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スレ立てるまでもない質問スレ

1 :人間七七四年:2014/09/18(木) 00:20:31.58 ID:/FPKG71w.net
スレ立てるまでもないちょっとした質問のスレッドです。

2 :人間七七四年:2014/09/18(木) 18:55:09.54 ID:PFxPT2lS.net
分からないことがあるときは、スレッド建てて聞く前にこのスレで質問してください。
専門的な質問は、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。

回答に時間がかかったり、回答が得られなくても怒らないでください。
質問が続くようでしたら、名前やトリップ付けることをお奨めします。
また質問する前に一度自分でも調べてみましょう。
人名・用語について調べたい時は、ここで聞くよりも検索したほうが速くて確実かと思われます。。

―【質問する前にすること】―
★検索サイトでとりあえず検索。これ最強。→Google検索
ttp://www.google.co.jp/
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<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・回答に時間がかかることもあります。ご了承ください。
・既に専門スレがあったり、板違いの質問があったりする場合は、速やかに誘導してください。
・過度な論争は自粛してください。
・煽り質問はスルー。

◇過去スレ
01 ttp://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150022967/
02 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195567708/
03 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234172504/
04 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251802299/
05 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263114279/
06 ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274877247/
07 ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296473917/
08 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1311198199/
09 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327134476/
10 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1347617351/
11 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1362228842/
12 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376577423/
13 http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1390465028/

3 :人間七七四年:2014/09/18(木) 18:57:37.78 ID:PFxPT2lS.net
このスレは14スレ目になります。
>>1

4 :人間七七四年:2014/09/19(金) 00:06:29.60 ID:jmtadMTF.net
城の本丸取るのってそんなに大変だったんですか?
本丸って縦横何mくらいだったのですか?
本丸には何人くらいが守っていたのですか?

5 :人間七七四年:2014/09/19(金) 00:15:52.81 ID:bswbxBr/.net
>>4
城それぞれ

6 :人間七七四年:2014/09/29(月) 18:51:56.12 ID:V1NxB5p5.net
城って言っても、小山に柵つくって木造の家を建てたような小砦から、城下町すら城郭に取り込んだ城塞まで千差万別です

7 :人間七七四年:2014/10/01(水) 07:27:51.93 ID:oVkcJhdU.net
ここでの質問として適当かどうかわかりませんが、一応質問させて下さい。
秀吉が日本全土を初めて統一したと世間では言ってますが、室町幕府時代には全国を支配下に治めていなかったのでしょうか?
どこかの地域が反幕府としてずーと敵対していたのでしょうか。
初歩的な質問ですが、ご回答お願いします。

8 :人間七七四年:2014/10/02(木) 04:20:01.53 ID:B1tKdaFV.net
>>5-6
では例えば、関ヶ原の戦いの時の信濃上田城の本丸は縦横何mくらいだったのですか?
本丸には何人くらいが守っていたのですか?
上田城の本丸取るのってそんなに大変だったんですか?

9 :人間七七四年:2014/10/02(木) 23:51:27.48 ID:l6uiWvQk.net
>>7
各国の領主である守護は京にいて、現地はいわゆる代官である守護代が地域に根を張る
そして将軍は自前の戦力がほとんどない

こんな政権で全国制覇は無理です

10 :人間七七四年:2014/10/03(金) 00:00:14.98 ID:M8uTy27D.net
>>7
南朝勢力とか鎌倉公方とか

11 :人間七七四年:2014/10/03(金) 22:44:32.21 ID:NfiRnvc4.net
室町までは朝廷権力を委譲されたというのを
背景に全国を支配してたんだけど
武力で統一した、のが秀吉が初めて
という意味だろね。

12 :人間七七四年:2014/10/07(火) 02:34:53.76 ID:yy7DdgH2.net
謀反と裏切りの違いってありますか?

13 :人間七七四年:2014/10/07(火) 02:44:23.22 ID:UY25Zv8g.net
言葉の定義の問題だけど
裏切りは友人とか男女間とか
同立場の間でも発生するけど
謀反というのは、下から上、に
対してのものだろねぇ。

14 :人間七七四年:2014/10/16(木) 16:22:59.65 ID:oPgL/NHa.net
直江兼続の「愛」って兜
愛という字は今見たらクサイ、恥ずかしい、照れる、と感じますけど
当時の周りの反応はそうではなかったんでしょうか?

15 :人間七七四年:2014/10/16(木) 20:12:16.88 ID:TRs4TQFg.net
>>14
愛するとかの意味ではなく
愛染明王の愛とかと言われてたと

16 :人間七七四年:2014/10/16(木) 20:51:06.65 ID:oPgL/NHa.net
>>15
いや由来を聞けばそりゃ あ〜って思うけど
雑兵とか女中とか一目見て飯粒を吹き出したりしないのかと・・・

17 :人間七七四年:2014/10/16(木) 21:13:27.83 ID:Va0JGWls.net
>>16
あの愛の前立ての兜は飾り兜と言って、戦場に持っていくものではなく座敷に飾るもの。
実戦に使われたことはない

18 :人間七七四年:2014/10/16(木) 21:59:11.15 ID:oPgL/NHa.net
そっかー
一般人には見せてないのかー

19 :人間七七四年:2014/10/20(月) 21:25:13.74 ID:s/rerL6o.net
軍師官兵衛だと、三成が同僚を嵌める酷い奴なのですが、本当はどういう人だったのでしょうか

自分は三成がわりと質素な暮らしをしていた点、領内の治世の評判が良かった点、島左近との話から、脳内で勝手に悲劇の無能武将だと思っていました
ですが秀吉存命中に三成にとって邪魔な人々が失脚したり不興を買ったのは、三成がはめたからではないか?という意見を聞き、
確かにそうだなぁ、二時間ドラマなら確実に犯人だよなと思い、段々三成がクソ野郎だと思い始めて来ました

人の本質なんてずっと一緒に居たってわからないこともあるし、
ましてや死んだ人のことなんかわかりっこないのですが、
三成は一体どういう人だったのかが知りたいです
どういう本や資料を読めばいいのでしょうか

20 :人間七七四年:2014/10/21(火) 12:34:45.43 ID:TLnUCVGC.net
>>19
>>三成がはめたからではないか
ぜんぶ一次史料の根拠が存在しない大ウソです。
そもそも関が原の戦い前夜の三成は家康派として働き、
家康を攻撃しようとした前田軍の侵攻を阻止するため
兵を北陸路閉鎖のために出したり、
三成の兄の屋敷を家康に譲渡したりしていました。
また三成の挙兵自体があくまで「風聞」でしかなく
当時、大坂にいなかった三成が細川ガラシャを捕らえようとすること自体が不可能です。
当然、挙兵の大義名分であった内府たがい条には三成の署名はなく
三成が挙兵に参加したのは風聞通り本当か?を確かめるために書状を再三だしていた
佐竹や真田へ無視を続けていた三成が、ようやく反家康を宣言する書状を出すのが
7月末日であり、このタイミングは伏見城が落ち、瀬田の大橋を毛利軍が確保して、
次の標的が佐和山城になるタイミングです。
戦前は三成と直江が関が原前に書状を交換している証拠の写書状を根拠に
上杉と三成の共謀策が信じられてきましたが、
近年ではそれは捏造偽文書と認定されています。

中井俊一郎氏「家康の加賀攻めの際、三成は家康に従い越前に出陣している。
これは「看羊録」だけではなく、前田家の史料にも見られるので史実と思われる。
また大谷吉継は前田派の加藤清正の上坂に備えて淡路に出陣したという。
これも島津義弘の書状にあるので史実であろう。この当時、三成らは家康に従う姿勢を示していたのである」

21 :人間七七四年:2014/10/21(火) 13:08:34.93 ID:TLnUCVGC.net
三成は明への侵攻について
「先々は兵糧もなくその上寒空に向かっており途中の道筋も無人になり返すことすらできなくなる」
と明侵攻において途中での補給が難しいことを説明し、
まずは国郡で政務を行うように命じ、秀吉の意向に対して、反対して方針変更してしまうほどの男
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに反対し、強襲を意見するほど。
豊臣恩顧大名の書状を見ても、秀吉の絶対命令に対して、現場責任者としてちゃんと理を説いて反対意見を具申しているのは三成くらい。
これが秀吉の信用を得ていった理由だろう。
また筑前筑後の小早川領をやると言われた時には三成は反対し、
それらの領地を豊臣政権の財政基盤のため蔵入地にしてしまうなど、
当時の豊臣恩顧大名の領土欲とは正反対の志向を持っていた。

秀吉にも怒りを買うのを恐れず意見し、領土欲もない。
これが秀吉には唯々諾々と従い、強欲に領地を欲した武断派と相容れないところだったんだろう。


当時の日本軍の北上はうまく行き過ぎて楽観論で支配されていた。
蔵に食料がたんまりあり、兵糧にこれほど困らない戦いはいままで無かったなどと言われるほど。
だけれどそれは現地の蔵にあるものを没収していたからで、
三成は日本との兵站線から先々は補給が厳しくなることを見通して朝鮮統治に力を割くようにしようとしていた。

そこに明軍が襲来である。
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。


三成が統治していた地域にはかなり三成が発給した行政文書が残ってるんだよな。
よほど三成の統治は喜ばれていたからこそ大事に保管されてるんだろうな。
千石に1人の賦役とちゃんと決まってたし、それ以上が必要になった場合は飯米を給金して補償だし、
土地の耕作権は未来永劫、検地帳に書いた氏の者であり、奪われることがない保証もあるし、
百姓が迷惑することがあれば、取次は一切なく三成へ直接、訴訟できる目安による救済制度もある。
これほどよい領主はいないだろうね。

22 :人間七七四年:2014/10/21(火) 18:02:03.45 ID:2K0UFneR.net
斎藤龍興の家臣、斎藤飛騨守って誰ですか?
飛騨守は役職ですよね?
検索しても斎藤飛騨守としか出てこず名前がわかりません

23 :人間七七四年:2014/10/22(水) 14:37:23.43 ID:FRRwKAs8.net
首実検の時に午年の奴に弓を持たせて立たせるって聞いたけど、
なんで午年の奴限定なの?他の干支じゃダメな決まりって何?
調べた範囲では「なぜ午年の奴なのか」って理由が解らん。

24 :人間七七四年:2014/10/22(水) 14:40:22.55 ID:FRRwKAs8.net
午が南の方角で縁起が良さそうだからか?
虚空蔵菩薩が午神だからか?
朱雀とかも関係あるのか?

午年の人間を・・・ってのが気になって仕方ないんですわ。

25 :人間七七四年:2014/10/24(金) 22:52:52.54 ID:T6cGM1ae.net
吉川晃司が毛利元就の息子の子孫と聞いた事があるんですが、そうなのでしょうか?直系の子孫ですか?

26 :人間七七四年:2014/10/26(日) 05:56:15.68 ID:cV0LchBM.net
平塚為広と大谷吉継の辞世の句について質問。
この二人の辞世の句がセットになっていると聞いたんですが、本当なんでしょうか?
平塚から大谷へ送ったというのは間違いなさそうなんですが、大谷の歌の内容は誰へ、というのがはっきりしません。
状況的には平塚しかいないように思えるんですが、解釈次第で誰にも当てはまるような気がして・・・
もしこの話のはっきりした出典があるなら教えて欲しいです。

27 :人間七七四年:2014/11/01(土) 10:53:08.44 ID:3qxLM6w/.net
俺は自分の姉には頭が上がらないんだけど、戦国時代の武将も姉には頭が上がらなかったんですか?

28 :人間七七四年:2014/11/01(土) 11:12:44.07 ID:OoEwluKY.net
戦国時代の武将で、双子の武将はいたりしたのでしょうか?

もしくは、それを匂わせる史書とかは有ったりするのでしょうか?

29 :人間七七四年:2014/11/01(土) 13:00:17.29 ID:6gn/78I7.net
家康の次子・結城秀康は双子だったって説があるな

30 :人間七七四年:2014/11/03(月) 23:50:08.74 ID:PYhSdtJF.net
80年代半ばからの秀吉ってどうしてこんなに偉そうに出来たの?
同じ大名の立場なのに、どうして「こっち来い」と言われて会いに行かないといかないんだよ。みたいな。
例え秀吉の家臣にせよ、友好的な大名にしても、疑問を持たなかったの?この秀吉の高慢な態度に。
数年前までは信長の家臣の1人だっただけの奴に、どうしてペコペコしなきゃならんのかと。
秀吉の奴、急に偉そうにしすぎてるな。そろそろ秀吉包囲網でも組むか的な風潮にならなかったのかね。

31 :人間七七四年:2014/11/10(月) 17:28:11.21 ID:aBx5SVt6.net
清華成には内府たがい条を発給し挙兵した
毛利や宇喜多もなっているのも知らんとか恥ずかし過ぎるw
もちろん上杉も清華成で同格だし。
秀吉は同家格の彼らの中に徳川が埋没することを狙っていたわけだ。
五大老筆頭なんて言葉は江戸幕府が作った捏造語で、
秀吉は五大老なんて言葉は知らんから。
いよいよ諸大夫成の一番下の立場でしかない三成が、
公家成の島津らはともかく、
清華成の殿上人を差し押いて、
家康打倒の首謀者に成り得る可能性は皆無だな。
どう考えても輝元が首謀者としか考えられない。
内府たがい状に 家康が諸大名の妻子を贔屓屓に国元に帰したことを弾劾してるから、
大坂には人質なんていなかった。 完全に作り話。
挙兵した西軍が伏見城を落とした辺りで、
帰属してきた美濃諸将から人質を取り始めたりしてるしな。
残念ながら、秀吉の遺言と称する二次史料の覚書に関しては、
家康を特別扱いした文面に限り、
直江状と同じで関ヶ原後の改竄で家康の正当化の作為指摘されてんだよ。

早稲田大学が持つ豊臣秀吉遺言覚書案は、
清水亮氏が宮部氏が家康の体面を重んじて江戸時代になって作成したと指摘してるし、
浅野家に伝わる秀吉遺言覚書も、
矢部健太郎氏が内府以外の文字の時に、大納言殿、江戸中納言殿、羽柴肥前殿などと、
徳川家と前田家だけは律儀を強調したり、
『殿』の敬称を付ける反面、
他の大老は呼び捨てになっていて呼び捨てになってる異様さ。
さらに人質もろともみんなで大坂に政治中枢を移動した後のさみしい伏見に家康を閉じ込めて帰国禁止にし、
いつでも武政の大坂から権威の伏見を討てる形を作ったのに、
遺言だと徳川と前田に任せるような矛盾する話になっており、
そもそも伏見に家康が置き去りで、
奉行衆も検地などで下向して全員揃うことがあまり無いのに、
バラバラで合議制なんて成立しないという点。
極めつけは、この秀吉の遺言に関して、
上杉や毛利ら関ヶ原で負けた側には全く伝わってない不審さ。
これらを挙げて浅野家文書の遺言は関ヶ原後に手が加えられた可能性があるとされてる。
実際は秀吉がもともと上杉よりも下の家格だった前田家を急速に引き上げ、
ついには秀家、景勝、輝元より早く権中納言に利家が就任するなど、
利家を政権の後見役にしようとする動きが見えるため、
秀吉の遺言には前田家の秀頼後見役にする話しかなかったのでないかと考えられる。
秀吉が家康を特別扱いする必要性が無い。

32 :人間七七四年:2014/11/10(月) 20:59:33.32 ID:Z1k6pT/p.net
そもそも関ヶ原の戦いの時に一番上の地位にいたのは家康じゃなくて、
西軍にいて尾張奪回を狙って出陣した正二位前内大臣北畠信雄だからね。
尾張で捕縛されて家康に土下座したけど。

33 :人間七七四年:2014/11/18(火) 05:07:10.00 ID:s9Q3ENDP.net
小田原攻めの際、北条氏政が黒田官兵衛宛てに送った書状に「黒勘」の表記があったような気がしますが、これがこの板でよく黒田官兵衛が「クロカン」と呼ばれる理由なのでしょうか?
それともこの書状に限らず当時多くの人が官兵衛のことを「クロカン」と呼んでいたために現代でもこの名称が存続しているのでしょうか?

34 :人間七七四年:2014/11/18(火) 05:09:32.41 ID:4nD8sGuB.net
>>33
書状で名前を略すのは当時の親しみの表し方にすぎん。
クロカンというのはむしろ近代以降の呼び方やろな

35 :人間七七四年:2014/11/18(火) 05:31:05.85 ID:s9Q3ENDP.net
>>34
即レスどうもです
そう言えば山本勘助もヤマカンと呼ばれてますし、姓と通称を縮めた呼び方が形式として存在していたんですね
クロカンの場合は語感の良さが受けて未だに使われてるといった感じですか

36 :人間七七四年:2014/11/18(火) 20:50:57.29 ID:X6lL4f8K.net
形式というほどのこともない。
慣用表現、ってぐらい。

37 :人間七七四年:2014/11/19(水) 01:07:41.01 ID:K4q7enNw.net
>>35
昔も今も、語呂が良ければ縮めて呼ぶ事は当たり前だろ。
前田健太でマエケンとか、木村拓哉をキムタクとか。

38 :人間七七四年:2014/11/19(水) 01:34:34.03 ID:oz8qVD44.net
4音って呼びやすいのね、2音の名前みたいに短すぎるとわざわざ四文字にもされる

39 :人間七七四年:2014/11/19(水) 18:43:17.72 ID:wwWg9Jlq.net
「ぼす」ではちと短すぎると感じましたのでこれより殿下を「らすぼす」とお呼びいたします。

40 :人間七七四年:2014/11/20(木) 11:51:55.07 ID:iOkKbXWG.net
>>30
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。
他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
フロイスの日本史にも身分も低く血統も賤しいと秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。
天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
「孤児」に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。
看羊録の著者は、 秀吉の父の家は元来貧賤で、農家に雇われてどうにかたつきをを立てていた。
壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷になったが関東に逃げて数年し、
また戻って信長に自首したので、秀吉は一心に奉公して昼夜風雨を厭わなかったと書いてる。
耶蘇会の1584年の年報にも はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。

天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。

信長には分国法すら無く、単に室町幕府に寄生してたら下克上された 歴史的意義の無い 実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。

41 :人間七七四年:2014/11/20(木) 20:39:34.46 ID:iOkKbXWG.net
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。

42 :人間七七四年:2014/11/21(金) 01:59:18.01 ID:5DfkDuHo.net
>>28
森力丸と坊丸は双子と書いてあるサイトを読んだことがある。
真偽は知らぬ。

43 :人間七七四年:2014/11/21(金) 08:20:24.05 ID:Z5h0Wz/4.net
信長は怒りの感情に任せて好き勝手に命令しているから
家臣に荷重がかかり精神磨耗させてるだけで、
秀吉はキチンと戦略を組み立て経営管理しているから
家臣が心配なく自由にやれる。
この違いが大きい。
信長は社員を見下し威張りまくるパワハラ ワンマン経営で仕事内容もグレーゾーンで社員の離職率が高いブラック。
気に食わない、自分に従わない者を悪人認定して次から次へとイチャモンつけていくDQN。
恐喝と破壊と殺戮による亡国政策のもとに文化財や民を損ない日本を衰退させた人物。
しかし秀吉は新たな国のシステムを創る才覚があったから元同僚たちも従ったんだろうね。
中間搾取層を排除し、農民に土地を与え、戸籍を作り、民政重視により氾濫防止と田畑拡大を目的に、
河川治水と海上交通網と街並み城下整備など、
大開発を通じて日本を活況させたのが秀吉。
秀吉は信長と真反対のことを行い人心を得た。

44 :人間七七四年:2014/11/21(金) 10:22:15.19 ID:KbQdv/aP.net
信長は神仏の使いである鹿の大量虐殺による寺社への挑発・荘園の略奪・惣村強制没収略奪・京での略奪放火恐喝大虐殺・強制労働と相次ぐ臨時の税賦課
上限の設けられない軍役・軍役がない時は軍道作りを強制される。また子供が遊ぶことも禁止された。
これらに従わない場合は弾圧で村や都市ごと焦土にする(信長のこのやりかたを一国亡国と呼ばれ批判された)
信長体制とは無政治無内政体制ともいうべきもので、とても国家の体を為してない
単なるあらっぽい下克上大名のレベルからの昇華は認められない。
それは近代兵制たる田畑からの収入把握から算出される家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成がなされていないからこそ生じた問題であろう。
それを虐殺略奪を兵制の基礎に置き、武篇道の督励で対応しただけの蒙昧ぶりが信長。
信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。

秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
これにより専業武士と農民が区分けされ秩序が生まれ国内は安定を迎えた。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある。
秀吉の平和安定のための物流革命と言えば、信長死ぬや早くも
天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
これが桃山文化と呼ばれ日本各地で城下町が整備され、
日本史史上最も派手で豪勢な時代と言われている。秀吉の下、インフラ整備と経済活況化への資本投入による民心安定策である。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

45 :人間七七四年:2014/11/21(金) 10:24:32.41 ID:KbQdv/aP.net
秀吉は全国統一の度量衡の統一、税や法の平等を施行し、
それに反して挙兵するものは朝廷から認められた公儀政権として警察権を行使し
下克上的機運や中間搾取層の排除による既得権益の一掃と豊臣政権による官僚制を志向した。
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
〜キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす〜と秀吉は書状に書いている。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。
秀吉は明確に日本人民の安全を謀り世界に対する武力誇示と同時に
国内混乱要因の武士層のストレスを解消させる政策を実行(神風連の乱や西南戦争を見れば明治政府の武士への扱いの苦心もわかる)

46 :人間七七四年:2014/11/21(金) 10:25:37.86 ID:KbQdv/aP.net
資金面から見てみよう。
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに
まずは小手調べで賀茂〜嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
恐ろしくなった上京が払った銀1300枚の受け取り拒否した上で上京を焼き討ち略奪。
(信長に金を渡しに行く際に織田軍に略奪され、改めて高利貸しから借金して信長に渡すなど酷い状態になったりした)
御所への延焼の恐れが出てきて天皇も逃亡準備。桂川が死体で埋め尽くされる大虐殺開始。
下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
しかしあっちゃこっちゃ延焼しまくりで火だけは統御できない。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
しかしもう恐喝できる相手すらいなくなり
みんな貧民だらけになってしまう現実・・・北朝鮮的織田統治下全員貧困化政策。

47 :人間七七四年:2014/11/21(金) 11:37:56.78 ID:KbQdv/aP.net
織田軍の残虐行為の証拠隠滅行為から逃れるために
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へ、その犯罪行為を告発しているほど

「後世の方はどうか語り伝えて下さい。
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」

またフロイスも日本史において
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた)
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした)
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。

これが信長のやり方で、異常な暴君以外のなにものでもなかった。

信長は日本史上、唯一の恐怖と虐殺を礎に王朝を築き上げようとした
大陸中国人的専制独裁君主なんだよな。
だから猜疑心が異常に強く、
行き着いた終着駅はカルト宗教の神になって崇拝を強要し権力だけでなく新たな権威を備えようとした挙句に自滅。
朝廷も異常なまでに恐怖し、家格も前例も段階も踏まずに一気に位階官職を引き上げようとしてるくらい媚びへつらい朝廷存立の危機感を持ってたが、
それすらも拒絶して朝廷秩序の枠外に出てしまった日本史上、唯一の暴君。

48 :人間七七四年:2014/11/21(金) 12:00:58.15 ID:jRwsxZfR.net
荒すなよカス菅沼遼太

49 :人間七七四年:2014/12/01(月) 00:09:15.81 ID:pcnXVagQ.net
大友宗麟が名将扱いされてる理由が分からん
大内氏いが滅びたからその残党を吸収しつつも島津に敗れて壊滅しただけじゃないの?

50 :人間七七四年:2014/12/01(月) 01:30:16.23 ID:NcWWY9TD.net
そもそも名将扱いされてないでしょ。

51 :人間七七四年:2014/12/01(月) 02:13:50.99 ID:pcnXVagQ.net
されてないのか、ごめん
信長の野望では準一級的な能力と顔グラだから強い武将なんだと思ってたわ

52 :人間七七四年:2014/12/03(水) 09:12:41.15 ID:ezHLUEqW.net
毛利に連勝しまくった名将でしょ。
家督譲ってキリスト教三昧な生活やってたら、
息子の義統が下手うったから、家臣団から当主復活してくれって頼まれたけど、
あくまで義統が大友当主だといって後見役に復帰して、
大友内乱を治めるのに成功して、毛利の便乗も破ったし、
隆景の伊予攻略も失敗に追い込んでるじゃん。

53 :人間七七四年:2014/12/03(水) 09:16:56.97 ID:OaP3T190.net
宗麟は功もデカイけどやらかした失敗もデカクて

ゲーム的にいうと、キャラの性能はいいんだけど操作するプレイヤー側に問題がある、みたいな

54 :人間七七四年:2014/12/03(水) 09:46:23.36 ID:ezHLUEqW.net
失敗なんてあったか??

55 :人間七七四年:2014/12/03(水) 12:25:37.40 ID:SicqXKKM.net
どうせ島津に敗戦したのを
いまだに宗麟が主導した戦だとか思ってるアホだろ。
むしろ敗走してきた大友軍を支えて一時は踏み止まらせるのに成功したのが宗麟。
誤情報で結局、撤退したけど、被害を最小限に食い止めてる。

56 :人間七七四年:2014/12/03(水) 12:38:20.67 ID:I1EytWOg.net
カス菅沼遼太、適当なこと言ってんなよ

57 :人間七七四年:2014/12/07(日) 22:12:53.59 ID:vk5ySBRi.net
>>54
子育て

58 :人間七七四年:2014/12/08(月) 15:39:43.72 ID:2u1Icnhf.net
国人衆と家臣の線引きってどのあたり?

木曽義昌は1555年に武田に降伏し娘や人質を差し出し1582年に反旗を翻した
これだと1555年に家臣になったのがわかりやすい

毛利元就は1525年大内義興の後ろ盾で高橋一族を破り足場を固め1537年隆元を人質に差し出す
1540年吉田郡山城の戦いの活躍で安芸武田氏を滅ぼし安芸最大の国人となる
1551年大寧寺の変で事実上大内が滅ぶと1554年防芸引分で陶晴賢と決別
これは従属国人ではあるが家臣ほどではない

松平広忠は1535年森山崩れでボロボロになり1539年今川に泣きついて1547年に竹千代を差し出す
1549年死ぬと岡崎城は接収され城代を送り込まれている
これは早くて1539年遅くても1549年には家臣に降っているようだ
家臣と言えるのはどのあたり?

