戸だったらどうなってたんだ?

684 :人間七七四年:2015/09/07(月) 09:52:51.43 ID:9WFaHWzN.net
太兵衛「神部殿、そこは一旦固辞するのです。」

685 :人間七七四年:2015/09/07(月) 11:30:42.54 ID:M+v9C11i.net
まあ、あの当時の酒はアルコール度数が今より相当低いからなー

686 :人間七七四年:2015/09/07(月) 11:45:24.91 ID:YPyh7knj.net
>>685
そうは聞くけど、実際どんなもんだったのかな?

687 :人間七七四年:2015/09/07(月) 14:11:02.04 ID:GVpyQ25G.net
福島正則は肖像画の賛に
太平奸賊 乱世英雄 と書かれてるんだよね。
ここまで書かれるんだから、実際有能だったんだろうな。

688 :人間七七四年:2015/09/07(月) 14:11:46.29 ID:Ito+i9V6.net
水臭いの語源は酒に水を混ぜていたからっていうしな

689 :人間七七四年:2015/09/07(月) 15:08:02.06 ID:bRR9b8nS.net
市松さんはやらかしたエピソードが豊富だからな。

690 :人間七七四年:2015/09/07(月) 17:50:37.11 ID:NMdfeDTp.net
>>687
どこの曹操だ(後漢書版の評)

691 :人間七七四年:2015/09/07(月) 21:14:21.52 ID:qhFDWKUb.net
>>688
それは江戸時代の酒が濃縮状態で輸送されてて、消費地で加水して調整してたからだ。
アルコール濃度を高く作ってから加水するのはウィスキーもウォッカも同じ。
ただ、江戸幕府の物価抑制政策に対抗するために、美味しくなる量以上に加水した酒が
出回ったので「水臭い」と言われた。
逆に言うと、原酒の状態だとかなりアルコール濃度が高いはず。
まずいと思うけど。

692 :人間七七四年:2015/09/08(火) 17:20:33.34 ID:iwv10pDV.net
戦国時代頃には琉球経由で焼酎が伝わってるらしいから
単純に度数の高い酒ならあったんじゃないかな

693 :人間七七四年:2015/09/08(火) 19:21:44.58 ID:Lv18CN1k.net
>>691
加水が如水にみえた

694 :人間七七四年:2015/09/08(火) 19:58:42.95 ID:IzX9naAR.net
上善加水
ってパチもんの酒つくったら訴えられるかな

695 :人間七七四年:2015/09/08(火) 20:01:42.20 ID:Hk+BZSPx.net
FIVE STARS ?@ag_five_stars
【放送後記】
色々発表になりましたね。
小松さんのバトンを受け継いで、えろこしならぬ。えろふか?まて、それはのーのーのー!これからもよろしくお願いします\(^o^)/
#ag_5stars #agqr

えろふか!えろふかなのか!?

696 :人間七七四年:2015/09/09(水) 10:25:38.61 ID:1HDmTpOJ.net
>>694
たぶん商標とってるだろうし紛らわしいと客から苦情がきて一発退場

697 :人間七七四年:2015/09/12(土) 15:15:10.65 ID:PGOmkzUM.net
関白豊臣秀吉が天下の黄金を改めて造らせなさった時、浅野長政の家臣がこの黄金を偽って造りだした。
事が発覚するに及んで、長政は連座し、すでに処罰されることに決まっていた。
徳川家康殿は不憫に思われて、忍んで彼の家に入られて、事を由来をよく尋ねて明かされて、長政が罪のないように深く心にかけられたので、長政の咎は許された。
「このたび、首がつながった事は、ひとえに徳川殿の御恩によるところだ。」
と長政は喜ぶこと深かった。
(藩翰譜)

家康の人脈つくりの上手い話

698 :人間七七四年:2015/09/12(土) 15:31:20.47 ID:0vp9KbvQ.net
黒石と黒豆

蠣崎家においてコシャマインなどアイヌとの戦いで功績を上げ、蠣崎季繁の女婿として蠣崎家を継いだ武田信広がある時アイヌの首長らと宴を催した。

その際に、信広は首長たちに黒石の吸い物を振る舞った。
当然ながら、そんなものを食べられるはずがない…のだが、信広はそれを美味しそうに食べていた。

これを見た首長たち、大変驚いたのだが、実は信広が食べていたのは黒豆で、自分だけが黒石を食べることで、その力を見せつけようとしたと言われる。

力だけでなく、知略も使ってアイヌを抑えようとした信広のいい話。


出所:サッポロビール博物館資料

699 :人間七七四年:2015/09/12(土) 15:47:26.61 ID:/ioA7PLK.net
信広「マジ旨いんだけどな〜、なんで食べないんだろう??」
蠣崎娘「こんなにツヤツヤに上手く煮るの難しいんだから!」
首長たちガクブル

ちゅうだけにしか見えないw

700 :1/2:2015/09/12(土) 17:41:41.15 ID:5oU9bIc/.net
黒田家の中老である桐山丹波という者と、母里但馬(太兵衛)が高麗陣以来一言も口を
きかなかった。それは高麗陣において、母里の守る出城が明軍に襲撃された時、偵察に出た
桐山が、長政に、母里が敗北したようなので追い打ちをされないよう引取の軍勢を遣わすようにと
進言したことによる。実際には母里は明軍を打ち破り、多数の首をとって帰ってきた。
そこで桐山の進言の内容を聞き、激怒した。しかし友人たちが色々となだめその場では喧嘩にならなかった
ものの、その後桐山の方は何度も詫び言をしたものの、以後口を利こうとしなかったのである。

そして三十数年が経った

桐山丹波は黒田家において五千石を取り、中老分に定め置かれることに成った。
しかし重臣である母里但馬と関係の悪いままでは、政務の談合も整い難いと考えられ、
ある時、何かの祝日に、家中の主だった者達が登城した中、長政は栗山備後(利安)に言った

「但馬は丹波を悪み、久しく無言のよし、これは私のためにも悪しきことである。
以後仲直りするよう、備後より意見してほしい。」

備後「仰る通りです。但馬のやっていることは近頃になく見苦しい。その第一は、宜しからぬ儀であります。
私も御意に任せて和睦するよう言っても、合点せず、なお強情なことを申し承知しません。」

長政も「私も意趣の経緯はよく知っている。一端は腹をたてるのはしょうがない。だがこのように
いつまでも思いつめるような事ではないだろう。いま、私に対して和睦を約束してくれれば喜ばしい
限りである、是非ともそうせよ。」

このように何度も言ったが、母里は
「私は一命を捧げたのは本意ですから、これについては露や塵ほどにも思っていません。
しかしこの事については、たとえ上意を背きましても同意できません!」そう言い切った。

この態度に、長政も面倒なことに成ったと後悔顔で栗山に「備後よ、どうするべきか」と尋ねると、
「仰られたように、一体どんな理由があっても、主君のお為であれば異議有るまじき事です。
そのうえ深々しい意趣が有るわけではなく、第一もはや数十年も経って、人々もその仔細を知らぬ有り様。

殿直々の意見に違背するとは沙汰の限りである!但馬、御請申し上げよ!」
これに居並ぶ者達も次々に同じように言ったが、母里は

「嫌だ!」と拒絶。

互いに顔を真赤にして背を伸ばして睨みつけ「沙汰の限り、分別至極、是非に及ばず!」と散々に喚いたが、
母里が合点することはなかった。

ここで栗山備後、あまりに腹を据えかね、左の手で母里の頭をぶん殴った。
当たりはせず、殴る真似をしただけだ、との説もある。

701 :2/2:2015/09/12(土) 17:43:36.70 ID:5oU9bIc/.net
突然の事態に長政初め一同興を覚まし、「これは苦々しい事態だ。誰に対してもあんな事をすべきではないが、
但馬は特別な荒者である。備後に飛びかかって突き殺そうとするだろう。但馬は大力、備後は常の力であり、
取り付いたら離すことはしまい。しかしながら備後も優れて早く軽い人物であるから、引き外し
突き殺されないようにするだろう。

とにかく、少しでも不穏な雰囲気に成ったら飛び入って二人を押し隔てるのだ!」

そう、一同が臨戦態勢に入った時、母里は頭を下げ、暫くそのままにしていた。
「あの母里が思案をしているのか!?」
人々はそう驚いたが、一方栗山備後の方は、してはならないことをした、という気色もなく、母里の上に
乗りかからんばかりの姿勢で

「さてもさても、この一我意者め、沙汰の限りである!そこいらの若輩・渡奉公人のような覚悟だ。
家の年寄に備えられた者なら、諸事にそれ相応の見識があるものだぞ!一身を捨て、主君の御為を思わないのは
人外である!御為に一名惜しまずと常に言っているが、今の言いようでは、それも偽りになるぞ。

誰であっても言いたいことは多い。しかし浮世の習いで、堪忍しているのだ。よく分別してみよ。」
その様子は親が幼子を教訓しているのと少しも違わぬ情景であった。

暫くして、母里は涙を流し、それはポロポロと畳に落ちた。一同「もう死期だから、あの鬼をも欺く但馬も
涙をながすのか!」と思ったが、母里は頭をもたげ、鼻をかむ体にて涙を拭うと、大息をついて長政の
御前近くに進むと

「丹波との和解のこと、これまでも度々意見され、今も直々に仰せられました。それを違背するのは
心苦しいことではありましたが、一生不通と定めていましたから、絶対に承知しないと決意していました。

しかし只今の備後の所業は、珍しいことでした。私が若年の頃、如水様により、備後を兄として、私が弟として
互いに助け合うよう誓約をしたことがありました。

しかし、互いに成人してからは、私の方はそのことに、まるで構わずにいました。
そもそも備後は心底の見分けがたい人物ですし、どうで互いに若き頃のことだ、今になって
その時のことを覚えているかどうか、などと心許なく思っていました。

しかし、備後は久しく約束を変ぜず、なにより如水様の御眼力を違えず、一身を投げ打つ所存、
返す返すも忘れ置き難いものです。それこそ私は、無分別至極でありました。

童の頃は突っ掛かって行けば、度々打ち倒され突き倒され、如何程か折檻を受け成長しました。
その心を変ぜず、今でもこのようにしてくれる友人は、世には稀です。
…丹波、ここに出て来られよ!」

そう母里が桐山に呼びかけると、長政は言うに及ばず、一同の喜ぶこと限りなかった。
先ず長政が盃を出し、それを飲んで「この度は」と母里に差し出した。母里は三杯呑み、誰へとも言わず
桐山に差し出し、「こちらに寄られよ」と、いかにも丁寧に差し出した。
そして「今ひとつ」と、挿していた脇差を抜くと、桐山に遣わした。
「これは、作は良くないが、技については貴殿もよく知っているように優れたものである。そのため
腰から離さなかったのだが、和睦の印に受け取って欲しい。」
そうしてこの脇差を桐山に差させた。

桐山が盃を母里に戻すと、長政より「丹波も、但馬に脇差を差し出したいが、身分柄に合わぬように思い
遠慮しているようにみえる。但馬、彼の脇差を受け取るように。」と母里に取らせた。

それからは一同入り乱れての大酒となり、泰平と成った。
(古郷物語)

702 :人間七七四年:2015/09/12(土) 19:02:51.78 ID:kDVuYKMt.net
最後にワラタ
昨年の大河で使って欲しかった場面だな。

703 :人間七七四年:2015/09/12(土) 20:55:52.89 ID:VU/r9aIv.net
如水から母里を押し付けられた時に栗山はすごい嫌がってたから毎日心労も酷かったろうなあ

704 :人間七七四年:2015/09/12(土) 22:52:48.22 ID:9hRTr/CK.net
栗山も面倒だと思いながらも母里との義兄弟の誓紙を如水が冥土の土産に持っていこうなんて言われたもんだから栗山も中々捨て置けなかったんだろうな

705 :人間七七四年:2015/09/14(月) 18:09:22.44 ID:A3Hnvrai.net
ブログが見れねえな

706 :人間七七四年:2015/09/15(火) 01:04:06.58 ID:lxslhoOA.net
白河結城の軍師、佐藤大隅守忠秀の唱えた城を空にする計略の顛末を
詳しい人、誰か書いてくれんかな
どちらかというと悪い話に入るが

707 :人間七七四年:2015/09/15(火) 05:20:40.44 ID:94hHNS5O.net
小松中納言前田利常卿は、肥後守を号し、加州小松に居城しているため、常には小松との
称号を用いていた。

武家大系図御吟味の時、江戸城においてある人が、「前田の御系図はいずれより始まっているのか」と
尋ねると、利常はこのように返答した

「又左衛門(利家)は、何れもご存知のように小身より成り立ち、先祖のことは少しも存じません。
林道春に申し付けておりますから、定めて良きように書いてくれるでしょう。」

この答えに時の人たちは大いに感じ入った。彼は将軍の聟であり、大名の首座、御三家の末席であり、
その家格を子孫に伝えている。その家であってかくの如し。

(明良洪範)

708 :人間七七四年:2015/09/15(火) 07:37:57.12 ID:Fk/EkXl+.net
源平だの藤原だのと詐称せず利家が起源と、その潔さに感服した

709 :人間七七四年:2015/09/15(火) 07:40:35.18 ID:bclq8VJc.net
脇坂「北南 それとも知らず この糸の ゆかりばかりの 末の藤原」

710 :人間七七四年:2015/09/16(水) 06:23:17.14 ID:rdL5ARTl.net
前田家の逸話ってときたま肥後守に化けちゃうな

711 :人間七七四年:2015/09/16(水) 10:03:03.81 ID:rWhUaf9t.net
林家に系図捏造を依頼したいい話

712 :人間七七四年:2015/09/16(水) 23:06:07.98 ID:a/0PR1Q8.net
高山南坊(右近)、長九郎左衛門(連龍)、山崎長門守(吉家)、内藤如安、彼らは信長公の時代の人である
彼らが集まり雑談した際、こんな事を言った

「信長公が天下(畿内近国)に入られると、国の関々を開けられ、往還を一つにし、人の移動を
ゆるゆると仰せ付けられた。これは日本の国々の次第をよく聞き届ける事ではじめて、六十六カ国を
治めることが出来る、との御分別からであった。

太閤様は御所様(家康)との和睦が済んだ時、太閤様の御分別には、家康公と和解した以上、
最早日本は治まったと思われ、高麗船・唐船などの着く、九州の長崎、博多津、坊津といった浦々で、
唐船に乗る商人などをしきりに呼び付け、高麗や唐への渡海の様子を聞かれていた。
このような事を始めたのは、御所様との和解とほぼ同時期で、当時早くも高麗にお心がけを
されていたのだと聞こえている。

御所様(徳川家康)が関ヶ原の役も治まり、大阪へ移動する時、羽柴肥前守殿(前田利長)が
申し上げた。その内容はこうであった

『秀頼様には遠国に領地を仰せ付け、大阪城はこの勢いで接収して然るべきです。』

これを聞いた御所様は思われた『いやいや、これは肥前守と仲の良い者達が内談し、私の胸の内を
知ろうとしてこのような事を言っているのだ。』
そして肥前守への返答は

『いやいや、今回のことは治部少輔の仕出かしたことであり、秀頼公はご幼少であるため責任はない。
ただ、このまま別状なくこちらに置き奉るつもりである。』

こう答えたゆえに、その時は特に混乱が起きなかったのだと言われている。

御所様のご分別のように、大名衆は、この二人の談合において、御所様の口ぶりを集中して見ており、
そして様々に推量した。肥前守の提案に乗らなかった事は、偏にご分別厚く、おおくくりに時節を
ご覧に成ることの上手であるかな。』

彼らはこのような雑談をしていたと聞いている。

(川角太閤記)

713 :人間七七四年:2015/09/17(木) 09:33:15.89 ID:xWUpAs5D.net
山崎長門守って吉家じゃなく一族の長徳の方だろうね

714 :人間七七四年:2015/09/18(金) 17:19:48.42 ID:i3bbEaxY.net
高山右近と長連って個人的にすごく良いメンバーだ

715 :人間七七四年:2015/09/18(金) 17:38:02.04 ID:kwnDb1cB.net
ながつらだって、ぷっダッサ(笑)

716 :人間七七四年:2015/09/19(土) 01:39:22.90 ID:MMe+h1uc.net
お、おう

717 :人間七七四年:2015/09/19(土) 19:53:54.94 ID:LGD1Qjx4.net
信長公ご切腹の後、羽柴筑前守(秀吉)はその味方に頼み申し付け、小牧面に軍勢を出した。
敵はこれを見て清洲の城に引き退き、秀吉は清洲の城際まで押し詰め、やがてまた引き返す事となった。

この時、後ろ払い(殿)を誰に申し付けるべきかと、秀吉は思案した。城より追撃されては一大事である。
いかにすべきかと考えた結果、この時の後ろ払いを、蒲生氏郷に仰せ付けた。

氏郷は承ると「御心易く思って下さい。敵が出てくれば段々に人数を立て、一まくりに追い返します。
御心易く撤退して下さい。」と申し上げた。これに秀吉は御感斜めならぬものであった。
そして軍勢の者達に次々と、順次撤退を仰せ付け、それはほぼ無事に完了した。

秀吉は、今度の尾州面からの引取を成功させる事は一代の大事であると考えていた。ここで氏郷が
堅固に後ろ払いをし、緩々と引き取ることに成功したこと大変満足したと、氏郷は
仰せ聞かされた。

蒲生氏郷一代の覚えはこの儀であった。
氏郷はいつもこのように語っていた。「皆が一代の大事と考えていることを、氏郷に仰せ付けられたのは
面目の至り、これに過ぎることはない。この時、敵が出てこなければ交戦することはないが、
私はこれを第一のこととする。」

(蒲生氏郷記)

蒲生氏郷の考える、自分のなした第一のこと、である。

718 :人間七七四年:2015/09/20(日) 01:09:46.85 ID:Mj1rml0Y.net
 輝元なる者がいる。京西の大師である。壬辰の役に元帥となった者である。
安芸中納言と称し、あるいは毛利中納言とも称している。(安芸は州名であり、毛利はその姓である。)

 まさに百済が亡ぼうとしたと時、臨政太子が船に乗って倭国に入り、大内左京大夫(倭人は王を大内という。それで、今に至っても、周防
州に大内殿の称号がある。)となって周防州に都した。その子孫は、四七世を歴る間、代々倭官となってその土地を継いだ。輝元の祖先はす
なわちその従者であった。臨政の裔は多々良氏となり、輝元の祖先は大江氏となったが、のち、毛利氏と改めた。臨政の子孫がすでに絶えて
しまってからは、輝元の祖先が代わってその土地を継ぎ、安芸州の広島に都した。

 物資にすぐれ、富んでいるのは、倭京に擬えられる。

 その風俗は、倭のうちでは、いくらかつつしみ深い。性質はとてもゆったりと大らかで、わが国人の気象によく似ている、という。

 輝元の年はその時四八、その食邑は京西、九州にわたっており、土地の所出は150万石、しかし実際はこれを越えている。

 宇喜多秀家ともども、賊魁(豊臣秀吉)の命令におさえられて、やむをえずわが国人の鼻を削いだ時も、いくらかわあわれみの気持ちが
あった、という。
(看羊録)

