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豊臣秀頼を生かしてやって欲しかった人の数

1 :人間七七四年:2011/11/07(月) 00:46:22.87 ID:sr5O6xEy.net
夏の陣ですっかり弱っている豊臣方に
さらに追い打ちをかけるように銃撃した徳川方はマジありえん

もし過去が変えられるなら、
あのあとの秀頼の運命をどう設定しますか?

153 :人間七七四年:2023/03/20(月) 00:38:43.38 ID:+IgoZWQo.net
淀は女の分際ででしゃばりすぎなんだよ

154 :人間七七四年:2023/03/20(月) 16:18:18.88 ID:NvNrSa1e.net
北条政子「ほーん?」

155 :人間七七四年:2023/06/01(木) 17:44:41.29 ID:h606kcS+.net
振り返れば250年続いた徳川を立てるための嘘が「既に豊臣が一大名に転落してた」というもので
実際は誰もが認める豊臣体制の中に謀反人のヤクザがいたって事だろうに
出来上がった体制や秩序への反逆をして成功したのがヤクザ家康

156 :人間七七四年:2023/06/01(木) 21:33:17.01 ID:m1MN3hA6.net
実際は誰もが認める豊臣体制
出来上がった体制や秩序

秀吉死後はそんなことはないと思うが

157 :人間七七四年:2023/06/01(木) 23:24:29.36 ID:h606kcS+.net
そこが後世から見たバイアスかかった見方が蔓延りすぎなのでは
パワー系ヤンキー家康がブイブイ言わせてたのが現実で
当時の大義は完全に豊臣

158 :人間七七四年:2023/06/02(金) 00:03:43.00 ID:4zwM6+3V.net
豊臣信者の皆さんもいい加宗教的な思考から卒業していただきたいね
秀吉や豊臣家は別に神ではないし絶対的な存在でもない
そもそも当時秀頼が成人できる保証などなかったし政権どころか豊臣家が存続するのかもわからなかった
兄鶴松のように夭折してしまえばその時点で豊臣家が消えるしそうなりゃバトルロワイヤルの始まりだ
それだけ当時は先行き不透明で家康その他全ての大名や朝廷も含めて全て豊臣に不安を感じ
「そうなる可能性」を視野に入れ生き残りをかけて動いていたのは間違いない
その結果として豊臣が見限られ歴史に取り残されたということ
同じ幼君でも徳川4代家綱のときのような質量とも充実した一門家臣団を残せてはじめて「誰もが認める体制」と言えるのよ

159 :人間七七四年:2023/06/02(金) 00:20:30.01 ID:zIiG4pUk.net
家康は秀頼が成人するまでの後見者としての立場と、官位が秀頼よりもまだ上だったという立場を利用したんでしょ
秀頼が関白に就任してしまえば諸大名が徳川につく道理がなく戦など到底無理でジ・エンド
その前に殺害するか、徳川将軍は2代で平和に終えるかの二択で前者を選択した無法者

160 :人間七七四年:2023/06/02(金) 00:30:55.41 ID:YLErZpjL.net
えっ、関白になれるんですか!?

161 :人間七七四年:2023/06/02(金) 00:34:01.59 ID:4zwM6+3V.net
無法者は大義なき侵略戦争を起こし自分の私的都合で秀頼成人まで官位叙任も停止させ朝廷に大迷惑かけた豊臣のほうでしょ
徳川はそもそも秀吉が約束してた関白の五摂家への返還をし官位叙任を正常化させ
明との和平交渉を進展させるために将軍に就任するなど秀吉のやらかしの尻拭いをしてるのよ
朝廷も大名も豊臣にはコリゴリでだからこそ関ヶ原後あれだけすんなり徳川の元で政情が収まったんだよ
なにしろ家康が将軍にもなっておらず強制もされてないのに大名が先を争って江戸に伺候してるんだから
あれこそ大名たちのほうが天下人としての豊臣を先に見限った何よりの証拠

162 :人間七七四年:2023/06/02(金) 00:34:09.59 ID:zIiG4pUk.net
徳川体制が固まっており、さもなければバトルロワイヤルなどと言う事自体が後世バイアスの発想ではないか
乱世が完全に終わっているのに、徳川家の天下取りにとってのみの意味しかない戦を引き起こしたのが実際

