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戦国ちょっといい話45

1 :人間七七四年:2017/06/08(木) 07:42:51.12 ID:BB46T000.net
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話44
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1469664777/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話44
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470783230/

2 :人間七七四年:2017/06/08(木) 08:56:38.07 ID:5vsAHSFo.net
一乙保守

3 :人間七七四年:2017/06/08(木) 09:43:45.69 ID:49cEHkDI.net
前スレ987だけど巻き込み規制食らって後半投下出来なかったので再投下

牧野成里、池田輝政の仲介により帰参


牧野伝蔵成里は十六歳で父の仇を討って当家(徳川家)を立ち退き
久留米侍従(長谷川)秀一や関白秀次に仕えた。
関白の事があってからは、石田三成に仕え関ヶ原の戦でも石田方にいたが
大敗したので兵十余人ばかりを引き連れ、大敵の中を切り抜けて
池田輝政の所に来たので、輝政は播州に(伝蔵を)伴って帰った。
そのまま輝政の所に身を寄せ、剃髪し一楽斎と名乗った。

(伝蔵が)播州で輝政に(徳川家への)帰参の事を乞うたが、年月を経ても
その沙汰がなかったので、ある時播州から伏見に参り輝政に向かって
「させもが露も年ふりし」*
などとほのめかせば、輝政は
「まだそのような折ではない。成里は先に帰国するように
 我もまた見はからうとしよう」
と言って慰めた。
その後(家康の)御夜話に侍する者に、(輝政は)この後折を見て
成里の事を言い出してくれと頼んだ。

ある夜(家康が)三遠にいらっしゃったときの話だが、いつもより機嫌よく
伺候している者の膝近くまで御座を進められ、近づかれて来られたので
牧野伝蔵と板倉四郎左衛門が縁故のあることに話が及んだときに
「伝蔵は今も永らえているようですよ」
と一人が申し上げた。
君(家康)はどうとも思っていないような様子だったので、みな固唾を呑んだ。

4 :人間七七四年:2017/06/08(木) 09:44:40.99 ID:49cEHkDI.net
この時輝政も御次の間の襖際に蹲って仰せを聞いていて
「(この上は加増された備前に代えても伝蔵の事を執り成さねば……)」
と思っていたが、(家康が)江戸の者を呼べと仰せられ
(近臣が)鵜殿兵庫重長がおりますと申したところ
「兵庫を江戸に遣わして
 『ここで勇士を一人掘り出したので差し上げる』と申せ」
と仰せられたので、輝政が喜びを堪えることが出来ず
御次の間から走り出て、上意に対してありがたいと感謝すると(家康は)
「成里は大剛の者なので永らえていて喜ばしく思ったのだ」
と仰せられたので、輝政は
「近日召し連れてまみえさせます」
と申せば
「我が会うまでもない。江戸に遣わし将軍家にまみえさせよ
 幸い明日は酒井忠世が井伊直政を連れて江戸に参るのでそれと同道させよ」
と仰せがあった。

輝政が御前を出ていこうとしたところ、近藤石見守秀用の一族の某が
輝政の袖を引き
「秀用の事もこの機会にお許しを願って下さい」
と言った。輝政は
「牧野の事だってかろうじてお許しをもらったのだぞ。秀用の進退など
 どうして気にされることがあるだろうか。我が力の及ぶ所ではない」
と拒めば
「あの方が今日ほど御機嫌のよいことはまたとないことでしょう
 ぜひともお執り成しになって下さい」
と言ったので、輝政が再び御前に出て申し上げると
すぐに恩免をもらえたので、輝政は言うまでもなく
秀用の喜びも尋常ではなかった。

かくして成里は江戸に参り、還俗して旧名に戻り三千石の新地を賜った。
のちに叙勲して伊予守と称したという。


――『東照宮御実紀』『武徳編年集成』

*百人一首に選ばれている藤原基俊の和歌
「契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり」の隠喩。
基俊が息子の官職を人に頼んだが得られなかったときに詠んだもの。

5 :人間七七四年:2017/06/08(木) 22:50:22.64 ID:4my3G2lg.net
>>1

6 :人間七七四年:2017/06/09(金) 01:50:34.82 ID:gJc/DjjY.net
>>1乙じゃ

7 :人間七七四年:2017/06/09(金) 17:07:05.10 ID:jMN9vXWl.net
台徳院殿秀忠公は御釣り髭であられたという。井伊掃部頭殿(直孝)も釣り髭であった。
(台徳院殿秀忠公には御つりひげ御座候由。井伊掃部頭殿にもつりひげ有之候。)

――『松雲公御夜話』

8 :人間七七四年:2017/06/09(金) 18:36:19.82 ID:ezl2clO7.net
竹中半兵衛には、若くして弓矢巧者の評判があった。

織田信長の時代、柴田滝川といった人たちは寄り合いで
「若輩者に何ほどのことがあるだろうか。いつか竹中に出会った時、弓矢の詮索だてを致せば、
一句も言えずに理に詰まるだろう」
などと彼を評していた。

そのような折、羽柴秀吉は中国より竹中を使者として、信長に仔細を言上するため京に上らせた。
柴田たちはそんな寄り合い話をしていただけに、内々に竹中と参会したいと望み、「ならば招き入れて
一献を勧め、そして詮議をも致そうではないか。」と、竹中を柴田の所へと招待した。

その場において一礼の後、柴田がまず言った
「この度、中国において毛利家との対陣の様子、筑前(秀吉)の思惑などを話してみよ。」

竹中聞いて
「私は筑前殿よりその思惑を承ってはおりません。何事を申せるでしょうか?」
そういって、それを語ることを辞退した。
すると柴田は重ねて

「ならば筑前の思惑は差し置き、そなた自身の考えもあるだろう。御辺の思惑、如何様に
この戦をすべきか、それを語られよ。」

竹中、止むを得ずして、毛利家弓矢の風情、此の方のあしらい方、双方の考えといったことを
一々に説明し

「未だ上様(信長)に、筑前殿よりの使いの趣を言上いたしておりません。先ず御前を済ませたいと思います。」
そう挨拶して出ていった。

その場に居た、柴田、滝川、丹羽、佐久間といった歴々は竹中の言ったことを聞いて
「彼は前々に聞いていたより、なお勝っていた。
今日の物語、毛利家のあしらい、弓矢の勘弁、一つとして難ずるべき所はなかった。
ならば、弓矢の才というものは、合戦の経験の多い少ないによるものでは無いのだろう。」
そう感じ入ったという。

(士談)

9 :「南蛮寺興廃記」2:2017/06/09(金) 18:59:32.61 ID:eAHh5iIP.net
「南蛮寺興廃記」より、イエズス会が伊吹山に薬草園をひらくこと

寺の結構荘厳眼を驚かす。又ウルカン一人にては弘法力に叶うべからず。
本国より数人召しよべしと命ぜられる。ウルカン悦びて本国へ申し送る。
そもそも南蛮切支丹国と云うは国号イスパニヤならびにポルトガル、カステラと
云う海上日本里程一万二千余里世界の国を以て見る時は唐土日本よりは日本より
西方に当たる国なり。然るに南蛮と号することはこの国の従属の亜媽港、
呂宋等、日本の南方に当たれり。故に南蛮と号する者か。
アマカワ、ルスン等は日本より里程八百里にて殊に日本より南に当り、
イスパニヤの隣国にも非ずしてその国の従属たるアマカワ、呂宋等は守護も無き
島なる故南蛮人往々に其の島に船を止め今は南蛮人多く住居するが故に類属の国なりと云えり。
イスパニヤ隣国にエグレスと云う国あり(インギリヤともイギリスとも云う)
阿蘭陀の西に在る島国なり。日本里程一万千七百里と云う。
此のイギリスは南蛮国と別種なる由、云い伝う。
斯くてウルカンが本国より渡来するは浮羅天破天連、計理故離イルマン、弥理居須イルマンと云う。
(破天連と云うは師のごとく、イルマンと云うは弟子のごとく)是等が乗るところの南蛮船、
若州(若狭国)小浜に着船す。
南蛮人若州より江州海津へ至り船を湖上に浮かべて大津に至り京都南蛮寺に入りて
ウルカンに謁し信長へ注進す。信長悦びて安土へ召し呼ばわる。
浮羅天破天連はウルカンより背高きこと一尺五寸。色青く髪髭黄色なり。
衣類はウルカンが如く、相隣の両イルマンは医術外治ともに奇妙なり。
(最初ウルカンが安土へ来たりし時より南蛮人奏者は長谷川竹(秀一)に命ぜられる)
今般は六種の捧げ物あり。瑠璃の宝珠、香一包、犬皮十枚、瑪瑙の机一脚、虎皮十枚、
五色羅紗五十枚献上す。
不日に南蛮寺へ帰り重ねて信長へ訴え曰く。天帝宗はあまねく病難貧苦を救いて
起臥を安んじ法を伝え、現安・後楽の願望を成就す。
薬園を給いて薬種を植え、其の備を成さんことを願う。
信長許諾して山城近国の内其の地を選ぶべしとありければ、両イルマン江州伊吹山を願い得、
此の山に登りて五十町四方切り開き薬園として本国より三千種の薬草の苗種を取来せしむ。
伊吹山にこれを植え(此の故に今二百年の後までも其の根此の山に止まりて川芎艾(もぐさ)の類
此の山を以て名産とす。)それのみならず本国より財宝おびただしく取り寄せて
金銀に替え七宝の瓔珞金襴の幡錦の天蓋六十一種の各香、門外まで薫し、往来の人々止まる。
(此の寺常に一仏壇に本尊を立てすと云えり)。

落語「亀屋」に出てくる、灸に使う艾の宣伝文句が「江州伊吹山のほとり、柏原、本家、亀屋左京、薬もぐさよろーし」
だったけど、もとをたどればイエズス会のおかげだった?

10 :人間七七四年:2017/06/09(金) 19:08:57.96 ID:eAHh5iIP.net
よく考えたら百人一首の藤原実方の歌で
「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」
とすでに歌われていた

11 :人間七七四年:2017/06/09(金) 23:14:49.81 ID:M6wlLfbw.net
俺も気になって調べたけど、イエズス会側の史料で薬草うんぬんの話は見つけられなんだ

12 :人間七七四年:2017/06/10(土) 13:46:44.58 ID:MzfslN0X.net
>>9
>若州(若狭国)小浜に着船す。

まーた小浜か
前にもアラジンとかいう名前のイスラム商人とかも流れ着いてなかったっけ?

13 :人間七七四年:2017/06/10(土) 22:20:06.79 ID:I7EY2XpE.net
 物事の勢いによっては、事がはかどって行き自ずから人も育って力が増すものである。
 天正十八年、北条氏政を太閤秀吉が攻められた時、
小田原の城から西にあたる所に高い山があった。
要害で地の利がよいと、すぐに石垣を積み上げて、所々に櫓を上げて、悉く屏をかけ、
たちまち壁を塗り、一夜の内にその上に白紙を張った。
これが白壁のように見え、城主はこれを見てその器量を感じたとか。
 今は石垣山と呼んでいる。


『武士としては』

14 :人間七七四年:2017/06/11(日) 01:27:24.99 ID:ZNnSTgYf.net
立花宗茂の家臣に堀次郎右衛門という人物がいたのだが、立花家が棚倉から柳川へ戻って
ほどなくして没し、堀家には男子がいなかったため宗茂は次郎右衛門の娘のくろに次の書状を送った

父次郎えもん事、代々奉公、ことに東国まてまかり下り、へつしてしんらうの事に候間、
男子これなく候へとも、其方にたいして山間郡よしかい村之内、百石あておこない候、
後々は似合いのさい合をも申付候はんため、右之通りに候、仍如件
元和八年七月六日  宗茂(花押)
堀くろ女
『柳川市史資料編X 鬼塚文書 立花宗茂知行宛行状』

江戸時代に藩主の配慮で女性に家を継がせたという珍しい事例

15 :人間七七四年:2017/06/11(日) 02:10:37.92 ID:YQxDzO82.net
後家に化粧料を与えて、後で婿を取らせて家を再興させよう、って話じゃないの?

16 :人間七七四年:2017/06/11(日) 02:12:55.86 ID:GSPWhLoP.net
関東管領憲政さまも戦死した家臣の女子に家督と城主の座を認める手紙を出してたなあ

17 :人間七七四年:2017/06/11(日) 02:23:11.93 ID:ZNnSTgYf.net
>>15
奥方じゃなくて未婚の娘に対してだから似てるけど違う感じだな

18 :人間七七四年:2017/06/11(日) 05:48:10.37 ID:FeToHE5W.net
普通に堪忍料を与えて再興の目を与えてるだけのような

19 :人間七七四年:2017/06/11(日) 22:05:45.74 ID:5UlT2XLV.net
公方様、御鷹の鶴の胆(マル)を上げらるるときの咒文

  ある人がひそかに話してくれた。
公方将軍様が御鷹狩に鶴を獲られて丸肝をあげられたときは、
御上と御小納戸頭取がお供のものと心中で唱えさせる呪文があるという。

「業尽きるの衆生は、放つといえども生ぜず。
故に人仲に宿して、得らるるを以って善果とす。」

これは、禽類でも鶴は大鳥でかつ寿命を保つものなので、
これを害するのは殺生の中でも罪が深いに違いないからとの事である。
きっとこの呪文も確かにあるのだろう。
基本、神祖から受け継がれていたのであろうか、
御代々唱えられている事だと聞いた。

 秘かに神祖の御知遇を考えてみた。
この呪文を生み出したのは大樹寺の登誉上人であろうか。
この人は神祖が天下を取られたころにはもう亡くなられている。
また天海僧正だと、神祖とはちょっとの間にしか会っておらず、
力が盛んだった時期の多くは台猷の二世(秀忠・家光)の頃であった。
ならば増上寺の観智国師であろう。相応の時の人である。
きっとこの国師が神君に差し上げたのであろう。

 しかしこの呪文は仏経の何によるのであろうか、出所はまださだかでない。


(甲子夜話三篇)

20 :人間七七四年:2017/06/12(月) 05:34:25.20 ID:Y/zvUrtP.net
心の中でしか唱えてないのになんて知ってるのw

21 :人間七七四年:2017/06/12(月) 18:37:21.30 ID:xZqoEU9p.net
井伊掃部様の御屋敷前、坂中の北に仰々しい井戸がある。それは
汲みもしないのに立派な釣瓶縄を備えていた。

それは昔“鱗屋敷”といって、直江山城守が住んでいた時に掘った
井戸だという。これをトウ庵先生(古賀トウ庵)に聞くと曰く、

「直江は天下の英雄なり。英雄の掘った井戸である故、井伊家では
用いないけれども代々大切にこれを保存しているのである」

とのことである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』

22 :人間七七四年:2017/06/13(火) 01:49:44.51 ID:qTIEz3oo.net
>>21
大河で井伊の先祖は井戸から出てきたとか言ってたし、井戸を特別視してたのかも

23 :人間七七四年:2017/06/13(火) 14:59:20.56 ID:j0uYUwB8.net
睡庵(渡辺勘兵衛了)が坂本に居住していた時、睡庵の家来が大津の町において喧嘩のこと有りと聞いて、
吉村又兵衛(宣充)、その頃は牢人であったが、睡庵のもとに急いで駆けつけてきた。

水庵は対面するや言った
「喧嘩見舞いであるのなら、特別のこともないので帰られよ。
ほかに話したいことがあるのなら、飯を食ってから話されよ。」

吉村
「喧嘩のことを聞いて急いで見舞いに来たまでである。そういうことならば帰る」
そういって帰ったが、この時睡庵は次男を道まで遅らせた。水庵は次男にこう申し含めていた

「私は直に言わない、汝、密かに吉村に伝えてほしい。今日の見舞いのこと、吉村には似合わぬことである。
我等の手の者の喧嘩のこと、別にこれといった仔細のあるものではない。こういう事には天下の大法が
大方定まっている。我が者が斬り殺されれば相手の者は切腹に成るし、人を斬れば此の方の者が切腹と成る。
である以上、気遣いに成ること無い。

こういったことに吉村が大急ぎで京より来るというのは、まるで一揆合いで手足の働きをするの若者の
ようではないか。以降慎まれるように、と」

然るべき事である。

(士談)

24 :人間七七四年:2017/06/14(水) 01:02:25.08 ID:OUrzwPNV.net
加藤肥後守(忠広)が没落以後は、
熊本の城は細川肥後守(忠利、越中守?)が横領して入城したが、
その後には城内外で家鳴り等がして騒がしかった。
加藤の亡魂が念を残したからだと申し伝わっていたので、
細川公は残念な事であると、菩提寺にある加藤が着ていた具足を乞い受けて、
天守の四重目に納められたら、その後に静かになったとか。


『武士としては』

25 :人間七七四年:2017/06/14(水) 01:05:07.82 ID:e6F4knWm.net
横領とは酷い表現だな

26 :人間七七四年:2017/06/14(水) 01:34:30.30 ID:WE0HmbYS.net
「横領」は明治中期以降に出来た言葉らしいが、原文はどうなんだろう

27 :人間七七四年:2017/06/14(水) 09:53:05.94 ID:xVPK1Uvj.net
>>22
              :ill||||||||||l:
             :i|||||||||||||||
           /''';:|||||||||||||||||l:、
          /:i  :||||||貞|||||||i `'!
          / :|  :||||||||||||||||||l ノ!
          | ヽ |||||||||||||||||||| :|
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      | |::::::::::::|:::      ノ }::::::::=::::::| |
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      .:.:.:.:.:.:.:.:.:|;;;::::      .|.:.:.:.:.:.:.:.:.:..:.:.:.:

28 :人間七七四年:2017/06/14(水) 10:16:45.54 ID:TDMsc1AT.net
忠広の生霊か

29 :人間七七四年:2017/06/14(水) 18:16:53.47 ID:i+cO2s5n.net
中根宗閑と内藤善斎がある時の話で申し上げなさった事には、

台徳院様(徳川秀忠)が、ある時に御鷹野をなさり、田の畦に
御腰を御かけ遊ばされて、御膳を召し上がりなさった。

その時、御湯がなかったので、「向かいの在所に参って湯を
沸かさせ申すように」との旨を仰せにつき、

百姓の家より御湯を御取り寄せ遊ばして召し上がりなさった。

その節などは、このように諸事に御軽きことであったとの由を
(宗閑らは)申し上げなさった。

その旨、戊戌閏10月21日に拝聴仕った。

――『松雲公御夜話』

30 :人間七七四年:2017/06/15(木) 00:30:38.37 ID:dWS33giL.net
長岡幽斎が鶴の料理法を人にお教えされるとき、
その人は貴重な鶴の替わりにと
白鷺を板に乗せて出したので、
とっさに、

白鷺か何ぞと人の問いし時 鶴と答えて食いなましものを

「『伊勢物語』の

白玉か何ぞと人の問いし時 露とこたえて消えなましものを

の本歌取り」

(昨日は今日の物語)

31 :人間七七四年:2017/06/15(木) 11:43:27.15 ID:jUGlq9M2.net
不人気だけ

32 :人間七七四年:2017/06/15(木) 18:43:51.74 ID:Dny9w7CR.net
>>30
「昨日は今日の物語」ってタイトルめっちゃオシャレや!

なお本文の意味はわからない

33 :人間七七四年:2017/06/15(木) 19:40:10.63 ID:HMJ96zTR.net
井伊直孝は華美の風が上下を通じて一つの流行となった事を憂え、自藩にだけは昔ながらの士風を振作したいと考えていました。
江戸からの帰途、彦根に向かうために琵琶湖を横切って行くほうが近いので船により、彦根城の天守が見えた時に、藩士たちの出迎えを想像することもできました。
「皆の者。江戸出立の際、その方達に渡した荷物があろう、あれを開けい。」
「はっ。」
家臣たちは前々から気にかかっていたその荷物を開けると、中からは袴まで揃えた一揃えづつ綿の着物が出ました。
直孝は快活に笑い
「それに着換えいたせ。」
藩士たちは久しぶりでの国入りに綿服を着て同輩に会うのを気恥ずかしいと思いましたが、主命なので否応もなく渋々着換え終わった時、船は城下の岸に着きました。
出迎えの藩士の面々は直孝の後に続く士たちを見て、一人残らず綿服なのにどきりとしました。
出迎えの藩士は、己の姿を顧み、美服が粗服を迎えに出た形に妙な空気を醸し出しました。
「大義。」
直孝は、出迎えの士をいたわりましたが、衣服については帰城の後も言及しませんでした。
黙っていても、藩士たちには彼の心が分かったので、以後、彦根藩士は美服奢侈の排すべきを悟ったのです。
日に日に藩士の風俗は改まり、堅実な風が、以前とは逆な方向に吹いたのです。

(常山紀談)

34 :人間七七四年:2017/06/15(木) 22:59:14.80 ID:0xUE2tCx.net
慶喜「贅沢でもいい。忠義を尽くしてほしい」

35 :人間七七四年:2017/06/15(木) 23:50:57.07 ID:dWS33giL.net
天正十九年十二月二十八日、近江中納言秀次公は関白に任ぜられた。
その礼として家康公から井伊兵部大輔直政を遣わされた。
そのとき秀次公は囲碁をされていて、直政を呼んで物語をされた。

「昔、私が三好孫七郎といったときは直政も無官で万千代と申していたな。
会合して碁を打ったが、その時は直政は碁が強くて私は弱かったものよ。」

その碁の話に事寄せて、尾張長久手の合戦に直政に打ち負けた事を思い出して、
それとなく

「今、私と直政とでは昔とは手合わせは違ってくるだろう。
私も忝くも関白に任ぜられたのだ。勝負も大いに変わるはずだ。」

と笑いながら御申されると、直政は

「そのときは拙者とて無位無官の万千代。
只今は四位の侍従に叙任されています。
手合わせもそれほど昔と変わらないでしょう。」

と恐れることも無く答えた。
時に取って意地の有る申し分といえる。


『武士としては』

36 :人間七七四年:2017/06/16(金) 04:20:17.65 ID:Yt7CmcZ5.net
立花家の紋所は古来より杏葉紋であったが関ヶ原の後に配流のある時、夜の夢で
筑後国祇園山が自身(立花宗茂)の頭上へ覆いかかる様を見て目を覚ました。

この夢より程なくして召し出されて、本国を賜った。これによって牛頭天王の神慮を
(宗茂は)かたじけなく思われ、かの社の守の形を家紋としたのである。

――『明良洪範』

37 :人間七七四年:2017/06/16(金) 20:39:16.21 ID:5Rqe2+am.net
関ヶ原の役の時、奥州において上杉景勝と伊達政宗取合の時分、景勝勢は福島より二里出て
政宗と戦った。

この時。北川図書という者、元は蒲生氏郷に仕えていたが、氏郷没後は景勝に属し、
景勝より桑折の地を与えられ、その頃郡図書と名乗っていた。

図書はこの合戦で討ち死にを覚悟し、朋輩である岡左内に頼んだ。
「私の陣羽織を息子の久兵衛に遺したいので、討ち死にの際にはこれを遣わしてほしい。」

左内は受け取り、後に図書の子・久兵衛にこれを渡した。図書は討ち死にしたのだ。

この事について、後の人は様々に評した。
ある人
「同じく戦場に臨んで、我も人も必死をこそ旨とすべきなのに、どうして自分が必ず生き残ると思い、
人の形見を請け取るなど有るべきだろうか?」

これに対して、傍らに居た人が言った
「そうではない。互いに言い交わし話し交わした心友の間で、その人を見込んでこう言っているのに、
請け取らないということが有るだろうか?
自分が必ず生き残るから、受け取って渡す、と言っているのではない。彼の形見を我が預かり、
我が形見を彼に預けるというのは、勇者の思いを込めた行為というべきではないだろうか。」

この岡左内という人物は、後に越後と称し、類まれなる勇士で、数度の戦功を成した。
この時の戦でも、川中で伊達政宗と太刀打ちして、自分の猩々皮の羽織に、政宗の太刀傷二ヶ所まで
受けたと言われている。
彼も蒲生氏郷に属して、後に景勝に仕え、その経歴もあって北川図書と親しんでいたとか。

北川図書の子孫は、今も加賀太守(前田家)の家中にあるという。

(士談)

38 :人間七七四年:2017/06/16(金) 23:36:40.72 ID:YzgH35zF.net
大坂落城直後のことでした。市内警護にあたっていた徳川方の役人が板倉勝重のところへ駆け込んでまいりました。
「容易ならぬ風聞を聞き及んでまいりました。」
「容易ならぬとは何か。」
勝重は煩雑な政務を執っていましたが、平生と少しも違ったところなく落ち着いてたずねました。
「さればでござります。大野修理の命令をもちまして、よからぬ禰宜どもが権現様の人形を作り申し、呪詛調伏申したとのことにござりまする。
まことに不届きなる者共、早速召し捕らえて重い罪科にと存じましたなれど、一応お耳に達してからと考えまして参った次第にござります。」
「それはご苦労。」
勝重は、水のように静かにうなずきました。
「せっかくであるが、禰宜どもが召し捕らえるには及ばぬぞ。」
「何と、何と仰せられます。権現様を呪詛いたす大罪人を、そのままにいたせと仰せあるのでござりまするか。」
「いかにも。」
勝重はは莞爾と笑いました。
「禰宜、山伏などと申すものは、金銭をもって依頼されれば、人を呪詛もし、悪魔退散も祈るものじゃ。商売のようなものよ。
我らが大坂方より多額の金銭を与えれば、秀頼公をも呪詛し調伏するのを拒むものではない。
また、彼らごときに呪詛されて御運の傾く権現様ではないはず。
たかが金銭欲しさの呪詛調伏、相手にするでない、すておかれい。」
勝重の一言は、家康の大きさを更に大きくするものでありました。
大坂方からの命で家康を呪詛した禰宜たちは、一時はどうなることかと心配したのですが、
何の咎もなく赦されて、今更のように板倉勝重の徳を讃仰したのでありました。

『明良洪範』(良将言行録)

39 :人間七七四年:2017/06/17(土) 04:08:56.99 ID:bAhFoq+C.net
土井大炊頭利勝は土井小左衛門利昌の養子である。実は水野下野守信元の次男なり。
一説には神君(徳川家康)の御落胤であるという。

ある人が殿中で利勝の髭を見て、「貴殿の髭は神君の御髭によく似ている」と、言った。
利勝は、翌日に髭を剃り落として登城した。この頃までは、髭を立てて置くのが風俗で
あったが、利勝が剃り落としたのを見て人々は追々髭を剃り落としたのだということだ。

この利勝は衆人よりも智謀に優れた人だった。先年、関白秀次が太閤の御不審を蒙り、
一大事となるという時、利勝の智謀によって秀次の謀の罪に陥らず、台徳公(徳川秀忠)
と御同道で太閤の御前へ出なされば、太閤は殊の外喜びなさり、

「さすが新田殿の子孫である」と賞美なさった。神君も御上京なさり、利勝の智謀の計らい
を御賞美なさった。その時、利勝は17歳であった。

後年、執権であった時、密事を評議することがあった。しかるに、これまでは密事を評議
するには茶室などのような狭い所でその周辺の障子襖などを皆仕切って評議したが、

この度は利勝が大広間の真ん中に座り、その周辺の障子襖を残らず取り払って評議衆
のみ一座し、他は人払いして評議したため、余人が忍び聞きすることはなかったので、

これ迄のように密談が漏れる事は少しもなかったのである。利勝の知慮は衆人の及ばぬ
ところと、将軍家(徳川秀忠)も深く賞美なさった。

また本多正純が罰せられた時、ある人が言ったことには、「正純は不届きとはいえ、正信
以来旧功の家であるのに、此度の御仕置きは余りに厳重すぎである」とのことだった。

利勝はこれを聞いて、「いまは天下創業の時なれば、賞罰などは厳重でなければ平天下
長久ならず。それにはまず御譜代を厳重に罰しておくことが天下への示しである。正信が
どうして泉下において、恨み申すことであろうか」と、申したということである。

――『明良洪範』

40 :人間七七四年:2017/06/18(日) 01:15:39.27 ID:G1R0oyIu.net
村越茂助は家康の家臣でしたが、ふとしたことから勘気にふれ、目通りの叶わぬ身分となりました。
茂助は心中不平でなりませんでした。一にも徳川、二にも権現様と主家大切に働いて来たのに、
身に覚えの無い理由で遠ざけられるということは憤懣にすら値するものでありました。彼は門を閉じました。
戸外へ出ません、出たところで見るもの聞くもの、ことごとく癪に障ることばかり、いい加減なおべんちゃら武士が、
大手を振って歩き、正義の士はすべて不遇にいるように見えて、腹が立ってたまらないのでありました。
ほど経て、家康の方から茂助を呼び出しましたが、茂助は応じません。
「拙者は御勘気にふれた身の上でござる。お目通りはおそれ多い。」
嫌味と鬱憤とを言って、決して伺候しませんでした。ところがそこへ伏見の大地震が起こりました。
人畜の死傷も数多く、建物の倒れたものは枚挙にいとまありません。世間は物情騒然として、流言は日に盛んです。
こうなると根が忠義一徹な茂助ですから、家康の安否が気になってたまりません。
「権現様はいかがなされましたか。」
まず本多正信まで問い合わせました。
「その方、それほど心配になるか。」
正信はにっこり笑って言いました。
「よい機、と言っては悪いが、今こそお詫び申し上げる時ではないか。のう、すぐ参れ、参ってお見舞申し上げい。」
しかし、茂助は頭を横に振ったのでした。
「拙者は御勘気にふれた身でござる。押し付けがましく参上するのは如何かと存じまする。」
「それがいかぬと言うものじゃ。」
正信は言葉を尽くして説き聞かせた上、家族の者をそれぞれ知人にあずけて、ただ一人伏見へやることになりました。
もし家康の気持ちが元通りであれば、その場で討たれる覚悟をしていたのです。まことに悲壮な見舞い人と言わなければなりません。
伏見の家康の住居は、地震のためにひどく破損し、見るからに酷い有様になっておりました。
しかし隆々たる家康の声望は、そうしたうちにも無言の威力を示しました。
諸国の大名はこぞって見舞いにやってきます。家康は家康でこの機を逃さず、大名の心をつかむ工作を怠りませんでした。
彼は自ら握り飯を握って、見舞いの大名にそれを接待していたのです。村越茂助は、そうした家康の前に進んで、
「村越茂助にござりまする。」
こう言って、言葉のかかるのを待ちました。一言、言葉があったなら、すぐその場の仕事を手伝おうと思ったのです。
ところが、家康は横目でじろりと見たきり、ついに一言の言葉も与えませんでした。
茂助の失望といったらありません。彼はすごすごと立ち戻りましたが、途中から再び引き返して、
「茂助でございます。殿、茂助でございます。」
ほとんど泣くばかりに言いました。が、これも白い目で黙殺されてしまったのでした。

41 :人間七七四年:2017/06/18(日) 01:17:02.93 ID:G1R0oyIu.net
駄目だ!絶望のあまり、茂助はよろよろと立ち上がって戻りかけました。その時です。
いたわるような声が耳元でしたのでした。それは阿部正勝です。茂助はすがりつかんばかり、それまでのことを話しました。
「わかった、が誠意じゃ。誠意が通るまでの辛抱、よいか。」
「はっ。」
再び、茂助はとって返しました。が、もう物を言う元気もなく、黙って家康の前にうずくまったのでした。
しばらくして、家康は、茂助の居るのに気づきました。二人の目がはたと会いました。
滲むような柔い人情が、お互いの目の中に光りました。
「茂助。」
「殿。」
茂助の目先は、ぼうと霞んできたのでした。嬉しさのあまり、罪も恨みも一切の雑念の消えた新しい世界がそこに開けたのです。
「いかが致した。」

『明良洪範』(良将言行録)

42 :人間七七四年:2017/06/18(日) 04:52:56.99 ID:jFVDgUyD.net
台徳公(徳川秀忠)御上洛の時、彦根城を御旅館になさるとの由を御沙汰につき、
井伊直孝は将軍家を敬うあまり、家中の妻子家族を皆近郷へ立ち退かせた。

この事を台徳公は御聞きになり、彦根城へ御立ち寄りもなく、直に大津へと御出に
なったので直孝は大いに驚き、そのまま彦根に閉門して御沙汰を待った。

その後、台徳公は「旅館になる城は屋敷内へ小屋を建てて、そこへ家中の妻子を
入れるのが然るべきというのに、直孝はいかなる所存で家中の妻子を近郷へ立ち
退かせたのか。実に不審である」と、仰せになった。

それから御下向なさるという時、直孝は、「このまま京都に閉門して慎んだほうが
良いだろうか?」と、酒井忠勝へ内々に問うた。

忠勝は答えて「そのまま彦根にいても然るべきではない。供を少し連れて槍一本を
持たせ、密かに御後から下り申されるべきでしょう」と、言った。

直孝はその通りにして慎んで下った。台徳公は三島を御通行の折に仰せになって、
「直孝は下ったか?」と御尋ねになった。忠勝は答えて、

「供に3人を召し連れて慎んで御後に付き、供奉仕っております」と申し上げたので、
台徳公はやがて直孝を召し出され、御言葉を御掛けなさったということである。

“井伊家の一本槍”はこの時より家例となったのだとか。

――『明良洪範』

43 :人間七七四年:2017/06/18(日) 07:00:26.50 ID:OqsrfH6f.net
>>41
身に覚えがないんだろ
折れるな茂助!

44 :人間七七四年:2017/06/18(日) 17:17:19.00 ID:5kXMhSIL.net
>>42
今思ったけど井伊って織田家中での明智みたいな立場なのか?
外様だし京までの道筋にある場所を任されるって

45 :人間七七四年:2017/06/18(日) 23:12:19.32 ID:G5NSzpbo.net
そろそろ鮭様のいい話頼む

46 :人間七七四年:2017/06/20(火) 18:48:07.31 ID:oqc2RtC1.net
>>14
山間郡は原文ママ?吉開は山門郡にある

47 :人間七七四年:2017/06/20(火) 18:59:57.31 ID:oqc2RtC1.net
>>21
憲政記念館の所に現存しているよな。この井戸

48 :人間七七四年:2017/06/20(火) 19:09:14.48 ID:qFtwVh1m.net
兼続の屋敷跡が
「憲政」記念館になったとは、
御館の乱の因縁があるようなないような

49 :人間七七四年:2017/06/20(火) 21:03:34.38 ID:oqc2RtC1.net
>>41
笑った

50 :人間七七四年:2017/06/21(水) 17:16:33.93 ID:QqZGxox/.net
立花飛騨守宗茂は一旦(徳川家の)御敵となったが、台徳公(徳川秀忠)の
御代に御許しを蒙り、旧領柳川11万石9千6百石を賜り、

入部してこの度の祝いの儀式として、家士の面々を饗応なされた。その席に
出て宗茂は物語りなされ、

「大昔に佐野源左衛門が本領を安堵されたのは罪無くして所領を失ったから
である。一方で私めは御敵となった者なのに、このように旧領を賜った。

これは誠にもって御厚恩である。されども一つには、当家の武勇は父・道雪
より以来、世に恥じること無く、

これらの事などを御賞翫されたのかも分からない。ならばこれからは尚更に
上下とも武備を忘れてはならない」

と仰せになった。

――『明良洪範』

51 :人間七七四年:2017/06/21(水) 21:50:29.42 ID:iv59Ojsk.net
既述のように、当時テンカ(=天下)の最高統治権を掌握し、専制的に支配していたのは松永霜台であった。
すなわち、彼はその点、偉大にして稀有の天稟の才能の持ち主であった。
彼は完全に自らに服従せしめていた大和国の、奈良の市街に近いタモンヤマ(=多聞山)という立派な一城に住んでいた。
そして五畿内においては、彼が命じた事以外は何も為されぬ有様であったから、位階や門閥においては彼を凌駕する多くの高貴な人たちが彼に奉仕していた。



フロイス日本史から、1563年頃の松永久秀の話

52 :人間七七四年:2017/06/22(木) 23:51:44.66 ID:53keMK1k.net
ある人の語った所に寄ると、戦場へ出る度ごとに戦功を顕し、先駆け殿の功重なる勇者があった。
彼の友人がこれを羨み、

「我も人も、武士の家に生まれて一通りの働きを遂げぬ者は、家職を辞めて農工商の職を行う人に
成るべきだろう。だからこそ一通りの働きはしているが、御辺のように度々の戦功を成し、
後にて後悔もないような、心と身と口の一致した働きをするのは、致しようというものが有るのだろうか?
有るのなら是非承りたい。」

こう問われ、この勇士は
「奇特なることを尋ねられるな。わかった、語って伝えよう。しかしこれは武士の本意であるので、三日
物忌みをしたまえ。その上でこそ伝えよう。」

これに問うた者は喜び、三日斎戒して再び対面した

勇士曰く
「生死は一大事である。人の生きることを止めないために慎むべき事であるから、この事を秘事にしているのだ。

大きな仔細が有るわけではない。人の身には手毬ばかりの大きさの、光る丸い物があって、常には臍の下
あたりに静まっている。
しかしこの光物は常に身中を往来し、面門(口)から外へ出入りもする。

臆病な者は、この光物が抜けて内に無い。このため光を失い何事も分明ならず、方向を失うのだ。

それより少し心得有るものは、外に抜けてはいないといっても、面頭に上がり、このため目も見えず
耳も聞こえず、その場における善悪の判断も出来なくなる。

それよりも一段上の人は、この光物が胸に上がり、胸騒ぎがしきりである。

上段の人は、臍下に留まり気は勝り、病気などに成ることもない。こう言った人こそ心口行の三つ一致して、
所行常に静かにしてその理も分明である。

これを修行するには、人に会って怒りを覚えた時、この事を思い出す事だ。
そこでよく考え、体の中の光物を納め付けた時、終には修行が本意に至るのだよ。」

この教を受け、問うた者は拝して退いたという。
これは定論ではないのだろうが、この説を実践すればその至極に至ることも出来るだろう。
かの孟子が論じた「放心」にも似ている。

(士談)

53 :人間七七四年:2017/06/23(金) 02:05:21.72 ID:/IPKuLm8.net
武術でいうところの「気」か

54 :人間七七四年:2017/06/24(土) 18:19:04.41 ID:s9WvoSYg.net
鹿児島県鹿児島市にある松原神社。松原神社は、天文館という鹿児島で一番の繁華街にあります。
ここは島津家の15代当主
島津貴久(靖國崇勲彦命(クニムケイサタカヒコノミコト))を、主祭神として祀っています。

かつて、このあたり一帯に、名刹・曹洞宗福昌寺の末寺である松原山南林寺がありました。
南林寺は、弘治二年(1556)島津家15代貴久によって建立され、大いに賑わっていたといいます。
貴久の死後天正十年に義久が南林寺を貴久の菩提寺に定めました。
明治二年(1869)の廃仏毀釈によりとりつぶされ、翌年、跡地に松原神社が建立されました。

松原神社には他にも戦国武将が祀られております。その人物について、神社内にある、
鹿児島県歯科医師会によって建てられた説明板には、次のように由来が書かれています。
「祭神は島津貴久公の臣 平田純貞 元亀二年(1571)三州平定途上、急死の主君の無念を思い出家諸国を遍歴、
元亀四年亡君命日六月二十三日殉死の作法に従い、うつろ舟に乗り蓋を釘付けに海に流させた。読経歯ぎしりの音、
三昼夜壮烈な殉死をげた。遺体の歯は抜けていた。当時歯痛に悩む人は自分で歯を抜いていたが、
自然に歯が抜けた純貞は、歯の神様と崇められるようになった。」

また、別の説として、鹿児島県歯科医師会会史(80周年史)では次のように記載されています。
「島津家15代の明主大中公(諱は貴久)の家臣・平田純貞、君主の命を奉じて虚無僧姿となり、
九州一円国情偵察の行脚をやった。その当時は織田、豊臣の時代で島津藩の如きも未だ後年の如く
統一されたものではなかったが、帰途福山において大中公薨去の報に接した。
 純貞落胆措く能わず人生最大の苦痛を味わいて殉死せんとした。即ち人生において歯痛に勝る苦痛は
あるまいとの観念から自ら全歯を抜き放ち、且つ空舟に乗ってこれを海中に投ぜしめた。」

なお、うつろ舟については、次の資料を見つけました。
「空舟とは本来、木を剔り抜きて船の如くし、殉死者はこれに乗りて蓋を釘付けにし且つ海中に投ぜしめる方法であって、
その当時の殉死の一形式として用いたといわれている。これが他の殉死と異なるところは、
万一運が良ければ陸地に漂着して救助されることもあったという。」

純貞の舟は2、3の漁家のみだったという海岸(今の南林寺町)に漂着した。即ち検死の結果、平田純貞ということがわかり、
これを海岸より程遠からぬ元の南林寺墓地(ちょうど現時の南洲寺より55メートル位西北にあたる)に埋葬された。
その時死体を東向に埋葬したところ、不思議に天地晦冥となり、風雨俄に起こったという。蓋し大中公を祀った松原神社が
その西にあり、大夫の霊が東向を欲しないためだろうというの で早速これを西向に改めたところ、
忽ち天地が元のように晴朗になったという。
何時の頃からか世人はこれを「歯の神様」と称え、歯痛に霊験あらたなものとして来拝者が後を絶たなかったという。

鹿児島県歯科医師会では、1960年頃から毎年6月4日に松原神社で”抜去歯”の供養祭とともに
「歯の神様」の祭礼を行っています。
(2017年は60人ほどの参加あり)

数年前の新聞の記事では抜去歯の数は二万本ほどだったそうで、皆さん歯を大事にしましょう。

松原神社
https://www.matsubarajinja.com/

55 :人間七七四年:2017/06/24(土) 18:32:37.43 ID:B5sHcQLP.net
島津斉彬の照国大明神、ててっきり天照大神に対抗して東照大権現になった徳川を倒した薩摩が
「東」より広い「国」にでもしたのかと思ってたけど
島津貴久が「靖國」だったからてだけ?

56 :人間七七四年:2017/06/24(土) 18:44:27.62 ID:D++bK00K.net
うつろ舟と言ったらこれ?
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/Utsuro-bune.jpg

57 :人間七七四年:2017/06/24(土) 20:46:04.57 ID:TUR15A8h.net
補陀落渡りでもするのかと思った

58 :人間七七四年:2017/06/24(土) 21:14:45.36 ID:B5sHcQLP.net
補陀洛といえば
ポータラカ→補陀落→ふたら→二荒→にこう→日光
となったというのを近頃知った

権現様も補陀落に眠ってるということか

59 :人間七七四年:2017/06/25(日) 12:18:03.00 ID:MAg8NU8C.net
古の者の云えることを記せる書に、一番先陣、一番乗り、一番頸のそれぞれに軽重があるとしている。
但し名を得て人々から唱えられる為には、一に天命、二に国、三にその場、四に主人、といった要素が
必要であり、こう言った条件が揃わなければ、世に隠れない高名というのは成り立ち難い。
永禄天正以来の名を顕す輩は、この4つの条件を外していないのだ。
しかし高名があっても隠れて人に知られないのも、また皆天命であるから、更に恨むべきではないだろう。

また永禄天正以来、一番槍には千石、二千石、三千石、八千石までの賞が与えられている。
一番乗りには、豊臣秀吉は、一万石を宛てがうべきと定めたそうである。

保元・平治より織田信長の頃までは、槍という功名はなかった。信長の頃より、槍を以て世に誇るようになって、
それより皆以って、槍にあらざれば功にならない程に成った。

(士談)

60 :人間七七四年:2017/06/25(日) 14:25:04.95 ID:92x/1vvH.net
安定の毛利勝永

61 :人間七七四年:2017/06/26(月) 09:38:11.31 ID:W+BjMk6D.net
ある人、敵より攻められている城より、扱いを乞う和談の使いとされて城外に出ることとなった。
この時大将初め諸侍それぞれ言った

「御辺は、大勢のうちから特に指名されて城外に出ることとなった人物であるので、今更言うには及ばない
だろうが、城中のこと、少しでも弱みがあるように云っては、扱いに成りにくいものである。
随分城中の強みを語り、兵糧弾薬等までふんだんに有ることをよくよく言い聞かせられ然るべきである。」

使いの侍
「委細、相心得ております。古来よりの作法でありますから、宜しく申すでしょう。」

そう言って外へ出、寄せ手の大将の所に至ると、先ず湯漬けを望んで2,3杯を食し、その上で酒を望み、
これを飲んで申し上げた

「城中では、先月の5日より10人を以て一升扶持にしていましたが、今月に入ってそれも配給できず、
酒などは大将物頭ですらろくに口に入れることも出来ず、味噌などは皆消費し尽くし、今では一口舐めるのも
古の雁鴨の料理よりも大切に存じています。」

寄せ手の歴々聞いて、未だ兵糧は潤沢と考えていたので意外に思った
「これは思っていたのと相違している。しかしながら左様な事も有るだろう。久しき籠城であったのだから。」
「さて、弾薬の方はいかがか?」

「弾薬もまた、只今は不通にこれ無く候。」

「そういう事であれば、何故に今まで城から出ず、籠城しているのか?」

使いの侍、言った
「その事です。若年の者たちは『これではどうにも成らないから、一方へ切って出て、一同に討ち死にすべき!
必ず一報をば打ち破ります!』と主張しているのですが、大将も物頭も奉行どもも、物資が残っている事を理由に
同心致しませんでした。そこで彼らは『同心無くてももはや一方へ切って出て打ち抜くべし!』と言い出し
ましたが、大将が強いて抑留しことで、さすがに打って出ること出来ず、今日まで引き伸ばされております。」

「その、打って出ると主張している人数はいかほどなのか?」

「それも僅かに、百七,八十人ばかりです。雑人や下々は存じもよらぬことで、ただ侍分の者ばかりこれを
主張しています。」

これを聞いた寄せ手の者たちは談合した
「この使いの申す所、一々偽りが無いようです。であれば、仮に百七,八十人の侍が必死の思いをなせば、
寄せ手が勝利したとしても、大勢の死傷者が出るでしょう。ここは和談を用いるべきでしょう。」

こうして和議が整い、城が明け渡された時、兵糧雑器は未だ山のように残っており、弾薬も大量に
備蓄されていた。ただし、打って出ることを決意した人数を百七,八十人と言っていたが、実際には
十七、八にんも居なかったという。

この扱いの侍、優れて才の逞しき者と言うべきであろう。

(士談)

62 :人間七七四年:2017/06/26(月) 16:27:33.20 ID:SoVYyyyF.net
なるほど。舐めてかかって来るならば潤沢な弾薬で一捻りするのか

63 :人間七七四年:2017/06/27(火) 10:16:38.98 ID:T68U6Os8.net
兵糧弾薬残ってるのに城明け渡すなんて利敵行為じゃないの

64 :人間七七四年:2017/06/27(火) 17:54:58.72 ID:1VN7Msjq.net
信濃木曾義昌の家臣に、知村、山村という者があった。木曾義昌没落の後、両人ともに流浪していたのを、
徳川家康が関東において堪忍分を与えていた。

関ヶ原の役の折、家康は木曽路の通行の安全を確保するようにと命じ、ここに知村、山村の両名を、
先遣隊として遣わした。

そこで、鳥井峠の”こなたならい”という場所から、山村は福島(木曽福島)方面に手のものを遣わし、
説得することによって大方は徳川方へと属した。しかし未だ完全に徳川方となった状況ではなかったが、

「先ずは木曽福島が別状無く徳川に随身した旨を注進仕る」

そういって飛脚を馳せて、『木曽福島は相違なくこちらに従った」と家康へ言上した。

この時、知村はこれを危ぶんだ
「まだ木曽福島に実際に足を踏み入れておらず、この先どうなるかもわからない。なのにこのように、
逸りすぎて注進を行うのはいかがだろうか。」

しかし山村はこう言った
「勿論、この先どうなるかわからない。だが、我等が今まで接触した者たちの反応がこれほど様子の良い
状況である以上、別状はないだろう。それに、木曽福島を従えることが出来なければ、我等は再び
家康公に対面など出来ない。このような時分は急ぎ注進すべきなのだ。」

これに知村も止め得ず、注進に連署した。

果たして木曽福島に入ると、かつての木曾義昌の居城であった木曽福島城も難なく抑えることが出来た。
この時、木曽福島の者共の人質は、西軍の石川備前守(貞通)の催促により尾張国犬山城に入れ置かれていたが、
「木曽福島城が取られた以上、所々の人質共をここで殺すのも詮無きこと。」と、皆これを開放したという。

山村の策略が完全に当たったわけで、これは才の逞しさによるのであろう。

(士談)

65 :人間七七四年:2017/06/27(火) 17:57:52.98 ID:Ova7GEms.net
結構、綱渡り染みたことをする人多いんだな

66 :人間七七四年:2017/06/27(火) 22:45:16.96 ID:PO/13QAR.net
山村さんって材木管理だけかと思ってたから意外だった

67 :人間七七四年:2017/06/28(水) 02:03:20.70 ID:7LGw2mJr.net
貞通じゃなくて貞清じゃね

68 :人間七七四年:2017/06/28(水) 07:13:40.33 ID:fETTublr.net
テレビから出て徽宗

69 :人間七七四年:2017/06/29(木) 00:04:31.96 ID:RInqlD5Z.net
淀殿に仕えた各務兵庫の娘


森家の家臣・各務兵庫(元正)には息子が2人、娘が5人いた。
長女は森重政の妻だった。
次女は大坂衆で落城後に切腹した竹光伊豆の妻だった。
三女は丹後の田中七兵衛の妻だった。
四女は作州の各務勝太夫の妻だった。
五女は淀殿の侍女だった。

大坂城が落ちる前、淀殿は不憫に思い城を出るように勧めたが
どうあっても出ていかない旨を述べ、小脇差を懐に差したという。

後に京極高知の側室となり一男一女をもうけた。


――『武功雑記』

70 :人間七七四年:2017/06/29(木) 06:23:26.13 ID:Tm2U+4xu.net
脇差が欲しかったのか

71 :人間七七四年:2017/07/01(土) 09:35:57.74 ID:or08M729.net
加藤左馬助嘉明が伊予の松山にあった時、藤堂和泉守高虎は今治に在城していた。
松山の枝城には、嘉明の弟・主馬が置かれていた。これは今治領との境目であった。

ところが、この境目において在地の争いがあり、高虎の領分の百姓が、主馬支配下の百姓に
殺される、という事件が起きた。

高虎は堪忍致せぬ事態であるから、主馬の所へ軍勢にて押し掛け城を踏み潰すとの噂もっぱらとなり、これが
飛脚により嘉明に伝えられた。これを聞いた嘉明は扇子を手に持ちながら
「さればこそ 人かよいけり あさぢはら」
という歌の上の句を2,3度唱え、暫く黙っていたが

「今、弟を人に殺されて堪忍することは出来ない。今後どうなろうとも、是非出陣して
高虎を討ち果たすべし!未だ主馬が死なぬうちに後責め致すべし!」

そう言って即座に陣触れし、その夜の五つ(午後8時ころ)出勢と決め、諸士ひしめいた。
老臣たちも黙ってこれに従った。

しかし、河村権七といい、彼はこの頃まだ若年で、家老の列に入っていたが末座に控えていたが、
彼が進み出て四方に主張した

「今少し、後思慮なされるべきです!何故ならば、今から出陣いたしましても、高虎の勢が
主馬様の所を攻撃するのに間に合いません。また噂だけで実際に藤堂勢の出勢がなければ、我らが
陣触れして出撃する意味もなく、かえって公儀を軽んじて私の軍を起こしたとの批判も受けるでしょう。
特に藤堂は公儀において重んじられていますから、何を企んで我等に対し手段を致すか、はかりかねます、
今少し実否を正して、その後に後出勢なさるべきです!」

これに嘉明も屈し、その夜の出勢は中止となった。二時(約4時間)ばかりを経て注進があったが、
藤堂の出陣は噂だけで実際に軍が動く様子はない、との事であった。河村の才知が功を奏したのである。

その後、藤堂高虎は公儀に対し「加藤嘉明は境目の紛争で我儘をいたし、陣触れまで行った」事を、
数通の実例を上げ申し上げたため、嘉明の立場は難しいものとなり、身上破却に至る寸前まで行ったが、
様々に弁明し別状無かったという。

(士談)

72 :人間七七四年:2017/07/02(日) 20:52:52.10 ID:PL4U7vUW.net
尾州の西琳寺という寺に順正という長刀の術に熟達した僧がいた。順正が祖始旧跡24輩の巡礼をなして
棚倉に到った時に霖雨のためしばらく逗留することとなった。
一夕、領主の立花宗茂公を訪ね意気投合し、公から寺をこの地に移すことを勧められた。
順正がそれを承諾したため、宗茂公は白指山の山号を自書して与え、それを以って証左とした。
尾張に帰った順正が転寺の準備をしていると、宗茂公が柳河に再封されたため、
順正は宗茂公に従って柳河にやってきた。宗茂公は一寺を創建して順正を開山とした。
それが白指山西琳寺である。
(旧柳川藩志)

尾張の僧侶が奥州棚倉で誘われて九州柳川に移住したという話

73 :人間七七四年:2017/07/03(月) 02:17:14.03 ID:pm5eutU1.net
筑紫町にあるんだな。今度訪ねてみようかな

74 :人間七七四年:2017/07/03(月) 18:17:25.88 ID:8WDBP3oZ.net
羽柴秀吉が、自らを関白に任じ天下のことを預かり白すべき事を望んだ時、禁裏は勅定として

『古より執柄に任じられる家は定まっており、藤原氏が相続している。秀吉の姓はいかなるや。
このような事は、その姓に従っているものである。』

とあり、伝奏もそのように秀吉に説明した。

秀吉はこれを聞くと

「私は元百姓の子であり、姓氏ともにあらず。天子はこれを知り給いながらかくの如き勅定、
甚だ以て心得がたし。

ここで考えてみるに、往古より、生まれながら姓氏を持って出て、これぞ源平藤橘と、
自然に相備わるような事はない。時の天子がその生縁に因ってその姓を賜り、その人の住む場所により
在名を名乗る。

しかれば我、今武威を以って天下を併呑した。天子はどうして相応の姓を与えないのか?

また関白職が藤氏に限定されるというのもこれまた心得がたい。
関白は天下の政務を預かり四海の権を執る職であり、今この職に任じられるのは私以外に誰がいるというのか。
藤氏歴代関白に因循するといえども、ただ有名無実な存在であり、何の意味もない。
かつて朝廷が関白職を設置した由縁を、能く考えてみることだ!禁裏にはそのように返答してほしい。
よき勅答を待つ。」

これにはさしもの伝奏の公卿も、言葉もなく退出した。
そして天子はついに豊臣の姓を下し、秀吉を関白の職に任じた。

(士談)

75 :人間七七四年:2017/07/03(月) 20:50:35.25 ID:pm5eutU1.net
関白就任は棚ぼただったんだよね
この話の様に姓のせいで関白就任が断られたなら別に太政大臣でもいい気がする
清盛の前例があるし

76 :人間七七四年:2017/07/04(火) 12:07:16.30 ID:Z7UEEGAF.net
弘治元年10月、陶晴賢が芸州厳島に押し渡ったのを、同月30日大風雨の夜、毛利元就は押し渡って、ついに
陶を討ち果たした。いわゆる厳島合戦である。

この合戦は大事の軍であったから、陶晴賢の元より、伊予の河野へ船を借りに遣いが出された。
同日に、毛利元就よりも河野に船を借りに来た。
この時、陶晴賢は何ということもなく船を借りた。
毛利元就は「一日の間貸され候へ。厳島に渡りてやがて戻すべし。」と云い送った。

河野家の重臣であった村上通康はこれを聞いて
「少しのことながら、思い入れが違う。毛利が必ず勝利するだろう。」
そう考え毛利家に船三百艘を貸した。はたして陶晴賢はその合戦に打ち負けて、中国地方は悉く元就に属した。

(士談)

77 :人間七七四年:2017/07/05(水) 17:39:23.39 ID:qhAAv/+d.net
 毎日城を見廻っては普請などを命じ、朝飯は城より弁当を取り寄せて、
所構わず道端や堀の端で食事をし、その日の普請の当番には声をかけては話を聞いた。
侍屋敷の前では畳を一、二帖借り出して敷物とし、結構な仕立てを嫌って、いかにも質素であることを好んだ。
 寺の門前に無用な植木などがあれば、この木を掘り除き、茶を植えて信徒たちに茶を分け与えるよう指示した。
また知行所は残らず見て廻り、農家の周りに堀があれば用心は田中に任せよと言い、堀を埋め立てさせ稲や畑を作らせた。
年貢高を決めるための調査には自ら赴き、作柄の見立てを行って収穫のよしあしに従って年貢率を決めたので百姓たちは喜んだ
 また、罪人があると、首を切る代わりに荒地の開墾をさせるこのような仕置きは九州小倉の越中殿にも聞こえていた。
知立から西尾の間にある三里に及ぶにし野という芝原を囚人たちを使って開墾させ、
ここに松を植えたので後にここは松原となって毎年塩木として売る事ができるようになった。
(石川正西聞見集)

塩木(海水を煮沸し塩を作る際の薪用の木)

田中吉政、岡崎時代の統治

78 :人間七七四年:2017/07/06(木) 11:00:20.83 ID:shzTRTJ6.net
 秀吉公の於萬(秀次)様は秀吉公の鳥取陣に供をして当国に来ていて、宮部継潤に養子として預けていた。
宮部の陣所辺山森という要害には、役者も数多く居た。落城後は秀吉公播州へ帰陣して、
於萬様は当城に留まり宮部に養育されていた。
天正十年の春には秀吉公は何を思ったか播州に送り返せと命じられ、
継潤に家老として友田左近右衛門か田中久兵衛(吉政)二人のうち一人を付けろと併せて命じられたので、
田中久兵衛を付けた。
この二人宮部家中では才覚武勇優劣付かない侍で、秀吉公も内々召し抱えたいと考えていて、
特に友田を望んだのだが、継潤が惜しんで出さないと考え両人のうち何れかという形にされた。
案の定友田惜しみ、田中の方を差し出してきた。
後於萬様は播州に帰り、秀吉公は近くに置いて大変可愛がり、次第に成長して元服した。
(因幡民談記)

79 :人間七七四年:2017/07/07(金) 06:18:01.37 ID:E7nZay3K.net
 長顕(田中吉次)、軍に従えないことを憤って、父に訴えたけれども許されず、長顕手勢30騎ばかりを引具し忍び出て、父に先立って馳せ参じた。
(田中)吉政これを聞いて大いに驚き、池田侍従(輝政)に事情を告げた。輝政が吉田城を守らせていた竹村彦右衛門のもとに早馬を立て、長顕を押し止むべき由と下知した。
長顕は吉田の城を避けて本坂城を過ぐるところを竹村は追いかけて吉田の城に伴わせようしたところに輝政より飛脚が到来して、止める必要はないという。
是は徳川殿、長顕の志の程を感じ許すことによって父子共に向かう
(藩翰譜)

関ヶ原時、東海道の大名が自分の城をと人質を家康に差し出すも吉政の人質が江戸からが逃げてきたという逸話

80 :人間七七四年:2017/07/07(金) 06:26:22.82 ID:E7nZay3K.net
いい話に書いちゃったけどまあいいか

81 :人間七七四年:2017/07/07(金) 17:09:42.14 ID:ssyeJvnd.net
神君(徳川家康)は、

「武道を嗜む士は、戦場へ赴くからには必ず死を遂げるという心掛けが
なければ叶わない。白歯の者は、歯が黄色にならないように心掛けて、
髪も香りを留めるのが良い」

と仰せられたということである。

上田主水入道宗古(宗箇)と申す武士は、

「討死の首になった時のことを心掛けるべきである。されば月代が後ろ
下がりでは首になった時に詫び言顔になって見苦しい。

それゆえ、後ろ高(後ろ上がり)に剃るのが良い。その前日には月代を
剃って首を綺麗に致す心掛けが第一である」

と申した。

――『明良洪範』

82 :人間七七四年:2017/07/07(金) 23:31:50.02 ID:ORWkGDa9.net
白歯のものってなんつうか初めて聞いたな

83 :人間七七四年:2017/07/08(土) 11:11:46.03 ID:PtOrjCfS.net
 三成は並の者ではないので、今日落ち人となりても明日は又様々な謀略を企むことも考えられる。
したがって田中を一人に捜捕させるのはいかがなものかと私議するものもいた。
しばらくして吉政は石田を捕らえ出て進じた。
その時、田中はかねてより治部と仲がいいゆえに少しも疑いがないとはいかなったが
此度の功によって我が疑いは晴れたと仰られた。
諸人は初めて盛慮の深淵を感じた。
(徳川実紀)

84 :人間七七四年:2017/07/08(土) 20:36:43.42 ID:kOydjY6e.net
読売新聞に載ってたので。
兵庫豊岡でラスボスから茶々への愛の見舞状
秀頼公出産直後に贈られたもので、10月7日から11月26日まで兵庫県姫路市の県立博物館で公開されるそうな。
内容は茶々が高熱を出し、何度も灸をすえて体調が回復したのでそれを喜んだもので、
「これから食事をしっかりとるように。また秋刀魚を送ったので味わうように」とねぎらう一方で、追伸でこんなことも書いている。
「灸が嫌いなはずなのに、それほど高熱だったと聞きましたさすがは拾のおふくろです。」
ラスボスの細やかな性格と茶々への愛情の深さがうかがえると記事には書かれていました。

85 :人間七七四年:2017/07/09(日) 01:30:12.47 ID:2VY1cRSN.net
 この国(筑後)の殿(田中吉政)は一般的にその発展を妨げずにいたところ、
眠ってはいけない悪魔は、その手下である数人の異教徒を通じて、
その発展を邪魔するだけではなく、殿が発した若干の言葉をきっかけにして
既にキリシタンになっている人たちを帰京させることさえ望んだ。
その言葉とは父祖の教法を変えるのは望ましくない、というものであったが、
彼らはその言葉の意味をねじ曲げて自分たちの邪な悪意に従って解釈した。
こうして、かの異教徒たちは、殿の公の役人であり、
キリシタンがいる数ヵ村を治めていたので、
既にキリシタンになっているものは回心せよとそれらの地区に布令を出した。
(中略)
 さて、キリシタンたちがこのような窮状におかれているときに、
殿がたまたま司祭たちの修道院に来て食事をし、そこにある楽器を見た。
その折、司祭に対してすこぶる愛想がよく、優しい態度を見せ、
(司祭は)彼に大いに敬意を表して厚くもてなした。
キリシタンは、自分たちがキリシタンたちに対し企んだことを殿がもし知ったならば、
よい結果にはなるまいと考えて、その悪企みを断念することにし、
キリシタンたちは自由に、平穏になり、敵たちは困惑し恥いった。

(イエズス会日本報告集1−4)

86 :人間七七四年:2017/07/09(日) 16:47:58.14 ID:XGOtj05r.net
図書館ってこんなサービスしてるの?
どこでもやってる?

