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津軽為信知ってるかい?しらんだろ?

772 :人間七七四年:2017/05/09(火) 12:05:07.85 ID:puDlX50X.net
笹森 建房 生没年不詳
為信家臣。笹森館主。官途は勘解由。別名・砂子瀬勘兵衛。
1571年、大浦為信が石川高信を攻撃する際
小栗山左京と共に、野伏衆83余りを率いて戦功を挙げた。
武勇名高く、諜報活動にもたけ、笹森館を領し「鬼勘解由」と恐れられた。
のち、大間越奉行となり、佐竹義宣領との国境を守った。
1613年、海賊・小野茶右衛門が謀反を起こすと、建房が大将となってこれを討伐している。

白鳥 信次 ?〜1642
別名・山口信治。
父は1600年に関ヶ原参陣中の留守に堀越城代とされるが
謀反を起こした板垣将兼、尾崎喜蔵らに討たれた白鳥伊右衛門。
父の討死により白鳥家の家督を相続。
1612年、高坂蔵人の乱では戦功を挙げ、家老職として800石を領した。
1618年、大浦信枚、佐竹義宣の国境協議で、服部康成と共に協力し、
大浦信枚の有利な状況で問題を解決した。
1625年、青森湊普請に際し、服部康成、乾安儔とともに普請奉行として活躍した。

井上 専正 生没年不詳
伊勢国司北畠氏の家臣。
鳥屋尾満栄と共に家老として織田信長との戦いで戦功をあげた。
北畠氏の没落後は、その遺児とされる北畠昌教を保護して
本願寺を頼って落ち延びる。大和の本願寺寺院に入り
この頃、顕如から法名「教順」を賜ったとされる。
その本願寺も信長によって勢力を失うと
羽後国鹿角へ再び昌教と共に落ちる。
北畠再興の兵を募りつつ、自らの娘を昌教の室とした。
のち、北畠昌教が津軽氏の客将となると
これに従い、関ヶ原の合戦にも参加した。
戦後、完全隠居し専正寺住持として過ごした。
・・・とされるが、そもそも北畠昌教の出自があやふやなので
どこまで本当なのか疑問。

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