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戦国ちょっといい話49

1 :人間七七四年:2021/03/22(月) 08:49:24.64 ID:+bzs5jKu.net
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

前スレ
戦国ちょっといい話48
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1586920019/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話48
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1587658011/

303 :人間七七四年:2021/07/17(土) 13:48:18.08 ID:kSnbjMiS.net
最近、なろうで木村吉清や新田政盛に転生して頑張る話が連載されていて、全然このあたりのこと知らんから勉強になる

304 :人間七七四年:2021/07/18(日) 13:30:08.25 ID:mTDifYH3.net
秀吉公は去年(天正十三年)、越中より落水までお越しになり、上杉景勝公と会見された。
その後も秀吉公より浅からず御心入あり、御和平の状態であるから、景勝公も御上洛然るべしと、
宿老衆が申し上げると、「尤もである」と思し召され、御上洛あるべき旨を、先立って仰せ入れられると、
秀吉公は悦ばれた。

天正十四年四月下旬、秀吉公より御礼のため、また木村弥一右衛門(吉清)を差し越された。この時も品々
御音物があった。

同五月十一日、景勝公は春日山を出発された、御供の人数、僅か五千足らずを召し連れられた。
これには御底意があった。木村弥一右衛門も御供した。秀吉公よりの、道中の御馳走は

一、越中は木村が請け取って、越後衆上下を賄い仕った。観世太夫、今春太夫を連れ、
  御宿ごとに、隔日に能を仕った。(尾山に於いては城主の前田又左衛門(利家)饗応)
二、加賀まで、石田治部少輔(三成)が御使に来た。
三、越前までは、増田右衛門尉(長盛)が御使に来た。
  付・北ノ庄にては堀久太郎(秀政)饗応、府中は木村常陸介(重茲)、敦賀は大谷刑部太夫(吉継)饗応
四、近江でも大谷は諸事御馳走した。その中でも大溝では、その城主が饗応した。

五月二十七日、洛陽(京都)本圀寺にお着きになり、その夜、秀吉公が忍んでお出でになった。
御礼の御盃を出すと、秀吉公は頻りに御辞退あったが、景勝公の御盃を戴き、直江(兼続)に御盃を下され、
その盃を無理に取り上げて召し上がられた。その他の衆をも召し出され、御盃を下された。
明日、聚楽に景勝公が御出になることを御約束された。そして今夜、景勝の旅館に秀吉公が忍んで
来られた事について口外しないようにと仰せ合わされ、御帰りの時、御次の庇門に、梅津宗賢が伺候
していたのを御覧になると

「これは川中島合戦の時、武田典厩(信繁)を討ったと聞く梅津宗賢であろう」

と言って銚子を乞い、御盃を下された。
諸人、これを不思議に思った。かの梅津は譜代の士であり、他国へ行ったこともなく、秀吉公が
見覚えているはずがないと、様々に沙汰されたのだが、これについて藤田能登守(信吉)が、
南詰宮圍に申し聞かせた事には

「秀吉公は、越後衆入洛の様子を御見物されるため、粟田口の町に御出になったと聞く。
上方には関東、北国の者も多くある。この方面を見知った者を御側に於いて、尋ね問うて
見置かれたのであろう。私の推量ではあるが、恐らく間違っていないはずだ。
奇妙不思議などというものは無い。理の本を吟味し、我心に落として、他のことを計るべきである。

秀吉公のこの事は、名誉であるとは言えない。そういった御志があるのを感じ、御大将の器に
応じていると誉める事こそ、正道である。」

と申された。

景勝公の在京中、秀吉公より御賄として木村弥一右衛門を付け置かれ、御馳走された。そして
秀吉公の御指図にて、景勝公は宰相に任じられ、直江は四品に叙し、藤田、安田を初め七人が
五位に叙し、七月に御帰国された。

(管窺武鑑)

上杉景勝の初上洛について。景勝のときにも秀吉はその宿舎に忍んで来るようなことやってたのか。

305 :人間七七四年:2021/07/18(日) 19:52:30.70 ID:1OBS+7zw.net
https://i.imgur.com/wWWhuFU.jpg
落水城での会見の時にも三成といっしょに忍んで行ったとか

306 :人間七七四年:2021/07/18(日) 20:29:01.04 ID:zrkGGOIH.net
歴史物語る景勝の至宝 米沢・上杉神社で特別展示始まる
山形新聞2021/7/18 12:58
https://www.yamagata-np.jp/news/202107/18/kj_2021071800474.php

米沢市の上杉神社の宝物殿「稽照殿(けいしょうでん)」で17日、米沢藩初代藩主の上杉景勝ゆかりの
重要文化財の特別展示が始まった。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に中国の明国から贈られた文書と冠服が
そろって展示され、当時の歴史を鮮やかな衣装とともに感じることができる。

