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石田三成の挙兵 ★8

1 :人間七七四年:2023/11/20(月) 21:40:03.94 ID:VmTtNp90.net
石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/
石田三成の挙兵 ★2
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1659567400/
石田三成の挙兵 ★3
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1667713567/
石田三成の挙兵 ★4
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1675638266/
石田三成の挙兵 ★5
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1681718599/l50
石田三成の挙兵 ★6
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1688201714/
石田三成の挙兵 ★7
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1694679016/

277 :人間七七四年:2023/12/08(金) 10:33:55.05 ID:spQS0435.net
揺り返しも何も、関ヶ原本戦が話にならないからなあ
一次史料見たらどれも東軍の圧勝
しかもあっさりと
これじゃ「IF」の入る余地が……

278 :人間七七四年:2023/12/08(金) 14:41:15.23 ID:PBE7umE8.net
関ヶ原本戦と言われるものについては、
新説準拠でいくなら、
松尾山を攻撃するべく松尾山に向けて布陣してたわけでしょ、
そこに後方とでも言うか、北東方面から東軍が現れた。
そこで西軍は布陣し直す、もしくはし直そうとしていたら
松尾山の小早川が攻撃してきた、
さらに脇坂朽木が寝返る、
挟撃+寝返りで大混乱必至。
瞬殺も十分有り得る状況。別に不思議ではない。

279 :人間七七四年:2023/12/08(金) 14:52:48.96 ID:TJ1/U5jy.net
>>277
一次資料を素直を読むと、無策の夜逃げを追撃されて壊滅という、戦いにすらなっていない結果だからな。

あれを鶴翼の陣で包囲された家康が小早川を寝返らせて大逆転、凄い、みたいなファンタジーにするんだから、
ほんとうに歴史の通説って当てにならないもんだと痛感する。

280 :人間七七四年:2023/12/08(金) 14:55:22.16 ID:GVcoxotb.net
ちなみに互角ちかい戦いを小早川が…って通説はいつ生まれたの

281 :人間七七四年:2023/12/08(金) 14:55:51.50 ID:V1lPgbc0.net
まあ史実通りの関ケ原だと家康の見せ場がないからね
なので権現様は何でも見通しているという家康神話が創作されたね

西軍の挙兵を見通していた→小規模の反乱程度は可能性として考えていた
かもだが、史実のような大規模な挙兵はおそらく想定外なので鳥居元忠との
涙の別れもおそらく創作、慶長記には機嫌よくニコニコと笑っていたあり

小山軍議で上方で秀頼様を擁す西軍挙兵で多くの諸侯も加わっている大坂方につきたい方は遠慮なく帰路の安全も保障との家康の言葉に諸将は全て味方を約束、東海道筋の城は明け渡しと鉄壁の信頼関係を構築
→最近では軍議の存在すら疑問視されているし、この時点では石田、大谷の謀反で三奉行は家康の味方と思われていた、浅野幸長書状や宮部家の記録などから
ある程度の諸侯を集めた事実はあるらしいが、一方的に家康側から決定事項を
伝えたという記録もあるようで通説のような劇的な展開ではなかっただろう

清州で家康出馬を待ちかねて大荒れの諸将の所にわざと言葉を飾らない
村越茂助を派遣し味方ならば旗幟を鮮明にせよと言わせ奮起した諸将は
長良川を越えて進軍し大勝する、家康はここまで見越していたまさに神算鬼謀だ
→諸将は荒れてないし福島、池田も協力しあっていた、8月19日村越の口上は
出馬延期を伝えるもので出撃を決めたのは諸将で翌8月20日の井伊、本多の到着
をまち最終決定

決戦前日、佐和山城攻めに向かうと流言を広め石田等をまんまとおびき出す
→西軍の移動を予期しておらず出撃の報せを受けてから東軍諸将を準備させ出発

本戦で西軍が善戦し苦戦を強いられる、家康は危険な最前線近くまで
本陣を進め東軍の士気を高め、小早川への問鉄砲という起死回生の策で
大逆転勝利を収める
→家康の本陣の場所は不明、赤坂に留まっていたか南宮山方面まで進んでいたが
決戦場所は見えない距離にいたともいわれる、小早川はすぐ寝返ったので
当然鉄砲で督促はしていない、西軍は2時間と持たずに総崩れ