姜コウ、というよりも藤原惺窩? からの評価が高いことを忍ばせる毛利輝元の評

719 :人間七七四年:2015/09/20(日) 04:09:28.56 ID:pnUupAwb.net
リンダ「ケツ穴にストライーク!」

720 :人間七七四年:2015/09/20(日) 04:10:33.72 ID:pnUupAwb.net
すまぬ…誤爆である…

721 :人間七七四年:2015/09/21(月) 08:39:42.57 ID:SgIz4hZ9.net
>>720
切腹を申し渡す

722 :人間七七四年:2015/09/21(月) 10:43:13.89 ID:ci+j6nbh.net
豊臣秀吉による小田原征伐の時、城中より夜討が行われたことが在った。
これに先手の者達が対応したが、この時蒲生氏郷は、具足も着けず鑓を引っさげて、正面の敵に構わず
敵の後ろにたった一人でまわり、後方から突き立て散々に攻撃した。

驚いた夜討勢は城に引き取ろうとしたが、氏郷一人に責められ堀に飛び入るなどした。
その様子を見て後ろに回ってきた侍たち、我も我もと氏郷に続き、敵の首を討ち取った。
氏郷自身、敵をあまた討ち取り、多くの頸を取った。

豊臣秀吉はこの氏郷の働きを聞くと大いに感じ入り、「氏郷が働きを成すのは珍しいことではないが、
今回、夜討してきた敵の後ろにまわり、跡を一人で切り取り数多の頸を討ち取ったという。この気概、
古今稀なる働きである」そう激賞した。

(蒲生氏郷記)

723 :人間七七四年:2015/09/21(月) 12:22:19.13 ID:QGP4GyFH.net
ここでも裸の工場長か。

724 :人間七七四年:2015/09/21(月) 12:41:09.78 ID:SmBOY1gg.net
阯、蝣るォ倩剋縺ィ鮓エ

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725 :人間七七四年:2015/09/21(月) 13:02:56.99 ID:LkeR50eK.net
>>724
面白かった!
小笠原長時のかっこよさに泣いた

726 :人間七七四年:2015/09/21(月) 21:49:28.37 ID:F74pFFG2.net
>>724
文字化けして全然読めない

727 :人間七七四年:2015/09/21(月) 23:06:14.89 ID:hGS59YhY.net
良かった。文字化けしてるの俺だけじゃなかった

728 :人間七七四年:2015/09/21(月) 23:36:23.53 ID:SmBOY1gg.net
藤堂高虎と「鶴の飛来地」

藤堂高虎が日光東照宮造営の労を賞されて賜った、伊勢田丸城5万石。
これを紀伊国に差し出したのには、理由があった。

徳川家康の死後、家康10男の頼宣は駿府から紀伊への移封をしぶっていた。
江戸から遠いじゃん、とは言えない。
「私は幼少より太神君に従って、心行くまで狩りを楽しんだものだ。
しかし、紀伊には鶴はいないというではないか。
無理な願いではあるが、改めて大坂をいただけぬものか・・・」

それを耳にした高虎は、頼宣が命に背くことを危ぶんだ。
そして頼宣のもとに行って諭したのである。
「大坂は豊臣氏君臣が焼け死んだ土地。いまだその怒気は消えておりません。
どうして尊い本家の身を不祥の地に置けましょうか。

さて、狩りですが。
かつて私も粉河におりましたが、確かに紀伊国に鶴は少ない。
しかし、我が所領の伊勢半国に鶴は多くやって来ます。
よろしければ国の原野すべてを庭園として指し出しましょう。」

この説得をもって頼宣は承服し、伊勢田丸城5万石は紀伊領となったのである。

「なあに、私は猟を好まない。
もともと鶴の飛来地などは、私にとって無駄なものに過ぎんのだよ。」
と言っていた高虎は、替地として山城・大和国5万石を得るに至った。
                                『聿修録』

729 :人間七七四年:2015/09/21(月) 23:39:51.00 ID:KbCyzEqE.net
ちゃっかり良い所もらってるなw

730 :人間七七四年:2015/09/21(月) 23:41:42.69 ID:SmBOY1gg.net
文字化け失礼しました。再投稿します↑

731 :人間七七四年:2015/09/22(火) 00:00:53.57 ID:Ap7UfWHg.net
小笠原長時のいい話じゃなかったんだ(´・ω・`)

732 :人間七七四年:2015/09/22(火) 00:15:21.90 ID:ngdGDWnA.net
再投稿d!
小笠原関係なくてワロタ

733 :人間七七四年:2015/09/22(火) 00:28:29.71 ID:0y7reYH/.net
山城・大和国5万石って石高よりもいろいろ貴重だろw

734 :人間七七四年:2015/09/22(火) 01:43:16.21 ID:uciuCRwV.net
>>730
IDワロタ
神君loveなのに家康が好んだ狩りを好かないとは意外

735 :人間七七四年:2015/09/22(火) 09:01:44.65 ID:81alq7hE.net
原野(5万石)

736 :人間七七四年:2015/09/22(火) 22:31:50.96 ID:ReESZ9ER.net
豊臣秀吉の時代のこと。

徳川家康の旗本である筧助兵衛という禄五百石の者、2年の間京に御使として駐在していたが、
その勤めも終わり帰路でのこと、筧の旅宿に、秀吉の直参である小川関書という者が押しかけてきた

筧が「何事であるか、狼藉なり!」と抗議すると

「筧の槍持ちは先年、我が家において罪を犯し欠け落ちした者であるが、今この宿において見つけた故
捕えるのだ!速やかに彼を差し出すように!」
そう罵って今にも乱入する気配であった。しかし筧

「おおよそ天下には御定法があり、あえて違うべきではない。また武士は礼を以って立つものである。
一応の届もなく、みだりに追い込んでくるのは礼ではない!
私は今、京都に使いして帰る途中である。そこで鑓がなければ奪い取られたと言われるだろう。
願わくば静まれよ。命を伝えて後に、相違なく槍持ちを送り届ける。」

そう言って、さらにその旨を文書に書いて証拠として残すとまで言ったが、それでも小川は
全く承知せず、「遅く出すくらいなら討ち果たせ!」とまで言ってきた

「さてさて何と理不尽なことか。そういう事であるなら、私も絶対に出さない!」
筧も怒り、双方既に戦いに及ぼうという時、ここを井伊直政が通りかかり、この騒ぎを聞いて、
ともかく筧を説得しかの槍持ちを出させようとした。

しかし、筧から仔細を聞くと、直政も共に激怒
「無法千万の者共なり!この上は、もし手を出す者があれば一人も残らず斬り殺すべし!」
そういうと即座に、従者5,600人を武装させ集合させた。
その勢いに驚き、小川は引き退いたという。

(明良洪範)

737 :人間七七四年:2015/09/25(金) 03:27:22.72 ID:qIR/GHLM.net
慶長五年の秋、東西で一時に戦が起こった。本多忠勝は仰せを蒙って井伊直正と共に味方の大名を連れだって美濃の国に行軍し、
九月十五日の合戦に諸軍を指揮して戦わせ、自分自身も島津を打ち破る。(この日忠勝は首九十余りを得たという)

戦が終わった後、福島左衛門大夫正則が徳川殿の御陣へ参り、
「さても今日忠勝が味方の多勢を指揮して戦う様は、左右の手をつかうよりもなおたやすく見えました。
あっぱれよき大将軍でというものですな。」
と感じ入った。

忠勝は嘲笑って、
「敵が妨げにならないほど弱くて、戦いとはなりませんでした。」
とあいさつした。

(藩翰譜)

関ケ原の戦いも東軍の前線の方では、手ごたえがなくてあっけなさすぎだろとか思ってたんだろうなぁ

738 :人間七七四年:2015/09/25(金) 08:12:32.46 ID:1ElstaQP.net
大将軍てのは全軍を指揮する者のことをいう。
忠勝にそんな将器はない。

739 :人間七七四年:2015/09/25(金) 09:09:19.93 ID:xHqsQhLX.net
突然の三河アンチ?

740 :人間七七四年:2015/09/25(金) 13:34:48.86 ID:Q4BSWfBZ.net
>>736
小川図書?

741 :人間七七四年:2015/09/25(金) 20:07:57.91 ID:vXXvPgiV.net
島津家も安泰なんかな?

742 :人間七七四年:2015/09/25(金) 21:22:32.02 ID:96dtYwcU.net
おおよそ関ヶ原の軍は、天下分け目の大合戦にて、徳川家の存亡、天下の安危、ただこの一挙にあった。

東方は良将兵を掌り、属する所の猛将多しといえども少勢であった。
西方は総大将無くして、治部少輔が兵権を司るといえども大勢にて、その上太閤の薨去近ければ、秀頼のために
忠を成さんと思う者も多く、殊に、もろこしまで武名を顕した島津、小西、その他猛将また多し。
その上筑前中納言(小早川秀秋)は大軍にて、その家臣たちは皆、小早川隆景が平生教練した屈強の
兵達であった。

この小早川秀秋がいまだ裏切り無いうちに、戦いは既に半ばに及ばんとした時、
敵の旗色良く、勇み進んでいた。この時、もし秀秋が裏切らず松尾山より素早く下りて、敵とともに
味方を防げば、おそらくは勝負がどうなったかわからない。また、もし敵がこの一戦に負けたとしても、
秀秋の裏切りがなければあれほどの惨敗はせず、敵の諸大将暫く弾き退いて、宇治、瀬田の橋を引いて
防ぎ戦えば、敵は大軍であったから、寿永、承久で東兵が利を得たようにはならず、勝敗もまた
心もとない。

また、南宮山の敵、吉川らが内応無く、素早く攻撃にでて、関ヶ原で横合いにかかってくれば、
両方の敵を防ぐことは難しかったであろう。

であれば、筑前中納言、並びに毛利家の返り忠は、内府公天下万世を保たれた枢機であり、
これは黒田長政一人の謀を以って、敵の大群を味方に引き入れ、返り忠をさせて、斯くの如く
莫大の忠功を立てられたのだ。

また、長政が竹中丹波守と言い合わせ、間道を経て敵陣の横合いに出、奇兵を以って
島左近の堅陣を破り直に石田の本陣に攻め入られた故に、一戦に東兵勝利を得た。
これらは真に希代の勤労と言うべきである。

司馬相如が『世必有非常之人而後有非常之功』(世には必ず非常の人があり、後に非常の功有り)と
言ったのは、まさに黒田長政のような人を語ったのだ!

(黒田家譜)

「徳川の天下は全部黒田長政のおかげだったんだよ!」という黒田家譜の熱い主張である。

743 :人間七七四年:2015/09/26(土) 00:16:51.90 ID:QGYiI3d0.net
長政もあの世で苦笑い

744 :人間七七四年:2015/09/26(土) 00:39:15.74 ID:KAo1MPtx.net
毛利吉川小早川のサボり&寝返りでテル涙目

745 :人間七七四年:2015/09/26(土) 09:44:28.11 ID:NvEji9+i.net
黒田家譜はブレないな

746 :人間七七四年:2015/09/26(土) 10:05:10.60 ID:T9zYNIIf.net
九州でお怒りになられてる方がおります

747 :人間七七四年:2015/09/26(土) 20:35:32.56 ID:eZHYdQhF.net
さっすが長政さんだぜ
孝高超えたな

748 :人間七七四年:2015/09/26(土) 21:02:24.34 ID:pGj6ICXj.net
あたぼーよ52万石(笑)だぜ
だてに逃散させてねーぞ

749 :人間七七四年:2015/09/27(日) 09:25:39.55 ID:yZR+BSu7.net
他の関ヶ原参戦諸侯の検地打出しで石高2〜3割増程度だったのに
黒田は7割増だもん、そりゃ色々と問題も出ますわな

750 :人間七七四年:2015/09/27(日) 09:46:44.86 ID:xn1Ub7CY.net
関ヶ原の役が起こると、中津に在った黒田如水は、兵を集めるためこうお触れを出した
『諸浪人、親掛かりの者をはじめ、歳寄って隠居した者、百姓、町人、諸職人によらず、
望み次第何者であっても罷り出でるように。』

これに人々、我も我もと罷り出た。もちろん武具一式を持たない者達多かったので、黒田家では
普段出入りの業者より古い捨て道具などを乞い集め、鞍骨を一緒に乞い、切付、肌付を片方ずつあてがい、
轡、片鐙は縄で、具足の無い者には紙羽織の後口に朱にて紋をつけ、兜のない者には竹の皮笠の周りに
四手を付け、痩せた馬に乗り、中間一人に馬を引かせて槍を持たせるような者も多かった。
しまいには、知人の陣屋に飛び入り、これに馬人養われて陣を務めるような者もあった。

その者が言った、「このような見苦しい体では出陣すべきでないと思われるかもしれませんが、
私も若い時は侍の真似をしていました。しかしこの国が京から来た人(黒田家)の物となり、
私は本領を離れ、詮方無く百姓をしていましたが、慣れぬ業ですから、口を過ぐる事も出来かね、
餓死にも及ぼうかという有り様を口惜しく思いながら、自害することも出来ず遺恨に思っていた折、
思いもよらず乱が起こり、先祖の家業を継ぎ、もう一度侍の真似を仕り、討ち死にできることの嬉しさよ!」

また、職人にもこのたぐいの参加者が多かった。

笠冠をかぶった百姓の中の、樋田山城守・小城源兵衛という者は、昔の代には一城の主であり、
人をも引き回し、度々手柄を仕った者達であった。

また職人たちが俄に侍になった事について、日頃より関係の在った裕福な町人たちがこんな意見を言った
「親が何であったとしても、入らざる武士立てである。今の分で、鉄などを吹いていたほうが良い。
きっと炭や地金の代金がなくて、それを惜しんで参加したのだろう。」
そう言って笑った

この時笑われた職人たちは、戦後正式の武士となり知行を取ったものも多かった。
金は失せやすいものであり、笑っていた金持ち達は、程なく財産を失い、乞食となり、
笑われた者の知行の内に行き小さな屋敷に乞い、鉢を開き、終には餓死したものもあった。

こういった者達がもし思い立っていれば、その頃裕福だったのだから、一廉綺麗に支度も
あい調ったであろう。元来侍の果てでもあったのだから、武士として取り立てられ知行取りに
成ったこと疑いないのに、その気性が甲斐ないために、そういう将来を捨て去ってしまったのだ

とにかく侍というものは、とりわけ気概を持たない者は、何の役にも立ち難いと見えたり。

(古郷物語)

関ヶ原の折、黒田如水の兵士の応募に参加した人々についてに記事である。

751 :人間七七四年:2015/09/27(日) 17:31:12.93 ID:vOxey6zv.net
これって結局どっちにしてもおちぶれるんじゃね?
気概のない者は選択の余地なしってことだよね

752 :人間七七四年:2015/09/28(月) 04:40:57.37 ID:z9YNXP1H.net
天正12年、尾州長久手において、徳川家康が上方勢と対陣の時、
三枚橋の城代・松平周防守(康重)より御見舞として家来の岡田竹右衛門が派遣された。
これに家康は喜び「その方を呼び寄せたく思っていた折に、よくやってきた。早速申し付けることが有る。
敵味方の人数を見積もってくるのだ。」

そう言って、阿部菅右衛門、西尾藤兵衛をさし添えた。岡田は即座に乗り出て、見積をしてくると
家康に報告した。そこで、敵勢は数十万に余るほどだというのに

「敵は五万七千、見方は五万ほどで、されば七、八千ほど不足ですが、関東勢は心猛く、
上方勢3人を味方1人宛に積もれば危ういことは決してこれなく、合戦はご勝利疑いありません。」

家康は大いに喜び、その後合戦で勝利し帰陣する際、岡田は途中御迎えとして出ており、
阿部川において御目見得した。この時家康は馬上から声をかけ

「その方が申したのに違わず、この度勝利を得たり」

そう大変喜んでいたという。

(明良洪範)


関ヶ原の時の、渥美源吾の逸話の原型みたいなお話ですな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1345.html

753 :人間七七四年:2015/09/28(月) 09:19:50.98 ID:tyNSTUvi.net
お前、それ鬼武蔵の前でも同じこといえんの?

754 :人間七七四年:2015/09/28(月) 15:30:18.44 ID:9lf3ClAH.net
関東勢?

755 :人間七七四年:2015/09/28(月) 19:53:04.08 ID:tyNSTUvi.net
美濃以東は関東、つまり鬼武蔵は関東勢

756 :人間七七四年:2015/09/29(火) 22:25:01.20 ID:prgC4d6J.net
島津家久(悪)「当山で一番の茶の実を持って参れ!」別バージョン

昔、日当山の地頭に徳田大兵衛(おおひょうえ)という人がおりました。
大兵衛は「侏儒(しゅじゅ)どん」(小さい、一寸法師というような意味・大兵衛は90センチほどの背丈だったそうです)
と呼ばれ、とんちで人を喜ばせたり、やりこめたりしていました。
ある日、島津の殿様(忠恒)によびだされ、
「侏儒、屋敷の周りに庭木を植えようと思うが、何がいいか言ってみよ」とたずねました。
侏儒どんは即座に、
「それは茶にかぎります。垣根になるばかりか茶も取れます」
「なんじゃと、茶の木ともうすか」
「はい。茶の生垣にございます」
「ふむ。それは名案。ところで茶はさし木だったかのう」
「いえ、種から、実からでございます」
「おう、そうだった。ところでそちの所は茶の名所だったのう」(ニンマリ)
「さようで、日当山はお茶の名所でございます」
「(こいつ、まだ気づいていないな。今頃茶の実などあるはずないのに。日ごろ奴のとんちでやられているから、
今度こそはやりかえしてやろう・・・)」
「おぬしにまかす。さっそく茶の実をもってくるのじゃ」
「へへっ」
と、ここで侏儒どんは今頃茶の実などあるはずないことに気がつきましたが、もうおそかった。
得意そうに殿様の鼻がひくひく動いているのを見ると、負けずぎらいな侏儒どんは日当山に帰り着くまでにいいことを
思いつき、日当山で一番お茶を飲むおばあさんの所に行き、
「ばあさん、一度鹿児島に行きたいと言ってたな。明日連れて行くから準備してくれ」

次の日、意気揚々とお城にのりこんだ侏儒どん。
「殿様、さっそく持ってまいりました」
「おう、そうか」(こいつ、強情なやつだな)
「そちが持参した茶の実を出してみよ」
「へへっ。ここに」
「なんだと。このばあさんが茶の実だと」
「へい、確かにこのばあさんが、村一番の茶のみでございます。朝はよから、夜遅くまで茶がなければ
日が暮れませぬ。日当山一の茶のみでございます」
まじめな顔で、平気で侏儒どんはもうしました。
今度ばかりは侏儒どんも困ってまいるだろうと、内心ほくそ笑んでいた殿様は一本とられてしまいました。
殿様は笑いながら
「いや、参った。だがまてよ、生垣にするのだが、その茶のみでは生えぬではないか」
ところが、侏儒どんは
「ほら、ばあさんそこの座敷をはってみなさい。殿様が見たいそうだ」
おばあさんが座敷を這ったので、これには殿様開いた口がふさがらなかったそうな。
(参考 「鹿児島のむかし話」)

また、「茶のみ」の話には続きがあるパターンがあり、
(おばあさんが座敷を這ったので、これには殿様開いた口がふさがらなかったそうな。のあと)
「いや、殿様にものを申し上げると緊張してのどが渇きます。すみませぬがお茶をいただけますか?」
「いやいや、のどが渇くのはそちではなくばあさんだろう。だれかばあさんに水をやれ」
「殿様、茶のみに水ではかわいそうでございます」
「なんの、あの茶のみは、はえるのであろう。早く水をやれ、水をやれ」
「これは一本とられましたな」
「「ハッハッハッ」」
(参考 「日当山侏儒どん物語」「日当山温泉湯けむりガイド2011」)

