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もし信長が元親と協調路線を取っていたら

1 :人間七七四年:2023/09/05(火) 03:30:04.31 ID:7Thb9WXj.net
織田軍盟主の織田・長宗我部合同軍で伊予を下して、長宗我部に伊予を譲り、そのかわり讃岐・阿波を織田の管轄地とし、本能寺の変も起こらず、各方面も粛々と進攻が進んでいったら、どのような展望が待っていたのか。

2 :人間七七四年:2023/09/05(火) 04:08:20.65 ID:7Thb9WXj.net
俺が思うに、信長が斃れたのは、この四国の不始末に問題があったと思う。
長宗我部との協調路線を守り、明智の面目を保ち、十河には伊予侵攻後に織田家から付け家老を三人くらいつけて阿波に入ってもらい、讃岐を四国における織田の前線基地とし、あとは中国侵攻に力を入れれば自然と長宗我部を徳川化できただろうし。

柔軟にいけば、決して寝首を掻かれるような、決して難しい局面ではなかったと思うのだが。

3 :人間七七四年:2023/09/05(火) 05:59:14.88 ID:7Thb9WXj.net
中国戦線は信長本隊が侵攻をし、宇喜多・長宗我部にもそれぞれ挟撃させ、最終的には毛利を降伏させ、周防・長門に封じる。

それで、恩賞として、長宗我部には安芸一国、宇喜多には備後一国を与え、瀬戸内海の制海権は何としても村上を支配下に置いて(多分、これが一番難しい)、山陽道を外様大名家で固め、織田本家は海外との交易が盛んだった山陰道を抑え、九州征伐を主に外様大名衆に任せて勢力の拮抗を保つ。

4 :人間七七四年:2023/09/05(火) 07:47:33.13 ID:7Thb9WXj.net
九州征伐の後は、秀吉を筑前筑後、豊前に封ずる。また、弟の秀長に肥前中東部を任せて、別家を立たせる。
親中央政権であろう大友には豊後一国を安堵し、秋月等小大名は軒並み肥前の海岸線に転封。
その際、平戸と後の長崎になるであろう良港は肥前の羽柴秀長が監督とし、筑前の羽柴秀吉の博多との相乗効果で対外貿易策を推し進める。

論功行賞で、毛利を周防・長門から肥後一国に加増転封。残った周防・長門は石見の西部とともに明智光秀の所領とする。

なお、出雲松江城に織田一門の蒲生氏郷を西国探題として配置し、東石見・出雲・伯耆を領する。この際、石見銀山は当然織田家の名代として蒲生家が監督管理をし、日本海交易で海外との交易を強化する。

5 :人間七七四年:2023/09/05(火) 08:11:50.78 ID:7Thb9WXj.net
南九州は、長宗我部に論功行賞として日向をあてがうのだが、ここはあくまで明智の次子を長宗我部の娘に婿入りさせ、惟任日向守氏(長宗我部氏)を立てさせる。
明智宗家は、新たな官職を得て、周防山口を本拠とし、両国経営を行う。

また、関門海峡を挟んで、明智と羽柴にせめぎ合いをさせる事で、強大譜代勢力の削ぎ合いを促進させる。また、羽柴兄弟を分家させることで、秀吉の牙を抜く。

長宗我部も、海を隔てた安芸国は分国にならざるを得なく、分家として二つにわれる。

残った薩摩・大隅は、史実通り、降伏した島津に安堵させる。

6 :人間七七四年:2023/09/05(火) 09:18:37.69 ID:WD2l7iM2.net
長宗我部なんかすぐに討伐完了するのに配慮する意味がない

7 :人間七七四年:2023/09/05(火) 09:39:38.32 ID:7Thb9WXj.net
>>6
俺が言いたいのは、本能寺の変の四国説に起因する、長宗我部氏との折衝の問題で、仮に四国討伐(長宗我部侵攻)が明智の謀反を誘発したのだったら、の話。