282 :人間七七四年:2023/12/08(金) 18:26:35.48 ID:5ye+Rpgt.net
まぁそもそも会津征伐に反対していた秀頼が実は家康を支持している、ってのは想像出来ん。反家康思想を周囲から与えられていてもおかしくない

283 :人間七七四年:2023/12/08(金) 19:15:09.06 ID:zkCjKM1V.net
ただ個人的には関ヶ原本戦新説には疑問部分もある。
松尾山を攻撃ないし包囲するつもりだったまではいいが、
既に山中村辺りには大谷らが布陣している。
これに加え大垣からの西軍が加わる。
通説の笹尾山から松尾山、山中村あたりまでは距離もあるし問題ない、
しかし山中村周辺に大軍勢が布陣とは
スペースの問題がある。
そんな大軍の布陣するスペースがあるのかと。
ぎゅうぎゅう詰めならいけるとか
そんなのは軍勢の布陣とは言わん。
自分なりに整理はついていないが、
軍勢布陣面積、あるいは状況がいまいち想像できない。
だれかこれに回答できる?
ポイントは石田は伊吹山方面に逃げた、
島津は伊勢方面に逃げたっぽい、あたりかなと。


山中村あたりでぎゅうぎゅう詰めの布陣とかおかしいんだよね。

284 :人間七七四年:2023/12/08(金) 20:33:00.49 ID:BzEw+jCk.net
だから決戦とかじゃなく>>279だろ

285 :石治少:2023/12/08(金) 23:51:14.79 ID:bRVMWXTv.net
小早川め気は確かか!

286 :人間七七四年:2023/12/08(金) 23:56:51.32 ID:2nWtZXQA.net
一次史料で山中で戦ったというものが複数あるのは確か。同時に関ケ原で戦ったというのも複数あるわけで、ということは山中を含む関ケ原一帯が戦場で、
最終的な戦略目標が山中の大谷吉継が陣を敷いていた山中陣城を落とす事or山中を通って逃げる西軍に追撃をかけ殲滅する事がだったので、
合戦直後には実際に自分が戦った場所か、広域にフォーカスして関ケ原と呼ぶものと局所にフォーカスして山中と呼ぶものに分かれたが、
戦後は山中まで突入した者だけでなく関ケ原で戦ったものも大勢いたからひっくるめて共通認識として関ケ原の戦いで落ち着いた。と解釈するとまぁ説明はつく。

287 :人間七七四年:2023/12/08(金) 23:58:25.23 ID:2nWtZXQA.net
かなり後になって作られた通説の布陣図がまず宛てにならないというのはしょうがないし
関ケ原の合戦自体がそもそも決戦ではなく西軍が佐和山まで夜逃げ途中に吉川と話がついていて
捨て石に兵を残した大垣城や南宮山毛利軍に引っかかることもなく霧をもものともせず追撃に来た東軍に食いつかれた
ただの撤退失敗ちゅう可能性も高くなってきたんで決定稿なんぞないまだまだ研究途上の分野やでな

288 :人間七七四年:2023/12/09(土) 00:30:02.92 ID:XfaBtlIY.net
>>262
秀頼の自筆書状でよく知られてるのは高台院宛の見舞い状と家康宛の鷹を貰ったことに対する礼状の二通がある
秀頼が書いたかものか右筆の手によるものかは判断できると思うよ
他の秀頼発給の黒印状の筆跡とは明らかに違うし

関ヶ原の頃は年齢的にも右筆の手によるものだろう
原本や写しもなく内容も不明だけど、本多正純書状にある9月21日付秀頼・淀殿書状とかね
秀頼自筆の二通は共に年次未詳だけど、その内家康宛のものは慶長16年以降と比定されてるしだいぶ経ってからのもの

289 :人間七七四年:2023/12/09(土) 08:08:47.85 ID:ug0ny8ri.net
夜間での追撃戦の成功というのは常識的には考えにくい。
東軍の企図が追撃だったとしても、
夜明けで一旦どこかに布陣するはず、
あるいは予定地点で一旦集結するはず。

西軍は佐和山への移動が目的なら
山中村の大谷らを後衛として山中辺りで止まらずに
そのまま佐和山へ行軍してるはず、
山中で追撃する東軍に捕捉されるとか
さすがにまぬけすぎるし考えにくい。
従って西軍の目的は松尾山と考えるのが妥当。