757 :人間七七四年:2015/09/29(火) 23:15:01.05 ID:N2PpKGL1.net
何この193と将軍さま

758 :人間七七四年:2015/09/29(火) 23:37:37.68 ID:hXJatZKr.net
いつ斬られるか、ハラハラしたw

759 :人間七七四年:2015/09/29(火) 23:42:18.35 ID:D+AAVOft.net
隣の部屋に東郷が控えてるよね

760 :人間七七四年:2015/09/30(水) 09:43:52.00 ID:z/jP00gW.net
貞子の様に座敷を這いずり回る婆さんの横でこの漫才。
想像すると無茶苦茶シュールだ...。

761 :人間七七四年:2015/09/30(水) 13:13:12.20 ID:l6MdiJ3I.net
すみません756ですが、這うと書きましたが
原文では「はう」とひらがなで書かれていました。
参考にした本にはありませんでしたが、別の本の挿し絵にはおばあさんは四つん這いで書かれていました。
・・・四つん這いでもシュールなことにはかわりありませんが。

762 :人間七七四年:2015/09/30(水) 21:36:17.05 ID:QV802Zwr.net
永禄4年、最初の越山で北条氏の本拠、小田原に迫り来る上杉景虎の軍勢に対し、小田原城では
重臣たちが集まりその対応を協議していたが、様々な主張が出て議論となり、いかなる方針を取るか
結論が出なかった。
ここで、北条氏康が重臣たちを諌めて言った

「今度の景虎発向の事について各々の主張はどれも尤もである。
であるが、あの景虎という者、天性健やかなる若者で、血気盛んであり、腹が立って怒る時は
炎の中にも飛び入ろうとし、鬼であっても掴み拉ぐというほど短気な勇者である。

であるが、そんな彼も少し時が過ぎると、その勇も醒めて万事思慮するようになる傾向がある。
『仁者は必ず勇あり、勇者必ず不仁』と言うではないか。

現在彼は上杉憲政から関東管領の名を譲られ、諸侍を配下に付けているのだから、彼の考えを
想像すれば、一層その強みを出そうとしているだろう。
その上彼の軍勢は多勢である。だからその進軍する先々に、我らは軍勢を出さずに籠城して、
彼の血気を悩まし、その塩を抜くのだ。

来鋭を避け惰気を撃つとはこれなり。
勇気も疲れ、数日対陣し兵糧が減って飢えたところを討つのだ。」

(相州兵亂記)

上杉謙信、北条氏康から超熱しやすく冷めやすいと思われていた模様。

763 :人間七七四年:2015/09/30(水) 22:21:50.90 ID:Mrh64YM5.net
>>756
お茶ドゾー
  ∧ ∧                                    (ハハ)
 ( ´・ω・)                                  (ヮl` ) 
 ( つ旦O                                 O旦⊂ヽ
 と__)__) 旦   旦   旦    旦      旦    旦    (_(_つ
      濃茶  薄茶 大腸菌 足尾鉱毒 豚インフル 出涸し 日当山一のちゃのみ

                            ;; コポ
       旦   旦   旦    旦    旦 コポ 旦      旦    旦    旦
      砒素  雑巾汁 烏龍茶 加藤茶 ウラン  鳥インフル  タブン VXガス 石見銀山


       旦  旦    旦     旦    旦    旦    旦      旦
       緑青 鉛 プルトニウム サリン 工場廃水 紅茶 福寿草  ミユキのお手製太陽バクバク茶

764 :人間七七四年:2015/10/01(木) 06:17:31.96 ID:MrdFkbNK.net
知覧茶や霧島茶がないですよー!!

765 :人間七七四年:2015/10/01(木) 10:59:44.13 ID:abkOZLQC.net
薩摩人乙

766 :人間七七四年:2015/10/01(木) 11:13:48.31 ID:fmcSmK7x.net
>>763
ウッキーさんはお呼びじゃないです

767 :人間七七四年:2015/10/01(木) 11:40:40.01 ID:1yLYRkQi.net
はぶあないすでぇー

768 :人間七七四年:2015/10/01(木) 11:44:39.58 ID:XwpcueLV.net
子どもにはわからんネタをw

769 :人間七七四年:2015/10/01(木) 13:18:28.02 ID:iAINpaQB.net
ウィッキーさん、懐かしいなあ。

770 :人間七七四年:2015/10/01(木) 17:59:33.20 ID:R4uISYi/.net
ジジババの多いスレだ

771 :人間七七四年:2015/10/01(木) 22:23:21.85 ID:ZcP9QP2f.net
 天正十四年の秋、関白(豊臣秀吉)の妹君が徳川殿(家康)のもとへ送られた時、浅野長政に送らせた。
この年に徳川殿が御上洛したとき、長政は饗応の事を司って御旅館へ参上した。これより後、徳川殿の申次を承った。
関白が島津を討ちなさった時は大隈国に向かい、北条を亡ぼしなさった時は武蔵国に向かった。
このとき、殿下が駿河の国府に行こうとなさったのを、石田治部少輔三成が(秀吉の)お耳のそばに寄り、

「家康は北条と関係のある仲である。いかなる謀があるかわかりません。
彼の城に入りなさるべきではありません。」
とささやいた。

 (秀吉は)確かにそうだと思われる様子で、馬を控えて時が経過した。長政が参ってこのわけを聞くと

「どうしてそのような事があるだろうか」

と諫み争うことを言ったので、関白の疑いはたちどころに消えて、国府の城に入りなさった。
(藩翰譜)

やはり三成はこういう役に充てられるんですね

772 :人間七七四年:2015/10/02(金) 01:06:43.57 ID:/85poPQe.net
江戸時代を通して、そういうイメージが付いてるんだろうなあ

我々だって、上杉家でやたら弁達者なヤツはあいつとか、
秀吉子飼いで酒癖が悪い大名はあの人とか、
イメージが固定されてるからなあ

773 :人間七七四年:2015/10/02(金) 01:43:36.83 ID:KezYINSi.net
現にここのスレだって
DQNだのヤンデレだの鬼嫁だのガチホモだの総領息子だの
いろんなキャラが固定してるんだからしゃーないわ

774 :人間七七四年:2015/10/02(金) 02:44:01.82 ID:cD5vV5Jz.net
そういえば最近鮭様って見かけないな

775 :人間七七四年:2015/10/02(金) 03:40:03.12 ID:QP9lnwiU.net
へー
この前はどこで見かけたのよ鮭様を

776 :人間七七四年:2015/10/02(金) 05:14:24.50 ID:I0PXGS8P.net
鮭様なら俺の隣で寝てるよ

777 :人間七七四年:2015/10/02(金) 06:50:16.23 ID:+zRUjHK8.net
鮭様も地に落ちたものだな

778 :人間七七四年:2015/10/02(金) 09:03:44.93 ID:k51S+lJH.net
さーもん有りなん

779 :人間七七四年:2015/10/02(金) 22:39:19.57 ID:jQCZqCPO.net
誰か>>778殿にレスしてあげてください。

780 :人間七七四年:2015/10/02(金) 22:44:11.53 ID:PRxEyR6X.net
石田治部少輔(三成)、小西摂津守(行長)、安国寺(恵瓊)、この3人は
今度の大乱(関ヶ原の戦い)を起こした張本人であるが、戦場にても死なず、
猶も命を免れんと、ここかしこに隠れ居たのを、皆搦め捕られ、先に大阪に遣わされ、
諸大名途上の途中に晒された。

この時治部少輔が搦め捕られている所を、諸大名は何の会釈もなく通り過ぎた。
だが、黒田長政ただ一人、治部少輔の側に来て

「今度の不慮の儀が出来、貴殿の成り行き斯くの如くにて、無念千万な事でしょう。
ですが武士は古よりかかる例も多くあります。これが恥辱であるとは全く思いません。」

この言葉に、さすがの治部少輔もその情けに感じ入り、

「このように成り果ててしまっては、哀れだと言ってくれる人すらいないというのに、
真に情け深く感じています。」

そう言って涙を落とした。

その後この3人は、町中を引き回し、また京都に送られ、10月朔日、あやしげなる荷車にので、
天下の大敵なれば、先例に従って大路を渡された。京中の貴賎男女、これを見物した。
一番は石田、二番は安国寺、三番は小西であった。
彼らは六条河原にて皆首をはねられ、三上の橋の側に獄門にかけられた。

(黒田家譜)

黒田家譜での、三成が晒されている時の模様である

781 :人間七七四年:2015/10/03(土) 05:32:57.65 ID:hb7d9bWS.net
長政さまかっこいい(棒

782 :人間七七四年:2015/10/03(土) 05:57:08.16 ID:DdaBQTFa.net
黒田長政「カッコいいとは、こういう事だ」

783 :人間七七四年:2015/10/03(土) 07:21:43.81 ID:zYdG7KXx.net
衣は着せなかったのか

784 :人間七七四年:2015/10/03(土) 07:36:34.24 ID:RBN1Zk/h.net
長政「衣は歯に着せました」

785 :人間七七四年:2015/10/03(土) 08:37:41.27 ID:L15PhrqJ.net
この男、ドヤ顔である

786 :人間七七四年:2015/10/03(土) 11:31:21.00 ID:dUzku7m+.net
さすが長政様(棒

787 :人間七七四年:2015/10/03(土) 21:41:24.88 ID:VQ5niA2W.net
関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康は東軍諸大名への論功を進める中、
黒田長政に対してはその功を賞し、豊前を改め他国を与えると決めたが、
そこで家康は本多中務大補(忠勝)にこのように言った

「甲斐守(長政)についてだが、彼には中国筋に2ヶ国も与えるべきか、また筑前は
九州都府の地であり、殊に異国からの防御のため大切の所であり、私は甲斐守をそこに
置きたいと思っている。汝に甲斐守の所存を尋ねて来てほしい。」

そこで忠勝は長政の元に行き、その内意を問うと、長政

「豊前を改め大国を御恩賜あるとの事、誠にかたじけない事です。殊に、都に近い
中国にて2ヶ国は、最も望むべきことです。

ですが、おおよそ今後、天下は泰平となるでしょうから、日本において、御恩を謝し奉る
弓矢の沙汰も起こらないでしょう。一方筑前の守護は、古来よりの都府の地、殊に
異国からの防御のため、先鋒の場所でありますから、武門の大望、これ以上のものは有りません。

であれば、筑前は中国にて2ヶ国拝領することに優っており、我が願うところです。」

これを忠勝より聞いた家康は大いに喜び、長政に筑前を与えた。

(黒田家譜)

黒田長政が筑前を望んだ理由、である。

788 :人間七七四年:2015/10/03(土) 23:07:35.57 ID:22KAeO00.net
忠勝が使者なのか

789 :人間七七四年:2015/10/04(日) 00:19:40.05 ID:v1ZN6V03.net
忠勝は外交官として、いろいろなところに出向いてるよ

790 :人間七七四年:2015/10/04(日) 03:10:30.97 ID:32dSqDEt.net
内府(徳川家康)と大納言様(前田利家)が、未だ仲直りなさっていなかった時、
浅野弾正(浅野長政)殿が、大納言様とも内府とも仲が良くお話しされる間柄でした。

そこである時、内府のもとへ弾正殿が訪れなさって、いつもの通りお話ししながら碁を打ちなさっていた時、内府が仰せられたことには、
「大納言については、今度のことは理由もないことであった。」
などと少し後ろめたいことを申しなさった。

そこで弾正殿は、
「私は前から、大納言殿に悪い噂がたっていることは嫌でございました。
その理由は、内府も目を付けられていますが、大納言と内府は、差し出した手の大指と小指だと存じています。
内府は我らに、上様のもとへ出頭なさったときに盛んに口添えしたことで、関八州を手に入れたという恩があります。
また大納言殿は私共父子の命の親でございます。
そのことをお心得なさってください。」
と申されました。

内府も「もっとも」と申されたそうである。

これを大納言様がお聞きになさり、ついに内府との仲は良くなりました。
このことは、『弾正殿一代、とんでもない事を申し上げたものだ』と、皆は褒め称えたことです。
(利家夜話)

家康の関東移封は長政らの力によるものらしいです

791 :人間七七四年:2015/10/04(日) 15:13:47.59 ID:9UrTgLAK.net
さすが長政さま(棒

792 :人間七七四年:2015/10/04(日) 23:04:38.34 ID:1C/BfZUU.net
長政って名前の人は皆根拠のない自信にあふれてる気がする

793 :人間七七四年:2015/10/05(月) 01:00:10.54 ID:6q+ElVn1.net
浅井と浅野、黒田に山田か
確かに自信家が多そうだ

794 :人間七七四年:2015/10/05(月) 01:12:52.51 ID:C1KVxYYq.net
葉を見て樹を知ったつもりになる
それも大事なことです

795 :人間七七四年:2015/10/05(月) 01:49:06.68 ID:ANXBzaWf.net
葉を見れば木の状態はおおよそ分かる

796 :人間七七四年:2015/10/07(水) 14:31:36.41 ID:uZcUaUHl.net
「本多忠勝、土岐為頼の旧臣を呼び出す」

本多忠勝が上総小滝10万石に封じられた時、土岐為頼の旧臣を集めて召し抱えた。
弾正(為頼)は万喜を居城としていたので、世では万喜少弼と称され
武勇の誉れ高き人物であった。 忠勝が弾正のことを聞き、旧臣達が言うには
「弾正は里見義尭と戦を交えた際、敵を油断させようと舞台を設けて
舞踊をし、城門を開けたままにし、浜辺の防備を疎かにしていました。
里見の将正木大膳時綱が上陸して攻め寄せた際、城壁に掲げてあった紙旗を絹旗に取り換えたのを合図に、
ボロボロの城門より不意に討って出て、正木の軍をあっという間に切り崩してしまいました。
それ以降土岐の地が攻め入られることはありませんでした」
と答え、忠勝は「土岐は信玄や謙信にも劣らない雄将だ」と誉め、
それ以降弾正のことをお尋ねになる時はいつも「万喜殿」と呼んだそうだ。

『常山紀談』より
土岐為頼の逸話がなかったようなので一つ

797 :人間七七四年:2015/10/08(木) 10:17:34.60 ID:6nmXeg8Y.net
毎回撃退してるけど息子の代に攻められてるじゃないかい

798 :人間七七四年:2015/10/08(木) 21:22:35.29 ID:2LGsNHl9.net
前田筑前守利長の近臣に拝郷次大夫という者があった。拝郷の祖父は五左衛門宗直(家嘉)といって、柴田勝家の臣であり、賤ケ岳で討ち死にした。父は丹羽長秀に仕え、小松の城にいた。
次大夫は十六歳の時、加賀に行き、利長の寵臣となった。慶長五年八月、利長と長重が仇敵の仲になると、次大夫は「長重は旧主であり、父親も丹羽家にいる。父母の主君に弓を引くのは、武士の定めと言っても不義である」と思い利長に暇乞いに行った。
利長も感じ入り、この戦が終わったら必ず帰参するように申渡した上で暇を出し、次大夫は同僚に挨拶をし、小松に帰っていった。浅井縄手では次大夫が一番手として討って出て、松平久兵衛と槍を合わせたが、日頃入魂の間柄であったので、笑い通していた。[
続いて水越縫殿助と槍を合わせたがこれも同様であった。その後、岩田伝左衛門と槍を合わせたが、決着をつけようと組打の最中、伝左衛門に討ち取られてしまった。
利長は首実検で、次大夫の首を見、無慚に思い涙した。松平・水越らも次大夫を思い、立派な忠孝者であったと称した。

『元禎筆記』

799 :人間七七四年:2015/10/09(金) 17:14:18.64 ID:SbIuOL0o.net
次大夫「俺、この戦が終わったら前田家へ帰参するんだ」

800 :人間七七四年:2015/10/09(金) 18:51:44.43 ID:sZtCnp/b.net
ある時、黒田如水が作事奉行に、「木くずや用に立たない木の切れ端を、念を入れて取り集め、
風呂屋に渡すように」と申し付けた。ところが

「木くずは、大工が回収したもの以外は長屋の者が皆盗みましたので、少しもありません。」

これを聞いた如水は怒った
「木くずを盗んだ者たちを捕り搦めよ!首を斬るべし!!」
そう厳しく申し付けた。

これを聞いた作事奉行は思った。「如水様は慈悲深く物事に柔らかであるから、このような法度も
徹底しないのだ。これは法度の徹底のために、かえって幸いのことである。」

そう思い注意して作事場を監視し、その夜には早くも木くずを盗んでいるものを見つけ搦め捕らえてみると、
それは草履取りだった。その者の主人は彼が捕らえられたことを迷惑に思い、人を頼んで色々と
詫び言したが、奉行は「固く申し付けられた事であり、許すことは出来ない!」と申し付けた。

奉行は盗人を捕らえたことを手柄立てに如水に申し上げた。如水は内心「たわけたやり方だ」と
思ったが、「よくやった。後で首を斬ろう。」と申し付けた。
奉行は斬首が今日か明日かと思っていたが、4,5日延びた。
如水としては「きっと詫び言が出るだろうから、その時、いかにも厳しく恐れるように言った上で
許すのだ。」と思い、詫び言があるのが遅いと待っていた。

そんな時、留守居の者が作事奉行を同行して罷り出た。作事奉行は聞いた
「木くず盗人は、今夜首を斬るべきでしょうか?長々と縛りおいていると、日夜
その番に人も入ります。」

この言葉に如水は激怒した
「大たわけめ!物をよく聞け!その木くずを盗んだものの首を斬り、盗んだ木くずに、
彼の着物を着せて使ってみ?それが人間の役をすることはない!
人を殺すというのが、どれほど重大なことか解っているのか!?それをおまえは何とも思っていないようだ。
彼を急ぎ赦せ!」

そう申し付けたため。奉行はかえって叱られ、面目もなく盗人の縄を解いた。

「厳しく仰せ付けられたから、見つけ次第に縛ると宣言し、盗人たちに『本来首を斬るべき罪なのだ。
今後構えて盗んではならない。大変なことに成ってしまうぞ。』としたたかに脅し、盗まれぬように
することこそ奉行をする者のやり方なのに、どうして黙って盗ませ、捕らえて、急ぎ首を斬れなどと
申してくるとは。全くもって、主の為にならぬ覚悟である!
己の役をさえ勤め、良きように仕事をすれば、人の迷惑も、主の為も構わぬと考えているのだ。」

如水はそう思ったのであろう、その作事が終わると、この奉行には重ねて役を申し付けること無く、
遠ざけた。このことは、如水が後日語ったものである。

(古郷物語)

801 :人間七七四年:2015/10/09(金) 19:14:08.54 ID:E2zbjZW+.net
主の言うことを真面目に聞くと馬鹿をみる

802 :人間七七四年:2015/10/09(金) 20:12:33.79 ID:P6yRHuhm.net
こういう家風だと愚直な三河者みたいなのはやってられないな

803 :人間七七四年:2015/10/09(金) 20:27:54.77 ID:K/raKVWt.net
あほな上司で奉行がかわいそうやなw

804 :人間七七四年:2015/10/09(金) 21:15:10.14 ID:L5gHh0gn.net
市松みたいに酒飲んでて命令した内容忘れちゃったのかな

805 :人間七七四年:2015/10/09(金) 21:25:07.25 ID:Rf5ZWUVV.net
跡継ぐ長政のために家臣に嫌われようとしていた時期の話かな?