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000179545

87 :人間七七四年:2017/07/10(月) 13:41:31.93 ID:FFhxfwX+.net
永禄13年、駿河花澤城を武田信玄が攻めた時、武田方の落合治部が討ち死にした。
その頸を敵は取ろうとし、一方治部の弟である左平次は兄の死骸を戦場から退けようとして、
このため敵味方入り乱れての競り合いとなった。

この時、信玄の旗本衆は高台よりこの様子を見て、旗本の総攻めのように、一斉に鯨波の声を上げた。
これを聞いて敵の兵は皆、旗本衆の攻撃があると考え城に入り、左平次は無事、兄の死骸を
退けたという。

(士談)

88 :人間七七四年:2017/07/11(火) 12:47:58.44 ID:F9sSnusY.net
佐久間不干斎(信栄)が織田信長の叱責により高野山へと立ち退く時、その道中に
野伏が殊の外起こり、通行が非常に困難となった。

この時、佐久間不干の側には唯一人、当時16歳であった山口修理亮重政が付いていた。
彼は飛脚のように先行し、先々で所の名主にこう申し触れて廻った

「佐久間不干が明日、ここを通られる!罪過はご赦免されているため、郷人どもがもし
一人でもこれに手を出せば、後日御詮索あって、必ず罪を問われようぞ!」

翌日、佐久間不干の通行を妨げる者は無かった。

(士談)

89 :人間七七四年:2017/07/11(火) 19:44:28.37 ID:3R43EUyZ.net
>>87
前にも「鬨の声と言えば」ていうので出典不明で出ていた

ついでにこの漫画ではなぜか上杉との戦いってことになってる
ttp://i.imgur.com/yLfJKkM.jpg

90 :人間七七四年:2017/07/11(火) 19:58:20.11 ID:I0EiXcXu.net
>>88
これ信長の威光の話だよねw

91 :人間七七四年:2017/07/11(火) 23:10:38.34 ID:3vZPBYkw.net
>>89
この頃の民明書房の真実味は異常

92 :人間七七四年:2017/07/11(火) 23:23:03.03 ID:/jTE09E/.net
真田信幸も岩櫃城に家族と避難するときに鬨の声をあげて
盗賊や乱波たちを追っ払ってたっけ
加沢記だから信憑性怪しいだろうけど

93 :人間七七四年:2017/07/11(火) 23:29:38.91 ID:oXS0/r1j.net
信長は稲生で林の手勢に囲まれたときに、大声でわめいて相手を追い散らしたね

94 :人間七七四年:2017/07/12(水) 16:08:52.56 ID:7chqTk7M.net
天正15年、豊臣秀吉の九州征伐の時、豊前の岩石城に熊谷越中という者が、多くの人数とともに立て籠もった。
この方面の先手の大将は堀左衛門督(秀政)であり
「岩石は良き城なれば攻め損じては後に影響を与える」と、蒲生氏郷をこの城の押さえとし、
秀吉は秋月へと向かった。

この時、蒲生氏郷は岩石城の様子を詳しく見届けるために、斥候の侍として、吉田兵助、周防長丞の二人を
派遣した。二人は岩石城の状態、また麓の様子などを見て回ったが、そこにはひと一人無く、食を食べた
跡もあったが、飯粒は乾いていた。
これを見届け、その通りに報告した。

次に氏郷は、布施二郎右衛門、土田久助の二名を岩石城に遣わした。
二人が帰って報告する話も、前の報告と特に違いはなく、また先の飯粒の他に、一体いつ退去したのかを
知れる証拠も無かった。

その後さらに、蒲生四郎兵衛に「見てくるように」と斥候に出した。
四郎兵衛は見て帰り

「岩石城の者たちは10日以上前に退去しました」

と報告した。

「その仔細は?」

「このあたりでは10日ほど前に雨が降りましたが、その後降っていません。
また、道道には足跡が見つかりませんでした。雨の降った後まで居たのであれば、必ず足跡が
残っているはずです。」

この報告に氏郷は「見るべき所を見ている」と、褒美を与えたという。

(士談)

95 :人間七七四年:2017/07/16(日) 14:47:54.59 ID:+Kef9Q/f.net
朝鮮征伐の時、高麗において漢南の加勢が、百万の大軍にて押し来たるとの情勢の中、
日本軍の兵士たちは疲れ果てており、気は弱り勢いも遅れていた。

この時、加藤清正は早朝に出てきて兵士たちにこう語りかけた

「昨夜、珍しき瑞夢のお告げがあった。今日、押しゆく所の道に必ず大きな石がある。
これを引いて帰れば、戦は必ず勝利するということを、まさしく私は見た!
夢は信じるに足らぬものだというが、合戦に挑む前表、吉凶必ず著しきものなのだ。」

そう大いに喜んで押し行った所、はたして大石があった。清正はこれを見るや

「その形、昨夜夢で見たものと聊かも違わない!天のお告げであること、明らかである!」

そして自身で石の上に上がり、大声を上げて木遣をして兵士たちに引かせた所、諸軍大いにいさみ、
問題なく引いて帰った。そして軍士たちはこれに気をはげまし、大いに勢いを取り戻したという。

(士談)

96 :人間七七四年:2017/07/17(月) 09:29:47.75 ID:PQvx1qrF.net
悪い鼻スレが落ちてたので立ててみる

97 :人間七七四年:2017/07/17(月) 09:32:37.88 ID:PQvx1qrF.net
出来た。悪い話はこちらに

戦国ちょっと悪い話45 [無断転載禁止]©2ch.net
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1500251516/

98 :人間七七四年:2017/07/17(月) 09:40:10.62 ID:UXe2nase.net
>>97
おっつー

99 :人間七七四年:2017/07/17(月) 13:37:28.76 ID:6zIr1JCj.net
戦国時代の男色にまつはる佳話を是非ともお聞かせ願ひ度いものぢや。

方々、何卒よしなに頼み入り申す。

愉しみにして居りますぞ。

100 :人間七七四年:2017/07/19(水) 05:54:26.93 ID:cQO9i7mY.net
岩村城には石川五右衛門偽上使の伝説がある。豊臣の天下の時、岩村城主
の田村中務大輔(直昌)には嫡庶の二子があった。

やがて中務大輔が病にかかって瀕死の状態となった時、この二子を中心に
御家騒動が起こった。しかし庶子である次男は、実は佞奸な家老の

倉元甚五右衛門の姦通の子で、倉元は庶子に家督を継がせて主家の横領を
企てたのである。これを推知した中務大輔は腹心の小姓・金森林念に、

家督相続の遺言状を託して間もなく世を去った。忠臣の金森は思案の上で
騒動の顛末を関白・豊臣秀次に注進したので、秀次は使者・福原団七郎を
岩村城に乗り込ませて一切を解決させることにした。

これを探り知った石川五右衛門は、「良き機会ぞ」と、すぐに団七郎の家臣を
手に入れ、途中<十三峠辺りであろう。また岩村城下玄吾坂下ともいう>で
待ち伏せて団七郎を殺し、自分はすっかり使者に化け込んで、

行列厳しく岩村へ到着した。偽使者をすぐに訪れたのは奸物・倉元だった。
彼が多分の金子を賄賂にして帰ると、まもなく小姓・金森は密かに訪れて、

倉元の悪計の一部始終を訴えた。さてその翌日、五右衛門はいよいよ城入を
なし、倉元を利用して散々腹を肥やしてから、

彼の悪事数々を満座の中で弁じ立てた。その後、家督は無事に長男へ譲られ、
倉元は死刑にされて騒動は落着したという。これは五右衛門一代を通じての
大義賊伝として講談などにも読み込まれている。

――『恵那郡史』

101 :人間七七四年:2017/07/19(水) 06:48:10.45 ID:pTcGI5g6.net
>>100
この岩村城ってのは美濃の岩村城でいいのかな?

102 :人間七七四年:2017/07/19(水) 07:11:21.70 ID:aF6T985F.net
福原さんかわいそう

103 :人間七七四年:2017/07/19(水) 07:13:57.71 ID:SMPelxR4.net
義賊()

104 :人間七七四年:2017/07/19(水) 09:25:43.91 ID:PTyFtPRC.net
美濃岩村なら関ヶ原で改易された田丸中務大輔直昌のことなのかな

105 :人間七七四年:2017/07/21(金) 10:03:56.50 ID:WpG9uMxK.net
天正13年、羽柴秀吉による四国征伐の折、伊予金子城の籠城戦において、長宗我部方の藪内匠と、
毛利家の士、児玉三郎左衛門との槍合わせは、世の人が大変に話題にした出来事であった。

後に、本多佐渡守正信が児玉を招いて、その時の働きの様子を詳しく尋ねた事があった。
しかし児玉は「前後の次第を忘却してしまいました。」と言って、終に語らなかった。

その後、ある人が児玉に、何故語らなかったのかを尋ねた。児玉は

「藪内匠は、今ではその名が世上に流布している有名人である。彼が話した内容のとおりに
私も語れば、相違なく然るべしであろうが、もし私の言う所と創意があれば、人から褒貶もあり
よろしからぬ。

私は現在、武功を主張せねばならないような立場で江戸に来たわけではない。忘却したと言っても
失うものはない。また内匠について悪しざまな評判が立つのも本意ではない。」

正信もこれを後で聞いて、その志を深く感じたという。

(士談)

106 :人間七七四年:2017/07/21(金) 13:34:57.53 ID:T5B68rgu.net
ヤブタクミ?

107 :人間七七四年:2017/07/22(土) 18:44:44.31 ID:q3SVQupX.net
織田信長の初めの頃、柴田勝家と坂井右近(政尚)の二人が軍奉行を担当し、織田家の弓矢のことは
全てこの二人が指引した。信長はここに「蜂屋兵庫頭(頼隆)をこの両人に加えるように」と命じた。
蜂屋は武功抜群の者であった。

ところが柴田と坂井は、信長に対し
「蜂屋を加えられるのであれば、我々は軍奉行の役儀を返上します。」と、強い拒絶を表明した。

信長はこれを聞いて、
「こういったことは両人も進んで同意すべきなのに、そうしないのは不審である」と、
再び使いを以て命じたが、両人は猶以て役儀の辞退に及んだ。

信長はやむを得ず、両人に対し何故蜂屋を加えるのかを、直に説明した。

「蜂屋については、お前たち両人と同じ武功も者であるとは考えていない。だが彼は
諸事口才のある者である。合戦の最中、戦場から両人のうち一人帰って報告を行わなければ
いけない事もあるだろう。またこちらから両人の一致した判断に疑問を持つこともある。
そういう時、蜂屋を加えておけば、私の元に使いとして送るときも、また判断について
問い合わせるのにも便利ではないか。」

柴田、坂井はこの理に納得し、反対を取り下げたという。

(士談)

108 :人間七七四年:2017/07/23(日) 02:08:28.81 ID:4+4ziU7k.net
始めの頃っちゃまだ尾張の頃かな?

109 :人間七七四年:2017/07/23(日) 12:03:46.98 ID:1Pz0svPG.net
蒲生氏郷が、その頃の伯楽(馬を見分ける名人)である”こつひら”という者に尋ねた

「早い馬というのは、前足の地面を蹴る力の故に早いのだろうか、それとも後ろ足の捌きが良い故に
早いのだろうか?」

こちひらは申し上げた
「馬は、後ろ足の捌きが良い物が早いと存じます。」

これに氏郷
「私は幼若の頃より織田信長卿の傍に昵近して、目にも見、耳にも聞いたこと多い。
弓矢のことは、先を追い立てられた場合、二の手を以って持ち返すのは非常に難しく、
ただ先を第一とするのが肝要なのだと、信長卿は常に仰っていた。
ここを以って考えれば、前足のよく効いた馬の方が早いのではないかと、私は思ったのだ。」

こつひら、謹んで申し上げた
「私はいやしき業の者ですから、左様な高きわざの事は存じません。ですが、私は元西国の出身なのですが、
船の往来を見た時、前櫓よりは後ろのとも櫓に上手な水夫を立てて押したほうが、船は早くなります。
前櫓が良くても、とも櫓の押し手の能力が低いと、船は満足に動かないものなのだと見えました。
船も馬も、遅速のことわりは同一の物であると考え、ご返答したのです。」

(士談)

110 :人間七七四年:2017/07/23(日) 12:10:18.68 ID:UWC8+0GP.net
新庄「バッティングで大事なのは腕ですか?腰ですか?」

野村監督「どっちもや」

を思い出した

111 :人間七七四年:2017/07/23(日) 12:27:22.34 ID:NJfbG9iN.net
こういうのを拗らせると、拍子を打った時に音が鳴るのは右手か?左手か?みたいな話になっていくんだな

112 :人間七七四年:2017/07/23(日) 14:36:31.16 ID:5Vt6clig.net
マキバオーのマスタング走法

113 :人間七七四年:2017/07/25(火) 05:04:18.56 ID:k9GLkaDF.net
・丈巌岩(岐阜県鶴岡村田代)

元和元年大坂落城の時、城を逃れ出た浪士で、近江大吉寺で法師になり
丈巌院弟慶と称した者がいた。

この者は徳川方の捜査の厳しさに、ついには寺を逃れて鶴岡の地に至り、
家を構えて付近を開拓し、世を避けて隠れ住んだ。

ところが、またもや探知されて捕手の人数が押し寄せた。丈巌院は山上の
大岩に上り、釜を被って兜に擬し、太刀を打ち振るって法螺貝を

吹き鳴らした。その凄まじい勢いに恐れをなした捕手の者共は、ついには
引き返したのだという。この岩を名付けて“丈巌岩”というのである。

――『恵那郡史』

114 :人間七七四年:2017/07/28(金) 00:45:57.36 ID:5+Yov4kP.net
日本国に歌道が流行れば


細川幽斎の弟子松永貞徳の『戴恩記』に出て来る幽斎の思い出話。

あるとき(幽斎が)丸(貞徳の自称)の数寄の程が
あはれであると仰せられた時だったか
「日本国に歌道が流行ればそこも人に知られるでしょうにね」
と仰せられたので、丸が気が済むまで
「丸はこれが流行らぬのは幸せだと存じています。もし流行れば
 大名高家の人が我先に(幽斎の)御意を得られるでしょう。
 そうなればいつわたくし如きの者が御前に出られるでしょうか」
と申すと、尤もですねとお褒めになられた。

またあるとき、(幽斎が)
「禅定殿下(九条稙通)から源氏物語を御相伝されていれば
 御身とは弟子兄弟になっていましたね」
と冗談を言われたので、丸が思い切り
「よき御兄弟を持たれることは、誠に御果報並々ならぬ事ですね!」
と申し上げれば、一層機嫌よく笑われていた。

115 :人間七七四年:2017/07/30(日) 16:42:29.39 ID:GEqodZar.net
武田信玄の時代、武田家の武士の常々の慣習として、、道において、一人は騎馬、もしくは足駄(雨天用の
高下駄)履いていて、もう一人が歩行で行き会う場合、その両人がたとえ仲が悪くても、歩行の者が
物陰に隠れるのが当然とされた。そして騎馬、もしくは足駄の者は遠くで地面に降りて時候の挨拶をする。

先に歩行の者が物陰に隠れたのは、馬から降ろないでおこうという思いやりであり、武士としての
礼儀である。このように人が例をしたというのに、これに挨拶を返さないのは非義というものである。
また用心のためにも、騎馬のものは降り足駄を履いていれば脱ぐのは、良き武士の作法である。

しかし馬に乗ったまま通るのなら、降ろすことは無用である。それは相手が武士の作法を知らぬ女侍なのだ。
逆に徒歩の者が傲慢で「降りよ!」などと言い掛けて来るのなら、それは降りる必要はない。
降りるくらいなら相手を討ち果たすべきだ。

もし又、親兄弟の敵のある者が徒歩で通る時、狙われる人が騎馬で行き会った場合、
狙われている者は「御使に参る!御免候へ!」と、嘘を慇懃に言って乗り通れ。
こうすれば狙う人も討たないことが不覚にならず、騎馬のまま退けば追いつかれることもない。

(士談)

116 :人間七七四年:2017/08/02(水) 01:15:04.30 ID:qWCCf7Sp.net
○ 重箱獅子舞(三郷町野井)

口碑によれば徳川家康が武田氏と戦い、利なくして逃れて野井に来た時、

たまたま村民らは村社武並の祭典に集い、神前で酒を酌み、興に乗じて
重箱を戴き袱紗を被り舞っていた。

家康は、「ちょうど良い」とその群れに入り、ついに敵の危難から救われた。
家康は天下統一の後、この武並社の祭礼を重んじ、

“重箱獅子の舞”を奨励した。毎年の例祭には岩村藩主に使臣を遣させて
獅子舞を臨検させ、野井祭の名が高かったという。

今なお、重箱獅子の舞を伝えている。

――『恵那郡史』

117 :人間七七四年:2017/08/02(水) 01:17:29.09 ID:DdYy0X2r.net
なんでもかんでも三方ヶ原のせいにすればいいと思うなよw

118 :人間七七四年:2017/08/03(木) 05:14:39.58 ID:UnR9P03U.net
賤ヶ岳の戦いの折、堀秀政の陣へは、佐久間玄蕃(盛政)の進出した中しきり方面、並びに賤ヶ岳方面より、
しきりに加勢助力の求めがあった。このため、秀政はすぐに兵を出そうとしたが、これを
堀七郎兵衛(利宗、あるいは道利)と云う者が抑えて申し上げた

「勝家の柳ヶ瀬の陣から玄蕃の陣に向けて、使いが切々と往来しているのを確認しました。これは、
玄蕃の行った中入から、早く引き取れと伝えているのだと考えます。
もし玄蕃が中入を引き取るとすれば、もと来た道を帰らず、中しきりを突き抜けて帰陣しようとするでしょう。
然らば我等はこれと一戦しなければならない場にあります。
また玄蕃が引き取らないのなら、勝家が必ず、本軍を中しきりに押し寄せて合戦を始めるでしょう。

この2つ以外の方針はありえません。ですのでここで我が兵を分散すること無く、その節を待たれるべきです。」

「しかし玄蕃が引かず、勝家も出てこなければどうするのか」

「その時は勝家の運がここに尽きた、という事です。」

そう言ったが、はたしてその通りとなった。

この堀七郎兵衛は、かつて明智光秀との山崎合戦の際、堀尾吉晴の軍が天王山に駆け上がり、秀政の軍も
その後に続こうとしたのを止め

「山上の味方は崩れるでしょう。然らば彼に続いては供崩れとなります。別の場所より登るべきです。」

秀政はこれを聞き入れ別の場所から登ったが、はたして先手の堀尾の軍は敗れた。しかし別場所より
上がってきた堀軍が横槍を入れる形となり、大利を得た。これも七郎兵衛の策略であった。

(士談)

119 :人間七七四年:2017/08/04(金) 04:47:25.63 ID:++S31VTs.net
大久保玄蕃頭(脚注:玄蕃頭忠成)は小田原陣の時に13歳。権現様(徳川家康)
に直訴して小田原へ御供し、御馬の側にいた。玄蕃頭は大筒の鳴る音を聞いて、

驚いて頭を下へ下げられたため、権現様は御覧になられ「侍の子はその様には
せぬものよ」と仰せになった。そのため玄蕃頭は、

それからは鉄砲の鳴る中を通るたびごとに、飛び上がり飛び上がり致された。
(それより鉄炮のなり通る度ごとに。飛びあがり飛びあがりいたされ候。)

――『武功雑記』

120 :人間七七四年:2017/08/04(金) 06:35:41.31 ID:BUqreTBj.net
>>119
余計にびっくりしてるような

121 :人間七七四年:2017/08/04(金) 09:05:23.56 ID:YjmFAJXA.net
>>120
うんw

122 :人間七七四年:2017/08/04(金) 11:17:39.14 ID:UKPuWRly.net
秀忠、江戸城内に孫の遊び部屋を作る


元和7(1621)年、越前藩主松平忠直は病を理由に江戸の参勤を止め
自身は北庄に帰り、代わりに嫡男で7才の仙千代(光長)を参勤させた。

忠直は秀忠の娘婿で、庶兄の結城秀康の嫡男でもあったが
家中の騒動や本人の不行跡などが重なり、元和9(1623)年には配流される。
秀忠はそのとき既に思うところがあったのか
十月に叔父の松平直政と共に登城してきた仙千代を、殿中で養育することにした。

公(光長)はいまだ中剃がなかったので、将軍(秀忠)が自分の手でこれを剃り
夫人(お江)が髪を結われ、その間土井大炊頭(利勝)が(光長を)抱えていたという。
また、仙千代の為に遊ノ間を造らせ、柱などは(光長が怪我をしないよう)
悉く天鵞絨(ビロード)で包んだ。
――『美作津山松平家譜』

孫が可愛い秀忠の話。

123 :人間七七四年:2017/08/04(金) 11:41:44.44 ID:JM7Qhewf.net
葵徳川だともし家光に嫡男が出来なかったら光長を家光の養子にと秀忠が考えてたという設定だったけど、この辺の話がネタ元なのかな

124 :人間七七四年:2017/08/05(土) 02:19:32.10 ID:ijKyoav/.net
>>119
鉄砲の音にビビって、恥じて切腹未遂したパターンがあったな
超絶有能だけど、息子の汁かけ飯にケチを付けたことになってる人
鉄砲伝来以前だから、何を見たのかは結構気になるが

125 :人間七七四年:2017/08/05(土) 21:33:43.50 ID:UiAK/N8P.net
http://www.weekly-ueda.co.jp/tethu/back/main23.html
村の衆がほとほと困り果ててたそんな時、耳よりな話が聞こえて来た。
なんでも、津島(愛知県)の牛頭天王の末社の弥五郎殿が虫退治に大変ご利益のある神さまだそうで、
村では早速その神さまをお迎えして虫退治をお願いすることを決め、まことに足の速い若者を使者に立て、そのお宮まで出向くことになった。

色々混ざったんだな多分

126 :人間七七四年:2017/08/06(日) 08:16:22.99 ID:0wSsLWfk.net
加藤清正が朝鮮の王子を捕虜とした時、王子と随臣たちは数日間食を摂っていなかったので、
清正は王子側に聊かも強く当たること無く、すぐに座を設けて膳を整え、食を薦め饗応した。
酒が三度めぐる頃、清正の近習の兵たちが、肴を用意する為走り回っているのを見て、王子の
臣下たちは驚いた。

「これは清正が王子を欺いて害しようとする謀ではないか!?」

そして半弓を引いて清正の方に向き、彼に矢を放とうとした。

清正はこの誤解を解くため説明するにも、言葉が通じないので聞き入れてもらうことは出来ない。
そこで彼は、印を手にして彼らに見せた。これにて『この印を押した誓約が違わない事』を表したのだ。

これにより従臣たちの心解けて半弓を置いた。この隙に清正側は王子を彼らから離して身柄を確保したため、
従臣たちの興奮も自然に静まったという。

(士談)

127 :人間七七四年:2017/08/06(日) 12:29:26.67 ID:+WlXfnng.net
半弓もたせてんの!?w

128 :人間七七四年:2017/08/06(日) 13:57:42.06 ID:4d+IWi5I.net
昔から何をしても勘違いするお国柄か

129 :人間七七四年:2017/08/06(日) 16:42:24.48 ID:geByxlBJ.net
捕虜だったらお国柄関係なく殺されるのは警戒するだろそりゃ

130 :人間七七四年:2017/08/06(日) 17:21:14.23 ID:+SrK0vnr.net
これは面白いよ!!
https://blogs.yahoo.co.jp/anti_mm_eq010/18156321.html

131 :人間七七四年:2017/08/07(月) 18:06:10.56 ID:ptMNn+dR.net
北条陸奥守氏照の家臣の内に、中山勘解由、石原主膳という人に知られた武士があった。
この内中山は、小田原征伐のさい八王子城にて討ち死にし、石原は氏照の供をして小田原城にあり、
氏照自害の後は井伊直政に仕えた。彼は武功ある武士であったので、直政より旗を預けられた。

関ヶ原の岐阜城攻めの際、浅野幸長の軍勢は、岐阜城の出城であった瑞龍寺を乗っ取った。
浅野勢は瑞龍寺内部になだれ込んだが、その時何故か浅野の旗を立てるものが居なかった。
他の部隊も近くを通ったが、この事に気づくものが無かった中、いい直政の兵が搦手より押し入り、
石原の下知にて直政の赤旗を城の内に押し立てた。その上で浅野勢のうち大将分の者を招くと
石原は言った

「瑞龍寺は井伊直政の勢が乗っ取った!」

浅野の者たちは驚き反論した、「これは存じもよらぬことを承る。幸長の手にてここは乗っ取ったのだ!」

「ならば城を攻め取った印は何であるか?」

「我等は勢はいずれも城の中を走り回っているではないか!」

石原これを聞くと、傲然と言い放った
「それは御自分の功名というものだ。御旗印の一流も見えない以上、実正とはいい難い。
我々は旗を上げた。これこそ証拠である!」

これに幸長の家臣たちは言葉に詰まり、返答できないでいた。
と、ここで石原は大笑いし

「いやいや、この話はここまでにしよう。各々がどうも弓矢の礼儀をご存じないようなので、
あえてこのような事を申したのだ。勿論この城を落としたのは各々が粉骨された故であるのだから、
我々は旗を降ろし、城をそちらに参らす。」

そういって、旗を撒いて撤収したという。

(士談)

132 :人間七七四年:2017/08/07(月) 18:30:00.50 ID:99qRtOQS.net
>>131
いい話スレだけど、喧嘩になるかと思った

133 :人間七七四年:2017/08/07(月) 18:49:24.48 ID:Oii5T9zM.net
後の「ショー ザ フラッグ」である

134 :人間七七四年:2017/08/08(火) 12:39:51.62 ID:ynSNdkpH.net
○ 枝垂栗(旧静波村)

大字東方の澤中に枝垂の栗樹群落がある。元亀3年、武田勢が美濃に入る。

明知城主・遠山相模守景行らはこれと戦い利なく、苗木城主・遠山勘太郎の
もとへ逃れようとして、澤中まで至った。

この時の疲労は激しく、路傍の栗の枝を力にしばし休憩した。これより付近の
栗樹に至るまで、いずれも枝垂れるに至ったという。

――『恵那郡史』

135 :人間七七四年:2017/08/08(火) 19:52:29.25 ID:nEtblIws.net
折って杖にするんじゃなくて、ぶら下がるように掴まってたのか

136 :人間七七四年:2017/08/09(水) 15:01:12.11 ID:Gqo3zfNg.net
関ヶ原の時、金吾(小早川秀秋)は松尾山を占拠したが、その占拠に向かう折、それまで陣を張っていた小屋に
澤角図書という者を残した。ところがこの澤角は後に残るのを迷惑として、秀秋に供奉することを望んだ。
そこで秀秋は、澤角に小屋を棄てて供をするよう命じた。

これに老臣たちは反対した。「御陣屋には留守が居なくてはならないものです。」
しかし秀秋は

「留守はいらぬ。何故なら東軍が必ず勝利するのだから留守を置くに及ばない。
万一西が勝てば、猶以って留守は要らない。そのまま差し置くべし。」

そう云ったという。

(士談)

137 :人間七七四年:2017/08/09(水) 15:48:56.97 ID:3ROO509T.net
関ヶ原開戦前に裏切りを決めてた説か
開戦時には大谷隊に掛かっていたって続くのかな?

138 :人間七七四年:2017/08/10(木) 02:36:06.65 ID:6Fs6RB2v.net
○ 安造穴(旧福岡町高山)

昔、安造という賊が隠れ住んだ岩窟と伝えられる。遠山氏は天正の役
で長久手に敗れ、ここに身を隠した。

すると、その愛する白狗がしきりに鳴いて敵襲を報じ、また白馬が来た
のでこれに乗って逃れ、ついに危難を避けることができたという。

以来、苗木では白狗白馬の飼養を禁じた。

また曰く、安造穴は“安子穴”で、お安という女が零落してここに住み、
玉のような子供を産んだとかで、安産の洞といわれるという。

――『恵那郡史』

139 :人間七七四年:2017/08/11(金) 08:04:22.14 ID:NJal55J9.net
大坂御陣の時分、石川主殿頭(忠総)は大久保相州(忠隣)の子なので
閉門でおられ、冬陣に御供することを佐渡殿(本多正信)に願われたが

叶わず、駿河にて上野介殿(本多正純)を頼られたがこれも叶わなかった
ので「この上は御成敗を仰せ付けられようとも、ままよ!」と、大坂へ上り、

隙あらばと心掛けなさった。さて、伯楽ヶ淵(博労淵)で本多雲州(忠朝)
討死の時、主殿頭は比類なき働きをなした。

されども御所様(徳川家康)は、(無断での従軍について?)ともかくも
仰せにはならなかったという。

――『武功雑記』

140 :人間七七四年:2017/08/12(土) 18:15:34.81 ID:P5a+mbW7.net
関ヶ原の時、大道寺(直次か?)は黒田家の陣にいた。9月15日に先に出て様子を見ていた所、
西軍の陣より鉄砲がひたひたと打ちかけられ、これにより討ち死にも多く出た。
このような所に黒兜の武車が出て、敵方の様子をじっくりと観察していた。
彼は馬に手綱をゆらゆらと打ち掛け、いかにも心静かに周りを見ていた。
その様子が大変見事であったので、大道寺は彼のそばに寄って居た。

すると彼は、「只今戦は始まった」と独り言を言った。
大道寺はこれを聞いて「何ゆえに左様に見られるか?」と尋ねた。
武者は

「鉄砲の弾が足元に落ちたが、その落ちようが、力なくころころとしていた。
これは敵との間合いが近くなり、急ぐ事で筒の中に弾薬がろくに入らないまま発射し、
それ故弾が力なく落ちるのだ。」

そう説明した。

ある話によると、この武者は斥候に出た井伊直政であるとの事である。

(士談)

141 :人間七七四年:2017/08/15(火) 01:05:53.69 ID:jXrd5l+q.net
嫌儲の兜スレで見かけたこれすごいけど
こんなの実際に戦場で被って戦ってたのだろうか?


59 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ dff7-GZKN)[] 投稿日:2017/08/14(月) 23:39:45.58 ID:bS+SiuCu0
森可成
http://www.spy.ne.jp/~satomako/0763-z.JPG

65 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイWW 4eae-jNn9)[age] 投稿日:2017/08/14(月) 23:55:44.65 ID:JeTMXUqN0
>>59
前田利長の兜もロングやぞ

http://i.imgur.com/B5MglTk.jpg
http://i.imgur.com/U91EJe2.jpg

142 :人間七七四年:2017/08/15(火) 08:18:47.60 ID:X3olDnP9.net
清正も長いぞ

143 :人間七七四年:2017/08/15(火) 20:22:03.87 ID:gU50rwyN.net
大阪の陣において、井伊直孝家臣・庵原助右衛門の子・主税が、敵と組討をし、組み伏せた所に、
敵の家来たちが出てきて主税を斬りつけた。そこに主税の郎党たちら集まってこれを仕留め、
主税はついに敵の頸を取った。

この様子を、彼の父である助右衛門は見ていながら、助けに行こうとしなかった。
合戦後、人々は助右衛門に対し「あまりにひどい」と非難した。しかし助右衛門は

「私は、主税が非常に不憫に思った故に助けなかったのだ。
もしあの時、私が行って敵を除けば、人はみな、主税は私に助けられたのだと言われてしまうだろう。
運は天にあり、死は定まれり。
私に助けられたという名が残るのが不憫である故に、助けなかったのだ。」

父子の間であっても、武士の道とはかくあるべきである。

(士談)

144 :人間七七四年:2017/08/15(火) 22:32:45.21 ID:1v4Ror0J.net
又兵衛「俺が敵と組み合って川に落ちた長政を助けなかった理由と同じだな」

145 :人間七七四年:2017/08/16(水) 20:14:58.86 ID:su27RtZg.net
>>141
武田家で「兜をかぶらず笠や烏帽子でごまかしている者がいるが見苦しいので必ず兜をかぶれ」
みたいな書状があったから、戦場でもずっとかぶっていたかは微妙

146 :人間七七四年:2017/08/16(水) 21:07:47.14 ID:gVNv9b3Y.net
>>145
それ軍役通りの装備になってないから怒られてるんだよ。
武田だと馬鎧とかも手抜きの定番だし

147 :人間七七四年:2017/08/16(水) 21:18:29.45 ID:su27RtZg.net
>>146
なんで軍役で兜って指定されれてるのかくらい考えろ

148 :人間七七四年:2017/08/16(水) 21:55:42.25 ID:18h3KstQ.net
細川幽斎「武家に仕える者は」


(幽斎の)御座の間の近くでたくさんの小姓衆がどんなに騒ぎ暴れていても
(幽斎は)少しも叱ることはなかった。

賄いの恩斎と申す者が時々(小姓衆を)叱るようなことがあると
幽斎公は
「武家に仕える者は、事が起こってしまえば今すぐにでも命を失う物だ。
 可哀想だから、子供は暴れていても制してはいけないよ」
と仰せられていたので
召し仕えている衆は自分の親よりも(幽斎のことを)
深くありがたく思い、例え大名になるとしてもこの御家を出て
別の主君を頼みにしようと思う者はいなかっただろう。
だからこそ小勢で不慮に籠城をなされたのに(※1)
多勢の寄手が容易く攻めることが出来なかったのだ。

この幽斎公の御俗名は犬打つ童まで(※2)も知っている細川兵部大輔藤孝公と申す。
若き時より弓馬は言うに及ばず、和歌、連歌、鞠、包丁、打ち囃子の道までも
心得られて、その道の極みに至るまで情趣を解することによって
人に劣るような芸は持たない人である。


――『戴恩記』

(※1)田辺城の戦いのこと。
(※2)犬を追いかけ回す三歳の児童でも知っている、という意味。

149 :人間七七四年:2017/08/16(水) 22:27:22.30 ID:KCxrewke.net
細川だと進士流なのかな?

150 :人間七七四年:2017/08/16(水) 22:27:49.97 ID:KCxrewke.net
ああ、包丁道のことね

151 :人間七七四年:2017/08/17(木) 12:19:06.10 ID:wAw/k95s.net
糞重たい兜なんかかぶりたくないだろう

152 :人間七七四年:2017/08/17(木) 20:39:56.04 ID:q77eno0m.net
ベトナム戦争でボディアーマー着なくなって問題になった米兵と同じパターンだね
戦闘は本当に一時的で、日常の行軍とかが圧倒的に長いし

153 :人間七七四年:2017/08/19(土) 11:26:45.94 ID:gTINS7Et.net
伊東長久「笠の何が悪いと言うのか」

154 :人間七七四年:2017/08/19(土) 13:16:56.09 ID:OGKKDBqt.net
葉っぱ隊「褌一丁あればいい〜」

155 :人間七七四年:2017/08/19(土) 13:22:26.85 ID:CQ34pFGq.net
せっかく赤備えとか作ってんのに台無しになるから

156 :人間七七四年:2017/08/21(月) 16:59:46.80 ID:uGfwiSOk.net
立花道雪が筑後にての合戦で、敵が山上の道雪の軍に敗退し、道雪軍はこれを追撃した。

敵がすでに下山した時、道雪は味方に下知して進軍を止め、先に斥候を出した所、
案の定敵は山の下に降り立ち、それぞれに備えを固め道雪の軍を待ち構えていた。

そこで道雪は合図を定め、静かに備えを山下に下ろし、ゆっくりと敵に接近した。
そして槍が届くほどの間近と成った時、合図とともに一斉に鬨の声を発し槍をばっと持ち上げた。

すると敵は驚き気圧され、容易く敗北したという。

(士談)

157 :人間七七四年:2017/08/22(火) 04:40:38.86 ID:lvwuulW2.net
宇治から幕府に茶を献上する時、その運搬途上は人々がこれを避けるのが
例であった。ある時に大久保忠教(彦左衛門)は、これの運搬中に出くわして
わざと避けなかった。

役人が忠教を叱ったところ、忠教は知らぬ振りをして「汝等は何する者ぞ?」
と問うので、役人は、「これはお上の茶である。よって道をあけねばならない」
と言った。

これに忠教は、「茶がどうして人より貴いものか。まして私は役人ではないか。
よって、汝等の方から私のために道をあけたほうがよい」と、答えた。

――『学生の漢文(近世叢語)』

158 :人間七七四年:2017/08/22(火) 07:35:10.02 ID:+wZ6x60J.net
彦左…

159 :人間七七四年:2017/08/22(火) 11:36:57.78 ID:W9FCLw1N.net
大友義統率いる豊後勢が戸次川へと出立した際
その部将足達図書は遅れてやって来た。
義統がなぜ遅れて来たのかと問うと
「今日の合戦は当家浮沈の極まる一戦です。万が一敗北の暁には討ち死にはもとより覚悟の上
 後顧の憂い残してはならぬと立ち帰り、妻子を殺し、家に火を掛けて来たのでございます」
これを聞き、義統を始め皆涙を流さぬものはなかった。

「豊後全史」

その結果は悲惨であったが、この時点ではギリギリ良い話(?)なので

160 :人間七七四年:2017/08/22(火) 12:52:18.34 ID:q3gY/N3F.net
>>157
答えた後どうなったのかってのが知りたいw
普通このテの話って「流石は○○よ」とかそんな感じで〆られるけど

161 :人間七七四年:2017/08/22(火) 19:37:05.55 ID:HRLKmaln.net
>>159
戸次統常とおんなじやん
統常は弟妹だったけど

162 :人間七七四年:2017/08/23(水) 03:06:48.06 ID:0sMZAtSc.net
秀吉が朝鮮を征伐した時、池田三左衛門尉輝政は船奉行の中村九郎兵衛に命じて兵糧を
肥前名護屋に船で運ばせた。中村は提灯2,3百と太鼓3,4十を買って名護屋へと到った。

時間は巳の刻で潮の状態も良かった。しかし中村は玄海ヶ島に船を止めてわざと日暮れを
待ち、亥の刻になって船を漕ぎ入れた。そして2,3百の提灯に火をともして連れ、3,4
十人が太鼓を打ち立てると、火の光が海中に写り、太鼓の音は城の上に広く響いた。

秀吉が使者を遣わして、「何者ぞ?」とお尋ねになったところ、「輝政の家来・中村九郎兵衛
が兵糧を漕いで来た船である」と答えた。秀吉は元来華美を好んだので中村の迎合は甚だ
秀吉の心に適い、すぐに秀吉は中村を朝鮮に渡海させなさった。

中村が朝鮮に到ると合戦はすでに無くなっていた。(中村朝鮮に到れば軍すでに解けぬ。)
その時、兵糧はまさに尽きるというところだったので、諸将は大いに喜んだ。

これは誠に中村に才略があったとはいえ、虚名であって実際の功ではない。しかし、主君の
ためであって、自分のためにするわけではない時は、少しは認めるべきであろう。

(是誠に中村才略ありと云へども虚名也、実功にあらず。君の為にして自ら為にせざるとき
は少しくゆるすべし。)

――『武将感状記』

163 :人間七七四年:2017/08/24(木) 08:29:06.47 ID:I2+9Smnk.net
多賀谷氏と宇都宮氏が関東において合戦していた頃、ある時多賀谷は灰を夥しく城下に集め置き、
敵をあしらい引き寄せ、風上に備えを立てて、足軽のせり合いの前に、小者雑人を出して灰を空中に
撒き散らした。

ここで足軽はこの灰を追いかける形で、煙に紛れて敵に突きかかり、大いに戦果を得たという事が
あったそうだ。

(士談)

164 :人間七七四年:2017/08/24(木) 08:40:17.18 ID:cH4DxRBM.net
>>163
民家に雑兵が押し入らてガクブルの農民が「へ?灰ですか?」ってなってるとこを想像すると笑える

165 :人間七七四年:2017/08/24(木) 08:51:15.28 ID:N8EUZHXM.net
そして周辺の木々は何故か桜が満開になったとめでたしめでたし

166 :人間七七四年:2017/08/25(金) 13:22:03.98 ID:EExyBIJe.net
近江にての事であると、ある人の語った事である。

旱魃の年に惣村の間で水論があり、一方が堤を作って水をせき止めた。
一方はこの堤を切るとし、一方は切らせまじきと、双方の間で合戦騒ぎとなった。

しかし堤を破壊しに来る方が大勢であり、堤を守る方は小勢にて、如何にすべきかと考えていた時、
その在所に浪人がいたためこれに相談すると、この浪人は才の有る人物で、地下の者たちを集め、
老人を集め一組に、そして若者を集めて一組とし、堤の傍につぶてと成るような石を多く集めさせ、
この脇に老人の組を置き、若者たちには竹槍を持たせ、彼らの組を川の下に置いて合図を待たせた。

さて、敵方の百姓たちが堤に集結すると、老人たちが大勢集まって居る所を攻撃目標と定め押し掛った。
浪人は彼らを矢ごろまで引きつけると、一斉に石つぶてを投げさせた。
これに打たれて敵方が辟易した所で合図を出すと、若者の組が竹槍で突撃した。
これによりこの村は大いに勝利したという。

(士談)

167 :人間七七四年:2017/08/25(金) 13:28:47.54 ID:bNHBOouS.net
いいね

168 :人間七七四年:2017/08/25(金) 14:19:43.35 ID:IXgtcgqq.net
これ400年位前の話なんだろうけど似たようなことを80年代までやってた中国人マジ蛮族

169 :人間七七四年:2017/08/25(金) 17:47:48.67 ID:g2gmuTl0.net
歴史を知れば知るほど人間は変わってないと思うので今もどっちも蛮族であり普通の人間だと思います

170 :人間七七四年:2017/08/25(金) 19:54:02.96 ID:+kmqCcoW.net
シリアとイスラエルなんて国家ぐるみで近代兵器使って同じようなことやってるしな

171 :人間七七四年:2017/08/25(金) 22:35:43.11 ID:XoXk+W8B.net
>>166
諫早湾かな?

172 :人間七七四年:2017/08/25(金) 22:41:15.45 ID:1HZw0XdN.net
>>171
>近江にての事であると、ある人の語った事である。

173 :人間七七四年:2017/08/26(土) 04:29:53.80 ID:SRqGYAZ3.net
一、東照宮(徳川家康)薨御の前日、元和2年4月16日のこと。

榊原大内記(照久。久能山東照宮祭主)を御前へ召されて、御他界遊ばされた
ならば御遺骸を久能山へ葬り奉るようにと、御廟の地まで委細を仰せ付けられ、

「其の方は新肴初物などを常々献上しており、その志を深く思う。我の他界以後
もますます久能にあって、神主役を奉公仕るように。

東国の状況については、いずれも被官の大名であるから、逆心の者も生じまい。
しかし一方で、後々まで西国については心許なく思っている。

西国の乱逆が生じないよう守りをなすので、宝塔を西向きに建てて衆徒4人を
差し置き、知行は50名(石の誤り?)ずつ遣わして、神前の勤行を致すように」

との旨を、仰せ付けられた。

一、権現様(徳川家康)御在世中の御秘蔵の御馬は、御宮近くに御厩を建てて
そこに入れ置いた。その馬は数度そこを離れ出ても、直に御宝塔の方へと参り、

前足を折って嘆く様子に相見えたが御他界の御年の7月、また御厩を離れ出て
御宝塔の裏道の石垣際まで参り、前膝を曲げて死んだ。

一、島原一揆の元旦、御拝殿(久能山東照宮)に1桶ほどの量の血があった。

一、同じ朝に、御神前の御装いの御鏡(鏡餅)が1飾りなくなった。

一、同年、禰宜頭の高津権左衛門が番所で臥し申しておったところ、

夜半に(東照大権現が)御鎧を御着なされて、御馬にお乗りになられ、御瑞垣の
内をお廻りになられた。「油断して寝申しておる!」と、御叱り遊ばされ、

御馬の足音が聞こえた。その後に御宝塔の方で馬のいななきを聞いたとの由を
権左衛門は確かに申した。

一、この以前は禰宜の番所は御瑞垣の内にあった。番所にて当番の者が大声
で物語り仕ると御内陣より、「やかましい!」と御叱り遊ばれたと、その時の当番
の者たちが確かに申したとの由である。

――『東照宮御奇瑞記(久能山の社僧等がもてる書)』

174 :人間七七四年:2017/08/26(土) 12:10:41.97 ID:B+cFrsO4.net
>>173
一、同年、馬の鞍に1握りほどの味噌があった。

175 :人間七七四年:2017/08/28(月) 12:18:10.82 ID:ggEQipfE.net
>>174
おいやめろ

176 :人間七七四年:2017/08/28(月) 15:06:36.58 ID:cFxc+vWP.net
神子田半左衛門(正治)が家中の者を手打ちにするという時、縁側において爪を切っていたが、
その爪を切るための小刀が下に落ちた。そこでその咎人を呼び

「縁の下に小刀が落ちた。取ってくるように」

と命じた。
そこでこの者が縁の下に入った所を、縁の上からそのまま刺殺した。
そして人を呼び、死骸を取り出させた。

神子田は言った
「放し打ちだからと言って、確実さのない成敗を好むべきではない。下人などは、このようにして
殺すものだ。」

(士談)

177 :人間七七四年:2017/08/28(月) 16:33:42.03 ID:X7RjkNXz.net
>>176
いい話…?

178 :人間七七四年:2017/08/28(月) 16:49:35.76 ID:IAXy0+oW.net
効率のいい話なんだろ

179 :人間七七四年:2017/08/28(月) 19:08:56.72 ID:4Ke1VAXr.net
現代日本人は命ならなんでも大切だと思ってるから困る

180 :人間七七四年:2017/08/28(月) 21:38:11.37 ID:OraP3Sqx.net
>>179
誰が困るんだよw

181 :人間七七四年:2017/08/28(月) 23:24:41.70 ID:r7dpqF/e.net
        _,,:-ー''" ̄ ̄ ̄ `ヽ、
     ,r'"           `ヽ.
 __,,::r'7" ::.              ヽ_
 ゙l  |  ::              ゙) 7
  | ヽ`l ::              /ノ )
 .| ヾミ,l _;;-==ェ;、   ,,,,,,,,,,,,,,,_ ヒ-彡|
  〉"l,_l "-ー:ェェヮ;::)  f';;_-ェェ-ニ ゙レr-{   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
  | ヽ"::::''   ̄´.::;i,  i `'' ̄    r';' }   | 久々にワロタ 
 . ゙N l ::.  ....:;イ;:'  l 、     ,l,フ ノ   | こういう成敗が好まれた
 . |_i"ヽ;:...:::/ ゙'''=-='''´`ヽ.  /i l"  < のが昔の武士なんだよな 今の新参は昔の
   .| ::゙l  ::´~===' '===''` ,il" .|'".    | 武門の心得を知らないから困る
    .{  ::| 、 :: `::=====::" , il   |     \________
   /ト、 :|. ゙l;:        ,i' ,l' ノト、
 / .| \ゝ、゙l;:      ,,/;;,ノ;r'" :| \
'"   |   `''-、`'ー--─'";;-'''"   ,|   \_

182 :人間七七四年:2017/08/29(火) 09:01:19.68 ID:8ssQuzbj.net
>>180
更生の見込みが乏しい元懲役囚のそばに住んでる人とか

183 :人間七七四年:2017/08/29(火) 19:38:00.68 ID:XAKbPvrn.net
立花宗茂のものとみられる甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」が立花家臣の子孫の家から見つかった
柳川藩には、朝鮮出兵時の1593年、邪魔な袖を切り落として戦っていた小野成幸という家臣に
「袖がない具足は見苦しい」と宗茂が自らの鎧の袖を成幸に与えた逸話があるという。
その逸話の袖と思われるものが、2016年に小野成幸の子孫から柳川市に寄贈された。
袖は一対で安土桃山様式。長さ29センチ、幅23〜27センチ、重さ720グラム。
鉄の小札に金箔を貼り、透明の漆で仕上げたもので、小札をつなぐ威は紫、紅、白の3色の糸が
交互に使われている。大友宗麟の重臣だった義父の立花道雪または宗茂自身が
大友家から与えられたものとみられ、杏葉紋の金物が付けられている。
(今月の25日に柳川市が発表したらしい)

184 :人間七七四年:2017/08/29(火) 19:59:22.89 ID:ciSXwA0A.net
>>183
400年も残ってたとは凄いな、子孫GJ

185 :人間七七四年:2017/08/29(火) 21:49:02.14 ID:yeu/2L19.net
>>183
なんとなく宗茂らしいエピソード

186 :人間七七四年:2017/08/29(火) 22:49:13.72 ID:XAKbPvrn.net
今日の知恵泉でもこの袖が紹介されたね

187 :人間七七四年:2017/08/29(火) 22:53:43.76 ID:ZaU8nUoY.net
やってたな
家臣がわざと取った袖を宗茂が勘違いして与えてしまって
それを見てた別の家臣がさらに宗茂に袖を献上したっつー

微笑ましいなぁ

188 :人間七七四年:2017/08/30(水) 09:52:36.49 ID:QcrXrpWd.net
神子田半左衛門(正治)は常にこう言っていた
「人間のならい、何事にて失命するか計り難い。その死期に望んで、一言『神子田半左衛門なり』
と話して死ぬのが、一期の思い出、日頃の嗜みと言うべきだろう。」

豊臣秀吉によって彼が成敗される時、彼は残された人々のため、多くの書状をしたためた。
下人が「時間が遅れます」と注意すると、「今ひとつ残っている」と、心静かにこれをしたため、
行水し、立ち腹を切った。
ところが、介錯の者が切りそこない、頸を落とせなかった。
神子田はよろよろと膝を折り、左手にて顎を押して、首を切らせたという。

(士談)

189 :人間七七四年:2017/08/30(水) 13:39:32.46 ID:x7PIFI9f.net
立ち腹って立った状態で切腹したってことか?

190 :人間七七四年:2017/08/30(水) 16:05:17.49 ID:pDb7X0ma.net
鈴木主水の立腹は立ったまま切腹だった

191 :人間七七四年:2017/08/30(水) 19:04:45.99 ID:wVyiwil1.net
鎧の人は腹切ったまま屋敷に戻って文書の隠滅を図ったとかなんとか

192 :人間七七四年:2017/08/30(水) 21:41:01.68 ID:QmuPPF5I.net
立腹とは

古代中国、宋から来日した禅僧の蘭渓道隆が建長寺で披露した
腹で茶を立てる茶礼のこと

民明書房刊「茶の歴史」より

193 :人間七七四年:2017/08/31(木) 04:04:36.60 ID:UEGnf68d.net
前田利太(慶次郎利益)が高徳公(前田利家)に従って京都にいた時、
関白・秀吉は利太が奇人であると聞いて謁見を望み、

務めて異様を表して出仕するように命じた。すると利太は髻を耳上に
作り、皐比(虎皮)の肩衣を身に付け、異様な袴を穿いて出仕した。

利太は謁見するに到り頭をそばだてて拝謁し、髻はまっすぐになった。

秀吉は大笑いして良馬一頭をお与えになり、「再謁してわしの面前で
この馬を受け取れ」と、言った。これは利太が更に異様な装いで出仕
することを推量しての心中であった。

利太は退くと服を改めて髻を正し、進見して賜物を拝領した。表情は
正しく、容姿も厳粛であり、進退も規律があった。

秀吉は感嘆して、利太が変通を知ることを称えた。

――『加賀藩史稿』

194 :人間七七四年:2017/08/31(木) 06:34:26.82 ID:sFrl8ECp.net
大人ひとりじゃ持てないような脇差は持ってなかったのか

195 :人間七七四年:2017/08/31(木) 10:43:01.79 ID:tjcfsPmD.net
花の慶次の見せ場にあったな

196 :人間七七四年:2017/08/31(木) 11:59:21.66 ID:DQ47Luus.net
>>193
これが元ネタか、懐かしい。

197 :人間七七四年:2017/09/02(土) 04:14:54.03 ID:FEKQ9VHC.net
かつて夏夕に、前田利太(慶次利益)は馬飼いに松風という愛馬を引かせ、
馬飼いは洛東の鴨川で松風に水浴びさせるために出発した。

馬飼いは利太の意を受けて、烏帽子を腰にして鴨川に赴いた。その途中で
出くわした武士に「誰の馬なのか?」と問われると、

馬飼いは烏帽子を着けて舞い、今様の曲を口にして謡った。その曲中にて
「前田利太の馬である」と述べて、馬飼いは謡い舞ってその場を去った。

――『加賀藩史稿』

198 :人間七七四年:2017/09/02(土) 06:53:19.22 ID:vXsrAWJJ.net
あかいちょっかい革袴
とりのとっさか立烏帽子
前田慶次の馬にて候

199 :人間七七四年:2017/09/02(土) 09:09:40.71 ID:LylpQUao.net
仙台では政宗生誕450年をお祝いしていたのに
http://imgur.com/ijijVa4.jpg
http://imgur.com/qB9oIlP.jpg

生誕地の米沢では全く何もしていなくてギャップが面白かった
https://i.imgur.com/0Eb9VE7.jpg

200 :人間七七四年:2017/09/04(月) 16:06:06.86 ID:H9JDPduh.net
豊臣秀吉が、常に言っていたことの中に

「主人のことは、乗せるようなものであっても、何にか尋ねて来た時には褒めるものである。
言われた方は、乗せられていると思いながらも、褒められれば喜ぶものだ。
反りの合わない言い方をされれば、例え相手の言うことが正しいと思っていても、機嫌が悪く
成るものなのだから。」

このように侍臣に語っていたそうである。

(士談)

201 :人間七七四年:2017/09/04(月) 16:28:42.46 ID:FQvaBL80.net
下間頼広の出奔と栄転


下間頼広の父は本願寺の僧で執事職を務めた下間頼龍である。
頼龍は天正8(1580)年に法主の顕如が信長に降伏した際、和睦条約に連署したが
主戦派だった顕如の長男・教如の側近であった為に、翌年には教如の
石山への再籠城の企てに従ったので、顕如からは叱責され謹慎を命じられた。

その経緯から頼龍は本願寺が東西に分裂したときは教如に従い
東本願寺の設立を助けた為、教如は頼龍の嫡男である頼広に執事職を約束した。
ところが慶長14(1609)年に頼龍が亡くなると
なぜか教如は約束を反故にし、頼広に蟄居を命じてしまった。

ここで頼広の母の七条は、池田輝政に教如との取りなしを依頼した。
七条は輝政の母善応院と織田信時(信長の異母兄とされる)との娘であり
(信時の死後に善応院は池田恒興と再婚し、七条は恒興の養女になっている)
輝政から見れば異父姉にあたり、頼広は甥っ子ということになる。

しかし輝政の教如への説得は上手く行かず、教如の頑なな態度に
憤慨した輝政は、七条と頼広たちを自分の元へ出奔させた。
また輝政は自領の真宗系寺院全てに対し西本願寺の方に付くように通達し
従わなかった寺の寺領を取り上げたので、池田家が転封された後に入領した
本多忠政が逆に西本願寺派の寺院を弾圧するようになるなど、遺恨となった。

一方頼広は輝政の長男の利隆の家臣になり三千石を取って、重利と名乗った。
利隆が家督を継ぐと池田姓を許された重利は、重臣として家康にも拝謁し
大阪夏の陣では尼崎城で戦功を立て、戦後に1万石を与えられ大名になったという。


――『播磨新宮町史』など

202 :人間七七四年:2017/09/06(水) 00:41:44.16 ID:gmaXA5XC.net
まあ池田なんて本来門跡と面会できるだけで感謝しなきゃいけない身分だからなぁ

203 :人間七七四年:2017/09/06(水) 16:25:33.95 ID:IJXRMizk.net
永禄6年上杉謙信は越中の隠尾城を落とすべく軍を進めていた。
城を守る南部尚吉は徹底抗戦の意志を固めていたが尚吉の娘婿である
新開右衛門尉以下主だった者たちは謙信にはとても敵わじと尚吉に開城を勧める。
右衛門尉は妻を遣わしてまで説得するが、尚吉の決意は変わらなかったため
謙信に内通の使者が送られることになった。使者が携えていた書状には

「城を取り囲んで3日目の夜に城門の閂を外しておくので粛々と先頭は小勢にて攻め込まれよ」

と記してあった。これを披見した謙信は

「さしたる要害でもないのだから落とすに謀は要らぬ。また不義の者たちに与するものまた不義である。
しかも尚吉の扱いを如何するか記されていないのは不審である」

として使者を追い返そうとした。しかし近習の者が

「小敵と侮って思いがけぬ戦いになった例は古今数知れず。勝ち易きに勝つを選ぶは軍兵のためでもある」

と諌めたところ謙信も承知した。
しばらくして手筈通りの夜襲によって城は混乱に陥った。尚吉は館に籠って奮戦し
十人ばかり討ち取るも最期は上杉兵によって討ち取られた。
右衛門尉は

「今よりここは我が城。本意を遂げたり」

と大笑し謙信に会うため馬に乗ろうとした。
ところが雷鳴も無いのに馬が突然立ち上がり、落馬した右衛門尉はそのまま息を引き取った。
これを知った右衛門尉の妻は悲嘆して自害しようとしたが制止され、後に仏門に入った。
これを聞いた謙信は

「天命ほど恐ろしいものはない。少しでも行いを誤れば大きな報いを
受けることになり見通すことも難しいものである」

と自戒した。

204 :人間七七四年:2017/09/06(水) 16:27:06.94 ID:IJXRMizk.net
(越中古城並雑書記)より

205 :人間七七四年:2017/09/06(水) 19:23:52.22 ID:0Z+k4yXe.net
何を誤ったのかが全然分からないのだが

206 :人間七七四年:2017/09/06(水) 19:51:57.20 ID:lZpFGl/I.net
右衛門尉が舅を裏切ったことじゃないの
で謙信の理屈だと自分から唆した訳ではないとはいえ不義に味方するのも不義ということなので
いつ自分に報いが返ってくるかわからないから気をつけようということでは

207 :人間七七四年:2017/09/06(水) 22:28:32.01 ID:L8yC5R5O.net
>>「今よりここは我が城。本意を遂げたり」

あー、これですわ

208 :人間七七四年:2017/09/06(水) 23:42:50.79 ID:tXZXKWik.net
基本的にこの時代の武士なんて>>207みたいのばっかだと思うんだが

209 :人間七七四年:2017/09/07(木) 00:09:13.41 ID:RBdQCurE.net
???「今より我は毘沙門天。本意を遂げたり」

210 :人間七七四年:2017/09/07(木) 13:29:38.50 ID:Jr2Nz9xv.net
>>208
でも妻の父親だし、本意を遂げたってことは前から狙ってたっぽいしなぁ。

211 :人間七七四年:2017/09/07(木) 23:40:11.58 ID:h8hsbPLy.net
>>203
> ところが雷鳴も無いのに馬が突然立ち上がり、落馬した右衛門尉はそのまま息を引き取った。

十河「えっ」
龐統「なにそれこわい」

212 :人間七七四年:2017/09/08(金) 04:47:19.83 ID:jOWlonZa.net
三浦八郎左衛門と申す者は今川義元の家人であったが、権現様(徳川家康)
が御幼少の御時にとりわけて御目を掛けなされた御由緒があった故、

御尊骸が久能へ入りなされてより法体となり、名を“養雪”と改め久能へ参り、
毎日参詣致した。ある日、(東照大権現が)御内陣より、「三浦、三浦」と3度
御呼びになられた。

三浦は御拝殿の御椽から御本社の階まで参詣を致して、ただちに榊原内記
(照久)のもとへ参って暇乞い致して罷り帰り、翌日に相果てたとのことである。

――『東照宮御奇瑞記』

213 :人間七七四年:2017/09/08(金) 19:05:51.03 ID:KqDY/QkV.net
これ三浦さん呼ばれて逝ったのか

夏は終わったのに心霊話が続くとは

214 :人間七七四年:2017/09/08(金) 20:20:17.37 ID:5ZLyvS8/.net
この時代だからだろうね、祟り話少な目になってんのは

215 :人間七七四年:2017/09/09(土) 04:30:38.81 ID:FIiOK3Ag.net
七夕・八朔に白帷子を着用するのは、権現様(徳川家康)の御時分に、

騒がしい御時節につき、染め申す間もないため、白地のままで着用し、
いずれの者も罷り出た。

その儀が御吉例になり、今でも白帷子にするのだという。

これを岡田豊前殿か小堀仁右衛門殿に微妙院様(前田利常)が御話
遊ばされたのを御聞きになられたとの旨、

庚子1月4日に(松雲公・前田綱紀が)仰せ遊ばされた。

――『松雲公御夜話』

216 :人間七七四年:2017/09/10(日) 03:26:48.66 ID:R7oLFEbW.net
公方様(徳川将軍)が元日の朝に兎の御吸物を召し上がり申すのは、

家康公が御小身の御時に御艱難の折、林信濃守だろうか、その宅に
おいて御越年された御時分、

何も召し上がるべき物が無いとの由で兎の御吸物を召し上がられた。

これがすなわち御吉例になり申したとの由を、前述の同日(庚子正月
4日)に、仰せ遊ばされた。

――『松雲公御夜話』

217 :人間七七四年:2017/09/10(日) 20:30:53.36 ID:C/VcyUZR.net
これは家康のときからの行事になっていたのか
それとも神格化によって後代に行事となったのか

218 :人間七七四年:2017/09/11(月) 05:43:44.10 ID:FKeJNX/z.net
これは3億の価値は余裕であるの?

http://doradoradora.exblog.jp/25580731/

219 :人間七七四年:2017/09/12(火) 14:01:47.81 ID:BebqZxQE.net
小ネタ
「地味な方の加藤さん」でヤフー検索をかけると
何の捕捉もなく先頭に加藤嘉明のwikipediaが
出てくる。

220 :人間七七四年:2017/09/12(火) 14:04:57.26 ID:zq9eIs7l.net
加藤光泰「地味にすらなれなかった」

221 :人間七七四年:2017/09/12(火) 14:36:22.50 ID:78lKO1+I.net
グーグルで検索してもワロタわwww
https://i.imgur.com/7433hNm.jpg
https://i.imgur.com/tdN2sfZ.jpg

222 :人間七七四年:2017/09/12(火) 14:38:52.06 ID:+QnJlqGZ.net
空気だからしゃーない

223 :人間七七四年:2017/09/12(火) 17:19:15.45 ID:NAm1IRRB.net
>>220
空気なおかげで文禄の役で前野長康といっしょに明軍に負けてるのも知られてないな
一応甲斐24万石の大名になってたんだっけか

224 :人間七七四年:2017/09/12(火) 22:50:10.86 ID:BmQuoTzP.net
良い話か悪い話か迷うけど
幕府再興を掲げた良い話?

