2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【治部】石田三成総合スレ 11【佐吉】

1 :人間七七四年:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN ID:yD/YjkYz.net
■過去ログ
(1)http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150512127/
(2)http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1193273145/
(3)http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1228834086/
(4)http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1243289938/
(5)http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251481680/
(6)http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1265876956/
(7)http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1285739170/
(8)http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1295082581/
(9)http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1309539113/
(10)http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320412512/501-600

2 :人間七七四年:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN ID:sMTVrD/5.net
■関連スレ
石田三成そろそろ大河いいんじゃないの 2挙兵目
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1227887458/
【大河】直江兼続を語るスレ9【放送中】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1233506283/
【舞兵庫】石田家臣を語る【横山喜内】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152884190/
【敦賀城主】大谷吉継 2【刑部少輔】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1253161122/
海の司令官〜小西行長を語り継ぐ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194989009/
【直家】備前宇喜多氏を語るスレ 2【秀家】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1289397022/
【僧で】安国寺恵瓊【大名】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152069507/
困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1204974533/
【陸奥】相馬氏を語る【下総】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211757850/
津軽為信知ってるかい?しらんだろ?
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169809266/
関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/
前スレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320412512/501-600

3 :人間七七四年:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN ID:DBGycjL9.net
頑張って豊臣政権のために東奔西走するも馬鹿毛利のせいで家康に破れ
殺された哀れな忠義者、石田三成について語りましょう。

4 :人間七七四年:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN ID:uyi3G3hJ.net
どうせまた荒れるか即墜ちのどっちかでしょ

5 :人間七七四年:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN ID:tT73qTLQ.net
勘兵衛の三成も気の弱そうな感じぽい役者さんだな

6 :人間七七四年:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN ID:2eV90Pc2.net
勘兵衛にいじめ抜かれてブチ切れる役だからなあ、三成

7 :人間七七四年:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN ID:+c6bm56k.net
三成はかわいそうな人だよな

8 :人間七七四年:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN ID:xQqGvHQr.net
忍城水攻めの模型
http://mirai660.net/castle/

9 :人間七七四年:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN ID:I28qgKA9.net
楽観主義の官僚ほど始末におえない者はない

10 :人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:aY5u+CxT.net
朝鮮出兵時の豊臣の超長距離の兵站網確保の功責はほとんど三成や増田長束ら奉行衆のおかげでしょ

11 :人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:zSE9PRwc.net
関ヶ原の戦いでは御家を潰さないよう大垣城で裏切りをかました相良氏
しかしそれを後ろめたく感じていたため、
相良長毎は三成や熊谷直盛親子の33回忌をして墓を作り供養した。

12 :人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:R1eXw8+S.net
朝鮮の役で兵站網なんて全く確保されていないんだよなあ…

13 :人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:KY/2I9Zf.net
三成は明への侵攻について
「先々は兵糧もなくその上寒空に向かっており途中の道筋も無人になり返すことすらできなくなる」
と明侵攻において途中での補給が難しいことを説明し、
まずは国郡で政務を行うように命じ、秀吉の意向に対して、反対して方針変更してしまうほどの男
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに反対し、強襲を意見するほど。
豊臣恩顧大名の書状を見ても、秀吉の絶対命令に対して、現場責任者としてちゃんと理を説いて反対意見を具申しているのは三成くらい。
これが秀吉の信用を得ていった理由だろう。
また筑前筑後の小早川領をやると言われた時には三成は反対し、
それらの領地を豊臣政権の財政基盤のため蔵入地にしてしまうなど、
当時の豊臣恩顧大名の領土欲とは正反対の志向を持っていた。

秀吉にも怒りを買うのを恐れず意見し、領土欲もない。
これが秀吉には唯々諾々と従い、強欲に領地を欲した武断派と相容れないところだったんだろう。

14 :人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:z4yeFJ78.net
そんな有能な人物だったのか。誰だよ馬鹿とか無能とか言ったのは。
無能なのは輝元とか豊臣恩顧大名連中だろ。

15 :人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:2rxYs1fp.net
>>11
津軽氏も三成から受けた恩が忘れられず弔っていたりと、
地方の田舎者ゆえの義理堅さが篤くていいよね。

16 :人間七七四年:2013/09/01(日) 10:32:21.21 ID:USNsKLH/.net
秀吉には度量があったから三成が真っ向から反対意見を言っても
そこに理があると思えば怒ることはなかったからね。
しかし武断派には理を以って説いたら激怒する有様だから話にならない。

17 :人間七七四年:2013/09/01(日) 10:49:56.30 ID:UerO6kCW.net
三成の現場指揮官としての意見が最もだから聞くしかないんだろ。

18 :人間七七四年:2013/09/01(日) 12:49:59.97 ID:Ho6cMDMP.net
三成自身は現場責任者として現場のことを考えているつもりっだったかもしれんが
現場からは秀吉のご機嫌取りばかりで現場のことを考えていないと思われたのがまずかった
小早川領をやると言われた話も現場からすれば慶長の役に出陣してもいない三成が
讒言を駆使して出陣した大名から領地を盗み自分だけ恩賞を独占しようとしていると思われた
努力に比べて周囲に理解されない代償が関ヶ原になってしまった

19 :人間七七四年:2013/09/03(火) 12:28:12.30 ID:TQQyUHFr.net
三成が誤解を受けていたというより
朝鮮出兵での報告に絡んで秀吉との連絡で
小西や増田や大谷らと武断派の対立に巻き込まれただけのような気が・・・・

20 :人間七七四年:2013/09/07(土) 10:59:13.16 ID:MQ7Vjzsh.net
>>13
当時の日本軍の北上はうまく行き過ぎて楽観論で支配されていた。
蔵に食料がたんまりあり、兵糧にこれほど困らない戦いはいままで無かったなどと言われるほど。
だけれどそれは現地の蔵にあるものを没収していたからで、
三成は日本との兵站線から先々は補給が厳しくなることを見通して朝鮮統治に力を割くようにしようとしていた。

そこに明軍が襲来である。
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。

21 :人間七七四年:2013/09/07(土) 11:50:17.88 ID:0Bd7kCkk.net
その報復として慶長の役にて三成は小早川を領地没収処分に裏で導き
その報復として関ヶ原では小早川が内通して家康を勝たせたのだから
因果は巡るというものだな

22 :人間七七四年:2013/09/07(土) 12:07:49.73 ID:MQ7Vjzsh.net
>>21
>>三成は小早川を領地没収処分に裏で導き
それは講談話だよ。
蔚山の戦いで秀秋が大将にあるまじき槍働きをしてので秀吉の激怒を買った時に
三成が秀秋に大領を持たせるのは秀頼様にとってよくないと耳元で囁いたっていう講談エピなのも知らんとは。
実際、秀秋転封話は慶長2年12/3にはもう出ており、
蔚山の戦いで秀秋が参戦してるのは慶長3年1/4なので順序が逆であり話しとして成立しない。
江戸幕府や毛利家が必死に捏造していた三成悪人伝説の一つに過ぎない。

23 :人間七七四年:2013/09/08(日) 11:18:21.35 ID:eyrPHt3H.net
関ヶ原でも朝鮮でもそうだけど三成は公式には大将でも司令官でもないし
そういう振る舞いを納得させるキャリアや石高があるわけでもないからな
三成が勝手に戦略を決めて偉そうに命令しているという不満が現場から出るのも当然だろう
それを悪人の根拠とするならあながち捏造ともいえない

24 :人間七七四年:2013/09/08(日) 12:12:41.99 ID:QrcZu6Bs.net
バッカw
何の為に奉行衆が現地に来てると思ってんだw
ただの飾りじゃねーんだよアンチ秀吉のカス

25 :人間七七四年:2013/09/09(月) 11:45:10.77 ID:yvRVLJpr.net
奉行が役立たずの飾りだから関ヶ原も朝鮮も失敗したんだよ

26 :人間七七四年:2013/09/09(月) 11:56:52.10 ID:yw5sFUD7.net
一人くらい、蟄居される位の諌言をすれば何とか評価も
…浅野長政がそうか

27 :人間七七四年:2013/09/09(月) 12:07:28.69 ID:uv2dxCpu.net
奉行の大半は豊臣の人材不足ゆえに無理矢理取り立てられただけで役立たずなんだよ
小田原までは奉行が足を引っ張っても現場の力で勝つことができた
しかし朝鮮出兵からは現場が努力しても奉行の無能をフォローできなくなった
だから朝鮮出兵後に奉行の解任を主張する動きが顕著になったわけ
ところが奉行は自分の無能さをまったく自覚していなかったため関ヶ原でまた同じ過ちを犯してしまった
奉行が現場を引っ掻き回さなければ結果も違ったのにね

28 :人間七七四年:2013/09/10(火) 14:07:34.86 ID:p4uyoWpD.net
>>27
すまん、全行に渡って具体的な事例と、ソース元の史料を頼む。

29 :人間七七四年:2013/09/10(火) 14:44:41.94 ID:vxfJzo51.net
>>28
そいつずっと三成スレを荒らし続けてきたいつもの
アンチ秀吉のキチガイだから頭がおかしいんだよ。

30 :人間七七四年:2013/09/11(水) 21:03:20.87 ID:pPQCn9o4.net
ていうか、必死になって三成を持ち上げる奴が秀吉アンチだろw

実際、三成にどれほどのことが出来たかはわからんが、
近江半国に満たない所領で、関ヶ原にあれだけ動員出来たってことは、
政権の財布に手が突っ込める立場にあったと考える程度が妥当だろ

31 :人間七七四年:2013/09/11(水) 22:50:45.60 ID:KN/Ka1R1.net
>>30
関ヶ原の時の三成は全財産突っ込んでる。
関ヶ原寸前の時に三成は増田宛書状で、
金銀米を送ってください。私の手の内にあるものは全て出してしまったのでもはや逼迫しています。
などと書いてるくらいだ。

32 :人間七七四年:2013/09/12(木) 02:53:02.98 ID:FgYrz0eT.net
>>31
こんなに金や米に困窮する三成が首謀者なわけねーよなあ。

33 :人間七七四年:2013/09/12(木) 07:04:03.50 ID:l+pxmdyx.net
>>32
金が足らなくなる所までバラまいた可能性もある。

誰が首謀者なんて今頃真実がわかるはずがない

34 :人間七七四年:2013/09/12(木) 09:01:58.77 ID:60V5v2W7.net
>>33
ついに可能性とか持ちだしてお前バカだろwww

35 :人間七七四年:2013/09/12(木) 16:04:58.31 ID:rE7IfGhM.net
三成が統治していた地域にはかなり三成が発給した行政文書が残ってるんだよな。
よほど三成の統治は喜ばれていたからこそ大事に保管されてるんだろうな。
千石に1人の賦役とちゃんと決まってたし、それ以上が必要になった場合は飯米を給金して補償だし、
土地の耕作権は未来永劫、検地帳に書いた氏の者であり、奪われることがない保証もあるし、
百姓が迷惑することがあれば、取次は一切なく三成へ直接、訴訟できる目安による救済制度もある。
これほどよい領主はいないだろうね。

36 :人間七七四年:2013/09/12(木) 19:57:07.22 ID:8Xt1jnk2.net
豊臣領は基本税率が二公一民と重税なことに加えて
朝鮮出兵を賄うために過酷な人足の徴用があったから
三成の領地だけ善政をやっていたら外から恨まれたり不正を疑われるのも無理はない
善政も時と場所をわきまえないと大変なことになるからな

37 :人間七七四年:2013/09/12(木) 20:44:44.91 ID:l+pxmdyx.net
>>34
ヒキヲタには分からない事さ

38 :人間七七四年:2013/09/12(木) 22:31:26.87 ID:uUW7MfkA.net
>>36
二公一民を一次史料で証明してみせろよw
それ左翼日教組が作り出した大ウソだから。

39 :人間七七四年:2013/09/12(木) 23:40:49.99 ID:dDCBipmR.net
>>26
浅野は豊臣家にとっては姻戚だから特別だけど、長政は唐入りに
反対したという理由で蟄居処分にはなってないはず
実際に文禄の役のときも長政自身渡海して軍監として働いてるわけで
たぶん秀次事件に連座して息子の幸長が能登配流になったのと混同してるか
秀吉死後長政が家康暗殺の嫌疑で甲府から武蔵に蟄居させられたのと
ごっちゃになってるのでは

40 :人間七七四年:2013/09/14(土) 18:48:23.81 ID:Ii/ORhFp.net
>>38
アホか、秀吉直筆の文書で「こうぎふたつ、ひゃくしょうひとつ」(公儀に3分の2、百姓に3分の1)ってのが残っておるわ

41 :人間七七四年:2013/09/14(土) 22:04:44.74 ID:AfuQf3vF.net
>>40
へぇ〜。いつ秀吉から誰に充てたモノなの?
それだけだとよく分からないので全文を書いてください。
3分のってのは書いてあるの?どの領地に何年に何に対して賦課したのか全くわからないのでお願い致します。

42 :人間七七四年:2013/09/14(土) 22:10:51.62 ID:cj6T1ocl.net
>>38
>それ左翼日教組が作り出した大ウソだから。

左翼日教組の中の誰がいつそんな大ウソを作り出したんですか?
全くわからないのでお願い致します。当然証明できるんでしょ?

43 :人間七七四年:2013/09/15(日) 11:14:15.31 ID:lXYdEhLC.net
>>41
出せないんだよ察してやれ。

44 :人間七七四年:2013/09/15(日) 13:44:57.51 ID:bpRjFnaN.net
日教組の選択する教科書にしか出てこないネタだろそれ。

45 :人間七七四年:2013/09/16(月) 00:43:15.84 ID:jfmzEbb5.net
>>44
早く日教組の陰謀だという証拠を出してください

46 :人間七七四年:2013/09/16(月) 16:21:45.60 ID:D3zOFgHd.net
あぁ俺も教科書でしかみたことないな。。
折れも知らんから>>41が書いたことを知りたい。
はやく>>40は返答してくれ。

47 :人間七七四年:2013/09/21(土) 12:49:22.13 ID:8BKL0LnT.net
三成は歴史の被害者だな。
毛利さえもっとまともだったら…

48 :人間七七四年:2013/09/21(土) 19:52:19.57 ID:QC9Px+j3.net
つか秀吉が晩年に出した『御掟追加』に

「収穫については毛見(検知)を行い、領主と百姓で2:1とすること」

って堂々と書いてあるんだが。なんかものすごい基礎歴なことを知らないバカが居るな。

49 :人間七七四年:2013/09/21(土) 20:40:06.53 ID:RonBL+x8.net
>>47
どう考えても毛利を含めた西軍大名の大半と豊臣家が三成の暴走の被害者だろ

50 :人間七七四年:2013/09/21(土) 22:32:42.97 ID:GPlW8Nyk.net
>>48
いつ、誰に対して、どこの領地に、なんの収穫に関して、分母はいくつとして出したのかさっぱりわからんので、
全文転記してください。

51 :人間七七四年:2013/09/21(土) 22:58:55.00 ID:J0JjR/9T.net
秀吉の統治が重税を連呼してる勢力は必ず、
秀吉が中間搾取層を排除していたことを故意的に書かない。
秀吉は浅野長政に1587年に出した命令で、
おとな百姓として下作に申し付け
作あいを取り侯儀無用ニ侯
今まで作つかまつり候百姓直納ニつかまつるべき事。
と書いていて中間搾取の禁止と、百姓への土地分配をして水飲み百姓に土地を無料で与えて、しかもその土地の所有権はどんな理由があっても取り上げられたり変更さたりは出来ないと決めてる。
これは強力な貧困層百姓の救済策であり、
しかも百姓の田畑を荒らす行為も禁止した為に貧困層がいなくなった。
貧困層出身の秀吉ならではのやり方と言える。

52 :人間七七四年:2013/09/21(土) 23:11:37.76 ID:pBifOIl7.net
>>50
秀吉の『御掟追加』って書いてあるんだからあとは自分で調べられるだろ。

そんなことも出来ないのか?本当にアホなのか?

53 :人間七七四年:2013/09/21(土) 23:56:22.82 ID:JFYMTRxl.net
二公一民は上限を定めたものだろうけどな。
まぁさすがに基本史料を知らないってのは困りモンだけど

54 :人間七七四年:2013/09/22(日) 01:16:55.85 ID:N/KByx4e.net
>>51
中間搾取層が江戸時代までずっと残っていたことはすでに判明しています
いなくなったのは大名に出される帳簿の上でだけ

55 :人間七七四年:2013/09/22(日) 10:01:49.95 ID:z+10w9ZX.net
家康が関が原に勝つ為に蔵入地をあげまくった為に、
各地を監視支配する蔵入地が失われ、
徳川幕府は全国支配を諦め、
秀吉が進めた中央の統治体制の地方への御指南による輸出を通じて内政支配が廃止され、
各藩は独自の旧制に戻っていった。
そして秀吉が決めた中間搾取層廃止も有名無実になり、
中間搾取層が復活し、さらに士農工商えた非人の階級カースト社会になっただけ。
そして各藩は自由に税をかけ始め重税に苦しんだのが江戸時代。
特に関が原後に領地の大減封を受けた毛利の重税ぶりは一揆続きだった。

56 :人間七七四年:2013/09/22(日) 11:09:33.21 ID:lEx7m4On.net
>>50
>いつ、
桃山時代

>誰に対して、どこの領地に、
卑しくも豊臣は全国政権だから全てに決まっているだろ

>なんの収穫に関して、
米の収穫に決まっているだろ

>分母はいくつとして
定免法が一般化したのは江戸時代からなので
年毎に収穫量を見てその量を決める検見法だよ

ネタで言ってるのでなければリアル幼稚園児かな君は?

57 :人間七七四年:2013/09/22(日) 11:38:24.63 ID:88K8nGjn.net
まっ重税じゃなかったんだけどな、実際。
兵農分離を秀吉が施行した結果、軍役もやらなくてよくなったし、
下記のよううに長政に命令して中間搾取層が百姓をこき使うのも禁止してるし。
地下之おとな百姓又はしようくわんなどに一時ひら之百姓つかわれまじき事

なにより秀吉の積極的な財政出動によって経済が活性化し、
関税撤廃、物流インフラ港湾設備も城下町整備も寺社や武家や荘園主への不入の特権廃止による治安工場など
世間は非常によくなってた。いまで言う秩序公正と富の再分配ってやつだね。

58 :人間七七四年:2013/09/23(月) 09:38:22.87 ID:3DfCwTUb.net
富の再分配じゃなくて豊臣への富の一極集中だよ
それでも朝鮮出兵までは豊臣からの領地や金ののおこぼれで潤うことが出来たが
秀吉の死後は当然それもできなくなったので大老奉行制の名分のもと
おこぼれを出さない急激な引き締め政策に走ろうとしたため
不満を感じた大名が家康を担いで豊臣から剥ぎ取りまくっただけだ
奸臣に対処するとでも言えば剥ぎ取りの大義名分はなんとかなるからな

59 :人間七七四年:2013/09/23(月) 10:12:21.04 ID:vkF1qmF4.net
>>58
はいはい反日乙。豊臣時代は大土木事業で富の再分配してるし、寺社仏閣や仏像から
淀川の京から大坂湾直通大開削による治水による船舶流通やら大橋架橋や博多大開発。
豊臣恩顧大名もそれぞれの領国で洪水浸水対策を兼ねた治水城下町建設など、
いまでいうゼネコン事業をやって富の再分配してんだよ。

秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある。
秀吉の平和安定のための物流革命と言えば、信長死ぬや早くも
天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
これが桃山文化と呼ばれ日本各地で城下町が整備され、
日本史史上最も派手で豪勢な時代と言われている。秀吉の下、インフラ整備と経済活況化への資本投入による民心安定策である。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

60 :人間七七四年:2013/09/24(火) 11:29:19.21 ID:bLsugsLw.net
.

藤原泰衡の首
http://www.urban.ne.jp/home/sochan/who/diary.files/yasuhira_head.jpg
http://www.urban.ne.jp/home/sochan/who/diary25.htm

藤原泰衡とは
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E8%A1%A1&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&x=wrt



石田三成の頭蓋骨
http://blogs.yahoo.co.jp/tamon19751127/34235832.html
http://blogs.yahoo.co.jp/tamon19751127/archive/2006/4/25
http://blogs.yahoo.co.jp/tamon19751127/GALLERY/show_image.html?id=34235832&no=1
http://blogs.yahoo.co.jp/tamon19751127/GALLERY/show_image.html?id=34235832&no=0
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/f6/43/tamon19751127/folder/1305275/img_1305275_34235832_1?1145981732
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/f6/43/tamon19751127/folder/1305275/img_1305275_34235832_0


石田三成の顔
http://tabigaku.net/blog/wp-content/uploads/P1000169.jpg
http://tabigaku.net/kassen-sekigahara.html
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/mitunari35.jpg
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic30.html

.

61 :人間七七四年:2013/09/24(火) 11:36:32.46 ID:cr3elN0G.net
実際、秀吉は日本古来からある、あちこちに掛けられてきた諸役・諸税・諸役儀を撤廃してんだよね。
言わば大型減税をやってる。一揆発生ってのも要するに中間搾取層や改易された国人豪族が指揮してやってただけだしな。

62 :人間七七四年:2013/09/24(火) 12:14:29.51 ID:cr3elN0G.net
大規模家畜牧畜経営者が明治になるまで生まれなかった理由を
秀吉の太閤検地によって土地を与えられて小農として自立意識を促され
小家族経営が徹底したので家畜を使った耕起をしなくなったと言われる。
一族郎党思考から個人主義の魁ともいうべき
家単位で土地という資産概念が生まれた現われの意義は大きく
西洋との競争において資産を持ち自立自営意識から
教育水準も高かった百姓は維新の原動力となり、富国強兵を背負う人材を作り上げた。

63 :人間七七四年:2013/09/24(火) 14:01:25.91 ID:Yg/6gaG6.net
>>58
富の独占をやってたのは信長。
自由気ままに課銭課税課役をかけまくっていた。
しかし秀吉は上限を定めたルールを布告し、上限を越えた場合は罰する
いまで言えばサービス残業や過労使役を根絶させて農民の営みを保護して、農作に集中出来るようにした。
それまでは課役に苦しみロクに農作が出来ず田畑が荒れてしまうのに税を取られ、
しかも納税輸送にも通行税まで取られたし、
納税量の確認に使われる升の大きさも恣意的だった。
そして中間搾取層は隠田による不当収益も丸々懐に入れていた。

64 :人間七七四年:2013/09/24(火) 22:21:08.84 ID:Eh13UywW.net
ここまで書いてソースは一つもなし。

65 :人間七七四年:2013/09/27(金) 20:47:07.39 ID:2MrE7Mi2.net
上杉景勝、佐竹義宣…ビビって狸を挟撃しなかったクズ
結城秀康、真田信之…仲良くしてやったのに結局父だの嫁だのを選んだクズ
大野治長、後藤又兵衛…狸についたくせにノコノコ大坂入りしたクズ
毛利勝永…大事な関ヶ原で戦わなかったくせに大坂で幸村に手柄奪われたとか言ってるクズ
立花宗茂…ただのノロマなのになぜか戦上手にされてるクズ

66 :人間七七四年:2013/09/27(金) 22:38:02.89 ID:/ja5AGI9.net
上杉や佐竹が南下したら堀6000・最上12000・伊達15000・結城20000らが一斉に会津になだれこんできてアボーン

むしろ周辺地域が味方ばかりなのにもかかわらず総大将でありながら何もできずに大敗し大厳封食らった雑魚毛利がクズ

67 :人間七七四年:2013/09/27(金) 22:40:53.05 ID:q0CsL+KZ.net
三成ら西軍諸侯は輝元に援軍要請している(8/29保科正光→黒河内長三、9/12石田三成→増田)
が輝元は無視して伊勢湾やら四国やらに軍向けるばかり
また、美濃攻防時三成は織田秀信救援軍として美濃河渡において東軍と戦っているが数が足りず、敗れている
このときも毛利の大軍の後詰が素直に行われていれば簡単に撃退できたはずだが輝元は大阪から足を動かさず
伊勢湾に軍船送って荒らしまわるだけ。
はっきりいって奉行衆がどんな名将でも総大将がここまでのクズだとどんな軍でも勝ちようがない
西軍の中核は毛利軍や小早川軍など毛利一族の軍であり
こいつらが全く使い物にならない以上、西軍に勝つ事なんて無理で三成の能力どうこうの問題ではない

68 :人間七七四年:2013/09/27(金) 22:44:23.11 ID:pMT1ws8p.net
上杉が西軍決起しなかったら前田や浅野みたいに無理矢理いちゃもんつけられて潰される家が増えていくだけ
石田三成襲撃事件や家康の私婚問題に対する西軍方諸侯の家康の軍事力での排除と家康は好き勝手やりまくってた所に
上杉が決起した上に三成がタイミングよく決起したために西軍は畿内方面だけで18万も集まっただけ。
上杉の背後には伊達最上堀がしっかりひかえている
上杉が南下したら最上伊達堀らが会津領になだれ込んでくるだけだろ
三成はこの点も考慮にいれて三河方面へ毛利軍含めた大軍で侵攻する計画を8月上旬時点で真田や佐竹にあてて書いてる。

南下するなら当然下野で秀康ら2万と衝突するわけだから領国の総軍挙げないと無理
領国からっぽになった状態で伊達最上堀の本国襲撃受けたらひとたまりもねーだろw
とりあえず毛利輝元レベルの馬鹿なお前は戦略の基本くらい学んで出直して来い

上杉って役に立たない所か最上12000と伊達15000に結城秀康ら2万に堀秀治8000など敵対勢力をひきつけまくってるんだが

役に立ってないのは毛利だろ。あんだけ大規模な軍勢がありながら空白地帯に近い四国の火事場ドロすら失敗して
伊勢侵攻軍なんて編成したにもかかわらず長島に抑え置いただけでろくに攻められず兵力無駄にしただけ。

散々兵力分散させまくり三成ら奉行衆らの援軍要請も無視しまくって結局西軍は大敗するんだし

69 :人間七七四年:2013/09/27(金) 22:44:54.62 ID:g10zhEeq.net
上杉は伊達15000最上12000結城23000堀7000と大勢力に囲まれた状況で、
破竹の勢いで最上領侵攻して風前の灯まで追い込み、伊達も寡兵で瞬殺したのに対して
毛利は規格外の大軍&家康が東に移動して畿内&西国は味方だらけで敵領国は空っぽ状態なのに
伊予攻防でも大損害出して敗戦するなどいい所なしだもんなぁ

70 :人間七七四年:2013/09/27(金) 22:45:46.75 ID:ySBRG9Fb.net
畿内で三成や毛利らが決起すれば確実に負けるどころか、負ける可能性なんて普通に考えて皆無だからな
家康が東上してて畿内方面はがら空き状態・周辺地域は西軍からみて弱小ばかりもいい所・味方は規格外の大軍。
史実であんな負け方したのは毛利の戦略がゴミすぎただけにすぎず、普通に状況でも兵力でも大局的に西軍が負ける可能性なんて皆無

71 :人間七七四年:2013/09/27(金) 22:53:49.35 ID:6D4Yyqej.net
関が原本戦に負ければ自領の拡大も瀬戸内の権益も糞もないし
逆に勝てば総大将として領土も権益も最大限に拡張するのに
そんな事もわからないとか相当の馬鹿だな
四国方面への拡張とか言ってるけど中途半端に伊勢湾荒らし回ったり伊勢侵攻軍派遣したり
関が原本戦でも一応は軍派遣してるから(全く使い物にならなかったが)
別に戦略というほどの物が輝元にあったか非常に怪しいがな

尾張口に大軍で美濃方面を攻めに来てるのにそれ無視して援軍要請も無視して
伊勢湾とか四国とかどうでもいいところ攻めてるのにその作戦が真っ当とかないわ
戦力下手に分散してその一部隊が敗れたら戦局が大きく傾くなんて普通の脳味噌の人間ならわかることだし事実そうなったし

72 :人間七七四年:2013/09/27(金) 23:32:11.89 ID:fPrfQ7WC.net
まぁ関ヶ原の一戦だけで半日で西軍壊滅東軍圧勝、という事態になるとは
毛利輝元だけじゃなく当時はほとんど誰も予想してなかったというのはある
輝元も長期戦になると予想して各方面に兵力を展開したけど
東軍の東上スピードが想像以上に速くて
結果的に上手くいかなかったってことだろね

73 :人間七七四年:2013/09/27(金) 23:48:05.31 ID:V1YMHe6H.net
だがさん一人芝居みじめ

74 :人間七七四年:2013/09/28(土) 00:09:40.02 ID:p69A8qMy.net
家康が西上し終わった9/10〜9/12段階ですら
輝元は関ヶ原に出兵するどころか
伊勢湾など関係ないところでの活動をやめてないもんなあ
相当の頭の悪さと言っていい

75 :人間七七四年:2013/09/28(土) 10:17:52.52 ID:1zbuNy/F.net
三成が政権復帰するためのクーデターに、
毛利・上杉が尽力する必要も理由もない。
両家は両家で、自領拡大という自分の利益を追求しただけ。

関ヶ原を東西二分しないと気がすまないんだろうけど、
家の数だけ思惑があるのは当たり前。

76 :人間七七四年:2013/09/28(土) 10:53:00.73 ID:rWse5nVI.net
>>74
> 家康が西上し終わった9/10〜9/12段階ですら

目と鼻の先に居た三成たちすら把握できていなかったというのに、輝元にどうしろと

77 :人間七七四年:2013/09/28(土) 12:03:26.79 ID:jb5N4EWG.net
三成達が把握してないわけないだろ。

78 :人間七七四年:2013/09/29(日) 10:49:11.51 ID:CiPdSHwz.net
毛利が西日本を上杉が東北や越後を切り取れば徳川と並ぶもしくはそれ以上の石高になれる
それなら無理して決戦する必要なんてないんだよ
後は切り取りのための時間を稼げばよいだけ
岐阜や大垣がひたすら篭城して時間稼ぎをしていれば西軍に負けはなかった
ところが岐阜も大垣も突撃決戦を繰り返し毛利・上杉の戦略を無に帰した
一刻も早く政権に返り咲きたいという三成の野心が西軍の戦略を崩壊させ豊臣を滅ぼしてしまった

79 :人間七七四年:2013/09/30(月) 09:22:44.14 ID:9ys1InRs.net
いやいや大坂城にいる毛利が決戦する気がなくても、
武断派と家康が大坂城を目指して決戦する気満々でやってきてるんだから、
毛利がそんな妄想してたら現実逃避の池沼だろwww
だいたい美濃の三成へ援軍遅れなかったのは毛利が大津城に駐屯しておきながら、
大津城が西軍から離反するという大失態が原因だろうが。
これで三成への援軍すら遅れなくなったのに、
なにが美濃が籠城していたら云々だよ。
三成は増田経由で、金と米が無いから早く遅れって言ってたし籠城なんて無理だアホw

80 :人間七七四年:2013/09/30(月) 10:26:30.55 ID:dqcKB5YG.net
>大津城が西軍から離反するという大失態が原因だろうが。

関ヶ原で西軍から離反者を出すという大失態を犯した奴が言えることではないな
大津からは少し待てば問題なく援軍が来れたわけだし
それを待たず小早川の内通も見抜けないまま勝手に関ヶ原で戦う三成がアホなだけだ
戦下手な無能官僚が指揮官気取りして独善的な行動を繰り返した時点で
西軍に勝つチャンスはなくなった

81 :人間七七四年:2013/09/30(月) 10:42:28.97 ID:hQZTb38O.net
アホだなぁw
決戦する気満々できてるんだから、決戦に応じないで
長期化させるのがベストなんだよww

自軍の勢力圏内で金と米がないって、どんだけ兵站ヘタクソなんだよww

82 :人間七七四年:2013/09/30(月) 11:02:23.32 ID:TDAHf7jc.net
少なくとも東軍より西軍の失態が多い

83 :人間七七四年:2013/09/30(月) 12:27:40.65 ID:dhbOQBEY.net
>>80
えっ?南宮山の毛利軍がビビって判断保留にしてたのが原因で
小早川が疑心暗鬼になったのが原因だろアホかwwww責任転嫁も甚だしいwww
もう少し待つも何も南宮山まで毛利来てたじゃんかwww
>>81
長期化したら中山道の徳川本隊まで着て余計に酷くなるだけだろwww
秀忠まで合流したら手がつけられないから、
括弧撃破を狙い関が原の誘いだした三成の方がよい選択だろ。
輝元なんて毛利全軍の意見統一すら」できない愚将じゃんw
>>82
いやいや三成の蜂起と誤認して過小評価した結果、
手に負えなくなり、江戸で引きこもりしてビビッてた家康の方が失態だらけじゃん。
武断派が三成を大垣で包囲したなんて大ウソに騙され、見事に武断派に利用される失態wwww
秀忠抜きで戦う失態で、戦後の論功行賞では豊臣恩顧大名ばっかりに加増するハメになる失態www
毛利テロ元がアホ過ぎたから勝てただけwwww

84 :人間七七四年:2013/09/30(月) 12:44:50.08 ID:TDAHf7jc.net
それで東軍が勝てたなんて不思議だね
すべての責任が毛利家にあるという史観前提だからそうなる

85 :人間七七四年:2013/09/30(月) 16:02:35.43 ID:hQZTb38O.net
>>83
まるで本人かのように、思考や感情、愚かだのアホだのを
論拠にしてる時点で、まぁ小説読みすぎなんだろうな、とww

86 :人間七七四年:2013/09/30(月) 22:55:41.82 ID:dqcKB5YG.net
>>84
東軍は三成討伐を大義名分に掲げ反三成を士気の拠り所にしていたのは明らかだから
西軍敗北の責任は全て三成にあるのは明白な事実なのにね

87 :人間七七四年:2013/09/30(月) 23:00:51.66 ID:/OVXS1x4.net
(お、三成叩きに切り替えたのか?)

