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石田三成の挙兵 ★6

1 :人間七七四年:2023/07/01(土) 17:55:14.09 ID:pp0jbPin.net
石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/
石田三成の挙兵 ★2
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1659567400/

石田三成の挙兵 ★3
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1667713567/

石田三成の挙兵 ★4
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1675638266/

石田三成の挙兵 ★5
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1681718599/l50

360 :人間七七四年:2023/08/04(金) 10:11:12.84 ID:QhUd4/sQ.net
三成は後の徳川幕府のようにトップがどんなアホでも政治が成り立つような構造を目指したが時間がなかった
大陸出兵等やらず秀吉の天下統一から秀吉の死去までに豊臣天下政権の完成を目指すべきだった
外様大名が中央政権に居座れるようではいけない
関白が政治できない場合石高は少ない譜代大名連中に政治を行わせ外様はいっ

361 :人間七七四年:2023/08/04(金) 10:18:16.50 ID:OjEwlql9.net
佐久間折檻状にもあるけど人数を召し抱えるのは無駄使いじゃなくむしろ推奨されてるレベルだし、
私腹をこやすってそういうのに使わずに結果的に貯めまくってるかどうかが基準なような気も
+屋敷家具美術品調度品とかに金を使いまくった形跡が無ければ

362 :人間七七四年:2023/08/04(金) 12:23:04.43 ID:QhUd4/sQ.net
つづき
外様大名は一切政治に立ち入らせてはならない
前田も大大名だからNG
実際問題江戸時代このやりかたで二百六十年以上続いたしな
後家康は幕府を開いて以降石田らがやって来た政策を名前だけ変えてそのままパクっている
このスレでは石田をひたすら叩き俺はカッケーと言いたいバカゴミどもがいるが石田は家康からもできれば引き抜きたかった男だったのは間違いない
後どうする家康でも家康が本当は戦いたくなかった男と三成を紹介するのにそう書かれていた
令和の今三成をたたく時代は終わった
それでも三成を叩くということは頭がおかしいのかそれとも世間を叩きたいためなのか
いずれにせよアホと言うしかない

363 :人間七七四年:2023/08/04(金) 12:40:31.64 ID:o0jzIem8.net
西軍決起後如水も吉川に宛てた書状で「こうなると常々思っていたので驚きはない」
と言ってるから別に忠興に限らずある程度予想はできたことなんだろ

364 :人間七七四年:2023/08/04(金) 13:56:07.69 ID:R61k1Lm4.net
>>353
創作された信長大好きなんだね

365 :人間七七四年:2023/08/04(金) 14:08:37.80 ID:aJlQ2i6f.net
最後の1行だけは大いに賛同するよ
停滞と衰退の失われた260年よりかは誰がやっても遥かにましだろ

366 :人間七七四年:2023/08/04(金) 16:47:42.68 ID:QhUd4/sQ.net
もし三成が江戸中期の政治家ならそれなりの評価を受けた人物として教科書にも取り上げられたであろう
基本頭脳明晰でかつ大胆な政治も できる
平和な時代ならともかく一歩まちがえれば再び戦国時代の当時では気の毒であった
もし石高二百まん

367 :人間七七四年:2023/08/04(金) 16:54:57.12 ID:QhUd4/sQ.net
もし石田三成が二百万石大名もしくはそのくらいの兵力財力を自由に使える立場なら必ず家康を滅ぼし豊臣政権を永続できたであろう
むしろあの程度の石高でよくあそこまで家康に対抗できたものだ
福島小早川キッカーとかアホの極みだ
知的障害者レベルだわな
三成と家康立場が反対なら家康は三成にひたすら土下座したであろう

368 :人間七七四年:2023/08/04(金) 19:48:35.01 ID:3EGNI4Dg.net
家康は三成を評価してたようだが
戦のケジメとして本人は処刑されたが子供たちは全員命は助けてる
まあ三成は輝元とおそらくは大谷刑部に乗っかっただけだけで前線指揮官以上の裁量権は無いから家康に対抗云々は外れてる
関ケ原においての総大将格は過剰評価

369 :人間七七四年:2023/08/04(金) 20:39:14.72 ID:Y7yhim7B.net
というか別に関ヶ原の敗戦者は三成以外も族滅なんてされてないって
死んだのは一連の戦闘の結果大敗し  戦死したり敗軍の将として責任取ったり
三成が特別評価されて他と異なる対応をされてるとは言えないだろう

370 :人間七七四年:2023/08/04(金) 20:40:28.95 ID:/U8HyCxA.net
>>362
指摘を全否定はしないが、少なくとも自分は三成ら奉行達がそれを目指してはダメだと思う
譜代を中心にとして外様を排除して執政を進める、結構なことだ
しかしね、『秀吉に子飼いはいたとしても譜代なんか存在しない』だろう
それをどうしてもやりたいのであれば、早くても秀頼の代、出来ればその息子辺りでやるべきだ
三成らに時間が無いって指摘はおかしい、むしろ早すぎるんだ
もし本気で三成らがあなたの主張通りの考えを持っていたとしたら、残念ながら三成は傲慢だ
譜代でも何でもない先代側近如きが何を偉そうにという形にしかならないだろう
理想を述べるのは大変結構、しかし物事には段階を経るとか実績を積む、時を重ねるなど
色々順序立てて進めていかなければならない事もあるのが事実だ
仮に奉行が後の江戸幕府的なものを目指していたというのなら
彼らは自分たちの立場を勘違いしてたとしか言いようがない
そもそも秀吉はその辺わかってたと思うよ、だからこそ大老・奉行制度を作ったんじゃないのかね
そういう事がやりたいなら秀頼執政時(要するに秀吉側近を引退させて代替わりした後)か
その息子位になってから実行すべきだと、有体に言うなら譜代を作ってからやれって事

371 :人間七七四年:2023/08/04(金) 20:50:32.09 ID:2pGYWvYH.net
>>360
〉三成は後の徳川幕府のようにトップがどんなアホでも政治が成り立つような構造を目指したが時間がなかった

これはどういう足跡からそう推測できるんです?

