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戦国ちょっと悪い話44

1 :人間七七四年:2016/08/10(水) 07:53:50.85 ID:N3newNEx.net
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話43
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1452933689/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話44
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1469664777/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

2 :人間七七四年:2016/08/10(水) 08:27:42.14 ID:xCVEOQYi.net
個人的にはあの字幕の方が個性があって面白いから、自分の好きに作れば良いと思う。俺の意見としてはね

3 :人間七七四年:2016/08/10(水) 14:29:35.29 ID:BlSChZfX.net
>>1
乙候

4 :人間七七四年:2016/08/10(水) 14:50:00.66 ID:xCVEOQYi.net
大発狂www

5 :人間七七四年:2016/08/10(水) 17:25:19.56 ID:kv4aHxC0.net
【ちょっとどころじゃない前田利家・利長父子の悪い話】

奇襲部隊の敗北は羽柴軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり、それは友軍の逃亡により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。
そこに戦後の事実として、
・秀吉は前田家に加賀北部の2郡を加増した。
ことも考えると、逃走した部隊とは前田利家の軍勢だったことが推測できる。
そしてこの戦線離脱が原因で、奇襲部隊そして柴田軍は敗北した。戦場から離脱しただけの金森長近は十万石も加増されたりはしなかった。
また逃亡したのが別の軍勢だったなら、前田家家臣の小瀬甫庵は『太閤記』で紛らわしい書き方はしなかっただろうし、あるいは 逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。
こうしてみると「柴田勝家が盛政に早く撤退するよう指示した」や「盛政の慢心が敗北を招いた」という記述も疑わしくなってくる。
ただし『太閤記』を読んだ当時の前田家の人々や著者の小瀬甫庵には葛藤があったかもしれない。
『太閤記』の記述だけでも、前田勢が疑われるには十分だからである。
――加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖と二代目の汚点を記すことはできない。敗因は佐久間盛政に負わせるが、盛政の活躍も記す。読者には察してほしい。
なお当時の前田家当主は三代目の前田利常で、当事者だった父と兄は故人で意見を求めることはできなかった。
また賤ヶ岳の戦いは織田家中の内紛であり、合戦当時は前田父子の行動は特に世間から咎められず、江戸時代になってから価値観の変化で問題視されるようになり各史料は曖昧に記述した、という可能性も考えられる。
賤ヶ岳の戦いにおいて、奇襲作戦が成功して秀吉が戻ってくるまでの間、つまり柴田軍が優勢だった時も、山路の他に柴田軍へ戻った武将は結局一人もいなかった。

6 :人間七七四年:2016/08/10(水) 17:30:01.73 ID:kv4aHxC0.net
>>5
佐久間盛政にとって悪い話。
賤ヶ岳の戦いの敗因の濡れ衣を着せられた。

7 :人間七七四年:2016/08/10(水) 17:50:00.66 ID:kv4aHxC0.net
>>6
こっちの「悪い」というのは「気の毒」ってことね。
>>5の「悪い」はそのまま解釈してね。

8 :人間七七四年:2016/08/10(水) 19:20:17.83 ID:5oRQ+Ych.net
考察はいいので逸話をください

9 :人間七七四年:2016/08/10(水) 19:25:44.96 ID:GVKjmEBJ.net
自分で出せばいい。>>8

10 :人間七七四年:2016/08/10(水) 19:39:10.14 ID:5oRQ+Ych.net
残念ながら持ち合わせてございません

11 :人間七七四年:2016/08/11(木) 05:01:18.58 ID:ZosboOOY.net
ふざけんなゴミクズ
生きてて恥ずかしくないのかこの社会のド底辺が

12 :人間七七四年:2016/08/12(金) 19:52:43.93 ID:Kk3SUg2j.net
山本太郎

愛媛県の伊方原発が再稼動される。正気とは思えない判断だ。東電原発事故や熊本地震から一体、何を学んだのだろうか?
http://ameblo.jp/yamamototaro1124/entry-12189491723.html


マイト レーヤは原発の閉鎖を助言されます。
マイト レーヤによれば、放射能は自然界の要素を妨害し、飛行機など原子のパターンが妨害されると墜落します。
マイト レーヤの唇からますます厳しい警告と重みが発せられることを覚悟しなさい。彼はいかなる人間よりもその危険をよくご存じです。

日本の福島では多くの子どもたちが癌をもたらす量の放射能を内部被ばくしています。
健康上のリスクは福島に近づくほど、高まります。福島県民は発電所が閉鎖されれば1年か2年で戻って来られるでしょう。
日本の近海から採れた食料を食べることは、それほど安全ではありません。汚染されたかもしれない食料品は廃棄すべきです。
問題は、多くの人々が核の汚染の影響で死んでいるのに、日本政府が、原子力産業を終わらせるおそれのあることを何も認めようとしないことです。

注意欠陥障害(ADD)多動性障害(ADHD)、慢性疲労、あらゆる種類の癌の増大、呼吸そのものが脅かされています。
世界中で病気、主に皮膚、心臓、肺に関する病気の発生率が上昇し、ずっと昔に征服された病気が復活しはじめています。
汚染による死者の数は、他のいかなる原因よりも多いです。河川の汚染は社会に対する犯罪と見られなければなりません。
免疫システムの崩壊の結果がアレルギーです。人々は肺炎やインフルエンザやHIV/エイズなどに抵抗できなくなっています。
認知症の過程は放射能汚染によって加速します。増加するアルツハイマー病の原因となっており、より若い人々に起こっています。


2011年
3月18日  「致死量の放射能を放出しました」東電の小森常務は、こう発言したあと泣き崩れた。
        事故に直接責任のある清水・勝俣に20億円を支払い、事故当時の経営陣は全員、全額退職金を税金から分捕って逃亡

13 :人間七七四年:2016/08/17(水) 18:32:46.28 ID:O49atqFZ.net
梃子でも動かない男

寛永5(1628)年7月14日、江戸城において能があり諸大名が見物していた。
その時大地震が起こり、驚いて能舞台の周りの白洲に降りてしまう人が多かった。
森忠政は嫡男の忠広と共に座っていたが、向かいにいた忠広がすぐに(逃げようと)
立ち上がろうとしたのに気づくと忠広を思い切り睨みつけたので忠広は立ち上がれなかった。
忠政の隣に座っていた堀尾忠晴も立ち上がったが、忠政が袴の合引をつかみ座らせた。

伊達政宗は(逃げようと)端まで出てしまっていたが、忠政父子が(揺れていても)座っているのを見て
「御前が近いのに大騒ぎではないか、最早揺れも鎮まったのでみな席に戻られよ」
と差していた扇を開き、白洲に降りた人を取り鎮め自らも席についた。

翌日、堀尾は森家に来て忠政に
「昨日の御心付けは生生世世忘れがたいことです」と礼を言ったという。

――『森家先代実録』

……政宗がちょっとかっこ悪かったのでこっちに。

14 :人間七七四年:2016/08/17(水) 19:11:30.95 ID:zg4l8qgT.net
>>13
政宗せっかく取り繕ったのにばれてるw

15 :人間七七四年:2016/08/17(水) 19:35:39.02 ID:WgAt7fYc.net
>>13
以前読んだのは、忠政と家康以外みんな逃げたが、
逃げようとした政宗は、忠政と家康が微動だにしないのを見て、逃げるのを止めた。
だったと思ったが、1628年なら家康死んでるな。

