2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう

1 :人間七七四年:2012/10/15(月) 00:12:08.25 ID:RhmDVWTD.net
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話で、自分の好きな話を上げたり、もっと話したい事を話そう。


戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/


鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

2 :人間七七四年:2012/10/15(月) 00:15:56.88 ID:RhmDVWTD.net
この話が好きです。

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/13(金) 21:01:03 ID:IyR/Qdrb
蒲生工場長、ヘッドハンティングに挑戦。


ある時、蒲生氏郷は茶仲間である友人の森忠政の領地である東美濃を訪れた際に大井宿で接待を受けた。
饗応役で出てきたのはゴツい年の頃50歳程の男。名を「各務兵庫助元正」と名乗った。

氏郷「なるほど、この男が『鬼兵庫』か・・・」

信長家臣時代に噂ぐらいは聞いた事がある。色々と面白い経歴の持ち主であるらしい。
しばらくして酒もまわり宴もたけなわとなった所で氏郷はこう切り出した。

氏郷「兵庫殿。あなたの武功話を聞きとうございますな。」
元正「武功話ですか・・・。そうですな、では宇佐山城での話を一つ・・・」
氏郷「おお・・・それは凄い。だがまだそれが全てではありますまい。」
元正「それはもちろん。では越前での話を・・・」
氏郷「ははは!面白い面白い。だがまだry」
元正「それはもちry」

そんなこんなで盛り上がる内に宴は終わった。
元正「この老骨めの昔話。楽しんでいただけましたかな?」
氏郷「それはもちろん。」
元正「ふふふ・・・」

ほろ酔い気分でご機嫌な氏郷であったが人材マニアである彼は話の中で各務兵庫という男が武辺だけではなく多くの普請事業に関わり、また最近では
領内の検地奉行を務め上げたりと多才な人物である事を見逃さなかった。

是非とも蒲生家に欲しい逸材・・・万石払っても惜しくはない。彼が浪人であったなら即採用ものである。
しかしながら彼も森家において重要な職を得ている。差し出がましい真似はすべきではないのだ。

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/13(金) 21:01:40 ID:IyR/Qdrb
しかしその場は大人しく帰ったもののどうしても元正を仕官させたくなった氏郷。
長可時代から所領が減って待遇に不満を抱いていた森家の家臣を引き取って再生工場入りさせたりしている氏郷は知っている。
「現時点の森家の待遇に不満がある家臣は決して少なくない。」元正ももしや・・・やってみる価値はある。

早速、水面下で交渉すべく手紙を書いてみる氏郷。しかしながら自分から引き抜きにいくという事はあまりしたことが無い・・・というか初めてかもしれない。
とりあえず一万五千石で仕官を勧めてみる事にした。ちなみに森家の総石高は当時七万石であるので倍増以上である事は間違いない。

数日すると使者が帰ってきた。やんわりと断られたとの事である。
しかしながら珍しくヒートアップする氏郷「よろしい、ならば二万石だ。」書状を受け取ってもらえたならばまだ分からない。
スラスラと書き上げるとまたすぐに使者を送り出した。

また数日すると使者が帰って来た。今度ははっきりと断られたようで物凄い剣幕で怒鳴られたらしい。書状は受け取ってすら貰えなかったようだ。
氏郷「ハハハ、なるほど、いかな条件が書かれていようと仕官する気など全く無いという事か!」

よくよく考えてみれば大封に釣られて与えられた職務を投げ出して他家へと移る輩などたかが知れている。お互いの為にこれでよかったのだ。
平素の冷静さが戻った氏郷。きっぱりと元正を仕官させる事を諦めると今度は他家の人間にこういう強引な仕官話を持ちかける事も無かったという。


工場長には珍しいちょっと悪い話。

3 :人間七七四年:2012/10/15(月) 00:17:30.63 ID:RhmDVWTD.net
蒲生氏郷、ヘッドハンティングに挑戦・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1321.html


4 :人間七七四年:2012/10/15(月) 00:27:40.04 ID:RhmDVWTD.net
>>1

>>書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
この文要らないですね。
すみません、戦国ちょっといい話・悪い話のコピペを少し変えただけだったので他にもミスがあるかもしれません。

5 :人間七七四年:2012/10/15(月) 12:15:21.91 ID:DCFAPyWL.net
>>1
いい案だね。
このスレ、繁盛するといいね。
とりあえずお気に入りに追加しといた。

6 :人間七七四年:2012/10/15(月) 16:19:03.81 ID:2uUmQsPB.net
専ブラ使ってないの?

7 :人間七七四年:2012/10/15(月) 20:03:40.70 ID:XZBVDR98.net
スレ立て乙

8 :人間七七四年:2012/10/15(月) 21:46:18.26 ID:IpSG9HaO.net
せっかくだから質問なんだけど、
高天神城の戦いで武田軍の捕虜になった大河内政局さんの逸話って既出?
前に読んだことがある気がするんだが探しても見つからない・・・

9 :人間七七四年:2012/10/15(月) 23:20:39.90 ID:RhmDVWTD.net
>>5
応援して頂いたりお気にい入れて頂いて、ありがとうございます。

>>6
Jane Style使ってます。

>>7
ありがとうございます。

>>8
質問ありがとうございます。
今から探してみますね。

10 :人間七七四年:2012/10/15(月) 23:56:23.61 ID:RhmDVWTD.net
>>8
探して見つからなかったので出てないのではないかと思います。
以下の3つキーワードで検索しても「高天神城の戦いで武田軍の捕虜になった大河内政局さんの逸話」はなかったです。

・『戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ 大河内政局 高天神城』
・『戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ 大河内政局』
・『戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ 高天神城』

11 :人間七七四年:2012/10/16(火) 02:36:58.96 ID:qprpVO2L.net
いちおつ

まとめ管理人って虚カスなん?

12 :人間七七四年:2012/10/16(火) 03:46:41.52 ID:Gmlhexin.net
スレのコンセプトは良いと思うが、雑談をどう誘導してくるかが問題だな

13 :人間七七四年:2012/10/16(火) 08:11:48.63 ID:5GC+gdJr.net
雑談かあ。なかなか難しいだろうな
個人的には黒田家の話題全般の、あの独特のノリが好きかな。あれだけ直言できる家臣を集めた如水も凄いし、それを聞き入れる長政も凄いと思う
まあ又兵衛だけは我慢できなかったみたいだけど・・・

>>11
申し訳ないが関係ない話題で、かつ蔑称を平然と使うのはNG

14 :人間七七四年:2012/10/16(火) 14:13:00.00 ID:FGBqcPXr.net
黒田家

如水:ややKYでヤンチャなカリスマ親父
長政:短気なきらいがあるが、何かと必死な孝行息子
家臣団:悪乗りが過ぎる口の悪い体育会系集団

こんな感じで役割がはっきりしてて逸話が何だかドリフのコントのようだ

15 :人間七七四年:2012/10/16(火) 15:03:45.58 ID:PmMmijqN.net
>家臣団:悪乗りが過ぎる口の悪い体育会系集団

栗山四郎(え、私も…?)←黒田家の良心

16 :人間七七四年:2012/10/16(火) 15:15:20.94 ID:PmMmijqN.net
四郎衛門と書いたつもりが四郎になっていたorz利安さんスミマセン

17 :人間七七四年:2012/10/16(火) 15:31:17.91 ID:DY3QagBG.net
黒田とか徳川の逸話は様式美的なのがあるな。

18 :人間七七四年:2012/10/16(火) 15:41:28.89 ID:FGBqcPXr.net
>>17
黒田と徳川は似てるな。
家臣の直言とか

19 :人間七七四年:2012/10/16(火) 15:42:47.81 ID:qprpVO2L.net
>>17

まーくんが暴れる

宗茂がなだめる

忠興が手紙に記す

のパターンもw

20 :人間七七四年:2012/10/16(火) 18:25:01.33 ID:yuami7n1.net
糞板ノリの臭い言葉遣いは勘弁してほしい

21 :人間七七四年:2012/10/16(火) 22:31:57.04 ID:uuMuRXwE.net
戦国いい話悪い話と言えば真田の苦労性のお兄ちゃんだろ

親父と弟と嫁が苦労かけなければ後30年は長生きできた

やる夫で最近人気出てきたけど
普通に真田家史料とかで調べ始めれば親父か兄貴が好きになると思う
信繁はひたすら残念だけど
不思議な魅力のある親子

22 :人間七七四年:2012/10/16(火) 22:36:53.30 ID:Gmlhexin.net
他の兄弟もしれっと徳川に仕えてたりして面白いね

23 :人間七七四年:2012/10/16(火) 22:37:02.70 ID:DY3QagBG.net
荒れそうなこと言ってすまんが昌幸より信之のが有能だと思うんだ。
運では昌幸の圧倒的勝利だけど。

24 :人間七七四年:2012/10/16(火) 22:49:54.18 ID:GtfxuwYi.net
真田親子に限らず有能のベクトルが違う人達は比較しても意味が無い
時代によって求められる能力も違うしね

25 :人間七七四年:2012/10/16(火) 23:09:32.17 ID:qprpVO2L.net
>>20
それって具体的にどんな言葉遣いのこと?

26 :人間七七四年:2012/10/16(火) 23:53:14.97 ID:gAE3VVWi.net
>>21
>親父と弟と嫁が苦労かけなければ後30年は長生きできた

息子や孫は?

27 :人間七七四年:2012/10/17(水) 00:21:09.83 ID:G6GGc0Yf.net
>>26
子で+10年?
孫で+10年?

合計+20年?

28 :人間七七四年:2012/10/17(水) 00:28:53.21 ID:G6GGc0Yf.net
信之って意外と逸話多いんだね
真田でダントツのトップだ。

┣ ■■■■真田家■ (2)
┣ 真田昌幸 (26)
┣ 真田信之 (48)
┣ 真田信繁(幸村) (22)
┣ 真田幸隆 (4)
┣ 小松姫 (12)
┣ 真田昌親 (1)
┣ 松仙院 (1)
┣ 阿菖蒲 (1)
┣ 真田大八丸 (1)
┣ 矢沢頼綱 (5)
┣ 金子美濃守 (3)
┣ 割田重勝 (1)
┣ 祢津幸直 (2)
┣ 木村渡右衛門 (1)
┣ 樋口四角兵衛 (1)
┣ 赤沢嘉兵衛 (2)
┣ 鈴木忠重 (3)

29 :人間七七四年:2012/10/17(水) 00:45:34.62 ID:G6GGc0Yf.net
┣ 徳川家康 (286)
┣ 伊達政宗 (211)
┣ 豊臣秀吉 (204)
┣ 織田信長 (127)

┣ 加藤清正 (90)
┣ 福島正則 (86)
┣ 最上義光 (81)
┣ 武田信玄 (79)
┣ 上杉謙信 (76)
┣ 森長可 (76)
┣ 黒田如水 (76)
┣ 黒田長政 (59)
┣ 石田三成 (53)
┣ 毛利元就 (53)
┣ 立花宗茂 (53)
┣ 島津義弘 (49)

┣ 真田信之 (48)  ←17位
┣ 鍋島直茂 (48)


┣ 細川 藤孝 (46)
┣ 前田利家 (44)
┣ 明智光秀 (41)
┣ 蒲生氏郷 (41)
┣ 長宗我部元親 (41)
┣ 島津家久(忠恒) (38)
┣ 大友宗麟 (36)
┣ 上杉景勝 (33)
┣ 大久保忠教(彦左衛門) (31)
┣ 直江兼続 (21)
┣ 武田勝頼 (18)
┣ 伊勢盛時(北条早雲) (12)
┣ 北条氏康 (19)
┣ 北条氏政 (17)


結構メジャーな武将より逸話が多いな。

30 :人間七七四年:2012/10/17(水) 00:52:08.56 ID:TSS7Ksxs.net
真田家文書とか見てると信之は三成だけでなく
秀忠とかとも仲が良かった感じ(ただし関ヶ原戦前)

31 :人間七七四年:2012/10/17(水) 01:34:07.93 ID:iYL8hnrS.net
自分は黒田長政と竹中重門が関ヶ原で昔語りをする話が好きだ
あと北条氏政とご婦人の話もやるせなくって心に来るものがあった
悪い話の常連・森家の逸話はぶれなくて逆に読んでてスカッとするw

32 :人間七七四年:2012/10/17(水) 01:36:58.89 ID:4SxpukVQ.net
戦後も秀忠と信之は仲いいだろ。
多分家康が後10年早く死んでたら寿命30年は伸びたはず。

月並みだけど自分は徳川関連が好き。
織豊や他の戦国大名と比べてやっぱり違うな、ってのをよく感じる。
もちろん創作美化はあるかもしれないけど、青山さんや大久保さん好きだよ。

33 :人間七七四年:2012/10/17(水) 07:46:02.29 ID:TDv86N+K.net
ただ見てると後から無理やりその人物を無能だったり
鼻つまみ者に仕立てる為に作られた悪い話も多い気がするな。
直江さんとか石田さんとかはソースの出所確認しないと信用出来ないものも。
勿論、あくまでも逸話なんだから皆もそこんとこ割り切ってるとは思うが
余所でこれが史実であるかのようにどや顔で語るのをしょっちゅう見かけるからなあ。

34 :人間七七四年:2012/10/17(水) 08:47:37.84 ID:CgbOLxCJ.net
石田や直江は他人が全部バカに見えるタイプで
同僚にいたら他が全部無能に見えて嫌われやすい奴だったんだろう
というイメージは出来てしまった

35 :人間七七四年:2012/10/17(水) 17:51:10.67 ID:4SxpukVQ.net
秀吉は思ってた以上に晩節を汚していた。
徳川はイメージしてたほどほど黒くはなかった。むしろ対極とすら思えるようになった。
信之さんマジカワイソス。
輝元=やる夫
っていうイメージがでけた。多分あんま間違ったイメージじゃないと思う。

36 :人間七七四年:2012/10/17(水) 18:08:47.79 ID:iVnlSqZp.net
ほとんど江戸時代に作られた逸話なんで、徳川マンセー豊臣sageが案の定な感じ。

37 :人間七七四年:2012/10/17(水) 18:19:27.13 ID:XNC68gVP.net
秀吉の悪い話は江戸期の逸話より、むしろ同時代史料の方に多いという恐ろしさがある。
江戸期は太閤記の、賢明で明るく茶目っ気のある白秀吉像が広く受け入れられていたし。
そもそも神君家康の主君だったからあまり悪くは言えなかった。

38 :人間七七四年:2012/10/17(水) 18:30:23.13 ID:GE/B+30v.net
忠興の晩年も割りと危険な方向に向かってたけどあんまり触れられてないな

39 :人間七七四年:2012/10/17(水) 21:14:22.75 ID:/qjB/R4u.net
>>37
マジレスすると、中世の一次史料なんて、逸話スレの住人が
斜め読みして理解できるような、そんな簡単なシロモノではない
本当に目をとおして読んでるとは、まあ思わないんだけど

40 :人間七七四年:2012/10/17(水) 22:14:23.16 ID:LbhoZAnI.net
>>39
そのセリフは理解できる人間が言うならわかる
そういうものなんだろうなーくらいなら逸話スレ住人とかわらない

41 :人間七七四年:2012/10/17(水) 22:38:15.08 ID:g0zxDbvi.net
まあ一次史料を理解できるかどうかはともかく、秀吉の暗黒面がクローズアップされてきたのはここ10年くらいの
研究成果でしょ。人殺しが嫌いどころか、根切りしまくってたとかw
江戸期や明治期の逸話や説話に出てくる秀吉にはほとんど暗さはないよ。
英雄、偉人として描かれてる。で、三成なんかは明らかにその割りを食ってる。

42 :人間七七四年:2012/10/17(水) 23:30:39.73 ID:Wqyi9nlr.net
主旨がよくわからない。
いい話・悪い話の再生産なのか
それとも逸話検証の逆みたいな感じ?

43 :人間七七四年:2012/10/18(木) 02:41:02.68 ID:SxPXut1T.net
>>41
だよなぁ。子供の時小学校に置いてあった秀吉の本なんて優しくて慕われてて気は回り気前が良くて忠臣だけど信長の比叡山焼き討ちに愚痴ってる
聖人君子みたいな人だったのをよく覚えてる。言っても5〜10年前ぐらいなんだけど。
漫画の秀吉伝記を読んだ時も似たような感じで晩年は華やかな聚楽の第とか花見とかそんな感じで、秀次や利休事件とか朝鮮出兵が申し訳程度に出てただけだった。

同じ漫画の家康伝記は秀吉死去後普通にどす黒くなってたことを考えるとそのとおりだと思う。

44 :人間七七四年:2012/10/18(木) 02:56:36.89 ID:Tuq8M61D.net
戦国武将に聖人君子なんて居るわけ無いのに自分が気にいった
武将は善人だと思いたがる奴の多い事多い事

45 :人間七七四年:2012/10/18(木) 03:39:54.93 ID:5BaWZdNd.net
どういう人間を聖人君子だと言ってるのかいまいちわからないが、
その時代その時代のシガラミがあるし、
武士には武士のシガラミあるし、
農民には農民のシガラミあるし、
罪人にも罪人なりのシガラミがあるから、
聖人君子じゃなければ尊敬するべきでないなんて意見は、
それこそ傲慢だと思うね

46 :人間七七四年:2012/10/18(木) 04:11:45.30 ID:TXfZgS8z.net
>>44
上杉謙信とかね

47 :人間七七四年:2012/10/18(木) 04:54:42.93 ID:SxPXut1T.net
誰も聖人君子じゃなきゃ尊敬しないなんて言ってないだろうに。
根切りしまくった信長を尊敬しまくった人だっているし、鬼武蔵を尊敬する人だって、い、いるかもしれないじゃないか。

48 :人間七七四年:2012/10/18(木) 05:32:21.83 ID:5BaWZdNd.net
>>47
おれ普通に尊敬できるその二人(笑)

49 :人間七七四年:2012/10/18(木) 07:30:28.15 ID:dk5sjrrq.net
宇喜田直家や松永久秀ぐらい突き抜けると正直尊敬できるぜ
てか>>29のトップ10の豪華メンバーの中に鬼武蔵が混じっているのに妙な違和感を感じるのだがw
>>42
雑談スレと化しているような、俺は楽しいからそれでもいいけど


50 :人間七七四年:2012/10/18(木) 07:39:27.87 ID:t7sjKnqU.net
>46
謙信は根は善人だと思う・・・

51 :人間七七四年:2012/10/18(木) 14:45:01.82 ID:l4CFaC2w.net
>>49
個人的には松永は超が付く程の有能ではあるが
突き抜けてるとは思わないな、突き抜けてるのはやはり木沢さんでしょう。

52 :人間七七四年:2012/10/18(木) 16:07:06.89 ID:CVhDjodM.net
善とか悪って概念が今とは違うだろうしなー。
ただただ悲惨な戦もある一方で、民俗学で言うハレみたいな一種の祭みたいな戦もある感じだし。

53 :人間七七四年:2012/10/18(木) 22:41:44.85 ID:1vfM5Rjp.net
>>38
晩年前から危ない逸話ばっかりな気が・・・

54 :人間七七四年:2012/10/19(金) 00:33:50.14 ID:SDLfZYUZ.net
>>53
苛烈な性格/ヤンデレ大名 細川忠興

妻・ガラシャとは大変仲が良かったのだが、その愛情は次第に偏執的なものへと変わっていった。妻に見惚れた庭師を手打ちにしたことをはじめ、嫉妬関連のエピソードは事欠かない。
1600年に石田三成が挙兵した際は、ガラシャに「三成軍に捕まるくらいなら自害しろ」と命じガラシャはそれに従った(正確には家臣の小笠原少斎にガラシャを殺させた)。

その他にも彼の苛烈な性格を現す逸話は多い。

自身の妹婿である一色義定を騙し討ちし、一色氏を滅亡に追い込んだ。
ガラシャの自害の際、長男・忠隆の妻・千世(前田利家の娘)はガラシャに勧められて屋敷から逃亡した。忠興はこれに激怒し、千世と離縁することを忠隆に命じる。忠隆は反発したため、廃嫡させられた(のちに和解)。
関ヶ原の際、父・幽斎は田辺城にて篭城していたが、朝廷からの命令によって開城した。幽斎が歌道の奥義を伝授された者であり、彼が死んでしまうと伝授が途絶えてしまう可能性があったからなのだが、忠興は「何故最後まで戦い抜かなかったのか」と父を非難した。
ガラシャや細川家の侍女たちがキリシタンに改宗したことに激怒。侍女たちの鼻を削いだ 
手打ちにした人数は、生涯で36人らしい。36歌仙とかけて、愛用の刀に「歌仙・兼定」と命名する。

ニコニコ大百科
http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88

55 :人間七七四年:2012/10/19(金) 00:36:46.62 ID:SDLfZYUZ.net
ヤンデレな面ばかりが強調されがちであるが、別に年がら年中キレたり病んだりしてる訳ではなく、それ以外は常識人であり武将としても優秀であった。
本能寺の変や関ヶ原など、家名滅亡の危機を乗り越えたことは高く評価できる。ガラシャの死については非難されることが多いが、彼女の死によって東軍諸将が発奮したことも事実である。
この後、忠興はキリスト教式の葬儀で妻を弔ってい る。

筆まめであったようで、2000を越える手紙が残っている。しかもその手紙の中では愚痴りまくり、他武将に毒を吐きまくるなど結構面白い。他武将たちの行状を現代に伝える貴重なソースにもなっている。
借金が多い大名だったことでも有名。徳川家康、豊臣秀次、立花宗茂など借金しまくりだったようだ。

伊達政宗、立花宗茂、島津忠恒(家久)などとは仲がよかったようだが、黒田長政とは移封のいざこざから仲が悪く、黒田家と細川家はほぼ絶縁状態にあった。
晩年の、無法地帯状態の政宗に対して「狐憑いてるんじゃね?(「稲荷殿の知音かと申す事に候」)」とか言っている。お前が言うな

苛烈な為政者と芸術家としての二面性から、複雑な性格であったかと思いきや、息子には

「子供のように純粋な人」

と評されていたりする(妻には「引くことを許さない人」と言われているが)。


56 :人間七七四年:2012/10/19(金) 05:09:39.46 ID:VfPKAnFg.net
躁うつ病とか多重人格だったりしてね。
晩年の信長を躁うつ病だとしてた小説思い出した。

57 :人間七七四年:2012/10/19(金) 05:36:29.19 ID:WGWovsKO.net
>56 信長が躁鬱病は初耳。経歴を見ると、信長が躁鬱病とは思えない。
  信長は境界性人格障害だと思う。

58 :人間七七四年:2012/10/19(金) 07:16:27.20 ID:VfPKAnFg.net
ま、小説だから、推測だろうね。>躁鬱

59 :人間七七四年:2012/10/19(金) 07:41:34.39 ID:F/CzVj1r.net
本スレの逸話だと、秀吉と違って信長はむしろ「再評価」されてる感じだなw

織田信長と三人目の軍奉行・悪い話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1880.html

この辺とか典型的だと思う

60 :人間七七四年:2012/10/19(金) 22:05:19.60 ID:3pzR1i1i.net
>>41
50年前に出た山田風太郎の「妖説太閤記」で既に史実にもとづいたらどんなに秀吉は黒いか(+ロリコン趣味)が書かれてたり
20、30年前のフィクションでも史実に基づいたら秀吉は黒いなんて話は相当あるし
ここ10年の研究成果はそこまで関係ないと思う


61 :人間七七四年:2012/10/19(金) 22:59:10.18 ID:0ulWKolQ.net
どういう研究を指して言ってんのか、正直わかんないんだけど
自分も日本史研究の動向とは、まあ関係ないと思うわ<秀吉のイメージ
豊臣政権って、ここ10年ほどで面白い研究がたくさんでてる分野なんだけど
一般の小説やドラマの秀吉像には、ほとんどフィードバックされてないんだよね

1970年代の大河ドラマ「黄金の日々」で、既に秀吉は真黒な設定だぜ
むしろ前半生:明、後半生:暗の秀吉イメージは、古典的とさえ言えるわけで

62 :人間七七四年:2012/10/20(土) 00:13:02.93 ID:m3oAq9KI.net
真っ黒ってどんなことしたの?
秀次や利休の処刑とか朝鮮攻略とか?

63 :人間七七四年:2012/10/20(土) 01:03:50.20 ID:6+giC6+U.net
晩年秀吉はたしかに昔から黒い黒い耄碌耄碌言われてるが、
織田政権簒奪が改めて悪く言われるようになってきたのは最近じゃないか?

昔はそれこそ「わしが信長公の遺志を継ぐ!」みたいなノリだったぞ。

64 :人間七七四年:2012/10/20(土) 01:11:50.28 ID:m3oAq9KI.net
>>63
そういえばブックオフで立ち読みした歴史漫画だと、
信長が殺された時、秀吉は泣きながら騎馬で走ってた(中国大返しの時)

65 :人間七七四年:2012/10/20(土) 01:23:24.69 ID:0VuFO+9A.net
感情と政治は違うからその場はホントに泣いてたかもしれないぞ(笑)

66 :人間七七四年:2012/10/20(土) 01:50:54.18 ID:fKoeZihP.net
えっ、でも信長を殺したのは秀吉でしょ?
漫画で読んだよ

67 :人間七七四年:2012/10/20(土) 02:08:15.04 ID:Swo1x1Ck.net
おいおい、暗殺したのは徳川家康だろ?
漫画ソースだけど

68 :人間七七四年:2012/10/20(土) 07:36:04.55 ID:EJru/tXa.net
殺されたもなにも信長は別に本能寺で死んだわけじゃないと
前読んだ架空戦記ものの小説で説明されていたのだが

69 :人間七七四年:2012/10/20(土) 10:44:42.11 ID:fLulEEoH.net
>>63
妖説太閤記の織田政権奪取における信長の遺児及びかつての同僚に対する扱いの描写は黒さの極みだったよ
そういうのが当時の他の創作でもあったのかはわからないけど


70 :人間七七四年:2012/10/20(土) 11:47:40.92 ID:OjTnBRaU.net
秀吉の場合は、そういう天下取りの過程や天下を取った後のブラック化より、信長の部将時代が、
虐殺や非人道行為何でもありの、一般的な信長の部将だった、って部分の方がイメージへのダメージは大きそうね。

71 :人間七七四年:2012/10/20(土) 23:30:25.24 ID:6+giC6+U.net
前田利家とかもそうだろうなぁ。

72 :人間七七四年:2012/10/21(日) 00:07:58.17 ID:AjJo95WC.net
DQN四天王だったら誰が好き?

73 :人間七七四年:2012/10/21(日) 01:12:00.24 ID:/m7kD9I/.net
DQN四天王は見事にキャラがわかれていて、それぞれ面白いと思うからどれが一番かと言われると難しいな

74 :人間七七四年:2012/10/21(日) 02:08:43.88 ID:vs+1IYqY.net
それより富田長繁みたいな埋もれたDQNの方が好きだなあ。
富田以外で面白かったマイナー武将いる?

75 :人間七七四年:2012/10/21(日) 02:30:36.32 ID:2I1Mnjcr.net
坂崎直盛はDQNというかちょっと病的

76 :人間七七四年:2012/10/21(日) 06:30:29.29 ID:os+A7UnD.net
マイナーかと言われるとアレだが、水野勝成は確かに面白い

77 :人間七七四年:2012/10/21(日) 07:35:24.59 ID:+smfzvph.net
忠興→ヤンデレ
長繁→狂犬
長可→狂気
悪久→黒い

んー・・どれもやだな。

78 :人間七七四年:2012/10/21(日) 10:52:34.97 ID:p+MkVLPP.net
細川忠興の手紙が好きだな。

79 :人間七七四年:2012/10/21(日) 12:39:44.63 ID:HCXGIXET.net
家臣やるならまーくんだろうね

80 :人間七七四年:2012/10/21(日) 18:28:52.02 ID:+/xecfz1.net
政宗だろうね…
全部嫌だけどさ…

4人とも将軍家主催エクストリーム御伽衆会
さぼりまくりだったんだよね
その度に代理で割りを食うかわいそうな息子たち

81 :人間七七四年:2012/10/21(日) 18:44:26.82 ID:SRA3jK/2.net
4人の内、仕えるなら意外と家臣を理不尽にぶっ殺した話は無い鬼武蔵かな〜
って思ったけど家中全体がヒャッハーで世紀末な雰囲気だからやっぱ遠慮しときます。

82 :人間七七四年:2012/10/21(日) 20:07:23.12 ID:bUcW21ch.net
関所の「ここは通せません」が長可の耳には「ここは通せないぜ〜ヒャッハー」に聞こえるのかw楽しそうだ


83 :人間七七四年:2012/10/21(日) 20:10:55.41 ID:/m7kD9I/.net
森家は信長からの寵愛が大きすぎて、近隣の味方からも相当反感持たれてたみたいなので、家中はともかく他家との交流は
そうとギスギスしていただろうなw

84 :人間七七四年:2012/10/22(月) 05:26:35.62 ID:Ym7X9WRn.net
そういえばいいはなし悪い話民としては池田恒興ってどうなの?

85 :人間七七四年:2012/10/22(月) 05:41:00.27 ID:LfbbevD/.net
政宗>長可>悪久>忠興かなぁ
細川家は理不尽に手討ちくらいそうだし、悪久は自分は大丈夫でも精神的に病みそう

>>83
近隣との対立は寵愛もあるけど直参と美濃国衆の軋轢もあったと思う

86 :人間七七四年:2012/10/22(月) 12:10:25.98 ID:4li0aGhU.net
こういう面白い話って、どういう本に載ってるんだろ
あまり見たことないな

87 :人間七七四年:2012/10/22(月) 12:26:06.51 ID:mlFILlRY.net
しかしよくゲヒさん3歳さんに斬られなかったなw

88 :人間七七四年:2012/10/23(火) 01:32:14.63 ID:2JAzmgkS.net
>>74
甲斐の訴訟マニア、曲淵庄左衛門
まさに外道、木沢長政
仕官先がことごとく没落する、日根野弘就
1人見たら10人いると思え、一条信龍

89 :人間七七四年:2012/10/23(火) 01:56:51.00 ID:XaUH0aOr.net
常敗の名将天庵様、戦国時代をきのこる

90 :人間七七四年:2012/10/23(火) 05:41:13.45 ID:FaZWZMUh.net
>>86
近デジで”国史叢書”や”日本歴史文庫”で検索してみ?幸せになれるぞ
http://kindai.ndl.go.jp/

91 :人間七七四年:2012/10/23(火) 10:21:09.05 ID:b2ygu5FC.net
>>90
難しそうやな
でもありがとう

92 :人間七七四年:2012/10/23(火) 10:28:36.83 ID:b2ygu5FC.net
よく見たら、エロエロ草子がアクセス1位だな
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1137261

93 :人間七七四年:2012/10/24(水) 13:11:19.43 ID:o8zn67dE.net
そういえば逸話って誰がアップしてるんだろ。毎日毎日
特定の人が上げているんだろうな。
ブログの管理人さんかな。

94 :人間七七四年:2012/10/24(水) 20:14:52.70 ID:6d47UOjt.net
誰かが流れ見て書き込むんだろ
俺は何度かスレが停滞してるタイミングで逸話投下した

95 :人間七七四年:2012/10/24(水) 20:21:36.53 ID:SqIYoogS.net
1日平均1つ以上はある感じだしなあ。いい話悪い話合わせれば。

96 :人間七七四年:2012/10/24(水) 20:42:23.38 ID:VqVoWBum.net
自分も流れ見てたまに逸話投入してるよ
よく知ってる大名家の話が雑談で出てるときとか、あるいは荒れて変な流れになってるときとか
ただ逸話の文体的にいつもの人だな、みたいな感じもあるよね

97 :人間七七四年:2012/10/24(水) 20:42:31.36 ID:oW1nV6gh.net
五輪真弓

98 :人間七七四年:2012/10/24(水) 20:44:21.64 ID:zlDX4XVQ.net
葉隠の人と名将言行録の人はわかりやすい

99 :人間七七四年:2012/10/25(木) 15:01:11.75 ID:Ubqt4OIW.net
名将言行録の人は分かりやすいね

100 :人間七七四年:2012/10/26(金) 14:54:25.78 ID:BwgEdW1q.net
最上義光「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
伊達政宗「俺の母さんがこんなに可愛いわけがない」
伊達輝宗「俺の嫁がこんなに可愛いわけがない」
最上義守「俺の娘がこんなに可愛いわけがない」
豊臣秀次「俺の叔母さんがこんなに可愛いわけがない」

ワロタ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293102886/

101 :人間七七四年:2012/10/26(金) 18:45:26.70 ID:5bAlAIIx.net
一番の人格者ってやっぱ真田のおにいちゃんなんだろうな。あんだけ負けて生き残ってる天庵さまが次点か

102 :人間七七四年:2012/10/26(金) 23:08:48.11 ID:tpKg1FPd.net
秀忠も近代人って感じがして好き

103 :人間七七四年:2012/10/28(日) 20:39:11.94 ID:n6iugp6u.net
北条の本間提灯と山下民部とか、坂東武者の逸話は熱いのが多くて好きだ

後の半分は脳筋ばっかだけど

104 :人間七七四年:2012/10/30(火) 15:30:58.98 ID:TDRA/UII.net
北条の逸話はあまり記憶にないな。
氏政がちょっとアレな逸話ぐらいかな思い出せるの。

105 :人間七七四年:2012/10/30(火) 16:08:31.31 ID:AXHZ7HtW.net
話しぶった切るけど、
松永先生の五傷の法を試した人いる?
後学のため聞いておきたい。

童貞だけどさ(´・ω・`)

106 :人間七七四年:2012/11/05(月) 07:42:51.91 ID:VGdf9acw.net
北条は逸話少ない

107 :人間七七四年:2012/11/06(火) 10:50:58.58 ID:+8uu+bb0.net
北条家は嫁関連の話が印象深い
皆夫婦仲いいよなぁ

108 :人間七七四年:2012/11/07(水) 12:17:19.03 ID:AEGrftCi.net
北条も逸話は結構あるけど、いい話とか悪い話とかとは違うからなかなかネタになり難い

109 :人間七七四年:2012/11/07(水) 23:56:47.74 ID:+FZ9NFIs.net
女性キャラ投票で北条から2人もトップ10入りしてて、なんだかほっこりした

110 :人間七七四年:2012/11/08(木) 16:40:12.18 ID:15PW1HU6.net
長宗我部も空気の気がするが北条とどっちが影薄いだろう?

111 :人間七七四年:2012/11/08(木) 16:43:27.23 ID:15PW1HU6.net
NHK「14年大河」ホントは「島津義弘」だった- ゲンダイネット(2012年10月27日17時00分)
 

3週連続で1ケタ台の視聴率にあえいでいるNHK大河「平清盛」。21日の放送は関西地区で7.5%(ビデオリサーチ調べ)を記録し、
またまた過去最低を更新。最終回(12月23日)まできっちり放送するというが、クライマックスの源平合戦を待たずして“討ち死に”状態である。

  早くも話題の中心は次の大河に移っていて、13年は綾瀬はるか(27)主演の「八重の桜」、
14年は岡田准一(31)主演の「軍師官兵衛」と先日発表になったが「本当は『島津義弘』が当確だったが、二転三転し、黒田官兵衛になった」というのはNHK関係者だ。

  14年大河を巡っては、発表の1カ月前にも一部スポーツ紙が「明智光秀が有力」と報じている。しかし、フタを開けたら「官兵衛」になっていた。舞台裏で何があったのか――。

  島津義弘は、織田信長や豊臣秀吉と同世代に活躍した薩摩の戦国大名。島津家中興の祖といわれた第15代当主・貴久の次男で、兄の義久を助けた島津家最強部隊の将だ。

  関ケ原の合戦では300足らずの兵で敵中突破したことで有名。他にも、文禄の役と慶長の役で朝鮮へ出兵し、明の大軍相手に勇敢な戦闘力を発揮したことで知られる。

 「その豪快なエピソードがネックになった。朝鮮出兵は義弘公の見せ場のひとつ。“鬼島津”と恐れられたという資料も残っている。
絶対に外せないシーンだし、申し分ない“山場”です。
が、8月に勃発した竹島の領土問題で日韓が揉めている中で、局内から難色を示す声が出た。
物議を醸すような事態を避けたわけです」(NHK関係者=前出)

  義弘公の地元・鹿児島は県を挙げて大河の誘致活動に積極的だった。
数年前には鹿児島にゆかりのある人物でプッシュしようと署名活動までし、09年には「観光かごしま大キャンペーン推進協議会」を発足させ、昨年10月にNHKへ要望書を提出していた。

  大河の舞台となった地元への経済効果は絶大で、08年の「篤姫」は鹿児島県内に262億円をもたらした。

  コトなかれ主義で弱腰なNHKと野田外交に振り回されては、義弘公もいい迷惑である。

 (日刊ゲンダイ2012年10月26日掲載)

112 :人間七七四年:2012/11/08(木) 17:24:33.27 ID:Saa11suA.net
関係ないコピペ貼られるこっちが迷惑だよ

113 :人間七七四年:2012/11/08(木) 17:56:08.57 ID:bTNVg/aS.net
別にNHKや野田のせいじゃないだろ
つうか、最後まで読んじゃった

114 :人間七七四年:2012/11/08(木) 18:16:59.72 ID:XUm2S+QY.net
ゲンダイだぞ

115 :人間七七四年:2012/11/08(木) 21:42:49.42 ID:IaTNoxir.net
ソースが当てにならないにも程があるなあ

116 :人間七七四年:2012/11/09(金) 05:50:42.17 ID:hTuJOTLC.net
まとめ見てて思ったんだけど石田三成関連の逸話ってなんであんなに荒れるんだろ
せっかくの空気加藤さんの逸話のコメント欄が三成ばっかでさすがに可哀想だったわw
三成の何が人々をそこまで必死にさせるのか本気で分らん
もっと気軽に余裕を持っていい話も悪い話も愛でていきたいものですな

117 :人間七七四年:2012/11/09(金) 06:00:00.51 ID:Qe9oBR+n.net
三成ファンの方に元々世間に誤解されている的な被害者意識があったのと、
昨今の再評価が過剰気味で、さすがにそれはどうか、と思っている人間も多くて、
その認識のギャップが大きくなって共通認識が未だ出来てない感じだな。

で、その両者を煽ると荒れるのが楽しいっていう愉快犯が便乗する。

三成はよくも悪くも超メジャー武将の一人で人気があるのと、まとめのほうは
2ちゃんほどスレてない人が多いのも原因なんだろうw

118 :人間七七四年:2012/11/09(金) 06:26:17.03 ID:hTuJOTLC.net
上の共通認識ができていないってのはすごく感じます
自分は昔の三成が悪く言われていた時代を知らないから余計にファンの方の被害者意識が理解できないのでしょうね
現代にいたるまで人々に強烈な感情を抱かせる三成はやっぱ魅力的な人物だと再認識
個人的に三歳様との柿の逸話が大好きだw

119 :人間七七四年:2012/11/09(金) 09:36:43.98 ID:FsTELhoz.net
こんな解釈の余地が多くある学問に共通認識なんて出来るわけないよなぁ

120 :人間七七四年:2012/11/09(金) 13:12:23.33 ID:tP3ELQSv.net
共通認識が出来ないのは誰でも一緒と思うけど、今まで一般的な知名度がそこまで高くはなかったのに
ゲームとかで人気が出た武将は批判は絶対に許さない的な信奉者に近いファンが多いと思うわ。

121 :人間七七四年:2012/11/09(金) 14:06:07.20 ID:nfiaC73e.net
そうでもないだろ
そう言う輩はメジャー大名の方が多い
今までは軍記を元にした調子の良い適当な本や映像ばかりだったから
最近研究が進んで色々と実態が知れてきても絶対にそれを認めようとしない人が多い

122 :人間七七四年:2012/11/09(金) 17:42:41.07 ID:hTuJOTLC.net
メジャー所だと秀吉がラスボスと呼ばれるくらい暗黒面を強調されるのもいい悪いスレの特徴ですかね
でも個人的に業深いところも秀吉の魅力だと思うからいい悪いスレの秀吉像も好きだ

123 :人間七七四年:2012/11/09(金) 20:22:07.68 ID:PMNMRWSA.net
秀吉の場合は、嫌いで悪く言う人でも、秀吉が器の小さい小者だとは思ってないけど、
三成嫌いな人の場合は、小物のくせに大物扱いされてるって苛立つんじゃないのか?

124 :人間七七四年:2012/11/09(金) 20:31:14.27 ID:+L5+T26R.net
>>120
ゲームとかやらないから批判は許さないとかはないけど、
感情的な悪口とかは嫌ですね いや三成に限らずね
基本的に歴史に名前が残ってる時点で
俺なんかよりはるかに有能なんだと思うようにしてる

125 :人間七七四年:2012/11/10(土) 00:32:55.49 ID:Qt4BvyQ4.net
荒れるときは何日も堂々巡りの議論が交わされることもある
しかも記事の本題とは関係ない内容で。
感情にまかせた話が噛み合わない議論ほど見苦しいものはないね
もう少しスルースキルを身につけて欲しいとは思う

126 :人間七七四年:2012/11/10(土) 01:06:47.46 ID:3mB/lkhx.net
>>125
煽る人・叩く人と、それをスルーできない人は
まさにミイラ取りがミイラになるだからね
まとめてNGにするしかない

127 :人間七七四年:2012/11/10(土) 02:15:25.78 ID:yINjC3Qf.net
>>124
>俺なんかよりはるかに有能
まさにそうなんすよね
未来予測はすごい難しいのに結果だけみてしたり顔で
「こいつ馬鹿」っていう人多いけどそんなわけない
そんなに賢いならそういう人は株長者ばっかりだろうと

128 :人間七七四年:2012/11/11(日) 23:33:16.99 ID:b0EKfTXm.net
>>121
年配に多そうだな、身近にいるし
伊達とか最早宗教だし、最上は別の意味で変
島津の歴史本とかも負け戦とか一切載せてなかったりするからな。
御蔭で島津好きはほんまに戦争・戦闘の事ばかり強調する奴が多い多い。
認めないってのは最近のニュースだと
別所長治が腹切って領民救ったんじゃないってのが解ってきて
(本当は虐殺らしい…、長治は家臣に捕えられてって理由が更に)
地元の長治を信奉している人等が学者さんに猛抗議してきたらしい。

129 :人間七七四年:2012/11/14(水) 19:33:28.11 ID:ngiMIftZ.net
そういう説も出てきたんだな
それが本当ならあの辞世はどうなんだろ?

130 :人間七七四年:2012/11/14(水) 19:59:15.65 ID:2RSu/zLq.net
まぁ二年ももったならかなり強い指揮権もってただろうし
領主の命の引き換えってのはデフォだから今までの説の方が説得力あるような

131 :人間七七四年:2012/11/16(金) 11:37:28.29 ID:rQapVA4c.net
>>128の説を見てないけど、荒木村重みたいに落ち延びようとしたところを
家臣に捕えられて城主として切腹させられた、という可能性もあるんじゃないか?
その場合だと、恨みはあらじ、の恨みが家臣への恨みってことで整合性がとれるし。

132 :人間七七四年:2012/11/17(土) 21:09:05.87 ID:JsBH0Yj9.net
>>131
いや、ちゃんとした学者さんがツイッターやっててフォローしてんだけど
三木落城を伝える、宇喜多直家に宛てた書状が発見されたそうな
ヤフーのリアルタイム検索で宇喜多 別所で出てくる
まあ学者さんの言うように『予定とある』だからその後どうなったかは断定できませんと

133 :人間七七四年:2012/11/18(日) 19:33:53.45 ID:hfmI+vF7.net
>>132
ありがとうございます。確認しました。なで切りって話ですか…
もちろん予定だからその後はわからないんでしょうけど、これが事実ならボケてラスボス化したんじゃなくて
元からなで切りとか平気でやるタイプだったってことになりますし、秀吉像がずいぶんと変わりそうですね。

134 :人間七七四年:2012/11/18(日) 21:47:58.68 ID:KF7aeQHb.net
撫で斬りなんて単なる常套句だよ
その辺りの田舎大名ですら威勢良く撫で斬りにしてやったと吹き回っている
士分を1人や2人討ち取れば主君から表彰される時代だ
二、三十人も斬れば撫で斬りなのだろう

135 :人間七七四年:2012/11/18(日) 22:20:20.85 ID:tCHzi2mS.net
>>133
秀吉は前から書類上だとエグイ内容が多いみたいですね
鳥取城も飢餓以外の事もあるみたいですし。

136 :人間七七四年:2012/11/19(月) 12:08:15.92 ID:9I+TRaTu.net
気色悪い賤民が湧いてるな

137 :人間七七四年:2012/11/19(月) 23:59:28.89 ID:0OM+8tYL.net
三木市近くの人間だけど、地元民は秀吉に好感情も悪感情も抱いてないみたい。
せいぜい小冊子の1頁に三木城攻めが載るくらいで、学校でも習わないし。
むしろ、別所?そんなの兵庫にあったっけ? といった感じ

郷土史くらいは小学校あたりで習いたかったなぁ・・・・・・・

138 :人間七七四年:2012/11/20(火) 02:17:10.81 ID:BnFMfeVG.net
>>117
逸話によってすげー魅力的な大物になってたり
ただの小賢しい小役人として登場したりで振れ幅が激しすぎるから
いい話の筈がすげー捻くれまくった解釈をされたり
逆に悪い話が「後世の歪曲」の一言で切り捨てられたりして荒れるのよ。
彼の本当のところの人物像や人間関係なんて、最近
漸く真面目な研究が始まったばかりで誰もわからないのに
みんな自分の中のテンプレなイメージに当てはめて語るから。

139 :人間七七四年:2012/11/20(火) 02:22:37.03 ID:BnFMfeVG.net
>>123
特に名族出身でも無ければ秀吉の親族でも親の七光りでも無いのに
あの年齢で政治の中枢に抜擢された人物がただの木っ端役人なわけ無いのにね。
長束さんにも言えるけど。

140 :人間七七四年:2012/12/25(火) 07:50:19.13 ID:z+u4k75E.net
最近出た話だとこれが好き
「涙をこらえつつ少年宗茂は」
立花父ヒドス 宗茂カワユス

141 :人間七七四年:2012/12/25(火) 15:04:50.52 ID:mPPjMyx0.net
宗茂は本当に爆発しろと言いたくなるレベルの完璧超人

142 :人間七七四年:2012/12/26(水) 17:01:04.17 ID:Fop22nQy.net
そんな超人でも 夫婦仲 に問題抱えてたりするところに正直ホッとしたりするのは自分だけでしょうか
ご本人にはすまないね、という悪い話w 

143 :人間七七四年:2012/12/26(水) 17:03:41.66 ID:49rsVZTG.net
後自分の身の回りはサッパリな、良くも悪くも坊ちゃん気質な所とかw

144 :人間七七四年:2012/12/28(金) 06:01:39.98 ID:Hj9zObOd.net
立花家に一時的にいただけの天野源右衛門なんかも、宗茂とか立花家については
寺沢家で書いた覚書で手放しに賞賛してるし、実際に大した人物だったんだろうけどね

145 :人間七七四年:2013/01/06(日) 22:43:26.52 ID:+ifBSSMo.net
さっぱり爽やかな逸話多いし現代的な倫理感と照らし合わせても受け入れられやすいから
人気あるのは分かるわ

146 :人間七七四年:2013/01/07(月) 13:35:58.97 ID:YbJjhb+X.net
出羽から常陸に飛ばされるってお仕置きなのか御褒美なのかどっちなんだろ?

147 :人間七七四年:2013/01/11(金) 09:31:29.43 ID:+eUzeJBi.net
江戸時代ならかなりの御褒美だけど

148 :人間七七四年:2013/01/11(金) 09:43:17.87 ID:gnTCY98d.net
出羽に飛ばされるのも2ちゃん用語での御褒美

149 :人間七七四年:2013/01/20(日) 04:39:57.31 ID:mfIwaRKY.net
それは2ちゃん用語じゃないんじゃないかとマジレス

150 :人間七七四年:2013/01/20(日) 14:36:50.19 ID:rZERt5Az.net
>>19
> >>17 
>
> まーくんが暴れる
> ↓
> 宗茂がなだめる
> ↓
> 忠興が手紙に記す
>
> のパターンもw

市松が酒を飲む

151 :人間七七四年:2013/01/30(水) 17:05:57.52 ID:rmMALY3x.net
鮭様とまーくんのとこは暴走するのは一緒だけど鮭さまは志村さんが止めるけどまーくんのとこはむしろ小十郎さんが煽るイメージが

152 :人間七七四年:2013/01/30(水) 19:46:12.20 ID:dEJ2T+3z.net
小十郎があまりに煽るからまーくんが逆に心配になって冷静さを取り戻すパターン

153 :人間七七四年:2013/02/14(木) 00:05:19.49 ID:Uf1rbq4N.net
最近は逸話の内容と出典だけ見るようにしてる。
2ちゃんの板もまとめの米も読んでてストレス溜まるレスばっか増えたわ。
逸話紹介してくれる人とサイトの管理人さんにはいつも感謝してるが正直ノイズが増えすぎ。

154 :人間七七四年:2013/02/27(水) 01:31:11.76 ID:1VEKDloq.net
>>153
わからんでも無いが神経質過ぎ。禿げるぞ。
時々米に詳しい話が出る事もあるし、自分に必要の無い情報は流せばいいじゃないさ。

155 :人間七七四年:2013/03/01(金) 21:14:31.11 ID:eXNcKyZk.net
悪い話スレで話題沸騰のメッケル関ヶ原西軍勝利発言捏造説だけど、仮に事実だったとして、
大金叩いて招いた独逸人教官の発言を聞いた日本人軍人の反応が伝わっていないのは何故だろう

156 :人間七七四年:2013/03/01(金) 21:27:45.28 ID:13Bk368R.net
つか、日本人でメッケルに接した人が書いた本には一切出てこない話だからなあ。
後世作られた話と見るのが自然だと思う。
もっと言うと海音寺潮五郎→司馬遼太郎と、ホラが大きくなっていったんじゃなかろうか

157 :人間七七四年:2013/03/01(金) 21:31:19.13 ID:nCvPvcSx.net
海音寺潮五郎が小説でなく史談でわざわざホラふくとも思えないし、
元の話があってもよさそうだと思う
メッケル以外で来日した有名なドイツの戦術家、はいないか

158 :人間七七四年:2013/03/01(金) 21:39:14.02 ID:oxarsc6a.net
子母沢寛の新撰組始末記といっしょでいまさらたしかめようもない

159 :人間七七四年:2013/03/02(土) 23:27:16.53 ID:YiG/xGgS.net
配置図だけ見せて意見聞いたなら西軍が勝つと言うのは当たり前だけどな
あれ見て東軍が勝つと思うような戦術家はいないだろ
政治的な経緯も含めてなら意見は割れるだろうけど、配置図だけ見たらどんな天才でもそんなこと分かる訳ないし

160 :人間七七四年:2013/03/03(日) 17:56:54.38 ID:VZZEz5kX.net
元の話はドイツの戦術家の誰かが、参謀旅行で現地に行って配置を聞かされてor配置図を見て、だったのに
いつの間にかメッケルが配置図を見て、にされてしまって
メッケルともあろうものが現地に行かずに判断するわけがない
と批判されるという
元々の話と違うのが「伝説」になっているからよけいにややこしい

161 :人間七七四年:2013/03/31(日) 12:07:42.42 ID:VjwQavEN.net
真田信吉・信政兄弟の奮戦
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2232.html

真田信之、息子、信吉の家臣への加増の要求に
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2976.html

この辺の、小松姫が信吉・信政に対して
「どっちかが死ねばよかったのにね」みたいな事を言った逸話で小松こええよって話になってるけど、
そのセリフより前の話の流れで、信吉・信政が、自分達の頑張りを両親に説明するために、
どれだけの部下が戦死したか、みたいな事を言ってなかったっけ

自分の想像ではあるんだけど、小松のあのセリフは、
部下の死を持ち出して俺は頑張ったアピールしてる息子二人にイラッと来て
「死んだ方の身にもなれや」的な意味で言ったんじゃないかと思う

162 :人間七七四年:2013/04/01(月) 12:00:34.73 ID:Ql7uffUy.net
ソレ全部 池波小説のセリフだろ

163 :人間七七四年:2013/04/01(月) 22:51:32.39 ID:9iynQQIu.net
真田太平記?で初出のセリフなのね
じゃあ161の事は忘れてください

164 :人間七七四年:2013/04/01(月) 23:57:59.58 ID:UcJgUdyX.net
近代作家の創作が昔からの逸話みたいに
語られてるってこと、意外とあるのかな

165 :人間七七四年:2013/04/02(火) 01:46:08.73 ID:thPupsc4.net
そもそも逸話自体が「誰かが尤もらしい事書いたらそれが真実として広まったー」みたいなのが多いしね

166 :人間七七四年:2013/04/02(火) 12:14:55.67 ID:0/vMH7XT.net
逸話なんて,全部噂話みたいなもんだ
火のないところに煙は立たないらしいwから,一次資料を探して真実を確認するしかない

167 :人間七七四年:2013/04/02(火) 12:31:30.75 ID:0h1I7RZk.net
>>164
池波作品だと鈴木右近や小野お通がいい例だな

168 :人間七七四年:2013/04/05(金) 18:57:13.92 ID:Y34eVvqp.net
武将の話そのまま聞いちゃダメだろうjk。盛ってるかもしれないし幽斎さまとかだと控えめに言ってるかもしれないし

169 :人間七七四年:2013/04/05(金) 20:55:54.71 ID:sURS5mU0.net
江戸時代初期でさえ既にそういう傾向があったらしいね
家譜やら講談やらで話を盛りまくって尾ひれもつきまくり
当事者が死んで世の中が平和になったから当然の流れなのかもしれないが

170 :人間七七四年:2013/04/06(土) 13:31:12.53 ID:kvKiWyEE.net
当事者が書いてない限りは伝聞なんだから、意見が混じったり、好意や悪意が混じっても仕方がないだろうな
当事者が書いても事実を曲げちゃうかもしれないけどさ

171 :人間七七四年:2013/04/06(土) 13:50:19.80 ID:G3/BkuhL.net
文学と歴史学を分けて楽しむ事が重要だな
出鱈目書いてあるとしても、読み物としての面白さはまた別の話だし
逆に読み物として面白くても、資料的価値があるかは別の話だ

172 :人間七七四年:2013/04/08(月) 17:31:14.86 ID:oQElGId0.net
逸話スレだから軍記物でもまんま紹介して、コメントでツッコミを入れる程度がいい塩梅だろうけど、
学術板で本格的に史料批判しようとすると、ほんとうに大変だろうなぁ。

173 :人間七七四年:2013/04/11(木) 21:25:25.68 ID:5hItfGM4.net
勝者が歴史を作るとは言え
半官贔屓で敗者側を美談にするのは日本の悪い癖だな
小早川とかなんで自分の国民より豊臣家を大事にしなきゃならんのだ
忠臣蔵の悪役の人も被害者

174 :人間七七四年:2013/04/11(木) 22:30:17.39 ID:1xdXtEFu.net
人それぞれの立場もそれぞれ個人の歴史観に影響ある。
太閤さまも権現さまどちらも、
判官贔屓なんてものは女子供が茶話でするようなものだと言ってるし。

あと意外と語られないが現代の歴史学も、
まったく政治の影響受けないかと言えばそうでもないからね。
というより歴史学ほど政治の影響受ける学問もないかも

175 :人間七七四年:2013/04/13(土) 02:41:34.49 ID:lkURtdkS.net
>>173
いや、それは良い面でもある
道義の上から極めて重要な事だから
それがなくなったら自分の利益の為なら何をしても良いと言う事になってしまう
どんなものでも一方に偏ってしまえば愚となる
何事もバランスが大切だ
勝者は自分達を絶対的な正義とするから、民衆が敗者を立てる事でバランスが取れる
だからこれで良い

176 :人間七七四年:2013/04/14(日) 13:19:32.80 ID:P+2tXbzQ.net
>>175
上と下がバラバラすぎてもよくないけどね
流言や噂話に翻弄されるようになるから
フランス革命は左派が必要以上に王室を悪者に仕立てあげて、
ギロチンにまでかける事態となった

177 :人間七七四年:2013/04/17(水) 10:32:29.22 ID:kHtyWGyw.net
久しぶりに戦国ちょっといい話見たら、進み方がかなり遅くなってる。

178 :人間七七四年:2013/04/17(水) 22:18:42.98 ID:BuGkZdgc.net
もう37スレ目だからな
ゆっくりにもなるさ

179 :人間七七四年:2013/04/18(木) 20:19:39.63 ID:Zmg3JPqZ.net
戦国板自体が過疎ってるからなぁ
数年ぶりに戻ってきたら殆ど住人いなくなってる

180 :人間七七四年:2013/04/19(金) 15:52:04.00 ID:mjLlRRSF.net
規制のせいで居なくなったのかと思いきや、単に過疎っただけっぽいな

181 :人間七七四年:2013/04/21(日) 15:13:57.38 ID:NLWCfxmc.net
DQN四天王の新しい話ないのかな

182 :人間七七四年:2013/04/21(日) 15:15:36.66 ID:cte9qme1.net
>>181
自分で探してみるのもいいぞ

183 :人間七七四年:2013/04/21(日) 17:07:01.28 ID:buMIUTJM.net
忠興晩年の話はかなり残ってるけどwebサイトからの孫引きしたくないから他人に任す

184 :人間七七四年:2013/04/21(日) 22:23:27.60 ID:pzslSECG.net
いい話スレで武田信繁の話題が出ててちょっと思った
豊臣秀長と武田信繁以外で「できる弟」っていうと他に誰が居るだろう
兄より活躍したとかじゃなくて、兄の欠点をうまく補って影ながら兄を盛りたてたような人

香宗我部親泰とか宇喜多忠家あたり?

185 :人間七七四年:2013/04/21(日) 23:22:16.74 ID:4NNb4ZAd.net
>>184
三好義賢・安宅冬康・十河一存とか
長慶は京で政治、他はそれぞれ四国統括・水軍・猛将と棲み分けもばっちり

186 :人間七七四年:2013/04/21(日) 23:49:05.16 ID:0BxUDqg8.net
後は有名だけど島津四兄弟かな

187 :人間七七四年:2013/04/21(日) 23:50:08.45 ID:2H7fd6sW.net
>>184
小早川隆景?
弟というよりは、叔父としての活躍になるのかなあ?

188 :人間七七四年:2013/04/21(日) 23:59:27.49 ID:cte9qme1.net
家康の異父弟だけど、松平定勝は後の大老のモデルに成ったといわれるほど家康や秀忠から重く用いられたらしい

189 :人間七七四年:2013/04/22(月) 00:46:01.32 ID:ct7yry+s.net
戦国時代より前だけど、最も理想的だったのが足利尊氏と直義だろうね
戦はできるが政治はダメな兄、逆に戦はダメだが政治はできる弟
おまけに兄弟仲は良好(権力を握るまでは)

190 :人間七七四年:2013/04/22(月) 12:53:02.98 ID:GPYPLawr.net
源兄弟は兄がカリスマリーダーで弟が前線の軍事的天才だな。
小説やドラマになると義経がカリスマみたいになってるが

191 :人間七七四年:2013/04/22(月) 13:45:20.94 ID:fiL1TWLm.net
頼朝は周りの人間が個性的過ぎてw

192 :人間七七四年:2013/04/22(月) 13:55:02.31 ID:P79g+ux5.net
仲の良い兄弟がいると言うのは最大の強味だわな

193 :大関:2013/04/22(月) 16:33:39.51 ID:gjtXk2EY.net
つまり我々か…

194 :人間七七四年:2013/04/22(月) 18:08:30.43 ID:mMlhfjhS.net
悪どい仲良し3兄弟とか最悪だな

195 :人間七七四年:2013/04/22(月) 19:12:04.54 ID:LnbJd0nv.net
戦国じゃないけど保科正之

196 :184:2013/04/22(月) 23:46:04.94 ID:0WhUy5gi.net
おお、居そうで居ないかと思ったら居なさそうで居る
有能で信頼できる弟に恵まれると心強そう

197 :人間七七四年:2013/04/26(金) 01:01:56.66 ID:bs5B1fig.net
ボンバーマンの弟
真田昌幸の弟
北条兄弟

北斗4兄弟w


居なさそうで居る
有能で信頼できるお兄ちゃんも心強いですよ

198 :人間七七四年:2013/04/26(金) 05:45:18.62 ID:c0XaQRBX.net
そういえば真田信尹は陣営の違う兄に地味に尽くしてたな

199 :人間七七四年:2013/04/26(金) 07:26:40.71 ID:8ddZDRGH.net
まあ当時の上級の武士の兄弟なんて一緒に育てられるわけじゃないからなあ。

200 :人間七七四年:2013/04/26(金) 13:51:53.82 ID:gjoN/wUE.net
矢沢頼綱とかもあるな

201 :人間七七四年:2013/04/27(土) 09:56:56.12 ID:T0R29PrS.net
兄に対しての弟は、家来として仕えるか家を出て他家に仕えるしかないからね

真田家を継ぐ前の昌幸もそういう例で
他家の跡取りになっていたけど兄が死んだので真田に戻ったわけだ

202 :人間七七四年:2013/04/27(土) 10:06:53.49 ID:UjUwTEYi.net
毛利元就もそういうことだね

203 :人間七七四年:2013/04/28(日) 22:58:06.36 ID:+LoCk05R.net
>>189-190
平宗盛・知盛は兄が無能、弟は(少なくとも平氏の中では)戦に強い。
戦国でこれに該当するのは長尾晴影・景虎か。でもこちらは弟に家督を奪われたね。

204 :人間七七四年:2013/04/29(月) 17:40:00.33 ID:PCTd38X5.net
平重盛が生きているうちはそれでもよかったんだけどね

205 :人間七七四年:2013/04/30(火) 07:20:06.64 ID:aEYQGlRW.net
重盛は晩年既に失脚して、宗盛に嫡流の座を奪われていた模様

206 :人間七七四年:2013/05/01(水) 00:22:55.01 ID:ZEPS/1lc.net
伊勢平氏は清盛と宗盛の性格の違いに、
武家の盛衰が現れてると思う。
清盛は喧嘩があれば必ず仕返しする気質で、
宗盛は揉め事があると荒立てないよう、
見てみぬふりする気質だったという、、、

207 :人間七七四年:2013/05/01(水) 08:45:34.69 ID:xg42RyoB.net
>宗盛は揉め事があると荒立てないよう、
>見てみぬふりする気質だったという、、、

今の日本の男そのものじゃんw

かつての日本の男=清盛
今の日本の男=宗盛

戦国武将に憧れる女が多くなったのも納得だね。
今の男が宗盛みたいに腑抜けてしまったから。

208 :人間七七四年:2013/05/01(水) 09:42:14.74 ID:ZEPS/1lc.net
>>207
自分自身に向かって言っているんだなw
立派な心掛け乙


言っておくがこのスレはキミ以外は元から剛の者しかいない

209 :人間七七四年:2013/05/01(水) 11:23:04.47 ID:isSTnROe.net
だって国民栄誉賞受賞者の女が
「あっちの男性はおススメ」なんて公言するぐらいだもの。

http://www.pia.co.jp/hot_sports/hone/0406.html

>アメリカでは現地の男性と出会い、ステディーな関係となる。
>今年3月には、ふたりでデザインをした新居も完成した。
>「あっちの男性って、すっごい優しいんですよ。
>とにかくレディーファーストで、ドアの開け閉めはしてくれるし、荷物も全部持ってくれる。
>ホントにオススメしますよ(笑)。

210 :人間七七四年:2013/05/01(水) 19:22:48.47 ID:FRcp6Ei+.net
コンビニに「歴史の良い話」みたいなタイトルのあったわ

211 :人間七七四年:2013/05/01(水) 20:39:42.32 ID:3tJTgwJe.net
>>209
他人の意見を鵜呑みにして自分の意見にしてる
というのも考えものだわな

自分の頭で物事考えたほうがいいよ

もしお宅が>>209のような男性に実際に逢っているなら謝る

212 :人間七七四年:2013/05/06(月) 09:19:42.67 ID:T+8jpSKj.net
資盛の仕返しを命じたのは重盛だけど平家物語では
清盛=悪、重盛=善にされてるから清盛のエピソードになっちゃったんだよなぁw
当時は「穏やかな小松殿(重盛)がなぜあんなことを」と驚かれたようだ

213 :人間七七四年:2013/05/06(月) 10:10:34.51 ID:VT/3nrOU.net
もっと国民全体が貧しく、殺伐とした社会になれば、荒々しい男も増えるだろ。

214 :人間七七四年:2013/05/06(月) 22:00:05.85 ID:jrRzhWWe.net
「あのガキが俺を見て笑った気がした」だけで切り殺しちゃうような
ワイルド男子の時代がまた来るのか

215 :人間七七四年:2013/05/06(月) 22:10:35.80 ID:iH9yiHlK.net
そんな時代を生き抜いてやっと平和になったと思ったら
戦いの記憶もさめやらぬ道端で空砲ぶっ放して爆笑するワイルド男子がいたりするのか

216 :人間七七四年:2013/05/07(火) 08:49:30.93 ID:0SQDNZC5.net
久々にまとめブログ行ったが(普段スレには行かない)
秀忠ネタで恐妻家だの鬼嫁ガーだのと現代感覚あふれるお約束のレス・コメントが付くのは
風物詩みたいなもんだとしても
秀忠の遺体に残っていた銃創は嫉妬に駆られた江に撃たれたからとしか思えない
とか言ってる奴には、流石に冗談が過ぎるというかアホ過ぎる思った
今年の大河の主人公じゃあるまいし

217 :人間七七四年:2013/05/07(火) 12:06:39.39 ID:lBmg4M4W.net
>>216
弟偏愛に不満持った家光のDVならあり得るかも、
それだったら秀忠は喜んで家光を廃嫡するかもしれんが

218 :人間七七四年:2013/05/07(火) 22:19:53.80 ID:vxgALXg3.net
マジレスすると
戦場で撃たれたけど味方を動揺させないために公表しなかったとかが現実的か

なんとなく大坂夏の陣の岡山の戦いでついたものだったらちょっとロマンがあるかなと思った

219 :人間七七四年:2013/05/08(水) 10:35:24.62 ID:9+e5g6ir.net
>>216
その言い方だと大河で八重がヒステリー起こして庄之助を鉄砲で撃つシーンがあると誤解するだろw

220 :人間七七四年:2013/05/08(水) 20:52:09.55 ID:BpV0aGyQ.net
いい悪い話は、誰がその会話を聞いたんだよみたいな逸話の他に
時々学術寄り・史料寄りの話が混ざるんだよな
>>216のような話題の時に俗説以下の妄想レス&米されると激しく萎える
まあ、何を書こうか個人の勝手ではあるけどさ

221 :人間七七四年:2013/05/09(木) 05:46:00.47 ID:SCKGQkI5.net
昨日も来てたけど、最近よくある逸話の誤字をねちねち上から目線で指摘してくるレスなんとかならんかね
目に入ると不愉快だし、たまに逸話を投稿したときにああいうレスが書き込み直後につくと正直投稿する気も失せる

222 :人間七七四年:2013/05/09(木) 08:40:53.20 ID:DVo3C8f6.net
別に多少の誤字ぐらいなら気にせずそのままでいいんじゃない、と思う
わざわざ訂正するから付け込まれるんだ

223 :人間七七四年:2013/05/09(木) 10:52:14.97 ID:ooE4eHop.net
最近よく逸話を書き込んでるのが同一人物なのか知らんが
あれは書き込んだ後に毎回訂正を入れてくるウザさに突っ込まれてるんだろ。

224 :人間七七四年:2013/05/09(木) 12:32:19.54 ID:SCKGQkI5.net
あの訂正は、スレ民に対してというよりまとめサイトに載せる際の注意連絡事項として書き込んでるんでしょ
なんにせよ逸話投稿がなければ成り立たないスレで、
投稿者の意欲を減ずるだろう粘着レスを許容する利はないと思うが

225 :人間七七四年:2013/05/09(木) 12:48:54.88 ID:FivVzY7W.net
俺は誤字だと自分でわかるなら、推敲してから投稿してほしいわ

226 :人間七七四年:2013/05/09(木) 13:03:23.38 ID:DVo3C8f6.net
まとめサイトに対してなら
まとめサイトで管理人宛のコメントでやればいいことなんじゃないかなと思う

227 :人間七七四年:2013/05/09(木) 13:32:32.51 ID:JOIvjI46.net
本人は推敲してるつもりでも実は見落してて投下後に見つけるのは稀によくある

228 :人間七七四年:2013/06/11(火) 11:25:31.17 ID:po7Ld1+T.net
こことあんまり関係ないけど、誰か英語版wikiの武将の記事翻訳してくれない?
Tōdō Takatora
https://en.wikipedia.org/wiki/T%C5%8Dd%C5%8D_Takatora

229 :人間七七四年:2013/06/15(土) 02:40:51.27 ID:opU4Q7H/.net
2日くらい置いて推敲しないと間違いに気づかないもんだわ
停滞してる!逸話投下のチャンスとか思って焦って書き込むと失敗する

230 :人間七七四年:2013/06/15(土) 23:23:00.37 ID:UvYDXJmy.net
一時期すごい面白かったけど、最近面白くない
いいのがないからかな。
慣れてきて飽きたから?

231 :人間七七四年:2013/06/15(土) 23:28:14.33 ID:GVF5T2t5.net
勢いが無く出尽くした感が強いね

232 :人間七七四年:2013/06/15(土) 23:44:13.29 ID:UvYDXJmy.net
別のとこで誰か創作でいいから面白いの書いてくれないかな
四天王とか

233 :人間七七四年:2013/06/15(土) 23:45:02.84 ID:wTD5YiTE.net
自分で書けよ面倒臭い。
お客様意識だけは旺盛だな。

234 :人間七七四年:2013/06/16(日) 18:59:04.96 ID:kMgbpA59.net
逸話書いても有名武将にしか食いつかなかったり
有名武将ネタで逸話のネタを食いつぶされたり
する

235 :人間七七四年:2013/06/17(月) 01:56:20.61 ID:IZie7/be.net
1年後にソース変えて同じ逸話をどや顔で投稿しよう!
重複言われながらも違うリアクションが望める。

236 :人間七七四年:2013/06/20(木) 13:42:04.97 ID:ExcYdync.net
>>230
武将ブーム自体が沈静化してきたからね。
来年の大河効果で再び盛り上がるといいけど

237 :人間七七四年:2013/06/20(木) 20:32:13.71 ID:CjYL87PR.net
殿いつに遂に鬼武蔵が登場したらしい

238 :人間七七四年:2013/06/22(土) 08:03:16.89 ID:xVbklnpX.net
>>236
今はブームが武将から城に行ってない?。城にまつわる話に広げると
まだ出てくるかもな

239 :人間七七四年:2013/06/24(月) 00:28:57.18 ID:UbYFj4dG.net
来年は黒田だっけ?

240 :人間七七四年:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:k9boFGfp.net
そろそろ水野勝成に光を当ててもいい頃だろ
あれだけの人物はなかなかいないし

241 :人間七七四年:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:qTj0IqCx.net
どう考えても大河向きではない罠

242 :人間七七四年:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:RpobohGv.net
清々しいまでにアッパー系なDQN>勝成
最近の鬱大河に一石を投じる作品になりそうだ

243 :人間七七四年:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:pcneB+wF.net
自分で「ロクデナシ(六左衛門)」なんて名乗っちゃう人だしなあ。
善悪かかわらず自分の行為に後悔がないのがいい。

244 :人間七七四年:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:TwmWwUkD.net
女が活躍するか、東北が舞台じゃないとなあ。

妻が武家の女でありながら「戦は嫌にござります」と家康に啖呵切ったとか、
諸国を遍歴してた時に浪江町のあたりにいたことにすればあるいは。

245 :人間七七四年:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:dlaaxiSl.net
大河の主人公って聖人君子しか選ばれないだろうに
もしくは聖人君子にさせられるか

246 :人間七七四年:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:Uh83fb2O.net
黒田官兵衛なんてどうまかりまちがっても聖人君子じゃないしなあ

247 :人間七七四年:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:wvtNuZ/B.net
????「真っ黒できたない真田の表裏比興ができるなら」
宇喜多・松永・津軽「それがしもできよう」

248 :人間七七四年:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:pihGujQw.net
>>245
いや、ここ数年はだいぶ変わりつつある。
去年の平清盛なんて特に後半はかなり俗悪に描かれていたし、
八重だって弟を殺された復讐のために銃をとるような描写だし。

249 :人間七七四年:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN ID:iXXGwv6K.net
どっちかと言うと来年は脚本家の実力が未知数である点のが不安。
現代劇では割と評価高い人みたいだけど

250 :人間七七四年:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN ID:rAgjHa3a.net
城井鎮房の件って出てくるのかな?
鎮房sageしまくって正当化しそうで怖いわ

251 :人間七七四年:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:RrJsuPiC.net
その前に妹を何度も殺した龍野赤松政秀をどうするかな

252 :人間七七四年:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:W2MS7Yzw.net
いつのまにかWikipediaの山中鹿介が充実してる件
軍記ベースとは言え、個人の戦果でこれほどなのってあんまり無い気がする
編集された方、お疲れさまでした

253 :人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:S0YR5kHe.net
初陣の鹿介に討ち取られた菊池音八って、「鹿介に討たれた」以外の記録って
なにも残ってないんだろうか。

鹿介に殺されたことで、勇士だったらしいという話だけが語り継がれるのは、
本人にとって不本意だろうなといつも思う。

254 :人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:1tgxM5pS.net
毛利側にも名前が残ってないのなら存在自体が微妙なライン?

とはいえ実力を持っていながら具体的に発揮する事なく歴史に名前が残る事もなく退場していった人はかなりの数いると思うし
菊池音八もそういう一人なのかも

255 :人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:0AvAjFMu.net
唐入りに二話以上費やせなきゃ本能寺以降を描く大河としては無価値。

256 :人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:0AvAjFMu.net
>>212
>穏やかな小松殿がなぜあんな事を


戦国いい悪いスレで小松殿といったら信之嫁がまず浮かぶのでなんかワロタ

257 :人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:+J/UFkAH.net
一番血なまぐさい話になるのは鬼武蔵なんだろうか?

258 :人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:L8wdd/lK.net


259 :人間七七四年:2013/09/12(木) 20:19:20.78 ID:He0j1LFf.net
俺がいい悪いスレで興味を持ったドマイナー武将で主役として映像化漫画化小説化を期待する四天王
水野勝成
各務元正
十時連貞
安田作兵衛国継(天野源右衛門貞成)

勝成さんは小説はあるらしいね。

260 :人間七七四年:2013/09/13(金) 12:38:01.09 ID:dJ/wW2me.net
ああ、槍で突いてるか女突いてるかしかしてない小説読んだ記憶があるぜ

261 :人間七七四年:2013/09/14(土) 02:22:36.68 ID:efU0CsTP.net
>>260
連載が東スポで作者が会津マンセー反薩長の偏見早乙女貢だったからねえ

262 :人間七七四年:2013/09/14(土) 15:06:31.67 ID:3SM9mdo6.net
会津は・・・戦国でいうとどのポジションだろう?

263 :人間七七四年:2013/09/14(土) 17:45:52.96 ID:36Ne1IAR.net
大衆向けドラマで半沢直樹が受けてる事だし
宇喜多直家が汚い手を使いまくって島村盛実や浦上宗景やらに倍返ししてくストーリーもアリなんじゃないかと思う

264 :人間七七四年:2013/09/15(日) 07:27:57.92 ID:5y2s8sJc.net
>>259
安田国継と天野源右衛門が別人って設定の短編小説があったと思う。
たしか「こぶ取り作兵衛」だったかな

265 :人間七七四年:2013/09/15(日) 10:16:59.68 ID:1Bd4eDoh.net
>>262
武田とか

266 :人間七七四年:2013/09/22(日) 13:02:09.80 ID:AnC5gjXE.net
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/

267 :人間七七四年:2013/09/22(日) 23:20:11.77 ID:4+hYLCjK.net
>>262
蘆名とか、伊達じゃない?