明智光秀が土橋重治に宛てた書状

毎日
https://mainichi.jp/articles/20170912/k00/00m/040/159000c
産経
http://www.sankei.com/life/news/170912/lif1709120003-n1.html
読売
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170912-OYT1T50009.html
朝日
http://www.asahi.com/articles/ASK9C45WPK9CONFB00F.html
日経
https://www.nikkei.com/article/DGXLZO21007030R10C17A9CR8000/
伊勢新聞
http://www.isenp.co.jp/2017/09/12/7440/

225 :人間七七四年:2017/09/12(火) 22:54:40.59 ID:Mgtr1m2r.net
荒木素白は書の名、家名は光辰。通称は三次、のちに内膳。母は桂氏。
九歳で福山藩主水野勝成に仕えるが、十九歳のとき同僚と争論して去り、伊勢に赴き津の藤堂高虎に仕える。
高虎、勝成のために酒餞を設ける。素白は給仕周旋する。
勝成恚りてこれを高虎に言う。高虎肯んせす。
素白去りて京師にいく。勝成怒りて国に入るを禁じる。
数年後、素白は鞆の浦にやってきて告首罪を請う。勝成はなだめて京師に帰した。
素白剃髪して禪を霊隠寺一絲に問い名を虚空素白と改める。
勝成に再び召し抱えられて月棒を貰う。勝成勝俊が亡くなったあとで辞去。
高虎の嗣子が招くが辞退。
素白は書を好み藤木敦直を師としてその名は高し。上代風の中興。書体三跡の室に入るという。後水尾天皇は召しだして扇と色紙に書かせて、おおいにこれを悦ぶ。
晩年力老いて病むにおよび大納言藤原弘資を遣わして慰問する。使者絶えず。貞享二年春死ぬ。年齢八十六歳。七男一女あり。(野史、名家全書)
大日本人名辭書

頑張って翻訳してみた。
勝成と高虎って仲良さそうだね。

226 :人間七七四年:2017/09/13(水) 02:13:56.64 ID:5Fm8W0c9.net
大坂御陣の時分、織田左門殿(頼長)も籠城した。

左門殿は殊の外おどけた人で、牛の角に銀箔を捺して乗られ申した。
また女中に刀を持たせ、毎度堀裏を廻り申されるような人であった。

(牛の角に銀箔を置乗被申候。女中に刀を持せ、毎度堀裏を廻り被
申候様なる人に候由。)

その由を前述の御話と同じ時に拝聴仕った。

――『松雲公御夜話』

227 :人間七七四年:2017/09/13(水) 11:20:54.14 ID:mz9dNTx1.net
大阪の夏の前に上手いこと城から出て長寿庵を営んだけど早死した人か

228 :人間七七四年:2017/09/16(土) 02:54:49.52 ID:KtXQnXKS.net
輝政公関ヶ原行軍順見の事


行軍のとき大将が諸軍を巡り見るのは古法であるが、関ヶ原合戦の行軍のとき
池田輝政公は諸卒の左の方をばたばたと(馬に)乗って走っていき
先陣の一番先で馬を右の方に折って、(前方を通って今度は先陣から)
諸卒の右の方を馬を地道に走らせて後陣まで順見したという。

戻るときに地道に走らせたというのは、(後陣から)先陣まで走らせるときは
諸卒が前へ行くので、早道に走らせないと追いつかないが
先陣の一番先まで行き右の方に折れて行き、諸卒の右の方で
(先陣から後陣へ)走らせるときは地道に静かに乗り戻ったとしても
諸卒は先へ行くので後陣まで地道に乗っても、間を取らないために
残らず順見しやすいからだという。


――『常山紀談』

地道:馬を普通の速さで進ませること。
早道:馬を速く進ませること。

229 :人間七七四年:2017/09/16(土) 03:19:31.94 ID:eamhuJlz.net
当たり前じゃ

230 :人間七七四年:2017/09/16(土) 08:11:09.45 ID:goG3qGCB.net
戦乱から100年遠ざかっているし、いろいろとわからなくなっていることとかがあるんじゃないのかな

231 :人間七七四年:2017/09/17(日) 10:09:51.72 ID:+anRRzXN.net
古人曰く、侍の大身小身ともに、不覚悟の品々というものが有る。

一に、人の悪口、噂を賢しらに言う人
二に、侍と侍の間の仲が悪いからと言って、座席や路頭において慮外の輩
三に、親兄弟の敵を狙わぬ事
四に、被官、下人などが口論した時、言い過ぎた方や、非分の働きのあった方に、早く理を言って
   話談するようさせなければならない。事に大身奉行たる人は、自分の配下に即座に罪科を
   申し付けて事を済ませるべきだ。
五に、相奉行にて損得のある仕事をする時、自分の得のために傍輩を出し抜くこと。
六に、武士たる者、万事につけて自分より勝るものを嫉むこと。
七に、身体を治められず好色をいたし、要らぬことに過分の振る舞いあること
八に、武道具の嗜み無く、弄ぶ所の器物(茶道具など)を専らとする事。
九に、人の良き道具をあれこれ言いくるめて取ること。
十に、少しの心ばせが有るからと言って、人より優れているかのように過言すること。
十一に、仕合が良いと未練な侍であっても褒め、良き武士であっても足元が弱いのを侮る事。
十二に、有徳(裕福)な町人を見込んで武士の聟にすること。
十三に、良き縁者を持つ女性を女房とし、女房の縁者の威勢が衰え、或いは亡くなると、その女房を
    悪しく扱う事。

おおよそこれらの事は、傍らより見聞きしても大変見苦しいものであるから、人々は自ら戒めるべき事である。

(士談)

近世初期くらいまでの、武士の倫理観について

232 :人間七七四年:2017/09/17(日) 13:32:06.28 ID:lOeraY96.net
戦国武将は大抵逆の事してる

233 :人間七七四年:2017/09/17(日) 17:23:55.16 ID:0gyA34Re.net
士談って明治頃の本だろ?もはや戦国の雰囲気ないわな

234 :人間七七四年:2017/09/17(日) 18:27:32.39 ID:ur7iNDF1.net
最後の後南朝

明徳三年(1392)に南北朝の合一が成った後も、南朝の残党(後に後南朝という呼称が作られた)は
禁闕の変などの武装蜂起を起こしたり、応仁の乱で西軍に祭り上げられたりと度々歴史の舞台に登場していた。、
しかし15世紀末のある記事を最後に、遂に後南朝は史書からその姿を消してしまう。

明応八年(1499)
此年の霜月、王が流されて三島にお着きになられた。早雲入道が諌めて、相州へお送りになった。
『妙法寺記』

たった一行の短い記事だが、「王」(後南朝の王とされる)が関東へ流され、途中で伊豆の北条早雲(伊勢宗瑞)が
それを迎えて、何かの罪(南朝復興の活動か)を犯したことについて諌め、その後相模へ送り出したというもの。
この記事が史書に見える後南朝の終見で、相模へ送られた王のその後の行方はまったく分かっていないが、
南朝の歴史の最後に、意外な人物とちょっとだけ接触があったよ、という話。

235 :人間七七四年:2017/09/17(日) 18:54:07.83 ID:zv/ao8/x.net
森茂暁「闇の歴史、後南朝」だと確実な後南朝の最後は山名宗全関連のようだ、以下抜粋

東京大学史料編纂所編纂の 『大日本史料第八編 』の一一 、文明一一年 (一四七九 )七月一九日の条には 、
「小倉宮ノ王子 、越後ヨリ越前ニ到ラセラル 」という綱文のもとに 、
@ 『晴富宿禰記 』文明一一年七月一九日の条 、
A同記 、同三〇日の条 、
B 「妙法寺記 」文明一〇年霜月一四日の記事 、
C同記 、明応八年霜月の記事を掲載している 。
なお B Cは 『続群書類従第三〇輯上 』に収められる 「妙法寺記 」にも載せられている 。妙法寺とは甲斐国都留郡の妙法寺 。

@は山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた 「南方の宮 」が国人らに送られて 、越後より越前国北荘へ移ったということ 、
Aは 「出羽王 」が高野へ向かう道中のこと 、
Bは 「王 」が京都より東海に流され 、甲斐に赴き小石沢観音寺 (現山梨県笛吹市 )に滞在したこと 、
また Cは 「王 」が明応八年一四九九 )霜月に流されて三島 (現静岡県三島市 )に着き 、
「早雲入道 」 (北条早雲 )が諫めて相模国に送ったこと 。
『大日本史料 』当該巻の編者が 「王子 、越前ニ到ラセラルヽ日ヲ詳ニセズ 」
「王子ト出羽王 、並ニ妙法寺記ニ記セル王トノ関係明ナラ 」ずと注記しているとおりで 、詳細は不明のままである 。
比較的信頼のおける南朝皇胤の所見史料の最後は @であろう 。

236 :人間七七四年:2017/09/18(月) 18:57:09.29 ID:gtKRsMo1.net
>>233
士談は山鹿素行の著書だから、一応近世初期だぞ

237 :人間七七四年:2017/09/19(火) 05:07:13.57 ID:bkfnltZI.net
中黒道随は毎度御前へ召され、古戦の物語をも聞こし召された。
ある時に道随は申し上げて、

「大坂において傍輩の中に手負いの者がいて引き退く時、その者
を背負って退くと、手負いの者を盾に致しているように見え申すか
と存じましたので、その者を前に抱えて立ち退きました」

との旨を申し上げた。道随の嫡子・太左衛門は黒田家に罷り在り
物頭であったが、道随は相願って暇を乞い、

御家(前田家)へ罷り越した。すなわち、その太左衛門へ家督を
仰せ付けられた。その子は六左衛門、二男は八右衛門と申した。

太左衛門の代までは2千石であったが、太左衛門が相果てると
六左衛門に千5百石、八右衛門に5百石が下されたとの旨、

同年(享保5年)4月27日の夜に仰せになった。

――『松雲公御夜話』

238 :人間七七四年:2017/09/19(火) 18:21:30.94 ID:5pudpMB+.net
栃木県立博物館にて、
「中世宇都宮氏 頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族」
が開催中です
期間は9月16日〜10月29日

展示品によっては10月9日まで・10月10日からなど、期間限定のものもあるようです

ttp://www.muse.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/kikaku/170916utsunomiyashi/index.html

239 :人間七七四年:2017/09/19(火) 21:53:04.03 ID:dH0BVuCT.net
栃木県の戦国関連
日光:東照宮
足利:足利学校
小山:小山評定
佐野:犬伏の別れ
は戦国好きならみんな知ってるし

那須、大田原
はあの三兄弟のおかげで此処の住人にはおなじみなのに

宇都宮や広綱
はいまいち目立ってないような

240 :人間七七四年:2017/09/19(火) 22:02:00.80 ID:0FIENwtC.net
ごめんね4行目までしか分からないんだ

241 :人間七七四年:2017/09/20(水) 17:04:29.57 ID:7v4OVPV9.net
まあ名族は確かだな。

242 :人間七七四年:2017/09/20(水) 19:13:46.10 ID:OnRT8wAe.net
池田の力、池水の流れ


天正8(1580)年、謀反していた荒木村重が花熊城に移ったため
池田恒興は信長に追撃を命じられ、息子の元助、輝政と共に花熊城を攻めた。
大将自ら槍を振るうような混戦で、恒興は槍で五、六人討ち取り
輝政は三須五郎大夫という勇士と組討勝負になり、なんとか首を切ったという。
この時の功により、恒興は荒木の旧領の摂津と以下の感状が与えられた。


武士高名越度之事

摂州大坂本願寺蜂起の時、佐久間右衛門佐(信盛)が対陣していた数年間は
敵が城中から出てきて戦ってはいたが、未だ敵一人討ち取ることはなく
原田備中守(塙直政)が兵を率いてこれを救い、敵と大いに戦い多く討ち取ったが
敵は依然として繰り出してきて、前後に攻め来るので討ち死にしてしまった。
右衛門佐は敵の仲間になったのか、あるいは信長に恨みがあるのかと思い
このことで、佐久間を追放した。

池田紀伊守(恒興)父子三人は摂州並びに四国、西国の間において
合戦の時少しもその陣を離れることはなく、敵が攻め来れば防戦し
未だかつて加勢の兵を乞うこともなく、高名は甚だ高しと安土には注進あり。

その次男古新(輝政)は年わずかに十六才で、敵陣に入り大いに武功を振るう。
真にこれは池田紀伊守の血筋で、信長の眼力に叶い、その手柄は比類ない。
この度花熊の城を攻め取ることは池田の力である。
信長は佐久間の事で面目を失ったが、池田父子の働きで"会稽の恥を雪ぐ"
その名誉は山よりも高い。

池田勝九郎(元助)は若年より敵に遭っては一歩も引かず
度々の高名は真に池水の流れを汲むものである。
信長の嫡子信忠、次男信孝、三男信雄(次男信雄、三男信孝の間違いか)にも
この池水の心底を言い含める。

それ虎は一毛を惜しみてその身を失う。
弓取りは名を惜しみ家を惜しみて、その命を軽んず。
身は一代なり、名は末代なり。
よろしく池田をもって明鏡とすべし。

その功に報いるため摂州一国の内諸所多くを、今後その所望に任せて
池田父子三人に宛て行う。これらの趣を感状とする。

天正八年八月十八日              信長判
池田紀伊守殿


――『寛永諸家系図伝』

243 :人間七七四年:2017/09/20(水) 19:19:26.80 ID:um2u10wi.net
池田輝政まだ若いのにすごいな
信長も、将来にわたって自分の子や孫に忠実に仕えてくれると思っただろうな

244 :人間七七四年:2017/09/20(水) 19:22:46.98 ID:h/uZFlBu.net
待って
どっからが書状なの?

245 :242:2017/09/20(水) 19:45:49.91 ID:OnRT8wAe.net
>>244
>武士高名越度之事
から全て書状です。(諸系図伝からの引用なので書状そのものではないですが)

246 :人間七七四年:2017/09/21(木) 03:22:10.82 ID:bTnaNMaE.net
一、本多安房守(政重)は大献院様(徳川家光)の御代に、毎度御前で色々
と御話を申し上げた。これがあまりに御話申し上げ過ぎているとして、

酒井讃岐守殿(忠勝)などは御笑止(気の毒に思うこと)に思いなさったとの
由、岡田豊前殿(善政)が相公様(前田綱紀)に申し上げられた。

一方で申し過ぎることは、微妙院様(前田利常)や陽広院様(前田光高)の
御為によろしきことも多くあったとの由である。

これは右の記事と同じ時(享保5年8月12日夜)に仰せになった。


一、本多大夢が安房守と申した時、大献院様の御代に参府し、何れの時か
御目見えした折、大献院様の仰せがあると、何やら色々申し上げたという。

その後に岡田豊前殿が申されたことには、松平伊豆守殿(信綱)が御申しに
なったそうで、安房守は何やら御前で申し過ぎたとの由を御申しになられた
との旨の噂があったとのことである。

これは前述の豊前殿の物語りを聞こし召されたとの由を、右の記事と同じ時
(享保8壬卯年5月25日)に仰せになった。

――『松雲公御夜話』

247 :人間七七四年:2017/09/22(金) 15:43:53.29 ID:SmL/qRqe.net
ある時、穴山梅雪が馬場美濃(信春)の向かって聞いた

「徳川家康というのは、人に優れて利根な人物か?」

これに馬場美濃
「なんという不案内なお尋ねか。

謡、舞、或いは物を読んでその理解が早いことを利根といい、
その所作がらが良いのを器用とも利発とも言います。

座配や時宜についての仕様が良く、大身とも小身とも、付き合って一つも軽薄な所がないのを
利発者、あるいは公界者と言います。

芸の理解が良くなく、座配なども良くないが、武義について勝れた者、放し打ちの一度も二度も
致したような者を利口者、
槍脇を勤め首尾の良きこと2,3度有れば甲斐甲斐しき者と言います。
そしてそのような働きが重なれば兵者(つわもの)とも、覚えの者とも言い、
その覚えが重なると、大剛の者、
その人物に、さらに分別工夫が有ればそれを名人と言います。

徳川家康は三河一国から遠江まで手をかけ、日本の弓矢取りの中でも若手の代表格と言えるでしょう。
そういった人物に対し、利根かどうかと尋ねるのは、いかがなものでしょうか?」

この話の内容から考えるに、利根、利発、利口、覚えの者、大剛の者などという区別であるが、
馬場の言っている理屈も正しいとは言い難い。これはその当時の、世俗における理屈を伝えている
だけなのだろう。

ただし、何事でもその道々に定まった言葉というものがあり、その弁えなく使ってしまっては、
その言葉の持つ意味が消えてしまう。
そういった意味で、例えば同じ学問僧を指す言葉であるが、教家においては所化と呼び、
洞下においては江湖と呼び、開山派では衆寮と呼ぶように、その品によってその言が変わるのだと
心に付けて、言葉に気をつけてその説を詳しく説明すれば、みだりな言葉の出ることは無い。

そういった中、「武辺者」という言葉を定まったものとして使う向きがあるが、この意味合いも
東西都鄙によって別であり、家によっても変化する。その文字の字義、理えお正し、言葉をみだりに
致さないこと、これも君子の戒めの一つである。

(士談)

言葉を使う時はその意味や定義をきちんと押さえておかないといかんよ、というお話

248 :人間七七四年:2017/09/22(金) 16:45:29.09 ID:j6deZQvo.net
いちいち呼び変えるのって大ふへんだなぁ

249 :人間七七四年:2017/09/22(金) 17:38:47.63 ID:OQHDg4wR.net
なるほど、儒者の書きそうな書物だ

250 :人間七七四年:2017/09/26(火) 15:28:33.97 ID:l7q/KHP7.net
>>238行ってきた
ここやまとめサイトで突っ込まれてる「秀吉を支えた」についてはこんな描かれ方
「天正十八年(一五九〇)、小田原城の北条氏を滅ぼした秀吉は、つづいて宇都宮城に滞在して天下統一の総仕上げに着手した(宇都宮仕置)。
(中略)
二二代国綱は秀吉から領地支配を認められ、その後も秀吉への奉公に励んだ。
国綱は、太閤検地を領内で実施して経済基盤を固め、朝鮮出兵(文禄の役)などの過度な軍役をつとめた。
秀吉からは豊臣姓・羽柴名字を許され、朝廷の官職である侍従にも任じられるなど、国綱は秀吉の一門格として処遇された。
慶長二年(一五九七)、国綱は突如、領地を没収された。秀吉の不興をかったことが原因とされるが、真相は不明である。
国綱旧領の事後処理は、秀吉の奉行浅野長政と真田昌幸に命じられ、両人は宇都宮でその対応にあたった。
宇都宮氏の再興を期す国綱は、旧臣たちとともにふたたび朝鮮半島に渡ったものの(慶長の役)、秀吉の死去によってその望みは断たれた。
再興の願いがかなわぬまま国綱は、慶長十二年(一六〇七)に江戸で死去した。」

251 :人間七七四年:2017/09/26(火) 15:51:47.42 ID:l7q/KHP7.net
また展示されてた上杉家文書に収められている景勝宛の宇都宮国綱書状に
「景虎を破って家督を確固たるものとしたこと喜ばしいです
佐竹たちと一味中を結成して対北条同盟をつくってるので安心してください
特に秀吉との関係強化をはかることをお考えください」
とあったから「秀吉を支えた」でも不自然ではない気が

ほかにも
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=5134
で第20代当主宇都宮尚綱が使っていた軍旗の展示もあったが、その説明文が
「本軍旗は、宇都宮俊綱(のちに尚綱)が天文十八年(一五四九)に喜連川早乙女坂(さくら市)の合戦で実際に使用したものである。
俊綱は那須氏との合戦で討死をとげ、この軍旗は敗走する宇都宮勢から那須氏が奪い取ったものになる。
以後、那須家では「宇都宮俊綱旗」として伝来された。」
だったせいで適当に読んでたら
「ああこの戦いの時にはまだ俊綱で、後から尚綱に改名したのか
…てこの戦いで死んでる!」と突っ込んでしまった。
軍旗の名称が俊綱旗だからそっちをメインにしたのだろうか

ついでに、この早乙女(五月女)坂、現在では尚綱を射殺した鮎瀬弥五郎実光にちなんで「弥五郎坂」という名前になっている。
尚綱坂や俊綱坂と呼ばれないのが少し不憫

252 :人間七七四年:2017/09/26(火) 16:26:55.27 ID:ItlnoGBr.net
うむ、レポ乙

253 :人間七七四年:2017/09/26(火) 18:57:34.46 ID:KrZ4khGv.net
マイナー大名だけど地元でこうして扱われるのはなんか嬉しい

254 :人間七七四年:2017/09/26(火) 20:17:15.98 ID:iEpll7pY.net
大体歴史ある家ってのはマイナーなんだよな
メジャーどころは伊達島津大友あたりか微妙な感じで上杉か

255 :人間七七四年:2017/09/26(火) 22:49:41.70 ID:8e1WUmfJ.net
佐竹

256 :人間七七四年:2017/09/26(火) 23:01:33.66 ID:r0Me4Piv.net
確かに戦国期の千葉介はマイナーだ

257 :人間七七四年:2017/09/26(火) 23:40:04.01 ID:MoqyhZHA.net
越前朝倉英林(孝景)が言ったことに
「武者の雑談で出てくる、いかにも巧者の言葉を信仰し、能く聞くこと肝要である。
ただし若い頃から、合戦において巧者のように振る舞えば、却って悪名を得る事もある。
武者の事において人を褒める場合、『あれほど成る者は有るまじき』とは言わぬものである。
『並ぶ者はあるが、増す者はいない』と褒めるのが良い。」

(士談)

英林公の、人の褒め方についてのお話

258 :人間七七四年:2017/09/28(木) 18:02:08.18 ID:hprxhZ3H.net
大阪夏の陣の折、青山伯耆守(忠俊)の備えは敵を真向に受け非常な激戦を繰り広げたが、
伯耆守は青山組の侍に向かって叫んだ

「願うところの幸いに候!何れも悪びれたりするな、誰も誰も、今日を討ち死にと思い定めよ!」

しかし、これを聞いた野一色頼母が言い返した

「これは仰せとも思えない!他は知らないが、私は江戸を出る時から既に討ち死にと思い定めて
いるのだから、今日を限りの討ち死になどと存ずるまでもない!」

この一言に人々は勇気を励まし

「そうだ!頼母の言うとおりだ!」

と一同して勇んだ。野一色はその日、討ち死にを遂げた。

(士談)

259 :人間七七四年:2017/09/28(木) 21:30:20.64 ID:0Nn+ZtJN.net
http://sikyo.net/-/1013876

野一色助重

亡くなってから402年144日過ぎました。
26歳で亡くなりました。
1589年に誕生、1615年05月07日に亡くなりました。
生誕428年が経過しました。没後402年が経過しました。
暮らした時代は、安土桃山時代 から 江戸時代 です

>>ただし若い頃から、合戦において巧者のように振る舞えば、却って悪名を得る事もある。

26歳は当時としちゃそれなりの年齢だろうけど、関ヶ原では11歳だし就職は1612年みたいだし

260 :人間七七四年:2017/09/28(木) 22:35:34.20 ID:NnFaSWqr.net
ノイッショクスケシゲ

261 :人間七七四年:2017/09/29(金) 03:25:37.95 ID:yfdPfta+.net


262 :人間七七四年:2017/09/29(金) 13:10:09.00 ID:knKSZPOa.net
このスレってさ
まとめ管理人とかいう奴が延々と
現代語訳してコメント集めてんの?

263 :人間七七四年:2017/09/29(金) 14:50:46.40 ID:sori05xS.net
しらんがな。ツイッターで聞いてこいよ。

264 :人間七七四年:2017/09/29(金) 15:59:42.71 ID:lC8w7Akb.net
管理人は基本的に何もせずコピペブログ作ってるだけ

265 :人間七七四年:2017/09/30(土) 02:43:45.97 ID:PbrYLDou.net
大献院様(徳川家光)は名誉な公方様でござった。御一代の内に御鷹狩をされ、
ならびに島津家へ仰せ付けなさり、犬追物を上覧された。

また安宅丸を仰せ付けなさり、諸大名を召し集められて御遊覧などをなさった。
大方、太閤秀吉の気風を御慕い遊ばされた御様子である。

その安宅丸御遊覧の時、諸大名が舞いを仕るなど、色々の音曲がござった。

松平陸奥守政宗(伊達政宗)は御酒宴のうえで三方を頭に被って踊り申された
という。興に思われる趣のあることであったとの由である。

松平越後守殿(光長)や新太郎殿(池田光政)もその座に御出の方で、以後に
相公様(前田綱紀)へ御参会の折に度々直に御物語りを聞こし召されたとの由、

同年(享保7年)1月12日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』

266 :人間七七四年:2017/09/30(土) 21:17:20.14 ID:G/SK1aus.net
https://info2.city.kanazawa.ishikawa.jp/www/event/detail/1261
第15回全国藩校サミット金沢大会

徳川さんと前田さんに山本博文さんが加わり3人で鼎談
有名な徳川前田両氏の日本郵船時代の逸話はでたかな

267 :人間七七四年:2017/09/30(土) 23:59:42.15 ID:D1E7tGqL.net
朝倉宗滴いわく
「音信として、秘蔵の馬、その他重宝を人に遣わす時、それに付けた書状の書式が慮外であれば、その
遣わした珍物も尽く無となり、かえって遣わさないよりも劣ることが有る。
心得の上手、下手にはこれほど相違の有るものである。よくよく分別有るべし。

(士談)

268 :人間七七四年:2017/10/02(月) 13:46:53.74 ID:dP9+ENkW.net
仰々しくしラッピングした方がありがたみが出る、
みたいな話?

269 :人間七七四年:2017/10/02(月) 22:13:13.31 ID:brJ4Rm+G.net
>>268
たとえ贈り物が素晴らしくても書状で礼を失すれば全てが台無しにするという話し。

武家は面目が大事だから書札礼を守らないと、それだけで争いのタネになる。

270 :人間七七四年:2017/10/02(月) 22:37:43.24 ID:YTBNVBv4.net
中公新書の桜井英治「贈与の歴史学」って本だと
室町時代では貨幣経済が育たなかった分、贈与がその埋め合わせとなり、贈り物自身の価値というよりは
贈与によるコミュニケーションが主な目的となっていたようで
(贈り物はたらい回しにされるのが当たり前、数日前にあるところに出した贈り物が巡り巡って戻ってくることもあったとか)
書式が慮外ならそもそもの目的のコミュニケーションも果たせないな

271 :人間七七四年:2017/10/02(月) 22:46:50.47 ID:29W7x5RH.net
フロイスも「贈り物がないことには話すら聞いてもらえない」みたいな事書いてたな

272 :人間七七四年:2017/10/03(火) 03:11:36.71 ID:o3oJm9vk.net
足利尊氏が貰った贈り物人にあげてたら全部なくなっちゃった話とか割りと普通のことだったのかな

273 :人間七七四年:2017/10/03(火) 08:00:43.94 ID:lHax47KH.net
あれは違うみたいだが

274 :人間七七四年:2017/10/03(火) 12:49:33.40 ID:N9tcduy+.net
田中角栄が相手の予想より少ない額だと馬鹿にされたり恨まれるからやらないほうがマシって言ってたな

275 :人間七七四年:2017/10/03(火) 14:00:44.69 ID:8y/Y6Xjj.net
角栄が言っても説得力がない

276 :人間七七四年:2017/10/03(火) 14:17:29.19 ID:iQtwkKN2.net
蒲生秀行は、一時宇都宮に転封され、後に60万石にて会津に復帰した。
この時彼は、とある家臣を召して聞いた

「わが父氏郷は、百万石にて会津に在城し、奥州の押さえとなっていた。
しかし今私は60万石にて奥州に有るのだが、この石高では思い通りに、奥州の押さえが
出来ないのではないだろうか?この事について尋ねたいのだ。」

家臣は申し上げた
「氏郷様が百万石にて奥州に召し置かれた時分は、太閤殿下は遠く離れた大阪に居られましたから、
百万石であっても独りでの行動はしにくいものでした。
しかし現在は御旗本が江戸となりました。江戸から会津までは僅か5,6日を過ぎないほどの行程です。
60万石であっても、かつての百万石より危うさはなく、奥州の押さえとして、充分に働くことが出来ます。」

これに秀行は、速やかに言上したことを神妙であると感心した。

(士談)

277 :人間七七四年:2017/10/03(火) 16:15:10.82 ID:gcVt3+vJ.net
儒教特有の家臣age

278 :人間七七四年:2017/10/03(火) 19:03:41.10 ID:ZpdTyF3B.net
最近は文句ばっかり付けるアホが常駐してんな

279 :人間七七四年:2017/10/03(火) 23:26:18.41 ID:PQQbOlsn.net
明治維新に影響をあたえた仰徳大明神(毛利元就)


毛利元就は毛利家にとって神君として崇められていた。
徳川家康が東照宮大権現なら、元就は仰徳大明神である。

毛利家中興の英主といわれる重就は元就の遺訓をまとめて「御教戒」として君主のありかたを照らす鑑とした。
やがて幕末、藩士中村清旭は安政二年(1855年)元就の遺訓を集大成して「大訓衍義」を著した。
これは元就の勤王精神を長州に植え付けることとなった。
というのも毛利元就は永禄三年(1560年)に財政難の為、即位式が出来なかった正親町天皇の為に
即位の御料として銀四十八貫を献上し即位式を挙げさせてあげたのである。

これが前例となり毛利家だけは、他の大名と違い
年末年始はもちろん朝廷の吉凶時にさいしても、朝廷への進献が許されていた。
そして石見銀山を永久的に毛利家が支配する為に皇室御料所として寄進し、毛利家が管理者として実権を握った。
これにより秀吉が天下を取ったあとでも秀吉は石見銀山には中々手が出せなかった。


元就が天皇への勤王あつく(打算的勤王という人もいる。まあないとは言えないでしょうね)
こういった経緯もあり激動する情勢に長州藩では藩の方針を以下とした。

第一に天朝への忠節
第二に幕府への信義
第三に祖先への孝道

すなわち天朝と幕府が対立した場合、天朝方につく下地は元就のころから出来ていたのである。


高杉晋作は第二次下関戦争の為の挙兵での檄文で
「御先祖洞春公の御遺志を継がせられ御正義御遵守遊され候…」
「洞春公尊霊を地下に慰め御両殿様(藩主敬親、元徳父子)の御正義を天下万世に輝かし奉り…」と掲げた。

洞春公は元就の法名。
つまり元就を範に攘夷決行、王政復古を訴えたのである。

奇兵隊の最初の作戦は戦局には全く影響のない安芸郡山攻略。

目的は唯一つ、毛利元就の墓所の奪還である。

280 :人間七七四年:2017/10/03(火) 23:34:11.14 ID:KBj7WAN5.net
大江広元の子孫が武家政権を倒して王政復古を図るとは
祖先は天皇と幕府の次だから気にしてなかったんだろうけど

281 :人間七七四年:2017/10/04(水) 10:51:49.08 ID:4vJxH0l7.net
すべては「そうせい!」の一言で

282 :人間七七四年:2017/10/04(水) 16:18:09.71 ID:Kbab0n5s.net
>>279-280
歴史の流れって面白いなー
毛利と島津が幕末にあんなことになるとは権現様でも気づくめぇ

283 :人間七七四年:2017/10/04(水) 21:05:13.25 ID:EAg4DYKA.net
出典は?

284 :人間七七四年:2017/10/04(水) 21:22:35.19 ID:lpvoNYzS.net
江戸幕府のはじめ、板倉勝重が京都所司代であったころ、二人の男が一反の巻絹を争う訴訟があった。
両人ともにそれが自分のものだという確証がなく、遂に勝重の裁断を仰ぐことと成り、これに対し
勝重は

「双方とも証拠がない以上やむを得ない。これを分かつべし」

そういって彼らの目前でこれを中央より断ち、それぞれに分け与えて去らせた。

その後、勝重は人を遣わして密かに二人の様子を探らせたところ、甲は喜び、乙は怒れる色あり、との
報告が還った。勝重は速やかに甲を捕え獄に下した。

(今古雅談)

285 :人間七七四年:2017/10/04(水) 22:27:21.22 ID:OcJJ7uqw.net
>>284

巻絹だけに裁断ってか

286 :人間七七四年:2017/10/05(木) 19:34:10.18 ID:8zUhQpLS.net
千利休は茶について、武野紹鴎に学んだ。

紹鴎はある時、利休の才を試みようと、密かに人に命じてその庭を掃除させ、
その後、利休に「わが庭を掃除せよ」と命じた。

利休が紹鴎の茶亭の前に行くと、地面は拭うがごとく掃き清められ、わずかの塵すら留めず、
木々の緑を鮮やかに照らしていた。そこには利休が手を加える所はなかった。

しかし利休は木々の間に入り、一本の松を揺らすと、落ち葉が風に翻り、点々と地に落ちた。
これによって風情、一段と増した。

そして利休は紹鴎に伝えた
「謹んで命を完了しました。」

武野紹鴎はこれを見て、利休の奇才に感じ入り、茶における様々な秘訣を伝えた。
こうして利休は終には、茶博とまで呼ばれるに至った。

(今古雅談)

287 :人間七七四年:2017/10/05(木) 19:45:40.11 ID:M/gUdZAy.net
いいね

288 :人間七七四年:2017/10/05(木) 20:39:59.42 ID:W5QFadg9.net
むかし、掃除した浜辺にわざわざゴミを撒き散らしたテレビ局がありましてね
それを回収する様子を放映してましたな

趣向はまったく違うがそれを思い出したw

289 :人間七七四年:2017/10/05(木) 20:41:45.09 ID:f5o6L3Z6.net
茶亭の前に行くとすでに掃き清められ手を加えるところがなかった利休は
松の木を揺らすなど激しい威嚇行動をとった

290 :人間七七四年:2017/10/06(金) 15:47:25.82 ID:bAHcXAIl.net
ゴリラかよ
たしか六尺の大男だったよな

291 :人間七七四年:2017/10/08(日) 23:15:16.48 ID:vtU+lYlX.net
上杉謙信が刑罰を設けた時、第一に奪刀、第二に死罪、第三に所領没収、第四に侍身分の剥奪、
第五(不明)、第六に禁錮の六種類とした。

ある時、謙信配下の長尾右衛門佐という者が、その所行悪しきとして処罰を加えられ、
所領没収の刑を申し渡された。またこれにより、終身帯刀を禁じられた。
右衛門佐の親族はこの処分に大いに驚き哀訴した。
これを請けて謙信も、彼の先代に忠功有るを以って、罪一等を減刑し、特に双刀を許して
切腹を命じた。

(今古雅談)

292 :人間七七四年:2017/10/08(日) 23:56:00.51 ID:hCwvv1Sg.net
なんとなくだが当時の人にとっては奪刀の方が死罪よりキツい気がする

293 :人間七七四年:2017/10/09(月) 14:13:02.70 ID:5R3wNeTf.net
命より名誉…。

294 :人間七七四年:2017/10/09(月) 15:02:34.20 ID:tHmmBpae.net
名誉が無くなったら大抵の場合暮らしてけなくなって命もなくなるからな
だったら命を無くしてでも名誉くらい残しておこうという簡単な話

295 :人間七七四年:2017/10/09(月) 23:19:55.75 ID:6zdH1xbb.net
丹羽長重の将、江口三郎衛門の従者に出口藤蔵という者があった。
彼は剛勇にして戦功も少なくなかったが、傲岸不遜な性格のためはかばかしい所領を得ず、
齢既に60を過ぎていたが、録僅かに200石であった。

慶長5年、前田利長が大聖寺城を攻め、これを下して凱旋する時、丹羽長重は兵を出してこれを追撃し、
浅井山下にて戦った。
出口藤蔵はこの時後軍にあったが、「吾が畢生の功名を立てるべきは今日にあり!」と、まっしぐらに
敵陣に駆け入って縦横自在になぎ倒し、遂に敵将を斃してその頸を取り去ろうとした所、そこに敵兵
15,6騎駆け集まってきた。藤蔵は彼らの攻撃をとっさに防いだが、彼の斃した敵将の頸は奪い去られた。

この時、この戦場に藤蔵の妻が、半白の髪を後ろに結い上げ、手織りの麻衣をかいがいしく引き掲げ、
腰には短刀を帯び手には瓢箪を持って、足早に歩み来るのに彼は気がついた。

「あわれ我が妻、我に酒を与えん為に敵兵の中を健気にも来たれるものか」

藤蔵は両手を上げて差し招き「出口藤蔵はここに在る!早く来たりて酒を飲ませよ。見まごう事なかれ!」と
声を限りに呼んだ。
ところが妻はこれに応えず、逆に本陣の方に向かって行こうとしたため。傍らに居た兵卒が彼女を呼び止めた
「出口氏があのように呼んでいるのに、何故応えないのか?」

妻は言った
「いいえ、頸わずかに一つばかり、しかもそれを取り返されて追うことも知らぬ男に、私の夫だからといって
どうして言葉を交えることが出来るでしょうか?この酒は、主君に奉らんとわざわざ持ってきた物です。
卑怯者に振る舞うために持ってきたわけではない!」

そう言い捨てて本陣へと向かった。
この言葉を聞いた藤蔵は大いに感奮し、逸足出してかの首級を奪い去った一隊に追いつき火花をちらして
戦闘し、四方八面に追い捲り再び首級を取り返して、山下の本陣へと戻った。
この時彼の主人である江口は、藤蔵の妻が酒を持ってきたのを喜び、副将の南部右衛門と共に
瓢箪の酒を傾けていたが、藤蔵が首級を携えて来たのを見て大いに喜び、
「お前もこの酒を呑むべし」
と言ったのを、藤蔵の妻は傍らで止め

「その酒は、この瓢箪こそ賜るべきものであり、藤蔵が飲むべき理由はありません。
何故ならその首級を取り戻したのはこの瓢箪であり、藤蔵ではありません。」

これには藤蔵も笑いだし
「このババア、またしても悪口を申し出したり。せっかくの勲功も汝のために無駄骨折となったわ」

このやり取りに、陣中で笑い転げぬものはいなかった。

(今古雅談)

296 :人間七七四年:2017/10/09(月) 23:39:26.98 ID:Dbatpy+g.net
出典は違うが(「小松軍記」)まとめサイトの9190
「酒瓢箪の仕業」で既出

297 :人間七七四年:2017/10/09(月) 23:41:11.56 ID:Dbatpy+g.net
まとめサイトの605
江口三郎右衛門の家来出口とその妻、酒と泪と男と女・いい話
でも「武将感状記」が出典で出ていた

298 :人間七七四年:2017/10/10(火) 19:56:05.70 ID:fEscj1Be.net
こんな女絶対結婚したくねえ

299 :人間七七四年:2017/10/10(火) 20:33:34.23 ID:o40fN3zB.net
大人しい女性ならともかく何十年と連れ添っていればたいていはそうなる

300 :人間七七四年:2017/10/10(火) 20:57:37.46 ID:k1cXf0Y7.net
俺の嫁だったら絶対家で餅食ってるぞ
なんだかんだ情があるよこの夫婦

301 :人間七七四年:2017/10/10(火) 23:36:54.30 ID:LIJlKtSs.net
詰まらせて死ねばいいのに

302 :人間七七四年:2017/10/11(水) 11:32:31.80 ID:LNFCsoX1.net
戦陣に来るのはまあ無いと言えないが、戦場の最前線に酒持ってくるのはこの時代でも凄い

303 :人間七七四年:2017/10/11(水) 15:47:17.05 ID:gmnkmarz.net
>>294
Mine honor is my life; both grow in one.
Take honor from me, and my life is done.

って奴だ

304 :人間七七四年:2017/10/11(水) 18:00:35.41 ID:hmMnuSkv.net
成瀬隼人正正成が新たに領した地に、米商人八郎兵衛という奸商があった。彼の父の代より、
密かに大小の二種類の升を用い、不正の利益を得てその富巨万とした。

しかし隼人正が領主と成るに及んで、政令厳格にして姦悪尽く摘発されるに及び、八郎兵衛大いに恐れ、
自首して罪を請うた。

この事に隼人正は思った
「八郎兵衛は人を欺き不正に利得を得ており、その罪は許しがたい。しかし自ら罪悪を知り訴え出た。
その心情は恕するべきであろう。まして、この不正を始めたのは先代であり、必ずしも追求すべきでは
ないだろう。」

そして八郎兵衛にこのように命じた

「自今以降は世間に公表して2つの升を使うべし。ただし購入に小升を以ってし、売る時には大升を
以って行え。これを7ヶ年行うことで、前罪を償うべし。」

隼人正はこれによって不正の富が損ずるとのつもりで命じたのである。
ところが、これ以後八郎兵衛の店頭には米を買う者日々に群集し、その富は昔日の倍となったという。

(今古雅談)

305 :人間七七四年:2017/10/11(水) 18:07:39.71 ID:K1Mthq9x.net
意味が分からない

306 :人間七七四年:2017/10/11(水) 20:01:12.55 ID:7KqRD381.net
不正しなくてももうかる値段設定だったってことかな、もしくは付属品で儲けたか。

307 :人間七七四年:2017/10/11(水) 20:06:27.09 ID:H4+NZ/St.net
売れば売るほど赤字になりそうだけど…米以外のものも売ってたのかね。

308 :人間七七四年:2017/10/11(水) 20:30:23.18 ID:lV7aeGVh.net
薄利とはいえ他よりマシな値段設定とか

309 :人間七七四年:2017/10/11(水) 20:54:33.09 ID:OGC4e17e.net
この店は他店より大きな升で買えると七年経ってもイメージが付いたんじゃないかな

310 :人間七七四年:2017/10/11(水) 21:43:47.62 ID:hmMnuSkv.net
本阿弥光悦は、累代刀剣の目利きであり、研ぎ、および拭いの業を以て聞こえた本阿弥家の跡を継ぎ、
殊に拭いの殊に詳しく、また書に妙であった。

ある時、近衛三藐院殿(信尹)が光悦に尋ねた
「昨今、天下に能書と称すべき人物は誰であろうか?」

光悦は言った
「先ず、さて次は殿下(信尹)、その次は八幡の坊(松花堂昭乗)でしょう。」

「待て、その”先ず”とは誰のことか?」

光悦平然と答えた
「即ち私なり。」

ただし、当時この3人は天下三筆と聞こえ(寛永の三筆)、光悦の私僭ではない。

ある日、近衛信尹がにわかに光悦を召した。光悦、何事ならんと慌てて参上すると、直ぐ様御前に召され、
信尹は光悦の手を屹と掴み「己は!己は!」と言葉荒く叫んだ。

光悦としては思いもよらぬ事にて、「何事や、御意に逆らいましたでしょうか」と恐る恐る申し上げると、
信尹は笑いながら

「己はどうして斯くも能く書く手を有しているのか!」

そう戯れたのだという。

(今古雅談)

311 :人間七七四年:2017/10/12(木) 14:28:07.56 ID:KZ3Q7YcS.net
>>310
昔からこのネタあったのかw

312 :人間七七四年:2017/10/12(木) 14:57:24.61 ID:Pqs6bOG0.net
なんちゅうもんを食わせてくれたんや…なんちゅうもんを…

313 :人間七七四年:2017/10/13(金) 09:16:20.71 ID:HheWmS3P.net
ある夜、林羅山が徳川家康に侍講する折り、列座の者達、羅山の博識がどれほどのものかを試みようとした。

先ず、岡田淡州が問うた
「蓬莱島という能狂言の中に、『鬼の持ちたる宝は隠れ笠、隠れ蓑、打ち出の小槌、ジヨジヨ、ムジヨムジヨ』
と言う所がある。この『ジヨジヨ、ムジヨムジヨ』とは何なのか?」

羅山答える
「鬼の宝として出た品々は、宝物の中でも上々であり、またこの上に上々無し、という意味で、
『上々、無上無上』と言っているのです。」

次に内田信州が問うた
「鎌倉に『ノツケン』堂という場所がある。昔金岡納言(巨勢金岡:平安期の宮廷画家)がここに来て、この
勝景を写さんとしたが、筆に尽くし難く、筆を捨てノッケに成りたる故に、この堂を『ノッケン堂』と云い、
また『筆捨松』と呼ばれる松も今に存在すると云うが、これは本当であろうか」

羅山これに
「金岡が筆を捨ててノッケになったのではありません。あの堂は金澤より出る山越への坂の右の、高い場所に
あり、坂から仰ぎ見ることから『仰見堂』、これが訛って『ノッケン堂』となったのです。」

堀田加州問うた
「子供の遊びに、左右の手を寄せて『鬼の皿』という事をする。その詞に曰く

『タイドノタイドノ、一モタイドノ、二モタイドノ、タイガ嬢、梶原、アノウン、メクラガ杖ヲ、
ツイテ通ルトコロヲ、サラバ、ヨツテ、ツイノケ』

と歌っているが、これは何を意味しているのか。」

羅山、これも
「これは鎌倉時代の、源頼朝の意にかなう、威勢強き人々を数え並べた歌です。
先ず『タイドノタイドノ』とは、”御台殿”すなわち北条政子の事で、『一もタイドノ二もタイドノ』とは
続けて並べる人が居ない、と云っているのです。

『タイガ嬢』とは”大の嬢”、すなわち頼朝の娘、大姫君という、清水冠者の夫人を指します。

次の『梶原』は平三景時で、これも当時の寵臣です。

『アノウン』とは安明寺といって、北条時政の妻である牧の方の一族で、盲人でしたが、彼は特別に
殿中において杖をついて歩くことを許され、この人に行き合う者達はみな彼を避けて通していました。
故に『サラバ、ヨツテ、ツイノケ』と云うのです。」

その後も様々な問答があったが、羅山はすべて滞りなく答え、皆、彼が細事にまで通じることに
感嘆したという。

(今古雅談)

さすが人間ウィキペディア

314 :人間七七四年:2017/10/13(金) 15:02:58.61 ID:Ohs68rOU.net
クイズ王とファンの集いかな?

315 :人間七七四年:2017/10/13(金) 16:40:34.79 ID:ZTvwgvqs.net
怪力乱神

316 :人間七七四年:2017/10/14(土) 17:04:08.52 ID:s8Qod1gV.net
上杉景勝という人は、豪邁肝大の大将にて、その軍陣に臨むや、先陣において既に交戦し、
矢弾雨のごとく降り喚声天地を振動するばかりであっても、身は幕中に有りて普段と変わらず睡眠
を取り、雷の如きいびきを上げるのを常としたという。

彼が豊臣秀吉に臣従し上洛した時、数百人の一行は完全に黙し咳の声すら聞こえず、只人馬の足音を
聞くのみであった。
その折、富士川を渡る際、船が小さく人多く、中流に至ってほとんど沈没せんとした。
この時景勝怒り、舷頭に立って鞭を挙げて一揮すれば、衆皆躍り上がるように水に飛び込み泳ぎ、
よって無難に渡ることを得たという。

景勝の厳格なることかくの如きなれば、彼の生涯において、只一度の外その喜悦の色を見たことが
無いという。
ある時、上杉家に一匹の猿があり、たまたま景勝が脱いでおいていた巾帽をかぶって逃げ、庭の木に
上り景勝に向かって3度頷いた。
彼はこれを見てにっこりと微笑んだ。
これ実に、左右の近臣達ですら、始めとも終わりとも、景勝の笑顔を見た一生の内ただ一度の事であったという。

(今古雅談)

317 :人間七七四年:2017/10/14(土) 22:10:21.01 ID:g3yndAKm.net
>>313
内田信州「ノツケンロール」


仰見堂って能見台ことかな?

318 :人間七七四年:2017/10/15(日) 11:56:33.35 ID:CEt5gvj1.net
一僧あり。かつて古法眼(狩野)元信を訪問して、「愚僧に鬼の絵を画いて与えられよ」と懇望した。
当時、鬼という名称はあったが、それがどんな姿かという絵形は無かったため、困惑した体であったが、
さすがは元信であり、心ひそかに思った

『和俗に丑寅の間を鬼門と号し人々最も恐れる所であるのだから』と、頭は牛の形に型取り、腰より下を
虎に型取り画いて僧に与えたが、実はこれこそ鬼絵の始まりであった。

以降の絵師たちはますます異形を巧みて丹精を施し、虎の皮の褌なども着けるようになったという。

(今古雅談)

319 :人間七七四年:2017/10/16(月) 03:44:43.04 ID:kqqh9NYq.net
無かったん?

320 :人間七七四年:2017/10/16(月) 11:48:55.65 ID:dJJE5qmC.net
鎌倉末期の大江山絵巻には鬼が描かれていたような・・・

321 :人間七七四年:2017/10/16(月) 18:33:58.00 ID:0h1KkTJT.net
豊臣秀吉が名護屋に在陣していた時のある日、陣屋を巡視していたが、ある小屋の庇に額が掲げられ
「朧月夜」とあるのを見た。
秀吉はしばらく考えていたが、ふと、左右を顧みて尋ねた
「これは誰の小屋か?」
「殿下の臣、野間藤六の小屋です。」

やがて小屋の主人、野間藤六が出て秀吉の前に平伏した。
秀吉は彼の姿を見るとうち笑って

「汝は敷物が無いのか。」

そういうと畳に白米を添えて与えた。これはこの額が、『朧月夜に”しくものぞなき”』という古歌によった
ものであると察したためであった。
(元歌は新古今和歌集にある大江千里の『照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜に似るものぞなき』)

またこれと同じ時に、小屋場の僅かに空地のある場所に菜を植えている者を見て大いに賞賛し

「永陣と見て退屈せずわずかの土地をも虚しくしない、誠に武士の注意かくこそあらまほしけれ。」
と、その小屋頭を召して白米を与えた。

(今古雅談)

322 :人間七七四年:2017/10/16(月) 18:57:42.01 ID:TgZ2Wb+O.net
角川スフィア文庫の「新古今和歌集」第一 春歌上 55だと
「照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき」
で「しくものぞなき」だが異本だと違うのかな

323 :人間七七四年:2017/10/16(月) 23:50:02.07 ID:MyjBEA0U.net
本来は大江千里が「如くものぞなき」と歌ったのだったが源氏物語ではこれを改変して「似るものぞなき」としたとのこと
新古今集には前者が採用されている
ちなみにこの歌はオリジナルは唐の歌でそれを和訳したもの

324 :人間七七四年:2017/10/17(火) 00:12:27.94 ID:Xw26Rndi.net
和訳というか元にしたというか

白氏文集・嘉陵夜有懐 其二

不明不闇朦朧月(あかるからず くらからず もうろうのつき)※新古今集では「不明不暗朧朧月」

非暖非寒慢慢風(あたたかからず さむからず まんまんのかぜ)

独臥空牀好天気(ひとりくうしょうにふせば こうてんき)

平生闔俣梵S中(へいせいのかんじ しんちゅうにいたる)

325 :人間七七四年:2017/10/17(火) 12:51:30.84 ID:NnEHy8T9.net
筑紫広門と高橋紹運の戦いの時、筑紫が兵を出して岩屋へと攻め寄せた時、紹運の家臣である
関内記の長刀持ちが、打物の鞘を外して用意していた所、どうしたわけか実淵勘解由という侍の頬先に
刀の先をひっかけ、流血におよんだ。
実淵は以ての外に腹を立て、今にも斬りかかろうとしたのを、内記は様々に弁解したが、全く承知なかった。
しかし内記の父・善虎という者がこの騒ぎを聞きつけてやって来て、言葉を尽くしたことで、ようやく
堪忍に及んだ。

この時善虎は内記を叱りつけた
「あれほど多い敵の面を斬らずに、味方の顔を斬るとは言語道断の次第なり!」

しかし内記
「私の存ずるところではありません。長刀持ちの若党の誤りであり、私にはどうにも出来ません。」

「それも其方が常々不覚悟の故に、未だ敵にも逢わぬ内に、早く長刀の鞘を外させていたためだ!
いつでも、敵が近くなってから打物の鞘を外し、敵の顔だけを斬れ!」

内記はこれに一言も反論せず、

「ならば、斬ってみせん」

そういうと長刀を取り陣所を出て大いに戦った。
この当時、関内記の事は”高橋の長刀打”と、九州において大いに評判に成ったという。

(士談)

326 :人間七七四年:2017/10/17(火) 17:29:10.79 ID:7bJ1dOiZ.net
いかにも江戸時代っぽ

327 :人間七七四年:2017/10/18(水) 05:30:04.78 ID:xX5oFGGB.net
天正14年、豊臣秀吉が関白であった頃、京の旧三条通白川橋より東5丁目に良恩寺という浄土宗の
寺があった。この寺の傍らに年老いた隠者が在り、粟田口の善輔と呼ばれた。(善法、または善浦とも云う)

この翁の住居は、藁葺き屋根に四本柱の四畳半一間にて、床の間もなく、土間に爐を切り円座を敷いて
賓主の座を分かち貴賎の別なく茶を振る舞い、物語などして、昼夜の分ち無く楽しんでいた。
また食料が無くなれば、一瓢を鳴らして人の施しを乞うた。
人々は彼の人柄を知っていたので、皆が金銭、米、布を恵んだ。
そうして物のある間は家を出ること無く爐にかけた手取釜にて粥を炊き、また湯を沸かして茶を喫した。
その湯が湧く時は、彷仏松濤の声を吟じて一人笑った。
また「手取釜 おのれは口がさし出たぞ 雑炊たくと人に語るな」など戯れることもあった。

秀吉がそのような話を聞き、利休に「その手取釜を得て茶を点てよ」と命じた。
利休は善輔の元へ行き、云々の命有りと伝えた所、善輔は聞くやいなや感情を損じ

「この釜を奉れば、他に代わりは無い!いわれの無い釜であるからとそのようにぞんざいに言われるとは
思いの外である!」

彼はすぐにその釜を、そのあたりの岩に投げつけ打ち砕き
「あらむつかし 阿弥陀が岸の影法師」
と呟いた。

利休もこれに呆れ果て「秀吉様は短期であるし、いかが致すべきか」と思い煩ったが、今更どうにも出来ず
帰ってありのままに申し上げると、秀吉は却って機嫌よく

「その善輔とやらは真の道人である。彼の持ち物を所望したのは我が過ちであった。」と、
その頃伊勢安濃津に越後という名のある鋳物師があり、彼に命じて、利休が見たままのもの2つを
模造させ、一つは善輔に贈り、もう一つは秀吉自らが蔵した。

その釜は善輔が没した後は良恩寺に納まった。これを見た人の話によると、その高さ五寸五分、
底廣さ七寸、口径三寸二分、弦は蝶番で、蓋から釜の腹にかけて木の葉を広く鋳つけており、
おおよそ今の鉄瓶と言えるものであった。
桐の箱に入れられ、箱書きには利休居士の手で『手とれ釜』と記されていた。
またこの釜に添えた、秀吉の文書が有り、そのその所に曰く

『手取釜並びに鈎箱に入れ、鎖まで念入りに出来、悦び思し召し候。尚山中橘内、木下半介に申すべき也

  十月十一日
                                 太閤(朱印)
                                  田中兵部大輔』

この文章は善輔に関係のないものだが、この釜に縁があることから、後に同寺に寄付されたものだろう。

なお、この釜の後伝とも言うべき話として、細川玄旨法印(幽斎)もこの釜を写させようと先の越後に命を
伝えたが、これに越後

「御所様(秀吉)の命にて、ただ2つ鋳たる物ですから、また同じ形に鋳るというのは、憚りがあります」

と、これを辞した所、玄旨も「それは理である」と戯れ歌を詠み、

「ならばこの歌をその釜に鋳付けよ、これが同じ物ではないという証拠である」

そう言って鋳させた。その狂歌は世にあまねく伝わる
『手とり釜 うぬが口よりさしい出て これは似せじゃと人に語るな』

こちらの釜は、今も細川家に秘蔵されているという。

(今古雅談)

328 :人間七七四年:2017/10/18(水) 20:19:59.21 ID:QI+GkoqQ.net
鬼松出たか、堀出たか


細川家臣・堀内傅右衛門は赤穂浪士を預かったときに接待役を勤め
『旦夕覺書』『堀内傳右衛門覚書』などの著書を残した。
曾祖父にあたる堀内構之助は池田輝政に五百石で仕えていた。
以下は『旦夕覺書』からの引用。


祖母の妙菴は構之助殿の一人娘で幼少の時に鬼松と名付けられ
とても大切にされていたので十二、三才までは、門前を池田輝政公が
お通りされる時には召し連れてお目通りさせたので
「鬼松出たか、堀出たか」*
と(輝政公が)毎度おっしゃられたと(自分が)幼少のときに聞きました。

老父は昔話が好きで、妙菴に構之助殿のときの備前の名のある侍や
物事を尋ねたときには、誰は知行何程それは番頭足軽頭と
(妙菴が)一々覚えていて話されたことを(老父が)覚えています。
昔は他にも(妙菴と)似たような人が多くいたそうです。
(中略)
昔は女でも武士の子は男子の心を持っていたのでございます。

* 恐らく名字の"堀内"にかけた洒落

329 :人間七七四年:2017/10/19(木) 10:46:43.50 ID:XGaKRpq4.net
鬼松は何だろうと思って調べてみたら妙菴の幼名かよ

330 :人間七七四年:2017/10/19(木) 22:36:35.75 ID:5AVF+jbi.net
関白豊臣秀次が、筑紫において藤原定家の書いた小倉の色紙を手に入れた。
これにより座敷を改め、色紙開きの会を開いた。
千利休を上客として、相伴3人という会であった。

頃は卯月(4月)の二十日あまり。明け方の事であった。
人々、座敷に入ったが。そこには明かりも無く、闇の中に釜の沸く音だけが聞こえ、
いかにも静かな様子であった。

「これは一体どんな御作意であろうか」

その場の人々がそう思っていたその時、利休の後ろの明かり障子が、ほのぼのと明るくなった。
不思議に思い障子を開けると、月の明かりが座敷の内にほのかに入ってきた。
さればとにじり寄って見ると、小倉の色紙がかけ物として飾られていた。その歌は

『時鳥 啼きつる方をながむれば
  ただ有明の月ぞ残れる』

誠におもしろき趣向にて、その時利休をはじめとした人々も、「さても名誉不思議のご趣向かな」と、
同音に感じ入ったという。

(今古雅談)

331 :人間七七四年:2017/10/21(土) 20:28:54.82 ID:nnJM5Bc+.net
>>329
ちゃんと本文を読みなされ

332 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 10:17:08.95 ID:lD4HBGRz.net
勝蔵は手負たり


信州高遠城に仁科五郎信盛・小山田備中・渡辺金大夫が立てこもったので
信忠公が攻められた時の先手は森長可・川尻肥前守・毛利河内守・団平八が
追手(大手)より向かうことになった。
然るところ長可は右の衆を出し抜かれて、小笠原掃部之介に案内させて
夜明けには高遠へ詰めかけられたので、(高遠方は)すぐに二の丸を空けて
本丸へ集まったので、(長可は)虎口を固められて御注進された。

信忠公は早々とお越しになられ総攻めと仰せられたので、長可が一番に
本丸へ乗り込まれて、広間口左の方へ入り座敷内で迫り合いになり
比類なき御働きで高名を上げられたが、手傷を負われた。
長可の家臣渡辺助右衛門豊守・林長兵衛為忠も高名した。

長可が腰より下は血になられて、首を持って参られたところを
信忠公が御覧になり
「勝蔵は手負たり」
と仰せになった様子は見事なる義にございました。


――『森家伝記』

333 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 12:14:35.34 ID:MmZEA88k.net
まとめの3131
「森長可『血染めの赤備え』」だと腕にかすり傷で腰から下は全て返り血だったけど
これだと自分の血も混じってるような

334 :人間七七四年:2017/10/22(日) 21:12:38.35 ID:LPWCxxI8.net
返り血のことを手負いと言い表すのか、手負いが高名なのかどっちだろう

335 :人間七七四年:2017/10/22(日) 23:42:11.25 ID:Sh+Hm2dH.net
連歌師の宗祇が諸国を修行していた折、ある国にて疲れ、近くに遊ぶ、主も知れぬ野飼い牛を見て
これを引き出し打ち乗りて、心に任せて歩ませた。

しばらくして牛の主が、牛のいないことに気が付き「これは悪漢が奪い去ったのだ」と、息せきって
追いかけ、これを発見すると宗祇を捕え、おおいに怒り沙汰のためと現地の奉行所へと突き出した。

奉行が宗祇に仔細を尋ねると
「私は宗祇と言って、諸国を巡る修行者です。あまりに足が疲れたため、野遊びしている牛を引き寄せ
乗り去ってしまいましたが、物盗みなどしようとしたわけではありません。ですがそもそも、
主がいないからと言って乗ってしまったのが過ちです。当然乗ってしまった事への代償は支払いますので、
どうか事無く許していただきたい。」

奉行はこれを聞くと
「宗祇といえば聞こえる和歌の修行者ではないか、ならば、何か歌を呼んで謝罪せよ。また、牛のことであるから
十二支をその歌に詠み込んで然るべし。」

宗祇、畏まってしばらく考え、やがてこのように詠んだ

『むまひつじ さるとりいぬもいなばいね うしとらぬさへうきなたつみに』

(今古雅談)

むま(午)ひつじ(未) さる(申)とり(酉)いぬ(戌)もい(亥)なばいね(子)
うし(丑)とら(寅)ぬさへう(卯)きなたつ(辰)み(巳)に
ということですね

336 :人間七七四年:2017/10/23(月) 21:36:05.22 ID:hy8AdOA6.net
連歌師の宗祇は旅の途中、怪異ありという廃寺を宿とした。
深夜、ふと目を覚ますと、寺の中に人々が集まり、連歌の会を行っていた。
そのうちに

『今宵の月は空にこそあれ』

という句が吟じられ、その附句を求められたが、その場の者達、みな付けかねて打ち悩んだ様子であった。
この時、宗祇は末席より

『やどるべき 水も氷にとじられて』

そう付けた瞬間、人々は「あっ」と感じ入り、そのまま消え失せた。


また宗祇が石山寺に詣でた時、

『うき草に 火を埋めたる蛍かな』

こう吟じて心ひそかに誇っていたが、その傍らより童子が出てきて
「これでは蛍が死んでしまいます」と

『池水に 火を打つ波の蛍かな』

そう詠ずるとどこともなく消え去ったという。

(今古雅談)

337 :人間七七四年:2017/10/23(月) 23:29:05.04 ID:htmCXMy7.net
童のくだり、落語の「西行鼓ヶ滝」で
西行が「伝え聞く鼓ヶ滝に来て見れば沢辺に咲きしたんぽぽの花」
と詠んで、我ながらよく詠めた、とほくそ笑んでたら
近くに住んでいた爺さん、婆さん、娘に次々手直しさせられ
「音に聞く鼓ヶ滝をうち見れば川辺に咲きしたんぽぽの花(白百合の花)」
と元の歌より良い歌にされ、西行が自分の自惚れを反省したら、
三人が正体を現し、実は歌の神である住吉三神だった、て話を思い出した。

338 :人間七七四年:2017/10/24(火) 07:24:05.89 ID:gGbJkRju.net
>>335

『むまひつじ さるとりいぬもいなばいね うしとらぬさへうきなたつみに』

ふっかつのじゅもんがちがいます

339 :人間七七四年:2017/10/25(水) 17:50:24.41 ID:pJNNrnk5.net
薩摩の兵児(へご)の謡に

『肥後の加藤が来るならば、焔硝肴に団子まうそ それでもきかずに来るならば、首に刀の引き出物』

というものがある。
『団子まうそ』とは、即ち弾丸を以て膳に変えるという事である。

当時、加藤清正が肥後国に封じられていたが、島津氏はこれと境を接し、非常に警戒しており、
出水郷に要害を築いた。その時この謡をつくり、人夫たちに歌わせたそうである。

(今古雅談)

340 :人間七七四年:2017/10/25(水) 18:25:09.83 ID:uHmIUURg.net
速攻で秀吉に訴えられそうだがw

341 :人間七七四年:2017/10/25(水) 19:04:50.40 ID:Ef10S7lE.net
NHKのその時歴史が動いたか何かで
「あく巻」ってお菓子といっしょに紹介していたような
秀吉の九州征伐の時の話と言ってた気がするけど、その時はそんなに加藤清正有名じゃないか

342 :人間七七四年:2017/10/25(水) 21:04:01.30 ID:CcjnGyV8.net
あく巻き、あんまり美味しくなかったなあ
もっと砂糖を使えばよかったかなあ

九州戦の頃の清正って官僚としての役割を期待されていたんだね
ときたまそういうコメントが出てはいたけど、もともと代官職が板についてた人だったんだね

343 :人間七七四年:2017/10/25(水) 21:44:02.95 ID:Sc/A6gmx.net
小西行長「あの…」

344 :人間七七四年:2017/10/25(水) 22:30:10.23 ID:Sc/A6gmx.net
毛利元就と陶晴賢の厳島合戦が終わって5~6日程した頃のこと。
厳島にて渡辺可性と言う者が捕らえられ、陶方の残存兵の後始末のため滞陣する元就の前に引き出された。元就は彼を見て

「この者は、先年私が山口へ下っていたとき、折々私の前へやって来た狂歌の名人じゃ。助けおいたとて、何として害を及ぼそうぞ」
とあって、召し出し
「これ可性、日頃たしなむところであろうが。狂歌一首、ただちに詠んでみせい。詠めたれば命助けようぞ」
と言った。可性は「かたじけのうございまする」と答え、すぐに

かけてしも頼むや毛利の締襷 命一つに二つ巻きして

と詠んだ。元就は、「この歌、それほどの秀逸ではないが、このような折にしては、よう詠んだ」と約束どおり可性の命を助けた。

345 :人間七七四年:2017/10/25(水) 22:30:23.26 ID:Sc/A6gmx.net
また、陶晴賢の同朋で、宗阿弥という者が生け捕られて、同じく引き出された。元就は彼を見て、
「この宗阿弥は普段から極めて大力の猛者と聞いておったが、何とやすやすと生け捕られて参ったことよな。将来の禍をなす者なるぞ。ただ一刻も早う殺せ。」
と言ったが、思い返し、また、
「それにしても、そちはこれまでたびたび武勇をあらわした。その名声の朽ちることをも顧みず、もしや命助かるかと、自害もせずに、こうして縄目の恥をさらすはめになったことよね。
さらば『命の惜しきは恥を思わず』という心を狂歌に詠め。そちも狂歌の名人と聞いたぞ」
と言った。宗阿弥が「かしこまりました」と申して、ただちに、

名を惜しむ人といふとも身を惜しむ 惜しさに代へて名をば惜しまじ

と詠むと、
「可性の狂歌よりは、はるかに勝れておる。助けおいたとて大事あるまい」
と、これも一命を助けたということである。「猛き武士の心をも和らぐるは和歌の徳なり」とはまことに名言である。
昔の大隈郡司の翁は「栲見るにぞ身は冷えにける」と詠んで罪を許され、藤原為明は「わが敷島の道ならで」と詠んで水火の刑を免れたが、
今の宗阿弥は「身を惜しむ惜しさ」と詠んで、一命を助かったのである。優雅な歌の世界は昔も今もその心は変わらぬものだと、当時の人々はこの歌を扇や畳紙に書いては、美談としてもてはやしたということである。
(陰徳太平記)

346 :人間七七四年:2017/10/25(水) 23:10:50.26 ID:BjysMpzj.net
>>345
>こうして縄目の恥をさらすはめになったことよね。

 .,'
    |. '、  \    `⌒iエ´ , イ
    |. '、   .',     ノ_,ィ ノ / /    ……出たわね。
    |  `''-、     ヽ二ノ /
  _,,-〈.\  '、 \   '⌒ /|、
     \ `"''-ニ,,_ `"''ー―くノ.|`"''
       .\     ̄ ̄ ̄ ̄ /

347 :人間七七四年:2017/10/25(水) 23:18:50.37 ID:VoDwP3CC.net
そうわよ

348 :人間七七四年:2017/10/26(木) 10:54:04.39 ID:zCLKuaFh.net
きたわね

349 :人間七七四年:2017/10/26(木) 11:17:58.18 ID:klTjDjGs.net
>>345
北斗の拳終盤の王国編思い出した。
雑魚が宮廷作曲家に良い歌を作るから死刑
と、言ってる所にケンシロウが現れ宮廷作曲家を救うと、雑魚に助かりたいか?

