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石田三成の挙兵 ★6

1 :人間七七四年:2023/07/01(土) 17:55:14.09 ID:pp0jbPin.net
石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/
石田三成の挙兵 ★2
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1659567400/

石田三成の挙兵 ★3
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1667713567/

石田三成の挙兵 ★4
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1675638266/

石田三成の挙兵 ★5
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1681718599/l50

399 :人間七七四年:2023/08/06(日) 05:10:19.23 ID:GsMZfT7b.net
秀頼のことを考えれば粛清は仕方ない話なのかも知れない
北条幕府における平や長崎のような身内人という扱いにしても良かったかも知れないがそれでも危険だ
また三成は上杉に力を与えたが当然秀吉の了承済みだ
あくまでも豊臣政権の永続を願い多少独善的ではあっても豊臣政権のために動いていたのは事実だ
朝鮮征伐の時は小西と通じ戦争をやめさせようと動いていたのは事実
おかげで今も国粋主義のアホどもからは評判悪いがな
また長束増田あたりはその権力を駆使して相当な資産を溜め込んでいたが三成は普段から主君に奉公する、己の欲望の

400 :人間七七四年:2023/08/06(日) 05:20:41.57 ID:GsMZfT7b.net
、己の欲望のために私腹を肥やす事を嫌いせいぜい戦になったときのための最低限の資産はためてたにせよ佐和山城が落城した時はほとんど財産が残っていなかったとか
豊臣政権崩壊の要因は秀吉一族にあり三成ら奉行連中はさんざん秀吉に振り回されただけ
あと千利休がかわいそう、三成ら許さないという声もあるが千利休が

401 :人間七七四年:2023/08/06(日) 05:27:34.99 ID:GsMZfT7b.net
もしかして千利休が聖人だと思っているのか
千利休は秀吉の寵愛をいいことにさんざん政治に口出し私腹を肥やし影で外国人から武器を購入したりととんでもない人間だ
三成や大谷らにしてみれば政治の世界から出ていってもらうのは当然だが切腹はせんの

402 :人間七七四年:2023/08/06(日) 05:43:06.90 ID:GsMZfT7b.net
切腹は千利休の意思だ
ただ千利休は多くの大名かは神様扱いされた人物で三成らは悪役にされてしまった
三成らの行動を見るとあくまでも豊臣政権のための行動であり責められるものではない
朝鮮成敗は秀吉の意思だし秀次粛清も秀吉の意思だ
本当は秀吉を憎みたいがその憎む対象が三成ら奉行にいってしまったのはむしろ気の毒だな
秀吉がもう少し頭よかったらと悔やまれる
それにしてもバカの一つ覚えの三成アンチがひどいな
江戸時代の5ちゃんねるだな
ひたすら徳川マンセー三成叩く
お前らが生きる価値ってあるの?何のために生きてるの?三成って今めちゃくちゃ人気あるんよ
井伊マンサーの彦根市でさえ近年は三成人気に屈服して石田三成大河招致に動いているし
あと人間的に本多正信の方が相当いかれているし

403 :人間七七四年:2023/08/06(日) 10:44:07.17 ID:+hxcjCzs.net
ただの酔っ払いの文章で内容がほぼ主観
5ちゃんねるはいつの時代も変わらない

404 :人間七七四年:2023/08/06(日) 10:54:59.38 ID:lGcp57CN.net
上の方はかなり1次(写しなので実際は2次)資料で語り合ってるのに、
資料提示なく何レスに渡って長文思い込み文章垂れ流されてもなあ。

しかし毛利家や吉川家は、なんであんなにぽこじゃがと書状が出てくるんだろう?

405 :人間七七四年:2023/08/06(日) 11:27:04.96 ID:l9Jw7q2V.net
毛利家が西軍の総大将だったからじゃないの
輝元が西軍の中心人物なのは徳川の知るところな訳でいつ毛利が徳川に弓引いた罪で潰されるかわからない
その時に何の証拠も無しに輝元は知らなかった云々言っても聞き入れられないだろう
それで毛利家や吉川家はあくまで自分達に都合が良い書状を集めてたんだろう。実際そうした潤色捏造の影がある史料集だし

406 :人間七七四年:2023/08/06(日) 11:48:09.38 ID:IC3enwci.net
証拠隠滅文書捏造改竄はこの頃の毛利から始まり
現代まで連綿と続く長州のお家芸

407 :人間七七四年:2023/08/06(日) 12:51:00.53 ID:U+hY+jx+.net
別に毛利に限った話じゃないがな
残したらまずい書状の処分なんてどこの家でもやってることだし
それに全部が全部怪しいというわけでもなく、内容を鵜呑みに出来ない吉川家文書913号や917号など吉川広家の関ヶ原
に関連するいくつかの文書と、萩藩閥閲録や毛利三代実録なんかに収録されてる各家に伝来する感状類くらいのもの

毛利にとって都合の悪い関ヶ原時の阿波や伊予攻めの史料は江戸中期に編纂された閥閲録所収の書状によるところが大きいしそういう史料も残してる

408 :人間七七四年:2023/08/06(日) 13:07:55.79 ID:+i3qLP+V.net
>>400
まずは>>358を読んでほしい

409 :人間七七四年:2023/08/06(日) 13:48:35.57 ID:lGcp57CN.net
言うても出てくるのって割と毛利側に都合悪い資料多くないか?
それ残してたら有罪確定じゃん!?ってやつ。