88 :人間七七四年:2013/09/30(月) 23:17:34.42 ID:3QI/IKwd.net
(次は三成擁護で輝元叩きっすよ)

89 :人間七七四年:2013/10/01(火) 01:18:12.09 ID:d5mMiQhC.net
東軍は大義名分なんてないだろ。
ただ三成憎しに凝り固まった馬鹿な武功派を家康が利用してただけじゃん。
元々家康が豊臣政権下で禁止された私婚の連発とそれに対する奉行衆らが連判で弾劾状出したら
実力で排除したり専横しまくってたから反徳川の決起が起こっただけで、家康はそれを
武功派諸侯と、私婚で取り込んだ同盟国と自領国の兵を使って
総大将のアホ元がどうにもならない馬鹿戦略で兵を分散させまくってた西軍の中の中核部隊を倒しただけ。

90 :人間七七四年:2013/10/01(火) 09:46:15.35 ID:Gix3hs1B.net
そもそも織田秀信や豊臣国松を死に追いやってる家康は言い訳できない。
卑怯卑劣な簒奪者は自覚があるから復讐を恐れるもんだ。
だいたい関が原の勝利において家康はなにもやってない。
勝たせてやったのは黒田長政。
だから家康が戦勝後の9/19に長政へ出した感状において、
今回、計略で大名たちを味方に引き入れて賊徒を
敗北させたのはひとえにあなたの粉骨であり、手柄であり比べらようもありません。
いま、天下が定まったのは誠に長政の忠節があったことに尽きます。
などとこの勝利が長政の人望と智略の力であったことを家康も認識力していて、
家康は棚から牡丹餅だったのがわかる。
そして家康は自分の名前で知行宛がいは出来ず、
西軍側だった大坂城内向きを差配していた淀殿と和睦し秀頼の当主権を認めざるを得ない状況に引き落とされた。
長政率いる武断派と大坂内向きの女性たちの動きを家康が恐れたからだ。

91 :人間七七四年:2013/10/01(火) 10:19:23.68 ID:c+txDFJj.net
>>89
反徳川の決起が起こったのは三成が政権復帰をどうしても諦められず
無謀な謀反を計画しそれを反徳川勢力がいるように見せかけただけ
実際は武力を用いて戦うほど徳川に不満を持っている大名はごく少数しかいなかった
たいして不満のない大名を大坂の人質を使って関ヶ原まで連れてきて数の粉飾を行ったのが西軍であり
関ヶ原で西軍の大半が戦わなかったのは当然のこと
秀吉の遺言違反なんていうのは諸大名の関心が低い瑣末な問題にすぎず
家康に朝鮮での処罰取り消しや恩賞配分を迅速に進めてほしいという考えの方が優勢だった
数の粉飾や瑣末な政治問題を過大に見せる三成のトリックの上手さは評価してもいいが
トリックだけで戦に勝てるわけがないだろ

92 :人間七七四年:2013/10/02(水) 15:42:01.47 ID:K+y2GQUw.net
>>91
一行目から反日織田ちょん怨恨偏執狂ぶりが見えてるから却下w

93 :人間七七四年:2013/10/02(水) 17:09:00.33 ID:4CEVzBwG.net
自作自演ヘタっすねー菅沼さん

94 :人間七七四年:2013/10/03(木) 12:00:17.77 ID:5ARjUaJU.net
三成こそ反日思想の塊なんだよな
朝鮮では日本軍が圧倒的な武力の優越さを見せていたにもかかわらず
主力である加藤たちを讒言で失脚させた挙句に
豊臣を明の臣下にする偽講和を平然と結んでくる反日ぶり
義満はまだ勘合貿易の利になびいたという側面があったが
貿易抜きで臣従を受け入れたのは日本史上でも三成しかいない
今日まで続く反日思想の原点が三成にあると言って間違いないだろう

95 :人間七七四年:2013/10/03(木) 12:13:49.18 ID:p4Oa78z/.net
>>94
>>主力である加藤たちを讒言で失脚させた挙句に
はいはい大ウソ乙

>>豊臣を明の臣下にする偽講和を平然と結んでくる反日ぶり
それは小西の宗がやったことで三成関係ないしw

看羊録曰く朝鮮人がまわりにいっぱいいた輝元をかばって、
すべて三成に責任転嫁する工作をして捏造デタラメを書いてるお前が反日思想の塊だろw

96 :人間七七四年:2013/10/03(木) 13:26:46.29 ID:eDzWaU8u.net
看羊録(笑

97 :人間七七四年:2013/10/03(木) 13:27:44.25 ID:KLuPfmK6.net
チョンの史料好きだね菅沼遼太君

98 :人間七七四年:2013/10/04(金) 12:32:24.16 ID:RI74TDaq.net
関白の粛清による混乱を利用して偽講和を通そうなんて常人には思いつかないし
たとえ思いついても試してみようとすることさえ普通はできない
そういうことを躊躇なくやる三成だからこそ関ヶ原が起きたのだろう

99 :人間七七四年:2013/10/04(金) 12:44:50.87 ID:iSLWDuD6.net
>>98
は?双方の関係性が皆無ゆえ、意味不明
一次史料なしのデタラメを書いて必死に悪口中傷を浸透させようと企む
反日織田半島人www

100 :人間七七四年:2013/10/05(土) 09:22:01.43 ID:v1whwuTi.net
秀吉を虚偽の講和で明の臣下に貶める
秀次を謀反人として糾弾し妻子ごと命を奪う
秀頼を一日で瞬殺される無謀な蜂起によって一大名に転落させる

子飼いとして豊臣に取り立てられたにもかかわらず血も涙もない仕打ちの数々
三成をはじめとした文治派にはよほど強い豊臣への怨みがあるのだろう
単なる奸臣の野心というだけでは説明できない

101 :人間七七四年:2013/10/05(土) 11:10:48.38 ID:bixM9x2P.net
まー、三成は国政を主導する立場に復帰したかっただけで、
豊臣家を貶める云々はないと思うけどね。

102 :人間七七四年:2013/10/05(土) 11:12:37.13 ID:B1BEBckT.net
菅沼遼太は在日

103 :人間七七四年:2013/10/05(土) 11:21:47.73 ID:Y7q2ONpJ.net
>>100
デタラメ乙w
それぜんぶ一次史料で証明してみせろやwww
絶対不可能だけどなwww

104 :人間七七四年:2013/10/05(土) 11:38:57.56 ID:bixM9x2P.net
>>103
>>100はキミの自演でしょ?w
ツッコミどころ満載の釣り然としたレスだったから、
きっと『一次史料で証明しろ!』って自ら突っ込む人が
現れると思ってたw

105 :人間七七四年:2013/10/05(土) 12:18:51.71 ID:ytHHnQbr.net
>>103
いつまで自演行為を繰り返せば気が済むの?
ここはお前の反日活動のためにある場所じゃないんだよ

106 :人間七七四年:2013/10/05(土) 13:39:31.09 ID:FqlobQfq.net
織田厨ってやっぱりアホだな。
昔から三成にずっと粘着ストーカーし続けてるくせにw
追い詰められたらお前の自演とか言っちゃうわけ?ワロタw
昔から反日織田厨がずっと執拗に三成の悪口中傷を続けてた事実は無かったことになってんのかよw

107 :人間七七四年:2013/10/05(土) 15:10:03.08 ID:bixM9x2P.net
アンチが追い詰められた状況を、自演で作り出してるんでしょ?w
他の関ヶ原系のスレも含めて、追い詰められてるのはいつもキミじゃん。
『一次史料出せ』と言われて、一発でレスが出来なくなるような主張は
普通しないって。

108 :人間七七四年:2013/10/05(土) 15:55:35.99 ID:O/BrvUJc.net
不自然な改行を直さない限り菅沼遼太に明日はない

109 :人間七七四年:2013/10/05(土) 18:44:22.17 ID:4BQaJR0y.net
ここまでくると自演行為というより自傷行為だな

110 :人間七七四年:2013/10/05(土) 22:10:05.72 ID:AX9MzqRA.net
※織田厨はキチガイ

111 :人間七七四年:2013/10/06(日) 04:57:36.42 ID:uBnuhnae.net
>>110
菅沼さん、お薬出しときますね

112 :人間七七四年:2013/10/06(日) 08:22:06.68 ID:KBomKo9Q.net
>>107
反日織田半島人は常に
一次史料なんて出せない悪口中傷とレッテル貼りと屁理屈しか書いてねーだろw
大友スレまで根拠ゼロのデタラメ書いて荒らしまくってるキチガイの癖にw

113 :人間七七四年:2013/10/06(日) 09:32:39.55 ID:4TmY5So8.net
何かみんな同一人物に見えるみたいね。

114 :人間七七四年:2013/10/06(日) 11:29:11.83 ID:Vrim/7NG.net
織田厨が自演工作やりすぎて
相手もやっていると思い込むアホ

あきらかに織田厨のレスは、
普段の戦国板住民数を無視した単発ID数を誇っていて不自然だからなw

115 :人間七七四年:2013/10/06(日) 12:05:29.36 ID:lVDRhY+5.net
「織田厨のレスは普段の戦国板住民数を無視した単発ID数を誇っていて不自然」

著:菅沼遼太

116 :人間七七四年:2013/10/07(月) 00:33:55.16 ID:9Qau6oax.net
同一人物としとかないと自我が保てない
リアルと一緒で孤立しちまうからな

117 :人間七七四年:2013/10/07(月) 19:34:48.65 ID:KSQpb4Tm.net
信玄は一応あっちこっちの勢力と戦ってたというのに、菅沼ときたらw

118 :人間七七四年:2013/10/12(土) 11:56:22.12 ID:ZY5alZHm.net
家康(東軍)の大坂城奪還で西軍は瓦解するわけだけど、
西軍はどういう絵を描いてたんだろうね?
関東250万石の基盤は強固だし、徳川家は簡単には降伏しないでしょ?
野心がある諸大名には、戦乱が長引いた方が良さそうだよな。

119 :人間七七四年:2013/10/12(土) 13:58:54.71 ID:y2cc5grH.net
来春に畿内以西の兵で関東へ攻め入る予定だった

120 :人間七七四年:2013/10/13(日) 09:02:37.37 ID:GA0Nw/of.net
仮に関ケ原で西軍が勝利していたらそのまま和平交渉への流れでしょ。
家康が謝罪してくれば必要以上の追及は無意味だし深追いのリスクもある。
西軍の当面の目的は豊臣政権のフレームの維持で具体的に言えば
いわゆる大老奉行制の堅持だから徳川家討滅は必須の事柄ではない。
逆に家康としてはそのフレームに押し込まれる事を嫌って秀吉死後
硬軟とりまぜながら政治的行動を選択した。
だから大老奉行制が崩壊して事実上天下人になった時点で
毛利上杉も討滅まで追い込む必要がなくなった。

121 :人間七七四年:2013/10/13(日) 09:36:17.90 ID:3sbmom2J.net
つか畿内の入り口である関ヶ原まで侵攻された段階で既に西軍の負け。
西軍はなんとしても岐阜城のラインで東軍を留めなければならなかった。

122 :人間七七四年:2013/10/13(日) 23:03:35.60 ID:SSScTxw8.net
>>118
大坂城を奪還される前からとっくに西軍は瓦解しているだろ
そもそも内通を実行するには度重なる手紙のやり取りと人質交換や目付の受け入れが必要なんだぞ
吉川・小早川・脇坂など複数の大名がすぐ近くでそこまでの行為を繰り返しておきながら
いざ決戦になるまで誰も気付かないなんて間抜けな軍隊は日本史上に西軍しかないだろ

123 :人間七七四年:2013/10/15(火) 00:16:49.87 ID:nr1B2bY7.net
センゴクに若い頃の三成が出ているけどなんか新鮮だなw

124 :sage:2013/11/08(金) 14:11:50.75 ID:fi6c0QDx.net
来年大河に三成でるけど田中圭てw
もっと知的ぽい奴使えよ。三成て悪役だよね?

125 :人間七七四年:2013/11/12(火) 01:36:04.83 ID:rJBglml/.net
>>124
黒田大河の三成だからそれはまぁね
見ていて気の毒になるほど小賢しい才子の悪役になる(断言)

いまから覚悟しておけ

126 :人間七七四年:2013/11/19(火) 10:23:40.33 ID:MVI+YwIx.net
どっちにしろ秀次事件における一連の行動は弁護できない

127 :人間七七四年:2013/11/19(火) 11:07:17.55 ID:ENZKREgT.net
謀反したんだから殺されても仕方ない。

128 :人間七七四年:2013/11/19(火) 13:51:58.39 ID:yXqJrbKn.net
【文化】 “豊臣秀次切腹に新説” 秀吉は命じず、身の潔白訴え自ら切腹か…国学院大准教授が「太閤記」に疑義
1 :( ´`ω´) ◆ChahooS3X2 @ちゃふーφ ★:2013/11/18(月) 04:01:21.91 ID:???0
 豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、甥(おい)の関白秀次が邪魔になって切腹させた−。
こんな通説に国学院大の矢部健太郎准教授(日本近世史)が疑義を呈し、「秀吉は秀次を高野山へ
追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を打ち出した。秀次の死を
めぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している。(渡部裕明)

 秀吉の姉の子である秀次は天正19(1591)年、実子のいない秀吉の養子となり、関白を引き継いだ。
しかし秀頼誕生から2年足らずの文禄4(1595)年7月に失脚。高野山へ追放され、同月15日、
金剛峯寺の前身である青巌寺で切腹した。

 切腹に至る詳しい事情を物語る同時代の史料はないが、儒学者、小瀬甫庵(おぜほあん)が
江戸時代初期に記した太閤記は「切腹命令」という文書を掲載。文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付がある。

 矢部准教授はこの日付について、「京都から高野山までは約130キロの距離がある。登り坂も厳しく、
歩いて3日はかかる。13日に書かれた命令書を持って高野山まで多くの兵を連れて赴き、
15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。

 そこでさまざまな史料にあたり、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へあてた
書状に着目。そこには「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを
用意してほしい」と記されていた。「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は
秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えていたと思う」

 また、秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」
文禄4年7月16日条には、「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す 無実ゆえかくのこと
候のよし申すなり」とある。矢部准教授はこの「切らせられ」という記述は、秀吉が「切らせた」のではなく、
敬語の「お切りになった」と読むべきだ、と指摘。秀次は高野山での幽閉に耐えられず、身の潔白を
証明するために自らの決断で切腹したとみている。(続きはソースで)

産経新聞 http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131117/wlf13111720580036-n1.htm

129 :人間七七四年:2013/11/19(火) 14:29:55.33 ID:xf60EHip.net
切腹する方向に持って行ったのか…糞だな

130 :人間七七四年:2013/11/19(火) 15:10:11.02 ID:IU7zCCvU.net
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。

『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。

文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、

山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。

秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。

信長公記の著者である太田牛一(秀頼に仕えていた)がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。

131 :人間七七四年:2013/11/19(火) 15:11:31.48 ID:IU7zCCvU.net
漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。

南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。

132 :人間七七四年:2013/11/22(金) 09:59:06.17 ID:VYLSb4Sm.net
石田佐吉→石田三成
伊達梵天丸→伊達藤次郎政宗
前田犬千代→前田又左衛門利家

三成って藤次郎だったり又左衛門にあたる部分ないの?

133 :人間七七四年:2013/11/29(金) 01:23:55.73 ID:47tB4Af8.net
佐吉は幼名ではないんじゃないの

134 :人間七七四年:2013/12/05(木) 12:37:30.82 ID:BIpWqR4n.net
この人になら喧嘩で勝てる自信あるお

135 :人間七七四年:2013/12/17(火) 15:20:27.13 ID:kFdGW8Kh.net
三成はかわいそうだよな。
豊臣政権維持のために全力で頑張ったのに
欲に目のくらんだ馬鹿な武功派や、戦力分散させまくったアホ毛利のせいで
自分が巻き添え食って処刑されて。

136 :人間七七四年:2013/12/27(金) 03:53:13.86 ID:N9j9FzIi.net
利休や秀次一族粛清の引き金弾いたクズ野郎

137 :人間七七四年:2013/12/27(金) 07:21:45.80 ID:0A6on5H7.net
>>132
武家の出自じゃないから通り名って概念がなかったのかも。
因みに佐吉は幼名じゃなく本名じゃね?
加藤、福島も同様。
ま、出自の怪しい秀吉に合わせてるのかもしれんが

木下ってもともと秀吉の実家の姓だって説もあるんだろ?
それを敢えて革命家を気取って貧農の倅で通してたんなら、
子飼いもそれに倣うしかないし

138 :人間七七四年:2013/12/27(金) 09:02:18.79 ID:f+9wisLQ.net
>>136
はいはいデタラメ乙

>>137
北政所が杉原もしくは浅野だから、
木下は秀吉の名である可能性はあるね。
のちに北政所の親類がみんな木下を称しているのも、
もともと杉原だったが秀吉の方の木下名を称したと解釈しても問題無さそうだが。

139 :人間七七四年:2013/12/29(日) 14:12:50.59 ID:IouNHeBX.net
>>136
真面目な話、三成が利休や秀次と対立してたっていう直接的な証拠は無いよな。
三成黒幕説唱える人の大半は後世の武断派文治派のテンプレなぞって
「だからこうだったに違いない」みたいな決めつけばっかだし。
酷い人なんて「唐入りに反対した利休を推進派の三成が邪魔に感じたから」とか無茶苦茶な自説展開してるし。

140 :人間七七四年:2013/12/29(日) 20:58:32.60 ID:2omPRJFL.net
>>139
三成が秀次や利休と対立していたかどうかはともかく。秀次事件や利休切腹を利用した行動は(秀吉の意を受けて)していた感じはある

141 :人間七七四年:2013/12/29(日) 21:59:01.11 ID:YDSTmCAb.net
いつまでも利休に内々を取り仕切られていたら奉行の立場がなくなるし
秀次が生き延びて実権を握れば秀次家臣団が権勢を振るい旧秀吉派の奉行などお払い箱なのは確実
動機の面では完璧に黒なうえに現場から蛇蝎のごとく嫌われる横柄な態度とくれば
こいつが裏でやったんだろうなと推測されるのは仕方がないだろう

142 :人間七七四年:2013/12/31(火) 09:38:00.56 ID:xUv6vYUt.net
ほら、こういうテンプレで決めつける

143 :人間七七四年:2014/01/10(金) 10:31:23.40 ID:ZMck/zFz.net
三成は秀吉が死んだ後の事とか考えてなかったのかな?
それとも秀吉がもっと長生きするとでも思ってたのか。
秀頼が幼いまま亡くなったら確実に幼主からの天下簒奪を
狙う者が現れて戦乱が起きると予想できたはず。
かつて秀吉が幼主秀信から簒奪したのを間近で見てたんだし。
再び戦乱が起きると武断派の力が必要になるのに武断派を
怒らせるような事ばかりしてたのは理解に苦しむ。

144 :人間七七四年:2014/01/10(金) 13:34:39.63 ID:3m73rMtf.net
>>143
領地拡大しか頭にない強欲武断派がバカなだけだ。

145 :人間七七四年:2014/01/10(金) 19:25:14.58 ID:ZMck/zFz.net
>>144
武断派をバカだと言って見下す態度ばっか取ってたから、ほとんどの武断派が
三成を嫌って徳川に味方して豊臣の寿命を縮めたんだろ。
嫌いな人間とも上手く付き合わなきゃならない事もある。現代社会にも通じる。

146 :人間七七四年:2014/01/10(金) 19:53:13.06 ID:5ZCTJcS2.net
内通にも気付かず関ヶ原にノコノコ出かける方がバカだがな
要するに三成って自分がバカだと分からないで他人をバカと思う人間なんだよ

147 :人間七七四年:2014/01/11(土) 10:11:14.70 ID:j1O9coOV.net
下記を証明する一次史料は?

武断派をバカだと言って見下す態度ばっか取ってた。


そもそも感情だけで行動し、武断派にはなんら政権ビジョンが皆無だったじゃん。
だから関ヶ原後に主体的な活動が出来ず、
家康のいいように利用されただけの矮小した存在になったじゃん。
その結果が、中央政界での発言力喪失。
最後の抵抗で二条城での秀頼と家康の会見を働きかけたってもはや手遅れ。
だいたい加藤や福島の改易や浅野の紀州からの転封という末路じゃバカ丸出しにしか見えないわ。

148 :人間七七四年:2014/01/11(土) 17:35:14.51 ID:W6kVvjZJ.net
>>147
単純に加藤清正の息子と福島正則がバカだっただけじゃね?
浅野に紀州を持たせたのって家康じゃなかったか?
それこそ石田三成が政権中枢にいるって場合は秀吉末期の状態を想像する人間が正常。
浅野にしても加藤清正にしても、耐えられないだろ

149 :人間七七四年:2014/01/11(土) 21:49:56.89 ID:k7+OTMhQ.net
家康のいいように利用されただけの矮小した存在が三成でしょ
そもそも老齢である家康の方が早期の権力掌握に向けて焦らなければいけない立場だったのに
一刻も早く政権復帰したいと私欲のままに焦って蜂起し
何の統制も取れないまま関ヶ原に突っ込んで家康に巨大権力をプレゼントしたのが三成なんだよ
三成の行動は主体的な活動ですらない単なる暴走でしかない

150 :人間七七四年:2014/01/11(土) 23:01:34.83 ID:NYVI9zGH.net
>>148
意味不明。五大老五奉行による合議なんだから、
三成が政権中枢にいることの方が正常。
秀吉の遺令なんだから耐えるのが当たり前。
>>149
むしろ家康は上杉を討つ目標があり、
武断派が三成を討ちたいのであり、
家康には三成を討つ理由は皆無。
家康は武断派に利用された挙句に、
強欲武断派の領地加増ばかりで、家康には大した利益もなく、
しかも上杉征伐には武断派は協力してくれず断念する羽目になった。

151 :人間七七四年:2014/01/11(土) 23:17:27.50 ID:W6kVvjZJ.net
>>150
ゲームじゃあるまいし、滅びろと言われて滅びるバカはいない
秀吉に逆らう力は無くても自殺願望がある人間はいない
石田三成につくより、徳川家康についた方がマシと判断したから豊臣恩顧は徳川家康についただけだろ

豊臣秀次とその一門を皆殺しにしたのは石田三成が政権中枢にいた豊臣政権だったんだから

152 :人間七七四年:2014/01/12(日) 00:34:21.54 ID:5gtb4qmv.net
>>151
意味不明。
誰が武断派に滅びろと命じたのか一次史料で提出してくれ。
石田に付くよりも家康についた方がいいも何も、
三成ら奉行派と家康によって、
武断派+前田家が排除されてるわけだが。
だから前田征伐には家康も三成や大谷を動員したが、
武断派の動員が出来ず前田への恐喝に推移してる。
前田が土下座した為に、やむなく武断派は三成同様に家康に従っただけだ。

153 :人間七七四年:2014/01/12(日) 08:06:50.10 ID:yFtFMUiz.net
>>152
お前の「意味不明」はただ単に意味を理解したくないだけだな。ガキか

154 :人間七七四年:2014/01/12(日) 10:34:43.58 ID:DbTt2PQD.net
>>153
ガキじゃありません腐です

155 :人間七七四年:2014/01/12(日) 12:36:56.38 ID:+1Ojae+S.net
>>150の脳内日本史では関ヶ原後に家康は征夷大将軍になっていないらしいな

156 :人間七七四年:2014/01/14(火) 20:14:55.47 ID:d6owazk3.net
今、光成 準治って人の、関ヶ原前夜―西軍大名たちの戦い (NHKブックス)
を、読んでるけど、なかなか興味深い事が書かれてて面白いよ。。。
例えば、三成は7将事件の時には、徳川邸に駆け込んではいなくて、実際は
伏見か自邸にこもっていたとかね。あと総大将の毛利輝元は、むしろ積極的に
西軍、引いては、自分の領土拡大を、配下を使って画策していたとか。。。
しかし、毛利輝元は肝心なとこで弱いような事が指摘されてあったね。
関ヶ原前夜―西軍大名たちの戦い (NHKブックス) を読んだ人はいるかな??

157 :人間七七四年:2014/01/15(水) 17:31:57.82 ID:TPombuGQ.net
>>156
>>自分の領土拡大を、配下を使って画策
これは間違っている。
敵と決戦になる前に後方を安定させようとするのは、
戦略的に正しい判断なので、それをもって自国の領土を増やすという解釈にはならない。
ただ単に、公儀に従わない反西軍を武力で帰順させようとしただけ。
だから輝元の名で恩賞と安堵状の発行などは一切してないし、
蜂須賀領に進駐した際も、指揮官を指名しすぐに西軍として軍を編成させ近江へ向かわせようとした。
また大友に兵と金を与えて出撃させた際も、秀頼様の命として出撃してる。

158 :人間七七四年:2014/01/15(水) 18:24:24.63 ID:1/JdVlUf.net
毛利輝元は、あまり良い風にかかれてないね。
あと、吉川広家もそうだったね。
まだ全部読んでないからわからないけど。

159 :人間七七四年:2014/01/15(水) 18:33:26.05 ID:phjia1HB.net
上杉も直江使ってやってる事だしな。まぁ上杉は領地分断の危機で緊急の課題だったけど

160 :人間七七四年:2014/01/15(水) 18:50:42.51 ID:TPombuGQ.net
>>158
輝元に野心があったのはそのとおりで、
ただ野心を強調するために、
飛躍した解釈で「自分の領土拡大を、配下を使って画策」などと誇張したのがマイナスポイント

>>159
上杉も公儀のために、表裏した伊達のことは我慢しろと家臣を説得したりしてるからね。

161 :人間七七四年:2014/01/16(木) 12:23:13.32 ID:7AU9+jHD.net
>>157
西軍の問題点はしっかりと西国や畿内の支配を固めてから進軍したい毛利と
そんなもの無視してすぐさま東進して決戦がやりたい文治派で
考えが完全に分離していることだからな
互いが自分の戦略こそ正しいと考えているため折り合いようがない
西軍は関ヶ原前から完全に分裂していて一体して戦うことは不可能だった

162 :人間七七四年:2014/01/16(木) 19:05:00.29 ID:bHmNFlf7.net
でも美濃取られたのはまずかったと思うの

163 :人間七七四年:2014/01/16(木) 19:17:18.91 ID:RiZAC5h3.net
岐阜が一日で落ちるなんて思わないもの

164 :人間七七四年:2014/01/17(金) 11:34:29.33 ID:aIUxrf9g.net
>>161
いや、あくまでも支隊が西国の安定に派兵されていただけで、
毛利軍主力は伊勢から北上して尾張を攻撃する戦略だからね。
ただ毛利軍がアホなのは、伊勢長島の難攻不落の要害で進軍ストップして、
美濃へ援軍すら出せないバカ作戦でスピードを重視せずにいたら、
武断派には伊勢の毛利軍をガン無視し北上され、
ものの見事に武断派に出し抜かれて美濃を即落とされたことだな。
これで毛利の伊勢を北上し尾張を攻める大戦略が崩壊。
毛利は真田や上杉や佐竹との接続を目指して中仙道制圧と尾張侵攻を両立させる美濃を策源地にすべきだった。
伊勢なんて時間かけて攻略する必要性が皆無。
尾張を落として武断派福島を家なき子にして、毛利有利さを喧伝し東進してしまえば勝手に落ちる。
実際、様子見してる10万石に満たない小大名だらけなんだから。
優位さをアピールしてスピードと攻撃的姿勢を示し続けた方が良かった。

165 :人間七七四年:2014/01/22(水) 21:08:09.71 ID:30bh2vut.net
輝元としては、最終的に伊勢含む西日本を毛利領にしたかったんじゃないの
三河から伊勢湾渡って上陸される可能性もあったから
豊臣家の為じゃなく毛利家の為に動いていただけ
岐阜城落ちたあとは、内通して保身に走ってるし

166 :人間七七四年:2014/01/24(金) 22:20:33.42 ID:StypLkqt.net
>>165
毛利が領国化を狙っていた裏付けとなる
毛利と国人との新たな主従関係を示す、
輝元の発給した安堵状や加増書状を証拠として提出して下さい。

167 :人間七七四年:2014/01/29(水) 11:39:31.22 ID:L6AluZ4i.net
>>164
毛利は講和を模索しながら動いていたから東進の速度を抑えるのは当たり前
途中の東軍大名を無差別に殺戮していったら講和が出来なくなるから
伊勢だって時間をかけるに決まっている
だいたい家康に領地を斡旋してもらった恩義がある秀元を名代にして
家康との親交が深い吉川を連れている時点で東軍に講和を呼びかけるサインであるのは明白
これで東軍と交渉する予定がなかったなんて言ったら輝元は凡将どころか頭がおかしいことになる
だいたい東軍への書状には吉川以外にも福原広俊・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直ら重臣が名を連ねている
後から思いついた言い訳として吉川に罪を被せているだけなのは確定でしょ
三成のように徳川を滅ぼすまで全面決戦を続ける意思など毛利にはなかったわけ
むしろ強硬論をいつまでも振りかざす三成は邪魔なお荷物となったから見捨てただけだ

168 :人間七七四年:2014/01/30(木) 13:06:22.54 ID:Waz3tcYe.net
輝元暗愚説は今に始まった事じゃないだろ

169 :人間七七四年:2014/01/30(木) 13:37:04.08 ID:CFq7+8z2.net
>>167
むしろ長政の手紙を無視して伊勢侵攻を進めたりと吉川はやる気まんまん。
あきらかに家康はとうぶん西上できないと毛利が誤判断した結果じゃん。

170 :人間七七四年:2014/01/30(木) 14:32:00.18 ID:mG98kpxg.net
あの当時の西軍は直ぐに家康が来ると判断したり、逆に絶対来ないと判断したりと、
状況分析がシッチャカメッチャカになっている
この辺の焦りの根源は伏見城が中々落ちない点にあったので、
やはり鳥居元忠以下三河武士ハンパねぇなのである

171 :人間七七四年:2014/01/30(木) 17:03:01.00 ID:GIJ350M7.net
三成はかわいそうだよなぁ
18万の大軍をかき集め絶対勝てる状況作りながら輝元は伊勢湾やら四国やらどうでもいい方向に軍分散させまくり
美濃口を突破されそれでもめげず本戦でも布陣で優位に立ち毛利一族さえ馬鹿じゃなきゃ絶対勝てる状況作ったのに
肝心の輝元は大阪に居座るアホっぷりで秀元秀秋広家も全く使い物にならず大敗
毛利のアホさ加減で努力が水の泡に帰したのが三成

172 :人間七七四年:2014/01/30(木) 21:36:29.05 ID:cyfN5uL0.net
毛利が本当に内通してたら、
あんなに大減封になり大リストラした挙句に、
輝元強制出家し、家督譲渡(清華成なので死罪にはされない)
毛利は大借金を抱えていたのに島津攻め先鋒をやらされ失敗したら改易。
こんなヒドイ目に合わなかっただろうね。

島津が懇望してきたから、島津攻め中止になり、
島津よりも毛利の方が安堵しただろうね。

島津攻めたら毛利みたいなアホじゃ大敗走して改易だもんなw

173 :人間七七四年:2014/01/31(金) 11:25:35.98 ID:sr+iS4E0.net
毛利は両川を通じて東軍と交渉を図っていたのに
三成が独断で大垣城の守備を放棄したため東軍が関ヶ原深くまで入り込んでしまった
講和交渉をしているから東軍とは戦えないのに三成が暴走しているから対等な講和も結べない
結局毛利は大減封を呑むしかなくなってしまった
本当に毛利はかわいそうだよなぁ
最初から最後まで三成の好き勝手な暴走に振り回されて戦略を滅茶苦茶にされた

174 :人間七七四年:2014/01/31(金) 13:28:56.85 ID:waRF6EE6.net
>>173
講話交渉してるから戦わないで、
大坂城までの城を全て明け渡して逃げて来てって、
毛利が島津や小西や秀家に何で連絡しなかったの?
普通に考えて向こうから攻め登ってきてんだから、
無条件降伏するように毛利が命じない限り戦を回避するのは無理だよね。

175 :人間七七四年:2014/01/31(金) 19:41:59.01 ID:4M7k0D/f.net
>>163
そこが甘いんだよね
三成「岐阜が一日で落ちると思わなかったんだもん」
三成「家康が東北戦線を見捨てて赤坂に来るとは思わなかったんだもん」
三成「殿下の養子だった秀秋公が裏切るなんて思わなかったんだもん」

一事が万事こんな感じw

176 :人間七七四年:2014/01/31(金) 20:29:22.53 ID:PFy+2UQy.net
秀頼と朝廷の許可書を待って上杉征伐行ってるんだから
秀頼カードは大義名分として家康も持ってる
家康は秀頼のために帰りたいなら良いよと発言することで逆にカードをちらつかせてる
西軍が安易に秀頼カード使うと家康批判が全て自分達に帰ってくる

毛利担ぐなら輝だけでなく両川をおさえることや
九州の如水や清正の憂いを絶つ手立ても必要なのは毛利家の特質考えたら分かる
そこら辺の準備が足りないのが三成が家康に及ばないところ

177 :人間七七四年:2014/01/31(金) 21:08:20.53 ID:ywJ+nIy0.net
>>175
自分の都合の良い前提で物事を考えているという
いかにも官僚らしい思考回路

178 :人間七七四年:2014/01/31(金) 21:40:44.52 ID:4M7k0D/f.net
実際、西軍の発言権の大きさが気になる。
三成と輝元と秀家は各々がどれくらいの発言権や指揮権も持ってたんだろう
三成が伊勢路進軍案を思いついたのか輝元が思いついたのかでも随分と違う
三成が提案して実行されてたなら「アホだね」の一言で済むが
輝元が提案実行してたのなら三成に対しても同情の余地がある。

179 :人間七七四年:2014/01/31(金) 22:05:50.01 ID:Tq9O1B8B.net
>>175
それは三成ではなく、輝元が思ったことだろwww
なんせ毛利軍を主力とした伊勢制圧が結局間に合わなかったわけだしな。
さらに丹後の細川攻め部隊も間に合わず、
毛利が下手を打って大津城の離反を許してしまい、
小早川秀包と立花宗茂を大津に釘付けにするなど、
西軍総大将として全軍の司令塔たる輝元はどんどん後手後手に回りまくるアホぶりを晒す。
はっきり言って毛利軍を伊勢に派遣せずに美濃に派遣して、
速やかに尾張を襲って福島の領地を奪い取れば、
あとの東海道なんて小身大名ばかりだから後はどうにでもなった。
あきらかに家康はとうぶん西上してこないと誤判断した毛利がバカ。
だから長政の書状すらシカトして伊勢攻略に熱中する誤ちを犯したのが毛利。