350 :人間七七四年:2017/10/26(木) 11:19:45.63 ID:klTjDjGs.net
なら歌ってみろ。雑魚歌う→駄目だな→雑魚爆死

351 :人間七七四年:2017/10/27(金) 11:05:06.42 ID:rCCUH/YG.net
美談なのか・・・?

352 :人間七七四年:2017/10/27(金) 21:32:26.39 ID:wsgJKNCI.net
元就さん、子供には芸事も学問も不要、って言ってるわりには、
学問と和歌が大好きだよね。

353 :人間七七四年:2017/10/27(金) 21:50:38.91 ID:8tT7Z6FC.net
>>352
既出のまとめから引っ張って来たんだが

『藝も要らず、能も要らず、遊も要らず、何もかも要らず。
ただ日夜共に、武略・知略・計策・調略を、工夫することが肝要なのだ。』

学問は否定していない様な…

354 :人間七七四年:2017/10/27(金) 22:03:24.93 ID:wsgJKNCI.net
>>353
ああ、すまん。
隆景さんの輝への説教の方だった。

355 :人間七七四年:2017/10/29(日) 16:35:00.69 ID:aWEy2xZH.net
鑓の柄というものは、軽くて硬いことに利があるが、上田宗箇は杉の柄の鑓を常に所持していた。
人がその理由を問うと

「突き折るほど働いての討ち死に、本望ではないか」

と答えたという、
滋賀与三右衛門も杉の柄の槍で、主人がその理由を問うと
「いざという時投げ突きにいたします」と言った。

阿波の三好が上方に進出して度々戦のあった頃、彼らの大方は竹の柄の鑓を持っていた。
それ故に、その頃の狂歌に

『阿波武者は 世々をかけて突ぬらん 皆鑓の柄を竹にてぞする』

これを京童が口々に唱えたとか。

(士談)

356 :人間七七四年:2017/10/30(月) 02:38:20.61 ID:GHo94Kii.net
>>355
上田宗箇の逸話はへうげものでも出てたね

357 :人間七七四年:2017/10/30(月) 02:57:07.97 ID:bVEVxMsI.net
浅野幸長は、稲富一夢(祐直)の鉄砲の弟子であり、彼の持ち筒は皆、一夢が指示して製造させたものであった。
徳川秀忠から誓書を下され、幸長にこの芸を習わせるほどであった。

この幸長の筒であるが、現代のものとは違い、巣(銃身の筒穴)の悪しき所を直さず、その筒のまま
それに合わせて見当目割(照準)を付けたため、筒ごとに見当目割に位置が違っていた。
また筒も金厚で重かった。
しかし年月をどれほど経ても、筒からの弾道が変わること無く、筒が老けるという事がないので、
故に標的を狙ったり弾数を多く撃つ場合には、この筒に限ると言う人もいる。

考えるに、現代に及ぶほど、実薄くして術(技術)に厚くなる。故に筒を薄くして、軽く用いる事が
出来るようにし、巣の中も加工してこれを直す事で弾道も一定にした。
しかし製造されて年月が経ち、また何度も使用されると、たちまち当たりが当初から違ってしまう。

これは技術を以って直したものであるので、元に返りやすいのだ。
悪しき所があれば少し槌で叩いてその時は直るが、年月を経ると元の悪しき所に返り、
弾数も撃てず目当ても違う。
鉄砲だけでなく何事もみな、この心得が有るべきだろう。

(士談)

358 :人間七七四年:2017/10/30(月) 06:41:24.18 ID:I5yfolQr.net
>>357
K川T景「ウチのボンクラは叩いても叩いても叩き足りませんでした」

359 :人間七七四年:2017/10/30(月) 08:37:58.87 ID:VS6wAuNF.net
現代でも連続射撃する機関銃や精密射撃用の銃は熱で変形して弾道狂わない様に肉厚のヘビーバレル使うんよね

360 :人間七七四年:2017/10/30(月) 18:25:26.64 ID:PlJHO+9W.net
K川で通字が「景」…香川氏かな?

361 :人間七七四年:2017/10/30(月) 20:26:49.95 ID:umVqhRCq.net
誰も通字なんて言ってないw

362 :人間七七四年:2017/10/30(月) 23:36:55.73 ID:SbOgUBMk.net
>>357
???「熱膨張って知ってるか?」

363 :人間七七四年:2017/10/31(火) 01:03:15.98 ID:1zbY6Qvi.net
ボケでもなんでもなく素で香川氏の誰だろと思ってしまった

364 :人間七七四年:2017/10/31(火) 05:16:16.35 ID:YhjL3Wh0.net
KBTIT

365 :人間七七四年:2017/10/31(火) 13:42:58.23 ID:YTm7Djfi.net
ボンクラだから金玉蹴られて死ぬんだよな

366 :人間七七四年:2017/10/31(火) 17:31:16.90 ID:jQaAtfFj.net
長宗我部元親が土佐において弓矢の盛りであった頃、家中の者、各役の道具番は道具にその持ち主の
名をしるして置いた。
このため普段も取り違えること無く、戦の場においても、取り落とした様が無作法であれば、その者の
誤りとなった。
これによって、持ち主たちはそれぞれ、一層心を尽くして疎かにしなくなったそうである。

弓矢の詮議が詳細な家では、心の付けように工夫があるものなのだ。

(士談)

367 :人間七七四年:2017/10/31(火) 20:29:31.41 ID:jQaAtfFj.net
信長秀吉の頃より、大柄な馬を用いなくなり、多くは小柄の馬を用いるようになった。
これは武具を着けて、口取りの者が居ない状態で乗った場合、大馬を乗りこなすのは
非常に困難なためであった。

元暦の頃(源平合戦の頃)に用いられた馬は、多くが大型のものであった。
大河を越え、岸石を駆け上がるのは、小柄な馬では出来ないことであった。
しかし駆け引きが自由で、戦を快く致すため思い通りに乗り下すには、小馬に限る。
ある人が言うには、和田伊賀守(惟政)、滝川一益、竹中半兵衛などは、何れも小馬に乗っていたそうだ。
豊臣秀吉も、賤ヶ岳の時に乗っていたのは、『小黒』と号した2寸(4尺2寸、約160センチ)に足れる
馬であったという。

考察して見るに、日々弓矢盛んにして戦競り合いが暇もなく行われる時代には、小柄な馬を
用いるべきなのであろう。

(士談)

368 :人間七七四年:2017/10/31(火) 21:17:19.48 ID:l2YmBqit.net
何で四尺二寸で160センチなの?

369 :人間七七四年:2017/10/31(火) 21:22:14.12 ID:NdoPDHxu.net
半兵衛は牛やろw

小黒の2寸って約130cmじゃないの?
160cmなんていったら希な大型馬だわさ

>>368
おそらく鯨尺

370 :人間七七四年:2017/10/31(火) 22:09:43.86 ID:fV6F543b.net
パッと鯨尺が出てくるってことは和装屋さん?
とにかくスゴいね

371 :人間七七四年:2017/10/31(火) 22:54:13.10 ID:l2YmBqit.net
>>369
37.88センチなのね
また一つ利口になった有り難う

372 :人間七七四年:2017/10/31(火) 22:58:46.64 ID:gmo4JNSz.net
曹操の7尺がなんで小男なのか分からなかったなあ
なまじ字が同じだから混乱する

373 :人間七七四年:2017/10/31(火) 23:27:09.34 ID:5JFwwVmX.net
孔子「六尺の孤を託すべし(身長六尺の孤児を保護してくれるだろう)」
身長180cmならとっくに成人してるじゃん!
とつっこんだ思い出

374 :人間七七四年:2017/10/31(火) 23:32:22.91 ID:5JFwwVmX.net
孔子じゃなくて曾子だった

375 :人間七七四年:2017/11/01(水) 01:06:32.63 ID:YQViDZEX.net
日本家屋の戸口が横三尺縦六尺基準で作ってるものだから、身長180センチ以上の日本人は苦労するという

376 :人間七七四年:2017/11/01(水) 01:22:39.68 ID:HrvqbaGt.net
>>375
2m超の友人は電車に乗るたびに吊り広告が暖簾みたいになって鬱陶しいとぼやいてた
昔、姫路城の天守閣に上ったらしいが狭すぎて最悪とも言ってたな

377 :人間七七四年:2017/11/01(水) 02:13:14.33 ID:P79UcJ+O.net
2mなんていってなくても170台後半ですでに色々頭ぶつけるぞ

378 :人間七七四年:2017/11/01(水) 11:39:43.34 ID:qp2MZxTP.net
実際は床やら敷居やらの関係で6尺切るから180行かない程度でも頭を打つ
打つというより、頭頂部をかする感じで勢い良く擦るから一番痛い

379 :人間七七四年:2017/11/03(金) 11:07:35.51 ID:lnNhTAaJ.net
他の人にはどうということもないのだろうけれど、某さんの記した一言が妙に心に残るので書きます。

越前の戦国大名朝倉氏の最後の当主朝倉義景の家臣に鰐淵将監吉広という者がいた。
鰐淵氏は元々、西国の生まれであるといい、いつの頃か越前に根を下ろし朝倉氏に仕えるようになった。
吉広の代には譜代の臣といってよい家柄となっており、その証拠に「吉」の字を入れた名乗りとなっている。
(他には山崎吉家、前波吉継、河合吉統など)
事実、義景には信頼されていて、加賀一向一揆勢の侵攻に備えて整備された九頭竜川沿いの軍用道路に吉広を
配置した他、お膝元の一乗谷にも居を構えさせ、近辺に置いて謀に加えさせていた。「朝倉始末記」などにも
加賀攻めの一員として「鰐淵将監」の名前がしばしば登場する。要地を守り、主君近くに控え謀議に参加し、
戦の最前線に立つ、まさに義景の重臣と言ってよい存在である。

そんな吉広だが、その為人がはっきりしない。滅亡した大名の家臣ということだからか、その人がどう考え、
生きたか、を知る逸話が残っていないのである。だが、唯一残された書状から吉広の人物が朧気ながら推察
できるかもしれない。

元亀2年(1571年)と推察されている9月5日の日付が記されたこの書状、天台座主庁務に宛てたものであり、
護符を授かった御礼方々、北近江の戦況を報告した内容となっている。この年8月半ばより、織田軍の攻勢に
合った浅井長政救援のため、朝倉軍は北近江に出陣した。義景の本軍は敦賀に留まり各浦から船を徴発する
など準備に追われていたが吉広は先駈けとして小谷城に入城したらしい。そこで織田方との戦闘が起こり、
損害が出た味方は山上に籠もり睨み合っている最中で、そんな折に護符が届いて誠にありがたい、必ずこちら
から打って出て勝利する、と述べている。吉広の書状の日付から一週間後の9月12日、護符を授けた当の延暦寺は
焼き討ちされ、多くの僧俗が殺害された。延暦寺の燃え上がる炎は琵琶湖対岸の小谷城からも見えた筈で、
吉広が蒙った精神的打撃はいかばかりであったろうか。

話を書状に戻して。
この書状には誰が墨したのであろうか、次のような貼紙がされている。

「朝倉義景ノ勇将鰐淵将監吉広書状」

勇将。名将ではない。勇将である。
吉広は主家の滅亡を喰い止めることはできなかった。滅んだ国の重臣。確かに名将とは言えないだろう。
だが、確かに勇将ではあったのだ。

天正元年(1573年)8月、退却途中を織田軍に追撃され、大混乱に陥った朝倉軍のうち、主君義景を越前に
落ち延びさせるため、その場に踏みとどまった玉砕した朝倉の精鋭三千、戦死者を伝える諸記録の中に
我々は「鰐淵将監吉広」の名前を見出すことができる。

勇将「鰐淵将監吉広」、その最期の働きが評価されたのか、子孫は加賀藩士の身分を得ることができたという。
雪に閉ざされる前に、一乗谷の鰐淵将監館跡、浄法寺の鰐淵将監館跡に行って手を合わせて拝んでみようかな。

380 :379:2017/11/04(土) 08:52:13.49 ID:SaI54eoM.net
すいません、訂正です。

×加賀藩士
○福井藩士

正確には、将監の息子は父親と一緒に討死。
将監の孫は丸岡城主青山宗勝(関ヶ原の戦いで西軍につき改易)に仕え、
将監の曾孫が福井藩士となりました。

大変失礼いたしましたm(__)m。

381 :人間七七四年:2017/11/04(土) 20:03:06.54 ID:KfZh2TsO.net
成瀬隼人正の父・吉右衛門は、関ヶ原の後は伏見にあり、隼人正は駿府にて御政道に加わり、
奉書を成す役人となり、父吉右衛門もこれを賞した。

出世をした隼人正の方より、時折黄金などが伏見の父のもとに送られてきた。
吉右衛門はこれを取ると、自宅の居間の天井より網を下ろし、この金をからげ置き、
客人が来るとこのように言った

「これを見給え。この金子にて肴(食事)を調えよと、隼人正より送ってきたのだ。
しかし、肴が食いたく成る度にこの金を見るのだが、それだけで肴を食うに勝るのだよ。」

大阪冬の陣の講和が整うと、伏見城に隼人正の二人の息子が祖父吉右衛門に逢いに来た。
吉右衛門は彼らに言った

「この度は別状無く扱いになったが、おっつけ御合戦となるだろう。ならば侍の重宝とは馬に如かずという。
江戸が広いと言えども、金二十枚に及ぶ馬はさほど沢山は無いだろう。
これにて馬を求め乗るように。」

そう、二人の孫に金二十枚づつ与えたという。

(士談)

382 :人間七七四年:2017/11/05(日) 08:37:21.77 ID:hB8/XYJE.net
落語で梅干しを見て出てきたツバでおかず代わりにしたり
鰻屋の匂いをおかずにする噺があるがほんとにするとは

383 :人間七七四年:2017/11/05(日) 14:20:10.24 ID:fZhUY7y+.net
>>382
息子の親孝行が嬉しかったんだろうなあ

384 :人間七七四年:2017/11/05(日) 17:43:42.85 ID:1omkA1D0.net
子供からの仕送りを全く使わずに貯めておく親御さんは結構いるよね
で、いざとなったら子供にそれをポンと出すみたいな

385 :人間七七四年:2017/11/05(日) 18:59:30.43 ID:qxNXpecv.net
それをまた孫に与えるというのがいいねえ。
こういう爺様になりたい。結婚もしてねえけど…

386 :人間七七四年:2017/11/08(水) 11:02:01.01 ID:CTHVlE03.net
男色に関する佳話を記してたもれ。

387 :人間七七四年:2017/11/08(水) 12:19:34.68 ID:wIqpSQ4E.net
真性の守銭奴で本当に黄金を肴に飯が食える人かと思ってしまった

388 :人間七七四年:2017/11/08(水) 13:44:27.06 ID:q4w5b6bw.net
>>387
利家や左内さんならやりそうw

389 :人間七七四年:2017/11/08(水) 14:14:54.89 ID:FIsJp2h+.net
>>388
左内さんの金はいろんな意味で違う使い方なので…

390 :人間七七四年:2017/11/08(水) 16:19:17.49 ID:g4JuK26V.net
まとめのコメントに出ていた喜連川温泉に行ったら
「小さな大大名 喜連川足利氏」という小冊子をくれたのでそこから抜粋

「伝説の姫君嶋子」
大蔵ヶ崎城主の塩谷惟久には足利頼純(小弓公方)の娘で嶋子という大変美しい妻がいました。
1590(天正18年)の小田原攻めの頃、豊臣秀吉はそれぞれの大名に対して、人質を出すように命じました。
しかし、惟久はそれに応えられず、秀吉の怒りを恐れて鷲宿村に移ってしまいました。
そこで嶋子は、夫である惟久の無実と断絶しそうな古河公方家の再興を古河にいる豊臣秀吉にお願いするため、
死を覚悟しつつ、古河に向かいました。
秀吉は美しい嶋子の願いを聞き入れ、古河公方で残った氏女(うじひめ)と嶋子の弟国朝を結婚させ、
喜連川の地で再興させました。

ついでに戦国ではないけど興味深い話↓
「討ち入りで大名が幻になった話(国替えの話)
喜連川足利氏と同じく足利の血を引く吉良家に関するこんな伝説も残っています。
喜連川足利氏は、源氏の流れをくむ家として、大大名と同じ扱いをされていましたが、
でも下野の小さな大名にはかわりありませんでした。
それを残念に思った吉良上野介は将軍徳川綱吉に働きかけ、喜連川足利氏を足利尊氏と縁の深い
三河国へ国替えすることへの内諾を得ました。
この吉報は、吉良家から喜連川足利家へ伝えられました。喜連川足利家の使者が吉良家に出向き、
お礼を述べて帰ろうとしました。
その時、大雪が降りそうなので泊まっていくようにと、吉良家から声をかけられました。
しかし使者は「主君に急ぎ報告したいので」と丁重に答えて帰りました。
その夜のこと、吉良家に赤穂浪士の討ち入りがあり、肝心の吉良上野介が討ち取られてしまったので、
国替えの話は立ち消えとなってしまいました。

391 :人間七七四年:2017/11/08(水) 17:02:46.75 ID:q4w5b6bw.net
>>390
この話でいつも思うのは、里見の庇護下にあった小弓頼純と那須の家臣である喜連川塩谷とが縁戚になったこと
どういう経緯があったんだろう

392 :人間七七四年:2017/11/11(土) 22:56:26.21 ID:+P/PnjQW.net
坌銭と頸銭

羽柴秀吉が鳥取城を兵糧攻めにした時の事。
城将、吉川経言(家)と主立った将士数名が切腹する事と引き換えに城兵や住民の助命が決まり、和議が成った。これにより鳥取城の出城であった丸山城も経言の助命嘆願の甲斐なく奈佐日本助、佐々木三郎左衛門、塩冶周防守らが切腹の上開城する事となった。
その丸山城開城の折の事である。丸山の諸卒が城を出る時、寄せ手の羽柴勢の者らが木戸をふさぐと

「城を明け渡した側は、坌銭(ほこりせん)と言って一人銀五分ずつ出す決まりだ。これは京都流の戦争のやり方だ。もしこれに背く奴らは、一人残らず切り殺すぞ」

と、脅しをかけた。「これはいったいどうしたことか」と皆々は顔色を変えたが、境与三郎右衛門と言う男は一人平然と笑って

「美濃・尾張や五畿内の腰抜けたちが、命の惜しいあまりに、武士の法を知らず、そんなものを出すのだろう。中国筋ではそれを頸銭(くびせんという。
いやしくも、武士たるものが、頸銭を出すということがあるものか。こんな恥辱を受けて命ながらえてもいたし方ないこと、城中の者どもよ。おれと一緒に切り死にしよう」

と言って、鎗を提げてすっくと立ち上がると、羽柴勢を睨め付けた。その有様はどんな鬼神でも敵とならば、ど真ん中を突き抜くべき面構えなので、気をのまれた寄せ手は

「こちらのしきたりを申しただけのことです。どうぞ通って下さい」

と言ったので、境は真っ先に立って場外に去った。

393 :人間七七四年:2017/11/11(土) 22:56:57.56 ID:+P/PnjQW.net
(陰徳太平記)

394 :人間七七四年:2017/11/11(土) 23:58:54.14 ID:OkFOnrZc.net
>>392
格好いい

395 :人間七七四年:2017/11/12(日) 00:51:38.85 ID:sY2WlIKM.net
>>392
津本陽作品の雰囲気

396 :人間七七四年:2017/11/12(日) 12:24:07.79 ID:FjtHX0DT.net
ところでこのスレって戦国時代の逸話ってことだけど、時期的に
応仁の乱開始の1467年からならおk
→享徳の乱開始の1454年からならおk
と前に議論になってた気がするが、戦国時代は享徳の乱から、と主張した峰岸純夫「享徳の乱」読んでたら
享徳の乱の前の永享の乱(1438年)で滅亡した鎌倉府が復興したのは1450年
その前には上杉禅秀の乱(1416年)、さらにその前には小山義政・若犬丸の乱(1380年)があった
となってて、関東が平和だった期間の方が珍しい気がしてきた
本では永享の乱での恨みが享徳の乱で噴出したような内容だったし
永享の乱も戦国時代に入れても不自然じゃない気がする

397 :人間七七四年:2017/11/12(日) 12:48:39.64 ID:NInLM6wR.net
>>396
まあ応仁の乱から戦国、というのは、乱の結果、将軍と在京有力守護(二十一屋形)による体制が決定的に壊れた、という所からで、
関東も享徳の乱で、鎌倉公方-関東管領の体制が壊れたから戦国、という感じなわけだ。
享徳の乱以前はそれでも、鎌倉公方-関東管領体制に何のかんので復元力があったから、内乱ではあっても「戦国」とは違う。
という解釈なんだと思う。

398 :人間七七四年:2017/11/12(日) 13:13:22.64 ID:pu3bL6ey.net
このスレのってか、この板の、なんだけど
話し合うとするなら

399 :人間七七四年:2017/11/12(日) 13:27:16.91 ID:AthnCwlt.net
室町時代なんてぜんぶ戦国時代みたいなもんやろ(暴論)

400 :人間七七四年:2017/11/12(日) 16:26:23.36 ID:ROgrEiQQ.net
松平広忠エピが少なかったので投稿してみます。

ある年の田植えの頃、近藤某という譜代の士が貧乏だったため、自ら田植えをしていた。
松平広忠は鷹狩りの道すがら見とがめ、近臣に命じた。
「あれは誰か。見覚えがあるが連れて参れ。」

近臣たちは近藤が朋輩のため赤面していたが、命令であるので仕方なくこのことを近藤に告げた。

近藤は泥まみれのまま、真っ黒な顔で広忠の前に出た。
近臣達は近藤は成敗されるに違いないと心配していた。

広忠は涙を浮かべてこう言った。
「譜代の士なればこそ、このような暮らしにも堪え忍び、いざ鎌倉という折に身命や妻子を投げ捨てて、代々の主君のために忠孝を励んでくれるのだ。なんじらもおそらく、この近藤と同じことをこの広忠に隠しておるに相違あるまい。早く家郷に帰り、田を植えよ。」

これを聴いていたものはみな涙を流し、
「かかるお情け深き主君のためには一命はもとより、妻子をも顧みず奉公の誠を尽くそう」
と誓い合ったとのことである。

401 :人間七七四年:2017/11/12(日) 16:31:11.88 ID:pu3bL6ey.net
できれば出典を…

402 :人間七七四年:2017/11/12(日) 19:34:15.73 ID:IZ4Go9pO.net
そして年貢を納めろか

403 :人間七七四年:2017/11/12(日) 20:43:18.40 ID:yuwsjLhx.net
松平家の家臣の忠義って個人的な美談じゃなくて、他国より中央集権的だったからなのかな

404 :人間七七四年:2017/11/12(日) 20:43:39.39 ID:xEfHF25d.net
>>402
考え様によっちや休みも副業して働け
忠勤に努めよ


って事か… これはブラック三河武士

405 :人間七七四年:2017/11/12(日) 21:05:55.71 ID:VvYToCE8.net
側仕えはいいから野良仕事してこいやろ

406 :人間七七四年:2017/11/12(日) 21:39:06.14 ID:NInLM6wR.net
松平は野良仕事で済んでいる分まだマシ。宇喜多直家さんのところとか貧乏すぎて家臣一同定期的に「絶食の日」を作ったくらいだからな。

407 :人間七七四年:2017/11/13(月) 04:02:56.43 ID:RuCFRyFm.net
>>406
横だけどソレ知らなかったわ、備前て貧乏イメージ無かったから。

408 :人間七七四年:2017/11/13(月) 05:09:25.65 ID:By1ObXnd.net
>>407
元々は家が滅んで放浪の末に戻って来て、一家臣になった時の話みたいだから
初心を忘れないように大名になっても続けてたみたいだけど

409 :人間七七四年:2017/11/13(月) 07:19:55.36 ID:GscqnKpT.net
それどころか盗賊働きもしてた話があったような

410 :人間七七四年:2017/11/13(月) 09:55:46.66 ID:QSoFrhPh.net
加藤清正は、家中の大身小身に限らず、武士が覚悟すべき条目を発したことがある。
その詞に曰く

『奉公の道、油断するべからず。朝は辰の刻(午前7時頃)には起きて兵法の鍛錬をし、食事を取り、
弓を射、鉄砲を撃ち、馬に乗るべきだ。武士の嗜みの良い者には、別して加増を与えよう。

乱舞は完全に禁止する。太刀を手に取れば、人を斬ろうと思うものである。である以上、万事は
一心の置き所から生ずるものなのだ。武芸の他に乱舞の稽古をしているような輩は、腹を切るべきだ。

武士の家に生まれた以上、太刀を取って死する道こそ本意である。常々から武士の道を吟味していなければ、
潔い死はし難いものだ。よくよく心に武を究める事が肝要である。』

(士談)

411 :人間七七四年:2017/11/13(月) 11:11:34.93 ID:SMfEMYwZ.net
ですってよ、柳生宗矩様

412 :人間七七四年:2017/11/13(月) 12:31:03.05 ID:6dPD9ssn.net
>>411
宗矩の甥の利厳「加藤家に仕えましたが何か?」

413 :人間七七四年:2017/11/13(月) 12:37:35.95 ID:K3XZqWFk.net
>>411
むしろ秀吉に対する挑戦状じゃないかと

414 :人間七七四年:2017/11/13(月) 13:32:12.44 ID:JiaZg2xL.net
尼子経久「若い頃、正月の月山富田城で大乱舞大会やったけど、アレは楽しかったなあ」

415 :人間七七四年:2017/11/13(月) 14:07:33.86 ID:CajRvILA.net
大乱舞ですとな。

416 :人間七七四年:2017/11/13(月) 14:16:12.22 ID:JiaZg2xL.net
>>415
750人くらいの首が舞った正月の大乱舞ですぞ

417 :人間七七四年:2017/11/13(月) 23:14:20.72 ID:xS1w1LCS.net
三浦道寸「なに、首が舞ったとな!?」

418 :人間七七四年:2017/11/13(月) 23:49:58.93 ID:GscqnKpT.net
"俺の躰はどこだあ"

419 :人間七七四年:2017/11/14(火) 05:46:48.01 ID:XyT2UExI.net
荼毘に付したよ、骨はある場所に置いてある

420 :人間七七四年:2017/11/14(火) 07:41:35.14 ID:GSRO0ABL.net
織田信長の家中の諸侍は、ひと月のうち2度ほど、八幡講愛宕講と称して会合し、
武義の詮議を行い、家職を忘れず、武運のことを神慮に祈った。
また同士の輩は、一同に誓詞を記し、互いの非を伝えあった。

ある時、何れも寄り合いをして、願書を書いて武運を祈るとき、
「皆は何を目標にして、どのように武職を勤めたいと思っているのか、それぞれその趣旨を書いて
入札にしよう」
という事になり、集まって書き出した所、皆『松野平介に劣らぬよう』『松野平介より先を致したい』
といった心がけが書かれていた。

この松野平介という人物は、美濃の三人衆に仕えていた武士であり、後に信長に召された、
信長は、その身が陪臣であると雖も、武の職業を勤めたる者であると、彼を非常に高く評価し、
岐阜の大手先の侍町に屋敷を与え、「諸人の規範にもなる人物だ」と言った。

このため織田家の諸侍は彼を見習い勤めを甚だ励み、それぞれに武義の職を勤め守った。

(士談)

421 :人間七七四年:2017/11/14(火) 17:52:44.33 ID:tx0xGda4.net
>織田信長の家中の諸侍は、ひと月のうち2度ほど、八幡講愛宕講と称して会合し、

初めて聞く話やな

422 :人間七七四年:2017/11/14(火) 18:53:48.72 ID:Un1oa4VD.net
織田家では月二回、職場内の勉強会兼飲み会をやっていたという事か。

423 :人間七七四年:2017/11/14(火) 19:49:11.27 ID:71UKaADV.net
織田家中自己啓発セミナー

424 :人間七七四年:2017/11/14(火) 20:33:05.07 ID:Cr5IYuoH.net
織田家で自己啓発とか
無道なことを

425 :人間七七四年:2017/11/14(火) 21:07:10.78 ID:WV2H8aGD.net
庚申講みたいに実質、ただの飲み会じゃないの?
まあ庚申講はいろいろと危ない相談もされてたんじゃないかって話もあるけど

426 :人間七七四年:2017/11/17(金) 00:10:38.13 ID:KP3+s06l.net
朝倉宗滴の言葉にこういうものがある。
『仁不肖によらず、武を心がける者は、第一に嘘をつかず、聊かもうろんな事なく、
不断に実儀を立て、総じて恥を知る事が、その基本である。

その故は、一度大事の用に立つ時、普段嘘をつきうろんな人物は、どれほど実儀を申したとしても
「例の嘘つきだ」と指をさされ、敵味方ともに信用してもらえない。
普段からの嗜みこそ、人として肝要なのだ。』

(士談)

犬畜生と呼ばれるのは良いが嘘つきは駄目らしい。

427 :人間七七四年:2017/11/17(金) 00:22:49.48 ID:zTBmePbl.net
そら人を動かせないからな
嘘をつくならバレないように、じゃねw

428 :人間七七四年:2017/11/17(金) 00:34:34.80 ID:agrzQCkt.net
本人だけバレてないつもりでもバレバレなんてことはざらにあるし
やはりついてはいかんのだよ

429 :人間七七四年:2017/11/17(金) 00:39:41.86 ID:zTBmePbl.net
その理屈じゃなんもできなくなるw

430 :人間七七四年:2017/11/17(金) 01:14:05.73 ID:agrzQCkt.net
お前も影で嘘つきって言われてるぞ

431 :人間七七四年:2017/11/17(金) 01:59:43.94 ID:T7bbYKd2.net
謀略は誠なり

432 :人間七七四年:2017/11/17(金) 07:37:14.11 ID:soPTu9TR.net
武士の嘘は武略なり

433 :人間七七四年:2017/11/17(金) 07:51:09.39 ID:ZwhB1xgF.net
宗滴さまは狼少年を読んで思うところがあったんやな(違

434 :人間七七四年:2017/11/17(金) 08:30:26.01 ID:Itwasr9p.net
朝倉宗滴さまの頃はまだイソップ物語は日本に入ってきてないな
伊曾保物語の前進となる「イソポノハブラス」ローマ字刊行は1593年らしいし
とあえてつっこんでみる

435 :人間七七四年:2017/11/17(金) 10:00:34.58 ID:MyYwJHbm.net
>>426>>428>>430
こういう事言ってる奴こそが裏では一番嘘つきだからな

436 :人間七七四年:2017/11/17(金) 10:55:37.82 ID:enORPDeU.net
最も利口な人たちは、
自分が何かの大事に際して
何か大きな利益のために詭計を用いることができるように、
生涯ずっと詭計を非難するふりをし続ける。

ヴォルテール

437 :人間七七四年:2017/11/17(金) 11:23:31.10 ID:1DNQFh/2.net
その点、「友人が殺人鬼に追われていて自分の家に駆け込んだ。
そのあと殺人鬼が来て『お前のところにあいつが逃げ込まなかったか?』と尋ねてきた場合、
殺人鬼に『駆け込まなかった』と嘘をつくのは罪である」
と言ったカントは偉大

438 :人間七七四年:2017/11/17(金) 23:13:35.73 ID:ps8BgnHl.net
>>437
あれ?
その場合は嘘をついて良いんじゃなかったっけ

439 :人間七七四年:2017/11/18(土) 00:51:37.10 ID:PE1a2IgP.net
カントによればそれでも嘘をついたらダメ
さすがにこれはあんまりだとして後世の人々がカントの理論から嘘をついてもいいように
いろいろと理論を組み立て

仏教で妄語戒があるのに法華経で三車火宅という例を持ち出して
人を救うためなら嘘を方便として使ってもいい、
と主張するみたいな

440 :人間七七四年:2017/11/19(日) 05:18:03.85 ID:rObbxWS5.net
天正15年、豊臣秀吉による九州征伐の時、堀秀政も秀吉に従って九州へと赴いた。
この時、陣中において秀政近習の山下甚五郎という者が気が狂れ、後ろより秀政を斬りつけた。

秀政の後を歩んでいた家老の堀監物は、これを見て即座に山下を斬った。
秀政も後ろを振り返り、拝み切りに斬った。
秀政と監物の刀は、同時に山下を打った。

山下が絶命したのを確認すると、「先は我なり。」秀政はそう、監物へ言ったという。

(士談)

441 :人間七七四年:2017/11/19(日) 10:05:04.53 ID:x64q5xMC.net
だいぶ前にあったね
向こうは出典なしで近習の名前が微妙に違うけど

442 :人間七七四年:2017/11/19(日) 11:33:08.26 ID:yZctRNIy.net
痴情のもつれか

443 :人間七七四年:2017/11/19(日) 12:27:20.59 ID:nMzdiPUl.net
なんか都合の悪いことでもあったんじゃないの>気が狂れ
徳川信康もそんなこと言われてたし

444 :人間七七四年:2017/11/19(日) 13:56:08.91 ID:FUlARS4v.net
非がなく殺しちゃったら気狂いにするしかないよね

445 :人間七七四年:2017/11/21(火) 13:37:42.65 ID:p2i0Waif.net
山口軍兵衛という勇士が有り、彼は結城黄門秀康に仕えて越前にあった。
強弓の精兵にて大太刀を好み、三尺(約1メートル)に余る腰刀を帯びていた。

彼は伏見にて秀康家の長屋に住んでいたが、この長屋は二階作りにて、三間梁にいたし、
出格子の窓四寸(約12センチ)ばかりを置いた小柱が立っていた。

山口はその格子窓を通して60間(約109メートル)先に的を立て、それを必ず射抜くほどの
手練であった。

ある時、人々が寄り集まっている中、山口の刀があまりに長く尺に余るとの話題が出た。
山口はこう答えた
「私はこの刀を、各々の尺短い刀同様に存じている故に、常に用いているのだ。
いざ使ってみせよう。その後で何れも御自由に言って頂きたい。」

そう云うと大太刀を抜いて三つ指にて柄の末を取り、何度も振り回すと、その場は
この太刀風の音が響くばかりとなり、これによって初め彼の刀について言っていた輩も、
閉口して退去するしか無かったという。

(士談)

446 :人間七七四年:2017/11/22(水) 16:10:22.18 ID:l+yNUGUe.net
いい夫婦の日ということで
慶長十年〜同十八年のものとされる、前田利家室・まつ(芳春院)が七女・千世に宛てた消息より


(第一紙欠)
はんふんはんふんにて候、をかしく候、おりへ事、よくそ御きも入候、りくつたて申候ハヽ、御しかり候て、よきやうに御きもいり候へく候、
天下さまハ七つましのミたいさまにて、なかのよき事、人けんにかやうの事ハ見きゝたる事もなく候、かしく、
(後略)

(――増補改訂 図録 芳春院まつの書状)


内容は、まつが従弟の養子で利家の実子とされる篠原長次(おりへ/織部)に嫁を世話するよう千世に頼んだところ、年上の女しか心当たりがないがどう思うか、という問い合わせが来たことへの返信と推測できるもの。
将軍・徳川秀忠(天下さま)は七つ年上のbィ江(ミたいさま/御台様)を娶っているが、この夫婦の仲の良き事は、人間の世界にこれほどは見たことも聞いたこともないくらいである、と例を挙げて、心配せずに縁談を進めるよう答えている。

よく恐妻家などと揶揄されているけど、人の目から見てこんな風に評されるいい夫婦の話

447 :人間七七四年:2017/11/22(水) 16:15:35.57 ID:l+yNUGUe.net
なぜ文字化け……
『bィ』は『お』です

448 :人間七七四年:2017/11/23(木) 09:39:25.77 ID:mJcw9C4d.net
関ヶ原の時、田中筑後守(吉政)の家臣で田辺甚兵衛という者の子、父は早世して
甚兵衛の名を継いだが、10歳にて陣立てした。彼の家臣たちが敵を突き落とし、甚兵衛を
馬より抱き下ろして頸を取らせた。
幼少の子として比類なき儀であると、その頃世間で大変に賞賛された。

後に、黒田長政が田中吉政を訪れた時、四方山の物語の中で、吉政がこの甚兵衛の事を語った。
長政はこれに大いに感じ入り、甚兵衛を呼び出し盃を与えた。この時、「甚兵衛を補佐した
家来どもも呼び出して様子を尋ねよう」という事になり、甚兵衛の家来たちも出頭した。

長政が当時の様子を具体的に尋ねると、彼らはこう証言した
「馬より抱き下ろした時、刀を抜いてかかりましたが、わなわなと震えていました。
それを家来どもに恥ずかしめられ、震えながら立ち寄りて頸を討ったのです。」

これを聞いて長政は再び大いに感じ入った。
「さてはますます勇士の機がある。震えずにかかったなら、十方無き故(頭がからっぽだから)と
言うべきであろう。恥ずかしめられてかかったのは、義をつとめて致すという行為だ。」

そう評したという。

(士談)

>田辺甚兵衛の初陣・いい話

こちらに既出の逸話ですが、出典があり詳しかったので

449 :人間七七四年:2017/11/23(木) 21:26:05.92 ID:6txMqhvp.net
お前はからっぽのほうだけどな

450 :人間七七四年:2017/11/23(木) 21:29:17.74 ID:XjByv4RE.net
江戸のもののはじまり事典「本朝世事談綺」よりいくつか


鹿苑相国義満公の時、内野合戦が正月元日に起き、殿中の祝賀会に出席していた者共が
素襖の袖と裾をとって戦に従事したことが吉例となった。
細川頼之の行いであった。
一説によると、信長公の時に松永弾正がはじめたとも。

月代
月代を剃ることは、鎌倉北条執権(泰時の頃)に始まった。
その昔は本朝では貴賤ともにみな総髪でお歯黒をつけていた。
山海経に言う「東海に黒歯国あり、その俗、婦人の歯悉く黒く染む」というのは日本のことである。
その後、貴賤を分かつために男の歯を染めることを禁じたが、気が発さなくなったせいで歯の痛みとなった。
そこで月代を剃ることとなったのだ。
一説によれば、鎌倉時代は髪を抜いたという。信長公のときに剃刀で剃るようになったという。
おそらく髪を抜くというのは額のことであろう。
剃刀は眉を剃るために神功皇后の時に始まった。眉剃り用の剃刀は小さかったのを、
信長公の時に大きくしたのが今の剃刀であろう。
(信長が毛を抜くのを痛がって剃ることにした、という説もある)

ロウソク
文禄年中までは日本にロウソクなし。呂宋助左衛門が秀吉に献ずるところのロウソクを真似してこれをつくった。

一里塚
正親町天皇の御世に信長公の下知にて一里を三十六町に定めてその表示に一里塚をつくり榎を植えさせた。

451 :人間七七四年:2017/11/25(土) 14:01:56.38 ID:JplSg2Nq.net
関ヶ原で東軍が勝利した後、近江佐和山城を越前中納言小早川秀秋、小川(祐忠)、朽木(元綱)、
脇坂(安治)などに、城の請取が命ぜられた。
諸手面々が取り囲んで攻めたため、佐和山城では持ちこたえる手段無く、各々自害して天守に
焼草を入れ置き、発火のための鉄砲の火薬2,3石ほどを入れた。

この時、櫓の防衛に当たっていた手の足軽大将の元にあった火薬に、どうしたわけか火がうつり、
櫓ごと爆発した。
爆発の衝撃と黒煙のため、そのあたりでは目がくらみ敵味方の見分けもつかぬ状態となり、
攻め手の中の、とくに若い者たちは不覚にも崩れ、その不名誉は後に人の口に上ったという。

この時に懲りた故か、その後天守に火が付き、火薬のため爆発したが、特に動揺はなかったという。

(士談)

452 :人間七七四年:2017/11/25(土) 15:05:58.50 ID:fRRJNyEY.net
鳥羽伏見の戦いで大坂城がほとんどもぬけの殻になった後
民衆が略奪しまくってたら城が爆発炎上した、て話を思い出した
某司馬遼太郎作品では薩長軍はそれを見越して後で悠々と城入りした
てことになってたけど、本当だとしたらこういう話を知ってたんだろうか

453 :人間七七四年:2017/11/25(土) 15:11:15.31 ID:b86Bif5A.net
幕末までは日本人もちゃんと略奪とかしてたんだな

454 :人間七七四年:2017/11/25(土) 15:15:25.91 ID:JplSg2Nq.net
>>451
すいません1行目、
×越前中納言
◯筑前中納言

大変申し訳ありません

455 :人間七七四年:2017/11/25(土) 15:25:16.24 ID:uMmGzoOm.net
結城秀康「ええんやで」

456 :人間七七四年:2017/11/25(土) 17:05:50.22 ID:TxoaurS2.net
ルイス・フロイスによる不思議の国ニッポン的な作品「ヨーロッパ文化と日本文化」よりいくつか

・われわれの間では彩色した衣服を着ることは軽率で笑うべきこととされるであろう。
日本人の間では坊主と剃髪した老人以外は一般に、すべて彩色した衣服をつけている。
・われわれはいつでも唾を吐き出す。日本人は概して唾を呑み込む。
・われわれの間では、貴族が鏡を見ていれば柔弱な行為と考える。
日本人の貴族は衣服を着るために、誰でも鏡を前に置くのが普通である。
・ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。
日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる。
・ヨーロッパでは夫が前、妻が後になって歩く。
日本人では夫が後、妻が前を歩く。
・ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。
日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける。
・汚れた天性に従って、夫が妻を離別するのが普通である。
日本では、しばしば妻が夫を離別する。
・ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格におこなわれる。
日本では娘は両親にことわりもしないで、1日でも幾日でもひとりで好きなところへ出かける。
・ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない?日本の女性は夫にしらせず、好きな所に行く自由をもっている。
・われわれの間では女性が文字を書くことはあまり普及していない。
日本の高貴な女性は、それを知らなければ価値が下がると考えている。
・ヨーロッパでは普通女性が食事を作る。
日本では男性がそれを作る。
・ヨーロッパの女性は人に見られずに道を歩くために頭巾をつける。
日本の女性は道を行く時、頭にタオルを被って結び、両端を顔の前に垂らす。
・ヨーロッパでは白粉一箱あれば一国の需要を充たす。
日本にはそれを積んだソマ船が多数渡来するがそれでもまだ足りない。
・われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。
日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ(言葉?)によって譴責するだけである。
・ヨーロッパの子どもは青年になってもなお口上ひとつ伝えることができない。
日本の子どもは十歳でも、それを伝える判断と思慮において、五十歳にも見られる。
・われわれの子どもは大抵公開の演劇や演技の中ではにかむ。
日本の子どもは恥ずかしがらず、のびのびしていて愛嬌がある。
そして演ずるところは実に堂々としている。
・われわれの間では子どもは度重ねて親戚の家に行き、彼らと親しく交わる。
日本では親戚の家には滅多に行かない。親戚を他人のように扱う。
・われわれはすべてのものを手を使って食べる。
日本人は男も女も、子供の時から二本の棒を用いて食べる。
・われわれの間ではフライにした魚をよろこぶ。
彼らはそれを好まない。
・われわれの間では膿瘍を火で焼く。
日本人はわれわれの外科の過酷な治療を受けるよりも死を選ぶだろう。
・われわれの手紙はたくさん記載しなければ意見を表すことはできない。
日本の手紙はきわめて短く、すこぶる要を得ている。
・ヨーロッパでは水を流すために街路の中央部が低くなっている。
日本では中央が高く、家々の側が低い。それに沿って水を流すためである。
・われわれの間では悲劇でない劇が演ぜられる場合、場面を分けない。
彼らはいつも場面を第一、第二、第三などとわける。
・われわれの劇は談話によって演ぜられる。
彼らのはほとんど常に歌い、または踊る。
・われわれの間では種々のものを贈るのは親愛のしるしである。
日本では贈物が少なければそれだけ礼儀正しい。
・われわれの間では人が贈物として持ってきた物は、その同じ人にこれを勧めることはできない。
日本では親愛のしるしとして、贈った人とそれを受けた人が、すぐにその場で試食しなければならない。
・われわれの間では球戯は手でする。
日本人は足を使って遊ぶ。
・われわれの間では贈物は空の小箱に入れ、リボンを付けないで贈る。
日本では糸で束ねる紙を貼り付ける。
・われわれの間では従者がその主人夫妻を自分の家に招く慣習はない。
日本ではそれがしばしばおこなわれる。義務としておこなわれることもあり、そうでない場合もある。

457 :人間七七四年:2017/11/25(土) 17:55:58.07 ID:E7qzUXBx.net
>>450
> (信長が毛を抜くのを痛がって剃ることにした、という説もある)

    ノノ
 〆 ⌒ヽ∩ ブチ!ブチ!
 (  ゚ω゚)ノ⌒ ミ
 ヽ⊂彡(´・ω・`) <信長「…」

458 :人間七七四年:2017/11/25(土) 18:05:03.73 ID:b86Bif5A.net
抜くんじゃ時間かかりそうだしね

459 :人間七七四年:2017/11/25(土) 18:06:47.15 ID:TxoaurS2.net
「ヨーロッパ文化と日本文化」にはこんなのもあった
・われわれの間では男たちは髪を刈っており、禿頭にされると侮辱されたと考える。
日本人は毛抜きを用いて、自分で、毛の残らないように、全部抜いてしまう。そのことは苦痛と涙を伴う。
・われわれのロウソクは本が太くて先が細い。
日本人のは先が太くて本が細い。

460 :人間七七四年:2017/11/25(土) 19:17:29.54 ID:Qeo9lrtY.net
>>456
日本が上回ってる所もあれば逆もあって面白い。
まあ文化と時代の違いもあるから一概にどちらが良い悪いとも言えないけど。

461 :人間七七四年:2017/11/25(土) 19:41:58.59 ID:TxoaurS2.net
なおお気づきかもしれないが、特に現在の日欧の文化と逆のようなものを優先的にピックアップした。
元の本では宗教についての章も立てられてたけど、カトリックと比べて肉食妻帯当たり前の無信心者、悪魔崇拝者というような記述しかなかった。

462 :人間七七四年:2017/11/27(月) 18:58:54.02 ID:mIO4OdMo.net
>>286
まとめの9276「床の間の掛軸の歴史。および八重むぐらの色紙の事」
に関連した話、井原西鶴「西鶴諸国ばなし」巻5「挑灯に朝顔」より後半部
(前半部は茶の湯を知らない客人が昼前に『朝顔を見せてくれ』と訪ねてきたため、
怒った亭主が芋の葉を見せたところ客が気づかないままだった、という話)

むかし茶の名人が茶の湯を出したときに、庭の掃除もなく、庭木の梢も枯れ葉をつけたまま
秋の景色をそのままにしておいたところ、客もすぐに心付いて
「さてはなにか珍しい道具を出すのだろう」と思っていたら、案の定、床の掛け軸に
「八重葎茂れる宿(のさびしきに、人こそ見えね、秋は来にけり)」の古歌がかけられていた。
またある人が唐物(中国式)の茶の湯を望んだところ、諸道具がすべて唐物を飾られていた中に
掛け軸だけ、阿倍仲麻呂が詠んだ「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にい出し月かも」
の歌が掛けられていた。
客は皆感心して「この歌は仲麻呂が唐から故郷を思って読んだ歌だ」と主人の作為に感じ入った。
「客もこのような人であってこそ、主人も茶の湯を好んでする甲斐があるものだ」とある人が語った。

この話の元ネタは「槐記」享保十三年3月二十二日の条でその記事だと
「八重葎」の方は利休が客人(もし9276の話に関連してたとすると松永久秀が主人となる)
「天の原」の方は利休が秀吉を招待した時の話となっている

463 :人間七七四年:2017/11/27(月) 19:01:38.67 ID:mIO4OdMo.net
ついでに「槐記」だと
利休に主人が「八重葎」の掛け軸を掛けて茶を出したのが歌の掛け軸の始まりとする

464 :人間七七四年:2017/11/28(火) 20:43:02.41 ID:q/sq0uZp.net
竹中半兵衛は普段から着座している時も足や足の指を揉み動かし、寒い時には懐に手を入れ、
甚だしく寒い時は手を揉むなどしていた。これは秀吉の前に伺候している時も同じで、
足を動かし左右片方づつ休めていた。

ある人がこの事について尋ねた時、半兵衛はこう答えた
「主君の前で、自分の逸楽のために手足を自由にする、というのは甚だ無礼であります。
しかし御用のためを思って、手足四肢が痺れないようにしようと考えるのは、忠の致すところです。

大丈夫たるべき人は普段から武義を心に忘れてはいけません。他人の作法と多少違える所が
あってもかまいませんが、武士道の事において汚れた名が有るのは武士の本意ではありません。
今ここで事があった時、足が痺れた手が凍えたなどという言い分が立つでしょうか?」

故に半兵衛は普段から手足を揉み、刀を側から離さず、旅宿我宿の区別なく、聊かも
油断しなかったという。

(士談)

465 :人間七七四年:2017/11/28(火) 21:58:30.49 ID:fMrCqu7j.net
出典なしだけどまえにも似たようなのが(まとめの791)
竹中半兵衛のちょっと良い話

466 :人間七七四年:2017/11/29(水) 15:37:46.46 ID:a2a+/ntH.net
>>464
常在戦場いいですなぁ。

467 :人間七七四年:2017/11/30(木) 10:57:46.87 ID:q79QVBiF.net
武田信玄が大敵と戦う前には、度々配下の軍勢の心合いを抑え、「おそらく合戦は無いだろう」
などと言って、彼らの中に、必ず合戦をするという気を励ました。

彼らは「是非御一戦あるべし!」としきりに戦を好むのを、信玄は尚抑えてその気を養い、
その上で戦わせるのだ。それ故に、士卒の士気は常に十倍したという。

(士談)

468 :人間七七四年:2017/11/30(木) 18:19:16.28 ID:74SVy9wm.net
どうかんがえても逆効果

469 :人間七七四年:2017/11/30(木) 18:40:21.74 ID:FEsNPFXR.net
信玄の話が何でも美談にされちゃうのはやっぱり権現様の力なのかね

470 :人間七七四年:2017/11/30(木) 19:18:58.23 ID:OVNfo8Ez.net
>>467
ダチョウ倶楽部かよw

471 :人間七七四年:2017/12/01(金) 14:17:46.20 ID:ARHJJxpy.net
分かってないなー
殺戮と強姦と掠奪に飢えた兵士を焦らすためにやってんだよ
ペットにメシやるとき必ず待てをさせるだろ
あれと一緒

472 :人間七七四年:2017/12/01(金) 16:48:10.19 ID:LKc6Pf/B.net
黒田長政は参勤する時、道を変えて往来し、宿も定めず、どこにでも一宿した。
ただし旅宿とするのは、その付近で第一に道の広い所、第二に所用に便利である所、
第三に火の用心の気遣いが出来る場所と決めていた。

彼は在国の間も放鷹狩猟で士卒の心得を学ばせ、昼の休憩所にも見立てをやらせ、
陣を設営するときの経験を積ませた。

また他方へ使者を遣わす際も、所用が済んだ後には、その国の様子、気がついたことなどを
尋ね、その報告の内容によって当座の褒美を与えた。

(士談)

473 :人間七七四年:2017/12/01(金) 18:53:05.72 ID:CUFfCuYE.net
事前に宿決めないって…

474 :人間七七四年:2017/12/01(金) 21:24:42.78 ID:eU3fI7CI.net
道を変えてたんだからしゃーない、でもなんで変えたんだろ、安全のため?
スターリンは毎晩寝る部屋を変えたそうだが…父親譲りの慎重さか。

475 :人間七七四年:2017/12/01(金) 21:43:08.19 ID:M0q5U8Q0.net
カウティリヤ「実利論」でチャンドラグプタ王も毎日寝室を変えていたとかあったような

476 :人間七七四年:2017/12/01(金) 21:55:55.12 ID:HTosqQ68.net
後宮てやつか

477 :人間七七四年:2017/12/01(金) 22:00:39.00 ID:M0q5U8Q0.net
いやスターリン同様暗殺を防ぐためが主な意図

478 :人間七七四年:2017/12/02(土) 09:49:53.84 ID:pZFOXZaq.net
小田原の役のおり、伊達政宗は奥州より越後を越え、甲斐に出て相州箱根へと至り、
豊臣秀吉に謁した。

この時政宗は24才、片倉小十郎一人を召し連れて、広野において礼を行う。
秀吉は床几に腰を掛け、政宗に言った

「上杉景勝は既に使節を以て礼を行い、佐竹も使者を送って来た中、政宗一人そうせず、
漸くにして今日礼を行う。その罪は甚だ重い。
汝の横領した地を速やかに返上すべし。ただ本領の三十万石は安堵しよう。
これに同意できないのなら汝は直ぐに帰国し我に敵すべし。汝が会津に至る頃合いには、
我は必ず北条を族滅し、そこから直に会津に進み、汝と対面するだろう。」

政宗は元来度量豪傑の勇者であり、聊かも恐れる様子無く答え申し上げた

「私は今、匹夫の姿で唯一人御前に参りました。生死も又命のままであり、
況や郡邑など御意のままであります。返上いたします。」

これに秀吉は大いに喜び、政宗に暇を与えて返した。

秀吉の左右の者達は皆異議を申し上げた
「伊達政宗は必ず、奥州に帰れば仇をなすでしょう。速やかにここで討つべきです!」

秀吉は大いに笑って言った
「お前たちは豎子であるなあ。共に謀るに足らぬ。」

(士談)

479 :人間七七四年:2017/12/02(土) 10:59:45.08 ID:oTw3QgRm.net
政宗にエンターティナーの素質があると一目でわかったのか、さすがラスボス。

480 :人間七七四年:2017/12/02(土) 11:30:45.38 ID:+W+OTzwU.net
秀吉の左右「討つべきです、と范増のような提言をしたら項羽扱いされた」

481 :人間七七四年:2017/12/02(土) 11:45:59.97 ID:9aRr4QWn.net
家康も単身で助けを求めてきた治部を守ったでしょ
王者てもんはそういうものさ

482 :人間七七四年:2017/12/02(土) 12:50:43.86 ID:GOvwcdD1.net
天庵様が評価されたいい話?
https://i.imgur.com/y8K8GlR.jpg
https://i.imgur.com/6km3PPs.jpg

483 :人間七七四年:2017/12/02(土) 14:24:55.78 ID:JrO/NKpY.net
>>478
>聊かも恐れる様子無く答え申し上げた
これがカッコイイ

>>482
志ってのは武将ごとの特殊能力みたいなもんか?そのままだなw

484 :人間七七四年:2017/12/02(土) 15:48:02.45 ID:lswRTCY1.net
割とこことかのネット人気が結実した感じはあるね

485 :人間七七四年:2017/12/02(土) 15:56:00.61 ID:oTw3QgRm.net
>>482
ディスプレイ拭け

486 :人間七七四年:2017/12/02(土) 20:56:41.41 ID:ahxGdGrj.net
>>482
該当スレを見てるとゲーム自体は相変わらずのPKで完成みたいだね

487 :人間七七四年:2017/12/02(土) 23:24:01.56 ID:nH2o62HC.net
>>482
ノブヤボの新作か?
STEAMで買おうとしたけど評価がほぼ不評でやめた

488 :人間七七四年:2017/12/03(日) 09:45:39.57 ID:6njRx29M.net
>>487
大志はダメ。まだ創世のほうがマシ。
もしくは天翔記を武将数を増やして改変してほしい。

489 :人間七七四年:2017/12/03(日) 10:20:50.81 ID:rUjZUDQr.net
は、覇王伝を…

490 :人間七七四年:2017/12/03(日) 11:14:53.43 ID:oaLfCx1Z.net
大志はスマホ対応でうっすくなったみたいやね

491 :人間七七四年:2017/12/04(月) 19:41:43.17 ID:nc3y9iGR.net
豊臣秀吉のもとに、毛利輝元が初めて出仕したときのこと。

毛利は天下第一の大名であり。中国は残らず彼の威風に属していた。
然らば、秀吉も定めて礼を正し、威厳に満ちた対面をするだろうと、人々はそう考えていた。

ところが、秀吉は輝元を対面所に暫く待たせ、その後、帯を手に持ちまるで形式張らない
格好で、女の禿(かむろ)に腰刀をもたせで現れると、その姿のまま輝元に対面し、
直に彼の手を取って立たせ、古のことなど色々と物語しつつ、大阪城内の座敷を一つ一つ
見せて周り、それから天守へと上がり、大阪の四方の繁栄を見せつけ、その場で刀を与えた。

それから座敷へと下り、庭に馬を曳かせた。
秀吉はその馬に乗り、輝元に馬の口を取らせた。その後馬は輝元に与えられた。

これにより毛利は尽く秀吉の恩顧、度量に平伏し、あるいは親しみ、あるいは恐れたという。

(士談)

492 :人間七七四年:2017/12/05(火) 23:30:56.61 ID:fZVtOxA0.net
この人たらし

493 :人間七七四年:2017/12/06(水) 01:09:32.78 ID:IcvXM8GT.net
毛利元就ならともかく子供世代なら話にならないよなあ

494 :人間七七四年:2017/12/06(水) 01:16:06.00 ID:6zYKbT+/.net
帯を手に持ち
って、帯つけてなかったってことか?