そらたしかに戦略的に考えればまどろっこしいかも知れんけどさ。

8 :人間七七四年:2023/09/05(火) 09:46:09.16 ID:7Thb9WXj.net
もともと信長は、四国のことは元親に任せるって長男に信の字も与えて中国戦線に力を注ぐ方針だったのに、急に方向転換しての四国征伐。

すぐに討伐できる程度の土地なら、わざわざ出向かず、ほっといて、本道の中国戦線に力をまわしていたら、の話。

9 :人間七七四年:2023/09/05(火) 09:52:53.39 ID:7Thb9WXj.net
ちなみに、すぐに討伐できるとは言え、史実通り、信孝と丹羽長秀もろもろだけを差し向けたのだとしたら、間違いなく甘い。
さすがに長宗我部はそこまでザコじゃない。最低一年と半年はかかる。甲斐侵攻とは訳が違う。
今度は丹波長秀が佐久間、林に続くw

10 :人間七七四年:2023/09/05(火) 10:12:50.66 ID:gEILNCzQ.net
島津程度にボロ負けしたチョンそかべが丹羽より強いわけないじゃんw
堀にもあまりにも島津弱すぎる発言残ってるのに
丹羽と堀はそんなレベル変わらんよ
信長公記に丹羽は武の活躍も取り上げられてるのにゲームの印象で書くんじゃ無いよ

11 :人間七七四年:2023/09/05(火) 10:29:10.45 ID:7Thb9WXj.net
>>10
そんな『武』の丹羽なら何故本能寺の変のときに、一番ベストポジションかつ、十分対抗できる軍備の整った大軍を率いてたのに、明智に立ち向かわなかった?
丹羽が吏僚だとは言わないが、いざとなった時の統率力は史実もみても明らかだ。

島津弱いは単なる10倍近くの兵力で押したがわの強者の理論だし、長宗我部だって、総大将を勤めてた訳ではない。

一次資料の評判や単純な勝敗だけで武将を評価するものじゃない。

12 :人間七七四年:2023/09/05(火) 10:35:09.05 ID:7Thb9WXj.net
ちなみに、戸次川の戦いでは仙石の強行策を必死で止めようとしていたのが、長宗我部元親だ。

13 :人間七七四年:2023/09/05(火) 11:29:04.44 ID:7Thb9WXj.net
ともあれ、主題は武将の評価ではない。

信長が四国計略について柔軟路線を取り、明智の謀意も起こさせず、そのまま歴史が進んでいったらどうなっていたのか、それに興味があるのだ。

また、あるいは四国征伐について、はたしてあの時点の織田家にわざわざ四国丸ごと侵略する必然性があったのか、そこについても問いたい。

俺は個人的な意見だが甲斐侵攻にて、いとも容易く武田氏を滅亡させた信長が味をしめてしまって、本来なら無駄な労力を省くであろう信長の性質に反して安易に挙兵を思い至った、所謂今川義元的な、最後の英雄の油断のようなものを感じる。

14 :人間七七四年:2023/09/05(火) 19:43:27.72 ID:X5EXeNOY.net
1から読んでみたけど、惟任日向守家ってのはなかなか面白いな、なんだかえらい胡散臭いけどww

15 :人間七七四年:2023/09/05(火) 20:36:08.13 ID:7Thb9WXj.net
>>14
官職から最終知行地をあてがえたが、秀吉の筑前はともかく、明智の日向は、最終知行地としてあまりにも相応しくなく、苦肉の策だw

16 :人間七七四年:2023/09/06(水) 20:15:55.73 ID:87yPMGro.net
毛利も長宗我部も島津も皆殺しにすればいいだけ
明智とか羽柴は朝鮮に転封か改易

17 :人間七七四年:2023/09/06(水) 20:42:55.71 ID:fYKCIuMX.net
>>16
シンプルで安易だが、あの時点の信長では十分ありそうな事だ。
だとすると、それを見越して四国征伐に舵を切った明智が事を起こしたのか?