180 :人間七七四年:2014/01/31(金) 22:25:09.83 ID:ywJ+nIy0.net
>>179
三成が大丈夫と言ってましたので

181 :人間七七四年:2014/01/31(金) 22:31:25.73 ID:4M7k0D/f.net
西軍諸将が烏合の衆とか船頭多くしてうんたら言ってたのが
まさに図星だったっぽいね
玄以もまさかここまで西軍の内情が酷すぎなんて思ってなかったでしょ

182 :人間七七四年:2014/01/31(金) 23:50:04.40 ID:4M7k0D/f.net
しかし西軍の謀将が黒田官兵衛か真田昌幸だったらガチで勝てたかもな
というか三成は三成で関所をさっさとしき東軍に駆けつける予定の大名を
数多く西へ組み込んだし必要不可欠な存在だったわけだし
もう少しだけ三成の心が広ければ新たな軍師を土下座して招聘し
それに付き従ってただろうね。
本当は三成はそのスペシャリストとして大谷吉継を招聘したのかもしれないけど
北国街道方面対策のため一度消えてしまったのが惜しかった。
終始、大谷が横についてれば岐阜城陥落の失策も赤坂の失策も無かったかもしれない

183 :人間七七四年:2014/02/01(土) 00:10:57.51 ID:KxpdRaOf.net
秀吉の部下の能力を見る目は存外正しかったのかもね
三成に対しては官僚として才を認め、清正には軍司令官として
吉継には謀将として、正則には兵站担当として才を認めてたっぽいし
各々がその方面ではちゃんと才能を生かしたっぽいしね

184 :人間七七四年:2014/02/01(土) 00:53:19.35 ID:/hTRyECv.net
黒田官兵衛なんて講談くらいでしか活躍ねーじゃん

185 :人間七七四年:2014/02/01(土) 00:57:20.16 ID:dm0FqfwV.net
清正は小西憎さの余り
朝鮮から撤退する時に
安全撤退をして宗氏に被害が及ばないように
明と交渉していた小西らを放置して
日本へさっさと帰国。
そのため戦力ダウンした日本軍を明が侮り
交渉が見事瓦解して
島津や小西らが困難な撤退戦になった。
また清正らと三成は本来、仲が悪かったわけでなく
福原長堯との朝鮮での現地トラブルが原因。
三成の妹と結婚してるために、後世の講談で
三成派閥と武断派の対立話にされてるだけ。
(三成を嫌っていた細川忠興の話も混合された)
実際、三成は朝鮮戦での政治軍事的な内容に口を挟んでいないのが史実。

186 :人間七七四年:2014/02/01(土) 01:01:34.25 ID:KxpdRaOf.net
官兵衛が九州でした軍略をおおまかに説明すると
強い相手と雑魚は放置し影響力の強いところに一発入れ
調略で雑魚はまとめて受け入れ&立ち枯れ作戦なんだよね。
三成も秀信をがっつり調略して周辺の美濃諸国が秀信の
行動を見て雪崩を打って西軍に参ずるところは非常に良かった。
でも官兵衛だったら、普通にほぼ全軍そろえて家康の居ない東軍に一発ガツンと入れて
三河〜箱根までの武将を将棋倒しで一気に調略しただろうね
だって西軍が勝つには正則を派手に殴って雑魚をまとめて西軍へ寝返らせるぐらいしか
効果的な戦法ないもの。少なくとも官兵衛だったらそういう戦略にしたと思うよ。

187 :人間七七四年:2014/02/01(土) 01:16:55.09 ID:dm0FqfwV.net
西軍なんて三成が考えてた作戦通り戦ってたら100%勝ってたのに
三成ら奉行衆らの早期での三河・遠州方面への侵攻作戦をアホ輝元が無視し続けて
東軍が三河を越えて尾張までやってきても、輝元は奉行衆らからの防衛要請を無視し続け
結局大破されただけ。総大将がここまでアホでは黒田だろうが石田だろうが、現場指揮官が誰でも勝てるわけがない。
むしろ石田は畿内だけで18万もかき集めて家康に決戦しかけるなどかなりよく頑張ったしな

188 :人間七七四年:2014/02/01(土) 01:24:34.90 ID:KxpdRaOf.net
輝元がアホなのは大前提だけど三成もかなり無能ではあるよ
岐阜城陥落はどう考えても三成のボーンヘッド以外の何物でもない。
しかも小さいミスではなくて、ほぼ決定打的な大ボーンヘッドだし。

189 :人間七七四年:2014/02/01(土) 01:29:29.87 ID:KxpdRaOf.net
あと佐和山城は実際に秀秋が落とそうと狙ってたしある程度の兵を残して置くのは正しい選択だったけど
大津城なんて一旦完全放置して美濃表へ一兵でも多くかき集めるべきだった
それこそ美濃で長期戦とならなければ自然と立ち枯れする城なのに

190 :人間七七四年:2014/02/01(土) 02:16:41.78 ID:4ZiJ2j/G.net
毛利の戦略どおり大阪で引きこもり美濃口の防衛無視、おまけに美濃・近江ラインの防衛も考えず
伊勢湾だの四国だの的外れな方向ばかりに戦力分散させまくってたら美濃でおきまくった離反の連鎖や味方の降伏にみられるように
次々に味方が減り、とりかえしのつかない所まで追い込まれて史実より酷い敗戦になるだけだろ
西軍の中核をなす最も巨大な軍隊かかえる毛利勢がちゃんと戦わないと、しょぼい軍勢しかない奉行らだけで勝てるわけないんだし
実際美濃の防衛も単独で行って失敗してる。
毛利輝元がちゃんと動いて戦場に赴き総大将として行動したなら、西軍の諸勢が毛利輝元の元で動かないといけないというのならわかるが肝心の輝元が大阪に引きこもり
馬鹿な方向にばかり兵を分散させる行動取ってるんだから後は奉行らでなんとかするしかない。
それでなんとかしようとしたのだが、いかんせん兵力に恵まれない奉行らは負けを余技なくされただけ。

191 :人間七七四年:2014/02/01(土) 09:21:26.11 ID:HdgwbUZZ.net
>>182
どんな天才がいてすごい戦略を作ろうが、
総大将の輝元が一切、後詰めを送ってこないのだから、
美濃陥落を阻止できない。
だいたい関ヶ原に負けても、
大坂城と秀頼を擁しているのだから、
いくらでも家康に対抗できたのに、
ビビってさっさと明け渡して大減封を喰らう輝元の無能さは驚愕レベル。

192 :人間七七四年:2014/02/01(土) 10:00:36.97 ID:N6BZmbfK.net
菅沼遼太www

193 :人間七七四年:2014/02/01(土) 11:04:01.52 ID:cF/XuuR6.net
>>185
小西を明と自由に交渉させたら何をするか分からないのだから
すぐに帰国して交渉を瓦解させた加藤の判断は正しい
文禄の偽講和は秀吉が最後の砦として強権で破棄できたけど
肝心の秀吉が死んでは小西がどんな屈辱的な講和を結んでも破棄は難しい
加藤ができる現実的な豊臣を守る策は講和を締結させないことしかない
小西の撤退が困難になることは自業自得だから問題ではないし
むしろ関ヶ原を経るまで小西を処刑できなかったことの方が問題だろう

194 :人間七七四年:2014/02/01(土) 11:04:50.55 ID:KxpdRaOf.net
>>191
それはそうだが天才が普通の戦略を持って戦えば
箱根の関以西は西軍、宇都宮以北も西軍になってたのは疑いないよ。
東軍の最上と伊達は時間稼ぎのためと思われるが上杉に対して
「関東を攻めるなら旗下として我等を使ってください」とはっきり書状に残ってるし
西軍が箱根まで追い詰めてれば余裕で三家が宇都宮の結城秀康を血祭りにあげてるよ。

195 :人間七七四年:2014/02/01(土) 11:57:45.43 ID:ODCXzF3U.net
>天才が普通の戦略
w

196 :人間七七四年:2014/02/01(土) 14:43:30.55 ID:61arUKPg.net
大阪城公園で復讐成功ニダ韓国大勝利ニダ

日本の3大古城の一つであるとともに豊臣秀吉の本拠地だった大阪城。韓国では壬辰倭乱(じんしんわらん、文禄・慶長の役)の元凶として知られる秀吉は、ここから日本統一の夢をつかんだ。
暗闇の中でショーが始まると、天守閣が日本刀によって真っ二つに切られ
その瞬間、韓国アイドルグループ「BEAST」の歌が流れ、中には口ずさむ見物客も見られた。
キム・ドンソンさんは「しかしそれを実現した技術と設備は純粋に韓国のもの

197 :人間七七四年:2014/02/01(土) 19:53:25.06 ID:KxpdRaOf.net
関ヶ原までの戦術・戦略を見ると家康・三成ともに
大成功の部分と失敗の部分があるんだよね
三成は戦力分散という戦略上最もやってはいけないミスだし
家康は慎重が過ぎて勝機を何度か逃してる
結局、ミスが少ない家康が勝ったが三成のミスが少なきゃ西軍が勝ってたよ

198 :人間七七四年:2014/02/01(土) 20:09:06.84 ID:giYnGwLd.net
関ヶ原の戦いのそれぞれの陣営の最高司令官は誰なんだ?
三成が首謀者だろうがなんだろうが、どうでも良いから
誰と誰が戦ったんだ?
それが大きく食い違ってるだろ
西軍総大将は毛利輝元と初期ゆとり教育では習ったが後期ゆとり教育では石田三成と教えてるのか?

199 :人間七七四年:2014/02/01(土) 20:21:36.37 ID:ZLcnUUnm.net
○毛利輝元が家康との交戦を消極的にしか考えておらず自領域の拡大を中心に見据えていたというのは根拠がない
・輝元が家康と戦う気がないならはじめから西軍総大将になんてなるわけないし
伊勢湾、伊勢方面に兵送ったり関が原に秀元広家の大軍送り込むわけもない
・自領域拡大が目的なら関が原本戦に勝利すれば西軍総大将として最も領域も権限も増すし逆に総大将なのに負ければ最も不利な立場になるなんて幼稚園児でもわかる事
・石田三成などの奉行衆と連携して積極的に反徳川闘争の決起を行った

○毛利輝元は馬鹿なのは以下の通り史実での実績がちゃんとある
・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する

以上のように毛利輝元が消極的というより単に馬鹿だったからこそ戦力分散させまくり西軍を崩壊に導いたと解釈すれば矛盾なく関が原の毛利の行動も理解できる

200 :人間七七四年:2014/02/01(土) 20:22:18.33 ID:dm0FqfwV.net
自分が総大将にもかかわらず東軍との本決戦に敗れれば自国の領域拡大も瀬戸内海の利権も糞もないわけで。
あと関が原直後には毛利の厳封が決まってるのに厳封確定になった時点で厳封する事が決まった領域を一時的に持ってた事をもって「領土は最大」などとはいわん
あと8/10石田←佐竹書状で「輝元は家康が到着したら三万を召し連れて出陣する」と書いており西軍方は家康との本決戦にあたって総大将であり最も巨大な軍団を持ってた輝元を
主力として東軍を迎撃しようと考えていたが当の輝元が再三に渡る石田ら西軍の援軍要請を無視しまくって本決戦で敗れる理由となったわけ。
尾張口に大軍で美濃方面を攻めに来てるのにそれ無視して援軍要請も無視して
伊勢湾とか四国とかどうでもいいところ攻めてるのにその作戦が真っ当とかないわ
戦力下手に分散してその一部隊が敗れたら戦局が大きく傾くなんて普通の脳味噌の人間ならわかることだし事実そうなったし

家康との直接対決で西軍方の一部隊が敗れたらもう手遅れで降伏するしかなくなるのが毛利
事実そうなったし自国の領土拡大どうこういうなら総大将としての地位を最大限生かして東軍との主力決戦で勝利し
大将としての権力を確立していけばいいだけ。
長期化するシナリオでも最低限福島やら池田やら東軍方諸侯は確実に美濃口で立ち往生させないとどんどん味方が減るだけだし
さっさと石田ら西軍諸侯の要請通り美濃に大軍送ってりゃよかっただけ

西軍総大将で最も規格外の大軍持ってるにもかかわらず目的が火事場泥棒で
軍分散させまくったあげく東軍の尾張口の進軍にも対応せず石田らからの要請無視して
大敗し大厳封くらうんだから相当馬鹿だな
伊達最上堀らに囲まれてた上杉と違って毛利は兵力的にも状況的にも十分すぎるほど東軍ぶち破るチャンスがあったのに
むざむざ無駄にして何もしないまま大厳封
西軍総大将として存在しながら本決戦に負けたら勢力拡大も火事場泥棒も糞もないのにクズすぎる

201 :人間七七四年:2014/02/01(土) 20:24:20.68 ID:rECx6KGd.net
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。

202 :人間七七四年:2014/02/01(土) 20:26:22.06 ID:KtRWOLtE.net
西軍なんて三成が考えてた作戦通り戦ってたら100%勝ってたのに
三成ら奉行衆らの早期での三河・遠州方面への侵攻作戦をアホ輝元が無視し続けて
東軍が三河を越えて尾張までやってきても、輝元は奉行衆らからの防衛要請を無視し続け
結局大破されただけ。総大将がここまでアホでは黒田だろうが石田だろうが、現場指揮官が誰でも勝てるわけがない。
むしろ石田は畿内だけで18万もかき集めて家康に決戦しかけるなどかなりよく頑張ったしな

203 :人間七七四年:2014/02/01(土) 20:27:04.60 ID:4ZiJ2j/G.net
毛利の戦略どおり大阪で引きこもり美濃口の防衛無視、おまけに美濃・近江ラインの防衛も考えず
伊勢湾だの四国だの的外れな方向ばかりに戦力分散させまくってたら美濃でおきまくった離反の連鎖や味方の降伏にみられるように
次々に味方が減り、とりかえしのつかない所まで追い込まれて史実より酷い敗戦になるだけだろ
西軍の中核をなす最も巨大な軍隊かかえる毛利勢がちゃんと戦わないと、しょぼい軍勢しかない奉行らだけで勝てるわけないんだし
実際美濃の防衛も単独で行って失敗してる。
毛利輝元がちゃんと動いて戦場に赴き総大将として行動したなら、西軍の諸勢が毛利輝元の元で動かないといけないというのならわかるが肝心の輝元が大阪に引きこもり
馬鹿な方向にばかり兵を分散させる行動取ってるんだから後は奉行らでなんとかするしかない。
それでなんとかしようとしたのだが、いかんせん兵力に恵まれない奉行らは負けを余技なくされただけ。

204 :人間七七四年:2014/02/01(土) 20:27:28.43 ID:/hTRyECv.net
三成はかわいそうだよなぁ
18万の大軍をかき集め絶対勝てる状況作りながら輝元は伊勢湾やら四国やらどうでもいい方向に軍分散させまくり
美濃口を突破されそれでもめげず本戦でも布陣で優位に立ち毛利一族さえ馬鹿じゃなきゃ絶対勝てる状況作ったのに
肝心の輝元は大阪に居座るアホっぷりで秀元秀秋広家も全く使い物にならず大敗
毛利のアホさ加減で努力が水の泡に帰したのが三成

205 :人間七七四年:2014/02/01(土) 20:40:19.46 ID:ODCXzF3U.net
うざいから同じこと何度も書くな

206 :人間七七四年:2014/02/01(土) 20:41:59.21 ID:1XTGgDWv.net
>>205
自分が何を書いたかすら解ってないんだから、酷なこと言うなよw

207 :人間七七四年:2014/02/01(土) 21:42:59.65 ID:/hTRyECv.net
輝元が総大将にもかかわらず美濃口の防衛要請無視して大坂城に居座り続けたり
伊勢やら伊勢湾だの四国だのどうでもいい所に戦力分散させまくって大敗したのに
三成が戦力分散させたとか何回も同じ妄想書いてる馬鹿が沸くから同じ反論が何回も書かれるわけで。

208 :人間七七四年:2014/02/01(土) 21:47:59.06 ID:ODCXzF3U.net
こんなとこで言っても意味ないから、論文書いて投稿しろ

209 :人間七七四年:2014/02/01(土) 21:53:31.71 ID:ZLcnUUnm.net
>>208
一々命令してんじゃねぇよボォケwww

210 :人間七七四年:2014/02/01(土) 21:54:36.03 ID:/hTRyECv.net
>>208
はぁ?毛利厨馬鹿の妄想に突っ込んでるだけなのになんで一々論文が必要なんだよボケ
それなら三成が戦力分散させまくったというトンデモ説を論文で証明してみろよタコ

211 :人間七七四年:2014/02/01(土) 21:57:24.32 ID:dm0FqfwV.net
論文書いて証明する必要があるのは、何かを主張する側であって、否定する側ではない。
主張に明確な論拠や史料や史実の事績などの根拠がない限り
その主張はハナから妄想なんだから、それを否定するのに一々妄想なんぞ必要ない。
この場合先に主張してるのは「関ヶ原合戦は石田のアホな作戦や暴走で負けた」という説を
主張する側なのだから、上記主張を史実の具体的な事例やその論拠となる史料や論文や事績を提示して
論文で証明する必要があるのは毛利マンセー・アンチ三成の馬鹿なわけで。

212 :人間七七四年:2014/02/01(土) 21:59:51.58 ID:pjJ6fydR.net
毛利マンセー馬鹿にろくな根拠なんてあるわけねーだろアホ
陰徳太平記とか後世の糞講談で隆景を名将だの有能だのマンセーしまくって
史実で戦力分散させまくり大坂に居座り続けた輝元のせいで大敗した関ヶ原の西軍の失態を全て三成のせいに押し付けて
輝元をマンセーしまくってるゴミ毛利厨
真性のクズだからな

213 :人間七七四年:2014/02/01(土) 22:11:13.18 ID:ODCXzF3U.net
兎に角、延々と喚くな五月蝿いから

214 :人間七七四年:2014/02/01(土) 22:21:14.52 ID:rECx6KGd.net
喚いてるのはどうみてもアンチ三成・毛利マンセー厨じゃん

215 :人間七七四年:2014/02/01(土) 22:41:13.02 ID:BG24YfEQ.net
菅沼遼太 菅沼 遼太 武田信玄 信玄 りょうた 菅沼 だが アスペルガーだが 武田 戦国 菅沼遼太

216 :人間七七四年:2014/02/01(土) 23:04:00.90 ID:ODCXzF3U.net
長文なら全て五月蝿い

217 :人間七七四年:2014/02/01(土) 23:09:00.42 ID:cF/XuuR6.net
>>202
関ヶ原は朝鮮出兵のような異国で異民族と戦う特殊な戦争ではなく
日本人同士しかも豊臣政権下での顔見知り同士の戦いだから
何よりも重要なのは交渉であり天下分け目の決戦などはそのオマケに過ぎない
交渉ルートを宗・小西で独占できた朝鮮出兵と違い顔見知り同士の戦いならば多彩な交渉ルートが出現する
どうやって敵を調略しつつ敵からの調略を防ぐかが関ヶ原のほぼ全てといっても過言ではない
そんなことは徳川も毛利も武断派も理解していたが三成ら文治派だけがそれを理解しておらず
10万の大軍に向かって全面突撃の決戦志向しか持ち合わせていなかった
三成としては豊臣を侵略するエイリアンと戦っているような感覚だったのかもしれないが
そんな感覚は文治派以外の大名の大半には受け入れられず三成の作戦が無視されたのは当然だった

218 :人間七七四年:2014/02/01(土) 23:17:53.99 ID:N6BZmbfK.net
ゴミ菅沼遼太w

219 :人間七七四年:2014/02/01(土) 23:26:12.76 ID:bck3/WxX.net
>>188
毛利が美濃に出陣せずに、伊勢攻略に苦戦するアホをやったせいで、
美濃が手薄になって落ちたんだから毛利のせいで、
増田を取次役にして輝元にお願いしてる立場の三成にはなんら指揮権なんてねーだろ。

>>189
佐和山を秀秋が落とそうと狙っていたって、なんだそのくだらねぇ妄想はw

220 :人間七七四年:2014/02/01(土) 23:44:22.25 ID:KxpdRaOf.net
>>219
はああああ???
高宮に長滞陣して明らかに佐和山城を落とそうとしてたじゃん
西軍諸将は三成一人を残して全員が秀秋=東軍と認識して
あまつさえ暗殺しようとまでしてたし。
実際に関ヶ原が終わった直後、秀秋が佐和山城攻めの先方をしたいと言い出し
既に高宮滞陣中に調略は全て済んでたので即時に裏切りをさせ
とっとと攻め滅ぼしたわけだし。

221 :人間七七四年:2014/02/01(土) 23:46:42.97 ID:KxpdRaOf.net
>>219
本当にアホなんだな。
伊勢攻めも指令を出したのは輝元本人だが
前線の事情をよく分からず伊勢攻めを進めたり
各所に関所を設けたりの具体的指令は三成のアドバイス
そのまんまだろ。

222 :人間七七四年:2014/02/02(日) 00:40:33.74 ID:fwG+DOW8.net
三成が伊勢攻めを進めたとか何の講談だよ
三成は7月の書状で輝元らを含めた総力で、三河・遠江への侵攻を行う事が肝要とか
西上してきた東軍先発隊に対して、輝元らの出陣や、総力での東軍の美濃攻撃を防ぐ事が肝要などと
東軍の動きに対して美濃口の警戒をしまくってて、美濃戦線の重要性を認識しまくってたんだが

223 :人間七七四年:2014/02/02(日) 00:50:17.77 ID:yvzkCjed.net
三成は一貫して戦力を集中させた上で東海道方面の三河・遠州に先んじて攻撃をかける事で
去就が変わるかもしれない東海道での主導権を握り、優位に立つか
その後東軍先遣隊が到着した後も、尾濃ラインで総力結集した上で早期決戦を行う事を志向してたが
輝元が余りにもアホすぎて、伊勢湾、伊勢、四国など兵力分散しまくって美濃戦線の防衛を無視し見事に大敗する結果となった。
西軍の中で最も巨大で、総大将としての権限を握る輝元がここまで無能では、前線に誰が派遣されようが勝ち目はない。

224 :人間七七四年:2014/02/02(日) 01:13:26.71 ID:jcm8kIKg.net
>>220
はいはいw
じゃあ一次史料で証明してみなwww

225 :人間七七四年:2014/02/02(日) 01:34:24.13 ID:AcE4cjis.net
菅沼遼太軍団うぜえな
おめーは唯の一度でも一次資料出した事があんのかよ
死ねよ

226 :人間七七四年:2014/02/02(日) 01:38:05.79 ID:FPGzZrDH.net
>>225
在日織田チョン火病乙w

227 :人間七七四年:2014/02/02(日) 02:02:40.54 ID:yvzkCjed.net
一次資料も糞も三成の出した書状の中で7月〜9月に発給された物を読んでいけば
遠江三河尾張美濃ラインを重視しまくってて
輝元や毛利軍も含んだ総軍で先手で侵攻を考えてたのがわかるんだが
当の輝元は全く無視して伊勢だの伊勢湾だの四国だのどうでもいい方向にばかり兵進めたり
美濃を侵略されても大坂にのうのうと居座り続けるほど馬鹿だったけどな

228 :人間七七四年:2014/02/02(日) 04:11:41.93 ID:AcE4cjis.net
菅沼遼太軍団はいいよな。
一次資料を出さずに妄想だけ書き連ねてればいいんだから

229 :人間七七四年:2014/02/02(日) 05:23:12.34 ID:yvzkCjed.net
それまんま織田厨の事じゃん

230 :人間七七四年:2014/02/02(日) 05:25:54.41 ID:hIMxu8u3.net
まぁちょっと歴史書齧った程度の人間でも
毛利がアホだといっており三成は真っ当な作戦取っただけと主張してる人間の主張が正しく
三成が暴走しただの戦力分散しただの馬鹿な妄想書き連ねてる奴の主張がほぼ100%誤りなのはわかるわけで。

231 :人間七七四年:2014/02/02(日) 05:38:00.12 ID:yvzkCjed.net
妄想アホ織田厨はほとんど間違った内容しか主張してないからね。

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386599462/546

これはhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386599462/549-550
で完璧に論破され
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386599462/553

これは
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386599462/554
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386599462/558
で完璧に論破されてるのに

また別の日になるとまたこのスレッドの

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/193
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/197
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/188-189
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/221
で同じような妄想垂れ流して
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/191
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/199-204
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/219
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/222-223
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/227


で完璧に論破されてる
このあたりを読めばいかに毛利マンセー織田マンセー馬鹿が妄想書き連ねて
それを罵倒してる人間が正しい主張してるか誰でもわかる
織田厨の妄想はhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1390317350/
ここでも完璧に論破されてるのがわかるが
時間が経つと何もなかったかのようにまた同じ妄想を垂れ流す馬鹿だからな。

232 :人間七七四年:2014/02/02(日) 05:39:50.07 ID:6dHALZM2.net
>>231
織田厨のアホ妄想が悉く打ち砕かれててワロタwwwww

233 :人間七七四年:2014/02/02(日) 05:42:29.39 ID:PycWlL3S.net
織田厨が醜態晒しまくるスレッドはここですか?

234 :人間七七四年:2014/02/02(日) 05:45:28.60 ID:jn6urtqw.net
そもそもはなから織田厨の妄想に根拠などないわけで、その妄想に対してすら一々丁寧に史料や論文や
歴史事例を基にした論理的根拠を書いてるわけで、どっちが正しいかなんて偏差値40以上の人間ならわかるわけで、
その残りカスとも言える、偏差値40割る低脳アホ織田厨はそれでもだがの妄想だの菅沼の妄想だのとアホな勝利宣言をあちこちで
やるから、どちらが正しいかを戦国板の人間に分かりやすく提示するために作られたのがこのスレでしょ。
ハナから妄想に対して反論してるだけなのに、自分の方が正しく、相手は史料や論文や歴史の事例を元にした反論でも妄想だの言って
馬鹿な勝利宣言をしたりレッテル貼りで議論から逃げようとするクズだからなw

235 :人間七七四年:2014/02/02(日) 05:50:30.89 ID:yvzkCjed.net
織田厨の妄想と、それを論破したレスのリンク

>>信玄が毎年戦をしまくって財政破綻して兵糧はなくなり長期遠征は不可能だし民衆は怨嗟した

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1390317350/3

>>信玄が長生きしてようがほとんどその後の情勢に影響なかった

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1390317350/4-7

>>謙信が長生きしてようが、情勢には影響なかった

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1390317350/8

>>信忠は有能だった

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1384251637/75

>>岩村は堅城で、自力では落とせないような難攻不落

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1384251637/79-80
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1384251637/82


>>信玄謙信と信長では圧倒的に領土拡張率や滅ぼした大名の数が違う

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1380208565/223
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1380208565/225-228

>>信長は畿内を平定したから、実力あった

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1375065575/114-116

>>武田は名門の守護大名であり、初期条件がかなり有利

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/503-504

>>信長の初期条件はかなり苦しかった

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1383553558/12-13
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1383553558/15-19
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1383553558/24-28
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1383553558/35-39

>>桶狭間当時、尾張の下半文が今川の物
>>織田信秀の死に方が悪すぎるわな 後継者すら明示せずに死ぬとか乱世では自殺行為

http://www.logsoku.com/r/sengoku/1312513363/117

236 :人間七七四年:2014/02/02(日) 05:52:14.00 ID:vB6Xgcie.net
毎回毎回馬鹿みたいに論破されてるのになんで懲りずに続けるかね

つかスレッドの無駄な消費を抑えるために関ヶ原関連の話題も引用とリンクにまとめたほうがいいだろ。

237 :人間七七四年:2014/02/02(日) 06:19:30.65 ID:hIMxu8u3.net
学習能力0のアルツハイマーだから、人の言った事とかは基本全てすぐに忘れる

238 :人間七七四年:2014/02/02(日) 07:34:50.73 ID:AcE4cjis.net
結局、菅沼遼太軍団は一次資料を出さないんだよな
三成のせいで負けた西軍は可哀想だ

239 :人間七七四年:2014/02/02(日) 08:36:31.92 ID:ejWOBTze.net
>>238
戦国板のゴミ織田朝鮮人乙

240 :人間七七四年:2014/02/02(日) 15:42:06.91 ID:AcE4cjis.net
ところで三成は何で美濃・尾張を抑えなかったんだろう?

241 :人間七七四年:2014/02/02(日) 15:53:52.04 ID:hIMxu8u3.net
抑えるも糞も、西軍の中で最も巨大な軍団を有する毛利がアホすぎて東軍の連中が尾張までやってきても
美濃口に奉行衆らだけで援軍に向かう事になり軍が足りずに敗れた結果
美濃の西軍諸将が東軍についたり降伏したりしただけじゃん
三成は7月〜9月までの書状で何回も美濃口の防衛が肝要とか三河や遠州に輝元を含めた大軍で攻め込むことが肝要とか
書いてたし。
でも当のアホ元は大坂に居座り続けて、四国だの伊勢湾だの伊勢だのどうでもいい方面に戦力分散させまくって負けただけじゃん

242 :人間七七四年:2014/02/02(日) 16:14:03.81 ID:AcE4cjis.net
>>241
ソースは?

243 :人間七七四年:2014/02/02(日) 17:34:58.51 ID:oTXkGotN.net
>>240
昌幸宛三成書状を見ると、途中まで上方大名が本気で
西軍に参加するために上洛してきたと認識していた

244 :人間七七四年:2014/02/02(日) 18:09:45.48 ID:fwG+DOW8.net
>>242
8/5三成→真田昌幸書状 三州表可へ可打出とか
8/10三成→真田
8/10三成→佐竹
9/12三成→増田あたりを読めばわかる。
美濃口の防衛とか三河方面の攻撃とか
東海道筋を気にしまくってるのが三成で
それを無視しまくって大坂に居座り続けてるのが輝元。

245 :人間七七四年:2014/02/02(日) 18:17:05.19 ID:AcE4cjis.net
>>244
それって三成の独り言じゃん
輝元に言ってないんだろ?

246 :人間七七四年:2014/02/02(日) 18:18:39.63 ID:fwG+DOW8.net
あと7/26長束・増田・前田→中川でもな

247 :人間七七四年:2014/02/02(日) 18:21:25.56 ID:fwG+DOW8.net
>>245
そもそも構想してた戦略がどうだったかの話なわけで、言ったとか言ってないとか関係ない。
つか、そういった重要な局面での戦局とか戦略や判断など戦時における見解を輝元に言ってなかったわけがないだろ。

248 :人間七七四年:2014/02/02(日) 18:25:57.94 ID:AcE4cjis.net
>>247
つまりソースがねえわけじゃん

249 :人間七七四年:2014/02/02(日) 19:30:08.57 ID:fwG+DOW8.net
>>248
ソースは出てるよ>>244>>246
三成の1人言とかそんなアホなお前の妄想なんぞ知らん。

250 :人間七七四年:2014/02/02(日) 19:58:53.02 ID:AcE4cjis.net
>>249
頭悪いのですか?
毛利に言ってないんだから独り言だろ
寝言ほざいてろ

251 :人間七七四年:2014/02/02(日) 20:09:06.39 ID:AcE4cjis.net
結論から言えば三成が居なければ西軍が勝ててたのに
本当に最悪の男だよな

252 :人間七七四年:2014/02/02(日) 20:36:25.99 ID:t3ERXwu5.net
まーた織田朝鮮人得意の理不尽な屁理屈。
しかも自分はソース皆無の妄想悪口中傷しかレスしない分際で。

253 :人間七七四年:2014/02/02(日) 20:48:43.36 ID:fwG+DOW8.net
>>250
アホか。論点は三成が西軍の戦略をどう考え、構想してたかどうかなんだから
毛利に言っただの言ってないだの関係ないわアホ

つか三成が構想してた戦略を毛利に言わなかった→毛利が総大将であり三成には何の権限もなかったという事だから
全軍大敗の責任は、総大将としての権限と超巨大な軍を有しながら何もせずに大敗した輝元ら毛利首脳の馬鹿のせい

実際には三成が毛利には構想してた戦略を言った→毛利が奉行衆らの提言を聞き入れず、大坂に居座り続けたため、大敗した。

どっちにしろ、三成らには敗戦の責任は全くなく毛利がクズすぎて負けた事には変わりねーよ。

254 :人間七七四年:2014/02/02(日) 21:23:44.37 ID:AcE4cjis.net
>>253
ホウレンソウもせずに「上司が悪いニダ」か?
やはり三成が全て悪いんじゃん。都合のいい時だけ上司のせいにすんなや

255 :人間七七四年:2014/02/02(日) 21:51:40.57 ID:fwG+DOW8.net
三成が構想してた戦略を毛利に言わなかったという前提なら
毛利が総大将であり三成には何の権限もなかったという事だし
総大将である輝元が逐一前線指揮官に色々様子を確認する書状おくったり
物見送ったり東部戦線の状況を細かく把握する必要があるわけで、
その確認の使者も書状も何も三成には届いていないんだから三成らからすりゃホウレンソウも糞もないわけで。
総大将としての権限と超巨大な軍を有しながら状況確認もろくにせず
何もせずに大敗した輝元ら毛利首脳の馬鹿のせい じゃん
三成が輝元に何も言わなかったくらいに三成らには何の発言権もないというなら
当然ホウレンソウをする義務すら三成らにはあるか微妙だし
総大将というのは、軍全体の中心なんだから、全ての指令は輝元の命令と考えないといけないしな。

256 :人間七七四年:2014/02/02(日) 22:26:54.10 ID:AcE4cjis.net
毛利さんもこんなクズが手下に居たんじゃ
そりゃ負けますわ
可哀想な輝元

257 :人間七七四年:2014/02/02(日) 23:14:26.99 ID:/FviBuSk.net
菅沼遼太w

258 :人間七七四年:2014/02/03(月) 09:51:07.18 ID:DSCnHDF7.net
ナポレオン
「まことに恐るべきは有能な敵ではなく輝元みたいな無能な味方である」

259 :人間七七四年:2014/02/03(月) 10:27:01.10 ID:SGffu9OH.net
>>255
三成が構想してた戦略を毛利に言わなかったという前提なら
三成が自分こそ全てを決定する総大将であると思い込み
毛利を自分の命令どおりに動くだけのパシリだと考えていたということ
三成がそのような傲慢な態度を取れば毛利でなくとも反発し三成の命令を無視するのは当然のこと
関ヶ原で大勢の大名の不戦を招いたのは三成の責任であることは疑いようがない

260 :人間七七四年:2014/02/03(月) 11:06:23.58 ID:bF7e0oMN.net
つか三成が構想してた戦略を毛利に言わなかった→毛利が総大将であり三成には何の権限もなかったという事だから
全軍大敗の責任は、総大将としての権限と超巨大な軍を有しながら何もせずに大敗した輝元ら毛利首脳の馬鹿のせい

実際には三成が毛利には構想してた戦略を言った→毛利が奉行衆らの提言を聞き入れず、大坂に居座り続けたため、大敗した。

どっちにしろ、三成らには敗戦の責任は全くなく毛利がクズすぎて負けた事には変わりねーよ。

261 :人間七七四年:2014/02/03(月) 11:22:47.08 ID:0fCXoJr1.net
なんで三成は全勢力を美濃に集めなかったんだろうねぇ
馬鹿じゃないかしら

262 :人間七七四年:2014/02/03(月) 11:26:57.62 ID:08P44ZJm.net
伊勢に東軍が来ないと誰が決めた?