268 :262:2013/09/23(月) 17:05:54.19 ID:cIOYa3qU.net
慶喜に引きずられてドツボにはまったイメージなんだよな・・・まーくんだと引きり回するタイプだから伊達は違うような感じがするんだよね

269 :人間七七四年:2013/09/23(月) 17:29:37.15 ID:MpUMZRaV.net
>>268
そういうイメージなら立花宗茂あたりとか
関ヶ原で本軍が敗退→戦争続行を望むも総大将毛利輝元が東軍に帰順→梯子が外される形で国元へ落ちる
→如水・清正・鍋島らに攻城される→頑強に抵抗→攻城側説得により降伏
→君臣苦労した浪人生活→大阪の陣で名誉挽回

270 :人間七七四年:2014/01/11(土) 16:42:32.43 ID:+xC6LCiJ.net
>>268
じゃあ三成

271 :人間七七四年:2014/06/27(金) 19:33:37.55 ID:1s5amA/m.net
姉川の戦いで徳川軍の誰かが目の前の段差かなんかを登った話があった気がするんだが、誰か知らないか

272 :人間七七四年:2014/10/22(水) 23:13:01.43 ID:yqBUAMVU.net
上杉定正「何やら風呂場が騒がしい?其方のために余興を用意しておる。ゆるりと湯に浸かって待つがよい」

273 :人間七七四年:2014/10/22(水) 23:14:27.47 ID:yqBUAMVU.net
マラー「おねーちゃんも呼ぼうぜ!」

274 :人間七七四年:2014/10/22(水) 23:16:39.38 ID:yqBUAMVU.net
信孝「木太刀など不要と義朝公も申しておる。効能は昔より或る痔、打ち身の野間なれば…」

275 :人間七七四年:2014/10/23(木) 00:35:58.17 ID:VE5BorVW.net
ある時、徳川家康がオコリになったことがあり、様々な治療を試みたが効果がなかった。
そんな時に病を治すことができるという者がいて、家康の病を治すために呼び出された。

ところがその者の治療法というのが珍妙であった。まず、その者は屏風の陰に立って
「さあ参るぞ参るぞ」と言うので、家康は「何をするつもりだ」と笑った。

すると今度は丸く括った帯を蛇のようにして投げ出したので、家康はただ可笑しく思って
いるだけで、病気はまったく治らなかったということだ。

身分の低い農民などの療法を家康のような高貴な人に使って、病気を治し大手柄を立て
ようと考えるとは、滑稽な話である。

慶長五年の七月頃に家康はオコリになったというから、これはその頃の話であろう。

――『徳川実紀(古老夜話、武徳編年集成)』

276 :人間七七四年:2014/10/23(木) 00:37:08.74 ID:VE5BorVW.net
こういうインチキ治療師が来た時、家康だからケタケタ笑ってるけど、
信長だったら世を欺く輩と言って成敗するんだろうな、と思うと
そのあたりがいい悪い別にして、君主としての違いにもつながるんだろうな、とか感じた

277 :人間七七四年:2014/10/23(木) 09:01:55.29 ID:K4buO+0w.net
オコリってなんだよって思ったらマラリアのことかよ
危ないもんにかかってたんだな

278 :人間七七四年:2014/10/23(木) 09:03:04.91 ID:K4buO+0w.net
マラリアや天然痘、破傷風にかかっても治療法がないんだもんな。恐ろしい時代やでぇ・・
梅毒もこの頃からか

279 :人間七七四年:2014/10/23(木) 09:39:56.41 ID:K4buO+0w.net
穴山梅毒さんは上京して相当羽目を外して遊びまくったのかな

280 :人間七七四年:2014/10/23(木) 09:41:35.45 ID:K4buO+0w.net
てっきり朝鮮出兵で流行したのかと思ったのだが
それより前から流行してたのか>穴山梅毒
しかしコロンブスから100年で日本までというのがすごいというのかなんというか
と思ったら日本での初発は1512年だった(20年で全世界一周)

281 :人間七七四年:2014/10/23(木) 10:16:28.31 ID:K4buO+0w.net
穴兄弟ばっかだったのか・・・

282 :人間七七四年:2014/10/23(木) 10:17:50.12 ID:K4buO+0w.net
あなおそろしや

283 :人間七七四年:2014/10/23(木) 11:46:10.75 ID:K4buO+0w.net
穴山さんを性病扱いするのはやめて差し上げろ!

284 :人間七七四年:2014/10/23(木) 12:07:55.34 ID:GtLMQmz2.net
避妊具なんてない時代だからな…
感染の温床になりそうな遊び場所はあっただろうし。

285 :人間七七四年:2014/10/23(木) 12:08:51.42 ID:GtLMQmz2.net
大名を相手に出来るクラスの高級娼婦がとても少なかったらしい

286 :人間七七四年:2014/10/23(木) 12:40:22.95 ID:GtLMQmz2.net
「病でこのまま俺は死ぬんだ……」と心が折れかけてる人には微妙に効きそうな気がせんでもない

287 :人間七七四年:2014/10/23(木) 12:41:10.85 ID:GtLMQmz2.net
応仁の乱の原因の一人でもあった畠山義就の母親は京の高級娼婦で、小笠原氏や飛騨江馬氏の所でも
子供作ってるな。全部お家騒動の元になってたりw

288 :人間七七四年:2014/10/23(木) 12:42:05.07 ID:GtLMQmz2.net
キニーネは苦々しく候

289 :人間七七四年:2014/10/23(木) 13:14:04.77 ID:GtLMQmz2.net
そいやおこりに罹ると梅毒は治るって話だけどな

290 :人間七七四年:2014/10/23(木) 13:14:57.03 ID:GtLMQmz2.net
マラリアにかかる→高熱を出す→梅毒のトレポネーマが死ぬ
→キニーネ発見されてないからマラリアで死ぬ

291 :人間七七四年:2014/10/23(木) 13:15:55.37 ID:GtLMQmz2.net
1492年のクリストファー・コロンブスの新世界の「発見」にちなむ梅毒の伝搬は、
アジアへはヴァスコ・ダ・ガマの一行が1498年頃インドにもたらし、
日本には永正9年(1512年)に中国より倭寇を通じて伝わったといわれている。

292 :人間七七四年:2014/10/23(木) 18:38:34.07 ID:HU+Q19xg.net
西洋みたいに生き物の腸でコンドーム作ったりはしなかったのかな?

293 :人間七七四年:2014/10/23(木) 18:39:32.38 ID:HU+Q19xg.net
避妊って概念は、やっぱりキリスト教の影響が大きいんじゃないか〜な〜と思うの
やることやってもお腹が目立たなければ当人同士の秘密でなんとかなるけど・・・

294 :人間七七四年:2014/10/23(木) 19:26:56.77 ID:HU+Q19xg.net
キリスト教への理解と保護 出典『今谷明』戦国三好一族 から抜粋

日本人修道士ロレンソのポルトガルへの報告書によると
三好長慶自身もヴィレラを京都立売町の三好邸にて引見し、布教許可の制札を与えたと言う。
朝廷や公家・寺社など、いわゆる権門がキリシタン排除一色に固まっていたのと異なり
長慶には天竺から来たと言う異形の僧侶を嫌悪する事はなかった。
さきに義輝が免許を与えたのも長慶の黙許があった為と言われている。
とまれ、将軍、長慶らの布教許可と保護は迫害に泣かされていたヴィレラとキリシタンの人々に大きな希望を与えた。

〜中略、逸話まとめの結城弥平次のキリシタン改宗と久秀の話が間に入り

結城氏らを受洗させた後、ヴィレラは飯盛城に三好長慶を訪れた。
フロイス『日本史』によれば
〜国主は彼を大いなる愛情と慇懃さをもって迎え、ゆっくり聖なる副音の説教を聞き
長慶『確かにこのキリシタンの宗門のことは、すべてが余には非常に良いものと思われる。
   余は出来る限り、教会とキリシタン宗団を擁護しよう』と述べた
国主がこのように好感を抱いたので、その家臣(結城)達ははみな、非常に慰められ意を強くし安堵した〜
と記されている。このように長慶自身の言葉を直接記したものは、長慶自筆の書状以外極めて珍しく
西洋の記録であるからこそ残ったと言える史料である。
いずれにせよ、長慶が久秀と異なってキリスト教に理解と保護を示していた事は明らかである。

しかし長慶自身の精神生活は法華宗の熱心な壇徒であって、また酒井南宗寺・笑嶺宗訢に参禅する仏教信仰が基本生活であった。
流石は長慶のバランス、当時の宗教勢力全て網羅してるわ。

295 :人間七七四年:2014/10/23(木) 19:27:52.91 ID:HU+Q19xg.net
豊臣秀吉は伊達政宗から奥州会津を没収した後、奥の要地である
会津を任せるに相応しい人物は誰かと考えていた。

そこで自分が相応しいと思う人物の名を書き記し、徳川家康にも
同じようにさせた。書き終わった後に札をひらくと、

秀吉が第一に堀左衛門、第二に蒲生飛騨守。
家康が第一に蒲生飛騨守、第二に堀左衛門、という結果になった。

秀吉は掌を打って「さてさて、名将の思慮は不思議にも一致するものだ。
順序は違えど、選んだ人物が同じとはな。徳川殿はいかなる心をもって
このように見定めたのか」と言った。

「まずは殿下の尊慮をうけたまわりたく思います」

「奥州の人は情の強き者なれば、左衛門のごとき者でなければ
鎮座することはできないだろうと思ったのだ。だから左衛門を第一とした」

「では某の愚意ですが、屈強な奥州人を左衛門のごとき猛烈な者に
治めさせれば、諺にいう『茶碗と茶碗の出合』のごとく、いずれ片方が
砕けることは避けられないでしょう。

氏郷は武略は言うに及ばず、文学にも志深く、和歌茶道を心得ており、
性質も温和です。そのような風流人ですから、屈強な奥州人を治めさせるには
もっとも相応しいであろうと思い、第一に記しました」

家康の意見を聞いて秀吉は「なるほどその通りだ。良い所に気付いたな」
と言い、ついには氏郷を選んだ。

――『徳川実紀(大業広記)』

296 :人間七七四年:2014/10/23(木) 19:28:57.16 ID:HU+Q19xg.net
『信長、謙信に降伏する!?』

手取川で織田軍を叩き潰した謙信は新谷源助を使者として、信長に「北近江辺りにて正々堂々と一大決戦をしよう!」と申し入れた。

この申し入れに信長、
「謙信殿の弓箭は摩利支天の所業に似て、日本国中、これと比肩するものはない。
本心で謙信殿が上洛されるとあらば、この信長は路地まで出むかえ扇を一本腰にさし一騎で乗り込み、信長めにござる。降参つかまつると申し、都の案内を致したならば、いくら謙信でもこの信長が骨身を砕いて取った天下を取り上げることもなかろう。
さすれば、信長は西国、謙信は東国を治められ、両旗で禁裏を守護つかまつることに致そう」と返答を返した。
(北越軍記)

297 :人間七七四年:2014/10/23(木) 20:02:50.02 ID:HU+Q19xg.net
権現様(徳川家康)は(将軍職を秀忠に譲って)駿府に移られる際も、万事質素に隠居成されたため、
御他界なさるまでに百萬両に達する貯金を作られた。
その内から尾張殿と紀伊殿に三十万両づつ、水戸殿へ十万両を御遺金として進呈され、残りの三十万両は
江戸の御金蔵に入れておくべきか伺いを立てたところ、そのまま駿府に残しておくように、とのことであった。

大納言忠長卿(秀忠次男)が駿河を拝領された時、この三十万両はおそらくお城に付いているものであると
皆思っていたが、この資金の所属についての明言がなかったので、忠長は幕府の御金を預かるのは迷惑であると
申し入れ、久野の御宮に御金蔵を作りそこに移した。これを世間では久野の御金と呼んで莫大な額があるように
言っていたが、ただ三十万両ではなかった。
それは尾張殿の江戸上屋敷が失火で消失した時の普請料として十万両、紀伊殿の和歌山城普請の時に十万両、
水戸殿には三万両を、それぞれ拝借が認められ、その後少しずつでも返済いただきたいと、幕府の勘定方から
お願いすると、尾張殿からの返答は

「私が拝借した御金はもともと権現様がご隠居料の中から貯えられたものであり、ご他界された時、遺金として
我々兄弟三人への御譲金の残りであり、それを我々が拝借したのだから返納する必要はない!」

と拒否し、紀伊殿、水戸殿も拝借金に対しては沙汰無しとなってしまった。

当時はその他の大名衆にも拝借金が認められていて、それぞれの借金は決まった通りに必ず返済されていた。
ところが伊達政宗の借金返済が滞ったので、これまた幕府勘定方より催促したところ、陸奥守忠宗からは

「私の代では拝借をしておらず、亡父政宗の代に借金があったとのことですが、どういう経緯で借金をしたのか
今は解りません。親の代に借りた御金ですから、親が生存しているうちに返上を申し付けられるべきなのに、
その時は放置しておいて私に返上しろとは、全く迷惑な話です!」

そう言って返済しようとしない。
また譜代大名の松平越中守の方でも拝借金返済が滞っており、これにも勘定方から催促すると、越中守は

「前に拝借した時、私の方からさし上げた証文があるはずなので、それを見えてもらえるか?」

と言うのでこれを取り寄せると、越中守はそれを見て

「うむ!私の覚えているとおりだ!皆もここに見えているように、『御貸し下され有難く存じ奉る御金の事』と書かれている。
これは『拝借を仰せ付けられた』とは私の解釈では『拝領を仰せ付けられた』ということなのだと考え一言書いたものである。
従ってこれは、返上の必要はないと思う。」

と、これもまた返済しようとしない。
この様なことがあったので、幕府からは今後もう、諸大名への拝借金は認めない、と言うこととなった。
(駿河土産)

298 :人間七七四年:2014/10/23(木) 20:04:12.13 ID:HU+Q19xg.net
これが武断政治の実体か・・・

299 :人間七七四年:2014/10/23(木) 20:44:20.16 ID:HU+Q19xg.net
福島正則の改易とか結構厳しいイメージがあったから意外だった
借金を理由に伊達を取りつぶせばよかったのに
抵抗したら奥州征伐で。あの時代の武士って戦無かったからちょうどいい演習になるしな

300 :人間七七四年:2014/10/23(木) 20:45:19.12 ID:HU+Q19xg.net
江戸の人口を仙台からの米が支える構図がこの時期どのレベルだったかよく知らんけど
幕府が伊達とケンカして米の流通滞ったら物価経済の混乱で借金額なんぞとは
比較にならん損失出るんじゃね?

301 :人間七七四年:2014/10/23(木) 20:46:33.18 ID:HU+Q19xg.net
借金踏み倒すってなんかムカつくな
全部取潰してやればよかったのに

302 :人間七七四年:2014/10/23(木) 21:56:40.82 ID:B3Hht4HI.net
金は卑しいものという意識が当時はあったみたいだし
幕府としても、金のことで揉めるのはみっともないという考えがあったのかもね。

現代の感覚だと借金はどんなことをしてでも返さないといけないって感じだけど
当時の感覚とは相当な隔たりがあるんだろうな。

303 :人間七七四年:2014/10/23(木) 21:57:40.42 ID:B3Hht4HI.net
犬千代さんなら追込み掛けるんだろうな

304 :人間七七四年:2014/10/23(木) 22:34:42.30 ID:B3Hht4HI.net
聚楽繁栄の時分というので、天正の16〜20年頃であろうか。黒田家においては如水より、家中の者に
賭博の禁止を、厳重に申し付けた。
ところが桂菊右衛門と言う無足の者、法度にも関わらず毎晩他家に忍び出て博打を打っていた。

ある夜の事、菊右衛門は博打に勝って金・銀・刀・脇差など数多を取り、これらを雨羽織に包んで
打ち担いで帰る道、夜も明けようとしていた。

この道は如水が出仕のため通る道であり、行き合ってしまっては都合が悪い。如水が出仕の前に
帰ろうと道を急いだ。仮に行き合い、問い詰められたら、博打打ちに行ったわけではないと
言い訳しよう。その様に考えながら前の方を見ること無く急いでいたら、町の境目で
バッタリと行き合ってしまった。如水と。

菊右衛門大慌てである。心の準備もないまま出くわしてしまったのだ。パニックになった彼は
かの刀を担いだまま這いつくばり、聞かれもしないのに大声でこう叫んだ

「私は博打を打になんか行っていません!!!」

如水は、何も聞かなかった体で菊右衛門の横を通り過ぎた。


さて煩悶この上ないのが菊右衛門である。
「なんてことだ!あんなに取り乱してしまって、どうしようもないではないか!
この間法度を厳しく申し付けられたばかりだというのに…。きっと私は切腹を申し付けられるだろう!
こうなったらもう是非に及ばない。菊右衛門の奴は狼狽えてたわけたことをしたと、死後にきっと
馬鹿にされる!返す返すも無念だ。…どうしよう?」

そう思い悩んで長屋に帰り、すっかり草臥れていたのに寝入ることも出来ず、布団を打かぶって
まじまじとしていた。きっとガタガタ震えていたのだろう

さて、菊右衛門の大胆な告白を目の当たりにした、如水の出仕の時に供に付いていた者たちは
「おいおい何てことだ?コレはどうなっちゃうんだろう?」と、如水の出仕中座り込んで
囁きあった。
「絶対只じゃ済まないぞ。この間の博打禁止の法度は、普段よりも厳しく申し付けられた。
切腹は疑いようもないなあ…。」

そう考えると不憫に思い、供より帰ると直ぐに菊右衛門の部屋に我も我もと見舞い、さて、これからどうしよう
と話し合ったが、皆意見はまちまち

「とにかく逃げ出す以外はない!仰せ出される前に逃げろ!」という意見に菊右衛門

「いやいや、逃げ出すなんて出来ないよ。今朝すぐに逃亡しておけばどうって事も無く逃げ切れたの
だろうけど、あなた方が帰られ、こんなふうに相談してから逃げ出したら、あなた方が後から必ず
詮索を受けるよ。そうなったら私の逃亡先はバレて、またここに戻らされるだろう。
もう、とても逃れられない道だ。切腹を申し付けられたら外聞が良いように斬らせてくれ。」

そう行って逃げないことに決めた。傍輩達への信頼感はゼロである。しかし傍輩達

「そう思うのも理屈だけど、お前が逃げちゃえば、上から詮索受けても俺たち随分凌いでみせるぜ?
それでもどうしてもダメだったら、ま、その時は出てきて腹を斬れ。
そうした方が武士の手柄としても上だろう。さあ、急いで逃げる準備をしろ!急げ急げ!」

そんな風にしている所に突然、如水より御側衆の緊急の呼び出しがかかった。
すわ何事か!?何が起こったのか、もしや早くも菊右衛門の切腹の事かと口々に悔やみつつ、
取るものもとりあえず駆け出し集合してみれば、何のことはない、中間たちに居間の庭に竹垣を結ばせたが、
その結び様の手際が悪く、あれをほどいて手際よく結び直せ、との仰せ付けであった。
さては菊右衛門の事ではないと何れも安堵した。

305 :人間七七四年:2014/10/23(木) 22:36:25.37 ID:B3Hht4HI.net
その頃菊右衛門は、切腹の仰せが今か今かと固唾を飲んで、部屋で(多分布団をかぶったまま)
ガタガタ震えていたが、一人走り戻ってきて
「博打のことじゃないぞ!垣を結べという事だ!」

と報告したので、菊右衛門、そして一緒に残っていた者たちはホッとして大息をついた。そして菊右衛門
「こういう仕事にはいつも出ている私が、ここで引き込んでいるというのも良くないだろう。
もう手討ちにあってもしょうがないさ。あなた方と一緒に行くよ。」

と言い出したので、傍輩たちも「それも尤もだ」として共に竹垣の直しに向かった。

さて、如水は居間の縁側からそれを見つけると「菊右衛門!菊右衛門!」と高々と呼んだ。
傍輩達はこれに

『すわ、博打の事だ!不安だなあ。だけども如水様は家来を手討ちにはしない人だ。その上
他家での手討ちをいつも批判しているほどなので、まさかここで私が手討ちにされることは
無いだろう。いつもみたいにしたたかに叱りつけると言う事なのだろう。
上手く行けばここで、この件に関しては埒が明くぞ!』
そう思いながら尻目に見ていると、菊右衛門はいかにも近くまで呼びつけられ何事か囁かれた。

傍輩達『これは博打のことではない。何か隠密の用でも仰せ付けられるのか?
それとも如水様は彼の常日頃の心立てをよくご存知なので、菊右衛門に直に申して、埒を明けて
下さるのだろうか?おや?菊右衛門も何か申し上げているぞ?多分博打のことだな。
如水様が申し開きを聞いてくださっているのだ。あら嬉しや』

そう囁き合っているうちに、如水から

「竹垣を直し終わり、掃除をしたら皆々帰って休め!よく骨を折ってくれた。上々の竹垣である。
これには気に入ったぞ!」と、悦びを伝えた。

彼らは庭を出るやいなや菊右衛門に「何事を囁かれたのか!?」と尋ねた。すると菊右衛門

「あの事ですよ。お前、昨夜は博打を打にどこに行ったのかと聞かれたんだ。
どこどこの殿の家中に参りましたと申し上げると、

『どうやら勝ったようだな。刀、脇差の他、金をどのくらい取ったのだ?』

私は五百目程取ったのだが、如水様の常日頃の気質を知っているので
『一貫目あまりだと思います。今朝からは殊の外悩み苦しんでいたので、金ももはや要らぬものと思い
打ち捨てていたので詳しくはわかりません』

と申し上げた。すると如水様は手を打って喜ばれ
『先ずは勝ったか!でかしたぞ!しかし小金を要らぬものと思うのも当然だ。法度を厳しく言いつけたのだから、
お前のやったのは近頃は危ないことだ。
まあ、お前が今朝のようなたわけた事をしたのも、法度を常々恐ろしく思っているゆえだろう。
それ程に思っているのなら、今後はいかなることも法度に背いてはならぬ。

良いか、何でも物事というのは、良い事の次には悪い事があるものだ。勝った時はしっかりとそこに留まれ。
お前の身体にとって昨晩の勝ちは重々しいことだ。今後お前の身代が擦り切れたと聞いたら、罰を
与えるぞ!構えて構えて、博打を打ってはならぬ。むざむざと物を人に与えて、身代が擦り切れないようにせよ。』

そう、念を入れて仰っられたのだ。」
菊右衛門ははその仰せを肝に銘じ、誓紙にするまでもなく、博打をやめた。

その後彼は如水より知行を与えられ、身体に過ぎる富貴を得、年老いて子に知行を譲り、一生楽をして
80歳に及んで死んだという。

桂菊右衛門が博打のバレた顛末、についての逸話である
(古郷物語)

306 :人間七七四年:2014/10/23(木) 23:13:13.20 ID:B3Hht4HI.net
飛騨ってよくあれで1国になったね。
国力めちゃくちゃ低いんじゃない?

307 :人間七七四年:2014/10/23(木) 23:14:03.87 ID:B3Hht4HI.net
あまりの低さに税金免除されたレベル

308 :人間七七四年:2014/10/23(木) 23:39:24.31 ID:B3Hht4HI.net
飛騨国は農業生産はゼロに近いけど、良質の木材と銅や亜鉛などの鉱物資源で
人口の割に収入はあるイメージだな。まあ、隣国などとの交易も大変そうだけど。

309 :人間七七四年:2014/10/23(木) 23:40:23.63 ID:B3Hht4HI.net
飛騨は石高は大国の一郡程度だけど木材収入が結構な物だったから、
小大名クラスならかなり美味しい話かも。
結局木材の安定供給のために木曽共々天領になっちゃたけど

310 :人間七七四年:2014/10/24(金) 02:00:49.66 ID:qcwFAMwe.net
>>277-309
一人で楽しい?

311 :人間七七四年:2014/10/24(金) 06:08:00.86 ID:vAqS9hw4.net
なんか飼い主に忠義なねこって違和感あるよな

312 :人間七七四年:2014/10/24(金) 06:08:55.67 ID:vAqS9hw4.net
犬でも裏切る時は裏切る

313 :人間七七四年:2014/10/24(金) 06:44:38.70 ID:vAqS9hw4.net
犬ってそんなに忠義心ないよ

314 :人間七七四年:2014/10/24(金) 06:45:33.05 ID:vAqS9hw4.net
家庭内序列犬以下はつらいな

315 :人間七七四年:2014/10/24(金) 06:46:38.26 ID:vAqS9hw4.net
犬にも性格があるからな
あと犬が自分以下だと判断した人間に対しては割と厳しい

316 :人間七七四年:2014/10/24(金) 07:20:02.11 ID:vAqS9hw4.net
結局「兵農分離」を言い出す奴はバカの一つ覚えみたいに謙信の越山ばっかりなんだよな。
あれは農閑期だから兵を出したんじゃねーよ。謙信の書状にもあるが、古利根川の増水期を
避けだだけだ。増水期に大軍勢で無理に利根川渡るのは難しかったから、それを避けた。それだけの話。
帰国も農繁期に合わせたのではなく、再び増水期に入らないうちに帰っただけだ。

317 :人間七七四年:2014/10/24(金) 07:21:19.28 ID:vAqS9hw4.net
荒木摂津(村重)は摂津国の領主であったが、3年間信長と戦い、その頃彼に使えていたジェスト(高山右近)の言を
用いなかったため、その領地を尽く失ったことは、尊師の既にご存知のところです。
彼はそれ以来五畿内のキリシタンに対し、心底からの憎悪の念を抱きました。

信長の死後、彼は大いに謙遜を示して羽柴殿(秀吉)に仕え、他の小姓と等しく茶の用を務めていました。
そして彼は海の司令官アゴスチニョ(小西行長)とその父が羽柴殿より寵を受けるのを妬み、
羽柴殿の前で密かに、また極めて巧みに彼らに対する重大なる偽の証言をしたのです。

彼が巧妙にこれを為したため、羽柴殿はこれを信じ、ジョーチンとアゴスチニョ父子の任を解き、
全キリシタンに大いなる打撃と恐怖の念を与えました。
ですが我等の主デウスは罪なきものに慈悲の目を向け給い、荒木は大いに信用を失い、
ジョーチンとその子アゴスチニョは最初に地位に復帰したのみならず、今はさらに恩寵を加えられ、その収入もまた
倍増するに至っています。

その荒木が羽柴殿と共に茶の湯の場にあった時、羽柴殿はジュスト(高山右近)の事について、その類い稀な
才知と善良なることを語り始めました。彼は荒木にとって甚だしき敵なので直ちにこれに答えました

「そうではありません。殿下が賞賛されている所は彼が外見を偽ったものであり、心中にそのような善良さは
持っていません。」

この言葉に羽柴殿は大いに怒り、彼を呼ぶのに再び「汝」という言葉を使って言われました

「去れ!かくの如き言葉を発してはならぬ!余は彼が内心も外見も異なる所がない事を良く知っておる!」

これによって荒木は直ちに羽柴殿の寵を失い、羽柴殿は再び彼を見ることを欲しませんでした。
荒木は多数の仲介者を通じて宥免を請いましたが、羽柴殿はついに彼を許しませんでした。

そして今度の戦争(小牧・長久手の戦い)において羽柴殿が多数の人を殺した時、荒木は都において彼を軽蔑する
発言をしました。この事が大阪にあった羽柴殿の夫人の耳に入り、彼女より使者を以って厳しく譴責されたのです。
荒木は羽柴殿が帰京した後、殺害されることを恐れて、妻と家を捨てて寺院に入り坊主となりました。
ですが果たして死罪を免れる事ができるかどうか、明らかではありません。
(ルイス・フロイス・天正12年次日本耶蘇会年報)

318 :人間七七四年:2014/10/24(金) 08:29:42.82 ID:vAqS9hw4.net
村重は右近に梯子外されて酷い目にあってるんだから文句の一つも出るだろうよ

319 :人間七七四年:2014/10/24(金) 08:30:42.76 ID:vAqS9hw4.net
妻を捨てたということは、道糞になって以降に再び妻帯したのかな? 単なる妾?

320 :人間七七四年:2014/10/24(金) 17:29:20.96 ID:zmoJljoE.net
道糞さんは波乱万丈の結果、比較的良い晩年だったよね。
フロイスの記述は貴重な歴史なのに、もう少しフェアに記述されていれば・・・

321 :人間七七四年:2014/10/24(金) 17:30:47.30 ID:zmoJljoE.net
道糞は賤ヶ岳で中川清秀討ち死にして嬉しかっただろうな
もうちょっと長生きしてればジュストが追放されるのも
見れたのに

322 :人間七七四年:2014/10/24(金) 17:31:51.67 ID:zmoJljoE.net
道糞て見るとつい「みちぐそ」さんて読んでまう…

323 :人間七七四年:2014/10/24(金) 19:09:32.97 ID:zmoJljoE.net
ある男が閻魔の前に来た。
その男は極楽に入れるほどの善行を行っていなかったが地獄に墜ちるほどの悪行も行っていなかった。
閻魔帳を何度見直しても結論は出ない、そこで困り果てた閻魔は男に訪ねた。
閻魔「お前はこのままでは極楽にも地獄にも行けない。生前行った善行を言いなさい。」
男「はい、私は生前落ち度もない親族が無礼討ちの憂き目にあったので上役に訴えました。」

閻魔「なるほど、それで?」

男「一度は引き下がりましたが、勇気を振り絞って再び訴えました」

閻魔「それは勇気ある行動だ。で、それはいつの事だ?」

男「つい、四半刻前の事です」

324 :人間七七四年:2014/10/24(金) 19:10:17.27 ID:zmoJljoE.net
山城守「さっさと書状を閻魔に渡せ」

325 :人間七七四年:2014/10/24(金) 19:11:19.03 ID:zmoJljoE.net
嘆願書「お玉還せ 直江越中守兼続判」

326 :人間七七四年:2014/10/24(金) 19:49:09.50 ID:zmoJljoE.net
ある信心厚い男がいた。
その男は、昔から本願寺法主の本願寺顕如に是非会いたいと念願していた。

あるとき、御尊顔を仰げる機会があると聞いた男はついに思い立ったか
長年の夢を果たそうと新しく誂えた着物を着て本山へ向かう
そして、待ちわびている群集の中に紛れ込んだ

拵えの良い着物を着て目立てば、法主が自分に気付いて話しかけてくれるのではないかと思ったのだ。

法主は、ゆっくりと(そして男に気づく気配もなく)人々の前を歩いて来た。
そして、ひとりの乞食にその慈顔を向けると、穏やかな笑みを浮かべて乞食に何か語りかけ、通り過ぎていったのである。

男はとても反省した。
いい服を着て法主に目を留めてもらおうなんて、自分はなんて汚い考えを持っていたのだろう。
貧しき者にこそ、仏は慈悲深き目を向けるのである。

「それでも一言でもお言葉を頂きたい」

一計を案じた男は、先程の乞食に頼んで、銀一枚で自分の服と乞食の服とを交換してもらうことにした。
次の日、また法主が人々の前に顔を見せた
すると法主は乞食の服を着た男に近づいてきたのである。

「念願が叶った!」

そして、男の耳に口を寄せると、優しい声でこう言われた。

法主「昨日、目障りだから失せろと言ったハズだぞ」

男「………………」

327 :人間七七四年:2014/10/24(金) 19:50:13.70 ID:zmoJljoE.net
戦国時代ジョークみたいなのはないのかなと。

328 :人間七七四年:2014/10/24(金) 20:31:46.66 ID:zmoJljoE.net
『羽柴(秀吉)の宮殿の婦人の中に、3,4人のキリシタンがあります。
その中の一人は老年の身分高い武士に嫁ぎ、名をマグダレナと言います。
彼女は王妃の秘書であり、大いに妃に重んぜられ、他の2,3人よりも親愛を受けています。
彼女はデウスが城中に置かれた一の明星であり、その行動と模範によって他の全ての異教徒を照らしています。

彼女は常に霊魂のことに意を注ぎ、甚だ多忙であるにもかかわらず、毎日3回数珠を操り、筑前殿及び夫人の前においても
少しも恥ずること無く祈祷を捧げ、他の婦人達の嘲笑を受けても、少しも心を乱さず、賢明に、親しく彼女らと
交わっておられます。その様であるので宮殿の婦人たちは全て彼女を頭に立つものとして遇し、羽柴殿すらも
彼女の正しい行動を認め、また王妃は日々一人で彼女と相対し、常々我等キリシタンのことを語り、また聞くことを
喜び、キリシタンの教えについて賞賛されています。彼女は常々我々の聖堂に来て懺悔を行います。

マグダレナには最愛の娘が一人あり、筑前殿は大変にこの娘を信用し、金銀は尽く彼女の手を通り、収納も分配も
全て彼女の手に委ねられています。
娘はその徳においても母マグダレナに劣ることはありません。

ところでその母が我々に語った一つの事例があります。
これは実に驚嘆すべき事であり、またキリシタンに対するデウスの大いなる摂理の認められることであります。

それは羽柴殿がマグダレナ、そしてその娘に対して、今まで手を触れた事もなく、また邪悪と認められる言葉を
用いたことがない、という事実です!
彼は城中にある他の婦人に対しては戯れるのが常のことなのに!

日本における異教の婦人の名は笑うべきものであり、信長などは彼女らに男子の名前をつけていましたが、
羽柴は戦争に出る前に、マグダレナの勧めに従って、全てにキリシタンの聖人の名をつけました。
それは宮廷において今もなお使われています。
(ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)

329 :人間七七四年:2014/10/24(金) 20:32:43.46 ID:zmoJljoE.net
ああ、フロイスだ・・・としか言いようが無い

330 :人間七七四年:2014/10/24(金) 20:33:38.70 ID:zmoJljoE.net
そんなに不細工なのか…

331 :人間七七四年:2014/10/24(金) 23:03:02.02 ID:yZKXiYRf.net
じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ
かいじゃりすいぎょの すいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ
くうねるところにすむところ
やぶらこうじのぶらこうじ
ぱいぽ ぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん ばきゅーん☆
しゅーりんがんの ぐーりんだい
ぐーりんだいの ぽんぽこぴーの ぽんぽこなーの
ちょうきゅうめいのちょーおーすけ!

332 :人間七七四年:2014/10/24(金) 23:04:01.09 ID:yZKXiYRf.net
漢字でも大概だが、平仮名にされると余計にめんどくさいな

333 :人間七七四年:2014/10/24(金) 23:05:05.31 ID:yZKXiYRf.net
よく見ると「ばきゅーん」ってところがじょしらくってアニメのEDソングの歌詞だな

334 :人間七七四年:2014/10/24(金) 23:38:15.70 ID:yZKXiYRf.net
じょしらくはなあ
落語を期待してたら、ただの尻だしアニメだったというのが

335 :人間七七四年:2014/10/24(金) 23:39:15.68 ID:yZKXiYRf.net
利常「まったくけしからんな」

336 :人間七七四年:2014/10/24(金) 23:40:04.24 ID:yZKXiYRf.net
あんた前出しの前田氏やんけ

337 :人間七七四年:2014/10/25(土) 00:16:27.68 ID:Lr2M8tos.net
司馬遼太郎の尻啖え孫市では
敵に対してケツを見せるのは勇者の証とか書いてた気がする
戦国時代の逸話にありそうだ

338 :人間七七四年:2014/10/25(土) 00:17:53.32 ID:Lr2M8tos.net
有りそうだっつーか、秀吉が小牧長久手の時に徳川を挑発しようとしておしりペンペンした、
ってのがあるわな。

339 :人間七七四年:2014/10/25(土) 00:59:48.26 ID:Lr2M8tos.net
尻といえば小牧の近く、今の春日井市に「尻冷やし地蔵」というお地蔵様がある。

この付近で合戦が起こった時、敵に追われた手負いの武士が清水にたどり着いて、そこで喉の渇きを癒している所を
追いついていた敵に後ろから刺殺された。後にその武士の慰霊のため作られたのが
この尻冷やし地蔵とされる。

尻冷やしの名の由来は、清水の上に置かれたので、こんこんと湧水により、いつも裾が濡れていたためだと伝わる。
ちなみにこの地蔵には正保4年(1647)の銘が有り、市内でも最も古い地蔵の一つとされている。

春日井に伝わる、尻冷やし地蔵のお話。

340 :人間七七四年:2014/10/25(土) 01:01:19.59 ID:Lr2M8tos.net
裾濡らしとか裾冷やしとかでいいじゃない…なぜ尻に

341 :人間七七四年:2014/10/25(土) 01:41:39.21 ID:Lr2M8tos.net
実は後ろから刺された箇所が尻だったんじゃないの?

342 :人間七七四年:2014/10/25(土) 01:42:26.00 ID:Lr2M8tos.net
アッー!

343 :人間七七四年:2014/10/25(土) 10:17:00.48 ID:9vGiqusi.net
ちと違うけど女陰は魔を払う力があると神代の昔から信じられてた
さらに阿片戦争で大砲不足に悩んでいた清軍は、苦肉の策として英艦隊に向けて魔除けの女陰代わりとして便器を延々と並べたんだそうな
ちなみに桃が魔除けになるのも女陰に形が似てるからなんだそうな

344 :人間七七四年:2014/10/25(土) 10:18:00.14 ID:9vGiqusi.net
誰だっけ?全裸で戦場を駆け抜けたのって?

345 :人間七七四年:2014/10/25(土) 10:19:05.50 ID:9vGiqusi.net
兜有りなら勝成。誰というかみんなで裸なら武田

346 :人間七七四年:2014/10/25(土) 10:54:01.34 ID:9vGiqusi.net
それは素肌攻めだろw

347 :人間七七四年:2014/10/25(土) 10:55:05.63 ID:9vGiqusi.net
素肌攻めは全裸って意味じゃないお

348 :人間七七四年:2014/10/25(土) 10:56:02.21 ID:9vGiqusi.net
えっ武田軍ってパラダイスだと思ったのに!

349 :人間七七四年:2014/10/25(土) 11:33:32.32 ID:9vGiqusi.net
あれを素肌攻めって呼ぶのはちょっと不思議だな
「素肌」の意味がどうこうじゃなくて、普通「○○攻め」って「○○を利用した攻め」って意味だと思うから

350 :人間七七四年:2014/10/25(土) 11:34:19.65 ID:9vGiqusi.net
蒲生氏郷も素肌に鎧で雪中行軍してなかったかしら

351 :人間七七四年:2014/10/25(土) 13:54:38.48 ID:dlOfP8r7.net
「素肌」っていったら裸ってことじゃなくて
鎧を付けてないってことです(着物は着てる)

352 :人間七七四年:2014/10/25(土) 13:55:46.72 ID:dlOfP8r7.net
「大将スゲー!」って士気が上がったらしいから裸に鎧だったんじゃない?

353 :人間七七四年:2014/10/25(土) 13:58:00.91 ID:dlOfP8r7.net
鎧なしでしかも城攻めだからすごいんだな

354 :人間七七四年:2014/10/25(土) 15:16:00.65 ID:dlOfP8r7.net
信長があるとき近習と女の話をした。
その中の一人が、
「明智殿の妻、ひろ子さまこそ天下一の美女でありましょう」
と主張した。
それほどまでかと興味をおぼえた信長は、
一度、実物を見たいと思うと言うと、近習の一人が、
「家中の妻女を1日、15日の礼に出仕させましょう」
と言ったので信長もその通りにした。
当日、ひろ子が長廊下を歩いてきたところへ、
信長は飛び出してきて後ろから抱きついた。
ひろ子はまさか信長とは考えもしないので、扇で打ちつけた。
しかしながらその男のただならぬ雰囲気や眼光が気になり、
帰ってのち、光秀に城中であった事を話した。
光秀もなにか勘に触るところがあり、
それを調べてみると、その男がおそらく信長であることがわかった。
この分ではただでは済まぬと思っていたが、
それからの信長はたびたび光秀に恥をかかすことが多くなった。
それより明智光秀は謀反を考えるようになった。

『落穂雑談一言集』にある、
本当とは思えないし、本当であってほしくない逸話です。

355 :人間七七四年:2014/10/25(土) 15:17:04.11 ID:dlOfP8r7.net
煕子は天然痘であばた面じゃなかったか(これも伝説だが)

356 :人間七七四年:2014/10/25(土) 15:18:11.38 ID:dlOfP8r7.net
後世の者が自分の伝えたい教訓に有名人物の逸話を利用した可能性高いとオレは思ってる
中国で言うと老荘や墨家の書物に孔子が登場するみたいに

357 :人間七七四年:2014/10/25(土) 16:18:34.43 ID:dlOfP8r7.net
秀吉の作らせた天正記に、信長は「妻妾三千人」なんて書かれたりしてるし、まあコレは栄華を極めたと言う意味の
著述だが、実際子供も多いし、艶福家だったことは確かなんだろう。
まあ落穂雑談一言集は信長の時代から100年以上後の著作でもあるし、そもそも落穂雑談一言集自体、
うわさ話をまとめてみました居程度の本なので、まあ真実味はなあw

358 :人間七七四年:2014/10/25(土) 16:19:25.15 ID:dlOfP8r7.net
諸葛孔明の嫁の話とかもそんな感じだもんね
ブスだが頭脳は公明も驚くほど明晰だったとか
美人だけど美貌目当てに言い寄ってくる相手を欺くためにブス装ってるんだとか

359 :人間七七四年:2014/10/25(土) 17:12:01.33 ID:yyEBh1ry.net
織徳同盟成立時の会話

信長さん
「徳川殿は三河から東を平定し、ワシが尾張より西を平定する。
さすれば天下はわけなく手に入るであろう。
天下平定の後、互いに敵対することになれば、
新田、足利の二の舞になるから、
もし織田が先に天下を取れば、徳川氏はこれに従い、
徳川氏が先に天下を取ったなら、織田氏が臣従することを約束しようではないか」

『武徳大成記』

360 :人間七七四年:2014/10/25(土) 17:12:57.67 ID:yyEBh1ry.net
三河から東に天下はないwww

361 :人間七七四年:2014/10/25(土) 17:13:44.90 ID:yyEBh1ry.net
まあいかにも、関東の江戸が「天下」になった江戸時代に作られた逸話だわな。
ただ信長って実際にも、自分の利益に則している限り、こういう調子のいいこと平然と言える人物ではあるねw

362 :人間七七四年:2014/10/25(土) 17:48:08.34 ID:yyEBh1ry.net
実際は徳川は属国だしな
成立過程からみても推移をみても

小国の悲哀というのをみせられるわ
こき使われるだけこき使われ土地はもらえない
なんかオスマン下のセルビアや中華帝国下の朝鮮がまさにあんなかんじ

363 :人間七七四年:2014/10/25(土) 17:48:56.84 ID:yyEBh1ry.net
織田との同盟下でも家康の領土の拡大率は戦国期でも屈指のものだぞ。
特に甲州征伐のあと駿遠三3ヶ国太守というのは、全国でもトップクラスの堂々たる大大名だし。
単純に属国などとみちゃいかんよ。

364 :人間七七四年:2014/10/25(土) 17:49:51.17 ID:yyEBh1ry.net
成立経緯はともかく、途中からは従属同盟だよね。
義昭追放前は同格扱いだけど、義昭追放後はあきらかに軽く扱われてるし。

365 :人間七七四年:2014/10/25(土) 19:26:08.67 ID:yyEBh1ry.net
駿遠三を任せられる、安土で信長自身により接待される存在が、軽く扱われるというのはちょっと同意できんわ。

366 :人間七七四年:2014/10/25(土) 19:26:55.64 ID:yyEBh1ry.net
そう信じるのは勝手だけど、織田、徳川間の書札礼を見ても
明らかに格下扱いだよ。

367 :人間七七四年:2014/10/25(土) 19:27:48.80 ID:yyEBh1ry.net
まあ、対等じゃないにしても従属というほどだったら織田と同盟してた武田と
戦うとか許されんやろう

368 :人間七七四年:2014/10/25(土) 20:01:26.55 ID:yyEBh1ry.net
格下と見れる文章が出始めたのは長篠の戦以後だったみたいだけどね

369 :人間七七四年:2014/10/25(土) 20:02:16.48 ID:yyEBh1ry.net
格下扱い≠軽く扱われる
ではなかろうか?

370 :人間七七四年:2014/10/25(土) 20:21:14.62 ID:yyEBh1ry.net
信長が盟主なのは明らかだな。
大恩ある水野信元の首が見たいと言う信長の強要に屈しきれず泣く泣く首を差し出す関係で対等の同盟国なんてことは有り得ん。

尾張物は公然と三河の犬と呼んでるし信康無理矢理切腹させられてるし隷属関係なのは明らか。

後年なんか家康自身が信長のこと上様って呼んでるw

371 :人間七七四年:2014/10/25(土) 21:41:41.15 ID:bydwHL6JN
>>370
信康は違え

372 :人間七七四年:2014/10/25(土) 21:23:17.85 ID:+S6eU+VB.net
別に信長は水野信元を家康に殺せと言ってた訳ではないぞ
任せると言っただけだ
その辺は岡崎市史等で言及されている
それに水野信元は秋山信友あたりと通じて、食料の横流しをしていた疑惑があって、
その上、弁明を聞きに来た信長からの使者を殺してしまったから(松平記)、
追われる身になったんだから自業自得だ

373 :人間七七四年:2014/10/25(土) 21:24:31.98 ID:+S6eU+VB.net
じゃあ家康が信長を上様って呼んでるのは何なの?
ん?w

374 :人間七七四年:2014/10/25(土) 21:25:28.56 ID:+S6eU+VB.net
いつ、どの時期呼んだの?

375 :人間七七四年:2014/10/25(土) 21:58:58.13 ID:+S6eU+VB.net
小説とかドラマの話じゃないか?

376 :人間七七四年:2014/10/25(土) 21:59:57.16 ID:+S6eU+VB.net
つうか嫡男ころしてるやん
明らかに対等ではない

377 :人間七七四年:2014/10/25(土) 22:32:59.87 ID:+S6eU+VB.net
それも織田からの命令ではなく、徳川家の判断によるもの

378 :人間七七四年:2014/10/25(土) 22:34:22.11 ID:+S6eU+VB.net
江戸時代の家康神格化の中で信長からの命令ということに捏造された

379 :人間七七四年:2014/10/25(土) 23:06:42.14 ID:+S6eU+VB.net
慶長12年(1607)、秀忠に将軍職を譲り駿府に隠居した徳川家康は、長崎に居たイエズス会員に
謁見を許した。その時の模様をキリシタンの側の記録より見てみよう

『…京都の知事(板倉勝重か)は京都より駿河に至る沿道の、公方(家康)の諸役人をして
師父に便宜を与えるため、彼らに宛てた回状をパエス師に授けました。プロバンシャルは京都の学院長
モレジョン師と、彼に常に従う師父一人と、日本人の法兄弟3人を伴い、8日後、駿府から5里ほど
離れた場所に到着し、そこで幕府よりの沙汰を待ちました。そして3日後、招きを受け駿府に入りました。

上野殿(本多正純)は人を遣わして我々が無事に到着したことを喜び、将軍の寵厚きソトサブロー殿
(後藤庄三郎か)は自ら我等のところに来て、我々のために周旋する旨を申し出されました。

翌日、謁見の儀式がありました。長崎の街に関係ある、とある大事件の為数日前に到着された
ジャン・ロドリゲス師もこの式に列席されました。上野殿は取次の役を勤められ、公方(家康)は
親切なる数語を述べられました。これは正式の謁見においては著しい名誉です。
かの国君はその謁見室から退かれたあと、近臣に向かい、謁見者の日本・支那に在る、同宗の人々に対する
権威が大なる事と、年々彼が命じた事について、そのまま従っていることに付いて長く語っておられたとのことです。

ここに摂理が密かに我等に幸いした一例として、特に語るべきことがあります。
それは謁見式の当日、公方の長子にも関わらず、正妻の子でなかったために位を継ぐことの出来なかった
越前公(結城秀康)薨去という凶報が駿府まで達したのですが、上野殿は、公方が若しこのことを知れば
謁見の式は延期され接待も厚く出来ないことを察知し、国君が謁見の前にこの報に接しないよう
全力をなし、越前より来る書状は全てこれを押さえ、その上謁見の時刻を早めにされました。
これは非常なる親切であり、大いに、我ら宣教師の利益となりました。

世の人々はこれにより、君主の意志の発表を待たずして我々が再びこの国内に滞在することを
許されたと考えて良い、と言います。日本の法によれば、追放令を発した人が、追放令を受けたものを
面前に出ることを許せば、この者は再び君寵を得たと理解されるためだからです。

我々は公方の子にて後継者たる人(秀忠)に敬意を表するため、江戸に向かいました。これにも上野殿は、
その父であり将軍の最も信頼されている顧問である本多佐渡殿(正信)宛の書状をプロバンシャルに与えました。

380 :人間七七四年:2014/10/25(土) 23:07:59.32 ID:+S6eU+VB.net
江戸は駿府より東方へ4日ほどの所にあり、途中には有名な山があります(富士山)。
この山は高く美しいため、日本の文士、美術家によって常に賞賛されています。
道は駿河より伊豆を経て相模に入ると、ここに日本の旧都にして、公方又は将軍の居所である
鎌倉があります。元は人家の数20万に上ったそうですが、この時は減じて、5千に満たないほどでした。
師父は2日間この地に滞在し古跡を見て回りましたが、中でも特に注意を引いたのは、
青銅の巨大な偶像が、田園の中に捨て置かれ、野鳥の休憩所となっていたと言うものでした。(鎌倉の大仏)

江戸に到着する2里前で、師父は江戸の信徒たちの出迎えを受けました。彼らは果物や食品などの
贈り物を携え我等を歓迎しました。

若き将軍(秀忠)は元来とても親切な方で、特に師父を厚遇されました。
城の最も奥の溜りの間には、帝国内で最も名高い僧が二人居ました。
一人はタイチャウラウ(大長老)、もう一人はガチャウ(学校か)と称され、彼らも将軍に
謁見するためここに訪れていたのです。京都の寺院の長老である僧侶数名もまた同室にありました。
ところがこの君(秀忠)は先に来た僧侶たちとの面会を後にし、先ずパエス師を召されたのです。

謁見式の後、本多佐渡殿、および相模殿(大久保忠隣)は師父を送って最後から一つ前の部屋に至ると、
宮中を案内するようにと命じました。この宮殿(江戸城)は壮麗であること公方の宮殿に劣らず、
装飾は黄金と最も名高い画家の手による絵画を以ってなされています。

師父が主な保護者である相模殿及び本多佐渡殿に暇乞いに行き、親切にて寛大である佐渡殿に、
日本の教会の利益を保護することを依頼し、布教の自由を求め、宣教師の説く聖法は日本の施政にも、
臣下の君主に対する服従にも、反対するところは些かも無く、全く道理に合い君主及び人民に、
むしろその義務を教えるものであることを言い添え、またこの教えは現世のために大いなる効用があり
来世のためにも更に必要なものであることを説き、佐渡殿より将軍に請うて、将軍の父君のごとく
庶民のみならず、諸侯及び貴族にも教会に入る自由を与えられることを懇請しました。

師父はこの様に好成績を得て駿河に向かって帰路につき、5ヶ月の愉快なる旅行の後、再び長崎に帰られました。』
(パジェー日本耶蘇教史)

381 :人間七七四年:2014/10/25(土) 23:09:49.19 ID:+S6eU+VB.net
いい話なのか悪い話なのかよくわからん
判断に任せる

382 :人間七七四年:2014/10/25(土) 23:44:24.90 ID:+S6eU+VB.net
天正14年の豊薩合戦で大友方の岡城は島津義弘・新納忠元が率いる大軍に包囲されていた。
守るは若き北志賀家の惣領・太郎親次弱冠18歳。しかも包囲軍の中には島津に寝返った父の道益(親度)と叔父の入田宗和(義実)の姿もあった。
また祖父の道輝(親守)も宗和や道益に同心していたものの宗和や道益のような表立った動きはしなかった。
この時は道益とは逆に孫と一緒に岡城に篭城していたという説もある。

親次と道益の父子が戦ったのはヤオではなくガチだがこの二人の仲は悪かったらしい。原因として大友義統への姿勢と信仰にあった。
道益は耳川合戦の前年、義統と対立し父共々誅殺されそうにことがあったことから義統を憎んでいた。
対して親次は大友家ひいては義統に対しても純忠一途の人物であった。さらに親次は熱心なキリシタンであり道益は熱心な仏教徒であった。
これらのこともありこの父子が仲が悪かったのはある意味必然だったかもしれない。

383 :人間七七四年:2014/10/25(土) 23:45:16.70 ID:+S6eU+VB.net
豊後国内では栂牟礼城の佐伯惟定や丹生島城の大友宗麟たちも奮戦中。志賀親次はさぞ「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…」な心境だっただろうが
決して逃げず寡兵で「天正の楠木」と評された戦ぶりで島津の大軍を何度も追い払い、たまらず手を焼いた島津義弘の降伏勧告を撥ね付け勇敢に戦い抜く。
島津軍の攻撃が膠着したのを機に近隣の城を奪回に乗りだす。折りしも豊臣秀長勢が豊後に到達。島津勢を追撃し反乱した南郡衆を滅ぼしていった。
その過程で父・道益を捕らえ言い訳一つも許さず問答無用でその場で自刃に追い込んだとも親次自ら斬ったとも言われている。
反逆した父に対する苛烈な処置とかは親次の名声を高める結果になったものの今度はその名声が皮肉にも主君・義統改め吉統に徐々に疎まれる原因になっていく…

384 :人間七七四年:2014/10/25(土) 23:46:13.67 ID:+S6eU+VB.net
それにしても大友義統絡みの逸話は悪久とは違った意味で後味の悪いのばかりだな。
元はと言えば自身に原因がある、みたいなのばっかり。
これでもノブヤボ烈風伝の時は政治力が53なんだよな。
氏真や勝頼・クマーより高いなんてありえん……

385 :人間七七四年:2014/10/26(日) 00:26:06.94 ID:+6rNuo+n.net
外交力だけはなぜか優秀な大友宗麟

386 :人間七七四年:2014/10/26(日) 00:26:50.81 ID:+6rNuo+n.net
宗麟はガチで優秀と思うけどね
その優秀さが霞むくらいダメ人間だけど

387 :人間七七四年:2014/10/26(日) 00:27:58.29 ID:+6rNuo+n.net
能力とそれを載せてる器の兼ね合いって難しいよね

388 :人間七七四年:2014/10/26(日) 00:58:56.87 ID:+6rNuo+n.net
宗麟は優秀な重臣が死ぬまでは優秀さと愚かさが混在してたが・・・

389 :人間七七四年:2014/10/26(日) 00:59:38.20 ID:+6rNuo+n.net
優秀な分ちょっとずれると一気にものすごい所まで行くんだろうなあ

390 :人間七七四年:2014/10/26(日) 01:00:27.93 ID:+6rNuo+n.net
優秀なDQNほど始末が悪いもんはねえ

391 :人間七七四年:2014/10/26(日) 09:56:33.78 ID:QDWIQqi7.net
伊達家の嫌がらせに機転を利かせて対処した立花家家臣・小田部土佐守統房を覚えているだろうか。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3922.html
嫁入り道具の入った長持を中身を取り出して片っ端から叩き壊し
すべて立花屋敷に運び入れることを成功させた男である。
伊達家と立花家(というか小田部個人)との間にはまた違う話が残っている。

小田部土佐守は非常に長い刀を佩いていたらしい。
どれくらい長かったかというと、鞘の先に車を付けて歩いていたとか。
(『キテレツ大百科』のコロ助みたいな感じか)
ある日、小田部は主君の命によって伊達屋敷を訪れたことがあった。
ある伊達家家臣が、小田部が長い刀をコロコロと転がして歩いているのを見つけ、
「あんな長い刀は見かけ倒しに違いない。実際中に刀なんて入ってねえんじゃねえの?」
ということで、鞘の先を割って見せて小田部に恥をかかせようとした。
どういう手を使ったかは不明だがその家臣の企みにより鞘の先を壊すことに成功。

392 :人間七七四年:2014/10/26(日) 09:57:27.39 ID:QDWIQqi7.net
さて中身は・・・・・・

あった。

ちゃんと入っていた。
割れた鞘の先から長い刀の先端がはっきりと見てとれたのである。
小田部は鞘を壊されたことに気が付いていたが、
素知らぬ顔で伊達家の屋敷をあちこち歩き回ったため、
屋敷の廊下は傷だらけ、畳はズタズタに。
しかし伊達家側は何も言えなかった。そう仕向けたのはこちらの方からだし、
小田部の室は宗茂の妹、一門衆レベルの重臣だったからだ。
伊達家にとっては悪い話だが、小田部土佐と立花家にとっては
度重なる嫌がらせから難を乗り切り、家格とプライドを守った良い話。
たぶんだけど、先の嫁入り話とセットの逸話なんじゃないかと思う。

393 :人間七七四年:2014/10/26(日) 09:58:27.30 ID:QDWIQqi7.net
これは……いい話か?
嫁入りの話とセットならこういうのは拙い気がするが

394 :人間七七四年:2014/10/26(日) 10:34:22.39 ID:QDWIQqi7.net
まあ意趣返しだから戦国時代的には天晴れちょっといい話なんじゃないかな
鞘を自分で改良して突き出た刃先で他家の畳をザクザクしてたら
その場でなにをされても仕方がないDQNだがw

395 :人間七七四年:2014/10/26(日) 10:35:12.49 ID:QDWIQqi7.net
実際に抜いて見せて斬りまくってみせればさらに良かった

396 :人間七七四年:2014/10/26(日) 10:35:57.63 ID:QDWIQqi7.net
伊達家中に止める奴・・・なんかいないか

397 :人間七七四年:2014/10/26(日) 11:13:48.68 ID:QDWIQqi7.net
思いついたことはやってみずにはいられない家風が染み付いておる

398 :人間七七四年:2014/10/26(日) 11:14:41.81 ID:QDWIQqi7.net
信長も長い刀の鞘先に車輪つけてたと聞いた
やっぱり普通の感覚からすれば異様に見えたかもね

399 :人間七七四年:2014/10/26(日) 11:16:35.46 ID:QDWIQqi7.net
十字架の根本に車輪がついてればイエスも楽に運べただろうに…

400 :人間七七四年:2014/10/26(日) 11:50:36.90 ID:QDWIQqi7.net
見せしめとしての刑罰台無しw

401 :人間七七四年:2014/10/26(日) 11:51:27.63 ID:QDWIQqi7.net
徳川家康が関東に入部した後、鎌倉八幡宮は神領千石を与えられた。
もともと八千石だったものが大幅に減らされたことに神主は嘆いて
家康に訴え出いたが、家康は用いようとはしなかった。

そこで神主は上京し、豊臣秀吉に訴え出たため、家康は村越茂助直吉を
派遣した。この時、家康は自分が着ていた獺虎の羽織を直吉に与えた。

すみやかに上京した直吉は与えられた羽織を着て秀吉に会おうとしたが、
その格好はあまりにも失礼だと止められ、市井で麻の上下をかりて秀吉の前に出た。

まず、社人が「この社は草創よりこの方、源家代々の崇敬があり〜」と
先例を語り始めた。しかし、直吉は口をあけて興味なさげであったので、

秀吉が「お前はこの者の話を聞いているのか」と問うと、直吉は
「もう一度お聞かせください」と言ったので社人はまた同じことを話した。

直吉は話を二度聞くと「なるほど、それは尊いことでございますね。
しかしながら、この直吉を始め家康譜代の者は三河以来、毎年の戦で
今日は討死するか、明日は血をそそぐかと朝夕苦辛してこのように僅かな禄を
得ております。

しかるに、関東へ移ってまだ間もない時期に、空手にして千石の神領を賜るとは、
家康はあまりにもうつけな沙汰をしたものだ。…と、私には思われます」と言った。

これを聞いて秀吉は大笑いし「いかにも直吉の言うことが道理である。
家康もそう思ってお前をよこしたのであろうな。いずれわしが家康と会って
とりはからうとしよう」と言ってそのまま両人を帰したという。

――『徳川実紀(兵家茶話)』

402 :人間七七四年:2014/10/26(日) 11:52:21.22 ID:QDWIQqi7.net
いかにも三河者らしい対応っすね〜

403 :人間七七四年:2014/10/26(日) 14:18:13.66 ID:iNnMdcOs.net
天正12年(1584)、「龍造寺隆信、沖田畷に死す」の報を受けた大友宗麟は、次男親家・三男親盛へ龍造寺氏に
奪われた筑後の平定を命じた。二人は筑後の各城を攻略していったが7月、猫尾城を攻めるに及んで戦線は膠着。
数十日経っても好転しない事態に、宗麟は立花道雪・高橋紹運の両将に援軍を要請した。

8月18日、猫尾城への急行・奇襲を目指し居城を発った立花・高橋勢が夜を迎えたところで、
高橋家の家臣が紹運に申し上げた。

「もはや夜半を過ぎ、月も傾きました。このまま進めば、筑後川辺りで夜が明けまする。明るい日差しのもと、
見通しの良い河原端を敵中行軍するのは、いかがなものでしょうか?」
「ならばその事、道雪殿に相談して参れ。」

紹運よりの使者・萩尾大学が口上を述べ終わると、道雪は板輿に乗ったまま口を開いた。

「ああ、早く夜が明けぬものか?!我らを見つけて寄せる者、みな撫で斬りにしてくれようぞ!!」

興奮した道雪は板輿の縁を叩き出し、あわてて自軍に戻った萩尾は、
「つまらぬ使者をして、恥をかいたではないか。」とグチをこぼした。(常山紀談より)


結局、両将は強行軍を敢行。途中、本当に筑後川の河原で城方の物見に会ったり、秋月勢と交戦したりするも
これを蹴散らして猫尾城に到着。9月1日には城を落としてしまったという。

404 :人間七七四年:2014/10/26(日) 14:19:13.69 ID:iNnMdcOs.net
『「柳川の合戦において、私ははじめて必死の場で槍働きをした。
もう二十間は突き進んだろうと思い見渡すと、もとの場にいる。
十間は進んだだろうと思っていると、二、三間も後退していた。
山県三郎兵衛という男は、家康公と合戦するときには、
いつも五、六間さきまで突き進んだと九州までも伝わっているが、
山県の槍が天下無双だということがその時に、
実感として始めてわかった」
と安芸殿(鍋島茂賢)の言葉である。
家康公が信玄と戦うときにはいつも山県が立ち向かったが、
一度も槍合わせにひけを取ったことがなく、
槍合わせのたびに、五、六間さきまで突き進んだものである。
山県は欠唇だったので、家康公は、
家中の者に欠唇の子が生まれたとお聞きになると、
その子は山県の再来だから大事に育てるようにと、
お喜びになられたとのことである』

葉隠

405 :人間七七四年:2014/10/26(日) 14:20:19.61 ID:iNnMdcOs.net
戸次道雪が常々言っていた事に

「侍に臆病な者はいないと確信している。もしそういう者が居たら、それはその当人の科ではなく、その主人の
使い方が悪いためである。悪しき主人を頼んだばかりに、惜しいかな侍を捨ててしまったのだ。
どうしてそんな事が言えるのかといえば、私に従ってくれている者たち(申合わせ候衆)は、侍身分は申すに及ばず、
中間・小者に至るまで度々手柄を立てない、という事は無いからなのだ。
他家において臆病の名高き者たちよ、かわいそうに、私のもとに参るが良い。私のもとで指導してみたいものだ。
仮に一度目は悪くても、二度目には必ず手柄を立てさせるだろう。」

実際に道雪のこの広言に違わず、道雪の配下に度々手柄を立てないような者はいなかった。

道雪がある時、とある若き者が初陣の合戦で遅れを取ったという悪口を言われている、と聞くと、彼を近くに召し寄せ

「其の方は昨日の合戦で些か遅れを取ったようだが、武辺の事は、そういう事が有るものなのだ。それは
全く以て臆病だからではない。出来・不出来・明・塞があるのが武辺なのだ。
特に其方が臆病でないことは、私は老巧でな、能く解っている。

さあ、明日にもまた合戦がある。其方、人に煽られて粗忽の働きをして、討ち死にしてはいかんぞ!
それはこの道雪に対し、最大の不忠である!
身を全うして敵を討つ分別こそ肝要なのだ。お前のような者たちが従ってくれるからこそ、この老いぼれも
口をきけるのだよ。偏に頼み入るぞ。」

その様なことをいかにも親しく、懇ろに申し聞かし、酒など飲ませ、自身の喉輪か脇引きといった小具足を取らせた。

次に合戦のあった時、この若者は火の散るほどの働きをした。そこで道雪は彼を大勢の前に呼び出し

「この者を見よ!お前たち、この道雪が見損じることはなかったぞ!
困ったことには、この者は逸り過ぎて討ち死にしてしまうのではないかと、片面では悔やんでいたのだ。
この者は今、牙に血をつけ面白く嬉しく、また思ったよりも武功を立てるのは簡単だと思っているだろう。
こういった若者が、これから次第に経験も重なり、この道雪の家において5人7人を争う武者になることも多いのだぞ。」

と、褒め称えた。

また道雪が平時に侍を召し使っている時、客人が訪問して、その侍に大いなる仕損じがあった。
普通の主人ならばしたたかに叱りつけるか、又は追放するほどの不調法をした時、道雪は打ち笑って

「御覧になって下さい、私に従ってくれている者たちはいずれも無調法にてなんとも困ったものなのですが、
こういう事になった時には、いつでも火花が散るのですよ。」

そう言って槍を繰り出す真似をした。客はこれを見て、「侍にとってそれより他に、何が必要でしょうか?」と
深く感じ入った。
無調法をした侍は、これによって当座の恥をすすぎ、かたじけなく思い涙を流した。
(古郷物語)

406 :人間七七四年:2014/10/26(日) 14:51:07.53 ID:iNnMdcOs.net
戸次道雪は若いころ雷にあたったため、歩行することが出来なかった。
そのため常に手輿に乗り、二尺七寸ばかりの高田打の刀、種子島の鉄砲一挺、三尺ばかりの手棒に腕貫をつけて
いつも手奥に入れ、また長刀だけを持った若侍を、定衆と名付け、これを100人、徒歩にて召し連れていた。

合戦が始まると道雪はこの定衆に手輿を担がせ、敵との距離が近くなれば、手棒にて乗り物の縁を叩き、
自身で

「えいとう!えいとう!」

と声高に音頭を取った。この拍子に合わせて

「輿を担ぎ、あの敵の真ん中に担ぎ入れて、そこに捨てよ!」

と、いきり立った。
手棒の拍子より少し遅いと思えば後先の担ぎ手を手棒にて打ち、打たれたものは敵の面前で
逃げたかのように互いに笑われたので、彼らは面も振らずに輿を担ぎ入れた。

輿を担がないものは長刀を抜き先に進んで攻めかかった。
先手の者たちは道雪の拍子が聞こえてくると、「すわ、例の音頭が出たぞ!懸かれ!」と、
優れた勇士たちが斬りかかるので、いかなる堅陣と言えども、駆け破られない、ということはなかった。

しかし戦の習い、道雪の戦において先手が追い立てられることも度々あった。それでも旗本が堅く踏みとどまるため
幾度も追い返し、最後に勝利しない、ということはなかった。
この様であったので道雪の家来には合戦のたびに、今日は幾度も槍を突いた、と言うものが大変に多かった。
(古郷物語)

407 :人間七七四年:2014/10/26(日) 14:52:32.99 ID:iNnMdcOs.net
戸次音頭の逸話もまとめサイトにあった(ただし別の逸話の中のお話だけど)
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3445.html

408 :人間七七四年:2014/10/26(日) 14:53:36.56 ID:iNnMdcOs.net
要するに戸次道雪凄すぎ

409 :人間七七四年:2014/10/26(日) 16:04:26.73 ID:iNnMdcOs.net
武者奉行である大将は合戦の際、絶えず前方にいるべきだ。
敵の首を取った者、怪我した者、そういう知らせが大将のもとに来る。大将が前におれば、それだけ前面の備えは厚くなって強くなる。
もし大将が後方にいた場合、先陣の兵も知らぬ間に後方に集まり、ちょっと敵に攻められると、おじけついて、我先にと逃げてしまうものだ。

『朝倉宗滴話記』より

410 :人間七七四年:2014/10/26(日) 16:05:22.68 ID:iNnMdcOs.net
それを体現したのが道雪のお神輿
大将がどんどん進めば家臣たちも前にいかざるをえない
能力のない大将がやると沖田畷みたいに大敗する諸刃の剣だが

411 :人間七七四年:2014/10/26(日) 18:16:11.81 ID:iTFEtavb.net
戸次道雪が立花城に移って以来、方々での働きにおいて手柄忠節の多さにより、豊後の大友家より
感悦の使者が送られた。しかし筑後路も敵領であり、通路がないので、豊前より船で海路をもって
遣わされた。

さて使いより道雪には、第一の褒美として旗竿を遣わすとの旨が伝えられた。これはとりわけ道雪のため、
吉日を選びこの使者が帰国して報告を次第、船にて送り遣わすとの事であった。
道雪はこれを承り悦び申すこと限りなく

「さて旗竿の事、家の面目、一代の名誉、老後の本望、いったい何事がこれに匹敵するでしょうか。
出来る事なら御本国へ伺候して頂戴したいのですが、方々の敵が隙を伺っている状況です。
そこで、幸いにもご舎弟の田原殿(大友義統の弟・大友親家)が、御代官として筑後黒木城に
御座なされております。ですので旗竿を黒木まで届けて頂ければ、この老体が彼の地まで罷り越し、
田原殿の御前において頂戴仕ります。私は大きすぎる冥加は恐ろしいと考えています。御使者によって
ここに直接に送られるのはどうか御免なされるようにお願いいたします。」

この様にたって申し上げた。
使者が豊後府内に帰ってこの旨を伝えると、大友義統の周りは困惑した。

「道雪が恐縮するのはともかく、立花城から黒木城まで行くのに、筑後までの七里余りは大敵秋月の領分であり、
特に城下一里余りの所を通り、また筑後の問註所氏(一族の一部が寝返っていた)の領内を四里ばかり、
これも城下半里ほどの場所を通ると牛島という巨大な坂があり、これはいかなる鬼神でも通れないような
場所である。

道雪め、自分の手柄の程を人に知らせんがため、広量な御請を申し上げたのだろう。
そんなふうに言ってもどうせ、まさか黒木に送るとは思っていないだろう。」

その様に言って、再び使者を添えて、船にて立花城に直接送った。
この時の道雪への批判は、府内にも多くの道雪贔屓の人々が居たので、彼らから道雪へと伝えられた。

412 :人間七七四年:2014/10/26(日) 18:17:22.23 ID:iTFEtavb.net
さて、立花城にて道雪は旗竿を受け取り、その祝宴も終わり使者が船で帰っていったその翌夜半、
道雪は立花城の館を出て、翌日は高橋紹運の領地である三笠郡に逗留、下々の足を休めると、また
夜半に打ち立ち、秋月領である長者町と言う所で夜が明けた。そこかた甘木という町を通り筑後川を越えた。
甘木は秋月城から一里半ばかりの場所であったが、秋月城からこの道雪の一行に向かって
軍勢が駆けつけることはなかった。これは、その頃侍たちは何れも知行地に召し置かれており、
普段は百姓をやっており、軍陣やその他、人の要る時だけ呼び出し召し使うという時代であった。

そのため道雪の一行の直接に見、あるいは聞きつけた者たちだけが在々より集まり、「道雪は
少人数で通るのなら、これを討ち取るべし!」と前後から攻めてきた。

さて道雪はあらかじめ「大勢を引き連れていくのはかえって良くない」と、精鋭を300人ほど、
何れも徒歩にて召し連れ、きっと手負いも出るだろうと馬も少々引き連れ、自身は例の手輿に乗り
先手と手廻りの二手に分け、先を塞ぐ者たちは先手が追い払い、後ろからくる敵には自身がとって返し
蹴散らし、道雪に向かって来るもの達は打ち捨てにした。

413 :人間七七四年:2014/10/26(日) 18:18:28.11 ID:iTFEtavb.net
この様にして秋月領内を難なく通りぬけ、筑後に入り問註所の城下半里ばかりの所を踏みつけ通り、牛島という
大坂を越えて、何事も無く黒木までたどり着いた。即座に大友親家に面談し、

「御旗竿をお預け頂き、これによる家の面目、弓箭を取るほどの者ならば皆望む程のものです。
老後の本望を遂げ、忝く存じ奉ります。
本来ならば御国元に参上して御礼申し上げるべきなのでしょうが、それがしが今他へ行ってしまえば
方々の敵たちが力を得てしまうと考え、ここまで罷り越しました。
貴方様は御屋形様の御代官であり、特に御兄弟でありますから、御屋形様を拝み奉るのと同じ事です。」

この様に御礼を懇ろに申し上げると、次の日早朝に黒木の城を出立する折、黒木城の軍勢は
問註所の城のある妙見獄を攻めることが決まっていた。
道雪一行は諸勢に先立ち妙見獄を通り過ぎ、問註所の領内を静々と通ったが、問註所の方では
防衛のため城に集結していたため在々に人はなく、心静かに秋月領まで進んだ。

秋月領内の者たちは、普段道雪に手ひどくやられているため、藪の中に隠れながら道雪一行を
監視する、といった有様であった。これによって道雪は何事も無く立花城に帰り着いた。

黒木において、大友親家に付き従っていた豊後の者たちは
「大軍勢で合戦をし、敵を蹴散らせばようやく通れるような場所であるのに、
わずか300人ほどの人数で、敵領12,3里の間を心静かに通り、道すがら遭遇した敵も打ち捨て、
しかも味方に負傷者もなかった。道雪とはなんと、武士冥加の強い侍なのだろうか。
あの人には軍神が乗り移っているのではないだろうか。」

そう、感嘆したそうである。
(古郷物語)

414 :人間七七四年:2014/10/26(日) 18:49:15.78 ID:iTFEtavb.net
北松斎(北信愛)と奴踊りの始まり

慶長6年4月26日、伊達に支援された和賀忠親の篭る岩崎城を陥落させた南部軍は、
戦勝に喜びながらもさすがに疲れた様子で、岩崎街道を花巻へと帰還していた。
既に時間も遅く、空には夜闇が立ち込め、兵達は煌煌と灯るたいまつを手に列を作って粛々と行進した。

そして南城というところにさしかかった頃、東の北上山地から光り輝く月が顔をのぞかせた。
北上川は月の光りを映して銀色にさざめき、街道の松の向こうには花巻城のいらかが見える。

先頭を歩む隊長は、自分と馬の影がくっきりと映るほどの、松明もいらないほどの明るさに興が乗り、
部下達に松明を捨てさせ、そしてそれを踏み消させながら朗々と馬上で歌いだした。
つられた士卒たちもこれを真似て歌いだした。

  地こぶのてっぺんから
  星の親玉顔出して
  火事の卵をがちゃりと踏んごわした

地こぶとは土のこぶ、すなわち山のこと。星の親玉とは月。火事の卵とは松明のあかりのこと。
そして火事の卵とは、和賀稗貫領でくすぶっていた和賀一党の反乱のことで、その光を星の親玉――北信愛がうち消した、という歌なのだ。
将士はこの歌をすっかりと覚えこんで、歌に合わせてだれともなく両手を動かし、左右に足さばきをつけて踊りながら歩いた。
これが今に続く奴踊りの一番歌、その元歌とされている。

その後時を経て、花巻にある観音寺の祭礼の際、城中の若侍たちが唐竹で大きな鯨をこしらえ、これを車に乗せて町を練り歩いた。
その山車は評判となり、松斎の耳にも届き、これを見物してすこぶる上機嫌となり、若侍たちに酒をふるまった。
若侍たちは酒興に乗り、例の歌を北松斎の前で歌い踊った。

松斎は大変喜び
「気味のいい歌だ、もっとつづけよ」
とほめそやし、さらに勢いづいた若侍たちは縁側にかけてあった大うちわを手に取り、それをかざして踊りまわった。
これが、にないもの奴踊りの始まりだという。

415 :人間七七四年:2014/10/26(日) 18:50:17.75 ID:iTFEtavb.net
慶長十七年三月、駿府で徳川家康は林羅山に質問をした。

「中庸に『道はそれ行はるべからず』とあるが、どうして行われなかったのだ」
「行われなかったのではなく、人君はみな暗愚であったので行うことができませんでした」

「では中とは何だ」
「中とはおよそ一定し難きことで、それぞれに格好の道理があることを申しまして、
理と申すも同じ様なことです。中にも権にも善悪があります。湯王と武王の故事は一見すると
悪しきことのようですが、その心は善でありました。古人の『逆に取て順に守る』に当たります」

「では善でも悪でもないのが中の至極か」
「それがしの愚意は尊旨とはまったく違います。中とはまったくの善であっていささかも
悪所のないことを申します。ゆえに善を善とし、悪を悪として取捨することも中ですし、
是非を考えて邪正を分かつのもまた中です」

羅山は湯武について ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2094.html のように言った。

「対して新の王莽や魏の曹操などは人の家国を奪い、己一身の驕奢だけを望んだ奸賊で
あって湯武とは天と地ほどの違いがあります。また『逆に取て順に守る』とは権謀術数の徒の
申す所にして、聖人の言われた権道とはまったく違います。

こうしたことはみな経典に記されておりますので、邪説のためにお疑いの心をお持ちにならない
ことが肝要です。古今聖人が懇ろに教え置いた言葉は、単なる理の一字には留まりません」

この時、家康は羅山の説の醇正さと明晰さに感心したとされる。

――『徳川実紀(羅山行状)』

416 :人間七七四年:2014/10/26(日) 18:52:18.83 ID:iTFEtavb.net
権現様「ふーむつまり、新・魏のような禅譲より殷・周のような放伐のほうが善ということだな」
林羅山「え?」

417 :人間七七四年:2014/10/26(日) 19:26:11.95 ID:iTFEtavb.net
地獄への道は善意で敷き詰められているという言葉もありましてな

418 :人間七七四年:2014/10/26(日) 19:27:17.07 ID:iTFEtavb.net
豊臣の天下奪った権現様になんて事言ってるんだよ

419 :人間七七四年:2014/10/27(月) 06:14:12.57 ID:LlmENwEJ.net
晋まではまだいいよ。所詮漢民族内の政遍歴なんだから。
そのあとの南北朝・五胡十六国のぐちゃぐちゃぶりの中から大義名分論が出てきて
江戸時代の儒家はそれに付き合わされて、ついには徳川幕府が自己否定してしまうわけだが。

420 :人間七七四年:2014/10/27(月) 06:15:22.20 ID:LlmENwEJ.net
ある時、薩摩島津軍が山越えをして敵城を目指すことがあった。いつ敵に見つかるか分からぬ土地で、
深く険しい山坂、道無き道を進むうち、さしもの薩摩隼人たちも根を上げた。

「い、いやぁ、しかしノドが渇くこと、ノドが渇くこと!」
「そうじゃのう・・ん?“のどの渇ける、の、ど、の、か、わ、け、る”・・・・・・
どうじゃ武蔵どの!歌数寄で知られた貴殿のこと、このような時でも上の句など付けられるかのう?」

危険な行軍のストレスを逸らすための座興か、イライラがつのっての無茶振りと言ったところだが、
お題を振られた新納武蔵守忠元は、すぐに上の句を詠んでみせた。

「 “中つかふ 女の足の ながければ” 」
「「おお!流石は武蔵どの!!」」

常と変わらぬ忠元に、島津家中は「やはり新納武蔵の武勇、比類無し」と賞賛した。(薩藩旧伝集より)

421 :人間七七四年:2014/10/27(月) 06:16:45.47 ID:LlmENwEJ.net
小田原の役の時、わずか十五歳の浅野幸長は疱瘡を病んでいたにもかかわらず、
父長政に出陣させてほしいと頼みこんだ。だが長政は「お前はまだ若い上に
病気でまともに立っていられないではないか。共に出陣できるわけがない」と

許してはくれず、再三頼み込んでもやはり許されなかった。しかし幸長の意志は
固く、老臣の堀田孫左衛門、松井又右衛門と相談して、先に出陣した父を追って

関東までやって来てしまった。さて幸長は岩槻城攻めでは馬を馳せて首級をあげた。
また、忍城攻めで長政の備えが崩れて引く時、幸長は槍を横たえて自軍の兵を
せき留めると「我はここにあり、お前たち私を見捨てるなよ」と只一騎進んでいった。

味方はこれを見て一同に引き返し、千駄口の砦を乗っ取った。その後、ある者が
秀吉に「幸長は御下知を待たずして勝手に動きましたぞ」と告げたが、秀吉は
「あの長満が生まれて七夜目に長政の家に入って、その泣き声を聞いた時、

『これは鳶が鷹を生んだな』と誉めたことがあったが、今の働きはまさに逸物の
鷹である」と言ったので、その者は口をつぐんだ。これによって幸長の名誉は
大いに知れ渡ることとなった。

――『名将言行録』

422 :人間七七四年:2014/10/27(月) 07:00:27.71 ID:LlmENwEJ.net
豊臣秀吉による四国征伐の後、四国の国割を行った時の事である。

秀吉は阿波を蜂須賀に、讃岐は仙石秀久、土佐は長宗我部元親、そして伊予国は小早川隆景に下した。
これに蜂須賀・仙石は拝領した国に直ぐに入部した。

ところが小早川隆景はいつまでたっても入部せず、それどころか内々に、この拝領を断ったと聞こえてきた。

隆景に伊予が与えられたのは、かつて本能寺の変により備中高松より撤退しようとする秀吉に、隆景が
律儀を立てて陣中で乱舞などを行い陣を静め、秀吉の撤退を助けたことが、後に秀吉の耳に入り
その感謝の印として与えられたのだ、と言うことだという。

隆景がこれを断った理由は、このようなものであった

「私がこの、伊予国を上様(秀吉)から直に拝領しましては、私は立場上、(毛利)輝元と同格の大名になってしまいます。
そうなっては、もし輝元の意向に反する事態が起こった時、上様の厚い恩義を被ってしまった以上、輝元に一味するのが
難しくなってしまいます。

私が何故こんな事を言うのかといえば、我が父毛利陸奥守元就が亡くなられる時、輝元を見放さないと、父親に対して
誓紙を出したためなのです。」

秀吉は奉行衆よりこれを聞くと深く感じ入り
「その分別、神妙である。ならば伊予は輝元に与え、輝元より隆景に遣わすようにすべし。」
と命じた。
隆景も「それならば」と、伊予を拝領したという。


小早川隆景、伊予拝領の次第である
(川角太閤記)

423 :人間七七四年:2014/10/27(月) 07:01:45.10 ID:LlmENwEJ.net
休松の戦い(秋月種実VS戸次道雪・吉弘鑑理・臼杵鑑速)

時は1567年9月3日
大友傘下の武将である古処山城主・秋月種実(当時20歳頃)は高橋鑑種に同調し大友氏に対して謀反を起こした。
当然怒った大友宗麟は戸次道雪・吉弘鑑理・臼杵鑑速の所謂「豊後三老」に秋月討伐を命じた。
大友勢は邑城・休松城を落とし本拠・古処山城に迫った。古処山城の守りは堅く名将・戸次道雪を以てしても
容易に落とせず膠着状態が続いた。折りしも秋月氏の盟友・毛利氏(種実は亡き毛利隆元と義兄弟の約を結んでいた)が
九州に迫るとの報を受けると大友傘下の国人衆は動揺し自領に引き上げてしまった。この状態を知った宗麟は一時撤退を命じる。

大友軍の撤退を見るや秋月種実は父・文種や長兄・晴種の仇を討つべく戸次勢に攻撃を加える。
これに対し道雪も異母弟・鑑方ら一族や由布雪下・小野和泉らと迎撃する。
戸次勢の猛攻に秋月勢は逆にに蹴散らされ多くの死者・負傷者を出して撤退。

翌日4日
秋月種実は夜半風雨の強い中夜襲を決行し再度大友勢を襲った。
臼杵・吉弘・戸次陣は秋月勢の夜襲によって大混乱に陥り臼杵勢や吉弘勢は崩れ立つ。
ここでも戸次道雪は冷静に対処し臼杵勢や吉弘勢を収容し撤退には成功したものの、
秋月勢に筑後山隈城まで追撃され多くの将兵を討たれてしまう。

この戦いでも道雪の奮戦は目立った反面、戸次一族や家臣の犠牲は甚大だった。
戸次一族は異母弟・鑑方を始め鎮比・親繁・親宗・親久が
家臣団では十時惟忠・ 小野鑑幸・ 由布惟清・ 綿貫吉廉が討死した。

ちなみに道雪に娘・ァ千代が生まれたのはこの2年後である。

424 :人間七七四年:2014/10/27(月) 07:32:32.10 ID:LlmENwEJ.net
秋月種実の大胆不敵な行動、あくまでも騙し討ちを嫌う戸次道雪

ある時秋月種実は僧に変装して博多に歌舞伎見物に出向くことにした。しかし博多はあの戸次道雪の勢力圏内にある。
種実からすれば道雪は父兄の仇だが道雪から見ても種実は弟や一族の仇である。種実の行動は大胆不敵ではあるが、
同時に危険極まりない行動である。この行動が戸次家中に気づかれないわけもなく戸次家中は色めきたった。
家臣の一人は道雪に「私めにお命じくだされば(種実を)討ち取って見せます」と囁いた。
すると道雪は怒ってその献策を退け、秋月城に急使を差し向けた。
「お忍びで博多へ出向かれるのを、わが家臣で狙う者がいるやもしれませぬ。ご用心なされよ」
例え相手が弟たちの仇であっても騙し討ちは嫌い相手に注意を促す、それが戸次道雪という武人。
(歴史群像シリーズ『戦国九州軍記』に載ってた話)

425 :人間七七四年:2014/10/27(月) 07:33:46.42 ID:LlmENwEJ.net
佐々成政が越中を支配していた頃、国中が栄えていたので古道を改修することにした。
ある所に両方を山に囲まれた三十間ばかりの大きな淵があった。谷底を廻って行く
難所だったので、成政はここに橋を掛けて、安心して往来できるようにしようと考えた。

ところが住民によると「昔からここには大蛇が住んでいて、毎年必ず犠牲者が出ます。
旅人はその話を聞いてここを通ろうとはしません」ということだった。

「それは本当か。なんて悪い奴だ。昔は好き勝手できたのだろうが、今は私の領地だ。
往来の邪魔は許さぬ。それならば早く追い出してしまおう」と言うと成政は淵に

石火矢を仕掛け、兵を集めて「私はこの国の守護として、この街道を昔のように
旅人が安心して通れるようにしようとしている。お前が毎年人を喰らっていることは
けしからんことだ。早くここから立ち去れ。何処へなりとも人の迷惑にならない所へ

行け。出て行かないなら酷いことになるぞ。まずは手並みを見せてやろう」と
石火矢数挺を天地も響くばかりに淵の底に打ち込ませた。

すると水面が逆波を立てて震動し始めて突然霧が降り、四方は暗くなった。
そして底より大蛇が長い竿のように出でると、それは一直線に十六、七町飛んで
山の尾崎に落ちた。この時、大地は大きく震動して山は崩れ、五十間ほどの
淵ができた。大蛇はそこを新しい棲みかとした。

この出来事の後、初めの淵に橋が掛けられ、往来は便利になったということだ。

――『名将言行録』

426 :人間七七四年:2014/10/27(月) 08:48:05.05 ID:LlmENwEJ.net
徳川家の石川善助はわずか三十貫ほどの家臣だったが、
後に徳川を去って加賀へ行き、三百貫の地に住み着いた。

しかし、三方ヶ原での敗戦を聞きつけると、善助は加賀を去って
再び旧主・徳川家康の前に現れた。

「今回の戦で上方より召抱えられた連中は、みな戦を恐れて逃げ散ったと
聞いています。上方の弱兵どもが何の役に立ちましょうや!