特別展示されるのは共に2018年に重要文化財に分割指定された「明国◎付(さっぷ)」と「明冠服類」。
秀吉の2回の朝鮮出兵のうち、1回目となる文禄の役(1592〜93年)の後、96年に和平交渉に来日した
明国使節から贈られた。明国は秀吉を「日本国王」に封じ、景勝ら重臣にも地位を与えた。◎付は
辞令書に当たり、冠服類は上着、下着、帽子、帯、靴の5点で構成する。
◎付と冠服類は徳川家康や毛利輝元、前田利家など秀吉の重臣に贈られた。50人ほどの元に渡ったとみられるが、
両方が伝わっているのは景勝のものが唯一という。冠服類は、明国使節を迎えた大坂城での宴席で景勝が着用した。
うち上着に当たる「大紅刻糸胸背斗牛円領(たいこうこくしきょうはいとぎゅうえんりょう)」には、
胸と背に獣の刺しゅうが入っている。図柄の「斗牛」は皇帝の「龍」に次ぐ格式とされている。

同神社では、今回の特別展示を機に入館料を一般700円に値上げした。特別展示は10月12日まで。景勝に
ゆかりの深い具足や太刀なども並んでいる。今季の開館は11月25日まで。

307 :人間七七四年:2021/07/18(日) 20:32:28.03 ID:zrkGGOIH.net
上杉家は国宝「上杉家文書」なども含めて、受け取ったそのままの状態で保管し続けていたのが偉いところ
戦後困窮して手放した刀剣類なんかもね

308 :人間七七四年:2021/07/18(日) 20:42:32.78 ID:zrkGGOIH.net
なお同館が11月末で春まで休館するのは、冬は積雪で大変だからという昔からの慣わしなのです


上杉家伝来品は米沢市でも展示保管場所が別れており、観光客も知らないで来るので一応

上杉神社稽照殿・・藩主の武具甲冑と装束

米沢市上杉博物館・・洛中洛外図と文書類に一部刀剣類

私立宮坂考古館・・一部甲冑と前田慶次遺品

309 :人間七七四年:2021/07/19(月) 12:45:54.43 ID:5AWGYBZt.net
池田輝政は悩んでいた
それもそのはず。後世の人間が書いた漫画に自分が前田利益(慶次)が秀吉に謁見する時に
おどおどする利家に対して「又佐うるさい」と下座から注意している人物に描かれているからだ。
又佐こと利家の生まれは西暦にして1538年(秀吉や慶次と同世代)。
輝政と言えば1565年(幸村や政宗よりも少し上の年齢)であり27歳上の人にいう言葉では無いからだ。
輝政は「誤解を解きたい」と考えていた。
そもそも花の慶次はフィクション的要素が多く、利家と同世代だと言われている慶次こと前田利益は
1552年生まれ(輝政よりも一回り以上年上)の比較的若い説を引用しており
逆に輝政の容姿は利家と同年代に書かれている。
そこで輝政はテプラという文明の機器を購入して、現存するコミックス(殆どがブックオフなどに並べられているもの)の
輝政という記載を父親の恒興のシールを作り張りまくる事にした。恒興は西暦にすれば1536年生まれで
利家の少し上となり幼馴染の兄貴分なのでこのシーンでの「又佐うるさい」と言っても問題が無い。
ただ、父親は長久手の戦いで森長可と共に戦死しており、歴史的には辻褄が合わなくなってしまうのだが
こんな糞漫画呼んでいる連中が気付くはずもないとにやけながら張っていた。
ある日家臣より、ネット書籍(kindleやイーブックスやめちゃコミ)にも花の慶次がある事を知り
輝政はどうする事も出来ずに天を仰いだという。それを見た洋菓子職人が新しいスィーツのアイディアが浮かんだのが
パティスリーハレのスィーツたちであった。参考URLhttp://hare-web.com/

出展「羊羹録」より

310 :人間七七四年:2021/07/20(火) 16:26:19.98 ID:iLrxlNOV.net
天正十七年(1589)、上杉景勝による佐渡攻めの時のこと

景勝公は六月十日、佐渡国沢根の湊に御着岸され、先衆の構築していた陣城に御旗を立てられた。
直江、泉澤、島津、小倉喜八郎、そして景勝公が御渡海と聞いて、吉井城の城主はその前からの
先陣からの攻撃にさえ手こずっていたためこれを恐れ、早々に城を開いて羽持へ逃げていった。

十一日、十二日は御休息。十三、十四の両日、河原田佐渡守をはじめ、北佐渡衆は景勝公に
御礼を申し上げた。
十六日、南佐渡を御退治あるべしと決定された。

そのような所に、越国御留守大将である甘糟近江守(景持)より、奇異の注進があった。
去る十三日暮れ方、毘沙門が夥しく鳴動した後、五尺(約150センチ)廻りほどの光る物体が
一つ飛び出た。その跡から大小五、六千の光る物が列をなして続き、佐渡の方へ飛んでいった。
これは越国の諸人が、確かに見たものである。

「これは定めて、謙信公が遺言の如く、弓箭の神と成り給い、光を輝かせ加護されること明瞭である。
今度の戦は全く御勝利疑いなし。」

そう、下民に至るまで喜悦謳歌したという。この事は広く申し上げられた故に、敵味方ともに知らぬ者は
無かった。この事口伝。

(管窺武鑑)

軍神謙信公出撃の模様。

311 :人間七七四年:2021/07/20(火) 16:31:34.88 ID:oSNL/R0z.net
故光瀬龍が知ったらこのネタを元にSFを書きそうな話だな

312 :人間七七四年:2021/07/20(火) 16:56:47.72 ID:FdJyY6Im.net
時期的にみずがめ座η流星群か、うしかい座流星群とかかな?

