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【陰謀論】フラットアースを優しく論破するスレ 第23日
- 1 :名無しSUN:2024/04/05(金) 17:22:14.96 ID:oCU8+GXG.net
- ※前スレ
フラットアースを優しく論破するスレ
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sky/1603859571/
第2日
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sky/1640783571/
第3日
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1644411309/
第4日
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1651226136/
第5日
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1659147697/
第6日
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1667016158/
第7日
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1683881717/
第8日
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1686835856/
第9日
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1688446255/
第10日
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1689912508/
第22日
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1711483434/
- 511 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:17:02.62 ID:7Hv5eWId.net
- 彼女は自分がさきほど夫の機嫌をいたく損じたことを、彼が彼女をこころよく思っていないことを忘れた。
彼女はうなだれ、また涙をながしながら、いつものように安心しきって彼のほうに体を預けた。
彼女は彼の手をさぐった。ただちに彼はそれに応えた。
- 512 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:17:50.92 ID:7Hv5eWId.net
- 「この子はわたしたちを信頼していました」と彼女は涙声でいった。
「この子はわたしたちの過去、仕合わせな過去の一部でした」と彼女はいった。
「わたしたち二人の生活の」彼女は髪を乱し、わびしげにベッドのふちに腰をおろした。
彼女の夫は歩みより、ならんで腰をかけた。
- 513 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:18:33.54 ID:7Hv5eWId.net
- 「メキシコ!」と彼女は、彼が今まで聞いたこともない深い思いいれをこめて、むせび泣きながら叫んだ。
「メキシコ! どうしてわたしたち、メキシコをはなれたのでしょう?
どうしてこのおそろしい船旅へ出たのでしょう?
あそこは幸福でした、二人とも若々しかった……どうしてすべてを投げすててしまったのでしょう?」
- 514 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:19:17.57 ID:7Hv5eWId.net
- 涙が、長年らいはじめて、とがめられることなくフッテン教授の顔に流れた。
「そんなに嘆くのはおよし、かわいそうな子よ」と彼はいった。
「心臓に大きな負担がかかり、神経組織に重い変調をきたすといけないからね。あんたは近頃」と彼は鼻の先に涙をためて彼女に思い出させた。
「ふだんのあんたらしさをいっこうに見せていない――あんたを知るすべての人間が賞賛してやまないあの思慮ぶかさを、あの洞察力を、あの落着きを……」
- 515 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:20:12.42 ID:7Hv5eWId.net
- 「ごめんなさい、めそめそして。
赦してくださいましね、あなたの助けが必要なわたしですもの。
あなたってほんとうにいい方なのねえ。
たしかにわたしがドアを締めわすれたのですわ。すべてわたしがわるかったのです。
あなたはいつだって間違いのない方ですもの」と彼女は哀願した。
- 516 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:23:05.17 ID:7Hv5eWId.net
- 教授はハンカチをひっぱり出して涙をふき、額をぬぐい、
この危機にさいして毅然としていなければならぬ、感情におぼれて
今日の真に重要な出来事を、また彼女に対する正当な不平を忘れてはならぬと決心を固めたにもかかわらず、
体全体のしこりがとけるのをおさえることも、その事実を否定することもできなかった。
- 517 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:24:21.74 ID:7Hv5eWId.net
- ぱっくり口をあけた魂の傷に霊薬が流しこまれるように、
ひりひりするこころの痛みがやわらぎ、傷ついた自尊心のうずきがおさまった。
寛仁が、大度が、キリスト者の愛が、妻にたいする愛情の暖かみが、人間的愛情そのものすら、堂々と進み出て、
彼の胸中にふたたび整然とそのあるべき位置を占め、そしてただちにその正しい名によって呼ばれた。
- 518 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:24:56.01 ID:7Hv5eWId.net
- 教授は久しく味わったことのない満足感にひたった。
喜悦がこの内にやどる美徳のつぼからにじみ出た。
彼の妻が、かんたんな言葉で、そのつぼを認めてふたたび呼び出してくれたのだ。
- 519 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:25:41.84 ID:7Hv5eWId.net
- 彼は彼女が花嫁でもあるかのようにたっぷりと、深深と、接吻し、
おたがいの体をひき裂こうとするかのように、相手が身にまとったじゃまな品々を不器用な手つきでむしりとり、
取組み合った二匹のかえるのようにどさりと倒れた。
- 520 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:26:11.49 ID:7Hv5eWId.net
- その後の甘美なひととき、二人は抱き合ったまま誇らしい、満ち足りた疲労感のなかに体を横たえていた。
彼らの結婚は新婚も同様に修復され、彼らの感情は浄化されみずみずしさをとりもどしたのだ。
- 521 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:27:41.96 ID:7Hv5eWId.net
- 隅の絨毯の上で眠っていたベベが、うなされて、長い、しゃがれた、むせび泣くような、おびえた声をあげた。
それを聞いて彼らは、官能の虚脱から目ざめた。
フラウ・フッテンはまたほとんど機械的に泣きはじめた。
「ああ、この子にはわかっているんですわ、彼らが溺死させようとしたことを知っているんですわ」
と彼女はとげとげしい声をはりあげた。
- 522 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:28:26.30 ID:7Hv5eWId.net
- 「そのことでこれ以上涙を流すんじゃない」
と彼は男性の権威をとりもどし、それを駆使して、われ鐘のような声で叫んだ。
「それにまた彼らとはいったいだれのことだ? 不用意にめったな口をきくんじゃない」
彼は愛情をこめてかるく彼女をゆさぶった。
- 523 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:29:21.33 ID:7Hv5eWId.net
- 彼女は欣然として彼の怒りをおそれるふりをした。
彼の怒りがほんもので、今のようによそおった怒りではないときでさえ、それがつねに彼を喜ばせるからである。
彼女は、ふと、つい数時間まえに生まれてはじめて彼をおそれたことを思い出した。
あのとき彼女は、とりかえしがつかないほど彼を立腹させてしまった、
自分はもう彼にたいして無力だ、彼の心をひきつける力はない、ろうらくすべき手だてもないと思いこんでいたのだ。
何とも心ぼそく、おそろしかったことか――二度とああいう事態を生じさせてはならない。
- 524 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:30:09.71 ID:7Hv5eWId.net
- 「わたしはあの何ともいいようのない子供たちのことを申しあげたんですよ」と彼女は用心ぶかくおだやかな調子でいった。
「あの子たちでなければ、あんな真似はできませんと思いますわ」
「わしも同意見だ」と彼はいった。
「しかし、それでもそれを口にしてはいけない。証明できんのだからね。
それにまた、犬を溺死させても、法律上の犯罪にはならんだろう」
- 525 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:31:19.23 ID:7Hv5eWId.net
- 「ええ、でも、彼らは人を死なせたじゃありませんの!」
「どうやって?」と教授はききかえした。
「あの男はあの性急な行為をむりやりやらされたというのかね?