それはそれとして、9月12日の吉川や益田の書状と9月15日の輝元の国元への書状、
9月17日の吉川広家の書状で、
毛利勢の戦況認識と敗北までの流れが明確になっているのは貴重。

てか、石田ら奉行衆は何がしたかったのよ?
岐阜城を救援するわけでもない。
大垣城後方の赤坂を取られても防戦するわけでもない。
(てか、そこ素通りさせるなら大垣城に入る意味皆無)
南宮山にろくに撤退の連絡すら入れてない。
その撤退も「佐和山に二重引き」するはずなのに関ヶ原でも一番開けたところに全軍で布陣して誰も逃げられていない。

少なくとも、近江まで退却できてれば大津城落とした軍勢と合流する目もあったろうに。

410 :人間七七四年:2023/08/06(日) 20:53:39.31 ID:Sqs33r1G.net
まず前提として大垣を預かった三成は二万程度と軍勢が少ない、これで東軍先手衆約4万の猛攻を受ける事となった
岐阜城は籠城に向かない城なので迎撃に出るのは明らかなので三成達も後詰に行ったが想定外の事態が二つあった
まず同じく岐阜を支える筈の犬山城が家康に内通していて動かなかった、まぁこれは東軍の守備隊も居たのでそこまで影響は無かったかもだが
大きかったのは裏切りによって即座に竹ヶ鼻城が落ちたこと、竹ヶ鼻は岐阜城もだが大垣城にも近い急所にある
つまり後詰にくる大垣衆を迎え撃つことも大垣衆が岐阜城に後詰した直後に大垣を攻撃することも可能、これで大垣は全力出撃出来なくなった
それでも岐阜を守ろうと出撃したが特出した東軍先手衆に逆に返り討ち
つまり助けたくても助けられなかった。三成や織田秀信の軍才よりもそもそもの兵力不足が原因では無いか。流石に二万とかでは…

411 :人間七七四年:2023/08/06(日) 20:59:20.33 ID:TyJSz8gk.net
そんで東軍は赤坂はおろか垂井まで進出したので仰る通り大垣は石としては死に同然
でもこれ以上の失地は防がねばならないので西軍は踏み止まった。ただこれは長束正家と恵瓊の決定らしく三成の意思がどれだけあるかわからない
西軍が動かなかったのは少ない兵力を補充してたのと東軍が何故か動かなかったからだと思われる
まぁ取られてる範囲が範囲なので数的不利抱えてる中戦端を拓くのはマズイとでも思ってたんだろう

412 :人間七七四年:2023/08/06(日) 21:43:15.63 ID:I8qqeoSc.net
>>404
写しでも偽書じゃなきゃ一次史料扱いになるよ
天災や火事で失われたりして全て原本が残ってるわけじゃないし、研究者も普通に写しの書状を一次史料として扱ってる

413 :人間七七四年:2023/08/06(日) 21:50:15.32 ID:ec56rJSQ.net
>>410
2万は浜松にいる保科の書状だから、もう少しいたんじゃないかな?
3万くらい
じゃないと、石田と島津と小西と宇喜多が出て行って福原たちが大垣城に残った、
とあるから、山中方面に向かったのは2万以下ってことになると思うし

ただ、なぜ大垣城に兵を残したんだろうな
もう言われる通り大垣城は死に体だから、全軍で出撃して向かったほうがまだマシだったろうに
やはり石田三成には軍才が無さすぎる

414 :人間七七四年:2023/08/06(日) 21:51:11.25 ID:BcKJwaO3.net
輝元に大軍を動かす才能も度胸もないのは誰にでもわかってたことだろう

415 :人間七七四年:2023/08/06(日) 21:51:40.08 ID:ec56rJSQ.net
>>409
あの書状の「二重引き」ってどういう意味なんだろ?
石田たちと、それを追いかけた大谷で「二重」に引くという意味?

416 :人間七七四年:2023/08/06(日) 21:53:30.19 ID:hOMl2OLq.net
>>415
山中まで退いて、さらに佐和山に退くという意味

417 :人間七七四年:2023/08/06(日) 21:59:58.47 ID:ec56rJSQ.net
>>416
ありがとうございます
ということは、大垣に残した福原たちは見殺しにする気だったのね……

418 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:06:24.30 ID:hOMl2OLq.net
>>417
まあそれは吉川の観測だけだからね
勝手な裏切りについて輝元に釈明する文脈だしね

419 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:11:10.42 ID:+i3qLP+V.net
宇喜多は岐阜城落ちるまで伊勢だぞ

420 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:16:54.69 ID:ec56rJSQ.net
>>419
??
8月29日の保科書状で宇喜多の名前があるから、8月下旬には大垣にいたんじゃないの?

421 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:18:34.24 ID:lGcp57CN.net
>>417
>>418
というか、吉川や毛利も纏めて見殺しにされた形。
大垣城はまだ場内で話し合いの上での出撃と残留だけど、南宮山勢は(吉川書状を信じるなら)完全に置いてけぼり。

よく毛利吉川が徳川の背後をついていればと言われるけど、東軍が普通に警戒している中、
山に築いた陣地を捨てて1.5倍~2倍の戦力に突っ込めということだから、そりゃあしないわなと。

422 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:26:24.61 ID:+i3qLP+V.net
>>420
27日まで長島攻めてない?