263 :人間七七四年:2014/02/03(月) 11:30:09.52 ID:2cA8H8Gh.net
>>261
お前畿内に入る街道を全然理解してないのな

264 :人間七七四年:2014/02/03(月) 11:44:25.26 ID:dlaQL7P2.net
>>263
三成って書いてるから畿内なんてどうでも良いんだろ?
石田三成が、徳川家康を関ヶ原で叩くのが目的なら、悪くもないと思う
石田三成に徳川他と戦える身代があるかは別にしてだが

265 :人間七七四年:2014/02/03(月) 12:06:24.37 ID:bF7e0oMN.net
>>261
集めるも糞も、西軍の中で最も巨大な軍団を有する毛利がアホすぎて東軍の連中が尾張までやってきても
美濃口に奉行衆らだけで援軍に向かう事になり軍が足りずに敗れた結果
美濃の西軍諸将が東軍についたり降伏したりしただけじゃん
三成は7月〜9月までの書状で何回も美濃口の防衛が肝要とか三河や遠州に輝元を含めた大軍で攻め込むことが肝要とか
書いてたし。
でも当のアホ元は大坂に居座り続けて、四国だの伊勢湾だの伊勢だのどうでもいい方面に戦力分散させまくって負けただけじゃん

266 :人間七七四年:2014/02/03(月) 12:11:15.76 ID:08P44ZJm.net
>>265
>>262

267 :人間七七四年:2014/02/03(月) 12:26:45.24 ID:0fCXoJr1.net
三成って無能だから仮に関ヶ原に西軍が50万人居ても壮絶な敗北をしたと思うな
だってこいつウルトラアホじゃん。
俺が輝元でも三成にだけは絶対に兵を与えんわ

268 :人間七七四年:2014/02/03(月) 12:38:10.52 ID:bF7e0oMN.net
伊勢に東軍がどうやって来るんだよ。
伊勢には尾張を通らないといけないから
東軍は尾張さえ制圧してしまえば伊勢なんて無視していいし
そもそも伊勢筋・美濃筋じゃ、尾張からの距離や移動のしやすさは圧倒的に美濃であり
伊勢に転進した場合は猶予の時間も長くなる。
三成はその変を理解してたから尾張方面の制圧を構想してたが毛利がアホすぎて
伊勢の南部でダラダラ城攻めやっては無駄な戦死者出してたから
美濃口を東軍に攻められたときも西軍は常に兵力不足で寝返りや降伏が次々に起こって結局グイグイ押し込まれて
相変わらず輝元は大坂に居座ってたから大敗しただけじゃん

269 :人間七七四年:2014/02/03(月) 12:39:44.92 ID:dlaQL7P2.net
何がどうしたとかは別にして
>>267も頭が悪いのはわかった

270 :人間七七四年:2014/02/03(月) 12:43:40.17 ID:0fCXoJr1.net
疫病神の三成さえ居なけりゃ武断派の半数も西軍についたから
楽々輝元が勝てたのにね
どこまでキングボンビーなんだよ三成は

271 :人間七七四年:2014/02/03(月) 12:51:40.13 ID:08P44ZJm.net
>>268
海路
あと三成書状から上方大名が西軍に参加すると認識していた

272 :人間七七四年:2014/02/03(月) 13:15:12.01 ID:XNZ2frEe.net
制海権なら毛利水軍の方が圧倒的じゃん。
毛利水軍は大兵力の前方展開能力を持つ水軍だし。

273 :人間七七四年:2014/02/03(月) 13:36:09.96 ID:0fCXoJr1.net
両村上水軍があるしね
両方とも四国攻め他に使ってたんだっけ?
輝元も最初は家康に勝つ気満々だったけど結構早い段階で
負けを確信して方針を変えたんだと思うよ

274 :人間七七四年:2014/02/03(月) 13:48:45.52 ID:XNZ2frEe.net
負けを確信して方針を変えたとする輝元の意思を示す一次史料は?

275 :人間七七四年:2014/02/03(月) 14:10:17.39 ID:0fCXoJr1.net
輝元が伊勢や四国に軍を振り分けたという一次資料は?

276 :人間七七四年:2014/02/03(月) 14:29:01.75 ID:0fCXoJr1.net
菅沼遼太は自分が都合が悪くなると必殺技「一次資料は?」しか言えなくなるけど
自分自身は唯の一度として一次資料を提出した事が無いw

277 :人間七七四年:2014/02/03(月) 14:59:55.68 ID:08P44ZJm.net
>>272
連中が作戦行動始めたのは九月に入ってからだよ

278 :人間七七四年:2014/02/03(月) 15:44:32.39 ID:l4cWtQy6.net
菅沼遼太また敗北

279 :人間七七四年:2014/02/03(月) 18:24:14.57 ID:oA2wZPQS.net
>>275
実際に毛利軍が伊勢や四国に出陣してるだろアホかw

280 :人間七七四年:2014/02/04(火) 10:49:22.57 ID:g0lky3oZ.net
>>270
襲撃されるほど嫌われて失脚した元奉行が戦に駆けつけるなんて普通はありえないよな
そんなことをすれば三成が権力奪取を画策した謀反であると敵に利用されるのは明らかで
三成自身の兵力の乏しさを考えたら西軍にはデメリットしか存在しない
武断派が東軍に付いたのも西軍から内通・日和見が相次いだのも三成の参陣に疑問を持たれたからだし
西軍は三成が来るのをきっぱりと断るべきだった

281 :人間七七四年:2014/02/04(火) 19:41:56.17 ID:IzVsx6pX.net
三成は大名からは好かれていた。
単に武断派が朝鮮でのことで、
秀吉から叱責を受けた話を、
なぜか三成に向けると言う屈折した思いにより遺恨に思ってただけの話。

282 :人間七七四年:2014/02/05(水) 00:44:08.54 ID:oLiKu2gi.net
三成が大名からは好かれていたという一次資料は?

283 :人間七七四年:2014/02/05(水) 09:29:27.61 ID:kCMkkz2M.net
毛利輝元や佐竹義宣や上杉景勝や真田昌幸や織田秀信や島津義弘や宇喜多秀家や小西や相良や秋月あたりとは親しかっただろ。

284 :人間七七四年:2014/02/05(水) 09:35:26.94 ID:oLiKu2gi.net
三成と伊集院忠棟は同志と呼べるほど仲が良いけど
島津義弘とは微妙じゃね?
親友なら関ヶ原で単独行動はとらないと思う

285 :人間七七四年:2014/02/05(水) 11:24:32.47 ID:44BcUIoI.net
>>283
それは三成の取次大名をただ列挙しただけだ
豊臣が権力を保持しているうちは取次官僚と喧嘩せず親交を持とうとするのは当たり前
徳川に権力が移ればその相手が徳川官僚になるだけの話だろ

286 :人間七七四年:2014/02/05(水) 13:41:33.00 ID:zgTlWCEF.net
政宗みたいに浅野の取次は金輪際拒否なんていう絶縁状を、
三成は出されて無いしな。

287 :人間七七四年:2014/02/05(水) 14:26:09.77 ID:XHG6WFQ+.net
あれは政宗だし

288 :人間七七四年:2014/02/05(水) 18:37:43.08 ID:zgTlWCEF.net
政宗は豊臣政権ではかなり大人しくしてるよ。
仙道制覇を狙っていた田舎猿の若い時とは全く違う。

289 :人間七七四年:2014/02/05(水) 18:48:15.08 ID:oLiKu2gi.net
正宗は佐竹が嫌いだから佐竹と仲良しの三成も当然嫌いだったろうな

290 :人間七七四年:2014/02/05(水) 19:40:58.51 ID:NPofN8Ay.net
未だに伊達政宗を正宗と書く人多いよね

291 :人間七七四年:2014/02/05(水) 19:46:45.58 ID:ikXdYOnX.net
当時からだから、長いよな

292 :人間七七四年:2014/02/05(水) 20:14:07.28 ID:ZOybGrEV.net
>>290
自動変換で出るし読みかえさないまま送信するからだろ

293 :人間七七四年:2014/02/05(水) 22:03:42.43 ID:ORYj5+jx.net
>>285
徳川官僚の取次?
そんなもの聞いたことが無い。
例えば、徳川官僚の誰が、どの大名の取次ぎをしてたの?

294 :人間七七四年:2014/02/05(水) 22:19:21.87 ID:1BnLHYEA.net
>>293
お前は岡本大八事件も知らんのか。無知にも程がある。ちょっとは勉強してくれよ頼むから

295 :人間七七四年:2014/02/05(水) 23:13:53.07 ID:ORYj5+jx.net
>>294
あれは目付であり、取次じゃない。

296 :人間七七四年:2014/02/05(水) 23:59:04.96 ID:ikXdYOnX.net
なにこのあんぽんたんw

297 :人間七七四年:2014/02/06(木) 00:35:45.26 ID:FJmQEXvc.net
三成も戦略をもっと柔軟に考えられなかったのかな
泣いてもわめいても叫んでも輝元は来ないわけだから
来ないという事を大前提にもう一回、全体的な戦略を立て直すべきだっただろう.
輝元が来るための準備として伊藤盛政に松尾山陣地を構築してたわけだが
秀秋が占拠しようとしまいが三成自体はここに居なきゃ駄目じゃん。
何で中山道をがら空きにしてたのか意味が分からない。
秀秋が運よく占拠してなかったと仮定しても東軍がここを押さえたら
兵站が終わるの明らかなわけだからできれば三成、どうしても三成自身が無理なら
早い段階で宇喜多でも小西でも詰めとくべきだろ。
最悪、西軍の旗色が悪くなったら後詰を置いて全軍大阪城に帰れるわけだし。

298 :人間七七四年:2014/02/06(木) 01:15:32.88 ID:XWtGofj8.net
>>294
それ目付だよアホwww

299 :人間七七四年:2014/02/06(木) 04:34:07.91 ID:2tOHNFTx.net
>>295
>>298
うわ、ほんとに事件の内容を全く理解してないのな…

300 :人間七七四年:2014/02/06(木) 07:53:55.69 ID:oFe8XKwO.net
>>297
そもそも赤坂東軍占拠から南宮山に毛利勢が到着するまで、
大垣城は孤立状態

301 :人間七七四年:2014/02/06(木) 09:13:38.31 ID:F07tFH4x.net
>>299
そこまで言うなら一次史料の証拠出せばいいじゃんよ。

302 :人間七七四年:2014/02/06(木) 09:15:47.76 ID:F07tFH4x.net
馬鹿だな。
そもそも伊藤盛政が松尾山陣地を構築したと言う話が家譜にしかない作り話だし。

303 :人間七七四年:2014/02/06(木) 11:07:04.85 ID:E2OXWSrp.net
>>300
それなら最初から戦わないで撤退すればいい
どうせ負けるのだから三成の拙い戦略で無意味な犠牲を大量に出すくらいなら
戦わない方がマシだ

304 :人間七七四年:2014/02/06(木) 12:34:48.20 ID:oFe8XKwO.net
>>303
出たらそこで追撃されて全滅
撤退は進撃よりも難しい行為なのだ

305 :人間七七四年:2014/02/06(木) 12:37:18.33 ID:oFe8XKwO.net
一番良いのは毛利勢が来た時に撤退すべきだったのだが
そこで助平心を出したのは三成の責任やな

306 :人間七七四年:2014/02/06(木) 13:42:23.88 ID:E2OXWSrp.net
>>304
それなら三成の命と引き換えに降伏すれば三成以外の命は助かるから問題ないな
他の西軍大名も三成を捕縛して差し出すくらいの勇気は欲しかった
西軍自ら三成に対処していれば無用な犠牲もなく平和的な解決ができた

307 :人間七七四年:2014/02/06(木) 14:34:02.30 ID:oFe8XKwO.net
>>306
三成だけじゃ無理でしょう
三成と共に東軍先鋒と交戦した義弘の首も必要かと

308 :人間七七四年:2014/02/07(金) 05:40:54.78 ID:9ZEL5v2/.net
結論から言いますと
三成は7将に殺されとけクズ

309 :人間七七四年:2014/02/07(金) 07:49:45.45 ID:dOjoB/wf.net
三成に落ち度は全く無い。
利家が死んだ直後の武断派クーデターの際に、
武断派が私戦禁止に抵触しているので、
ちゃんと罰することが出来ていたらよかったが、
背後に利家によって失脚していた家康が復権に向けて武断派を利用した。
強欲ワガママ武断派は家康に利用されただけ。
また利家死去の混乱において前田利長と妹の豪姫を娶った宇喜多秀家が全く政局に関与出来なかった無能っぷりを示したのも痛かった。
この無能さが利家の遺言であった3年は大坂城から出るな!を見事に破った挙句に、
家康の前田征伐を呼び込み前田の無条件降伏に至る。
利長では無く、秀頼親衛隊の利政が前田を継ぐべきだった。

310 :人間七七四年:2014/02/07(金) 11:16:25.95 ID:5OBOBFSm.net
武断派がクーデター?三成がクビになった後に武断派が何か地位や権力を得たか?
武断派は単に奸臣を排しただけでありクーデターでも私戦でもない
むしろ奉行への返り咲きを狙って関ヶ原を起こした三成こそ私欲でクーデター起こした反逆者であり
三成をちゃんと罰することこそが天下泰平に向けた重要な一歩だった

311 :人間七七四年:2014/02/07(金) 23:17:19.61 ID:9ZEL5v2/.net
武断派もクズだわ
家康に怖気づいて三成を殺しかねたクズ。
七将で家康をぶっ殺しかくまわれた三成も首をはねて秀吉の墓前に
二つの首をそなえておけばこうはならなかった。
オカマかよ武断派は

312 :人間七七四年:2014/02/08(土) 00:46:40.57 ID:yUG9wmBa.net
菅沼遼太w

313 :人間七七四年:2014/02/08(土) 21:23:04.49 ID:Gjl6XsZj.net
>>309
利長は細川と親しかったため武断派から的確な情報を貰えたのが大きい
文治派が徳川と前田を争わせて漁夫の利で権力を得ようとしていることに気付いて
徳川に臣従することで文治派の野心を砕きながら前田の家を守った
文治派の讒言にすぐ騙される利家や利政と違い冷静な判断が出来る利長がいたことが
上杉や毛利と異なり前田が大大名を維持できた最大の要因だろう

314 :人間七七四年:2014/02/12(水) 14:44:34.75 ID:xoxVNcC9.net
は?利長は悪党細川に騙されたんだよw
細川は武断派クーデター後に、
家康の伏見城入りの手引きをして復権を助けた結果、
利長が大坂から領国に帰り、
利長がいなくなった大坂に家康が入り、
大坂城で人質管理していた北政所を西の丸から追い出し、
大坂天守と同じ大きさの天守を家康は築き天下殿と呼ばれるし、
家康は大坂の人質を開放してから、
前田謀反を言いたて、
細川が我先にと息子を江戸に人質を送って手本を示し、
前田にも江戸に人質を送り土下座するように指導した。
結果、細川の働きを喜んだ家康は細川に豊後の領地を与えて褒賞した。
内府たがい条においてそれらは非難され、
細川は最大の奸臣として西軍の討伐対象にされてるからな。

315 :人間七七四年:2014/02/12(水) 15:31:40.06 ID:WM+yrkC5.net
利長はなー。
利家が残した歴戦の家臣団があり、
前田ほどの国力がありながら、
重要な局面で大坂を出るという天下人の資格を自ら捨てるアホ。
前田ほどの大領と大義名分がありながら、
関ヶ原の戦いでもまったくの空気になってる時点で惰弱。

前田と入魂になってた宇喜多からハシゴを取り去る愚行が最悪。

316 :人間七七四年:2014/02/13(木) 08:33:08.16 ID:uMt1LNfG.net
家康の棚ぼた天下を演出した黒田長政、細川忠興、藤堂らはかなり悪辣だからな。
秀頼のためと騙された清正や福島や蜂須賀らは我欲が強いのをうまく彼らに利用されただけのバカに過ぎ無い。

317 :人間七七四年:2014/02/13(木) 11:56:36.23 ID:FjPZ3ygu.net
あそこで徳川と争っても権力が欲しい文治派の漁夫の利になるだけだろ
現に前田に拒否された後は毛利を騙して担ぐことによって権力への返り咲きに執念を燃やしていたし
文治派は邪魔になれば関白だろうが筆頭大老だろうが構わず命を狙い始める危険な存在だから
文治派を壊滅することこそ天下泰平を実現する最高の政策であることに間違いない
むしろ前田や武断派は天下の安寧に貢献したと言える

318 :人間七七四年:2014/02/13(木) 12:44:25.59 ID:tbZDX6rP.net
実務担当の文治派にはほとんど武力がないので、
全く漁夫の利なんて得られませんが何か?
前田が勝てば、前田の元で実務を黙々とやるだけの行政官だし。

319 :人間七七四年:2014/02/13(木) 16:40:39.39 ID:FjPZ3ygu.net
それなら徳川の元で実務を黙々とやるだけの行政官でいればいいのに
権力ほしさに暴走して関ヶ原までやらかしたわけだからな
武力がないのならおとなしくしているべきなのに欲に駆られて不要な騒ぎを起こしたのが文治派だろ

320 :人間七七四年:2014/02/13(木) 17:13:15.92 ID:dOQyda8K.net
だから輝元が首謀者として挙兵したら、
奉行は輝元のために実務やってるじゃん。

家康が大坂に入った時は三成らが家康のために邸宅を提供したり。

家康と輝元の争いであって奉行は大坂の権力者の意向で実務やってるだけだし。

そりゃそうだ大老の軍事力に奉行は敵わないんだから従う他ない。

321 :人間七七四年:2014/02/14(金) 01:52:12.63 ID:8fB1WHs9.net
仮に西軍勝利家康討死になったとしても
第二の清州会議(大阪城会議)が起きて
秀頼の後見人の権利と東軍から没収する土地の分割案で
結局は西軍内の大名同志でもう一度争うしかなくなると思うよ
後見人が結果、天下人(征夷大将軍)になって秀頼の地位は
大阪城周辺だけを支配する第二の信秀状態になるのが想定できる。

322 :人間七七四年:2014/02/14(金) 07:43:09.23 ID:p1TPDtdt.net
家康から切り取り自由の約束を取り付けて欲望剥き出しの東軍諸将と違って、
西軍は秀頼様への忠義で参加してるものがほとんどだし、
もしそうだとしても輝元みたいなアホなら充分に対応できるけどな。

323 :人間七七四年:2014/02/14(金) 11:07:44.01 ID:8fB1WHs9.net
>>322
後見人問題は意外と揉めないかもしれないけど
土地分割案は必ず揉める。
他に文句を言わせない絶対的権威と威厳を兼ね備えてないと難しい

324 :人間七七四年:2014/02/14(金) 12:01:07.30 ID:n+Tp4w3h.net
>>320
だからこそ毛利がやっぱり徳川と戦うのは止めようとした時点で東軍との戦いを停止するべきだったんだよな
それなのに毛利の意向を無視して文治派は勝手に関ヶ原で戦うという違法行為をやってしまった
これが毛利の反感を買い大坂を退去する結果を招いたのだから
三成が責任を取って処刑されたのは三成としてできる精一杯のけじめとして当然のことだろう

325 :人間七七四年:2014/02/14(金) 12:14:14.46 ID:8fB1WHs9.net
多くの人を扇動して、それらの人の人生を歪ませた挙句
自分だけ助かりたいから無責任に「や〜めた」という人はどの時代にも居るけど
どういう観点から見ても最低のクズという評価は変わらないんだよな。
一般的には部下に殺害されるケースが多い。

326 :人間七七四年:2014/02/14(金) 12:40:04.69 ID:KSLswviq.net
輝元が家康との戦いをやめたのは関ヶ原の結果を知ったからだろ。
それまでは毛利元康を大将に派兵して大津城攻撃をさせ続けていたし、
大坂城を占拠して家康に譲るつもりも一切なかったんだから。

327 :人間七七四年:2014/02/14(金) 19:05:46.46 ID:8fB1WHs9.net
>>326
関ヶ原の結果を知ったからこそ首謀者は絶対に殉じなきゃ駄目だろ
常識的に

328 :人間七七四年:2014/02/14(金) 20:13:08.48 ID:8fB1WHs9.net
家康と輝元の中の人が入れ替わってたら結果は反対になってたかもな

329 :人間七七四年:2014/02/14(金) 20:39:59.27 ID:0Jb25LTJ.net
武断派が活躍しただけで、
家康も何もやってない棚ぼただから、
あんまり変わらない。
強いて言えば福島を言い含めることが出来る黒田長政がいる方が勝つ。

330 :人間七七四年:2014/02/14(金) 21:16:56.72 ID:8fB1WHs9.net
>>329
いやいやいやいや。大阪城入城まではまさに仰る通りだが
その後の論功行賞と戦後処理の2年間が家康の真骨頂。
あの時点で中の人が輝元だったら政権を秀頼から取り上げて自分のものにするのは難しかった。

331 :人間七七四年:2014/02/14(金) 21:49:44.61 ID:LWQyK/4z.net
>>329
予備戦力を軽視するのは問題

332 :人間七七四年:2014/02/14(金) 22:48:16.28 ID:b5FqVm+F.net
菅沼遼太は馬鹿だなぁ

333 :人間七七四年:2014/02/15(土) 00:43:53.99 ID:NEJ+abv7.net
棚ボタだったのは家康ではなくむしろ武断派の方でしょ。
三成・小西ら西軍で戦った連中は実践経験少ないにもかかわらず
寡兵で黒田・細川勢およそ11000程度に互角以上の戦いしてたし
小西隊や宇喜多隊、大谷隊なんかも大軍の藤堂、京極、福島、古田・織田などを押し返したり
壊滅寸前まで追い込んだりと戦闘センス見せまくってた。
実践経験が少ないにもかかわらず東軍で戦ってた実践経験豊富な連中は苦戦してたんだし
戦闘センスでいえば三成小西大谷あたりのが遥かに上なのがわかる

結局家康が小早川らを篭絡してくれたから実力では全くと言っていいほど歯が立たなかった奉行衆らにたまたま運よく棚ボタ的に
勝てたし、小早川らを調略した家康のおかげで運よく領土が広がっただけ。

334 :人間七七四年:2014/02/15(土) 00:51:08.10 ID:biUhhRCf.net
福島黒田藤堂らは戦闘が専門の武断派なのにもかかわらず、
戦闘が専門外の奉行の石田や小西や大谷らに翻弄されまくるアホっぷりだしなぁ
元々石田らは家康派だったのが、家康が西軍に喧嘩売りまくってたから、
都合よく利害が一致したおかげで恩を受けた豊臣家への忠心を忘れて
憎しみに凝り固まってた武功派は、たまたま運よく家康の元に参じる事ができ、
家康が毛利や小早川らを調略してくれたおかげで、自力では歯が立たなかった西軍奉行衆になんとか勝てただけ。
悉く棚ボタ金魚の糞大名なのが豊臣武功派連中。

335 :人間七七四年:2014/02/15(土) 09:19:20.93 ID:+zA6BaAj.net
家康は上杉征伐をガン無視して、
家康を放置し西上した武断派が自分を騙すのではないかとビビり江戸で震えて、
毛利に親子の関係だよね?と関心を買おうとしたので、
毛利はとうぶん家康は西上できないと判断し、
長政らの勧誘を吉川がガン無視して伊勢攻略に熱中。
武断派が三成を大垣で包囲して攻め落とそうとしている急報に驚いた家康は、
俺が急いで出撃するから到着するまで戦闘停止!前から大垣は水攻めする考えだったの!などと言って慌てて江戸を出撃。
しかし家康を引き出すための武断派の大嘘だったw
関ヶ原当日も武断派が最前線で大活躍。
徳川本隊は真田にフルボッコされ信濃の山の中で泣いていた…
おかげで武断派ばかりが加増される始末。
しかも論功行賞前に淀や北政所の元で反家康で動いていた局たちを不問にして和睦しないと論功行賞すらできない政治的敗北をした家康。
しかも豊臣家と武断派が組んでいるので、論功行賞は豊臣の名前で行われる。
豊臣と武断派は上杉征伐もガン無視しており、家康に泣きついていた政宗号泣w
結局、家康は征夷大将軍に就任する道を選ぶしかなくなり、
関白になれる権利ある摂関成の家格の豊臣家にはまったく勝てず、
関白就任寸前の秀頼に理不尽なイチャモンつけてムリやり殺す暴挙にでたキチガイ。

336 :人間七七四年:2014/02/15(土) 12:28:00.06 ID:+zVLMgJQ.net
家康のお情けで大版図を加増されたし家康の調略のおかげで武断派は奉行衆らに勝てただけ。
家康が外様に恩を売るため、大版図を一時的にやっただけだし後年になると馬鹿みたいに改易が増えてる
(つか関ヶ原合戦時ですら、家康によって改易された領土や減封された領土は数百万石に及ぶ)
秀頼もあっさり天下人の地位から60万石程度の領土にされてる時点で豊臣家は完璧に敗北してる。
三成・小西ら西軍で戦った連中は実践経験少ないにもかかわらず
寡兵で黒田・細川勢およそ11000程度に互角以上の戦いしてたし
小西隊や宇喜多隊、大谷隊なんかも大軍の藤堂、京極、福島、古田・織田などを押し返したり
壊滅寸前まで追い込んだりと戦闘センス見せまくってた。
実践経験が少ないにもかかわらず東軍で戦ってた実践経験豊富な連中は苦戦してたんだし
戦闘センスでいえば三成小西大谷あたりのが遥かに上なのがわかる

結局家康が小早川らを篭絡してくれたから実力では全くと言っていいほど歯が立たなかった奉行衆らにたまたま運よく棚ボタ的に
勝てたし、小早川らを調略した家康のおかげで運よく領土が広がっただけ。

337 :人間七七四年:2014/02/15(土) 12:38:33.46 ID:+zVLMgJQ.net
そもそも豊臣に勝つも糞も秀吉が生きている間ですら信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

338 :人間七七四年:2014/02/15(土) 12:42:16.46 ID:6tPVrTdj.net
関が原の戦いで西軍について厳封・改易された大名はめちゃめちゃいて
総石高数百万石に及ぶ

上杉景勝 西 奥羽ノ内 1,200,000 → 出羽 米沢 300,000 -900,000
毛利秀就 西 安芸他六ヶ国 1,205,000 → 周防 長門 369,000 -836,000
佐竹義宣 西 常陸 水戸 545,700 → 出羽 秋田 205,800 -339,900
秋田実季 西 出羽 秋田 190,000 → 常陸 宍戸 50,000 -140,000
宇喜多秀家 西 備前 岡山 574,000 → 所領没収 −−− 遠流 八丈島
長宗我部盛親 西 土佐 浦戸 222,000 → 所領没収 −−− 浪人
前田利政 西 能登 七尾 215,000 → 所領没収 −−− 浪人
増田長盛 西 大和 郡山 200,000 → 所領没収 −−− 追放 高野山
宮部長熙 東注@ 因幡 鳥取 200,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州南部家
小西行長 西 肥後 宇土 200,000 → 所領没収 −−− 斬首 享年不詳
石田三成 西 近江 佐和山 194,000 → 所領没収 −−− 斬首 享年41歳
織田秀信 西 美濃 岐阜 135,000 → 所領没収 −−− 出家 高野山
立花宗茂 西 筑後 柳河 132,000 → 所領没収 −−− 浪人 のち復帰
小早川秀包 西 筑後 久留米 130,000 → 所領没収 −−− 隠居
丹羽長重 西 加賀 小松 125,000 → 所領没収 慶長八年 再封 常陸古渡
岩城貞隆 中立 陸奥 岩城平 120,000 → 所領没収 −−− 身柄預 出羽佐竹家
青木一矩 西 越前 北ノ庄 80,000 → 所領没収 −−− ??
小川祐忠 西→東 伊予 府中 70,000 → 所領没収 −−− 翌年死去 享年不詳
太田一吉 西 豊後 臼杵 65,000 → 所領没収 −−− 出家
木下勝俊 西 若狭 小浜 62,000 → 所領没収 −−− 隠棲 長嘯子
安国寺恵瓊 西 伊予 伊予ノ内 60,000 → 所領没収 −−− 斬首 享年不詳
毛利勝信 西 豊前 小倉 60,000 → 所領没収 −−− 身柄預 土佐山内家
山口宗永 西 加賀 大聖寺 60,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
多賀谷重経 西 常陸 下妻 60,000 → 所領没収 −−− 浪人
相馬義胤 東注A 陸奥 中村 60,000 → 所領没収 −−− 再封 本領安堵
織田秀雄 東→西 越前 大野 50,000 → 所領没収 −−− 隠居
大谷吉継 西 越前 敦賀 50,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年42歳
長束正家 西 近江 水口 50,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年不詳
丹羽長正 西 越前 藤枝 50,000 → 所領没収 −−− 浪人 豊臣家仕官
青山宗勝 西 越前 丸岡 46,000 → 所領没収 −−− 浪人
田丸忠昌 西 美濃 岩村 40,000 → 所領没収 −−− 追放 のち赦免
南条忠成 西 伯耆 羽衣石 40,000 → 所領没収 −−− 浪人 豊臣家仕官
真田昌幸 西 信濃 上田 38,000 → 所領没収 −−− 追放 高野山
小野木公郷 西 丹波 福知山 31,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年不詳
伊藤盛正 西 美濃 大垣 30,000 → 所領没収 −−− 追放 前田家仕官
原勝胤 西 美濃 太田山 30,000 → 所領没収 −−− 自刃
小野寺義道 西 出羽 横手 30,000 → 所領没収 −−− 追放 石見で客死
石田正継 西 近江ノ内 30,000 → 所領没収 −−− 自刃 三成の父
島津豊久 西 日向 佐土原 28,600 → 所領没収 −−− 戦死 享年31歳
堀内氏善 西 紀伊 新宮 27,000 → 所領没収 −−− 身柄預 肥後加藤家
木下頼継 西 越前ノ内 25,000 → 所領没収 −−− 病死 享年不詳
氏家行広 西 伊勢 桑名 25,000 → 所領没収 −−− 浪人
佐藤方政 西 美濃 鉈尾山 25,000 → 所領没収 −−− 浪人
新庄直頼・直定 西 摂津 高槻 24,000 → 所領没収 −−− 身柄預 会津蒲生家

339 :人間七七四年:2014/02/15(土) 12:42:47.68 ID:+zVLMgJQ.net
斎村広道 西→東 但馬 竹田 22,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年39歳
岡本良勝 西 伊勢 亀山 22,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年57歳
多賀秀家 西 大和 宇多 20,000 → 所領没収 −−− 寄食 越後堀家
木下利房 西 若狭 高浜 20,000 → 所領没収 −−− 浪人
木下重賢 西 因幡 若桜 20,000 → 所領没収 −−− 不明
木下利久 西 不明 20,000 → 所領没収 −−− 不明 木下一元
木下延重 西 播磨ノ内 20,000 → 所領没収 −−− 不明
滝川雄利 西 伊勢 神戸 20,000 → 所領没収 −−− のち再封 常陸片野
垣見一直 西 豊後 富来 20,000 → 所領没収 −−− 謀殺 大垣城
丸毛兼利 西 美濃 福束 20,000 → 所領没収 −−− 逃亡 後に仕官
赤座直保 西→東 越前 今庄 20,000 → 所領没収 −−− 再仕官 加賀前田家
杉若氏宗 西 大和 郡山 19,000 → 所領没収 −−− 逃亡 行方不明
筑紫広門 西 筑後 山下 18,000 → 所領没収 −−− 出家 加藤家寄食
高橋直次 西 筑後 内山 18,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州立花家
横浜茂勝 西 播磨ノ内 17,000 → 所領没収 −−− 不明
氏家行継 西 近江・伊勢ノ内 16,000 → 所領没収 −−− 身柄預 豊前細川家
寺田光吉 西 大和ノ内 15,000 → 所領没収 −−− 追放 高野山
熊谷直盛 西 豊後 安岐 15,000 → 所領没収 −−− 謀殺 大垣城
石田正澄 西 近江ノ内 15,000 → 所領没収 −−− 自刃 三成の兄
村上義忠 西 不明 14,000 → 所領没収 −−− 不明
藤掛永勝 西 丹波 上林 13,000 → 所領没収 −−− 不明 のち再仕官
宇多頼忠 西 大和・河内ノ内 13,000 → 所領没収 −−− 自刃 三成室の父
石川貞清 西 尾張 犬山 12,000 → 所領没収 −−− 剃髪 京で金融業
石川頼明 西 不明 12,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年不詳
石川貞道 西 山城・丹波ノ内 12,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州南部家
糟屋宗孝 西 播磨 加古川 12,000 → 所領没収 −−− 不明
池田高祐 西 伊予 大洲 12,000 → 所領没収 −−− 再仕官 伊予藤堂家
平塚為広 西 美濃 垂井 12,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
奥山正之 西 越前ノ内 11,000 → 所領没収 −−− 剃髪 京で隠棲
松浦久信 西 伊勢 井生 11,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
垣屋恒総 西 因幡 浦住 10,000 → 所領没収 −−− 自刃 高野山
戸田重政 西 越前 安居 10,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
赤松則英 西 阿波 住吉 10,000 → 所領没収 −−− 自刃
早川長政 西 豊後 府内 10,000 → 所領没収 −−− 浪人
山崎定勝 西 伊勢 竹原 10,000 → 所領没収 −−− 逃亡 のち再仕官
中江直澄 西 不明 10,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州伊達家
山口修弘 西 加賀ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
寺西信乗 西 勢・江・越前ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 剃髪
寺西清行 西 越前ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 剃髪 のち再仕官
池田勝俊 西 不明 10,000 → 所領没収 −−− 不明
岸田忠氏 西 大和 岸田 10,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州南部氏
上田重安 西 越前ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 逃亡 のち再仕官
木村勝正 西 美濃 北方(西保) 10,000 → 所領没収 −−− 追放 高野山
高木盛兼 西 美濃 高須 10,000 → 所領没収 −−− 再仕官 出雲堀尾家
加賀井秀望 西 美濃 加賀井 10,000 → 所領没収 −−− 殺害 享年不詳
川尻直次 西 美濃 苗木 10,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
堅田広澄 西 不明 10,000 → 所領没収 −−− 不明
高田治忠 西 丹波ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 不明
川勝秀氏 西 丹波ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 不明
三好丹後守 西 不明 10,000 → 所領没収 −−− 不明