だれも、あの子供たちでさえ、夢にも思っていなかったことじゃないかね?」
フラウ・フッテンは口をつぐみ、ゆっくりとひざまずいた。膝がまた痛みはじめていた。
- 526 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:32:17.98 ID:7Hv5eWId.net
- 両手でベベの悲しげな顔をはさんで、いった。
「わたしたちじゃないのよ、おまえのパパでもママでもないのよ、おぼえている? おまえをこんな目にあわせたのは。
わたしたちはおまえが大好きなんだからね」と彼女は、彼の耳と頤を愛撫しながら、しんけんな口調でいった。
「この子はちゃんとわかってくれましたわ」と彼女は夫にいった。
- 527 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:32:53.96 ID:7Hv5eWId.net
- 「さあ、ねんねしなさいね」と彼女はいって、ベベの首を絨毯に横たえた。
「ああ、わしも眠れそうだ」と教授は彼女を助けおこしながらいった。
二人は、まだ身についている残りの衣服をぬぎすて、寝まきに着がえた。
以前にはいまいましく思われた足下の船の動きが、揺りいすの揺れのように感じられた。
- 528 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/15(月) 09:33:36.40 ID:7Hv5eWId.net
- なかば眠りながら、教授はひくい声でいった。
「医者はあの男の名を何とかいっていたが、おぼえているかね? 妙なことだが、どうしても思い出せないのだ」
「ああ、思い出して何になります?」フラウ・フッテンはものうげにつぶやいた。
「思い出さないようにいたしましょうよ」
- 529 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:30:29.35 ID:k1a0er3P.net
- 愚者の船(下) K・アン・ポーター
第二部 105ページより
祭壇をかたわらに、三等船室甲板の手すりの目にたたずむガルサ神父の目に、早朝の陽差しが水面に反射してきらきらと踊った。
しかし彼は目がくらんでいたにもかかわらず、ちらりと上方を見あげたとき、上の甲板にやじ馬がならんでいるのを見のがさなかった。
- 530 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:30:47.72 ID:k1a0er3P.net
- ――死の臭い嗅ぎつけて去りかねているはげたかども。
ガルサ神父は自分および他人の人間性を見つめてきた多年の経験から、
いかなる形にもせよ、純粋な無償の同情や憐愍などありえないのではないかと考えていた。
- 531 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:31:44.38 ID:k1a0er3P.net
- 黒い帆布にくるまれた、長い、硬直した、細い、ミイラのような形をしたものが手すりに乗せられて、
なかば外へつきだされ、数人の亜麻色の髪をした船員によってその状態に保たれていた。
- 532 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:32:34.68 ID:k1a0er3P.net
- 黒ずんだ三等船客たちはうやうやしく後へさがってたたずみ、ロザリオをふり、せわしなく手を動かしてたえまなく十字を切り、
目をすえ、唇をうごかし、一団となって蜂の群のようなうなりを立てていた。
- 533 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:34:16.60 ID:k1a0er3P.net
- ガルサ神父は祈禱文を聖務日課書を読むときのように黙読していた。
「神の聖者たちよ、来りて彼を助けたまえ、主の天使たちよ、彼を迎えたまえ、
彼の霊を迎えいれ、至高なる神の御前へさしだしたまえ!