16 :人間七七四年:2016/08/17(水) 19:42:28.89 ID:q/ilRzTo.net
凡人と偉人のラインの
ギリギリ偉人側にいるのが政宗

17 :人間七七四年:2016/08/17(水) 21:32:27.65 ID:WgAt7fYc.net
堀尾忠晴って、前田利常の彼氏だったな。

18 :人間七七四年:2016/08/18(木) 19:30:48.20 ID:zWB+z/Fv.net
これはたいへん申し上げにくいことなのですか、世の中では殿(井伊直政)のことを、人を斬る人物だと
沙汰しています。私達においても、よその知人から、『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』と、
生存を確認する書状が来る始末です。

殿におかれては、大方の科は御堪忍なされ、処刑に値する罪でも、五度に二度は命を助けられ追放に
とどめ、罪のある中でも忠功のある者には、前の科を捨てられることこそ、誠の大将というものなのです。

殺害の多い大名は良い家臣を持てません。先年、当家(井伊家)は、美濃輪、橋田、秋山、戸倉、勝野の
五人、彼らは上方で名のある武士であったので、それぞれに千石づつ宛てがい召し抱えたいと伝えました。
彼ら五人は、その前は織田源之丞に仕え、五百貫を知行していました。そんな彼らに千石づつという
非常に高い条件で召されたというのに、彼らは「上方にて望む所があるので:と、断ってきました。

しかし、断った彼らの本音は、「井伊家はキツイ」という判断なのです。
その後千五百石まで条件を上げても参りませんでした。近頃聞いた所によると、彼らは本多平八殿の所に、
わずか八百貫で五人全員が参ったそうです。実に惜しき事です。
家臣が当家長久、子孫・武勇繁盛と祈るのも、それは長命を前提としているのですよ。

殿は六年ほど前からお心がけが変わり、物荒くなられました。
家康公の仰せにも、「何であっても三度家臣と相談して決定するように。」と有るではないですか。
これはしっかりと自覚すべきです。

(松のさかへ)

井伊直政への重臣よりの諫言書より。
直政の重臣たちにはよその知り合いから「まだ生きてる?」という書状が届くような状況だったらしい。

19 :人間七七四年:2016/08/18(木) 21:08:30.27 ID:sUGxG//l.net
>>18
>『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』
どんだけ危ない大将なんだよw

20 :人間七七四年:2016/08/18(木) 21:23:15.57 ID:o2hjQZMp.net
q=井伊ね!

21 :人間七七四年:2016/08/18(木) 22:11:36.52 ID:MlTLB+Gb.net
鬼武蔵のところはどうだったんだろう?

22 :人間七七四年:2016/08/18(木) 22:12:31.09 ID:ZS1gmFa7.net
武士って本当楽じゃねえな…

23 :人間七七四年:2016/08/19(金) 00:45:11.09 ID:oH+VXyuJ.net
喜多院に味噌をすること成らず

永禄の頃とか、喜多院の住持が天狗となって妙義山中の獄というところに飛び去ったという。
よって住職代々の墓の中に、この住持の墓だけは無いという。

またこの住持に使われていた小僧も天狗となって飛び立ったが、庭前で墜ちて死んだ。
ゆえにその処に今小祠を建ててある。
この小僧が飛び去る前は味噌を摺っていたが、すりこ木を投げ捨てて飛んだとか。
その故か、今はこの院内で味噌を摺ると、必ず何物かがすりこ木を取り去ると。
なので味噌を摺る事ができないので、槌で打って汁にするという。
これもまた何者かがかくなしているのか。

(甲子夜話)

24 :人間七七四年:2016/08/19(金) 10:11:35.12 ID:/CyzfqZL.net
うんこは持ち帰りの逸話かと思った

25 :人間七七四年:2016/08/19(金) 13:04:04.23 ID:46fc0BLd.net
味噌を擂って使ってたのって昭和何年くらいまで?

26 :人間七七四年:2016/08/21(日) 02:03:59.09 ID:g3SzQ0MP.net
浅野長政の歩士が伊勢に使いをした時のこと。歩士が道に墓場のある場所を
夜中によぎったところ、変化の物が出現した。

その身体には火炎があり、不動明王の姿形のようだった。火光の中のその顔を
見れば、にかりにかりと打ち笑って、こちらに向かって来る。

歩士が刀を抜いて走りかかり、これを斬ると火光はたちまち消えて暗夜となった。
それから、歩士は伊勢に行き、次の日の帰路で件のところを見ると、苔むした
石仏の頭から血が流れ出ていた。また、刀の切っ先外れには斬った跡があった。

歩士は取って返し、この事を人に言ったが、誠らしからぬことなので親しい友に
密かに語り、刀を見せた。すると、その刃には血が付き、石のひき目があったが
刃は欠けていなかった。

浅野長政はこの事を聞いて、秀吉の耳に入れた。秀吉がその刀を召し寄せて
一覧すると、備中青江の作で2尺5寸のものだった。

秀吉は、「これは名物である」と言って、その刀に“にかり”という異名を付けて
秘蔵した(にっかり青江)。にかりはその後、京極忠高の家に伝わった。

――『武将感状記』

27 :人間七七四年:2016/08/21(日) 08:44:20.47 ID:IxSsKAaB.net
こっちは女の幽霊じゃないのか
てか、ニヤニヤしてる不動明王とか気味悪いw

28 :人間七七四年:2016/08/21(日) 11:38:25.16 ID:7gpb65U3.net
>>26
にっかり青江の別パターンか

29 :人間七七四年:2016/08/22(月) 03:26:52.13 ID:hhsYaD5R.net
堀尾信州(忠氏)は23歳で関ヶ原陣を勤めなさって功があった。
信州は帰陣以後に出雲・隠岐を拝領した。

信州は自らの縄張で城を築き、父・帯刀(吉晴)の後見を受けず
して完成させた。

信州が言うには、「帯刀殿の思し召しでもあれば、承りたい」との
ことであったが、ひとつの過ちも無かった。

その信州は26歳で死去した。

――『武功雑記』

30 :人間七七四年:2016/08/22(月) 08:12:16.67 ID:+u2AfNLo.net
人柱の祟りですな

31 :人間七七四年:2016/08/23(火) 04:34:45.80 ID:WpCl8dTq.net
段階踏んでどーこーじゃないよっての
いい例なんだよね実際

32 :人間七七四年:2016/08/23(火) 21:27:08.57 ID:JLm47JcP.net
森武蔵守戦死のときの甲冑所在の事

予が在勤していたとき、森右兵衛佐(忠賛)〔赤穂城主〕としばしば会った。
そのとき彼が語った中で、

彼の先祖の武蔵守は、世に鬼武蔵と称されていて、
長久手で戦死した時に着ていた具足が今に家伝しており、
糸威の鎧であるが、小兵と思われて、胴が小さく某には合わなかったとの話が出た。

この右兵衛佐もさほど大兵ではないので、かの鬼武蔵というのは
世の沙汰には似ず小兵と見える。

またその時着ていた兜は家には伝わってない。
聞くところでは永井の家にあると語った。

(甲子夜話)

