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武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?

1 :人間七七四年:2014/02/02(日) 01:13:38.60 ID:J+42KsWO.net
大昔にあったスレッドを復活させました。
とことん議論してください。

※荒らし・煽りは徹底スルーでお願いします。

2 :人間七七四年:2014/02/02(日) 01:59:19.08 ID:vIhDkoqn.net
>>1
そんなわけないだろ。
つか糞スレ立てんなw

3 :武田信虎:2014/02/02(日) 03:09:36.09 ID:IyJKc+sF.net
信玄はワシが育てた(育て方を間違えたからワシが原因かもなw)

4 :武田信綱:2014/02/02(日) 07:41:30.18 ID:Y7WDQ9Jd.net
いや、わしが悪い

5 :人間七七四年:2014/02/02(日) 08:45:42.97 ID:ejWOBTze.net
織田朝鮮人の自慰スレ

6 :人間七七四年:2014/02/02(日) 11:49:03.56 ID:u9bG7l/t.net
>>3
廃嫡できずに逆に追放されたあんたが悪い

7 :人間七七四年:2014/02/02(日) 13:04:46.50 ID:sWXoivRX.net
武田義信が家督を相続したら武田は崩壊しなかったのだから
武田信玄が悪いのは言うまでもない

8 :人間七七四年:2014/02/02(日) 13:47:39.83 ID:hWEp6swo.net
>>7
義信が逆心を抱かなきゃ武田は崩壊しなかったとも言えるんじゃないの

9 :人間七七四年:2014/02/02(日) 14:30:13.45 ID:sWXoivRX.net
本当に義信が逆心を抱いていても信玄は隠居すべきだった
信玄が全うに家督を相続していたらこんなことは言わない
その昔当主だった信虎を追放して家督を継いだのはどこの誰だという話よ
筋はちゃんと通すべきだった

10 :人間七七四年:2014/02/02(日) 14:36:03.75 ID:jZFpy9lh.net
義信に人望が無さ過ぎて、
挙兵すら出来なかった時点で、
当主としての資質ゼロだからなあ。

11 :人間七七四年:2014/02/02(日) 14:49:18.02 ID:9exiCBE/.net
身内に義信の謀反をばらした飯富虎昌が悪い

12 :人間七七四年:2014/02/02(日) 15:02:24.25 ID:sWXoivRX.net
>>10
直接事を構えることなく
姉を餌にして信虎を追放した信玄に
当主としての人望がなかったと、こう言いたいわけだねw

13 :人間七七四年:2014/02/02(日) 17:24:45.27 ID:D7Zy0+eD.net
嫡男殺害
外交で裏切りまくり

この辺は批判されてもしかたない

14 :人間七七四年:2014/02/02(日) 17:32:44.91 ID:sWXoivRX.net
そもそも信玄自身が
体制派の信虎から実権奪う形で
家督継いでるからな
信玄側はこの時家臣を処断しまくった信虎を
まるで悪だという見方を作り
自分たちを正当化したわけだが
これと全く同じ流れができてしまったのが
義信の謀叛未遂の時で
この時信玄は義信を廃嫡して多くの重臣を切腹させてる
自分が信虎にしたことを、嫡男の義信が
同じように企図するのは許さなかったわけだ
これで信玄は家督を継がせる跡目を失ったばかりか
自分が過去にしてきたことの正当性を自ら否定してしまい
武田の当主権力を一気に失墜させてしまったわけだ
だからその後で急きょ武田家の当主を継いだ勝頼は、
穴山はじめ武田一門衆から舐められまくるようになる。

15 :人間七七四年:2014/02/02(日) 17:40:25.77 ID:m6Ag2Cbi.net
ウソ連呼でまともな議論が成立しないのが織田チョン
しかも恨みのように、
しつこく繰り返すアルツハイマー

16 :人間七七四年:2014/02/02(日) 17:46:01.51 ID:sWXoivRX.net
事実を突きつけられて
妄想人格否定しかできない
菅沼遼太君
早く史料持ってきてねw

17 :人間七七四年:2014/02/02(日) 18:58:05.57 ID:yM+SuBpK.net
もう少し同盟を大事にしてもよかったかもね
諏訪と同盟維持して佐久方面から信濃に侵攻とか
三国同盟を維持しながら越後に侵攻とかが何故できなかったんだろう

佐久郡は信虎の代で伝馬制敷いてるし、駿府攻めする頃は謙信は国人統制出来ず困窮しているから
同盟破棄より順調に行きそうな気がする

18 :人間七七四年:2014/02/02(日) 19:21:15.07 ID:BcHZBDtM.net
>>17
本当にそうだな。
信虎末期の頃の資料研究によれば
甲斐国人層の権力を抑制し、武田宗家独裁の方向に進む(要するに戦国大名化)しつつあったが
晴信のクーデターにより甲斐国人層が再度力を持ち出し、
晴信は甲斐国人層の統制に散々手間取り、その結果として義信のクーデター
(甲斐国人層による武田宗家独裁阻止のための)が計画される結果になった。
禍福はあざなえる縄のごとし、人間万事塞翁が馬という言葉を想起してしまうな。

19 :人間七七四年:2014/02/02(日) 20:47:30.62 ID:t3ERXwu5.net
175:人間七七四年 10/10(木) 11:26 Z1Ug+wFm [sage]
晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内
穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。

しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。

このような国家ビジョンを信玄は持っており、これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
また信玄が作った分国法による法治国家構想は、源流を辿れば、戦国時代の秦国が韓非子の意見を容れて導入したものであり、
法治の最も重要なことは信賞必罰を君主がしっかり行使することであると述べており
信玄も出陣する際に、かならず多くの褒美用の準備を欠かさず用意していた。
秦国が全国統一できたのも法治に照らした信賞必罰であり、それに基づく富国政策である。
しかし秦帝国はすぐ滅んでしまった。中国史観ではその理由を人治ではなく、冷酷な法治のせいであるとした。
しかし、それが原因ではない。韓非子は始皇帝に皇帝であっても法に従わないとならないと強く説いたが受け入れられなかった。
そして二代皇帝は超法規的存在である皇帝であるがゆえに、法を守らず、皇帝の寵愛を受けた宦官もまた、皇帝の保護を受け
信賞必罰の原則も崩壊したからこそ秦帝国は滅亡したのである。
信玄は自分もまた法に従い、法によって罰せられる存在であることを明示したのである。
まさに立憲君主による法治国家を新国家構想に掲げたのである。
これは今川家の分国法にも見られない画期的先進性として高く評価されている。
まさに国家とは何かを知りつくしたのが信玄だろう。

>>平和な甲斐に生まれる
どこが平和だよw甲斐国は実質、武田、穴山。、小山田の三国の合同政権で
しかも武田の支配していた地域は専横家臣だらけ。
結局、その専横家臣団によって武田の集権化を進め統合しようとした信虎はくにを追放され
専横家臣団に都合が良い傀儡として信玄が擁立されただけ。
>>信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる
そうではなく、専横家臣団の意向で信玄が当主に祭り上げられてたくらい武田当主なんて誰もやりたがらない傀儡守護職。
それは戦国時代に大半の守護が家臣による下克上で滅んでいることでもわかる。守護を延命させる方が難易度が高い。
>>信玄にやりたいように政治ができる
>>287のように信玄の国の整備と経営の努力によって指導力を発揮していったことを周りが認めていった結果だ。
国人たちによる合議政権だから信玄の意見だけで勝手なことができるわけねーだろ。
>>父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡
そんなことどこにも書いてない。お前の妄想。

20 :人間七七四年:2014/02/02(日) 21:14:48.44 ID:BMpEYHTv.net
信玄は父親を追放し、嫡男を死に追いやった悪逆非道の者である。

後世、荒くれの人間像を作られた信長、実は

・父の死後、家督を継いだ自分を殺害しようとした弟は、殺しているが、これは当時としてはあたりまえだろう、
しかも、その子供の面倒はみている。

・敵勢力として今川氏と戦い、義元の首級をあげたが、それは敵勢力としてであり、
その子供である氏真の面倒はみている。

21 :人間七七四年:2014/02/02(日) 21:21:37.50 ID:FXzUahmi.net
菅沼遼太

22 :人間七七四年:2014/02/02(日) 21:34:30.99 ID:t9tQre9K.net
クリーンなイメージを保つために
信虎を過剰なまでの暴君にしたり
義信を世間知らずのお坊ちゃんにしたり
勝頼を猪突猛進の自意識過剰野郎にしたり
信玄好きは大変だなあ

23 :人間七七四年:2014/02/03(月) 07:15:39.01 ID:48aqejSS.net
一番大きな要因は長篠で負けた事でしょ
戦が弱いと見なされた守護大名家に国人はついてこないよ

24 :人間七七四年:2014/02/03(月) 08:00:05.61 ID:LRJnvszX.net
信濃は信玄の悪政によって逃散・逐電が相次いでた

自勢力より大きな勢力が攻めてきたらまともに戦うわけがない
信濃が落ちたら甲斐のみで戦えるわけがない

滅亡は必然だった

25 :人間七七四年:2014/02/03(月) 08:00:34.67 ID:JdoaAeMs.net
長篠をはじめ織田徳川と争う羽目になったのは
信玄のせいだからなぁ
和平策維持が一番最善だが
せめて敵対した以上は
織田徳川どっちかの大将の首を
取っておくべきだった

26 :人間七七四年:2014/02/03(月) 08:07:02.87 ID:942/plof.net
そんな簡単に総大将の首がとれるわけがないw

27 :人間七七四年:2014/02/03(月) 12:25:10.33 ID:mXWdQKX8.net
アンチ曰く、日本最弱の織田ならとれるって事じゃないかな?w
それとも、ゲーム内では、って事かな。

28 :人間七七四年:2014/02/03(月) 16:53:29.07 ID:bgfXupAu.net
家臣団が、傀儡に担ぎ上げたけど、信玄の器量を認めておとなしく従ったって事なら、
後継が勝頼でも義信でも、家臣団が分裂するのは変わらなかったんじゃない?

29 :人間七七四年:2014/02/03(月) 17:38:15.52 ID:wgO3QPCy.net
そもそも信玄晩年の武田の当主権力が弱いとは思えんのだけどなあ
勝頼みたいに出自の悪い人でも穏便に相続できてある程度権力振るえてるわけで

30 :人間七七四年:2014/02/03(月) 18:29:41.02 ID:oA2wZPQS.net
勝頼が無理やり甲斐からむちゃくちゃ遠い高天神城を落として、
しかも維持しようと無茶やったのがまずかっただけだろ。
んなトコを無理やり攻略して兵を損耗した挙句に、
高天神城維持に兵力配置し兵站をつなげる負担さえなければ、
武田軍は長篠で大勝出来たろ。
信玄が高天神城の攻略をしなかった理由が勝頼には理解出来なかった。

31 :人間七七四年:2014/02/03(月) 18:54:30.07 ID:JdoaAeMs.net
>>26>>27
取れるわけがないのは承知してるよ
でも、取っておくべきだった
最低でも家康は、浜松囲んで落とせば取れたはず
取れない自信があるなら最初から戦争すべきではなかった

32 :人間七七四年:2014/02/03(月) 19:48:35.77 ID:9Icuki1H.net
>>30
信玄も攻めてなかったっけ?
城攻めて、わざと攻略しなかったの?
長篠後ならまだしも、それ以前なら高天神城は徳川攻めの重要拠点として
維持しておくメリットはあったと思う。
現に以後は、勝頼も援軍送らず無理に維持しようとしていない。
高天神の兵力があれば長篠で勝てたというのは推論であり、結果論では?

武田が高天神城を切り捨てた事は、武田滅亡の一因だとは思う。

33 :人間七七四年:2014/02/03(月) 21:51:37.27 ID:0Sw60wmJ.net
高天神は街道筋から余りに離れ過ぎて、
戦略的価値は全く無い。
あんなの攻め取る意味なんて無い。
しかも徳川が高天神攻略に多大な時間をかけているあたりからして、
勝頼があまりの早さで高天神城を攻略している異常さは、
かなりの被害が出る無理攻めをしたとしか思えず、
武田軍をかなり疲弊させたと見るべき

34 :人間七七四年:2014/02/03(月) 22:06:33.76 ID:m9TfIAdD.net
>>32
信玄は本命を隠して陽動作戦をするので、
軽く攻める威力偵察をその際はやってる。
まあ信玄の本命は美濃侵攻だから、
徳川攻め自体が陽動に過ぎない。

35 :人間七七四年:2014/02/04(火) 05:57:28.78 ID:yq8mPgQ+.net
陽動で寿命縮める馬鹿だと
言ってるようなもんだぞ菅沼遼太w

36 :人間七七四年:2014/02/04(火) 08:17:49.52 ID:KrE3VCY9.net
>>31
理想で言えばって事か。
浜松囲んでって言うけど、そもそもそれが目的じゃないじゃないと思われる
からなぁ。
個人的な見解だけど、兵数的にも遠江進行前の威圧行動じゃなかったかと思う。
まあ、本格的に行く前に亡くなってしまったわけだけども。

>>30
うーん、過去を知っている事からの結果論にしか見えない。
自分も>32の言う通り、当時は徳川攻略の重要拠点として必要だったと思う。
その後の経緯から、重荷になったんじゃないかな。

>>34
逆じゃない?
徳川無視して美濃行くのって、目の上のたんこぶ残して行くようなもんでしょ。

37 :人間七七四年:2014/02/04(火) 09:48:00.80 ID:y6TFuAZB.net
信玄は信長を敵として戦うとか、来春は岐阜を攻めると書状に書いてるし、
浅井や本願寺の書状でもそれがわかる。
京都西の山崎にいる油流通支配やってる大山崎油座も、
信玄上洛は間違いないと考え禁制を貰おうとしてるし。

38 :人間七七四年:2014/02/04(火) 12:01:34.30 ID:OhTu0Nsu.net
身分違いの人間による生存戦略を根拠だと言われましても

39 :人間七七四年:2014/02/04(火) 19:29:55.16 ID:IzVsx6pX.net
光秀が山崎の防衛を考え、
光秀に買った秀吉が、
大坂城に移転前には山崎城を本拠地に据えているなど、
山崎の去就は甚大な影響力があった。
三好なども山崎に禁制を出すなど、
流通独占支配者のネットワークは重要だった。
それが信長を見捨て、信玄が勝つと踏んだ。

40 :人間七七四年:2014/02/04(火) 22:56:35.87 ID:Fc7Wnn6u.net
「甲斐国は、全国でも稀にみるほどの偽文書作成地帯として、よく知られている」山本英二
「甲斐国には偽りの文書が多し」国学者 黒川春村
「甲信二国は偽文書が多い」田中義成

武田厨の捏造度は異常

41 :人間七七四年:2014/02/04(火) 23:49:54.02 ID:OhTu0Nsu.net
信長を見捨てたというなら信長が出した禁制は破棄してるだろ
実際には信長信玄双方の禁制を貰って
どっちが勝ってもいいように両方に二枚舌使っただけw

42 :人間七七四年:2014/02/05(水) 09:39:28.07 ID:kCMkkz2M.net
そんなことを信長が許すわけねーだろ。
信玄死後に諸権利没収されて、
秀吉が山崎城を拠点にした時に諸権利が返され復権させてるわけだが。

43 :人間七七四年:2014/02/05(水) 12:32:04.17 ID:cbhJjA3j.net
ここまで史料なし菅沼遼太の妄想w

44 :人間七七四年:2014/02/05(水) 13:46:11.36 ID:zgTlWCEF.net
秀吉が上様が奪った利権を返すって書いてる書状あるじゃん。

45 :人間七七四年:2014/02/06(木) 00:37:11.08 ID:rBVwlSkn.net
禁制を複数から貰うなんて普通に行われる事だ。
問題はタダじゃないから、予算内で貰う相手を読まなきゃならない。

武田滅亡の原因は、やはり武田家の戦略方向を大きく左右していた信玄にあるな。
勝頼は、割り食った面が大きい気がする。

46 :人間七七四年:2014/02/06(木) 01:14:30.79 ID:XWtGofj8.net
>>45
下記の話を複数の禁制で実際に証明してください。


禁制を複数から貰うなんて普通に行われる事だ。

47 :人間七七四年:2014/02/06(木) 01:19:28.62 ID:betgb3q1.net
あの時代の情報網じゃ仕方ない部分も多いが
信玄は浅井・朝倉があんなに弱体化してるとは知らず当てにしてたからな

今の時代だってよっぽどアンケートを取らないと
選挙の勝敗を当てるのは難しい
歴史上の人物も超能力者じゃないんだから
人の移動しか情報伝達手段がない時代じゃ限界がある

48 :人間七七四年:2014/02/06(木) 02:49:29.46 ID:THjsX3hK.net
まず菅沼遼太が信長の禁制が破棄されて、信玄の禁制のみを頼ったことを
一次史料、原文、出典まできっちり明記しないとな
>>44だけなら、二枚舌方針を咎められただけとも言える

49 :人間七七四年:2014/02/06(木) 09:29:44.54 ID:F07tFH4x.net
一般的に禁制が出されている場所の近くまで侵攻軍がすでにやってきてると解釈されるケースが史学では常識。
三方ヶ原で大勝利した信玄が来春岐阜攻めと言ってる時点で、
禁制を貰う動きが生まれており、
織田の大身が3人も内応していると書かれ、
実際に名が上がっている蒲生の他に池田や斎藤らが怪しげな動きをしている。
また信長自身が細川に、誰が敵で誰が味方かわからないと泣きを入れているし、
実際に上洛した時に合流してきたのは細川以外だと、
和田や池田を討つなどむちゃくちゃな謀反人で、
信長の意に従わず私戦を繰り返してきた荒木だけで、
織田軍は1万しか集まらない体たらく。
伊勢長島衆が岐阜の近くに砦を築いていくのも阻止出来ず、
岐阜の北の郡上八幡の遠藤も離反。
信長の本拠地岐阜包囲体制が着々と敷かれている。
完全に信長は終わってたのは誰の目から見ても明らかだし。

50 :人間七七四年:2014/02/06(木) 09:34:35.42 ID:THjsX3hK.net
そういうのを一般的には妄想と言うんだよ
ちゃんと史料を出して明示したまえw

51 :人間七七四年:2014/02/09(日) 10:05:01.89 ID:SfWxybBl.net
じゃあ一次史料の根拠を用いて反論してみろよw

52 :人間七七四年:2014/02/09(日) 14:51:10.17 ID:QDK/sTJ+.net
自分は史料出さずに主張して相手には史料で反論しろ
楽だねー

53 :人間七七四年:2014/02/09(日) 21:13:14.17 ID:WTCb8CHq.net
過去にさんざん出てただろwww
織田厨はアルツハイマーだなwww
とりあえずレスせずにROMってろ。

54 :人間七七四年:2014/02/09(日) 21:25:32.09 ID:eVR/RuMg.net
過去にさんざん出てた(妄想)

55 :人間七七四年:2014/02/09(日) 22:27:09.79 ID:Y/WTpOhc.net
たしかにテンプレ化していたはず。

56 :人間七七四年:2014/02/10(月) 08:36:55.63 ID:KJSfAR0k.net
まーた武田中の出しただした詐欺か
何回騙されたことか・・・

57 :人間七七四年:2014/02/10(月) 13:46:16.18 ID:nivabtRm.net
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
なんとたった1万しか集まらず信玄に大敗してボロ雑巾の家康にすら近江に援軍を出すように哀願w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀3年10/5の朝倉景亮書状
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言

蒲生下野入道殿御陣所

元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

そもそも東山道と中山道の二つのコースから出撃し
岩村城の秋山隊と合流すればいいし、
補給は木曽川から下流に流せばいいだけだし。
美濃に帰国した土岐頼芸と一向宗と呼応して東美濃西部の土岐を大軍で落として、
中濃の加茂郡の加治田城や関市の一柳城(津保城)や北濃の美濃市の鉈尾城や
郡上八幡城の兵力と可児を挟撃合流し一気に岐阜城を襲えばいいだけ。
そもそも可児の森長可が簡単に東美濃を平定してるほど
弱い東美濃全域なんて簡単に攻略できるわ。
加治田城の斎藤利堯ですら岐阜城を軽く落城させてるからなー。
その加治田城まで武田方になってるし
さらに武田の大軍なら余裕で岐阜城なんざ落せる。
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時は
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。

武田軍は岐阜よりわずか六里まで進出していた。
甲陽軍鑑では岩村と土岐の仕置きを信玄がしていたと書かれてる
三河鳳来寺に武田軍が陣を置いて 窪・長沢方面にも軍を動かし
岡崎の北わずか4里の宮崎に出城を築いている。

58 :人間七七四年:2014/02/10(月) 13:47:45.47 ID:nivabtRm.net
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年(天正元年)
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。

59 :人間七七四年:2014/02/10(月) 13:49:02.94 ID:nivabtRm.net
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。

60 :人間七七四年:2014/02/10(月) 13:50:00.25 ID:nivabtRm.net
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。

蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。

元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。

その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。

61 :人間七七四年:2014/02/10(月) 13:52:17.17 ID:nivabtRm.net
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん(末期の明智はわかる)
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。
長篠直後ですら家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は農業の暦に合わせて帰る必要が無い
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは 軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地 興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
のち、秀吉が京で政権を握ると、このナメた報告を知った秀長が激怒し実地検地を開始。
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。

62 :人間七七四年:2014/02/10(月) 16:30:13.15 ID:kheb+RgY.net
【社会】 自称、武田信玄の末裔 『小悪魔ageha』モデルの 武田アンリ さん逮捕される
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1392009463/

63 :人間七七四年:2014/02/10(月) 17:05:56.84 ID:LRb+ZnJG.net
.  |___
. /    (^ν^) 武田信玄は最強だぜ
/    /    \ 信長秀吉家康は信玄が健在なら晒し首っと
     | |   | |
___/ /__.| |___
   //   //
   (Ξ´  ‘ミ)


.   |J( 'ー`)し 遼太ごはんができたわよ
.   と ノ お父さんが話あるって言うし一緒に食べよ
.  | /___
. /    (^  )彡  !?
/    /    \
     / |    , / ))
____/ /| _/ /___
     ̄(⌒__/
       ̄

.   |   
.  |彡サッ
.  |__ 
 /  (    ) 勝手に部屋に入ってくんじゃねぇババー!
/    γ⌒\ 俺は今信長厨と戦ってんだ!!!
7``)  / /  \
.`ヽヽ / X  ミ ヽ
  ヽ___ノミ\   \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

64 :人間七七四年:2014/02/10(月) 21:25:46.21 ID:lGsGAFNy.net
>>57-61
これは何のコピペなんだ?
それが本当なら、そこから立て直した織田家はすごいし、

信玄は、義元死後の今川家から何も学ばず、
自分に権力を集中させたにも関わらず後継者育成を怠ったバカだなw

65 :人間七七四年:2014/02/11(火) 11:54:48.58 ID:krkp0q8w.net
今度はここが荒らされているのか

66 :人間七七四年:2014/02/16(日) 23:29:57.49 ID:Er5c9uPu.net
信玄の失態といったら、いのしし武者勝頼を当主にしてしまった事か?

67 :人間七七四年:2014/02/17(月) 07:23:22.69 ID:F7UWKGVO.net
安芸とか若狭?の武田が滅んで、甲斐一国から頑張った、信虎晴信親子は素晴らしいじゃね?
武田が滅んだ理由なんて、頼朝公の頃に遡るだろ

68 :人間七七四年:2014/02/17(月) 22:40:31.57 ID:K1P4uS6+.net
三増峠の戦いの時に北条の鉄砲隊の銃撃で部隊長の浅利信種を射殺されてしまったんだから
信玄がそこで鉄砲の重要性を認識して大量購入していればよかった

69 :人間七七四年:2014/02/17(月) 23:43:06.42 ID:agv7nQhg.net
>>67
安芸や若狭の武田も戦国時代まで残ってたし
甲斐の武田も戦国時代に滅んだだろ

70 :人間七七四年:2014/02/18(火) 02:24:10.94 ID:x4FOoH6d.net
甲斐一国から頑張ったって言っても
国持ち大名の時点で他よりも有利な状況なんじゃないのか?と思った

71 :人間七七四年:2014/02/18(火) 08:44:54.72 ID:SJi8RkoB.net
守護が在京していた為に、
領国統治を守護代に丸投げしていたので、
守護代と国人が癒着しており、
守護大名の方が生き残り難易度が高い。

72 :人間七七四年:2014/02/18(火) 09:05:44.72 ID:UiOq/84p.net
>>70
そもそも武田の場合は
先代当主の信虎が
甲斐を統一するなど
かなり頑張っており
信玄はこの基盤を楽々
利用することができた
加えて信玄の場合
信虎の専制的な体制を
崩壊させて国人衆の支持を得れた上
有力国人の板垣甘利らが
自爆してくれたおかげで
かなりやりやすくなったので
滅茶苦茶恵まれている
国人衆からすれば
信玄を頼らなければ
存続できない状況が
できあがっているわけだからな
だから後年に武田義信が
政道を正そうとした際も
信玄が怖くてどうしようもない
家臣ばかりだったので
信玄に味方するばかりか
せめてお家だけはと信玄に
命乞いまでするかのような
浅ましさまで露呈し
身内一族を犠牲にしてまで
信玄に媚びへつらう
体制が完成していた

73 :人間七七四年:2014/02/18(火) 09:14:30.84 ID:vo7OPpB8.net
信虎が甲斐統一してたって昭和の歴史認識かよwww

74 :人間七七四年:2014/02/18(火) 09:22:23.67 ID:UiOq/84p.net
事実じゃんw

75 :人間七七四年:2014/02/18(火) 11:48:14.41 ID:63aRqDjy.net
北条の援軍まで得て3分の一程度の戦力の若輩徳川家康すら
半年かかっても屈服させられなかったのがゴミ雑魚信玄
一方若輩織田信忠は9年後に武田を瞬殺

76 :人間七七四年:2014/02/18(火) 13:01:49.15 ID:Kx5joTVy.net
信虎は小山田や穴山を配下に組み込むことすら出来てない。

77 :人間七七四年:2014/02/19(水) 12:49:56.01 ID:9BZf3/Wt.net
20年かかってやっとこ信濃の弱小豪族から領土掠め取るのが関の山の超小物だからな
小物が調子に乗って織田に歯向かったのが武田家滅亡の決定打だから、そうなんじゃね>>1

78 :人間七七四年:2014/02/20(木) 14:57:42.91 ID:c5cS7jwT.net
単純に相手が良かっただけなんだよな
事実信玄も同格クラスの上杉謙信や北条氏康と当たり始めると
領土拡大速度が一気に激減している
格下を苛める弱い者いじめはできても
同レベル以上の連中には手も足も出ない雑魚専
朝倉義景と同程度の手腕しか持ってない

79 :人間七七四年:2014/02/20(木) 16:24:13.25 ID:38c8xqaN.net
信長って朝倉義景に負けまくりで、
信玄死去を知った将軍が即時無条件降伏した為に、
将軍任国の若狭と、奉公衆の領地密集の琵琶湖北岸路が動揺して、
朝倉軍が撤退路を危惧して退却したのを追撃できた棚ぼたでやっと勝てたレベルではな。

80 :人間七七四年:2014/02/20(木) 19:17:08.64 ID:ck9aZi2l.net
武田厨も織田厨も牽強付会が過ぎるw
っていうか武田絡みは、どんなスレ立てても脱線して暴論合戦だなw

81 :人間七七四年:2014/02/20(木) 19:23:57.12 ID:lafT7Ul0.net
>>78
氏康や謙信が家の最盛期だったが、
彼らから信玄は領地奪ったが、
逆に彼らに領地を奪われたりしてないし。

むしろ織田が滅ぼした相手なんて最盛期当主の時代が終わり、
衰退期に入った大名しかいないし。

82 :人間七七四年:2014/02/21(金) 04:49:36.10 ID:iyD4cBfU.net
>>80
武田の場合は全て事実だけどね
所詮武田なんて甲斐信濃という僻地を領有していたから
他の連中に目をつけられなかっただけで
北条は関東、上杉は越中、織田は畿内、徳川は駿河という肥沃な土地を目指していただけ
「朝鮮はいつも戦勝国側にいるから強いニダ」と連呼されたところで
誰も聞く耳を持たないのと同じ理屈
もともと弱い連中を何が悲しくてウリナラファンタジーみたいな醜い真似をして持ち上げないといけないのかわからん

83 :人間七七四年:2014/02/21(金) 09:06:42.67 ID:+g+ubgOj.net
それぞれの国々が肥沃かどうかなんて、
当時の人々にはわからんわな。
石高一覧表を知る現代人の君じゃないんだからw
だいたい石高制になる前だから田園大開発が本格化する前で、
貫高制の元で田畠の収入(粟や小麦や野菜)も国力反映されていた時代で、
甲斐は小麦なども育て二毛作までやってたのがわかってる。
また人口や経済活動なども隣国が把握出来るわけもなく、
甲斐信濃が価値が無い僻地なんて分析が出来るわけが無い。
勝頼は北条の甲斐侵入を許してしまい、
新府城を築くようになってから、
甲斐国内の絶対安全保証という軍事的プレゼンスの信用を失い、
甲斐の団結に綻びが生まれたが、
信玄は一寸の領地も他者に奪われたりせず、
絶大な信用を与えていたから他国に犯される隙すらなかった。

84 :人間七七四年:2014/02/21(金) 09:12:01.92 ID:r5R2/Tqr.net
二毛作なんてどこもやってるしそれが豊かな根拠にはならんよw

85 :人間七七四年:2014/02/21(金) 14:27:17.86 ID:f8wTjjQH.net
>>84
二毛作をやってたなんて証拠が残ってる国はほとんどないのにwww
また織田チョンさん得意の大ウソですか?www

86 :人間七七四年:2014/02/21(金) 15:38:10.12 ID:+dM6Y0Oh.net
武田は他の強国に比べて低い国力で無理してたと思うし、
一般的な武田のイメージだと過大評価だとは思うが、

実際に武田に勝った織田のファンが、わざわざ武田を過小評価する意味がわからん。
だから厨なんだろうな。

87 :人間七七四年:2014/02/21(金) 18:11:03.86 ID:msULOAdP.net
勝ったというか、一蹴しただけなんだけどな
そもそも勝負にすらなってない

88 :人間七七四年:2014/02/21(金) 18:32:52.82 ID:X/THL6S0.net
勝ったからこそ持ち上げる必要がない
大したことない人物が、まるで神話に匹敵する人物のように持ち上げられるのは
李舜臣をはじめ某国のお家芸だからな
畏敬され崇拝される人間は人の模範になるような人間でなくてはならんのに
弱い者いじめが得意で敵の娘を強奪して側室にするような性豪独裁者なんぞ反面教師にすべき存在だ

89 :人間七七四年:2014/02/21(金) 19:14:42.18 ID:f8wTjjQH.net
2/14 浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
2/16 五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた
(陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)
3/2 織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取る(織田の武田攻めの戦果はたったこれだけ。のちに信忠は高遠城に勝頼もいて苦戦したと大ウソを吐く)
3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
3/12 多聞院が天候不良と先頃の光物の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)
3/15 正親町天皇が庭上之作法をやってたらなぜか雨が止んだ。天道之感応奇特だわ〜と公家達か感嘆した(濃尾之暦者って馬鹿じゃんw最近の天皇力すげぇな!)      
3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!などと多聞院が記録する(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
また最近の大風霰飛火逆雨の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたからだ(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
まぁ戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(もうキチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。

晴豊記 2/14   浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
兼見卿記 2/14  この日の夜に和仁親王が体調を崩す。
立入左京亮入道隆佐記 天正十年二月十四日夜。従北方赤雲天下を覆い、その色の光明は朱の如し。信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬。
晴豊記 2/16    五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた。
        (陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)

フロイス日本史  3/8 豊後からの報告とも照らし合わせて、信長出陣前に起きた浅間山噴火をデウスの示し給うた現象だったのだろうと書く。
フロイスが使ってるのはユリウス暦だから、日本の暦で言うと2月14日。 ttp://maechan.net/kanreki/

兼見卿記 3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
        信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
        天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
        しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
多聞院 3/12 多聞院が天候不良と先頃の「光物」の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)

多聞院 3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
       最近の「大風霰飛火逆雨」の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたから(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
       戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(キチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
       多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。

90 :人間七七四年:2014/02/21(金) 19:15:42.89 ID:f8wTjjQH.net
傍証としてさらに二次資料の信長公記から補填してさらに自説の追加補強
織田軍は遠陣だから兵糧が足りなくならないように わざわざ兵力調整してたのに すぐ軍を解体して逃げるようにして
速攻で甲斐から領国へ帰ったの? なんで甲斐で一揆がおきたの?
当時の甲斐はあきらかに食料不足だよね。これ火山の被害じゃないの?
3/20に木曽や穴山に会い、23日に滝川に関東行きを命じた信長だったが、
兵糧に困窮した織田軍は占領した深志城(松本)の兵糧を
3/24に分配するほど追い詰められてる。
3/26には馬の飼料を北条から貰うほど困窮。
3/28には信忠も甲斐から諏訪へ逃亡。
それですら、人があまりにも寒くて多く死んでいったから、
29日には開陣して諸将はいそいで帰国。 なんで大量に死んでるのかなぁ?
噴火被害で荒廃した甲斐で馬の飼料どころか一切の食料が手に入らず、よって体の熱量不足になり、
おまけに噴煙の影響で天候はボロボロ(3月末なんて5月上旬だし)
もう甲斐から逃亡するしかなくなったからだよね。 そして荒廃した甲斐ではついに一揆が起きて川尻が殺される。

木曾から援軍要請が来ても武田領へ侵入出来なかった織田軍の噴火日から侵攻開始。
北条氏政が16日付け書状で八王子城へ向けて、甲斐の情報が全く入ってこなくなったと情報途絶を報じ、さらに様子見で軍を出すのを延期。
19日に勝頼夫人が武田八幡宮に対して、 勝頼に罪がないのにと天意に対して抗議しているが、天意とはまさに天変地異のこと。
織田軍を迎撃すべく出陣してきた武田軍が、全く戦わず撤退したどころか謎の瓦解(高遠城で百人討ち取られただけ)
援軍を出し始めた同盟国越後上杉氏にも逃げられる浅間山のある真田領へ勝頼は逃げず、なぜか小山田領に逃げる謎。
甲斐で一番浅間山に近い場所にわざわざ集まり僧たちが人身御供とも言われる観音様に祈りを執行する。
浅間山噴火について丸島和洋氏は、晴豊公記の東方に厚い雲が垂れ込め、空が赤く染まる様子や、
多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね

91 :人間七七四年:2014/02/21(金) 19:16:39.71 ID:f8wTjjQH.net
公記は天罰・朝廷は神威・教会はデウスの力 奈良興福寺は甲斐信濃滅亡の怪異・大風霰飛火逆雨
恐ろしいまでの天変地異が甲斐を襲ったんだろうね。
火焔が飛び散ってきたからこそ一の宮が流されたのかもな・・・・
そりゃあ勝頼も真田領から同盟国上杉へ逃げるのを断念して、
敵である北条を頼って小山田領へ行かざるを得ないよな。

フロイスがなんで神の起こした災害の場所へ恐れを抱かず
信長が進んで行くのか疑問に思っていたが・・・
立入左京亮入道道隆佐記には浅間山噴火を見た信長について書いている。
信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬
はい、信長が火事場泥棒をしようと他国の災害を大喜びしていたのが確定w

先日の東北大震災でみんなが避難した後に、外国人盗難集団が鉄パイプ装備で家々を荒らしまわって
略奪して回った事件を思い出したわ。
北条早雲が駿河大地震で崩壊した伊豆国を襲撃して
組織的抵抗できない堀越公方から国を奪った時と同様に
武田もほとんど組織的抵抗もできずに災害便乗型強盗武力団に領国を荒らされたのだろう

多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね
塩山向獄禅庵小年代記 天正10年3月
開山徳和之観音堂へ各僧衆御伴申三日三夜奉移と書かれている。
徳和之観音堂とは三富村(旧山梨県東山梨郡)の観音堂で三日三晩の御祈祷をして下山したそうだ。
これは重大な意味を持つ。この村の位置はまさに甲斐・信濃・上野との県境にある。
そして浅間山からも近い。なぜこのタイミングでここに各々の僧が衆を伴って
3日間の山篭りをして祈祷しているのか(山梨県笛吹市の北に位置する事実)
察するに2月中は噴火の影響で近づくことができず、噴火被害者を弔うことができなかったが、
ようやく混乱が落ち着いてきた3月になり、浅間山を望むことができる山上へ登った
各地から僧に伴われた遺族達が被害者を観音様に見立てて鎮魂し、浅間山の荒ぶる神を沈める祈祷をしているのだ。

92 :人間七七四年:2014/02/21(金) 19:17:25.70 ID:f8wTjjQH.net
浅間の獄の焼けるは東国の物怪(もののけ)とまで、
興福寺の僧侶は古人の言葉を引用してまで、
物の怪の怒り暴れる姿に恐れを抱いた。
中世における地球の活動から来る天変地異は、
物の怪と解釈されパニックとなったのである。
しかし凶悪極悪犯罪者にとっては、
そこは略奪虐殺三昧の治安崩壊地となるのであった。
天変地異を世界の滅亡と捉え恐れる良民とは実に哀れなものである。
実際に反社会的性向の札付きのワルの織田軍がこの世の終わりを現出させるべく、
考えられる限りの悪逆無道な行為をして回ったのだから。

大日本地震史料 増訂を読めば
文部省と大森氏・今村氏・石本氏・田山氏・武者氏おいう錚々たるメンバーが
天正10年浅間山噴火を支持してるのは確定的じゃねぇかw

江戸時代以前で噴火の記述で一次史料ソースがあるのは
1108年の上野国壊滅報告もあった公家による記述である中右記
そして同じく公家と宣教師の記述がある武田滅亡の噴火
そして江戸幕府の記録にある1783天明浅間山噴火(この時は京からは視認されてないので小規模噴火だろう)
この3つしかないから。

93 :人間七七四年:2014/02/21(金) 19:20:10.45 ID:+dM6Y0Oh.net
反武田厨は信長を貶めるようなことを平気で書くから気に入らん。

>>87
残りカスの掃除自体を自慢してどうするw
長篠から7年、相手がボロボロになるまでずっと待てた戦略眼が信長の凄さなのにw

>>88
倒した敵を貶めるのは、その某国では強さの証だけど、
日本では品の悪い行為として蔑まれる行為です。某国人には理解できんだろうがな。

>畏敬され崇拝される人間は人の模範になるような人間でなくてはならん
信玄の悪口と見せかけて信長もディスるんじゃねえよ。

>>89-92
だから何?

