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もし武田信玄があと10年生きてたら、、、、三戦目

1 :人間七七四年:2017/11/06(月) 07:06:08.95 ID:c+sD+LwJ.net
前スレ
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1507730922/l50

ルールマナーを守り有意義な議論をしましょう。

61 :人間七七四年:2017/11/12(日) 06:20:23.26 ID:CXKLn81I.net
>>50 >>52
いや、別スレにも書きましたけれど、朝倉浅井にしてみれば、
要害にこもって織田勢を締め上げれば締め上げる程に有利なわけですし、
現に信長はそれで苦しくなって
>>47にあるような土下座降伏宣言的な書状を出しているわけですし、
普通に堅実に勝利する為の策を行っていただけの話のように
思われるのですけれどねえ。

まあ、そもそもの問題として、信長公記に記される、
志賀陣の和睦にまで至る経緯、すなわち
信長が威風堂々としていて、朝倉側が和睦を求め、
信長がしょうがないから和睦してやった、的な流れは
>>47にもありますように、一次資料における信長自身の書状やら、
朝倉側の書状によるコメントと大きな異なりが存在しますので、
そもそも志賀の陣の時に信長は朝倉に対して決戦を求めたのかどうか、も
疑問に思えたりもするような次第なのでございますけれどねえ。

62 :人間七七四年:2017/11/12(日) 06:24:38.29 ID:CXKLn81I.net
>>53
信玄の50才と申しますと、北条との駿河争奪戦の真っ最中ですしねえ。
この状況で家督をいきなり勝頼に譲る、というのも難しいような気がしますかねえ。
>>56
普通に勝頼に継承させる想定だったかと思われますかねえ。
勝頼への将軍義昭からの一字拝領と官位叙任の工作も進めておりましたしねえ。

63 :人間七七四年:2017/11/12(日) 06:26:36.49 ID:CXKLn81I.net
>>58
そもそも諏訪一族自体も武田の血縁でもあるわけですし、
信玄も普通に勝頼を義信に次ぐ武田家ナンバー3として扱っている事が指摘されておりますので、
盛信に譲る理由は特にないかと思われるのでございますけれどねえ。

64 :人間七七四年:2017/11/12(日) 06:29:26.51 ID:CXKLn81I.net
>>60
信長自身の書状によりますならば、
「将軍家の政道に越度(落ち度)があれば、相互に相談して道理に従って対処しましょう。
畿内の公家・寺社の政道に関しては、貴方達から沙汰される事に相違などありません!」
的な感じですので、朝倉浅井は本国に在しつつ、将軍家の政治に異議や具申があれば、
申し出て信長と相談して運営していき、畿内の公家・寺社の政道に関しては
朝倉浅井が使者を送って沙汰をするのを信長がそのまま実行する、的な
朝倉浅井優位の政権運営、という感じのようですかねえ。

65 :人間七七四年:2017/11/12(日) 06:30:16.22 ID:CXKLn81I.net
まあ、結局、信長の申し入れは和睦詐欺ではあった次第ではございますけれどねえ。

66 :人間七七四年:2017/11/12(日) 07:29:17.44 ID:5sDDHIjB.net
皆さん、基地外は無視して楽しく議論しましょう。基地外には返信しないで下さい。

67 :人間七七四年:2017/11/12(日) 07:37:38.52 ID:5Z7fLn+d.net
>>61
中途半端に追い詰めて和睦するから滅亡するハメになった
和睦を蹴って徹底的に潰すべきだったのに、そうしなかったのは朝倉浅井も和睦をせざるを得ない事情があったということだろう

68 :人間七七四年:2017/11/12(日) 08:08:10.15 ID:5sDDHIjB.net
基地外は織田信長の和睦詐欺と言ってるだけ。

69 :人間七七四年:2017/11/12(日) 11:13:07.40 ID:l339ySqa.net
>>64
それ朝倉義景は上洛してやったのか?
上洛してないなら、怠慢だろ。京都にいて運営してこそなのに。
越前で運営して何になる。将軍は京都にいるんだぞ。

70 :人間七七四年:2017/11/12(日) 11:16:01.50 ID:l339ySqa.net
>>62
北条は大飢饉の中で交代してる。
織田はまだ敵がたくさんいる中で交代。
毛利も尼子や大友と抗争中に交代2回。

駿河争奪戦だからできないなんて言い訳に過ぎないんだよ。それを乗り越えてやることこそ、次代への基盤固めに繋がる。

71 :人間七七四年:2017/11/12(日) 13:34:48.70 ID:Q+j1Lh99.net
>>69
それ、論点ずれてるから。

72 :人間七七四年:2017/11/13(月) 09:31:07.69 ID:CajRvILA.net
>>66 >>68
なんか必死になって都合の悪い事柄などを、レッテル貼りなどをして
スルーさせようと躍起になっておられるご様子ではありますが、
信長自身が、「将軍家の政道に越度(落ち度)があれば、相互に相談して道理に従って対処しましょう。
畿内の公家・寺社の政道に関しては、貴方達から沙汰される事に相違などありません!」
的な書状を出しておりますし、>>47にもありますように
朝倉側の書状から考慮しましても、信長はこの和睦において、
横山城と、佐和山城を攻囲している軍勢を撤収させ、
さらには比叡山領の安泰も確保する、という事を条件にしていた事が明らかなように思われるわけでございますし、
それにも関わらず、信長はそれらを全て実行しようとはせず、速攻で和睦を破っている、という事が
>>47にあります朝倉側の書状からも明らかであるように思われるわけでございますが、
これを和睦詐欺以外の何ものであるとおっしゃられますのか、についてご回答の方をいただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

73 :人間七七四年:2017/11/13(月) 09:55:54.93 ID:2VeIJKiD.net
>>72
黙れ病気(笑)Wikipediaやお前の妄想噺は飽きたんだよ(笑)