おお、主よ、永遠の安息を彼にあたえたまえ、永久に御光を彼の上に輝かせたまえ。
- 534 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:35:37.01 ID:k1a0er3P.net
- 彼の霊を……おお、主よ、こいねがわくは、汝が僕ファン・マリア・エチェガライの霊に慈悲をたれたまえ。
われら、賞賛の祈りをささげてそれを願いたてまつる。
これら聖なる謝恩の供物により、永遠の安息を得るに足るべしとみそなわせられんことを、
われらおそれかしこみ願いたてまつる。われらの主によりて」
- 535 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:36:42.82 ID:k1a0er3P.net
- とうぜん受くべきあらゆる祈りと儀式を、あらゆる敬虔な身ごなしを、
聖なる水、鈴、書、ろうそくを、香と十字架のしるしを受けて、
かつて人間の霊魂を容れていた、密封され、錘りをつけられた遺体は、放たれ、
じょじょに下へ傾けられ、前方へすべるにつれて船腹にぶつからぬよう決定的なひと押しをくわえられて、
まっすぐに落下し、水面をたたいたと思うとたちまち、船がほとんどその場をはなれきらないうちにすでにゆっくりと沈んでいった。
- 536 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:37:40.26 ID:k1a0er3P.net
- 「神よ、彼の霊を受け入れたまえ」とフラウ・シュミットは小声でいった。
若いキューバ人たちも、シューマン医師も、フラウ・リッタースドルフでさえ十字を切った。
遺体は、水中にかなり深く沈んでいたが、長い斜光をうけて、なお彼らの目に見えていた。
- 537 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:39:44.05 ID:k1a0er3P.net
- 愚者の船(下) K・アン・ポーター
第二部 108ページより
リックとラックは、ふだんよりも一そう猛々しく髪をふりみだして、手すりへのぼり、木の枝へでも乗るようにその上にまたがり、
口をあけ、目をするどく血走らせて、よく見んものと危険なほど体をのりだしていた。
だれも彼らに注意をはらわなかった。
通りかかった船員さえおりろと命令するだけの労もとらなかった。
- 538 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:41:11.90 ID:k1a0er3P.net
- リックとラックは、なおも手すりにまたがりながら、頭と腕を狂ったようにひろびろとした海に向けてふり、
甲高い金切声をはりあげておなじ単語をくりかえしはじめた。
「くじらだ、くじらだ、くじらだ、くじらだ!」
と彼らは陶然と酔いしれて金切声をあげた。
- 539 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:41:39.82 ID:k1a0er3P.net
- いあわせたすべての人はしぶしぶ一瞥をむけざるをえなかったのだが、なるほどくじらが通っていた。
見物などしては不謹慎だ、穏当を欠く、とだれもが一様に考えた。
しかしそのさいしょの一瞥のあとでは、みんなが愉しげに目をこらして見つめた。
- 540 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:42:24.15 ID:k1a0er3P.net
- 遠すぎるという程ではなくて、眺めるのにちょうど頃合のあたりを、三匹の巨大なくじらがほとんど水面から浮きあがるようにして泳いでいた。
陽光をあびて白銀色にきらめき、高々と白い噴水をあげつつ、高速モーターのように力づよく、ぐいぐいと、進路を南にとってつきすすんでいた――
だれひとりこの美しい光景から目をはなすことができなかった。
- 541 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:43:34.54 ID:k1a0er3P.net
- 「くじらだ!」とリックとラックは金切声をあげ、とまり木の上でのびあがったひょうしに、
平衡をうしない、ほとんど船外に転落しかけた。
ふらふらと平衡をとり、ゆらぎ、立ちなおり、傷ひとつおわずに甲板へころげおちた。
- 542 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:44:32.78 ID:k1a0er3P.net
- 十人あまりの人が近くにいたにもかかわらず、ひとりとして彼らに救助の手をのばさなかった。だれひとり動かなかった。
彼らはみなリックとラックの危難をかならずしも無関心にではなく、それよりおそらくすこしばかり積極的な目で眺めていた。
彼らが船外に転落しても、それは不可解ではあるが災害とはいえぬ自然法則の気まぐれとして、いとも平静にうけいれられたであろう。
- 543 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:45:33.50 ID:k1a0er3P.net
- リックとラックにとって船の外こそもっともふさわしい場所だ、それも深いところであればあるほどのぞましい、
他のすべての人に共鳴して、はらの底でそう思わない者はいなかった。
幼児にたいするより高邁な、よりふさわしい感情の欠如を非難されたら、彼らのだれもが憤然としたであろう。
リックとラックは、形こそ幼児だが、人類の埒外にあるのだから。
明らかにその埒外にあるのだ。
- 544 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:46:07.61 ID:k1a0er3P.net
- そしてかなり長いこのひととき、彼ら自身そのことを十分に承知していたのだ。
それは彼らがえらびとった位置であり、彼らはたんにそれをもちこたえる以上のことをなしえたのだ。
- 545 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:47:06.31 ID:k1a0er3P.net
- こうして彼らは平衡をとりもどし、猿のように確実に、しなやかにぶらさがり、叫び、金切声をあげて愉しんだのだ。
自分たちが殺した男――うれしいことに、車いすに乗った気違いの老人からそういわれたのだ――の葬式を愉しみ、くじらを愉しんだのだ。
すばらしい一日である。
ただひとつ、くじらの背に乗れなかったことだけが不満だった。
- 546 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:48:35.35 ID:k1a0er3P.net
- 愚者の船(下) K・アン・ポーター
第二部 113ページより
アルネ・ハンセンがうなだれ、両手で頭をかかえ、ビールには手もつけずに、三脚ほど先のしょうぎに腰かけていた。
その彼がこんどはデニーのうほうへすさまじい絶望しきった顔を向け、病気の熊のような低い、しめっぽい、うなるような声でしゃべりはじめた。
- 547 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:50:42.99 ID:k1a0er3P.net
- 「神なんてものがあるとしたら、おれはそいつをのろいたい」と彼はいった。
「そいつの顔につばを吐きかけてやりたい。そいつをそいつ自身の地獄へ叩きこんでやりたい。
ああ、宗教の何たるけがらわしさだ!
