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長篠・設楽原決戦の真実その2
- 253 :人間七七四年:2022/05/21(土) 21:52:22 ID:f6YAO6sZ.net
- また馬防柵についてはかなり頑強に、全く出入り出来ない程に作られていたとされる。これは簡単に出入り出来るとそもそも防御にならない事から導けるんだが甲陽軍鑑にもヒントがある。
山県昌景隊は武田軍左翼総大将だったのだが彼は柵の無い場所を探して徳川軍左方、乗本川付近を攻撃した。ここは必ずしも攻撃に適した地点じゃない。連吾川が深く早くなるところ、そこを渡河した上で背水の陣になる、しかも柵が無いという如何にも罠、という地点。案の定大久保兄弟に名乗りを挙げられてしまう…
信長公記だと山県昌景は敵の一番隊で「鉄砲を撃ちかけられ撤退」してる。信長公記が適当書いた可能性もある(信長公記も完全な史料じゃない)けど両方信じるなら柵に阻まれた山県隊は柵の無いところを探すが見つからない。結局最南端のいかにもな場所を攻撃する羽目になった、という事になるんじゃないか。
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