290 :人間七七四年:2023/12/09(土) 09:22:20.79 ID:W7vk0ugf.net
松尾山の小早川を落とさないと大垣城は補給も受けられなくなって徳川と戦うことも出来なくなる
南宮山の毛利と悠長に軍議している余裕があるかもわからんし
それで関ヶ原に釣り出されて殲滅された

291 :人間七七四年:2023/12/09(土) 12:46:29.79 ID:Q3//EV7j.net
松尾山を攻めに行ったら後ろから東軍が来て瞬殺されましたなんていう学者様の間抜け戦評は真に受けないほうがいいよ。
軍事は学問じゃない日本の学者は総じて軍事オンチだからとりあえず疑ってかかるのを忘れてはならない

292 :人間七七四年:2023/12/09(土) 14:19:56.05 ID:+Qomt39D.net
まあ我々は結果知ってて神の視点で見れるからね
敗者の行動見るとなんて愚かなと思いがちだけど

家康本隊は長途の行軍で疲れているので、数日は動くまい
諸将の軍だけなら南宮山方面の大軍の前を通って袋のネズミになりそうな
関ケ原、山中方面まで入ってはくるまい、その間に金吾の軍を敗軍させ
佐和山との連絡路を確保し近江に撤退するか美濃に留まり大津、大坂、丹後よりの
援軍を待つかなどの後図を策すべしなんて考えてたかもよ

293 :人間七七四年:2023/12/09(土) 19:13:25.32 ID:PcPTIp1m.net
小早川秀秋が一万五千くらい率いていたとして大垣衆で三万以上居るからせめて山から落とすくらいはできそうとは思ってたんじゃないか

ただ関ヶ原から佐和山に逃げ込めた奴が居ないってのが割と奇妙な話じゃないか

294 :人間七七四年:2023/12/09(土) 20:13:45.76 ID:aKSexErm.net
実際大崩れしてる訳で要はまとまって軍事行動とれる状況ではなかったんでしょ
間抜けすぎる!僕の好きな西軍はもっと雄々しく格好いいんだい!
と言いたくなる気持ちはわかるけど

多数派工作が失敗して東軍が大挙押し寄せることがはっきりして
寄り合い所帯の西軍は総大将の毛利からケツまくる準備進めてたわけで

295 :人間七七四年:2023/12/09(土) 20:25:35.32 ID:kWtpwUgH.net
むしろ逆で戦略的に考えたら佐和山が危険だったからでは?算を乱しての逃走ならむしろ一番近い拠点に逃げ帰る。それをやらないのは秀秋が近江から来た事を重く見てたからではないか?

296 :人間七七四年:2023/12/09(土) 20:48:34.59 ID:/GpLNs1N.net
佐和山に退くように見えたってのも吉川広家の感想だしなあ
確信があるような言い回しではないし、広家は大垣を出た以上は佐和山まで退くはずだと思ったんだろう

297 :人間七七四年:2023/12/09(土) 21:50:04.81 ID:UNK2GD+t.net
実際関ヶ原で敗走したとして佐和山の他にどの拠点に逃げ込む?

298 :人間七七四年:2023/12/09(土) 22:12:05.79 ID:G7/ElVdd.net
関ヶ原で敗走した兵は山の中へ逃げたんでしょ
三成自身そうだし佐和山が昨日包囲されてるの見ても
東山道は進軍する東軍が使ってる

299 :人間七七四年:2023/12/09(土) 22:55:46.77 ID:yPuSRpfr.net
拠点というか味方の領地じゃないの
事前に指示ぐらいはあったとは思うけど勝手に行く場所を決めれないやろ

300 :人間七七四年:2023/12/10(日) 00:32:50.75 ID:ZWVNsW++.net
>>294
そんな結果はあほでも知ってんだよ、
なぜそうなったかという関ヶ原本戦と言われるものの状況を考えてるんだよ。

色々考えてると通説と言われるものには理に適ってると感じる。
関ヶ原一帯に陣城構築して美濃から近江への突入阻止。
一周回って通説が正しいような気がしてきた。


上でだれかが言ってるけど、新説ならば、
松尾山の小早川が山中村の大谷を攻撃したと考えれば
佐和山方面に敗走できないのは説明はつく。
地図見ればわかる。
小早川勢の敵中突破しないと佐和山には行けない。