372 :人間七七四年:2023/08/04(金) 21:06:12.44 ID:z/pREN6t.net
三成は西軍総大将でも何でも無く単なる一指揮官だしそもそも西軍決起計画を知らなった
知っていたらもう少し頑張ったろうけど

373 :人間七七四年:2023/08/04(金) 21:27:06.43 ID:LigIEtCx.net
徳川幕府は官僚制で長期政権化うまく行ったがそれは将軍大御所が主導した結果
豊臣政権は秀吉自身が大身外様の後見を頼み、家康利家を別格の伏見大阪城代としたのを奉行たちが覆そうとした

そもそも奉行たちからして一官僚として考えたら政権本拠近くで大身持ってたりするし話はまるで違うよ

374 :人間七七四年:2023/08/04(金) 21:54:29.53 ID:YSANSox/.net
ID:QhUd4/sQ

史料も提示せずに自分の妄想並べてるだけだな、話にならん

>>367の「むしろあの程度の石高でよくあそこまで家康に対抗できたものだ」とは、江戸時代の妄想関ヶ原のことでも言ってるのか?
一次史料を見る限りはほとんど家康の圧勝だぞ

慶長5年9月12日の三成状も知らないみたいだし、あれ見ただけで西軍の惨状がわかるはずだが

他にも吉川広家書状、8月29日の保科正光書状、他色々の書状を見たら、どれだけ西軍が不利かわかるはずだがね

375 :人間七七四年:2023/08/04(金) 22:17:54.24 ID:Qz1cOqg3.net
キッカーがウルトラアホだったのは誰の目にも明らか
知的障害レベルだろ
小早川ヒデアキなんか本物の知的障害者
福島正則も相当なレベルの知的障害だろ

福島正則は関ケ原後家康の家臣を切腹させている、家康はあの時点で福島正則にへそ曲げられて大阪城にこもられたら厄介だから仕方なく家臣を切腹させたが内心ぶちきれただろう
さらに福島正則は酒の席で家臣を切腹させ翌日その家臣を呼んだらすでに死んでたという落ち
大名にさせたらいけないレベルのゴミだわ
キッカーに福島正則、小早川
こんなマジで知的障害レベルのバカのために三成らは負けた
後毛利テルリンもボンボンでウルトラ能無し
こんなアホたちのために三成は負けた
まあ三成は戦知らずは認めるがこんなハンデ背負っていたのたから気の毒だな
それと大阪城のアホども
三成が負けも豊臣家には何の関係も無いとほんきで思っていたんだからな
後そういう事情も見てみぬふりして三成が全て悪いとするこのスレのアホどもも知的障害レベルだわな
近年の三成評価に嫉妬しルのかな
三成の1億分の1の脳ミソしかないアホたちが

376 :人間七七四年:2023/08/04(金) 22:19:05.80 ID:uTG/RRnv.net
しかしなんで石田等は大垣城に毛利勢、吉川勢を入れなかったんだろうね?
兵で溢れてるならまだしも、不足してる状況だったのに。

入れなかっただけならまだしも、軍議にすら呼んでいないから意思疎通なんぞできようがない。

挙げ句、関ヶ原は南宮山勢からみたら置き去りにされての退却に見えたわけで、
その状態で東軍を攻めるなんて選択肢などあるはずもなく。

377 :人間七七四年:2023/08/04(金) 22:41:39.28 ID:2pGYWvYH.net
>>376
全く不足してねえ
一万以上いたら十分だろ

378 :人間七七四年:2023/08/04(金) 22:46:59.12 ID:Qz1cOqg3.net
たわけ
大垣城は行った事あるが予想以上に狭すぎて南宮勢を呼べなかっただけの話

とはいえせめて大将クラスだけでも呼ぶべきだったと思うが
後キッカーは事前にころすべきだったな
キッカーの母親は戦国きってのブス
劣等感のかたまりのようなゴミだからいかしとくねきではなかった

379 :人間七七四年:2023/08/04(金) 22:48:10.99 ID:o0jzIem8.net
>>376
保科正光は書状で「其上大柿ニ篭候人数弐万余有之候由申候間、小城ニ而さやう之人数楯篭候者、輙詰候ハんと存候」
と、大垣には二万余いるそうだが小城にそんな人数で立て籠もってもすぐいっぱいになると思うと言ってるけどね

380 :人間七七四年:2023/08/04(金) 23:04:24.29 ID:/U8HyCxA.net
>>375
そんな自分本位な身勝手な理屈で他大名巻き込んで戦争しちゃダメだろ
大体豊臣家が頼んでもいなけりゃ手続きもロクに取らずに勝手に戦争引き起こして
結末は政権崩壊じゃ迷惑極まりない、何もしない方がまだマシだよ
そもそも多数派工作で勝てないような奴がいくら理想論並べ立てても口先野郎でしかない
仮に、後にそいつの危惧した通りの展開になったとしても、政治の世界においては
周りもロクに納得させられぬ無能が戯言を述べてるだけ(そも、歴史を結果論で語るべきではないが)
いっちゃなんだがいくら周りを無能だと騒ぎ立てようが、そいつらをまともに制御・管理も出来ん奴が
偉そうにわめくな、身の程を知れとしか言えない

381 :人間七七四年:2023/08/04(金) 23:05:24.80 ID:YSANSox/.net
ID:QhUd4/sQからID:Qz1cOqg3に変更か?