18 :人間七七四年:2023/09/06(水) 20:44:03.45 ID:fYKCIuMX.net
それを見越して舵を切った信長に、明智が事を起こしたのか?

19 :人間七七四年:2023/09/06(水) 20:46:42.27 ID:fYKCIuMX.net
それを見越して四国征伐に舵を切った信長に対して、明智が事を起こしたのか?

何度も書き損じて、すまない…。

20 :人間七七四年:2023/09/07(木) 04:59:50.26 ID:86Er3Rva.net
そもそも四国征伐にしても、信長の本気度が知れない。
堺に集まった信孝・丹羽長秀の主力軍は多くても2万。それに対しておそらく一領具足の長宗我部は、あの時点でもおそらく最大1万2〜5千は動員可能。まして本土決戦となれば、戦力的には最低でも1.5〜2倍くらいの抵抗力になり得るだろう。

ちなみに、秀吉のときは阿波からの秀次主力が6万、讃岐方面から宇喜多、蜂須賀・黒田他が2万弱、伊予方面から毛利派遣軍が3万余り。
『三方面から挟撃した上での10万余』で、満を持して事に当たっている。

1582年の長宗我部がまだ四国統一してはなかったとはいえ、領土的には四国の半分くらいは領有してた為、四国統一時の半分の兵力は有していたと思われる。
だとするならば、最低でも秀吉の四国征伐の10万の半数、5万は必要。しかもこれは、三方面挟撃時の数字であって阿波方面一方のみの侵攻ルートならば、最低でもやはり8万は余裕をもってないと正直厳しい。しかも、それでも半年はかかるのではないかと推測される。

それに対して信長が動員したのは、信孝主力の約2万のみ。四国で十河等と合流したとしても、最大で2.5万弱。とても長宗我部を呑み込めるような兵力とは思えない。信長は石山攻めで一体何をを学習したのか?

21 :人間七七四年:2023/09/07(木) 05:23:26.27 ID:86Er3Rva.net
そもそも数で優る場合、各個撃破が常道なはずなのに、右手で中国地方、左手で四国攻めなどという戦線は、戦国時代を生きてない自分でも十分甘いと認識できるほどのお粗末ぶりだ。自軍の力を過信し過ぎてるとしか言いようがない。

ただでさえ戦線は、北陸、関東にも間伸びし切っているのに、あの時点での信長は、広域的な戦略眼を完全に失っていたのか。そんな中での領内でほぼ丸腰での寝首は、やはり今川義元のような驕りを感じざるを得ない。

やはり信長は天下を統べるどころか、統一する器ですら無かったのか。

22 :人間七七四年:2023/09/07(木) 06:56:30.72 ID:jrkFHjPt.net
領土的には四国の半分くらいは領有 >1582年の領土は山ばかり

約2万程度でも長宗我部が領地にしたばかりの地域では
動揺が激しいと思われる
自軍の力を過信してるのはそっちだよ
長宗我部は忠誠100ばかりの家臣なのか

23 :人間七七四年:2023/09/07(木) 08:13:26.82 ID:86Er3Rva.net
>>22
領地にしたばかりの阿波ならともかく、土佐一国に引き込まれたら、それこそ山ばかりの地形、地の利を知り尽くしてる長宗我部に、本土の派兵軍が離島の領内で、苦戦するのは火を見るより明らかだろう。
大勢力になってしまったがための、本土の烏合の寄せ集めの合同軍より、地侍で本土を守る結束を固めた離島の軍団のほうがはるかに忠誠うんぬんではなく、士気の上でも、地の利の上でも有利なのは明白。

攻め手は守り手の最低でも三〜五倍の兵力を要するのは戦国時代の常識。

その上で、本能寺の変での信孝・丹羽軍の四散の仕方はなんだ。そのような程度の結束の軍勢で、進行したことのない未知の土地に制圧をかけるなど笑い話にしか聞こえないくらいだが?