423 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:33:05.71 ID:U+hY+jx+.net
9月17日の吉川広家書状(吉川家文書913号)も白峰氏が言うように研究が進んで広家の自己弁護
のフェイクがどこまで入ってて、どの部分が真実なのかが明らかになるといいんだけどな

吉川書状だと三成らが大垣から出撃した理由は秀秋の逆意が明らかになったので大谷隊救援のためとあるけど大谷と合流した形跡はないし

424 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:39:58.51 ID:OoW0QpjL.net
宇喜多秀家研究は詳しく無いけど
義演准后日記によると八月十五日に宇喜多軍一万が醍醐を通過したとある
二十三日には岐阜城が陥落、二十七日の禁制に三成と署名してるからこの時までには大垣に入っていたのは間違いない
秀家が岐阜城攻防戦で何かしたって話は聞かないしまだいないか、いても長旅の疲労で兵が動けなかったのかもしれない

425 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:43:21.46 ID:U+hY+jx+.net
>>422
宇喜多は安濃津攻めの後恐らくすぐ大垣に向かってると思うよ
8月27日付のはやし村(岐阜県大垣市)に宛てた禁制に宇喜多も島津・小西・石田と共に連署していて花押も据えられてる

426 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:44:01.94 ID:hOMl2OLq.net
>>421
佐和山まで本当に二重引きしてたらそうだけど
「佐和山へ二重引き可仕覚悟に相見へ候」
見えましたってだけではある

427 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:49:22.57 ID:ec56rJSQ.net
仮に8月27日まで宇喜多が伊勢にいて、そのあとに大垣に入ったとしたら、どうやって
入城したんだって話になるよ

既に8月23日の時点で赤坂まで抑えられてる
そこに宇喜多の万余の軍勢が入るのを東軍は見ていた、ということなのか?

428 :人間七七四年:2023/08/06(日) 23:03:27.84 ID:1P6QpItF.net
秀家いたなら岐阜にまともな援軍送らず見殺しにした三成秀家小西がとんでもない無能になっちゃう

429 :人間七七四年:2023/08/06(日) 23:12:57.03 ID:U+hY+jx+.net
>>424
岐阜城の戦いの少し前の秀家の動向は8月18日付明石掃部頭宛戸川達安書状で
「秀家何ニ御在陣候哉、貴殿御そはニ無之儀不審ニ存候事」

この戸川の問いに対して8月19日付戸川達安宛明石掃部頭書状で
「秀家事伏見落城之後ハ大坂被罷下候、又此比ハ草津表被罷出在陣之事候」
と19日の時点で秀家は草津に在陣してると答えてる

430 :人間七七四年:2023/08/06(日) 23:16:41.45 ID:lGcp57CN.net
>>426
文書が言い訳かどうかは主観言い訳が入るとしても、14日の布陣と15日の布陣の変化を見ると、
どう考えても西軍が南宮山を捨て石にしてるとしか思えない。

誰のかは忘れたけど、吉川ではなく東軍側の書状でも西軍が東軍を避けて南宮山の南から関ヶ原に抜けたという記述がある。

本当に大垣勢と南宮山勢が打ち合わせているなら、南宮山勢もこの夜が、唯一無事に陣を払えるタイミングなわけで。

431 :人間七七四年:2023/08/07(月) 01:11:44.00 ID:CVVkswDr.net
小早川秀秋は元々西軍の指示に従ってない危険因子だったけど松尾山を取ったことで東軍に与したことは明らかになった、と同時に大垣は致命傷を負った
垂井まで東軍に取られてるから大垣の補給路は佐和山からのルートくらいしか無く松尾山はその真ん前にある。ここを東軍に取られたら大垣は戦えない、だから大垣衆は出撃した
でもそれは南宮山の毛利軍には逃走と受け取られたしそれは仕方が無い
毛利軍に山降りて貰って松尾山攻撃とかやってる時間は無かっただろうしまぁ詰んでる

432 :人間七七四年:2023/08/07(月) 04:25:30.58 ID:9VSKWM2W.net
Enpediaだと

小早川秀秋の裏切り→大垣城出撃して山中へ
あるいは何らかの理由で山中方面に出撃→東軍追撃して山中合戦と同時に裏切り

らしいね
どちらが正しいんだろ?

433 :人間七七四年:2023/08/07(月) 08:18:10.89 ID:CVVkswDr.net
吉川家文書だと十四日夜までに小早川秀秋裏切りで十五日関ヶ原合戦となってる
守りの堅い大垣から関ヶ原に移動する理由は無いし松尾山を乗っ取られたから急遽移動したって説明は筋が通ってる

434 :人間七七四年:2023/08/07(月) 08:24:14.87 ID:gCXuUwka.net
赤坂取られた時点でリーチ、毛利勢が到着して家康本隊が到着するまでの、兵力が拮抗している間に戦端を開かなかった時点で詰みでしょ。

9月12日に家康到着を知った西軍諸将の書状ではもはや浮足立って戦える状態ではないし。
吉川文書も17日のは保身が入ったものかもしれないけど、敗北前の12日の書状はガチの焦りが伝わるし。

その上で、関ヶ原でわざわざ戦ったと言うよりは関ヶ原で捕捉されて逃げることも叶わなかった、というところでしょう。

435 :人間七七四年:2023/08/07(月) 17:44:52.71 ID:upcb8A0s.net
>>429
おお、凄い
草津だとすると大垣まで約一日?大軍連れてるから二、三日は掛かるか?
ってことは岐阜城の戦いには僅かに間に合わなかったか