鬼武蔵チビ説

33 :人間七七四年:2016/08/23(火) 21:36:21.16 ID:fxMtgD6b.net
鬼さん、ちびっこだったんか

34 :人間七七四年:2016/08/23(火) 21:43:13.34 ID:67sBkC92.net
>>32
信憑性が気になる

35 :人間七七四年:2016/08/23(火) 23:52:10.01 ID:AYGW6QM6.net
松浦静山が実際に聞いたってんだから、森忠賛がとりあえずつけてみたのは確かなんだろう
本当に森長可の具足だったのかどうかはさておき

でも小さくても鬼のように強いとかたまにあることだし

36 :人間七七四年:2016/08/24(水) 04:21:00.00 ID:QmNZSZ0d.net
中川修理太夫秀重(秀成)の家来・赤座七郎兵衛は鉄砲頭である。赤座の妻の
弟に村井津右衛門という浪人がいて、彼は赤座のところにいた。

岡城は険阻な地理で諸士の居宅はここかしこにあって続かず、10町ほど家から
離れたところには墓場があった。いつの頃からかこの墓場で、雨風の夜に物の
羽撃きと鳴く声がするようになった。

そのため化物が出て来たと言い広められ、農商女童はたいへんこれを恐れた。
こうして数日が過ぎた時、村井はある所に行って夜に入り、帰ろうと言った折、
雨風は激しく、夜も更けていた。

その帰路は前述の墓場を過ぎる所だったため、その座中の人々は、「きっと、
最近の化物が出るだろう。とにかく、ここに泊まりなされ」と、村井を止めた。

村井は「何の思慮も無く粗忽な言葉だな。こう言われては泊まるべきだろうか」と、
心中で思ったが、なんでもない体で「赤座に必ず帰ると申したので、寝ずに待って
いるでしょうから」と言って、帰った。

ところが、村井が墓場近くに来ると、羽撃いて鳴く音が聞こえた。村井は、「さては
事実だったか!」と思い、その声に従って歩み寄ったが風の絶え間に声が止んだ。

彼がこの辺だろうと声のした所に近づくと風が吹くと同時に“はたはた”“ひょうひょう”
と言って、頭の上に何かが掛かった。村井は前もって、「斬らずに捕らえてやる」と、
覚悟していたので、これを捕らえ手探りして見た。

すると、それは竹の子笠で、墓場の竹垣に掛けて置いてあったものだった。これを
外すと風が吹いても声はしなかった。村井はこれを取って帰り、とっくに寝ていた
赤座を起こして、「私は今夜、かの化物を斬り留めました」と言った。

赤座が「それは奇怪なことだな」とその事を問うと、村井は人を退かせて、「こうこうの
首尾です」と、言った。これを聞いた赤座は、「事実は言うな。単に斬り留めたという
ことにしろ」と言って、次の日に人に会いこれを語った。

つまり“はたはた”という音は笠が垣根に当たる音である。“ひょうひょう”という声は、
笠にさえぎられた風が、垣根の竹の穴に激しく当たる音である。

その後、羽撃きも鳴く声も無かったので、人は村井が斬り留めたのだと信じた。
世上で妖魔などと言い伝えるものは、その実を正せば皆竹の子笠の類なのだろう。

――『武将感状記』

37 :人間七七四年:2016/08/24(水) 14:02:15.40 ID:pPGBazbw.net
>>36
手柄にしちゃうのか(困惑

38 :人間七七四年:2016/08/24(水) 14:41:12.97 ID:jO55FeWP.net
はやく出てってもらいたい居候だしな
妖魔退治の噂が拡がれば仕官の話くらい出てくるだろう

39 :人間七七四年:2016/08/24(水) 16:06:04.15 ID:v1aiHHVU.net
騒動の原因を取っ払って不安を解消してるんだから
手柄にはなってるしいいんじゃないか
種明かしするか妖怪退治したことにするかは
教訓話が好きなタイプは前者の方を評価するだろうけど
義兄は後者の方がいいと判断したんだろう

40 :人間七七四年:2016/08/25(木) 14:21:09.55 ID:vy/UI/bB.net
ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

永青文庫にて所蔵・展示されている「九曜紋付南蛮鐘」は、記録がないため詳細は不明だが
現存する4つの南蛮鐘(キリシタンベル)の内の一つで大変貴重なものであり
現代の細川家/永青文庫では通称『ガラシャの鐘』と呼ばれている。

ttp://sawarabituusin.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2013/04/15/130405_112_2.jpg

細川忠興は妻の珠(ガラシャ)とは生前信教のことで対立することも多かったものの、
珠が自害した翌年には焼跡から珠の遺骨を拾ってくれたオルガンティノに教会葬を頼み、自身も参列。
慶長7(1602)年からは、小倉城下ではセスペデス神父や家臣の加賀山隼人の指揮の下
天主堂や集会所等を作ることを許し、キリシタンに対して非常に寛容な態度で接していた。
忠興がこの南蛮鐘を鋳造させたのは、恐らく天主堂に寄進するためだったのだろう。
加賀山は10歳のときにフロイスから洗礼を受け、安土のセミナリヨで学んだという筋金入りの
キリシタンだったので、小倉の教会では中心的人物になったという。

しかし慶長11(1606)年のセスペデス神父の急死や、慶長18(1613)年の幕府の禁教令により
キリシタンに同情的だった忠興の態度はついに硬化し、天主堂を初め関連する建造物は全て破却された。
この鐘も小倉城下に音を響かせることは終ぞなく、櫓の隅に仕舞い込まれたと言われる。

当然細川家中でのキリシタンへの目も厳しいものとなり、六千石の禄を得ていた加賀山も幽閉され、
忠興に「自分と一緒に地獄へ行こう!」とまで言われ棄教するように説得を受けたが、拒否し続けた。
元和5(1619)年在京中に信者52人が処刑された京都の大殉教を見た忠興は、加賀山の説得を諦め処刑を命じ
10月15日、加賀山隼人(洗礼名:ディエゴ)は小倉城下町の西、干上りの丘で斬首された。

41 :人間七七四年:2016/08/25(木) 14:21:50.71 ID:vy/UI/bB.net
おまけ

細川忠興の親友森忠政はいろいろあって津山城を完成させ、お祝いに忠興から鐘をもらっている。
(参考:ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1154.html)

ttp://blog.zaq.ne.jp/bokuhakaze/img/img_box/img20110522130421625.jpg

通称『朝顔の半鐘』とも『篇笠の釣鐘』とも言われる鐘だが、『ガラシャの鐘』と九曜紋の位置や大きさを
除けば、非常に似通っている。
確証こそないものの津山城完成が元和2(1616)年で同時期のため、
ガラシャの鐘を鋳造するときに一緒に作られたのではないかという論考がある。
こちらの方は津山城の天守閣の最上階に吊るされ、時を告げる鐘として毎日鳴らされ続けたらしい。

42 :人間七七四年:2016/08/25(木) 20:30:59.76 ID:IOH8YPJd.net
プレゼントなんだから、九曜紋じゃなくて鶴丸紋にするべきだったんじゃないかな。