163 :人間七七四年:2023/06/02(金) 00:36:00.61 ID:zIiG4pUk.net
徳川体制ならこんな事が起きるのかなあ
あくまで豊臣体制だからこそなのでは

たとえば、家康の将軍任官と同じ慶長8年(1603年)、池田輝政が右近衛権少将に任じられているが、これは「豊臣朝臣輝政」としての任官である。また同慶長8年(1603年)山内一豊が従四位下に叙せられ、土佐守に任じられているが、これも「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。また、これも慶長8年(1603年)のこと、加藤清正は関ヶ原の戦いの恩賞として肥後一国を一円領有するに当たり、主計頭から肥後守へ改めただけでなく、同時にそれまでの「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」に改めている。いわゆる“豊臣恩顧”の大名の代表格でもあり、秀吉の親戚である清正は別として、輝政は家康の女婿であり、一豊は「小山評定」の逸話で著名な親徳川派であるが、この件では特に家康への遠慮のようなものは見いだせない。

その後も、池田輝政の長男輝直(後の利隆)、加藤清正の次男清孝(忠正)、福島正則の次男忠清(後の忠勝)など、豊臣氏の再生産は続いている。福島忠勝の例では、諱では将軍徳川秀忠の偏諱を与えられており、明らかに江戸幕府を通じての官位叙任であるにもかかわらず、幕府は豊臣の氏の使用を阻止できないでいる。

164 :人間七七四年:2023/06/02(金) 00:55:10.05 ID:zIiG4pUk.net
近年、矢部健太郎さんの研究で明らかになったように、秀吉の時代に武家の家格が公家のそれに準じて定められ、豊臣家は「摂関家」、徳川や前田、毛利ら五大老の家は「清華家」とされました。清華家は太政大臣まではなれても、摂政・関白にはなれません。関ケ原合戦の後、家康は征夷大将軍となりますが、家格はそのままです。つまり家格は豊臣が徳川よりも上なのです。また、笠谷和比古さんの研究にあるように、大坂冬の陣が起こる慶長19年(1614)になっても、毎年正月には天皇の勅使をはじめ、親王、門跡、公家が残らず秀頼の許に挨拶に出向いていました。一大名では絶対にあり得ないことです。

165 :人間七七四年:2023/06/02(金) 00:56:25.94 ID:4zwM6+3V.net
それこそ1603年時点で徳川が豊臣を滅ぼそうと考えていなかった証拠だな
源平藤橘と同様単に本姓として名乗る分には別に何の問題もないし氏長者として豊臣家が続くのもそれはそれで構わない
しかし朝廷から正式に将軍に任じられ公儀となったのは徳川であり政権としては明確に徳川体制
ゆくゆく秀頼が成人したとしても関白になれるかは五摂家や天皇の意向もあるから不透明
特に五摂家は秀吉に騙された上に秀次事件で酷い目にあわされた恨みもあるし

166 :人間七七四年:2023/06/02(金) 00:59:22.82 ID:zIiG4pUk.net
また秀頼は、東は信濃の善光寺から、西は出雲大社まで、百を超える有名寺社の堂塔社殿を復興しています。国家の安全を祈る寺社の復興ですから、これは本来天下人の責務なのです。そして秀頼は復興事業にあたり、出雲大社では堀尾吉晴、熊野三山では浅野幸長というように地元大名を奉行に任命しました。これまた秀頼が一大名などではなかったことを示しており、豊臣政権が消滅していたわけではなかったことがわかります。

167 :人間七七四年:2023/06/02(金) 01:00:28.69 ID:zIiG4pUk.net
>>160,165
さらに、朝廷には秀頼を関白に就任させようとする動きがありました。私たちは征夷大将軍といえば、すなわち全国を支配する天下人で、絶対的な存在と考えがちですが、家康や秀忠の頃には決してそうではありませんでした。『義演准后日記』によると、朝廷は「秀頼を関白に、秀忠を将軍に」と考えていたようですから、そこには豊臣家の関白と徳川家の将軍は並存できるという認識が示されています。毛利宗瑞(輝元)の手紙にも同様の記述がありますから、それが当時の共通認識だったのでしょう。