436 :人間七七四年:2023/08/07(月) 21:18:39.74 ID:SqmCsgqw.net
関ヶ原で負けた連中が佐和山に逃げなかった事からも西軍の認識が出てるんじゃないか

437 :人間七七四年:2023/08/07(月) 21:31:28.27 ID:eqXqujiz.net
白峰氏は秀秋が9月14日に松尾山に入ったとする史料は寛永諸家系図伝や寛政重修諸家譜の
二次史料にしかない点を指摘していてゼロから秀秋がどこにいたかを考え直す必要があると言ってるな

しかし吉川書状だと東軍先手が動いたことで秀秋が逆意を表し、山中にいた大谷救援のため
三成らは出撃したんだから、方角的には秀秋が松尾山付近にいてもなんらおかしくはない
新史料でも見つからない限り現状だと通説を覆すのは難しそうだ

438 :人間七七四年:2023/08/07(月) 21:45:16.11 ID:eqXqujiz.net
また8月29日付保科正光書状に秀秋が大垣に籠城していた記述があるが、白峰氏はこれは徳川方の
先手からの情報で精度は高いとしており、秀秋は大垣から関ヶ原へ向かった可能性を指摘してる

しかし8月27日付はやし村(大垣市)宛や9月5日付赤坂西圓寺宛の禁制の連署メンバーは宇喜多・島津・小西・石田の四人で秀秋は含まれていない
また秀秋が9月に発給した成菩提院(滋賀県米原市)に宛てた禁制があるが日付がないから合戦前なのか
後なのか不明だけど、合戦前のものだとするとこの辺りから関ヶ原方面へ移動した可能性は高そう

439 :人間七七四年:2023/08/08(火) 04:51:36.19 ID:A64nC+fI.net
三成はそもそも何考えてたんだろうか
大垣城を出て山中に向かうとしても、できる限り隠密にやらないといけないはずなのに、
大垣城の外郭を焼いた上で向かったらしいし
そもそも東軍に追撃されるとか考えてなかったのかな?

440 :人間七七四年:2023/08/08(火) 08:29:14.55 ID:6pDgiGA8.net
赤坂から垂井まで東軍が居る中バレずに山中に行くのは不可能、大垣は攻められるので曲輪を焼く
ってのはわかる
ただ関ヶ原まで行ってなにするつもりだったのか
多分速攻で松尾山を奪還して大垣・南宮山・松尾山と広い範囲で東軍を迎え撃つつもりだったのかもしれない

441 :人間七七四年:2023/08/08(火) 08:59:35.66 ID:HXf11Pk8.net
>>440
万が一、億が一で松尾山奪還が成功したとしても何の意味もなくない?
大垣城が普通に攻められて落城、進退窮まった(or内応してた)南宮山降伏、追撃されて惨敗の未来しかない。

大垣城と南宮山を捨て石にして近江まで全力撤退か、追撃を避けるなら関ヶ原を避けて伊勢路から撤退しかなかったかと。

442 :人間七七四年:2023/08/08(火) 09:04:00.75 ID:Roiw73hF.net
松尾山城を速攻で落とすの?

443 :人間七七四年:2023/08/08(火) 09:34:03.81 ID:JgPmMBoZ.net
大垣城は普通に堅城だよ
西軍の本体が健在の状況で城攻めは危険極まりないと思うんだが

西軍は10日も膠着状態に持ちこめば戦術的勝利だとおもうんだけど。

444 :人間七七四年:2023/08/08(火) 09:37:45.08 ID:JgPmMBoZ.net
大体、西軍は招き忘れた味方を集結させるって目標がある様に思えるんですがね

家康が自軍の主力を集中させてるのは賭けですよ
史実は一日の野戦ですんでるが、関ヶ原封鎖されて10日も経過したらどうなる

445 :人間七七四年:2023/08/08(火) 09:57:32.22 ID:RX7YYwfu.net
三成が山中に行ってるからまず退却の可能性は無い。逃げるんだったら松尾山を少数で牽制して佐和山まで逃げてるはず
ただ大垣城は確かに既に死んでる。垂井まで取られてるから補給が難しいのに松尾山を取られたらもう大垣は補給が出来ないから兵糧攻めにされる

446 :人間七七四年:2023/08/08(火) 10:15:17.68 ID:JgPmMBoZ.net
家康は、奥州方面の敵軍放置して東海道に出てるんだよね
西軍主力を叩けない状況で膠着したら戦術的敗北で、兵糧攻めとかしてる余裕はない

関ヶ原に出たのは、野戦でも勝てるし、膠着状態でも戦略的には勝利の読みだと思うが
家康が一度関東に戻るなら、実質敗走したのと同じ事になるのに

447 :人間七七四年:2023/08/08(火) 10:36:50.55 ID:Nl5WJAOi.net
疑問なのは、なんで一時的に兵力を上回った段階で赤坂垂井の奪還、無理なら撤退に動かなかったんだろうね?

