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実は創作だった通説・俗説6【コピペ・レッテル貼禁止】

1 :人間七七四年:2021/02/09(火) 14:52:04.93 ID:uhQWByAs.net
史実かと長年思い込んでいたが、実は講談や軍記物、
あるいは小説や映画大河ドラマなどの創作だった。
そんな話を語るスレです
自分の気に入らない主張に対してコピペを連投したり
レッテルを貼ったりする等をはじめとした荒らし、煽り行為は禁止です
その様なレスはスルーでお願いします
次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください


デジタル大辞泉より
そう‐さく〔サウ‐〕【創作】
[名](スル)
1 新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を―する」
2 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を―する」「―舞踊」
3 つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の―だ

※前スレ
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1595937523/

421 :人間七七四年:2021/07/17(土) 00:44:45.24 ID:rQXQQIy+.net
そもそも、いまだ三河1国プラスα程度しか支配してなかった頃の家康と甲斐信濃プラスα上野の西半分ぐらいまで拡大してた信玄の間で今川領を分割する協議で半分ずつ分けようとか、考えにくい
遠江全体を家康の取り分にする約束ではなかったのではないか、と考える方が妥当では
という気がする

422 :人間七七四年:2021/07/17(土) 01:14:54.80 ID:8w+40W6r.net
天竜川と大井川に挟まれた土地は双方の切り取り次第だったとかは

423 :人間七七四年:2021/07/17(土) 01:18:17.41 ID:8w+40W6r.net
>>420
駿河というか今川本国は天竜川以東という認識だったならありかなあ
属国(天竜川以西)は徳川にやるわという構えだったのかも

424 :人間七七四年:2021/07/17(土) 14:00:22.94 ID:RuHlU5zf.net
通信速度=早馬の時代、事前の進軍スケジュールは綿密に計画するだろうし
緒戦で今川重臣が寝返ってるように駿河の人員に諜報活動も行ってる
ましてや侵攻1年前まで駿河とは交流があったわけで地理情報が入ってきていないわけもない
信玄やその重臣たちが揃いも揃って駿河国境は天竜川って勘違いするのはありえないでしょ

425 :人間七七四年:2021/07/17(土) 16:49:06.12 ID:Nnn+KBmT.net
>>424
誰も天竜川を駿遠の国境とは言ってないでしょ

>>423の言いたかったのは今川氏の直轄領が遠江にまたがっていたってことじゃない
実際、一族の遠江今川氏が居城としていたとされる見付端城は太田川と天龍川の間にあるしね

426 :人間七七四年:2021/07/17(土) 17:28:50.95 ID:rQXQQIy+.net
一族の今川氏豊が尾張那古谷にいたけど、そっちは遠縁の分家に養子入りしただけで今川領じゃなかったしな

427 :人間七七四年:2021/07/17(土) 18:55:08.59 ID:zW7beaOy.net
>>424

だとしたら、分割ラインを「徳川は大井川、武田は天竜川」だと、それぞれ思っていた、という齟齬は
なにが原因で生じたと思う?

428 :人間七七四年:2021/07/17(土) 19:00:57.64 ID:rQXQQIy+.net
そもそも、齟齬ではなく徳川が違約を働いた可能性も

武田から織田に届けられた書簡では徳川が越境して武田領を攻めるので止めてほしいと訴えてるけど、その戦場は遠江北部と東部だし

429 :人間七七四年:2021/07/17(土) 19:15:43.91 ID:0kWkuyhD.net
神君家康を守るため、欲深信玄を描いたつもりなのに、その欲深信玄が何でそもそも遠江より石高の少ない駿河だけという不利な条件を了承したのか?という疑問までカバーできなかった感

430 :人間七七四年:2021/07/17(土) 19:23:50.67 ID:DJ3c8l1i.net
もしかしたら徳川の浜松移転は信玄にとって計算外だったのかもね
徳川の属領の遠江なんて簡単に削り取れると思ってたのかもしれない
逆に勝頼期に遠江の係争地を削り取られ高天神落城で命運が尽きる羽目に

