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武田信玄が長生きしていたら、天下を取れたのか?3

134 :人間七七四年:2018/01/15(月) 06:27:18.88 ID:z7NWFJ8l.net
>>117
いやいやいや、朝倉の家臣分裂とかおっしゃられておりますが、
前々スレなどでも語られておりましたように、
朝倉から離反した前波などは、義景との個人的な確執などを原因として離反しているわけですしねえ。
そもそも、領土がどうとかおっしゃられるのであれば、
ふつうにその5月侵攻によって、武田・朝倉・長島の三勢力による侵攻で、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

そもそもの問題として、貴方はどうにもご存じないのではないかと思われますが、
郡上遠藤は普通に武田・朝倉側に内応しておりまして、武田と朝倉の書状連絡も普通に郡上遠藤の仲介を基にして
行われているわけでございますしねえ。そして郡上遠藤は武田・朝倉の美濃侵攻に合わせて
織田に敵対する予定になっておりまして、無理でもなんでもない、という話になるわけでございますしねえ。
そもそもの問題として、>>131の方でも指摘をさせていただいておりますが、
朝倉はそもそも宗滴以外の普通の武将達も、何度も何度も越前から美濃へと侵攻を行っておりまして、
美濃の大桑城は越前朝倉氏の築城技術の影響が濃く、越前朝倉氏の技術者などを基にして
構築された城とされておりますし、岐阜の研究者さんである横山氏なども、
普通に冬場以外は大桑や佑向山から山越えで朝倉氏と密接に連絡が取れた、という事を指摘している、
という状態で、しかも、西上の時の美濃遠征の時には郡上遠藤が内応勢力として既に存在しているわけでございますし、
美濃侵攻は普通に行いえる事柄であったように思われる次第なのでございますが、如何なものでございましょうかねえ。

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