495 :人間七七四年:2017/12/06(水) 08:17:07.77 ID:mUJQieT7.net
>>493
毛利なんて豪族の連合体だから脆いよ

496 :人間七七四年:2017/12/06(水) 08:31:58.39 ID:5WkMmMJn.net
なにいってんだこいつ(AA略

497 :人間七七四年:2017/12/06(水) 17:49:43.46 ID:upLVsY/+.net
>>495
武田信玄「まったくだ」

498 :人間七七四年:2017/12/09(土) 09:23:29.50 ID:eSWp/XYE.net
天正18年、小田原の役における山中城攻めの際、木村常陸介(重茲)の家臣である鳥居源八という
勇士、先に立って城に取り付き名乗りを上げた。
そこへ、羽柴藤五郎(長谷川秀一)家臣、磯平三郎が続き来て、鳥居に言った

「源八よ、汝は既に”頸取り源八”と世に呼ばれている名高き勇者であるが、真実の武功を
知らぬな。田舎育ちの働き故に、ここでも名乗るべきではない所で名乗っている。
こういった場所では、諸人茫然として心もついていかず、気後れしているものであるのに、
ここで名乗っては、諸人はこのお陰で心付いて、我先にと進む。故に思いのままの一人高名が
出来なくなってしまうのだ。
物の訳を知らぬ故に、流石の頸取り源八もこのような時に名乗ってしまう事よ。」

これを聞いて源八は嘲笑って言った
「平三郎は心がけもある武士であると聞いていたが、さては信の勇士の理を知らぬと見た。
このように、諸人茫然たる時分は、一人声高に名乗って、人に気力を付け大勢に力を与え、
多くの人を用に足る者に成す事こそ、武士の義というものだ。
何事ぞ、我一人功名してそれを宜と言うのは。そんなものは甚だしい小技であり、言葉にする
価値すら無い。」

そう蔑んだという。

(士談)

499 :人間七七四年:2017/12/09(土) 11:59:31.12 ID:HwqEYabs.net
こういうのって戦の最中にやりあってんのかな
敵味方もどっちの口撃が勝つのか見守ってたりして

500 :人間七七四年:2017/12/09(土) 12:56:49.36 ID:4iPqjqA6.net
二人とも弓鉄砲で倒されてたら笑う

501 :人間七七四年:2017/12/11(月) 15:57:56.91 ID:I55SSOBF.net
大須賀五郎左衛門尉(康高)は、自分で手を下して功を立てることは無く、常に家来や
小姓の中から器量あるものを選んで取り立て、彼らを以って功を立てさせた。

武田勝頼が高天神城に兵を入れて遠州を窺う時、家康は横須賀城を建設し、大須賀にここを任せた。
横須賀は重要拠点のため名のある者が多く集められ、中でも久世三四郎、坂部三十郎、渥美源吾、
丹波弥三、駒岡太郎右衛門、曽根兵衛左衛門、丹羽金十郎、これを七人衆と言った。

大須賀には度量があり、こう言った人々をよく従え、つもりを外すこと無く、傍に仕立てた
者達も皆武功があったという。

また長久手の合戦において、先手が敗北した時、大須賀は「味方の長追いは必ず敗軍の相である」と
考え、あらかじめ準備をし、小高い場所に馬を立て纏を置いて敵の攻撃を踏みこたえた。
このため大きな敗北にならなかったという。

(士談)

502 :人間七七四年:2017/12/13(水) 12:36:08.43 ID:RImMcwen.net
戸次川合戦敗退後、長宗我部元親は伊予日振島に逃れ
桑名将監を使者として、合戦詳細を秀吉公に知らせた
秀吉公はじめてそのいくさの詳細を知り
さても仙石手に合わざる合戦し
信親を討たさつる事の不便さよと仰せられ涙を流された

また合戦の三日後にあたる十二月十五日
大友宗麟は慰問状を日振島の元親に使わし
その内容は以下の通りである

この度のいくさはご挨拶の仕様もないが
無事御渡海の段は安堵に存じます
(長宗我部殿の当方に対する)これまでの様々な件に御入魂の次第は
永々忘却してはならぬ事であります
勝敗については戦場の習いにて、お気になさることもないでしょう
また兼ねて戸次利光城(鶴ヶ城)に差し向けられた鉄砲衆ですが
昨夜全員無事にこちらに帰還いたしました
そちらにお送りしたいと存じますが、船を揃えるのに難儀しており
船便があり次第お送りいたします

天正十五年十二月十五日
                         休庵宗滴判
追伸
 御子息信親戦場の儀については、様々な風聞があり
 未だ実否は分明ならず、奇怪千万な次第です
 こちらで詳細がわかり次第、お知らせ申し上げます

(続く)

503 :人間七七四年:2017/12/13(水) 12:37:24.97 ID:RImMcwen.net
(続き)

信親遺骸返却について島津と交渉しつつ
合戦後十三日目には奥長門守を使者とし
宗麟がこもる丹生島城(臼杵城)へ鉄砲隊を派遣した
その際の書状の大意は以下の通り

この度敗戦の成り行き、都鄙において外聞を失い全く無念な次第です
されども今はお城を固守することが肝要であり
自分も加勢に馳せ、共に籠るべき所ですが
退陣口の仕合、覚悟に任せず困難なため
まずは有り合わせの鉄砲の人数を差し出しますのでお頼み申します

天正十五年十二月二十五日
                         長宮元親判

結局元親は土佐本国に帰ることはなく
敗軍を糾合し、丹生島城宗麟と連携を取りながら豊臣本軍を待ち
翌天正十五年三月の秀長軍到来をもってはじめて伊予日振島を出た

(土佐軍記その他)

長宗我部元親、伊予日振島における戦後処理の逸話である

504 :人間七七四年:2017/12/13(水) 12:57:19.08 ID:b83ZmTWr.net
この頃は宗滴と号していたのか

505 :人間七七四年:2017/12/13(水) 14:06:45.28 ID:rieLt3zD.net
最早五十万石を領知する者は


ある時、権現様(家康)の御前で本多上野介(正純)が
松平武蔵守(池田利隆)の噂を申し上げると(家康は)
「武蔵守は筑前中納言(小早川秀秋)によく似ているな」
と上意があったので、上野介は
(関ヶ原で、秀秋が約束通り御味方したことを言っているのだろう)
と考えて
「上意の通り、随分律儀な人ですからね」
と申し上げた。

「いや左様ではない、最早五十万石を領知する者は
 親兄弟にも目をかけることがよいことなのだ。
 律儀だからといって済むことではない」
との上意だったという。


――『岩淵夜話』 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)


506 :人間七七四年:2017/12/13(水) 18:37:50.95 ID:oD7YlylU.net
>>505
そう言えば小早川秀秋は西軍について改易された兄を客分として養ってたんだっけか
何故か2人同日に亡くなったらしいが

507 :人間七七四年:2017/12/13(水) 20:14:50.18 ID:FMASO97P.net
>>506
今川氏輝「身内が同日に死ぬとか恐いわ」

508 :人間七七四年:2017/12/14(木) 09:17:40.71 ID:gc0M6H9p.net
これは世話をしろってことなの?油断するなってことなの?

509 :人間七七四年:2017/12/14(木) 09:46:09.88 ID:20Bp96OO.net
平野甚右衛門というのは津島小法師の事で、織田信長の時代の勇士であった。

彼が死んで後、その墓の土を取って飲ませれば瘡疾必ず癒えると沙汰され、人々はみな
これを取って用いた。
ここに、平野の生前、いい交わした朋友が居たのだが、彼が平野の墓へ行くとこのようにつぶやいた

「かつて、あれほど名高き勇者であった其方が、百姓下々の洗米濁酒を墓に受けて、なんという
見苦しき有様になっているのか。」

それ意向、墓の土を用いても瘡疾が落ちるという事はなくなったという。
勇猛の士というものは、死しても性根が強いものだと言うべきなのだろう。

(士談)

この逸話の人ですね
→ちょっぽり甚右衛門

510 :人間七七四年:2017/12/17(日) 11:33:38.32 ID:ucE4xaRX.net
将軍徳川家光が、久世大和守広之を、嫡子である家綱に付けるという時、家光は
久世を召して、この事を仰せ付けたものの、久世は一切お請け申し上げなかった。
家光の傍にあった堀田加賀守正盛は「早々御請あるべし」と勧めたが、久世は堀田に目を向け
「御辺の知る所に非ず!」と睨みつけた。その表情が普段と異なるのと、家光は見抜き、
不意に立ち上がった。
お傍の人々は「あわやご機嫌を損じたか」と驚き慌てたが、家光は筆を執ると短冊にこう書いた。

『人多き 人の中にも人はなし 人になれ人 人になせ人』

これは大神君(家康)の詠んだ歌であり、これを久世に与えた。
久世は「これならば」と、上位骨髄に徹し、有難く畏まって申し請けた。

(武野燭談)

511 :人間七七四年:2017/12/17(日) 15:39:43.58 ID:+fdPV11u.net
慶長の役の時、日本軍が南原城を攻略した際、釜山にいた立花宗茂は
毛利高政に戦勝の祝状を送ったのだが、その返書で高政から鉄砲の手配を頼まれた。
それに対して宗茂が送った書状が次のものである

於南原之御感状之御祝言申入候処、御懇報上戦状を承乃候、数度之御手柄弥以被聞召届、
近々御朱印可為御頂戴候、御大慶、御祝言重々可申承候、目出度存候、仍鉄砲之儀、
ゑなミや(堺の榎並屋か)所可被仰付之由、承乃候、一つ書候て申入候、
一 四文目丸 長さ其外様子は貴殿様御このミニまかセ申候、 壱ちやう
一 三文目丸 右同前 一ちやう
一 又壱ちやう、これハいかやうにも、貴殿様御分別ニて、御このミ候て可被下候、
何もやをミ流仕度存じ候、よくよくねんを入、あたりを専ニ仕度候、
何も明日京へのほセ候者を、それへ可進之候間、能々被仰付可給候、恐惶謹言、
十一月朔日(慶長二年)                                   立花親成
(佐伯 毛利高政文書)

この頃は好みに応じた鉄砲が作れるんだね

512 :人間七七四年:2017/12/17(日) 23:28:33.62 ID:xUCTczY0.net
>>511
清正も朝鮮出兵中に細々とスペックを指定して発注してたから
鉄砲鍛冶は注文に応じて作ってたんでしょうね。

513 :人間七七四年:2017/12/18(月) 00:05:22.26 ID:Ni8MtvjF.net
朝鮮陣では短い鉄砲のが便利だったっつー話だろ

514 :人間七七四年:2017/12/18(月) 12:22:04.46 ID:bqkgk5UT.net
発注受けて作ってたら数揃えられないだろ

515 :人間七七四年:2017/12/18(月) 15:59:42.93 ID:Ii/PF++M.net
数打ちと特注はまた別やろ

516 :人間七七四年:2017/12/18(月) 18:40:29.28 ID:ks1azkFx.net
毛利高政は津田監物を流祖とする津田流の砲術を学び
後に自ら伊勢守流を創始している鉄砲の名手で
閻魔王という大鉄砲を好んで使ってたようなんだけど、
小さめの鉄砲を特注で手配してもらってるのが興味深い

517 :人間七七四年:2017/12/18(月) 19:03:22.99 ID:5mdMzvkZ.net
高政所用の閻魔王は佐伯市歴史資料館に所蔵されてるね

518 :人間七七四年:2017/12/19(火) 13:51:42.25 ID:1v8x4pi4.net
高安道善(大鼓方高安流の祖)はその頃天下の太鼓の名人であり、大音を打ち出すこと、
並ぶものなかった。

一方、威徳という太鼓打ちは、三井寺の威徳かしらを打って天下に名を得た、氷を割るが如き
冴えた音を打つ者であった。

彼ら両人共に天下に名を得ていたが、威徳はやがて身罷った。

「然らば天下の太鼓打ちは道善一人に極まった。」

高安道善の門人たちは皆喜び、道善の宅へ祝いに訪れた所、彼は夜着のまま病人のように
臥せて、甚だ嘆息していた。門人たちが「これで天下一の太鼓打ちではありませんか」と語ると、
道善は言った

「お前たちは私の気持ちも知らず、ただ面前の事だけを言っているにすぎない。
世に太鼓の名人が亡くなってしまい、私は一体これから、何を目安に修行をすればよいのか。」

(士談)

519 :人間七七四年:2017/12/20(水) 05:23:10.68 ID:uRA/RJOj.net
岡本道加(清三郎)は元々、渡り奉公をしていた匹夫であった。この岡本はいつもこう言っていた

「私は常に神仏を神仏を信仰し、昼夜祈祷している。しかしその意趣は世間の者達とは
全く違える物だ。世の人々は皆、悪事災難に遭わぬよう、七難即滅七福即生の思いを成している。

私は、何とぞ悪事災難に遭わせてたまわれとだけ祈る。
何故なら、人の生死は限りあるものなのだから、悪事災難に遭って命を失ったとしてもそれは
定めである。
しかし命さえ全うするなら、悪事に遭い災難に遭って、心をもためし才も出して身のためとも致し、
武名をも挙げ功を顕すべ事である。

現在は天下静謐であるから、悪事災難を除いては何の働きをする場も無いではないか。」

(士談)

520 :人間七七四年:2017/12/20(水) 06:07:04.23 ID:QZLUeOTl.net
福島正則が士を愛した話はすこぶる多い。家老の木造大膳(長政)が
病気の時、正則は毎日行水して裃を身に着け、天照大神へ祈願をかけ、

「大膳をいま五年御助けおき下されば、代々神楽を献上します」という
願書を納めて、数十日精進したのだといわれている。

その愛情の深さは、この一事でも知ることができよう。また正則の兵の
強さもつまるところ彼が士心を得た故である。

彼に使われる者は一人として強兵でない者はおらず、一人として忠臣
でない者はいないというのは、当時すでに世に認められたところである。
この一事は他の諸将で決して及ぶ者がいなかったという。

かの伊奈図書(昭綱)の首所望も、思うにこの心より出たのであろう。

――『福島正則伝』

521 :人間七七四年:2017/12/20(水) 22:37:05.92 ID:uRA/RJOj.net
多賀豊後守高忠は元は近江の者で、京極の一族であった。
応仁文明の頃、京極持清は京都の所司であり、彼は多賀高忠を以って所司代とし、
京都のことを司とらしめ、公事訴訟に対処し、時の人は皆、彼の仕置を賞賛した。

ある時、召し捕えた者の中に、力量あってその人品必ず士たるべき者があった。
「この者には武勇の生まれ付きがある。」
高忠はそう言うと縄を解いて彼を赦した。しかしこの者はそれを喜ばなかった。
「このように縄目の恥辱に及んだ上は、早く斬罪されることころ本望に候。」
この言葉になお憐れんで、彼を赦した。

その後、この者がどうなったかは誰も知らなかったが、多賀高忠が身罷った後、
名も知れぬ者が彼の墓前にて殉死をした。
これを改めると、あの時赦した咎人であった。

(士談)

522 :人間七七四年:2017/12/20(水) 23:41:32.01 ID:ClbJXQZ1.net
声に出して読みたい武将名
多賀高忠

523 :人間七七四年:2017/12/21(木) 02:47:17.59 ID:iAHgmtDN.net
おおがこうちゅう

524 :人間七七四年:2017/12/21(木) 03:15:28.63 ID:fSmEqW7z.net
タカタカタッタカタ…

525 :人間七七四年:2017/12/21(木) 10:44:59.30 ID:DnNNVYbu.net
>>524
もう「ジャパネットたかた」でいいよ

526 :人間七七四年:2017/12/22(金) 09:13:13.30 ID:FpfjZlPw.net
滅びの言葉、バルス! ←短すぎ
滅びの言葉、たがたかだか、あれ、たがたかた、あれ、たががたがた ←滅びない滅びにくい!

527 :人間七七四年:2017/12/22(金) 13:52:35.12 ID:eMHCf5nW.net
ただがたがた

528 :人間七七四年:2017/12/22(金) 19:13:54.68 ID:CKRcIiGB.net
徳川家康が上杉征伐のため小山まで出陣の時、御供の小身衆の内に、妻女が患ったとの
知らせが届いた。そしてその話は家康まで聞こえた。
家康はその者に「早々に罷り帰るように。」と命じた。
この時家康は

「小身者の妻子が患っては、その家滅亡の端である。しかし合戦は今に限ることではない。」

そう伝えたという。

(士談)

徳川家は家族の看護休暇も奨励するホワイトな社風です。

529 :人間七七四年:2017/12/22(金) 23:17:27.69 ID:gForfx/V.net
変な話、他全員も「ウチも奥さんが病気なんです。帰らせて下さい」って言い出したら家康ははたして「いいよ」と言っただろうか

530 :人間七七四年:2017/12/22(金) 23:53:05.73 ID:/EONut+W.net
申告が事実かどうか確かめるくらいはするだろ

531 :人間七七四年:2017/12/23(土) 10:36:41.81 ID:juvFA36B.net
神君様のことであるから上杉征伐は合戦にはいたらないと見切っての余裕の処遇であったのである

532 :人間七七四年:2017/12/23(土) 14:06:23.06 ID:jQhcW3Gv.net
合戦こそ今に限る話だろうに、この場合は消化試合に近い余裕かね

533 :人間七七四年:2017/12/24(日) 15:41:46.13 ID:5U6+iqs7.net
普通に石田を誘うための高度な戦略でええやん

534 :人間七七四年:2017/12/24(日) 17:33:05.05 ID:c//5mowE.net
扇谷上杉氏の家臣である難波田弾正(憲重)は、武州松山に居城していたが、天文6年7月、
扇谷上杉朝定が北条氏綱によって川越城を攻め落とされると、この松山城に入った。
難波田は熱心にこれを補佐した。

7月20日、北条氏綱は松山に押し寄せ強力にこれを攻めたが、難波田は固く守り落城を防いだため、
氏綱は近隣を放火して兵を小田原へ入れた。
この戦いの時、北条家の家臣、山中主膳という者、難波田と戦ったが、難波田は軽くあしらうと
早々に引いた。山中はこれを追いかけつつ歌を叫んだ

「あしからじ よかれとてこそ戦わめ など難波田のくずれ行くらん」

難波田はこれを聞くと、古歌を以って返した

「君を置て あだし心を我もたば 末の松山波もこさなん」
(古今集。百人一首「契りきなかたみに袖をしぼりつゝ末の松山浪こさじとは」の元歌とされる)

(士談)

535 :人間七七四年:2017/12/25(月) 07:42:06.28 ID:Tmn6MQLZ.net
松山城歌合戦については、難波田城資料館が以下のように紹介している
http://www.city.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/11nanbadajyo/TV-TOKYO20111231.html
http://www.city.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/11nanbadajyo/files/nanbatajo-dayori49.pdf の3ページ目

536 :人間七七四年:2017/12/25(月) 09:42:05.44 ID:kXd3M8g5.net
三河において、壁書の条々を定められた時。百姓どもはこれを一向に用いなかった。
「如何したものか。」各々が対策を話し合った時、作左衛門重次はこのように言った

「土民はいろはですら、しっかりと知らない所に、硬い文言に古い言葉使いで高札を
立てたのだから、何を言われているのか解らないのだ。
教え方というものがある。私に任せられよ。」

そしていかにもまめに、いろはにて『何々のこと』と書き、『これを背くと作左が叱る』と
書き加えて出した。これ以降、国中の者達は法令を背かなくなったという。

(武野燭談)

537 :人間七七四年:2017/12/25(月) 10:12:44.36 ID:fy+bl4gg.net
内容についてはこちらを参照
作左三カ条(まとめの7735)

別バージョン
本多作左衛門重次、しかる・いい話(まとめの59)

そういえば昔「さ」「く」「ざ」「が」「し」「か」「る」「ぞ」
をみんなが一文字ずつ書いて完成してたな

538 :人間七七四年:2017/12/25(月) 12:51:46.80 ID:XbXTQwZe.net
正直も不律儀に移り


あるとき、浅野家の家老が参上して
「金奉行と扶持方奉行は相役を仰せ付けられるべきです」
と申したところ、浅野長政はそれを聞いて
「只今の通り、一人役では盗むと思ってこのように言うのだろうが
 我はかねがねその心得で、正直な人を選んで申し付けるようにしている。
 侍は己の勝手向きがどれだけ逼迫しようが盗みはしないものだが
 近世の侍は盗む侍もいるようだから、もしこの後相役を添えれば
 二人なら盗むと言う声が、いずれにせよ多くなるだけだろう」
 
「もっとも盗みをするのではないかと疑えば、この両役には限らないので
 この役も無心する、この人も覚束ないと言って相役にしていけば
 馬廻りの人数も次第に少なくなり、江戸詰に多く当たるようになれば
 馬廻りの侍が内心で"諸役人は楽でいい"と心得るだろう。そうなれば
 侍の志はきたなく、正直も不律儀に移り、どうにかして役人になれば
 差し当たって貧苦を逃れられるだろうと、正直を作り家老や出頭人に
 賄賂を贈るようになるだろう。このような風俗を心得ようとすることが
 国政仕置の要である」
と指図したという。


――『浅野考譜』

539 :人間七七四年:2017/12/26(火) 17:42:20.57 ID:0CHlz54H.net
榊原式部大輔康政は、尾州小牧山御陣の節、豊臣秀吉の不義を誹謗し、所々に高札を立てた

『秀吉は織田家取立の臣でありながら、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を亡ぼし、
今度は北畠(信雄)殿に敵した。誠に八逆罪の者であり、これに与する者に、どうして
天罰が無いだろうか。』

これに秀吉は大いに怒り
「榊原小平太を生け捕った者は、卑賤凡下を問わず、千戸侯を以ってこれを賞する」
そう諸将に伝えた。

その後、秀吉は関白なって京に在り、信雄を通して家康と和睦し、妹を送って縁を結ぶとの
事で、その準備が整うと、「三河殿より結納を遣わされたい。その使者に榊原小平太を
遣わされるように。」と所望した。
家康がこれを伝えると、康政は畏まって受け、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉は彼の旅館を訪れてこう言った
「今度私が汝を名指しして呼んだのは他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札を立てた憎さよ。私は汝の頸を一目でも見ることを願ったものだ。

しかし今、徳川家と縁を結びに至って、私は其方の忠誠を一入感じ入った。誠に武臣たる者の
実義は汝にある。私はこの事を直接言いたいがために汝を呼び寄せたのだ。
ただし、我が妹を遣わす結納持参の使者が無冠では如何かと思う。」

それから奏達あって、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて、この頃の徳川家諸将の
官名の多くは僭称であったが、この時康政が初めて式部大輔の位記口宣等を受領した。

秀吉より饗応もなされたが、相伴にと、先に徳川家を出奔した石川数正が、十二万石の大名として
秀吉によってあえて呼ばれた。しかし康政は終始数正と言葉をかわさず、その後御暇申し上げ
三河へと帰国した。人々は康政の節操に感じ入ったという。

(武野燭談)

540 :人間七七四年:2017/12/28(木) 09:43:56.19 ID:SVRKQu46.net
品川・川崎の間を流れる川を六郷といい、その上流は玉川であり、江戸の南第一の大河である。
また江戸と本所との間に流れる川は隅田川の末にして、これも又城東の大河である。
みな要害第一の設と見える。であるが、この両川の往来、渡し船を待つ旅人、行客の
難儀を計り、酒井讃岐守忠勝は推して申し上げ、大橋を架けた。

「御用心向き如何か」
そう言う人があったのを、讃岐守は笑った

「天下の将軍は、人を以って城とし、人を以って垣とする。
その人を難儀させてしまっては、城にも垣にもならず、何の用にも立たない。
そもそも川を以って敵を防ぐような政道に成り下っては、江城は一日も守れないであろう。
ただ諸人が迷惑しないように仰せ付けられるこそ、第一の善政である。」

(武野燭談)

541 :人間七七四年:2017/12/28(木) 11:16:09.20 ID:TGrYJby2.net
大井川はいいのか?

542 :人間七七四年:2017/12/28(木) 16:14:17.67 ID:iZWLj2wC.net
江戸川も

543 :人間七七四年:2017/12/29(金) 00:44:05.29 ID:rMgdWzCk.net
大井川に架橋って防衛目的もあったろうけど、技術的に大変そう
蓬莱橋なんか平成に入ってからも何度もぶっ壊れてるし

544 :人間七七四年:2017/12/29(金) 14:10:25.04 ID:/1erROHT.net
大津の代官である小野半之助が、酒井讃岐守忠勝に申し上げた。
「勢多は海道往来の橋であり、殊に古代よりの名橋でありますが、現在では殊の外古く、見苦しく
なっております。ここ2,3年のうちに架け変えられるべきであると考えます。」

忠勝はこれを聞くと
「その橋が破損して、往来の人々が怪我や事故の危険があるのなら、どうして2,3年など待とうか、
早速に架け直すべきである。しかし修復によって持ち怺えられるのならば、修復で済ませるべきだ。

総じて橋というものは、『御代静謐久しく、この橋は何代にわたって伝わっている。』などと
言われるものであってこそ、兵乱の無い、天下静謐の印となる。

古びて見苦しいからと言って、改め造るべきではない。」

(武野燭談)

545 :人間七七四年:2017/12/29(金) 14:28:05.56 ID:/LKuYwzf.net
>>544
毎年年度末になると大して痛んでもない道路を舗装して予算を消費する現代の政治家に見習って欲しい。

546 :人間七七四年:2017/12/29(金) 14:30:41.94 ID:LnqXQjAm.net
政治家はドカタのバイトでもしてるのか?

547 :人間七七四年:2017/12/29(金) 14:43:31.79 ID:QiWPbY9p.net
>>545
それは舗装が目的じゃなくて水道、ガス、下水などのメンテだ。

548 :人間七七四年:2017/12/29(金) 17:58:27.71 ID:hSRdluK6.net
>>545
電線を埋める工事もやってるぞ

549 :人間七七四年:2017/12/29(金) 21:05:12.09 ID:aDvRL7jL.net
勢多の橋というと織部の擬宝珠の話が思い出される

550 :人間七七四年:2017/12/30(土) 22:38:38.22 ID:aGIvmbNZ.net
今川義元が、桶狭間で討死した時のことでした。
義元の臣松井五郎八郎(宗信)は、あまりのことに茫然として落ちのびてゆく途中、井伊信濃守(直盛)に遭いました。
「いずこに行かれる。」
と、松井宗信は声をかけました。
「本陣にまいり申す。」
「御無用でござろう。大将は討死でござるぞ。本陣もすでに総崩れでござる。拙者たしかに見届けてまいり申した。」
松井宗信の悲痛な声を井伊直盛は、にっこりうけて、
「お言葉ではござるが、拙者は兄肥後守(直親?)の命をうけて、本陣に見廻りに参るものでござる。味方総崩れと聞いて、このまま立ち帰っては、
兄にもうしわけござりませぬ。敗軍を見物して逃げ戻ったなどと言わるるも本意でござらぬ。」
こういいながら進むのでした。
「お待ちくだされ。」
松井宗信は井伊直盛に追いすがりました。
「お言葉御もっともでござる。思えば拙者ここまで落ちのび申したが、武士として潔からぬことと思いつき申した。
この上は、ご一緒に引き返して、武士らしく、最後の一戦いたしとうござる。」
「拙者と同道なされるか。」
二人は、馬をならべて、本陣の方へ駆け出しました。蹄の音が、野面にかつかつと響きわたりました。
しかし、二人の健気な振る舞いも、大勢を覆すなんの役にも立ちません。
渦巻く硝煙のなかに、別れ別れになった二人はやがて後に、叢を染めた二つの死骸となっていたのでありました。
死場所を得ることは、武士の最後を飾るものであり、これあってこそ武士道が確立されるのであります。
「武士道とは死ぬことなり」という武士道の鉄則は、こうしていついかなるときもまもられるのであります。

『明良洪範』(良将言行録)

551 :人間七七四年:2017/12/31(日) 02:30:08.57 ID:NdEwIQCr.net
葉隠の作者が言ってるのとはやや意味が違っている気がする>「武士道とは死ぬことなり」

552 :人間七七四年:2017/12/31(日) 11:29:45.16 ID:R8OCKHGT.net
明良洪範は元禄の頃(1688ー1704年)に書かれたもので、
葉隠は1716年頃のもので当時は一般的には受け入れられなかったからね

553 :人間七七四年:2017/12/31(日) 11:35:34.95 ID:mOqI3VfN.net
まとめの7007
「血気の勇であった」だと、良将言行録では上の話の紹介の後

>井伊は弟であって家督ではないから義による本意の討死である。
>しかし松井が討死したのは軽率であった。この人には父がいたが子はいない。
>終いには跡目は断絶し、七十余の父は武田に生け捕られて老後の恥辱を受けた。
>これは五郎八郎の不孝である。
>
>初め大将討死の場にて松井が共に死ぬのは士の道であったが、墓場とすべきところ
>でもないのに井伊の言葉に従って父のことを思わず引き返したのは血気の勇であった。

って書いてるな

554 :人間七七四年:2017/12/31(日) 11:37:29.20 ID:mOqI3VfN.net
てよく見たらまとめと同じ良将言行録だった
活字化されたのが明良洪範だったのか

555 :人間七七四年:2018/01/01(月) 07:26:46.90 ID:e/F9/q5y.net
誰のエピソードだったか思い出せなくて、知ってる人居ないかな

単身で伝令役として敵の城に行った際、
逃げずに役目をちゃんと果たした事を証明出来るように、
鎧?を置いてったっていうエピソードなんだけど

556 :人間七七四年:2018/01/01(月) 11:10:31.94 ID:d70Ojd9I.net
>>554
明良洪範と続編を再編集したのが良将言行録だったかな
要は異本だね

557 :人間七七四年:2018/01/01(月) 22:31:44.45 ID:RsVfPdse.net
「良将言行録」は、真田増誉の著述にかかる。
慶長元和に始まり、徳川五代将軍綱吉の頃に至る、名将及び武士の言行事跡が挙げられている、
十巻にまとめてあるが、同じ著者の「明良洪範」四十巻中の抄出といわれる。

558 :人間七七四年:2018/01/03(水) 00:12:42.24 ID:roPPjTax.net
浅井下野守(久政)が、小谷城にて切腹の時、舞の名人である鶴松太夫という者、
日々の相伴にも外れないほど、久政より寵愛を受けており、

「この度も御相伴仕るべく候」

そう言うと、最後の酒宴を行い、久政の介錯を遂げると、その身が「同座を汚さんことは
恐れあるに似たり」と、縁の下へ降り、腹を掻き斬ったという。

譜代重代の侍であっても、このような時には降参不義の心出来るというのに、
その身はそういった役では無いにも関わらず、日々の恩を感じ義を思い、
死を快く致したのであり、めったにないことである。

(士談)

559 :人間七七四年:2018/01/03(水) 23:17:42.30 ID:BP2J77Zv.net
>>550
この二人の会話、どうやって後の世に伝わったのか気になる

560 :人間七七四年:2018/01/04(木) 00:30:29.50 ID:2tRca7P/.net
中間辺りが聞いてそのまま逃げたんだろ

561 :人間七七四年:2018/01/04(木) 05:33:40.83 ID:hAfKTC9U.net
>>559
ここは逸話を紹介するスレであって、それが真実かどうかを検証するスレじゃない

562 :人間七七四年:2018/01/04(木) 08:08:45.53 ID:9IhVluh/.net
>>561
気になっただけで検証とか言い出したら、定番の上野介さんさえ出てこれなくなっちゃうよ

563 :人間七七四年:2018/01/04(木) 12:45:42.46 ID:Qlprx8oR.net
検証じゃなく感想レベルのことやんな

564 :人間七七四年:2018/01/04(木) 22:29:33.72 ID:midqhiQE.net
>>558
殉死は譜代の重臣よりむしろ
身分が低くても主君の傍で仕えてた者が殉ずることが多いらしいな

565 :人間七七四年:2018/01/05(金) 21:09:25.99 ID:GQe9Igv/.net
織田信長のもとに、美濃侍で元は斎藤道三に仕え、度々戦功のあった平野与兵衛という勇士が
招き召された時、この平野に近付きになろうと、織田家の諸士がこれを訪ねた。
道化清十郎も彼の所に至りて対面し、このように言った

「平野殿の事は隠れも無き儀であり、当家にも招かれた以上、今後別して御意を得、
御指引にも預かりたいと思っています。」

これに平野
「思いのこもった仰せです。私は他家にあったとは言いながら、斎藤の家は御当家とも
縁がありますし、今後は御指図も請けたいと思います。
…ところで貴殿のお名前は?」

「私は当家でこれといった者でもありませんので、名乗るのもいかがと思いますが、
お尋ね故に申します。私は無双道化と申す者です。」

「さては聞き及ぶ無双殿でありましたか、初めて面謁いたしますが、久しくその名は伝え聞いて
おりましたので、久しき知音のように思います。」

この時道化は尋ねた
「非常に粗忽な質問だと思いますが、平野殿はいつでも、攻めかかるときは先駆け、
退く時には殿と、先駆け殿を毎回勤められていると承っています。こういったことは、
若輩として承っておきたい事です。我らもそういった働きを致すこともあるでしょうから、
その心がけを知りたく、仰せ聞かせて頂けないでしょうか?」

平野はこれを聞くと
「結構な質問だとい思います。ただ私は、何であっても存ずることがあって仕るという事は
ありません。

斎藤の家の子たちは、度々の取合いに、冥加に叶う者達は、先に先に、討ち死にしました。
私などは生き残ってしまった故、何とぞ重ねての戦にては必ず討ち死にを仕ろう。そう考えて
いるのですが、武勇が足らないゆえでしょうか、度々死を逃れ今日まで永らえ、つれなき命を
全うして、このようなお尋ねに出逢ってしまいました。恥ずかしいことです。」

道化はこれに
「平野殿の只今の御返答を承って、さても深切な事と存じました。
先駆け殿の事は、真に必死と志さなければ、勤め難きものなのですね。」
そう、感じ入ったという。

(士談)

まとめ1544の「俺は断じて及ばない」の、詳しいバージョンですね

566 :人間七七四年:2018/01/05(金) 21:15:57.17 ID:dyTR67CM.net
無双

567 :人間七七四年:2018/01/06(土) 10:49:22.73 ID:tN0W00nI.net
>>892
星野監督ちょーびっくりした
突然すぎ

568 :人間七七四年:2018/01/06(土) 13:07:28.70 ID:b26EW6jH.net
!?

569 :人間七七四年:2018/01/06(土) 14:32:54.26 ID:RsfY1ndy.net
信長の生まれ変わりとか言ってた闘将か

570 :人間七七四年:2018/01/06(土) 21:21:50.09 ID:V+zRlDZ1.net
>>566
信長が、道化清十郎の武功を賞賛して、彼の旗指し物に「無双道化」と書いたそうな。

571 :人間七七四年:2018/01/07(日) 02:14:08.14 ID:ebDivhX9.net
星野はGM属性で個々の戦闘指揮はそこまで上手くない
スペシャリスト型ではなくて、金引っ張ってきて戦力を整えるタイプだから信長と似てるといえば似てる

572 :人間七七四年:2018/01/07(日) 11:37:57.12 ID:VwI2FTqO.net
闘将じゃなくて統症だったか

573 :人間七七四年:2018/01/07(日) 15:29:55.51 ID:1W/VvMEw.net
>>564
譜代の重臣が追い腹でポコポコ死んだら困るわな
一緒に死んでくれって駄々こねた謀将さんもいるけど

574 :人間七七四年:2018/01/07(日) 17:13:42.85 ID:I2+XP7nd.net
浅井の御娘は秀忠に


良正院殿智光慶安大禅定尼 ふう姫君様は権現様(家康)の姫君で
台徳院様(秀忠)の御姉、御母は西郡殿。初めは北条氏直に嫁がれたが
(氏直と死別した後)秀吉が権現様に
「池田三左衛門輝政が無妻になっているので、淀殿の妹(お江)と
 縁組するのがよいだろうか」
と御相談したところ、権現様が
「願わくば浅井の御娘は秀忠に御縁組されるように、三左衛門輝政には
 私の娘を嫁がせますから」
と仰せられたので秀吉はもっともに存じ、その段を輝政公に申し渡され
文禄三年八月十五日、姫君様が参州吉田に御入輿になられたという。


――『因州鳥取慶安寺略記』

575 :人間七七四年:2018/01/08(月) 09:57:48.58 ID:bdvzPBDu.net
或る年のこと。紀州大納言徳川頼宣は、朝顔の花で午の刻(正午ごろ)まで美しく咲いているのを
見つけると、これを母である養珠院の御目にかけようと遣いを出した
「朝日を待つ間の花と言われていますが、このように盛ん久しく咲いております。」

養珠院はこれへの返答に
「珍しき槿花の事が書かれていましたが、花も養い方次第で、このように久しく咲かせることが
出来るのなら、あなたの御身も養生次第で長生あるべき事でしょう。
あなたは若き人ですから、壮年の頃より養生されれば、きっと長命を得るでしょう。
家中を養うのも、花の手置と異なることがあるでしょうか?
ついでながら申し入れました。」
そのように教訓された。

この事を後年、頼宣はいつも語っていたという。

(武野燭談)

576 :人間七七四年:2018/01/08(月) 15:23:13.38 ID:5cwNbSx6.net
正直ウザい母親だと思ったw

577 :人間七七四年:2018/01/08(月) 16:18:41.27 ID:MXGBOqy6.net
自分から報告しに行って何言ってやがる

578 :人間七七四年:2018/01/11(木) 17:19:16.21 ID:b5taQZdQ.net
小田原の役でのこと。
徳川家康重臣・榊原康政の家臣である伊藤顔助は、大磯の切通の近辺に出て、小田原城に
出入りしようとするものを防いでいたが、下総国住人・山岸主税介という者
、籠城に
参加しようと出てきたのを、伊藤が発見し追い詰め戦っていた所、味方の武士も続いて、
遂に生け捕った。

山岸は家康の意向の元、豊臣秀吉の元に遣わされた。
秀吉は彼から詳しく関東のことなどを尋ねると、そのまま家康に返還された。

家康は山岸に言った
「お前の命を助ける。今後我らの味方に属すように。」
しかし山岸は、伊藤顔助を通してこう申し上げた

「大変な御恩だと思います。しかし私は、やはり小田原城中に入りたいのです。」

この望みを聞いて家康は
「今、一人が新たに入城したとして、何ほどの事もない。」
そう言って、山岸が小田原城に入ることを許した。

しかし家康の陣所を出た山岸が小田原城に入ると、城中の者達は彼が体の数カ所に
傷を被っているのを不審とし、敵に誑かされたのではないかと、彼を牢に入れた。

北条氏直が降伏し、小田原城が開城すると、榊原康政が城を請け取り、掟を出して
混乱を防いだ。この時、牢の中に山岸主税介が居ることを知り、彼を獄より出すと、
自らの配下として二百石を与えた。

山岸が小田原城に入った事は、高い志有る話として評判となり、後に三河黄門(結城)秀康が
彼を千石の録を以って招いたが、山岸はこれを受けなかった。
彼は二度にわたる恩に感じ、一生小知のまま、榊原家にて全うしたという。

(士談)

579 :人間七七四年:2018/01/12(金) 16:25:20.74 ID:/jyzK9dg.net
宮部善祥坊(継潤)は、元々近江国宮部の者であった。この宮部は比叡山領だった所であり、
でおよそ三千石、当時この善祥坊を含め3人が領していた。堀氏もその一人であった。

善祥坊は浅井氏にに仕え、堀などと共に織田信長への押さえとして置かれていたのだが、
心変わりして信長に通じた。

しかし、宮部は前々から浅井より疑われており、信長に通じたことを知られれば、浅井によって
妻子尽く殺される事確実であり、家臣の友田左近右衛門を遣わし、早々に宮部より引き取らせるよう
命じた。

この時友田は「御証文を遣わさねば、ご家族は同心して頂けないでしょう」と申し上げると、
善祥坊「そういう事ならば、かねて合言葉が決めてある。この合言葉を言って聞かせよ」
そう言い付けた。

友田は急ぎ宮部に向い、善祥坊の家族をここより引き取ることを伝えたが、案の定
同心してもらえなかった。そこで合言葉を出すとたちまち同心し、妻子を問題なく引き取った。

この時、友田は父の家の前を通ったのだが、行く時も帰る時も父に告げることはなかった。
行きに告げなかったのは、大事の使いの故であり、帰りには知らせようと思ったのだが
事が多聞に漏れては大功成りがたしと考え直し、知らせることを止めた。

その翌日、小谷より未だ浅井の軍勢の向かわない内に、織田家の軍勢が宮部村を接収したため、
宮部の人々には別状無かったという。

(士談)

580 :人間七七四年:2018/01/12(金) 18:29:27.36 ID:jf5269Wz.net
>>579
合言葉が気になるじゃねーか!

581 :人間七七四年:2018/01/13(土) 23:13:32.92 ID:C3mIsWFd.net
大阪夏の陣の時、家康の軍勢が京より出陣する朝、各々行粧を調え、御先手より段々に
押し出す所、板倉伊賀守(勝重)は長袴の裾を繰り上げ、家康の乗馬の、轡の水付きを取って
「今日の御出陣は、是非に思し召し止まらせ給え」
と、引き止めた。

これに家康は甚だ機嫌を悪くし

「臆れ者、それを放せ!」

そう叱りつけたが、板倉は重ねて
「なるほど、臆れ申しました。腰は抜けていても、先ず今日は御滞留遊ばすべし!」
そうしきりに引き止め、遂に家康も出馬を思いとどまった。

その日、京都所司代は京市内で、火付けをしようとするなどした大阪与力の党類を、
多く召し捕った。

これを伝えられ、家康の機嫌は直ったという。

(武野燭談)

582 :人間七七四年:2018/01/13(土) 23:43:52.36 ID:69AohDFt.net
ゲヒ殿の手のもの?それとも別口かな

583 :人間七七四年:2018/01/16(火) 20:16:16.91 ID:MbHaaBOA.net
父勝重の後を継いで京都所司代となった、板倉周防守(重宗)の元に、茶屋の長吉
(初代茶屋四郎次郎清延三男)が伺候した時、こんな事を聞いた

「私の事を悪し様に言う批判が有れば聞かせてほしい。心得に成ることなのだから。」

すると長吉
「そういう事でしたら、公事判断の時、非分と考えられる方を、周防守様は
お叱りに成ります。そのため非分は益々立場が無くなり、自分の側の理屈すら
申し上げることができなくなる。世間でそう沙汰しているとのことです。」

「そうだったのか。よくぞ申してくれた。聴所に出て公事を裁配する時、非分を申してくる
者の面差しが、益々以って憎くなり、叱り怒ってしまうのが私の癖だ。
成る程、私の威に恐れて、自分の弁護を言えなくなる者もあるだろう。よく気をつけねばいけない。」

それ以降は、聴所に茶臼を置いて、訴訟人の顔を見ず、茶を引きながら気を静めて
公事を進めるようになったという。

(武野燭談)

584 :人間七七四年:2018/01/17(水) 10:18:28.01 ID:9wVfMS0p.net
まさかの茶臼登場

585 :人間七七四年:2018/01/17(水) 13:21:21.15 ID:x+gMFrdA.net
きっとおヒマだったのだろう

586 :人間七七四年:2018/01/18(木) 20:07:18.19 ID:kApnLLZB.net
真田安房守昌幸の次男、左衛門佐が大阪城に入城した。
幕府は安房守の弟である真田隠岐守信尹を以って、冬の陣和睦の後こう伝えた

『達って我らの方に参るように。然らば大禄が下されるであろう。』

左衛門佐は申した
「最前、高野山にて蟄居の間、私は様々に御家への仕官を望みましたが、御許容有りませんでした。
今回秀頼公に頼まれ、ここに参り籠城したのも、本意ではありません。
また大阪の籠城が、最後には利があると見込んでいるわけでもありません。

しかし、一旦武士が約束仕ったことを違変するのも本意ではありません。
ですので幾度仰せになられても、同心することは出来ません。
もし不義をかまえ、無道を致して降参してしまえば、そんな私に微官微録であっても
下されるのは、そちらにとって益のないことです。
大録を下されると言うのも、私がこの義を守っている故でしょう。」

後に、信尹が左衛門佐を呼び寄せこの事について談じたが、重ねては兎角の返答もなく
「義のある所には、天下にまた天下を添えて賜るとしても、それで心が動かされることではないのです。」
そして
「暑くて汗が出るのです」と、大肌を脱いで小姓に汗を拭かせたが、この時
「頸の周りをよく拭くように。やがて頸となって、家康公に対面するのだからな。」
そう笑いながら言ったという。

(士談)

587 :人間七七四年:2018/01/23(火) 00:13:15.55 ID:XYFiAA4T.net
関ヶ原の役、西軍による伏見城攻めの時、惣郭はたやすく破れたが、本丸において激しい抵抗が
行われた。ここで小早川秀秋重臣の松野主馬が、一人立って下知をし、そこに向かって城より矢弾が
雨のように降り注いだ。

瀧権右衛門という者、主馬の振る舞いがあまりに傾き、猛々しいと、両手で主馬を
押し据えた
「大将がこのように傾いては、諸卒にも手負いが多く出ます!」

ところがこの時、主馬を押さえつけていた瀧の両手に銃弾が当たり負傷した。
しかし主馬に当たることは無かった。

(士談)

588 :人間七七四年:2018/01/23(火) 07:36:00.58 ID:yWfCI47D.net
>>587
これはどっちか言うと悪い話のような…

いつの時代も上司が妙に張り切りすぎると部下が割をくうんだなあ

589 :人間七七四年:2018/01/23(火) 07:51:42.48 ID:5r6YpFWm.net
蒲生氏郷「せやな」

590 :人間七七四年:2018/01/23(火) 17:07:51.52 ID:jffKaeJ3.net
かぶくのを悪く言う奴にはバチが当たるいい例

591 :人間七七四年:2018/01/24(水) 05:54:22.06 ID:oHBascNf.net
北条左衛門大夫(綱成)家中に、相州甘縄の住人、三好孫太郎という勇士があり、彼は指物に
提灯七つを付けており、「孫太郎が七つ提灯」と言って、隠れない物であった。

そのころ松山肥後守寄騎に山下民部左衛門尉という者がいたが、彼の指物は六つの提灯であった。

天正十三年の秋、北条氏直と佐竹義宣が下野において対陣を張り戦ったが、この時、
三好孫太郎は山下民部の六提灯の指物を見て馬を寄せ、尋ねた

「其方の指物に、何か仔細はあるのか?」

「提灯に何の仔細があるものか。我の好みだ。」

これを聞くと孫太郎は憤った
「武功を積まずして六ッ提灯は指して良いものではない!あれは天文十五年頃、上杉と
北条氏康公が武州において合戦した時、私は一番槍の誉れあり、氏康公より褒美の感状があり、
その時私は、一つ提灯を指物として頂いた。その後また忠ありて、二つ提灯を指す。三度功ありて
三つ、四度五度六度七度駐禁を抜きん出て、重ね重ねの功により、この七つ提灯を授かったのだ。
故に、孫太郎が七つ提灯と名が付けられ、関八州に隠れないものとなったのだ!」

馬上にてこのような問答となった。

その日の競り合い戦に、佐竹方に大石八郎という者、釣り鐘の指物を指すていたが、彼は名乗りを
上げると

「諸人に先立ち、我と思わん者あらば組んで腰部を決せよ!」

そう言って長刀にて斬って回る所に、山下民部馳せ合わせ、馬上から組んで双方落馬した。
民部は大力であったので、八郎を組み伏せ首を取った。

この時、ふと気が付き、自らの指物のうち、提灯五つを切り捨て、一つ提灯にして指した。
人々はこれを見て、「民部左衛門は問答してから時を移さず誉れを顕し、一つ提灯を指すこと、
かつて聞いた孫太郎の武勇にも劣らない!」
そう賞賛したという

(北條五代記)

592 :人間七七四年:2018/01/24(水) 23:37:21.30 ID:ztqaLHlA.net
ちょっとカッコいい話だな

593 :人間七七四年:2018/01/25(木) 00:34:38.71 ID:kYpqHmCq.net
山下(あっこれ面倒くさい人だ、次にアピールしとかないとなあ)

賞賛してるのが人々で、三好さんの評価が無いのも気になる

594 :人間七七四年:2018/01/25(木) 10:42:23.28 ID:/wkT3dlw.net
永禄7年正月8日、下総国国府台において、北条氏康と里見義弘の合戦の砌、敵味方入り乱れ
氏康の下知も聞こえぬほどとなった。

ここで氏康は「加美」と名付けた黒き馬に乗り、白柄の長刀を持ち駆け出した。
そして剛敵を三十騎斬り落として猛威を振るい、合戦に勝利を得た。

この時、彼は身に鑓刀の傷七ヶ所、頬先に太刀傷をうけた。
この事があってより、侍の顔の傷を、人は称して「氏康傷」と言うようになった。

(北條五代記)

595 :人間七七四年:2018/01/25(木) 12:58:29.71 ID:vTmFWARm.net
てことは身体に残る傷を受けたのはこの時だけなのか

596 :人間七七四年:2018/01/25(木) 13:14:36.37 ID:aJgje1Yo.net
まとめの3410の「上杉龍若丸の処刑」
だと、風林火山では上杉憲政の息子と一騎討ちして氏康傷つけられた、てことにされたんだっけ
しかし自分の息子殺されてるのに氏康の息子を助けようとして
養子の養子に殺される元関東管領さんは憐れすぎる

597 :人間七七四年:2018/01/26(金) 10:47:43.77 ID:d6wQLa55.net
>>596
因縁ある上杉憲政がそれでも推せる人物だったんじゃねえの上杉景虎
越後衆でもないししがらみなく客観的に人物見られたと思う

598 :人間七七四年:2018/01/26(金) 11:01:12.86 ID:LvwdCRRO.net
越後での「お館様」は憲政で、結構生前の謙信にも抑えられないところはあったみたい

599 :人間七七四年:2018/01/26(金) 12:04:15.69 ID:WuemNIBu.net
山内上杉の憲政が屋形様って変な感じするけど

600 :人間七七四年:2018/01/26(金) 12:14:43.83 ID:LvwdCRRO.net
謙信も屋形号下された割には尊称が「御実城様」やし

601 :人間七七四年:2018/01/26(金) 12:23:34.13 ID:3Opyz5ir.net
>>599
謙信への宛名が山内殿だからなぁ
憲政は前当主として遇されてますわな

602 :人間七七四年:2018/01/30(火) 00:01:56.39 ID:Oi0Wy28c.net
秀吉の九州征伐における、豊前岩石城攻めにおいて、蒲生氏郷の家臣、蒲生小番(のち源左衛門と称す)
が、秀吉より一番乗りの軍功の褒美として、御腰の物を賜る折、小番は申し上げた

「岩石城への一番乗りは、栗生美濃と申す者でしたが、彼は黒い吹貫の指物であった故に、御前の
御目に立たなかったのだと思います。
私は白い吹抜を指していたため、遠くより目立ったのでしょう。だからこそこの御褒美に預かったのだと
思います。

一番乗りの御褒美ということであれば、栗生にこそと存じます。
また、そうではなく私自身の働きに対して御褒美ということであれば、もちろん拝領仕ります。」

秀吉は彼の正しさに感じ入り、腰の物は栗生美濃に与え、蒲生小番には、別のご褒美を下した、
とのことである。

(士談)

603 :人間七七四年:2018/01/30(火) 00:15:47.26 ID:VG1Khv5j.net
ガモウコバンでええの?

604 :人間七七四年:2018/01/30(火) 05:44:12.20 ID:7JuNmf3l.net
警固の大番、近侍の小番からでしょう
だから"こばん"でいいんじゃないのかな

605 :人間七七四年:2018/01/30(火) 14:25:48.01 ID:8oUjZAlC.net
<家格>「小番太刀」由来

http://www.ito-ke.server-shared.com/kobantati.htm

「薩摩藩の職制表」の解説には、「小番」(こばん)とは「一所持(宗家子孫の私領持ち)または家老を務めた家の子孫」とある。

606 :人間七七四年:2018/01/31(水) 11:08:35.78 ID:gVpdezjR.net
誰かと思ったら蒲生郷成のことか

607 :人間七七四年:2018/01/31(水) 21:15:51.95 ID:7P22KCkA.net
野木の次左衛門という者、元は美濃斎藤家の侍であり、芋がら畠の鑓合いの時、澤の喜蔵が
一番に鑓を合わせたという事があったが、この時喜蔵は

「一番は次左衛門である。私ではない。」

そう言って否定した。そのため次左衛門を呼び出し、この軍功の詮議が行われたが、
次左衛門の方は

「一番は紛れもなく喜蔵である」

という。ここで澤の喜蔵は申し上げた
「確かに、鑓は私のほうが早く仕りました。しかしそれは、次左衛門が母衣を締め直していたのを見て、
私が先に乗り込んだのです。ですので実際は、次左衛門こそが一番なのです。」

喜蔵の答えを、人々はみな美談であると讃えた。

(士談)

608 :人間七七四年:2018/02/01(木) 11:43:34.46 ID:GfisAjrZ.net
めんどくせえなあ
じゃあ俺が!って言ったら睨むのやめてくれないか

609 :人間七七四年:2018/02/03(土) 10:39:52.82 ID:Wka7mPI2.net
関八州に鉄砲始まること

昔、相州小田原に玉瀧坊という、年寄りの山伏が居た。愚老(三浦浄心)がまだ若かった頃、
その山伏からこんな話を聞いた。

「私は関東より毎年大峰に登るのだが、享禄(1528年8月20日〜1532年7月)の始まる年、
和泉の堺へ下った折に、大変な鳴り物の音がした。これは何事かと問うた所、鉄砲という、
唐国より永正七年(1510)に初めて渡ってきたのだ、そういって標的を撃った。
私はこれを見て、さても不思議奇特なるものかと思い、この鉄砲を1挺買い取って関東へ
持って下り、当時の屋形であった北条氏綱公へ進上した。そしてこの鉄砲を試射をご覧になると、
『関東に類なき宝である』と、秘蔵された。」

この事を近国他国の、弓矢に携わる侍たちが聞くと、『これは武家の宝である。昔鎮西八郎為朝は
大矢束を引く、日本無双の精兵で、弓の威力を試みるため鎧三領を重ね木の枝にかけ、六重を射落とした
ほどの強弓であったという。保元の合戦で新院(崇徳院)に味方し、八郎一人あって多くの敵を
射殺し、そのため数万騎にて攻めても、その矢を恐れ、院の御門を破ることは出来なかったという。

現在では、弓があっても良き鎧を着けていれば恐るるに足らない。しかしなんといっても、
かの鉄砲は、八郎の弓にも勝るものなのだ。所帯に変えても、一挺欲しきものだ。』

そう願っていた所、氏康公の時代に堺より國康という鉄砲張りの名人を呼び下された。
また根来法師の杉坊、二王坊、岸和田などという者たちが下ってきて、関東を駆け回り鉄砲を教えた。
このような事があって、現代では人ごとに一挺所持している、というような状況となった。

そうして、あの北条氏直公の小田原籠城の時(小田原の陣)、敵は堀際まで押し寄せ、海上も隙間なく
船で包囲した。秀吉は小田原城の西に山城を築き、、小田原城を目の下に見てこう申された
「この秀吉は何度も合戦城攻めをしたが、これほどの軍勢を揃え、鉄砲を用意した事は初めての
幸いである。時刻を定めて、一度に射撃させ、敵味方の鉄砲の様子を観察したい。」
そう、北条方へよびかけた。双方同意し、五月十八日の夜、双方数万挺の鉄砲にて一斉射撃を行った。
これにより盾も矢倉も残り無く撃ち崩されたという。

北条氏直の方も、関八州の鉄砲を兼ねて用意した上で籠城をしたのであるから、敵には劣るまじ、
鉄砲比べせんと、矢狭間一つに鉄砲三挺づつ、さらにその間に大鉄砲を設置し、浜手の衆は船に向けて、
海際まで出、日が暮れるのを待つと、十八日の暮れ方より撃ち初め、敵も味方も、一晩中に渡って
射撃し続けたため、天地振動し月の光も煙に埋もれ、まったくの暗闇となった。
しかしそれにより、射撃による火の光が一層現れ、限り無く見えること、満天の星のようであった。

氏直公は高矢倉よりこれを遥かに見て、狂歌を詠まれた

『地にくだる 星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄砲の火を』

これを口にした所、御前に従う人々が
「御詠歌のごとく、敵は堀辺の草むらに、蛍火が見え隠れするようです。城中の鉄砲は
さながら星、月夜に異なりません。」

そのように語ると、氏直公はニコニコと笑みをお見せになられた。
愚老は相州の住人であった。小田原に籠城した時の事、今のように思い出される。

ともかく、鉄砲は永正七年に唐国より日本に渡り、それ以降繁栄し、この慶長十九年までで
百五年である。関八州にては、享禄元年より今年まで、八十七年となる。

(北條五代記)

一般に言われる、鉄砲記の天文12年8月25日(1543年9月23日)伝来説からは、33年も遡っていますね。

610 :人間七七四年:2018/02/03(土) 11:27:55.53 ID:t7jLHXY4.net
イゴヨサンガホシイテッボウ

611 :人間七七四年:2018/02/03(土) 11:36:10.42 ID:bwluwx56.net
一斉射撃だなんて粋だねえ

612 :人間七七四年:2018/02/03(土) 14:05:47.02 ID:T8vcZ8Wi.net
まとめの1077に
北条氏康が12歳の頃鉄砲の音聞いて驚いて笑われた話があるけど
これはその鉄砲かな

ポルトガルの文書だと1542年だっけ、鉄砲伝来は

613 :人間七七四年:2018/02/03(土) 17:26:41.43 ID:6A/dZne6.net
いわゆる鉄砲伝来は欧州からのマスケット銃が伝来した史実を指す。
一方、東アジア及び東南アジアでは中国発祥のマスケットである鳥銃が広く普及していて、これが日本に部分的に伝来していた可能性は以前から指摘されている。
というか16世紀中盤時点で銃を知らなかった文化ってアジアでもフィリピンと日本だけなんじゃないか。

614 :人間七七四年:2018/02/04(日) 11:42:28.57 ID:RnpmeMsj.net
どうして一張の弓をもって


(池田輝政の)船奉行、菅若狭*1は雪荷*2が村取り*3した良弓を持っていた。
国清公(輝政)がそれをご覧になり
「さても引き心地のよい弓かな」
と言われたので数日弓を留め置いた後、弓を返した。

そのとき(若狭が)この弓を大久保何某に贈ってしまったので(輝政の家臣の)
中村主殿がこのことを、(輝政と)話をしたときに何気なく申し上げたところ
(輝政は)意外にもお怒りになり、悔しいことと仰せられた。

丁度そのとき菅が出仕してきたため、伺候していた者は手に汗をかいたが
(輝政は)菅を呼び出すと、普段より懇ろに菅と談話され、鴨の羹を与えられた。

その夜、主殿が伺候して
「あのように気遣いされるのは、御軽薄なことです」
と申すと、国清公は笑われて
「どうして一張の弓をもって、勇功の士に換えられるだろうか」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記』

*1 淡路水軍の菅達長の次男で小早川秀秋に仕えていたが、その死後輝政に仕えた。
*2 弓術の流派、日置流雪荷派の祖の吉田雪荷のこと。
  雪荷の村取りの技術は天下に名高いと言われていた。
*3 和弓の額木や関板を鉋や小刀で削って仕上げること。

615 :人間七七四年:2018/02/04(日) 19:05:07.80 ID:7bntfjjr.net
キリスト教:1世紀前半にできて、日本伝来は1549年(1500年くらいかかった)
鉄砲(マスケット銃):15世紀前半にできて、日本伝来は1549年(100年くらいかかった)
梅毒:1492年くらいにヨーロッパ人が感染し、日本伝来は1512年(20年くらいかかった)

宗教、武器、性病の伝来順序が西欧に現れた逆なのが面白い

616 :人間七七四年:2018/02/04(日) 22:46:11.25 ID:C2CGA8dd.net
景教の経典として漢語訳された聖書を遣隋使か遣唐使が持ち込んではいるけどな

617 :人間七七四年:2018/02/05(月) 11:12:21.53 ID:4RZFuuGH.net
元代のマニ教の宇宙図が日本にあった、て話はあるけど
景教経典が持ち込まれた、て話はあったっけ
あとは「甲子夜話」で松浦静山が
「群馬県の多胡碑(711年頃)の近くに十字架が発掘された。
おそらく多胡碑の羊というのはキリスト教徒の一族だろう」
と怪しげな説を唱えているくらい

618 :人間七七四年:2018/02/05(月) 14:27:46.51 ID:s4DWgBB+.net
景教って平家とか朝倉家にいてもおかしくなさそうな名前

619 :人間七七四年:2018/02/05(月) 14:55:26.63 ID:hwMsmEIU.net
軍法、兵略というものは、後代においていよいよ厳重となっていった。
北条家の侍に、大石平次兵衛という者が居たが、彼はこのような歌を詠んだ

『樊カイを あざむく武者を集めても 下知につかずば餓鬼にをとれり』

これを北条氏政聞き及び、「彼は一方の大将とすべき者である」と絶賛し、
実際に足軽百人を預けた。
この事があって、北条の諸侍はいよいよ法度を守るようになったという。

(北條五代記)

620 :人間七七四年:2018/02/06(火) 18:44:11.64 ID:WKKaJAK1.net
「昔、関東では北条氏直の時代まで、長柄刀といって、刀の柄を長く拵え、腕貫(鍔つばにつける革緒)を
打ち、束にて人を切るほどの形状であった。

当世ではかき鑓と言って、黒金を長く延べ、鑓の柄に十文字に入れ、その先に小しるしを付けて、
柄にて人を突くような威風を成しているが、物好きと言うのもの、時代によって変わるもののようだ。」

このような話があった時、これを聞いた人は

「その昔の長柄刀を、当世に差す人がいれば、柄が長すぎて目鼻の先につかえて見苦しく
可笑しな事になってしまうだろう。」

そう笑いだした。
この時、かつて関東において、若者たちが皆長柄刀を差していた時代を知っている老士が言った

「どうか若き方々、そのように昔を笑わないでほしい。古今の違いがあっても、その志は同じである。
得ることのみ有り失無く、失のみあって得るものが無い、という事は無いと、先賢の書いた
内外の文章にも見えるではないか。人をそしって我が身の失を省みる、これ人を鏡とする云々。
そも鎌槍は昔より用いられ…(以下神功皇后や頼朝の故事など延々と語るが中略)

さて、長柄刀における、長柄の益というものは、太刀では短く、かといって長刀では長すぎるという
場合に、その中間を取った益である。また、太刀と長刀両方の利点を合体させて常に差すという
利点も有る。

関東の長柄刀は、目鼻の先というような近距離での斬り合いには少なからず欠点がある。
だが、合戦において敵を亡ぼし我が命を護ることには、大益があるのだ、」

(北條五代記)

621 :人間七七四年:2018/02/07(水) 14:40:28.85 ID:0VAmVwxs.net
>>620
>太刀では短く、かといって長刀では長すぎる
そんな時あるかなぁ?