宇喜多隊到着~東軍先手衆本軍着陣までの間と、
毛利吉川等到着~家康本隊赤坂入りまでの間は西軍のほうが上回っている。

上回ったら勝てるもんではないにしても、待てば待つほど東軍有利になるし、
そもそも大垣城を無視して(抑えを置いて)西進されたら完全に終わる。

448 :人間七七四年:2023/08/08(火) 11:13:06.13 ID:RX7YYwfu.net
西軍は動けない
数的優位といっても絶対的優位には無い
大垣城が取られたら終わりなので動かせない
また南宮山の毛利軍は安国寺恵瓊と吉川広家毛利秀元で指揮系統が両断されてる
なのでこいつら多分動かない、少なくとも西軍のために被害を被る先陣は拒否される
それに大垣城は糧食不足でそちらの充填の方が先だったのかもしれない。九月十二日に三成は苅田を主張したけど正家らに近江からの補給で賄うことにされたと書状でぼやいてるし

449 :人間七七四年:2023/08/08(火) 11:22:06.66 ID:A64nC+fI.net
>>440
万の軍勢を動かすからばれるのはわかってる
でもそれを自分たちから教えるような真似をする意味あるの? ということ

朝倉義景も越前に退却する前に陣を焼いて信長に撤退を教えてしまい、結果的に
信長自ら激しい追撃を受けて壊滅した

450 :人間七七四年:2023/08/08(火) 11:24:57.26 ID:A64nC+fI.net
西軍が兵力優位って?
島津はわずかな兵力だし、宇喜多は前年の御家騒動で家臣が大量退去して急いで新規召し抱えしてるけど
それで賄えたのか、賄えたとしても戦力大幅ダウンなのではと思いたくなるし、
小西は6年も朝鮮にいたから、兵力はかなり消耗したまま関ヶ原になったんじゃないかと思いたくなるんだけど

本当に西軍は兵力優位なの?

451 :人間七七四年:2023/08/08(火) 11:47:57.13 ID:ze4Wwhuq.net
東軍も西軍も長期戦の考えで動いてる
短期戦で終わったのは西軍の動きがバラバラで家康が上手く戦機を捉えたから
西軍はまず内部統制をなんとかしないと

452 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:18:30.10 ID:yxVAK4qa.net
>>450
一時的な間だけの数的優位な。
8月後半の宇喜多着陣から東軍先手衆集結までの数日間は、赤坂においては東軍が約2万に対し西軍が3万5000。
その後、先手衆赤坂着陣で東軍5万5000で逆転、毛利勢到着で西軍6万5000で再逆転。
12日家康が赤坂に到着、家康本隊到着で東軍8万5000。
この後の増援可能性は西軍が大津城攻略部隊1万5000に対して東軍が秀忠隊3万なので西軍が不利になるばかり。

ただしここに両軍とも小早川隊はカウントしてないから、小早川隊が明確に東軍になった14日時点で10万対6万5000で勝負はついた。

453 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:19:01.56 ID:Q7tqOfnc.net
ただの奉行の三成の言う事なんか聞いてくれない

454 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:29:56.28 ID:A64nC+fI.net
>>453
しょせんは秀吉の後ろ盾あっての奉行でしかないのね……
こういう場合は、周りに人徳を見せて周囲を敬服させるのがベストなんだけど
まあ三成じゃそんなの絶対に無理だろうね

455 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:33:01.23 ID:A64nC+fI.net
>>449
そもそもあの書状の刈田っておかしくない?
刈田するってどこをするのよ
大垣は西軍の伊藤盛正の所領だよ、味方の所領を刈田したらダメでしょ
一番近い敵領って岐阜方面だけど、大垣から岐阜はあまりに危険すぎる
かといって赤坂垂井に東軍がいるから、刈田も難しい
長束が反対するのは当然だと思うんだけど……

456 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:45:34.90 ID:6pDgiGA8.net
もうそんなことごちゃごちゃ言ってる場合じゃないし
大垣城が絶体絶命なのは明らかで至急兵糧入れが必要だもの
仮に大垣が落ちても苅田してればそれは東軍へのダメージになるというネガティブな発想もあるかもしれんが

457 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:48:59.04 ID:36ZSGf6f.net
東軍は家康という誰もが認めて命令に服する大物が総大将だけど西軍はその辺がどうにも頼りなかったな
立花宗茂だの島津義弘だの個々の戦闘要員がいかに強くても所詮手足に過ぎなくて
肝心な全体の戦略を建てて指揮命令する頭が家康に比べて戦歴も格も数段落ちるし思惑もバラバラ
過大評価するわけでなく当時家康にサシで対抗できるだけの戦歴と格を持った大名っていたんだろうか
前田利家の名前がよく上がるけど正直天下を二つに割った一方の勢力を率いるタマでは全くないと思う

458 :人間七七四年:2023/08/08(火) 13:12:11.75 ID:A64nC+fI.net
自分たちは未来人で西軍総大将の輝元がどうしようもないおバカだとわかってるけど
当時のリアルタイムでの輝元の評価ってどうなの?
家康とやりあえるような人物と思われていたのかな?

459 :人間七七四年:2023/08/08(火) 13:14:29.60 ID:A64nC+fI.net
>>456
もうあの場合、大垣城はあきらめて城に火をはなって逃走
佐和山城に逃げて抗戦し、大津や田辺、伊勢にいる軍勢に後詰させて後詰決戦するしか
手はないんじゃないのかな?