94 :人間七七四年:2014/02/21(金) 19:21:56.65 ID:f8wTjjQH.net
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。

晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内
穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。

しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。

このような国家ビジョンを信玄は持っており、これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
また信玄が作った分国法による法治国家構想は、源流を辿れば、戦国時代の秦国が韓非子の意見を容れて導入したものであり、
法治の最も重要なことは信賞必罰を君主がしっかり行使することであると述べており
信玄も出陣する際に、かならず多くの褒美用の準備を欠かさず用意していた。
秦国が全国統一できたのも法治に照らした信賞必罰であり、それに基づく富国政策である。
しかし秦帝国はすぐ滅んでしまった。中国史観ではその理由を人治ではなく、冷酷な法治のせいであるとした。
しかし、それが原因ではない。韓非子は始皇帝に皇帝であっても法に従わないとならないと強く説いたが受け入れられなかった。
そして二代皇帝は超法規的存在である皇帝であるがゆえに、法を守らず、皇帝の寵愛を受けた宦官もまた、皇帝の保護を受け
信賞必罰の原則も崩壊したからこそ秦帝国は滅亡したのである。
信玄は自分もまた法に従い、法によって罰せられる存在であることを明示したのである。
まさに立憲君主による法治国家を新国家構想に掲げたのである。
これは今川家の分国法にも見られない画期的先進性として高く評価されている。
まさに国家とは何かを知りつくしたのが信玄だろう。

95 :人間七七四年:2014/02/23(日) 08:18:36.97 ID:RgXjAnTu.net
>>88
諏訪夫人が悲劇の姫君と言われる所以だな

96 :人間七七四年:2014/02/23(日) 12:58:30.91 ID:NjXX18Ms.net
信長が父の姉妹のおつやの方を磔にして殺したのは悲劇というより残虐と言える。

97 :人間七七四年:2014/02/23(日) 13:19:00.45 ID:I5gxa/I0.net
長篠で大惨敗した武田勝頼が後詰出来ずに見捨てるはめになった岩村城か・・・
まぁ、そもそも武田みたいな外道に関わったのが運の尽きだったな、身から出た錆だ

98 :人間七七四年:2014/02/24(月) 16:43:48.00 ID:4oj9do23.net
濃姫って信長の半年に及ぶイジメから義龍の妻をかばったから、
激昂した信長に殺されたんだろうな。

99 :人間七七四年:2014/02/24(月) 16:48:52.97 ID:ztofRaFz.net
また妄想か

100 :人間七七四年:2014/02/24(月) 19:57:08.61 ID:mffbT7qU.net
>>98
勅使の眼前で信長を非難し面目を失わせ恥をかかせてるから
濃姫を殺して鬱憤を晴らした可能性は高いだろうね。
これを最後に濃姫は記録から抹消されてしまうもんね。

101 :人間七七四年:2014/02/24(月) 19:59:22.91 ID:oBwHR06f.net
そんな脚本じゃ誰も見ないよ

102 :人間七七四年:2014/02/27(木) 18:44:37.93 ID:HQuK4yhR.net
原因つくったのは信玄だけど対処する甲斐性がなかったのは勝頼。
謙信がまだ生きてて本願寺に手を焼いてるときの信長に土下座決め込めば
少しは違っただろうに。謙信が死んで石山も片付きそうな頃合いで慌てて関係修復しようとして
後の祭りだったのは弁護できない。

103 :人間七七四年:2014/03/01(土) 09:18:31.64 ID:Z77xVECI.net
信玄が「HEY織田!徳川なんて捨てて俺と一緒に組まない?」
路線でいけばよかったのに変に欲を出したのが悪かった。

104 :人間七七四年:2014/03/05(水) 22:05:45.81 ID:VMLM0BMf.net
案の定織田厨の妄想糞スレと化したね

105 :人間七七四年:2014/03/05(水) 23:15:20.73 ID:ERmE4Ae4.net
信濃は大国、されど大国3個分の広さがある

106 :人間七七四年:2014/03/06(木) 12:35:31.52 ID:ouJzm7E6.net
国土が広くても山ばかりじゃん

107 :人間七七四年:2014/03/06(木) 14:52:48.96 ID:FMBAiCO6.net
信玄にも原因はあるが勝頼が信玄より有能だったとは思えない
勝頼の場合、軍事的な部分は優秀だけど政治家としてはいかん。

108 :人間七七四年:2014/03/06(木) 15:18:58.73 ID:J5zBV2nv.net
声優の遠近孝一さんがマニアックに戦国時代を語る無料配信番組です。

戦国ネット「すきらじ」
第25回「風林火山」
http://www.suki-radi.com/

孫子の旗について興味深くぶった切ってます(笑)

109 :人間七七四年:2014/03/06(木) 15:34:04.73 ID:A79Dox44.net
勝頼は外交的に後手に回りすぎていつも失敗する。
御館の件もそれ以前から北条との関係が微妙だったのが大きいし。
北条と関係破綻する見通しが高いなら先手うって織田に頭下げるべきだが
結局、後手後手で織田が許すはずもない。
まだ謙信生きてて織田も苦しかったときに復縁せまればマシだったろうに。

110 :人間七七四年:2014/03/06(木) 23:56:43.15 ID:FMBAiCO6.net
勝頼は外交が下手。
武田滅亡の原因は信玄にもあるが勝頼は悪くないってのは間違い。
ちなみに総合評価で信玄>勝頼は明らか

111 :人間七七四年:2014/03/07(金) 20:11:19.79 ID:Ut2KYJ8d.net
信玄>勝頼と生前の功績だけで能力を決めるのは早計
勝頼は織田徳川北条上杉と大勢力に囲まれて集中攻撃食らった上での滅亡だから
信玄が戦っていたような諏訪村上高遠みたいな弱小豪族とはレベルが違う
端的に言えば信玄が滅ぼした勢力は勝頼が当主でも滅ぼせた可能性が高い。
外交の失敗に関しても信玄も同じように失敗して周りに敵を作りまくっている。
勝頼と違って自ら挽回したわけではなく外的要因が重なったうえでの幸運だからこれも評価点ではない
しかも勝頼は顕著な負け戦が長篠と甲州征伐しかなく、相手が悪かった節も強い。
この点でも村上のような小豪族に2回も負けた信玄とは差が顕著。

実態は勝頼≧信玄がせいぜい

112 :人間七七四年:2014/03/08(土) 08:28:18.33 ID:DXIRw7IK.net
武田信玄は一定の成果を挙げるとことは出来たが
家を軌道にのせることはできなかった
周辺大大名と関係が悪いまま死んでしまったのも悪かったな
せめて徳川家でも滅ぼせていれば事情は変わってきたろうが
当時では標準的な寿命までいきて結果を残せなかったならこれ以上はない

113 :人間七七四年:2014/03/08(土) 08:51:38.17 ID:3Z8a5RPz.net
家臣に殺され、家臣に家を乗っ取られた信長ほどの無能はないだろ。
武田も上杉も北条も家を家臣に乗っ取らるようなザルでマヌケな統治体制では無かった。
そりゃそうだ足利幕府体制に寄生虫や宿り木やコバンザメしてたのが信長だから、
当主は義昭でも信長でも柴田でも秀吉でも誰でも良かったんだから。

114 :人間七七四年:2014/03/08(土) 09:48:16.58 ID:La6ZyuQ6.net
.  |___
. /    (^ν^) 武田信玄は最強だぜ
/    /    \ 信長秀吉家康は信玄が健在なら晒し首っと
     | |   | |
___/ /__.| |___
   //   //
   (Ξ´  ‘ミ)


.   |J( 'ー`)し 遼太ごめんね突然来ちゃって
.   と ノ お父さんも後から来るわ、話があるって
.  | /___
. /    (^  )彡  !?
/    /    \
     / |    , / ))
____/ /| _/ /___
     ̄(⌒__/
       ̄

.   |   
.  |彡サッ
.  |__ 
 /  (    ) 勝手に入ってくんじゃねぇババー!
/    γ⌒\ 俺は今信長厨と戦ってんだ!!!
7``)  / /  \
.`ヽヽ / X  ミ ヽ
  ヽ___ノミ\   \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

115 :人間七七四年:2014/03/08(土) 10:51:30.04 ID:FTQN9Rf0.net
信玄と勝頼の能力比較で言うなら家中の統制を効かした分だけ信玄の方が上じゃね?
親父追放したり義信自害させたりと信玄も色々と家中割れそうな火種起こしたけど
勝頼の代の甲州崩れみたいなことになる前にけりつけてるし。
穴山一派を先手うって粛清するだけの胆力が勝頼にはなかった。

116 :人間七七四年:2014/03/08(土) 13:44:49.92 ID:3Z8a5RPz.net
信玄は蟄居させただけ。
息子を自害させたのは家康。
弟を暗殺したのは信長。
信玄は義信正室の病の平癒を願って大規模祈祷させてたり、
正室の座を保証して、今川との同盟継続を証としていた。
しかし今川側が帰国させることを要求し、
信玄は同盟手切れを恐れて難色を示していたし、
今川側は帰国させるや国境封鎖し敵対開始してる。
信玄は今川を敵にしたく無かったが、
今川側は上杉と組んで挟撃する気まんまんだった。
今川が徳川を撃ち領地拡大させることに失敗したので、
武田を撃ち領地拡大する方針に政策変更したのがわかる。

117 :人間七七四年:2014/03/09(日) 08:22:46.63 ID:4Gz474uR.net
家臣に下克上されて殺されたヤツが一番無能。
主従関係ゆえに仕方がなく従ってきただけの関係で、
人心を得ていなかった証拠。

118 :人間七七四年:2014/03/09(日) 12:37:21.79 ID:SIkwUFO4.net
>>116
今川が義信正室を返却するように強硬に主張したから、
信玄は同盟継続の誓詞を出してくれるように頼んだので、
今川はそれを出したんだが、
あろうことか秘密同盟を結んでいた上杉に対して今川は、
やむなく表面上、武田に誓詞を出しただけですから疑わないで下さいなどと、
武田と今川間でのやりとりを全て上杉に報告してる背反行為してるからね。
のちに越相同盟提案した氏照が上杉に対して今川が上杉に内通していたから武田に攻められたって言っているのはこのこと。
まー今川としては義昭指導の越相甲同盟の噂が事実かどうかも上杉から聞き出したかったって気持ちもあったようだが。
北条も上杉も今川に教えず隠していたどころか、
今川に内緒で上杉は徳川とも同盟することになるしな。
今川が馬鹿外交をしていたのは間違いない。

119 :人間七七四年:2014/03/09(日) 20:42:42.07 ID:3NQ6vLHz.net
こいつが金山枯渇させた事によって
勝頼は偉い苦労を背負わされるはめになった
長篠で織田・徳川連合軍に歴史的大惨敗を喫したのも
元はといえば、信玄が同盟国だった織田を裏切ったせい
北条との手切れも、財政破綻寸前の武田家を救うには
上杉景勝の賄賂を受け取るしかなかったからだし
武田滅亡は、何も得るものが無かった西上作戦での散財と
天下人確実の織田信長という化け物を敵に回してしまった事が原因

120 :人間七七四年:2014/03/10(月) 01:28:55.73 ID:X3FEP0gE.net
はいはいデタラメ乙w
金山枯渇の根拠である景勝からの賄賂からして、
軍記にしか出てこないネタ。
むしろ一次史料では真逆で勝頼は、この後に景勝に対して兵糧援助する側。
それに武田は裏切られた側。
約束を反故にして今川氏真をひそかに助命して北条と手を組んだ織田徳川の悪辣さは非難されていい。

121 :人間七七四年:2014/03/10(月) 09:54:06.74 ID:0UH5ie2f.net
自分が騙されると卑怯、自分が騙すと戦術だ!相手が悪い!
ようはダブスタ

122 :人間七七四年:2014/03/10(月) 12:05:21.14 ID:v+CQDghS.net
菅沼遼太理論だと信玄の謀略は綺麗な謀略

123 :人間七七四年:2014/03/22(土) 19:03:51.70 ID:0D5Wcx9N.net
【高根城(静岡県浜松市)】
http://mirai660.net/castle/takanejyoh_model.html

124 :人間七七四年:2014/03/28(金) 21:21:46.51 ID:qFsLmREP.net
信玄の方が比重重い

125 :人間七七四年:2014/03/28(金) 23:56:52.83 ID:MvNZtqZf.net
>>124
比重って、意味わかって書いてるのかな?

126 :人間七七四年:2014/03/29(土) 00:31:55.97 ID:rwgsveWM.net
信玄のほうが筋肉質だったって言いたいんじゃね

127 :人間七七四年:2014/03/30(日) 19:35:21.77 ID:oNk3czD2.net
大岡城の城ラマ来てるね。
http://mirai660.net/castle/ookajyoh_model.html

128 :人間七七四年:2014/04/26(土) 17:30:49.83 ID:YjOSTzuD.net
だがチョンw

129 :人間七七四年:2014/04/26(土) 20:20:16.31 ID:7v+7/Hor.net
せめて勝頼、という名前を変えてあげればよかったのに。
諏訪家の「頼」をはずして「義」か「信」をいれた名前にかえとけば
少しはマシだったかもね

130 :人間七七四年:2014/04/28(月) 08:50:21.60 ID:0/f6e6a+.net
将軍から名前をもらったならまだしも、
とっくに成人してるのに、
なんでわざわざ必要性もないのに、
名前を変えなきゃならないんだよアホか。

131 :人間七七四年:2014/04/28(月) 15:33:50.81 ID:5cqYOtwi.net
信玄は周囲を敵だらけにして死んだような気がするが、どうなんだろ

勝頼が仕切るようになってから、北条を牽制できる佐竹と同盟結んだりと
立て直しを図っているようだが

132 :人間七七四年:2014/04/28(月) 16:22:55.98 ID:MyEvKBgS.net
義昭による甲越同盟と、
北条との同盟があったし。

133 :人間七七四年:2014/04/29(火) 04:49:56.29 ID:mW5o956B.net
基本的に武田は信用性ゼロだから
劣勢微弱になれば同盟破られるのも当然
なんせ信玄が好んでやった手法だしな

134 :人間七七四年:2014/04/29(火) 09:03:36.89 ID:wkOAVZuE.net
信用ゼロは信長だろw
敵どころか味方からも信用されずに、
謀反だらけで結局、火刑で謀反死w

135 :人間七七四年:2014/04/29(火) 09:12:02.15 ID:9Vgi7A6z.net
信玄が上洛しようとして多額の金を使ったにも関わらず上洛に失敗したからというのが大きいから
原因は信玄が上洛したこと

136 :人間七七四年:2014/04/29(火) 12:50:30.63 ID:6+emXjws.net
金が尽きて上京焼き討ち略奪虐殺脅迫して金を工面したり、
安土城築城みたいな無駄金の浪費をしたバカw
兵庫などを焼き討ち消失させたり、
聖徳太子時代から残っていた四天王寺を消失させたりして略奪虐殺三昧で金を工面する現地調達という名の盗賊犯罪集団。

137 :人間七七四年:2014/04/29(火) 21:32:55.61 ID:BpRsCUcF.net
負の遺産がっぽりだしな

138 :人間七七四年:2014/04/30(水) 00:35:51.25 ID:ACrnKTc7.net
>>133
家督親父から強奪して最初にやったことが妹婿を騙し討ちだからな。

139 :人間七七四年:2014/04/30(水) 17:04:57.49 ID:ZBrWGF37.net
>>138
そりゃ諏訪が信濃に関東管領山内上杉の大軍を招き入れて、
武田と村上を危機に陥れたんだから、
諏訪攻め開始するのも仕方が無いだろ。

140 :人間七七四年:2014/05/01(木) 18:33:08.05 ID:VztsT3rB.net
信玄が婚姻させた娘婿どもすべてが甲州征伐で敵に回った現実w(婚約だけの信忠も含む)
良く言えばやばそうな奴を見極めてたとも言えなくはないが

141 :人間七七四年:2014/05/02(金) 01:07:57.76 ID:btdF1K2p.net
そりゃあ天変地異がおきて領内パニックだもんな、
もはや各自、独自に生き残りを図る段階に至ったらしょうがない。

142 :人間七七四年:2014/05/02(金) 08:55:23.13 ID:YQITnusH.net
また被災地に進軍するチート軍隊か

143 :人間七七四年:2014/05/02(金) 20:09:54.32 ID:C1Jqb9J+.net
東海大地震の大津波でパニックになった伊豆を火事場泥棒した早雲よりも酷い犯罪者信長

144 :人間七七四年:2014/05/02(金) 20:19:59.06 ID:95YW4QXK.net
菅沼遼太理論だと織田軍はサイヤ人揃いのチート集団だから
こんな織田軍と敵対した信玄がやっぱり悪い

145 :人間七七四年:2014/05/02(金) 20:39:25.51 ID:T13s7X8u.net
>>143
被災地復興に人員を割かれて中央が手薄になったなら自業自得だな
その後荒れ果ててるはずの被災地を必死に奪いあう徳川と北条w

146 :人間七七四年:2014/05/02(金) 20:40:25.54 ID:T13s7X8u.net
>>144
織田から見たら武田の騎馬隊(笑)は髪を金色にして光ってるよw

147 :人間七七四年:2014/05/03(土) 10:22:20.95 ID:+8pCn3W3.net
>>145
奪い合いどころか、
全面戦争してまで手に入れる価値なしと判断し、
早々に引き上げた北条w

148 :人間七七四年:2014/05/07(水) 18:41:19.55 ID:E+9DK/pL.net
そりゃまあ北条にしたら武田でも徳川でも中央の盾になってくれればOKだろうからな

149 :人間七七四年:2014/05/08(木) 12:27:37.12 ID:fnSZOSbKJ
>>2
いいえ、事実です。

150 :人間七七四年:2014/05/12(月) 16:08:48.77 ID:+csugEZE0
信玄はやべえからな〜w
信長のように割と良い政治をやってる大名に比べたらゴミクズw
まあ良い政治やりゃ長く勢力を保てるってわけではないが、武田のは明らかに信玄のソレそれが原因w

151 :人間七七四年:2014/05/22(木) 02:09:31.71 ID:9536SMvx.net
義信の謀反失敗の件だが信虎ならとにかく領国をがっちり固めていた信玄相手に
それは無謀だっただろな 

確かに勝頼でうまく回せるように後継者が円滑に統治するための準備をろくにしなかった信玄も
信玄だがそれでも譜代の家臣に侮られて信勝までの貢献という立場を忘れて熱くなって失敗した
勝頼も勝頼だと思うぞ?もう少し頭を冷やして親父に習って家臣の意見を聞き入れる度量があれば
よかったんだろうが 今の人間に多いのは勝頼みたいなタイプだろな

言ってみたら信玄はバランス型人間だが勝頼は体育会系的な奴だったんだろう 

152 :人間七七四年:2014/05/22(木) 02:17:07.88 ID:9536SMvx.net
たぶんできすぎた信玄より今の人間が同情できるのが勝頼の方だから勝頼の方が実は優秀だった
なんて見方が多いんじゃないのか? でもどう考えても勝頼が信玄より優秀だったとは思えん
実際はもっと優秀な人間だったとしても家臣の依怙贔屓、兵力差は歴然としていたにも関わらず
いたずらに戦い家臣団を壊滅させた長篠の戦い、最後も家臣のほとんどに裏切られ自害 
これでも勝頼の方が優秀か? 

153 :人間七七四年:2014/05/22(木) 02:43:11.74 ID:fSUhX8/U.net
死後のやらかしがなければ信玄の方が優秀と言えるかもな
家臣は別に当主の資質関係なく裏切るからまだ同情の余地はある
天下人の家康ですら離反されまくってるしな

154 :人間七七四年:2014/05/22(木) 02:43:39.41 ID:fSUhX8/U.net
死後→死前

155 :人間七七四年:2014/05/22(木) 08:03:57.24 ID:PC20T7sk.net
勝頼陣代説って今はもう否定されてるんじゃないの?

156 :人間七七四年:2014/05/22(木) 10:08:13.49 ID:7O1geeqx.net
生前にきちんと家督は譲られたの?

157 :人間七七四年:2014/05/22(木) 12:29:39.85 ID:FnFXDt8r.net
勝頼が諏訪のまま信玄は死んだ
これは信玄が自分の死後を考えていなかったか、あるいはもっと長生きをする予定だった

158 :人間七七四年:2014/05/22(木) 15:56:15.54 ID:9536SMvx.net
最近は西上作戦も実はただの徳川領侵攻だったって説もあるが
それならまず浜松城せめて家康殺してるだろあんなに西に急いでない 歴史学ってのは言ったもんがち
みたいなとこあるから証拠出てこん限り信用せんほうがいい

159 :人間七七四年:2014/05/22(木) 18:07:06.87 ID:Yi2dxqud.net
浜松じゃなくて岡崎蹂躙して離反を煽るってすぐ思いつく戦略じゃないか

160 :人間七七四年:2014/05/22(木) 18:39:26.16 ID:9536SMvx.net
それでも信長包囲網が健在なうちに将軍を助ける名目で一気に上洛するってのも
自然な話だ 

161 :人間七七四年:2014/05/22(木) 18:42:28.27 ID:9536SMvx.net
対徳川が目的なら家康先に倒して本拠の浜松先に押さえた方が
どっからどう見ても早いだろ そうすれば三河の諸勢力もついてくるのも増えるはず

162 :人間七七四年:2014/05/22(木) 21:32:01.18 ID:fSUhX8/U.net
その通りだな
家康の首を取ってしまえば、支配の浅い遠江勢力は一気に武田に靡くし
三河勢力も遠からず武田に下るのは容易に想像できる
事実、三河の奥平氏は信玄がくるや武田に降伏するも、武田が撤退するとあっさり徳川に鞍替えした。
信玄が家康を攻めなかったのは、信玄が馬鹿だったか、あるいは家康が持ちこたえられる戦力を有していたかのどちらかに他ならない。

163 :人間七七四年:2014/05/22(木) 22:36:59.85 ID:MbJrq5Me.net
西上も家康打倒も考えてないってこったな

164 :人間七七四年:2014/05/23(金) 08:52:42.05 ID:PiT2+SZO.net
信玄は普通に東美濃侵攻を開始してただろアホか。

165 :人間七七四年:2014/05/23(金) 13:24:31.00 ID:byY3tGeF.net
>>164
アホのだがさん乙

166 :人間七七四年:2014/05/23(金) 17:28:04.72 ID:vBHZmkQz.net
>>151
まさか長篠は勝頼の一存で突っ込んだとかいまだに信じてる人?

167 :人間七七四年:2014/05/23(金) 19:59:59.13 ID:b+G7iRfG.net
>>158
誰の説なの?

168 :人間七七四年:2014/05/24(土) 02:33:50.78 ID:epElFOeh.net
信玄の最後の行動は、死去する直前の遠江・三河・美濃方面への行動、いわゆる西上作戦である。
これは、石山本願寺などから織田信長との対決を要請され、不本意ながら引っ張りだされたのである。
つまり、これもまた、政治情勢の産物なのであって、信玄がこの方面への勢力拡張を望んだわけではない。
信玄がどのように「引っ張りだされた」かについては、必ずしも十分に説明することができないが、
西上作戦の直前に信玄が僧正に任ぜられたことは、引っ張りだし工作の一つではないかと思われる。
信玄が京都に届けた手紙(『山梨県史』資料編5、2614ほか)によれば、この話をもちかけたのは、京都側からであった可能性が高い。
そこまでされてしまっては、ということで、信玄も腰をあげざるをえなかったのだろう。
以上のように、上野進出から後の信玄の行動は、どれも征服欲とは関係がないと、考えられるのである。

(鴨川達夫『武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』より)

なお、同著者は『武田信玄と勝頼』という本も書いており、こちらも信玄のことを知る上で大変ためになる本です。

169 :人間七七四年:2014/05/24(土) 18:46:31.41 ID:vDjpYSU+.net
1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて
1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、
それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
織田厨の話の誘導パターンは毎回下記のように家康攻略が目的と話を強制的に変更させる。
「どうしても野田城で苦戦してたから三河制圧なんて出来ないし
そこからさらに尾張へいくなんて無理w」 などと誤魔化すばかりである。

実際は鴨川氏は『武田信玄と勝頼』という本において
「信玄が三河方面に出てきたのは信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」と書いており、

森田氏もそれに同意し「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている上に、
書状において3/6付けで信長が東美濃にやってきたので三河や遠江は別人に任せて
秋山隊は信長を追い払えと先陣を命じている。
その後の情勢を見ると明らかに信長が東美濃で大敗しているとしか思えないw

なお『武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』において鴨川氏は、
元就や信玄の領土拡大を「防衛のための進出」
なる意味不明な概念を持ち出し、それを証明するのに
いきなり第二次世界大戦の日本海軍における対米海軍との戦いにおける島嶼進出を
持ち出すキチガイっぷりを晒し、他の学者から黙殺されるほどの失笑を買う。
また山梨県史において鴨川が執筆した内容は、のちに柴辻氏が反論をしたが、
鴨川はそれに対して反論できない体たらくを発揮。

170 :人間七七四年:2014/05/25(日) 00:51:18.50 ID:ODgmeTwX.net
だが涙目agew

171 :人間七七四年:2014/05/25(日) 01:29:45.53 ID:oiLOvlmT.net
信玄が、三方ケ原で家康を見逃したのは、信長との決戦のための
兵力温存かもしれない。織田と武田の国力差は、すでに、織田がリード
しており、その差は大きくなりつつあった。まずは、戦で信長を
三方ケ原の家康のように、完勝するか、首をとるか、するつもりなら
よかったのだが、途中で死んでしまったので本音はどんな考えだったのか
聞けないからな。
途中、信玄の寿命が尽きてしまったが、それなら、最低限、家康の首を取って、
勝頼を正式の跡取りと公表しなかったことが、武田の崩壊につながる。

172 :人間七七四年:2014/05/25(日) 03:30:29.19 ID:iHvQQHx4.net
そもそも最初から勝頼が総大将なら信玄が死んだくらいで撤退する必要もなかったわけで

173 :人間七七四年:2014/05/25(日) 08:08:41.93 ID:RC0RbRK6.net
信長が動かない
ー>ビビってる、物資が不足してる
信玄が動かない
ー>兵糧十分虎視眈々と攻める機会を伺ってる

ダブスタ
あと鴨川採るなら否定した芝辻の上洛説も否定だろ
前は反論済みだの言ってたのに
武田中同士で擦り合わせしとけよ

174 :人間七七四年:2014/05/25(日) 11:32:07.80 ID:OCw7fjmh.net
いや誰の説とろうが上洛だけはないからw

175 :人間七七四年:2014/05/25(日) 13:17:19.59 ID:UWEjeJZ2.net
?前は反論済みだの言ってたのに?
はぁ?なに寝ぼけてんだアホw

176 :人間七七四年:2014/05/25(日) 14:44:13.58 ID:JjV9wiOQ.net
>>175
お前は誰と戦ってるんだ?

177 :人間七七四年:2014/05/25(日) 19:56:14.39 ID:JjV9wiOQ.net
まとめると

・上洛説はない。誰が何を言おうがない。理由は今川同様、物理的に不可能だから。これは確定。
・信長打倒説は、信玄が美濃を攻撃していないこと(岩村城の寝返りならある)、
 勝頼が美濃を攻撃したあとに続けて美濃を攻撃せず、徳川方面に出兵していることなどから説得力が薄い
・家康打倒説は、家康の居城である浜松城を攻めていないことからほぼありえない

・よって現状では、「信長も家康も倒そうとしていない」説が有力となる。

178 :人間七七四年:2014/05/25(日) 20:20:01.99 ID:/cSBJ0Dv.net
結局信玄は何がしたかったんだ?

179 :人間七七四年:2014/05/25(日) 22:35:06.77 ID:at6h59bm.net
哀れ涙目織田ちょんw

180 :人間七七四年:2014/05/26(月) 00:09:29.11 ID:bOl9WVh9.net
でもさ、歴史の結果知った上で書くと、当時の武田家のガンは穴山なんだよ。
なぜ、信玄は、上洛の前に、勝頼を跡継ぎに決めなかったのだろう?
もし、決めたら、穴山がやってられないと言って謀反でも起こすことが在り得た
のだろうか?義信の件で、穴山の弟が切腹させられ、心情的にそう簡単に、
勝頼に従いたくはなかったのだろうか?

181 :人間七七四年:2014/05/26(月) 05:27:05.90 ID:XDMgrguE.net
お父ちゃんちょっくら遠江齧ってくるわ的な?

182 :人間七七四年:2014/05/26(月) 08:29:46.29 ID:Hazw9uc1.net
>>175
反論済みってのが織田厨の願望妄想だもんなwww
そんなレスは無いのにwww

183 :人間七七四年:2014/05/26(月) 08:46:43.41 ID:U17kB/54.net
信玄がバカすぎるせいで武田が滅んだという事実を受け入れられずファビョる菅沼w

184 :人間七七四年:2014/05/26(月) 19:33:59.66 ID:oqvSTtG4.net
>>181
まず武田と織田との間には、全面戦争するような要因は見当たらない。
よって武田が出兵した理由は、足利義昭や本願寺、浅井・朝倉などが求めたから、ということになる。

一方、武田と徳川の間には、
・今川攻めの時、家康が盟約を破って氏真を見逃した
・駿河と遠江の国境で、武田と徳川のいさかいがあった
といったものがある。

つまり、武田が出兵した理由は、徳川に対する報復。
織田に対しては、徳川ほど積極的に攻撃するつもりはないが、徳川の同盟者である以上ある程度の備えはしておかなければならない。
こう考えると、勝頼が織田のことを徳川ほど積極的には攻撃していないことに納得できる。

185 :人間七七四年:2014/05/27(火) 08:36:15.17 ID:pB11Z7EO.net
>>177
信玄は三方が原でに戦勝直後に何で浜松城攻囲しなかったんだろうな
徳川と講和するわけでもないんだから一番ダメージがあるのは浜松攻囲なんだが

まあ兵糧不足でやがて撤兵するのは変わらんだろうけど

186 :人間七七四年:2014/05/27(火) 12:16:04.16 ID:zLvRTVI5.net
織田の援軍が怖いから

朝倉が撤兵してる情報も掴んでるし、織田軍来るかもしれない
勿論こないかもしれない
わからないから最悪の事態に備えて、山際を行軍
三増やら砥石やらの敗北から学んでたんだろう

187 :人間七七四年:2014/05/27(火) 16:39:17.13 ID:h2N1WltZ.net
織田の援軍を撃破したじゃんよwww
しかもフロイスが織田軍の総司令官佐久間とまで書いていた、その佐久間信盛を鎧袖一触だからなw
東美濃に侵攻するために北上しただけで、
浜松なんて興味あるわけねーだろ。

188 :人間七七四年:2014/05/27(火) 17:55:20.48 ID:9KDmfJCt.net
それなら野田城なんかにちんたら一月も時間かけてることの説明がつかない。

189 :人間七七四年:2014/05/27(火) 18:07:53.31 ID:/zkBUDhC.net
織田とやる気以外で浜松スルーした理由がわからないな
単に徳川領に侵攻しただけなら浜松降したら三河の残党なぞたかが知れてる
織田が援軍を送ってくるのならそれこそ好都合だろw 長篠と違って長島も健在なのだし

190 :人間七七四年:2014/05/27(火) 18:09:52.70 ID:/zkBUDhC.net
>>188
信玄が虫の息だったから移動もままならずちんたらやってただけだろ

191 :人間七七四年:2014/05/27(火) 20:05:59.21 ID:gSfazCEe.net
勝頼が総大将なら信玄だけ療養させて軍を進発させることが可能
やっぱり信玄が悪い

192 :人間七七四年:2014/05/27(火) 20:29:36.53 ID:OYtjMkiH.net
>>187
佐久間の兵力は3000。
総司令官だか何だか知らないが、地位は何も関係なし。

193 :人間七七四年:2014/05/27(火) 21:18:09.27 ID:F2+h0+wS.net
佐久間は20000くらい持ってるだろ。
平手滝川水野前田弟と層々たるメンツだし。

194 :人間七七四年:2014/05/27(火) 22:51:15.24 ID:9KDmfJCt.net
滝川は信頼性の高い資料では参戦していない
前田弟なんて勘当された出戻りで雑魚もいいとこ。

195 :人間七七四年:2014/05/27(火) 22:54:22.30 ID:9KDmfJCt.net
菅沼くんは三方が原の織田援軍2万を主張するが
それってそれだけの大勝利を政治的にこれっぽっちも生かせなかった
信玄の無能さを証明するだけだよね

196 :人間七七四年:2014/05/27(火) 23:07:15.77 ID:OYtjMkiH.net
>>193
なら柴田も2万近く、信長本体はもっと持ってるってことでいいですかね?
当然他の武将もそれ相応の数の兵を抱えてて、織田軍は天正年間以前から10万近い動員兵力があることにw
とてもじゃないけど信玄が上洛を考えられるような状況じゃないwww

197 :人間七七四年:2014/05/27(火) 23:14:08.81 ID:9KDmfJCt.net
つか前田弟ほかは信長のとこ首になって徳川に世話になってる身分だから
織田援軍のうちに入らんわな

198 :人間七七四年:2014/05/27(火) 23:22:54.95 ID:EyQ+15nL.net
空城の計を見破ってても浜松城は素通りしたかな?

それ以前に、空城に引っかかってしまったのも、いかがなものかと思うがな。

199 :人間七七四年:2014/05/28(水) 08:51:36.38 ID:gLkiqndI.net
雪解けで東美濃の峠越え可能時期を待ってたから野田でのんびりしてたし、
織田3000の援軍はだいぶ前の話で、
のちに出陣した佐久間らの援軍の兵力のことでは無い。

200 :人間七七四年:2014/05/28(水) 09:56:53.56 ID:E1/31HxO.net
兵力差無謀な上洛作戦
冬に長期の戦争で体を壊して死去
老い先短い自分に権力を集中して跡継ぎの権力ゼロ

やっぱり信玄が無能だから滅びたんだね
せめてもの救いは織田に首を取られずに済んだこと
ああでもそのせいで武田は勘違いしちゃった結果長篠だっけ
どっちにしろ信玄が原因だな

201 :人間七七四年:2014/05/28(水) 11:57:28.14 ID:9PZLLlsX.net
>>199
>>196にさらにプラス3000までしちゃうの?w
これはすごいな
信長はどこに兵力を隠しもっているか分かったもんじゃないw

202 :人間七七四年:2014/05/28(水) 17:00:58.20 ID:DVj+klNt.net
三方ヶ原で大敗した織田の援軍。
その結果、味方は細川と荒木だけしかいなくなり、
1万しか兵力がなくなってしまった信長。
武田軍の6万の兵力にびびって震えてた。

203 :人間七七四年:2014/05/28(水) 18:01:52.19 ID:E1/31HxO.net
6万と1万でビビって野田城で時間潰して野垂れ死に
無能すぎて笑いが止まらんな
6万VS1万とか6万の総大将が今川氏真でも勝てるだろw
信玄はそれ以下とかw

204 :人間七七四年:2014/05/28(水) 19:10:59.68 ID:cLqI/hxT.net
>>203
信玄は明らかにそれ以下ですが
川中島でバカげた戦いを5回も繰り返すなんて明らかに無能です。

205 :人間七七四年:2014/05/28(水) 20:02:41.19 ID:MYC4DgDL.net
>>204
相手より多い兵で峠に陣取ったのに何もできずに壊走した氏真がなんだって?

206 :人間七七四年:2014/05/28(水) 20:37:17.28 ID:qXFGaU72.net
ぶっちゃけ武田が引いたら早々に徳川が奪還行動に移れた当たり
三方が原の徳川のダメージは長篠の武田のダメージより遥かに軽傷なんだよね

207 :人間七七四年:2014/05/28(水) 22:08:38.34 ID:3ygWIBdB.net
>>202
おいおい、まだ柴田2万と信長本体数万、ほか色々な家臣が残ってるんだろ?
自分の言ったこと忘れちゃいかんよw

208 :人間七七四年:2014/05/28(水) 23:05:46.35 ID:adswbvGj.net
伊東潤の天地雷同おもしろかった

209 :人間七七四年:2014/05/29(木) 08:54:26.72 ID:shgVhN71.net
>>207
それは武田厨を装うアンチ秀吉の織田チョンの根拠ゼロの書き込みだろがw
近江の国人たちは誰も援軍にくることがなく、
長政に志賀郡を奪われ、その攻略にきた明智軍が崩壊したから、
さらにその援軍に出た柴田も大苦戦してボロボロになってたじゃんwww
しかも街道が封鎖されてしまい、信長も誰が味方か見分けもつかないと、
細川に泣き入れてたじゃんwww

210 :人間七七四年:2014/05/29(木) 12:04:34.29 ID:qxo9rGeJ.net
>>209
じゃあ三方ヶ原の織田援軍は3000しかいないってことでよろしいですね

211 :人間七七四年:2014/05/29(木) 12:17:58.06 ID:zQYWUPXD.net
>>206
この辺の反信長連合は切羽詰まってるからなー
なぜか近江で朝倉が織田に大勝して近江が朝倉領になったり
朝倉が取った近江のうち、志賀郡がその後なぜか浅井の領になっていたり
辻褄通らなさ過ぎてもう滅茶苦茶
三方ヶ原の合戦も武田が誇張しすぎて実害大してないってのはあるだろうな
でなきゃ信玄がそのまま浜松せめて家康の首取って終わりだし

212 :人間七七四年:2014/05/29(木) 19:15:11.60 ID:Q1PBH46G.net
>>211
確かにな
武田、徳川共に武田が大戦果を挙げたが、徳川を畏れて浜松城攻めが出来なかったで一致しているのが却って怪しい。
本当に武田が大戦果を挙げているのなら、浜松城は鎧袖一触で三方が原の戦いの後に陥落している。
空城の計で浜松城を攻められなかったっていう言い訳はろくに徳川軍に損害はありませんでしたという言い訳だろう。
武田が忍者を雇っていなかったというのならともかく、戦国時代に武田の忍びは三つ者とも言われ優秀さで
北条の風魔や上杉の軒猿としのぎを削った存在だからな。
そんな武田忍びが徳川軍の大損害に気づかないわけがない。

213 :人間七七四年:2014/06/01(日) 06:13:59.11 ID:CPdLBPQR.net
忍びは、戦前の情報収集には優れているが、戦の最中で、浜松城が空城だったか
どうかまでは、難しいでは?
むしろ、三方ケ原では、実践でわきから、手裏剣などを使って戦っていたのでは
ないかと、思うのだが・・・。イメージでスマソ。

214 :人間七七四年:2014/06/01(日) 08:42:38.03 ID:9bbg4fvX.net
空城の計とやらの一次史料を出せよwww
信玄は家康は信長の属国とみていたから、
家康の氏真助命の背反行動の件で信長を非難したりしてるわけで、
東美濃に侵攻し岐阜を落としてしまえば、
三河なんて勝手に落ちると考えていたから、
陽動で三河に侵攻し織田の援軍を破る目的はあっても、
浜松を攻める理由なんて最初からねーんだよ。

215 :人間七七四年:2014/06/01(日) 09:07:21.46 ID:Mwr8+BQH.net
>>212
つうか放置する理由がない
仮に信玄が本気で上洛するつもりでいたとして、
徳川領を放置すれば空っぽの自領に徳川が攻めてくるのは猿でもわかる
だから最低でも、信玄は家康に降伏か同盟を迫り
北条の援兵のように徳川軍を自軍に取り込むくらいはすべきだったわけ。
ところが信玄は三方ヶ原の後にそんなことは一切していない。
家康を攻め滅ぼすか、自軍に取り込むかの二択しかない状態で両方を選択しないなんて
ハナから上洛の意思がないとしか言えない。
もっと言えば上洛する気があるなら最初から東美濃通って織田に速攻かければよかっただけだしな

216 :人間七七四年:2014/06/01(日) 09:31:11.03 ID:MM5HLNr9.net
本気で織田とやる気があるなら朝倉が撤兵するまえに東濃に戦力集中させるわな

217 :人間七七四年:2014/06/01(日) 09:39:45.56 ID:9bbg4fvX.net
信玄は本命を攻める大作戦の前にほぼ必ず陽動運動をする。
上杉相手に東上野から一気に北信濃へ
北条相手に小田原侵攻から一気に駿河攻めへ

織田相手に三河から一気に東美濃へ。
特に先鋒の秋山隊がすでに東美濃へ3/6に出陣命令を受けていた。
フロイスも6万を率いる信玄は尾張美濃を奪うつもりだと書いている。

218 :人間七七四年:2014/06/01(日) 16:45:13.95 ID:CPdLBPQR.net
>>214
2ちゃんに、一次史料など必要ね〜よ。
2ちゃんに、何を求めてる?

