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石田三成の挙兵 ★6

1 :人間七七四年:2023/07/01(土) 17:55:14.09 ID:pp0jbPin.net
石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/
石田三成の挙兵 ★2
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1659567400/

石田三成の挙兵 ★3
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1667713567/

石田三成の挙兵 ★4
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1675638266/

石田三成の挙兵 ★5
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1681718599/l50

425 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:43:21.46 ID:U+hY+jx+.net
>>422
宇喜多は安濃津攻めの後恐らくすぐ大垣に向かってると思うよ
8月27日付のはやし村(岐阜県大垣市)に宛てた禁制に宇喜多も島津・小西・石田と共に連署していて花押も据えられてる

426 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:44:01.94 ID:hOMl2OLq.net
>>421
佐和山まで本当に二重引きしてたらそうだけど
「佐和山へ二重引き可仕覚悟に相見へ候」
見えましたってだけではある

427 :人間七七四年:2023/08/06(日) 22:49:22.57 ID:ec56rJSQ.net
仮に8月27日まで宇喜多が伊勢にいて、そのあとに大垣に入ったとしたら、どうやって
入城したんだって話になるよ

既に8月23日の時点で赤坂まで抑えられてる
そこに宇喜多の万余の軍勢が入るのを東軍は見ていた、ということなのか?

428 :人間七七四年:2023/08/06(日) 23:03:27.84 ID:1P6QpItF.net
秀家いたなら岐阜にまともな援軍送らず見殺しにした三成秀家小西がとんでもない無能になっちゃう

429 :人間七七四年:2023/08/06(日) 23:12:57.03 ID:U+hY+jx+.net
>>424
岐阜城の戦いの少し前の秀家の動向は8月18日付明石掃部頭宛戸川達安書状で
「秀家何ニ御在陣候哉、貴殿御そはニ無之儀不審ニ存候事」

この戸川の問いに対して8月19日付戸川達安宛明石掃部頭書状で
「秀家事伏見落城之後ハ大坂被罷下候、又此比ハ草津表被罷出在陣之事候」
と19日の時点で秀家は草津に在陣してると答えてる

430 :人間七七四年:2023/08/06(日) 23:16:41.45 ID:lGcp57CN.net
>>426
文書が言い訳かどうかは主観言い訳が入るとしても、14日の布陣と15日の布陣の変化を見ると、
どう考えても西軍が南宮山を捨て石にしてるとしか思えない。

誰のかは忘れたけど、吉川ではなく東軍側の書状でも西軍が東軍を避けて南宮山の南から関ヶ原に抜けたという記述がある。

本当に大垣勢と南宮山勢が打ち合わせているなら、南宮山勢もこの夜が、唯一無事に陣を払えるタイミングなわけで。

431 :人間七七四年:2023/08/07(月) 01:11:44.00 ID:CVVkswDr.net
小早川秀秋は元々西軍の指示に従ってない危険因子だったけど松尾山を取ったことで東軍に与したことは明らかになった、と同時に大垣は致命傷を負った
垂井まで東軍に取られてるから大垣の補給路は佐和山からのルートくらいしか無く松尾山はその真ん前にある。ここを東軍に取られたら大垣は戦えない、だから大垣衆は出撃した
でもそれは南宮山の毛利軍には逃走と受け取られたしそれは仕方が無い
毛利軍に山降りて貰って松尾山攻撃とかやってる時間は無かっただろうしまぁ詰んでる

432 :人間七七四年:2023/08/07(月) 04:25:30.58 ID:9VSKWM2W.net
Enpediaだと

小早川秀秋の裏切り→大垣城出撃して山中へ
あるいは何らかの理由で山中方面に出撃→東軍追撃して山中合戦と同時に裏切り

らしいね
どちらが正しいんだろ?

433 :人間七七四年:2023/08/07(月) 08:18:10.89 ID:CVVkswDr.net
吉川家文書だと十四日夜までに小早川秀秋裏切りで十五日関ヶ原合戦となってる
守りの堅い大垣から関ヶ原に移動する理由は無いし松尾山を乗っ取られたから急遽移動したって説明は筋が通ってる

434 :人間七七四年:2023/08/07(月) 08:24:14.87 ID:gCXuUwka.net
赤坂取られた時点でリーチ、毛利勢が到着して家康本隊が到着するまでの、兵力が拮抗している間に戦端を開かなかった時点で詰みでしょ。

9月12日に家康到着を知った西軍諸将の書状ではもはや浮足立って戦える状態ではないし。
吉川文書も17日のは保身が入ったものかもしれないけど、敗北前の12日の書状はガチの焦りが伝わるし。

その上で、関ヶ原でわざわざ戦ったと言うよりは関ヶ原で捕捉されて逃げることも叶わなかった、というところでしょう。

435 :人間七七四年:2023/08/07(月) 17:44:52.71 ID:upcb8A0s.net
>>429
おお、凄い
草津だとすると大垣まで約一日?大軍連れてるから二、三日は掛かるか?
ってことは岐阜城の戦いには僅かに間に合わなかったか

436 :人間七七四年:2023/08/07(月) 21:18:39.74 ID:SqmCsgqw.net
関ヶ原で負けた連中が佐和山に逃げなかった事からも西軍の認識が出てるんじゃないか

437 :人間七七四年:2023/08/07(月) 21:31:28.27 ID:eqXqujiz.net
白峰氏は秀秋が9月14日に松尾山に入ったとする史料は寛永諸家系図伝や寛政重修諸家譜の
二次史料にしかない点を指摘していてゼロから秀秋がどこにいたかを考え直す必要があると言ってるな