382 :人間七七四年:2023/08/04(金) 23:07:26.59 ID:YSANSox/.net
>>375読んだらわかるけど、こいつ本当に史料読んでないんだな
その「相当なレベルの知的障害」の福島正則を調略で寝返らせようとしたのが三成だろ
その知的障害すら調略できない三成はもっと知的障害ってことかね?

383 :人間七七四年:2023/08/04(金) 23:09:37.81 ID:YSANSox/.net
というか9月12日の書状も読んでないんだな
小早川秀秋の後背をある程度知っていながら何にも対処しなかったのが三成という大馬鹿野郎だろ

384 :人間七七四年:2023/08/05(土) 06:31:34.21 ID:bBQBbZaE.net
>>375
そもそも当時は大阪はない
大坂な

385 :人間七七四年:2023/08/05(土) 08:21:32.36 ID:4MxiWpPg.net
徳川家康は小早川秀秋を八月末には口説き落として味方にし、九月十四日に松尾山を取らせる事で大垣城を孤立させ西軍美濃方面軍を殲滅する計画
秀秋は前々から西軍の指揮を離れていたからこれは必然的に噂になっていたことが九月十二日石田三成書状からはわかる
わかるけど三成には何も出来ない。何故ならこれはあくまで「噂」であり一指揮官に過ぎない三成に対処できる問題じゃない
増田長盛にそれとなく匂わせて警戒して貰うくらいしかできん。仮に三成が秀秋が裏切ったと騒げばそれによって秀秋を東軍に就かせてしまうかもしれないわけだし

386 :人間七七四年:2023/08/05(土) 09:24:17.99 ID:UQ1+vq/F.net
>>381
どうでもいいわ

387 :人間七七四年:2023/08/05(土) 09:27:14.30 ID:4MxiWpPg.net
でキッカーが吉川広家の事ならこれも三成の手に負える問題じゃない
広家は毛利輝元の家臣なので三成には処断権は無い。広家を殺したら三成は最低でも腹を切ることになる
あるとしたら西軍総大将の豊臣秀頼に直訴して秀頼から広家処罰を輝元に命じて貰うとかだがそれは秀頼が輝元を実力でも上回ってないと無理
現実的には輝元に広家が徳川と話し合ってますよと報告するくらい
しかも吉川広家、輝元からの直命で徳川と交渉していた節があるかなやったところで

388 :人間七七四年:2023/08/05(土) 09:58:46.30 ID:exOftrrJ.net
総じてこの板に書き込んでる西軍びいき豊臣ファンアンチ徳川は
知識知見の卸元が司馬遼太郎の小説止まりなのが多い印象
毛利輝元などは近年の研究踏まえると西軍敗北と豊臣政権崩壊の主犯の一人として
西軍びいきからもっと批判罵倒されていいと思うんだがそういう書き込みをほぼ見かけない
これは司馬の小説での無能だがお人好しという罪のないキャラ設定がそのまま刷り込まれてるからだろうな
吉川に命じて徳川と密かに和睦交渉させてたなどいわゆる小早川の裏切り以上の梯子外しだわ
総大将自身が敵に通じたようなものだからな

389 :人間七七四年:2023/08/05(土) 12:35:49.00 ID:eZmTvbfO.net
384
バカでもわかるように大阪と書いただかだ(笑)
さて大坂から大阪にあらためられた要因として坂では坂を転が落ちるように街が衰える縁起ても無い字なので阪にあらためられたのが定説だが江戸時代のいつごろくらいかはご存知ではない
なお同じ理由で松坂=松阪という例もある
て言うかいちいち言わせるなよ
そもそも今は大阪城と呼ばれている
いちいちつまらない指摘はなくていい
おまえがバカがなのはわかった

390 :人間七七四年:2023/08/05(土) 14:03:12.08 ID:eZmTvbfO.net
三成としては豊臣の天下を諦めて徳川にすり寄る選択もあった
少なくとも徳川天下の暁には福島小早川黒田等々よりはいいポジションにつけてもらえたかも知れない
徳川家臣団は本多正信以外は筋肉バカしかおらず政治はできない
結局江戸時代は石田が行ってきた政治を丸パクリしただけ
ちなみにあくまでも噂だが三成は関ケ原以降実は生き延びて高名なお坊さんになって大奥に入り政治に口出ししていたのではという説もあるとか
まあありえない話ではない
徳川の政治が石田がやって来た政治と似すぎていたからな
ちなみにどうする家康では家康が三成を取り込むためにいろいろと動くが三成にかたくなに拒否されてそして対立するという展開らしい
徳川と石田の間には全く血縁関係がなかった訳ではなく三成自身は戦なしで徳川の野心 をおさめたかったのが本心だったようだし
徳川家康自身石田とは正直戦はしたくなかったのが本心だが毛利上杉が動いてしまった以上結局やらざるを得なかったのが実情だ
最近発売された関ケ原本ではそのあたりをクローズアップして描いたとか
読んでないけどな
そもそも関ケ原は毛利が積極的に動いている
むしろ三成は被害者だわな

391 :人間七七四年:2023/08/05(土) 14:26:29.16 ID:bKxRzkMh.net
>>389
でもお前さん「家康が東京を発った」って聞いたら絶対怒り出すじゃん…

392 :人間七七四年:2023/08/05(土) 14:36:57.89 ID:eZmTvbfO.net
全国城めぐりしていて北海道と沖縄以外は全て訪問した
徳川方の城が多く豊臣方の城はさみしい限りだ
とくに三成の城といえば井伊が三成を妬みほとんど取り除きしろ

393 :人間七七四年:2023/08/05(土) 14:40:42.11 ID:eZmTvbfO.net
とても城跡とは言えない無惨と言える状態である
一方で井伊直政の城である彦根城は天守閣は小さいとは言え全国5本の指に入る城である
二人のあいだ

