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【疑問】スレ立てるまでもない質問13【戦国時代】

1 :人間七七四年:2014/01/23(木) 17:17:08.41 ID:wWv3NIPM.net
分からないことがあるときは、スレッド建てて聞く前にこのスレで質問してください。
専門的な質問は、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。

回答に時間がかかったり、回答が得られなくても怒らないでください。
質問が続くようでしたら、名前やトリップ付けることをお奨めします。
また質問する前に一度自分でも調べてみましょう。
人名・用語について調べたい時は、ここで聞くよりも検索したほうが速くて確実かと思われます。。

―【質問する前にすること】―
★検索サイトでとりあえず検索。これ最強。→Google検索
ttp://www.google.co.jp/
★自分と同様の質問がスレッド内(Ctrl+F)、過去ログ先に無いか必ずチェック。

<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・回答に時間がかかることもあります。ご了承ください。
・既に専門スレがあったり、板違いの質問があったりする場合は、速やかに誘導してください。
・過度な論争は自粛してください。
・煽り質問はスルー。

◇過去スレ
01 ttp://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150022967/
02 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195567708/
03 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234172504/
04 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251802299/
05 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263114279/
06 ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274877247/
07 ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296473917/
08 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1311198199/
09 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327134476/
10 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1347617351/
11 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1362228842/
12 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376577423/

2 :人間七七四年:2014/01/23(木) 17:59:36.06 ID:l+Uz2GSo.net
保守正俊

3 :人間七七四年:2014/01/24(金) 14:51:45.26 ID:RFu35mSg.net
保守正直

4 :人間七七四年:2014/01/26(日) 08:17:41.17 ID:jRbh06oJ.net
保守弾正

5 :人間七七四年:2014/01/26(日) 19:36:28.25 ID:H5kVg4+6.net
だれもいないの?

6 :990:2014/01/26(日) 22:07:34.11 ID:gl3DnlBp.net
再婚、婿入り、養子相続する人物(男女問わず)にすでに子供がいた場合、その子はどう扱われる?
血縁や継承権の有無、家名の名乗りなど当時の一般的慣習(ってあるのか?)を知りたいのだが…

例)

立花宗茂(父親が異姓他家を継承)
父親の相続した家名を名乗る(後に請われて戸次家養子)

竜造寺隆信+鍋島直茂(互いの親が再婚で義兄弟に)
両人とも実の父親の家名を名乗る

大道寺直秀(母親が再婚)
義父には一門扱いされるが大道寺家に養子に出される

於八(家康側室茶阿の前夫の娘、松平忠輝異父姉)
夫は松平姓を許される

7 :人間七七四年:2014/01/26(日) 22:32:21.09 ID:3AbFUwyT.net
敵討ちで知られる曽我兄弟の場合は、殺された親父は河津祐泰だが母親の再婚先の曽我の名字を名乗った。
鎌倉時代だけどな。

8 :人間七七四年:2014/01/27(月) 08:14:08.63 ID:kZSdSTes.net
別家創設し、
重臣になるか、他家に仕える。

9 :人間七七四年:2014/01/29(水) 13:18:38.22 ID:T1baNDRb.net
明智光秀が朝倉家に居た時期ってどのくらいかわかりますか?

10 :人間七七四年:2014/01/29(水) 13:55:34.34 ID:utcKB+T2.net
>>9
全く解ってない。というか朝倉家にいた事自体後世の創作の可能性が高い

11 :人間七七四年:2014/01/29(水) 14:01:11.19 ID:D3oWkHr2.net
明智軍記だと永禄三年から九年(1566年)まで朝倉家臣

12 :人間七七四年:2014/01/29(水) 16:40:40.20 ID:T1baNDRb.net
>>10
有難う御座います
やはり不明確なんですね…

>>11
軍記物でも情報を頂けて凄く助かります
朝倉時代も意外と短く感じましたが、その期間だと義昭に仕官してた時期が一番短そうですね

13 :人間七七四年:2014/01/31(金) 12:58:25.86 ID:7MF0tjU9.net
仙台伊達家で今も、重臣クラスの家臣が仙台藩士会という組織で会合や行事に
集っていますが、他の有名大名にもあるのでしょうか。

14 :人間七七四年:2014/01/31(金) 13:05:21.41 ID:6Wscd3gG.net
武田家旧温会とか

15 :人間七七四年:2014/01/31(金) 20:25:55.97 ID:LLkAQ7Mo.net
そういえば武田信玄の子孫名乗ってたモデルが武田家旧温会に認められてなかったな・・・

16 :人間七七四年:2014/01/31(金) 21:42:46.89 ID:rcjAt/CE.net
武具や日用品を凝ったデザインしてた武将多いけど
今で言うとブラック社長がクルマや腕時計を
自分でデザインしてる感じで違和感あるんだけど

普通に出入りのデザイナーが考案した甲冑とかじゃないの?
さすがに城くらい大規模だと、そりゃあ
攻めるの大変なパターンとかで設計指示してそうだけどw

17 :人間七七四年:2014/02/01(土) 12:40:32.08 ID:n0U/FSea.net
二日前?に豊臣政権の統治政策と江戸幕府の統治政策の違いについて
比較していたレスが付いたスレがあって、
興味深かったのでもう一度読みたいのですが、
もうdat落ちしてしまったのでしょうか?
他にも反論などいろいろ読みたいので該当スレの名前を教えてください。

ヒントとしては、
ペリー来航するまで外国の侵略がなかったのは、
秀吉が朝鮮出兵で中央集権国家日本の武威を見せつけ
宣教師たちが日本侮るべからずと記録したからみたいなレスや、

たしか豊臣恩顧大名が日本の1/3、伊達や上杉や佐竹など旧族外様が1/3
徳川系が1/3の領有する脆弱な体制が江戸幕府とか、
蔵入地設定や太閤検地や指南による内政干渉の廃止、
領地宛行における有力家臣への加増指定による家臣離間や、
与力大名の付属による大名監視体制によって、
大名の一国一円支配をできる限りさせない体制で中央集権を確立させてきた豊臣政権に対して
その打倒のために、大幅に緩やかな分権自治で藩王国化を容認し諸大名の関心を買った家康という構図で説明していたと思います。

ひょっとして同じスレでのことかも知れませんが、昨日あたりで、
豊臣秀勝の娘の豊臣完子を妻に持つ九条幸家が23歳で関白に就任するという行動で
朝廷が仕掛けてきたので、天皇の義弟の摂関家秀頼を関白にさせる時に、
まだ秀頼は若いから関白はもう少し成長してからと言ういいわけができなくなったので、
家康は秀頼が23歳になる前に殺さなければならない立場に追込まれ
方広寺鐘銘事件をでっち上げて必死になっていたとか書いてあった。

18 :人間七七四年:2014/02/01(土) 13:06:47.37 ID:N6BZmbfK.net
スレはわかりませんがもし短期間に長文の応酬してるようなら
内容的に菅沼遼太というキチガイの荒らしが
ある事無い事を自演してるだけなので読む価値は無いですよ

19 :人間七七四年:2014/02/01(土) 13:19:43.83 ID:/hTRyECv.net
あることないこと?
長文が出てきたら大体そのレスにはほとんど事実しか書かれてないし

20 :人間七七四年:2014/02/01(土) 13:21:54.61 ID:dm0FqfwV.net
大体嘘か本当か見分けるポイントは5行〜6行程度のアホでもよめる文章だと
書き手もアホを想定してるので、嘘や捏造が混じりまくってるという事
逆にそれ以上の長文だと書き手が知識層を想定してるので
嘘を書けば見事に看破されてしまうので、ほとんど本当しか書かれていないと思っていい(嘘があれば反論レスで指摘されてる)

21 :人間七七四年:2014/02/01(土) 13:22:52.15 ID:4ZiJ2j/G.net
知識のない馬鹿にとっては都合の悪い事実は捏造扱いしてしまえば早いからね

22 :人間七七四年:2014/02/01(土) 13:24:27.73 ID:rECx6KGd.net
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1390317350/
大体このスレで証明されてるが、織田マンセーして武田アンチしてる奴の書き込みはほとんど捏造と思っていい。
完璧に論破されたコピペが何枚も完成されてるからね。

23 :人間七七四年:2014/02/01(土) 13:26:04.92 ID:8/t8h8rN.net
関ヶ原関連のスレッドで三成アンチ&毛利・豊臣武功派アンチしてる奴のレスも大体嘘と捏造で塗り固められてる

24 :人間七七四年:2014/02/01(土) 13:31:03.94 ID:j0izNA6b.net
翻訳
在日織田チョン「せっかく都合悪いレスを消し去る為に、コピペ爆撃で埋めたてて落としたのに蒸し返すんじゃねーよ!絶対教えるかよ」

25 :人間七七四年:2014/02/01(土) 13:49:59.35 ID:N6BZmbfK.net
>>17
この連投を見ればどんな人物か分かったと思いますのでw
時間は有効に使うようお勧めします。まぁご覧の通りです

26 :人間七七四年:2014/02/01(土) 14:08:48.53 ID:LMV1+CWt.net
信長って尾張守になった(もしくは名乗った)ことあるんでしょうか?
大河で名乗ってて引っ掛かりました

27 :人間七七四年:2014/02/01(土) 14:20:12.79 ID:N6BZmbfK.net
上総介→尾張守(2年ほど)→弾正忠

28 :人間七七四年:2014/02/01(土) 14:21:13.33 ID:XkAIQPXX.net
>>25
つまり>>17が反論を読みたいと期待しているわけだが、
君は反論出来ずにコピペ爆撃で埋めたててdat落ちさせた張本人の朝鮮人だということだねw
>>18のレスで菅原なんて文字を出して読むのは無駄だとか言ってるあたり、やはり織田厨にとって都合が悪い内容なのは明白。
相変わらずわかりやすいなぁ。

29 :人間七七四年:2014/02/01(土) 14:35:55.19 ID:/hTRyECv.net
>>28
コピペ爆撃も糞も、そもそもコピペはお前の妄想を完璧に論破したレスのみで構成されてるわけで
それを貼るだけで毎回反論無視して妄想垂れ流すお前に対する反論に十分なっているんだが

30 :人間七七四年:2014/02/01(土) 14:37:38.11 ID:rECx6KGd.net
毎回論破されて決着がついた話題を後になってグダグダ掘り返して、新しい反論かと思いきや
同じような妄想垂れ流すとかガチで>>28はアルツハイマーだからな

31 :人間七七四年:2014/02/01(土) 14:39:59.77 ID:dm0FqfwV.net
長文が出てきたら大体そのレスにはほとんど事実しか書かれてない
嘘の場合はまたそれを長文で反論レスがついてるから、すぐにわかる
逆に5〜7行ぐらいの文章だと、捏造とか嘘ばかり書き連ねられてる場合が多い
これは三成関連のアホ妄想三成アンチレスを見れば分かる

32 :人間七七四年:2014/02/01(土) 14:41:24.75 ID:61arUKPg.net
>>29>>30
で、その反論とやらは絶対に教えてくれないのかw
それじゃあ、ほんとに反論してるとは思えないなぁ。
論破されちゃったからdat落ちさせたんじゃないのかなぁw

33 :人間七七四年:2014/02/01(土) 14:46:00.93 ID:ZLcnUUnm.net
論破されてるというなら、論破した相手のレスの引用と、論破した自分のレスができるはず。
それをリンクで指摘できない時点でお前は論破されて終わってるのは目に見えてる

34 :人間七七四年:2014/02/01(土) 16:30:40.41 ID:fhLaLDVs.net
図書館で読んだ 伊達政宗の戦闘部隊 ~戦う百姓たちの合戦史 (歴史新書)
によると当時完全な兵農分離できたのは織田、豊臣で他の大名は
関ヶ原あたりで形になってたような事書かれてましたが、大体合ってますか?

 他に兵農分離で大名同士比較してる。いい書籍あったら教えてください。

35 :人間七七四年:2014/02/01(土) 16:51:34.79 ID:N6BZmbfK.net
完全な兵農分離が出来たのは江戸時代
だいたい出来たのは豊臣期
織田はまだまだ。織田が出来てたとすると武田北条朝倉も出来ていたことになる

36 :人間七七四年:2014/02/01(土) 16:54:06.46 ID:hYoT6XAn.net
というか戦国期の兵農分離なんて現象自体がすでに否定されている。

37 :人間七七四年:2014/02/01(土) 19:18:57.55 ID:LMV1+CWt.net
>>27
ありがとうございます

38 :人間七七四年:2014/02/02(日) 00:11:50.07 ID:GV7AwKIL.net
そうなの?農民は補給部隊や雑用での徴発じゃないの?

39 :人間七七四年:2014/02/02(日) 01:04:54.70 ID:jcm8kIKg.net
>>17
必死な超長文コピペ爆撃連打で速攻dat落ちしてたよ。

40 :人間七七四年:2014/02/02(日) 07:33:34.73 ID:L8DUBs1f.net
>>38
この手の話はソース無しの時点でだがさんの一行レス

41 :人間七七四年:2014/02/04(火) 08:30:04.44 ID:GJW6k1X1.net
質問です
昔読んだ小説の中にあったのですが

城攻め→雨で水があふれる(?)→攻め手が水浸し(木の上に避難するほど)
→城から船で打って出る→木々に避難してる兵を鉄砲で打つ→攻めて救出に行けないため
打たれることに笑うようにする→翌日からは船で打つことはなくる

これは誰対誰の戦いでしょうか?
もしかしたら創作かも知れませんが
よろしくお願いします

42 :人間七七四年:2014/02/04(火) 11:06:09.26 ID:pv4RhBtY.net
>>41
紀州征伐における太田城の戦いだろうか
攻め手のはずの秀吉側に包みが崩れて何十人も溺死者がでた
安宅船を使用しているのは秀吉側など違いがあり参考にした創作では?

43 :人間七七四年:2014/02/04(火) 23:09:39.47 ID:GJW6k1X1.net
>>42
WIKIみてもピンとこなかったのですが
言われてみれば読んだ小説が司馬遼太郎の太閤記だったかも知れません
だとしたらおっしゃるとおり創作かもしれません
回答有難うございました

44 :人間七七四年:2014/02/04(火) 23:59:47.58 ID:9J2wz+sR.net
>>41
司馬遼太郎の『夏草の賦』の長曽我部対十河(勝瑞城攻め)のエピソードだと思う

45 :人間七七四年:2014/02/05(水) 17:26:21.50 ID:zReU4Uqf.net


46 :人間七七四年:2014/02/05(水) 17:33:57.84 ID:zReU4Uqf.net
規制で(?)うまく書けず返信が遅くなりましたことをお詫びします

夏草の賦も読んでいました
勝瑞城攻めで検索してみたところ
該当箇所が見つかりました

>そこへ三好方の船が来て、城中に兵糧や玉薬を引き入れたので、城内の兵の意気は上がり、
 船に乗って出て、梢につかまっている攻め手の兵を槍や鉄砲で次々に射殺していった。
 これには寄せ手もたまらず、城方へ扱いを申し入れて、和睦ということになった。 
  (リンクが貼れませんでした・・・)
こちらで間違いないかと思います
改めまして情報提供していただいたお二方ありがとうございました
おかげでスッキリしました

47 :人間七七四年:2014/02/06(木) 12:21:47.55 ID:ECbKDLex.net
伊達政宗みたいに料理が得意だったと逸話が残ってるような武将は居ますか?

48 :人間七七四年:2014/02/06(木) 12:24:11.75 ID:ptXVWK+6.net
細川幽斎

49 :人間七七四年:2014/02/08(土) 08:06:51.07 ID:ztLCrDbi.net
質問します。
上杉謙信が何度も関東へ出兵したときに通ったルートというのは三国峠ですか?それとも清水峠ですか?
地方なのでこの辺の地理がよくわからないので教えて下さい。

50 :人間七七四年:2014/02/08(土) 08:41:01.55 ID:Vo5GQDMn.net
その為に三国峠を切り開いたんじゃなかったかな。

51 :人間七七四年:2014/02/08(土) 13:59:03.16 ID:+5zk4gYw.net
後方支援で質問
この後方支援て、本陣を守る兵隊も含めるの?
それとも荷物持ちや馬の世話係や記録係みたいな非戦闘員だけ?
伝令兵って後方支援と前衛兵どっちに含めるの?

桶狭間の戦いで、もしも軍の半分を占める後方支援が全員非戦闘員なら
今川2万5千VS織田5千
今川は自国から旅してくるから後方支援が半分で戦闘員12500
織田は自分の城から自国内をちょっと移動する日帰り旅行状態だから全員戦闘員
今川は隊を複数に分けてたらしいから仮に三分の一でも戦闘員四千人
今川四千VS織田五千
普通に織田軍の方が戦闘員多かったんじゃないの?

52 :人間七七四年:2014/02/08(土) 16:25:31.72 ID:yUG9wmBa.net
織田5千とやらも各砦とかに分散してた数字じゃないの

53 :人間七七四年:2014/02/08(土) 22:10:14.24 ID:RfivYVa7.net
織田5千という数字、桶狭間に投入した人数なのだろうか?
これは無理すれば動員できる数なのではないかとか思うんだが…?
このころの信長は40万石弱の勢力でしょ

54 :人間七七四年:2014/02/08(土) 22:12:43.38 ID:0dAZWEGY.net
>>53
動員したのは全て戦闘に参加する兵士ばかりじゃないんですよ
同時にまた今川軍の動員も非戦闘員込みなんです

55 :人間七七四年:2014/02/09(日) 01:30:36.28 ID:jeJsF9oR.net
織田は当時尾張一国に大垣城と刈谷の水野氏15万石の分まであるから全土で75万石くらいくだろ。
動員兵力は今川と同等かそれ以上のはず。

56 :人間七七四年:2014/02/09(日) 13:48:42.35 ID:ksD6vV/W.net
※ただし尾張兵は弱い

57 :人間七七四年:2014/02/09(日) 16:29:46.79 ID:zS+Dw+bQ.net
それも俗説だけどな

58 :人間七七四年:2014/02/09(日) 20:00:14.05 ID:1I/1Te9Z.net
徳川が事実を歪めまくってるからな
姉川とか徳川のおかげで勝てたみたいな恩着せがましい記述は見ててイラってくる

59 :人間七七四年:2014/02/10(月) 13:23:47.90 ID:78NQxn1B.net
戦国時代は基本的に農民兵で訓練も無かったらしいですし、地域毎の強さなんて大将と武器の差くらいしかないでしょうね。

60 :人間七七四年:2014/02/10(月) 13:27:54.11 ID:l/xnaAIK.net
>>59
> 戦国時代は基本的に農民兵で訓練も無かったらしいですし

大嘘だな。20年位前の認識

61 :人間七七四年:2014/02/10(月) 13:31:49.12 ID:HDVyglvO.net
そもそも尾張兵が弱いというのは、部隊の兵種別編成や旗本部隊の充実といった、先進戦国大名ならだれでも行っていた
制度的改革を信長にはすることが出来ず、鎌倉室町と大差ない兵制を温存していたせいだな

62 :人間七七四年:2014/02/10(月) 13:34:27.86 ID:8h6kLHcG.net
そんな古臭い兵制で信長は尾張を統一し美濃を征服し天下人になれたんですか

……負けた先進戦国大名とかいう連中はどんだけ無能なんです?

63 :人間七七四年:2014/02/10(月) 13:38:57.81 ID:78NQxn1B.net
>>60
じゃあ新説を教えて下さい

64 :人間七七四年:2014/02/10(月) 13:47:20.97 ID:l/xnaAIK.net
>>63
戦国期の軍隊はプロの戦士(武士)と傭兵によって構成された集団。農民は陣夫、軍夫などあくまで補助的な役割

65 :人間七七四年:2014/02/10(月) 13:56:57.74 ID:l/xnaAIK.net
>>62
スケールメリットだよ。信長は結果的に畿内の大人口を自由に出来る立場になったからな
勝つ組織は制度が新しい、なんてのは共産主義の発展段階論の思い込みに過ぎない。
古臭い組織で力技ができるようになったのが信長の体制だよ

そもそも改革なんてのは苦しいから効率性を確保するために行うのであって、問題があろうと勝っている間は
改革なんて必要ない。信長の軍政も終始古臭いままだ。

66 :人間七七四年:2014/02/10(月) 14:01:47.01 ID:nivabtRm.net
尾張は日本一裕福だったからだろ。

67 :人間七七四年:2014/02/10(月) 14:04:03.83 ID:8h6kLHcG.net
>>65
弱小から大勢力になれた説明になってませんが

68 :人間七七四年:2014/02/10(月) 14:56:12.38 ID:l/xnaAIK.net
>>67
そもそも尾張は弱小でも何でもないんだが?

69 :人間七七四年:2014/02/10(月) 15:53:13.74 ID:piw5AIgb.net
信長統治前の大名も頑張れば同じ事が出来たんじゃないかと思うのは素人でしょうか?
天下穫れるチャンス無かったんですか?

70 :人間七七四年:2014/02/10(月) 16:12:59.00 ID:wICrJUgc.net
てかその間接部門って落ち武者狩りの対象になるの?

71 :人間七七四年:2014/02/10(月) 16:16:44.10 ID:nivabtRm.net
弱小の時期なんて信長には無いし、
改革された信玄や謙信や氏政の軍には織田はかなわなかったじゃん。

三方ヶ原や東美濃攻防、
手取川や神流川で織田軍瞬殺されてるし。

72 :人間七七四年:2014/02/10(月) 16:33:26.50 ID:R9PGy4ly.net
菅沼遼太w

73 :人間七七四年:2014/02/10(月) 16:36:51.97 ID:CiRX62wv.net
尾張は歴史的に見ても、弱兵どころか、むしろ強い兵の地域でしょ。関ヶ原でも大坂の陣でも尾張勢は弱い所か結構活躍してるし。
昔から畿内覇権に関与してる。
継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし
尾張三河は 頼朝、尊氏、家康を支えた重臣をたんまり輩出してるからな。
地力がある土地なんだよな。
源義朝って熱田神宮の宮司の娘を正妻にしてたんだね。頼朝にとっては母親方の実家が愛知ってことか
岡崎城に隣接してる資料館では三河武士が鎌倉幕府も足利幕府も江戸幕府も作ったと書いてるよ。

尾張が弱兵というのは、信長を擁護するための言い訳だろう。
兵が弱いんじゃなくて、指揮官の指揮采配能力が劣るだけ。
信長が苦戦した岐阜城なんて6回くらいあっさり陥落してるし

74 :人間七七四年:2014/02/10(月) 16:41:18.61 ID:2ml6aJ+0.net
まぁ美濃国なんて信長公記によれば井の口を攻め落とすだけで平定完了できるくらいのコンビニ国だから楽勝でしょ。1

75 :人間七七四年:2014/02/10(月) 16:43:06.28 ID:Na9a9n7z.net
土地に縛られない専業傭兵主体だからこそ尾張は弱兵と言われたんだよ。
分の悪い戦いに運命共同体的な意識で参加しなくていいのが銭で雇われた兵なんだし。
信長の采配能力の問題じゃなく軍隊の性格の問題だから仕方ないだろ。
「兵農分離」を、職業傭兵の調練と同義に考えてるんだろうか。
さすがにデタラメな出典を史実であるかのように貼りまくるだがらしい頭の悪さだ。
銭で雇われた兵のメリットは飽くまでも農繁期の制限が無く一年中遠征に動員可能なことであって
それは同時に兵の質の弱さでもある。
農兵=正社員、傭兵=フリーターってことよ。

76 :人間七七四年:2014/02/10(月) 17:01:15.51 ID:nivabtRm.net
>>75
なにデタラメ吐いてんだよwww

77 :人間七七四年:2014/02/11(火) 00:30:00.12 ID:/ljlOnFo.net
傭兵なんて何処にでもいただろ。
北条が国人宛に出した書状にも身元の確かな人間を出せって書いてるし
惣村が跡継ぎを出したくないために牢人を雇ってたのは広く知られてること。

78 :人間七七四年:2014/02/11(火) 01:01:38.27 ID:AqNz6xsX.net
>>75
こういうデタラメ書く人いるから菅沼遼太も暴れ出すんだよな

79 :人間七七四年:2014/02/11(火) 11:25:16.86 ID:VF2q5qtN.net
農兵=正社員、傭兵=フリーター、武将=????

80 :人間七七四年:2014/02/11(火) 12:11:08.43 ID:OAOoVQ1X.net
>>77
それ傭兵ちゃうだろ

81 :人間七七四年:2014/02/11(火) 12:42:13.06 ID:4aZd7BI4.net
この時代の後方支援て、本陣を守る兵隊も含めるの?
それとも荷物持ちや馬の世話係や記録係みたいな非戦闘員だけ?
伝令兵って後方支援と前衛兵どっちに含めるの?

82 :人間七七四年:2014/02/11(火) 13:42:03.56 ID:WPorQ5bF.net
後方支援の定義による。狭義の軍事的後方支援なら
本陣を守る兵隊は正規戦闘員なので後方支援に含まない。
伝令兵は後方支援。

83 :人間七七四年:2014/02/11(火) 14:48:19.56 ID:XPuWB3FV.net
桶狭間だけど、今川4万人は
さすがに誇張として2万ぐらいじゃ
ないだろか。
そのうち後方支援だけど鍋釜や米運ぶのが
1〜2割じゃないかな。
根拠としてはいろんな本が出てるけど
そのぐらいが効率がいいみたいなんだよね。
とすると信長軍がほぼ全部戦闘員としても
やっぱり今川がかなり多いだろうね。
ただ面白いのは、後方支援組がいざ戦の時に何をしたかというと
本陣のそばに立たせて見張りとかとりあえずの数の
盾にしたりとかそういうのじゃないかね、雑用とかもだし。
だとすると、本陣つかれて輿とか捨てていきなり逃げ出したのにも
それなりの理由にはなる。
最初から支援部隊って本人たちも思ってたろうしね。

84 :人間七七四年:2014/02/11(火) 14:52:13.29 ID:WPorQ5bF.net
豊臣期や江戸初期の史料で軍勢の半分が陣夫等の非戦闘員
戦国時代は詳しく分かる史料は無いが大きく変わる事は無い

85 :人間七七四年:2014/02/11(火) 14:58:48.50 ID:XPuWB3FV.net
>>84
それは移動の距離や目的にも
よるんじゃないだろかね。
豊臣徳川初期ぐらいだと大掛かりな
長期移動が多いからどうしても非戦闘員が
増えそう。
ただ自陣だから先触れで食料とかある程度は確保できるので
そういう小役人的な戦闘員も増えてくる。
戦国期の隣藩への先攻ぐらいだったら
実際はかなり支援組は少なかったんじゃないかな。
ムダメシ食わす余裕はないだろうしね。

86 :人間七七四年:2014/02/11(火) 15:15:06.90 ID:CJniCeCr.net
>>85
そもそも陣夫など非戦闘員の主な役割はその飯を運ぶ作業だ

87 :人間七七四年:2014/02/11(火) 15:52:22.42 ID:jEqxeiEs.net
そもそも陣夫=非戦闘員というのはいかがなものか
いくら後方支援が主目的だからって丸腰でやるわけにもいかん
戦闘によってはそいつらも襲われるし農民でも武具持ってる時代だ
ちなみに北条氏康が国府台合戦に挑む際の書状に
「明日昼以前ニ当地へ可打着候、兵粮無調候者、当地ニて可借候、自元三日用意ニ候間、陣夫一人も不召連候」
とあるから、やはり戦闘によって数は違っていたとするのが妥当であろう

88 :人間七七四年:2014/02/11(火) 15:58:08.94 ID:QELywbeA.net
>>87
お前「戦闘員」の意味解ってないだろ

89 :人間七七四年:2014/02/11(火) 16:39:57.53 ID:WPorQ5bF.net
>>85
戦国期に隣領に攻め込むといっても一ヶ月以上の遠征ですが
小領主同士の出入り規模は今回の議題とは別物でしょう

>>87
その北条の総動員令でも陣夫ごとき者は(戦闘員として)つれてくんなといわれるように
農民も武装しているといってもずぶの農民(陣夫)と半農半兵の足軽(戦闘員)はまったく別物なんだよね

90 :人間七七四年:2014/02/11(火) 17:57:39.23 ID:jEqxeiEs.net
>>88
いやいや戦闘員の概念も意味不明なわけだが
>>89も誤解しているみたいだがそもそも手ぶら農民なんてこの時期ほとんどいないだろ
豊臣徳川政権時代ならまだしも、戦国期の概念を豊臣徳川時代と同一視する方がおかしい
そして陣夫の類が戦闘に巻き込まれることも大いにある
「前衛兵」「後方支援」ならわかるが、非戦闘員と戦闘員の区分けは近代以降の表現方法なんだから
そんなもんで区別していたらおかしくなるのは当然だろう

91 :人間七七四年:2014/02/11(火) 18:06:45.34 ID:WPorQ5bF.net
脇差刺してれば戦闘員ってわけじゃないよ。
武田も武勇のある者と有徳人以外は兵としてつれてくんなと言ってるしね

日本には戦国戦史学者なんていないから自分で調べるしかないけど
調べるてみると面白いよ。

92 :人間七七四年:2014/02/11(火) 18:22:10.73 ID:jEqxeiEs.net
もちろん正規に前線で働く兵に比べりゃ練度も質も落ちるのはわかるよ
けど=非戦闘員ってことになるのかって話
冷静に考えて、軍の半分が直接戦闘に従事しない連中ばかりだとすると
戦う兵に比べて兵糧は倍必要なんだから非効率にも程があるわけで
とするなら陣夫にもある程度戦闘を期待できる(もちろん敵を倒してこいとかはないだろうけど)
ようにするか、陣夫そのものの数を減らすのが理想的な話だろう

93 :人間七七四年:2014/02/11(火) 18:27:56.63 ID:WPorQ5bF.net
戦闘員と非戦闘員は完全に分けたほうが効率的だよ
現により進んだ現代軍はそうしてるよ

94 :人間七七四年:2014/02/11(火) 18:30:50.71 ID:jEqxeiEs.net
そら現代なら可能だろうがそれは現代の最新兵器や電子技術ありきだからなぁ
数がものをいう中世の戦争でどこまでそれが進んでるのかは疑問が出る

95 :人間七七四年:2014/02/11(火) 18:44:26.61 ID:WPorQ5bF.net
効率の話をしだしたから軍事的効率の話で返しただけだよ

96 :人間七七四年:2014/02/11(火) 19:05:28.74 ID:7DEDkB9e.net
よく分からないんだけど・・・あえてこの流れで質問してみる
雑兵ってここで言われてる農民兵のこと?

97 :人間七七四年:2014/02/11(火) 19:26:52.41 ID:WPorQ5bF.net
書き手によって雑兵に含まれる範囲はさまざまだからなんとも
唯一言えるのは馬上の武士は含まないってくらい

98 :人間七七四年:2014/02/11(火) 19:33:06.98 ID:7DEDkB9e.net
>>97
馬に乗ってる人は偉い目印みたいなものなんですね
教えて下さって有難う御座います

99 :人間七七四年:2014/02/11(火) 23:24:07.70 ID:jEqxeiEs.net
>>95
効率のいい方法って時代によって違うからね・・・
例えば中世では数頼みの戦い方が多いけど
近現代の戦争はそこまで兵の数は重要じゃない

100 :人間七七四年:2014/02/11(火) 23:46:50.16 ID:WPorQ5bF.net
数を支えるには輸送も数が必要なのですよ

101 :人間七七四年:2014/02/12(水) 18:46:59.07 ID:kQASl3my.net
戦国時代の兵糧は数日分は持参し、
それ以降は基本的に現地調達。

102 :人間七七四年:2014/02/12(水) 20:28:01.49 ID:Q1AkRrjq.net
数日分って事は多くても10日くらい?

103 :人間七七四年:2014/02/12(水) 21:00:33.61 ID:p+iFEUVI.net
一日六合として十日で六十合
重量は十五斤で9kgか

104 :人間七七四年:2014/02/12(水) 23:28:17.00 ID:aMwq0kSI.net
江戸時代の軍制だと戦闘職が3分の1しかいないのに
輸送力は2週間分しかない。現地調達を前提とした軍隊やね
何処の国もそうだけど

105 :人間七七四年:2014/02/13(木) 01:13:55.33 ID:6bmCP4GX.net
つまりリアリティ路線のゲーム(信長の野望・創造)で120日分の食料を持って出陣するのはファンタジーという事でおk?

106 :人間七七四年:2014/02/13(木) 09:38:36.78 ID:Rr2VCvL5.net
信長の野望は昔からキャラゲーライトゲーでリアリティ路線じゃないよ

107 :人間七七四年:2014/02/13(木) 21:26:44.60 ID:rRqub8L7.net
けんみんshow見てて思ったんだけど
関東って後北条氏以外にこれっていう武将はいなかったの?
頼朝強兵したとき2万騎ぐらい引き連れてきた人いたよね
今の千葉とか茨城あたりって肥沃で人も多そうだし強国な
イメージなんだが… 里見 三浦 結城以外は小勢力のどんぐり状態?

108 :人間七七四年:2014/02/13(木) 21:29:07.97 ID:lpnw1paa.net
>>107
戦国前半は上杉と北条という2大勢力の戦いだよ。
上杉追い出して関東は北条一強になった

109 :人間七七四年:2014/02/13(木) 21:43:00.26 ID:FAFlxevJ.net
その北条氏に後半は押されたとは言え健闘してた反北条連合も凄いね
特に佐竹

110 :人間七七四年:2014/02/13(木) 22:30:36.01 ID:W8lwRdYg.net
>>107
>頼朝強兵したとき2万騎ぐらい引き連れてきた人いたよね
千葉常胤かな?千葉氏は坂東八平氏に数えられる下総の有力な豪族だけど
室町時代に内部分裂があって衰退したらしい。

違った。2万騎引き連れて来たのは千葉氏の同族の上総広常だった。頼朝配下の中で
飛び抜けて大きな兵力を有する事で無礼な振る舞いがあって、頼朝に誅殺されて
所領も没収されたようだ。

111 :人間七七四年:2014/02/14(金) 09:27:44.47 ID:b5FqVm+F.net
長尾景春と太田道灌は有名だろ

112 :人間七七四年:2014/02/14(金) 11:33:20.47 ID:eTNgtpVn.net
頼朝まで戻るとまだ、武将、というもの
自体が成立してたか、という論議から始まる。
戦国まで来ても、関東は未開の地で
田舎の消防団レベル。
肥沃とかそういうイメージから変えた方が
いいだろうね。

113 :人間七七四年:2014/02/14(金) 11:44:56.54 ID:iXO5bdnv.net
田舎の消防団レベルwwwwwwwwwwwwwwwwwww

114 :人間七七四年:2014/02/14(金) 12:06:54.13 ID:b5FqVm+F.net
つか板違いや

115 :人間七七四年:2014/02/15(土) 01:07:22.41 ID:JyUGGFW/.net
今回の雪でわかったことは、雪國大名は4ヶ月くらい領地に閉鎖されるから
天下なんか無理だな。柴田勝家や前田が京に近くても、進出できないわけだ・・・

116 :人間七七四年:2014/02/15(土) 01:38:16.31 ID:COrIwuwL.net
戦国時代の雪だるまってどんな造形で作られてたんだろ?
やっぱ雪うさぎとかになるのかな?

117 :人間七七四年:2014/02/16(日) 01:11:45.07 ID:1WZV524H.net
長曽我部の一両具足は通常なら軍役を務めない民衆を動員した物なんでしょうか?

118 :人間七七四年:2014/02/16(日) 01:20:45.35 ID:+dAhUbAD.net
軍役を務める代わりに年貢を免除される小農園経営者ですよ。
他の大名家での無足人衆、手明槍、同心と呼び名が変わるだけで特別なものではありません
いわゆる地侍、小土豪です。

119 :人間七七四年:2014/02/17(月) 14:12:40.07 ID:Pb+ZHFzr.net
立花宗茂ってどう凄かったの?

東日本最強が本多忠勝
西日本最強が立花宗茂らしいけど本多忠勝が最強クラスの武人
指揮官としても一戦士としても凄かったのはググればいくらでも出てくるけど
立花宗茂って西日本最強って言われるような武勇伝何があるの?

朝鮮半島で島津同様かなり無双したらしいけど指揮官として軍略が凄いってこと?
忠勝と双璧を成す戦国最強なのに一戦士としては何もないの?
あと軍略なら竹中とか黒田とか西日本にもっとすごいひといると思うんだけど

最後に、最近色んなゲームで戦国最強本多忠勝ってあるけど、この戦国最強ってのは
当時の評判? それとも後世の人や、最近のゲーム業界が言っているだけ?

120 :人間七七四年:2014/02/17(月) 14:36:57.81 ID:mdrH0HGf.net
>>119
ドマイナーな大名家にも当然ながら〇〇家中随一という猛将は居る
しかし知名度が少なかったり大規模で凄い合戦が無ければ語り草としては継がれない
西国に宗茂より上の将は沢山居ても武名を轟かすチャンスが無ければ埋もれるしかないよね

121 :人間七七四年:2014/02/17(月) 15:06:31.47 ID:sfBLOspd.net
むしろ本多忠勝には全く武功が無い。
家康小姓だったから引き立てられただけ。
そもそも彼には戦傷一つないほどヘタレ

122 :人間七七四年:2014/02/17(月) 15:12:49.41 ID:zSMeNnB1.net
>>119
正直な話、立花宗茂は
誰が作ったかわからない東西無双の逸話が一人歩きしてしまっただけで
大した武将ではないんだよね

123 :人間七七四年:2014/02/17(月) 15:20:34.51 ID:Pb+ZHFzr.net
確か秀吉が
東には忠勝という無双の大将がいるように、西には宗茂という無双の大将がいる

豪勇鎮西一

って評したんじゃなかったっけ?

124 :人間七七四年:2014/02/17(月) 15:57:47.53 ID:zSMeNnB1.net
両方とも一次史料にあるわけじゃ無いからどうだか
まぁ秀吉は名前忘れたが播磨の一小土豪にも天下無双のあなたが味方になってくれて頼もしいとか書いちゃう
おべんちゃらの名人、人たらし秀吉であって、本当に言ったとしても秀吉評自体が当てにならんのよねw

忠勝は天下とった家康の三重臣筆頭だから持ち上げられても、はいはいそうですかだけど
宗茂はなんでこうなってるからさっぱり分からんね

125 :人間七七四年:2014/02/17(月) 17:21:05.64 ID:YVMRN8uQ.net
ぶっちゃけ大河の主役になってる黒田親子を打ち破った城井鎮房らのが宗茂よりも遥かに鎮西一だと思うよ

126 :人間七七四年:2014/02/17(月) 21:58:05.89 ID:QPNVPXOW.net
移封って当時は嫌われるものだったんですか?
加増移封ならむしろ栄転じゃないかと思ったりもするのですが…

127 :人間七七四年:2014/02/17(月) 21:58:05.98 ID:hg4tTgzn.net
上杉⇔直江・毛利⇔小早川・龍造寺⇔鍋島
島津⇔伊集院・徳川⇔石川・伊達⇔鬼庭・前田⇔村井

大友⇔立花もこれと一緒で秀吉お得意の重臣離間工作
立花の場合は主家の大友の方が大名として秀吉に潰されているレアケース

128 :人間七七四年:2014/02/17(月) 22:34:06.52 ID:4POQjxP4.net
ケースバイケース。
成りあがりや弱小にとっては
加増なら喜ぶだろうし
古くからの伝来地を離れるというのは
加増でもイヤだったろう。
本音は言えなかったろうが。

129 :人間七七四年:2014/02/17(月) 23:16:08.38 ID:yZu5fLTQ.net
そんなの現代でも同じ。

年収400万でも山手勤務のが
500万のド田舎勤務よりも優越感。
実際には山手のが月給高いけどw

130 :人間七七四年:2014/02/17(月) 23:59:19.17 ID:zSMeNnB1.net
転封というのは在地性の否定
戦国大名はあの手この手で長い年月かけて民衆を手なずけ
いざとなったら挙国一致で外敵に立ち向かう体制を確立してたわけで
転封となるとこれが切り離されてしまって防衛体制は弱体化ちゅう困ったことになる
ただし良い面もあって部下達も在地から切り離せるので
本拠地によっての強固な反抗、いわいる反乱ができなくなって
大名の言うことを聞かないと簡単に潰せるようになるので領国経営は非常に楽になる
どっちが得かの他にも故郷から離れたくないとかもあって結局はケースバイケースやね

131 :人間七七四年:2014/02/18(火) 10:57:46.42 ID:PXxP84SI.net
>>129
そのたとえはちょっと違うんじゃない?