43 :人間七七四年:2016/08/26(金) 04:32:02.82 ID:SjtvSl7Y.net
西三条逍遥院(三条西実隆)殿が、御養生として有馬へ湯治に出かけたことがあった。
そのとき、歌の批評を望む者が参った。

とにかくよろしくないものであったので

昔より 奇特ありまの 湯ときけど 腰折れ歌は 直らざりけり
『腰折歌 下手な歌』

(醒睡笑)

44 :人間七七四年:2016/08/30(火) 02:43:42.84 ID:6yQcpp99.net
光秀の連歌、今愛宕になき事

愛宕山で明智光秀連歌のことは、世にあまねく知るところであるが、
そのときの懐紙、伝わってかの山房にあるという。

予は今年阪昌成に〔連歌師〕にこれを問うと、

「寛政の末に、かの山で火事があったとき、このものも消失ました。」

とのことであった。貴むに足りるものではないが、旧物なので惜しいものだ。

そのときの百韻は今に伝写のものがあるという。

(甲子夜話)

燃えちゃったので、里村紹巴の書き換えも分からないままとなってしまいました

45 :人間七七四年:2016/08/30(火) 20:11:06.04 ID:ec+RNKRo.net
高橋右近大夫種統(元種か)はもともと豊前国に所領を持っていたが、日向の懸にも土地を有していた。
大友家が滅亡した後、天正16年7月、豊前より日向に移り、松尾城に居住し、その後慶長8年、再び
懸城を築いて松尾城から移った。

元種は初めのうちは行状も正しく、領民たちも皆その政に懐いていたが、中頃より行状大いに乱れ、
酒宴にひたり女色に溺れ、無道の挙動多かった。

その頃、板坂出羽守(直盛)という大名の甥に、水間勘兵衛(宇喜多左門か)というあぶれ者が有った。
彼が故あって、直盛の厩預かりの侍を討ち果たして出奔した。直盛は大いに怒って将軍家に訴えたため、
将軍家はあまねく天下の諸侯にその捜索を命じた。

この水間勘兵衛は伊予国、飛田信濃守(富田信高)内室の従兄弟であったので、一旦は富田家を頼って
匿われていたが、富田信高も匿いきれないと考え、官兵衛に扶持を与えて、肥後の加藤家を頼って
遣わした。しかし加藤家でも匿いきれず、高橋家を頼り、高千穂の山奥に匿うことと成った。

ところがこの水間勘兵衛は、元来悪逆無道の者であったので、高千穂において召し使っていた人夫の一人を
手打ちにした。この時、元種の家老である花田備前守は元種に向かって
「あの水間勘兵衛を加藤家に返されるべきです!」
と諌めたが、元種はそれを承知しなかった。
しかし、勘兵衛に殺された人夫の父は、我が子が非命に死んだことを無念に思い、関東まで密かに上り、
板崎家に訴え出た。

こうして水間勘兵衛の匿われた場所が露見し、高橋元種も隠しきることは出来ず、勘兵衛を搦め捕えて
関東に差し出した。
時に慶長18年夏、駿府において富田、加藤、高橋の三家が召され裁判が行われた。

富田家は勘兵衛に不知を与えた罪により改易を仰せ付けられた。
加藤家は申し訳が立って無罪。
高橋家は匿い置いた罪によって、元種ならびにその嫡男に、出羽山形への配流を命ぜられた。

(日向纂記)

高橋元種が、富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれて改易と成ったお話。

46 :人間七七四年:2016/08/30(火) 20:20:27.58 ID:8e77uKs8.net
>>45
>人夫の一人を手打ち
匿われてるのにクズすぎるだろw

47 :人間七七四年:2016/08/31(水) 00:05:59.17 ID:L4DywtDZ.net
叔父がクズなら甥の坂崎もクズでその甥もクズという連鎖

48 :人間七七四年:2016/08/31(水) 00:35:56.01 ID:udK35cdD.net
>>45
正確には元種一家は棚倉の立花家預かりだな
しばらくは宗茂が元種のために復権の活動してくれてたらしいけど

49 :人間七七四年:2016/09/01(木) 09:28:23.41 ID:OMaP3/ky.net
今が御侍の世の中だ

(美作国)大庭郡湯原村に住む宗玄という百歳超えの長寿の老人が言うには
今は御侍の世の中だという。

「某(宗玄)が若き時分は、笹向の侍、飯山の侍、一瀬の侍衆は
表裏によく糊を付けた白い布を打ってそこに綿を入れ布子にし、着物にしていた。
備前からの通路が不自由なので朝夕は麦飯と赤鰯しか食べることが出来ず
『誰尊上(目上の人)とは久しく会っていないなぁ』と言えば
『十日以上前に討ち死にして、毛利家に首を取られたよ』と言われて
『(奉公してから)そんなに間がなかっただろう』と聞けば
『奉公して三十日で討ち死にしたらしい』と言われた」

「今の侍は小袖を着て白米飯には肴を添え、その上敵に首を狙われる事もないので
今が御侍の世の中だ」と言ったとかいうことだ。

――『森家先代実録』

50 :人間七七四年:2016/09/01(木) 19:03:25.11 ID:szwZYy7K.net
将軍秀忠の娘(千姫)と豊臣秀頼との婚姻の沙汰有り、この執成を行ったのは加藤肥後守清正であった。
肥後守はこの当時、肥後熊本に在城して本知行70万石、御預り地24万石を支配し、誠に秀頼にとって
補佐の臣であった。

この姫君が大阪に輿を入れた後、暫くの間は天下無為の思いをなした。

このお輿入れは慶長8年7月28日という説があり、また慶長10年7月28日だったともいうが、これらは共に
妄説である。徳川家の実録によると千姫のお輿入れ慶長13年7月28日、輿添は池田輝政、浅野幸長とある。

しかしこの時豊臣秀頼は、関東(幕府)の仕方を悪み、そのため御台所とも不和であり、淀殿も後々には
対面すらしなくなった。この事は関東が、豊臣家に対する感情を悪化させる最初の出来事であった。

加藤清正は秀頼と千姫の不和を聞くと大いに嘆き、数ヶ条の言葉を以って諫言をしたが、秀頼は
全くその意見を聞かなかった。そしてこれは、大阪が社稷を失う基となったのである。

(慶元記)

51 :人間七七四年:2016/09/02(金) 00:05:46.39 ID:TDgDkPzi.net
>>49
森家ってあの森家?