168 :人間七七四年:2023/06/02(金) 01:01:07.59 ID:zIiG4pUk.net
もちろん関白の方がはるかに上位で、秀頼はいつ関白になってもおかしくない存在でしたから、秀吉同様、天下人となる可能性は十分ありました。

169 :人間七七四年:2023/06/02(金) 01:01:45.15 ID:zIiG4pUk.net
慶長16年(1611)の時点でポルトガルやオランダといったヨーロッパ諸国は、家康・秀忠、そして秀頼に贈り物をしていましたが、オランダ東インド会社の日記には、「今は事情があって皇帝(天下人)の位には就ついていないが、秀頼こそが日本の正当な皇帝であり、多くの大々名や民衆がそれを望んでいるので、将来、秀頼が皇帝になる可能性は高い」と記しています。

170 :人間七七四年:2023/06/02(金) 13:59:41.21 ID:+U1jgyOH.net
二条城で家康と会見したとき以外大阪城から一歩も出なかった秀頼が天皇を補佐する関白になれるわけないけどな

171 :人間七七四年:2023/06/02(金) 15:02:08.60 ID:rljlMvDG.net
そこまで言うなら外国の最先端技術を豊臣に授けてやればよかったのに

172 :人間七七四年:2023/06/02(金) 16:05:40.97 ID:zIiG4pUk.net
>>171
ちょっと意味が分からない、「そこまで言うなら」「技術を授けてやれ」というレスは
単に当時の情勢が第3者によって記述されたものが秀頼贔屓に見えているという事では?
それこそ、現代に蔓延る見方が徳川贔屓に偏っている証になるのではないだろうか

173 :人間七七四年:2023/06/02(金) 16:13:00.28 ID:zIiG4pUk.net
現代の秀頼のイメージもほんの20年前は、肖像画付きで「貧相な体格で自分では何も決められないマザコンだったから滅びた」が一般的だった
しかし史実では、あまりに違う大男だったというのが浸透
するとあくまで従来のイメージを延長した「甘やかされた巨漢のデブ男だ」という解釈が流行る
しかしそれも違うようで「二条城で会った家康が秀頼のカリスマ性に恐れをなした」
という解釈が今では流行っている
しかしまだ更新されていくでしょう、家康は武力にかまけてブイブイ言わせてたが徳川体制などではなく
本当のところは大名、民衆から待望されていた関白秀頼、豊臣体制における謀反人であったと

文武に優れた秀頼
なにしろ茶々は大変な教育ママでした。舟橋秀賢さまに政治、法律、軍学、漢籍、和歌などを教授させています。秀賢さまはあの清少納言を生んだ清原家(天武天皇の皇子で「日本書紀」を編纂した舎人親王の子孫)の流れをくみ、後陽成・後水尾天皇の侍読(家庭教師)でもあった当時としては最高のインテリです。

また、最後の近江守護だったあの六角義治さまに弓矢を教授させるなど武道もしかるべく教えていたようで、当時としては最高の教育レベルだったと申せます。

174 :人間七七四年:2023/06/02(金) 16:36:01.87 ID:4zwM6+3V.net
ダラダラ並べ立ててるが最後は大坂城の蔵に逃げ込んで命乞いなんだからな
実際秀頼の言行で史料上明確になってるのがどれだけあるのやら
諸大名も大坂城に閉じこもって賢愚定かならぬ人物に我が家の命運を託そうなどとは思えなかったろう

175 :人間七七四年:2023/06/02(金) 16:42:18.04 ID:zIiG4pUk.net
事実から目を背ける徳川信者が宗教的な思考となるな
ご自分が書かれている事は自分に当てはまることを書いている例か