340 :人間七七四年:2014/02/15(土) 13:00:21.58 ID:U1iZHqiv.net
>>336
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛大で慈悲深い性格だからなだからな
依田ら武田旧臣も信長は殺そうとしたところを、家康は命を救って家臣にしたし
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに

341 :人間七七四年:2014/02/15(土) 13:02:05.68 ID:U1iZHqiv.net
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

秀吉の行った悪行の数々

・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる

342 :人間七七四年:2014/02/15(土) 13:19:21.60 ID:BTc31Pgq.net
秀吉が悪行の限りを付くしまくってたから全く人望がなく
最も豊臣に恩を受けた武功派連中まで東軍についたし、西軍は豊臣親藩の小早川や外様中で最も豊臣寄りの毛利家まで寝返るなど次々に篭絡されて
家康についた。だからこそあっさり家康は征夷大将軍取れたし
豊臣家はあっさり崩壊した。

343 :人間七七四年:2014/02/15(土) 13:20:13.55 ID:+zVLMgJQ.net
宇留津城の悲劇

秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。

そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。

そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。

浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。

344 :人間七七四年:2014/02/15(土) 16:34:02.76 ID:fl3XNvIj.net
西の丸には北政所の住居もあるから政治的に無縁ではないよ。
そもそも内府たがい条でも北政所を追い出して住んだと家康は糾弾されてるわけで西の丸掌握にはクリアしないとならん問題。
豊臣譜代と淀は秀頼を推参する立場において利害一致してるから隠然たる力はあるだろ。
積極的ではなくあくまで隠然。
秀頼の命として淀が言った形式もまだ落ち着かない政治体制下での政治問題化は大坂城で掌握指導にむけて厄介事でしかない。
表向きは浅野、内むきは孝蔵主と言われていたくらい大坂城の中枢は分権されていたほど。
女だから軽視するのはアホな考え。

もともと戦禍が起きても御所内なら兵火が及ばないだろうってことで
秀頼のために秀吉が聚楽第に代わり造営したのが京都新城で、七将クーデターの時に大坂城を不法占拠した家康の圧力で
北政所が新城へ出た後に家康が北政所がいた場所に住んだ。北政所は自分がもっとも影響を及ぼせる京に移ったわけだ。
その後の慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実。

345 :人間七七四年:2014/02/15(土) 16:34:59.26 ID:fl3XNvIj.net
内府たがい条にも北政所が住んでたのを追放して家康が住んだと糾弾されてるように
北政所への接し方や秀頼(及び母)を敬う態度についても糾弾されてるわけで
西軍には彼女らの存在により
より強い正当性が追加されてると言うことであって
遺令による衆議を否定してない。
いや基本的には彼女らより衆議の方が優先される。
なぜなら彼女らは大坂城における内むきを取り仕切るもう1つの権威たる存在であり
(大坂に集めた人質の管理も北政所の職責のひとつ)
表向きの権力である衆議とはその性格を異にしてる。
家康が大坂城を掌握するには力だけでは無理で内むきの権威を懐柔しなくては謀反人解除が達成されないと言うこと。
そこに豊臣譜代たる秀吉や北政所の子飼い武断派の重要性が出てくるわけ。

しかもその連署には家康の専横による前田や上杉への態度まで糾弾されていて
彼ら2大老の謀反人解除と言ってもよい内容。
これが発せられるや会津征伐軍は解体され
堀や最上と共同で上杉を攻める予定だった前田家も家康の指示を待たずに帰国してしまったために
上杉の脅威の前に堀まで西軍に内通を開始。
母を江戸に人質に取られていた前田利長はやや家康寄りの態度を示すが
前田兄弟は東西分離策をもって秀頼親衛隊たる立場だった利政は西軍側で挙兵。

景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても
輝元が首謀者だったのは間違いない。
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。

346 :人間七七四年:2014/02/15(土) 16:50:31.56 ID:fl3XNvIj.net
>>331
当時、朝鮮出兵を経験していなかった家康が率いていたのは
10年もの長きに渡って戦経験もなく、遊んでいたし、
前線では世代交代が行われており、戦闘経験がほとんどないやつらばかり。
井伊も本多も単なる軍監という目付けに過ぎないし、こいつらそもそもロクな武功を持ってない。
岡崎以来の歴戦の者達は秀忠の元にいた。そんなザコ兵じゃまな板の鯉。

>>333
>>小早川らを調略した家康のおかげ
まったくの間違い。
その証拠として挙げられる史料は9/14付の本多・井伊→平岡・稲葉宛の書状だが、
これの出典は関原軍記大成に出てくる写書状のみで、明らかに偽書状。
実際の小早川は毛利がなかなか参戦しないことから様子見した挙句に東軍への寝返りを決断したに過ぎない。

347 :人間七七四年:2014/02/15(土) 17:01:19.09 ID:NA1iZKZC.net
>>実際の小早川は毛利がなかなか参戦しないことから様子見した挙句に東軍への寝返りを決断したに過ぎない

ソースは?

348 :人間七七四年:2014/02/15(土) 17:04:53.65 ID:QorhEa7h.net
家康のお情けで大版図を加増されたし家康の調略のおかげで武断派は奉行衆らに勝てただけ。
家康が外様に恩を売るため、大版図を一時的にやっただけだし後年になると馬鹿みたいに改易が増えてる
(つか関ヶ原合戦時ですら、家康によって改易された領土や減封された領土は数百万石に及ぶ)
秀頼もあっさり天下人の地位から60万石程度の領土にされてる時点で豊臣家は完璧に敗北してる。
三成・小西ら西軍で戦った連中は実践経験少ないにもかかわらず
寡兵で黒田・細川勢およそ11000程度に互角以上の戦いしてたし
小西隊や宇喜多隊、大谷隊なんかも大軍の藤堂、京極、福島、古田・織田などを押し返したり
壊滅寸前まで追い込んだりと戦闘センス見せまくってた。
実践経験が少ないにもかかわらず東軍で戦ってた実践経験豊富な連中は苦戦してたんだし
戦闘センスでいえば三成小西大谷あたりのが遥かに上なのがわかる

結局家康が小早川らを篭絡してくれたから実力では全くと言っていいほど歯が立たなかった奉行衆らにたまたま運よく棚ボタ的に
勝てたし、小早川らを調略した家康のおかげで運よく領土が広がっただけ。

349 :人間七七四年:2014/02/15(土) 17:05:50.33 ID:wmHWygvj.net
福島黒田藤堂らは戦闘が専門の武断派なのにもかかわらず、
戦闘が専門外の奉行の石田や小西や大谷らに翻弄されまくるアホっぷりだしなぁ
元々石田らは家康派だったのが、家康が西軍に喧嘩売りまくってたから、
都合よく利害が一致したおかげで恩を受けた豊臣家への忠心を忘れて
憎しみに凝り固まってた武功派は、たまたま運よく家康の元に参じる事ができ、
家康が毛利や小早川らを調略してくれたおかげで、自力では歯が立たなかった西軍奉行衆になんとか勝てただけ。
悉く棚ボタ金魚の糞大名なのが豊臣武功派連中。

350 :人間七七四年:2014/02/15(土) 17:53:26.70 ID:1cyRaTpA.net
菅沼遼太は馬鹿だなぁ

351 :人間七七四年:2014/02/16(日) 08:35:52.61 ID:l7xva4fV.net
>>347
ソースもなにも、状況推移をみれば、
そうとしか思えないだろうが。
家康が秀秋を調略していたなんて、
神君はすべてを見通していた天才だったと捏造したエピソードに過ぎ無いわ。
そこに稲葉の妻だった春日局が家光の乳母になり、
嫡男の稲葉正勝が家光の小姓から、
小田原城主を経由し事実上の大老になってるから、
稲葉が関ヶ原の勝敗を決定した秀秋の内応を指導した捏造が組み込まれただけ。
だから稲葉家譜には大垣城主伊藤が預かっていた松尾山を稲葉らが奪い取ったとする捏造を組み込んでる始末。

352 :人間七七四年:2014/02/16(日) 08:56:42.49 ID:p2THHmWy.net
>>351
なんだ、結局>>346はお前の妄想なんじゃん

353 :人間七七四年:2014/02/16(日) 10:17:27.89 ID:7bFC24IB.net
>>352
それを否定する史料は?


実際、毛利が動かないから、判断がつかず秀秋は傍観していたじゃん。
毛利がさっさと下山して東軍を攻めて、
西軍有利と判断したら秀秋だって決断して東軍を攻めてるわな。


そもそも輝元の養女を娶っている婿の秀秋は、
輝元の大津城攻めに従い、
筑前筑後の旗頭として与力の小早川秀包と立花と筑紫を派兵して、
東軍の京極を攻めてるし。

354 :人間七七四年:2014/02/16(日) 11:32:12.90 ID:szQ/VP4m.net
>>338
こうして見ると驚くほど寛大な処置なんだな
秀次事件では実際には何もしていないのに妻子もろとも大量処刑が執行されたのに比べれば
謀反の実行犯のうちたった3人を処刑しただけでしかもそいつらの妻子についても助命してあげるのだから
戦国の世においてこれほどの寛大な処置はまれであり
まして数年前に豊臣のためと騙って狂気の虐殺が行われたばかりだから好対照ぶりが強く印象に残る
領地没収は恩賞分配と再犯防止のための必要処置だから何も問題ないし
これほど見事な戦後処理に対しては感嘆せざるをえない

355 :人間七七四年:2014/02/16(日) 12:50:42.54 ID:Er5c9uPu.net
家康のお情けで大版図を加増されたし家康の調略のおかげで武断派は奉行衆らに勝てただけ。
家康が外様に恩を売るため、大版図を一時的にやっただけだし後年になると馬鹿みたいに改易が増えてる
(つか関ヶ原合戦時ですら、家康によって改易された領土や減封された領土は数百万石に及ぶ)
秀頼もあっさり天下人の地位から60万石程度の領土にされてる時点で豊臣家は完璧に敗北してる。
三成・小西ら西軍で戦った連中は実践経験少ないにもかかわらず
寡兵で黒田・細川勢およそ11000程度に互角以上の戦いしてたし
小西隊や宇喜多隊、大谷隊なんかも大軍の藤堂、京極、福島、古田・織田などを押し返したり
壊滅寸前まで追い込んだりと戦闘センス見せまくってた。
実践経験が少ないにもかかわらず東軍で戦ってた実践経験豊富な連中は苦戦してたんだし
戦闘センスでいえば三成小西大谷あたりのが遥かに上なのがわかる

結局家康が小早川らを篭絡してくれたから実力では全くと言っていいほど歯が立たなかった奉行衆らにたまたま運よく棚ボタ的に
勝てたし、小早川らを調略した家康のおかげで運よく領土が広がっただけ。

356 :人間七七四年:2014/02/16(日) 15:52:54.56 ID:geO0CRJ4.net
>>355
でも黒田長政が調略したんじゃね?

357 :人間七七四年:2014/02/16(日) 15:54:04.13 ID:wi7c9qmU.net
>>354
相変わらず無知だなw
名誉の自刃が許されず斬首扱いになったのがその3人なだけで、
大量に自刃に追い込まれてるやつらがいるのも知らんとかwww

358 :人間七七四年:2014/02/16(日) 15:58:43.55 ID:Er5c9uPu.net
>>356
黒田が調略?そんな話は聞いた事ないけど、出展史料は何?

359 :人間七七四年:2014/02/16(日) 16:47:16.62 ID:qLksCDtT.net
>>358
別人だけど、浅野幸長・黒田長政連署で秀秋に内応を求める書状はある

360 :人間七七四年:2014/02/16(日) 17:04:58.30 ID:wi7c9qmU.net
>>354
相変わらず無知だなw
名誉の自刃が許されず斬首扱いになったのがその3人なだけで、
大量に自刃に追い込まれてるやつらがいるのも知らんとかwww

361 :人間七七四年:2014/02/16(日) 17:21:05.62 ID:wi7c9qmU.net
>>359
8/28付のやつだな。
なんとしても北政所様に奉公しないと叶わない両人だからこの如く言いました…とか書いてるやつだろ。

あれの返事が無いから説得が成功したとは言いがたい。
むしろ失敗していたから東軍に寝返った京極の大津城攻めが開始された。
なにせ西軍も内府たがい条で、北政所が家康に西の丸を追い出されたことを非難してるし、
実際に北政所は西軍寄りの行動を取ってるから、
秀秋としてははぁ?って感じだろうし。
ただ秀秋との交渉関係を持っていたのは黒田と浅野なので、
東軍の大津城を攻めてる落城寸前に追い詰めた輝元と秀秋だが、
関ヶ原で吉川が動かない想定外の自体になり、
疑心暗鬼が秀秋に生まれ、
状況の推移を傍観している間に、
黒田や浅野が調略のチャンスがやってきたと感じて、
最終交渉をしていた可能性はあるね。
なにせ交渉関係はあったのだから。

でも家康には秀秋を調略していたとする根拠は全く無い。

362 :人間七七四年:2014/02/16(日) 20:06:35.18 ID:qLksCDtT.net
>>361
それに関するものとして書状中に山岡道阿弥が副書の差出人としてあるけど、
ちょうど2日前の26日に道阿弥のところから家康の使者二人が秀秋に合うために
長島を発している

363 :人間七七四年:2014/02/17(月) 08:45:52.15 ID:kS1rJ23y.net
>>362
下記のことを証明する一次史料は?

ちょうど2日前の26日に道阿弥のところから家康の使者二人が秀秋に合うために長島を発してる。


山岡はなんでもかんでも自分がやったとデタラメ記録作りまくってるからな。

364 :人間七七四年:2014/02/17(月) 09:43:32.85 ID:/Pvyuqil.net
>>363
寛政譜だけど山岡でなく使者の家譜(二人共)

365 :人間七七四年:2014/02/17(月) 10:33:11.62 ID:tsjOpQrl.net
>>357
それなら敵に捕まる前に名誉の自刃とやらをすればいいじゃんw
単にその3人が臆病で言い訳しながら逃亡しただけだろ
そういうヘタレには切腹ではなく斬首がふさわしい

366 :人間七七四年:2014/02/17(月) 10:38:38.32 ID:UpLRGuCd.net
>>364
それ全く信頼度無し。

367 :人間七七四年:2014/02/17(月) 11:46:07.37 ID:/Pvyuqil.net
>>366
寛政譜だからが理由なら、一次史料厨と断定させてもらいます
少なくとも使者についての家譜の記述と、書状には矛盾点はない

368 :人間七七四年:2014/02/17(月) 12:49:53.98 ID:rkti3yB2.net
>>365
三成も言うておろう。土壇場であっても何が起こるか判らんのだから、最後の最後まで生き延びて
再起を図るのが英雄というものだ。
項羽も渡し守の勧めに従って逃げ延びれば再起出来たかも知れないのに。

369 :人間七七四年:2014/02/17(月) 13:14:13.68 ID:DhUh0B4Y.net
当時を生きていた人の調書や覚書ならともかく、
後代に子孫がマンセーして書いてる家譜なんていちいち信じていられるか。

370 :人間七七四年:2014/02/17(月) 15:08:11.80 ID:sfBLOspd.net
輝元のいる大坂城に行けば再起できると考えたからこそ、
宇喜多秀家や島津義弘らも逃げまくったんだろ。

371 :人間七七四年:2014/02/17(月) 15:36:53.67 ID:/Pvyuqil.net
>>369
否定する要素がなければ一応信じる
一次史料や他の史料で補強・裏付けできるならかなり信じれる

372 :人間七七四年:2014/02/17(月) 16:24:54.09 ID:wM7jhr+u.net
実際に見たという人が現れない限り信用にないゾ

373 :人間七七四年:2014/02/17(月) 17:28:54.37 ID:/Pvyuqil.net
だから絶対とは書いていない

374 :人間七七四年:2014/02/17(月) 21:04:10.81 ID:rncxA6qT.net
寛政譜の完成は1812年。
関ヶ原の戦いは1600年。
200年後の子孫が書いたことを信じろと?

375 :人間七七四年:2014/02/17(月) 21:56:55.82 ID:/Pvyuqil.net
>>374
別に200年後に思い付いた訳でもあるまいし

376 :人間七七四年:2014/02/18(火) 00:57:02.46 ID:pfDkRb3I.net
>>375
200年後に思いついたんだろw

377 :人間七七四年:2014/02/18(火) 05:45:05.49 ID:DDv1lNqn.net
言い伝えや資料を集めて完成させた譜だろ

378 :人間七七四年:2014/02/18(火) 08:48:13.68 ID:SJi8RkoB.net
そんなもん信じるぐらいなら、
まだ江戸時代前期に作られた軍記小説の方がマシだわな。

379 :人間七七四年:2014/02/18(火) 09:58:34.73 ID:pfDkRb3I.net
日本にはキリストの子孫である家譜やら
徐福の子孫やら南朝天皇家の子孫やらの家譜も普通にあるだろ

380 :人間七七四年:2014/02/18(火) 10:17:05.49 ID:SFZ238vx.net
>>378
『寛政譜』を評価できないと断言するならどうぞご勝手に、
無償であなたの家庭教師をする気はないので

381 :人間七七四年:2014/02/18(火) 12:58:35.13 ID:Kx5joTVy.net
寛政譜が採用出来るなら、
採用できないもんなんて無くなるだろ。

382 :人間七七四年:2014/02/18(火) 15:58:33.74 ID:53P7f5EJ.net
それはただの極論だな

383 :人間七七四年:2014/02/18(火) 17:15:38.06 ID:zOk+kWeq.net
200年後に書かれたものなんて捏造マンセーし放題じゃんw

384 :人間七七四年:2014/02/18(火) 21:49:18.04 ID:pfDkRb3I.net
200年前って普通に江戸時代だしなw

385 :人間七七四年:2014/02/19(水) 10:30:40.67 ID:dLUXwTBr.net
リアルタイムに関ヶ原に集まった大名の多くが西軍のために戦うのに非協力的で
三成を征伐することに積極的だったのだから西軍の主張には大義がなく
三成が謀反人であることは絶対的な事実だよな
それを何も知らない後世の人間が屁理屈をこねて否定しようとすることは許されない
当時を生きていた人の行動こそが真実であり判官贔屓で歪曲し敗者を正当化することはできない

386 :人間七七四年:2014/02/19(水) 13:28:01.12 ID:EyfveLt7.net
そもそも昨今では、関ヶ原の西軍は、東軍の半分程度だったのではないか、なんて説も

387 :人間七七四年:2014/02/19(水) 14:03:55.23 ID:JAJuVk4D.net
最近の新説って奇をてらったの多くね?
土佐の長曾我部も20万石余りじゃなくて5〜6万石だったって説もあるし

388 :人間七七四年:2014/02/19(水) 15:27:10.05 ID:iH1LvD5n.net
>>387
それは自前検地が甘々だったせいだろ

389 :人間七七四年:2014/02/19(水) 17:06:12.19 ID:KcLeWZVV.net
>>364
使者の2人の家譜って、
誰と誰の家譜なの?

390 :人間七七四年:2014/02/19(水) 17:29:48.18 ID:CjNWq760.net
>>389
西尾正義と小西正重、共に六角承禎、次いで豊臣秀次に仕えた後、
慶長元年に家康に仕える
つまり近江国に潜入するには最適の人材

391 :人間七七四年:2014/02/19(水) 20:54:24.86 ID:yMsMH2q6.net
>>390
君さ、実は寛政譜を読んでないよね?
六角に仕えていたのは両者の前当主であって、
彼らは秀次に仕えた後に、家康に召されたことになってるんだよ。
つまり六角滅亡後に浪人していたから、秀次に仕官するまで経歴不明ってことでしょ。
よって近江に潜入に都合がいいとは言えないし、
そもそも寛政譜には山岡が長島にいたと書いてるが、
これ自体が根拠無い話だよね。
秀秋の近江での陣の地名にしたって関原軍記大成からの流用だよね。
浅野と黒田の連盟書状を山岡の部下の2人が届けたように読み取れるが、
寛政譜では家康の配下の2人を山岡に派遣してる時点で齟齬が生まれるよね。
しかも26日に派遣してるが28日付書状だから齟齬が生まれてるよね。
明らかに書状の存在を知っている上で作られた話にしか思えないが。
だいたい長島城は福島正則の兄弟が守っていたというのが定説だろ?
山岡がそこにいたなんてトンデモ話に思えるが。

392 :人間七七四年:2014/02/19(水) 21:27:18.68 ID:CjNWq760.net
>>391
失礼、六角の所は流し読みしていた
どちらにしろ、秀次は近江国を領した時代もあるので問題無い

寛政譜の山岡道阿弥の項には家康の命で長島を守る高晴(高明)
の兵に加わるとあるね
後、秀秋の陣所も寛政譜の秀秋の項にある

あなたはそれらを関原軍記大成からの引用とするが、それが
事実ではないという史料もまた存在しない

393 :人間七七四年:2014/02/19(水) 23:45:12.74 ID:JAJuVk4D.net
俺も過去500年分の家譜を作ろうと思案中なんだが
いいアイデアがあったら教えて。
とりあえず源氏系か平氏系にしとこうかと思ってる

394 :人間七七四年:2014/02/20(木) 08:48:43.86 ID:kOeI/fzR.net
事実では無いことがたんまり書いてある関原軍記大成という軍記講談話にしか書いてないことを信じろと?

395 :人間七七四年:2014/02/20(木) 11:04:09.82 ID:viyRCHa0.net
「三成に都合の悪いことが書かれている史料は全て信用できないニダ事実ではないニダ」はもう飽きたよ

396 :人間七七四年:2014/02/20(木) 17:04:48.98 ID:VCs0Sd1o.net
結論を言うと三成も輝元も家康も正則もアホだったけど
三成・輝元の方がより圧倒的にアホだから負けたという結論でいいだろ

397 :人間七七四年:2014/02/21(金) 02:37:06.34 ID:YFnhkGVj.net
輝元はアホというより重度の多重人格障害者であり
好戦的な人格と消極的な人格が交互に出てくるので一貫性が保てない病気なのだろう
三成もアホというより忠義が行き過ぎて狂信的な危険思想人物になるタイプ
自分が豊臣のためと思ったら関白だろうが筆頭大老だろうが命を狙って構わないと信じ込んでいる過激派だから
二人ともアホとは違う危険性を有している

398 :人間七七四年:2014/02/21(金) 12:32:54.59 ID:OUyBH2mT.net
家康も軽度の多重人格障害で
好戦的な人格と消極的な人格が交互に出てるけどな
正則も三成嫌いが行き過ぎて狂信的な危険思想人物になるタイプ

399 :人間七七四年:2014/02/21(金) 13:55:03.70 ID:f8wTjjQH.net
正則は別に個人的に三成を嫌う理由はまったくないんだよな。

結局、黒幕の藤堂高虎と黒田長政と細川忠興に操られていた大馬鹿。

まぁ家康もこいつら黒幕に操られていただけだけどな。

400 :人間七七四年:2014/02/21(金) 14:05:49.84 ID:Y0CQ8Kul.net
最近、戦国期〜安土桃山〜江戸時代に興味を持ったんだけど、
まず手始めに司馬遼太郎の「関ヶ原」を読んでみた。
これ読んでると、家康が嫌いになるなw
三成も色々好き勝手書かれてる感じだけど、最後は三成の事が好きになってしまった。
本当に三成は稀代の嫌われ者だったのかな?
もちろん応援者もいたし、大谷吉継みたいな盟友もいたけど。

401 :博多学才:2014/02/21(金) 15:34:24.87 ID:ATaeklq+.net
三成に好意的といえば
TBSテレビドラマ「関ヶ原」(三枚組DVD)もお勧め。
あと大谷吉継、小西行長、直江兼続、佐竹義宣…等
盟友や同胞も少なからずいたが、
治部少家中に目を向けると
島左近勝猛(清興)、蒲生備中真令(頼郷)、舞兵庫(前野忠康)、
高野越中、樫原彦右衛門、大場土佐、北川平左衛門、
蒲生郷舎、大山伯耆、河瀬左馬助、杉江勘兵衛、
森九兵衛、大橋掃部、林半介、横山監物、松田重太夫、
渡辺勘兵衛、曾根高光、小幡信世、荻野鹿之助、水野庄次郎…
思いつくままにざっと名前を挙げるだけでも、
石田三成家臣団は他家と比べても(一騎当千級の)粒揃いだった
と言えるのではないか。
大一大万大吉

402 :人間七七四年:2014/02/21(金) 15:40:46.45 ID:f8wTjjQH.net
蒲生や小早川や秀次の旧家臣団が三成傘下に加わって東軍と戦ってるね。

403 :人間七七四年:2014/02/21(金) 19:20:37.99 ID:TXW2naGh.net
>>401
>TBSテレビドラマ「関ヶ原」(三枚組DVD)もお勧め。
司馬遼太郎の「関ヶ原」が原作だからな。あれは良い物だ。

404 :人間七七四年:2014/02/21(金) 23:31:51.72 ID:OUyBH2mT.net
>>400
あれは、日本人の付和雷同な民族性と米ソ冷戦の世相を「関ヶ原」という舞台を借りて描いた作品だと俺は思ってるよ。
日本人は本来強い意見を持たない羊みたいな民族だが
戦時中は空気を読んで誰もが右を装い、戦後は新たな空気を読んで誰もが左を装い
米ソの冷戦は米が有利と踏んだ時点で国民の誰もが親米反ソとなり
ことの本質は「勝ち組に勝たないと駄目だ」というのが日本人の本質であり
その国民性は実は戦国時代から今も全然変わってないと彼は言いたかったんじゃなかろうか

405 :人間七七四年:2014/02/21(金) 23:33:18.78 ID:OUyBH2mT.net
×勝ち組に勝たないと
○勝ち組に乗らないと

406 :人間七七四年:2014/02/22(土) 12:26:56.42 ID:hFLmy51S.net
>>399
正則は三成の讒言で決定された関白の切腹を見届ける屈辱的な役目を負わされたのだから
正則が三成を嫌うのは当然だろう
しかも関白の死によって新たに招聘された筆頭大老にまで三成は同じ様に命を狙ってきたのだから
正則としては三成の狂気の暴走を許すわけにはいかず三成を討つのは豊臣恩顧として正当な任務だった
正則は誰かに操られたわけではなく強いて言えば三成自身が導いたに過ぎない

407 :人間七七四年:2014/02/22(土) 12:29:50.74 ID:el/xgKXv.net
そいつ在日キチガイだから、
在日の常識で語ってる。
すでに矢部健太郎氏も、
秀次を秀吉と三成は殺すつもりがなかったのに、
福島正則が秀次が自刃するのを止めなかったとして、
福島正則が元凶としてるなど三成悪謀説は、
全て江戸時代の軍記にしか根拠が無いと断じてるし。
だからこそ、秀次の遺臣だった若江八人衆に同情し、
三成は彼らを家臣に加えて、
関ヶ原の戦いでは、彼らが三成の元で、
福島正則らに対して激しい敵愾心で互角以上の戦いを演じていた。
秀吉と三成は軍記のでっち上げ冤罪のせいで損してるよな。

408 :人間七七四年:2014/02/23(日) 12:35:20.73 ID:kyJShW1/.net
そっか秀吉が秀次を殺したと思ってたんがが

正則が殺したんだ。 勉強になったよ

409 :人間七七四年:2014/02/23(日) 18:52:46.09 ID:hDSpxPpW.net
三成厨は秀吉が悪いだの正則が悪いだの言い訳のオンパレードだな
結局三成は自身に何の功績もない負け犬だから三成の立場を上げようと思ったら
責任転嫁を繰り返して三成の汚点を誰かに擦りつけるしかないんだよな

410 :人間七七四年:2014/02/23(日) 20:32:30.57 ID:VNxgFKZc.net
この人どうも立ち回りがうまいイメージがないので秀勝が死ななかったらとか言った
豊臣政権が続いたIFでも本多正純みたいに失脚してそう

411 :人間七七四年:2014/02/23(日) 21:45:56.66 ID:kyJShW1/.net
三成の人物像は漢の袁盎(エンオウ)とどうしてもかぶるんだよな
官僚の中の官僚で無私無欲、国家への忠誠心だけで生きており
相手が丞相だろうが王様だろうが平気で食ってかかり
誰からも国家への忠誠心の高さは認められる反面、敵だらけで
最後は刺客に殺される。
でも三成は派閥を作ったり依怙贔屓をしたり
まぎりなりにも20万石も貰い、家臣を雇ったり
決して公平無私でもなく、結構不公平な事もしてたから
どこまでも公平無私無欲、自分の命すら平気で国家のためにすてた袁盎と比べたら
史記ファンに怒られるかもしれないけど

412 :人間七七四年:2014/02/24(月) 13:00:59.17 ID:nbNZTGln.net
史記は軍記講談レベルの話しか書いてないから参考にならん。
中国史なんてデタラメだらけで学問ですら無い。

413 :人間七七四年:2014/02/24(月) 18:02:47.75 ID:CvzwlJKy.net
>>412
良いじゃん
所詮『人物像』(笑)なんだし
三成だって後世の改竄を受けてない証明なんかない。
豊臣秀吉なんか、良いにつけ悪いにつけ氏素性もわからん。

414 :人間七七四年:2014/02/24(月) 21:54:45.62 ID:U7gIQTT6.net
>>407
矢部健太郎氏の著書である「関ヶ原合戦と石田三成 (敗者の日本史 12)」の秀次事件の章を読めば分かるが
矢部健太郎氏も三成に秀次を失脚させる意図があって仕掛けたことを肯定している
あくまでも計画殺人ではなく未必の故意による殺人だったと主張しているに過ぎない
三成が秀次を嵌めた首謀者であることは矢部健太郎氏も認めている

415 :人間七七四年:2014/02/24(月) 22:37:20.47 ID:OCB/eq6/.net
>>414
> 矢部健太郎氏の著書である「関ヶ原合戦と石田三成 (敗者の日本史 12)」
アレは酷い本だったな。俗説と牽強付会の嵐。研究者の書いたホントはとても思えないお粗末な内容だった

416 :人間七七四年:2014/02/24(月) 23:02:37.78 ID:XWE8oKJr.net
要するに>>407が馬鹿じゃん

417 :人間七七四年:2014/02/25(火) 08:21:17.14 ID:I62ta0Be.net
でさ、三成が秀次を嵌めた首謀者であることを表す一次史料はまだなの?