460 :人間七七四年:2023/08/08(火) 14:16:30.64 ID:ze4Wwhuq.net
>>458
諸大名の輝元評は知らないな
ただ秀吉が輝元をどう扱ったかを諸大名は見ている
秀吉の評価が輝元の評価ということでいいんじゃないの
大毛利の当主で西国衆の筆頭とはいえ小早川隆景とセットで扱ってたし家康よりは明らかに格下
家康の対抗馬にしたてられたのは毛利でも上杉でもなく前田利家だし

461 :人間七七四年:2023/08/08(火) 16:54:34.72 ID:6pDgiGA8.net
>>459
山中に打って出た西軍が佐和山に逃げてない事が答えになるのかもしれない
仰る通り大垣は死に石で佐和山に逃げるというのが常道でこれは結果論じゃない。素人でも分かること。これは関ヶ原の敗北後も同じで西軍の正解は佐和山まで逃げて兵力を整え籠城することだったはず。なのにそれをしてない
つまり何か理由があって彼らは佐和山が危険だと思っていたことになる、それはなにか?
おそらく小早川秀秋に理由がある。秀秋は近江から松尾山まで来た、ということはその道筋は既に東軍勢力に奪われている危険があるとみたのではないか?

462 :人間七七四年:2023/08/08(火) 18:40:50.46 ID:9HZJUKSi.net
>>461
大津城の勝敗の連絡がついていなかったとして、近江が危険だと判断したなら伊勢路という手もあったはず。
現に島津の捨てがまりはその進路での撤退だったわけで。

せっかく東軍の目を掻い潜るために南宮山の南を通って移動してるのに、近江まで一気に抜けるわけでもなく、
わざわざ東軍と松尾山に挟まれる位置に布陣した意味が本当にわからん。

463 :人間七七四年:2023/08/08(火) 18:47:00.45 ID:H9i+Um/k.net
伊勢に逃げると言っても大垣も佐和山も取られましたでは負けが確定してしまう
家康が来て決戦をぶち上げた直後だったのが痛かった

464 :人間七七四年:2023/08/08(火) 18:48:39.30 ID:DIMSWA2G.net
>>460
浅野家伝来の秀吉遺言によると、輝元(と景勝)は「御りちぎ」
こんだけ
さらには他の五大老どころか徳川秀忠、前田利長に格で負けている扱い
まあ浅野家に残った遺言だから話し半分でまあ

465 :人間七七四年:2023/08/08(火) 18:51:30.41 ID:u8X8rPGP.net
>>398
助命嘆願説?何それ
どの史料を根拠にした説なの?
そんなものあると主張するんなら説明してくれ

466 :人間七七四年:2023/08/08(火) 18:58:04.95 ID:H9i+Um/k.net
あと西軍首脳部が大垣を守る為にわざわざ大軍送り込んだのに
家康が来たから逃げますは許されなかったのかもしれない

467 :人間七七四年:2023/08/08(火) 19:38:32.12 ID:CoDtKrZ9.net
>>466
それなら大垣城で戦えば良くね?って話で。

今と流域が同じかはともかく、防衛線たりえる揖斐川をほぼ無抵抗で超えられて赤坂・垂井を取られた時点で厳しいけど、
それでも大垣城なら南宮山と連携も取れるし後詰決戦の形が取れる。

逆に言うと南宮山って大垣城の支援以外に戦略的価値はなく、山の向こうの関ヶ原なんかに行かれた日には戦況すらろくに分からん。

468 :人間七七四年:2023/08/08(火) 19:45:20.35 ID:H9i+Um/k.net
松尾山を小早川秀秋につまり東軍に取られた時点で大垣は戦えない
西軍は苅田をせず近江からの搬入で食糧を輸送するつもりだったので松尾山が東軍なのは補給路が切られた事を意味してるから
つまり大垣城で戦いたかったら山中までいき松尾山を奪還せねばならない

469 :人間七七四年:2023/08/08(火) 19:47:59.82 ID:H9i+Um/k.net
苅田が必要なほど食糧が無いのにここで松尾山つまり佐和山への道を封鎖されたら数日で大垣は食糧が足りなくなる
南宮山の毛利軍も備蓄がどれだけ保つことかわからんし

470 :人間七七四年:2023/08/08(火) 20:00:46.78 ID:CoDtKrZ9.net
>>469
そうなると、益々関ヶ原に陣を敷く意味がわからんのよ。
松尾山の小早川勢の睨みが効くのは中山道、言ってみれば関ヶ原一帯のみ。
長浜経由で佐和山まで引けば、美濃口を失いこそすれど、総崩れになる状態ではない。

なんで松尾山と垂井から挟撃受ける位置に留まって戦ったのよって話で。

471 :人間七七四年:2023/08/08(火) 20:14:48.58 ID:H9i+Um/k.net
まぁどう考えるかかなぁ
松尾山は絶対に奪還せねばならない、さもなくば兵糧攻めにあう
ただ小早川軍は兵数が多いので片手間では落とせない、そうなると絶対に東軍は来る
そうなると解答は大垣主力軍で松尾山を攻撃しつつ関ヶ原で展開して東軍を迎え撃つってものになる
最悪の展開だけど他に道は無いし。ここで敵前逃亡すれば毛利がキレるもの

472 :人間七七四年:2023/08/08(火) 20:18:14.81 ID:88K9FGI5.net
徳川だけを弾劾したと思ったら
会津討伐軍がそっくり寝返り
加賀も田辺も豊前も伊勢も従わないし
大津は裏切るし岐阜は降伏するし
吉川小早川が離反して大坂の輝元まで腰が座らなくなってきた
近江まで下がればその分だけ、大坂まで下がればその分だけ
瓦解していくだけだと思ったんじゃないかね
ジリ貧のやつがよく一撃決戦に賭けようとか言い出すやつ

473 :人間七七四年:2023/08/08(火) 20:36:34.33 ID:CoDtKrZ9.net
>>472
それなら尚更、目の前の赤坂を攻撃して家康の首狙ったほうが良くね?