あの下の三等船室の連中。
あいつらは坊主にぺこぺこ頭をさげ、金をやり、ひぜんかきの犬みたいにみんなから足蹴にされて生きている。
それでやつらが何を得たというんだ。
いじくるじゅずと、口にパンの切れっぱし、それだけじゃないか!……」
彼は脳天の髪をひっぱり、それをひねった。
- 548 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:52:02.07 ID:k1a0er3P.net
- デニーはいまの話は自分にむかっていわれたのだと判断して、当惑したばかりでなく衝撃をうけた。
「まあ、気楽にいきましょうや」と彼はいった。
本気でいっているのではないということが人にもわかってもらえる範囲内でなら、
好きなようにののしり、毒づいてもかまわないのだ、とばくぜんと感じたからである。
宗教を冗談の種にしたって、いっこうにかまわない。
何ものにもこっけいな側面はあるものだ。
笑いとばしてしまわなければ気が狂いそうなことがこの世にはいっぱいある。
- 549 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:52:53.74 ID:k1a0er3P.net
- しかし、笑いとばすからといって、『何か』を信じていないということにはならない。
自分も大きくなるまでは、『長いほおひげを生やしたあちらの老人』、
けっきょくほとんどすべての人を地獄に送りこむほんものの火食いが死ぬほどこわかったものだ。
- 550 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:53:59.36 ID:k1a0er3P.net
- もちろん天国はある。
しかし天国へ昇った人のうわさをデニーは一ぺんも聞いたことがなかった。
すくなくとも彼が小さいときはいなかったし、また彼の町からは一人も天国へ行かなかったのだ。
- 551 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:54:41.99 ID:k1a0er3P.net
- 柄も年齢も彼の二倍大きいいじめっ子の従兄から、ある日、手をつかまれ、火をつけたマッチで手のひらをあぶられたことがある。
とびあがり、悲鳴をあげ、火傷したところをなめているデニーにむかって、その従兄はいったものだ。
「なに、君の行くてに何が待ちかまえているか、おしえてやりたいと思っただけじゃないか。じきに君は死んで地獄に行くんだからね!」
デニーはどなり返した。「君だって地獄へ行くんだぞ!」
しかしそうしてみても、大して気は晴れなかったものだ。
- 552 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:55:27.53 ID:k1a0er3P.net
- この地獄の問題でどんなに長いあいだ心配したか、いま思い出してみるとばかみたいな気がする。
しかしもう大丈夫だ。もう卒業した。
いまでは宗教はいちばん小さな悩みといっていいほどだ。
- 553 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:56:01.76 ID:k1a0er3P.net
- ところが、それにもかかわらず、おかしいことに、彼は無神論者というやつにはがまんならないのだ。
この男は、話の様子ではどうも無神論者くさい。
それにまた冗談をいっているわけでもないらしい。
- 554 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:58:21.08 ID:k1a0er3P.net
- レーヴェンタールが悲しげな顔をして、横向きにカウンターのほうへやってきて、
いまだに言葉をかわしあえる仲と彼が考えている数少ない人びとの一人であるデニーにむかって会釈した。
「胸のむかつきがまだおさまらないんですよ」と彼はいった。
「袋の中に縫いこまれて、犬みたいに船の外へほうり出されるなんてね……」
- 555 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 07:59:15.24 ID:k1a0er3P.net
- 「でも、ほかにどうしようもないんじゃないですか?」とデニーは筋のとおった返事をした。
「いやあ、箱に氷づめにして、陸へ着くまで保存することだってできるはずですよ」とレーヴェンタールはいった。「人間らしく葬ってやることが」
- 556 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 08:00:00.17 ID:k1a0er3P.net
- 「そうはいかんでしょう」とデニーはいった。
「金がかかりすぎますからね。それに、慣習できまっているんですよ……船で死んだら、水葬にするということに。そうじゃないですか?」
「行ったり来たり、今まで何べんも往復しましたが、これまで今日のようなことは見たことがありませんね。異教徒の風習なんでしょうな」
「そういえば、そうですね」とデニーはしぶしぶ同意した。
「あの連中はカトリックだから。しかし、気にすることはないじゃないですか」
- 557 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 08:00:28.19 ID:k1a0er3P.net
- 「気にしてるわけじゃないが」とレーヴェンタールはいった。
「同じキリスト教徒のくせに死者にたいしてあんなあしらいをするのはどうかと思う、わたしはそういいたいんですよ――」
- 558 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 08:01:11.04 ID:k1a0er3P.net
- デニーが考えこむ番だった。彼はまずい立場にいた。
一方にボルシェヴィキみたいな言辞を弄する無神論者がいる。
そして反対側にはキリスト教徒を批判するユダヤ人がひかえている……つまりカトリック教徒を。
自分は無神論者もカトリック教徒もきらいである。
またキリスト教徒を攻撃するユダヤ人というのも気にくわない。
- 559 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 08:01:44.31 ID:k1a0er3P.net
- レーヴェンタールにむかって「あんただって異教徒じゃないか」といったら、どううけとるんだろうか。
ユダヤ人迫害だとすぐさまくってかかるだろう……デニーは頭のつかれを感じはじめた。