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うぬは北斗七星の横に蒼く輝く星が見えるかな?

313 :人間七七四年:2021/07/20(火) 21:19:25.64 ID:CWQ4Y9QY.net
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... ..:(   )ゝ (   )ゝ(   )ゝ(   )ゝ御実城様、無茶しやがって…    .
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..   三  |   三  |   三  |   三 |  ... ............. ........... . .....
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  三三  三三  三三   三三
 三三  三三  三三   三三

314 :人間七七四年:2021/07/21(水) 06:09:29.35 ID:/VMhrDik.net
猫屋町由来

広島県広島市中区猫屋町。
天正年間、毛利輝元が吉田から移り広島を開府した際、猫屋九郎右衛門兼鎮と言う豪商が当地に屋敷を構えたことからその地名が生まれた。
猫屋は屋号であり姓を加藤と称し、元は府中・松崎八幡宮の棚守であった。
猫屋は私財を投じ、本川(旧太田川)に木橋を架けるなど広島の町づくりに大きく寄与し、この川と橋は明治辺りまでは猫屋川と猫屋橋と呼ばれた。
橋は現在では本川橋と名を変え、明治期に鋼トラス橋となったこの橋は1945年の原爆投下とその後の枕崎台風、阿久根台風の通過で落橋したものの4年後の1949年に復旧され今も使われている。

また、猫屋が棚守を務めた松崎八幡宮は多家神社に合祀され跡地として残っている。

余談だが、猫屋九郎右衛門兼鎮が猫好きだったかどうかは特には伝わっていない。

https://arch-hiroshima.info/arch/hiroshima/h_bridge.html

https://i.imgur.com/23z273O.jpg

315 :人間七七四年:2021/07/21(水) 06:10:17.91 ID:/VMhrDik.net
猫屋橋と猫屋町
https://i.imgur.com/N69strZ.jpg

316 :人間七七四年:2021/07/21(水) 08:46:48.96 ID:1kBYcaED.net
>>315
サムネ見た時なんか人の姿に見えた

317 :人間七七四年:2021/07/21(水) 10:51:32.78 ID:LVJq9lcq.net
手前のネコまるで悪徳商人

318 :人間七七四年:2021/07/21(水) 12:55:00.89 ID:sxJxg9wi.net
大名同士の遊びとしては蹴鞠が有名だがこんな遊びも・・・

時は、秀吉が存命の頃、聚楽第で政宗が珍しいものを一堂に見せつけていた
「これが天正大判だ。通常の大判よりも大きく金の含有量が多く美しいだろ」と集まった大名達に話していた。
そこには前田利家や石田三成、宇喜多秀家、池田輝政、細川忠興などの面々がいたという。
更に大名どころか聚楽第にいた女性(大名家の姫)もその美しさに目を奪われていた。
その中に一人、大名や大名家の姫ではない上杉家の家老の兼続がいた。
兼続は秀頼にその才を見出されて大抜擢されてはいるがあくまでも上杉家の家老扱いなので
大名家とは一線を引いたのか輪に入れなかった。
それを見て政宗は気を使った。

親切にも、わざわざ声をかけて「すげー綺麗だろ」と天正大判を見せた。
そこで、兼続は扇の上に大判をを置いて、打ち返し打ち返し女子供が羽根つきでもするようにして遊んだ
「名将言行録」にも記載あり

つまりは扇の上に天正大判を置いて、素手では触らなかったのだ。
政宗は「遠慮せずに直接手に取って見ていいんだぞ」と言って
ふすま目掛けて剛腕を披露した。突き刺さる天正大判。

兼続は「謙信公の頃から先陣を享けたわまっていたので麾(さい、ざいとも読む。軍を指図する旗のこと)を揮ったこの手に
このようにチャラいものしいものを直接触れるわけにはいけません。」といい、ふすまの反対側から蹴り政宗の手元に戻した」
勿論キャッチする政宗。政宗は兼続に投げ返すと華麗なリフティングで一同を魅了した。

兼続は傾奇者の前田慶次と親交があり、政宗の性格を知り尽くしているので政宗も大変喜んだという。
しかし、その後、秀吉にはこっぴどく怒られるのをおそれがあるので
二人は三成に「権大納言(前田利家)様に見せる為の余興」だと申し出た。
三成は困ったもんだなと冷や汗をかいたという。

出展「羊羹録」より

319 :人間七七四年:2021/07/21(水) 13:25:08.34 ID:+eMfz5dt.net
>>318
この話、3度目の出典になるけど伊達政宗と直江兼続が仲良さげにして、後始末に三成が出るのは初めてだな。

320 :人間七七四年:2021/07/21(水) 13:45:34.50 ID:vTcVY5Am.net
「羊羹録」って時点で捏造では

321 :人間七七四年:2021/07/21(水) 13:47:29.28 ID:KrQ48iE3.net
細かいことはいいんだよ

322 :人間七七四年:2021/07/21(水) 13:51:48.27 ID:/P8Re/BA.net
>>309にも

出展「羊羹録」より

とする怪文書が書き込まれてるんスけど、多分でっち上げっスねこれ。

やっぱ怖いっスね5ちゃんねるは

323 :人間七七四年:2021/07/21(水) 14:00:20.95 ID:gCIhnyze.net
チャラいものしいもの
ってチャラいものってこと?

