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【鬼玄蕃】佐久間盛政{総合スレ}

1 :松葉浩弘:2016/08/09(火) 17:37:54.09 ID:U/Are+JA.net
http://o2.upup.be/f/r/xwz68iWaTJ.png
鬼玄蕃こと佐久間盛政について語ろう。

249 :人間七七四年:2020/07/10(金) 11:08:15.47 ID:+Ez8g8t1R
http://archive.today/2020.07.10-015117/https://rekan.jp/674/

250 :人間七七四年:2020/07/10(金) 12:07:50 ID:yop53S6w.net
https://web.archive.org/save/https://rekan.jp/674/

251 :人間七七四年:2020/07/10(金) 12:12:41 ID:yop53S6w.net
http://archive.today/IX6F6

252 :人間七七四年:2020/09/19(土) 01:44:39.07 ID:b8VyaRFa.net
鬼玄蕃こと佐久間盛政の最期とは
https://youtu.be/95Vb4jW72hc

253 :人間七七四年:2020/11/09(月) 10:51:26.91 ID:qjKg9xM1.net
賤ヶ岳でいくつか疑問があるんだけど

佐久間盛政は中入り成功させて、一休みして、次は何しようとしてたの?
勝家はなぜこのチャンスに動かなかったの?
佐久間盛政は周りの高台に敵だらけだったのに、なぜ恐れなかったの?

254 :人間七七四年:2020/11/10(火) 11:54:31.50 ID:3BROnLdG.net
>>253
https://rekan.jp/674/  この記事の本文とコメント欄見れば大体わかる

255 :人間七七四年:2020/11/10(火) 15:49:58.28 ID:R+EpRBH8.net
自演乙

256 :人間七七四年:2020/11/10(火) 22:27:54.33 ID:flJIDtGs.net
>>254
どうもです

やっぱり利家との間には「加賀をあげる」という密約ありですね

257 :人間七七四年:2020/11/28(土) 01:32:20.99 ID:tvbFvp1p.net
鬼玄蕃こと佐久間盛政の人物評とその再考
https://rekan.jp/2928/

258 :人間七七四年:2021/01/02(土) 22:32:40.81 ID:BG0jc24D.net
あけおめ

259 :人間七七四年:2021/01/02(土) 23:23:24.48 ID:c3fTmOua.net
佐久間盛政は賤ヶ岳の戦いは良くやったと思う
中川清秀を破ったのだから
柴田勝家は勢い、秀吉と直接対決するべきだった
勝家があまり評価されないのが戦わず切腹したから
戦場で散るべきだった

260 :人間七七四年:2021/01/04(月) 03:30:32.67 ID:cvkz68WH.net
そもそも柴田と羽柴では戦力差がありすぎて柴田は守ってないとほぼほぼ勝てないのに、前線に出て決戦しろなんて無責任な事いうなや

261 :人間七七四年:2021/01/04(月) 12:43:43.95 ID:SABkMQj6.net
柴田も中入りしてれば
賤ヶ岳と秀長くらいは打ち取れたでしょ

そこで秀吉を迎え撃つっていう算段はなかったのかな?

262 :人間七七四年:2021/01/04(月) 17:00:47.75 ID:cvkz68WH.net
>>261
それは秀吉本隊が岐阜城を囲むなりなんなり分散させてから行うべきであって少なくとも大垣にいる状況でする事ではないな
敵を分散させて各個撃破が手堅い戦術戦略の基本でしょ

落とした砦も即日復興する訳じゃないし前線までの物資の輸送もあるのに場当たり的に前進してどうすんの?

263 :人間七七四年:2021/01/11(月) 00:35:17.66 ID:iFTBtDGy.net
>>262
北国街道の封鎖解けるじゃん
それが目的なんだし

各個撃破もなにも封鎖されてたんだよ?