しかし吉川書状だと東軍先手が動いたことで秀秋が逆意を表し、山中にいた大谷救援のため
三成らは出撃したんだから、方角的には秀秋が松尾山付近にいてもなんらおかしくはない
新史料でも見つからない限り現状だと通説を覆すのは難しそうだ

438 :人間七七四年:2023/08/07(月) 21:45:16.11 ID:eqXqujiz.net
また8月29日付保科正光書状に秀秋が大垣に籠城していた記述があるが、白峰氏はこれは徳川方の
先手からの情報で精度は高いとしており、秀秋は大垣から関ヶ原へ向かった可能性を指摘してる

しかし8月27日付はやし村(大垣市)宛や9月5日付赤坂西圓寺宛の禁制の連署メンバーは宇喜多・島津・小西・石田の四人で秀秋は含まれていない
また秀秋が9月に発給した成菩提院(滋賀県米原市)に宛てた禁制があるが日付がないから合戦前なのか
後なのか不明だけど、合戦前のものだとするとこの辺りから関ヶ原方面へ移動した可能性は高そう

439 :人間七七四年:2023/08/08(火) 04:51:36.19 ID:A64nC+fI.net
三成はそもそも何考えてたんだろうか
大垣城を出て山中に向かうとしても、できる限り隠密にやらないといけないはずなのに、
大垣城の外郭を焼いた上で向かったらしいし
そもそも東軍に追撃されるとか考えてなかったのかな?

440 :人間七七四年:2023/08/08(火) 08:29:14.55 ID:6pDgiGA8.net
赤坂から垂井まで東軍が居る中バレずに山中に行くのは不可能、大垣は攻められるので曲輪を焼く
ってのはわかる
ただ関ヶ原まで行ってなにするつもりだったのか
多分速攻で松尾山を奪還して大垣・南宮山・松尾山と広い範囲で東軍を迎え撃つつもりだったのかもしれない

441 :人間七七四年:2023/08/08(火) 08:59:35.66 ID:HXf11Pk8.net
>>440
万が一、億が一で松尾山奪還が成功したとしても何の意味もなくない?
大垣城が普通に攻められて落城、進退窮まった(or内応してた)南宮山降伏、追撃されて惨敗の未来しかない。

大垣城と南宮山を捨て石にして近江まで全力撤退か、追撃を避けるなら関ヶ原を避けて伊勢路から撤退しかなかったかと。

442 :人間七七四年:2023/08/08(火) 09:04:00.75 ID:Roiw73hF.net
松尾山城を速攻で落とすの?

443 :人間七七四年:2023/08/08(火) 09:34:03.81 ID:JgPmMBoZ.net
大垣城は普通に堅城だよ
西軍の本体が健在の状況で城攻めは危険極まりないと思うんだが

西軍は10日も膠着状態に持ちこめば戦術的勝利だとおもうんだけど。

444 :人間七七四年:2023/08/08(火) 09:37:45.08 ID:JgPmMBoZ.net
大体、西軍は招き忘れた味方を集結させるって目標がある様に思えるんですがね

家康が自軍の主力を集中させてるのは賭けですよ
史実は一日の野戦ですんでるが、関ヶ原封鎖されて10日も経過したらどうなる

445 :人間七七四年:2023/08/08(火) 09:57:32.22 ID:RX7YYwfu.net
三成が山中に行ってるからまず退却の可能性は無い。逃げるんだったら松尾山を少数で牽制して佐和山まで逃げてるはず
ただ大垣城は確かに既に死んでる。垂井まで取られてるから補給が難しいのに松尾山を取られたらもう大垣は補給が出来ないから兵糧攻めにされる

446 :人間七七四年:2023/08/08(火) 10:15:17.68 ID:JgPmMBoZ.net
家康は、奥州方面の敵軍放置して東海道に出てるんだよね
西軍主力を叩けない状況で膠着したら戦術的敗北で、兵糧攻めとかしてる余裕はない

関ヶ原に出たのは、野戦でも勝てるし、膠着状態でも戦略的には勝利の読みだと思うが
家康が一度関東に戻るなら、実質敗走したのと同じ事になるのに

447 :人間七七四年:2023/08/08(火) 10:36:50.55 ID:Nl5WJAOi.net
疑問なのは、なんで一時的に兵力を上回った段階で赤坂垂井の奪還、無理なら撤退に動かなかったんだろうね?

宇喜多隊到着~東軍先手衆本軍着陣までの間と、
毛利吉川等到着~家康本隊赤坂入りまでの間は西軍のほうが上回っている。

上回ったら勝てるもんではないにしても、待てば待つほど東軍有利になるし、
そもそも大垣城を無視して(抑えを置いて)西進されたら完全に終わる。

448 :人間七七四年:2023/08/08(火) 11:13:06.13 ID:RX7YYwfu.net
西軍は動けない
数的優位といっても絶対的優位には無い
大垣城が取られたら終わりなので動かせない
また南宮山の毛利軍は安国寺恵瓊と吉川広家毛利秀元で指揮系統が両断されてる
なのでこいつら多分動かない、少なくとも西軍のために被害を被る先陣は拒否される
それに大垣城は糧食不足でそちらの充填の方が先だったのかもしれない。九月十二日に三成は苅田を主張したけど正家らに近江からの補給で賄うことにされたと書状でぼやいてるし

449 :人間七七四年:2023/08/08(火) 11:22:06.66 ID:A64nC+fI.net
>>440
万の軍勢を動かすからばれるのはわかってる
でもそれを自分たちから教えるような真似をする意味あるの? ということ

朝倉義景も越前に退却する前に陣を焼いて信長に撤退を教えてしまい、結果的に
信長自ら激しい追撃を受けて壊滅した

450 :人間七七四年:2023/08/08(火) 11:24:57.26 ID:A64nC+fI.net
西軍が兵力優位って?
島津はわずかな兵力だし、宇喜多は前年の御家騒動で家臣が大量退去して急いで新規召し抱えしてるけど
それで賄えたのか、賄えたとしても戦力大幅ダウンなのではと思いたくなるし、
小西は6年も朝鮮にいたから、兵力はかなり消耗したまま関ヶ原になったんじゃないかと思いたくなるんだけど

本当に西軍は兵力優位なの?