- 560 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 08:02:21.20 ID:k1a0er3P.net
- 愚者の船(下) K・アン・ポーター
第二部 118ページより
レーヴェンタールは、不快な事態――彼にとって少しも目新しいことではないが――にもかかわらず、
いぜんとして、やってくる人があれば、ほとんど相手をよりごのみなどせずに、雑談につきあおうという気を十分もちあわせていた。
- 561 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 08:03:02.31 ID:k1a0er3P.net
- ただし、相手が宗教を話題にしないことをぜったいの条件としていた――宗教といっても、彼の宗教を、という意味である。
なぜなら彼は他のいかなる宗教の存在も認めていないからである。
- 562 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 08:03:40.77 ID:k1a0er3P.net
- 彼にとって、自分の宗教いがいのものはどれも邪神につきしたがう異教徒にすぎなかった。
それらが何教と名乗っていようと、そんなことは彼は問題にしていなかった。
- 563 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 08:04:41.37 ID:k1a0er3P.net
- 世界にはほぼ二十億の人間がいる、思うにそれはすべて同一の神によってつくられたのである。
ユダヤ人はたかだか二千万にすぎない、何を思って神がことさらに不当な偏愛を示したりするであろうか、と一度ならず異教徒からつめよられたことがある。
そうしたたわごとをいわれても、レーヴェンタールは一瞬もあわてたりしなかった。
「その問題については何も申しあげることがありません」と彼は答えたものだ。
「議論なら、律法博士とやってください。神のことならすべて心得ているという彼の言をわたしは信じています」
- 564 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 08:05:49.04 ID:k1a0er3P.net
- しかし、御名をたんに発音するだけで、異教徒の言葉でそれを発音するときでさえ、
あるいはぜったいに口してはならぬ御名の代わりとなる名前をいうだけでも、彼は不安をおぼえるのだ。
いつも彼はそうできるときは話題をかえ、それができないときは立ち去るのだ。
- 565 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 08:06:31.58 ID:k1a0er3P.net
- 異教徒が彼を何と思おうと、彼らが彼に好意をもとうともつまいと、彼にとって問題ではなかった。
彼は彼らに好感をもっていなかった。
だからさいしょからひと跳び彼らに先行していたのだ。
- 566 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/16(火) 08:08:23.39 ID:k1a0er3P.net
- 彼らから好意を示してもらいたいなどと望んでいなかった――
彼らから得たいと思うものは自分で、だれにも感謝しないで、つかみとればいい。
この世で彼が望んでいるのは自分自身である権利、
好きなところへ行き、『彼ら』の干渉をうけずにやりたいことをする権利、それだけだ――
いったい『彼ら』に何の権利があるというのだ……
- 567 :青火 :2024/04/16(火) 09:23:20.52 ID:k1a0er3P.net
- >>529
×手すりの目に
〇手すりの前に
- 568 :青火 :2024/04/16(火) 11:54:22.60 ID:k1a0er3P.net
- >>184
×パーティー
〇パーティ
- 569 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:09:14.28 ID:F3RZ6HmY.net
- ここで少し上巻に巻き戻す
>>132-135から繋がる話
- 570 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:10:21.76 ID:F3RZ6HmY.net
- 愚者の船(上) K・アン・ポーター
第二部 249ページより
「あぶらむし(ラ・クカラーチャ)」を合唱する耳ざわりな声が夕方の空気を破った。
流れるような白いドレスを着て、グリーンのサンダルを履いた伯爵夫人(ラ・コンデサ)が
醜怪な延臣たちに囲まれて悠然と広間から姿をあらわし、医師に向って指をそよがせ、嫣然と笑いかけ、スカートをなびかせて足早に遠ざかった。
- 571 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:13:30.84 ID:F3RZ6HmY.net
- ルンバの拍子をとりながら、
たくしあげたスカートのようなだぶだぶの、紫色の、ツイードのオックスフォード型ズボンをはいた、筋ばった学生の一人は、
伯爵夫人に聞こえないように後についてよたよた歩きながら、彼女の、消えいりそうな、嘆きの口調を真似た。
「ああ、若さ、美しさ若さ、それを彼女はいささかももちあわせていないのです。御静聴感謝します」
- 572 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:14:16.49 ID:F3RZ6HmY.net
- シューマン医師は学生たちを見つめた――
優雅な伯爵夫人(ラ・コンデサ)の身ぶりをまねた、彼らの痙攣的な歩き方を、猿のようなしかめ面を、不遜な、手をそよがせるしぐさを、
自分を、また周囲のすべてをあれほど鋭く意識しているかに見える彼女が、どうしてあれほどのずうずうしさを少しでも見逃しておくのであろうか。
- 573 :青火 :2024/04/17(水) 07:15:52.74 ID:F3RZ6HmY.net
- >>572
×手をそよがせるしぐさを、
〇手をそよがせるしぐさを。
- 574 :青火 :2024/04/17(水) 07:16:33.86 ID:F3RZ6HmY.net
- 愚者の船(上) K・アン・ポーター
第二部 310ページより
自分の部屋まで数歩の、廊下の角を曲ろうとしたとき、彼は、二人のキューバ人学生とあやうく衝突しそうになった。
一人は葡萄酒を一本たずさえ、別の一人はチェス盤をもっていた。
二人はお辞儀して、壁ぎわに立ち、彼のために道をあけた。