394 :人間七七四年:2023/08/05(土) 14:45:59.90 ID:eZmTvbfO.net
石田三成と井伊直政では井伊直政が個人的にかなり恨んでいたようだが関ケ原以前は三成が立場上かなり上であったが戦後石田は滅亡
井伊は一気に躍進した
井伊はともかく政治のできる石田三成が

395 :人間七七四年:2023/08/05(土) 14:54:47.82 ID:eZmTvbfO.net
政治のできる石田三成があのような末路とは家康も内心ザまあとは言えなかっただろう
家康にとって最愛の女房阿茶のつぼねと親戚の関係でもある三成は内心取り込みたかった男だし
あくまでも俺個人の気持ちだがたとえ裏切り者と呼ばれても徳川女房付いて大名として生き残ってほしかった
佐和山の城も立派に残っているかも知れないし
何よりも戦が大嫌いだったと言われている三成にとって関ケ原はやりたくはなかったであろう

396 :人間七七四年:2023/08/05(土) 14:56:59.06 ID:eZmTvbfO.net
徳川女房=徳川
訂正して

397 :人間七七四年:2023/08/05(土) 21:45:00.94 ID:PQd4Ptu5.net
>>390
石田のやってきた政治?秀吉じゃなく三成が天下を差配したことがあると思ってるの?
三成がやったことは秀吉の政治の陰でえこひいきや取次の同僚無視して頭越しに恩をうったりして外様に自分の徒党を増やすことだろ?
政権での最大の大仕事は秀次粛清という決定的な弱体化だし

398 :人間七七四年:2023/08/06(日) 04:53:27.39 ID:GsMZfT7b.net
秀次粛清は秀吉の意思だ
むしろ三成は秀次の助命嘆願した説もあるが
もし秀次が生きていたら秀頼及び政権中枢にいる自分たち全てを殺しかねないからな
秀次はかわいそうとか言われているが女何十人を自分のものにした最悪の野郎
ひで

399 :人間七七四年:2023/08/06(日) 05:10:19.23 ID:GsMZfT7b.net
秀頼のことを考えれば粛清は仕方ない話なのかも知れない
北条幕府における平や長崎のような身内人という扱いにしても良かったかも知れないがそれでも危険だ
また三成は上杉に力を与えたが当然秀吉の了承済みだ
あくまでも豊臣政権の永続を願い多少独善的ではあっても豊臣政権のために動いていたのは事実だ
朝鮮征伐の時は小西と通じ戦争をやめさせようと動いていたのは事実
おかげで今も国粋主義のアホどもからは評判悪いがな
また長束増田あたりはその権力を駆使して相当な資産を溜め込んでいたが三成は普段から主君に奉公する、己の欲望の

400 :人間七七四年:2023/08/06(日) 05:20:41.57 ID:GsMZfT7b.net
、己の欲望のために私腹を肥やす事を嫌いせいぜい戦になったときのための最低限の資産はためてたにせよ佐和山城が落城した時はほとんど財産が残っていなかったとか
豊臣政権崩壊の要因は秀吉一族にあり三成ら奉行連中はさんざん秀吉に振り回されただけ
あと千利休がかわいそう、三成ら許さないという声もあるが千利休が

401 :人間七七四年:2023/08/06(日) 05:27:34.99 ID:GsMZfT7b.net
もしかして千利休が聖人だと思っているのか
千利休は秀吉の寵愛をいいことにさんざん政治に口出し私腹を肥やし影で外国人から武器を購入したりととんでもない人間だ
三成や大谷らにしてみれば政治の世界から出ていってもらうのは当然だが切腹はせんの

402 :人間七七四年:2023/08/06(日) 05:43:06.90 ID:GsMZfT7b.net
切腹は千利休の意思だ
ただ千利休は多くの大名かは神様扱いされた人物で三成らは悪役にされてしまった
三成らの行動を見るとあくまでも豊臣政権のための行動であり責められるものではない
朝鮮成敗は秀吉の意思だし秀次粛清も秀吉の意思だ
本当は秀吉を憎みたいがその憎む対象が三成ら奉行にいってしまったのはむしろ気の毒だな
秀吉がもう少し頭よかったらと悔やまれる
それにしてもバカの一つ覚えの三成アンチがひどいな
江戸時代の5ちゃんねるだな
ひたすら徳川マンセー三成叩く
お前らが生きる価値ってあるの?何のために生きてるの?三成って今めちゃくちゃ人気あるんよ
井伊マンサーの彦根市でさえ近年は三成人気に屈服して石田三成大河招致に動いているし
あと人間的に本多正信の方が相当いかれているし

403 :人間七七四年:2023/08/06(日) 10:44:07.17 ID:+hxcjCzs.net
ただの酔っ払いの文章で内容がほぼ主観
5ちゃんねるはいつの時代も変わらない

404 :人間七七四年:2023/08/06(日) 10:54:59.38 ID:lGcp57CN.net
上の方はかなり1次(写しなので実際は2次)資料で語り合ってるのに、
資料提示なく何レスに渡って長文思い込み文章垂れ流されてもなあ。

しかし毛利家や吉川家は、なんであんなにぽこじゃがと書状が出てくるんだろう?