59 :人間七七四年:2014/12/08(月) 15:59:03.13 ID:6ZE/ro+x.net
>>58
国衆が大名の家中に取り込まれたのは近世に入ってから。
それ以前はあまり区別する意味は無い。

60 :人間七七四年:2014/12/08(月) 17:39:43.94 ID:hhTpV3Lt.net
>>58
とりあえずその三例は全部国人かな
大名は国衆を家中に取り込んで家臣化を押し進めてたから
取り込まれ途中の中間形態なんてどっちに区別とかできないし厳密な判別は難しいね
大名から「殿」付けされたたら国衆、「との」付けなら家中とかも参考にはなるけど厳密じゃ無いし
毛利みたいに同時代の家中名簿と国衆名簿を残してくれてたら簡単に判別できたのにね

61 :人間七七四年:2014/12/09(火) 15:10:39.03 ID:HNiFHT52.net
山内一豊のウィキペディアに記載されている
「関ヶ原の合戦後の追撃戦で家康に先鋒を求めたが、寛大と評判の一豊が先鋒だと西軍が降伏してしまうためやんわり断られた。」
という逸話の出典(史料でも小説でも)をご存知の方いますか?

62 :人間七七四年:2014/12/12(金) 10:02:48.41 ID:EVAQ/Z9n.net
関白と征夷大将軍はどちらのほうが偉いのですか?

63 :人間七七四年:2014/12/12(金) 10:16:47.00 ID:iPgindBB.net
>>62
そもそも意味合いが全く違う役職。
ただし室町後期になると将軍家と摂関家はほぼ同格と考えられていたようで、将軍家と摂関家の間では通婚が行われている。
江戸期もそれに準じている

64 :人間七七四年:2014/12/16(火) 04:00:22.52 ID:1Rg9JPsU.net
小早川隆景が亡くなった際、秀秋が故人を偲んで詠んだ歌があると聞いたのですが、
詳しいことをご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?
ググっても個人サイト以上の情報が引っかからず…

65 :人間七七四年:2014/12/18(木) 13:38:26.02 ID:yDNh6imx.net
物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず

66 :人間七七四年:2014/12/18(木) 13:39:51.03 ID:yDNh6imx.net
すいません書き込んでしまいました

物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず

とはどういう意味ですか?

67 :人間七七四年:2014/12/18(木) 18:41:01.58 ID:+H5Px5kl.net
まんまじゃね?

68 :人間七七四年:2014/12/21(日) 09:31:58.42 ID:jsu2KoHC.net
関ヶ原の戦後豊臣の領地が220万石から65万石になったとき
なんで家康殺さなかったの?その決定で殺す大義名分あるし
豊臣恩顧の大名も多かったやん
秀頼の御前で謀反ありとぶった斬ればよかったんじゃね?

69 :人間七七四年:2014/12/21(日) 12:26:12.74 ID:FnbnX6kd.net
関ヶ原であわや日本全土に乱世再来となりかけたわけで
秀頼が幼少で指導者不在の豊臣も諸侯も強力な統治者を必要としていたので無理です

70 :人間七七四年:2014/12/21(日) 12:58:36.52 ID:E91JbBFN.net
そもそも220万石の殆どを構成する豊臣蔵入地は五奉行体制があってはじめて管理できるようなものなので、
蔵入地どころか本拠摂河泉の管理すら自身でできなくなっていた関ヶ原後の豊臣家にその保持は現実問題として無理。

71 :人間七七四年:2014/12/21(日) 17:41:34.12 ID:jsu2KoHC.net
なるほどな

72 :人間七七四年:2014/12/24(水) 01:49:28.18 ID:UItYDs0/.net
220万石は豊臣直轄地で
蔵入地は諸大名の領地の中に設定した別腹収入だよ。
家康はこの蔵入地を廃止して諸大名の支持を得た。
この蔵入地は諸大名の内情監視の出先機関にもなっていたし。

73 :人間七七四年:2014/12/24(水) 18:42:05.43 ID:rQCin5Ug.net


74 :人間七七四年:2014/12/25(木) 22:27:30.14 ID:yRTbQsfL.net
関ヶ原の西軍で、田辺城攻めてた人達は、なぜほとんど本領安堵だったの?

75 :人間七七四年:2014/12/26(金) 00:27:11.87 ID:jdwILHnc.net
天皇の仲裁に従ったから家康といえどもむげには出来なかった。

76 :人間七七四年:2014/12/27(土) 18:58:07.20 ID:KJ4Jxz8M.net
質問です
↓のような被り方は名前があるのですか?
ttp://j-koyama.img.jugem.jp/20091005_2866825.jpg

77 :人間七七四年:2014/12/27(土) 19:12:56.65 ID:IGwgV0/p.net
>>76
桂包

78 :76:2014/12/27(土) 19:25:12.59 ID:KJ4Jxz8M.net
>77
どうもありがとう
この被り方すきです

79 :人間七七四年:2014/12/28(日) 14:09:30.35 ID:eWm0dRZV.net
>>74
忠興のお礼参りがあったよ。

80 :人間七七四年:2014/12/29(月) 11:24:39.35 ID:suqvr24n.net
どうすればこの板で語れるくらい詳しくなりますか?

81 :人間七七四年:2015/01/03(土) 19:27:38.22 ID:73225Wit.net
秀吉や家康の居城といえば大坂城や江戸城ってイメージですけど
引っ掛け問題で伏見城や駿府城って答えにするのはありでしょうか?

82 :人間七七四年:2015/01/03(土) 22:21:47.45 ID:I7vypsGf.net
居城の定義によるから、出題者の性格で決まる。

83 :人間七七四年:2015/01/08(木) 17:00:40.97 ID:kgFz2K1fJ
戦にはたくさんの馬が必要ですが、当時日本にそんなにたくさんの馬がいたのですか?

84 :人間七七四年:2015/01/08(木) 22:45:02.22 ID:wYF6aiGR.net
戦には馬がたくさん必要ですが、戦国時代当時日本にそんなにたくさん馬がいたんですか?

85 :人間七七四年:2015/01/09(金) 11:29:57.83 ID:kK8S2/Jg.net
現代から見れば世の中じゅう馬だらけと言っていいほどいた
機械が無く人力以外は牛馬力に頼るしかなかった時代で農民でも耕運機代わりに3,4人に一人は馬か牛を持ってた。

86 :人間七七四年:2015/01/10(土) 00:21:46.50 ID:UPxXRJso4
城の本丸取るのってそんなに大変だったんですか?
例えば関ヶ原の戦いの時の信濃上田城の本丸は縦横何mくらいだったのですか?
本丸には何人くらいが守っていたのですか?

87 :人間七七四年:2015/01/11(日) 02:41:59.93 ID:SMo23iG/.net
城の本丸取るのってそんなに大変だったんですか?
例えば関ヶ原の戦いの時の信濃上田城の本丸は縦横何mくらいだったのですか?
本丸には何人くらいが守っていたのですか?

88 :人間七七四年:2015/01/11(日) 02:55:05.61 ID:034jqvSg.net
>>87
本丸は最終防衛拠点であり本丸を守るために二の丸三の丸などの外郭があるのだから、
本丸だけ見てもなんにもわからん

89 :人間七七四年:2015/01/11(日) 07:55:38.07 ID:X1IuPqB8.net
そういえば
薙刀ってどうして戦国ではやらなかったのですか?
よく集団戦法に変わって密集するようになったからといいますがそれは源平合戦でも三国志でも同じでは?
関羽や弁慶みたいに馬上で薙刀振り回すやつが戦国に一人や二人いてもおかしくないと思いますが。

90 :人間七七四年:2015/01/11(日) 09:39:25.52 ID:gNnmejBQ.net
薙刀使ってるやつもいたよ

91 :人間七七四年:2015/01/11(日) 10:56:59.06 ID:kh7Sehpx.net
家康の家臣・鳥居元忠は薙刀の達人
他にも逸話で良ければ小西行長が長刀(=薙刀)ぶん回してる話がある
つまり個人レベルでは薙刀使ってる人も居た

92 :人間七七四年:2015/01/28(水) 12:06:39.38 ID:ezQ+h2aJ.net
戦国時代の武士にも武士道ってあったのですか?

93 :人間七七四年:2015/01/28(水) 12:55:51.06 ID:DvY+KoLf.net
武士道自体は江戸時代に作られた言葉であり江戸時代に作られた思想であるし
現代人がイメージする武士道はそれをさらに明治にまとめたものなので当然戦国時代には無い
現代人がイメージする武士道とは違うが何らかの武士の普遍的な規範、
たとえば背中の傷は恥とするような武士独特の全国で共通する思想は有った

94 :人間七七四年:2015/01/29(木) 22:33:42.94 ID:Eq+l0AYi.net
上杉謙信が後継者指定しないで死ぬに任せたのは何故でしょう?
内紛になる事は解ってたろうに。

95 :人間七七四年:2015/01/30(金) 02:01:21.69 ID:2XNxKKl3.net
謙信は年齢的にはもう後継者を決めなければならなかったが患って訳ではなく突然死だったので、
本人は健康体だと思っててもう少し生きるつもりだったののと。
景勝にかなり権力移譲していたので本来は景勝に譲るつもりで居たと思われますが、
憶測になりますが越相同盟のときに上野割割譲の条件が景虎を後継者にすることだとしたら、
今だ大義名分として利用価値があることになり、とりあえず後継者候補から外さずにいて、
様子見してたら死んじまったというのが、今のところつじつまが合う説とかなと思います。

96 :人間七七四年:2015/01/30(金) 15:23:13.86 ID:O0UIx5OX.net
足利義持が死去するに及んで、群臣が後継をだれにしますか?と尋ねた。
しかし義持は「どうせここで私が指名したところでお主らが支持してくれなければ意味はない
おぬし等で相談して決めるがよい」と言って死んだ。
当時の上位権力者というのは重臣たちの合議の上で支持していくというのが当たり前だった。
とにかく支持を得るために行動するのが当主の器用であり才覚だった。
そして何らかの変事が起きない限り当主身分は終身にわたるものであり、
そうでない場合は権力の分裂対立が生じてしまうので総領制の元で権力集中が行われた。
特に器用を謳われたのが織田信秀で取り分け器用の仁と賞賛された。

97 :人間七七四年:2015/01/30(金) 15:30:44.93 ID:SH6+yHXE.net
まあ信玄のように今まで支持しろと言わんばかりの嫡男をあっさり廃嫡させたり
当主であるはずの父親を喜々として追放するような人間と違って
謙信はあくまで越後やお家のことを考えていたんだろう。
元々謙信も代理当主に近い就任の仕方だったしな

98 :人間七七四年:2015/01/30(金) 15:38:27.53 ID:O0UIx5OX.net
漢の劉邦は愛妾の子に皇帝の座を与えたかったが、
群臣が長男を支持したために
やつには翼が生えてしまったようだ。
自分の力ではどうすることもできないと嘆いた。
当主というのは力ある群臣らによって擁立廃嫡されるものなのだろう。

99 :人間七七四年:2015/01/30(金) 15:52:41.54 ID:SH6+yHXE.net
信玄の悪事を群臣のせいにする菅沼君w

100 :人間七七四年:2015/02/01(日) 08:31:06.96 ID:+4EWxpoX.net
香川に所用で行くのですが、香川で有名な武将は誰でしょう?
調べたのですが分かりませんでした
そしてお勧めの歴史関連の観光地もあれば教えて下さい

101 :人間七七四年:2015/02/01(日) 10:15:16.06 ID:rPc8svad.net
香川と言ったらまずは全国に12しかない現存天守で有名な丸亀城に行きましょう。
そして「こんぴらふねふね」で有名な金刀比羅宮(ことひらぐう)にも行きましょう。
時間があったら高松城にも行きましょう。堀が海と繋がっているので海水で、
真鯛が放流してあるらしいです。

有名な武将は十河一存(そごう かずまさ /かずなが)だけど全然知名度無いですね。
そもそも読めません。

102 :人間七七四年:2015/02/04(水) 01:35:33.02 ID:PrIoHvWU5
戦国最大の内乱ってなんですか?(応仁の乱以降〜小田原征伐まで)
出来れば規模とその被害状況も・・

103 :人間七七四年:2015/02/04(水) 07:21:52.56 ID:Y3DikEAr.net
>>101
遅くなりましたが、ありがとうございます
勧めてもらったところ全部行きたいと思います

104 :人間七七四年:2015/02/06(金) 14:29:16.61 ID:Cb7ha08l.net
戦国時代は何年から何年までという明確な定義はあるのですか?

105 :人間七七四年:2015/02/06(金) 14:36:26.64 ID:uyESoe16.net
無いです。見方によって変わります。

106 :人間七七四年:2015/02/07(土) 20:37:03.42 ID:PAcyCIFz.net
あと、関東と関西の学者によって違うというのがたまにある。
面白いところだ。

107 :人間七七四年:2015/02/07(土) 21:04:54.21 ID:DKtI3TKy.net
>>104
学説として多いのが、明応の政変から小田原の陣まで。
これが一番狭義の戦国時代といえる。
一般的には応仁の乱から大阪の陣までが多い。
関東では享徳の乱から小田原の陣まで。
研究者によっては、国内内戦の集結として下限を島原の乱まで入れる人もいる。

108 :人間七七四年:2015/02/21(土) 18:54:36.16 ID:4gwbVL9w.net
家康の子には秀忠 忠輝 忠吉と忠がつくのが複数あるけど
忠は誰から取ったの?

109 :人間七七四年:2015/02/21(土) 19:09:53.20 ID:RfXAP9Sx.net
安祥松平初代親忠から、いわゆる通字

110 :人間七七四年:2015/02/21(土) 19:12:58.83 ID:4gwbVL9w.net
>>109
なるほど

111 :人間七七四年:2015/02/21(土) 20:53:01.57 ID:t1LPiuE0.net
信康は信長だが、
信吉の信はどこから来た?

112 :人間七七四年:2015/02/21(土) 21:00:08.99 ID:b0LrnURU.net
>>111
> 信康は信長だが、
違う。「信」も松平氏の通字。おそらく家康の曾祖父にあたる信忠からとられたもの。

113 :人間七七四年:2015/02/21(土) 21:19:43.84 ID:cxxB/l7/.net
武田信玄が晴信。信玄の後を継いだ勝頼の子が信勝。(ここで武田家滅亡)
武田一門の重鎮から織田に寝返った穴山梅雪の息子で信勝の従兄弟の穴山勝千代に
武田の名跡を継がせて武田信治と名乗らせたが16で死んだので、家康の子に勝千代の母で
信玄の娘である見性院を後見人として武田信義と名乗らせた。後に改名して信吉らしい。

つまり「信」は武田の通字。

114 :人間七七四年:2015/02/22(日) 22:05:31.12 ID:E00Nx43d.net
信長は尾張統一に半生をかけたって聞くけど
織田家ってそんなに弱小大名だったの?

115 :人間七七四年:2015/02/22(日) 22:58:20.62 ID:pLCYB52C.net
年齢で言えば18歳から26歳までなので普通は半生とは言いません

116 :人間七七四年:2015/02/22(日) 23:17:12.09 ID:C3LWhJv9.net
享年49だから約半分じゃね。

117 :人間七七四年:2015/02/22(日) 23:26:49.97 ID:C3LWhJv9.net
>>114
信長の織田家は尾張の守護大名斯波氏の守護代として尾張を半分ずつ支配する
二つの織田家の一方の分家で家臣という立場で、しかも家督相続後に家中が分裂して
内紛となった。柴田勝家とかも敵に回った。内紛を収めて主家を滅ぼし、もう一つの織田家も
滅ぼしてやっと尾張統一。

118 :人間七七四年:2015/02/23(月) 01:24:36.29 ID:FZ+HdIaU.net
>>114
なんで尾張統一に半生かけたって聞いた時点で「なるほど、織田家は弱小大名だったんだなぁ」って
判断できないの?
人に聞かないと納得できないの?

119 :人間七七四年:2015/02/23(月) 12:40:02.21 ID:21crPvTn.net
普通に信長関連スレで質問すればいいじゃないか

120 :人間七七四年:2015/02/26(木) 20:01:39.74 ID:jnF3wmRL.net
信秀が尾張統一したまま信長に与えたのに
信長がバカすぎて道三も心配の手紙まで書いてる。
道三死去後に、義龍に尾張半国奪われたからね。

121 :人間七七四年:2015/02/26(木) 20:16:00.44 ID:p4tYciIV.net
信秀が尾張統一って本気で言ってる?

122 :人間七七四年:2015/02/26(木) 21:47:08.94 ID:8STWgQJt.net
尾張統一どころか加納口で斎藤道三にボコられた挙句
居城が織田信友に包囲されて平手のおかげで
なんとか助かったくらいなんだよな
信秀が死んだ段階でよく霧散しなかったもんだ

123 :人間七七四年:2015/02/26(木) 22:58:59.61 ID:nCG1h7+P.net
>>居城が織田信友に包囲されて平手のおかげで
>>なんとか助かったくらいなんだよな
加納口のあとの大垣城救援で出張中の信秀がいない間に放火するくらいしかできなかったレベルなのに
「なんとか助かった」とか捏造にもほどがある。
しかも信秀が急速渡河して猛烈な勢いで北上してきたから
道三はさっさと大垣から逃亡してるくらい鎧袖一触の武威を信秀が示した結果
濃姫を人質に出す政略結婚をすることに追い詰めたからねぇ。
愛知県史もはっきり政略結婚によって信長に嫁ぎって書いているし。
結局、大垣城も信秀は守り通して斉藤との同盟を結んでいるし、
信秀の姉妹の岩村城も織田勢力圏として信長に譲渡してるし
三河の水野氏も隷属化においているし、
なにより今川からも和睦したいなら城をよこせと要求して義元に条件を飲ませてるほど。

124 :人間七七四年:2015/03/01(日) 16:34:00.19 ID:hwL7l25R.net
信長が出陣した後居城
攻められたのはそれなりに危なかったんじゃないか。
放火するぐらい、というけどそれで城炎上したてかもしれない。
というか居城まで敵に攻められた、というのは信長の
ミスだろう。
助かった、のこそ結果論で、最終的に道三救出にも
失敗してるし、この頃の信長はそんなにスーパーじゃない。
桶狭間でやられてたらそれこそバカ殿で終わってたろう。
結果から美化しすぎだし
本能寺でやられたという結果ももっとちゃんと
低評価したほうがいいと思うけどな。

125 :人間七七四年:2015/03/08(日) 01:23:13.55 ID:kN8VazEK.net
自民党、グッジョブですわ。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html

☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆

126 :人間七七四年:2015/03/08(日) 11:48:25.52 ID:qpde/qZJ.net
褒美として木下から羽柴と名乗るようになった藤吉郎さんみたいなことって、よくあったのでしょうか?

一字や大名の姓を貰うことではなく、兼続の弟小国から大国みたいなことで

127 :人間七七四年:2015/03/08(日) 12:53:25.92 ID:ZcJkqeU1.net
>>126
姓を与える、というのは割とあった。
ただし秀吉の羽柴の姓はどういう経緯で付けたのかよく解っていない。
丹羽+柴田というのは裏付けのない俗説

128 :人間七七四年:2015/03/08(日) 13:04:09.07 ID:/w0C/1Pk.net
でも、その俗説以外に羽柴なんて考えられないでしょ
地名でもないし、過去に羽柴という偉人がいたわけでもない

129 :人間七七四年:2015/03/08(日) 13:32:58.22 ID:ZcJkqeU1.net
>>128
むしろ「丹羽+柴田」の方が考えられない。
丹羽からは後の字、柴田からは前の字で、あまつさえ羽を頭に持ってくるなんて
柴田勝家を徹底的に丹羽長秀の格下だと言っているのと同じ行為で、勝家に喧嘩を売っている以外の何物でもない。
これは丹羽長秀と柴田勝家の関係すら悪化させる。
そんな不穏当な苗字ならそもそも信長が許可しない。
なので「丹羽+柴田」というのは間違いだと断じてもいい。

130 :人間七七四年:2015/03/08(日) 13:36:45.43 ID:/w0C/1Pk.net
>>129
あなたの由来説はどんな感じですか?
もちろん信長も納得するような「羽柴」の由来

131 :人間七七四年:2015/03/08(日) 13:41:27.92 ID:ZcJkqeU1.net
>>130
もちろん推測だが秀吉の実家の在地、あるいは縁のある地名を雅字にしたというあたりが穏当なところじゃないかね。「橋場」とか。

132 :人間七七四年:2015/03/08(日) 13:49:17.00 ID:/w0C/1Pk.net
その結果
>柴田勝家を徹底的に丹羽長秀の格下だと言っているのと同じ行為で、勝家に喧嘩を売っている以外の何物でもない。
ような苗字が出来上がったら、NGでしょうが。
説得力が足りない

133 :人間七七四年:2015/03/08(日) 14:04:17.22 ID:v73fmS7r.net
つか苗字にも避諱ルールが適用されるのか?

134 :人間七七四年:2015/03/08(日) 14:08:32.19 ID:ZcJkqeU1.net
>>132
ランク付けする意図があるかないかは重要だよ。そもそも関わりなければ丹羽柴田とは関係ないものだ、で済む話。

>>133
ランク付けのような話になれば大いに問題が出てくる。現在だって同じこと。
だからこそ「丹羽+柴田」なんて俗説は現実的にありえない。

135 :人間七七四年:2015/03/08(日) 14:17:38.42 ID:v73fmS7r.net
えらいあいまいやね

136 :人間七七四年:2015/03/08(日) 15:23:35.26 ID:PB/wFq+d.net
>>126
>兼続の弟小国から大国みたいなことで
秀吉の「庭に鬼が居るのは縁起が悪い」といういいがかりで鬼庭から茂庭に変えさせられた茂庭綱元とか。

百武賢兼は『主君・龍造寺隆信から百人並みの武勇を有すると賞され、百武姓を賜った。』

137 :123:2015/03/08(日) 17:45:25.27 ID:qpde/qZJ.net
沢山のレスありがとうございます。

事実かどうかはわかりませんが、上杉謙信から姓を賜ったと代々伝えられている珍しい姓を当方しておりまして、気になりました。

138 :人間七七四年:2015/03/08(日) 18:01:45.13 ID:FFdLPIYb.net
>>137
差し支えなければ、お名前は?

139 :人間七七四年:2015/03/08(日) 18:05:45.45 ID:v73fmS7r.net
家康からじゃなくて胸を撫で下ろした

140 :123:2015/03/08(日) 18:17:48.08 ID:qpde/qZJ.net
>>138
戦国時代板の方なら読めるとは思いますが、雁行と申します。

一般の方には初見で正しく読めた人はいないですね

141 :人間七七四年:2015/03/08(日) 18:24:22.41 ID:FPwWaZN6.net
謙信には雁の漢詩があるが、地域も時代もビンゴなんだな>>能登

142 :人間七七四年:2015/03/08(日) 18:40:07.71 ID:PB/wFq+d.net
「がんこう」さんで良いのかな?それなら陣形で雁行陣(がんこうじん)というのがあるからすぐ判るけど。
「雁行陣」でググってみたらテニスの陣形ばかりでてきてワロタ。

143 :123:2015/03/08(日) 18:51:32.06 ID:qpde/qZJ.net
>>142
正解です

>>141
能登も正解です

雁行の由来はどっちなんでしょうね
>>141の雁行が由来ならば謙信さんぽいですし、>>142の陣形が由来ならば鶴翼さんとか陣形が由来の方がいらっしゃるんですかね?

144 :人間七七四年:2015/03/08(日) 18:57:02.53 ID:ZcJkqeU1.net
>>143
もしかすると群馬県の雁行川からじゃないかなあ?
謙信が由来なら、越山でその辺りで軍功を立てたか、領地を与えられたか。

145 :123:2015/03/08(日) 19:39:12.89 ID:qpde/qZJ.net
>>144
雁行川は知りませんでしたが、「がんぎょう」ですので違うと思われます。また、「かりゆき」と読む雁行姓もあるのですが関係はないです。

上杉謙信に姓を賜ったらしく、家系図にもそう書かれてあったと代々伝わってはいるのですが、肝心の家系図が今現在どこにあるのかわかりません。

大きな軍功であるならば、何かしらの記録がどこかに資料等として残っている可能性もあるとは思いますが、姓を賜ったとしか伝わっておらず功の話すらないんですよね。

調べようにも>>142ばかりですし、資料館等に行ったところで解読出来ませんし。

146 :人間七七四年:2015/03/08(日) 20:29:22.28 ID:PB/wFq+d.net
>>143
あっ、イヤイヤ。「判る」と書いたのは読めるという意味です。陣形が由来とは思いません。
貰った時の逸話が伝わってないのは惜しいですね。

147 :人間七七四年:2015/03/08(日) 21:11:26.78 ID:ZcJkqeU1.net
>>145
雁行のばあい「がんこう」と「がんぎょう」は読みとしては根は同じ(おそらく表記はどちらも「ガンカウ」)なので
現代の読み方の違いにあまりこだわることも無いかとも思う。
もちろんそれが姓の由来かどうかは別として

148 :123:2015/03/09(月) 19:09:04.05 ID:N9XK0JCR.net
>>146>>147
なるほど、納得しました。

雁行の陣が由来なら戦働きにより賜ったとも考えられますが、何もわかりませんからね。

むしろ橋作りだとかの活躍で雁行川が由来ならしっくりきます。

149 :人間七七四年:2015/03/09(月) 23:18:59.04 ID:YBxpmIC4.net
「羽柴」に戻るけど、126の論は非常に
不思議だよね。
実際に信長が許可したのだし、直接の関係者に
丹羽と柴田がいるのだから、そこから採用したと
するのが普通でしょう。直接史料がないから
「理由不明」ぐらいならともかく、否定、するのは
さすがに行き過ぎじゃないだろか。
例えば秀吉の文書に理由が記載してあっても
「本心はわからない」とかなんとでも言える。

この頃の信長が伝統とか格式に厳しく
偏諱ルールにもこだわっていた、という傍証があるのなら
わかるけど、「ランク付け」だけが根拠というのは
拡大解釈すぎないだろか。

逆に、ではどうしてそんな苗字を信長が許可したか
というのを説明できるのだろか。
自分から家中での関係を悪化させてるわけなんだが。

「雅字」にした、も矛盾してるでしょう。
縁のある地名に「はしば」と発音するところがある
という証明もされてないし。

というわけで、現実にはありえない俗説が
どうして「現実にある」のか、そこの説明が
ほしいですね。

150 :人間七七四年:2015/03/10(火) 07:13:40.49 ID:VvPq4sS2.net
>>149
> 実際に信長が許可したのだし、直接の関係者に
> 丹羽と柴田がいるのだから、そこから採用したと
> するのが普通でしょう

何が普通なのかさっぱりわからん。通説を肯定したいだけの発想じゃん

151 :人間七七四年:2015/03/10(火) 07:17:52.86 ID:VvPq4sS2.net
例えば徳川家中の井原という武士の苗字は「伊井と榊原から取ったと考えるのが普通だ」とか言い出すのだろうか>>149

152 :人間七七四年:2015/03/10(火) 08:39:34.35 ID:J2nhTqJ6.net
と、通説を否定したいだけのひとが申しております

井伊な

153 :人間七七四年:2015/03/10(火) 15:36:02.30 ID:/6XoazF/.net
>>151
一般例ではなくて、秀吉の改姓の話をしてるわけでしょう。
通説というのが一番普通の考え方、ということだね。
話をそらしたり、個別のアラさがしをするだけだったら
「通説否定」は話にもならないということ。

「不穏当な苗字をどうして信長が許可したか」
をまず説明してほしいのだけど、128が
何の説明にもなってないから129,131と
話がそれてしまってるし。

154 :人間七七四年:2015/03/13(金) 18:55:30.92 ID:fTGimJ1S.net
この前行った名古屋の徳川美術館がマジで素晴らしかった(戦国時代初心者です)

箪笥仕掛け銃(引き出し1段につき5本の銃が仕込まれていて、箪笥一個で引き出し3段*銃5本)
ってやつが面白いと思ったんだけど、ググっても情報が出てこなかったです。

あれは戦のために作られたものなんでしょうか?それとも遊びで作ったようなものなのでしょうか?