お前の頭の中だけの歴史なんかどうでもいい

74 :人間七七四年:2017/11/13(月) 10:32:53.59 ID:CajRvILA.net
>>67
ですからあ、>>47にもありますように、
朝倉側もこの和睦が表裏(謀略)ではないか、というのは考慮しておりましたが、
将軍義昭がこの和睦の為に奔走し、起請文などもとって、
「この和睦は絶対に双方で違約してはならない!
もし違約するものがいたら、公儀の御身上、相果てなさられるべし!」
的にまで述べた事から、朝倉浅井側も承諾した、という流れですし、
そもそも、信長の申し入れた和睦条件が実行されたなら、
朝倉浅井側は信長よりも上位の畿内政治の運営者となるばかりか、
横山城と、佐和山城を攻囲している軍勢を撤収させ、
さらには比叡山領の安泰も確保する、という事になっていたわけですし、
朝倉浅井側としては、もう戦争を継続する理由が存在しない、という状況ですし、
無理やりに朝倉浅井側に理由を求めようとする必要はないように思われる次第なのでございますけれど、
如何なものなのでございましょうかねえ。

75 :人間七七四年:2017/11/13(月) 10:37:55.43 ID:CajRvILA.net
>>73
いやいやいや、wikiでもなんでもなく、普通に>>47で内容をご紹介させていただいておりますのは
信長自身がこの志賀陣の時に出した和睦の書状や、
朝倉がこの和睦の後の1571年2月に出した書状などですし、
普通に一次資料を基にして語らせていただいている次第でございますしねえ。
なんか必死になって都合の悪い事柄などを、レッテル貼りなどをして
スルーさせようと躍起になっておられるご様子ではありますが、
そのように必死に織田信長の都合の悪い事柄などを、
オープンで貴方自身がお認めになられておられます、複数端末による
複数IDからの他人装いによる、多数派装い工作などをなさられて、
必死に喚かれておられるご様子の方こそが、普通に考慮しますれば、
不可思議なる行動、と思われる次第なのでございますが、
この件について、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
さらには、>>72のような史実的な流れにおいて、
これを和睦詐欺以外の何ものであるとおっしゃられますのか、についてもご回答の方をいただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

76 :人間七七四年:2017/11/13(月) 10:44:48.58 ID:CajRvILA.net
>>74一部訂正
×横山城と、佐和山城を攻囲している軍勢を撤収させ、
〇織田側は 横山城と、佐和山城を攻囲している軍勢を撤収させ、
です。まあ、ご理解いただけるとは思うのですが、一応訂正の方はさせていただきますかねえ。

>>69
>>71の人も言うように、それは論点の方がずれておられるように思われるのですけれどねえ。
信長自身の書状の申し入れでそのようになっているわけですし、
信長自身が、「貴方達は本国に在しつつ、将軍家の政治に異議や具申があれば、
申し出て信長と相談して運営していき、畿内の公家・寺社の政道に関しては
朝倉浅井が使者を送って沙汰をするのを信長がそのまま実行する、的な
朝倉浅井側優位の政権運営、で行きましょう。」と申し入れているわけですし、
普通に朝倉浅井側は特に不可思議な事はしてないように思われる次第ですしねえ。
信長ご当人が、それでいいです、それでいきましょう、的に述べている、
という話なわけですしねえ。

77 :人間七七四年:2017/11/13(月) 11:06:33.08 ID:CajRvILA.net
>>70
氏康の隠居は、その北条領土内で大飢饉が起きた事で、
家督を交代させる事により、厄を払う、というイメージを大衆に抱かせ、
徳政令をも合わせて行う、という目的をもって行われたとされておりますかねえ。

信長の隠居も、長年の東の脅威であった武田勢を長篠で敗北させ、
その鋭鋒を減少させて東側の安全を確保させ、
さらには武田側に制圧されていた東美濃の領土も再制圧し、
北陸一向宗に支配されていた越前も再制圧し、という感じで
織田領国に一応の安定がなされた、1575年11月末に
家督継承がなされておりますかねえ。

毛利元就に関しましては、1546年の隠居に関しましては、
普通に大内勢力に従う従属大名として、尼子とかと戦いつつ、
備後の安定も確保し、毛利本家も安芸一国の制圧をほぼ順調にすすめ、
小早川家にも養子を出し、という感じで、ひとまずの安定をしている状況で、
元就が当主としての実権を確保した状態で、継承を行っております次第でございますかねえ。

これらから考慮しまするに、普通に信玄も一通りの安定をした時に、
家督を継承させようと考慮していたように思われる次第なのでございますけれどねえ。

78 :人間七七四年:2017/11/13(月) 12:33:01.69 ID:CajRvILA.net
そもそも、毛利の事例におきましては、
隆元については、元就も、元春も、隆景も、その重要性について気がついておらず、
隆元の死亡後に、はじめてその重要性に気がついた、という状況でしたし、
>>70の人が言うような、「それを乗り越えてやることこそ、次代への基盤固めに繋がる。」
的なのとは異なるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

79 :人間七七四年:2017/11/13(月) 21:03:15.35 ID:ZwIdifZr.net
信玄は、次代の安定を後回しにして、それが原因で家が滅んだ。
大名としては失敗者と言う事だ。
軍事政治謀略すべてに優れていても、それでも家を保てなかったと言う
江戸時代の大名とかには絶好の反面教師だな。

80 :人間七七四年:2017/11/13(月) 21:27:21.35 ID:CajRvILA.net
>>79
いやいやいや、実際には勝頼は普通に家督を継承しておりますし、
武田家滅亡の原因は、長篠の敗北やら、
その後の御館の乱における勝頼の外交失敗による、
数年間の多方面策戦による国力疲弊が原因、とされておりますし、
何が信玄のせいなのか、というと非常に疑問に思われる次第でございますしねえ。

81 :人間七七四年:2017/11/13(月) 21:29:15.79 ID:CajRvILA.net
そもそも、江戸時代には信玄は神格化とかもされ、
偉大な名将として称えられておりましたが、
織田信長の方は非常に反面教師扱いが多かったわけでございます次第ですしねえ。