たとえ話としては、生まれも育ちもその地方の人間で、仕事の人脈とかも地元で作り上げた人が
東京本社に転勤するとなったときに給料上がったとしても喜ぶかどうかって感じじゃないかな。

132 :人間七七四年:2014/02/18(火) 11:31:08.66 ID:bT7vaQOm.net
群馬から東京なら俺は喜ぶ
大阪から東京ならやっぱ悩む
大阪から群馬は死んでも嫌

133 :人間七七四年:2014/02/18(火) 14:17:42.51 ID:WGg59IAt.net
もっとロコツに
給料100万やるからアマゾンで
変わった植物とってきてくれ
支店長どころかアマゾン社の
社長でもいいぞ、と言われて
それをどう思うかだわな。

134 :人間七七四年:2014/02/18(火) 22:01:10.86 ID:vtUeXLZB.net
プラントハンターだな。

135 :126:2014/02/19(水) 23:45:06.79 ID:lOXWjNkf.net
教えて下さった方々有難う御座います
家格の良い人や古くから住み付いた一族が土地を離れるのを嫌がる傾向があるという事ですね
父祖伝来の地を手放すのは御先祖様に申し訳ないという気持ちもあるのかもしれないと思いました
逆に土地から離れる事で部下を切り離せるというメリットもあるのかと目から鱗が落ちました
この時代は家臣が権力を掌握してしまう事も少なくなかったですし、その土地から離れる事で家臣の増長を防げるなら有りだなとも思いました

136 :人間七七四年:2014/02/20(木) 00:52:02.66 ID:v0qwcXS3.net
でもどうでも良い小大名ならともかく
中堅以上の大名だったら、本籍地みたいなとこだけ残して
普通に転封で良い気がするんだけどな。

デフラグって概念は無いもんなのか?

137 :人間七七四年:2014/02/20(木) 01:03:13.49 ID:+JvkXSg2.net
先祖代々の墓の地だけは絶対に手放さないってごねまくった大名がいましてね

138 :人間七七四年:2014/02/20(木) 01:45:24.94 ID:loSZwE0L.net
墓ってワードのおかげか、本気で誰だか分からないw

139 :人間七七四年:2014/02/20(木) 08:41:20.97 ID:w7yPF/ua.net
豊臣政権は関白による家格支配を始めていて、
輝元を清華成にした為に、
平等な一揆連合に過ぎない毛利勢力に家格による序列をつけて、
輝元を当主として秀吉が保証した。
秀家や秀秋にも秀吉が署名した保証がつけて強力に当主権を付与しないと、
家臣統率が出来なかったほど。
転封と家格で大名当主権をバックアップした。
家臣にとっては領地とその周囲を昔からの一族親類地縁のネットワークでつなげて、
何か大名当主の方針に不満があれば、
ネットワークを利用して一揆を起こして郡や国単位で混乱させる脅迫が出来なくなる。

ちなみに結城秀康に従って越前に行った結城さんは死ぬまで結城の地に戻りたいと寺社に祈り続けていたとか。
他にも小野寺さんも死ぬまで秋田にいる昔の家臣と連絡を取り合うのを楽しみにしていた。
やはり秋田に帰りたい気持ちが強かったようだ。
また最上が朝鮮行くのを嫌がり嘆いて早く最上の地に帰り水飲みたいと望郷に駆られていたりする。
朝鮮行かないようにするために秀次との関係を強化したのは失敗だったが。

140 :人間七七四年:2014/02/20(木) 10:13:47.80 ID:pcG33sOY.net
>>137
そういうのは単に言い訳ってのもあるだろうけどね。

141 :人間七七四年:2014/02/20(木) 10:24:49.69 ID:+JvkXSg2.net
そうやね。まぁ真田のことなんだけど
昌幸のごねまくりのおかげでその後の松代転封になっても沼田を保持できた
おかげで子孫は苦労しましたがねw

142 :人間七七四年:2014/02/21(金) 00:48:48.23 ID:0rGilN74.net
農民兵に討取られた武将って、あまり聞かないな?
武将を戦場で討ちとった農民は、主君に頼めば仕官できたんだろうか?

143 :人間七七四年:2014/02/21(金) 01:01:02.06 ID:CBRQcJz/.net
農民兵?が非正規兵を表してるなら明智光秀とか穴山信君とか
足軽のことなら真田信繁とか

144 :人間七七四年:2014/02/21(金) 07:19:22.06 ID:An4p8e41.net
足軽は軍役を課された農民だぞ。
そして信長がその農民兵の槍で殺されたな。
光秀が農兵の槍で無惨かつマヌケに殺されたと言うのは光秀のメンツを潰そうとする織田方の宣伝に過ぎない。

145 :人間七七四年:2014/02/21(金) 07:26:10.56 ID:qnbhwgMp.net
>>144
アホか。給人と百姓は存在としてもう異なるっつーの

146 :人間七七四年:2014/02/21(金) 08:17:33.77 ID:S0cOjkCu.net
桶狭間での服部某と毛利新助は農民兵じゃなかったっけ

147 :人間七七四年:2014/02/21(金) 09:58:42.58 ID:+g+ubgOj.net
よっぽどの大身身分の大給人以外は農民なんだがw
そんな高い身分の者は指示は出しても、
光秀探しで野良捜しなんて直接やらんわ。

148 :人間七七四年:2014/02/22(土) 00:56:46.61 ID:PIJcOUO7.net
辞世の句ってどういうタイミングで書いてあるんですか?
死期など感じて無かったであろう戦死した武将なんかも残ってたりしますが

149 :人間七七四年:2014/02/22(土) 01:00:29.75 ID:irC8/N0/.net
遺書と一緒に前々から用意しておくものです。

150 :人間七七四年:2014/02/22(土) 01:03:05.69 ID:PIJcOUO7.net
>>149
なるほど・・・そういうものなんですね
それよりも遺書も前々から残してたりするんですね
そっちにもびっくりしました

151 :人間七七四年:2014/02/22(土) 02:04:19.04 ID:qtzQx9yQ.net
大身の現代で言う社長と政治家を合わせたようなもんなんだし、
色々言い残しておかなきゃいけない事が多かろうに

152 :人間七七四年:2014/02/22(土) 05:11:57.35 ID:dNuKOjKR.net
上杉謙信「だよな」

153 :人間七七四年:2014/02/22(土) 09:43:11.82 ID:qtzQx9yQ.net
謙信の遺言状は握りつぶされたんだろうな。
長尾側か北条側側かは分からないが

154 :人間七七四年:2014/02/22(土) 10:11:44.37 ID:rTloV3WW.net
握り潰したと考えるなら、そういう事しそうなのは景勝サイド

155 :人間七七四年:2014/02/22(土) 11:35:41.86 ID:irC8/N0/.net
遺言状ありますがな。

156 :人間七七四年:2014/02/22(土) 13:01:05.48 ID:oKlIVVhz.net
あったのに内乱起きたの?

157 :人間七七四年:2014/02/22(土) 14:02:55.53 ID:irC8/N0/.net
ごめん辞世の句と勘違いしたん

158 :人間七七四年:2014/02/23(日) 04:11:06.15 ID:Iuyr2nuZ.net
存命期間中なのに遺書が残ってる武将って居ます?
例えば信長の場合なら82年死去ですが81年以前に書いてた遺書とかです

159 :人間七七四年:2014/02/23(日) 11:11:11.92 ID:KdnKq8M/.net
君の言う『遺書』の定義がわからないと答えようがないんじゃないかな
今みたいに法律上の〜てなもんは無かったわけで
家族への手紙でも死んじまえば遺書になる場合もあるし

160 :人間七七四年:2014/02/23(日) 12:38:12.59 ID:azC+GVts.net
つか存命期間中に書くのが当たり前だろとしか

161 :人間七七四年:2014/02/23(日) 13:56:43.47 ID:YB4yT/Ja.net
文脈から意図した意味も分からずレスする愚図と揚げ足取ったレスしか出来ない愚図
ああだがさんですか

162 :人間七七四年:2014/02/25(火) 17:03:49.67 ID:2ZZeNWZL.net
大河を見てて思ったんですが武士の喋り方にも方言とかあったりしたんですか?
名古屋弁の織田信長とか凄くシュールだろうなと思いました

163 :人間七七四年:2014/02/25(火) 18:18:26.62 ID:CEDpNAka.net
方言は場所によっては外国語かってくらいきつかったが武家言葉を使えば意思疎通には困らなかったらしい

164 :人間七七四年:2014/02/25(火) 19:45:40.95 ID:7aYBCk84.net
>>162
津本陽の小説読むと、お国言葉で話す武将ばかりだから読んでみるといいよ。
名古屋弁の信長とか出てくる。

165 :人間七七四年:2014/02/25(火) 23:21:51.16 ID:aUEyX87q.net
これこれ、ツモ爺は関係ないって。
「まおちゃんかわいいがや、猿連れてきてちょ」を
「真央可愛見候、可成被参候」ってとこか。

166 :人間七七四年:2014/02/26(水) 05:23:59.57 ID:tj7YEauj.net
返事下さった皆さん有難う御座います
やっぱり方言はあったんですね
武家言葉でなら通じるという事は職業毎の標準語みたいなものはあったという事ですね
大変参考になりました

167 :人間七七四年:2014/02/27(木) 21:50:57.62 ID:UgEL+WN0.net
相手の領土に攻め込んだ時や、相手側が籠城した時などは村落を調略して仲間に引き込んだりするんでしょうか?

168 :人間七七四年:2014/02/27(木) 22:36:57.26 ID:rpnBvWl8.net
調略したり禁制発給して中立認めたり焼き討ちしたり色々やね

169 :人間七七四年:2014/02/28(金) 00:50:34.92 ID:c84wdaHA.net
中国で云うところの縦横家みたいなのは、日本じゃ僧侶たちが務めたのかね

170 :人間七七四年:2014/02/28(金) 01:08:46.88 ID:ox7w7D7V.net
日本だと足利学校で学問を修めた軍配者など

171 :人間七七四年:2014/02/28(金) 01:37:12.57 ID:BWK9NmCh.net
学校なんてあったんだ…

172 :人間七七四年:2014/02/28(金) 21:06:21.26 ID:cG4Xo96p.net
忍びって何で安月給なの?
足軽より死にやすいよね。

173 :人間七七四年:2014/02/28(金) 22:49:02.34 ID:ox7w7D7V.net
忍は同心階級なので足軽よりは高給ですが

174 :人間七七四年:2014/03/01(土) 11:37:44.85 ID:wjySeGnZ.net
・武士が手綱を使わず馬上で戦えたって本当?
・馬から降りて戦ったなら、騎兵ってただ移動が早いだけの歩兵?

まず『花の慶次』で大陸での騎兵同士の戦闘は片手で手綱を持って片手でランスを持つが
日本は大陸と違い手綱を持たず足だけで馬を操り両手で槍を操った
っていうふうに書いてるんだけど
最近の歴史系番組や本だと日本の騎兵は馬で移動して戦う時は降りて戦った
って説明されることが多い

馬上戦闘が嘘なら、日本の騎兵は戦場を移動するのが速いだけのただの歩兵?
足だけで馬を操り両手で槍を使ったってのは完全な創作?
それとも戦場でやらなかっただけで流鏑馬みたいに教養、御前試合ではやった
みたいな感じ?

175 :人間七七四年:2014/03/01(土) 12:55:43.03 ID:HOLZq609.net
馬上戦闘をしてたとする史料は豊富で逆にしなかったと証明することの方が困難です
別問題として騎馬単一兵科の部隊があったかどうかの議論はネットでは盛んですが

武士はもともとは弓騎兵であり弓は片手では扱えないので
伝統的に手綱無しの騎行は得意だったと考察できます
もっとも手綱有りほど自由自在に操れる訳では無いでしょうが

176 :人間七七四年:2014/03/01(土) 15:23:02.39 ID:wjySeGnZ.net
それは嬉しい報告ですね ちなみに馬上戦闘をやった豊富な史料って
なんでしょうか? 絵とか当時の記録ですか? ●●が馬上で闘い敵方の○○
を討ち取った、みたいな

一応、馬上戦闘がなかった証拠はテレビによると
・宣教師が『西洋では馬に乗ったまま戦うのに、この国の兵は馬から降りて戦う』
と記録している。
・日本の馬は小さく馬上戦闘には適さなかった。
・馬に乗っているぶん背が高くなるので弓や銃に狙われやすくなってマイナス
・当時の馬は足が遅く、西洋とは意味合いがことなる。あくまで人や物を運搬する
ものという感覚で、馬上で戦うものとみられてなかった。

書籍 戦国時代の100の大ウソ 159ページ
史料性の高い当時の屏風絵でも大半の絵で馬は戦場の後ろに控えていて
『川中島屏風』でも騎馬武者は全員降りている
当時は馬の近くにいるだけで、逃げそう、と勘違いされた

177 :人間七七四年:2014/03/01(土) 17:04:55.20 ID:HOLZq609.net
そういう感じで一次史料である感状にも騎乗戦闘の様子を語るものは複数あるよ
一次史料や同時代の日記や軍旗、近時代の編纂物や屏風絵他もろもろにあるのに
まったく触れずに否定してるのは理解に苦しむね

フロイスのは後半の文を無視した意図的な抜き出しだし
その下の3つの理由も世界を席巻したモンゴル馬や品種改良前の西洋馬も
同体格だから当てはまるのに、日本馬だけ否定してる無意味なものだし
武士は下馬戦闘も普通にこなしたから一部の合戦図で下馬してても
嘘ではなけど他の合戦図の否定にはならないでしょ

178 :人間七七四年:2014/03/02(日) 10:17:59.54 ID:i96l5Mmy.net
>>176
とりあえず、テレビ番組とか「花の慶次」とか「戦国時代の100の大ウソ」とか、接する資料の
レベルが低すぎ。
そういうのはエンターテイメントと割り切って、そこから何も学んじゃだめ。
「へーそうなんだ」と思っちゃった時点で負けだぞ。
民明書房クラスの信頼度と思ってればよろしい。

179 :人間七七四年:2014/03/02(日) 10:35:02.47 ID:ejjQFq/O.net
>>176
>・馬に乗っているぶん背が高くなるので弓や銃に狙われやすくなってマイナス
これなんか、だったら日本だけの話じゃないだろっていうね
「日本の馬は小さく」と言う主張と合わせるとむしろ西洋の方が馬上戦闘のマイナスが大きくなると言う矛盾

180 :人間七七四年:2014/03/02(日) 10:42:56.71 ID:1bgRH/6I.net
そもそも三十年戦争でヨーロッパを席巻したグスタフ・アドルフの騎馬隊の馬なんて、日本馬より体高低いんだが

181 :人間七七四年:2014/03/02(日) 12:17:22.72 ID:NzaCD0Ft.net
おとひとつ
軍鑑、川中島合戦図、三河物語、フロイスと
信頼性が比較的高い資料に下馬戦闘の記述もあるけど
これみな防衛戦なのよね

182 :人間七七四年:2014/03/02(日) 13:15:45.62 ID:fau/GyEP.net
一次史料である感状にも騎乗戦闘の様子を語るものは複数あるよ

早く上記の証拠を具体的に書けよ。

183 :人間七七四年:2014/03/02(日) 18:04:21.67 ID:vD0AAX3R.net
姉川合戦図で馬上で斬馬刀振り回しているのがいるんですけど

184 :人間七七四年:2014/03/02(日) 18:42:57.17 ID:fau/GyEP.net
アホか。後世の人が想像で書いた合戦図なんて参考になるわけねーだろ。

185 :人間七七四年:2014/03/02(日) 18:51:06.42 ID:1bgRH/6I.net
合戦からほぼ直後に書かれた大坂の陣屏風でも打物騎兵はなんぼでも出てくてるんだが

186 :人間七七四年:2014/03/03(月) 08:10:01.97 ID:k/L0Yx2g.net
当時の合戦って、娯楽の一つにもなっていて見晴らしのいい所で
場所とりしてたらしいが、第三者の視点からの合戦報告や日記みたいなの
存在さいないのでしょうか?

187 : 忍法帖【Lv=8,xxxP】(2+0:8) :2014/03/03(月) 11:49:29.60 ID:pERupUXb.net
清洲会議以降から秀吉死亡までの間で
荒木村重や別所長治みたいに秀吉に謀反を起こした武将いる?

188 :人間七七四年:2014/03/03(月) 12:25:11.97 ID:Xk/MALD+.net
豊臣秀次

189 :人間七七四年:2014/03/03(月) 13:17:03.53 ID:uEiLDs4m.net
秀次は謀反と呼んでいいのやら

190 :人間七七四年:2014/03/03(月) 15:45:04.44 ID:3vcl7Fwm.net
>>186
フロイスとか伝聞なら多聞院日記や貴族の日記

>>187
荒木村重や別所長治は本来は将軍に従ってただけで信長の家臣じゃないと言う観点から見れば
柴田や家康らも当てはまる

191 :人間七七四年:2014/03/03(月) 21:04:58.64 ID:+RrWUqIN.net
荒木の方は信長の配下じゃなかったのか

192 :人間七七四年:2014/03/03(月) 22:35:30.02 ID:DebZbctX.net
すぐに関白になったから
それ以降は謀反なんて、朝敵、だし
いろんな意味で不可能だもんな。
信雄ー家康が最後ってとこで。

193 :人間七七四年:2014/03/03(月) 23:41:56.89 ID:3vcl7Fwm.net
まぁ肥後国人一揆とか梅北一揆とかあるけどね

194 :人間七七四年:2014/03/04(火) 00:40:30.24 ID:gyzAsKmz.net
>>193
その視点はなかったわ

195 :人間七七四年:2014/03/04(火) 07:58:58.82 ID:eQNRlD9D.net
ウクライナ政変でロシアが旧政権側に後詰しようとしたら、
EUと米国が新政権側に後詰の姿勢をみせて、
事態が緊迫していますが、
こんな事は戦国時代では日常茶飯事?

196 :人間七七四年:2014/03/04(火) 08:25:48.22 ID:+J1QgcE4.net
戦国だと、他家の干渉、は案外
少ないかもね。
ケータイないし、下手に助けてもらうと
その後が大変なのは誰でもわかる。

197 :人間七七四年:2014/03/04(火) 08:35:53.79 ID:avX2AjmW.net
浅井が信長を裏切って朝倉が浅井に後詰、
木曽が武田勝頼を裏切って信長が木曽の後詰

そもそも関ヶ原も東軍による小早川への後詰であったという説がある

198 :人間七七四年:2014/03/04(火) 08:41:22.37 ID:odqLt9nN.net
>>177
>>180
西洋馬やモンゴル馬も16世紀は日本の在来種みたいにポニーサイズだったの?
メディアだとたいていは西洋のサラブレッドと違い日本の在来種は小さかったので〜〜
って、感じだけど、実際は16世紀はどこも同じサイズで、西洋がたまたま品種改良に
成功して大型化して、それが明治に日本に入ってきて
西洋馬=大
日本馬=小
ってイメージがついただけ?
日本は品種改良に失敗した?

199 :人間七七四年:2014/03/04(火) 11:11:06.39 ID:NJa1hwyE.net
>>198
サラブレッドは18世紀に競走用に作られた品種。速く走れるけど持久力は無い。
つまり西洋の馬は大きいというイメージが間違い。

200 :人間七七四年:2014/03/04(火) 12:17:23.22 ID:eQNRlD9D.net
>>196 >>197 ありがとう。

201 :人間七七四年:2014/03/04(火) 23:29:16.77 ID:odqLt9nN.net
>>199
ありがとう
あまり深くつっこむと戦国関係無くなっちゃうし例外はあるかもだけど
もしかして巨大馬、農耕馬のシャイヤー種とかも品種改良?

現代では色々な種類の馬がいるけど、それはみんな近世近代になってから
用途に合わせて品種改良された結果生まれただけで
大元になっている原種のウマという生物本来は西洋も日本もモンゴルも
世界的に小さくて
中世の騎士や武士の時代はみんな同じような馬ってこと?


一瞬、そんな小さい馬にどうやってデカイ西洋人が乗るのかと思ったけど
前、中世時代は西洋人も身長150センチ代って聞いたの思い出した
そういや武士が宣教師が長身で驚いたって話聞いたことないけど
16世紀の西洋人って日本人と身長同じぐらいだったって本当?

202 :人間七七四年:2014/03/05(水) 00:55:37.10 ID:SA99SD1I.net
>>201
西洋人って一口で言ってもラテン系とゲルマン系では体格は違うし

203 :人間七七四年:2014/03/05(水) 08:43:22.85 ID:IlZfeGFJ.net
>>195

つ 応仁の乱

204 :人間七七四年:2014/03/05(水) 19:24:00.41 ID:FnHbDihF.net
姉川の戦いってほとんどウソって本当?
「信長や秀吉が天下取ったのは全て家康様のおかげなんだよ!幕府最高!」
って人々を騙すために江戸期に捏造されたって友人に聞いたんだけど。

205 :人間七七四年:2014/03/05(水) 19:38:57.16 ID:olFSaz8k.net
>>204
嘘と断定できるほどあの合戦の史料が残っているわけではない。
嘘とか断定してるような連中は胡散臭いと思った方がいい

206 :人間七七四年:2014/03/05(水) 21:16:54.28 ID:ILMvaR4S.net
>>204
嘘、とまでは言わないけど、主役が徳川家になるように脚色はされてるだろうね。
よく言われることだけど、姉川の合戦という呼び方自体がそれを表してる。
姉川の合戦の戦場は広いエリアにまたがったけど、家康が戦った戦域が「姉川」で、
信長が戦ったところは姉川ではないのよ。
だから「姉川の合戦」と呼ぶ時点で主役は家康になる。
合戦自体がねつ造されたってわけではない。

207 :人間七七四年:2014/03/05(水) 21:18:59.22 ID:EOygg2vb.net
徳川が来なかったら負けてたとかそういう部分は非常に嘘くさいが概ね合ってると思う

208 :人間七七四年:2014/03/05(水) 22:58:44.19 ID:0/kOtK2I.net
手這坂の戦いについてなんですけど、
1569年説
1573年説
どっちが信憑性高いんでしょうか?

209 :人間七七四年:2014/03/05(水) 23:18:12.97 ID:VMLM0BMf.net
>>204
姉川の戦いで捏造とされてるのは織田が浅井朝倉に圧勝したという事実経過であって
浅井朝倉はその直後の滋賀の陣で織田軍を屈服させて織田軍は朝廷を介した和議に頼らざるをえなくなってる
戦後の信長書状から、浅井軍の相手は大軍の信長、朝倉軍の相手は寡兵の徳川が行ってる事はわかるが
ドラマとかによく出てくる織田圧勝とかは信長のハッタリ誇大喧伝でなされてる可能性が非常に高い。

210 :人間七七四年:2014/03/05(水) 23:21:33.44 ID:nhPqeqDp.net
>>204
>>209
実際には織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。

遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。

211 :人間七七四年:2014/03/05(水) 23:24:58.75 ID:VMLM0BMf.net
姉川の徳川活躍が嘘とか言ってるのは谷口とか堀とかアンチ徳川の史料無視の馬鹿学者くらいだよ
三河物語、松平記、甲陽軍艦や浅井三代記など徳川が敢闘して苦戦しまくってた織田軍を救援して戦局をひっくり返したというのは
史料にあるし信長も書状で徳川が1万五千もの圧倒的大軍の朝倉勢を切り崩したと書いてる(6月28日付け細川藤孝宛て書状)
また水藤氏は朝倉はこの合戦に関する史料を残さず、逆に徳川側には豊富に存在するのも徳川の勝利をよく表していると書いてる(大日本史料第10篇之4)
また一乗谷にはたくさんの石塔・石仏に混じって「元亀元年6月28日為春捜全芳禅定門」やまたその他数種類の銘文を持つ石塔や石仏が残され
いずれも姉川の合戦で徳川と戦った朝倉勢の討ち死にした者を弔うために残された一族が造設したとされる

212 :人間七七四年:2014/03/05(水) 23:26:29.15 ID:00aKbUrU.net
大久保が法螺話を書いたなんて根拠は全くないし
例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
当代記のその方面の記述は基本的に信長記のトレースだから全く参考にならない
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう

213 :人間七七四年:2014/03/05(水) 23:27:38.93 ID:+jqcJsLX.net
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ

214 :人間七七四年:2014/03/05(水) 23:35:45.50 ID:FnHbDihF.net
大変勉強になりました。レス感謝です。

215 :人間七七四年:2014/03/06(木) 04:26:58.57 ID:hibXsCI0.net
21 :菅沼遼太:2013/10/01(火) 15:05:14.00 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp<8080><3128><8000><1080>[115.65.140.229]
対象区分:[個人・三種]優先削除あり
削除対象アドレス: http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1380092620/92
削除理由・詳細・その他: 個人の取り扱い
三種
 上記2つに当てはまらない全ての人物
三種:
 誹謗中傷の個人特定が目的である・文意により攻撃目的である

誹謗中傷
三種:
 個人を完全に特定する情報を伴っている。

22 :21:2013/10/01(火) 15:10:35.88 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp
>>21も削除していただきたいです。

23 :不動 ◆HpcRk2ELiM @削除明王 ★:2013/10/01(火) 18:41:44.52 0
>>21-22
却下。名前だけなら削除対象ではなく、削除する理由なし。

#名前との組み合わせで削除対象になる記述がありません。
#予備知識のない第三者には個人を全然特定できない上に、
#誹謗中傷として扱う記述もありませんでした。
#なお、もし当スレの21を正式に削除依頼しても、削除する理由がないので却下あるのみです。

24 :うんこ:2013/10/01(火) 20:53:49.39 HOST:ntaich067177.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
>>23
却下
じゃねぇよボケ
ちゃんと仕事しろよクズ野郎

25 :21:2013/10/01(火) 21:10:10.04 HOST:g71.124-45-254.ppp.wakwak.ne.jp
>>23
手前ら無能な運営の不手際で個人情報が漏れてクレカ変更までやって手間取らせておいて
個人情報晒しも却下とかどんだけ身勝手なんだよクズ

216 :人間七七四年:2014/03/06(木) 20:47:57.63 ID:6lkuN4+O.net
家康公の薬造りって、そんなに不評だったの?

217 :人間七七四年:2014/03/07(金) 12:20:12.62 ID:Bil7ijVm.net
上司から「風邪ならこれ飲め、うちのばあちゃん秘伝の薬だぞ」とわけわからん粉渡されて
にこやかにありがとうございますと受け取る以外に選択肢あるか?

218 :人間七七四年:2014/03/07(金) 12:40:04.65 ID:1UBXn2db.net
薬作り過ぎて幻覚で妖怪見てるしな
正気じゃないぞ

219 :人間七七四年:2014/03/07(金) 22:42:26.42 ID:1vfb9cLI.net
家康が関ヶ原のあと、本多忠勝を遠ざけた話だけど
家康を弁護する説ってないの?

家康にはこういう正当な理由があって、忠勝を遠ざけた
遠くの国に変えたみたいな
忠勝の今までの功績を考えれば、家康本当にクズ野郎なんだけど
太平の世になったとたん武官冷遇って……

真田親子をかばったエピソードが実話ならそれが家康の逆鱗にふれたとか?

220 :人間七七四年:2014/03/07(金) 22:55:32.79 ID:ZVfTRYtl.net
>>219
そもそも遠ざけてない桑名は当時の徳川直轄地域の最前線の一つで、交易上ももっとも重要な拠点。
それを任せたというのは家康の変わらぬ信任の厚さを表している以外の何物でもない

というか関ヶ原後に家康が武臣を冷遇したとか言うのは、漢の劉邦をヒントにした司馬遼太郎あたりのタダの創作だぞ。
そういう作り話にに騙され続けているのはいい大人としてどうかと思うが

221 :人間七七四年:2014/03/08(土) 13:28:28.08 ID:KDrZlJyI.net
信長が越前で一揆衆を数万人処刑した記録がありますけど、人口が多くない時代でそんなに殺害したらその後の統治(農業、軍役)に影響は出ないんでしょうか?

222 :人間七七四年:2014/03/08(土) 13:49:19.80 ID:exdl8bBF.net
本当にそれだけ人口が減っていれば当然影響は出る。
まぁ戦果誇張は当たり前の時代やから

223 :人間七七四年:2014/03/08(土) 13:56:42.52 ID:3Z8a5RPz.net
加賀藩は虐殺の歴史を隠蔽して利家マンセーしてたし、
仙台藩も虐殺の歴史を歪曲して政宗マンセーしてるように、
侵略者による不都合な歴史抹消や歪曲が起きるね。
越前虐殺は全く歴史に残らないほどに、
焚書坑儒が横行し証拠隠滅が織田軍によって行われ、
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へ、その犯罪行為を告発しているほど徹底的に虐殺と略奪が行われた。

「後世の方はどうか語り伝えて下さい。 
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。 
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」 

また興福寺の僧も織田軍の虐殺略奪を、
一国亡国政策として非難し嘆いている。

224 :人間七七四年:2014/03/08(土) 14:57:32.03 ID:NTnaj+f5.net
長島なんかは実際に無人地帯と化した。今の住民は後に他地域から移住してきた人達の子孫

225 :人間七七四年:2014/03/08(土) 16:48:51.70 ID:rjgsn5Y+.net
逆らわなきゃいいの

226 :人間七七四年:2014/03/08(土) 16:51:46.69 ID:BZUMzPlA.net
まあ武器とって戦って、負けて殺されたからって一方的な被害者面するのは何かおかしいよな
例えば越前一向一揆が蜂起したとき、織田方の武士は殺されまくっているのだし

227 :人間七七四年:2014/03/08(土) 19:12:07.82 ID:La6ZyuQ6.net
抵抗して殺されるのは世の常当たり前のことだからな
現代日本ですら政府に逆らって犯罪起こした人間が死刑になってるし

228 :人間七七四年:2014/03/08(土) 20:13:29.22 ID:f1VwyJuM.net
>>227
え?反逆罪で死刑になったて誰?

229 :人間七七四年:2014/03/08(土) 21:28:24.44 ID:k+NAZIx5.net
刑法第七十七条に「内乱」の項があって反逆罪という名称は違えど罪名がある
適用された人物の結末を見れば簡単に辿りつく範囲内

230 :人間七七四年:2014/03/08(土) 22:05:30.81 ID:kNInOyCH.net
現代日本の話だよな?戦後は内乱罪の適用例はないぞ
三無事件、オウムですら内乱罪は適用されていない

231 :人間七七四年:2014/03/10(月) 01:23:49.24 ID:TmlGEx/a.net
本能寺の変後に家康は織田領土の甲斐や信濃にちょっかい出して分捕りますけど、織田家の重臣や信孝、信雄から抗議とかなかったんですかね?

232 :人間七七四年:2014/03/10(月) 07:27:26.77 ID:nRkYneJh.net
一般人は何でも知ってるようで現代日本の秘匿された事件を知らない

233 :人間七七四年:2014/03/10(月) 08:32:59.04 ID:2esXh2go.net
>>231
織田家内対立抗争のために、
徳川を敵に回すのは不利になるので、
むしろ家康が旧三河領で、
信長が奪って尾張領に併合した地域を返せと脅迫しており、
それに屈して信雄は領地を徳川に渡している。

234 :人間七七四年:2014/03/10(月) 08:35:36.22 ID:S4iA8xTd.net
>>231
アホか。家康の甲斐信濃への侵攻は織田政権公認の行動だ。
例の清州会議で完全に公認されている。
まだそんな火事場泥棒なんてトンチキなこと言ってる奴居るのか

235 :人間七七四年:2014/03/10(月) 12:16:17.11 ID:/od1IAgw.net
>>234
つまり事後承認ってことだろ

内部で対立があって敵を増やしたくないから
柴田も羽柴も他も仕方なく認めたってところだな

北条や上杉にとられるよりはまだマシだ、
という計算もあっただろう

236 :人間七七四年:2014/03/10(月) 13:39:53.39 ID:d1hEq4qg.net
本能寺直後は緊急時の地力救済の観点から文句はつけれない
清州会議以降は旧織田政権勢力対北条上杉の対外戦なので後押しする立場
抗議の対象になるものが無い

237 :人間七七四年:2014/03/10(月) 19:15:40.01 ID:aIOSqH+5.net
>>234
>>清州会議で完全に公認されている
ウソつくな。公認されてないわ。
北条との戦いで劣勢になった家康が、虚勢を張って
「もうすぐ織田の援軍が来る」などと大嘘を言ってただけだろが。
結局、上杉の南下と旧武田家臣だった名将依田信蕃が真田を調略したために
氏直が信濃で孤立し挟撃されるという棚ボタで家康が窮地を脱して信濃・甲斐を得ただけだし。

秀吉相手に超劣勢になった時も虚勢を張って
「もうすぐ北条の援軍が来る」などと大嘘を家康は吐いているしな。

常に家康は「もうすぐ俺のボスが来るぞ」って言って味方が離反しないように繋ぎ止めている。

238 :人間七七四年:2014/03/10(月) 19:29:34.82 ID:S4iA8xTd.net
>>237
アホか。秀吉からも勝家からも信雄からも信孝からも家康宛の書状が残っとるわマヌケ

239 :人間七七四年:2014/03/10(月) 19:36:44.35 ID:H1lAGR9o.net
>>236
同盟相手の領地で国人一揆が起きているからといって軍勢送って占領するのって自力救済じゃないだろ

240 :人間七七四年:2014/03/10(月) 19:41:01.52 ID:Uq1oWuhQ.net
>>秀吉相手に超劣勢になった

全く劣勢になってない。
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が城主の中川が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下
伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
>>戦略目標は達成
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)

241 :人間七七四年:2014/03/10(月) 19:43:37.79 ID:Uq1oWuhQ.net
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし

242 :人間七七四年:2014/03/10(月) 19:51:14.50 ID:Uq1oWuhQ.net
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…

243 :人間七七四年:2014/03/10(月) 20:30:49.82 ID:fhN1DHsn.net
秀吉が困った状況を隠すためにハッタリパフォーマンスするのはいつもの事。
例えば小牧長久手合戦で1万人殺され諸城の攻防でも長久保・浜田・戸木・松ノ木・二重掘・蟹江・前田・下市場・東駒野など
負けまくり奪回されまくってたが、下記のようにハッタリと捏造でもみ消してる。
パフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ

244 :人間七七四年:2014/03/10(月) 20:33:59.11 ID:fhN1DHsn.net
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ

245 :人間七七四年:2014/03/10(月) 20:38:23.71 ID:fhN1DHsn.net
むしろそれは兵糧や物資に困ってて早期に決着つける必要があったため
相手の戦意喪失を狙ったものとみるべき。
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。

あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。

246 :人間七七四年:2014/03/10(月) 20:39:21.99 ID:fhN1DHsn.net
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。

247 :人間七七四年:2014/03/10(月) 21:57:43.04 ID:fhN1DHsn.net
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。

248 :人間七七四年:2014/03/11(火) 00:02:52.89 ID:6b3T3ba2.net
長篠の戦いの武田軍の被害って実際は大した事なかったって本当ですか?

249 :人間七七四年:2014/03/11(火) 00:09:33.43 ID:pprAvpq+.net
多分本当。多門院日記に武田軍の戦死者はわずか1000だったと書いてる。
武田からすりゃ局地戦の中の局地戦でちょろっと負けただけでしょ。

250 :人間七七四年:2014/03/11(火) 01:39:43.10 ID:eXBNSm36.net
討死した面子見たら局地戦でちょっと負けた程度、なわけない。
侍大将なら、300騎持の山県昌景、内藤昌豊は高坂昌信に次ぐ大身だし、馬場信春、土屋昌続だって200騎持の有力な侍大将。
他の討死した面子だって信濃先方衆の有力者真田信綱、御親類衆の有力者河窪信実、龍朱印奏者の原昌胤といった面々だから、
15,000人中12,000人が討死というのは眉唾としても、甚大な被害を受けたことは間違いない。

251 :人間七七四年:2014/03/11(火) 08:11:46.44 ID:l460jq7F.net
でもそいつらが大身だった根拠なんてないだろ。
足軽組頭程度だったかもしれんぞ。

252 :人間七七四年:2014/03/11(火) 08:13:24.69 ID:l460jq7F.net
歴史上、小勢力側が大勢力との決戦で大敗した場合は例外なく速攻で滅ぼされてる。
大勢力は決戦で負けても、国力のゴリ押しによる戦力の補充が可能だが
小勢力側は、一度決戦に負けると、大勢力側に対抗できるような戦力の構築はまず不可能だし
ましてや、通説で言われてるような武田軍の大半が戦死したみたいな話が本当なら、
武田領国は織田からみて空っぽに近い状態になるから
上杉120万石や徳川40万石織田500万石なら、壊滅的な損害を受けた武田110万石程度間違いなく一ヶ月程度で瞬殺できる
岩村一城で半年ももたついて自力で落とせず騙まし討ちに頼るとかありえない。

253 :人間七七四年:2014/03/11(火) 08:23:28.92 ID:8nMxnx2X.net
で、そいつらが討死したとする一次史料はまだなの?

254 :人間七七四年:2014/03/11(火) 09:44:01.40 ID:X4raqNNg.net
勉強になります。
姉川の戦いも織田の圧勝とドラマでやってるのも、創作なのでしょうか?

255 :人間七七四年:2014/03/11(火) 09:55:01.81 ID:lqs4mMAh.net
>>254
そもそも浅井朝倉に決定的なダメージを与えた合戦ではなかった、という見方が現在では主流。
信長が浅井朝倉の攻勢を何とか止めた、くらいの評価だな

256 :人間七七四年:2014/03/11(火) 10:15:23.58 ID:1WiNGMWd.net
菅沼遼太の自演がむごいな
自演で質問までしだすとか

257 :人間七七四年:2014/03/11(火) 10:41:36.23 ID:R8PBf1XI.net
信長が勝っていたら志賀の陣で、
朝倉に土下座するような事態を呼び込むわけねーだろ。

258 :人間七七四年:2014/03/11(火) 10:46:58.87 ID:R8PBf1XI.net
>>238
日付はいつ?誰から誰宛に出されたもの?
内容を転記してください。

259 :人間七七四年:2014/03/11(火) 11:16:47.82 ID:qCOvmDmp.net
ドラマではよく浅井朝倉相手に連戦連勝して姉川の戦いもその一環のように描く事が多いですが
それはやはり誤りという事でしょうか。滋賀の陣の敗北も、よく省略される事が多いですし…

260 :人間七七四年:2014/03/11(火) 11:43:25.67 ID:Te6Ny12t.net
>>249
正気で言ってる?
「戦死者」が一千って大損害レベルなんですが

普通の合戦だと「戦傷者」は死者の3〜5倍は出る
これはもちろん生きていても戦力としてはカウントできなくなる
帰還しても直らずに死んだり、障害が残ってやはり兵士にはなれなくなるものも出てくる

「戦死者一千」がたいしたことない・局地で負けただけ、なんて言えるようになるのは
第一次世界大戦になるまでまたなくてはならないのが人類史
創作品で派手に戦死者が千万単位ででるのに毒されすぎだ

261 :人間七七四年:2014/03/11(火) 11:46:44.49 ID:Te6Ny12t.net
>>259
勝敗でいうのなら間違いなく織田の勝利、これは覆しようの無い
ただ、朝倉・浅井の軍には、あまり損害は与えられなかった

で、重要なのは、戦の勝敗って軍の損害だけで決まるもんじゃないからね
重要なのは戦う目的を達成できたかどうかであって
その意味では織田は最低ラインは達成した
朝倉・浅井は失敗した

262 :人間七七四年:2014/03/11(火) 11:52:30.91 ID:l460jq7F.net
戦う目的なんてどうとでも解釈できるからそんなもんは妄想でしかないだろ。
例えば長篠合戦なんて勝頼が侵攻してきて織田が撃退したのか
織田を誘い出す目的で、陽動的に勝頼が出兵してきたかわからんし
姉川合戦も浅井朝倉が侵攻してきたのか
織田が浅井朝倉領に向けて侵攻してきたかとか色々な解釈ができる。
だからそんなもんは妄想にすぎない。

263 :人間七七四年:2014/03/11(火) 11:58:01.24 ID:QBs1cozk.net
戦いの目的というのは、領土を切り取る事だが、そのために相手を殲滅するために野戦を挑んだりするんだろ。
なら前後の戦況変化に加えて戦闘中の両軍の被害状況は勝敗を見極める上でかなり大きな決め手になる。
姉川の場合は両軍ともに直接の戦闘目的は達成してないし、両軍の被害も大した事ない。
直後の滋賀の陣では織田の家臣達が森や坂井ら当時トップ4の連中やその与力などが次々に殺されてる。
だから状況推移で語るならば浅井朝倉に対して織田の負けに近いだろう。
信長は細川に当ててもう誰が敵か味方かよくわからん。兵糧も物資も玉薬も不足してるとわめいている始末だし。

264 :人間七七四年:2014/03/11(火) 12:00:19.75 ID:pprAvpq+.net
信長は朝倉に土下座したし朝廷にも土下座してなんとか停戦に持ち込んだんだよな。
プライドの高いと思われる信長がそこまでやったという事は相当窮地だったんだろ。

265 :人間七七四年:2014/03/11(火) 12:09:58.81 ID:Te6Ny12t.net
>>262
領土を切り取るのが目的なら、浅井は姉川の結果領土の三分の一を失っているのだが
そして援軍の朝倉は、浅井の領土を防衛できなかった

266 :人間七七四年:2014/03/11(火) 12:28:22.62 ID:l460jq7F.net
浅井が姉川の結果領土の3分の1を失ったというのは何に書いてあるのでしょうか?