155 :人間七七四年:2015/03/13(金) 20:20:24.66 ID:P/y2dZ2+.net
>>154
実物を見たことないから断言できないけど、ネタで作ったんだと思いますw
兵器として使うには欠点が大杉です

156 :人間七七四年:2015/03/13(金) 20:40:03.44 ID:UR3+r/B1.net
そんなのあったっけ、見たことないなぁ。

157 :人間七七四年:2015/03/13(金) 22:26:32.82 ID:p288GSMc.net
>>155
やっぱそうですかね〜w

>>156
画像はなかったですが、徳川美術館の展示品目録(ttp://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/pdf/1502_1.pdf)から

19 箪笥仕掛け銃 江戸 17
銘 芝辻小兵衛作・国友勝兵衛作・芝辻茂右衛門作 二箱一対

芝辻・国友という鉄砲鍛冶三名の合作ということは、中々技術的に高度なものだったのかな

158 :人間七七四年:2015/03/13(金) 23:13:39.75 ID:M+gwa1DA.net
見てないからアレだけど、合作つか使う銃が多いから寄せ集めになっただけじゃね
江戸時代作だから太平にって戦がなくなった時代の曲芸まがいの砲術の一端ぽいね

159 :人間七七四年:2015/03/14(土) 13:38:10.81 ID:3O9ENCBM.net
>>157
さんきゅ。
会員入ってて非常設も見てたはずだけど
いろいろあるもんだなぁ。

160 :人間七七四年:2015/03/14(土) 20:59:32.91 ID:ukkAWazE.net
実用性の無さは、
水戸斉昭さん考案の牛がひく戦車みたいなものかね?

161 :人間七七四年:2015/03/19(木) 14:52:43.97 ID:h/hghf+j.net
名前について
よく下の名前は口にするものではなかった
といわれてるけれど
でもみんながみんな「○○守」みたいなものを持ってたとは思えず
下の方の者はなんと呼ばれてたんでしょうか?
それとその「○○守」もあれだけ大名・武将の人数がいたなら
ダブッてなかったのかなとかも思ったりしてます

162 :人間七七四年:2015/03/19(木) 14:55:37.45 ID:Xlo9luNo.net
>>161
仮名はみんな持ってた。「ナントカ兵衛」とか「ナントカ右衛門」とかそのたぐいだ

163 :人間七七四年:2015/03/19(木) 15:06:26.93 ID:h/hghf+j.net
最近では黒田の「官兵衛」なんかがそうなんでしょうか?
ということはその名前なら呼んでもいいということですか?
孝高は基本的に使ってはダメと

164 :人間七七四年:2015/03/19(木) 15:16:29.22 ID:Xlo9luNo.net
>>163
諱ってのは文字通り「忌み名」だからね

165 :人間七七四年:2015/03/19(木) 15:32:51.70 ID:YYGt0r8/.net
普段は使わない名前を付ける
不思議な風習でした・・・

166 :158:2015/03/19(木) 15:33:52.12 ID:YYGt0r8/.net
ID変わってる・・・

167 :人間七七四年:2015/03/19(木) 15:56:41.80 ID:gkBer07R.net
本来の「○○守」は定員1名だけど
戦国時代の「○○守」は大抵は自分たちで勝手に名乗ってる偽官職(受領名)だからいっぱいいる。
豊臣時代だと正式に朝廷から貰う様になったけど、任官したらすぐ辞任して次の人に渡し、
渡した後も「元○○守」の元を省いて呼ばれるから「○○守」がいっぱいいるように見える。
江戸時代だと武家に限って定員無しになったから正式な「○○守」がいっぱいいる。
だから一部の特殊な国を除いた「○○守」はダブりまくってました。

>>165
自分が名乗る時は毎回使ってたから、普段は使わない名前というわけじゃない
名指しするのが非常に失礼というだけ。敵相手なら名指し余裕でした。

168 :人間七七四年:2015/03/19(木) 18:45:27.34 ID:RdeDwhcV.net
>>161
既に答えが出てるけど仮名(けみょう)はみんな持っていた。柴田勝家は権六、丹羽長秀は
五郎左(正しくは五郎左衛門尉なの?長いね)。源義経は判官の官位をもらう前は九郎と呼ばれた。

169 :人間七七四年:2015/03/19(木) 22:58:43.10 ID:09cPw6CP.net
仮名、についてだけど、これは権六や九朗でもそうだけど、
自分が何番目の子供か、をちゃんと表わしてるのですよね。
戸籍なんかないから相続時にトラブらないように
出自をはっきりさせておく目的があった。
次郎三郎、みたいなのは父が次男で自分が三男であることを
意味している、たぶん。
だから、仮名、と言っても無意味なものではなく、それなりに
出自等を判断するちゃんとした役割があった、というのは
押さえておいたほうがいいわね。

170 :人間七七四年:2015/03/19(木) 23:26:59.50 ID:Xlo9luNo.net
あとまあ、○○守などの官位名も、基本的にはその家の嫡流に代々伝わる屋号みたいなもんだね。

171 :人間七七四年:2015/03/19(木) 23:43:36.95 ID:RdeDwhcV.net
でも悪源太義平は長男だけど嫡男ではない。母の身分が低かったので。
三郎頼朝が嫡男だったと考えられている。

172 :人間七七四年:2015/03/20(金) 00:03:06.08 ID:VayAq84e.net
生まれた順に太郎次郎三郎とやっていたのは鎌倉中期くらいまでで、あとは、例えば細川京兆家の嫡男の名乗りが「九郎」のように、
最初に生まれた男子でも、その家代々の嫡流の仮名が付けられた。

173 :人間七七四年:2015/03/20(金) 01:36:59.83 ID:yVBR1u2b.net
戦国時代までに降ると順に太郎次郎三郎ってのは逆に珍しいよな
有名どころで甲斐武田氏とかそうだけど

174 :人間七七四年:2015/03/20(金) 01:45:04.13 ID:VayAq84e.net
そういえば豊臣秀頼の仮名が「藤吉郎」だったらしいな。朝廷の記録から発見されたとか

175 :人間七七四年:2015/03/20(金) 01:52:00.24 ID:yVBR1u2b.net
諱を呼ぶのは失礼だから官職で呼ぶ、官職もってない人はしょうがないから通称で呼ぶ訳で
成人と同時に正式の官職もらえた秀頼や秀忠みたいな連中は通称使う機会がないから
たまたま書き残した資料が無いと分かんなかったりするよね

176 :人間七七四年:2015/03/20(金) 08:15:44.69 ID:LxkRzumL.net
団十郎とか、勘三郎みたいなものか

177 :人間七七四年:2015/03/20(金) 10:17:04.14 ID:afs6BjcE.net
>>174
へ〜、それ何に載ってました?知らなかったですね。

鎌倉中期までは、誰かが出世すると後から「実は
親戚で」みたいなのがワラワラ現れただろうから、そういうのを
防ぐためもあって、政府機構がしっかりしてくると
そういうリスクもだんだん薄れてきた。

面白いところでは、最初に生まれた子供なのに、わざと
代々つけてきた幼名、仮名を使ってないことがある。
これは後から、正妻を迎えてそこで生まれた子の
ためにとっておこう、としたと考えられて、ある程度の
身分があって間違いとかが起きにくい家では
仮名、がそれなりの意味を持っていたことを表してる。

当該の話題の〜守というのはもっと時代が後の話では
あるのだけど。

178 :人間七七四年:2015/03/28(土) 23:04:58.48 ID:R73KoxHt.net
長尾家の嫡男の多くは「六」の字が幼名に使われたみたいだね。六郎、弥六郎とか。
さらに通字の「景」の字も、序列をはっきりするために当主だけは「景」の字を下に置くことができるが(例・為景、晴景)弟以下は「景」の字を上に置かなくてはならない(例・景虎)、
というルールのようなものがあったとか。上杉謙信は長尾為景の何番目の息子かはっきりしたことは分からないが「平三」という名前から(あくまで普通に考えれば)三男なのかな?

179 :人間七七四年:2015/03/29(日) 00:38:52.42 ID:fyNmyN68.net
>>178
>さらに通字の「景」の字も、序列をはっきりするために当主だけは「景」の字を下に置くことができるが(例・為景、晴景)弟以下は「景」の字を上に置かなくてはならない(例・景虎)、
>というルールのようなものがあったとか。
毛利も嫡男は弘元、興元、隆元、輝元と通字の「元」が下にくる。元就は次男だから「元」が上。
と以前書いたら、嫡男は偉い人から片諱を貰うからだろうと指摘された。確かに符合する。
長尾も晴景は片諱貰ってるけど、為景は貰ってなさそう。景虎は片諱貰うと政虎とか輝虎とか
通字の「景」を捨てるし、養子たちは景虎に景勝で、上杉謙信は変わり者だなぁ。

180 :人間七七四年:2015/03/29(日) 02:08:19.89 ID:gr6OFun0.net
普通だろ。

181 :人間七七四年:2015/03/29(日) 13:21:48.99 ID:47qUKonb.net
こういう話題であるなら
どうして上杉輝虎と書かないのか

182 :人間七七四年:2015/03/29(日) 19:13:40.93 ID:RPStsaEf.net
長尾景虎が上杉憲政から「政」の字を貰ったとき自分の「景」の字のほうを捨てたのは上田長尾に「長尾政景」がいたというのも関係ありそうな気がする。
詳しくないからはっきりしたことは言えないが。

183 :人間七七四年:2015/03/29(日) 20:21:35.59 ID:Q51WcKId.net
遊佐長教の妻が十河一存の娘って爺が死ぬちょっと前に婿の姪である乳児を妻にしたことにならない?

184 :人間七七四年:2015/03/30(月) 17:02:41.54 ID:GX/oMrtu.net
系図の間違いじゃなければ養女なんじゃ

185 :人間七七四年:2015/03/31(火) 01:32:05.35 ID:+xUUxKGc.net
1465〜1620頃を記した史料で、一級史料ないし読んだほうがいいというものは何でしょうか?
とりあえず『戦国遺文』とWikipediaの『戦国時代史料の一覧』に載っているものは読もうと思っています

186 :人間七七四年:2015/03/31(火) 11:25:59.05 ID:cJUk0Fsr.net
『戦国時代史料の一覧』に載って無いのだと
多聞院日記、毛利輝元上洛日記、懲録、あたりとか

187 :人間七七四年:2015/04/01(水) 01:50:43.56 ID:f/R8SFfU.net
言継卿記もいいよ

188 :人間七七四年:2015/04/01(水) 07:45:26.26 ID:kkviV7uS.net
御湯殿上日記もだね。
しかし最初にイエズス会って、これを作ったのは
どういうんだ?
武功とか載せてるし。

189 :人間七七四年:2015/04/01(水) 19:50:23.04 ID:/om8lJxH.net
質問です。家康が秀吉没後に関ヶ原・大阪冬/夏の陣で豊臣滅ぼして天下狙ったのは何故でしょう?
五大老筆頭ならもう十分な権力者という気もするのですが。勝算の方が高いとはいえ関ヶ原で負けてたら徳川も終わってたでしょうに
何故あんな博打を?

190 :人間七七四年:2015/04/01(水) 20:43:37.47 ID:o8IDB0Fr.net
>>189
そもそも関ヶ原も大坂の陣も家康が望んだのではなく三成や秀頼が起こしたもの。考え方が逆。

191 :人間七七四年:2015/04/01(水) 21:15:19.88 ID:/CKQl85J.net
>>189
五大老筆頭でも何時転落するか判りません。家康自身が前田や上杉にしたように
追い落とす敵が何時何処から現れるか判りません。天下を握って盤石の体制を
作り上げない事には安心出来なかったのです。

秀吉だって天下人にあぐらをかいて油断してるから豊臣は滅んだので、家康は
徳川が滅びない為に必死だったのです。

192 :人間七七四年:2015/04/02(木) 12:13:19.84 ID:o1+VSi1p.net
>>189
大坂の陣に関して
新説?だけど、秀吉直系の男系の血統の
抹殺ではないか。
豊臣氏がある限り、いつ寝首かかれるかわからない。
これは188さんと同じ。
だから家康長命最後の大仕事として
命をかける価値と重要性はあった。
豊臣氏というのは天皇賜姓であることに注意。
これは日本史的にも異常な大事件であるのだよね。

193 :人間七七四年:2015/04/02(木) 12:28:46.26 ID:o1+VSi1p.net
>>189
関ヶ原はいろいろ言われるけれど
あの状況では家康はさらなる高みを
目指すのは普通の理解でいいのかもしれない。
それと、関ヶ原では「豊臣滅亡」ではなく
あくまで西西決戦、豊臣の枠内での権力争い
なのには注意がいる。
あの時点では豊臣はいわば関白家であり
それへの謀反は朝廷との関係にも触れる。
だから勝利後は、武家の棟梁、としてまず別の
地位を固めるわけだね。

大阪の陣の理由の一つに、秀頼が成人して
関白を望んだらそれこそ手も足も出なくなる。
だから、最後のチャンス、として188にも関連して
あの時点で豊臣抹殺を図った、というようにつながっていく。

家康は関ヶ原勝利後すぐに摂家に関白を戻している。
これも家康が公武関係を意識していた傍証だし
家康の幅広い視点、政治、統一構想を物語るものだろう。

194 :人間七七四年:2015/04/03(金) 01:16:17.65 ID:DOHTSLyE.net
この頭の悪い人いつもいるのな

195 :人間七七四年:2015/04/04(土) 18:34:12.37 ID:xVd0PnXR.net
言うたるな

196 :人間七七四年:2015/04/05(日) 03:36:47.09 ID:7Ze1nWrY.net
長宗我部の忍者の竹内虎之助・弥藤次は志賀親次との話が長宗我部が秀吉の命で大友と戦ったことから初耳だけど伊予での敗戦と娘の死の話は理解出来るし
長宗我部に竹内なる諜報に従事した家臣がいたにはいたってことでいいのかな

197 :人間七七四年:2015/04/05(日) 10:40:06.31 ID:EDKDTpIF.net
長宗我部が九州に侵攻したのは秀吉の命で大友を救援する為だから、話がおかしい。

198 :人間七七四年:2015/04/05(日) 18:07:16.75 ID:7Ze1nWrY.net
だから気になったんだよ
志賀のよく知られる島津戦での活躍までがセットみたいだし

199 :人間七七四年:2015/04/11(土) 20:58:33.32 ID:1E47xDwA.net
戦国大名で兄弟仲が上手くいった家やそうでない家の違いはなんでしょう?
良くあるのが、兄弟を討って家の主導権を取り、統一に乗り出すパターン(最上、織田とか)
逆に最後まで兄弟仲が良く連携をって家の拡大が出来るパターン(島津、北条とか)
何故でしょうか?

200 :人間七七四年:2015/04/11(土) 22:39:56.60 ID:spxqaVPy.net
そんなのは家よって人によって違う
あえて共通点を上げるなら、ある程度覇業が上手く行きつつ
成り上がり者で一族で争ってる場合じゃ無い家は上手く行くことが多い
ついでに島津も上手く行かなくなると分裂したからね

201 :人間七七四年:2015/04/15(水) 04:18:32.45 ID:b00ElsvJ.net
https://pbs.twimg.com/media/CCXH6HhUIAA_7wH.jpg:large

これ↑は何家の旗印なのか?教えてください

202 :人間七七四年:2015/04/15(水) 04:41:54.58 ID:vxDRLaV5.net
>>201
梅鉢の紋だからおそらく前田家

203 :人間七七四年:2015/04/15(水) 05:06:21.18 ID:b00ElsvJ.net
こんな時間に即レスどうもです

204 :人間七七四年:2015/04/15(水) 05:30:53.06 ID:/9z6zKyu.net
前田家の旗印の色が水色って、ありなんでしょうか?
家紋の色に規定は無いそうですが、
「前田利家 幟」でググると、赤地に白抜きの家紋か、その逆か
白地に黒の家紋だったりするので、やっぱり違和感があります
水色といえば、明智家の水色桔梗ですよね

205 :人間七七四年:2015/04/15(水) 05:53:02.49 ID:vxDRLaV5.net
>>204
この手のものがそういう時代考証に忠実に作ってるわけ無いだろ

206 :人間七七四年:2015/04/15(水) 12:21:18.04 ID:BYv7aS2L.net
なんか語りたがったんだろう。

207 :人間七七四年:2015/04/15(水) 13:57:26.27 ID:yy06usDn.net
確かに水色=明智光秀だからなあ
>>201を水色桔梗と間違える人もいるだろうな

208 :201:2015/04/15(水) 23:26:33.67 ID:/9z6zKyu.net
>>205
レスありがとうございます
本当その通りですね、なんか質問ではなく愚痴のようになってしまい
すみませんでした

>>207
>>201を水色桔梗と間違える人もいるだろうな

はい、別板のスレですが何人かいらっしゃいました
形も似てますもんね

209 :人間七七四年:2015/04/16(木) 01:04:31.06 ID:A7D7Lrft.net
それタカサワの説でしょう。
光秀の紋が水色だった、という
肖像とかはあるのかい?

210 :人間七七四年:2015/04/25(土) 15:24:56.07 ID:fb8Kjug3.net
箕輪長野家についての質問です
長野十六槍と聞きますが、どの軍記物に登場するのでしょうか?

検索して調べても十六槍とされている人物がサイトによって違っていたり情報元が示されておらず、よくわからないことが多いです
情報元と該当武将、その活躍などを教えていただけると助かります

211 :人間七七四年:2015/04/25(土) 16:17:28.91 ID:z2qAbxR7.net
>>210
撃剣叢談、かな。
http://hdl.handle.net/10291/4088

ここに論文が出てるけど、剣術の分野だから
よくわからないな・・すまぬ・・

212 :人間七七四年:2015/04/25(土) 16:21:08.64 ID:z2qAbxR7.net
jinbunkagakukiyo_45_121.pdf

あ、こっちだ。

213 :人間七七四年:2015/04/25(土) 18:40:35.55 ID:fb8Kjug3.net
>>211
ありがとうございます
撃剣叢談には長野十六槍の存在と上泉信綱がその筆頭であることが書かれているようでした

214 :人間七七四年:2015/05/06(水) 20:44:18.16 ID:GPABIqHw.net
○○生存説がどいつも70超えまで生きるのは何故

215 :人間七七四年:2015/05/06(水) 20:58:56.04 ID:KQc76pYy.net
意味のわかる日本語でおながいすます

216 :人間七七四年:2015/05/10(日) 17:26:58.57 ID:+K0jX1oP.net
大阪の陣後に、徳川家が人心を失わなかった理由を知りたいです

「国家安康」にキレて開戦したり、
一旦講和しといて堀を埋めたり、
結構むちゃくちゃなゲスいことやってるのに

217 :人間七七四年:2015/05/10(日) 18:05:35.72 ID:0KWMipET.net
>>216
> 「国家安康」にキレて開戦したり、
当時の意識として誰でも納得する当然の怒り

> 一旦講和しといて堀を埋めたり、
堀を全部埋める事は最初から講和条件になっている。

お前が後世の講談小説に影響受けて視線がゆがんでいるだけ

218 :人間七七四年:2015/05/10(日) 18:17:31.39 ID:EjZmI0Ca.net
>>216
ものすごく大雑把に答えると
戦国自体が「ゲスさ満点」の
時代なので、そんなに問題化するほどのことでもない。
また、人心、というけど、一般農民さんたちからみたら
「国家安康」も「講和」も本能寺も
直接的にはあまり関係ない話。
ということだわね。

余分だが、堀の埋め立ては豊臣から抗議が出て
家康はちゃんとあやまってる。
その頃にはもう、現場、が埋め立ててしまってたから
家康のゲスさはやっぱり目立つけどね。

219 :人間七七四年:2015/05/10(日) 18:23:38.84 ID:0KWMipET.net
>>218
> 余分だが、堀の埋め立ては豊臣から抗議が出て
> 家康はちゃんとあやまってる。

謝ってねえ。つか最初から講和条件に入ってるから謝る必要もないし、豊臣側も抗議等一切していない。
どこの小説の知識だ。アホか。

220 :人間七七四年:2015/05/10(日) 20:01:48.84 ID:+K0jX1oP.net
>>217
>>219
まぁそんな怒んないでよ
確かに最近漫画のあずみ 読んでたからこういうことふと思ったんだよね

>>218
戦国がゲスい時代ってのは確かにそうか!
ただ、「律儀者」で通ってた徳川が、
よくここまで本性出せたなとは思うなぁやっぱり

221 :人間七七四年:2015/05/11(月) 10:30:18.41 ID:Kz6XXzk/.net
>>220
「律義者」というのが一般論だし
人間というのはそんな簡単にレッテルで
決められるものでもないからね。
家康の本性?というのはやはり秀吉の
死の直後からの誓紙破り?にあるだろうし
国家安康や埋め立ては逆にちゃんと筋通した
「律義者」の範疇というぐらいだわね。

222 :人間七七四年:2015/05/13(水) 23:09:54.56 ID:aFNeGANs.net
国家安康と埋め立てって暴力団の因縁みたいなのやり方だろw
どう贔屓目に見ても律義者はないわ

223 :人間七七四年:2015/05/13(水) 23:45:43.05 ID:z1IJ1j1o.net
家康については、坂口安吾の「家康」という作品が的確だと思う。
文学作品、というより評論という感じのものだけど、学者の説よりよほど説得力がある。

概要は、家康の戦いは基本的に身を守るための戦いだった、というもの。
律儀者として身を処しつつ武田の襲撃を振り払い、秀吉の支配に対して小牧・長久手の戦いで
身をかわし、石田三成をはじめとする家康を危険視する勢力に対抗して関ヶ原の戦いをおこして
身を守った。
で、関ヶ原以降にふと周囲を見回してみると、もう自分を脅かす勢力がない。天下も目の前に
転がってる。
ここになって初めて野心を出した家康は、あわてて恥も外聞もない泥臭い方法で豊臣家を
やっつけた。
という感じ。

いわれれば、家康の出処進退は基本的に自衛のため、と見えなくもない。
豊臣政権内の勢力の扶植も考えてみれば徳川家の地位を安定させるためとも見えるし、
後年の念には念を入れすぎている幕府の安定のための施策を見ても、その見方は
納得できる。
で、最晩年になって初めて野心を出して、慣れない事をやろうとした結果が「国家安康」とか
その辺だった、と。

それほど長くないから読んでみるとおもしろいと思うよ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42911_25520.html

224 :人間七七四年:2015/05/14(木) 03:04:05.04 ID:kc3Gruqz.net
>>222
同時代的には国家安康の件は超弩級の無礼で、家康の怒りはむしろ未だセーブされてる方。
即開戦でも全くおかしくなかった。

225 :人間七七四年:2015/05/14(木) 09:13:20.42 ID:XstEZq2a.net
高野山に戦国武将の墓がいっぱいあるのは
やっぱり人殺しの自覚があって地獄に落ちるのが嫌だったのかな?
ビビりすぎw

226 :人間七七四年:2015/05/14(木) 12:07:37.22 ID:qc4GIZew.net
>>224
同時代の人から見ても「その言いがかりはないわ」って引かれてた感じじゃなかったっけ?
ソースが思いつかないけど。

227 :人間七七四年:2015/05/14(木) 12:08:38.94 ID:kc3Gruqz.net
>>226
同時代史料では「家康や幕府の言うことは当然」ってのしかないぞ。

228 :人間七七四年:2015/05/14(木) 19:51:18.69 ID:XL4PTffk.net
歴史は勝者が作るものだからな。

229 :人間七七四年:2015/05/14(木) 20:51:17.75 ID:kc3Gruqz.net
という敗者の言い訳

230 :人間七七四年:2015/05/14(木) 23:15:37.18 ID:V/WsqYo8.net
つか「国家安康」にキレて開戦したとか一旦講和しといて堀を埋めたとか徳川時代に作られた講談逸話だろ

231 :人間七七四年:2015/05/15(金) 10:53:20.14 ID:j+tAJKb+.net
太閤記の史料としての信頼性ってどの程度なのでしょうか?

知りあいがwikipediaに記載されている明智光秀と毛利元就の謁見の会話を史実だと主張しているのですが……

232 :人間七七四年:2015/05/15(金) 10:59:54.79 ID:CnXrUrS5.net
太閤記といっても色々あるけど
一番有名な甫庵太閤記なら他史料による裏付けがなければ使えない程度

233 :人間七七四年:2015/05/15(金) 11:23:11.59 ID:hyGmCVLo.net
太閤記なんて小和田くらいしか信じてないだろ
小和田ですら否定的に見る部分もいっぱいある

234 :人間七七四年:2015/05/15(金) 11:56:17.04 ID:s4zE5pkM.net
川角太閤記:二次史料だがそこそこ資料価値は在る(要他史料の裏付け)
甫庵太閤記:二次史料の上作為が多い(前田家関連に記述など)(要他史料の裏付け)
絵本太功記:小説

235 :人間七七四年:2015/05/20(水) 16:44:28.25 ID:X/ZfpnTQ.net
兄がどんな歴史小説だか漫画だかドラマを見たのかわからないんですが
秀吉死後の徳川家康と前田利家の対立について偏見を持ってます。

兄は判官贔屓の石田三成アゲなんですが、秀吉の生前から秀吉との友情篤い利家は
三成の(忠誠心)の事を信頼していてとても仲が良かった、と主張しています。
私の史観では、秀吉の生前から利家やら家康のような大名集こそ歴戦の中で同僚意識があり
中央の官僚である三成とは対立する立場にあったと考えています。

実際はどんな感じだったのでしょうか?

236 :人間七七四年:2015/05/20(水) 17:18:19.24 ID:n4nOaZ3m.net
>>235
秀吉は最晩年に成って利家の官位や待遇を引き上げ、家康の対抗馬にしようとしたのは確か。
ただし利家ももちろん独立の大名なので、自分の家が第一であり、その意味では家康とも利害を共にしていた。
逆に豊臣家のそのものの利害代表である奉行の三成とは、政治的目的のため組むことがあっても、根本的には
利害を異にしていた。

237 :人間七七四年:2015/05/20(水) 20:54:21.37 ID:N3cf+wZe.net
利家が死んだ途端、嫡男の利長は若年と侮って、恫喝したあげく芳春院を人質に取ったのにか?

