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もし武田信玄があと10年生きてたら、、、、三戦目

47 :人間七七四年:2017/11/11(土) 06:45:09.46 ID:ut2tEzf0.net
>>42
>「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望みなし」
>とか、大久保の創作は限度を超えておかしいと思う
他スレの方にも書きましたけれど、これはちゃんと元ネタとなったと思われる信長の書状がありまして、
11月28日付の信長の書状で、朝倉浅井に対して
「将軍家の政道に越度(落ち度)があれば、相互に相談して道理に従って対処しましょう。
畿内の公家・寺社の政道に関しては、貴方達から沙汰される事に相違などありません!」
的に述べており、普通にこれが実行されれば、朝倉浅井は信長よりも上位の畿内政治の運営者になるわけですから、
普通に信長の土下座降伏宣言的な書状であると思われますね。

さらに、和睦成立の後に1571年2月に朝倉が将軍義昭の家臣に対して出した書状では、
「織田勢が和睦の条件である横山と佐和山に陣取っている軍勢を撤収させようとしないばかりか、
さらに軍勢を派遣しようとしているようですし、山門領にも近年の如き無道を行おうとしているようで、
言語道断というべき話です!元々、この前の和睦に関しては、こちら側でも表裏(謀略)ではないか、という声がありましたけれど、
(このような書き方からしても、この和睦は信長から求めたものである事が明らかであるように思われますかねえ。)
将軍様が起請文をとったり、双方が決して違約してはならない、もし違約があるようであれば、
公儀の御身上、相果てなさられるべし、とまで言われたから、こちらは承認したんですよ!
それなのに、信長はすぐにそれを破っていて、これは天下の将軍様に対する嘲弄が不可避というべきものではないでしょうかね!
上意の筋目とは一体どうなっているのですかね!」的に述べておりまして、
この和睦においては、横山城にいる軍勢、及び佐和山城を攻囲している軍勢を
織田は撤収させ、さらに山門領(比叡山領土)の安泰を確保する事が条件だったようですね。
さらにはその後の文章で
「憚り多き申し事ながら、言わせてもらいますが、
我ら朝倉側は、この前の志賀陣において、度々大利を得て、織田九郎、森可成、
坂井、などをはじめとする織田家の有力武将達を何人も打ち取り、
残りの軍勢も打ち果たそうと思っていた所に、上記のように将軍様が
言い出されました事から、和睦をしましたというのに、
信長は勅命にも上意にも背いている次第なわけなのですけれど、
これは無道というべきものなのではないでしょうかね!」と述べているわけでして
明らかに朝倉側の書状における、これらのコメントからしても、
この和睦を求めたのは信長であって、信長から慇懃に朝倉浅井側に和睦を求め、
それでも表裏があるのではないか、と疑う朝倉側に対し、朝廷や将軍家が
様々に申し入れ、特に将軍家が上記のように懇切に懇切に
「この和睦は絶対に双方で違約してはならない!
もし違約するものがいたら、公儀の御身上、相果てなさられるべし!」
とまでいい、起請文などもとって様々に説得した事から、朝倉浅井側が承認し、
その後で朝倉浅井側が撤収した後で、速攻で信長が和睦を破って、
和睦詐欺を行った、というのが明らかなように思われる次第なわけですしねえ。

これらの事から考慮して、信長が威風堂々としていて、朝倉側が和睦を求め、
信長がしょうがないから和睦してやった、的に書いてある信長公記と比して、
三河物語の記述の方が一次資料などと比しますれば、近いと思われる次第であると思われますかね。

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