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劉備が天下統一できなかった最大の原因その5
- 1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/17(水) 22:11:51.08 ID:RFA23TCc0.net
- 前スレ
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1495692159/
- 22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 00:46:20.98 ID:VlXg4d5B0.net
- >>21
先主伝にそんな記述あったっけ?
- 23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 01:01:06.62 ID:cjcbXOz60.net
- >>20
美服はともかく狗好きは単にギャンブル好きだっただけなんじゃないかと
- 24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 01:41:32.00 ID:gaFKlKkv0.net
- 走狗は跋扈将軍こと梁冀さんの趣味の一つに挙げられてるくらいだし、当時の士大夫層の価値観的には好ましくない類の娯楽だったんだろうなと思う
劉備の学識知見は過小評価されていると思うけども、やっぱり劉備の人柄は大衆受けするタイプでインテリ層からの評判は良くなかったんじゃないかなって思う
- 25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 01:59:08.71 ID:PUyedQy60.net
- 孔融も劉備を評価してるから名士受けも良さそうな気がするが
孔融の場合、単にピンチの時に助けてもらったからってだけな気もするな
- 26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 06:51:55.96 ID:+7J24BHrO.net
- 曹操と違ってこれといった一族の協力もなく、関羽張飛も怪しい出。あの時代にひとりっこというのも考えにくい
劉邦みたく、鼻つまみ者だったんじゃないかと想像してしまう
- 27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 07:18:11.19 ID:Ujw5C3hy0.net
- >>26
曹操も本人の兄弟はなぜか少ないのがね
遠縁か姻族の夏侯氏ばっかじゃん
- 28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 07:30:18.55 ID:cjcbXOz60.net
- 曹操の兄弟姉妹はやっぱり陶謙の部下に殺されちゃったんじゃ。
この頃の曹操って金も人もカッツカツでスポンサーの衛茲や親友で謀将の鮑信にも死なれてどん底の時期。
本人も不安だからどっか避難させたら陶謙の領地周辺に逃げ込んであぼ〜ん。
- 29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 07:41:24.71 ID:+7J24BHrO.net
- 実弟には曹徳他何人かいるようだ
- 30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 08:28:57.57 ID:Ujw5C3hy0.net
- 袁紹や曹操こそ一族の鼻つまみ者って印象があるのだが
- 31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 08:36:40.90 ID:hgWIaxTm0.net
- 袁紹と曹操と劉備の共通点って庶子っぽいとこかな。
袁紹はお察しの通りで曹操も字が孟なのは庶長子っぽい。
劉備も親父が死んで家から出されてるのをみると正室の子ではないだろうし
- 32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 08:44:22.60 ID:91jB0a2o0.net
- というか出世する為の投資は金が掛かるから近親に嫌われる事が多い
陳平の例が分かりやすいかな
近親という意味だと劉備こそその影が見えない
故郷が故郷だけに異民族に殺されたか劉虞を殺した頃の公孫瓚にやられたか気になるところ
- 33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 08:49:37.39 ID:VlXg4d5B0.net
- 劉備が正妻の子かどうかは断定できないと思うけど
洛陽への遊学は別に家から追い出されたわけではないでしょ
その後涿郡に戻ってきて張世平や蘇雙と交遊関係をもったみたいだし
- 34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 08:49:50.82 ID:hgWIaxTm0.net
- 交際費もバカにならんからね。
晋書陶侃伝でも陶侃のオカンが髪を売って陶侃の交際費を捻出したエピソードとか記述されてたし
- 35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 08:53:30.64 ID:91jB0a2o0.net
- 曹操に至っては家の金使っての私兵やからな
寄生してた親類関係からは総スカンやろ
- 36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 08:55:28.34 ID:VlXg4d5B0.net
- 劉備はその点張世平と蘇雙から借りた金だからな
- 37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 08:57:55.71 ID:91jB0a2o0.net