それから、戦なんて予想通りいかないもんだよ。
だから、確実に徳川を倒しておかないのは、史実を知ってる現代人からみれば、
当然の疑問。

空城の計に関しては、おそらく、山県か、馬場か、勝頼あたりが、浜松城
付近まで攻め込んだが、城が空きっぽく、一応、信玄に報告したら、
浜松城は捨て置けってことだろ。こんなことに、史料などいらない。
それなら、お前の予想にも史料だせ。
いらね〜けどな。

219 :人間七七四年:2014/06/01(日) 16:49:39.40 ID:ve8w8q3p.net
実際は 鴨川氏「信玄が三河方面に出てきたのは
信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」
森田氏「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている。


鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時の」2/16には
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。
(信玄が病を押して出陣したなどと書いてるのは甲陽軍鑑のネタで、
病が重くなってきた信玄が三河から引き上げて甲斐に戻るも、病が小康状態になったので
信長を倒すために美濃岩村へやってきて、織田軍1万を粉砕するも病が悪化し死んだと書いてる)

220 :人間七七四年:2014/06/01(日) 17:00:00.33 ID:EScj/et4.net
東京電機大学中学校評判
http://tn.en.fishki.net/26/upload/en/201406/01/1273947/eywzz273.jpg
東京電機大学中学校評判

221 :人間七七四年:2014/06/01(日) 17:22:51.54 ID:4/w15knz.net
森田ってだーれだw

222 :人間七七四年:2014/06/01(日) 17:30:04.15 ID:K5yysGHB.net
滅亡の原因作ったの俺だったわ
いや〜わりいわりい

223 :人間七七四年:2014/06/01(日) 22:12:40.81 ID:Mwr8+BQH.net
>>217
そんなチンタラしてたから兵を引いたんだなw
無能すぎて笑える

224 :人間七七四年:2014/06/04(水) 19:37:52.91 ID:4fm5ysDH.net
浜松を落としたら三河を通過するのは楽になりそうだけどな
家康がどうなったかによって徹底抗戦する奴も中にはいるだろうが降る奴のほうが多いだろう
上洛にせよ徳川領侵攻にせよ織田との決戦にしろ東に向かうのなら浜松を落とさない理由は無い

空城の計とか嘘っぱちで、浜松城にはかなりの兵力が温存されてたor大部分が退却できたのかねえ

225 :人間七七四年:2014/06/04(水) 20:20:05.81 ID:5bqoofoJ.net
菅沼くん風にいうと
「信玄がビビっていた」

226 :人間七七四年:2014/06/05(木) 09:01:48.25 ID:OYcfjR5g.net
信玄は兵士の消耗を避ける傾向が強く、
高天神城を無理攻めで落とさなかったのもそのため。
三方ヶ原で織田徳川を破って、家康を浜松に逼塞させた時点で、
陽動という戦略的目的は達したので、
斎藤や遠藤などの調略の進んだ本命の東美濃へ侵攻するべく北上しただけ。
信玄は目先の戦果を追う犬ではなく、
戦略的見地から用兵している。

227 :人間七七四年:2014/06/05(木) 09:56:59.31 ID:B22hWKkk.net
今って美濃侵攻説撮ってる奴っていたっけか

228 :人間七七四年:2014/06/05(木) 13:35:25.72 ID:/s1LI9bV.net
弱冠26歳にして2万五千の武田を一蹴した信忠神
手持ち一万そこそこの31歳若輩家康を半年もかけて致命傷すら
与えられない53歳無能ビビり

229 :人間七七四年:2014/06/05(木) 14:45:44.34 ID:/Tj3zxay.net
信忠が倒したのは仁科数百のみ。
武田軍はほとんど離反や逃散して戦ってない。
唯一抗戦した仁科数百に信忠数万の大軍は野戦である城外戦でもって最低4時間も粘られ
一門の信家が討ち取られる始末

230 :人間七七四年:2014/06/05(木) 15:04:00.77 ID:/Tj3zxay.net
勝頼はまことに運がない。
同盟詐欺の騙し討ちを、対北条徳川戦で疲弊してた時期にしかけられたため、
国人は一斉に寝返りを続けて一気に崩壊した。

231 :人間七七四年:2014/06/05(木) 15:27:30.25 ID:BftwlhNx.net
離反と逃散は武田の得意技だからなw

232 :人間七七四年:2014/06/05(木) 16:41:23.91 ID:AV3b5unw.net
そもそも信玄が信長との同盟を堅持していれば済む話だったからなあ
信玄が同盟詐欺のだまし討ちをして信長の息子を人質にしていたし
勝頼がそれを返還したくらいじゃあなあ・・・・

233 :人間七七四年:2014/06/05(木) 22:10:41.99 ID:OMCS5kAh.net
生前に家督を譲って隠居の立場から家を支配していた大名はけっこういるよね

234 :人間七七四年:2014/06/06(金) 12:57:55.09 ID:NKq2M8j/.net
>>233
後北条氏とか氏政までみんなそう

235 :人間七七四年:2014/06/06(金) 14:30:41.44 ID:A013Q8b5.net
三国同盟のうち北条・今川がやってるところ見ると、信玄の頭の中に隠居という選択肢が無かったとは思えない
出家はしてるのだから
そうすると信玄は隠居したくとも出来なかった、と考えるのが妥当かもしれない

236 :人間七七四年:2014/06/06(金) 20:46:55.73 ID:BYI112a4.net
>>233
信長も長篠の翌年には信忠に家督譲ってたしな
義元も桶狭間の2年前に氏真に家督譲ってる

237 :人間七七四年:2014/06/06(金) 20:55:17.02 ID:Xzb/pH+G.net
>>233
嫡男が相応の年齢かつ健康で、親子関係も良好なら、むしろ親が隠居して家督を譲った家のほうが多いんじゃないか?

238 :人間七七四年:2014/06/07(土) 10:11:59.04 ID:Oh5rUYaF.net
実際、信長も家督を譲ってなかったとも指摘されてるからなぁ。
信忠を岐阜城主にはしたけど。
ただ単に安土城に信長が移転したからだし。
その理由として信忠発給の書状があまりにも極端に少な過ぎて、
織田当主としての行動が確認できないこと。
そもそも出家して家督を譲るという事態には、
失政が原因で、装いを新たにして新外交方針で臨む表明でもあるし。
家臣団による強制家督交替と対して変わらない。
たとえば福川氏によれば大友義鑑の死去で後を継いだ大友宗麟にしても
大友宗麟が天正5年に後見していた義統へ家督を正式に譲渡したのも、
信長による対中国、対四国政策が本格化してきたので、複雑な同盟政策を展開する必要性が生まれたからだとしている。
備前の浦上宗景や出雲の尼子残党と同盟関係を構築するなど、大友の外交同盟政策は複雑化していってる。
佐竹義昭の死去で家督を継いだ佐竹義重も後見していた義宣に家督を譲渡したのは対秀吉外交が原因だし。
北条氏康も悪政が原因で氏政に家督を譲渡しているし、その氏政も武田の攻勢に上野国を失いそうになった甲相同盟破棄の失策の挽回のため
氏直に家督を譲り、武田とともに織田を敵視していた政策を撤回し、徳川の仲立ちによる北条と織田の婚姻同盟を推進する刷新からだし。
信長が本当に信忠に家督を譲っていたのなら、そこに信長のなんらかの致命的失敗による家臣団との軋轢がきっかけになっているはず。
何も問題が生まれなければ戦国大名というのは終身維持する身分であり、致命的失策が己の威信の低下を呼び家臣団により家督譲渡を強制させる。

239 :人間七七四年:2014/06/07(土) 10:38:03.98 ID:Oh5rUYaF.net
>>229
高遠城での戦果は多聞院日記によれば織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取ると書かれているのみ。
(織田の武田攻めの戦果はたったこれだけ。のちに信忠は高遠城に勝頼もいて苦戦したと大ウソを吐く)

240 :人間七七四年:2014/06/07(土) 10:42:44.61 ID:Oh5rUYaF.net
>>232
信玄は信長の美濃攻略をバックアップしてあげたくらい親信長だったじゃん。
それなのに家康が今川氏真をひそかに織田領経由で北条へ隠し逃したりと
信玄との約束破りを行うなど、信長は信玄を欺き、挙句の果てに
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。



それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。

241 :人間七七四年:2014/06/07(土) 11:26:26.73 ID:QZx8yYK+.net
だが史観

242 :人間七七四年:2014/06/07(土) 15:53:34.73 ID:w0kxMu2z.net
菅沼遼太による各勢力の最後

だがによる各勢力の最後
足利義昭
信長が乞食兵1万を率いて岐阜からワープしてくる。
東には山岡氏と六角氏南には松永氏・西には三好氏・北には内藤氏と周囲を完全に
包囲されていたが、堅城の二条城から金銀兵糧すべてを使ってボロ城の槇島城に
移ったからか1万の兵がいたにもかかわらず速攻で土下座降伏した。

朝倉義景
包囲されている虎御前山砦に信長が乞食兵1万とともにワープしてくる。
北を朝倉2.5万・西を浅井3千・南と東を六角2万と蒲生に包囲されているにもかかわらず
なぜか山本山城の阿閉氏が信長に降伏。
 若狭守護は知らないうちに消滅したので将軍直轄地になっていた若狭で
なぜか反朝倉で騒乱が起こりその鎮圧に全軍を向かわせたところ背後から
奇襲を受け2.5万が一瞬に壊滅朝倉滅亡。浅井・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。

浅井
取って返してきた信長に瞬殺。江北一揆・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。


六角
知らないうちに消滅

北畠
朝敵なのになぜか蘭奢待の切り取りが許されるという事が起こり
信雄を人質取っていたにもかかわらずびっくりして織田に降伏した。

長島一向一揆
第二次で現在の海津市いったいまで勢力を広げ岐阜の足元まで迫るも
伊勢湾を制圧している武田水軍に徹底的に焼き討ち・虐殺され信長に占領された。

三好三人衆・義継・松永
完璧な連携ができていたため義昭が倒れるとドミノ倒しのように倒れた。

武田
6万の兵力がありながら1万の乞食兵しか持てない信長を攻めず
道中寄り道していたら信玄が急死して撤退。その後勝頼は長篠に
なぜか6千の兵しか率いてこず、織田徳川をボコボコにしたが夕暮れで
戦争止めようとしたところ反撃にあい被害甚大。温存した5万4千の兵は
知らない間に消滅して、北条が無傷で済んだ浅間山噴火で遠く甲斐が被害甚大、混乱の中滅亡

243 :人間七七四年:2014/06/07(土) 18:35:53.75 ID:WJa9XtAf.net
馬鹿なんだから消えろよ長文野郎

244 :人間七七四年:2014/06/13(金) 10:48:13.88 ID:oe9xNLdM.net
>>198
浜松城の空城の計なんて無い
逆だ
浜松城には戦力があって士気も高いぞと、酒井忠次がアピールしていた
ちなみに酒井忠次は浜松城の留守番を務め、三方ヶ原の野戦には参加していない

空城の計とは全く逆のことを実行していたのに、
なぜ空城の計を謀ったという妄説が出ているのか、不思議で仕方ない

245 :人間七七四年:2014/06/13(金) 11:20:38.70 ID:JpnV91Zi.net
ハッタリでやり過ごした、と言うより計略によって侵攻を防いだ、と言った方が格好がつくからでは

246 :人間七七四年:2014/06/13(金) 16:21:49.19 ID:oe9xNLdM.net
元はハッタリですらなかったんだけどな
遅れて帰って来る敗残兵を収容するために城門を開けておいただけ
武田軍にはすぐに城攻めにかかる用意が無いことは、冷静だった酒井には判ること
ほうほうの体で逃げ帰った鳥居元忠(しかも負傷した)には判らなかったようだが

247 :人間七七四年:2014/06/13(金) 16:44:13.99 ID:XS+dSWoE.net
>>244
徳川実紀にそうあるからでしょ。

248 :人間七七四年:2014/06/13(金) 20:39:33.07 ID:XK/PrgFL.net
菅沼遼太

複数回線契約でIDを使い分け5年以上
歴史関係の板を荒らしまわる神奈川のニート

もういい年だろうになあ・・・・

249 :人間七七四年:2014/06/14(土) 14:57:19.30 ID:bNFJmXDE.net
>>244
>>浜松城には戦力があって士気も高いぞと、酒井忠次がアピール
で、それを証明する一次史料は?w

250 :人間七七四年:2014/06/14(土) 20:22:32.29 ID:56DYnlJU.net
「新府城と武田勝頼」網野 善彦 (監修), 山梨県韮崎市教育委員会 (編集)
なかなか良い本だな。
武田勝頼の再評価ー勝頼はなぜ滅亡に追い込まれたのかーは非常によかった。

次は「新府城の歴史学」を読む予定。

251 :人間七七四年:2014/06/14(土) 22:59:49.43 ID:i8UDUlt8.net
なんて露骨なステマw

252 :人間七七四年:2014/06/14(土) 23:10:53.94 ID:yWzYFqRz.net
>>251
バカは黙ってな。

253 :人間七七四年:2014/06/15(日) 14:01:53.49 ID:lxpkDvmN.net
ダガとかいう奴の一次史料って、
甲陽軍鑑とか信長公記とかじゃなくって、
森田とか聞いたことのない人。
しかも、一級史料ではなく、
一次史料って言葉を使うから、
ダガのいう一次史料ってのは森田とかいう人の
史料のことか・・・。

254 :人間七七四年:2014/06/15(日) 15:16:34.52 ID:ZC7fHoCw.net
一次資料の定義って他の文献、写したものじゃないってだけの意味だからな。

255 :人間七七四年:2014/06/15(日) 15:37:19.57 ID:a6P6g4Q1.net
>>248
しかも下心丸出しで特攻んでくるキモさ
アスペルガーだがの童貞丸出しのレスがキモ過ぎ

256 :人間七七四年:2014/06/16(月) 23:27:39.12 ID:D8QeK3Lq.net
っつうても、一級史料とか恣意的な用語すぎてかなり引くけどな俺

一次史料はそれだけでは意味をなさないことがほとんどだけども
感状一つだけ取り出してもなにも分からんわけで

257 :人間七七四年:2014/06/17(火) 01:49:59.81 ID:SpNNgEsd.net
菅沼はどーせ図書館でも名物迷惑オヤジなんだろうな
図書館員さんたちもこんなニートの相手をするのは辛かろう

258 :人間七七四年:2014/06/17(火) 17:57:13.63 ID:KiBWGmvM.net
日中から図書館に居座る中年のおっさんとか迷惑すぎるだろ
マックで一日中いる若者とかわらんやんけ

259 :人間七七四年:2014/06/17(火) 19:27:27.54 ID:BtbQcoA+.net
ダガは、文の趣旨をを普通にとらえることができないんだよ。
その文章の中に自分の思っていることと、違うことが書いてあったら、
そこに、とらわれてしまって、一次史料だせといってくるんだよね。
しかも、その思っていることもかなり偏りすぎている上に、固いんだよね。
それが、また、頑固ともまた違うんだよな〜。
最近は、短い文章でもダガとわかるようになってきた。

>>226
一級資料を恣意的だとなぜ思うの?
常識的に一級資料は、不完全なところは多々あっても、
恣意的だとは、思わないけどね。もし、恣意的に書かれいる所が多ければ、
一級という扱いにはならない。
ただ、甲陽軍鑑は、勘介の息子が書いたとすれば、勘介について恣意的に書かれて
いると割り引いて考えることが必要だと思うけど、第一、甲陽軍鑑は、確か、
一級資料ではないと思う。
それから、感状一つあれば、その人との人間関係が予想できるんだけどね。
なにもわからないって、人としておかしくね〜か?
ダガと断言はできないけど、おかしんだよね。

ちがったら、本当に申し訳ないけど・・・。

260 :人間七七四年:2014/06/17(火) 19:28:28.29 ID:BtbQcoA+.net
ごめん。>>256の間違いだった。

261 :人間七七四年:2014/06/18(水) 16:12:08.54 ID:lyK+ZPnI.net
ん?
一級史料という単語は、きちんと定義の定まった用語じゃないよ?

中身がどうこうって話じゃなくて単語の話

262 :人間七七四年:2014/06/18(水) 22:53:40.96 ID:wJZhnQ07.net
>>259
うーんと、なんか勘違いしてるようだけど
一次史料ってのは、その時代の当事者が書き記した文書のことで、書状であったり
事務文書であったりするわけだけど、これ一つだけじゃ、その文書の歴史的価値や社会における重要性は分からんのですよ
他の一次史料や二次史料との比較検討、内容の精査などお行って、初めてその当時の社会とかがわかってくる
これを研究するのが歴史学

一級史料とか呼ばれるのって、いわゆる二次史料のうち史的価値が高いものって意味で使われることがほとんどなので、
「一級史料」という言葉で史料を分別するのは、割と研究者の恣意だって話

263 :人間七七四年:2014/06/19(木) 00:23:27.42 ID:U7XYi158.net
>>262
一級という扱いにはならないと、書いたからといって
「一級史料という単語は、きちんと定義の定まった用語じゃないよ?」
ってそりゃそうだ。そんなのは、わかってま〜す。
定義が定まっていないからといって、例えば信長公記を三級史料とか
嘘っぱち資料だと言ったらそれは、違うでしょということかな。それなりの信ぴょう性はある。
 感状だけじゃ、何もわからないとあったが、戦国だから、嘘の手紙も
書くだろうし、本当のこともあるけど、「これ一つだけじゃ、その文書の歴史的価値や社会における重要性は分からんのですよ 。」
ってそれはそうでしょ!
2ちゃんなんだから、想像力を駆使していろんなことを
かけばいいんだけど、「証拠不足」みたいなことを書くから、自分の記憶と
違うことを書くと、一次資料を要求するダガと、重なってしまった。
ダガではないようでした。失礼しました。

264 :人間七七四年:2014/06/21(土) 11:22:45.79 ID:oeJ0U1nl.net
>>262
特に、2ちゃんに歴史的価値や社会における重要性を求めてるわけじゃないしな。

265 :人間七七四年:2014/07/04(金) 08:35:14.16 ID:LVu06+ah.net
un

266 :人間七七四年:2014/12/24(水) 11:31:52.86 ID:WShmnNIF.net
tyonn

267 :人間七七四年:2014/12/24(水) 12:24:03.34 ID:AYWT/etf.net
鴨川氏 戦いの模様を再現する時はやはり当事者の書状をおいて他にはありません。
後世の著作家による伝記や家譜、合戦記や軍記物語などは
当事者の書状とは同一視できませんし、してはいけない。
合戦記や軍記物語もそれなりに真面目に作られているのでしょうが、
今日の学術的な研究とは違います。

谷口氏 後世の著作物の性質については例えば、
戦国武将たちの死去の年月日や享年を確かめる作業についても
「何の裏づけもなく作られたいい加減なものばかりである」

堀氏 徳川史観に影響され続けていることにわれわれは注意しないといけない。
江戸幕府は林羅山に秀吉が足利義昭に養子入りを断られ仕方なく関白になったと
書かせていますが、実際の秀吉は多聞院日記によれば、
天正12年10/16条において秀吉は天皇に将軍任官を勧められたが断ったと書かれています。
史観によっていつのまにか源氏しか将軍になれないとする言説が流され信じられてきました。
また小牧長久手の戦いと徳川史観も密接でその虚構性がよく現れています。
小和田氏が指摘したように家康は実際「長久手の戦い」と呼ばれている局地戦で勝利したのみでした。
実際の戦場は小牧長久手よりも遥かに広範囲にわたっています。
美濃や伊勢なども含めて全体像をみると、実際は秀吉の勝利だったのです。
だからこそ跡部氏が指摘したように信雄も家康も秀吉に人質を提出して停戦したのです。
(秀吉の人質策 藤田達生編「小牧・長久手の戦いの構造)
そして家康が勝利したという「長久手の戦い」も実際には岩崎城を奪われた家康が、
何とか長久手で秀吉軍を捕らえて逆転勝利に持ち込んだに過ぎません。
この局地戦の焦点は岩崎城の攻防にあったのですから、本当は「岩崎城の戦い」と呼ぶべきでしょう。
しかしいったん岩崎城を奪われたことを隠蔽して家康の勝利を強調するため「長久手の戦い」と呼ばれるようになったと
鴨川論文で明らかになりました。

一次史料かどうかは研究者による真贋確定作業があり、
またその上、年次比定の確定作業もある。
基本的に一次史料に写しは含まれない。しかしこの作業において
料紙の紙質やサイズや花押や印も書き写されているか?
しかもその花押の時代推移による変化にきちんと対応しているか?
同様に実名・名字・官堵名・などもその時期に書かれた書状と同様に書かれているか?
宛先の改竄などが疑われるか?
書札様文書のおける薄礼・厚礼などの正確な書式に基いて書かれているか。
書止文言に不自然さはないか?「御」の字などの敬語表現と立場がその時代変化に応じた変化であるか。
そういうものがチェックされて初めて「これは一次史料に順ずる書状写ではないか」
「極めて偽物に近いが検討する余地はある」「偽書状である」などとされる。

268 :人間七七四年:2014/12/24(水) 12:32:47.91 ID:AYWT/etf.net
秀吉が家康に負けたから幕府が開けず、
必死に朝廷工作して官位をあげたとか曲解もいいとこw
実際、秀吉が家康と戦っていた時は、
無位無官の平民羽柴秀吉と、
近衛中将経験者2人(信雄と家康)と戦っていた。
そして平民秀吉が家康らを圧倒したから、
朝廷は急いで秀吉を取り込もうと、
天正12年10/2に従五位下の叙爵少将の叙任の勅使を急遽派遣してんだよw
そして朝廷は同日には早くも秀吉の参内権の是非まで諮り、
11月までには参内権を許可するなど、
急いで秀吉の参内を促していたが、
有職故実の儀礼知識が無い素人秀吉は参内を逡巡し、
初参内は13年3/10の時まで待たされた。
秀吉が必死に官位官職を上げて家康らの上に行こうと働きかけていたら、
すぐ得意がって参内するはずだろがw
そもそもお前はこの時点での秀吉が無位無官なのすら知らなかったのがモロバレw
同じ文脈でお前は関ヶ原を語り、
官位官職が一番上だった家康に従わないヤツが悪いとか吐いてるが、
無位無官の平民秀吉が官位官職を持つ家康や信雄を逆に従わさせてるわけだがwww完全に矛盾www

フロイスがね、秀吉が小牧長久手の野戦で敗れた理由を説明してるくだりがあるんだけどね、
(あくまで小牧長久手の戦いのことであり、天正12年戦役全体を指しているわけではない)
家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいたために
日本中で大いなる名声があったことを書いてる。
一方で秀吉は名声や位階や権力や財産をまだ有していなかったので小牧長久手の野戦で敗北したことに触れてる。
ここで注目されるのは旭姫が嫁ぐ前の家康には信長姉妹が正室として存在していたことなんだな。
その高貴な血統が存在する方が明らかな有利になることがフロイスによって書かれている。
清洲会議において柴田勝家がお市を娶っていた理由もこれで明らかになった。
清洲同盟があったとする根拠が完全に消されてて証拠がまったくないのも
信長姉妹が正室だった事実を消す幕府の工作なのだろうね。
でも、これが事実とすれば信長死後に、信長のあだ討ちをするために
家康が尾張へ進軍してきたり、信雄の肩を持って秀吉と戦ったことも納得できる。

269 :人間七七四年:2014/12/24(水) 12:43:10.37 ID:AYWT/etf.net
書状の真贋チェックをしていた藩の場合は信頼性が担保される。
例えば秋田藩。何十年後といえば、幕府が歴史編纂し各家の系図なども作るために、
各藩に史料提出を求めたのよ。
それで藩史を作る事業にともない、
各家にある書状の提出を求める大編纂事業ブームがあったんよ。
これで嫡流筋まで変わっちゃうから各家は対立し、
この期に落ちぶれた家は下克上狙いで偽文書を作ったりした。
例えば佐竹氏では「伝聞伝承でもウソ、事実問わないから全部の史料を出して!
間違っていても罪に問わないから!」ってことで各家が提出したんだけど、
例えば岩屋氏なんかも書状などを出した。
でもいろいろと事情があって、本来、嫡流筋にあるべき書状まで、養子や預かっていた寺社などに
ばらばらに伝わっていて、自分こそが嫡流筋を主張し、なぜ書状がうちに伝聞したかの申し開きでも
誰が本当のことを言ってるのか吟味が難航した。
牢人の岩屋団斎も祖母の覚書とともに大量の書状を提出した。
佐竹の裁定では、14通は本物とされたが、不正の書き物3巻6冊・不正書状20通
写し11通1包とされた。
そして本物は嫡流家へ強制返却。不正の書き物は近年の作で信用しがたいとされ、
不正書状は作為が見られる。写し11通1包は岩屋家に関係ないのになぜ持ってる?
という結果になった。これになお不服を言った場合、
提出時にはウソでも罪に問わないといっていたが、今度はちゃんと証拠がない場合は罪に問うとはねつけられた。
こういうことが全国レベルで沸きまくった。
この編纂時の真偽の裁定をやっていた佐竹などの文書群は非常に高い信頼性が担保されることになった。
逆にこういうのをやっていないのが毛利家。これは陰徳太平記などの毛利家の歴史と先祖の武功を
批判検証してはならない聖域化していたのと、藩が大縮小したために下々の藩士に強く出られない権力不足により、
またが大友・大内・宇喜多・尼子・赤松・山名が滅亡していたことにより、
矛盾する史観であるかどうかを判別する藩史が存在しないために恣意的歴史が作れる土壌があり、
旧毛利領だった地域ですらも偽書状が作られた。これが悪名高い萩藩閥閲録収録。
幸い、徳川や佐竹や武田や北条の書状が山ほど残っていたから相互に照らし合わせが可能だったし、
そもそも幕臣に旧武田家臣が多く徳川宗家は武田、御三家は上杉の兵法を採用し、研究していたので
武田や上杉や北条や佐竹らの史料照らし合わせ編年史が完成し東国大名は怪しげな書状はほとんどありません。

270 :人間七七四年:2014/12/24(水) 13:01:20.59 ID:AYWT/etf.net
秀吉が家康に関東惣無事の儀を仰せ付けたのが天正14年12月
家康が源氏姓を称するのが天正16年4月。
天正18年8月関東移封。
これは関東地方では源頼朝以来の源氏の伝統があったため家康が源氏を称することにより
関東支配を円滑にすすめさせようとする秀吉の政策が見える。
それゆえに関東入部以前から源氏姓を称する必要があった。
つまり東国平定の成功が征夷大将軍任官と関わりがある。
無位無官の平民羽柴秀吉が家康に勝利し臣従させたことを認めた朝廷は
東国平定の武功を称え天正12年10/16秀吉は天皇に将軍任官を勧められたのである。
このことで秀吉は朝廷から公認され身分が向上したことで
織田家を臣従させているため下克上にはならないのである。
また秀吉が義昭に断れたので征夷代将軍を諦め関白を狙ったとする捏造ですが、
これは堀氏によればたまたま起こった関白職を巡る二条と近衛の相論に乗じた「たなぼた」でした。
信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、
正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、
家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、
11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、
後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。

271 :人間七七四年:2014/12/24(水) 13:08:45.90 ID:AYWT/etf.net
アンチ秀吉織田チョン大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。

アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴
基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。

272 :人間七七四年:2014/12/24(水) 17:27:11.00 ID:LlxdLPF0.net
>>268
小牧長久手の時って筑前守じゃなかったの?

273 :人間七七四年:2014/12/24(水) 23:19:03.21 ID:Wl+nnu1s.net
>>272
それ信長が名乗らせただけの私称。
信長は部下に対して一切、官位官職を朝廷に申請せず、
身分を平民のままにしていた。

274 :人間七七四年:2014/12/25(木) 12:02:56.30 ID:UTb1Pj+B.net
織田家は超ブラック企業だからな。

275 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:02:52.99 ID:72DQmI+f.net
>> 一方で秀吉は名声や位階や権力や財産をまだ有していなかった

秀吉は下記のように子飼いの家臣ばかり持て、邪魔な言うこと聞かない譜代家臣がほとんどいなかったから
かなり戦う上で有利だった。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。

それにもかかわらず、馬鹿みたいに規格外の兵力で雑魚信雄や輝元に蹴散らされたり
氏政に29万で攻め込んで家臣を殺されまくったり、兵站線を崩壊させられてるのは、秀吉がそういった有利な条件を覆すくらい
アホみたいに戦べただっただけ。

秀吉の小牧長久手時は羽柴軍は相当強固な権限を秀吉が握ってた。
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。

寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ

秀吉は譜代いまくりだよ。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。


秀吉方陣営からは誰も寝返りが出てないし、最も外様に近い池田も森も清洲会議時点でハッキリとした主従関係が出来てる

276 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:03:12.98 ID:72DQmI+f.net
>>家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいた

家康が信長の姉妹を娶ったことによって増えた家臣…皆無。
家康方は譜代の石川までこの頃既に離反しかけてるのが6月の秀吉→石川書状でわかるし、連れてた家臣なんてほとんど外様みたいなもんだろ。
木曽も小笠原も真田も石川も水野もあっさり家康から寝返ってるし
信雄からは伊勢でも美濃でも尾張でも会戦早々寝返りが出まくってる

信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。

最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

277 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:03:36.42 ID:72DQmI+f.net
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな

一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし

最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
戦争において大軍である事は圧倒的なアドバンテージであって、それさえあれば
無条件に戦争での勝利が約束される物なのに「大軍ゆえに統率がとれなかった」「寡兵だから結束していた」
などと、会戦当初からの両軍の寝返り状況も無視して都合よく捏造をデッチあげる秀吉厨はガチで馬鹿だな。

278 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:03:57.39 ID:G54Spxm4.net
マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた

守護大名は家臣の専横と傀儡化した大名の権力といった腐りきった権力構造抱えてたからな
新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例

厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。
尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。
斯波には公銭方や段銭方と言った任国の守護行政府が存在しなかった為、
簡単に下克上が出来て国が盗めた。
国人たちが重視する家格の差もあって守護代が守護権力を凌ぐことが出来ず、
守護代などが下克上に失敗敗北する長尾為景や斎藤道三や近江国人連合や長尾景春といった東国でよくあった、
いくら家格を上げようと必死になっても結局、権威で守護行政府を上回れず、下克上に失敗することによる困難に直面することが織田や朝倉には無かった。
言わば管領家の守護代が、家格をあげる努力をせずに割と簡単に主を傀儡に出来ることは特質だろう。
畿内近くに任国があるものでさえ、細川には三好、畠山には遊佐などいずれも家格上げ努力などしておらず明らかである。

279 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:04:19.11 ID:7ZUj++rT.net
>>家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいた

秀吉は信長の子供を養子として取ってて高貴な血統に属していて
下記のようにほとんど織田家旧臣連中は羽柴直臣と化していた。

池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵

丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している

280 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:24:43.85 ID:7ZUj++rT.net
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけ。

天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな

281 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:25:08.79 ID:7ZUj++rT.net
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

299 :人間七七四年:2014/11/21(金) 11:02:08.39 ID:Whd+iGRM
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな

一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし

最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
戦争において大軍である事は圧倒的なアドバンテージであって、それさえあれば
無条件に戦争での勝利が約束される物なのに「大軍ゆえに統率がとれなかった」「寡兵だから結束していた」
などと、会戦当初からの両軍の寝返り状況も無視して都合よく捏造をデッチあげる秀吉厨はガチで馬鹿だな。

282 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:25:26.53 ID:G54Spxm4.net
フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615

秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど 秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。

283 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:25:46.37 ID:7ZUj++rT.net
フロイスの小牧長久手関連の記述なんて秀吉が垂れ流した妄想歪曲誇大喧伝の影響を受けまくっててほとんどが誤ってる情報ばかり垂れ流されてるインチキ記事なのにソースにするとか相当馬鹿だな。


>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる

284 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:26:05.59 ID:7ZUj++rT.net
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。

285 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:26:18.73 ID:G54Spxm4.net
室町期からの旧守護勢力なんて衰退してて次々新興勢力によって倒されてる時代に
血筋や血統などを持ち出して敗戦の原因を言い訳するとか相当馬鹿だな。
家が成ってからの年月と、一人ひとりの仕えている武将の忠誠心とどう関係あるかちゃんと論じてくれよ
昔から、自分の親の親の代から何代も仕えてようが、自分の代になってやっと子飼いとして仕えようが、忠誠心も
何も変わらん
つうか昔から仕えてる家臣の方が変に自立心強くて言う事聞かなかったり謀反起こしたりしてるだろ
松平の譜代なんて三河一向一揆で家中半分に寝返ったり武田の譜代系も言う事聞かなかったりしてるだろうが
自分の代になって士官した子飼いなんて家臣として一番扱いやすい部類だわw

286 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:26:34.81 ID:5BsminRr.net
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる

木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)

あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)

清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる

287 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:26:51.43 ID:G54Spxm4.net
秀吉厨の馬鹿な妄想「秀吉軍は烏合の衆だったから負けた」「秀吉は家臣が必死に戦ってくれなかった」

秀吉の小牧長久手の敗因が寄せ集めの大軍だからとか言い訳もいい所だな
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。

寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
池田がうっとうしかったとか相当馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵

丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

288 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:27:09.59 ID:nkm480eA.net
池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍 を動員してる

289 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:37:38.95 ID:GzNadVXF.net
他スレで大敗した腹いせにここでコピペ荒らしですか?菅沼君

290 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:44:40.24 ID:nkm480eA.net
>>小牧長久手の戦いと徳川史観も密接でその虚構性がよく現れています。

小牧長久手の戦いでハッタリかまして虚構性作りまくったのは秀吉だよ

イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな


>>小和田氏が指摘したように家康は実際「長久手の戦い」と呼ばれている局地戦で勝利したのみでした。
>>実際の戦場は小牧長久手よりも遥かに広範囲にわたっています。 美濃や伊勢なども含めて全体像をみると、実際は秀吉の勝利だったのです。

小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)


小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

291 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:46:21.45 ID:nkm480eA.net
4/30日〜5/2頃

二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)

6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

信雄の動き

6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。

292 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:46:58.21 ID:nkm480eA.net
小牧長久手の戦いで 秀吉が優勢だったのは
伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田
尾張で毛利秀頼・毛利広盛
美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、
当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだし


不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのに
その後の攻防では小牧長久手以外でも
松ノ木城
浜田城
東駒野城
河波城
神戸城
二重堀城
蟹江城
長久保城
戸木城
と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

293 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:48:39.30 ID:nkm480eA.net
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

池上裕子氏

秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏

秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ

294 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:49:07.01 ID:G54Spxm4.net
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
>>あまりにも見事かつ完璧に秀吉に敗北した事を意味した。
家康に土下座和睦して後ろの心配をなくした上に上杉や毛利や宇喜多や木曽らの力に頼りまくって
雑魚イジメした事の何が敗北なんだよアホ
>>紀伊惣国一揆を従属させた秀吉は彼らの船を総動員してすぐさま四国に攻め寄せ圧倒
これも信雄や家康が怖くてビビリまくって、和睦した隙に、少しでも敵領土を削って味方を強大にするために雑魚イジメしてただけじゃん。
>>秀吉が天才と呼ばれる所以は高野山を速攻で制圧
当時の秀吉の領土は畿内一円に、毛利・上杉・宇喜多・木曽・信雄。
高野山なんて10万石いくかいかないかわからん雑魚なんていじめて何が凄いんだよタコ
>>第二陣として出陣してきた信雄と秀康らの軍が雑賀に着陣してきた時にはすでに平定してしまっていた程の巧者
はぁ?秀吉軍畿内総結集すれば15万くらいいくだろ。
5000もいくか怪しい高野山なんて、馬鹿でも叩き潰せるわwこんな指揮采配能力と全く関係ない雑魚イジメで
将の資質や戦のうまさなんてとわれねーよクズ。

295 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:49:25.27 ID:7ZUj++rT.net
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。

>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙

296 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:49:46.54 ID:G54Spxm4.net
>>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談
何それ指導力って(笑)北条が真田の領土問題で援軍をよこさなかったため
北条からの加勢を得る事や北条との結束を強化する意味で浜松会談や真田との戦いに挑んだだけじゃん
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

297 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:50:32.98 ID:G54Spxm4.net
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

298 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:51:14.09 ID:7ZUj++rT.net
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

299 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:51:34.93 ID:G54Spxm4.net
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている

300 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:52:15.02 ID:7ZUj++rT.net
家康が秀吉に養子を出したのって
北条が藤田や大石家に養子を出したり
毛利が吉川や小早川に養子を出したりした
織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ。
屈服させた相手に、関係を強固にしたり、自家との一体化や支配を強固にするために
従属下の大名に養子出しただけ。

301 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:52:36.13 ID:G54Spxm4.net
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
1/24に信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

302 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:52:51.42 ID:6H7bC5Be.net
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。

303 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:53:06.78 ID:G54Spxm4.net
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない

304 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:53:30.48 ID:7ZUj++rT.net
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

305 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:53:43.61 ID:G54Spxm4.net
天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
1/24に信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けるとか情けなさ過ぎる
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい国力の差があるのに

306 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:53:57.49 ID:6H7bC5Be.net
結局実際に戦いになるとどれだけ兵力差があろうがあっさり敵にひっくり返される雑魚な指揮能力しか
秀吉は持ってないから、家康や信雄に秀吉はどれだけ国力差があろうが土下座するハメになって
家族や関八州260万石まで献上するハメになっただけ。

307 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:54:18.47 ID:G54Spxm4.net
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ。

308 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:54:42.27 ID:6H7bC5Be.net
講和の条件として養子に自分の子を出したり
自分と対等な同盟相手や、自分の従属者への養子で自分の子供出すってパターンは普通にあるんだが。
北条→里見の従属同盟
北条→藤田家
北条→大石家
毛利→吉川・小早川家
上杉北条同盟
織田→神戸・長野・北畠
徳川→結城
上田長尾家→古志長尾家
豊臣→小早川(秀秋)
佐竹家・伊達家→葦名家(義広・小十郎)

養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし

309 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:54:53.72 ID:G54Spxm4.net
秀吉は雑魚の信雄に敵の8倍の兵力で挑みかかって大敗し
11/4に顕如に土下座して信雄との停戦の取り成しやってもらって
家康を孤立させた癖に家康相手にも自力では全く何もできず
寝返りの連鎖・天正11年からの災害の連発に備えた徳政令連発・石川らの離反による軍事機密露見で
領国が崩壊した自国の10分の1以下程度の国力の家康に必死に土下座して、従ってくれ〜と母や妹に加えて関東240万石まで差し出すヘタレっぷり。
結局自力では全く歯がたたないから滅ぼされたってだけの事だろ。
家康が温情深い性格だから、自分に土下座してきた相手だから仕方ねぇって家康は何もしなかっただけ。

310 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:55:13.05 ID:G54Spxm4.net
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない

311 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:58:22.83 ID:7u8x8uyf.net
いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉の場合は指揮能力や采配能力が異常にゴミに近かったので数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄や顕如や家康や朝廷に土下座しまくって和議までこぎつけただけ。
顕如に11月に土下座したり家康の下に信雄送ったり朝廷に献品しまくったり土下座攻勢をかけまくってる。

312 :人間七七四年:2014/12/25(木) 15:58:40.41 ID:nYc5AVF9.net
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

313 :人間七七四年:2014/12/25(木) 16:04:21.55 ID:gOuiXj1M.net
小牧長久手の結果秀吉が家康に土下座して顕如に取り成し依頼してもらったり
母や妹を差し出して家康に土下座して講和してもらったり
250万石やチート官位差し出す等土下座しまくってるし
結局それが原因で豊臣家を滅ぼされる事になったんだから家康の圧勝でしょ。
秀吉なんて指揮采配能力じゃ家康どころか信雄相手に蹴散らされまくった雑魚じゃん。

314 :人間七七四年:2014/12/25(木) 16:05:14.01 ID:G54Spxm4.net
小牧長久手合戦後の講和はあくまで一時的な物で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌天正13年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている

315 :人間七七四年:2014/12/25(木) 16:06:07.09 ID:G54Spxm4.net
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

316 :人間七七四年:2014/12/25(木) 16:06:58.52 ID:G54Spxm4.net
家康が秀吉に養子を出したのって
北条が藤田や大石家に養子を出したり
毛利が吉川や小早川に養子を出したりした
織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ。
屈服させた相手に、関係を強固にしたり、自家との一体化や支配を強固にするために
従属下の大名に養子出しただけ。

佐竹も葦名家に養子を出してるね。
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし

317 :人間七七四年:2014/12/25(木) 18:56:49.05 ID:Eqzd6bHi.net
スレチの長文君 いいかげんにしろよw

318 :人間七七四年:2014/12/26(金) 16:05:13.68 ID:06mnqejB.net
ゴリラのウルグアイ戦のミスもわかってるだけで内田は3回はやらかしてるからな

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319 :人間七七四年:2015/01/05(月) 14:29:08.34 ID:oDld84ju.net
間違いない

理由
1)無駄に版図を拡げたので、あとが守りにくくなった
2)後継者その一の長男を殺害した
3)後継者その二でもある4男勝頼を本人には継がせず、求心力を持たせなかった
4)無駄に死を秘匿した
5)兵農分離を進めなかった
6)遠征先(出先)で死ぬという失態

320 :人間七七四年:2015/01/12(月) 09:36:12.64 ID:hDIMNjar.net
少なくとも武田義信に跡を継がせなかったのはクソとしか言い様がないわな
てめぇがオヤジから実権分捕っておいて、息子には廃嫡幽閉というクソみたいな処置
典型的な老害だろうな。仮に信玄が1565年くらいにおっ死んでてくれれば
武田が滅びることもゴミのような扱いを受けることもなかっただろう

321 :人間七七四年:2015/01/12(月) 21:42:26.40 ID:U+68Do4S.net
7)徳川家康を殺さなかった
8)上杉謙信から塩を受け取った
9)金山を掘って無駄に軍備を拡張した
10)治水対策を行ったので、甲府が守りにくくなった
11)浅間山の噴火対策を怠った

322 :人間七七四年:2015/01/13(火) 17:14:42.22 ID:h8O9W1tZ.net
三方が原で家康を討ち取っておけばなあ

323 :人間七七四年:2015/01/17(土) 19:15:05.49 ID:AJhxP0D+.net
>>319>>321
やっぱ信玄が原因だな

324 :人間七七四年:2015/01/23(金) 13:16:34.56 ID:SXX6EO7p.net
>>317
菅沼遼太君が憤死しそうなスレだし仕方ない

325 :人間七七四年:2015/01/23(金) 13:49:06.96 ID:T4bdvCjN.net
滅亡は勝頼だな。
負けても降伏して氏真スタイルにすりゃ家系だけは生き残ってた可能性は十分ある。