622 :人間七七四年:2018/02/07(水) 19:03:12.81 ID:p0mpqMFF.net
その頃、関東は上野を本拠とする山内上杉と、相模を本拠とする扇谷上杉の間が不和となり合戦に及び、
このため山内上杉の勢力下にあった伊豆の侍たちは皆、上野へと馳せ参じた。

この状況を察知した伊勢新九郎は、「願うに幸いである。これ天の与える所時を得たり」と、
自領の百姓どもを招き、この内武の用に立つべき者共を近づけて言った

「相模、上野両国に弓矢起こって、伊豆の侍たちは皆上野に参っており、今や百姓ばかりである。
私は、伊豆の国を切って取る。我に同心合力せよ。
その時はお前たちの忠恩に、必ず報いるであろう。」

百姓たちはこれを聞くと
「累年の御憐れみを忘れることは出来ません。御扶持人(在村給人)も我らも同意します。
我々は地頭殿を、一国の主に成し申さんと願い、たとえ命を捨てるとも微塵も惜しくはありません。
どうぞ、決断し実行されませ。」
そう、衆口一同に返答した。
新九郎はおおいに喜悦し、その上近隣他郷の者までも、この事を聞いて、新九郎殿に与力せんと参集した。

伊豆国北條には、堀越の御所成就院(足利茶々丸)という名高き人があった。
新九郎は「軍のはじめに、先ずこれを討ち滅ぼす!」と、延徳年中の秋、百姓たちを引き連れ夜中に
北條に押し寄せ御所の館を取り巻き鬨の声を上げ家屋へ火をかけ焼きたてた。御所は肝を消し、
防ぎ戦うべき事を忘れ、火炎を逃れ落ち行く所を追撃され、郎従共に皆討亡した。

新九郎が北條に旗を立てると、伊豆国の百姓たちはこれを見て「駿河の大将軍として、伊勢新九郎が
攻めてきた!」と、避難のため山嶺に逃げたが、新九郎はこのような高札を立てた

『伊豆国中の侍・百姓は、皆以って味方すべし。本知行は相違なく保護する。
ただし、もし出てこない場合は、作物を尽く刈り散らし、在家を放火する。』

これを見て百姓たちは我先にと馳せ来て「私はどこそこの百姓」「どこどこの郷の長」などと
申し上げると、彼らの地所相違なしとの印判を取らせ、皆々安堵した。

また、佐藤四郎兵衛という侍が一人、降人と成って新九郎の前に出た。
新九郎は「伊豆国中田方郡大見郷は、佐藤四郎兵衛先祖相伝の地であり、最初に味方したこと
神妙である。今度改めて地頭職を申し付ける。子々孫々永代に渡り、地の妨げは無い。
百姓らもこれを承知すべきで、あえて違失あるべからず。」
と、印判を出した。

上州に参じていた伊豆の侍たちはこのことを聞くと、急ぎ馳せ帰って降人となって出た。新九郎は、
本地皆領納すべき旨の印判を出した。そのため、伊豆の侍は一人残らず新九郎の被官となり、
30日の内に伊豆一国が治まった。

(北條五代記)

伊勢新九郎の伊豆討ち入りについて

623 :人間七七四年:2018/02/08(木) 10:24:07.71 ID:ja1k65Sr.net
主人への殉死をしなかったと言って、家中の多くが悪しく言う者があった。
この者、主人の忌日に家中の者惣じて寺へ参詣した所で、彼らに所用があると引き止め、
惣衆集まった時に申し出た

「私について、殉死すべきであると、この座中におられる方々の中にも御沙汰があると
承っております。そのような方々はきっと、私が殉死すべき仔細をご存知なのでしょう。

私自身は、私が殉死しする事が御奉公に成るという理由が見つけられません。
主人によって御取立いただいた者は、必ず殉死すべきであるというだけなのなら、私は全く
納得に及びません。故に、殉死いたしません。

ただし、今ここであっても、その道理をお聞かせ下さるのなら、御奉公のことである以上、
すぐに殉死いたします。」

この言葉に、座中は一言の返答にも及べなかった

彼は重ねて申し上げた
「このように理を尽くして申した所、とかくの仰せも無い様です。である以上、殉死のことは定めて
あなた方による御沙汰では無かったと考えて良いですね?
この上は、今後うしろにて殉死の批判をされる方は、侍の本意にもとる人物であります。
その心を得られたまわれ。」

そういって退出したという。
(士談)

624 :人間七七四年:2018/02/08(木) 10:55:16.87 ID:ygpHBN7f.net
>>622
上野と伊豆が同心なら相模を挟めるのに上野に出向くとは阿呆の極み

625 :人間七七四年:2018/02/08(木) 22:00:40.69 ID:h1pB8ljj.net
>>621
屋内とか?

626 :人間七七四年:2018/02/09(金) 01:08:37.57 ID:VQF9KdDF.net
そういえば、刀の腰への差し方が逆になったのは
室町以前の太刀式だと屋内でつかえて面倒だからなんだってな

627 :人間七七四年:2018/02/09(金) 14:43:51.13 ID:78A2SVdl.net
>>625
家の中なら刀で十分と思ったけど、昔の屋敷や土間のある作りならたしかにぴったりかも。

628 :人間七七四年:2018/02/09(金) 15:42:22.81 ID:8hqIVnpV.net
薙刀が振り回せない程度の密集した乱戦で使えば太刀より少しリーチがある分有利って事やろ

629 :人間七七四年:2018/02/10(土) 08:11:39.97 ID:NnOG2X3L.net
一、御陣のときは、下々のことは申すに及ばず、自身も一日一夜の兵糧米は腰につけ、馬のはみをも
  携帯しなければならない
一、陣頭において兵糧米のない時は、何で有ってもその時々の草木の実を食うものだ。私も青麦などを
  炙り揉んで喰って合戦し、敵と手を合わせたものだ。桑の実などは、殊の外旨き物であった。
一、旅陣の時は、侍も小物も中間も、小屋の材料、武具の輸送を行っているが、陣頭においては
  野菜の類、また水が必要であり、無くてはならぬものだ。こういったものは小屋の材料や武具に
  結い付けて持っていくのが良く、これを運ぶ者には言葉も懇ろにかけ、少しであっても遣わす物の
  内に、心付けがあるべきだ。
  人によっては、食物に関することを話すのは恥ずかしいことだ、などと言っている者もいるが、
  そういう考えは何の役にも立たないと心得ておくべきである。
一、敵の城を取り巻く時は、それが山城で有っても先ず水の手を専らに見立て、陣を取るのが良い。
  大将から持ち口を仰せ付けられたのなら是非もないが、一夜二夜の事であっても、水の手は肝要である。

(細川幽齋覺書)

細川幽斎の覚書より、戦場における兵糧、食料のことなどについて

630 :人間七七四年:2018/02/11(日) 03:48:33.01 ID:kn27m74I.net
天下に名ありし者ども


関ヶ原の戦いの後は、功名がある浪人が多くいるようになった。
池田輝政公は播州へ御入国された後、"天下に功名を顕す者"と聞けば
禄の多少を選ばず、その人相応に召し抱えられていたので
我も我もと浪人が御当家を望んで来るようになった。

浪人の取次は若原右京に仰せ付けられていたので、表向きは若原が
勝手に奉公構の浪人などにも堪忍料を遣わしたことになっているが
実は輝政公の御意向からしたことであるという。

輝政公が御逝去された後、御葬儀の場で大勢の浪人たちが
「今世に希なる名将と別れたことは身の不幸である。最早世に望みなし」
と御霊柩を拝し、御儀式が終わると姫路城下から離散した。
このときの浪人の家が因幡(鳥取池田家)には多くあるが
これは忠継公忠雄公光仲公の御代に改めて召し出されたのである。

浪人を密かに扶持しておいたのは"天下に名ありし者ども"だからだろうと
古老が物語したのを國府内蔵之丞が聞き及んだので、話の由を聞いた。


――『因府夜話』

631 :人間七七四年:2018/02/11(日) 21:54:07.70 ID:bA4eZOJj.net
一、合戦において頸を取った時、自身はその場に残り、頸は家臣などに持たせて主君へ遣わすのだ。

一、「頸をとっても捨てて、耳鼻だけ取るように」と大将より下知があった場合、鼻とともに
  唇を削いでおくべきだ。髭が無ければ女・童とまぎれてしまう。しかしながら若年の者は髭が
  無いので、その場合は何かその者の道具を取っておくと良い。

一、母衣武者の頸を取った場合は、その頸を母衣きぬにて包むのだ。通常の武者の場合は指物絹にて
  包むべし。ただし、こういったことも忙しいときには出来ない。そういう隙がないと判断される
  場合には、その討ち取った者の刀脇差しなどを取って、その頸に刺しておくとよい。

一、取った頸の耳に紐を通して持ち運ぶ者を見ることが有るが、それではおおかたちぎれ落ちてしまう。
  紐を口から顎に通して取り付け、これを馬の脇につけて運ぶのがよい。

(細川幽齋覺書)

細川幽斎の覚書より、取った頸の扱い方について

632 :人間七七四年:2018/02/12(月) 00:17:34.05 ID:3ZUmUOeV.net
庭師の首はどう扱えば良いんだろ?

633 :人間七七四年:2018/02/13(火) 11:45:47.06 ID:AnKMBnJ2.net
一、竹束を設置する時、敵より鉄砲を厳しく撃ってきて負傷者なども出た場合は、竹束を
  2,3も結合わせ、それを取り付けた盾を背負い、後ろ向きになって進み、敵に近づいた所で
  その陰から突き出すようにするのだ。

一、敵城に対して竹束にて仕寄りを作った時、本陣との間が道が悪いなどの理由で遠い場合は、
  城中より夜討ちなど行われることが有る。そういう危険の有る時は、10人でも20人でも、
  松明に火をつけて両手に持ち、本陣の方から竹束の裏まで幾度も往復するのだ。
  こうしておくと夜討ちは無い。これを「松明の心得」と云う。

一、竹束にて仕寄りし、敵の城を取り巻いた時に行う、「城はやし」というものがある。
  これは仕寄りのための井楼の上に二人三人も上がり、拍子木を打って音頭を取り、
  城に向かって「なふなふ明日は首をたもろふ えいえいわっ」と、竹束の裏に居る軍勢が
  一度に声を揃え鬨の声を作り、鉄砲をはたはたと撃ちかける、という物である。
  これを致すのは夜の五時(夜8時ころ)から夜明けにかけてである。
  何度もこれを行うと、城中に居る女子供たち、または籠城の経験の少ない者は殊の外
  騒ぎ慌てるものにて、それにより、20日保つ城も10日も保ちかね落城するものだ。

  また、「言葉戦い」と申す物もある。口の上手いものが井楼に上がり、的に向かって
  「御陣に申したきことがある!」と呼びかける。敵側から「何事にて候」と答えてくるので
  此の方よりこう言う「御籠城御大儀に候。ですが持ちこたえるのは中々成るまじき事故、
  御降参されるように。そうなさらないのなら、どうそ何方なりとも突き破りこちらを攻めに
  出て来られよ。あなた方の御首、はやく申し請けたいものです。  まあどちらにせよ、
  あなた方の御首を申し請けないと言うことにはならないでしょうが。」
  そのように敵の心にかかることを申すのだが、この時、慮外かましき(無礼で不躾な)事を
  言っては敵方からも悪口が返ってくるだけだ。なので敵が心のなかで心配に思っていることだけを
  言うべきなのである。

(細川幽齋覺書)

竹束に関連するお話

634 :人間七七四年:2018/02/13(火) 21:57:53.00 ID:tsCLngb4.net
小田孫兵衛という、元森家の武士が落ちぶれて、福島正則の家臣である梶尾出雲という者を頼り、
福島家の広間の御番であってもしたいとの望みを、梶尾より正則へ申し上げた。
梶尾は此のように言った

「小田孫兵衛という人物は、森家の武士でありましたが、只今落ちぶれ、御広間の御番なりとも
いたしたいと、御家に仕えることを望んでおります。この者、かつては備中小田の城主でありまして、
少しばかり世間の覚えも有る者でした。また侍道の諸芸にも達している人物で、召し抱えて頂ければ
過分に存じ奉ります。」

正則はこれに答えた
「そういう者であれば抱えよう。追っ付けまみえ、五十人扶持を遣わそう。」

梶尾は驚いた
「さ、左様に過分に下されるような者ではありません!百五十石か二百石下されれば、過分に
存じ奉ります。」

「その方」正則は言った
「先ほど、彼は小城の主をも致した者だと申したのではなかったか!?そのような者に二百石や三百石
取らせても、後日主の役には立たぬものだ。」

そして小田孫兵衛にこう伝えられた、「千石の知行にて召し抱えられる」
孫兵衛は肝をつぶし、「一夜検校(急に金持ちになること)と成った!」と、それまでの
紙子の衣服を脱ぎ捨てて、天晴大名のような出で立ちとなった。
孫兵衛はこの時、72歳であった。
惣じて福島正則は、家中の者の跡目の事についても、親は子のために、一命を捨てて主の用に
立ったのだと、跡継ぎが少年であっても子供であっても、親の知行を相違なく継承させたという。

(福島太夫殿御事)

635 :人間七七四年:2018/02/13(火) 23:01:48.56 ID:3jtaZ7qU.net
>>634
ほんと、酒さえ飲まなければ

636 :人間七七四年:2018/02/14(水) 14:32:31.02 ID:vSXtVQp5.net
72歳に千石はさすがにどうなんだw

637 :人間七七四年:2018/02/14(水) 15:01:04.96 ID:qAT1fi0C.net
広く人材を募るなら待遇を良くするのが正道だからね
先ず隗より始めよ、みたいな話じゃね

638 :人間七七四年:2018/02/14(水) 16:16:25.84 ID:G4VisRUK.net
その千石で兵士を養うんだから問題ない
戦巧者が育てりゃ強いだろ
千石の価値は出る

639 :人間七七四年:2018/02/14(水) 18:08:08.77 ID:4cURkP3I.net
栃木県大田原市の那須神社に行ったら、こんな由緒書が掲示されていた。
地元の大田原市民にとっては大関高増は神への崇敬の厚い立派な殿様なんだろうな。
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1463195.jpg

那須神社 御由緒
第十六代仁徳天皇の御代下野国造奈良別命が国家鎮護のため金瓊(黄金の玉)を埋め塚を築き祠を建て
天照皇大神 日本武尊 春日大神を祀ったのが濫觴と伝えられています。
(中略)
中世那須氏がこの地に勢力を広げ那須氏代々の氏神とし崇敬厚く特に与一宗隆ゆかりの社で四国屋島において扇の的を射る時
当社八幡大神湯泉大神を中心に念じ名声を添加に博したので社殿を再建し神意を慰め祭った。
その後大関氏那須氏に代わってこの地を領する代々の城主大関家の氏神として尊崇殊の外深く中でも
大関高増清増始め累代の城主しばしば神殿を再建修繕して今日に至て居ります
現在の楼門並び本殿は寛永十七年大関高増社殿の大修繕に成るもので昭和三二年八月本殿並楼門外栃木県重要文化財に指定された貴重な建造物であります
(中略)

平成二一年九月吉日

640 :人間七七四年:2018/02/15(木) 22:45:59.12 ID:iuGNdXUY.net
加藤左馬(嘉明)殿の家臣であった塙団右衛門(直之)と申す者を、福島正則が召し抱えた所、
左馬殿より『団右衛門の事は私が深く構い(奉公構)をした者であるので、御扶持は御放しと
されますよう』と申し来た。

正則は団右衛門を呼び、このように言った
「左馬殿より、お主がお構いされていることを申し来た。どうだ、私の肝煎りにて、加藤家に
帰参しないか?」

しかし団右衛門は
「有り難きことと存じます。ですが、どんな事があっても帰参するつもりはありません!」
そう、直に申した所、正則は
「そういう事なら、退去させよう。左馬殿よりの使者の者たちに馳走を出させ、待たせておくように。」
そしてこの間に急ぎ早舟を準備させ、これに団右衛門を乗せ早々に出船させた。

これを確認してから、正則は加藤嘉明の使者を呼び出し、直々に返答した
「塙団右衛門の事、お構いされていることを知らずに召し抱えてしまった。そのため早速、扶持を放した。」
これを聞くと使者たちは直ぐに帰っていった。
しかしこの時既に団右衛門は順風の中、大阪へとはしりぬけ、そこに隠れ住んだ。
加藤嘉明は使者の報告を聞くとすぐに、団右衛門への討手を四方へ派遣したが、ついに発見できなかった
という。

その後、大阪の合戦の時、豊臣秀頼が彼を召し抱え、その時松平安房守(蜂須賀至鎮)の陣所に
夜討ちに入り手柄を成し、明けて夏の陣にて討ち死にした。

(福島太夫殿御事)

641 :人間七七四年:2018/02/17(土) 00:09:50.53 ID:Qls51LFz.net
一、敵が川を前に軍勢を立てている時、その軍勢が厚く立てられている場合は、その川は浅いと
  心得るべきだ。逆に軍勢が薄い場合は、川が深いと心得るべきである。

一、敵方が川を渡ってきた場合、その川の三分の一ほど越えた時に、こちらは川端まで押し寄せ、
  鉄砲を撃って渡川を妨害しなければならない。川を渡られてしまうと、敵には勢いがつき、
  味方は勝利を失ってしまうものなのだ。

一、敵が川向うに居る時、此の方より川を渡す場合、少し川上から馬を乗り上げ、水の流れに
  つれて渡すようにすれば、早く渡れるものだ。少しでも早く、などと考え、川下から川上へ
  渡るような真似をすれば、結果遅くなってしまうものだ。

一、川を前に陣を取った場合、何よりも先ず筏を組める物を心にかけ、準備しておくことが大切である。
  とは言うものの、筏に組めるものが無く、また川を渡らなくてはどうにもならない、という状況に
  なった時は、「道具筏」といって、鑓などを組み合わせて、それに乗って渡る事もある。
  また「馬筏」といって、手綱を互いに取って組み、これにて川を渡すことも有る。このようにすれば
  弱き馬も強き馬にひかれ、造作なく渡れるように成る。
  「道具筏」「馬筏」とは、こういったもののことを言うのだ。

一、敵が川を渡ってくると予め解っている時は、此の方に柵を構築し、渡さないようにすべきである。

(細川幽齋覺書)

川を挟んだ合戦に関するお話

642 :人間七七四年:2018/02/17(土) 15:41:22.33 ID:nC83Xr0m.net
>>641
>馬筏
男塾みたいなやりかたで草

643 :人間七七四年:2018/02/17(土) 18:31:41.07 ID:lPtSpuum.net
>>641
幽斎様なら馬を担いで渡れそう

644 :人間七七四年:2018/02/17(土) 22:09:49.78 ID:uHB/+4zH.net
上流で馬の集団を渡河させて、流れを弱めて、歩兵を渡したエピがあったと思うんだが、
新田義貞だっけ?

645 :人間七七四年:2018/02/17(土) 23:32:00.13 ID:GZSKK4fO.net
シーザーがやった話なら知ってるが

646 :人間七七四年:2018/02/18(日) 07:35:51.26 ID:cjiShSU3.net
上流で糞尿を流して水の手から疫病を発生させたんだっけ

647 :人間七七四年:2018/02/18(日) 09:40:16.59 ID:xa+2aYDi.net
馬上で糞尿を垂れ流して焼き味噌と言い張った?

648 :人間七七四年:2018/02/18(日) 13:45:15.27 ID:8Qu9Piho.net
徳川軍の兵士が大井川上流で人間堤防を作って下流を渡渉する織田軍を接待した話もあったな

649 :人間七七四年:2018/02/18(日) 14:59:17.72 ID:CtdKoPGM.net
男塾名物とかでありそうだな

650 :人間七七四年:2018/02/18(日) 18:31:02.46 ID:dR3J4lSy.net
一、信長様の御軍法は、敵と成った者は、その子々孫々までも討ち果たし、その跡まで
  掘り返すほどに厳しくして、天下を治められた。内裏の修理など仰せ付けられ、王法の
  衰えたのもお取り立てされ、その後仔細あって、上京の騒ぎを払うとして、京の地子を
  御免になられた。万事において賞罰を正しく仰せ付けられた故に、万民に至るまで、
  その仰せを奉らないという事は無かった。
  ではあったが、一度敵対した者は、詫び言を申し上げ旗下に付いても、お心を許すこと無く、
  御憎み浅からず、故に謀反人が多く出た。こういう時は、強いだけではどうにもならないものだ。

  こういった事を太閤様(秀吉)はよくご覧になっており、敵対した者へは厳しく申し付け、
  これに対し詫び言申し上げ旗下と成れば、御譜代同然に懇ろに心を開かれた。是故に、昨日まで
  敵対していた者でも、身命を捨て忠節を致すべきと考え、故に謀反人も無く、早く天下を
  治められたのだ。

  両大将の御軍法はこのように裏腹に違う、この心持ちは、小身の召使の者にも心得あるべきである。

(細川幽齋覺書)

651 :人間七七四年:2018/02/18(日) 18:57:18.66 ID:cegVxge2.net
秀頼シフトを敷かなければ豊臣政権は続いたのだろうか?

652 :人間七七四年:2018/02/19(月) 15:28:24.75 ID:TRb3+EFk.net
>>650
信長のほうが寝返りに甘い印象あるけどなー、細川の処世術かな

>>651
秀吉死後に秀次派と秀頼派で関ヶ原なりそう

653 :人間七七四年:2018/02/19(月) 15:41:39.50 ID:jY3t1EHB.net
>>652
「信長と消えた家臣たち」って本を読むと細川幽斎の気持ちが少しわかるよ

654 :人間七七四年:2018/02/20(火) 04:42:30.03 ID:JSpUq3d3.net
>>630
忠継と忠雄は岡山時代に召しだして国替えの時にまんま鳥取に
移動したのか長政(恒興三男で初代鳥取藩主)やその息子と
利隆や光政が召しだしたのが鳥取に土着していて国替えの時に
鳥取藩士として残ったのかそのあたりがよーわからん
少なからず忠継と忠雄が鳥取藩主として召しだしたというのは
まずあり得んのは確かだけどな

655 :人間七七四年:2018/02/20(火) 04:43:28.30 ID:JSpUq3d3.net
自己レス訂正
長政→×、長吉→〇

656 :人間七七四年:2018/02/20(火) 21:22:39.27 ID:c3U9fY9D.net
一、戦場において、幟ほど大切なものはない。幟さえ崩れなければ、敵方より仕掛けられる
  事はない。逆に軍勢が多く揃えてあっても、幟が倒れれば、こちらは敗軍したと敵は見て、
  合戦を仕掛けてくるものなのだ。

  幟大将を致すほどの人物が、他の者が敵と手を合わせるのを羨ましく思い、自分もそのように
  しようとすれば、幟の役が立たなくなってしまう。たとえ他の人々が、どれほど敵と手合わせ
  していても、幟さえ倒さなければ、敵と手合わせした人の手柄と同然であり、またそのような
  理屈をしっかり理解していないと、出来ない役である。
  名将と呼ばれる人々も、そういった資質が無い人間には、幟大将は務まらないと申されていた。

一、武士には、信心が無くてはならないものだ。殊に愛宕八幡には、別して信仰が有るべきである。
  ただし、火の物絶ち(火を通した食べ物を摂らない事)は全く無用である。私は若い頃、火の物絶ち
  を致して懲りたものだ。とにかく、物を食わねば何事も成り難い。

一、男道はあまりに律儀な計りでも成らぬものだ。少々人を出し抜く用に心がけなければ、
  優れた手柄も成らない。ただし、他人の協力がなければ出来ない事もある。そういう時は
  状況次第である。

一、陣に立つ時、具足の綿かみに梅干しを付けて参るべきだ。のどが渇いても水のない時は
  どうしようもないが、そういった時梅干しのことを思い出せば、口に唾の貯まるものである。

一、巾着には、干飯でも米でも、何か食えるものを常に絶えぬよう入れておき、普段居住している所に
  掛け置きしておいて、草鞋、脚長一足につき巾着袋を一つ付けておくべきである。そして主君が
  鷹野、または狩りなどに出られる時、腰につけて参れば、何があっても対応できるのだ。
  とにかく、物を食わなくては手柄も成らないものなのだ。

一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。陣中、又は忙しき時にはそうは出来ないし、
  殊に常々の御奉公のさわりにもなる物である。こういったことは、常々より嗜んでおくべきである。

一、戦場にて、地面の塵やごみを蹴り立てると、煙のように空に上る。これを地煙と呼ぶ。
  この地煙が高く上るところは、馬上の武者が多いと心得、低いところは徒武者の居るところだと
  考えるべきである。ただし風など吹く時は、そういう心得も変えなければならない。

一、敵陣に物見に参る時、なんとも参る手立てのない時は、商人にまぎれて参るものだ。
  陣において備蓄が無い時は、敵味方が人数を立てあっている最中ですら、酒売商人など
  参るものである。当然、自分たちの方へもそういった者が参るわけで、少しも油断
  してはならない。

(細川幽齋覺書)

戦場での心得についていくつか

657 :人間七七四年:2018/02/20(火) 23:40:37.28 ID:jlZaj6kt.net
>一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。陣中、又は忙しき時にはそうは出来ないし、

ワイ将、大腸過敏の長距離電車通勤組、毎日陣中(電車)で我慢

658 :人間七七四年:2018/02/21(水) 00:21:20.09 ID:yMVZx1uC.net
マニュアル作るの好きなんだなあって分かる

659 :人間七七四年:2018/02/21(水) 01:45:46.22 ID:UTaI4uHy.net
一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。
幽斎でも大小便をするんだ…

660 :人間七七四年:2018/02/21(水) 02:03:49.36 ID:7XdmiP1b.net
フン!って力むから卒中するんだよな

661 :人間七七四年:2018/02/21(水) 02:48:38.93 ID:X2fLifG2.net
不識庵「なんやて」

662 :人間七七四年:2018/02/21(水) 08:20:06.28 ID:u0yUUzj8.net
マニュアルかなぁ?
単に危機管理の為のノウハウの蓄積をしようとしてるだけとしか。

663 :人間七七四年:2018/02/21(水) 16:45:23.98 ID:lUc9Phna.net
マニュアル以前のメモ書きだよな。
ただそんなメモ書きでも書いておけば役に立つ。
食料や道具の準備について大分項目を割いているが、
それだけ何の準備もなく参陣する奴が多かったんだろうなぁ。

664 :人間七七四年:2018/02/21(水) 17:12:32.37 ID:i4qjyDOk.net
梅干しの話はまんま望梅止渴の故事からだろうけど実際効果の程はどうだったんだろう

665 :人間七七四年:2018/02/23(金) 19:23:08.02 ID:800FetQ9.net
福島正則が病死した時、その葬礼の場には、一町四方に木の柵を結い、四方に門を立て、
この警護のには木造大膳(長政)、本多対馬両人の人数が当たった。
二町は木造の人数が受け持ち、彼の人数は長柄鑓をひしと立ち並べ、その次に控える
木造手前の侍たちは鑓を段々に飾り、その様子は殊の外見事であると、人々は褒め称えた。

残る二町は本多対馬の担当であったが、ここには長柄もなく、それぞれが自分の持ち鑓を装備し、
そのため長いもの短いものがバラバラであり、大変見苦しいと人々は悪しく申した。

日頃より木造大膳は、要らざる所に大気が過ぎ、そのため経済的に苦しく、御用の役には立たない、
などと謗られていたのだが、このことがあって以降、そういった悪口は止んだという、

(福島太夫殿御事)

正則から恥をかくほど叱られた木造長政さんですが、その正則の葬式にはこうして男を見せたというお話

666 :人間七七四年:2018/02/24(土) 19:57:57.97 ID:rf9Vjx3L.net
ここに常駐している人にはしてて当然の話かも知れんが
2/22放送の草刈正雄の歴史トレジャーハンティングの録画を見て驚いた
今迄、真田昌幸の肖像画とされていたモノが実はお兄ちゃんの信之の最晩年の姿だったって
お兄ちゃんの側室の遺品に肖像画の原本があってほぼお兄ちゃんだって結論付いて居るんだな
あの人を喰ったような油断の出来ない雰囲気がいかにも昌幸っぽいと思ってたのに
…まあ、お兄ちゃんの方も考えれば政治家としては結構油断できないわな

667 :人間七七四年:2018/02/24(土) 20:07:23.17 ID:I+uTHtx3.net
知らんかったありがとう

668 :人間七七四年:2018/02/24(土) 20:49:35.80 ID:PfRUAsQc.net
まとめの10475で一応出てる
【ニュース】真田父子肖像 原画は別人? 上智大准教授が研究

なお信繁像は信綱だった模様

669 :人間七七四年:2018/02/25(日) 08:54:45.01 ID:7o4yFA1j.net
>>668
有難うございます、信繁像も信綱だったなんて…
番組内では江戸時代中には昌幸像として真田家も認識してたとか
いつしか神君に煮え湯を飲ませた英雄 と顕彰対象に変わったんですね
ただ、昌幸も信繁もその容姿を想像するよすががないのは残念です

670 :人間七七四年:2018/02/25(日) 15:16:32.73 ID:7M1bZXLQ.net
>>621
有るよ
リーチが長いので突きに有利
巌流島でもそうだけど長い方が勝つ場合がある
当時剣術が未発達だったからね
平安鎌倉は薙刀も標準装備だよ

横山光輝の漫画って結構、こういう交渉が優れてなされてるんだよね
今の漫画のように解説で述べるんじゃなくて漫画そのものに説明なく描かれてる

671 :人間七七四年:2018/02/25(日) 16:58:03.35 ID:ugAEYEIr.net
なお横山光輝水滸伝の双鞭・呼延灼
https://i.imgur.com/mue2gnr.jpg

672 :人間七七四年:2018/02/26(月) 10:42:22.53 ID:hL/wCX1y.net
福島正則は安芸備後両国の検地を命じ、石持ちを多く任じるため、50万石を8つに分け、
そのうち6つ5分を家中の知行とした。大豆小豆は米の五割で一石、麦は倍、ヒエは4倍と計算し
役を務めるものとされた。
侍が困窮しては主人の用に立たないものであり、夏は良き帷子、冬は木綿の着物、紙子にて暮らすよう
申し付け、侍分は皆その装束にて暮らした。

侍屋敷はおおかた二十間四方で、角屋敷は小身者には与えず、二十二、三間に地形を均させ、新屋敷には
二十石、角屋敷には二十五石づつ米を与え、普請の費用とするよう申し付けた。
また、昔の毛利殿の時代より有る屋敷には、石垣四尺あまりの塀が付けられていたが、正則はこれを見て、
石垣を崩し二尺づつに作り直すよう命じた。これは、もし取り籠め者があった時、石垣が高ければ
それが盾となり仕寄りが難しいためと申された。

(福島太夫殿御事)

正則が広島入部してからの仕置について

673 :人間七七四年:2018/02/26(月) 21:32:42.22 ID:Tbh4X1cm.net
福島んとこで狂言切腹したら飲んでるかどうかで対応が変わりそうだ

674 :人間七七四年:2018/02/27(火) 00:02:27.66 ID:1tgBBbFO.net
一、人には何であっても好きなことが有る。弓鉄砲、或いは馬、蹴鞠、兵法、料理、乱舞、歌、
  将棋や囲碁、鵜飼、鷹狩、数寄の道、武士の道。何れにしても、好きなことが有るのなら、
  自分の好きなことは積極的に人に話すべきものだ。また人が話すことの中にも、自分が
  好きな事があれば良く聞くものである。
  また人により、武道の話をいたし、人が話すのも面白がって聞いていれば、良き心がけの者と
  周りは思うだろう。
  大体において、人々の心中というのものは、普段の話の内容、或いは愛する友人を以って知ることが
  出来るのだと、松長(松永?)という名人が申されていたが、真に相違ないと思われる。
  とにかく、どんな諸芸も、自分の心に染まらぬことは、結局出来ないものだ。その心得が
  有るべきだろう。

一、常々物をよく喋っていても、戦場においてはほとんど喋らなくなるような者がいる。
  また敵との間が遠い時には何かと喋るが、敵が近くなると物を言わなく成る者がいる。
  そういった将は、常々どれだけ口を利き、物を良く申していても、役に立たないものだ。
  殊に、敵が遠いほど物を申し敵近くなり合戦前に萎れる体にていること、殊の外見苦しい事である。
  常には少しばかり無口でも、戦場においては諸人も聞き届けるように、物の埒を申し分けられる
  事は、常に物をよく喋ることより格段に良い事である。

(細川幽齋覺書)

ちょっと社会人の心得にも近いようなお話

675 :人間七七四年:2018/03/02(金) 17:37:22.15 ID:txA038IT.net
上杉景勝(俺が喋るとみんなビビる)

676 :人間七七四年:2018/03/03(土) 18:49:45.62 ID:YECF6PdC.net
猿(よっしゃ真似したろ!)

677 :人間七七四年:2018/03/04(日) 22:20:27.95 ID:+ByGJBiR.net
関ヶ原の合戦後、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が磔にされる前に洛中を曳き廻されている時、
三成はある家の前で「茶を呉れよ!」と高らかに言った。
これに亭主の老女、茶を持って出て
「御いたわしや、茶を参らせ給え」
と差し出した。三成はこの茶を快く飲んだ。

この時、亭主の老女、鳥柿(干し柿)を盆に摘んで茶碗に取り添え、「これを御菓子にて茶を参り給え」と
言ったが、三成は
「汝の憐は祝着なれども、このごろ腹中を患い、未だとくと本復せざる故に、柿は禁物なのだ。」
そう言って茶ばかり飲んだ。

小西行長が後で
「これから首を斬られる身に、養生は無益である。老女の志と言い、差し出されるままに
菓子を食うべきだった。」
そう言ったが、三成は小西の方を振り返ると

「貴所は心得ぬことを言う人かな、今日河原に引き出されて首を討たれる瞬間まで、世間の変化を
予測することは出来ない。それ故に、私は未だ身の養生をするのだ。」

そう、荒々しく答えたという。

(関原軍記大成)

茶や水の代わりの干し柿、ではなかった

678 :人間七七四年:2018/03/05(月) 12:33:52.33 ID:2UAVq0U8.net
>>677
引き回されてるのに茶をくれという自由はあるのか、意外と人道的?

679 :人間七七四年:2018/03/05(月) 23:17:05.78 ID:22URxcVa.net
>>677
???「こちら大きな腕の温い茶と小さな腕の熱々の茶からお選びください」

680 :人間七七四年:2018/03/06(火) 01:44:44.87 ID:AWrYLnfC.net
>>679
?「何となくひねこびていかにも器の小さい感じがする」

681 :人間七七四年:2018/03/06(火) 16:29:27.74 ID:/Z2JltW5.net
>>680
光栄自重しろ

682 :人間七七四年:2018/03/07(水) 02:12:02.40 ID:286OQfuo.net
うでのちゃ??

683 :人間七七四年:2018/03/08(木) 18:53:20.58 ID:XBnrOpcr.net
仙石橋

大分県字船頭町より西大分町字勢家に通ずる間にあり
仙石の名称は天正十四年十一月、仙石秀久、秀吉の命を奉じ
兵を率い大友氏を援けるに際し、大友義統、道路を修繕しこの橋を架け
もって秀久一行を迎えた事に因り、名付けて「仙石橋」という

おそらく当時架けられたものは土橋で
現在の石橋に改まったのは承応二年、城主日根野吉明の時である
架橋の竣工なるや日根野吉明、同年五月七日をもって渡橋式を行い
堀川町幸松興右衛門をして一番に渡らせた
その際興右衛門、子孫従僕合わせて八十余人
皆々盛粧してこの橋を渡ったそうだ


白滝橋

長宗我部信親の愛馬は真っ白な鬣(たてがみ)を持ち
馬を走らせると滝の様に流れて見えたため
「白滝」と呼ばれていた
戸次川合戦にて信親は討ち死にを遂げるが
残された愛馬は川のほとりにいつまでも佇み
それがまるで主人の帰りを待つかの様に見えたため
地元の民が逸話として語り継ぎ
この地に橋を架ける際、その名を取って
「白滝橋」と名付けたそうだ

(大分案内記:名勝旧跡ほか)

戸次川合戦にまつわる二つの橋の逸話
仙石橋は大正初年に崩落してしまいましたが
白滝橋は国道10号線に架かる橋として現存しています

684 :人間七七四年:2018/03/09(金) 00:08:22.71 ID:/J7dFos7.net
>>683
丹生島城の戦いで名付けられた臼杵の甚吉坂(吉岡妙林の子の吉岡甚吉が活躍した小坂)が好きだな

685 :人間七七四年:2018/03/09(金) 04:06:05.15 ID:VpSRa6pd.net
夫の留守を守った妻

市川局。
石七郎兵衛尉経守の娘。一説に宮荘下野守基友の娘とも。
正確な名前は伝わっておらず夫は毛利元就の重臣、市川経好で周防、高嶺城番

1569年、毛利は九州へ上陸し豊前を攻略し筑前立花城攻略に向かっており
大友軍と激戦を繰り広げていた。

大友宗麟は毛利軍の背後をつくため元々周防を治めていたに大内氏の一族である大内輝弘を密かに周防へ上陸させた。
上陸した大内輝弘は大内の残党を糾合。
高嶺城へ襲いかかった。

夫、市川経好は九州へ従軍しており城中は留守を預かるわずかな兵と市川局や女中達のみであった。
しかも高嶺城は主郭を中心に、四方に郭を配している山城で、守りには不向きな構造。

しかし市川局は徹底抗戦を決意。
自ら総指揮をとり女中を従え,女中ともども甲冑を帯び,下知を加え,長刀をもって戦った。

大内軍は毛利軍が九州から戻る前になんとしても周防を制圧したい。
大軍で攻めるがどうしても高嶺城を落とせない。
焦った大内軍はとうとう諦めて包囲を解いてしまった。
守り抜いたのである。

その後毛利軍が北九州から救援に到着。
大内輝弘は敗れ自害した。


のちに毛利輝元から「比類なし」と称され感状を与えられた。
が褒美はなぜか夫の経好に。
長男の元教は大友宗麟に内通した罪で殺害される。

天正13年3月6日死去。 『萩藩閥閲録』

686 :人間七七四年:2018/03/09(金) 12:21:13.51 ID:2sJpI6MT.net
>>685
最後のオチが酷いw

687 :人間七七四年:2018/03/10(土) 18:46:55.17 ID:L191u84q.net
ここにおいて仙石氏戦い破れ、四国の兵大友勢に寄らんとしたが
新納武蔵守は脇佐古村より人数を出し、大友義統の陣に打ってかかった
義統多兵と云い、我が身にかかるいくさなれば
二つなく戦うべき所なれど、云う甲斐なく敗軍してしまったため
四国の将兵、頼む所なく船本へと没落して行った

弥が上にも船に取り乗り、漕ぎ出だす者もあれば
乱軍の習いにて乗り遅れたる者、海浜に転ぶ者や
溺れる者共を見捨てて舟を出す者ありと、哀れなことも多かった

しかしながら讃州海賊頭、乃生縫殿助、生島太郎兵衛
塩飽の吉田彦左衛門とその弟孫左右衛門
宮本助左衛門と弟作右衛門に妹尾、渡辺等
日比の四宮隠岐守にその子主計守
直島の高原左衛門とその子佐助及び弟文左衛門に小豆島の住人ら
秀吉公の命をもって師船(いくさぶね)を奉行しており
その警固ゆゆしき故に仙石氏の敗卒、つつがなく国へ帰る事ができた

(南海治乱記)

戸次川合戦における讃岐勢豊後撤退時の逸話
讃岐水軍揃い踏みと言った感のあるラインナップですね

688 :人間七七四年:2018/03/11(日) 12:50:46.28 ID:NUqogJM8.net
お珊地蔵・珊誉女

水野勝成の正室である
お珊の方
この方、生来歯の痛みの悩みがあったらしく
つまり虫歯の痛みで悩んでいたそうな

で、この方が亡くなる前に遺言で
「歯の痛みで苦しむ者がいたら
私の墓所で祈れば、その痛みを取り除いてあげましょう」と残し亡くなった

その後、この話は各地に伝わり
その結果、彼女の墓所の土が江戸の善長寺に伝来し

お珊地蔵なる地蔵が建てられたり

また横須賀の常福寺には、彼女の位牌が伝来し
そこでは珊誉女として

共に、歯の痛みに悩む人達に対して
信仰をあつめたそうな


これの別Verだね
水野勝成室お柵の方、「歯の神様」

689 :人間七七四年:2018/03/13(火) 05:09:35.30 ID:YaEquyta.net
小笠原信貞は家老の多科惣蔵と溝口刑部を召して御命じになり、長時公(小笠原長時)が下諏訪
の城代・板垣を攻めなさるため諏訪へ取り掛かり申すにつき、下条殿と御談合のために

溝口刑部を御遣わしになり、伊那衆の侍はいずれも一身にして打ち立ち、下条殿、片桐、飯島、
知久、晴近の衆は下伊奈を5月中旬に出立し、相沢・駒沢まで詰めていた。そこに長時公が

諏訪峠合戦に敗軍の由が聞こえてきた。信貞公が仰せられたことには「一日早く出立していれば、
晴信方を切り崩していただろうに」とのことであった。その日は平出を越えて相沢・駒沢に陣を

取り、密かに出立した。伊那の軍勢の押さえのために板垣信方(信憲?)が置かれていたので、
下伊奈の軍勢が相沢・駒沢に詰めていたところを信方は攻め掛かり、小笠原信貞に切り崩されて
小尻まで追い討ちし、武田晴信方の首を多数討ち取って信貞は勝鬨を上げなさったのである。

板垣信方はやっとのことで下諏訪へ引き取り申した。信貞が仰せられたのは、「大手(長時本陣)
が敗軍した以上は、搦め手で勝利したといっても保科弾正(正俊)は晴信に心を寄せ、そのうえ
松島や大出などもそうであるから、対陣には及ばない」とのことで、伊那へ御引き取りなさった。

――『二木寿斎記(二木家記)』

690 :人間七七四年:2018/03/13(火) 19:22:32.89 ID:pQmaCDhk.net
1,300人が招かれた空前の花見

慶長3(1598)年に行われた醍醐の花見は、秀吉最晩年のビッグイベントである。
醍醐寺は京の都の南東に位置する由緒ある名刹であり、ここに正室や側室、
嫡子の秀頼をはじめ、配下の武将とその家族など約1300人が招かれた。
当時としては最大規模にして最も豪華な花見であった。

秀吉のこの催しにかける思いは並々ならぬものであった。
花見の責任者に、方向の前田玄以を任命し、早くから寺観の整備に務めさせた。
自らも下見のため醍醐寺へ足繁く通い、殿舎の造影や庭園の回収を指揮し、
さらに、醍醐山の山腹に至るまで、伽藍全体に700本の桜を植樹した。

花見の開催日は3月15日。伝えられるところに依ると、
前日までの風雨はうそのようにやみ、当日は絶好の花見日和になったという。

場内には8箇所の茶屋が設けられ、そこでは各地の銘柄が用意され、茶も点てられた。
参加者は茶屋まで思い思いに主演を楽しんだだろう。
前田玄以の茶屋は湯殿までしつらえられており、秀吉はここで汗を流し、御膳についたという。

参加した女性たちには2回の衣替えが命じられており、そのきらびやかな衣装は秀吉の目を喜ばせた。
また、花見の伝統に習って歌会も開かれた。
このときの秀吉、秀頼らの自筆の短冊は、今も醍醐寺に残されている。

秀吉は終始上機嫌だった。
花びらが散り積もっている野山の小道を、
秀頼や女官たちに手を引かれてはしゃぎ歩く秀吉の姿が目に浮かぶようだ。

キリン食生活文化研究所より
ttp://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/foodculture/03.html

691 :人間七七四年:2018/03/13(火) 22:37:35.31 ID:QuOTxhHQ.net
誤字が多すぎると思うんだが…

692 :人間七七四年:2018/03/13(火) 23:53:09.92 ID:x3OdenMm.net
1958年というと秀頼5歳か
この時本当に秀吉の手を引いて歩けるほどの年齢だったらその後はどうなっただろうな。

693 :人間七七四年:2018/03/14(水) 00:01:07.84 ID:fjJwylMq.net
方向の前田玄以って何かとおもったら奉行の前田玄以ってことかw

694 :人間七七四年:2018/03/14(水) 01:35:53.26 ID:cBR604cW.net
>>692
1958年? 秀頼は355歳ぐらいじゃね?

695 :人間七七四年:2018/03/14(水) 04:40:28.79 ID:uB1cpvaR.net
へー奉行が読めない奴っているんだな

696 :人間七七四年:2018/03/14(水) 08:25:26.27 ID:tZI5xt0N.net
>>692
随分と最近だな。今年65歳。秀頼がその年齢まで生きてればどうなっていたことやら。

697 :人間七七四年:2018/03/14(水) 09:02:41.67 ID:2ugiwSuW.net
>>690
元を見てないけどそこは転載OKなのか?

698 :人間七七四年:2018/03/15(木) 00:47:09.60 ID:gle4HUNV.net
1958年を家康初陣として大坂城落城が2015年と考えたら家康の現役の長さを実感できる

699 :人間七七四年:2018/03/15(木) 05:11:26.73 ID:0dI25yIH.net
時に永正16年(1519)己卯歳、秋の頃より澄元(細川澄元)は四国と播磨の勢を催して切り
上らんとの御談合をなされた。御家中の摂津の住人・池田前筑後守(貞正。細川高国方と戦い討死)

の子息・三郎五郎(信正)が申されて「今度、御上洛されるならば、摂津国口の先陣はそれがしが
仕ります!」と申し受けし、摂津有馬郡田中というところへ上って軍勢を揃えていると、高国方の

瓦林対馬守正頼、池田民部丞、塩川孫太郎が相談して、かの田中へ同10月22日夜半に夜討した。
ところが田中の勢へ通じた者がいたため、田中の勢は整えて待って戦ったので、攻め手は案内も

分からず、20日あまりのことなのでとても暗く、雨は降り、さんざんに切り散らされて塩川衆も
瓦林衆も身を変えられぬ人たちが数多討たれて、やっとのことで退却した。池田三郎五郎は首30
あまりを討ち取り、すなわち阿波国へ注進申された。

これにより澄元の御感あって三郎五郎に豊島郡一色を御与えになり、弾正忠になされ申したという
ことである。さて澄元は四国や淡路・播磨の勢を催し、三好筑前守之長の御供で兵庫浦へ着いて、

灘へ上りなさった。高国方の瓦林対馬守(正頼)は今度は越水城に立て籠り、澄元は「まずこの城
を攻めよ!」と、1万余騎で城を取り巻きなさる。澄元は神咒寺の南の鐘の尾山という山に陣取り

なさり、三好・海部・久米・川村・香川・安富は広田・中村・西宮・蓮華畑に陣取って、毎日合戦
なさった。城中には究意の弓ども(弓を極めた者たち)あり。中でも一宮三郎は比類なく聞こえた

者である。それゆえ三郎が矢を十放すれば7,8人に射当ててみせた。攻め手の人々はこれを見て、
例えば異国の養由基、我が国の源頼政や那須与一などの化身ではないかと、

この矢に恐れて月日を送った。そのため一宮三郎は一張の弓の威徳により、長らく御勘当を蒙って
いたのだが今回御許しを受けて、丹波国の本領は申すに及ばず、重ねて御領を賜ったのである。

――『細川両家記』

700 :人間七七四年:2018/03/15(木) 09:54:18.87 ID:Ea6WYNfJ.net
何気に越水城を検索したら見聞が広がった

701 :人間七七四年:2018/03/16(金) 03:47:30.01 ID:8Nb7SmTw.net
???「弓を極めたのなら合戦中で最初の警告と最後に残った矢を門に打ち込んだ以外はすべて命中させて一矢で3〜4人射抜くくらいできるよな?」

702 :人間七七四年:2018/03/16(金) 19:40:54.30 ID:FA5jxJkX.net
ここに織田弾正正信長と申す人、父に少年にて死別したが、少しもその跡を敵に侵入
させなかった。

そのような中、駿河国の今川義元は、三河遠江駿河伊豆四ヶ国の軍勢を率い、三河と尾張の間の、
信長方の城である大高、沓掛二ヶ所の取手(砦)を一刻に攻め取り、永禄三年五月十八日の晩、
桶狭間と申す所に今川義元は陣をとった。

一方、尾張清州城では、林、平手を始めとした信長の重臣たちが揃って、
「清須は日本一の名城なれば、籠城こそ最善です」
と申し上げたが、信長はこれを聞くと拒絶した
「昔より籠城して運の開けたことはない。明日は未明に鳴海方面へ打ち出て、義元の首を
刎ねるか、私が討ち死にするかである。」

信長が日頃から心をかけていた侍である、森三左衛門(可成)、柴田権六(勝家)といった者達は、
「快き仰せである。我らは御馬の先に立ち、討ち死にを致しましょう!」
と申し出、その他何れも、信長の方針こそ然るべしと申し上げ、座敷を立った。

十八日の夜半過ぎ、信長は広間へ出て、”さい”という女房に「今は何時か」と尋ねた。
「夜半過ぎです」と申し上げると
「馬に鞍を置かせよ!湯漬けを用意せよ!」と命じ、御前に昆布、勝栗を持って参らせた。
そして床几腰を掛け、小鼓を取り寄せ、東向きになり

「人生五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の間なり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか」

そう、三度舞われて、城の内より、小姓七、八騎を引き連れただけで出立した。
既に大手の口にて、森三左衛門、柴田権六、その他三百ばかりが控えていた。信長は森、柴田へ
「両人早し!早し!」と声をかけた。

熱田源太夫殿の宮の前にて、千七、八百となった。星崎方面に控えていた佐々下野守(政次)は
その手勢三百あまりにて今川軍六万を抑える役割を仰せつかり、信長の前に出ると

「それがし、一人であっても今川と組み合い、討ち死にしようと考えていたところ、
さても妙なるお出でです。それがしが命を捨てる以上、今日の合戦に御勝ちすること
必定です。今日の戦いこそ、天下分け目の合戦です。殿が天下を治められた時、
弟の内蔵助(成政)、また私の倅を、お見捨てなされませんように。

我々は東向きに、今川の旗本へ乱れ入ります。殿は脇鑓に向かわれ、鉄砲弓も打ち捨て、
ただひたむきに打ってかかって下さい。」

そう伝えて攻撃へと向かった。

今川義元は油断していた所に、織田軍三百五十ばかりが突然攻撃をしてきた事で、「本陣で
喧嘩が起きた」と、六万余騎の者達騒ぎ立てた所へ、信長が二千あまりにて
「一人も逃さじ!」
とわめき叫んで大音を上げて切ってかかった。

これに今川勢は一支えも出来ずたちまちに敗軍し、義元の頸は毛利新助が取った。
この時、大風、あられが降り、大高、沓掛では大木が吹き倒れたという。

五月十九日巳の刻(午前十時ころ)、首数五千ばかり討ち取り、大利を得た。
この時織田信長、二十七歳であった。

(道家祖看記)

703 :人間七七四年:2018/03/17(土) 07:59:50.97 ID:q6+MveO/.net
柴田勝家は桶狭間に参加してないと思うけどね

704 :人間七七四年:2018/03/18(日) 22:27:53.64 ID:1KNxa5v1.net
阿房丸


慶長年中、池田輝政が大船*を高砂川で作ったものの
その船を出すことがなかったので、朽ちるままになっていた。
福島(正則)殿がこれを笑って、その船を阿房丸と名付け天下の嘲弄とした。

(その後大坂の陣が起こったので)輝政の智謀は測りがたいと言われたという。


――『翁物語』

* 『池田家履歴略記』によると長さ三十三尋、横十三尋の大船と一緒に
  千石余りの大船を数百艘作ったとされる。

705 :人間七七四年:2018/03/18(日) 22:55:47.57 ID:EcVepkc3.net
正則も「ああ輝政のように船を用意しなかったばっかりに
むざむざ大坂の福島屋敷の兵糧を秀頼公の籠る大坂城に運び入れられてしまうとは」

706 :人間七七四年:2018/03/19(月) 11:52:44.73 ID:uRoEdMkP.net
幕府の許可もなく大船を持つとはけしからん内地に国替えさせよう

707 :人間七七四年:2018/03/19(月) 15:09:10.97 ID:pGLzIasn.net
有名な話だけどまとめサイトの方に地元の話題があまりなかったので。
初投稿なので作法がなっていないかも知れません。ご容赦ください。

南総の友情

天文二年(1533)、一人の若き僧が安房の保田妙本寺にやって来た。
僧の名は日我。日向に生まれ六歳にして三河阿闍梨に教えを受け、二十代の若さで妙本寺の代官に任じられた秀才であった。

やがて日我は日蓮崇拝の気風が強い安房にて深い尊崇を受けるようになり、ついには妙本寺を継いだ。
そして同じ頃、安房ににて頭角を現した者がもう一人いた。天文の内訌の勝利者となり安房里見氏を掌握した里見義堯である。
二人は出会うと互いに感銘を受け、尊敬し合う仲となった。
当時義堯は三十歳、日我は二十九歳であったと言われる。

古の義舜の治世を夢見たとも言われる義堯は学徳深い日我を謂わば政治顧問の様に頼り、その助言によく耳を傾けたという。
また日我は寺領を前線基地として里見氏に貸し出すなど、二人は二人三脚でその勢力を拡大していった。
だがたった一度、日我の進言を義堯が退けたことがあった。相模の北条氏康が日我を通して義堯に和睦を持ちかけたのだ。
「日我上人の申し出でもそれだけは受け入れられぬ」
義堯はそう言って断ったが、その後も二人の交流は途切れなかった。

月日は流れ天正二年(1574)六月一日。その半生を北条との戦いに投じた安房の狼、里見義堯は泉下の人となった。
日我と義堯の出会いから四十年近く経っていた。
里見氏の門派は曹洞宗であり、当然義堯も日蓮宗に帰依はしていなかったが、日我は願い出て義堯の百日法要を行った。
百日間の読経の後、日我は友の為に歌を詠んだ。

隔つとも 心の空に 照る月の 光は同じ 眺めなるらん

二人の眺めた光とは房総の安寧か尽きることなき野心だったか。
幾度北条に大敗しても立ち上がり続けた義堯を日我は「関東無双の大将」と述懐したという。

708 :人間七七四年:2018/03/19(月) 15:34:31.80 ID:3GoBRh6O.net
古の義舜って佐竹義舜のことか?
また里見らしい中途半端な目標だなw

709 :人間七七四年:2018/03/19(月) 15:42:38.16 ID:dxw5TKgB.net
「堯舜の治世」の間違いじゃないの?

710 :人間七七四年:2018/03/19(月) 16:38:47.11 ID:DgvlYfoX.net
>>708
いや君の洞察力もなかなか中途半端w

711 :人間七七四年:2018/03/19(月) 20:58:08.82 ID:NiRrw8co.net
義堯って昔は父親の仇をうった悲運の武将のイメージだったけど、いまでは狡猾などこにでもいる普通の戦国武将のイメージになったなあ

712 :人間七七四年:2018/03/19(月) 21:28:22.69 ID:Kcf+W54U.net
と言うか家督簒奪に手を貸してくれた北条裏切って日本の端っこでチマチマ暴れてるだけのザ・小物だよな
里見八犬伝が無かったら信長の野望にも大名としては出てこないレベルの弱小田舎者
北条もめんどくせーから放置してただけで

713 :人間七七四年:2018/03/19(月) 22:27:41.09 ID:PMk443LG.net
お、おう

714 :人間七七四年:2018/03/20(火) 08:31:34.06 ID:vGSHxsvS.net
史書改竄して自分の不義理を隠蔽した奴のどの口が堯舜の治とか言うのかと

715 :人間七七四年:2018/03/20(火) 17:17:15.85 ID:Hwko5hvB.net
丹波国は惟任日向守(明智光秀)が、織田信長の御朱印を以って一国を下された。
これはこの時の理にかなった申し付けであった。

光秀は前代未聞の大将であり、坂本城主にて滋賀郡の領主であった。
信長に敵対した多喜郡高城の波多野兄弟(波多野秀治、秀尚)が扱いにより安土に送られた時、
光秀は彼らをその路中で絡め取り、安土まで馬上に縛り付け、筒を差し、そこに手足を結び、
波多野兄弟を磔の姿にした。前代未聞である。その姿で天正7年6月10日、京都を通過した。

光秀は美濃国住人で、土岐氏の随分衆であり、明智十兵衛尉と名乗っていたが、その後
上様(信長)の仰せにより、惟任日向守となった名誉の大将である。
弓取りほどの者は、彼の行いを煎じて飲むべきである。

(立入左京亮入道隆佐記)

なんだか光秀の評価が恐ろしく高い立入宗継の記録である

716 :人間七七四年:2018/03/21(水) 11:45:47.43 ID:Gtrdppit.net
>>714
それ言ったらお終いだろ。みんな聖人君主だと思ってるのかい?

717 :人間七七四年:2018/03/22(木) 14:38:32.21 ID:Ml9sJDFQ.net
よく人を見立ててから


あるとき、森忠政君に近習の者が
「中小姓の扶持方に切米で勘定するのは、百石の物成より多くなりますから
 (中小姓に)所付*されて下さい」
と申し上げれば、(忠政は)
「折紙は本阿弥の札のごとく大切な物である。切米を貰っている者が
 他の国へ行っても大したことにはならないが、所付は他国でその者が
 放言すれば『あんな馬鹿者に知行を取らせたのか』と俺が笑われることに
 なるのだから、よく人を見立ててから所付はするものだ」
と仰せられたという。


――『森家先代実録』

* 具体的に知行所(領地)を付けること。

718 :人間七七四年:2018/03/22(木) 21:19:31.86 ID:Go8PNewW.net
明応の政変によって畠山尾州(政長)が自害し、その嫡子である尚慶(尚順)は大和の奥郡に隠れた。

畠山家の侍である木澤という者、尾州生害の後、いかにもして主の本意を達し、尚順をもう一度、
その本拠である河内へ返さねばと、骨髄に徹して思っていた。

その志が天に通じたのだろうか、彼は和泉の堺は落ち行き、商人として日を送っていたが、
ある時大雪が降った。彼は「名屋」という商人の邸宅の門の前を通っていたが、夜も相当に更け、
体の前にも後ろにも雪がついていたので、名屋の小門の板(看板?)にてたたき落とした所、
内より戸が開き、何者かが彼の袖を引いた。

木澤は怪しいと思ったが、無言のままこれに引かれて奥に入ると、屏風の中に引き入れられた後、
女房二人が火を灯し持ってきて、この木澤を見た途端、驚き呆れた表情になった。
これは、名屋という商人が高麗へ商売に渡っている留守の間、夜な夜な他の男が名屋の
妻の元に通う、いわゆる忍男があり、その忍男が門を叩いたと思って、間違って木澤を
引き入れてしまったのだ。

木澤はこの有様を見てそれを悟り、言った
「私はこの屋の主と知人である。彼が高麗より帰れば、この事を伝える。」

これに主の妻は手を合わせて詫び嘆き、金銀を持ってきていろいろと宥めてきたが、
彼は金銀を取らず、床にあった笛を密かに取って帰っていった。

程なくして名屋が高麗より帰国することが先立って知らされた。そのため邸宅の中を掃除した所、
名屋秘蔵の笛が見つからず、妻も不思議に思いかれこれ尋ねた所、有る女房が
「いつぞやの夜の男が、笛を懐中に入れたのではないでしょうか?」
と申し上げたため、かの男を詳しく尋ねると、やはり木澤のもとに笛があった。

木澤は尋ねてきた相手にこう申した
「私は必ずあの夜のことを名屋に申す。笛はその証拠とする。」

名屋の妻の父である紅屋という者がこれを知らされ、木澤の元に行き、訴えた
「どうか我が娘の命を助けてほしい。笛を返してほしい。」
そう嘆いて申した所

「ならば、我が望む所を達してくれるなら笛を返そう。」

紅屋は誓った
「どのような事でも、決して背きません。」

「では言おう。私は故畠山尾州守の家人である。主の本意を達すること計る心を、今も持っている。
現在、河内の平野には桃井兵庫が有るが、これを討とうと考えている。しかしその時、兵糧が
なくては叶わない。我々が挙兵するとき、必ずそれを頼む。」
そう伝えて、笛を紅屋に返した。

その後、杉原、斉藤、丹下、貴志、宮崎、安見、木澤、そして遊佐河内守をはじめとした
畠山尾州家の牢人たちを紅屋の元に集めた。
そして地の利を詳しく知っている彼らは、平野に夜討ちをして桃井、一色といった者たちを
討ち取り、畠山尚順は本意を達し河内へ帰還した。
そして河内の高屋は安閑天皇の墳墓であったが、要害が良いためここに城を築いた。
(足利季世記)

719 :人間七七四年:2018/03/23(金) 23:38:13.64 ID:R6aFemdC.net
全くいい話に見えないな

720 :人間七七四年:2018/03/24(土) 02:28:05.90 ID:aZ7j2nv1.net
明応の政変って戦国時代か?

721 :人間七七四年:2018/03/24(土) 06:08:05.04 ID:fJ/2jLXX.net
>>720
>>718は少し精神に病を抱えていて一所懸命カキコしたのでそっとスルーしてあげてください
本人はドヤなので

722 :人間七七四年:2018/03/24(土) 07:04:51.85 ID:qpZjEP8O.net
享徳の乱以後は戦国時代でおk

723 :人間七七四年:2018/03/24(土) 07:42:36.08 ID:s940ZZCm.net
古い話も新鮮でよいけどな

724 :人間七七四年:2018/03/24(土) 08:12:11.12 ID:b335Lh6h.net
畿内では明応の政変からが戦国時代、というのが中世史では一般的な認識なのに
>>721 は何を言っているんだ?