- >>36
というかその頃には留学費支援してくれてた叔父等親族がどうにかなってた可能性もある
- 38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 09:07:14.38 ID:hgWIaxTm0.net
- >>33
「先主は若くして弧となり母と筵や靴を売っていた」って記述はオカンの実家で生活してたって意味じゃないかと。
>>35
曹操が徐栄に負けた後に夏侯惇と丹陽兵集めに行ったのって、地元の名士でスポンサーの衛茲が戦死して顔出せる状態じゃなかったとかありそう。つか親父もそれで避難してたのかも。
- 39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 09:31:08.99 ID:9ZV9hxdZ0.net
- 劉備が傭兵隊長だったとか言ってるやつらは絶滅してくれねえかな
- 40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 10:19:44.08 ID:+7J24BHrO.net
- 何かしら戦なり政治なり何らかに関わらないと歴史に名を残すのは厳しいだろうが、劉備には親戚もいないのがな
養子の劉封くらい
- 41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 10:22:57.69 ID:eXnFceL20.net
- 劉備の孫(劉淵)が晋王朝を倒して漢王朝を復興させるやろ?(三国志平話脳)
- 42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 10:41:52.99 ID:91jB0a2o0.net
- >>41
匈奴部族のクリスチャン名みたいな劉姓はNG
- 43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 10:58:06.52 ID:VndcTEnA0.net
- 関係ないけど
匈奴が劉姓を名乗り出したのは劉淵の父親からなんやな
曹魏になって劉姓を名乗る事が許されたんやろな
- 44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 12:14:00.55 ID:gaFKlKkv0.net
- そもそも劉豹と劉淵の血が繋がってるのかも怪しくね?
それを置いといてもなんで単于を差し置いて右賢王の一族が劉姓を名乗ることを許されたのかとかツッコミどころが多すぎる
- 45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 12:49:27.98 ID:VndcTEnA0.net
- >>44
正しくは漢王朝が終わって誰でも劉姓を名乗れる様になったという事
- 46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 18:56:56.78 ID:pzob1EuZ0.net
- 晋書の曹操の匈奴5部分割→匈奴に劉姓を名乗らせるの流れは実際はもっと後に名乗らせてたって説もあるな。
曹操が生きてた時点では漢王朝まだ存在してたしいくらなんでも勝手に劉姓名乗らせたとかは考えにくい。
- 47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 20:22:02.75 ID:+7J24BHrO.net
- 劉邦の時代まで遡ってその末裔と自称かな
- 48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 20:24:46.29 ID:Ujw5C3hy0.net
- 南匈奴左賢王の家を貴族階層として魏の支配体制に組み込んだものだと思ってた
- 49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/19(金) 20:28:58.35 ID:e6m2JAam0.net
- >>46
普通に考えてそれが許可されるのは
禅譲後の曹丕時代以降でしょ
- 50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/20(土) 01:09:35.10 ID:M0Rddbf9O.net
- 北の平原から南の果ての蜀
山内家が土佐を治めた時も、長宗我部家の地侍と尾張からの武士の対立が幕末まで尾を引いてしまったが、蜀の対立もなかなかのものだったんだろうな
徐州荊州も混ざっているから尚更
- 51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/20(土) 01:17:55.37 ID:sEARFKRA0.net
- 蜀の出身地からの対立って言うほど史書の中では見れないからなぁ
李厳が益州派と言われる事多いが
荊州出身で益州だと割と嫌われていて諸葛亮ら荊州派に組する事で出世した男だし
- 52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/20(土) 02:52:37.91 ID:xUZvjfC70.net
- 派閥云々より当時の蜀って議論好きが多くて揉めてる印象
- 53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/20(土) 06:10:54.63 ID:Py79Yu8V0.net
- >>51
荊州が残っていれば対立する余裕も有ったんだろうけどね
夷陵で対立する様な余裕が吹っ飛んだ
- 54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/20(土) 19:14:54.07 ID:iuTcofki0.net