238 :人間七七四年:2015/05/22(金) 07:24:05.99 ID:Pw4aZXgy.net
司馬遼太郎と吉川英治と山岡荘八は誰が一番人気があるんですか?
順位を教えてください。
司馬遼太郎と吉川英治と山岡荘八は誰の歴史小説が一番おもしろいんですか?
順位を教えてください。

239 :人間七七四年:2015/05/22(金) 18:02:28.30 ID:Xs6Bt0qG.net
太田牛一の捏造歪曲三昧より川角太閤記の方がかなりマシ

240 :人間七七四年:2015/05/23(土) 12:39:42.61 ID:zCIMyTIu.net
菅沼はスルー

241 :人間七七四年:2015/05/23(土) 22:50:56.50 ID:pWtOK6BI.net
>>238
人気順位は知らないけど、自分としては山岡より司馬の方が読みやすいし面白い

242 :人間七七四年:2015/05/24(日) 00:24:42.60 ID:T1fWPu7+.net
俺は全部駄目だな
司馬も吉川も海音寺も今読みと古くさく感じる

243 :人間七七四年:2015/05/24(日) 00:30:31.68 ID:yG6n96NO.net
そもそも歴史勉強しだすと歴史小説読めなくなるよ嘘臭くて。

244 :人間七七四年:2015/05/24(日) 00:34:33.56 ID:Cwm397nu.net
そりゃ単にフィクションの区別がついてないってだけだ

245 :人間七七四年:2015/05/24(日) 00:39:16.15 ID:yG6n96NO.net
>>244
歴史物だと、読者側が詳しくなると、作者の意図が露骨に読めちゃうからなあ。
それで覚める

246 :人間七七四年:2015/05/24(日) 10:49:27.11 ID:uFl05FFD.net
新しい仕官先に大禄で召し抱えられたのだけど、それを良く思ってない古参の家臣に
「一体、どのような働きをすれば新参者のお主が大禄を得られたのだ?w」と嫌味を言われ
それに対して「殿に認められる働きをしてご恩(大禄)を得ました」と返して黙らせたって誰の
逸話だったっけ?

247 :人間七七四年:2015/05/27(水) 02:17:33.50 ID:zYU1ViMG.net
ちょっと違うけど、多分、江口三郎右衛門の逸話じゃないかな?
やる夫スレの小早川秀秋が主人公のやつで紹介されてた気がする。
ただ、ググってもその逸話の出典元は出てこないんだよなぁ?

248 :人間七七四年:2015/05/27(水) 19:34:09.82 ID:ErjhZwga.net
歴史小説って
史料がない部分を、作者がどう補うかが面白いんじゃん

249 :人間七七四年:2015/05/27(水) 22:26:17.18 ID:jI6KSsou.net
作者のオナヌー設定を元に書かれてるから好みが合わないとキツイ

250 :人間七七四年:2015/05/27(水) 22:34:07.91 ID:yrQ9drfe.net
司馬も好きだけど岩井三四二がさらっと読めていい
さらっとしすぎかなとも思うけど

251 :人間七七四年:2015/06/04(木) 17:16:05.46 ID:318xCOmy.net
波田野氏はKOEIの被害者なんですか?
丹波波田野氏の最盛期を教えてください。

あと曹洞宗、一向宗誠照寺派の手助けしてた鎌倉時代の地頭
波多野義重、波田野景之らと丹波波多野氏関わりはありますか?

252 :人間七七四年:2015/06/06(土) 23:18:26.39 ID:GtBIUP6N.net
むしろKOEIのおかげで丹波を代表する戦国大名と思ってもらえるようになったんじゃなかろうか

253 :人間七七四年:2015/06/07(日) 20:58:05.25 ID:OnIrb1X3.net
波多野結衣がお家再興のために一肌脱いで頑張っているのは有名な話

254 :人間七七四年:2015/06/10(水) 00:48:22.75 ID:UYcGDvAY.net
コーエーの最大の被害者は二階堂だと思う。創造でまともな絵になってがっかりした

255 :人間七七四年:2015/06/13(土) 21:36:06.66 ID:e380m0Y9.net
戦国時代はどうして城下町焼いたり水攻めしたりしたんですか?
そんなに有利になるものなの?

256 :人間七七四年:2015/06/13(土) 23:42:52.53 ID:F6kca4nK.net
そりゃ有利になるでしょ

257 :人間七七四年:2015/06/14(日) 09:28:37.26 ID:cGWRinBf.net
>>255
焼く 障害物がなくなる
水 孤立させる

258 :人間七七四年:2015/06/14(日) 09:41:49.13 ID:UTxvj7OQ.net
さらに、地域住民を戦災難民化して城内に追い込み
食料、飲用水の消費の加速を狙う

259 :人間七七四年:2015/06/14(日) 21:51:13.27 ID:4gzXiUji.net
障害物と食料消費ですか…

こんなこと書くと怒られちゃうかもしれないけど、
直接戦う以外はわりと地味なんですね

260 :人間七七四年:2015/06/14(日) 23:17:19.43 ID:+MjxSGBQ.net
今と違って火事を消すのは非常に難しい。江戸時代には火付けは死罪だよ。
地味ってどういう感想なのかねぇ。

261 :人間七七四年:2015/06/14(日) 23:48:25.91 ID:yF1OSGec.net
自分の町がまるごと火事で焼失することを考えたら地味だなんてとても言えんがな

262 :人間七七四年:2015/06/15(月) 00:50:45.60 ID:jqpkMfzi.net
それで住む所無くなったり自分達の土地がぼろぼろになるならそこを治めてる攻められた領主の失態になるわけだしな

263 :人間七七四年:2015/06/15(月) 07:49:19.54 ID:GZ2Ktb8B.net
江戸時代でも破壊消防が基本
類焼しないように、近隣の建物を先に取り壊して、周囲へ火が広がらないようにした
その後、日除け地として、上野広小路など幅の広い道ができた

264 :人間七七四年:2015/06/18(木) 11:52:43.42 ID:ECWPJWhe.net
毛利元就についての質問です
毛利元就は父親が亡くなった後、井上元盛に所領を奪われたと残しているそうですが元就の家督相続を依頼する連署状にもその名前がありますよね。
元就の記憶違いとする説を本で読んだのですが、ネットでは同姓同名の説が多く見受けられました。
実際のところどちらが説としては有力なのでしょうか。
また、毛利元就についておすすめの本がありましたら教えてください。

265 :人間七七四年:2015/06/18(木) 20:27:39.80 ID:Kqhk+BVz.net
井上を殺した元就の自己正当化目的のウソだよそれ。
元就は後世の評価を気にしていろいろとウソ吐いてる。

266 :人間七七四年:2015/06/19(金) 21:49:50.46 ID:0EUnwyX0.net
豊臣秀頼が太り過ぎてて馬に乗れなかったっていう話は本当なのでしょうか?

267 :人間七七四年:2015/06/20(土) 00:47:56.87 ID:0IudxxTR.net
スペイン大使ビスカイーノも自由に体を動かせないほどのデブと報告してるらしいですし
「世に無き御太り」(長澤聞書)というのは有名です
実際乗れなかったかは分かりませんが馬場は有るものの大阪城からも出たこともないし少なくとも得意とは思えません。

268 :人間七七四年:2015/06/20(土) 15:20:06.88 ID:vxc5hE6w.net
秀頼の身長190とか200cmって話、信憑性はどの程度なんですか?
また、徳川綱吉の位牌を論拠にした超低身長、吉宗の装束根拠にした高身長
は誤り。が現在の学会?の主流と考えてOKですか?

269 :人間七七四年:2015/06/22(月) 17:49:45.31 ID:w7FFD0bl.net
>>268
学会、というのも「一つ」にまとまっているわけでもないし
いろんな考え方がある。
直接一次史料がないので、わからない、というのが
専門家らしいお茶の濁し方だわね。

270 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:15:16.46 ID:Zf9hnPlr.net
滝川とかが城より茶器がよかったといったりルソンの壷ブームがあったり
骨董ブームがあったとおもうのですが徳川時代にはこの手の話がありませんが
秀吉なくなったらどの大名も茶器に興味なくなったのですか?

271 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:16:01.45 ID:ekvHhepy.net
小牧長久手の戦いの中入り?(別働隊)って、
家康の本拠地を目指したんですか?

それとも秀吉本隊との挟み撃ちのために
後方にまわろうとしたんですか?

272 :人間七七四年:2015/06/24(水) 18:41:41.60 ID:wsluUY/V.net
西三河に侵攻撹乱して家康軍と本拠地を分断し小牧にいる家康軍を窮地に立たせるのが目的ということになっています。

273 :人間七七四年:2015/06/24(水) 19:57:33.11 ID:1iuoWfwg.net
1

274 :人間七七四年:2015/06/24(水) 20:59:37.75 ID:QXs9LPqF.net
>>270
滝川はそこで茶器をもらってもその先に城でも国でも貰えるチャンスはまだあると思ったからそう言った。
江戸時代は新たな領地など貰えるはずも無いので茶器のほうが良いなんて酔狂な人間は居ない。
ちなみに安政の大獄の井伊直弼は本来は家督を継ぐ立場じゃなかったので茶人として生きる予定だった。

ちなみに秀吉が亡くなった後の大坂夏の陣で大阪城とともに消失した九十九茄子という名物茶器を
家康が破片を探し出させて職人に漆でつなぎ合わせて修復させている。
出雲松江藩主の松平不昧公は「古今名物類従」という名物茶器の全集的な本まで出している。

275 :人間七七四年:2015/06/24(水) 21:39:16.49 ID:ekvHhepy.net
>>272
ありがとうございます

276 :人間七七四年:2015/06/24(水) 22:12:35.13 ID:cFFROPVQ.net
芸術品として茶器の価値や、教養としての茶道の意味は変わらずあったけど
政治的な意味は、少なくとも豊臣政権の頃のようには強くはなくなっていた

277 :人間七七四年:2015/06/25(木) 08:58:16.82 ID:ZiwYlBhW.net
戦国後期の茶は政治的な道具で、褒美で名品を与えられる=公式な茶会
(政治的会談,外交)を行って良し、そういう地位にある って証でもあった
江戸時代に入ると武家間の格式は石高を基本に御目見え,譜代〜などの
形で形式化・固定化されたので、武家にとっての茶器の価値は急落、
武家経済低迷とともに売却(大名貸の担保や対価などで)されていった。

この手の、政治的地位や己の力を誇示するための道具として、解りやすい
形で散財する。ってのは社寺建築や武具などでもあったけど、いずれも
江戸時代に入ると退潮していくね

278 :人間七七四年:2015/07/11(土) 13:40:06.92 ID:03YbKMEb.net
関ヶ原ブログというサイト→ ttp://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/50637726.html

関ヶ原後の加藤清正について、諸将や商人と会談した家康&正信が天下一の名将として名を挙げ
ただ一つの欠点として激情家であることを述べて 清正本人の耳に入れることで牽制した 

みたいな話なんですが出典がありません。 本当? というか出典はあるのでしょうか?

※にわかな兄が上記のブログの内容を疑いなく信奉して
「嘘だというなら証拠を出せ、本当に歴史上にこういうエピソードがなかったと証明しろ」
と悪魔の証明めいた馬鹿な事を言ってきます。 どう対応すべきなんですかね

279 :人間七七四年:2015/07/11(土) 15:32:53.73 ID:PJHyH6A3.net
いい悪い話スレまとめによると出典は『駿河土産』だそうだ

280 :人間七七四年:2015/07/11(土) 15:47:40.50 ID:03YbKMEb.net
駿河土産
現代語訳をggれる範囲だと家康・正信が清正を呼びつけて豊臣の恩と関ヶ原の恩を比較させた逸話しか見つからないすね

281 :人間七七四年:2015/07/12(日) 19:24:56.35 ID:eXcoy5er.net
近代デジタルライブラリーの続史籍集覧第8冊の駿河土産(1917年と1930年版)だと
載ってないけど
同じ近代デジタルライブラリーの国史大系第9巻の東照宮御実紀附録巻十一(コマ124)
だと出典を駿河土産として記載がある

どうやら近デジの駿河土産の正信&清正の逸話は後半部分しか記載が無い物らしい
そうなった理由は不明

282 :人間七七四年:2015/07/17(金) 22:09:03.64 ID:6Mo+V5es.net
正室と側室ってどうやって決まるんですか?

283 :人間七七四年:2015/07/17(金) 22:14:14.54 ID:gHHnMH7+.net
実家とか養子先の家格。有力者の娘を差し置いて下賤の出の者を正室にする訳にはいかない。

284 :279:2015/07/18(土) 00:41:33.75 ID:Fqwjx4oP.net
>>283
ああなるほど!
でもそしたら、今の正室より格上の女性と結婚するとになったら、
今の正室が側室になるんですか?

285 :人間七七四年:2015/07/18(土) 00:54:32.21 ID:3XbJZWWe.net
津軽信枚とかそういう例が無いわけではないが、普通はもうすでに正妻が居る家に正妻格の女性を縁付けたりはしないだろ
後は、両方正妻というのもある

286 :人間七七四年:2015/07/18(土) 01:37:17.23 ID:8iEy0sss.net
足利氏がまだ一有力御家人だった鎌倉時代に当主だった泰氏には北条氏一門の
名越氏から迎えた正室と嫡男として家氏がいたが、得宗家の娘が新たな正室として
押し付けられて名越氏は側室に落とされた。それに伴い家氏も庶子とされ、足利宗家とは
別に一家をなした。子孫が代々尾張守になったのでのちに足利尾張家と呼ばれるようになる。
現在の岩手県にあった斯波郡を領地としていたので斯波氏とも呼ばれる。
室町幕府の三管領の斯波氏であり、織田氏に尾張の国を奪われた斯波氏でもある。

そういう例もあるという話。

287 :人間七七四年:2015/07/18(土) 01:42:51.19 ID:8iEy0sss.net
去年の大河ドラマの黒田長政みたいに今の正室を離縁して家康の養女を正室として迎える例もある。

288 :人間七七四年:2015/07/18(土) 18:51:35.40 ID:qyAbkpdR.net
秀吉のようにそもそも正室を変えない例もあるがな

289 :279:2015/07/18(土) 22:45:05.95 ID:Fqwjx4oP.net
みなさんありがとうございます!
いろんな例があるんですね。勉強になりました

>>286
斯波氏はもともと岩手にいて、尾張に移ってきたってことですか?

290 :人間七七四年:2015/07/18(土) 23:53:19.55 ID:8iEy0sss.net
斯波郡を領有していたのは間違いないけど住まっていたかどうかは定かでないです。
有力御家人は各地に領地があることが多いです。

291 :人間七七四年:2015/07/20(月) 22:27:29.84 ID:+1fAvrcT.net
新発田の乱で、新発田側に葦名は分かるけど、伊達まで関与した旨味ってなに?
金山でも取ろうとしたの?

292 :人間七七四年:2015/07/21(火) 13:59:33.53 ID:S/mMkceR.net
>>291
当時の伊達の本拠地は米沢
米沢と越後北部は山を挟んでお隣どうし、遠いようで意外と近い
後背地に有力な同盟があるのなら他の戦線に兵力を割けるし、
越後が内乱状態なら庄内進出を目指す上杉の野望も挫く事ができる
さらに状況次第では越後に進攻できる大義名分にもなる

つまり伊達にとってメリットが多いから支援したって事だね

293 :人間七七四年:2015/07/24(金) 18:17:50.77 ID:gCwpgTdP.net
当時の蘆名は伊達輝宗の保護国。

294 :人間七七四年:2015/07/24(金) 21:58:51.59 ID:3NLdm9EF.net
と、妄想してます

295 :人間七七四年:2015/07/28(火) 01:36:06.75 ID:vGRdlqfM.net
>>292
サンクス。山向こうってのは地図で理解したんだけど、飯豊ごえのルートって当時あったんかな。
今は道がないようだけど

296 :人間七七四年:2015/07/30(木) 21:39:04.00 ID:1vlbvQSw.net
有能すぎて、お前はこのくらいの手柄当然だから加増しないみたいなこと言われた武将て誰でしたっけ?

297 :人間七七四年:2015/07/30(木) 22:02:51.94 ID:YQxApp+4.net
内藤昌豊が信玄から一度も感状を貰わなかったって逸話かな

298 :人間七七四年:2015/07/31(金) 12:50:14.99 ID:KLBbIRYF.net
「これの一次史料なんてない!だから史実はお前の言ってることの逆!」というのは正しいのですか?

299 :人間七七四年:2015/07/31(金) 14:01:11.60 ID:b4Curj/i.net
史料が無いなら答えは出ません。

300 :人間七七四年:2015/08/03(月) 23:53:59.34 ID:ZKibzRTk.net
守護ってどうやって決められてたの?

301 :人間七七四年:2015/08/04(火) 00:16:51.70 ID:mNxMcpst.net
幕府が任命。

302 :297:2015/08/05(水) 21:45:08.74 ID:FD4IiRgV.net
じゃあ、任命された守護が討たれたら、また幕府が任命し直すってこと?

303 :人間七七四年:2015/08/05(水) 21:50:31.36 ID:k4cVQ0pU.net
そやね

304 :297:2015/08/05(水) 22:35:41.77 ID:FD4IiRgV.net
そうなんだ
ありがとうございました

305 :人間七七四年:2015/08/07(金) 12:29:39.39 ID:tgldG6Nh.net
○○守護と、○○守はどう違うの?
どっちが偉いの?

306 :人間七七四年:2015/08/07(金) 19:50:59.79 ID:UZKn1e39.net
守護は幕府の役職。守は律令時代の国司の長官。
守護が設置されると国司は有名無実と化す。
建武の新政の時代は別で南朝方は反幕府の立場だから北畠顕家が陸奥守とか
北畠顕能が伊勢国司に任命されて実権を振るっている。

307 :人間七七四年:2015/08/08(土) 07:45:24.44 ID:s2LNPxc7.net
なるほど。
だから、江戸時代になると○○守とか許可があれば勝手に
名乗れたんだね。

308 :人間七七四年:2015/08/08(土) 18:48:32.53 ID:sN4D6YQr.net
>>307
> だから、江戸時代になると○○守とか許可があれば勝手に
> 名乗れたんだね。
この2行に矛盾しか無いことを気がついてないだろ

309 :人間七七四年:2015/08/08(土) 20:03:23.37 ID:qGncpzL4.net
信長は許可がなくても勝手に上総守を名乗って、
上総は親王任国だから上総守になれるのは親王だけとつっこまれて
上総介に改めた。

310 :人間七七四年:2015/08/09(日) 00:17:00.19 ID:du3n86TQ.net
むしろ江戸以前が許可なく勝手に名乗りまくりだった
江戸時代以降武家官位が制度化されて勝手に名乗れなくなった

311 :人間七七四年:2015/08/09(日) 09:45:48.62 ID:51QNlVpn.net
甲斐と関係ないのに鳥居耀蔵が甲斐守だったりするのは?

312 :人間七七四年:2015/08/19(水) 00:04:01.24 ID:5SV5Mjdl.net
織田は弱く武田は強い、豊臣は善で徳川は悪と記載されている一次史料を教えてください

313 :人間七七四年:2015/08/19(水) 12:18:04.49 ID:siSwvwpS.net
官位だけでなく、氏すらも自称してる人も多かった

314 :人間七七四年:2015/08/20(木) 01:11:02.35 ID:fPkege2x.net
あるホラーマンガに出てきた話なんですが
ある戦国武将の子孫が先祖が滅ぼした戦国時代の人によって祟られているのを霊能者に相談するという内容でした。
一応実話怪談の体をとっているのでその子孫の苗字は配慮で出てこなくて、誰の子孫なのかもやもや気になりました。

作中のヒントは
 ・相談者の先祖は成り上がりの戦国武将(相談者は19代目の子孫)
 ・↑はもともとは織田の家臣、信長死後は秀吉、家康に仕えて、江戸時代まで武士として残る
 ・祟っていたのは朝倉義景の継室、近衛稙家の娘
 ・↑の女性が、朝倉が織田に滅ぼされた折、留守を守っていた城で敵武将(相談者の先祖の戦国武将)によって討たれ、その恨みで祟っていた

この戦国武将って誰かわかりますか?
漫画だから創作の可能性もあるけど、気になったので心当たりあれば教えてください

315 :人間七七四年:2015/08/20(木) 08:26:49.75 ID:w1vwI0fB.net
それだけじゃあ特定不可能w

一乗谷炎上のときは柴田勝家が先鋒だったというから、彼の配下の誰か、くらいか推測するとしたら

316 :人間七七四年:2015/08/20(木) 14:15:03.00 ID:wK4VKJsD.net
そもそも近衛稙家の娘とは子供ができなくて離縁してるはず

317 :人間七七四年:2015/08/20(木) 22:15:40.99 ID:fPkege2x.net
>>315
ですよね、やっぱりw

あとヒントになりそうなことといえば
・名前を出すと一発でわかるくらいの有名戦国武将
・その戦国武将は、作者の先祖の戦国武将(浅井)と敵対していた

というくらいでしょうか…
あ、このマンガの作者の母方は阿佐井といって、浅井長政の血筋だという話です。
この人も、浅井の先祖の武将が佐々家の武将をリンチでなぶり殺しにした恨みで祟られていたのを
霊能者に解決してもらったという…w


>>316
そうなんですか、だったら作中の推察は外れってことかな
霊視で、織田信長に越後辺りで滅ぼされた一族の子供を生まなかった身分の高い正室の女性が祟ってるという結果が出て
資料を調べて件の女性だろうという結論でしたので

318 :人間七七四年:2015/08/21(金) 09:44:12.52 ID:A8K4G1eo.net
単純に1世代で血縁1/2とすれば19世代で1/52.4万。体重60kgの0.1gは
○○の血だから呪う…マンガとはいえ理解不能な世界だな
直系男子だけ呪うとしても、直系家督で19世代も継続してるってのは特に中下級
武家では奇跡レベルのあり得なさ。傍流も含むなら、血縁者は万は下らないし…

319 :人間七七四年:2015/08/22(土) 18:08:32.19 ID:JpP7LREU.net
この時代田舎なのはどこらへんですかね?

320 :人間七七四年:2015/08/22(土) 18:17:06.19 ID:scUDgwTn.net
京都以外全部

321 :人間七七四年:2015/08/26(水) 22:46:43.35 ID:g0HDE7Y6.net
寵愛する小姓が成人年齢に達しても、元服を許さず
相変わらず閨の相手にしていた武将というのは
誰でしたっけ?

322 :人間七七四年:2015/08/26(水) 23:58:46.58 ID:5JSqufeP.net
元服の許可はともかく
成人したから止めにしました、というケースがあるのだろうか?

323 :人間七七四年:2015/08/27(木) 06:22:00.05 ID:0nhRO47h.net
日本の衆道ってホモとロリコンを掛け合わせた要素が強いから成長したら興味がなくなるんじゃね?

324 :人間七七四年:2015/08/29(土) 12:13:02.09 ID:GLkqAR3b.net
織田と武田双方からスカウトされて、”織田は過酷だから”と武田に仕官した武士がいる、と何かで読んだ記憶があるのですが、本当ですか?