725 :人間七七四年:2018/03/24(土) 13:10:46.02 ID:fJ/2jLXX.net
>>724
やっぱアスペか?
そう言う話じゃなくて脅して上手く行った話のどこが良い話なのかと
もうレスしなくて良いからスローしろゴミ

726 :人間七七四年:2018/03/24(土) 13:14:44.84 ID:6svxF2Rw.net
ゴミはスロー

727 :人間七七四年:2018/03/24(土) 18:13:24.89 ID:E6lAAeej.net
主家復活のため手段を選ばない男が人の浮気をネタに恐喝して得た資金で目的を達成ってどっちかって言えばいい話に読めるけどな

728 :人間七七四年:2018/03/24(土) 19:49:43.26 ID:Uvw5N+xj.net
まあ武略の類いでいいんじゃないかなあ
木澤って長政のじいさんとかなのかね

729 :人間七七四年:2018/03/24(土) 21:10:18.02 ID:VcxbanMs.net
主の本意を達成させた普通にいい話だよなあ
脅したっていっても別に悪意を持って陥れたって訳でもないし
嫁さんとその父親が身銭を切らされるのは自業自得

730 :人間七七四年:2018/03/24(土) 21:51:56.60 ID:Ckif7DNX.net
近頃のことであろうか、摂津下郡の内に1人の大名(瓦林正頼)がいた。

当国の太守・細川右京大夫高国にとっては外戚なので、無縁ではないとはいえ代々忠節
を尽くした家臣である。およそこの頃は当国に限らず諸国は乱れて攻め合ったので、

かの戦国の七雄の昔と変わらず、ただ朝夕寄せつ寄せられつ攻め戦う、闘諍堅固の時節
となったのは哀しきことである。

(中略)

その後(船岡山合戦後)、色々の調停などもあって播磨と京は和睦になったとはいえど、
心の底では油断無き状態であり、その他に四国も大概は(高国方の)御敵となった。

摂津にしかるべき城が無くては叶わないと、国守(細川高国)は上郡芥川の北に当たる
場所に相応しい大山があったので、ここに城郭(芥川山城)を構えなさった。昼夜朝暮、
5百人から3百人の人夫が普請を続け、少しも止む時がなかった。

正頼もまた鷹尾城を構え、またその東に1里隔てて西宮より8町北に小清水という小山
があったものを家城に拵えて(越水城)、日夜ただこの営みばかりを行った。

毎日50人から百人で堀を掘って壁を塗り、土塁や櫓を設けたので鍛冶・番匠・壁塗・
大鋸引はまったく暇こそ無かった。これに加えて正頼は透間に連歌を興行し、月次連歌

も行われた。夜々には古文を学んで道を尋ねたので、実に文武二道を嗜む人であった。
ことに連歌は長所で、近頃の宗祇法師が撰んだ『新選菟玖波集』の作者にも入った。

かの鷹尾城には与力の鈴木与次郎を城掛として、その他しかるべき士卒がこの城を守り、
小清水の戴く本城には軒を並べ作って広げ、正頼の普段の居所とした。

外城には子息の六郎四郎春綱を初めとして、同名・与力・被官が棟を並べて居住した。
その他の住居に余る家人たちは大概が西宮に居住した。

およそ目を驚かせるその風情は、当国には並び少なき大名であった。

――『瓦林正頼記』

両細川の乱で一貫して高国に属し、勇戦を繰り返して栄華を誇った瓦林正頼だったが、
1520年、高国に謀反を疑われて自害させられたという。

731 :人間七七四年:2018/03/26(月) 20:20:53.03 ID:0L5g/Ngu.net
江州両佐々木と申すは、六角は惣領であり、近江国人は彼の下知に従った。
京極は庶流であったが、佐々木道誉判官が足利尊氏への忠功莫大であったため、
公方より寵愛され、現在は四職の一つとなっている。

応仁の乱より、京極は細川勝元と一味し、六角は山名宗全に一味して、互いに敵となった。
応仁の乱で山名方が敗北した後も、六角一人京に従わなかったため、公方の御動座(遠征)も
度々行われた。

ではあったが、永正の乱の後は、公方からも細川高国からも頻りに六角高頼を頼るようになり、
六角は足利義稙の味方と成った。
六角高頼は既に老人であり、一男亀樹丸に家を譲った。亀樹丸は後に氏綱と名乗った。

しかし彼は片足短く、立居も不自由であり、現在のような大事の時には立て難いとされ、
次男が吉侍者といい、禅僧として相国寺にあったのだが、彼には武勇の器量があるとの事で、
重臣である多賀豊後守、蒲生下野守、田中四郎兵衛尉らが相談して公方に申し上げ、
還俗して高頼の名代として公方に預けられ、定頼と号した。
公方はこれを喜び、佐々木弾正少弼に任じた。

六角定頼は木刀を腰に挿して公方の御前に参った。公方が「それはどうしたのだ?」
と尋ねると
「私は元々出家ですので、刀を持っていないのです」
そう申し上げた。

公方はこれに笑いだし、国行の太刀を与えたという。
(足利季世記)

732 :人間七七四年:2018/03/26(月) 20:32:17.36 ID:8tO6Yj5w.net
>>731
まるで無能のような印象の氏綱だけど、実際には10年ほど父の名代あるいは当主として積極的に活動していたみたいだね

733 :人間七七四年:2018/03/26(月) 23:36:42.67 ID:cVbL3AHp.net
毛利隆元に通じるものがある

734 :人間七七四年:2018/03/27(火) 22:41:02.59 ID:6zrOuqmt.net
その頃、近江の国衆に久里備前守、山中新左衛門という人があった。彼らは三好と一味し、
ややもすれば公方足利義稙を保護していた、近江守護である六角氏の下知にも背いた。

しかし山中新左衛門は討ち死にをしたのだが、久里備前守な猶残り、しかもその勢力は大きく、
六角家にとって邪魔な存在ではあったが、自分たちに被害なく滅ぼす方法は見つからず、
六角高頼も、どうにも出来ないと彼に手を出すことをためらっていた。

しかしこの度、六角家を継いだ六角定頼は船岡山の戦いで抜群の大忠があり、従四位下に
補せられた。この期に久里を誅すべきと、密かに公方へ申し上げ、加勢の約束を得た。

さて、ある日突然、六角定頼は「伊勢へ参拝する。久里も供をせよ!」と、近臣である
種村三河守、狛修理亮、田中、二階堂といった者たちを供に、久里の館に入った。

久里は驚いたものの、様々に彼らをもてなし、数献の酒のうちに、御供衆も定頼も
沈酔し、定頼は久里の膝を枕にして空寝入りをした。

その時、多賀豊後守、吉田、永原といった者たちが、公方よりの御加勢二千騎を率いて
久里の館を取り巻き鬨の声を上げた。
これに定頼は驚いた風情にて「こはいかに!?」と飛び起き、即座に太刀を取って久里を討ち取った。

こうして六角は年来の本意を達し、近江の国衆はようやく定頼に従った。

(足利季世記)

735 :人間七七四年:2018/03/28(水) 02:00:08.46 ID:Pp4K4QKT.net
これはいい話だすげー

736 :人間七七四年:2018/03/28(水) 10:07:45.07 ID:E9PDWkxa.net
嘘臭い
謀殺するならまず阿呆の演技が必要だろ

737 :人間七七四年:2018/03/29(木) 03:09:26.49 ID:83nH2xdI.net
これは正にポルナレフAAな出来事だな

738 :人間七七四年:2018/03/31(土) 22:37:40.58 ID:oYtXoVs4.net
新たに征服した地域を支配する際の注意点


毛利元就は新たな地域を支配する際にこういう事を言っている。
「征服された地域の人々を侮ってはいけない。
そういう事をすると恨みをかう。」

元就は自分が征服された立場になってものを考えた。
だから元就は征服した地域に毛利家からだけ指導者を出さなかった。
その地域で毛利家に協力する者があれば積極的に登用した。

元就はこう考えていたからだ。
「毛利家からだけ支配者を出しても、地域の住民は従わない。
それは必ず新しい経営のやり方と古いやり方を比較するからだ。
もし同程度であったら絶対に昔のやり方を懐かしむ。
それだけ(当時)地域では支配者と住民の繋がりは深い。
これを破壊するよりむしろ抱き込んだほうがよい。」


武田信玄も信濃国について
「征服された直後の地域住民は昔の支配者を慕っている。
たとえ悪い支配者であっても必ず新しい支配者と比較していい感情をもたない。
武田家からいった者はわりをくう。
そのため武田家に協力する者があればどんどん抱く事が必要だ。」と同じような事をいっている。

739 :人間七七四年:2018/04/01(日) 14:06:08.00 ID:xEQom0Uz.net
>>738
策謀家の二人が言うと説得力がありますな…。

740 :人間七七四年:2018/04/01(日) 14:26:51.78 ID:f1hrGfA/.net
武田のほうは佐久攻めからの教訓でしょう

741 :人間七七四年:2018/04/01(日) 14:51:13.15 ID:rVTjiwnx.net
毛利も楽勝と見込んだ筈の厳島合戦後の防長経略で
一揆軍の妨害に手こずって大幅に計画遅延させられた苦い経験がある

742 :人間七七四年:2018/04/01(日) 15:11:47.64 ID:TSc5OARK.net
手のひら返しての陶攻めだし、靡かないのは仕方ないんじゃないのかな
ましてや1国人あがりだもの

743 :人間七七四年:2018/04/03(火) 09:26:32.73 ID:HTQMyVaV.net
天文十四年八月二十三日酉の刻(午後6時ころ)、天下は一斉に黄色と成った。

草木も黄花に変じ、道に行き合う人の顔も、さながら黄金を見るようであった。
知らぬうちに人々が成仏し、金色の如来となったようであった。
前代未聞の不思議であったが、夜になると次第に闇と成っていった。

(足利季世記)

実際にあったとしたら、一体これはどんな現象なんだろうか

744 :人間七七四年:2018/04/03(火) 10:59:45.56 ID:RHk8oFmq.net
この記録を残した人物が黄視症にでもかかってたんじゃないの

745 :人間七七四年:2018/04/03(火) 11:17:37.97 ID:cDz9uMmI.net
何か良い事でもあったか、時期的に熱中症か

746 :人間七七四年:2018/04/03(火) 12:34:42.55 ID:gBu9PaIR.net
黄砂かな?

747 :人間七七四年:2018/04/03(火) 13:04:48.80 ID:IPl0mpkn.net
多分黄砂じゃないかな
以前北京にいた時、強烈な日は空も何もかも黄色になったし
日没近くになると太陽光のオレンジも加わって尋常ならざる雰囲気を醸し出してた

748 :人間七七四年:2018/04/03(火) 16:16:11.73 ID:QOzmNWtQ.net
末期色なのじゃよ

749 :人間七七四年:2018/04/03(火) 19:33:06.65 ID:b/4iBHhG.net
8月って書いてるから、時期的に黄砂は違うんじゃないかな。

750 :人間七七四年:2018/04/03(火) 20:18:58.69 ID:CASJSLgR.net
黄砂はどの季節でも発生する
春は他の季節よりも発生しやすいだけ

751 :人間七七四年:2018/04/04(水) 02:57:15.49 ID:TNR/k7ZT.net
国内の砂丘で竜巻発生したんじゃね?黄砂だったら通年で記録に残ってるっしょ

752 :人間七七四年:2018/04/04(水) 15:06:01.88 ID:2/N52Qoq.net
<歴史>「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180404-00000029-mai-soci.view-000

753 :人間七七四年:2018/04/04(水) 18:49:19.67 ID:yipZGTqw.net
この調子で関ヶ原も頼む

754 :人間七七四年:2018/04/05(木) 04:06:15.40 ID:Gk2DZ6cZ.net
島津忠良・貴久は島津実久方の要害・一宇治城を攻略せんと、同城を守る町田用久を誘ったが、彼は
まったく応じなかった。そこで千余騎を率いて城を攻めたが、堅城ゆえになかなか落とせない。

この時の用久は実久を訪ねておりそこを狙っての攻撃であったが、このままではいずれ実久と用久が
駆け付けて来て貴久らの大敗北は必至であった。夕方になって事態を危惧した忠良は、

家臣で山伏の本田石見房慶俊を呼んで落城祈願を命じた。慶俊が祈願を行うと城の西北部、本陣から
700mほど北方、城麓の振木口という神之川の川辺あたりに狐火が起こり、それが林間を山上へと

上っていった。そこでその跡について行って攻め込んだところ、容易く攻落することができたのだ
という。険峻を頼みにして守備兵を配置していなかった現在ザビエル記念碑のある神明城付近に

突入したのではないだろうか。忠良は石見房の功を賞して城の東方護摩所から東に向けて矢を射らせ、
その矢の落ちたところに稲荷神社を勧請して石見房に守らせた。

上之平の稲荷神社がそれで、石見房は犬之馬場の旧伊集院庁舎一帯に屋敷を賜り、子孫が現在に至る
まで神社を管理している。この稲荷神社は藩政時代に伊集院五社の一つだった。

また本田家は伊集院の四名家の一つに数えられ、石見房の曽孫・吉藤は島津義弘の小姓として関ケ原
の戦いに参加して義弘から感状を賜り、幕末には本田兄弟が西郷隆盛によって墓碑を建てられるなど、
人材を輩出していった。

――『松元町郷土誌』

755 :人間七七四年:2018/04/06(金) 23:18:52.42 ID:7SzY1fCD.net
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´  狐じゃ、狐の仕業じゃ!  >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
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756 :人間七七四年:2018/04/07(土) 04:18:44.50 ID:iHRMdr3k.net
by モンゴメリー

757 :人間七七四年:2018/04/07(土) 17:03:13.59 ID:lWxpVVTl.net
その年、天文二十四年十月、改元ありて弘治元年となる。

長門国では大内殿を討った陶尾張入道(晴賢)の子息、阿波守(長房か?)がその威勢を
近国にまで広げ、主君である大内義長とも不和なり、これにより大内家中の重臣層、
相良、杉、内藤といった者達と、陶晴賢勢との紛争が起こるように成った。

その頃、芸州に毛利元就という人があった。彼は始め、大内義隆の被官であり、安芸国にて
武田刑部大輔信実と国を争っていたが、武田の家老である熊谷伊豆守信直が武田に背き、
毛利に一味したため、終に武田は自害し、安芸は毛利元就が一国平均に治めた。

その後、元就は出雲国尼子と合戦をし、この折大内殿より度々合力があった。
しかし義隆生害により毛利は強く不安を覚え、また大内重臣の内藤氏が元就の子息の縁者で
あったため、陶と対立する大内家老衆と毛利は一味し、諸境に出城を取り、陶晴賢勢と
戦争状態に入った。

陶の運が尽きたのは、彼が芸州宮島に攻め来たのを、弘治元年十二月朔日の夜に入って、
毛利は風雨、夜に紛れ襲来したため、陶晴賢勢は大混乱に陥り忽ち敗軍し、陶晴賢、同長房は
討ち死にし、陶の家老である三浦越中守は突撃して防戦を行ったものの、小早川隆景勢が
すぐに馳せ寄り、越中守を討ち取った。

こうして陶勢は尽く討ち取られ、さらに毛利勢は周防長門へ侵攻し勢いを振るい、
大内義長も長門国府の長福寺にて自害し、内藤下野守は同国勝山にて自害、陶五郎は
周防の富田若山にて自害、江良弾正、伊香賀左衛門は須々麿にて自害した。

毛利元就は、このように忽ちのうちに大内義隆の恨みを晴らし、周防長門の主となった。

(足利季世記)

色々史実とは異なるものの、畿内から見た毛利元就の勃興についての記事

758 :人間七七四年:2018/04/08(日) 21:19:04.62 ID:F5+CTd0X.net
天文5年(1536)11月29日夜、島津忠良は兵を率いて下神殿に向かった。下神殿から上神殿
にかけては島津実久方の諸氏が塁を構えていたが、忠良に降を請うたための出陣であった。

『日新公御譜中』によると既に日は暮れて雨が降り、とても暗いので道が分からなくなった。すると
日新公(島津忠良)の左側の足元に蛍火ほどの火が草むらに流れ、だんだん大きくなって蝋燭の火

ぐらいになったものが3つ部隊の先頭に立って道を照らした。日新公は「これは稲荷大明神の御助け
であろう」と誠心誠意祈念し、兵士たちもまた一生懸命に祈った。

このため前途ついに支障もなく塁に到着し、諸塁はたちまち日新公に属したのだという。

――『松元町郷土誌』

759 :人間七七四年:2018/04/10(火) 08:48:28.09 ID:TUp17M1l.net
永禄4年(1561)正月十五日、三好修理太夫長慶父子は上洛し、公方様(足利義輝)方へ
出仕あり、子息筑前守慶興は、「義」の一字を賜り義興となり、父長慶と共に
御相伴衆に任じられ、桐の御紋を下された。これは斯波氏の家臣で陪臣であった
朝倉弾正左衛門家(越前朝倉家)を、英林院殿(朝倉孝景)より御相伴衆にした
先例に寄ったのである。

同年三月二十九日、右の御祝いの御悦として、公方義輝が三好館へ御成があった。
御遊あり、御能もあり、その後義輝より三好に対して、細川晴元入道との和親を
促された。

同年五月六日、細川晴元入道一清を、三好より迎え入れ、摂津国富田庄普門寺へ入れ、
富田庄を御知行あるべしと贈呈した。

誠に多年旧功の主従であり、三好殿は旧懐の涙しきりであったという。

(足利季世記)

優しい世界

760 :人間七七四年:2018/04/12(木) 18:06:14.87 ID:bVtCrpO+.net
1560年頃、安房・上総の西沿岸部は舟に乗って東京湾を渡ってきた盗賊たちが跋扈しており、夜中に民家や寺院に押し入り、放火や略奪、強姦など狼藉すること限りなかった。
盗賊と言えど身を立派な武具甲冑で固めた者たちなので、恐らく北条氏の水軍衆だったのだろう。
当時既に家督を嫡男義弘に譲って隠居の身となっていた里見義堯は領民の惨状を聞いて驚き、洲の岬、滝山、明ケ根の三か所に物見櫓を建てると、昼夜問わず湾に近づく船を片っ端から改めることとした。
しかしそれでも闇夜に紛れて小舟で乗り込んでは、民家を襲う者が絶えなかった。物見櫓から賊を見つけても、里見の武士団が到着した頃には小舟でさっさと逃げ帰ってしまうのである。
これには房州中の武士たちが怒り、岡本城という湾に面した小城を大改修し、賊に備えることとなった。

岡本城が完成するとここに里見義弘が入った。そして先に築いていた物見櫓と狼煙を使って連携し、賊が現れようものなら城より番士組という警備隊が出動、これを撃退することに成功した。
元亀年間(1570年代)にはかつての乱暴の煩いは嘘のように消え、房総の人々は戸閉まりを忘れるほどだったという。
盗賊を一掃した主君の恩を想い、民は万年君と称えた。


「万年君」と言えば里見義堯というイメージですが、元ネタの一つである『房総里見誌』を読むと里見義弘(あるいは里見親子)を指しているようにも読み取れます。
この逸話ではやられる側の里見氏も当然水軍衆を率いており、度々北条領(時には鎌倉まで)攻め入っていますので、
東京側・千葉側を問わず東京湾沿岸の人々は保安のために北条・里見の両方にミカジメを払わなければならない状況が続きました。
天正年間に里見義弘と北条氏政が和睦し相房御和睦が成りますと、房総の人々は歓喜したと言います。里見氏が尊崇すること止むない妙本寺日我も、
湾の向こう側が「味方」となったことで平和となり、二重賦課や乱暴狼藉が無くなり流通が盛んになったので、この和睦を大変高く評価しました。
父以来の因縁であった北条氏に事実上屈服することとなった里見義弘は大変悔しがった苦渋の選択でしたが、東京湾の平和は多くの人々から歓迎されたようです。

761 :人間七七四年:2018/04/12(木) 18:22:00.82 ID:ipnwiLT3.net
里見が無駄な抵抗を続けたせいで民が被害を被った悪い話では

里見八犬伝と資料捏造の影響かメジャーじゃないけど、
里見家って北条への裏切り、上杉から武田への寝返り、家督簒奪だのお家騒動だのが頻発するろくでもない一族だしな…

762 :人間七七四年:2018/04/12(木) 18:42:32.29 ID:R36Ud/OQ.net
>>761
安西や丸さんですか?

そんな家は日本中にごろごろしてるやん?
北隣の千葉もそうだし、鹿島、長尾、結城、由良・・・
内紛、鞍替えなんて珍しくもない

763 :人間七七四年:2018/04/12(木) 19:03:34.40 ID:R36Ud/OQ.net
>>760
結局、江戸湾の奥まで北条が進出してきたから小弓やそのあとを襲った里見とぶつかってるんだよね
早々に小弓が千葉を従えて武蔵や古河を狙う状況になっていたら、その後の関東の戦国時代が変わっていたかもしれない
まあ、あの脳筋さんではどんなに頑張っても北条とぶつかるだろうけど

この海賊って内房の正木一族なんじゃないかな
仲の悪かった内房正木が里見に帰ってくるのがこの頃(永録年間)だったし、手打ちで海賊行為を止めて復帰って感じだったりしないかな

764 :人間七七四年:2018/04/12(木) 21:57:15.40 ID:JVeO1YPB.net
>>761
家督簒奪は武田の方が有名だろ
もはやDNAレベル

765 :人間七七四年:2018/04/13(金) 01:39:43.01 ID:Ejka1ruV.net
渕田集落の松ヶ平に唐人松の伝説を伝える松がある。現在朽木一株があり、その下に墓がひとつある。

往時鹿児島県喜入に来住していた唐人たちは長い年月が経って古郷が恋しくなり、唐船の入港を待ち
わびていた。ある日、待望の船が港についた。唐人たちは喜んだが、いざ入船するという時に

1人足りなかった。あちこち探しても見つからず、あれほど帰りたがっていたのを、置いていくのは
可哀そうだが、航海の都合もあるので後ろ髪を引かれる思いで出航した。彼が港にかけつけた時には

船はすでに沖合遥かに煙っていた。彼は地団駄を踏んで悔しがったが、どうにもならず悲しさの余り
だんだん上のほうにあがり松ヶ平まで来た時、船の姿はついに海空のかなたに見えなくなった。

彼は悲嘆の余りに、松の枝に首を吊って死んだ。以来、村人たちはその松を“唐人松”と呼ぶように
なった。彼には知覧に恋人がいて、帰国にあたり別れを告げに行っていたのだと伝えられている。

なお知覧町桑代集落には唐人松にかかわる次のような話が残る。唐人松の下に自然石の墓がひとつあり、
この墓に毎年の盆正月、春秋の彼岸の年4回墓参りに来る人たちがいた。知覧町桑代の人たちである。

桑代集落の祖先は佐多に居住して禰寝家に仕えていた。禰寝氏は文禄4年(1595)、吉利に移封
されて与えられた知行は約3700石で旧領の約4分の1であった。禰寝重張は一族郎党数百の家臣

を伴って吉利に移ったが、当時の吉利は田地が少なくむしろ未墾の地であった。重張に従って移住した
ものの、その多くが生活に困って旧領地へ引き返す者も少なくなかったという。

その中の一族・桑代家も旧領地へ引き返す途中の旧暦12月30日夕方、知覧町の桑代に辿り着いた。
明日からは峠を越えてさらに何日かを費やして帰っても、そこは既に他家の領地であり、土地も家も

没収されていることは分かっていた。いろいろ思案の末、ここに留まって居住地とすることにした。
桑代を中心に上之町(松尾家)、中福良(田中家)に居を定めることにした。翌日は元旦だったが、

長い旅続きで蓄えもなく、正月は何も飾ることはできなかった。以来、今日まで正月の松飾りなどは
しないしきたりになっている。桑代一帯に落ち着いた一族の長老は、その死に臨んで、

「自分が死んだら、これまで過ごした佐多の地が見える所に埋めよ」と言い残した。遺族たちは遺体
を桑代に埋めたが、その遺言を守って大隅の地が望める松ヶ平の唐人松の下に墓を建て、以来、

三集落の若者が2人ずつ年4回の墓参りを欠かすことなく続けて、太平洋戦争中も女性が代わりに
続けてきたという。ところが昭和30年代に入り、若者が都会に出て行って戸数も人口も減少し、

やむなく歳をとった女性が墓参りを続けていたが、目印の傘松は枯れ、造林によって林相は変わり、
かつての知覧街道も荒れ果てて、通る道すら分からなくなってしまった。

このため昭和52年(1977)、桑代集落の墓地改造を機に、唐人松の墓地をこの墓地に移すこと
にして共同墓地の中央に“桑代氏祖先之墓”を建立し、昭和53年(1978)1月29日改葬され、
ここで永久に村人たちを見守り、また村人たちが見守ることになった。

薩摩藩領内には“唐”のつく町名・港名などが多い。唐はもちろん外国の意味で薩摩が立地・気象・
海流など海上交通の条件に恵まれ、古来から中国・朝鮮・東南アジアとの往来が盛んだったからで
ある。本町でも旧市の唐人潟、唐人松に何らかの由縁を感ずる。

――『喜入町郷土誌』

766 :人間七七四年:2018/04/13(金) 01:49:49.69 ID:b2XKvRfw.net
産業で頼む

767 :人間七七四年:2018/04/13(金) 07:56:39.51 ID:ZJ5kSamD.net
むしろ長文がダメな人が来る所じゃないような

768 :人間七七四年:2018/04/13(金) 08:16:17.93 ID:ucnig8gM.net
>>764
源氏の血筋が悪い

769 :人間七七四年:2018/04/13(金) 11:44:15.87 ID:TbCnxCmu.net
為義、義朝が悪いね

770 :人間七七四年:2018/04/13(金) 13:04:55.58 ID:gyi31u/K.net
>>760
領民の建前「里見最高!万年君!」
領民の本音「さっさと北条に降伏しろよ…税の二重取りも略奪もキツいわボケ」

こういうことか

771 :人間七七四年:2018/04/13(金) 14:22:04.29 ID:4Dlrdyb0.net
氏政の娘貰っておきながら死んだから変わり寄越せって氏政の妹ひったくって、また死んだから武田と結んで最後は豊臣と結んだ里見くん凄すぎー

772 :人間七七四年:2018/04/13(金) 14:46:39.00 ID:908VFRFc.net
同盟の大枠が変わるたびに出るありきたりの話だが、里見に親でも殺されたのだろうか?

773 :人間七七四年:2018/04/14(土) 07:05:01.90 ID:qspYcuOp.net
>>765
別にいい話でも何でもないやん

774 :人間七七四年:2018/04/14(土) 16:19:57.85 ID:o5J2iRKq.net
>>766
唐人が間抜け
老害が正月禁止
この二人がずっといっしょ

775 :人間七七四年:2018/04/16(月) 22:17:26.90 ID:1I0mDnDt.net
ある時、織田信長は御刀持に名をつけたことがあった。

「汝の事を今後、『菊石』と呼ぶ。何故ならば、長刀持は庭に居て良きものである。
また菊石も庭にあって見事であるからだ!」

そのように仰られたのである。

(祖父物語)

信長のネーミングセンスもわりと反応に困るものが多いような。
菊石というのはこういう「菊花石」の事でしょうね
https://i.imgur.com/jE6DOtF.jpg

776 :人間七七四年:2018/04/17(火) 08:31:00.65 ID:Tn6Pyrjz.net
庭にいていい者か
なら禿鼠でいいんじゃね?

777 :人間七七四年:2018/04/17(火) 20:22:44.33 ID:DiicARIH.net
まあ菊石なら名字にしてもカッコがつくからええわ

778 :人間七七四年:2018/04/17(火) 22:14:32.61 ID:b4/LIygH.net
人「」

779 :人間七七四年:2018/04/18(水) 12:57:54.91 ID:4ciD4O7a.net
ノブ「お前の菊花は実に締まり具合が良いので、お前は菊石だ」

780 :人間七七四年:2018/04/18(水) 17:03:26.34 ID:IiAJoYMQ.net
池田輝政の立身について


備前宰相殿(輝政三男・忠雄)は光政様(輝政嫡孫)に輝政公の御立身について

「輝政公の御立身は古今にないことだ。遠国を数ヶ国公方より恩領した人は
 いるかもしれないが、輝政公は自身の武功によって切り取ったのだ。
 輝政公が家康公より備前播磨淡路三ヶ国を残らず拝領したことは無類の
 ことである。その上美作は森武蔵守殿(輝政の姉婿)の縁者が治めていて
 阿波国は家臣の出羽(輝政甥・由之)と縁続き*で隣国に姻戚がいるのに
 数ヶ国下されたというのは、無双の事である」

と仰せられていたという。


――『烈公間話』

*池田由之の正室は蜂須賀家政の長女

781 :人間七七四年:2018/04/19(木) 17:46:51.24 ID:to0N6CNP.net
どこが良い話なの?

782 :人間七七四年:2018/04/22(日) 20:29:37.55 ID:ou08Zeez.net
 (1582年3月3日)新府城から郡内(小山田領)へ退避するために新府城にある物資や妻女たちを運ぶため、
夫馬300疋、人夫500人を新府城まで出すようにと国中に触れたが、
甲斐の地下人たちは山野に隠れてしまい、国中は織田方の侵攻と武田の敗戦を知り騒然としていた。
夫馬も人夫もなかなか姿を見せず、勝頼夫人の輿を担ぐ輿かきすら逃げうせてしまっていた。
家来たちが手分けして、夫馬一疋をようやく探し出し、これに草鞍を敷いて北条夫人を乗せた。
 勝頼は新府城を退去するにあたって、ここまで同行してきた信豊を呼び寄せた。
「信濃国を譲渡する。小諸城は要害堅固の城であるから、
ここを足場に舅である小幡上総介信真(小幡信貞)らを頼み、真田昌幸、内藤昌月らと協力して
上野、信濃の軍勢を集めて信長らが甲斐に侵攻してきたら後詰をして欲しい」と頼んだ

これに対し信豊は
 「信濃を譲られたことは誠に光栄であり、今生の思い出としたい。
だが譲られたとしても私に対し、上野、信濃の国衆が強力をしてくれなければ、
結局それは徒労に終わるほかない。ならば、どこまでも最後まで勝頼様と行動を共にしたい」
と勝頼が何度も頼んでもなかなか応じなかったが、勝頼もそれを承諾はしなかった。

勝頼は
「気持ちはありがたいが、一門が同じ場所に落ち行くならば、それは計略は無きに等しい。
枉げて勝頼の下知を了承し、後詰めの作戦を実行して欲しい」と頼んだ

ついには信豊が折れて佐久郡や上野衆をつけたうえで新府城を去り、勝頼と別れた
(甲乱記)

因みに勝沼で織田を防ぎ、信豊が織田軍を封鎖するというのは
天正壬午の時の北条に対して徳川がやったことと同じような作戦をやろうとしてたんではないかと

783 :人間七七四年:2018/04/22(日) 20:42:14.11 ID:ou08Zeez.net
あと書き忘れたけど
武田信豊は軍鑑では密室政治だと批判の対象の1人である
だから彼の最後は見限って本領(小諸)に帰ったとしている。(※小諸は信豊の本領ではない)

一方で甲乱記の信豊は
信豊と勝頼とは幼年期から仲が良く、勝頼が家督を相続してからは、特に信豊を重用していたので
信豊の意思は勝頼の意思であると武田領内の人々はそう認識していた

信豊も最後は小諸城主下曾根浄喜に裏切られ自害するわけだけど
少なくとも甲乱記の勝頼との最後はbQとして悪い話じゃないと思って>>782書いた

784 :人間七七四年:2018/04/23(月) 00:08:54.64 ID:PU1Wd8To.net
No.2としては親父の足元にもおよばないのな、信豊

785 :人間七七四年:2018/04/23(月) 10:23:47.49 ID:0sNfbvnH.net
織田信長という人は、若い頃はお供を一人も召し連れず市町在々を歩き回るような、
諸人にすぐれたわやく者(無法者、いたずら者)であった。

御若名を三郎と申していた時、中間一人に荷俵を背負わせ矢立を腰に挿し、西国巡礼に
出かけた。
堂宮に落書きをしながら廻り、摂津国天王寺に参ったが、近くの寺に侍らしき者6,7人
寄り合い、名乗り字を書き読んでいた。
信長はこれに近づくと

「その名乗り字一つ、私に頂きたい。国への土産にいたしたい」

そう望んだ所、先の者達尋ねた

「何れの字が欲しいのか?」

「”信長”という字が欲しい」

「これは天下取りか国盗りの付ける名前だ。その方などにはもう少し身の丈に合った
名乗りのほうが良い。」
そう笑いながら言われたが、三郎は

「それを付けるというのではない。ただ国の土産にしたいとだけ考えているのだ。」

「そういう事なら、使わない、付けないのであればこのまま取らせよう。」

そう言って、”信長”の書かれた所を切り取って三郎に渡した。

(祖父物語)

この話、司馬遼太郎の国盗り物語にまんま出てたけど、祖父物語が元ネタだったんだな。

786 :人間七七四年:2018/04/23(月) 10:40:38.48 ID:Wg26+URo.net
武田信長は上総国盗りを意味する名前だったのか

787 :人間七七四年:2018/04/23(月) 13:24:38.29 ID:3R6asrec.net
>>784
お前も父親の足元にも及ばないバカのようだが幼少時に父親でも亡くなったのかい?

788 :人間七七四年:2018/04/23(月) 15:44:32.37 ID:e+BboJEH.net
何言ってんだこいつ

789 :人間七七四年:2018/04/23(月) 15:45:27.41 ID:N27MuL3v.net
物狂いに候

790 :人間七七四年:2018/04/23(月) 17:27:26.18 ID:I4bMV9F0.net
小堀遠州が伏見にいた頃、黒田筑前守長政が国へ帰るというので茶会に招いたものの、
長政は途中で病気になり、大津で養生するというので招きを断った。

遠州は残念に思っていたが、幸いにも上林竹庵と京都の数寄者2人がやって来たので、
丁度催していた茶会に招くべく、「路次の方へ廻られよ」と言った。

3人は喜んで茶亭の方へ行ってみると夕立の後で涼しく、庭の若葉は露が滴るばかり
である。ところが床の間には花は生けてなく、床の壁にはさっと水を打った跡が

あるばかりであった。皆が不審に思っていると遠州がやって来て、「今日の夕立で
路次の木々が涼しそうに濡れているのを見た眼では、花は面白くあるまいと思い、

わざと生けなかったのだ」と答えたので、3人は等しく感じ入ったということである。
ところがこれを聞いた京都辺りの茶人は、雨が降りさえすればわざと床を濡らして、

花を生けない風を流行らせたので、伝え聞いた遠州は大いに笑ったという。この一事
をもってしても、いかに遠州が一代茶道の泰斗として天下に重んじられたか知れよう。

――『茶道の名人』

791 :人間七七四年:2018/04/23(月) 19:21:46.66 ID:rCIHAaKF.net
>>786
甲斐を追われたあとは義教に仕えて結城合戦とかで活躍してるんだよね
義教が没したあとは成氏を頼ってその命で上総の上杉領を攻略して息子たちに残した
結構、激動の人生を歩んでるよね

792 :人間七七四年:2018/04/24(火) 01:57:28.42 ID:QCYFTSWG.net
御衣装も常に黒いものを


細川幽斎は太閤(秀吉)の時代でも、御内衆の身なりを古法に従わせた。
刀に鞘袋を付ける者は御覧になり次第叱らせるようにし
御供の履物も全て足半で、長草履を履いている者は一人もいなかった。
聚楽第にあった御屋形も全て唐紙障子で絵などを描かせることはなかった。
実目な方なので、御衣装も常に黒いものを着られた。

小田原陣であろうか、諸大名が金銀を散りばめ花を飾っていたときに
甲鎧は申すに及ばず、旗差し物まで黒色の出で立ちだったという。
ただし、これは事実かどうか分からない。


――『戴恩記』

793 :人間七七四年:2018/04/24(火) 04:57:44.48 ID:EAlFL9P2.net
>>790
どこがいい話なの?

794 :人間七七四年:2018/04/24(火) 04:58:57.42 ID:EAlFL9P2.net
>>792
いい話を書いてくれよ
分からないものを勝手に書くなよ笑

795 :人間七七四年:2018/04/24(火) 06:17:45.48 ID:dTHuisgg.net
この程度も分からないなら小学校からやり直した方がいいなw

796 :人間七七四年:2018/04/24(火) 19:50:39.26 ID:AYcHC9q1.net
織田信長が清須から小牧山へ本拠を移した時、信長は「清須に残るものは成敗する」と
宣言し、「小牧に引っ越さぬ者は家を焼け!」と、木下藤吉郎を奉行として遣わした。

この時藤吉郎は、駄賃馬(民間運搬業者の輸送馬)に乗って清須へ向かった。

すると清須の町人たちは「家を焼かれては悲しき」と皆藤吉郎に詫言し、すぐに
小牧へと引っ越しをした。

これに信長は「藤吉郎は才覚者である」と褒めたという。

(祖父物語)

これはつまり、輸送用の馬を使ってわざとゆっくり清須に向い、その間に
転居しないものは家を焼くという命令が出たことを知れ渡るようにした、という事
なのでしょうね。

797 :人間七七四年:2018/04/24(火) 20:29:12.02 ID:070XowX1.net
>>796
命令の範囲内で配慮する秀吉、それを咎めず褒める信長…イイハナシダナー(´;ω;`)

798 :人間七七四年:2018/04/24(火) 20:55:04.85 ID:Pcduqhoo.net
>>795
ただし、これは事実かどうか分からない。


この程度も読めないなら幼稚園からやり直した方がいいよ?www

799 :人間七七四年:2018/04/24(火) 22:03:01.32 ID:ZqzhFfys.net
>>796
安土への移住命令に従わないのが100人以上いなかったっけか
信長の再三の命令にもしたがず知人宅を転々としていた輩が岐阜で捕まって処刑されていた気がする

800 :人間七七四年:2018/04/24(火) 22:33:44.31 ID:ADL7JM1P.net
当時の強制連行の歴史をまとめると面白そうだな

801 :人間七七四年:2018/04/24(火) 22:55:15.25 ID:Qd+Euo80.net
文化の輸入も含めて面白そう

802 :人間七七四年:2018/04/25(水) 09:46:07.73 ID:QuxLrWiC.net
なんで処刑されるまで移住に抵抗したんだろう。
たしかに旅費や治安とか安土での生活が成り立つかどうかわからないとかあるけど。

803 :人間七七四年:2018/04/25(水) 11:07:29.16 ID:pxth7EIv.net
>>798
小学生みたいな返しで笑った

804 :人間七七四年:2018/04/25(水) 11:57:51.54 ID:6CB1aaf0.net
>>802
以前、投稿された時には嫁さんが怖かったからって茶化されてたね
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?cat=904

805 :人間七七四年:2018/04/25(水) 11:59:10.94 ID:E63W07aK.net
>>802
今でいうなら別の国に移住するようなもんだし、家や土地に対する執着もずっと強いだろうし。

806 :人間七七四年:2018/04/25(水) 19:54:47.09 ID:isUtGnGf.net
織田信長が美濃国ドウノ洞(堂洞城か)に出陣する時、当時まだ乗馬を持っていなかった
木下藤吉郎に対し
「汝の一門の内にて馬を借りて乗ってくるように」
そう仰せになると、藤吉郎は「畏まり候」と、海東郡のオトノコウという場所に、彌助という
綱差しが居り、これは藤吉郎の姉婿であったのだが、彼の所持する栗毛の管役馬(農耕馬)を
借り受けた。

しかしこの馬には、鞍はあるが鐙がなく、しかしながら腐った金鐙が片方だけあり、
もう一方には細引きを付けて鐙の代わりとした、

そして馬は準備できても、藤吉郎には供に連れて行く者も居なかったのだが、この時
彌助は、これから合戦に行くことを知りながら「私が付いていこう」と、藤吉郎の供をした。

藤吉郎は堂洞にて坪内十郎右衛門という者を討ち取った、堂洞城の城主である坪内某は、
本丸に追い詰められると詫び言をして開城し、助命を受けた。そして信長に対し、岐阜に
退去する間の安全のため人質を乞うた。

信長はこの坪内への人質として、木下藤吉郎を遣わした。その出発前、信長は藤吉郎に言った
「道中にて坪内を、汝もろとも打ち殺す事もある。お前の命を私にくれ。」
これに藤吉郎は
「何れの道にても、御用にて命を召されること、いと易き御事であります。」
そうしっかりとお請けした。

信長は坪内を藤吉郎もろとも殺そうと思っていたのだが、藤吉郎が潔く命を差し出すことを
不憫に思い、そのまま指し行かせた。その後、藤吉郎が各務原より無事に帰国すると、
美濃国の織田領の内より七千石の知行が与えられた。

藤吉郎は俄大名と成ったが、これを切り盛りする人材が居ないことに困り、七郎左衛門といって
清須で連雀商人(行商人)をしている者があり、彼は藤吉郎の伯母婿であった。
藤吉郎が小竹といった幼少の頃は、この七郎左衛門を主人のように尊重していたのだが、
今や七千石の主となった藤吉郎は七郎左衛門を呼び寄せ、七百石を取らせ
「末々いかほどの大名に成ってもその十分の一を取らせる」と約束し、木下家中のおとな(家老)と
した。後の杉原伯耆守(家次)はこの七郎左衛門の事である。

馬を貸した姉婿の彌助には五百石を取らせた。後の三位法印(三好吉房:豊臣秀次実父)と申すのが
この彌助である。

(祖父物語)

807 :人間七七四年:2018/04/25(水) 20:08:25.07 ID:h0+s79/n.net
>>806
秀吉が敵を討ち取った事があるんだね!
小男で非力なイメージだったから意外だった

808 :人間七七四年:2018/04/25(水) 21:00:27.02 ID:E63W07aK.net
>>806
>豊臣秀次実父
(´・_・`)

809 :人間七七四年:2018/04/26(木) 18:08:20.54 ID:7yEMWFBt.net
杉原伯耆も秀吉が天下取った直後に発狂して亡くなるんだよなあ…

810 :人間七七四年:2018/04/26(木) 18:33:18.40 ID:0K6Usc3/.net
約束反故にされたもんな

811 :人間七七四年:2018/04/26(木) 19:53:27.83 ID:fAuyfDAC.net
秀吉がいなかったら埋もれていただろう秀長とか浅野長政なんてのがいると思うと
実際に埋もれてしまった人材ってのはたくさんいるんだろうな

812 :人間七七四年:2018/04/26(木) 20:36:51.10 ID:KtbdE/GA.net
爆弾正だって弟が長慶の目に留まらなければ埋もれていた人材だし

813 :人間七七四年:2018/04/26(木) 22:26:16.06 ID:Yot5dwqf.net
豊臣秀吉の小田原征伐の頃、尾張清州城の城代は植原加賀守という人であった。
彼は元々甲州からの巡礼であったが、織田信長が鷹狩をしていた折、六角堂にて
この巡礼の姿を見て、尋ねた

「汝はどこから来た者だ?」
「甲州者です。」

すると信長は聞いた
「武田勝頼はうつけ者であり、悪しき法度の運用をしているというが?」
巡礼は答えた
「その事であります。彼は人を釜で炒り殺し、臼にて突き殺すなどしています。」

信長は呆れた
「それは勝頼が食うつもりなのか?勝頼は小気なる故にそういう事をするのだ。天下の望みは
成らないであろう。汝は奉公をする気はないのか?」

「それよりも、あなたは一体何者なのですか?」

「信長と云う者だ。」

巡礼はひれ伏し「何であっても奉公仕りたく思います!」

そこで信長はこの巡礼を即座に召し抱えると、彼を召し連れ、程なく御手のかかった
女房を下され、清須の城代としたのである。

(祖父物語)

814 :人間七七四年:2018/04/27(金) 02:26:57.60 ID:ORHXMRvf.net
嘘くさい

815 :人間七七四年:2018/04/27(金) 07:46:22.58 ID:2ugiwSuW.net
>>814
永録10年11月の信長の朱印条によれば美濃で20貫の地行を貰ってるみたいだね
本当は勝頼じゃなくて信玄なんじゃないかな
埴原の出身である埴原谷てのが信濃(!)のどこにあるのか知らないけど、信濃では信玄の評判が良くない所もあったわけでしょう
又聞きの間に色々と入れ替わっていそうな気がする

816 :人間七七四年:2018/04/27(金) 08:31:36.59 ID:z6z/Bm5p.net
>>815
信玄と言うか武田の評判って甲斐以外だと酷いもんだからなぁ
特に信濃と上野

817 :人間七七四年:2018/04/27(金) 09:59:15.65 ID:+HCTm/8h.net
信濃は場所によるが

818 :人間七七四年:2018/04/27(金) 18:11:01.95 ID:LH5poK+P.net
信濃は北が武田アンチで南が武田贔屓と聞いた

819 :人間七七四年:2018/04/28(土) 00:23:20.19 ID:zEPPlm+W.net
大身の方に嫁がせて物入りになれば


明暦2年、土佐藩主・山内忠義は末娘の重姫を
豊後国森藩1万2500石の領主、久留島通清に嫁がせた。

忠義公が縁組を公にする前、備前の新太郎様(池田光政)がそれを聞き付けて*
「今度御息女を久留島信濃守(通清)に御縁組なされると聞いたのですが
 信濃守は小身者ですので不相応に存じます」
と仰せられたので、忠義公は
「仰せのごとく信濃守は小身者です。貴方様は御大身なので左様には
 思われないかもしれませんが、私は小身ですから大身の方に嫁がせて
 物入りになれば、たくさんの家来を養うことが出来なくなるでしょう。
 それが小身の信濃守に嫁がせる理由です」
とお答えになられたという。


――『南路志』

* 光政の姉妹は忠義の嫡男の正室で、山内家と池田家は姻戚関係にあった

820 :人間七七四年:2018/04/28(土) 08:23:21.84 ID:qMDVaE2R.net
どこがいい話なの?

821 :人間七七四年:2018/04/28(土) 11:25:17.99 ID:sp5yV1iF.net
>>819
久留島ってたぶん来島の事だろうなあ
大名として残ってたとは知らなんだ

822 :人間七七四年:2018/04/28(土) 11:33:17.17 ID:RgCKd3Qt.net
>>821
元海賊だからと警戒させられて海のない陸にあげられたんじゃなかったかな

823 :人間七七四年:2018/04/28(土) 12:44:37.19 ID:VZTsxhdo.net
大身同士の縁組みだと金かかって家が大変だから、それを思いやってといういい話ではないだろうか。

824 :人間七七四年:2018/04/28(土) 20:45:23.52 ID:TXQygIqI.net
>>823
娘の嫁ぎ先を金の多寡で決めて良い話ってのはないだろう
当時ならまだしも現代ではナンセンスだろ?
もしこれをいい話だと言うなら
現代ではナンセンスだけど当時は良かった話が全部良い話になってしまうよ?

825 :人間七七四年:2018/04/28(土) 20:54:18.97 ID:RgCKd3Qt.net
現代の価値観だけで当時を判断したいなら、ここを覗かないほうが精神衛生上いいと思うよ?

826 :人間七七四年:2018/04/28(土) 23:31:40.93 ID:BD793zfu.net
ここ人間を殺して首を切断する話がゴロゴロしてるスレなんですが
そっちは気にならなかったんですかね?

827 :人間七七四年:2018/04/29(日) 00:15:08.22 ID:/xFPcW2r.net
って事は何でもいい話になるじゃんwわろた
戦国時代に民を騙して武家が儲けたとしても

いい話だなあ〜ってなるわけでしょ?
お前ら頭おかしいだろ

828 :人間七七四年:2018/04/29(日) 00:52:59.80 ID:u2Lcbudr.net
>>827
君はどうも戦国の逸話と現在の常識の区別がつかないようだね。
君に必要なのはここへの書き込みではなく、然るべき専門家によるカウンセリングと治療だと思うよ?

829 :人間七七四年:2018/04/29(日) 01:56:06.78 ID:jJ5oU0ZD.net
小学生からやり直したほうがいい馬鹿がまた出たかw

830 :人間七七四年:2018/04/29(日) 01:57:36.82 ID:3ZBtswZj.net
>>819
久留島家って末裔が童話作家とかボーイスカウトに尽力してんのね
直系は18代当主が普通に活動してるし

831 :人間七七四年:2018/04/30(月) 09:22:39.21 ID:kOb2HE+7.net
大名として残ったおかげでそういう活動できるのかも
能島や因島の村上氏は毛利の家臣に組み込まれて地味になってしまった

832 :人間七七四年:2018/04/30(月) 09:38:48.84 ID:3+Wgm/Dp.net
>>827
香ばしい

833 :人間七七四年:2018/04/30(月) 22:34:11.81 ID:BZynz1eg.net
>>832
自分の臭いだろ

834 :人間七七四年:2018/05/01(火) 06:10:33.68 ID:fPnuty3f.net
涙拭けよ小学生

835 :人間七七四年:2018/05/01(火) 18:58:06.37 ID:OXpAHEoM.net
まとめブログのコメント欄に現れた滝川一益キチが此処でも暴れてるのか?

836 :人間七七四年:2018/05/01(火) 20:51:42.06 ID:g4lmeApp.net
あの程度でキチはさすがに言い過ぎだろw
本能寺後の滝川は確かに残念だがだからといって
ごとき扱いされるような武将でもないと思われ
どちらかというとマイナーだから仕方がないのかもしれないが

滝川に限らずだが前以上にこの手のブログ情報軸での評価が
当たり前のようになっているのが怖いわ

837 :人間七七四年:2018/05/01(火) 21:57:00.13 ID:aCBCJXd9.net
やだ、本人臭いの来ちゃった

838 :人間七七四年:2018/05/01(火) 22:27:36.66 ID:mqhkJOQK.net
賤ヶ岳七本槍とは、加藤虎之助(後肥後守清正)、平野三十郎(後遠江守長泰)、脇坂甚内(後中務安治)、
加藤作内(後左馬助嘉明)、戸田三郎四郎(後民部勝隆)、福島市松(後左衛門大夫正則)、
糟屋内膳(武則)達であった。

彼らは賤ヶ岳七本槍と成るまで、領地を150石づつ与えられていた。
ただし糟屋内膳は元播州赤松家の家臣であり、赤松死去の後、良き才能を持った者として
500石にて抱えられていた(実際は別所長治家臣)。

賤ヶ岳の合戦の後、七本槍のうち6人には三千石に帷子35枚、黄金5枚づつが与えられた。
しかし福島市松には、五千石に帷子25枚、黄金5枚が与えられた。

彼らには羽柴家の筆頭家老である杉原伯耆がその朱印を渡したのだが、加藤虎之助が激昂し
声高に叫んだ

「市松も御一家なら我らも御爪の端であります!どうして二千石も劣るのでしょうか!?
今度の槍働き、私は市松に少しも劣っていない!これは伯耆様にお返しいたす!」

そういって加増の朱印を受け取ることを拒否した。

虎之助の言葉は声高であったため、秀吉の耳にも聞こえ、
「虎之助は惣じてうつけ者であるな。今回の加増の後に、市松と同等に取らせてやろう。」
そう仰せになった。

後に虎之助には播州姫路において加増が有り、所領は合計して五千石となった。

福島市松は秀吉の甥であり、加藤虎之助は従兄弟である。

(祖父物語)

何故か平野長泰がハブられ戸田勝隆が入っている賤ヶ岳七本槍

839 :人間七七四年:2018/05/01(火) 22:33:46.09 ID:YfKwOLxE.net
>>838 
お前もな

840 :人間七七四年:2018/05/01(火) 23:42:19.05 ID:4jukLEbl.net
且もっちゃん…

841 :人間七七四年:2018/05/02(水) 06:35:00.00 ID:6zgg/rXt.net
片桐さんはどこにいってもいじられるそんな存在なのか。真田丸の片桐さん思い出した。

842 :人間七七四年:2018/05/02(水) 06:58:00.29 ID:BVgUNKb5.net
ホントは石河兵助と桜井佐吉も入るんだろ

843 :人間七七四年:2018/05/02(水) 14:42:54.02 ID:AafkYAue.net
>>838
投稿者ですが、ハブられているのは片桐且元で、平野さんでは無いですね。大変申し訳ありません。

844 :人間七七四年:2018/05/02(水) 15:10:58.53 ID:TwZnZBzO.net
天文の乱とその後の燻りが集結し混沌としていた伊達家が落ち着きを取り戻した天文21年、伊達家当主伊達晴宗は、弟の亘理元宗に対し上洛を命じた。
将軍足利義輝への拝謁、晴宗の家督相続後の報告、愛宕詣などを終えた元宗は当時二十一歳の若者。
文武両道に優れ後世からは伊達家三代の重鎮と称された元宗だが、流石に大任を終えた達成感から人心地ついていた。

そんな元宗の下へ、急な来訪者が現れる。慌てて面会をしてみれば、相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。
おまけに左右に屈強な供の者を従えており、元宗もこの訪問者をただならぬ人物と見抜いた。

「失礼ながら、どなたでありましょうか」

「こちらこそ急な面会御無礼いたす。某は先の甲斐守護、武田無人斎と申す」

なんと異形な僧体の正体は、約十年前に嫡男晴信によって甲斐を追放された武田信虎であった。
甲斐を去って西国に赴き、後に駿河に住まわっていた信虎であったが、その後も度々京や高野山、奈良の諸山を遊訪し、時には将軍家に対し奉公していたらしい。
驚く元宗に対して信虎は悠然と諸国の時勢を尋ね語らい、いつの間にやら二人はすっかり意気投合してしまった。
しかし元宗もいつまでも京に長居をするわけにもいかない。国へ戻らねばならぬ旨を信虎に伝えると、信虎は名残惜しそうな顔を若者に向けた。

「そなたの様な文武に通じた若者と会えることは人生の何よりの楽しみである。この度の語らいは実に愉快であった」

そう言って、自らの腰から佩刀を抜き元宗に手渡した。

「これは相州の業物、綱広の作である。是非受け取ってほしい」

元宗は感激し、恭しくその刀を拝領した。
そして信虎とその供の者達に丁重に礼を述べると、陸奥への帰路に立ったのであった。

信虎が甲斐を離れた際、嫡男晴信は二十歳であった。
もしかしたら信虎は才気煥発な若き武士に、かつての我が子の姿を重ねたのかも知れない。

845 :人間七七四年:2018/05/02(水) 17:06:21.19 ID:m/bWX0G2.net
我が子の姿を重ねたらそんな接し方しないだろw

846 :人間七七四年:2018/05/02(水) 17:45:10.59 ID:C+6Oo2ju.net
>>845
確かにw
でも、早くこっちにおいでよって手紙書いてるし

847 :人間七七四年:2018/05/02(水) 19:22:44.85 ID:GiUzTZdE.net
「嫡男晴信は二十歳」
の後に
「、次男信繁は十六歳」
と加えれば何とか

848 :人間七七四年:2018/05/02(水) 20:40:37.87 ID:XqUwDBpF.net
>>844 これこそ良い話だ
>>845
信虎は今川領にいても晴信とやりとりしてたから憎しみだけではないのではないかな知らんけど

849 :人間七七四年:2018/05/02(水) 21:17:45.38 ID:RcMzVUiV.net
なんで信虎はいきなり訪問してきたんだろ
上洛する諸大名の関係者に会いまくってたのかな

850 :人間七七四年:2018/05/02(水) 21:56:54.58 ID:oCGv9hVP.net
>>844
これ出展は何でしょうか?
祖父物語?

851 :人間七七四年:2018/05/02(水) 22:36:26.38 ID:Mb6IjGto.net
なんで伊達と武田の話が祖父物語に出てくると思うのか

852 :人間七七四年:2018/05/02(水) 22:46:14.46 ID:oCGv9hVP.net
あ、そういう無能な答えはいいです

853 :人間七七四年:2018/05/02(水) 23:04:47.33 ID:Mb6IjGto.net
なんでか教えてくれてもいいのに
ケチだなー

854 :人間七七四年:2018/05/03(木) 00:21:37.24 ID:obnNlYmh.net
伊達政宗の祖父の弟の話だから祖父物語とでも思ったんじゃね

855 :人間七七四年:2018/05/03(木) 06:46:44.41 ID:fW4QuJlM.net
>>853
そりゃこいつが無能だからだろう

856 :人間七七四年:2018/05/03(木) 08:05:40.39 ID:G+Mzdwkx.net
休みだからか殺伐としてるな

857 :人間七七四年:2018/05/03(木) 08:16:44.09 ID:vUy0oAOP.net
伊達も親子で争って親を幽閉して子が継いだ
親近感を抱いたのは想像に難くない
従って晴宗の股肱元宗の中に兄思いの息子信繁の姿を見たのだろう

858 :人間七七四年:2018/05/03(木) 08:17:37.63 ID:pSLxbVzv.net
俺もクレクレやったりするが、さすがに相手を馬鹿にするようなことまでは恥ずかしくてしない

859 :人間七七四年:2018/05/03(木) 08:23:12.07 ID:pSLxbVzv.net
>>857
若武者の逞しさを羨ましく感じていたんじゃないかと思った
大河で追放後でも晴信を叱咤していたイメージが強いからかな

860 :人間七七四年:2018/05/03(木) 08:44:28.98 ID:vUy0oAOP.net
大河は創作、好き嫌いっていうより方向性の違いでしょ
前の支配者を貶めるのは誰もがやってる事
ウソを見抜けない人はネットでもバカを晒す

861 :人間七七四年:2018/05/03(木) 08:49:18.10 ID:rklRNSKj.net
信虎さんて、甲斐を追放された後も

>相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。

なんて書かれたり各地を転々として回ってたり、息子より長生きしたり…
乱破でもしてたんだろうか?老いてなお盛んだなぁ…

862 :人間七七四年:2018/05/03(木) 09:16:17.33 ID:mE2l5ksp.net
甲賀の六角残党と連携して義昭の挙兵に呼応した近江侵攻も目論んでたらしいし、成功してたら信虎・信玄による武田親子夢の信長挟み撃ちが見れたかも知れないあたりに面白さを感じる

863 :人間七七四年:2018/05/03(木) 10:39:41.61 ID:CB9h8h4v.net
武田信虎のwikiには在京中に南部信長と交流があったとされている
まとめにありましたが、どうやら南部但馬守信長が国元の七戸氏に送った手紙に信虎の名が
ただし年代が不明、南部信長は将軍足利義政に出仕して但馬守を拝任したらしい
南部但馬守でググると丹羽長秀の小説がw
言継卿記にも名前が出てくる、知行の件で相談したいんだとか
南部信長のwikiを見ると八戸信長と久慈治義のことを指すんだとか
久慈家は代々備前守と摂津守を名乗ってて一族に昆但馬高光という人がいたようだ
久慈治義は備前守、南部信長との関係は不明

何が言いたいのかというと南部但馬は在京中に子供を作って代々将軍に仕えさせてたんじゃないかってこと

864 :人間七七四年:2018/05/03(木) 11:48:31.64 ID:pSLxbVzv.net
>>863
一族が在京する家はそれなりにあるんじゃないの?
隣国だけど近江の六角なんかはそうだったよね
まあ伝承のなかの人物がいたりもするけど
あとは伊勢みたいに当主は在京して一族に領地を任せておくとか

武田の場合、信虎の前に敗走した信長が在京してたけど、若狭武田の伝手とかなんかな?

865 :人間七七四年:2018/05/03(木) 12:03:40.36 ID:rklRNSKj.net
>>863
確かに足利義政に仕えた人物だと、とんでもないことになるしね…

866 :人間七七四年:2018/05/04(金) 13:44:55.33 ID:wO4HQeyE.net
fgoのapo7節でスパルタクスが「登って参った」と言ってたが、今後fgoで秀家が登場できる要素はあるのかな?

867 :人間七七四年:2018/05/04(金) 20:18:40.87 ID:5/ilYLbS.net
>>866
どこの誤爆かはさっしがついたわ

868 :人間七七四年:2018/05/04(金) 22:01:39.33 ID:wO4HQeyE.net
サーセン、誤爆したらしい。

869 :人間七七四年:2018/05/05(土) 12:11:15.02 ID:JYFcNoJe.net
名も無き奉公人の話で恐縮ですが、我が家に伝わる話を書かせて頂きます

我が祖先は三河の百姓でした
戦国時代にそこが敵から攻められたとき、殿様は負けてしまったようです
そして殿様は敵の大将に「私の命は差し上げるから百姓たちを殺したり略奪したりしないでくれ」と言って自害したそうです
敵の大将はおびえる百姓たちにその事を伝え、「お前たちは良い殿様を持った」と言って何もせずに去ってくれたそうです
殿様には息子がいて、逃れて父のあとを継ぎ家康に仕えたそうです

その後、その若殿が遠くの戦に行くと聞き、百姓の中の若者の一部が居ても立っていられずついていく事にしました
私の先祖もその中の一人でした
他の百姓はなんとか武具を調達してきましたが、我が先祖は貧しく武具など手に入らなかったので
鍬の先を研ぎ落して尖らせ、棒の先に結んで槍としたそうです

戦についていったものの所詮は経験の無い百姓の若者、功を立てるどころか仲間たちは次々に死に、我が先祖は生き残るのがやっとでした
不格好な槍もどきを持って何一つ役に立たなかった百姓ですから、ものすごく馬鹿にされて笑われたそうです
しかし若殿が「忠義は誰よりも優れている、その槍は天下の名槍にもひけをとらない」と褒めてくれ、家来にしてくれました
それだけでなく鍬の槍に立派な柄をつけてくれたそうです

その後も我が一族は殿の家に奉公し、武士の最下か奉公人の上くらいの立場で仕えていたそうです(一応江戸時代に苗字を使ってたので)
もちろん、鍬の槍は家宝として大切に伝えられてきましたが、残念なことに長崎で原爆に遭い失われてしまいました
実物を見たことのある曾祖母の話では「スコップみたいな形だった」そうです

870 :人間七七四年:2018/05/05(土) 13:21:21.79 ID:pQyioftt.net
良い話だ、感動的だな
だが当時はまだ兵農分離が徹底した時期では無いし、三河は一向一揆も有った国だし百姓兵と言えど言うほど馬鹿にされる事も無かったのでは?

871 :人間七七四年:2018/05/05(土) 13:30:42.29 ID:dq7vQdLg.net
笑われたのは槍のほうだったんじゃないか

872 :人間七七四年:2018/05/05(土) 13:48:19.53 ID:pQyioftt.net
>>871
>不格好な槍もどきを持って何一つ役に立たなかった百姓ですから、ものすごく馬鹿にされて笑われた

槍もだけど、何一つ役に立たなかった百姓だからとあるので両方だったのかなと

873 :人間七七四年:2018/05/05(土) 18:18:02.97 ID:qfJAroIX.net
【衝撃】ドラゴンボール完全新作アニメ次回作発表【ブルマが全裸に⁉︎(画像あり)】
【ドラゴンボール☆エボリューション】
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/curry/1523092940/

874 :人間七七四年:2018/05/05(土) 19:36:57.19 ID:o/J2l0tV.net
>>869
ちょっといい話45スレにおける勲功一番なり
その忠義の槍を写真で晒すことができれば永久欠番間違いなしじゃったのにのぉ

875 :人間七七四年:2018/05/05(土) 20:04:13.69 ID:e9VeKDIs.net
>>869
血が今に伝わっているのだからもっと誇り持って良いでしょう
そんな家臣を持てた殿様は本気で嬉しかったんだろうね

876 :人間七七四年:2018/05/05(土) 21:04:53.77 ID:TnR7p8TX.net
まあ平成の世まで家が続いただけでも超絶勝ち組だしな

877 :人間七七四年:2018/05/05(土) 22:04:54.62 ID:Nfno1L1z.net
長崎に居たって事は維新後に移住してるのね

878 :人間七七四年:2018/05/06(日) 10:17:32.19 ID:tjyTIMjC.net
>>869
若殿もせっかくなら本物の槍を下賜してくれりゃ良かったのに
ピエロ扱いだったのかもw

879 :人間七七四年:2018/05/06(日) 10:49:42.16 ID:RJCmnk9u.net
それ余計に恥をかかせることにならないか?

