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移籍・レンタル・戦力外「ら」スレPart10018

50 :U-名無しさん :2018/01/31(水) 14:12:00.48 ID:xZP7qeuz0.net
証言でたどる「ベンゲルがいた名古屋グランパス」がもたらしたもの
Sportiva 1/31(水) 11:41配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180131-00010004-sportiva-socc

【短期連載・ベンゲルがいた名古屋グランパス (1)】

 1996年から20年以上にわたり、プレミアリーグの名門・アーセナルの指揮を
執るアーセン・ベンゲルは、これまでに多くの栄冠をクラブにもたらしてきた。
近年では”風当たり”も強くなっているが、このフランス人指揮官がアーセナル
の監督に就任する直前までJリーグの名古屋グランパスを率いていたことを、
どれだけの人が覚えているだろうか。

1995年のJリーグで、名古屋グランパスの指揮を執るベンゲル
photo by Getty Images
http://amd.c.yimg.jp/amd/20180131-00010004-sportiva-000-4-view.jpg

 1993年に産声を上げたJリーグに、創設時から参加する「オリジナル10」の
ひとつである名古屋グランパスだが、1年目、2年目ともに下位に低迷していた。
”Jリーグのお荷物”とまで言われていたクラブが、ベンゲルの手によって生まれ
変わっていく姿は、日本のサッカーファンに衝撃を与えることになる。

 ベンゲルは、日本サッカーに何をもたらしたのか――。

 リーグ創設25周年を迎え、名古屋グランパスがJ1の舞台に戻ってきた2018年
に、当時を知る証言者たちの言葉から「ベンゲルがグランパスにいた1年半」を振り返る。


◆新監督は、オランダ人でもセルビア人でもなく……

 10月末のことだったか、それとも、11月に入っていただろうか。

 1994年の秋、名古屋グランパスの小倉隆史は、名古屋市内のホテルのラウンジで
次期監督候補とされる人物と会っていた。

 当時21歳だったストライカーが面会したのは、オランダ人指揮官のフース・ヒディンク
である。この4年後にはレアル・マドリードを率いてトヨタカップを獲得し、2002年の日韓
ワールドカップで韓国代表をベスト4へと導くことになる名将は、このとき47歳。PSVアイ
ントホーフェン、フェネルバフチェ、バレンシアの監督を歴任した才気溢れる指導者だった。

 1993年のJリーグ創設1年目を、10チーム中9位で終えたグランパスは1994年、イングラ
ンド人のゴードン・ミルン監督を招聘したが、前年以上の低迷を強いられた。この年限りで
ミルンの退任が決定的となり、「Jリーグのお荷物」と揶揄(やゆ)されるチームを建て直す
べく、クラブは新監督のリストアップに取りかかっていた。

 その第1候補が、ヒディンクだったのである。

 ヒディンクは当初、10月25日に来日し、2、3試合を視察する予定だったが、来日が28日
に遅れ、29日のベルマーレ平塚戦だけを視察した。この”御前試合”で、グランパスは0−4
の大敗を喫してしまう。これにはヒディンクも、報道陣に「応援の雰囲気はよかったが0−4
で負けたし、印象に残った選手などについては、今は何も言えない」と述べるだけだった。

 未知なる極東の国にやってきた次期監督候補が、クラブの状況や日本のサッカー事情
について、少しでも多くの情報を得たいと思うのは当然のことだろう。1993年から約1年半、
オランダのエクセルシオールでプレーした小倉とヒディンクの代理人が知り合いだったとい
う縁で、2人の面会が実現した。

 小倉は、20年以上前の出来事をこう振り返る。

「ヒディンクはグランパスにすごく関心を示していました。だけど、『オランダ代表監督の話も
ありそうだから、もしそっちに決まったらグランパスには来ない』と言っていましたね」

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