52 :人間七七四年:2016/09/02(金) 09:24:33.24 ID:HDiKfvez.net
>>51
先代実録自体はいろんな書からの集成なんで(家記は大体そうだけど)
森家自体の話ではなくて森家が入った津山の地元の侍の話ね

53 :人間七七四年:2016/09/02(金) 12:44:19.68 ID:lZSj8fMP.net
大阪御城明ずの間の事

 大阪の御城内、御城代の居所の中に開かずの間というところがある。
この所は大きな廊下の側にある。ここは五月落城のときより閉じたままで、今まで一度も開いたことがないという。
よって代々のことなので、もし戸に損じがあれば版をもってこれを補い、開かざることとなし置くという。
 ここは落城のとき宮中婦女の生害された所という。
この故か、後になおその幽魂が残ってここに入る者があれば必ず変禍をなす事がある。
またその前にある廊下で臥す者は怪異に遇うともいう。

 観世新九郎の弟宗三郎、かの家伎のことによって、稲場丹州が御城代であったときに彼に付き従った。
ある日丹州の宴席に随って酒を飲み、覚えずかの廊下に酔い臥せった。
翌日丹州に

「昨夜、怪しいことはなかったか」

と問われたが宗三郎は覚えがないと答えた。

「さらばよし。ここはもし臥す者があれば異変が出る。お前は元来このことを知らなかった。
なので冥霊も許したのだろう。」

と言われると、宗三郎は聞いて初めて怖れて、戦慄居る所を知らなかった。

 また宗三郎の物語に
ある天気が快晴のとき、かの室を戸の隙間から窺がい見るとその奥に蚊帳と思しきものが
半ば外し、半ば鈎にかかっているものがほのかに見えた。
また半挿のようなもの、その他の器物が複数取り散らかしている体に見えた。
しかし数年久しく陰閉の所なので、ただその状態を察するのみであったという。

 いかにも身の毛が立つ話である。
また御城代の某侯、その権威でここを開いたことがあったが、たちまち狂を発せられて止めたという話も聞く。誰であったのだろうか。

 このことを林述斎に話せば大笑いして
「今の大坂城は豊臣氏の旧に非ず。偃武の後に築き改められた。まして家屋の類は勿論皆後の物である。
総じて世に流れる造説には実らしいこと多いものである。
その城代である人も旧事詮索しただけであろう、徒に斉東野人の語を信じて伝えるのは、気の毒千万である。」
という。
 
 林氏の説もまた勿論である。しかし世には意外の実跡もある。
また暗記の言は的証ともなしがたいものだ。
ゆえにここに両端を叩いて後、定めを待つ。
(甲子夜話)

54 :人間七七四年:2016/09/02(金) 16:12:38.73 ID:aSA/depL.net
>>53
なんだこの冷静な作者はw

55 :人間七七四年:2016/09/03(土) 10:00:07.73 ID:K223baAA.net
方広寺鐘銘事件について、難波戦記、片桐伝記、北川覚書などに記される所によると、
これが幕府から豊臣家を咎めた第一の理由であり、大坂の陣はこの事を理由に起こったように
記せられている。これは甚だしい妄説である。

幕府が片桐且元を召して告げた七ヶ条の御難題と、鐘銘事件は関係がない。
もちろんその七ヶ条の末の一ヶ条に、鐘銘に関東呪詛の文有りとの文言があるが、この事について
強く諌めてはいない。

いまここに、この鐘銘について記しているのは、世の人々皆が、この鐘銘より兵乱が起こったという説を
疑わず、童すらそう知っているためである。

この鐘銘の草案は前年の冬、片桐且元より本多佐渡守に遣わされ、「何か問題が有ればすぐに伝えてほしい」と
言いおかれている。しかしあえて供養の日に至って、板倉勝重より「関東調伏の文有りし故、供養は
延期するように」とその停止を求めた。これは本多正信、板倉勝重らの謀臣がこのように謀ったのでは
ないだろうか?
その奥意は深く計り難い。

(慶元記)

56 :人間七七四年:2016/09/03(土) 19:52:23.95 ID:wB+53SAg.net
今でも通説だよね

57 :人間七七四年:2016/09/03(土) 19:54:56.38 ID:AJFlgTjl.net
>>45のレスを見て思ったけど坂崎出羽守って歩く爆弾みたいなものだな

・宇喜多秀家(宇喜多騒動で家臣激減。関ケ原敗北で八丈島配流。ある意味直盛による最大の被害者)
・中村九郎兵衛(加賀前田家出身。宇喜多家執政。大坂で直盛に襲撃されて加賀へ逃亡)
・宇喜多忠家(息子が起こした騒動のせいで宇喜多家を退転隠棲する羽目になる)
・富田信高(直盛甥隠匿事件で改易に追い込まれた人その1)
・佐野信吉(富田信高の弟。直盛甥隠匿事件で改易に追い込まれた人その2)
・高橋元種(秋月種実の子。直盛のせいで改易に追い込まれた人その3)

以上は坂崎直盛被害者の会と言っていいと思う

その他

・千姫(直盛の逆恨みで襲撃されそうになった人)
・本多忠刻(忠勝の孫。小松姫の甥。千姫の再婚相手。直盛のとばっちりを受けそうになった人)
・立花宗茂(西国無双。千姫奪取未遂事件時に直盛の乱鎮圧の計策をひねり出したのはこの人らしい)
・柳生宗矩(宗茂の計策を胸に直盛を説得し切腹に追い込み乱を鎮める。二枚笠紋を直盛から譲られる)
・小野寺義道(元・出羽横手城主。直盛に恩義を感じ直盛十三回忌時に墓を建立)
・明石全登(大坂城七将星。元・宇喜多家客分。キリシタンになったのは直盛の勧めという)

58 :人間七七四年:2016/09/04(日) 10:31:28.65 ID:dE41Oe15.net
南部の地を仙台侵せしときのこと并侵地の広さ

奥州の南部の人がいる。
今青山大膳侯の家臣である。岡本祐助と称す。
彼は予の小臣の小楠十乃助なる者に以下の事を語った。

「南部侯の領内は広々と開けているので、
昔はあたかも限りが知れないと思われるほどの地であった。
ある頃の主は幼稚であったので、
隣接していた主の政宗とやらが、
徐々に領界の傍示を南部領へ移し立て、
仙台領を広めて、ついに大河がある辺りまで領境を及ぼした。
南部では大いに驚いたが、幸いにしてその河辺りに大洞窟があったのでそれを拠点にして、
この中に人衆を屯し弓銃を備え、仙台から人が来たら防御を専らとするようにしたら、
仙台の侵奪が止んだ。
今なおその穴の中に従卒を三十人ほど置いていて、
古昔からそのことは替わっていない。
なので今に至っても、交守して長城の塞兵の如しである。」

また言う。
「かの河向かいの、かつて仙台が侵略した地はおよそ二十万石とか。
今、目で全てを見渡すことができない大広田である。
今その所には、仙台侯の土着の士が多い。
それなのに南部侯の領有の地名を苗字にする者がいるのは、
彼らはかつて南部から仙台に従った、不義の輩であろう。」

以上は小人の話なので、実否は疑わしい。
(甲子夜話三篇)

バス停コピペを思い出す

59 :人間七七四年:2016/09/05(月) 12:22:55.41 ID:A8Sc2ruY.net
本にすると面白いね

60 :人間七七四年:2016/09/05(月) 13:31:03.55 ID:WluS7hFV.net
初対面の額を平手打ちして激昂した相手に仕返しされる逸話が好き

61 :人間七七四年:2016/09/05(月) 13:32:33.87 ID:vV2TbTzk.net
政宗の逸話はしょうがねえなーって感想ばかりだw

62 :人間七七四年:2016/09/05(月) 22:35:33.44 ID:ZYCSMBwN.net
>>58
なんかほのぼのとしてワロタw

63 :人間七七四年:2016/09/08(木) 08:59:52.56 ID:Zv8WSUbD.net
須賀川の城落つる事


二階堂盛義の正室大乗院(一般には阿南姫と呼ばれる)は夫の盛義と次男の行親が相次いで
没したため、天正10年(1582年)から須賀川城主となっていた。
阿南姫は伊達晴宗の長女で政宗から見れば伯母にあたる人物だが
蘆名盛隆(実は蘆名氏に養子に入った阿南姫の長男)とその子が没したときに
伊達側が政宗の弟小次郎を養子に送り込もうと画策し失敗したことが
禍根となり伊達家とは絶縁状態であった。