24 :人間七七四年:2023/09/07(木) 08:26:02.83 ID:86Er3Rva.net
忠誠度でいうならば、100とは言わずも、上記のことから織田軍と長宗我部軍では歴然な差があるのは、察するに難くない。
ましてや四国戦線は甲斐侵攻ほど調略が進んでおらず、内部崩壊も簡単には期待出来ない。

加えて四国衆の、信長の約束を反故にした行動は半信長感情を高める重要な材料となり強大な共通敵国への抵抗は凄まじくなるものと予想される。

賢い将は、窮鼠など作り上げないものだ。

25 :人間七七四年:2023/09/07(木) 08:44:12.09 ID:86Er3Rva.net
わかりやすく例えるならば、戸次川の戦いであろう。丹羽は仙石のような無能ではないが、無能ではないが故に離島での派兵軍の不利を悟り、阿波までは侵攻するかもしれないが、土佐にまで深入りするような愚かな真似は避けるであろう。

そして戦線は膠着し、長引けば守り手に有利なのは世の常で、その時に信長がどう判断するか。和睦を持ちかけるか、佐久間のように怠慢で丹羽を切るか。

因みにこの段階で、織田本軍の直参の大部隊は中国戦線に投入されていると推測される。

26 :人間七七四年:2023/09/07(木) 10:45:19.97 ID:n/5rKKdH.net
最近新しい史料が公表されてなかったっけ?長宗我部が信長の決定に従うんで勘弁してくださいって書いてる手紙
ただもう本能寺直前で間に合わなかったけど

27 :人間七七四年:2023/09/07(木) 11:48:56.50 ID:86Er3Rva.net
>>26
成る程。石谷家文書で、一度は対決姿勢を取った元親が反転、恭順姿勢を取った資料が中にあったのだな。
だとしたら、それに関しての専門家の解説にあたる通り、信孝・丹羽の2万足らずの平定軍はあくまで条件和睦のための使節団ということか。

おそらく信長本軍を投入した本格侵攻を恐れた元親が恭順姿勢をとって、外交路線で和睦に持ちかけたようなところか。それに応じて、かたちだけの2万程度の交渉軍を派兵したと。

それなら全ての辻褄が合うな。やはり最初から四国征伐など本気で考えてなかった訳だ。

28 :人間七七四年:2023/09/07(木) 11:58:08.39 ID:86Er3Rva.net
信長の算段としては、長宗我部を外交で下して、土佐一国に封じ込め、残るは2万とその他もろもろ、それに降伏させた長宗我部軍を先鋒に、切り取り場となった伊予を攻略するシナリオか。それなら十分納得がいくな。

29 :人間七七四年:2023/09/07(木) 12:49:45.84 ID:86Er3Rva.net
土佐一国安堵の条件として、伊予侵攻の参画、そしてそのまま四国平定後に土佐一国のみ安堵。

いかにも無駄のないスマートなやり口だが、そういった横柄な態度が明智の謀反の呼び水となり、事実上無様な最後を遂げてしまったのだとしたら、それはなんと戦国の世の皮肉か。

あたかもその答えに応じるように、天下統一事業を完遂させた秀吉はあくまで、和睦路線で、毛利とも上杉とも協調路線を取っている。

30 :人間七七四年:2023/09/07(木) 18:58:50.76 ID:Cta1abBt.net
明智が必死に長宗我部を説得してやりとりしてる最中なのに四国攻めが決定されて始まったから光秀の面子丸つぶれで本能寺の変につながったという説が有力