82 :人間七七四年:2017/11/13(月) 21:43:31.13 ID:EThPLmE7.net
>>79
なるほど
後継者に馬鹿を選んだ(サポートも付けなかった)のは、致命的な失敗だよな
現在にも通じる真理

83 :人間七七四年:2017/11/13(月) 21:47:37.46 ID:CajRvILA.net
>>82
指摘をされたら、
必死でご自身にレスをされなくてもよろしいと思うのでございますけれどねえ。
その理窟で言いますと、信長とかは本人自身が本能寺で死亡する事になり、
後継者の信忠も死亡する事になっており、それで自身の勢力が滅びる事になって
おりますから、どうなるのかと思うのですけれどねえ。

84 :人間七七四年:2017/11/13(月) 21:53:28.26 ID:EThPLmE7.net
信玄の失敗についても全く反論できていないことにも気付いていない上に、
同一人物だと妄想認定したり、こちらが織田贔屓だと勝手に思い込んだり、
とにかく頭が悪すぎる

85 :人間七七四年:2017/11/13(月) 21:58:37.04 ID:CajRvILA.net
>>84
いやいやいや、後継者に馬鹿を選んだ、も何も、
全ての未来を予知できるわけではないですし、
信長も現に明智の謀反によって自身だけでなく、
後継者も死亡する事になり、
自身の勢力がそれで滅亡する事になり、
という感じですし、
これだと貴方は何をどうお責めになるおつもりなのでございましょうかねえ。

まあ、これだけ必死になんとかして信玄を叩こうとしてて、
文体的にも行動的にも特徴があって、
なんとかして必死になって相手側を叩こうとしたり、
レッテル貼をしようとしたりしてて、
その必死な織田厨さんが、オープンの方で、自身が複数端末による複数ID自演を
行われている事をお認めになられている、という状況では、普通に色々と
考慮されるべきではないかと思われる次第なのではございますけれどねえ。

86 :人間七七四年:2017/11/13(月) 21:59:50.67 ID:YpdpcRYp.net
>>82
というか、何で早く家督を勝頼に譲らなかったんだか。家督を譲って次代体制固めしてたら、あんな滅亡の仕方なかったろうに。

87 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:00:53.42 ID:CajRvILA.net
>>86
何度も書かれてるとは思いますけれど、
実際には勝頼は普通に家督を継承しておりますし、
武田家滅亡の原因は、長篠の敗北やら、
その後の御館の乱における勝頼の外交失敗による、
数年間の多方面策戦による国力疲弊が原因、とされておりますし、
何が信玄のせいなのか、というと非常に疑問に思われる次第でございますしねえ。

88 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:03:32.59 ID:ZwIdifZr.net
>>82
跡継ぎに選んだ事自体は仕方ないけど、
選んだのなら、中途半端にせずにちゃんとサポートして、後継者に教育するべきだったね。
親族衆として家臣になるのなら猪武者で良いけど、そのまま放置したのはいただけない。

89 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:06:08.86 ID:EThPLmE7.net
>>86
勝頼がイマイチな事に気付いたんじゃないだろうか
次代体制固めも、跡継ぎに最低限の政治能力が無いと厳しい
戦国時代じゃお飾りにすることは難しいだろうし

90 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:09:45.82 ID:EThPLmE7.net
>>88
正直思うんだけど、馬鹿は他人がいくら頑張っても絶対直らない
猪武者として育ったのなら猪武者として使うべき

91 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:13:11.81 ID:CajRvILA.net
信玄のせい!信玄のせい!家督継承をしなかった信玄のせい!
と上では述べておられましたのに、>>87のように、
勝頼時代の事柄が原因、とされましたら、
信玄のせい!信玄のせい!勝頼を後継者にした信玄のせい!
と言い出されるのはどうかと思う次第なのでございますけれどねえ。

92 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:21:08.80 ID:EThPLmE7.net
馬鹿は視点が異常だからな
どうにもならない

93 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:26:32.74 ID:CajRvILA.net
>>92
確かに、>>91に示されているように、必死になってとにかく信玄のせい!という事に
しようと躍起になっておられる、必死な織田厨さんとかは、
そのように揶揄されてしまう事もおありになるのかもしれないと思えますかねえ。

94 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:29:06.55 ID:YpdpcRYp.net
>>91
信玄のせいは事実だろ。
自分は勝頼の時代に急に武田の財政が悪化したのに疑問を感じる。あれだけ連年合戦繰り返してたら黒川や安倍金山は枯渇するわ。

それと3年も死去を隠せとかアホか。そんなの無理に決まってるだろ。あのアホな遺言のせいで武田は1574年春まで動けなかったんだからな。

さらに信勝に家督をゆずれ、とか、これでは勝頼の権威ガタ落ちだわ。誰が期限付きの代理当主のいうことなんか聞くんだよ。

95 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:32:56.92 ID:EThPLmE7.net
>>94
漫画で得た知識とかで喋ると恥かくだけだぞ

96 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:36:13.17 ID:CajRvILA.net
>>94
いやいやいや、勝頼時代に財政悪化、とか言いますけれど、
それは長篠の敗北による損害と、その後の御館の乱における勝頼の外交失敗による、
数年間の多方面策戦による国力疲弊が原因、とされておりますし、
何が信玄のせいなのか、というと非常に疑問に思われる次第でございますしねえ。

そもそもの問題として、金山収入は武田にとっては間接収入ですし、
そもそもの問題として、
それらの金山は江戸時代にも普通に採掘されているわけですしねえ。

普通に家康の攻撃に対して、武田勢は1573年中に動いてますし、
遠征に出るのが1574年からなだけの話ですしねえ。

それから、勝頼陣代説をご主張されたいようではありますが、
普通に勝頼は一次資料的には家督継承を宣言したり、
他勢力から祝われたりしてますので、
普通に勝頼に家督継承が行われただけの話であると思われる次第でございますかねえ。