418 :人間七七四年:2014/02/25(火) 08:33:42.51 ID:mHpDWu21.net
実際に三成が首謀者だったかどうかたともかく、当時の公家の日記などの見られるように、周りからそう見られていた、
ということのほうが重要

419 :人間七七四年:2014/02/25(火) 09:04:26.30 ID:Ky3zyvVS.net
三成悪謀説は江戸時代の軍記にしか根拠が無い時点でお察し。

故意に情報操作された風聞に基づく記録なんて全く意味がない。

420 :人間七七四年:2014/02/25(火) 09:10:33.16 ID:mHpDWu21.net
>>419
つ「言經卿記」

421 :人間七七四年:2014/02/25(火) 09:13:01.98 ID:CEDpNAka.net
いつ見ても菅沼遼太は敗北してるなぁ

422 :人間七七四年:2014/02/25(火) 18:31:11.68 ID:V2yW2lvh.net
矢部健太郎氏

秀吉が秀次を切腹させたことを示唆する史料も少なくないが、
多くは京都周辺の公家衆の日記であり、
その書き方はあくまで「噂」のレベル。
秀次切腹命令は太閤記の創作である。
三成の意思は、秀吉と同じく「秀次を生きたまま高野山に拘留しておく」ということだったのである。
正則が伝えるべきは「切腹命令」ではなく、「住山掟三ヶ条」であった。
三成の意を奉じている長堯は、当然秀次の切腹を望むはずもないが、
家格や官位などがはるかに上回る正則と長堯の力関係の差げ影響し正則が主導したため秀次の自刃を長堯には止められなかった。

423 :人間七七四年:2014/02/25(火) 18:33:18.34 ID:V2yW2lvh.net
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。

『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。

文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、

山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。

秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。

信長公記の著者である太田牛一(秀頼に仕えていた)がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。

424 :人間七七四年:2014/02/25(火) 18:33:44.75 ID:V2yW2lvh.net
漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。

南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。

425 :人間七七四年:2014/02/25(火) 18:34:48.89 ID:V2yW2lvh.net
信長は前線指揮官たちに虐殺を命じ、
また疑心暗鬼が強い信長は常に前線指揮官に報告を求めていた。
そんな信長が鳥取城攻略中の秀吉からの報告を読み、
8/20付けで返書を出している。
信長は鳥取城で日々餓死者が出始めていること天罰だと喜び、
討ち果たすように命じている。
信長は常に自分に抵抗する者はことごとく天罰を下し虐殺することでしか、
鬱を晴らすことが出来なかった。
それと、秀吉が秀次に出した書状で、
この日頃、秀吉の甥子であることをやたらと鼻にかけ、
人にもけしからぬ態度を示してきた。
しかし今後は誰からも秀吉の甥と崇められるような覚悟をもって行動しなさい。
お前のような心がけの者はいっそ、この世に亡き者にしてやろうと、
一度は決心したけれど、 まあまあと思いこの手紙を書いたのだ。
これから心がけを改め他人にも一人前の人間と呼ばれるようになったならばもっと引き立ててやろう。
しかし、こんどの合戦に、木下助左衛門(木下祐久)と同勘解由をつけてやったところが、 両人とも殺してしまった。
それをとりわけ申し訳ないと思うべき筈であるのに、
それどころか、さらにその代わりに津田監物を欲しいなどと一柳市介を通じて頼んできたとはもってのほかである。
秀吉の預けた者を両人ながら討死させておいて代わりの家来を要求するとは、
それを頼んだお前はもちろん、それを取り次いだ奴も大たわけ者だ。
そこで市介めを手討にしようかと思ったが今のところ我慢してやっているのだ。
今後ともよく分別し諸事に嗜み深く秀吉の甥の切れ端かと人に呼ばれさえすればそれで満足だ。
お前の覚悟さえ直ればどの国なりと遣わそうと思うが今のような馬鹿者ではたとえ命を助けたとて仕方が無い。
秀吉の面目にかかわることだから手討にするぞ。
秀吉は元来、人を斬ることは嫌いだがお前をこのままで他国へ出したのでは恥の上塗りである。
同じ殺すなら人手にはかけない。

などと書いていて小牧長久手の戦いは秀吉のミスではなく、
明らかに秀次のミスであることがわかるんだよwww
しかも秀次はそうとうに性格も覚悟も悪いダメ人間なのがわかる。

426 :人間七七四年:2014/02/25(火) 18:36:39.90 ID:V2yW2lvh.net
天正12年4/11 秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)
孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候
などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を
池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
東京史料編纂所の所属だった染谷氏の訳は「兄弟からその失態によって縄で縛られることでしょう」と訳している。
この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白で、
池田家中を納得させるためには敗戦を呼び込んだ秀次に対するケジメが必要だった。


森は羽黒の戦いで敗北するや、鬼武蔵の異名を穢した汚名返上したいと秀吉の助力を嘆願するようになる。
秀吉は伊勢戦線と紀州一揆が気にかかり、東美濃戦線にはあまり興味が無かったため、
森は26日にむさしの名で自筆遺言書を書き、死を決意し、宛先には秀吉軍監だった尾藤になっており、
尾藤この由御申し候べく候と書き、
自分の死後に遺された家族の身の振り方を指図してる。
つまり最初から死ぬつもりで無謀な進軍をするつもりで秀吉に嘆願していた。
ちょうどそのタイミングで家康が28日に小牧山を占拠したことめあり、
秀吉も対応し29日に楽田に集結。
この際、三鬼氏は秀吉軍戦力を10万は誇張で実際は6万と指摘しており、
その中から別働隊に割ける兵力も少ないながら、
死に急ぐ森らを危惧し、
三好秀次を支援に付ける温情を示した。
しかし秀次は素人丸出しで、徳川軍に背後を襲われ不意だったために混乱。
敗因を作ったのは秀次であり、
しかも元々、汚名返上のために死ぬ覚悟だった森らが、
秀次を生きて帰すことが恥辱をそそぐことにつながると考えた結果、
森らが生還を考えず勝手に討ち死に。
しかし秀次や長谷川や堀らは無事生還したので、
森や池田が討ち死にしたが、
その後も池田や森は秀吉の元で動いていることからも大した損害にもならなかった。
絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと苦心していた。
そのため甲斐にいる平岩らにさえ、
池田、森、堀、長谷川、その他に大将分(秀次)
ことごとく一万討ち捕らえたと、
戦果を過大に言い触らし回っている。
無論、1万討ち捕らえた根拠として挙げられた
秀次、堀、長谷川ら秀吉直轄人員は無事に生還しており、
自立勢力であった池田と娘婿森らだけが討ち死にしただけである。

427 :人間七七四年:2014/02/25(火) 18:40:23.50 ID:V2yW2lvh.net
そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
しかも北国勢も合流予定と圧倒的戦力差を秀吉は見せ付けてる。
顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
(つか関が原の戦いで両軍併せて17万〜20万が投入された際の戦死者ですら6000〜8000なのに非現実的すぎるわwww)
4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)

428 :人間七七四年:2014/02/25(火) 18:57:31.81 ID:ZbwvbdwC.net
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

429 :人間七七四年:2014/02/25(火) 18:58:10.84 ID:o0ImeTVL.net
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

430 :人間七七四年:2014/02/25(火) 18:58:38.36 ID:ZbwvbdwC.net
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

431 :人間七七四年:2014/02/25(火) 18:59:01.34 ID:o0ImeTVL.net
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉

432 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:00:41.48 ID:o0ImeTVL.net
>>425
アホか。秀吉が単に秀次に敗戦の責任をなすりつけてるだけで、作戦自体全面的に秀吉が結構したものだし
奇襲されたのは秀吉が敵地のど真中で無謀な行軍させたからだから100%秀吉のせいだわw
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀次は縄目の恥なんて書いてねーよボケ

433 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:01:27.78 ID:o0ImeTVL.net
わずか10町ほどの近距離にいる信雄・家康勢に対して仕掛けた軍事作戦が秀吉のせいじゃなく秀次のせいだというなら
秀吉が指揮した合戦なんてほとんど後方の離れた場所から悠々と命令出してただけだから
秀吉の合戦なんて全て秀吉の功責じゃなくなるだろバーカ
九州征伐や小田原征伐に至っては、100%秀吉とは関係なくなるなw
都合の悪い事を全て部下になすりつけて、都合のいい手柄だけ秀吉の才覚でとか妄想してんじゃねぇよボォケwwww
秀吉が自分の戦術ミスで徳川方に大敗したのを池田家からの非難を恐れて無理矢理秀次に押し付けてるだけじゃねぇかアホ
秀吉が池田隊や秀次隊に無謀な行軍中入りを命じたのは>>509のように明らかだろうがタコ
秀吉が自分の作戦失敗を部下になすりつけるのは滝川の蟹江合戦の時とかいつもの事だしな(蟹江から眼前の大垣にいながら滝川を見捨てた)
自分のアホ作戦で1万人を超える甚大な被害を出した秀吉は
池田家からの非難を恐れて気を使いまくっておおちさまにあてて、勝入のとむらい合戦を絶対行う!
等と息まいてたからね。
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん 秀吉の命令通り動いただけ。7倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してる。目付け役で堀・長谷川も加わってる。
アホ秀吉厨の論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなくある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったから
わずか10町ほどの距離での家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

434 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:02:31.69 ID:zazhKTou.net
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる

池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう

同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)

天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

435 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:03:53.41 ID:zazhKTou.net
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいてあんな糞作戦立てた秀吉の完敗
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

436 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:04:29.89 ID:o0ImeTVL.net
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる

437 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:04:48.07 ID:zazhKTou.net
長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは 戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や
丹波の赤井氏など国人が蜂起している事それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ
長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然 池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死
結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか
弱いにもほどがある。しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国
ちなみに捏造でいえば秀吉の方が遥に酷い。 83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから 経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろう。秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな。しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。

単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

438 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:05:59.47 ID:0Y8jyUNV.net
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw

194 :人間七七四年:2014/01/18(土) 05:07:55.46 ID:ZBPG17RW正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がやれやれと和睦しただけだし

439 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:06:40.26 ID:0Y8jyUNV.net
>>岩田氏覚書によれば、天正12年2月には酒井重忠を使者に信雄と家康は密談していて、
>>3/6に信雄が三重臣殺害をしていてあきらかに家康が悪しき謀略をしたのが事の発端

多聞院日記2/2条で秀吉方の脇坂安治が伊賀の国衆を組織して伊賀上野城を乗っ取っている。これが発端
また津川ら信雄ら三家老は秀吉がこぞって彼らの人質を取っていたために操り人形だった(家中対秀吉心合候者共両三人)

>>美濃の池田と娘婿森の自立勢力の帰属を巡る外交調略戦で、信雄家康陣営は完敗

何それ?外交戦って?ソースを書いてくれ。

>>鬼武蔵の異名を穢した汚名返上したいと秀吉の助力を嘆願

全くそんな事嘆願していない。
森の3月26日遺言状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
「森家の後継ぎは忠政が長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい」
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
俗にいわれてるようなDQNっぽさは全く読み取れない。

池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している

440 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:08:39.90 ID:cebs/qrb.net
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる


中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

441 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:10:42.28 ID:eNV8LkSZ.net
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし

清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

442 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:11:28.96 ID:eNV8LkSZ.net
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる

池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう

同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)

天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

443 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:11:35.38 ID:cebs/qrb.net
>>最初から死ぬつもりで無謀な進軍をするつもりで秀吉に嘆願していた

何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

444 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:13:47.73 ID:cebs/qrb.net
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

>>三鬼氏は秀吉軍戦力を10万は誇張で実際は6万と指摘しておりその中から別働隊に割ける兵力も少ない

一次資料や陣立書類から、秀吉軍は下記のように総軍フル動員で戦闘に臨んでるからそれは絶対にない。
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。

秀吉方は 秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる

445 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:15:14.48 ID:7u+wtT5w.net
>>死に急ぐ森ら
森らは全く死に急いではいない。4/8秀吉→丹羽にあるように軍令に忠実に三河方面へ淡々と行軍してただけ。
>>三好秀次を支援に付ける温情
秀次は当時秀吉の数少ない血縁者。森が自殺を考えてるなら生きるか死ぬかもわからん戦に秀吉が行軍させるわけがない。
>>秀次は素人丸出しで、徳川軍に背後を襲われ不意だったために混乱。敗因を作ったのは秀次
背後を襲わせたのは、秀吉のアホ戦術。

4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
>>汚名返上のために死ぬ覚悟だった森ら
ハイハイ、ソースなし。
国境地帯にいる森らがいつ命落すかは全くわからんし、去就が注目されてた程なので秀吉に従った後
いつ先陣をやらされるかわからんから、遺言状を念のため書いただけ。それを無理矢理森が命を省みず無謀な行軍をするつもりだったとか
中入りが森らが名乗り出たとか相当馬鹿だな。森らは>>863-864>>868のようにとっくに秀吉家臣だから
4/8丹羽宛書状にあるように秀吉の命令で三河侵攻に派遣され、秀吉の命に忠実に動き、三河方面に放火や城攻めや築城をしながら行軍してただけだろアホ

>>秀次を生きて帰すことが恥辱をそそぐことにつながると考えた結果、

恥辱も糞も仮に背後から襲われる結果になった場合真っ先に狙われるのは最後尾の秀次軍であり
森らは最も安全な、徳川や信雄から離れた位置で行軍してたのだから、最初からこれが無謀な行軍なわけがない。
そんな危険な戦を考えていたならなら、秀次が一緒に派遣されるわけがないし、秀吉の親戚筋の木下兄弟まで一緒に派遣されて戦死してるほどなんだがw

>>森らが生還を考えず勝手に討ち死に
生還を考えずも糞も、尾張方面から進出してくる徳川軍に退却路をふさがれてただけだろ。
池田元助という、未来のある武将まで逃げ切れず戦死してるし。
>>秀次や長谷川や堀らは無事生還
秀吉のアホ作戦のせいで秀次が急襲されて、ねねの兄弟の木下兄弟が戦死し、長谷川や堀らが榊原隊に蹴散らされあっさり敗走したために
徳川勢と信雄勢がわらわら集まってきて、池田と森らが退却できなくなって、戦死しただけ。
池田元助まで逃げ切れずに戦死してるから、逃げようとして逃げられなかっただけであって自ら死を選んだわけじゃない。

446 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:17:57.72 ID:0Y8jyUNV.net
>>その後も池田や森は秀吉の元で動いていることからも大した損害にもならなかった。

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り 5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人 フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平 佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。 アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに 家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

むしろ1万人くらい死んだとしないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

447 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:18:51.75 ID:0Y8jyUNV.net
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから

>>絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと

そんな事実ねーよクズ。別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな。
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

最初から信雄・家康と秀吉は135000VS16000〜17000で絶望的な兵力差にもかかわらず
小牧合戦後、秀吉は尾張国内に正々堂々と攻め込むのをやめて家康が絶対に出てこれない木曽川筋の諸城をこそこそドロボウするのがやっとだったんだし
いかに長久手合戦の被害が甚大で、秀吉が信雄らにビビリまくってたかがわかるな。
普通なら秀吉の書状にあるように半月くらいで瞬殺できていい兵力差で尾張や美濃や伊勢の諸将も秀吉に寝返りまくってるのに
秀吉が自力で攻めた所はほとんど一進一退どころか、蟹江や前田・下市場・長窪や浜田城を奪回されるなど劣勢なくらいだしね。

448 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:20:19.95 ID:0Y8jyUNV.net
唯一長久手合戦での戦死者を3000と後年の加筆によって捏造してる顕如日記自体が秀吉によって歪曲されまくった捏造フィルターを通した情報ばかりを事実として書き記してるし日記形式の癖に
日付の順番とは関係なく後から加筆されまくってるからな。

・3/8晩より前の時点なのに3/20や3/27の出来事(大坂出兵など)が書かれてる。
・3/23の出来事が3/22条より前に加筆されて書かれてる
・根来寺よりは懇望、但泉州知行方について望みこれあり、秀吉は同心あるまじきと云々、それに付き同寺の儀堅く仰せ付けられた。
・来る15日尾張表へ諸勢を差し遣わされる予定を3/8時点で書いてる
→実際には秀吉の当初の出兵計画は尾張ではなく伊勢だし到着予定日も席に3/11と大きく異なる
・3/14の峰城の合戦の後に尾張犬山に池田と森を派遣して犬山まで切り取り、そのほか所々放火して存分に任せられ、尾張も秀吉に味方したと書いてる
→実際には池田や森による犬山奪取は3/13で峰城の合戦より前だし池田も森も当初秀吉につく事が予想されておらず
「申合令手遣」は明らかにおかしい。尾張で秀吉に味方した勢力があったのは事実だが(両毛利氏や松の木城近辺の将など)
「存分に任せられ秀吉一味」というのは明らかに秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて書いてるだけ。
・岸和田城での雑賀衆との合戦の日付が3/18になってる→実際には3/22
・4/10で尾張表は過半秀吉の理運とか書いてる→明らかにデタラメで秀吉のハッタリ。
北部にある小牧山やその周辺の砦や蟹江など西部の城すら攻略してないし、隅っこにある加賀野井竹鼻奥の三城もこの時点でしっかり残ってる
・4/9の大敗の条で「然れども秀吉が覚悟を堅固にしてやがてかちかためられ」という秀吉が「ほんのさわりにもならない」とか書いてた強がりのハッタリと同内容がしっかり書いてる
(実際には秀吉は池田や森らが死んで大変不便だ。これを次やったら親子の縁を切られるのを覚悟しろ。などと秀次に譴責状を書いてる)
・秀吉が6/27の夜に馬五六騎で大坂に帰ったとか書いてる→秀吉が帰ったのは6/28だし五・六騎で帰ったとか明らかに捏造
・8/26に木曽川を渡って8/28に清洲辺りを放火したと書いてる→実際には秀吉が渡河したのは8/19で大きく異なるし
そこから一回美濃に戻った形跡もない。8月下旬の秀吉は小牧や丹羽郡小折などを攻撃目標として定めてるのが家忠日記・9/1秀吉→石川・蜘庵や8/18秀吉→景勝・須田でもわかる
・9/8条に「御書の日付7日也」と書いてる
・9/8条に「9/2に合戦、家康敗戦とも風聞在之」と書いてる→実際には9/2には合戦はなかったし
その前日の9/1家康→尾張黒田城の澤井雄重で尾張島東での戦功を賞され感状がでてるように、信雄が勝利してる。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって和睦しただけだ

449 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:21:34.37 ID:7u+wtT5w.net
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと

450 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:23:12.26 ID:7u+wtT5w.net
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促す。 しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
>>新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
圧倒的大軍がありながらわずか8分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」

秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
圧倒的大軍がありながらわずか8分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」

451 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:23:47.63 ID:MLMxr6/L.net
むしろ1万人くらいは戦死したとしないと説明がつかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した

452 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:25:36.63 ID:vNBaIuea.net
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である

453 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:26:11.93 ID:7u+wtT5w.net
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ

454 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:26:32.93 ID:vNBaIuea.net
>>絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと苦心していた。
>>そのため甲斐にいる平岩らにさえ、池田、森、堀、長谷川、その他に大将分(秀次)
>>ことごとく一万討ち捕らえたと、戦果を過大に言い触らし回っている。
身内や家臣に対して捏造を書いても全く秀吉に敵対勢力拡大には繋がらない。
身内に対しては正確な戦況報告を常に淡々と行うのが家康。
身内に対しての戦況報告=今後の作戦や指令に繋がっていくわけだから捏造戦果書いても戦線が混乱するだけ。
まぁ秀吉は家臣に対しても捏造戦果書きまくってたが。

>>無論、1万討ち捕らえた根拠として挙げられた秀次、堀、長谷川ら秀吉直轄人員は生還
一万人打ち捕らえた根拠が堀秀次長谷川というのが意味不明。
敵の首が一万以上あっただけ。それで家康が、堀や長谷川や秀次の影武者の首を本人の物と錯誤して彼らが戦死したと報告しただけ。
敗戦直後の4/9には堀長谷川秀次が戦死したと家康が錯誤してたため、誤った戦果が平岩らに伝わってるが
その後には4/21家康→皆川や5/3信雄→香宗我部5/7織田信純→香芸でも堀長谷川秀次らが戦死したというのは書かれておらず
4/9や4/10時点での堀長谷川秀次戦死というのは、誇大喧伝目的ではなく、戦闘直後で首実験が十分にされていない事による
家康や信雄の錯誤による物とわかるし、それが修正された後でも壱万人とか壱万五千人という数字はちゃんと変わらず書かれており
(むしろ信雄書状などでは8000→15000などと首実験の結果数がちゃんと正確に把握され、戦闘直後には計上されていなかった首まで計上されてより正確な数になってる)
1万人戦死の根拠は秀次堀長谷川の戦死ではなく、むしろ壱万人討ち取ったからこそ、秀次堀長谷川も死んだと推測して書状に書いていたから、1万人かそれ以上戦死というのは
正確な数字か実際より少ない数なのがわかる。

吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい。
其の証拠に秀吉は規格外の兵力差と、会戦当初から寝返り続出で崩壊状態の雑魚信雄相手に手も足もでなくなって
ビビリまくって楽田からヘタレ敗走して家康らが絶対でてこれない木曽川を超えた先にあるデルタ地帯の小城数城をマンマと火事場泥棒するのがやっとだったし

>>自立勢力であった池田と娘婿森らだけが討ち死に

池田も森も自立勢力じゃない。これは>>863-865>>868でわかる。

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

455 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:27:13.58 ID:7u+wtT5w.net
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

456 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:27:45.64 ID:vNBaIuea.net
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

457 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:30:21.75 ID:MLMxr6/L.net
秀吉が困った状況を隠すためにハッタリパフォーマンスするのはいつもの事。
例えば小牧長久手合戦で1万人殺され諸城の攻防でも長久保・浜田・戸木・松ノ木・二重掘・蟹江・前田・下市場・東駒野など
負けまくり奪回されまくってたが、下記のようにハッタリと捏造でもみ消してる。
パフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ

むしろそれは兵糧や物資に困ってて早期に決着つける必要があったため
相手の戦意喪失を狙ったものとみるべき。
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。

あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。

458 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:31:15.13 ID:MLMxr6/L.net
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

459 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:31:54.67 ID:0Y8jyUNV.net
>>秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこない
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってたのにこのタイミングで普請とか妄想乙
いかにこの書状が秀吉の垂れ流したハッタリ誇大喧伝ばかり載ってるかわかる文章だなw
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」

>>軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
加賀野井城なんて尾張の隅っこにある300程度しか城兵がいない雑魚城。


小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉

460 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:36:01.36 ID:cWzcISEk.net
>>三鬼氏は秀吉軍戦力を10万は誇張で実際は6万と指摘しておりその中から別働隊に割ける兵力も少ない

一次資料や陣立書類から、秀吉軍は下記のように総軍フル動員で戦闘に臨んでるからそれは絶対にない。
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は 秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる﷯

461 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:37:40.65 ID:7u+wtT5w.net
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われるし、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている

3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。合戦時の陣立書にもはっきり名前がある。秀長、蒲生氏郷も
遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。

462 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:40:02.50 ID:7u+wtT5w.net
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と
美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、
合戦記などでも同じ数字が用いられている

長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。その後も秀吉の決戦構想はは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる。伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。

463 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:41:09.11 ID:MLMxr6/L.net
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉

464 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:41:55.28 ID:cebs/qrb.net
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する

465 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:43:07.00 ID:o0ImeTVL.net
>>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦で戦術的勝利、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉

>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)

466 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:43:59.81 ID:o0ImeTVL.net
>>秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もってひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉

467 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:45:28.93 ID:ry+lGNyg.net
それで敗戦まみれだった秀吉が天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

468 :人間七七四年:2014/02/25(火) 20:05:34.12 ID:JihGWO1i.net
秀吉80000の後詰は本多500に行軍妨害されてほうほうの体で楽田に戻ったからね
しかも一柳宛書状から秀吉は大分早く家康方の動き察知してたけどすぐに軍送らずにまんまと家康を逃がしたんだから100%秀吉の責任としかいいようがない
普通に考えりゃ秀次軍の後ろに警戒用の兵2万くらいつけて家康軍に備えてりゃよかっただけでしょ
敵地の中では迅速かつ隠密に行動するのが鉄則で、城攻めを行ったり砦を築きながらゆっくり行軍するなら
それに備えた陣構えで望むくらい普通の指揮官ならするわな
最も気づかれやすい方法で、最も襲撃かけられやすい遅い行軍でもって、家康はそれでも中々気付かず、秀吉方は逆に家康の動きをすぐ察知したのに
軍をろくに迅速に機動・展開せず、展開したら本多500に蹴散らされ、結局本戦で大敗した秀吉は戦下手どうこうといったレベルではなく、無能といっていいレベル
なんでもかんでも都合悪い事は部下になすりつけようとする秀吉厨は秀吉並のクズだな
わずか10町ほどの眼前にいる敵に対して行った軍事行動が秀吉の責任じゃないなら
逆に他の戦の功責なんて全て部下のおかげで秀吉の功責じゃなくなるな
100%秀吉の作戦が稚拙すぎたから負けただけだろうが

堀秀政が榊原隊を破ったというのは明らかに豊臣方の捏造。
同時代史料にはそんな記述全くないどころか三河物語や本多藤四郎覚書だと
堀鉄砲隊で一時榊原隊は崩れたが、その後反撃して切り崩し堀隊は敗走したと書いてる
つうか堀が榊原を破ってたら池田や森隊と秀次敗残兵を含めて家康・井伊隊を蹴散らせるくらいの兵力には十分なるはず
確かに堀が大敗したからこそ池田や森は単体で戦う事になり、大敗して三人とも戦死したんだろう。
堀隊は白山林で急襲を受け瓦解した秀次軍と池田・森らとの間にいたはず。
それでもって榊原勢と衝突して勝利したならば池田や森隊と秀次敗残兵で家康・井伊隊を敗走させられる兵力には十分なるはず
それがなぜか楽田の方にいつの間にか敗走してるのは、榊原隊に負けたからに他ならないだろ
現に堀が榊原に勝ったと書いてるのは秀吉側の家譜・家記や軍記ばかりで同時代史料の三河物語や水野藤四郎覚書だと
堀鉄砲隊で一時榊原隊は崩れたが、その後反撃して切り崩し堀隊は敗走したと書いてる
徳川軍8000の中で小幡方面に出兵したのは史料から井伊・家康・榊原の三人のみで 石川・本多・酒井らは小牧在城。
これに信雄勢が加わってもせいぜい8000〜11000くらいだろ(信雄も小牧山とその周辺の拠点に幾分かは兵残す必要があるし)
楽田→龍泉寺・篠木・柏井・大草方面に向かったのは秀吉の書状から24000であり、しかもこれとは他に山内、矢部、一柳などが留守居用として派遣されてる。
榊原隊が本当に堀勢に蹴散らされてたら家康・井伊隊は池田や森と戦うどころじゃないだろ
堀は長谷川とも軍を一緒に部隊を編成してるのが史料からわかるし別働隊の中でも池田・森・堀・長谷川と井伊・家康軍のみでは勝負にもならないはずで、
家康と井伊隊は一目散に逃亡してなきゃおかしい

469 :人間七七四年:2014/02/25(火) 20:07:02.69 ID:7u+wtT5w.net
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

織田家中でいえば
柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田
>>>>>>>>>>>秀吉
こんなもん

長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは
戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事
それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ
長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然
池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死

結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して
結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか
弱いにもほどがある
しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国
ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。

徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ
長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?

秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。

470 :人間七七四年:2014/02/25(火) 20:07:47.03 ID:7u+wtT5w.net
単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

471 :人間七七四年:2014/02/25(火) 20:08:32.81 ID:o0ImeTVL.net
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

472 :人間七七四年:2014/02/25(火) 20:09:20.41 ID:JihGWO1i.net
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
>>51
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ

よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる

473 :人間七七四年:2014/02/25(火) 20:09:55.03 ID:JihGWO1i.net
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし

黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。

474 :人間七七四年:2014/02/25(火) 20:12:03.93 ID:JihGWO1i.net
秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる

豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな

475 :人間七七四年:2014/02/25(火) 20:12:43.57 ID:JihGWO1i.net
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

476 :人間七七四年:2014/02/25(火) 20:15:35.36 ID:o0ImeTVL.net
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし

池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう

同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)

天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。

477 :人間七七四年:2014/02/25(火) 20:16:30.17 ID:o0ImeTVL.net
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)

6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。

>>6/10秀吉→石川 これ偽書状で有名じゃん。秀吉が今日十日竹鼻で拝見って書き出しは、多聞院日記の城ヲ筑州へ請取云々
>>もしくは、 顕如日記の尾州竹鼻城、六月十日、筑州へウケトラレなどを読んで、秀吉が6/10に竹鼻城を落城させたと誤読して偽書状を作製した

誰がそんな事書いてるわけ?
時分の脳内設定には興味ないんで、論文か史料をあげてくれ。

>>三河物語の石川がすでに秀吉に心を寄せていたとする話は大久保が後からそうだったのだろうと穿った解釈をしてるだけ。
同上。大久保の回顧録に当たる三河物語が、適当だという論拠を出せ。
つかお前金が崎では三河物語を直接ソースに持ち出してただろうが。

>>尾張への 中入り戦略

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

478 :人間七七四年:2014/02/25(火) 20:18:26.77 ID:+ON50N40.net
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる

479 :人間七七四年:2014/02/25(火) 21:53:47.13 ID:ZbwvbdwC.net
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

480 :人間七七四年:2014/02/25(火) 21:54:39.13 ID:ZbwvbdwC.net
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

481 :人間七七四年:2014/02/25(火) 21:55:34.09 ID:ZbwvbdwC.net
>>天正12年4/11 秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
>>孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候
>>などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>166
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀次は縄目の恥なんて書いてねーよボケ

482 :人間七七四年:2014/02/25(火) 21:56:44.41 ID:ZbwvbdwC.net
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない。11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの
報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛。美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった
犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

483 :人間七七四年:2014/02/25(火) 21:57:36.71 ID:ZbwvbdwC.net
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で
抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく11/13秀吉→伊木、
池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている。そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっているこの時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる

484 :人間七七四年:2014/02/25(火) 21:59:18.80 ID:o0ImeTVL.net
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ

愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。

485 :人間七七四年:2014/02/25(火) 21:59:56.74 ID:o0ImeTVL.net
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀  池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

486 :人間七七四年:2014/02/25(火) 22:04:37.54 ID:MLMxr6/L.net
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく

487 :人間七七四年:2014/02/25(火) 22:04:53.08 ID:CEDpNAka.net
菅沼遼太は負けるとすぐコピペで逃げる

488 :人間七七四年:2014/02/25(火) 22:06:39.87 ID:Bn23hnz0.net
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるという
かなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としか
いいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
あらしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
>>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし
木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
>>はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。

489 :人間七七四年:2014/02/25(火) 22:08:14.96 ID:nyi4vXOo.net
各所で論破されて決着ついた話題をしばらくするとまた別スレで何事もなかったように忘れて
一から同じような話題垂れ流してんじゃねーよボォケwwww
ガチでアルツハイマーだなお前

http://www.logsoku.com/r/sengoku/1255967241/
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/388-400
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/402-406
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/488-411
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/415-428
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/430-434

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/287
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/289
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/291
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/294-296
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/298
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/300-304
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/306-309
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/311-313
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/317-324
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/327-329

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/332-340
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/344-346
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/348-350
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/355-357
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/359-371
http://www.logsoku.com/r/sengoku/1374355822/
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/287
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/289
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/291
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/294-296
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/298
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/300-304
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/306-309
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/311-313
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/317-324
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/327-329
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/332-340
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/344-346
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/348-350
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/355-357
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/359-371
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/388-400
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/402-406
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/408-411
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/415-428
http://www.logsoku.com/r/history/1382779334/430-434

490 :人間七七四年:2014/02/25(火) 22:09:56.73 ID:cebs/qrb.net
>>489
秀吉マンセー馬鹿の余りに酷い蹴散らされっぷりに吹いたw

491 :人間七七四年:2014/02/25(火) 22:12:04.94 ID:7u+wtT5w.net
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

492 :人間七七四年:2014/02/25(火) 22:12:58.34 ID:7u+wtT5w.net
秀吉厨の妄想発言集

>>毛利軍自体が実は来てない

天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない

493 :人間七七四年:2014/02/25(火) 22:16:25.22 ID:o0ImeTVL.net
>この時期の織田軍は毛利と播磨で戦ってねー

天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿

494 :人間七七四年:2014/02/26(水) 00:01:35.27 ID:4QLpIovV.net
養子や側室として取ったのを無理矢理人質を取ったとハッタリ誇大喧伝してるのが秀吉。
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。

秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀頼は実子じゃなかったと最近言われてるしね

495 :人間七七四年:2014/02/26(水) 00:17:57.69 ID:VpVhQor0.net
負け犬菅沼遼太のみっともなさはすごいな

496 :人間七七四年:2014/02/26(水) 00:24:15.19 ID:mA8EQHQN.net
だがさんも最後は大量コピペの垂れ流しだったね

497 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:01:35.70 ID:5mfgLgwO.net
>>428-494
秀吉厨のアホ妄想が悉く打ち砕かれててワロタwww

498 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:09:07.47 ID:n8Mg+qeS.net
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉)

499 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:10:03.37 ID:3ZR1nW34.net
秀吉が天下取れたのは100%棚ボタでしょ。
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

500 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:10:24.14 ID:n8Mg+qeS.net
基本寡兵側の用兵とか戦術が優れてたとしても大軍側が間抜けだったり馬鹿だったりしなきゃ負ける事はないからね
そういう地勢的条件を無視して無謀に挑んでくる馬鹿が総大将じゃないとそういうのはそうそう生かせないよ
大体大軍側の方が兵力を分散させて陽動かけたりできるから布陣においてもかなり有利だし
ある堅固な陣地で相手が待ち構えていても側面方向とか別方面から攻撃する構えみせたり、陣城を相手の眼前に築いたりすれば
相手からすればかなりプレッシャーになるし、それこそ敵の陣地を包囲する形で陣城で埋め尽くせば基本的に相手は立ち枯れるしかないからいずれ相手は決戦に及ぶしかない
大軍側は、勝てば領土得られる戦を、自分の好きなタイミングで自分が好きな時・状況で挑む事ができる点でかなり有利
まず大前提として侵攻側・大軍側は自分がこの戦場で戦うのは不利だと判断したら攻め込まなきゃいいだけ。持久戦に切り替えるなり
他のルートで侵攻するなりすればいいだけで、敵が打って出てきたらそれこそ迎撃すればいいだけだし 大軍側は戦争の主導権握ってる
寡兵側、防衛側は戦争回避したら領土失うか死ぬだけだが大軍側は自分が好きなタイミングで自分が好きなルートで、また十分に用意して攻め込む事ができる点でも
圧倒的に有利。また勝っても領土が広がらない防衛側は離散や逃散が出やすく士気が下がりやすいが
勝てば領土、恩賞が約束される大軍側はそれはない。
ハンニバルのポエニ戦争とかハンニバルが寡兵側で侵攻して勝ったりしてるし
武田の織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
日本程度のショボイ天嶮でそんな攻めるのが困難な地勢とか大軍が生かせない地形なんてないからな
日本で最も険しい天嶮が立ち並ぶ信濃や甲斐や上野でも武田や上杉によって一日に10も20もアホみたいに落城しまくってるし
他の地域の城攻めでも数ヶ月の長期に及ぶ城攻めなんて全体からしたらごくごく稀でしかないし
大体近くの拠点まで示威行動したら恭順したりボロボロ城方から離反が出たりしてあっさり終結する戦闘がほとんどだし
ヨーロッパの戦争とか日本よりも遥かにキツイ天嶮を日本よりも遥かに大軍が日本より遥かに重装備で動きまくってて、
これでも基本的には数の論理は生きていたし、それこそハンニバルのポエニ戦争は指揮官の能力で決まった戦争というべきだろ
地勢兵力ともにローマ軍有利のはずだしな

501 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:11:44.95 ID:Lm7Rdlgb.net
>>秀吉は天正12年戦役の結果家康から秀康を始め石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に

アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい

502 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:46:34.50 ID:Lm7Rdlgb.net
秀吉厨妄想続き

>>当時は秀吉が家康を下すのは容易い
確かに国力的にはその通りだな。だが史実では135000と総動員して寝返りで崩壊中の雑魚信雄の分国に攻め込んだら
わずか16000そこそこの雑魚信雄に1万人殺された後、秀吉方は二重掘合戦でわずか1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって
楽田から大敗走。本陣の眼前にある蟹江・前田・下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されたあげく、戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城などいずれも1000貫そこそこの雑魚領主が
わずか500程度で篭もった城に大苦戦し、結局会戦当初から総じて離反だらけで崩壊状態の信雄分国を全くと言っていいほど切り取れなかったじゃんよ。

>>戦闘自体は1カ月で終わったとしても
一ヶ月どころか、1年かけても終わらなかったじゃん。
秀吉は短期決戦構想があったのは書状から明らかだが、結局長久手で想像を絶する大敗を喫し結局家康や信雄に土下座して母や妹まで差し出してる。

>>戦後処理で数年は余裕で掛かる
そんな戦争中世の合戦にねーよクズ

>>家康を倒す
直接対決でガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
>>家康は怖くない

信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ

503 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:47:43.29 ID:Lm7Rdlgb.net
>>島津氏の台頭は秀吉も怖かった