31 :人間七七四年:2023/09/07(木) 21:37:04.95 ID:8gWdyyHZ.net
秀吉は信長を反面教師にして一瞬にして日本を統一した

32 :人間七七四年:2023/09/07(木) 22:00:57.10 ID:86Er3Rva.net
>>30
そう、所謂『四国説』だな。今回のスレは、それに則って、仮に信長が長宗我部との協調路線を取り、強行突破を選ばず、明智のメンツも潰さず、本能寺の変も起きなかったらとしたら、天下はどうなっていたのかが主題だ。
はたして信長は天下を統一出来ていたのか、あるいはやはり、明智でなくてもどこかで味方に討たれる運命だったのか…。

33 :人間七七四年:2023/09/07(木) 22:02:58.91 ID:86Er3Rva.net
>>31
その点、秀吉はほんと上手くやったよな。傍目で信長の横死を見てて、当事者となり明智を討ち、そうとう思うところがあったのだろうな。

34 :人間七七四年:2023/09/08(金) 20:50:39.54 ID:F/KWRebl.net
僻地への転封繰り返されたら誰かが反乱起こすと思う

35 :人間七七四年:2023/09/09(土) 02:40:21.24 ID:zr10Iij1.net
四国説興味深く思うのだが腑に落ちない点がある
本能寺の変直後に信親から三好征伐を進言されても体調不良を理由に暫く見合わせた事
話が通ってなかったのか?
元親記によると利三が気を効かせて謀反を急いでくれたそうだが…
仮に計画に噛んでるなら一刻も早く勝瑞城を落とし明智と連携を取る事が重要であるし、元親の手腕を鑑みても此処に至り様子見する愚か者とは考え難い
となると明智の独断専行という事になるがわざわざ四国出兵に合わせて変を起こしながら長宗我部側と取り決めが無い、などと杜撰な計画があり得るのだろうか

36 :人間七七四年:2023/09/09(土) 02:55:25.83 ID:zr10Iij1.net
本能寺の変で最も救われ且つ光秀との関係性から云っても状況証拠的に真っ黒に近い長宗我部が、主君の仇の一味とされなかったのも謎
四国平定後も土佐は残されたし秀吉に鯨を献上し返礼を受けた、なんてほのぼのエピソードもある
戸次川の慰撫の意味が強いのだろうが加増の話も出ている(長宗我部側から断っているが)
扱いとしてはそう悪いものではない
本当に清廉潔白だったのか、はたまた明らかにされていない裏事情があるのか…

37 :人間七七四年:2023/09/09(土) 05:21:32.17 ID:hopFhH4E.net
>>35
成る程、その一連の動きは非常に興味深いな。
仮に明智の独断でことを起こしたのだとしても、長宗我部にとっては、中央のゴタゴタに乗じて阿波を掌中にしようとするのは、ごく自然な行動で、なにも遠慮する理由がない。
まさか本当に体調不良だったのか(笑)

考えられるとするならば、予定外に信長が大きな隙が見せ、千載一遇のチャンスを前にし連絡していたプランとは別に、急遽突発的に事を起こしてしまったってところか…。
もしかしたら本当に細川・筒井などらも巻き込んで、綿密に畿内大蜂起のプランを練っていたのかもしれない。荒木の時の中川と高山のように。四国平定軍が阿波に差し掛かり、信長本隊も淡路まで兵を進めたあたり、畿内が本当の意味でガラ空きになるタイミングを計っていたのかも…。

38 :人間七七四年:2023/09/09(土) 05:56:04.72 ID:hopFhH4E.net
専門家の見解によれば、信長は信孝の平定軍を四国に送った後、大将の信孝を三好康長の養子に入れ阿波を治め、自らは主力の中国平定軍を淡路まで進め、四国仕置きの段取りを見届けてから海路、秀吉と合流するルートだったらしい。

このタイミングで畿内大蜂起が成功すれば、事実上もぬけの空となった大阪表は明智の物だし、紀州の雑賀も心強い味方となる。京にいるであろう信忠を真っ先に討ち、坂本のある近江を史実同様掌握して安土城を手に入れる。
賛同するかどうかは別として、巻き込まれたかたちの筒井細川は明智の畿内が揺らがないかぎりは抵抗出来ないだろうし、中央を絶たれた播磨衆も明智に靡くものが出てくるであろう。ただでさえ、織田に恨みの多い土地だ。

