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【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン97【御同行】

502 :名無しさん@京都板じゃないよ:2019/04/06(土) 16:43:51.93 ID:n6tGa+oy0.net
この願のスタンダードな解釈ってなんなの?

手元にあった金子大栄氏の解釈を見ると、「菩薩」というのは「倫理学者、哲学者、聖道門の修行者」
のことで

先の願では国中の菩薩が他方菩薩の道を諒解された。
それでこの願では他方の菩薩が浄土の法を諒解することによって、
さらにひろくすべての道を諒解するにいたるのであります。
これを反面から申しますと、念仏こそ十方衆生の道であり普遍の法である、
ということを知ることができないようでは、
諸根闕陋であることをまぬがれないということであります。
それで私は四十八願に引きずられていくのであります。
私の一面の心では哲学も道徳もみな駄目である。
念仏でないと駄目だといいたいのでありますが、
四十八願に引きずられ、ここまできますと、他方仏国の菩薩の道も諒解されて、
同時にまた他方の菩薩からも諒解されるようになるのであります。
我はどうしても罪悪深重にて煩悩興盛なるがゆえに念仏往生する。
そこにゆるぎもなければ僻みもない。
ちゃんと落ちついて我は念仏の大道を行っている。
それと同時に聖道の修行者も念仏往生の道の大なることを知りつつ、
しかも自分の道を徹底せしめようとするのであります。
弥陀の名号を聞き仏の大道を聞いて、そういう広い道があることを念じ、
その道に励まされて、それぞれの道を徹底するとき、
それぞれの道がまた一切の他の道を諒解する基となる
。それはこの第四十一願の誓いによるのではないでしょうか。

らしい これは納得できるがスタンダードな解釈ではない気がする

俺は41願は、娑婆にあっては具体的に言えば釈迦の修行時代に対しての願で
もしくは他の多数の仏国土の菩薩に対しての願だと思ってるけど

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