でも山中村周辺に大軍勢ぎゅうぎゅう詰めっててのがなぁ、新説も通説も決定打に欠ける。

301 :人間七七四年:2023/12/10(日) 06:13:45.68 ID:aMD7GX45.net
関ヶ原で敗走した軍はまとまって退去してないでしょ
一番規模の大きい兵を率いた宇喜多秀家でさえ伊吹山に逃げ込んだとされてて
そんな状況で東山道を佐和山に逃げてるはずという想定の方が少し変
戦って負けた軍は壊走離散して東山道は西に向かう東軍で埋まった

布陣だけして退去した軍は実質的にその時点で東軍と通じて退路確保したろうから
東軍の進軍方向から避けて退去した

と考えたらそこまで変じゃなくね?

302 :人間七七四年:2023/12/10(日) 06:14:38.07 ID:sBlfjgDX.net
>>300
あまりにアホでわかってないから通説が正しいとか言っちゃってるじゃん

303 :人間七七四年:2023/12/10(日) 10:23:34.43 ID:ZWVNsW++.net
>>302
9月15日午前09時頃の東西両軍の布陣予想を言ってみ?
新説の場合のぎゅうぎゅう詰めじゃない布陣図見てみたいわ。
少なく見積もっても東西両軍で8万人。
どこに布陣してるんだ?


敢えて説明するならば、通説と新説のミックスで、
松尾山を攻撃するべく西軍は大垣から出撃したが、
松尾山に対する布陣をしようといていたところに
垂井方面からの東軍の進出を確認。
この東軍への対応を優先するべく、
松尾山への備えは大谷らに任せ、
大垣からの部隊は笹尾山から天満山にかけて布陣した。
しかし初頭に小早川の攻撃と脇坂朽木の寝返りで西軍右翼が崩壊、
なし崩しに総崩れになった、とかかな。
通説新説ミックス説。妄想してみた。

304 :人間七七四年:2023/12/10(日) 10:36:13.08 ID:ZWVNsW++.net
それとこの時の家康本隊の、家康本隊ね、
家康本隊の先手衆って渡辺守綱だよね?
渡辺守綱の手柄とか参戦の記録が残ってないなら
家康本隊はほぼ戦闘参加しなかったと見ていいんじゃないかと思う。
井伊本多忠吉が参戦しただけで。

305 :人間七七四年:2023/12/10(日) 11:39:31.49 ID:iWrLYwvJ.net
松尾山攻撃説
・大垣城を空にする意味がない。
・どう考えても赤坂から東軍が来てはさみ撃ちにあう。
・百歩譲って南宮山勢に牽制させるなら、南宮山勢と軍議を開いた形跡がない。

佐和山撤退説
・なぜ大垣城の櫓に火をかけた?撤退がすぐバレるだろうに。
・関ヶ原のど真ん中、一番追撃を受けやすい位置で何故留まった?
・何故北国街道や東海道を使わなかった?少なくとも伊勢は南宮山勢が攻略済だし、島津も最終的には伊勢方面からの撤退。

306 :人間七七四年:2023/12/10(日) 13:28:43.45 ID:ZWVNsW++.net
>>305
それを考察する上でいくつかポイントがある。

まず大垣には九州諸将5〜6000の在番を残しており
大垣放棄の意思は感じられないこと。
続いてその大垣在番衆にはその後大垣撤退の素振りがないこと。
大垣城の外曲輪を焼き払ったことから、
出撃した西軍部隊に大垣帰還の意思は感じられないこと。
個人的には天候小雨の状況で簡単に焼けるのかという疑念がある。
次に南宮山部隊と軍議をした形跡が見られないこと。

個人的には松尾山攻撃説を支持する。
大垣在番衆と南宮山部隊残して佐和山撤退に意味があるとは思えない。
二重引き?についても大垣在番衆に後衛として撤退する意思もなさそうだし、
後衛が南宮山部隊なら軍議してないのはおかしい。
1〜2日で松尾山を攻略し関ヶ原に陣城構築するつもりだったのではないかと思う。
ただ、その場合でも南宮山部隊と相談することなく陣替えするのは不可解。
この矛盾点を解決する説は、
松尾山攻略後、石田らは南宮山に登って南宮山部隊に
合流するつもりだった、だから軍議しなかった。
これなら一応説明はつくが、こんなんか??