- 575 :青火 :2024/04/17(水) 07:17:23.53 ID:F3RZ6HmY.net
- しかし彼もまた立ちどまり、儀礼にたいする顧慮を少しも示さずに、とつぜん彼らに浴びせかけた。
「諸君、君たちの奥さんにたいする思いやりのなさに、わたしはたびたびあきれかえっているのだ。
わたしは、今ここで、君たちが彼女の世話をやくことをすぐにやめるようにと申し渡したい。
奥さんはわたしの患者である。
わたしは夜間の訪問をいっさい禁止する。
そして昼も、わたしがとくに許可しないかぎり、訪ねないでもらいたい。お気の毒だが」
と彼は、にがい満足をたっぷりと味わいながら、いった。
- 576 :青火 :2024/04/17(水) 07:18:26.86 ID:F3RZ6HmY.net
- 二人は、真情をみなぎらせて礼儀正しく、またお辞儀をした――正しい礼儀の軽々しいもじり、と医師は思ったのだが――
そしてその一人は「もちろん、先生のおっしゃることはよくわかりました」といった。
もう一人は「ああ、すっかり」といった。
二人は、彼の前で踵をかえし、ずんずん歩いて彼をひき離し、あっという間に姿を消してしまった。
- 577 :青火 :2024/04/17(水) 07:19:08.47 ID:F3RZ6HmY.net
- ハイ、では下巻に戻りまーす
- 578 :青火 :2024/04/17(水) 07:20:37.92 ID:F3RZ6HmY.net
- 愚者の船(下) K・アン・ポーター
第二部 126ページより
キューバ人学生たちは、伯爵夫人との交際を彼女の嫉妬ぶかい愛人である医師によって断たれ、
だれひとり闖入する者のない彼らの秘密結社や、彼ら自身いがいのだれも読まない新聞にも厭きて、
チェスのトーナメントやピンポンに無聊をまぎらわしていた。
- 579 :青火 :2024/04/17(水) 07:21:58.80 ID:F3RZ6HmY.net
- しかし彼らの符牒や儀式に参入した者でなければ魅惑的で玄妙な秘儀を読解できないのだという建前をあいかわらずまもりつづけていた。
じっさいはだれも彼らを問題にしていないことに、彼らのために痛痒を感じている人間は一人もいないことに、彼らはしだいに気づきはじめていた。
- 580 :青火 :2024/04/17(水) 07:22:54.18 ID:F3RZ6HmY.net
- 彼らは直接攻撃をくわえることに決めた。
軽喜歌劇団の連中がたんに彼らのえじきを皮肉な目で見つめ、
せせら笑うだけ――それが怒りや羞恥の紅潮という反応をひきおこすことに失敗したためしは一ぺんもないが――であるのに反して、
学生たちはより精妙で致命的と信じる方法を考えだした。
- 581 :青火 :2024/04/17(水) 07:23:59.89 ID:F3RZ6HmY.net
- 彼らはしかつめらしく相談しあい、それから目ざすえもののほうをふりむいて
臨床医のように冷静な目で見つめ、相手に聞こえるようにいいあう。
「重症と思うか?」
「絶望だね」とべつの一人がいう。
彼らは首をふり、ふたたび彼らの患者に射るような視線をむけ、そしてチェスをつづけるのだ。
- 582 :青火 :2024/04/17(水) 07:24:44.13 ID:F3RZ6HmY.net
- 甲板で、通りすがりに、彼らは批判的な医学的見解をかわしあう。
「慢性骨皮症」と彼らはリッツィについて診断をくだし、
彼女がそくざにおびえの表情をうかべるのを見てほくそ笑んだ。
「絶望的」
- 583 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:25:26.85 ID:F3RZ6HmY.net
- 「先天性肉だんご症(アルボンデイギテイス)」と彼らは、
皮ひもをつけられてよたよた歩いているベベと一しょにフッテン夫妻が重い足どりで近づいていたとき、大声でいいあった。
「絶望!」
- 584 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:26:14.77 ID:F3RZ6HmY.net
- フッテン教授は妻が聞いたかどうかたしかめるためにすばやく見た。
もちろん彼女は聞いていた。
そして彼女の感情はふたたび傷つけられていた。
- 585 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:27:17.27 ID:F3RZ6HmY.net
- 教授は自分がこれらの兇暴な若者たちにたいする非難と、
彼らがわけのわからぬおしゃべりの中でニーチェやショーペンハウアーやカントなどの高貴な、尊い名前をやりとりするの聞いたときのおどろきと
さいしょから表明していたことを思いおこした。
彼らは、あのとき、ゲーテの名までみだりに口にしていたように思うが、あれは聞き違いだろうか。
- 586 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:27:59.93 ID:F3RZ6HmY.net
- 彼らは、比較的おちついているときでさえ、不まじめな顔をしている。
彼らはおそれげもなくニーチェの名を口にしながら猿のようにしゃべっていた。
疑いもなく彼らの下劣な満足のために彼を誤解し、彼の名誉を傷つけていたのだ。
- 587 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:29:04.38 ID:F3RZ6HmY.net
- 偉大なものに接するときの不敬、謙虚さの欠如――
これは非北欧人種すべての、とくにイベリア人、ラテン人、ゴール人の欠陥である。
じっさい、軽佻浮薄は彼らのあいだにみられる風土病である。
彼らはこの悪疫を新世界の全土にはこびもたらし、そのためまことにおどろくほど知的謹厳を欠いた世界となったのだ。
もし古きゲルマン精神が生きのびる望みがいささかなりとも残っていないとするなら、
もはや人類の未来は絶望的であると感じざるをえないと教授は思った。
- 588 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:30:18.49 ID:F3RZ6HmY.net
- 彼は妻をなぐさめようとした。
「彼らに耳をかしなさんな。彼らは生まれつき愚鈍な無頓漢にすぎないのだ。愚鈍はつねに悪である。悪をしか招来しないものだ」
この言葉は彼をとまどわせた。
こころの中のこだま――どこから反響しているのであろうか?――のように聞こえた。
いかにふかく罪のなかに沈淪している人間であれ、それを済度できないことはない、とたしか自分は信じているはずではなかったのか?