324 :人間七七四年:2021/07/21(水) 17:06:41.19 ID:ILFja671.net
>>315
猫屋町の余談として、この猫屋町は江戸期に入り、浅野家の時代には同家に仕える鉄砲隊の者達が多く住む商人町となり、明治期にはそこから派生して猫本、猫田、猫島と言う苗字が生まれ、猫屋町から少し北に行った安佐南区ではこれらの苗字がよく見られる。

https://nekomoto-gas.com/myneko/

↑地場ネタで恐縮ではあるが、猫本ガスを運営する猫本商事は当地にては最も有名かも知れない。

325 :人間七七四年:2021/07/21(水) 21:00:30.50 ID:1Uzj4pJ2.net
>>322
要するに民明書房と同じネタだよね
出典としてる部分みれば一目だけど

326 :1/2:2021/07/22(木) 09:42:43.72 ID:moX1rXdG.net
天正13年三月二日、藤田能登守(信吉)の家来で武笠藤兵衛という武士が、春日山下町において
上杉景勝公の御小姓衆と喧嘩を仕出した。武笠は郎党と二人で相手を三人斬り殺し、五、七人を
追い散らして町家の奥へ走り入り、小座席口のある所に取り籠もり、主従にて両口を堅めた。

この事を藤田の衆が聞いて駆けつけ町家を取り囲んでいた所に、奉行衆の者共も来た。
夏目舎人助も駆けつけ、様子を聞くとこれこれと説明された。
これに舎人助は
「他所の者が取り籠もったとしても、行きがかりの上は、状況によるにしても、見物で済ませるなど
出来ないことだ。況や藤田配下の者であり、手遅れして奉行衆の者に身柄を取られては名が廃る。」
と言って、その近隣にて木刀を一本取って差し、表口より押し入った。

籠もっていた者一人が「待ち受けたり!」と言って、飛び懸かって打ってきた太刀を受け止め、
引き組んで押し倒し、「取りたるぞ!」と言葉をかけた。そこにもう一人の取り籠もった者が
助け懸る所に、荒川山三郎という者が裏口の方に居たが、舎人の声を聞いて「先を越され口惜し」
と言うと裏口の板戸を蹴破り飛び入った。先のもう一人の男は、舎人に組まれた男を助けるのを止め
荒川に向かった。荒川も刀を抜かず、二尺余りの木刀を持ち、一つ二つ打ち合うと引き組んだ。
そこに、これも裏口から、彦部勘左衛門という者があったが、彼も荒川の跡に続いて押し入った。
荒川は早くも相手を組み伏せていたため、彦部は舎人の方へ助けようと駆け寄ったが、舎人は最初の者を
踏み伏せ、首に刀を当てて縄をかけた。

この様子を見て、また荒川の方を助け取り堅めたが、荒川は太刀、大脇差で、しかも抜けず、
科人の抜いたものは刀で、腰に挿していたのは、これも二尺ばかりの大脇差であったので、組んだ時の
役に立たなかった故、運の勝負を極めかね、剰え、上になり下になり、雌雄決し難く見えたため、
彦部は荒川を助け、共にこれを捕り固めた。

これらの科人のうち、舎人が絡め捕らえたのは下人で、荒川が捕らえたのが、主の武笠であった。
両人の大小を取り、二人の囚人を先へ遣わし、舎人はその後、春日山三の曲輪の藤田屋敷に帰った。

327 :2/2:2021/07/22(木) 09:43:34.85 ID:moX1rXdG.net
然るに翌日、兼ねてからの約束にて藤田宅に、直江山城守(兼続)御近習の丸田周防、横目付の
山上三郎左衛門、その他五、七人が招待された饗宴があり、その場でかの武笠の喧嘩の事を語り、
最も無道にて重科であるとして、斬罪に決められた後、夏目舎人、荒川山三郎、彦部勘左衛門の
三人と、藤田の下の隊長・奉行が呼び集められ、これらの前で、藤田能登守が、かの武笠主従二人を
召し捕った事についての批評を述べられた

「今度の三人の働き、舎人助が第一、荒川が第二、彦部がその次である。
大勢押し寄せた中、一番に励んで押し入った性根は勝れている。相手は下人であったが、それは外からは
知り難かった。小座敷の両口を二人で堅めているというだけで、どちらに武笠が居るか知り難かった。
押し入るとそのまま楯突く者を相手にするとなれば、たとえ二人の者共が一所に立ち並び斬り向かったと
しても、少しも臆するような者だとは思われない。生死は運による事なのだから、たとえ討たれ斬死しても、
抜きん出た志は無類の誉れである。