264 :人間七七四年:2021/03/18(木) 01:29:17.69 ID:iSlTDPU1.net
https://youtu.be/_4bvbqHU4IY

265 :人間七七四年:2021/05/03(月) 11:35:25.94 ID:TkF8tazS.net
youtu.be/FlCdiSsnA3s

266 :人間七七四年:2021/06/10(木) 03:45:28.86 ID:ZMoJeQLR.net
http://fotla.net/6u4FO6

267 :人間七七四年:2021/06/10(木) 04:22:39.36 ID:mcQ+Rsgh.net
https://s.kota2.net/1623266468.png

268 :人間七七四年:2021/06/10(木) 04:25:33.33 ID:mcQ+Rsgh.net
https://s.kota2.net/1623266468.png

269 :人間七七四年:2021/06/10(木) 06:31:09.04 ID:stXqKOjZR
https://64.media.tumblr.com/f36a4cfe9586cec3987e4f4d0e6a4b36/640e94194765eba4-61/s2048x3072/9fcf1ac11ded7cc01da2557abb5ede9ec886d4b3.png

270 :人間七七四年:2021/06/10(木) 06:33:30.65 ID:ZMoJeQLR.net
https://64.media.tumblr.com/f36a4cfe9586cec3987e4f4d0e6a4b36/640e94194765eba4-61/s2048x3072/9fcf1ac11ded7cc01da2557abb5ede9ec886d4b3.png

271 :人間七七四年:2021/11/07(日) 05:20:36.79 ID:D5tBJpR7.net
賤ヶ岳の合戦についての考察
佐久間盛政が率いた軍勢は史料によっては1万5千人。
いずれにしても大軍であり彼らを送り出した柴田勝家には戦局を大きく動かそうとする意図があったことが窺える。
史料で示された「退路の確保」他の史料にも記された「追われる奇襲部隊が追う側の羽柴軍に痛撃を加えた」戦果に加えて『一柳家記』の記述から考えられる奇襲部隊や柴田勝政勢が「大量の矢弾を想定される退路の要所に運び込んだ可能性」から奇襲部隊は初めから撤退戦も想定した入念な準備を行った可能性が考えられる。
この戦いは柴田方が結果的に「羽柴方を堅固な陣地から誘き出して山岳戦に引き摺り込んだ」という見方もできる。
奇襲部隊の善戦はあるいは、こうして退路に配置されただろう部隊=疲労が少ない部隊が奇襲部隊に順次合流し、殿軍を交替で引き受けることで実現したのかもしれない。
対して羽柴軍の追撃部隊は全員が長距離を移動しなければならず特に美濃から戻ってきた主力部隊の疲労は深刻なものだったと推測される。
『太閤記』には、「前田殿の軍勢が茂山にいてくれるから」と佐久間盛政が後退を止めて布陣し羽柴方に決戦を挑もうとしたところへ拝郷家嘉が盛政を諌めてさらに後退すべきだと進言する場面がある。
拝郷が決戦を諌めた理由は「羽柴方があまりに大軍だから無茶」というものだった。
そして羽柴方の大軍に怯えた後方の部隊が逃走し奇襲部隊は動揺して羽柴方に敗北した。
盛政は刑死、拝郷は戦死したので拝郷の諫言の部分は創作の可能性もあるが拝郷が本当に懸念したのは敵だったのか味方だったのか考えさせられる記述である。
奇襲作戦は奇襲部隊の後方を誰かが守る必要があった。
佐久間盛政は(内心は疑いを抱いたとしても)前田勢を信じることが前提の作戦を行った。
そうでなければ神明山方面から羽柴方が進出して奇襲部隊の退路を脅かす事態を防ぐ大事な役割を、別の武将が行うよう進言したはずである。
(北陸で長年共に戦った柴田勝政、拝郷家嘉、徳山則秀など)

272 :人間七七四年:2021/12/03(金) 03:10:15.54 ID:vtuYfXJZ.net
天正8年(1580年)10月、上杉景勝が加賀一向一揆の支援をしたため加賀国人衆の一部が挙兵した。白山城(舟岡城)へ向かった盛政は城を陥落させ反乱を鎮圧した。