307 :人間七七四年:2023/12/10(日) 14:44:35.66 ID:mJ1qmwQ7.net
>>305
>松尾山攻撃説
・大垣城を空にする意味がない
:空にしたわけではなく主に島津、小西以外の九州諸侯を残した
牽制か城攻めでもしてくれれば時間稼ぎができるという期待があったかも
しれないが、西軍主力が城を出たあと留守居の殆どの将は東軍の内通の使者を
送った(吉川広家書状)

>どう考えても赤坂から東軍が来てはさみ撃ちにあう。
:後世の人間は南宮山勢が不戦だったと知っているが、当時の三成たちは
士気の低いことは知悉していたが吉川、福原が福島、黒田、井伊,本多などと
交渉し本領安堵を条件に不戦を約束してるとは知る由もない

南宮山方面に近づけば応戦してくれるか山中方面まで入り込んでくれば
背後を襲って包囲態勢をしいてくれるという期待があり、そうしたリスクを
考慮して追撃はしてこないと計算したのかも、東軍との内通も吉川、福原だけが
知っていて長束、安国寺、長曾我部等は知らないので抑えの兵を置くと戦闘になるので
そのまま通過するように吉川は東軍に申し入れている

これから見ても通常であれば追撃すれば南宮山勢と戦闘になると考えるのは
自然で吉川の内通を読めなかったのは事実だが、挙兵以来の毛利の行動から
不戦だけで本領安堵してもらえると思った吉川こそ愚かで
吉川の愚策を読めなかった西軍首脳陣を責めるのは酷だと思う

308 :人間七七四年:2023/12/10(日) 15:59:11.20 ID:yi+MdRMm.net
玉城が発掘されれば何かしらの手がかりが出てくるかもな

309 :人間七七四年:2023/12/10(日) 16:45:25.49 ID:jc6GwkZN.net
松尾山を短期間に落としたいなら南側の正門から全力で攻めないとな。暢気に絡め手の関ケ原や攻めようがない山中に布陣してる場合じゃない。

310 :人間七七四年:2023/12/10(日) 17:30:04.86 ID:j4LgH+In.net
>>309
すぐ後ろに敵がやってくる危険性があるのに城攻めとか正気か?
小早川が裏切らなくても大垣城は赤坂と垂井まで東軍が進出していて最早半ば詰んでる状態
後詰で救うにしても厳しい
これは保科正光が8月末の書状で言ってるくらい

小早川が裏切ったなら、もう大垣城はオワタ状態なんだから、多少の犠牲を覚悟してでも佐和山まで逃れることを考えるのが最善だと思うが
武田勝頼といい、石田三成といい、そのあたりの考え方はどうなってるのかな?

名将の条件に経験のほか、敗戦してその苦みをしる必要があると言われるけど、秀吉の下で事務仕事して、大敗を知らない
三成ではそういう決断ができなかったのかな?

311 :人間七七四年:2023/12/10(日) 17:47:45.09 ID:RNPz99nN.net
>>307
大垣の留守居が東軍に内通の使者を送った記述がある吉川広家書状なんてあったっけ?
日付と宛先プリーズ

312 :人間七七四年:2023/12/10(日) 17:57:32.99 ID:Iw1wBBSU.net
人間には毎回頑張る奴とメリハリつける奴の2種類が居ると思う
三傑なんかは後者と思うが駄目な奴は駄目な状況でも無駄に頑張ってしまう欠点があるから勝負事には向かないんだよな

313 :人間七七四年:2023/12/10(日) 18:49:51.35 ID:mJ1qmwQ7.net
>>311
レスサンクス。史料集など全部実家においてあるので手元になく、
原文はわからないが、吉川家文書持ってるなら917号に全文出ているはず
論文、研究書でも何回か見たことがあるが、意訳文でよければ
関ケ原の合戦はなかった(河出書房)の224ページに
大柿にいた者たち(大垣城留守部隊)も東軍に使者を送らないものは
ほとんどいなかったということです。とある