806 :人間七七四年:2015/10/09(金) 22:06:57.62 ID:Ym1a6QgQ.net
悪い話で盗みを重ねた中間を追っ払えと怒鳴り散らした逸話のあとにこれか
やるなあw

807 :人間七七四年:2015/10/09(金) 22:15:40.15 ID:CbrSMVmd.net
>>800
これのどこがいい話なのか?

808 :人間七七四年:2015/10/09(金) 23:23:45.88 ID:b/HxYO8G.net
首を斬られる罪人が命長らえた良い話

809 :人間七七四年:2015/10/09(金) 23:53:06.57 ID:WE0alqGT.net
金正日の車を検問で停めた兵士が、最初はちゃんと仕事してると褒められたが
2回目に車停めたら、何で車を覚えていないんだとキレられて処刑された
話を思い出したw

上に立つ人間が法を守らないで気分次第のとこは危険

810 :人間七七四年:2015/10/10(土) 00:40:51.80 ID:7Z1ooVW6.net
それでも貝原益軒なら、貝原益軒ならちゃんと官兵衛アゲアゲ話にしてくれるはず!!

811 :人間七七四年:2015/10/10(土) 01:43:30.83 ID:sJpBltH4.net
>>809
あまり関係ないけど、ダイエー創業者の中内氏は自社の店舗を視察する時も率先して、出入管理簿に自分で記入してたってね、店のルールで決まっているから

結局は戦国に例えると敗北して他家に占領されたような形になったけれど

812 :人間七七四年:2015/10/10(土) 09:15:53.55 ID:8ZCLhqrc.net
大河内政房の忠義

天正2年、武田勝頼が高天神城へ出兵した。城将小笠原与八郎長忠は目付の大河内源三郎政房と籠城したが、城の兵糧は尽き兵も疲弊していたので小笠原は後詰めが間に合わないことに怒って降伏してしまった。
政房は松平清康の室華陽院の甥であり、降伏することを肯んじなかったので、小笠原に捕えられ、石牢へ押込められた。
勝頼は降伏すれば本領に加え知行地を倍にすると呼びかけたものの、政房が応じなかったので、怒って牢の鍵を閉めていった。
これより高天神落城まで8年間牢中にあったが、城に在番していた武田の横田甚五朗(尹松)は政房の忠節に感じ入り、懇ろに労わった。

落城の際、石川伯耆守数正に救い出された時にはすっかり足が萎えており、莚に乗せられて家康の前まで連れられていった。
家康は長年の苦労を思って涙し自ら褒美を与えたが、政房は生け捕られたことを恥辱と思っていた。
周りの者は「虜囚となったのは小笠原の不義のせいのためで、忠節を貫いたのだからむしろ誉れだ」と言ったが、やはり無念であったのか剃髪して「肖空」と号した。
その後、家康の命によって尾張津島の湯にて養生し、足の萎えも治り、遠江の稗原の地を与えられたが、長久手の戦で討ち死にしてしまった。

『常山紀談』
どっかの軍師さんよりよっぽど苦労し(ry

813 :人間七七四年:2015/10/10(土) 09:17:51.71 ID:8ZCLhqrc.net
×不義のせいのため→不義のため にしてください・・・

814 :人間七七四年:2015/10/10(土) 09:55:13.65 ID:a9KQbZ1+.net
人質交換すらさせて貰えなかったただの目付さんカワイソス

815 :人間七七四年:2015/10/10(土) 11:00:52.60 ID:sJpBltH4.net
うーん確かに見方を変えると、8年以上も見捨てられていた悪い話しだよな

816 :人間七七四年:2015/10/10(土) 12:10:25.18 ID:q5GibUct.net
石川さんも家康の忠義に感じ入ったことだろう

817 :人間七七四年:2015/10/10(土) 16:52:10.63 ID:ScZR6GY0.net
アンサイクロペディアの三河武士のページに、
大河内さんの戦闘力9000とか書かれてたの思い出した

818 :人間七七四年:2015/10/10(土) 19:37:58.31 ID:BHa9ax9z.net
黒田家家臣の伊藤次郎兵衛と言う人は、若いころ新参の無足人であったが、根強く奉公を心がけ、
日夜油断なく勤めていたのを黒田如水に認められ、3年目に知行二百石が与えられた。
もとより人に越えた気根の強い若者であったので、知行を与えられたことを忝なく思い、
その後も前にもまして少しもたゆまず働いた。

ある時、この伊藤がお目見え仕った時、如水はこんなことを聞いた
「次郎兵衛、お前は気分でも悪いのではないか?」

「いや、そんな事は有りませんが…」
伊藤はすぐにそれを否定し、如水の御伽衆たちも

「彼は殊の外、無病と聞こえています。この御家に参ってはや25年となりましたが、一時も
心の重いということは有りませんでした。」

実は黒田如水は、家中の者達が、気分が悪い、喉が痛む、物が食われぬなど、病がましいことを言うのを
常に嫌っていたため、御伽衆の者達も、ことさらに無病であることを申し上げたのである。
しかし如水

「あいつは段々疲れが見えて見苦しくなっている。さては食米が不足して、ひだるさに疲れているのだろう。
よし、食米を取らせる!」

そう言うと自筆で手形を書き、

「これにて飯を炊かせ、食いたいほど食うが良い」

と、伊藤の方に投げた。罷り出て戴き、次の間でその手形を見ると、なんとそれが五十石加増の手形であった。
実は伊藤はこう思っていた。
『如水様が食米と言っている以上、せいぜい五俵から十俵程の手形であろう。しかし何ほどであっても、
いままで奉公に精を入れていた所を見ていて下さっていたのだ。』
そう嬉しく思っていたのだが、五十石の手形を見て、肝をつぶしたという事である。

(古郷物語)

819 :人間七七四年:2015/10/10(土) 23:18:15.57 ID:JIT+3Gex.net
社長表彰の副賞が寸志程度だと思ってたら、とんでもない額だったみたいなオチか

820 :人間七七四年:2015/10/11(日) 09:00:52.38 ID:QYWKA/Qj.net
一石で成人一人が一年間に食べる量だっけ?
どんだけ食わせる気だw

821 :人間七七四年:2015/10/11(日) 09:20:45.27 ID:mQLzoH1z.net
最近思うんだけど、人間、頑張っても他人の倍までが仕事できる限界だよね。
3人分は回んないわ。

822 :人間七七四年:2015/10/11(日) 13:03:43.17 ID:7oCeuLK0.net
池田恒興の家臣森寺政右衛門忠勝は昔、美濃の豪族高木何某を暗殺したことがあった。
ある時江戸へと使いに行く森寺を高木の息子達が仇を取ろうと待ち伏せしていた。それを噂で聞きつけた森寺、わざわざ待ち伏せ場所にまで見に行くとそこには800人程が待ち受けていた。しかし森寺は堂々とその間を通り抜けていくが、何故か誰もかかってこない。
何事もなく通り過ぎた後、従者を使いに送って
「そこにいるのは本当に高木の倅共か?お前らの親の仇がここにいるぞ?どうしてかかってこないのだ。さあ、来いよ」と伝えさせたが、結局誰もかかってこなかった。
「あーあ、仇を取る絶好の機会だったのに。もう仇はとれないぞwww?」と森寺は笑いながら去っていった。

その後、高木は場所を問わず親の仇を取ることを許されたが、森寺にも身を守らせた上、「仇とれなかったら森寺の勝ち」というルールが決められた。
そこで森寺、火縄に火のついた鉄砲五丁・矢を番えた弓10丁、鞘を外した槍5本を持った家来30人を常に引き連れるようになった。秀吉の前に出仕した時も同様であり、殿中での帯刀を許されていた。
伏見城の落成を祝って諸大名が集まる中、周りから「今日こそ危ないからやめておけ」と忠告を受けたが森寺は意に介しない。いつもは持っている刀も従者に預けて手ぶらのまま、広間にいた仇の連中の間を堂々と通り抜けていき、そのまま帰っていった。

その後、慶長4年に病死という最期を遂げたそうだ。

『常山紀談』

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8795.html
↑稲葉一徹の前で主君恒興への贈答品を粉砕した男のその後の話

823 :人間七七四年:2015/10/11(日) 23:07:28.70 ID:4uDhfPts.net
柳河の町やその近在では、旧暦の10月に亥の子餅といって亥の子の日にお餅をつきます。
このお餅を食べると、歳を一つとることになるのだそうです。
これはどこの国でもおんなじことですが、ただひとつ柳河には他と異なった行事が残っております。
これがお話しようという「えいぎょうえいさつ(愛嬌挨拶)」なのです。
亥の子の日には、柳河のどこの家でも、お店でも、入り口のお部屋や上がり口にお台やお膳をすえて、
その上に一升桝にお赤飯を山盛りにし、その山のてっぺんに白菊や黄菊を挿します。
そのそばの大きなお皿やお鉢には、大根と人参とのお膾が盛ってあります。そうして、
柳の枝をそぎっぱなしにした一尺五六寸ほどの大きな箸が、別々に2とおりそえてあります。
すると、表の方から、子ども達が二人とか三人とかてんでに手をつなぎあって、

「えいぎょう えいさつ、かかせめせ。 仲のよかごと かかせめせ。」

と、歌い歌い入って来るのです。そうしてどの家にでも上がって、そのお台の前に
すわると、とても大きな柳箸で、お赤飯をその山から欠いてすくうと、それを左の手にのせ、
その上にまた膾をはさんでのせ、それを食べてしまうと、手をふき、お行儀よくその家を出て行くのです。
一軒出るとまたお隣に入り、次から次に「えいぎょうえいさつ。仲のよかごと」と歌いお祝いして歩きます。
どこのお家へ入ってもかまいません。子どもたちのためにごちそうしてあるのですから、
柳河では、おひな祭りでも端午のお節句でも、まるで展覧会のように自由に見て歩けます。
知らないお家でもかまわず入れます。「えいぎょうえいさつ」も、子どもの頃どんなにうれしかったかわかりません。
ほんとうにみんな仲良くなるような気がしました。「えいぎょうえいさつ」とは愛嬌挨拶ということで
「仲のよかごと」とは、仲のよいようにという訳で、とにかく、仲のよいようにと挨拶して歩くのだと思います。
これは昔、立花左近将監さまが、関ヶ原の戦いの時、石田方へお味方なさったので、徳川家康公から
柳河のご領地13万石を取り上げられ、一時、肥後の加藤清正公のところへ食客をしておられたことがありました。
慶長8年のことですが、左近将監様は家臣たちと関東の方へお出かけになり、その途中亥の子のお節句に
おあいになりましたが、お茶碗もなければお箸もありません。
で、しかたがなく、有り合わせの枡に菊の花を添えたお赤飯を盛って、それを手の甲に受けて膾を乗せ、
柳の枝を箸にして皆で心ばかりのお祝いをなすったということが言い伝えになっております。
宗茂公は、それからまた柳河のお殿様として帰ってこられました。それで、あの時の記念に、
皆が仲のよいようにと、柳河のどの家でも、亥の子の日にはそうした「えいぎょうえいさつ」
をすることになったのでした。
(柳川の行事について北原白秋が書いた文)

824 :人間七七四年:2015/10/12(月) 00:36:23.33 ID:0k8U1Wba.net
白秋ブランドや!

質素な逸話だけど一方でうなぎの蒸籠蒸しとか何が発祥だったんだろ柳川

825 :人間七七四年:2015/10/12(月) 06:30:31.74 ID:DJIALBQX.net
>>821
フィジカルな仕事はそうだが、ソフトウェアの仕事は数十倍の差がつくこともままあると言う

826 :人間七七四年:2015/10/12(月) 20:43:51.75 ID:wJaxz/3Y.net
鳥井源八郎、先登の意味を語る

豊臣勢が北条方の山中城を攻めた際、木村常陸守(重玆)の配下鳥井源八郎が先駆けの末に城に一番に取り付き、名乗りをあげた。
(長谷川秀一の配下)磯野平三郎もこれに続いたが、鳥井に向かって
 「お前は首取り源八なんて大層な名前で呼ばれているが、田舎育ちのせいで武功の稼ぎ方が分かってないな。せっかく味方が怯んでついてこない中、名乗りをあげては我も我もと皆が続いて武功を一人占めできなくなるではないか!
  物の道理もわからんのか」と笑っていた。

 「平三郎殿は一廉の人物だと聞いていたがそうでもないようだ。他の者が後れをとっているのなら猶更声高に名乗りを挙げ、皆の心を奮い立たせるべきだ。
  人の役に立つことこそ武士の本懐で、一人高名を追い求めるのは小事というものだ」
と鳥井が答えると、磯野は返す言葉がなかったそうな。

827 :人間七七四年:2015/10/12(月) 20:45:27.12 ID:wJaxz/3Y.net
改行ミスorz

828 :人間七七四年:2015/10/13(火) 15:56:41.07 ID:B+gnmwUR.net
兼松正吉の見切り

織田秀信の岐阜城に諸将が攻め寄せた時、一柳監物直盛の兵が一人先駆けして川を渡って敵に切り込もうとした。直盛の目付兼松又四郎は堤防の上からこれを見て、
「剛の者だ。老武者か若武者のどっちかな」と直盛に聞き、直盛は「あれなるは安井新九郎という者で22か3の者です」と答えた。
「俺なら功名をあげられたけど、若武者なら無理だろうなぁ」と兼松が言い終わらないうちに、安井は対岸で待ち受けていた敵兵によって討ち取られてしまった。
直盛はこれを見て対岸まで駆け入ろうとしたが、兼松に制止された。兼松が今だと川に馬を乗り入れると直盛もこれに続いて敵へ向かっていった。
その後、敵が逃げ去るのを追撃しようとした味方を兼松が押しとどめた。
直盛が理由を尋ねると「敵はもう陣を整えており、追いかけても逆撃で味方が崩れるだけです。敵の百々や木造は歴戦の将ですので、踏みとどまっても地の利がないと判断し、今にも引いていくに違いありません」と言い、
銃弾が飛んでくる中を兼松は落ち着いて敵に向かい合っていたが、しばらくして織田軍は引揚げていった。

岐阜城を包囲した際、直盛が町口で床几に座って「敵が討って出てくればもう一戦だ」と言ったが、兼松は「敵はもう(東軍と戦を交えるという)一面目を果たしたので、もう討ってこないでしょう」といった。
結局戦は生じず、岐阜城は降伏した。

戦後、直盛が兼松を饗応し「今度の戦は悉く兼松殿の言われる通りでした。ところで安井が討ち死ぬとどうして思ったのですか?」と尋ねた。
兼松、「川を渡って先陣する場合、対岸まで二十、三十間手前で敵を横さまに後に続く味方へ大声で名乗りをあげるべきでしょう。
それもしないで敵中に切り込んでいくのは、無駄死をするだけです。『時や地の利によって進退の仕方も変わる』とはよく言ったものです」と返すと
一柳も「六十になってもまだ武功を挙げられるんですなぁ」と語ったそうな

歴戦の勇士ならではの話
『常山紀談』

829 :人間七七四年:2015/10/13(火) 16:53:38.28 ID:w488rpKL.net
ためになりますね

830 :人間七七四年:2015/10/13(火) 23:46:02.77 ID:559g4miP.net
兼松さんの逸話はどれも昔の侍って感じで渋カッコイイ

831 :人間七七四年:2015/10/14(水) 00:31:01.94 ID:NVJYBSZ/.net
 妙秀が子供を育てた時は、子が少しでも良い事があれば殊の外喜んで褒めた。
人の親が瞋恚(怒り)を起こして子を折檻するのを見ては、あさましい事だと申されていた。
幼い者に、心がやせ衰えないように、心が勇むように育てよと申していた。
まして継子を憎む母がいると聞けば、「継子の母が草葉の陰から憎んでいるだろう。自分の子よりも大切にして、奇特な者の名をとりなさい。」と言い、
継母が継子に憎せたままにしている夫がいると聞けば、その夫を腰抜け男のように思われていた。
また、自分の子がひどく悪い事をしたら、密かに蔵の内に連れていき、枢を落とし戸を閉めて、人に会わせないようにして、
「どうしておとなしくならないのか。近頃の不作法、いやしい事どもは、一つ一つよく知っています。」
と言って少しも怒らず、前に抱き寄せて、重ねて慎むようにとこっそり折檻して、機嫌よく申し聞かせたという。
子供の心にはまさか知られてはいないだろうという事々が一つ一つ皆知られていた。
機嫌が良かったとしても油断できないと驚き恐れて身を慎み、よその親が怒りわめくよりも殊の外恐れるものであった。

もう年を取った子供の昔話によれば、彼女は子供たちが七八になれば四書五経を読ませ、素読の時から講釈を聞かせて、歌道や礼儀も少し習わせて、そのまま家職に励ませたという。

また彼女の考えでは、嫉妬の深い女はその身に色を好むので夫の恥を顧みない。そのような女には必ず悪いことがあるだろう。男が死んだ後の作法が良かった者は見たことがない。
そのような女は、成人の子がいたとしても早く再婚させるべきとのことだ。

(本阿弥行状記)

日本有数の芸術家、本阿弥光悦の母、妙秀尼による子供の育て方である

832 :人間七七四年:2015/10/14(水) 01:18:22.02 ID:SHlYyTmz.net
怖がらせる教育では剛の者は出てこないと山本常朝も言ってるな。
怖がらせるが基本の現代体育会系は強い者に従順、下の者に酷い傾向があると思う。

833 :人間七七四年:2015/10/14(水) 07:10:55.12 ID:YuhAb5He.net
ええ話や

834 :人間七七四年:2015/10/14(水) 08:40:29.19 ID:bC+R0SwA.net
四書五経を子供のころから読まされるのか・・・
優しいだろうしすごい教育ママなんだけど俺ならやだねw

835 :人間七七四年:2015/10/14(水) 08:53:37.24 ID:qlPe/kVp.net
刀の鑑定したり、研いだりするのに四書五経は必要無いがな

836 :人間七七四年:2015/10/14(水) 09:40:59.89 ID:fpx43VA5.net
湯川秀樹が6歳くらいでに漢文の素読をやらされたって話を思い出した
素粒子学は刀剣鑑定よりも漢籍には縁遠いだろうな
なお兄弟は貝塚茂樹に中国文学者の小川環樹だったり

837 :人間七七四年:2015/10/14(水) 09:57:24.83 ID:bC+R0SwA.net
そもそも湯川秀樹の一族は中国史畑で、
逆に湯川さんが不思議なんだよ なんで理系なの?って

838 :人間七七四年:2015/10/15(木) 01:36:28.67 ID:58hpvlqi.net
光悦が若い時に、朝早く門外に出ると下小川に人が多く集まっていた。走り行って見れば太刀屋与三という者がからめ取られて、引き立てられて行った。
急いで立ち帰り母の妙秀にこの事を申すと、妙秀はしばらくものを言わなかったが、