451 :人間七七四年:2023/08/08(火) 11:47:57.13 ID:ze4Wwhuq.net
東軍も西軍も長期戦の考えで動いてる
短期戦で終わったのは西軍の動きがバラバラで家康が上手く戦機を捉えたから
西軍はまず内部統制をなんとかしないと

452 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:18:30.10 ID:yxVAK4qa.net
>>450
一時的な間だけの数的優位な。
8月後半の宇喜多着陣から東軍先手衆集結までの数日間は、赤坂においては東軍が約2万に対し西軍が3万5000。
その後、先手衆赤坂着陣で東軍5万5000で逆転、毛利勢到着で西軍6万5000で再逆転。
12日家康が赤坂に到着、家康本隊到着で東軍8万5000。
この後の増援可能性は西軍が大津城攻略部隊1万5000に対して東軍が秀忠隊3万なので西軍が不利になるばかり。

ただしここに両軍とも小早川隊はカウントしてないから、小早川隊が明確に東軍になった14日時点で10万対6万5000で勝負はついた。

453 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:19:01.56 ID:Q7tqOfnc.net
ただの奉行の三成の言う事なんか聞いてくれない

454 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:29:56.28 ID:A64nC+fI.net
>>453
しょせんは秀吉の後ろ盾あっての奉行でしかないのね……
こういう場合は、周りに人徳を見せて周囲を敬服させるのがベストなんだけど
まあ三成じゃそんなの絶対に無理だろうね

455 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:33:01.23 ID:A64nC+fI.net
>>449
そもそもあの書状の刈田っておかしくない?
刈田するってどこをするのよ
大垣は西軍の伊藤盛正の所領だよ、味方の所領を刈田したらダメでしょ
一番近い敵領って岐阜方面だけど、大垣から岐阜はあまりに危険すぎる
かといって赤坂垂井に東軍がいるから、刈田も難しい
長束が反対するのは当然だと思うんだけど……

456 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:45:34.90 ID:6pDgiGA8.net
もうそんなことごちゃごちゃ言ってる場合じゃないし
大垣城が絶体絶命なのは明らかで至急兵糧入れが必要だもの
仮に大垣が落ちても苅田してればそれは東軍へのダメージになるというネガティブな発想もあるかもしれんが

457 :人間七七四年:2023/08/08(火) 12:48:59.04 ID:36ZSGf6f.net
東軍は家康という誰もが認めて命令に服する大物が総大将だけど西軍はその辺がどうにも頼りなかったな
立花宗茂だの島津義弘だの個々の戦闘要員がいかに強くても所詮手足に過ぎなくて
肝心な全体の戦略を建てて指揮命令する頭が家康に比べて戦歴も格も数段落ちるし思惑もバラバラ
過大評価するわけでなく当時家康にサシで対抗できるだけの戦歴と格を持った大名っていたんだろうか
前田利家の名前がよく上がるけど正直天下を二つに割った一方の勢力を率いるタマでは全くないと思う

458 :人間七七四年:2023/08/08(火) 13:12:11.75 ID:A64nC+fI.net
自分たちは未来人で西軍総大将の輝元がどうしようもないおバカだとわかってるけど
当時のリアルタイムでの輝元の評価ってどうなの?
家康とやりあえるような人物と思われていたのかな?

459 :人間七七四年:2023/08/08(火) 13:14:29.60 ID:A64nC+fI.net
>>456
もうあの場合、大垣城はあきらめて城に火をはなって逃走
佐和山城に逃げて抗戦し、大津や田辺、伊勢にいる軍勢に後詰させて後詰決戦するしか
手はないんじゃないのかな?

460 :人間七七四年:2023/08/08(火) 14:16:30.64 ID:ze4Wwhuq.net
>>458
諸大名の輝元評は知らないな
ただ秀吉が輝元をどう扱ったかを諸大名は見ている
秀吉の評価が輝元の評価ということでいいんじゃないの
大毛利の当主で西国衆の筆頭とはいえ小早川隆景とセットで扱ってたし家康よりは明らかに格下
家康の対抗馬にしたてられたのは毛利でも上杉でもなく前田利家だし

461 :人間七七四年:2023/08/08(火) 16:54:34.72 ID:6pDgiGA8.net
>>459
山中に打って出た西軍が佐和山に逃げてない事が答えになるのかもしれない
仰る通り大垣は死に石で佐和山に逃げるというのが常道でこれは結果論じゃない。素人でも分かること。これは関ヶ原の敗北後も同じで西軍の正解は佐和山まで逃げて兵力を整え籠城することだったはず。なのにそれをしてない
つまり何か理由があって彼らは佐和山が危険だと思っていたことになる、それはなにか?
おそらく小早川秀秋に理由がある。秀秋は近江から松尾山まで来た、ということはその道筋は既に東軍勢力に奪われている危険があるとみたのではないか?