405 :人間七七四年:2023/08/06(日) 11:27:04.96 ID:l9Jw7q2V.net
毛利家が西軍の総大将だったからじゃないの
輝元が西軍の中心人物なのは徳川の知るところな訳でいつ毛利が徳川に弓引いた罪で潰されるかわからない
その時に何の証拠も無しに輝元は知らなかった云々言っても聞き入れられないだろう
それで毛利家や吉川家はあくまで自分達に都合が良い書状を集めてたんだろう。実際そうした潤色捏造の影がある史料集だし

406 :人間七七四年:2023/08/06(日) 11:48:09.38 ID:IC3enwci.net
証拠隠滅文書捏造改竄はこの頃の毛利から始まり
現代まで連綿と続く長州のお家芸

407 :人間七七四年:2023/08/06(日) 12:51:00.53 ID:U+hY+jx+.net
別に毛利に限った話じゃないがな
残したらまずい書状の処分なんてどこの家でもやってることだし
それに全部が全部怪しいというわけでもなく、内容を鵜呑みに出来ない吉川家文書913号や917号など吉川広家の関ヶ原
に関連するいくつかの文書と、萩藩閥閲録や毛利三代実録なんかに収録されてる各家に伝来する感状類くらいのもの

毛利にとって都合の悪い関ヶ原時の阿波や伊予攻めの史料は江戸中期に編纂された閥閲録所収の書状によるところが大きいしそういう史料も残してる

408 :人間七七四年:2023/08/06(日) 13:07:55.79 ID:+i3qLP+V.net
>>400
まずは>>358を読んでほしい

409 :人間七七四年:2023/08/06(日) 13:48:35.57 ID:lGcp57CN.net
言うても出てくるのって割と毛利側に都合悪い資料多くないか?
それ残してたら有罪確定じゃん!?ってやつ。

それはそれとして、9月12日の吉川や益田の書状と9月15日の輝元の国元への書状、
9月17日の吉川広家の書状で、
毛利勢の戦況認識と敗北までの流れが明確になっているのは貴重。

てか、石田ら奉行衆は何がしたかったのよ?
岐阜城を救援するわけでもない。
大垣城後方の赤坂を取られても防戦するわけでもない。
(てか、そこ素通りさせるなら大垣城に入る意味皆無)
南宮山にろくに撤退の連絡すら入れてない。
その撤退も「佐和山に二重引き」するはずなのに関ヶ原でも一番開けたところに全軍で布陣して誰も逃げられていない。

少なくとも、近江まで退却できてれば大津城落とした軍勢と合流する目もあったろうに。

410 :人間七七四年:2023/08/06(日) 20:53:39.31 ID:Sqs33r1G.net
まず前提として大垣を預かった三成は二万程度と軍勢が少ない、これで東軍先手衆約4万の猛攻を受ける事となった
岐阜城は籠城に向かない城なので迎撃に出るのは明らかなので三成達も後詰に行ったが想定外の事態が二つあった
まず同じく岐阜を支える筈の犬山城が家康に内通していて動かなかった、まぁこれは東軍の守備隊も居たのでそこまで影響は無かったかもだが
大きかったのは裏切りによって即座に竹ヶ鼻城が落ちたこと、竹ヶ鼻は岐阜城もだが大垣城にも近い急所にある
つまり後詰にくる大垣衆を迎え撃つことも大垣衆が岐阜城に後詰した直後に大垣を攻撃することも可能、これで大垣は全力出撃出来なくなった
それでも岐阜を守ろうと出撃したが特出した東軍先手衆に逆に返り討ち
つまり助けたくても助けられなかった。三成や織田秀信の軍才よりもそもそもの兵力不足が原因では無いか。流石に二万とかでは…

411 :人間七七四年:2023/08/06(日) 20:59:20.33 ID:TyJSz8gk.net
そんで東軍は赤坂はおろか垂井まで進出したので仰る通り大垣は石としては死に同然
でもこれ以上の失地は防がねばならないので西軍は踏み止まった。ただこれは長束正家と恵瓊の決定らしく三成の意思がどれだけあるかわからない
西軍が動かなかったのは少ない兵力を補充してたのと東軍が何故か動かなかったからだと思われる
まぁ取られてる範囲が範囲なので数的不利抱えてる中戦端を拓くのはマズイとでも思ってたんだろう

412 :人間七七四年:2023/08/06(日) 21:43:15.63 ID:I8qqeoSc.net
>>404
写しでも偽書じゃなきゃ一次史料扱いになるよ
天災や火事で失われたりして全て原本が残ってるわけじゃないし、研究者も普通に写しの書状を一次史料として扱ってる

413 :人間七七四年:2023/08/06(日) 21:50:15.32 ID:ec56rJSQ.net
>>410
2万は浜松にいる保科の書状だから、もう少しいたんじゃないかな?
3万くらい
じゃないと、石田と島津と小西と宇喜多が出て行って福原たちが大垣城に残った、
とあるから、山中方面に向かったのは2万以下ってことになると思うし

ただ、なぜ大垣城に兵を残したんだろうな
もう言われる通り大垣城は死に体だから、全軍で出撃して向かったほうがまだマシだったろうに
やはり石田三成には軍才が無さすぎる

414 :人間七七四年:2023/08/06(日) 21:51:11.25 ID:BcKJwaO3.net
輝元に大軍を動かす才能も度胸もないのは誰にでもわかってたことだろう

415 :人間七七四年:2023/08/06(日) 21:51:40.08 ID:ec56rJSQ.net
>>409
あの書状の「二重引き」ってどういう意味なんだろ?
石田たちと、それを追いかけた大谷で「二重」に引くという意味?

416 :人間七七四年:2023/08/06(日) 21:53:30.19 ID:hOMl2OLq.net
>>415
山中まで退いて、さらに佐和山に退くという意味

417 :人間七七四年:2023/08/06(日) 21:59:58.47 ID:ec56rJSQ.net
>>416
ありがとうございます
ということは、大垣に残した福原たちは見殺しにする気だったのね……

418 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:06:24.30 ID:hOMl2OLq.net
>>417
まあそれは吉川の観測だけだからね
勝手な裏切りについて輝元に釈明する文脈だしね

419 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:11:10.42 ID:+i3qLP+V.net
宇喜多は岐阜城落ちるまで伊勢だぞ

420 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:16:54.69 ID:ec56rJSQ.net
>>419
??
8月29日の保科書状で宇喜多の名前があるから、8月下旬には大垣にいたんじゃないの?