267 :人間七七四年:2014/03/11(火) 12:50:11.93 ID:fAkhQfqf.net
>>266
何かに書いてある、とかでない
姉川の前後で坂田郡の堀氏などの豪族が織田に降伏し、
そして戦後には横山城が降伏開城して秀吉が入城
これにより浅井氏の支配は湖東では鎌刃城より南にはまったく及ばなくなった

268 :人間七七四年:2014/03/11(火) 13:01:04.07 ID:l460jq7F.net
>>267
つまり堀氏が裏切ったから、織田が姉川に勝利したと逆算が可能という事でしょうか?
でも、その理屈なら、織田の分国は、どこの国も寝返りだらけなので、戦いに負けまくってた事になりますが。

269 :人間七七四年:2014/03/11(火) 13:03:27.85 ID:uNycstUz.net
確かにそうですね。戦いの前後で周辺小大名の帰趨によって、戦いの勝敗の是非がわかるというなら
織田の分国は常に離反だらけなので、いつも戦に負けていた事になりますね。

尾張→水野氏虐殺
美濃→国人蜂起(遠藤氏等)
山城→幕府衆決起
北伊勢→一向宗虐殺
南伊勢→北畠氏虐殺 (騙し討ち)
北近江→国人蜂起(浅井氏)
南近江→延暦寺焼討
越前→一向宗虐殺
摂津→国人蜂起 (荒木氏等)
河内→本願寺蜂起
和泉・紀伊→雑賀衆蜂起
大和→国人蜂起 (松永氏等)
伊賀→伊賀衆蜂起
甲賀→甲賀衆蜂起(六角氏支援)
丹波→国人蜂起 (波多野氏等)
播磨→国人蜂起 (別所氏等)
加賀→一向宗虐殺
越中→一向宗虐殺

270 :人間七七四年:2014/03/11(火) 13:05:18.88 ID:pprAvpq+.net
信長ほど領主や家臣に裏切られまくった大名は中々いないからね。

271 :人間七七四年:2014/03/11(火) 13:06:59.89 ID:fAkhQfqf.net
>>268
勝利の一因の一つであってそれだけが原因ではないし
そもそもそんなことこちらは一言もいっていないし

なにより一行目と二行目にも繋がりがありません
反論するのなら詭弁を使わず論述のルールに従ってください

忠告しますが、詭弁は使えば使うほど、使用者の主張の信憑性を損ないますよ

272 :人間七七四年:2014/03/11(火) 13:07:53.35 ID:fAkhQfqf.net
>>269
一方の例だけを取り上げて他を切り捨てて印象操作をする
典型的な詭弁術ですね

273 :人間七七四年:2014/03/11(火) 13:52:41.66 ID:1WiNGMWd.net
菅沼遼太と自演と相手にしたい奴は議論スレ行け
質問スレでやるな

274 :人間七七四年:2014/03/11(火) 19:04:22.64 ID:pprAvpq+.net
>>271
あなたは姉川の戦いが織田勝利の根拠として姉川の前後で坂田郡の堀氏などの豪族が織田に降伏し、
そして戦後には横山城が降伏開城というのをあげてるんでしょ?
でもその理屈なら、信長は常に裏切りと離反だらけなんだから、毎回戦に負けまくってた事になるでしょ。
大体姉川の結果堀氏らの裏切りや横山城の降伏が起きたのか、戦後処理や政略や調略でそれが起きたのか全く不明だし。
ローマ軍に勝ちまくったハンニバルが、速やかにローマを制圧できず結局ローマに撃退されたからといって、
カンネの戦いなどハンニバルの勝ち戦までまけにならないのと同じだよ。
戦と直接関係あるかないかわからん調略や政略や朝廷和議による成果である国人の帰趨や趨勢や離反などまで
戦の勝敗と無理矢理結びつけるのがアホな発想なんだよ。

275 :人間七七四年:2014/03/11(火) 19:07:16.67 ID:SCw39wSA.net
確かに豪族が味方になったから戦いも勝ったという逆算が可能なら
家臣に裏切られまくって家臣に負けて殺された信長は、常に周辺諸大名との戦いで負けていたという逆の論理も十分成立するね。

276 :人間七七四年:2014/03/11(火) 19:11:19.95 ID:EbAVjSvh.net
長篠の戦いなんて織田圧勝とか言われてるけど
戦いの前後では豪族国人誰1人として寝返ってないじゃん。
勢力図にもほとんど影響がなかったし。

277 :人間七七四年:2014/03/11(火) 19:57:49.13 ID:5gzqTpDi.net
太田がちょっと前に姉川再考みたいなの
出してたなぁ。
討ち取られたのでVIPクラスは一人もおらず
勝手に南下して攻めて、ちゃちゃっと逃げてった
みたいな感じだったか。
だから3年も続いたんだろうしね。

278 :人間七七四年:2014/03/11(火) 21:56:24.43 ID:QAfxhFrW.net
家の菩提寺である
浅草の池の妙音寺には武田今川後北条と真田遠山朝比奈以下のその家臣団の末裔と思しき墓があるんだ
誰か来歴ご存知の方いたら教えてくらはい

279 :人間七七四年:2014/03/11(火) 22:15:29.67 ID:KtLsqrUl.net
裏切りとか離反が敗北としてカウントされると謙信公常勝不敗伝説に傷がつくからダメ

280 :人間七七四年:2014/03/11(火) 22:19:10.79 ID:od7qYBNs.net
>>258
答えられるわけねーだろw
自演レス連続投下で必死に有耶無耶にして逃げようとしてんだからw

281 :人間七七四年:2014/03/11(火) 22:20:41.40 ID:lqs4mMAh.net
>>280
横レスですまんが、キミ最近の清須会議や天正壬午の乱に関する論文読んだほうがいいぞ

282 :人間七七四年:2014/03/11(火) 22:50:18.34 ID:0IdudMjn.net
平山の「天正壬午の乱」
谷口の「信長・秀吉と家臣たち」
あたりを読めば一応書状が出てる事はわかるね。
ただ織田家としてどの程度の公認だったとかはよくわからないけど。

283 :人間七七四年:2014/03/11(火) 22:51:48.90 ID:lqs4mMAh.net
信雄からも信孝からも家康に援軍を送るって書状出してるからなあ。
完全公認って言っていいでしょ

284 :人間七七四年:2014/03/11(火) 23:03:27.93 ID:omcmz5BZ.net
能書きはいらんから、
>>281>>282>>283
早く一次史料を転記しろよ…

285 :人間七七四年:2014/03/11(火) 23:11:28.24 ID:lqs4mMAh.net
>>284
自分で調べろよ気持ち悪い。その上で疑問があったら聞け

286 :人間七七四年:2014/03/11(火) 23:19:22.07 ID:omcmz5BZ.net
www

287 :人間七七四年:2014/03/11(火) 23:30:09.08 ID:lXplNrbk.net
lqs4mMAhってアンチ秀吉三成のキチガイ在日だな。

288 :人間七七四年:2014/03/11(火) 23:30:50.46 ID:lqs4mMAh.net
在日とかレッテル貼りだしたらもうおしまいだな、人間として

289 :人間七七四年:2014/03/11(火) 23:42:49.40 ID:1WiNGMWd.net
菅沼遼太は毎度敗北するだけだから出てくんな
またコピペ連投して敗北宣言するのか?ん?

290 :人間七七四年:2014/03/12(水) 08:35:03.49 ID:EQqPQpku.net
詰まるところが、
一次史料の根拠なく主張してたって言う厳然たる事実が証明されただけだったな。
それ以上でも、それ以下でも無い。

291 :人間七七四年:2014/03/12(水) 11:09:37.61 ID:r0FWOXHS.net
>>274
その理屈で姉川の戦いを調べれば、織田の勝利が覆らないこともわかりそうなもんだが
自分で主張が矛盾していることに気づきましょう

292 :人間七七四年:2014/03/12(水) 11:31:33.80 ID:GRby0xu6.net
姉川の戦いが織田軍勝利というのは前後の状況からみてもありえないね。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ

織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。

10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない

293 :人間七七四年:2014/03/12(水) 11:44:24.17 ID:lFJp350y.net
苦しいな

294 :人間七七四年:2014/03/12(水) 11:56:57.08 ID:hTWr+4y/.net
敗北宣言の長文コピペ始まったか

295 :人間七七四年:2014/03/12(水) 12:00:59.94 ID:GRby0xu6.net
コピペが2ちゃんねるで敗北宣言なんてルールはないです。

296 :人間七七四年:2014/03/12(水) 12:02:29.64 ID:/ukKLcx+.net
コピペが負けならコピペが論破されてるというリンクで指摘できるはず。
それがないんだからコピペ側の勝利で議論は終わってるのは普通の人間ならわかる

297 :人間七七四年:2014/03/12(水) 12:03:57.97 ID:IWEGryGo.net
下記の言葉が出てきたら織田厨が論破されたと判断していい。
「長文」「コピペ」「菅沼」「だが」
まともに反論できないので答えに窮して他の事に摩り替えてるって事だからね。

298 :人間七七四年:2014/03/12(水) 12:04:32.29 ID:NnP8Alw0.net
何回も同じ話題繰り返すのは時間の無駄。
コピペで済む話だからコピペが何回も張られてる事に気づけ

299 :人間七七四年:2014/03/12(水) 12:05:10.42 ID:GRby0xu6.net
そもそも2ちゃんねるにコピペが禁止なんてルールはないです。

300 :人間七七四年:2014/03/12(水) 12:09:07.92 ID:XnAeUcer.net
禁止じゃないけど見苦しい。

301 :人間七七四年:2014/03/12(水) 12:23:27.17 ID:Ry1tHulb.net
>>284
必死に話題そらしをして逃亡しようとしてるアンチ豊臣のチョン織田厨が自演コピペしとるなwww
相変わらず武田厨を装い、大昔のsubレスの盗用コピペをしてるからすぐ正体が露呈する馬鹿低脳チョン。

302 :人間七七四年:2014/03/12(水) 12:39:20.16 ID:sivBXkf0.net
コピペが見苦しいとかないわ
過去で議論された内容がまとまってるんだから合理的な方法だろ。

303 :人間七七四年:2014/03/12(水) 14:13:12.17 ID:3qxYCk0x.net
自分で書いた者でもコピペが駄目なら毎回同じこと言い回し変えて打ち直しか
すっげーだるいな
そんなのしたら次はコピペを改変したろって揚げ足取りそうだしw

304 :人間七七四年:2014/03/12(水) 14:24:34.59 ID:XnAeUcer.net
いずれにしてもそんな長文の連投は誰も読まないから「コピペ連投、うざい。」という
マイナスイメージに終わるだけだ。やっぱり見苦しいだろ。

305 :人間七七四年:2014/03/12(水) 15:46:40.93 ID:GRby0xu6.net
2ちゃんに長文連投禁止なんてルールないです。
そもそも連投なんてしてないし、歴史に関する事例を詳細に語れば必然的に文章が長くなるのは当たり前。

306 :人間七七四年:2014/03/12(水) 15:48:23.96 ID:IWEGryGo.net
つか、この程度の長文も読めないなら歴史を語る資格なんてないだろ。

307 :人間七七四年:2014/03/12(水) 16:56:17.46 ID:lFJp350y.net
      l≡l
    ┌┤│
    └┤│
      ノ 丶
     ( (,,゚Д゚) 
     │∪ │つ
   〜((((  )))
      U ̄∪

308 :人間七七四年:2014/03/12(水) 17:27:56.65 ID:bG3fSb+t.net
     _______                     __
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   \ヽ、   |l | |    | | | |    | |  ``( (.  .| | | | ~~
      `、二===-'  ` ===' '  ` ===' '  // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
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309 :人間七七四年:2014/03/12(水) 17:47:18.89 ID:qla0VdBL.net
菅沼遼太が完全敗北してしまったのか
コピペばかりで問題解決になってないから、俺が一次史料提示するよ

愛知県史、天正十年9月3日 柴田勝家書状

「信・甲之事、其之後無異儀之旨尤候、後詰之敵、家康かたへ千余被討捕之由、
 彼一札自尾・濃被指越『才皮(てへんに皮で一文字)』見候、可然仕合候」

南行雑録 十月六日 柴田勝家書状

「家康手前之儀、度々被成御動座、武田一類悉被討果平均ニ被仰付御跡ニ候、
 殊更北条事、御在世中者毎事伺御意候処、立所替覚悟無所存候輩家康ト対陣、既実否究候段」

ちなみに愛知県史には8月26日織田信孝書状、12月17日徳川家康書状から
実際に派遣されたのは織田信雄の指揮下にいた水野忠重のようだねぇ

310 :人間七七四年:2014/03/12(水) 17:58:52.20 ID:hTWr+4y/.net
敗北宣言してるのに死体蹴りはやめて差し上げろ

311 :人間七七四年:2014/03/12(水) 19:02:37.29 ID:bSqPNLCV.net
>>309
歪曲すごいなwちゃんと書状を読もうね。

柴田は、この時点ではまだ徳川が織田領を横領するとは思ってない。
特に8/26の信孝書状を読めばよくわかるが、
織田軍は自領である信濃と甲斐を守るために、
駿河に駐屯していた織田軍が箱根の手前の山中口と、
伊那口から北条を攻撃するために出陣する寸前だった。
しかし家康が織田のために働き、相模衆を取り囲んで討ち果たす寸前だとの
報告を得て、わざわざ織田軍自らの出陣の必要はなくなったと判断してる。
これをお前は、どうせ「徳川のために援軍を出して織田が奔走しようとしているので
これは織田が家康に信濃・甲斐の割譲を公認した証拠」と歪曲解釈してんだろw
きちんと書状を理解していれば、家康から織田軍が自ら出ていただく必要はありませんって、
律儀な報告を得て、織田本隊の出馬を見送っていて、
家康が織田領を守ってくれていると認識してんだよ。
家康が牙を剥いて、徳川領にい併合する野心をむき出しにするのは、
秀吉・信雄と信孝・柴田の対立を悪用するようになってから。
それは10/5の家康→信雄家臣飯田半兵衛宛において、
尾州国人之義、御手置等被仰付候、左様候得者、三州内之儀返被下候などと、
豹変した家康が信雄から領地を割譲しろと脅迫していることでもわかる。

312 :人間七七四年:2014/03/12(水) 19:51:47.88 ID:hTWr+4y/.net
菅沼遼太ぶざま

313 :人間七七四年:2014/03/12(水) 19:57:09.63 ID:F88lAkTs.net
家康は桶狭間の後でも似たようなことしてるからな。
家康のハラの中と相手がどう思ったかは違う話。
信長がいなくなって、織田に忠誠を誓う、なんて
律儀に考えるのは誰もいない。
秀吉も家康もヤル気満々だったろう。
火の無いところに煙をたてるのは
秀吉ぐらいだろうが。

314 :人間七七四年:2014/03/13(木) 00:35:53.75 ID:jyj/s3f/.net
仙台藩百姓はどうなったの?

315 :人間七七四年:2014/03/13(木) 01:02:28.83 ID:KZX0KpDN.net
snipped (too many anchors)

316 :人間七七四年:2014/03/13(木) 01:34:08.22 ID:sXRIldwh.net
最近の菅沼遼太は史料名出せば妄想も事実になるという朝鮮人脳が激しいからなw


で、>>311で提示された「尾州国人之義、御手置等被仰付候、左様候得者、三州内之儀返被下候」のどこに
「豹変した家康が信雄から領地を割譲しろと脅迫している」と書かれてあるのか文訳してほしいなw
見たところどう見ても領地を返却すると書かれているようだが
さぞ名のある翻訳家が「信雄を脅迫した」と訳したんだろうな?w
しかも>>307の原文書状にはまるで触れていないようだけど、結局>>311
「反論できないのでとりあえず揚げ足取りました」ってことでいいのかなw

317 :人間七七四年:2014/03/13(木) 08:30:50.08 ID:iz2A3KFa.net
まーた在日アンチ秀吉の家康むりくりage工作かよ。
なんで駿河加増と安土城臣従した配下になった家康のために、
織田軍が働くんだよ。
信長死んでも未だ分裂前で600万石もある織田に家康が歯向かうわけ無いだろ。
信長死んだ瞬間からいきなり家康が主で織田が臣下に主客転倒するわけ無いわw
チョンの家康age狂いがキチガイ過ぎてワロタw

318 :人間七七四年:2014/03/13(木) 11:27:53.92 ID:N8X5+dPj.net
家康は織田三法師政権を配下にしていたニダ!!!
清洲会議は徳川による織田従属を決める会議だったニダ!
徳川様に家臣の織田が援軍を送るのは当たり前ニダ!
秀吉はザコだったニダ!

319 :人間七七四年:2014/03/13(木) 16:05:02.23 ID:M4gzEiex.net
菅沼遼太が妄想をこじらせたのか
主君が家臣を助けるのはこの時代でも当然のこと

ただえさえ秋山と岡部を見殺しにして、ついに家臣に総寝返りされて
滅亡した武田という馬鹿勢力がいたのになw

320 :人間七七四年:2014/03/13(木) 16:25:11.29 ID:j599HvJ9.net
菅沼遼太はあいかわらずダサいな。全てが

321 :人間七七四年:2014/03/13(木) 21:11:08.51 ID:A8XwuKmR.net
話の流れを切ってしまいますがすみません
秀吉の鳥取城攻めの時のように人肉を食べてしまうような事態が起きる合戦は他にありましたか?
特に頭部が美味で奪い合いが激しかったと記述された文献(ソース忘れました)も見かけました
やはり当時もカニバリズムは禁忌ですよね?￿

322 :人間七七四年:2014/03/14(金) 12:40:33.07 ID:UbrERJgb.net
七尾城の籠城戦がかなり酷いことになったという記録はある
ただ人肉食があったかどうかは判らん

323 :人間七七四年:2014/03/14(金) 13:32:46.54 ID:0ta4Xhyr.net
ぷよぷよの美味しいうちに食べるならともかく、飢餓状態のガリガリになったやつじゃなぁ

324 :人間七七四年:2014/03/14(金) 19:48:53.33 ID:3FvUt3LI.net
人肉食べるなら軍馬食べればいいのに・・・

325 :人間七七四年:2014/03/14(金) 21:23:02.69 ID:UbrERJgb.net
中国のケースで言うのなら、馬は戦うにも逃げるにも必要
男手はもちろん戦力として必要

というわけで女子供老人が両脚羊になる

326 :人間七七四年:2014/03/14(金) 22:51:51.39 ID:SRPvyYL9.net
先天性無痛症の信長

327 :人間七七四年:2014/03/14(金) 22:53:00.99 ID:4BoNs2Ze.net
籤とかもそうだけどあの辺はやらせだろ

328 :人間七七四年:2014/03/15(土) 01:11:59.63 ID:fQ04lR3I.net
信長のドラマでは、必ず敦盛を舞う場面がありますが、実際に敦盛(もしくは他の能)を好んで舞ったという出典はあるのでしょうか?

329 :人間七七四年:2014/03/15(土) 01:14:15.62 ID:m5glyeEn.net
>>328
信長公記

ちなみにドラマで信長が待っている敦盛は謡の敦盛で、信長の時代には存在しないものだから嘘だぞ。
信長が好んだのは「幸若舞」の敦盛だ。

こんなの
http://www.youtube.com/watch?v=tysvTLPR2EI

330 :人間七七四年:2014/03/15(土) 01:45:36.30 ID:fQ04lR3I.net
>>329
素早い返答ありがとうございます
ということは人間50年〜というのは、
信長の死後になって出来たものというわけですね

331 :人間七七四年:2014/03/15(土) 07:50:55.47 ID:Hn9Wd0l7.net
>>330
ちゃうよ。
公記にもちゃんと、「人間五十年〜」という部分は
記述されている。
ようつべでやってるのも、メロディーなんかは不明なのを
推測して歌ってるだけで、鎌倉以降このフシで歌ってたかは
不明。
つまり、テレビで信長が踊ってるフシは同時代とは言えない
というだけで、現代でもそれはそうだし
セリフは信長の時代にもちゃんとあった、当然だが。

それより「人間」を「にんげん」ではなく「じんかん」と読んでたろう、
と詳しい人たちがこないだモメてた?から
ウンチクなら、こっちを覚えておくといいよ。

332 :人間七七四年:2014/03/15(土) 09:18:42.57 ID:vsFvLaBh.net
解る人いたら教えて、
手這坂の戦いって1569年と1573年どっち?

333 :人間七七四年:2014/03/15(土) 15:39:47.83 ID:FZrAu715.net
相手の領地を分盗る為に破壊、放火、稲や木材を略奪したら土地を獲得しても焼け野原で治める人が大変ですよね?

334 :人間七七四年:2014/03/15(土) 16:14:19.96 ID:xNY1rIaH.net
破壊活動の割合によります。
中立を表明して禁制を獲得した村などは無傷で残りますし
農村などにはもともとたいした財産やインフラがなかった時代ですので
人と土地さえ残っていればある程度被害はどうにでもなったでしょう

無論、博多のように簡単には取り返しの付かないほどの財産インフラが大規模に失われた例では
復興に莫大な時間や費用が掛かるので獲得しても美味しくはないでしょう

335 :人間七七四年:2014/03/15(土) 18:51:20.68 ID:gcgovjc6.net
博多に何があったん!?

336 :人間七七四年:2014/03/15(土) 20:21:06.45 ID:+1d4wZ6a.net
>>322-325
レスを下さった皆さん有難う御座います
やはり食人に関しては稀有で例が見当たらないほどの事態だったという事ですね
鳥取城の飢え殺しがどれだけ凄惨な事なのか改めて再認識しました

337 :人間七七四年:2014/03/15(土) 23:13:50.56 ID:fQ04lR3I.net
>>331
詳しい返答ありがとうございました
よく分かりました

338 :人間七七四年:2014/03/16(日) 11:10:48.34 ID:31+eUeoA.net
>>335
島津によって博多は全焼し廃墟になってる。
秀吉が朝鮮出兵を視野に入れて、すげぇ速さで大金投入して大規模復興させたけど。

339 :人間七七四年:2014/03/17(月) 23:47:26.30 ID:JD5JrrT7.net
大河の小寺所領って、何万石くらいなの?
動員兵数1千だから4万石ってとこ?

城とか本陣とかもっと小大名らしい
所帯じゃないとおかしいと思うのだが、、、

340 :人間七七四年:2014/03/18(火) 00:44:42.41 ID:ZbHTrOp2.net
太閤検地播磨36万石で当時は小寺、別所、龍野赤松で三等分されたてから
10万石くらいはあったんでね

341 :人間七七四年:2014/03/18(火) 08:25:34.18 ID:JX8H1Sc+.net
軍役を担う侍身分(騎馬武者除く)や中間?クラスが合戦で死んだ場合、農民から駆り出したりして補充するんでしょうか?

342 :人間七七四年:2014/03/18(火) 08:28:55.89 ID:eWvTdmUN.net
大河の世界観では三頭分だね。たしかに。

343 :人間七七四年:2014/03/18(火) 19:54:40.19 ID://yMSr2D.net
ついに一般紙やNHKにも扱われて表面化した
日本相撲協会「1億円パチンコ利権」北の湖理事長の“右腕”への裏ガネ授受現場

相撲協会 裏金 取引現場@ パチンコ契約 X氏
動画 https://www.youtube.com/watch?v=Xq_pS_T8MRI
    http://www.youtube.com/watch?v=ralX6w-hPW0
NHK Newsweb
  http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140316/k10013013431000.html
意見・抗議はこちらへ
相撲協会  http://www.sumo.or.jp/guide/inquiry/input

こんな協会に公益法人なんていいのか  みなさんの力が必要です
この問題をうやむやにしようとした相撲協会を許さな!
相撲協会への厳罰を求めましょう  公益法人反対
内閣府  https://form.cao.go.jp/koeki/opinion-0002.html

344 :人間七七四年:2014/03/18(火) 21:22:33.28 ID:62jrYSX+.net
>>341
普通は後継者や一族が継ぐ。

345 :人間七七四年:2014/03/19(水) 19:00:38.62 ID:vptlB2JN.net
信長とかにいきなり斬られた当主の家とかって
直後はどうなってたの?

相続認められずに知行接収とか?

346 :人間七七四年:2014/03/19(水) 22:07:27.62 ID:4MXhfUdP.net
敵の話なのか家臣の話なのか判らんが、家臣なら一族の他の者に継がせるか
族滅して召し上げるかだろう。

347 :人間七七四年:2014/03/19(水) 22:13:32.50 ID:PvDWIgqD.net
>>345
没収され自分のお気に入りに与えられる。

348 :人間七七四年:2014/03/20(木) 16:38:10.59 ID:QOA3D5RB.net
光秀なんて所領召上げられてんだから
よく考えたら謀反じゃないよなw

そんな最低限の信頼関係もないのに
よく死ぬまで織田軍団崩壊しなかったとすら思える。

349 :人間七七四年:2014/03/20(木) 16:52:20.37 ID:aHZ7OoKt.net
菅沼遼太神奈川は馬鹿だな

350 :人間七七四年:2014/03/25(火) 11:39:13.38 ID:limmO7wN.net
信長は明智に本能寺で焼き討ちに遭って亡くなったんですが
なぜ直ぐに逃げられるような道沿いの宿とか旅籠とかに泊まらなかったんですか?。
大人数の家臣がいるなら貸し切りにするとか 近くの味方の大名屋敷にしたら
すぐ火災から逃れられた気がします。
先生に聞いたら そこはいいから年号と本能寺の変とだけ暗記でいいと言われました。
しかも信長は信心がなくて比叡山焼き討ちもしていますよね?
なのになぜ 寺には宿泊したんでしょうか?。

351 :人間七七四年:2014/03/25(火) 13:53:00.01 ID:ByOMsUXZ.net
>>348
死んでから崩壊したわけじゃなくて崩壊し始めてるとこを光秀がトドメさしただけでしょ
光秀以前に裏切り者が居なかったというのなら別なわけだが

352 :人間七七四年:2014/03/25(火) 16:25:05.53 ID:Je/3bQEm.net
裏切りがでただけで崩壊が始まるのなら
武田も上杉も毛利も竜造寺も大友も随分と早い時期から崩壊が始まっていたんだな

353 :人間七七四年:2014/03/25(火) 16:26:40.44 ID:uLuvDoU2.net
>>350
すぐに逃げられる、というのは逆に言うと
暗殺とか攻めやすい、ってことだから
安全って意味だと逆効果かもしれないね。
かえって危険でしょ。

大名屋敷、というのは江戸と勘違いしてる
だろうけど、公家さんの屋敷しかないからね、当時の京都。

その中でお寺というのは比較的大規模で臨時の
宿としては都合がいい。たくさんのお客さんも迎えられるし。
信長は京では本能寺とか複数の寺を交代で宿泊してた。
的を絞らせない、という意味ではちゃんと安全の意味もあるよね。

信心が無い、というのも俗説で叡山焼き討ちの時も
「焼くとタタリある?」と神様のほうに聞いたりしてる。
別に仏教自体を嫌ってたりしてたわけじゃないのね。

それと、本能寺で焼き討ち、というのもなんかおかしな
言い方だなあ。叡山攻撃とごっちゃになってそうだけど。
油断といえば油断だけど、あんな京のど真ん中まで
大軍で直接攻撃されるなんてさすがに思わない。
光秀は一番評価の高かった家臣だしね。

それと、光秀が領地取り上げられてた、というのも
明智軍記あたりが出典の俗説でしょう。

354 :人間七七四年:2014/03/25(火) 16:40:16.53 ID:C8I1A/YD.net
>>350
本能寺はただの寺ではない、当時は堀を有した要塞だった。
あと一番近くの城は二条城(当時はもっと東にあった)だが
「これは城介の仕業か?」のセリフが正しいなら避けるだろうな。

355 :人間七七四年:2014/03/25(火) 16:52:09.96 ID:xtlYfxQC.net
>>350
幕末に会津藩主松平容保が京都守護職の任に当たった時も金戒光明寺というお寺を
本陣として使っている。お寺というのは普通の旅籠よりは余程軍事的な拠点にふさわしいものです。

すぐに逃げられるようにというけど、攻める側からしたら逃がしたくないからすっかり取り囲んでから攻撃するんですよ。

356 :人間七七四年:2014/03/25(火) 17:16:23.50 ID:+zgDfpI+.net
>>352
んなもん修復出来るか出来ないかの差だろ

357 :人間七七四年:2014/03/25(火) 17:30:34.11 ID:uLuvDoU2.net
戦国時代に、旅籠、なんてないから
質問する方の勘違いということで安心して。

358 :人間七七四年:2014/03/26(水) 05:08:12.85 ID:3bxCsS+Z.net
「佐藤」という名字の戦国武将がいなかった(私が知らないだけかもしれませんが)のは、
何か特別な理由があるのでしょうか?

359 :人間七七四年:2014/03/26(水) 06:36:34.54 ID:U78NsWV6.net
相馬や佐竹の家臣の信夫佐藤氏

360 :人間七七四年:2014/03/26(水) 12:25:20.73 ID:zczeU5pH.net
>>358
逆に有名な武将がでなかったからこそ
一般に広まった、という言い方はできるね。
鈴木もそうだろうし、高橋、田中とか
ちょ〜有名武将や大名がいたら
名乗りにくいから、かえってシモジモに
広がった、という。

361 :人間七七四年:2014/03/26(水) 12:33:47.67 ID:oYFo/W9C.net
佐藤忠信
雑賀鈴木
高橋紹運
田中吉政「・・・」

362 :人間七七四年:2014/03/26(水) 22:35:13.43 ID:hQJSuHjT.net
今川みたいな名門の姓は江戸時代になっても名乗るの許されなかったが土地から取ったような名前の被りなんか幾らでもあるっしょ
離れた土地でも同じ地名とかあるわけだし

363 :人間七七四年:2014/03/27(木) 00:44:07.29 ID:hQoIJSbX.net
とりあえず>>360の話は鵜呑みにしちゃいけないって事でいいんでしょうか?

364 :人間七七四年:2014/03/27(木) 01:31:58.04 ID:jOQ3VuGT.net
東北に佐藤さんが多いのは信夫佐藤氏由来と言われているが、必ずしも子孫が多いからじゃなくて、
有名人の子孫という事にしておこうという事もあったろう。

信夫佐藤氏は平将門討伐などで有名な藤原秀郷の子孫で、源義経の家来の佐藤忠信・継信 兄弟が
一番有名か?

365 :人間七七四年:2014/03/27(木) 01:34:26.50 ID:jOQ3VuGT.net
書き忘れたけど信夫は福島県北部の地名ね。

366 :人間七七四年:2014/03/27(木) 09:41:11.55 ID:wsv4xZ6w.net
>>363
名字トップ100を眺めるだけで間違ってると分かる説だな

367 :人間七七四年:2014/03/27(木) 10:47:13.56 ID:XYGoAhY3.net
360だけど、どうして?
一般の名前の由来を知ってればそうでしょう。
そりゃどんな苗字だってひとりぐらいは武将が
いるだろうけど、そういう例外をさがすスレじゃないでしょう。
2ちゃんだから、例外をみつけては、違うだろ、って
言う話にしたいのはわかるけど。

もし佐藤鈴木が関白や将軍になってたら
400年たって、「織田や徳川はよくある名前ですが
どうして有名武将にはいないのですか?」という話ね。

それに戦国時代はケータイもないから地方に
ある名前の武将がいたってわからない、そういうことさ。

364は、あくまで「東北に」の話しだし、いかにも
限定された例を出して拡大解釈、反論論破、なんてのは
質問スレではやめたほうがいいと思うけどね。

ちなみに、「佐」は四等官から、鈴木は神社から、田中高橋は
地形由来、とかそういうのが基本で、どこにでもある。

ただ、358の質問は「戦国武将がいるかどうか」で、
初歩の知識の質問だから、全国的に支配影響を及ぼした
武将、大名がどうしていない?に、こっちは解答してる。
レベルの違う話、というのはわかってほしいけどね。
マジレスもなんだが・・

368 :人間七七四年:2014/03/31(月) 02:09:34.09 ID:JyLQTJza.net
黒田考高みたいに独自の優れた情報網を持って出世、勢力
を広げた武将って他には誰がいますか?

369 :人間七七四年:2014/03/31(月) 02:12:21.55 ID:bCS00YLC.net
独自の優れた情報網ってなんのことですか?

370 :人間七七四年:2014/03/31(月) 10:19:19.10 ID:eCk0M2NX.net
もしかして薬屋としての販促路のことか?

371 :某研究者:2014/03/31(月) 15:47:49.49 ID:TM0CXZ9E.net
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/ume.html
上に利休梅と言う家紋が有るが
此れは利休が考えたのかだが
戦国期にこの家紋は使用されて居たのかだが

372 :人間七七四年:2014/04/01(火) 14:17:10.06 ID:mpJcV+QM.net
国にもよるとは思うのですが、名も無き武士の基本的には一日ってどのようなスケジュールだったんでしょうか?
朝には朝食をして昼には主君の元に出仕(もしくは訓練?)して夜に帰宅というサラリーマンのような感じだったのでしょうか?

373 :人間七七四年:2014/04/01(火) 15:55:05.35 ID:b3A6OEuQ.net
出勤は朝早くで昼過ぎくらいに帰宅
午後も完全に自由時間というわけではなく
外回りしたり人と会ったり訓練したり自分の用事したり
夕方自宅の門を閉めたら自由時間。寝るのも早い
食事は朝夕の二回
警備組は夜を重視してたので昼担当者以外は昼寝したたらしい
また江戸時代と違って城下に定住してるものは少なかったので
2週間ずつや一ヶ月ずつ交代で城に在番するか地元にいるかしてた

374 :人間七七四年:2014/04/02(水) 03:53:49.49 ID:QqHZsR4M.net
適当なスレがあれば誘導お願いします


籠城戦において、三の丸への門が突破された時
三の丸を守っていた兵士が二の丸へ退却して
敵が到達する前に二の丸への門を閉める必要がありますが
そのタイミングはどういうものなのでしょうか?

門が破られそうになった時点で三の丸を放棄?

討ち死にか投降前提で兵士を二の丸へ入れない?


もちろん場合によるかと思いますが
一般論というか城の設計上はどうなのでしょうか?

375 :某研究者:2014/04/02(水) 07:54:09.52 ID:l7LD4Czi.net
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1477641259?fr=pc_tw_share_q
肩高190cmと言う帝釈栗毛等の巨大な日本馬は
現実には存在しないと言う意見も有るが
ホルモン異常で肩高2m等の巨大な日本馬が
少数存在した可能性は無いのかだが

376 :人間七七四年:2014/04/02(水) 11:04:09.34 ID:OpX6xWs0.net
>>374
普通は将兵を収容してから門を閉じます。
前線を守備してる味方部隊は有力な部隊なので
それなくしては二ノ丸の守備もままなりません
もちろん統制の取れた退却をしないと島原の一揆軍のように
味方と一緒に敵にも雪崩れ込まれて本丸まで落ちるという事態になります

377 :人間七七四年:2014/04/02(水) 13:22:18.03 ID:TCK8vOFj.net
『毛利輝元は児玉元良の娘を気に入り、たびたび元良の自宅を訪れるようになったが
そうした行動を快く思わなかった元良は娘を杉元宣に嫁がせた』とあったけど、輝元
と元良って仲悪かったの?普通に考えたら出世の大チャンスじゃん?

378 :人間七七四年:2014/04/02(水) 13:46:51.75 ID:OpX6xWs0.net
輝元はただの色ボケだから出世につながらない、
そのうち飽きられて見向きされなくなるだろう娘が不憫。
という意図で作られた話だと思うよ

379 :人間七七四年:2014/04/02(水) 22:21:18.09 ID:LAbvip7V.net
「外国人(白人・黒人)と直接会うと穢れる」という迷信がほんの140年ほど前まで蔓延っており、
保守思想の孝明天皇は死ぬまでパークス英国公使やロッシュ仏国公使との会談要請を拒んでいたようです。
戦国時代に外人と「仲介」ではなく「直接」会った開明的な大名はどのくらいいますか?

380 :人間七七四年:2014/04/03(木) 00:16:14.64 ID:JSRdpYcR.net
いっぱい居過ぎて書ききれません。

381 :人間七七四年:2014/04/03(木) 00:59:54.45 ID:3mqLNHaq.net
そうなのですか?明治時代ですら祟りを恐れて物忌した記録があるのですが。

382 :人間七七四年:2014/04/03(木) 01:05:35.27 ID:3mqLNHaq.net
よく考えてみると
外国人の肌の色・眼の色・髪の色が異なっている=病魔・祟りだという迷信が広まったのは
鎖国による接触機会の減少も影響しているかもしれません。
南蛮人の来訪が多い戦国時代はそこまで恐れられていないとしても納得です。
ありがとうございました。

383 :人間七七四年:2014/04/03(木) 08:23:04.70 ID:ixolQ1S8.net
>>382
次回からは、質問してからよく考えるのではなくて、よく考えてから質問してください。

384 :人間七七四年:2014/04/03(木) 08:43:32.64 ID:1bTRx1pE.net
島津は南蛮犬にさえ恐怖して持って帰れと動揺しまくったw

385 :人間七七四年:2014/04/03(木) 09:42:40.46 ID:qTkhpfMQ.net
新しい病気持ってきたりするからな

386 :人間七七四年:2014/04/03(木) 10:38:27.24 ID:+zeEfmvO.net
ヤスケ以外の黒人が日本に居た記録ありますか?

387 :人間七七四年:2014/04/03(木) 12:06:25.38 ID:JSRdpYcR.net
南蛮船には多くの黒人が乗り込んでいましたし
宣教師も従者として連れて歩いたそうです
1546年に来日したポルトガル人船長ジョルジェ・アルバレスが
ザビエルに宛てた書簡で「日本人は黒人を見ると珍しさから大喜びする」とあるのが
記録上では最初だと思います

388 :人間七七四年:2014/04/04(金) 08:49:43.94 ID:i5SN4FHa.net
>>385
当時はそんな知識無いよ。

389 :人間七七四年:2014/04/04(金) 10:55:02.87 ID:jCKa3us2.net
あるよ、

390 :人間七七四年:2014/04/04(金) 20:20:11.58 ID:gKSEKlrO.net
あったら、そもそも対策を施し梅毒が流行したりしないし

391 :人間七七四年:2014/04/04(金) 20:45:17.72 ID:jCKa3us2.net
原因と対策がわかってなかっただけで移り病が有ることはわかってたよ

392 :人間七七四年:2014/04/04(金) 20:52:23.28 ID:mPRle1qH.net
かなり言葉足らず低レベルなので他でやってもらいたい

393 :人間七七四年:2014/04/04(金) 21:52:19.46 ID:jCKa3us2.net
ハイレベルなフォローお願いします

394 :人間七七四年:2014/04/04(金) 22:02:17.30 ID:mPRle1qH.net
他でやれと言ってるのに文盲ですか

395 :人間七七四年:2014/04/04(金) 22:16:00.19 ID:jCKa3us2.net
やれとは言ってないじゃん

396 :人間七七四年:2014/04/04(金) 22:17:48.08 ID:mPRle1qH.net
文盲でしたか。それは失礼しました。

397 :某研究者:2014/04/06(日) 07:44:32.61 ID:crLoI9Yl.net
mus-his.city.osaka.jp/news/2013/kawarikabuto/kawarikabuto_item.html
>雉子尾雌雄御太刀拵 (きじおしゆうおんたちごしらえ)

此れの原型は足利将軍家から南部家が拝領した物と言うから
戦国期には同種の物が他に有った可能性も有るのかだが
雉以外の頭部の付いた物は有るのかどうかだが
こうした拵が実戦で使用された例は有るのかどうかだが

398 :人間七七四年:2014/04/06(日) 08:38:50.18 ID:ESTiVRG0.net
関が原の中に豊臣の七手組がいたけど家康に文句や責任追及されなかったのですか?

399 :人間七七四年:2014/04/06(日) 17:31:52.37 ID:lH+TPOFJ.net
近畿をほぼ制圧した石田毛利政権に逆らえませんでしたで不問
ましてや東軍の旗頭でもある秀頼の直属でもあるし
他にも田辺城攻撃軍など許された大名は結構いる

400 :人間七七四年:2014/04/06(日) 22:40:30.78 ID:VGrHSug3.net
以前、島津氏を評して
「結局、空気読めないDQNが最強でしたってオチ」というのを見たことがあります。

空気読めないとはどういう事でしょうか
群雄割拠のイメージが強い戦国時代でも、予定調和とか暗黙の了解的な合戦の作法とかあったりしたんでしょうか?
また、島津氏がそう評される代表的な出来事とかご存じでしたら知りたいです

401 :人間七七四年:2014/04/07(月) 00:41:16.36 ID:sJuqeR+0.net
ただのネタです。

402 :人間七七四年:2014/04/07(月) 17:43:20.96 ID:hkOLMmAI.net
小笠原長忠と小笠原信興が同一人物説は、
1.いつ
2.誰が
3.何を根拠に
提唱したのでしょうか

403 :人間七七四年:2014/04/08(火) 02:08:51.14 ID:Mrbn5pcl.net
黒田基樹「高天神小笠原信興の考察」『武田氏研究21号』 1999年。(wikipedia小笠原信興)
これじゃないの

404 :人間七七四年:2014/04/08(火) 12:47:31.86 ID:zbEq2VyX.net
秀吉が今川に在籍してたのはいつからいつまでなのでしょうか?
松下氏に士官してたという事は陪臣でしょうか?