326 :人間七七四年:2015/01/24(土) 00:42:47.94 ID:t3bwRsaV.net
氏真スタイル、信雄スタイルはいつの時代でも天下無敵。

327 :人間七七四年:2015/01/24(土) 17:40:22.49 ID:LPQdabV6.net
信長相手にそのスタイルが通用した可能性は皆無
勝頼みずから安土に行って土下座しても波多野みたいに処刑されるのがオチでは

岩櫃経由で東北に落ち延びて史実通り本能寺が起これば猿や狸なら許してくれるかもしれないが

328 :人間七七四年:2015/01/24(土) 20:50:00.89 ID:2bJAnRtB.net
北条と関東・奥羽の大名が競うように織田に誼を通じているあの時期に、勝頼を匿う大名はいないだろう。
真田に売られるのがオチ。
三方原で家康殺して遠江・東三河を併呑しておけば、何とかなったかも知れんが。

329 :人間七七四年:2015/01/26(月) 03:03:50.17 ID:nU4dgJxS.net
三方ヶ原で家康を殺しておけば・・・ → 信玄のせい
織田に喧嘩を売らなければ・・・・・ → 信玄のせい
義信が跡を継いでいれば・・・・・・ → 信玄のせい
版図を広げすぎてなければ・・・・・ → 信玄のせい


大体武田信玄のせいだな。
信玄8割勝頼2割くらい

330 :人間七七四年:2015/01/26(月) 06:33:13.82 ID:lW1klGTg.net
その信玄を世に産み落とした信虎が元凶じゃね?
コイツが先手を打って信玄を誅して、きちんと信繁を家督に据えていればまた違った未来もあっただろうに

331 :人間七七四年:2015/01/26(月) 07:04:07.41 ID:5QqP988y.net
織田信秀、勝幡城→那古野城→古渡城→末森城
織田信長、那古野城→清洲城→小牧山城→稲葉山城→安土城
徳川家康、岡崎城→浜松城→駿府城
武田信玄、古府中

居城が持つ力をフルに使ったのが信秀、近いのにちょくちょく変えてる
信玄は居城を変えていない

332 :人間七七四年:2015/01/26(月) 17:28:54.67 ID:cZG8I++Q.net
>>329
版図って意味なら、余計な高天神を落としたのも信玄が落とした長篠城を放棄したのも勝頼だけどな

>>331
長曾我部の白地城みたいに東海五か国に通じる拠点を南信にでも築いていればな
高遠あたりでは不充分だった

333 :人間七七四年:2015/01/26(月) 23:42:38.52 ID:7r8A35J6.net
武田って居城変えようにもいい立地ないよ
深志城や海津城は北すぎるし高遠は街道から離れてるし諏訪は狭いし
結局甲府が一番ってこと
新府もそんないい立地とは思えない

334 :人間七七四年:2015/01/27(火) 03:05:05.17 ID:dEA19WBO.net
長野の地形図
http://www.hp1039.jishin.go.jp/eqchr/figures/f6-59.gif
なんか哀しくなってくるな

335 :人間七七四年:2015/01/27(火) 08:26:25.78 ID:d0TzPbWu.net
信玄は謙信との北信攻防から始まり、
北条、織田、徳川、今川から
領地を奪い取り甲府を中心に広がりを見せていて
苦手な敵がいない為、領地の中心が府中なんだよな。
しかも甲斐は街道の接点で信濃や相模や上野や駿河に出るのに適している。
さらに北条らが援軍要請をしてきたら必ず信玄は支援に出兵する義理堅さをみせるが
自分から他大名に援軍依頼をしたことすらない。
なのでコストがかかる新拠点造営維持など必要ない。
すでに新たに騎下に加入した国人たちに府中に住居を与えて
集住体制が完成してたし、農繁期とか関係なく最前線の城に張り付かせて
帰国する必要もない兵農分離もできてたし。

336 :人間七七四年:2015/01/27(火) 16:05:41.24 ID:3YrX/Th8.net
将軍が戦争やめろって言ってきた時に白々しく役職要求してましたね

337 :人間七七四年:2015/01/27(火) 19:45:51.22 ID:dEA19WBO.net
やはり濃尾平野か関東平野に出ないとな〜
http://www.trust-system.co.jp/s_calendar_zoom_04.jpg

338 :人間七七四年:2015/01/28(水) 10:13:42.86 ID:Kq6eTk4P.net
信虎は関東に出ようとしてなかったっけ?
信玄はいちいち攻める方向が悪すぎ
まあどっちがいいかは人それぞれだろうが

339 :人間七七四年:2015/01/28(水) 23:55:21.11 ID:bRjb7QUr.net
そりゃ結果論
信濃が一番弱かったからそっち行くのが定石
関東行くには父の代から分が良くなかった北条との激突が免れない
謙信が出てくるなんて予想出来ないし

340 :人間七七四年:2015/01/29(木) 01:01:21.38 ID:TU/+VbW8.net
結局は信玄の武将としての限界だわな
激戦区の関東や東海を避けて弱小ばかりの信濃に殴りこんだ代償

341 :人間七七四年:2015/01/29(木) 10:16:13.14 ID:1V4nkxBH.net
関東管領の大軍を佐久地方で大破したから
関東からの脅威がなくなり、関東管領と組んだ諏訪攻めをしただけだろ。

342 :人間七七四年:2015/01/29(木) 11:43:13.09 ID:/ibknw+H.net
河越野戦は一次史料には存在しない架空の戦いだったからね。

343 :人間七七四年:2015/01/29(木) 17:06:51.98 ID:TU/+VbW8.net
関東管領を撃破したのに関東にロクに攻撃せず諏訪みたいなど田舎を攻めたのか
やっぱ信玄ってアホだわ

344 :人間七七四年:2015/01/29(木) 17:17:52.23 ID:XyjaGQEQ.net
菅沼理論から言わせると火山が噴火しただけでびびって霧散するような武田軍団を作った信玄が悪いなw

345 :人間七七四年:2015/01/29(木) 20:21:46.03 ID:1V4nkxBH.net
関東管領山内上杉軍が志賀城救援で浅間山のまわりに布陣。
8/6に武田軍が突撃し打ち負かし名大将15人を討ち取り、雑兵3000討ち取り。
これらをことごとく志賀城の周りにかけたので、
志賀城の者どもは力を失い、水にもつまり8/11に300の討ち死にをだして落城。

河越野戦は一次史料が存在しない架空戦のため
関東管領上杉が衰退した理由は
信玄によって名大将15名を討ち取られたのが原因なのが明白。
むしろ信玄が苦戦していた戦いといえば、
天文17年の村上戦だろう。

これは佐久郡攻防戦といってよく、
佐久郡の志賀城を攻略したあとも佐久郡攻防戦は続いており
村上や小笠原ら信州連合軍と武田の戦いである。

2/14から村上と武田は塩田原で川をはさんで
軍をいれたりを繰り返していたが武田側が打ち負けて板垣や甘利が討ち死に。
しかし信玄は本陣を払わず踏みとどまり、」小山田出羽守の比類ない働きもあって戦線を維持
だが小笠原軍5000が武田の背後を襲うために進軍
7/15に武田軍は朝駆けで小笠原軍を悉く撃破し村上の近所の村井に要害を築く。
8/18佐久郡田の口要害へ小山田出羽が働いたものの、信州兵に包囲され
9/12信玄が救援に出撃し佐久郡の大将及び信州兵5000を討ち取る。

346 :人間七七四年:2015/01/29(木) 21:37:19.89 ID:cG+OLRfg.net
>>345
一次史料が存在しないことと、架空戦であることは、全く別次元だぞ?

ついでに、「名大将15人を討ち取り」ってところの一次史料はあるのか?
それぞれの名前は?年齢は?親族は?

論理破綻しまくりじゃね?頭大丈夫?

347 :人間七七四年:2015/01/29(木) 21:43:16.91 ID:1V4nkxBH.net
勝山記、妙法寺記に載ってるだろ。

348 :人間七七四年:2015/01/29(木) 21:46:20.06 ID:cG+OLRfg.net
冗談でごまかすなw

349 :人間七七四年:2015/01/29(木) 23:49:24.43 ID:/ibknw+H.net
勝山記、妙法寺記が冗談を書く理由がみつからない。
また織田在日の願望妄想による反論www

350 :人間七七四年:2015/01/30(金) 01:12:28.99 ID:52d2hSoU.net
軍を蹴散らしたところで相手を倒さなければ何の意味もないという
基本的なことがわかっていなかった武田信玄
あるいは人を殺して女を分捕る暴虐ぶりが信玄の本性だった可能性すらある
こんな奴が天下を取れないのは当然。董卓と同じ

351 :人間七七四年:2015/01/30(金) 10:52:35.25 ID:O0UIx5OX.net
>>人を殺して女を分捕る暴虐ぶりが信玄の本性
で、一次史料はまだなの?

352 :人間七七四年:2015/01/30(金) 12:44:19.23 ID:lVVfBZlw.net
高白斎記で敵方の大量の首を志賀城の前に並べ立てた残虐ぶりを思いっきり記されてますがw
諏訪氏も普通に勢力を滅ぼされて一族のほとんどが死ぬ羽目になったのに可哀想に信玄の側室にされてますがw

353 :人間七七四年:2015/01/30(金) 12:51:37.54 ID:O0UIx5OX.net
野戦で討ち取られた兵の首を並べて援軍は来ないことを
示しただけじゃん。なにが悪いんだよ。
野戦で敵兵の首を取るのが残虐とかどんだけ左翼キチガイの平和主義だよアホw
諏訪氏のイチジクがほとんど死んだなんて話は初耳だ。はやく一次史料を出せクズ。
信玄の側室は油川氏の娘で父は諏訪攻めにも参加してるのだがw

354 :人間七七四年:2015/01/30(金) 12:52:36.21 ID:O0UIx5OX.net
訂正
×イチジク
○一族

355 :人間七七四年:2015/01/30(金) 15:28:05.43 ID:SH6+yHXE.net
信玄公の虐殺は清く正しい虐殺


by菅沼遼太

356 :人間七七四年:2015/01/31(土) 01:42:36.97 ID:wtgPjXk/.net
>>349
勝山記、妙法寺記が一体いつから一次史料になったのか、
論理的に説明してくれないか?

それから、名大将15人の名前、年齢(享年)、親族(領地)は、
いつになったら提出するんだ?

357 :人間七七四年:2015/01/31(土) 09:23:28.59 ID:YMez1A7Y.net
昔から一次史料じゃねぇかアホw
むしろ一次史料じゃないとする根拠を出してみろよwww

358 :人間七七四年:2015/01/31(土) 09:23:44.51 ID:KvctrcEK.net
信玄も頑張ったとは思うよ
新宿から中央線に乗ると分かるけど
長男殺しても駿河が欲しいだろうなとは思うから
よくこの立地で後世に信者を残せたよ

359 :人間七七四年:2015/01/31(土) 10:04:18.24 ID:mJ//wJSZ.net
三方ヶ原で勝って家康に持ち上げられなければどうなっていた事か

360 :人間七七四年:2015/01/31(土) 11:09:56.56 ID:KvctrcEK.net
松永みたいなポジには着けたんじゃね?
ある意味エロゲの主人公だろ
滅ぼしたとこの姫を側室にとか

361 :人間七七四年:2015/01/31(土) 20:11:09.31 ID:/PZBqVF4.net
エロゲ好き?

362 :人間七七四年:2015/01/31(土) 20:30:21.20 ID:70dllWPJ.net
>>359
謙信が柴田相手に敗北してたら、川中島は低レベルな争いと言われてたかもな

363 :人間七七四年:2015/01/31(土) 20:59:06.60 ID:JvwfWAeY.net
手取川の戦い
・上杉謙信(約18,000人)
・柴田勝家(約40,000人)(滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政他)

結果
・織田諸将が粉砕されて全軍崩壊。


三方が原の戦い
・武田信玄(約18,000人)北条援軍(約3,000人)
・徳川家康(約8,000人)織田軍(約17,000人)水野信元(約3,000人)
(織田内訳予測:佐久間信盛(約9,000人)、林秀貞(約2,000人)、平手汎秀(約1,500人)、毛利長秀(約1,500人)、西美濃三人衆(約3,000人)  

結果
・徳川家康と平手汎秀が粉砕されて、全軍崩壊。


信玄も謙信も織田氏に完勝してしまったから、伝説になってしまったよな。
秀吉だけは天性の感で死地からいち早く離脱してるけれど、
残っていたら殿を押し付けられて死んでいたかも。

364 :人間七七四年:2015/01/31(土) 21:12:33.26 ID:AoHGTxD1.net
西美濃三人衆をいれているところが菅沼遼太っぽい

365 :人間七七四年:2015/01/31(土) 21:59:34.22 ID:JvwfWAeY.net
3傑のうち、信長も、秀吉も、間一髪で逃れたのに、家康だけは滅多打ち。
らしいと言えばらしいw

366 :人間七七四年:2015/02/07(土) 15:34:16.22 ID:p0FUnQFy.net
>>362
実際に秀吉がそんなこと言った逸話があったな

367 :人間七七四年:2015/02/07(土) 20:08:05.69 ID:XeO5lbtV.net
天徳寺宝衍や真田昌幸ら関東の諸侯が秀吉に尋ねられて、
謙信、信玄を秀吉の前で褒めまくったから、へそを曲げた話だろwww

368 :人間七七四年:2015/02/07(土) 20:11:14.15 ID:XeO5lbtV.net
天正13年(1585年)12月に昌幸は信玄の墓所を自領である真田郷内に再興
しようとした。また『真武内伝』によると昌幸は信玄に幼少期から仕え、
信玄全盛期の軍略や外交を見て模範にしていたとされる。同書によると、
秀吉と昌幸が碁を打っていた際、秀吉が「信玄は身構えばかりする人だ
った」と評した。それに対して昌幸は「信玄公は敵を攻めて多くの城を
取ったが、合戦に手を取る事なくして勝ちを取ったもので、敵に押しつ
けをした事は一度もない」と答えて秀吉をたしなめたと伝わる

369 :人間七七四年:2015/02/08(日) 20:36:32.00 ID:7tSyTZV6.net
何をやり損ねたか
1上洛を急ぎ家康を討てなかった←寿命に気づいてたから信長討ちを急いだ
2大御所政治に移る考えを持てなかった←義信死なせて勝頼に委譲を急げなかった
まあ必然だよね

370 :人間七七四年:2015/02/08(日) 22:30:53.79 ID:3E8L4ALI.net
菅沼はすぐ信玄Ageの話をするwww
文脈から考えて、明らかにはかのいかぬ戦をしたものよ、の話のことだろw

371 :人間七七四年:2015/02/10(火) 12:07:49.19 ID:r5a1F4NN.net
桶狭間の後の行動だよ
家康を速攻で潰しておけば織田の急成長はなかったのにな

372 :人間七七四年:2015/02/10(火) 20:37:26.88 ID:xiH3+9LU.net
1560年の時点で三河に侵攻できる根拠を述べよ

373 :人間七七四年:2015/02/11(水) 05:34:34.80 ID:okH1bw6b.net
1560年の時点で三河に侵攻できない根拠を述べよ

面倒な言い回しせずに懸念材料を出せした方が早いぞ

374 :人間七七四年:2015/02/11(水) 10:54:20.98 ID:lfRohLIv.net
>>373
政治的に混乱して訳のわからない状態の今川が間にいる。
つーか、今川傘下の徳川を攻撃するから領内通らせて、なんて信玄がいくらボケでも今川に要求するわけがあるか。

375 :人間七七四年:2015/02/11(水) 17:55:50.54 ID:okH1bw6b.net
>>374
徳川は反旗をを翻して独立したんだから今川傘下に非ず
そして伊那から三河に入れる

今川と共闘して三河に攻め込んでもいいしさ

376 :人間七七四年:2015/02/11(水) 18:55:05.65 ID:KGw7RJme.net
三河を武田が貰ったとしたら
今川はどうやって領土拡張するの?
飛び地?
それとももう領土拡大はしませんって話し?

377 :人間七七四年:2015/02/11(水) 22:16:18.09 ID:lfRohLIv.net
>>375
「関ヶ原直後」になんで徳川が今川に反抗してるんだよ?

378 :人間七七四年:2015/02/12(木) 09:32:26.38 ID:vg/m+6Ff.net
>>376
三河は武田と今川の混在地でいいわけよ
むしろその方がいいかもしれん

>>377
意味不

379 :人間七七四年:2015/02/12(木) 12:09:04.25 ID:xMzmYwpc.net
独立したから他の大名が取っても問題ないって、ゲームの話でもしてんの?

380 :人間七七四年:2015/02/12(木) 17:43:44.22 ID:dcKvU5CY.net
徳川潰しといて今川と織田を隣接させたほうが都合がよかったかねえ
それ目的の共同戦線でも氏真は拒否したかもしれんが

381 :人間七七四年:2015/02/12(木) 18:52:21.73 ID:JHMcyI+b.net
>>373
史実では侵攻してないんだから侵攻「できる」根拠述べるのが正しい
どこのスレ行っても馬鹿だなお前

382 :人間七七四年:2015/02/12(木) 19:19:44.92 ID:dcKvU5CY.net
三河攻めていいなら駿河攻めは無かったかもしれないが、三国同盟は大国同士本拠地が隣国っていう微妙な位置関係だからなあ
自国防衛や旨みを考えたら弱った相手の本拠地攻めたくなる

383 :人間七七四年:2015/02/12(木) 20:18:19.27 ID:xMzmYwpc.net
つーか
独立直後なら、三河の徳川じゃなく、西三河の徳川だろと突っ込んじゃ駄目なのか?

384 :人間七七四年:2015/02/13(金) 04:46:42.46 ID:tgDCi1LH.net
>>334
確かにどこもかしこも平野部が細長いな。長い野とはいい得て妙だ

385 :人間七七四年:2015/02/13(金) 11:22:46.69 ID:Pf/32bAb.net
>>381
侵攻「できる」かどうか問われたら三河は隣接地なんだから出来る
ただこれだけでの話

結局のところ三国同盟堅持か破棄かの話なんだわ
三国同盟堅持なら武田は何処を目指して勢力を拡大するべきなのか?
地勢的に結構難しい判断を要する
西に行くなら桶狭間直後の混乱期に三河に橋頭堡を築けたという話さ

386 :人間七七四年:2015/02/13(金) 11:47:00.60 ID:CFYCDGxU.net
奥三河はともかくそこから先の平野部は切り取っても武田は保持できないだろう。

387 :人間七七四年:2015/02/13(金) 14:46:55.49 ID:YOnWuBl4.net
桶狭間直後の西三河しかない徳川を今川領を取らずに取れるのか?
今川領を取らずに西三河が取れないなら、今川と戦わずになんて話じゃなくなるぞ

388 :人間七七四年:2015/02/14(土) 17:00:11.40 ID:yC+qwlAJ.net
まあ何にせよ武田が三河に入った時点で三国同盟崩壊だから

389 :人間七七四年:2015/02/14(土) 19:38:57.72 ID:QYwB5iYk.net
三河を家康が完全に掌握したら今川の力では三河を攻略できなくなる
それに家康の後ろには織田が居る
どこかで武田に与力してもらわないとどうにもならなくなる
史実では武田は今川を助けるどころか後ろから斬りかかったけどな
元々織田と戦っていたのは松平、その松平が織田と組んで今川に向かってきてるんだ
今川には、あまり贅沢な選択種は残されていない

390 :人間七七四年:2015/02/14(土) 19:59:20.99 ID:57w7ILmk.net
何その予知能力
桶狭間直後にそこまで分かるんだ
凄いね

391 :人間七七四年:2015/02/14(土) 21:06:34.82 ID:vzQ5dwaa.net
史実の今川氏真が被害妄想系だったとすると、家康や信玄が離れるのも仕方が無いな。

392 :人間七七四年:2015/02/15(日) 04:09:33.57 ID:s5ZvHclI.net
       
        │  武田  │
───┬─┴─┬───┤
織田  │ 徳川 │ 今川 │
───┴───┴───┘


この地理的条件で武田の三河への介入の可能性を否定してもな〜

393 :人間七七四年:2015/02/15(日) 09:47:22.72 ID:ZIbewaCi.net
桶狭間後の徳川独立直後はこうな

        │  武田  │
───┬─┴─────┤
     │ ───      │
織田  │ 徳川 │ 今川 │
───┴───┴───┘

394 :人間七七四年:2015/02/15(日) 13:32:13.85 ID:s5ZvHclI.net
武田と徳川の間には徳川と今川の間で揺れる小勢力がいるね
三河は混乱状態
情勢が不安定な間なら付け入る隙も多いでしょう

395 :人間七七四年:2015/02/15(日) 13:50:17.08 ID:SmzhzOll.net
信玄が嘘でも勝頼を正統な後継者に指名しとけばな
あれで勝頼が家臣団見返すために無理な出兵してしまった

396 :人間七七四年:2015/02/15(日) 16:57:28.69 ID:AxDhLmV3.net
>>394
何その創造勢力

397 :人間七七四年:2015/02/15(日) 18:52:22.74 ID:b320ktCi.net
勝頼陣代説はいつになったら消えるんだろう

398 :人間七七四年:2015/02/16(月) 01:03:35.56 ID:h7fksDF7.net
>>394
駄目だよ
自分の設定忘れちゃ

       
        │  武田  │
───┬─┴─┬───┤
織田  │ 徳川 │ 今川 │
───┴───┴───┘


この地理的条件で武田の三河への介入の可能性を否定してもな〜

399 :人間七七四年:2015/02/16(月) 08:26:33.65 ID:sl3NR+2n.net
>>398
ケチをつけるだけの人間から早く卒業しなさい

400 :人間七七四年:2015/02/16(月) 08:46:52.02 ID:eMDesgGk.net
くやしいのうくやしいのう

401 :人間七七四年:2015/02/16(月) 09:44:13.64 ID:FtHToD+F.net
>>397
偏執キチガイ織田ちょんが執拗に持ち出す
いつもの甲陽軍鑑ネタシリーズなので消えることはありませんな。

402 :人間七七四年:2015/02/16(月) 11:51:32.82 ID:OlCDqLZk.net
ちゅうか武田は負けた織田は勝ったんだからそれで終わりだろ
武田が最強であったはずが無い

403 :人間七七四年:2015/02/16(月) 19:19:13.31 ID:sY7C15yw.net
武田が最強なら最低でも500万石くらいは取れてたろ
この時代の徳川すら屈服させられない時点でお察しよ

404 :人間七七四年:2015/02/17(火) 05:27:56.15 ID:YaZ43cBW.net
「俺が勝頼だったら余裕で天下獲ってたわw」って加藤が言ってた

405 :人間七七四年:2015/03/06(金) 22:32:03.37 ID:NCirNNcd.net
自民党、グッジョブですわ。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html

☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆

406 :人間七七四年:2015/03/10(火) 00:03:26.05 ID:kznzy5dr.net
家康の才能を見抜けず彼の人質時代彼をいぢめ続けた孕石を雇った時点で
武田滅亡フラグ立ってるだろ。部下も部下なら主君も主君。

407 :人間七七四年:2015/03/11(水) 12:31:22.34 ID:SKtw6EhJ.net
>>402
そもそも織田どころか村上相手に大苦戦して戦死者続出するような勢力だからな
板垣甘利のような重臣中の重臣が村上みたいな地方豪族相手にあっさり死んでる時点でヤバイわ
徳川は無理やり数の暴力で黙らせただけで劣勢になったらその時点で終わり
桶狭間起こした織田に勝てようはずもないな

408 :人間七七四年:2015/03/11(水) 18:04:20.76 ID:rLfOJ59v.net
>>407
劣勢になったら重臣だろうとコロコロ死ぬのは武田の特徴
上田原の板垣・甘利、川中島の典厩、長篠・・・・

409 :人間七七四年:2015/03/12(木) 02:31:27.24 ID:aE2VC+oR.net
桶狭間で今川が討たれたとき、「同盟者の敵討ち」という大義名分で
「脆弱な織田を滅ぼす」絶好のチャンスだったのに、何やってたんだろう?
秀吉とは器に差がありすぎ。

410 :人間七七四年:2015/03/12(木) 16:18:30.08 ID:oXm4E1Nv.net
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1426140502/

武田信玄総合スレッド

411 :人間七七四年:2015/03/12(木) 17:25:06.78 ID:LopqbdkW.net
>>409
今川領(松平含む)を通らずにどうやって尾張を攻めろと

412 :人間七七四年:2015/03/12(木) 22:20:03.19 ID:+R+IoQIY.net
勇敢な武田の将は常に最前線で戦うからね。

413 :人間七七四年:2015/03/13(金) 20:17:56.44 ID:vNW6tumG.net
なんでもかんでも突出すればいいというものではないが・・・・

414 :人間七七四年:2015/03/13(金) 21:18:49.30 ID:rnLzWYdB.net
>>411
ヒント:武田と今川は同盟者

415 :人間七七四年:2015/03/13(金) 21:21:33.17 ID:nSg1vNRK.net
対照的に上杉家は戦死した武将は珍しいよね
信長の野望の武将紹介で上杉家の武将は「〜帰参した」や「〜会津転封に従った」など地味だが、武田家は「全身に銃弾を浴びて死んだ」や「乱戦の中に突入して死んだ」など派手に散ってる

416 :人間七七四年:2015/03/14(土) 03:13:58.94 ID:tURAvlnp.net
戦犯長篠の戦い

417 :人間七七四年:2015/03/14(土) 12:22:01.51 ID:b6+6pE2j.net
そりゃ滅びた大名家なんだから戦死しても不思議はないよ
上杉も本能寺前は魚津城攻防で戦死してね?

418 :人間七七四年:2015/03/14(土) 12:45:37.87 ID:b6+6pE2j.net
只、謙信の時は確かにあんまり死なないイメージあるかな
負けはしても別にって感じ
ワザと少数で決戦挑まれるようにするとか
ゲームじゃないのに良く出来たなって気がする

419 :人間七七四年:2015/03/15(日) 08:29:31.98 ID:1gGGVChW.net
どの家にも言えることだが名のある重臣クラスが戦死しだしたら末期だな
当然といえば当然だが

420 :人間七七四年:2015/03/16(月) 10:22:40.43 ID:We6H3K1J.net
>>414
流石にそこまではさせてくれねーと思うよ

421 :人間七七四年:2015/03/16(月) 17:02:30.97 ID:FMu/g/rf.net
他国攻めるんで通して♪って言って侵入しておまえん家よこせー!ってのはありがちな手ですしね。しかも信玄だしw

422 :人間七七四年:2015/03/16(月) 17:30:05.66 ID:q56jeHQF.net
信玄にその気が無くても(当然あるだろうがw)、三河国人は普通になびくだろうな

423 :人間七七四年:2015/03/16(月) 19:27:13.23 ID:sx5EM92y.net
同盟国を通って他国を攻めてもなんの利益にもならないって、2千年以上前に中国で否定されてた

424 :人間七七四年:2015/03/16(月) 20:51:52.90 ID:Kx76MJa5.net
信玄にとっては今までビビリ倒していた義元がこうもあっさり死んだ時点で
尾張に攻め込むなんてのはとうてい考えられないことだったろうな
義元のおかげで今川はその後も数年は永らえることはできた

425 :人間七七四年:2015/03/16(月) 21:12:46.96 ID:3+PhyF4M.net
敵勢を把握するために最前線で陣頭指揮をして士気をも鼓舞するってのは日露戦争までは非常に有効な采配だった。
日露戦争では指揮官以上のものが大量に死んでいく為、日本陸軍部は指揮官欠乏に悩むことになった。
日本陸軍が国力が違い過ぎるロシア帝国に勝った理由である。

426 :人間七七四年:2015/03/18(水) 00:38:02.68 ID:1YrRHAZl.net
>>424
義元が死んだ後の混乱した駿河は無法地帯だよ
盗賊やレイプが横行して今川家も政治どころじゃなくなってる
政治の空白地帯になった国ってのは消滅した方がマシってくらいの地獄絵図

427 :人間七七四年:2015/03/18(水) 07:51:34.99 ID:YZTRZqt1.net
義元が死んだら同盟破棄して今川に攻め込む
信玄が死んだ後に武田に攻め込まなかった上杉に対して、謙信が死んだ後は節操なく越後に進行している
金もらって引き返したけどどうみても武田のやってる事は信用失うわな

428 :人間七七四年:2015/03/18(水) 13:27:57.36 ID:Hw8paSA3.net
義龍死んで即攻め込んで大敗する信長
義龍や三年死を隠した信玄らの7回忌で喪に服している時を狙い
美濃や甲斐を盗んだ信長。

429 :人間七七四年:2015/03/18(水) 13:49:52.93 ID:4ixelzrn.net
喪中に攻め込んではいけないというルールはない

430 :人間七七四年:2015/03/18(水) 13:52:19.11 ID:4ixelzrn.net
>>427
そもそも武田が滅ぼされた際に攻めていた織田徳川北条は
全て武田のかつての同盟者だからな
いかに武田が節操なく同盟破りを繰り返していたかがわかる
最終的には誰も保護せず、上杉に泣きついた信清と僧籍に入った信道以外は全員死んだな

431 :人間七七四年:2015/03/18(水) 17:17:44.27 ID:fLwFMG1Y.net
>>430
娘婿がことごとく敵に回ったしw

432 :人間七七四年:2015/03/20(金) 06:47:45.03 ID:bQpfzmBD.net
信玄は常に信義を守っているし。
裏切られてる方だから。
壊れたカセットみたいに何度となく執拗に
大ウソを繰り返し続けて洗脳しようとするチョン織田厨。

433 :人間七七四年:2015/03/20(金) 07:41:51.80 ID:eHCrNJ50.net
や、裏切りは信玄の十八番だろ
だから落ち目になったから武田を裏切るのは当たり前
そういう家風

434 :人間七七四年:2015/03/20(金) 08:09:43.21 ID:joeTd9qm.net
>>432
信義を守ってる?裏切られる方?
それって何処の国の信玄?

435 :人間七七四年:2015/03/20(金) 08:32:15.67 ID:Fm36OIQB.net
落ち目になったところを狙うのが戦国時代じゃ

436 :人間七七四年:2015/03/20(金) 11:24:57.76 ID:g3rmC1Q/.net
>>434
南朝鮮では例え自分が原因でも相手に非があると言い出すからな

437 :人間七七四年:2015/03/20(金) 13:02:48.39 ID:/l1IUuM7.net
延暦寺「ごめんなさい」

438 :人間七七四年:2015/03/27(金) 16:04:34.33 ID:CJtd+1SG.net
菅沼って韓国人みたいだなw

439 :人間七七四年:2015/03/29(日) 00:33:04.06 ID:Il9bACYc.net
>>430
織田家は皆に保護されたよな。
信義の違いか。

440 :人間七七四年:2015/03/30(月) 16:03:50.19 ID:U4uzn/UG.net
>>439
そりゃまあ後に天下を獲ったのは家臣や半従属国だからな
武田だって遺臣かかえて表向きは信玄を尊敬してる徳川に保護されてるし

441 :人間七七四年:2015/03/31(火) 23:09:53.65 ID:TZpZ6Z37.net
信玄最強!

442 :人間七七四年:2015/04/03(金) 03:30:15.92 ID:Z9ajFt8P.net
軍記講談で謙信を義の武将と設定し
その正反対の位置として信玄のキャラ付けして
話として面白くしたんだろうけど
実際の信玄はけっこう弱気で病弱なんだよね。
欲深いところなんてまるでないし。

443 :人間七七四年:2015/04/03(金) 09:36:37.46 ID:tsDCeEhy.net
信玄って信長との同盟をまもる為に、
信長が東美濃を実行支配し始めたのも
見て見ぬフリをして、
信長と石山本願寺の和睦斡旋をしたりしてるしな。

444 :人間七七四年:2015/04/04(土) 15:41:02.31 ID:XmPubklZ.net
信長と石山本願寺の和睦斡旋とか仲介者の実体知ってて言ってるの?
どう考えてもネタだよな。

445 :人間七七四年:2015/04/05(日) 21:48:43.03 ID:fTcXbVYX.net
また信長厨涙目だな。

446 :人間七七四年:2015/04/07(火) 02:18:04.59 ID:Z8D8tao+.net
信玄かっこいいな。

447 :人間七七四年:2015/04/09(木) 00:53:55.54 ID:aJJfW3jG.net
最近、やっと織田信長厨がしおらしくなったな

448 :人間七七四年:2015/04/10(金) 14:13:24.26 ID:hBOozWtY.net
最近は偽武田厨のコピペキチガイ在日が
アンチ豊臣政権に必死になってるだけだな。

449 :人間七七四年:2015/04/11(土) 00:51:19.59 ID:JRtKRyIc.net
>>448
よし、本物のキチガイコピペというものを見せつけてやれ!!

450 :人間七七四年:2015/04/11(土) 21:31:32.44 ID:4EMA7+pF.net
あげ

451 :人間七七四年:2015/04/12(日) 20:44:27.40 ID:wAnkw3NI.net
本物のキチガイコピペまだ?

452 :人間七七四年:2015/04/13(月) 15:38:44.34 ID:QRjotoaV.net
義信は義に厚い武将だから人望もあった
義信は夫人を裏切れずやむなき反旗を翻した
ただ本気でなかった
親父の目を覚まさせるため、ちょっと抵抗してみたんだ
それがいきなり切腹を命じられた
そんな事なら義信は徹底抗戦するべきだった
そうしたら義信が勝っていただろう
義信って武将はいい奴すぎたんだ

453 :人間七七四年:2015/04/13(月) 18:28:04.33 ID:AB5Ou+3C.net
実際武田は義信の危惧通りの展開で滅亡したしな

454 :人間七七四年:2015/04/13(月) 19:01:01.45 ID:hyKzQ/ml.net
で、それを証明する一次史料は?

455 :人間七七四年:2015/04/13(月) 20:21:08.56 ID:4QpfwKoR.net
駿河征伐で甲駿相同盟を崩壊させたのが、かなり悪手だったと思う。
元々外敵だらけの末に信濃平定したのに、また敵を作るとかアホ過ぎだろ。

456 :人間七七四年:2015/04/14(火) 00:00:54.20 ID:1e2ZHKJh.net
北に上杉がいたせいで三国同盟における武田の進行先が詰んでしまったんだろうな

457 :人間七七四年:2015/04/14(火) 03:20:32.64 ID:looH5fe4.net
対上杉で行き詰った事が、武田終了の始まりだったのかな。
ただ、仮に今川が(義元死亡後も)健在で三国同盟も維持されていたとして、
だから何だという話でもあるが。
甲州征伐時に、北条が助け舟出してくれた可能性があるくらいか・・・・

458 :人間七七四年:2015/04/14(火) 05:01:56.24 ID:Dk33JKRp.net
そもそも北条氏康死後に武田北条は再同盟してるだろ
三国同盟崩壊は決定的な要素じゃないのに何言ってんだコイツ

459 :人間七七四年:2015/04/14(火) 06:46:34.41 ID:c12cARiH.net
>>458
北条厨の中では
武田に屈服して結んだ第二次甲相同盟は無かった事になってるのさw
察してやれw

460 :人間七七四年:2015/04/14(火) 07:07:17.81 ID:Hc8TcQYb.net
武田に屈して、ってのが全てだろ

「武田が信用できるから同盟結ぼう」じゃなくて
「戦況がヤバイから武田と同盟結ぼう」というわけだからな。

結局三国同盟崩壊にしろ、対織田徳川にしろ、
不信感を植えつけまくったから、いざという時頼る相手がいなかった。
唯一同盟結んでいた上杉が信濃国境になけなしを兵を派遣しただけというのが全て
滅亡当時武田のことを各大名がどう思ってたかがわかる。

461 :人間七七四年:2015/04/14(火) 07:20:44.07 ID:c12cARiH.net
>>460
同盟結んでいた上杉以外が援軍出さないのは当然なんだけどw
君の主張は結果から逆算した幼稚なコジツケだねw

462 :人間七七四年:2015/04/14(火) 07:53:35.59 ID:1e2ZHKJh.net
武田と同盟結んでも得がないんだからしょうがないよな
どうせ反故にされるしどの大名も辟易してたんだろ
たぶん「ざまあw」とか思ってたんじゃね?

463 :人間七七四年:2015/04/14(火) 08:31:18.75 ID:mpvp/azX.net
ま、武田が詰んだのは三国同盟崩壊じゃなくて
その後、織田にケンカを売った事だな
駿河制圧後は織田との同盟を堅守しつつ
武蔵から北条領を切り取っていけば良かった
御嶽城という橋頭堡も確保してたのになあ

464 :人間七七四年:2015/04/14(火) 08:51:12.06 ID:zWqAVYVm.net
豪腕でねじ伏せる
あんな外交できるの

良くも悪くも信玄ぐらいだよ。

465 :人間七七四年:2015/04/14(火) 13:09:14.42 ID:looH5fe4.net
外敵に対しては勿論だが、甲斐武田の主導権維持の為に内部勢力にも
強さを誇示しなければならなかった面もある。
だから、弱みを見せたら一気に瓦解してしまう。

466 :人間七七四年:2015/04/14(火) 16:49:28.37 ID:dTj/QJv5.net
信玄のやり方を以降が真似出来ず滅びたのは、織田や北条にも同じ事が言える
で彼等を分けた差は寿命

467 :人間七七四年:2015/04/14(火) 17:22:00.63 ID:TKpp/S+9.net
>>455
軍鑑ネタだったか高坂が勝頼に駿河は北条にやって甲信に引き籠れとか献策してなかったっけ
長篠以降の武田は遠駿を守るのに汲々としてたし
南の脅威が無ければ御館の乱も別のやりようがあったかもしれんし

468 :人間七七四年:2015/04/14(火) 19:28:15.81 ID:jds4jZEM.net
駿河の放棄は献策してるが北条にやれとは言ってない

469 :人間七七四年:2015/04/14(火) 21:51:25.18 ID:Th9ODFdF.net
海に面した領土を手放す決断はどの大名も無理だろ?駿河に徳川が来たら、甲州征伐が早まるだけ。

470 :人間七七四年:2015/04/14(火) 22:20:46.37 ID:HecRf9pZ.net
いやいや駿河の放棄は織田徳川との講和の隠喩だよ
代償に駿河を割譲するくらい譲歩しても講和しろって意味だろう

471 :人間七七四年:2015/04/14(火) 22:42:16.11 ID:2cz74vuV.net
名門の血が譲歩を拒む

472 :人間七七四年:2015/04/15(水) 00:38:03.86 ID:7+AzRSfL.net
無理だろそんなの
勝頼の武威が地に落ちて一気に崩壊するわ
ただでさえあてらえの四男なのに

473 :人間七七四年:2015/04/15(水) 00:44:02.38 ID:iYUi+FQA.net
だから駿河の放棄って婉曲な表現なんだろうな
高坂の苦労が忍ばれる

474 :人間七七四年:2015/04/15(水) 02:05:21.47 ID:Er34S17R.net
高坂は晩年、男いたのかな

475 :人間七七四年:2015/04/15(水) 10:20:53.65 ID:zL4ZA7ZM.net
>>461
その上杉すら信濃国境にしかロクに兵を出さず、
しかも織田軍が武田を倒すために甲斐に殺到した状況でなお救援に赴かなかったのだが
織田徳川北条とは敵対し、かつ唯一頼みとなる上杉がコレ

仮に武田が誠実な外交を心がけていたら、今川氏真みたく命くらいは助かっただろうね
大名復帰は無理でも、家を残すことくらいはできた

476 :人間七七四年:2015/04/15(水) 10:31:11.14 ID:6IKiITbN.net
↑戦国大名に「誠実」を求める馬鹿

477 :人間七七四年:2015/04/15(水) 10:36:54.83 ID:7J5OWT4n.net
武田滅亡時に降伏・逃亡・寝返りした連中も、国力が十分と思っている時期なら、駿河どころか「東濃・奥三河・
東遠江を放棄して徳川&織田と講話する」ことすら反対するだろうな。

いずれにせよ、織田は西日本を完全統一したら、どんな難癖つけてでも武田・上杉・北条を潰そうとしそうだが。

478 :人間七七四年:2015/04/15(水) 11:25:02.80 ID:b2HGCIpL.net
信玄は無能だからな

479 :人間七七四年:2015/04/15(水) 12:41:11.10 ID:xa8qAaJo.net
刀剣乱舞、もうすぐ備後鯖満杯になるよ。いまのうち。

480 :人間七七四年:2015/04/15(水) 14:50:48.02 ID:zL4ZA7ZM.net
>>476
戦国時代は離反や裏切りだらけで荒んだ時代だと言われているが
実際はそういう信義や誠実さが一番重視された時代だからな


そらそうだろ、いつ死ぬかわからん時代に場当たり的に敵味方かえる奴がアテになるか?
そんな奴は前線にでも出して死んでも構わん、生きて益になってくれれば儲けモノレベル。

これは戦国大名同士でも全く同じこと。織田徳川同盟が長く続いたのは双方にとって双方がなくてはならない存在だったから。
北条も同盟者の今川、上杉(景虎)には支援をちゃんと出している。

誠実じゃない奴は人間社会で生き残れないよ。いつの時代でもね。

481 :人間七七四年:2015/04/15(水) 14:56:45.94 ID:zL4ZA7ZM.net
そもそも「誠実」ってのは義理人情だの薄っぺらい話じゃないからな

何かをやってくれたかわりに、お返しで何かをしてあげる。
相手が困っていたら、助けてあげる。逆にこちらも助けて貰う。
無論そこに利益やお互いの目論見があるにせよ、外交戦略では基本的な概念。

武田の基本方針ってなんだ?同盟結んで相手を油断させて
隙あらば領土を分捕って、なし崩し的にケリつけて力でまた同盟結ばせる。
今川、北条、織田、徳川・・・後期武田のやり口は大体これだわな。

確かに勢力を拡大する上では有効だが、こんな場当たり外交繰り返せるのは「力」を誇示できる間だけ
誇示できなくなったら滅ぶのは誰が見てもわかるわな。その方針をゴリ押しした信玄の罪は重い

482 :人間七七四年:2015/04/15(水) 17:58:04.78 ID:12OAb8tf.net
>>475
周囲皆敵の上杉が武田救援に本腰入れたら自領に侵攻されるのがオチと思うが
勝頼が岩櫃に逃亡したってならともかく、甲斐と越後で信濃の織田勢を挟撃しようにも当の武田勢が崩壊してるし

483 :人間七七四年:2015/04/15(水) 18:53:56.53 ID:3yvyttCV.net
浅間山噴火したから浅間山脇間道が使用不能で
好きに動かせる景勝直属の上田衆が南下できなかったからね。
真田も浅間山噴火のせいで勝頼を守りに出兵できなかったし。

484 :人間七七四年:2015/04/15(水) 20:16:51.53 ID:/UUmG9R7.net
>>481
戦国大名が必ずしも誠実である必要は無いと思うけど、信玄の行動に少しでもそういう所があったなら助けてくれる勢力も出てきたかもと感じるな

家臣にも裏切られる最期のあのしょぼい没落っぷりが武田家の全てを物語ってる

485 :人間七七四年:2015/04/15(水) 21:13:42.38 ID:lf+BYtfr.net
武田三代の興廃は、その悲惨な末路も含めてドラマティックで魅力的だね
もし武田が今川や北条のように
勝者のお情けに縋って生き永らえる凡庸さを持ち合わせていたら
些か色あせて見えただろう

486 :人間七七四年:2015/04/15(水) 22:33:45.59 ID:frolFiw9.net
>>485
武田の魅力は非凡な冷酷にあって、誠実さじゃないもんな
誠実という凡人の価値観を振りかざして、必死に過去の偉人を断罪する姿勢は見苦しい
・・・というか幼稚だ

487 :人間七七四年:2015/04/15(水) 22:37:35.03 ID:frolFiw9.net
>>480
でも北条は結局、同盟者の今川氏真も上杉景虎も見捨ててるよな
支援しただけで結果が伴なわない、形だけの「誠実」・・・
うむ、実に凡庸だな

488 :人間七七四年:2015/04/15(水) 23:32:36.72 ID:zL4ZA7ZM.net
>>487
そら流石に自国の利益が優先だからね
それはどこともそうなんだよ
でも自国の利益を優先しすぎると、武田のようになるってことだ
残る勢力ってのは、見捨て方が上手いんだよ

489 :人間七七四年:2015/04/16(木) 00:38:57.60 ID:4le9G6uo.net
織田信長が見捨てた同盟勢力、従属勢力

水野家、長宗我部家、尼子家、桂田長俊、磯野員昌、、

見捨て方が上手いというか、格下には容赦無いよな。

490 :人間七七四年:2015/04/16(木) 00:46:09.20 ID:V3DbLOKM.net
長宗我部は見捨てたに入るのか?
神保とかのほうがまだそれっぽいぞ

491 :人間七七四年:2015/04/16(木) 00:53:42.44 ID:4le9G6uo.net
織田信長は数に物を言わせて四国に大軍送り込もうとしたからね。
もし長宗我部家があのまま織田信長によって滅ぼされていたら、凄い悪評だったろうね。
見捨てたという表現じゃ生ぬるいかな?