273 :人間七七四年:2021/12/03(金) 21:24:09.20 ID:Fp/Bravo.net
伝承だが(史書記無)佐久間盛政には3人の男子がいた。1人は賤ケ岳の戦いで討ち死にし、もう2人は生き残り高野山に逃れる。後に片方は紀州藩のお抱え医師に、もう片方は紀州・金屋で医師を本業とした。そこに祀られていた石仏と五輪塔の入る祠が佐久間地蔵と呼ばれ、今も地元民の信仰を集めている。

274 :人間七七四年:2021/12/19(日) 10:51:54.08 ID:x3H4h9l+.net
あげ

275 :人間七七四年:2021/12/20(月) 13:44:18.72 ID:EZj8QaXh.net
👆(・_・)👎💢

276 :人間七七四年:2021/12/31(金) 23:42:56.44 ID:MvEy1kgq.net
最強武将じゃん佐久間盛政

277 :人間七七四年:2022/01/01(土) 01:00:35.98 ID:z3geNB3Z.net
💩

278 :人間七七四年:2022/02/01(火) 23:57:57.61 ID:nK/eLX9t.net
鬼玄蕃の勇躍

279 :人間七七四年:2022/02/02(水) 00:22:24.32 ID:4AWW1MiE.net
仮に賤ヶ岳砦を落としてたら勝機あったのかな?
どっちにしろ秀吉本隊が来たら撤退だよね?

280 :人間七七四年:2022/02/02(水) 04:27:32.25 ID:rxbYm8+H.net
>>279
実際に撤退しながら奮戦してるからね。一柳家記や渡辺勘兵衛記・江州余吾庄合戦覚書に記されてる。
賤ヶ岳砦の位置的に落としてたら有利にはなったんじゃないの

281 :人間七七四年:2022/02/03(木) 01:45:10.25 ID:k5Lbu5z0.net
>>280
秀吉が追撃する時に布陣した場所だからか

282 :人間七七四年:2022/02/04(金) 01:27:05.45 ID:XkCsKbv5.net
自演して楽しいか?

283 :人間七七四年:2022/02/12(土) 18:29:03.16 ID:oHc24Nct.net
どこまでいったら前田軍が裏切らないか、ってところでは?

284 :人間七七四年:2022/03/11(金) 21:40:26.54 ID:2nyc2hyn.net
>>106
>>107
信盛息子佐久間信栄も赦免後信忠付きになっている
信忠死後は信雄にも

285 :人間七七四年:2022/03/24(木) 06:22:54.66 ID:NH/2sbb2.net
・秀吉の軍勢が前日近江にいなかったとはいえ大身の支持者だった中川清秀の軍勢を見殺し。
・美濃では秀吉軍の総攻撃が中止されたため岐阜の織田信孝とその軍勢が健在。

・奇襲部隊に損害を与えないと美濃―近江間の主力行軍が徒労になってしまう。

・逆襲を受けて羽柴軍の方に損害が出た。

・奇襲部隊が先に高所を押さえて布陣し待ち構
えている。
この秀吉軍の苦境を覆して勝利をもたらしたのが「後方部隊の逃走」であり、
それは秀吉が追撃を諦めず奇襲部隊に食い下が
った結果として生じた状況が可能にした一手
だったんですから!
賤ヶ岳の戦いは後世言われるような「全てが秀吉の計画通り」の戦いで
はなく、「智謀の秀吉(時代の先駆者)が武勇
の柴田や脳筋の佐久間盛政(時代遅れの武将たち)に優った」「羽柴兄弟の巧妙な罠に愚かな
柴田軍が嵌った」というわけではなかったですよ。
秀吉は自ら織田信孝の封じ込めに向かい、美濃大返しの後に山岳地の追撃戦から休まず
柴田殿軍の殲滅戦、さらに越前侵攻と織田信長
譲りの苛烈な采配で自軍と自身の体を酷使していますから
秀吉は鬼玄蕃や鬼柴田を上回る猛将振りを発揮して勝利を捥ぎ取ったのです。