176 :人間七七四年:2023/06/02(金) 16:43:45.41 ID:zIiG4pUk.net
秀頼にとって有利だった点をもう一つ挙げれば、年齢、すなわち若さです。大坂冬の陣の際、秀頼22歳、家康73歳。武田信玄や上杉謙信、さらに織田信長の例からしても、一人のカリスマの力で成り立つ権力がその存在を喪った時にどうなるかは、明白でした。徳川幕府もまた、家康というカリスマあってのものでしたから、年齢を思えば、豊臣秀頼の逆転劇は大いにあり得ました。事実、イエズス会の宣教師ヴァレンタイン・カルヴァリヨは、大坂冬の陣の真っ最中に「高齢の家康はまもなく死ぬであろうが、そうなると彼の相続者である秀忠も滅びるであろう。そうでなくても秀忠は諸侯の間で嫌われているので、政権を得られないであろう」と記し、そのときには秀頼が「支配者になる」と明言しています。

177 :人間七七四年:2023/06/02(金) 16:44:30.62 ID:zIiG4pUk.net
また、聖ドミニコ会のヤシント・オルファネールは、大坂夏の陣について、将軍秀忠に任せればよいものを、高齢の家康がわざわざ大坂まで出陣してきたのは、秀忠だけであれば、戦況が不利になった途端、諸大名が豊臣方に寝返ることを家康が知っていたからだと述べ、「もし家康が出陣していなければ、秀忠が王座(天下人の地位)につけなかったのは確実である」と言い切っています。

178 :人間七七四年:2023/06/02(金) 17:12:02.42 ID:rljlMvDG.net
>>174
あれは淀のせいだろ
秀頼まで愚将扱いされるエピソードになっててかわいそう

179 :人間七七四年:2023/06/02(金) 22:25:44.98 ID:rljlMvDG.net
母上、ここまで来ればもはやどうにもなりませぬ、潔く果てましょうぞ
いやじゅいやじゃまだ死にとうない、大野もう一度使いを出せ

タイムマシンで見てきたかのように母子の会話が聞こえてくるわ

180 :人間七七四年:2023/06/02(金) 23:47:30.43 ID:YLErZpjL.net
薬が効かなくなってしまった様だ

181 :人間七七四年:2023/06/03(土) 09:03:37.60 ID:CchYcw5Y.net
いやはや豊臣狂信者の発狂ぶりには恐れ入る
同じ豊臣信者の研究者の論説ダラダラ垂れ流して悦に入ってるんだから憐れみすら感じるな
とれだけ並べ立てようが豊臣家には単独で天下を差配できるだけの実力がなかったこと
当時実情を知らぬ外野が何を書き遺していようが諸大名は自家の権益を保証してくれる寄親として
豊臣より徳川を選択したという事実をまるで無視しているのだから狂信ぶりここに極まれり

182 :人間七七四年:2023/06/03(土) 13:42:27.64 ID:pGJZtBRm.net
これ罵詈雑言浴びせてるだけの徳川方が分が悪くないかw

183 :人間七七四年:2023/06/03(土) 15:11:16.37 ID:dn81vpwC.net
秀頼本人の統率力や政治能力の欠如が
父母の不行跡の結果みたいに語られてしまうのが秀頼の最大の欠点だよな

184 :人間七七四年:2023/06/03(土) 17:56:44.12 ID:pGJZtBRm.net
「貴族が豊臣を嫌ってた」「徳川の世だった」などと妄想を書き込んでるが
なら、冬の陣(1614年)の年になっても正月に
>天皇の勅使をはじめ、親王、門跡、公家が残らず秀頼の許に挨拶に出向いてた
こんな状況が起きるはずがないだろう
と史実によって妄想が脆くも崩壊しているのに、よく話を続けられるな。哀れ

185 :人間七七四年:2023/06/03(土) 17:57:59.07 ID:pGJZtBRm.net
>>181
実情を知らぬ外野、ではなく客観的な視点の第3者による当時の記録
しかも一人ではなく複数人、しかも異なる複数の組織の人間が同様の記述をしている事実は重い
それに対して徳川擁護は後世都合の願望
これで本当に話になると思うか?