462 :人間七七四年:2023/08/08(火) 18:40:50.46 ID:9HZJUKSi.net
>>461
大津城の勝敗の連絡がついていなかったとして、近江が危険だと判断したなら伊勢路という手もあったはず。
現に島津の捨てがまりはその進路での撤退だったわけで。

せっかく東軍の目を掻い潜るために南宮山の南を通って移動してるのに、近江まで一気に抜けるわけでもなく、
わざわざ東軍と松尾山に挟まれる位置に布陣した意味が本当にわからん。

463 :人間七七四年:2023/08/08(火) 18:47:00.45 ID:H9i+Um/k.net
伊勢に逃げると言っても大垣も佐和山も取られましたでは負けが確定してしまう
家康が来て決戦をぶち上げた直後だったのが痛かった

464 :人間七七四年:2023/08/08(火) 18:48:39.30 ID:DIMSWA2G.net
>>460
浅野家伝来の秀吉遺言によると、輝元(と景勝)は「御りちぎ」
こんだけ
さらには他の五大老どころか徳川秀忠、前田利長に格で負けている扱い
まあ浅野家に残った遺言だから話し半分でまあ

465 :人間七七四年:2023/08/08(火) 18:51:30.41 ID:u8X8rPGP.net
>>398
助命嘆願説?何それ
どの史料を根拠にした説なの?
そんなものあると主張するんなら説明してくれ

466 :人間七七四年:2023/08/08(火) 18:58:04.95 ID:H9i+Um/k.net
あと西軍首脳部が大垣を守る為にわざわざ大軍送り込んだのに
家康が来たから逃げますは許されなかったのかもしれない

467 :人間七七四年:2023/08/08(火) 19:38:32.12 ID:CoDtKrZ9.net
>>466
それなら大垣城で戦えば良くね?って話で。

今と流域が同じかはともかく、防衛線たりえる揖斐川をほぼ無抵抗で超えられて赤坂・垂井を取られた時点で厳しいけど、
それでも大垣城なら南宮山と連携も取れるし後詰決戦の形が取れる。

逆に言うと南宮山って大垣城の支援以外に戦略的価値はなく、山の向こうの関ヶ原なんかに行かれた日には戦況すらろくに分からん。

468 :人間七七四年:2023/08/08(火) 19:45:20.35 ID:H9i+Um/k.net
松尾山を小早川秀秋につまり東軍に取られた時点で大垣は戦えない
西軍は苅田をせず近江からの搬入で食糧を輸送するつもりだったので松尾山が東軍なのは補給路が切られた事を意味してるから
つまり大垣城で戦いたかったら山中までいき松尾山を奪還せねばならない

469 :人間七七四年:2023/08/08(火) 19:47:59.82 ID:H9i+Um/k.net
苅田が必要なほど食糧が無いのにここで松尾山つまり佐和山への道を封鎖されたら数日で大垣は食糧が足りなくなる
南宮山の毛利軍も備蓄がどれだけ保つことかわからんし

470 :人間七七四年:2023/08/08(火) 20:00:46.78 ID:CoDtKrZ9.net
>>469
そうなると、益々関ヶ原に陣を敷く意味がわからんのよ。
松尾山の小早川勢の睨みが効くのは中山道、言ってみれば関ヶ原一帯のみ。
長浜経由で佐和山まで引けば、美濃口を失いこそすれど、総崩れになる状態ではない。

なんで松尾山と垂井から挟撃受ける位置に留まって戦ったのよって話で。

471 :人間七七四年:2023/08/08(火) 20:14:48.58 ID:H9i+Um/k.net
まぁどう考えるかかなぁ
松尾山は絶対に奪還せねばならない、さもなくば兵糧攻めにあう
ただ小早川軍は兵数が多いので片手間では落とせない、そうなると絶対に東軍は来る
そうなると解答は大垣主力軍で松尾山を攻撃しつつ関ヶ原で展開して東軍を迎え撃つってものになる
最悪の展開だけど他に道は無いし。ここで敵前逃亡すれば毛利がキレるもの

472 :人間七七四年:2023/08/08(火) 20:18:14.81 ID:88K9FGI5.net
徳川だけを弾劾したと思ったら
会津討伐軍がそっくり寝返り
加賀も田辺も豊前も伊勢も従わないし
大津は裏切るし岐阜は降伏するし
吉川小早川が離反して大坂の輝元まで腰が座らなくなってきた
近江まで下がればその分だけ、大坂まで下がればその分だけ
瓦解していくだけだと思ったんじゃないかね
ジリ貧のやつがよく一撃決戦に賭けようとか言い出すやつ

473 :人間七七四年:2023/08/08(火) 20:36:34.33 ID:CoDtKrZ9.net
>>472
それなら尚更、目の前の赤坂を攻撃して家康の首狙ったほうが良くね?

小早川勢の影響受けずに戦えるし、後ろには陣地としては腐っても城である大垣城が控えてるから後ろを気にせず戦える。

大谷勢等がいないとしても、総勢5万人。ワンチャンはある。
なにより南宮山の兵力を遊兵にせずに済む。

474 :人間七七四年:2023/08/08(火) 20:46:13.51 ID:H9i+Um/k.net
そこらへんはもう三成の力が及ばない領域で長束正家と安国寺恵瓊の考えを読まないとダメなんだが
西軍は家康が来るとは考えてなかったことは九月十二日三成書状より明らかになってる、つまり家康到着は彼らにとって衝撃だったはず
家康本隊がまず何万かを明らかにしないと無茶苦茶なギャンブルをする羽目になる
そうなると最適解は「大垣城で籠城戦をして増援を待つ」ことになる

475 :人間七七四年:2023/08/08(火) 20:54:39.69 ID:H9i+Um/k.net
で小早川秀秋裏切り後も結構キツい
敵の数が分からん中突っ込むことになるし多分南宮山は動けない
南宮山を空にしたら東軍は垂井から兵を送り込んで西軍を挟撃してくるだろうし
どのみちかなり困難な場面でどういう状況に賭けるかというね