対して佐久間盛政たち奇襲部隊は「慢心した猪武者たちが神速の秀吉軍にしてやられた」どころか困難な撤退戦でも秀吉軍の追撃を跳ね返し決戦の構えまで見せるなどよく団結していた上に事前の準備も入念に行っていたことを窺わせる善戦振りでしたし、
秀吉軍が帰還
→しばらく時間が経ってから奇襲部隊が撤退を開始→秀吉軍が追撃を開始
→奇襲部隊が善戦→奇襲部隊が柴田勝政勢を救援、
奇襲部隊が布陣
→羽柴軍との決戦が始まる時に柴田軍の味方が逃走し動揺が広がる
→秀吉軍の攻撃を受けて奇襲部隊が敗走
戦いの決着は翌日の夜明けから更に数時間経って付いているし秀吉帰還から勝敗が決するまでの長い時間こそ奇襲部隊が大活躍した時間ですもんね。

佐久間盛政が率いた軍勢は史料によっては1万5千人。
いずれにしても大軍であり彼らを送り出した柴田勝家には戦局を大きく動かそうとする意図があったことが窺える。
史料で示された
「退路の確保」他の史料にも記された
「追われる奇襲部隊が追う側の羽柴軍に痛撃を加えた」戦果に加えて『一柳家記』の記述から考えられる奇襲部隊や柴田勝政勢が
「大量の矢弾を想定される退路の要所に運び込んだ可能性」から奇襲部隊は初めから撤退戦も想定した入念な準備を行った可能性が考えられる。
この戦いは柴田方が結果的に
「羽柴方を堅固な陣地から誘き出して山岳戦に引き摺り込んだ」という見方もできる。
奇襲部隊の善戦はあるいは、こうして退路に配置されただろう部隊=疲労が少ない部隊が奇襲部隊に順次合流し、殿軍を交替で引き受けることで実現したのかもしれない。
対して羽柴軍の追撃部隊は全員が長距離を移動しなければならず特に美濃から戻ってきた主力部隊の疲労は深刻なものだったと推測される。
『太閤記』には、
「前田殿の軍勢が茂山にいてくれるから」と佐久間盛政が後退を止めて布陣し羽柴方に決戦を挑もうとしたところへ拝郷家嘉が盛政を諌めてさらに後退すべきだと進言する場面がある。
拝郷が決戦を諌めた理由は「羽柴方があまりに大軍だから無茶」というものだった。
そして羽柴方の大軍に怯えた後方の部隊が逃走し奇襲部隊は動揺して羽柴方に敗北した。
盛政は刑死、拝郷は戦死したので拝郷の諫言の部分は創作の可能性もあるが拝郷が本当に懸念したのは敵だったのか味方だったのか考えさせられる記述である。
奇襲作戦は奇襲部隊の後方を誰かが守る必要があった。
佐久間盛政は(内心は疑いを抱いたとしても)前田勢を信じることが前提の作戦を行った。
そうでなければ神明山方面から羽柴方が進出して奇襲部隊の退路を脅かす事態を防ぐ大事な役割を、別の武将が行うよう進言したはずである。
(北陸で長年共に戦った柴田勝政、拝郷家嘉、徳山則秀など)

286 :人間七七四年:2022/03/24(木) 06:22:58.56 ID:NH/2sbb2.net
・秀吉の軍勢が前日近江にいなかったとはいえ大身の支持者だった中川清秀の軍勢を見殺し。
・美濃では秀吉軍の総攻撃が中止されたため岐阜の織田信孝とその軍勢が健在。

・奇襲部隊に損害を与えないと美濃―近江間の主力行軍が徒労になってしまう。

・逆襲を受けて羽柴軍の方に損害が出た。

・奇襲部隊が先に高所を押さえて布陣し待ち構
えている。
この秀吉軍の苦境を覆して勝利をもたらしたのが「後方部隊の逃走」であり、
それは秀吉が追撃を諦めず奇襲部隊に食い下が
った結果として生じた状況が可能にした一手
だったんですから!
賤ヶ岳の戦いは後世言われるような「全てが秀吉の計画通り」の戦いで
はなく、「智謀の秀吉(時代の先駆者)が武勇
の柴田や脳筋の佐久間盛政(時代遅れの武将たち)に優った」「羽柴兄弟の巧妙な罠に愚かな
柴田軍が嵌った」というわけではなかったですよ。
秀吉は自ら織田信孝の封じ込めに向かい、美濃大返しの後に山岳地の追撃戦から休まず
柴田殿軍の殲滅戦、さらに越前侵攻と織田信長
譲りの苛烈な采配で自軍と自身の体を酷使していますから
秀吉は鬼玄蕃や鬼柴田を上回る猛将振りを発揮して勝利を捥ぎ取ったのです。