それがしは不肖の身なれど、御先途を見届けるために立ち還って参りました。
願わくはしばらくの間、それがしの罪を御許しください」

この時、家康は口では「汝がいないからといって困ることなどないわ」と
言ったが、本心では善助の質直さを喜び、彼を元のように仕えさせたという。

――『徳川実紀(明良洪範)』

427 :人間七七四年:2014/10/27(月) 08:49:26.66 ID:LlmENwEJ.net
スーパースターがやってきた! その1 『為広能州下向日記』より

畠山義総はあの名城七尾城を築いた人物。能登畠山氏全盛期を支えた名君であり、
都の文化人との交流を通して『源氏物語』や和歌への造詣を深めた文化人でもある。

1517年の秋、そんな能登七尾城下へ冷泉為広(当時68歳)がやってきた。
冷泉家は和歌宗匠のひとつであり、文芸界のスーパースターである。

為広( ´∀`)<お前らに和歌の真髄ってやつを教えてやんよ
義総とその部下たち<キタ━━━( ´∀`)・ω・) ゚Д゚)・∀・) ̄ー ̄)´_ゝ`)━━━!!!

このとき為広の元に集まった謝礼金が現在の価値で約1600万円。荘園からの収入が
途絶えがちな冷泉家にとってはまさにほくほくの収入である。

さらに、能登は海に囲まれた土地柄なので、
・イリコ…ナマコの腸を干したもの
・背ワタ…鮭の背骨についてる血を使った塩辛の一種
などという珍味もいただいたらしい。

428 :人間七七四年:2014/10/27(月) 08:50:27.84 ID:LlmENwEJ.net
スーパースターがやってきた! その2 『為広能州下向日記』より

実は畠山義総、あの藤原定家自筆による勅撰和歌集を所持していた。
その名も『後撰和歌集』、古今和歌集の次に作られた作品集である。

ところが残念なことに、その自筆本には所々に欠けている部分があった。
それを知った為広さん、義総にさっそくアドバイス。

為広( ´∀`)<ウチ(冷泉家)に写本あるから、それ書き写せばいいんじゃね?
義総(;´Д`)<ま、マジでいいんすか?
為広( ´∀`)<いいよ。あとで息子に声かけとくわ。

その後まもなく、息子為和が父の言いつけ通りに欠落部を修正。
しかも為広が奥書(その書物の来歴などの記録)を記してあげるおまけ付き。

ちなみにこの為広さん、能登がたいそうお気に入りだったらしく、
この地において亡くなった(76歳)という説もあるそうです。

429 :人間七七四年:2014/10/27(月) 17:27:39.10 ID:/YGMFhTM.net
熾烈を極めた蔚山城の戦いの時(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1549.html)
浅野幸長は自ら銃を手に取り、数多くの敵兵を殺害した。

そのため、幸長の顔の半分ほどが薬煙で黒くなっていた。ある人がそんな幸長の様子を見て、
「浅野殿は殿下の御親戚なのですから、急ぎ本丸へお入り下さい」と勧めたが、

幸長は断って二の丸に留まり続けた。それは蔚山城が加藤清正の城だったからである。
幸長はこの時、二十三歳。その老熟した人のような統率振りに誰もが感嘆した。

――『名将言行録』

430 :人間七七四年:2014/10/27(月) 17:28:28.74 ID:/YGMFhTM.net
家康公の御家来の成瀬小吉を太閤様が御所望になり、
その御話を小吉がお断わりしたと「松永聞書」にあるが、
そのときの話である。

太閤様は言う
「家康殿の家来はみな格別に性根がちがうようだ。
なにか武士の育て方に秘伝があるのではないかな。
是非、ワシに教えてはくれぬか?」

家康公は、
「とりたてて特別なことはしていません」

と、お答えになったが、太閤様がさらにお尋ねになるので、

家康公は、
「とくに変わったことはないのですが、
百石以上の者は犬のように扱い、
それより下の者は猿のように扱っております。」

とおおせになった。
太閤様はしばらく目を閉じておられたが、

「十分に合点がいった。今日より人の育て方では徳川殿の弟子となろう」

とおおせられた。
このとき、その場にいた小姓たちが笑ったので、
家康公がお帰りになられたあとで、
「その方どもは何を笑う?」
とお叱りになると、小姓たちは、
「徳川殿の家来は、みな畜生でございますか」
と笑いを我慢しながら答えるので、
太閤様は、

「犬と猿との区別に要点があるのだ」

と説明なさったとのことである 【葉隠】

431 :人間七七四年:2014/10/27(月) 17:29:31.47 ID:/YGMFhTM.net
たぬきの家来の犬と猿

432 :人間七七四年:2014/10/27(月) 18:00:00.20 ID:/YGMFhTM.net
1599年正月、藤堂高虎が伏見の家康邸に急行して大坂の不穏な動きを告げに来た。
有馬の猿楽興行に招かれて不在の家康に代わり井伊直政が応対に出た。
話を聞くと直ちに有馬邸の家康に告げ、家康もすぐに邸に帰ったが別に驚いた様子も無かった。
それから3日後に大坂から使者がやって来て家康逆心の気配有るを譴責した。

京大坂の空気は一気に戦争状態となった。
その頃、伏見の闇に家康生害の噂が流れた。
これは大坂より問責された家康が自刃したと事情を知らない人々が早合点した単なる流言だが
これには流石の家康も驚き訳を聞こうと世情に通じる直政を呼び付けたが
いつも傍近くに居る筈の直政は外に出ていないという。
小半刻し早馬で直政が帰館した。
「この物騒な最中に、何処へ行っておったのじゃ」家康が咎める。
「殿が御生害したなどととんでもない噂をわめく者がおりますゆえ外聞に出ておりました。
殿ほどの御方に腹切らすなど思いもよらぬ事ですが左様であれば大坂より敵勢が辻々に押し寄せると存じ
御館は勿論、心もとなき所は実見して参りましたが、何処も堅固にて拙者がわけを話したら騒がしいのも収まりました」
これを聞くと家康もようやく安堵し労を称賛し寝についた。

もともと家康の伏見の館は防備が心許なかった。
心配した家臣らが京極高次の大津城に移るとか何とか安全な道を構ずるべきだと進言したが
敵を恐れて逃げ落ちたと言われたら名折れもいいとこで
平威を天下に奮う事ができなくなる。そんな外聞もあってか家康は取り合わなかった。
直政は江戸より加勢の呼び寄せを進言したがこれも斥けられた。
しかし上方の足並みがいかに不揃いであるとはいえ、押し寄せてきたら相手が数の上で絶対的に優勢である。
家康に心を寄せる諸大名は多いがそれも形勢次第でどうなるか分からない。
家康は窮地に有る、と外界を知る直政はよく理解していた。
直政は家康の言に反してひそかに江戸へ援軍の手配をした。

433 :人間七七四年:2014/10/27(月) 18:00:44.95 ID:/YGMFhTM.net
そうこうしている間にも戦気は募るばかりでもし今大坂方と戦となれば寡勢の徳川方は全員玉砕の憂き目を見るかもしれない。
死を決した直政は配下の木俣守勝に最後の事を諮った。
「この上は主君の切腹の介錯をし自分も殉死する。お前は決死の合戦をし討死せよ」
すると守勝は笑みさえ浮かべ「これは普段の侍従殿に似合わぬ死狂の仰せ」と応じ
更に一膝進めてこう言った。
「大殿より大坂方へこう仰せに遣わせませ。家康伏見にあれば、おのおの気遣いされるようだから近々関東へ下ることにした。
その用意の為、5,6日中に向島へ移転する。その際に太閤殿下の向島の御茶屋を拝借したいと申すのでございます。
加賀大納言や五奉行の面々は大殿が伏見におわすのを最も嫌いますゆえこの申し出を了承致しましょう。
向島に御移りありて柵を付給はば、大坂より取りかかるとも急にはなり申さず」
「成る程、そうすればその内に関東の味方が馳せ参じるというわけじゃな
しかし柵をふるには材木が要る。その備えや兵糧や薪その他の配慮は如何に」
「材木は手の者に調べさせ備えは十分です。兵糧なども20日は持ち堪えられます」
20日も日が稼げれば必ず加勢が来る。1万もあれば上方が10万の兵で押し寄せようとも負けるに及ばず。
さすが齢の功じゃと感心し、早速に家康に言上し、家康は諸手をあげて同意した。
予見通り大坂方は向島移転を一議もなく認め、3月下旬に向島へ移った。
このとき直政は豊後橋を警衛して移動を安全ならしめた。

向島を要害とみたて思い切った伏見脱出を試みた家康の戦略眼は諸侯を瞠目させるに十分だった。
次の天下は徳川とみた諸侯が家康の意を得ようと懸命になりその結果、家康の威光はますます高まった。
徳川陣営実力者の筆頭で家康への窓口として最も近く信頼出来る直政の邸門はこの時期たいへんな混雑をきわめた。

『井伊軍志』より
この箇所の出典は「東照宮御実紀付録」、「慶長記」、「藤堂記」、「東日記」など

434 :人間七七四年:2014/10/27(月) 18:01:44.88 ID:/YGMFhTM.net
徳川家は誰かが激情に駆られると必ず冷めた態度の人が現れるな
全員で玉砕とか、全員逃げ腰、という事態が起らないのが強みかもしれない

435 :人間七七四年:2014/10/27(月) 18:57:09.09 ID:/YGMFhTM.net
徳川家康は折に触れて源頼朝の事跡を評論することが多かった。

「頼朝が蛭ヶ小島に潜居していた時、『もし私が本意を遂げて天下の兵権を
握ったとしたら、かならずお前に恩禄をとらせるぞ』と家僕に語られたところ、
その家僕は嘲笑ったという。

後に頼朝が将軍職になられて、あまねく恩賞が施された。しかし、その者は
恩賞にあずかることができなかった。そこでその者は頼朝に昔のことを言い出した。
頼朝は『お前は昔私の言葉を笑ったことを忘れたのか』と言った。

するとその者は『いや忘れてはおりません。しかしながら、よく考えて下さいませ、
昔より、あんなにも頼りに思えない主君に今まで付き添って参ったそれがしのことを。

最初からあなた様に仕えて功名を立てようと思っていた連中に比べれば、それがしは
忠義者ではありませんか』と申した。これには頼朝も理に屈して厚恩を施したという話だ。

これは、その者の言葉が実にもっともなことであったな」

――『徳川実紀(駿河土産)』

436 :人間七七四年:2014/10/27(月) 18:58:11.66 ID:/YGMFhTM.net
小田原の役の後、豊臣秀吉は堀尾吉晴に曰く

「わしが藤吉郎と名乗っていた頃から、お前はわしに仕えてきたが、
数度の戦場を経験して、今までに一度も負けたことがないな。

今、わしは天下の主宰となり、最高の地位についた。
それはひとえに諸将の粉骨砕身によるものだ。
しかし、その中でもお前の功労は万人に勝っている。

その昔、源頼光には四天王がおったが、お前はわしにとっての四天王だ」

そのように言うと秀吉は吉晴を浜松城に封じたという。

――『名将言行録』

437 :人間七七四年:2014/10/27(月) 18:58:59.18 ID:/YGMFhTM.net
ありふれた夫婦の話

徳川家光が三代将軍となって間もないころ、江戸柳原の裏長屋に、一組の浪人夫婦が住み着いた。浪人者のこと、
日々貧しい暮らしを送っていたが、しばらくして浪人は突然「京へ行く」と言って、旅立ってしまった。

残された浪人の夫人はさらに困窮するようになり、その哀れさに近所の長屋衆は夫人を何くれとなく気遣った。
「しかし、ご主人は何で遠い京まで行かれたのかね?」
ある日、浪人の消息について聞いた長屋衆に、夫人は答えた。

「私の夫は、佐治縫殿助と言います。実は、新太郎少将様(池田光政)から夫に『千石で仕えないか』という
お話があったのですが、夫は『二千石なら奉公いたします』と答え、交渉のために京へ向かったのです。」
浪人の素性を知った長屋衆は、白けた。失笑する者もいた。

佐治縫殿と言えば、富田信高に仕えて武勇を知られた士だったが、富田家を退転した後は小早川秀秋、
小早川家改易後は後藤又兵衛の家臣となり、大坂の陣後に浪人している、いわば『縁起の悪い侍』であり、
そんな男を先々代が『西国将軍』とまで呼ばれた大大名が高禄で雇うとは思えない。

これ以降、夫人を気遣う人はめっきり減り、口さがない者は夫人を『千石婆』と呼び、陰口を叩いた。


それからまたしばらく経ったある日。柳原の裏長屋に、金覆輪の鞍を置いた駿馬にまたがった立派な武士が
十人ほどの従者を連れ、やって来た。武士は勝手知ったる様子で長屋の片隅へ向かい、戸を開けた。

「すまぬ。遅くなった。」「お前様・・・・・・」

「佐治縫殿にござる。留守中、妻が世話になり申した。」空いた口のふさがらぬ長屋衆をよそに、
隣近所に丁重な礼を述べ、礼物まで贈った縫殿は、夫人を馬に乗せ西国へと去って行った。(常山紀談より)

438 :人間七七四年:2014/10/27(月) 22:06:43.85 ID:Hr7n15JO.net
大坂夏の陣の時、徳川家康が茶臼山に据えた陣では祝詞を述べるために諸大将が次々と
参謁した。この時、徳川頼宣はろくに戦うことが出来なかったことを悔いて、「十四歳なのは
今だけだ」と、慰める松平正綱を睨みつけた。(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-709.html)

その後、本多正信が馬に乗って上がってくるのを見た家康が「坂まで上れ」と言うと、
正信は「もちろんですとも」と、家康の側までやって来た。

この時、藤堂高虎が「佐州早いな」と言うと、正信は「今日の私の武者振りはどうですかな」
と笑った。その日の正信は兜羅綿の羽織に裏付の袴、五位の太刀を身に着けていた。

さてその時、城中から黒煙が上がっているのを見ていた家康は小出吉英を呼び、「あれを見よ」と
言った。吉英は城の方を熟視して両手をつき「なんと痛ましいことでしょう」と言った。

その様子を見て家康は「汝の境遇で只今の申しぶりは殊勝である」と言った。吉英は豊臣家の
旧恩を受けた者であったが、その過去を忘れていないことは家康の心に深くとどめられた。
(こちらでは三尹 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5389.html)

それから家康は俄かに「夏目を呼べ」と言い出した。それは夏目吉信の三子・長右衛門信次
のことであったが、信次は小身ゆえに旗馬印もないので、どこにいるのかも分からず、
使番があちこちを探し回ってなんとか見つけ出すことができた。

この時、家康が「昔、汝の父が三方ヶ原でわしに代わって一命をなげうったことは
忠節の至りだ」と言葉をかけたので、信次は思わぬ賞詞に感激して涙を流した。

このような勝利の時にも旧功の者のことを思い出して言葉をかけたのは、小出が豊臣家の
旧恩を忘れていなかったことを賞したことに起因し、家康の仁厚の深さを感じない者はいなかった。

――『徳川実紀(天元実記、古人物語)』

439 :人間七七四年:2014/10/27(月) 22:07:46.53 ID:Hr7n15JO.net
加藤光泰が甲斐国主だったころの話

ある日、光泰は領内の寺に立ち寄った。
そこでは勘太郎という少年が養育されており、彼が茶などを給仕した。
彼はこれを機に加藤家に仕官したいと考え、森五郎兵衛という光泰の家臣に斡旋を依頼した。
五郎兵衛は早速報告した。しかし光泰は、
「そうか」
と、言ったきりさっぱり音沙汰をよこさない。
五郎兵衛は非常に気の短い人物であった。
日数が経つにつれ、焦れて耐えられなくなってきた。

ある夜更け。
五郎兵衛は光泰が眠りについたのを見計らい、その寝所を急襲した。
眠っていた光泰だが、突然の闖入者に驚いて飛び起きた。
「一体どうした! どこで何が起こったというのだ!」
何らかの緊急事態が発生したと考え、急ぎ脇指を差し褥の上に座って問いただした光泰に、五郎兵衛は答えた。
「別に何も起きていません!」
「は?」
「勘太郎のことは一体どうなっているのでしょうか? 是非召抱えるべきです! そうするべきです!」
真夜中にいきなり叩き起こされて吃驚したのに、それが物凄くどうでもいい要件のせいだと知った光泰。
キレた。
相婿同士で付き合いの長い五郎兵衛にとって逆上した主君が殺してくることなど最初から予想の範囲内だったので、
光泰が脇指を抜ききるのを目視する前に一目散に外へ逃げた。

五郎兵衛が去って、暫く。
冷静さを取り戻した光泰は再び眠りにつこうとしていた。
「殿」
そんなところに人影が。
「先刻申し上げた勘太郎のこと勿論ちゃんと考えましたよね? どうなさるおつもりですか? 召抱えますよね?」
五郎兵衛は全く諦めていなかった。
真っ直ぐにひたすら催促しまくる五郎兵衛のあまりの熱心さに、
光泰は心を打たれたのか眠かったのか、とにかく先程とは打って変わって、
「義兄上がそこまで言うなら召抱える」
と言い、勘太郎を召抱えることに決めたという。

こうして勘太郎は無事に家臣になることができ、五郎兵衛は彼を光泰に紹介しながら礼を言ったそうだ。

(温故集)

440 :人間七七四年:2014/10/27(月) 22:08:48.40 ID:Hr7n15JO.net
豊臣秀吉は既に織田氏に代わって政治を畿内になしていた。
小田原の北条氏にはたびたび秀吉の使者が訪れ、上京を促した。

北条氏規は氏政の弟として報使に選ばれ上京した。この時、
秀吉は慇懃に氏政父子の上京を勧めた。氏規は秀吉に向かい、

「承りました詳細は氏政父子に申し聞かせます。御慇懃の仰せには
感謝してもしきれないほどです。しかしながら、万が一氏政父子が

上京することなく、無事が破れて関東へ御進発なさる時には、
いかなる仰せがあろうとも、親族兄弟を離れて御内通するなど

ということはありえません。氏規は必ず先鋒となり、
あなたに錆矢を奉りましょう」と言った。

これを聞いた秀吉は「どうして無事が破れるだろうか。
それこそ貴殿の働き次第ではないか。よきに計らって兎も角上京を
勧められよ」と慇懃を尽くして氏規を帰したという。

――『名将言行録』

441 :人間七七四年:2014/10/27(月) 22:44:19.36 ID:Hr7n15JO.net
中野数馬政利は、
「茶の湯に古い道具を用いるのは不粋だ。
新しい器を使えばよいではないか。
と考える人々がいる。
逆に、古い道具は落ち着いていて、
けばけばしくないから使うのだなどと言う人々もある。
しかし、それらはみな思い違いである。
古い道具は、身分の低い者が使ったものでありながら、
長き年月の徳が備わっているからこそ、
身分の高い人の手にも触れられるのである。
それは武士とても同じことである。
賤しい身分から高い位に上がった人は徳があるからこそである。
それを、氏素性も分からぬような人間と同僚になるのは嫌だとか、
つい先ごろまで足軽であった者を頭と呼ぶのは耐えられない、
などと思うのはもってのほかの態度である。
はじめからその地位にある人よりも、
下から登ってきた人に対し、
その徳を貴び、崇敬するのが当然である」
と言われた 【葉隠】

442 :人間七七四年:2014/10/27(月) 22:45:29.78 ID:Hr7n15JO.net
真田幸隆は村上義清によって真田の地を追われ、上州箕輪に逃れて長源寺という寺に身を寄せた。
この寺での幸隆の扱いはけして良いものではなかったが
寺で知客の役にあった晃運という僧が幸隆の境遇を憐んで何かと世話を焼いてくれた為
二人は遠慮のない親しい間柄となった

ある時幸隆は戯れてこのようなことを言った。
「禿坊主、お前は儂に良くしてくれた。真田を取り戻したら寺を建てお前を招こう。」
晃運も怒ったような真似をして答えた。
「貴殿は臆病者である。はたして何が出来よう。」
そして二人は大いに笑いあった。

のちに幸隆は武田信玄の配下となって村上義清と戦い、これを越後に奔らせた。
旧領真田を取り戻した幸隆は長国寺という寺を建て、真田山と号して晃運を開山にし徳に酬いた。

『長国寺記』

443 :人間七七四年:2014/10/27(月) 22:46:18.32 ID:Hr7n15JO.net
天正15年(1587)、肥後国人一揆が起こる。この影響は小早川隆景の領する筑前煮も波及するかに見えた。

そもそも肥後の一揆は佐々成政の手荒い施政が原因であった。検地をし、さらには、
昔から港より運搬する荷物を運ぶ使役を、三里とされていた所は五里に、五里とされていたところは八里運ばせる
ようにした。このように荒い仕置を行ったために、一揆が起こったのだ。

小早川隆景は肥後に一揆が起こったことを聞くと、この筑前でも一揆が起こりうると判断し、すぐさま国中に
制札を立てた。

『筑前においては、年貢も、津出し(港への荷物運搬の使役)も、小物成(その他の雑税)にいたるまで、
全て昔のままの年貢沙汰とする。』

この制札が出ると、筑前において一揆を計画していた者たちもそれを取りやめ、結果小早川領の筑前は
何事も起こること無かったとのことである。

(川角太閤記)

444 :人間七七四年:2014/10/27(月) 23:20:02.45 ID:Hr7n15JO.net
どんな時も。藤堂高虎

四郎左衛門が、
「わが殿ほど清廉潔白なお方はおられぬ。」と言えば、
兵左衛門は、
「これほど私利私欲のないお方もおられますまい。」と言う。

彦左衛門が言うには、
「伊勢・伊賀・山城・大和の収納を予め計算し、
藩士の知行・切米・扶持がそれぞれいくら、藩費がいくら、家計費がいくら、と定めると
その細目に至るまでいちいち予算額を立てられる。
それを超過する場合は厳しく当事者を責め、少しも見逃ぬのじゃ。」とのこと。さらに、

「藩士の録分に余剰があれば、有能な士を召抱えるか、精励の士に増録する。
逆に怠慢や不謹慎で士風を乱す者は追放し、新たに良き士を礼を尽くして召抱える。
そのため、皆日頃の行いを慎み、人馬・武具の貯蔵に不足しないのだ。」と言う。

「いやいや、厳しいばかりでもござらぬ。」と彦左衛門。
「臨時に知行米に余剰が生じたら、米を一分金・豆板銀に替えられ、
それを革袋に盛って、屋敷内の大広間に小吏らを集めては
御自らの手でそれを撒き散らして拾い取らせるそうじゃ。」

「とにかく、どんな時も藩士知行分の予算の余剰は
御自分のことに流用されたことがない。」と言うのは四郎左衛門。

彼らは、主君藤堂高虎を評して、たびたびそう語り合った。
                           (開国遺事)

445 :人間七七四年:2014/10/27(月) 23:21:01.81 ID:Hr7n15JO.net
文禄元年正月二日、聚楽の邸にて謡初の式が行われた。
着座は第一が豊臣秀次、第二が織田秀信と定められた。

これに前田利家が「秀信は正しく織田殿の孫なのだから
第一たるべきだ。今日の儀注は誰が書いたのだ」と言うと、

石田三成が「それがしが殿下の仰せにより書きました」と言った。
そこで利家が豊臣秀吉にこのことを告げると、

「それは道理だが、秀次は我が甥ゆえ、ゆくゆくは養子にして
家を継がせるつもりだから第一座に定めたのだ」と、秀吉は答えた。

主張を聴き入れようとしない秀吉に気分を害した利家は座を立とうと
したが、その様子を見ていた徳川家康に「利家、しばし待たれよ」と

引き止められた。続けて家康は秀吉に向かい「殿下はかりにも秀信を
後見なさったゆえ、織田家の旧臣もみな帰服しました。

いま利家が秀信を上座に立てようとするのも旧義を忘れない心から
であって、決して秀信の味方をしているわけではありません。

ですから秀信を別に奥の間にて拝礼盃酌の儀を済まし、
表様では秀次を一座につけなされば、人心事体において両方の
便宜を得られるのではないでしょうか」と言った。

秀吉もその理にかなった処置に感心し、その通りに処理したことで
謡初の式は事故なく遂行された。

――『徳川実紀(武辺咄聞書)』

446 :人間七七四年:2014/10/27(月) 23:53:46.68 ID:Hr7n15JO.net
延岡藩主・高橋元種は秋月種実の三男にして高橋鑑種(宗仙)が大友家から追われた後に養子になった人物だった。
高橋家の正統論争は元種の養父・鑑種と鑑種追放後に高橋家を継いだ鎮種(紹運)の頃からあった。
その論争は子の世代に当たる元種と戸次統虎・高橋統増兄弟の時代まで続いていたが、九州征伐後秀吉の裁定で高橋家の正統は元種となった。
代わりに統虎には養父・道雪以来大友家より禁じられていた立花姓の名乗りを許すことでバランスを取った。
時は移り慶長18年(1613年)、元種の延岡藩は大久保長安事件や坂崎左衛門隠匿の罪で改易となる。
元種父子の身柄を預かったのは父祖の代より因縁のある棚倉藩主立花宗茂。
宗茂は義理の従兄弟にしてライバルでもあった元種を客将として厚遇している。また幕閣に元種の赦免を嘆願したり元種にもアドバイスをしたとされる。
しかし元種は東北の気候が堪えたのか改易の翌年に病死してしまい宗茂の奔走は水泡に帰してしまう。

高橋元種の病死から6年後、宗茂は柳川藩主・田中家が無嗣断絶したことに伴い柳川に復帰する。宗茂は、取り潰された田中旧臣の登用を厳禁した。
その理由について宗茂は田中忠政・吉政が関ヶ原合戦で親友・石田三成を捕えた手柄で、大大名になったことを嫌悪していたからだとされる。
の助命に奔走したのは他ならぬ三成だったし、吉政が手柄を上げられたのも三成の配慮があったからである。
豊臣秀次切腹時には三成のおかげで吉政が助かったのに恩人にして友人・三成の助命を図ることを全くせずあまつさえ佐和山城を攻め立てたことなどを嫌悪していた。
さて柳川城下は田中氏時代に都市も整備され屋敷も立派になっていた。
家臣たちがこのことについて「おかげで他国の使者に対して恥をかかずに済み申した」と述べると
宗茂曰く「立派な屋敷だと下々のものが寄りつくかなくなるし上と下との差が大きくなる。ボロ屋敷でも家の名には傷が付かない。田中殿は立派な家屋敷を持ったがその為に財政が逼迫し大坂に参軍出来ずついには滅んでしまった」と述べた。
たとえ因縁ある相手であっても一旦見込めば厚遇するし相手がDQNでもうまくつき合う宗茂さんも田中吉政は大嫌い。
ちなみに前田利長も大嫌いだったのは有名。

447 :人間七七四年:2014/10/27(月) 23:54:59.76 ID:Hr7n15JO.net
高橋元種の病死から6年後、宗茂は柳川藩主・田中忠政が病死し田中家が無嗣断絶したことに伴い柳川に復帰する。
宗茂は取り潰された田中旧臣の登用を厳禁し、取り潰された加藤忠広家や柳川時代の旧臣を登用した。
その理由について宗茂は田中忠政の父・吉政が関ヶ原合戦で親友・石田三成を捕えた手柄で大大名になったことを嫌悪していたからとされる。
かつて豊臣秀次家老時代に三成が吉政の助命に奔走したおかげで切腹させられた前野長康・渡瀬繁詮・木村常陸介・服部一忠(小平太)たちと違いお咎めなしになっている。
恩人で友人の三成の助命を図った様子は見えなかったがこの頃でもお互いそれなりの友情は抱いており
吉政は薬を嫌う三成に韮粥を勧め与えた。三成は太閤より譲られた名刀・石田貞宗を吉政に贈っている。

さて柳川城下は吉政が都市設計に長けていたこともあり田中氏時代に都市も整備され屋敷も立派になっていた。
家臣たちがこのことについて「おかげで他国の使者に対して恥をかかずに済み申した」と述べると
宗茂曰く「立派な屋敷だと下々のものが寄りつくかなくなるし上と下との差が大きくなる。ボロ屋敷でも家の名には傷が付かない。田中殿は立派な家屋敷を持ったがその為に財政が逼迫し大坂に参軍出来ずついには滅んでしまった」と述べた。
たとえ因縁ある相手であっても一旦見込めば厚遇するし相手がDQNでもうまくつき合う立花宗茂だが田中吉政は大嫌い。
田中吉政も物に恬淡で大らかで闊達と評されるが宮部長房への仕打ちに見られるように狡猾な部分が多々あり宗茂はそれを嫌ったのだろう。
ちなみに前田利長も大嫌いだったのは有名。

448 :人間七七四年:2014/10/27(月) 23:56:06.54 ID:Hr7n15JO.net
これは悪い話かな

449 :人間七七四年:2014/10/28(火) 06:08:57.50 ID:ff47D17G.net
徳川家康の言行二つ:

「古人曰く『金は火を以て試み、人は言を以て試む』というごとく、
人々の思慮の浅さ深さは、その言葉によって知られるものだ。

一言でも軽々しいことを言ってはいけない。すべて偽りでも真実らしく語れば
偽りらしくはならず、真実だとしても稀なことは偽りらしく聞こえてしまう。

だから人は真実らしい虚言は言っても、偽りに思えるような真実を語ってはならない」
(名将名言記、霊岩夜話)

「武士に智慮や才能があること自体は良いことであるが、ないからといって
事欠くというわけではない。ただ一途に実直であれば智慮や才能は取り立てて

必要ない。武士として義理に欠けるのは刀剣の刃がかけているようなものだ」
(中泉古老物語)

――『徳川実紀』

450 :人間七七四年:2014/10/28(火) 06:10:17.54 ID:ff47D17G.net
鳥居元忠は13歳の時から3歳年下の竹千代に仕えていたのだが、ある日、百舌を使って鷹狩のまねをしていた
竹千代の遊び相手をしていた元忠は、自分の手に百舌を乗せたところ、

「百舌の置き方が悪い!」

と縁側から突き落とされてしまった。周囲の者は竹千代を諌め、元忠を心配したが、
当の元忠は

「私は以前、父の忠吉から『普通であればこの忠吉の子だからと遠慮する所を思ったまま戒めるとは大将の器量を
 備えておられる。小事は注意するに及ばぬ。ただ忠勤に励め。』と告げられましたので、気にしていません。」

と答えたという。

451 :人間七七四年:2014/10/28(火) 06:11:21.50 ID:ff47D17G.net
長岡兵部太夫殿(細川幽斎)はつねずね、「この家が今まで続いてこれたのは、偏に家臣である松井佐渡守(興長)の
分別のおかげである」と仰っていた。その理由はこの様なことである

信長公の時代、幽斎のもとに信長からの使いが来て、このように申し渡した

『摂津・河内の内から12万石、もしくは丹後の内より12万石、このどちらか望みの方をそなたに遣わす。
返事は明日申し上げるように。』

そう伝えると宿所へ戻っていった。

幽斎は、摂津河内に12万石を頂くのがいいと考えたが、ともかく家中の重臣である松井佐渡守、
有吉四郎右衛門、米田次郎兵衛の3人を呼んで相談した。

有吉と米田は「丹後は遠国です。摂津河内は京都に近く、この二ヶ国の内を以って御拝領なされるのが良いでしょう。」
と申し上げた。
ところが松井佐渡守は

「私の判断を申し上げますと、選ぶのはこちらしかありません、丹後です。
丹後は確かに遠国です。京に近い摂津河内とは違います。しかし、ここで考えますに、
今後、天下(畿内)と西との争いがあった時、摂津河内はそれに巻き込まれ、必ず弓田の巷となります。
天下と東との争いがあれば、美濃尾張近江、この2,3ヶ国が戦場となると、古き者どもは言い伝えております。

私が考えますに、摂津河内の間で12万石を領したとして、天下と西との合戦が起こった場合、天下に付いたとしても
西に付いたとしても、その日のうちには裸城となり、その上12万石の領地も2,3年のうちに荒廃してしまうでしょう。
ただただ、遠国の丹後を拝領なさるべきです。

何故ならば、天下に何事があったとしても、50日100日の間には世間は静まるものですが、丹後にあれば
その間をゆるゆると観察することができます。これでこそ、御家を存続させられるのです。
判断を間違われてはいけません。丹後を拝領なさるように、どうかここは私にお任せ下さい。」

そう、たって申し上げ、これに幽斎も「ならば佐渡守に任せる」と、丹後を拝領することに決めた。

その後明智光秀殿が信長公を討った時、摂津河内は大いに乱れ、中でも摂津は二年間に渡り
荒廃し尽くしたという。

『長岡の家がこの被害を避ける事が出来たのは、偏に佐渡守の分別厚きゆえである。かの家が
今まで続き、今ほどの大名に成れたたのも、臣下である松井佐渡守のおかげである。』

当時世間では、このように噂し合ったという。
(川角太閤記)

452 :人間七七四年:2014/10/28(火) 06:39:35.03 ID:ff47D17G.net
笹の才蔵こと可児吉長が福島家に呼び出された時のこと。
福島正則が才蔵に「何か芸はあるのか」と尋ねると、

これに才蔵は慎んで「自分の髪を結ったり髭を剃ることに関しては
年月をかけて手練致しましたので、それが上手になりました」と答えた。

近臣の者はこれを聞いて「まったく才蔵はうつけ者か捻くれ者だ」と
囁いたが、正則は「いやいや、後ろに眼がなければそのようなことは
中々修練できぬものだぞ。

それが上手ということは目に見えないことさえできるということ
なのだから、すなわち目の前のことは何でも簡単にこなせるという
ことだ」と言った。

果たして才蔵は武功比類なき者だったので「正則の目利きは流石に
たくみだ」と言われたということだ。

――『名将言行録』

453 :人間七七四年:2014/10/28(火) 06:40:48.89 ID:ff47D17G.net
姉川の戦いにおいて、徳川軍では先陣が酒井忠次、二陣が榊原康政であった。

先ず酒井の先陣が、小笠原與八郎、菅沼新八郎、奥平といった寄騎とともに川を渡ったが、岸が高く
上がり兼ねていた所、榊原の部隊が真一文字に進んできて、上がり難き岸も「遮二無二押し上げよ!!」
そうして、「エイトウエイトウ」の掛け声とともに無理矢理に押し上がり、酒井の部隊の前に進もうとした。

これを見た酒井の部隊の兵たち「榊原の部隊に遅れては無念である!」と競いあうように岸に推し上がって進み、
そのため合戦にも利を得たという。

合戦後徳川家康は

「康政の二の手のやりかたは今後の手本となるべきものだ!二の手の行動はこのようにしたいものだ。」と、
大いに激賞したとのことである。
(常山紀談)

454 :人間七七四年:2014/10/28(火) 07:13:06.78 ID:ff47D17G.net
直島直茂が船で肥前に帰還した時の事である。海が大荒れとなって船は激しく揺れて
梶までも壊れてしまった。元々磯の匂いをかいだだけで食事も出来なくなるほどの船嫌いだった直茂は
すっかり平常心を無くし、

「天下に名の知られた自分が、丸腰の死体で見つかっては子孫の恥だ。」

と言って、家臣に刀を渡す様に命じた。しかし、直茂が自刃するつもりだと察した家臣は命令を聞こうとせず、
そうこうしている内に波は静まり直茂も落ち着きを取り戻した。後に一部始終を聞いた正室の陽泰院は涙を流してこの家臣に感謝し、
直茂も

「あの時は不届きな奴だと思ったが、今となれば大功であったな。」

と褒めたという。

455 :人間七七四年:2014/10/28(火) 07:14:18.99 ID:ff47D17G.net
石川五右衛門が出没していた頃のこと。朔望(陰暦の1日と15日)など登城の日に、
五右衛門は人々に混じって聚楽の城中に侵入し、自分のなまくら刀を他人の
良刀とすり替えていた。

人々は五右衛門の悪さに憤りを覚えてはいたがどうすることもできないでいた。
そんな時に浅野幸長は一計を案じた。玄関で従者に刀を渡して置き、短刀だけで
登城するようにしたのだ。

人々は幸長の智恵に感心してこぞって真似をするようになった。これによって
五右衛門の策略は大いに阻まれたという。またこれを境にこの習慣が士風となった
ということである。

――『名将言行録』

456 :人間七七四年:2014/10/28(火) 07:16:26.53 ID:ff47D17G.net
石川五右衛門は泥棒なのに
『ルパン三世』のそれはなぜ剣豪なのかw

457 :人間七七四年:2014/10/28(火) 07:53:53.99 ID:ff47D17G.net
可児才蔵吉長が森長一(長可)に仕えていた時のこと。

長一は諏訪山の城及び大森上恵らの城塞を攻め、梶田に駐屯して
首実検を行ったところ、長一の軍は460程の首級を得ていた。

この時、才蔵は首3つをひっさげて来て「16級獲りました」と言った。
しかし申告と首の数が合っていないので長一がその理由を問うと、
才蔵は「多く獲りすぎたので捨てました」と言った。

そこで長一が「460余りすべて獲り主がおるぞ。お前が獲ったという
証拠はあるのか」と尋ねると、才蔵は「それがしが獲った首には笹の葉を
含ませてあります」と答えたので、

長一が命じて確認させると確かに笹の葉を含んだ首が13級あった。
こうした出来事により吉長は世に『笹の才蔵』と称されるようになった。

――『名将言行録』

458 :人間七七四年:2014/10/28(火) 07:55:05.03 ID:ff47D17G.net
江戸での出来事だが、当時羽振りをきかせていた男が、
仕事にかこつけて、ある者をこっぴどく叱り付け罵った。
その者はその場では一言も言わず座を立ったが、
その様子は叱り付けた男を討ち果たす覚悟を決めたようであった。
それを見ていた、ある人がその者を小屋に招き入れ、
「先ほどの行き掛かりで、貴方が遺恨を晴らそうと考えるのはもっともなことだ。
しかしながら、それは奉公に対する価値観が違うから遺恨が生まれたのではないかと、
差し出がましいが私はそう思うのだ。
その理由は、殿は、貴方や我らには万一の時に一槍働いてほしいと思っておられるから、
普段はいささかよそよそしい態度で召し使われる。
あの男などは平常のたいしたことのない雑用をする役と思っておられるから、
心安く気楽に召し使っておられるのであろう。
あの男は、それに気づかず、殿に気に入られ出世していると勘違いし、
平気で他人に無礼なことを言ってのける大たわけ者なのだ。
そんな大たわけ者だからこそ、殿も気軽に心安くお召し使いになれるわけであろう。
言うならば、蝿が頭にとまるのと同じだと思う。
そんな男を相手にして、大事の場でこそ頼みに思われているひとかどの侍が、
あのような者を討ち果たしたりするのは、
無頼の者と喧嘩をするようなもので誠に馬鹿げている。
その上、討ち果たしたなら、貴方もお咎めを受け、
いざというときのお役に立てず不忠ともなる。
この道理をよく考えて、思いとどまるのが真の侍と私は思う。
もっともこれは、貴方が思い通りにすればよいことで、
私はちょっと思いついたことを申し上げたにすぎぬ。
別に無理に引き止める気はさらさらないのだ」
と自分の考えを伝えた。
その者は、討ち果たすことを思いとどまったとのことである 【葉隠】

459 :人間七七四年:2014/10/28(火) 07:56:30.45 ID:ff47D17G.net
小田原征伐の時のこと。松田憲秀の手を見た太田資正は
「裏切る腹積りだ」と言った。この時、確かに憲秀は内通して
いたが、資正はその事実を知らなかった。

豊臣秀吉は何故資正に内通が分かったのか奇妙に思い「何をもって
そのように見たのだ」と尋ねた。

「憲秀の勇謀は人の恐れる所ですが、今日は軍備を正さず、諸卒を
戒めず、役所も巡りませんでした。もとより彼は臆するような者では
ありませんから、これは心を味方に通じた故にございます」

資正の答えを聞いて秀吉は大いに感嘆し徳川家康に向かい
「今ここに二つの不思議がある。何だか分かるか」と問いかけた。

「ひとつは三楽でありましょう。もうひとつは分かりかねます」

との家康の答えに秀吉は「わしは匹夫より起こって天下の主となった。
だが、三楽は智がありながら一国をも持つことはできなかった。

これぞ二つの不思議であろう」と言った。

また別の逸話では、秀吉は資正を召して曰く「その方は智仁勇を
兼ねた良将でありながら小身であるな。わしはひとつの徳もないが、
天下を取ることはもっとも得意とするところだ」ともいう。

――『名将言行録』

460 :人間七七四年:2014/10/28(火) 09:03:21.88 ID:ff47D17G.net
信長が「尾張の大うつけ」と呼ばれていた16歳頃のこと。付家老たちから「甲州法度之次第」の写しを見せられた。
これは武田晴信が今川家の「今川氏親制定の13か条」を参考にして1547年(天文16年)に定めた分国法である。
ちなみに信玄弟・信繁が残した「武田信繁家訓」の要素も加味して永禄年間には俗に言う「信玄家法」に発展していく。
普段のうつけさに似合わず真面目に「甲州法度之次第」の写しを読んでいる信長。読み終わった後で信長は言った。
「この晴信の法度を実行すれば皆が厳法に苦しんで乱を好む心配がある。わしの考えは違う。武勇の道が行われ策略の道に詳しく国の柱となる武士を望む。
領国の政治は領国の人物を見ればわかるものだ」と。
その発言を聞き付家老達は「まるで三歳の子が髭でも生えたことを申される」と涙したとされる。
(コーエー「爆笑信長の野望3巻」に載っていた「髭の生えた三歳児」のエピソードより)

461 :人間七七四年:2014/10/28(火) 09:04:26.04 ID:ff47D17G.net
ある年の暮れのことである。松平伊豆守(信綱)が将軍家に献上の鱈を仕立てさせ、先ず自身の前に
取り寄せて品物を改めて見ると、なんとその鱈に、ほんの少しだが塵がついていた。伊豆守これを見咎め

「上に捧げるものに、このような粗相をするとはなんと不都合なことか!」
そう担当者をしたたかに叱りつけた。
と、この時たまたま、旗本の井上新左衛門が傍におり、

「伊豆殿、そんなにお叱りなさるな。そもそも鱈というのは、塵のついているものですぞ?」

「井上殿?それはいかなる理由ですか?」

すると井上新左衛門、大真面目な顔をして
「式三番(能の演目)にあるではありませんか、『塵や鱈り鱈り鱈』と謡いるので、
これにより鱈に塵が付いているのは当然のことであります」
(式三番の翁の謡、『とふ くたら里々々ら々りら々里とふ ちりやたら 里々々ら、里ら々り、ら々里とふ 、のもじり)

伊豆守これを聞いて、「また例の、新左衛門殿の滑稽よ」と打笑いつつ
「しかしそうであっても、物には念を入れるに若くはありません。」
と言えば新左衛門

「それは貴殿が御大役を勤められているので、その様にお考えになるのでしょうが、拙者のような
軽い者は余り念を入れすぎると、却って害になることもあるのですよ。」

「ほう?念を入れすぎて害になった例があるのですか?」

これに新左衛門
「大いにあります!昔、唐の玄宗皇帝が楊貴妃との死別を悲しみ、方士に命じてその魂のある所を
尋ねさせました。方士は方々を探し、ついに蓬莱宮で貴妃に会い勅命を伝えれば、貴妃もこれに悲嘆して
私の居る証拠にと、玉の簪を方士に与えました。方士はこれを得てそのまま帰ればその身の害も
なかったというのに、つい念を入れて

『この簪は世に似たものも多くある物ですから、この証拠になり難いかと思います。
貴方様と君との、人知れぬ睦言などがあればお聞かせ下さい。それを証拠として復命したいと
思います。』

これに楊貴妃、それもそうだと思い

『天にあらば願わくば比翼の鳥とならむ、地にあらば願わくば連理の枝とならむ』

との、玄宗皇帝との誓いの言葉を方士に伝えられました。方士はこれを承って立ち返り、
その旨を皇帝に奏上すると、これを聞いた皇帝は

『確かにこの密語は誰も知らないはずだ。これを伝えるからには貴妃に会ったに相違ない。
しかし、これほど他に漏らしたことのない密語を聞いて帰るからには、こいつめ!
貴妃と密通したに相違ない!!」

とて、是非も言わせず忽ちに方士を殺されたとのことです。これぞ念を入れすぎて却って身の害となった
という事ではないでしょうか?」

これに伊豆守、いよいよ大笑いして

「いや実に、その通りです。」

と笑いながら言われたとのことである。
(武士道美譚)

462 :人間七七四年:2014/10/28(火) 09:05:36.39 ID:ff47D17G.net
1610年ぐらいの頃、山城の国に90歳近い老人が住んでいた。老人はかつて
大名の松永久秀に仕えていた侍だった。

老人が語る話によると、松永久秀はかつてキリシタン布教を取り締まるため、領内にいた2人の
宣教師を追放することにして配下の2人の侍にその追放令を宣教師たちに伝えるよう命じた。
2人の侍が宣教師たちに会ってみると、その教えが素晴らしかったので侍たちは感激してしまった。
松永久秀の所に戻った2人の侍は追放令を伝えたことと、宣教師の説く教えが
素晴らしかったことを報告した。報告を聞いた久秀は追放令を解除した。
その時の2人の侍の1人がこの老人であった。(耶蘇会年報集)

463 :人間七七四年:2014/10/28(火) 11:23:02.65 ID:uNruor42.net
ちょっと貼りすぎだろ
スレ埋め立てしてえのか

464 :人間七七四年:2014/10/28(火) 17:37:02.47 ID:g/TnOHJg.net
基地外が一人でコピペだけするスレと化しちゃったなぁ…

465 :人間七七四年:2014/10/28(火) 17:54:31.66 ID:9u1LDT3h.net
小牧長久手戦役における、天正12年(1584年)6月の蟹江城攻防戦のうち、舟入の戦いといえば、盟友滝川一益との
合流を果たそうとする九鬼嘉隆が、徳川の水陸軍に大敗を喫し命からがら逃げ帰るという、九鬼水軍の栄光の歴史を
曇らせた、屈辱的敗戦であった。

さて、小牧長久手合戦からしばらく経った後、九鬼嘉隆は豊臣秀頼に京の聚楽に呼ばれ、碁の相手をした。
秀吉は碁を打ちながら嘉隆にこう言った

「右馬充(嘉隆)は度々合戦し大いに手柄があった。日本においては2番目か3番目の、腕に覚えのある者であろうよ。」

この言葉に、嘉隆は
「しかし、蟹江の合戦では面目のないことでした。」
そう、秀吉に向かって謝罪した。蟹江の苦い敗北が、未だ心にわだかまっていたのである。

ところが秀吉はこれを聞くと
「いやいや、その方が手柄を成したのは蟹江の合戦の時である!」

「!?」

「撤退しがたい困難な戦場から、無事撤退したではないか。それが手柄である。」
(九鬼御伝記)

466 :人間七七四年:2014/10/28(火) 17:56:47.05 ID:9u1LDT3h.net
北条軍が里見義弘配下の多賀家が守る池和田城を陥落させた時の事である。中山左衛門尉と
伊達越前守が、多賀軍の将に矢を放ち、落馬した所を片岡平次兵衛が首を取ったが、どちらの矢が当たったのか
左衛門尉と越前守の間で論争となった。北条氏康がその時の様子を平次兵衛から聞き、敵将の鎧を確かめた結果、
当たったのは越前守の矢と判明した。恥をかいた左衛門尉は切腹か北条家を去るしかないだろうと周囲の者は考えた。
所が、氏康は

「越前守、左衛門尉、平次兵衛の順に武功がある。」

として三人に褒美を与えた。

「左衛門尉が二番で、首を取った自分が三番なのは無念じゃ。」

と平次兵衛に言われると、氏康は

「敵を仕損じたのは運だ。左衛門尉は強い相手と戦った。勇士の誉れは軽くはあるまい。」

と説いたという。 家臣の武功をしっかり評価した氏康の逸話である。

467 :人間七七四年:2014/10/28(火) 17:57:56.44 ID:9u1LDT3h.net
鍋島七左衛門志摩が部屋住みだったころ狩をした。
家来が七左衛門を猪と間違えて鉄砲で撃った。
その弾は七左衛門の膝をかすめたので、
七左衛門は高い所にいたので落ちてしまった。
家来は驚いてしまい、その場で腹を切ろうとしたのだが、
七左衛門は冷静な態度で、
「腹を切るなら後にしろ。
高所から落ち具合が悪い。
まずは水を飲ませてくれ」
と言ったので、家来は急ぎ水を持ってきて飲ませると、
ようやく七左衛門の気分が直った。
そこでまた家来は切腹しようとしたのだが、
七左衛門は無理矢理に引き止めて、
屋敷に連れ帰り、切腹しないように見張りを付けておいて、
父の官左衛門に、その家来を許してほしいと頼みこんだ。
官左衛門は、
「悪気があってやったことではないのだから問題ない。
遠慮することもないのだから、
これまでと同じように勤めてくれと伝えるように」
と申したとのことである 【葉隠】

468 :人間七七四年:2014/10/28(火) 18:29:03.28 ID:9u1LDT3h.net
岐阜の役の時、堀尾吉晴の子・忠氏は戦功を立てた。
吉晴はこの日の勝利の報告を聞き、首帳を見たところ、
「首一つ、十五歳、山田多門兵衛」とあるのを読みも終わらず、

「近頃まで竹馬に乗っていた童がもう功名を立てたかぁ。
父親が存命ならどれほど喜んだことであろうか…」と涙を流した。

また「梯子権八の功名が記されていないのは何故だ。
討死したならともかく、功名については上から三番目以内に
入っているはずの者なのに」と怪しんだが、やがて飛脚がやって来て、

「権八は一番に続いて首を取りましたが、手負いのために
首帳に記すのが遅れました」と告げたので、

「私の見立てに狂いはなかった」と言ったということだ。

――『名将言行録』

469 :人間七七四年:2014/10/28(火) 18:30:23.28 ID:9u1LDT3h.net
織田軍の中国毛利攻めにおいて、羽柴秀吉の部将、羽柴秀長が毛利方の因幡丸山城を囲んだ時の話である。
秀長軍は丸山城を厳重に取り囲んだが、丸山城も守将・山形九衛門を中心に堅く守り、戦況は膠着。
この攻防戦は長くなった。

その様な中、ある時城のある丸山の中腹に棲んでいた狼が火縄銃の音に驚き茂木の中から姿を表した。
狼を見た寄せ手の秀長軍からは、これを撃とうと鉄砲を放ったが、狼は再び林の中に戻っていった。

こんな事があって、秀長は丸山城中に遣いを出した。

『この山中に狼がいるのを見つけました。お互いに人数を出して、長陣の眠気覚ましに狼狩りをいたしませんか?』

この申し入れに山形九衛門は応諾し、双方の士卒が協力してたちまちのうちに狼を狩り取った。

さて、この獲物に羽柴秀長は、狼を分断して頭の方を時分の得分とし、尾の方に美酒十樽、良き肴の折り詰め十合を
副えて城中に贈った。
丸山城中の者たちは上下皆、長い籠城に水さえ尽きようとしていた状況であったので、酒盃の噂を聞いただけでも
口に唾が湧き、我先に飲もうとした。

(続く)

470 :人間七七四年:2014/10/28(火) 18:31:55.15 ID:9u1LDT3h.net
が、ある者が言う
「ちょっと待て!これに酖毒などが混ぜてあったらどうするのか。これは飲んでいいものなのか!?」
皆、飲もうとした手を止める。と、この時籠城衆の一人、境三右衛門が声を発した。
ちなみにこの境三右衛門、この地に普請で来ていた所を、巻き込まれて籠城するはめになった者である。
ともかくも、境

「その疑問は確かにアリだな。だが疑うばかりというのも良くないだろう。まあいい、ここは俺が試しに飲んでみる!」

そう言って飯椀で6,7杯も飲み、そのまま酔っ払って寝てしまった。
境があまりにぐっすり寝ているので、籠城衆の中には彼が酖毒にやられてしまったのかと考え、彼の呼吸が有るかと
確認するものも居た。しかし泥酔していたので全く起きる気配もなく、さては毒殺されたのだと恐れるものもあった。

そうやきもきしていた所、薄暮れ燭台に火の灯る時分になって境三右衛門、茫々然として起き上がり目をこすり
欠伸をしながら曰く

「この酒は各地の銘酒にも負けない上物であるぞ!」

これを聞いた籠城衆、では我も飲まんと酒樽の前に蝿のように集まった。全く現金なものである。が、境は

「まてまて、ここで大酒して沈酔している間に敵が寄せてくれば、防御することも出来ないぞ!ここは俺に任せろ」と、
上戸下戸の分限に応じて過不足無く与えて飲ませた。

さてさて、酒を飲み干すと籠城衆、この謝礼に何を秀長の陣に遣わすかを話し合った。
こういう所、実に律儀である。
しかし兵糧さえ尽きかけており、余っているものなど何もなく、ただ鉄砲の弾薬が二十斤ばかり在るのみであった。
そこでまた境三右衛門、「では、この弾薬を贈ってやればいいんじゃないか?」

当然ながら他の籠城衆は反対した。「敵が寄せてきた時の用心のため、これは残しておくべきである!」
しかし境はこれを聞くと

「二十斤程度の弾薬なんてあっても、どれほどの役に立つっていうんだ?敵が猛勢で乗り込んでくれば、
こんな飢渇に疲れきっている城中に兵じゃ、たとえ何百斤の弾薬があってもどうやって勝利できるっていうのさ?
みんな刀を抜き連れて一文字に斬死するしかないよ。だから、あいつらに贈ってやればいいさ。」

この言葉に守将の山形九衛門も同意し、弾薬を積んで敵陣の前に置き、慇懃に酒肴の礼を述べた、とのことである。
(陰徳太平記)

471 :人間七七四年:2014/10/28(火) 19:22:27.63 ID:9u1LDT3h.net
以下、小牧長久手の戦いの逸話の脚注。

一説にこの時(豊臣秀吉が竜泉寺にいた時)、
酒井忠次が「秀吉を討つのは今日です!」と言ったところ、

(徳川家康が)「『勝って兜の緒をしめる』とはここだぞ」と仰せになるので、
忠次は重ねて「先陣を破ってことごとく討ち果たすのです!」と言い、

「只今が最良の状況じゃ」などとやり取りしている内に敵はすぐに柵を
設けたので、忠次は「明日は秀吉に降参なさいませ」と言ったとか。

――『徳川実紀』

472 :人間七七四年:2014/10/28(火) 19:23:36.61 ID:9u1LDT3h.net
大坂の陣の後…
信州真田家に仕える玉川伊予守の足軽が大病を患いった。
そしてこの足軽の妻には何十年と連れ添った夫に対してどうしても聞いておきたいことがあった。

「貴方は年毎に伊勢へ代参しましたが、出立の前夜には
 貴方は伊予守様と二人で一晩中話されていました。
 さらに同じように伊勢へ代参する人より七日や十日も遅れることが八回もありました。
 このわけを教えてください。」

この妻の問いに対し足軽は始め無言だった。
が、いよいよ危なくなった足軽は妻を呼び戻して語りだした。

ある時足軽は玉川伊予守の伴として二人で伊勢へ代参した。
二人は代参の後熊野へと向かう。民家民家がない山道を二日も行くと、岩屋へと着いた。
玉川伊予守は足軽を口元に残して岩屋へ入っていき、一夜そこで過ごして帰った。

その後は毎年正月になると足軽は一人で熊野の岩屋へ行くことになった。。
いつも『上』とだけ書かれて封じられた鳥目十疋ほどの重さの状箱を持たされて
正月の十五日から末の間に岩屋へ着き、一日か二日口元で待る。
すると中から帯まで真っ白な総髪を垂らした七十ほどの翁が出てきて、無言で封状箱を受け取る。
一夜過ぎると返礼らしく『参る』と書かれて封じられた状箱が返され
信州へ戻り状箱を玉川伊予守へ渡して足軽の役目は終わる。

これらのことをしてから一時ほどして足軽は死んだ。

473 :人間七七四年:2014/10/28(火) 19:56:01.80 ID:9u1LDT3h.net
相良喜兵衛がお供として江戸に滞在していたとき、
用事を済ませ帰ってきたところ、
鍋島家のお屋敷前で、幕府の御目付衆とばったり出会った。
御目付衆は、喜兵衛の腰の物を見て、
「その刀は御法度違反のようだ。
大小の寸法をはからせてもらうぞ」
と言って馬を止め喜兵衛を取り囲んだ。
囲まれた喜兵衛は、小膝を折って、大きな声で、
「私は当屋敷鍋島信濃守の家来です。
国もとより用事を申しつけられ、
昨夜、江戸に到着しました。
江戸の御法度については、主人より厳しく申し聞かされ、
長い大小をたずさえることが御法度だと承知致しております。
しかし江戸への道中、ことのほか治安の悪いところもあり、
若輩の身ではじめての旅ゆえに、寸延びした大小を差して来ました。
ですから江戸では規定の大小を差そうと、
大小を準備するために町方へ行き、
ただいま帰ってきた次第でございます。
お咎めを受けたうえは、私一人の命の覚悟は定めました。
ただし、主人が御法度を私に申し聞かせていたことは、
しっかりとお耳におとめおいてくだされ」
と言って、束に手をかけ、必死の色をあらわした。
御目付衆はたじたじとなり、
「それならば問題ない」
と言ってその場を去った。
このなりゆきを見ていた屋敷じゅうの鍋島の者たちは、
門の内側に詰めかけて、喜兵衛の身になにかあれば、
すぐに斬って出る構えで成り行きを見守っていた。
屋敷奥にいた勝茂様もその報告を受け、
「喜兵衛ならば、当家の恥になるふるまいはしないだろう」
と繰り返しおおせになりながらも、
やはり心配なようで歯がみをなさり、
何度も使いの者を様子見につかわされた。
事が済んだのち、喜兵衛には羽織をたまわったとのことである 【葉隠】

474 :人間七七四年:2014/10/28(火) 19:58:19.30 ID:9u1LDT3h.net
家康の四男の松平忠吉は、事実上関ヶ原東軍の大将格だったということは余り知られていない。
実際に岳父である井伊直政の補佐を受けて初陣ながら敵の首級をあげる等の活躍もしている。
徳川殿御代官として薩摩守忠吉殿は、海道の大将を任じられ
井伊と本多を軍奉行として東軍の諸侯を引き連れて攻め上がった。
(『藩翰譜』)

475 :人間七七四年:2014/10/28(火) 19:59:33.67 ID:9u1LDT3h.net
吉川広家の家臣に、横道権之丞と言う者があった。

さて、天正15年(1587)の、肥後国人一揆において吉川広家は黒田孝高・長政親子らと共に、
城井鎮房の籠る城井谷城を攻めていたが、城井方のゲリラ攻撃に長政が不覚を取るなど、
大いに苦戦していた。

そこで広家、孝高・長政親子は相談をし、城井鎮房に対し和議を提案することとし、
その使者を吉川広家より出すことと決めた。

広家はこの使いを、横道権之丞に命じ、城井鎮房に対し

『あなたが黒田に対して何の遺恨もないのに防戦に及ぶことは、秀吉公の意に逆らう行為です。
早々に和睦を受け入れ、黒田親子の下知に従うのが、最も良い選択です。
過去の戦闘の罪は、この広家が善きように処理します。
秀吉公より御赦免いただき、またあなたの本領が相違無く黒田親子より渡されるように私から
言っておきます。』

そう言い伝えるよう命じた。

ところが権之丞はこの使いに直ぐに向かおうとせず、日が暮れ夜に入ってから、大松明に火を付けさせ、
少しの忍ぶ景色もなくテクテクと歩いて行き、城の近くまで来ると

「吉川蔵人頭広家の使いである!!」

と、頻りに呼びかけたので、これを聞いた城中の者たちはすぐに城井鎮房に知らせた。
城井鎮房は人を出して権之丞に目的を尋ねると、彼は広家に言われた内容を伝えた。
これを聞いた城井鎮房は広家の提案した和議条件に同意し、直ぐ様降伏して黒田親子の手に属した。
まあ、この和議が後にどす黒い事態を起こすのだが…
ともかくも横道権之丞は見事大事の使者に成功したのである。

その後、ある人が横道権之丞にこの時のことを聞いてきた
「あなたはどうして、日が暮れてから城に向かったのですが?」

これに権之丞答えて
「こういう使いに、白昼うかうかと行っては、もし伏兵などに取り巻かれた場合、自分は
和平の使者だ、なんて自分の説明をしても、雄に逸った若者なんかは『そう言って騙す気だな!』なんて
言ってきて、確認も無しに討たれる事もあるんだよ。
だからわざと夜になって、松明を燃やし、何も隠さない形で行ったのさ。

そういうふうに行くとね、敵も『あれはなんの用がある使いだろう?』と考えて、うかつに
討ち取ったりはしないものなのさ。
俺はそういうふうに考えて、日が暮れてから城に向かったんだよ。」

と、その様に語ったそうだ。
(陰徳太平記)

476 :人間七七四年:2014/10/28(火) 20:49:48.94 ID:g/TnOHJg.net
いいかげんにしろ、基地外

477 :人間七七四年:2014/10/28(火) 21:32:54.82 ID:2j6UDl2t.net
徳川四天王の榊原康政と井伊直政の関係は初めは良好なものでは無かった。
武田家の遺臣が康政よりも13歳も年下で、まだ元服を終えたばかりの直政の付属部隊になった時は
「若造のくせに。こうなったら万千代と刺し違えてくれるわ」
と言い放ち、徳川四天王の長者である酒井忠次に叱責される有り様であった。
(続く)

478 :人間七七四年:2014/10/28(火) 21:34:05.61 ID:2j6UDl2t.net
家康の為に心血を注いで働く直政を見るにつけ、康政も己を恥じて認めるようにる。
後に康政と直政は深い信頼関係で結ばれた間柄となった。
直政が先陣すると康政は安心し、康政が従軍するとあれば直政が安堵した。
「俺が直政より先立てば必ず直政は病気になり、直政が先立てば俺もすぐに死んでしまうだろう
そして家康様のお心を知るのは俺と直政だけだ」
康政は常々語っていたという。
(続く)

479 :人間七七四年:2014/10/28(火) 21:36:04.87 ID:2j6UDl2t.net
関ヶ原合戦明け、本多忠勝を交えた徳川三傑の飲み会が開かれた。
その席で関ヶ原本戦に間に合わなくて凹んでいた康政を真摯に励ます直政の姿があった。
関ヶ原から1年半後に直政が没すると、井伊家の行く末に康政が心を砕き何くれとなく世話を焼いている。
そして直政の死から4年後、康政もその生を静かに閉じた。
(終わり)

480 :人間七七四年:2014/10/28(火) 22:10:30.22 ID:2j6UDl2t.net
群馬の伊勢崎に退魔寺という寺がある。元々は1371年に香華院という名で建立された。
寺の伝承によると、ある時この寺付近で夜な夜な妖怪が現れ
付近住民達が難儀していたところ、偶然現地に立ち寄った石田三成によって妖怪は退治された。
以来、この寺は寺紋に石田氏と同じものを使うようになり退魔寺と呼ばれるようになったという。

481 :人間七七四年:2014/10/28(火) 22:11:42.69 ID:2j6UDl2t.net
朝鮮の役における『日本丸』と言えば、九鬼水軍の旗艦として有名である。
ところがこの日本丸、元はその名を”鬼宿丸”といった。
その鬼宿丸が日本丸と名を変えたのは、この様なエピソードによる

大陸出兵のため、名護屋には全国の大名の軍船が集結し、豊臣秀吉はそれを観船した。
と、ここに九鬼水軍の鬼宿丸も現れる。これを見た秀吉は叫んだ

「日本の諸大名が軍船で数多く集まったが、これ程カッコイイ船は未だ見たことがない!
この船は日本においては一番カッコイイ船という意味で、日本丸と名付けよ!」
(日本諸大名数多ク参リ候ヘドモ、コレ程恰好ノヨキ船未ダ見ズ、日本ニテハ一番トイフ心ニテ、日本丸ト名ヅケヨ)

こうして鬼宿丸は、『日の本一の日本丸』となった。

日本丸命名の理由は、カッコ良かったから、というお話である。
(九鬼御伝記)

482 :人間七七四年:2014/10/28(火) 22:12:53.11 ID:2j6UDl2t.net
お江戸日本橋からの風景は江戸城と富士山が同じ構図内にあった

483 :人間七七四年:2014/10/28(火) 22:45:22.34 ID:2j6UDl2t.net
小早川隆景が家督を養子秀秋に譲り、備後三原に隠居した頃の話である。

彼は俗世のことから離れ瀬戸内の風光を楽しみ日々を過ごしていた、
そんなある時、毛利家家臣、林吉兵衛入道梅林が、京より帰国の途中、三原城に立ち寄った。
隆景は梅林と対面し、

「どうだ梅林、京に珍しいことはあったか?最近わたしは上洛していないので、京の噂にも
すっかり疎くなってなあ。」

と話しかけると、梅林

「そうですなあ、特に珍しいというほどのことは無かったように思いますが…、そうそう
この間何か花を遣わすため京の町中を歩いていると、隆達の小歌(隆達節)の中に、

『面白の春雨や。花の散らぬ程ふれ』

と申す歌があるのですが、これが大いに流行っておりまして、男女僧俗、80歳の老人から3歳の幼児まで、
尽くこれを歌っていました。」

「ほう、それは誠に面白い歌だ。されば一節、お主、歌ってみてくれないか?」

「わ、私がですか!?こんな老いさらばえて、気の抜けた歌を聞かれるのは恥ずかしいのですが、
厳命であれば仕方ありませんな!」
そう言い訳しつつ一曲。まんざらでもないようである。

484 :人間七七四年:2014/10/28(火) 22:47:44.27 ID:2j6UDl2t.net
しかし梅林、歌ってみると音程が全く安定せず、歌い終わって後悔

「今から30も40も若ければ、音も少しは麗しく、節回しや拍子もお聞きやすくできたのでしょうが、
私ももう60を超えて、いやはや聞く人の耳を不快にさせてしまうでしょう。
まったく、老いほど恨めしいものはありません。高歌の一曲にある、昨日の少年今は白髪とは、
今このジジイの身の上に知れます。」

しょんぼりしている梅林に隆景笑いながら

「いやいや面白かった。もう一回歌ってくれ。」

「面白い!?この老人入道が声をかすれさせ息継ぎも必死だったその姿を、黄門様は
面白がったのですか!?酷い!」

梅林、すっかり拗ねてしまった。

「これこれ梅林、そなたの声音を面白いと言ったのではない。その歌詞、『面白の春雨や。花の散らぬ程ふれ』
という語意が面白いと言ったのだ。

梅林、広島に帰ったら、輝元様にその歌を聞かせなさい。
輝元様はまだ若い。どんなに賢く在っても、万事の好みに偏りが出来てしまうものだ。

面白の儒学や、武備の廃らぬほどに嗜め、
面白の武道や、文事を忘れぬほどに、
面白の歌学、面白の乱舞、面白の茶の湯の道、
これらに身を捨てぬほどに好まれよと、あの歌は歌っているのさ。

どんな良いことも、中くらいを過ぎる事の無いよう嗜むべきで物である。
諸道を嗜む姿勢は、この歌の一言を以って成すべきなのだ。

返す返すも、輝元様によく聞かせなさい。老臣、奉行たちにもこの歌の心を会得させなさい。」


小早川隆景、隆達節から物を好む姿勢を語る、というお話
(陰徳太平記)

485 :人間七七四年:2014/10/28(火) 22:49:38.06 ID:2j6UDl2t.net
「戦は勝ちすぎるのはよくない、中くらいに勝つのが一番いい」と言った
武田信玄を思わせる小早川隆景の教えだ

486 :人間七七四年:2014/10/29(水) 00:26:23.58 ID:5oV5j3yN.net
伏見にて、徳川家康は猛暑を避けるために城の櫓の上で涼んでいた。
この時、台所に出入りする下人たちの様子を見ていた家康は不機嫌な様子で
本多正信に語りかけた。

「下人どもは様々な物を懐や袂に入れたり、宿直の荷物に包んで退出しておる
ようだが、どうやら官物をくすねているな。官長の注意が足りぬからこうなるのだ」

「それは、実にめでたいことですな」

「何? 下人の盗みがめでたいとは何事だ!」

「岡崎におられた頃はもちろん、浜松に移られた後も御分国が広大になったとはいえ、
台所の物は鰹節一本とて盗むことはできませんでした。

しかし、関八州の大守となられ、海内第一の大名にして天下の政務にも御参与なさって
おられますと国々の国守より貢物奉ることおびただしき故に、自然と裕福にもなりましょう。

ですから、かような盗人も出てくるのです。いや、これぞ御家繁栄のしるしですな。

前波半入がいつも御前で歌う小歌で、お聞きになったことはありませんか?
『御台所と河の瀬はいつもどむどむとなるがよい』というやつですよ」

正信の言葉を聞いて家康は「佐渡の言うことはいつもこれだからな」と微笑んだ。

――『徳川実紀(霊岩夜話)』

487 :人間七七四年:2014/10/29(水) 00:27:29.48 ID:5oV5j3yN.net
ある雨の日、徳川家康は浅野長政を呼んで「賭碁をするぞ」と言った。

「では私が勝ちましたら、本日別室に控えております船越五郎右衛門(景直)
の倅を上意をもって召し寄せて下さいませ」

「ほう、それは変わった賭けだな。何か理由でもあるのか?」

「はい。五郎右衛門は戦場での振る舞いは天晴れな武者だ、勇者であると
諸卒から大いに賞賛されたものですが、御治世の今では誠に不甲斐ない
臆病者と聞こえております。

この者は中頃に(秀次事件で)御勘気を蒙り、南部へ遠流させられ、
七、八年後に帰参を許されましたが、未だに名跡を継がせる嗣子がおりません。

元々、本妻には子がいなかったのですが、蟄居の折、南部で一男をもうけまして、
本妻の憤りを恐れて披露できなかったようでして」

「そういう事情ならば賭けには及ばない。
その配所での産子を早々に呼び寄せて嗣子とするように」

路次伝馬などについて定めた後、二人は囲碁を始めたという。

――『名将言行録』

488 :人間七七四年:2014/10/29(水) 00:28:46.20 ID:5oV5j3yN.net
堀尾吉晴は十六歳より従軍して四十年あまりの間に大小の戦に臨み、
自ら先駆けて多くの敵を討つこともあれば、士卒を下知して城を落とし、
陣を破ることもあった。

しかし、吉晴はそれだけの武勇がありながら深く慎み、子息にさえ
己の武勇を詳しく話そうとはしなかった。それでも自然と世に知られた
高名は二十二度といわれる。

ある人が吉晴の子・忠氏に吉晴の武功について尋ねた。忠氏は父の武功に
ついて詳しく知らなかったので答えなかった。

この時、その人が「この道の嗜みがないから知らないのだな」という様子
だったので、忠氏は深く恥じて、吉晴に大坂貝殻塚を一人で取った時のことを

教えて欲しいと言った。吉晴は答えなかったが、忠氏が他人にその道を
好まないのだと思われたくない一心で重ねて尋ねると、ようやくあらましを語った。

親子の間ですらこのようであったから、他人に語ることはなおさら無かった。

――『名将言行録』

489 :人間七七四年:2014/10/29(水) 01:13:45.68 ID:5oV5j3yN.net
藤堂高虎は、関ヶ原合戦後の新領地伊予国の板島城工事のあと、
近江粟津に新しい城の築城(膳所城)と、
伏見城修築および石垣築造を命ぜられた。
さらに並行して、今治に自身の城も築城していった。


さて、それがようやく竣工なったところで、
江戸城修築の縄張りを命ぜられた高虎は、即座にこれを断った。
命じたのは徳川家康である。

「天下の大都城でございますれば、
方角その他よくわきまえた軍法者にお命じになったらよろしかろう。」
再三にわたって固辞したが、家康は聞き入れない。

「佐渡守。よく聞け。城の縄張りに必要なのは、
攻められて持ちこたえ、
攻めて攻めるに苦労した要害の地をよく知っている、
そなたのような老功者の技術である。
よいな。辞退してはな・ら・な・い。」


(観念した)高虎は、大体の絵図ができるとその都度家康を伺った。
家康自らが筆を取って御朱を引いて修正すると、
その後、将軍秀忠に絵図を見せて説明し、承認を得た。
こうして空堀、石垣などをことごとく完成させていったのであった。
                               「玉置覚書」

490 :人間七七四年:2014/10/29(水) 01:14:57.43 ID:5oV5j3yN.net
山崎の戦いの際、堀尾吉晴の家臣・則武三太夫は首を取って
吉晴の前にやって来た。

「おお三太夫、思ったよりもやりおったな」

(思ったよりも…?)