405 :人間七七四年:2014/04/08(火) 13:20:27.96 ID:ERTQoZT9.net
黒田先生は北条氏と武田氏の研究を専門にしているから、
織田氏の文書には小笠原長忠と小笠原信興が別人として記録されていることに気付かなくても仕方ない

武田氏関連史料に長忠が登場しないから、苦し紛れに信興と同一だと決め付けたのかも

406 :人間七七四年:2014/04/08(火) 16:45:07.40 ID:Mrbn5pcl.net
>>404
十代の頃に短期間と推測されてるけど正確な記録が残ってないので詳しくは分からない

407 :人間七七四年:2014/04/08(火) 17:58:25.76 ID:zbEq2VyX.net
>>406
資料が無かったんですね…知りませんでした
そういう話もあったんだなぁ〜程度に留めておく事にします

408 :人間七七四年:2014/04/08(火) 21:33:25.94 ID:Fk2R2Qev.net
・秀吉本人は松下家に仕えていた当時のことを話したがらなかった
・松下家は1560年代、今川氏真による謀反者討伐行動(遠州錯乱)の巻き添えで
 館が全焼。記録が残っているわけがない
当事者以外の場に記録されて無ければ、やはり記録はなさそう

ところで、
http://fukuroi-rekishi.com/siryo/2013/07/post-32.html
小笠原弥八郎(ここでは長忠と推定されている)と小笠原信興による書状がある
この袋井市歴史文化館でも、長忠と信興が同一人物かもしれないとする慎重な見解であるが
(少なくとも決め付けてはいない)、
これら6年の開きがある書状の筆跡鑑定はやってないのかね…
この二通が同一人物の書であるか否かが判明するだけでも一歩前進だと思うが

409 :人間七七四年:2014/04/08(火) 21:50:54.14 ID:Y9uRYbuQ.net
筆跡鑑定って万能や無いしね

410 :人間七七四年:2014/04/11(金) 21:31:03.83 ID:koFjgXXe.net
そもそも秀吉が今川や松下に仕えていたとする
元ネタの出所ってなんだっけ?
一次史料で証明は一切できないし。
宣教師の記述で信長が嫌で織田家から逃げ出して関東へ行っていたのはわかるんだよな。

411 :人間七七四年:2014/04/12(土) 00:09:27.54 ID:1TPlDlNW.net

一次史料で証明されてんじゃん

412 :人間七七四年:2014/04/12(土) 02:08:46.00 ID:gycUBTP4.net
>>411
じゃあ早く書いてくれよ。

413 :人間七七四年:2014/04/12(土) 09:55:22.06 ID:Q3N/w7JK.net
関東へ行っていた?

414 :人間七七四年:2014/04/12(土) 17:00:16.29 ID:1TPlDlNW.net
>>412
(天正十五年)四月九日付け秀吉朱印状

415 :人間七七四年:2014/04/12(土) 17:03:34.97 ID:aMkSvscG.net
>>414
内容は?

416 :人間七七四年:2014/04/12(土) 17:08:10.18 ID:1TPlDlNW.net
つか菅沼遼太かよ。相手して損した。ふざけんな氏ね

417 :人間七七四年:2014/04/21(月) 18:05:25.39 ID:WXIzj7MO.net
織田信雄が伊賀の土豪衆に敗れた第一次天正伊賀の乱について
具体的な合戦経過を知りたいのですが
伊賀勢は伊賀のどの辺りの戦場で
どんな戦法を使って数に勝る信雄勢を大敗させたのですか?

418 :人間七七四年:2014/04/22(火) 00:04:24.87 ID:LyBUUWW1.net
勢州軍記だと
名張口、馬野口から攻め込んだら伊賀衆が要害で堅固に待ち構えていきなり頓挫
速攻撤退となったが馬野口軍は補足され追撃を受けて鬼瘤の難所で柘植三郎を失う大損害
こんな感じで伊賀勢の戦法が優れていて勝ったと言うより
攻め込むべきじゃない時に攻め込んだ信雄の失態

419 :人間七七四年:2014/04/23(水) 07:53:50.94 ID:GmLrRfjy.net
>>414
松下加兵衞の事、先年御牢人の時、御忠節の仁に候
としか書いてないのに、秀吉が松下に仕えていたに違いないとかwすごい妄想力だなwww
松下が無職の浪人の時に武功あげただけじゃんwww

420 :人間七七四年:2014/04/23(水) 09:51:14.26 ID:ewGn0xfY.net
菅沼遼太がアホ言っても誰も相手しないよ

421 :人間七七四年:2014/04/23(水) 22:06:08.55 ID:SsTR6Yqo.net
きゃりPPの忍者りばんばん
www.youtube.com/watch?v=aAfcUezi7MQ
ってどうして歌詞ない前奏から忍者らしく聞こえるの?

422 :人間七七四年:2014/04/24(木) 13:22:35.09 ID:qdG8mOnV.net
最初に、にんじゃ、という単語をすりこまれてるから。

423 :人間七七四年:2014/04/29(火) 10:45:17.78 ID:ftyaF8bp.net
すいやせん
今三国志見てますけど、戦国時代に
敵を枯れ木があるところまでおびき寄せて火をつけたり
油を染み込ませた食料庫へおびき寄せて爆発させたりするような
火の計略ってありましたっけ?

424 :人間七七四年:2014/04/29(火) 15:04:57.54 ID:MJQbFzSk.net
焼討だの事あるごとに火を付けて回るのが戦国時代だけど
基本部隊が機動力のある中・大隊規模なので、火に巻かれるのろまはそうそういない

425 :人間七七四年:2014/04/29(火) 18:29:52.93 ID:mosUgbHF.net
今川方武将小原鎮実が、徳川家康に攻められた宇津山城を放棄退去する際に
火薬を仕込んでおいたけど、徳川軍に実害は無かった例ならある
罠に使った火薬の量が少なかったのだろう

426 :人間七七四年:2014/04/29(火) 21:19:59.39 ID:HdX4IAmy.net
火計は孫子でも一章当てる位古典的で有効な計略だ。
実際にはそんな派手なものではないけど。

427 :人間七七四年:2014/04/30(水) 12:26:52.40 ID:u41gB7PM.net
本陣から命令だけ出して自分は戦わない知能系総大将と
最前線に出て行って気が気じゃない武等系総大将って
家臣はどっちが良いと思ってたの?

428 :人間七七四年:2014/04/30(水) 13:01:20.30 ID:a63KsiAP.net
戦に強ければどっちでもいいと思ってたと思うよ

429 :人間七七四年:2014/04/30(水) 14:32:40.53 ID:cwRKVjNV.net
黒田長政・蒲生氏郷・佐竹義重「ですよねー」

430 :人間七七四年:2014/04/30(水) 23:03:12.45 ID:W16gh1QY.net
鳥居勝商みたいな状態で「味方は来ない」
とか言って信じられるもんなの?

疑念晴らす為だけに命捨てたって事だよな。

431 :人間七七四年:2014/04/30(水) 23:24:09.97 ID:EJMAX6TJ.net
>>427
信長が息子(信忠)に「前線で槍を振るうのは一僕(家来が一人しかいない下級武者)のやる事」と言って叱っているから、前線で戦うのは大将級のすべき事ではないと考えられていたんだろう。
長政や信忠みたいな成り上がり大身の二代目は親の七光りと言われるのを気にして、最前線で戦ったり無様に生き延びるよりも腹を切るのを好む傾向がある。

432 :人間七七四年:2014/05/01(木) 15:47:17.94 ID:5ym9gP00.net
信長っていつまで最前線出てたの?

433 :人間七七四年:2014/05/01(木) 18:20:16.86 ID:dq2KBccP.net
雑賀攻めの頃までかな
雑賀の庄で銃弾喰らって重傷負ってから、なんだか慎重になった

434 :人間七七四年:2014/05/01(木) 18:50:52.51 ID:07iXrqIo.net
>>433
それ雑賀じゃなくて天王寺じゃない?

だいたい美濃攻略戦の途中までは前線にも出てたみたい
稲葉山城攻略あたりからはせっぱつまった理由が無い限りは前線には出なくなった
天王寺はその例外の一つだね

435 :人間七七四年:2014/05/01(木) 20:32:24.49 ID:MitHqXpk.net
天王寺で信長が前線にいたなんて、
一次史料にないウソ話じゃん。

436 :人間七七四年:2014/05/01(木) 23:36:15.42 ID:g7HUxJat.net
菅沼遼太はいちいち出てこなくていいから

437 :人間七七四年:2014/05/02(金) 20:21:02.51 ID:oZVt6rUZ.net
六文銭についてお尋ねします
真田六文銭についてです。兄、弟が徳川側、豊臣側に分かれたときに家紋である六文銭を
徳川側が横六文銭として豊臣側は縦六文銭としたと聞き及びましたが正確なる
史実を教えてください

438 :人間七七四年:2014/05/02(金) 22:19:05.61 ID:VmhLGMwE.net
信繁が大坂の陣では本家に遠慮して六文銭の旗印を使わなかったと言う話とごっちゃになってんじゃね

439 :人間七七四年:2014/05/03(土) 11:27:54.40 ID:IVXaHemM.net
そういえば、六文銭って正式な家紋だったのかな?
通常家門は、自分の身分がわかるように属する一族の物や改良型などが多い
と思うのだけど、海野一族から独立したので作ったのだろうか。

440 :人間七七四年:2014/05/03(土) 12:08:53.96 ID:MmHcG38m.net
寛政重修諸家譜だと六連銭が定紋っぽい
真田氏本流の滋野一族が使ってたのを幸隆が用いだしたという説があるとか

441 :人間七七四年:2014/05/05(月) 12:37:24.96 ID:gOta7Tae.net
村上家みたいな家紋は簡潔で分かり易くて好きw

442 :人間七七四年:2014/05/05(月) 12:50:36.20 ID:gOta7Tae.net
あ、武田と争った村上さんね

443 :人間七七四年:2014/05/05(月) 16:11:31.68 ID:5mGAcIDQ.net
本能寺の変

信長や信忠に従って中国に出陣する兵は何人くらいいたんでしょうか?
本能寺の変時点では、それらの兵はどこにいたにでしょうか?

444 :人間七七四年:2014/05/05(月) 16:13:44.70 ID:5mGAcIDQ.net
タイプミス

×どこにいたにでしょうか?
○どこにいたんでしょうか?

445 :人間七七四年:2014/05/05(月) 17:20:43.77 ID:vUnb2zlB.net
先発隊1万3千、信長直属2千、出陣準備中集結中推定1万前後の、2万5千くらいじゃ無いでしょうか
先発隊と信長直属は本能寺で戦闘中。出陣準備中集結中の細川や筒井はまだ居城にいました

446 :人間七七四年:2014/05/05(月) 18:48:22.70 ID:5mGAcIDQ.net
2万5千くらいですか。
2万5千なら充分援軍になりますね。
回答有難う御座いました。

447 :うんち:2014/05/06(火) 02:33:17.48 ID:lmpegn6q.net
権現様脱糞以外にうんちに関する戦国時代のエピソードを教えてください
南北朝時代の英雄・大楠公のようにうんちを使い戦を有利に進めた例はあるのでしょうか
うんち、うんち、うんちっちー!

448 :人間七七四年:2014/05/06(火) 17:13:04.03 ID:/8DZ1lJG.net
武田家の家臣で、北条攻めの時、
兵站を任されたけど信玄にそれが不満だと言ったのって誰だっけ?
信玄に兵站も重要な仕事だって言われた人

449 :人間七七四年:2014/05/06(火) 17:34:58.76 ID:N+hPOIHO.net
内藤昌豊

450 :人間七七四年:2014/05/06(火) 18:04:36.98 ID:cVnDrdOh.net
主君から名前を一字頂いた時、やはり一族で代々使ってる文字じゃない方を消すんでしょうか?
あと主君から頂いた文字は基本的に上に配置するのでしょうか?

451 :人間七七四年:2014/05/06(火) 18:48:25.30 ID:/8DZ1lJG.net
>>449
そうだったか
サンクス
ぐぐっても出てこないな

452 :人間七七四年:2014/05/06(火) 21:05:28.36 ID:V5F1C5BU.net
>>450
そうなってる場合が多いけど、長尾景虎(上杉謙信)は通字の筈の「景」を削って
政虎とか輝虎とかにしてるな。単純に上を変更しただけかも知れないけど。

453 :人間七七四年:2014/05/06(火) 21:32:54.91 ID:a6IDshnl.net
昔読んだ歴史漫画で徳川家光が凄く悪徳将軍みたいな扱いでしたが、実際はどうだったんですか?

454 :人間七七四年:2014/05/06(火) 23:04:12.59 ID:N+hPOIHO.net
病弱から来る神経質なところはあったけど悪徳じゃないな

455 :人間七七四年:2014/05/06(火) 23:59:56.35 ID:rPuEUv57.net
>>452
そら謙信の場合は長尾である事を捨てて上杉になったんだから通字捨てるでしょ

456 :人間七七四年:2014/05/07(水) 01:39:06.17 ID:idBaS8UM.net
でも通字捨てたにしては、山内上杉の通字とおぼしき「憲」じゃなくて憲政個人に属する「政」だったり、
養子たちは景虎とか景勝だったりするじゃない。

457 :人間七七四年:2014/05/07(水) 09:28:01.16 ID:QFmc1UYN.net
>>453
戦国からはやや外れるし私見がはいるが・・・
卑怯かもしれないが20世紀視点から見て家光を好意的に見る理由がない
大名取り潰し後の浪人対策、大奥充実化、鎖国、辻斬り、濡れ衣で兄弟殺し、事実上父親抹殺…etc
当時の倫理観とは違うという声もあるが思いつくだけでこのくらいある。

458 :人間七七四年:2014/05/07(水) 12:33:31.66 ID:+Zql3SbK.net
当時としては鎖国を悪政とは言えないし大名取り潰しも兄弟抹殺もやっぱり必要悪な政治という評価もできるし
もちろん失敗もあるけれど、悪徳とは言えないなあ

……ところで、辻斬りって?

459 :人間七七四年:2014/05/07(水) 16:52:37.67 ID:1yQzkRBv.net
正義だけで統治が出来るほど戦国時代も甘くないんだよな
美談されてそう思えるような話は多数あるが本質は全然違う

460 :人間七七四年:2014/05/07(水) 17:24:18.53 ID:tgEWO5gk.net
浪人対策しなかったのは土井利勝あたりの責任だろう。
父親抹殺というのは意味判らん。大御所として実権握ってる秀忠を抹殺出来ないだろ。
親子仲が悪いのは秀忠が恐妻家で、お江に頭が上がらないのが悪いので家光の責任では無い。
儒教的倫理観ではそれでも親を敬えという事になるけど、それが確立するのはもっと後だろう。
忠長の件は忠長を担いで将軍にしたい家臣連中の責任だな。
大奥の件は家光が子作りに励まなかったせいでは有るけど、それは汚点なのか?

461 :人間七七四年:2014/05/07(水) 18:05:02.96 ID:Ll7Azedo.net
家光がしたのは徳川のための
私利私欲の行動、という観点から
低く評価する本などが新書であるけど
これは歴史本というよりかは
偏った観点の一種のトンデモだろう。

天下を預かるワントップがその一族のために
行動するのは当然で、それが世の安定、平和にも
つながる。
これを「結果のためなら手段はなんでも許されるのか」
とか言い出すのはケチをつけてるだけであろう。

鎖国、というのも、日本の文化を300年止めたバカ政策
とか言うが、実質は「貿易国有化」というべきで、あの時代
私的貿易を許してたら、それこそ経済的にも混乱
武力的にもおかしなのでてくるだろうし、一番安定した
政策であったろう。

海禁にして良かった理由に、武器の流入を防いだ
性病の流入を防いだ、麻薬の流入を防いだ、など
重要な点がいくつもある。
これは今でも徳川海禁政策の恩恵として
我々は感謝すべき、とすら思う。

家光の施策は、悪徳、どころか三代目政策として
非常に優秀で、今の視点、から見てもそれは同じように
感じる。

462 :人間七七四年:2014/05/07(水) 18:33:28.07 ID:1T44toyr.net
後世から見た私見じゃなくて与太話万歳ってちゃんと言えw

463 :人間七七四年:2014/05/08(木) 08:57:58.32 ID:/nWks+2Z.net
>辻斬り
試し切りしたくて夜な夜な獲物を探すが柳生但馬にボコされる

>事実上父親抹殺
自らを二世将軍と称する

>大奥充実化
後の世で財政問題と化して幕府を悩ます

>鎖国
様様な意見はあると思うが自分は台湾とマニラに出張所を作るべきと考える

464 :人間七七四年:2014/05/08(木) 11:22:29.89 ID:1Zy0wps2.net
鎖国と言うのは別に貿易ゼロにしたわけじゃないしね。
出張所作らなくとも山のように輸入はしてた。
海外情勢も江戸まで届いてたし。

465 :人間七七四年:2014/05/08(木) 12:45:06.85 ID:MXbxaBtv.net
>>463
>>大奥充実化
>後の世で財政問題と化して幕府を悩ます
それは後の世が対処するべき事だ。それを言うくらいなら東照宮の増改築に金使い過ぎというべき。

466 :人間七七四年:2014/05/08(木) 12:48:44.35 ID:rOW8OEh7.net
>辻斬り
出典もよく分からない与太話

>大奥充実化
景気の良かった当時は問題なし。肥大化を止めれなかったのは後世の責任

>事実上父親抹殺
自ら二世将軍と称していない。

>鎖国
キリスト教の流入や無制限の貿易の弊害は大きく
幕府の対外統制策は当時としては妥当

>兄弟殺し
忠輝や忠直のように流刑後態度を改めることがなかったため妥当

467 :人間七七四年:2014/05/09(金) 12:39:04.17 ID:zz1tssOg.net
福島正則とか、本多忠勝とか武闘派って槍の名手で勇猛な武将で合戦に強かったなんて言われていて、
あたかも武将本人が強いみたいな話になってるけど、
それって部下や足軽が強いんですよね?

なんかそこら辺混同してる話が多すぎる気がするんですが、どうなってるんでしょうか?

468 :人間七七四年:2014/05/09(金) 13:31:23.30 ID:tFfucZBG.net
本多忠勝や福島正則が優秀な部隊運用力の他に
それなりに高い個人戦闘技能を持っていたのは事実でしょう
じゃあマンガや小説のように個人で無双していたかといえばそこまでではありません
脚色、誇張、ロマンというものは物語(創作)を面白くするための技術ですので
真に受けず、且つ、楽しめばいいのではないでしょうか

469 :人間七七四年:2014/05/09(金) 13:36:30.33 ID:ErhBzkBt.net
昔からそういう脚色はあるからねぇ
三国志演義なんか、数万の軍勢の中で一軍の大将が単騎駆けで大暴れしちゃうしね
読み物としてそっちのが面白いからだろうね
本多が生涯無傷だったってのは一応史料にもあるよ
あと可児才蔵なんかは部隊の能力より個人の強さが際立ってたんじゃないかなと思ってる

470 :人間七七四年:2014/05/09(金) 16:27:34.98 ID:zz1tssOg.net
武闘派と呼ばれてる武将の中には、
ヒョロヒョロの奴とかもいたっていうことでいいんだよね?
本人が強いことと、軍団が強いことには何の相関関係もないんだろうから。

むしろ>>468で言われるとおり、現場での指揮とか、
日頃からの訓練計画とか足軽の採用、モチベーションの上げ方とか人心掌握とかそういうのに長けてた武将だってことだよね?

471 :人間七七四年:2014/05/09(金) 17:22:50.30 ID:tFfucZBG.net
立花道雪や秀吉や老齢に達した武将など個人的武勇に欠けるが有能な武将は多いので
軍の強さと個人的武勇は直接は関係はないでしょう
ただ部隊長クラスの武将なら、自ら槍を振るうと士気が上がるとか、
武勇のある大将は部下の受けがいいとかが、無視できない要素でもあって、
虚弱な当主は交代させられる、また病弱を名目として交代させられることがままあった時代でもあり
特に武闘派と呼ばれる武将は小身からの叩き上げが多いですから
ヒョロヒョロの奴ってのは少ないんじゃないですかね

472 :人間七七四年:2014/05/09(金) 20:45:47.67 ID:908ppYqH.net
大河見てて思ったけど、信長に少々の優しさがあったら
物凄い事になってたと思わんか?

473 :人間七七四年:2014/05/09(金) 22:20:08.96 ID:hJhBvAOW.net
美濃攻略で人間50年使いきってしまったかもしれんで

474 :人間七七四年:2014/05/10(土) 07:43:04.17 ID:NDhAco4D.net
信長がアスペルガーパワハラだから、
安国寺恵瓊も信長のやり方は足をすくわれ高転びに転落し長く続かないと喝破して、
秀吉のやり方を激賞していたわけだが。

475 :人間七七四年:2014/05/10(土) 09:57:56.99 ID:/HAb/BX/.net
秀吉なんて激弱じゃん。
毛利にたかが防衛戦の熊見川合戦で3000人討ち取られ
雑魚信雄相手に135000で挑みかかって10000人討ち取られて
蟹江・前田・下市場・長久保・浜田などを奪回され、二重堀・松ノ木・東駒野・河波などでも負けてる。
挙句の果てには北条34500に全国から29万騎集めて短期決戦挑んだら
韮山300や忍城1000や小田原1000に手も足も出ず駿河伊豆国境地帯の戦闘でも大敗し
重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田などが戦死し、氏家まで負傷させられてる

476 :人間七七四年:2014/05/10(土) 09:59:27.87 ID:gIFZlh4Y.net
指揮能力や采配能力が劣っていようが数でごり押しすれば勝てるのが戦だが
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
土下座能力はチートだったので
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

477 :人間七七四年:2014/05/10(土) 09:59:59.68 ID:bm9frRRk.net
基本的に秀吉は戦えば必ず家臣を殺されまくったり、1000貫そこそこの雑魚領主に苦戦するゴミのような指揮采配能力なので
毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ。位攻めというのは敵の反抗を諦めさせる規格外の大軍と、
敵の諸城の周辺に完全な攻囲のための砦や根城などを築く技術と、長期戦に耐えうる物資さえあれば誰でも可能で
最も指揮能力や采配能力が問われない楽な戦いだからね。でもそんな超絶ヌルゲーですら秀吉は失敗して家臣を多く殺されたりしてる。

例えば小田原合戦の時も享禄以来年代記によれば29万、那須記や榊原書状によれば50万といわれる圧倒的な大軍だった。

しかしわずか34500しかいない北条とまともに戦いだすと半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
秀吉軍は兵站ギリギリのところまで追い込まれてたのは事実
これはフロイスの日本史に書いてある。
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

478 :人間七七四年:2014/05/10(土) 10:01:30.42 ID:bm9frRRk.net
秀吉は家康はおろか雑魚の信雄に135000の大軍で挑みかかって信雄領国は会戦早々尾張・美濃・伊勢・伊賀ともに寝返りの連鎖で崩壊状態だったほど
雑魚統制しかなかったのに秀吉方はいざ戦うと雑魚の信雄に1万人殺されたり
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん。
結局全く雑魚の信雄に歯が立たずあれだけ規格外の兵力差と、徳川の領国の崩壊状態(寝返りの連鎖や軍事機密露見や、
天正11年からの飢饉への対策として出した徳政連発)にも関わらず秀吉は家康や信雄に「ワシに従ってくれ〜」と必死に土下座して
母や妹を献上したり、関八州240万石の大領を与えなくてはいけないほど、家康に土下座状態だったから
豊臣家はあっさりと滅ぼされたんだろ。
結局事の始まりは秀吉が家康どころか雑魚の信雄に蹴散らされまくったせいで豊臣家を滅ぼされたんだから
秀吉が雑魚の信雄に大敗して、家を滅ぼされたって事だろ。

479 :人間七七四年:2014/05/10(土) 10:02:13.14 ID:vvXRu4LU.net
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし

480 :人間七七四年:2014/05/10(土) 10:02:44.70 ID:bm9frRRk.net
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない

481 :人間七七四年:2014/05/10(土) 10:03:27.77 ID:bm9frRRk.net
対毛利の防衛戦で行われた熊見川の戦いや
対信雄の防衛戦で行われた二重掘合戦あたりが
秀吉の戦闘センスのなさや指揮采配能力の欠如を端的に物語ってる。
どちらも信雄や輝元など、糞みたいな凡将相手に防衛戦にもかかわらず3000人殺されたり
寡兵で襲撃されて楽田からたたき出されてヘタレ敗走してるし

秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし

482 :人間七七四年:2014/05/10(土) 10:12:21.23 ID:eCk1yxcE.net
>>468
福島が優秀な部隊運用力なんて持ってるわけないだろ。
武功派なんていわれてても、しずヶ岳以外で武功なんてほとんどあげてないし
ただ秀吉と同じ尾張出身で、縁戚だから優遇されてただけかと。

483 :人間七七四年:2014/05/10(土) 10:13:33.75 ID:aBcUxf6k.net
武功派で歴戦のはずの藤堂高虎隊で大坂の陣で味方が勝ち行く中唯一寡兵の長宗我部勢に負けまくり大損害出して死に体で帰ってきてる
確か関ヶ原合戦の際にも京極隊と連携してわずか1000そこそこの大谷隊を攻めたら大苦戦し
小早川が離反後も何度も押し返されて朽木・脇坂らが大谷隊に攻めかかるまで
ろくな戦果あげられなかったはず。
黒田長政も細川忠興と協力して6000そこそこの石田隊を攻めたらろくに戦績もない三成相手にほぼ互角の戦いで
切り崩せなかったし

484 :人間七七四年:2014/05/10(土) 10:15:34.24 ID:aBcUxf6k.net
○織田対上杉  謙信生前…1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝
謙信死後…  御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに
越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に
派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退
新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞
連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田

武田対織田…
上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる
勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦
○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。
徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく

秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される


以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣

485 :人間七七四年:2014/05/10(土) 10:43:12.63 ID:I+TjK/w3.net
上の方の兵農分離の話題で、
織田が兵農分離してたのは認識が古い、織田の兵制はむしろ遅れてた
って話がでてますが(>>34〜)、
それらについて詳しい解説のある書籍か、一般人でも閲覧できるソースはご存じないでしょうか?

486 :人間七七四年:2014/05/10(土) 10:51:37.89 ID:zoOo+NYE.net
>>485
とりあえず「人物叢書 織田信長」読んでみるといい

487 :人間七七四年:2014/05/10(土) 15:16:47.20 ID:DInekuMf.net
>>450
佐久間信信殿は誠に果報者でござるな

488 :人間七七四年:2014/05/10(土) 19:34:17.44 ID:C7rhfSad.net
>>484
菅沼遼太は初心者スレ荒らすいい加減止めろよ

489 :人間七七四年:2014/05/10(土) 20:50:33.41 ID:LVXPrtKf.net
弓兵って、役目が終わったら槍とか持って戦ってたの?
それとも貴重な人材だから、直接交戦はしなかったの?

490 :人間七七四年:2014/05/10(土) 21:00:01.46 ID:C7rhfSad.net
基本的には自己防衛だけ。
ただし、余裕がある時や全軍突撃みたいな時は刀振って戦った感じ

491 :人間七七四年:2014/05/10(土) 21:31:18.84 ID:LVXPrtKf.net
サンクス
弓兵は特別な存在なんだね

492 :人間七七四年:2014/05/10(土) 22:53:41.88 ID:I+TjK/w3.net
>>484
ありがとうございます。
amazonさんに注文してみました。

493 :人間七七四年:2014/05/11(日) 13:16:15.54 ID:HfskLhIc.net
フロイスの日本史読みたいんだけど、今手に入る本でこれがいいよ、っていう本ある?
完訳フロイス日本史ってのが手に入りやすそうなんだけど

494 :人間七七四年:2014/05/11(日) 15:02:54.33 ID:0HMO6ck4.net
それでいい。

495 :人間七七四年:2014/05/11(日) 22:56:35.78 ID:8y7yLYqf.net
上杉謙信はよく合戦、戦争の天才と言われますが
なぜそう呼ばれているのか、何がどう優れているのかよくわからないので
その辺りを解説した書籍があれば教えてもらえませんか?

496 :人間七七四年:2014/05/11(日) 23:50:11.50 ID:0HMO6ck4.net
武田北条の二大大国、名将を同時に相手して互角に近いくらい戦えたから
戦が激強だったんじゃね。と言う評価で具体的なものじゃ無いよ
ただ具体的なことは分からないが当時から強い大将と言われてたのも事実

497 :人間七七四年:2014/05/12(月) 07:24:46.83 ID:IQoZdbJJ.net
戦国最強・上杉謙信の主な戦歴


天文13年(1544年) 上杉謙信 ○・・《刈谷田川の戦い》・・● 長尾俊景
天文15年(1546年) 上杉謙信 ○・・・《黒田秀忠の乱》・・・● 黒田秀忠
天文20年(1551年) 上杉謙信 ○・・・《長尾政景の乱》・・・● 長尾政景(発智長芳)
天文22年(1553年) 上杉謙信 ○・・・・《布施の戦い》・・・・● 武田信玄
天文24年(1555年) 上杉謙信 ○・・・《北条高広の乱》・・・● 北条高広
天文24年(1555年) 上杉謙信 △・・・・《犀川の戦い》・・・・△ 武田信玄

弘治02年(1556年) 上杉謙信 ○・・・《大熊朝秀の乱》・・・● 大熊朝秀
弘治03年(1557年) 上杉謙信 △・・・《上野原の戦い》・・・△ 武田信玄

永禄03年(1560年) 上杉謙信 ○・・・《増山城の戦い》・・・● 神保長職
永禄04年(1561年) 上杉謙信 △・・《小田原城の戦い》・・△ 北条氏康
永禄04年(1561年) 上杉謙信 ○・・・《松山城の戦い》・・・● 北条氏康(上田朝直)
永禄04年(1561年) 上杉謙信 △・・・《八幡原の戦い》・・・△ 武田信玄
永禄05年(1562年) 上杉謙信 ○・・・《白鳥城の戦い》・・・● 神保長職
永禄06年(1563年) 上杉謙信 ○・・・《騎西城の戦い》・・・● 成田長泰(小田朝興)
永禄06年(1563年) 上杉謙信 ○・・・《祇園城の戦い》・・・● 小山秀綱
永禄07年(1564年) 上杉謙信 ○・・・《山王堂の戦い》・・・● 小田氏治
永禄07年(1564年) 上杉謙信 ○・・《唐沢山城の戦い》・・● 佐野昌綱
永禄07年(1564年) 上杉謙信 △・・・・《塩崎の戦い》・・・・△ 武田信玄
永禄08年(1565年) 上杉謙信 △・・・《和田城の戦い》・・・△ 和田業繁
永禄09年(1566年) 上杉謙信 ○・・・《小田城の戦い》・・・● 小田氏治
永禄09年(1566年) 上杉謙信 △・・・《臼井城の戦い》・・・△ 千葉胤富(原胤貞)
永禄11年(1568年) 上杉謙信 △・・・《守山城の戦い》・・・△ 越中一向一揆
永禄11年(1568年) 上杉謙信 ○・・・《本庄繁長の乱》・・・● 本庄繁長

元亀02年(1571年) 上杉謙信 ○・・・《松倉城の戦い》・・・● 椎名康胤
元亀02年(1572年) 上杉謙信 ○・・・・《関野の戦い》・・・・● 越中一向一揆
元亀03年(1572年) 上杉謙信 △・・・《利根川の対陣》・・・△ 北条氏政・武田軍
元亀03年(1572年) 上杉謙信 ○・・・《尻垂坂の戦い》・・・● 加賀・越中一向一揆

天正元年(1573年) 上杉謙信 △・・《朝日山城の戦い》・・△ 加賀一向一揆
天正02年(1574年) 上杉謙信 △・・・《金山城の戦い》・・・△ 由良成繁
天正02年(1574年) 上杉謙信 △・・・《利根川の対陣》・・・△ 北条氏政
天正04年(1576年) 上杉謙信 ○・・・《守山城の戦い》・・・● 神保氏張
天正04年(1576年) 上杉謙信 ○・・・《蓮沼城の戦い》・・・● 椎名康胤
天正04年(1576年) 上杉謙信 ○・・・《七尾城の戦い》・・・● 畠山春王丸(長続連)
天正05年(1577年) 上杉謙信 ○・・・《手取川の戦い》・・・● 織田信長(柴田勝家)


【上杉謙信五大野戦】
@川中島の戦い vs武田信玄
A尻垂坂の戦い vs加賀・越中一向一揆
B山王堂の戦い vs小田氏治
C布施の戦い vs武田信玄
D手取川の戦い vs柴田勝家

【上杉謙信五大攻城戦】
@小田原城の戦い vs北条氏康
A七尾城の戦い vs長続連
B松倉城の戦い vs椎名康胤
C唐沢山城の戦い vs佐野昌綱
D本庄繁長の乱 vs本庄繁長

498 :人間七七四年:2014/05/12(月) 08:28:16.00 ID:qITq+Ng5.net
戦国時代で1500年〜以降…の
諸物価価格、および「鉄材」「銅材」「硫黄」の価格が
どの位だったか知りたいです。

499 :人間七七四年:2014/05/12(月) 14:11:53.90 ID:0L04JknH.net
>>487
>【上杉謙信五大野戦】
B山王堂の戦い vs小田氏治

真面目な話なんだろうが戦国板的に『それはひょっとしてギャグでいってるのか?』と思ってしまうw

500 :人間七七四年:2014/05/12(月) 18:18:10.79 ID:qOXINkIP.net
>>379
保守とは言わねぇよ
そもそも何しでかすかわからないあの時代の外国人と簡単に接触しようと思う方がおかしい
開明も何も仕事であっただけ迷信もない

501 :人間七七四年:2014/05/12(月) 18:21:00.85 ID:qOXINkIP.net
>>382
鎖国(笑)なんざしてない。海禁政策だろ。オランダ通して文物とかなり入ってた。宣教師だって来てたし、イザベラバードにも丁寧に対応した百姓もいる
お前の江戸時代とその時代の人に対する見方こそ迷信偏見頑迷

502 :人間七七四年:2014/05/12(月) 20:51:38.05 ID:OLvNBsLU.net
木崎原の戦いで島津は300しか動員していませんが
もっと用意する事は出来なかったのでしょうか?
そもそも義弘は300で勝つつもりはなくあくまで先方の1部隊のつもりで
討ち死に覚悟で伊東軍を減らし後は兄義久に任すつもりだったのでしょうか?

503 :人間七七四年:2014/05/12(月) 21:06:07.32 ID:JV/EazPV.net
そもそも木崎原合戦なんて島津の軍記オナニーじゃん。
300ってのも軍記にしかない妄想数字だし。

504 :人間七七四年:2014/05/12(月) 21:07:51.73 ID:IQoZdbJJ.net
島津の合戦なんてほとんど軍記にしかない妄想合戦だしな。

木崎原の戦い→一次史料皆無の島津軍記オナニー
戦場が義弘統治下のホームグラウンドでありながら、義弘の兵力の方が極端に少ない謎
まるで諸葛亮孔明並みの予言力で、伊東軍の逃走経路を算出し、都合よく配置した上に、
都合よくその場所へ島津の援軍も到着する軍記丸出しストーリー
そもそも伊東氏の家臣を疑う乱政で人心がすでに離散していて自壊状態の不満を外敵へ向けさせただけのアホ戦だったとする話も。

耳川の戦い→これは宣教師の記述くらいでしかまともに史料なし。当然、当然兵力についてもまったく不明。
宣教師によればそもそも大友軍は島津と戦う気gはなく、総大将の田原からして、
島津との間で勢力圏を決めて和睦するためにきたようなもんだった。
出陣の目的は豊後から離れた場所でのキリスト教と宣教師をどういう手段で追放するかの会議だった。

沖田畷の戦い→これも宣教師の記録からしかまともなことはわからない。
宣教師によれば、もっとも竜造寺と激しく戦ったのは有馬。隆信戦死場所も有馬陣前方。
島津はロクに働いていない。島津側の資料には鍋島が島津に内通し、隆信のいる場所へ案内してくれたと記される。

戸次川の戦い→これも宣教師の記述が一番マトモに書かれている。
これによれば豊後に来た仙石はさっそく略奪を開始し、あまりの暴虐に豊後民から見放される。
大友義統などから戦闘は時期尚早と反対されるが反対意見をすべて無視して無謀な進出を強行して敗北。

泗川の戦い・露梁津の海戦→半島はザコなので自慢にすらならない。
むしろのちに関が原で一緒に戦うことになる軍団長の小西の功績を盗んで記述してる疑いが濃厚。

関ヶ原退却戦→家久の子である豊久の犠牲を強要しての単なる大敗走。豊久討ち死にで家久の家は実質滅亡。
あまりのボロ負けに、島津を親の仇と思っている立花宗茂に自分を守って九州へ連れて行ってくれと哀願。

505 :人間七七四年:2014/05/12(月) 21:36:30.98 ID:umssFwFv.net
上杉と島津は過大評価
両方ともただの田舎大名

506 :人間七七四年:2014/05/12(月) 21:38:17.29 ID:6Wxeaj5g.net
菅沼遼太はいちいち暴れんな

507 :人間七七四年:2014/05/12(月) 21:40:29.47 ID:6Wxeaj5g.net
>>498
「中世の物価」でぐぐって2番目くらいののサイトみるといいかも
戦国の鉄の価格は分かりやすい史料が残ってないとの事
近い時代だと慶長19年平戸オランダ商館文書に
精製鉄12匁/100斤,精製鋼鉄55匁/100斤とあるみたいです
硫黄はまったく分からないんじゃないかな

508 :人間七七四年:2014/05/12(月) 22:14:39.33 ID:qITq+Ng5.net
つまり6トンでやっと1200文?(1貫と200文)・・・・やっす(汗

509 :人間七七四年:2014/05/12(月) 23:40:32.01 ID:+dOB4Nvi.net
島津は過大だな。
上杉はむしろ過小。
謙信は織田軍主力45000をわずか18000で瞬殺したし
景勝は柴田45000森6000新発田+伊達・葦名(20000?)+滝川18000と
合計90000近い大軍に攻め寄せられても、わずか8000そこそこで森・滝川は撃退
柴田45000は越中で立ち往生、ろくな備えもなしの雑魚魚津城に苦戦するなど敢闘しまくってた。

どうみても謙信>>>景勝>>>>>>>>>>>>>>>>>>>柴田(織田家トップクラス)

510 :人間七七四年:2014/05/12(月) 23:42:08.73 ID:IQoZdbJJ.net
御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。

内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ

上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生

景勝>>>>>>柴田

511 :人間七七四年:2014/05/12(月) 23:42:42.97 ID:+dOB4Nvi.net
戦国最強・上杉謙信の主な戦歴


天文13年(1544年) 上杉謙信 ○・・《刈谷田川の戦い》・・● 長尾俊景
天文15年(1546年) 上杉謙信 ○・・・《黒田秀忠の乱》・・・● 黒田秀忠
天文20年(1551年) 上杉謙信 ○・・・《長尾政景の乱》・・・● 長尾政景(発智長芳)
天文22年(1553年) 上杉謙信 ○・・・・《布施の戦い》・・・・● 武田信玄
天文24年(1555年) 上杉謙信 ○・・・《北条高広の乱》・・・● 北条高広
天文24年(1555年) 上杉謙信 △・・・・《犀川の戦い》・・・・△ 武田信玄

弘治02年(1556年) 上杉謙信 ○・・・《大熊朝秀の乱》・・・● 大熊朝秀
弘治03年(1557年) 上杉謙信 △・・・《上野原の戦い》・・・△ 武田信玄

永禄03年(1560年) 上杉謙信 ○・・・《増山城の戦い》・・・● 神保長職
永禄04年(1561年) 上杉謙信 △・・《小田原城の戦い》・・△ 北条氏康
永禄04年(1561年) 上杉謙信 ○・・・《松山城の戦い》・・・● 北条氏康(上田朝直)
永禄04年(1561年) 上杉謙信 △・・・《八幡原の戦い》・・・△ 武田信玄
永禄05年(1562年) 上杉謙信 ○・・・《白鳥城の戦い》・・・● 神保長職
永禄06年(1563年) 上杉謙信 ○・・・《騎西城の戦い》・・・● 成田長泰(小田朝興)
永禄06年(1563年) 上杉謙信 ○・・・《祇園城の戦い》・・・● 小山秀綱
永禄07年(1564年) 上杉謙信 ○・・・《山王堂の戦い》・・・● 小田氏治
永禄07年(1564年) 上杉謙信 ○・・《唐沢山城の戦い》・・● 佐野昌綱
永禄07年(1564年) 上杉謙信 △・・・・《塩崎の戦い》・・・・△ 武田信玄
永禄08年(1565年) 上杉謙信 △・・・《和田城の戦い》・・・△ 和田業繁
永禄09年(1566年) 上杉謙信 ○・・・《小田城の戦い》・・・● 小田氏治
永禄09年(1566年) 上杉謙信 △・・・《臼井城の戦い》・・・△ 千葉胤富(原胤貞)
永禄11年(1568年) 上杉謙信 △・・・《守山城の戦い》・・・△ 越中一向一揆
永禄11年(1568年) 上杉謙信 ○・・・《本庄繁長の乱》・・・● 本庄繁長