325 :人間七七四年:2015/08/29(土) 22:23:07.51 ID:xU5uWMSo.net
本当にそう言ったかは知らんけど、鹿島源吾という侍がが織田を蹴って武田に仕官したという話なら聞いた事がある

326 :人間七七四年:2015/08/29(土) 22:24:25.39 ID:HzCNmvNI.net
まあ良くも悪くも信長の配下に対する使い捨て体質は有名だったらしいしな

327 :人間七七四年:2015/08/31(月) 15:43:03.47 ID:OVCvLzMe.net
信長には情がなく非道だからってやついたが誰だったっけ。
たしか上杉に逃げてきた記憶が。

328 :人間七七四年:2015/09/01(火) 21:06:22.03 ID:4x+mAU8a.net
本能寺の変の時の、秀吉の中国返し?ってそんなに速かったんですか?
当時の速さがよく分からなくて

329 :人間七七四年:2015/09/01(火) 21:43:59.05 ID:aW71vBXs.net
1日にどのくらい歩けるか、自分で歩いてみなよ
しかも移動した直後に戦闘だ

330 :人間七七四年:2015/09/01(火) 23:56:21.54 ID:KmGFp3Zy.net
>>328
中国大返しって逸話自体が後世の創作だからな
一次資料見る限り秀吉は高松出発は6/4
備前の沼に6/5到着
播磨に移ったのは6/6
摂津尼崎に6/9
6/12に富田着陣
6/13に山崎合戦だから9日〜10日かかってる
これでは特別早くないだころかむしろ遅いくらいだよ。

331 :人間七七四年:2015/09/02(水) 12:25:52.01 ID:pibILh2Q.net
北条・今川って武田に荷止めとか本当にしてたんでしょうか

332 :人間七七四年:2015/09/02(水) 12:26:59.65 ID:99qK6WOz.net
>>328
秀吉軍は200km走破(途中から戦闘を見越して鈍行)して6月13日山崎の戦い。
柴田先鋒は250km走破して6月18日近江長浜到着(本人はまだ後方)。
比較してみればわかりやすい

333 :人間七七四年:2015/09/02(水) 12:42:29.62 ID:99qK6WOz.net
>>331
資料が残ってるのでホント

334 :人間七七四年:2015/09/02(水) 14:03:19.89 ID:jEhSG0AD.net
>>332
柴田軍は変報を得たのがいつかわからないし
上杉とにらみ合ってて出発が遅れただけ。

本能寺の変の時の秀吉の行軍なら関ヶ原の時の家康の小山評定後の家康の行軍の方がはるかに速い

335 :人間七七四年:2015/09/02(水) 15:58:34.62 ID:JY7RYz0O.net
すばやく毛利と和睦し、追撃の警戒しつつ
巧みに播磨の本拠地まで戻ってきたのが
中国大返しであって、
強行スケジュール行軍後の休憩を兼ねて、
摂津の調略をしつつ行軍をしている時期は
中国大返しの範疇には入らないのに捏造すんなよアンチ豊臣の在日くん。

336 :325:2015/09/02(水) 22:33:35.40 ID:VbECC4Le.net
みなさんありがとうございます

中国大返しがはっきりして良かったです
速かったかどうかはともかく、仮眠を取ったとは言え連日移動続きで
そのあと山崎で戦うのはかなり大変だったでしょうね

337 :人間七七四年:2015/09/02(水) 23:21:13.96 ID:jEhSG0AD.net
>>336
6/9に摂津尼崎について
6/12に冨田着陣
6/13に山崎合戦だからかなり終盤は休めてると言っていいだろうね。

338 :人間七七四年:2015/09/02(水) 23:27:47.52 ID:bGEr/ef2.net
俺ならとてもじゃないが疲れがとれない

339 :人間七七四年:2015/09/03(木) 09:51:28.14 ID:OZ47YM5n.net
昔の人は移動手段が徒歩とせいぜい上流階級が馬くらいなもんだから歩きなれてるからな
自分の祖母も隣町まで一日20kMとか余裕で往復してたし

340 :人間七七四年:2015/09/03(木) 09:52:55.36 ID:GSfiLd++.net
行軍距離で言ったら関ヶ原や大阪の時の家康や伊達政宗の関東出陣の方がずっと移動してる
特に家康の関ヶ原は長距離を速い時間で移動してるからこっちの方が遥かに大返しと言える

341 :人間七七四年:2015/09/03(木) 09:54:12.05 ID:GSfiLd++.net
秀忠は10/23に江戸を発して
11/2に名古屋到着と
366キロ程度の距離を10日で到着してるので
行軍速度はおおよそ36キロペース。

342 :人間七七四年:2015/09/03(木) 09:55:42.58 ID:GSfiLd++.net
フロイスの日本史によると
明智方は高山右近が1000の兵とともに門を開き明智を目指して突撃し
高山と併進してきた羽柴方の二将が到着すると明智は戦意喪失し
背を向けて退却しだしたと書いてる。
その後明智は勝竜寺城に戦う事なく敗走し
その後こっそり夜をしのんで坂本に帰る途中に殺されたと書いていて
山崎合戦自体がなかったとされてる。
最初から明智軍は戦意0で崩壊状態だったようだな。

古代ローマ軍はローマ〜マルセーユ間直線距離で602キロ、実質距離750キロ程度を
重装備の歩兵達がわずか12日で移動してる。
一日60キロ程度行軍してることになる。
しかもガチガチの重装歩兵団が急行軍でもなんでもなく12日間ぶっ続けで歩いてる

343 :人間七七四年:2015/09/03(木) 10:47:29.46 ID:9RVzz9VI.net
古代ローマとか古代中国のあれは物語であって史実検証されてないだろ。

344 :人間七七四年:2015/09/03(木) 14:16:52.53 ID:48vmJeF2.net
キチガイ菅沼遼太が連投し始めた。次はコピペ爆撃が来るぞ

345 :人間七七四年:2015/09/03(木) 18:05:51.30 ID:EM05KhCz.net
>>343
ガリア戦記とかに書いてるけどね

346 :人間七七四年:2015/09/03(木) 20:43:29.86 ID:z2dsrBD3.net
>>341
並みの参勤交代でももっと速かったりする

347 :人間七七四年:2015/09/03(木) 21:08:08.50 ID:X32l0URV.net
>>333
ありがとうございます

348 :人間七七四年:2015/09/04(金) 12:02:40.25 ID:qyhkXvfT.net
行軍速度については、集団の移動用に事前にインフラやサポート体制がキッチリ
用意された自国/友好国内での移動 から 完全な敵地(その中でも地図や道路有無
食糧調達性などで条件異なる)まで様々なので、そこら辺を考えないと、全く見当違い
の比較になるよ。
ローマ軍とか、条件としては江戸の参勤交代と比べるべきものだべさ

秀吉に話を戻すと、自勢力下の道路移動速度としては当時の常識内、あの状況で
それをやれたのはスゴイ。って所でないの

349 :人間七七四年:2015/09/04(金) 13:59:02.57 ID:wYZ63gg0.net
>>348
秀吉が行軍したのは備中〜播磨〜摂津だからどこも自勢力内だろ。
備前や備中は秀吉に人質の秀家を出して臣従した宇喜多の領内だし、播磨は秀吉の領地内、摂津は秀吉と兄弟の契りをかわしていた中川や
中国攻めで秀吉と協力関係にあった高山、信長の乳兄弟で、大切にされた秀吉の味方である事が確定してる池田と自勢力ばかりだし。

そもそもお前は凄い前提で結論ありきで話してるから何言っても聞き入れないけど中国大返しなんて逸話自体が後世の創作だから。
一次資料見る限り一日20kmペースしか動いてないし、関ヶ原の時の家康の方がずっと速い

350 :人間七七四年:2015/09/04(金) 14:00:41.50 ID:paApGUks.net
菅沼遼太に理屈は通じない

351 :人間七七四年:2015/09/04(金) 14:01:54.25 ID:TEUHQI6h.net
>>348
ローマ軍は重装歩兵主体で一日60kmペースで行軍したのに対して
秀吉軍は当時の軽装備の歩兵主体で、しかも逸話によると鎧など装備類を捨てて走ったと言われるし
自勢力下の備中、備前、播磨を行軍した速度は普通な物としかいいようがないでしょう。
関ヶ原の時の家康の方がずっと速い速度で行軍してるし

352 :人間七七四年:2015/09/04(金) 14:03:11.03 ID:paApGUks.net
壊れたスピーカーやな

353 :345:2015/09/04(金) 15:10:38.05 ID:qyhkXvfT.net
何に切れてるのか今一解らんが…

もう一度、わかりやす〜く書くと、
・『自勢力圏での移動速度』として見れば、他のケースと比べ特筆すべき速さは無い
・予定外+敵対勢力と対峙+経路状況(織田配下の武将がどう動くのか)不明
 って『状況』で、アノ速度=平時の行軍に近い移動を行ったのがスゴイ・エライ
って事よ。行軍の決心から準備・移動開始に至る時間、和平、状況確認 とかが
(明智の想定や他の織田配下の軍団長と比べれば)早かった って事でさ

354 :人間七七四年:2015/09/04(金) 15:18:26.11 ID:Z/3qfIRg.net
本当に予定外だったのかな?
信長が殺された確認はどうやってとったのかな?

355 :人間七七四年:2015/09/04(金) 19:08:49.70 ID:Exvx7v1X.net
確認は早馬とかだろうな。内匠頭刃傷の時みたいな早駕籠は無かったろう。

356 :人間七七四年:2015/09/04(金) 23:10:02.36 ID:wYZ63gg0.net
>>353
秀吉が毛利軍と和睦したのは6/2頃で和睦交渉はそれより前から行われていた
6/2には既に行軍開始してるから、
行軍中の速度と毛利軍と対峙中であった事とは何ら関係がない
それと経路状況が不明と書いてるが大嘘で
中川は秀吉と兄弟の契りをかわしてる程の関係だし池田も信長の乳兄弟だから信長を殺した光秀に従うわけがないし
高山も秀吉と一緒に中国攻めするほどの関係
だから織田配下の武将がどう動くのかは最初から確定していたと言っていい。
毛利と和平を成立させたところは確かに運が良かったといえるが
織田配下の他の武将らは和平を成立させられていないか領内で一揆がおこったり反乱が起きたりしてるから
最初から動けるわけがない。

357 :人間七七四年:2015/09/05(土) 05:26:41.60 ID:cUfN89Ao.net
どうしても秀吉を叩きたい
コピペ連投自作自演の
いつもの火病の方が
執拗に粘着してますね。

358 :人間七七四年:2015/09/05(土) 10:31:03.89 ID:wywD0dUP.net
すみません、大河ドラマの評定シーンとかでよく見る小具足姿に憧れて自分でも欲しいのですが販売してるところってありますかね?

359 :人間七七四年:2015/09/05(土) 12:30:26.77 ID:lB30KJ/g.net
小具足か三具と甲冑直垂が欲しいってことなら売ってるで。丸武とかで

360 :人間七七四年:2015/09/06(日) 00:28:20.94 ID:OjFqUWKF.net
>>356
>織田配下の他の武将らは和平を成立させられていないか領内で一揆がおこったり反乱が起きたりしてるから
>最初から動けるわけがない。

なるほど、他の武将がこういう状況の中、いちはやく引き返すことができた秀吉はやっぱりすごかったんですね

361 :人間七七四年:2015/09/06(日) 19:36:38.88 ID:9nMkZFgi.net
>>360
他の武将は敵対大名が和議に応じなかったが
秀吉の場合は本能寺の変前から和議が模索されていて交渉中だった
他の武将は一揆の土壌が強い土地にいたが秀吉の場合は一揆の土台がまるでない治安のとれた地域だった
この差だな。秀吉は悉く棚ぼただった。

362 :人間七七四年:2015/09/07(月) 08:13:59.97 ID:HtR35BKB.net
>>359
亀ですみません、ありがとうございます
一式で販売してるとこは無いかもしれませんが直垂とか脛当てとか籠手とか個別になら揃えられそうで安心しました
そもそも各部位の名称とか全然知らなかったので甲冑直垂を教えてもらえて助かりました

363 :人間七七四年:2015/09/08(火) 13:56:39.93 ID:xEVJDvys.net
>>361
なるほど、他の武将が和議に苦労する中、一足早く和議をまとめることができた秀吉は
やっぱりすごいなって話ですね。
支配地域の治安を維持させていたところも秀吉の有能さをしめしている、と。
勉強になります。

364 :人間七七四年:2015/09/08(火) 14:07:57.50 ID:B9Xo0fET.net
相手の事情考慮に入れないとか勉強しても無駄なタイプやねキミ

365 :人間七七四年:2015/09/08(火) 23:27:01.86 ID:vOgNmui1.net
>>363
毛利と他の大名とで和平に協力的だったかどうじゃなかったかだけの差じゃないかね
支配地域の治安などもそうだけど元の地域ごとの特性がまるで違うからそれを能力どうこうの問題に帰結させるのは暴論かと

366 :人間七七四年:2015/09/11(金) 07:21:21.65 ID:iWVhiqB9.net
柴田と秀吉の対決の時は
どっちが勝っても良いように両天秤かけていたりと
この時点ではまだ必ずしも秀吉に肩入れしていたわけではないよ。

367 :人間七七四年:2015/09/12(土) 21:17:13.76 ID:DBwa692q.net
毛利は本能寺の変の時点で実際に既に両川が秀吉に子どもを人質に出す約束がされていて
その後すぐに吉川から広家 小早川から秀包が秀吉の元に秀吉に出されて関係は良好だったんだけど。
柴田と毛利はまるで連絡してる様子はないけど

368 :人間七七四年:2015/09/12(土) 21:27:18.95 ID:s8aMnAk2.net
毛利との和睦は既に本能寺の変の時に成ってて
後は備中での宇喜多領と毛利との国境線画定作業が残ってただけだし
攻め取った丹波には秀勝?だったかを置いて、直轄領化があっさり実行できたのに対し
勝家の方は織田家時代の軍閥化がされてない、織田家旧来の寄騎関係にすぎない
後進軍隊だったからその弱点がモロに出ただけでしょ。
明智や羽柴は軍閥化が終了してたし、早くから陣立書や、直轄支配化、直接命令型の統治形態や軍隊が持てたけど
勝家は家康の信濃支配みたいな、弱い頼子寄親に頼った軍隊だっただけ。
光秀や秀吉は軍閥化に成功しており信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀について中川氏年譜は秀吉と中川が天正8年6/5に兄弟の契りをしてる書状がある)

369 :人間七七四年:2015/09/12(土) 21:29:32.36 ID:s8aMnAk2.net
毛利は秀吉の口述詐欺にはまって
6/6小早川書状では本能寺の変では信澄・光秀・柴田の調儀で信長を殺したと書いてて
勝家の事を主殺しをした謀反人とみなして敵視してたのがわかる。

杉若無心書状  西国表之儀存分之まま、両川人質定ふに相定、三か国相渡、去6日に至姫路
と書いてて西国表は秀吉の思うままになって、両川は三か国割譲と人質提出が決定されたと書いてるし
毛利との和睦は既に本能寺の変の時に成ってて
後は備中での秀吉親藩の宇喜多領と毛利との国境線画定作業が残ってただけ。

370 :人間七七四年:2015/09/12(土) 21:32:24.66 ID:s8aMnAk2.net
元春は秀吉との関係が悪いどころか広家を人質に出したりして関係は良好だったからねえ
ドラマは無理矢理すぎて違和感だらけだった。

371 :人間七七四年:2015/09/14(月) 19:36:15.75 ID:Wx6OT2lR.net
柴田との窓口が吉川で
秀吉との窓口が小早川で
どっちが勝ってもすぐ祝勝の書状が即時に出せる手はずまで
整えていたのが毛利家だぞ。

372 :人間七七四年:2015/09/14(月) 19:48:50.82 ID:kB44d5AL.net
菅沼は自分の夢の中で生きてる。そっとしとけ

373 :人間七七四年:2015/09/14(月) 23:42:10.95 ID:VKvwtzsY.net
菅沼遼太妄想全開w

374 :人間七七四年:2015/09/15(火) 00:06:11.86 ID:JNuYHnqn.net
>>371
吉川元春って実際には柴田と全く書状のやり取りしてないし
毛利って本能寺の変の時に   西国表之儀存分之まま、両川人質定ふに相定、三か国相渡、去6日に至姫路
と杉若の書状に書かれる程で、人質が両川から出されて
吉川からも広家が秀吉の元に出されて関係は良好だったんだが。

375 :人間七七四年:2015/09/15(火) 00:32:18.21 ID:Bi9b3D2O.net
菅沼遼太相手されなくて惨め

376 :人間七七四年:2015/09/15(火) 05:40:53.33 ID:sD0YBqOy.net
加賀藩士ってやはり尾張武士が多いんですかね?

377 :人間七七四年:2015/09/15(火) 08:33:53.59 ID:zuvL6l8t.net
尾張藩士は何処から来たんだ?

378 :人間七七四年:2015/09/15(火) 09:28:01.23 ID:RJmFJJnz.net
石田三成(の行動)が結果的に豊臣を滅ぼした みたいな意見て間違っていますか?

友達が戦国時代に少しは詳しい系なんですが、自分よりは知識も浅いし考え方も偏っているなと思っています。
その友達に対して、「関ヶ原の戦いなどで石田三成が勝機がなかった(というよりは勝ち目の準備が不十分だった)のに決起して負けた結果
戦後の西軍系大名の処罰・領土没収などで豊臣宗家も力を大きく失ってしまった。結果的に15年後大阪城は落城して秀頼も死ぬ羽目になってしまった。
三成個人は立派だったかもしれないけど……真の忠臣といえるかどうかは微妙じゃない?」と話題にした結果

「三成があそこで立たなければ誰も家康を倒すチャンスなんかなかった。家康のことだから関ヶ原の戦いがなくても天下を奪って秀頼は殺していた!
三成が負けたのは後々自分たちも不遇な目に合うのにそのことに気づけなかった馬鹿や恩を忘れて日和った連中のせいだ! どこに落ち度があるのか!」と反論されました。

友達は判官贔屓で島左近や大谷吉継の奮戦、真田幸村の活躍などが好きなタイプで、大坂の陣の話題でも片桐且元を嫌っています。
ですが、私個人の意見としては主家や主君の命を大事に考えればこそ
一時的な屈辱を飲んだり主家に飲ませたり、同僚などを切り捨てることも大事だし評価すべきでないかと思います。そもそも滅ぼされる側に欠点があるのではないかとも。

話しがズレそうですが、なんだか友人の意見や評価基準がネット上での太平洋戦争における軍部擁護の姿勢と似ているように感じるのです。
「(当時の太平洋戦争直前での日本の国際的な悪評も省みず)日本があの時アメリカと戦わず屈していたら欧米の植民地にされていた!」といって戦った結果
結局はかえって本土占領までされるボロ負けにまで進んでしまった流れと同じような…… 東條英機首相も個人としては天皇への忠誠心があり立派なエピソードも残っているみたいですし。
このような場合、石田三成も「平和に対する戦犯」などではなく、「主家を滅亡の危機に陥れた敗戦責任」はあるのではないかと思っています。

長文失礼しました。

379 :人間七七四年:2015/09/15(火) 10:44:15.64 ID:QUz9qN/1.net
>>374
まあ吉川が秀吉と不仲だったとか柴田と連絡してたとか完全なイメージでしかないからな
実際には広家をそうそうに秀吉の人質に出して関係は良好だったから

380 :人間七七四年:2015/09/15(火) 11:30:45.60 ID:Bi9b3D2O.net
>>376
重臣上級武士は比較的尾張出身が多い。ついで越前府中組など
中堅から平の出身は様々

381 :人間七七四年:2015/09/15(火) 18:40:01.07 ID:dRWs2HNL.net
>>378
結果論としては豊臣の滅亡を早めたけど、関ヶ原がなくても家康が豊臣に取って代わるのは同じ事。
関ヶ原は西軍も十分勝機があったし、勝負に出るとしたらあそこしか無いだろう。上杉が前田みたいに
家安の飼い犬に成り下がった後では打つ手が無い。

382 :人間七七四年:2015/09/16(水) 14:06:31.82 ID:JuMEnAWb.net
>>378
あなた自身もそうとう考え方が偏ってたり、客観的に見て知識が浅そうなところが笑うポイント?

383 :人間七七四年:2015/09/16(水) 14:10:53.51 ID:7cFFJqc1.net
菅沼だろ

384 :人間七七四年:2015/09/18(金) 08:36:19.37 ID:9tQKYZDb.net
ぶっちゃけ家康が天下を取った方が太平の世になったことは結果論で証明されているわけで
家康が戦もなく豊臣から天下を奪ってくれるなら、三成が大戦なんざ起こさなかった方が人道的によかったに決まってるけどね
晩年の秀吉は功臣粛清やら朝鮮出兵やらで大名でも庶民でも支持してる連中の方が少なかったろ

世界史や近代以降の歴史に疎くて日本の戦国時代だけ詳しい連中は一握りの統治者である武将の滅びの美学は讃えても
庶民のことはどうでもいいとおもってるじゃないの。 俺が越前の人間だったら大谷吉継と三成の友情のせいで関ヶ原で全滅なんて絶対ヤだ

あと三成は最近のゲームとかで美化されてるだけで、最近の大河でもそうだったけど偏狭で器量が追い付かない小物評価が基本なんだから
いちいちにわか相手にムキになることもないと思うよ (さすがに地元にいくと城の博物館やらでアゲられてるけど)

お前さんの太平洋戦争を持ち出した意見につけ加えるなら東條英機(石田三成)のおかげで旧弊していた大日本帝国(豊臣政権)が崩壊したんだから
新しい時代への架け橋(かませ犬)としては役に立ったんじゃない? 日本人がたくさん死んだけどな

385 :人間七七四年:2015/09/18(金) 18:48:37.65 ID:iwuKnYxL.net
>>384
>俺が越前の人間だったら大谷吉継と三成の友情のせいで関ヶ原で全滅なんて絶対ヤだ
越前の庶民は関ヶ原があったから江戸時代は越前松平家で格も上がって良かったじゃん。

386 :人間七七四年:2015/09/18(金) 19:13:57.68 ID:q8WbYjn2.net
別に三成や西軍は豊臣家のために起った訳じゃないと思うけどな
アレ、要は名目上 豊臣を担いだ者同士の権益争いだべ

387 :人間七七四年:2015/09/19(土) 09:42:51.62 ID:wBXW1WSA.net
そこらへんを逆に主張できない世の中になっちゃったからね
年配の人ですらドラマや小説に影響されてか三成の忠義の「志」をアゲるのが常識で 
豊臣家の奉行だったころの権力を取り戻そうとしたのが動機だったんじゃないの? いうとクズ扱いされるから

関ヶ原前後の上杉家と直江兼続の行動すら悪い家康から豊臣を守るため 上杉家は義理を重んじる 
みたいに認識してるのが中途半端に戦国時代を知ってる人の脳内だから

388 :人間七七四年:2015/09/19(土) 10:02:54.40 ID:LGD1Qjx4.net
>>387
> 年配の人ですらドラマや小説に影響されてか三成の忠義の「志」をアゲるのが常識で

むしろそんなことを強調するのは爺さん連中だけだろ

389 :人間七七四年:2015/09/19(土) 18:45:20.04 ID:KwdP8Hcy.net
質問します。ある板で戦国武将が刺青していて、結構流行っていたというレスがありましたが、本当でしょうか。
江戸時代は刺青は罪人としては有名でしたが、戦国時代や、室町時代についてはあまり聞いたことありません。

390 :人間七七四年:2015/09/19(土) 18:51:46.36 ID:LGD1Qjx4.net
>>389
> 戦国武将が刺青していて、結構流行っていたというレスがありましたが、本当でしょうか
ウソです。そんな記録は有りません。
刺青をファッションとして捕える考え方は、江戸期の傾奇者や町奴などの段階に成らないと無いんじゃないかな。

391 :人間七七四年:2015/09/19(土) 18:57:18.62 ID:KwdP8Hcy.net
>>390
やはりそうでしたか。ありがとうございます。

392 :人間七七四年:2015/09/20(日) 07:52:45.82 ID:54KSUR/N.net
安保法制で ふと思ったので質問。
戦国時代の全ての大名は
集団的自衛権を行使していたと思うのですが、
個別自衛権のみで、戦国時代を切り抜けた猛者っているの?

393 :人間七七四年:2015/09/20(日) 09:29:20.97 ID:TvWuU+aE.net
アルプスに守られたスイスみたいな地勢があると思うか?

394 :人間七七四年:2015/09/20(日) 10:53:46.44 ID:+wr7Mn/f.net
内ヶ島氏「呼んだ?」

395 :人間七七四年:2015/09/20(日) 11:37:41.06 ID:TvWuU+aE.net
内ヶ島氏は地震で城ごと滅んだイメージしか無いけど、
織田が北陸に進出するとこれと手を組んでいる。

396 :人間七七四年:2015/09/22(火) 09:54:28.81 ID:/zQoWvHJ.net
地形の話やね

397 :人間七七四年:2015/09/22(火) 17:10:21.50 ID:7tp0Odjw.net
戦国時代の地政学てどんなもんなんだろ 京都辺りは守りに難く攻めるに易いなんて小説で読んだけど。
国内戦に限定した場合、海軍による上陸の心配はないだろうから半島による不利はなさそう (里見家とか竜造寺家など)

398 :人間七七四年:2015/09/24(木) 10:38:31.37 ID:0YxAejF8.net
>>374>>379
ほんとアンチ秀吉のキチガイ織田チョンって自演してキモイな。
>>366そうなんだよね。ほんとに秀吉側なら毛利も秀吉に援軍だすっての。
秀吉は宇喜多に西国の表裏者を討伐するとまで言ってるくらい安定してない。

天正10年11/1信孝→元春で畿内情勢を伝えていた

天正11年2/13勝家→元春で義昭上洛のため元春が要求していた御神文を書いたことや
元春に3/20以前の出陣予定を伝えて元春と合同することや
その時の元春の戦いぶりをみるため木村市衛門を派遣してる。

天正11年4/6に義昭→元春親子で柴田出陣の緊急報が入ったから準備するように命じてる。

399 :人間七七四年:2015/09/24(木) 10:44:54.33 ID:1BCS56zv.net
菅沼遼太自演みっともない

400 :人間七七四年:2015/09/24(木) 21:35:47.35 ID:0VSRJwDI.net
ここもアンチ豊臣政権の在日織田くんの自演会場だから仕方がない。

401 :人間七七四年:2015/09/25(金) 00:45:32.53 ID:Mb2LH1WZ.net
あほ菅沼遼太

402 :人間七七四年:2015/09/25(金) 10:21:58.68 ID:HBmrTKIe.net
武田厨のレスを盗用して武田厨を装おったり、
論破されると家康ageのコピペ絨毯爆撃をしたりと
アンチ秀吉三成のキチガイ織田朝鮮人の異常性は他を圧倒している。

403 :人間七七四年:2015/09/25(金) 12:37:27.49 ID:OrOe7fbB.net
>>398
その書状類はお前が捏造と言い張ってる萩藩閥越録でしか確認のできない偽文書だぞ。

404 :人間七七四年:2015/09/25(金) 12:49:59.24 ID:sGqvo93M.net
>>398
吉川元春は和睦後ほどなくして秀吉に広家を人質として送って関係は良好だった。
毛利って本能寺の変の時に   西国表之儀存分之まま、両川人質定ふに相定、三か国相渡、去6日に至姫路
と杉若の書状に書かれる程で、人質が両川から出されてた。

毛利は秀吉の口述詐欺にはまって
6/6小早川書状では本能寺の変では信澄・光秀・柴田の調儀で信長を殺したと書いてて
勝家の事を主殺しをした謀反人とみなして敵視してたのがわかる。

405 :人間七七四年:2015/09/25(金) 14:04:36.37 ID:x7K3Ibs3.net
当時の人質に大した意味は無いべ。関ヶ原の時に東軍諸将はどうしたよ?

姻族や血縁による結びつきですら信頼性の無い時代に
「人質交わしたからアイツは仲間♪」なんてお花畑居ないだろ

406 :人間七七四年:2015/09/25(金) 15:21:24.76 ID:DULTuO4n.net
まあ吉川と柴田はその人質すらかわしてないし誓詞も連絡もないからそれ以下の関係だがな

407 :人間七七四年:2015/09/25(金) 16:18:53.56 ID:G7FmfpLH.net
最近2ch記事のまとめサイトのコメント欄やTwitterなどで

秀吉の朝鮮出兵は当時東アジアで日本、朝鮮、明以外を植民地化していたスペインが
日本より脆弱な大陸を植民地化してから日本を攻めてくることを警戒した秀吉が
先に大陸を抑えようとしたスペインに対する示威・防衛戦争の意味合いがあった だから侵略戦争というのは間違い 
根拠:スペイン人宣教師ヴァリアーノ書簡、秀吉がフィリピン総督に送った朝貢を要求する内容の手紙、スペイン人のキリシタン大名との奴隷貿易

↑みたいな話しが出回っているらしく、それについて質問しても無知、チョン、平和ボケetc呼ばわりされてしまうんですが
実際に当時の豊臣政権の首脳がスペインの軍事的脅威を偵察・警戒していたり、もしくは当時のスペインの力で明や日本を征服することは可能だったのでしょうか?
出回っている話の中では、当時の秀吉とブレーンが欧州でのイギリス・オランダの隆盛をつかんでいて直接的にスペインが介入してこれない時期を選んで出兵した
なんてのもあってさすがに眉唾です……

408 :人間七七四年:2015/09/25(金) 20:17:28.20 ID:qH941LBa.net
>>403
織田在日くんさ〜なんで子供レベルのウソを吐くかね笑

409 :人間七七四年:2015/09/25(金) 23:06:03.63 ID:huoXJLsy.net
本能寺の変直後は織田家が割れて内戦勃発なんて想定してない毛利家でも
柴田と秀吉が対立したとなると遠交近攻策に切り替えるのは至極当然な行動だよなあ。

410 :人間七七四年:2015/09/25(金) 23:16:39.57 ID:eNZV0Qeb.net
毛利家の場合本能寺の変の和睦時点で、西国表之儀存分之まま、両川人質定ふに相定、三か国相渡、去6日に至姫路
と秀吉書状に書かれるように人質を秀吉に渡して3か国を秀吉から毛利に渡し「西国の儀が存分(思うように)」なったのが秀吉書状からわかるし
実際にその通り小早川から秀包が、吉川からは広家が秀吉の元に差し出され
小牧長久手の頃になると毛利は秀吉の要請に応じて四国に上陸し反秀吉派の来島氏と交戦するなど秀吉の家臣とかしてる。

411 :人間七七四年:2015/09/25(金) 23:23:54.83 ID:kzmixFms.net
>>409
毛利家は本能寺の変の時点で秀吉に両川と中国3か国を差し出して従属状態だったよ。
だからこそ秀吉はしずヶ岳の戦いにおいて中国方面にはほとんど軍を残さずに総勢80000前後で対柴田に臨めた。
大して柴田軍は、佐々成政を越中に残していて、さらに金森や前田や不破も使い物にならずに退却したので負けるのは至極当然だった。
天正11年1/17秀吉→小早川や
兼見卿記12/21条で江州長浜柴田伊州(勝豊)、羽柴与一味、然間羽筑同可濃州へ下向
濃州稲葉良道、氏家直道、羽筑ニ一味云々と書いてて
勝豊は簡単に秀吉に篭絡されてるのがわかる

412 :人間七七四年:2015/09/25(金) 23:25:03.34 ID:Mb2LH1WZ.net
>>407
まともな答えが返ってこないなら察してやれ

413 :人間七七四年:2015/09/25(金) 23:29:28.13 ID:dpOhuCyB.net
>>409
毛利は背後に大友という大敵を控えていたし四国でも来島氏と事を構えていたので、
秀吉に子どもと中国3カ国を差し出して臣従して、別方面の敵と争い道を選んだ。
毛利は元々織田との交戦も積極的ではなかったし。

414 :人間七七四年:2015/09/25(金) 23:55:11.99 ID:huoXJLsy.net
アンチ秀吉の半島人が顔を真っ赤にして
短時間に必死な自演笑えるwww

415 :人間七七四年:2015/09/26(土) 00:15:43.69 ID:QGYiI3d0.net
今度はカス男君でも作るの?菅沼遼太哀れやな

416 :人間七七四年:2015/09/26(土) 06:29:26.14 ID:bkWEKrW2.net
秀吉をsageるために捏造歪曲を繰り返し自演するキチガイ

417 :人間七七四年:2015/09/26(土) 07:59:14.25 ID:ofgkMJff.net
>>407
無理です。イスパニアが日本を当時占領できません。警戒はしていたかもしれませんが、占領までは双方考えてませんし。

418 :人間七七四年:2015/09/26(土) 09:56:33.01 ID:0aFsGQMA.net
別スレ立てろよ

419 :人間七七四年:2015/09/26(土) 16:31:28.39 ID:ysF+9GI0.net
質問します。
戦国最強の武将はだれですか?
攻城、野戦、籠城のテクニシャンは?