淡路島に取り残された信長本軍は二方を毛利、長宗我部、後方を畿内を制した明智、おまけに帰る場所もない。これまたおまけに見知らぬ小さな島に取り残されているから、移動をするにも、必ず海路を取るしかない。
移動に手こずれば、侵略してきた長宗我部と本土から満を持しての明智軍に挟撃される。恐らく毛利と挟まれた中国戦線の秀吉も只では済まないだろう。

こうあげてみれば、こっちのシナリオのほうが、京で信長を討ち取ってしまうよりはるかに優位に運べそうだ。
まぁそんな計画をしていて、急に中国攻めを命じられ、信長が動く時間を待ってられなくなった故の突発的決行かも知れないが…。

39 :人間七七四年:2023/09/10(日) 08:29:14.49 ID:3VOXSL+Y.net
戸次川で仙石を止めたのが本当なら馬鹿息子の信親はなぜ勇んで突撃していったのか

40 :人間七七四年:2023/09/10(日) 14:16:33.24 ID:YbKRo3wz.net
>>39
少なくとも元親は四国征伐でやられたばかりだし、当の敵軍の将に総大将として率いられ、親交のあった島津と対決するのだから、戦意の上がらないことこの上なかっただろうな。

信親は仙石の決定を批判し、家臣に対して「信親、明日は討死と定めたり。今日の軍評定で軍監・仙石秀久の一存によって、明日、川を越えて戦うと決まりたり。地形の利を考えるに、この方より川を渡る事、罠に臨む狐のごとし。全くの自滅と同じ」と吐き捨てたという(『土佐物語』)。

長宗我部にとって全く面白くない戦であったことには間違いないであろう。

41 :人間七七四年:2023/09/10(日) 15:30:37.44 ID:2lIq70WN.net
>>40
なお実際は我先にと先陣争いで突撃して真っ先に釣り野伏せに引っ掛かった

42 :人間七七四年:2023/09/10(日) 16:48:00.82 ID:YbKRo3wz.net
>>41
どこを調べても先陣争いをしたとの記述は載ってないのだが、論拠をあげてくれないか?
信親は元親と同じ一隊に入っており、仙石の敗走により孤立した長宗我部軍のなかで、親子がはぐれてしまって、元親はなんとか脱出できたが、信親は包囲され討ち取られたと聞いているが。ちなみに元親記でも土佐物語の記述でもないぞ。

43 :人間七七四年:2023/09/10(日) 16:49:02.06 ID:YbKRo3wz.net
なにか感情的に物を語ってないか?

44 :人間七七四年:2023/09/10(日) 16:53:52.56 ID:YbKRo3wz.net
間違いない。島津が当たったのは、第一陣が淡路の仙石勢で、瞬時に粉砕し、第二陣の土佐勢と交戦したと、どの文献も語っている。
なにか感情論で武将の尊厳を貶めてないか?

45 :人間七七四年:2023/09/13(水) 21:15:24.37 ID:cBngzq41.net
まあ四国って弱そうだし
公家大名ばっかり

46 :人間七七四年:2023/09/16(土) 11:09:21.88 ID:Bs/Pu4ZT.net
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47 :人間七七四年:2023/09/16(土) 12:49:49.06 ID:vkldctXn.net
>>46
とっくにやってるよ。

48 :人間七七四年:2023/09/17(日) 16:39:40.38 ID:h7Ka4/J7.net
四国は雑魚ばかりだからな
長宗我部なんて朝倉以下
偽装退却にあっさりひっかかるワーワーサッカーレベルの突撃戦術で勝ち上がれたど田舎

ニコポリスの戦いで偽装退却にひっかかりヨーロッパ全軍に大迷惑かけたフランス軍にソックリ

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