元亀02年(1571年) 上杉謙信 ○・・・《松倉城の戦い》・・・● 椎名康胤
元亀02年(1572年) 上杉謙信 ○・・・・《関野の戦い》・・・・● 越中一向一揆
元亀03年(1572年) 上杉謙信 △・・・《利根川の対陣》・・・△ 北条氏政・武田軍
元亀03年(1572年) 上杉謙信 ○・・・《尻垂坂の戦い》・・・● 加賀・越中一向一揆

天正元年(1573年) 上杉謙信 △・・《朝日山城の戦い》・・△ 加賀一向一揆
天正02年(1574年) 上杉謙信 △・・・《金山城の戦い》・・・△ 由良成繁
天正02年(1574年) 上杉謙信 △・・・《利根川の対陣》・・・△ 北条氏政
天正04年(1576年) 上杉謙信 ○・・・《守山城の戦い》・・・● 神保氏張
天正04年(1576年) 上杉謙信 ○・・・《蓮沼城の戦い》・・・● 椎名康胤
天正04年(1576年) 上杉謙信 ○・・・《七尾城の戦い》・・・● 畠山春王丸(長続連)
天正05年(1577年) 上杉謙信 ○・・・《手取川の戦い》・・・● 織田信長(柴田勝家)


【上杉謙信五大野戦】
@川中島の戦い vs武田信玄
A尻垂坂の戦い vs加賀・越中一向一揆
B山王堂の戦い vs小田氏治
C布施の戦い vs武田信玄
D手取川の戦い vs柴田勝家

【上杉謙信五大攻城戦】
@小田原城の戦い vs北条氏康
A七尾城の戦い vs長続連
B松倉城の戦い vs椎名康胤
C唐沢山城の戦い vs佐野昌綱
D本庄繁長の乱 vs本庄繁長

512 :人間七七四年:2014/05/12(月) 23:50:56.64 ID:+dOB4Nvi.net
織田関係の武将は基本過大だな。
一時弱体化したり自壊や内紛ばかりの畿内を自国のチート国力と足利将軍と徳川浅井や甲賀衆などの同盟協力を使って
他力本願でコソ泥しただけじゃん。
結局自力で勢力拡張したわけではなく居留守泥棒にすぎなかったから
光秀に殺されてあっとういう間に衰退しただけだし。

513 :人間七七四年:2014/05/12(月) 23:53:13.28 ID:ITnyQcIo.net
信長の周りは有力者達が次々に病死したり戦死したりでほとんど空白地に近かったし
どの国も衰退傾向にあった。
とくに隣国美濃なんて三代続けての内紛や国内のクーデターや幼君で自壊しきってて
勝手に降伏する城ばかりだったし、井ノ口を取れば、美濃一国取れるなどというほどヌルゲーのコンビニ国だし。

514 :人間七七四年:2014/05/12(月) 23:55:22.24 ID:IQoZdbJJ.net
織田は負けてばかりいたし結局滅ぼされたから低評価でも仕方ないと思う
ただ信長の分国の尾張美濃近江河内山城などの機内や西日本は経済力が圧倒的だったしそこが動乱の影響で分裂・弱体化・内訌の隙をついて
棚ボタ火事場ドロするのをちゃんと描くべきだね。
分国の経済力という概念がドラマにはないから、もともとチートな国力持ってた信長尾張の小国から実力で大版図築いたとか捏造したり
機内で600万石程度ある状態で波多野18万石と本願寺12万石と上杉120万石を敵に回しただけなのを
あたかもピンチみたいに描くのははっきりいってふざけてる。
あと東国勢は国力が軒並み過大だし武器性能も圧倒的に劣るだろうからそこは大きく考慮しないといけないね

515 :人間七七四年:2014/05/12(月) 23:55:49.24 ID:Lgw848Ja.net
織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん
美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり
動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが
その後信玄に負けまくり滅亡寸前
伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり
しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり
火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。
まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ

516 :人間七七四年:2014/05/12(月) 23:56:23.27 ID:MmDas1yx.net
岐阜城って土岐や竹中や信雄や福島や斉藤利尭やらに馬鹿みたいに落とされまくってるのに苦戦したの信長だけなのに
なぜか城が堅かったとか馬鹿な捏造されてるんだよな
単に寄せての大将が雑魚だっただけでしょ

517 :人間七七四年:2014/05/13(火) 00:30:25.83 ID:bJCrRztu.net
自演荒の菅沼遼太はしんどけ

518 :人間七七四年:2014/05/13(火) 01:06:26.02 ID:oZMl9Uz+.net
中国のチンピラゴロツキを殺しまくった旧日本軍が弱いのと一緒で
織田勢をいくら蹴散らしたところで評価はできんということだ

519 :人間七七四年:2014/05/13(火) 04:41:58.70 ID:J100WUWs.net
越後の田舎チャンピオンの巡業だな、華は持たせてもらえるが実はもらえない

520 :人間七七四年:2014/05/13(火) 10:37:34.36 ID:UERL8Aer.net
『豊臣秀吉さまいわく

信長公は勇将であったが、良将ではなかった。
剛が柔に勝つことは知っていても、柔が剛を制することを知らなかった。
一度敵となった者を許すということがなく、
ことごとくその根を絶ち葉を枯らすようなことをした。
降伏した者を殺し、他国からの攻撃が絶えることがなかった。
これは器量が小さいからである。
人から恐れられはするが、愛されることはなく、
喩えるなら猛獣のようなもので、
噛み付かれるのを恐れるけれども、
見るものはこれを殺して害をのがれようとする。
明智光秀の反逆もこのためである』

この話の出典わかりましたら教えてください

521 :人間七七四年:2014/05/13(火) 13:17:09.27 ID:gX2QRPdN.net
司馬小説

522 :人間七七四年:2014/05/13(火) 13:44:25.64 ID:MLdQ18/W.net
秀吉の鬼畜っぷり

【キリシタン弾圧】耳そいだまま市中引き回し、長崎の刑場まで850キロ歩かせて磔刑…秀吉の“非人間性”ここに極まる★3
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1399802802/

523 :人間七七四年:2014/05/13(火) 18:28:07.96 ID:0BBKsmj7.net
織田軍の残虐行為の証拠隠滅行為から逃れるために
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へ、その犯罪行為を告発しているほど

「後世の方はどうか語り伝えて下さい。
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」

またフロイスも日本史において
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた)
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした)
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。

これが信長のやり方で、異常な暴君以外のなにものでもなかった。

信長は日本史上、唯一の恐怖と虐殺を礎に王朝を築き上げようとした
大陸中国人的専制独裁君主なんだよな。
だから猜疑心が異常に強く、
行き着いた終着駅はカルト宗教の神になって崇拝を強要し権力だけでなく新たな権威を備えようとした挙句に自滅。&amp;#160;
朝廷も異常なまでに恐怖し、家格も前例も段階も踏まずに一気に位階官職を引き上げようとしてるくらい媚びへつらい朝廷存立の危機感を持ってたが、
それすらも拒絶して朝廷秩序の枠外に出てしまった日本史上、唯一の暴君。

524 :人間七七四年:2014/05/14(水) 21:00:21.74 ID:QvMVXDL3.net
>>494
ありがとう。買ってみる

525 :人間七七四年:2014/05/15(木) 22:13:40.85 ID:nC2S+WnG.net
戦地で小姓とえっちする時お風呂とか洗浄とかどうしてたんですか?

526 :人間七七四年:2014/05/15(木) 22:29:44.20 ID:S8h4GyqY.net
またお前か。自分で調べろ

527 :人間七七四年:2014/05/16(金) 18:54:29.77 ID:337L1cdt.net
合戦の際に兵糧は大名側が用意して持ち運ぶと思うのですが水はどうだったのでしょう?
漫画だと各々が竹筒を所持してて川とかで補充してました
やはり水は自己責任で自前調達ですか?

528 :人間七七四年:2014/05/16(金) 22:37:21.33 ID:sLdMmfPr.net
輸送物資として水はまず出てこないのと豊富なのでその場で各自補充でしょう

529 :人間七七四年:2014/05/17(土) 13:35:47.87 ID:lXFxtVDw.net
戦場で軽傷レベルなら自分で何とかしそうなものでしょうが
中〜重症レベルだと後方移送…な事ってどうしてたんですか?
戦国当時

530 :人間七七四年:2014/05/17(土) 17:32:39.06 ID:0HSHuCLs.net
非戦闘員の雑役の人たちが運ぶ

531 :人間七七四年:2014/05/17(土) 19:04:41.76 ID:J0QaI+Hg.net
なんで源氏じゃないと将軍になれないの?
元々征夷大将軍って源氏のものじゃないでしょ?

532 :人間七七四年:2014/05/17(土) 19:22:21.61 ID:eKCXPg0b.net
>>531
室町時代に「源氏嫡流」の「家職」になったから。以上。

533 :人間七七四年:2014/05/17(土) 22:43:26.55 ID:J0QaI+Hg.net
信長が即位(?)した時点での織田家の勢力ってどれくらいだったの?
教科書イメージで全国の中の清洲っていう田舎町の極小大名だと思ってたんだけど、
信長の野望やったら結構最初から大きいじゃん。

534 :人間七七四年:2014/05/17(土) 23:00:56.34 ID:0ZGMEMGT.net
織田氏全体の力は三管領筆頭の斯波武衛家の次席家老として尾張中に深く浸透していたので
室町時代の中初期ぐらいには既に国持ちクラスの実力のある家
そういう家じゃないとそもそも国を二分しての内部紛争になんか発展しない

535 :人間七七四年:2014/05/17(土) 23:30:19.10 ID:oTEZVCoO.net
>>533
尾張国+美濃大垣+美濃岩村を領土としていた。
他に婚姻関係の下に斉藤道三の後見と
信秀の献金力を背景として朝廷と六角氏の圧力で今川義元が土下座して織田との同盟を結んでいた。

536 :人間七七四年:2014/05/17(土) 23:32:30.98 ID:oTEZVCoO.net
あぁあと織田は三河国碧海郡を中心とした水野氏を隷属させていたわ。

537 :人間七七四年:2014/05/18(日) 10:45:11.53 ID:M2zIw52z.net
スケートの織田信成って息子sの誰の子孫?

538 :人間七七四年:2014/05/18(日) 14:43:54.77 ID:PeGSrXD7.net
>>533
信長が当主を継承した時点では清洲城は守護代である織田大和守家の織田信友の居城。
守護代は守護の代理として現地を治める役職だが、この頃には守護である斯波氏から実権を奪いつつあった。
信長は織田大和守家の分家で家臣の織田弾正忠家という家柄で、その頃は那古野城に居た。

信長の野望はスタートの年代や、ゲーム構成の都合で史実とは違う事がよくある。例えば伊達氏が宮城県だったり
山形県だったりするけど実際は福島県と米沢にまたがっている。

539 :人間七七四年:2014/05/18(日) 15:57:57.36 ID:y/p8FIu4.net
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w

540 :人間七七四年:2014/05/18(日) 16:00:49.34 ID:y/p8FIu4.net
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。

541 :人間七七四年:2014/05/18(日) 20:41:01.10 ID:AD5N25Fc.net
菅沼遼太は邪魔すんな

542 :人間七七四年:2014/05/19(月) 08:44:01.10 ID:mxQMPFbb.net
>>538
大嘘吐き乙w

543 :人間七七四年:2014/05/19(月) 08:45:42.91 ID:mxQMPFbb.net
>>538
大嘘吐き乙w
ちなみに斯波氏は
義輝が斯波邸を略奪して自分の邸にしたから
とっくに滅亡済みだから。

544 :人間七七四年:2014/05/19(月) 09:17:02.04 ID:ORQMKg2l.net
>>537
信雄といわれている。

545 :人間七七四年:2014/05/19(月) 11:44:13.78 ID:2mvMhpTm.net
荷駄兵とか土木系の兵って、槍持って戦ったんですか?
それとも戦闘になったら傍観してたんですかね?

546 :人間七七四年:2014/05/19(月) 15:27:38.01 ID:KiI+r0bm.net
>>545
この人の質問に上乗りしますが
・この人たちも敵軍から攻撃対象になった?

所謂、
「お、オラたち織田様の「小荷駄/土木」の小者ですじゃ〜(泣」
「なんじゃ小者か・・・失せい!しっしっ」

「織田の者か…皆殺しじゃっ!」
のどっち?

547 :人間七七四年:2014/05/19(月) 16:12:13.14 ID:7Z3aIZJ/.net
NHKニューヨークメガ盛り塩素プール問題 駐輪代問題ホワイトフレンチうどん 72762885

NHKニューヨーク犬メガ盛り塩素プール問題 駐輪代問題ホワイトフレンチうどん 72762885

NHKニューヨーク犬メガ盛り塩素プール問題 駐輪代問題ホワイトフレンチうどん 72762885

548 :人間七七四年:2014/05/19(月) 17:15:11.51 ID:YyfeKc/p.net
>>545
>>546
陣夫は非戦闘員なので戦いません。
陣夫の首は手柄にならないので攻撃対象にはなりません
根切(見せしめ皆殺し)や偽首(手柄の偽造)など例外はありますが。

549 :人間七七四年:2014/05/19(月) 23:00:47.80 ID:XA4Ivgb1.net
切腹の作法を教えてください
ちなみに介錯人はいない、場所は屋内で和室でない、という前提ですが

550 :人間七七四年:2014/05/19(月) 23:27:33.98 ID:YyfeKc/p.net
切腹の作法が固まったのは江戸時代です。

551 :人間七七四年:2014/05/20(火) 00:39:59.51 ID:Gw0Lu4B3.net
>>549
介錯人無しだと死に切れないまま地獄の苦しみになるのでやめとけ。

552 :人間七七四年:2014/05/21(水) 14:40:41.62 ID:YP1OHTKT.net
戦国時代の灰吹法(南蛮吹き)は
・どの位の時間が、かかったのでしょうか?
・どの位の原材料でどのくらいの銀がとれたのでしょうか?

553 :某研究者:2014/05/22(木) 17:26:38.57 ID:RBPtIwYA.net
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php;_ylt=A2RAEEZdqX1Te24A9gRsAPR7?page=2&amp;qid=1179228191
>短弓の欠点は、発射のさいに左手にかかる衝撃が強く、腕が早く疲労することです。(それを防ぐためにアーチェリーは特殊な用具を付加しているのを見てください)。
>合戦のように連射が必要になりますと、短弓側は早く打てなくなる可能性が高いですね。

モンゴル・南宋・朝鮮等の強化短弓も
日本等の合成長弓をアウトレンジする様な利用法は何処迄有ったのかだろうし
合成長弓の速射でやられていた可能性も有るのかだが

554 :人間七七四年:2014/05/23(金) 06:48:46.60 ID:Tt7v9enH.net
信長配下の武将で功績ランキング作ったらどうなる?武功限定で

555 :人間七七四年:2014/05/23(金) 09:19:06.64 ID:6NDjPT4e.net
菅沼遼太が荒らしに来るぞ

556 :人間七七四年:2014/05/23(金) 15:06:10.01 ID:9lAL/+j1.net
戦国時代の質問とはちょっとあれだけど
「1反の田んぼに植える稲苗の種籾ってどの位の量の米籾がいるんですか?」

557 :人間七七四年:2014/05/23(金) 16:34:56.98 ID:6NDjPT4e.net
6〜7升

558 :人間七七四年:2014/05/24(土) 09:23:09.12 ID:eGVFa7RS.net
三河武士って忠義の鑑みたいに言われてるけど、
「主君に仕えるのは一代の縁、仏に仕えるのは末代の縁」とか言って
家臣の半分が一向一揆に加わってるよね?
どこが忠義の鑑なの?

559 :人間七七四年:2014/05/24(土) 09:48:46.04 ID:yte70bFK.net
田んぼ「1反」の稲の刈り取りを
・戦国時代的に鎌で人力(一人
・現代式にコンバイン&コンバインでむつかしい端っこ部分は人力鎌(一人

だとどのくらいの時間になるでしょうか?
また1反に付き人頭増やせばやっぱり時間短縮になるでしょうか?

また人口500人クラスの村落(およそ村石高500石?)の
「稲刈取りから脱穀云々カンヌん→米俵にして完了の手待ち状態」まで
どの位の時間・日にちが掛かりますでしょうか?

560 :人間七七四年:2014/05/24(土) 09:49:03.20 ID:TucHxtki.net
江戸時代に先祖顕彰のためにつくった話

561 :人間七七四年:2014/05/24(土) 14:06:54.41 ID:Pv9fhupV.net
下記は大ウソだから。
家臣の半分が一向一揆に加わってる

誰ひとりとして半分とやらの名簿すらあげることが全く出来ないよwwwww
そりゃウソなんだからあげられるわけが無い。

562 :人間七七四年:2014/05/24(土) 14:46:23.02 ID:av1Hm/zr.net
今のものを持っていって一番高く売れるモノ
(例えば100円のビー玉が戦国時代で今の紙幣価値の10000円で売れたとする→9900円で売れた)
は何でしょう

563 :人間七七四年:2014/05/24(土) 15:20:50.19 ID:GB7LyiQv.net
天下名物のレプリカ

564 :人間七七四年:2014/05/24(土) 19:18:32.43 ID:vDjpYSU+.net
数字じゃなくて、
一揆に参加した人名を根拠をつけて列挙しろと書いてるだけなのに、
必死に誤魔化して逃げようとするなよwww
なんら根拠が出せないで逃げようとしてるあたり、
やっぱり三河一向一揆との戦いなんて大したことは無かったってことで結論だな。

家康の三大危機のうち、
三河一向一揆と伊賀越えの二つは捏造歪曲だからな。

で、具体的に徳川家臣を二分したという顔ぶれは誰なの?

本多隆成氏
「三河一向一揆が起こったのは永禄6年の秋からで、
翌年のはじめまでのほぼ半年間」
すぐ解決されてるwww
「本来ならば一家衆寺院として一揆を指導すべき本宗寺の住職が不在であり、
いわば統一的な司令部がなく、各人ばらばらの戦いになったことである。
さらに門徒武士達の多くが、家康が出てくれば逃げるというような有様では、
とうてい勝てようはずがなかった」
主君家康とは絶対に戦わない自作自演の戦いwwww


家康がガチでやばかったのは信玄との三方ヶ原の戦いと秀吉との天正12年戦役の二つの時だけだからね。
あとは常に棚ぼたの超イージーモード。

遠江国人の大反乱で駿河から孤立した三河を棚ぼた。
武田の駿河攻めで、遠江が棚ぼた。
織田の武田征伐で、家康は大苦戦。北条が順調に侵攻したのに、
信長から駿河をもらい棚ぼた。
上杉軍の川中島南下と武田旧臣の依田が信濃佐久郡〜上野沼田エリアを支配していた
真田を北条から離反させた為に、
北条氏直が挟撃され上野国へも帰れなくなり孤立し和議になり信濃と甲斐が棚ぼた。
婚姻先の北条が滅亡し関東移封で国人家臣団の官僚化が進み棚ぼた。
秀長が死去し、秀次が自滅し、利家が死去して、いつのまにか大老筆頭で棚ぼた。
会津征伐をする家康を無視放置して、
三成を討ちに西上した武断派が三成を大垣に包囲して追い詰め、
関ヶ原でも秀忠が来援しないうちに、主力の武断派が勝利し、天下様の棚ぼた。
清正や浅野長政親子などが相次いで死去して勝手に豊臣側の戦力が大幅弱体化で棚ぼた。

565 :人間七七四年:2014/05/24(土) 19:27:54.91 ID:vDjpYSU+.net
家康が伊賀を通過していないどころか甲賀郡の蒲生や山中や和田らから
人質まで取って案内させており、安全に通過してるのに
なんで神君伊賀越えとか捏造してるんだろね。
実際のルートは
6/2和泉堺から南山城路を通り山城国宇治田原山口館宿泊(徒歩十三里)
6/3南近江路を通り近江国甲賀郡信楽小川館宿泊(徒歩六里)
6/4北伊勢路から伊勢路に出て伊勢国長太から海路で深夜には三河着へ(徒歩十七里)

信雄が伊勢から出陣していて、
日野と北伊勢の間の土山(東海道の土山宿・現在の甲賀市)に陣取っていたって話だし
もしこの時に家康が危機的だったとすれば、それは信長暗殺に関わっていたので、
信雄の襲撃を恐れて逃げていたことにしかならん。
臣従を強制された家康は安土城で信長に土下座して、
本能寺の変決行の時の光秀家臣は家康を討ち取りに行くと誤解してたし、
本能寺の変当日の家康は、 なぜか早朝から京に向かっていたし、
信長討ち取りを聞くと、 家康が通過できた安全な道を後から付いてきていた穴山を
殺すように村々に金を配り落ち武者狩りを唆して、織田軍を避けるように逃げてるからなあ。
さらに三河に帰り着くや信長の仇討ちとか声高に主張して尾張を火事場泥棒しようとして、
秀吉から光秀を速攻で片付けたから帰れよって恫喝されてるからな。

566 :人間七七四年:2014/05/24(土) 20:18:34.31 ID:GB7LyiQv.net
菅沼遼太うるさいぞ

567 :人間七七四年:2014/05/24(土) 20:42:57.39 ID:hY4NOBCN.net
>>566
アンチ秀吉の織田在日は家康が批判されると即反応すんだなw
だがレス盗用して武田厨のフリを装い、アンチ秀吉のレスを繰り返し、
秀吉批判してるのは武田厨だと歪曲誘導して武田厨を在日呼ばわりしてる工作がバレバレだなw

568 :人間七七四年:2014/05/24(土) 21:37:02.59 ID:GB7LyiQv.net
菅沼遼太

569 :人間七七四年:2014/05/24(土) 22:25:02.73 ID:81tXhj88.net
信玄大好きの菅沼遼太も落ちたな
天下人の威を借るようじゃ信玄も泣いてるぞw

570 :人間七七四年:2014/05/24(土) 23:34:56.38 ID:HWjLIhEa.net
なんで戦国武将って姓+官位+名で呼ぶの?
官位とか覚えられないし凄い見にくいんだけど
第一官位って昇進したりするから変わるんじゃない?
例えば「織田上総介信長」って言っても最終的には右大臣くらいになってるんじゃなかった?

571 :人間七七四年:2014/05/25(日) 00:13:10.32 ID:yhf4XPnz.net
>>570
今だって肩書で人を呼ぶだろ。課長とか部長とか首相とか大統領とか。そういうことだ

572 :人間七七四年:2014/05/25(日) 00:17:50.79 ID:EpTKrTRm.net
あ、ごめん現代人の話ね
良い話スレとかブログとか見てると、わざわざ官位名挟んでる人がいて、正直読みづらい

573 :人間七七四年:2014/05/25(日) 00:31:57.62 ID:Rr2tMKHl.net
歴史好きなら官職や通称も覚えとくもんやけどね。
史料や時代小説とか諱使わない場合が多いし
どうしても嫌なら読まなくていい。

574 :人間七七四年:2014/05/25(日) 03:13:55.38 ID:ORgdqG+y.net
>>572
何十年か前に、官位とか通称なんかをミドルネームと勘違いしてた時期があったんだよ。
三国志でも劉備玄徳とか諸葛亮孔明みたいに字と諱を一緒に呼んだり。
十年ちょい前から突っ込まれだして、減ってきてはいるけど、未だにそういう呼び方が好きな人はいる。

でもまあ、官位くらい覚えても良いんじゃね?

575 :人間七七四年:2014/05/25(日) 06:41:12.39 ID:LXX1hlXr.net
江戸時代なんか特にそうだけど松平さんとか三河以来の譜代が要職についていて同じ苗字がいっぱい
松平様と呼んでもどこの松平なのか分かりづらかったので官職名で呼んでたんです
ただ何々守とか介とかは自称だったり代々引き継がれたりしたもので実際その国の責任者と言うわけではないし
同名の官職が至る所にいました

576 :人間七七四年:2014/05/25(日) 08:52:49.72 ID:xBZh/Rny.net
戦の時、武器は基本的に支給されてたんですか?
それとも自作の武器とか使ってたのですか?

577 :人間七七四年:2014/05/25(日) 10:51:55.68 ID:Rr2tMKHl.net
>>574
中国は名と字を同時に使わないけど、
日本は諱と官職は正式だと列記するからその説明は違う

>>575
官職名で呼ぶのは諱の名指しは失礼だから。平安貴族からの風習です。
豊臣期の同じ名字と官職だらけ(羽柴侍従)になった時に
判別のために領地名+官職で呼ぶのが当たり前になったことと勘違いしてると思われ

>>576
基本的に武具兵糧は自弁です。そのために領地(収入源)を与えられています。
お貸し具足や兵糧の扶助もありましたが例外的なものです。

578 :人間七七四年:2014/05/25(日) 11:26:12.05 ID:ORgdqG+y.net
>>577
諱と官職は列記するけど、順番は 官職+本姓+姓+諱 の順じゃないっけ?
というか、苗字と諱は列記しなくない?

579 :人間七七四年:2014/05/25(日) 11:30:48.31 ID:Rr2tMKHl.net
>>578
順番は官位によって変わる

580 :人間七七四年:2014/05/25(日) 11:45:10.59 ID:ORgdqG+y.net
>>579
それは姓が諱の前にくるか後にくるかじゃなかったっけ。
官職が本姓と諱の間に入るパターンってあった?

581 :人間七七四年:2014/05/25(日) 11:56:03.86 ID:Rr2tMKHl.net
ああ織田上総介信長の表記のことか。自分のレスの内容から外れるけどないね
関連で言えば織田信長もない。平信長か織田上総介か織田三郎
第三者視点からはまた別

582 :人間七七四年:2014/05/25(日) 12:01:16.52 ID:ORgdqG+y.net
そういうこと、そういうこと。説明下手でごめん。

583 :人間七七四年:2014/05/25(日) 12:15:52.33 ID:Rr2tMKHl.net
あ、勘違いされるとアレだから追記
織田上総介 信長と区切りがあるのは普通にある

584 :人間七七四年:2014/05/25(日) 12:19:33.85 ID:ORgdqG+y.net
まじで?
公式文書で?

585 :人間七七四年:2014/05/25(日) 12:37:57.55 ID:Rr2tMKHl.net
名字+官職or通称、行を変えて諱+花押。って腐るほどあるやん

586 :人間七七四年:2014/05/25(日) 12:49:58.44 ID:TrfCuE7a.net
官位が表記してあればだいたい何時頃の時代か推定できる貴重な史料だ

587 :人間七七四年:2014/05/25(日) 13:00:41.98 ID:ORgdqG+y.net
こういうやつのこと?
http://fpj.fc2web.com/secretary.ch2.html

まあ、花押は諱とセットで書くようになってたから
苗字+官職と諱が書いてあるっちゃ書いてあるけど、ニュアンスは違う気がする。

588 :人間七七四年:2014/05/25(日) 13:19:39.58 ID:UWEjeJZ2.net
上総守と書いた無学アスペ低脳信長www

589 :人間七七四年:2014/05/25(日) 14:43:36.88 ID:JjV9wiOQ.net
>>587
別に花押は必ず諱とセットというわけではない
署名にニュアンスもクソもない
あとは自分で「織田信長文書の研究」とか読め

590 :人間七七四年:2014/05/25(日) 17:08:29.79 ID:rVF314gO.net
>>559
多人数で稲刈りの時間を短縮できたとしても、
収穫した稲を長期保存に耐えうる『米』の状態にするためには、
天日干しで長期間乾燥させなければなりません
好天に恵まれたとしても米俵の状態までには10日以上かかるでしょう

591 :人間七七四年:2014/05/25(日) 19:11:32.78 ID:pJFD8Wwv.net
>>575
官名がダブったりするときあるの?
4品官以上だと申請すれば好きになのれるんだったっけ?

592 :人間七七四年:2014/05/25(日) 19:23:16.21 ID:ZKPGX6LZ.net
>>590
刈取り→簡単な脱穀?(一部のコンバインにはそんな能力有りと聞きました)を
コンバインでやった…と仮定して

天日干し→俵詰め…だけだとどの位になりますか?

593 :人間七七四年:2014/05/25(日) 22:22:57.15 ID:ZKPGX6LZ.net
灰吹法に使う「松葉灰」とはどのような代物なのでしょうか?
また、それの作成法とはどのようなやり方なのでしょうか?

594 :人間七七四年:2014/05/26(月) 13:19:32.73 ID:CHG+lvzx.net
>>591
んなこたない。
江戸期にはいろんな禁止例やきまりごとはあった。
聞く方も答える方も官位について
あやふやだからなんかおかしな会話になってる。
普通にウィキ読めばいろんなこと書いてあるから
まず基本的なとこでも見てみたほうが
いいとは思うよ。

595 :人間七七四年:2014/05/26(月) 16:20:00.51 ID:dAzX70Np.net
豊臣時代は任官したらすぐ辞任して次に譲るから定員以上増えない
ただ辞任しても名乗りだけは名乗るから同じ官位が大勢いるように見える
江戸時代は武家官位は員数外になったから定員以上でも大丈夫になった

596 :人間七七四年:2014/05/26(月) 22:07:58.53 ID:EeO1/MoL.net
関ヶ原スレが無いからここで聞くけど、関ヶ原の戦いって石田三成がいなかったら家康は負けてたと思うけどどう?
石田三成がいなければ関ヶ原の戦いが無かったのはそうだろうけど、家康が野心見せて豊臣に楯突いても、
豊臣恩顧VS家康
の構図になって身動き取れなくない?

もし三成が武断派に殺されていれば、もしかすると三成がいなければ豊臣が滅ぶ事も無かったんじゃないかと思うんだけどどうだろう。

597 :人間七七四年:2014/05/26(月) 22:09:45.18 ID:tgrGdUju.net
そもそも家康自身が豊臣公儀である

598 :人間七七四年:2014/05/26(月) 22:25:31.33 ID:nEMBQ7BJ.net
関ヶ原が無くても、上杉が討伐され、続いて宇喜田さらに毛利が家康に因縁付けられて、
前田のように犬になるか、上杉のように討伐されるかしたら、後はもう徳川にもの申す事の
出来る実力者は居なくなる。仮に豊臣が残っても鎌倉幕府のように徳川が実権を握るんじゃね。
その場合、豊臣も源氏のようにうまい事滅ぼされる可能性もある。

まぁ、そこまでは家康の寿命が続かないな。

599 :人間七七四年:2014/05/27(火) 02:08:29.96 ID:IZs/Oyid.net
自分の悪口を書かれただけで疑わしい人物を皆殺しにした羽柴秀吉が闇討ちされなかったのは何故ですか?

600 :人間七七四年:2014/05/27(火) 02:18:38.18 ID:JaTvUEGK.net
石田三成って寺の息子だったかで、明らかに学の無い庶民だったと思うけど、なんで奉行になれたの?
どちらかと言えば福島正則とかと一緒に騒いでる感じの出自だと思うけど

仮に大きな寺の息子だったとしても政治についての勉強とかはしてないでしょ?

601 :人間七七四年:2014/05/27(火) 05:33:37.45 ID:8SRs9SXo.net
この時代は寺が読み書き勉強する最前線でしょ
漢文が読めるようになれば歴史書、兵法書も読めるわけで
何かしらの学はあったんじゃないの?

602 :人間七七四年:2014/05/27(火) 19:30:36.12 ID:nFbkCOm2.net
>>600
寺の息子じゃない。地侍あるいは土豪だ。お寺に居たのは学問や行儀見習いの為に寺小姓として
預けられていたから。

仮に寺の息子だったとしても坊さんは知識人であって、学の無い庶民ではあり得ない。
桶屋の息子の福島正則と一緒にするな。

603 :人間七七四年:2014/05/28(水) 02:14:19.35 ID:2JuaNCGg.net
「馬出し」って、言葉通りに受け取れば「騎馬突撃用の出入口」
だと思うんですけど、防御施設だからもちろん違いますよね?
なんでそんな名前になったんでしょうか?

604 :人間七七四年:2014/05/28(水) 06:23:29.56 ID:w0QdJKMm.net
言葉通りです
籠城しててもチャンスと見れば攻撃に出ます
相手が力押しできて疲れて退却するときとかサクッと出てって蹴散らして
相手が(#^ω^)ビキビキってなって反転して来たら逃げます
まんまと城付近まで追いかけてきたらまた弓とか鉄砲であぼーんでさ

605 :人間七七四年:2014/05/28(水) 21:40:39.18 ID:1abooHkc.net
ゲスいことをしていない有名戦国武将っていたんですか?

606 :人間七七四年:2014/05/28(水) 22:03:46.11 ID:EQT4kwQv.net
中国大返しの際、秀吉は毛利と和睦しますが
光秀謀反を知った毛利が背後を突かなかったのは
やはり人質交換が大きかったんでしょうか?

607 :人間七七四年:2014/05/28(水) 22:31:03.80 ID:Iy+c9GX+.net
追撃して戦線広げる余力がなかった

608 :人間七七四年:2014/05/28(水) 23:54:28.12 ID:79RFj/Zt.net
>>606
あの時の毛利が秀吉を討つメリットって何かある?
それで光秀が旧織田領を制圧したら、今度は光秀が毛利を攻めに来るだけでしょ。

あの時毛利が秀吉に恩を売ったから、秀吉政権下で毛利は五大老を二人も出す大勢力になれたんじゃん。

609 :人間七七四年:2014/05/29(木) 00:11:42.14 ID:oRzZu4bS.net
なんで木村吉清は30万石もの領地を得ているのですか?
何か才能があったから大名になれたんですか?

610 :人間七七四年:2014/05/29(木) 00:13:50.65 ID:aczNVEXl.net
>>604
そうなんですね
あの広いとは言えない空間に馬が居並んでるところとかまだちょっと想像できないんですけど、
とするとそんなところからも、「騎馬突撃はあった」説は補完できるんでしょうかね

611 :人間七七四年:2014/05/29(木) 00:36:35.39 ID:MFfa+8AD.net
>>610
退却する敵を追うにも、反転して来た敵から逃げるにも馬に騎乗した方が速いという事であって、
突撃はしないんじゃない。

612 :人間七七四年:2014/05/29(木) 02:32:32.29 ID:Vdzbwl3R.net
日本人って何でそんなに騎兵に拘るのかね。
騎兵に憧れる気持ちも分かるけど、願望で歴史を捻じ曲げてるような史観がある気がする。

仮に騎馬突撃があったとしても、山がちで平野が少ない日本でそんな頻繁に騎馬突撃が行われていたとも思えない。
どう好意的に解釈しても他地域より騎兵の比重が小さかったのは当たり前なわけだし、騎兵に拘るの辞めたら良いのに。
というかそんなに徒歩部隊ってダサいかね。

613 :人間七七四年:2014/05/29(木) 04:35:56.96 ID:MFfa+8AD.net
蒙古襲来絵詞の竹崎季長だって領地は無くても馬には乗ってるんだから重要ではあろう。

614 :人間七七四年:2014/05/29(木) 06:12:58.04 ID:Vdzbwl3R.net
日本も鎌倉時代〜南北朝時代辺りまでは騎兵が結構いたんだよ。
というか流鏑馬でも分かるように、当時の戦って騎馬弓兵が一種の儀式のように戦うだけだからね。

でも戦国時代になって戦が合理化してくる。と、儀礼だとか形式だとかどうでも良くなる
すると槍衾っていう槍兵を横に密集させてハリネズミみたいに構える戦法が生まれ、それに騎兵は対抗できなくなった。
弓で言えば日本の弓は長弓だから、馬上から射るより歩兵が射た方が上手く射れるのは当然。
というわけで存在意義を失った馬は輸送用、指揮官の泊付に終始した。

615 :人間七七四年:2014/05/29(木) 08:59:44.38 ID:shgVhN71.net
研究者が武田騎馬隊を否定している理由。
そこらへんを発掘したが馬の骨が見つからなかったから。
死んだ馬の骨を集めていけていた墓があるかも知れないが
現時点ではわからないから。

616 :人間七七四年:2014/05/29(木) 09:30:07.35 ID:XaPH1b6x.net
>>609
奉行としては優秀だったの
奥州の押さえに秀吉の意思が直接作用できるように側近を置きたかったため

>>610
当時の馬や騎は兵の美称でもあるので騎馬に限りませんよ。

617 :人間七七四年:2014/05/29(木) 09:38:23.46 ID:XaPH1b6x.net
>>615
なんて研究者?馬鹿臭くて逆に名前が知りたい

618 :人間七七四年:2014/05/29(木) 10:55:07.29 ID:WLv22fCb.net
戦国時代のゲームとかで

・開墾
・治水
がありますが

これ等は実際のリアルでどの位の期間、お金が掛かった物なのでしょうか?