186 :人間七七四年:2023/06/03(土) 18:09:15.06 ID:pGJZtBRm.net
3代目が将軍就任時に啖呵切ってる事も当時の世相を窺わせる
「え?徳川が代々将軍って正当性あるのか」という当時の世間のモヤモヤは大きく
豊臣家が滅んでもなお厳然と存在していたから逆ギレせざるを得なかったんだろ
それが秀頼存命時となれば「秀忠が嫌われていた」という記述も理に叶う
諸大名は家康個人の武力と強引さに靡いていただけ
大義は全く別だったので、どう転ぶか分からず高齢の家康が出陣したという
記述通りなら歴史がすんなりと読める

187 :人間七七四年:2023/06/03(土) 18:14:39.76 ID:pGJZtBRm.net
素直に歴史を読み解けば、夏の陣により初めて徳川による強引な政権簒奪が成ったと
誰もが腑に落ちる解釈が出来る
しかし、
250年続いた政権の最初がそれでは体裁が悪いだろ→豊臣が悪い事にしたい→徳川の世だった事にする
(そりゃ結果を知ってれば準備段階は見えるだろうが、それを徳川の世と呼ぶか)
と結論ありきの妄想をこじつける輩が跋扈して、この時代をややこしく見せている
まるで聞く耳を持たない歴史捏造江戸しぐさキャンペーンの全盛期を見ているようだわ

188 :人間七七四年:2023/06/03(土) 20:47:32.48 ID:ARwGUDFY.net
>>186
諸大名は秀吉個人の武力と強引さに靡いていただけ
大義は全く別だったので、どう転ぶか分からず
秀吉は領土拡張継続と武力誇示のために無茶な海外遠征を強行したり
自分の死後も諸大名を武力で抑えるために家康を三顧の礼で迎え入れたんだよな
秀吉自身が豊臣家の正当性を信じられなかったというのは皮肉な結末といえる

189 :人間七七四年:2023/06/03(土) 21:37:06.16 ID:AJAjqLOn.net
なにわのことも夢のまた夢って辞世の句残してるしな
もう終わりだって半分思ってたんじゃないか

190 :人間七七四年:2023/06/04(日) 05:27:23.92 ID:FEnYEPde.net
簒奪だの謀叛人だのバイアスかかりまくりの罵詈雑言喚いてるのは豊臣信者のほうだがな
つくづく思うが自分の領地の統治すら徳川に助けてもらうほど一大名としてもダメダメな豊臣が
関白になったところで何ができたのだろう
まして秀吉の頃のような独裁者の機嫌ひとつで最愛の娘が理不尽に殺される結果になったり
意味のわからぬ対外侵略戦争に動員され領地も荒廃するようなあんな体制を大名朝廷含めて本当に望んでいたのか
第三者の記述が信用ならないのは所詮無責任な野次馬に過ぎず当事者の気持ちが反映されているのか疑問だからだ
当時実際に時代を担った当事者である大名たちがどう考えていたかはその行動でわかる
関ヶ原後まだ家康が将軍にもなっておらず強制されてもいないのに先を争って江戸へ伺候し妻子を置き屋敷地まで拝領した
彼ら大名はこの時点で豊臣を見限り徳川を主君と仰ぐことを自ら選択した
露骨に豊臣を徳川の臣下とするほうがいいと進言した大名では伊達政宗がいる
これも関ヶ原後家康が将軍になる前今井宗薫宛書状で秀頼を家康の手元で育てどこかに封じたほうがいいと
婉曲に豊臣を家臣化すべきだと書いている
政宗だけでなく足利から徳川に至る権力の変遷を見てきた細川三斎など眼のある大名は皆思っていたことだろう
家康の強引な簒奪などという物言い自体がバイアスのかかったレッテル貼りでしかない

191 :人間七七四年:2023/06/04(日) 19:54:43.39 ID:B8fIrD9T.net
おやおや、徳川の世という主張じゃなかったのか?豊臣が家臣ではなかった証明しちゃってるぞ
誓約書まで書いて「後見人」という立場で政務を執りながら
あからさまに野心を見せている家康に対して
手元に置いて育てれば家臣にしちゃえますよwとスネ夫連中がおべっかを使ってるに過ぎないな