97 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:38:18.36 ID:ZwIdifZr.net
>>90
べきなのは分かるが、そんな事いっても仕方ないだろ。
盛信も、最期を見る限りかなり猪だし。
義信を死なせた時点で、武田家滅亡は逃れられない運命だったと言う事になる。

98 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:43:25.47 ID:EThPLmE7.net
>>97
近い親族に重鎮(宇喜多忠家とか北条一族とか)がいた場合はなんとかなるんだけど、
武田本家は人材不足だったな

99 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:48:37.10 ID:CajRvILA.net
>>97
仁科は最後に敗北が避けられなかった事から出戦を選んだと思われますし、
そもそも義信は、川中島とかでも非常に勇猛に突出し、
信玄に注意されたりしてる、とされてますので、
義信も勇猛なタイプに思えたりするのですけれどねえ。
まあ、若い武将というのは大抵そういうものであるようにも思われますけれどねえ。

100 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:49:02.22 ID:5YcuoBw6.net
勝頼を陣代にしたのはなあ。
どう転んでも、事態を悪化させる。
陣代なら勝頼も身の程を弁える、と誰かが言ったか?
そこまで諏訪勝頼が、武田の家督を継ぐのが不味いなら、弟の信廉か五男・信盛で良いだろに。

101 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:51:14.96 ID:zXOMnNVf.net
>>96
金山枯渇は事実だぞ。
1577年2月11日付で勝頼が甲斐黒川の金山衆の諸役を免除し、その理由を金山で黄金採掘ができなくなったための救済措置である、と述べている書状がある(風間文書)。

陣代否定するなら、お前時々軍鑑から出してる説明あるけどそれも否定することになるぞ。

102 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:52:38.41 ID:zXOMnNVf.net
>>99
軍鑑Z

陣代否定する奴が、軍鑑に依拠するなよ。

103 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:53:15.80 ID:CajRvILA.net
>>98
長篠の敗北で死亡した多くの経験豊富な武将達の存在が大きかったのですかねえ。

104 :人間七七四年:2017/11/13(月) 22:59:05.59 ID:CajRvILA.net
>>101 >>102
金山に関してですけれど、何度も言いますように、
武田にとっては間接収入ですし、そもそも甲斐金山の採掘が終了するのは
江戸時代になってからの話ですので、一時的に金山の採掘量に問題があったからといって
それがすべての否定につながるわけでもないと思う次第でございますかねえ。

なーんか必死になって一を否定したら、その資料の全てを否定しないといけない、
的に言われたりしてますけれど、
それを言いましたら、信長公記の志賀陣の記述とか、明らかに信長側の苦境とかを
必死に信長側優位に書きかえたりしてる事が指摘されておりますし、
他にも色々と指摘されている所とか、不可思議な所とかはございますが、
信憑性のあると思われる所を考慮して使われている、というのが実情ですしねえ。
勝頼の陣代説などは、普通に同時代資料で勝頼自身が家督継承を宣言したり、
他勢力からも祝われたりしてますのに、陣代とかを言われましてもしょうがないと
思う次第なのでございますけれどねえ。

105 :人間七七四年:2017/11/13(月) 23:02:06.26 ID:EThPLmE7.net
>>103
いやいや、長篠の突撃が最大の失敗だから
家臣クラスじゃなくて、
小早川隆景や宇喜多秀家みたいな親族じゃないと駄目だったんじゃないかな
勝頼の存在が消えるくらいの重鎮

106 :人間七七四年:2017/11/13(月) 23:02:52.72 ID:zXOMnNVf.net
>>104
お前は人が書状出したら否定に回るんかい。
自分が出してる時は書状だの資料だのと言ってるのに。

107 :人間七七四年:2017/11/13(月) 23:06:51.58 ID:zXOMnNVf.net
>>105
武田信繁がいたら、あるいはかな?

よく見てみると、勝頼期の武田一門衆て穴山信君、武田信豊、武田信廉、一条信龍、葛山信貞。

どれもパッとしないのばかりだな。

108 :人間七七四年:2017/11/13(月) 23:08:39.94 ID:CajRvILA.net
>>101
何度でもいいますけれど、勝頼の陣代説などは、普通に同時代資料で勝頼自身が家督継承を宣言したり、
他勢力からも祝われたりしてますのに、陣代とかを言われましてもしょうがないと
思う次第なのでございますけれどねえ。
>>102 >>103
それから、その特徴的な文体と言い回しに関しましては、
信長包囲網スレにおいて、今日の15時台に書き込みが違うIDであったのですが、
やはりあなたは複数IDの切り替えを行われている、という事でよろしいのですかねえ。
>>106
ですからあ、金山自体が間接収入だ、というのは学者さんの笹本氏とかも
普通に指摘しており、金山で武田氏がどうたら、というのは
「金山の影響を過大に見すぎ」的に述べておられる次第でございますしねえ。

しかも、何度も言いますように、江戸時代にまで採掘が普通に続いている金山で
金山が枯渇した!とか言ってもしょうがないと思う次第なわけですしねえ。

109 :人間七七四年:2017/11/13(月) 23:19:21.13 ID:zXOMnNVf.net
>>108
別に勝頼の家督相続は否定してないぞ。
1573年7月14日に北条に送った書状、9月に顕如から送られた祝いの書状だろ?