- そもそも荊州閥益州閥云々の穴は蜀首脳部の純粋な益州出身者の少なさ
その数少ない益州出身者をまとめるとこいつらに閥なんて形成出来るか?としか言いようがない
益州出身者で尚且つ旧劉璋に仕えてて政治的な地位が高そうなのが早々に離脱した黄権という…
- 55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/20(土) 22:01:10.48 ID:Mt5rNijK0.net
- 元々の出身が陳留だから益州閥とは違うと思うけど、呉壱なんかは妹が劉備に嫁いでるくらいだから政治的発言力を持っててもおかしくなかったんじゃないかと思う
現に、順当にいけば魏延か呉壱が抜擢されるであろうというところで敢えて馬謖を街亭の守将に抜擢してるあたり、諸葛亮は呉壱を敬遠していたんじゃないかって邪推したりw
- 56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/20(土) 22:09:43.23 ID:sEARFKRA0.net
- 蜀で一番対立が激しくなったのって諸葛亮死後の事だと思う
北伐派と反北伐派で争ってる事が史書から窺う事ができる
- 57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/20(土) 22:49:03.55 ID:M0Rddbf9O.net
- 劉備と孔明からの呪縛から解き放たれたしな
魏と和するのが選択にあるのはおかしくはないと思う
弱国とは言っても、春秋戦国の韓ほどの狭さや周りが強国ばかりでもないから、韓非子の言う内を固めよで生き延びる方法はあっただろうけど、そこの調整できずに姜維と夏候覇を暴走させてしまって放棄してしまったのが、劉禅の国主としての無能さというとこかな
- 58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 00:24:13.96 ID:wlUGNvW30.net
- 諸葛亮死後30年北伐やらないで過ごすってのも無理だろ
- 59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 07:17:01.23 ID:2Ll2XEt70.net
- むしろ隴西ちほーに軍人拠点作らせないための北伐やし
- 60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 10:43:31.25 ID:IPr+/0PK0.net
- >>55
いや、派閥形成出来るぐらいまともに権力のある外戚なら孔明の指揮下に入って北伐に参加なんて使われ方しないと思うわ
- 61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 10:45:51.91 ID:9BHKgAXm0.net
- >>59
いや作ってるけど?
司馬孚が度支尚書の時に諸葛亮の北伐に対抗するために上邽で屯田を開拓させてる
いや、そういうことが言いたいんじゃないんだろうけどさ、北伐は魏に侵攻拠点を作らせないための前方防衛戦略であるって捉え方は正しくないと思う
- 62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 19:26:08.00 ID:8lxjJiaN0.net
- >>25
高慢ちきの陳登さんもだぞ
- 63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 19:30:01.71 ID:8lxjJiaN0.net
- 結局孔明って第一次と第三次しか成功してないのよね
魏とのがっぷり四つはほとんど全敗で追撃を撃退したくらい
- 64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 20:07:34.31 ID:21BVSfyV0.net
- 一次も三次も成功とは言えない
- 65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 20:15:08.12 ID:8lxjJiaN0.net
- まぁね
でも一定の戦果を得たといういみでは
- 66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 21:20:06.10 ID:px+cjz0j0.net
- 五胡〜南北朝の北伐見てても漢中方面はあくまで別働隊(せいぜい数万程度)のルートやから……
本隊はあくまでも荊州や徐州から攻め上がるのが定番
- 67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 21:45:35.52 ID:VmVR2K1P0.net
- 周瑜の引き抜きに成功してたらかなり良い線行っただろうな
周瑜「関羽張飛使えば偉業も成せる」
要するに優秀な将と参謀が足りなかったんだよ蜀は
関羽も張飛も将になる器量は無いからな。名兵と言ったところ
使う人間が優秀であればあるほど関羽張飛の武力を存分に活かせる
- 68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 22:50:38.64 ID:8SNc89lC0.net
- >>64普通に3次は成功だろ
二郡を奪ったんだから
- 69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 23:56:22.60 ID:2Ll2XEt70.net
- >>67
そもそも周瑜は蜀とり成功してたら桓温みたいなポジションになってたかも
- 70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/22(月) 21:46:32.56 ID:vkOwYHYM0.net
- >>67
何言ってんだ?