619 :人間七七四年:2014/05/29(木) 12:26:38.47 ID:XaPH1b6x.net
開墾も治水も簡単に出来る所もあればすごく手間のかかる所もあるから期間資金ともピンキリでしょう。
戦国時代においては平均値を出せるほどのデータも無いと思います。

あと史料上戦国時代は大名が資金を出して新田開発することはなく、
土豪や農民が新田開発したらその耕地の年貢を数年間免除するという形で支援することが主でした。
治水は賦役や棟別役の免除の代わりに周辺の村の役とし、さらに勧進も募るという形です。

620 :人間七七四年:2014/05/29(木) 12:52:44.51 ID:poZGZJ/2.net
>>608
いや、ことはそう簡単じゃないでしょう。
目先の強大な秀吉を叩けたらこれはでかい。
講和したってまた攻めてくるかもしれんし。
光秀が毛利を攻めに来る、なんてそれこそ
先で不確定の話。
逆に、講和、のほうがよほど可能性はある。
相手は謀反人だし。
だから、毛利が追撃しなかった、のはいろんな理由が
あるからわかるのだけど、それはそれで単純じゃないとは思う。

問題は、秀吉がどうして姫路から出られたか。
毛利の思惑と秀吉の行動はまた別。

608が言うような余力というのも
全面戦争ではなく、カラの姫路に戻れないよう
封鎖するぐらいでまずは十分。
だから秀吉も背後は心配でしょう。
大体山崎だって、100%勝てる、というわけでもない。
少々長引けば逆にそれだけ自分が危険。

607の質問が「どうして背後をつかなかったか」
だから毛利の方の話だけど
専門家は「変を知らなかった」「清水切腹でダマされて
恥ずかしかった」とかをあげてる。
これもちょっと変な理屈だけど
長くなるからいったんきる。

621 :人間七七四年:2014/05/29(木) 15:50:09.95 ID:SgN1qd54.net
永禄末期から天正10年頃や、関が原の合戦の時、毛利が有能までいかなくても
そこそこレベルの知恵者がいれば間違いなく天下取れてた。
実際は馬鹿しかいなかったので、永禄末期からの中国戦で浦上や宇喜多に苦戦したり
播磨口の攻防で秀吉を瞬殺した後さっさとへたれ退却したり、本能寺の大チャンスをむざむざ逃したり
関が原のときも中途半端に首謀者として挙兵したのにどうでもいい方面に戦力分散して大敗したりと
かなりの馬鹿な戦略行動して、天下が与えた棚ボタラッキーチャンスを全て逃がしたのが毛利。

622 :人間七七四年:2014/05/29(木) 15:50:48.71 ID:yMEHkTdl.net
毛利は関が原のときも中途半端に挙兵を首謀して家康に喧嘩売って大敗したり
中途半端に織田に喧嘩売って、播磨や但馬の後詰もろくにせず後手後手に回って諸将の離反を招いたり
馬鹿な戦局判断しかやってない。毛利が無能レベルではなく、凡将レベルの指揮官がいたら、間違いなく毛利の天下になってたくらい
毛利は何回も棚ボタに恵まれてるが、両川があまりにも無能すぎて寝返った南条や宇喜多にすら蹴散らされる雑魚っぷりを晒してる。
武田の場合、信長を追い詰めた所で信玄が寿命を迎えてしまい、包囲網が瓦解する事になってしまったのが不運だが
毛利の場合天下を取る棚ボタラッキーチャンスには何回も恵まれており
それを小早川や吉川の無能さで悉く潰しているというのが正確。
例えば播磨での攻防やそれ以前永禄末期〜天正6年頃まで
毛利はたいした敵もいない状態で中央に覇を唱える機会は何回もあったが
浦上・宇喜多間抗争で浦上を選択するなど、馬鹿な戦略判断を行いまくった結果
信長を討つ機会を何回も逸してる。

623 :人間七七四年:2014/05/29(木) 15:51:15.65 ID:yMEHkTdl.net
永禄末期の頃から天正5年頃はまず毛利の第一の棚ボタラッキーチャンス。
周辺に雑魚しかいなくて、織田は畿内で苦戦中。
織田と同盟・降伏せずに反織田で立つと決めたんだから、さっさと東上して、
本願寺や赤井や上杉や松永などと共闘して織田を排除するのは、毛利の状況から至極簡単。
だが小早川がアホすぎて、宇喜多浦上間の抗争で浦上を取るという馬鹿な戦局判断を取ったり
宇喜多支援を決め込んだのに肝心の浦上戦で苦戦するという醜態やってのけたりと、東上が大幅に遅れることになる。
また天正5年〜天正7年の宇喜多離反前も播磨での反織田の勢いがあった時期に秀吉を瞬殺した後に
播磨戦線を放棄して安芸にへたれ退却して、チャンスを見事に潰している。
本能寺の変の時はいわずもがな。
秀吉を瞬殺して、中央に派を唱えられる決定的なチャンスといってよかったが、毛利は秀吉に早々講和して、チャンスを見事潰してる。
関ヶ原合戦の時は西軍主力の合計50000ほどの大軍と総大将の地位を持ちながら、
馬鹿な戦局判断で西軍の作った大チャンスを見事に無駄にした馬鹿。
ここまで無能な大名って毛利以外には中々いない。

624 :人間七七四年:2014/05/29(木) 15:51:29.68 ID:Y0Dhoo5g.net
毛利って宇喜多20万石や南条5万石にすら遭遇戦で大敗したり撃退されたりしてるからな。
九州や四国で在地国人の協力得まくってて相当有利な状況にもかかわらず 負け続きだった
関が原合戦でも自身が首謀者として挙兵しておきながら、伊勢や伊勢湾四国などどうでもいい方面に出兵しまくり
見事に大敗してる。しかも四国や伊勢など空白地に近いところでの火事場泥棒すら失敗して損害だす始末
こんな戦が弱い大名ってそうそういない。

625 :人間七七四年:2014/05/29(木) 15:51:57.78 ID:UBP3OAop.net
天正7年初頭にも勝頼が毛利と荒木と本願寺を救うために
織田戦力を分散するために家康攻めで出陣OK返事出してんだよな。
その時に輝元が宗麟に足を引っ張られたごときで
武田との約束を破り正月16日出陣を無期延期にしやがったから
合同作戦じゃなくなって武田単独で
景虎自刃した3/24を過ぎてからの
4月より遠江高天神・国安(掛川市)を荒らしてて
信長も急いで摂津戦線から安土へ帰国してる。
いそぎ本願寺や荒木もこのチャンスに出撃せよと毛利に要求するが
まったくのヘタレぶりを露呈したために、
これを見た宇喜多・南条らも毛利を見限り、
天正8年になると荒木が破れ、本願寺も朝廷の勅令和睦を飲んでしまい
武田と毛利の滅亡が確定した。
しかし本能寺の変のおかげで毛利は滅亡を免れた。
結局、毛利がありえないくらいヘタレだから
織田を討つチャンスを何度も自らぶっ壊してる。

626 :人間七七四年:2014/05/29(木) 15:52:25.94 ID:yMEHkTdl.net
隆景って相当無能だろ。
猛将の元春の方がまだ数倍マシな智謀だろ。

・大内・尼子の内部分裂を利用して併合しようとするもガチで戦うと忍原崩れや富田城始め負けばかり
・大友なんて竜造寺にもボロ負けするヘタレ相手に反大友の国人の加勢がありながら大苦戦・敗戦して九州撤退。
・尼子・大内に再三、再興軍や一揆を起こされ大苦戦。
・僅か5万石の南条に大苦戦して援軍派遣まで阻止される。
・備前半国程度の宇喜田秀家相手に反宇喜田勢の加勢を受けながら大苦戦。
・今度は大大名となった宇喜田の加勢を受けながら浦上らに大苦戦。
・織田がやってくるとやはり中国から追い出すどころではなく宇喜多直家・忠家に辛川合戦・加茂崩れで大敗するなど大苦戦
 圧倒的国力差で支援もほとんど受けていない宇喜多と一進一退
・四国でも河野らの支援を得ながら事実上敗退。


あと関が原で主家毛利を大衰退させ、分家の両川を滅亡させたのは100%隆景のせいだから
死んだ後の事も糞もない。隆景がもっとしっかりしてれば毛利が天下取れてもおかしくないくらいの大チャンスの連続があったが
隆景はことごとくそれを無駄にして主家は大衰退で分家は滅亡

627 :人間七七四年:2014/05/29(木) 16:01:08.41 ID:fnJScwYq.net
毛利は天下を狙う実力はなかったが、
天下を取る棚ボタラッキーチャンスには何回も恵まれており
それを小早川や吉川の無能さで悉く潰しているというのが正確。
例えば播磨での攻防やそれ以前永禄末期〜天正6年頃まで
毛利はたいした敵もいない状態で中央に覇を唱える機会は何回もあったが
浦上・宇喜多間抗争で浦上を選択するなど、馬鹿な戦略判断を行いまくった結果
信長を討つ機会を何回も逸してる。

628 :人間七七四年:2014/05/29(木) 16:01:32.22 ID:vqsgVI6k.net
毛利は宇喜多・大友だけでなく南条5万石程度もろくに攻略できなかった雑魚だからな。
関ヶ原合戦の時も伊勢の諸城攻めで苦戦しまくって西軍の総大将となったが
足を引っ張りまくってた。
アホの代名詞みたいなクズ大名

629 :人間七七四年:2014/05/29(木) 16:50:15.41 ID:XaPH1b6x.net
長文自演連投迷惑なんですが、菅沼遼太君

630 :人間七七四年:2014/05/29(木) 17:48:41.69 ID:dVtdMqMw.net
実にまっとうな意見じゃん

631 :人間七七四年:2014/05/29(木) 17:57:28.92 ID:aczNVEXl.net
>>616
そういうことかなって思ってたんですけど、
605の感じだと馬みたいですし、どうなんでしょうかね

632 :人間七七四年:2014/05/29(木) 18:33:29.06 ID:XaPH1b6x.net
別に>>604が馬に限定してるようには読めないけど。

633 :人間七七四年:2014/05/29(木) 19:39:17.21 ID:aczNVEXl.net
じゃあ僕の質問と解釈が悪かったみたいですね
605さんはどう念頭に置いてたんでしょうかね

634 :人間七七四年:2014/05/29(木) 23:01:43.30 ID:oRzZu4bS.net
>>616
レスありがとうございます

木村吉清が奉行として優秀だったと判断する理由はなんですか?

言い方が疑ってるように見えますが単に気になるだけです

635 :人間七七四年:2014/05/30(金) 00:42:18.99 ID:q7tu38U3.net
30万国に加増されてる

636 :人間七七四年:2014/05/30(金) 12:03:04.36 ID:6ACdYPBX.net
明智光秀が毛利元就の所にまで仕官を求めて赴き
元就が、「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。」
(光秀の才気は並々ならぬものがあり非常に魅力的ではあるけれども、彼の中には
もう一つ狼のような一面が眠っている。利益と同じだけの災いをもたらす可能性も大きい。)
という感想を残したのというのは本当でしょうか? 周りの人間が信じててインチキ臭いのですが?
ソースはWikipediaだそうです。

637 :人間七七四年:2014/05/30(金) 13:42:29.56 ID:7Wr3H5aC.net
確かにwikipediaに書いてあるが、他の箇所と違って出典が書いてないから信憑性無し。

638 :人間七七四年:2014/05/30(金) 13:56:31.33 ID:tXtwDVR3.net
孔明と魏延のエピソードのコピーだな

639 :人間七七四年:2014/05/30(金) 16:30:45.21 ID:LllYD7p8.net
>>634
明智に仕えてはいなかった説もありますが
山崎の翌年には早くも石田増田ととも上杉との外交という重要な役をやったり
資料的空白期間はあるもの京都町奉行、奥羽奏者役など歴任しています。
政宗と氏郷の一触即発の状態も即座に動いて収拾してるので優秀ではあるでしょう

640 :人間七七四年:2014/05/31(土) 08:59:04.17 ID:1PNhiqVB.net
すいません
1553年3月時点で
・織田信長
・今川義元
・武田信玄
・上杉謙信

は何歳でしょうか?

641 :人間七七四年:2014/05/31(土) 11:10:13.64 ID:w2LWioEL.net
>>636
脇坂安治の大阪の役中立説と一緒に、明智光秀のページを改訂しておいた。

戦国ちょっといい話スレとか去年までのやる夫スレとかの逸話を書き込む厨房が多くて困る。

642 :人間七七四年:2014/05/31(土) 12:19:20.67 ID:mcwISq1Y.net
>>639
なるほど、よく分かりました
一揆を起こしてしまったイメージしかなかったので無能と思ってましたが、そうでもなかったんですね

レスありがとうございました

643 :人間七七四年:2014/06/01(日) 00:28:38.64 ID:LzvPmzVS.net
桶狭間で戦死した今川の家臣一宮宗是という人が居ますが、氏真に仕えた元幕臣の一宮随波斎も名は宗是と伝わっています
この2人は同一人物で、桶狭間で戦死したというのが誤伝なのでしょうか
それとも随波斎の名が誤って伝わってるだけなのでしょうか

644 :人間七七四年:2014/06/01(日) 11:10:45.82 ID:rpFmodDY.net
>>640

・織田信長 19歳
・今川義元 34歳
・武田信玄 32歳
・上杉謙信 23歳

・木下藤吉郎16歳
・徳川家康 10歳
・今川氏真 15

・斎藤道三 59歳

・松永久秀 43歳
・北条氏康 38
・北条氏政 15

645 :人間七七四年:2014/06/01(日) 12:05:26.26 ID:VS/050wn.net
秀吉って武将の能力で言うと織田家で何番目くらいですか?

646 :人間七七四年:2014/06/01(日) 12:29:55.99 ID:ve8w8q3p.net
或る人の曰く、秀吉に十徳あり〜将軍家家長(信長)繁栄の基なり、祝々珍重(天正8年正月晦日付け)

ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。フロイスは秀吉の才覚について面白い話を残していて
尾張時代の信長がいろんな家臣に買い物へ行かせるが、商人との交渉がうまくいかず
値段が高すぎたりすると買わずに帰ってくることもあった。
しかし秀吉だけはどんな買い物でもきっちり買ってきたので信長が大喜びしていたが、
実は秀吉は自分の手持ちの金も追加して買い物してきていたって話がある。
また天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。

他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
フロイスの日本史にも身分も低く血統も賤しいと秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。

天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
「孤児」に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。

647 :人間七七四年:2014/06/01(日) 12:40:48.90 ID:APPQaW0a.net
また菅沼遼太のゴミ長文か

648 :人間七七四年:2014/06/01(日) 12:41:13.70 ID:ve8w8q3p.net
看羊録の著者は、
秀吉の父の家は元来貧賤で、農家に雇われてどうにかたつきをを立てていた。
壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷になったが関東に逃げて数年し、
また戻って信長に自首したので、秀吉は一心に奉公して昼夜風雨を厭わなかったと書いてる。

天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。

649 :人間七七四年:2014/06/01(日) 12:44:30.20 ID:ve8w8q3p.net
耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。

信長には分国法すら無く、
単に室町幕府に寄生してたら下克上された
歴史的意義の無い
実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。

650 :人間七七四年:2014/06/02(月) 23:25:46.88 ID:3I4DsNtP.net
秀吉は最初からかなり高い身分だっただけでしょ。
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる

木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)

あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)

清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる

651 :人間七七四年:2014/06/02(月) 23:27:30.85 ID:o4Cr3RXe.net
津田や木下は織田の一門でしょ。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに織田家でかなりの地位にいたことがわかるし
一次資料初見は重臣や大名しか出せない領土安堵状。
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる

マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた

652 :人間七七四年:2014/06/02(月) 23:27:49.61 ID:mPDslQQ4.net
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに

653 :人間七七四年:2014/06/02(月) 23:28:38.04 ID:rTub8oSL.net
フロイスは日本でキリスト教を広めたかったために日本の情報操作において最も広範な影響力を持つ秀吉の顔色を伺いまくり
元々秀吉のハッタリ誇大喧伝によって捏造された情報ばかりを事実かのように記すなど秀吉マンセーしまくってたが、
秀吉が禁教の構えを見せだすと、日本で秀吉の影響によって、キリスト教が禁止される事を恐れて
それまで全く書かなかった秀吉の本来の闇の部分をちゃんと事実として書くようになった。

フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる

654 :人間七七四年:2014/06/02(月) 23:29:43.19 ID:rTub8oSL.net
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。

フロイスの日本史によれば秀吉は種なしで、秀頼を秀吉の本当の子供だとは誰も信じなかったと書いてる。

秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀吉は種なしで、側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた。
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた。

フロイスは京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって
秀吉をマンセーしまくってるよ。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615
を見ればわかるが、そのまま秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど
秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
宇留津城の悲劇

秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。

そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。

そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。

浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。

655 :人間七七四年:2014/06/02(月) 23:31:43.39 ID:rTub8oSL.net
フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる

656 :人間七七四年:2014/06/02(月) 23:32:26.15 ID:rTub8oSL.net
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。

657 :人間七七四年:2014/06/03(火) 06:37:01.04 ID:C7A/8hjC.net
武田信玄ってなんで斎藤が瓦解して内に美濃に侵攻しなかったの?

658 :人間七七四年:2014/06/03(火) 07:39:38.44 ID:Uwhreusl.net
上野で謙信とやりあってて上野放置できなかったからだろ

659 :人間七七四年:2014/06/03(火) 09:56:23.33 ID:dKakfaZg.net
古墳を砦や城に使ってる場所が大阪にあったみたいですが、他の地方で使われた場所とかありますか?あれば有名な場所を教えて下さい

660 :人間七七四年:2014/06/03(火) 18:46:01.06 ID:QvW9Lz8M.net
武田四天王の逸話や戦い方を調べたいのですが、どういう本が良いでしょうか
甲陽軍鑑かなと思ったのですが、色々な人が出版していてよくわかりません……
wikhだと校合雑記?とか甲越信戦録?とか出てくるので、そっちの方がよいのでしょうか?

661 :人間七七四年:2014/06/03(火) 23:24:50.31 ID:MsY3ZWcp.net
徳川2代目将軍が地味な扱いなのは何故ですか?

662 :人間七七四年:2014/06/03(火) 23:35:13.49 ID:gasMbzPw.net
性癖がわりとまともだから

663 :人間七七四年:2014/06/03(火) 23:53:29.72 ID:YqokdYTw.net
まともすぎて面白くは無いな

664 :人間七七四年:2014/06/04(水) 09:15:06.31 ID:L+Lla45A.net
>>660
四天王ってことは四名臣じゃない方か

665 :人間七七四年:2014/06/05(木) 01:08:59.34 ID:FS1iiChv.net
>>661
関ヶ原に遅れたから

666 :人間七七四年:2014/06/05(木) 01:13:16.86 ID:ru06myUR.net
遅れて無かったらもっと地味になったと思われ

667 :人間七七四年:2014/06/08(日) 04:21:34.82 ID:Ly7Svj3d.net
国家安康の文字で家康が激怒した様に
名前を使うのはご法度でしたよね?当時は
では、平手政秀を弔った政秀寺はいいのでしょうか?

668 :人間七七四年:2014/06/08(日) 06:56:15.97 ID:+o+nCPWP.net
誰が何のためにどう使うかによる

669 :人間七七四年:2014/06/08(日) 12:54:01.11 ID:OZLEwaV6.net
>>667
「国家安康」は「家」と「康」を離したのが問題なのであって、諱を出したのが問題なわけじゃないかと

670 :人間七七四年:2014/06/08(日) 13:07:37.73 ID:MTTIpXu7.net
基本的には諱の「無断使用」が問題にされた。

671 :人間七七四年:2014/06/08(日) 15:26:08.92 ID:IGvyMhId.net
諱の件は現代だとスピード違反や違法ダウンロードみたいなもので、必ず問題になる訳でらないが、建前上やっちゃいけないし、非難されても文句は言えないこと

672 :人間七七四年:2014/06/08(日) 16:53:09.87 ID:/GdHKRAW.net
でも使用を禁じた訳でもないしなぁ。
韓信の幕僚の蒯通は本当は蒯徹なのに武帝の諱の「徹」を避けるために
後世の人に勝手に名前を変えられている。
劉邦の諱を避けて「邦」に代えて「国」を使うとも聞く。

673 :人間七七四年:2014/06/08(日) 17:22:14.44 ID:UfQTmK/c.net
実際、戦国期の武家はほとんど気にしてないだろ

674 :人間七七四年:2014/06/08(日) 19:12:06.62 ID:9fXIoqYo.net
武将が日向守みたいに〜守とか名乗るけど、
実際に朝廷から与えられたものじゃなくて勝手に名乗ってるってほんとう?

当時の人はそんなことしておかしいと思わなかったの?

675 :人間七七四年:2014/06/08(日) 19:13:50.00 ID:z+Y76WGw.net
>>674
あれは屋号みたいなものだ。先祖代々その名乗りだった、という伝承があったんだよ

676 :人間七七四年:2014/06/08(日) 19:28:40.57 ID:9fXIoqYo.net
>>675
いつくらいからそんなことやりだしたの?

677 :人間七七四年:2014/06/08(日) 19:43:24.51 ID:z+Y76WGw.net
>>676
武家における「家」の成立。すなわち鎌倉後期くらいから。

678 :人間七七四年:2014/06/08(日) 19:59:42.88 ID:9fXIoqYo.net
>>677
そうなのか
サンクス

679 :人間七七四年:2014/06/08(日) 20:00:27.56 ID:MTTIpXu7.net
下位官位名は朝廷や貴族が小銭稼ぎにバンバン売ってたという過去があって
そんなもんならもう自称でもいいだろうと言うのが戦国時代
ただそんな中でもそれなりにルール等があって君主に認められないとダメとか
あんまり高すぎる官名は逆にダサいとか、正式な物はやっぱりすげーから大金出して朝廷から買うとか

680 :人間七七四年:2014/06/08(日) 20:37:00.05 ID:C/QR38fN.net
名前を呼んだら無礼、みたいな慣習があったらしいね
ずっと疑問なのが、名前被りって当然あったと思うが、それでトラブルって起きなかったのかな
大名「(敵の)備前守は憎いやつだ! 殺してやりたい!」
〜数日後〜
家臣「家中の備前守さまが悲嘆して自害されました」
みたいなの

681 :人間七七四年:2014/06/08(日) 21:18:08.98 ID:z+Y76WGw.net
>>680
無い。というか通常敵は諱で呼ぶ。あるいは苗字と混ぜて短縮(例えば真田伊豆守だと真伊豆など)となる。

682 :人間七七四年:2014/06/08(日) 21:22:17.01 ID:9fXIoqYo.net
>>679
面白いな

683 :人間七七四年:2014/06/08(日) 21:50:04.21 ID:C/QR38fN.net
>>681
短縮形は手紙とかで見るけど、実際にそう呼ぶこともあったのかな

684 :人間七七四年:2014/06/08(日) 22:16:53.92 ID:z+Y76WGw.net
>>683
あと知行地(あるいは城)で呼ぶ。室町に居館を持ったから室町殿、安土の城に住んだから安土殿、みたいな

685 :人間七七四年:2014/06/09(月) 12:53:22.44 ID:+3MtmvA2.net
戦国時代(1550年代)の主な「土木道具」って
どのような物があったのでしょうか?

686 :人間七七四年:2014/06/10(火) 08:38:35.62 ID:j63An35Z.net
1反の面積を円にしたら
半径(直径?)何メートルの円になりますでしょうか?
端数は切り上げでお願いします。

687 :人間七七四年:2014/06/10(火) 14:51:44.93 ID:71UMl7bS.net
それは戦国の質問じゃなくてただの数学だわ

688 :人間七七四年:2014/06/10(火) 22:35:37.75 ID:JlJwTJ8Z.net
九州で院の付く姓(地名)が多いのはなぜでしょうか

689 :人間七七四年:2014/06/11(水) 12:14:18.37 ID:6wcyY9QL.net
多いというほど多いかなぁ。薩摩にいくらか居る程度でね

690 :人間七七四年:2014/06/11(水) 12:31:11.40 ID:G66eqB1w.net
>>685
話変わるが、子供のころ司馬遼太郎が納屋を覗いたら農具だけで十数種類とあったらしいな
「なにかちょっとしたのを引っこ抜くため」だけのものとか
そういうのを農耕史的に残さないといけないのにどんどん忘れられてしまうって嘆いてた

691 :人間七七四年:2014/06/11(水) 13:17:35.36 ID:yGPobjp+.net
戦国時代の「足軽組頭」って社宅(ちょっと言い方が妙ですが…(汗)的な住居って
与えられたのでしょうか?

またyesとして
・どの位のレベルの物でしょうか?
・庭にミニ畑(1坪〜)作れるくらいの広さってありましたでしょうか?

692 :人間七七四年:2014/06/11(水) 14:17:55.63 ID:6wcyY9QL.net
屋敷を与えられる上級武士以外の在番衆は長屋住み

693 :人間七七四年:2014/06/11(水) 14:41:11.27 ID:kFmTDp1B.net
レオパレスみたいなやつ

694 :人間七七四年:2014/06/19(木) 19:03:52.04 ID:l5xhNn65.net
火縄銃って完全にバラした際の「部品点数」って
およそ何点くらいになるのでしょうか?

695 :人間七七四年:2014/06/19(木) 22:38:00.25 ID:l2mT80Av.net
この前の分解図で数えてみればいいだろ

696 :人間七七四年:2014/06/20(金) 05:48:10.56 ID:H9kAdSVq.net
HD飛んじまったんで
画像とメモすべて消えちまったんだよ…

697 :人間七七四年:2014/06/21(土) 21:20:55.07 ID:4ivqpe7K.net
戦国時代の日本の肉食文化ってどういったものだったのでしょうか?
また、現代・未来・他・・・・のチートを駆使した…と仮定して
牧場作って流通等も整備した。と仮定して

戦国時代に洋食風肉料理(ま、最初は肉塊に塩・香辛料付けた焼き肉レベル)って流布するものでしょうか?

698 :人間七七四年:2014/06/21(土) 21:47:55.74 ID:UheSqOcq.net
>>697
肉食文化は、一部の動物は食べられていたようだけど、広く定着はしていなかった。
動物性タンパク質はもっぱら魚に頼ってた。
魚が流通しにくい地域でも、牧場作ったり肉食に頼ったりせずに昆虫食に走ったほど。

戦国時代に肉食文化が定着しなかったのは、味とか流通とかの問題じゃなくて
仏教の教えから来る価値観の問題だから、生産や流通などを整えても、定着は
しないと思われ。
イスラム教徒は、生産も流通も問題ないけど豚を食べないでしょ?そんな感じ。
あるいは、すごく安価で栄養価も高くてどこでも手に入るようになっても、芋虫は食べないでしょ。
それと同じ感覚だと思われ。

699 :人間七七四年:2014/06/22(日) 05:55:45.71 ID:svmeH94i.net
鳥はオーケーだったみたいだね
あとうさぎも飛んでるって解釈でオーケーに

700 :人間七七四年:2014/06/22(日) 07:16:00.23 ID:/f04Toqz.net
島津家の薩摩 大隅は豊かな土地ではないと聞いたのですが
交易は盛んにやってたのですか?

701 :人間七七四年:2014/06/22(日) 19:36:44.23 ID:EIip5BMB.net
だとすると戦国時代の肉食ランクってどんな感じになるの?

702 :人間七七四年:2014/06/22(日) 19:57:03.76 ID:aIbLVhis.net
>>701
肉食ランクって言葉が他人に伝わると思ってる?

703 :人間七七四年:2014/06/22(日) 20:00:36.88 ID:VSZdImlo.net
>>700
最初はそこそこ。博多潰した後はかなり盛んに

704 :人間七七四年:2014/06/23(月) 06:20:49.75 ID:rfBUecBV.net
ただ肉食わなかったのは都会人とか坊さんやインテリ層でちょっと田舎に行けば熊だの鹿は食べてたと思うな

705 :人間七七四年:2014/06/23(月) 09:34:59.73 ID:qiIQkgJC.net
江戸期には普通に食べられてたんだから
戦国だって同じようなものでしょう。

706 :人間七七四年:2014/06/23(月) 18:11:55.58 ID:k4TpHJWS.net
普通には食べられてない。あくまで薬と称して食していたんだから。

707 :人間七七四年:2014/06/23(月) 21:23:55.10 ID:qiIQkgJC.net
>>706
そうでもないよ。
隠語は使ってたけど
別に薬と決めるのもね。
普通というのは、庶民や地方でも
ってことさ。

708 :人間七七四年:2014/06/23(月) 21:29:28.87 ID:0Ot1rtHP.net
というか江戸では牛鍋屋が名物だったし、彦根藩では牛肉の味噌漬けが名産品だった。

709 :人間七七四年:2014/06/23(月) 23:30:23.04 ID:GIC/PN/U.net
牛鍋屋が名物ってソースは?味噌漬けは一応薬だろ。

710 :人間七七四年:2014/06/24(火) 00:14:10.90 ID:txDmaI5v.net
味噌漬けは幕府贈答品の
記録にある。
薬でもなんでもない。
特別だろ、と言われるとあれだから
地方の茶店でも出してたよ、ってことさ。

711 :人間七七四年:2014/06/24(火) 00:26:38.66 ID:kyI82Wv8.net
贈答品でも薬としてだろ

712 :人間七七四年:2014/06/24(火) 00:32:23.28 ID:kyI82Wv8.net
ぐぐっても牛鍋屋は幕末だし。味噌漬けは養生薬だの反本丸だのだし。
正確なとことソースを教えてくれ

713 :人間七七四年:2014/06/24(火) 04:40:35.62 ID:u78BXGg/.net
モツ鍋は健康にいいって少し前に言われてた
その手の類いでしょ

714 :人間七七四年:2014/06/24(火) 13:22:30.49 ID:Uut6g5Ak.net
>>712
ググるしか能のないバカ
文献にちゃんと当たれよ無能

715 :人間七七四年:2014/06/24(火) 13:45:54.07 ID:kyI82Wv8.net
文献名プリーズ

716 :人間七七四年:2014/06/24(火) 19:02:51.41 ID:txDmaI5v.net
>>711
徳川史料には普通にある。
自分の無知を人に頼るな。
薬として、なんて記録にはない。

717 :人間七七四年:2014/06/24(火) 19:23:09.48 ID:kyI82Wv8.net
文献名プリーズ

718 :人間七七四年:2014/06/24(火) 20:06:25.00 ID:msZxjH/h.net
知らないから出せないんだろう。

719 :人間七七四年:2014/06/24(火) 20:32:42.04 ID:tSLvIleb.net
人に聞かないと何も出来ない無知が遠吠えしているスレはここですね

720 :人間七七四年:2014/06/24(火) 20:38:18.62 ID:msZxjH/h.net
通説や常識と違う回答をしたらそれが正当である事の証明責任があるだろう。

721 :人間七七四年:2014/06/24(火) 20:41:26.59 ID:kyI82Wv8.net
質問スレで人に聞くなとか面白いことをおっしゃる

722 :人間七七四年:2014/06/24(火) 21:45:09.99 ID:VsfWBClw.net
>>716
たぶんだけど、徳川史料にあるのは彦根藩からの贈答品って事で、一般庶民も
普通に食事として食べてたとか、茶店でも出してたとか、そういう事は書かれて
ないんじゃね?
だとしたら、かなり的外れな話なわけだけど。

723 :人間七七四年:2014/06/24(火) 22:01:02.18 ID:tSLvIleb.net
ちなみに長州毛利家の名物はクジラの煮物な

724 :人間七七四年:2014/06/24(火) 22:41:52.85 ID:kyI82Wv8.net
わざとずらしてるのか、おつむが残念なのか

725 :人間七七四年:2014/06/25(水) 03:26:37.46 ID:xsIj6pGy.net
>>722
ってかさ、公式にあった、ってことは、
そこらたしでウジャウジャ食べてた、ってことね。
茶店で出してた、は絵草子に残ってるし
ましてや貧乏人ならなんでも食べる。
これは平安、鎌倉からの連続性の話ね。
戦国だけがバタバタして記録に残らないだけの話さ。

豊臣の洛中図でも、怪しい肉類は描いてあるし
「公式にあるー特別」とか「薬としてー特別」
というのと、「食べてない」はイコールじゃないわけよ。

後ね、ついこないだ昭和の戦前までは江戸や戦国と
山間部ではおなじような生活なんだ。
うちのじ〜さんはタヌキとかオオサンショウウオ普通に食べてた。
ウサギもニワトリも普通に飼ってた。
雉だってよく見かける。

こういうのを東京育ちの専門家は知らないから
「史料に出せ」とかいうけど、まぁそれこそ
「頭でっかち」だわねぇ。

これは、食文化の話、であって「信用できない」なら
とりあえずそっちの基礎でも読んでほしいところ。
日本は思われてる以上に、豊か、だし
「クジラが給食にあった」のを
「史料出せ」なんていうレベルの話を
したくないだけさ。

726 :人間七七四年:2014/06/25(水) 04:18:42.75 ID:q25cZx1e.net
文体的にたまに見る頭悪い人か

727 :人間七七四年:2014/06/25(水) 13:43:15.92 ID:NGzvJjAu.net
戦国時代の福井三国湊って今のどの辺りだったのでしょうか?

728 :人間七七四年:2014/06/25(水) 18:25:05.19 ID:HmokHkpL.net
昭和の山間部でタヌキや兎食べてても不思議は無いけど、
それが戦国時代と繋がってる証拠は無いな。

俺の出た高校は地方都市の進学校だけど、生物部の顧問がタヌキを轢いたんで
みんなで鍋にしたという噂があった。ホントかどうかは判らんが、革と骨格標本はあった。
だからと言ってそれが戦国時代からの伝統では無かろう。

729 :人間七七四年:2014/06/26(木) 09:31:54.26 ID:5cfXGB8I.net
>>727
いまの福井港の元

730 :人間七七四年:2014/06/26(木) 23:19:44.09 ID:Zee64rut.net
後半の小田原の陣で豊臣軍は兵站がボロボロになってたらしいし
大坂冬の陣でも幕府軍は兵糧不足に陥ったといいますけど
この時代、大軍の兵糧を長期間賄うことができなかったのは何故でしょうか?

731 :人間七七四年:2014/06/27(金) 00:30:11.80 ID:3XqRb7NQ.net
当時はトラックなどは無いので輸送も人力馬力でした。肉体労働者(馬)も当然食料を必要とします。
しかも大食いなので領地の輸送ですべてを賄うのは非効率なのです
ですから減った分は地元の商人から買う事によって補充しつつ行軍という方法で
補給部隊の数を減らして効率化しているのです。
しかし小田原や大坂のように非常に大きな常識外の軍勢が集まると
商人の蔵もさすがに空になってしまうので一時的に兵糧不足になります。
一時的というのは商人の追加発注や政権が集めた兵糧が到着すると回復するからです。
一時的でなければさすがに負まけてます。

732 :人間七七四年:2014/06/27(金) 00:32:41.99 ID:3XqRb7NQ.net
ついでにネットでは現地徴収は遅れてる軍隊と断言しだす人も居ますが
現地で買えばすむものは現地徴収して補給の負担を減らす事は軍事的常識であり
現在のアメリカ軍ですら力を入れてる分野なので真に受けないように

733 :人間七七四年:2014/06/27(金) 19:40:31.65 ID:kMG23MfC.net
追記すれば封建制度下の徴発は
限定的なものにならざるを得ないからです。
大きな戦が始まるとわかれば、米価は上がりますから大名たちは
領国からの米の流出を抑制します。
封建制度のもとでは支配下の大名たちから直接
米や物品を納めさせることは基本的に御法度です

734 :人間七七四年:2014/06/29(日) 08:28:47.31 ID:/lGtop1D.net
戦国時代の「寄子・寄親」に関する質問です

「見ず知らずの武装集団が、とある足軽組頭に臣従化を希望。
『当面の給料は自分たちで賄いますので…(実際その能力有)』」って可能なのでしょうか?

また「陣借り」の事を詳しくご教授下さい。
・越前柴田家vs加賀一向門徒戦に柴田軍に
見ず知らずの縁のない傭兵隊(60人)として参加…の場合
って可能でしょうか?

735 :人間七七四年:2014/06/29(日) 09:34:52.67 ID:LlsMIStj.net
武田あたりのキッチリしてるところは足軽も身分のはっきりしたものをつれてくるようにと命令を出しています。
キッチリしてないところは分かりません
陣借りは基本的には知り合いに頼み込んで身元引受人になってもらって参加するもので、
スパイや破壊工作員だったら困りますよね

736 :人間七七四年:2014/06/30(月) 07:17:02.28 ID:3lXNBVqG.net
毛利隆元が死んだ時に弟の隆景が「毛利はもうおしまいだ」と半狂乱になった逸話?のソースがわかる人居たら教えてください

737 :人間七七四年:2014/07/03(木) 07:56:27.11 ID:lxOyUMxM.net
上杉謙信について質問します。

関東管領になって、何度か関東の諸豪族に動員かけて北条を攻めていましたが、上杉に
対してその諸豪族は年貢とか毎年送っていたのでしょうか。
上杉憲政などの時代なら、一応配下となっている長野氏などが納めていたとするのはわかりますが、
謙信になってからはどうだったのでしょうか?

738 :人間七七四年:2014/07/03(木) 10:02:29.42 ID:MEtkIWnX.net
謙信や憲政にかぎらず配下は年貢は収めません。
御恩と奉公型の封建制ですので収めるのは軍役です。

739 :人間七七四年:2014/07/04(金) 19:51:45.52 ID:J3omtkV1.net
戦国時代に公式に忍に暗殺された大名はいるんですか?

740 :人間七七四年:2014/07/04(金) 20:18:00.48 ID:gYMc/hZ3.net
無し。

741 :人間七七四年:2014/07/04(金) 20:21:13.22 ID:J3omtkV1.net
サンクスです
やはり隠すんですね

742 :人間七七四年:2014/07/04(金) 20:44:38.05 ID:E2O7/VxD.net
>>741
忍者なんてのは江戸後期から明治になって生まれた想像上の存在

743 :人間七七四年:2014/07/06(日) 11:17:27.57 ID:Z1iuKyLL.net
信長以外に鉄砲隊の編成に力を入れてた戦国大名ってどこがあります?

744 :人間七七四年:2014/07/06(日) 11:35:09.57 ID:AtNQ/tB5.net
ほとんどの大名が鉄砲隊の編成に必死こいてます。

745 :人間七七四年:2014/07/08(火) 10:30:51.98 ID:Bi856DFP.net
浅香左馬助という人物について調べているのですが
グーグル検索してむあまり情報が得られませんでした
どなたか知っていることを教えていただけませんか?

746 :人間七七四年:2014/07/08(火) 20:11:24.64 ID:j9+/qWxd.net
戦国時代の料理、調理技法について

「焼く」、「煮る」「煮詰める」は聞くのですが、
「油」を使った、「揚げる」、「炒める」の調理法の料理を聞きません。

天ぷらのご先祖様なものはあったみたいで、その発想が無かったというわけでも無かったはずでが、
特に、この時代の「炒める」系料理は聞いたた事がありません。

この時代4「食用」調理には「何の油」を使ってたのでしょうか?

・菜種
・胡麻
・綿花
・落花生

などの現在でもある油が使われてたんでしょうか?

747 :人間七七四年:2014/07/08(火) 20:20:59.87 ID:JyLMitQJ.net
>>746
ごま油。揚げ物は禅宗の寺院で出していた

748 :人間七七四年:2014/07/09(水) 01:25:44.95 ID:MpTJAVdH.net
「炒める」は獣肉食せずら脂肪を使えなかったから普及しなかったってとこかな
昔の日本の油と言えば胡麻油だけど炒め物には向かないし

749 :人間七七四年:2014/07/09(水) 09:28:26.78 ID:jdd5VxRT.net
戦国時代で馬、牛使った馬(牛?)鍬農耕してた農民って人力農耕してた割合ってどの位だったのでしょうか?

それともこの様なリッチなやり方が出来たのは村長クラスだけ?

750 :人間七七四年:2014/07/09(水) 09:54:26.58 ID:MpTJAVdH.net
戦国時代の詳細なデータは残っていませんが
江戸時代入ってすぐくらいに作られた人畜改帳によると
3。4軒に1軒は牛か馬を持っていたとなっています。
また当時は村民で協力して農業をしていたので
直接持っていなくても恩恵にはあずかれたかと思われます

751 :人間七七四年:2014/07/09(水) 12:01:33.86 ID:DGOOjP0j.net
>>746
油は貴重だからそう簡単には
使えなかった。
そのまま揚げる、粉をつけて揚げる、粉を水に溶かして
揚げる、という調理法の種類はあった。
これは戦国というかそれ以前からお金持ちさんで
たまに儀式に使われるという感じ。
戦国だと秀吉とか家康が栄華を極めた頃限定だわね。

752 :人間七七四年:2014/07/09(水) 12:43:07.74 ID:8ilywEPN.net
藤沢周平の小説だったか揚げ出し豆腐食いまくってたね

753 :人間七七四年:2014/07/09(水) 22:50:22.41 ID:1UeT6E2L.net
合戦図をまとめた本を探しています。
合戦跡地にあるような、誰がどこに布陣していたかが分かるようなものがいいです。
初学者向けで構いません。よろしくお願いします。

754 :人間七七四年:2014/07/10(木) 09:51:13.50 ID:d2kEGn0R.net
戦国時代の農具(鋤、クワ、手カマなど)の価格、物価等の詳細を知りたいです
また農民が刀で武装していたと聞きましたが普段から刺していたのでしょうか?