192 :人間七七四年:2023/06/04(日) 19:55:14.33 ID:B8fIrD9T.net
バイアスで言えばその後徳川の世が続いて
淀君などという売女の呼称が使われていたり、肖像画の秀頼の描かれ方であったり
近年のバイアスがどちら側に忖度したものかは明白だろう
当時の忖度する必要のない客観的な記録を無視するのは
ご都合主義にも程があるな

193 :人間七七四年:2023/06/04(日) 19:57:20.37 ID:B8fIrD9T.net
戦となれば勝ちそうな側に付くのは当然
戦況が微妙な時は戦後処理を見据え大義のある側に雪崩を打って駆け込む
まさにそれが書きとめてある
大義を無視し武力で謀反を起こし成功したのが家康、素直にそう読めばいい
歴史を語るのに体裁が悪い事へのエクスキューズなんて不要

194 :人間七七四年:2023/06/04(日) 22:27:21.46 ID:zQbPfZ7B.net
大義を無視して武力で謀反を起こしたのが三成だろ

195 :人間七七四年:2023/06/04(日) 23:20:03.36 ID:ri39WpuU.net
三成は兵を挙げてから後で淀や秀頼に追認を求めている
結果拒否されたが

196 :人間七七四年:2023/06/06(火) 13:31:19.73 ID:MfdU+Onk.net
関ヶ原の前から徳川の世だったなんて誰も言ってないんだがな
もはや単独では天下を維持できないと悟った秀吉が徳川に豊臣家と政権を委ねた秀吉の遺言覚書体制に
危機感と反発を覚えた三成ら奉行や毛利が権力奪取を狙って秀吉の遺志を踏みにじって十人衆合議をゴリ押しした挙句
クーデターを起こし関ヶ原で敗れたことで遺言覚書体制が崩壊
同時になにも出来なかった豊臣家への求心力が決定的になくなり諸侯が率先して徳川を武家の棟梁に推戴し
関ヶ原の僅か1年後に大名のほうから豊臣を家臣にせよと進言するまでに価値観の転換が起きた
何の実力もない豊臣を頭にしたところで収まるものも収まらないことが満天下に明白になったことで
朝廷も関白不在で既に機能停止していた武家関白制を見限って新たな公儀として徳川を将軍に任命したというのが実情

197 :人間七七四年:2023/06/06(火) 14:19:27.99 ID:MfdU+Onk.net
徳川が豊臣を放逐し関白になったとかなら謀叛だの簒奪だの言ってもいいかもしれんが
秀吉死亡時点で関白は存在しておらず公的には政権が存在してない権力の空白状態
秀頼が成人するという保証もなくそれまで実体があやふやな武家関白制を放置するなど全く現実的ではなかった
家康は朝廷から現実的な全く新規の公儀として将軍に任じられたんで正当な政権交代と言うべきもの
そして全国の武家を統括統帥する将軍になった以上豊臣も武家であるなら徳川に服するのは当然
それが嫌なら武家をやめて純然たる公家として叛乱の温床になりかねない大坂城を出て京都に移住すべきだった

198 :人間七七四年:2023/06/08(木) 08:33:03.62 ID:ea+GlSNg.net
秀吉は秀次切腹後に、幼い秀頼のために 
天下簒奪防止システムを構築しようとしたが
それが完成する前に寿命が尽きて死んでしまった。
だから家康が天下簒奪するための抜け道がたくさん
残ってて、例えば秀頼より家康の方が官位官職が高い
ねじれ状態もその一つだった。

199 :人間七七四年:2023/06/08(木) 14:15:15.84 ID:8wgCKRG3.net
でも家康は簒奪しなかった

200 :人間七七四年:2023/06/08(木) 15:14:05.17 ID:k7HgD35O.net
むしろ家康は三成による簒奪を阻止した

201 :人間七七四年:2023/06/11(日) 00:32:22.31 ID:/ERN2FPL.net
秀吉が関白職を私物化したので朝廷が機能不全に陥った
徳川の尽力で朝廷が関白職を取り戻せたので朝廷が豊臣を頼る必要がなくなった

褒美として徳川が幕府を開けた

202 :人間七七四年:2023/08/27(日) 19:58:47.34 ID:5ApLe2kG.net
REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担

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