荒川は主の武笠と組んだので、その功は上と言われるだろうが、常の作法とは吟味が違う。
常の法であれな、主従高下は遥かに隔たり、その状況での働きであれば、主を討ったものを上とし、
下人を討ったのを次とする。これは戦場、野合の場合である。それであっても、その場その時の緩急難易の
違いはある。殊更今回、主従の居所が解らなかったため、押し入った志の次第を吟味するに、
荒川は「舎人が組みたるを」という言葉を聞いて飛び入った。尤も荒川も心が臆していたわけではない。
待ち構えている所に、舎人が踏み入り、下人を取り詰めたのを、武笠がこれを助けようとした時に、
荒川に飛び入られて動転した所を、荒川は引き組んだ。舎人の働きほどではないが、普段から
「天晴人に劣るまじ」と心に油断無き故に、舎人に続いて間断なく押し入った故に、武笠も下人も
助け合う事が出来なかった。然れば第二の働きである。

彦部勘左衛門は、荒川が組み漏らさないとする所を助けて、取り堅めた事、勝負の結果の働き、
尤もの事である。であるが、舎人、荒川両人にて二人の者を組み、彦部には逢い手が無かった。
しかし荒川に劣らず急いで押し入った事であり、分別に於いて遅き心根では全く無い。今少し早ければ
必ず武笠と組んでいただろうが、それは荒川に越されたと言うだけである。一方で遅ければ、荒川は
禍に遭っていたかも知れず、それを助けたのは良き心繰りである。

さてまた、舎人は相手を一人で取り堅めたが、荒川は取り堅め難く見えるを以て、彦部はこれを助けて
ようやく両人にて取り堅めた上に、大勢が重なって刀脇差を奪ったという。荒川以外が太刀を打つのは
武士道不穿鑿である。

舎人の相手は舎人より力がなかった故に、抑えて縛ることが出来た。
荒川は武笠と力量が同じくらいであり、そのため取り堅めかねたのであろう。
人の力量は勇臆で異なるわけではない。その場その場の様子を以て、志の浅深を穿鑿して、勇の上中下を
定めることが尤もであると、私は存じている。各々は如何思し召すか。」

と申されると、一座の衆も、尤もと感じ入られた。この琴は景勝公のお耳に達し、藤田を召し出され、
「少しの事にも、諸人が勇むように、善悪を能く批評して、勇怯を正しく穿鑿仕ること、偏に忠勤の
志浅からず。」と、呉服十重を下された、そのうち三重を舎人助に、二重は荒川に、一つは彦部に
配分された。能州の武士道の吟味、諸人の勇気を励ます事、このようであった。

(管窺武鑑)

328 :人間七七四年:2021/07/22(木) 10:07:29.15 ID:3kVbbLt2.net
>春日山下町において上杉景勝公の御小姓衆と喧嘩を仕出した。武笠は郎党と二人で相手を三人斬り殺し、五、七人を追い散らして


最低でも景勝の小姓衆は8人は居たわけだけど、年端も行かない前髪だったとかで主従2人の武笠に遅れを取ったのかな?
8対2で遅れを取るって相当だけど小姓衆の顛末はお咎め無しだったのだろうか?また、喧嘩に至った発端も気になる。

花の慶次で景勝の小姓13人が慶次1人に全滅させられて、13対1で遅れを取るとは何たる醜態と兼続から評されてたけど、実際この事件で生き残った小姓衆も面目が立たない希ガス

329 :人間七七四年:2021/07/22(木) 11:07:15.03 ID:moX1rXdG.net
>>327
下から五行目
×この琴 ○この事

申し訳有りません

330 :人間七七四年:2021/07/22(木) 12:37:17.70 ID:3kVbbLt2.net
石見銀山の発見

鎌倉時代末期に周防を支配した大内弘幸はある日、自家の守護神で有る北辰の神が枕元に立ち、『石見国仙の山に宝有り、汝銀をとりて外敵を排せよ。』との神託を夢に見てこの銀山を発見したと言う。
それから200年ほどが過ぎたある日、博多の豪商神谷寿禎は鷺銅山の購入目的で海路を行き出雲へと向かっていた。
その最中、船が石見沖に差し掛かった時、寿禎は陸の山から眩い光が放たれているのを見て船頭に尋ねたところ、

「あれは仙の山と言い、昔、銀が出た山で、光は清水寺の観音様の霊光だ」

と船頭は答えた。寿禎は急ぎ船を陸に寄せて上陸し、光の差す方へと目指して行くと、清水寺へ辿り着き、そこに転がる多くの光る石を目にした。

幾つかの光る石を貰い受けた寿禎は当初の目的地である鷺銅山に赴くと、当地の山師・三島氏に光る石を見せて鑑定させたところ、三島はこれは銀鉱石に相違ないと答えた。

寿禎は帰路、周防の大内義興に面会すると、石見の仙の山に銀脈があることを申し上げ、この報告を受けた義興は直ちに軍を石見へ派遣すると、この地を占拠し神谷寿禎に銀山の採掘と経営を始めさせた。

寿禎は多くの技術者らを招いて銀山の採掘と銀の精錬を行い、これにより当地は栄えることとなるが、同時にこの銀山を巡って大内義興、尼子経久を含む周辺の武家勢力の争いも始まることとなった。

(銀山旧記)より

以下参考サイト
島根県ホームページ
http://www1.pref.shimane.lg.jp/contents/kochokoho/photo/145/01a.html