492 :人間七七四年:2015/04/16(木) 00:54:12.37 ID:KugGXgAu.net
>>488
つまり、周りから嫌われないよう形だけの「誠実」が示せれば、
後は自分の利益優先で良いと、相手が滅ぼうが死のうが知った事ではないと
北条はそういう見捨て方が上手いんだよと、そういう事か

・・・それが悪いとは言わんが実に凡庸で小市民的だな
戦国時代を彩る英雄豪傑としての魅力が欠片もない
北条に人気のないのも頷ける話だな

493 :人間七七四年:2015/04/16(木) 00:54:42.23 ID:yAWN0+Zm.net
誠実さがまるでなく冷酷に自国の利益を優先し過ぎる大名って信長のことだろ。
だから家臣に信長は殺され、葬儀もやらずに家臣が勝手に織田領を切り分け分配され
家臣に織田を乗っ取られたんだし。

494 :人間七七四年:2015/04/16(木) 01:00:50.44 ID:V3DbLOKM.net
菅沼遼太元気だなw

>>491
いやあ長宗我部に関しては織田の命令無視してた前科があるし
擁護できないと思うけどね
尼子とか桂田の方が悲惨だと思うよ

495 :人間七七四年:2015/04/16(木) 01:02:02.89 ID:KugGXgAu.net
>>493
うむ
織田も武田も実に魅力的な大名だ
凡庸で小市民的な北条と違って

496 :人間七七四年:2015/04/16(木) 01:02:48.11 ID:4le9G6uo.net
一番悲惨なのは水野だけどな。
先祖代々、織田家がどれだけ助けられたことか。

497 :人間七七四年:2015/04/16(木) 01:12:11.39 ID:4le9G6uo.net
>>494
よく考えたら織田の命令無視とかいう発想って、ジャイアニズム全開だよな。
何のための同盟なんだ?

498 :人間七七四年:2015/04/16(木) 02:21:03.80 ID:V3DbLOKM.net
同盟だからといって必ずしも対等ではないからな
織田徳川だって実際は織田>>徳川くらいあった
それでも徳川が尽力して織田を助けたから、
織田にとってもなくてはならない存在になった

499 :人間七七四年:2015/04/16(木) 05:31:14.99 ID:i305mJwV.net
「誠実は無能の最後のよりどころ」てなことを司馬遼太郎も言ってたなあ

500 :人間七七四年:2015/04/16(木) 06:55:57.89 ID:IdH76352.net
>>494
命令無視もなんも、命令される立場にないがな
そもそも信長は四国切り取りは元親の自由にしていいという約束をしてたわけで
その約束事態を反故にしたうえに、むしろ領地を三好に返せと迫ってるんだから
元親が拒むのは当然でしょ。
同盟っていっても領地を取るために信長が何か手伝ったかというと、全く何もしてないし。

501 :人間七七四年:2015/04/16(木) 07:03:40.93 ID:IdH76352.net
まぁ信長としては、拒まれたら攻める名分が出来るから
それも見越した要求だったんだろうけどね

502 :人間七七四年:2015/04/16(木) 07:08:14.24 ID:82b0Ktrq.net
>>499
誠実でない非凡であるはずの武田も無能と言わざるをえない終焉をむかえてしまったのが悔やまれるよな

503 :人間七七四年:2015/04/16(木) 07:22:37.90 ID:Em6fmf0z.net
>>502
いやいや武田は武田らしく滅んだからこそ多くの人々を魅了する伝説となった
これでいいのさ
北条みたいに勝者のお情けに縋って飼い殺された挙句がカルト団体の会長なんて
無様すぎてw

504 :人間七七四年:2015/04/16(木) 08:05:29.04 ID:yAWN0+Zm.net
織田厨ってキチガイだな

505 :人間七七四年:2015/04/16(木) 12:49:50.96 ID:Ae/1oJHL.net
>>503
そーかそーかw

506 :人間七七四年:2015/04/16(木) 17:36:30.07 ID:V3DbLOKM.net
>>500
本当に命令される立場になかったのかな?
勢力差を見れば彼我の勢力は明らかで
どちらがより同盟を重要視すべき立場であるかわかってるはず。
まあ織田の益にならないから見捨てられたとも言えるが
少なくとも長宗我部側は織田の益になること何もしていないからな。

>>499
この時代の無能はどっちかというと誠実のかけらもない気はするがなあ
対立する勢力で優勢な方について勝ち馬に乗り、
その勢力が衰退すれば掌を返して徒に離反し、
最期は誰からも保護されず滅亡ないし衰退という印象が強いんだが
誠実なだけの奴は最悪鉄砲玉として役に立つし

507 :人間七七四年:2015/04/16(木) 22:19:21.11 ID:zHBn0GGJ.net
保護を必要とする時点で十分無能だな
生活保護受給者や親の保護で生きる引きニートが
「俺は保護されずに死んだ奴より有能」というらい空しい主張

508 :人間七七四年:2015/04/16(木) 22:27:33.42 ID:zHBn0GGJ.net
「俺は保護されずに死んだ奴より有能」というくらい空しい主張

509 :人間七七四年:2015/04/16(木) 22:58:20.73 ID:aPwyU/rj.net
保護した結果が北条みたいなカルトでは親や納税者も浮かばれないよなw

510 :人間七七四年:2015/04/16(木) 23:10:33.48 ID:beFkZaaA.net
そうかそうか

511 :人間七七四年:2015/04/16(木) 23:31:40.78 ID:wmtX+wTn.net
この流れで一番報われないのは、関東北条氏だろw
子孫があんなカルトの会長になると、祖先まで汚名を被る

512 :人間七七四年:2015/04/16(木) 23:37:10.50 ID:beFkZaaA.net
北条は小田原征伐で城を枕に討ち死にした方が良かったな
小器用に生きて保護された結果がカルト

513 :人間七七四年:2015/04/17(金) 17:44:13.87 ID:BtgxvCeM.net
>>506
四国の勢力を保持できていたなら三好はもっと抵抗できただろ

514 :人間七七四年:2015/04/17(金) 23:52:02.93 ID:vSlPOdJQ.net
北条氏政と長宗我部元親って似たような境遇なのに、
武将としての評価が天と地ほど違うよな。

515 :人間七七四年:2015/04/18(土) 00:45:46.97 ID:S0StKfvR.net
境遇が全く違うだろ
最初から関東最大の大国を受け継いだ氏政と
土佐の一国人から四国統一寸前まで勢力を広げた元親
領土のほぼ全てを占領されて降伏開城した氏政と
本国土佐を保持して降伏した元親
これだけ違えば評価が天と地ほど違うのは当然

516 :人間七七四年:2015/04/18(土) 17:44:30.75 ID:SKb4ijS0.net
>>515
氏政と比べるべきは輝元とかじゃないかね

517 :人間七七四年:2015/04/19(日) 12:48:13.53 ID:tly4Yzv4.net
>>481
実績からいうと織田信長と同盟結ぶより武田信玄と結んだほうがマシ
というのが回答。>>489

518 :人間七七四年:2015/04/19(日) 16:28:07.13 ID:vuNk+nAq.net
>>491
だまし討ちだな
アメリカがよくやってる

519 :人間七七四年:2015/04/24(金) 00:25:31.44 ID:FDGgJMNt.net
織田と武田の両立は最初から無理だろ

520 :人間七七四年:2015/04/24(金) 17:37:56.27 ID:Us7M6BKl.net
信玄が西に欲を出さなければ上杉が潰れるまでは関係破綻しなかったと思うけどなあ
実際に武田征伐以前は織田は美濃以西に手を出していないわけだし

521 :人間七七四年:2015/04/24(金) 23:20:26.73 ID:FDGgJMNt.net
東は嫡男の織田信忠に任せてただけで美濃以西に手を出していないわけじゃないと思う。
岩村城とかきっちり攻略してる。

522 :人間七七四年:2015/04/25(土) 17:42:17.17 ID:/otmXufS.net
関係を維持するということはそもそも秋山の岩村攻めも無いわけで

523 :人間七七四年:2015/04/25(土) 19:33:43.33 ID:e8z1r/Oo.net
それは最初に信長が手を出したからだろうが。
しかも信玄が信長のために石山本願寺に和睦するように説得に成功した矢先に裏切るという恩知らずぶり。

524 :人間七七四年:2015/04/25(土) 22:09:15.70 ID:i/s7+vau.net
お、菅沼遼太か?

525 :人間七七四年:2015/04/25(土) 22:13:54.84 ID:CWSboNJi.net
お、泣かせちゃえ、泣かせちゃえ

526 :人間七七四年:2015/04/30(木) 21:02:13.96 ID:GqMaBRfs.net
>>522
東に苦手意識でもあったんじゃないかな?

527 :人間七七四年:2015/05/03(日) 01:53:24.44 ID:ArDX7pbH.net
✕東に興味が無い
○武田領に興味が無い

528 :人間七七四年:2015/05/03(日) 16:13:56.05 ID:xund08BF.net
信玄って結局は、信濃取らないと甲斐から出れないから、信濃を攻めた訳でしよ?まぁ信濃統一に時間かかり過ぎたのと、西上野に手をだしたのは、間違いかもね。

あと、駿河を攻めたのは海と金山があるからでしょ?

信玄は、北条と今川に塩停め食らってるからどうしても海が欲しかったんじゃないのかね

529 :人間七七四年:2015/05/03(日) 17:49:14.06 ID:hSfLpXIW.net
塩も必要だが、何よりも港と水軍
これからは年貢とは違う経済力を養わなきゃ国は強くならないって事をこの時期の大名は皆痛感してる
結局は金で、金の量が兵力や権力しいては天下に直結する最重要項に名実共になった時期
潤沢な経済力さえあれば鉄砲も調略も思うまま、向こうから権力がやってくる
逆に経済力が無い大名は血を流し割に合わない無駄な戦が増えて潰れていく

530 :人間七七四年:2015/05/03(日) 18:26:41.96 ID:xund08BF.net
>>529
なら、徳川は麾下に置くべきだったのにね、三河遠江駿河を持っておけば、更に躍進出来たのに。

村上潰す前に謙信と同盟できんかったのかね?謙信は塩停めしてなかったのに

531 :人間七七四年:2015/05/03(日) 18:28:36.05 ID:xund08BF.net
>>529
織田はどうだったの?尾張やら機内もってて、経済的に潤沢だったし鉄砲も沢山もっててたやん。斎藤道三在命中に鉄砲三千くらいで、道三と面会シタんだよね?

532 :人間七七四年:2015/05/03(日) 21:06:08.15 ID:v6+tWCbX.net
鉄砲三千って、どこからそげな数を…

533 :人間七七四年:2015/05/03(日) 22:52:25.31 ID:nHqPo2iH.net
機内だから、きっと飛行機に占有スペースを持っていて空輸・・・

534 :人間七七四年:2015/05/04(月) 04:14:54.38 ID:W8Kt+ROR.net
信秀は潤沢な資金あったが
信長は貨幣政策に失敗して
貫高制が崩壊。
ついには内政放棄し、各地で虐殺略奪を続けて兵を養う一国亡国政策のもと、
私戦を繰り返した結果、家臣に火炙りの刑にされる。
まさに破壊と虐殺で混迷を深めただけの信長。
秀吉は朝廷からの公認のもと惣無事令を公布し、
それに従わない朝敵征伐の公戦を行い日本に秩序を樹立した創業の人。

535 :人間七七四年:2015/05/04(月) 07:35:32.29 ID:Fv4o2Ett.net
>>534
えっ?信長って政治下手だったんやね

536 :人間七七四年:2015/05/04(月) 13:24:35.17 ID:UMVEbxVl.net
>>527
そこについては諸説あるけど、まず前提として信玄の病状が末期であった事から以下二つが定説
1・三方原の戦いは上洛途中の前哨戦であり、畿内から相次ぐ催促があり浅井側の兵も有限であるので急がなきゃならなかった

2・三方原の戦いは西上における武田本隊の一手であり、徳川の処置はこれから決めるつもりだった。その根拠に同時期に甲斐を出た別動隊が尾張の岩村城を落とし織田侵攻への布陣が出来ている

学者には2に近い説が優勢
ただし、武田はこの時期にかなり大規模な水軍を編成していて海と陸から挟撃しようとしていた形跡があるんで、
個人的には信玄は死ぬ前に尾張の岩村城、三河の徳川領、伊勢からの水軍の大軍で浅井朝倉に加勢し、松永や畿内の豪商を一斉離反させるつもりだったんじゃないかと思う
こうなると上杉はどう動いても旨味少ないし

話それたが、どちらにせよ徳川を始末出来なかったのは病状の悪化が起きたからってのは共通の認識じゃないかな

537 :人間七七四年:2015/05/04(月) 13:37:19.53 ID:UMVEbxVl.net
>>531
信長は政治は上手かったよ。少なくとも現代の基準で見たら
信長はまず堺を押さえて、膝元に鉄砲を量産出来る工場を備えている。この時点で兵力としては倍近くに値すると考えていい
織田軍の強さは金の力に裏打ちされてる
ところが性急に制圧して人心の掌握が間に合ってないから、堺の豪商や土豪からは反感を買っている
当時の豪商は大名に近い経済力がある
他にも領や政に対する考え方が独特で、それを新しく軍門に下ってきた家臣に伝達仕切れてなかった為に誤解や混乱もあった

結論として、やり方が間違ってたとは言えないが性急すぎたツケが後々色んな形で自分の首を絞める事になる
これが織田政権の唯一の弱点

538 :人間七七四年:2015/05/04(月) 15:11:52.13 ID:wJPqFuF4.net
>>537
なんで、信長はそんなに堺などの自治の当地を急いだの?やっぱり美濃攻略で何度かしくじったからかな?

539 :人間七七四年:2015/05/04(月) 15:51:56.57 ID:uZ/wLYfR.net
信長は金が全くないから各地で恫喝威嚇して金を出させた。
堺も尼崎同様に2万貫要求を拒否して足弱や子供も紀州一向衆に預けて籠城体制を敷いたので、
別所に陣を敷いた信長が手始めに当時最大の商都尼崎で大虐殺を開始し完全に地図上から尼崎を消し去る壊滅作戦を展開したため
恐れをなした堺の自治会合衆10人が岐阜へ降伏に赴いたら8人が信長に惨たらしく殺され、
堺代表が今後、松永久秀が紹介した借金取り立て屋の今井宗久の若僧になり、
堺の人々は影で石山本願寺に援助していた紀州一向衆&三好を後援することになる。
本能寺の変の黒幕が堺会合衆という説もここからでてる。

540 :人間七七四年:2015/05/04(月) 16:16:55.78 ID:wJPqFuF4.net
>>539
なんでや、尾張は裕福な筈やろ?
虎の皮とか朝廷に献上してるし

541 :人間七七四年:2015/05/04(月) 16:19:10.70 ID:Q3cOvune.net
いくら日本語が自在な文法を有するとはいえ、主語が3転4転するのはむごたらしいわ。

542 :人間七七四年:2015/05/04(月) 16:35:37.00 ID:uZ/wLYfR.net
ちなみに高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆による大なる宗教共和国が
紀伊国、和泉国南部、河内南部、大和南部、伊勢南部という広範囲に渡って支配を及ぼし、
石山本願寺や北畠や三好らを支援していた。
彼らが大量の鉄砲を製造し火薬製造に必要な硝煙の独占をして通商制海権を握っていた。
結局、彼らに信長は敗北し機内統一に失敗して死んでしまった。
秀吉は彼らに対して信長ができなかった圧倒的戦力差を見せつける位攻め戦略をとって
あっという間に本拠地高野山を制圧してしまい、秀吉直轄軍の出陣すら必要なくなったので秀吉は越中佐々成政制圧に方向を変えるとともに
高野山に命令して一向一揆と自治都市を中核戦力とする紀伊共和国水軍を四国攻めに動員。
佐々成政&紀伊共和国&長宗我部ら徳川同盟国をすべて速攻制圧してしまった。
この間、家康は秀吉を恐れて彼らを見捨てた挙句に真田家に大敗する史上最弱のバカ無能を晒す。

543 :人間七七四年:2015/05/04(月) 16:45:37.40 ID:uZ/wLYfR.net
>>540
信長が永禄12年に撰銭令の猿真似をやって
見事に経済破綻させてしまった。
このため貫高制まで崩壊してしまい、
この後、信長は内政や経済政策を一切やらなくなり、領地支配の深化を放棄したために軍政改革すらできず織田軍は現地略奪型補給により軍を養う旧態の軍隊だった。
だから一揆や謀反、反乱だらけで信長は一生を終えた。
支配は家臣に一職支配という独裁権力を与えて内政丸投げをやったために
家臣が国人と信長を通さずに主従関係を結び軍閥化してしまった。
だから家臣の光秀が信長を殺したり、
織田家を無視して織田領の切り分けを勝手にやれた。

544 :人間七七四年:2015/05/04(月) 16:49:28.67 ID:UMVEbxVl.net
>>538
それに関しては最大の原因が鉄砲なのは間違いない
いち速く鉄砲のルートを独占したかったから
信玄は信濃平定に20年費やした。これは信濃を人心含め甲斐の領土にしたかったから
対して、信長は桶狭間から畿内制圧を12年で終わらせている。これは近隣の大名より先に鉄砲を押さえたいからに他ならない
これより10年以上前から既に西国の島津は鉄砲を投入してるし、大友は大砲まで持ってた
なんで、信長は性急に堺を鉄砲と自由経済の為に私物化しなきゃならなかったというわけ
また鉄砲の独占は他国へ鉄砲を渡さない為の防御策にもなる

ちなみにポルトガルが伝えた鉄砲を独自に量産して大量投入してた国はアジアだと日本だけ。いかに当時の日本人が賢かったかがわかる

545 :人間七七四年:2015/05/04(月) 16:54:12.42 ID:2sHmAB8G.net
晴信は孕石元泰を配下に加え、一方
信長は松平元康を配下に加えた。
この時点で勝負あっただろ。

546 :人間七七四年:2015/05/04(月) 17:18:44.94 ID:wJPqFuF4.net
>>543
なるほど、教えていただきありがとうございますm(__)m 見識が変わりました

547 :人間七七四年:2015/05/04(月) 17:23:53.56 ID:wJPqFuF4.net
>>544
まぁ、鉄砲を雨でも使える様にしたのは日本ですしね。それに、近江の国友にも鉄砲を作れる職人たちがいたしね。

武田はどのルートで鉄砲を入手してたの?越後方面?相模や武蔵方面?

548 :人間七七四年:2015/05/04(月) 17:31:23.72 ID:wJPqFuF4.net
武田滅亡の遠因は信玄が作ったってのも当たりではあるんだろうけど、信虎の代でようやく甲斐武田家で甲斐を統一出来てからやのにもう少し早くに甲斐を統一出来てたらまた違ったのかもしれんが、信縄って優秀じゃなかったのかな?

549 :人間七七四年:2015/05/04(月) 19:36:42.19 ID:TzwOVVyQ.net
今川家が駿河、遠江に加え尾張にまで今川氏親の代に勢力を伸ばせていたのに比較すると
武田家は明らかに事前の勢力拡張に失敗しているからな。
武田家の父子相克が深刻だったのも一因だが。信虎の父信縄も父や弟と抗争する惨状だし。
信縄が順調に家督相続していれば、信虎の信濃への拡張も史実より順調に進み、
信玄が家督を奪取した際には、甲斐、信濃2か国を武田家が抑えられていたかも

550 :人間七七四年:2015/05/04(月) 20:40:29.21 ID:X5u62ZnA.net
一職支配の制度は、三好長慶が考案した統治体制で、
律令制の行政単位を否定し、摂津を上郡下郡に分けて、広域行政単位となし、
さらに重層的な土地権利を一括し、
荘園領主を否定する性格を持つもので、
松永久秀が摂津下郡一職支配を任されていた。
一方で国人や有力者との独自の主従関係を作り、
軍閥として盤踞する恐れがあるため、
久秀は永禄3年に大和へ転出させて、
在地支配の確立を阻害してる。
それを理解せずに全てを丸投げと誤認した信長は致命的失敗をやらかしており、
信長の一職支配は三好の考案した制度の単なる劣化パクり。
しかも荒木が主従関係を作り謀反するなど、
猿真似でやはり大失敗してるし、
本能寺の変後に、織田家を傀儡政権にする
家臣の軍閥化を完成させてしまった。
言わば、三好長慶の一職支配制度を内政丸投げと誤認理解し、
守護領国制との違いを信長が理解出来てなかったために、
結果的にリーダーシップなり、カリスマ性を持つ光秀らが軍閥化してるのに気付かずに、
信長への謀反が成立できる在地主従化を完成させてしまった。

551 :人間七七四年:2015/05/04(月) 20:41:38.05 ID:X5u62ZnA.net
信長が在京せずに京を遠隔支配している手法も三好長慶が考案した手法だしね。
長慶は村落や都市共同体など将軍や幕府機構などの権威を必要としない
新興自治と国人のコミュニティーを持つ地域に独自の支配機構を構築し始め
その成長促進と商業収益を政権基盤として芥川城に在城していた。
信長って長慶などの猿真似はするんだけど、形だけパクってるだけで
魂の部分を理解してないから新興自治と国人のコミュニティーを潰して
京を遠隔支配すべく安土城に居城した。そして光秀の謀反であっさり近江が光秀に組み込まれた。

552 :人間七七四年:2015/05/04(月) 20:42:46.06 ID:X5u62ZnA.net
小規模な範囲での興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
ミクロレベルでの政策なら一定の成果が上がるが、マクロレベルでやった信長はアホ。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。
一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。
このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。

553 :人間七七四年:2015/05/04(月) 20:44:04.03 ID:X5u62ZnA.net
信長公記70種類以上をすべて閲覧研究した唯一の人で信長研究の第一人者の金子氏の信長評

「戦国大名は天下統一の為に競い合っていた」という戦国大名観は近年では否定されていますが、
信長だけは例外と見做されてきました。しかし著者が発見した書簡を初めとする史料から見えてくる
客観的な信長像は、他の戦国大名とさほど違ったものではありません。
有名な「天下布武」の印章も、信長が「天下を取る」ことを宣言したものではありません。
天下とは日本「全国」ではなく、京都を中心とした畿内のことに過ぎません。
「天下布武」とは、畿内の秩序維持を、足利将軍をサポートして自分が執り行うという意味なのです。
秀吉が行ったのはまさに「全国統一」でしたが、信長にはそういう意志はなかったのではないでしょうか。
しかし『天下布武』の構想も信長の言うなれば「脳内」のものに過ぎず、
「大義名分」として説得力のあるものではありません。信長が足利義昭になりかわって
事実上の将軍の職務を担っているからといって、
他大名には信長の「言い分」に従わなければならないいわれはないのです。
結局、信長は武力で「言い分」を認めさせるしかなくなります。
自称「天下をおおせつかっている」信長は、かくして諸大名との衝突を繰り返します。
例えば上杉氏とは当初、良好な関係にありましたが、
信長の版図が拡大し直接境を接するようになると両者は戦争になります。
そのような行動が後世の目で見ると、着々と諸勢力を征服して
「天下統一」へと邁進していたかのように見えたのです。
そもそも信長は、組織的な「政権」は作りませんでした。
征服した領土の経営も家臣に丸投げで、支配の方式に革新的な面はありません。
その点でも秀吉に比べ信長の「権力」は中途半端な中世的な段階に止まっていたと見做した方がよいのです。

554 :人間七七四年:2015/05/04(月) 20:44:53.77 ID:X5u62ZnA.net
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
従って武篇道と戦果が問題となる。

池上裕子→武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹 →信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。

大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地→興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地→興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。つかできない。

北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。

555 :人間七七四年:2015/05/04(月) 21:25:52.46 ID:LeLQhYFy.net
無能ゴミ信長

556 :人間七七四年:2015/05/05(火) 09:39:48.05 ID:X5zVq42X.net
>>547
多々あるけど武田は主に同盟国だった駿河方面を経由して鉄砲を集めていた
堺まで買い付けにも行ってる
とはいえ鉄砲のルートはどの国も他国に渡らない様に封鎖してしまう
そこで重要なのが商人との伝。豪商との伝があれば各国様々な抜け道から鉄砲を買う事が出来る
当然、商人に物を言うには大名といえ金しかない。そこで金山が殊更重要になる
晩年、武田が駿河に侵攻した理由の一つにも安部金山がある
甲州金は力があったんで、信玄も侵略を繰り返し大小様々の金山を奪って湯水のごとく金を外交や軍備に使ってる
甲斐は港がないから
この時期の武田軍の鉄砲の所有数は3000とも4000とも言われるが全国的にも多かったと言われる

557 :人間七七四年:2015/05/05(火) 11:47:10.96 ID:ayPINQaJ.net
>>556
ほうほう、めちゃ勉強になります教えていただきありがとうございますm(__)m

じゃあ信玄が本願寺と仲良くしたのも鉄砲を入手し易くする為と考えたら良いの?

しかし、戦国時代は大変やね、土地を与えないとあかんしその上で言う事聞いて貰うために金まで使わないとあかんなんてね。

558 :人間七七四年:2015/05/05(火) 12:40:58.29 ID:X5zVq42X.net
>>557
本願寺と仲良くしたというよりも、信玄は本願寺に限らず神仏を政治軍事に積極的に利用していた大名
自分で入道したのもそうだし、自分で滅ぼした諏訪神社大祓の諏訪氏の関係者や信長が滅ぼした比叡山の3人の大僧正なんかも救って厚遇保護して民衆や仏門の支持を利用した
だから信玄期の甲斐は、あれだけ権勢を奮った一向宗の一揆には一度も晒されていない
それどころか、西上の際に上杉を釘付けにする為に金を使って一向一揆を煽ってる
信玄は畠山氏の水軍や伊勢の海賊も金と名声で買い取ってるくらいだから、本願寺から鉄砲を仕入れる算段もあったと思われるが明示されてる資料は無い

559 :人間七七四年:2015/05/05(火) 14:22:52.24 ID:ayPINQaJ.net
>>558
伊勢の海賊も傘下にいたなら、石山本願寺からのルートで入手できたと思うけどね、伊勢長島城とか本願寺の物だったから。しかし仏教を政治的利用したのは、賢いよね。

信長なんか一向宗に手を焼いてたからね。

560 :人間七七四年:2015/05/05(火) 20:28:04.13 ID:89XLdrxD.net
菅沼遼太暇そうやね

561 :人間七七四年:2015/05/05(火) 20:56:44.47 ID:urf4R6eW.net
というかはっちゃけてて笑える

562 :人間七七四年:2015/05/05(火) 22:25:19.58 ID:8NHEmS/9.net
>>560
話をまともに聞いてくれそうなお客さん相手には
張り切ってるのが見え見えで笑えるんだよなw

563 :人間七七四年:2015/05/06(水) 19:50:30.43 ID:ZssKEhcH.net
キチガイ大虐殺者信長

564 :人間七七四年:2015/05/07(木) 05:54:29.58 ID:gLajdRhE.net
武田スレを信長ネタで荒らすあたりが菅沼遼太w

565 :人間七七四年:2015/05/07(木) 17:39:25.09 ID:jZph/ZRJ.net
>>528
上野って太閤検地でほぼ50万石あるのだよね
八方塞がりの武田にとっては美味しい土地だよ

566 :人間七七四年:2015/05/08(金) 10:44:44.67 ID:Ekk0wL1H.net
まあ勝頼のせいではないわな

567 :人間七七四年:2015/05/09(土) 09:11:58.55 ID:3zCLakSp.net
長篠で大負けこいた事実は動かん以上、
勝頼に非がないなんてのはありえんわ

568 :人間七七四年:2015/05/09(土) 20:36:26.90 ID:C52jjzT1.net
信玄のせいだろ。
鉄砲買わなさすぎた。

569 :人間七七四年:2015/05/10(日) 02:59:08.00 ID:32wh+MvN.net
まあ、滅亡の遠因は信玄の領土拡張ペースがゆっくりすぎたことだろ

武田は、信虎があのまま当主をやっていた方が良かったかもな
信虎なら、信玄より5年は早く西上野まで制して東海道に
出てきただろう

で、織田信長が美濃を制した頃には、信虎は独力で今川を
滅ぼして三河まで制していたんじゃね

で、背後が怖くて、信長は上洛できなかったと思う

570 :人間七七四年:2015/05/10(日) 09:52:59.27 ID:DBizPw+S.net
戦国時代の領土拡大は、征服地からの徴税・動員とそれによる兵力差での勝利という、雪だるま落とし的な勢いが加速するまでは
どの大名もゆっくりだろ?

調略はともかく、出兵で無理をし過ぎれば国人・領民がついてこない。現に信虎は追放された。

571 :人間七七四年:2015/05/10(日) 16:26:43.60 ID:ScCvi0L2.net
信玄は一代で領土を五倍に広げてるのに「ゆっくりすぎ」はない
隣の今川義元や北条氏康なんて二倍未満だ

572 :人間七七四年:2015/05/12(火) 15:44:58.38 ID:6hEzNhsr.net
山しかないボロボロの信濃と関東平野を一緒にしないで

573 :人間七七四年:2015/05/12(火) 15:56:33.08 ID:eF515ujv.net
>>572
しかし、良くあの関東平野で戦えたよね北条って、足利公方やら宇都宮やら佐野やら、太田やら佐竹などがひしめき合う中良く勢力拡大できたよね

574 :人間七七四年:2015/05/12(火) 15:57:54.42 ID:eF515ujv.net
>>569
信虎は出陣しまくりで領民から怨嗟の声も出てたし、反対する家臣も手打ちにするしで、追放やむ無しだったんだろうけどね。ある意味可哀想だけどね

575 :人間七七四年:2015/05/12(火) 17:35:40.98 ID:Q1k+tG/u.net
>>573
ひしめき合ってるから逆に個々の力は弱いのじゃない?
武田の信濃と同様

毛利(大内・尼子)織田(斎藤)みたいに大勢力を粉砕できれば急拡大できるのだけどな

576 :人間七七四年:2015/05/12(火) 23:12:38.19 ID:eF515ujv.net
>>575
まぁ、両上杉と足利公方を倒したのが大きいよね

577 :人間七七四年:2015/05/13(水) 19:20:34.03 ID:L9Q84811.net
戦国大名の評価は広げた領土の面積や石高だけじゃ決まらんわな。そこが群雄割拠か、大大名がいたかでまるで違う。

関東や畿内周辺みたいに、服従と敵対をコロコロ変えられるのも面倒ではあるが。

578 :人間七七四年:2015/05/13(水) 20:01:51.30 ID:Cm+4W31x.net
継いだ時より勢力を広げて次代で滅びなかった大名は評価していいかな
次代で滅びるようなケースは後継教育や体制構築が不味かった場合が多いから

579 :人間七七四年:2015/05/13(水) 20:41:20.73 ID:EXoh/wKq.net
>>578
氏政は?
まぁやつが政局を見誤ったのと、運が悪かったことに起因する滅亡だけど。

580 :人間七七四年:2015/05/14(木) 01:05:35.33 ID:7TSLYieO.net
>>578
長宗我部は?元親の爺さんの代で一度滅んでるんですが

581 :人間七七四年:2015/05/14(木) 05:49:01.71 ID:2AEHjIQq.net
>>572
うむ、一緒にするのは良くないな
どう考えても山より平野の方が攻めやすく、領土を広げやすいのだからw

582 :人間七七四年:2015/05/14(木) 06:34:02.72 ID:v7yooI9s.net
北条氏康て両上杉とか古河公方とか倒したのに
領土の拡大は2倍未満なんだな

583 :人間七七四年:2015/05/14(木) 07:08:34.47 ID:H+bCz1MU.net
>>582
氏康は家督時から関東最大の大大名だからね
でも一時的には三倍以上に広げてるよ
その後、謙信とか信玄とか里見に負けて領土を奪われ、最終的に二倍未満で終了

584 :人間七七四年:2015/05/14(木) 14:23:40.67 ID:h2Y7Zul6.net
氏康は今川義元にも負けて領土を奪われてる

585 :人間七七四年:2015/05/14(木) 14:27:21.91 ID:InUO/tfV.net
だが彼らは北条家より断然早く滅びてしまった

586 :人間七七四年:2015/05/14(木) 14:33:47.94 ID:h2Y7Zul6.net
北条氏康は信長と領土を接してなかったからな
ちなみに大名としては里見家は北条家よりも長く続いた

587 :人間七七四年:2015/05/14(木) 14:54:53.69 ID:yAN8ErhE.net
上杉は滅んでないし

588 :人間七七四年:2015/05/14(木) 15:06:36.19 ID:qRPAcxB/.net
>>586
おい!里見が北条より長く大名として続いたなんて初耳だぞ!
ゲームだと即滅んでるんですが、ソース下さい

589 :人間七七四年:2015/05/14(木) 15:11:13.57 ID:InUO/tfV.net
>>586
最後があっけなさすぎるんだよな〜
まぁ北条も最後はボロボロだったけど

590 :人間七七四年:2015/05/14(木) 15:14:03.65 ID:h2Y7Zul6.net
>>588
少しはググレカス!
大名としての北条家は秀吉に滅ばされたが里見家が滅んだのは秀吉死後

591 :人間七七四年:2015/05/14(木) 15:22:23.40 ID:h2Y7Zul6.net
>>589
大名としては里見家や上杉家は北条家よりも長く続いた事を知ってるのに
>>585をレスした訳だ
とんだ嘘吐き野郎だな

592 :人間七七四年:2015/05/14(木) 15:26:45.24 ID:qRPAcxB/.net
>>590
ググってきました、里見は新田源氏系統だと、知りさらに驚きました。

つか、大久保忠隣の失脚に連座してお取り潰しとか、カワイソス

593 :人間七七四年:2015/05/14(木) 15:36:09.24 ID:yAN8ErhE.net
>>591
北条厨は北条に都合の悪い話をごまかす為なら
いくらでも嘘をつくからね

594 :人間七七四年:2015/05/14(木) 17:07:18.35 ID:InUO/tfV.net
>>591
何切れてんのお前こわ

595 :人間七七四年:2015/05/14(木) 17:12:07.07 ID:h2Y7Zul6.net
>>594
嘘吐き北条厨乙

596 :人間七七四年:2015/05/14(木) 17:20:54.72 ID:InUO/tfV.net
>>595
何怒ってるかわからないけどその性格なおしなよ

597 :人間七七四年:2015/05/14(木) 17:26:17.34 ID:h2Y7Zul6.net
複数の人間からその嘘を指摘されてるのに
「何怒ってるかわからない」と、とぼけ「その性格なおしなよ」と相手の人格批判
北条厨とは最低のカスだな

598 :人間七七四年:2015/05/14(木) 17:47:14.06 ID:InUO/tfV.net
>>597
北条は今川や武田より早く滅びたの?

599 :人間七七四年:2015/05/14(木) 17:47:51.47 ID:InUO/tfV.net
嘘ってなんなんだ…

600 :人間七七四年:2015/05/14(木) 17:52:39.95 ID:h2Y7Zul6.net
なら今川武田とレスすればいいのに「かれら」と
里見や上杉まで含まれるようなレスをするから嘘吐きと呼ばれる

601 :人間七七四年:2015/05/14(木) 17:54:33.53 ID:InUO/tfV.net
>>600
お前糖質かなんか?
なんであの流れで里見や上杉が出んだよ
半年ロムってろ池沼

はいこれであいこな

602 :人間七七四年:2015/05/14(木) 17:59:12.93 ID:h2Y7Zul6.net
>>601
582 :人間七七四年:2015/05/14(木) 07:08:34.47 ID:H+bCz1MU
>>582
氏康は家督時から関東最大の大大名だからね
でも一時的には三倍以上に広げてるよ
その後、謙信とか信玄とか里見に負けて領土を奪われ、最終的に二倍未満で終了


583 :人間七七四年:2015/05/14(木) 14:23:40.67 ID:h2Y7Zul6
氏康は今川義元にも負けて領土を奪われてる


584 :人間七七四年:2015/05/14(木) 14:27:21.91 ID:InUO/tfV
だが彼らは北条家より断然早く滅びてしまった


この流れでなんで里見や上杉が含まれないとおもうんだよ
現に586は「上杉は滅んでないし」と反論してんだろ
嘘吐き野郎!