476 :人間七七四年:2023/08/09(水) 09:25:32.09 ID:EojLlfoj.net
だから岐阜城後詰決戦案なんだよ、結論は。

477 :人間七七四年:2023/08/09(水) 09:28:49.92 ID:eeiXKwvg.net
家康と輝元の戦略眼の違いが出てる
垂井まで取って大垣城はかなり厳しい、家康はここで小早川秀秋に松尾山取らせて大垣を完全に孤立させることにした
籠城すれば兵糧攻め、攻めてくればどこにきても挟撃の形になり勝利は容易い
対して輝元にはこれが見えてない。もし松尾山取られたらどうしようとか考えてない
ていうか徳川をどうやって倒すのかも考えてなさそう

478 :人間七七四年:2023/08/09(水) 09:30:29.12 ID:eeiXKwvg.net
>>476
兵数あれば出来たかもだけど
東軍に兵力で負けてるから出来なかった
西軍の美濃方面への戦略が間違ってた

479 :人間七七四年:2023/08/09(水) 10:48:49.26 ID:NJfTgFvi.net
>>477
そもそも輝元と三成の戦略目標が全く違うと思うんだよな。

三成の戦略は奉行衆による豊臣家権益の継承と打倒徳川家康。
そのためには旧織田領たる美濃尾張を抑えるのは必須だし、家康が出てきたなら決戦をする必要があった。

対して輝元の戦略は毛利を中心とした西国の権益強化。
なので不破の関(関ヶ原)より先の東国はそれほど重要ではないし、徳川とはなあなあの和睦が出来れば十分。

なので大坂城退去の時点では、毛利のみほぼ無傷で領国安堵だから輝元はかなり上手くやったことになる。
それが反故になった瞬間、稀代の愚将に成り下がったが。

480 :人間七七四年:2023/08/09(水) 11:00:00.91 ID:LuM+4BoV.net
>>478
数日岐阜城が籠城して粘れば宇喜多が到着して兵数の問題はなんとかなる。
渡河迎撃策ではなく籠城策ならば岐阜城後詰決戦に至った可能性はそれなりにある。
ただそれでも決戦で勝たなければ意味ないが。

481 :人間七七四年:2023/08/09(水) 11:01:02.04 ID:BY7lHPUO.net
秀頼を奉じる西軍はその権威を使って自勢力を拡大しようとした
それは東軍諸将当人を寝返らせる事は出来なくともその配下が「秀頼さまのため」と寝返ればそれで十分だった。それで実際前田家や細川家では裏切者が出てる
ただこれは戦略としては長期戦を前提としてる。配下の裏切りだって西軍が優位にならないと積極的にはならない
家康の戦略は短期決着、まぁどっちが正しかったかはね

482 :人間七七四年:2023/08/09(水) 11:04:02.36 ID:BY7lHPUO.net
岐阜城も抵抗は無理だと思う
まず岐阜城自体が籠城戦に適してない
次に竹ヶ鼻状況が裏切ってるから後詰が難しい
渡河するところを東軍に強撃される(てか史実でもされた)
これを解決するには宇喜多軍一万では足りない最低でも五万人は居ないと話にならない
最初からもっと兵があれば…

483 :人間七七四年:2023/08/09(水) 13:00:22.86 ID:jWT0UYEl.net
以前、
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?スレで散々検討した。

484 :人間七七四年:2023/08/09(水) 13:55:53.25 ID:V2FBSVT5.net
ていうかこのスレって
実質関ヶ原総合スレよな

485 :人間七七四年:2023/08/09(水) 17:19:41.23 ID:dyoYgJkY.net
三成の西軍での立場って弱過ぎて話にならないし
最近は総大将はおろか決起計画すら知らなかったのに戦争責任負わされた可哀想な人扱い

486 :人間七七四年:2023/08/09(水) 21:12:54.85 ID:wVa5IdE6.net
三成なんて奉行を辞めさせられたただの一大名でしかないからな

487 :人間七七四年:2023/08/09(水) 21:15:00.98 ID:gNKMzFN8.net
大谷吉継の誘い拒否ったらその場で殺されてただろうなってくらいの零細
三成が本隊率いていたとは言え佐和山に二千人ちょいしか居ないのが哀愁誘う

488 :人間七七四年:2023/08/09(水) 22:58:26.25 ID:GFNUBCGH.net
世襲と派閥の繋がりみたいなのがまだ豊臣政権内で成立してないからな
どの家も当主の考えが大きいからな

489 :人間七七四年:2023/08/09(水) 23:10:12.90 ID:dW66X0g1.net
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1574264307/

490 :人間七七四年:2023/08/10(木) 00:08:32.07 ID:WkM4wF/8.net
>>489は関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?スレを過去ログから拾ってきた。最初の>30くらいまでにまとめてある。

ちなみにわたしが当時の>>1

491 :人間七七四年:2023/08/10(木) 17:38:03.29 ID:2ac4xnhd.net
>>485
それなんだけど、石田三成が挙兵した時点でほとんどの書状が「石田、大谷」となっているんだけど……
しかも、石田がどれも先になってるし
いくつかは毛利輝元にもなってるけど、石田と大谷が首謀者認定されている
それなのに「石田は立場が弱かった」「石田は首謀者ではなかった」とされるのはどうなんだろうか

少なくとも1598年8月末の毛利輝元と奉行の密約は三成が首謀者のはずなんだけど

492 :人間七七四年:2023/08/10(木) 19:15:17.57 ID:njX1Fp5i.net
そりゃ大坂三奉行の方が先に決起しとるし

493 :人間七七四年:2023/08/10(木) 19:27:35.17 ID:2ac4xnhd.net
挙兵段階の書状で三奉行(前田・長束・増田)の名前は全く出てないよ
蜂須賀家政すら石田と大谷と言ってる