吉晴の言葉に怒った三太夫は首を持って進み寄ると、

「こんな時には大将の目も暗くなるものですな!
則武三太夫が取りし首をもっとよく御覧になられよ!」と、吉晴を罵った。

三太夫の非難に吉晴も怒ってしまい「憎い奴め!」と言うままに
三太夫を斬りつけると、三太夫の兜の星が削れてしまった。

すると、三太夫は一直線に敵の中へと馳せて行き、またも首を取って
帰って来た。吉晴は「絶対に三太夫は討死しただろう」と悔やんでいたので、
三太夫の帰還を大いに喜んだ。

「とにかくお前を誉めようと思うあまり、つい『思ったよりも』
などと言ってしまった。剛の者にかけるべき言葉ではなかったよ。
私の過ちではあったが、お前の二度の先掛けは誰よりも大いに勝っているぞ」

吉晴はそのように深く感じ入ったという。

――『名将言行録』

491 :人間七七四年:2014/10/29(水) 01:17:17.56 ID:5oV5j3yN.net
武田信玄は見目麗しい小姓を選び出し、密かに徳川家に送り込んだ。
やがて徳川家康はその小姓を召し抱えて側近くで仕えさせた。

ある日、家康は酒宴を終えて横になっていたが、日ごろ黒本尊を拝めることを
習慣にしていたのをこの日は忘れていたので、起き上がって仏前にて
念仏を唱えていた。

この時、例の小姓は家康が寝ているものと思い、刀を抜いて衾の上に
乗りかかって刀を突き立てるも、即座に召し捕らえられてしまった。
そして家康に「ありのままを白状しろ」と言われると小姓はすべてを話した。

「若年でありながら主君のために一命を捨てて、わしを殺そうとしたか。
すばらしい志だ。決して咎めるに及ばず」

そのように言うと家康は小姓を解き放ち、甲斐へ帰したという。

――『徳川実紀(寛永聞書)』

492 :人間七七四年:2014/10/29(水) 08:32:55.84 ID:MP9ooZ1/.net
福地六郎右衛門がお城から退出してくると、
多久殿の屋敷前で、身分の高い方であろう女乗物が行くのが見えた。
侍がひとり、行列をさけ道の脇で礼をしていたのだが、
行列のナギナタ持ちが、その侍に、
「頭が高い」
と言いながら、ナギナタの柄で頭を打った。
侍が頭を拭くと、手には血がついていた。
それを見ると、侍は静かに立ち上がり、
「礼をする人間に対して、無法なやり方、許せぬ」
と言い、ナギナタ持ちを一刀に斬り伏せた。
女乗物はそのままどこかへ通り去って行った。
見ていた六郎右衛門は、侍の近くまで行き、
自分の持っていた槍の鞘をはずし、
「刀を鞘におさめるのだ。城中で、抜身の刀を持つ者を通すわけにはいかない」
と言うと、その侍は、
「只今、やむを得ぬいきがかり、刀を抜くこととなった。
貴殿も御覧になっていただろう。
刀を納めたいとは思うが、今の一言では納めるわけにはいかない。
迷惑ではあろうが、お相手になろう。
さあ、どこからでもかかって来い」
と、言ったので、六郎右衛門は槍を投げ捨て、
「ごもっともな言い分である。
わたしは福地六郎右衛門という者です。
天晴れ見事なおふるまいでござったな。
わたしが証人となり、一命を捨てても貴方のお力添えをしよう。
ささっ、刀をお納めくだされ」
と礼儀を整え挨拶をすると、
その侍は刀を納めた。
「どなたの御家来衆ですか」
と尋ねると、多久長門の家来とわかったので、
六郎右衛門はともに付き添い事の次第を届け出た。
ところが女乗物は想像以上に身分高い方の奥方だと分かり、
長門殿は恐縮して、この侍に切腹させることを申し上げられた。
そのとき、六郎右衛門がまかり出て、
「侍の約束ゆえ、この方に切腹を仰せ付けになるならば、
この六郎右衛門がまず切腹をしましょうぞ」
と必死の覚悟を見せたので、
別段のことなくすんだとのことである 【葉隠】

493 :人間七七四年:2014/10/29(水) 08:34:27.19 ID:MP9ooZ1/.net
その福地六郎右衛門は大身でありながら、
家ではいつもゴザ作りをしていたそうだ。
家来たちが、
「身にふさわしくないことをなさる…」
とボヤキあっていることを知り、
ある日、家に迎えにきた家来たちに、
門前で馬に乗ってから、その者たちに、
「肩にゴザの屑はついていないかな?
ついていればみっともないと見る方々もいよう(笑)
よく見ておいてくれ」
と言ったとのことだ。
また、主水殿が役人を勤めていた組親だったので、
主水殿のところへ行って、台所でゴザを作っていたとのことた。
当時は、寄親と組子の間は上司と部下の関係ではなく、
親と子のように親しかったとのことだ

494 :人間七七四年:2014/10/29(水) 08:36:02.53 ID:MP9ooZ1/.net
戦国時代、ちょんまげを結うのは激痛をともなった。月代をハゲにする為、木製の毛抜きで引き抜いた
「黒血流れて物すさまじ」(『慶長見聞集』)とも記録されている。

我慢大会が終わったのは、天正期(1580年頃)
「太閤以後は髪を引き抜く代りに剃刀で優雅な格好に剃った」(イエズス会宣教師ロドリーゲス『日本教会史』)

495 :人間七七四年:2014/10/29(水) 09:08:39.34 ID:MP9ooZ1/.net
武田信繁
「武士として歌道への嗜みも持つようにしたいものだ。
昔の歌に、

『数ならぬ心のどかになり果し
しらせてこそは身をもうらみめ』

というものがあり、古来より歌の心を重んじていることがわかる」

【信玄家法下巻九十九箇条】

496 :人間七七四年:2014/10/29(水) 09:10:16.92 ID:MP9ooZ1/.net
柳生宗矩は常に猿を二匹飼っていて、打太刀の相手にしていた。
そのために猿は後には鍛練して未熟な弟子なら打ち負かすほどになった。

ある時、槍については自負のあった浪人が縁を求めて宗矩の門人になることを
請い、かつ手合わせを望んだ。

「易きことなり。しかし、まずはこの猿と立ち合ってみたまえ」
「なんと! 畜生の相手になれとは馬鹿にするにも程がある!」
「さぞ不思議に思っているだろうが、ともかくまずは立ち合いたまえ」

しかたなく浪人が立ち合うことにすると、竹具足と小さな面を身につけ、ふくろ竹を
持った猿が出て来た。そしていざ立ち合いが始まると、猿はつかつかと槍の柄を
潜って何の造作もなく浪人を撃った。

思いもよらないことに浪人はもう一度立ち合いを望んだ。宗矩はもう一匹の猿を
出したが、やはり浪人は撃たれて大いに面目を失うことになった。

宿に戻った浪人は四、五十日かけて工夫を懲らした。これならそう簡単には負けない
だろうと思った浪人は、再び猿に挑戦することを望んだ。

「その方は工夫を懲らして殊の外上達したと見える。今度は猿では相手にならなそうだ。
しかし、此度もまずは立ち合ってみたまえ」

再び浪人は猿と向かい合ったが、今度は槍も合わせないうちに猿は大いに鳴き叫び、
逃げ出した。それから浪人は宗矩の門人となり、ついには兵法の奥儀を究めたという。

――『名将言行録』

497 :人間七七四年:2014/10/29(水) 10:21:36.50 ID:MP9ooZ1/.net
明石掃部(全登)といえばキリシタン武将として、大阪の陣で活躍したこと、有名である。
その明石掃部にはレジナと言う娘があった。
彼女は大変聡明な女性であり、父からも子供の中で最も愛され、大阪城にも父とともに入城した。
城内では淀殿から大変可愛がられ、ゆくゆくは一廉の領主と結婚させよう、と言われるほどであった。

慶長20年(1615)5月7日、大阪城陥落。
幕府方の兵が乱入し、レジナを見つけると暴行を働こうとした。レジナはこれに、命がけで激しく抵抗した。
そうしているうちに幕府方の兵の中から

「お前は何者か」
と聞かれ

「私は明石掃部の娘である!私を大御所様(家康)のもとに連れていきなさい!」
そう答えた。

兵士たちは彼女の要求を聞きとどけ、家康の元へと届けた。

レジナの事を聞いた家康は彼女と対面した。
家康はレジナの気高い態度にすっかり感心し、それを大いに褒め称えた。
彼女のことは異教徒の間でも評判となり、彼らはキリシタンを賞賛した。
そして家康は彼女の身柄を、家康の側室の一人である”オカモ”という女性に預けた。
その側室や周りの人々も彼女の態度、振る舞いに感心し、丁重に扱った。
(続く)

498 :人間七七四年:2014/10/29(水) 10:22:38.68 ID:MP9ooZ1/.net
大阪の陣の戦後処理にめどが付き、家康が駿府に帰るという時に、家康は再びレジナと対面した。
家康は彼女に、その父で戦後行方不明となった明石掃部の行方について尋ねた。
彼女は「時分は屋敷の中に居たので解らない」と答えた。
また自分の兄弟は5人いるが、そのうち一人はキリスト教の修道士になった、ということも答えた。

彼女は家康の前でも落ち着き、誠実に答えたので、その姿は家康の側近たちも賞賛するほどであった。

質問を終えると家康はレジナに、
「そなたは今後も、キリスト教への信仰を持ち続け、父である明石掃部の霊魂のため祈りを捧げるように。」

と言って小袖一枚と銀子を与えた。その上でさらに

「そなたが自由に、どこにでも行く事を許可しよう。もし北政所の所に留まりたいと思うのなら、私がその斡旋をしよう。」

とまで言った。しかしレジナはこれに

「私は恵まれない環境に身を投じることこそ、キリシタンとして神への純潔を守ることが出来るのだと考えています。」
と答え、その申し出を断ったのだという。

キリシタンの記録に見える、明石掃部の娘、レジナについての逸話である。
(シュッテ「1614-15大阪の陣と日本の教会」)

499 :人間七七四年:2014/10/29(水) 11:01:14.60 ID:MP9ooZ1/.net
田中吉政は初め久兵衛という名で、近江の民衆の一人だった。
ある日、畑の畔で久兵衛が休んでいたところ、ある侍が若党五、六人を
引き連れ、槍を持たせているのを見かけた。

「侍でなければ人ではないのだ」

侍一行をまじまじと見てそう言った久兵衛は百姓を辞めることにした。
久兵衛は宮部継潤の若党となったが、その頃はわずか三石の身分であった。

はれて武士となった吉政に、伯母方の織った麻布一端が贈られてきた。
そこで紺屋に袴を染めさせると、巴の紋が付いていた。これを縁にして
巴を定紋としたのだという。

吉政の働きぶりは礼儀正しく勤勉で、過悪もなかった。豊臣秀吉が秀次を
養子とし、師傅に相応しい人物を選んだが吉政よりも適任の者がいなかった。
よって吉政を秀次の傅とし、近江八幡山城三万石を与えて兵部大輔に任じた。

――『名将言行録』

500 :人間七七四年:2014/10/29(水) 11:02:26.84 ID:MP9ooZ1/.net
成瀬正成と土井利勝は観智国師存応を伴って上州新田にやって来た。
徳川家の先祖の旧蹟を捜索しに来たのである。

しかし、聞き込みをしてもそれを知る者が見つからなかった。
だが、一人の農夫が「世良田の近くの丘に古寺のあとがあると言い伝えがある」
と証言したので、

利勝は人夫を集めて丘の上を掘らせたところ、たくさんの古仏古瓦を発掘した。

「これこそ間違いなく御墳墓の地だ!」

利勝らはその地形を記録して帰り、(徳川家康に?)報告したという。

――『徳川実紀(駿府政事録)』

501 :人間七七四年:2014/10/29(水) 17:25:33.78 ID:YlIPTXT9.net
大木兵部統清は島原の乱に七十一歳で参陣し殊勲をあげ、
鍋島直茂直伝の勝口の軍法を編成したほか、
肥前国絵図の作成、視聴覚知妙、先考三以記の編纂を手懸けた、
文武両道の古強者である。
そんな統清であるが、一門の若い侍が集まると、

「若い者は、日頃から勇気を奮い立たせることを意識するように。
勇気というものは、例え武芸の下手な者、腕力の弱い者であっても、
その気にさえなれば奮い立たせられるものだ。
刀が折れたなら手で戦い、手を斬り落とされたなら肩の骨で相手を殴り倒す。
肩から斬り落とされても、口で、敵の首の十や十五は食い切ってしまう。
と、まあ、こういう心掛けを勇気というのだ」

と話していた 【葉隠】

502 :人間七七四年:2014/10/29(水) 17:26:34.21 ID:YlIPTXT9.net
老武者から聞いた矢除けのお守りの話だが、
敵の矢に当たりたくないと思う者には効き目がなく、
雑兵どもの矢には当たりたくない、
自分は名のある武者の矢に当たりたいと念じる者に、
八幡大菩薩により矢除けのお守りの御加護があるとのことだ 【葉隠】

503 :人間七七四年:2014/10/29(水) 17:27:40.86 ID:YlIPTXT9.net
徳川家の重臣・大久保忠隣が、本多正信・正純親子との政争に敗れ改易されたこと、これは有名である。
忠隣はその後、近江の井伊家において、流人として拘束されていた。

さて、元和2年(1616)4月17日、忠隣の改易を命じた徳川家康が死去した。
これにより名実ともに、かつて大久保忠隣が力強く補佐した将軍徳川秀忠の世となり、井伊家当主。直孝は
「もはや良き時分である」と、忠隣の元を訪れこの様に言った

「あなたはどうして将軍家に上書して、冤罪を雪がないのでしょうか?
もし、そう言った意志がおありなのなら、不肖ながら私も又、あなたの力になりたいと考えています。」

今や幕府有数の実力者でもある直孝の言葉であり、秀忠が忠隣に対し好意的であったこともあわせて、
直孝の後援があれば忠隣の名誉回復も容易ですらあっただろう。ところが

「お断り申す。」
忠隣は即座にそれを辞した

「昔から忠を以って退けられるということ、その例も多い。
私が今この様にあるのも、ただ天のなしたことであろう。

それにな、大御所様は既に身罷られた。なのに今更私が罪のないことを申し出るなど、これは
主人の過ちを天下に暴露するようなものであり、その様なこと私の素意ではない。

その上、強いて私の冤罪を雪ごうとすれば、今の将軍家に父である大御所様の過ちを認めさせるという不孝を
させてしまうことになる。そのような事をたかだか我が身一つと変えるなど、私には到底受け入れられない。

そうであるから、私は今のまま、このようにして臣節を全うすることが、最も良いのだよ。」

これを聞いて直孝は言葉も無く、ただ涙を流し忠隣の元を下がったと言う。
(武士道美譚)

504 :人間七七四年:2014/10/29(水) 18:03:49.62 ID:YlIPTXT9.net
将軍徳川秀忠が上洛の途中、尾張熱田において多くの国衆の出迎えを受けた。
その中に兼松又四郎(正吉)という老人の名が見え、これは古兵の聞こえた者であったので、その夜、土井大炊頭利勝が
秀忠の使いとして兼松の自宅に赴き、3つの質問をした。

「公方様よりお尋ねになったのはこの3つでござる。

第一の質問は、織田信長公と今川義元公との合戦、いわゆる桶狭間のおりの貴殿の手柄はどういったものであったか。
第二の質問は、刀根山の合戦において信長公より足半(踵の無い短い草履)を賜った誉のことについて。
第三の質問は、貴殿と猪子内匠(一時:信長の赤母衣衆。本能寺後秀吉に仕え、のちに秀忠のお伽衆に)のどちらが
年長か、ということである。公方様は猪子の方が年長だとおっしゃっておられた。

これらについて、いかがであろうか?」
(続く)

505 :人間七七四年:2014/10/29(水) 18:04:44.64 ID:YlIPTXT9.net
これに又四郎
「仰せの趣、畏まって候。
先ず信長公と今川殿との戦の時には、朋輩7,8人と寄り合って打ち立ったのですが、私は2度までも
馬を乗り損じてしまい、変なことだと思ってよくよく見てみると、私は鎧を逆さまに付けていたのです。
それで、どうも不吉に思ったのでその日は合戦に出ませんでした。

それに対して朋輩達は皆手柄高名をいたして帰ってきたのに、私一人そのような始末であったので、
見苦しいことだと皆よってたかって私を馬鹿にしつつ、彼らがそれぞれ取ってきた首の血を私の具足に塗り、
仕舞いには泥を草摺に塗られ辱められました。
その上彼ら高名した者達と一緒に、心恥ずかしくも信長公にお目見えいたしました。
ですがその時信長公は、義元の首を三方に乗せられ御前に置かれ、たいへん機嫌の良い所でしたので、
手柄を立てた朋輩とともにお暇を賜って帰宅したのでした。

それから刀根山の時のことですが、宵に御触れがあったのですが私は全く油断していておりました。
ところが信長公が早くも御出馬との事を聞き、私は大慌てで、草履を履く暇もなく裸足にて駆けつけ、
なんとか高名を仕った所を信長公がご覧になり、御太刀の鞘に掛けられていた足半を下されたのです。
別に骨折りというほどのことではなかったのです。」

なんともガッカリな真実ばかりである。
ここで土井利勝は言葉をはさみ
「さて、貴殿と猪子内匠との御年齢は、確かに猪子のほうが年上であると上様の御記憶であるが、その通りで
ありますな?」
(さらに続く)

506 :人間七七四年:2014/10/29(水) 18:05:44.06 ID:YlIPTXT9.net
しかしここで又四郎
「いいえ、それは上様の御記憶違いです。猪子内匠は私よりも年若です。」

土井利勝、これに困った顔で
「兼松殿、上様は御記憶が良いのが自慢なのです。これは大して意味のある話でもありませんし、
ここは貴殿のほうが年若と申し上げておくほうが、何かとよろしいと思うのですが…」

が、又四郎
「ええ、あなたのおっしゃることは解ります。実は私も、ここは自分が年若だと申し上げたほうが何かと
都合も良いとも考えました。

ですが、あなたがお尋ねになった3つの質問の内、2つまで武勇についてのことでした。であればそこに、
偽りを申し上げるわけには行きません!」

土井利勝はこれを聞いて感動し、なんと貴い心がけであろうかと、そのまま秀忠に報告した。
秀忠も兼松又四郎の直良な心に感じ入り、

「偽らず飾らず、さすが武道の達人である。」

そう言って時服、黄金に御内書を添えて又四郎に下された。
これを伝え聞いた人たちはみな、兼松の名にし負う正直さを褒めぬものはいなかったという。
(武士道美譚)

507 :人間七七四年:2014/10/29(水) 20:06:15.08 ID:YlIPTXT9.net
徳川家の重臣・大久保忠隣が、本多正信・正純親子との政争に敗れ改易されたこと、これは有名である。
忠隣はその後、近江の井伊家において、流人として拘束されていた。

さて、元和2年(1616)4月17日、忠隣の改易を命じた徳川家康が死去した。
これにより名実ともに、かつて大久保忠隣が力強く補佐した将軍徳川秀忠の世となり、井伊家当主。直孝は
「もはや良き時分である」と、忠隣の元を訪れこの様に言った

「あなたはどうして将軍家に上書して、冤罪を雪がないのでしょうか?
もし、そう言った意志がおありなのなら、不肖ながら私も又、あなたの力になりたいと考えています。」

今や幕府有数の実力者でもある直孝の言葉であり、秀忠が忠隣に対し好意的であったこともあわせて、
直孝の後援があれば忠隣の名誉回復も容易ですらあっただろう。ところが

「お断り申す。」
忠隣は即座にそれを辞した

「昔から忠を以って退けられるということ、その例も多い。
私が今この様にあるのも、ただ天のなしたことであろう。

それにな、大御所様は既に身罷られた。なのに今更私が罪のないことを申し出るなど、これは
主人の過ちを天下に暴露するようなものであり、その様なこと私の素意ではない。

その上、強いて私の冤罪を雪ごうとすれば、今の将軍家に父である大御所様の過ちを認めさせるという不孝を
させてしまうことになる。そのような事をたかだか我が身一つと変えるなど、私には到底受け入れられない。

そうであるから、私は今のまま、このようにして臣節を全うすることが、最も良いのだよ。」

これを聞いて直孝は言葉も無く、ただ涙を流し忠隣の元を下がったと言う。
(武士道美譚)

508 :人間七七四年:2014/10/29(水) 20:07:35.02 ID:YlIPTXT9.net
直江兼続曰く、

「今日本には大身小身の名将が多くいるが、その中から
選んで主人にするならば、太田三楽と我君の謙信公に及ぶ者はいない、
と他家にて話題になっていたと聞くが、実にもっともなことである」

――『名将言行録』

509 :人間七七四年:2014/10/29(水) 20:08:46.23 ID:YlIPTXT9.net
小山評定により今後の対応を決定した徳川家康は上杉景勝の押さえとして
結城三河守秀康を残すこととし、松平玄蕃允家清を使いにしてその旨を伝えた。

しかし、秀康は「上方の戦を捨ててこの地に残るとは思いもよらなかった。
例え父君の仰せでもその儀には従い難い!」と憤慨し、梶原美濃守と原隼人を
家清に同伴させて、家康に上方への出陣を願った。

「三河守の若さではそのように思うのも無理はない。直接話したい故、急ぎ本陣に参れ」
家康が梶原らにそう伝えると、秀康は本陣にやって来て家康と対面した。

「此度の上方の敵は何十万騎いようとも烏合の衆にすぎない。一体何程のことがあろうか。
しかし、抑えなければならない上杉家は謙信入道以来、弓矢を取って天下に並ぶ者はいない。
また、景勝は幼弱より軍の中にあって、その武名はとても広く知られている。

今彼と容易く戦えるような者はいないだろう。それだけの者を相手取ることが、
おことの面目を著しく損なうようなことにはなるまい。それに上方へ向かう人々や
その家人らは人質を江戸に留めている。関東の守りが薄くては人々の心も堅くはならず、

勇気を振るうこともできないだろう。そうしたことを考えれば、景勝を抑えるためには
おことをこの地に残さなくてはならないのだ」

話を聞いて秀康も終いには残留を了承した。家康は殊の外嬉しい様子で涙を流し、
自ら着背長を一領取り出した。

「この鎧は儂がまだ若い頃より身に着けていた物だ。これを着ていると不覚を取ることは
一度も無かった。父の佳例になぞらえて奥方の大将となり、名を天下に揚げるのだ」

秀康は心も打ち解けて、心地よく鎧を受け取った。すると本多正信が秀康の側に進み寄り、

「よくぞ殿は御受けなさいましたな! 大殿が一統の功を立てなさるのも、この御一言によって
定まりました。天晴れ、内府の御子にございますぞ!」と、秀康の膝をしきりに叩いて喜んだ。

――『徳川実紀』

510 :人間七七四年:2014/10/29(水) 20:48:07.39 ID:YlIPTXT9.net
前田利常に仕える吉田大蔵といえば、弓の名人として有名であった。

ある時、この吉田大蔵が利常に扈従して京都に赴いたその帰路、近江の宿泊予定の宿に向かっていた。
と、その頃その宿では、大変な騒動が起こっていた。なんと宿の倅に狐が憑いたのである。
宿の主人をはじめ皆困惑していた所、この倅が突然騒ぎ立てた

『吉田大蔵が来る!なんと恐ろしいことだろう!!』

そう叫んで逃げまわったのである。と、そこに一人の武士がこの宿を訪ね現れた。
主人はおずおずと尋ねる「貴方様は、吉田殿ではございませんか?」

「ああ?左様である。」

「おお!では…」主人は息子のことを詳しく大蔵に語った。そして「どうか息子に憑いた狐を祓い退けてほしい」と
懇願した。

大蔵は暫く考えて「ならば、あるいは汝の倅を射殺してしまうことになったとしても、差し支えないか?」
これには主人も顔色を変えたが

「…我が息子は既に狐に憑かれている以上、有るといっても無いに等しい状況です。
そうであれば、貴方様に射殺されたとしても、彼も又成仏つかまつる事になります。ならば、あえて貴方様を
恨むようなことはいたしません。」

「そういう事であれば」
大蔵、この主人からその旨を記した誓詞を取り、宿の者達に命じてその倅を庭の木に縛らせ、
弓を取ってこれに向かい、目いっぱいに弓を引いて倅に狙いをつけると、したたかに叱りつけた!

「狐よ!速やかに去れ!!去らずば直ちに射殺すぞ!!」

するとこの倅は声を上げて泣き始めた。そして暫くすると、正気に戻った。
狐は去ったのである。

この事があって吉田大蔵の名は、さらに遠近に響き渡ったという。
(武士道美譚)

511 :人間七七四年:2014/10/29(水) 20:49:04.51 ID:YlIPTXT9.net
世に言う浅井畷の戦いの折、江口正吉は引き退く前田軍に喰らい付き、
鳥銃を打ち掛けた。主君の丹羽長重は銃声を聞いて「遅れるな者共!」と、

馬に鐙を合わせて馳せ着け、終には寡兵をもって前田利長の大兵を追撃した。
この時、正吉は「この殿の早業は今に始まったことではないぞ!」と喜んだ。

この戦いは立花宗茂が寡兵で鍋島勝茂の大兵を打ち破ったのと並び称された。
この後、長重は封地を失うことになったが、後に白川十万石に封じられたのは、

この戦いの勇功を賞されてのことといわれた。当時、諸将は長重と会うたびに
その戦略を質問していたということである。

――『名将言行録』

512 :人間七七四年:2014/10/30(木) 07:02:31.01 ID:g6XdEBuR.net
ある時、武田信玄の下へ「やんごとない人」の子だという十五、六才の若者を伴って「召使いになさって下さい。」とやってきた者がいた。
見るとその若者は世にも稀な美しい顔立ちなので、召抱えて茶道の重阿弥に預け、頭を剃らせて茶坊主とした。
さて用事をさせてみたのだが、幾度も信玄の意思を先に覚っては、
それに副うようすべて用意しておくといった具合だったので、信玄はこの小坊主をとても気に入っていた。

こうして二年ほど経ったある夜のこと。信玄は自室で、この小坊主に石臼で茶を挽かせていた。
すると部屋に面した庭の向こうで若侍が十人ほど集まって話す声が聞こえたが、そのうち言い争いから散々に斬り合う音となった。

「お庭内で若侍たちが口論の上、斬り合っております!」
小坊主は申し上げたが、信玄は少しも慌てなかった。
「斬り合っているのは誰々か。」
「さあ…誰でしょうか。聞き慣れない声です。」
「にっくき奴らめ。余が庭前において何者がこのような狼藉をいたすか!残らず手討ちにしてくれよう!」

その時小坊主は茶を挽くのを止め、ズッと立って縁側の障子をさっと開け、庭の様子をしかと見て戻ってきた。
「十人ばかりが入り乱れて斬り合っております。どうかご用心を!」
と次の間に立ててあった薙刀を取って信玄に差し出した。
「薙刀の代わりに弓を持て。」
「はっ!」
差し出された弓矢を取った信玄は矢をつがえて引き絞り、斬り合っている者たち目掛けてひょうと放った!

だが矢が届いたと思った瞬間、ドッ!!という音と共に若侍たちの姿は消えてしまい、なんの音もしなくなった。
「はて不思議な事よ。これはきっと天狗の仕業じゃ。余が常に戦さの謀りごとばかり考えているので、
天狗が余を試す為にこのような不思議の業をして驚かせようとしたのであろう。あの若侍たちはまったく人ではあるまい。」
「仰せごもっともにございます…」

その夜の内に小坊主はふいと姿を消してしまった。
「やはり全て天狗の仕業に違いない。油断してはならぬぞ。」と信玄は言ったとの事である。
(義残後覚)

513 :人間七七四年:2014/10/30(木) 07:03:35.05 ID:g6XdEBuR.net
天正2年(1574年)2月18日、越前を混乱の渦に巻き込んだ富田長繁は越前一向一揆と戦う中で味方であったはずの
小林吉隆の裏切りによって背後から射たれ、落馬した所を小林に首を刎ねられ死亡した。

その長繁の首は2月19日に一揆方の大将の一人である杉浦玄当が陣を張る竜沢寺に持ち込まれて首実検が実施されたが、
杉浦は寡兵で大いに自軍を苦しめた大剛の士である長繁の首が怪しげな籠に入れられて持ち込まれた様を
敵ながら哀れに想い、涙を流したという。
(朝倉始末記)

514 :人間七七四年:2014/10/30(木) 07:04:35.11 ID:g6XdEBuR.net
明智光秀の娘が病に罹った時、光秀は女に任せては心許ないと思い、
明智光春を看病に付けて帳の内に出入りさせた。やがて病気は全快し、
光秀は「お前の看病のおかげだ」と褒賞した。

また、光秀は「お前を娘と一緒にしておいたことを、人は心許なく思い、
疑いもしただろうが、私はそのようには思わなかったぞ」とも言い、
遂には光春と娘を夫婦にしたという。

――『名将言行録』

515 :人間七七四年:2014/10/30(木) 07:35:31.59 ID:g6XdEBuR.net
田中吉政は岡崎城主であった頃、毎日城を見廻って普請などを命じ、
朝飯は城より弁当を取り寄せて、所構わず道端や堀の端で食事を取っていた。

また、侍屋敷の前では畳を一、二帖借り出して敷物にした。
結構な仕立てを嫌って、いかにも粗末であることを好んでいた。

寺の門前に役に立たない植木があれば「この木を掘り除き、茶を植えて旦那方に
音信を贈るとよい」と住持に意見した。また知行所は自ら残らず見て廻り、

百姓屋敷に堀のあるところは「警備は男に任せて、堀を埋めて田にして稲を作る
がよい。畠のほうが向いているならそれでもよい」と教えていた。

年貢高を決めるための調査には自ら赴き、稲の善し悪しを綿密に調べて賦課率を
決めたので無理もなく、百姓たちは喜んだという。

――『名将言行録』

516 :人間七七四年:2014/10/30(木) 07:38:11.44 ID:g6XdEBuR.net
黒田長政が小早川隆景と語った時の事。長政が訊ねるに
「人はあなたを天下の分別者だと言います。分別とはどのようなものでしょうか」
それに対する隆景の答えは
「分別というのは知恵のことで、知恵をもって色々なことに個別に対処することを言います。
そして世の中広しと言えども、あなたの父・如水殿ほどの知恵を持った人はいません。
私も知恵では如水殿には到底及びません。父上の言行を学ばれたら、あなたは天下の分別者になれるでしょう。

しかし、世上が私を分別者と言い、如水殿の事を言わないのはなぜかと言えば、それもまた如水殿が無二の知恵を持つからです。
如水殿に何か相談すれば、速やかに事の善悪を分別し、これはこれと最も良い配慮、判断を下してくれるでしょう。
その判断に聞いた時、例えば秀吉公のように聡明な人には、その分別の正しさを汲みとる事ができるでしょうが、
大抵の者はその分別の速さ深さについて行けず、大丈夫だろうかと無用の不安や不信に駆られてしまうのです。

私などは愚鈍なため、当座に決めたことについても今一度思案してから相談するという具合なので、
却って分別者のように思われているだけで、如水殿の速やかな決断と比べたら劣ることばかりなのです。
分別者になりたければ、如水殿の知恵を学び、分別者と呼ばれたければ、即断する前にひと思案されると良いでしょう」

長政はさらに訊ねた「では分別に肝要の事というのはありますか」隆景は答えて、
「分別の肝要は仁愛です。万事を決断するのに、仁愛を持って分別すれば、思慮が外れてもそう大きくは間違いません。
仁愛なき分別はいかに才知が巧みであってもみな誤りです。」

517 :人間七七四年:2014/10/30(木) 07:40:42.59 ID:g6XdEBuR.net
こう考えると、黒田官兵衛は知恵者ではあったが
コミュニケーション力に欠けるところがあったのか?

518 :人間七七四年:2014/10/30(木) 08:13:25.69 ID:g6XdEBuR.net
大坂夏の陣の折、徳川家康と秀忠の両御所は伏見城の舟入の櫓に渡御して、
軍の進む様子を見ていた。

この時、井伊直孝の旗奉行である孕石豊後と広瀬左馬助の二人は、城下にて
幟旗を伏せて通るので、直孝は般若野宮内に命じて「両御所が御覧になって

おられるのに何故旗を伏せるのか。早く旗を立てよ」と伝えさせたが、両人は
「旗のことは奉行にお任せください」と言って聞かず、直孝が馬場藤左衛門に
催促させても、二人は聞き入れなかった。

やがて二人は肥後橋を通過し、城から遠く離れて初めて旗を立てた。
これは主将が渡御した城へ旗を向けることを憚った故に、旗を隠していたのである。

家康はこれに感心して秀忠に向かい「この城に旗先を向けることを憚り、
今になって旗を押し立てるとは、直孝のもとには信玄の家風に慣れた古兵が多い
だけあって、軍陣の作法を心得ておるわ」と賞賛したということである。

――『徳川実紀(村越覚書)』

519 :人間七七四年:2014/10/30(木) 08:14:54.92 ID:g6XdEBuR.net
昔の侍は、たいてい常軌を逸した奇行者に剛の者が多かった。
人なみ外れた奇行をする気性であるがゆえに、
気力も強くて勇気もあったのである。
このあたりがいまいち納得出来なかったので老武者に聞いてみると、

「気力が強いゆえ、普段も手荒く、他人からは奇行者のように思われる。
今の者たちは気力が弱いから、そういうことをしないのだ。
しかしだぞ、気力は劣っていても人柄は昔より良くなっている。
昔と今を比べてみたが、勇気の有無は別のことだ。
今の者は無気力で、大人しいからと言って、
死にもの狂いになることにおいて、
昔の侍に劣るということは根本的にはないのだ。
死狂いになるのに気力がなければならないという道理はない」

とのことだ 【葉隠】

520 :人間七七四年:2014/10/30(木) 09:45:44.83 ID:g6XdEBuR.net
織田信雄が京で猿楽を催した時、小早川秀秋ら諸大名が見物に行った。
この時、秀秋は十四、五歳であったが秀吉の猶子だったためにその従士までが
その威に誇り「金吾の御出ましだ!」とすぐに戸口に入っていったところ、

側にいた加藤清正の家臣十人ばかりが「何が金吾だ」と過言した。
怒った秀秋の近習は棒を取って三人まで打ち叩いた。これがきっかけで喧嘩となり、
秀秋の帰宅後、両家の士が伏見より馳せ来たり、互いに武装して警固した。

秀秋の老臣は「打たれた三人は清正が成敗するでしょう。ならばこちらの者も切腹
させなければなりません。先延ばしにして自害でもされたらそれこそ恥辱ですぞ」
と具申した。

「清正が何と言おうと元々彼の無礼により起こったことだ。我が家来が死ぬ必要は
ないだろう。お前たちの心配には及ばない」

秀秋はそのように言ったが、老臣たちは清正のような剛勇の士ならば必ず大事に
なると恐れ慄いた。また、打擲した者もすでに沐浴して礼服を身に着け、清正の使者が
来れば、すぐに自決しようと覚悟して待っていた。

間もなく清正自身がやって来た。秀秋はきっと争論になると思っていたが、思いの外
清正は温和な態度で「今日の家人の失礼を只今承り、遅参致しました。御近習の人々が
それがしの家人の無礼をもって斬り殺すべきところを、怒りをなだめられて打擲程度に

留めて下さったことは喜悦に堪えません。それがしも彼らを成敗しようと思いましたが、
それでは御近習も閉門になってしまうのではと思い、本国に帰して閉門を申しつけました。
どうぞ御近習を罰するようなことはなさらないで下さい」と、秀秋に詫びた。

秀秋は清正の思いもよらない挨拶に心も打ち解けて会釈すると、清正も大いに喜び、
「三里の道のりを急いで参りましたので喉が渇きました。御酒を一盃頂けませんか」と
言うので酒が用意された。また、清正は「打擲した人々も呼んで下さい」と言って
その席に招き、酒を酌み興を催して帰っていった。

――『名将言行録』

521 :人間七七四年:2014/10/30(木) 09:47:18.67 ID:g6XdEBuR.net
天文八年下総の古河にあって古河公方といわれた左馬頭足利高基は、
北条氏綱の娘を子の晴氏に娶わせた縁で、氏綱は高基を援けたのである。

高基の弟右兵衛督義明は兄と仲が悪く、下総の小弓にいたので小弓御所といった。
足利義明は勇猛の将である。自ら関東八州を征服して、覇府を鎌倉に開こうする大野心があった。
そこで同年八月古河に晴氏を攻めた。晴氏驚いて急使を以って小田原の北条氏綱に援けを頼んだ。
氏綱は義明の勢力が強いのは自分にも不利益であると考え、晴氏を援けることにした。
この情勢を伝え聞いた義明は、北条軍を途中でむかえて撃つ作戦計画を立て、
弟基頼、里見義尭と共に房総二国の兵七千を率いて国府台に至り、
江戸川を前にひかえて陣を張った。

天文八年十月四日北条氏綱は子の氏康と共に小田原を出発し、二万余人の兵を率いて江戸城に入った。
群議の結果進撃と決し、諸隊は忍んで金町に進み、江戸川の堤の下に隠れて、夜の明けるのを待った。
七日の朝北条軍は川を渡って松戸の岸に上がり、勢い猛に攻めかかる。
義明の弟基頼は第一陣将として勇戦して倒れたので、小弓勢の一陣先ず敗れ、小田原勢は士気大いに振う。
義明は見方の敗走に憤激し、ただ一騎敵中に突入し、縦横に斬りまくる。
その大長刀にふれて斬らるるもの数知れず、その勢いに敵はどっと崩れ走る。
義明は丘上に立って味方が来るのを待ったが、小弓勢はこの時総崩れとなったから、義明を援けに馳せ集まる兵士はなかった。

北条軍の横井新助は剛弓の勇士、義明の丘上に立つを見て、馬から下り立ち、密かに近づき、矢頃を計って三人張りの弓に十三束の矢をつがえ
『これは三浦の守護代横井新助と申すもの、一矢受けたまえ。』
大音に呼ばわりつつ、きりきりと引きしぼってひょうと放つ。矢は義明の胸にぐさと射貫けば、流石の勇将もどっと地に落ち、太刀を杖につきつつ息絶えた。
『横井新助敵の大将を射とめたぞ。』
と呼ばわれば、北条軍はどっと鯨波をつくって勇み立った。義明の旗下の勇士はこの時馳せつけて、新助に斬ってかかる。
この隙に松田彌二郎は素早く義明の首を取った。
乱軍の中を斬り抜けた佐々木四郎等は小弓に馳せ戻って義明の一子頼純を連れて安房に落ち、小弓御所はここに滅びたのである。

『日本英雄史蹟 : 歴史地理. 関東地方及中部地方巻』

522 :人間七七四年:2014/10/30(木) 09:48:52.85 ID:g6XdEBuR.net
1592年、筑後の溝口村の福王寺という廃寺に日源という越前の僧侶が訪れた。
日源は俗名を真柄景基といい、姉川の合戦で戦死した兄たちの霊を弔う為に
僧門に入り諸国行脚をしていたという。
彼は溝口村に越前の紙漉きの技術を伝えようと故郷から甥の新左衛門・
新右衛門・新之丞の三兄弟を呼びよせ溝口村で紙作りを始めた。

1595年、朝鮮から戻った領主の立花宗茂はその話を聞くと日源に見本紙を
出させた上で御用紙にすることを決め、日源達に紙漉きをより広めるようにと
郡中の楮(こうぞ)、紙漉きの諸道具、舟等と田を与え、さらに年貢を納めなくて
よいという特別な援助をした。この宗茂の支援により、彼らは益々紙作りに励み
溝口紙は九州でも有名なものになっていった。

1600年、立花家は改易となり宗茂は肥後の加藤家に一時預けられるが、
日源の甥の新左衛門は宗茂を慕っていたため肥後まで着いて来ていた。
そこで清正からの要請を受けて八代宮地で紙漉き業を行うこととなり、
それが宮地紙と呼ばれるようになったという。

1620年、立花宗茂が再び柳川の領主となったが、日源は既に亡く溝口村も
久留米藩に組み込まれた。それを聞いた肥後の新左衛門は宮地の紙漉きを
末弟の新之丞に任せて自身は柳川に赴き、溝口の対岸にある唐尾の地に
土地をもらって新たに紙漉き業を始めたという。

かくして、柳川の新左衛門、久留米の新右衛門、肥後八代の新之丞と三兄弟が
分かれて紙漉き業を広め九州各地へと伝わっていったのである。

――『八女手漉き和紙、溝口紙、八代宮地紙等の歴史から』

523 :人間七七四年:2014/10/30(木) 18:50:32.71 ID:eMf0u6SH.net
由井正雪の三極流兵法に因縁性というものがある。
大勇小勇十八巻書などの口伝を受けるが、
それを書き留めず、 記憶しようともせずに、
伝授を受けたことを意識せず忘れてしまう。
そうして、いざ事にぶつかった時は自らの心にまかせ動く。
するとこのとき、習っていたことが自然に知慧となり出てくる。
これが因縁性である 【葉隠】

524 :人間七七四年:2014/10/30(木) 18:51:50.71 ID:eMf0u6SH.net
田代利右衛門の家には妻と下人がいた。
あるとき利右衛門の外出を見計らった下人が、
利右衛門の妻に思い詰めた表情で話かけた。

「御主人に不義を為すのは悪いことだと思い、
何度も思いとどまってきましたが、
前世の因縁としか考えられないような気持ちが抑えきれません。」

と言い寄ってきた。
利右衛門の妻は不義に怒り厳しく下人を叱りつけたが、
思い詰めた下人は話を聞き入れそうにない。
そこで、

「それほど思い詰めていたのなら仕方ありません。
人目もあるから奥の物置で待っていてください。
お前の気持ちを叶えてあげます。」

と言うと、下人は喜んで物置に向かった。
利右衛門の妻は、下人を奥へと引き入れてから、
物置を掃除するように装い外に出て戸を閉めて錠をおろした。
そうしてから利右衛門の帰りを待っていると、
やがて帰ってきたので、事の次第を全て話した。
利右衛門はまず下人を物置から出し、
下人の口から事を確かめたうえで討ち捨てたとのことだ 【葉隠】

525 :人間七七四年:2014/10/30(木) 18:53:07.77 ID:eMf0u6SH.net
鍋島直茂は曰く、

「木曾義仲は平家を撃ってこれを走らせ、京において驕奢を究めて
遂には義経のために亡ぼされた。義経は平家を撃ち亡ぼし京にあって
義仲よりも一層栄花に誇り、遂には梶原景時の讒言によって亡びた。

この二人は思慮もなく成り上がったので、鎌倉への取り繕いがなかった。
鎌倉より検者を乞いてそれぞれ資財などを与えて、折々の取り繕いがあれば、
思いのまま天下を占めることもできただろう。才覚が下手だったのだ。

弁慶を文武二道の者というが、分別は文武の外たるべし」

――『名将言行録』

526 :人間七七四年:2014/10/30(木) 19:27:36.17 ID:eMf0u6SH.net
ある男が白昼に人を斬って商家に逃げ込み、そこにわずか8歳の少女が乳母に抱かれていたのを奪い取り、
これを人質にして立て籠もるという事件があった。

商家の者たちは突然の事に皆逃げ出した。この男は内から戸を閉じ少女を膝の上に伏せ置いて、
もし乱入する者が有らば即座にこれを刺し殺すという気色であった。
もとより頑是無い少女であれば、最初は大声で泣き叫んでいたが、やがて声も枯れ果て、
もはや呼吸をするのが精一杯という様相であった。

近辺の者達はその家を七重八重に取り囲んだものの、突入して少女に害が及ぶことを恐れ、
どうすべきかと徒に惑い騒いでいた。

ここに、町与力の間野甚右衛門と言うものがやってきて理由を聞くと、
「ここは私に任せなさい。こういう事は為し様というものがあるのだ」
と言って、男の立て籠もる商家の戸の際まで行き、声を発した

「中の方に言いたいことがありもうす。この戸を少しばかり開けてほしい。但し体が入るほど開けなくて良い。
これは決して貴殿を欺くものではない!どうか騒ぐようなことをしないでほしい!」

男はこれを聞くと、五寸(約15センチ)ばかり戸を開け

「内に入ること、固く無用である!」と、目に角を立て片膝をついて叫んだ。
甚右衛門、これに
「私は決して中に入らない。あなたと話をしたいだけです。」と、その場に座り
刀も下において、戸の間より自分の顔を見せた

「私は間野甚右衛門と申す者です。先ほど貴殿が人を御斬りになられたのは、日頃の宿意からでしょうか、
それともたまたまの喧嘩のためでしょうか?」

「ひ、日頃の宿意からである!」

「ほう。貴殿自ら斬られたものとはいえ、その様に忙しく逃げ入られたのでは、その斬った様子も
よく確認されなかったでしょう。
私はたった今それを見てきたところなのですが、大変良く斬られた刀傷でした。
左の肩先より右の片腹まで、背骨が少し繋がっているばかりでした。
一太刀で死ぬとも思えぬような騒動の中で、一撃で留めまで刺された腕前、感じ入るばかりです。」

甚右衛門、男の腕前をそうほめあげた。
(続く)

527 :人間七七四年:2014/10/30(木) 19:29:25.96 ID:eMf0u6SH.net
「そ、そうであったか!」
男がまんざらでもない顔をする。すると甚右衛門

「貴殿は誠に、勇気は余りあるほどお持ちですが、知恵が足りません。」

「なんだと!?それはどういう仔細か!?」

「あなたの御敵は日頃の宿意のためであったとのこと、ならば定めて常々、これを斬ることを心がけられて
いたのでしょう。そして今日、往来にて行き合われ名乗りかけて斬られました。
白昼の、しかも往来繁多な街中ですから、これを斬った後逃れようとはお考えになっていませんでしたね?
必ず一命を捨てる覚悟で会ったと推測するのですが、いかがでしょうか?」

「そ、そうだ!全く貴殿の言うとおりだ!」

「然らば!貴殿は心中とやっている事が違うではありませんか!
今、その少女を人質に取った事は、貴殿の心を知らぬ者達にとっては、命を惜しんで行った行為だと
考えるでしょう。この家の周囲は既に、人々により十重にも廿重にも取り巻かれておるますれば、
貴殿がたとえ天に翔び地に潜っても、逃れることはできません。
されば、最期は自害なされるか、人と斬死するか、この2つ以外にはありません。

…その少女が、例え宿意あるものの子であったとしても、素より罪なきものですから、これを許すのが
当然です。いわんや、その子はただの商家の子であり、今日のことに何も関係のない者ではありませんか!
それにこのような、何もわからぬ少女を故無く刃にかけるなど、仮に他所でこれを聞けば、
貴殿は痛ましいことだと思われないか!?
これを殺すのは、拾った子猫を殺すようなものである!一体そこに、どんな武士の気概があるというのか!

とても逃れられない道に、少女を人質としたことは、せっかく宿意のものを斬った誉れも虚しくなり、
却って人々より蔑まれ、死後までの武士の無念となるでしょう。」

「そ、それは…!」
(さらに続く)

528 :人間七七四年:2014/10/30(木) 19:30:26.85 ID:eMf0u6SH.net
「想像するに、貴殿はよもや、汚く一命を惜しんでいるのではありませんね。
人を斬った者が居ると言われて、人々が棒を持って前後を取り囲んだ、そのため、仔細を語る暇もなく
棒に撃たれては恥辱であると思い、先ず暫くその難を避け、その後に尋常に腹を斬って武士の名を失わじと、
そうお考えになったのでしょう。

されども是非無く取り囲まれて、このように騒ぎ立てられてしまい、町人たちにこうだとも言えず、
時間ばかり経って貴殿の存念が達せられない。そのように私は考えました。
さて、そうではありませんか?いかに?いかに!?」

男はこの言葉を聞くやいなや
「そ、その通りだ!我が心情をなんとよく察してくれたものか、かたじけなく思う!」
「しからば!」

甚右衛門はその言葉に付け入った
「その少女を許してあげてください。貴殿が万一、人を斬り足りないというのであれば、こう言っている
私をお斬りなさい。私も素より貴殿に遺恨はありませんし、貴殿もまた私に遺恨がありません。
ですが斬り合いしようというのなら否とは申しません!不肖ながらいつでも、お相手つかまつります。
…よくよく分別なさいませ。」

男、この言葉に
「…さても言われたるものかな。貴殿は実に、世に稀な弁者でござる。」
そう言って膝下の少女を優しく起こし、髪をかき撫で衣の塵を払い、

「私の不心得により、非道なことに、汝の父母にまで心配をかけてしまった。」
男は少女に謝り、これを開放した。
そして甚右衛門を家の中に呼び入れ

「ならば、私は切腹いたす。…貴殿に、我が解釈を頼む。」

そう言って抜きはなっていた血刀を地に突き立てた。甚右衛門も
「天晴勇者よ。潔し。潔し!」
と言いながら戸を開いて中に入り、見事介錯をはたした、とのことである。

(武士道美譚)

529 :人間七七四年:2014/10/30(木) 20:11:07.03 ID:eMf0u6SH.net
家光が京都上洛の折、東福寺大雄庵に住持が入ることになった
東福寺の檀那は伊達政宗であったので辻固めに兵を出させ旅路を警護させた

これを聞いた建仁寺の熊長老なる者(細川幽斎の甥とされる)が揶揄し
今日をはれと 檀那伊達して 政宗が 辻方目をや 光らかすらん
「京都を張れ(京都を警護しろ)と見栄っ張り政宗の旦那が道で片めくらを光らせてやがるpgr」
「(自分の息のかかった住持が上洛するので)今日が晴れの日だと檀那の伊達政宗が張りきって道路警護してやんの。ひけらかすなよバーカバーカ」
とダブルミーニングで戯歌を詠んだ

伝え聞いた政宗は
ともすれば 吾名におひの 固めをも 光らかす身の かかる迷惑
「我が身に負った片目だからこそ余計に目を光らせてるんだぜ、おかげでお前みたいな変なのまで目について迷惑だわー」
「伊達に課せられた公儀をこなしているだけなのに、どこぞの甥っ子がひけらかすなどとトンチンカンなこと言ってやがるが、なんのこっちゃさっぱりだな」
とダブルカウンターで返す

国史叢書

530 :人間七七四年:2014/10/30(木) 20:12:52.09 ID:eMf0u6SH.net
秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は高橋元種の小倉城を攻略。
高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらなる抵抗をしめしていた。

そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)攻略に取りかかる。
しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねていたのだった。

そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳ぎ渡っているのを兵士が目撃する。
報告を受けた小早川隆景は検使の黒田韓米とと相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より攻撃を開始。
浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略するのだった。

この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することになり、周防灘が赤く染まったそうである。

531 :人間七七四年:2014/10/30(木) 21:04:16.03 ID:eMf0u6SH.net
天正19年(1591年)、ポルトガル領インドから日本に使節が届いた。
秀吉はこれに返書を出すとともに、返礼としていくつかの品物を用意した。
その内訳は、甲冑2領、薙刀・太刀・打刀・脇差がそれぞれ一振りずつ。
さらに小袖20枚が加わるはずだったが、秀吉がこれを北政所に見せたところ、北政所がいたくこれを気に入り、周囲の家臣たちも
「インドからはたくさんの絹の品物がきたのだから、向こうではそれは珍重されないでしょう」
と言ったため、小袖はねねに与えられた。

なお、刀剣についても「ポルトガル人は刀身よりも装飾の方を気にし、価値を鑑定できるものはいないので、送るのは無駄なことです」
と言う者がいたが、秀吉は
「たとえ相手に価値を鑑定できる者がいなくても、余のような立場の者が優れていないものを送るのは良くない。
余は日本で価値が高いと信じられている物を送ったという評判が永久に残るのを望んでおり、適当なものを送ったなどと噂されたくない」
と言ってこれを退けた。

532 :人間七七四年:2014/10/30(木) 21:05:29.24 ID:eMf0u6SH.net
マドリードの王宮武器庫に日本甲冑が3領所蔵されている。
仁王胴具足・本小札色々威丸胴・伊予札色々威腹巻。
腹巻は伝わった時代が違うようだが、他の2領は秀吉がフェリペ2世に贈ったものという。
当時の記録とも甲冑の描写と符合するので間違いないだろう。
19世紀の末に武器庫が火事になった際に損傷し、残欠が整理されて現在に至る。
で、その丸胴具足は大袖を備えているが、全体の性格は実用より儀礼性が高いものだ。
同時期に作られた贈り物や儀礼用の本小札丸胴(ロンドン塔にある、
徳川秀忠がジェームス1世に贈ったものなど)にも同様に大袖が付随していることからも、
文禄・慶長期には、大袖は実戦から遠ざかっていたと見ることができるのではないか。
このときの戦場ではより動きやすい壷袖・蝶番袖や袖なし籠手のみが多かったかもしれない。

533 :人間七七四年:2014/10/30(木) 21:34:01.07 ID:eMf0u6SH.net
秀吉の九州攻めの最中、司祭ガスパル・コエリョは秀吉を訪問するため、先に博多で待機していた。
そこでコエリョは、同地に足利義昭がいることを知った。
秀吉が備後から連れてきていたのだ。
コエリョは日本の風習通り、贈り物を携えて彼を訪問した。


『公方様は司祭を特に優遇し、きわめて教養ある言葉を用いて彼と語らい、手ずから杯と肴を供し、日本式の麻衣である
カタビラ(帷子)二着を贈与した。
彼は談話の間、しばしば、かつ長時間にわたって、すでにデウスの教えについては幾ばくかの事を聞いているが、それらはことごとく神聖、
また正当な宗教であり、全く道理に基づいているものと思われる。
よって自分が当初の将軍職に復帰した暁には、当日本66ヵ国の全てにおいて、デウスの教え以外にはいかなる教えも説いてはならぬ
と厳命するであろう。
下関においては、その地を通過する際に1、2度キリシタンの話を聞きはしたが、なにぶんにも道中のことで引き続き聴聞できなかった
ことゆえ、予に説教するため修道士を派遣してくれるよう尊師に願う次第だ、と語った』

534 :人間七七四年:2014/10/30(木) 22:06:00.05 ID:eMf0u6SH.net
織田信長が本能寺の変で自刃に追い込まれると、その旧領を巡って北条家は徳川家康と争ったが、
上野を北条領、甲斐と信濃を徳川領とする事で和睦した。この和睦の証として、家康の娘である督姫を正室に迎えた氏直は
ある日、家康から中国産のミカンを贈られたのだが、北条家の面々はこれをただのミカンと勘違いし、

「徳川領ではそんなにミカンが珍しいのか。ならば山ほど送って驚かせてやる。」

大箱いっぱいのミカンを送り返した。これを受け取った家康は

「氏直はまだ若いから仕方ないが、老臣たちも一緒になってこんな子供じみた真似をするとは、
 北条家も滅亡の運命にあるな。」

と冷笑したという。

535 :人間七七四年:2014/10/30(木) 22:30:50.81 ID:eMf0u6SH.net
1586年、徳川家康が織田信長の後継者として勢力を伸ばしていた豊臣秀吉に臣従し、北条家も服属を迫られる状況となった。
家中では、当主の氏直ら恭順派と、家中に強い影響力を持つ父の氏政ら交戦派に分かれたが、家康の

「こちらの説得を聞き入れない場合は同盟破棄も辞さない。」

という強い説得を受け、秀吉に使者が送られる事になった。その後、北条家と豊臣配下の真田家との間に会った領土問題に秀吉が
裁定を下し、北条家もこれを受け入れて、氏政が上洛し臣従の意を示すことで話がまとまりかけた。所がそこに、北条家家臣、猪俣邦憲が
真田配下の名胡桃城を奪取するという事件が勃発した。これに激怒した秀吉から

「必ず氏直の首を刎ねてやる!」

と宣言されると、氏直は

「北条家は何も知りません。父の氏政は上洛させますが、そのまま抑留されるなどの噂もありますので、
 かつて家康殿の上洛に際して豊臣家から人質を出した様なご配慮お願いします。」

といった弁明書を送り、家康にもとりなしを頼んだものの、聞き入れられる事は無かったという。

536 :人間七七四年:2014/10/30(木) 22:33:41.40 ID:eMf0u6SH.net
下総の国葛飾郡にかつて葛西城という城があった。詳しい創建の時期は明らかになっていないが、15世紀中ごろにはすでに存在していたようである。
はじめ関東管領上杉方の城であったが後北条氏の手によって天文7年(1538年)に陥落。後北条氏により整備され規模も拡張されたが、天正18年(1590年)後北条氏の滅亡により城としての役割を終えた。

この葛西城での発掘調査ではいくつか不思議なものが発掘されている。
漆器の椀や将棋の駒、下駄、櫛、陶器類などの日用品に交じってヒコサンヒメシャラ(英彦山姫沙羅)という植物の種が発見されているのである。
このヒコサンヒメシャラは椿の仲間で白い花を咲かせるのだが、神奈川以西に自生する花であり、おそらく小田原から持ち込まれたものだと考えられている。

さて、もうひとつ見つかって大変驚かれたものだが…。
堀の中から見つかったのはなんと女性の頭骨。しかも打ち首にあったと見られる刀傷がある。
泥の中から発掘され、茶色く変色した頭骨の持ち主がどういう人物であったのか、どういういきさつで打ち首にあい、首が堀の中に紛れ込んでしまったのかは全くの不明である。
人質か何かで囚われ、斬られてしまったのでは等諸説あるが、はっきりとした資料がないためわからない。

537 :人間七七四年:2014/10/31(金) 06:51:41.62 ID:Dvf7FYho.net
細川ガラシャの侍女に、霜女という人が居た。彼女の夫は明智光秀に使えた入江兵兵衛という武士であり、
山崎の戦いで討ち死にした。その縁のためであろうか、霜女は細川ガラシャ夫人に仕えた。
以下、霜女による細川ガラシャ夫人の最期に関する証言である。

『石田治部少輔乱(関ヶ原)の年7月12日に、小笠原昌斎・河北石見の御両人が台所(奥)に参られ
私(霜女)を呼び出し、こう申された

「治部少輔方より、何れも(徳川家康とともに)東に出陣された大名衆から人質を取るのだという風聞を
奥方様(ガラシャ)はご存知でしょうか?ご存知だとしたら、この事についてどのようにお考えに
なっているのでしょうか」
私はこれをその通り秀林院様(ガラシャ)に申し上げました。秀林院様がこれを聞いて仰ったのは

「治部少と三斎様(忠興)とはかねがね御関係が大変悪いので、定めて人質を取る時はまっ先に我が方に
要求してくることでしょう。もし最初でなければ、他家の対応を見ながら考えることも出来るでしょうが
一番にそれを要求してくればどうするべきか、昌斎・石見によく検討してみるよう伝えなさい。」

私はこれをまた、その通りに両名に伝えた。これを受けて小笠原昌斎・河北石見は、
「石田方より人質を要求されれば、『忠興様のご子息である与一様(忠隆)、同じく与五郎様(忠秋)は東に
出陣成されているし、内記様(忠利)は江戸に人質としてあります。現在我が方には人質に出すべき者は
一人もおりません。よって人質を出すということは不可能です。どうしても人質を出せというのなら、丹後に
使者を出して、幽斎様に京に上って頂き人質になって頂くしかありません。それを申し使わす時間もあるので、
それらの調整が終わるまで人質の件はお待ちくださるように。』と返答すると言われ、これに秀林院様も
「それこそ然るべきである」と仰られた。

そのような時、”ちやうごん”と申す比丘尼があり、これは常々御上様(ガラシャ)の元に出入りしていたのであるが、
石田方はこの人を頼み、内々に「(ガラシャに)人質に出るように」何度も申し上げた。しかしこれにも

「三斎様の御ためにも、人質に出ることはどんな事があろうとも同意できない」

と拒否された。
(続く)

538 :人間七七四年:2014/10/31(金) 06:53:29.30 ID:Dvf7FYho.net
その後この比丘尼が参られ今度は「そういえば宇喜多秀家様の奥方と、忠興様嫡男忠隆様の奥方は
同じ姻戚(両方前田利家娘)であり御一門であります。ならば宇喜多殿の屋敷に入るということでもいいのです。
その分には、人質に出たと世間も申しますまい。そうなされませ。」
これを聞いた御上様は

「宇喜多の八郎殿(秀家)は確かに一門ですが、これも治部少の一味ではありませんか!そこに出るのも
同じ事です!」とこれも拒絶した。

16日、石田方より公式の使者が参られ、「是非是非御上様を人質に出して下さい。それを聞き入れないのなら
我らは押し入ってでもその身柄を頂く!」と申しよこした、
この強行な姿勢に小笠原昌斎・河北石見は激怒した。
「あまりの申し様ではないか!この上は我らが切腹する事態になっても、絶対に人質に出ていただく訳にはいかない!
これにより屋敷中の者たちは覚悟を決めました。御上様の御意には
「本当に石田方が押し入って来たら自害いたします。その時は昌斎が奥に入りなさい。私の介錯をするように。」
と仰せになられた。与一郎様の奥方も人質に出してはならない。これも一緒に御自害なされると言うことも、
内々に約束された。

小笠原昌斎・河北石見・稲富祐直などが談合し、稲富は表にて敵を防ぎ、その間に御上様にご最期を迎えて頂く、
という事に決まった。そのため稲富は屋敷の表門に居た。そしてその日、夜の入の頃、敵が御門前まで押し寄せた。

稲富はその時心変わりをし、敵に寝返った。その様子を小笠原昌斎が聞き、「もやはこれまで!」と思い長刀を持ち、
御上様御座所へ参り、「只今が、ご最期の時です」と申し上げた。内々に約束してあったことなので、与一郎様の
奥方様を呼んで、一ヶ所で果てられようと、奥方様のお部屋に人を遣わしたが、もはやどこかに落ち延びた後であった。

最早仕方のない事なので、御上様はお力なく、お一人で御自害なされた。昌斎が長刀にて御介錯された。
(さらに続く)

539 :人間七七四年:2014/10/31(金) 06:54:32.71 ID:Dvf7FYho.net
その前に御上様は三斎様・与一郎様への書置を作られ、それを私に御渡しになり仰せられたのは、”をく”と申す
女房と私の両人は落ち退きてこの書置を届け、最期の様子を三斎様に申し上げるように、とのことであった。
私は「ご最期を見捨てて落ち延びるなど出来ません!どうかお供をさせて下さい!」と申し上げたが、
「二人は落ちるのです。そうしなければ、一体誰が私の最後の様子を伝えるのですか?どうか、お願いします。」
そう仰られたために、私はその御最期を見届けて屋敷の外に出た。内記様(忠利)ご存じの方には、内記様への
御形見を遣わされた。

私達が御門に出た時には、もはたお屋敷に火がかかっていました。御門の外には大勢の人が居ましたが、
後に着いた所によると、それは敵ではなく、家事を見物しに集まった人たちであったと言うことです。
敵も居たのですが、それらは稲富を引き連れて、御上様のご最期以前に引き上げていったのだそうです。
この事も、後になって知りました。

お屋敷において切腹されたのは、小笠原昌斎、河北石見、石見の甥六右衛門、同じく子一人、このあたりは
覚えております。他にも2,3人も切腹されたと思いますが、それははっきりとは覚えていません。
細々としたことまでは書き付けられませんでしたが、だいたい概略はこういうことでした。』
(霜女覚書)

540 :人間七七四年:2014/10/31(金) 07:36:37.44 ID:Dvf7FYho.net
山本勘助晴幸は近江の本居を去って京に行き室町将軍家に仕官を求めたが、将軍家の権威は日々衰える有様だったので
「ここは功名を立てる場所ではない。」言って京都を去った。
次に中国地方に行って名を全国に轟かせようと思い、まず諸将の賢否を人に聞いたところ仕えるなら安芸の毛利元就しかありえないということだった。

安芸に着くとまず毛利家に仕官する縁を祈ろうと思い、厳島神社に参拝し神主と会見し京都の消息を語った。
神主は珍しいと思い勘助を元就に推挙した。元就はこれを聞くと何の答もせず、2、3日後に神主を呼び出した。
「先日の京都の浪人を長くこの地に留めないように。私はその人を登用することはできません。
登用しなければまた他国で仕官するでしょう。他国へ行けば安芸の毛利は兎にも角にもと評判します。
知らなければどうしようもなく、批判もできないでしょう。速やかにここを立退かせて下さい。」と命じられたので
神主もその意を汲んで、勘助に「関東までの間に功名を立てることができる地があるでしょう。西田舎での仕官は無益同然でしょう。」と言うと
勘助はすぐにこの意味を悟って、即日厳島を出発し東へ向かった。

541 :人間七七四年:2014/10/31(金) 07:38:00.56 ID:Dvf7FYho.net
ある時上杉謙信が、石坂検校という琵琶法師を招いて平家物語を語らせた。
すると、源頼政の鵺の段になってしきりに涙を落とされた。
傍らの者たちは不審に思い、その理由を聞くと、謙信は憮然としてこんな事を語った

「私は今、検校の琵琶を聞いて、いまさらのように武道の衰退を感じた。
かつて八幡太郎義家は、禁中に妖怪が出たのを『鎮守府将軍源義家である!』と名乗って弓の弦を鳴らせば、
妖怪その姿を消したというのに、頼政は鵺を射たが、猶死ななかったので猪隼太が刺し殺してとどめを刺した
と伝えている。

義家が妖怪を払ったのは天仁元年(1108)、頼政が鵺を射たのは仁平3年(1153)である。
その間わずか46年の差ほどしかないのに、すでに武道の劣れることこういう有様である。
そこから思うと私は頼政に遅れること450年。その間に武道はどれだけ衰微したかと思うと、
つい我知らず涙を流したのである」
(上杉謙信言行録)

542 :人間七七四年:2014/10/31(金) 07:39:14.39 ID:Dvf7FYho.net
 小早川隆景は幼名を徳寿丸といい、幼くして聡明さは他を絶していた。
13歳で人質として大内氏に行き三年を過ごして帰ってきたが、その際に父の毛利元就にこのように報告した。

「大内氏は必ず滅亡するに違いありません。
なぜならば、大内義隆の贅沢は度を外れていて、政治も自ら行わず家臣の陶隆房は諌言を尽くして、ついには義隆の意に反するようになりました。
そこへ相良武任という者が義隆に阿諛追従して、隆房を讒言しました。
なので群臣は皆義隆を嫌い、武任を憎み、隆房に心を寄せる者が多くなっています。
主君が隆房を疎んじ、家臣一同が隆房に帰服しているような状況ですから、隆房が兵をあげるのは時間の問題でしょう。」

元就はこれを聞いてうなずいたが、果たしてその後、隆景の予言したとおりとなった。

543 :人間七七四年:2014/10/31(金) 08:43:07.21 ID:Dvf7FYho.net
天正十四年ころから「世間物騒の時分」につき、あれやこれやと上方対策を始めていた後北条氏だが、
天正十五年に入ると、正月に小田原城、五月には上野の箕輪城と松井田城、
一〇月武蔵岩付城、十一月箱根の山中城、足柄城と領国全土で普請を始めていた。
上杉、佐竹に加え、天正十四年十月に秀吉に臣従した徳川と、
全方面からの攻撃が予想されたからであった。

しかしそんな普請で忙しい最中のはずの天正十五年五月、
武蔵の各地では北条氏邦や氏房の命令で、堰や堤の構築が行われていたりもする。

実はこの時期、上記普請の連発のためか、北条領国内では退転欠落が続発していた。

「御国の御用につき」と言う理屈で百姓を動員していた北条だが、
一方で懐柔策もとっていたと言うお話。
あるいは、とらねばならなかったと言うお話。

544 :人間七七四年:2014/10/31(金) 08:44:14.56 ID:Dvf7FYho.net
上杉謙信が武田信玄と対陣した時の話である。
この時、武田の陣において、越前衆の夜襲があると騒ぎ出し、俄に混乱したことがあった。
この事を知った前線の上杉軍の武将達は、直ちに本陣に馳せ来てその状況を伝え
「この虚に乗じて攻められれば、我軍の勝利、疑いありません!」と言上した。
ところが謙信はこれを聞くととたんに不機嫌な表情になり

「虚実は解らないが、そういう事がないとも言えない。しかし仮にこれが事実としても、
空虚を突くというのは私の本意ではない!それにそんな行為は信玄に対しても、弓矢の無礼である!」

そう言下に拒否したという。

もし信玄がこの事を聞けば、感動するよりも「変な奴だなあ」と呆れる気がしないでもないがw
上杉謙信、自分だけでなく好敵手に対してもその武を汚させず、と言うお話。
(上杉謙信言行録)

545 :人間七七四年:2014/10/31(金) 08:45:59.01 ID:Dvf7FYho.net
軍神様は戦国の世にあってフェアプレー精神の持ち主

546 :人間七七四年:2014/10/31(金) 16:15:41.11 ID:z8Dgm+nV.net
永禄11年8月5日、上洛を開始した織田信長は7日、馬廻の侍わずか二百四五十で、妹婿である
浅井長政の待つ近江佐和山城に入り、初めての対面を果たした。このとき京童たちは
『婿入りも無き先の舅入りとはこの事よ』と言いはやしたという。

その後各地の情勢報告が行われたあと、信長一行は近江柏原の成菩提院という天台宗の寺に座を移し
そこに一泊した。この寺において接待のため長政から浅井縫殿助、遠藤喜右衛門、中島九郎次郎が
付けられた。様々なもてなしに信長も非常に機嫌がよく、夜すがら打ち解け、酒宴の後就寝した。

これを見届けると遠藤喜右衛門は早馬に鞭を当てて急ぎ小谷へはせ帰り、長政を諌めて申し上げるには

「信長という人物は、大変に表裏の深い大将です。彼の行跡をよくよく見れば、その知略の早いこと、
サルが梢を伝うようです。我が浅井家を縁者として組み込み、こちらに参って懇切に言ってくるのも、
ただ上洛のための、当面だけの事です。功成り名を遂げたならば、朝倉も当家も必ず敵とするでしょう。
また、終始信長の気に入るように出来るかと考えても、なかなか想像のつかないことです。
そうして信長の怒りを買った時に戦うことになったとしても、必ず討ち負けて後悔しても手遅れとなります。

であれば、今夜柏原において、二百人ほどの供の者たちも皆町家に寄宿し、信長自身は酔いつぶれて
寝入っております。彼の側には14,5歳の小姓2,3人が眠っているに過ぎません。

ここで、どうか私一人に仰せ付けください。今夜中に柏原に罷り帰って、信長を安々と討ち取って
見せましょう。二百あまりの供侍たちも、大将が討ち取られればその上は、我先にと逃げ出すでしょう。
それを追って美濃に入り、岐阜の城を攻めるなら、城主はなく家督を継ぐ嫡男も幼少であり、彼の地の武士たちも
我も我もと味方に参り、美濃・尾張両国は時を移さずして攻め取ることが出来るでしょう。
そうなれば、その威勢に乗じて六角親子を押し倒し、帝都へ攻め上がって天下の仕置を助ける立場になることも…
誠に当家の興廃は、ただこの一挙にあるのです!」

こう言葉を尽くして説得した。これに長政はしばらく迷い、家老や一族を集めて密かに相談したが、一同が言うには

「信長はあれほど当家に対し懇切で、心やすく打ち解け、頼みまいらせているではありませんか。
そんな良好な関係を失い、公方様の上洛を妨げ、その上酔いつぶれて寝ている人を殺すというのは、
籠の中の飼い鳥を殺すのと同じ事です。

それに今のような時節に信長を討ち取れば、人望に背き、天の冥加も恐ろしく、侍の本意が立ちません。
そんなことは、絶対にあってはなりません。」

長政もこの意見に同意し、遠藤の諌めを用いず、彼に早々に帰って明朝も又接待をするようにと命じた。
しかし遠藤が重ねて申し上げる

「天の与えることを取らなければ、災に会うと申します!信長は表裏の大将です!必ず当家を
押し傾けようとするでしょう。その時、この判断が返って災いとなること、私には鏡に写したように
見えるのです!
どうか、どうか私の申し上げたことにご同心ください!」

そう、涙を流して訴えた。しかし長政は頑としてそれを聞き入れなかった。
遠藤も是非に及ばず、何事かブツブツと呟きながらその夜、柏原に引き返していった。

後にこれは信長の運の強さの現れだと言われた。
(総見記)

547 :人間七七四年:2014/10/31(金) 16:17:01.85 ID:z8Dgm+nV.net
明応2年閏4月。
このごろ怪鳥が出没し、細川政元の家人がそれを図にした。

陰涼軒日録には次のように記されている。

「世間に化鳥あり」という話を聞いた。
その頭は馬、尾は蛇、蹄は牛のようであり、「無常引導骨積天」という鳴き声を上げるそうだ。
その図は右京兆屋形(細川政元邸)より出でて、天竜寺に在るという。

また、昨日20日、右京兆屋形の辺りで羊角風(つむじ風)が大いに吹き荒れ、人々を驚かせた。
その羊角風の中には鳶が居て、火を纏って飛行していたという。
(後鑑)

548 :人間七七四年:2014/10/31(金) 16:18:53.32 ID:z8Dgm+nV.net
謙信の家臣に元尾州牢人・深渕金太夫と言う者が居た。
彼は10年前から謙信に仕えて覚えめでたく、軍功の数々も重なり次第に扶持の高多くなった。
謙信取り立ての近習の一人だったのである。

そんな金太夫がある時、謙信御座所の次の間で、何事かあって仙可という若者と口論になり、
怒りのあまり仙可を取り押さえ殴りつけようとした。

この物音に謙信は襖を開いて出てくると、帯びていた貞宗の脇差を抜くやいなや、物も云わず片手討ちに
金太夫と仙可の二人を斬り捨てた。

この状況を近くで目撃した仙可の父、内記は怒りのあまり声を震わせ叫んだ

「殿!先に乱暴をしよとした金太夫は公儀を恐れぬ狼藉者、御成敗は道理だと思います。
しかし咎無き倅を同罪に遊ばしたのは、近頃にない無慈悲の御沙汰と心得ます。これはいかなることか!?
ご返答によっては殿とて決して仮借いたしませぬぞ!」

そして小刀の柄に手を掛ける。しかし謙信は全く動ずる色もなく、静に脇差を鞘に収めて
自分の部屋に帰ろうとした。この謙信の態度に内記は激怒した

「ご返答がないというのは、弁解の道に窮したためだと心得ました!ならば、御免!!」

内記は脇差を抜くや謙信に斬りかかる。謙信、その切っ先を巧みにあしらいながら二太刀目に
彼の右手首を切り落とした。
その時、謙信の小姓、上村伊勢松がこの騒動に気が付き馳せ来る。内記が脇差を左手で持ち直そうと
する隙に、彼の太腿を突いて討ち伏せ、ついに止めを刺した。

これを見て謙信はすこぶる機嫌よく、伊勢松に向かい

「ハハハ。今日は妙なところでお前と相打ち(一人の敵を二人または数人で討つことの意)したな。」

そう言って大笑したのだという。

(上杉謙信言行録)

549 :人間七七四年:2014/10/31(金) 16:57:32.04 ID:z8Dgm+nV.net
永禄4年、甲州の穴山梅雪の許より越後北庄の亀峯寺まで、空庵という僧が派遣された。彼は
上杉謙信家中にこの様な梅雪の意向を伝えた

『近年、信玄公は庶子の伊奈四郎勝頼君を愛され、御惣領の太郎義信君を疎まれておられます。
このため武田家中は二派に分かれ、今にも内戦に及ばんとしております。

何卒、謙信公は義信君を慈しませられ、御養子としてお取り立てあられるならば、微力ながらこの梅雪も
謙信公に従い御旗本に参り申します。そして更科よりお取次ぎがありませば、信州一円はご自身で動かれる
までもなく手に入り、また多年ご宿願である村上義清殿の領地へのご帰還も、事もなく果たすことが
出来るでしょう。

義信君をご援助の事、偏に頼み参らせます。』

これを聞いた謙信の近習、諸角喜助、本郷八左衛門、及び旗本七手組の面々は、甲州に介入する
良い便宜を得たと喜び、早速この事を謙信に報告した。
報告を受けた謙信は梅雪からの使僧、空庵を御前に召し出し、改めて来意を問いただした後、形を改め
こう言い渡した

「御坊、よく聞いて梅雪に伝えられよ。
義信の便宜を以って信州をとれとの儀、この謙信、一向に合点が参らぬ。
是非を論ずる場合において、人手を借りる謙信ではない!
特に子として親に歯向かうなど、不所存この上ない儀と心得る!