島津を攻めたのは天正14年晩秋と大きく時期がずれてるし秀吉はその時点で島津が気になるから
徳川攻めを中止したなどと一言も触れていない。
秀吉は天正13年秋から翌年春にかけて下記のように着々と侵攻計画練ってた。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
直前になったらビビリまくって信雄に仲介頼んだり母や妹を差し出して戦いを避けてる。
家康も家康で軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
天正13年時点じゃ秀吉は家康の事ばかり気にして島津なんて全く文書の中に出てくる気配すらないし
出兵計画始めただの信濃に軍勢をいれ差し遣わすだの一柳に尾張星崎から三河の情報収集を命じたり
来春三河に出兵するだの、西国四国の人数そのほか兵糧の儀を船手で用意させたり侵攻計画を散々書きまくってる様子しか見られないのに
島津を気にして出兵取りやめたとか相当馬鹿な妄想だな。

504 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:48:30.65 ID:Lm7Rdlgb.net
>>天下執りを目指して方々に出兵している秀吉は家康一人に構ってられない
>>長久手のみに集中していればいい一地方大名にすぎない家康とは根本的に違うよね

史実で総兵力を集中させて対信雄戦に挑んだ秀吉を家康1人に構ってられないからとか
北条の変心や上杉景勝の川中島侵攻にほとんどの兵力を残しわずか8000しか連れてなかった家康が
小牧長久手に集中してたとか相変わらず妄想をデッチあげてるな。いい加減学習しろよクズ野朗
秀吉はhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/440-447
のように領国中の兵力総動員して短期決戦に臨んだが、秀吉の指揮采配能力があまりにもクズすぎたせいで
わずか16000の雑魚信雄・徳川勢に10000人殺された上に、その後の攻防でも下記のように膠着状態に陥ってる。
長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから

505 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:49:25.86 ID:icZ+qc5u.net
お前は本当に無知だな。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

506 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:49:46.42 ID:Lm7Rdlgb.net
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります

7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め

507 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:50:37.96 ID:Lm7Rdlgb.net
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

508 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:51:23.21 ID:JNQ1ONuU.net
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

509 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:52:19.82 ID:JNQ1ONuU.net
長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の
兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に
転進せざるをえなくなり不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で
手も足も出ず諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
北条徳川同盟が本格的に機能して北条軍徳川軍総力で対秀吉に臨めてたら確実に秀吉は戦死してただろうな。
135000の兵力があっても合計わずか16000程度の雑魚信雄に決戦で1万人ぶち殺される強さしか発揮できないレベルの指揮能力の秀吉なら
あと徳川北条の計40000が加われば確実に秀吉なんて討ち取れる。
開戦前から重臣がこぞって秀吉に人質を奪われていたために、あの会戦早々から領国が離反連鎖で崩壊状態の信雄ですら
松ノ木城・戸木城・浜田城・蟹江・前田・下市場・長久保・東駒野・二重掘・浜田城など秀吉に勝ちまくってたからね。
尾張でも石田毛利氏や毛利秀頼、松ノ木城近辺の諸将など会戦当初からあっさり信雄を見捨てててるのに
自力じゃ全くと言っていいほど秀吉は切り取れてないしな
確かに兵力の2乗=戦力だからね。
兵力が3倍程度に増えるなら、当然豊臣方の損害は史実の9倍の9万程度に増えるからな。
それこそ秀吉が討ち取られてていいレベルだろ。
そもそも南伊勢も美濃も尾張の一部、木曽谷まで会戦そうそう織田方から羽柴方に寝返ってるってて
残りの地域でしか戦闘は行われてないじゃん
領国から遥かに離れた戸木城も秀吉方は敗北
秀吉方本陣から近距離の松ノ木城でも秀吉方は敗北(4月〜6月頃は戦闘が確認でき、信雄方から何回も戦功を賞されてる)
二重掘合戦では信雄方に奇襲くらって楽田から敗走(4月下旬→5月上旬にかけて)
おまけに前田・下市場・浜田・蟹江・長久保あたりは秀吉方本陣の大垣・伊勢浜田などから近距離にある拠点なのに信雄方に奪回されてる

信雄や家康は降伏なんてしてない
一時講和停戦しただけ。翌年も家康なんか浜松会議で抗戦する気まんまんなくらいに軍議開いたり
北条との同盟強化や諸城普請、人質収集など会戦に備え、秀吉方も秋には着々と出兵計画進めていたが
直前の天正14年春になったら秀吉がビビッて織田信雄に取り成し仲介を必至に依頼して、おまけに母と妹を人質に出して
「ワシに従ってくれ〜」とばかり土下座してきたので余りにかわいそうになった家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と離反の連鎖で領国軍事機密露見&天正11年からの徳政連発で極度に疲弊してたのに
ビビリまくってたのが実態

510 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:53:52.30 ID:3ZR1nW34.net
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

511 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:54:39.58 ID:3ZR1nW34.net
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏信包といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、最も外様であろう池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力や采配能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな

512 :人間七七四年:2014/02/26(水) 11:56:23.56 ID:3ZR1nW34.net
>>秀吉は家康に潰すぞ潰すぞと圧力を掛けたんだよ。家康は潰されると思うわな
いつそんな事をしたのか史料で教えてくれ。
>>秀吉から臣従すれば、助けてやるよって言われたから
そんな事全く言ってない。
天正13年秋頃から冬にかけて秀吉は諸大名宛に翌春の出兵計画を書きまくって実際に重臣一柳にも具体的な経過を語っていたが
直前期になると秀吉はビビリまくって信雄を家康の元に送って必死に取り成しをお願いしたり母や妹を人質に出しだしてワシに従ってくれ〜とばかりに土下座したら
家康がやれやれとおもって仕方なく応じてやっただけ。

当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>潰されるよりマシかってことで臣従した
ガチンコの戦闘で勝ちまくってるのに潰されるわけねーだろクズw
だからこそ手詰まりになった秀吉が顕如や信雄に必死に土下座して仲介を依頼したり
母や妹を必死に土下座して差し出したんだし。
>>秀吉を潰せると家康が考えていたら、秀吉に臣従するわけないだろ。
秀吉を潰せるといつでも家康は考えていたが、家康は非常に慈悲深く寛容な性格だったからこそ秀吉は助かっただけ。
その証拠に一万人も直接対決でぶち殺された後、その後の攻防でも>>155-157のように苦戦しまくってるからな。
だからこそ秀吉は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄すら自力じゃ尾張半分も切り取れなかったんだし。
>>小牧長久手での中入りは秀吉が認めた策であることはわかるが、秀吉の策だと断定できる根拠はないね。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

513 :人間七七四年:2014/02/26(水) 12:01:03.64 ID:3ZR1nW34.net
>>家康は表向き懐柔されて秀吉に臣従したことになっている
家康は小牧長久手合戦で臣従なんてしてねーよ。
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。

514 :人間七七四年:2014/02/26(水) 12:02:29.23 ID:JNQ1ONuU.net
山中城なんてわずか3000そこそこが篭もった雑魚城に70000の大軍が一挙に攻め寄せたんだから持ち応えられるわけねーだろ
むしろそんな所ですら重臣一柳直末が戦死してるし駿河伊豆国境地帯の戦闘でも北条軍が勝利してる(北条から何枚も感状が出てる)

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子が戦死し、韮山500や忍城1000に大苦戦し
小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし
小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね

515 :人間七七四年:2014/02/26(水) 12:04:45.28 ID:FrsSmx7M.net
秀吉の小牧長久手の敗因が寄せ集めの大軍だからとか言い訳もいい所だな
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。

寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
池田がうっとうしかったとか相当馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵

丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。



池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている



さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している

516 :人間七七四年:2014/02/26(水) 12:07:25.61 ID:FrsSmx7M.net
清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

517 :人間七七四年:2014/02/26(水) 12:09:03.32 ID:FrsSmx7M.net
秀吉が実力で勝った戦なんてないよ。小田原合戦もほとんど徳川や上杉・真田・佐竹らが北条方の兵力が集中した下野・上野などの要衝を自力で落したのに対し
秀吉は24万もの規格外の兵力でもって500か1000しかいない韮山城や小田原城や忍城で醜態晒しまくってたからね。
結局わずか34000程度の北条に対し24万程度の瞬殺するに十分すぎる兵力で持って前田重臣や堀尾嫡男、一柳など重臣を悉く殺されまくって北条方の重臣が運よく戦意なし&伊達の帰参の影響などで
開城になっただけだし。
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな

518 :人間七七四年:2014/02/26(水) 12:09:43.96 ID:IKrebM77.net
一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし
最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
戦争において大軍である事は圧倒的なアドバンテージであって、それさえあれば
無条件に戦争での勝利が約束される物なのに「大軍ゆえに統率がとれなかった」「寡兵だから結束していた」
などと、会戦当初からの両軍の寝返り状況も無視して都合よく捏造をデッチあげる秀吉厨はガチで馬鹿だな。

519 :人間七七四年:2014/02/26(水) 13:15:18.58 ID:VpVhQor0.net
負け犬菅沼遼犬

520 :人間七七四年:2014/02/26(水) 14:56:49.47 ID:WSlZcY3d.net
三成は時代の被害者だよな
豊臣政権のために東奔西走したが、アホ毛利のヘタレ具合にいってせっかく作り上げた
豊臣正規軍の連合軍18万も一瞬で無に帰してしまった可愛そうな武将。
武功派が欲に目がくらみ過ぎたせいで、恩を受けた豊臣家への忠義を全て忘れて家康に篭絡されてしまったのも痛い

521 :人間七七四年:2014/02/26(水) 16:23:05.47 ID:VpVhQor0.net
負け犬がまた鳴いてる

522 :人間七七四年:2014/02/26(水) 17:05:00.15 ID:dmLQZ8jj.net
妄想アホ織田厨は
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386599462/546
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386599462/549-550
で完璧に論破され
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386599462/553
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386599462/554
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386599462/558
で完璧に論破されてる

なのに別の日になると別のスレッドで
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/193
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/197
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/188-189
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/221
で同じような妄想垂れ流して
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/191
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/199-204
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/219
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/222-223
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/227
で完璧に論破されてる

523 :人間七七四年:2014/02/26(水) 17:27:06.61 ID:n8Mg+qeS.net
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1390317350/
織田厨が過去に何十回も論破された同じ妄想

524 :人間七七四年:2014/02/26(水) 22:04:19.92 ID:BLoatXC2.net
ビギナーなんで、このスレ読んでたらワケが分からなくなるw
上の方で司馬さんの関ヶ原を読んで家康が嫌いになったというのがあったが、自分も同じw
まぁ、敗者に肩入れしてしまう素人感情が多分にあるだろうけど。
でも三成のことをもっと調べてみたくなった。
それまでは西軍(三成)=腰抜けのイメージしか持ってなかったから。

525 :人間七七四年:2014/02/26(水) 22:26:35.94 ID:n8Mg+qeS.net
三成は明への侵攻について
「先々は兵糧もなくその上寒空に向かっており途中の道筋も無人になり返すことすらできなくなる」
と明侵攻において途中での補給が難しいことを説明し、
まずは国郡で政務を行うように命じ、秀吉の意向に対して、反対して方針変更してしまうほどの男
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに反対し、強襲を意見するほど。
豊臣恩顧大名の書状を見ても、秀吉の絶対命令に対して、現場責任者としてちゃんと理を説いて反対意見を具申しているのは三成くらい。
これが秀吉の信用を得ていった理由だろう。
また筑前筑後の小早川領をやると言われた時には三成は反対し、
それらの領地を豊臣政権の財政基盤のため蔵入地にしてしまうなど、
当時の豊臣恩顧大名の領土欲とは正反対の志向を持っていた。

秀吉にも怒りを買うのを恐れず意見し、領土欲もない。
これが秀吉には唯々諾々と従い、強欲に領地を欲した武断派と相容れないところだったんだろう。

526 :人間七七四年:2014/02/26(水) 22:27:44.63 ID:kifZllEs.net
三成が統治していた地域にはかなり三成が発給した行政文書が残ってるんだよな。
よほど三成の統治は喜ばれていたからこそ大事に保管されてるんだろうな。
千石に1人の賦役とちゃんと決まってたし、それ以上が必要になった場合は飯米を給金して補償だし、
土地の耕作権は未来永劫、検地帳に書いた氏の者であり、奪われることがない保証もあるし、
百姓が迷惑することがあれば、取次は一切なく三成へ直接、訴訟できる目安による救済制度もある。
これほどよい領主はいないだろうね。

527 :人間七七四年:2014/02/27(木) 05:28:13.89 ID:jZRmgWBz.net
なるほど
つまり三成は豊臣家を滅ぼした不忠者だったわけか

528 :人間七七四年:2014/02/27(木) 10:50:04.68 ID:BXlZyF4U.net
>>525
戦というのは命がかかっているのだから作戦が絶対に正しいと皆に信じ込ませなければ勝てない
ところが忍城攻めでも朝鮮出兵でもそうだが三成という人間はすぐに作戦に対して文句を言う
こんな作戦は間違っている、俺の考えは違うなどと奉行が騒げば士気は低下し勝ち目はなくなる
これらの戦が失敗に終わったのは三成が素人考えで混乱を招いたせいであることは明白であり
足を引っ張られた武断派が三成を憎むのは当然の感情だろう
こういった騒ぎを起こしてきた三成が逆に関ヶ原では自分の立てた作戦を信じてもらえず
不安を感じた大半の西軍大名が内通や日和見を選択したのは因果応報と言うしかない

529 :人間七七四年:2014/02/27(木) 11:34:24.82 ID:WQk8sr9F.net
三成は負けて当然の不忠者だったが(己なりの大儀はあったろうが)、歴史を大局的に見ると魅力はあるな。
秀吉から北九州50万余石を素直に授かってたら、どういう業績を残せてたのか気になる。

530 :人間七七四年:2014/02/27(木) 18:27:45.35 ID:rpnBvWl8.net
負け犬菅沼遼犬

531 :人間七七四年:2014/02/27(木) 20:39:58.74 ID:4lumrJ59.net
アンチ豊臣政権の馬鹿朝鮮人
「三成は負けて当然の不忠者ニダ」

532 :人間七七四年:2014/02/28(金) 10:55:32.06 ID:HeERG32I.net
>>529
秀吉の子飼い家臣で50万石といったら他に秀家くらいしかいないが
秀家の場合は親父の代で成り上がっていたし秀吉の猶子になったという事情もある
そういった事情もなしで50万石はあまりにも破格すぎるんだよね
しかも三成が圧倒的で華々しい功績を挙げたわけでもないのに
朝鮮で死ぬ思いをしながら戦っている武将を無視するどころかそいつらの領地を使って
三成にだけ巨万の恩賞を出そうとすれば豊臣が崩壊するのも仕方がない
三成が嫌われたのは三成個人の人格もあるのかもしれないが
秀吉が度を越して三成を贔屓し過ぎたのが最大の原因だろう

533 :人間七七四年:2014/02/28(金) 12:08:50.00 ID:rxvaKHRC.net
目先の欲に目がくらんで主家を見捨てる武功派連中や、政権簒奪の奸臣家康の示威行動にビビリまくって
即効で土下座する前田や浅野などと違って、豊臣政権に忠義を尽くした無欲な三成や小西らに大封与えてればよかっただけ。
三成は島津家の蔵入り地問題や、家康の私婚問題に対する弾劾状や、朝鮮出兵の際の恩賞問題の処理などを見る限り
極力豊臣蔵入り地の確保と、諸大名の力を削ぐ事を中心に考えて一貫して行動している。
結局武功派が馬鹿だったから、個人的恨みでもって三成らに立てついて主家への恩義を忘れて家康に篭絡されて、主家を滅ぼしただけ。

534 :人間七七四年:2014/02/28(金) 12:24:12.89 ID:rxvaKHRC.net
豊臣の位攻めを全身で支えてきたのは三成や小西らのおかげ。
豊臣軍が戦争できたのは奉行衆らの兵站管理能力のおかげ。
それを考えると100万石やっても十分すぎる。
ほとんど功積のない福島加藤黒田とか雑魚武将にやるくらいなら
三成に数百万石やったほうが遥かにマシ

535 :人間七七四年:2014/02/28(金) 12:26:28.94 ID:WRKFLRms.net
西軍なんて三成が考えてた作戦通り戦ってたら100%勝ってたのに
三成ら奉行衆らの早期での三河・遠州方面への侵攻作戦をアホ輝元が無視し続けて
東軍が三河を越えて尾張までやってきても、輝元は奉行衆らからの防衛要請を無視し続け
結局大破されただけ。総大将がここまでアホでは黒田だろうが石田だろうが、現場指揮官が誰でも勝てるわけがない。
むしろ石田は畿内だけで18万もかき集めて家康に決戦しかけるなどかなりよく頑張ったしな

536 :人間七七四年:2014/02/28(金) 12:28:37.03 ID:VRa2wLJ4.net
福島黒田藤堂らは戦闘が専門の武断派なのにもかかわらず、
戦闘が専門外の奉行の石田や小西や大谷らに翻弄されまくるアホっぷりだしなぁ
元々石田らは家康派だったのが、家康が西軍に喧嘩売りまくってたから、
都合よく利害が一致したおかげで恩を受けた豊臣家への忠心を忘れて
憎しみに凝り固まってた武功派は、たまたま運よく家康の元に参じる事ができ、
家康が毛利や小早川らを調略してくれたおかげで、自力では歯が立たなかった西軍奉行衆になんとか勝てただけ。
悉く棚ボタ金魚の糞大名なのが豊臣武功派連中。

537 :人間七七四年:2014/02/28(金) 13:02:50.72 ID:Fe+LSTZq.net
実際、清正とか武功無いのに肥後半国貰えてるからな。
賤ヶ岳の戦い直後に加増されてるから、
賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた結果と解釈されてるが、
それ以外で武功を挙げたと思われるケースは全く無い。
ただ単に秀吉と同じ尾張中村出身だから厚遇されて肥後半国貰えただけ。

538 :人間七七四年:2014/02/28(金) 15:39:05.95 ID:ox7w7D7V.net
負け犬菅沼遼犬

539 :人間七七四年:2014/02/28(金) 20:46:04.67 ID:WJmniT3D.net
清正の率いた兵力

対信雄と家康では150人

九州出兵では170人

朝鮮出兵では清正1万人+鍋島1万2000人+相良800人を率いる。

あきらかに武断派は身分不相応な出世で増長して狂った結果が、
利家死去直後の失脚中家康に教唆されての武断派のクーデターである私戦禁止令無視。

540 :人間七七四年:2014/03/01(土) 08:03:31.65 ID:FuyCfnUu.net
武断派は強欲過ぎて、家康の天下取りを結果的に支援してしまった。
成り上がり武断派には先を見通す先見性や政戦略が無く、
盲目的に我意に任せて領地を欲して、
豊臣公儀を蔑ろにした。

541 :人間七七四年:2014/03/01(土) 12:15:31.82 ID:fo9NGuQp.net
文治派は強欲過ぎて、家康の天下取りを結果的に支援してしまった。
成り上がり文治派には先を見通す先見性や政戦略が無く、
盲目的に我意に任せて関白を粛清したり朝鮮で偽講和を企てたりして、
豊臣公儀を蔑ろにした。
武断派は奸臣が豊臣公儀を破壊し続けることに耐えられず
義憤に駆られて奸臣に天誅を加えたに過ぎない
文治派が粛清や謀略を企てなければ家康が天下を取ることは不可能だったのは明らかであり
豊臣崩壊の原因は全て権力欲の赴くままに暴走した文治派にある

542 :人間七七四年:2014/03/02(日) 11:27:03.45 ID:umHBGT5S.net
>>534
豊臣が朝鮮のような不毛な場所でも何年も戦が出来たのは
武断派が勇敢に戦い必死に士気を繋ぎとめていたおかげ
奉行衆らの兵站管理能力など豊臣の莫大な資金力を貰えば子供できるお使いでしかない
資金力を与えた秀吉が凄いのであって奉行衆などお使いに行く幼稚園児程度の価値しかない
その証拠に武断派のいない西軍はまるで抜け殻のように士気がなく
文治派が武断派の真似をして勇ましい態度を取っても大半の大名は逆に白けてやる気をなくすばかりだった
武断派を厚遇せずに文治派に石高を与えたことは豊臣が犯した最大の過ちだろう
ほとんど功積のない石田・小西・宇喜多とか雑魚武将にやるくらいなら
加藤・福島に数百万石やったほうが遥かにマシ

543 :人間七七四年:2014/03/02(日) 12:02:59.33 ID:54DTe7yI.net
福島黒田藤堂らは戦闘が専門の武断派なのにもかかわらず、
戦闘が専門外の奉行の石田や小西や大谷らに翻弄されまくるアホっぷりだしなぁ
元々石田らは家康派だったのが、家康が西軍に喧嘩売りまくってたから、
都合よく利害が一致したおかげで恩を受けた豊臣家への忠心を忘れて
憎しみに凝り固まってた武功派は、たまたま運よく家康の元に参じる事ができ、
家康が毛利や小早川らを調略してくれたおかげで、自力では歯が立たなかった西軍奉行衆になんとか勝てただけ。
悉く棚ボタ金魚の糞大名なのが豊臣武功派連中。

544 :人間七七四年:2014/03/02(日) 12:05:22.49 ID:YmUYAayN.net
武断派とかいわれても実際の具体的戦功や功積なんて皆無だからな
朝鮮半島で主に活躍してたのって小西宇喜多立花あたりで加藤とか福島とか悉く何もやってないし

545 :人間七七四年:2014/03/02(日) 12:07:10.46 ID:NzaCD0Ft.net
菅沼遼太は厚顔無恥だなw

546 :人間七七四年:2014/03/02(日) 12:07:19.49 ID:zbY8DczF.net
当時の日本軍の北上はうまく行き過ぎて楽観論で支配されていた
蔵に食料がたんまりあり、兵糧にこれほど困らない戦いはいままで無かったなどと言われるほど。
だけれどそれは現地の蔵にあるものを没収していたからで、
三成は日本との兵站線から先々は補給が厳しくなることを見通して朝鮮統治に力を割くようにしようとしていた。

そこに明軍が襲来である。
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。

547 :人間七七四年:2014/03/03(月) 12:13:25.96 ID:cmysIGmj.net
三成が後退の叱責を一人でかぶった時に三成を処刑していれば豊臣の天下は安泰だったのに
ここで三成を処刑できなかったばかりに三成の暴走はエスカレートしていき
関白一族を虐殺したり筆頭大老の命を狙いだしたり制御がきかなくなった
豊臣は政権を長期存続させる最大のチャンスを逃してしまったな

548 :人間七七四年:2014/03/04(火) 10:53:37.60 ID:wegifb+3.net
>>543
文治派はなんとしても豊臣を乗っ取り権力を手中に収めようと激しい野心を燃やしていたのに対し
武断派は権力なんていらないという無私の心で戦っていたから不利は仕方がないだろう
とはいえ文治派のあまりの野心の強さは西軍の中でも完全に浮いた存在となり
大半の西軍大名が辟易して関ヶ原で文治派を孤立させる原因にもなったから
文治派にとって権力欲に駆られた野心は諸刃の剣でもある

549 :人間七七四年:2014/03/05(水) 13:52:56.59 ID:VeTXGH7G.net
文治派って何が文治派なんだろ
三成も宇喜多も全然文治派じゃねえじゃん
むしろ武力で全てのカタをつける武断派だろ

550 :人間七七四年:2014/03/06(木) 11:14:40.49 ID:Sjl7GSuW.net
>>546
本当に三成は戦というものを理解していない人間なんだな
補給の厳しさなんて秀吉に向かって主張すべきであって現場に向かって騒いだら兵に不安を与えるだけ
ただでさえ異国に赴いた兵には不安がいっぱいなのに三成がそれを煽って動揺を広げている
これでは軍の士気が崩壊し戦闘不能になる危険性が高くなるんだよ
朝鮮出兵が失敗したのは三成が起こした騒ぎのせいであり現場の大名が三成を嫌ったのは当然だろう
それでも朝鮮では小早川隆景や立花宗茂が踏ん張ってなんとか乗り切ったが
そのせいで反省しなかった三成は数年後にも大垣城を捨てて関ヶ原に後退し迎え撃つことを主張したが
こうなってはもう朝鮮の時のような踏ん張ってくれる人材も存在せず
西軍の士気は崩壊し三成のせいで2/3以上の兵が戦闘不能に陥った

551 :人間七七四年:2014/03/07(金) 21:04:57.09 ID:EJDd4eBD.net
>>550
全軍が集まるのを待たずに秀家が関ヶ原に着くと同時に戦闘を初めてしまえばよかったのにね
実際、大軍の宇喜多と石田と島津の兵力だけで相当な戦が可能だった
東軍も所詮は烏合の衆で家康が江戸に居て誰が指揮権を持ってるわけでもないので
一度負けてしまえばあっさり瓦解する可能性は十分ありえた。

552 :人間七七四年:2014/03/07(金) 21:39:14.34 ID:2eEqkp2e.net
西軍なんて三成が考えてた作戦通り戦ってたら100%勝ってたのに
三成ら奉行衆らの早期での三河・遠州方面への侵攻作戦をアホ輝元が無視し続けて
東軍が三河を越えて尾張までやってきても、輝元は奉行衆らからの防衛要請を無視し続け
結局大破されただけ。総大将がここまでアホでは黒田だろうが石田だろうが、現場指揮官が誰でも勝てるわけがない。
むしろ石田は畿内だけで18万もかき集めて家康に決戦しかけるなどかなりよく頑張ったしな

553 :人間七七四年:2014/03/07(金) 23:28:49.49 ID:PpZAWpP4.net
菅沼遼太は壊れたレコードやねぇ

554 :人間七七四年:2014/03/08(土) 01:48:50.36 ID:8vbPAS4A.net
>>12
されてんだろハゲ

555 :人間七七四年:2014/03/08(土) 06:48:46.51 ID:g6Nb7cic.net
三成が宇喜多、石田、島津勢だけで東軍を蹴散らした場合
東軍諸将は清州城で一旦、軍勢を立て直して家康の来訪まで持ちこたえるから
どうせ二度手間で無駄だと三成は思ったかもしれないけど
そうなれば小早川、吉川勢の裏切りは無いし東軍は東山道・東海道に軍勢を分けれないし
道は渋滞し兵糧の分配すら滞る。
どう考えても西軍有利に傾くのに三成ってアホなんかな?

556 :人間七七四年:2014/03/08(土) 11:14:15.90 ID:NTnaj+f5.net
何故蹴散らせたと脳天気に考えるのか

557 :人間七七四年:2014/03/08(土) 11:57:27.63 ID:ePvV2pGu.net
>>552
西軍にとって最も重要なことはこの戦が三成たちの権力欲を満たすためのものではないと証明することだろ
だからこそ毛利が大将となり書状にも三成の署名を付けない等の細心の注意を払っていたのに
三成たちは勝手に侵攻作戦を決めたり毛利に向かって自分の要請をゴリ押ししたり
これでは西軍が三成たちの権力欲を満たすために存在していると宣伝しているようなもの
自分達の努力を水の泡にされた毛利がサジを投げるのは当たり前だし
ほとんどの西軍大名も三成の私欲のための戦では戦意喪失するに決まっている
関ヶ原で西軍の大半が戦わなかったのは必然の結果であり責任は全て三成側にある
三成が作戦を考えたこと自体が西軍の敗因なんだよ

558 :人間七七四年:2014/03/11(火) 04:37:43.28 ID:gSdG7wyT.net
治部、近う!

559 :人間七七四年:2014/03/13(木) 11:57:55.04 ID:pDV8IQCf.net
俺は戦に負けて首を落とされてもいいと思うよ、あのとき三成だけは家康に立ち向かった、その心意気は男だと思うよ。

560 :人間七七四年:2014/03/14(金) 23:46:47.08 ID:Tr6Mbomd.net
軍というのは全員が立ち向かう心意気を持たなければいけないわけで
三成とごく一部の親しい友達だけが立ち向かう心意気を持っても意味がないんだよ
逆に言えば全員に立ち向かう心意気を持たせる器量がない三成は戦をするべきではなった

561 :人間七七四年:2014/03/15(土) 11:00:36.52 ID:lJMST8gg.net
理研軍も山梨ハゲが裏切らなければ小保方女将が天下を獲れたのにな

562 :人間七七四年:2014/03/18(火) 21:18:56.52 ID:dok1irVa.net
大河ドラマ 石田三成トーナメント
         ┌───── 近藤正臣(黄金の日日)
     ┌─┤  ┌─┬─ 真田広之(秀吉)
     │  └─┤  └─ 江守徹(葵 徳川家康)
    │      │  ┌─ 原田龍二(利家とまつ)
 優勝┤      └─┴─ 伊武雅刀(春日局)
     │      ┌─┬─ 小栗旬(天地人)
     │      │  └─ 宅麻伸(おんな太閤記)
     │  ┌─┤  ┌─ 奥田瑛二(独眼竜政宗)
     └─┤  └─┴─ 中村橋之助(功名が辻)
         └───── 鹿賀丈史(徳川家康)

563 :人間七七四年:2014/04/03(木) 09:40:42.73 ID:MLPprOJK.net
>>560
家康も同じようなもんだったと思う。
東西両軍の諸将は、総大将の才覚や器量といったもんとは関係ないとこで、頑張るヤツは頑張ったりしてた。

564 :人間七七四年:2014/04/13(日) 22:32:32.93 ID:8o6afvkW.net
>>560
三成も一連の挙兵で落としどころをどの辺に見てたんだろうね。
家格の扱いを上げる程度が狙いだったんなら岐阜城落とされたあたりで手打ちも考えとかないと不味いじゃん。
実際毛利はあの前後で露骨にやる気なくなってるし。

全盛期の秀吉本人でも無理だったのに自分ごときで徳川を潰せるとか思い上がっちゃったのかなぁ。
三成がそんな間抜けだったとは思えないのだが

565 :人間七七四年:2014/04/17(木) 18:07:04.53 ID:il+s3mYm.net
○毛利輝元が火事場泥棒を中心に見据えていたというのは根拠がない
輝元が家康と戦う気がないならはじめから西軍総大将になんてなるわけないし
伊勢湾、伊勢方面に兵送ったり関が原に秀元広家の大軍送り込むわけもない
つうか仮にお前のいうように自領域拡大が目的なら
関が原本戦に勝利すれば西軍総大将として最も領域も権限も増すし逆に総大将なのに負ければ最も不利な立場になるなんて幼稚園児でもわかる事

○毛利輝元は馬鹿なのは以下の通り史実での実績がちゃんとある
・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する

こんな馬鹿が西軍総大将なのが三成の運のつき
関が原の輝元の目標が自領域拡大であった場合→西軍総大将で本戦に負ければ自領域拡大も糞もなく逆に本戦に勝てば最大限に自領域は拡大
するのにそんな事もわからず援軍要請無視、大阪篭城、伊勢湾やら四国やらに兵分散させまくり18万もいる西軍を見事崩壊させた馬鹿
輝元の目標が西軍の大勝・家康妥当であった場合(関が原に大軍送ったり自分も総大将になった事からこちらの可能性のが高い)
→伊勢湾や四国に兵分散させまくり伊勢方面軍を編成しながら実際には伊勢には中途半端な兵を残したのみで攻められないなど無意味な戦略行動をし
美濃口が攻められた時も三成らからの援軍要請を無視しまくって美濃を突破され
関が原本戦だというのに総大将の自分はなぜか大阪に居座り秀元らに命令出せず見事毛利軍は役に立たず大敗

どちらにしても毛利がクズなのは間違いないな

566 :人間七七四年:2014/04/17(木) 18:08:23.42 ID:Q54WeHZC.net
菅沼遼太バカ

567 :人間七七四年:2014/04/17(木) 21:59:31.44 ID:w6YYM4Pn.net
佐吉LOVE

568 :人間七七四年:2014/04/17(木) 22:57:10.50 ID:ycQsnhpa.net
マジに言うと、毛利と自分達の温度差をフォローできなかったのが痛恨のミスですな。
三成はここで失敗したら徳川の天下=取り立ててくれた元主君の遺命が果たせない!となるから必死だが
毛利はそこまでしたい訳じゃない、最悪生き残れれば秀頼がどうなろうと知ったことではなかった。
まぁそれでもあの時点では毛利しか担ぐ御輿がなかったから仕方ないんだけどね

569 :人間七七四年:2014/04/18(金) 01:14:23.58 ID:nFvESUFt.net
三成が叩かれるべきところは物事を自分中心で考えてるところだな
本来なら家康打倒をするなら豊臣恩顧の大名に事前に相談するなるしてから挙兵すべきところを
自分で指図がしたいから後から参加させるような形で決起してるから豊臣恩顧の大名に無視されてる
関ヶ原本戦も自分たちだけで考えた作戦で勝ちたいから自ら望んで総大将にした毛利家でさえも相談せずに
無断で決戦に及んでるから結果大名たちから信頼されずに大敗している

570 :人間七七四年:2014/04/18(金) 04:21:25.89 ID:M5hoTo0Y.net
>>569
クーデターというのは事前に漏れると失敗するんだよ
頭が悪いのか

571 :人間七七四年:2014/04/18(金) 09:36:06.28 ID:3S1SFhYD.net
○毛利輝元が火事場泥棒を中心に見据えていたというのは根拠がない
輝元が家康と戦う気がないならはじめから西軍総大将になんてなるわけないし
伊勢湾、伊勢方面に兵送ったり関が原に秀元広家の大軍送り込むわけもない
つうか仮にお前のいうように自領域拡大が目的なら
関が原本戦に勝利すれば西軍総大将として最も領域も権限も増すし逆に総大将なのに負ければ最も不利な立場になるなんて幼稚園児でもわかる事

○毛利輝元は馬鹿なのは以下の通り史実での実績がちゃんとある
・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する

572 :人間七七四年:2014/04/18(金) 09:37:26.86 ID:aiAjfSFq.net
西軍に加担したのは家康の無理矢理なやり方に異を唱えた上杉・毛利・宇喜多・島津・長宗我部をはじめとして
畿内方面だけで18万も集まってる
そもそも豊臣政権の恩などなく、はじめから豊臣をぶっ壊す気なら一々西軍決起など行う必要ないし
まず目の前の強大な敵を倒さないことには自領拡大も糞もあったもんじゃなく
負ければ滅ぼされるか大厳封くらうかするだけで、勝てばそれだけ勢力拡張する可能性は飛躍的にふえるわけで。
それは両陣営にいえることだし特に毛利は西軍総大将なので、本戦の家康との勝ち負けは毛利の勢力増減に絶大な影響を及ぼすなんて
馬鹿でもわかるし実際負けた事で改易されそうになってたし

毛利も総大将なんだから普通に本戦に負ければ史実のごとく改易されそうになる危険はらんでるのは馬鹿でもわかるはずなのに
それが理解できず大敗したのがアホ輝元

573 :人間七七四年:2014/04/18(金) 09:50:23.13 ID:I7HaBVnV.net
西軍に組み込まれた大名の大半は会津征伐に参加するため家康の下に向かっていただけであり
別に家康のやり方に不満を持っていたわけでもなんでもなかった
ただ従わないと妻子を殺すぞと脅迫されたから表面上は従うふりをしながら
裏で東軍に内通できる可能性を探りながら東軍との全面的な対決を回避したがっていた
さらに進軍を始めると石高も戦経験も乏しい三成ら文治派が指図をするようになり
もはや豊臣のためでもなんでもない文治派の権力欲を満たすための私戦であることが明白になった
だからこそ西軍大名のほとんどは関ヶ原で戦うことを拒否したわけ
単に東軍が怖いとかではなく三成の政権返り咲きのための私兵には成り下がらないという明確なメッセージであり
多くの西軍大名の毅然とした高潔な態度が三成の汚らわしい野心を打ち砕いたと言える

574 :人間七七四年:2014/04/18(金) 10:33:04.90 ID:UN2vBRaF.net
三成なんてただの現場の一司令官で、輝元が戦場に出てこなかったから
仕方なく代理で努めただけだろ。

575 :人間七七四年:2014/04/18(金) 12:05:35.93 ID:9bWUlNKS.net
そもそも三成が勝手に戦とか言ってるが、
宇喜多秀家や島津義弘や小西や秋月や相良や高橋らも一緒にいて、
清華成の秀家が一番発言力を持っていたんだから、
奉行失脚してた三成なんてほとんど発言力無いわ。

576 :人間七七四年:2014/04/18(金) 12:07:58.80 ID:K/+6rBAx.net
三成ら西軍諸侯は輝元に援軍要請している(8/29保科正光→黒河内長三、9/12石田三成→増田)
が輝元は無視して伊勢湾やら四国やらに軍向けるばかり
また、美濃攻防時三成は織田秀信救援軍として美濃河渡において東軍と戦っているが数が足りず、敗れている
このときも毛利の大軍の後詰が素直に行われていれば簡単に撃退できたはずだが輝元は大阪から足を動かさず
伊勢湾に軍船送って荒らしまわるだけ。
はっきりいって奉行衆がどんな名将でも総大将がここまでのクズだとどんな軍でも勝ちようがない
西軍の中核は毛利軍や小早川軍など毛利一族の軍であり
こいつらが全く使い物にならない以上、西軍に勝つ事なんて無理で三成の能力どうこうの問題ではない

577 :人間七七四年:2014/04/18(金) 12:55:07.49 ID:91EHgzCn.net
テンプレ貼り付けるその都度に輝元出馬は家康が上洛してからと指摘しているのに、このアホは

578 :人間七七四年:2014/04/18(金) 13:48:47.85 ID:Bzg1frzj.net
輝元出馬が家康上洛後?
なんかの妄想?