494 :人間七七四年:2023/08/10(木) 19:36:59.17 ID:VU/xG4/9.net
三成が武装蜂起してるなら兎も角三成は何もしてない。敢えて言えば大谷吉継が佐和山に居る、それだけ。どこに謀反の要素がある?
つまり火のないところに煙を立てた連中がいる
その心は「三成が決起したから諸将の人質を安全なところに移す」とか「三成が決起したので念の為毛利輝元の軍が入ります」ということ。つまりクーデターの下準備を誤魔化すため
こいつらにとって三成は口実であって必須条件じゃない。それで決起参加後も特段権限は与えませんでした

495 :人間七七四年:2023/08/10(木) 19:55:56.87 ID:HDgE0eK/.net
毛利輝元は完全に別の意図だろうな。

近年は彼がお飾りではなく、積極的にやる気を見せて動いているとされているけど、
その行動原理と結果を見る限り、家康討伐のためのやる気ではなく、
西国の支配権、命令系統を奉行衆に取られないように動いているフシがある。

その観点から見れば、大坂城を動かないのは正解だし、奉行衆が壊滅したあと大坂城に籠もってまで徹底抗戦する必要性はどこにもない。

……ただ、石田三成や大谷吉継はそれを予想しなかったのか?
よほど安国寺恵瓊が上手く丸め込んだのか?

496 :人間七七四年:2023/08/10(木) 20:02:16.68 ID:f9bfdDNZ.net
挙兵した段階じゃ東軍も正確な情報を掴んでないから石田・大谷、あるいは毛利・石田による挙兵だという認識は間違ってない
家康も奉行が絡んだ謀叛だと認識するのは7月29日付の書状からだし
まあ三成が首謀者だったとは思わんけど決起を知らなかったとは断言できんと思う
現状研究者でもそんなこと言ってる人いないし

497 :人間七七四年:2023/08/10(木) 20:09:51.44 ID:VU/xG4/9.net
知っていたら何故三成は一味に決起参加を呼び掛けてないのかって疑問がでてくる
例えば真田昌幸は三成に誘われなかったことを三成に詰った
佐竹義宣も三成から誘われず三成に書状を送ってる
上杉景勝も同じく何も知らされてない

498 :人間七七四年:2023/08/10(木) 20:24:18.37 ID:ru0qY0uz.net
>>495
毛利が邪魔になるなら、戦後に奉行が内府ならぬ毛利違いの条々を出せばいいと思ってたんだろ
毛利に対して徳川と同じことをすればいいと
つか、徳川に対する行動自体、前田利長に対するやり口と事実上同じだし
そもそも、奉行は立場上豊臣政権という権威が諸侯を従わせる絶対的なものであるという
認識でなければ、権勢をふるう事すら不可能なのでこの前提を覆せない
つまり、豊臣政権の命令という形さえとれば(事実上奉行の命令であったとしても)
前田も徳川も毛利も上杉もどうとでもなる、位の超絶甘い考えだったんじゃないかと

ただ、厄介なのは関ヶ原前の時点では家康自体が豊臣政権の第一人者なのを大義名分に
してる点で(徳川の立場や権威が豊臣政権ありきで保障されてるので当然だが)
要は家康自体が割と豊臣政権の権威を利用(頼ってる)して行動してるんで、
奉行が勘違いしやすい状況が整ってしまってるんだよな
徳川でさえ、政権の権威に縋ってるのならその立場さえ奪い取れば…みたいな

499 :人間七七四年:2023/08/10(木) 22:03:57.68 ID:f9bfdDNZ.net
>>497
タイミングの問題なんじゃね
割と突発的な挙兵だし単にタイミングの問題で連絡できなかった可能性は考えられる
三成は奉行職を解任されてるわけで内府違いを出す前に派手に動けば目立つだろうし
まあ知らなかった可能性ももしかしたらあるかもしれんが断言はできんよねってこと

500 :人間七七四年:2023/08/10(木) 22:11:34.65 ID:KcB2dozq.net
家康が会津征伐で大坂を発ったのが六月
大谷吉継が佐和山の石田三成に会ったのが七月初旬
三成謀反の噂が流れ出したのが七月十二日
三奉行が内府違いの条々出したのが十七日
そして三成が真田昌幸に書状送ったのが三十日(しかも返書)
何がタイミングだ?って昌幸が三成を詰るのも納得の遅さ
もし三成が決起計画を知ってたら早ければ六月、遅くとも七月十七日には書状出すのが普通
真田昌幸は三成にとって軽んじていい相手じゃないし

501 :人間七七四年:2023/08/10(木) 22:33:07.63 ID:HDgE0eK/.net
>>498
仮にだが、徳川家康を追い詰める、場合によっては首を獲っている時点で、兵数的に毛利吉川勢の功績が大きすぎんか?
徳川亡き後、誰が毛利を抑えられる?

>>499
そう考えると、実は毛利輝元(安国寺恵瓊)黒幕説が真実味を帯びてくるのか?

石田三成や大谷吉継の決起計画を把握した輝元が、各所に連絡が付く前に書状を乱発して奉行衆がすぐに決起せざるを得なくする。
決起内容からして奉行衆は東国を目指すしかなく、奉行衆に足りない兵力を毛利秀元や吉川広家等の毛利譜代衆で補填して引くに引けなくする。

かたや輝元自身は、主力で大坂城を確保して各地への命令系統を掌握する。
再起を図りたい大友義統や村上武吉を使って九州や四国の権益の拡大を謀り、裏では徳川家康とは渡りをつけておく。

勝てば良し、負けそうなら毛利秀元や吉川広家にはさっさと兵を引かせ、被害は奉行衆に被ってもらう。
自身は大坂城を手土産に事前の下準備通りに徳川と講和して現状維持。

少なくとも石田三成や大谷吉継らの意図の読めない動きよりは、よっぽど納得できる説明がついてしまう。

502 :人間七七四年:2023/08/10(木) 23:27:02.53 ID:f9bfdDNZ.net
>>500
7月12日付増田書状は偽書説もあるしあまり当てにならん

・佐竹
8月7日付三成書状で7月23日に佐竹から三成へ書状が送られている
書状の内容からこれがファーストコンタクトか?