その周瑜が欲しいって言ってる将が関張やん
- 71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/22(月) 22:03:58.45 ID:YiqSA68R0.net
- 周瑜も大概怪しいから
- 72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/22(月) 22:14:16.27 ID:4c2lI6qI0.net
- >>70
将って指揮を執ることも含まれる。周瑜は関張を使えば、と言ってるから一つの駒としてって意味でしょ。
- 73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/22(月) 22:24:02.49 ID:/NlSzT4s0.net
- 裨将であっても将は将だろう
- 74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/22(月) 22:24:58.59 ID:/NlSzT4s0.net
- 個人的には軍師中郎将時代の諸葛亮も将だと思うぞい
- 75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/22(月) 22:42:59.50 ID:mTNfEAK30.net
- ホントに手勢を任されずに軍師的役割に徹した人物っているの?
- 76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/22(月) 22:52:45.82 ID:o0rTKCBU0.net
- 後の時代だと府僚でも記室参軍とか諮議参軍に任じられた人は兵を率いてなかったと思う
逆に長史(本来であれば府僚の長)みたいな人が監諸軍事・郡太守・雑号将軍やったりしてる
司馬やヒラの参軍事も将軍号もらったりしてるしね
- 77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/22(月) 22:54:56.13 ID:x2eJPkgR0.net
- >>75蜀だと法正ぐらいじゃね?
ホウ統は流れ矢で死んだとあるからもしかしたら前線に立ってた可能性とかありそう
- 78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 05:14:44.89 ID:0sGWz2oF0.net
- 蜀は武力が無かったんだよな
シンプルに弱かった
そしてトドメに知恵もなかった
これじゃどうしようもない
三国の中でどう見ても蜀だけが
能力、武力共に低いのは火を見るより明らかだもの
- 79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 05:20:07.05 ID:rhMFK9XL0.net
- そんな弱小国を数十年も滅ぼせなかった魏や呉はどれだけ無能だったんや?
- 80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 05:37:09.04 ID:0sGWz2oF0.net
- 文字通り三つ巴、その他諸々だからでは?
あっちをやればこっちが
こっちをやればあっちが
- 81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 06:23:25.64 ID:/lHyOp8I0.net
- 蜀は将も兵も足りず
呉は内情バラバラの守備専で騎馬無し
魏は中原の混乱からの回復待ち
三者三様の事情ですわ
- 82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 06:28:28.85 ID:/lHyOp8I0.net
- 三国時代って孔明の隆中対に魯粛が呉の都合をねじ込んで生まれた産物だと思うわ
- 83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 07:39:19.19 ID:Skm56/Of0.net
- >>82
魏呉の南北時代に蜀が益州で引きこもっただけだろ
- 84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 07:45:11.16 ID:rhMFK9XL0.net
- >>80
東晋十六国時代に生起した三つ巴情勢だと第二勢力が第三勢力を食ったパターン(@後趙A東晋B成漢、三つ巴は329〜347)と
第三勢力が第二勢力を食ったパターン(@東晋A前燕B前秦、三つ巴は352〜370)とがあってだな
三つ巴だから必ずしも長引くものでもないのでは?
- 85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 08:02:24.39 ID:ldIYyEey0.net
- >>83
魏呉の南北時代が成立する条件は曹操の南下前に荊州を抑える事
曹操孫呉の二正面で戦ってた劉表を落とせなかった時点で無理無理
- 86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 08:20:53.59 ID:UPzsNl1K0.net
- 何気に劉表有脳説
- 87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 08:26:21.36 ID:PAXRm3vz0.net
- 群雄割拠は基本的に「みんな凄くてみんなクズ」な状態だしね
無能だと簡単に滅ぼされて割拠すらできない
- 88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 08:38:14.82 ID:82QgYJW90.net
- >>86
実際劉表はかなり有能だよ
元々党錮の禁の対象になる程の名声を持ってて
任地先でしかない荊州で名士を服属させ主に袁術と後に曹操とやり合えてたぐらいやし
- 89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 09:57:12.22 ID:IKq2mpL9O.net
- >>83
公孫度「オイコラ、ワシら省くなや」
- 90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 10:19:37.20 ID:82QgYJW90.net
- >>89
袁術「侯の自称陰で王様気取りのヘタレが」
- 91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 12:50:08.21 ID:Skm56/Of0.net
- >>85
隆中対が南群を呉に取られた時点で破綻してるからなあ
- 92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 13:20:20.68 ID:82QgYJW90.net
- >>91
三国鼎立の状況は隆中対を利用して魯粛が生み出した状況みたいなもんやし
魯粛はかなり早い段階で劉備を利用した三国鼎立に舵を取ってる節があるんだよなあ
- 93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 14:47:07.03 ID:0sGWz2oF0.net
- >>84
いや、三つ巴、その他諸々で明らかに長引いてるだけの話じゃん
- 94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 17:10:54.30 ID:1zK/6QKq0.net
- 200年までに中原かそれに近い地域に足掛かりを得てないとダメだったと思う
曹操が袁家を飲み込んだらもうあとは消化試合
- 95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 17:20:18.00 ID:vwkc0mgv0.net
- 消化試合が80年も続いたん?