431 :人間七七四年:2021/07/17(土) 20:39:36.04 ID:zW7beaOy.net
>>428

家康の方が確信犯だった可能性か!
それは考えなかった

「家康研究の最前線」の論考では、もちろん家康にも違約の意識はなくて、逆に信玄の方が
家康の抗議を受けて、引馬まで侵攻していた家臣の軍を引き揚げさせる約束をした文書が残ってたり、
それに前後してか、今川氏が遠江の各地からとっていた人質がそっくりするがに残っていたのを、家康の求めに応じて
家康に引き渡したことが書かれてる信玄の文書があったりと、意外に家康に対して気を使っているよう
正しくは家康の背後にいる信長に、かもしれないけど

ただ家康としては、侵攻を受けたことで信玄に対して深刻な不信感を持ってしまったために、北条氏や上杉謙信にまで
同盟を求める手紙もあったりして、独自に武田包囲網を築こうとしていたのではないか、信長との同盟も、その一環ではないか、
とも考えられるとか
もっとも、信長は家康の狙いに反して信玄とも同盟を結んでしまい、信玄も北条氏と同盟を結んだことで、家康の目論見は
瓦解してしまったそうだけど

なんにせよ、独立した直後の家康は思ったよりだいぶアクティヴで、百戦錬磨の諸将を向こうに回して「負けてたまるか」と張り切るあまり、
違約とは言わないまでも、何らかの勇み足をやらかしてしまった、かも、というのは、ちょっと説得力を感じる

432 :人間七七四年:2021/07/17(土) 21:38:10.94 ID:MkjxbckI.net
どんどん根拠皆無の妄想スレに成ってるな

433 :人間七七四年:2021/07/18(日) 17:57:19.99 ID:76klxYuh.net
そもそも清州同盟は足利義昭上洛までは相互不可侵同盟に過ぎなかったのに、
今川滅亡の時点で家康が信長の支配下にあった、って主張の根拠はなんや?
信長から家康への書状の書き方からも、当初は対等同盟だったのが、
信長が天下の支配権を握るにしたがって家康の扱いが下がっていったのは確認
されてる。
当初からぞんざいな扱いされてる浅井長政と混ざってないか?

434 :人間七七四年:2021/07/18(日) 18:00:56.14 ID:76klxYuh.net
徳川家による三河制圧・駿河侵攻、織田家による尾張制圧・美濃侵攻
お互いに援軍を出した形跡がない。
普通の同盟関係なら援軍を出すのが当たり前なのに、相手に援軍を
求めた形跡すらない。

435 :人間七七四年:2021/07/18(日) 20:15:27.79 ID:G/ay96qN.net
嫡男だった信康が信長から偏瑋与えられているけど
この頃にはある程度の上下関係が出来ていたのかな?

436 :人間七七四年:2021/07/18(日) 20:21:20.58 ID:FRXEF0yL.net
>>434
信玄と遠江を巡る争いの最中に織田が浜松に援軍送っていたのを信玄から抗議されている書状が最近見つかってる
その前の掛川城攻めの最中も織田が援軍送るという話もあったような

信長が上洛して上下関係生まれたんだろうね

437 :人間七七四年:2021/07/18(日) 20:58:41.31 ID:t20PF92r.net
>>436
へー初めて知った
「姉川だのに散々駆り出しといていざ頼まれたら三方原の3千(一説)て信長は吝い」と
思ってたわw

438 :人間七七四年:2021/07/18(日) 21:42:30.76 ID:YA0MVaSk.net
>>433
互いに交渉をもってる同盟国の伝を頼って停戦交渉したいという事情なだけかもしれん

前線に両属の武士でもいればそこが交渉窓口になれるけど、そういう伝がなければ近隣の大名か、もしくは幕府しか頼れる伝が存在しない方が多いわけだしな

439 :人間七七四年:2021/07/18(日) 21:46:06.93 ID:YA0MVaSk.net
>>436
義昭を奉じての最初の上洛の時に浅井とかと一緒に徳川も駆り出してるし、そこから上下関係が始まってるんじゃないの

ただ、義昭追放までの何年かの間は、義昭の名義でしか徳川を動員できないし、上下関係は緩やかだったんじゃないかな
追放以後は上下関係が明確になる

440 :人間七七四年:2021/07/18(日) 21:49:24.62 ID:HHLmsrmH.net
>>435
信康の信って確実に信長の偏諱なの?

