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【お城】福島県Part2【会津】

352 :列島縦断名無しさん:2022/01/15(土) 13:25:43 ID:nxnJzdgh.net
庄内藩は寛大な処分がされても会津はそうならかった

西郷隆盛ゆかりの地 やまがた庄内
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西郷隆盛と庄内のゆかりの始まり
戊辰戦争で庄内藩は、会津藩など東北・北陸の31藩と「奥羽越列藩同盟」を結び、新政府軍と戦います。庄内藩は、北前船で財をなした豪商、本間家の支援もあり、最新の武器をそろえ、秋田藩、新庄藩などを相手に奮戦します。負けることなく、戦況を乗り切りますが時勢には逆らえず、厳しい処罰を覚悟の上で慶応4年(1868年)9月に新政府軍へ降伏を申し出ました。しかし、参謀の黒田清隆より伝えられた庄内藩への処分はきわめて寛大なものであったといいます。

 庄内藩士である菅実秀は明治2年(1869年)のはじめ、新政府軍参謀であった黒田と東京で面会し、その寛大な措置へ感謝の意を伝えました。しかし、黒田は、その指示は自分によるものではなく、西郷隆盛によるものだといいます。黒田も含め、新政府軍の中では、庄内藩の反逆の危険性を考え、藩主は隣国の大名などに預けるべきだという意見が多くあった中、一貫して寛大な措置を指示したというのです。この話をきいた菅は、西郷隆盛が庄内の恩人であることを知り、その懐の広さに感銘を受けたのです。菅は、この後、明治4年(1871年)に西郷との対面が叶います。

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