まるで朝鮮戦争やな
- 96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 17:35:41.49 ID:Yp01uJgP0.net
- 魏と晋が戦ってたせいで長引いた
- 97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 17:47:18.44 ID:ETQ6Mynr0.net
- >>95
北魏の華北統一から隋の天下統一なんて150年くらいかかってるで
- 98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 17:56:56.36 ID:vwkc0mgv0.net
- それのどこが消化試合なん?っていう
よく曹操が河北統一してからは消化試合って言うやついるけど80年も優位を保ちながら統一を果たせなかったのってどれだけ魏の連中は無能揃いなんだよっていう
- 99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 18:04:29.27 ID:TXsCsC+P0.net
- >>98
司馬昭が第一人者になった途端に蜀併合だからな
曹丕にしろ曹叡にしろ無能の烙印押されても文句言えないと思う
- 100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 18:15:42.99 ID:0NbyMjHi0.net
- 曹操が無能なら劉備は・・・
家畜かなんかだったのか?
- 101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 19:54:43.50 ID:o5GsVjFf0.net
- 曹叡はともかく曹丕は軍事的には明らかに無能だったからな…
司馬昭はちょうど蜀が姜維派と反姜維派で分裂してた時だったからラッキーだったとも言える
- 102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 20:02:37.80 ID:82QgYJW90.net
- 単純に魏の国力回復待ちやろ
時間が経てば経つ程中原から流れた人々は戻るし元々の生産力の差が広がっていく
いくら蜀や呉の国土が豊かでも結局は人が1番の資源やし
- 103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 20:10:13.84 ID:rhMFK9XL0.net
- >>102
人口がどれだけ回復したのか証明できなくね?
- 104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 21:02:54.34 ID:82QgYJW90.net
- >>103
そもそも
これまで証明出来る様な意見出てきたのかな?
- 105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 21:10:22.17 ID:FosfxTME0.net
- >>104
自分で中原に人口戻ったとか言ってる割に根拠無かったんか
- 106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 22:14:32.61 ID:Rb9tzJoa0.net
- >>92
違うよ
魯粛は揚、荊州による長江での防衛ライン構築で後の南朝の礎になるのに対して
隆中対は荊、益州取れれば良いなぐらいだぞ
>>103
後漢末期は寒冷期で長江も凍るプチ氷河期だぞ
北部ほどダメージがデカイし魏は戸籍に対して人口が少ないだろ
- 107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/23(火) 22:34:32.65 ID:o5GsVjFf0.net
- >>106隆中対の一番大きなポイントは呉との同盟を提案した事だと思うわ
魯粛が先に提案したものは最初同盟者を想定したものでは無かったからな
- 108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 00:09:39.99 ID:L7XqR1C+O.net
- 半年くらい書き込みなかったのに、ちょっと書き込みあったら一気に消化する不思議なスレ
- 109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 00:12:39.21 ID:WnJrpnXV0.net
- >>106
後漢末は別に寒くもなく暑くもなくだよ
ただ史書に南北関係なく旱害蝗害疫病が頻発してるから異常気象ではあったんやろな
傾向として蝗害は北やろうけど疫病は南やろうね
呉の武将の早死が多いけど当然ながら武将に限る訳が無いという事
- 110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 01:17:55.28 ID:WnJrpnXV0.net
- >>106
だから荊州確保に劉備を利用して益州に追い出しつつ荊州の権益を奪って呉に都合のいい三国鼎立に持って行ったんだよ
礎は礎であって南朝ではない
魯粛は単に当時の呉の力では単独で益州まで確保するのは不可能だと冷静に分析して現実的に対応しただけだよ