420 :人間七七四年:2015/09/26(土) 19:03:21.46 ID:joT8yB4S.net
それは武将同士が直接戦った戦歴で実力を比べればよかろう
まあ信玄か謙信だろうけど

421 :人間七七四年:2015/09/26(土) 20:17:18.43 ID:oMl+eKGN.net
>>413
元亀3年10月に豊芸和睦が義昭によって成立して大友と和平が成立してることすら知らんとか無知過ぎるだろ…

422 :人間七七四年:2015/09/26(土) 22:11:32.94 ID:Zm/Ec+9b.net
>>421
は?そのあと再び毛利大友間は再び戦い出して天正6年〜12年頃もずっと戦ってたんだが。

織田からの要望で大友の調略があり
周防鴻峯(山口市内)を守っていた市川元教が
天正6年3月に宗麟に通じて謀反したりして周防長門が大混乱になってる。
国東半島沖でも毛利水軍撃破して周防まで追撃してるしw

423 :人間七七四年:2015/09/28(月) 23:26:59.31 ID:hplU/zIq.net
>>422
興味あります。一次史料ソースの出典先をお教え願います。調べてみます。

424 :人間七七四年:2015/09/28(月) 23:30:48.70 ID:hplU/zIq.net
三河物語で関が原の時や大坂陣で信雄が秀頼側についたと
執拗に家康の敵になったことを書き残していますが
大久保と信雄は何か衝突したことでもあったんですか?

425 :人間七七四年:2015/09/29(火) 00:05:23.14 ID:5Pn1w3xd.net
>>420
菅沼 お前仕事しろよ

426 :人間七七四年:2015/09/29(火) 10:09:57.84 ID:u2E+b36h.net
>>423
入江文書 豊前覚書 児玉雛採集文書 大友家文書録 改正原田記
大友家文書録 菅島鷹三氏所蔵文書 鹿子木文書 千野文書
小野尾文書

427 :人間七七四年:2015/09/30(水) 07:39:14.92 ID:XfdEF6GI.net
>>426
お前わからないからテキトーに文献名を挙げただけだろアホ。
知ってたなら文書内容を転記できるはずだろ。

428 :人間七七四年:2015/09/30(水) 09:22:48.21 ID:LOaz8lbB.net
どうせ本当は軍記の内容レベルの話だろね。
>>424
大久保と信雄が個人的にトラブルはないよ。
信雄が家康から冷遇されたものの殺されはしなかったのも
家康の慈悲ゆえと強調したかったから。
要するに冷遇されている三河遠江譜代という事実に対して
大久保はそういう言い方で家康に対して嫌味を言ってる。
まぁ単に大久保が冷遇されていただけなのにw

429 :人間七七四年:2015/09/30(水) 12:37:32.32 ID:r2H4+OzU.net
>>427
いや大日本史料の綱文で調べたら出てきたから間違いない。
一つだけではなく複数の史料で毛利と大友の天正6年以降の交戦状況がわかる。

430 :人間七七四年:2015/10/01(木) 12:39:48.36 ID:wJYhH2yO.net
だから文書内容を転記して証明してみろよw

431 :人間七七四年:2015/10/01(木) 17:34:26.22 ID:mYWOiFT8.net
大日本史料の綱文なんて軍記や家譜や真偽調査してない写書状まで
出典にだしてくるクズそのものじゃん。
特に毛利は後世の評価を気にして捏造歪曲軍記や偽書状だらけだし
まぁ大日本史料の綱文を平気な顔して出典史料に持ってくるのは
いつもの偏向歪曲捏造大好きのアンチ豊臣政権の織田厨だけだしwww

432 :人間七七四年:2015/10/01(木) 17:41:34.99 ID:rmkzu2P6.net
うんこ菅沼遼太を相手にしてるバカも同罪だぞ

433 :人間七七四年:2015/10/01(木) 23:56:45.64 ID:GK1m+z+F.net
>>431
大日本史料の綱文の中で、毛利と大友の交戦のあった様子が書かれてる条には

入江文書 豊前覚書 児玉雛採集文書 大友家文書録 改正原田記
大友家文書録 菅島鷹三氏所蔵文書 鹿子木文書 千野文書
小野尾文書

といった一次資料が根拠であげられていたので間違いない

434 :人間七七四年:2015/10/02(金) 06:39:51.45 ID:KFbCwGm+.net
だから文書内容を転記して証明してみろやカス笑笑笑

435 :人間七七四年:2015/10/04(日) 20:13:42.34 ID:bAdO9zcx.net
>>398
元春の柴田側参戦の危機があったから
秀吉は勝負を急いだ。だからあの速攻電撃戦となった。

436 :人間七七四年:2015/10/04(日) 23:10:38.59 ID:DeSjoP4Q.net
>>435
吉川元春は秀吉に広家を差し出して服従していた。
この両者の関係は元々良好で吉川が柴田派だったというのは大嘘だった。
毛利家の場合本能寺の変の和睦時点で、西国表之儀存分之まま、両川人質定ふに相定、三か国相渡、去6日に至姫路
と秀吉書状に書かれるように人質を秀吉に渡して3か国を秀吉から毛利に渡し「西国の儀が存分(思うように)」なったのが秀吉書状からわかる

ちなみに秀吉との決戦を急いでいたのは勝家の方で、秀吉は信孝と滝川をジワジワいたぶるつもりであったが
柴田が突撃して中川を殺したので、秀吉は対処する事になった。

437 :人間七七四年:2015/10/06(火) 11:30:16.98 ID:Jd7DbDwH.net
>>436
本能寺の変直後に毛利との間で国境画定は成立してない。
つうか秀吉が半ば口車に乗せていた口約束でしかなかった。
毛利と秀吉は小牧長久手の戦いあたりまで国境画定交渉を続けていて
柴田と秀吉の戦いのときは、秀吉は宇喜多の権益を守るため
毛利の面目を崩壊させるような要求でかなり険悪な交渉を続けていた。
だから家臣団の領地を少しでも保ち面目を維持したい吉川は
柴田と組む選択肢を持っていた。

438 :人間七七四年:2015/10/06(火) 12:35:17.49 ID:RrdbxxKI.net
>>437
それは大嘘だな。
本能寺の変の直後の
西国表之儀存分之まま、両川人質定ふに相定、三か国相渡、去6日に至姫路
と秀吉書状に書かれるように
人質を秀吉に渡して3か国を秀吉から毛利に渡し「西国の儀が存分(思うように)」なったのが秀吉書状からわかる

また吉川元春は秀吉に広家を差し出して服従していた。
この両者の関係は元々良好で吉川が柴田派だったというのは大嘘だった。

439 :人間七七四年:2015/10/06(火) 12:38:07.12 ID:RrdbxxKI.net
>>437
国境確定交渉と言っても備中と美作と備後境の一部の国境線をどこにするか微々たる領土の境界線を巡って交渉が続いていただけで、
ほぼ大筋では本能寺の変の時に既に西国表之儀存分之まま、両川人質定ふに相定、三か国相渡、とあるように
3か国譲渡と両川の人質差し出しによる臣従が既に確定していた。

440 :人間七七四年:2015/10/06(火) 12:40:11.83 ID:FPW3Ezw1.net
>>437
実際には伯耆は元々南条氏の領土
また備中と美作も宇喜多が毛利との戦いを優勢に進めて
本能寺の時点でほぼ宇喜多・羽柴方の物だったから、毛利氏は元々きりとられた領土を取り返せなかっただけなので
面目も糞もなく、妥当な結果に終わっただけである。

441 :人間七七四年:2015/10/07(水) 15:00:32.13 ID:ln4S4yu+.net
広家を実際に秀吉が受け取った証拠はないって読んだけど⁉

442 :人間七七四年:2015/10/07(水) 23:22:28.96 ID:Bjk6hTZh.net
吉川広家は秀吉の元にいたよ

443 :人間七七四年:2015/10/08(木) 09:52:25.22 ID:U9qinSrF.net
兼見卿記11月1日条

是より先、毛利輝元、一族小早川元総、秀包、吉川廣家を質として、羽柴秀吉二致す
是日、元総など、秀吉に大阪に謁す

常順寺文書

去夏先書に委曲如申入候、北國西国不残申付候故、小早川、吉川両人質、去遡日致出仕
在大阪仕候事

444 :人間七七四年:2015/10/08(木) 10:13:07.97 ID:MHGSoLwd.net
本能寺の変の後の吉川元春と秀吉の関係だがかなり良好だったようだ。
吉川元春は秀吉に人質を送っただけではなく
天正10年7月18日付け吉川元春→秀吉書状で

天下静謐祝詞、太刀一腰刀信国送り給候

と太刀を送ってるし
蜂須賀文書においても

今度和睦之儀、秀吉申談、本望候、殊天下事、被属御勝利之段、尤珍重候、
依太刀一腰、銀子100枚進之候、誠表御祝儀訃候、猶任安国寺西堂口上候、恐々謹言

と7/18に蜂須賀から輝元に送ってる。

また天正10年8月4日にも吉川元春は丹羽長秀に向けて秀吉と関係を深めたいという意思の書状を送ってる


それと柴田と吉川が連絡してたというのは大嘘で、柴田は吉川に書状を送ってたが吉川は一切返信をよこさず無視していて、
それどころか吉川は秀吉に向けて使いを送って物を送って戦勝を祝っているのが吉川家文書でわかる

445 :人間七七四年:2015/10/08(木) 11:35:07.45 ID:IriaOyug.net
菅沼相手にしてるバカはもうやめろよ。スレが機能してない。

446 :人間七七四年:2015/10/12(月) 11:38:38.52 ID:A2D+lV3T.net
1587年に佐々成政が肥後に移った後、1595年に前田利家に加増されるまでの間、越中新川郡を治めていたのはどなたでしょうか?

447 :人間七七四年:2015/10/13(火) 09:52:21.64 ID:5BiSD8X5.net
蔵入地じゃね。金山もあるし

448 :人間七七四年:2015/10/13(火) 11:30:20.80 ID:NUQUDn42.net
>1587年 豊臣秀吉により、佐々成政が肥前に転封。新川郡は前田利長の預地となる。
www4.tkc.pref.toyama.jp/eizou/topics_detail.phtml?Record_ID=bd1d4831d9fa7d6a7c1b415d07723c7c

449 :人間七七四年:2015/10/13(火) 13:22:58.32 ID:sfoXOXEC.net
>>447>>448
ありがとうございます
金山が蔵入地でその他は前田領ってのが妥当ですかね

450 :人間七七四年:2015/10/14(水) 00:11:02.20 ID:QLhp/nwU.net
信長の金ヶ崎退き陣の時、しんがりを務めたのは
秀吉と家康と聞いていたんですが、小説によってはその二人だったり
秀吉と家康と光秀だったり、秀吉と佐々だったりします
実際は誰がしんがりだったんでしょうか?

451 :人間七七四年:2015/10/14(水) 00:29:03.91 ID:ia3shfad.net
>>450
金ヶ崎の退き陣自体が後世の創作
実際は朝倉は金ヶ崎なんて攻めてない

452 :人間七七四年:2015/10/14(水) 01:34:28.68 ID:bNZZ6Xc6.net
>>450
『信長公記』では秀吉が殿として活躍したとなっています
『一色藤長書状写』では活躍などは不明ですが池田勝正や明智光秀と旗本鉄砲隊も殿だったと記しています
『徳川実紀』では家康も殿に残ったとされてますが、信長の逃げ足が速く
同じく退却していた家康がおいてかれたという話を膨らませてあえて残ったとしたものだと思えます
秀吉の他には池田勝正、明智光秀、旗本鉄砲隊(佐々?)あたりまでは可能性があるのではないでしょうか

453 :人間七七四年:2015/10/14(水) 14:43:51.47 ID:2ixv9S8Z.net
侍大将と足軽大将ってどうちがうの?

454 :人間七七四年:2015/10/14(水) 21:35:12.31 ID:QLhp/nwU.net
>>451
えっ、それじゃつまらないじゃないですか

>>452
詳しくありがとうございます!
旗本鉄砲隊というところで佐々の可能性もあるんですね
家康がおいてかれたというのは想像するとちょっと面白いw

455 :人間七七四年:2015/10/15(木) 09:50:50.78 ID:KmUXrQ6f.net
>>453
侍大将:組頭、侍を率いる大将、騎馬隊の指揮官
足軽大将:物頭、足軽を率いる大将、足軽隊の指揮官

456 :人間七七四年:2015/10/22(木) 22:34:51.61 ID:JeI0z635.net
戦の流れって弓・鉄砲の打ち合い→長柄同士のぶつかり合いだと思うんだけど
長柄がやりあってる間、弓・鉄砲隊は何してんの?

457 :人間七七四年:2015/10/23(金) 00:45:03.35 ID:n0AYkBIw.net
乱戦になったら撃っても味方に当たっちゃうからなんにもしてないよ

458 :人間七七四年:2015/10/23(金) 12:27:58.06 ID:ADT5XsV2.net
少し下がって陣形を整える、余裕があれば簡単な野戦築城をする
射線が取れれば射撃。
長柄が押されて下がってきたら↑で支える

時期や部隊によっても異なるけど、弓・鉄砲足軽は白兵用の武器や防具を殆ど
持たない※事が多いので、基本的に白兵には投入されないって認識で可と思う
※時代が下がるほど・有力大名ほどこの傾向が強い。分業化だね

459 :人間七七四年:2015/10/23(金) 17:21:15.85 ID:TCJrc/k7.net
駆り出された雑兵は槍隊とかに組み込まれないことを祈ってたんだろうな

460 :人間七七四年:2015/10/23(金) 18:20:24.21 ID:n0AYkBIw.net
駆り出されるのは陣夫で輸送隊とかの非戦闘員の肉体労働者だから。
足軽は個々に領主と契約してる志願兵に近い存在やで

461 :人間七七四年:2015/10/24(土) 13:18:26.09 ID:Lt86eehK.net
戦国時代の三好氏についてですが、Wikipedia見ると、土佐の一部を支配していたとあるのですが、
土佐の一部ってどこですか?

462 :人間七七四年:2015/10/24(土) 20:28:05.21 ID:yTO8SdJV.net
大西氏の領地の一部が土佐に掛かってたということになってるからその辺でね

463 :人間七七四年:2015/10/26(月) 08:57:30.68 ID:H784pgta.net
>>452
信長公記には秀吉が金ヶ崎に残ったとは書いているが
朝倉が攻めてきて実際に戦ったなどとは一言も書かれてないんだが

464 :人間七七四年:2015/10/26(月) 09:06:31.85 ID:H784pgta.net
>>453
逸話で金ヶ崎の戦いがあったと言われてるのは4末月だが
実際には朝倉はこの時期湖西方面ばかりに出陣して戦っているし
朝倉と織田軍が金ヶ崎で衝突した痕跡はまるでない
一色藤長書状にも秀吉の活躍で退却できたとは書いてない。

465 :人間七七四年:2015/10/27(火) 10:56:02.03 ID:nTTl6A4h.net
戦闘があったかは確認出来ないが
残らされて逃げるほうは大変だったろうな。
敵が襲ってこない、なんてのはわからないし。
秀吉は大返しの時もそんな感じで
いくら講和したって裏切られて襲われたら
信じた猿がアホ、と400年後には言われたろう。
だから、金ケ崎戦闘は確認できないけど
「退き陣」がなかった、とまでは言いきれない。
まぁ、テレビ的な活躍は史実とは言えない、って
ことなんだけどね。

466 :人間七七四年:2015/10/27(火) 16:06:20.63 ID:MLNrVKgc.net
そもそも金ヶ崎城に残っていた部隊の主力は池田・明智勢で、逸話によっては徳川勢も残ったとされていて
これに木下が加われば10000近くになるんだから金ヶ崎にこもって防衛するだけなら余裕

実際には朝倉は襲ってもこなかったけどね

467 :人間七七四年:2015/10/27(火) 16:22:41.24 ID:ZrwulfVg.net
落としたばかりの城で、敵中に孤立して?

468 :人間七七四年:2015/10/31(土) 22:26:56.86 ID:r1y7leFC.net
>>466
信長が朝倉攻めに使える後方連絡線は、
大垣から浅井領を抜ける湖東ルート
大垣から琵琶湖に出て北上する水運ルート
大垣から南近江、京都、朽木領を抜ける湖西ルートの3つ

この内の上の2つが浅井の造反で使えなくなり、残るのは遠回りで険しい山道の湖西ルートのみ
おまけに三好残党と一向衆の蜂起で、
大垣・京都間の連絡線はいつ途絶えてもおかしくない絶望的な状況
この条件で1万人の兵隊を敵地で戦わせるのはさすがに無理ですわ

469 :人間七七四年:2015/10/31(土) 22:47:39.13 ID:ewdXr/97.net
>>468
そもそも浅井も朝倉も金ヶ崎城なんて襲ってこなかったし

仮にそんな状況でも一万人の兵隊を敵地で戦わせるのは十分可能

1万人の兵隊が収容するには東京ドームの観客席分の面積33000平方mの5分の1の面積もあれば十分だからだ。
東京ドームには55000人 人間が周囲に余裕を持った状況で収容できる
その5分の1でいいのだから、6600平方Mあれば10000人程度は収容できる事になる
これは縦横それぞれ80m分あればよいので
広めの公園でおれば余裕で収容できる面積である

470 :人間七七四年:2015/10/31(土) 22:59:46.01 ID:bHq8K5hQ.net
>>468
浅井から見ても周囲は織田領で悉く囲まれてる事になるし、そもそも攻守3倍原則から考えれば
10000人いれば浅井と朝倉が全軍で襲おうが撃退するだけなら余裕じゃね

471 :人間七七四年:2015/10/31(土) 23:25:09.35 ID:P+N70bYz.net
問題にしているのは収容率じゃなかろうに

元々すぐ前日に織田軍の攻撃で落とした、いわば損傷激しい城で篭城しろとか

472 :人間七七四年:2015/11/01(日) 00:09:47.34 ID:kLf7+jMR.net
>>469
>>470
三好残党と一向が京都をおさえちゃえば、
補給はおろか退路すらない本当の孤立無援状態になるわけだが
そんな状況で戦えると思うか?

473 :人間七七四年:2015/11/01(日) 00:16:51.36 ID:955OtE9f.net
浅井朝倉だけで済むと考えるのは脳天気すぎるな

474 :人間七七四年:2015/11/01(日) 05:10:29.92 ID:SXnQY5R4.net
>>473
金ヶ崎の時期だと本願寺は挙兵してないどころか反朝倉派だし
浅井は北近江10万石程度しかない上に南方が周囲全部織田領で孤立無援状態

浅井朝倉だけで済むどころか、浅井すら金ヶ崎に行けるか怪しい


ちなみに浅井朝倉は史実でも金ヶ崎なんて全く攻めなかったけどね。

475 :人間七七四年:2015/11/01(日) 09:50:49.51 ID:8O47Rjyz.net
>>472
一向一揆が決起するのは金ヶ崎より当分後の時期だよ

三好残党にしても京を制圧するような力は持っていなかった。

476 :人間七七四年:2015/11/01(日) 22:51:20.02 ID:4+8ZYXdL.net
>>474
史実って何か文献があるんですか?

477 :人間七七四年:2015/11/02(月) 02:30:53.45 ID:yJpD4R0i.net
菅沼に触れるな

478 :人間七七四年:2015/11/03(火) 14:17:40.58 ID:ymHho4mZ.net
>>476
文献というか、その時期朝倉や浅井が金ヶ崎以外のところばかりに出兵してるのは
大日本史料とかで検索すればわかるよ。
金ヶ崎を狙って出兵したり交戦した記録は一切ないけど。

479 :人間七七四年:2015/11/05(木) 08:45:51.15 ID:mIicqbje.net
真田信繁の側室の豊臣秀次の娘・隆清院は
どうやって秀次事件から逃れたの?

480 :人間七七四年:2015/11/05(木) 09:51:53.25 ID:ERgs0A0h.net
記録が残ってないので分かりません

481 :人間七七四年:2015/11/06(金) 13:05:54.42 ID:gFccfpnt.net
当主の首を取って寝返って首切られた武将って誰でしたっけ?

482 :人間七七四年:2015/11/06(金) 14:57:42.01 ID:cM5WY7NE.net
大河クロカンで上月城の高島吉右衛門がそんな役回りだったな
あと武田信豊を討った下曾根浄喜とか

483 :人間七七四年:2015/11/06(金) 16:59:10.50 ID:DwqH6OH8.net
>>482
そうだ。黒で見たんだ。
高島吉右衛門
でした。
ありがとうございました。

484 :人間七七四年:2015/11/11(水) 15:32:56.72 ID:8SBLf88h.net
>>442
いない。吉川が反秀吉方なのを知っていたから
秀包を厚遇していたが
広家はすぐ突っ返された挙句に冷遇してる。
元春もそれをずっと根に持っていて
秀吉の九州征伐の時も出陣拒否したが秀吉の圧力に恐れた隆景に
むりやり出陣させられた。

485 :人間七七四年:2015/11/12(木) 02:50:47.61 ID:7oSV5xSI.net
山本寺という武将、またはその末裔について何か詳しい史料があれば
教えてください

486 :人間七七四年:2015/11/14(土) 17:34:22.02 ID:Xfo7OyNw.net
>>484

本能寺の変の後の吉川元春と秀吉の関係だがかなり良好だったようだ。
吉川元春は秀吉に人質を送っただけではなく
天正10年7月18日付け吉川元春→秀吉書状で

天下静謐祝詞、太刀一腰刀信国送り給候

と太刀を送ってるし
蜂須賀文書においても

今度和睦之儀、秀吉申談、本望候、殊天下事、被属御勝利之段、尤珍重候、
依太刀一腰、銀子100枚進之候、誠表御祝儀訃候、猶任安国寺西堂口上候、恐々謹言

と7/18に蜂須賀から輝元に送ってる。

また天正10年8月4日にも吉川元春は丹羽長秀に向けて秀吉と関係を深めたいという意思の書状を送ってる


それと柴田と吉川が連絡してたというのは大嘘で、柴田は吉川に書状を送ってたが吉川は一切返信をよこさず無視していて、
それどころか吉川は秀吉に向けて使いを送って物を送って戦勝を祝っているのが吉川家文書でわかる

兼見卿記11月1日条

是より先、毛利輝元、一族小早川元総、秀包、吉川廣家を質として、羽柴秀吉二致す
是日、元総など、秀吉に大阪に謁す

常順寺文書

去夏先書に委曲如申入候、北國西国不残申付候故、小早川、吉川両人質、去遡日致出仕
在大阪仕候事

487 :人間七七四年:2015/11/14(土) 17:39:06.60 ID:BZxjdH6g.net
菅沼

488 :人間七七四年:2015/11/18(水) 23:02:24.84 ID:uOH6Cltj.net
菅沼在日遼太

489 :人間七七四年:2015/12/03(木) 21:15:02.04 ID:rpJ6ckp0.net
家康が「野戦の名人」と言われているのは何を根拠に
そう呼ばれているのですか

490 :人間七七四年:2015/12/03(木) 21:25:47.85 ID:L/8i0cGV.net
ある軍記物で関ヶ原で西軍を野戦に誘い込んだ理由付けが野戦得意攻城苦手というもので
それを有名小説家が採用したから広まった

491 :人間七七四年:2015/12/05(土) 11:16:55.10 ID:ljrKYuuz.net
質問です。
かの大坂城の茶会で、大谷吉継の飲んだ後の茶を飲み干したのは、
石田三成だとばかり思っておりましたが、
実は「秀吉が飲み干して、茶をたて直した」という説もあると聞きました。
後者・前者ともに、その出典となる史料名(出来れば、当該箇所の章・節なども)
お教え下さい。
よろしく。

492 :人間七七四年:2015/12/05(土) 12:28:49.07 ID:Ik3VLDCo.net
マルチ質問はスルーが基本

493 :人間七七四年:2015/12/05(土) 13:40:09.61 ID:9U6ti5Ak.net
581 日本@名無史さん 2015/12/05(土) 11:10:13.30
質問です。
かの大坂城の茶会で、大谷吉継の飲んだ後の茶を飲み干したのは、
石田三成だとばかり思っておりましたが、
実は「秀吉が飲み干して、茶をたて直した」という説もあると聞きました。
後者・前者ともに、その出典となる史料名(出来れば、当該箇所の章・節なども)
お教え下さい。
よろしく。

494 :人間七七四年:2015/12/05(土) 13:52:15.58 ID:j1pse5gb.net
秀吉のは福本日南の『英雄論』第五章と『豊太閤』がもっともさかのぼったもの
三成のは司馬の創作かもね

495 :人間七七四年:2015/12/05(土) 13:54:35.85 ID:j1pse5gb.net
今のところは福本本以上昔のは見つかってないと

496 :人間七七四年:2015/12/05(土) 16:48:39.03 ID:bMoSaTvl.net
伝言ゲームみたいなもんで
写本どんどん書き写していく内に
逸話が変化していったんじゃないの

497 :人間七七四年:2015/12/05(土) 21:10:31.50 ID:0MEddAkY.net
戦国武将は寺社に宿泊してるけど、寺社側には迷惑ですよね?
寺社側には断る権利がなかったんですか?