314 :人間七七四年:2023/12/10(日) 19:48:10.69 ID:RNPz99nN.net
>>313
917号文書で大垣に言及してる部分は下記の通りだけど、もしこの部分のことを指してるなら乃至氏は相当意訳してるね

「九月十三日内府様赤坂御着候刻、治少・大刑少大垣・南宮を捨候て、山中へ引取候時ハ、前日之儀定相違候而、佐和山へ可被打入催露顕候」

要は三成らが佐和山へ退却するつもりだということが露見したことによって、大垣の留守居が
東軍に寝返ったということなんだろうけど、この史料読んだだけではそこまで読み取れないな

315 :人間七七四年:2023/12/10(日) 19:49:30.77 ID:AnzJdMbG.net
>>312
その意味ではさっさと損切りに動いた毛利輝元が割と勝負事に向いて……ないわー。

ただ、それでも無能なりに駄目だったときのことも考えた行動してるのは、腐っても戦国大名なんだろうな。

316 :人間七七四年:2023/12/10(日) 20:03:57.77 ID:aMD7GX45.net
損切りに動いてなかったら毛利滅んでたろ

317 :人間七七四年:2023/12/10(日) 20:48:09.21 ID:ZWVNsW++.net
>>310
岐阜が落ちた時点でもうだめ。
大垣在番衆と南宮山部隊見捨てて佐和山逃げてどうすんの?
東軍と和睦交渉するなら大垣にいてすればいい。
撤退は追撃リスクと兵の逃亡リスクが増えるだけ。

318 :人間七七四年:2023/12/10(日) 20:54:06.12 ID:jc6GwkZN.net
佐和山でやるとしたら輝元待って決戦だろうな

319 :人間七七四年:2023/12/10(日) 20:59:34.98 ID:h6mlNsgj.net
南宮山の役目は大垣城の支援なんだからこれを放棄するのは毛利家の為とは言え流石に外聞が悪過ぎる。だから「大垣城含めて全員戦う気持ちを失ってたわ(だから自分たちだけ戦ってもどうしようもなかった)」って広家は抗弁したのでは
実際大垣からも内通者は出たが…

320 :人間七七四年:2023/12/10(日) 21:09:51.05 ID:fW05Vna8.net
>>317
それでも、史実みたいに山中(関ヶ原)であっという間に全滅するよりはよほどマシだと思わない?
佐和山まで逃げれたら、近江にいる西軍の後詰も期待できる
丹後田辺を攻めていた西軍の後詰、伊勢にいる鍋島らの後詰も期待できる

321 :人間七七四年:2023/12/10(日) 21:12:54.25 ID:fW05Vna8.net
>>314
大垣城にいた相良頼房らが裏切ったのは、確か18日じゃなかったか?
どうして13日から14日の時点の文書でそんなことが訳せるんだ?

322 :人間七七四年:2023/12/10(日) 21:17:26.92 ID:h6mlNsgj.net
うろ覚えだけど吉川家文書の内容って関ヶ原後の輝元への報告書的内容じゃなかったかな。まぁ大垣城が徹底抗戦しようが裏切りで開城しようが広家の言う事に影響なかったろうけど

323 :人間七七四年:2023/12/10(日) 21:25:57.52 ID:RNPz99nN.net
>>321
917号文書は慶長6年に比定されてるぞ
解釈の仕方は乃至氏に聞いてくれ
自分もよく分からん
史実と照らし合わせて三成らが大垣から出たことによって内通者が出たという言い方ならわかるけど、当該箇所だけ読んでそうは訳せないし

324 :人間七七四年:2023/12/10(日) 21:31:47.42 ID:mJ1qmwQ7.net
9月17日輝元への報告書的内容の書状案が吉川家文書913号
917号は確か翌年だったと思う、翌年の回想なので家康之赤坂着を9月13日と
1日間違えてる(正しくは9月14日)

325 :人間七七四年:2023/12/10(日) 21:40:16.84 ID:RNPz99nN.net
>>324
917号文書も輝元への報告書案だよ
「中納言様へ申上候条数之案」と題名がついておりそこから書き始められてる

326 :人間七七四年:2023/12/10(日) 22:46:42.65 ID:zA9OJ3yR.net
毎度のことだが長文くんは文章へたくそだな
主張が取っ散らかって要点がまるで分からんわ
"文は人なり"とはよく言ったもんやな

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