あれでどちらも気になるのが、武田信玄が存命している形で、送られている点。つまり勝頼が武田信玄の陣代遺言を無視して家督を相続した可能性はないのか、と思うんだがな。

そもそも武田はこの時点で、同盟国に武田信玄がまだ生きています、勝頼は隠居した武田信玄に後見を受けています、と虚偽を述べてるわけだしな。

110 :人間七七四年:2017/11/13(月) 23:34:43.20 ID:CajRvILA.net
>>109
いや、それでしたら、普通に勝頼嫌いとされる穴山とかが、
1582年に出した書状とかで、普通にその事を書くでしょうし、
重臣達や一門衆も反発するでしょうしねえ。
上記の穴山の書状では、「我が国の太守勝頼公、
その在位10年。」とありまして、普通に正当な当主であった事自体は
認められているようですし、
信玄の重臣の内藤達も「信玄時代以上に働きますので、
自分たちの立場とかを保証してください。」と勝頼に求め、
勝頼がそれに答えて書状を出したりしているくらいですしねえ。

111 :人間七七四年:2017/11/13(月) 23:39:12.42 ID:CajRvILA.net
>>109宛続き
信長包囲網スレが書き込めなくなったのと、
新スレが立てられなかった事から、こちらで信長包囲網スレの975の貴方のレスに対しての
返レスを書かせていただきますね。

端的にわかりやすく言いますと、武田氏の金山収入、といいますのは
金山衆、という金を採掘する集団の活動を認める代わりに、
その活動による一部の金を上納させていた、という形でして、
あくまでも武田氏にとっては間接収入であって、
武田氏の収入の大部分は領民からの諸々の税であり、
武田にとってはその税を得るための農業政策・商業政策、の方が
大きな意味合いをもっていた、という話なわけなのですが、
これで金山が武田の財政をどうたらした、というのは
金山の影響を過大に見すぎ、とされているわけでして、
ここまで説明したのですから、貴方は貴方自身が言われておりますように
謙虚なる姿勢を示していただけるものと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

112 :人間七七四年:2017/11/13(月) 23:43:45.25 ID:CajRvILA.net
ついでに、>>110に述べられております、穴山の書状、には
「我が国の太守勝頼公は、その在位10年であったが、
親族の諫めを聞かず、佞臣を近づけ〜」的に書かれているわけでして、
仮に勝頼が陣代とかであったなら、当主の位を簒奪した、とかいうのでしたら、
普通に穴山はそれを書いていたように思われる次第ですしねえ。

113 :人間七七四年:2017/11/13(月) 23:47:36.15 ID:ZwIdifZr.net
>>107
穴山は母も妻も武田家の人で、勝頼よりも本家に近いと言えなくもない。
一条信龍は地味だけど、そこそこ優秀な人物だったみたい。
まあ、息子を差し置いて後継者にしたら、それこそお家騒動の種にしかならないよな。

だから、後継者にした以上、ちゃんと勝頼を育てるべきだったと書いたんだが
それが無理なら、やはり史実どおり以外の道はないことになるね。

114 :人間七七四年:2017/11/13(月) 23:51:00.42 ID:hJpasfOH.net
>>112
穴山の書状?
あれは南松院17回忌の法語に玄ムに書いてもらったものだろ?
何嘘言ってるんだ?

115 :人間七七四年:2017/11/14(火) 00:08:10.48 ID:/Muas2pB.net
>>114
いや、普通に穴山の書状として扱われておりますって。
変な内容でしたら、普通に穴山が許可しないでしょうし、
学者さんとかも、普通に同時代の勝頼評として評価しておりますしねえ。

116 :人間七七四年:2017/11/14(火) 00:40:34.31 ID:/9Wss3ge.net
武田滅亡の原因の一つの長篠の大敗は、織田・徳川に喧嘩売った信玄の外交の下手さが原因でしょ。勝頼は信玄の外交のつけを払わされただけ。武田滅亡の種は信玄が蒔いているのよ。

117 :人間七七四年:2017/11/14(火) 00:48:07.56 ID:/Muas2pB.net
>>116
ですからあ、長篠では信長万歳の信長公記ですら、
「勝頼がわざわざ設楽ヶ原まで出てこずに、川を前にして守りを固めていれば、
こちら側は攻略のしようがなかった。」的に書いてあるわけですし、
重臣達も普通にそれ以上に鉄壁の防御態勢を築くことを進言してるわけですけれど、
勝頼の方が決戦を決断して、設楽ヶ原まで進んだ、とされているわけですしねえ。

元々、徳川の方はもう長篠直前には「今度ダメだったら武田に寝返ろう」
とか言い出してますし、織田も武田勢が長篠で敗北せず、その鋭鋒が減少しなければ
東西奔走を繰り返していたであろう事は普通に指摘されておりますしねえ。

そもそも、信玄が織田徳川と敵対したのも、信長側が両属の東美濃岩村遠山を
織田領土に編入したり、と色々要因があるわけですしねえ。
信玄自身も三年の鬱憤を晴らす、と述べているわけですしねえ。

118 :人間七七四年:2017/11/14(火) 08:44:14.89 ID:49yzkh9v.net
>>116
確かにその通りだな。
平山、丸島など武田関連の専門家が武田滅亡の原因を織田、徳川との対立を理由にしている。松姫を嫁がせて信忠との間に息子ができたら、武田は安泰だったのにな。

119 :人間七七四年:2017/11/14(火) 08:47:26.09 ID:49yzkh9v.net
>>113
勝頼の性格って、やはり猪武者かな?
甲陽軍鑑だと知的な人物と評されてるんだが。

120 :人間七七四年:2017/11/14(火) 12:40:08.99 ID:Fbqzqh0C.net
>>119
それ、疑問なんだよな。
信玄の子といっても諏訪氏の出自。
わがままに振る舞えるはずもないから、慎重な性格に育つと思うのだが。
一事が万事じゃないけど、長篠の結果から、鉄砲隊に遮二無二突っ込むイメージが当時から定着したのかな。
史料を残した当時のインテリが・正確に戦況を把握しているはずもなく。

121 :人間七七四年:2017/11/14(火) 19:52:38.16 ID:IY5lb/HS.net
最初から家督継承候補者として育てられたのならともかく
そうじゃない信玄の息子というだけのお気楽な立場だとしたら別に不思議ではないような
まあ実際の性格がどうだったかはわからないけど

122 :人間七七四年:2017/11/14(火) 21:21:21.95 ID:2yIF+P0Z.net
>>116
勝頼は外交も下手だから、信玄関係なく信長に滅ぼされたと思う
景勝、輝元、元親も滅亡確定だったし、やっぱ同世代の中では信長は頭一つ完全に抜けてた