579 :人間七七四年:2014/04/18(金) 13:52:13.26 ID:PuAsvtc6.net
島津庄内の乱
宇喜多家内紛の処理
毛利家分封問題
小西の九州取次の取り上げ
これが輝元、秀家、義弘、小西らが家康にキレて挙兵した動機だよなあ。
家康は自分以外の大名の弱体化を謀っていた。

580 :人間七七四年:2014/04/18(金) 13:55:42.14 ID:PuAsvtc6.net
総大将になるなら東軍総大将家康との対決は避けられず
避けようとすると西軍は巨大な戦力と総大将不在で士気や結束力に重大な影響が出る
瀬戸内の権益どうこうは総大将になって家康を叩き潰せばどうにでもなるし自領も最大限に広がる
逆に総大将になりながら家康との対決に敗れれば戦犯として厳しく処罰される(改易になりそうなところ吉川の懇願で大減封で免れただけ)
よって総大将になったからには家康との対決を積極的に考えていた証拠。現に中途半端に秀元勢送ったりしてるし 輝元は相当な馬鹿

三成は8月初旬に真田や佐竹に宛ててるように三河方面の侵攻計画を考え毛利軍もこれに加えて家康方に対して先手を打って侵攻しようとしてたが
毛利がこれを無視して兵を出さなかったため結局水の泡に帰してる
毛利輝元の戦略は東軍諸将、家康との対決などとは関係なく場当たり的に兵を送って手薄そうな所を攻めてるだけ。
現に家康到着後の9/12ですら伊勢湾で暴れまわって首注文が大量に届けられてる

581 :人間七七四年:2014/04/18(金) 13:57:00.19 ID:lhR7TjXG.net
毛利なしの西軍→寡兵すぎて徳川先鋒隊との戦いにも敗戦し美濃を奪い取られる
徳川先鋒隊に家康本軍が加わった軍勢→毛利勢の大軍なしに持ちこたえられるわけがない
輝元→西軍総大将なので負けた場合の主戦犯。勝った場合最も利益を受けられる
よって東軍を西軍の戦力集中させて壊滅させるのが最もローリスクハイリターンで
毛利がやったみたいな西軍の戦力バラけさせて東軍によって壊滅させられるのが最もハイリスクローリターン
こんな戦力の集中による敵本軍の壊滅なんて戦略の初歩すらわかってないのはお前と輝元みたいな馬鹿だけ

582 :人間七七四年:2014/04/18(金) 16:26:39.36 ID:91EHgzCn.net
>>578
三成書状に家康が浜松まで上洛したら輝元出陣とかいてある

583 :人間七七四年:2014/04/18(金) 18:59:42.36 ID:K/+6rBAx.net
実際に総大将の輝元が家康上洛後も全く動く気配がなく
伊勢湾や伊勢や四国でのアホ行動を続けてるだけだったし

584 :人間七七四年:2014/04/18(金) 19:03:41.80 ID:LluZmCUv.net
8/10三成→佐竹義宣、真田昌幸書状などから三成は毛利勢を加えた軍勢で三河や遠江方面の侵攻を考えていた事がわかるし
輝元ら毛利軍が三河遠江に働く事肝要とか言ってる
だが実際には毛利勢の馬鹿な行動によりなされることなく終り逆に美濃口を攻め取られる結果に終わっている
後徳川軍の尾張方面への出兵は西軍方も情報を得ている(8/18戸川→明石、8/19明石→戸川、8/19島津義弘→忠恒、8/20島津義弘→本田正親、8/22有馬則頼→秋田実季
8/22佐々正孝→秋田実季)9/12吉川→祖式でも家康の尾張犬山からの進軍を把握しているのがわかるし9/12三成→増田書状でもわかる
から毛利は動きを把握できなかったのではなく把握した上で関係ない方向に軍進めまくって本戦に大敗している
それに対応した三成は伊勢方面から尾張に転進している(8/27時慶記など)がこのときも毛利勢は相変わらず軍を出さず
的外れな方向にばかり戦力を分散させ、西軍大敗の主要因を作っている

585 :人間七七四年:2014/04/18(金) 19:04:31.14 ID:Kt+rF9Hy.net
三成ら西軍諸侯は輝元に援軍要請している(8/29保科正光→黒河内長三、9/12石田三成→増田)
が輝元は無視して伊勢湾やら四国やらに軍向けるばかり
また、美濃攻防時三成は織田秀信救援軍として美濃河渡において東軍と戦っているが数が足りず、敗れている
このときも毛利の大軍の後詰が素直に行われていれば簡単に撃退できたはずだが輝元は大阪から足を動かさず
伊勢湾に軍船送って荒らしまわるだけ。
はっきりいって奉行衆がどんな名将でも総大将がここまでのクズだとどんな軍でも勝ちようがない
西軍の中核は毛利軍や小早川軍など毛利一族の軍であり
こいつらが全く使い物にならない以上、西軍に勝つ事なんて無理で三成の能力どうこうの問題ではない

586 :人間七七四年:2014/04/18(金) 19:05:17.41 ID:Kt+rF9Hy.net
7/26前田・増田・長束→中川秀成(中川家文書)で7/26時点で西軍は家康主導軍は
東国から西上することを想定していた事が読み取れ、それを近江国内の瀬田・守山の間に展開する毛利輝元の軍20000で
迎撃する構想たててた事がわかる。また宇喜多・小早川も山城国内の醍醐・山科、近江国内の大津に引き続き陣取りしている
状況を報じているので、毛利・宇喜多・小早川の軍事力が家康主導軍を迎撃する主力戦力であったことがわかる。
さらに8/6時点でも尾張・三河の間で家康主導軍を討ち取る想定を石田三成は記しているので(8/6三成→真田)この段階でも西上する家康主導軍を迎撃する構想は
変わっていなかったことがわかる。
8/5三成→真田 三成は秀信と相談してまず尾張方面に兵を出し福島を説得すると報じている
福島説得成功した場合、三河方面に進出する予定であり、説得に失敗した場合は清洲・伊勢方面を一所にして軍事行動をおこなう予定である
事を報じている

587 :人間七七四年:2014/04/18(金) 19:05:59.73 ID:tF0ZnBmE.net
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。

588 :人間七七四年:2014/04/18(金) 19:07:24.86 ID:aLcaAtY2.net
伊勢長島を通らないで美濃方面から尾張→三河と侵攻する石田のルートの方が合理的だわな
伊勢はどうせ切り取れないんだし長島は地勢的に攻めづらいんだからそんなとこ無視すりゃいいだけで
中途半端に兵分散させる意味はない

589 :人間七七四年:2014/04/18(金) 19:40:20.98 ID:Q1nlQ/On.net
ゴミ菅沼遼太

590 :人間七七四年:2014/04/18(金) 22:52:29.32 ID:l1gr8/2Y.net
だれそれ

591 :人間七七四年:2014/04/18(金) 22:58:08.16 ID:I7HaBVnV.net
>>580
別に大将になったからといって徳川と全面決戦しなければならないわけではない
西日本の勢力圏を強化して対等に講和を結ぶことにより2頭体制を確立し
例えるなら米ソ冷戦のような構図に持ち込めばいいだけ
ところが石田や宇喜多が権力欲しさに暴走し上記の例えで言うなら第3次世界大戦を本気でやろうとした
もしも毛利と徳川が全面戦争を繰り広げれば応仁の乱を超える大混乱が起きて大変なことになる
正気を失った石田や宇喜多を抱えてしまった以上は日本を守るため毛利の方が折れざるをえなかった

592 :人間七七四年:2014/04/19(土) 00:15:33.13 ID:D9JXkVQN.net
毛利が講和とかアホだろ。
そんなことやってる気配はまったくないし毛利は首謀者として挙兵後
伊勢湾だの伊勢だの四国だの的外れな方向に兵すすめまくって大敗しただけじゃん。

593 :人間七七四年:2014/04/19(土) 01:00:06.96 ID:F0AoPn9t.net
>>591
じっさい、関ヶ原で石田と宇喜多が負けちゃった以上もはや毛利に出来る手立ては
・秀頼を前面に押し出しつつ籠城して殺す殺す詐欺
・全力で徳川に土下座する

このどっちかしかない。
前者は下手すると朝敵認定されて毛利一門フルボッコの可能性もあるし、とても出来ないでしょ。
これで後者を選ぶのも仕方あるまい、他人のケンカに付き合わされてる身なんだし。

594 :人間七七四年:2014/04/19(土) 07:28:31.47 ID:jpppF+EB.net
だったら三成らの戦略どおり速攻で美濃口→尾張→三河と東上して徳川方と決戦すりゃいいだけだろうが。
西軍の中核は毛利軍なんだから
毛利軍が史実のように全くの役にも立たなかったら石田や小西らがどんながんばろうが
勝利なんて不可能だわ。石田や小西なんて数千そこそこしか軍勢持ってないし
それを見越して奉行集らは輝元を必死に戦場に引きずり出そうとしてたが、輝元があまりにもアホすぎて大阪にひきこもり。
他の毛利一族も全くの役に立たなかったんだしこんなクズが西軍の中核だったのが、西軍の不運。

595 :人間七七四年:2014/04/19(土) 07:30:54.31 ID:FsdUpvAh.net
三成や小西らが、関が原の毛利一族くらい巨大な軍勢持ってたら100パーセント西軍は勝ってたのに。
速攻で三河や遠州に8万の大軍で攻め込めば、徳川方の東海道の部将は一斉に離反するか日和見状態になるし
美濃口での離反も防げるから圧勝できるのは目に見えてる
毛利なんて2万石程度与えれば十分だろ。

596 :人間七七四年:2014/04/19(土) 09:49:40.59 ID:/bxOPM6U.net
毛利が首謀者として積極的に挙兵したと白峰も光成も書いてるのに
東軍総大将の家康と決戦が避けられるわけねーだろ

597 :人間七七四年:2014/04/19(土) 09:51:14.36 ID:eYMBFHUr.net
毛利ってほとんど空白地に近い四国の火事場泥棒すら失敗してるからな
おまけに伊勢の攻防でも大量の戦死者を出してる。
結局、戦が弱すぎて大敗しただけでしょ。

598 :人間七七四年:2014/04/19(土) 11:08:58.84 ID:uaUFOe6A.net
>>596
別に総大将だから家康と決戦しなければいけないわけではない
戦というのは規模が大きくなれば逆に交渉・講和が重要になる
全面戦争で両者共倒れになれば何の得にもならないばかりか
無政府状態になって戦国乱世に逆戻りしかねないからな
西軍は西日本の基盤を固めながら勢力を見せ付けて東軍と講和に持ち込めばいいだけ
東軍も西軍の全軍撃破など不可能であることは理解していたから講和のチャンスは大きかった
ところが石田や宇喜多といった連中が一刻も早く自分の手で権力を掴みたいと私欲に取り付かれ
勝手に突出して敗北したために西軍に講和のチャンスがなくなった
外交も理解できず権力欲に支配されて暴走するお荷物連中を抱えた時点で西軍に勝つ可能性はなかった

599 :人間七七四年:2014/04/19(土) 11:36:52.77 ID:83hzlisL.net
毛利が講和やってる気配はまったくないし毛利は首謀者として挙兵後
伊勢湾だの伊勢だの四国だの的外れな方向に兵すすめまくって大敗しただけじゃん。

600 :人間七七四年:2014/04/20(日) 12:20:29.08 ID:4TkySNYx.net
戦経験もたいしたことがない石田や宇喜多が自分には戦の才能があると思い上がり
毛利の戦略を的外れだと非難して自分の思い付きを実行させようとしたのが西軍の敗因だな
西軍諸大名からすれば素人の思い付きを強制させられたら士気がなくなり東軍に内通したがるのは当たり前だろう
毛利にしても素人に暴走されたら大将としての立場がなくなり家臣から不満が出てきて石田や宇喜多に協力できなくなる
石田や宇喜多は自分の才能のなさを自覚して大将たる毛利に絶対服従するべきだった

601 :人間七七四年:2014/04/20(日) 12:51:21.94 ID:MCPuEhWG.net
西軍なんて三成が考えてた作戦通り戦ってたら100%勝ってたのに
三成ら奉行衆らの早期での三河・遠州方面への侵攻作戦をアホ輝元が無視し続けて
東軍が三河を越えて尾張までやってきても、輝元は奉行衆らからの防衛要請を無視し続け
結局大破されただけ。総大将がここまでアホでは黒田だろうが石田だろうが、現場指揮官が誰でも勝てるわけがない。
むしろ石田は畿内だけで18万もかき集めて家康に決戦しかけるなどかなりよく頑張ったしな

602 :人間七七四年:2014/04/20(日) 12:53:13.60 ID:MCPuEhWG.net
指揮官としてのセンスがないのは毛利やアホ武功派諸侯だろ。
毛利は四国での居留守泥棒すら失敗してるし伊勢での諸城攻防でもかなり被害出してる。

福島黒田藤堂らは戦闘が専門の武断派なのにもかかわらず、
戦闘が専門外の奉行の石田や小西や大谷らに翻弄されまくるアホっぷり。
元々石田らは家康派だったのが、家康が西軍に喧嘩売りまくってたから、
都合よく利害が一致したおかげで恩を受けた豊臣家への忠心を忘れて
憎しみに凝り固まってた武功派は、たまたま運よく家康の元に参じる事ができ、
家康が毛利や小早川らを調略してくれたおかげで、自力では歯が立たなかった西軍奉行衆になんとか勝てただけ。
悉く棚ボタ金魚の糞大名なのが豊臣武功派連中。

603 :人間七七四年:2014/04/20(日) 13:08:12.67 ID:UCWOvka3.net
武功派とか言われてても具体的に武功なんて皆無だからな。
関ヶ原合戦を見る限り、
明らかに石田や小西や大谷ら戦闘専門外の文治派の方が遥かに戦闘センスがある。
石田なんて黒田や京極など相手に互角以上の戦いをしてたし
大谷も前田や小早川や藤堂などをわずか1000そこそこで翻弄しまくってたし

604 :人間七七四年:2014/04/20(日) 20:02:16.64 ID:4TkySNYx.net
文治派連中には調略のような頭脳的な行動がまるで出来ないからな
関ヶ原では味方が調略されまくってもまったく気付かず
ただ猪のように能天気に突撃を主張するばかり
そのくせ自分達は戦の才能があり西軍を指揮できるという妄想に支配されている
戦のイロハも知らない文治派連中は完全に西軍のお荷物だった

605 :人間七七四年:2014/04/20(日) 20:53:42.47 ID:wYFX/FtW.net
細川忠興5000と自軍5400で協力して攻めたらろくに戦績もない三成相手にほぼ互角の戦いで
ろくに切り崩せない黒田や細川の無能っぷりは異常。
藤堂も京極と共闘して大谷1000に翻弄されまくるアホっぷり。
武功派諸侯は戦闘が専門にもかかわらず戦闘専門外の石田などに翻弄されまくった雑魚

606 :人間七七四年:2014/04/20(日) 20:58:05.51 ID:J3vgwSpP.net
>>605
日本戦史が仮に決めた兵数で語るとバカを見る

607 :人間七七四年:2014/04/20(日) 20:58:32.81 ID:KSjzBF3b.net
歴戦のはずの藤堂高虎隊は味方が勝ち行く中唯一寡兵の長宗我部勢に負けまくり大損害出して死に体で帰ってきてる
確か関ヶ原合戦の際にも京極隊と連携してわずか1000そこそこの大谷隊を攻めたら大苦戦し
小早川が離反後も何度も押し返されて朽木・脇坂らが大谷隊に攻めかかるまで
ろくな戦果あげられなかったはず。
黒田長政も細川忠興と協力して6000そこそこの石田隊を攻めたらろくに戦績もない三成相手にほぼ互角の戦いで
切り崩せなかったし

608 :人間七七四年:2014/04/20(日) 21:01:06.51 ID:a7mD08B5.net
大体、日本戦史の書いてる動員兵力は
各大名の石高からみてもそんなもんでしょ。
石田三成人数書立に書いてる兵力記載も似たようなもんだし

609 :人間七七四年:2014/04/20(日) 22:13:40.91 ID:J3vgwSpP.net
会津から遠ければ動員数は少なくなるのが普通

610 :人間七七四年:2014/04/20(日) 23:43:46.11 ID:wxeGH0tc.net
食い物やらなんやら運ぶ代金だって、国許が地理的に遠いなら大変だ。
現地で買ったりヒャッハーするにしても限度ってものがあるだろう

611 :人間七七四年:2014/04/21(月) 03:18:12.36 ID:7SvTjqSL.net
曲解しかできない菅沼遼太哀れ

612 :人間七七四年:2014/04/21(月) 10:03:28.49 ID:/+VWkKmI.net
>>601
石田や小西は朝鮮で偽講和を仕掛けた前科があるからな
西軍諸将からすればこいつらが口先でどんな勇敢なことを言っていても
裏で何を企んでいるか疑わしくて戦う気になれない
関ヶ原で作戦が無視されたのは石田や小西の人間性が信頼するに値しない下劣なものと判断されたからに他ならない

613 :人間七七四年:2014/04/22(火) 21:56:59.42 ID:ldDVwoeJ.net
石田や小西が偽講和とかまた妄想垂れ流してるな

614 :人間七七四年:2014/04/23(水) 00:42:57.16 ID:XisFh5S6.net
石田と小西は日本史上最悪の奸臣として豊臣を大混乱に陥れたのだから
最期は処刑されて終わるべき人間だろう
そもそも奴らが1600年まで生きていたことの方がおかしい
もっと早く処刑していれば豊臣は磐石な政権として生まれ変わることができた

615 :人間七七四年:2014/04/23(水) 16:14:47.45 ID:1MEgfTbi.net
三成や小西らが、関が原の毛利一族くらい巨大な軍勢持ってたら100パーセント西軍は勝ってたのに。
速攻で三河や遠州に8万の大軍で攻め込めば、徳川方の東海道の部将は一斉に離反するか日和見状態になるし
美濃口での離反も防げるから圧勝できるのは目に見えてる
毛利なんて2万石程度与えれば十分だろ。

616 :人間七七四年:2014/04/24(木) 20:02:17.80 ID:qhzCnAHh.net
ここは石田・小西が大軍を持っていたらというありえない妄想にふける現実逃避スレかw

617 :人間七七四年:2014/04/25(金) 02:10:15.86 ID:ROzTqKR8.net
現実見たら菅沼遼太は死んじゃうだろ

618 :人間七七四年:2014/04/25(金) 20:49:01.28 ID:feMzaLS8.net
>>615
まったく逆で石田や小西が秀次の代わりに謀反を企てた罪で妻子もろとも処刑されていれば
奸臣が消えたことで豊臣は一気に安泰となり250年の栄華が約束されたも同然だった

619 :人間七七四年:2014/05/01(木) 02:46:04.27 ID:6cMQFrZM.net
歴戦のはずの藤堂高虎隊は味方が勝ち行く中唯一寡兵の長宗我部勢に負けまくり大損害出して死に体で帰ってきてる
確か関ヶ原合戦の際にも京極隊と連携してわずか1000そこそこの大谷隊を攻めたら大苦戦し
小早川が離反後も何度も押し返されて朽木・脇坂らが大谷隊に攻めかかるまで
ろくな戦果あげられなかったはず。
黒田長政も細川忠興と協力して6000そこそこの石田隊を攻めたらろくに戦績もない三成相手にほぼ互角の戦いで
切り崩せなかったし

620 :人間七七四年:2014/05/01(木) 02:47:23.79 ID:EhCsb2B8.net
武功派といっても具体的武功なんて皆無だし
戦闘センスも歴戦のクセに戦闘の専門外の奉行らに翻弄されまくるアホっぷり。
棚ボタで大名になっただけのアホじゃん。

621 :人間七七四年:2014/05/01(木) 08:11:56.44 ID:p7EO12s2.net
>>619
日本戦史が仮に定めた兵数をそのまま引用する奴はバカ

622 :人間七七四年:2014/05/01(木) 09:53:55.02 ID:g7HUxJat.net
藤堂は最初苦戦したが最後にはぼろ勝ちという話の苦戦した所だけ抜き出す奴はバカ

623 :人間七七四年:2014/05/01(木) 11:10:58.47 ID:6cMQFrZM.net
>>621
大体国力から考えればそんなもんだろ。違うというならソースをキッチリだしてくれ。

624 :人間七七四年:2014/05/01(木) 11:12:52.62 ID:SAy1XrGV.net
>>622
藤堂隊って確か大阪の陣での東軍武断派諸侯の中で最も戦死が多かったんだけど。
ちなみに長州我部隊なんて寡兵の雑魚だし、他の東軍諸侯の支援も得られる状況にもかかわらず死に体で帰ってきてるのが藤堂

625 :人間七七四年:2014/05/01(木) 11:14:53.24 ID:PVyHOveg.net
関ヶ原合戦の際にも京極隊と連携してわずか1000そこそこの大谷隊を攻めたら大苦戦し
小早川が離反後も何度も押し返されて朽木・脇坂らが大谷隊に攻めかかるまで
ろくな戦果あげられなかったのが藤堂。
大谷隊はわずか1000そこそこで藤堂・京極・小早川なら18000程度いくはずだから
藤堂は大谷の20分の1程度の指揮能力しか持ってない。

626 :人間七七四年:2014/05/01(木) 12:26:51.19 ID:vzEBz5zS.net
関ヶ原での東軍の被害が確認できるのはせいぜいが島津の撤退時の奮闘程度であり
石田や大谷からの被害は実はまったくなかった
後世の判官贔屓で西軍が優勢だったかのように語られるが
実際は東軍の被害はほとんどゼロに近いものであった

627 :人間七七四年:2014/05/01(木) 12:36:03.25 ID:6cMQFrZM.net
島津の撤退時の奮戦なんてそれこそ捏造もいい所じゃん。
井伊が負傷したとか忠吉が負傷したとか島津軍記で捏造してるけど
二人とも直後から働きまくってるし
負傷が元の死因とかデッチあげられてるが
井伊なんて2年も後に負傷から死ぬとかアホかと。
破傷風って数週間で発症するものなのに、一部の島津馬鹿が捏造してるだけ

628 :人間七七四年:2014/05/01(木) 12:37:44.44 ID:ST6w9iTf.net
平野部の会戦で朝早くから昼間での直接戦闘で2倍程度以上もの兵力で大谷や石田にハナクソほどの被害も与えられなかったのが藤堂・京極・黒田・細川じゃん。
石田なんて戦闘専門外のただの奉行なのに
武功派のクセにろくな戦果もあげられないとかアホすぎる。

629 :人間七七四年:2014/05/01(木) 12:40:45.86 ID:MZzXhLcc.net
石田や大谷は武功派よりも遥かに戦闘センスがあるからな。
彼らが毛利ほどの大軍抱えてたら
当初の三成の戦略どおり、真っ先に三河や遠州に先手を討って侵攻して
速攻で東海道口制覇して、家康を窮地に陥らせてる。
馬鹿な輝元が総大将だったから、伊勢湾や伊勢や四国やらあさっての方向に兵進めたり
大坂に居座ったまま、延々と政務を怠けたりして、一気に敗北した。

630 :人間七七四年:2014/05/01(木) 22:34:33.93 ID:OKiFToGs.net
頑張った割にはあっさり終わったよね

631 :人間七七四年:2014/05/01(木) 23:05:08.98 ID:2PET+ULB.net
小早川・朽木脇坂小川らの寝返りは痛かった。
いかに大谷や石田が名将でも腹背から攻撃を受けたらひとたまりもない。

632 :人間七七四年:2014/05/02(金) 00:11:03.29 ID:8xvRT6PE.net
あと、福島あたりと一進一退だった宇喜多の兵力は多く見積り過ぎでは?

633 :人間七七四年:2014/05/02(金) 00:25:04.28 ID:VmhLGMwE.net
なんで?根拠は?

634 :人間七七四年:2014/05/02(金) 12:22:46.57 ID:8xvRT6PE.net
すまん、特にない。あのお家騒動の傷(家中分裂)がまだ残っていたし、結果的に福島勢を圧倒
するまでの戦いぶりにならなかった(明石掃部だけで兵8000名にも無理を感じた)もんだから、
つい勝手な思い込みで疑問を呈してしまった、忘れてくれ。

635 :人間七七四年:2014/05/02(金) 13:57:25.70 ID:VmhLGMwE.net
盛ってる可能性はあるだろうけど一次史料の三成書状の陣立表が元になってる数字だし
単純に宇喜多領57万石で6人役とすると総兵数34200人で
背後は毛利領、海を渡った辺りの四国は接取済みで領地守備兵もそれほど要らないし
浪人で補強してるしお家騒動の影響や上杉征伐軍参加組を差し引いても
一万数千はあってもおかしくない。というかその位居なければおかしい数字と思うよ

636 :人間七七四年:2014/05/02(金) 16:22:31.45 ID:8xvRT6PE.net
それよりむしろ気になるのは石田隊の右翼(島津隊の左翼)に布陣していたと言われる
豊臣黄母衣衆と与力衆(岸田忠氏や織田信高らか)の合戦への参加過程と実数兵力。
今だに詳しく触れている文献に出会ったことがないし、大垣城主伊藤盛正
(最初松尾山布陣?)もいたとか何かはっきりしないことが多く、素人の自分には謎だらけ。

637 :人間七七四年:2014/05/02(金) 20:25:55.13 ID:SFXjuJAt.net
>>636
大三川志に28,800人とあるけど流石にこれはと思う
話半分でも結構な数だけど

638 :人間七七四年:2014/05/03(土) 19:24:11.40 ID:ZCeFyUAU.net
>>631
敵を調略し味方を調略されないように警戒するのが戦というものだからな
石田や大谷は戦の何たるかをまったく理解していない素人だから
そういう高度な戦略が取れないのは仕方がない
関ヶ原の単純な布陣を考えるだけが石田や大谷の精一杯の能力だった

639 :人間七七四年:2014/05/05(月) 11:11:23.35 ID:xb30jcoh.net
>>636
これは自分も思った。
豊臣の旗や軍装をみたら、武断派は大義名分を失うんじゃないだろうか?
使いようによっては錦旗なみの効力かも。

640 :人間七七四年:2014/05/05(月) 11:52:41.62 ID:vgZkmnCW.net
実際はお構いなしに戦ったと思う
ただし記録では三成と戦ったとしたのが、あの不釣り合いな戦力差かと

641 :人間七七四年:2014/05/05(月) 14:17:17.58 ID:DZNjBx84.net
小西軍も豊臣家から貰った兵力がほとんどだよ。
小西は年明けと共に熊本の領国から出てきてたから、
本国に兵を置いたままだった。
だから官兵衛と違い、清正は現地で苦戦した。

642 :人間七七四年:2014/05/05(月) 18:30:45.35 ID:NPUadbsy.net
>>639
豊臣家本体の動向は掴めてるんだから軍装だけでは勝手に持ち出してきた輩な扱いされるだけだな

643 :人間七七四年:2014/05/05(月) 18:41:56.77 ID:JwKMA7tb.net
そもそも「東軍」が豊臣家正規軍なんだが

644 :人間七七四年:2014/05/05(月) 19:35:42.57 ID:HQW0c73V.net
東軍には豊臣の公儀性なんて皆無だし
豊臣崩壊を担って家康の反逆行為によって起こされただけの簒奪軍隊だから
西軍が豊臣正規軍で、東軍がクーデター軍でしょ。

645 :人間七七四年:2014/05/05(月) 19:51:16.27 ID:vgZkmnCW.net
そもそも豊臣本家の威光なんて戦場では何の薬にも立たない
戊辰戦争の錦の御旗に影響されすぎていない?

646 :人間七七四年:2014/05/06(火) 01:37:39.39 ID:82QrBAdx.net
武断派は秀頼擁護が建前なんではないか

647 :人間七七四年:2014/05/06(火) 08:16:07.56 ID:YAmN4r0o.net
無条件に従うものでもないでしょう

648 :人間七七四年:2014/05/06(火) 10:36:23.27 ID:fsgk/VPb.net
>>646
秀頼擁護と三成擁護はまったく別だから
そもそも西軍が豊臣正規軍なんて三成たちの脳内妄想でしかないからな
大半の西軍大名が西軍に正当性を感じられなくなったから内通や不戦に走ったわけだしね

649 :人間七七四年:2014/05/06(火) 11:37:54.04 ID:YAmN4r0o.net
白峰旬は引っ掛かっているねw

650 :人間七七四年:2014/05/06(火) 11:51:02.86 ID:N+hPOIHO.net
秀頼を擁してる。
大坂城と近畿の大部分を掌握してる。
五大老五奉行の大部分が参加している。
形とはいえ秀頼直属軍が参加している。
公儀と称して改易、加増、転封の強権を発動している。
だから二大老四奉行連合政権は公儀として成立していた。

んで?それがどうした?ちゅう感じだわな

651 :人間七七四年:2014/05/07(水) 01:00:16.06 ID:+6POKJji.net
>>644
関ヶ原以前の状態で豊臣政権の主流は既に徳川の元にあった。
徳川との政争で追い落とされた三成が同じく負け組軍団+αで西軍を構成したという表現のが実態に沿っている。
その+αのなかには元秀吉(=秀頼)の直轄兵も居たというだけ。

652 :人間七七四年:2014/05/07(水) 02:21:45.22 ID:f21wllhU.net
>>650
秀頼を擁してる。→西軍大名は秀頼のいる本丸への立入りは禁止されていた
大坂城と近畿の大部分を掌握してる。→田辺・大津・伊勢など畿内にさえ西軍に逆らう城が多数あった
五大老五奉行の大部分が参加している→三成をはじめ負け組の返り咲きを目的とした私党の色合いが強い
形とはいえ秀頼直属軍が参加している→別に秀頼の命令で参加したわけではない
公儀と称して改易、加増、転封の強権を発動している。→口先だけでまったく処分を実行できていない
だから二大老四奉行連合政権は公儀として成立していた。→上記からどう見ても成立していない

西軍は単に石田や宇喜多が権力欲を満たす目的で詐称した私的武装集団に過ぎず公儀とは程遠いものだった
総大将に祭り上げられた毛利も彼らに騙されたことを途中から自覚しており
豊臣正規軍である東軍との戦闘を忌避して自発的に大坂城を退去するなど自ら公儀ではないことを明確にしていた

653 :人間七七四年:2014/05/07(水) 18:25:00.17 ID:LKE5mDSu.net
毛利は関ヶ原で勝った場合は公儀を強調したでしょうね

654 :人間七七四年:2014/05/08(木) 10:34:12.51 ID:02AxjxsL.net
勝った負けたはたいした問題ではない
たとえ負けてもトップの毛利が自らの公儀を信じ最期まで全力で戦って散れば
西軍が公儀だったという主張も信憑性があった
しかしトップの毛利が戦いを拒否し自ら大坂を明け渡した以上は
西軍が公儀などではなく謀反の集団に過ぎないことが証明された
格下の存在でしかない石田や大谷が公儀だとわめき散らして暴れたことなどまったく関係ない
トップの決断が下っ端の暴走よりも優先されるのは当然だろ

655 :人間七七四年:2014/05/08(木) 11:12:55.39 ID:STbzUQXW.net
利害関係、って重要でしょう。

総レス数 655
492 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★