いったいこれはどうしたことであろう。
このような思いがけない視点が啓示された真理のように動かしがたいものとして頭にうかんできた理由を、彼はおしはかることができなかった。
- 589 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:31:07.44 ID:F3RZ6HmY.net
- 「でも、わたしは聞きました」とフラウ・フッテンはむずがる幼児のようにいった。
「彼らはわたしたちを肉だんご(ミート・ボール)と呼びました」
- 590 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:31:57.35 ID:F3RZ6HmY.net
- 「じっさいは」と教授はきっぱりといった。
「彼らは、下等な医学書生の変則ラテン語で、われわれが先天性ミートボリティスの絶望的症例であるといったのだ――
それはつまり、あんたも知っているとおり、炎症をおこしているという意味だ。
不快なことでも聞かずにはいられないというのなら、せめて正確に聴きとりなさい。
とにかく、ああいうおどけで気をわるくする必要はないのだ」
- 591 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:32:28.05 ID:F3RZ6HmY.net
- 「わたしもあの人たちはおどけていたのだと思います」とフラウ・フッテンはおとなしく同意した。
「でも、わたしはぜったいあの人たちをあざけったりなどいたしませんわ。それなのにどうしてわたしたちがあざけられるのでしょう?」
教授としては一言なかるべからざる論題だった。
- 592 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:33:06.72 ID:F3RZ6HmY.net
- あの一団のキューバ人学生は高尚なことを理解しえないのに能力以上の教育をあてがわれている。
生まれながらにして劣等な精神のなげかわしい例である。
とうぜんのことながら彼らはその教育を善用することができず、
自分たちよりすぐれたものすべてを猿のような手で自分たちの水準までひきずりおろすことを余儀なくされているのだ。
- 593 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:34:03.07 ID:F3RZ6HmY.net
- 「彼らは、ミケランジェロの『モーセ』につばをはきかければ、
それでそれが自分たちとおなじように下劣なものだということを証明しうるのだと考えているのだ」
と彼はとくいげにいった。
「それは彼らの大きなあやまりなのだ」と彼は彼女をなぐさめるようにいった。「いずれ痛い目にあって思いしるだろうが」
- 594 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:34:36.99 ID:F3RZ6HmY.net
- フラウ・フッテンは夫のこの見解の変化――いまやそれは彼女自身の考えと完全に一致するのだ――にたいするおどろきをかくし、
ひとときうやうやしく間をおいて、賛意を沈黙によってしめしたのち、気がかりになっていることを語った。
- 595 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:36:27.08 ID:F3RZ6HmY.net
- 「あの人たちはまた新聞のようなものを出しているようですわ」と彼女は彼に告げた。
「スペイン舞踏団の人たちのために出しているようなんです。舞踏団の人たちがみんなで印刷したものを読んで笑っているのを見かけましたの」
フッテン教授の思考の流れは中断されなかった。
「われわれに関係はない、それはたしかだ」
- 596 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:37:59.36 ID:F3RZ6HmY.net
- 「これまでどおり彼らの存在を無視すればよいのだ。
われわれの威厳のさわりとなる程度に達するならば、そのときは――報復をくわえてやる。
気にやむことはない。われわれはいうことをきかぬ人間をいままでもあつかってきたじゃないか」
フラウ・フッテンはベベの耳を愛撫し、夫に微笑みかけた。
「もちろんですわ」と彼女はいった。
- 597 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:38:56.61 ID:F3RZ6HmY.net
- 彼女は将来を思いやり、夫がすでに生徒たちや講義室と別れたことを淋しく思いはじめているのだと考えないわけにいかなかった。
新しい一連の講義が彼の頭に形づくられつつあることは明らかだった。
彼女はその口述筆記を申し出ようと決心し、
また黒い森地方で彼を特別採用してくれるような教育施設を見つける可能性や、あるいはまた新聞、哲学雑誌への掲載の可能性について考えはじめた。
またもしかしたら、彼が論文や本にかこまれた書斎の生活にもどり、彼女が家事に追われるようになれば、
彼が自分で講義を書き、彼女にひとときの安息を与えてくれるかもしれない。
- 598 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:39:44.06 ID:F3RZ6HmY.net
- フラウ・フッテンはさいごに思想というものに死ぬほどいやけがさしていることを自分自身にむかって認めた。
もう二度と思想だ、観念だということを聞かされなかったら、彼女は心から幸福だろう。
彼女はベベを愛撫し、夫に微笑みをむけつづけた。
- 599 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:40:52.39 ID:F3RZ6HmY.net
- 愚者の船(下) K・アン・ポーター
第二部 132ページより
告知版は不安をよぶ好奇の対象となっていた。
はでな活字の印刷文がいくつかれいれいしくはり出されたのだ。
それらはべつべつに印刷され、画びょうでぴったりとめられていた。
- 600 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:41:41.39 ID:F3RZ6HmY.net
- 『胃病やみは船長謝恩パーティのチケットを買う余裕がない。