義信殿は未だ若年である故もあろうが、梅雪程の老巧者がなにゆえこの様なウツケたる事を言い出すのか。
それも身の拠り所が無い程であるから頼み入るとの話ですらない。

この謙信、あえて慮外は言わぬ。御坊の黒衣を尊重して、この度は無事に帰す。
しかし重ねてこの様な事を言ってくるのなら、その時は容赦致さぬぞ!」

これには空庵も色を失い、這々の体で甲州に帰っていったとのことである。
(上杉謙信言行録)

550 :人間七七四年:2014/10/31(金) 16:58:33.70 ID:z8Dgm+nV.net
島津義久に実子に実子がおらず、義久三女である亀寿の婿である島津忠恒が養子に入り、
後継者となったというのは有名な話であるが実はもう一人候補がいた。
それが義久の次女新城と島津彰久の間の子である島津久信という若者で女系ではあるが義久の孫に当たる人物である。

そもそも義久自身も豊臣政権の介入によって次期後継者を決められた経緯もあってか不満があったらしく、
慶長4年(1599年)に一度家督を譲ったにも関わらず、その二ヶ月後には島津家当主の証である
「御重物」を没収するなど忠恒との仲は微妙であった。

関が原の合戦の後も義久は久信を可愛がっており、やがて後継者に据えようとしているという話が島津家中では絶えず、
ついには「義久が久信を後継者にする朱印状を徳川政権から得た事で忠恒の父義弘が異議を申し立てた」
という噂さえ立つなど家中の統率は乱れた。

こうした事態に義久はついには正八幡宮に参詣し神の力・・・要するに「くじ引き」でどちらが後継者にふさわしいかを決める事にした。
こうして行われたくじ引きでも後継者にふさわしいと出たのは忠恒の方であったので
義久も忠恒を後継者と認めることにしたという。
(末川家文章)

551 :人間七七四年:2014/10/31(金) 16:59:56.96 ID:z8Dgm+nV.net
慶長19年(1614)12月、大坂冬の陣の時のこと。城の包囲に加わった伊達政宗のもとに、藤堂高虎が訪ねて来た。
「伊達殿。故太閤の恩に報い、秀頼公に馳走するは今、この時ではないか?貴殿の意見を聞きたい。」
「何を言われる?わしは将軍家一筋に忠節する覚悟だ。そんな相談は、無用のことよ。」

この時は、おとなしく自陣に帰った高虎だったが、10日ばかりして再びやって来た。

「先日の件、如何お考えか?是非にご検討あれ。」
さすがに政宗は立腹した。「南無八幡!まだ言うのであれば、大御所に報告するぞ!!」
「さ、されば、この話は無かったことに。」

高虎がスゴスゴと帰って行った翌日、政宗は念のために大御所・家康の陣を訪れた。
「大御所に、申し上げたき儀があり申す。藤堂和泉守、異心の疑いが・・・」

「だ、そうだ。泉州。」家康の呼びかけに応じ、当の高虎が陣幕の陰から姿を現した。

「でぇぇぇぇぇえええええ!?」
「どうですかな大御所?それがしの申し上げた通りになったでしょう。」
「うむ。これで伊達殿の心中、明らかになった。ご両所、大儀。」

552 :人間七七四年:2014/10/31(金) 17:22:44.20 ID:6hluH8Xc.net
コピペ埋め荒らしってアク禁対象なの理解出来てる?

553 :人間七七四年:2014/10/31(金) 17:33:19.06 ID:z8Dgm+nV.net
『1568年(永禄11年)10月4日付、堺発、パードレ・ルイス・フロイスの書簡の一節

私が都に復帰することは、大いに努力したにもかかわらず、今日に至るまでそれは叶っていない。
都は甚だ混乱し、少しも安全ならざるが故に、この事は神の御許におすがりするしか無い。

シノバラ殿(篠原長房)と云う大なる異教の領主(当地方のキリシタンの武士は、多く彼に属せり)は、
我々を都に復帰せしめんために大いに努力されているが、戦争のため未だこれを了せず。

都の(キリシタンの)会堂は、昨年まで我々の敵にしてキリシタンの大迫害者たる弾正殿(松永久秀)の
掌中にありて閉鎖させられていたが、篠原殿はこの事を聞き、私が都に入る事が可能になるまで、現地の
キリシタンに託すことを命ぜられた。これによって会堂は我らキリシタンの手に帰し、都の信者たちは
従前のように同所に来て祈祷を行なっている。

篠原殿は今の都の王に使いを遣わし、もしパードレ等が都に帰ることを許さないのなら、彼の絶対権力によって
彼らを復帰させる。何故なら彼らを追放すべき何らの理由がないからである、と伝えた。

そのような中、5,6日前に尾張の王(織田信長)が、殺されたる公方様(足利義輝)の兄弟(義昭)を、
武力を持って都に入らしめんため、6万の兵を率いて突然都に向かって進軍を始めた。
これにより、必ず大戦があるだろう。

主よ、平和を来たらしめ給わん事を祈る。
何故かと云えば、この諸国(日本)でデウスの教えを弘布するにおいて、戦争にまさる障壁は無いからである。』

信長の上洛直前の情勢を伝える、ルイス・フロイスの書簡である。
(日本耶蘇会年報)

554 :人間七七四年:2014/10/31(金) 17:35:40.64 ID:z8Dgm+nV.net
キリスト教徒こそ戦争をしかけてばかりきたくせにw>フロイス

555 :人間七七四年:2014/10/31(金) 21:08:48.30 ID:DWTXNQqe.net
問題の上杉謙信言行録より

上杉謙信の近くに仕える女に土州佐保と言うものがあった。
永禄8年春、両親と会うため故郷に帰省したいという願いを申し出た。謙信は取次の女房を呼び、
3月20日前後を日限としてこちらに帰ってくるようにと伝えて休暇を与えた。ところがその日限になっても女は
帰って来なかった。取次の女房はしきりに気をもみ、書状を出して呼び返した。
ある日、謙信はその女を不断所に召し出し、その不都合を攻めた上、小姓の荒尾助九郎をして頸をはねさせた。

後に太田三楽(資正)はこの話を聞いて北条丹後(高広)に言うには

「貴殿の主人謙信公は、武勇については別問題として、その御気性を見るに、10のうち8つは大賢人、
2つは大悪人という割合になるな。生まれながらに勇猛だが、とにかく怒気激しい癖がある。

けれども善い事には清浄潔白で、曲がったこともなければ何かを隠すようなこともなく、下々の情勢を察し
士民を憐れみ、好んで忠諫を納れられるなどは、末代ありがたき名将だと思う。

だからまあ、少々の非難はあっても贖って余りがあるので、8つは賢人と申して良かろう。」

そう言って破顔大笑した。

556 :人間七七四年:2014/10/31(金) 21:10:34.31 ID:DWTXNQqe.net
上杉謙信は男一本ではなかったのか
それとも純粋に職務上のことで怒って処刑したのか

557 :人間七七四年:2014/10/31(金) 21:13:40.67 ID:DWTXNQqe.net
海音寺潮五郎の『天と地と』では謙信は女にも興味あるように描かれてはいたが
所詮は小説だし

558 :人間七七四年:2014/10/31(金) 21:47:55.32 ID:DWTXNQqe.net
ある時、細川幽斎の隣屋敷より火が出て、折しも風が強かったので殆ど類焼に及ばんとした。
家中は騒ぎ慌てること大方ならずであったが、こんな時に主人の細川幽斎は熟睡していた。

この爆睡している主人を家中の者たちはどうにか起こすと、目を覚ました幽斎、手水鉢のところで
顔を洗おうとした所、「早や塀に火が移りました!」と叫んだものがあった。それにも幽斎は取り合わず

『ほのぼのと かき(垣)のもとまで焼くるとも 歌さへ詠めば人まると知れ』

そう詠んだという。まあお解りの通り柿本人麻呂を詠み込んでいるわけですね。この緊急時にw

ところがなんと、この歌を詠んだ途端風向きが変わり、火災は静まった。
それにより当時の人々は、この歌を火除けの歌として、火災を免れるため常にこれを張っていたという。
(幽斎公歌集)

559 :人間七七四年:2014/10/31(金) 21:49:30.39 ID:DWTXNQqe.net
細川幽斎は文化人としても優秀だったというのは結構知られた話ね

560 :人間七七四年:2014/10/31(金) 21:52:42.28 ID:DWTXNQqe.net
これも海音寺潮五郎の『武将列伝』だったか『日本名城伝』だったか忘れたが
そのような文化人の父親を持ちながら細川忠興は非常に嫉妬深くて残酷なところがあったと書いてあった。
残酷な文化人なんて沢山いるのにw

561 :人間七七四年:2014/10/31(金) 22:29:03.99 ID:DWTXNQqe.net
伊達政宗大好きの徳川家光はある日登城した政宗を見ると早速茶を点ててくれるよう所望した。
それを口実にして茶器を授けようと考えていたのである。

政宗が早速勝手に下がって茶を点てる準備をしていると家光の意を受けた佐久間将監がやってきて
「上様がこの茶入を下賜されるとのことです、この度もこれをお使いいただきますように」
と述べたが政宗は
「それには及ばぬ!今は我が裁量で茶を点てているのだ!」
と突き返してしまった。
佐久間も上意なので受け取らせようとしたがどうしても受け取らない。

佐久間が戻って言上したところ、家光は意に介した様子もなく、
「政宗が言いようもっともなり、茶入はそこに置いておけ」と言ったのみだった。

茶会の準備が済み戻ってきた政宗に家光が改めて茶入を手ずから下賜したところ政宗は

「まことにかたじけのう存じます。先ほどは将監殿が   「得体の知れぬ物」   を持参し
上様の上意である、と申されましたが仮に真に下賜の物であれば台所の畳で頂くのは恐れ多いので辞退致しました」

と述べありがたく拝領したのだった。

この時譲られた茶入が今は静嘉堂にある木葉猿茄子、元は利休が蔵していた大名物である。

562 :人間七七四年:2014/10/31(金) 22:30:24.02 ID:DWTXNQqe.net
家光には政宗が自分の私的な補佐役、と云う意識があったみたい。(そういう存在は政宗だけではなく、立花宗茂なんかも
そうだったようだが)

政宗が危篤状態になった時、伊達屋敷に見舞いに訪れて嫡男の伊達忠宗に

「父上(秀忠)が亡くなる時、政宗に私のことをくれぐれもと頼まれ、政宗も大変良く私を助けてくれた。
あなたは父上がこの様な状態になって大変心細いだろうが、今度は私があなたをサポートする番であり、
何でも私に頼って欲しい。
これは将軍や大名といった立場とはまた別の、家同士の話である。」

みたいなこと言ったという記録が残ってる。

563 :人間七七四年:2014/10/31(金) 22:33:14.30 ID:DWTXNQqe.net
伊達政宗ほど一般のイメージと実像がかけ離れている戦国大名も珍しい気がする。
一般には猪突猛進の荒武者のように思われているが
実際には保身に長けた策略家で宮廷人のような趣すらある。

564 :人間七七四年:2014/11/01(土) 10:29:06.67 ID:ZGG9ksDg.net
>永禄11年8月5日、上洛を開始した織田信長は7日、馬廻の侍わずか二百四五十で、妹婿である
>浅井長政の待つ近江佐和山城に入り、初めての対面を果たした。このとき京童たちは
>『婿入りも無き先の舅入りとはこの事よ』と言いはやしたという。

>その後各地の情勢報告が行われたあと、信長一行は近江柏原の成菩提院という天台宗の寺に座を移し
>そこに一泊した。この寺において接待のため長政から浅井縫殿助、遠藤喜右衛門、中島九郎次郎が
>付けられた。様々なもてなしに信長も非常に機嫌がよく、夜すがら打ち解け、酒宴の後就寝した。

>これを見届けると遠藤喜右衛門は早馬に鞭を当てて急ぎ小谷へはせ帰り、長政を諌めて申し上げるには

>「信長という人物は、大変に表裏の深い大将です。彼の行跡をよくよく見れば、その知略の早いこと、
>サルが梢を伝うようです。我が浅井家を縁者として組み込み、こちらに参って懇切に言ってくるのも、
>ただ上洛のための、当面だけの事です。功成り名を遂げたならば、朝倉も当家も必ず敵とするでしょう。
>また、終始信長の気に入るように出来るかと考えても、なかなか想像のつかないことです。
>そうして信長の怒りを買った時に戦うことになったとしても、必ず討ち負けて後悔しても手遅れとなります。

>であれば、今夜柏原において、二百人ほどの供の者たちも皆町家に寄宿し、信長自身は酔いつぶれて
>寝入っております。彼の側には14,5歳の小姓2,3人が眠っているに過ぎません。

>ここで、どうか私一人に仰せ付けください。今夜中に柏原に罷り帰って、信長を安々と討ち取って
>見せましょう。二百あまりの供侍たちも、大将が討ち取られればその上は、我先にと逃げ出すでしょう。
>それを追って美濃に入り、岐阜の城を攻めるなら、城主はなく家督を継ぐ嫡男も幼少であり、彼の地の武士たちも
>我も我もと味方に参り、美濃・尾張両国は時を移さずして攻め取ることが出来るでしょう。
>そうなれば、その威勢に乗じて六角親子を押し倒し、帝都へ攻め上がって天下の仕置を助ける立場になることも…
>誠に当家の興廃は、ただこの一挙にあるのです!」

>こう言葉を尽くして説得した。
(続く)

565 :人間七七四年:2014/11/01(土) 10:30:44.02 ID:ZGG9ksDg.net
>これに長政はしばらく迷い、家老や一族を集めて密かに相談したが、一同が言うには

>「信長はあれほど当家に対し懇切で、心やすく打ち解け、頼みまいらせているではありませんか。
>そんな良好な関係を失い、公方様の上洛を妨げ、その上酔いつぶれて寝ている人を殺すというのは、
>籠の中の飼い鳥を殺すのと同じ事です。

>それに今のような時節に信長を討ち取れば、人望に背き、天の冥加も恐ろしく、侍の本意が立ちません。
>そんなことは、絶対にあってはなりません。」

>長政もこの意見に同意し、遠藤の諌めを用いず、彼に早々に帰って明朝も又接待をするようにと命じた。
>しかし遠藤が重ねて申し上げる

>「天の与えることを取らなければ、災に会うと申します!信長は表裏の大将です!必ず当家を
>押し傾けようとするでしょう。その時、この判断が返って災いとなること、私には鏡に写したように
>見えるのです!
>どうか、どうか私の申し上げたことにご同心ください!」

>そう、涙を流して訴えた。しかし長政は頑としてそれを聞き入れなかった。
>遠藤も是非に及ばず、何事かブツブツと呟きながらその夜、柏原に引き返していった。

>後にこれは信長の運の強さの現れだと言われた。
(総見記)

566 :人間七七四年:2014/11/01(土) 10:34:50.43 ID:ZGG9ksDg.net
↑の時は運が強かったのは確かだが、
最後には信頼していた家臣に裏切られ殺されてしまったわけではないかw
さすがの信長の強運も使い果たしてしまっていたとみるべきか。

567 :人間七七四年:2014/11/01(土) 11:12:54.25 ID:ZGG9ksDg.net
>ルイス・フロイスが、とある人物を熱情を込めて語っている、
>永禄12年(1569)12月17日付、日本耶蘇会年報の一節を見てみよう

>『私が次に述べたいと思う事を一層明瞭にするため、先ず私が語ろうと思う人物について述べる必要がある。
>キリシタンらが、当諸国(日本)においてあだ名を日本のアンチキリスト、又は肉体に宿りたるルシフェルと
>称し、思慮ある異教徒は庶民の欺瞞者と称する坊主(朝山日乗)である。

>彼は下賎の者にして、背は低く、甚だ醜く軽蔑すべき人物であり、日本の宗教も知らず、また学問もない愚人であるが、
>悪魔がその悪事を行うために発見した、最も彗敏な道具である。
>彼は談話に巧妙であり、雄弁においては日本のデモステネスである。

>彼は妻子があったのだが、貧窮であるためこれを捨て兵士となったのは、未だ多くの年を得ない程度の
>以前の話である。そうして武芸によって多数の人を苦しめ、また殺した故に恐怖して服装を変えた(僧になった)
>が、その習慣を改めることはなく小羊の皮をかぶって僧侶になったのだ。

>諸国を廻りアマンゴの王(尼子晴久)に対し反逆を行い、山口の王(毛利元就)の元に逃れ、釈迦より
>「汝を日本の宗旨を改革し、また内裏を往時の名誉、地位、権力、および富貴に復する道具となす」
>との夢想を得た、と称し、熱心を装って広くこの事を伝えた。

>彼が8年もしくは10年前、当地(京都)において一片の金襴を購入した事は、都のキリシタン等の記憶する
>ところであるが、彼は他の遠国に行き、各村落において、「これは内裏より賜った衣服である。
>記念品としてあなた方に分けよう」と言い、各人小片に対し、その資力に応じて、あるいは1クルザード、
>あるいは2クルザード等を彼に与えたのだ。彼はこれによって多額の資金を得、山口に寺院を建て数人の弟子を
>集めた。この頃他にも千種類もの詐欺を行い、悪行のため一つの場所に落ち着くことができず、
>シャンニンシウ(三好三人衆)が公方(足利義輝)を殺した弾正殿(松永久秀)を奈良の城(信貴山城)に
>囲んだ時、弾正殿の裕福なことを知って、窮地にあるが故に金銭を与えてもらえると思い、山口の毛利より
>弾正殿に宛てて『直に士卒を動員して赴き助けよう。三人衆が滅亡した場合は、日乗上人と称する坊主と協議
>するべし』と認めた書簡を得た。
(続く)

568 :人間七七四年:2014/11/01(土) 11:14:55.54 ID:ZGG9ksDg.net
>しかしデウスの御裁断により、三年前、私が堺に滞在していた時、彼はそこにやって来たが、三人衆の間者が
>反逆の書簡と共に彼を捕らえた。
>彼は書簡のことは知らないと言いはったが、篠原殿(長房)は堺の寺院において厳しく鞭を打たせた。
>そのうちに山口より書簡が来て6,7千クルザードを送り、彼を赦免することを求めてきたが、篠原殿は
>これを受け付けず、マラバルのボレヤ(南インドの賤民)の如き、日本の最も卑しき民族である穢多に
>引渡した。彼らは死んだ獣類の皮を剥ぎ、また死刑囚の首を斬ることを職業としていた。

>摂津国西宮と称する地においてこの人々に彼を渡したが、首に鉄枷をかけ、手足は縛られ、動くことの出来ない
>状態で重罪者の牢に入れ、番人に彼に紙や墨を与えることを禁止させ、食料も大いに制限させた。
>彼は釈迦の作ったフォケキャウ(法華経)8巻を前に置いていた。

>私の記憶に間違いがなければ、篠原殿の用務を帯びてダミヤンをコシミネの城(越水城)に遣わした時、
>彼の偽善した神性を装う姿を見た。その後、私が牢の門を通過した時、アントニオは彼の入れられた厠に入って
>これを見た。ところが彼を捕らえた者は、悪魔の下僕であったために、毎日彼らの言うところの談合をなし、
>地獄において彼の苦痛を増すため首を斬ろうかと協議していた所が、彼の狡知により、内裏よりその赦免を
>求めるに至り、彼の死を希望する多数の異教徒の意向に反し、これを釈放したのだ。

>信長が再び公方様を立てるため上洛した後、内裏はこれもまた、不幸および貧困より興起する好機を
>得るべき時と見、この日乗上人を仲介者とした。同人の人間的知慮は彼に信長の寵を得させ、その後あえて
>その側を去ることはなかった。これによって彼は、悪魔の如き傲慢悪意の翼を広げたのだ。』
(日本耶蘇会年報)

569 :人間七七四年:2014/11/01(土) 11:18:17.54 ID:ZGG9ksDg.net
実際はキリスト教国こそ奴隷貿易(日本人も多少は売られた)、海外植民、自国内でも残虐な異端訊問等々やってた。
鎖国は行き過ぎと思うが、宣教師追放を始めた秀吉は正しい

570 :人間七七四年:2014/11/01(土) 12:00:03.50 ID:ZGG9ksDg.net
>ある時、細川幽斎が下人たちに命じて、庭に富士の山を模して作らせた事があった。

>しかしこの作業に下人たちはくたびれ果て、その内の一人が密かにその傍らに板を立て、
>そこに歌を書き付けた

>『殿はまた いらぬ事をはするかなる 富士の後ろは浅間なるもの』

>幽斎はこれを見て、さてさて奥ゆかしいものだと

>『我もまた いらぬ事とはおもへとも ふしか見たさにするかなるもの』
(幽斎公歌集)

571 :人間七七四年:2014/11/01(土) 12:02:54.92 ID:ZGG9ksDg.net
細川幽斎はほんと文化に造詣が深く、奥ゆかしいな
それに比べて息子の忠興は・・・

572 :人間七七四年:2014/11/01(土) 12:06:16.50 ID:ZGG9ksDg.net
忠興は大工が玉(ガラシャ)の姿をちょっと覗き見したというだけで首を刎ねるし、
さらに忠興の娘もその血を受け継いだようで
自分の思い人と逢引した侍女を酷い方法で殺したりしている

573 :人間七七四年:2014/11/01(土) 12:37:53.92 ID:ZGG9ksDg.net
>関ヶ原で敗れた小西行長は大名の黒田長政の面前に連行された。
>同情した長政は内府(家康)に助命を請うか尋ねると行長は答えた。
>「私はもはや命を重んじていない。キリシタンの教えが禁じていなければ切腹するのは
>容易で私は自分の罪に対してどのような死を与えられようとも甘受する用意がある。
>私が貴殿に願いたいことは自分が告白するのに一人の司祭バテレンに会えるよう尽力してほしい」
(続く)

574 :人間七七四年:2014/11/01(土) 12:39:05.77 ID:ZGG9ksDg.net
>黒田長政は内府の許可を得られるよう全力を尽くすと約束した。しかし、内府の家康は
>司祭との面会を許さなかった。バテレンの司祭たちはあらゆる手を尽くしたが、面会はかなわず、
>小西行長は処刑されてしまった。
 >家康はキリシタンの告白が何のことかわからず、何らかの欺瞞ではないかと思ったので、
>司祭たちに面会の許可を与えなかったのだ。
(イエズス会年報集)

575 :人間七七四年:2014/11/01(土) 13:43:17.27 ID:ZGG9ksDg.net
家康だってキリスト教を危険視していたんだな
もっとも鎖国までするのは家康の意志に背くものだっただろうけど

576 :人間七七四年:2014/11/01(土) 15:38:07.18 ID:eG5N+tlB.net
>『1606年の条

>(上略)…また、モンセニュール・ド・セルケイラは、公方(徳川家康)に謁見することがあって、これにより公方は
>宗教のことに関してますます寛大となられた。

>この司教、日本に到着して以来、迫害、内乱、そして公方によるこの帝国の統一と厳重なる施政の展開があり、
>この間、彼は長崎から動くことが出来ず、また自由に司教の職務を果たすことも出来なかったが、
>ここに至って事態が好転したことを認め、この国の主権者に拝謁する計画を立てた。

>エチアム(小笠原一庵為信)という朝廷(幕府)の重臣の一人はこれより前に、ポルトガル関係事務の監督官として
>長崎に派遣されていたのだが、司教に助力することを申し出、ついにその謁見の許可を得た。

>司教は多くの師父、及び法兄弟と共に直ぐに上洛した。大阪に至ってエチアムが用意した一艘の川船に乗り
>エドガワ(淀川)を上って京都にいたり、師父の家に宿泊した。
>大阪においても、またその途上においてもいたるところでキリスト教徒は群れをなして駆けつけ、司教に
>服従の意を表し、京都に至るときもまた同様にて、キリスト教は尽くその権利を回復せし観があった。

>モンセニュール・ド・セルケイラは司教の服を着け謁見のために出発したが、駕籠のまま宮殿の内部に
>入ることを許可された。これは最大の諸侯でなければ与えられない特権であった。
>公方自らも礼服を着用し、最も厚く司教を待遇した。
(続く)

577 :人間七七四年:2014/11/01(土) 15:39:47.47 ID:eG5N+tlB.net
>次に、その平常の居城である伏見の宮殿、及び城と、京都の城(二条城か?)とを司教に見せるべしとの
>命を下し、また日本国中で最も壮麗である同地の諸寺院を見せた。

>司教はこの滞在を機として、キリスト教徒を最も厚遇している諸侯であり、君主の寵臣たるカンズケ殿(本多上野介正純)、
>及び京都の知事板倉殿(板倉勝重)に謁した。この両人は共にキリスト教の重要な保護者である。

>司教はまた甚だ多くのキリスト教徒に、堅信の秘跡を授ける機会を得た。
>帰途、豊前候エッツーン殿(細川越中守忠興)に、同国の首都小倉にて謁見したが、候は彼に、司教によるミサ聖祭に
>臨席する許可を求め、キリスト教及び宣教師に対する保護が決して覆ることがないと、司教に確信させた。

>また司教は後で、候自らもその心中においてはキリスト教徒であり、未だ神聖なる洗礼こそ受けられていないが、
>候を以って神霊上の子の一人と認めざるをえないと言われた。
>候が自らキリスト教徒であることを宣言し、かつ洗礼を受けることが出来ないのは、公方が諸侯のキリスト教に
>改宗することを禁じたために、その意に従わざるを得ないためなのだ、とも付け加えられた。』


>本多正純と板倉勝重がキリスト教の二大保護者だったり、細川忠興をキリスト教徒認定してたり、
>本国への報告のためか、どうも希望的観測すぎないかと思わざるをえない記録である。
(パジェー日本耶蘇教史)

578 :人間七七四年:2014/11/01(土) 15:41:43.99 ID:eG5N+tlB.net
↑のようなものを読むと、この時代の宣教師は某国のようなことをやっていた気がする。
勝手に自分達の仲間に認定して

579 :人間七七四年:2014/11/01(土) 16:13:19.07 ID:eG5N+tlB.net
>徳川家康は倹約を徹底したといわれているが、明かりに関しても同じだった。
>ある時には蝋燭は数本だけで残りは油火ばかりという徹底ぶりで日頃から
>家人たちも厳しく言われていたらしい。

>ある時、成瀬正成と松平正綱が急ぎの連署状を書くために坊主からわずか
>二、三寸の蝋燭を請い得て連署状を書き、その場を離れた。

>この時、二人はうっかり火を消し忘れた。見回りが蝋燭を見かけると
>坊主は呼び出され「上様が御覧になったらお咎めになるぞ。何故消さない」
>と叱られてしまった。

>「いや、これは隼人殿たちが…」と、坊主が説明しているところに消し忘れに
>気付いた二人が戻ってきた。

>「お前たち、消し忘れに気付いていたなら何故消さない」
>坊主はまた叱られてしまった。

580 :人間七七四年:2014/11/01(土) 16:16:32.77 ID:eG5N+tlB.net
↑の話にも表れているように、家康の質素倹約は有名。
天下人なのに麦飯を食し
囲碁相手の商人の家に訪れた時白米を食っているのを見て叱ったぐらいだ。
その商人は「いや、あれは麦飯に豆腐の粕をかけて食べていたのです」と言い訳をしたら
家康は機嫌を直した。
(騙されやすいのかなw)

581 :人間七七四年:2014/11/01(土) 19:48:21.31 ID:t9zojrCu.net
>『日本人イルマンがパンタリヤン(田原親盛・大友宗麟三男)の城に於いて説教を行なっていた時、
>豊後国の大身の一人の兄弟にて、名を式部殿と呼ぶ武士がこの場所にあって、ことごとく説教を聴き終わった後
>洗礼を受け、バスチャンという名を与えられた。
>翌日彼はパードレ・ペロ・ゴメスと日本人イルマン一人を伴ってその家に帰り、直ちにその妻と家族及び
>家人一同に説教を聞かせ、約80人に洗礼を受けさせた。

>また、このパンタリヤンの城において、偶然彼を訪問していた青年武士が一人キリシタンとなった。
>彼については特に報ずるべき事件が起きた。

>シマンと名付けられたこの青年は、説教を聞くと熱意に満ち、偶像を崇拝していた過去を恥じて、次の手段によって
>これを改める決心をした。すなわち洗礼を受けた後、その家に戻らず、直ちに領内の町村に行って、同所にある
>寺院に火を放ったのだ。

>この事は突然行われたので、坊主も俗人も驚き、火災が甚だしいため、住民は彼が豊後の王(大友宗麟)に叛いたか、
>あるいはその地が敵の手に落ちたものかと考えた。

>彼は領内にある、彼の父の兄の寺院に至ると人を遣わして、

>「私は既にキリシタンになったことにより、その領内における神仏の愚行を容認することが出来ない。
>しかしこの寺院は叔父上のものであるのであえてこれを焼却しないが、叔父上が自ら命じてこれを焼き払われる
>事を望む」 との旨を伝えた。叔父はこれに返答をせず、異教徒である親類及びその兵士とともにこの寺院を守る決意を固めた。
>この叔父の態度にシマンは大いに怒り、彼を殺すことを決心し、必ずその首を取ると言い放った。

>叔父は偶像崇拝の保護者たる親賢(田原親賢:大友宗麟の妻奈多夫人の兄。反キリスト教)に頼り事の顛末を
>伝えた。この事は神仏を守ることであると田原親賢はこの要請を引き受け
>「怖れるには及ばない!私自ら保護に当たろう!」
>と宣言した。それでも青年は叔父を殺す決心を動かさず、また田原親賢は既に約束した事によりこの叔父を守ろうとした。
>しかしその田原親賢の婿であるパンタリヤン(田原親盛)は、こと信仰に関することであるので青年に好意を寄せ、シマンの
>許に人を遣わして、この問題においては感情的にならず、道理によって処置すべきだ。もしその結果によってあなたに
>身の危険が迫ることがあれば生命をかけて防ぐ。そう伝えた。
(続く)

582 :人間七七四年:2014/11/01(土) 19:49:42.30 ID:t9zojrCu.net
>その後パンタリヤンはパードレ・ペロ・ゴメスに使者を遣わし、シマンとその叔父のことは既に解決し、二人の裁判官を定め
>その正当と認める所に従うよう伝え、裁判官たちは田原親賢が約束を破棄し叔父を保護せず、またこれを臣下とせず
>国外に追放し再び入国することを許さず、その所領の半分を没収し、残りの半分はその子に与えると決定した。

>その後パードレはシマンがその家臣約2000人をキリシタンにしようと切望していると聞いた。しかし全員をキリシタンにすれば
>労役者が不足するので来れをするのは不可能であった。(キリシタンは労役義務を免除されていたようだ)
>シマンは信仰のことに甚だ熱心であり、たとえ世子(大友義統)が反対の命令を下しても、既に説教を聞いた上は
>必ず洗礼を受けると言い、ついにこれを受けた。』


>大友宗麟の時代の、豊後で起こったキリスト教絡みの騒動の一つである
(天正12年・日本耶蘇会年報)

583 :人間七七四年:2014/11/01(土) 19:51:46.16 ID:t9zojrCu.net
大友宗麟の宗教マニアにも困ったものだな。
この人は敬虔なクリスチャンとかではなく
宗教マニア・オタクという感じだからな。

584 :人間七七四年:2014/11/01(土) 20:22:18.83 ID:t9zojrCu.net
>伝え聞く、豊臣太閤秀吉は天文五年(1536)丙申の春正月朔日、丁巳の日癸卯の『時、尾張国
>愛知郡中 中村(中村は上下の三ヶ所あり)の民家にて生まれられた。その幼名を猿と言ったとか。

>異本に、太閤の幼名を猿といったのは、その面貌が猿に似ていたための異名であると記されている。
>これによって林堂俊も、秀吉を猿面郎と書いた。また異国より渡る雑書には、木に登ることを能くした故の
>名であるとある。

>しかし古を調べてみると、これらの説は全く信用することの出来ないものである。
>何故かといえば秀吉の面貌が猿に似ていたという事にはっきりした証拠はなく、たとえ彼が猿に似ていたとしても、
>父母の身として、子供を猿と名付けるようなことはしないだろう。
>その上猿に似ていたという書物も、そうなったのは成長した後だと書かれている。それならば幼少の時から
>猿に似ていたため父母に猿と名付けられた、という説に相違している。

>また木登りの誉れがあってその名を得たという話も、全く根拠のないものだ。推測すると、太閤は下賤の出身であると
>伝え聞いて、外国で作り上げられた浮説であるのだろう。
>この他外国の小説に、秀吉は呉越の間に居住していた書生であったが、科挙に合格出来なかったために日本に渡り、
>ついに和の首領となって天下を治めた、などと誠しやかに書いた異説もあるが、これらは皆、信用するに足らないものである。
(続く)

585 :人間七七四年:2014/11/01(土) 20:23:57.69 ID:t9zojrCu.net
>また別の本に、秀吉はただ人ではない。彼の母が、日輪が懐中に入る夢を見て宿った子である故に、
>日吉と名付けられたと記されている。現在から見て、これは秀吉公が名を成した後、異国を攻められていた当時に、
>相手に渡された書簡にこの怪異が記されているのであるが、それを事実として信用していいものか。

>また一説に、秀吉公の家は山王権現(日吉大社)の氏子であり、神の御名を取り用いて、しばらく日吉と
>名付けられたが、何らかの理由で急に神の名を憚ることになり、そこで、猿も山王の愛されている獣であるとして、
>その名をお猿と改められたというのだ。
>なお、この説は私が伝え聞いたものなのだが、少しは本当めかしい話しである。

>まあ、ただ単純に太閤は申年の生まれであるので、父母もなんとなくその名をお猿と呼んでいたため、
>成人のあと、計らずもそう呼ばれたのではないか?
>それに本当に猿に似ていたかどうかも知り難い。
(関原軍記大成)

586 :人間七七四年:2014/11/01(土) 20:28:22.30 ID:t9zojrCu.net
このように秀吉が本当に猿に似ていたということを示す一時史料は存在しない。
唯一「末世とは別にはあらじ木下の猿関白を見るに付けても」という狂歌があるが
この場合の「猿」というのも風貌ではなく、身分が低いというのを揶揄しただけという説がある。

587 :人間七七四年:2014/11/02(日) 09:05:27.14 ID:ALv+9AUw.net
>尼子経久は領内各地で多くの勇士や腕が立つ者を募集していた。
>募集に応じて多くの者が集まり、皆腕を競い合った。
>その中に松吉、周りからは鬼吉と呼ばれる大男がいた。
>松吉は身分の低い百姓の出であったが、六尺五寸ほどの巨躯の持ち主で、鬼のように恐ろしげな容貌を持ち
>素手で木を引き抜き、槍を同時に五本振り回し、矢を十本同時にへし折るほどの怪力の持ち主だった。
>だが、その豪勇の割に無口で大人しい男であり、何を聞いてもまともに受け答えが出来なかったため皆からは馬鹿にされていた。
>経久はこの大男をとても気に入り武士に取り立てようとした。
>だが松吉は幼い盲目の妹がいることを理由に断ったため、経久は松吉に心ばかりと米俵を与えすんなりと帰させた。
>部下にはそれを咎める者もいたが、経久はよいよいと言い、小気味よさげに見送った。
(続く)

588 :人間七七四年:2014/11/02(日) 09:07:16.56 ID:ALv+9AUw.net
>何年か後、経久は松吉のことが気になって部下に調べさせたが、既に亡くなったという非常に残念な報告が届いた。
>松吉が住んでいた周辺は完全に経久の勢力圏で戦もなかったため、どうしてあの豪勇の士が死んだのか
>経久は疑問に思い部下に松吉のことを再度調査をさせた。
>すると、松吉はその性格ゆえか村人達に非道な虐めにあって殺されたばかりかその亡骸は辱められ
>盲目の妹は慰み者にされたあげくに殺されたとの惨たらしい報告が届いた。
>豪勇の士を遇することを知らぬ者達のあまりの仕打ちに烈火の如く怒った経久は、即座に虐めの首謀者らを捕らえ打ち首にし
>その首を松吉の墓前に供えて霊を丁重に弔ったという。

589 :人間七七四年:2014/11/02(日) 09:08:34.67 ID:ALv+9AUw.net
今も昔も「出る杭は打たれる」ことがあったんだね

590 :人間七七四年:2014/11/02(日) 09:39:06.32 ID:ALv+9AUw.net
>駿河にて徳川家康が大久保彦左衛門と久々に会ったので四方山話を
>始めたことがあった。

>「関ヶ原の戦の後は世も静謐になった。
>まことに、わしにとってあの戦は死生の分け目であった。

>我が方は挟み撃ちにされそうになったが、敵は一戦に打ち負けて
>右往左往に逃げる有様は見苦しいものだったな。

>それに比べて我が方は命を惜しまず、功を争わずまことに潔いではないか。
>のう彦左衛門よ?」

>(なっげえ話だなあ)

>彦左衛門は長話にうんざりして帰りたくなった。
(続く)

591 :人間七七四年:2014/11/02(日) 09:40:39.67 ID:ALv+9AUw.net
>「なるほど一溜りに敗北とは見苦しいですね。

>しかし上様が小山に御着陣の折、伏見より上方が敵だらけになった
>との報があった時は、上様の御顔も真っ青になり、諸将も妻子を取られたと

>聞いて顔を青くしておりましたが、太平となり青い御顔も元通りになられた
>ようですから、まことに御運強くめでたいことです」


>嫌味を言われた家康であったが笑って「彦左衛門はやく休め」と言って
>彦左衛門を下がらせた。

592 :人間七七四年:2014/11/02(日) 09:44:33.63 ID:ALv+9AUw.net
あまりにも有名な三方ヶ原の合戦での家康の馬上脱糞(焼き味噌事件)。
あんな不名誉なことがなぜ抹消されず、伝わっているのかと不思議に思ったが
大久保彦左衛門が言いふらしたが故と聞いたことがある。
↑の話にもあるように、晩年の家康と彦左衛門は仲が微妙だったんだな。

593 :人間七七四年:2014/11/02(日) 10:21:11.45 ID:ALv+9AUw.net
>黒田長政と後藤又兵衛は主従でありながら常に武勇を争い、
>先駆けて進んでいくために、従士らは帰陣するたび
>「やっと生きた心地がする」と言い合った。

>栗山備後、井上周防、黒田美作らがこれについて諌めたところ、

>「父上がおらぬ時は、倅の忠之を先手に出し、
>私は大将の威をもって重々しく旗本の側に控えよう。

>今は父上がご健在ゆえ、旗本に気遣う必要はない。
>私が先手へ出て討死しようとも、父上がおれば何も案じることはない」
>と長政は言ったという。

594 :人間七七四年:2014/11/02(日) 10:24:19.62 ID:ALv+9AUw.net
しかし後に長政と又兵衛は仲違いし、又兵衛が追放され
最後は大坂夏の陣でまさしく先手に出て(濃霧で真田信繁と毛利勝永が遅れたこともあるが)
討ち死にしたことを考えると、何とも・・・

595 :人間七七四年:2014/11/02(日) 10:59:36.73 ID:ALv+9AUw.net
>朝鮮役の時、黒田長政は全義館に在陣したことがあった。
>そのある暁に陣中が騒がしくなった。

>長政は「敵は早朝を狙って来たか」と思い、甲冑を着て楼に登って辺りを見回すと、

>大きな虎が馬小屋の馬を噛み殺して狂いまわっていた。誰も虎に近づけない
>ところ、菅政利が刀を抜いて立ち向かった。飛び掛った虎を引きはがして

>腰を深く切りつけた政利だったが、虎は前足二本でしっかと立ち、ますます
>猛り狂って政利も危なくなった。

>そこに後藤基次が助けに入り、眉間を切り割ると、二刀で虎は絶命した。

>一部始終を見ていた長政だったが、殊の外不興になり「一手の大将ともあろうものが
>大事の役を持ちながら、畜類と勇を争うとは不心得なるぞ!」と叱り飛ばした。

596 :人間七七四年:2014/11/02(日) 11:03:09.05 ID:ALv+9AUw.net
↑は長政と又兵衛の仲違いの原因となった有名な逸話だが、
長政の器の小ささ、又兵衛のほうが一枚も二枚も上だったことがよく表れていると思う
たしか父親の如水も又兵衛のほうを買っていた(それがまた長政には面白くなかった)

597 :人間七七四年:2014/11/02(日) 12:09:24.80 ID:ALv+9AUw.net
>ある時、春日局が急ぎの用あって夜中に駕籠を早めて登城した。
>その頃の春日局は飛ぶ鳥を落とすというほどの勢いであったから
>門番もあえて止めようとはしなかった。

>ところが平川まで来た時はそうはいかなかった。
>御供の者が「春日局様が急ぎの御用あって登城である。早く門を開けられよ!」
>と言うので番の者は責任者の大久保彦左衛門に仔細を伝えると、

>彦左衛門は臥したまま起き上がりもせず「この大久保彦左衛門が御番仕って
>おるからには春日殿といえど放置じゃ。そのように仰せられてもこんな夜更けに
>通すことはできませんとでも言っておけ」と言った。

>門番は(後で絶対問題になるよなあ…)と思いながらも仕方なく彦左衛門の
>言葉を伝えたところ、春日局は「もっともです。ならば男どもはここに残し、
>我ら二、三人の女だけで歩いて参ります。どうか御通し下さい」と懇願した。

>それでも彦左衛門は返事もせず、結局春日局は夜明けまで門外で待たされて
>しまった。あまりの扱いに春日局は泣いて徳川家光に訴えたのだが、家光は

>「お前の憤りはもっともなのだが、お前も知ってのとおりあれは不分別の
>強情者だから、もしもお前ではなくわしだったとしても必ず門を開けたかどうか
>わからん。あれと出会ったのは運がなかったと諦めてくれ」と言うので

>春日局もどうしようもなく泣き寝入りした。その後、彦左衛門を召し出した
>家光はなんとはなしに黄金と佩刀を与えたという。

598 :人間七七四年:2014/11/02(日) 12:15:29.75 ID:ALv+9AUw.net
↑の話は大久保彦左衛門と家光の悪い話だ。
彦左衛門はこれじゃ緊急時にも「許可とってからでないと出動してはならない規則だから」と出動しない連中と同じではないか。
家康の脱糞を言いふらした件といい、晩年の彦左衛門はなんかヤな奴だな。

そしてそんな行動に褒美を与える家光もさすが
彼の死後に井伊直孝が「先君がご長寿であったら天下に大乱を招いた」と言っただけのことはあるw

599 :人間七七四年:2014/11/02(日) 14:11:04.82 ID:PKGpkQRZ.net
>永禄12年11月8日、権大納言・山科言継は織田信長の居る岐阜へと下った。
>12日、岐阜に到着する。以下、言継の日記より

>「武井夕庵に澤路隼人を遣わした。夕庵は、『奏者の事は解りました。信長様は現在の京の状況をよくご存じないのです』
>というようなことを言ったそうだ。

>次に朝山日乗上人、坂井文介らに遣いを出した。文介は疲れて寝込んでいるということだった。

>日乗の宿舎に向かうと、門前でばったりと出会った。そのまま談合のような形になり、私の用件の
>あらましを語ると、日乗は「後で、かねて岐阜に下向している三条大納言(実澄)と話し合いをする
>用件があるので、ご一緒に同道しませんか?」と言った。
(続く)

600 :人間七七四年:2014/11/02(日) 14:13:38.66 ID:PKGpkQRZ.net
>光雲の所で食事の振る舞いを受けた。それにしても今の美濃は、悪銭のために商売が停滞し、
>酒なども手に入らないのだという。

>三条亜相の宿舎を訪ね、稲葉貞通の所にいるのでそこに行って、信長と対面することを話し合った。」

>13日
>「まだ弾正忠(信長)に奏者を送っていないのに、今日鷹山からの帰りに、門前で出会ってしまった。
>そこで私が岐阜に来た理由を少し話した。その後、戌の刻(午後8時頃)に松井友閑が信長の
>遣いとして来て、私が岐阜に来たのは勅使としてか、それとも私的なものなのか、その立場を教えて欲しい
>とのことだったので、私的な訴えで来たのだと申し渡した。」

>14日
>「黄昏時になって弾正忠(信長)より、好斎、武井夕庵の二人が遣いとして来て、銭二千疋を贈って来た。
>信長からの伝言は『只今、京都の方のことは何も解らないので、この春過ぎの上洛の時に、知行の分配を行うよう
>申し付けるつもりです。ですので、先ずそれまでご堪忍をしていただきたい』とのことであった
>(只今者京面之儀、万事不存之間、春過上洛之刻、知行分可申付之、先其刻迄可堪忍之由被申之)
>その日は返事を出さず、夜半ばかりに宿所に帰った。それから先の好斎の所へ礼に行き、銭二十疋を遣わした。」
(言継卿記)

601 :人間七七四年:2014/11/02(日) 14:16:05.10 ID:PKGpkQRZ.net
↑の話、美濃が悪銭のために商売が停滞しているところが意外で興味深い。
信長統治下の美濃は商売繁盛のイメージしかなかったから。

602 :人間七七四年:2014/11/02(日) 14:48:55.88 ID:PKGpkQRZ.net
>加藤清正の家臣の中にキリシタンの若者が一人いた。朝鮮出征の最中にこの若者が気分を害する
>発言をしたため、清正は若者に切腹を命じたところ、キリシタンの掟は自害を禁じられているので
>若者は拒否した。すると清正は「切腹を拒むとは臆病と弱虫の証拠である」と言って、若者の胸を
>槍で貫くよう他の家臣たちに命じた。
(続く)

603 :人間七七四年:2014/11/02(日) 14:50:36.08 ID:PKGpkQRZ.net
>若者は「私が朝鮮における数々の激戦で何ら恐れを知らなかったことは殿も御承知であります。
>しかし、今は反対に刀を捨て十字の印を天に捧げて、以前のような勇気を失ってしまったことを
>殿に知ってもらいたいのです。私は首を差し出しますので、お望みなら刎ね落として下さい」と答えた
>加藤清正は若者を処刑してしまったが、後になってその行いを後悔してこう言った。
>「キリシタンたちもまたその名誉を守るために戦うが、他の人々とは異なっている」
(1596年度イエズス会年報補遺)

604 :人間七七四年:2014/11/02(日) 14:53:41.05 ID:PKGpkQRZ.net
↑の話、細川ガラシャの最期を思わせるところがあるが、
武士、特に戦国の世の武士とキリスト教は結局は相容れないのだな、と思った。

実際はキリスト教国で自殺率が高い国なんて普通にあるがw

605 :人間七七四年:2014/11/02(日) 15:36:41.11 ID:PKGpkQRZ.net
>元亀二年(1571年)、九州大隅の国人である禰寝重長は
>摺ヶ浜で島津義久の軍と戦い激戦となった。

>戦いは苛烈を極め戦場のどこにいようとも安全とは言い難い状態となった。
>そんな中、時刻は昼時となった。

>すると長重は、いきなりその場に座り込み平然と昼飯を取り始めた。

>心配した家臣が、 「このような場所で危険です。おやめ下さい!」 と言うと、
>長重は 「古来より腹が減っては戦ができぬという。
>それにもし、飯の最中に命を落としてしまうならばその男は所詮それまでだったということよ」
>と答え、昼飯を食べ続けたという。

606 :人間七七四年:2014/11/02(日) 15:39:56.65 ID:PKGpkQRZ.net
↑はどうも作り話っぽい。そもそも汚い話だが戦闘の最中は便意催しても垂れ流しだったというし。
それに握り飯なら座り込まなくても立ったままでも走りながらでも食えるだろ

607 :人間七七四年:2014/11/02(日) 17:13:06.16 ID:o5DlY+lP.net
>関ヶ原戦役の時のこと

>中川宗伴(光重)は故前田利家の娘婿であり、当時上方にあったため、上方よりの情報を金沢の前田家に送った

>『今度上方一面に蜂起して、内府(家康)の味方する輩を討ち果たすべき為に国々へ手遣いあり。
>殊更丹波・丹後・若狭の軍勢数千人御領内宮腰へ兵船を進め、大谷刑部少輔(吉継)、諸将を帥いて、此の口より
>加州へ発向の用意夥し。御用心あるべし。』

>そのうちに金沢の安否をおぼつかなく思い、直接加賀まで向かったが、越前の今庄まできたところで大谷吉継によって
>捕まってしまった。

>吉継は宗伴に
>「其の方、何の用があって加賀に下るのか?」
>と尋ねると宗伴は、『あなた方に気をつけるよう警告するためだ』とは言えず

>「は、はい。今回(前田)利長が、内府の味方をするという風聞があります。私ごときが言うのもどうかとは思いますが、
>御幼君(秀頼)を見放される様でいかがなものかと思い、さればその考えを覆し、上方(西軍)の要求に従うべきだと、
>強く諫言するために加賀に下ろうとしたのです!」
(続く)

608 :人間七七四年:2014/11/02(日) 17:15:19.50 ID:o5DlY+lP.net
>吉継、これを聞いて頷き
>「いかにも御辺の言うとおり、利長卿がもし父の遺言に背いて御幼君の秀頼公を見捨てられるのなら、彼の行末、
>どう考えても目出度い事にはならないだろう。願わくば先非を改められ、宇喜多秀家・毛利輝元と同じように、天下の
>御為を成して頂きたいものだ。

>もし御老母(まつ)を江戸においているため、一筋に御忠節を行うことが難しいというのなら、せめて金沢から
>動かず天下が治まるのを待っていても、前田の御家は恙無いだろう。
>それなのに利長卿は軍勢を率いて小松・大聖寺の城を攻め落とし、そこから当国に乱入するという声も聞こえてくる。
>もし風聞のとおりなら、偏に前田家の滅亡を招くものとなるだろう。
>例えその方があちらに行って、言葉を尽くして諫言しても、おそらくその甲斐はないだろう。
>…そこで、だ」

>吉継、声色を変えて
>「其の方、ここで私のいう通りにはかりごとの書を書き、利長卿の陣所に送れば、彼が軍勢を金沢に
>軍勢を引き返す事、疑いない。
>その上で加賀に人を遣わし、其の方の誤り無き趣、又は御亡父の志を継ぎ御幼君を守り立つべしと
>理を尽くして申し送れば、どうして承諾しないことがあるだろうか?これほど解りやすい理屈を、お主、
>もしこの書を書くのを辞退するというのなら、最前に言ったことは我々を欺くためのものだと判断する!
>そうでないのならさあ、今ここで筆を取れ!!」

>そう言って硯と料紙を出した。そんな状況で宗伴も断ることが出来ず、吉継の言うままに書をしたため、
>それを利長に送った。

>前田利長はその書を見て驚いた。間違いなく宗伴の筆跡であり、また彼は利長を謀るような人間ではない。
>それがどうしてこの様な内容の書状を送ってくるのか?
>利長は判断がつかず、弟の能登守、その他老臣達を集めて評議をさせた。
>そして、吉田保馬一人は反対したが、その他は全員、金沢に御帰陣あるべしと諌めたため、
>利長もそれを受け入れその日、軍勢を大聖寺へと後退させた。
(関原軍記大成)

609 :人間七七四年:2014/11/02(日) 17:21:28.04 ID:o5DlY+lP.net
↑の話が本当なら、吉継のお蔭で前田藩は助かったとはいえないか
余りにも出来過ぎた話なのでにわかには信じられないが
そもそも戦国の使いはこういう場合に備えて
主君にしかわからないような暗号(スパイ映画でおなじみのようなやつ)を用意していたのでは?

610 :人間七七四年:2014/11/02(日) 17:55:36.78 ID:o5DlY+lP.net
>元亀元年(1570)2月下旬、織田信長は近江常楽寺において相撲大会を開いた。
>この大会で宮居眼左衛門が一番の成績を治めたので、信長はその褒美として、秘蔵の重籐の弓を与えた。
>この弓は山城国伏見の、島田喜内という名人の制作したものであった。
>ちなみにこれが、勝ち相撲に弓を与えることの始まりとされる。

>ところがこの眼左衛門、その後相撲を取ることをぷっつりとやめてしまった。
>信長は不審に思い、その事を眼左衛門に尋ねると、彼はこの様に申し上げた

>「相撲というものは、強いものが必ずしも勝つというわけではありません。
>自分はたまたま勝利し弓をいただきましたが、次は打ち負け、この弓も別のものに取られてしまうかも知れません。
>そして次に弓を取った者が殿様に敵対し、それにて文字通り殿様に対しに弓をひくようなことになれば、
>せっかくの私の名誉は空しくなってしまいます。
>そう懸念するため、私は相撲を取らないのです。」

>信長はこの言葉に納得し、以後、褒美として弓を渡すことをやめたという。
(古今相撲大全)

611 :人間七七四年:2014/11/02(日) 18:00:30.61 ID:o5DlY+lP.net
スポーツ全般がそうだが、たしかに↑の言うように相撲は勝ち負けが実力通りにならんことも多いな。
不滅の史上最多連勝記録でさえ双葉山の69連勝だし(ちなみに野球も似たとこがある)。
だから一発勝負で実力を測るというのは不合理といえば不合理。

ただ、今の大相撲では千秋楽のこれより三役の勝者に弓を与えるじゃないかw

612 :人間七七四年:2014/11/02(日) 20:05:35.46 ID:o5DlY+lP.net
>天正二十三(1554)年三月十二日付けで、当時三十二歳であった隆元が、深く慕っていた一つ年上の竺雲恵心に送った有名な手紙。

>「恵心公宛隆元自筆書状」
>謹述胸念
>一、来世の善所(極楽)の事については、強く心に留め置いております。ですから、心の及ぶ限りに善根(善い行い)を積むように致したく思っております。

>一、娑婆(現世)については、果報は一つもないと見ておりますので、何を恨む事がありましょうか。これも前の世の報いと弁えておりますので、殊更思い悩む事もありません。

>一、私の一生は、先の易にも見えておりますから重ねて申し上げるまでもありませんが、私は無才無器量であるだけではなく、これは必然であるのかも知れません。

>一、我が家も、父・元就の代で終わりと見えます。
>私の代で家運が尽きてしまうのも因果の道理に従っており、これも必然の道理であります。

>一、他の諸家の有様については論じてませんが、この国も悉く変わりました。
>それは至って明白な事であります。
>また、そのような中で、当家だけがこの世に今日まで存続して居るのは不思議な事に思います。
>これは、偏に父・元就の信心の故と思います。
>私にはそのような信心がないため(原文:サノミハナキ習ニテ)、毛利の家運の尽きる時に当たり生まれたのだ、と思っております。

>一、当家は代々名を留めた当主が多いと言う中でも、父・元就ほど先代を超えた者はありません。
>ですから、私に才覚器量があったとて、到底父には敵わない事でしょう。
>私が形ばかりとて当主として存在していても、家臣や人の覚えは莫大の劣れがあり、況んや他国一円においては沙汰の限りではありません。
>一、その上、私には無才無器量に加えて良く補佐してくれる家臣もおりません(原文:家ニ無人候)。
>只今はこのように思っておりますが、ただ偏に父の一心の心遣い、心労によってこのような状況です。
>家に賢佐良弼もおりません。これは物事を見知る以前のことでしょうか。
(続く)

613 :人間七七四年:2014/11/02(日) 20:07:50.96 ID:o5DlY+lP.net
>一、「灯火消えんとする時、光りを増す」の例えのように、家運もまさにこの時まででしょうか。
>この理は能く悟っておりますから、迷う事はありません。

>一、兎も角、今生においては十分に良く知っています。偏に来世安楽の念願は骨髄に染みております(原文:偏ニ来世安楽之念願骨随ニ染ミ候間)ので、お頼み申し上げます。

>一、右、私の心の内を申すままとしました。

>一、このように申したとて、国家を保つ事は努々(ゆめゆめ)油断なく、力不足と言えども、懸命にその心がけを果たす覚悟でおります。
>その次第については、少しも疎かにしないようにしております。

>一、右の心中については、胸の奥に納める覚悟であります。
>何れにしても、帰真の道理を覚悟するまでの事であります。

>一、盛者必衰 一、生者必滅 一、会者定離、此の理は悉く覚(さと)りました。
>一、天道満ヲカク、
>此の理を以って覚(さと)りました。


>右の理を更に深く理解せずに迷っておりましたので、速やかに分別して悟りました。
>誠に恐れ多いとは思いますが、確かに現世・来世の二世共にお頼みしたいので、私の念を残すところ無く申し上げました。重ねてお頼み申します。恐惶。

>天文廿三 三月十二日 拝進 恵心公
>足下
>タカ元(花押)

614 :人間七七四年:2014/11/02(日) 20:10:42.36 ID:o5DlY+lP.net
確かに毛利隆元は父より早死にしたし、
毛利家は関ヶ原の合戦後に大幅に領地を削られたが
260年後に島津らとともに徳川に対して復讐を遂げたじゃないか。

615 :人間七七四年:2014/11/02(日) 21:18:47.37 ID:o5DlY+lP.net
>(天正7年(1579)ごろの話だという

>羽柴秀吉が家臣を集め酒宴を開いた。このとき秀吉は非常な御機嫌で
>「我が家の弓矢の勢(家臣の数)も、昔と比べて随分盛んになったとは思わんか!?」
>と尋ねると、居並ぶ家臣たちは「ええ、3倍になりました!」「いやいや、5倍にもなりました」
>などと秀吉に和し、これに秀吉はますます機嫌よく
>「何を言うか!10倍になったわ!!」
>と大笑いした。

>が、ここで竹中半兵衛が声を発した。
>「いいえ、我が家の弓矢は昔に比べ劣りました。」
>水をさされた秀吉はとたんに機嫌を悪くし、半兵衛を問い詰めた
>「どういうことだ!?何故我が家の弓矢が昔より劣ったというのか!?」

>半兵衛は静かに語った
>「先年、宮田喜八郎(光次)が死んで以来、羽柴家の弓矢は甚だしく劣化しました。」

>「あ…」

>半兵衛は三木城攻めで討ち死にした羽柴家随一の勇者、宮田光次の名を出した。
>これを聞いた秀吉も、宮田のことを思い出し 「そうだ、半兵衛の申すとおりだ」
>と、嘆息を漏らしたという。
(名将言行録)

616 :人間七七四年:2014/11/02(日) 21:21:56.60 ID:o5DlY+lP.net
この頃はまだ秀吉は自分の自慢話の腰を折る
他人のネガティブな発言にも耳を貸すことができたのか。
それとも発言の主が竹中半兵衛だったからこそか。
いずれにせよ、晩年までこのメンタリティでいてほしかった。

617 :人間七七四年:2014/11/02(日) 21:54:27.02 ID:o5DlY+lP.net
>本能寺の変直前の、織田信長が徳川家康を安土に招いての饗宴の時の事である。

>この日、家康をもてなすため山海の珍味を残らず取り揃え、その上に能を
>梅若太夫に申し付けた。そして舞は幸若太夫に申し付けた。

>この幸若太夫の舞を徳川家康は殊の外喜んだ。これを見て信長は
>「ではもう一番舞わせよう」 と、すでに幸若が下がっていた楽屋へ使いを立てた。

>戻ってきた幸若は『和田酒盛り』を舞った。これは最初の舞より更に素晴らしい出来であると
>信長も絶賛し、彼に金子百両、帷子五十を遣わした。

>梅若にも同様の御音物が遣わされたのだが、梅若のその日の能は大変不出来で、
>2度に渡りど忘れをしてしまった。

>信長は後から腹が立ったのか、饗宴が終わってから梅若の泊まる宿に
>「お前のその頸を刎ねてやる!!(其頸を可被成御刎)」
>と、わざわざ使いを送ったそうである。
(川角太閤記)

618 :人間七七四年:2014/11/02(日) 21:59:38.00 ID:o5DlY+lP.net
まず家康が舞をそんなに喜ぶというのが意外といえば意外。
家康はあまりそういった芸能鑑賞の趣味は無かったと思ったから。

それからこれは有名なことだが、信長の前で何かをするというのは命懸けだったんだなw
京風の料理を信長に作ってさしあげ、味が悪いという理由で打ち首になりかけた料理人といい
(京風は薄味、信長は濃い味付けが好み)

619 :人間七七四年:2014/11/03(月) 09:59:15.93 ID:ZlMuGJ15.net
>慶長5年(1600)筑後の黒田如水の元に、小西行長の居城、宇土城を開城させた加藤清正が訪れ
>如水と軍評定を行い、薩摩に攻め込む軍略を話し合い、先ず清正を先に立て、肥後を通って
>薩摩との境、浅敷・水俣・湯ノ浦に軍を集結し、不日に薩摩に攻め入るべし、といった内容を
>確認し合った。

>この時黒田如水の軍勢は、彼が挙兵した頃にはおよそ9千。1万に足らないほどであったのだが、
>熊谷内蔵充、筧和泉守、福原右馬充、太田飛騨守、毛利民部大輔、毛利壱岐守など西軍の将の配下たちを
>望み次第に抱え、その他筑前、筑後の牢人たちが、我も我もと馳せ加わったため、今や事々しい
>大軍となっていた。その上加藤鍋島も幕下に属し、如水も「この上はどんな望みでも叶う」と
>面白く思っていた所、子息甲斐守(長政)より急な使者が届いた
>使者は如水の前で報告する

>『今度天下分け目の決戦、内府公(家康)勝利を得られ、石田治部少輔は一戦に打ち負け、
>敗北し伊吹山中の民家において生け捕り。大谷刑部少輔は戦場を去らず自害。小西・安国寺は
>どこどこにて生け捕り。すなわち大路を引き回され、三条河原にて獄門にかけられました。

>毛利輝元・金吾中納言(小早川秀秋)は甲州様の御計略を以って裏切りをなさったため、御国御安堵。
>さてまた美濃、神戸川、また関ヶ原では二度、甲州様はご自身でお手柄をなさいました。
>この事やいろいろな方面でのお働き、内府様へのご忠節、人に超えたものである故、内府様も
>甲州様の意向を聞かずに何事も決めないと、いかにも入念に語られました。

>この上は天下静謐になりましたので、九州での弓箭(合戦)はお止めください。』
(続く)

620 :人間七七四年:2014/11/03(月) 10:01:12.72 ID:ZlMuGJ15.net
>これを聞いた如水はしたたかに腹を立てて怒鳴った

>「さてさて甲斐守、いくらまだ若いとは言いながら、なんと知恵のないことだろう!
>天下分け目の合戦とは、そのように急いでやるものではないぞ!
>何としてでも長引かせ、牢人に口過ぎをさせ、方々にて合戦があれば敵味方ともに、もし歳が行っていれば
>老年の慰みとなるよう、若者は、老いてからも人として生活できるよう、武功を立てさせるように
>させることこそ、人を引き回すものの役目である!

