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長篠・設楽原合戦の真実

1 :人間七七四年:2016/11/12(土) 21:14:34.87 ID:F2oYAzgO.net
1575年6月29日(天正3年5月21日)三河国長篠(愛知県新城(しんしろ)市)において行われた、織田信長・徳川家康連合軍3万8千と武田勝頼軍1万5千との合戦。
武田方の戦死者は山県昌景、土屋昌次、馬場信房などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人に上ったといわれる。
これ以後武田氏の勢力は急速に衰え、1582年(天正10年)滅亡を招いた。
この戦いにおいて、織田・徳川連合軍が新兵器の鉄炮を組織的に使用し、騎馬戦を得意とする武田軍に圧勝した点が注目され、従来の騎馬中心の個人戦から足軽の鉄炮隊を中心とする集団戦法へ移行する画期的戦闘と評価されている。

576 :人間七七四年:2018/06/30(土) 00:13:05.70 ID:sqh8wSky.net
>>574
どこの通説だよ
ころみつ坂の上の山に陣取って長篠城籠城兵に援軍が来たことを知らせたのが通説でしょ
深入りして交戦して退却したなら追撃されて死傷者多数どころか名ある武将が討ち取られても仕方ない

信長公記には長篠の戦いよって織田徳川軍は大利を得て、
味方の損害を出すことなくしてこれほどまでに完璧に強敵を打ち砕いた例はかつてなく、
その武勇は冥加の至りと書いてあるだけ

577 :人間七七四年:2018/06/30(土) 10:36:57.84 ID:MLyr3zth.net
>>576
20世紀かよ

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