421 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:18:34.24 ID:lGcp57CN.net
>>417
>>418
というか、吉川や毛利も纏めて見殺しにされた形。
大垣城はまだ場内で話し合いの上での出撃と残留だけど、南宮山勢は(吉川書状を信じるなら)完全に置いてけぼり。

よく毛利吉川が徳川の背後をついていればと言われるけど、東軍が普通に警戒している中、
山に築いた陣地を捨てて1.5倍~2倍の戦力に突っ込めということだから、そりゃあしないわなと。

422 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:26:24.61 ID:+i3qLP+V.net
>>420
27日まで長島攻めてない?

423 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:33:05.71 ID:U+hY+jx+.net
9月17日の吉川広家書状(吉川家文書913号)も白峰氏が言うように研究が進んで広家の自己弁護
のフェイクがどこまで入ってて、どの部分が真実なのかが明らかになるといいんだけどな

吉川書状だと三成らが大垣から出撃した理由は秀秋の逆意が明らかになったので大谷隊救援のためとあるけど大谷と合流した形跡はないし

424 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:39:58.51 ID:OoW0QpjL.net
宇喜多秀家研究は詳しく無いけど
義演准后日記によると八月十五日に宇喜多軍一万が醍醐を通過したとある
二十三日には岐阜城が陥落、二十七日の禁制に三成と署名してるからこの時までには大垣に入っていたのは間違いない
秀家が岐阜城攻防戦で何かしたって話は聞かないしまだいないか、いても長旅の疲労で兵が動けなかったのかもしれない

425 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:43:21.46 ID:U+hY+jx+.net
>>422
宇喜多は安濃津攻めの後恐らくすぐ大垣に向かってると思うよ
8月27日付のはやし村(岐阜県大垣市)に宛てた禁制に宇喜多も島津・小西・石田と共に連署していて花押も据えられてる

426 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:44:01.94 ID:hOMl2OLq.net
>>421
佐和山まで本当に二重引きしてたらそうだけど
「佐和山へ二重引き可仕覚悟に相見へ候」
見えましたってだけではある

427 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:49:22.57 ID:ec56rJSQ.net
仮に8月27日まで宇喜多が伊勢にいて、そのあとに大垣に入ったとしたら、どうやって
入城したんだって話になるよ

既に8月23日の時点で赤坂まで抑えられてる
そこに宇喜多の万余の軍勢が入るのを東軍は見ていた、ということなのか?

428 :人間七七四年:2023/08/06(日) 23:03:27.84 ID:1P6QpItF.net
秀家いたなら岐阜にまともな援軍送らず見殺しにした三成秀家小西がとんでもない無能になっちゃう

429 :人間七七四年:2023/08/06(日) 23:12:57.03 ID:U+hY+jx+.net
>>424
岐阜城の戦いの少し前の秀家の動向は8月18日付明石掃部頭宛戸川達安書状で
「秀家何ニ御在陣候哉、貴殿御そはニ無之儀不審ニ存候事」

この戸川の問いに対して8月19日付戸川達安宛明石掃部頭書状で
「秀家事伏見落城之後ハ大坂被罷下候、又此比ハ草津表被罷出在陣之事候」
と19日の時点で秀家は草津に在陣してると答えてる

430 :人間七七四年:2023/08/06(日) 23:16:41.45 ID:lGcp57CN.net
>>426
文書が言い訳かどうかは主観言い訳が入るとしても、14日の布陣と15日の布陣の変化を見ると、
どう考えても西軍が南宮山を捨て石にしてるとしか思えない。

誰のかは忘れたけど、吉川ではなく東軍側の書状でも西軍が東軍を避けて南宮山の南から関ヶ原に抜けたという記述がある。

本当に大垣勢と南宮山勢が打ち合わせているなら、南宮山勢もこの夜が、唯一無事に陣を払えるタイミングなわけで。

431 :人間七七四年:2023/08/07(月) 01:11:44.00 ID:CVVkswDr.net
小早川秀秋は元々西軍の指示に従ってない危険因子だったけど松尾山を取ったことで東軍に与したことは明らかになった、と同時に大垣は致命傷を負った
垂井まで東軍に取られてるから大垣の補給路は佐和山からのルートくらいしか無く松尾山はその真ん前にある。ここを東軍に取られたら大垣は戦えない、だから大垣衆は出撃した
でもそれは南宮山の毛利軍には逃走と受け取られたしそれは仕方が無い
毛利軍に山降りて貰って松尾山攻撃とかやってる時間は無かっただろうしまぁ詰んでる

432 :人間七七四年:2023/08/07(月) 04:25:30.58 ID:9VSKWM2W.net
Enpediaだと

小早川秀秋の裏切り→大垣城出撃して山中へ
あるいは何らかの理由で山中方面に出撃→東軍追撃して山中合戦と同時に裏切り

らしいね
どちらが正しいんだろ?