石州瓦 屋根の学校
https://www.sekisyu-kawara.jp/iwamiginzan/hakken/index.html

石見銀山通信
http://iwami-gg.jugem.jp/?eid=3761#gsc.tab=0

331 :人間七七四年:2021/07/22(木) 12:42:29.56 ID:3kVbbLt2.net
続参考サイト
山陰いいもの探県隊
https://sanin-tanken.jp/guttokuru/detail-2021-spring

332 :人間七七四年:2021/07/22(木) 15:53:53.46 ID:xxi44w2C.net
>>322
Wikepediaより

「羊羹録」または「熔岩録」(ようかんろく、ようがんろく)とは令和三年六月より編纂した日本の歴史書であり
鎌倉幕府の将軍・源頼朝から令和31年安倍晋三内閣総理大臣までの日本国内の古今東西の人物奇伝を記載した
歴史書である。編纂時期は新型コロナウィルスの混乱時に吉田羊羹なる在野の歴史愛好家が書かれたと言われている。
大塩平八郎の身長217メートル説、直江兼続はカツラ愛好家など適当極まりない妄想史料の連続で暇な人間達に愛されている
とかいないとか言われている。日本における武家政権の最低の記録と評される。

江戸時代前の研究について
限りなく適当であり現代の風俗や用語を取り入れている。伊達政宗がパーティーピープルとか、家康が鬼電しまくりとか
という記載が多く見られる。

幕末、近代史について
新選組が好きなようで、沖田総司がイケメンという事を強調し、坂本龍馬は西洋かぶれの陰キャと評している
また大塩平八郎がワンパンで浜松市にあるアクトタワーを壊したと記載したいる

歴史資料としての価値
レキシと同じで歴史を楽しもうというコンセプトで暇つぶしで見る分にはいいが学術的な価値は一切ないと断言できる

333 :人間七七四年:2021/07/22(木) 17:38:24.04 ID:8GKdj4Fi.net
ng

334 :人間七七四年:2021/07/22(木) 17:51:30.55 ID:EEyg0KQp.net
大内氏って元々多々良姓を名乗ってるし、本拠地近くには鋳銭司って地名も有るから、精錬関連に関わりのあるお家かと思ってたけど掘る方にも関わりが有ったのね。

335 :人間七七四年:2021/07/22(木) 21:05:12.87 ID:GW5wIYkV.net
武田信玄「採掘にかけては我が家も負けてはおらぬぞ(意味深)」

336 :人間七七四年:2021/07/23(金) 00:00:56.05 ID:b6PXRtd+.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3952.html?sp

https://japanmystery.com/fukui/kumiya.html

こちらの話で京極高次の小浜城建設のために愛娘を人柱にされた、若狭国の豪商・組屋六郎左衛門のお話。

永禄年間(1558〜1570)のこと、航海中に遭難しそうになった組屋六郎左衛門の船であったが、突然港へ向けた風が吹き、その風のおかげで難を逃れることが出来た。
無事、港に着いた六郎左衛門の船であったが、その中から見慣れぬ異形の老人が姿を現した(またはこの老人によって船は難を逃れたとされる。)。六郎左衛門はこの老人を自宅に招くと、手厚く歓待した。
すると老人は、「我は疱瘡の神である」と六郎左衛門に素性を明かし、彼の一族は疱瘡から守護すると約束し、そして六郎左衛門に疱瘡からの守札の作り方を伝授して去っていったと言う。

この守札には組屋六郎左衛門の名が記されてており、疱瘡の神はこの名を見るとその家は避けてくれるのだと言う。

この疱瘡御守札と疱瘡神御影、並びに組屋六郎左衛門と疱瘡の神とのやり取りを記録した文書は小浜市教育委員会所蔵として今の世に残っている。

参考サイト
福井県文書館
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/m-exhbt/20170713AM/20170713.html

小浜市ホームページ
http://www1.city.obama.fukui.jp/obm/mermaid/common/fckeditor/editor/filemanager/connectors/php/transfer.php?file=/uid000002_E5B08FE6B59CE5B882E58685E381ABE6AE8BE3828BE796ABE79785E7A588E9A198EFBC88E58699E79C9FE381AEE381BFEFBC892E706466

毎日新聞記事
https://mainichi.jp/articles/20200617/ddl/k18/040/226000c

337 :人間七七四年:2021/07/23(金) 00:10:19.93 ID:b6PXRtd+.net
また、この時から遡ること約600年、一条天皇の長徳3年(997)に組屋六郎左衛門に宛てて五人の疱瘡の神が書いたとされる詫び状もかつて存在したとされる。
丸写しでアレだが、そちらに記載された文言は以下の通りで、こちらの疱瘡の神からの守札はは組屋六郎左衛門の名と共に以下の和歌を記すのだと言う。

「千早振神の子孫の家なれは邪魔モ悪魔も寄にきられす」


参考サイト
エーザイホームページ
http://search.eisai.co.jp/cgi-bin/historyphot.cgi?historyid=K01011

個人ホームページ
http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/2020/03/post-016bc1.html