441 :人間七七四年:2021/07/18(日) 22:13:50.40 ID:wGvR2Ll8.net
同盟当初の頃の、互いの文書における書札礼は、対等なものだったとか
それが、姉川の合戦後あたりを境に、家康の方が信長を敬う形式になって行ったそうな

442 :人間七七四年:2021/07/18(日) 22:41:30.64 ID:YA0MVaSk.net
>>440
大叔父の松平信定とか、ほかにも「信」はいるしなあ

ただし、信定氏は広忠を追い出して三河支配を進めようとした挙げ句に義元に逐われた、家康からみて敵だから、そこからもらった可能性はないけども。ほかに誰かいるかもしれない

443 :人間七七四年:2021/07/18(日) 23:32:31.98 ID:/f1Kh488.net
水野信元でいいんじゃない
まあ信長の偏諱を受けたって各所の記述を
殊更疑う必要はないと思うけどね

444 :人間七七四年:2021/07/19(月) 00:05:55.87 ID:N2P4OMcA.net
いや同時代史料に信康が信長からの偏諱、なんてものは一切ないだろ

445 :人間七七四年:2021/07/19(月) 00:40:54.69 ID:U3BkYJ7m.net
徳川実紀ですら偏諱を採用してる
同盟国の舅から偏諱を受けるのは不自然ではない

現状、通説が蓋然性(といってもこの場合は0か1かの話だが)が高いだろって話だが

446 :人間七七四年:2021/07/19(月) 02:42:26.79 ID:NQlZB8CE.net
渡邊大門なら「同時代史料にないから違う」と言い
小和田哲男なら「そう判じて問題ない」と言うであろう

447 :人間七七四年:2021/07/19(月) 10:31:37.59 ID:/WHq7/JA.net
松平信定や水野信元なんて微妙な例を出さなくとも家康の曾祖父の松平信忠からでいいじゃん

まあ信長からの偏諱だと思うけど

448 :人間七七四年:2021/07/19(月) 12:17:24.84 ID:XcnHfdiS.net
さすがに松平信忠は年代が離れすぎてて、伊達政宗みたいに思えてしまう
(十何代か前の中興の祖 政宗の名前をもらって名付けたとか)

449 :人間七七四年:2021/07/19(月) 12:57:53.43 ID:qx+3Y7R3.net
信康の次が秀康なんだからそう言う事だろ

450 :人間七七四年:2021/07/19(月) 15:04:29.06 ID:b/71eQkW.net
松平信忠や信定とかあのへんの世代の「信」は吉良義信からの偏諱だろうから子孫には引き継がれないんじゃないの

451 :人間七七四年:2021/07/19(月) 17:05:27.34 ID:obnWN2mj.net
逆に信長と無関係の方が記録に残りやすそう

452 :人間七七四年:2021/07/19(月) 17:43:23.91 ID:BF1GLyYG.net
天下を獲ったあとの徳川の通字は「家」
信康・秀康・秀忠は目上からの偏諱でいいのじゃないの
家康の男系子孫で康の字が付いてるの他にいないと思うし

453 :人間七七四年:2021/07/19(月) 20:07:32.49 ID:N2P4OMcA.net
いや松平信光がおるやん。家康の安城松平氏の事実上の祖だぞ。
その偏諱を新たに徳川を立ち上げた家康が長男に付けても別に違和感ないし。

454 :人間七七四年:2021/07/19(月) 23:14:38.50 ID:6wzH1F/0.net
偏瑋や通字について考察するのも面白いな

455 :人間七七四年:2021/07/19(月) 23:21:35.56 ID:dVOgx188.net
秀忠の忠は祖父(家康の父親)広忠からきてるんだよな?