123 :人間七七四年:2017/11/14(火) 21:44:15.24 ID:RBO2830X.net
>>122
信長は武田信玄が自分との同盟を破棄したことを恨んでいたからなあ。信長が1572年11月20日付で上杉謙信に出した手紙の文面が凄いし。

「信玄は前代未聞の無道者で侍の義理を知らず。未来永劫、再びあい通ずるまじく候」

よほど信長は信玄を憎悪してたんだろうな。未来永劫、仲良くする気がないとか。

長篠の後に信長が細川藤孝に出した手紙も武田信玄に対する恨み一色。

武田信玄が信長の怒りと憎悪を拡大させたのは間違いない。勝頼はそれを押し付けられて可哀想だよ。

124 :人間七七四年:2017/11/14(火) 22:00:35.70 ID:rZ4BEZL2.net
小説じゃないんだからw

125 :人間七七四年:2017/11/14(火) 23:02:56.55 ID:mIG0IORf.net
>>122
外交関係なく中山道、東海道といった要所を所領に抱えてた
武田が生き残れるとは到底思えんがな
戦国時代を通して信長を倒せた可能性が唯一あったのが
武田信玄だったわけであって

126 :人間七七四年:2017/11/15(水) 07:24:11.20 ID:lBlcZWQc.net
>>118
いや、その二人だけでなく、他の研究者さんとかも、普通に
長篠の敗北と、御館における外交失敗からの数年間の多方面策戦による国力疲弊、
とかを要因として挙げているように思われるのですけれどねえ。
>>120
当時から、信玄の書状で駿河蒲原城攻めで
「勝頼が先陣をきって敵城に突撃してしまい、本陣は騒然となったが、
不思議にも乗り崩して攻略に成功した。」的に書いてたりしますので
やはり猛将的な要素は持っていたように思われるのですけれどねえ。

127 :人間七七四年:2017/11/15(水) 07:27:05.87 ID:lBlcZWQc.net
>>123
元々岩村遠山問題とか、家康の武田包囲網の動きを武田から抗議されてもスルーしてたり、
勝頼への将軍家からの一字拝領と官位叙任を結果としてつぶしたり、
と織田が武田の不審を飼う要素が多かったわけですしねえ。
で、結局のところ、勝頼の外交失敗の事例としては、御館における外交失敗からの数年間の多方面策戦による国力疲弊、
の方が要因として大きいように思われる次第なのですけれどねえ。

128 :人間七七四年:2017/11/15(水) 08:15:13.30 ID:nT6ZB7d1.net
キチガ⚪は朝から元気やな。

129 :人間七七四年:2017/11/15(水) 11:25:14.64 ID:Q8UYMsDg.net
ここは基地外スレ?

130 :人間七七四年:2017/11/15(水) 12:07:53.07 ID:ZkAwi7+7.net
そうだけど?

131 :人間七七四年:2017/11/15(水) 14:45:47.25 ID:Q8UYMsDg.net
基・地・外

132 :人間七七四年:2017/11/15(水) 17:46:55.65 ID:KBFo9A5h.net
>>125
瞬間的でいいなら金ヶ崎とか杉谷の狙撃とかもあるが
倒せた可能性高いのはどう考えても今川義元だろ
それに比べれば信玄相手した時なんて危機とは言えないレベル

133 :人間七七四年:2017/11/15(水) 18:19:47.27 ID:29Rfa168.net
>>132
今川義元を殺れたのは本当に奇跡だよね。
実力だけではなく強運あってかなあれは。

134 :人間七七四年:2017/11/15(水) 21:13:36.79 ID:A0jB8Wzu.net
おねだり豚くん、横レスする時は「横レス失礼します」って言わないと
みんなの会話を邪魔してはいけない

135 :人間七七四年:2017/11/15(水) 21:20:21.28 ID:2YrM0Xuh.net
このスレに現れるキチガイは研究者の論説は否定する、史料の意味や語彙は誤魔化す、挙句の果てはそれを誰々の書状と嘘をつく。

自分の誤りを全く認めないから話にならん。

136 :人間七七四年:2017/11/15(水) 23:02:21.45 ID:QFX0iZpo.net
>>133
奇跡ってほどじゃないだろ。国力的には50万石vs70万石の
国同士の戦争なわけであって
今川方の国力に見合わない異常な兵数に目が行きがちになるが

137 :人間七七四年:2017/11/15(水) 23:16:27.66 ID:BjYJhU/a.net
>>136
今川は尾張の東南部も支配下にしていたから、たぶん80万石くらい。織田は40万石だけど、美濃の斎藤を警戒しないといけないし、前年に岩倉織田を倒して一応統一したばかりで、犬山の信清も非協力的だったから、実際は30万石。

138 :人間七七四年:2017/11/16(木) 07:17:10.73 ID:8NZA6SES.net
>>128 >>129 >>130 >>131
そういう必死な織田厨である貴方はいつもいつも、オープンで貴方自身が認めている、
複数端末による複数IDによる多数派装いを
必死に行われておられるご様子ですけれど、
必死にレッテル貼に躍起になってないで、
聞かれている事にはお答えになられてくださいねー。

139 :人間七七四年:2017/11/16(木) 07:18:22.25 ID:8NZA6SES.net
>>132
実際に信玄西上の時は信長は武田勢の動向とか、包囲網側とかに
警戒をしまくっているのが、書状から伺えるわけなのですけれどねえ。

140 :人間七七四年:2017/11/16(木) 07:21:38.29 ID:8NZA6SES.net
>>134
はいはい。どうでもいいですから、聞かれている事には
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>135
それはそちら側の事のように思えますけれどねえ。
こちらは普通に研究者さんの論とかも説明してますし、
書状内容とかもそのまんま説明したりしてますし、
異なりがどうとかおっしゃられるなら、貴方はこちらが武田の金山が
間接収入だったことを説明し、学者さんの論とかも述べて、
貴方の言われる「謙虚に異なりを認める姿勢」を示して欲しい、
といわれたら発狂逃亡をなさられているご様子ではありますが、
是非とも、貴方は貴方の言われておられた「謙虚なる姿勢」とやらに基づいて
レスをしてほしいと思いますので、何卒よろしくお願いいたしますかねえ。