・上杉
8月6日付直江書状で佐和山からの使者を懇ろに饗応するよう兼続が指示してるが、これが初めての三成からの使者かは不明

・真田
7月30日付三成書状で7月21日に昌幸からの返書が三成へと出されている
書状の内容からこれがファーストコンタクトか?

一次史料だといつ決起計画が持ち上がったのか不明だけど6月中は流石に無理がある
まあこうやって見ると遅いのは確かに遅いな
しかしあんたのように自信満々に知らなかったとは断言はできないと思うね
その辺は今後の研究に期待するわ

あと丸島氏は昌幸が事前に挙兵計画を知らせなかった不満を表したのは褒美の釣
り上げを狙ったもので、本心からではなく駆け引きと見るべきだと言ってるけどね

503 :人間七七四年:2023/08/11(金) 08:31:56.55 ID:S4grwbyu.net
三成が決起計画を知っていたら六月には動いてないと遅い
それとなく上杉や佐竹、真田に話を通しておかないと「徳川の背後を西軍勢力が脅かす」構図にならないのは明らかなんだから
特に上杉とは元取次なんだから「世話になった身なので心配」って名目で連絡は出せる
出来なかったとして七月十七日には出来たはず。本来決起前にやるべき根回しを決起後にやるのだからもう待ってましたと言わんばかりだろう
それが向こうから手紙来るまで黙ってたのは解せない

504 :人間七七四年:2023/08/11(金) 08:33:23.65 ID:S4grwbyu.net
>>502
丸島氏の見解は昌幸を馬鹿にし過ぎだと思う
徳川家康と戦うってのは単純な戦じゃない
西軍が負けたら全てを喪う大博打なんだから
そんなところで駆け引き打ったとするならそれは昌幸が「家康と戦う」ことの重大さを認識出来てなかったことになる

505 :人間七七四年:2023/08/11(金) 09:05:01.49 ID:zr1FC+DW.net
>>504
戦う覚悟が足りないとかそんなあやふやなもんじゃなく、実際短期間の通信で恩賞は信濃・甲斐2ヶ国にまで増えてるからな
真田と石田の最後の通信8月10日付三成書状が根拠になってるし全く筋違いなことを言ってるわけじゃない

506 :人間七七四年:2023/08/11(金) 10:27:32.32 ID:S4grwbyu.net
昌幸がタカってなくても恩賞は上がるに決まってるんだよな
それよか問題なのは三成が決起計画を伝えなかったことで真田家は意思統一が出来なかったということ。特に信幸が密かに裏切っていた事は大打撃になってる
何故三成は伝えなかったのか?というと伝えなかったのではなく伝えられなかったという説明の方が論理的
何故伝えられなかったのか、というと三成は全く決起計画を知らずまず西軍から計画を聞かないといけなかったからって結論になる

507 :人間七七四年:2023/08/11(金) 10:39:55.95 ID:zr1FC+DW.net
>>506
上がるに決まってる?決まってないよw
まあ連絡は確かに遅いとは思うけどそれで知らなかったからは飛躍しすぎ
誰か研究者でそう主張してる人がいるならまだしも誰一人そんなこと言ってる人もいない
他に理由があって連絡しなかった可能性もあるし現状の史料では確認できんから断言はできないよねと言ってるわけで
まあどうせお前に何言っても聞かんでしょ

508 :人間七七四年:2023/08/11(金) 12:49:30.18 ID:S4grwbyu.net
報連相が全く出来てない三成に対して大坂三奉行と毛利輝元はがっちり連携取ってるのも対照的
三奉行が輝元に上洛を要請したのは十二日だけど輝元はこの時既に船まで用意してた
光成氏はこの上洛が異様な速度である事から事前の打合せ無しがあったとしてる
また輝元は六月に大坂に祐筆を送ってる。これによって安国寺恵瓊は輝元の命令書状を速やかに作成できた
と、三奉行と輝元は六月から既に行動してるのだが対して三成が活動を始めたのは七月末
三成は全く決起計画を知らされてなかった、だからあれほど軽んじられていたんだね

509 :人間七七四年:2023/08/11(金) 13:20:17.15 ID:zr1FC+DW.net
>>508
輝元が恵瓊の要請で右筆派遣したのは7月上旬のこと
自論の主張はいいけど史料の捏造はやめようね
あと打ち合わせがあったでしょ?打ち合わせ無しがあったになってるよw

510 :人間七七四年:2023/08/11(金) 15:04:01.85 ID:S4grwbyu.net
そうだっけ?光成氏の本だとだと六月だった気がしたけど記憶違いだったかな
とどのつまり三成は西軍決起計画を知らず、だから何も行動出来ないまま七月末まで来てしまった
なにせ三成が決起計画を知っていたとして真田らに書状を送らない理由が無いからね

511 :人間七七四年:2023/08/11(金) 18:33:03.31 ID:zr1FC+DW.net
>>510
自分で確認してみればいい
あんたの場合史料の誤読も多いし適当なことばっか言うから史料引用しても信用ならんのよね、あと都合悪くなると逃げるし
内府ちかひは複数種類があると主張してたけど未だにお答えいただけないしなw