「縛られた上に黒い胴服を羽織らせられ、家の中で編み笠をかぶらせて出て行ったか」
と言った。光悦は仰せの通りであったと申すと、妙秀は手を合わせて拝みながら、

「そなたはよい親を持ちました。こうなった子細を語らなければなりませんね。」
と次のような話をした。

「昔この家の隣に何の誰という者がいました。たいした咎も無かったのに、ただ今召捕られた与三が訴え出て、何年か前の今月の今日の朝召捕られて、ついに殺害されました。
そのときも、縛られた上に黒い胴服を羽織らせ、家の内で編み笠を被らせられて出て行った。隣のことなのでよく見ていて、月日もその有様もいささかも違いません。
これは何という事でしょう。凡夫の知恵の及ばないことです。報いが明らかになるのは目前です。
またよい親を持ったという事は他の事ではありません。与三が告げ口ゆえに成敗された者は、家を没収されて門が閉ざされていたのを、そなたの親の光二がお奉行の所に参り、
『私が家の隣の没収された屋敷をしばらく預からせてもらいたい』とのことを申したので、
『お上はいずれお聴きになるであろう。そなたは御用人であるし、とくにいつも名物の腰物を拝領しているのだから、別に土蔵を拵えておくとよかろう。』
と仰られた。
『かたじけない幸せです。』と申して、また明日御礼に参上したときに、よいついでと思って、
『御成敗された者のせがれを召し使いたい。』とのことも申したらすぐに許しが出ました。
『重ね重ねかたじけない』とのことを申して、退出してかの者のせがれを尋ねると、近江国堅田という所の百姓に使われていたので、早々に呼び寄せた。
さて町の年寄を呼び寄せて、『この没収された家は彼はいくらで求めていたのか』と尋ねると、鳥目四十貫であるとのことであった。
すぐに親が買い求めたようにその子に四十貫の銭を取らせて、下京皮の店という所で小屋を買わせて、皮屋を習わせました。
今も一類のところに出入りする皮屋某というものは彼の事である。
よく理解しなさい。咎のない者を成敗させた与三は、ほどなく浅ましい報いを受けました。
光二は拝領した屋敷の値段の分だけ子に与えたり、特に流浪していた子を尋ね出して一人前にした報いもまた無駄でありましょうか。」

まことに他のことよりもまずこのように大きな野山を拝領し、そのうえ妙秀の子孫百人に及ぶが、広い屋敷を持たない者はいない。
江戸でも会所屋敷等を拝領しているものは五人いる。家柄のよい人々でさえ容易にできないことなのに、京都に住みながら(鷹ヶ峰に)下屋敷さえも下されましたことはかたじけないことでございます。
孫やひ孫で出家したものは各本寺の主となり、数百所の末寺末山を領し、ほどなく退いては静かな山林を住み家とするものもいる。
女子は他家へ行ったといえど、皆大きな屋敷の主となる。
慣例のように善悪の報いが明らかになったことを板倉(勝重)殿へ話さなければならないと、鷹ヶ峰を早朝に出て、嫡子光瑳の所へ立ち寄って、孫達を集めて語ったそうだ。
(本阿弥行状記)

縛られた上に黒い胴服、編み笠は今でいうジャンパーやら毛布のことなんでしょうな

839 :人間七七四年:2015/10/15(木) 12:13:10.31 ID:4oDt4R3Q.net
>>837
石原良純「」

840 :人間七七四年:2015/10/15(木) 12:27:53.73 ID:/M12CGMJ.net
>>839
もう一人おるやん

841 :人間七七四年:2015/10/15(木) 13:10:26.41 ID:KmUXrQ6f.net
>>837
兄貴も理系だろ

842 :人間七七四年:2015/10/15(木) 14:08:42.86 ID:Lpm+lIzk.net
林半介の殿

林半介は美濃安八郡青柳村の百姓であったが、石田三成に仕えて禄700石の使番となった。
石田は挙兵する際、佐和山城中の書院で家臣達と宴を開いて、
 「今回の一大事、運は天命に任した。私にはお前たちの武勇だけが頼みだ。褒賞は武功によって思いのままぞ」
と約束の印として酒盃を座の中央に置いた。そこに末席にいた半介、進み出て
 「今回の戦、一番手柄はともかく二番手はこの半介とお思いあれ!」
とその盃を飲んでしまった。周りは生意気な奴だと思ったが、半介は杭瀬川で一番首を挙げた。

西軍が引揚げる最中、稲葉助之丞が金の切裂の指物を指して宇喜多勢の殿を、半介は白づくしの指物を指し石田勢の殿を務めた。
本多忠勝の軍勢に向かってただ一騎、我に敵う者なしと奮戦する半介の様を見て、
東照宮も「なんと豪胆な奴だろう。我こそ武功はと思う者はあの武者の草摺(下半身を守る武具)を貰っておくとよい」と仰せになられたそうな。

『常山紀談』
前半の宴会の件はどっかで似たような話を聞いたような気がする

843 :人間七七四年:2015/10/18(日) 09:44:45.31 ID:G0YrFzzC.net
本を忘れざるの士

原吉丸と酒井金三郎は共に東照宮の近習であった。伏見で東照宮が庭に出ようとすると、原は太刀をもって庭に降りたが、草履を履きそこねてしまい素足でいた。
これを見た酒井が自身の草履を原に履かせた。東照宮は噂でこのことを聞き、酒井に詳細を尋ねたところ、
 酒井は「原はもともと下総笛井の城主原一郎の子であり、私の先祖は原氏に仕えていたと聞いております。
     先祖が主筋ということでしたら、素足で炎天下の地面に立たせる訳にはいきませんので」
 と答えた。

これを聞いて東照宮は「己が出自をよくわかっておる。私の子孫もこうであってほしいなぁ」とかこぼしたそうな

『常山紀談』

844 :人間七七四年:2015/10/18(日) 11:57:56.49 ID:xdcKEcbn.net
吉丸はのちに洗礼を受けて殉教する胤信やね

てか原と酒井は主従関係ないんじゃ、というのは無粋か

845 :人間七七四年:2015/10/18(日) 21:27:54.17 ID:GgCQTRpr.net
さて、散歩してうまいラーメンでも食ってカフェで自己啓発の本でも読んでくるわ
ぐるぐる過去のことを考えてても進まないしな

846 :人間七七四年:2015/10/19(月) 10:59:46.75 ID:ggK5PwQc.net
依田信蕃の助命
天正10年3月、東照宮は江尻に出陣し、成瀬吉右衛門正一を使者として田中城の依田右衛門佐信蕃に「武田の旧臣は悉く寝返り武田の滅亡は間近である。早く開城するように」と開城を勧めたが、
依田は従わずに、「武田の重臣達の書状を見て真偽を判断したい。先年、二俣城で大久保忠世とは縁がありますので大久保に城を引き渡したいと思います」と申してきた。
東照宮も「尤もである」と言い、穴山梅雪に書状を送らせた。

 開城の後、「降参するならば信州の本領を与える」と東照宮は言ったが依田は「勝頼の命運がはっきりしないうちは承り難いことです」と言い、信州佐久郡葦田へと去っていった。
武田が既に滅びた後、織田信長は「勝頼に忠節を尽した者と雖も、武名ある者を諸将は召し抱えてはならない」と命じ、なおも隠れ潜む武田の旧臣を処刑しようとした。
東照宮はこのことを憐れに思い、依田を市川の陣に召し出し、主従六人を遠州飼東郡二俣の奥小川に匿った。その他にも東照宮の仁徳のおかげで助かったものは多かったそうな。

『常山紀談』

847 :人間七七四年:2015/10/19(月) 13:53:17.95 ID:imdy5iM4.net
大水の後に

大水の後に
一、流れて来た木材が上流の橋の材料と判明した場合は返しなさい
一、漂着した船や家材で持ち主がわかるものがあれば肝入(地主・名主)や役人に相談しなさい
一、仏像や御神体を見つけたら大切に扱いなさい

「最上家条々付」

(´・ω・`)川の氾濫や大水の後の拾得物の扱い方

848 :人間七七四年:2015/10/19(月) 23:32:21.94 ID:J9BGoALl.net
武田の武将は一騎当千だし、天下取りの為に
一人でも多く召し抱えておきたい

849 :人間七七四年:2015/10/20(火) 02:50:50.17 ID:XncRXoLw.net
一騎当千かw

850 :人間七七四年:2015/10/20(火) 12:26:05.07 ID:GQyXHJc6.net
赤井悪右衛門(直正)は初めは小身の士だったが、武略をもって次第に盛んになり、
後には丹波半国を領した。

但馬の比賀美に一将がいた。その者は2万石ほどで驍勇であり、しかも、要害の地を
前に向けて防いだので、赤井は攻めても利が無かった。

赤井は古の兵書を読んだところ、『地を攻めて人を攻めず』という語があった。
これによって心得た赤井は、その勇将を要害の地よりおびき出した。

そして一戦に大勝した赤井はその者の首を切り、その地を取った。

――『武将感状記』

851 :人間七七四年:2015/10/20(火) 12:30:17.25 ID:YdwXRHRU.net
八王子城落城始末

八王子城の城主北条氏照は小田原城にあり、家臣がその留守を預かっていた。
そこに前田・上杉が攻め寄せ、先に降伏した北条氏邦を使者にし「小田原城は既に落ちた。早く開城せよ」と言いつけたが、
「主の氏照が降伏したのであればその書状を以て開城に応じよう。だが主の命なくして降伏するのは、武士の恥だ。氏邦如き臆病者は一人も城内にはおらん!」
と家臣らは突っぱねた。利家や景勝はその義に感じ入ったが、鞘を納めるわけにもいかず、一万五千の兵で城を包囲した。
城将の狩野一庵・近藤出羽助実・金子三郎右衛門家重らは死兵となって討って出て、討死を遂げた。氏照の第一の重臣横地監物も、城に火の手が上がるのを見、今日を最期と散々に戦い、寄せ手側は多くの犠牲を払うこととなった。

同じく城将の中山勘解由家範は猛将として知られ、特に八条修理満朝の馬術を会得し、関東無双と称されたほどの人物であった。
大敵に怯むことなく、200人を引き連れ駆け込み、ここが死に際と切って回ったが、寄せ手も次々に新手を入れ替えて攻め寄せたので、供回りが15,6人にまで討ち減らされてしまった。
この奮戦を見た利家は「誰か中山の縁者はおるか」と問い、「松山城の降人根岸定直が妻は中山の妻と姉妹であり、小岩井雅樂助は中山の馬術の弟弟子であります」と返事を聞き、中山を味方に引き込むようにと両人を城中へと送ったが、既に中山とその妻は自害してしまっていた。
まだ息が残っていたため両人は中山と言葉を交わして帰っていき、その旨を報告すると利家は非常に惜しんだ。
なお横地監物は死地を切り抜け落ち延びていった

北条の城は多しと雖も豆州韮山の城以外は大半が降伏を選ぶ中、その城兵が城を枕に討死したことを東照宮も聞き、中山の嫡子助六郎昭守・次男佐介信吉に禄を与えた。
昭守の子信守は大阪の陣で功をたて、信吉は後に水戸家に仕えて備前守と称した。狩野一庵の子主膳も徳川家に仕えたそうな。

『常山紀談』
@すいません まとめの管理人様へ >>846なんですが
一行目の「武田の旧臣は悉く寝返り」を武田の重臣に直していただければ幸いであります
既出だったら&駄文はあなお恥ずかしや

852 :人間七七四年:2015/10/21(水) 21:07:05.80 ID:0j+Esrwt.net
金吾(小早川)秀秋は、小早川隆景の養子となって跡を継いだことを、内心おもしろからず思っていて、
国替えの望みがあったのだが、豊臣秀吉がこれを察し、秀秋に

「石高が減っても国替えを望むか?」

と聞いた。これに金吾殿「勿論です!」

「ならば備前。備前に国替えしようか。」

そう内意の沙汰があることを金吾は聞いて、筑前から侍を数多呼び寄せた。
そんな時、秀吉は発病し、国替えのことも中断してしまった。

金吾は『御前(秀吉)の方では決定しているのに、石田三成が謀って事が不調になっているのだ!』
そう考え、三成に強く恨みを抱いた。

そんな時、徳川家康が金吾に異見した
「あなたが呼び寄せた家中の武士たちを、少々国元に戻されるべきです。」
しかし金吾は聞かなかった
「私の国替えのために呼び寄せた侍たちを、何の面目があって戻せるでしょうか!?」
これに家康
「ならば、私が申し聞かせる。」

そして直々に金吾の家来たちと対面し
「今回、金吾殿が各々を呼び寄せたのは、粗忽であったからではない。これこれの仔細があっての事なのだ。
しかし現在、太閤殿下は御病気中であり、そんな時期に大勢が詰めかけているのは、金吾殿の為にも
いかがかと考える。であるので、何れも国元に戻る方向で、相談してはくれないだろうか?」
そう仰せ聞かせた。

この事で、金吾は外聞まで宜しくなったとして、以後家康に一層傾斜し、三成に対しては
猶もって恨み深かった。
関ヶ原にて家康の味方となった時も、家康からの書状に対し男道(武士道)の儀について、
近年申合わせた通り少しも違いなく、よってこの合戦に家康は勝利したのだという。

(武功雑記)

853 :人間七七四年:2015/10/21(水) 21:16:00.83 ID:zMeGdL5U.net
宇喜多が納得するとは思えないがな

854 :人間七七四年:2015/10/22(木) 00:46:04.47 ID:OjVdeQG2.net
本物のアホだったのか?

855 :人間七七四年:2015/10/22(木) 01:39:43.03 ID:KVTBlHJd.net
ある時、柳生宗矩は児小姓に刀を持たせ、庭の桜が盛りに開いているのを賞して余念なく見入っていた。

この時、児小姓の心中に「いかに天下の名人であられるといえども、今この刀で後ろから切るならば、
どうして戦いなさることができようか」と思う念が浮かんだ。すると、宗矩はきっと四方を見回して
座敷に帰り、甚だ不審な様子で床の柱にもたれ、物を言わずに一時ばかりを過ごした。

それを近習の面々は皆恐れ怪しみ、「あるいは狂気などであろうか」と呟いた。用人の某は進み出て、
「先刻より、ご様子がいったい何なのか常ならぬように見えます。どのようにか、思し召しのことでも
おありなのでしょうか?」と、言った。

これに宗矩は、「そうなのだよ。ここに不審の晴れないことがあるまま案じているのだ。私は長年の
修練の功により、敵対する者の思うところが、まっさきにこちらの心に通じるのだ。そして、先ほど
庭の桜を眺めているうちに、ふと殺害の気が通じた。側を見ても犬一匹いない。ただこの児小姓がいる
だけである。それ故に、いぶかしさに心も快からず、思案してこの様子なのだ」と、言った。

その時、児小姓は進み出て、「今となってはどうして隠すことができましょう。恐れ入ることですが、
先刻そのように妄念が浮かびました」と言った。宗矩は表情を和らげ、「これで不審は晴れたな」と言い、
立って内へ入り、児小姓に対して何の咎めなどもなかったという。

――『撃剣叢談』

856 :人間七七四年:2015/10/22(木) 16:11:23.65 ID:WhZxo45m.net
依田信蕃、二俣城を引払う

勝頼が長篠で敗れた時、依田(芦田)信蕃は二俣城を守っていた。東照宮の軍は3月より二俣城に攻め寄せ、東照宮は南方の山に本陣を置き、城の四方に付城を築いた。
依田も城を固く守ったため長期戦となること11月。この時、「城を渡し甲斐に引揚げよ」と勝頼から依田のもとに再三使者が来たが、依田は聞き入れなかった。
勝頼が自筆の書状を送るに至りようやく依田も開城を決意し、12月下旬に人質を出し、23日に城を明け渡すと約をなした。
しかし当の23日に雨が降ったため依田は「蓑笠をつけていてはみっともない」と天候の晴れた26日まで城の明渡しを引延し、開城後に二俣の川辺で人質を取換え、堂々と引揚げていった。

依田が小勢で城を久しく守り抜き、開城の作法が見事であったことに東照宮も感じ入り、後に依田を召抱えたそうな。

『常山紀談』
この後また権現様に田中城にて囲まれる依田さんであった。

857 :人間七七四年:2015/10/22(木) 21:18:38.10 ID:WDN4Jz30.net
>>855
その逸話パタリロにも出てたな

858 :人間七七四年:2015/10/22(木) 23:34:25.75 ID:fo5z/RBa.net
タバコで裏をかかれた水戸の殿様

徳川頼宣の江戸屋敷に水戸の殿様が時折遊びに来た。ところが水戸の殿様はタバコを出すたびに、
「何じゃ、このタバコは。もっと、よいタバコはないのか」とケチをつけるのである。
頼宣の家来は懸命にいいタバコを探して出すのだが、どんなタバコを出してもケチをつけられ、
ほとほと困ってしまった。
大番頭の加納五郎左衛門直恒は実直な男で、懸命に対策を考えた末一計を案じた。
水戸様が紀州屋敷にやってきたとき、五郎左衛門は水戸様のお供のところに行って、
御殿様がいつも吸っているタバコを所望されているので、そのタバコを出していただきたいと申し入れた。
さらにこのタバコは水戸様常用のタバコに間違いないという書付をとって奥に入り、水戸様に差し出した。
それとは知らず水戸様は、一服吸うと例の通り「なんじゃ、このタバコは・・・」とやりだした。
五郎左衛門は進み出て、「恐れながら申し上げます。この御タバコは御殿様がお持ちになったもので、
当方のものではございません」と言ったので、水戸様はぐっとつまって後が続かなかった。
その後は紀州屋敷に来てもなにも言わなくなったということである。(南紀徳川史)

この水戸様の名前は書かれていないが、頼宣と重なる水戸藩主は頼房か光圀である。
頼房は豪快で頼宣とは一つ違いの弟だから、遠慮なく大口をたたくことができたであろう。
光圀も豪快だが、伯父さん前でそんな大口はたたかないであろうから、この水戸様は頼房であろう。
(参考 たばこ史研究第五十一号)

859 :人間七七四年:2015/10/23(金) 08:48:01.77 ID:FBBKs4TO.net
>>858
CiNiiで調べたらそんな学術誌(?)ほんとにあんのなwww

860 :人間七七四年:2015/10/23(金) 15:17:31.31 ID:kfYqM7hX.net
戦国が続いていれば頼房も5人目のDQN四天王になれたかもしれない

861 :人間七七四年:2015/10/23(金) 18:36:27.44 ID:IzJkCDWN.net
桂川を下りいつものように意味も無く松尾大社に到着
今日は三脚あるから写真撮って行くかな

862 :人間七七四年:2015/10/23(金) 22:10:51.79 ID:QJpNafw9.net
東照宮って何?

863 :人間七七四年:2015/10/23(金) 23:02:08.01 ID:tN+7pdyB.net
東照大権現徳川家康公

864 :人間七七四年:2015/10/24(土) 00:49:07.09 ID:C5GFnPbf.net
死後の呼び方としても大権現じゃないの?生前は家康と書かないと他との整合性がないのでは?
秀吉のことを大明神としても家康は大権現でしょ。

865 :人間七七四年:2015/10/24(土) 00:58:47.05 ID:7cjmG7el.net
>>864
こんなこと言ってる奴ほんとにいるのか…

866 :人間七七四年:2015/10/24(土) 01:26:28.80 ID:C5GFnPbf.net
自分の意見はないの?

867 :人間七七四年:2015/10/24(土) 01:29:48.09 ID:Ad3uhyIL.net
文句は湯浅常山に言え

868 :人間七七四年:2015/10/24(土) 01:33:34.76 ID:C5GFnPbf.net
どうやって?