603 :人間七七四年:2015/05/14(木) 19:13:12.18 ID:yAN8ErhE.net
>>602
北条厨は曖昧な表現による印象操作が大好きだからね
こまめに是正しないと

604 :人間七七四年:2015/05/14(木) 23:38:38.94 ID:auffuttF.net
武田を2代に渡って裏切った北条。
実は上杉も裏切り、織田も裏切っている目立たない裏切り常習犯なのだ。

605 :人間七七四年:2015/05/15(金) 05:11:03.16 ID:Z18yqCgP.net
なぜ北条(厨)は、こうも嫌われるのかw

606 :人間七七四年:2015/05/15(金) 07:03:23.90 ID:b/ACH1kO.net
そうかだから仕方が無い
レスから漂うカルトな工作臭に御新規さんは耐えられないのだろう
古参の住民はすでに慣れてしまったが

607 :人間七七四年:2015/05/15(金) 08:32:23.88 ID:uAG3E60W.net
京で荒稼ぎしてた高利貸しをみて
関東にきて高利貸しを事業化したのが後北条氏
三島大社の酉市は武士は鎧刀、庶民は家族まで質入れる
北条貧困社会を証明している。

608 :人間七七四年:2015/05/16(土) 06:19:26.39 ID:IK9sE1NH.net
氏康自らが国中諸郡退転(国中から民が逃げ出す)と嘆くような極貧国

609 :人間七七四年:2015/05/17(日) 03:33:00.83 ID:gIULx8PW.net
貧困国家の支配者を「戦国最高の民政家」と持ち上げる北条厨は宛ら北朝鮮の如し
そんな北条厨の妄言を戦国板の先人はこう呼んで嘲笑った

地上の楽園☆北条鮮

610 :人間七七四年:2015/05/20(水) 10:16:27.97 ID:xNX6CNUv.net
信玄 政治90 統率 96 知略94

611 :人間七七四年:2015/05/22(金) 04:54:53.98 ID:nN1Ehq6y.net
雑魚信玄がそんなに強いわけねーじゃんw

612 :人間七七四年:2015/05/25(月) 15:58:22.60 ID:v6lduQuE.net
なんで、北条ってそんなに貧乏なの?相模湾あるやん。

613 :人間七七四年:2015/05/25(月) 18:46:19.83 ID:zOAC3kFf.net
北条って四公六民じゃなかったの?

614 :人間七七四年:2015/05/26(火) 04:38:55.04 ID:8TNC3rgn.net
91 :人間七七四年:2014/08/30(土) 07:39:50.48 ID:gFcLaISb
まあ、ぶっちゃけると北条の四公六民てのは
早雲が「伊豆を平定して、その地に四公六民の善政を敷いた」という
江戸時代に流行った英雄譚の拡大解釈だし
氏綱以降の北条が四公六民を敷いたとする史料は存在しない


92 :人間七七四年:2014/08/30(土) 08:36:31.71 ID:q8lJCuNR
そもそも貫高制の北条が四公六民とか有り得ないから
貫高制と石高制の違いを勉強してとしか


93 :人間七七四年:2014/08/30(土) 17:00:36.08 ID:6SApAxzg
四公六民って5代続いてたんじゃないのかな・・・代変わって
税上げたら民衆と問題起きてそうだけどね


94 :人間七七四年:2014/08/30(土) 23:11:31.43 ID:f+rYahga
むしろ、北条の四公六民など最初から無かったと考えるべきだろう
早雲の立身出世を江戸時代の人が馴れ親しんだ四公六民という言葉で飾っただけ・・・


95 :人間七七四年:2014/08/30(土) 23:44:18.53 ID:/5UCD2l4
江戸時代の人は、どこで四公六民に慣れ親しんだの?


96 :人間七七四年:2014/08/31(日) 18:32:59.13 ID:wosKo4xl
四公六民は江戸幕府前期の年貢率だよ
享保の改革で五公五民に上がったから「昔は良かった」と四公六民が善政の象徴として語られたのだろう
四公六民に戻せという民衆の願望が早雲の逸話を生んだのかもな 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:405b7f1af0f5a85b432d79fa769e9aeb)


615 :人間七七四年:2015/05/31(日) 12:16:29.58 ID:Y5QXuNM5.net
>>1
そんなわけない

616 :人間七七四年:2015/05/31(日) 15:42:30.74 ID:ZRv3oD5R.net
武田は信繁死んだ時に信廉は何をしてたの?

617 :人間七七四年:2015/05/31(日) 16:38:25.10 ID:LgEA87dH.net
あたふたしてた

618 :人間七七四年:2015/05/31(日) 18:30:29.15 ID:ZRv3oD5R.net
>>617
そりゃ、そうだてか信廉は子供いなかったの?

619 :人間七七四年:2015/05/31(日) 21:13:45.57 ID:XbVEn2MJ.net
>>614
早雲て昔は乞食から成り上がったとか云われてたからな
江戸時代は貧民の代弁者のようなイメージだったのだろう

620 :人間七七四年:2015/06/04(木) 22:44:35.52 ID:1/8CFHY3.net
本当なら山ばかり信州より駿河に出たかったんだろうな
でも今川・北条を敵に出来ないからしょうがなて感じだろう
結局、甲州に生まれた時点で天下は無理だったのでは
信長でも甲州に生まれたら似たようなものだろう

621 :人間七七四年:2015/06/04(木) 23:05:05.04 ID:vTgRJwkD.net
駿河を取れたかどうかは別にして、信長だったら信濃ほどほどにして北条と組んで、駿河に全力注ぎそうなイメージ

622 :人間七七四年:2015/06/04(木) 23:37:44.92 ID:A9zLORAS.net
信濃なんかまだまし
信玄は上野に進出してる。
信長に例えれば、美濃、伊勢をほったらかしにして三河に攻め込むようなもの
信濃は手が出せる範囲で一番弱そうなんだから、信濃攻めを責めるのは酷だが上野は…

623 :人間七七四年:2015/06/04(木) 23:59:11.91 ID:VQVLmKfp.net
信濃をとったまでは良かったが上杉に蓋をされて、海に出れなかったのが痛かったな

海を持たずに周囲を他国に囲まれた貧しい土地という不利すぎる条件が揃いすぎでるな

624 :人間七七四年:2015/06/05(金) 01:14:32.83 ID:AG13ZxXS.net
無理目ながら甲斐→信濃(木曽)
→美濃→近江→京ルートってありえる?
行軍に時間掛かりそうでその隙に上杉、北条から攻められまくりそうだが

625 :人間七七四年:2015/06/05(金) 06:41:04.70 ID:BrvoNpMi.net
>>624
相手が、出来るわけがないと油断してたら成功するレベル。

626 :人間七七四年:2015/06/05(金) 12:15:05.85 ID:6201sh6d.net
つか、信玄は家臣団を一枚岩にしようと頑張っただろ?信虎を追放したときは、古参の好き放題してたけど、古参がいなくなって、ようやく信玄の派閥が言う事を聞いてくれる家臣が増えた。 

まぁ義信が嫁にこだわり過ぎたから駿河を攻めれなかった訳で、もうちょい狡猾なら良かったがね、信玄の誤算だろうね

627 :人間七七四年:2015/06/05(金) 14:13:53.03 ID:bTrwnueU.net
>>624
特に困難なことが無い。昔は渡河が難しかったので東山道の方が行軍に向いていた。
特に木曽〜犬山〜加納までは物資の運搬に木曽川の流れが使える。
問題があったとしても、塩と関ヶ原の雪程度。

逆に東海道は大きな川が多いから、川を挟んで対陣されると厄介。
鎌倉からの東軍の上洛ルートが必ず東海道をそれて美濃を通るのは、木曽三川が越えられないからだろう。

628 :人間七七四年:2015/06/05(金) 14:19:43.10 ID:bTrwnueU.net
信玄、勝頼が美濃を無視して三河、遠江を攻めたのは、
既に東濃を侵食している状態で更に美濃への侵攻を進めると突出しすぎるので、
逆に敵勢力の突出部である三河・遠江を叩いただけのような気がする。

629 :人間七七四年:2015/06/05(金) 17:38:26.99 ID:VadsLEL4.net
濃信またがって領国維持するのは難しいのではないのかな

630 :人間七七四年:2015/06/05(金) 18:15:34.38 ID:4ygoCVFm.net
美濃斉藤家との関係ってどうだったんだろう

631 :人間七七四年:2015/06/05(金) 20:53:46.53 ID:HIrATOrG.net
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1414376694/900-

919 :人間七七四年:2015/05/21(木) 13:01:43.63 ID:z9QBsLVC
武田からの長井道利宛の書状だろうな、
1557年から1560年ぐらいで諸説あるやつ。

内容は義龍と敵対した長井支援のため武田が義龍と敵対し、
金山城だか関城に兵と兵糧を送ったこと、
必要なら信玄自身も出陣すること、
なんかが書かれてるやつ。

945 :人間七七四年:2015/05/24(日) 01:44:38.44 ID:C+n3A/zH
信玄の美濃戦略を推測。

美濃を狙って長井と同盟(永禄3年(1560年))
同年、桶狭間の戦い。
→長井が美濃を掌握(永禄4年頃?(1561年))、信玄の飛騨征服。
同年、上杉謙信が関東侵攻を開始。

美濃を狙って織田と同盟(永禄8年(1565年))
→織田が美濃を掌握(永禄10年(1567年))
更に武田包囲網形成(永禄12年(1569年)、飛騨も謙信の勢力圏へ。


桶狭間が無ければ信玄は美濃に侵攻してたんじゃないだろうか。

632 :人間七七四年:2015/06/05(金) 21:31:10.01 ID:4ygoCVFm.net
成程、歴史の授業では分らないけど一つの事柄は他の事柄にも連動してるんだな
信玄は美濃を取るよりも義元が消えた駿河を選んだのか
でも駿河より六十万石ある美濃取る方がいいよな

633 :人間七七四年:2015/06/05(金) 22:01:04.53 ID:HfM9LAeo.net
この頃は、駿河、遠江は長年政治が安定していて大国だったけど、
美濃は土岐−斎藤−織田時代の中で、斎藤時代が越前を巻き込んだ戦乱が長く続いてて、
最も国力が低下していたと思われる。

そういえば、戦国時代前半は駿河、上野は今川、上杉の本拠地として関東で最も強大な富国だったのに、
戦国後半〜太閤検地の頃はずっと乱世の渦中みたいな状態だったよな。

逆に美濃は戦国後半は織田家の本拠地として復活してる。60万石はその絶頂期の直後の太閤検地の数字。

634 :人間七七四年:2015/06/05(金) 23:04:18.89 ID:4ygoCVFm.net
この数字であってる?
武田甲信70万石+金山収入
今川駿遠参80万石
戦乱で信州の生産性はおちてたのか?
駿遠は内戦は有ったけど安定
そう考えると今川は有能だな
静岡の県民性かもしれんが

635 :人間七七四年:2015/06/06(土) 00:50:21.78 ID:kiyG472H.net
武田が美濃への全面侵攻できなかったのは地形より、長尾(上杉)という足枷が大きすぎたせいだな。
謙信が早死にしたらしたで、日本海に出る誘惑に勝てないだろうし。

636 :人間七七四年:2015/06/06(土) 01:38:16.88 ID:vEix2/Yb.net
甲州は25万石も無いもんな
尾張は50万石、美濃は60万石、近江は78万石も有る
これだけ差が有るのに信長は信玄にびびってたのは何故
あと越後ってあれだけ広く信濃川、阿賀野川があるのに
40万石しかないのは意外だった
越後の農業生産性が低い理由を知ってたら教えて

637 :人間七七四年:2015/06/06(土) 01:42:21.46 ID:R6S7xVk0.net
信玄が上杉謙信を放置していたら、上杉謙信が越後・上野の兵で何度も関東南端まで
蹂躙してただろう。関東新参の北条家じゃ上杉は止められない。

638 :人間七七四年:2015/06/06(土) 08:18:59.67 ID:L4VUrs7c.net
>>637
武田信玄って、すごい義理人情にあつい人なんですね
北条の為に、身を犠牲にして超獣に当たったんですね

639 :人間七七四年:2015/06/06(土) 08:24:42.65 ID:6I6g2UA1.net
>>636
治水が追いつかず湿地が多かった

今でこそ有数の稲作地帯だけど、越後に限らず当時の雪国はデメリットしか無かったんだろうね

640 :人間七七四年:2015/06/06(土) 08:45:22.24 ID:r6kPrS6x.net
甲州ってツツガムシ(風土病)の被害が多かったんだね。
生産量が低いのってそのせい?

641 :人間七七四年:2015/06/06(土) 09:53:24.22 ID:kiyG472H.net
甲斐に多かった風土病は日本住血吸虫症。宿主であるミヤイリガイの駆除で現在は根絶済みだが、水田農耕やると感染は避けられない。

642 :人間七七四年:2015/06/06(土) 17:59:34.47 ID:GAqJEiqQ.net
>>632
駿河には海があるからね
結果論だが美濃攻略して信長の伸長を阻害したほうがよかっただろうが
信玄的には今川攻略に北条も乗るか黙認するかしてくれると甘い予想したのかもね

643 :人間七七四年:2015/06/06(土) 20:47:48.19 ID:dx4mvnm5.net
>>639
ありがとう
謙信も無意味な戦ばかりしてないで信玄の様に治水に力を入れれば良かったのに
山梨県民の信玄に対する態度と新潟県民の謙信に対する態度の差はそうゆう差かな

644 :人間七七四年:2015/06/06(土) 21:14:22.90 ID:4L+EwCRD.net
越後平野の治水が成功したのは明治になってから。

昔の平野の大名の実力は今と違ってそれほど高くなかった。
山名、朝倉、三好、尼子、毛利、武田、山内上杉、伊達、、
大大名のほとんどは元々山間部に拠点があって、平野に進出してるのがほとんど。

そもそも平野自体が、
天井川→氾濫→川筋変化→川底に土砂堆積→天井川→氾濫
の繰返しで作られるわけで、現在でも完全な治水は物理的に不可能。

645 :人間七七四年:2015/06/06(土) 21:15:11.86 ID:6I6g2UA1.net
>>643
どちらかと言うと当時の農業レベルでは越後で治水に重点を置いての稲作は割に合わなかったんじゃないかな?

謙信はアオソ生産の奨励や日本海での貿易で莫大な富を築いてるから暗君では無いよ

646 :人間七七四年:2015/06/06(土) 21:39:50.17 ID:dx4mvnm5.net
>>644
大変、為になります
信濃川と阿賀野川は大きいからこそ厄介で当時の技術では新田開発が難しかったのか
>>645
新潟県民だけど歴史好きの周りも含めて上杉には醒めてる感じ、山梨県民の友人からは武田自慢をげっぷが出る程聞かされたから

647 :人間七七四年:2015/06/06(土) 21:50:18.81 ID:6I6g2UA1.net
>>646
確かに新潟県民ですら、「越後の戦国武将は?」と聞かれて「武田信玄だっけ?」って答える人がいるくらい一般人には浸透してない感じがありますね

上杉家の会津転封や米沢に上杉神社がある経緯も知らないだろうから上杉謙信が越後の人って知ってるのは上越近辺に限られるかも

648 :人間七七四年:2015/06/07(日) 00:39:44.35 ID:kCBQVPfL.net
>>642
駿河より美濃とるのは下策というか無理だよ
飯田木曽から美濃は大軍の進退効かない
駿河を徳川に取られたら困るし

649 :人間七七四年:2015/06/07(日) 01:12:09.04 ID:6OJTz5x7.net
木曽から苗木城、飯田から岩村城は信玄も勝頼もとっくに踏破済みで、
その先の神箆城(瑞浪市)で織田と武田は合戦してたんだけどな。

650 :人間七七四年:2015/06/07(日) 01:32:39.27 ID:g0tsQm2Y.net
美濃侵攻には本拠地の移転が必要だね
松本辺りに移して上杉はしょうがないとして北条、今川をよく諭して









やっぱ無理

651 :人間七七四年:2015/06/07(日) 01:49:47.46 ID:Q2ckBg7z.net
今の新潟県の中心である新潟市近辺は戦国時代、川と湖沼だらけの氾濫原。しかも新発田氏なんかの地盤。上杉氏崇拝は薄いだろうな。

652 :649:2015/06/07(日) 01:57:15.84 ID:g0tsQm2Y.net
考えたけど東に北条

653 :649:2015/06/07(日) 02:01:55.95 ID:g0tsQm2Y.net
東に北条
南に今川
北に上杉
せめて一方向だけでも完全に安心できる同盟者がいればな
そう考えると家康を同盟者に出来た信長は運が良いな

654 :人間七七四年:2015/06/07(日) 08:09:39.10 ID:6OJTz5x7.net
信濃川と阿賀野川って恐ろしい流域面積だな。

655 :人間七七四年:2015/06/07(日) 21:27:34.71 ID:LTjDS8j7.net
武田が美濃より西を狙うのならせめて第2拠点を飯田か恵那につくらないとな。
信繁の戦死、義信との相克で甲斐を任せられなかったのが痛かった。

656 :人間七七四年:2015/06/08(月) 07:26:04.16 ID:9Y15laub.net
>>655
信廉やら、盛信などがいますが?

657 :人間七七四年:2015/06/08(月) 14:17:36.66 ID:c8XOS35n.net
信玄が美濃とった方が良かった時期なんて存在しない
東海道放置して木曽飯田から美濃へ行くなんて地理知ってたら出てこない発想
徳川=織田なのに徳川放置して織田に突っ込むとか空想もいいところ

658 :人間七七四年:2015/06/08(月) 14:45:11.59 ID:HEx4uKXX.net
第二拠点は飛騨や東美濃へ即応できる高遠城に作って勝頼置いてるだろ。

659 :人間七七四年:2015/06/08(月) 16:40:37.76 ID:IX9NUqqK.net
高遠から飛騨や東美濃へ即応?
地理や現実を知らないにも程がある。

  

660 :人間七七四年:2015/06/08(月) 18:44:14.60 ID:/skjFa0x.net
>>648>>657
いくら今川が衰退してても徳川単独に瞬殺されることは無いよ
徳川が今川放置して信濃侵攻とかそれこそ無理だし

661 :人間七七四年:2015/06/08(月) 19:59:32.95 ID:c8XOS35n.net
>>660
武田が美濃を瞬殺出来る可能性も低い
飯田木曽から美濃への難路を知らないんだろ?
駿河という喉元放置して美濃に遠征なんてゲームの世界

662 :人間七七四年:2015/06/09(火) 00:26:37.99 ID:JsRCXdtP.net
>>661
>>624-649

663 :人間七七四年:2015/06/09(火) 00:34:30.16 ID:JsRCXdtP.net
というか飯田から恵那がゲームの世界なら、飯田から浜松もゲームの世界だよな。

664 :人間七七四年:2015/06/09(火) 09:44:34.58 ID:4XwuApuy.net
高遠なら諏訪一族を動員して木曽氏を先鋒にすぐ飛騨や東美濃へ行けるな。
北信や西上野への後詰めも容易だし要衝だわな。
孤立しやすく有力者がいない飯田や恵那なんて田舎に拠点作るとかアホだろ。

665 :人間七七四年:2015/06/09(火) 10:15:57.84 ID:hsWsoOS6.net
その通り。現実的じゃないから、信玄も勝頼も本格的な美濃攻めはしなかったわけだ。

666 :人間七七四年:2015/06/09(火) 11:07:43.92 ID:4XwuApuy.net
勝頼の嫡男を産んだ正妻の妻の実家が苗木城主だから、
遠隔支配できてた。
だから勝頼の東美濃侵略では唯一、攻撃目標から外されている。

667 :人間七七四年:2015/06/09(火) 17:38:04.23 ID:7H4NqNMA.net
>>661
こちらから敵対しなければ今川は同盟国でしょ
まさか氏真に向こうから攻めてくる余裕があるとは思えないし、北条と揉めたのも駿河攻めが原因
もしかしたら義信事件も起きないかもな

現実に駿河という喉元を放置して北信や西上野に遠征してたし、獲れるなら越後も獲る気だったろう

668 :人間七七四年:2015/06/09(火) 18:39:36.12 ID:vaplmryU.net
甲斐にとって駿河は喉元だが海がある程度の価値しかない気も
取るのは楽でも相模、遠江と隣接で戦線が増える

逆の話で駿河から甲斐も似た感じで得るものは案外少ない
それゆえの同盟なのだろう
ゆえに信玄の本当の意図はわからんなあ

669 :人間七七四年:2015/06/09(火) 19:00:05.30 ID:ZR6HD/7a.net
>>667
史実は武田が一方的に今川との同盟破棄したか不明、今川が上杉と組み始めたのが契機ともいうし
その後の今川攻めも徳川北条と敵対する意図は当初なかった

当時の信玄の立場で考えたら本拠地を中心に勢力を広げていく意味で駿河攻めが王道
今川は徳川に明らかに押されてて弱いところから攻めるという意味でも王道
美濃攻めるというのは地図の見た目以上に領国が間延びする

670 :人間七七四年:2015/06/09(火) 19:49:01.86 ID:vaplmryU.net
>>669
美濃へ出るのは戦線がより拡大するので、今川の尾張進出と
同じくらい不安要素があるのは分かるのだが

駿河を取る以上遠江三河は抑えるべきでなぜそこまで行かなかったかだ
いわゆる織田包囲一環の三方ヶ原がそれに相当したかもしれないが
時期が遅すぎていまいちなのだがな

671 :人間七七四年:2015/06/10(水) 12:22:45.18 ID:pTeN15RU.net
武田信玄が、あそこまで頑張らなければ、
覇権争いも出来ず
嫡子をころす理由もなくなり、
甲斐源氏((笑)でなく本物の)が大名として残ったかもしれん。
秀吉のそばで馬鹿話に興じる武田、今川、六角っていう源氏トリオが成立したかもしれない。

672 :人間七七四年:2015/06/12(金) 00:13:11.87 ID:k6j3Qtov.net
大友氏、赤松氏、山名氏、細川本家、三好氏、斯波氏、宇都宮氏、一色氏、

武田以上の名家の大名達が信長と秀吉の気まぐれで消滅しているから、
武田義信が穏健に徹したとしても生き延びる確率は低いだろう。
だいたい六角は清和源氏じゃないから微妙。

673 :人間七七四年:2015/06/12(金) 17:38:24.91 ID:OBEHCSHQ.net
案外義信が改易されても勝頼が小大名として残ったりして
武田家臣なら真田や土屋の例もあるし

674 :人間七七四年:2015/06/12(金) 19:29:45.26 ID:ez+mlQw9.net
天正12年戦役で秀吉に大敗した家康。
完全に威信が地に落ちた徳川w
翌年11月にはついに武田の影に怯えて甲信から糞漏らしながら全面撤退命令www

秀吉配下の前田が越中口から、北信濃口と越後口から上杉、飛騨口から金森、木曽郡から木曽軍が怒涛の勢いで南下。
家康が相変わらず援軍を出さないで見捨て始めるとたまらず小笠原氏が秀吉へ内通開始。
三河物語によると武田信玄の息子の龍宝の嫡男が
北信濃の一向宗と合流した師慶と
菊姫に随行していた八重森因幡守家昌に守られ犬飼村におり
その武田信道が景勝南下とともに甲斐に帰還する。
このような話を聞いた家康は甲斐は乱国になるとビビりにビビり、
なんと信濃甲斐から浜松へ全軍逃げて来いと命令。
信濃佐久郡から大久保忠世、諏訪郡より芝田康忠、甲州郡から平岩親吉らは
ものすごい勢いで真田軍の目の前から浜松へ逃走w
置き去りにされた地元の菅沼定利が一人で人質集めを始めて南信濃の崩壊を防いでくれた。
また佐久郡から甲斐への道は、まさか武田の影に怯えていたとは気づかなかった
真田昌幸が景勝によくわからんけど全軍浜松へ逃げたから調査するよと返答し
様子見していたので崩壊せずに済んだwww
家康は相変わらずのヘタレである。

675 :人間七七四年:2015/06/12(金) 19:39:08.48 ID:ez+mlQw9.net
必死に朝廷工作して官位をあげたとか曲解もいいとこw
実際、秀吉が家康と戦っていた時は、 無位無官の平民羽柴秀吉と、
近衛中将経験者2人(信雄と家康)と戦っていた。
そして平民秀吉が家康らを圧倒したから、 朝廷は急いで秀吉を取り込もうと、
天正12年10/2に従五位下の叙爵少将の叙任の勅使を急遽派遣してんだよw
そして朝廷は同日には早くも秀吉の参内権の是非まで諮り、
11月までには参内権を許可するなど、 急いで秀吉の参内を促していたが、
有職故実の儀礼知識が無い素人秀吉は参内を逡巡し、
初参内は13年3/10の時まで待たされた。
秀吉が必死に官位官職を上げて家康らの上に行こうと働きかけていたら、
すぐ得意がって参内するはずだろがw
そもそもお前はこの時点での秀吉が無位無官なのすら知らなかったのがモロバレw
同じ文脈でお前は関ヶ原を語り、 官位官職が一番上だった家康に従わないヤツが悪いとか吐いてるが、
無位無官の平民秀吉が官位官職を持つ家康や信雄を逆に従わさせてるわけだがwww完全に矛盾www

そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを、
(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、 酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、
謀反を恐れた家康は、 いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、 11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、 秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、 徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、 妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら
従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。

676 :人間七七四年:2015/06/12(金) 23:07:28.61 ID:wsSmY6zB.net
>>673
信玄が頑張らない場合、若狭武田氏、安芸武田氏、上総武田氏に
並んで甲斐武田氏というだけの存在感だから、
勝頼や義信が改易されようが断絶しようが誰も惜しまない気がする。

677 :人間七七四年:2015/06/13(土) 08:40:29.72 ID:X13vJz/I.net
>>672
嫡流云々抜きなら、武田以上ってなったらそこには無いだろ
武田って源氏の支流だろ
源氏の支流足利の庶家のシバとか一色とかは問題外だし
大友だって源氏と比べりゃ古いだけ
勢力のデカさで比べりゃ、そりゃ足利一門には劣るけど、大内消滅までは豊前豊後の田舎大名よりは安芸(こっちが本家だっけ?)、若狭、甲斐に所領を持った武田が遥かに上

678 :人間七七四年:2015/06/14(日) 00:59:50.17 ID:Afg5m57n.net
木曽義仲も越後に強敵が居たら上京できなかっただろうな。

679 :人間七七四年:2015/06/14(日) 12:56:06.79 ID:3TyLOCca.net
>>天正12年戦役で秀吉に大敗した家康。

雑魚の信雄に、秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉の配下として、秀吉の意志を伝達する役割を与えられていて実質的に信雄が東国取次役
秀吉が、「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座する際の、取り成し役をやれやれと思ってやってただけ。
佐々攻めの際とか、家康の上洛要請の際とか、秀吉はギリギリまで家康討伐を考えていて、各大名に宛てて出兵計画立てまくってたが
直前になるとビビリまくって信雄に取り成し頼んだり、母や妹を差し出したりして家康に土下座してるのが秀吉。

680 :人間七七四年:2015/06/14(日) 12:56:32.27 ID:3TyLOCca.net
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

681 :人間七七四年:2015/06/14(日) 12:57:52.51 ID:3TyLOCca.net
信雄は秀吉に圧勝したじゃん。
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)

682 :人間七七四年:2015/06/14(日) 12:58:36.72 ID:3TyLOCca.net
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

683 :人間七七四年:2015/06/14(日) 12:58:49.19 ID:fNmbrwWt.net
直接対決で家康どころか信雄相手に135000も動員してわずか20000そこそこの織田徳川相手に
長久手で1万戦死者だす歴史的大敗
その後の攻防も二重堀で大敗戸木で負け松ノ木で負け東駒野で負け蟹江で負けと何一ついいところなく
1年かけて尾張半分すら切り取れず諦めて大阪に納馬しようとしてたら
たまたま信雄が和議にのってくれただけじゃねぇかww
しかも天正13年に石川木曽小笠原水野真田が徳川から離反し軍事機密露見
天正大地震と天正11年からの徳政連発で徳川領国がめちゃめちゃになったのに
秀吉はビビリまくって母と妹人質に出す醜態っぷりじゃねぇかw

684 :人間七七四年:2015/06/14(日) 12:59:48.29 ID:3TyLOCca.net
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。

685 :人間七七四年:2015/06/14(日) 13:00:03.37 ID:nHTr+JQ+.net
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

686 :人間七七四年:2015/06/14(日) 13:01:35.74 ID:nHTr+JQ+.net
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。

687 :人間七七四年:2015/06/14(日) 13:02:33.73 ID:nHTr+JQ+.net
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。

688 :人間七七四年:2015/06/14(日) 16:35:35.72 ID:Kgi59kGe.net
ここって武田信玄のスレじゃないのか?
そんなすごい家康がいるんだから、もし信玄が長生きしてても無理だって言いたいのか?

689 :人間七七四年:2015/06/14(日) 18:48:19.33 ID:LaWXxot5.net
村上義清ごときに手間取った武田信玄だから
家康が死のうが信長が仮に心臓麻痺で突然死しようが信玄が長生きしようが
末路は大して変わらんよw

690 :人間七七四年:2015/06/14(日) 19:41:17.08 ID:pn+oWKPz.net
菅沼だまれ

691 :人間七七四年:2015/06/15(月) 08:47:40.06 ID:LS5ExukP.net
また織田厨の自作自演か。
なんでもかんでも菅沼のせいにするレッテル貼りは楽でいいな

692 :人間七七四年:2015/06/15(月) 23:39:05.77 ID:G+h8LBLl.net
ハイハイめんどくせー設定だな
「菅沼2世だまれ」

693 :人間七七四年:2015/06/17(水) 11:51:23.42 ID:Z/BP1ShN.net
まて
フルネームで呼ばなかったから怒っているのかもしれない
そうなのか?
菅沼遼太くん

694 :人間七七四年:2015/06/17(水) 13:15:08.00 ID:e3ofWDxN.net
ついでに通り名で呼んであげようか
アスペルガーだが君

695 :人間七七四年:2015/06/17(水) 23:16:23.76 ID:A12m7k5e.net
>>693
ん?それって何が面ろいん???

696 :人間七七四年:2015/06/18(木) 01:02:24.67 ID:BGyMIIvu.net
>>695
検索ヒット数を上げたいらしいぞ。だから何?って感じだが、
本人にとっては凄く面白いことらしい。
人それぞれ他人には理解できない性癖があるってことだろう。

697 :人間七七四年:2015/06/18(木) 08:28:01.49 ID:1/JwqICb.net
>>674
家康ってすぐ味方を見捨てて知らんぷりするよなあ。
信雄、雑賀衆、高野山、木曽、佐々、長曽我部、小笠原などみんな秀吉にビビって引きこもりした家康のせいで秀吉に降伏せざるを得なかった。
特に小笠原はこうなってはひたすら家康様に頼る他はないとまで思い詰めていたにも関わらずだもんな。

698 :人間七七四年:2015/06/18(木) 15:10:17.29 ID:GYZH1CQd.net
検索ヒット数あげたいならスパム的に投稿しないと意味ないぞ
あんまりやりすぎると除外されるからな
まあ菅沼遼太って言ってあげたら本人が面白いように姿出すから効果はあるんだろう

699 :人間七七四年:2015/06/18(木) 22:41:36.22 ID:QwVsc3Xl.net
>>697
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

700 :人間七七四年:2015/06/18(木) 22:41:59.12 ID:zKpJf7Rj.net
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。

701 :人間七七四年:2015/06/18(木) 22:45:05.73 ID:QwVsc3Xl.net
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした

702 :人間七七四年:2015/06/18(木) 22:46:39.78 ID:QwVsc3Xl.net
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座依頼してるのが11/4の秀吉→顕如への書状でわかる
また秀吉は天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
しかし直前になると秀吉はビビりまくって信雄を仲介に送って戦争を避けてる

703 :人間七七四年:2015/06/18(木) 23:10:09.77 ID:3ZuFI++L.net
天下人もビビる家康様がいるんだから、
何をどうあがいても武田滅亡は不可避だったって事だな。

704 :人間七七四年:2015/06/19(金) 01:03:03.93 ID:PhNqjG03.net
検索ヒット数なんか毎日変わってすぐ取って代わられるのに頑張る意味あるのか?

705 :人間七七四年:2015/06/19(金) 16:55:21.94 ID:yUZOVJB2.net
初めてまことと会った者なら通用するかもしれないが、
筆者には通用しない。
この男のやり口は、相手の質問には答えなく、自分の質問には
答えることを強制することで成り立っており、おそらくずっと
それが通用してきたのであろう。

706 :人間七七四年:2015/06/19(金) 20:14:17.02 ID:LwNEnRHT.net
コピペばっかりだな

707 :人間七七四年:2015/06/20(土) 00:09:18.65 ID:cMZ+ISOk.net
家康厨は民度が低すぎる。人の迷惑を考えろ。

708 :人間七七四年:2015/06/21(日) 06:49:35.27 ID:yei1l1IK.net
家康厨(菅沼遼太)

>>704
大事なのは「検索数」じゃなくて「検索結果」だよな
検索数を増やしたいなら他のワードも組み合わせて
他のワードを検索した時に菅沼遼太が表示されるくらいじゃないと

709 :人間七七四年:2015/06/21(日) 13:44:38.61 ID:30JuCdR1.net
704と707って同じひと?コピペうざいんだけど?

710 :人間七七四年:2015/06/21(日) 19:50:36.16 ID:r6zJ5Aq1.net
菅沼遼太って人知らないの?

711 :人間七七四年:2015/06/21(日) 20:27:20.50 ID:30JuCdR1.net
>>710
まことと同じ奴か?いろいろなスレに704みたいなコピペすんなよ。

712 :人間七七四年:2015/06/27(土) 02:04:16.98 ID:F3ntEcL9.net
そいつの本名が菅沼遼太なのか、まことなのかは知らんが
しばらくこの板をROMれば、だいたい識別できるようになるぞ

713 :人間七七四年:2015/07/02(木) 20:36:02.29 ID:Kcj8gZzp.net
>>712
菅沼文太くんちーすwww

714 :人間七七四年:2015/07/04(土) 00:21:51.76 ID:/cxW4r1B.net
誰だか知らんが菅沼文太ゴリ押ししてんの?
本名でもないのにゴリ押しは流石に寒いと思うが

715 :人間七七四年:2015/07/04(土) 02:12:23.93 ID:sruLgPAI.net
ゴリ押しこそ菅沼文太の十八番だよ???

716 :人間七七四年:2015/07/04(土) 12:45:07.66 ID:oxk2kwTE.net
菅沼文太って、
菅沼遼太が自分で叩くために、わざとバカな発言書く役の事だろ?
名前付けたら分かりやすいな。

717 :人間七七四年:2015/07/04(土) 15:28:00.62 ID:6UknDf4A.net
「アンチ信玄」になりきり物凄い馬鹿な発言をする(菅沼文太)
 ↑
「織田厨ニート」と連呼して馬鹿にする(実は自演)


・・・もはや救いようがないな。早く病院に行けばいいのに。

718 :人間七七四年:2015/07/04(土) 21:57:11.03 ID:vYSc1XZf.net
>>717
病院「うちはオモシロ動物園ではありません」

719 :人間七七四年:2015/07/07(火) 10:52:06.30 ID:IkH7+Hd4.net
>>716
それなら菅沼遼太でいいんだよなあ・・・・
自演で「バカな織田厨」と「(自称)正しい歴史を教える菅沼遼太」でマッチポンプしてるってことだから。
俺から言わせりゃ菅沼文太なんて菅沼遼太を隠蔽するための、いつぞやにあった「だが2世」と同じ匂いしかしねーわ


http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/62.html

720 :人間七七四年:2015/07/07(火) 21:56:47.69 ID:h8XwFP1b.net
だが2世か。そういえば秀吉アンチのコピペ爆撃がパッタリ止まったな。
どっからどうみてもだが本人だったからなwww

721 :人間七七四年:2015/07/08(水) 13:27:19.45 ID:Pl/gW4ue.net
人は、自分の欠点を指摘されると、バネ仕掛けに怒るらしい。
自分ではどうしようもないことを突つかれると、逃げ場がないので、
相手に攻撃が向く。
これほど、まことを表した行動はない。

722 :人間七七四年:2015/07/10(金) 15:30:23.01 ID:s0AT3TQ2.net
>>720
自称「アンチ秀吉の織田厨」の癖に、信玄が叩かれ始めるとハッスルするような奴だからなwww
所詮菅沼は織田憎しでやっているから、真っ当な対立煽りなんて不可能だよw

723 :人間七七四年:2015/07/11(土) 21:38:33.17 ID:+5rsCJy6.net
菅沼君、またもや珍説でめった打ちwww
「川越野戦は捏造で一次史料に存在しない!!」
「上杉朝定も天文6年死亡、根拠は上杉系図!!」

724 :人間七七四年:2015/07/12(日) 16:11:13.01 ID:IkNs/tXI.net
>>723
また綺麗に島津スレでフルボッコにされてるな。

725 :人間七七四年:2015/07/12(日) 19:57:48.65 ID:5i+DUivU.net
ドMなんだろう

726 :人間七七四年:2015/07/12(日) 22:30:40.78 ID:xTwvWQ6o.net
島津軍記オナニー、キチガイ北条厨、織田在日、、

もう滅茶苦茶だな。
菅沼君が大好きな武田厨からももれなく嫌われているのも、さもありなんって感じ。

727 :人間七七四年:2015/07/13(月) 02:54:54.64 ID:oypeuKiR.net
そら自分の好きな武将を贔屓にしている基地外がいるとか嫌だろ
菅沼遼太にわずかばかりの知性があれば対立煽りみたいなのも可能だったかもしれんが

728 :人間七七四年:2015/07/14(火) 00:54:33.75 ID:KLlA/MDX.net
どれだけ知能が高くても対立煽りなんてこの板じゃ無理だぞ。
それぞれ知識が高度に偏ってて、他人の言うことを全く信じない奴ばっか。
しかも過疎。

729 :人間七七四年:2015/07/14(火) 01:01:16.98 ID:KLlA/MDX.net
おっと、一人だけ織田信長の悪口限定で信じやすいアスペルガー患者が居るけど、
あまりに馬鹿すぎて制御不能。一度試して見るといいと思う。

730 :人間七七四年:2015/07/15(水) 05:01:51.17 ID:5eEwRxBC.net
だからコピペ荒らしなんぞやるのか

731 :人間七七四年:2015/07/15(水) 08:16:13.80 ID:4rgRcWIe.net
河越野戦
記録が少なく、合戦の具体的な部分が不明瞭で
史料によって合戦のあった年代が一致せず、原本確認できない偽史料利用どころか無理やり複数史料を同じ年に決めつける手法を常習犯的に使う北条研究者。
上杉方の兵力に明らかな誇張が見られるため
最近では「無かった」「河越周辺での散発的、局地的な数年間の小競り合いの結果が後世一つの合戦になった」などとして、
草加系北条研究者以外はこの合戦を否定している。
そもそも第二次国府台合戦が一年余の戦役を纏めたものであり、河越野戦もまた同じである。

 史料によっては、合戦のあった年および月日に相違があり、果たして天文15年4月20日に、このような戦いが
あったかどうか疑問が提起されるようになり、最近では、前後におこった何回かの戦いが、天文15年4月20日の
一日の戦いに集約されたのではないかとする考え方が有力である。

 「史料にあらわれた河越の戦い」
  [戦いの年月日]         [出  典]
・天文10年(1541)       北条氏康感状(大藤文書)
    10月末〜11月初       〃     (平之内文書)
                  北条氏康感状写(諸州古文書)
                     〃     (須藤并重田文書)
                     〃     (古今感状集)
                     〃     (感状写)
・天文12年(1543)4月      歴代古案
・天文12年(1543)9月26日   北条記・関八州古戦録
・天文13年(1544)4月20日   北条記
・天文14年(1545)9月26日   関八州古戦録・鎌倉九代後記・喜連川判鑑   
・天文15年(1546)4月15日   太田家譜
・天文15年(1546)4月20日   上杉憲政書状写(武家事紀)・鎌倉九代後記
                   ・関八州古戦録・喜連川判鑑・北条五代記

732 :人間七七四年:2015/07/15(水) 09:37:13.66 ID:xQn3Z7WU.net
不死身の鬼美濃・甲山の猛虎は長篠で散りましたが


逃げ弾正は長命でした

733 :人間七七四年:2015/07/15(水) 10:18:07.57 ID:BvFQO7Ha.net
こいつこの間ボコボコに論破されてたやつかな

734 :人間七七四年:2015/07/16(木) 08:30:48.26 ID:dO8Xzq01.net
歴代古案の天文12年の氏康書状からしか河越野戦は証明できないんだよなwww
氏康が年を間違える致命的ミスでバレる。
だから氏康が捏造歪曲してでっち上げた戦なんだよコレwww
今川に敗れ駿東郡を失った言い訳のためのね。
元就や信長と同じで氏康も捏造歪曲癖が激しいアホ。

735 :人間七七四年:2015/07/16(木) 09:47:11.22 ID:v9yCqgY4.net
>>76
前世紀の歴史認識かよ

736 :人間七七四年:2015/07/16(木) 13:31:17.80 ID:dO8Xzq01.net
実際に穴山に至っては独自年号を使うなど自立だったし、
小山田は独自裁判権を握って武田の介入を排除するなど
武田を守護と認めず独立していた。

737 :人間七七四年:2015/07/16(木) 16:57:47.51 ID:L2NF1hRA.net
川越夜戦が捏造とすると、氏康は上杉の大軍にどうやって勝ったの?
今川もいたし、野戦が無かったら北条は滅んでる

738 :人間七七四年:2015/07/16(木) 21:41:36.22 ID:DjbU4dAw.net
>>737
その上杉方の大軍という前提自体が虚構
川越夜戦以前に今川とは武田の仲介で停戦してるし、古河公方とも氏綱の代から関係良好
扇谷上杉は氏綱に本拠河越を奪われて以来、虫の息だ

739 :人間七七四年:2015/07/17(金) 00:18:56.40 ID:aAVbyKmu.net
一回で後北条氏が勝ったか、複数回で勝ったかの議論なのに、
菅沼氏だけは、河越野戦は証明できない!存在しない!捏造だ!虚構!
山内上杉氏は負けていない!と言い出す始末w

そもそも扇谷上杉氏の川越城を山内上杉氏が攻めてる時点で、どう考えても連合軍です。

菅沼氏さん今日もお疲れ様でしたw

740 :人間七七四年:2015/07/17(金) 01:04:47.10 ID:gaTqNDs6.net
北条厨発狂w

741 :人間七七四年:2015/07/17(金) 01:08:33.19 ID:aAVbyKmu.net
>>731
HP丸写しの上、勝手なコメントを捏造してはいけません。
引用部分と自分の意見は、きちんと分けてください。

河越夜戦(1)
http://www.maroon.dti.ne.jp/kwg1840/yasen.html
「戦国合戦事典 応仁の乱から大阪夏の陣まで」 小和田哲男 PHP文庫 1996年

742 :人間七七四年:2015/07/17(金) 02:11:19.32 ID:BslwEoPl.net
>>738
成田氏が河越夜戦の前年(天文14年)に山内から北条に寝返っており
山内上杉がこれを無視して河越に大軍を派遣するのは困難な事も指摘しておく
(成田領は河越の北に傘のように広がっている)

743 :人間七七四年:2015/07/17(金) 03:06:35.09 ID:Yl3Atd+Y.net
上杉管領軍を武田軍が大破して衰退させた事実を認めたくない
創価織田厨が北条厨のフリを装っているだけだしなw

744 :人間七七四年:2015/07/17(金) 22:37:08.61 ID:4G1F0ih+.net
>>742
おっ、成田氏の名前を覚えたのか。少し成長したな!偉いぞ!