対して佐久間盛政たち奇襲部隊は「慢心した猪武者たちが神速の秀吉軍にしてやられた」どころか困難な撤退戦でも秀吉軍の追撃を跳ね返し決戦の構えまで見せるなどよく団結していた上に事前の準備も入念に行っていたことを窺わせる善戦振りでしたし、
秀吉軍が帰還
→しばらく時間が経ってから奇襲部隊が撤退を開始→秀吉軍が追撃を開始
→奇襲部隊が善戦→奇襲部隊が柴田勝政勢を救援、
奇襲部隊が布陣
→羽柴軍との決戦が始まる時に柴田軍の味方が逃走し動揺が広がる
→秀吉軍の攻撃を受けて奇襲部隊が敗走
戦いの決着は翌日の夜明けから更に数時間経って付いているし秀吉帰還から勝敗が決するまでの長い時間こそ奇襲部隊が大活躍した時間ですもんね。

佐久間盛政が率いた軍勢は史料によっては1万5千人。
いずれにしても大軍であり彼らを送り出した柴田勝家には戦局を大きく動かそうとする意図があったことが窺える。
史料で示された
「退路の確保」他の史料にも記された
「追われる奇襲部隊が追う側の羽柴軍に痛撃を加えた」戦果に加えて『一柳家記』の記述から考えられる奇襲部隊や柴田勝政勢が
「大量の矢弾を想定される退路の要所に運び込んだ可能性」から奇襲部隊は初めから撤退戦も想定した入念な準備を行った可能性が考えられる。
この戦いは柴田方が結果的に
「羽柴方を堅固な陣地から誘き出して山岳戦に引き摺り込んだ」という見方もできる。
奇襲部隊の善戦はあるいは、こうして退路に配置されただろう部隊=疲労が少ない部隊が奇襲部隊に順次合流し、殿軍を交替で引き受けることで実現したのかもしれない。
対して羽柴軍の追撃部隊は全員が長距離を移動しなければならず特に美濃から戻ってきた主力部隊の疲労は深刻なものだったと推測される。
『太閤記』には、
「前田殿の軍勢が茂山にいてくれるから」と佐久間盛政が後退を止めて布陣し羽柴方に決戦を挑もうとしたところへ拝郷家嘉が盛政を諌めてさらに後退すべきだと進言する場面がある。
拝郷が決戦を諌めた理由は「羽柴方があまりに大軍だから無茶」というものだった。
そして羽柴方の大軍に怯えた後方の部隊が逃走し奇襲部隊は動揺して羽柴方に敗北した。
盛政は刑死、拝郷は戦死したので拝郷の諫言の部分は創作の可能性もあるが拝郷が本当に懸念したのは敵だったのか味方だったのか考えさせられる記述である。
奇襲作戦は奇襲部隊の後方を誰かが守る必要があった。
佐久間盛政は(内心は疑いを抱いたとしても)前田勢を信じることが前提の作戦を行った。
そうでなければ神明山方面から羽柴方が進出して奇襲部隊の退路を脅かす事態を防ぐ大事な役割を、別の武将が行うよう進言したはずである。
(北陸で長年共に戦った柴田勝政、拝郷家嘉、徳山則秀など)