869 :人間七七四年:2015/10/24(土) 01:36:48.54 ID:Ad3uhyIL.net
あの世へ行きゃ会えっだろ(鼻ほじ

870 :人間七七四年:2015/10/24(土) 02:09:55.27 ID:Zkw6d5SF.net
逸話スレでそんな細かいこと気にすんなよ

871 :人間七七四年:2015/10/24(土) 02:41:58.90 ID:vMDymCBv.net
>>869
景勝の本体キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

872 :人間七七四年:2015/10/24(土) 05:29:46.21 ID:2IWTcBnf.net
「自分の意見」=「他人にケチをつける」では無い筈なのだが
ヘンな事書いて噛みつくのってどうなんだろう

873 :人間七七四年:2015/10/24(土) 07:47:38.88 ID:Uz9KUZGp.net
とりあえずチラシの裏に書いとけばぁ?
誤字脱字の多いバカには必要なことだろ

874 :人間七七四年:2015/10/24(土) 09:27:31.48 ID:Zoif2bVd.net
チラシの裏って書けばウケるとでも思ってんのか

875 :人間七七四年:2015/10/24(土) 11:03:27.52 ID:yKHnJEhe.net
中院通村公(鍋島光茂の後室、栄正院の祖父)が、後水尾天皇の御代、
勅使として江戸に下向なさったとき、
江戸城の下馬先を馬を下りずに通るとおおせになった。
御番衆が、
「先例ですからお下りくださるよう願います」

と申し上げると、通村公は、

「先例を知らぬ者を例にして、馬を下りる必要があろうか。
 勅使は下乗しないものである。」

と返答された。
けれども、どうにも御番衆が納得しないので、

「それならば勅諚は差し上げられぬ」

と、登城せず、そのままお帰りになった。
これが原因で、三年間蟄居なさった。
通村公の子の通純公は若死になされた。
通純公の子が従一位内大臣の通茂公である。(1/2)

876 :人間七七四年:2015/10/24(土) 11:22:35.98 ID:yKHnJEhe.net
仙洞様は御在位中、松木殿の姫君を御寵愛され、
この姫君からお生まれになった五宮様(のちの東山天皇)を、
天皇のお位のつけようとお思いになられた。
一宮様は日蝕の日にお生まれになられたということで、
公卿たちが、皇位におつきになられるのはいかがなことかと評議し、
いずれの公卿たちもその評議に同意したが、
ただひとり通茂公は同意せず、

「迷信で物事を判断しては、天下に正しい通が廃れるでしょう」

と申し上げた。
一宮様の母方の叔父である小倉殿は、
日蝕の日に生まれた帝王、聖人の例を、和国中国の歴史から探して、
それを評議の場にて申し上げられた。
けれども、五宮様が皇位におつきなられることとなった。
通茂公はこれが原因で、七年間蟄居なさった。
小倉殿は遠島をおおせつけられたが、
こんな無道な世に生きながらえても仕方ないと絶食をして、
二十一日目に亡くなられた。
御子にはお許しが出て、帰参を命じられた。
そのとき遠島先の流人たちの中にはなむけの歌を贈る者があった。

見隠れし芦間の光あらはれて
雲の上まで飛ぶ蛍かな

【葉隠】

全体的には見識ある公卿の不遇な話だけど、
最後と、流人の心遣いと歌が素晴らしくいい話

877 :人間七七四年:2015/10/24(土) 11:23:59.48 ID:yKHnJEhe.net
訂正
>「迷信で物事を判断しては、天下に正しい通が廃れるでしょう」

通→道

878 :人間七七四年:2015/10/24(土) 12:25:13.11 ID:yKHnJEhe.net
訂正二度もすみません。。。

お位の→お位に

879 :人間七七四年:2015/10/25(日) 09:48:04.95 ID:zKKwfPGF.net
管理人は訂正で金とっていいレベル

880 :人間七七四年:2015/10/25(日) 10:54:55.47 ID:qwNM48pz.net
趙翼の廿二史册記に前漢の皇帝が日蝕とか出る度に「朕の不徳だ」って己を罪する詔を出して
正道を心がけるって話があるの思い出したけど
陰陽的には日蝕があったのは在位中の仙洞様のせいになるんだよなぁ
このお方の経歴を見れば成程、御徳がとぼ・・・なんでもない

881 :人間七七四年:2015/10/25(日) 11:51:31.22 ID:EwgNx/X9.net
日本語が読めない奴がいると思ったら支那人だったか

882 :人間七七四年:2015/10/25(日) 12:04:40.73 ID:qwNM48pz.net
そうだね 荻生徂徠は品川こそ中華って言ってるから
俺も支那人になっちゃうな

883 :人間七七四年:2015/10/25(日) 12:49:21.59 ID:bogG+Thg.net
それなら荻生徂徠ではなく物徂徠、と中華式に呼んであげるべき

884 :人間七七四年:2015/10/25(日) 14:06:19.03 ID:qwNM48pz.net
物部氏だもんな

元親記 「長宗我部氏は始皇帝の末」
高橋記 「高橋氏は漢の高祖の末」
源氏平氏とかじゃなくてなんでそっちまで行くんだよって感じで
江戸時代(?)の人間の考えはほんと分からん

885 :人間七七四年:2015/10/25(日) 14:14:20.37 ID:EwgNx/X9.net
>>882
スレチだから支那人は去ろうや。

886 :人間七七四年:2015/10/25(日) 14:38:20.68 ID:kyv3VqXY.net
明智光秀の家臣に、林亀之助という者があった。

山崎の合戦で明智軍が敗北した時、逃走する者達のうち、本来主君である光秀の前を通るときは
下馬しなければいけないのに、下馬したのはこの林亀之助とあと一人の、二人だけであったという。
「落ち目になれば人の志も変わるものだ。」この時亀之助はそう語ったという。

亀之助は逃走の中深手を負い、退きかねる状態になったが、それを彼の若党二人が助け、
近江八幡まで退いた。そこには亀之助とかねてより親しい出家がいたのだ。

若党二人はこの出家の元に行き、「亀之助は負傷しました。かねてより近しい間柄につき、
どうか助けて下さい。」そう頼み込んだ。ところがこの法師

「明智は天下の逆臣である!これに与する家人たちを誰が助けるものか!
いざ出会え、この者を討ち取れ!!」

そう罵ると若党たちはこの言葉におそれその場から逃げ去ってしまった。亀之助は
深手のため、逃げることも出来ずその場に留まっていると、この法師が近づき、亀之助の
手を引いて立たせ

「よくぞおいでなされました。私が看病し、必ず助けますので、どうかご安心して下さい。
ただ今罵りましたのは、下人を二人も連れていては、隠せることも人数のために難しくなるからです。
いま若党たちを追い出さなければ、後で災いになると考え、あのように追い散らしました。」

そして亀之助を抱えて眠蔵(寝室)に入れて養生し、それを隠し通した。
「この法師は、奇特なる志であった。」後に亀之助は感じ入った様子でそう語った。

林亀之助は後に福島正則に仕え、その後松平下総守(忠明)に二千石で仕えた。
用に立つ人物だったためである。

(武功雑記)

887 :人間七七四年:2015/10/25(日) 15:22:07.30 ID:+4tTQkQh.net
まあ非常時には馬から降りていないでとっとと逃げた方がいいと思う

888 :人間七七四年:2015/10/25(日) 16:43:02.02 ID:jaBqglJz.net
並走すれば問題なかったのでは?

889 :人間七七四年:2015/10/25(日) 16:45:45.59 ID:Mf6eo+pI.net
「お前たちは人間じゃない」(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7244.html)の

成田十左衛門が、細やかではあるが一矢報いたいい話。



成田道徳に謀反の計画があるということで、豊臣秀吉は蒲生氏郷に命じて町野左近を
討手として道徳を攻めさせた。そして道徳の首を刎ね、京の一条戻り橋(勢多橋という説もある。)にて梟した。

その後、たまたま梟し場を通りかかった秀吉が台上の道徳の首級を見て「何者の首か、不浄なり」と糾問すると、
道徳の首級はカッと目を見開き今にも飛びかからんばかりに秀吉をにらみつけた。秀吉は一瞬たじろぐも、
家臣の「成田弥左衛門尉道徳の首級にござりまする」の声に気を取り直し、「成田弥左、勇者なり。
豪の者なり」と、静かに呼びかけた。
すると、道徳の首級は静かに目を閉じ、円満な仏顔に変貌したという。

890 :人間七七四年:2015/10/25(日) 19:42:06.12 ID:jaBqglJz.net
暑さで目やにが緩んだのかな

891 :人間七七四年:2015/10/26(月) 02:11:33.31 ID:v7c2s4a3.net
宮本武蔵は二刀を好んだ。細川忠利に仕え、京都から豊前の小倉へ赴く時のこと。
巌流という剣術者が、下関で待って武蔵に試合をしようと言い遣わしてきた。

武蔵は「心得た」と言って、棹郎に櫂を請い、それを2つに割って手元を削り、
長いものを2尺5寸、短いものを1尺8寸にして、舟から上がって巌流と闘った。

巌流の刀は3尺余りであった。下関の者たちは、残らず囲んでこれを見物した。
武蔵が二刀を組んで巌流にかかると、巌流は拝み打ちに斬りかかったが、
武蔵はこれを受け外して巌流の頭を打とうとした。

しかし、巌流は身を振ったので左肩に当たった。巌流はその勢いのまま踏み込んで
横に払った。武蔵は足を縮めて飛び上がり、彼の皮袴の裾が3寸ほど切れて落ちた。
武蔵は全力を出して巌流を打ち、彼の頭は微塵に砕けて即座に死んだ。

巌流は墓が築かれて、今もその跡がある。

――『武将感状記』

武将感状記が伝える巌流島の決闘という話。

892 :人間七七四年:2015/10/27(火) 20:50:43.24 ID:DVPqIe60.net
会津征伐の途上にて石田三成の挙兵を知った徳川家康は、小山にて諸将と軍評定を行い、
その後息子である結城秀康を呼んだ。

秀康が家康の陣所に参ると、本多正信が迎え出て
「少将様(秀康)、天下の安否は今日に決します。よく心してお答えなさいますよう。」
そう申し上げると跡に従って家康の御前へと出た。

家康は東西の軍事状況を秀康に説明し、
「秀康、お前が私のためにここに留まって関東を鎮めるならば、私は上方に向かって戦おうと思う。
これをどう考えるか?」

秀康はみるみる機嫌を悪くし
「この秀康、どうして御後に残りましょうか!?ただどこまでも、先陣をのみ望んでいます!」

しかし家康
「上方の軍勢は、みな国々からの集まりに過ぎず、それが何十万騎何ほどのことがあろうか?
しかし上杉家は累代関東の大将であり、中でも故輝虎入道(謙信)の時に至って、弓矢を取って
天下に肩を並べるものは少なかった。その子として景勝は、幼少の頃より合戦の中で成長し、
歳も既に老け、現在彼に対してたやすく合戦の出来るものは多くない。
天晴、お主のためには良き敵ではないか。

海道に向かって打ち込みの戦をするより、お主一人ここに留まって合戦をすることは、
且つは弓矢取っての面目、且つはこれに過ぎたることはない、何よりもの孝行である。」

そう語ると、秀康は少しの無言の後
「…合戦は、必ずしも軍勢の多少には寄らぬと承っています。上方の大将にも、名を得たもの
少なく有りません。軍勢の規模もきっと多いでしょう。

秀康は未だ合戦に慣れていませんが、景勝一人の軍勢と戦うのに、何ほどのことがありましょうか?
もし大将をお許しになるのなら、私はここに留まります!」

本多正信はこれを聞くや感極まった
「よくぞ仰せに成りました!関東を鎮められるというのなら、その大将に参らせられること、
仰せにも及びません!」

家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し、自ら鎧一領を取り出して
「この鎧は私が若い頃より身につけ、ついに一度の不覚も覚えなかったものだ。
この、父の嘉例に准じて、今回奥方の大将として良き戦をし、天下に名をあげるのだ!」
そう言ってこれを与えた。秀康も心地よさげに御前を下がり、下野国宇都宮に陣を取り、
関ヶ原の役の間、関東を鎮めた。

上方で西軍が敗れた後、景勝も降参を乞うて伏見へと参った。
秀康にはこの勲賞として越前国が与えられ、明けて慶長6年5月、福井城へと移った。
(藩翰譜)

893 :人間七七四年:2015/10/27(火) 21:24:59.96 ID:3XFxN570.net
>家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し

利用する為には、子供に対してもこんな小芝居しなきゃならんのか

894 :人間七七四年:2015/10/27(火) 23:14:33.66 ID:74kpQ63m.net
秀吉もそうだがこういう時にちゃんと泣けるのが天下人なんだろうよ

895 :人間七七四年:2015/10/28(水) 07:39:19.25 ID:jibHBUEb.net
演義の劉備は泣いて皇帝になった、と言われるが
実際役立つんだな

896 :人間七七四年:2015/10/28(水) 14:29:24.21 ID:2fQS1N47.net
大雨で川が気になった義光は

慶長の頃、長雨と台風で山形城北三の丸を流れる城川(白川・馬見ヶ崎川)の水が増水し、堤防の水位が上がった事を聞いた最上義光は落ち着きがなくなり川の様子を見に行こうとした

家臣らが「川は危険です。報告は私共が行いますので殿(義光)は全体の指示をお願いします」と奏上すると
義光は「そなたらの報告はたしかに承っておる。しかし川は城のすぐ先。故事に一見は百聞よりも勝る(百聞は一見にしかず)と言う
川付近の民らにきちんと避難勧告は届いてているのか?川もたしかに気になるが民あっての義光である
氏江(氏家守棟か氏家光氏か)、ここは任せる。ワシは川を見に行く」
と馬に乗って城を出て行ってしまった

「山形の昔話」

川の増水を見、堤防の決壊を察した義光は矢継ぎ早に家来や肝入(庄屋・名主)に僧や民らを川上の山方に避難させた
川は氾濫し、この洪水で北山形の龍門寺周辺までが大水に漬かったが、義光の行為で人的被害は軽減されたと伝わる

897 :人間七七四年:2015/10/28(水) 15:10:13.02 ID:6Gytu2pF.net
死亡フラグ回避したいい話か

898 :人間七七四年:2015/10/28(水) 15:36:08.29 ID:c89pYJqB.net
アイツもう死んでるんですけど

899 :人間七七四年:2015/10/28(水) 16:46:34.82 ID:2fQS1N47.net
死亡フラグ ファイナル・デッドコースター

900 :人間七七四年:2015/10/28(水) 21:10:56.29 ID:5VwRtjUE.net
赤座「自分もちょっと増水した川の様子を見てくる」

901 :人間七七四年:2015/10/29(木) 10:32:44.80 ID:SKtWbEoR.net
越中大門川だったら\アッカリーン/してた

902 :人間七七四年:2015/10/29(木) 12:30:10.80 ID:C1u/8KrS.net
実際越中大門川の増水を見に行って溺死では

903 :人間七七四年:2015/10/29(木) 16:07:35.64 ID:ZBewfPso.net
青鞍の淵

庄内潅漑用水堰の完成を目前にして、北館利長は更なる困難に悩まされた

清川と最上川の境の大淵辺りに差し掛かると、迫り来る崖と急斜面に掘った堰道は土砂崩れで頻繁に埋まり、その先の大淵は急流のために杭や土のうは流され、工事の進捗は完全に停滞してしまった

利長は「これは土地と川の神が身を弄(いじ)られる工事を喜ばないからだ。なんとか神の怒りを慰めよう」と
狩川城の兵装を揃えた功を主君に褒められ義光から褒美に頂いた家宝の螺鈿の馬の鞍を、最上川の大淵の渦巻く流れに投げ入れた
するとにたちまちに流れが静まった

利長は「土地の神は気を鎮めたり」と人足に作業を進めさせ、最後の難所工事を切り抜け
「庄内末代までの至宝」と呼ばれる大潅漑用水堰の本水道が完成した

「庄内の昔話」

904 :人間七七四年:2015/10/29(木) 23:42:07.22 ID:uMnG671W.net
ちょっと馬の鞍探してくる

905 :人間七七四年:2015/10/30(金) 10:04:07.00 ID:qkg9A2GI.net
山形新聞 前田慶次の屋敷、根拠強まる 米沢「無苦庵跡」発掘調査
http://yamagata-np.jp/news/201510/29/kj_2015102900639.php
戦国武将・前田慶次の屋敷とされる米沢市の「無苦庵(むくあん)跡」で行われている発掘調査で28日、
十数個の柱穴群が見つかった。工法や柱の配置などから江戸初期の遺構とみられ、市教育委員会の担当者は同日、
言い伝え通り、この時代に米沢で過ごした慶次の屋敷跡の可能性が高まったとした。調査を実施している地元の
米澤前田慶次の会は11月2日に一般向けの現地説明会を開く予定。

906 :人間七七四年:2015/10/30(金) 10:14:58.16 ID:JztDFGeo.net
なんで、まえだけいじろう
ではなくて
まえだけいじ?

907 :人間七七四年:2015/10/30(金) 11:08:07.60 ID:4bAdiSNh.net
慶次と自署しとるし

908 :人間七七四年:2015/10/30(金) 12:06:31.34 ID:YuLsEzu/.net
だがそれがいい

909 :人間七七四年:2015/10/30(金) 12:12:45.02 ID:PrLEDdRr.net
諱では呼ばれん将がまた一人

910 :人間七七四年:2015/10/30(金) 12:26:33.29 ID:hiRVjSR9.net
一夢庵ひょっとこ斎じゃ誰かわからんどころか、記事が読まれないしな

911 :人間七七四年:2015/10/30(金) 13:42:01.05 ID:1BWeYmyq.net
まえだけ いじろうと します

912 :人間七七四年:2015/10/30(金) 15:40:17.25 ID:LAhNbLGM.net
はなのけいじ

はなのけ いじろうと します
だったら

913 :人間七七四年:2015/10/30(金) 18:42:22.12 ID:vbXti872.net
武士の一分

元和の最上騒動で最上家信(最上義俊)が山形57万石を改易されると、所領1万石以上の大身の重臣は最上領から追放となり、他家預かりや国外追放となったが、狩川城主北館利長だけは「最上の御家騒動に責無し」「庄内治水の功労を認める」と幕命により出羽に住む事を許された

北館利長の所領は当初狩川3000石であったが、庄内潅漑治水の功績により最上義光の遺命で「治水により増えた新田はすべて利長の知行とする」と加増を安堵され、狩川領は3万石近い清算高までになっていた

家信の改易後最上領は複数の家の領土に分けられ、庄内には徳川譜代の酒井氏が14万石で入った

そして狩川領を収公された利長に、新領主の酒井氏から仕官の話がなされた

利長「知行150石の足軽大将並ですか」

利長はこの仕官の口に子(甥とも)の助次郎を酒井氏へ勧め、使者のいなくなった後に助次郎へと話した

利長「いいか、私は亡き大殿(最上義光)から過分の大恩を頂き、家親公・家信公からも身代を許され最上家のために忠勤を励んできた
しかし酒井家にとって私は外様の厄介者に過ぎないらしい
おまえ(助次郎)はまだ若い。150石の知行だが酒井家に仕えよ
それといいか、北館の『館』の字を『楯(城の意味)』に変え、『最上にキタダテあり』の誇りを常に忘れずに、世に気概を示せ」

利長は墨染めの麻袈裟に椀と杖と義光から頂いた愛用の綿帽子だけを持つと
たく鉢坊主となり世を捨て旅に出た

「庄内の昔話」「山形の昔話」ほか

914 :人間七七四年:2015/10/30(金) 19:19:52.08 ID:8M85hgHa.net
よく見かける〜の昔話って投稿者の創作?