家って誰からとったんだっけ?
大叔父(清康の弟)が長家だった気がするけど

456 :人間七七四年:2021/07/19(月) 23:32:06.38 ID:0HKePnep.net
奥平信昌の信は長篠合戦の活躍で信長から拝領した、なんて言われてたけど実際はその前から名乗ってたらしいね

457 :人間七七四年:2021/07/19(月) 23:54:07.15 ID:6wzH1F/0.net
<<455
通説か俗説か知らないけど源義家の家だと言われているね

458 :人間七七四年:2021/07/20(火) 00:26:40.75 ID:FhSw9huG.net
>>455
親忠−長忠−信忠−清康−広忠

清孝(清康)が急遽擁立されたという事情、
および後の家光に家忠案があったとされることも含めると
「忠」は広忠っていうよりも安祥松平の本来の通字だったといわれてるな

459 :人間七七四年:2021/07/20(火) 01:35:20.43 ID:GEA6Sovf.net
家は世良田家氏から来てるんちゃうの?

460 :人間七七四年:2021/07/20(火) 04:39:45.57 ID:KyKeG0wJ.net
>>456
へぇー

信昌の「昌」で思い出したけど
武田信玄の家臣に「昌」が多いのは、「晴信の『晴』は将軍足利義晴からの偏諱だから気軽に家臣に与えられず、その代わり曽祖父・武田信昌の『昌』を与えたのだ」
て声優の遠近孝一が分析してたわ

461 :人間七七四年:2021/07/20(火) 08:04:43.34 ID:6y4ZZucj.net
>>458
こうして見ると家康の最初の諱である元信って流から外れているな
>>461
武田と言えば勝頼の勝は信玄の幼名である勝千代の勝で頼が諏訪氏の通字だっけ

462 :人間七七四年:2021/07/20(火) 19:54:46.74 ID:fGzI+i6y.net
信玄祖父の信縄の治世も結構gdgdだったから使いづらく
曽祖父の信昌由来になったともどっかで読んだな

463 :人間七七四年:2021/07/22(木) 00:53:11.00 ID:n0k3C9Q2.net
岐阜の命名は信長じゃないらしいね

464 :人間七七四年:2021/07/22(木) 03:31:51.49 ID:MsrzUZAm.net
岐阜というか岐阜なり岐陽という呼ばれ方はあったようだけど
一般的に岐阜と呼ばれてたかというと怪しいようだし
かの地を岐阜として定めたのはやはり信長が由来とするのが
断定ではないにしろ無難なのでは
少なくとも信長じゃないとも言い切れないような

465 :人間七七四年:2021/07/22(木) 12:47:06.56 ID:90zzlrA+.net
稲葉山城から岐阜城に改名したのは少なくとも信長では
それとも稲葉山城時代も別名で岐阜城とも呼ばれてたのだろうか

466 :人間七七四年:2021/07/22(木) 13:02:34.46 ID:VZvYpp97.net
これひどすぎる…

平群町櫟原・裏の谷の磨崖仏、切り取られる(メガソーラー建設の為)
https://yamap.com/activities/12165585

467 :人間七七四年:2021/07/22(木) 15:17:16.38 ID:MsrzUZAm.net
>>465
木曽川北部辺りないしは金華山が岐阜と呼ばれてたらしき資料はあるけど
だからといって稲葉山城(金華山城)を岐阜城と呼んでたという話は聞いた事ないな
信長が改めた井口も城というより城含めた城下一円の名称で
城下の岐阜に合わせて岐阜城って呼称に変わっていったんじゃないか
みたいな分析はみたことある
ともあれ「岐阜城」って名称は信長に由来すると考えていいんじゃないか
そもそも岐阜って単語は通説でも沢彦和尚の三案の内の一つで信長発案じゃないし

468 :人間七七四年:2021/07/22(木) 15:24:22.40 ID:moX1rXdG.net
まあ信長から「岐阜」に改められたのは確かだろうが、「岐阜」が
周の「岐山」+孔子の「曲阜」を合わせて云々ってのは、後世作られた話だろう

469 :人間七七四年:2021/07/23(金) 16:53:50.80 ID:ppTcchYc.net
後付けでもっともらしい理由を作るのは結構ある

470 :人間七七四年:2021/07/23(金) 23:56:29.55 ID:T7bir8Aw.net
東京という名称も江戸時代から使われていたと聞いたことある

総レス数 470
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