880 :人間七七四年:2018/05/09(水) 19:47:05.74 ID:wx5+9+Fx.net
太閤秀吉の父親(義父)は、尾張国ハザマ村の生まれで、竹阿弥といい織田信長の同朋衆であった。
秀吉は申の年の6月15日、清須水野のゴウ戸という所で生まれ、幼名を小竹といった。

ある時、清州城の大手口、松の木門の下を小竹が通った時、信長はこの門の二階に居て、その
節穴から小竹に小便をかけた。

小竹は「士ほどの者に小便をかけるか!?」と、これに激怒し二階門へと駆け上がった。
ところがこの時、信長は御供の衆が一人もなく、武器も脇差だけしか持たなかった。

駆け上がってきた小竹に信長は言った
「俺にてあるぞ!苦しかるまじ!」

「俺とは誰か!?」

「信長なり!」

しかし小竹怯まず
「いかに御主なりとて、小便をかけられたのは無念である!」と、信長に殴りかかろうと
した。その時信長

「汝が心を見んとしてした事だ、堪忍せよ。以後は取り立て、召し使ってやるぞ!」

それより信長の家来となり、木下藤吉と名乗った。

(祖父物語)

881 :人間七七四年:2018/05/09(水) 21:43:11.60 ID:rA67Gfwb.net
>>880
山岡荘八の小説だと信長が利家になっていたな
小竹が秀長でなく秀吉の幼名なのは新鮮

882 :人間七七四年:2018/05/09(水) 22:01:45.51 ID:wx5+9+Fx.net
滝川左近将監(一益)の家臣に、滝川義太夫(益氏)と云う者があり、彼は左近の甥であった。

羽柴秀吉と滝川一益が戦った時、伊勢国嶺城に人数1200ばかりにて立て籠もったのを、
秀吉より仙石権兵衛、木村常陸、脇坂中務、服部采女、筒井なにがし等、八千余騎にて
45,6日に渡り攻めたがこれを落とすこと出来ず、金堀を入れて地中より攻めようとした。
しかし城方はこれに気が付き、城中に、羽柴方が掘り進める方向に横堀を作り、
焼き草に鉄砲の火薬を混ぜてここに入れた。
羽柴方の金堀が城中に掘り入ると、これに火をつければ、金堀たちは残らず焼け死んだ。

秀吉はこれを無念に思い、四万余騎の軍勢にて自ら采配を取り、
「この程度の小城、手で揉んで揉み殺すべし!かかれ者共!」と下知して攻めたが
落とすこと出来ず、48日の間に、秀吉方の死傷者は2万ほどにもなった。
しかし城中も、死傷者7,800人にのぼった。

滝川義太夫は心剛にして隠れ無き鉄砲の上手であった。
この籠城戦、後半は弾薬兵糧もなく、18日間を持ちこたえた。
そのうち、城内では馬や人をも食料としていると、秀吉にも聞こえてきた。

秀吉は義太夫を惜しみ、滝川左近にこのような使いを立てた
『義太夫は城中に弾薬兵糧ももはや無いようだ。押し殺すのは容易いが、あのように
城を今まで持ちこたえたのは、古今の名人である。彼に城を明け渡すように申して欲しい。』

これに左近は「尤もである。私も彼を不憫に思っている。」として、
義太夫に対し使いを立て、『急ぎ城を明け渡すように』と伝えた。
これに対し義太夫は
「左近様の自筆の書状ならば渡しましょう」
と、返答した。

その後、左近は自筆の書状を遣わしたため、義太夫は城を明け渡した。
この時秀吉は義太夫に言った
「左近はどうあっても討ち果たす。お主は我が方へ来い。五万石を遣わす。」
これに義太夫
「忝ない仕合、身に余ることですが、左近が生きているうちは、例え百万石を下されようとも
参ることは出来ません。御免なされ候へ。」
そう断った。
秀吉はこれを聞くと
「汝の心中であれば、左近が生きているうちはこれを見届けるであろう。
その間は、町人にでもなっておけ。」
そう言って、黄金二千枚に感状を添えて与えた。

嶺城は非常に小さな城で、亀山城などに比べると大変に劣るものであったが、これを保ったのは
義太夫が心剛であり、また分別深い人物であったからだと、人々は語った。義太夫はこの頃、
51,2歳であったという。

一方の亀山城には大野左次と言う者が大将として、二千ばかり籠め置かれていた。
秀吉は1万ばかりで押し寄せ、10日あまり攻めると、左次は叶わぬと思い城を明け渡し
滝川左近の居城である長島へと逃げ込んだ。
しかし長島において
「この者比興者である。二十日も城を保てず逃げ来ること、士たるものの所業ではない。」
そう批判され、同国大島という所にて切腹させられた。
惣じてこの左次は、常々心がけが薄かったが。終に主の役に立たず犬死したと、人々は語った。

(祖父物語)

883 :人間七七四年:2018/05/10(木) 00:09:39.86 ID:I159reua.net
前田慶次郎の父親?かもしれないとしか知らなかったけど
ちゃんとエピソードあるんだな

884 :人間七七四年:2018/05/10(木) 22:17:36.88 ID:ZZ5c1Vdw.net
清須会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の関係は徐々に悪化したが、この秀吉と勝家の間を
和睦させたいと、滝川一益より織田信孝へ申したてられた。

これを受けて、信孝も勝家へ異見をし、これにより勝家は、自分の馬廻り二名と、秀吉に縁のある
故信長の馬廻り二人を秀吉のもとに遣わし、浅野弥兵衛(長政)を通して存念を申し入れた。

秀吉はこの使いの四人を召し出し、彼らから直に話を聞いた。彼らは
「現在はお互いに用に立たぬことを申し立て、話し合いも出来ない状況です。ですので和睦を
すべきです。」
と申し上げた。これに秀吉は答えた。

「あなた方が仰ったこと、尤もである。あなた達の異見に従おう。」

「御心良く我らの異見を了解くださったこと、大いに喜ばしく思っております。
それではこの事に対し、墨付を下されますでしょうか?」

「墨付は、飛脚を以って直接勝家殿に届けよう。各々はここから帰る前に、大徳寺に参詣して
信長公へ焼香を致すように。」と言った。
このため使者たちは大徳寺に参詣して越前へと帰っていった。

それを確認すると秀吉は五畿衆を呼び寄せ、こう言った
「今度越前よりの口上を聞いたが、これは雪中では出馬が難しい所からの策謀である。
きっと滝川一益の考えた策謀であろう。
唐においては張良、日本においては楠などの策謀であるなら私も騙されるかも知れないが、
柴田などに騙されるものか。」

これを聞いた者達、何れも感じ入ったという。

(志津ケ嶽合戰小須賀九兵衛話)

885 :人間七七四年:2018/05/10(木) 22:34:20.70 ID:BIlSsFh8.net
肥後へ下候而、新国ニ候間、下々事之外成敗無之候者成間敷候条、不届者ハかたはしよりなて切りニ可仕之由、御年寄衆へも申合候へ共、一人も科人無之候故、至今日、下々迄一人も成敗人無之候、か様之不思議成儀ハ、無之と存事候
 (寛永十年二月十八日 細川忠利書状)

 肥後入国直後の細川忠利の書状から。歯向かう者は、なで斬りにする覚悟だったけど、誰も切らなくて済んで良かったねという話。国持ち大名の改易の時には、誰しもが緊張するものなのだろうか。

886 :人間七七四年:2018/05/10(木) 23:31:00.75 ID:ShWcSbQT.net
籠城して一戦交えようとする血気盛んな老兵もいるからね

887 :人間七七四年:2018/05/12(土) 03:00:17.43 ID:PJWzda+i.net
一所懸命は実利と建前を兼ね揃える最強理論だから

888 :人間七七四年:2018/05/13(日) 19:15:43.74 ID:+8Eg9vkp.net
常陸国久下田の城主、水谷蟠龍斎(正村)は、その誕生前より不思議の有った人であった。
大永3年正月17日の子の刻に、御老母の夢に80あまりの老僧が、額より光を放ちながら現れ
『汝に宝を授ける』
と、口の中に玉を入れた。この玉は次第に腹中へと落ち、腹の中で膨れる感覚を覚えた所で
夢から覚めた。この月より御懐妊され、翌年正月17日の子の刻に御誕生あった。
月も日も時も、あの夢と同じであり、誠に希有なる事であった。
以上、胎内に13ヶ月宿られていた。

そして左の目に、瞳が2つ有った。これは御老母が常々千手観音を信仰し、毎月17日の早朝に
身を清め精進し、不問品を三十返づつ読誦されており、これ故に定めて観音の御利生の御子で
あるのだろうと、人はみな申した。

彼は誕生以後、赤子のうちに終に泣くことは無く、7歳より好んで弓馬兵法を習い、
8歳で師匠に劣らぬほどになった、
9歳にて法華を習い、毎日一巻づつ読誦した。
10歳にて万事の理非を弁じられたことは、尋常の人に優れたものであった。
11歳(天文元年)の時、中間二人が頻りと口論しているのを聞き、御裁許なされた。これは
中々年寄衆も及ばないものであった。
12歳より馬を習い、13,4,5の時分には師匠より優れた腕前になっていた。
惣じて、何によらず諸芸に器用であった。

(水谷蟠龍記)

結城四天王の一人、水谷蟠龍斎は生まれる前からすごかった、というお話。

889 :人間七七四年:2018/05/15(火) 22:13:41.40 ID:bS8mkxlx.net
水谷蟠龍斎(正村)が二十歳の年(天文11年)、領内の作柄が非常に悪かった。
この事を聞いた蟠龍斎は、「今年の年貢は通年の三分の一にせよ」と命じた。

家老たちはこれを聞いて猛反対した「それでは家中の者達の生活が成り立ちません。」
すると蟠龍斎は、家重代の刀六腰を取り出し
「これを質に置け」と仰せになった。

そこでこの事を徳者(裕福な町人)に相談すると、彼は
「惣じて質の物は、直に買い取る価格の半分が相場です。ですのでこれらを質に入れても
大した額には成らないでしょう」と言う。

すると蟠龍斎は即座に言った「では買い切りに致せ。」

家老たちは強く諫言した
「お家の、重代永代たる刀を失う事を、一体いかなる分別にて行うのでしょうか?」

蟠龍斎は答えた
「刀千腰にも代えがたいのが譜代の者達である。その彼らを助ける目的なのだから、
何も問題はない。
例えば、私が刀を千腰挿して敵に向かっても、一人ではどうにも出来ない。
しかし、例え少人数であっても家中上下の心を合わせれば、敵を抑えることが出来る。
であれば、家中こそが我家の重代ではないか。」

この言葉に家老たちも一言もなく、蟠龍斎は刀を売ってその代金を家中上下に配った。

次の年は大変な豊作であった。
蟠龍斎領内の百姓たちは一同に心を合わせ、前年に売られた水谷家重大の刀を買い戻し、
これを蟠龍斎に差し上げた。

この事に、蟠龍斎は涙を流して言った
「君に明有れば臣に忠有りと言うが、古人のこの言葉を今心得ることが出来た。
私が欲心から離れて家重代の刀を売り民を助けたのは、君の心明らかという事に、
少しは似ていたのだろう。また賤しき百姓とはいいながら、その恩を知り、今年少しばかり
耕作が良かったからと言って買い戻し、私に献上するというのは、臣下の忠心という
ものではないか。誠に聖人の言葉に偽りは無いものだ。」

そして

「今年度の年貢のうち、三分の一を免除するように。」と命じた。

百姓たちは驚き、一同に登城して「そのようなつもりで献上したのでは有りません」と、
様々にこれを撤回するよう説得したが、「君子に二言はない」と、終に免除となった。
このあまりの忝なさに、百姓たちも涙を流して城より退出したという。

(水谷蟠龍記)

890 :人間七七四年:2018/05/15(火) 22:25:10.59 ID:Br8B8qxA.net
イイハナシダナー

891 :人間七七四年:2018/05/15(火) 22:58:52.10 ID:WTVGDZaX.net
豊作=米価下落って思ってしまうのは現代人の感覚なのかな

892 :人間七七四年:2018/05/15(火) 23:35:36.79 ID:PG1AXGp+.net
米を作る=通貨を作るみたいな時代だしね

893 :人間七七四年:2018/05/16(水) 00:21:44.95 ID:DdjCXKqO.net
日本昔ばなしにこの話があっても違和感ないレベル

894 :人間七七四年:2018/05/16(水) 01:08:38.87 ID:G8KIY6Xp.net
せっかく買い戻してくれた百姓たちを賤しきって言っちゃうのはちょっと失礼な気が

895 :人間七七四年:2018/05/16(水) 03:08:08.98 ID:s7+ZKaJ9.net
>>899
>>898でどこがいい話なんだよと書き込みたかったが
続き読んで伏線かよと

いい話でした
ありがとうございます

896 :人間七七四年:2018/05/16(水) 03:09:56.78 ID:s7+ZKaJ9.net
>>894
今の時代の賤しきとは違う意味だと思う
我が家でも代々「お百姓さん」とは言わず「百姓が作った米は喋らずによく味わって噛み締めて食べよ」と言われてて
あくまでも百姓は百姓と言う感覚
今の時代は皆、平民になってお百姓さんになってしまったが

897 :人間七七四年:2018/05/16(水) 05:52:09.82 ID:+o1rA7gK.net
>>895
>>898,>>899に期待

898 :人間七七四年:2018/05/16(水) 07:07:56.71 ID:MlSBrpYu.net
>>894
ここは「一般には賤しき百姓などと言われているが」程度の意味でいいと思う

899 :人間七七四年:2018/05/16(水) 10:37:35.98 ID:l3hhkPYC.net
カーストかよ

900 :人間七七四年:2018/05/16(水) 11:08:37.71 ID:7w2utxgu.net
これ、商人の方も、資金の融通をしたつもりで転売しなかったのだろうな。

901 :人間七七四年:2018/05/16(水) 13:20:03.03 ID:ZK9AFFT7.net
>>889
イイハナシダナー(´;ω;`)

>水谷蟠龍斎(正村)が二十歳の年
!?( ゚Д゚)

902 :人間七七四年:2018/05/17(木) 14:36:46.05 ID:K//rCD5n.net
山中行軍での用心

ある時、家康公が山中を行軍されていた際、鐙に足をかけない者たちをお見かけになった。
家康公は丹沢久助を呼んで訳をお尋ねになった。
丹沢は「馬が暴れたとき、ころりと落馬すれば人も馬も大して手負いしないものです。
しかし、馬にしがみつけば人は引きずられ、或いは踏みつけられ、馬はますます狂乱して手がつけられなくなります。
ましてこのような山道では小勢(の攻撃)でも(そのようなことになりやすく、そうなれば)お味方に与える損害は大きなものになります。
そのため鐙に足をかけさせないのです」と答えた。
家康公は「これこそ用心というべきものだ」とお褒めになり、
「鐙用いぬ者の落馬を笑ってはならない」とおっしゃった。

903 :人間七七四年:2018/05/17(木) 20:08:26.40 ID:l4//1zVI.net
天文21年の正月のこと。
この頃、水谷蟠龍斎(正村)の領内では、正月に村々の百姓の大人衆が城へ御礼に上がることが
嘉例であった。彼らには供餅一重、並びに酒食が出され、終日の御馳走であった。

この時、百姓たちがこのように言った
「今年は餅が、一回り小さいようですな。」

これを聞いた蟠龍斎は
「餅の大小はお前達次第だ。年貢さえ多く上がってきたならば、餅を富士の山ほどにして
取らせるぞ。」

百姓たちはこれに
「我らは下郎ですから、上を恐れずむさ苦しい事を申してしまいます。それを怒っても当然なのに、
殿は狂を散じる御意をなされ、却ってご機嫌よろしくされています。殿は不思議なるお生まれ
ですな。」

そう申すと、お互い大いに笑ったとのことである。

(水谷蟠龍記)

「場をわきまえないでこんなぶっちゃけたこと言っても怒らず、それに乗っかってきてニコニコしてるなんて、お殿様変わった人だねえ」
みたいな感じでしょうか

904 :人間七七四年:2018/05/17(木) 20:55:26.16 ID:Hj+5d5xo.net
人間ができてるなぁw

905 :人間七七四年:2018/05/17(木) 21:17:37.60 ID:UpvLuhWb.net
これ、いい話かなあw
収入の多寡で、供応の内容が変わるって、けっこう露骨だと思うが。

906 :人間七七四年:2018/05/17(木) 22:16:53.97 ID:phZG3KKg.net
>>905
ちゃんと読んでるかい?
百姓に負けてるよ

907 :人間七七四年:2018/05/17(木) 22:17:46.33 ID:mMO4sL5q.net
>>902
とても良い話だ
俺も馬乗り始めた時、鎧なしで乗せられて内股が筋肉痛になって歩けなくなったが
そんな事を戦国時代にやってるとは思わんかった
目から鱗だわ

908 :人間七七四年:2018/05/17(木) 22:19:12.59 ID:mMO4sL5q.net
>>903
水谷さんを今の安倍さんと比べるとなんだかなぁって思ってしまう

909 :人間七七四年:2018/05/18(金) 08:25:07.72 ID:w7pC9Y0m.net
>>907
なんのために鐙なしだったの?
転んだとき引きずられるから?

910 :人間七七四年:2018/05/18(金) 09:22:32.94 ID:XgdJGW5s.net
踏ん張らずに素直に落ちろってことだろ

911 :人間七七四年:2018/05/18(金) 10:39:18.36 ID:OhIEcNTF.net
馬は太腿で挟んで乗るもの、鐙や鞍はあくまでも補助。とか言われて座布団だけ乗っけた馬に乗せられてたな

912 :人間七七四年:2018/05/18(金) 17:49:39.47 ID:tk8eyJAB.net
清水某「両足でギュッとしめたら愛馬が死んじゃったでござる」

913 :人間七七四年:2018/05/18(金) 20:11:27.40 ID:g/ZshpEs.net
>>909
人馬一体になるためっていきなり鐙は使うなと言われて手綱は持たず両手は水平に伸ばして
内股だけで馬にしがみつくような感じ
鞍だけはつけてくれたw
一日中(10時間位)乗って降りてから駅まで帰る時に普通に歩けなかった

914 :人間七七四年:2018/05/18(金) 20:34:33.85 ID:KnvGSCC7.net
>>913
バイクでいうニーグリップだけでバランスを取る感じ?

915 :人間七七四年:2018/05/18(金) 22:39:50.44 ID:xeERsPD+.net
天文21年のこと。水谷蟠龍斎(正村)の居城の台所に火事が起き、危うく焼け落ちる所を、
家中の者達走り来てどうにか消火をした。

この事より、火事への対策として、城の東の藪の中に五間の蔵を建て、そのうち二間は
番所とし、残りの三間の中に、先祖代々の功名の感状数通、そして所領加増の書付などを
はじめとして、家重代の諸道具、その他高値の諸道具などをここに籠め置いた。
そして家臣の根岸兵庫、河上勘解由の両人を頭として足軽20人を付け、昼夜番をさせた。
殊に火を用いること、固く禁止させた。

そうするうちに、かの番頭両人はこのように話し合った
「この番所は、人の通わぬ場所にある。であれば、実に良き博打打ち所ではないか!」
そして忍び忍びに相手を誘い、昼夜を分かたず博打を打った。

その時はみな博打に打ち疲れ、さらに酒に酔い寝てしまった。この隙に火鉢より火事が起きた。
かの者達は、「火事だ!火事だ!」と叫んで逃げた。
家中の者達かけつけ、蔵の中の物を取り出そうとしたが、10のうち1つも出すこと成らず、
殆どが焼失した。

その後、家老たちはこの番頭2名を探し出し、死罪にすべきであると水谷蟠龍斎に申し上げた。
しかし蟠龍斎はこう言った

「家の宝を焼いて損をした上に、大切な譜代の臣二人を殺すというのは、重ね重ねの
費えである。
前に台所の家事があった故、その予防のため随分念を入れたのに焼失したという事は、
もはやそういう運命の時節であったのだろう。全く彼らの咎ではない。
早々に召し返し、元のように仕えさせよ。

彼らは心こそ阿呆なのであろうが、臆病ではない。
万一の時、役に立つのは譜代である。
さあさあ、早く召し返せ。」

そう仰せ付けられたのである。

(水谷蟠龍記)

正直めちゃめちゃ甘いとは思いますが、確かにいいお殿様ですね。

916 :人間七七四年:2018/05/18(金) 23:53:55.92 ID:yTxT8aCv.net
重要書類だの、非常用の高価な品々を焼失させて、許すって、心広すぎる。
しかし、これ、許してもらっても針の筵だろ。同僚からの冷たい目にどれだけ耐えられるか。

917 :人間七七四年:2018/05/19(土) 00:15:53.43 ID:D+THEoGj.net
水谷さん名君だな。ちと甘いかもしれんが。

918 :人間七七四年:2018/05/19(土) 04:00:31.20 ID:49RyciQl.net
>>914
ニーグリップってのが分からないが
馬の腹を内股で挟んで上半身は腹を凹ませ胸をこれ以上無理って所まで張って保持
馬の動きに合わせてセックルの女性上位みたいな感じでずっと動くのだけど
その時も又力のみで上半身は張り詰めまくってしがみつく感じ
上半身のバランスを崩したら多分振り落とされる
馬に乗ると姿勢が良くなるってのはおそらくここら辺から来てるのだと思う
ちな、鬼籍に入ったけど母は北海道の出身で裸馬平気な人で鞍も手綱も不必要な人だった
鞍を付けたらもう既に人馬一体な感じで
往年は大井競馬場に犬の散歩がてら行って非開催日に犬も上げて馬に乗ってたw
長文すまん、いつも誰かが載っけた話に勝手に評価してみんなに迷惑かけて済まぬと思ってる
あまりにも良い話に出会ってしまって興奮してしまった
水谷さん大名になってたら立花宗茂並にすげー人だったんだろうなと思いながら眠ります

919 :人間七七四年:2018/05/19(土) 08:44:45.92 ID:shzG6qdW.net
>>915
地方だから緩いのかと思ったら陸奥じゃあブラック893がいるし品格なんだろうな

920 :人間七七四年:2018/05/19(土) 09:19:38.56 ID:H1U7sSII.net
常陸(茨城県)が陸奥?

921 :人間七七四年:2018/05/19(土) 09:24:40.02 ID:H1U7sSII.net
途中送信してまった
常陸国(茨城県)が陸奥と思っているのか?
敵対する相手の多い隣国陸奥地方と比べて品格の違いって言いたいのかな?

922 :人間七七四年:2018/05/19(土) 09:35:43.61 ID:r7qifuJI.net
>>921
落ち着こう。「地方」の範疇としての陸奥だよ

923 :人間七七四年:2018/05/19(土) 10:05:02.24 ID:H1U7sSII.net
>>922
すまん、余計分かりづらくなった

>>919
地方だから緩いと思ったけど、(違う「地方」)陸奥にはブラック893もいるから、(こんな事件起こして許したのは水谷さんの)品格なんだろうな


と理解したら良いかな?

924 :人間七七四年:2018/05/19(土) 10:27:06.50 ID:r7qifuJI.net
>>923
そういう事かと

925 :人間七七四年:2018/05/19(土) 12:19:18.70 ID:uXLvaBob.net
>>918
大名になってたはずだが?

926 :人間七七四年:2018/05/19(土) 12:21:54.82 ID:uXLvaBob.net
あー独立したころは隠居してたのかすまん

927 :人間七七四年:2018/05/19(土) 14:17:51.34 ID:lbvMQOtY.net
>>915
>その予防のため随分念を入れたのに焼失したという事は、
>もはやそういう運命の時節であったのだろう。全く彼らの咎ではない。
悟ってる…

928 :人間七七四年:2018/05/19(土) 17:15:00.09 ID:Q+0OwvW6.net
>>923
国語力がないのか茨城をバカにされたと思って過剰反応したのかどっちなんだい?

929 :人間七七四年:2018/05/19(土) 21:07:35.46 ID:3JuLBCgO.net
>>902
これは酷い怪我をしないように心がけているのが偉いんじゃなくて、不意の急襲の際に味方へ被害を与えないようにしている心がけが立派ってことなんだろうね。

ところで、家康はなぜ丹沢という人を呼んだんだろう?馬術がうまかったのかな?

930 :人間七七四年:2018/05/19(土) 21:17:46.12 ID:prsFsTPU.net
久助は大事な喧嘩友達

931 :人間七七四年:2018/05/20(日) 23:15:50.96 ID:IVDC596W.net
播磨国、加古の宿に丈部左門と言う儒学者が年老いた母と暮らしていた。
左門は志高く、清貧に甘んじ、日夜親しむ書物の他は身の回りの諸道具類など煩わしいと、
万事簡素に暮らしていた。
左門の母も賢母ではたを織る事を仕事として左門の志を助けていた。左門には妹が1人いたが、同じ里の裕福な家へ嫁いでおり、
妹婿一族は左門親子の性格を慕って何かにつけ生活の援助をしようとしたか、左門はそれを断り、母に孝行し、質素な暮らしを続けていた。
ある日、左門は知人の家で病に苦しむ旅の武士に出会った。
知人が言うにはこの武士に宿を求められ、貸した所その晩から病に倒れ、3-4日が経ち困っていると言う。
左門は看病を申し出たが、知人は流行病だから左門に罹ってもいかぬと止めたが、左門はそれを押し切り懸命に武士を看病した。
その甲斐あって武士は快復し、左門に礼を述べ素性を語った。
武士は赤穴宗右衛門と言い、出雲の富田城で城主の塩谷掃部介に招かれた軍学者であったが、密使として出雲の国主を務める近江の佐々木氏綱の元へ遣わされていた時、
出雲では塩谷掃部介が尼子経久に城を乗っ取られて討ち取られ、宗右衛門は佐々木氏綱に塩谷の仇を討つ事を申し出たが氏綱は動こうとしないどころか、
宗右衛門を近江へ押し留め、何とか抜け出して出雲へ帰ろうとした所、この加古の宿で病に倒れたとの事だった。
2人は意気投合し、親交を深め遂には歳上の宗右衛門を兄、左門を弟として義兄弟の契りを結ぶに至った。
宗右衛門は左門の家に逗留し左門の母にもよく尽くした。左門の母も息子に良き義兄ができたことを喜んだ。
3人の生活が始まってから春から初夏に差し掛かった頃、宗右衛門は一度元の目的地であった出雲へ帰る事を左門に告げた。そして出雲の様子を見届けたらまた必ず帰って来ると。
左門の何時戻るかと言う問いに、宗右衛門は九月九日、重陽の節句を約束の日と固く決め、2人は再会の約を定め宗右衛門は出雲へ旅立った。

932 :人間七七四年:2018/05/20(日) 23:22:08.19 ID:IVDC596W.net
月日が経ち約束の重陽の節句の日が訪れると、
左門は家を掃き清めて菊の花を飾り、酒肴を用意して宗右衛門の到着を待った。
しかし、夕刻になっても宗右衛門は姿を見せない。左門の母も遠方のことだからと慰めたが、
左門は夜になっても外で宗右衛門の到着を待った。
そして深夜、左門が諦めかけた時、生温かな風と共に一人の人影が左門の前に現れた。それはまさしく宗右衛門であった。
左門は嬉々として義兄を招き入れ、酒肴の席につかせたがその義兄は義弟の顔を見てもどこか暗く、
消沈した様子で左門が出した酒肴に対しても顔を背け左門が母を起こしてこようと言うと、首を横に振り漸くその口を開いた。

出雲に帰った宗右衛門だが、もはや出雲の国人どもは皆尼子経久に靡いてしまい誰も塩谷の恩を顧みる物は居らず、
従兄弟の赤穴丹治が富田の城にいるので訊ねたが、丹治は宗右衛門を経久に仕えさせようとした。
仮にその言葉を受け入れて、よくよく経久の所業を見申したが、万人にも当たる勇気に優れよく兵士を訓練するとも言えど、
智者に疑い深い心を持っており、主君と心を一つにし手足となって働くような家臣もいない。
暇を請い左門と菊花の契りがあることを話し去ろうとすると、経久は丹治に命じ宗右衛門を城に幽閉したのだという。

そして幽閉されたまま、ついに今日という日が来たが左門との約を違える事を苦に思った宗右衛門は、自らの命を絶ち、
魂魄と成って百里の道を越えて左門との約束を守る為来たのだと語った。
そして、宗右衛門は左門と眠っている左門の母に永遠の別れを告げるとふっと姿を消した。

左門は慟哭し、その声に目を覚ました母に今あったことを告げると、
当初は信じなかった母も息子の様子に只ならぬものを感じ、共に泣いた。

左門は宗右衛門の弔いをする為、妹婿一家へ母を預けると出雲へ旅に出、
義兄の死の一因となった赤穴丹治に面会すると、丹治の行いを非難し一刀のもとに丹治を斬り殺すと姿をくらました。
大騒ぎとなったが尼子経久はこのことを伝え聞くと、兄弟の信義の篤さを哀れに思い、
あえて左門の跡を追わせなかったと言う。

雨月物語 菊花の約

元々は中国の逸話だけど、尼子経久がディスられてる逸話だったので

933 :人間七七四年:2018/05/20(日) 23:24:58.41 ID:6DQdr9AC.net
>>左門は志高く、清貧に甘んじ、日夜親しむ書物の他は身の回りの諸道具類など煩わしいと、
>>万事簡素に暮らしていた。

情熱大陸とかプロフェッショナル仕事の流儀に出てそう

934 :人間七七四年:2018/05/20(日) 23:30:47.27 ID:TZDOqU9w.net
しかし戦国の時代にあって儒学者ってどうやって食い繋いでたんだろう?

935 :人間七七四年:2018/05/20(日) 23:35:10.66 ID:clAtfEj5.net
最後の追わせなかったあたり、尼子経久が情を分かる人間扱いだったのではなかろうか。

936 :人間七七四年:2018/05/20(日) 23:52:25.79 ID:IVDC596W.net
>>935
長いので略したけど、一応経久さんがこの兄弟の行いを美しいと感じ入り、
また自分の行いを反省して追っ手を出さなかったという事になってます。

後、冒頭と最後に軽薄な人と友情を交わすものではないという趣旨の文が入ってます。
これでもかなり端折りましたので菊花の約(契)でググると全文の現代訳を載せたサイトがいくつか出てくるので、
そちらを読むこともお勧めします。現代的に言うとBL的な話にもなるそうなんですが・・・

937 :人間七七四年:2018/05/21(月) 00:31:06.56 ID:qWRQBKFt.net
ひょっとして>>932
>万人にも当たる勇気に優れよく兵士を訓練するとも言えど、
>智者に疑い深い心を持っており、主君と心を一つにし手足となって働くような家臣もいない。


これを知っていたからこそ尼子経久は天性無欲の人と言われるくらい何かある度に家臣に自分の物を分け与えて、心を繋ぎ留めようとしたのかも…
後世の創作話だから必ずしもその当時の実情と一致はしないかも知れないが

938 :人間七七四年:2018/05/21(月) 17:08:42.13 ID:BQWXmI/o.net
>>929
鐙使ってない侍が彼の家来だったんじゃない?
旗指物でわかるでしょ。

939 :人間七七四年:2018/05/21(月) 19:46:37.70 ID:DLAIiPg8.net
>>915
甘いというより徹底した合理主義な印象を受けた。
戦国の世では書状や感状より忠臣が何より価値ありという判断力よ。

940 :人間七七四年:2018/05/23(水) 15:33:48.62 ID:9bph0DTt.net
天文二十三年三月二十四日、前日の二十三日に故宗像氏男の後室と娘を殺した吉田飛騨守と峰玄蕃は、
家老である石松和泉守の宅へ行き、
「陶全羨(晴賢)の命により昨夜後室、姫君を殺し申したり。この旨を大将である宗像氏貞様へ
言上いたしたく、これについて、和泉守殿も同道して頂きたい。」と申し入れると、和泉守も
「尤もである」と同じて、3人で御前に罷り出て申し上げた

「全羨より仰せ付けられた趣を以て、氏男の後室姫君を殺しました。これも大将の御為の忠義と
存ずる故であります。」

実は氏男の後室は氏貞の腹違いの姉であり、彼はこの事を非常に嘆き悲しんだが、全羨入道の
指図ということであればどうにも出来なかった。

後室、姫君の遺骸は石松、許斐、占部、吉田といった家臣たちにより、増福禅寺に葬られた。
後室を栄林院妙周、姫君を心源院妙安と号した。
作法通りに法事が執行され、墓を築いて翌朝これを見ると、母娘の二つの墓は、四つに破れていた。

これを知った吉田飛騨守は大いに驚き、鎮国寺の僧侶である法念という者を招いてこの事を告げ、
祈念するよう求めた所、法念は「我に秘法あり、怨霊をして畜生道に堕在させれば祟をなすこと
できなくなります。」と、巨大な釜を鋳させて墓を覆い、その上に糞土を覆いかけ、邪術を
行った。ところが、その術がいまだ終わらぬ前に、身の丈ほどの髪をうち靡かでた女性が現れ、
覆っていた釜はたちまち砕き割れ、法念はこの破片に当たり即死した。彼の胸のあたりには、
3つの穴が空いていた。

その夜、吉田飛騨守も法念と同じ頃に、胸に穴ができ心身悩乱して
「今我山田の怨霊のために突き殺される!たすけよ!たすけよ!」と絶叫して死んだ。
飛騨守の妻も狂乱し「胸痛や!」と叫び苦しんでいたが、そのうちに

『我は氏男の後室であるが、汝が男に胸を刺された苦しみ、今思い知らせよう!』

そう罵り叫び、心身悩乱し、十余日過ぎてこれも胸に穴出来て狂い死にをした。その他吉田の一族、
峰氏の一類、同じ日に十七人まで胸痛に悩乱して死んだ。

弘治元年正月二十三日、山田の怨霊は野中勘解由に祟った。野中は「私は吉田飛騨守と断金の
友である故に、後室姫君を殺せと談じた罪逃れがたい!今、我が生命が召し取られる!
ああ、胸が苦しい!」
そう叫んで忽ち死んだ。

同年十月二十三日の夜、陶全羨の夢に、婦人が幼女を連れ、侍女四人を従え全羨の枕元に立った。
『我は宗像氏男の妻である。我に何の罪があったか。讒者の実否をも正さず殺害した、その怨み
深い。汝を殺してその家を滅ぼすべし。』

果たして十一月朔日、毛利元就に攻められ陶全羨は自害した。

弘治二年三月二十三日、宗像氏貞の十五歳になる妹が俄に狂病に罹り群臣に向かって罵り叫んだ
『大逆非道の者共かな!我が胸を見よ、この苦しみ氏貞へと思えども、大神宮の神職なれば
力なし。怨むる所は家臣共に有り!』
そう喚いて二十三日の夜半に忽ち死んだ。氏貞は大いに驚き、弘治三年の春、「妙周妙安の
御霊を祭るべし」と田島の坤ノ山に一宇の社を建立して氏八幡と号して神事をなし、
かつ毎月二十三日かた二十四日までは増福禅寺の本尊地蔵菩薩の御前にて衆僧を集め法華経を
読誦させた。

幸いにも、殺害されたのは二十三日の五更(午前三〜五時)であった事より、月待の二十三夜の三夜供養にあわせ、
妙周妙安が地蔵菩薩の化身であると、様々な事を成して怨霊を宥めた事で、亡魂もそれなりに嬉しく思ったのか、
氏八幡の巫女に宣託し
『今は氏八幡として祭られ、本地は地蔵菩薩となりぬること嬉けれ。荒れる霊も治まるべし。』
と聞こえたという。
末世とはいえ、不思議なる事共である。

(宗像軍記)

941 :人間七七四年:2018/05/23(水) 15:41:13.82 ID:L8aloBMb.net
>>940
怖い話になっとるw

>この苦しみ氏貞へと思えども、大神宮の神職なれば力なし。
妙にリアルだな(´・ω・`)

942 :人間七七四年:2018/05/23(水) 15:56:16.03 ID:VkStT/Ab.net
怨霊を鎮めるのではなくて地獄に堕とすとか駄目なやつだよね

943 :人間七七四年:2018/05/23(水) 19:01:51.36 ID:tYfyA9ZY.net
20人以上呪い殺すとか、歴史に残るレベルの怨霊じゃね・・・

944 :人間七七四年:2018/05/23(水) 20:32:18.64 ID:vVQTpGDO.net
>>940
全然いい話じゃない orz

945 :人間七七四年:2018/05/24(木) 03:17:46.36 ID:kjZ5Tp+r.net
早良親王「なにそれ怖い」

946 :人間七七四年:2018/05/24(木) 19:58:03.65 ID:TakCX18k.net
筑前国糟屋郡立花の城主は、大友宗麟の股肱の臣、戸次入道道雪であった。
この道雪は、智仁勇の三徳を兼ねた人であるので、筑前に召し置かれ、原田、秋月、千葉、
千手、筑紫、高橋らを攻めて豊後の屋形の幕下となし、肥前の龍造寺隆信をも攻め従え、
薩摩の島津との九州支配をかけた争いの時に備えた。

しかし宗像の大宮司は、大内殿の頃より山口に参勤して幕下となり、陶晴賢が亡びた後は
毛利元就に属して大友に従わなかった。

これについて道雪は考えた。
『先ず、宗像を攻め従えれば、龍ヶ岡の城主・杉十郎貫並も、烟ノ城主・香月七郎経孝も、
山鹿城、花尾城、剣嶽城までも、残らず手に入れることができる。

幸いにも近年宗像氏貞は、城普請に財を費やし。家中に十分の一の役料をかけ、民百姓にも
課役をかけて、領内衰微し粮も乏しい。
その上、名のある老臣、武勇の士は山田の怨霊によって取り殺され、氏貞自身も博多津の
聖福禅寺の玄蘇和尚を招き、禅法を学び詩歌ばかり成し、家中もその風に靡いて武事を
怠っているという。

この虚に乗じて、宗像を攻め滅ぼすべし!』

こうして、大山対馬守、小野和泉守、由布美作守、薦野三河守、安部、十時、森、原田、吉弘
を始めとして軍勢を集め、永禄十年九月に立花を出立して飯盛山に陣を取った。

宗像氏貞はこれを聞いて、急ぎ飯盛打ち越して追い払うべしと、吉田伯耆守重致、許斐安芸守氏鏡、
占部右馬之助氏時、石松但馬守、米多比修理進貞兼、畔口伊予守益勝、吉田左近貞延を始めとして
都合二百余騎の軍勢にて飯盛山に押し寄せた。

その頃、敵は先ず許斐の城を攻めてその後維ヶ嶽に攻め寄せんと支度をし、飯盛山にて諸卒兵粮を
つかわしめんと、野陣をしたばかりであったため、この宗像勢の急襲に慌てふためいた。

宗像勢より黒糸縅の鎧を着て栗毛の馬に銀幅輪の鞍を置いて打ち乗った武者、一騎駆け出して
「吉田勘解由左衛門致晴である!」と名乗り真っ直ぐに進んで

「日頃、立花の人々は、『宗像大宮司の長袖烏帽子のヘロヘロ矢、何程の事があろうか。』
などと嘲弄されていると承る。神職の者の射る矢が立つか立たぬか受けてみよ!これ神通の
鏑矢なり!」

そう弓を引き絞って射放った。その矢は、正面に居た立花方、原田源五郎の胸板を貫き、
その後ろに控えていた、原田源助の草摺の端まで射通した。

これを合戦の始まりとして、互いに揉み合って戦ったが、既に日暮れに及び、この立花勢を
率いていた小野和泉守は
「日が暮れて他領に陣する事は不覚である。急ぎ引き取れ!」
と撤退を指示し、莚内新原方面に退き、立花城に帰城した。この時宗像勢の討ち取った首
百七十三は、のちに立花に送り届けられた。

この後、立花勢と宗像勢は小規模な衝突を繰り返したが、元亀元年、両家の家臣たちの計らいにより、
宗像氏貞の妹を立花に嫁がせ、双方講和を結んだ。

(宗像軍記)

宗像と戸次道雪との合戦についての逸話。合戦のきっかけが「怨霊で弱ってるからチャンス」というのも珍しい

947 :人間七七四年:2018/05/24(木) 20:32:06.26 ID:4Xit32je.net
ヘロヘロ矢
こう言う擬音使うんだね
なんか和むわ

948 :人間七七四年:2018/05/24(木) 23:17:08.94 ID:JBrXXdXb.net
怨霊などと苦しい言い訳だな

949 :人間七七四年:2018/05/24(木) 23:21:14.32 ID:3MSEcnfi.net
まあ、後継者問題で家中がゆれてたんだろうな。その隙を狙われたけど、撃退に成功したわけだ。

950 :人間七七四年:2018/05/25(金) 14:41:32.99 ID:xEuNUbXd.net
我が孫に似合いたる申し付け様なり


尼崎城は池田家の縁者で幼少の建部三十郎(政長)が城主だったため
慶長19年5月21日、家康は池田利隆の家臣池田重利を摂津尼崎代官とした。

10月27日、家康は池田利隆を呼んで
「尼崎は西国往来の要路で兵糧運送の喉である。これを大坂に取らせては
 ならないので、早く播州に帰り多くの士卒を尼崎城に入れて守るように」
と指示したので、利隆は家臣の田宮対馬(長勝)*らを送っていた。

ところが大坂の陣が始まると、尼崎城では進軍用の小舟を借りにきた
片桐且元を疑い取り合わなかったので、城の周りの片桐の兵が大野修理亮に
多数討ち取られて、茨木城に帰っていく事態となった。

大いに怒った片桐は使者を板倉伊賀守に送り、板倉が関東に伝えると
大君(家康)も大いにお怒りになり
「武蔵守(利隆)の者共が尼崎にありながら
 どうして片桐の兵を見殺しにしたのか糺明せよ」
と板倉に仰せ付けた。

板倉が西宮に陣取っていた利隆公のところに来てそのことを申したので
利隆公も大いに驚いて
「私はそのことを知りませんでした。尼崎の者共に訳を聞きます」
と言って尼崎に使者をやり穿鑿させた。

尼崎の者共が"そもそも片桐を助けたくても無勢なので助けられなかった"と
返答しようとしたので、田宮が進み出て
「その返答はよくない。ここは要路なので多勢をもって固めるようにとの
 直接の上意だったのに、城中が無勢だったとは申すべきではないだろう。
 それがしが申し分を考えよう」
と言ったので、使者には田宮が考えた以下の申し分を返答した。

片桐の兵が討たれているとき、尼崎城中では助けようとしたが田宮対馬と
申す者が出てきて"お助け無用"と止めてきた。田宮に理由を聞くと
「城をよく固めよとの上意で武蔵守殿が我々を配置したのだし、尼崎は
 海陸に道があるので一方より誘き出され、搦手の納戸のような所から
 攻め落とされたらひとたまりもない。天下の大事に比べれば片桐の者共を
 助けないことは落ち度ではない。この西国咽頭の要害を敵に取られる方が
 主君の弓矢の落ち度になり、天下の大事になってしまうのだ。」

「迂闊に城を出て、敵に足元を掬われたらどうする。ここの難波口木津表で
 中入りによって原田備中(塙直政)は討死し、それで信長公は災難に遭われた。
 勝入公が長久手で敗軍したのも、中入りの手立てが不調に終わったからだ。
 一人も助けに出てはいけない。大体片桐の兵のようではあるが、万が一つ
 我々を誘き寄せる為の大坂の偽兵かもしれないのだぞ」
と田宮が申したので、城兵で相談して片桐勢をわざと見殺しにしました。

使者からこの返答を聞いた利隆公は、この趣を一書にしたためて板倉方に渡した。
大君がこの一書を御覧になって
「輝政は日頃矢に念を入れていたから、下の者もその風を忘れずにいたのだな。
 今度の仕方は、我が孫に似合いたる申し付け様なり。
 尼崎城外で何があろうと出合いはせずよく城を守るように」
と仰せになり事が済んだという。


――『池田氏家譜集成』

* 池田利隆の家臣。のちに家康の命により徳川頼宣の家臣として800石で仕える。
 居合を主とした剣術「田宮流」の2代目とされる。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)


951 :人間七七四年:2018/05/25(金) 18:29:45.98 ID:4ko1/ESr.net
抜刀田宮か
修羅の刻で見たような記憶が

952 :人間七七四年:2018/05/25(金) 20:21:58.17 ID:Lm1qhWqo.net
充分に兵力を入れていなかったのを、いい抜けた話か。

953 :人間七七四年:2018/05/25(金) 23:54:44.12 ID:cMVWVWaf.net
片桐の兵共々鉄砲で追い払えば良かったのに

954 :人間七七四年:2018/05/26(土) 18:48:06.81 ID:HOWgnCDb.net
そんなことできるのは伊達さんだけ

955 :人間七七四年:2018/05/27(日) 21:10:54.20 ID:DN4fvMPd.net
小田氏治がNHKの歴史番組で取り上げられます
NHK総合の番組「歴史秘話ヒストリア」で、小田氏治が取り上げられます。
小田氏治の肖像画(法雲寺所蔵、当館寄託、茨城県指定文化財)などが、番組内で紹介されます。
当館では、この放映に合わせて、「小田氏治像」「小田治久像」「小田天庵公一百五十年忌祭録」を7月15日(日曜日)まで展示します。この機会に、ぜひご覧ください。

【放映日時】6月13日(水曜日)午後10時25分から11時10分まで
http://www.city.tsuchiura.lg.jp/page/page011080.html

マジか、ついに天庵様が

956 :人間七七四年:2018/05/27(日) 21:53:13.74 ID:2DMcxkmq.net
ネタ枠がついにここまで来たかw

957 :人間七七四年:2018/05/27(日) 21:58:25.37 ID:hrR0WwC7.net
前にも立花宗茂と今川氏真とセットで取り上げられてはいたようだ
それにしても「知恵泉」のサイトのURLが
http://www4.nhk.or.jp/chieizu/2/
でまるで信綱のような

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 22:07:23.92 ID:JvE4goeo
天庵様が明日の番組でNHKデビュー

先人たちの底力 知恵泉 年末SP「負けたのによく生き残った!戦国武将特集」

958 :人間七七四年:2018/05/28(月) 09:59:11.73 ID:G3/hr0Wa.net
本能寺の後、信州より居城兼山に帰ってきた森長可は言った
「弟である乱丸、坊丸、力丸は討ち死にしたという事だ。信長公も御生害なされ、
この上は京に上っても意味がない。
岐阜の城にいる、残る弟の仙千代(森忠政)を奪い取ろう。
しかし人数多くては無理であろうから、井戸宇右衛門一人供をしろ。」

宇右衛門畏まり、加えて下人少々召し連れ、主従6人にて岐阜城に忍び入った。
日暮れまで静かに待ち、人質を置かれている家に、長可一人忍び入った。
傅役として付けられた各務長助13歳、仙千代14歳、二人共に手を取り家より引き出し、
城の下十丈ばかり(約30メートル)の谷底に大きな布団が用意してあり、
井戸宇右衛門その他が待っていた。

長可は二人をその布団の上に飛び降ろさせ、下に落ちると馬に乗せ、豆渡りの渡に向かい、
浅瀬に馬を入れて難なく川を越え尾張の地に入った所で夜が明けた。
そこから馬を早め、その日の内に兼山へ入った。

兼山で待っていた御母公は、「七世の孫に逢ったような心地です」と、喜ぶこと限りなかった。

(兼山記)

959 :人間七七四年:2018/05/28(月) 12:07:42.11 ID:kUWGZNYS.net
30mと言うとマンションの10階位の高さか...
こわっ!!

960 :人間七七四年:2018/05/28(月) 12:38:40.87 ID:DVaPyOBu.net
布団でなんとかなる高さなのか・・・
かなり、高さは盛ってある感が。でも、岐阜城だと、山の上だしなあ。

961 :人間七七四年:2018/05/28(月) 18:46:24.88 ID:homQuwcC.net
布団にまいて落としてなかったっか?

962 :人間七七四年:2018/05/29(火) 01:42:58.86 ID:0tvEr/AT.net
小田家関連がNHKで放映されると聞いて飛んできました
やったぜ天庵さま

963 :人間七七四年:2018/05/30(水) 19:38:44.80 ID:m3QtbrAB.net
上様日和という事
同時九鬼大隅守嘉隆日本丸といふ大船を乗廻し南の海上を取巻けり、此所は荒海にて、東
風吹く時は波浪山岳を倒しかくるが如し、船をかけ並ぶる事思いも寄らぬ所なるに、秀吉
城を囲まれし間五十余日風静に波穏かなり。是よりして小田原海辺風無き日を上様日和と
言慣しけり。
                            (常山紀談)

 秀吉が小田原城を包囲する間、天気がよかった話。
 北条氏は、天運にも見離されていたのか。まあ、海が荒れて、海上からの包囲に穴があ
いても、味方してくれる勢力が一つもない状況だったわけだが。豊臣方の海上輸送も阻害
されただろうから、包囲が続けられなかったかな。

964 :人間七七四年:2018/05/30(水) 22:48:48.01 ID:8830ayA8.net
>>960
すまんけど、ちょっと布団持って行ってやって来てくれよ
報告よろ

965 :人間七七四年:2018/05/30(水) 23:47:37.61 ID:2DJug1SZ.net
上様日和って吉宗が屋敷に来て慌てる悪代官を想像してしまう

966 :人間七七四年:2018/05/31(木) 11:53:15.30 ID:1OLpxP+u.net
そういえば富岳三十六景の神奈川沖浪裏もこのへんの海域か
あれも「波浪山岳を倒しかくるが如」くだもんな

967 :人間七七四年:2018/06/01(金) 21:04:39.75 ID:OgMQNIEj.net
 文禄2(1593)年12月、奉行の浅野長吉と木下吉隆が秀吉の意向を受けて、在陣武将た
ちに虎狩りを命じた文書が残っている。

 秀吉様の御養生のために虎を捕獲して塩漬けにして送れ。必要なのは頭と肉と腸で、皮
は自由にしていい

 この文書を読むと、当時虎は不老長寿の薬として重用されており、朝鮮での虎狩りは秀
吉の滋養強壮の薬を調達するために行われていたようだ。秀吉が文禄3年4月12日付で加藤
清正に宛てた朱印状では、清正が秀吉の命令に従って実際に虎を狩って秀吉に送っていた
ことがわかる。熊本日日新聞社編『加藤清正の生涯』p74

 虎の利用法。秀吉の仙薬調合の材料確保のために組織的に行われていた。加藤清正以外の部将も、虎狩りに従事していた。
 皮は好きにしていいというのは、実際に虎狩りに従事した大名たちへの反対給付の意味もあったのかも。

968 :人間七七四年:2018/06/02(土) 18:13:50.45 ID:gKbDChEG.net
朝鮮役での虎狩りの話題が出てるので毛利元就の四男、穂井田元清の虎狩りの話を…
>>967のように秀吉は朝鮮へ渡海する諸将に虎を狩る様命じ、朝鮮へ渡った穂井田元清も二頭の虎を生け捕りにして日本へ送った。
日本へ送られたこの虎は後に後陽成天皇の御前にも召し出されるほど人気であったと言う。
そんな人気が出る虎なんてひょっとしてでっかい猫みたいなものだったのではなかろうか?

https://i.imgur.com/9DhS1j7.jpg
https://i.imgur.com/k8x2b3o.jpg

969 :人間七七四年:2018/06/02(土) 20:23:34.74 ID:f/1CtrpU.net
下の子、ちょっと腹が出すぎww

970 :人間七七四年:2018/06/02(土) 20:55:52.36 ID:BXsv5Oxs.net
孕んでんじゃね?

971 :人間七七四年:2018/06/02(土) 21:05:04.03 ID:FbZbFDG+.net
虎狩りと言えば立花家臣・米多比三左衛門の大虎・小虎のエピソードが有名だよな
それにしても立花家は墨縄といい有名な逸話が残る火縄銃が現存してるのは凄いなあ

972 :人間七七四年:2018/06/03(日) 21:36:20.96 ID:RYlmtq2o.net
永禄2年8月、織田信長による伊勢北畠攻めにおいて、北畠方の徳山城も、織田掃部助(忠寛か)、
蒲生賢秀、その他約1万余騎にて攻め寄せ、揉みに揉んで攻め落とした。

この時、蒲生賢秀の嫡男である忠三郎(氏郷)も14歳にて軍始であったため、賢秀は殊に
気を使い、彼に結城十郎兵衛、種村伝左衛門という、家中の剛の者を付けた。

さて、賢秀が士卒を下知して駆け回っていると、「忠三郎様の姿が見えない!」という
声を聞いた。賢秀は驚愕して、結城、種村を呼びつけ
「汝等を付けたのは何のためか!?討たれてしまったのかも知れない、どうすれば…。」
そう悩み悶て居た所、そこにひょっこり、忠三郎は敵の頸を取って帰ってきた。
賢秀あその姿を見るや、感涙し鎧の袖を濡らした。

忠三郎の取った頸はやがて信長の見参に備えられ、信長は感じ入り、自ら打アワビを
取って与えたという。

(氏ク記)

初陣のときから一騎駆け大好きなレオン様であった

973 :人間七七四年:2018/06/03(日) 22:57:26.59 ID:PvhrymRI.net
一騎駆けで、生き延びる人間と死ぬ人間の格差が・・・

974 :人間七七四年:2018/06/06(水) 22:59:53.83 ID:+taDBLgq.net
本能寺の変のあと、明智光秀が近江国安土城を接収すると、同国の住人たちは我も我もと
光秀に降参し、その幕下に属さない者一人もなしという有様であった。
その中で、蒲生賢秀・氏郷父子は「故信長公からの御恩を何れの世にか報い奉るべきか、
ただ一合戦して腹を掻っ切り御供せずにはしかず。」と、居城である日野城に立てこもり
要害を普請し軍勢を集めた。その数1500余騎という。

これを知った光秀は、蒲生に使いを出し『今度光秀に同心すれば近江半国を与える』と
伝えたが、蒲生父子は全く同心しなかった。

近江の住人である多賀豊前守、布施忠兵衛たちも既に明智方となっていたが、
何れも蒲生と疎意の無い人々であったので、彼らからも「罷り向かって異見を申そう」と、
自ら日野を訪れ出し再三に渡り諫言を行った。

しかし賢秀・氏郷父子は彼らと対面すらせず、ただ『武士たらん者は恩を知って以て人であると
申す。御辺たちは降参を能きと思ってそように申されるのか。」と返答した。

嘲られた両人は口惜しく感じ、馳せ帰ると光秀に申し上げた
「蒲生親子は以ての外に奇怪なる者にて候。急ぎ御退治有るべし」
特に布施忠兵衛は進み出て
「現在日野城は未だ普請中であり、堀、櫓は生壁の状態ですので、破壊も容易いでしょう。
1日も早く攻め寄せられるべきです」と積極的に提言した。
これを聞いて光秀も、尤もであると考え、すぐに蒲生攻めの準備を始めようとした。

ところがここで、信長の三男である神戸信孝が大阪より引き返し、光秀の婿であった
織田信澄を討ったという情報が入り、光秀は近江のことを明智弥平次に任せて
自らは信孝に対処するため攻め上がった。

(氏ク記)

本能寺の変の後の近江情勢の事など

975 :人間七七四年:2018/06/07(木) 09:35:25.55 ID:PBC4CLeq.net
意外と、信孝の動きって重要だったということなのかな。
四国遠征軍は瓦解して、たいした働きはできなかったと言う話だが。

976 :人間七七四年:2018/06/07(木) 11:06:11.75 ID:GbR2xIHX.net
味方になるかはわからないけど婿だし
これに対応しないと味方を見殺しにするってイメージを降った者に持たれて士気が下がる要因になるし最悪離反される恐れがあるからね
あと大溝城の接収にも関係してくる

977 :人間七七四年:2018/06/07(木) 17:53:15.18 ID:XENet+TR.net
>>971
前に柳川の御花で大虎・小虎の実物と親子の虎の歯が展示されてたな
小虎の方がちょっと短い銃だった

978 :人間七七四年:2018/06/08(金) 17:47:16.27 ID:K7zh36zA.net
清須会議の後、織田信雄と織田信孝の対立が顕れ、諸大名は信雄・羽柴秀吉方と
信孝・柴田勝家方へと分かれた。

そのような中、蒲生氏郷は妻が信長次女であり(相応院)、信雄も信孝も自身の
小舅であることから、どちらに付くとも態度を表明しなかった。
そのため柴田勝家からも羽柴秀吉からも、平に頼み申すとの遣いが送られた。

蒲生家に対して世間ではこう考えていた
「蒲生父子は柴田勝家の寄騎として、勝家出陣の時は先手を任され毎回手柄を成された。
勝家が越前を拝領された後は柴田とは離れたが、最前よりの好であるから、きっと柴田に
同心するだろう。」

しかし氏郷はどう考えたのか、勝家に対して切れ目(断交)の返事をした。
蒲生家では安井孫右衛門という者を越前に付け置いていたのだが、彼を一旦帰国させ、
その上で使いとして勝家の元へ向かわした。

安井が蒲生の返答の内容を申すと、勝家は「思いもかけないことだ、蒲生は必ず味方となると
思っていたのに。」と、力を落とした様子であった。その上で、勝家はこの安井孫右衛門に
別して目をかけていたので

「今度の合戦に討ち勝てば、近江国にて存分の知行を宛てがおう」と、折り紙を渡して
帰させたという。

(氏ク記)

勝家はいい人だな

979 :人間七七四年:2018/06/08(金) 19:13:33.87 ID:A67A5fmZ.net
>>978
>勝家はいい人だな
まあ裏を返せば悪い人には勝てないな…

980 :人間七七四年:2018/06/09(土) 12:23:47.26 ID:eZTiEHQh.net
蒲生氏郷が豊臣秀吉により伊勢国松島十二万石を拝領した頃、彼への奉公を望んで来た
者たちの中に、松田金七という者があった。彼は元は大和国の侍で、生来武勇の者であったが、
ある年、南砺(奈良)に牢人して居た時、仔細のことあって町人たちと口論に及び、
大勢の中に取り籠められ、その内の一人が持っていた棒に当たった。

これは武士にとって非常に屈辱的なことであり、「是非とも死なねば!」と叫んで
自ら死のうとしたのを、周りの人々が無理に押し止めたため諦めて恥を忍んだ。
しかし以降、松田は自分の具足を威して、背中に金箔で『天下一の比気者(卑怯者)』と
書きつけた。

そしてこの度、蒲生氏郷の元に参り、河井金左衛門を頼んで奉公を望んだが、
「私は天下一の比気者ですが、御用に立つことも有ると思います。お目利き次第にて、
御扶持を申し請けたく思います。」
そう申し上げた。

氏郷は彼の正直に感服し、「只者ではない」と、彼に過分の知行を与え、鉄砲隊を預けた。

(氏ク記)

就活中の方、ご参考に

981 :人間七七四年:2018/06/09(土) 13:04:21.16 ID:IgtKlBFt.net
工場長だから雇ってくれたような

982 :人間七七四年:2018/06/09(土) 18:22:18.75 ID:yyO2B7IA.net
出典はないけどまとめの671工場長の名前が広がった
蒲生氏郷の、蒲生再生工場!・いい話
の蒲生再生工場(二)で既出

まとめの8518人さらいを推奨する困った仏様の話
ではこの松田金七はなぜか通古賀(福岡県太宰府市)の村出身になっている模様

983 :人間七七四年:2018/06/10(日) 11:43:06.50 ID:+lBkktIw.net
天正13年7月、豊臣秀吉は摂政関白の両職を占められた。目出度いことである。
その御治世の賢きことを考えてみると、織田信長は義と剛のみを用いられたため、
敵対する者は不義であると、御身剛なるままにその根を絶ちその葉を枯らした。
また敵の方から降参する者をも、不義をして来た者であるからと、後になって害した。
そのようであったので降参するものも無く、故に天下も静まらなかった。

一方の関白秀吉は、柔と剛を兼ねて用いられ、敵対する者へは、或いは先に扱いを入れて
それを聞かなければ攻められ、或いは先に攻撃してその後扱いを入れた。そして降参する者には
過分の領地を与えた。故に天下は早々に治まったのである。

(氏ク記)

氏郷記による、信長と秀吉の違い

984 :人間七七四年:2018/06/10(日) 14:15:52.84 ID:TtJ2yHhY.net
秀吉は、そうやって外様にいい顔したから、子飼いの武将があまり大身にならなかった側面があるような。

985 :人間七七四年:2018/06/10(日) 14:24:34.85 ID:08xhiQlf.net
譜代の石高が低いのは徳川も一緒じゃないかな

986 :人間七七四年:2018/06/10(日) 15:12:43.50 ID:KDd0fsGl.net
譜代に大身を与えたら反乱祭りになった足利幕府という例があるからな

987 :人間七七四年:2018/06/10(日) 19:41:46.61 ID:Lmu5ih2J.net
秀吉の場合理不尽に奪うケースも多かったと思うがなぁ( 奥州仕置とかが判りやすい )

988 :人間七七四年:2018/06/11(月) 00:42:38.28 ID:Vq/uASs5.net
恩賞の土地が無くなってきたとか?

989 :人間七七四年:2018/06/11(月) 01:08:18.93 ID:r7KW5omB.net
理不尽っつーか、奥州とか九州とか、よくわからない土地は自分の功臣にどかっと領地を与えるのに使っちゃった、ってことだろ。
奥州とか九州とか、先祖代々の入り組んだ関係を理解して公平にさばくなんて誰にもできない。

990 :人間七七四年:2018/06/11(月) 10:18:37.36 ID:1BvVKhuE.net
信長の場合、問題は、最初友好的だった戦国大名と、領土が近づくとことごとく敵対関係になっていること。

991 :人間七七四年:2018/06/11(月) 13:11:49.75 ID:Vq/uASs5.net
友好的な戦国大名って誰のことだろう
分かる人いる?

992 :人間七七四年:2018/06/11(月) 14:17:55.69 ID:sVJD/xBa.net
上杉や毛利でしょうね
ただし領地が接した途端に戦い始めるのは戦国大名としてはお約束の展開。
秀吉なんかも征伐、征伐だし

993 :人間七七四年:2018/06/11(月) 18:36:07.89 ID:3S+RqTvu.net
種村大蔵入道慮斎は元は織田信長に仕えた御咄の衆で、信長死後は蒲生氏郷に、
同じく御咄の衆として仕えた。

さて、氏郷が豊臣秀吉より伊勢松坂を拝領すると、蒲生家中の面々は屋敷を取り立て、
美々しく家を建てた。
この慮斎も屋敷を造り、その庭には富士山を築いたと評判であった。
そこで氏郷もある時、「そういう事ならば御辺の庭を見たい」と、わざわざ彼の屋敷へと
参った。

所が、慮斎の築いた山を見ると、頂上が丸い。
氏郷は去る年、織田信長による武田征伐の時東国へ赴き、富士山を見たことがあったので
思わず笑いだした

「これはどういう事だ、こんな富士山は聞いたこともない!」

そして興に乗り、硯と紙を持ってこさせ、短冊に一首を詠んでこの築山に立てて帰った。
その短冊には

『富士見ぬか 富士には似ぬぞ松坂の 慮斎が庭の擂粉木ヶ嶽』

(氏ク記)

994 :人間七七四年:2018/06/11(月) 19:55:02.89 ID:6u0nRO91.net
すりこぎヶ岳って、どんだけ丸かったんだ。ハワイの火山みたいなものか。

995 :人間七七四年:2018/06/11(月) 21:32:38.97 ID:VdMRi/wo.net
>秀吉の場合理不尽に奪うケースも多かったと思うがなぁ

まるで家康が理不尽に奪ったことがないかのような語りっぷり

996 :人間七七四年:2018/06/11(月) 22:35:30.19 ID:gXCXqSHq.net
家康いったいどこから出て来たんだろう?

997 :人間七七四年:2018/06/11(月) 22:40:47.58 ID:x90bEq2Z.net
新スレ立ててみる

998 :人間七七四年:2018/06/11(月) 22:49:34.52 ID:x90bEq2Z.net
できた。こちら埋まったら移動してください

戦国ちょっといい話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1528724750/

999 :人間七七四年:2018/06/11(月) 23:40:15.02 ID:YRcX9Cs9.net
>>998


1000 :人間七七四年:2018/06/11(月) 23:41:37.43 ID:6u0nRO91.net
乙〜

1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
2ch.netからのレス数が1000に到達しました。

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