338 :人間七七四年:2021/07/23(金) 00:18:47.47 ID:b6PXRtd+.net
>>336追記修正

すると老人は、「我は疱瘡の神である」と六郎左衛門に素性を明かし、彼の一族は疱瘡から守護すると約束し、

すると老人は、「我は疱瘡の神である」と六郎左衛門に素性を明かし、歓待してくれたお礼に彼の一族は疱瘡から守護すると約束し、

339 :人間七七四年:2021/07/23(金) 18:06:47.41 ID:m6Tr4+SX.net
天正5年丁丑、家康公36の御歳8月、勝頼(武田勝頼)は2万ばかりの人数で
横須賀南とかりの尾さきまで働き、浜辺に陣取った。家康公御父子ともに横須賀
の城より4町ばかり北の丸山に御旗を立て、諸勢は浜辺へ押し出して備えた。

敵との間は3町ばかり隔てて、その中には入り江があったので互いに鉄砲を撃ち
合うばかりであった。信康は鈴木長兵衛という者1人を召し連れ給いて、勝頼の
旗の立つ所から2町ばかり近くに乗りよせ物見をなさり、家康公へ御合戦あって
御もっともと仰せ上げられた。

家康公宣うには、「敵は大軍で味方は小勢であるのに、切り所をも構えず変わる
手段もなくして大敵と掛け合いの戦をしても勝利はない」として、御合戦無し。

各々切れ者の衆が申されるには「大殿は三方ヶ原の御合戦から、良く御切れ者に
成らせ給う」と感じ申したのであった。

――『岡崎記』

340 :人間七七四年:2021/07/23(金) 18:27:47.03 ID:jrtBMp+W.net
各々切れ者の衆が申されるには「大殿は三方ヶ原の御合戦から、良く御切れ者に
成らせ給う」

家康「そ、その前は…」

341 :人間七七四年:2021/07/23(金) 18:39:20.52 ID:b6PXRtd+.net
>>341
大久某さん「キレが悪かったですよね。何がとは言いませぬが。」

342 :人間七七四年:2021/07/23(金) 18:39:51.04 ID:b6PXRtd+.net
>>341間違えた、>>340

343 :人間七七四年:2021/07/23(金) 20:34:05.81 ID:vEtcmxrj.net
三方ヶ原で出したモノがデカすぎてガバガバになっちゃったのかな
戻らないっていうしねアレ

344 :339:2021/07/23(金) 21:35:33.31 ID:m6Tr4+SX.net
>>339
>切り所をも構えず
失礼、ここ切所(せっしょ)の間違いです

345 :人間七七四年:2021/07/24(土) 23:51:38.51 ID:Gcr6Dmv+.net
天正十年の夏(筆者注・天正九年の誤りか)、河田豊前守(長親)は越中松倉城に籠もった。
織田信長の軍勢が五万余の兵で押し寄せたが、河田の武勇に恐れ、二方より遠巻きした。

この時、城中の神保肥後守という者、越中先方の侍大将にて、河田の相備えであったのだが、
彼には敵と内通しているのではないかという疑いがあった。しかしその証拠となるような
ものはなく、ここにおいて、河田は自分の家臣の中で頼もしき勇士を一人、下郎の出で立ちにさせ、
夜忍んで敵陣へ遣わした。即ち敵はこれを捕らえて怪しみ問うと、彼はこのように答えた

「私は城内の神保肥後守の透破である。どのような内容かは知らないが、佐々(成政)殿への
一通の書状を持って出た。城中の者に取られないようにして、佐々殿へ奉れと申し付けられた。
ところが近くの森の中の道にて若侍五、七人に出会い、彼らに刀、脇差、羽織、そしてかの書状を
入れた打飼袋まで剥ぎ取られ、ようやくここまで逃げ参った。あの書状がその後この陣に来ているので
あれば問題はないが、城中の者達に取られたのであれば大事である。このこと調べられるように。」

これに対し、敵方も警戒をし、後途の様子を見るまでとし、その上「心を許すな」と、彼を
搦め置き陣中の穿鑿をしたが、彼の言ったような者はおらず、如何と思案する内に、城中より
矢文が射られた。抜いてみれば、河田豊前守より佐々に宛てた書状であった

『当城の神保に対しての密議の計略は既に露見した。その身柄は獄に籠め、首を刎ねようと
欲している。これは武道不功、軍理未熟によるものであり、弓箭の恥辱、末代までの汚名となること、
どうして疑いがあるだろうか。
しかしながら神保は十年以来の新たに仕えた者であり、立場が定まっていたわけではない。
頻りに赦しを乞うており、その身柄をそちらの陣に引き渡そうと決まった。回答を待つ。』

これについて敵は寄り合い、返事をすべきか、ただ置いて返事をしないでおくか
決断しなかった。城内に於いては矢留の幕を打ち、二時ばかり返礼を待ったが来なかった。

河田の考えには
「返書が来たなら、その文体によって真偽を知ることは簡単であった。然るに返報が来ない以上、
神保の逆意は明らかである。何故なら神保が内通して居ないのであれば、さっそく返書し、その
文面にあやをなして、内部の和を破る手段として吉兆であると、急ぎ返事をするはずである。
そうせずに返答が遅いのは、どうにかしてこの陰謀が顕れないよう、事を誤魔化すべしと
談合しているであろうこと、疑いない。」

こうして、河田は神保を召すとこれを虜にし、その家老、身近の者合わせて七人、主従妻子ともに十三人、
城外の堀際でこれらを磔にした。神保が首に懸けていた守袋の中に、佐々、柴田(勝家)両判にて、
「今回の儀が終結した後、松倉城に五万石を添えて充てがうべし」との一状があった。
河田豊前守が勇智深き故に、この陰謀を察し擬慮を定めること、斯くの如し。

(管窺武鑑)

346 :人間七七四年:2021/07/25(日) 07:26:47.45 ID:3Kt+VyKp.net
>>345
織田陣に入った河田方の勇士はどうなったんだよ えーっ?