498 :人間七七四年:2015/12/05(土) 21:28:56.06 ID:j1pse5gb.net
断ってる史料もあります。状況や力関係に拠ったのでしょう。

499 :人間七七四年:2015/12/06(日) 00:11:35.38 ID:FpEWCpA7.net
質問です
このスレの方は名前も書かれてないのに一瞬で菅沼と見破っています
どうやれば見破りスキルを得たり磨いたりすることができるのでしょうか?
また菅沼亮太の主戦場はどこでしょうか?
参考文献などありましたら併せてご教示ください

500 :人間七七四年:2015/12/06(日) 17:22:53.74 ID:j/u/LyDv.net
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501 :人間七七四年:2015/12/06(日) 18:10:06.10 ID:cIO+Ir2x.net
>>498
断れないわけではなかったんですね
寺社側もそれなりに得になることがあったのかな
ありがとうございました

502 :人間七七四年:2015/12/06(日) 18:17:21.52 ID:o1s1BgM1.net
吉田神社の吉田兼見は信長宿泊の打診を急に言われても困ると断ってますが
寺社領の寄贈や安堵を受けてますので基本的には断りにくいかと

503 :人間七七四年:2015/12/06(日) 23:09:26.67 ID:O1px+eCQ.net
>>494

洵にかたじけのう御座りました。

三成説のほうが新しいとは、つゆ存知ませなんだ。

勉強になりました程に。

504 :人間七七四年:2015/12/06(日) 23:53:56.10 ID:cIO+Ir2x.net
>>502
>寺社領の寄贈や安堵を受けて
ああなるほど、それはそうですね

505 :人間七七四年:2015/12/09(水) 10:40:19.92 ID:jn3nUHFy.net
迷惑で断る場合と、本当に仏事等で断る場合が
あるから、すべてケースバイケースではあるだろねぇ。

506 :人間七七四年:2015/12/15(火) 21:59:11.25 ID:25NnSRqJ.net
殿がしんがりやることって、たまにあるものなんですか?

507 :人間七七四年:2015/12/15(火) 23:31:43.63 ID:2o6VFelz.net
無いでしょ。

508 :人間七七四年:2015/12/19(土) 13:14:16.93 ID:pZZY/vD7.net


509 :人間七七四年:2015/12/20(日) 01:36:45.17 ID:olRaNjZW.net
 

510 :人間七七四年:2015/12/22(火) 16:20:18.67 ID:dS7BPhVR.net
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511 :人間七七四年:2016/01/03(日) 15:17:55.88 ID:PhbhR0SC.net
川中島の戦いについて質問します。
何回目かわからないのですが、武田に今川と北条の援軍があったそうですが、誰が派遣されて、どのくらいの規模だったのでしょうか?

512 :人間七七四年:2016/01/03(日) 15:55:54.74 ID:U9LMh2XJ.net
たしか第四次の時に今川北条で援軍を送ると書状に書いてあっただけで規模も武将も不明

513 :人間七七四年:2016/01/07(木) 15:14:02.15 ID:JecO549j.net
長篠の戦いの時の馬防柵・堀・三段鉄砲ってなんであれって一回使用しかなかったのですか?
それ以降の戦いではみかけないですがなんでやらなくなったのですか?チートっぽいのに
関が原・大阪の陣・朝鮮出兵など

514 :人間七七四年:2016/01/07(木) 16:05:16.54 ID:x08IVoE+.net
毎回やってたようですよ。
基本戦術になってたのでわざわざ言及されませんが、それらしい記述は散見されるようです。

515 :人間七七四年:2016/01/07(木) 16:12:41.08 ID:tc1Bqjef.net
昨日の歴史秘話でも
それらしいこと追求されてたな

戦国後期になると
野戦陣地も急造の柵や堀でどんどん強硬になっていったてのは
どっかの本で見た気がする。

516 :人間七七四年:2016/01/10(日) 15:05:45.60 ID:VcF1gk87.net
戦国時代の日本の人口が今の半分と仮定すると、
例えば川中島の戦いで死傷者が5,000人としたら
現代の感覚では、死傷者10,000人ってかんじ?
軍勢15,000人は 30,000人って感覚?

517 :人間七七四年:2016/01/10(日) 15:32:03.46 ID:8zvx1zQz.net
当時の人口は現代の10%〜ほどだから10倍すればいいんじゃないかな
軍記物の兵数がどれだけ誇張されてるかよくわかるよ

518 :人間七七四年:2016/01/10(日) 23:59:11.74 ID:IquGaOBj.net
古今東西、軍記物の数字は誇張されるのが常なわけで・・・
40万人を生き埋めにした長平の戦いも
実際は1万から2万くらいだろうと言われてるし

519 :人間七七四年:2016/01/11(月) 09:01:46.44 ID:1hUY2faW.net
必殺仕事人みたいな感じで狭い範囲で殺人が起きたら、
ひとがいなくなっちゃうだろ
そんなようなものだ

520 :人間七七四年:2016/01/12(火) 00:41:21.52 ID:ZyJJCRPU.net
そもそもその仮定と倍率合わせる事に意味があるのか

521 :人間七七四年:2016/01/15(金) 21:56:58.38 ID:dPzerOts.net
天正10年の武田攻めに関して

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
99 :名乗る程の者ではござらん2016/01/15(金) 19:34:48.74 ID:zFJqhL8o

ほんとは真田も裏切りたくてウズウズしてたんじゃないの?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

という質問が入っているのですが、どなたか模範答案を作ってください

522 :518:2016/01/15(金) 22:06:19.49 ID:dPzerOts.net
ちなみに時代劇板です

523 :人間七七四年:2016/01/15(金) 22:08:57.60 ID:PiZdnrgl.net
>>521
裏切るも何も真田昌幸は既に北条や徳川に書状送って内通していた。
昌幸の所に勝頼がやってきたらこれ幸いとさっさと北条に身柄を突き出してた可能性が高い。

524 :人間七七四年:2016/01/15(金) 22:13:33.55 ID:dPzerOts.net
素早いレスどうもです。

525 :人間七七四年:2016/01/15(金) 22:13:16.37 ID:dPzerOts.net
素早いレスどうもです。

526 :人間七七四年:2016/01/31(日) 00:25:18.84 ID:LsSYCqPW.net
戦国時代の猟師について調べてます
特に大名達が彼らをどう扱っていたか教えてくれないでしょうか

527 :人間七七四年:2016/01/31(日) 13:33:55.85 ID:JoGO7TF5.net
基本的に保護してる。例を挙げると南部氏は
またぎに狩猟免状を交付し領内での狩りと
移動の自由を保障してる
もちろんクマの胆嚢といった貴重品は上納させられてただろうけど

528 :人間七七四年:2016/02/04(木) 00:11:45.21 ID:IhmsJznF.net
ということは大名の許可がなければ猟師は出来ないということですか?

529 :人間七七四年:2016/02/04(木) 00:16:34.47 ID:gntg+EyP.net
>>528
できるけど身の安全は保証できない

530 :人間七七四年:2016/02/05(金) 23:36:21.06 ID:W/ksLJS+.net
この時代は領主の許可なくよそ者が
勝手に狩猟採集してたら下手すれば殺される
またぎの様に広範囲を移動する必要がある仕事では
大名の免状は必要不可欠

531 :人間七七四年:2016/02/07(日) 11:19:24.43 ID:CWxka0rR.net
関ヶ原の戦い前後の上杉家の動向について質問です。
ドラマや漫画なんかだと「豊臣家を専横する徳川家康」に我慢ならず
豊臣の忠臣である石田三成と通じて(もちろん関係ないパターンもありますが)家康の会津征伐を待ち構えまることが多いです。

ですが実際の所、上杉景勝は豊臣の忠臣?だったのでしょうか?
家康が気に入らない という以前に豊臣の力が弱まったから積極的ではないにしろ独立しようとしていたのでしょうか。
※今まで読んだ歴史小説や架空戦記では関ヶ原の戦い以後に野心を持って領土拡大にいそしみ
家康ならず豊臣・西軍にも協調しない上杉家が描かれていることがありました。 

532 :人間七七四年:2016/02/07(日) 12:54:47.65 ID:Kd2+emmN.net
上杉は基本的に中央とは距離を取ってて豊臣の忠臣ってのはまず無い
そもそも外様だから関白太閤の家臣であっても豊臣家の家臣っじゃないし
領土拡大の野心は戦国大名の性だから無い事は無いが
(領地が増えればそれだけ本国は安全になる面もあるし)
山形攻めの事を言ってるなら最上領は上杉領を分断する形で食いこんでるので
野心有る無しにかかわらず獲らないと防衛もままならない訳で
関ヶ原の上杉は因縁つけられたから仕方なしに受けて立った以上の姿勢は見えないな

533 :人間七七四年:2016/02/08(月) 04:42:14.01 ID:otGzJ2VH.net
大谷吉継の奥さんって誰?

534 :人間七七四年:2016/02/10(水) 06:36:49.36 ID:ijhC9ro3.net
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足ウソ製作費定義)

https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0 メジャールールブック総務京都米予算me-ka-
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨークネックス従業員英産プルトニウム任天プロチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田ファンド

535 :人間七七四年:2016/02/11(木) 04:10:12.63 ID:BPu1Jgdh.net
ノブヤボで豊臣秀吉の初名がよく木下秀吉になってるけど、本当にこんな名を名乗った時期はあるの?

536 :人間七七四年:2016/02/11(木) 09:14:48.13 ID:EPCWuIeh.net
羽柴姓になるまでは木下だろ
木下藤吉郎秀吉という署名は残ってるぞ

537 :人間七七四年:2016/02/13(土) 22:29:39.95 ID:+4MEas5U.net
>>532
小田原攻めで関東各地を転戦していたり、
国替えを唯々諾々と受け入れたりと対外的には上杉は豊臣家の忠臣と十分よべるだろう
景勝の本心はわからないけどね

538 :人間七七四年:2016/02/13(土) 22:54:49.34 ID:28r1XeST.net
くだんねぇなぁ

539 :人間七七四年:2016/02/27(土) 01:09:07.12 ID:wtc5+lUX.net
慰安婦問題は真実ですか?
じっちゃんがそんな施設ねがっだぞって言ってるです

540 :人間七七四年:2016/02/27(土) 09:33:41.71 ID:nDdVzJi9.net
板違い

541 :人間七七四年:2016/02/27(土) 22:30:19.24 ID:t5AXSQTo.net
>>539
おじいちゃんは戦国時代生まれかな?

542 :人間七七四年:2016/02/29(月) 19:15:39.91 ID:lsi0Fnto.net
【日本史】女城主・武士といえば [無断転載禁止]©2ch.net [565250761]
http://fo x.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1456740304/

543 :人間七七四年:2016/03/02(水) 18:22:41.41 ID:rayA6M1o.net
加藤清正はなんで豊臣姓をもらえなかったの?
みんなもらってるのに。
秀吉に嫌われてたの?

544 :人間七七四年:2016/03/02(水) 19:09:17.54 ID:ycNB0Bwt.net
三成や正則や官兵衛ら貰ってない者は大勢居る。みんなつーレベルでもなければ好き嫌いの話じゃ無い
官位を貰ったり上がったりした時についでに貰えるようになった物だから
秀吉存命時に昇叙しなかった清正はもらう機会がなかっただけ。秀頼からはもらってる

545 :人間七七四年:2016/03/02(水) 19:53:50.24 ID:zHJ4Xtaz.net
東北の地震のあとあたりからコテハンで仙台藩百しょうがみませんが
なくなったのですか?

546 :人間七七四年:2016/03/03(木) 18:10:00.00 ID:jyujNUrh.net
懐かしいな・・

547 :人間七七四年:2016/03/06(日) 13:57:21.77 ID:+Quo1/jl.net
小田原の役で北条家は何故8万以上も動員できたのでしょうか?
220万石強だと5万くらいがいいところだと思うんですけど

548 :人間七七四年:2016/03/06(日) 15:02:18.40 ID:+MtVPSMw.net
自国での防衛戦だったので『動けるやつ全員参加な!』ができたから

549 :人間七七四年:2016/03/06(日) 15:17:39.75 ID:vKWTvKv7.net
豊臣軍役に当てはめれば220万石だと戦闘員7万人強。
さらに上でも言ってる通り総動員令が出てるから軍役外兵力も加算して8万人は別におかしな数字じゃない

550 :人間七七四年:2016/03/06(日) 22:16:39.18 ID:+Quo1/jl.net
特に多いってわけでもないんですね

551 :人間七七四年:2016/03/07(月) 08:32:41.61 ID:sYKUxDJu.net
負けたら終わりの戦だから、、無理をしてでも総動員

552 :人間七七四年:2016/03/07(月) 22:24:05.74 ID:/cjwgpNx.net
加藤清正とか福島正則って秀吉に仕えてて、関ヶ原では家康側についたけど
豊臣への忠誠心とかなかったのかな
石田三成が嫌いだったから家康側についた?
単に将来性考えて?

553 :人間七七四年:2016/03/07(月) 22:27:21.94 ID:kS/hBmPc.net
だから関ヶ原は豊臣vs徳川ではないと何度

554 :人間七七四年:2016/03/08(火) 09:03:50.85 ID:6adAwctv.net
家康 豊臣政権の大老
三成 豊臣政権で無役(前奉行)

役職だけなら家康が正当だな

555 :人間七七四年:2016/03/08(火) 12:27:31.99 ID:cOlEmUw7.net
秀頼が関ヶ原まで出陣してたら
どうなったかねぇ。
徳川についた秀吉恩顧さんたちは
どうするつもりだったんだろう。

556 :人間七七四年:2016/03/08(火) 13:02:06.34 ID:lZNfxQ9T.net
毛利輝元すら淀殿たちの拒絶で大阪城本丸に一歩も入れなかったというのに

557 :人間七七四年:2016/03/08(火) 13:41:01.81 ID:t9rHh0pO.net
>>555
いやだからその前提がありえないって

558 :人間七七四年:2016/03/08(火) 14:24:50.53 ID:aFwLtQ5k.net
>>555
お前馬鹿だろ?

559 :人間七七四年:2016/03/08(火) 17:31:55.79 ID:cOlEmUw7.net
そんなにおかしいか?
少なくとも家康はそんな淀様事情なんて
わからなかったろうに。
結果知ってるから、ありえない、とか
なんとでも言えるけどね。

560 :人間七七四年:2016/03/08(火) 17:58:41.34 ID:VGSG31F8.net
そもそも淀殿は三成が謀反おこしたから早く鎮圧してくれーって家康に要請してるし
西軍に近畿が制圧されて黙ったが、ずっと非協力的で秀頼が自発的な出陣を行う根拠がない

561 :人間七七四年:2016/03/08(火) 18:06:03.72 ID:FO2tJa1f.net
細川元勝についての質問です
この人の両親は細川昭元と信長の妹であるお犬の方となっていますが
元勝の生年を調べてみるとwikipedia等では1561年とされてます
一方父昭元の生年が1548年で両親が結婚したのは1577年・・・

この人一体何者なんでしょうか

562 :人間七七四年:2016/03/08(火) 19:50:01.91 ID:cOlEmUw7.net
>>560
そんなのは神の視点だろう。
まぁ、タラレバだからどうでもいいが秀頼出陣
ぐらいの偽情報を流すぐらいのことはできるし
絶対に、西軍が史実通りの状態で戦うか、なんて
誰にもわからない。

563 :人間七七四年:2016/03/08(火) 19:52:31.36 ID:lZNfxQ9T.net
>>562
お前は馬鹿か

564 :人間七七四年:2016/03/08(火) 21:04:43.74 ID:eh8rg0Kw.net
ゲーム脳か

565 :人間七七四年:2016/03/08(火) 22:25:18.35 ID:jDlvMZVT.net
>>561
それらの数字を信じるならば13歳の昭元が身分の低い女を孕ませた隠し子で
後年認知して正室お犬の方の養子とした、というところか?

566 :人間七七四年:2016/03/09(水) 00:26:53.89 ID:6g5TuEtN.net
>>562
もうなに言ってるかわからんね

567 :人間七七四年:2016/03/09(水) 10:04:40.24 ID:F4Wa1OMs.net
>>566
本能寺の前日に「明日信長が死ぬかもよ」と言ったら
「馬鹿か」「何言ってるかわからんね」とかいうようなものだね。
秀頼出陣の可能性が限りなく低かったのはもちろんだが
タラレバで語ることがそんなにおかしいか、ということなんだが。

自発的な根拠はなかったろうが、他発や状況によっては
名代を送るぐらいのことはあったかもしれない。
あくまでタラレバだが、家康側はもし三成が
そういったウソや策略で何か仕掛けてきたら、という
可能性も「あるわけね〜」なんて笑える状況にはない。

猿が関白になる時代に、「根拠がない」ですませてしまうほうが
よほど思慮が足りないとは思うけどな。

568 :人間七七四年:2016/03/09(水) 10:20:42.95 ID:6g5TuEtN.net
IFスレか創作スレで存分にやればいいと思うよ
質問スレで望んだ答えが返ってこないと憤慨されても困るよね

569 :人間七七四年:2016/03/09(水) 10:44:55.49 ID:0qT3Amli.net
質問ではなくて
自己主張したいだけだもんな

570 :人間七七四年:2016/03/09(水) 17:17:16.37 ID:bCXLSRbU.net
>>555袋叩きワロタw

571 :人間七七四年:2016/03/15(火) 00:45:50.43 ID:+FzzTxjP.net
五月人形のチラシ見てたら、信長、家康、武田信玄とか上杉はあるのに、
秀吉のがなかったんだけど、これって秀吉の鎧兜が人気ないから?
秀吉は鎧兜にあんまり拘らなかったのかな

572 :人間七七四年:2016/03/15(火) 01:49:03.62 ID:fCODIKy5.net
秀吉にかっこいいイメージが無いからだと思います。

573 :人間七七四年:2016/03/15(火) 08:17:15.45 ID:AEoizvAc.net
秀吉みたいになってほしくないからだと思います。

574 :人間七七四年:2016/03/15(火) 23:51:07.90 ID:+FzzTxjP.net
なるほど、納得w

575 :人間七七四年:2016/03/16(水) 00:22:33.32 ID:VXHE1MM8.net
信長みたいにもなってほしくないなあ

576 :人間七七四年:2016/03/30(水) 16:24:35.35 ID:z/BFwWq2.net
http://i.imgur.com/nt8oIgc.jpg
長谷堂合戦図屏風に描かれていた馬(右下)なんですがこれは熊毛を付けた馬鎧ですか?
ただの馬の毛色かもしれませんがそれにしてはもふもふに描かれていて足の色も違うので馬鎧だと思っているのですがどう思いますか

577 :人間七七四年:2016/03/30(水) 18:46:15.70 ID:2oIgXKb2.net
黒い馬鎧やろ

578 :人間七七四年:2016/03/31(木) 00:21:59.61 ID:ZdfVOM0V.net
馬鎧ってこんな感じなんだ!

579 :人間七七四年:2016/03/31(木) 00:27:14.68 ID:e4S8QS3j.net
白い馬の龍の面が凄いな

580 :人間七七四年:2016/04/14(木) 00:05:03.02 ID:sn5Jl/kw.net
超有名ではないけど、こいつは知っとけという武将おしえて

水野勝成 とか面白い

581 :人間七七四年:2016/04/14(木) 00:05:54.15 ID:sn5Jl/kw.net
あと、坂崎出羽守とかもおもろかった
宇喜多なのに関ヶ原東軍いるとか

582 :人間七七四年:2016/04/14(木) 13:29:29.25 ID:ZljtYjd0.net
なにをもって
面白い
と定義されるのか?

583 :人間七七四年:2016/04/14(木) 17:53:15.26 ID:+suFbSje.net
大久保彦左衛門
前田利常
太田三楽斎
森長可
細川忠興

じゃあこの辺とか

584 :人間七七四年:2016/04/15(金) 01:13:52.59 ID:rBWZJiwS.net
ぶっ飛んでる人ってことかな

585 :人間七七四年:2016/04/28(木) 15:42:20.01 ID:pcUFSPMS.net
武田勝頼の陣代説ってあるけど、実際に戦国時代で陣代が出てくる時ってどういう人に任されていたの?
武田勝頼の場合みたいに継承権の強い人に陣代を任せることってありえたのかな
幼君が成人した時にどうやって権力の交代を行わせるようになってたかも気になる

586 :人間七七四年:2016/04/28(木) 16:46:33.86 ID:FW/XmVsB.net
織田信雄・信孝が三法師の御名代争いをしたとか、2歳で家督継いだ筒井順慶とか、一歳で父を亡くした本多忠勝とか叔父が陣代になる例が一番多い
成人して自分で判物発給するようになったらそれが権力の交代

587 :人間七七四年:2016/04/28(木) 19:15:56.07 ID:knc4YeVb.net
なるほど叔父が多いのか
陣代や名代がそのまま家を乗っ取ろうとしたケースはやっぱりあるのかな

588 :人間七七四年:2016/04/28(木) 22:39:42.85 ID:FW/XmVsB.net
超有名どころで秀吉。地味なところじゃ本庄繁長の叔父小川長資とか。探せばいっぱいあるだろう

589 :人間七七四年:2016/04/28(木) 23:30:14.57 ID:JYzQYTYc.net
今川義忠死後の、氏親相続もその口では

590 :人間七七四年:2016/04/30(土) 09:04:31.41 ID:FT05lkIy.net
歴史関係ではなく、とある人気のビジネス本で戦国武将を引き合いに出していた箇所で気になったのですが

「織田信長は家臣に大変厳しかったことでも知られており、任された仕事で成果をあげられない
あるいは失態を演じるとすぐさま厳罰に処され、最悪の場合殺されてしまうという恐ろしい評価体制でした。」
とありました……

信長って任務に失敗した家臣を「すぐに厳罰に処したり」「殺したり」した例ってありましたっけ……?
失敗した部下にも名誉挽回のチャンスを与え、気長に任地の事は当人に任せ(秀吉・光秀の近江攻略や各地方方面軍など)
うだつの上がらない部下も、成果なく停滞しているとしばらく経ってから放逐というイメージなんですが

無礼や事件を起こした下っ端の家来は手打ちにするイメージがありますが↑の"任された仕事で成果をあげられない"とはまた違うような……

591 :人間七七四年:2016/04/30(土) 13:08:35.54 ID:LYk+xUiX.net
>>590
そうですね。過去の功績にあぐらをかいて成果を上げなくなると昔のことを持ち出して放逐が正しいです。
だから滝川一益も57の高齢で東国に下って関東管領になるより茶器の方が良かったとか
手紙に書き残してます。新任地で失態があればすべてを失うからです。

592 :人間七七四年:2016/04/30(土) 13:13:39.74 ID:q6uhGX3x.net
>>590
織田信長を豊臣秀吉に代えればあながち間違いじゃ無くなるな・・・

593 :人間七七四年:2016/05/03(火) 12:43:18.85 ID:5brzRkOp.net
すいやせん、
正面のぶつかりあいで戦国最強って大谷隊でOK?2500の兵で
京極、藤堂壊滅させ、小早川1万5千を500メートル3回も押し返した
脇坂・赤座・小川・朽木とかの横からの裏切りがなかったら小早川も死んでた?

594 :人間七七四年:2016/05/03(火) 13:12:19.13 ID:DCEsABst.net
京極、藤堂は壊滅してません。追撃に参加してるのでぴんぴんしてたのでしょう
小早川1万つっても直接戦えるのは先鋒隊だけですし結局短期間で敗走してるので
奮闘したであろうけど最強とかそういう次元の話ではありません

595 :人間七七四年:2016/05/06(金) 18:51:05.74 ID:8ohl1l19.net
>>593
すっごく考え方が浅くてワラタw
合戦のイメージがゲームから得たものなんだろうな。

596 :人間七七四年:2016/05/07(土) 15:32:44.95 ID:b60CJph7.net
http://i.imgur.com/Lvrd82x.jpg
こういう袖って何て名前なんですか?

597 :人間七七四年:2016/05/07(土) 19:18:50.75 ID:8+dh79vs.net
>>596
水色の生地の部分?それとも籠手のほう?

598 :人間七七四年:2016/05/07(土) 19:29:46.94 ID:c8fFZCS+.net
袖つってるやん

599 :人間七七四年:2016/05/08(日) 12:58:27.86 ID:IUO3mVz0.net
袖っていうかでっかい杏葉でいいんじゃないかなぁ

600 :人間七七四年:2016/05/16(月) 22:27:21.26 ID:TFog2Sk8.net
鉄砲や大砲は別にして戦国の武器や鎧はどう進化したのでしょうか?
例えば川中島の戦いの時から進化しましたか?

601 :人間七七四年:2016/05/16(月) 23:10:58.05 ID:VmzwdNiR.net
ここで聞くより鎧の変遷とか甲冑の変遷とかでググった方が、写真と図が見れていいと思うよ

602 :人間七七四年:2016/05/18(水) 00:28:41.08 ID:8OaGZ3AV.net
1615年大坂夏の陣時点での秀頼に対して、豊臣方の武将は何て呼べば良いんでしょう?
1607年に右大臣を辞職しちゃってるから右大臣様って呼ぶわけにはいかないし……
同様に豊臣方の武将は、将軍職を辞して太政大臣も受け取ってない家康を何と呼ぶべきなんでしょう
徳川方の者ならば大御所様って呼べば良いんだとは思うけれども、豊臣方がそう呼ぶのは何か徳川の権威を認めるようでダメに感じられるし

603 :人間七七四年:2016/05/18(水) 08:58:21.14 ID:NoR4Sz+n.net
現代報道のお約束なら最もランク高かった前職で元○○と言うのが通例ではあるが
なんだかんだで古代日本も中国も呼び方のお約束は現代に通じるものがあるし名前呼びは失礼で姓+役職呼びが基本という。

604 :人間七七四年:2016/05/18(水) 10:27:20.84 ID:zfKJKpMU.net
>>602
対外的には「秀頼様」(大野治長書状写)、内では「殿様」(真田信繁書状)で良いかと
家康に対して内部的には敵対してれば礼は要らずどう呼んでも良いので家康と呼び捨てでしょう
対外的には一定の礼儀を用いないと常識を疑われるのでそうはいきませんが

605 :1/2:2016/05/18(水) 14:37:22.68 ID:88WQkApD.net
戦国時代の海外に対する国防力について質問です

とある朝鮮出兵スレで「日本はスペインに征服されるかもしれなかった」という根拠が
↓の1599年に宣教師が修道会に送った手紙らしいのですが実際どうだったのでしょうか?