天正17(1589)年、伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼした後
親蘆名だった二階堂家の須賀川城にも数日中に攻め寄せる風聞が立った。

評定の席で家臣たちが阿南に
「伯母なのだからきっと悪いようにはしない(命は助けてくれる)でしょう」
と降伏をすすめると阿南は
「いや、そうではない。はかない女の身ながら一途に思い入れていることがある。
我が身が盛義と離れてから九年になるが、思うようにならず暮らしていたところを
田村清顕が浅ましくも小倉・松ヶ鳥屋に押し寄せてきて河東の郷を奪い取ろうとし
防戦したとは言え関河内まで難なく清顕が入ってきたとき、嬉しいことに
佐竹義重が大軍を後詰めに出してくれたため清顕を追い返すことが出来たのだ。
松ヶ鳥屋のあたりを今まで無事に領しているのはひとえに義重のおかげである」
「我が身を安々と政宗が手中に収めてしまえば、仙道筋の諸将であの者に逆らおうと
する者はいなくなるだろう。そうなれば横柄な政宗は上見ぬ鷲の挙動してすぐにも
義重に仇をなすだろう。我が身だけはせめて一日でも歯向かい義重の恩に報いたいのだ」
と訴えた後、重恩の郎党共を召し寄せて
「風聞通りなら間もなく政宗が大軍で押し寄せてくるだろう。そうなれば多勢に無勢の習いで
安々とこの城は落ち甲斐なく討たれることは必定だろう。また命を惜しみいずこへ落ち延びたところで
草葉を分けて探しだされ妻や子どもにさらに憂き目を見せるだけになるのではないか。
ここはそれぞれ思うように降り政宗に奉公してほしい。少しも恨むことはない」
「我が身は女ながらも思うことがあるので、一人でもこの城でこらえて政宗が寄せてくるのを
待って自害する。冥途まで一緒にと思う者は伴をせよ。そうでない者は暇を得させよう」
と目を涙でいっぱいにして訴えたので、そこにいた家臣たちも袂を顔に押し当ててしばらく
涙に咽んでいたが、少しあってから
「そこまで思い定めなさっているのに、誰が恩を忘れ見捨てることがあるでしょうか。
たとえどのようなことになってもまず私達が討死してからの御身のことだと思って下さい」
と頼もしげに言ったので、阿南もとても嬉しそうにしていた。

64 :人間七七四年:2016/09/08(木) 09:00:44.01 ID:Zv8WSUbD.net
しかし政宗が侵攻してくるという沙汰が頻繁になってくるといつしか家臣同士も不和となり
早くも降る人間も出始め、重臣の守屋筑後守も伊達側と裏切りの密約を交わした。
侵攻してきた政宗は、敵側の死狂いに味方が駆り立てられ死傷者が増えるので攻めあぐねていたが
そこで守屋が自分の指物を抜いて部下に合図し長祿寺という禅寺の便所に火を付けさせたところ
西風が激しく吹き城中の役所に燃え移り四方に焔を吹いて軒を連ねた舘共々、炎上した。

阿南はこの成り行きを見て守屋の謀反を悟り、城中にいた守屋の妻を呼んで
「守屋め、譜代重恩の身を忘れこのようなことをするとは情けない」
と言ってさめざめと泣いたので、守屋の妻は応えて
「まことお恨みの程、愚かな我が身にもこれ以上はないと思います。この上は
御胸を晴らす為に某をどのようにでもしてください、露ほども恨みはしません」
と涙ながらに言ったので、腹をすえかねた阿南が襟を掴み刺し殺そうとすると
流石に女の儚さでそばにいた女房が袂に取り付いて妨げたので、阿南は小刀で
自害しようとし、大勢でとどめることになった。

その後政宗の元から迎えの人間が十四、五人来たので女房八人侍九人が阿南に付き添って
炎の中から泣く泣く出てきたことは、哀れといえるだろう。

――『会津四家合考』

その後阿南は政宗によって保護されたが伊達側が用意した食事には手を付けず、政宗のことを嫌って
甥の岩城常隆を頼ったが常隆が亡くなると、さらに甥の佐竹義宣の下に身を寄せた。
慶長7(1602)年佐竹家の転封に伴い出羽国に赴く途中、須賀川付近で病を得て亡くなったという。

65 :人間七七四年:2016/09/08(木) 14:06:48.26 ID:jEld/eEc.net
>>63-64
嫌になるぐらいリアルだ…現実は小説や映画のようにかっこよくはいかないなぁ…。

66 :人間七七四年:2016/09/10(土) 07:36:06.71 ID:jkkgXYN4.net
佐竹義宣が石田三成と親しかったのは、理由の有ることであった。
常陸国には三十三館(南方三十三館)といって、名家の末があったら、年来義宣の下知に
従おうとしなかった。石田三成は関白秀吉の覚えめでたい人物であったので、義宣はこの人に
付いて「三十三館の者共が、関白の仰せを軽んじています。」と訴えた。

三成は秀吉の側にあり、これを取り次ぐと、秀吉は「下知に背くものは尽く誅すべし。」と
仰せ下した。
義宣はこれを受け、三十三館の者達を招き寄せると、そこに武士を伏せておき、尽くこれを殺した。
そして彼らの城々に討手を遣わしてその一党を攻め滅ぼし、所領尽く併呑した。

関ヶ原の後、佐竹は出羽国に転封となった。
この時佐竹家臣の群馬丹波守猛虎という者は義宣を諌めた

「君にはどうして、唯々諾々と先祖伝来の地を他人に渡されるのですか!?
ここには恩顧普代の侍が5万人あり、兵糧の蓄えも、10年ほどは不足しません。
さらに、この城(水戸城)は要害堅固であり、天下の兵を集めて攻められたとしても、
一気に落とされるようなことはありません!
しかし一旦ここを去ってしまえば、もうどうにも出来なくなるではありませんか。」

しかし義宣は言った
「お前の言葉は理あるに似ている。だがな、佐竹義久が内府のことを天の許せる英雄であると言ったのは
違っていなかった。

私は先に、三十三館の者たちを滅ぼし、その領地を尽く取り上げた。
今日、私に従っている者達の中には、その親族遺臣が少なからず居るが、彼らが背き離れようとしないのは
私を畏れるためではない。内府の威を憚っているからだ。

お前は私のために命を惜しまぬと言うが、どうしてかつての仇敵に縁のある人々を率いて、
天の許せる人に歯向かうことが出来るだろうか?戦が始まる前に、内乱が起こればそれこを
どうしようもなくなる。」

こうして、佐竹義宣は七十余騎のを率いて累代の地を去り、秋田城へと入った。
しかし群馬丹波守猛虎は

「よしよし、大腰抜けの大将の手に従って、何の功があるだろうか!我のやり方を見よ!」
そう言って手の者を率いて旧領に立ち返り、徳川家の代官を夜討ちしようとしたが、事表れて
捕縛され斬られた。