成田氏は山内上杉氏の家臣で成田顕泰は、上杉顕定の偏諱授与だそうだ。
その成田顕泰が天文14年頃に死亡し(成田氏系図か?)、跡を継いだ
成田親泰は北条氏に降っている。
ちなみに山内上杉氏が没落した川越合戦は天文12年〜天文15年頃。

誤記だらけの成田氏系図の記載とはいえ、むしろ川越合戦の存在を暗示しているといえる思うが
どうだろうか?

745 :人間七七四年:2015/07/17(金) 23:14:07.73 ID:4G1F0ih+.net
しかし菅沼君も成長したなー
以前は何一つ調べずに妄想コピペ連投してただけだったもんな。

それに比べて今は、20年前の本に書かれた説をふんどしにして相撲とったり、
他人のHPを丸写しにしたり、映画で少しだけ有名になった成田氏を
史料も確かめず推測で語ったり、まるで歴史好きの中学生みたいに見える。

噂じゃ2ch歴10年目の人らしいけど、無駄な時間じゃなかったよな!

746 :人間七七四年:2015/07/17(金) 23:29:09.68 ID:4G1F0ih+.net
>>738
しかし、成田領は河越の北に傘のように広がっているというのは、
おもしろい妄想だよね。偉いぞ!根拠となる史料はあるのかな?無くても偉いぞ!
でも忍城は荒川の東岸だから、西岸の上杉領である鉢形城から川越城への行軍は
阻止できないと思うがどうかな?

747 :人間七七四年:2015/07/18(土) 00:30:12.11 ID:13PaN6Bz.net
勉強が遅れがちな地頭が弱いお友達をほめて伸ばす教育者の鑑みたいな人がいてはるw

748 :人間七七四年:2015/07/18(土) 02:52:58.56 ID:HDt0UzxL.net
織田厨ってやっぱりアホだな…
韓国人特有の日本人より倫理的にすぐれているニダって言う独特のメンタルが色濃く現れててキモい

749 :人間七七四年:2015/07/18(土) 06:18:38.06 ID:IgbqrZtO.net
夜中に一人で三連投とか必死すぎだろ北条厨はw

750 :人間七七四年:2015/07/18(土) 06:28:40.48 ID:IgbqrZtO.net
夜中に一人で三連投とか必死すぎだろ北条厨はw

751 :人間七七四年:2015/07/18(土) 06:46:20.05 ID:IgbqrZtO.net
夜中に一人で三連投とか必死すぎだろ北条厨はw

俺も三連投してみたくなったw

752 :人間七七四年:2015/07/18(土) 08:04:42.83 ID:K82zuXKs.net
>>739
菅沼遼太史観は歴史の結果を公然と覆すからな

基本的な史料批判や史実考察は、例えば「○○は××に勝った」という結果を
「ボロ勝ちで勝った」のか、「何回かにわけて戦い、結果的に勝った」のか、あるいは「ギリギリで勝った」のか
その後の結果を基に考察するのが一般的。


ところが菅沼遼太史観の場合は「○○は××に勝った」という結果を
「○○は××に負けたが、△△が××に勝った。」「○○が××に勝ったというのは後世の捏造」と改変しだす。


これは朝鮮人によくある結論思考で、例えば朝鮮の起源主張、スポーツ選手や偉人の朝鮮人説、第二次大戦に代表される歴史改変は
全てこれに基づいて行われている。菅沼遼太が朝鮮人という考察もされていたが、真偽はともかく当たらずとも遠からずなのだ

753 :人間七七四年:2015/07/18(土) 09:49:39.64 ID:6P3FHJMH.net
>>734>>743
>氏康が捏造歪曲してでっち上げた戦
20年前の小和田氏の本を歪曲理解して、珍説つくるなよ。
なんで山内上杉氏を北条氏が大破して衰退させた事実を認めたくないんだ?
川越合戦が存在した一次史料は20年の間に見つかっている。

早く前みたいに「北条氏が勝ったけど前みたいに夜戦じゃなかった」とか言って
ゴメンナサイするか、それとも、「上杉連合軍は10倍の大軍じゃなかったとか」に
主張を変更して珍説を取り下げないとまたヤバイよ?


上杉憲政書状

○原長命丸宛感状(小暮弥太郎氏所蔵文書) (年不詳4月26日)
於去廿日河越之一戦、父内匠助討死、忠信不浅次第候、然者為名代可走廻事、得其.
意候、謹言、. 四月廿六日. 憲政(花押2). 原長命丸殿

○本庄宮内少輔宛感状写(古簡雑纂七)(年不詳4月26日)
於去廿日河越之一戦、被疵戦功之条、無比類旨、殊藤三郎. ( 本 庄 ).
討死之上、一騎令供走廻. 候事、忠信感悦候、仍名代松寿丸.

754 :人間七七四年:2015/07/18(土) 15:04:45.33 ID:IimgAkF1.net
>>752
菅沼氏は「北条氏康の捏造!北条厨の捏造!軍記の記載は嘘!」と、
検証対象を「無かった」ことにしてしまうからね。みんなビックリだよ。

それにしても、また涙目ズタボロじゃないか。
正直、ちゅうちゅう泣くバージョンいいと思う。良い芸が増えたな!

755 :人間七七四年:2015/07/18(土) 15:08:00.61 ID:IimgAkF1.net
最初は元気な菅沼君
>歴代古案の天文12年の氏康書状からしか河越野戦は証明できないんだよなwww
>氏康が年を間違える致命的ミスでバレる。
>だから氏康が捏造歪曲してでっち上げた戦なんだよコレwww
>今川に敗れ駿東郡を失った言い訳のためのね。
>元就や信長と同じで氏康も捏造歪曲癖が激しいアホ。 >>734



10レス後、サンドバッグ状態でちゅうちゅう泣く菅沼君>>748-751

756 :人間七七四年:2015/07/18(土) 17:46:10.35 ID:KIRSbqyZ.net
菅沼本人も菅沼連呼するバカも同罪にうざい

757 :人間七七四年:2015/07/18(土) 22:55:48.35 ID:glBX6deJ.net
島津スレの奴は本当に可哀想。全然関係ない話で荒らされまくって。

758 :人間七七四年:2015/07/19(日) 09:22:08.48 ID:UIAW5YcK.net
アレが絡むといつもそうなる

759 :人間七七四年:2015/07/19(日) 11:27:01.63 ID:sf3cBWts.net
は?どれも散発的な数々の小競り合いが川越周辺であった証明にしかならんわ。
北条学者がもっとも証明になると喚いている高白斎記ですら、
天文15年4/20河越に関東衆と氏康合戦、難波田討死としか書いてない。
足利公方や山内上杉や扇谷上杉らが参加したような大規模戦の証明などできんわwww
上杉と北条の合戦であったのなら天文15年10/6に笛吹峠で武田が上杉衆と合戦勝利し首1219討ち取りと書いているように
キチンと上杉衆と書き分けているわけだがwww
ちなみにな高白斎記によれば天文7年正月に川越で氏康が憲政と朝定と川越で戦い氏康が勝利したと
書かれているので、この戦いを氏康が誇張して天文12年に川越大合戦があったと捏造したとされる。

歴代古案の天文12年の氏康書状からしか上杉や古河公方らが集い
参加した大会戦である河越野戦は証明できないんだよなwww
氏康が年を間違える致命的ミスでバレる。
だから氏康が捏造歪曲してでっち上げた戦なんだよコレwww
今川に敗れ駿東郡を失った言い訳のためのね。
元就や信長と同じで氏康も捏造歪曲癖が激しいアホ。

上杉憲政書状は年不詳じゃなくて元々天文12年の書状と比定していたのが事実w
そもそもそれを天文15年とする比定する根拠はどの部分なのか説明してくれ。
川越周辺での関東衆とのいつもの散発的な小競り合いがあった証明にしかならん。
天文15年は上州の随分の傍々を従えた関東管領上杉憲頼が浅間の岳の廻りに陣を張り
佐久郡の志賀殿への救援にやってき8月6日に武田軍に攻められ名ある大将15人が打ち取られ3000人敗死。
この戦死者の打ち首を志賀の城の前に立て掛けて志賀軍の士気を下げさせて8月11日開城になっている。
関東管領山内上杉軍を衰退させたのは信玄なのは間違いないところ。

760 :人間七七四年:2015/07/19(日) 11:30:14.94 ID:sf3cBWts.net
訂正
天文15年10/6に笛吹峠で武田が上杉衆と合戦勝利し首1219討ち取りと
天文16年は8/6に上州の随分の傍々を従えた関東管領上杉憲頼

761 :人間七七四年:2015/07/19(日) 14:06:07.55 ID:323SqC/D.net
上杉憲頼って誰?

762 :人間七七四年:2015/07/19(日) 18:47:23.59 ID:cR/56BJ4.net
>>759
高白斎記は明らかに『甲陽軍鑑』の影響を受けているから、これに基づく、
「上杉衆と書き分けているわけだがwww 」やら「この戦いを氏康が誇張して」やら、
全く無意味な憶測だと思う。

古簡雑纂七から4月20日に合戦があった事は明らかなのだから、
川越合戦は、
天文12年4月説(歴代古案の書状)
天文13年4月説(北条記)
天文15年4月説(関八州古戦録の書状)
のどれかという話になるだろう。

つまり川越合戦の存在と北条氏康の勝利は証明されているわけで、
あとは合戦の起きた年と、連合軍の規模が問題として残っているだけだろう。


無意味だけど高白斎記の記載を示しておく。

○天文七戊戌年(1538)
正月小丙子。北条氏康が上杉憲政、上杉朝定と武州河越にて合戦。氏康勝利す。
《註》河越合戦については『甲陽軍鑑』に天文七年とあり、他の諸録はおゝむね天文六年とある。

○天文十五丙午年(1546)
四月二十日丙午、武州河越を干すに於いて関東衆と氏康合戦。難波田討死。

763 :人間七七四年:2015/07/19(日) 21:12:23.16 ID:e4iuEQBw.net
なんで史料の多い川越の戦いは無かった事にして、史料の少ない小田井原の戦いは無かった事にしないの???

764 :人間七七四年:2015/07/19(日) 21:27:07.09 ID:x+o2GpLu.net
甲陽軍鑑の影響を受けているとか無理矢理関係づけていてワロタw
バカバカしい

765 :人間七七四年:2015/07/19(日) 22:16:15.82 ID:e4iuEQBw.net
758はみんなの質問を無視し逃走中?

766 :人間七七四年:2015/07/20(月) 02:30:41.77 ID:681Zk4lj.net
つか歴代古案の氏康書状では4/20に合戦があった証明にならんぞ。
平然と大ウソを吐くなよ創価北条織田在日くんw

767 :人間七七四年:2015/07/20(月) 02:59:59.83 ID:p5XIMpqT.net
>>766
「天文12年4月説(歴代古案の書状) 」だから4月20日説は菅沼君の思い込みだろ。
つーか、上杉憲政書状の天文15年比定説とか、今回の4月20日説とか、誰のレスでどこに書いてあるんだ?
やたら読み間違い多くね?
古文書以前に、現代語の基本的な読解能力がかなり低いな。
誰の質問にも答えられないみたいだし、全くお話にならないんだけど?

768 :人間七七四年:2015/07/20(月) 10:23:30.00 ID:0oBKNgAg.net
板住民「〜〜で」
菅沼遼太「ファアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッwwwwwwwwwwwwこいつアホンゴwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
板住民「!?」
菅沼遼太「熱い信長語りwwwwwwwwwwwwwwwwくっさwwwwwwwwwwwwwwwww死ねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
板住民「菅沼遼太君!反対するならちゃんと意見を述べてくれないか!」
菅沼遼太「うっせえええええええええええええええwwwwwwwwwwwこっちはコピペで論破してんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!
   反論おせーぞホラホラホラホラホラホーラホラホラホラホラホラホラホラホラ!!!!!!!!!!!wwwwwwwwwwwwwww
   ホラホラホラホラホラホラホラホラホラホラどーしたビビってんのか?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
板住民「」
菅沼遼太「はい織田厨大敗北wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」

769 :人間七七四年:2015/07/20(月) 11:55:51.56 ID:681Zk4lj.net
え?質問ってどれ(・・?)

770 :人間七七四年:2015/07/20(月) 13:58:38.49 ID:6DeD9tHt.net
>>769
Q&Aをまとめましたよ。みんなの質問が厳しすぎて可哀想。

Q.川越夜戦が捏造とすると、氏康は上杉の大軍にどうやって勝ったの?
A.山内上杉氏は信玄には大軍で攻め込みましたが、氏康には小軍で攻め込みました。>>738

Q.成田氏が河越夜戦の前年(天文14年)に山内から北条に寝返っており。この根拠は?
A.回答無し。(=根拠となる史料はありません。ごめんなさい。)

Q.成田領は河越の北に傘のように広がっている。この根拠は?
A.回答無し。(=根拠となる史料はありません。ごめんなさい。)

Q.忍城は荒川の東岸だから、西岸の上杉領である鉢形城から川越城への行軍は
阻止できない。
A.回答無し。(=その通りです。ごめんなさい。)

Q.上杉憲頼って誰?
A.回答無し。(=いつもの誤字です。漢字読めなくてごめんなさい。)

Q.なんで史料の多い川越の戦いは無かった事にして、史料の少ない小田井原の戦いは無かった事にしないの?
A.回答無し。(=ごもっともな意見です。ごめんなさい。)

771 :人間七七四年:2015/07/20(月) 15:31:38.26 ID:g+VZI3wl.net
成田については>>742である俺が答えよう
>河越夜戦の前年(天文14年)に山内から北条に寝返っており
ソースは小山下野守宛て上杉憲政書状(新編埼玉県史古文書2収録)

>成田領は河越の北に傘のように
地図を見れば瞭然だが成田の本拠である忍は河越のほぼ真北に位置する
成田領は西は本庄から東は羽生まで横長先細りであり、河越の北に傘のようにと形容できるだろう

>忍城は荒川の東岸だから、西岸の上杉領である鉢形城から川越城への行軍は阻止できない。
河越を包囲した上杉軍の後方を荒らすことはできる
上杉軍は成田の押さえに相応の軍を派遣する必要があり、相対的に川越城に派遣できる兵数は低下する
そもそも、山内にとっては累代の被官である成田の鎮圧こそが急務であり、扇谷の本拠である河越攻めは二の次であろう
よって成田をなんとかしない限り山内上杉が天文14年から15年にかけて河越に大軍を派遣する道理がない

残りは他人のレスだから知らん

772 :人間七七四年:2015/07/20(月) 17:09:45.74 ID:rOCGPO9O.net
>>771
羽生城には古河公方方の木戸忠朝、広田直繁兄弟、
本庄城には山内上杉方の本庄実忠が居るから当時は成田領では無いと思う。

そもそも「(足利公方方の)小山下野守宛て上杉憲政書状」の
天文14年との比定は何を根拠としているの?実質、年不詳の書状なのではないだろうか?
更に川越の戦いの前年とする事にも疑問。

その書状で明確なることと言えは、山内上杉氏と足利公方の連合体制だけでは。

773 :人間七七四年:2015/07/20(月) 17:51:30.26 ID:g+VZI3wl.net
>>772
成田は羽生領を横領していて謙信に咎められてるし、本庄実忠が領したのは本庄西部
成田領が羽生本庄の全域とは書いていない(だから横長先細り)
小山下野守宛て上杉憲政書状は学会で天文14年と比定されており、それに異をとなえる学者はいない
黒田氏の本でも天文14年とされている

この書状から明らかなのは天文14年に成田が山内から北条に寝返った事だ

774 :人間七七四年:2015/07/20(月) 21:32:39.81 ID:rOCGPO9O.net
>>773
すると、川越城の戦いが天文14年以前かもしれないね。

本庄については深谷城も途中にあり、20年後の謙信の時代ならともかく
天文14年の時点でそこまで領土があったとは思えない。
それにしても、なぜ天文14年と比定したか気になる。

775 :人間七七四年:2015/07/20(月) 23:31:13.99 ID:M56HfNQD.net
菅沼また論破されてるじゃん
カスなりにもうちょっと頑張れよ

776 :人間七七四年:2015/07/21(火) 08:56:36.38 ID:GjhdLYm+.net
だいたい山内上杉は長尾景春による内乱で弱体化
扇谷上杉は長尾能景によって河越無条件降伏し滅亡同然にされてる。
公方家は親子争いや兄弟争いで勢力が瓦解し里見氏頼りにまで転落。
主戦場の北武蔵と違って北条なんて伊豆、小田原の辺境で火事場泥棒してただけじゃん。

777 :人間七七四年:2015/07/21(火) 11:01:56.03 ID:GjhdLYm+.net
しかし織田厨は無知だなあ。
天文15年前後の羽生って当時は羽丹生城と呼ばれ、
成田氏の騎下にいた羽生豊前守の城だぞ。
羽生豊前の両家老が藤井修理と木戸源斎だったが、
木戸が羽生城を乗っ取り、羽生や藤井を成田が味方し、
謙信が木戸に加勢し永禄3年に合戦してる。
ちなみに羽生豊前守は中条出羽守とされ、
木戸源斎が木戸忠朝とされている。
つまり永禄3年以前の羽生領は成田氏の騎下。

778 :人間七七四年:2015/07/21(火) 12:54:17.89 ID:GjhdLYm+.net
つかさ、氏康って回想した書状に第一次国府台合戦勝利の結果、
古河公方から関東管領に任じる御内書をもらったとか
大ウソ吐いてるくらいの捏造癖あるからなあ。
河越野戦も河越近郊の数々の地元紛争をまとめ上げた氏康の捏造だろよ。

天文6年7月に氏綱が河越城を奪取した時の話を拡大させた妄想だろ。
天文10年の氏綱死去まもなくの扇谷上杉氏の二度にわたる河越奪回作戦すら
籠城で撃退した後に報復として本庄まで北条軍がやってきて荒らしているし。
天文13年には松山城南西10キロの小用から荒川までのラインまで北条は進出してる。
扇谷戦線が楽勝なので房総方面にさかんに出陣してるのが氏康前期時代。
なんせあきる野市あたりの小宮氏を始め、
青梅の三田、八王子の大石ら次々と扇谷から離反し北条側に付いて
武蔵領主層を次々と北条に帰属させる調略で浸食してるから。
その完成が天文14年の成田氏の帰属だからな。
上杉憲政が成田を攻撃すると激怒してる。

779 :人間七七四年:2015/07/21(火) 18:36:24.94 ID:In/pvUPx.net
>>767

お前は自分で書いたことを都合よく忘れることができる在日脳してるなw

>>古簡雑纂七から4月20日に合戦があった事は明らかなのだから、
>>川越合戦は、天文12年4月説(歴代古案の書状)

780 :人間七七四年:2015/07/21(火) 22:21:18.64 ID:GjhdLYm+.net
>>763
小田井原の戦いに関しては
勝山記・妙法寺記という当事者とはまったく関係無い第三者立場の寺社の日記に記載されているから。
富士山北麓を中心に毎年の災害記録がしっかり書かれている超一級史料。

781 :人間七七四年:2015/07/21(火) 22:55:23.95 ID:WTXin0U4.net
>>771
横レスする時は、横レス失礼とか言えよ。菅沼と混同する。
佐野氏のソース、サンクス。

>>777
>天文15年前後の羽生って当時は羽丹生城と呼ばれ、
>成田氏の騎下にいた羽生豊前守の城だぞ。
>羽生豊前の両家老が藤井修理と木戸源斎だったが、
>木戸が羽生城を乗っ取り、羽生や藤井を成田が味方し、
>謙信が木戸に加勢し永禄3年に合戦してる。
>ちなみに羽生豊前守は中条出羽守とされ、
>木戸源斎が木戸忠朝とされている。

へー。そうなんだー。(また珍説繰り出しちゃってw)

782 :人間七七四年:2015/07/21(火) 22:56:57.88 ID:WTXin0U4.net
佐野じゃなくて成田のソースだったw
しかし、関東史は深いし謎も沢山あるなー。

783 :人間七七四年:2015/07/22(水) 00:21:54.97 ID:BWET5xdy.net
すでに戦局は鉢形城の目と鼻の先にある松山城攻防戦に移っていて
河越なんて安全圏だっただろ。
なにせもうこの時期は利根川を渡河して
上野国にまで北条軍の攻勢がたびたびあったくらいだし

784 :人間七七四年:2015/07/22(水) 21:38:16.36 ID:ITXSptlh.net
>>783
松山城攻防戦って史料少ないよな。

通説は、
扇谷上杉氏単独で松山城まで後退し、
山内上杉氏の加勢で川越城攻めまで盛り返したという
ことになってるから、
その点では矛盾は無いかと。

785 :人間七七四年:2015/07/22(水) 22:20:56.85 ID:RcQuLcAb.net
>>779
>古簡雑纂七から4月20日に合戦があった事は明らかなのだから、
>川越合戦は、
>天文12年4月説(歴代古案の書状)
>天文13年4月説(北条記)
>天文15年4月説(関八州古戦録の書状)
>のどれかという話になるだろう。

これからの感想が、

>つか歴代古案の氏康書状では4/20に合戦があった証明にならんぞ。
>平然と大ウソを吐くなよ創価北条織田在日くんw

>お前は自分で書いたことを都合よく忘れることができる在日脳してるなw

って普通か?

786 :人間七七四年:2015/07/23(木) 11:10:44.68 ID:+Dd/cXzF.net
だいたい岩槻を北条がおさえているだけでなく
成田氏まで北条化してるのに
どうやって古河公方が川越へ行けるんだよ?
山内上杉以上に無理。
川越って北条側が進軍してくるのは容易いが、
北西からだと川がたくさんあって背後の補給が常に襲われる死地だろ。

787 :人間七七四年:2015/07/23(木) 22:53:44.33 ID:F7IKNuvJ.net
>>786
大田氏や成田氏の動向なんて川越合戦の年代以上に史料無くて不明確だと思うけど?
川越合戦が数々の史料があるにも関わらず、不明確だから存在しないという主張の根拠に、
合戦の存在以上に曖昧な事柄持ってきても仕方が無いよ。

太田資頼や成田親泰が川越合戦で隠居、または死去した説もあるからね。
後世に編纂した系図とかだと隠居年=享年にしてしまうケースも多々あるし。

それとも太田資頼や成田親泰の正確な享年と、成田氏、太田氏の寝返りの年が判断できる史料がある?

788 :人間七七四年:2015/07/23(木) 22:58:06.21 ID:F7IKNuvJ.net
>>785
明確に狂ってる人間とは話さない方がいいよw

789 :人間七七四年:2015/07/24(金) 11:10:35.65 ID:w0QeKmcv.net
だって河越野戦の内容が氏康の年代間違い妄想デタラメ合戦書状の内容まんまだしw
それを信じろというのが頭おかしい。

790 :人間七七四年:2015/07/24(金) 15:17:30.94 ID:gCwpgTdP.net
あの氏康書状が唯一、川越野戦を証明してるけど
北条学者ですら黙殺して知らないフリしてるからなw
あれを紹介したら一気に川越野戦がデッチあげだとバレるから。

791 :人間七七四年:2015/07/24(金) 17:35:48.67 ID:f3Sc9VLS.net
菅沼どうこう言い出したら延々とスレチの話題を続けるよね

792 :人間七七四年:2015/07/24(金) 21:31:21.26 ID:zraA2Ljo.net
>>789
やたらその書状にすがっているけど
書状に年って書かれる事稀だし
年代間違いって何?
氏康より君の方が間違っているとかありそーで怖い

793 :人間七七四年:2015/07/25(土) 06:58:35.00 ID:PEBRz1BP.net
まれもなにも嘘吐き氏康本人が年と月を書いてる。

794 :人間七七四年:2015/07/25(土) 07:10:42.73 ID:ezikyG5Q.net
>>793
何年何月何日の誰宛の書状?
それとなんで間違ってると断言できるの?

氏康本人が年と月を書いた書状なんて歴代古案にあったかな?

795 :人間七七四年:2015/07/25(土) 07:11:31.82 ID:u7D/hv/g.net
第六天魔王・信長の武田狩りは熾烈をl極めたらしいが

796 :人間七七四年:2015/07/25(土) 22:37:20.17 ID:qT7L7dDG.net
熾烈を極めたと言うわりには生き残りすぎ 
信濃なんてその多くが助命されてる 
 
もう少し書けば武田の被害者づらにはいい加減うんざりする 
武田だけがやられたわけじゃないだろうに

797 :人間七七四年:2015/07/25(土) 23:42:35.52 ID:9PvFDvYd.net
菅沼遼太くんの被害者ぶりも相応ですじゃ

798 :人間七七四年:2015/07/27(月) 09:11:56.24 ID:ibyaKubt.net
そりゃ信濃なんて一次史料では高遠で100人だけ討死してるだけで、
まったく無抵抗だったんだからそりゃ助命されてるに決まってるだろアホすぎ。

799 :人間七七四年:2015/07/27(月) 11:16:39.93 ID:OGWNWJjO.net
それじゃあ熾烈を極めたとは言わんがな。

800 :人間七七四年:2015/07/27(月) 11:26:37.95 ID:OGWNWJjO.net
それじゃあ熾烈を極めたとは言わんがな。

801 :人間七七四年:2015/07/27(月) 20:21:24.26 ID:yG38FKiO.net
>>796
勝頼討滅の通り道以外には結構甘いよな
北信・上野の武将は結構許されてる それが武田四名臣や真田の息子らでも

802 :人間七七四年:2015/07/27(月) 22:16:16.61 ID:Xq3w0XqP.net
菅沼遼太って凄え馬鹿なんだな

803 :人間七七四年:2015/07/28(火) 03:44:42.79 ID:L6cOqQdr.net
そんな当然のこと言われましても

804 :人間七七四年:2015/07/28(火) 17:08:14.07 ID:qcZo2+gt.net
信玄は、北信濃を諦めて、謙信と同盟を結んだうえで、
西は甲相駿三国同盟以前のように今川と同盟を結び、
斉藤・姉小路・北条あたりを攻めて領土を拡張すればよかったと思う。
北条は小田原城は堅城だけど、それ以外の城を攻略すれば
国力が低下するから、小田原城は頃合いを見計らって
北条が疲弊したところを落としたらいいんじゃないの。

805 :人間七七四年:2015/07/28(火) 19:07:36.08 ID:AVTlPziB.net
鈴木将典

信長は若い信忠が功に焦って深入りしないよう、
信忠に付属させた滝川一益らに再三の注意を促している。
さらに朝廷に秦上して勝頼を朝敵とし
信長自身が信忠軍の後詰として大軍を率いるなど、
武田領国への侵攻にあたって細心の注意を払った。
しかし、武田領国は信長でも予想できないほどの早さで、
あっけなく崩壊した。この時期に信濃・上野国境の浅間山が噴火し、
人びとに武田氏の滅亡を予感させたことも
勝頼にとって不運であった。

806 :人間七七四年:2015/07/28(火) 19:33:06.23 ID:9VIPnoYL.net
菅沼遼太

浅間山大噴火によって甲斐国内が混乱し、織田軍の火事場泥棒を許した
しかし、高遠城の仁科によって甚大な損害をだした織田信忠軍だと聞いて
脳内勝利を補完した。

807 :人間七七四年:2015/07/28(火) 21:47:54.16 ID:5IBTs6T0.net
菅沼良太史観

浅間山の噴火は、北条領には全く被害がなかったが、京都からも観測できる大噴火であり、甲斐に甚大な被害をもたらした。
信濃は特に問題なかった。
この武田家への天罰とも思える不思議な被害を受けて、甲州の土人どもは混乱して逃げまどい、神君家康公が進軍すると、
雪崩をうって土下座した。
一方、信濃は特に被害がなかったが、木曽氏への制裁を行おうとした軍勢は全く役に立たなかった。
だが、信忠軍はヨワッチイので、高遠城攻めで甚大な損害を与えることができたが、信濃人は武田家が屑だと
わかっていたので全く味方に駆けつけず、仁科はそのまま犬死した。
勝頼は甲斐の大被害のため、信州の真田家の領地に逃げることはできず、甲斐で憤死した。
真田はなぜか自領まで普通に帰れた。

808 :人間七七四年:2015/07/28(火) 23:40:31.28 ID:oHvLRR9h.net
>>793
未だ回答無し。

>氏康の年代間違い妄想デタラメ合戦書状
>嘘吐き氏康本人が年と月を書いてる

この書状の詳細と嘘吐きよばわりの根拠、説明ができず逃亡状態じゃ、、
結論は、

>菅沼良太の年代間違い妄想デタラメ説
>嘘吐き菅沼良太本人が年と月を捏造して吹聴した

になるけどOK?

809 :人間七七四年:2015/07/29(水) 07:25:11.67 ID:aYyctKDA.net
ワロタw
河越野戦を語る上でもっとも基本となる議論の出発点である
氏康の天文12年4月付の書状すら知らない無知織田チョンが、
河越野戦はあるに違いないとか喚いてるのかよwww
もう議論に参加するなよアホw書状の文章長くて転載する気もおきねーよ。
そもそもこれ超基本史料だからすぐ探せるだろ。議論参加したいなら少しくらい自分で動けよクレクレ厨織田チョン君。

810 :人間七七四年:2015/07/29(水) 09:29:02.70 ID:Mq2YTg1/.net
織田厨って戦国板最大の無知だからなぁ。
でもたかが歴代古案レベルだしすぐ読めるはずだしな。

811 :人間七七四年:2015/07/29(水) 09:57:44.83 ID:QmIvnmIF.net
>>809
スレ違いの河越の戦いの話を、そこまで続けたがってるって事は
ここは武田信玄のスレじゃなくて菅沼遼太を叩くスレだって
菅沼自身も認めてるんだな。

812 :人間七七四年:2015/07/29(水) 20:25:42.11 ID:KAPCSr0X.net
>>810
書状の日付と宛名を明確に示したら、敗北が確定するから、
必死で逃げる菅沼くんw

813 :人間七七四年:2015/07/29(水) 20:30:06.16 ID:KAPCSr0X.net
>>809
で、嘘吐きよばわりの根拠、説明は?

1.正しい事実を述べる
2.1の根拠となる史料を示す
3.間違った記載を示す
4.3の記載が氏康の本人のものである事を示す

4はどう考えても無理だな。
とりあえず3までできた時点で許してあげてもいいぞ?

814 :人間七七四年:2015/07/29(水) 21:37:49.29 ID:ukHpkhCn.net
武田家の衰退は信玄のせいというより持っていた金山が枯れてしまったのがでかい

815 :人間七七四年:2015/07/29(水) 21:53:59.97 ID:2CggZHzn.net
菅沼遼太、絶賛敗北脱糞中w

816 :人間七七四年:2015/07/30(木) 02:48:39.82 ID:HKHjxkfe.net
金山枯れてないから。黒川のたくさんある鉱道の一つから採れなくなったから、
新しく鉱脈が発見されるまで免税した文書を
織田厨が捏造歪曲拡大解釈して広めてるだけ。
しかも金脈も黒川だけじゃないし。
つか歴代古案も調べられないほどバカ無知なのかよ…
川越野戦研究では必ずと言って紹介される文書内容だし
氏康は月は書いたが日は何時にしようか悩んだみたいで空欄にして書いてないのも知らんとか
川越野戦の本すら読んだことないド素人なのももろバレじゃん恥ずかしい。

817 :人間七七四年:2015/07/30(木) 03:33:10.84 ID:1GbJN0/0.net

   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     `'ー '´
      ○
       O

.       ,、r‐''''''''''''''''ー 、
      ,r'         `' 、
     /             ヽ
.    / ,             ヽ
   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、    
   l.  :;;;i    ´ .._`ー   ‐''"....|     
   l:,;'"`'、,     ‐=・-;  -・=‐ ;〈           
.   ';i l :::i;;,, ::'   ` ̄,:     ̄´ .:゙,   
    l;゙、',.::l;;;i     ゚人,,__,,人:..   l,      と思う菅沼遼太であった
    l;;;;`‐;;;;;ヽ     , __ij..__ 、:  l;;;,,  
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ    `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l  '';;;;;;;;;;;;;;'         ,イ l'''  l `
:.:.:.:| ','、  '''''''''   , ‐---,ェr'".l.|  |  |
:.:.:.:|  ゙、゙、       `''''''''"",ノ l l  .|  |        

818 :人間七七四年:2015/07/30(木) 05:30:03.09 ID:CTRMPcA9.net
>>816
もう能書きはいいから。
早く嘘吐きよばわりの根拠、説明しなよ?

1.正しい事実を述べる
2.1の根拠となる史料を示す
3.間違った記載を示す
4.3の記載が氏康の本人のものである事を示す

簡単でしょ?できないの?

819 :人間七七四年:2015/07/30(木) 05:49:07.93 ID:CTRMPcA9.net
他人を嘘つき呼ばわりするのなんら1、2が最も重要。
808や815みたいな、お馬鹿な逃げレスはここじゃ通用しないよ?

820 :人間七七四年:2015/07/30(木) 23:47:02.34 ID:hOM0ARPv.net
逃げる菅沼遼太くん恥ずかしい

821 :人間七七四年:2015/07/31(金) 01:24:23.24 ID:opg59h8Q.net
よくわからないけど815さんはなんで貼らないの
貼ればすぐ終わるのでは

822 :人間七七四年:2015/07/31(金) 11:29:53.79 ID:Mqr1kb1N.net
すげー長い文章だから利益もないのにボランティアで転載なんてしねーよアホ
毎回クレクレ厨やってないで自分で調べろよ。
個人所有文書とかじゃなくて超有名な歴代古案収録なんだから
誰でもすぐ見つけられるレベルだろーが。

823 :人間七七四年:2015/07/31(金) 15:48:01.77 ID:NKIe6OtP.net
馬鹿だから調べられない。
つまり無能。

824 :人間七七四年:2015/07/31(金) 15:55:00.15 ID:opg59h8Q.net
いや普通に討論してるんだからソース求められたら貼りなよ
しかもピンポイントじゃんめちゃくちゃ
Url貼るかなんの資料のなになにっていうだけでもいいんじゃん?
第三者目線からすると逃げてるようにしか見えへん

825 :人間七七四年:2015/07/31(金) 16:12:06.76 ID:lrtIvbzS.net
菅沼遼太「○○と言ってる織田厨はアホ。本当は××」

板住民 「その××という根拠は?」

菅沼遼太「△△という史料に書いてある。自分で探せアホ」

板住民 「△△という史料にそんなこと書いてないじゃんwww(原文提示)」

第三者 「菅沼遼太アホすwwwww」

菅沼遼太「織田厨は読解力がないから原文読めないだけ。本当は××だから。」

板住民 「ではここで過去の菅沼遼太の訳文を」

第三者 「ぜんぜん違うじゃんwww」

菅沼遼太「ああああああああああうるっっせえええええ織田厨はアホなんだよおおおおおおおおおおおおお」

菅沼遼太「織田厨はアホアホアホアホアホ」

菅沼遼太「俺はコピペですでに論破してんだよおおおおおおおおおおおお」

826 :人間七七四年:2015/08/01(土) 06:26:08.25 ID:Tjt0XNFY.net
文太のふりして逃亡する菅沼w

827 :人間七七四年:2015/08/01(土) 10:39:38.87 ID:mrxfHatc.net
基本資料の歴代古案すらすぐ調べられないとか
織田厨ってそれすら読んだこともなく
武田や北条や上杉を語ってるのかよ・・・
どうりで出鱈目ばかり書いては指摘されると
自演で多数派を装い正当化工作したり、
相手への人格攻撃とレッテル貼りをするわけだw

828 :人間七七四年:2015/08/01(土) 10:44:17.75 ID:V2i9+UmH.net
いやだから貼れよ

829 :人間七七四年:2015/08/01(土) 18:00:34.14 ID:4yJoOIxZ.net
なんでその程度がすぐ見れないんだよ、

底抜けの無知かよ笑

830 :人間七七四年:2015/08/01(土) 18:13:21.93 ID:ZT10IhWu.net
いつも泣きながら長文コピペするのに、
今回は7〜10行なのに、
「長文だからコピペできないんです」と
言ってしくしく泣く菅沼。

831 :人間七七四年:2015/08/01(土) 19:28:29.30 ID:4yJoOIxZ.net
織田朝鮮人阿鼻叫喚ウケる笑
氏康が書いた年が違う時点ででっち上げ確定じゃん。
特に無駄に長い文章を苦労して転記してボランティアする必要性を感じないわアホくさ。

832 :人間七七四年:2015/08/01(土) 19:32:46.57 ID:KR3JSLzl.net
>>831
互いの話の土台となるんだから書状ぐらいきちんと言えよ。
議論のルールとして当然だろ?
君が言っているのは、「歴代古案」の「簗田中務大輔殿宛」の書状でOK?