433 :人間七七四年:2023/08/07(月) 08:18:10.89 ID:CVVkswDr.net
吉川家文書だと十四日夜までに小早川秀秋裏切りで十五日関ヶ原合戦となってる
守りの堅い大垣から関ヶ原に移動する理由は無いし松尾山を乗っ取られたから急遽移動したって説明は筋が通ってる

434 :人間七七四年:2023/08/07(月) 08:24:14.87 ID:gCXuUwka.net
赤坂取られた時点でリーチ、毛利勢が到着して家康本隊が到着するまでの、兵力が拮抗している間に戦端を開かなかった時点で詰みでしょ。

9月12日に家康到着を知った西軍諸将の書状ではもはや浮足立って戦える状態ではないし。
吉川文書も17日のは保身が入ったものかもしれないけど、敗北前の12日の書状はガチの焦りが伝わるし。

その上で、関ヶ原でわざわざ戦ったと言うよりは関ヶ原で捕捉されて逃げることも叶わなかった、というところでしょう。

435 :人間七七四年:2023/08/07(月) 17:44:52.71 ID:upcb8A0s.net
>>429
おお、凄い
草津だとすると大垣まで約一日?大軍連れてるから二、三日は掛かるか?
ってことは岐阜城の戦いには僅かに間に合わなかったか

436 :人間七七四年:2023/08/07(月) 21:18:39.74 ID:SqmCsgqw.net
関ヶ原で負けた連中が佐和山に逃げなかった事からも西軍の認識が出てるんじゃないか

437 :人間七七四年:2023/08/07(月) 21:31:28.27 ID:eqXqujiz.net
白峰氏は秀秋が9月14日に松尾山に入ったとする史料は寛永諸家系図伝や寛政重修諸家譜の
二次史料にしかない点を指摘していてゼロから秀秋がどこにいたかを考え直す必要があると言ってるな

しかし吉川書状だと東軍先手が動いたことで秀秋が逆意を表し、山中にいた大谷救援のため
三成らは出撃したんだから、方角的には秀秋が松尾山付近にいてもなんらおかしくはない
新史料でも見つからない限り現状だと通説を覆すのは難しそうだ

438 :人間七七四年:2023/08/07(月) 21:45:16.11 ID:eqXqujiz.net
また8月29日付保科正光書状に秀秋が大垣に籠城していた記述があるが、白峰氏はこれは徳川方の
先手からの情報で精度は高いとしており、秀秋は大垣から関ヶ原へ向かった可能性を指摘してる

しかし8月27日付はやし村(大垣市)宛や9月5日付赤坂西圓寺宛の禁制の連署メンバーは宇喜多・島津・小西・石田の四人で秀秋は含まれていない
また秀秋が9月に発給した成菩提院(滋賀県米原市)に宛てた禁制があるが日付がないから合戦前なのか
後なのか不明だけど、合戦前のものだとするとこの辺りから関ヶ原方面へ移動した可能性は高そう

439 :人間七七四年:2023/08/08(火) 04:51:36.19 ID:A64nC+fI.net
三成はそもそも何考えてたんだろうか
大垣城を出て山中に向かうとしても、できる限り隠密にやらないといけないはずなのに、
大垣城の外郭を焼いた上で向かったらしいし
そもそも東軍に追撃されるとか考えてなかったのかな?

440 :人間七七四年:2023/08/08(火) 08:29:14.55 ID:6pDgiGA8.net
赤坂から垂井まで東軍が居る中バレずに山中に行くのは不可能、大垣は攻められるので曲輪を焼く
ってのはわかる
ただ関ヶ原まで行ってなにするつもりだったのか
多分速攻で松尾山を奪還して大垣・南宮山・松尾山と広い範囲で東軍を迎え撃つつもりだったのかもしれない

441 :人間七七四年:2023/08/08(火) 08:59:35.66 ID:HXf11Pk8.net
>>440
万が一、億が一で松尾山奪還が成功したとしても何の意味もなくない?
大垣城が普通に攻められて落城、進退窮まった(or内応してた)南宮山降伏、追撃されて惨敗の未来しかない。

大垣城と南宮山を捨て石にして近江まで全力撤退か、追撃を避けるなら関ヶ原を避けて伊勢路から撤退しかなかったかと。

442 :人間七七四年:2023/08/08(火) 09:04:00.75 ID:Roiw73hF.net
松尾山城を速攻で落とすの?

443 :人間七七四年:2023/08/08(火) 09:34:03.81 ID:JgPmMBoZ.net
大垣城は普通に堅城だよ
西軍の本体が健在の状況で城攻めは危険極まりないと思うんだが

西軍は10日も膠着状態に持ちこめば戦術的勝利だとおもうんだけど。

444 :人間七七四年:2023/08/08(火) 09:37:45.08 ID:JgPmMBoZ.net
大体、西軍は招き忘れた味方を集結させるって目標がある様に思えるんですがね

家康が自軍の主力を集中させてるのは賭けですよ
史実は一日の野戦ですんでるが、関ヶ原封鎖されて10日も経過したらどうなる

445 :人間七七四年:2023/08/08(火) 09:57:32.22 ID:RX7YYwfu.net
三成が山中に行ってるからまず退却の可能性は無い。逃げるんだったら松尾山を少数で牽制して佐和山まで逃げてるはず
ただ大垣城は確かに既に死んでる。垂井まで取られてるから補給が難しいのに松尾山を取られたらもう大垣は補給が出来ないから兵糧攻めにされる

446 :人間七七四年:2023/08/08(火) 10:15:17.68 ID:JgPmMBoZ.net
家康は、奥州方面の敵軍放置して東海道に出てるんだよね
西軍主力を叩けない状況で膠着したら戦術的敗北で、兵糧攻めとかしてる余裕はない

関ヶ原に出たのは、野戦でも勝てるし、膠着状態でも戦略的には勝利の読みだと思うが
家康が一度関東に戻るなら、実質敗走したのと同じ事になるのに

447 :人間七七四年:2023/08/08(火) 10:36:50.55 ID:Nl5WJAOi.net
疑問なのは、なんで一時的に兵力を上回った段階で赤坂垂井の奪還、無理なら撤退に動かなかったんだろうね?