(話園)

67 :人間七七四年:2016/09/10(土) 08:06:35.79 ID:nMnnQhTV.net
車か

68 :人間七七四年:2016/09/10(土) 10:01:45.01 ID:FHiD7+jV.net
団吉さんの先祖か

69 :人間七七四年:2016/09/10(土) 11:36:58.85 ID:6O+I42Iv.net
猛虎魂を感じる

70 :人間七七四年:2016/09/10(土) 12:10:51.78 ID:FIfw/Yj9.net
ほんの10年前に小田原城ですら籠城諦めたというのに

71 :人間七七四年:2016/09/10(土) 16:13:41.82 ID:CLzpJJzs.net
勝てるわけねーw

72 :人間七七四年:2016/09/10(土) 17:58:44.42 ID:eb/flYs6.net
大坂から遠征してきた秀吉ですらあの破壊力なのに、江戸を本拠にしてる徳川に逆らうとか滅亡確実やんか

73 :人間七七四年:2016/09/10(土) 20:19:46.69 ID:VXkU+es6.net
片目の人「領土拡張のワンチャンあるでwww」

74 :人間七七四年:2016/09/12(月) 00:02:56.43 ID:LvRoFsZ9.net
三方ヶ原の戦いの後、武田信玄によって行われた野田城攻め、この戦いの中である夜、
武田方は不意に城を乗っ取ろうと寄せてきた。

野田城中ではこれに気がつくと、敵が近づくのを見計らい。弓鉄砲を一斉に放ち、近づいて
塀に取り付くものには大木を使って突き落とし、必死の防御をした。

ここに、小楠又右衛門という者が野田城南の曲輪を守っていたが、敵がそこに攻めてくるのを見ると、
彼は女房に矢櫃を持たせ、矢継ぎ早に敵に射かけた。彼は弓術の達人であり、あだ矢なく
射続けたが、遂に矢種が尽きてしまった。

ところがここで、矢櫃を持っていた又右衛門の女房(彼女は無双の大力であった)が大石を
礫のように投げ下ろした。これによって、敵には兜の鉢を打ち割られた者、或いは手足を
打ち折られた者が夥しく、慌てて引き退いたという。

(野田戦記)

敵の矢が尽きたと思ったら女ドンキーコングが居たでござるの巻

75 :人間七七四年:2016/09/12(月) 00:11:04.55 ID:Ml1ss3zT.net
矢の方がましだったでござる

76 :人間七七四年:2016/09/12(月) 13:19:51.55 ID:BBC0j9Np.net
>>66 悪名高い三十三館のだまし討ちですね。

77 :人間七七四年:2016/09/12(月) 17:17:18.94 ID:d/81xp/w.net
>>74
大石ってのが凄いなw

78 :人間七七四年:2016/09/12(月) 18:14:36.53 ID:bVa6Ctst.net
巨石じゃないけど…そんなにすごいの?

79 :人間七七四年:2016/09/13(火) 01:17:27.18 ID:Q/4NsHvX.net
人間の骨が折れるってことは最低でも大きめの漬物石くらいはあるな

80 :人間七七四年:2016/09/13(火) 16:32:21.63 ID:u8uFI+D3.net
大坂御城中、深夜には殺気ある事

新庄駿河守直規というのは〔常州麻生領主、一万石〕予の縁家で活達直情な人である。
寛政中、抜擢されて大番頭となった。

彼の話に、大坂在番に行って、御城中に居ると深夜などは騒々しい音がある。
松風かと戸を開いて聞くと、そうではなく正しく人馬喧乱争の声を遠く聞くようである。
しばらくすると止むが、時々このような事がある。
大坂の合戦で戦没の人の魂気が残っているためだと伝わっている。

予は奇聞と思い、その後在番した人に問うと、その事は知らないと言う。

駿州はでたらめを言う人ではない。
心無い輩は何事も気づかないのであろうか。

(甲子夜話)


どうやら、静山さんは洒落の通じない人は気に食わないようです

81 :人間七七四年:2016/09/16(金) 00:06:48.75 ID:SRMLoQW2.net
武田信玄に攻められていた三河野田城に籠城する者の中に、村松芳休(一節に法休)という者があった。
彼は伊勢国山田の出身で、笛の名人(異名を小笛芳休といった)であった。

この者、武田軍に包囲された野田城にあって、毎夜櫓に上って笛を吹いた。寄せ手の諸将も
これを聞いて、大いに感じ入ったと云う。
ある夜、芳休が例のごとく笛を吹き、その妙を極めた。この時武田信玄が陣廻りをしていて
この笛の音を聞き

「優しくも、明日を限りと覚悟して吹いているように感じる。しかし当世の笛の上手の中で、
これに過ぎる者があろうか。」

そう語ると、矢文を城中に射込ませた。その上書きには『笛の殿へ参る』と書かれていた。
その内容はどのようなものであったか、今に伝わっていない。きっと笛の妙技を賞美したのであろう。

菅沼家譜によると、この村松芳休が毎夜笛を吹き、敵もこれに聞き入る中、2月9日、竹を立て
紙を張り巡らせた中で堀端にて笛を聞く者が居た。これを鳥居三左衛門が訝り、この竹を目印にして
鉄砲を仕掛けおいた。

その夜、芳休がまた笛を吹くと、あの竹のあたりに人声が聞こえた。鳥居は敵が笛の音を聞きに
現れたことを知って、矢場より鉄砲を撃った。目当ての竹のあたりで、「大将が撃たれた!」と
叫ぶ声が上がり、敵陣は暫くの間驚動した。この時の鉄砲は、信玄に当たったのだと言い伝わる。

(野田戦記)

82 :人間七七四年:2016/09/16(金) 10:12:01.06 ID:NIv0BKyK.net
尼子政久「無粋なやつめ」

83 :人間七七四年:2016/09/16(金) 11:09:41.21 ID:BKFh2dMD.net
三村家親「まったくだぜ」

84 :人間七七四年:2016/09/16(金) 13:36:01.71 ID:B78Kd0Cs.net
神祖御山駕銃丸之細聞

前に、今の林祭酒(述斎)が日光御蔵にある神祖の御山駕籠を拝見されたときに、
この御駕籠の屋根から銃丸を見下ろしに打ち貫いてあることを知った。
何者がかかる非逆の所為をしたのかとの念が止まらなかったところに、
近頃宗耕にこの事いかんと問うと、以下の話をしてくれた。

「『武徳大成』には、
慶長十九寅年十月二十一日、彦根松原で神祖の御駕籠へ鉄砲を打ち入れた者がいた。
御目付山本新五右衛門が吟味したところ、
真田の家来の日下部五郎左衛門と申す者によることだとことであった。」
との記述があるらしい。

これによれば、大坂御陣のときと見える。
真田の奸計は、これに始まらないことであるが、彦根の松原は御味方随一の地であるのに、
ここにガマリをこのように出してきたのは、流石真田である。
されども御当家の御剛運は、神明諸仏も加護があるので、
いかに真田といえどもとても及ぶ所ではない。
そのうえおかしいことに、このように打ち損じたら人々は驚いてすぐ捜索するというのに、
日下部は木の上に居たので、逃げ遁れることも叶わずすぐに生け捕らえられたということだ。
筆記するだけでも笑えてくるのは、しかたのないことだ。
喜々粲々