>それなのに、今の状況で天下が治まっては、我が軍に集まってきた牢人たちは餓え死にしてしまう!
>しかも集まってくる牢人は、一日一日増えているのだぞ!?
>全く以て、物を知らぬ日本一の大たわけは、甲斐守である!!
>どうしてそんな忠義立てをして、あれをくり分け、これに裏切りをさせ、それほど急いで家康に勝たせて、
>一体何の利益があるというのか!まったく残念大き事である。上方が治まってしまった上は、
>もはや是非に及ばず。」

>そう言うと不機嫌な表情のまま、中津川の城にすごすごと引き上げた。
>表向きはこの様であったが、その内意については計り難いものであった。
(古郷物語)

621 :人間七七四年:2014/11/03(月) 10:04:15.52 ID:ZlMuGJ15.net
黒田官兵衛は優秀な戦略家・戦術家ではあった(秀吉が「わしの死後官兵衛が天下を取る」と
冗談で言ったほどだ)が、この時は先見の明が無かったのか

622 :人間七七四年:2014/11/03(月) 10:39:57.78 ID:ZlMuGJ15.net
>牧野成里というややこしい経歴の武士がいる。
>その経歴の複雑さはhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5455.htmlここにも出ているが
>それがどんなものであったか書いてみよう

>成里の父、牧野某は尾張国毛呂崎城(現愛知県知多郡南知多町師崎)の城主であった石川筑後守と、
>囲碁の事で論争におよび、ついにこの石川に殺されてしまった。享年29歳であったという。

>この頃成里は未だ幼少であり、父の旧臣らによって育てられ成長し、元亀二年(1571)に至って父の敵を討とうとするが、
>石川筑後守はすでに年老い、家督を息子の隼人佑に譲って隠居していた。そして筑後守は成里が父の復讐を
>しようとしている、という話を聞き及び

>「壮年の隼人佑が家督を継いでいるというのに、老衰の私を狙うなどとは、まさしく勇気の無い行い様である!」
>と嘲り笑った。このことを今度は成里は伝え聞き、

>「筑後守は正しく父の仇であり、だからこそ今まで彼の命を狙っていたが、そういう事であるならこの上は
>隼人佑を討つべし!」として年月を送り、大野宮川の狩場においてついにこれを討ち果たした。
>この時隼人佑の家来たちが成里たちを追ってきたが、かねてから牧野成里の敵討ちのことを知っていた
>滝川一益が兵を出してこれを救け、伊勢長島城に迎え入れた。
(続く)

623 :人間七七四年:2014/11/03(月) 10:41:28.46 ID:ZlMuGJ15.net
>そののち、滝川一益が没落すると織田信雄に仕え、また所縁があったために長谷川藤五郎秀一に属し、
>文禄元年(1573)朝鮮の役に長谷川家の一員として従い、長谷川秀一が陣中において没した時、
>豊臣秀吉が
>「長谷川秀一の軍勢を預かるべき者は誰が良いか?」
>と諸将に尋ねると、皆が牧野成里こそ然るべきと推薦したため、成里は秀吉の命令で長谷川家の軍配を預かり
>士卒を下知して各所で軍功を立てた。
>帰国の後豊臣秀次に仕えたが、秀次事件の後、石田三成に属した。

>慶長5年(1600)の関ヶ原の役において三成が敗亡すると、郎党十余人を従え包囲を突破して
>池田輝政のもとに逃げ込んだ。
>輝政は徳川家康にこのことを報告し、成里を扶持した。
>この時彼は剃髪し名を一楽斎と改め、輝政の領国播磨に暮らした。

>やがて寛永8年(1631)の徳川秀忠の上洛の時に、伏見において仰せを被り江戸に下向し、秀忠の御前に召されて
>還俗して再び名を傳蔵と改め、下野国梁田郡三千石の旗本と成った。

>牧野成里の、非常にややこしい履歴についてである。
(寛政重修諸家譜)

624 :人間七七四年:2014/11/03(月) 10:44:21.41 ID:ZlMuGJ15.net
この牧野成里というものは知らなかったが、水野勝成並みに戦国の世を体現した武士だったんだな。
太平の世なら悪い話だが、戦国の世では賛否両論だろう

625 :人間七七四年:2014/11/03(月) 11:19:01.43 ID:ZlMuGJ15.net
>柳生宗矩が剣術仕合について話しているのを傍らで聞いていた
>大久保彦左衛門は突然「但馬殿、仕合を致しましょう」と言い出した。
>宗矩も断る理由がないので仕合の日を約束した。

>当日、宗矩は庭に砂を蒔き、仕合の用意をして待っていた。

>そこに彦左衛門がやって来たのだが、彦左衛門は甲冑を身に付け、直槍を持った
>物々しい出で立ちで、宗矩の方へ行って小さい砥石を取り出し、槍の穂先を研ぐと
>「但馬殿、いざ参らん!」と言った。

>困惑した宗矩が「これは一体どういうことです。
>そのようなお姿では仕合はできません」と言うと彦左衛門はこう言った。

>「それがしはいつもこのようにして仕合を致しております。
>このように庭に砂を蒔いて所で、竹に皮袋をはめ、木の先に毛毬のようなものを
>括り付けて人と仕合を致したことはありませぬ。

>それがしはいつも山や田の中、畠の畷のような所で仕合を致して参った。
>しかし、このような庭で致しても一向に構いませぬ。さあ但馬殿、いざいざ参らん!」

>当然、宗矩は仕合?を断ったという。

――『名将言行録』

626 :人間七七四年:2014/11/03(月) 11:22:11.30 ID:ZlMuGJ15.net
↑の話読むと改めて大久保彦左衛門の性格の悪さを感じる。
しかし見方を買えれば戦国武将と剣豪、今でいえば軍人と格闘家の
根本的な考えの違いを表しているともみれる

627 :人間七七四年:2014/11/03(月) 11:57:14.25 ID:ZlMuGJ15.net
>鴫野の戦いの時、上杉景勝は敵の大軍を破って勝利した。
>この時、軍監を務めていた小栗忠政は、徳川家康の陣にやって来て、
>戦の次第を伝えると御次の間に退いた。

>そこで忠政は戦の時の話をし始めた。

>「今日の戦で敵を追い討ちする絶好の機会があったゆえ、
>景勝にすすめたのだが、もう日暮れだといって聞き入れなかった。

>しかし、残った敵も多かったゆえ諦めきれず、直江に兵を貸せ、
>わしが行くと言ったのだが、これも同じ様なことを言って断られたわい。
>さてさて、残念なことじゃ」

>…と言っているところに家康が入って来た。忠政の声がよほど
>大きかったのか、家康は話をすべて聞いていた。

>「やい、又一。お前の身分で景勝の指揮を非難するはいらざることぞ。
>このたわけ者め!」

>主に厳しく咎められて、流石の忠政も平伏して恐縮した。

――『徳川実紀』

628 :人間七七四年:2014/11/03(月) 12:00:20.45 ID:ZlMuGJ15.net
↑の話から判断すると、家康って案外地位にこだわる保守的な人だったのかな?
相手の地位に関わらずいい意見ならどんどん耳を傾けた信長や秀吉と異なって

629 :人間七七四年:2014/11/03(月) 13:45:13.60 ID:VWxejr8+.net
>黒田如水は関ヶ原の後、徳川家康へのお目見えのため上洛し京都狼谷に宿泊していたのだが、
>その宿舎には諸大名たちは言うに及ばず、越前中納言様、当時は三河守(結城秀康)からは、
>日々御使者が送られ、度々自身御見舞され、懇ろに饗すという、類少ない扱いであった。
>その他徳川家の御旗本衆、御近習、外様衆、更には牢人衆など、訪問者が門前市をなすありさまであった。

>こういった状況を心配したのが、久しい如水の友人である山名禅高(豊国)であった。
>彼は如水を尋ねるとこの様に忠告した

>「諸大名衆が色々と訪問する場所がある中、あえてここに参られるというのは、一体何の御用があるのか?
>人目を避けて夜から明け方まで御密談なされているという。
>牢人衆の事も、一体どんな理由があって、ここに大勢入れ込まれているのか?
>特に三河守殿に関しては、3日と開けず御使者を使わされ、ご自身による御見舞も度々のことだという。
>私がその場にたまたま居合わせた時に見たが、三河守殿はまるで親を崇めもてなすように
>心がけられていた。その様なこと、家康公にとってお気に召すはずがないではありませんか。

>ご存知のように内府公は単純な人ではない。いかにも親しい体の出入りの衆の内に、内府公の横目(監視役)も
>きっといるだろう。きっと内府公は、如水は面倒な相手であると思われていることでしょう。
>それでは立場はどんどん悪くなり、さらにもっと大事を引き起こすと考えます。

>現在、筑前守殿(黒田長政)の幸福は極まっていて、当代肩を並べる人も稀な程です。
>ご自身の様子、人からの評価、内府公からの信頼、今の日本において彼よりも幸福な人は2,3人も
>居ないでしょう。そうであるのに、貴老のそのほうな、現在の御作法では、筑前殿のためにも
>然るべからざるものでありましょう。
>ここは、同行させてきた家臣も大方国元に返され、病気療養として静かに在京されるべきでしょう。

>天下が治まったというのに、『未だ治まらず』と、徳川家の御旗本が警戒しているのは、大方
>貴老の事を念頭にしている事であると、世の中では申し散らしている。無論邪推ではあるが、
>天に口無しとも言い、猶以て警戒しなければいけないことです。

>真偽は知りません。ですが醍醐・山科・狼谷・六地蔵・宇治・その他京に近い在家に牢人であるとして、
>侍たちが方々に居住しているが、これは如水が隠し置いている人数であると、もっぱら噂されています。
>返す返すも大変なことだと思う。あなたはこれについて、その様に見られている事への御覚悟を
>持っているのか!?」

>このように繰り返し繰り返し意見した所、如水は言った
(続く)

630 :人間七七四年:2014/11/03(月) 13:46:50.30 ID:VWxejr8+.net
>「禅高、よく聞いて欲しい。もし私が、家康の天下を奪おうと思っていたなら、関ヶ原の折
>九州において数ヶ国討ち取り、島津だけが手に入っていないは国境まで押し詰めていた。
>あの時彼らを蹴散らすにしても味方に引き入れるにしても、さほど時間はかからなかったであろう。
>そうして九州を掌握した上で甲斐守(黒田長政・当時)を引き取り堂々と、家康に敵対するという
>我らの方針をはっきりさせて、当時中国地方、備前、播磨は空き国であったし、我々には
>2万余の人数があった。これを以って陸海を押し上がり、道中牢人や侍たちを吸収しつつ、
>内府との出会い次第に合戦を行えば、天下が私の掌中に入った、ということもありえただろう。

>だが、私は老体でもあり、何の望みもなかったために、討ち取った国を捨て、下鞘一つで上洛したのだ。
>特に筑前守は大国の主になったので、心安く養われ、後は後生に願いをかけているだけの状況である。
>そんな私に何の用心、何の気遣いがあるだろうか!?
>あなたの言ったような風聞には、このたわけ共はそんな事を言っていると聞き流し、真実とは
>考えないでいただきたい。少しでも私のことを知り、会話をしたことのある人間なら、
>その様に思うことはない!」

>そう、扇で畳を叩き、まったく取り付く島もない有り様で主張したので、禅高も呆れてしまい
>もう何も言わなかった。

>やがて禅高の言ったように、京大阪の牢人に対する取り締まりが厳しくなったが、徳川家の
>老中のうち黒田長政と特に親しいものより密かに連絡があったため、如水と親しい牢人たちは
>俄に取り散ったという。
(古郷物語)

631 :人間七七四年:2014/11/03(月) 13:51:04.19 ID:VWxejr8+.net
天下分け目の戦いの動向についての予想は見事に外してしまった如水だったが
その後の保身は見事だったんだな

下手すりゃ切腹ものだったんだから

632 :人間七七四年:2014/11/03(月) 14:52:35.94 ID:VWxejr8+.net
>ある日、南光坊天海が江戸城で語った。
>「最近『甲陽軍鑑』という本を読んだが、上杉謙信が武田陣に乗り込み、武田信玄は謙信の太刀を軍配で請けた
>と、書いてある。ありゃ、ウソじゃ。

>わしは、あのころ会津不動院に住しておったが、武田家に祈祷師として呼ばれる事があった。
>天文23年(1554)8月、わしが甲州へ檀那廻りに行くと、信玄公は信州で上杉と対陣との話。急いで川中島へ
>向かい、8月17日、信玄公と対面かなった。信玄公は機嫌良く会ってくれたが、

>「一両日に輝虎と合戦に及ぶであろう。ひとまず御坊は会津に帰り、来年ゆるゆると甲斐に来られよ。」
>と、さっさと追い出されてしもうた。

>わしも一度は帰路に着いたが、「出家の身が、大檀那の大事なる戦を聞き捨てにして去るとは、道理に合わぬ」
>と思い直し、夜通しかけて立ち戻り、翌18日の合戦を、近くの山に登って眼下に見届けた。
>両大将は御幣川に馬を乗り入れ、太刀にて一騎打ちに及んだが、敵味方入り乱れるうち、退いて行ったわ。

>その夜、わしは信玄公の陣小屋へ見舞いに行った。信玄公は手負い、壁に寄りかかっておったが、
>「御坊は帰られたと思っていたわ!」と喜んで迎えて下さった。
(続く)

633 :人間七七四年:2014/11/03(月) 14:55:27.71 ID:VWxejr8+.net
>それを受けて、わしも
>「源平の合戦以来、大将の太刀打ちなど、聞いた事がありませぬ。古今に無きお手柄にございますぞ。」
>と褒めたが信玄公は、にわかに顔色を変え、

>「輝虎と太刀打ちしたのは、わしでは無い。知らぬ者は信玄と見ただろうがアレは、わしに似せた法師武者よ。
>わしでは無いので御坊、奥州に帰られても、左様な話は無用ぞ!」
>と怒られた。が、わしは近々と見たのじゃ。なかなか見間違えるハズも無し。」

>話を聞いていた横田尹松が尋ねた。
>「わしも謙信公の太刀にての斬り掛けに、信玄公は軍配で受けた、と聞きましたが・・・」

>「しゃっ!甚右衛門は生まれてもおらぬ時の話の、何を存ずるか!?わしは直に見たのじゃ、両大将の、
>騎馬にて川に乗り込んでの太刀打ちをな。わしが45歳の時の話じゃ、間違いない。」
(上杉将士書上より)

634 :人間七七四年:2014/11/03(月) 14:58:11.97 ID:VWxejr8+.net
>>632-633の話、自分もあの信玄謙信の一騎打ちはフィクションだと思うが、
この天海の聞かせた話フィクションだと思う。
一体天海何歳まで生きたことになるんだよw

635 :人間七七四年:2014/11/03(月) 15:51:15.82 ID:VWxejr8+.net
>天正10年(1582)、明智光秀は本能寺で主君織田信長を滅ぼすと、三宅式部を京都所司代とし、洛中洛外の
>地下人に金銀を下し、地子銭(固定資産税)の永代免除を発表した。
>これに京都の人々はみな有難く思って喜び合い、禁裏よりは久我宰相・土御門少将を勅使として、地子銭免除が
>叡聞に達し叡感を得られた旨を伝えられた。

>6月10日の未明、明智日向守光秀は参内し、久我宰相を通して金子五百両、白絹百疋、
>綿五百把を献上。そして奏上して曰く

>「私は奸心によって信長親子を害し、不慮に天下の政道を掌握しましたが、これは天の許さないところなのでしょう。
>それ故に今、朋輩であった羽柴筑前守秀吉が中国より馳上り、諸勢を尼崎に集結させていると報告を受けました。
>きっとここ両3日の内に、洛外において山河を動かすほどの戦いをし、私は討ち死にをするのだと思い定めております。

>今日は、今生のお暇乞いとして帝の龍顔を拝し、忝く思い奉ります。」

>これに久我宰相は天意を承って、答えた

>「戦の勝敗は、朝廷の関知できることではない。
>しかし地子銭免除は洛中洛外の永代の厚情であり、その積善は後世の子孫にまで及ぶだろう。」

>これを聞いた光秀は忝なさのあまり落涙して退出した。

>光秀はその他に仙院、女院、三公、九卿、百司、女官等まで尽くに金絹を献呈した。
>これこそ死後までの栄華であると、その頃言われたのだという。
(増補筒井家記)

636 :人間七七四年:2014/11/03(月) 15:55:15.54 ID:VWxejr8+.net
>>635の話はいい話として紹介されているようだが、
この緊急時にやることではないと思うな。
さすがに秀吉があれだけ早く来ることは想定外だったとしても
謀反人の自分を主君の敵討ちとして多くのものが狙ってくるのはわかりきっていたはずだから、
もっと軍事に集中しろよ・・・
と自分も思うし、海音寺潮五郎も書いていた。

637 :人間七七四年:2014/11/03(月) 16:49:55.68 ID:VWxejr8+.net
>大坂の陣にて、塙直之が蜂須賀至鎮に夜討を仕掛けた時、
>至鎮の家臣、稲田九郎兵衛は十五歳にして大功を立てたので
>徳川家康から感状を下された。

>この時に家康が近臣に向かって曰く、

>「子に名前をつける時はきちんと考えなければならないな。
>九郎兵衛はわずか十五だというのに、無闇に大人らしい名前を
>つけるから散々なことになる。

>何丸とか何若とかつけておいたなら、今度の働きも珍しいこととして
>評判になるだろうに。いやー、惜しい惜しい。皆もよくよく心得ておけよ」

――『徳川実紀(天元実記)』

638 :人間七七四年:2014/11/03(月) 16:52:57.53 ID:VWxejr8+.net
>>637の話、途中までは悪い話というか家康の言いたいことがわからなかった。
子供らしからぬ大功を立てたのにその子供らしからぬ名前に苦言を呈されるなんて
どういうことだ?と。
しかし最後の2行でどんでん返し、意味がわかった。

639 :人間七七四年:2014/11/03(月) 20:12:44.81 ID:Unc3epob.net
>天正10年(1582)3月14日、信州浪合に駐屯していた織田信長のもとに、武田家滅亡の知らせと勝頼の首が届いた。
>信長は喜んで勝頼の首に向かい、

>「うぬが父、信玄入道以来の積悪によって、うぬは信玄の死から時を経ずして滅亡するハメになったのよ。
>しかし、かかる小せがれめに多くの将士を討たれしこと、くやしゅうてならぬわ。
>・・・よし、うぬら親子は上洛を望んでいたと聞く。望み通り、その首を都の大路にさらしてくれるぞ!」

>そう言うが早いか床机から立ち上がり、勝頼の首を蹴飛ばした。

>見ていた近習の竹中重矩は、たまらず隣にいた後輩の細川忠興に話しかけた。

>(アレは、今回の御征討が始まって百日もせぬうちに大した苦もなく取った首ゆえ、あのような真似を
>されるのだろうか?普通は、大将首なら首実検をするものだが・・・)

>(うむ、そうだな。ならばその旨、信長様にご注進いたそう。)
>(やめておけ、あの御景色では聞き届けていただけまい。益なき事ぞ。)
>(それもそうか。)


>「・・・それから百日もせぬうちに、信長様は本能寺に果てた。ゆえに、大将首は丁重に実検せねばならんぞ。」
>細川忠興は、のちに家臣たちにそう言ってきかせた。
(綿考輯録)

640 :人間七七四年:2014/11/03(月) 20:16:14.41 ID:Unc3epob.net
>>639のような祟りの話、平清盛が東大寺大仏殿を焼いた報いとして
恐ろしい熱病(かけた水が蒸発するような体温になったら即死だってw)にかかったというのと同じで
自分は信じない。
単なる偶然だろう。

641 :人間七七四年:2014/11/03(月) 20:19:07.02 ID:Unc3epob.net
信長と対照的に家康が勝頼の首に対して
「さぞご無念であったろう」と丁重に扱ったという話も有名だが
それも自分は信じない。
江戸時代に神君家康として崇められる中で捏造された創作だと思う。

642 :人間七七四年:2014/11/03(月) 20:52:25.11 ID:Unc3epob.net
>関ヶ原の後、黒田如水は筑前においては世捨て人のようであった。
>全く浮世を捨て切ったと言って、召し使っていた侍たちも筑前守(長政))に揃えて渡した。
>その時、無足者(知行を持たない家臣)のうち確かな者には知行をこれだけ、知行を与えるほどではない
>者には扶持・切米をどれだけ、知行を取っている者には相応に加増を取らせ、その者たちを
>安堵させるようにして、如水自身は知行も家臣もいらない、と言い渡した。

>ところで如水の弟に黒田養心という人が居た。養心は病弱で役に立つような人ではなかったので
>2千石で召し置かれていたのだが、この養心に1万石を取らせ、宗像郡のうち津屋崎という所、
>ここは城はないが要害だというのでこの場所に置き、如水もこの近所に小屋同然の家を作らせ、
>小姓など知行取り10人ほど、徒者少々にてそこに暮らしていた。
>それから博多においては、博多町屋敷の空き地に、表向きは町家に拵えた屋敷を造り、
>いかにも逼塞の体に、殊勝に見せていた。

>さてさて、そのころ如水は太宰府天神信仰の体にて、時折太宰府まで出かけていたが、そのあたりの山陰、
>いかにも閑静な山中に茶屋を造り、その近辺、あの藪の中、この森の陰と屋敷を造らせ、
>ここに屈強の侍60余騎を置いた。
>さらに牢人衆を町中に住まわせ、彼らを商売人に紛れさせた。

>また馬敷という深山からは材木が採れた。如水は、ここは涼しい山中であり、また中間どもに
>材木を採らせるためとしてこの山中に小屋を掛け、定番だのなんだのと名目を付けて侍どもを
>隠し置きいた。
(続く)

643 :人間七七四年:2014/11/03(月) 20:54:35.22 ID:Unc3epob.net
>さらに博多の町外れに広い空き地があるのを見つけると、如水は長政に、鷹師どもをここに置くようにと
>指図した。これに長政は
>「その場所は城から1里ばかりも離れていて不自由な場所です。鷹師であればもっと近くに置きましょう」
>と反対したが、如水は
>「悪いようにはせぬ!とにかく私のいう通りにしろ!」

>こう頻りに言ってきたので致し方なくそこに鷹師を置くようにすると、それに紛らわして
>家来も馬も持っていないような小知行の者たちに
>「人も要らず、まして馬も無用である!家をあの地に、町家のようにして造れ!」
>そのように申し付けた。この下知に従い、指図通りに、この小知行の者たちを
>町人とも鷹師とも解らないような体で召し置き、牢人も少々紛らわせた。

>この他、ここの新田・あそこの山守などと名づけ、あるいは牢人のようにして人を置き、
>突然の合戦などで人が必要な時は、いつでも騎馬の侍200騎余りが確かな者たちを引き連れて
>集結するようにしていた。
>それなのに普段は人も持たず、逼塞一遍の体で居たのだ。全く恐ろしい覚悟である。

>ある者の言う、奮馬は死するまでと言うのは、この様なことを言うのだろう。
(古郷物語)

644 :人間七七四年:2014/11/03(月) 20:58:07.56 ID:Unc3epob.net
>>642-643のように如水の隠遁は気合が入っていたが、
これも保身のためだろうな。
命を懸けた保身、何か矛盾する言葉だが、如水だけに納得してしまう。
三国志の竹林の七賢を思わせるものがある。

645 :人間七七四年:2014/11/03(月) 21:33:53.23 ID:Unc3epob.net
>松平定綱と井伊直孝は故あって数年にわたって断交していた。

>ある時、直孝は麾下の士に「いま天下で異変があったとしたら、
>その時に私が会わなければならないのは松平越中守だけだ。

>近年、互いの心に隔たりがあって疎遠になっていることを
>残念に思う」と言ったのを、その士が定綱の家に来て告げた。

>これを聞いて定綱は喜び、和談のために使者を取り交わして
>早いうちに面会しようとしたのだが、病に罹ってしまい、
>直孝と会うことができずに死んでしまった。

――『名将言行録』

646 :人間七七四年:2014/11/03(月) 21:36:04.95 ID:Unc3epob.net
↑は戦国(じゃなくもう太平の世か)の友情話。
松平定信が島原の乱というまさしく天下の異変を治めたわけだな

647 :人間七七四年:2014/11/03(月) 22:13:29.83 ID:Unc3epob.net
>関ヶ原の後、立花宗茂は加藤清正によって肥後の高瀬という場所に保護され、謹慎していたが、
>翌年の春、宗茂は清正に

>「これまでの御芳志によって、心静かに休息させていただき、満足この上もありません。
>ですが私は現在、暇を持て余している遊人ですので、都に上り名所旧跡を見物したいと思っているのですが
>これをどうお考えでしょうか?」

>まあ、ニートしてますが引きこもってばかりいるのもアレなので外に出て京都観光でもしたい、という
>ような話である。これに清正は
>「尤もの仰せです。どうぞ御心に任せて下さい。この清正からも一つ馳走させてもらいます。」と、
>京までの旅行について懇切に取り計らい、宗茂を京都まで上らせた。

>宗茂は京都、南都(奈良)、泉州堺などを心静かに遊覧し、三歳の春を送った。
>3年も遊び歩いていたのかと思わないでもないが。まあともかくもそのあたりで「今度は江戸に行ってみたい」と思い、
>慶長8年の秋ごろ、江戸に行き高田の宝祥寺に忍んで滞在していたのだが、旧交のある大名小名が
>これを聞きつけ訪問してきたため、後々は忍ぶも何も無いような状態で、諸大名の馳走に会って
>彼方此方と忙しくしていた。

>そんな時、土井大炊頭(利勝)が取り持ちをして、この宗茂の江戸滞在のことが
>大御所(徳川家康)に伝えられた。このとき家康は

>「先年関ヶ原の時、宗茂が石田に与したのは心から出たことではない。後から聞いたところだが、
>宗茂は小早川秀包と共に、毛利輝元に色々と異見したのだが、輝元が聞く耳を持たなかったので
>致し方なく大津城の攻め手に加わったのだという。宗茂にとっては詮方無き次第であったのだ。

>大炊頭、その方より宗茂に、彼が輝元に異見した当時のこと等を聞き、その上で今後の身の上について
>相談をしてくるのように。」

>そうして訪問した土井利勝に、宗茂も徳川家から扶持されることに、いまさら異議はないと答え、
>直ぐに召し出され奥州棚倉において1万石を、堪忍分として与えられた。
>この時立花宗茂は 「この度1万石を仰せ付けられたことを、完全に満足とは思っていない。
>だが、関ヶ原の折、私が毛利輝元に諫言したということが上聞に達した。
>これこそ私の本懐であり、どんなものもこれに過ぎることはない。」
>そう言って喜ぶこと限りなかったという。
(立斎旧聞記)

648 :人間七七四年:2014/11/03(月) 22:17:29.36 ID:Unc3epob.net
結局関ヶ原の戦いで毛利輝元は何がしたかったんだろう。
総大将になっておきながら戦うでもなく、かといって>>647のように責任は取らされて。
以前「毛利輝元が大坂城に立て籠もった」とかいうスレが有ったと思うが
そのくらい積極的な態度を取るか、逆に最初から西軍には組しなければよかったのに。

649 :人間七七四年:2014/11/04(火) 05:09:23.88 ID:8sT7NmGJ.net
>慶長五年のウィリアム・アダムス以来、極東の日本にもイギリス人が訪れるようになった。
>当時のイギリスは、エリザベス一世の治世以来海洋国家として着実に踏み出しており、
>時の国王ジェームズ一世と徳川家康・秀忠の間には書簡のやりとりがあり、
>英国王室の武器庫であったロンドン塔には秀忠が贈呈した甲冑が保管されている。

>君主同士だけではなく、イギリス人商人たちも平戸に東インド会社商館を築き、
>活発に交流を始めていた。
>ところがアダムス没後、わずか3年後の1623年にはこの商館は強制閉鎖されてしまう。
>バダヴィアのイギリス人商人委員会からの一方的な命令であった。

>しかしなぜなのか?
>まず思ったよりも貿易が利益をあげないことがあげられる。
>そしてそれ以上に、リチャード・コックスら商館員の態度があまりにひどく、
>まさしく国の恥であったのだ。
>借金する、酒屋で暴れる、若い娘に絡む、通りで暴力をふるう。
>こうした連中の中には日本の奉行によって斬首された者もいた。
(続く)

650 :人間七七四年:2014/11/04(火) 05:11:44.60 ID:8sT7NmGJ.net
>もっとも目に余ったのは性的な乱れであった。
>商館員は日本人女性を妻にし、しかもとっかえひっかえしたという。
>さらにはイギリス人やオランダ人同士で妻をまじえてワイルドなパーティをする始末。
>朝まで続くパーティでは大量に飲みまくり、本国ではありえないほどセクシーなダンサーを
>はべらせる酒池肉林ぶりである。

>こんなパラダイスを去る気は商館員にさらさらなく、なんのかんのと滞在を引き延ばしていた。
>だがついに強制連行するという脅迫を受け取り、彼らも重い腰をあげた。
>上洛していた秀忠のもとに代表者を派遣し、この国から去ることを告げたのである。
>ついでに莫大な借金返済も…ただし大名たちはこの申し出をやんわりと断ったという。

>盛大なお別れパーティを終え、バダヴィアまで戻ったコックスを待っていたのは、
>怠慢、浪費、そして遊興への叱責であった。即刻イギリスに戻り釈明せよと宣告されたコックスは、
>己の失われるであろう名声を思いすっかり意気消沈、心身ともに病み衰え海上で帰らぬ人となった。

651 :人間七七四年:2014/11/04(火) 05:16:21.44 ID:8sT7NmGJ.net
今でも日本で、本国ではしないような悪さをする欧米人はいるが
日本人は彼等を毅然と厳罰に処したりしないし、欧米諸国も彼等を大して罰したりしない。
>>649-650は一見悪い話だが、当時の日本人・欧米人の気概を示す良い話でもあると思う。

652 :人間七七四年:2014/11/04(火) 05:47:20.65 ID:8sT7NmGJ.net
>秀吉は信長の仇の明智を討ち、また柴田を滅ぼしたので、もはや天下に自分の敵はないと思っていた。
>そのためこの軍功の賞として征夷大将軍職が欲しいと願っていた。

>その頃、足利尊氏初代将軍から十四代後の将軍足利義昭はいまだ中国地方にいたので秀吉は使者を送り
>「私を養子にして下さり征夷大将軍職をお譲り頂ければ、あなた様を敬い奉り富と栄誉を回復させてあげましょう!」
>(吾を養子に被成下、征夷大将軍をゆづり給はらば、敬し奉り富貴栄花をひらかせ申さん)
>と義昭に訴えた。

>が義昭は天然の馬鹿(天性愚生)だったのでこの絶好のチャンスに
>「卑しい身分の分際でよくここに来れたな!」(卑姓の身として是推参なり)と怒ってそのまま使者を追い払ってしまった。
>秀吉はムカついたがどうしようもなかったので菊亭晴季に相談して、関白に就任し朝廷から豊臣姓を賜った。

>その後秀吉は毛利輝元の館に行ったときに義昭が輝元の庭の前に立っているのを見かけたのでこう言った。
>「今ちょっといいかな〜?かな〜?」(只今は如何如何に)

>義昭は手をついて腰を折り大いに秀吉を敬っている様子だったとさ。
(元禎筆記)

653 :人間七七四年:2014/11/04(火) 05:50:54.67 ID:8sT7NmGJ.net
↑の話、義昭が天性のバカというのもあるが
身分にとらわれる人物というのも示していると思う。
心の中では秀吉のことをそうやって見下していた大名、結構いたんじゃないかな。

654 :人間七七四年:2014/11/04(火) 06:25:57.50 ID:8sT7NmGJ.net
>慶長五年七月三〇日付真田昌幸宛石田三成文書の一節

>「会津征伐に向かった大名達は自分たちが挙兵したと聞いて、家康のもとを離れて帰国しているようですが、美濃・尾張で
>秀頼様にしっかり忠誠を誓っているか一人一人、調べる予定です」
>「今年の暮から、来年の春に関東の家康を討伐するために畿内から西の大名に動員をかけています。八月中には近江に
>集結させて、兵糧米を与えた上で各方面に派遣する予定です」

655 :人間七七四年:2014/11/04(火) 06:30:06.95 ID:8sT7NmGJ.net
↑の話、昌幸が優れた戦略家というのを覆しかねないような・・・
この調子だと、彼が死に際に信繁に授けたという徳川を豊臣が倒す策
(京都を早く占領し、宇治川で徳川方を迎え撃つという)も・・・

656 :人間七七四年:2014/11/04(火) 07:41:18.26 ID:EsO0H7vH.net
>天文年間。飛騨国大八賀郷を治める豪族に平野豊後守安室という者がいた。
>豊後守は領内の鍋山が大八賀川に臨む天嶮の要害であると同時に、
>信州街道と平湯街道を抑える要衝である事に目をつけると、
>そこに以前築かれた砦を改修して鍋山城を置き、姓も鍋山と改め、
>その勢力を確固たるものとした。

>だが永禄の頃になると、近隣の三木自綱はまさに飛ぶ鳥を落とす勢い。
>抗し難しと考えた豊後守はこれに降り、自綱の弟・顕綱を養子として迎えた。
>ところがこの顕綱、生来貪欲な人物で、豊後守を毒殺すると、その一族を追放、
>みずから鍋山豊後守を襲名し鍋山城を乗っ取ってしまった。

>さらにこの顕綱、兄の自綱が飛騨国司・姉小路の名跡を継ぎ、
>帝から三位中将の位を賜ったのを見て、めらめらと嫉妬の炎を燃やし、
>いずれこれに取って代わろうと企んでいた。

>しかし、天正15(1583)年、ついに顕綱の野望は自綱の知るところとなり、
>自綱はこれに先んじて弟を成敗する事を決意した。
>さっそく家中でも屈指の剛の者である、長瀬甚平、土川新三郎を呼び
>計略を授けると、それにも劣らぬ腕利きの士卒十数名をつけて、
>鍋山城へと向かわせた。

>さて、鍋山城に到着した一行。甚平、新三郎は顕綱に目通りすると、
>ご機嫌伺いの口上を述べた後、あらためて平伏すると次のように言上した。

>「本日は松倉の中将様より格別の密書を持参いたしました。なにとぞ人払いを…」

>野心家の顕綱もまさか二人が刺客とは思いもせず、左右の近侍を別室に下がらせ、
>文箱を受け取ると、中の書簡をバラリと開いて目を通そうとした。

>ところが、この密書、字がまるで子供の落書きのように乱雑に書かれており
>読むに読めない。何度も巻物を巻き戻し、目を皿のようにしていると、
>突然、甚平がわっと躍りかかり、顕綱を組み伏せ、新三郎が刀を抜き放って
>大音声に叫んだ。

>「中将様の密書とは真っ赤な嘘。悪事千里を走るの言葉通り、豊後殿の
>御謀叛はすでに家中の知るところとなっておりますぞ。お覚悟めされいっ!」
>と言うが早いか、顕綱の首を一刀の下に刎ねた。
>騒ぎを聞いた近侍の者たちが駆けつけると、すでに座敷は血の海となっている。
>すぐに腕に覚えのもの数名が斬りかかったが、たちまち返り討ちにあい、
>あとのものはすっかりこれを見て戦意を失い、城中はたちまち大混乱になった。
(続く)

657 :人間七七四年:2014/11/04(火) 07:45:13.81 ID:EsO0H7vH.net
>さて、甚平、新三郎の共の者たちは城門の外に待機していたが、
>城内の侍が一人、二人と逃げ出していくのを見て、謀が成就した事を知り、
>一気に鍋山城を制圧するべく、門の中に駆け込もうとした。
>ところが、逃げ出す者の中にしどけない姿ではあるものの
>あきらかに身分の高そうな妙齢の婦人の姿があった。
>「豊後守の奥方に違いない!逃がすな!」
>すぐさま何名かが彼女の跡を追い、奥方はたちまち七夕岩という所に追い込まれた。
>すると、奥方はすばやく腰の帯を解くと
>「もしお前に霊魂があるのなら、大蛇となって我が仇に報いよ!」
>と叫んで、これを谷底に投げ捨てた。そして、その直後、
>追ってに捕えられた奥方は、あわれ滅多切りにされ果ててしまった。
>こうして鍋山城はわずか十数名のものによってあえなく落城した。
>顕綱亡き後、自綱の次男・秀綱が鍋山の名跡を継ぎ、新たな城主となったが、
>直後、自綱の嫡男・信綱が羽柴秀吉に内通し、自綱に誅殺されるという変事が起こり、
>秀綱が新たな嫡子として松倉城に戻され、代わってその弟・季綱が鍋山城主となった。

>その頃、鍋山に牙がすべて真っ黒な大蛇があらわるようになり近在の人々を驚かせた。
>人々はこれは自綱を呪って奥方が投げた帯が変化したものに違いない、いや
>奥方の怨霊が帯に乗り移って大蛇の姿となったのだと口々に噂し、
>これを「お歯黒蛇」と呼んで恐れた。

>さて、顕綱暗殺から2年とたたないうちに羽柴秀吉の命を受けた金森長近の軍勢が飛騨に雪崩れ込んだ。
>鍋山城も落城し、城主・季綱は松倉城の兄・秀綱とともに信濃に逃れようとしたが、
>落ち武者狩りに遭い非業の死を遂げた(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1053.html)
>姉小路の一族は、頼綱と美濃遠藤氏の人質となっていた末子の近綱のみが残ったが、
>大名としては滅亡し、二度と歴史の表舞台には姿を現さなかった。

>それから幾星霜、顕綱の子孫の平野清心という者が、松之木村の郷士となって
>田畑を耕し暮らしていた。ところがある晩、見知らぬ女が枕元に現れ、清心を
>呼び起こした。驚く清心に女ははらはらと涙を流し、
>「妾はもと、鍋山豊後守顕綱の妻女であった。すでに白骨となって久しいが、
>未だ七夕岩のあたりに埋もれたまま、誰一人として供養してくれるものがおらぬので、
>成仏できず毎日苦しんでおる。どうか、どうか、早くこの苦しみから救っておくれ」
>と告げ煙のように消えてしまった。はじめは夢だとおもっていた清心も
>三日三晩同じ夢を見続けたので、七夕岩に行ってそのあたりを掘ってみると、
>確かにぼろぼろに風化してはいたが人骨が幾片か見つかった。
>さっそく高山雲龍寺の脱山和尚という人を呼んで、顕綱婦人の回向を催し、
>そこに供養の石塔を立て、ねんごろに弔った。

>しかしさらに後、脱山和尚の元に顕綱夫妻の霊が現れ、
>「どうか、毎日読経の声が聞こえるような仏縁深い地に移して欲しい」
>とまた懇願したので、和尚は檀家の村人とともに供養塔を雲龍寺の境内へと移した。
>後に、この石搭をさらに他所に移そうとした事が何度かあったが、
>いずれのものも怪死したり、家門が没落したたため現在も
>顕綱夫婦の供養塔は雲龍寺の境内に残っている。

658 :人間七七四年:2014/11/04(火) 07:51:46.09 ID:EsO0H7vH.net
飛騨のような小国・山ばかりの生産性も乏しい国で>>656-657のような話があるのは驚いた。
小国だからといって軽視してはいかんな。
蛇云々の所は事実ではないだろうが、日本各地で似たような話を聞くような

659 :人間七七四年:2014/11/04(火) 08:27:09.05 ID:EsO0H7vH.net
>『さてさて、我々が野殿(備前津高郡野殿)まで進軍したところで、あなたからの書状を見ました。
>今日は沼(備前上道郡沼)まで進軍するつもりです。古左(古田佐助(織部))も一緒にいます。

>…このような事を申している時に、喝采すべきことがありました。
>只今、京より下ってきたものが申す所によると、上様(織田信長)、ならびに殿様(織田信忠)は、
>何れも御別議なく明智光秀の襲撃を切り抜けられ、膳所ヶ崎まで退避成されたそうです。

>その途中、福平左(福富平左衛門)は三度敵と戦い、比類なき働きをして、これにより何事も無く
>退去できたそうです。
>とにかく、先ず以て目出度きことです。我々も出来るだけ早く帰城します。

>なお、今後も追々書状にて申し送りますが、あなたについては御才覚専一にて、ご油断無きようしてください。
>恐々謹言

                >羽筑(羽柴筑前守秀吉)

 >六月五日
>中瀬兵(中瀬瀬兵衛)
        >御返報』

(梅林寺文書)

660 :人間七七四年:2014/11/04(火) 08:31:50.04 ID:EsO0H7vH.net
秀吉は何故↑のようなすぐばれる嘘の手紙を送った?
書状が光秀側の手に渡ることを見込んで、光秀を油断させるため?
(光秀が「秀吉は現状を正しく認識していない」と思うように)
秀吉がそんな文字通り猿知恵を使うとも思えないが・・・わけがわからん

661 :人間七七四年:2014/11/04(火) 09:03:09.10 ID:EsO0H7vH.net
>文禄2年、朝鮮での戦局が転換を向かえ、明軍の講和使節が名護屋にやってきた頃、
>在陣中の南部信直は留守居の八戸政栄宛てに手紙を出した。

>『十郎がこちらに下ってきたので、文を送ります。
>5月15日に唐の官人二人(謝用梓・徐一貫のこと)が名護屋に来ました。
>(秀吉は)早々に兵を高麗へ入れるべしと申してましたので、
>連れてきた者を集めておくようにと仰いましたが、赤キ国(全羅道)を占領せよと命ぜられたので、
>8月までの御在陣を仰せられました。
>そして近日、佐竹義宣・堀秀治・丹羽長重・織田信包など、五人を渡海させよと指示されました。
>なにはさておき、詳しくは十郎がお伝えします。』

>『高麗八州四ヵ国は日本に割譲されるとのことで、これは一国が九州ほどで、使者は多くの人々を引いてきて
>年貢を送ると詫び言があったそうです。唐の大王も貢物を送ってくるそうです。
>これ以上ない条件だと上も下も言っていますが、高麗四か国に
>日本の侍を置かなければ平和は無いだろうと太閤様はいろいろな御難題を仰られる。
>そういうわけで、北金の都より大将としてやってきた遊撃将軍(李如松のこと)が釜山海に居るので、
>太閤様が仰られた通りの事をこの人へと伝えたそうです。』

>『高麗に在陣している大名達はさんざんに疲れ果てて、何の役にも立たない様子です。
>だがその有り様を秀吉の御前で話しては、即刻処分されるので、皆怖がり恐れて、この有り様を申す人はいません。
>この状況をわかってほしい。』

>『日本では大身者であろうと小身者であろうと、御前で物を申す者はいません。
>日本国内では一切の争いも許されません。ですが、武具などは油断なく準備し、九郎(南部利直)に奉公してほしい。』

>『高麗の年貢は年々印子金1万2千ずつだそうです。印子金一つは100目(匁)で、これというほどのものではありません。
>弾正殿(小西行長)は釜山海に居ます。
>こちらで重ねて何かあったら、おいおい人を下して連絡します。以上

>(文禄二年)五月廿五日  信直
 >八戸殿』

662 :人間七七四年:2014/11/04(火) 09:07:30.57 ID:EsO0H7vH.net
↑の手紙を読んで、晩年の秀吉はやはり耄碌していたのだと思わざるを得なかった。
彼自身がまさしく現場からの叩き上げで、しかもあの信長の元で散々難しい仕事を命じられてきて
現場で実際に戦う者たちの苦労は解りすぎているほど解っていたはずなのに・・・

まるで悪い意味で始皇帝みたいになってしまっている

663 :人間七七四年:2014/11/04(火) 10:12:22.23 ID:EsO0H7vH.net
>天正11年(1583)3月、賤ヶ岳に向けて畿内がきな臭くなってきた頃の、羽柴秀吉より、当時毛利との講和作業に
>現地に赴いていた蜂須賀正勝、黒田孝高宛書状

>『去る9日付けの書状が今日届き、それを見た。

>一、お前たち(蜂須賀・黒田)からの報告は心得た。毛利から割譲された城々を受け取ったなら、
  >人数、兵糧をしっかりと入れ置き、お前たち両名は早々に帰ってくるように。

>一、西国の者たちへの挨拶は、書状でしておけばよいだろう。

>一、尾張表では喧嘩のようになっている。不思議な事も起こるものだ。(尾州表喧嘩之様成、不思議之儀出来候)
  >そんな状況なので伊勢表に軍勢を派遣した。私も今日、坂本まで移動する。

>一、お前たちは軍勢を一人も率いてくる必要はない。これは八郎(宇喜多秀家)の家中の者たちにも良く
  >申し聞かせておくように。
  >しかし鉄砲を撃ちあうような事態になれば、軍勢を出すように申すだろう。内々にその事は伝えておく。
  >なお、お前たちのことについては改めて入念に申し付けておく。早々に帰ってくるように。
  >油断があってはならない。恐々謹言。

                       >筑前守
                          >秀吉(花押)

  >三月十一日
    >蜂須賀彦右衛門(正勝)殿
    >黒田官兵衛(孝高)殿 』
(黒田文書)

664 :人間七七四年:2014/11/04(火) 18:18:06.12 ID:z2adc2m8.net
↑の頃の秀吉は冴えていたんだな。実に的確な判断力と指示。
思えば秀吉が輝いていたのは賤ヶ岳の合戦までだったんだな。
小牧・長久手では家康にしてやられたという感じだし。

665 :人間七七四年:2014/11/04(火) 18:22:06.53 ID:z2adc2m8.net
>ある時、坂崎直盛は近くで召し使っていた小童を罪があったとして処断した。
>その小童と知音のあった浮田左門は仇を討とうと決意し、童に手を下した者を
>殺害して坂崎家を出奔した。

>直盛の父・安心入道は左門が殺されるであろうことを哀れんで富田知信に文を送り、
>左門を匿ってくれないかと頼んだ。知信の妻は直盛の姉であった。
>知信の妻もこの事態を嘆き、結局知信は左門を匿った。直盛は知信を追及したが
>知信は「今は逐電して家にはいない」と白を切った。

>頭にきた直盛は直接安濃津城へと赴いて捜索したが、見つからなかったようで
>今度は伏見にいた知信と一戦交えようとさえした。さすがにそれは不味いと
>周囲に戒められた直盛は家康に訴えでたところ、家康は
>「天下のことは将軍に譲った。江戸にて上裁を仰ぐことだ」
>と答えた。そこで秀忠に訴えたところ「証拠がない」と突っぱねられたため
>直盛の憤怒は相当なものであったという。

>それから数年の歳月を経ても、直盛は執念深かった。
>直盛は突如として、知信が左門と繋がっている証拠を幕府に提出したのである。
>その頃、左門は知信と親しかった高橋元種のもとに潜伏先を移していた。
>実は左門と一緒に逃げていた侍が裏切り、坂崎家に帰参するために、
>知信の妻が左門に宛てた文を直盛に渡してしまったのである。

>狂喜した直盛は証拠をつきつけ、知信と元種は言葉に詰まり、ついに改易された。
>一方、左門も捕縛された。左門は土井利勝らの警固で輸送される途中、縄を解き、
>警固の刀を奪って暴れまわったが、土井の家臣・藤左衛門に組み伏せられ、
>最後には誅せられたという。

666 :人間七七四年:2014/11/04(火) 18:28:37.84 ID:z2adc2m8.net
↑を読んで少し恐ろしくさえなった。坂崎直盛の執念深さに。
彼は何と言っても千姫に関する事件で有名だが、
この執念深さを考えると
千姫の件もさもありなんと思えてくる。

667 :人間七七四年:2014/11/04(火) 19:11:46.88 ID:z2adc2m8.net
>秀吉の九州征伐軍に降伏した秋月種実・種長親子は、
>昨日までの盟友であった島津討伐のためその先鋒に立たされることになった。
>そして軍勢と共に秋月へと向かう途中、休憩中の秀吉が秋月種長を呼び寄せる。

>秀吉は「そちは俗謡の名手と聞くが、今この場で一曲歌ってみよ」と命じた。

>九州御動座記には『筑前一国豊前半国筑後半国の屋形』と書かれ、
>昨日までは北部九州第一の大名だった秋月種長に諸将の前で幇間の真似事をせよと命じたのである。

>もちろん断る事の出来ない種長は、その長身を屈め跪き恥も外聞もなく膝拍子を打ちながら唄いはじめた
 >一張の弓の勢い月心にあり
 >これぞ真如の槻弓の
 >薩摩もなどかおそれざる
>これを見た秀吉は「面白し面白し」と興じて喜んだと言う。
>また種長の父・種実も諸将の中に混じり息子の姿を見ることになる。この親子の心中穏やかではなかっただろう。
>時に種実43歳、種長21歳であった。

668 :人間七七四年:2014/11/04(火) 19:15:38.89 ID:z2adc2m8.net
↑の頃の秀吉は既にヤキがまわり始めていたという感じだ。
>>664で「秀吉が輝いていたのは賤ヶ岳の合戦までだったんだな」と書いたが
その通りに九州征伐の頃は既に晩年の醜態の片りんを見せていたのだろう。

669 :人間七七四年:2014/11/04(火) 19:22:30.50 ID:z2adc2m8.net
ちなみに自分の秀吉のそういった考えは海音寺潮五郎の考えを強く受けているのは否めない。
海音寺氏は、山崎合戦から賤ヶ岳までが秀吉の絶頂期、まことにほれぼれするものがある、
その後小牧長久手、九州征伐、小田原征伐は惰性によって行われたに過ぎず、
朝鮮出兵の頃は惰性期を過ぎて頽唐期に入っていたと評している。

670 :人間七七四年:2014/11/04(火) 20:02:40.49 ID:z2adc2m8.net
>天正11年(1583)4月、柴田勝家と羽柴秀吉の賤ヶ岳の合戦が進行する中、
>備後国は鞆にあった足利義昭が、毛利輝元に対して発した書状


>『度々そちらに申し寄越したように、柴田勝家勢が既に北近江まで進出しました。
>上方で合戦が起こるのは至急の事だと認識するのが肝要です。
>私の方からは小林家孝、今村を上方に遣わしました。
>今、この事態に対しもし油断があれば、たちまち後悔する事になるでしょう。

>并びに、当家(足利将軍家)の再興はこの時にあります。別して、毛利家が軍勢を上方に出すことを頼み入ります。
>猶、この事については真木島昭光が詳しく話します。

>卯月(4月)六日                   義昭(花押)
     >毛利右馬頭(輝元)とのへ     』

>全く同文のものを吉川元春・元長親子にも送っている。
>どうもこれは、柴田勝家を助けるための行動であった模様である。義昭は自身の京都帰還を条件に、
>柴田勝家に毛利輝元、徳川家康などを結びつけようとしていたようなのだ。

>賤ヶ岳の合戦を前にした、足利義昭の策動の一端である。
(徳山毛利文書)

671 :人間七七四年:2014/11/04(火) 20:06:18.77 ID:z2adc2m8.net
↑呼んでマジ驚いた。義昭といえば信長包囲網で余りにも有名だが、
秀吉包囲網まで画策していたとは・・・

ここまでくると義昭は包囲網自体のマニアだったんじゃないかと思ってしまう。
成功したことはないがwww

672 :人間七七四年:2014/11/04(火) 20:37:38.13 ID:BpqYr5iP.net
>>671
当時貴重だった十八史略でも読んでいたのでは?

673 :人間七七四年:2014/11/04(火) 20:45:29.79 ID:z2adc2m8.net
>>672
そうかも知れない
ただ義昭の場合、計画は壮大だがただその対象を包囲してる連中全部に書状を送ってるだけなんだよな。
彼等各々だってお互いに利害関係があるし、一枚岩になりっこないのに
「将軍(元将軍)の俺が命令する通りに全部上手く動く」と考えてるというか。

ある意味歴史ゲームみたいな感覚でやっていたんじゃないかwww

674 :人間七七四年:2014/11/04(火) 21:25:17.02 ID:z2adc2m8.net
>長久手の戦いの後、佐々成政は越路の雪を踏み分けて
>はるばる浜松までやってきた。世にいう『さらさら越』である。
>成政が徳川家康と面会したところ、家康は成政を丁重にもてなした。

>「この度は信雄様をお援け頂き感謝にたえません。
>これからもどうか織田家興隆のためにお力添えをお願いいたします。」

>「よくぞ深冬風雪をかえりみずに参られましたな。私は秀吉と遺恨が
>あったわけではありませんが、信雄殿の窮状を見て忍びなく、
>また亡き織田殿との旧好を忘れられなかったので、およばずながら
>お援けした次第です。

>しかし、信雄殿は秀吉と和議を結んだそうですから、私の信義も
>詮なきこととなりました。ですが、成政殿が主のために義兵を起こす
>おつもりであれば私も援兵を送りましょう。」

>成政は家康の言葉に感謝した。その後、会話の中で成政は、
>家康を武田信玄、自らを上杉謙信に例えて、己の自負を語ったという。

>次に成政は織田信雄とも面会した。成政は信雄に上洛を勧めたが、
>信雄は秀吉と和議を結んだことを理由に勧めを拒否した。
>とうとう、どうしようもなくなった成政は後に秀吉に降伏した。

>家康は成政が訪ねてきた時、高力正長に「佐々は人傑である。
>あのような者とは知人になって、その様を見習うがよい。」と言い、
>成政を評価した。

>しかし、老臣の酒井忠次は成政の自負に不快感をあらわにし、
>「あのような者に御加勢は無用でありましょう。あの者は
>大剛の士なれば、その勇気に任せて失言するのも道理である。
>関わらないほうがよろしい。」と批判した。

675 :人間七七四年:2014/11/04(火) 21:31:07.75 ID:z2adc2m8.net
↑を読んで思ったこと、家康って意外と人を見る目が無かったのかな。
それともあの難儀なアルプス超え(出発した半分以上が死んだらしい)をして会いに来てくれたことに
感激&気骨があると思って目が曇ってしまったのかな。

佐々成政ごときが自らを信玄や謙信に例えるという時点で
過大評価が甚だしいと思うのだが

結局酒井のほうが正しかった

676 :人間七七四年:2014/11/04(火) 22:40:01.61 ID:4VDKY54/.net
>三河一向一揆の時、小豆坂の戦いの際に、徳川家康の家臣・大見藤六はその前夜まで
>家康の側にいて、明日の軍議を盗み聞きして一揆側に走った。

>これに気づいた家康は近臣たちに言った。
>「明日は大変なことになった。藤六はきっと我らの計略を賊徒に知らせたに違いない。
>お前たち、明日はよくよく戦に励むのだ! もし私が討死したならば、藤六の首を
>切って私に手向けよ。これぞ二世までの忠功である!」

>翌日、藤六と石川新七の二人が真先に攻め寄せてきた。これを水野忠重と水野太郎作正重が
>迎え撃ち、新七は忠重に討たれ、藤六には正重が「お前は逃がさぬ!」と立ち向かった。

>藤六は弓を引いて「小僧め、よらば一矢で射抜いてやるぞ!」とかまえたところ、
>流れ矢が腕に当たり、太刀を抜こうとしたところを槍で突かれてしまった。

>しかし札の堅さのため致命傷にはならず、藤六は刀を抜き放つがこれも致命傷には
>ならなかった。そして正重も抜刀し、切り合いになったが、ついに藤六は切り倒された。
>藤六は「小僧め…無念なり」と念仏を唱えだしたところを正重に首を切り落とされた。
>二人の死によって一揆勢は敗走した。

>さて、正重は討ち取った藤六の首を家康に捧げたところ、家康は大いに正重を誉めた。
>「おう、汝が藤六を討ったか! よくやった、汝が一代の忠功である!」

677 :人間七七四年:2014/11/04(火) 22:44:11.33 ID:4VDKY54/.net
↑を読んで思ったこと。
家康の危機としては三方ヶ原の合戦や伊賀超えがよく語られるが、
ある意味三河の一向一揆が一番の危機だったのではないか。
何よりも世間一般では一枚岩、忠義の塊のように思われている三河武士から
こう多数の謀反ものが出たというのが衝撃的。

678 :人間七七四年:2014/11/04(火) 22:46:26.85 ID:4VDKY54/.net
>ある時、徳川家康が茶道具の管理者を呼び出し、
>「茶杓を持ってまいれ」と命じた。家康は管理者が持ってきた茶杓のうち、

>瀬田正忠が創った茶杓6、7本を取り出すと、それらひとつひとつを
>折って「捨てておけ」と命じた。

>この不可解な行動は、ちょうどその頃、正忠が豊臣家の内意を受けて
>蒲生氏郷を殺したとの噂があったので、正忠をひどく憎んでの行動では
>ないかと人々の間で囁かれたという。

>家康、正忠を憎む、という話。しかし、本当のところは不明。

679 :人間七七四年:2014/11/04(火) 23:21:57.94 ID:4VDKY54/.net
↑の話、家康は正忠を憎んだというより、用心深かったんだろうね。
面白いことに、その毒殺されたという説のある蒲生氏郷も
伊達政宗に茶会に招かれた時
毒殺を用心して茶会の後すぐに飲んだ茶を薬を使って吐き出したことがある

680 :人間七七四年:2014/11/04(火) 23:25:19.28 ID:4VDKY54/.net
>関ヶ原の戦いの時、徳川の家臣・米津清右衛門正勝は敵の首を取って
>きて小栗又一忠政に向かい「やあやあ又一よ。俺はもう名を上げたぞ」
>と自慢した。

>実はこの二人かねてより仲が悪かった。又一は「貴様がしらみ首を
>取るならば、俺は兜首を取ってみせるわ!」と言い返して先陣へ馳せた。

>正勝はさっそく首を主の家康に見せたが「使番の仕事は先手の様子を
>早く本陣に伝えることであろう。首の一つや二つが一体何の役に立つと
>いうのか!」と叱られてしまった。

>さて、一方の又一は宣言通り兜首を取ってきて正勝に向かい
>「ほれ見ろ。お前にできることが俺にできないわけないだろ」と言うと、
>首をその辺の谷川に捨ててしまった。

681 :人間七七四年:2014/11/04(火) 23:29:32.55 ID:4VDKY54/.net
↑は正直意味が解らない
家康も正勝も小栗が首を取ったことを信用しなかったということか?
それともこの天下分け目の最中に、そんなことで浮かれるな、という戒めか?

682 :人間七七四年:2014/11/05(水) 00:06:59.37 ID:sS+dOqAO.net
>天正3年(1575)5月20日付、武田勝頼が長篠より出した、三浦員久(かずひさ)宛の返書

>『あなたの心配はありがたいが、全て我々の思い通りに行っているので安心してほしい。

>長篠城に取り詰めた所、織田信長と徳川家康が後詰に出張してきたので対陣したが、
>敵は戦術を失敗して一段と逼迫しているように見えたので、我々は無二に敵陣に乗りかかり、
>信長・家康の双方とも我々の意のままに討ち崩した。

>なお、そちらも城の用心を、念を入れて行うのが重要である。』


>翌21日、あの「長篠の戦い」が起こり、武田軍は壊乱する。


>武田勝頼がこの書状に事実を書いたのだとしたら、勝頼は織田徳川連合軍の「戦略的撤退」に
>引っかかったのではないか、と言われる書状である。

683 :人間七七四年:2014/11/05(水) 00:11:26.35 ID:sS+dOqAO.net
↑の「我々は無二に敵陣に乗りかかり、信長・家康の双方とも我々の意のままに討ち崩した。 」
という部分がよくわからない。前哨戦みたいなものが有ったということか?
有ったとして、それは信長・家康のわざと負けて撤退し、相手の本体をおびき寄せる罠だったということか?

684 :人間七七四年:2014/11/05(水) 00:47:10.62 ID:sS+dOqAO.net
>酒井忠次の娘は見目麗しいと評判であった。
>その娘を牧野康成が妻にしたがっているという話を聞いた忠次であったが
>「右馬允は元来大胆な男だから、機に乗じて謀叛の志を抱くやもしれぬ。
>そのような穏やかならぬ者に、最愛の娘をやることはできぬ!」
>とまったく娘を嫁に出す気はなかった。

>しかし、家康に「牧野が如き才幹ある者にお前の娘を嫁がせれば、
>後々になって家臣とした時に、少しは力になるかもしれんぞ?」
>と諭されると、忠次も心を決めて娘を嫁がせたという。

685 :人間七七四年:2014/11/05(水) 00:50:39.68 ID:sS+dOqAO.net
佐々成正の件といい信康切腹の一因となった信長への報告(捏造の可能性も高いが)といい
家康と忠次はどうも相性が悪いイメージが有ったから>>684の話は意外だった

686 :人間七七四年:2014/11/05(水) 01:42:39.74 ID:sS+dOqAO.net
>天文21年(1552)9月、武田信玄は小笠原軍の籠る信州中塔城を攻めた。
>この時、武田軍の南の口の大将は、小笠原長時を裏切り武田に寝返った三村十兵衛であった。

>さて、中塔城の東の尾根では、そこの郭を守る小笠原方の武将、二木善右衛門が、実に見事な黒い馬に乗っていた。
>これを見た攻め手の武田軍・飯富虎昌の手のものが声をかける
>「その馬は実に良い馬だな!わしに売ってはくれないか!?」
>これを聞いた善右衛門、相手が敵方にもかかわらず 「よし、売ろう。」と答えた。
>これを聞いて武田方のこの者
>「敵味方であっても商いはある!互いに一人ずつ出して、馬と代金の受け渡しをしよう!」
>すると善右衛門
>「いかにも売ろう!しかし拙者は金銀には望みがない。代わりの物をお前が取ってきてくれたなら、これを売ろう!」

>「代わりのもの?それは武具か?馬具か?太刀か?やはり籠城しているのだから兵糧か!?
>なんでもいい、望み次第に持ってこよう!」
>「そちが言うようなものではない!私がほしいのは…」と、善右衛門
>「武田晴信と三村入道(十兵衛)の首だ!!その二つをくれるのなら、この馬など安いものだ!」
>これを聞いた武田方の者たちは皆驚き呆れ、怒った
>「おい!それは我々への悪口であるぞ!」
>「少しも悪口なものか!前の諏訪峠の合戦は、本来は我々小笠原軍の勝ちであった!それなのに三村入道が裏切ったために負けた。
>この遺恨によって三村の首を馬の代物として取り、また晴信の首さえ取れば、馬がなくても楽々と
>在所に帰れるというものだ!であるから、この2つの首をくれれば、馬を売ろう。」

>武田軍はこの言葉に激怒し、二木善右衛門に向かって矢を射かけた。そこからここでの戦が始まった。
>信州中塔城、馬売り問答である
(二木家記)

687 :人間七七四年:2014/11/05(水) 01:46:40.75 ID:sS+dOqAO.net
↑の話、最初のうちはちょっといい話かと思ったけど
「いかにも売ろう!しかし拙者は金銀には望みがない。代わりの物をお前が取ってきてくれたなら、これを売ろう!」
の所でオチがわかっちゃったw

こういう話結構あるね

688 :人間七七四年:2014/11/05(水) 07:15:19.21 ID:QxUDeo7k.net
>大蔵氏嫡流で筑前西部(現在の福岡市西区・糸島市)を治めていた原田信種は秀吉の九州討伐軍に降伏した。

>信種は久留米の高良山にある秀吉本陣にて拝謁し許しを請うのであった。
>そのとき本領をありのまま申告するより少ない方が見逃してもらえると考え、その所領を過少に報告したのだった。
>しかし秀吉が下した判断は
>「小身にては家を立てること無用」
>とのことで所領没収の憂き目にあったのだった。
>そして秀吉の命で佐々成政の与力として熊本へ赴くのであった。

689 :人間七七四年:2014/11/05(水) 07:19:48.19 ID:QxUDeo7k.net
↑を読んで思った。今時々起っている不祥事、当時からあったんだなあ。
もっともその佐々成政がじきに切腹に処せられるわけですが。
彼を信頼しておらず処刑したかった秀吉が
わざと彼を治めにくい肥後に配したとも言われるし

690 :人間七七四年:2014/11/05(水) 07:22:42.46 ID:QxUDeo7k.net
>甲斐国、向嶽寺(現山梨県塩山市)において、代々の住持が書き継いできた『塩山向嶽禅庵小年代記』より、
>天文10年(1541)の、武田晴信(信玄)による、父・武田信虎追放についての記事


>『武田信虎は平生より悪逆無道であった。そのため国中の人民、牛馬、畜類どもに至るまで大いに愁い、
>悩んでいた。しかし駿河の太守である今川義元が信虎の娘を娶ったため、信虎は6月中旬に駿府に行ったので、
>晴信は万民の愁いを救おうとして、足軽を河内(甲斐南部、駿河との国境)境に出し父の帰り道を断って、
>自分が即位し国を保った。

>国中の人民はこれを知ると、尽く快楽の笑みを含んだ。』


>これによるとなんと武田信虎、人間どころか牛馬を始めとした甲斐の動物たちまで困り果てるほどの悪政を
>行なっていたらしいのだ。一体どれほどの悪逆無道だったのだろうか?w

>そんな、武田信虎追放に関する記録の一つである。

691 :人間七七四年:2014/11/05(水) 08:00:25.68 ID:QxUDeo7k.net
↑は「打倒した前の統治者を悪く書く」の典型だろうな。
中国史なんかだと日常茶飯事に行われてきたこと。
殷の桀紂が物凄く酷く描かれているように
(実際に悪政は引いてはいただろうが、かなり誇張されてるはず。信虎も同様)

692 :人間七七四年:2014/11/05(水) 08:02:48.16 ID:QxUDeo7k.net
>慶長の役で戦死した原田信種の嫡男嘉種は父の肥後熊本の所領を相続した。
>しかし嘉種は名門大蔵一族の嫡流を誇りとし、主君の加藤清正が相手でも素直に従わない困り者であったのだ。

>清正の娘がある大名に嫁ぐ事になった時、清正は嘉種の母が故事に明るいと聞き、
>乳母として娘に付き従っていくよう命じた。しかし嘉種母子はこの命令を断ってしまった。
>流石の清正は嘉種のこの行動に怒り、その後は嘉種を冷遇、ついには召し上げ追放してしまったのだった。

>流浪の身となった嘉種は旧知の唐津藩主寺沢氏の下に行くが寺沢家が改易、
>その後は流れに流れ最終的には会津藩保科正之に2千石で使えることになるのである。

693 :人間七七四年:2014/11/05(水) 08:07:06.23 ID:QxUDeo7k.net
まあ珍しい例だが、春日局みたいに乳母が権力持つことだってあるのに。
そこまでいかなくても清正の命に従って関係を強化しておいたほうがいいのに。
プライドなんて捨てて。と>>692の話を読んで思いました。

694 :人間七七四年:2014/11/05(水) 08:49:47.09 ID:QxUDeo7k.net
>1590年徳川家康の後継者に最も近いとされる三男竹千代が元服することになった
>この時元服にあたり諱を兄秀康に習い秀吉と家康の字をもらう事で秀家としてはどうかという案が出た
>しかしすでに秀家を名乗る者はいる宇喜多秀家である
>このためは銀子三百枚で秀家の名を譲ってもらってはどうかと言う案も出され
>石田三成が宇喜多秀家に交渉を試みた

>しかし秀家は憤慨し交渉は失敗
>しかも三成と秀家の仲も一時悪くなり三成は以後大谷吉継に秀家に対しての諸事を相談してから応るようになったという

>そして徳川秀家は実現せず家康三男竹千代は元服後父祖伝来の忠の字を継ぎ徳川秀忠となったとさ

695 :人間七七四年:2014/11/05(水) 08:54:31.03 ID:QxUDeo7k.net
↑を読んで思ったこと。関係ない他家の人と同じ名を名乗るには
その既に名を使っている人の許可を取るのが必要だったのか?
それとも勝手に名乗ればいいものを、三成がわざわざ奔走したのか。

いずれにせよ三成は良かれと思って余計なことしてトラブルを作るタイプに思える

696 :人間七七四年:2014/11/05(水) 17:31:56.83 ID:iZXyVGqG.net
>信玄の信長へのお手紙

>永禄12年 1569年

>「信玄事者、只今憑信長外又無味方候。此時聊も於信長御疎略者、信玄滅亡無疑候」
>(信玄には信長以外に味方いません。信長を粗略に扱えば、信玄が滅亡するのは確実です)

>駿河侵攻をきっかけとして、上杉・北条・徳川を同時に敵に回して窮した際、信玄が信長に上杉との和睦斡旋を求めた時の書状。

>元亀2年 1571年

>「縱扶桑国過半属手裏候共、以何宿意、信長ヘ可存疎意候哉」
>(たとえ日本の過半を支配するような事があっても、信長に敵意は持たないし粗略にもしない)

>甲越和与成立して信玄は危機を脱したが、結局は破綻し北条との甲相同盟が武田の方針となった時期の信長への手紙。

697 :人間七七四年:2014/11/05(水) 17:36:00.13 ID:iZXyVGqG.net
信長が一方的に信玄に気を使った手紙を出してるようによく言われるが↑を見ると
信玄も信長に気を使った手紙出してるんだな。
もっとも後に信長包囲網の時は明らかに信長に敵意持って侵略を開始したわけだが。
敵味方なんてのは時間が立てば変わるし、外交は駆け引きといういい例だね。

698 :人間七七四年:2014/11/05(水) 17:37:51.97 ID:iZXyVGqG.net
>徳川家を攻めようとした今川氏真は武田信玄に
>「このようにして徳川を攻めます」と伝えてきた。その計略の稚拙さに信玄は

>内心「馬鹿な奴だ」と思いながらも「心配なさるな」などと調子を合わせていた。
>その一方で徳川家には下條弾正をして氏真とのやりとりをつぶさに伝え、

>「何も心配することはありません。もし氏真が出馬したならば、一緒になって
>滅ぼしてやりましょう」と言った。この時、家康は「信玄は残酷な人物だな。
>しかし今川を倒すためならば是非も無い」と言ったという。

>氏真の逃亡後、徳川と武田の間に和議があり、誓紙の文に「川を両国の境界とする」
>と書き定められた。これは大井川のことであったが、信玄は家康を若輩者と侮って
>今川義元が扱ったごとく家康を扱ってやろうと思っていた。

>ある時、突然武田家が徳川側の里民の人質を取ったので
>徳川家が抗議すると、武田家は「誓紙の川切とは天竜川切という意味だ」と答えた。

>これを聞いた家康は「天竜川は我々にとって城溝のようなものではないか!
>何が天竜切だ。こんな嘘偽りばかりの輩に我らの行末を頼むわけにはいかん!」
>と激怒し、遂には武田家との隣好を絶つことになった。

699 :人間七七四年:2014/11/05(水) 18:13:38.27 ID:iZXyVGqG.net
↑を読んで思った。この頃か完全に信玄のほうが狸オヤジ。
でも、こういうのをみて家康は老獪さを身につけていったんだな。
フィクションだが山岡や横山の『徳川家康』で信玄を人生の師匠の一人に挙げている。

700 :人間七七四年:2014/11/05(水) 18:15:29.15 ID:iZXyVGqG.net
>稗貫広忠の末期
>陸奥国稗貫郡の領主稗貫広忠は、奥羽仕置によりその領地を没収され、その後の再興運動も実を結ばず、
>没落して稗貫郡矢沢村に潜居していた。
>ある時、近所の高松寺の法印と四方山話をするついでに、広忠は法印に語った。

>「実はこの頃、良い夢を見るのだ。ひょっとしたら本領に帰参できるかもしれない」
>「それはよかったですね、どんな夢をご覧になったので?」
>その問いに、広忠は歌を詠んだ。

>ただ頼め 真如の道ぞ ありがたき 立ち帰るべき 道ぞ来にける

>法印はその時は祝福した。だが広忠が帰った後、
>「広忠様は悪い夢を見ておられる。遠からずお亡くなりになるだろう」
>その言葉通り、その日からまもなく稗貫広忠は亡くなった。
>文禄3年3月2日の事だという。

701 :人間七七四年:2014/11/05(水) 18:18:36.32 ID:iZXyVGqG.net
>>700の話、法印のやさしさなのか、それとも本当のこと言ったら斬られると思ったのか、
それによっていい話にも悪い話にもなる。
まあ改易されて潜居していた広忠を恐れる必要もないだろうから
前者かな?

702 :人間七七四年:2014/11/05(水) 20:28:10.22 ID:iZXyVGqG.net
>立花道雪の死後、長年対立関係のあった高橋紹運と秋月種実との間に和平を望む機運が高まり、
>種実の娘と紹運の二男(統増)を婚姻させようとの動きが出てきていた。
>そしてその動きは秋月種実の盟友筑紫広門を驚愕させる。
>筑紫広門は道雪の死後のどさくさにまぎれ、高橋家の宝満城を攻略していたのだった。
>もし秋月と高橋・立花が結び筑紫に攻めてくれば当家の命運は尽きる・・・

>居城勝尾城に重臣を集め方策を練ったが、これと言った意見が出てこない。
>そんな中、一族の筑紫六左衛門より
>「当家が高橋家と婚姻をむすぶしかありません。姫を私にお預けください。
>姫とともに岩屋城に参り紹運公に姫と統増どのの縁組を直訴してまいります。
>紹運公は情け深きお方とのこと、こちらが真心を持って誠心誠意懇願すればあるいは・・・
>もし紹運公に承認いただけない時にはその場で姫を刺し、私も腹を切ります。」
>広門もこの六左衛門の気迫を見て賛成するのだった。
(続く)

703 :人間七七四年:2014/11/05(水) 20:31:02.24 ID:iZXyVGqG.net
>岩屋城の高橋紹運、敵対している筑紫広門の娘が訪ねてきたとの知らせに訝りながらも目通りする。
>「筑紫上野介の娘かねでございます。不躾ながらお願いの儀があり参上いたしました。
>女子の口からお恥ずかしいことですが・・・・・」
>と言って目を伏せてうつむいてします。その後を六左衛門が続けた。
>統増とかね姫の婚姻による和平の提案、突然の押しかけ女房の提案に困惑する紹運。
>六左衛門は
>「ご当惑はごもっともと思います。しかし我が筑紫も滅亡の危機にあるのです。
>もしこの件どうしてもお許しいただけないようならば、庭先をお借りし切腹を致します。」

>六左衛門の熱意に押されたか紹運も婚姻を承諾、15歳の統増もとに17歳のかね姫が輿入れしたのである。
>その後の2人は九州征伐時に島津軍に夫婦そろって拉致られ薩摩祁答院での軟禁生活を夫婦で乗りきることになる。

>で、なぜ悪い話かと言えばその後広門が島津軍に宝満城の秘密を洩らしたため離縁することになったから。

704 :人間七七四年:2014/11/05(水) 20:35:20.95 ID:iZXyVGqG.net
戦国の世、夫婦といえども心を許せないということもあるということか>>702-703
恐ろしや。
信長と濃姫にもそういう話があったな。

705 :人間七七四年:2014/11/05(水) 21:01:41.15 ID:FXmkZyCc.net
立花家を継いだ忠茂はかね姫の子みたいだから
結局離縁しなかったか復縁したみたいだけどね

706 :人間七七四年:2014/11/05(水) 21:10:52.89 ID:iZXyVGqG.net
>>705
え、そうだったの?
そんな大事な秘密漏らされて復縁したなんて・・・

707 :人間七七四年:2014/11/05(水) 21:16:09.11 ID:iZXyVGqG.net
>元亀三年(1572)、いわゆる信長包囲網の中、武田信玄の西上が始まり窮地に陥った頃の織田信長が、
>上杉謙信に宛てた書状

>『先に使者を遣わして申し上げた所、すぐに御入眼され、さまざまな御懇慮を頂いたこと、少なからず
>我が本懐であります。そしてそちらから大鷹5羽を送っていただいたこと、私にこの様に御心をかけて頂いたのは、
>まさに前代未聞、当方に過ぎること至極な御扱いであり、これらの鷹は、別して今までにないほど寵愛いたします。
>(前代未聞過当至極候、別而寵愛無他候)

>右の内容を(謙信に)お取りなしして下さい。恐々謹言


                       >信長(花押)
>(元亀三年)十一月七日
   >直江大和守(景綱)殿


>追って申し入れます。仰せくださった御誓談の数々、かたじけない次第であります。
>特に、そちらの御養子に我が愚息を召しおきたいとのこと、これは私にとって面目の至りであります。
>(殊為御養子愚息可被召置旨、是面目之至候)

>これはいつ頃、そちらに送り出すべきでしょうか?今後我らに対しどうぞ御指南をしてやって下さい。
>これらの趣旨を(謙信に)ご披露頂ければ本望です。恐々謹言


                       >信長(花押)
>(元亀三年)十一月七日
   >直江大和守(景綱)殿

(上杉古文書)

708 :人間七七四年:2014/11/05(水) 21:22:01.02 ID:iZXyVGqG.net
>>707に関して
上にある信玄に対する手紙(>>696)に比べて非常に下手に出た書き方。
この頃のほうが信玄に対する時よりも信長の勢力も強大になっているはずなのに。
どうも信長は謙信に対しては生理的に恐れを抱いていたような気がする。
俗人である信長にとって同じく俗人である信玄よりも
色々な意味でこの世の論理では理解できない人物である謙信は
得体のしれない不気味な存在だったのではないか?

709 :人間七七四年:2014/11/05(水) 22:14:58.26 ID:cBMqs19D.net
>フロイスの秀吉評

>彼は美濃国の出で、貧しい百姓のせがれとして生まれた。
>若い頃には山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた。
>彼は今なお、その当時のことを秘密にしておくことができず、極貧の際には古い蓆(むしろ)以外に身を覆うものはなかったと
>述懐しているほどである。
>だが勇敢で策略に長けていた。

>ついでそうした卑しい仕事をやめて、戦士として奉公し始め、徐々に出世して美濃国主から注目され、戦争の際に挙用されるに至った。
>信長は美濃国を征服し終えると、秀吉が優れた兵士であり騎士であることを認め、その俸禄を増し、彼の政庁における評判も高まった。
>しかし彼は元来、下賎の生まれであったから、主だった武将たちと騎行する際には馬から下り、他の貴族たちは馬上に留まるを常とした。

>彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には六本の指があった。
>目がとび出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった。
>男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき策略家であった。

>彼は自らの権力が順調に増していくにつれ、それとは比べ物にならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった。
>家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者はいないほどであった。
>彼はいかなる助言も道理も受け付けようとはせず、万事を自らの考えで決定し、誰一人、あえて彼の意に逆らうが如き事を一言として
>述べる者はいなかった。
(続く)

710 :人間七七四年:2014/11/05(水) 22:16:46.85 ID:cBMqs19D.net
>彼はこの上もなく恩知らずであり、自分に対する人々のあらゆる奉仕に目をつぶり、このようなことで最大の功績者を追放したり、
>恥辱をもって報いるのが常であった。

>彼は尋常ならぬ野心家であり、その野望が諸悪の根源となって、彼を残酷で嫉妬深く不誠実な人物、欺瞞者、虚言者、
>横着者たらしめたのである。
>彼は日々、数々の不義、横暴をほしいままにし、万人を驚愕せしめた。

>彼は本心を明かさず、偽るのが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。

>齢すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行において極めて放縦に振る舞い、野望と肉欲が彼から正常な判断力を奪い取ったかに見えた。
>この極悪の欲情は彼においては止まることを知らず、その全身を支配していた。
>彼は政庁内に大身たちの若い娘たちを三百名も留めているのみならず、訪れていく種々の城に別の多数の娘たちを置いていた。
>彼がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的のひとつとしていたのは、見目麗しい乙女を探しだすことであった。
>彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者はなく、彼は国主や君侯、貴族、平民の娘たちを、なんら恥じることも恐れることもなく、
>その親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で、収奪した。
>彼は尊大な性格であったから、自らのこれらの悪癖が度を過ぎることについても、全く盲目であった。
>彼は自分の行為がいかに卑しく不正で卑劣であるかに全然気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し
>命令するままに振舞って自ら楽しんでいた。

711 :人間七七四年:2014/11/05(水) 22:22:40.58 ID:cBMqs19D.net
>>709-710のフロイスの秀吉評はいい所と悪い所を混ぜて伝えているが
全般的に秀吉が宣教師追放をしたためか、悪意に満ちている感じがする。
そもそも
「彼はいかなる助言も道理も受け付けようとはせず、万事を自らの考えで決定し、
誰一人、あえて彼の意に逆らうが如き事を一言として述べる者はいなかった」
というのが大嘘じゃん。
秀吉は家臣の助言に耳を貸すほうだったぞ。晩年に耄碌するまでは。

712 :人間七七四年:2014/11/05(水) 23:10:02.69 ID:cBMqs19D.net
>ある時、曾根内匠が内藤昌豊に武田家がいかにすごいかを語ったことがあった。

>「村上義清は信濃五郡の主で、当家は甲斐四郡とまことに小郡でした。しかも村上は
>当家より人数も多かった。にもかかわらず何度も戦に負けてついには国を捨てて越後に
>逃げていきました。

>諏訪頼茂、小笠原長時、木曾義昌、上杉憲政らと幾度も戦いましたがいつも当家の旗風に
>靡きました。北条氏康、上杉謙信とも何度も戦いましたが、当家の戦いぶりは凄まじく、
>今や関東で当家の太刀風に並ぶ者はいません。まさに日本無双というべきです」

>これを聞いていた昌豊は呆れてこう言った。

>「あなたは本当に幼いことを言う人だ。いま中国には毛利元就という大将がいる。
>その人物ははじめ七百貫より起こり、八ヶ国持ちの大内義隆、七ヶ国持ちの尼子晴久、
>五ヶ国の主である大友義鎮と何度も戦って打ち勝ったのだ。村上諏訪小笠原と戦って勝つ
>よりも遥かに勝っているではないか。

>しかし案ずることはない。世間では当家の武勇ほど毛利の武辺は話題になっていないぞ。

>国がどれだけ広くとも、どれだけ多くとも、戦の勝敗は志ひとつで決まるものだ。
>村上の五郡は大内の八ヶ国には及ばずとも、戦士の数は八ヶ国よりも多かった。

>当家の四郡は毛利の十三ヶ国に比べれば大海の一滴にすぎないが、死を惜しまぬ士は
>十三ヶ国よりも盛んだ。つまり、当家は毛利よりも上に立っているのだ」

713 :人間七七四年:2014/11/06(木) 18:27:07.62 ID:WRNm3a5p.net
>>712を見て思った、高校野球に代表される精神論・根性論は日本の伝統なのだな

714 :人間七七四年:2014/11/06(木) 18:30:28.31 ID:WRNm3a5p.net
>最上家臣・松根家に伝わる話。
>あるとき、松根家の者が山形城下を歩いていた。するととある家の周りに幽霊がいる。
>「うらめしやー…うらめしやー…」
>そこで松根がこう訪ねた。
>「おい、おめさ、何してんだか?」
>「いやあ、この家の奴に仇討ちしたいのだけどお札を貼ってあるからできなくてな、成仏できんのだ」
>「んだか(ピッ)」
>親切な松根は札を剥がしてやった。
>「かたじけない!」
>幽霊は早速家に飛び込むと、家の中からすさまじい悲鳴が聞こえてくる。
>しばらくすると幽霊は生首を持って出てきた。
>「これでわしは成仏できる。ところでこの生首を葬っておいてくれんか?」
>「んだか」
>松根は幽霊から生首を受け取ると竹林に丁寧に葬った。これ以来、松根家は生首を旗印に描くようになり「松根の生首」として有名になったという。
>幽霊にとってはちょっといいが、お札を剥がされた家の者にとってはかなり悪い話である。

715 :人間七七四年:2014/11/06(木) 18:32:22.13 ID:WRNm3a5p.net
↑の話、幽霊はフィクションだろう。
というか『牡丹燈篭』がかなり元ネタとして入ってるんじゃないのか?