宇喜多隊到着~東軍先手衆本軍着陣までの間と、
毛利吉川等到着~家康本隊赤坂入りまでの間は西軍のほうが上回っている。

上回ったら勝てるもんではないにしても、待てば待つほど東軍有利になるし、
そもそも大垣城を無視して(抑えを置いて)西進されたら完全に終わる。

448 :人間七七四年:2023/08/08(火) 11:13:06.13 ID:RX7YYwfu.net
西軍は動けない
数的優位といっても絶対的優位には無い
大垣城が取られたら終わりなので動かせない
また南宮山の毛利軍は安国寺恵瓊と吉川広家毛利秀元で指揮系統が両断されてる
なのでこいつら多分動かない、少なくとも西軍のために被害を被る先陣は拒否される
それに大垣城は糧食不足でそちらの充填の方が先だったのかもしれない。九月十二日に三成は苅田を主張したけど正家らに近江からの補給で賄うことにされたと書状でぼやいてるし

449 :人間七七四年:2023/08/08(火) 11:22:06.66 ID:A64nC+fI.net
>>440
万の軍勢を動かすからばれるのはわかってる
でもそれを自分たちから教えるような真似をする意味あるの? ということ

朝倉義景も越前に退却する前に陣を焼いて信長に撤退を教えてしまい、結果的に
信長自ら激しい追撃を受けて壊滅した

450 :人間七七四年:2023/08/08(火) 11:24:57.26 ID:A64nC+fI.net
西軍が兵力優位って?
島津はわずかな兵力だし、宇喜多は前年の御家騒動で家臣が大量退去して急いで新規召し抱えしてるけど
それで賄えたのか、賄えたとしても戦力大幅ダウンなのではと思いたくなるし、
小西は6年も朝鮮にいたから、兵力はかなり消耗したまま関ヶ原になったんじゃないかと思いたくなるんだけど

本当に西軍は兵力優位なの?

451 :人間七七四年:2023/08/08(火) 11:47:57.13 ID:ze4Wwhuq.net
東軍も西軍も長期戦の考えで動いてる
短期戦で終わったのは西軍の動きがバラバラで家康が上手く戦機を捉えたから
西軍はまず内部統制をなんとかしないと

452 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:18:30.10 ID:yxVAK4qa.net
>>450
一時的な間だけの数的優位な。
8月後半の宇喜多着陣から東軍先手衆集結までの数日間は、赤坂においては東軍が約2万に対し西軍が3万5000。
その後、先手衆赤坂着陣で東軍5万5000で逆転、毛利勢到着で西軍6万5000で再逆転。
12日家康が赤坂に到着、家康本隊到着で東軍8万5000。
この後の増援可能性は西軍が大津城攻略部隊1万5000に対して東軍が秀忠隊3万なので西軍が不利になるばかり。

ただしここに両軍とも小早川隊はカウントしてないから、小早川隊が明確に東軍になった14日時点で10万対6万5000で勝負はついた。

453 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:19:01.56 ID:Q7tqOfnc.net
ただの奉行の三成の言う事なんか聞いてくれない

454 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:29:56.28 ID:A64nC+fI.net
>>453
しょせんは秀吉の後ろ盾あっての奉行でしかないのね……
こういう場合は、周りに人徳を見せて周囲を敬服させるのがベストなんだけど
まあ三成じゃそんなの絶対に無理だろうね

455 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:33:01.23 ID:A64nC+fI.net
>>449
そもそもあの書状の刈田っておかしくない?
刈田するってどこをするのよ
大垣は西軍の伊藤盛正の所領だよ、味方の所領を刈田したらダメでしょ
一番近い敵領って岐阜方面だけど、大垣から岐阜はあまりに危険すぎる
かといって赤坂垂井に東軍がいるから、刈田も難しい
長束が反対するのは当然だと思うんだけど……

456 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:45:34.90 ID:6pDgiGA8.net
もうそんなことごちゃごちゃ言ってる場合じゃないし
大垣城が絶体絶命なのは明らかで至急兵糧入れが必要だもの
仮に大垣が落ちても苅田してればそれは東軍へのダメージになるというネガティブな発想もあるかもしれんが

457 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:48:59.04 ID:36ZSGf6f.net
東軍は家康という誰もが認めて命令に服する大物が総大将だけど西軍はその辺がどうにも頼りなかったな
立花宗茂だの島津義弘だの個々の戦闘要員がいかに強くても所詮手足に過ぎなくて
肝心な全体の戦略を建てて指揮命令する頭が家康に比べて戦歴も格も数段落ちるし思惑もバラバラ
過大評価するわけでなく当時家康にサシで対抗できるだけの戦歴と格を持った大名っていたんだろうか
前田利家の名前がよく上がるけど正直天下を二つに割った一方の勢力を率いるタマでは全くないと思う

458 :人間七七四年:2023/08/08(火) 13:12:11.75 ID:A64nC+fI.net
自分たちは未来人で西軍総大将の輝元がどうしようもないおバカだとわかってるけど
当時のリアルタイムでの輝元の評価ってどうなの?
家康とやりあえるような人物と思われていたのかな?

459 :人間七七四年:2023/08/08(火) 13:14:29.60 ID:A64nC+fI.net
>>456
もうあの場合、大垣城はあきらめて城に火をはなって逃走
佐和山城に逃げて抗戦し、大津や田辺、伊勢にいる軍勢に後詰させて後詰決戦するしか
手はないんじゃないのかな?

460 :人間七七四年:2023/08/08(火) 14:16:30.64 ID:ze4Wwhuq.net
>>458
諸大名の輝元評は知らないな
ただ秀吉が輝元をどう扱ったかを諸大名は見ている
秀吉の評価が輝元の評価ということでいいんじゃないの
大毛利の当主で西国衆の筆頭とはいえ小早川隆景とセットで扱ってたし家康よりは明らかに格下
家康の対抗馬にしたてられたのは毛利でも上杉でもなく前田利家だし

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