915 :人間七七四年:2015/10/30(金) 22:13:24.08 ID:4bAdiSNh.net
各々の土地で語り継がれてきた物語があるでしょ

916 :人間七七四年:2015/10/30(金) 22:42:25.07 ID:A3dLT56K.net
最上への憎しみは異常

917 :人間七七四年:2015/10/30(金) 22:47:00.03 ID:Y3Y8Y5dT.net
>>912
前田利常「呼んだ?」

918 :人間七七四年:2015/10/30(金) 22:51:15.76 ID:vbXti872.net
>>914
検索くらいかけたら?
元の本は和本や昭和50〜60年頃に小学生向けに学校で業者が販売していた郷土の歴史や偉人の本(「やまがたのむかし話」「出羽の昔話」ほか)に公民館や老人会で地元に古くから住んでいる年配者が話しているのをまとめたものだよ。

「青鞍淵」「北館大学が子孫に祝い事を自粛させた訓話」「北山形洪水で最上義光が避難を陣頭指揮した話」は細部が異なれ地域史に詳しい人なら知っている

細部が異なるのは
「青鞍淵」
→鞍が銀製、鞍が珊瑚で装飾、鞍だけでなく青い馬も
「16人の犠牲者」
→工事に怒ったのは地の神、龍神、水神など

919 :人間七七四年:2015/10/30(金) 23:23:39.37 ID:LAhNbLGM.net
>>917
あんたは、はなのけいじろうとしません

920 :人間七七四年:2015/10/31(土) 01:53:21.73 ID:5Woe+ME6.net
前田筑前守(利常か)へ阿和隼人という者が罷り出て、謁見した折のこと。

隼人は畳廊下を長袴で通ったちょうどその時に、どうしたことかつまづいて転んだ。
すると筑前守の近習の士は一同に笑った。その時、筑前守は以ての外に顔色を変えて、

「隼人に限らず老人はこのような誤ちがままあるのだ。少しも笑うべきことではない。
後日の戒めとして、笑った者どもは鬮取り(くじとり)で1人切腹せよ!」

と仰せ渡した。しかし、隼人がその事を聞き筑前守の前へ進み出て、様々に詫び言を
したので、筑前守はようやく聞き届けて、近士の切腹を許したということである。

隼人は初めは善右衛門といって関白秀吉に仕え、後には堀尾家にいたそうである。

――『明良洪範』

921 :人間七七四年:2015/10/31(土) 03:58:13.82 ID:g8Mx1uZe.net
もし阿部さんが止めなかったら鼻毛様はどうしたんだろう

922 :人間七七四年:2015/10/31(土) 04:47:37.94 ID:NodawvfQ.net
>>921
阿部さん「やめないか!」
前田の殿様「うほ!」

923 :人間七七四年:2015/10/31(土) 20:04:57.97 ID:4yIZAUwm.net
寛永16年、島原の乱で幕府軍が一揆を攻めあぐねる中、幕府より松平伊豆守信綱が派遣された。
将軍徳川家光は、信綱を派遣するに当たりこう仰せ下した

「(水野)日向守勝成は名にし負う古兵である。彼ら父子が参陣するまでは、ただ遠巻きにせよ。
合戦をして兵を討たせてはならない。」

信綱は現地に到着すると、軍を留めて勝成の到着を待った。勝成はわざと日数をかけ、2月22日に
到着した。

同24日、幕府軍の諸将は信綱の陣に集まり軍評定を開いた。ここで戸田氏鉄進み出て、
「我らは将軍家から、相構えて兵を討たすな、謀を巡らせて城を攻め落とせとの仰せを承った。
である以上、このまま遠攻めにして城中の兵糧の尽きるのを待つべきだと考えます。」
これを聞いて信綱は勝成の方に向き、尋ねた「日向守殿のお考えを承りたい」

勝成
「今は天下一統の世となって、一揆の奴原に力を合わせようという者は一人もいない。
何の恐れることがあるだろうか?ただ面をも出させず、干し殺してやるに若くべからず。
大御所も昔高天神の城を、そのように攻められたものだ。
殊にこの原城は古よりの名高き城であると、この勝成が若いころ、鎮西に流浪した時に承っている。
あたら武士の命を、土民百姓たちのために失うというのは謀ではない!」

戸田氏鉄我が意を得たりとばかりに
「尤もです!敵の兵糧が尽きるのを待つべきです!」

ところが勝成、これを聞くやいなや
「ちょっと待ってくれ戸田殿、私が言っているのは、今日まで遠攻めして味方を討たせないようにしたのが
良い謀だ、ということだ。」

「は?」

「城の奴原は一揆が勃興してから、100日も立て籠もっている。ならば今はもう兵糧も矢弾も尽き果てて
いるだろう。であれば、この後一体何を待つというのか?

我らはただ平攻めに攻め破って、奴らを捨ててしまえ!」

こうして幕府軍は総攻めを行うことに決定したのである。

(藩翰譜)

924 :人間七七四年:2015/11/02(月) 12:17:34.38 ID:c9uumMhm.net
この週末に丑年と未年だけに開催される下総三山の7年祭りが催されたので、その起源といわれる話をひとつ

下総は馬加(まくわり)という処に馬加康胤という将がいた。
康胤は千葉一族の重鎮にして、上杉禅秀の乱の頃より宗家と共に関東の争乱を戦い抜いてきた古強者である。
しかしながらそんな康胤にもひとつの悩みがあった。
それは彼の妻のことである。

じつは康胤の妻が身ごもってすでに11ヶ月を過ぎていたが、いっこうに出産する気配がなかったのだ。
これにほとほと困り果てた康胤は、領内にある二宮・子安・子守・三代王の4つの神社に安産祈願の祭礼を依頼した。

さて祭神のご利益によるものか、ほどなくして妻は珠のような男児を出産し康胤は大いに喜んだという。
そして「祝いの祭りをする」と領内に触れを出し、安産御礼の大祭を執り行って家臣や領民と共に嫡子の誕生を神に謝したのだとか。
時に文安2年のことだという。

地元の情報誌やwikiなどから
他にも、普通に安産を祈願したら三代王の祭神が康胤の夢に現れたからというお話もあるようです
ちなみに秋口に二宮神社(船橋市三山)で小祭が、今ぐらいの時期に二宮神社とゆかりのある8つの神社が神輿を二宮神社に参進する大祭が催されます
それぞれの神社には父母や子守・産婆などの役割があるそうです

925 :人間七七四年:2015/11/02(月) 12:24:06.53 ID:c9uumMhm.net
関東が本格的な争乱状態に陥る少し前のお話で、この男児は名を胤持といいます
そして後年の享徳の乱において父康胤に先駆けて幕軍に討たれることになる若武者です
ただ、享年23といわれているのでお話の誕生年だと勘定があわないんですよね
てか、過去帳に記載すらないそうなんですがw
いずれかの記録が間違っているのか、あるいはこの年に産まれたのは女子のほうだったのか、はたまた元服にあわせて祭礼を行ったのか
ちなみにこのときの康胤の年齢は60から70ではないかと推定されます

926 :人間七七四年:2015/11/02(月) 18:53:30.73 ID:rCRkRMqS.net
天正十八年三月二十日、小田原征伐のため東下した豊臣秀吉は、徳川家康の居城である駿府城へと入った。
この時、家康は長久保の陣より参って対面した。
秀吉の家来が数多並ぶ中、本多作左衛門重次が家康の後ろから現れ、立ちはだかって
大声で怒鳴った

「やあ殿よ殿、あっぱれ不思議をなされることよ!
国をも保とうとする人が、我が城を明け渡してしかも人に貸すことがあるか!?
そのような気では、人に貸せと言われれば、北の方をもお貸しなさることでしょう!」

そう罵って帰っていった。
家康は唖然とする人々のほうを向いて

「今の老人の言うことをお聞きに成られたでしょうが、あの老人は本多作左衛門重次といって、
この家康の累代の家人であり、私が幼い頃より仕えている者です。

彼は若い頃から弓矢打物を取っては人にも知られた者ですが、今では、ご覧になったように
歳もいたく寄りまして、私も不憫に思っているのですが、天性わがままな根性の持ち主にて、
他人を虫けらとも思わず、多くの人々が聞く所でも、あのように私を、事がましく言い立てるのです。
ましてや私が彼とただ二人でうち向かった時、どんなことを言われているか!どうか想像して下さい。

普段ならそれでも構わないのですが、どうしたわけか今日もあのような奇怪な振る舞いを
してしまうとは。これを人々がどのように思われるか、大変恥ずかしい事です。」

これに、その場の人々は
「本多作左衛門の事、久しく聞き及んではいたが、実際に見たのは今が初めてだ。誠に聞きしに勝るものかな。
あのような家臣がいるというのは、実に奥ゆかしいことだ。」
そのように感じ入ったという。

(藩翰譜)

927 :人間七七四年:2015/11/03(火) 08:46:08.44 ID:glgRbPNv.net
>>926
ちょっと悪い話じゃないのこれ
家康が恥かいちゃったんだろ

928 :人間七七四年:2015/11/03(火) 09:03:10.43 ID:zW7lJDMw.net
>>927
どう考えてもいい話だろ

929 :人間七七四年:2015/11/03(火) 09:44:46.42 ID:+0I1cAWu.net
調子こいてる太閤に主の代わりにガツンと言ってやったぜ
と捉えるか
天下一統の志を棄てて従順に振る舞う主に対する強烈な嫌味
と捉えるか

930 :人間七七四年:2015/11/03(火) 09:46:58.28 ID:tLSsGUMD.net
奥ゆかしいって悪い意味なのかい?

931 :人間七七四年:2015/11/03(火) 09:52:00.43 ID:IPdjQDCL.net
そもそも北の方、て作左が焼き殺そうとした秀吉の妹の朝日姫じゃん
て思ったら二ヶ月前に死んでた

932 :人間七七四年:2015/11/03(火) 21:05:31.92 ID:nVddd3NE.net
関ヶ原について記した一書に曰く、福島正則が小山会議で最初に「御見方せん!」と申したのは、
黒田長政の勧めに依ったのだという。

その内容は、上方に軍が起こった事、小山の御陣に注進があった。この時黒田や福島の先陣は
宇都宮にあった。まず家康は、黒田長政を召した。長政は家康からの使いの旨を察して、
小山に行かず、福島正則の陣に行って「上方に与するのか、または関東に従うのか?」と
問うた。正則は母と妻が大阪に人質としており、その心、定まっていなかった。
ここで長政は

「秀頼公は未だ幼い。それがどうして、内府殿を滅ぼすべしと命ぜられるでしょうか?
これが石田たちの計略であること、明らかです。
またあなたの子である形部少輔は小山の陣におられる。これを捨てて上方に参るのか?
母を捨てるのも子を捨てるのも、人時事を捨てるのは一緒である。

また、今の勢いを見るに、内府殿の勢いは弱い、上方の勢いは強い。

であれば、正しきを捨てて邪に従い、強きに付いて弱きを避けるというのは、武士の本意ではないと
私は思う。あなたはどう考えるか!?」
このように言われ、正則の心は決した。

その後長政は小山に参り、この事を家康に伝えた。すると家康は
「そなたを召したのは余の儀に非ず、その事を計るためであった!何と素早く察したものか!」
そう大変に喜んだ。ここにおいて家康は諸大名を小山に集め、人々の心の程を尋ねた時、
福島正則は真っ先に味方する旨を宣言したという。

(藩翰譜)

933 :人間七七四年:2015/11/04(水) 12:24:57.77 ID:0Q0lHqR/.net
>>926
ウンコ漏らしが山内一豊を大出世させたのは、自らの苦い経験と重ね合わせたからか

934 :人間七七四年:2015/11/04(水) 19:42:20.51 ID:qRWzCR7G.net
ある時、武田信玄は禅宗の小僧と行き合い、小僧に向かい、
「地獄や極楽はどこにある?」と尋ねた。

これに小僧は、「糞喰らえ」と言った。信玄は顔色を変えて、
「憎き悪口の者だな!」と戒めた。すると小僧は「これが地獄だ」と答えた。

信玄は刀を抜き、小僧に突き付けて、「お前は生ける者か?
それとも死せる者か?」と、問うた。小僧は「死せる者だ」と言った。

信玄は刀を振り上げて、小僧を討とうとした。すると小僧は逃げ去り、
「命は僅かの内にある」と、言ったのだという。

――『一話一言』

935 :人間七七四年:2015/11/04(水) 23:23:46.36 ID:mNl4RRMn.net
いや、わかんねえwから

936 :人間七七四年:2015/11/05(木) 02:01:23.78 ID:657yLLV6.net
 妙秀は親類の者どもが婚姻を決める際に、他人と取り決めると聞けば気に入らず、親類の中の者と聞けば喜んだ。


 一類の者が数多くいるのに他家へ遣わすのは、その娘に傷があるようである。また私達一族に成人の娘いるのに、よそに尋ね求めることはいらいらするだろう。
幸いにも私たちの中にお似合いの者がいるのに貰わないのは、親子の思いが無い証しであり、全く頼もしくない。

 また物好みして外から求めても、仏が花を降らせるような事はないものである。その嫁の先祖がどのような非道を行っていたかもわからない、
とくに現世での名誉と利益にこだわって、金銀等を持参する嫁を求めるのはふがいなく禍の基である。
 金銀を宝として好むべきではなく、大切な兄弟の仲が悪くなったり、恥を晒すのも、多くは金が原因である。貧乏な者が死んだあとで、兄弟仲が悪くなる事は無い。
金銀を持って来た嫁のためにもならない。何事につけても金を持って来るので、気遣いは必要ないと思われる事にも気を遣ってしまい、殊の外身持ちが難しくなるものであろう。
 
 また賢い男ならば、金を持って来た女であるので甘やかすと人目が恥ずかしくて、たいした事もないのに目を光らし、夫婦の仲も悪くなるだろう。
女の心が清浄で賢ければ、持って来た金を男にまかせ誠の夫婦の心地がするはずであるが、男よりも金を大事に思って、わだかまりのある目の色を見てしまったらなんとも嫌な事であろうか。

 人の身で大事なのは縁組である。夫婦の仲が互いに大切に思っていたら、どれほど貧しくても耐えられるだろう。互いに思いあったものが親を捨てて走り行くのもよくあることである。
欲深く鼻の先にのみ知恵がある者は、富貴であることだけを良い事だと思って、自分に過ぎた婿や嫁を取ることは浅ましいことである。
 婿のおかげで生活できている者は仕方がないが、婿も嫁も相手を『真実の我が親なり、我が子なり』と思う程の志あるものを好むべきだ。
(本阿弥行状記)

身内との結婚を推奨しているのが印象的ですね
自分に過ぎた婿を取れば、もったいないことにも娘を侍女や賄いのようにするのは富貴を好むためである。
また自分に過ぎた婿を取れば、万事が華麗になって自家の作法に反し、必ず家が滅亡する兆しとなる。
 
 ただ大身も小身も、身の分際に応じて婚姻を取り結ぶべきだ。
多くの人の中で敬うべき者は、親、主君、祖父、祖母、兄、姉、伯父、伯母である。
さらには舅、姑を親同然に思うべきである。このため忌服も同然なのである。疎かに思うのは天理に背くというものである。

937 :人間七七四年:2015/11/05(木) 02:03:23.42 ID:657yLLV6.net
おや、ちょっと失敗しました

>(本阿弥行状記)

>身内との結婚を推奨しているのが印象的ですね

これは後ろに入れてください

938 :人間七七四年:2015/11/05(木) 02:05:24.88 ID:Bra8mrhk.net
>>926
何かの小説では、
「殿!城内からサルのにおいがしますぞ!ああくさやくさや」
みたいなことを言ってたと思うんだが、原文ではそんなこと言ってないのか

939 :人間七七四年:2015/11/05(木) 08:25:09.00 ID:LoocBPSR.net
昔むかし、将軍様の前で南部、津軽、佐竹、伊達の殿様方がお国自慢をはじめた。

南部公は、我が城の真西に見える岩手山は南部富士として美しく国のどこからでも見える山でござる、という。

じょっぱりの津軽公は、津軽富士なる岩木山の頂上に立てばエゾまで見るから、南部富士は目の下という訳ですな、とヒゲをなでた。

佐竹公は、津軽富士はエゾまでしか見えませぬ。我が出羽富士鳥海山はエゾばかりかオロシヤまでも見えますぞ。津軽公も江戸に来るときご覧になられたはずじゃ、と津軽公をたしなめる。

だまって自慢話を聞いていた伊達政宗公は、笑いながら、我が国には伊達富士とよぶ大きな山はござらぬが、
青葉城の真西に面白い形の山がござる。海のどこからでも見えるので漁船の目印となり、
山の色やかかる雲の様子で農民の仕事運びの目当てになるそうじゃ。エゾやオロシヤは見えるが領民全部に親しまれ頼りにされているこの山が、
伊達藩自慢の山でござる、と静かに話した。

城下ではこの山を太白山と呼び、名取の人たちは名取富士、おどが森と名付けて、政宗公のやさしさを語り伝えた。

ttp://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/201010090000/

らしくない話

940 :人間七七四年:2015/11/05(木) 08:30:00.02 ID:LoocBPSR.net
補足
登山すると低い割に結構見どころのある山で、
頼朝(もしくは茂庭氏)が勧請した生出森八幡神社や巨石、岩道があります。
人は少ないですが、なかなかに楽しいところです

941 :人間七七四年:2015/11/05(木) 09:39:41.11 ID:Wl5Vh57c.net
髭どのはもう亡くなってるはず。二代目も髭だったのかな

942 :人間七七四年:2015/11/05(木) 09:53:27.04 ID:hm/SjCRT.net
政宗生存時に佐竹がお国自慢というのが不思議

943 :人間七七四年:2015/11/05(木) 10:00:57.80 ID:hm/SjCRT.net
ついでにロシアがオホーツクに到達したのが1636年なのにオロシヤを見ることができたのか
ピョートル1世が日本人伝兵衛を謁見させ、ロシアが日本に関心を示したのが1700年なのに、なぜ政宗がロシアについて知っているのか
と不粋なツッコミを入れたくなる

944 :人間七七四年:2015/11/05(木) 10:52:56.07 ID:8otQ0m7k.net
>>943
秋田美人はロシアの血が入ってるからとか言う俗説も
時代的にありえないよな

945 :人間七七四年:2015/11/05(木) 11:01:13.49 ID:pJvqHjkc.net
由利鎌之介がスラブ系というアニメがあったなあ

946 :人間七七四年:2015/11/05(木) 11:09:11.06 ID:U4RcH4S+.net
佐竹が茨城の美人とハタハタをみんな秋田にもっていったんでしょ

947 :人間七七四年:2015/11/05(木) 11:50:48.09 ID:HG6fjNKf.net
常陸にロシア人がいっぱいいて佐竹が連れて行ったんだな

948 :人間七七四年:2015/11/05(木) 14:01:53.91 ID:mUDMM2Kg.net
>>947
コーカソイドの血が濃いアイヌは少なからずいたんじゃねとマジレス

949 :人間七七四年:2015/11/05(木) 14:15:07.59 ID:uXthO7yF.net
伊達と佐竹、南部と津軽
見事に仇敵同士だな

特に南部と津軽は混ぜたら危険

950 :人間七七四年:2015/11/05(木) 17:45:03.80 ID:XztBD3NB.net
>>944
パツキンが都合良く登場する花慶的なことでもあったんじゃね(適当)

951 :人間七七四年:2015/11/06(金) 01:31:57.85 ID:XkoGDR01.net
また(徳川家康の)お言葉によると、

「天性優れた人は少なく、大方は百万人並であるものだ。

それなのに、よくよく墨曲尺(物差し)を当てて、
選り好みしては、大方の人はいなくなってしまう。

これには2つの目の付けようがある。

大工が木を使うようにそれぞれに用い、また、幅の広い道の
中のように、誰もが片一方を通るような工夫をするべきである」

――『松のさかへ(本多忠勝公聞書)』

952 :人間七七四年:2015/11/06(金) 19:17:34.06 ID:wjP2zWPx.net
明智光秀が渡り奉公をしていた頃、三河牛久保の牧野右近大夫に使えていた事があった。
知行は百石ばかりであった。

この時、光秀は朋輩の中野某に言った
「侍の行く末は互いに解らぬものだ。もし私が一城の主となれば、被官も必要となるだろう。
貴殿は頼もしい人だから、その時は私の方に呼んで城代としよう。逆に貴殿が立身すれば、
わたしが被官となろう。」
そのように約束した。

光秀が後に、丹波を拝領した時、中野を呼んで亀山の城代とした。

(武功雑記)

953 :人間七七四年:2015/11/06(金) 21:31:12.19 ID:R2YlZR31.net
>>939
大学が仙台だったのでので、太白山は登ったことある。
標高300mちょっとの低山だが鎖場みたいなのがある、塔やピラミッドのような急峻で独特な印象の山。

今住んでいる茨城のつくば市にも比較的標高が低いが、関東きっての名山・霊山である筑波山が近くに
あって古代からの歴史的な由来話も多いが、戦国期の逸話は聞いたことがないな。

誰かご存知の方はおらぬだろうか?