716 :人間七七四年:2014/11/06(木) 19:16:02.61 ID:WRNm3a5p.net
>耳川の戦いの後、筑後の国人たちは大友を見限り竜造寺・秋月勢に寝返るものが続出した。
>そんな中、数少ない大友方に残っていた問註所統景より一族の問註所鑑景との戦いにさいし大友家に援軍要請が入る。

>筑後回復の機は今とばかり宗麟次男・三男の田原親家・親盛を大将副将に約7千の軍勢で筑後になだれ込んだ。
>が、初戦の猫尾城攻略から苦戦、黒木氏の猫尾城には竜造寺からの鉄砲隊が援軍として入場しており、城方の反撃悩まされていた。
>豊後勢は耳川で歴戦の武将の多くが戦死しており、若い武将ばかりなのも苦戦に拍車をかけていたのだった。

>城攻め1ヶ月で業を煮やした大友軍は立花道雪・高橋紹運に出陣を要請、形勢は一気に逆転する。
>両将は筑前より一直線に猫尾城へ進軍、立ちふさがる竜造寺・秋月連合軍を片っ端から蹴散らすのであった。
>竜造寺からの増援軍も激戦の末に破り(この激戦で道雪の弟戸次次右衛門など戦死)、即猫尾城攻略に取りかかる。
>そしてこの猫尾城もすぐに落城。城主黒木家永は13歳の娘に介錯され自害している。
>その後も山下・谷川・辺春・兼松・鷹尾などいくつもの城を攻略。
>そんな中、竜造寺もさらなる援軍を繰り出し柳川城で戦線は膠着するのだった。

>そんな柳川での対陣中、いきなり田原親家・親盛兄弟が撤退してしまう。その理由は
>「自分たちがどんだけ頑張っても手柄は道雪・紹運コンビのものになってしまうのでツマラナイ」
>と言うものであった。そのまま豊後まで引き上げる田原勢。
>さすがの道雪も
>「豊後もここまで落ちぶれたか・・・」
>と嘆くのであった。

717 :人間七七四年:2014/11/06(木) 19:18:46.31 ID:WRNm3a5p.net
>>716を読んで素朴な感想。
武士だって商売でやっているようなもんなんだから・・・
道雪はそういう連中を引き留めるいい手は打てなかったものか?

718 :人間七七四年:2014/11/06(木) 20:31:30.89 ID:WRNm3a5p.net
>ある日、牧野康成の下に刀を売ろうする商人がやって来た。

>康成はじっくり観察すると
>「素晴らしい。これは良く切れそうな刀だ」
>どうやらその刀は業物であったため、これを購入した。

>その後、家康が家中の名刀の切れ味を試すために試し切りを行った。
>康成も件の刀で試し切りに参加することになった。

>そして刀を購入した経緯を説明し、いよいよ試し切りを行うことになった。
>自らの眼で業物と判断しただけに、もしここで切れなければ恥をかくことになる。

>緊張の余り康成はしばし目を閉じた。

>「私の目利きの通りに切れてくれよ」
>と念じ、刀を下ろした。

>果たして試し切りは成功した。土壇まで切入り、斜めの様子でもない。
>康成の喜ぶ様子を見た家康は大いに笑い、その刀を「目眠刀」と名付けるよう命じた。
>康成が目を閉じた姿が眠っているように見えたためであろう。
>この刀は代々家宝とされた。

>なお、この刀は保昌五郎貞吉の作である。

719 :人間七七四年:2014/11/06(木) 20:34:21.35 ID:WRNm3a5p.net
↑の話は家康のユーモアセンスを表していると思う。
一般的に秀吉=明るいひょうきんもの、家康=堅物のイメージが定着しているが
実際には家康もひょうきんものだったと思う。
家康とその家臣団は笑いの絶えない集団だったのではないか?

720 :人間七七四年:2014/11/06(木) 20:39:48.13 ID:d+kKxIr5.net
>>717
高良台に一旦引いた後、反撃に来た2万の龍造寺軍を、残った1万だけで
返り討ちにしてるのは流石だけどね

721 :人間七七四年:2014/11/06(木) 21:16:44.51 ID:WRNm3a5p.net
>>720
もちろん道雪の戦の能力を疑問視する気は全くないさ
>>717も自分が優れているだけに
並みの武士にも自分と同じものを期待してしまったんだろうし
天才スポーツプレイヤーが指導者になった時に陥りがちなことと同じだね

722 :人間七七四年:2014/11/06(木) 21:19:43.81 ID:WRNm3a5p.net
>明智光秀の元に小西万兵衛という十八、九ほどの武士が高禄で士官を願い出、抱えられた。
>家中の者はこれを聞き「なんとも図々しい奴だ。若僧になにができる。
>あのような者を高禄で抱えるとは殿も大人気ないことよ」とつぶやいた。
>〜中略〜
>その後の天正三年、丹波のほづつの城の城主、赤井悪右衛門(直正)との合戦の際、
>明智殿は夜中陣を巡視された所、この万兵衛と新参の武士が一緒の小屋で前後不覚に
>眠り込んでいるのを見かけた。そこで明智殿は忍び入り二人の刀、脇差を取って帰られた。

>二人は目を覚まして驚き合ったが、新参の武士が「夜が明ければこの評判は広まってしまうだろう、
>夜の明けぬうちに二人刺し違えて死のうではないか」と言った。
>万兵衛はこれを聞いて「死んだ所で何の価値もない、起きていて盗まれたなら大恥であろうが、
>眠っていたなら仕方がないことだ。わしは同意しかねる」と答えた。
>このため新参の武士も一人では死ぬこともできずにいた。

>ところが万兵衛は夜明けとともに、茜色の吹抜き指物を高い所に立て、
>その下で討ち死にを遂げた。これを見て敵も味方も、さても見事な振る舞いと感嘆したという。
>この件に関しては明智殿の失敗であったとの評判であった(この時の丹波攻略も失敗した)。
<武者物語より>

723 :人間七七四年:2014/11/06(木) 21:25:17.78 ID:WRNm3a5p.net
↑はイマイチ明智光秀の意図がわからないのだが、万兵衛と新参の武士を試したかったのか?
彼等が刀を取られそうになって目を覚ますか否か、いざ取られてしまったときどういう対応をするかということを。

724 :人間七七四年:2014/11/06(木) 23:19:04.52 ID:BkhwNS7q.net
>天正十年五月の晦日、光秀は「西国へ出陣する軍勢のいでたちを信長公にお見せしたい。」と
>表向き発表し総勢八千余騎の軍勢で夜半に丹波の亀山を出発した。
>どんどん道を進んでいくと、まだ夜中のうちに大江山まで着いた。
>ここで光秀は明智左馬助(秀満)・斎藤内蔵助(利三)などに向かって
>「この密事をすべて軍兵にも言い聞かせよう。」と言うと、皆「それがよろしいでしょう。」と答える。
>光秀は諸軍勢に向かって「私はとあるわけがあって信長を討ち果たそうと思っている!
>皆の者、これから本能寺に討ち入り一気に攻め破れ!
>私がこの大望を遂げたならば皆にも大国を宛てがおう。進め者ども!」と呼びかけた。
>兵達はこれを聞いて、皆勇み進んで洛中へと攻め寄せた。

>折りしもそのとき信長は本能寺で終夜多数の美女を集めて酒を飲み、歌を謡わせるなどして何の用心もしないでいたが
>「飲みすぎた。」と言って帳の中に入り、珊瑚の枕を押しやって美しい婦人の玉臂にすがり寝始めたので
>当番の者達も皆、帯剣を解いて寝入った。

>こうして六月朔日、東の空が明けてゆく頃、光秀は大江山を越えて桂川に臨んでいた。
>村井長春軒が召し使っていた者が、桂川のほとりで小役人などをしていたが
>光秀の兵が西国には下らず洛中へ行こうとしているのを不審に思って、急いで使者を遣わした。
>「光秀の軍兵たちは西国へは向かわず、洛中目指して討ち入ろうとしております。
>おそらく光秀は謀反を起こしたものと思われます。ご用心ください。」と注進したけれども
>これを聞いた者は「何を言うか!今さら誰がわが主君信長公に向かって弓を引くというのか。
>中でも光秀は世に類ない厚恩を受けている。他の者ならともかく光秀に限ってそんなことするはずがない。」と
>まったく聞き入れなかった。これが信長の運の尽きであった。
(続く)

725 :人間七七四年:2014/11/06(木) 23:21:07.45 ID:BkhwNS7q.net
>光秀の先駆けの勢は、卯の上刻(午前五時ごろ)に本能寺の門前に至った。
>「惟任は西国に出陣するいでたちを信長公にお見せするためにここまで参りました。
>上様にもこのことをお伝えください。門も開いてください。」と言うので門番たちは「それは喜ばしいことです。」と
>門を八の字に開いた。すると光秀の軍勢が一度にドドっと駆け込んだ。
>当番の者たちは「上様はまだ御殿に籠もっていらっしゃるというのに狼藉に及ぶのはいったい何者か!」と
>制したけれども兵たちは鬨の声をどっと上げる。
>森乱丸は勘のいい者だったためすぐ外に出てきて明智の軍勢を確認すると
>「皆の者!切って出て手が動く限り戦い、敵を追い払え!」と下知した。
>当番の者たちは鬨の声に飛び起きて帯を急いで身に回したけれども、太刀を取りそびれた者もいた。
>同じところで寝ていた者たちは一本の帯を「自分の帯だ!」「いやこれは誰々のだ!」などと論じ合って
>太刀なども同じように自分のものだと言い争い、奪い合う者もいた。
>また太刀を抜いて出てみると、後から鞘だけを持って追いかけてきたりする者もいて
>慌てふためいているところへ明智勢がここぞとばかりに攻め入り、散々に斬り付け、突き伏せていった。
>寺にいた兵たちは全く歯が立たず、皆向かってくる敵に走りかかっていって討ち死にした。

>信長は白綾の単衣を着て、髪を茶筅に結い、槍を提げて廊下へと走り出ると「せがれめか!せがれめか!」と叫んだ。
>その後、敵が思いもよらず攻め入ってきたせいで抵抗のしようがない思いと自害を決めたのだろう
>信長は部屋の中へ入ろうとしたが、そこを光秀の郎党、天野源右衛門(当時は安田作兵衛)が槍でしたたかに突いた。
>信長は深手を負ってしまったので、自害も思うようにできないとみるや、そのまま燃え盛る炎の中へと飛び込んだ。
>だが並河金右衛門が続いて炎の中へ飛び込み、中から信長を引きずり出すとついにその首を討ったのである。

>天野源右衛門がのちに語った本能寺の変の一部始終である。

726 :人間七七四年:2014/11/06(木) 23:24:39.64 ID:BkhwNS7q.net
↑つまり信長は最初信忠の謀反だと思ったわけね

727 :人間七七四年:2014/11/06(木) 23:57:50.06 ID:d+kKxIr5.net
唐津城に天野源右衛門の信長を刺したとされる槍が展示されてたな

728 :人間七七四年:2014/11/07(金) 00:03:37.25 ID:AA/Pkhpa.net
>>727
信長の死体って見つかってないはずなのに・・・と思ったが、
別に刺した=討ち取ったではないからおかしくはないよな。
>>725
>だが並河金右衛門が続いて炎の中へ飛び込み、中から信長を引きずり出すとついにその首を討ったのである。
はおかしいが。

729 :人間七七四年:2014/11/07(金) 00:05:44.57 ID:AA/Pkhpa.net
>大坂の役の後、徳川家康は二条城で御宿勘兵衛をよく知るという同郷の者を
>召して話を聞いた。その時、その者が勘兵衛のことだけでなく、国府台の戦いで
>名をあげたと口を滑らせたところ、

>「お前は永禄の年に生まれたと言ったが、国府台の戦いといえば、
>北条氏康は五十前後、氏政は二十六か七ほどの頃だったはず。お前はその頃、
>四歳か五歳だろう。どうして従軍できる?デタラメを申しおって、さっさと失せろ!」

>と、家康を激怒させてしまった。

>「あのような嘘吐きが家人にいては風紀が乱れる。きつく罰してやる」

>家康はそう言ったが、まもなく死去したのでその者が罰せられることはなかった。

730 :人間七七四年:2014/11/07(金) 00:08:53.40 ID:AA/Pkhpa.net
↑大坂冬の陣の後、約束を破って堀を全部埋めさせた大御所が何をおっしゃられるwww
若い頃の家康なら>>729のようなことがあっても笑って突っ込んだと思う。

731 :人間七七四年:2014/11/07(金) 00:47:13.01 ID:AA/Pkhpa.net
>豊臣秀吉が休戦期間を挟み再び朝鮮への出兵を命じた慶長の役において、巨済島沖に
>出没した300隻の朝鮮水軍と日本軍が激突した際、決戦前の軍議で藤堂高虎らが
>「まず偵察船を出して様子を探った上で、大船で攻撃すべし。」
>と主張したが、加藤嘉明は
>「いや、ここは中船であえて弱く見せて機を伺って攻勢に出るべきだ。」
>と提案したが、これが不採用になると
>「配下の乗った偵察船を連れ戻す。」
>という名目で味方の船団から離れ、そのまま一隻で敵に先制攻撃を仕掛けて、自ら敵船に飛び移る奮戦で
>多くの敵船を乗っ取った。軍勢の軍監だった奉行達からは
>「あの命知らずの働きを見よ。」
>と称えられ、抜け駆けの件でも咎めは受けなかったものの、後から戦いに参加した武将達からは
>大いに不満を抱かれたという。その後、奉行たちに手柄を報告する際にも高虎が、
>「儂の功績は皆の中でも随一である。」
>との言葉に嘉明は
>「貴殿は小舟を2、3隻捕えたまでの事。その点儂は大船を捕獲した。比較を絶しておる。」
>と反論。怒った高虎が刀を抜いても顔色一つ変えず、
>「周りの目を気にしてむやみに気張って見せるのは子供のする事ぞ。」
>と押しとどめ、
>「高虎とは器が違う。」
>と周囲に感嘆されたという。 
「武将感状記」

732 :人間七七四年:2014/11/07(金) 00:50:30.24 ID:AA/Pkhpa.net
↑を読むと藤堂高虎が子供に見えて仕方ない。
意外だった。高虎ってそんなキャラじゃないと思ってたから。
実話だろうか?

733 :人間七七四年:2014/11/07(金) 01:26:19.26 ID:AA/Pkhpa.net
>天正13年6月18日、四国征伐のため軍勢の派遣を進めていた羽柴秀吉が、小早川隆景に当てた書状

>『今度長宗我部元親から、阿波・讃岐を返上した上、実子を出し、大阪に人質として置いて私に対して
>奉公させたいと言って来ました。

>しかし、もはや人質など受け取れません。また、あなたがお望みだった伊予も返上に入っていませんので、
>是非にもおよびません。
>長宗我部からの人質は全て返し、伊予の国の一織はあなたに与えます。

>長宗我部が許しを請うて降服してきたら、彼には土佐一国のみをあてがうでしょう。

>謹言

>天正拾参
  >六月十八日               >秀吉(花押)

    >小早川左衛門佐殿

(小早川家文書)

734 :人間七七四年:2014/11/07(金) 01:32:29.54 ID:AA/Pkhpa.net
もう↑の時点でどうあがいても長宗我部は土佐一国だけの領有しか残された道は無かったわけだな。
戦う前から戦後処理を決めていた秀吉(絶対勝つ自信があったからだろうが)。

これがあの悪名高い大河『江』だと
この四国討伐に際して江にアドバイスを求め、それにしたがっているwww

735 :人間七七四年:2014/11/07(金) 07:12:02.02 ID:/RFmeOLM.net
>明智左馬助秀満は本能寺の焼跡から信長の屍を捜索していた。
>すると並河金右衛門が自ら討ち取った信長の首と白綾衣袖を持ってやってきた。
>秀満はすぐにこれを人目に触れないよう隠させた。
>金右衛門は「左馬助殿はそれがしの功を隠されようとなさるのか!」と怒った。
>秀満は金右衛門を諭して言った。
>「前右府殿(信長)はかつて甲斐征伐において勝頼公の首を罵詈されたが、今になって人々はこれを誹誇している。
>もし今、殿に前右府殿の首を御見せすれば恨み骨髄に達しているゆえ、必ず陵辱されるであろう。
>そうなると殿の汚名が末代まで残ってしまう事は必定だ。天命とは実に畏るべきものである。
>そなたの功はわしが後日必ず証を立ててやるゆえ、今は黙ってわしの言う事を聞いてもらいたい。」
>そして涙を流しながら頼み込んだ。
>金右衛門もその志に感じて秀満に托す事を了承し、秀満は僧西誉に命じて信長の遺骸を葬らせた。

>光秀は信長の屍がなかなか見つからないので斎藤(内蔵助)利三を遣わして秀満にこう伝言をさせた。
>「その方は先陣となっておるのに未だ前右府殿の生死の明証を得ていないとはどういう事だ!
>もし生き延びて逃げられていたならば既に我等は為す術が無くなってしまう。」
>これを聞いて秀満は真実を利三に告げた。
>利三も感じ入って、焼け焦げた白綾の衣を取って信長の死の証としたのである。

>ところで織田信長を討ち取った並河金右衛門だが、明智軍が山崎の合戦で敗れるとその素性を隠して
>後に加藤清正に仕え、江戸時代になってからも長生きていたそうである。

736 :人間七七四年:2014/11/07(金) 07:16:15.07 ID:/RFmeOLM.net
↑そもそも信長の死体って発見されてないんじゃないか。
だから並河金右衛門は光秀を納得させるために捏造したということなのか。
ちなみに光秀の死体に関しても諸説あるのが面白い。
だから光秀=天海なんて伝説もあるわけで。

737 :人間七七四年:2014/11/07(金) 07:17:57.63 ID:/RFmeOLM.net
>上月の役の時、織田信長は自ら出陣しようとして、手始めに子の信忠らを派兵し、
>羽柴秀吉を助けようとした。

>この時、吉川元長は父の元春に
>「信長自身が出馬すれば、数も多く統率のとれた軍隊を相手にしなければなりません。
>いま羽柴秀吉や荒木村重らは功を争って協調できていないと聞いています。

>幸い、雨が降り月も暗い。ここは夜討ちを仕掛けましょう」と言った。
>元春も「お前の言う通りだ」と同意し、小早川隆景と相談した。

>ところが隆景は「そのような危うき戦は大事の前の小事である」と反対した。
>元長はそれでも食い下がったが、やはり隆景は耳を貸さないので悔しさに歯をくいしばり
>ながらも、とうとう諦めたという。

738 :人間七七四年:2014/11/07(金) 07:55:43.87 ID:/RFmeOLM.net
↑の話、元春と隆景の性格の違いが如実に表れていて面白い。
作り話じゃないかと思うぐらいだ。

739 :人間七七四年:2014/11/07(金) 07:57:26.34 ID:/RFmeOLM.net
>高坂昌信の幼女が一日外で遊んで帰ってきたところ重い病気になってしまった。
>昌信が「いったい何があった」と尋ねると幼女は「山伏を見た」と言った。

>そこで昌信がその山伏を連れてきて祈祷させると、すぐに平癒したので
>その日は謝礼を渡して山伏を帰した。ところがその後も幼女は発病し、山伏が
>治療するということが続き、三度に及んだ。

>その後、実はあの山伏は犬神を使うらしいと聞いた昌信は山伏に料理を振る舞い、
>「これは快気の謝礼だ」と金子を渡した。そして昌信は山伏が喜んで金子に
>気をとられたところを一太刀で首を刎ねた。その日から幼女が発病することはなかった。

740 :人間七七四年:2014/11/07(金) 08:00:49.53 ID:/RFmeOLM.net
↑はそのまま史実としては受け取れないが、面白い。
昌信としては山伏の自作自演と見たのだろうな。
自分で娘を病気にさせ、その後治してみせて褒美をもらう。
いわばヤクザの手口と同じ。

741 :人間七七四年:2014/11/07(金) 08:37:45.85 ID:/RFmeOLM.net
>天正13年(1585)の10月はじめ、土佐の長宗我部元親は家老たちの反対をあえて聞かず、
>秀吉への臣従のため上阪した。

>10月20日浦戸を出港し、程なく堺の港につく。そこで津田宗及の屋敷を宿舎とすると、
>ここに羽柴美濃守(秀長)と藤堂与右衛門(高虎)が来訪。秀長は「早々の上洛に、秀吉卿は
>御感に思召しておられます。」と伝え、大阪出仕の支度をするよう促した。
>藤堂高虎はこの堺から案内として元親に同道した。

>大阪に入ると町家で装束を整え登城。桜の門に入ると警固のものが50人、金棒を持って左右に
>並び、元親の共の者たちを
>「これより先、小姓一人、草履取り一人のみしか同道出来ぬ!」
>と押し留めた。これに共をしていた長宗我部家臣団は激昂。
>「こんな事は見たこともない!主の供をするのを一体誰が止めるというのか!?」と
>大声で叫んだ。この騒ぎを聞いた高虎は警固のものに
>「長宗我部の共の衆なら問題はない。入れてやるのだ。」と云えば、警固の者共は金棒を引いて
>彼らを門内に入れた。

>ここで羽柴秀長が迎えに罷り出て、元親と同道し奥の間に通らせた。ここで高虎は立ち戻り、
>「共の衆はここに居よ」と、彼らを侍所に連れて行った。

>元親は小袖20,馬代銀百枚、一文字の太刀一腰を進上し秀吉に御礼を申し上げる。
>秀吉は対面を許し、「長宗我部早々上洛、感じ入るぞ」との御意を伝え饗膳を下し、
>「美濃守(秀長)、施薬院(全宗)相伴せよ」と言って、自分は奥へと下がった。

>さてここで元親の前には、七五三の膳部、金銀の造花、京堺の魚鳥、そういった珍しいものが
>尽きることがないほど出されて来た。元親は四国の主であったが、このような膳部は見たこともなかった。
>正直ビビっていたがそれでも臆せぬ体でこれを賜り、酒を数回やりとりしていると
>秀吉卿が再び現れ「長宗我部の折角の上洛だというのに、肴も出していないではないか!」と、
>さらに元親の度肝を抜かせる事をいう。これを施薬院を通して聞かされた元親は、「この長曾我部、
>結構な膳部を頂きました、有難き幸せ。」と挨拶をし、秀吉は盃を取るとこれを元親に下し、
>元親は頂戴して酒を賜った。

>このあと元親に引き出物が出され、腰の物(二尺五寸備前兼光)、黄金百枚、梨地の鞍鐙をつけた鬼葦毛の馬、
>などが下される。そして秀吉は言う

>「長宗我部は酒も数盃となり、酔も出ただろうが珍しい肴があるのだ、もう一献参られよ。
>珍しい肴とはな、その方が上洛するというのを、家老たちがそれは無用だと止めただろう?だがその方一人の
>覚悟によって上洛をした、と、わしは聞いておる。

>この上はお前が人質に出した津野孫次郎(親忠・元親三男)を返してやる。これを肴に、さあ、
>もう一献参られよ。」

>元親「かたじけなし」と、それを飲み干した。

>元親は明日京に上り羽柴秀次に御礼申し上げる予定であったが、秀吉はそれも免除し、すぐに津野親忠と共に
>帰国することを許した。翌日、元親親子は堺を出港した。
(続く)

742 :人間七七四年:2014/11/07(金) 08:39:52.06 ID:/RFmeOLM.net
>元親が帰国すると、土佐の侍町人たちはこれを出迎え、口々に千秋万歳を叫び喜んだ。
>翌日、元親は城に家中の者たちを集めると今回の上洛の次第を語り、そして下賜されたもののうち、
>最初に太刀を見せた。

>「なんと!金で装飾されている!?」土佐者たちは早くも仰天した。

>次に黄金百枚を見せた。

>「これが判金という物ですか…。はなしには聞いたことがありますが、初めて見た。」
>としげしげと眺めていた。そして最期に葦毛の馬に鞍を置いて出すと土佐者たちの驚愕は頂点に達した
>「上方という国は一体どんな国なんだ!?こんな馬が存在するなんて!!」

>彼らにとって馬といえば、体高一寸ほどの土佐駒であった。上方から来た五寸の馬を見て、
>舌を震わせて驚いたのも、仕方のない事であろう。
>そして梨地の鞍鐙を見て

>「これ光ってる!どうして!?」

>などと騒いだ。全く田舎者にも程がある事である。

>ところで津野親忠は人質として長く上方に逗留していたので、御供衆まで上方めいた男になって帰ってきた。
>これに土佐の者たちは羨み。月代の剃り方から服装まで、土佐の者たちは一斉に真似をした。

>それまで土佐の者たちは着物を小袖といい、袖は短く綿をたくさん入れ、帯ははいはたと言う木綿帯をして、袴の
>裾も短く、その姿はモグラのようであった。
>月代は大きく剃りあげ、刀は三尺ほど、脇差は二尺ほどもある物を差し、顔には武勇を貼り付けていた。

>しかしながらそんなモグラ侍を上方侍に見比べると、そのあたりで暴れてるガキ大将すらそんな異風な者はいない。
>津野親忠の共の衆に皆習い、着物の脇をすき、袴や袖を長くすれば、男ぶりも良くなり、土佐者たちは
>その姿を鏡で見て大いに喜んだという。

>翌年、元親が再び上洛した時は、みな上方風の服装をしていた。
>この時長宗我部家の諸侍はより合って先年のことを話し、大笑いしたという。
(土佐軍記)

743 :人間七七四年:2014/11/07(金) 08:46:41.90 ID:/RFmeOLM.net
>>741-742の感想。
この時代、中央と地方の差って今からは想像も出来ないほど大きかったんだな。
源平の頃ならいざ知らず、戦国時代でもまだこの様子だったとは。

それでも四国は特に遅れていた気がする。
距離的には四国よりも中央から遠くても九州はもっとマシだったんじゃないかな。
鉄砲・キリスト教の伝来も最初は九州だし古くから大陸の文化の入り口だったから。
一方、四国はガラパゴス状態だったのだと思う。

744 :人間七七四年:2014/11/07(金) 17:57:11.53 ID:V1rsPEpr.net
>永禄6年、越後の上杉輝虎34歳の正月11日、輝虎は一族および譜代の家老、物主(物頭)らを招集し、
>彼らを前に突然、このようなことを語った

>『私は道七居士(長尾為景)の八男であり、誠に末流であったのに、世間の転変により不思議な事に
>長尾の家督を継ぎ、惣領職と相なった。

>しかし、これは私の本意ではない。
>何故かといえば、春秋左氏伝を始めとして異国の歴代の事跡を考え、また本朝(日本)の書伝を見るにつけ、
>私のしたことは簒奪の汚名、廃立の慙徳、賢明な人たちからの異論、万世にわたって続く誅筆、こういったものから
>逃れることはできない。

>そもそも、今さら言うのも恥ずかしいことだが、我が父紋竹庵(為景)が一旦の恨み事で主君上杉房能を弑殺し、
>また管領上杉顕定を討ちまいらせ、逆威を振るっていたところ、天鑑は蒙昧ではない。ついに越中において
>命を落とされた。

>私もまた、越後の御屋形様である上杉定実公の命令とはいえ、兄の長尾晴景を討った事、千歳の悪名である。
>然れども、国家のために大義を行い、身の誹りを顧みることはない。ただ、これ故に一生妻子を置かず、
>これを以って世の人々に謝罪したい。
>この上は、弥持戎清浄の出家となるべし!』

>こうして輝虎は不識院心光謙信法印と号した。
>高野山無量尋院清胤法印を戒師となし、真言金胎両部の秘密の印明を受け、潅頂を遂げ、
>大覚寺門主義俊大僧正執奏にて、大阿闍梨号を賜り、弥戒律堅固であった。

745 :人間七七四年:2014/11/07(金) 18:01:57.52 ID:V1rsPEpr.net
↑を読んで思った。謙信は義の人とか、あるいは理解不能な変人のように思われたりしているが、
彼にも様々な葛藤があり、その結果があの強固なまでの信仰につながったのかと。
また関東遠征へのあの異常な執着もそういう中から生まれたものだったのかと。

746 :人間七七四年:2014/11/07(金) 18:06:02.68 ID:V1rsPEpr.net
>肥後の甲斐宗運は、娘を遠縁の隈庄城主・甲斐守昌に嫁がせていた。
>天正頃のある正月、宗運のもとに守昌夫妻が訪問、年賀のあいさつをしていた。
>その時、猫が宗運の背後にあった刀かけを倒してしまった。
>いたずらな猫ちゃんである。

>その時鞘から抜け落ちた短刀は、偶然そこにあった茶臼に9cmも突き刺さり、
>「茶臼剣」と呼ばれ名を馳せたという。

>さて、茶臼に刺さった切れ味を目の当たりにした守昌は、ぜひこの茶臼剣を賜
>りたいと夫婦ともども懇願したが、それは宗運が主君である阿蘇大宮司から拝
>領した短刀であった。
>宗運は自分の目の黒いうちは手放すわけにはいかない、しかし自分が死んだら
>形見として必ず守昌に渡そう、と嫡子を証人に約束した。
>守昌は引き下がるしかなかった。

>しかし、奥さんがここで気を利かせてしまった。宗運の娘である立場を悪用し、
>宗運の寝室から茶臼剣を盗み出してしまったのである。
>守昌は宗運の怒りを恐れて敵対、婿と舅の合戦におよび、最後には守昌は城を
>捨てて落ち延びろこととなったのであった。

747 :人間七七四年:2014/11/07(金) 18:47:33.85 ID:V1rsPEpr.net
↑女と猫が合戦の原因になるとは
恐ろしいな
「女心と猫の目」という言葉があるように
女と猫って何か結びつきがあるのかな

748 :人間七七四年:2014/11/07(金) 18:50:46.47 ID:V1rsPEpr.net
>ある時、富山城の佐々内蔵助成政は、城内に桜の馬場が完成したというのでそこに出向くことにした。
>そしてこの時、氷見郡阿尾城主であった菊池伊豆入道(武勝)にも出仕するよう申し付けた。

>菊池入道は「私はもう隠居した身です。どうぞお許し下さい」と申し上げたが、たっての事だと言われ、罷り出ることになった。

>さて、出仕してみると成政は御機嫌で酒など飲んでおり、菊池入道を見つけると、”なますの盃”という秘蔵の盃を取り出し酒を注がせ入道を呼び

>「其方、この盃で一献指すがよい」

>と言う。菊池入道は喜び「忝き次第です。生前の大慶、これに過ぎることはありません。成政様が
>常々おっしゃっているように、この盃は常にはお出しすることのない物です。有難いことです。」

>と一盃飲み干し、盃をそこに置いて立ち下がろうとした。と、ここで成政
>「その盃をこちらにも指さないか。」

>返杯をせよ、というのである。しかし盃を交わすというのは同格かそれに近い者の間ですることである。これには菊池入道恐縮し

>「いかに成政様の仰せと言えどもそれは憚るべきことです。どうかお許し下さい。」などと必死にこれを
>断ろうとした。しかし成政は

>「其の方は常の人並みの者ではない。ただ、私に返杯するのだ。」

>これには菊池入道も「重ねて御辞退するのも、憚りのあることです。」
>この待遇に感激した菊池入道は、御前に自分が飲んだ盃を置くと

>「さてさて忝き次第。この度の返杯の仰せ付け、吾が家の威光となるものでございます。
>このためわたくし、御前を憚らず御肴を進上したいと思います。

>そう言うと指していた脇差を抜き

>「この脇差は鬼神大王と言いまして、上杉謙信が当国に討ち入られました時に私に下されたものです。
>上杉謙信は、7ヶ国の管領となりました。殿様もどうか、謙信に御あやかりください。」

>と、成政に進上した。ここまではいい話である
(続く)

749 :人間七七四年:2014/11/07(金) 18:52:58.03 ID:V1rsPEpr.net
>これを聞くと成政はみるみる機嫌を損じた
>「さてさて年寄りめ途方に暮れ、うつけたことを言い出したものよ!
>あの謙信などという者は、私の足元にも及ばない人物だ!それにあやかれとは、どういうことだ!?」

>そのように激しく叱りつけた。この時菊池入道は脇差を下げることもできず、だからと言って
>進上することも出来ない状況で申し上げたことには

>「御尤も千万でございます!上様(織田信長)がお亡くなりになり、今や御前(成政)が天下を得ること、
>疑いありません。この年寄り、うつけを申し上げてしまいました。

>しかしながらこの脇差を引けとは仰らないでください。お酌をしている小姓の方に、これを差し上げたいと思います。
>小姓殿、殿様は天下の主。あなたは殿様の御太刀かげにて、謙信にあやかり、7ヶ国取り給え。」
>そうして盃も脇差も小姓に渡した。

>「私も頼もしいことです。殿様太刀かげにて一国の主にもしていただけるでしょう。」

>これに成政、たちまち機嫌を直し
>「尤もである!あれらは謙信にあやかるのが良い!」そう笑った。

>さて、菊池入道がその座を立って帰宅するという時、傍輩にこんな事を言い残した
>「今日も面目を失ってしまったよ。是非もないことだ。これは私が老耄してしまったせいであり、
>今後はもう、公の場所には出ないようにするよ。とすればこの富山城も、今日が見納めか…。」

>菊池伊豆入道武勝が佐々成政から前田利家に寝返ったのは、それから間もなくのことであった。
(菊池文書)

750 :人間七七四年:2014/11/07(金) 19:29:28.39 ID:V1rsPEpr.net
>>748-749の話を読んで改めて思った

佐々成政は「自己の過大評価が酷過ぎる」

751 :人間七七四年:2014/11/07(金) 19:32:33.63 ID:V1rsPEpr.net
>朝鮮の朱子学者李珥は兵曹判書であった1583年に国王に対してこのような意見を述べた。
 
>「国勢の不振がきわまっております。十年を出でずして土崩の災があるでしょう。
 >願わくばあらかじめ十万人の兵を養い、都城に二万、各道(八道)に一万人を配置して
 >戸税を免除し武芸の鍛錬をすようにすべきです。
 >また六朔(六か月)に分けて交代しながら、都城を守備するようにし
 >変乱を聞けばあわせて十万人で守るように緩急に備えなければなりません。
 >そうでなければ一朝に変乱が起こった場合市井の民を駆り集めて戦うようになり、大事を招くになるでしょう。」

>しかしこれに柳成竜が反対した。曰く
>「事変がないのに養兵するのは養禍である。」
>他の重臣たちも李珥の意見は過慮であると反対した為、この案は行われなかった。
>李珥はその場を去る時柳成竜に対し
>「俗儒はもとより時宜に通達しないものだが貴公もまたその言を言うか。」と言い
>この翌年亡くなった。

>この9年後文禄の役が起こり、朝鮮全土が大混乱に陥る。
>柳成竜は慨嘆して曰く
>「今に至ってみると李文成は真の聖人であった。
>もしその言を用いていればどうして国事がこのようになったろうか。」

―――
>当時の李朝では非常時には農閑期に訓練を施した農民などを兵として動員することになっており
>書類上では二十万近い兵がいることになっていたものの、当てになったのはかなり限られた数だったとか。
>やっときゃよかった幻の十万人養兵論の話。

752 :人間七七四年:2014/11/07(金) 19:35:35.83 ID:V1rsPEpr.net
ようするに今もそういうことがよく言われるが
当時も韓国は日本の10〜20年後を行ってたのね。
まだ兵農分離も全く出来ていなかったと。>>751

753 :人間七七四年:2014/11/07(金) 20:11:55.34 ID:V1rsPEpr.net
>関ヶ原の結果、伊予20万石を領した加藤嘉明であったが、伊予の首府である松前城には、
>非常に辟易していた。

>松前城は東南北の三方は山から遠く、城のまわりは底深き沼地。西は九州に続く青海原。
>まさに攻めるに難し、日本第一の城郭と語られていたのであるが、嘉明はこう思った

>「なんだこの城は!?海に近いが風が強い日には砂が天に舞上がり砂まみれになり、
>波は堤防を越え高波に船も転覆してしまう。
>だいたいこの城は波音がうるさい!うるさすぎる!!
>もっと静かないい場所に引っ越そう!」

>とまあ、波の騒音に耐えかね、領内を巡り新城建築の候補地を探し始めた。
>高山という場所は松前城から近いが土地が歪んでいる。
>長山、高山、尾崎と見て回ったが、どうも一長一短だ。

754 :人間七七四年:2014/11/07(金) 20:13:22.51 ID:V1rsPEpr.net
>…と、ここに温泉宮(現在の道後温泉あたり)の西南のあたり、原田広野の中に山があり、
>これは勝山と呼ばれていた、
>広地にして水清く、八方に開けた場所である。
>南には5,6町隔てて石手川の流れ清く、また南方2,3里隔てたところには加藤家直轄領である
>施梨山、西に15,6町隔てた場所には江戸山。
>三津の浜までは山が続き、北は御幸寺の山遠く、東は道石手山、湯の山嶺数里続き、湯月の古城を
>去ること20町。
>素晴らしい地だと確信した。

>慶長8年(1603)嘉明はここに、五重の天守を始めとした大規模な築城を始めた。
>そして勝山の地名を改め、「松山」と名付けた。
>伊予の新たな首府・松山の威容が今まさに出現しようとしていた…

>が、この松山城完成を前に、加藤嘉明は寛永4年(1627)、会津40万石に転封となってしまったのである。

>とまあそんなこんなで、騒音公害から始まった、伊予松山築上の顛末である。
(伊予郡郷里俚諺集)

755 :人間七七四年:2014/11/07(金) 20:17:34.22 ID:V1rsPEpr.net
>>753-754の時、
加藤嘉明の気持ちはどうだったんだろう。
石高が倍増するのは嬉しい、しかしせっかくお気に入りの場所に作った松山城の
完成間近に遠地に転封

スケールの小さな家康の関東転封という感じだ

756 :人間七七四年:2014/11/07(金) 21:43:48.39 ID:h8/hcZeP.net
>天正10年(1582)12月2日、羽柴秀吉は和平を一方的に放棄し柴田勝豊の近江長浜城を攻略。
>ここに秀吉と柴田勝家との対立は決定的となり、事態は賤ヶ岳の戦いへと進んでいく。
>さて、そんな状況の中の、12月14日付、羽柴秀吉の書状


>『前に姫路から取り寄せた材木船のことだが、その方の手の者に任せているのにまだ届かないではないか!
>沙汰の限りとはこの事である!早々に申し付けてすぐに届けさせよ!

>また前の馬屋の連中に取り寄せさせたかすがいも、まだ届かないではないか!お前は一体何をやっているのか!?
>これもまた緊急に届けさせるように!

>恐々謹言

             >筑前守 秀吉(花押)

>十二月十四日
 >小西弥九郎(行長) 殿』


>戦争を始めたものの秀吉方も物資の輸送が上手くいっていなかったようで、
>その怒りやいら立ちを小西行長にぶつけた書状である。
(壱岐文書)

757 :人間七七四年:2014/11/07(金) 21:46:22.27 ID:h8/hcZeP.net
小西行長というと物資調達のような兵站の達人だと思っていたので
>>756の話を読んで意外だった。
むしろこの時の反省から成長し達人になったのかな?

758 :人間七七四年:2014/11/07(金) 21:47:48.94 ID:h8/hcZeP.net
>上杉征伐に向かっていた最中のことである。下野国小山で石田三成挙兵の報告をうけた徳川家康は
>決戦に備えて三男の秀忠に中山道を西上する様に命じた。サポート役に大久保忠隣や牧野康成、榊原康政
>お目付け役として本多正信も帯同したこの部隊は進軍の途上、三成方の真田昌幸が籠る上田城を攻撃した。その際、
>窮地に陥った味方を救おうと、忠隣配下の杉浦文勝と康成配下の贄掃部が命令が無いまま兵を動かしたのだが、正信はこれを

>「いかに味方を救う為とはいえ、命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である。両名に厳しい処罰を与えるべきじゃ。」

>と主張した。結果として文勝は切腹し、これに反論した康成は秀忠軍から外された。武功派の忠隣らと、さしたる戦功もなく智謀で出世した
>正信とはもともと馬が合わず、この一件がきっかけで不仲が表面化したという。さらに戦後、正信が家康の後継者として二男の結城秀康を推薦したのに対し、
>忠隣が秀忠を推した事などもあり、両者の溝はより一層深まっていったという。

759 :人間七七四年:2014/11/07(金) 22:24:23.56 ID:h8/hcZeP.net
↑の話、家康が武功派と正信のどっちを重んじていたのかわからんな。
正信が秀忠を推したのなら正信を重んじていたのだとスッキリするが。
まあ家康は特定の人物(派閥)を重んじるのでなく臨機応変だったということかな。

760 :人間七七四年:2014/11/07(金) 22:29:16.45 ID:h8/hcZeP.net
>天正13年(1585)7月、羽柴秀吉は越中の佐々成政を征伐すると、近々北国に発向すると表明。
>そして越前領主丹羽長重にその先陣を許した。長重は急ぎ帰国し、軍馬を揃え秀吉の下向を待つ。

>8月、秀吉は北伐と称し越前路に来臨。長重は北ノ庄城を発して近江路まで出てこれを迎え、北ノ庄城への
>渡御を乞う。秀吉はこれを許諾し、総軍は街道に残した上で、扈従ばかりの人数で北ノ庄城に入城し、秀重からの
>饗応を受けた。時に秀吉の、長重への懇意なことは、まるで父子のようであった。

>この時、丹羽家中では一部に、秀吉に対し密かに反逆せんとする企てが進んでいた。
>ところが秀吉はその事を以前から気き知っており、しかしそれをいささかも顔に出さず、この饗応に
>大いに喜んだ風で、丹羽家の重臣一同(無論反秀吉派も含む)を御前に召し出し、特別に銘々に盃を与える。
>そして一同にこう申し下した。

>「よいか、国主長重は年若い。お前たちは故越前守(丹羽長秀)の遺訓に違わず、忠義をなして長重を補佐するべし!
>万一、彼が幼主であるのを侮り、私意を以って悪事を進める賊臣があるようならば、直ちに首を刎ね、長重の領地は
>全て没収する!そうなれば長重は不肖の子であり、お前たちは不義不忠の賊臣である!
>固くこの旨を心せよ!」

>そう厳命すると長重の方を向いて

>「わしからの、そなたの家臣共への命令は今聞いたとおりだ。そなたは若年といっても、これをいささかも忘れてはならない。
>そなたの父長秀は、信長公天下創業第一の功臣であり、その英名は天下を恐服させたものだ。
>そなたもその父の資質を受け継いでいる風にみえる。謹んで臣下の善悪を究明し、国家の大事を怠るでないぞ!
>年頃に至れば朝廷に奏し高官に登用し、これから攻めとる佐々成政の領地を加増し北国一円の主とさせるであろう。
>そのつもりであるから、今回の佐々成政に対する先陣も許したのだ。この旨をよくよく理解せよ!」

>そう厳命した上で北の庄を発した。

>秀吉による、丹羽家中及び丹羽長重に対する牽制と懐柔である。
(丹羽歴代年譜)

761 :人間七七四年:2014/11/07(金) 22:31:35.47 ID:h8/hcZeP.net
↑この頃の秀吉はホント冴えてるね
晩年だったら皆を処刑してしまっていただろう

762 :人間七七四年:2014/11/07(金) 23:02:55.46 ID:h8/hcZeP.net
>天正19年正月2日 利休が奥州一揆鎮圧に向かった細川家重臣松井佐渡へあてた手紙
>当時忠興と松井康之は二本松にいた

>一、 浅野弾正と一緒に二本松に同陣していることは、奇特というか名誉なことです。
   >上様(秀吉)の耳にもそのことは入っています。
>一、 奥州の一揆が蜂起したのは、ひとえに政宗が謀反を企てているからだと上様のお耳に入れ申しました。
>一、 政宗は羽忠(蒲生氏郷)を攻略するつもりのようだが、氏郷が油断しているように見えるので、
   >(原文だと羽忠政宗武略之覚悟、羽忠油断無様に被思食候)
   >上様は去年二八日中様(秀次)、家康様両名に折紙をよこし、
   >そちらへ向かわせることにしました。このことは弾様(浅野長政)へも取次があったと思います。
>一、 政宗は去年4日黒川に陣替えして、会津と二本松の間を通行できないようにしてしまった。
   >これはまぎれもなく謀反の意図があるということだ。氏郷が会津に無事帰城するまでは、
   >政宗が何を言おうと、すべて裏表がある、と上様はおっしゃっていました。
>一、 霜台(浅野長政)から政宗へ、ご返事があったことは承っています。上様と全く同じ思し召しです。
   >会津への通路を切り取った以上、政宗が何を言っても、申し開きは無理でしょう。
>一、 上様は三月一日奥州へ出馬することに決まりました。

>この年の1月22日秀長死去、2月28日利休は秀吉に切腹を命じられる

763 :人間七七四年:2014/11/07(金) 23:05:55.81 ID:h8/hcZeP.net
↑を見ると、利休は完全に秀吉配下の奉行だな。ただの茶人や商人ではないとは思っていたが
ここまでやっていたとは。

この仕事と切腹に関連性はあるのだろうか?

764 :人間七七四年:2014/11/07(金) 23:39:49.89 ID:h8/hcZeP.net
>近衛信尹の遺書


>近衛信尹は、武家との交流が盛んであった公家である。
>さて、いよいよ病が重くなったある日、信尹は愛する家族にあてて遺言をしたため、形見分け等を指示するが、
>その中に、交流のあった諸大名の名が見える。曰く、

>「左衛門大夫(福島正則)・政宗・島津(義弘)にも、似合いの品を、それぞれ遣わしてください」
>(原文:左衛門大夫・政宗・島津などへも、似合い候物ども遣り候べく候)(※前後略)

>書面上のことではあるが、信尹卿も、政宗は呼び捨てなのであった。

765 :人間七七四年:2014/11/07(金) 23:43:22.80 ID:h8/hcZeP.net
この時代なら大名のほうが公家より遥かに金持ちだったろうに↑は
公家が大名達に形見分けをしてんだな。

まあこれらの大名に公家としての権威を提供し
その見返りとして金(米)をもらっていたんだろうな。

766 :人間七七四年:2014/11/08(土) 00:16:49.21 ID:PmPgif3E.net
>尾張守護・斯波義達は、守護代・織田達定の反逆を平定し、尾張における主導権を再び回復しすると、
>永正11年(1512)、今川氏親の遠州侵略に対し再び反抗を起こし、曳馬城(浜松)を奪還し、さらに池田・入野といった
>地域まで横領に成功した大河内貞綱に呼応。斯波家の領国である遠江を回復するため自身が出馬して
>これを助けんとした。

>が、尾張上四郡を支配する岩倉織田家の織田伊勢守信安は、この遠征に利がないと強く諌めた。
>しかし義達はこれを聞かず出馬を強行。ここに斯波義達と織田信安の関係は不和となり、上四郡の兵は
>この遠征に参加しなかったため、義達の兵は甚だ少ないものとなった。それでも遠江へと進軍し、
>曳馬城に入った。
>余談だが織田信安は後に、一族である若き日の信長とも激しく対立することになる。

>同年6月。今川氏親は3万の兵で城攻めを行った。
(続く)

767 :人間七七四年:2014/11/08(土) 00:18:34.90 ID:PmPgif3E.net
>この時曳馬城周辺は大水により、城のまわりは海のような状況で、誰が見ても、とても攻められるような
>状況ではなかった。が、氏親は大竹縄数百で繋げた船橋をかけ軍勢をやすやすと城の周囲に展開させ取り囲んだ。

>しかし曳馬城は非常に堅固な城で、それでも今川の攻撃に耐え続けた。
>そこで氏親は城が高台にあることに目をつけ、阿部金山から金堀師を呼び寄せ城内の水脈を全て掘り抜かせた。
>このため城には水がなくなり日々に弱り、8月19日、この日の攻撃で大河内貞綱と、その弟、巨海道綱、
>高橋正定、中山監物ら千人あまりが討ち死に、斯波義達は捕虜となり、曳馬城は落城した。

>付近の普済寺という禅寺に監禁された斯波義達であったが、今川氏親は「同じ足利一門の好である」として
>彼の命を助けた。そのかわり剃髪し出家させ(法名は”安心”であったという)、『今後二度と今川家に対して弓を引かぬ』
>との誓紙を書かせ、これをもって尾張へと送り返した。

>斯波家の権威を決定的に低下させ、尾張において織田氏に主導権をもたらす画期になったと言われる、
>斯波義達の曳馬城合戦の逸話である


(今川家譜)
(名古屋合戦記)

768 :人間七七四年:2014/11/08(土) 00:21:44.69 ID:PmPgif3E.net
↑のちに武田信玄がやっていたような城の攻め方(金山から金堀師を呼び寄せ城内の水脈を全て掘り抜かせる)
を既にやっていたんだな

信玄が発明した方法だとばかり思っていたよ

769 :人間七七四年:2014/11/08(土) 00:56:06.60 ID:PmPgif3E.net
>中野修理康実は九戸政実の実弟だが、九戸の乱の際は南部信直に味方し、その家を存続させた。
>だがやはり兄弟を討たれたことに思うことはあったのだろう、信直を恨む様子が折々に見え、そんな吉兵衛に信直も警戒していた。

>さて、この中野修理は大男で怪力の持ち主だった。彼は唐竹の中に鉄棒を仕込んだ五寸回りの狩り杖をつねに持ち歩いており
>三戸城の石垣を組む時、三十人でも引けないような大きな石が落ちてくるのを
>その狩り杖で押さえたという逸話があった。

>ある冬の事、信直が三戸にて冬雪の上にて追鳥をして気晴らしをしていた。
>信直はかんじきを履いて雪の上を自由に歩いていたが、大男だった中野は雪を踏つぶし、歩くのも難儀しているようだった。
>その様子に信直は
>「御身はいつも鬼のようだが、こう雪が深くては我には駆けつけられないだろう?」
>この言葉に中野は言い返した。

>「さてさておかしな事をおっしゃる。御前を手取りにするのは、わが心のままですぞ」
>「ほほう、さればわれに追い付いてみよ!」
>駆け出す信直、中野は自慢の狩り杖を持ち直し、それを信直のかんじきに当てた。
>雪の中にこける信直。中野は
>「堪忍せぬぞ!」
>とトドメを――刺さなかった。理由は分からない(書いてない)

>こうしてこの場は何事もなく終わったが、信直はさらに中野を警戒するようになり、いつか討ってやろうと折を窺っていたが
>結局機会が来ることはなかったという。

770 :人間七七四年:2014/11/08(土) 00:57:19.36 ID:PmPgif3E.net
↑白髪三千丈みたいな話
日本にもあったんだなw

771 :人間七七四年:2014/11/08(土) 10:20:23.45 ID:YpBVCs5e.net
>天正11年(1583)

>羽柴秀吉は7月に大阪に居城を築く。この頃参議に任官し、従四位の下に除し、その権威は添加に振動し、
>各地の諸侯は我先にと大阪に馳せ上り彼の謁見を受け、皆その麾下に属した。

>そんな中、丹羽長秀だけは越前に移って以来、秀吉に対し音信の使いも登らせず、この年の末になり
>冬となっても上洛することも無かった。
>これに秀吉は激怒し、使いを越前に派遣し長秀の態度を激しく責めた

>『今私は天下の覇権を握った!禁裏を守護し、勅許を受け天下の兵権も掌握した。
>そうであるのに長秀は、そんな私との約束に背き上洛してこない。一体どういう理由で私の側に来て
>私を輔けないのか!?速やかに上洛せよ!』

>この秀吉の言葉を聞き、丹羽長秀は更に激怒した

>「秀吉は私のことを何だと思っているのか!?私はこれに返答すべき言葉がある!
>汝(秀吉からの使者)は私の家臣を連れて、京に戻るが良い!!」

>そして家臣の中から村上次郎右衛門義明を選び、自身の言い分を伝え、秀吉の使いに付けて京へと向かわせた。
(続く)

772 :人間七七四年:2014/11/08(土) 10:22:00.22 ID:YpBVCs5e.net
>義明が上京すると、秀吉はその周りを威儀厳重にしてこれを召し出した。
>しかし村上義明はいささかも恐れること無く秀吉の前に出ると、こう声を上げた。

>「長秀の言葉はこうです。当国(越前)に移って以来、国務は甚だ多忙であり、またこの北陸の地は雪深く、
>冬になれば道を通ることすら容易ではない。その上、天下は既に足下が安定して掌握している。
>それ故に私は、安心して在国して足を休めているのだ。

>今、あなたが天下の覇権を握るのに、私もおおいに助力した。
>それなのにどうしてこのように、私を甚だしく責めるのか!?そこをよく考えていただきたい!」

>これを秀吉の前で言い放った義明の勇壮に、祗候の諸大名たちは皆驚き、秀吉の反応を恐れた。
>が、この時秀吉は

>「…私の言い過ぎであった。汝(秀吉の派遣した使者)も長秀に陳謝せよ」

>と、義明に付けて再び越前へと送った。

>この秀吉の態度に長秀の怒りも解け、秀吉、長秀は以前のように懇意の間柄になったという。

>丹羽長秀が上洛しなかった事からきた騒動に関する記録である。
(丹羽歴代年譜)

773 :人間七七四年:2014/11/08(土) 10:27:09.03 ID:YpBVCs5e.net
>>771-772の話、村上次郎右衛門義明が言ったのは誰でも考え付くような「言い訳」なのに
それで秀吉の態度がころっと変わるとは・・・
もともと秀吉は長秀を許すつもりで、その切っ掛けが欲しかっただけだったのかな

774 :人間七七四年:2014/11/08(土) 11:01:58.13 ID:YpBVCs5e.net
>多聞院、天正10年(1582)の記事より

>6月29日
>『大乗院(尋憲)殿が安土より帰られた。三七殿(織田信孝)から御念の入った御礼を受けたそうだ。
>まずは大慶である。
>伊勢の御本所(織田信雄)と三七殿との所領に対する存念が一致せず、諸軍勢が未だに集結したままであるという。』

>7月6日
>『天下の状況、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田紀伊守(恒興)、堀久太郎(秀政)の、
>以上5人によって分捕りのようにされてしまった。
>信長の子供たちはいずれも取り立てられなかったという。浅ましい、浅ましい。』

>7日
>『天下の状況、本所(織田信雄)と三七(織田信孝)との所領に関する論争のため、両人共に三法師の
>名代を辞任し、信雄は伊勢を取り、信孝は美濃ばかり。上野殿(織田信包)へは伊賀一円だと言う

>柴田勝家は長浜一円二十万石、堀久太郎は城介殿(織田信忠)の子供たちの御守りを命ぜられ、
>そのためとして近江の中郡二十万石。丹羽五郎左衛門は高嶋郡と滋賀郡、池田紀伊守は十七所、大阪を取り、
>羽柴筑前(秀吉)へは山城国一円、丹波国一円(これは筑前の弟小七郎のもの)、西の丘、勝竜寺以下、
>河内にて東ノ山以上、それらが概ね、秀吉の意のままになったようである。

>それから下京六条に城を建設するという話だ。ここに三法師を入れ、その名代を置くことはなく、
>先の五人、柴田、羽柴、丹羽、池田、堀が常駐して意見申し上げ、盛りたてていくのだとか。

>筒井順慶は大和国一円、宇智郡を与えられたそうだ。
>これには羽柴秀吉が、筒井が所領できるよう熱心に運動したとのことである。
>しかしこれで、大和は今後も静謐が保たれるだろう。

>以上、このように相定まったが、かなりの問題が残されたままである。
>なにより信長の子息達は大勢いるというのに、何れも全く取り立てられていない。
>必ず何らかの狂いが出てくるだろう。』


>清須体制の成立前後の、情勢とその分析の記録である。

775 :人間七七四年:2014/11/08(土) 11:03:55.56 ID:YpBVCs5e.net
↑正確に未来を分析してるな。
それにしても、知ってたけど、改めて思ったのは秀吉の一人勝ちすぎ

776 :人間七七四年:2014/11/08(土) 11:38:10.45 ID:YpBVCs5e.net
>慶長19年(1614)12月下旬、幕府方と大坂方で和議が結ばれ、大坂冬の陣は終了した。ある者は帰国の準備を進め、
>またある者は次なる乱を想定し準備を進める中、ある男が大坂城内の長宗我部盛親を訪ねて来た。

>「盛親様、お久しゅうございます。」
>「お前は!・・・攻め手に加わっていたか。どの手勢にいたのだ?」
>「今は、井伊掃部殿の配下におりまする。」

>「そうか。4日の朝、真田丸の戦いにも居たのか?」
>「居りました。本日は、あの時に討ち死にした者の遺品を引き取りに参りました。」
>「あの戦いで井伊家の者は何人死んだ?」
>「名のある者、17人が討ち死にを遂げました。」

>「そうか・・・皆の衆、この者の申したことは本当ですぞ!」
>盛親は周囲の者にそう言い放つと近習に、戦利品である17本の旗指物を運ばせて、男に渡した。
>指物の中に知人のものを見つけ、密かに涙する男を眺めつつ、盛親は言葉を続けた。

>「この者の祖父も父も、わが父や兄の用に立ち、その馬前で死んでくれた勇士であった。
>それに比べて、わしは・・・ハハ・・・・・・和議成ったばかりでの役目、大儀。杯を取らせる。」
>「かたじけなし。」
>盛親の杯を飲み干した男は、丁重に礼を返して大阪城を去った。(福留覚書)

>男の名は、福留半右衛門。
>『福留の荒切り』と呼ばれ、伊予攻めで戦死した福留飛騨の孫で、『蛇もハミもそち寄れ、隼人殿のお通りじゃ』
>と、その武勇を童歌にまで称えられ、戸次川の戦いにおいて長宗我部信親とともに死んだ福留隼人儀重の子である。

>関が原の戦いの後、牢人となった半右衛門は諸大名を転々としており、大坂の陣の時は井伊家に属し、
>戦後は尾張徳川家に仕えて生涯を終えた。

>半右衛門自身の生い立ち、戦場における同僚との他愛ない交流、一時期仕えた加藤嘉明家での気に食わぬ上司等、
>克明に記された『福留覚書』において大坂の陣、特に夏の陣のことは、淡々と足早に書かれている。

777 :人間七七四年:2014/11/08(土) 11:40:15.46 ID:YpBVCs5e.net
↑は戦国のちょっといいとかちょっと悪い話というより
戦国の泣ける話やね

でも、こういうケース他にも有ったんだろうなあ・・・

778 :人間七七四年:2014/11/08(土) 12:15:25.36 ID:YpBVCs5e.net
>天正十年十月、堀秀政宛、柴田勝家書状

>『覚

>一・羽柴筑前守(秀吉)、約定違反のこと

>一・清須において誓い、それぞれに印も押した置目について、秀吉は全く守っていない。
  >政治の形が今までと全く変わったことに、庶人は不信を申し立てている。諸国の下々がそのように言っているのは
  >当然のことである。政治が分明に、決まった通りに行われていればどうしてこんな事になるだろうか?

  >羽柴筑前とこの勝家の間は、、元々は疎遠でなかったはずなのに、この頃では人々も不和だといっている。
  >天下の織田家御分国を静謐にするという評定は当然のものなのに、清洲会議以来の秀吉の裁許は、言葉にもならない
  >有様である。諸人がこれを不審に思うのも尤もである。
  
>一・この勝家自身のことを言わせてもらえば、私は長浜を分配していただいた以外、米一粒、一銭足りとも私していない。
  >申次の諸侍から、この事に対して私に嘆いてくるものが聊かあるが、そういった者たちにもその理由を申し使わして、
  >道理のあるところをよくよく説明しているので、私の方では知行にも諸侍にも手心を加える事は一切無いのだ。

>一・若子様(三法師)の事だが、惟住五郎左(丹羽長秀)より、岐阜に申し上げるべきだとの意見により、各一同の
  >兼ねてからの約束通りに、岐阜から安土への御動座をされるようにと、岐阜へも、五郎左へも返事をした。
  >その墨付は双方に存在している。

>一・今度の上様(信長)のご不慮によって、天下は混乱し治め難き様相となった。未だ四方に敵があるのだから、
  >内輪は対立を自重し、上様の行いを引き継ぎ四方に馳せ走る。上様がおられなくてもそのようにするのが
  >本来で有るべきなのに、全くそのようになっていない。
(続く)

779 :人間七七四年:2014/11/08(土) 12:17:26.60 ID:YpBVCs5e.net
>一方で家康の行動を見てみろ。彼は度々の上様の御動座によって、武田一類を尽く討ち果たし、その後の平定を
  >仰せつかった。ところが北条が、彼らは上様御在世中は上様の御意に従っていたというのに、状況が変わると
  >その態度を一変させ織田の軍を攻め家康と対陣に及んだ。事ここに極まって、天が味方もしてくれたのだろう、
  >徳川家の者共は皆で一致してこれに立ち向かい、即座に置い崩し討ち果たした。誠に上様の時より続く軍忠、
  >これは上様へのお弔いにもなるもので、かつ天下の誉れ、これに過ぎるものはないではないか!

  >しかるにそんな事を考えもせず、御分国の内に私的に新城(山崎城)を建設するなど、様々な我意を通している
  >秀吉は一体、誰を敵としているのか!?
  >政治を担当するものがそのような事をするのは許されないものである。私と彼との関係が悪いといっても、
  >今は心をあわせて、上様のご苦労によって治められた織田家御分国をあい治め、御分国の政治を、たとえ
  >上様には及ばなくても、相守るべきなのである。
  >このままでは結局共食いをして双方果て、織田家の領国も他人の国になってしまうだろう。
  >これは我々一同の本位ではないだけではなく、天道にも背いた行いであろう。
  >しかし今、情勢はそのような方向に向かっていることが、無念至極なのである。


                   >柴修 勝家(花押)
>天正十年十月六日
  >堀寿太郎殿』
  

>清洲会議の約束を守らず独自行動を拡大する秀吉に対する、柴田勝家の危機感が溢れる書状である。
(南行雑録)

780 :人間七七四年:2014/11/08(土) 12:19:54.71 ID:YpBVCs5e.net
>>778-779の感想
勝家=三成
秀吉=家康
賤ヶ岳=関ヶ原

因果はめぐるってことか

781 :人間七七四年:2014/11/08(土) 13:54:46.06 ID:q9TRtVai.net
>愛妻家(キョウサイカ)の意外な顔


>「急げ、急げ」

 >ある時、二代将軍秀忠は駕籠を急がせていた。「大御台所さま、ご危篤」の報告に、一行は全力で駆ける。

 >その時、駕籠の外で交わされる私語が、不安と絶望で塞がれつつある秀忠の耳に届いた。

>「何で、こんなに急ぐんだ?(何事ニテカ、斯クハ急ギ給ウ)」

>「ババァに会いてぇからよ(ババに会イタサニサ)」

 >これを聴いた瞬間、秀忠は……何もしなかった。今は、こんな奴等に関わっている時間は無い。

 >後日。

>「この者どもにございます」

 >あの時の私語は誰か、と尋ねる秀忠。平伏する供のうち、私語の二人は即座に特定された。

 >平伏する両名に近づく秀忠。

 >と、左手を伸ばして一人の襟を掴んだかと思うや、軽々と持ち上げて、右手で抜いた脇差を一突きして、死体を一間ほど放り投げた。直ぐに、もう一人も同じ運命を辿った。

 >人間一人を左片手で子猫のように持ち上げ、脇差の一撃で即死させ、二メートル近く投げ飛ばす。

 >何のかのと言われても、流石は戦国乱世に生まれた漢の一人であった秀忠の少し意外な素顔。原哲夫先生の劇画で脳内再生できそう。

782 :人間七七四年:2014/11/08(土) 13:57:45.70 ID:q9TRtVai.net
↑を読んで正直ビビった。秀忠ってそういう冷酷(敢えてそう言う)さや
無骨さとかけ離れた存在だとおもっていたから。
まあ死体を二メートル近く片手で投げ飛ばしたというのは誇張だと思うがw

783 :人間七七四年:2014/11/08(土) 14:00:22.42 ID:q9TRtVai.net
>戸次道雪が亡くなるしばらく前の出来事である。

>ある日高橋紹運が戦評定のため戸次道雪の陣営に趣き、評議が終わって酒宴となったころ、どこからとも無く
>真っ白なる鷹が飛んできて、庭前の松の梢に止まった。

>近習の若侍たちはこれを見て「何としてもあれを捕えよう!」と立ち騒いだが、どうにも方法が見つからず
>手を出しかねていた。これを見ていた道雪は

>「誰か、鷹の事に心得のあるものはいないのか?」

>と尋ねると、早良善内という老人が立ち上がり、厨房の方に走っていくと鳥の肉を一片ばかり取って帰ってきた。
>そして庭上に降り立ち、肉を振って静かに鷹を呼ぶ。

>と、鷹は肉をめがけて飛び降りてきた。善内、これを巧みに捕らえ拳に据えて、そのまま道雪の御前に出て、

>「これは天晴、逸品の鷹でございます!そのうえ白鷹といえば、別して賞翫される特別なもの。
>これがただいま、庭の松に止まったというのは、目出度き瑞祥に違いありません!」

>そう、大声を響かせた。

>道雪はこれを大いに喜び、善内に褒美を与え、そのままその鷹の管理を任せた。


>ところが、である。この鷹はそれから2,3日過ぎて、何の病気も怪我もなかったというのに死んでしまった。
>後になって人々は、『あれは道雪の卒去の前兆であったのだ』と、噂し合ったそうである。

(伝習館文庫柳河藩政資料)

784 :人間七七四年:2014/11/08(土) 14:37:54.40 ID:q9TRtVai.net
>>783の話は正直
ファラオの呪い並みのこじつけだと思う

785 :人間七七四年:2014/11/08(土) 14:40:07.74 ID:q9TRtVai.net
捕えられてすぐその真っ白い鷹が死んだのは
既出の意見だがアルビノで虚弱体質だったからだろうな

786 :人間七七四年:2014/11/08(土) 15:41:02.36 ID:q9TRtVai.net
>山口玄蕃允正弘(宗永)の家臣・大石平左衛門良定は生涯武功が多く、傷を得ること数々で大きな傷も数箇所にある、そんな武人だった。

>彼は「高麗両度ノ役」にも従軍し、ひたすらに武勇に励んだのだが、主君である正弘が誉れ無きために、
>せっかくの武功もまったく無意味なものになってしまった。

>「やってられるか!!」
>帰朝の後、良定は病と称して故郷・近江国大石に退いてしまった。
>山口正弘は加賀大聖寺城主に取り立てられた際に再び良定を招こうとしたが、彼がこれに応ずることはなかった。

>良定は「高麗」で3人の童女を捕らえて連れ帰り、幾以、津留と名付けていた。残り一人の名は詳らかではない。
>彼女らはとても凡下の者のようには見えず、耳に穴が有ったという。

>3人のうち津留は、良定の甥で、真壁(赤穂)浅野家の家老となった大石内蔵助良勝の若党・与右衛門の妻となり、
>良勝の子・良秀の乳母となっている。
(大石家系図正纂)

787 :人間七七四年:2014/11/08(土) 15:44:07.41 ID:q9TRtVai.net
↑の話、良禽は木を選ぶの実践例かな

788 :人間七七四年:2014/11/08(土) 19:44:07.03 ID:KJkpXf/2.net
>三島村上水軍の棟梁のうち、因島の村上吉充は
>ほぼ同時代を生きた能島の村上武吉と来島の村上通康の高名の影に隠れて今一つ目立たない。
>そんな彼の人となりを、因島村上氏の一族の記録から見てみよう。


>北九州方面から上方へ来る荷船は赤間関で、防長・豊前から来る廻船は上関で、能島衆が通行を取り締まっていた。
>豊後・日向発で伊予方面に向かう荷船は来島衆の、備後方面へ向かう船は因島衆の担当である。
>しかし上関や周防大島の衆が豊後沖付近まで出張って荷船から帆別銭(通行料)を取ってしまうことがあり、
>それをされると因島衆の収入が減ってしまい、大きな悩みの種であった。

>また、因島付近を通行する未取締船にも、小早川家のお膝元である近所の三原港に逃げ込まれてしまい、
>仕方なく取立てを諦めることが何度もあった。
>因島の当主・村上吉充は腹に据えかねて、この窮状を小早川隆景に訴えた。

>「因島は三島の中でも小身なのに、このような仕打ちは我慢できません。
 >何卒よくお考えいただいて、違反がないよう御命令を出してください」

>「言いたいことはわかりました。ですが、海上のことは村上三家に一任していることですし、こちらからは何とも……。
 >それに、海の関を逃げられることもそちらの不手際ではありませんか。新蔵人(吉充)よ、そのような申し出は通りません」

>素気無く断られた吉充だが、一度では諦めなかった。
>今度は配下の若者たちを動員して一斉に奉行所に訴状を出させたのだ。
(続く)

789 :人間七七四年:2014/11/08(土) 19:45:58.73 ID:KJkpXf/2.net
>しかし、これがまずかった。隆景の逆鱗に触れたのである。
>(隆景様御機嫌悪鋪、仰出され候は、)

>「三原へ逃げ込んできた船に、いちいち通行料免除をしなければいけないこちらも迷惑なのですよ。
 >しかしどこの国の船であろうと、助かりたい一心で飛び込んできた者を助けないのもまた不仁。
 >私に船を助けてはいけないと言うのであれば、その方もまた船を襲うことをやめるべきです。
 >大体、元就様から過分の恩地を頂いておきながら『小身なのに』とは何ですか。欲張るのはやめなさい。
 >海賊と言うものは所詮犬のようなもの。運送の荷船は鹿や猿だ。
 >犬が鹿や猿を取ったからと言って、『よしよし、よくやった』と褒めるのは猟師くらいのものだ。
 >元来犬の方が横暴なのに、鹿取る犬を誰が当然のようにもてはやそうか」

>と因島の驕りを久々に睨みつけたので、吉充は困惑してしまった。
>隆景腹心の乃美宗勝や磯兼左近大夫に取り成してもらい、何度も侘びを入れて許してもらったと言う。

>これより以前、足利義昭を毛利家が警固することになった時、因島の吉充に漕船及び警固船出動の命が下ったが、
>遅刻してしまったことがあり、その時も「隆景様御機嫌そこね、御しかり成され候」

>その後、引退もし損ねた吉充は乃美、末長、木谷ら小早川家重臣たちから代わる代わる説教責めにあったそうな。 
>毛利・小早川に最も近い村上水軍棟梁の、意外な素顔である。

                                           (三島海賊家軍日記)

790 :人間七七四年:2014/11/08(土) 19:49:03.14 ID:KJkpXf/2.net
>>788-789を読んで改めて思った。
毛利家を実質仕切っていたのは
小早川隆景だったのだなと。

791 :人間七七四年:2014/11/08(土) 20:29:16.27 ID:KJkpXf/2.net
>佐竹義宣が、伊達政宗、上杉景勝、島津忠恒らと共に徳川家家臣の屋敷での酒宴に参加した時のことである。
>義宣はこの時、普段から仲が悪かった政宗と景勝を和解させる為に

>「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」

>と何度も言い聞かせた。

>これに景勝は応じたが、政宗はといえば

>「俺も別に構わんぞ。だが、もし貴殿が幕府に背くような事あらば、俺が直ちに粉砕してやるわ!」

>と逆に景勝を挑発した。

>「・・・・・・てめぇ」

>善意を踏みにじられてしまった義宣は政宗のこの発言にブチギレてしまい、

>「上等だよ!だったら、もしお前が幕府に背いた時には、俺か景勝のいずれかか先陣になって
 >お前をぶっ潰してやんよ!」

>と応酬した。その後、政宗は自身の後継者である忠宗が忠恒に刀を贈った話をきっかけに

>「義宣の刀が見たい。」

>と言い出したが、義宣は

>「誰が見せるか。」

>と頑として応じなかった。

>「おいおい、お前は何をそこまで用心してんだよ?」

>と政宗に問われると

>「お前相手に、用心しない訳がないだろうが。」

>と返したという。仲介役がケンカの当事者になってしまったお話である。
>最後に、この三人の喧嘩をすぐ傍で見ていた忠恒の胸中は如何ばかりか・・・

792 :人間七七四年:2014/11/08(土) 20:30:30.27 ID:KJkpXf/2.net

まさに「仲良く喧嘩しな」だなw

793 :人間七七四年:2014/11/08(土) 21:03:21.97 ID:KJkpXf/2.net
>天正十五年(1587)肥後国人一揆勃発。
>三加和村田中城主、和仁親長は一揆側として反乱に加わったが、佐々成政の軍勢に攻められ落城。
>和仁親長は討ち死にする。

>この時、先に城より落ちていた和仁親長の夫人と娘、そして侍女たちは、和仁川の赤池淵のほとりにて
>田中場の落城を知り、前途に絶望しここにて自害すると決した。
>そして夫人は自分の娘、当時13歳であったという、を手にかけようとしたが、さすがにわが子を自らの手にかけることは
>忍びず、自分に付いてきた老僕に、この娘を淵に落として、溺死させるよう命じた。

>老僕はあまりのことに恐れ躊躇したが、夫人は何としてもと命じたため、致し方なく彼は、姫を岩の上から淵へと
>落とした。

>ところがこの姫は一端は沈んだものの、再び浮かび上がり岸へとたどり着いた。
>老僕は夫人に攻められ、再び姫を淵へと落とす。しかし姫は再び浮かび上がり、岩へとしがみついた。

>これを見て夫人は、自ら水の中に入り、姫の側へと行った。
>姫は泣き叫んだ

>「母上様!お許し下さい、どうかお許し下さい!」

>夫人は姫の頭を縦に持ち、そのまま水に沈めた
>「未練です。許してください。許してください。」

>姫は、水に沈んだ。

>これを見た侍女たちは、それぞれ着物の上から紐で足を縛り、次々に赤池淵に身を投げた。
>そして最期に夫人は、あの老僕に

>「そなたには今まで、一方ならぬ世話になりました。
>もし、生き延びることができたならどうか、私たちの菩提を、弔ってやってください。」

>そう言って、娘の沈んだ淵に身を投げた。
>その後、夫人の遺体は下流の菊池川の淵に流れ着いたという。


>それから、夏の夜になると、赤池淵に不意に楽の音する時があった。
>こんな時は、付近の人々は「和仁御前」のお帰りだとして、酒やお供えなどを、淵に投げ込んだのだという。
>そんな時は必ず、突然の雨が降ったのだそうだ。

>肥後に伝わる、和仁御前の伝承である。

794 :人間七七四年:2014/11/08(土) 21:06:14.31 ID:KJkpXf/2.net
>>793の話を読んでの感想
痛ましい話だが、何で昔の女性の自害って入水が多いのだろう。
入水って相当苦しい自害方法のはずだが。
首吊りとかにしてやれなかったのだろうか。

795 :人間七七四年:2014/11/08(土) 21:53:11.92 ID:KJkpXf/2.net
>文明15年、播磨に侵攻した山名政豊は、これを手中に収めたかと思われた。
>しかし同17年になると追い落とされていた赤松政則が復活し、蔭木城が陥落するなど山名方は次第に劣勢に立たされていった。

>そんな山名方を窮地に追い込んだのは吉川経基の活躍だった。
>「初代鬼吉川」「俎吉川」の異名を持つ稀代の猛将が、赤松方の援軍として参陣したのだ。
>赤松政則は、吉川家が梶原景時追討の功で得ていた播磨国福井荘、山名に脅かされていたこの荘園の代官職を戦費としてあてがうことでその援護を得ていたのである。

>文明19年正月、追い詰められた山名政豊は強く願った。
>「わしも援軍が欲しい!絶対に欲しい!」と。

>政豊はまず、甥である細川政元を通じて将軍家を動かそうと考え、家臣・垣屋越中守と村上左京亮を京に派遣した。
>垣屋・村上の両名は「山名・赤松の戦いを私闘と見なして介入しないという将軍家の方針を改めること」「山名方に援軍を出すこと」を細川家臣・安富ら3人に対し連日連夜、切々と訴え続けた。
>が、細川政元の赤松方への肩入れもあって、色よい返事が返ってくることはなかった。

>そこで二人は、公正なことで知られる政所執事・伊勢貞宗邸に赴いて、貞宗に訴えてることを考えた。
>自分たちの言い分が将軍の耳に達するよう、貞宗の使者と、その口添えを得ようというのだ。

>「垣屋らが到着する前に貞宗を説得せよ。山名に同調させてはならぬ。」
>細川政元は、安富らを伊勢邸に急行させた。
>安富らは「赤松家の忠節ぶり、誰がそのことを知らざるや」と説いて貞宗の心をつかみ、政元の期待に応えたのである。

>さて、垣屋・村上がやってきた。
>貞宗は安富らを先に部屋に招き入れ、垣屋らを門の外に待たせておいて、安富らと酒宴をはじめてしまった。
>山名家の二人がようやく召されたのは、その酒宴もたけなわとなった頃である。
>その場はもはや訴訟なんぞできる状態ではなく、二人は大酒宴に酔っ払ってただ帰るほかなかった。
(続く)

796 :人間七七四年:2014/11/08(土) 21:54:40.90 ID:KJkpXf/2.net
>「むぅ、正攻法では無理か・・・。ならばわしの華麗な策略で援軍を出させてやろう!」

>その頃、備中に勢力を張る細川家の家臣・庄春資の甥の朋輩で、山名家にも近しい山田という男がいた。
>山名政豊は彼に目を付けると、あろうことか細川政元の使者に仕立て上げて庄春資の屋敷に下し、密かに
>「京兆(政元)は山名への合力のため、備中の庄の軍勢を播州へ呼び寄せることにした。」と言わせたのだ。
>すると庄春資は、一族の庄伊豆守に山名政豊救援を厳命し、その軍勢を播州へ進発させたのである。
>「してやったり!」ほくそ笑む政豊であった。

>とはいえ、策が策である。
>某SLGじゃあるまいし、まさかこんなのが成功するとは思えない。
>案の定、庄春資と一緒にいた、とある武将に計略を見抜かれてしまった。

>「政元様は山田という男を知らず、顔も見たことが無いはずだ!彼の軍勢呼び寄せの密談、信用するに足らぬのではないか?」
>疑念を抱いた彼は政元に仔細を尋ねてみたところ、
>「かようなこと夢にも知らぬことである!それに山田いう者はいったい誰であるのか!!」
>はたして、推量どおりの言葉が返ってきたのである。
>彼の建白を受けた庄春資は、播州に向かっていた軍勢を撤兵させた。
(蔭涼軒日録)

援兵を得られなかった山名勢はますます劣勢となっていった。
そして長享2年、山名政豊は夜陰に紛れて書写坂本城を脱出、赤松政則の追撃で多数の死者を出しながら、辛うじて但馬に撤退することになる。
かくして7年に及ぶ政豊の播磨攻めは完全な失敗に帰したのである。

797 :人間七七四年:2014/11/08(土) 21:59:24.29 ID:KJkpXf/2.net
そしてのちに山名豊国が家臣に追い出され
吉川経家が鳥取城主として迎え入れられるわけか

秀吉の餓え殺しにあって切腹に追い込まれるのだが

798 :人間七七四年:2014/11/09(日) 01:41:21.66 ID:log4L8wV.net
何がやりたいんだ? スレ潰し?