141 :人間七七四年:2017/11/16(木) 07:23:08.05 ID:8NZA6SES.net
というか、>>135のように必死にレッテル貼になっておられる人は、
他にもまだまだこちら側から聞かれている事が多数に及ぶはずですので、
何卒お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

142 :人間七七四年:2017/11/16(木) 10:59:58.54 ID:mY3OH8x6.net
キチガ⚪は朝から暴走して元気だねえ。

143 :人間七七四年:2017/11/16(木) 15:48:44.29 ID:jEjCOf8y.net
三方ヶ原で勝利したくらいで武田信玄は徳川家康を放置して東美濃に行くつもりだったのか。
徳川家康が再起したら背後つかれるのにどうする気だったんだ?

武田信玄自身も、1548年2月の上田原の戦いで家老の板垣信方、甘利虎泰を失い、かなりの被害を出しながら5ヶ月くらいで再起して小笠原長時を破った過去があるのに。

徳川家康に自分と同じことができないと過信でもしていたのか?

144 :人間七七四年:2017/11/16(木) 16:51:59.90 ID:/eELS2eh.net
>>133
桶狭間の段階じゃ、織田家は不利だけどその程度まで持ち直しているともいえる
本当にやばかったのは家督継いだ直後か、道三死んだ直後ぐらい。
家督継いだ段階は今川はまだ北条と、56年辺りは北三河奥三河の対処優先したため
何とかなったけど。

>>143
信玄自身も負傷するぐらい不利だったみたいだし、
旗本クラスもそれなりに被害出してるんだろうな。

145 :人間七七四年:2017/11/16(木) 17:01:34.94 ID:jBG20w+j.net
>>143
ひょっとしたら徳川ー武田間でなんらかの話が着いていたのかも?

146 :人間七七四年:2017/11/16(木) 17:11:43.35 ID:JwksLceN.net
>>144
才間河内守という出自不詳の武将と、初鹿野が死んでるね名前があるのだと。

>>145
それはない。三方ヶ原が言われるより被害が少ないだけで、当時の大幹部の中根や成瀬、鳥居らが死んでるからすぐに再起できるわけでもない。

そもそも武田、徳川間の争いは遠江の領地争いに端を発してるから、話をつけるなら武田が徳川に三河北部と遠江北部の領土を返還しないといけない。つまり、妥協点がない。

武田信玄は岡崎の勝鬘寺や遠江の一向一揆を起こさせる手はずだったというんだが、さてこれくらいで徳川家康を抑えられるのかなあ、と思う。そもそも勝鬘寺は以前の三河一向一揆でやられてるし。

147 :人間七七四年:2017/11/16(木) 20:58:18.07 ID:587U2YGD.net
>>143
その時は喜んで家康を迎え撃つだろうな
堅牢な浜松城を落城させるより圧倒的に難易度が低い

148 :人間七七四年:2017/11/16(木) 21:15:38.73 ID:E6cYTRwN.net
>>147
武田信玄は主力連れて東美濃に行くんでしょ。
徳川家康が駿河に行って焼き討ちとかしたら、いつまでも東美濃にいられないだろうな。で、武田信玄が帰ってきたら浜松にまた籠もればいい話になる。

何しろ北信濃の春日まで総動員してるから、どこも大した留守はいないし。

149 :人間七七四年:2017/11/16(木) 21:18:14.24 ID:/eELS2eh.net
>>146
勝山記に名前が載るぐらいだから、才間河内守は郡内と関係が深いか
それなりに甲斐で知られているぐらいの存在だったのだろうか。

>当時の大幹部の中根や成瀬、鳥居
大幹部は中根ぐらいでは?
それでも石川酒井に比べれば格下になるが、元亀の織田で言うなら森クラスぐらいか?
でこれぐらいですぐに(すぐがどの程度かはわからないが)再起出来ないとするなら
他の大名の合戦後の行動に説明がつかなくなると思う。

150 :人間七七四年:2017/11/16(木) 22:44:07.87 ID:587U2YGD.net
>>147
ゲームじゃないんだからw

151 :人間七七四年:2017/11/16(木) 22:50:55.02 ID:E6cYTRwN.net
>>149
さすがに半年あれば再起できると思います。
石川数正、酒井忠次は健在だし。

152 :人間七七四年:2017/11/16(木) 23:04:11.00 ID:587U2YGD.net
>>151
その頃には東美濃、中美濃は当然として岐阜も武田の領国になってるだろうな

153 :人間七七四年:2017/11/16(木) 23:13:08.31 ID:BMMFqhXS.net
>>152
1573年2月に武田信玄、三河野田城を落とす。同月末に信長が南近江の反乱を鎮圧。
3月に朝倉義景が若狭、越前敦賀に出陣。
5月に武田信玄は朝倉義景や長島一向一揆と連携して美濃侵攻を画策していた、とされる。

三方ヶ原は1572年12月22日。
5月なら5ヶ月の時間がある。
しかも岡崎や吉田は無傷。
これで徳川家康の再起は不可能だとでも?