小早川勢の影響受けずに戦えるし、後ろには陣地としては腐っても城である大垣城が控えてるから後ろを気にせず戦える。

大谷勢等がいないとしても、総勢5万人。ワンチャンはある。
なにより南宮山の兵力を遊兵にせずに済む。

474 :人間七七四年:2023/08/08(火) 20:46:13.51 ID:H9i+Um/k.net
そこらへんはもう三成の力が及ばない領域で長束正家と安国寺恵瓊の考えを読まないとダメなんだが
西軍は家康が来るとは考えてなかったことは九月十二日三成書状より明らかになってる、つまり家康到着は彼らにとって衝撃だったはず
家康本隊がまず何万かを明らかにしないと無茶苦茶なギャンブルをする羽目になる
そうなると最適解は「大垣城で籠城戦をして増援を待つ」ことになる

475 :人間七七四年:2023/08/08(火) 20:54:39.69 ID:H9i+Um/k.net
で小早川秀秋裏切り後も結構キツい
敵の数が分からん中突っ込むことになるし多分南宮山は動けない
南宮山を空にしたら東軍は垂井から兵を送り込んで西軍を挟撃してくるだろうし
どのみちかなり困難な場面でどういう状況に賭けるかというね

476 :人間七七四年:2023/08/09(水) 09:25:32.09 ID:EojLlfoj.net
だから岐阜城後詰決戦案なんだよ、結論は。

477 :人間七七四年:2023/08/09(水) 09:28:49.92 ID:eeiXKwvg.net
家康と輝元の戦略眼の違いが出てる
垂井まで取って大垣城はかなり厳しい、家康はここで小早川秀秋に松尾山取らせて大垣を完全に孤立させることにした
籠城すれば兵糧攻め、攻めてくればどこにきても挟撃の形になり勝利は容易い
対して輝元にはこれが見えてない。もし松尾山取られたらどうしようとか考えてない
ていうか徳川をどうやって倒すのかも考えてなさそう

478 :人間七七四年:2023/08/09(水) 09:30:29.12 ID:eeiXKwvg.net
>>476
兵数あれば出来たかもだけど
東軍に兵力で負けてるから出来なかった
西軍の美濃方面への戦略が間違ってた

479 :人間七七四年:2023/08/09(水) 10:48:49.26 ID:NJfTgFvi.net
>>477
そもそも輝元と三成の戦略目標が全く違うと思うんだよな。

三成の戦略は奉行衆による豊臣家権益の継承と打倒徳川家康。
そのためには旧織田領たる美濃尾張を抑えるのは必須だし、家康が出てきたなら決戦をする必要があった。

対して輝元の戦略は毛利を中心とした西国の権益強化。
なので不破の関(関ヶ原)より先の東国はそれほど重要ではないし、徳川とはなあなあの和睦が出来れば十分。

なので大坂城退去の時点では、毛利のみほぼ無傷で領国安堵だから輝元はかなり上手くやったことになる。
それが反故になった瞬間、稀代の愚将に成り下がったが。

480 :人間七七四年:2023/08/09(水) 11:00:00.91 ID:LuM+4BoV.net
>>478
数日岐阜城が籠城して粘れば宇喜多が到着して兵数の問題はなんとかなる。
渡河迎撃策ではなく籠城策ならば岐阜城後詰決戦に至った可能性はそれなりにある。
ただそれでも決戦で勝たなければ意味ないが。

481 :人間七七四年:2023/08/09(水) 11:01:02.04 ID:BY7lHPUO.net
秀頼を奉じる西軍はその権威を使って自勢力を拡大しようとした
それは東軍諸将当人を寝返らせる事は出来なくともその配下が「秀頼さまのため」と寝返ればそれで十分だった。それで実際前田家や細川家では裏切者が出てる
ただこれは戦略としては長期戦を前提としてる。配下の裏切りだって西軍が優位にならないと積極的にはならない
家康の戦略は短期決着、まぁどっちが正しかったかはね

482 :人間七七四年:2023/08/09(水) 11:04:02.36 ID:BY7lHPUO.net
岐阜城も抵抗は無理だと思う
まず岐阜城自体が籠城戦に適してない
次に竹ヶ鼻状況が裏切ってるから後詰が難しい
渡河するところを東軍に強撃される(てか史実でもされた)
これを解決するには宇喜多軍一万では足りない最低でも五万人は居ないと話にならない
最初からもっと兵があれば…

483 :人間七七四年:2023/08/09(水) 13:00:22.86 ID:jWT0UYEl.net
以前、
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?スレで散々検討した。

484 :人間七七四年:2023/08/09(水) 13:55:53.25 ID:V2FBSVT5.net
ていうかこのスレって
実質関ヶ原総合スレよな

485 :人間七七四年:2023/08/09(水) 17:19:41.23 ID:dyoYgJkY.net
三成の西軍での立場って弱過ぎて話にならないし
最近は総大将はおろか決起計画すら知らなかったのに戦争責任負わされた可哀想な人扱い

486 :人間七七四年:2023/08/09(水) 21:12:54.85 ID:wVa5IdE6.net
三成なんて奉行を辞めさせられたただの一大名でしかないからな