287 :人間七七四年:2022/03/24(木) 06:23:22.22 ID:NH/2sbb2.net
>>286続き
奇襲部隊は大岩山とその周辺から撤退を開始、数時間後には秀吉が自ら軍勢を率いて追撃戦を始めました。
奇襲部隊は山道を進みながら幾度も引き返して羽柴軍を撃退。夜明け頃に権現坂まで戻り布陣します。
追撃に失敗した秀吉は、賤ヶ岳に留まり奇襲部隊を支援していた柴田勝政の軍勢に矛先を向けました。
羽柴の大軍に対し僅か三千の勝政勢は苦戦したが負傷者を置き去りにせず庇いながら戦い、賤ヶ岳の西にある飯浦坂を進みます。
羽柴軍の猛烈な追撃を受けた勝政勢は追い詰められたが友軍の危機を見た奇襲部隊が出陣して羽柴軍を横撃し、勝政勢を救援しました。
追撃どころか多大な損害を受けた羽柴軍だったが秀吉は諦めず更なる攻撃の準備を進めた。
盛政も勝政勢を迎え入れると撤退どころか陣地に留まる構えを示します。
戦国時代の野戦は、敵に対して有利に戦える場所を押さえる陣取りの棋戦が重要だった。
奇襲部隊が後退を止めて布陣したことは羽柴軍に対して有利に戦える場所まで移動した=勝算を立てたことを意味してますね。

288 :人間七七四年:2022/03/24(木) 06:24:56.80 ID:NH/2sbb2.net
>>285>>286の同じ内容で連投失礼

289 :人間七七四年:2022/03/24(木) 06:40:08.12 ID:yMtF8cSH.net
ハイハイワロスワロス

290 :人間七七四年:2022/07/01(金) 08:25:21 ID:YOT7kvvf.net
今日、7月1日は鬼玄蕃こと佐久間盛政の命日です。ご冥福をお祈りいたします。

291 :人間七七四年:2022/08/04(木) 23:50:01 ID:9x0N3YgP.net
>>1
佐久間 盛政は、戦国時代から安土桃山時代の武将。織田氏の家臣。伊勝城主。御器所西城主。今江城主。日谷城主。大聖寺城主。金沢城主。佐久間氏の一族。官途は玄蕃允、通称は佐久間玄蕃。鬼玄蕃と称された。 佐久間盛次の子。佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之の兄。佐久間信盛は従叔父にあたる。

292 :人間七七四年:2023/08/28(月) 19:17:45.87 ID:YzjUVwto.net
REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担

293 :人間七七四年:2023/09/06(水) 07:16:58.35 ID:BNTkw3hd.net
>>1
画像が表示されていないので...
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/02/%E9%AC%BC%E7%8E%84%E8%95%83.png

294 :人間七七四年:2023/09/06(水) 07:42:13.52 ID:BNTkw3hd.net
>>254
詳細版→ 賤ヶ岳の合戦における柴田方の敗因は、前田利家・利長父子の敵前逃亡だった!?
https://note.com/btl_of_szgtk_trt/n/n738d79b0e4af

295 :人間七七四年:2023/09/06(水) 07:44:46.97 ID:BNTkw3hd.net
>>256
詳細版→ 賤ヶ岳の合戦における柴田方の敗因は、前田利家・利長父子の敵前逃亡だった!?
https://note.com/btl_of_szgtk_trt/n/n738d79b0e4af

296 :人間七七四年:2023/09/06(水) 07:48:53.01 ID:BNTkw3hd.net
>>257
新装版→ 鬼玄蕃・稀代の軍略家・KINGofSAMURAI・今奉孝こと佐久間盛政の実像
https://note.com/btl_of_szgtk_trt/n/nf059861e140f

297 :人間七七四年:2023/10/06(金) 15:16:50.29 ID:AEcR4RFn.net
>>257
>>296
鬼玄蕃・稀代の軍略家・KINGofSAMURAI・今奉孝こと佐久間盛政の実像[最終改訂版]
https://note.com/bostt_andt/n/n9e59c3ef9589

298 :人間七七四年:2023/11/02(木) 22:20:06.25 ID:ATnz7w2C.net
https://pbs.twimg.com/media/F96xg4kagAA8_Fk?format=jpg&name=orig
鬼玄蕃🔺

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