154 :人間七七四年:2017/11/16(木) 23:36:25.55 ID:j2loDI9X.net
三方ヶ原の損害を見れば不可能

155 :人間七七四年:2017/11/16(木) 23:43:26.87 ID:BMMFqhXS.net
>>154
どういう風に不可能なのか具体的に言って欲しい。

ちなみに史実。
1573年4月12日。武田信玄死去。
5月8日。徳川家康が駿河に侵攻して岡部で焼き討ち。
6月から7月。徳川軍が三河北部に進出。
8月。徳川家康が長篠城を奪回。

156 :人間七七四年:2017/11/17(金) 08:28:28.14 ID:ve5k1ox4.net
>>153 >>155
>>154の人ではありませんが、代わりに答えせていただきますと、
何度も書かれている事ではありますが、
江戸時代に徳川側によって編纂された四戦紀聞などでは、
徳川側の三方ヶ原における戦死武将数が50名近くに達しており、
徳川勢が相当な被害を受けたであろう事が伺われるわけでして。

で、史実的に考慮しますならば、現に三方ヶ原の後に武田勢が三河野田城を攻略にかかりました時に
家康が救援の為に動員できた兵力は三千程でして、結局、野田城救援を行えずに、撤収する事になっておりますね。
さらに、2年後の長篠の戦いの決戦場におきましても、
酒井別動隊2千程を鳶ヶ巣などに出撃させた結果、本戦の徳川勢主力は5千にも及ばない数であったとされており、
6千数百程がこの時の徳川勢の主力の総勢であったと考慮され、これは通説における三方ヶ原における徳川勢の出撃兵力数8千に及ばない兵数であります事から
シンプルに考慮しますれば、2年を経ましても、まだ徳川は三方ヶ原の時と同規模の兵力を動員できていない事に
なると思われますね。まあ、その2年の間に、勝頼が複数回侵攻を行ったりしているのではありますが、
高天神は元々信玄時代には降伏していたとされておりますして、それを再奪取したものですし
長篠直前の侵攻において、勝頼がいくつもの城を攻略してはおりますが、それがそこまで動員数に影響しますか、というと
色々と考慮の余地があるようには思われるのですけれどねえ。

157 :人間七七四年:2017/11/17(金) 08:40:20.83 ID:ve5k1ox4.net
>>153 >>155宛続き
で、信玄死去後の徳川勢による武田領国への侵攻、反撃、ではありますが、
貴方のあげている、7月における家康直卒軍による長篠城攻略軍、の兵数は
徳川側の資料によりますれば、三千程であったとされており、
徳川勢が信玄が死去する前の野田城救援の時に動員できた兵力と
ほぼ同数である事が考慮されるわけですね。
このような感じで家康が長篠城攻略の為に三千程の兵力でやってきた事を勝頼は知り、
「天が与えた好機だ!」と大喜びして、後詰の軍勢を次々に動員し、
長篠城において徳川勢主力を包囲して壊滅させる事を計画しておりますね。
ただ、結局は信玄死去後の事でもあり、軍勢の招集に想定よりも時間がかかってしまったようで、
勝頼主力軍が到着するよりも前に、長篠城は攻略されてしまう事にはなったわけですが、
家康の長篠城攻略軍の兵数が三千程であった事、それらは通常の状態の武田勢にとっては
まさに好機、と捉えられるような状況であった、というのは十分に考慮できるのではないかと思われるわけでして。

158 :人間七七四年:2017/11/17(金) 09:15:05.64 ID:ve5k1ox4.net
>>149
何度も書かれている事ではありますが、江戸時代に徳川側によって編纂された四戦紀聞などでは、
徳川側の三方ヶ原における戦死武将数が50名近く記述されているわけではございますが、
その中でも、家康の当時の両旗奉行、である安藤基能と米津政信がまず死亡しております事から、家康直卒軍が相当な被害を受けている事が考慮されますね。
天野政景は遠江天野氏の一族でしょうかね。服部保正はあの服部正成の兄とされますし、
榊原摂津守忠次はあの榊原康政の榊原氏の一族でしょうし、守名乗りを許されている事から、
相応の立場の武将であったと思われますし、中根正照は言わずと知れた遠江二俣城城主、
有名な夏目吉信は元々松平氏譜代の家柄の武将で、家康の元で群代などを務めている事なども指摘されておりますね。
長谷川紀伊守正長は元々徳之一色城の城主で、弟である藤九郎も共に三方ヶ原で死亡しておりますね。
中根正直は上記の中根正照の一族でしょうかね。
このように、この時点で考慮しましても、奉行、群大、城主、などが複数入っておりますし、
さらには有力武将の一族なども多数入っている事が考慮されるわけでございますね。
(続く)

159 :人間七七四年:2017/11/17(金) 10:08:16.24 ID:ve5k1ox4.net
>>149宛続き
渡辺十右衛門永は松平氏の譜代の旗本武将ですね。新九郎はその一族ですね。
荒川甚太郎は本多忠勝の家臣ですね。
大橋刑部は謙信と家康との交渉書状の中に名前が出てきておりますので、
相応の立場の武将であったと思われますし、
原田種友は九木城城主ですし、小笠原康元は高天神城主を調略した功績で
家康から康の字と赤羽根の土地をもらい、赤羽根城主となっておりますし、
同三郎兵衛はその子息か一族かと思われますね。
松平弥右衛門忠長は松平姓を持っている事と、その娘が徳川家の譜代武将の
内藤家長に嫁いでいる事から、相応の立場の武将と思われますし、
石川正俊はあの石川数正の弟であります事から、石川勢にも相当の被害で出ている事が伺われるわけですし、
杉山久助は杉山城の城主のようですね。
石原十度右衛門は酒井忠次の家臣であり、姉川で武功を立てたとされる寸度右衛門の事か、
もしくはその一族かと思われますかね。
小笠原七郎右衛門は上記の小笠原の一族でしょうかね。
大久保忠寄はあの大久保一族の人間でしょうし、
外山小作正重は家康に仕えて武功を立て、三方ヶ原の時には石川数正の軍勢に属して戦い、死亡したとされており、
やはり石川勢も相応の被害を受けているようですね。
松平主税は松平姓持ちの武将ですね。

160 :人間七七四年:2017/11/17(金) 10:20:04.20 ID:CiRRjvGF.net
佐竹義重は40代で義宣に家督を譲った
関ヶ原の時は義重は徳川寄り義宣は三成と親友
親父が渋らなかったら義宣は家康に挑んだかも
多分お家断絶、家を守るなら二枚腰
まあ武田はチャレンジャーだないつも

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