755 :人間七七四年:2014/07/10(木) 19:19:12.93 ID:fGQzjHnM.net
農民も成人すると二本差してましたが、大人の証明なので公共の場では携帯していました。

756 :人間七七四年:2014/07/11(金) 07:25:07.05 ID:2b53SI7a.net
小田原征伐に関しての質問なのですが、北条家や北条に組した勢力らは勝ち目があると見て秀吉に対抗したのでしょうか?
それとも武士の意地として戦っただけなのでしょうか?
何も決まらなかった評定に関しての逸話は有名ですが、ソースは忘れましたがどこかで豊臣方の兵糧などがまずかったみたいなお話を聞いた事あった気がします
実際どうだったのかと考えてたら悶々として何も手付かずになったので教えて頂けると助かります

757 :人間七七四年:2014/07/11(金) 08:53:51.03 ID:SctrF+Mx.net
兵糧が足りないと書いてるのは、フロイスだが、
それは事実を曲げて書いてる。
フロイスはバテレン禁止令が出た年の記述からは、
悪党秀吉はただ単に運がよいだけで買っただけだと
いままでの記述姿勢とは180度違う書き方にかわります。

例えば、島津征伐であと1日遅く島津が降伏するのを我慢すれば、
秀吉軍は兵糧が無くなり四散していたとか書いています。
小田原陣もこの流れに沿って貶しています。
たしかに北条方の武将が秀吉軍は兵糧に困っていると書いた書状もありますが、
これを以って研究者はみな、北条の情報収集能力が悪すぎると指摘しており、
秀吉自身は書状で大名妻子も小田原に呼び寄せるとか、
天下統一の総仕上げの戦いだから、
この際、金に糸目をつけず思い切り金を使って誇示するとも
書いていて、さらに奥羽征伐軍まで編成開始するなど、
まったく兵糧に困った様子はありません。

758 :人間七七四年:2014/07/11(金) 11:33:25.42 ID:khgynnW+.net
>>756

氏政は信長には早くから従うなど十分すぎるほど先見の明はあった。
小田原合戦は単に徳川や伊達の動向を見誤ってただけ。
小田原合戦では豊臣軍29万は北条方数百から1000が篭もっただけの忍城、韮山城などに苦戦しまくり
小田原1000には手も足もでず、重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・依田・平岩が戦死し、氏家行継が負傷し
フロイスの日本史によれば兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる始末だったし
伊達さえ味方してれば100パーセント勝てた。

759 :人間七七四年:2014/07/11(金) 11:35:03.40 ID:khgynnW+.net
北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書やもう一点の史料から、
北条方は兵力の大部分を上野・下総・下野・北武蔵などに割いてて逆に小田原や韮山や忍城など
豊臣方が攻めたポイントにはほとんど兵がいなかったのがわかる。
それらを上杉・真田・依田・宇都宮・結城・佐竹・皆川・佐野・那須ら反北条勢らが陥落させてくれたおかげで
北条方は士気がガタガタになって重臣らの離反まで繋がっただけ(フロイスの日本史にも小田原以外の諸城陥落により
北条方は戦意がなくなったと書いてる。)
逆に豊臣方が攻めた韮山ではわずか500の兵力ながら苦戦しまくり山中城攻防では重臣一柳が戦死し
忍城では現地でいた石田らの反対押し切って秀吉が馬鹿な水攻めを決行したため大敗してる。
小田原も全く手も足も出ていない。
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
伊達が奥州から駆けつけたら間違いなく豊臣軍は瞬殺されてたよ。現に兵糧までなくなりかけてたし。
北条は天正壬午でも2万程度だったろうが。
しかも早期から会戦準備すすめ過ぎてあちこちで村落が欠落しまくるなど疲弊しまくってたからな。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる

760 :人間七七四年:2014/07/11(金) 11:35:48.79 ID:hRvsfksp.net
伊達が北条に味方してりゃ間違いなく勝てただろ
わずか34500の寡兵に29万の大軍がありながら全く自力では手も足も出ず一柳堀尾嫡男前だ重臣平岩弟依田戦死に
氏家負傷とアホっぷりを晒してたし

761 :人間七七四年:2014/07/11(金) 11:35:52.80 ID:AOYiLLGs.net
菅沼遼太はスルーでよろ

762 :人間七七四年:2014/07/11(金) 11:36:11.78 ID:khgynnW+.net
同意。佐竹の史料によると米20万石も用意していながら豊臣方は兵站維持できるギリギリまで追い込まれてたみたいだし
伊達が味方すりゃ佐竹や相馬や宇都宮や結城なんて瞬殺されるだろうし
その後大軍となった伊達軍が徳川や上杉・真田などを蹴散らして終り

763 :人間七七四年:2014/07/11(金) 11:37:52.40 ID:TiaOfCJq.net
フロイスは日本でキリスト教を広めたかったために日本の情報操作において最も広範な影響力を持つ秀吉の顔色を伺いまくり
元々秀吉のハッタリ誇大喧伝によって捏造された情報ばかりを事実かのように記すなど秀吉マンセーしまくってたが、
秀吉が禁教の構えを見せだすと、日本で秀吉の影響によって、キリスト教が禁止される事を恐れて
それまで全く書かなかった秀吉の本来の闇の部分をちゃんと事実として書くようになった。

764 :人間七七四年:2014/07/11(金) 11:38:37.40 ID:khgynnW+.net
フロイスは京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって
秀吉をマンセーしまくってるよ。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615
を見ればわかるが、そのまま秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど
秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな

765 :人間七七四年:2014/07/11(金) 11:40:31.26 ID:CC87mqd2.net
フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615

766 :人間七七四年:2014/07/11(金) 11:46:52.74 ID:TiaOfCJq.net
フロイスの日本史によると豊臣方は兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれてたしね
政宗が北条に味方してたら100%勝ってたのは間違いない

767 :人間七七四年:2014/07/11(金) 11:48:09.71 ID:khgynnW+.net
小田原市史の久保田氏や小和田哲夫も豊臣方の兵站の不備を指摘してるし
確か佐竹の史料にもそういう記述があったはず。

768 :人間七七四年:2014/07/11(金) 13:41:47.60 ID:EjWxeC2v.net
で、いつになったら佐竹の史料とやらが出てくるんだ。
逃げ回ってないで早く出せよ。

769 :人間七七四年:2014/07/11(金) 13:47:12.24 ID:N+c+eHsk.net
>>768
茨城県史中世編あたり読んで自分で調べろよクズ虫

770 :人間七七四年:2014/07/11(金) 13:48:42.43 ID:Xm5rv2/2.net
小和田の不備の指摘は
部分を拡大解釈してるだけであろう。
今と違って冷蔵庫もないから
たえず食料は危機を伴った管理になる。
米が有り余って困る、なんていう状況には
ならないし必要なだけを大事に管理してただろう。
そういった状況を表現した文などを
悪意で解釈したりおおげさに解釈して
「不備」「追い込まれていた」「敗北寸前」とか
いうのは単なる言葉遊びか
結論ありきの解釈かどっちかで
特に意味のあるものでもないだろね。

771 :人間七七四年:2014/07/11(金) 13:50:15.75 ID:N+c+eHsk.net
>>770
であろう
あろう
あろう

憶測と決めつけだけの典型的な無知の考察方法
嘲笑

772 :人間七七四年:2014/07/11(金) 13:55:57.01 ID:AOYiLLGs.net
菅沼遼太はスルーでよろ

773 :人間七七四年:2014/07/11(金) 13:56:46.72 ID:AunDjdoj.net
菅沼遼太は北条厨

774 :人間七七四年:2014/07/11(金) 14:18:12.93 ID:HlxXtiTp.net
佐竹の史料やフロイスの日本史によれば豊臣軍は兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる始末だったし
伊達さえ味方してれば100パーセント勝てた。

775 :人間七七四年:2014/07/11(金) 16:11:02.26 ID:4y55lBSa.net
>>773
氏政擁護していた時の、違うIDが追い詰められたときに違うIDが反発して、
何でお前が申し開きするんだよって突っ込まれていたのは、氏政厨菅沼の真骨頂。
あれは久々に腹を抱えて笑った。

しかも謙信信玄と争っていた時代の北条はageないから丸分かりという踏み絵もある。

776 :人間七七四年:2014/07/11(金) 16:20:01.96 ID:l8BPKe8E.net
勝頼も氏政も好きだからいつか菅沼と間違えられそうだな…

777 :人間七七四年:2014/07/11(金) 17:16:04.39 ID:Zkqd2lCh.net
>>776
毎度おなじみのコピペ張らなきゃ菅沼認定されない
これが分からないのは菅沼だけ

778 :人間七七四年:2014/07/11(金) 17:36:45.24 ID:rlvgJwz+.net
本人は複数回線で自演してるつもりなのさ
バレバレだが

779 :757:2014/07/11(金) 17:57:41.07 ID:2b53SI7a.net
沢山のレス下さって有難う御座います
レスさせて貰う前に確認したいんですが、レス頂いた中でどれが菅沼氏の物になるんでしょうか?
このスレに最後に来た一年前くらいは信長は半殺しにされた〜とかよく分からないコピペあったので見分けついたのですが、ぶっちゃけ今回は見分けが…orz

780 :人間七七四年:2014/07/11(金) 18:12:34.12 ID:Hrl8TP8V.net
長文を連投するという特徴も有る。

781 :人間七七四年:2014/07/11(金) 18:14:19.26 ID:AOYiLLGs.net
最初のレス以外全部菅沼遼太

782 :人間七七四年:2014/07/11(金) 18:35:38.89 ID:Zkqd2lCh.net
最初の一行をコピペしてググってみよう
似たような駄文が大量にHitするのが毎度おなじみ菅沼コピペ

783 :人間七七四年:2014/07/11(金) 22:30:18.99 ID:T1Ntwq2B.net
>>779
基本的に長文書いてる人の意見は実にまっとうで参考になる。
長文にネチネチケチつけてる奴の意見は、願望妄想ばかりで全く参考にならない。

784 :人間七七四年:2014/07/11(金) 22:35:07.78 ID:mylKso/j.net
>>779
下記の特徴の人間のレスは一切参考にならない。


・歴史の話が出るとすぐに自分からシッタカ説明する。 しかし論拠となる具体例や、史料・論文などは一切なし。
・それに突っ込まれたり長文で詳細に反論されると物凄く嫌がる
・自分から歴史の話を持ち出してるにもかかわらず反論相手を荒らし認定する
・詳細な内容や論拠が詳しく書かれたレスを極端に嫌がり、馬鹿でも読める短い短文のみを好む
・自分から歴史の話持ち出す割には、突っ込みどころ満載のハッタリ願望や妄想ばかり書いているので、よく長文に突っ込まれる
・長文は特に荒らしていなくてもすぐに荒らし認定する。
・気にいらない意見だとコピペでなくても「長文コピペ」「荒らし」「菅沼」などといってレッテルを貼る

785 :人間七七四年:2014/07/11(金) 22:44:34.55 ID:ghDPbTAV.net
>>782
ググってみた
長文ばかりでなくそれに同調してる中短文までコピペなんだなw

786 :人間七七四年:2014/07/11(金) 23:10:54.13 ID:PqJS4JKo.net
戦国時代、江戸時代全般の
・木材の値段
・木こりの日当
・鋤、クワ、カマなどの人力基本3農具の値段
って幾等位だったのでしょうか?

787 :人間七七四年:2014/07/12(土) 08:30:27.07 ID:uK0g/AxX.net
武田厨のフリを装う織田在日がアンチ秀吉であって、
だがは秀吉厨だけどな。

788 :人間七七四年:2014/07/12(土) 12:00:40.36 ID:VP68AHWz.net
日本は何回もたいした理由もなく何の罪もない朝鮮人の住む半島に侵略して
何の罪もない朝鮮人相手に虐殺や売春を繰り返してたし
日本人が朝鮮人に恨まれてるのも、日本人の過去のやったアホな侵略と虐殺など非道行為のせいである。
秀吉みたいなゴミがいなければ朝鮮人拉致被害者はさっさと帰ってきてるし
朝鮮半島からうらまれたり
韓国への日本への挑発も起きていない。
全部たいした理由もなく半島に侵略したり何の罪もない半島人を虐殺しまくった秀吉のせい。

789 :人間七七四年:2014/07/12(土) 16:27:40.91 ID:u6pEnRjf.net
>>786
戦国はあまり記録がないけど
江戸になると後期はそれなりに残ってる。
何でもランキング本も出てるから
ググってみ。
例えば一文いくら、というのは江戸の時期によって
違うしそういうのも参考になると思うよ。
木材って言ったっていろいろあるでしょ。

790 :人間七七四年:2014/07/12(土) 22:51:19.59 ID:gJeiLRH/.net
戦国と江戸後期じゃ時代が離れてないか
むしろ現代の方が近い

791 :人間七七四年:2014/07/12(土) 23:03:15.37 ID:w2TVAIiF.net
戦国の米や味噌などの主要なもの以外の物価を研究した本なんか売ってないからな
毎回あれこれの値段聞いてるけどぶっちゃけ自分で調べるしかない

792 :人間七七四年:2014/07/14(月) 08:06:47.77 ID:F6kpwALm.net
質問します。

日本の戦国時代の研究はかなりされていると思われますが、日本での一次資料は他国の
同時代の歴史と比較して少ないのでしょうか?
おおざっぱでいいので答えて頂けるとうれしいです

793 :人間七七四年:2014/07/14(月) 15:45:10.58 ID:T9iCxGWK.net
つか秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねーだろw農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になるだろアホw
早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が
4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
しかも北条に対して秀吉軍が兵糧不足で敗北寸前だったとかお前は書いてるが、
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状については、
そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない)
つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇwww
前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状(形式的なもので実際はおね宛)でも
「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ小田原へ来るように申し触れた。
このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
などと最初から長陣の計画を秀吉は表明してるのに、まだ捏造するか?
>>豊臣方は6月時点で兵糧不足
そんなわけなかろう。6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw
6/14には奥羽征伐のための偵察先遣部隊の蒲生氏郷が早くも陸奥国二本松に到着の書状(政宗はいまだ長井郡〜大崎葛西あたりにいた)
これを受けて6/15には浅野長政が八戸らへ家康・秀次の先陣による7月上旬の奥羽平定出馬宣言。
6/20には部隊編成計画を秀吉が発表(奥州奧郡為仕置被指遣御人衆道行次第)
7/4あっけなく小田原降伏。
7/7奥州出羽仕置の方針について政宗の意見を参考にしたいと秀吉から御内意があったと
旧葛西家臣富沢直綱に正宗がウソを吐く(自筆書状なので用心のためすぐに火の中へ入れて燃やせと書く)
77/11氏政・氏照らが切腹。7/13秀吉が小田原城検分と家康の関東転封命令。
7/17秀吉も小田原を発し奥州に向かう。7/26秀吉が宇都宮に到着。
>>豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww

794 :人間七七四年:2014/07/14(月) 15:47:29.34 ID:T9iCxGWK.net
>>豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>>小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000
あぁ!?ここでは29万と下方修正して主張しとんのかこの在日アホ織田チョンw根拠がないから都合で兵力をかえてるだけだなw
そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて)
北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww

はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w
さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換されるアホ脳。さすがキチガイですねwww

4月から4万人を動員して三ヶ月かけて石垣山城を築き始めてる時点で、
秀吉が兵糧に困ってないから、長期滞在する予定でいた意思が見てとれる。

関が原の戦いでの家康の動員力から考えて
北条がたったそれだけしか兵力が動員できなかったとするのは ありえない。
東海道の家康、中仙道の秀忠、会津街道や白河戦線の秀康
常陸の佐竹への備えの江戸駐屯軍という大兵を率いていた。

黒田基樹
毛利家文書の北条家人数覚書には
氏直馬廻七百騎という具合に書かれており
総合すると34250騎となる。
そこで上総井田氏の例をあげて騎馬数ではなく動員数を説明すると
井田氏は225人の動員を命じられており、
北条家人数覚書を見ると百五十騎と書いてある。
この数字で換算し直すと、5万2000人の兵力がいたことになる。
ただ実際の軍勢は他にも傭兵や百姓徴発もあったので、
この数字より多かったと考えられる。

つかお前下記でいろいろと逃亡してるのをみんなに指摘されてるぞwはよ答えてあげろよwいつまで待たせるんだw
8 :人間七七四年:2013/02/18(月) 03:54:17.37 ID:hEnpT6NC
>>6
あれ年代で分類されてるってことぐらい知ってていってるよね?
知った上で、無関係な北条編とか加えて三十巻とか言ってるわけ?
何が目的なの?
10 :人間七七四年:2013/02/20(水) 06:58:49.07 ID:ZVTlg31h
>>8-9
好き勝手言うな
書状をこちらで読めない状態ではコメントできん
週末のいくつかを費やして探し出すからしばらく待ってろ


>>根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ


859:人間七七四年 07/22(月) 08:33 HlF9Iybk [sage]
天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状
天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙(阿波国古文書)

上記の書状の日付、誰から誰に宛てられたものか、
書状内容の転記と共に書いてください。


尾張県史でも偽書状って指摘されてるのを、なんの言及もせずにさらにとソースに出したり
写しの書状を写しじゃないと言い張ったり、そもそも架空でっち上げデタラメ書状ばっか出して捏造しまくってないではやく返答しろやカス!

795 :人間七七四年:2014/07/14(月) 16:54:12.69 ID:o8bqBaRg.net
ググってみるとこれもコピペ

796 :人間七七四年:2014/07/14(月) 16:58:21.39 ID:hsweGQXa.net
>>792
多い

797 :人間七七四年:2014/07/14(月) 17:22:04.99 ID:qP1ntL7s.net
>>795
菅沼の対立自演荒らし

798 :人間七七四年:2014/07/14(月) 17:54:26.17 ID:TlHzoJ3l.net
菅沼遼太

799 :人間七七四年:2014/07/14(月) 20:57:31.51 ID:F6kpwALm.net
>>796
ありがとうございます。
ちなみに中国は日本と比較して資料は残っているのでしょうか。

800 :人間七七四年:2014/07/14(月) 20:58:51.09 ID:J7/p7mbT.net
>>799
無い

801 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:11:49.70 ID:F6kpwALm.net
>>800
なるほど、ありがとうございます。
中国の歴史物の本というのはそこまで信憑性があるわけではないんですね。
日本で言うところの信長公記や甲陽軍艦並に怪しいという感じですかね。

802 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:50:19.81 ID:ohPHAjI7.net
北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書やもう一点の史料から、
北条方は兵力の大部分を上野・下総・下野・北武蔵などに割いてて逆に小田原や韮山や忍城など
豊臣方が攻めたポイントにはほとんど兵がいなかったのがわかる。
それらを上杉・真田・依田・宇都宮・結城・佐竹・皆川・佐野・那須ら反北条勢らが陥落させてくれたおかげで
北条方は士気がガタガタになって重臣らの離反まで繋がっただけ(フロイスの日本史にも小田原以外の諸城陥落により
北条方は戦意がなくなったと書いてる。)
逆に豊臣方が攻めた韮山ではわずか500の兵力ながら苦戦しまくり山中城攻防では重臣一柳が戦死し
忍城では現地でいた石田らの反対押し切って秀吉が馬鹿な水攻めを決行したため大敗してる。
小田原も全く手も足も出ていない。
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
伊達が奥州から駆けつけたら間違いなく豊臣軍は瞬殺されてたよ。現に兵糧までなくなりかけてたし。
北条は天正壬午でも2万程度だったろうが。
しかも早期から会戦準備すすめ過ぎてあちこちで村落が欠落しまくるなど疲弊しまくってたからな。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる

関八州って北条が支配してたのは相模伊豆武蔵と下総上野のほぼ全域、下野上総それぞれ半国
常陸の一部だけだしせいぜい206万石くらいだろ
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし。

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。

803 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:50:54.73 ID:ohPHAjI7.net
北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書やもう一点の史料から、
北条方は兵力の大部分を上野・下総・下野・北武蔵などに割いてて逆に小田原や韮山や忍城など
豊臣方が攻めたポイントにはほとんど兵がいなかったのがわかる。
それらを上杉・真田・依田・宇都宮・結城・佐竹・皆川・佐野・那須ら反北条勢らが陥落させてくれたおかげで
北条方は士気がガタガタになって重臣らの離反まで繋がっただけ(フロイスの日本史にも小田原以外の諸城陥落により
北条方は戦意がなくなったと書いてる。)
逆に豊臣方が攻めた韮山ではわずか500の兵力ながら苦戦しまくり山中城攻防では重臣一柳が戦死し
忍城では現地でいた石田らの反対押し切って秀吉が馬鹿な水攻めを決行したため大敗してる。
小田原も全く手も足も出ていない。
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
伊達が奥州から駆けつけたら間違いなく豊臣軍は瞬殺されてたよ。現に兵糧までなくなりかけてたし。
北条は天正壬午でも2万程度だったろうが。
しかも早期から会戦準備すすめ過ぎてあちこちで村落が欠落しまくるなど疲弊しまくってたからな。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる

関八州って北条が支配してたのは相模伊豆武蔵と下総上野のほぼ全域、下野上総それぞれ半国
常陸の一部だけだしせいぜい206万石くらいだろ
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし。

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。

フロイスの日本史によると豊臣方は兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれてたしね
政宗が北条に味方してたら100%勝ってたのは間違いない

北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 ちなみに小田原城は1000人しかいない。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前。
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差の戦闘で豊臣方は
一柳や堀尾の子や平岩弟や依田や前田の重臣が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000に大苦戦し小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実

235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

804 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:51:14.93 ID:ohPHAjI7.net
秀吉が困った状況を隠すためにハッタリパフォーマンスするのはいつもの事。
例えば小牧長久手合戦で1万人殺され諸城の攻防でも長久保・浜田・戸木・松ノ木・二重掘・蟹江・前田・下市場・東駒野など
負けまくり奪回されまくってたが、下記のようにハッタリと捏造でもみ消してる。
パフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
むしろそれは兵糧や物資に困ってて早期に決着つける必要があったため
相手の戦意喪失を狙ったものとみるべき。
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。

あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。

805 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:51:27.47 ID:ohPHAjI7.net
>>上総井田氏の例をあげて騎馬数ではなく動員数を説明すると井田氏は225人の動員を命じられており、

なんで北条家人数覚書の〜騎を騎馬数換算なんだよアホ
井田の例は動員命令に対して実際動員できた数が少なかったってだけだろ。
国力差が7.5倍。記録の兵力比も7.5倍 北条の天正壬午の動因は2万 これらの事実から記録の記載でおおよそ妥当
石高あたりの動員力でいえば石高に比して副収入が多い西国>>>>>東国でしょ
実際87年からの動因&戦闘体制構築で貧困な北条領国では会戦2年も前の88欠村が相次いでるし
お前豊臣方陣立書みていないだろ 家康軍三万騎信雄軍1万5千騎津の中将3千五千騎 金山待従二千三百騎松坂少将4千騎
金森法印八百騎両遠藤五百騎郡上待従千三百騎大垣少将二千八百騎岐阜待従二千八百騎 以下めんどくさいから略
ほぼすべての武将に騎がついてるけど豊臣方は実際60万くらいいたって事だな
そもそも騎なんて言葉何の意味もなく使われたり使われなかったりするのに
馬上身分だけを示すとかアホすぎるだろ。3月28日豊臣秀吉状で5万騎にて山中城攻め崩しとか書いてるが馬上身分だけで5万もいたのかって話

>>ただ実際の軍勢は他にも傭兵や百姓徴発もあったので、この数字より多かったと考えられる。

馬鹿かお前。なら豊臣方の動員した235000の他に用兵百姓その他が含まれるからこれより遥かに人数を膨らむな
現に享禄以来年代記にも29万と書いてるし那須記や榊原康政書状によると「50万騎」を動員してる。
つか兵糧20万石米2万両を容易しながら、3ヶ月程度で底を突き始め急いで駿河湾から調達しだしてるんだから
そのくらいいたとする方が自然だわなw
あと北条家人数覚書は玉縄と下田が開城した4月下旬以降に作成されたとされている
そして末尾には是は氏直分国惣人数積也と記載されているので全軍の人数を記したものと理解できる
また毛利家文書の関東八州諸城覚書にも北条方軍勢数が記録されており
この総人数も北条家人数覚書と同様
そして小田原市史資料編によるとこれと同内容が記載の文書がもう一点あるらしい

>>関が原の戦いでの家康の動員力から考えて 北条がたったそれだけしか兵力が動員できなかったとするのは ありえない。

なんでそんな全く関係ない合戦が出て来るんだよアホw関東八州諸城人数覚書や北条家人数覚書
その他もう一点の資料にちゃんと書いてる。 北条は天正壬午でも2万程度だったろうがw
しかも早期から会戦準備すすめ過ぎてあちこちで村落が欠落しまくるなど疲弊しまくってたからな。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる

関八州って北条が支配してたのは相模伊豆武蔵と下総上野のほぼ全域、下野上総それぞれ半国
常陸の一部だけだしせいぜい206万石くらいだろ
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし。

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。

806 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:51:57.10 ID:ohPHAjI7.net
>秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねー
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある
>小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙
>>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ
天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし
>城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になる
そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。
>早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
何が問題なんだ?
>下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
>ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
それら含めて1000で問題ないだろ。何が問題なんだ? 北条方は国力しょぼくその割りに防衛ラインは上野武蔵相模伊豆下総上総下野と広範に及ぶのだから
一点に集められる兵力は減るのは当たり前
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww
後から届けさせたか現地調達するつもりだったんじゃね
>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
それだけ用意させながら兵糧不足に陥るのだからよほど規格外の大軍だったとわかる
。 >2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
根拠なし
>3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
300程度の山中城(秀吉は3000とかおおぼら吹いてるが)に5万騎で攻めて氏勝やら城主も抗戦意欲なしで逃げ出した戦闘で重臣一柳戦死するとか
相当の雑魚戦下手なのが秀吉(銃弾当たったから秀吉の責任じゃないとかないわ。敵方の迎撃をうまくかいくぐって最小の被害で即効瞬殺するのがうまい城攻め)
>松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
北条氏勝以下数百程度の山中篭城組に5万で挑みかかった糞戦闘をそんな自慢気に語られれても
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな
>6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw
後から届けさせるか現地調達のつもりだったんじゃね

807 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:52:25.37 ID:ohPHAjI7.net
>そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
根拠なし。朝鮮というはるか彼方にすら30万以上の兵力をかなりの長期に渡って派兵し続けたし関が原の戦いでは畿内方面だけで西軍は18万もいたんだし(三成人数書立・慶長見聞集)
北条領国200万石に対し豊臣方は日本全土味方なんだしそれくらい余裕で可能
>>どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて)
お前は馬鹿だな。豊臣方作成の陣立書で215000を動員してるのが確認できるしこれに佐竹結城宇都宮那須里見など関東の反北条勢2万+奥州の諸侯で最低でも25万は超える
享禄以来年代記によると29万動員してるとあるし那須記や榊原康政書状だと50万騎。しかも兵糧を20万石以上用意しながらわずか3ヶ月程度でなくなりかけてたんなら普通に単純計算で12ヶ月÷3=4
四×20万で80万くらいいた事になるなw
>>北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww
はぁ?いつの間にかも糞も最初からそう言ってるだろ。天正壬午の時の若御子の対陣の兵力が2万だった事や(家康書状)北条は村落の欠落が目立ってた事。関東は実は貧困だった事や
北条家人数覚書・関東八州諸城人数覚書からその数字が妥当
>農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
農民町人なんていても作業普請くらいしか戦力にならないししかも北条領国では防衛体制構築のため天正14年か15年頃からその動員がなされており
この頃になるとかなり領国が疲弊して村落の欠落が目立って来ている
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>>はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w
秀吉本隊も駿河伊豆国境地帯の戦闘である程度打撃を受けたみたいで北条方から何枚も感状が出てる
しかも山中城忍城韮山城小田原城など豊臣方兵力と比べたらハナクソみたいな兵力しか篭もってないのに
そんな所を瞬殺できないどころか城攻めで重臣を戦死させたり大量の時間と費用費やす水攻め兵糧攻めなどに頼りまくりなんだから
いかに秀吉の指揮采配能力が糞かわかるな
>>さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換
当たり前だろアホw30万も兵力いてわずか1000だの500だのの雑魚城で討死とか情けないにも程がある
その証拠に小田原本城1000にも手も足も出てないしな

808 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:52:48.03 ID:ohPHAjI7.net
北条は伊達や徳川の協力が得られず仕方なく開城しただけ。
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で一柳や堀尾の子が戦死し、韮山500や忍城1000に大苦戦し
小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
北条征伐で北条に味方してりゃ間違いなく勝てただろ
わずか34500の寡兵に29万の大軍がありながら全く自力では手も足も出ず一柳堀尾嫡男前だ重臣平岩弟依田戦死に
氏家負傷とアホっぷりを晒してたし
同意。佐竹の史料によると米20万石も用意していながら豊臣方は兵站維持できるギリギリまで追い込まれてたみたいだし
伊達が味方すりゃ佐竹や相馬や宇都宮や結城なんて瞬殺されるだろうし
その後大軍となった伊達軍が徳川や上杉・真田などを蹴散らして終り
豊臣方は兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれてたしね
政宗が北条に味方してたら100%勝ってたのは間違いない
小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で一柳や堀尾の子が戦死し、韮山500や忍城1000に大苦戦し
小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。

809 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:53:15.79 ID:ohPHAjI7.net
>>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇ
小田原で現地調達するつもりか、後からさらに届けさせようとしたんじゃね
>>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
>>2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな

>>4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状でも「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ
>>小田原へ来るように申し触れた。このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
>>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末まで天下の御ため
>>良いようにするつもり 今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るように
秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
>4/13の秀吉→おねの侍「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ小田原へ来るように申し触れた。
>このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
むしろ長陣覚悟で、長期戦を想定してたんだからいかに小田原征伐が苦戦だったかがわかるだろ。実際忍城1000小田原1000
韮山500などに手も足も出てないし一柳・前田重臣・堀尾嫡男・平岩弟・依田が戦死し氏家も負傷。
小牧長久手の時の茶会とかと同じで秀吉は苦戦しまくってもパフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同

810 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:53:34.30 ID:ohPHAjI7.net
>>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
>>良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
>>このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
集まってねーよアホ。豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。

あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる

>>秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。
>4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状(形式的なもので実際はおね宛)でも「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ
>小田原へ来るように申し触れた。このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
>良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
>このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
>秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

811 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:53:51.15 ID:UqKYSAuG.net
おぃおぃ・・中国には前王朝の記録を
全て残すシステムがあって、記録だけはしっかりしてる。
征服後の王朝が自らの悪行の記録を
隠滅しようとしてもそれはできない。
実際に拒んで殺された官人もいる。
「起居注」で検索してみておくれ。

812 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:54:00.05 ID:ohPHAjI7.net
むしろ長陣覚悟で、長期戦を想定してたんだからいかに小田原征伐が苦戦だったかがわかるだろ。実際忍城1000小田原1000
韮山500などに手も足も出てないし一柳・前田重臣・堀尾嫡男・平岩弟・依田が戦死し氏家も負傷。
>>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
>>良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
>>小田原城には八カ国の兵が集まって篭城して
集まってねーよアホ。豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。

あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる

>>秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。

>>関ヶ原の戦いに向かう東海道の家康、 中山道の秀忠、 上杉の抑えの会津街道と白河街道の秀康、 佐竹への牽制の江戸本国の牽制軍などを勘案すると、
>>小田原に1000しか動員できないとかアホみたいな捏造は信じられない。
なんでそんな全く関係ない合戦が出て来るんだよアホw関東八州諸城人数覚書や北条家人数覚書
その他もう一点の資料にちゃんと書いてる。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる

関八州って北条が支配してたのは相模伊豆武蔵と下総上野のほぼ全域、下野上総それぞれ半国
常陸の一部だけだしせいぜい206万石くらいだろ
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし。

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。

813 :人間七七四年:2014/07/14(月) 21:54:22.93 ID:7wIirOuk.net
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 ちなみに小田原城は1000人しかいない。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で一柳や堀尾の子や平岩弟や依田や前田の重臣が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000に大苦戦し小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし
小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料に小田原城兵1000とある。
5万とか書いてるのは豊臣軍記のデッチあげだし、当時の豊臣と北条の国力からいうと
12倍くらいは兵力差ないとおかしいからな。北条は会戦そうそう皆川などが寝返ってるし
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、那須記や榊原書状だと50万と書いてるのもあるくらい
北条が小田原に50000も動員できるなら秀吉は国力から言っても60万くらい動員してないとおかしいからな。
秀吉はそのくらい動員してたんじゃね。那須記や榊原康政書状に50万騎集まったと書いてるし
しかも米20万石と金数万両で兵糧物資を集めながらわずか3ヶ月程度で米が尽きかけてたし
そのくらいいないと矛盾があるわな。

814 :人間七七四年:2014/07/14(月) 23:23:41.01 ID:hsweGQXa.net
一次資料の話だろ。

815 :人間七七四年:2014/07/14(月) 23:24:44.33 ID:nqlOua7j.net
菅沼くんは何度同じコピペを貼り付ければ気が済むのだろうか?

816 :人間七七四年:2014/07/14(月) 23:51:49.84 ID:HgYa5YwH.net
ステマだから何度でも。
自説が通説として認知されるまで、定期的に対立自演でコピペ貼ります。

817 :人間七七四年:2014/07/15(火) 00:10:15.62 ID:1ktvsoTV.net
つまり永遠に貼り続けると云うことか

818 :人間七七四年:2014/07/15(火) 01:02:20.21 ID:0XM2mb8J.net
北条ステマを繰り返す菅沼遼太

819 :人間七七四年:2014/07/15(火) 04:32:08.32 ID:WwIA5e+k.net
菅沼遼太はスルー徹底でよろ

820 :人間七七四年:2014/07/15(火) 10:41:06.07 ID:5B4OraQw.net
教えてください。

戦国時代の乱取りなどで女、子供、そして男を捕まえて奴隷として連れて帰る又はうっぱらってしまっていた
ようですが、行軍中にそういう足手まといをどのように連行したのでしょうか?
遠い戦場で奴隷の食事の面倒も見ないといけないですし、行軍の最中に脱走する恐れもあると思います。
こういうのを監視していたのは荷駄隊などでしょうか?

821 :人間七七四年:2014/07/15(火) 10:54:51.57 ID:DQetyMd+.net
>>820
現地で奴隷市立ててそこで売るんだよ

822 :人間七七四年:2014/07/15(火) 11:07:39.55 ID:xKrMw8DF.net
乱捕りで得たものは個人の財産になるので管理するのも個人の責任に成ると思われます。
自身や小者などの家人で管理しきれない分は売り飛ばす事になるでしょう

823 :人間七七四年:2014/07/15(火) 11:27:42.22 ID:5B4OraQw.net
>>821
>>822
ありがとうございます。

824 :人間七七四年:2014/07/16(水) 21:25:33.89 ID:HpSWXboL.net
陣借りについて質問

陣借りを申し出て拒否られたけど
それでもかまわず申し出た側で戦って剣適した際は
評価された?

825 :人間七七四年:2014/07/16(水) 21:35:14.32 ID:i5spjsh6.net
>>824
ケースバイケースだろ。拒否した理由や陣借りする相手との関係性も関わってくる

826 :人間七七四年:2014/07/16(水) 22:11:43.92 ID:XZhHwBGG.net
前田利家は桶狭間の合戦に勝手に陣借りして首を二つ取ったけど、
信長は許してくれなかったらしい。

827 :人間七七四年:2014/07/20(日) 19:36:03.37 ID:Ao1Or0t9.net
今日、熱田神宮行ったんだけど信長堀って当時のまま残ってるの?
あと、戦国時代に建てられた建造物で建て替えなしで残ってるものってあるの?

828 :人間七七四年:2014/07/20(日) 20:11:48.00 ID:+9L+5JRA.net
>>827
> 信長堀って当時のまま残ってるの?
ない
> 戦国時代に建てられた建造物で建て替えなしで残ってるものってあるの?
ない

829 :人間七七四年:2014/07/21(月) 12:13:07.33 ID:WMttgq4Y.net
信長塀は当時のままです

830 :人間七七四年:2014/07/21(月) 17:41:10.47 ID:OU0t/glt.net
信長の妹って戦国一の美女だったんだよな
なのに信長は妹とエッチしなかったの?

831 :人間七七四年:2014/07/21(月) 17:43:46.67 ID:2f/+l11S.net
そもそも戦国一の美女なんて話は後世の作り話だ

832 :人間七七四年:2014/07/24(木) 19:36:02.82 ID:hVPzTsP4.net
質問
戦国武将はなぜ戦っていたのですか?

833 :人間七七四年:2014/07/24(木) 19:52:12.16 ID:GaAOfrKi.net
>>832
中央政権が決定的に弱体化して自分で自分を守らないといけなくなったから

834 :人間七七四年:2014/07/24(木) 19:59:01.60 ID:hVPzTsP4.net
>>833
みんな戦わなかったら良かったんじゃないですか?

835 :人間七七四年:2014/07/24(木) 20:04:34.16 ID:GaAOfrKi.net
>>834
それを誰が保証するの?「戦わないこと」もそれを認定する上級権力が必用なんだよ。

836 :人間七七四年:2014/07/24(木) 20:13:44.70 ID:VNwopuwY.net
>>834
他のみんなが戦ってるのですが

837 :人間七七四年:2014/07/24(木) 20:17:54.10 ID:hVPzTsP4.net
>>835
すいませんよくわかりません・・・

>>836
それを聞いてるのですが・・・

838 :人間七七四年:2014/07/24(木) 20:23:14.83 ID:rCICTcrx.net
戦わんとこうと思ってるヤツが真っ先に始末されて、ヤル気満々のヤングアニマル達が残っちゃうからです。

839 :人間七七四年:2014/07/24(木) 20:26:39.51 ID:hVPzTsP4.net
なぜ始末しようとするのですかね?

840 :人間七七四年:2014/07/24(木) 20:29:06.02 ID:qgjA2FPH.net
自分が富みたいから領地を広げるために戦う。
攻められた側は自分の領地を守るために戦う。
そして領地を広げたい者も守りたい者も、相手より強大じゃないと攻められない守れないので、
自国を強化するために全領主が領土を広げるようになっていわゆる乱世になる

841 :人間七七四年:2014/07/24(木) 20:29:20.49 ID:rCICTcrx.net
相手の財産を奪いたいから。

842 :人間七七四年:2014/07/24(木) 20:32:29.69 ID:hVPzTsP4.net
>>840
富みたいのはわかりますが、我慢はできなかったのでしょうか?
戦いは自分たちの命に関わることなのに

843 :人間七七四年:2014/07/24(木) 20:35:07.51 ID:qgjA2FPH.net
>>842
現代でも起こってる事やん。
中国やロシアに聞いてみればいい。

844 :人間七七四年:2014/07/24(木) 20:35:51.91 ID:rCICTcrx.net
>>842
我慢できるヤツは我慢できないヤツに食われていなくなってしまった。
さっき言ったろ。
このての哲学的な話がしたいんなら哲学板に行くといいよ。
あれやこれやと教えてくれるから。

845 :人間七七四年:2014/07/25(金) 10:23:15.93 ID:qElvwOLQ.net
1573年:刀根坂で敗れた朝倉氏が数日後滅亡
1583年:賤ヶ岳で敗れた柴田氏が数日後滅亡

近江・越前国境で敗れた越前領主が数日で滅亡するのは何故ですか?
曲がりなりにも越前だけでも50万石近い石高があって
一乗谷なり北ノ庄にたどり着くまでの抵抗も相当と思われますが。

846 :人間七七四年:2014/07/25(金) 10:30:34.46 ID:XtouTXyS.net
柴田も朝倉も家臣や与力や一門などに寝返りが相次いで抗戦できる状態じゃなかったからなぁ
どちらも寄せ手の8分の1〜9分の1程度の国力しかないし
一戦に敗れれば、ハナから勝ち目などないし

847 :人間七七四年:2014/07/25(金) 11:48:38.72 ID:rmxVuB1L.net
賤ヶ岳戦の時加賀は勢力下じゃなかったの?

848 :人間七七四年:2014/07/25(金) 14:24:25.21 ID:rS9RfSyQ.net
絶対に勝てないというほど戦力差があったとも思えないが

849 :人間七七四年:2014/07/25(金) 15:00:47.25 ID:4GTrL7Ht.net
当時の豊臣の国力 西は備中伯耆〜畿内ほぼ全域〜東は尾張・美濃まで支配下
柴田側は長浜でも美濃でも離反崩壊しててろくに抗戦する者なし
羽柴は上杉・毛利と同盟 徳川ともこの時点では一応同盟
信孝領は離反で崩壊、佐々は対上杉で動けず 前田・不破・金森は戦闘途中に勝手に退却
羽柴方と柴田方の戦力差は会戦前でも10対1
会戦後は15対1〜20対1くらいある。

朝倉に関しても同様で朝倉滅亡時の織田は計400万石前後&朝倉は一門まで寝返り崩壊してるから
15対1くらいの国力差がある。

850 :人間七七四年:2014/07/25(金) 15:02:20.33 ID:4GTrL7Ht.net
毛利との和睦は既に本能寺の変の時に成ってて
後は備中での宇喜多領と毛利との国境線画定作業が残ってただけだし
攻め取った丹波には秀勝?だったかを置いて、直轄領化があっさり実行できたのに対し
勝家の方は織田家時代の軍閥化がされてない、織田家旧来の寄騎関係にすぎない
後進軍隊だったからその弱点がモロに出ただけでしょ。
明智や羽柴は軍閥化が終了してたし、早くから陣立書や、直轄支配化、直接命令型の統治形態や軍隊が持てたけど
勝家は家康の信濃支配みたいな、弱い頼子寄親に頼った軍隊だっただけ。
前田や金森は信長直臣で家老柴田を監視する役目で付けられてるのであり もともと柴田の配下ではない。柴田に付与された与力は同僚じゃない。
信長直参の母衣衆出身者は超エリートで信長の指揮命令系統で動くのであり家老の柴田の命令なんて受け付けない。信長が柴田と相談するように命じてるから
柴田との会議で越前経営に同席するのであって柴田が彼らを家臣扱いすることは信長を軽視してることになる。
柴田・佐々・前田らはそれぞれに軍閥化したとするべきで賤ヶ岳の戦いではその弱点が見事に顕れた。
一方の光秀や秀吉は軍閥化に成功しており信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀について中川氏年譜は秀吉と中川が天正8年6/5に兄弟の契りをしてる書状がある)

851 :人間七七四年:2014/07/25(金) 15:03:28.02 ID:Coi9ws+A.net
天正11年1/17秀吉→小早川や
兼見卿記12/21条で江州長浜柴田伊州(勝豊)、羽柴与一味、然間羽筑同可濃州へ下向
濃州稲葉良道、氏家直道、羽筑ニ一味云々と書いてて
勝豊は簡単に秀吉に篭絡されてるのがわかるから実際勝家からすれば全くといっていいほど
清洲会議での長浜領獲得が役に立たなかったのは間違いない。

清洲会議の結果については多聞院日記7/7条でも大旨ハ羽柴かままの様也と書いてるし

柴田は上杉と交戦が続いてたのに対し秀吉は一応国境画定作業が残ってるとはいえ、
三か国毛利が割譲した上での和議が成立し、宇喜多とも本能寺前から一体化が進められ、もはや親藩的存在だったし
その差でしょ。そもそも単純に国力で見ても、かなりの開きがあるし。
柴田・信孝側からは美濃衆や勝豊などがボロボロ寝返ってるが
秀吉からは寝返りが皆無だし信雄領からも寝返りがなかったことから見ても
信雄よりも信孝領は遥かに不安定な状態だっただろうし秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。

852 :人間七七四年:2014/07/25(金) 15:04:48.25 ID:4GTrL7Ht.net
勝豊や稲葉や信雄が早々秀吉に篭絡され、佐々が対上杉で越中から動けなかったにもかかわらず
秀吉と兄弟の契りを結んでたほど関係が濃密な中川が防衛戦で殺されてるし
柴田勝政や佐久間盛政が寡兵で撤退中を背後から秀吉が大軍で強襲したら逆に反撃され、撃退されるほど。
結局あれだけの規格外の兵力比がありながら前田や不破や金森らが兵を引くまで一進一退だったし
そもそも勝家の軍は軍閥化がされてない、織田家旧来の寄騎関係にすぎない
後進軍隊だったからその弱点がモロに出ただけ。
明智や羽柴は軍閥化が終了してたし、早くから陣立書や、直轄支配化、直接命令型の統治形態や軍隊が持てたけど
勝家は家康の信濃支配みたいな、弱い頼子寄親に頼った軍隊だっただけ。
勝家は、賤ヶ岳合戦で寡兵にもかかわらず秀吉方が構築した超絶堅固な塹壕陣地に向けて
猪突猛進で突撃して、しかも寡兵で相手を押しまくってたんだよな。
もうちょい、冷静に策を練れる武将が柴田方にいたら圧勝してたかもしれん。

853 :人間七七四年:2014/07/25(金) 15:05:23.79 ID:neQYekaS.net
柴田は上杉と交戦が続いてたのに対し秀吉は一応国境画定作業が残ってるとはいえ、
三か国毛利が割譲した上での和議が成立し、宇喜多とも本能寺前から一体化が進められ、もはや親藩的存在だったし
その差でしょ。そもそも単純に国力で見ても、かなりの開きがあるし。
柴田・信孝側からは美濃衆や勝豊などがボロボロ寝返ってるが
秀吉からは寝返りが皆無だし信雄領からも寝返りがなかったことから見ても
信雄よりも信孝領は遥かに不安定な状態だっただろうし。

854 :人間七七四年:2014/07/25(金) 19:34:52.29 ID:wL5bf1c3.net
コピペ連投なのか?