(甲子夜話三篇)

85 :人間七七四年:2016/09/16(金) 21:05:01.80 ID:SRMLoQW2.net
天正18年、徳川家康の関東入国にあたり、家康は彦坂元正を派遣して菅沼定盈にその所領分限を尋ねた。

その頃定盈は東三河でも2,3を争う大身であったのだが、課役の重くなるのを恐れ、彦坂元正と相談の上
所領三千貫(三千貫とあるが三千石の誤りか)と言上した。
ところが、却って本知行の3倍、一万石を賜り、上野国阿保(一節に阿布)に移った。

菅沼定盈は阿保において隠居し、家督を嫡子新八郎定仍に譲った後、定仍に与えられた伊勢長島において
慶長九年七月十八日、六三歳にて逝去した。


(野田戦記)

軍役が嫌で所領少なめに申告したらその三倍もらっちゃったでござるの巻

86 :人間七七四年:2016/09/16(金) 22:41:53.10 ID:3G+Fzqpe.net
三千貫なら一万石でだいたい合ってる気もする

87 :人間七七四年:2016/09/17(土) 00:25:27.25 ID:iAZnnAm7.net
方広寺大仏殿開帳(天保三年,1832年)のとき、
京都を通行した者が来て、そこで聞いた話をしてくれた。

かの大仏の宮の殿内、宝物を置いた間が所々ある中で、
書院の縁側、幅二間長さ十間ばかりの所の板天井に
血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕がある。
その色赤いのもある。黒づいているのもある。
板天井一面がこのようである。

人に伝わっているところでは、
昔関白秀次生害のとき、随従の人が腹切り刺違えなどして死んだときの
板敷の板を、後に天井板にしたものという。

(甲子夜話続編)

88 :人間七七四年:2016/09/20(火) 20:41:46.34 ID:b/22oOZi.net
元和元年、大阪夏の陣でのこと。

5月6日朝、菅沼定芳の属する本多忠政隊は、道明寺口にて大阪方の後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相、
井上小左衛門時利たちの部隊と戦った。

菅沼定芳の家臣である菅沼権右衛門定栄は、騎馬武者30人ばかり預り、大阪方の侍大将、
井上小左衛門時利と渡り合い、互いに組み合いとなった。
井上時利は剛強なる者であり、定栄を組み敷きまさに首を取らんとした。

この時菅沼定栄の若党が気が付き、急ぎ駆け付けたが、時利も定栄も同じ毛の物具を着けていたため
見分けがつかず、大声で聞いた

「菅沼権右衛門は上か、下か!?」

ところが両人同時に答えた

「上だ!」「下だ!」

これに若党は、何れが自分の主人なのかと狼狽えた。しかし下に居た菅沼定栄が叫んだ

「声で聞き取れ馬鹿者め!!」

この言葉で若党は気付き、すぐさま井上時利を斬りつけた。
流石剛勇の時利もこれに怯んだ所を、主従力を合わせて彼の首を取った。

(菅沼勲功記)

89 :人間七七四年:2016/09/21(水) 10:33:11.80 ID:8ubvevsu.net
後藤基次「そこはニヤニヤしながら眺めなされ」

90 :人間七七四年:2016/09/21(水) 18:43:13.55 ID:yeydsKu6.net
「この口の悪さ、殿様に違いねえ!」

91 :人間七七四年:2016/09/21(水) 19:10:03.72 ID:tHBPXEBD.net
うまいな

92 :人間七七四年:2016/09/21(水) 22:42:00.20 ID:vph+TqPt.net
スタートレックのカーク船長であったな
こんなシーン

93 :人間七七四年:2016/09/22(木) 14:26:37.91 ID:Dv6EZXBZ.net
天文22年、阿波守護である徳雲院様(細川持隆)は腹立ちの事があり、奉行人の四宮与吉兵衛という者と
談合し、

『三好実休を相撲があると知らせ呼び寄せ、討ち果たそう』

そう仰せに成った。この時、相談相手の四宮与吉兵衛が実休に返り忠をしているとは、持隆は夢にも
知らなかった。
持隆は用心もなく勝端の町の北の河端に、龍音寺という寺が在ったが、そこに遊山に出かけた所、
実休は上郡の人数二千を呼び寄せこの付近に集結させた。

これを知った持隆は肝を潰し、そこから堅昌寺という寺に移ったが、お供の者達は藪へ隠れ方々に
逃散して、最後には星相殿と蓮池清助という者の2人のみがお供をしているという有様であった。

ここで実休は持隆の無道を悪み、「たった今、お腹を召されよ」と申し付け、これにより
星相殿が介錯をして切腹された。蓮池清助という者は不肖者ではあったが、常々持隆の悪しき点を
申し上げ諫言していたため、御意に違い御扶持も枯れ枯れの状態であったにもかかわらず、
「お供申す」と立ち腹を切って果てた。この清助の最後を褒めぬ者は居なかった。

実休はこの後、返り忠をした四宮与吉兵衛知行を与えたが、1年間召し使った後に成敗した。
この時実休はこう言った
「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」
この処分を人々は褒め称え、また四宮与吉兵衛を悪まぬ者はいなかった。

(三好記)

94 :人間七七四年:2016/09/22(木) 20:13:44.66 ID:5ZQAlpas.net
>「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」

爆弾正「果たしてそうでござろうか?」

95 :人間七七四年:2016/09/22(木) 21:11:25.97 ID:aXC+X0IO.net
持隆の側室を妻にした下剋上男が何を言うか

96 :人間七七四年:2016/09/22(木) 21:29:35.60 ID:SBZd/A5r.net
今発売中の別冊宝島「戦国史を動かした武将の書簡」というものに、武将の手紙が
カラー写真で載っている。文章は知っていたが、手紙そのものをカラーで見るのは初めてのものも
多い。その中で、ちょっと悪いかもしれない話。

原 文「唯今虫けらのやうなる子ども候」
        ↓
口語訳「虫けらのような分別のない庶子がいる」

虫けら呼ばわりだが、原文の手紙を見ると、年少の子どもなので
「まだ小さくて、物事の分別がつかない虫のような子どもたち」という、気の毒に思っている
ニュアンスがある。

97 :人間七七四年:2016/09/22(木) 23:41:33.75 ID:aXC+X0IO.net
元就「虫けらのくせに立場をわきまえないから家騒動や謀叛が起きるんだよ。

98 :人間七七四年:2016/09/23(金) 07:35:19.39 ID:oEw7Rsfg.net
小早川隆景>>>>>>>>吉川元春>>>>
穂井田元清>>>>>>テルの父

99 :人間七七四年:2016/09/23(金) 12:29:28.42 ID:v51T/mcu.net
虫けらの子孫が毛利の嫡流になるとは
思っても居ない元就でした

100 :人間七七四年:2016/09/24(土) 00:59:13.74 ID:JPViE3/E.net
【山口】裏表のない「正直ヒラメ」発見 体の両面が茶褐色 萩博物館で25日まで展示 [無断転載禁止]

コレは山口だが、まーくんの「両側が表の魚」の逸話はこういう魚を使ったんだろうな。
よく見つかったもんだ。

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