954 :人間七七四年:2015/11/06(金) 22:54:55.56 ID:EfJdRrlK.net
小田氏関連で探せばあるんじゃないかな

955 :人間七七四年:2015/11/07(土) 00:04:32.70 ID:ZGJ4YiRY.net
>>952
北条の御由緒六家みたいな話だな

956 :人間七七四年:2015/11/07(土) 02:04:31.39 ID:f79wvY34.net
 本阿弥一族の多くは光二と妙秀の孫ひ孫である。その上人柄を畏れて大いに重んじ、我も我もと孝を尽くしたそうだ。
そうであるので、大勢の子孫達は、田舎土産そのほか時候にあった衣服などを度々送っていたのだが、
妙秀はすぐに皆裁ち切り、帯、えり、頭巾、手覆、帛紗などにして多くの人に与えたそうだ。

 小袖を送っても肩にもかけないので仕方がないから、銭を送ったらひとしお喜んだ。
その銭で色々様々な物を山ほど買い置いて、家を持っている者には、箒、ちりとり、火打ち箱、火箸、または硫黄木、ささらの類を与え、
力仕事をする下男、草履取には、草鞋、金剛草履を、女には糸、綿、鼻紙、手ぬぐいを与えた。

 また厚紙を求めて手でよく揉んで、菜売、乞食、非人をも招きよせて、『寒い時節にはこれを背に当てよ』と多くの者に持たせた。

 何の分別の無い者達にも、『親を大切にせよ、気遣い苦労をかけるな、嘘を言うな、そうすれば神仏の加護があるだろう』と、教訓していた。

 が、九十歳で死んだときには、唐縞の単物一つ、かたびらのあわせ二つ、浴衣、手ぬぐい、紙子の夜着、木綿のふとん、布の枕だけで、このほかに何もなかったそうだ。
(本阿弥行状記)

957 :人間七七四年:2015/11/08(日) 00:57:01.81 ID:kHLr6tzO.net
井伊直孝曰く、

「人間一生の勤めは忠孝の道である。聖賢千万言の教えも、皆忠孝のためであろう。

忠孝を勤めようと思うなら、主君と先祖の恩を常に忘れるな。『恩を知らぬ者は、
思いもかけず災難にあうものだ』と、古人もおっしゃった。油断してはならない。

人間の苦には、飢寒よりもたいへんなものはない。百姓町人が昼夜となく骨を折るのは、
飢寒を防ぐためである。中には家職の勤めに油断して、飢寒に及ぶ者も多い。

一方で、武士には生まれながらの飢寒はない。皆々が父母妻子兄弟を養い、家来を使い、
安楽に暮らしているのは、主君ならびに先祖父母の恩徳ではないだろうか。

この恩を常に忘れなければ、忠孝の道を忘れようもない。古老の物語などによれば、
『毎日食に向かい衣服を着る時、主君と先祖父母の恩徳を思え』ということである」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』

958 :人間七七四年:2015/11/08(日) 01:35:54.39 ID:G3IlIf/x.net
藩祖が遠江出身で生粋の三河者じゃないのに、一番禄をもらって
譜代筆頭なのに戊辰戦争では新政府側の彦根藩

959 :人間七七四年:2015/11/08(日) 06:39:27.75 ID:KLh7wixy.net
藤堂高虎「さんざん幕府の恩顧を受けながら裏切るとは彦根藩ってひどいな」

960 :人間七七四年:2015/11/08(日) 07:05:22.76 ID:IHwgcjch.net
井伊家は南北朝時代から何度も滅亡の危機をむかえてるのに明治維新生き抜いたのは正直すごいと思うの

961 :人間七七四年:2015/11/08(日) 08:26:58.70 ID:hS/xgfqa.net
直弼はさっちょうのスパイだったのさ

962 :人間七七四年:2015/11/08(日) 10:38:44.79 ID:1be3Js0o.net
風邪で具合が悪いせいか、
直政は家康のおっぱいだったのさ
に見えた

963 :人間七七四年:2015/11/08(日) 11:34:48.66 ID:cGSOOvIR.net
寝てろ

964 :人間七七四年:2015/11/08(日) 16:21:15.75 ID:9WP2/rEK.net
43、忠臣の血痕

 明治の初め、政府に「弁官」という官があった。
この弁官の一人に武州忍藩出身の澤田某という人物いた。
詳しいことはわからないが、生真面目な性格の男だったらしい。

戊辰の役が終わってまだいくらも経たないころ、皇居西之丸にある門の楼上から一棹の長持が見つかった。
場所が場所だけに、徳川家の遺物であることは間違いない。
「いかがいたしましょう」
「中身がわからぬではどうしようもない。開けてみよ」
下役人から処理法を聞かれた澤田は、そう答えた。
そしてそのまま出かけていって現場に立ち合っているところをみると、案外興味もあったのかもしれない。
「鍵がかかっておりますが」
「壊せばいいだろう」
そこで鍵を壊して開けてみると、出てきたのは古畳が2枚と桃のタネが2つであった。
「……?」
意味も無くこんなところに畳をしまっておくというのも珍妙なので、
よくよく見てみると、畳の表面にシミのようなものがある。
「血の跡ではござりますまいか?」
なるほど、そのようである。
そこでよくよく調べてみると、驚いたことにこの畳は
慶長5年8月1日に、伏見城で鳥居彦右衛門元忠が切腹したときのものだとわかった。

965 :人間七七四年:2015/11/08(日) 16:21:41.66 ID:9WP2/rEK.net
鳥居元忠、といえば、関ヶ原の前段ですでに捨城の伏見城に籠って壮絶な戦死を遂げた、徳川家にとって超一級の忠臣である。
「なんと忠臣の血痕であったか」
澤田は感動したが、当時のこととて幕府の遺物は塵芥と同類で、「そんな汚物は捨ててしまえ」という声が強かった。
そこで古畳は危うく廃棄されるところだったのだが、
澤田が密かに鳥居家の公用人に連絡しておいたので、身体中の毛を逆立てて飛んできた鳥居家の家臣に危うく下げ渡された。

外国の博物館で過去の偉人たちの血痕や弾痕のある衣服などを展示しているという話は聞いたことがあるが、
我国において300年も昔の忠臣の血痕をかくも鄭重に保存しておいたとは、まことにもって驚きとしか言いようが無い。
保存させたのは家康公に違いあるまい。
海内一の強剛者たちの集まりであった三河武士軍団が、
家康公のために死をも厭わなかったのは、公のこういう優しさがあった故であろう。

ところで、もう一方の「桃のタネ」であるが……
伏見の名物は桃であったらしいから、おそらく鳥居元忠が最期に食べたのがこの桃だったのではあるまいか……?


ttp://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/shigure-soushi/shigure-soushi.htm
ここの現代語訳志ぐれ草子より引用

966 :人間七七四年:2015/11/08(日) 16:43:19.36 ID:WG5J2xR6.net
血天井といえば、徳島の丈六寺に元親によって謀殺された新開氏の血天井があるな
既出だから書かないが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12.html?sp&sp

967 :人間七七四年:2015/11/08(日) 17:44:37.66 ID:g/S5eUq6.net
10%は一回失敗したら即抜け安定
それをされる事ぐらいは承知の上だよなぁ?

968 :人間七七四年:2015/11/09(月) 07:49:45.05 ID:xI4lJMJz.net
松平伊豆守信綱はこう言っていた

「悪日なんて物は無い。思い立ったことは、いつであっても行うべきだ。
風雪の日こそ悪しきものだ。」

(武功雑記)

969 :人間七七四年:2015/11/09(月) 08:42:53.26 ID:LfncsuBW.net
現実的だな
まあ、平和な日常ではこれが正しいよな

970 :人間七七四年:2015/11/09(月) 17:04:56.18 ID:mXldTkqM.net
風が吹いたら遅刻して〜雨が降ったらお休みで〜♪

971 :人間七七四年:2015/11/09(月) 20:29:06.91 ID:UjkMN3DA.net
今日、石見街道走って南に向かってたら北広島町のセブンイレブンにこんな案内が貼って有った。

▼講演会「吉川氏と大名毛利氏の戦国鉄炮史」

吉川氏の本拠城であった小倉山城跡から鉛玉(鉄砲の弾丸)が出土したことや、
町域出身者が吉川氏の鉄砲隊として出兵していることが記された古文書からわかるように、
北広島町と鉄砲隊には深いつながりがあります。今回は、講師に岸田裕之氏をお招きし、
吉川氏と毛利氏の鉄砲隊について講演をいただきます。

【日 時】平成27年11月29日(日)13:00〜14:30
【講 師】岸田 裕之(広島大学名誉教授)
【会 場】北広島町図書館 多目的ホール(北広島町新庄1031-1)
【その他】聴講無料・当日受付

http://kitahiro-bunka.jp/pdf/rekishi_event/H27rekishi-event07.pdf


おもろそうや

972 :人間七七四年:2015/11/10(火) 03:05:06.77 ID:pcLi2wWH.net
井伊直孝曰く、

「面白いと思うことは、度々重ならないように覚悟すべし。何事をするにしても、
まずその事の実質を知って、よく考えて取り掛かるべし。害を知って上手く防げば、
その事は成就して、後悔することもない」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』

973 :人間七七四年:2015/11/10(火) 21:24:19.14 ID:pcLi2wWH.net
ある時、豊臣秀吉は里村紹巴を呼んで“天下無上の大なる歌”を詠吟した。
秀吉は「これより上の歌があるか?」と言って、

「須弥山に 腰打ちかけて 大空を ぐっと呑めども 喉に障らず」

と詠み、「どうだどうだ」と言った。その言下に、紹巴はこう詠んだ。

「須弥山に 腰打ちかけて 呑む人を 睫毛の先で 突き転かしけり」

――『半日閑話』

974 :人間七七四年:2015/11/10(火) 21:29:51.65 ID:Rde+QCUb.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-588.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4249.html
落語「狂歌合わせ」の原型かな

975 :人間七七四年:2015/11/11(水) 00:46:53.60 ID:Vpr+gTBL.net
 貴人は勿論私風情まで、自分の悪しき所は見えぬもので、貴人へ諫言を申す人は甚だ少ないものと御心得なさってください。
 『主将の法務は英雄の心をとる』と記す七書の名言を用いなさった大将は、頼朝公、信長公
この外に本朝には伝え聞いておりません。これは我が朝の風俗と思われます。
 
 右幕下(頼朝)は鎌倉にいらしたまま、義経、範頼を大将として平家を征伐なさり、信長公は毎度家臣に敵国を拝領させると仰せ付けられたとのことである。
その他の大将はいつも自らを大将として征伐なされた。

(本阿弥行状記)

そうかなあ、二人以外にもいるような

976 :人間七七四年:2015/11/11(水) 02:04:32.36 ID:JsEdPrm9.net
謙信「ふむ…つまり良き大将とは本拠に留まり周りに目を光らせる者と言うことだな」
義光「まして大将自ら先頭に立って突撃などしないものであるな」

信長「……」

977 :人間七七四年:2015/11/11(水) 16:12:42.99 ID:gq1T9+z7.net
今日(11月11日)は鮭の日ということで鮭話

鞘書

「備前長船作
最上出羽守依頼富士山ニ大護摩修業之折護摩刀として伝え云々…」

変色した一口の白鞘の墨書から、この刀が最上義光が備前長船祐定に依頼し作らせ、富士山大護摩といった密教か山岳信仰の宗教儀式の折りに護り刀として使用していたものと判明した

しかし富士山大護摩がどの様な修業や儀式なのか
その詳細は伝わっていない

この刀は現在山形市の最上義光歴史館で
「慶長寺(光禅寺)葡萄図屏風」「お義かわいいよ、お義の手紙」「山形に帰りたい、最上の水が飲みたい望郷の手紙」「慶長五年件上杉征伐戸沢政盛宛誓紙」と合わせて
無料で一般公開中

978 :人間七七四年:2015/11/11(水) 20:01:06.70 ID:E1POGWlN.net
>>975
島津の留守番長男が筆頭

979 :人間七七四年:2015/11/11(水) 20:35:41.33 ID:lrHCFzn9.net
朝倉義景

980 :人間七七四年:2015/11/12(木) 08:04:28.82 ID:la6S9elc.net
>>975
大海人皇子

981 :人間七七四年:2015/11/13(金) 00:44:09.19 ID:YZvVgPpg.net
義光と宗教

山形の最上義光という人は仏教に留まらず、神教や修験道や古道など、様々な宗派を厚遇した

自身は禅宗に帰衣していたが、室(妻のとしよ姫)は浄土真宗で、人に頼まれ法華経を唱え、三河や甲州から武田旧臣の秋山某を浅間神職として招き、野州の大田原某を古峰社別当とした

そのため城下には寺社仏閣が入り交(混)じり、龍門事(最上義守の葬儀)にはどの寺を上位にするかですったもんだがあったと言われる

「山形の昔話」

982 :人間七七四年:2015/11/13(金) 01:30:31.39 ID:0/ZV6rMe.net
 光悦は八十歳で死んだ。病中板倉殿御父子(重宗、重郷)が度々お見舞いなされたときに、彼も木綿の夜着布団で寝ていたのをご覧になさりご感心成された。
重宗はもはや暇乞いなので光悦へお子の阿波守に何でも遺言してくれと仰られた。光悦はいやとも申さずにすぐに申した。

「板倉殿は伊賀守(勝重)から二代、都の御執権をなさり名人であると聞こえています。この次もまた阿波守でございましょうと人々は申しております。誠にめでたき事です。
さりながら、難しいことでございます。武家の御本意ですので、唯々一筋に武勇の心掛けに専念なされ、明日どういう事が出てきても、板倉殿こそ天下の御用人で有るだろうと諸人が申すほど、
指を指す程に御心掛けなさらなければなりません。
 それについて申し上げます。家来の人々に深く情をお掛けなされ、ああ一命を捧げるほどの事もできたらなあと、朝夕ありがたく思われますようにお恵みをなさってください。
『藁苞(わらづと)に傾く』と言われることもございます。どれほど正しき主人でも、少しけちでございましたら、家来の思いは付いてこないものでございます。
心に取り入るのが難しい恐ろしい主人でも、分を過ぎて物を贈りなさる主人であったら良く思われて、法度もよく働くでしょう。
欲に惹かれるというわけではございませんが、家来は主人からの御志をありがたく思うものです。
 文武の道に覚えが有る、へつらいの無い浪人にお目をかけて、御伽衆にでもなされて、古き物語をお聞きなさってください。人の良い噂悪い噂も聞かなくてはお知恵は上がらないことでございましょう。」

 諏訪守殿はお聞きになって、常々の願いはこれだと仰せになり、殊の外お喜びなされた。また私にも一言意見してくれと仰られるので、


「常々見させていただくに、訴訟人が憎い面で、筋の無いことを言い募ったり、御前と口論する者がございましたら、諏訪守殿はその者の愚かなことをひとしお憐れみなされるので、ついに公事場でお怒りの声を聞きませんでした。
またはじめにお聞きに成された事よりも、後に申し上げた事情をよく聞き分けられております。このようにあなたはお知恵をもってらしているので、けっして凡夫ではござらないだろうと思われます。
 ただ心に懸かりますことは、お食事を養生の第一と思い、程よくなさってください。上様への御奉公で最も大事な事と思われます。このほかに大事な事はございません。」

と申し上げれば、諏訪守殿はまことによく合点なされて、我々の事はけっして心配しないようにと仰せられた。
(本阿弥行状記)

まあ、次に京都所司代になるのは牧野親成で、重郷はなることはなかったのだけどね

983 :人間七七四年:2015/11/13(金) 05:59:27.14 ID:l13YTDmb.net
証明がいい演出になってますね!思いつかなかった!真似させていただきますww

984 :人間七七四年:2015/11/14(土) 03:54:32.24 ID:yMPR9k3F.net
一、信長公が比叡山を焼き捨てられた時、梶井宮は延暦寺の座主として、東塔の円融坊になられていた。
信長公はひそかに使者を送り、
「叡山を焼き討ちにするつもりなので、その間下山お願います」
との事を申し上げると、
「当分の間居場所が無いのは迷惑なことだ」
と仰せられたので、それならばとすぐに大原に寺を建て、そこへ移りなさるようにした。
今は掛所であるそうだ。この寺は今、大原村極楽院の御境内に礎石だけが残っているという。

一、信長公が建立して、梶井宮が上られなさった大原の御殿は、後世になって、今の京都の梶井の宮へ建てなさったので、
大原にはその礎石だけが残ったのだ。そのため御殿の寺号は比叡山延暦寺、円融坊東塔宮、三千本貫首三千人梶井または梨本と言うとか。

一、その比叡山を取り巻いて攻めた人のうち、羽柴筑前守秀吉は吉王山へ神に誓われるには、
「何とぞ我が方から敗れないように。この願いを守られなさったら、我が出世した後には元の如く叡山の堂塔を残らず再建します。」
と願われたということだ。
 この事を叡山の僧徒が聞き伝えて、大切な宝物などを悉く秀吉の陣書へ送り預けたそうだ。
多くの山徒が忍び忍びに落ちて、山で死んだ人はわずかであった。
 明智日向守も秀吉と同じ趣意なので、知識者高僧達は無難に下山なされたという。

一、戒壇堂の下には伝教大師が帰朝されたときに持って帰ってきた天竺・中華の土が収めてあった。
兵火のために焼失する事を嘆いて焼かれる前に、戒壇堂を潰しその場所を隠したのでつつがなく残ったという。
 釈迦在世の時より伝来の燈火は今に伝わって叡山にあるという。

以上の五ヶ条はさる方かたに承って書き残し置くものである。
流布されている話にはないものである。
(本阿弥行状記)

穴だらけの比叡山焼き討ち

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