- 111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 01:28:13.76 ID:2iZAhoo50.net
- >>107
劉備が独力で曹操に対抗することが不可能である以上、孫呉と結ぶという発想自体は自然なものというか画期的なものではないと思うがね
問題なのは、どうやって孫呉との同盟を締結するのかってこと
孫呉と荊州(劉表)はずっと領土を巡って険悪な状態にあったから、そういう情勢をどうやって覆すのか、隆中対には具体的なプランが無い
結局のところ魯粛がやってきて何もかもお膳立てしてくれなかったら画餅で終わっていたかもよ
- 112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 01:40:49.79 ID:WnJrpnXV0.net
- >>111
当たり前だけど劉備は劉表じゃないよ
孫呉も劉表に勝てず曹操が荊州固めたら万事休すの手詰まり
劉備との同盟は独立のラストチャンスだったんだけどね
- 113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 01:57:31.28 ID:2iZAhoo50.net
- >>112
孫権も天下への野心を捨てれば曹操の下で有力諸侯として生き残る道もあった
張昭ら呉の主流派はその考えだったし、周瑜も呉単独で曹操に対抗する考えだった
それらを覆したのは魯粛が孫権を説得したことで果たされ、結局のところ劉孫同盟の締結は魯粛なしでは不可能だったことは否定できないんじゃないかな
- 114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 02:14:34.35 ID:WnJrpnXV0.net
- >>113
否定も何も
同盟からその後の展開まで三国鼎立の形を事実上作ったのは魯粛やって何度も言ってるやん
あと当時の孫権は孫呉の神輿以外に価値が殆ど無いから降伏しても諸侯とか厚遇されん
と魯粛が孫権を説得してるんだが?
- 115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 04:47:02.52 ID:l0OC8txD0.net
- 孫呉が南朝に与えた影響は建業を整備してくれたことくらいだろ
防衛ラインが東晋以降は漢中〜襄陽〜淮水の線になってるから孫呉とは条件が合致しないわけだし
- 116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 04:52:13.15 ID:9cVIX0oD0.net
- 曹操は何で軍を江南に差し向けたんだろうな
孫権の集団内の要人を許昌の朝廷に引き抜いていくとかもっとやりようがあったんじゃないのか?
- 117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 07:45:14.51 ID:WnJrpnXV0.net
- >>116
地元名士が多いから降伏はともかく引き抜きに応じ難いやろね
そして徐州系はいつものアレ
- 118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 09:06:35.69 ID:R9FroY2X0.net
- >>116
華キンで成功、張紘で失敗、あんまり効率良くない
魯の字の降伏派ネガキャンはあんまり額面通りに受け取るな
- 119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 10:01:56.59 ID:z85czr7sO.net
- >>116
中途半端に江南が孫氏と諸豪族連合として軍事力を持ち固まってたからだろう。
これが江東四氏などが個々に独立し軍を持ってる程度なら、それぞれを引き抜き&討伐で選択しながら江南を取る流れが出来てたろうけど
なまじ地盤に固執し保持を目的として豪族同士固まってたから各個に引き抜き出来ないし、軍事規模からも中途半端に大きい孫呉をそのままは危険過ぎて丸抱えも出来ない。
曹操の年齢的も焦る頃だから、荊州を落とし軍で押し潰す方にしたんだろう。
- 120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 10:13:30.39 ID:WnJrpnXV0.net
- そもそも荊州は長江上流で呉の首根っこ
和戦どちらにしろ優先出来るならするのが当然やろ
- 121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/24(水) 15:08:05.62 ID:wqbNsBK9O.net
- >>108
妄想合戦はカンガルーボクサー達の大好物。
そういうことです。
- 122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/25(木) 01:02:02.18 ID:KsoW3M0+0.net
- >>103
どれだけ回復したのかは証明できないかもしれないけど常識で考えれば魏の人口増が一番多いんじゃない?
三国の人口増が同じくらいだと思うの?
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