487 :人間七七四年:2023/08/09(水) 21:15:00.98 ID:gNKMzFN8.net
大谷吉継の誘い拒否ったらその場で殺されてただろうなってくらいの零細
三成が本隊率いていたとは言え佐和山に二千人ちょいしか居ないのが哀愁誘う

488 :人間七七四年:2023/08/09(水) 22:58:26.25 ID:GFNUBCGH.net
世襲と派閥の繋がりみたいなのがまだ豊臣政権内で成立してないからな
どの家も当主の考えが大きいからな

489 :人間七七四年:2023/08/09(水) 23:10:12.90 ID:dW66X0g1.net
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1574264307/

490 :人間七七四年:2023/08/10(木) 00:08:32.07 ID:WkM4wF/8.net
>>489は関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?スレを過去ログから拾ってきた。最初の>30くらいまでにまとめてある。

ちなみにわたしが当時の>>1

491 :人間七七四年:2023/08/10(木) 17:38:03.29 ID:2ac4xnhd.net
>>485
それなんだけど、石田三成が挙兵した時点でほとんどの書状が「石田、大谷」となっているんだけど……
しかも、石田がどれも先になってるし
いくつかは毛利輝元にもなってるけど、石田と大谷が首謀者認定されている
それなのに「石田は立場が弱かった」「石田は首謀者ではなかった」とされるのはどうなんだろうか

少なくとも1598年8月末の毛利輝元と奉行の密約は三成が首謀者のはずなんだけど

492 :人間七七四年:2023/08/10(木) 19:15:17.57 ID:njX1Fp5i.net
そりゃ大坂三奉行の方が先に決起しとるし

493 :人間七七四年:2023/08/10(木) 19:27:35.17 ID:2ac4xnhd.net
挙兵段階の書状で三奉行(前田・長束・増田)の名前は全く出てないよ
蜂須賀家政すら石田と大谷と言ってる

494 :人間七七四年:2023/08/10(木) 19:36:59.17 ID:VU/xG4/9.net
三成が武装蜂起してるなら兎も角三成は何もしてない。敢えて言えば大谷吉継が佐和山に居る、それだけ。どこに謀反の要素がある?
つまり火のないところに煙を立てた連中がいる
その心は「三成が決起したから諸将の人質を安全なところに移す」とか「三成が決起したので念の為毛利輝元の軍が入ります」ということ。つまりクーデターの下準備を誤魔化すため
こいつらにとって三成は口実であって必須条件じゃない。それで決起参加後も特段権限は与えませんでした

495 :人間七七四年:2023/08/10(木) 19:55:56.87 ID:HDgE0eK/.net
毛利輝元は完全に別の意図だろうな。

近年は彼がお飾りではなく、積極的にやる気を見せて動いているとされているけど、
その行動原理と結果を見る限り、家康討伐のためのやる気ではなく、
西国の支配権、命令系統を奉行衆に取られないように動いているフシがある。

その観点から見れば、大坂城を動かないのは正解だし、奉行衆が壊滅したあと大坂城に籠もってまで徹底抗戦する必要性はどこにもない。

……ただ、石田三成や大谷吉継はそれを予想しなかったのか?
よほど安国寺恵瓊が上手く丸め込んだのか?

496 :人間七七四年:2023/08/10(木) 20:02:16.68 ID:f9bfdDNZ.net
挙兵した段階じゃ東軍も正確な情報を掴んでないから石田・大谷、あるいは毛利・石田による挙兵だという認識は間違ってない
家康も奉行が絡んだ謀叛だと認識するのは7月29日付の書状からだし
まあ三成が首謀者だったとは思わんけど決起を知らなかったとは断言できんと思う
現状研究者でもそんなこと言ってる人いないし

497 :人間七七四年:2023/08/10(木) 20:09:51.44 ID:VU/xG4/9.net
知っていたら何故三成は一味に決起参加を呼び掛けてないのかって疑問がでてくる
例えば真田昌幸は三成に誘われなかったことを三成に詰った
佐竹義宣も三成から誘われず三成に書状を送ってる
上杉景勝も同じく何も知らされてない

498 :人間七七四年:2023/08/10(木) 20:24:18.37 ID:ru0qY0uz.net
>>495
毛利が邪魔になるなら、戦後に奉行が内府ならぬ毛利違いの条々を出せばいいと思ってたんだろ
毛利に対して徳川と同じことをすればいいと
つか、徳川に対する行動自体、前田利長に対するやり口と事実上同じだし
そもそも、奉行は立場上豊臣政権という権威が諸侯を従わせる絶対的なものであるという
認識でなければ、権勢をふるう事すら不可能なのでこの前提を覆せない
つまり、豊臣政権の命令という形さえとれば(事実上奉行の命令であったとしても)
前田も徳川も毛利も上杉もどうとでもなる、位の超絶甘い考えだったんじゃないかと

ただ、厄介なのは関ヶ原前の時点では家康自体が豊臣政権の第一人者なのを大義名分に
してる点で(徳川の立場や権威が豊臣政権ありきで保障されてるので当然だが)
要は家康自体が割と豊臣政権の権威を利用(頼ってる)して行動してるんで、
奉行が勘違いしやすい状況が整ってしまってるんだよな
徳川でさえ、政権の権威に縋ってるのならその立場さえ奪い取れば…みたいな

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