855 :人間七七四年:2014/07/25(金) 19:40:29.76 ID:50OarqEx.net
質問からずれてる長文連投は100%菅沼遼太のゴミコピペ。

856 :人間七七四年:2014/07/25(金) 21:47:48.77 ID:XUCPeDAT.net
>>845
両者家臣や与力や一門などに寝返りが相次いで抗戦できる状態じゃなかった
さらに侵攻側と越前側で比べると侵攻側は10分の1前後の国力しかなかったから
最初から勝ち目などない。

857 :人間七七四年:2014/07/25(金) 23:37:28.06 ID:kS+LDzg/.net
菅沼遼太の自問自答スレ

858 :人間七七四年:2014/07/26(土) 02:47:04.03 ID:D1rrlgLR.net
菅沼遼太の自作自演スレ

859 :人間七七四年:2014/07/28(月) 15:42:36.28 ID:6Ru4l8U3.net
全然くわしくないのですがフロイスの記述って信憑性ってどうなのですか?
バテレン追放前と追放後でかわってたりするのですか?

860 :人間七七四年:2014/07/28(月) 16:08:41.59 ID:BsmDQudM.net
>>859
物事を極端に大げさに書く癖と、キリスト教への距離で人物評価が露骨に変わる。
同時代の他資料とすり合わせが必用

861 :人間七七四年:2014/07/28(月) 16:10:17.08 ID:1ELjnaga.net
菅沼遼太

862 :人間七七四年:2014/07/28(月) 22:14:04.28 ID:Yzcnz19x.net
>>859
というわけで客観的な部分に関しては
専門家も比較的引用するようにはなってきてますね。
今後は個別で判断するのが大事でしょな。

863 :人間七七四年:2014/07/29(火) 09:53:06.20 ID:5QhyRIMO.net
質問

大将が本当に真っ先に突っ込むなんてことありますか?
矢や鉄砲の的になり、それをかいくぐっても長槍隊に刺されるだけだと思うけど。
先陣ってみんな死ぬと思うし。

864 :人間七七四年:2014/07/29(火) 10:09:19.78 ID:PRMj0W37.net
>>863
少なくとも朝倉宗滴殿は自ら前線に立っていたとは言われています。
獲った首をすぐに大将に見せられるので自軍の兵士の士気を上げる目的もあったとか。

865 :人間七七四年:2014/07/29(火) 10:09:34.25 ID:Vr+xRufE.net
本当の先頭という意味なら無い。

866 :人間七七四年:2014/07/29(火) 13:13:24.60 ID:Yj5n7w+j.net
討ち死にのリスクは当然として、ある意味部下の活躍の場を取り上げちゃってるわけだからな

宗滴は前の方に居ろと言ってただけで先陣を切れとは言ってなかったんじゃないかな?

867 :人間七七四年:2014/07/29(火) 13:52:12.27 ID:VKJC2S4b.net
それなのに義景ときたら南加賀をほぼ制圧した1564年の出陣の際には
戦場が全く見えない遥か後方で陣僧に囲まれて勝利祈願の読経を聞いていただけだという…
まあ、男兄弟もなく嫡男もまだ幼い現当主の立場とすればこれが正解か

868 :人間七七四年:2014/07/29(火) 16:00:08.22 ID:mrroAOtB.net
>>107
戦国初期は古河公方の方針を巡って何度か騒動があった
その中でも永正に起こった足利政氏と足利高基の争いは
簡単に言えば室町時代から続く方針を維持しようと考えてる保守派と
新興勢力の小田原北条氏を活用しようと企む革新派の争い。関東だけでなく東北勢も巻き込んでいる
保守派の中止人物は足利政氏、小山成長。革新派の中心人物は足利高基、宇都宮成綱
ちなみに山内上杉は当時内紛状態

869 :人間七七四年:2014/07/30(水) 09:34:38.85 ID:cfEmRdz8.net
秀吉時代の大坂城の大名って基本大坂にいて許可申請しておkでたら国許いくってかんじですか?
それとも大名は大坂にずっといて領国経営は家臣まかせ?
江戸時代より殺伐としてそうだから戦国時代の近隣大名が城で顔合わせたら恨みでおそわれそうなのですが
そういった事例や近隣大名は城で顔あわせないようにしたってあるのですか?
江戸時代は仲悪いとこはあわせないように配慮あったみたいなのですが

870 :人間七七四年:2014/07/30(水) 10:08:56.69 ID:LINdzkzZ.net
五大老格の大大名は基本大坂に居て必要があれば許可を得て領国に帰る感じですね。
上杉景勝のようにしょっちゅう帰国していてあまり大坂に居ない例もありますが。
大坂城内はかなりワイルドで殺伐としていたみたいですが、
一番怖い人がトップなので自重できてたのかなーと

871 :人間七七四年:2014/07/30(水) 14:38:27.19 ID:00UWYP20.net
>>869
菅沼遼太に聞いて下さい

872 :人間七七四年:2014/07/31(木) 00:21:58.53 ID:uB/W6MQ6.net
>>869
その、秀吉時代、というのが案外明確に
ならないのね。
すぐに唐入りとかはじまるし。
江戸期も、長いからその時期によって
いろいろかな。
大名よりその他の下っ端の方が
よく顔あわせるから
お互い気を遣ったりね。

873 :人間七七四年:2014/07/31(木) 01:21:59.58 ID:IoS/Lvd3.net
秀吉が強制的に形式上和解させているケースもなかったか?
秀吉の命令で和解した以上はお膝元では争うわけにはいかないだろう。

874 :人間七七四年:2014/08/01(金) 06:58:20.58 ID:Pxq7oPWU.net
実話かどうか知らないけど、秀吉はわざと不仲な大名を呼んで宴席を設けた逸話があるよな

875 :人間七七四年:2014/08/01(金) 08:50:53.92 ID:KDv5DnG5.net
お・も・て・な・し♪
http://omtnsh.co.jp/case/episode/1816

876 :人間七七四年:2014/08/03(日) 13:54:26.45 ID:ebkiBCTD.net
細川家と超絶仲悪くて、いつ喧嘩になってもおかしくない家があったような

877 :人間七七四年:2014/08/03(日) 23:46:49.35 ID:4aMSj18b.net
関ヶ原でともに石田隊にあたった黒田と細川が仲悪く、
細川家臣と又兵衛の交流が気に入らず...って意外。

878 :人間七七四年:2014/08/04(月) 01:06:45.86 ID:nia5rqbg.net
>>877
黒田と細川の中が悪くなったのは関ヶ原の後

879 :人間七七四年:2014/08/04(月) 08:00:11.08 ID:FLGhzT1C.net
戦国時代の借金について質問します。
多くの大名が商人などに借金してましたが、普通に考えれば力関係で大名のが大きいとおもいますが、
もし、大名が返済金を返さなかったら担保とかあったのでしょうか。
それと、金借りた商人を面倒だから何らかの罪状付けて殺しても問題なかったのでしょうか。

880 :人間七七四年:2014/08/04(月) 10:18:45.67 ID:l7hWdSkE.net
そこは一般人と同じじゃないかな
商人だって馬鹿じゃないんだからその手の情報はあっという間に同業者に広がる
権力に物を言わせて借金返さなきゃその場はしのげたとしても次に借すところはなくなるよ
そうなったらまともな領地経営ができなくなって良くて改易下手すりゃ取り潰し

881 :人間七七四年:2014/08/04(月) 11:11:10.84 ID:l7hWdSkE.net
あ、ごめん戦国時代の話だったね
江戸時代の話だと思って書いてしまった

882 :人間七七四年:2014/08/04(月) 11:21:14.37 ID:hn9ZSf07.net
借金とは違うけど戦国期は信長や秀吉の屋銭が有名かな。
堺など大商人が集中する都市に屋銭という名目で金を納めさせる。

これは返済しないので、臨時徴収。
定期的に徴収したケースがあるかは知らない。

その他、寺社も屋銭の徴収対象になっていた。
荒木村重などは屋銭取る代わりに合戦時に寺社に兵士が略奪させないようにお触れを頻繁に出していた。

屋銭は略奪はされないという保険的な形だったみたい。
あと土地問題で揉めた時に屋銭支払っている側に有利な裁定がされたり、一部治外法権を認めるような状態もあった。

大名からすると商人、寺社から定期的なアガリを取れるし商人、寺社は大名を用心棒的に使える。
やつてのヤクザのみかじめ料と同じかと。

883 :人間七七四年:2014/08/04(月) 23:01:29.29 ID:1+36zS/Y.net
軍役についての質問です
軍役を命じられた場合、特別な事情(病や怪我など)必ず党首自ら兵を率いなければならないのでしょうか?
部下に兵を率いさせ、丸投げにして自分は領内で別の仕事をしていたら主家からの心象悪かったりしましたか?

884 :人間七七四年:2014/08/04(月) 23:02:49.51 ID:1+36zS/Y.net
↑文がおかしかったので訂正

軍役についての質問です
軍役を命じられた場合、特別な事情(病や怪我など)などがない場合、必ず党首自ら兵を率いなければならないのでしょうか?
部下に兵を率いさせ、丸投げにして自分は領内で別の仕事をしていたら主家からの心象悪かったりしましたか?

885 :人間七七四年:2014/08/04(月) 23:11:55.57 ID:o3OMlVDr.net
気持ちの問題は本人にしか分からん

886 :人間七七四年:2014/08/05(火) 00:51:13.52 ID:Qrztjkv1.net
病気、老齢、親族の不幸等で代理の人を出したり出陣が遅れたりというのはある
心象が悪いかどうかは出陣を命じた人物と当主との関係性や事情にもよる
嘘を付いてサボった場合は言うまでもない事

887 :人間七七四年:2014/08/05(火) 11:58:48.49 ID:fspC4f56.net
>>879

他の人も書いているけど次に金を貸してくれる所がなくなる。
現代でいうとデフォルト出した国がどうなるかを考えれば判るよね。
商人が寄り付かなり流通もストップして結局は自領の経済が衰退する。

他の大名に「あの野郎は民を虐げる逆賊なので成敗する」と言った大義名分を与える事になる。

政治的リスクが高いので出来ないよ。


>>884

来たら足を引っ張る当主と、先手も殿軍もできる有能な部下どっちがいいかと言われれば後者だろう。
貴方は朝倉義景と朝倉宗滴のどちらに援軍にきてほしいですか?

888 :人間七七四年:2014/08/05(火) 12:21:50.48 ID:q6GEkyyX.net
朝倉宗滴が倒せなかった相手を倒した朝倉義景の方がいいです。

889 :人間七七四年:2014/08/05(火) 12:37:55.20 ID:eS/d6arm.net
>>887
徳政令ってのがあってだな…
デフォルトで次の借金できなかった実例が分かる史料は見たことないんだが、あったら教えてくれ。

中世〜近世で地権所有者が借金断られることは基本的にあり得ないだよね。
知行与えられてない蔵米与えられているような下士は地権という担保ないし、家筋という実印代りもないから借金嵩むとそれ以上借り入れできなかったみたいだが。

是非、地権所有者や利用が認められていた人が借金断られた史料教えてくれ!
それ大発見だから!

890 :人間七七四年:2014/08/05(火) 12:52:33.07 ID:fspC4f56.net
>>889

幕末になるが、米沢藩、薩摩藩が借金しすぎでこれ以上貸せないと断られている。
興奮乙、スレの本題ではなく他人のスレに粘着して喜ぶトンスル人気質キモイですw

891 :人間七七四年:2014/08/05(火) 12:57:43.88 ID:eS/d6arm.net
その史料は?
それが確認できないとw

892 :人間七七四年:2014/08/05(火) 14:04:30.97 ID:90XUc/VNE
>>891

ママー、オムツ取り換えてとかやめて下さい。

ヒントを与えてやったんだから自分で調べてねw
人から資料を渡されないと自分で何も出来ないとかでは社会に出れませんよw

893 :人間七七四年:2014/08/05(火) 20:47:17.86 ID:/RiD0ru6.net
それは結局「金借りた商人を面倒だから何らかの罪状付けて殺」す事例が無かったってことなんでは?

894 :人間七七四年:2014/08/05(火) 21:38:55.82 ID:q6GEkyyX.net
徳政令は逆にいい例で
その後貸し渋りで御家人が貧窮だの
翌年以降の給料を担保に出来ず下級武士が困っただの諸刃の剣をよく表してる
官民商の慣習における合意のある徳政令ですらこうだから単なる踏み倒しはなおさら
江戸時代の借金棒引きはまた別の理論だけど。

895 :人間七七四年:2014/08/05(火) 22:09:41.33 ID:eAEMleVu.net
だから御家人は土地担保や家筋のない下士でしょw
俺が言ってるのは大名みたいな土地担保あって借金断られた事例。

御家人への貸付はサラ金みたいなもんだから、日銭なんだよ。
大名や大身の旗本は知行地があって、そこからの上がりが米にしろ商品作物にしろ必ず上がる。
これが土地担保なんだよ。
とちそのものじゃなくて、事業地として想定されてた。
だから大名貸付や旗本貸付は事業融資。

根本的に違う。
だから大名貸付を断った事例の当事者の記録はまだみつかっていない。
これが見つかったら封建領主で事業主でもあった大名の存在する意味がこれまで考えられてきたのと根本的に異なり、金融機関として機能していた両替商や御用商人の意義も根底からひっくり返る。

だから俺は史料にこだわってんの。
史料は?

896 :人間七七四年:2014/08/05(火) 22:15:11.23 ID:q6GEkyyX.net
俺に言ってんのか?
>江戸時代の借金棒引きはまた別の理論だけど。

897 :人間七七四年:2014/08/05(火) 22:28:56.46 ID:eAEMleVu.net
>>896
あっ、ごめん勘違いしてたw
これまでの封建領主の意味を覆す史料があるらしく興奮してた。

大名貸付断った事例ご存知の人、史料まってるよ!
何人かに連絡しちゃったから早くね!

898 :人間七七四年:2014/08/05(火) 22:59:18.06 ID:3RR6cY8y.net
嫌なやつだなあ

899 :人間七七四年:2014/08/06(水) 08:28:14.12 ID:IRWfHzBd.net
関ヶ原後の上杉家について質問します。

通常で考えればお家取り潰しになるような事を上杉はやったのに
どうして徳川は温情かけたのでしょうか。
それと江戸期に入っても世継ぎいなくても例外的に上杉には認めているようだった
と記憶しております。
上杉は徳川の弱みでも握っていたのですか?

900 :人間七七四年:2014/08/06(水) 11:55:04.55 ID:wLwoXVty.net
一つ質問があります。
現代の戦国時代ファンは徳川家康嫌いの人がかなり多いですが、これはどういったことが原因だと考えられますか?
明治政府が家康についてネガティブキャンペーンをしたともいいますが、それは昔の話ですし・・・

ちなみに私は武田贔屓の者で、徳川より織田の方が嫌いです。

901 :人間七七四年:2014/08/06(水) 12:22:37.79 ID:fjP8VUjD.net
司馬小説の影響でしょ
堀や山本や小和田とかも司馬小説史観だから徳川嫌いだし

902 :人間七七四年:2014/08/06(水) 13:14:15.14 ID:nSnDUXdK.net
そもそもは幕末維新の反徳川史観から。

903 :人間七七四年:2014/08/06(水) 13:27:58.08 ID:Ro3sJN4E.net
従属状態から天下取ったのは凄いしそれはそれで面白いんだが
やはり簒奪者のイメージが拭えない
自分で運命を切り開いたというより
切り開いてる実力者にくっついておこぼれでのし上がり後半は権謀術数で天下ゲット
常に人を利用してる辺りが腹黒い
政策も鎖国だのカースト固定とか創造性に欠ける
泰平の世は築いたけど国力的には現状維持もしくは下降をしていた訳だし
可もなく不可もなくな支配者だったってのが大方の評価なんだろう

904 :人間七七四年:2014/08/06(水) 13:38:45.52 ID:nSnDUXdK.net
>>903みたいなのが典型的な、明治後教育で広められた反徳川史観

905 :人間七七四年:2014/08/06(水) 14:10:57.13 ID:nVIZzjbM.net
>>899
そもそも徳川が難癖付けて強引に仕掛けた戦であり
対する上杉は正論を持って理路整然と細かく弁明し、
それでも容れられないなら武士として売られた喧嘩は買うまでと
ほぼ離反者も出さずに堅固に抵抗したという
当時の武士感では非の打ち所のないリスペクトすべき武家として振舞だったのです。
よって徳川もそれ相応の対応を取って、降伏会見でも少数ながら兵を引き連れて
江戸城に堂々入城させてもらえるといった感じに罪人ではなく対等の相手として扱い
国主格を保持できる程度の減封で済ませました。
浪人を無為に出さず吸収させる等の副次的な理由もありますが、
簡単に言えば戦をする正当な理由があって且つ立派に戦ったから生き残れた訳です。

906 :人間七七四年:2014/08/06(水) 14:11:41.31 ID:nVIZzjbM.net
>>899

また末期養子は、そもそも幕府は別に好きで改易している訳ではなく、
平和のために圧政や後継者不在など一揆やお家騒動が起こる可能性の芽を摘むのが仕事だった訳で
そうならないために老中を通じて内々に助言、仲裁、妥協案の提示をしていました。
それでもダメなら改易となりますが、上杉は家中はまとまってる、保科が後見に付く等の
救済できる混乱に陥らない理由があったので免れました。

907 :人間七七四年:2014/08/06(水) 14:48:10.85 ID:gLlhEPsW.net
>>900
やはりなりふり構わぬ主君殺しが原因だろうね
戦国時代ですら主殺しは異常な事だし、より道義にやかましくなった江戸時代以降なら尚更不快に思う人が多くなった事は言うまでもない
更に幕府を開いた事で勤皇家も敵に回す事になった
だがそれを上手く覆い隠し、逆に政権を安定させた徳川幕府の手腕には眼を見張るものがある

908 :人間七七四年:2014/08/06(水) 16:32:19.06 ID:/teXuhye.net
>>889 >>890

過疎ってんのに空気悪くするなや

基地外は両方消えろ。

粘着質っぽいのでどうせ自己弁護のくだらねぇスレをつけるんだろうけどさ。

909 :人間七七四年:2014/08/06(水) 18:55:23.80 ID:H1PtFn7s.net
>>899
>それと江戸期に入っても世継ぎいなくても例外的に上杉には認めているようだった
>と記憶しております。
それはお取り潰しが続いた結果天下に牢人があふれ、慶安の変(由井正雪の乱)の原因となった事で
それまでの政策が見直される時期だった事と、死んだ殿様の正室が大老保科正之の娘だった事による。
上杉の例を嚆矢として以後は末期養子が認められる事になる。

ただし上杉の場合はそれでも罰として所領半減となった。それまでの30万石から15万石だ。
関ヶ原以前から比べたら120万石から15万石と八分の一になってしまった。

910 :人間七七四年:2014/08/06(水) 19:07:37.40 ID:lIMGdNOe.net
上杉と織田の手取川の合戦って本当にあったことになってるんですか?

911 :人間七七四年:2014/08/06(水) 19:09:29.17 ID:nSnDUXdK.net
今は手取川合戦を積極的に否定している研究者はいないと思う

912 :人間七七四年:2014/08/06(水) 19:12:48.57 ID:q75mPaji.net
展開に関してはともかく、合戦があったことと、勝敗は織田負け上杉勝ち、これはほぼ変わらない

913 :人間七七四年:2014/08/06(水) 20:29:54.41 ID:uHa9loYx.net
>>908
調べてみたら本当に大名貸付断ったという関係者の史料はまだ見つかっていないみたいだぞ。
あったら確かに大きな発見になるようだ。

普通に資料あったら知りたいだけみたいだが。
粘着だの基地外だとかいう相手への批判ではなく、こういう史料があるとかないとかっていうレスでないとそれこそお前さんが基地外だと思うんだか?

他の人はどう思うかね?

914 :人間七七四年:2014/08/06(水) 20:30:54.78 ID:H1PtFn7s.net
お前、しつこい。

915 :人間七七四年:2014/08/06(水) 20:36:15.51 ID:uHa9loYx.net
他人をけなして、史料だせないのカッコ悪くない?

916 :人間七七四年:2014/08/06(水) 21:05:52.78 ID:H1PtFn7s.net
終わった話に粘着してるお前がカッコ悪い。

917 :人間七七四年:2014/08/06(水) 21:55:08.72 ID:uHa9loYx.net
史料の話をしている。
出せないのか出せないのか?
こんなシンプルな話はないんだがw

しょせん巷説でしか歴史語れないんだろうなあ。
残念。

918 :人間七七四年:2014/08/06(水) 22:53:14.63 ID:H1PtFn7s.net
念のために書いておくけど俺は「他の人」だ。
当人はもう居ないだろう。

919 :人間七七四年:2014/08/06(水) 23:12:29.27 ID:nVIZzjbM.net
どっちにしろスレ違い

920 :人間七七四年:2014/08/07(木) 06:56:15.93 ID:Th8apNpc.net
>>899
無嗣でも取り潰しにならなかった家は多い
勿論、皆減封はされたが
そもそも家綱の時代になると滅多な事では改易にならなくなった
江戸時代を通じて250家程度が改易になったが、その80%は家康から家光までの50年間に集中している

921 :人間七七四年:2014/08/09(土) 00:06:32.36 ID:zehiumSA.net
肖像画って何のために書くんですかね?
誰かに見せるため?

922 :人間七七四年:2014/08/09(土) 00:08:34.89 ID:FYbOX1wM.net
>>921
親や祖父、或いは先祖の表彰のため。

923 :人間七七四年:2014/08/09(土) 00:15:31.30 ID:zehiumSA.net
自分で自分を描かせる意味は・・・?

924 :人間七七四年:2014/08/09(土) 00:27:17.87 ID:FYbOX1wM.net
>>923
基本自分で自分を書かせることはめったにない。似絵は縁起が悪いと言われていたことも有り、肖像の殆どは
死後子孫が作らせたもの。

生前に自分で書かせるのは、よほど何か記録したい意図があった場合のみ。

925 :人間七七四年:2014/08/09(土) 00:59:10.51 ID:zehiumSA.net
>>924
教科書に載っている肖像画はどういう意味があるのでしょうか?

926 :人間七七四年:2014/08/09(土) 01:04:27.19 ID:FYbOX1wM.net
>>925
肖像画によって違う。例えば有名な織田信長の肖像は子孫が信長の表彰と弔いのため書かせたものだし、
家康のしかみ像は自身がそれを記録したいと強く望んだもの。

927 :人間七七四年:2014/08/09(土) 01:06:50.46 ID:0FiaXrvt.net
ずばり言えば「遺影」なんすよ。現代と同じで葬式や法要で使うの。
当時は当然写真なんて無いから肖像画つーだけで。
だから寺に残ってる事が多く、数珠もってたり、お経が書かれたりね
生前に書いたのも謙信みたいに出家(2度目)を期に描かせたりと、しかみ像とか抜かせば大体宗教関

928 :人間七七四年:2014/08/09(土) 06:40:59.85 ID:MSCf2SOC.net
生前に描くことは有り得ないね
遺影よりもずっと後に描かれるものが殆ど
大概は死後100年以上経ってから描かれた
明治時代に描かれたものも結構ある
家康のしかみ像も死後に描かれたものではないかと思う
本人は三方ヶ原の敗戦に触れられるのを相当に嫌がっていた様だし、絵に描かせるとは到底思えない

929 :人間七七四年:2014/08/09(土) 11:09:48.24 ID:zehiumSA.net
では有名な織田信長の肖像は信長を見て描いたわけじゃいんですか
似てるわけじゃないんですか

930 :人間七七四年:2014/08/09(土) 15:49:44.75 ID:VrpheoOQ.net
あれは肖像画ではなく似顔絵

931 :人間七七四年:2014/08/09(土) 15:58:11.25 ID:FYbOX1wM.net
信長の死後最も早く描かれ、信長の特徴を一番表している、とされているのがこの報恩寺信長像
http://i.imgur.com/FsNnDvH.jpg

ホクロなどまで細かく描かれるなど、信長の身近に居た人間が制作に関わったことが解る。

932 :人間七七四年:2014/08/09(土) 16:42:36.33 ID:0FiaXrvt.net
>>929
もう一度書くけど「遺影」だから死後すぐ葬式か四九日か一周忌に合わせて描くので
当然最近まで顔を会せてた人がいっぱい居るのでまったくの想像で描かれる事はないわけ
後世にかかれた物もそれを元に描かれる。丸写しも多い。似てないということはない
ただ別の問題として絵だから美化される部分がある場合もある
(独眼竜に両目あったり、若めに描かれてたり、時には超ふくよかな女性が痩せ型にかかれてたりw)

933 :人間七七四年:2014/08/09(土) 18:04:01.06 ID:ot3XM1Uy.net
>>930
「肖」はあやかるの意味で、肖像画も似顔絵も一緒だ。
親に似ないのが不肖の子だ。

934 :人間七七四年:2014/08/09(土) 18:08:56.01 ID:0FiaXrvt.net
ついでに生前に書かれた物は少ないけど、有名どころでは毛利元就、北条氏康、藤堂高虎のが現存している。

935 :人間七七四年:2014/08/09(土) 18:11:19.25 ID:FYbOX1wM.net
>>934
本多忠勝も有名だな。何度も書き直させたとか。

936 :人間七七四年:2014/08/09(土) 18:58:15.48 ID:0i41s0Q2.net
>>932
確か政宗が両目で書けって言ったから両目の絵が多かったんだっけ?
違ってたらゴメン

そういや片目の絵って愛姫が政宗は実は片目だったということを後世に残すために書かせたんだよな

937 :人間七七四年:2014/08/11(月) 13:16:57.22 ID:ON1VFU+L.net
しかし明治の話になるが、死後20年程度で作られた西郷隆盛像は全然似てないらしい
妻や弟、従兄弟、旧知の人達がいくらでもいたのに

938 :人間七七四年:2014/08/11(月) 13:20:44.66 ID:Z2oXRHJt.net
>>937
あの妻による「こんな人じゃなかった」発言は上野公園の銅像について。
それも「こんな(服装に気を使わない人)じゃなかった」という意味

939 :人間七七四年:2014/08/11(月) 14:08:07.10 ID:Hs8j2hkV.net
>>938
いや、勝海舟とか旧知の人達も似てないと言っている
そもそも高村光雲は隆盛の顔を知らないのだから似ていないのは当たり前
弟の従道や従兄弟の大山巌がモデルになっている
他の銅像に至っては赤の他人がモデルだが…

940 :人間七七四年:2014/08/14(木) 01:24:26.54 ID:mP7Jph3W.net
戦国時代ってまだ狼が絶滅してませんよね
そういう被害があったり討伐をした等の逸話ってありますか?

941 :人間七七四年:2014/08/14(木) 09:58:13.61 ID:UVfhuPWD.net
見かけないですね。
日本狼は人を襲わない説があるくらい江戸時代でも狼が人を襲う史料は少ないそうですので無いかも知れません
ただ当時は普通に人を襲う野犬と狼の区別をあまり付けなかったのでなんともいえない部分もありますが

942 :人間七七四年:2014/08/14(木) 10:38:44.07 ID:Hhkifod+.net
益獣として祀られてる地域もあるし
ないんじゃないかと

943 :人間七七四年:2014/08/14(木) 11:21:56.63 ID:ft3apkoH.net
その頃山に入る人は武士は当然武器持ってるし農林従事者はクワだの鎌だのもってるだろうし
狼位追っ払えるんじゃないかな
刀持ってれば熊さえ倒せそう

944 :人間七七四年:2014/08/14(木) 18:46:36.28 ID:mVmeiXe2.net
関ヶ原を特集したなんかのTVで、
「吉川広家は本領安堵を条件に裏切ったから、有利な位置にいながら戦況を傍観した」っていう
説明があったんだけど、吉川が突撃してれば勝利した可能性が十分にあったし
仮に勝利してれば本領安堵どころか増えたんじゃないかと思うんだけど、どうだったんだろうか?

945 :人間七七四年:2014/08/14(木) 19:09:57.39 ID:tWI6y+Jz.net
吉川は毛利本家に多大な恩賞の約束で東軍についた。
西軍が勝った場合は西軍につく事を主導した安国寺恵瓊が毛利家中の中心人物になり、
吉川は脇に追いやられる。吉川としてはそれは絶対イヤなので、東軍勝利の立役者として
毛利家中の中心人物になる事を狙った。

しかし家康が西軍総大将の毛利本家は絶対許さないというので、古狸家康にいいように
もてあそばれた自分の浅はかさを嘆きつつ、毛利本家の存続をお願いするしか無かった。

946 :人間七七四年:2014/08/14(木) 20:02:36.36 ID:mVmeiXe2.net
>>945
そうなのね。安国時のことは一言も触れてなかったから
そういう背景があったとは知らなかった。
個人的に家康につきたかった吉川と、お家事情が矛盾したこともあるのね。

947 :人間七七四年:2014/08/14(木) 20:54:26.85 ID:TDAdipgH.net
>>945は軍談講談史観だ。つまり小説の類。信用しちゃいかんよ。

そもそも西軍総大将である毛利が、責任を取らないというのはありえない。
吉川広家は毛利輝元が西軍の作戦行動とは無関係であるとして内通したが、戦後輝元が西軍の行動に
積極的に参与した証拠が大量に見つかり、このため取り潰しということになったのを、広家が四方八方に働きかけて
お家存続となった。

で、何で広家が内通したかといえば、毛利に限らず、西軍の殆どは岐阜城が陥落した段階でもう勝負あったという
判断をしていた。岐阜を抑えられた以上、遅かれ早かれ西軍は負けるという事。
この時期から西軍は足軽の脱走が頻出していたフシがある。もはや合戦どころではない状況に陥りつつあった。
そのため毛利家に存続を守るためにも、広家は東軍に内通したわけだ。

なお、毛利領の削減は大阪城撤退の段階で既に徳川との間で合意されていた傍証がある。
近衛前久が息子の当てた書状で、『表向きは所領安堵としているが、実際は所領半減と言う事になっている』と
書き残している。毛利の方も、責任をとった上でのお家存続を納得していたということ。

「タヌキおやじに騙された」なんてお伽話みたいな事、本気で信じたら笑われるぞ。

948 :人間七七四年:2014/08/14(木) 21:04:47.66 ID:tWI6y+Jz.net
>>946
毛利家は所領を大幅に減らされたが毛利輝元や秀元は助命された。
その代わりに西軍に味方した責任を取らされたのが安国寺恵瓊。
実際、恵瓊は輝元に総大将になるように説得したとされている。
そして敗戦の責任者として三成と恵瓊と小西行長の三人が斬首された。

949 :人間七七四年:2014/08/14(木) 21:09:05.73 ID:tWI6y+Jz.net
112万石から37万石では半減とは言わんだろう。
そして吉川が邪魔しなければ毛利軍が家康の本陣を蹂躙して西軍勝利だろう。

950 :人間七七四年:2014/08/14(木) 21:20:51.38 ID:tNmPpEBj.net
仮に毛利がやる気だったとしても家康を即座に討ち取れない限り
二日後に秀忠の軍勢が合流して詰むんじゃない?

951 :人間七七四年:2014/08/14(木) 21:43:29.31 ID:TDAdipgH.net
>>949
薩摩系の覚書などを見ると西軍は開戦から2時間ほどで粉砕されている。
日和見も何も、毛利が介入する暇すら無かった。

そもそも毛利は家康の本陣がどこかすらも把握してないというのに、どうやって本陣蹂躙する気?

952 :人間七七四年:2014/08/14(木) 21:50:46.19 ID:tWI6y+Jz.net
ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/0/05/Sekigahara.png
この布陣で左端の方の両軍が互角に戦っていたんだから、右側の西軍の諸隊が家康本陣を目指せば
池田と浅野が多少邪魔してもすぐに家康本陣に達する。
二日はかからん。

953 :人間七七四年:2014/08/14(木) 21:53:03.75 ID:tWI6y+Jz.net
>>951
把握してないって何の為の金扇ですか?家康はここに居ますよって印なのに。

954 :人間七七四年:2014/08/14(木) 22:49:21.73 ID:TDAdipgH.net
>>953
南宮山からそれが見えるとでも?そして南宮山にも抑えが付いているのに?

とにかく関ヶ原で「西軍は勝てた」っていう人は、西軍にとって不利な状況を全部無視するから話がおかしくなる。

955 :人間七七四年:2014/08/15(金) 06:37:58.08 ID:Rjp1FJGk.net
岐阜城取られて、ヤベーわこれ!って思ったとしても
関ヶ原で奇跡的に家康包囲ができたんだから
戦略的失敗を戦術で覆すチャンスは・・・?

956 :人間七七四年:2014/08/15(金) 11:12:25.32 ID:X5uo09h/.net
家康がなぜ死地とも言える包囲網の中に入っていたか。答えは安全だから
安全じゃ無いなら入らないちゅう前提を無視するなら何でもありじゃね

957 :人間七七四年:2014/08/15(金) 12:33:09.62 ID:3xniUOO5.net
いくら直接見えなくても
殺し合いなんだから
相手の陣形ぐらいはわかってるだろう。
見張りや斥候や事前になんとでもなる。
そこへたどり着けたかは別問題だけど
本陣を把握してない、の根拠はなんなんだろう。
南宮山からは見えない、というのは
いかにも机上の結果論理でないだろか。

それと、岐阜城が落ちて負けと判断してた
の根拠もよくわからないな。
なにかそういう史料はあるのかな。
それともやはり結果からの推測なんだろか。

958 :人間七七四年:2014/08/15(金) 19:01:58.19 ID:sJh3NOgM.net
南宮山の戦力で浅野と池田を突破して徳川本陣を崩せるのか?

959 :人間七七四年:2014/08/15(金) 20:48:35.56 ID:3a9Rj73D.net
浅野長政「僕頑張ったよ、浅井長政のパチモンじゃないんだよ」

960 :人間七七四年:2014/08/15(金) 23:14:04.49 ID:vwsuljvo.net
姓が一字違いでパチモノ臭い武将他にいないの?

961 :人間七七四年:2014/08/16(土) 00:02:19.78 ID:gDx7qIp0.net
武田信長

962 :人間七七四年:2014/08/16(土) 02:04:35.65 ID:H2xJgi1E.net
長政が頑張ったおかげで息子の代には安芸広島42万石の大大名だものパチモンは無いだろ。
忠臣蔵の内匠頭も子孫だよ。

963 :人間七七四年:2014/08/16(土) 08:53:05.30 ID:kWCqZ2eJ.net
浅井長政の孫は天下の将軍様なのでやっぱりパチモンです。

964 :人間七七四年:2014/08/16(土) 14:20:05.92 ID:VNecpu1T.net
織田、浅井、徳川の血を引いた徳川家光、サラブレッドやなぁ
その血統って綱吉でおしまいだっけ?

965 :人間七七四年:2014/08/16(土) 14:33:48.09 ID:caDStcw+.net
家継まで続いてる

966 :人間七七四年:2014/08/18(月) 20:46:38.59 ID:vWTvS/N4.net
夏のホラーどころか、秋味満点の回でしたな。
冒頭秀吉の関白就任の畳、史実に忠実に
なってましたな。あのへりまで細かい再現だったわ〜。

967 :人間七七四年:2014/08/18(月) 21:23:15.41 ID:NAKF/2XO.net
秀吉って四国平定前に関白になってたんだな
まだ中央押さえた程度の奴によくくれたな

968 :人間七七四年:2014/08/18(月) 22:10:37.26 ID:r5w9+fEr.net
信長の時点で三職推任なので、その後継者秀吉はすでに三職推任レベルにはあった
そこにたまたま関白争いが起きて秀吉の仲裁でじゃあ一時預かることしますと
なし崩しに職掌超拡大と豊臣家世襲にはみんなあんぐりだっただろうけど

969 :人間七七四年:2014/08/19(火) 20:49:14.45 ID:M2EXJ3Wz.net
たまたまじゃなくて、秀吉の仕掛け、ってのも
それなりに説としてあるけどね。
摂関家に戻さなかったというのもブラック丸出し。

970 :人間七七四年:2014/08/21(木) 00:45:26.36 ID:S5jcKotx.net
里見軍記・里見九代記・里見代々記(日本合戦騒動叢書)稲田 篤信
この本が欲しいんですがどこで買えますかね…
オンラインショップ関係はどこも在庫なしで
古本屋を巡って根気良く探すしかないんでしょうか

971 :人間七七四年:2014/08/21(木) 06:28:29.94 ID:psVvYgdf.net
出版社に問い合わせたのか
地元(里見の)の本屋、古書店を探す
某古書店ネットワーク登録

内容だけなら図書館

972 :人間七七四年:2014/08/21(木) 15:03:31.35 ID:cxsiKbWy.net
三傑の死亡時期と脂肪年齢
信長:1582年、49歳
秀吉:1598年(16年)、62歳(13歳差)
家康:1616年(18年)、75歳(13歳差)

こんな感じでだいたい等間隔になるのは
偶然ではなく何か理由があるのでしょうか?

973 :人間七七四年:2014/08/21(木) 15:11:47.00 ID:UbxgjQOS.net
ない。

974 :人間七七四年:2014/08/21(木) 18:44:37.80 ID:7XRFGNI8.net
サンプルが少なすぎて偶然としか言いようがない

975 :人間七七四年:2014/08/21(木) 19:38:14.31 ID:ZmuKNzEx.net
早雲88歳

976 :人間七七四年:2014/08/22(金) 00:31:21.32 ID:+6PY3YYM.net
>>972
その偶然に理由を求めるのはオカルト板か林先生案件

977 :人間七七四年:2014/08/22(金) 00:53:30.71 ID:fr01M5PT.net
>>972
そもそも秀吉の正確な生年はわかってないぞ

978 :972:2014/08/22(金) 22:23:42.74 ID:lEyONGAJ.net
年齢は別として
秀吉死亡の16年後に大坂の役を起こしたのは
家康としては信長死亡→秀吉死亡の16年と同じ期間が過ぎたことに
感じる所があったのかな...。

979 :人間七七四年:2014/08/22(金) 22:42:53.83 ID:fr01M5PT.net
>>978
そもそも大阪の陣は、基本的に豊臣家の側が起こしたことだ。年数は偶然にすぎんよ。

980 :972:2014/08/23(土) 07:43:12.92 ID:1xIajdjd.net
>>979
そうスね、豊臣の乱。

がちょ〜ん!

981 :人間七七四年:2014/08/23(土) 11:13:53.43 ID:+ShY4X1L.net
方広寺の鐘の銘文にケチをつけて喧嘩売って挑発しておいて豊臣家側が起こしたとか、
ハルノート突きつけて日本から開戦するようにしむけたアメリカそっくりだな。

982 :人間七七四年:2014/08/23(土) 13:48:29.11 ID:StQwIxMC.net
どっちが悪い、もよく盛り上がるなぁ。

983 :人間七七四年:2014/08/23(土) 19:42:01.91 ID:leTuJLEF.net
宇喜多秀家が5大老になれたのは、母親のふくが秀吉に3穴献上したとされてますが
当時では普通の性戯なのでしょうか。
お願いいたします

984 :人間七七四年:2014/08/23(土) 20:18:48.73 ID:RLbRkTeE.net
はいスルー

985 :人間七七四年:2014/08/24(日) 00:52:30.34 ID:JATgoXTQ.net
戦国ではどのような貨幣が流通してたでしょうか?
各国で勝手に発行して多くの貨幣が市場に流通してたでしょうか?

986 :人間七七四年:2014/08/24(日) 00:57:12.90 ID:JR7+XTjT.net
>>985
中国銭。宋銭もしくは明銭。

987 :人間七七四年:2014/08/24(日) 03:05:39.79 ID:Bl/SEU1b.net
金を中国に持ってって銭を買うというしょうもないことをしてました

988 :人間七七四年:2014/08/24(日) 08:22:27.35 ID:KExtGRJ0.net
>>987
それ金売ってるだけじゃね

989 :人間七七四年:2014/08/24(日) 08:26:11.94 ID:MY3Tvi04.net
>>983
その話、雑学本にのってた話だよな?町の商売女に教わったとか。

990 :人間七七四年:2014/08/24(日) 09:17:00.84 ID:Qt8yDJnS.net
上方より西だと戦国中期には銅銭の価値が下がって銀払いに移行してる

991 :人間七七四年:2014/09/16(火) 02:42:09.47 ID:RziVQblLA
質問です。
武田贔屓の人って信長嫌いと家康嫌いどっちが多いんですかね?
武田家臣の多くが残党狩りで苦しんだことを考えると織田嫌いでもおかしくないけど、真田絡みで徳川嫌いになることも考えられる。
戦国時代ファン全体では家康がかなり嫌われているみたいですが

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