347 :人間七七四年:2021/07/26(月) 18:44:33.74 ID:lfSNcW2A.net
>>346
勇士は荼毘に付したよ…
骨はある場所に置いてある

348 :人間七七四年:2021/07/27(火) 07:24:20.51 ID:OvNmFwAu.net
>>347
ふぅん、そういうことか

349 :人間七七四年:2021/07/27(火) 12:44:05.13 ID:wUfCWzvE.net
今の時代、異世界転生ものが人気であるが、江戸時代にも異世界転生物が大人気で元禄時代に書かれた書物によると
戦国大名同士でのグルメ対決が実現されたと言われている。真偽はともかくお付き合いして貰いたい。
全国の大名を呼び出したのは天下人でもある織田信長。信長の舌を満足できるものには金の種子島を進呈すると
宣伝を打ち、全国から我こそがグルメ大名なるぞと集結した。
まずは徳川家康。八丁味噌で美味しく味付けした鯛めしを持ってきた。
信長は「こんなの食えるか!。味噌が美味しいのではない鯛が美味しいだけ」と一蹴
次は毛利元就、煎り酒で味付けした鱈鍋の自慢の一品。
信長は「こんなの食えるか!。煎り酒が美味しいのではない鱈が美味しいだけ」と一蹴
次は最上義光。酒粕で煮込んだあつあつの鮭を持ってきた。
信長は「こんなの食えるか!。酒粕が美味しいのではない鮭が美味しいだけ」と一蹴
武田信玄がアワビの醤油漬けを持って来ても
信長は「こんなの食えるか!。醤油が美味しいのではない鮑が美味しいだけ」と一蹴
それではと、上杉謙信、信長が上方に住んで、濃い味を好まなくなったのでは?と分析。流石は軍神である。
越後の冷水で絞めたクラゲの刺身を特性の酢で味付けした逸品とゴボウや芋の茎をツマにして出した。
信長は「ふむふむ」と神妙な顔をしてクラゲの刺身をかみしめた。
「こんなの食えるかこのうつけ者が!!!!!!!!!!!!」
謙信は信長にタコ殴りされて気絶した。
そこに伊達政宗がやって来て
「良い食材が手に入りましたのでこれをどうぞ」
信長に差し出されたのはただの味噌汁というか、具の無い味噌汁。
「これじゃ、この出汁だけの味噌汁が極上の味わいだぎゃ。しかも器は金色で派手だぎゃ」と絶賛
隣にいた前田利家が冷や汗をかいている。
利家「政宗は以前、ねずみの味噌汁を作り、自ら試食して昏睡状態になった事がある。もしや政宗、信長様のお命を・・・」
政宗「利家様大丈夫です。ねずみはねずみでも信長様の大好物の禿ねずみの出汁をとった味噌汁です。」
利家は政宗の厨房をのぞいてみるとたくさんの金色の瓢箪が叩き割れておりその隣には秀吉の亡骸が・・・
利家は何もなかったようにその場から消え去ったとさ・・・。
めでたしめでたし

出展「羊羹録」より

350 :人間七七四年:2021/07/27(火) 13:09:46.06 ID:FethyASr.net
オチがw

351 :人間七七四年:2021/07/27(火) 15:44:16.93 ID:IgnKSJfC.net
天正十五年の本庄繁長による庄内の尾鐺攻めの時の事について、本庄は夏目舎人助に物語された。

「尾鐺において攻め合いの際、最上方である上山田がこちらに内通し、堅く申し合わせたが、
必ずしもこれを頼りにしなかった。戦国の最中では、こういった軍略は敵味方ともにあるものだ。
『我を欺くべし』と深く企む心根は、不明の智では知り難い。世間の約束などは、手のひらを翻すような
ものであり、思い定めた志でさえ変わることもあるのだから、上山田が内通を悔いて取りやめる可能性も
ありえる。しかしそういった事を疑っていては、出勢することも合戦することも出来なくなってしまう。

こういう所をよく思案し、予定通り上山田が裏切れば、勝利は手中にしたようなものであるが、
万一これが、上山田が越後勢を討つための詭計であったならば、これこれの武略を以て変を打ち、
それに勝つための備えを定め、五段三段と工夫して、不敗の地をふまえ、必勝の旗を掲げる。
これこどが誠に、危うからざる戦法である。」

この事を夏目舎人助は訓戒されたのだと、後に私(著者・夏目軍八定房)に伝えたのである。

(管窺武鑑)

352 :人間七七四年:2021/07/27(火) 18:06:25.76 ID:zgl2hWdK.net
家康の八丁味噌って…

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