512 :人間七七四年:2023/08/11(金) 19:21:01.69 ID:F/5IlAxh.net
>>511
辛辣かつ正論で草

513 :人間七七四年:2023/08/11(金) 19:34:09.43 ID:F/5IlAxh.net
>>503
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/18/0064?m=all&s=0064

7月30日時点でも三成は上杉との連絡ルートがないのにあほか

この書状だと暮れから来春に関東に出陣すると三成はいっている
のんびりした認識だもんだ

514 :人間七七四年:2023/08/11(金) 19:51:30.66 ID:T++ncm7a.net
真田昌幸宛三成書状での弁明によれば家康が大坂に居る間は諸将の心がわからず発言が憚られた、何事も隠密が重要と思ったとのこと
ただこれは確かに苦しいな
徳川家康が大坂にいるってなら六月十七日には書状送れた筈だし徳川軍が大坂になら七月十七日には送れた
また隠密云々とあるけど佐和山に大谷吉継が来てるというだけで三成謀反の一報が騒がれてる。軍隊が来るより書状の方が騒がれるなんて有り得るか?三成が決起計画を知らなかったなら辻褄は合う
三成は弁明に終始してるけど昌幸からしたら真田は戦力外と言われてるに等しい訳で怒るのも仕方ない

515 :人間七七四年:2023/08/11(金) 21:38:05.43 ID:zr1FC+DW.net
>>514
何事も隠密が重要?また誤訳してるぞ
「隠密之節」つまり公になってない計画の段階で昌幸に伝えても意味ないと思ったと三成は言ってる

「いつれも隠密之節も申入候ても、世上不成立ニ付てハ、御一人御得心候ても、無専儀と存思慮」

いずれにせよ隠密の段階で計画を申し入れても世間がまとまらなければ(つまり
挙兵できなければ)、貴方お一人心得ていただいても詮無きことと思慮しました

516 :人間七七四年:2023/08/12(土) 04:56:33.19 ID:8b40fBnQ.net
慶長5年6月に三成が直江に宛てた書状がなかったか?

517 :人間七七四年:2023/08/12(土) 07:01:40.71 ID:itAROjaH.net
確かそれは偽書とか言われてた気がするが

518 :人間七七四年:2023/08/12(土) 08:36:27.89 ID:FW5ZVdLj.net
三成が西軍の総大将だと思いたい人って「三成は西軍総大将だった」という前提から史料を見てるから変なことになってる
史料だけ見れば三成が総大将だった事を示すものは無いしむしろそれと矛盾するものが多い
三成が西軍総大将なら何故前もって根回ししてないのか?そういわれて「何か事情があった」という妄想以下の思考放棄に陥ってる
どれほどの馬鹿者でも家康と戦うなら一味に連絡くらいするし決起した後も放置なんてやらん
ってことは三成は西軍とは全く関係ないところにいたって結論になる

519 :人間七七四年:2023/08/12(土) 09:16:21.74 ID:8b40fBnQ.net
決起した後も放置?
少なくとも8月上旬までは真田と交信してるし、慶長5年8月2日付で出した2大老4奉行による連署書状もあるし
総大将かはともかく、首謀者の一員なのは明らかでは?

そもそも佐和山あるいは大坂から会津なんだから、簡単に連絡取れるわけない
その間には家康派の大名ばかりがいるんだし
当時なら大坂から会津まで普通なら20日、急いで8日はかかったんじゃないの? それを隠密裏にやらないと
いけないんだから時間がかかったはず
現在みたいに電話やSNSが使えないんだから、連絡とってない=放置、は如何かと思う

520 :人間七七四年:2023/08/12(土) 10:39:20.89 ID:FW5ZVdLj.net
七月十七日に蜂起してんのに三十日までダラダラしてんのおかしいだろって話なんだよな

521 :人間七七四年:2023/08/12(土) 11:14:13.60 ID:D0/Sl6e8.net
>>518
史料読めない奴が偉そうっすねw
三成が総大将だったなんて言ってる奴誰もいないけどお前には何が見えてるの?

で、何事も隠密が重要って何?
お前は史料の誤読誤訳が前提になってるからおかしなことになるんだな

522 :人間七七四年:2023/08/12(土) 11:44:58.63 ID:5ZHO690B.net
アスペがなんか騒いでるじゃん
滑稽だな

523 :人間七七四年:2023/08/12(土) 11:48:06.38 ID:5ZHO690B.net
何が滑稽ってアスペくんが必死に訳した内容は
何の意味も無いってところね
仮にアスペくんの訳が正しかったとして西軍は七月十七日に内府違いの条々を出して伏見城を攻撃と完全に挙兵してる
つまり三成がどうして七月十七日に真田昌幸に書状を送らなかったのかという疑問の答えにまるでならない
アスペくんと同じで無駄な翻訳、普通は何やってんだろ俺って思うけどね

524 :人間七七四年:2023/08/12(土) 11:54:49.41 ID:5ZHO690B.net
アスペくんは真田昌幸が青森の豪族程度の認識しか無いんだろうしそれはそれで大切にしてほしいが歴史家からするとそうはいかない
真田昌幸は三成と親しい、どれくらいかと言えばこいつ西軍にだけ就てる。よくある蝙蝠外交もしてない。それだけ三成に賭けていた
また真田領は西軍が持つ唯一東軍勢力を排して上杉と連絡出来るので重要度は非常に高い
昌幸が怒るのも当たり前で決起以前に話をしてくれないと準備が出来ない。昌幸は決起を知らなかったので真田一族は信幸と昌幸・信繁で別行動していたので意思統一が出来なかった(犬伏の別れは明治時代の創作)
事前に一報あればこうはならんかったという話でそれで三成は本当に決起を知っていたのか怪しいって結論になる

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