799 :人間七七四年:2014/11/09(日) 17:06:38.27 ID:KZcbFah4.net
>「箕輪城落城後の悲劇」

>永禄9年、上野の堅城である箕輪城はついに武田信玄によりついに落城し、城主である長野業盛は父業正の遺言通り降伏することなく自害した。
>この業盛の妻、藤鶴姫は元は上杉家の出であり、わずかな家臣と共に越後へと逃れようとした。
>しかし敵の追っ手がやってきたため家臣たちはその相手をして、姫を先に逃がした。
>1人で峠を越えようとした藤鶴姫、しかし女性の身では峠を越えるのは大変であり、お堂のところで少しだけ体を休めた。
>すると今来た道の方から「おーい!」と呼ぶ声が。
>「もう追っ手がそこまで…。もはやこれまで…。」と彼女はお堂の中で自害した。
>しかしその声の主は追っ手からどうにか逃れてきた家臣だった。

>哀れ藤鶴姫、彼女が自害したお堂近くを汚すと今でも祟りがあり、鼻血が止まらなくなるという。

(藤鶴姫墓所説明文を元に)

800 :人間七七四年:2014/11/09(日) 17:11:38.70 ID:KZcbFah4.net
↑の話、何とも痛ましいと同時に、
本当は自害する必要が無かったのにというやるせなさを感じた。
思い出したのが、昔何浪もしていた浪人生が大学入試を受けた後
「出来が悪かった、これじゃまた今年もダメだろうな」と絶望し
合否が発表される前に自殺してしまったという話。

801 :人間七七四年:2014/11/09(日) 17:13:37.61 ID:KZcbFah4.net
>キリシタン大名として有名な高山右近は領民にもキリシタンになるよう布教を熱心に行い、
>それに伴って領内の神社仏閣を破壊して仏教徒に迫害を加えるようになった。
>領内にあった普門寺にも高山右近の軍勢がやってきて危機的状況におちいった。その時、
>寺の中に安置されていた毘沙門天像の憤怒の形相がさらに怒った顔に変貌し、強烈なオーラを放った。
>すると、右近の軍勢の陣中に魔風が吹き荒れ、おそれおののいた兵士たちは蜘蛛の子を散らすかのように
>逃げ去っていった。こうして、普門寺は破壊の危機をまぬがれたのである。

802 :人間七七四年:2014/11/09(日) 18:27:29.97 ID:KZcbFah4.net
↑の話、欧州がアフリカや中南米を植民していった上で
キリスト教が大きな武器として使われていたというのがよくわかる。
幸い日本は植民地化はされなかったが、部分的にはこういうことが進行していたんだな。
大友宗麟も似たようなことやってたはずだし。

秀吉が怒って伴天連追放をしたのは当然だ

803 :人間七七四年:2014/11/09(日) 18:33:14.40 ID:KZcbFah4.net
>讃岐国高松藩主 生駒讃岐守高俊の家臣に、山口彦十郎という侍があった。

>山口は長年忠勤を励んだにもかかわらず、俸禄の加増も全くなく、後から取り立てられたものが自分を追い越して
>立身していくのに我慢がならず、その事の不満を広言し、ついに出仕を止めてしまった。

>生駒高俊はこれに激怒し、山口を捕らえ斬首を命じ、のみならず彼の女房子供まで殺した。
>斬首の場において、山口は激しく怒り叫んだ

>「お上のなさりように不平を申し上げたのは、この身に覚えのある罪過である。だから処罰の受けるのも
>仕方のない事だ。だが何の罪もない妻子まで殺すとはどういうことか!?
>そのうえに、侍に切腹させず、斬首にするとはいかなる処遇か。この屈辱、耐え難い!」

>そして斬首役の横井二郎右衛門を睨みつけ

>「斬り損なうな、見事に斬れよ!我が怨念に力があるなら、近いうちにそのしるしを見るであろう!」

>これに横井

>「うむ!承知!」

>と、山口の首を落とす。その首は2,3間転がると斬られた面を下に立ち横井の方を向き、彼の目をきっと
>睨みつけてから、静かに目を閉じた。
(続く)

804 :人間七七四年:2014/11/09(日) 18:34:44.00 ID:KZcbFah4.net
>斬首をした横井は、自宅に帰った途端狂乱した。
>寝ても覚めても、山口が血眼で睨みつけている姿が見え、彼は大声で叫びつつ刀を抜いて、そこらじゅうを
>斬って回った。家族の者が何とか取り押さえ、刀を取り上げたが、
>「彦十郎よ!殿のご命令で仕方がなかったのだ!許してくれ!許してくれ!」
>そう手を合わせ足掻き続け、7日目に死んだ。

>その後も山口彦十郎の亡霊は高松城下に現れ続けた。生前と同じ肩衣姿の山口に行き会い、
>身がわなわなと震えそのまま病みついて死んでしまったものが14,5人にも及んだ。
>このような怪異に生駒家中の者たちは恐れおののき、山口の菩提を弔い供養を行った。
>すると城下で山口の姿を見ることはなくなったが、それでも怪異のことは続き、長屋が突然鳴動したり、
>城中の大木が風も吹かないのに折れ倒れるなど、不思議なことが数多く起こった。

>そして生駒高俊にいつしか邪悪の心が起こり、藩政が乱れ、ついに改易されたのも、この山口彦十郎の
>怨念のためであると、人々は噂し合ったとのことである。

(平仮名本・因果物語)

805 :人間七七四年:2014/11/09(日) 18:44:01.97 ID:OgAXZBu+.net
大友家は家臣団にキリスト教の反対派も多くて、重臣格の武将は入信しないって取り決めがあったけど、
耳川で主だった武将が戦死した後、徐々にキリシタンの武将が増えていったらしいな

806 :人間七七四年:2014/11/09(日) 19:18:35.01 ID:KZcbFah4.net
>>805
そうなんだ。むしろ逆だと思ってた。
大友宗麟が耳川の合戦の前にキリスト教信仰の立場から神社仏閣を破壊させていて
それで耳川で負けたものだから
キリスト教に対する反発がより強まったのだと思ってた。

807 :人間七七四年:2014/11/09(日) 19:25:14.14 ID:KZcbFah4.net
>>803-804のお話
幽霊の類は自分は信じないが、罪の意識がそういうものを
幽霊の存在を信じていた当時の人に見せて心を病ませ、死にまで至らせたのだと思う。
小早川秀秋もそうだね。罪の意識及び「日本一の裏切り者」のバッシングが
彼に大谷良嗣の幽霊を見せ、精神疾患になり若死にしたのだと思う。

808 :人間七七四年:2014/11/09(日) 19:29:30.03 ID:KZcbFah4.net
ちなみに自分は小早川秀秋にはむしろ同情する。
東軍の親戚浅野長政からは「叔母上高台院様は東軍につけと仰せだ」ともちかけられ
西軍三成からは秀頼が成人するまで関白になっていいからと持ちかけられ
弱冠18歳(19歳だっけ?)の青年には重すぎる状況におかれ
もうパニックになってたんだろうと思うから。

809 :人間七七四年:2014/11/09(日) 20:31:20.82 ID:KZcbFah4.net
>上野国の白岩山にある長谷寺は、坂東三十三ヶ所霊場の十五番札所で、「白岩観音」と呼ばれ親しまれていた。
>古くから信仰があり、源義家や新田義貞などの武将の信仰もあつかった。

>戦国の時代に入ってもそれは変わらず、天文元年(1532)に上杉憲政が伽藍を整えてからより発展した。

>しかしその後、戦国ちょっといい話・悪い話まとめにもある武田の先手、那和無理之助と箕輪の老将、安藤九郎左衛門の戦い(白岩の戦い)
>に巻き込まれ、その観音堂は焼失してしまった。
>そこで武田勝頼が世無道上人に命じ、天正八年(1580)に観音堂を再建させた。




>時はめぐり、時代は昭和。

>浜川(現在の高崎市)に住む箕輪城主の長野氏の直系、52代目当主である長野正弘氏がまだ小学生の時、まちに待った遠足の行先が白岩観音であった。
>すると父親である弾正氏は、白岩観音が長野家を滅ぼした武田氏によって再建されたものであることを理由に、彼を遠足に参加させなかった。

>しかしそれは弾正氏の個人的考えではなく、浜川の長野氏一族は上記の理由により代々白岩観音への参拝を拒み続けてきたのだ。
>今でも彼らは白岩観音への参拝をしないという。

(「箕輪城と長野氏」などより)

810 :人間七七四年:2014/11/09(日) 20:35:28.65 ID:KZcbFah4.net
↑の話、悪くとればいつまでも恨みを忘れない器の小さいということになるが、
自分はそういうの好きだな。
一族の伝統、しきたりを大切にするという
そういうのが無くなっていくのは寂しい

811 :人間七七四年:2014/11/09(日) 20:39:40.85 ID:KZcbFah4.net
歴史が原因で会津若松と萩はいまだに感情的しこりがある人がいるようだが、
謝罪要求とか賠償請求とかそういうことにならない限り、
結構そういう話好きだな。
それだけ歴史が生き続けているというのを実感できて。

まあこれは自分が萩にも会津若松にも関係ない第三者だからいえる
無責任な考えかもしれんが

812 :人間七七四年:2014/11/09(日) 21:54:02.69 ID:2gBG9vYI.net
>多聞院日記、天正13年(1585)7月5日記事より

>『今日の未の刻、大地震が起こった。どうやら火神が動いたようである。
>7月の地震は大兵乱の予兆だとされる。また、火神が動くのは中央に怪異が起こるとされ、
>天子が亡くなり臣下が滅び、天下人民の多くが死ぬ、とされる大物怪である。

>昔、木沢長政は信貴山に城を造り、久しく当国(大和)の闕所を知行していたが、
>天文11年(1542)3月17日、不意に滅んでしまった。
>その年は正月二十日巳の刻に大地震があった。

>それ以来、地震は度々あったがあれほどの大地震は無かったのに、今日の地震は
>あの時以来の、地上が滅びるかと思うほどの大地震であった。

>今、秀吉は天下に号令し、その権力は昔に聞いたこともないほどである。
>しかしそんな彼にも盛者必衰の時が至るのであろうか。沈思沈思。』


>巨大な被害をもたらした天正大地震(ちなみにこれで、あの帰雲城が山崩れにより埋没した)に際し、
>秀吉の政権の未来に暗雲を感じた、多聞院日記の記事である。

813 :人間七七四年:2014/11/09(日) 21:58:44.54 ID:2gBG9vYI.net
↑のお話、秀吉に関しても(信長に対する)安国時恵瓊のような予言をした人がいたんだな。

しかしこの後秀吉のいた伏見城を直撃した大地震(謹慎中の清正が真っ先に駆けつけて許されたやつ)が
起ったかと思うと感慨深いものがある。

814 :人間七七四年:2014/11/09(日) 22:00:24.68 ID:2gBG9vYI.net
>徳川家光が、食欲不振が高じてついに病に臥せったことがあった。
>この時幕閣たちは

>『誰か家光公の前で大食いをすれば、それに釣られて公も食がお進みになるのではないか?』

>と考えた。どうしてそう考えたのかわからないが、ともかく幕閣は大食いをする志願者を募った。

>これに応じた御番衆の一人は、「枝柿を100食べます!」と言った。
>御前に出して食べさせてみると、家光が見ているので畏まってしまい、柿を種ごと食べてしまった。
>家光も驚き、「種を取って食べるが良い」と言うとそれに従って種を取ったが、取った種をまた、
>実と一緒に食べてしまった。動顛していたのだろうか。ともかくそうやって柿を種ごと100個、
>食べつくした。

>次のものは「雉を一羽まるごと、焼き鳥にして食べます。」と言う。
>そこで雉の丸焼きを出すと、瞬く間に残らす食べた。
>家光はこの両名に褒美を下した。

>さて次に御坊主の一人が「私は砂糖を一斤(600グラム)食べます」と言ってきた。
>そこで砂糖一斤を出したが、この坊主は半分ほどで挫折してしまった。
>これには『いい加減な、出来もしないことをお上に申し上げた』とのことで、改易か遠島の処罰を受けた、
>という。

>家光の頃の、御前大食い試合の話である。
(異説まちまち)

815 :人間七七四年:2014/11/09(日) 22:37:34.58 ID:2gBG9vYI.net
↑は家光の気まぐれ・意外な冷酷さも出ている話だな。
その程度で改易か遠島だなんて。

しかし食欲不振の人の前でそんな大食いしてみせたら
それこそ「それは余に対する嫌味か!」と処罰されてもおかしくないと思うのだが。
そうでなくてもかえって食べる気を無くすのが普通じゃないか?

816 :人間七七四年:2014/11/09(日) 22:39:55.31 ID:2gBG9vYI.net
>北条氏政は1586年、三嶋大社への参拝の際に、同盟関係にあった徳川家康と面会の約束をした。
>黄瀬川を越えて、わざわざ北条領まで出向く形となった家康だったが、対面の際は氏政を上座に据えて

>「両家の領地の境にある城を破却して境界を無くそうと思います。また、そちらが東北地方に出陣する際には
 >私が先手を引き受けましょう。」

>と、北条方を喜ばせる事を述べた。宴席が始まると上機嫌になって深酔いした氏政は、家康の膝の上に寄り掛かって脇差を抜き取り、

>「若い頃から『東海一の弓取り』と呼ばれた家康殿の刀を取った。この氏政は大功を立てたぞ!」

>とはしゃいだという。しかし、そんな中氏政は家中の状況を観察されており、宴席の後家康は

>「北条の世も終わりだ。家臣の様子で察しが付く。」

>と述べたという。

817 :人間七七四年:2014/11/09(日) 22:45:51.65 ID:2gBG9vYI.net
↑の話、家康の抜け目のなさが如何なく発揮されているな。
戦前にヤンキースが来日した時(沢村栄治が好投しベーブルースから三振を奪ったというあの伝説の試合があった時)
来るべき日本との戦争のために日本の街並みを観察していた選手もいたという話を思わせる。

それにしても飯にかける汁の量がわからず「この子の代で北条は終わりか」と氏康を嘆かせた件といい
氏政は主従ともダメだしされるなあw

818 :人間七七四年:2014/11/09(日) 23:40:49.67 ID:2gBG9vYI.net
>戸次鑑連(立花道雪)の家臣はみな弓法の心得が深かったが、中でも
>四月一日(わたぬき)長蔵、佐藤十三郎、藤村小十郎がその上手とされた。
>ある時この三人がうち寄って、矢を当てた時のことについて語り合っていた。

>四月一日(わたぬき)長蔵が言うには、「私は26・7間(約50メートル)離れた鳩を、さし矢でもって
>『ひゃうふっ』と射殺したぞ!」

>次に佐藤十三郎が言うには「私は昨日、屋根にいた雀を、18間(約33メートル)離れた場所から
>ふくら矢をもって『ひゃうっは』と射殺したるぞ!」

>最期に藤村小十郎は「それがしも、桜馬場にて四寸角(の杭)を、18間離れた場所から剣先の鏃の矢でもって、
>矢七筋のうち六つを『ひし』と当てました。そのうち五つは角に当てましたぞ!」

>戸次鑑連はこの会話を物ごしに聞いていて、それぞれの矢音の表現がまるで違うことを面白く思い、広間に出ると、
>主君が出てきたことに三人はその座を下がって畏まった。
>鑑連は彼らにこんな話を始めた

>「お前たちが弓の上手であり、細密に命中させる技術を磨いていること、大変良いことである。今後もいよいよ
>稽古をして欲しい。ところで先ほどのお前たちの話の中で、矢音の表現が三人とも違っていたな。
>しかし、人の聞いている所でそのように間違った事を言っていては恥となる。平家物語などの表現を、
>きちんと使って言うべきである。お前たちは記憶力がよく一度聞いたことは忘れない者たちだ。
>このついでに習いなさい。
(続く)

819 :人間七七四年:2014/11/09(日) 23:42:08.16 ID:2gBG9vYI.net
>矢音の事は、剣先の鏃の矢で物を射て命中したときは『ひゃうっは』と表現する。射抜いた場合も同様である。
>外れたときは『ひゃうする』という音を発したと言う。

>狩又の鏃の矢で物を射て当たった場合は『ひゃうふっ』という。射切った場合も同様である。
>外れた場合は『ひゃうすか』と言う。

>鏑矢にて物を射た時は『ひゃうふっ』と言う。外れた時は『ひすつと言わずして』と言う。

>矢頭にて当たった時は『ひゃうし』と射たと言い、外した時は『ひゃうすか』と言う。
>矢頭に挟み物をして射た時は『ひゃふはた』と射たと言う。外れた時は『ひすっ』と言う。

>四目の鏃にて物を射当てたのは『ひしと射て』と言う。外れは『ひすっと外して』と言う。

>匹目の鏃で物を射て当てた場合は『とき射て』と言う。笠懸の矢音、『へし』と射て、と言う。小的の矢音は
>『ふしと射て』と言う。三つ的も同様である。大的の矢音は『はたと射て』と言うのだ。

>この様な事も、専ら侍の知るべきことである。よくよく覚えておくように。」

>これに三人は、殿がこのように親しく座に来てお教えいただき、本当に忝い事だと大いに喜んだという。
(大友興廃記)

しかし矢音だけでこんなに種類があるのですね。こんなの覚えなきゃいけないというのも、
お侍も大変だw

820 :人間七七四年:2014/11/09(日) 23:47:35.05 ID:2gBG9vYI.net
>>818-819を読んで思った。
音なんて人それぞれ同じ音を聞いても違うように聞こえるんだし、
必ず同じ音がするというものでもあるまい。
音を決めて暗記するのでなく、自分の耳で聞こえたように表現すればいいと思うのだが。
戸次鑑連が形式主義の人だったのかな。
それともそれが普通だったのかな。

821 :人間七七四年:2014/11/10(月) 01:17:32.26 ID:cK8J3ggB.net
>天正13年(1585)3月、雑賀は羽柴秀吉の武威に屈したが、北雑賀は太田郷の郷民達は抵抗を続け、またそこに
>反秀吉の武士たちも集まり、羽柴軍の輜重部隊を襲うなどゲリラ活動を続けた。
>これに怒った秀吉は、彼らを滅ぼさんと決意したが、太田は要害の地であり、また郷民たちは弓鉄砲の術に
>長けているものが多く、自分たちの士卒が彼ら一揆によって損耗することを恐れた。
>そこで秀吉が考えたのは、彼のお得意、水攻めである。
>「水攻めで尽く溺死させるのだ!」

>秀吉は太田郷の家屋よりも五尺ほど高い堤防の建設を計画し、諸将に命じ、数万の人夫を所々より集め、
>太田郷を囲んで周囲十八町(約2キロ)、高さ6間(約10メートル)の堤防を築かせた。
>堤防は地際で18間(約20メートル)、天井の馬踏は5間(約8メートル)であったという。

>秀吉は毎日、この工事を巡検した。明石与四郎則實が担当した場所は工事の進捗が大変早く、そのことに感じいった
>秀吉は即座に、明石に1万石を加増した。
>一方近江は甲賀より集めた人夫が、工事規則に違反し大変怠惰だったのを見つけると、その人夫を使っていた
>主人だけでなく、主人の親族まで流刑とした。
>秀吉の賞罰はこのように尽く迅速なものだったので、人々はみな戦慄し、見な奮起して工事を進めた。

>この時増田長盛は秀吉の命を受けて、須磨・明石・兵庫・西宮・尼崎・界津などの船を集め、糧米を紀ノ湊へ運送し、
>毎日米千俵、大豆百俵を以って堤を築く人夫に与えた。
(続く)

822 :人間七七四年:2014/11/10(月) 01:18:55.32 ID:cK8J3ggB.net
>さて、この堤防工事がほぼ終わろう、という時である。突然の豪雨に紀伊川が溢れ、建設中の堤防のうち
>150間ほどが流されてしまった。
>これでは水を貯めるどころではない。しかし秀吉はあきらめなかった。

>「前謀を改める時は、味方は術を失うに似たり」

>秀吉は再び号令を発した。津々浦々に船を遣わし、俵6・70万をかき集めた。
>それら尽くに土を詰め、堤防の流された場所に投げ入れる。これを何日も続けた結果、堤防はついに完成した。

>太田郷の家屋には浸り、また羽柴軍は盲船(船上の総矢倉の周囲を厚い盾板で囲った軍船)によって
>攻撃を仕掛けたため、大田郷はついに降伏を申し出た。
>秀吉は郷の棟梁50人を捕えて磔とし、残党は許した。
>しかし船によって太田郷から逃亡した郷士は、松木刑部、同雅楽助など3000人余りに及んだという。

>秀吉による、雑賀大田郷水攻めの逸話である。
(武徳編年集成)

823 :人間七七四年:2014/11/10(月) 01:27:37.72 ID:cK8J3ggB.net
>>821-822は秀吉の集大成といった感じだな。
毎日堤防工事を巡検して、工事が早く進んでいた箇所の担当に即座に褒美を与えるところは
信長に仕え始めた頃に石垣修理を迅速に行ったことを思わせるし、
水攻めはもちろん備中高松城のそれ。

824 :人間七七四年:2014/11/10(月) 17:28:00.96 ID:i4tWbX+A.net
>天正13年(1585)正月7日、越前大野城主であった金森長近は、羽柴秀吉に
>『飛騨の国、攻め取り次第に与える』
>との墨付きを得、越前より飛騨に攻めいった。

>ところが飛騨の国人たちはこの侵攻に対し同盟を結び強固に抵抗したため、長近は入国することが出来ず、
>二度にわたって合戦に打ち負ける有様であった。
>この時、とある長瀧寺社僧が

>『金森と 銘は打てども 爪切りの 断つに断たれぬ飛騨の細布』

>『金森は 袴のまち(両足を分ける部分)にさも似たり 腰が立たねばヒダも取られず』

>と詠んで、長近を嘲笑した。

>このような状況の中、美濃郡上郡の遠藤慶隆は、長近の嫡男可重の舅であった関係から、長近に対して、
>舎弟慶直、同胤元、胤安、その他家来多数を加勢の軍として出し、白川において合戦となった。
>しかしこの加勢の軍も、慶直家来鷲見弥五右衛門、遠藤彦次郎などが討ち死にし、一門の胤安も負傷し、
>飛騨勢の破竹の勢いに、金森はまたもや敗北したのである。
(濃北一覧)

825 :人間七七四年:2014/11/10(月) 17:30:35.58 ID:i4tWbX+A.net
↑の話を読んで感じたこと。
飛騨なんて生産力も低く小国のイメージしかないが
険しい山がちの地形で攻めるのは難しかったんだな。
ある意味スケールの小さな蜀という感じがするよ。

826 :人間七七四年:2014/11/10(月) 17:32:50.85 ID:i4tWbX+A.net
>天正12年(1584)、4月9日の長久手の戦いで、池田恒興、森長可らを討ち死にさせてしまった羽柴秀吉軍、
>その後家康・信雄連合軍との対峙が続いたが、四月晦日、秀吉は浅野長政を呼んでこう宣言した

>「明日、寅の刻(午前3時頃)より家康たちのいる小牧山城に対して決戦を仕掛ける!」

>これに秀吉軍の諸将は、翌日の総攻撃に向けて各自準備をしていたが、開けて5月1日、秀吉の発した
>命令は驚くべきものであった

>「堀久太郎は楽田に留まり、加藤光泰は犬山城を守れ!そして我々は、大垣城に撤退する!」

>前日とは全く逆の内容である。だが秀吉はかまわず撤退の部隊配置も尽く細かく指定し、出陣予定だった寅の刻、
>大垣に向かって出発した。

>秀吉らが宇留目の船橋にかかった頃、殿を任された細川忠興、木村重茲、神子田正治らは「もし敵が追尾してくれば、
>一戦して先日の無念を晴らそう!」と勇み、陣払いをしてその場を焼き払い、その煙の下から引き退いた。

>徳川軍は小牧山よりこれを見て、「追い打ちをしよう!」と勇み出陣しようとした。が、この時徳川家康はこの状況を見て

>「敵は大軍である。大軍の動きは推測しがたい。当然、我々を討つための仕掛けもあると考えるべきだ。
>一人もあの敵を追ってはならない!」

>と厳命した。しかしその命令より前に、斥候として出陣していた14,5騎がこの撤退する秀吉軍を追いかけ
>首10級ほども討ち取った。これに細川忠興の手より弓削将監、園部某などが取って返し猛烈な反撃を加え、
>この斥候の騎兵のうち二人が討ち取られて引き返した。これ以外に、撤退する秀吉軍に攻めかかろうとする
>敵はなかった。

>やがて秀吉が大垣に引き上げたことが確認されると、北畠殿(信雄)もその日小牧山から出て、伊勢河内に帰陣した。

>秀吉の、小牧長久手戦線からの撤退の模様である。
(続武家評林)

827 :人間七七四年:2014/11/10(月) 18:08:46.75 ID:i4tWbX+A.net
↑の話。まさしく文字通り狐と狸の化かし合いだな。
信雄は蚊帳の外w

828 :人間七七四年:2014/11/10(月) 18:11:22.19 ID:i4tWbX+A.net
>小田原の役の時の話。

>小田原城を目指すべく、碓氷峠を越えて上州入りした前田利家率いる北国衆は松井田城を攻めるとともに、
>一部の軍勢をその近くの支城に向けた。

>その1つである幽崖城(西牧城)に対しては、依田康国が攻撃を加えた。

>城主である武将多目周防守長定は奮戦するも多勢に無勢、とうとう城を捨てて落ち延びた。

>しかし追撃は激しく、長定は近くの山まで逃げるしかなかった。

>すると山頂付近に切り立った岩壁(地元では「メンバ岩」と呼ぶ)があり、そこからは藤つるが伸びている。

>長定と家来たちはこれ幸いと、この藤つるを伝って岩壁の上まで登ると、追手が来れないように藤つるを全て断ち切った。

>しかし翌朝目覚めてから彼らは気づいた。

>降りられない・・・。

>降りる手立てとなる藤つるは前日に全部切ってしまったのだ。

>あわれ長定主従、そこで覚悟を決め、小田原の方角を向いて自害したという。

>そんな物語があることから、この山は物語山と呼ばれてるのだそうな。

(下仁田町史)

829 :人間七七四年:2014/11/10(月) 18:13:46.85 ID:i4tWbX+A.net
↑可哀想だけど笑ってしまった。
後先を考える余裕が無かったんだろうな

830 :人間七七四年:2014/11/10(月) 18:45:01.99 ID:i4tWbX+A.net
>鬼の住まう国

>京を擁する山城国の隣に位置しながら、山がちな地形もありどうにも影の薄い丹波。
>戦国時代に至っても強力な戦国大名が登場せず、各地に割拠する国人達が
>好き勝手やっていた印象しかない方も多いのではないだろうか。
>しかし丹波にも誇るべき点がある。山岳地帯で鍛えられた屈強な兵たちの存在だ。

>そして、そんな丹波兵を率いる数多の国人領主の中でも
>特に勇猛だった4人の武将である赤井直正・荒木氏綱・波多野宗高・籾井教業。
>彼らはいつしか「鬼」の名を冠するようになり、それぞれ
>赤井直正は「赤鬼」
>荒木氏綱は「荒木鬼」
>波多野宗高は「丹波鬼」
>籾井教業は「青鬼」
>という異名を持っている。
>戦国時代、「鬼○○」とか「○○鬼」と称された武将は数多いが、
>一国から4人も輩出というのは余り例がない。
>しかもそういった渾名を残す武将の多くが統一政権を樹立した
>織田・豊臣に縁ある者達であることを鑑みると、
>後世大名になれなかった丹波国人からこんなにも「鬼」が出た事は
>凄まじいかもしれない。
(続く)

831 :人間七七四年:2014/11/10(月) 18:46:26.39 ID:i4tWbX+A.net
>これらの「鬼」達は、細川・三好・織田といった中央政権にも容赦なく牙を剥いている。
>中でも「赤鬼」こと赤井直正は三好家の出世頭・内藤宗勝(ギリワンの弟)を敗死させたり
>信長配下の明智光秀を何度も撃退するなど、丹波に手を出す侵略者をことごとくぶちのめした。
>また、彼の配下には2名、「鬼」の名を取った兵士がいたという記録もある。
>「荒木鬼」は明智光秀に出仕を請われているし、
>「丹波鬼」の子孫からは明治期の司法大臣が出ている等
>他の「鬼」達のエピソードにも事欠かない。(まあ青鬼は後世の創作説が有力だけど…)

>東部に青鬼、中部に赤鬼・荒木鬼、西部には丹波鬼。
>そして彼らに仕える数多の「鬼」と呼ばれる兵士たち。
>このように丹波の武将がやたらと鬼呼ばわりされるのには理由があり、
>「山」というある種の異界に接する地域には
>異界からの来訪者である鬼の伝承が昔から多いという傾向があるらしい(学術的に)。

>そこかしこの地域を「鬼」が治める修羅の国…それが、権力者をも手こずらせた丹波国の真の姿である。

832 :人間七七四年:2014/11/10(月) 19:45:56.37 ID:i4tWbX+A.net
>>830-831を読んで面白い事に気付いた。
酒呑童子の大江山も丹後だよね。
丹後は昔から鬼と深い関係がある国なんだろうな。

833 :人間七七四年:2014/11/10(月) 19:54:54.29 ID:wHHvemrq.net
>>832
天の日矛以来では?

834 :人間七七四年:2014/11/10(月) 20:37:18.33 ID:VtBFhyk6.net
>>833
ぐぐってみたら『日本書紀』に
崇神天皇の時代、“額に角を生やした人”が舟にのって流れ着いた
そしてその場所を角鹿と呼ぶようになり
それが敦賀になったという話が出てきた。
たしかにそれがルーツかもしれない。
興味深い意見ありがとう。

835 :人間七七四年:2014/11/10(月) 20:41:46.85 ID:VtBFhyk6.net
>明応2年(1493)4月22日、右京兆・細川政元によるクーデター、いわゆる『明応の政変』が起こる。
>京では足利義材派の畠山政長、葉室光忠などの屋敷が次々と破壊された。

>さてその時、河内に出陣していた将軍足利義材の後室など、将軍家の女性たちは多くが、
>義材の姉が尼として入っている通玄寺に避難していたが、クーデター派はこの尼寺にすぎない
>通玄寺も襲撃に及んだ。

>と、ここで襲撃部隊は残忍な仕打ちをした。
>彼らはここに避難していた将軍後室、その女官たち、さらには義材姉をはじめとした寺の尼達まで
>衣服を全て剥ぎ取って京の町中に放り出した。

>赤裸にされたこの高貴な女性たちは、致し方なく、ある者は筵を身にまとい、ある者は経典を体に巻き付け、
>泣き叫びながらあちこちに逃げ惑い、路頭をさまよった。

>『北野社家日記』には「前代未聞の事件であり、筆にするのもはばかられる」と、
>この事件を憤りを持って記録している。

>明応の政変で高貴な女性たちに降りかかった悲劇についての記録である。

836 :人間七七四年:2014/11/10(月) 20:45:12.68 ID:VtBFhyk6.net
↑の話を読んで、どの時代にも変態的残忍さを持った奴はいたんだな、と思った。
当時の高貴な女性にとって全裸で町中に放り出されるなんて
ある意味殺されるより辛いだろう。
おそらく自害した女性もいたに違いない。

837 :833:2014/11/10(月) 21:07:30.37 ID:AW2v22Tx.net
>>834
ちなみに丹後ではなく丹波ですね
ツッコミスマソ

838 :人間七七四年:2014/11/10(月) 21:25:19.94 ID:VtBFhyk6.net
>>837
wiki情報だと丹後となっていますよ
尤も
>なお、酒呑童子の本拠とした「大江山」は、この丹後の大江山であったという説のほかに、京都市西京区にある山城国と丹波国の境、山陰道に面した大枝山(おおえやま)という説もある
とも書いてありますけど

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%B1%B1

839 :人間七七四年:2014/11/10(月) 21:27:49.30 ID:VtBFhyk6.net
>毛利配下の備中高松城を羽柴秀吉率いる織田の軍勢に囲まれ、小早川隆景から救援を求められた吉川元春は、家臣たちが

>「隆景様は殿にばかり危険な戦いを任せ、自分は出ようともせぬ。この度の戦は隆景一人に任せればよいのだ。」

>と隆景に対する不満を述べた際、

>「もっともな言い分だが、隆景では秀吉には勝てぬし、兄弟である以上、毛利家の為に見捨てるわけにはいかない。
>皆が行かぬのであれば、自分一人で駆け付け、隆景と命運を共にするまでだ。」

>と弟をかばって諸将を説得して出陣した。ところが、この戦いの陣中では作戦を巡って隆景と意見が合わず、

>「秀吉は尼子とは違い、油断のならぬ相手です。兄上の様に勇ましさだけで勝てる相手ではありませんぞ。」

>と諌める隆景に対し、

>「武道の道を心得ていないのは隆景の方だ!」

>とやりあうこともあったという。

840 :833:2014/11/10(月) 21:31:29.07 ID:exiBGxea.net
>>838
>>830の鬼達の国が丹波って事です

841 :人間七七四年:2014/11/10(月) 21:32:23.45 ID:VtBFhyk6.net
>>839の話
自分もここは元春が正しいと思う。
実際に戦場に出て戦うのは元春の領分では?

極端な話、元春=張良、隆景=蕭何の役割分担で上手くいくと思うから。

842 :人間七七四年:2014/11/10(月) 22:12:17.61 ID:VtBFhyk6.net
>>840
ああ、自分誤読してました
ご指摘ありがとうございます

843 :人間七七四年:2014/11/10(月) 22:15:07.23 ID:VtBFhyk6.net
>天正5年(1577)、松永久秀が信貴山城に滅びると、織田信長はこの信貴山攻めを行った
>佐久間信盛を呼び

>「これまでの功績と合わせ、播磨一国を与える」

>と伝えた。この頃佐久間信盛は、畿内を始め尾張、西三河などに多くの所領と配下与力を持ち、
>これにさらに播磨一国まで加われば、織田宗家に優に対抗できるほどの勢力となる。
>当時の佐久間信盛への信長の信頼がどれほどのものか、よく分かる話であろう。

>が、信盛はそれを断った

>「所領は要りません。それよりも…」

>信長所秘蔵の茶道具の一つ、古作の播知釜を望んだのだ。

>「それは…」

>と信長も躊躇したが、信盛の功績に鑑み、ついにこれを与えた。


>後、佐久間信盛はご存知のよう追放される。そしてこの播知釜は、信守の遺品として、息子信栄に伝えられた。
>信栄は高名な茶人と成ったが、この父の形見の播知釜で、よく茶を立てたとのことである。

>滝川一益が上野に変えて名器を望んだのは、この先例があったためかもしれません。
>佐久間信盛と「播知釜」のお話。

844 :人間七七四年:2014/11/10(月) 22:18:25.18 ID:VtBFhyk6.net
>>843の話、信貴山と名茶器って呪いがついているのでは?あるいは
松永久秀の呪いで信盛はああいう悲惨な末路を迎えたのでは?と思ったのは
自分だけではあるまい。

845 :人間七七四年:2014/11/10(月) 23:05:25.84 ID:xzh6ixkL.net
>「新宮党粛清」

>尼子氏はもともと出雲に土着していた国人ではなく近江京極氏の一族で、
>京極高秀の子高久が犬上郡甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)を領して以来、尼子氏を名乗るようになった。

>明徳三年(1392)、高久の子・刑部少輔持久は出雲守護代に任じられて月山富田城(島根県安来市)に入り、ここに出雲尼子氏が起こる。

>その後持久の孫・経久が紆余曲折を経ながらも勢力を拡大し、尼子氏は山陰の一大勢力となっていった。

>さて、経久の二男国久とその子誠久・豊久・敬久らは、月山富田城の北麓新宮谷に居館を構えたことから新宮党と呼ばれていた、
>尼子氏の勢力拡大は彼ら新宮党の活躍に負うところが多く、特に軍事面では尼子氏の中核をなしていたと言っても過言ではない。

>ちなみに経久の嫡男政久が永正十五年(1518)に戦死していたため、経久は天文六年(1537)に孫の晴久に家督を譲っており、
>晴久の叔父である国久は大きな発言力を持っていた。

>しかし天文二十三年の今日十一月一日、晴久は定例の評議のため登城した国久・誠久・敬久ら新宮党を襲い、ことごとく殺害してしまった。
>その際、誠久の五男孫四郎のみは乳母に抱かれて逃れ、のち京都東福寺の僧となる。

>尼子氏の軍事的柱石であった新宮党が、なぜこのような形で粛清されたのか原因はいろいろ考えられるが、
>一説には毛利元就がいずれ対決する運命にある尼子氏の弱体化を図り、
>偽書を用いて新宮党に謀叛の企みありとの風説を流し、晴久を疑心暗鬼に陥れたと言われている。
(続く)

846 :人間七七四年:2014/11/10(月) 23:07:21.73 ID:xzh6ixkL.net
>当時晴久と叔父国久の間には微妙な空気が流れており、元就はそれを上手く煽ったわけである。
>事実、新宮党には少々度を超えた言動もあったようで、加えて国政にも口出しをしてくる国久に対し、
>当主晴久が次第に面白いからぬ感情を抱くようになっていたのかもしれない。

>ともあれ新宮党はここに滅び、尼子氏の屋台骨は大きく傾いた。

>見事に計略を成功させた元就は翌年安芸厳島に陶晴賢を破って勢いに乗り、大内氏をも滅して後顧の憂いを絶つと、
>次なる侵略の矛先を石見へと向けた。

>尼子氏は晴久が永禄三年(1560)十二月に急死したため義久が跡を嗣ぐが、もはや往年の勢いはなくジリジリと毛利軍の侵略を許し、
>ついに同九年十一月に元就に降伏開城するという結末を迎えることになる。

>なお、尼子氏の重臣山中鹿介は主家再興を目指し、後に京都に隠棲していた勝久を当主として担ぎ出すことはよく知られているが、
>夢を果たすことなく播磨上月城で自刃した尼子勝久こそ、この事件の際にたった一人生き残った孫四郎その人である。

847 :人間七七四年:2014/11/10(月) 23:11:23.28 ID:xzh6ixkL.net
>>845-846の話、自分は絶対毛利元就の謀略が有ったと思う。
つまり元就のちょっと悪い話。
彼ほど実際には梟雄でありながらそういうイメージ(斉藤道三とか松永久秀みたいな)を
持たれていない戦国武将はいないと思う。

848 :833:2014/11/10(月) 23:20:14.04 ID:hiyp+1Tf.net
>>842
丹波は海のない国ですから天の日矛も上陸したのは丹後かも知れませんね

849 :人間七七四年:2014/11/10(月) 23:51:47.13 ID:xzh6ixkL.net
>>834にあるように敦賀じゃないんですかね
敦賀だったら丹後でも丹波でもなく若狭になりますね

850 :人間七七四年:2014/11/10(月) 23:54:44.88 ID:xzh6ixkL.net
>服部小平太の墓?の悪い話

>静岡県浜松市細江町姫街道長坂付近に服部小平太の墓がある。
>服部小平太といえば桶狭間の戦いで毛利新介と共に今川義元を討ち取った彼である。
>後に徳川に仕えた小平太は勲功として刑部城周辺の地を治めることになったのだが、天正十五年(一五八七)六月十八日に小平太は神ヶ谷の陣から馬で見回りをしていたところを何者かに殺されたという。
>このあたりは今川恩顧の者が少なくなかったことから服部小平太を恨んでいた人物が殺したのでは?と地元では言われているらしい。
>以上が桶狭間で戦功を上げた服部小平太が何者かに殺されたという悪い話…

>だが待って欲しい。服部小平太は秀次事件に連座し上杉景勝に預けられた後に切腹を言い渡され亡くなっているはずでは?

>どうやらここで殺された服部小平太と言われてる人物は服部中保次という服部小平太こと服部一忠とは別人の人物らしいのだ。
>「寛政重修諸家譜」の服部中保次の説明で桶狭間で義元の本陣に対し戦功を上げたと書かれていたため服部一忠と混合されたと考えられている。
>以上が服部小平太の墓と伝えられていたものが実は別人の墓だったという悪い話である。

851 :人間七七四年:2014/11/10(月) 23:57:31.24 ID:xzh6ixkL.net
>>850の話を読んで驚いた、というより自分の無知さを恥じた。
服部小平太なんて桶狭間で名前が出てくるだけの人だと思っていたが
その後領主に出世しいたとは

852 :人間七七四年:2014/11/11(火) 00:28:51.59 ID:QFiOmZnr.net
>竜造寺本家の当主である胤栄が病死した際、竜造寺から攻められ筑後に亡命していた
>少弐冬尚が、復権の好機とみて肥前に侵入してきた。これを受け、家中の話し合いにより胤栄の跡を
>継いでいた竜造寺隆信は、重臣を集め

>「我が代で国が乱れるのは許せぬ。すぐに出兵しよう。そして少弐家を討ったら東を得よう。次に有馬家を
>討てば西は治まる。それが成功したら、今度は隣国に出陣し菊池家や島津家をも従えて、中国、四国にも乗り出すのだ。」

>と宣言した。所が家臣から

>「まだ国内も治まっていないのに、諸方へ手を出しても敗れるだけです。」

>と諌められ、隆信もこの意見に激怒して軍議の場から退出してしまった。この一件で、重臣からは

>「あれでは国を治めることは出来ない。」

>と嘆かれてしまったという。しかもこの後、かねてより隆信の本家相続を快く思っていなかった土橋栄益に
>謀反を起こされてしまったという。 夢を語るには早すぎた隆信の悪い話。

853 :人間七七四年:2014/11/11(火) 00:32:49.01 ID:QFiOmZnr.net
>>852の話、龍造寺隆信大風呂敷広げすぎ、取らぬ狸の皮算用しすぎ、おまけに唯我独尊。
のちに太りすぎで馬にも乗れず、家来にも見捨てられ泥田の中を転げまわっているところを
討ち取られてしまったというだけのことはある

854 :人間七七四年:2014/11/11(火) 00:35:37.71 ID:QFiOmZnr.net
同じ戦場で討ち取られたにしても今川義元は
服部小平太の足を斬り毛利新介の指を食いちぎって抵抗し、
公家化した軟弱な武将のイメージを多少なりとも払拭したのに。

855 :人間七七四年:2014/11/11(火) 01:22:14.94 ID:QFiOmZnr.net
>石見銀山の支配権を巡り、毛利氏と尼子氏が激しく争っていた永禄2年(1559)2月、毛利元就は次男・吉川元春に、
>尼子に味方する小笠原長雄の居城・温湯城の攻略を命じた。

>しかし、信濃守護家の流れを汲むという長雄の篭る要害は、元春の猛攻をも弾き返し、長男隆元・三男隆景そして
>元就自身までもが温湯に出陣、毛利家総出で攻城に当たる事態に陥った。

>「父上、申し訳ございませぬ・・・!」
>「よい、元春。このまま、お前も攻め手に加われ。かくなる上は土竜攻めじゃ。金掘り衆をもって山腹を掘り進め、
>城の本丸まで抜け穴を作り、一気に内側より奇襲をかけよ!」

>元就号令のもと、石見銀山の鉱夫が集められ、連日に渡り坑道が掘り進められた、ある日のこと。

>「おい、こっちに空洞があるぞ!」
>「本当か!?よし、好都合じゃ。そっちを掘れ、掘れ!!」
(続く)

856 :人間七七四年:2014/11/11(火) 01:24:16.03 ID:QFiOmZnr.net
>工事がはかどる、とばかりに喜んだ鉱夫たちが空洞を掘り広げたその先には、

>人がいた。

>なんと城方でも同じ事を企て、坑道を掘っていたのだ。
>「や、やぁ」「お、おぅ」予期せぬトンネル開通を祝い、感動のうちに両者は固い握手を交わし、
>・・・となるハズもなく、文字通り日の当たらぬ場所で泥仕合が始まった。

>結局毛利軍は城方に撃退され、土竜攻めに失敗。あきらめた元就は普通に兵糧攻めを行うことを決意、
>半年近く経った7月下旬、城主・長雄の降伏により、毛利氏が1万2千余の軍勢を動員した城攻めは
>ごく平凡な結末を見たという、珍しく元就の策が見事な空振りに終わった話。(毛利元就記より)


>この土竜攻めの際、毛利軍は5ヶ所を基点に坑道を掘り進めたが、そのうち3ヶ所で城方との遭遇戦が
>発生したそうな。どんだけ穴掘ったんだ。
>というわけで邑智郡川本町にお住まいの方、謀神の遺産による突然の落盤にご注意ください。

857 :人間七七四年:2014/11/11(火) 01:28:23.03 ID:QFiOmZnr.net
>>855-856の話を読んで笑った。まるで漫画。
でもよくよく考えると城内から坑道を掘ってどうするつもりだったんだ。
敵陣の背後に出て奇襲を仕掛ける?

武田の専売特許と思っていた坑道を掘っての城攻めは実は色々なところで使われていたんだな

858 :人間七七四年:2014/11/11(火) 02:04:09.50 ID:QFiOmZnr.net
>『天正6年(1578)10月、荒木摂津守(村重)反逆のこと、方々より注進があった。
>信長はこれを聞き及び、
>『これはきっと、村重が何者かに騙されているのだ。そうであれば宥めることが出来るはずだ!』
>そう考え、松井友閑、惟任(明智光秀)、万見仙千代を10月下旬に遣わした。

>村重は家老に対し、彼らと対面し、近いうちに信長のもとに出仕すると言うつもりだ、と伝えた。
>しかしこれを聞いた家老は、すかさず諫言に及んだ

>「この度の事は、もはやその科を逃れることは出来ません!このまま出仕を止められるべきです!」

>村重も内々にそう考えていたので、家老の意見に同調し、使いの三人に対面すると、そう言い切って、
>信長への敵対の姿勢をはっきりと打ち出した。
(続く)

859 :人間七七四年:2014/11/11(火) 02:06:14.65 ID:QFiOmZnr.net
>そもそも荒木村重は、信長の厚恩により出頭した者であって、特に摂津一国を与えられ、反逆など
>有り様はずもなかったのだが、彼に対して、信長の寵愛する小姓、長谷川藤五郎(秀一)がしきりに慮外を企てた。

>ある時のこと、信長が三河岡崎城を訪問した時、それに従っていた荒木村重が門の所立っていたところ、
>長谷川は2階から、村重に向かって尿をしかけた。

>これに気がついた人が、村重にそのことを伝えたが、村重は「苦しからず」と言ってその場を立ち去ろうとしなかった。

>こんな事があったために、謀反に及んだのだ、と言われている。』

>つまり、当時信長の寵童であった長谷川の嫌がらせに当初は耐えたものの、これが原因で、そんな長谷川を
>重用している信長に対し逆心を抱いたのだ、ということである。

>『当代記』より、荒木村重謀反の理由についての記載である。

860 :人間七七四年:2014/11/11(火) 02:12:13.12 ID:QFiOmZnr.net
>>858-859の話、意外だった。
荒木村重はいわゆる「信長コワイ病」に感染して謀反を起こしたと思っていた。

もし彼がここで長谷川を斬り捨てたら若き日の前田利家
(信長お気に入りの茶坊主を斬り捨て、しばらく出仕停止処分を受けた)
程度の処分では済まされなかったのかな

861 :人間七七四年:2014/11/11(火) 18:39:14.40 ID:JB8j+tHT.net
>天文15年(1546)10月のこと、京の内裏に、数千人の土一揆が、天皇に直訴するために押し寄せた事があった!
>噂ではこれは、幕府の奉公衆や奉行衆のうち、一揆の相談を受けた2,3人のものが、そうしろろ支持したのだ、
>とも言われた。

>ともかくも一揆側の直訴内容はこうだ

>『幕府が徳政令発布を認めないので、我々は迷惑をしております。どうか朝廷から幕府へ、徳政令を行うように
>仰っていただきたい。』

>この突然の直訴に慌てた朝廷では、後奈良天皇の御前で緊急会議が行われた。
>天皇は内裏に土一揆が乱入することを心配し、「幕府に徳政令を促そうと思うが、どうか?」と発言。
>これに勧修寺尹豊などは賛同の意を表した。

>しかしこの時、広橋兼秀らが猛然とこれに反対した。
>兼秀はいう

>「これは間違いなく、後代に悪しき先例を残します!また世上の嘲りをご推察してください!
>たとえ一揆が乱入しても、我々が力づくで追い払います!」

>このような意見に結局後奈良帝も、直訴を受け入れないことに決定した。
>そこで、この時朝廷は、直訴を受けない理由を、土一揆にどう説明したか?その内容はなんと

>『正当な訴訟なら白昼に持って来るべきなのに、このように「夜中の強訴」をするとは狼藉千万である。
>よって聞き入れるわけにはいかない。』

>そもそも内容以前に手続きルール違反だからダメだわ。ということである。これに土一揆は…

>『それは尤もである』

>と、納得し、帰っていったそうである。


>幕府に対してすら傲慢なのに、変なところで素直な土一揆であった。
(兼秀公記)

862 :人間七七四年:2014/11/11(火) 18:42:26.74 ID:JB8j+tHT.net
↑の話、朝廷と土一揆のやりとりが
お役所的で笑った。
さすがの土一揆も朝廷には敬意を持っていたのかな

863 :人間七七四年:2014/11/11(火) 18:44:49.72 ID:JB8j+tHT.net
 >徳川二代将軍の秀忠は江戸の鉄砲町で刀鍛冶をしている繁慶という男の腕が良いという評判を聞き、
>彼の作刀を取り寄せた。その出来があまりにも見事なので秀忠は本阿弥家の者に見せてみた。
>本阿弥光悦を輩出した本阿弥家は戦国から江戸時代にかけて刀剣鑑定の家業で有名な一族である。
>その本阿弥家の男は刀を一見してすぐさま「これは相州正宗のものでございます」と言った。
>正宗は鎌倉時代に活躍した刀工の名前である。
>「外れたわ。これは繁慶という男が最近作った刀だ」と言って秀忠は笑った。本阿弥は驚いて
>刀に彫られた銘を確かめると、「恥ずかしいことです。しかしながら、今の世にこれほどの刀を打つ者が
>いようとは思いませんでしたな」と絶賛した。当の本人の繁慶はこの話を聞いても喜ばず、
>「俺の刀が正宗ごときの凡工の作と間違えられるとは」と不機嫌になった。

>明治時代になり、大久保一翁という男が繁慶の刀を本阿弥長識に見せると
>これもまた、見ただけでこの刀は正宗だと自信たっぷりに答えた。一翁に間違いを指摘されると
>本阿弥長識は「正宗を模造して作ったのだから繁慶正宗と称するべきです」と開き直った。

>刀剣鑑定のプロの一族が鑑定ミスを繰り返してしまったちょっとかっこ悪い話

864 :人間七七四年:2014/11/11(火) 19:19:53.52 ID:JB8j+tHT.net
↑素直に間違いを認めた先祖に比べて子孫は往生際が悪いな

865 :人間七七四年:2014/11/11(火) 19:22:41.82 ID:JB8j+tHT.net
>荒木村重の織田信長への謀反が起こる。
>その謀反に味方したものの中に高野聖があり、それが高野山に逃げ込んだ。
>信長はその者たちを差し出せと使者を送ったが、高野山では僧徒がこの使者の態度に怒り、これを殺してしまった。
>この事態に延長は激怒、『諸国の高野聖を捕えて殺せ!』との命令を発した。

>そこで伊勢でも数百人の高野聖やその関係者が捕らえられ、松ヶ島で処刑される事となった。
>この処刑を、織田信雄・信孝兄弟が検分した。

>処刑は次々と行われ、最後に15歳くらいの少年が引き出された。
>この少年が顔を上げる。…と、

>「…!!まて!その処刑、待て!!」

>織田信雄が突然これを止めた。少年はその容貌、非常に美しく、信雄は彼を見初めてしまったのだ。

>「この者は、私の名において助命いたす!」

>信雄はそう宣言し、少年の身柄を引き取った。

>この様子を見ていた織田信孝は、白子杢右衛門尉というものを呼び出すと、いきなり呟いた

>「尻ゆえにこそ命たすかれ」

>これに白子はすぐさま

>「蜘蛛(ささがに)の 糸あはれにも引き出して」

>と、上の句を付けたという。信雄への強い皮肉である。
>信雄はこの少年に「道也」と名をつけ寵愛し、彼は信雄のもとで大いに「出頭」したという。

>この軍記を書いた作者は、当時の世相をこの様に書いている
>『今、諸家では男色に溺れ、佞者を愛し、そういう者に大きな知行を与えて国を乱すものが多数いる。』

>傾国の美女ならぬ、傾国の美少年が数多いた時代の記録である
(勢州戦記)

866 :人間七七四年:2014/11/11(火) 19:26:35.56 ID:JB8j+tHT.net
↑の話
傾国の美少年が当時珍しくなかったことは知っていたが
驚いたのは「尻ゆえにこそ命たすかれ」という文句
当時から男色のことを「尻」と表現していたのは知らなかった。
この板に武田信玄のことを「尻大名」としているタイトルのスレがあるが
まんざらふざけたスレタイでもないのか。

867 :人間七七四年:2014/11/11(火) 20:11:13.31 ID:JB8j+tHT.net
>かつて応永の乱の主役たる大内義弘が築いた山口の築山館。
>その庭園には「月見の松」なる名木があり、
>その月影に映える枝ぶりは代々の当主の心を大いに和ませるものであった。

>さて、天文十五年。大内義隆公の御世のことである。
>この築山館にて松の枝に掛かる秋月を肴に義隆公が月見の宴を開いていたところ、
>館の塀の上に怪しげな影の一つ、蠢くものがあった。
>義隆公は大いに怪しみ、急ぎ宿直の者を呼びつけてこれを撃つように命じる。
>命ぜられた武士、松原隆則は弓矢を取り出してひょうと射放つと、矢は狙いあまたず影を射抜き、
>射抜かれた影はどうと庭へと崩れ落ちた。
>この時射殺された影を改めて見ると、それはまごう事なき天花畑の山奥に潜む山姥の姿で、
>これを見事退治した松原隆則は大いにその面目を施したという。

>だが、常日頃になき妖怪の出没は、周防の人々によからぬ事が起きる予兆を強く感じさせた。
>そして果たして五年後の天文二十年、陶晴賢の謀叛により大内義隆公は太寧寺に自刃に追い込まれ、
>件の松原隆則も主君を守って遭えなく討ち死にを遂げてしまうのである。

>大内家の衰運が妖怪を呼び込んだか、
>はたまた妖怪の呪詛が大内家を衰亡に導いたか、
>どっちにしてもいい話じゃなさそうなお話

868 :人間七七四年:2014/11/11(火) 20:13:24.17 ID:JB8j+tHT.net
↑みたいな妖怪、時代は違うが源頼政の鵺退治とか
実話じゃないだろうけど、当時の人々にとっては「実話」だったんだろうな

869 :人間七七四年:2014/11/11(火) 20:44:09.99 ID:JB8j+tHT.net
>織田信長を語る上で、外せないのが桶狭間合戦。
>合戦前後を含めたエピソードは真偽不明のものまで混在して事かかないが、その中の一つ。

>敦盛舞って湯漬け食って飛び出した信長は、熱田神宮に参拝しつつ味方を待つ。
>が、相手は大軍で兵士達の意気は上がらない。
>そこで信長、十数枚の銭を取り出して、
>「天意をうかがおう。ばらまいて表の面が多く出れば勝ちだ」
>と、放り投げた。
>皆が注視する中、音を立てて落ちた銭は……なんと、一枚残らず表!
>これを見た織田兵は勇気百倍、勇んで戦いに望んだという――
>……実はこの銭、両面を打ち付けて全部表が出るように細工したもの。
>味方を奮い立たせる信長の、知恵であった。

>が。
>実はこの話、中国・宋代の名将・狄青の逸話とそっくり。
>信長公記のような信憑性ある史料には欠片も乗っていないことから、中国の故事を下敷きにした創作なのはまず確実。
>信長が故智に倣った可能性はまぁゼロではないだろうが……。
>銭絡みだけにマネーしたのか、というオチの悪い話w

870 :人間七七四年:2014/11/11(火) 20:47:49.51 ID:JB8j+tHT.net
↑の話みたいに、戦国の逸話には中国の古典からの流用が結構あるんだろうな
毛利元就の三本の矢の教えもそうだし
三方ヶ原で負けた後家康が城門を開けっ放しにしたため
何か策があると警戒した武田が引き返したというのは
三国志の空城の計の流用と思う

871 :人間七七四年:2014/11/11(火) 21:59:56.15 ID:nvNa7Brn.net
> 天正三年のことである。
> 阿波を実質的に支配する三好長治は父義賢に似ても似つかぬ暗愚の君主であり、若年にして政務を蔑ろにし、
>酒色に耽る生活を送っていた。
> 己に諫言するものに対しては極めて暴慢であり、この前年には重臣篠原長房父子をその一族篠原自遁の讒言を容れて
>上桜城に攻め滅ぼし、この三年にはやはり諫言を行った讃岐の香川、香西両氏を憎み、その上司である実弟十河存保を
>無視する形で兵を遣わして攻めさせている。

> そんな不安定化の進む情勢を理解していたのかいなかったのか、長治には長らく抱く一つの夢があった。
> それは三好氏の支配する領国全ての家臣、民草に、三好氏代々が信仰する法華宗への改宗させると言うものだ。
> 当時の阿波は真言宗の強い土地で、主に畿内に勢力を持つ法華宗はほとんど信仰されていなかった。長治の父義賢はその晩年、
>法華宗への帰依を深めて堺に妙国寺を建立したりもしている。法華宗の勢力を強めることは、親孝行になると思ったのかもしれない。
> ……父やその兄弟が健在の時代の宗教政策は全宗教保護路線だったのだが気にしちゃいねえあたりが暗愚の暗愚たる所以だろう。

>「阿波一国の衆、生まれ子まで日蓮宗になし、法華経をいただかせ、他宗の寺にでいりのことゆるされず」(三好別記)
(続く)

872 :人間七七四年:2014/11/11(火) 22:01:59.76 ID:nvNa7Brn.net
>かくしてこの年、阿波国中の寺院、領民に対して法華宗への改宗が三好長治の命によって発布された。
> ……えっ、淡路と讃岐? 諫言を蔑ろにされてる存保とか安宅信康がそれを呑むと思う?
> ともあれこの命令は軍事力に裏打ちされた強制力を持つもので、特に勢力の強い真言宗が狙い撃ちにされた。
> 多くの檀家が強制改宗に追い込まれ、人の出入りを禁じられた真言宗諸寺はたちまち消滅の危機に晒されたのだと言う。
> 無論、真言宗ほか他宗派は猛反発。大滝山の持明院、大滝寺などは即座に長治に法華宗との宗論を要求、山伏三千人を繰り出し
>強訴に及んだ。容れられなければ一戦も辞さない構えである。
> 流石の長治もこれを無視することは出来ず、宗論の要求を受け入れた上で妙国寺の開基、日bや経王寺の僧侶らを数多阿波へと招く。
> 一方で要求が認められた真言宗側も高野山から円正を招き、いざ両勢力は勝瑞で宗論に挑む!

> ……さて、その肝心の勝敗たるや、これがわからないのが実情である。
> 軍記物である『三好別記』等ではこれを真言宗の勝利とする。
> 一方で当時の文献で唯一勝瑞宗論に触れた文献である『己行記』によれば、法華宗の勝利とする。
> ただし『己行記』は宗論の当事者である日bの著作によるものであるため、客観的な記述とは言いがたい。
> ちなみにこの日b、後に安土宗論で浄土宗に負けちゃう人だったりもする。

> この後、長治の支配が民心の離反から急速に崩壊し、天正五年には細川真之に滅ぼされる事を思えば法華宗が勝ったのかも知れない。
> この後、法華宗の阿波進出がさして進まずなお真言宗が強勢であったことを思えば、真言宗が勝ったのかも知れない。

> いずれにしてもこの勝瑞宗論、法華騒動の発生を見れば長治が改宗への他宗の強い抵抗を予想できていなかったのだろう。

> 備前松田氏といい土気酒井氏といい法華宗はこの手の話が多い気がする。

873 :人間七七四年:2014/11/11(火) 22:04:59.21 ID:nvNa7Brn.net
>>871-872の話を読んで思ったこと
暗君の宗教狂いは始末に悪い

874 :人間七七四年:2014/11/11(火) 22:43:27.26 ID:nvNa7Brn.net
>天正13年7月2日、大阪の羽柴秀吉より伊達政宗の家臣遠藤山城守(基信)にあてた書状より、
>本能寺前後の記述を見てみよう。

>『(前略)

>一・先年明智が謀反を企て、夜討ちによって、今日の信長御親子は御腹を召された。
  >不慮のことであり是非もない次第であった。

  >その頃私は西国で戦働きをしており、備中において次々と城を攻め崩し、高松の城を取り巻いていたが、
  >三方に沼を抱えたこの城は、力攻めでは落とせないとこの秀吉は見てとり、水攻めにすべきと考え
  >堤を築き、備中の川は申すに及ばず、備前の川まで流れを変えさせ水を流し、このため高松城は
  >大変困難な状況になった。

  >ここで後ろ巻き(高松城の救援軍)として毛利輝元、小早川隆景、吉川元春が5万ほどの軍勢で
  >罷りでて来たが、我々と四・五町(約500メートル)ほどの間隔を開けて対陣したものの、城の救援は
  >極めて難しく、城に近づくことも出来ず、城内の困難さはさらに増して行った。

  >この時(6月)4日の巳の刻(午前10時頃)、京都において信長が御腹を召したという注進があった。

  >私は6日には高松の城を攻めこれを落城させ、城主は勿論、城内の者たちの首をことごとく刎ねた。
  >そして翌7日には毛利・小早川の陣に総攻撃を仕掛けここで討ち果てる覚悟をしていたところ、
  >毛利の方から色々と和平を求めてきて、毛利の分国のうち五ヶ国、その上人質も出すと言ってきたので
  >仕方なくこれを許してやり、これによって9日には播州姫路まで帰ったのだ。

>一・10日に人馬を途切れること無く上方に上らせ、13日に山城国山崎表において一戦し敵を切り崩し、
  >明智日向守(光秀)は「言うに及ばず、その他五千ばかりを討ち取った。
  >その上で織田家領国の不届き者はことごとく成敗するよう申し付け、御分国の混乱を納めた。

>一・そして知行割をし、信長の御子達には勿論、宿老たちに至るまでこれを分け与えた。
  >ところが播州姫路にあるこの秀吉が、五畿内の事について意見を申し上げた所、三七殿(織田信孝)、
  >柴田修理(勝家)が謀反を企てた。
  >私はなんとか平和裏に収めようとしたが、ついにこの秀吉も我慢の限界に達し、近江と越前の境である
  >柳瀬に置いて合戦することになったのである。

>(後略)』
(斎藤報恩博物館所蔵文書)

875 :人間七七四年:2014/11/11(火) 22:47:57.32 ID:nvNa7Brn.net
↑の書状、自分に都合のいいようにばかり解釈しているのはまだしも、
明らかな嘘も書いているな。
高松城内の者たちの首をことごとく刎ねたなんてw

なんのためにこんな嘘を書いたんだ?

876 :人間七七四年:2014/11/11(火) 22:50:39.60 ID:nvNa7Brn.net
>四国八十八カ所、第七十番本山寺。
>弘法大師が平城天皇の勅願により大同2年(807年)、一夜にして建立したと伝わる。
>本尊は馬頭観音、脇仏は薬師如来と阿弥陀如来。
>この寺に、讃岐が長宗我部に蹂躙されていた頃の言い伝えがある。

>長宗我部元親が土佐を掌握し、四国平定へ本格的に乗り出した頃のことである。
>讃岐本山の本山寺は、二十余りの妨を持つほどの隆盛を極めていた。
>そのため讃岐に攻め入った元親は、この寺を本陣にしようと軍を率いて境内に押し入ろうとした。
>当時の住職はこれに怒り、「境内には一歩も入れさせぬ」と門前に立ちはだかり、
>軍勢を押しとどめようとしたが、哀れ斬り捨てられてしまった。
>そのとき内陣厨子の扉が開き、阿弥陀如来の右肘から血が溢れ流れたので、
>長宗我部の兵たちは驚き恐れ、一目散に退散したのだという。
>この如来像は以来「太刀受けの弥陀」と呼ばれ、現在も右手にその傷が残っているという。
>一説には、本堂で斬られかけた住職の身代わりとなってこの如来像が斬られたので、
>恐れた長宗我部軍が驚き逃げたのだとも伝わる。

>またこの時、腹いせに長宗我部の軍勢が寺に火をかけようとしたのだが、
>にわかに蜂の大群が押し寄せてきて、軍勢は一目散に逃げ去ったので
>他の寺が多く長宗我部の軍勢によって焼かれたにもかかわらず、本山寺は無事であったのだという。

>この後秀吉によって土佐一国に押し込められ、九州攻めで嫡子を失い、
>また関ヶ原にて西軍に与したために改易をくらうなど凋落の一途を辿った長宗我部を、
>阿波・讃岐・伊予の者達や焼かれた数多の寺社関係者などは
>「神仏を蔑ろにした当然の報いである」と噂したそうな。

>ヒャッハーしようと思ったら仏罰をくらってしまった、長宗我部元親の悪い話。

877 :人間七七四年:2014/11/11(火) 23:42:30.21 ID:nvNa7Brn.net
↑の話、まるで東大寺大仏殿を焼き討ちにしたため仏罰で平清盛が
酷い熱病にかかって死んだというエピソードみたい。
因果関係づけたくなるんだろうね。
でも、「信長の悲惨な死は延暦寺を焼き討ちにした仏罰だ」とかは
ほとんど言われないのは何故だろう。

878 :人間七七四年:2014/11/11(火) 23:46:04.28 ID:nvNa7Brn.net
>細川忠興が豊前四十万石を治めていた時のこと。早朝、豊前小倉城を訪れる老人があった。

>「はい、ごめんなさいよ。忠興殿は居るかな?」
>「なんだ爺さん、ウチの殿様になれなれしい・・・・・・げぇっ!黒田のご隠居!!」

>「いかにも。忠興殿に、『如水が来た』と取り次いでもらえんかね。」

>天下にその知謀を知られた大物の、突然の来訪に細川家中は肝を潰し、城中は大騒ぎになった。
>直接もてなす立場であり、数寄者として自他ともに認める忠興は、なおさらである。

>「こんな朝早くのお越しだ、朝飯も食っておるまい。そのつもりで、手を尽くして料理いたせ。ぬかるなよ!」
>「ははっ!!」


>「お待たせしました、如水殿。して、本日の御用向きは?」
>「なぁに、用とは他でもない。お前さん、ウチの息子と絶交しておいでじゃな?」
>「・・・ええ、まぁ。」
>「何とか仲直りして、前のように付き合ってもらえんかの〜?」

>「いかに如水殿の仰せでも、そればかりは聞けませぬな。」
>「むぅ。では、お前さん方の子の代には仲良くやってもらう、というのはどうかな?」
>「うーん・・・いや、我らが死んだ後の子孫の事まで、約束は成りませぬ。」

>「ならぬか、ならぬか!じゃあ帰るわ、邪魔したね。」
>そう言い捨てた如水は、せっかくの料理にも手を付けず、さっさと帰ってしまったそうな。
(旦夕覚書)

879 :人間七七四年:2014/11/11(火) 23:47:54.23 ID:nvNa7Brn.net
↑の話。
これだけを読むと忠興も如水も凡人にしか見えない。特にあの後者が。
これぞちょっと悪い話。

880 :人間七七四年:2014/11/12(水) 00:21:06.05 ID:qcTntTUe.net
>年貢を関ヶ原合戦用に使い果たした後で安芸を福島にもってかれた毛利家。
>福島は「ルール通り、年貢戻せよ、敗軍」と威圧的な交渉。
>とはいえ、毛利家はTERUが「経営無理ポ」とすでに泣きが入っている状態。
>この時、意外な展開が。

>毛利家の交渉担当者は酒を飲んでる市松のところで返済猶予を要請。
>市松「おし、この大杯を飲み干したら返済を待ってやる」
>死ぬ気で飲みまくって毛利家の財政破綻を阻止したこの担当は

>酒の飲みすぎで体を壊して死んだそうな。

881 :人間七七四年:2014/11/12(水) 00:26:24.32 ID:qcTntTUe.net
↑の話、最初は福島正則に命じられた大杯を飲み干して死んだのだと思って感動した。
文字通り命を捨てて毛利家を救ったのだと。

しかしよく読んでみると、その担当は別にその時に死んだのではなく
普段から酒飲みでそれが原因で死んだということなんだな。

882 :人間七七四年:2014/11/12(水) 00:28:32.53 ID:qcTntTUe.net
>天正11年(1483)、秀吉の弟、羽柴美濃守秀長と羽柴孫七郎秀次は、伊勢の峰の城攻めをしたが、
>城主・滝川義太夫がこれを良く防いで戦った。
>織田信雄の家臣・津川玄蕃も同じくこの城を攻め、軍勢を集結させ城の堀際へと寄せてきた。
>この時城中から長い柄杓を使って糞尿を汲み、これを寄せ手に向かってかけ散らした。

>それから織田上野介信包(信長弟)もこの城に攻めに来たが、この時信包の部隊が城のすぐ近くまで近づき、
>こう大声を挙げた

>「我らに俳諧の発句あり!城内の人々、歌の心あらばこの脇をつけよ!」

>これに城内の誰とも知らぬものが大音で返答した

>「お前たちはどうせ、前々から発句を作っておいて、今我々に脇を乞うているのだろう!
>それがし、只今とっさに作った狂歌がある!お前たち、これに返歌せよ!」

>そして一句

>『上野の やき砥は鑓に合わねども 羽柴をしなす峰の城かな』
>(上野介程度の敵では我々の手に合わないが仕方がない戦ってやろう。ここは羽柴軍の連中の命を奪う峰の城だ!)

>これに信包の家臣たちは返答につまり、ただ城に向かって鉄砲を撃ちかけることしか出来なかった。
(北畠物語)

883 :人間七七四年:2014/11/12(水) 01:04:29.60 ID:qcTntTUe.net
>>882の話。前哨戦は発句対決になったわけね。
戦いの前になんとも風情な。
まさに文武両道

884 :人間七七四年:2014/11/12(水) 01:15:19.45 ID:qcTntTUe.net
>慶長九年、街道整備の為に徳川幕府は一里塚を築いた
>この街道整備だが、家康主体ではなく、秀忠が中心となって企画・推進したと言われる

>『台徳院殿御実記』の巻一にも
>「九年二月四日、公(秀忠)の仰として、東海・東山・北陸の三道に一里塚を築かしめらる」
>と記されてある

>家康が江戸〜京都間の東海道の宿を設定し、伝馬朱印状と伝馬定書を下したのは慶長六年(1601年)正月
>秀忠は江戸〜京都を結ぶ、東海道・中山道・北陸街道の三つを一元的に統括し
>東西の交通を掌握する必要があると考え、一里塚を築かせることにした

>さてこの一里塚、榎がかなり多く植えられている その謎についての逸話

>秀忠は一里塚築造の惣奉行、大久保長安に「よい木を植えろ」と命じた所
>長安が「えの木を植えろ」と聞き間違えたからだという

>でも榎もよい木だから間違っちゃいない

885 :人間七七四年:2014/11/12(水) 01:18:07.07 ID:qcTntTUe.net
↑の話、まるで落語だね
にしても大久保長安、金山開発だけじゃなく土木工事全般を担当していたんだな

886 :人間七七四年:2014/11/12(水) 01:50:34.69 ID:qcTntTUe.net
>姉川の戦い


>信長は浅井親子が朝倉氏に味方していることに憤慨し、「ならば先に浅井を滅ぼしてその後で朝倉を攻める」と言って
>家康公に協力を求められたので、家康公は3000余の兵を率いてご出陣なさった。
>浅井方は朝倉に加勢を求めたので、朝倉景紀が兵15000を率いて出陣してきた。

>6月28日に姉川で合戦が行われた。

>はじめ信長は「私は朝倉勢に向かうので君は浅井と戦ってくれ」と言っていたのだが、朝倉が大軍であるのを確認すると、
>急に「私は浅井勢を攻撃する。君は朝倉に向かってくれ」と言ってきた。
>徳川の御家人たちにはこれを拒否する者が多かったが、家康公は「大軍に向かう事こそ勇士の本意である」と仰せになり、
>朝倉勢に向かわれた。

>こうして朝倉勢15000が家康公の軍勢に、浅井勢8000が織田勢に向かっていった。
>徳川勢の酒井忠次らがかけ声を上げながら向かっていくと、朝倉勢もついには敗北し、真柄直隆など優れた勇士たちを多数討ち取った。
>浅井方は先鋒の磯野員昌が織田勢を11段まで切り崩し、織田勢は大混乱となった。

>家康公はこの様子をご覧になり、「織田殿の旗色が悪いようだ。崩してかかれ」とご命令になり、
>本多忠勝ら数名が浅井勢の中に向かっていった。
>浅井勢も横から攻撃を受けては防ぎきれず、混乱した。
>織田勢はこれに勇気付けられて反撃し、浅井勢は敗走して小谷城へ逃げ込んだ。

>信長は「今回の勝ち戦はすべて徳川殿のおかげである」と言い、感状のほか、長光の刀などさまざまな品を送ってきた。







                                                            >by 徳川実記

総レス数 886
517 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★