バーの勘定を払いきれるかとすでに心配しているからである。
それでも彼は腰をすえてブランデーを次々にあおっている。彼の潰瘍万歳!』
「何という不謹慎な!」とフラウ・バウムガルトナーは夫の腕をひしと抱きしめて叫んだ。
「あなた、気にしないで!」夫の顔にうかんだ悲しみの表情がいたましく思われたからだ。
彼は雄々しくも彼女に笑顔をむけ、一しょに歩きながら鼻をかみ、涙をぬぐった。
- 601 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:42:22.00 ID:F3RZ6HmY.net
- レーヴェンタールは読んだ。
『ユダヤ人が人間の仲間入りをゆるされたら、その機会を活用するがよい。二度とそういう機会はないかもしれないのだから』
彼は余白に濃いえんぴつで注意ぶかく書きいれた。
『いかなる人間を指すか?』そして彼は大いに満足して散歩をつづけた。
- 602 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:43:31.58 ID:F3RZ6HmY.net
- リーバーとリッツィはあのスペイン人たちがほかの人びとを攻撃するために掲示したこっけいな文章を読んで
一ぺん笑うために歩みをとめ、そして次の文に目をとめた。
『もし桃色の豚がビールをがぶ飲みすることや、雌くじゃくに色目をつかうことをやめるならば、
この航海における社交生活のもっと気のきいた一項となれるかもしれない。』
その次に赤いクレヨンで次の言葉がなぐり書きされていた。
『起て、スペイン! 奮起せよ、あぶらむし! 無関心なる者たちに死を!』
- 603 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:44:05.62 ID:F3RZ6HmY.net
- 「でも、それとわたしたちと何の関係があって?」とリッツィは怒りにふるえていった。
「彼らの野蛮な政治とわたしたちと何のかかわりがあるというの?」
- 604 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:44:42.93 ID:F3RZ6HmY.net
- シューマン医師は例によって十一時半の黒ビールを楽しむためにバーへはいった。
キューバ人学生の一人が新しい掲示を告知版にとめていて、そばに小柄なコンチャが立ってそれを眺めていた。
医師は立ちどまり、眼鏡をかけて読んだ。
- 605 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:45:48.35 ID:F3RZ6HmY.net
- 『ガラスの宝石とガラス玉の真珠をつけたにせの伯爵夫人は
ダンスが大好きだが、費用を負担するのはきらいだ――典型的な無政府主義者の態度である。
彼女の献身的な医師は麻薬から船長謝恩パーティのチケットへ処方をあらためるべきではなかろうか。』
シューマン医師は目をぱちくりさせ、ほこりが目に吹きこんだかものように顔をしかめた。
- 606 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:47:07.28 ID:F3RZ6HmY.net
- 彼はその紙きれをひきはがし、親指と人さし指でつまんで
舞踏団の者たちがコーヒーを飲んでいる隅のテーブルへもっていった。
「わしにいわせれば」
と彼は殺人狂であるかもしれない患者を相手にするときのように用心ぶかく毅然としていった。
「君らのばかげた茶番もこれでは少少度がすぎるというものだ。
やり方を、またできるものなら作法を、すくなくともこの航海のあいだあらためたらどうかね」
- 607 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:47:50.36 ID:F3RZ6HmY.net
- 彼は掲示を細く長くひきさいてテーブルにおきながら、半円をえがいてすわり、
彼にひややかな凝視をそそいでいる彼らの顔を見つめ、自分が人間のものではない目に見いっているような印象をうけた。
- 608 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:49:05.08 ID:F3RZ6HmY.net
- 洞穴の中からのぞいている獣、襲撃の身がまえをしながら血の臭いをもとめてジャングルを徘徊する猛々しい獣の目なのだ。
彼がかつてリックとラックの目にそれを認めてろうばいをおぼえたのとおなじ表情がやどっていた。
ただそれより一そう老獪で、より強烈な自覚とかまえをひらめかせていた。
- 609 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:50:02.34 ID:F3RZ6HmY.net
- 彼らのだれも口をきかなかった。
そして彼らは潜伏する山ねこのように身じろぎせずに彼を見つめることによって、彼の目を伏せさせることに成功した。
知らず知らず彼は目をしばたき、そらしていた。
彼はきびしい口調でいった。
「こうしたたわけたことはやめたまえ」
背筋の凍るような爆笑が甲板へ立ち去る彼のうしろからおそった。
- 610 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:51:16.87 ID:F3RZ6HmY.net
- グロッケンは医薬を必要としていたばかりでなく、魂がめちゃくちゃに痛めつけられていた。
ローラの襲撃をうけていたのだ。
「この手に銀貨をのっけてみなさいよ、小人さん」と彼女はいった。
「そうすりゃきっときれいなレースの扇があたるチケットをあげるから。かわいいドイツの恋人のおみやげになるじゃないの?」
- 611 :青火 ◆xgKzWyAAH4vO :2024/04/17(水) 07:51:57.64 ID:F3RZ6HmY.net
- グロッケンは身ぶるいした。
苦痛と恐怖のために顔が痙攣するのおさえることができなかった。
彼は顔をそむけて、目をつぶった。
彼女はしんけんに彼のほうへ体をかがませ、むごくも彼のこぶを指でするどく突いた。
「幸運のおまじないをさせてもらったよ。それしか役に立たないんだよ、おまえさんは!」
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