833 :人間七七四年:2015/08/02(日) 18:25:05.63 ID:eomOFij3.net
追い詰められてしくしく泣きだす菅沼くん、なんだか可哀そう

834 :人間七七四年:2015/08/02(日) 18:42:57.07 ID:p691cD+s.net
https://twitter.com/takaosanmt/status/627744260826071041
https://twitter.com/takaosanmt/status/627745396383559682

835 :人間七七四年:2015/08/03(月) 02:27:51.40 ID:S8AcI9BN.net
>>833
むしろ赤ん坊みたいなギャーギャーうるさい泣き方だろう

836 :人間七七四年:2015/08/06(木) 15:58:55.78 ID:/DKGzAq7.net
マジで>>825の展開じゃんwwww

837 :人間七七四年:2015/08/16(日) 13:07:00.46 ID:GsFbfu+q.net
いつも泣きながら長文コピペするのに、
今回は7〜10行なのに、
「長文だからコピペできないんです」と
言ってしくしく泣く菅沼。

838 :人間七七四年:2015/08/21(金) 05:51:47.67 ID:ZrPg4egP.net
菅沼遼太は基本的に嘘でまくし立てることしかできない
だから真実となりうる事柄に繋がりかねない情報(原文や出典など)を出すことを一貫して拒否する
それでいて不利な情報は真実となりうる事柄であっても捏造だのマンセーだの言って無理やり誤魔化す
奴の行動パターンはテンプレ化されてるから、少し考えればわかるんだよな

839 :人間七七四年:2015/08/21(金) 06:08:27.37 ID:Rwn5F6az.net
むしろ過去に何度となく原文を提供してきたが、
ことごとくトンデモ曲解してきたのが織田在日じゃん笑
その最たる例が悪名高い信長が同盟を裏切り斎藤を奇襲して大敗した
第一次義昭上洛戦解釈だし。

840 :人間七七四年:2015/08/21(金) 08:01:17.66 ID:/8RTzwo/.net
>>839
と菅沼が何か喚いてますwww

841 :人間七七四年:2015/08/21(金) 09:37:01.41 ID:jHUC56Gg.net
自己正当化の工作スレや工作wikiを作ってる時点で
自分の主張が宣伝広報しないとならないほどに
曲解に満ちたものであると認識している証明になるんだよね。
アンチ秀吉の左翼織田在日哀れ。

電話かけて近づいてきて、言葉巧みにデタラメを吐く詐欺師の宣伝活動と一緒。

842 :人間七七四年:2015/08/21(金) 10:52:09.73 ID:3c/OuKw7.net
>>841
なに?
今度はwikiがお父さんにバレちゃったのw

843 :人間七七四年:2015/08/22(土) 19:33:00.79 ID:cH9i893u.net
時系列なら、
永禄10年2/26に去年の大不作に海口郷の住民の過半逐電が起きたのを知った信玄が、
三年間の伝馬役を免除して郷に戻らせた。
4月に入り、上野白井に続き総社を攻略するなど上野国攻略が進む。
5/4草津温泉の湯治を禁止するなど住民の訴訟処理をする。
8/17今川が武田に対して塩止めを開始していたのが葛山書状でわかる。
10/末、佐野が北条に降伏し、
北条と武田の連携で上杉は羽生と沼田だけに追い詰められる。
11/19には今川氏真の妹が北条の仲介により駿河帰国。
信玄は氏真妹の返還で今川による同盟破棄を恐れていたが、
北条側の仲介で今川へ返却。
この頃、義昭が武田、上杉、北条の同盟交渉を推進中で、
永禄11年3/13本庄繁長が信玄に内通し挙兵。
4/24今川がこれを察知し、噂が事実なら同盟の保証人として自分を加えて欲しいと上杉に懇願。
7月上旬、本庄に呼応し信玄が信濃飯山城を攻めると同時に、
神保長職親子を離反させ、越中一向宗と一緒に越後攻撃をさせる。
8月簗田氏が離反したので北条による関宿城攻撃。
10/20に謙信が本庄攻めに出撃。
長期化し関宿城からの救援依頼にも答えることも出来なくなり、本庄との和睦成立になる永禄12年3月末まで謙信は揚北に釘付け。
11/3今川側による国境封鎖に対処すべく武田が本栖の地下人に諸役を免除し奔走するように依頼する。
11/25今川が武田とのやり取りまで全て報告してまで信用を得ようと努力した結果、
上杉今川同盟が成立し、早速、今川が信濃出陣の依頼をする。
12/6北条と協調して上杉滅亡寸前まで追い詰めていた信玄が激怒し北信濃では無く、矛を転じて駿河へ出陣。
この事実に対応し氏真を養子として駿河の領地を奪うべく北条が介入。

完全に今川が積極的に武田を滅ぼそうとしているよね。
武田領の村々の焼き討ちや略奪を防ぐ為に、機先を制して今川攻めをしただけ。
12/19付、氏照→謙信で主張していることは完全に事実そのものだな。

844 :人間七七四年:2015/08/22(土) 20:58:32.41 ID:bNkYlnNo.net
やけに派手な誤爆だな。

845 :人間七七四年:2015/08/23(日) 05:22:10.91 ID:wyU3mE7S.net
菅沼遼太は最低限のオツムも持ってないからしゃーない

846 :人間七七四年:2015/08/23(日) 11:45:41.03 ID:uSG+suW8.net
今川が武田滅ぼせる訳ねーじゃん
できるなら義元やそれ以前にしてるわな

847 :人間七七四年:2015/08/23(日) 12:26:23.94 ID:b5EBnw4L.net
先に親今川派の義信とその家臣を粛清して、氏真の仇の信長と縁組してんのに何言ってんだか
その頃から今川侵攻する気満々じゃん
ついには義信を殺害して氏真の妹を実家に送り返す始末
氏真が謙信と初めて交渉したのはその後だからね

848 :人間七七四年:2015/08/23(日) 12:29:57.46 ID:b5EBnw4L.net
謙信を滅亡寸前て飯山城も落とせず撤退してんのに笑わせるわ

849 :人間七七四年:2015/08/23(日) 16:59:15.14 ID:zege2yqN.net
お前らやめろよ
菅沼さんは「真性マゾ」で、毎回完膚なきまでに論破されるために
夜なべで毎回カス論公開してるんだぞ
それをお前ら、よってたかって容赦無く止め刺しまくりやがって!
このままじゃ、菅沼さん喜んじゃうぞ!!!

850 :人間七七四年:2015/08/24(月) 08:08:36.04 ID:5+mzCLtw.net
喜んでるなら、何の問題もない。
遠慮なくみんなでストレス解消しよう。

851 :人間七七四年:2015/08/24(月) 09:31:03.41 ID:BPDuxrHx.net
義信が今川派って主張してるのがすでに願望妄想なんだよな。
松平元康が今川派だったから武田と手を組もうとして殺されたとか
家臣団に見放されて離反だらけで滅亡したのが今川なのに
どんだけ今川伝説すげぇんだよwwww

852 :人間七七四年:2015/08/24(月) 12:23:07.51 ID:4dElETjB.net
願望妄想で話してるのは明らかに、あんただよな
全部信玄に都合よく解釈してんだから

853 :人間七七四年:2015/08/24(月) 12:24:47.09 ID:rHSDut6q.net
質問!
三国同盟時点での3国のバランス関係でどんなだったの?
「しょうがねえ、組んでやるか」とか「組まないと滅ぼされちゃうよ」みたいなのが知りたい

854 :人間七七四年:2015/08/24(月) 12:26:36.78 ID:ro0QBV0r.net
つか、そもそも織田と今川は領土を接していないのも知らん無知っぷりワロタw

855 :人間七七四年:2015/08/24(月) 18:40:35.82 ID:4dElETjB.net
信長は明確に反今川勢力で義信幽閉した直後にその信長と縁組した訳だ
この信玄の行動を氏真視点で見れば不信感を抱くもの当然だわ

856 :人間七七四年:2015/08/24(月) 19:26:20.33 ID:ckKjJ/xS.net
盟約反故をしては言い訳ばかりする信玄の話を鵜呑みにするのもね
北条が今川を救援してる時点でどちらに非があるか明白な気もするが

857 :人間七七四年:2015/08/25(火) 00:11:42.14 ID:lJfL2qGE.net
武田寄りの甲陽軍鑑にも氏真が信長との縁組みは背信行為だと抗議してる記述があるね

858 :人間七七四年:2015/08/25(火) 00:17:30.84 ID:4rxcIivh.net
武田の背信行為やな

859 :人間七七四年:2015/08/25(火) 15:07:17.83 ID:XW/+b8sX.net
国を揺るがすクーデターを生み三国同盟破綻のトリガーになった信長との縁組みだが結局その信長との同盟も破る信玄であったw

860 :人間七七四年:2015/08/25(火) 18:06:28.72 ID:SusxDbDm.net
将軍義昭を支援するため織田と領土確定交渉して盟約結ぶことの何が悪いのか理解に苦しむ。
氏真にしても信長に蹴鞠見せたりと親しく付き合ってるじゃんよ。

861 :人間七七四年:2015/08/25(火) 18:21:06.43 ID:jaob1sKG.net
もし3国同盟守って今川支援しても
武田に何の得もないからなぁ・・・

862 :人間七七四年:2015/08/25(火) 18:39:28.57 ID:lJfL2qGE.net
信長との同盟が成立したのは永禄八年十一月で、義昭が信長に接近する前のことだから義昭は関係ない
永禄の変から半年しか経ってない頃だから

863 :人間七七四年:2015/08/25(火) 18:48:50.77 ID:4rxcIivh.net
>>861
親今川派の穴山氏も義信事件がなければ裏切らなかっただろうし、穴山が裏切らなかったら長篠もなんとかなっていた

864 :人間七七四年:2015/08/25(火) 19:06:22.44 ID:SusxDbDm.net
>>862
おいおい同盟が成立した時期デタラメ書いてるだろwww

865 :人間七七四年:2015/08/25(火) 19:32:29.35 ID:lJfL2qGE.net
同盟成立の時期は甲陽軍鑑に書いてあるから

866 :人間七七四年:2015/08/25(火) 20:37:45.41 ID:5HAThIGZ.net
駿河の位置は甲斐と相模の緩衝地帯になるので
中立国であれ、ある方が武田北条にとってメリットはある

第2次世界大戦のイタリアみたいなもんで両家の戦線縮小に役立つ

武田は今川の同盟破棄したから駿河に出られたがその代わり織田との
同盟で西へ出られなくなる

方向性を変えないとだめだろ

867 :人間七七四年:2015/08/25(火) 23:02:36.10 ID:lJfL2qGE.net
織田との同盟で全く関係ない義昭の名前を出してくる謎。
どっからその妄想が湧いてきたんだろう。

868 :人間七七四年:2015/08/26(水) 00:36:08.10 ID:1lyl6xqv.net
駿河遠江に進出すれば徳川と衝突するのは想定内だろうしなぁ

869 :人間七七四年:2015/08/26(水) 09:04:10.85 ID:8V2t3O8z.net
>>865
甲陽軍鑑ってw笑うとこですねwww

870 :人間七七四年:2015/08/26(水) 12:29:08.39 ID:67a+F3gQ.net
甲尾同盟成立の時期も知らなかった奴が何言ってんだ?

871 :人間七七四年:2015/08/26(水) 12:54:00.37 ID:uJO9pY/2.net
アホか。甲陽軍鑑がソースになるわけねーだろ

872 :人間七七四年:2015/08/26(水) 18:46:43.56 ID:uJO9pY/2.net
神君は謀反ではなく正当な手順を踏んで自立したと捏造するために
信長公記になかった首巻を江戸時代になってデッチあげた桶狭間の戦い。
徳川家臣の半分が神君を見限ったけど、
その家臣名はまったく挙げられない三河一向一揆
実は伊賀を通過していない本能寺の変における
神君の織田信雄を避けるような逃走ルート。
天正12年戦役で秀吉に人質を出して降伏した癖に小牧長久手の戦いと称して誤魔化す。
小田原城を氏直に譲ったものの実権を握り、氏照らの北関東侵略を指揮していた
氏政の隠居城だった江戸城への転封を田舎への左遷と捏造w
同格の大老だった輝元ではなく格下の三成を首謀者と捏造した関ヶ原の簒奪劇。

家康の棚ボタ人生をいかにも苦労したかのように
捏造歪曲している幕府史観w


今川の書状に信長を仇と解釈できるようなものは存在せず
家康を謀反人と呼ぶ書状しかない。

873 :人間七七四年:2015/08/26(水) 19:16:49.67 ID:oFUjZ27X.net
菅沼遼太のトンデモ説をまとめたものか?
よくこんなデタラメ思いつくよな。

874 :人間七七四年:2015/08/26(水) 19:19:38.64 ID:1+6Wehyy.net
≫870
それじゃあ甲陽軍鑑の甲尾同盟についての記述が正しくないとする根拠を教えてもらおうか

875 :人間七七四年:2015/08/27(木) 05:42:00.99 ID:GyipdWIJ.net
アホくさ。
だれも軍鑑なんて根拠として採用してないし。

876 :人間七七四年:2015/08/27(木) 07:13:01.94 ID:iUPRWpqF.net
甲尾同盟が永禄八年に結ばれたことは研究者も普通に引用してるんだが

877 :人間七七四年:2015/08/27(木) 10:40:16.90 ID:IRZTHX+t.net
>>天正12年戦役で秀吉に人質を出して降伏した

秀吉は信雄相手に敗戦まみれだったために下記の史料に見えるように
http://iup.2ch-library.com/i/i1495793-1440639248.jpg
秀吉が天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
秀吉は雑魚の信雄に敵の8倍の兵力で挑みかかって大敗し
11/4に顕如に土下座して信雄との停戦の取り成しやってもらって
家康を孤立させた癖に家康相手にも自力では全く何もできず
寝返りの連鎖・天正11年からの災害の連発に備えた徳政令連発・石川らの離反による軍事機密露見で
領国が崩壊した自国の10分の1以下程度の国力の家康に必死に土下座して、従ってくれ〜と母や妹に加えて関東240万石まで差し出すヘタレっぷり。
結局自力では全く歯がたたないから滅ぼされたってだけの事だろ。
家康が温情深い性格だから、自分に土下座してきた相手だから仕方ねぇって家康は何もしなかっただけ。
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。

878 :人間七七四年:2015/08/27(木) 10:42:50.76 ID:IRZTHX+t.net
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。

879 :人間七七四年:2015/08/27(木) 10:44:17.12 ID:IRZTHX+t.net
小牧長久手が秀吉圧勝とか馬鹿堀に毒されたアホがまた暴れてるな
135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

880 :人間七七四年:2015/08/27(木) 10:45:21.15 ID:Xpub6hrT.net
家康が秀吉に養子を出したのって
北条が藤田や大石家に養子を出したり
毛利が吉川や小早川に養子を出したりした
織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ。
屈服させた相手に、関係を強固にしたり、自家との一体化や支配を強固にするために
従属下の大名に養子出しただけ。

小牧長久手の結果秀吉が家康に土下座して顕如に取り成し依頼してもらったり
母や妹を差し出して家康に土下座して講和してもらったり
250万石やチート官位差し出す等土下座しまくってるし
結局それが原因で豊臣家を滅ぼされる事になったんだから家康の圧勝でしょ。
秀吉なんて指揮采配能力じゃ家康どころか信雄相手に蹴散らされまくった雑魚じゃん。

881 :人間七七四年:2015/08/27(木) 10:46:40.25 ID:Xpub6hrT.net
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし

882 :人間七七四年:2015/08/27(木) 10:47:22.07 ID:Xpub6hrT.net
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない

結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ

883 :人間七七四年:2015/08/27(木) 10:48:29.43 ID:szUdiGai.net
秀吉は雑魚の信雄に敵の8倍の兵力で挑みかかって大敗し
11/4に顕如に土下座して信雄との停戦の取り成しやってもらって
家康を孤立させた癖に家康相手にも自力では全く何もできず
寝返りの連鎖・天正11年からの災害の連発に備えた徳政令連発・石川らの離反による軍事機密露見で
領国が崩壊した自国の10分の1以下程度の国力の家康に必死に土下座して、従ってくれ〜と母や妹に加えて関東240万石まで差し出すヘタレっぷり。
結局自力では全く歯がたたないから滅ぼされたってだけの事だろ。
家康が温情深い性格だから、自分に土下座してきた相手だから仕方ねぇって家康は何もしなかっただけ。

884 :人間七七四年:2015/08/27(木) 10:49:21.62 ID:Xpub6hrT.net
指揮能力や采配能力が劣っていようが数でごり押しすれば勝てるのが戦だが
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
土下座能力はチートだったので
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

885 :人間七七四年:2015/08/27(木) 11:03:54.42 ID:kfQnRbgW.net
スレち
それにどんな言い訳しようが家康が降ったのは事実

886 :人間七七四年:2015/08/27(木) 13:34:18.64 ID:IRZTHX+t.net
>>885
実際には降ったのは1586年になってから。
秀吉は1584年時点では家康とは停戦しかしてない。
秀吉は下記の史料に見るように天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座依頼してるのが11/4の秀吉→顕如への書状でわかる
http://iup.2ch-library.com/i/i1495793-1440639248.jpg
また秀吉は天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
しかし直前になると秀吉はビビりまくって信雄を仲介に送って戦争を避けてる

887 :人間七七四年:2015/08/27(木) 13:37:02.42 ID:4fpfvuzU.net
>>885
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
土下座能力はチートだったので
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

豊臣家はこのためにあっさりと家康に滅ぼされた。
結局実力がない者は戦に負けて家を滅ぼされるという当たり前の事が起きただけだよ。
秀吉生前から家康どころか信雄に蹴散らされて家康に母や妹や関東250万石やチート官位まで土下座献上して講和してもらってるし。

888 :人間七七四年:2015/08/27(木) 13:47:33.77 ID:EQjaOTsg.net
後世は信玄のいいとこしか教えないよな

889 :人間七七四年:2015/08/27(木) 14:17:39.48 ID:PvpnXgXm.net
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。

890 :人間七七四年:2015/08/27(木) 14:19:36.41 ID:IFRNvc0c.net
秀吉も家康もどうでもいいんだが

891 :人間七七四年:2015/08/27(木) 16:35:31.63 ID:k2MYaQIY.net
家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。 人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉は、
背後を気にする必要もなく、 安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧した。
そしてビビり家康からさらなる追加人質を要求した秀吉は、
征伐されたくない家康が言いわけをして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
実際、家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談していただけである。
それは秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術でもあり、 石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた。
2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上がり始めた。
意見統一が出来ない家康は2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し岡崎で降伏条件の最終会談をして、
秀吉との婚姻を条件に、さらにハードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
しかし上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、 家康の小心っぷりが際立っていた。

本多隆成氏ですら定本徳川家康の中で、 天正12年12/12には秀吉への人質(養子ともいう)として、
第二子於義伊(のちの結城秀康)が浜松を発つ などと書いているのになwww
家康が人質なんて出してない!なんてキチガイ主張してんのは在日織田チョンだけwww

酒井、石川、本多からも人質を取って、 家康を従属させた秀吉は、
家康の同盟相手だった雑賀衆、高野山、長宗我部、佐々を討ち従えた。
しかも佐々を討った際に、 秀吉は家康に佐々の本領安堵してやる代わりに、
お前はさらに人質を出せや!と言われる始末。
従属したくせになかなか上洛して挨拶に来ない家康を、
秀吉は表裏と捉え始め、 上洛しないなら、さらなる人質提出を要求。
怖いので上洛したくない家康は家臣を集めた大会議をして家臣らに人質を出すよう説得。
そして秀吉も美濃での緊張を高めて、 家康を圧迫しまくる。
家康は家臣説得に失敗し、 これを契機に徳川を見限った石川が豊臣へ逃亡。
すでに調略を受けた小笠原も秀吉に寝返り、高遠の保科を攻め始める始末。
ついに進退極まった家康は、秀吉の信雄に懇望し、 秀吉と婚姻して縁戚になったら上洛しますと土下座。
しかしやっぱり殺される恐怖から上洛を躊躇する。
秀吉は天皇即位式には義弟家康を出席させようとしていた為に、
天皇のため、自分の母を、義弟家康の上洛中だけ限定の人質に出すことにして朝廷の面目をたてた。

892 :人間七七四年:2015/08/27(木) 16:36:59.85 ID:k2MYaQIY.net
秀吉が天正11年9月に大坂城をとりあえずの完成になるや、 臣従の証として大坂登城の招きがあった。
丹羽長秀はそれに応じなかったので、 秀吉から上洛延引し在国していることを咎めれた。
そこで村上義明が秀吉へ弁明の使者として派遣され、 秀吉の怒りを解いている。
秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており、 天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させたとは言え、
臣従の証として家康の上洛を要求していた。 自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており、
何とか誤魔化していたが、それも限界がきて秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込まれるだけだった。
佐々を攻略した秀吉は、佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付け、
家康は家臣を浜松に集め人質提出の相談所をし、 秀吉も東美濃の軍備を強化し圧力をかけた。
それでも重臣が人質提出を拒否し、
家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走った。
と言うのも秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたからで、
丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に、
家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖でいっぱいだっただろう。
続いて小笠原も家康を見限り、 これを受けて秀吉は1/28には出陣準備を始めるが、
家康が再度、言い訳をしたので2/8に出陣を赦免している。
そして2/26に家康は北条に釈明に駿河へ行き、 どうしても死にたくない家康は、
命欲しさに上洛するから、殺されない保証として婚姻して縁戚になり、
上洛している最中だけ秀吉の母を預かる条件で、 上洛することを承諾するという、
命欲しさの家康は武将としては最悪な生き汚さを発揮。
ひたすら家康は死にたくないので、上洛を先延ばしし、
戦を背景に問い詰められると、言い訳をして表裏して誤魔化していた日本一恥ずかしい武将。
信雄もあからさまに家康を見限っていた程のビビり。

そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを (秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、 賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、 家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、 酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、 謀反を恐れた家康は、
いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、 徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、 11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、 秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、 徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、
妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。

893 :人間七七四年:2015/08/27(木) 16:46:49.90 ID:k2MYaQIY.net
ガチで自分の命が惜しくて仕方が無い。 最強命乞い大名。
上洛する前もそうとう怖くて、 北条相手に上洛したら騙されて殺されるかもと泣きついたらしく、
家康が上洛中に北条は領内大動員をかけて、 北条側は「当方之興亡此時候間」とか、
「万一於京都表裏之扱有之者」とか、 「万一西表有相違之筋目」 などと秀吉相手に大決戦する構えをとってる。
上野も最前線の真田戦線での開戦に向けて、 部隊移動が開始され、
出遅れないように11/10までに利根川端まで15歳から70歳までは無足の者まで残らず動員して打ち出て来いとまで命じてる。
どんだけ北条に対して家康は脅威を訴えたんやwww
北条は家康に万が一のことがあったらと全力動員開始してたのに、
家康から北条へ、11/15付けで俺、東国の惣無事令の取次ぎの職を秀吉から任命してもらったんだー。
だから佐竹や宇都宮や結城や那須を攻めないように誓って秀吉にちゃんと返事しろよ!って言われた北条は茫然自失して騙されたと感じただろうね。
家康はホント、恐怖で被害妄想を膨らまして大袈裟に誇張する精神的病人。

本能寺の変後に北条に大敗した滝川に対して信濃国の小県郡や佐久郡の国人の人質譲渡を条件に美濃国への帰国を支援した木曽。
その木曽から人質ぜんぶ贈られた棚ボタ家康。
おかげで依田氏や真田氏らが家康側に付いて
上野国から信濃国へ侵攻してきた北条の背後が常に戦乱叛乱だらけで北条が根をあげて家康に妥協する。
家康自身はなんにもやってないためまさに棚ボタ。
森らの報復を恐れて木曽は家康に付いただけの話だから
家康は木曽に対して特に働きかけすらしてない。

894 :人間七七四年:2015/08/27(木) 16:55:34.89 ID:GyipdWIJ.net
在日織田チョンのアンチ秀吉工作って破綻してるよな。
やつの主張通りなら家康が秀吉に臣従するわけがないんだから。
狂っているとしか思えん。

895 :人間七七四年:2015/08/27(木) 18:37:19.98 ID:k2MYaQIY.net
必死に朝廷工作して官位をあげたとか曲解もいいとこw
実際、秀吉が家康と戦っていた時は、 無位無官の平民羽柴秀吉と、
近衛中将経験者2人(信雄と家康)と戦っていた。そして平民秀吉が家康らを圧倒したから、
朝廷は急いで秀吉を取り込もうと、 天正12年10/2に従五位下の叙爵少将の叙任の勅使を急遽派遣してんだよw
そして朝廷は同日には早くも秀吉の参内権の是非まで諮り、
11月までには参内権を許可するなど、 急いで秀吉の参内を促していたが、
有職故実の儀礼知識が無い素人秀吉は参内を逡巡し、
初参内は13年3/10の時まで待たされた。 秀吉が必死に官位官職を上げて家康らの上に行こうと働きかけていたら、
すぐ得意がって参内するはずだろがw そもそもお前はこの時点での秀吉が無位無官なのすら知らなかったのがモロバレw
家康が源氏姓を称するのが天正16年4月。 天正18年8月関東移封。
これは関東地方では源頼朝以来の源氏の伝統があったため家康が源氏を称することにより
関東支配を円滑にすすめさせようとする秀吉の政策が見える。
それゆえに関東入部以前から源氏姓を称する必要があった。
つまり東国平定の成功が征夷大将軍任官と関わりがある。
無位無官の平民羽柴秀吉が家康に勝利し臣従させたことを認めた朝廷は
東国平定の武功を称え天正12年10/16秀吉は天皇に将軍任官を勧められたのである。
このことで秀吉は朝廷から公認され身分が向上したことで
織田家を臣従させているため下克上にはならないのである。
また秀吉が義昭に断れたので征夷代将軍を諦め関白を狙ったとする捏造ですが、
これは堀氏によればたまたま起こった関白職を巡る二条と近衛の相論に乗じた「たなぼた」でした。

天正12年戦役で秀吉に大敗した家康。 完全に威信が地に落ちた徳川w
翌年11月にはついに武田の影に怯えて甲信から糞漏らしながら全面撤退命令www
秀吉配下の前田が越中口から、北信濃口と越後口から上杉、飛騨口から金森、木曽郡から木曽軍が怒涛の勢いで南下。
家康が相変わらず援軍を出さないで見捨て始めるとたまらず小笠原氏が秀吉へ内通開始。
三河物語によると武田信玄の息子の龍宝の嫡男が
北信濃の一向宗と合流した師慶と菊姫に随行していた八重森因幡守家昌に守られ犬飼村におり
その武田信道が景勝南下とともに甲斐に帰還する。
このような話を聞いた家康は甲斐は乱国になるとビビりにビビり、
なんと信濃甲斐から浜松へ全軍逃げて来いと命令。
信濃佐久郡から大久保忠世、諏訪郡より芝田康忠、甲州郡から平岩親吉らは
ものすごい勢いで真田軍の目の前から浜松へ逃走w
置き去りにされた地元の菅沼定利が一人で人質集めを始めて南信濃の崩壊を防いでくれた。
また佐久郡から甲斐への道は、まさか武田の影に怯えていたとは気づかなかった
真田昌幸が景勝によくわからんけど全軍浜松へ逃げたから調査するよと返答し
様子見していたので崩壊せずに済んだwww 家康は相変わらずのヘタレである。

896 :人間七七四年:2015/08/27(木) 20:23:22.68 ID:fwpJbJuR.net
またコピペで埋めに走るのか…まあいつもの事だけど

897 :人間七七四年:2015/08/27(木) 20:38:47.74 ID:S7lOUs0c.net
こいつ病気じゃねーか?

898 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:16:40.16 ID:oFdDro9E.net
病気だよ。
見かけるたびにNGに入れて、見ないのが一番。

899 :人間七七四年:2015/08/27(木) 22:51:17.06 ID:y1YKSrGi.net
さいきん外部まとめからも
ついに爪はじき喰らったみたいだしひまなんでそ

900 :人間七七四年:2015/08/28(金) 01:06:19.59 ID:2e7Te4Vq.net
長文は見た瞬間にNGでまず間違いないな

901 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:29:50.07 ID:h8vIk12Y.net
オラ正しいこと言ってるのに!
認めないお前らが悪いニダ

と言う菅沼の心の叫び(笑)

902 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:48:03.44 ID:v28Lw3Ca.net
>>天正12年の戦いで敗北した信雄

信雄は秀吉に圧勝したじゃん。
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)

903 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:50:48.18 ID:v28Lw3Ca.net
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。

904 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:51:04.81 ID:8y8Sxbhu.net
石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記6/10秀吉→石川
でわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
11/15家康→氏直 去13日石川数正が尾張に退散し信州小笠原貞慶の人質を召し連れ上方申合子細ニ付〜
12/14家康→保科正直で石川出奔に同調した小笠原貞慶との戦闘における戦功を賞している
今度小笠原大夫逆意を企てその表相動く処、一戦を遂げられ敵随一の者数多被討捕由〜
実際に小笠原が離反したのは石川の出奔後だろ。12/14家康→保科で「今後小笠原大夫逆意を企て」
などと書いてて、小笠原が出奔してから間もない事だとわかるし

家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw

905 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:51:20.18 ID:v28Lw3Ca.net
正しい年表は以下の通りね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

906 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:51:37.97 ID:8y8Sxbhu.net
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。

907 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:51:55.08 ID:v28Lw3Ca.net
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。


翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

908 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:52:09.97 ID:8y8Sxbhu.net
>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込

表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

>>自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており何とか誤魔化していたが

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw

909 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:52:24.10 ID:v28Lw3Ca.net
>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

>>秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させた

家康は臣従なんてしてねーよボケ。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ

910 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:52:41.70 ID:8y8Sxbhu.net
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

>>臣従の証として家康の上洛を要求
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな


翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

911 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:52:59.22 ID:v28Lw3Ca.net
>>佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付
そんな事全くやってない。
>>家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走
石川は天正12年の長久手合戦の頃から秀吉に篭絡されかかってたし、別に家中をまとめられないから逃げたとか関係ない。
秀吉のお得意のヘタレ土下座が功を奏して、大した相手でもないのに石川は過大評価してただけ。
>>秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたから
>>丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖
丹羽みたいな雑魚と、家康や信雄は全く違うからその比較は根拠にならない。

史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ

>>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
>>家康はビビッた
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

912 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:53:15.21 ID:8y8Sxbhu.net
>>あまりにも見事かつ完璧に秀吉に敗北した事を意味した。
家康に土下座和睦して後ろの心配をなくした上に上杉や毛利や宇喜多や木曽らの力に頼りまくって
雑魚イジメした事の何が敗北なんだよアホ
>>紀伊惣国一揆を従属させた秀吉は彼らの船を総動員してすぐさま四国に攻め寄せ圧倒
これも信雄や家康が怖くてビビリまくって、和睦した隙に、少しでも敵領土を削って味方を強大にするために雑魚イジメしてただけじゃん。
>>秀吉が天才と呼ばれる所以は高野山を速攻で制圧
当時の秀吉の領土は畿内一円に、毛利・上杉・宇喜多・木曽・信雄。
高野山なんて10万石いくかいかないかわからん雑魚なんていじめて何が凄いんだよタコ
>>第二陣として出陣してきた信雄と秀康らの軍が雑賀に着陣してきた時にはすでに平定してしまっていた程の巧者
はぁ?秀吉軍畿内総結集すれば15万くらいいくだろ。
5000もいくか怪しい高野山なんて、馬鹿でも叩き潰せるわwこんな指揮采配能力と全く関係ない雑魚イジメで
将の資質や戦のうまさなんてとわれねーよクズ。
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

913 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:53:32.37 ID:v28Lw3Ca.net
家康は臣従なんてしてねーよボケ。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

914 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:53:50.38 ID:8y8Sxbhu.net
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え

石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。

915 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:54:09.08 ID:v28Lw3Ca.net
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。

916 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:54:24.50 ID:nHT2N4bA.net
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

917 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:54:40.58 ID:v28Lw3Ca.net
>>臣従の証として家康の上洛を要求
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

918 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:55:00.67 ID:NHzDPVip.net
>>自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており何とか誤魔化していたが

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込

表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

>>佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付
そんな事全くやってない。
>>家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走
石川は天正12年の長久手合戦の頃から秀吉に篭絡されかかってたし、別に家中をまとめられないから逃げたとか関係ない。
秀吉のお得意のヘタレ土下座が功を奏して、大した相手でもないのに石川は過大評価してただけ。
>>秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたから
>>丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖
丹羽みたいな雑魚と、家康や信雄は全く違うからその比較は根拠にならない。

史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ

919 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:55:15.76 ID:v28Lw3Ca.net
>>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
>>家康はビビッた
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる

920 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:55:35.49 ID:8y8Sxbhu.net
>>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談
何それ指導力って(笑)北条が真田の領土問題で援軍をよこさなかったため
北条からの加勢を得る事や北条との結束を強化する意味で浜松会談や真田との戦いに挑んだだけじゃん
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

921 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:55:54.75 ID:v28Lw3Ca.net
>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw

>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

922 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:56:10.61 ID:Dl+ccXR8.net
>>家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談
ハイハイ、ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
>>秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上が
ハードルが上がるも糞も、人質を提出する=秀吉への臣従なので、全く要求は変わっていない。
>>意見統一が出来ない家康
ハイハイソースなし。
>>2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し
そんな事やってない。秀吉の方が信雄にたのんで仲介やってもらって、母や妹を差し出してまで戦いを避けてる。
>>岡崎で降伏条件の最終会談をして、
そんな事やってない。
>>秀吉との婚姻を条件
秀吉が「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに家康に必死に土下座して母や妹を差し出しただけ。
>>さらにはードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
なんだそれ(笑)またいつものお前の妄想か?
>>上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
恐怖する日々ってなんだそれ(笑)お前の妄想か?
>>秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
この時点で秀吉が早く朝鮮出兵したかったというソースをくれ。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

923 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:56:27.10 ID:v28Lw3Ca.net
>>1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする
そんな事家康はやってない。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

924 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:56:45.21 ID:nzCgLs0T.net
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし

925 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:56:59.17 ID:v28Lw3Ca.net
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない

926 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:57:16.15 ID:8y8Sxbhu.net
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え

石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
>>秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>賛成している者は徳川家臣団には
ソースは?
>>明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされ
ソースなし。
しかも>>そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
これと見事なまでに矛盾したアホ乙
>>天正14年5/25の秀吉書状には家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
秀吉は天正12年の時の和睦停戦の時にも信雄が人質を差し出して種種懇望して来たが許さなかったとか
信雄が人質を差し出して種種懇望してきたから許してやったとか
嘘ばかりデッチあげてるし(9月時点で許さなかった和睦条件を、11月に許してやる理由が全くない。)

>>戦を回避する為に家康が懇望
ソースなし。妄想乙。秀吉が直前まで出兵計画を立ててたがいざ其の時期になると
信雄に土下座して和睦の仲介やってもらった上に母や妹を差し出して土下座してきたから
家康がしょうがねぇなやれやれと思って仕方なく応じてやっただけ。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。

927 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:58:15.79 ID:95IPh3i8.net
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。

家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。

928 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:58:34.78 ID:v28Lw3Ca.net
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

929 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:58:51.30 ID:3ODTW1pK.net
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

930 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:59:10.18 ID:v28Lw3Ca.net
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。

931 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:59:28.03 ID:wa0qWp+K.net
>>天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
家康は人質なんて出してない。下記が正しい年表ね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

932 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:59:42.08 ID:v28Lw3Ca.net
>>人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉
家康は人質なんて出してないし、全く服属してねーよカス
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw

933 :人間七七四年:2015/08/28(金) 09:59:58.79 ID:8y8Sxbhu.net
>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

>>家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談
ハイハイ、ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

934 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:00:14.82 ID:v28Lw3Ca.net
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい

935 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:00:39.59 ID:UiPQnnk1.net
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然

なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。

実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん

秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す

936 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:07:52.51 ID:UiPQnnk1.net
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。


翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

937 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:08:09.72 ID:v28Lw3Ca.net
>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込

表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

>>自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており何とか誤魔化していたが

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw

938 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:08:27.33 ID:XD9NOyvO.net
>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

>>秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させた

家康は臣従なんてしてねーよボケ。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ

939 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:11:14.80 ID:v28Lw3Ca.net
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

>>臣従の証として家康の上洛を要求
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな


翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

940 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:44:59.06 ID:7TRTp5BO.net
>最初から死ぬつもりで無謀な進軍をするつもりで秀吉に嘆願していた

何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

941 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:45:23.67 ID:v28Lw3Ca.net
>>死に急ぐ森ら
森らは全く死に急いではいない。4/8秀吉→丹羽にあるように軍令に忠実に三河方面へ淡々と行軍してただけ。
>>三好秀次を支援に付ける温情
秀次は当時秀吉の数少ない血縁者。森が自殺を考えてるなら生きるか死ぬかもわからん戦に秀吉が行軍させるわけがない。
>>秀次は素人丸出しで、徳川軍に背後を襲われ不意だったために混乱。敗因を作ったのは秀次
背後を襲わせたのは、秀吉のアホ戦術。

4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
>>汚名返上のために死ぬ覚悟だった森ら
ハイハイ、ソースなし。
国境地帯にいる森らがいつ命落すかは全くわからんし、去就が注目されてた程なので秀吉に従った後
いつ先陣をやらされるかわからんから、遺言状を念のため書いただけ。それを無理矢理森が命を省みず無謀な行軍をするつもりだったとか
中入りが森らが名乗り出たとか相当馬鹿だな。森らは>>864-865>>869のようにとっくに秀吉家臣だから
4/8丹羽宛書状にあるように秀吉の命令で三河侵攻に派遣され、秀吉の命に忠実に動き、三河方面に放火や城攻めや築城をしながら行軍してただけだろアホ

>>秀次を生きて帰すことが恥辱をそそぐことにつながると考えた結果、

恥辱も糞も仮に背後から襲われる結果になった場合真っ先に狙われるのは最後尾の秀次軍であり
森らは最も安全な、徳川や信雄から離れた位置で行軍してたのだから、最初からこれが無謀な行軍なわけがない。
そんな危険な戦を考えていたならなら、秀次が一緒に派遣されるわけがないし、秀吉の親戚筋の木下兄弟まで一緒に派遣されて戦死してるほどなんだがw

>>森らが生還を考えず勝手に討ち死に
生還を考えずも糞も、尾張方面から進出してくる徳川軍に退却路をふさがれてただけだろ。
池田元助という、未来のある武将まで逃げ切れず戦死してるし。
>>秀次や長谷川や堀らは無事生還
秀吉のアホ作戦のせいで秀次が急襲されて、ねねの兄弟の木下兄弟が戦死し、長谷川や堀らが榊原隊に蹴散らされあっさり敗走したために
徳川勢と信雄勢がわらわら集まってきて、池田と森らが退却できなくなって、戦死しただけ。
池田元助まで逃げ切れずに戦死してるから、逃げようとして逃げられなかっただけであって自ら死を選んだわけじゃない。

942 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:45:45.08 ID:gg5kgqak.net
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

>>三鬼氏は秀吉軍戦力を10万は誇張で実際は6万と指摘しておりその中から別働隊に割ける兵力も少ない

一次資料や陣立書類から、秀吉軍は下記のように総軍フル動員で戦闘に臨んでるからそれは絶対にない。
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。

秀吉方は 秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる

943 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:46:00.72 ID:v28Lw3Ca.net
>>岩田氏覚書によれば、天正12年2月には酒井重忠を使者に信雄と家康は密談していて、
>>3/6に信雄が三重臣殺害をしていてあきらかに家康が悪しき謀略をしたのが事の発端

多聞院日記2/2条で秀吉方の脇坂安治が伊賀の国衆を組織して伊賀上野城を乗っ取っている。これが発端
また津川ら信雄ら三家老は秀吉がこぞって彼らの人質を取っていたために操り人形だった(家中対秀吉心合候者共両三人)

>>美濃の池田と娘婿森の自立勢力の帰属を巡る外交調略戦で、信雄家康陣営は完敗

何それ?外交戦って?ソースを書いてくれ。

>>鬼武蔵の異名を穢した汚名返上したいと秀吉の助力を嘆願

全くそんな事嘆願していない。
森の3月26日遺言状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
「森家の後継ぎは忠政が長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい」
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
俗にいわれてるようなDQNっぽさは全く読み取れない。

池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している

944 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:46:19.05 ID:/eDOnSi1.net
アホか。秀吉が単に秀次に敗戦の責任をなすりつけてるだけで、作戦自体全面的に秀吉が結構したものだし
奇襲されたのは秀吉が敵地のど真中で無謀な行軍させたからだから100%秀吉のせいだわw
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀次は縄目の恥なんて書いてねーよボケ

945 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:46:37.85 ID:v28Lw3Ca.net
わずか10町ほどの近距離にいる信雄・家康勢に対して仕掛けた軍事作戦が秀吉のせいじゃなく秀次のせいだというなら
秀吉が指揮した合戦なんてほとんど後方の離れた場所から悠々と命令出してただけだから
秀吉の合戦なんて全て秀吉の功責じゃなくなるだろバーカ
九州征伐や小田原征伐に至っては、100%秀吉とは関係なくなるなw
都合の悪い事を全て部下になすりつけて、都合のいい手柄だけ秀吉の才覚でとか妄想してんじゃねぇよボォケwwww

秀吉が自分の戦術ミスで徳川方に大敗したのを池田家からの非難を恐れて無理矢理秀次に押し付けてるだけじゃねぇかアホ
秀吉が池田隊や秀次隊に無謀な行軍中入りを命じたのは明らかだろうがタコ
秀吉が自分の作戦失敗を部下になすりつけるのは滝川の蟹江合戦の時とかいつもの事だしな(蟹江から眼前の大垣にいながら滝川を見捨

自分のアホ作戦で1万人を超える甚大な被害を出した秀吉は
池田家からの非難を恐れて気を使いまくっておおちさまにあてて、勝入のとむらい合戦を絶対行う!
等と息まいてたからね。

946 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:46:56.15 ID:gg5kgqak.net
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

947 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:47:17.45 ID:v28Lw3Ca.net
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし

948 :人間七七四年:2015/08/28(金) 10:47:33.26 ID:Rj5jqGJ+.net
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する

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