「日本人は海軍力が非常に弱く、兵器が不足している。そこでもし国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことができよう。
この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(しも:九州)、または四国を包囲することは容易であろう。
そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るだろう。

隣接する領主のことを恐れているすべての領主は、自衛のために簡単によろこんで陛下と連合するであろう。

金銭的に非常に貧しい日本人に対しては、彼らを助け、これを友とするのに僅かのものを与えれば充分である。
わが国民の間では僅かなものであっても、彼らの領国にとっては大いに役立つ。

われわれがこの地で何らかの実権を握り、日本人をしてわれわれに連合させる独特な手立てがある。
即ち、陛下が…われわれに敵対する殿達や、その家臣でわれわれに敵対する者
あるいは寺領にパードレ(司祭)を迎えたり改宗を許したりしようとしない者には、貿易に参加させないように命ずることである。」

606 :2/2:2016/05/18(水) 14:44:13.27 ID:88WQkApD.net
この頃のスペインてキリスト教宣教師を尖兵にして
南米やフィリピンを侵略・征服していたんですよね?

↑の宣教師の手紙に書かれている通り
・スペインが艦隊を派遣すれば日本海軍(水軍)が立たなくて撃破され
 無敵艦隊によって補給路を断たれた九州や四国の人間は降伏

・日本はスペインと比べて平気が不足しており、貧しい国なのでスペインからの物資でカンタンに寝返る

・スペインと貿易や火縄銃の硝石で密接な関係にあった大名が多いので
 「えっ、スペインが攻めてきて、奴らに味方しないと貿易できないの?! スペインに味方しなきゃ!」
 という大名がほとんどだった。

などの要素によって、実際に1599年頃にスペインが攻めてきたら日本は征服されてしまっていたのでしょうか?

607 :人間七七四年:2016/05/18(水) 16:51:58.86 ID:tWxT4NpI.net
「日本はスペインに征服される”かも”しれなかった」
でいえば可能性はゼロじゃないでしょ
ただ簡単に日本全土を征服できたかどうかを言えば難しかった可能性が大きいんじゃないか

だいたい補給線どう確保するつもりなの
無敵艦隊つっても太平洋くんだりまで運ぶのにどんだけの期間と物資が必要で
その派遣期間中に本国が無防備になってしまうリスクや艦隊失うリスクと引き換えに
得られるリターンがどれほどだったか

608 :人間七七四年:2016/05/18(水) 17:17:35.81 ID:zfKJKpMU.net
ペドロ・デ・ラ・クルスの書簡かな、1599年では国内はほぼまとまっていて何しても無理でしょう

まず前提としていてる国内の協力領主が秀吉以来の締め付けによって居ない
協力領主が居ないから武力も限られてる。隣接領主に圧力掛けられない
貧しい人々を幾ばくかの給金で雇っても軍事力としてはたかが知れてる
艦載の少数スペイン兵では港湾一つとれない
港湾が取れなければ貿易による利益誘導もない
硝石も国産が始まり中国他からも輸入で平気
動員できる数隻の軍船では九州四国も封鎖無理
弱体であった日本水軍も朝鮮征伐で増強・経験積んでいる。
そもそも寄港地が無ければ短期間しか活動できない
イギリスとガチってる本国は増援どころではない

無い無いづくしと言うか情報が十数年以上古い気もする

609 :人間七七四年:2016/05/18(水) 17:32:14.46 ID:zfKJKpMU.net
もっと言えば宣教師もいろんな人が居て一部にはねっかえりもいるけど
主要な人物は武力で日本占領なんて無理無理無理の介つってわけで
あと誤解してる人も多いけど(わざとかも)宣教師が武力で獲るっつってるのは港の事で
日本全土を自力の戦闘で獲れるなんて事は言って無いことに注意

610 :602:2016/05/18(水) 21:58:15.40 ID:88WQkApD.net
保守系のブログ(2chまとめサイトも含めて)だと

「宣教師(スペイン)はこんな危険な事を考えていたんだ!
 キリシタンを弾圧した秀吉は愛国者! 朝鮮出兵は正義!」
みたいなコメントが多かったのですが

つまりは逆に、宣教師は「巧妙で恐ろしい策を考えていた」のでなく
単に自信過剰でスペインを過大評価+日本を過小評価していた"馬鹿"だったというオチなんでしょうか?

611 :人間七七四年:2016/05/18(水) 22:09:23.49 ID:tWxT4NpI.net
>>610
前半はポジトークが溢れてるので自分の価値観で判断してくれや
揉め事をいちいち質問スレに持ち込む必要はないし止めてくれ
そんな議論がしたけりゃヤフー知恵袋ででもやれ

後半の話をすると、
イエズス会はスペイン王家をスポンサーとして発足してんだから当然王家の意向を汲んで活動する
(イエズス会としては直截的には教徒を増やしたい)
王家としては領土拡張を旨としてんだから当然その意向に従ったまでで
調査も報告書もその意向に従ってると思ったほうがいい

それらの行動や結果が、巧妙だとか恐ろしいだとか自信過剰だとか過小評価だとかバカだとか
そういう評価とくっつけるのはそれこそバカの仕事

612 :人間七七四年:2016/05/18(水) 22:19:15.25 ID:tWxT4NpI.net
付け加えておくと「*現代*の我々の視点や考え方(価値観)で過去を語ること」は
慎重になったほうがいいってこと
「あの時の誰々の行動は正しかったかどうか」なんてのは
その時代にいってその立場に立ってみないと絶対にわからない

逆に「現代の価値観で過去を評価すること」にどれくらいの意味があるのか考えてみてくれ

613 :人間七七四年:2016/05/19(木) 00:04:25.73 ID:Zd8HQ3MJ.net
正論だな。

614 :人間七七四年:2016/05/19(木) 07:22:02.47 ID:sjc8am8h.net
イエズス会はスペイン王家をスポンサーとして発足したなんて何処から引っ張ってきた情報なんだ?

スペイン王家の意向に従う……ってそういう上意下達の力関係は
あの頃のイエズス会とスペインみたいな王国にはないだろうに

イエズス会としては直截的には教徒を増やしたい という部分には納得できるけど
あの頃のイエズス会(カトリック)のアジアでの布教は欧州でのルター派との競り合いが主導力なのだから
・宣教師が強引な布教のためにスペインに助力を乞う という形はあっても
・「スペイン王国」によるアジア領土獲得のために宣教師が活動・報告する という図は
あくまでローマ教皇の認可の元、それ自体が独立ピラミッド型組織として発足したイエズス会ではありえない

コエリョもサラサールもペドロ・デ・ラ・クルスも
既に日本に居ついて穏健に活動していたイエズス会宣教師からはその過激さが逆に弾圧を食らうとして批難している。
フィリピン総督府もスペイン本国も、実際に軍事的に無理だったという事情があれこそすれ
それらの書簡について冷淡で相手にした形跡がない。
(一部宣教師→修道会・総督府への書簡はあれど、スペイン・修道会から日本への指示を示した文書が存在しない)

615 :人間七七四年:2016/05/20(金) 08:24:58.42 ID:JS8q4aI0.net
この話って本当なのでしょうか?
両方共ガラシャのことを指しているみたいなのですが

238 : 名無し曰く、2016/05/16(月) 20:38:30.78 ID:RnPg1LjE
>>240
クソ展開もなにも、一時期存在した複数の俗説や講談を
つなぎ合わせただけだし

・嫁ぐ前に、夜通しで軍記物を読んでいたことがある→某講談に記載されていた内容
・軍師を複数存在し、交代交代だった→「海外の歴史書に記載されていたが、誤訳だった」という二次ソースが昔の雑誌に掲載

616 :人間七七四年:2016/05/20(金) 18:31:20.51 ID:C1oBdX+H.net
意味が分かりません

617 :人間七七四年:2016/05/24(火) 12:51:13.17 ID:ynNkQSdm.net
武田の百足衆について調べておりまして、12人の中に素人の私でも知ってるような大物……
山県昌景・高坂昌信・真田昌輝といった名があり、彼らほどの武将が伝令12人の中の一人をするというのが意外なのですが
これは「多くの部下を率いる以前に精鋭である伝令をやっていた」のでしょうか、それとも「12ある伝令部隊の隊長12人」なのでしょうか、
それとも『百足衆』自体が武田二十四将のような「凄い武将と認められた名誉ある称号」ということなんでしょうか?

618 :人間七七四年:2016/05/24(火) 13:11:03.32 ID:X6tkIBmb.net
信玄は身分の低い者や国人の子弟の中で有望なものを近習(百足衆など)に取りたてて
その中から有能なものを出世させ武将にしてました(四名臣など)。
なので出世する前の若い頃は信玄直属の伝令をやっていたという事です。

619 :人間七七四年:2016/05/24(火) 16:59:55.11 ID:ynNkQSdm.net
ありがとうございます!
成程……昌輝に関して「信玄の目にとまり百足衆に抜擢された」というのは、百足衆自体が名誉ある立場というだけでなく
「信玄から直々に今後優れた武将として成長することを見込まれた」という本人の才能を示しているのですね
ということは長篠で昌輝や昌景が亡くなった時には、彼らは既に武田指折りの将だったから、既に百足衆は卒業しているということですね
加えて、百足衆は歴代があるわけではなくて一代の12人ということで、彼らが卒業後は隊自体がなくなっていると認識しました

620 :人間七七四年:2016/05/24(火) 19:22:10.02 ID:dvquAoUn.net
大抵のところは目をかけられた若手の近習が務めているイメージがあるなあ

621 :人間七七四年:2016/05/25(水) 10:16:33.17 ID:f7GHgX/4.net
ああ春日は目を付けられる→手元に置く→「アッ―――!」ってパターンなんだな

622 :人間七七四年:2016/05/25(水) 11:46:13.28 ID:dBL//9wT.net
実は使い捨てだった説

623 :人間七七四年:2016/06/07(火) 01:05:43.13 ID:ik2PC6Hk.net
征夷大将軍と関白はどちらのほうが偉いのですか?
秀吉は本当は征夷大将軍になりたかったけど出自の低さからなれず、仕方なく関白になったらしいです。

624 :人間七七四年:2016/06/07(火) 01:42:05.64 ID:KFLzVITD.net
>>623
それは違います。征夷大将軍には源氏でなければなれないというのは俗説です。
しかし関白になるには特定の家柄であることが必要で、将軍よりこっちの方が難しいです。
秀吉は前の関白近衛前久の猶子になってこの条件をクリアしました。

625 :人間七七四年:2016/06/07(火) 05:51:08.47 ID:LFLYeEt3.net
秀吉「わしが死んだあと天下を取るのは誰だと思う?」
諸大名「前田利家?」「徳川家康?」…
秀吉「いや黒田官兵衛じゃ」

なんかこんな話あったじゃないですか?
作り話っぽいけど
このとき秀吉に跡継ぎ(候補)いなかったんですか?
秀次とか
具体的にはよく知りませんが
いちおうそういった候補がいるにも関わらずそんなこと聞く意味がわからないというか、
そもそも他の大名も家康だの何だの答えられる状況なんですか?
信長「わしが死んだあと天下を取るのは誰だと思う?」
諸大名「柴田勝家?」「明智光秀?」…
ってありえないわけじゃないですか
そりゃ信忠だろっていう
そう考えると、上記の秀吉の話って、作り話としても成立しなくないですか?
ホトトギスのたとえみたいな、純粋に「お話」ってだけですか?

626 :人間七七四年:2016/06/07(火) 12:47:49.06 ID:eEPevcI2.net
>>623
公家の官位制度じゃ言うまでもなく関白で征夷大将軍なんか下っ端もいいところ
どっちが実力持ってるかは時代情勢次第
ただし徳川将軍ですら朝廷の儀式では頭を下げるしかない

627 :人間七七四年:2016/06/07(火) 13:42:09.24 ID:V5o+xFVZ.net
>>626
アホか。征夷大将軍も関白も制外官だから偉いも偉くないも無い。ついでに言うと室町期、摂関家と将軍家は同格であると考えられていた。朝廷における礼式も対等。

628 :人間七七四年:2016/06/07(火) 14:18:11.82 ID:KFLzVITD.net
>>625
俺も作り話だと思うけど、信長が死んだ後秀吉が天下をとったように、
何かの変事で豊臣の天下が終わる時は誰が盗むのかという話だろ。
秀吉が諸大名の前でそれを話題にしたのは官兵衛の謀反を警戒している
という脅しでもある。

629 :人間七七四年:2016/06/08(水) 10:56:46.44 ID:1FKyQxhh.net
>>628
>何かの変事で豊臣の天下が終わる時は誰が盗むのかという話だろ。

>>625
>そもそも他の大名も家康だの何だの答えられる状況なんですか?
と書いたように、つまるところそこが気になっていました
あくまで仮定の話としても、天下人の前でそんなことを言えるような状況だったのかなと
(信長の前で「次の天下?明智様ですかね」なんて言ったら即殺されそうじゃないですか
信長「とりあえず聞いただけだろ!信忠って言えや!」って具合に
そういう意味で)
秀吉に対しては言えたんですかね、諸大名は
逆に言えば、まだ元気なころだったので、そんな話ができる余裕があったってことですかね
秀頼という完全な跡継ぎがいる状況での死の間際とかだったら、冗談でもそんな話できないわけだから
脅しというのは、わかりますね
ありがとうございました

630 :人間七七四年:2016/06/08(水) 13:31:36.50 ID:fv8G6OBz.net
山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いのとき、
石田三成の石高(貫高)とこの時どんな働きをしていたか教えてくらはい

631 :人間七七四年:2016/06/08(水) 18:03:23.87 ID:GW2aSoft.net
>>629
豊臣の天下は盤石であるという大前提のもとに、仮にそういう事態になったら
天下を取る器量を持つのは誰かというお遊びとしての話でしょ。
でも信長が死んで呆然とする秀吉に官兵衛がチャンスが巡ってきましたと
囁いたことは忘れてないぞ(俺が死んだらチャンスと考えるんだろう)、と機会が
あったら言ってやりたいと思っていたのでその機会を作った、ということでもあります。
創作だと思うけど。

632 :人間七七四年:2016/06/09(木) 14:58:20.27 ID:prWaj1hL.net
>>627
関白になるために前職に就いてるだろアホw

633 :人間七七四年:2016/06/09(木) 17:23:11.02 ID:5/1UNqwt.net
それは前職の話だろ

634 :人間七七四年:2016/06/10(金) 21:51:20.59 ID:KQh0BL9p.net
唐突ですけど秀吉の唐入りをヨーロッパはどういう目で見ていたのでしょうか?
極東とはいえ、十万数万〜二十数万規模の国家間の戦争は15世紀でも
最大規模のはずですがそれについてのヨーロッパの反応は殆ど分かりません
新聞でも日記でもなんでもいいので教えてください

635 :人間七七四年:2016/06/11(土) 15:42:51.27 ID:9W3W637t.net
敗北らしい敗北を経験していない無敗の将っていたのでしょうか?

636 :人間七七四年:2016/06/12(日) 05:03:49.40 ID:LaDegFpK.net
戦歴が短い少ない武将には居ないこともないが有名武将では居ない

637 :人間七七四年:2016/06/12(日) 10:34:50.50 ID:iSZGqv7q.net
>>635
マイナーだけど津軽為信
南部や安東相手に負けなしで10年以上戦っていた

638 :人間七七四年:2016/06/12(日) 19:44:28.78 ID:LaDegFpK.net
津軽為信も館田林の戦などで敗戦したと言われています。

639 :人間七七四年:2016/06/12(日) 21:14:40.49 ID:QBC7OOdA.net
六羽川合戦で津軽為信が勝利したっていうのも何だかなあって気がする
WIKIだと為信の勝利って書いてるけど、本陣衝かれて旗本はおろか
影武者まで死んだ状況から挽回って無理だろ
信玄や信長だってそんな真似できんって

640 :人間七七四年:2016/06/12(日) 23:41:56.50 ID:wP0u+TM5.net
wikipediaによればそこから敵の総大将を討ち取ったっていうんだから勝ちだろう。
身代わりを討ち取って油断したというんだから、「勝って兜の緒を締めよ」とはこの事だ。

641 :人間七七四年:2016/06/12(日) 23:51:11.53 ID:flbY7Lxd.net
鎧と胴丸と腹巻きってどう違うんですか?

642 :人間七七四年:2016/06/13(月) 00:39:05.31 ID:yZtEZFSV.net
>>641
鎧は総称。胴丸とか腹巻は鎧の種類。違いは胴の開口部が右脇にあるのが胴丸、
背中にあるのが腹巻。

643 :638:2016/06/13(月) 21:49:45.12 ID:ra9DvKU8.net
>>642
そうなんだ!
すごく分かりやすいです、ありがとうございます!

644 :人間七七四年:2016/06/13(月) 22:28:27.13 ID:yZtEZFSV.net
>>643
詳しく言えば違いはもっといろいろあるし、胴丸でも腹巻でもない鎧もいろいろあるけどね。

645 :638:2016/06/14(火) 00:11:43.62 ID:k3dvA829.net
>>644
そうみたいですね
繋ぎ目のないのっぺりした鎧も見ました
信長が使ってた?南蛮胴とかもありますよね

646 :人間七七四年:2016/06/14(火) 00:25:19.13 ID:ka3ASA0S.net
開口部の位置でも名前は変わるし、袖の有無でも変わるし、形状によっても名前後変わるのでめんどうさい

647 :人間七七四年:2016/06/14(火) 00:28:49.66 ID:ka3ASA0S.net
>>645
繋ぎ目の無いのは仏胴か南蛮胴かな? その辺りの胴は籠手とか脛当てとかとセットで具足になる場合が多いですね

648 :人間七七四年:2016/06/14(火) 17:11:19.31 ID:X8hS19NK.net
>>645
>信長が使ってた?南蛮胴とかもありますよね
信長は絶対とは言い切れないけど南蛮胴は使ってなかったようです。
確実に使ってたのは家康。

649 :638:2016/06/15(水) 22:13:54.83 ID:SSDW4yNf.net
>>648
そうなんですか?読んだ小説では信長が着てたので
信長だったらありそうだなと思ってました

のっぺりしたのは仏胴でした
赤くて人の体みたいな鎧もありますよね
逃げる時には軽くて丈夫な和紙でできた鎧を使ってたとどこかで聞きました

650 :人間七七四年:2016/06/15(水) 22:41:54.63 ID:efY34cuV.net
>>649
>信長だったらありそうだなと思ってました
試しにプレートアーマーを着てみて動きにくいな、といった事はあったかも知れないけど、
それを改造して南蛮胴を作るところまで行ったかどうかは定かでないです。

651 :人間七七四年:2016/06/20(月) 00:38:23.86 ID:ec8QKINU.net
晩年の家康が信長や秀吉を評した文献とかって存在する?

652 :人間七七四年:2016/07/06(水) 17:39:26.23 ID:JCyUX4Hd.net
昔の人は、元号をどうやって知ったのだろう?

手紙とかに元号はちゃんと記載しているし
やっぱり朝廷の使いが全国行脚して知らせまわったのかな?

653 :人間七七四年:2016/07/06(水) 20:31:41.89 ID:isKXWEFJ.net
幕府から関係各所に連絡がいく。
それでも伝わらないところも暦を見れば書いてある

654 :人間七七四年:2016/07/06(水) 21:44:22.74 ID:ci5iBoUH.net
>>653
戦国(足利)時代でも幕府がそれなりに機能していたのかね
ただ織田信長が足利を追放してからはどんなだろう
元亀→天正

655 :人間七七四年:2016/07/07(木) 07:28:50.19 ID:18ifkYPF.net
そういえば信長が暦を作らせていたような

656 :人間七七四年:2016/07/07(木) 08:56:50.57 ID:1sh9YOo6.net
>>655
作らせたんじゃなくて採用しただけじゃないか

657 :人間七七四年:2016/07/07(木) 10:08:32.90 ID:/plePg+5.net
暦は農民にとっても重要だし意外に隅々まで普及してたのかな

658 :人間七七四年:2016/07/07(木) 19:40:33.61 ID:EJkX/WZT.net
義輝が近江に逃げてた時に改元されて、知らずに前の元号で手紙を出した、っていうことがあったはず。
その後、改元したことを知らされて朝廷に抗議してる。

659 :人間七七四年:2016/07/07(木) 20:33:07.82 ID:dK22ZvrX.net
三島暦

660 :人間七七四年:2016/07/13(水) 16:57:09.94 ID:iKBw21V9.net
地主の日記に、改元を知らずに以前の元号を使用した日付があったりして、
通達が末端まで行き渡るのはすぐじゃないのだな、きっと

661 :人間七七四年:2016/07/13(水) 19:31:15.11 ID:iFGhvBAP.net
当時は大名の子供といえども乳幼児のうちに死ぬのは仕方がない感じ?
育成係が責任問われたりしない?

662 :人間七七四年:2016/07/13(水) 23:03:45.36 ID:YdWzy7GN.net
問われたら誰も乳母や教育係なんて請けないよ
江戸時代の被支配者階級でさえ乳幼児の死亡率は50%を超えてたくらいだし
戦国時代だとそれ以上の死亡率だったことは確実。

663 :人間七七四年:2016/07/14(木) 08:56:49.43 ID:CVRFIORC.net
江戸時代のほうが過保護だから、すぐ死ぬ子どもは多かったろ
養子相続が多い

664 :人間七七四年:2016/07/14(木) 09:39:20.83 ID:OkyICvEH.net
過保護だとすぐ死ぬ理由がサッパリ分からん

665 :人間七七四年:2016/07/14(木) 09:53:39.95 ID:n76eXAwS.net
良く分からん憶測だな

666 :人間七七四年:2016/07/14(木) 10:17:17.09 ID:CVRFIORC.net
過保護に育てられると生命力が弱まることもわからんかね
徳川将軍の初期とそれ以降では骨格が全然違う
やわらかいものしか食わないからアゴが発達しなくなった

667 :人間七七四年:2016/07/14(木) 10:19:52.61 ID:n76eXAwS.net
もっと顎の細い現代人も短命なんだ

668 :人間七七四年:2016/07/14(木) 10:34:05.34 ID:VI0bjX2T.net
>>666
過保護に育てられなきゃ、もっと早く死ぬだけだろ。

669 :人間七七四年:2016/07/14(木) 10:39:16.24 ID:CVRFIORC.net
>>667
医療の進歩ってわかる?

670 :人間七七四年:2016/07/14(木) 10:42:17.34 ID:9LD0tQt0.net
江戸時代の子供は徳川将軍家並みの贅沢な食事をしてたとでも言うのか?

671 :人間七七四年:2016/07/14(木) 12:43:11.18 ID:e40z0JPW.net
乳離れしてないくらいの乳児がたくさん死んでたのもやわらかい食べ物のせいですか
そうかそうか

672 :人間七七四年:2016/07/14(木) 13:42:00.05 ID:S5BeJI2+.net
過保護とかw
綱吉の憐れみが浸透する頃までは子供はモノみたいな扱いだし間引き棄て子もあったでしょ

673 :人間七七四年:2016/07/14(木) 23:27:34.77 ID:u4jG6fwO.net
江戸時代の旗本御家人の子は生まれても問題なく成長できる目途がたたなきゃ
出生届を出さない例が珍しくない
そうすればサバ読んで元服させる事もできるんで

674 :人間七七四年:2016/07/14(木) 23:57:42.89 ID:n76eXAwS.net
だからなんだ?

675 :人間七七四年:2016/07/15(金) 17:41:09.12 ID:nPBA5N9y.net
江戸時代の大名の子どもの話>>661から始まった
スレの流れすらつかめないやつが複数

676 :人間七七四年:2016/07/15(金) 17:49:33.68 ID:N/RNWPfv.net
>>661から>>663へ飛躍する理屈がサッパリ分かりまへん

677 :人間七七四年:2016/07/20(水) 11:33:07.09 ID:1jGRLkQG.net
武将の手紙は、相手はちゃんと読めたのだろうか?
むしろ、ミミズが這ったような文字を、よく読めたよな

678 :人間七七四年:2016/07/20(水) 12:29:09.74 ID:nMsEvtnS.net
そりゃ読めるだろ。どっちにしろ使者がもっと詳しい話をするから無問題

679 :人間七七四年:2016/07/20(水) 13:09:37.65 ID:SCKHW7SU.net
武将の手紙は、意外に諱を使ってるよな
失礼にならないのか?

680 :人間七七四年:2016/07/20(水) 13:33:15.84 ID:nMsEvtnS.net
名指しが不敬なだけで使用が失礼な訳ではないからな
宛名も一周回って最厚礼(おれたちマブダチ的な)になる事もあるらしい

681 :人間七七四年:2016/07/20(水) 16:22:13.81 ID:daAkwI4G.net
"政宗"は親しみの現れですよw
決して馬鹿にはしてないですよw

682 :人間七七四年:2016/07/22(金) 07:18:44.63 ID:9wuQdvRD.net
合戦屏風を見ると大袖をつけた胴丸がほとんどで当世具足があまり見られませんが
当世具足はいつごろから使われたのでしょうか

683 :人間七七四年:2016/07/22(金) 09:50:10.06 ID:74Q5G0gf.net
屏風絵は見栄えを良くするためにあえて大鎧風に書いてるそうです。

684 :人間七七四年:2016/07/22(金) 10:04:40.59 ID:K7PxzeWc.net
江戸時代の参勤交代についてお訪ねします。
半数の大名が江戸詰め、半数の大名が国許となると
完全A組B組状態になって双方が顔を合わせる機会は無かったのですか?

685 :人間七七四年:2016/07/25(月) 00:15:41.40 ID:tn1r/2mj.net
母衣衆ってあの母衣邪魔じゃなかったのかな
あんなの付けて走るとか、自分の足だろうと馬だろうとスピード落ちるだけだと思うんだけど
矢とか銃弾よけって聞いた気がするけど、そうだったの?

686 :人間七七四年:2016/07/25(月) 00:33:43.71 ID:WxZGqFmD.net
矢除けです

687 :人間七七四年:2016/07/26(火) 21:16:53.04 ID:8olqy+Un.net
戦国時代関連の書籍を高く買い取ってくれる古本屋を教えてください

688 :人間七七四年:2016/07/28(木) 20:13:33.58 ID:NdXIj3YA.net
真田昌幸が三方ヶ原で徳川家康を破った というのはどの程度まで信用?していい逸話なのでしょうか?

最近 SNSや戦国時代サイト、私の兄弟や知り合いの間で
「武田信玄に仕えていた頃の真田昌幸は徳川家康をやぶったことがある」みたいな話が確定事項みたいになってまして
Wikipediaも見たのですが論拠は"甲陽軍艦"だけっぽいんです・・・・・・
(大河ドラマ・真田丸にも そんな感じの台詞があったとかそうです)

・昌幸は当時、武藤喜兵衛として信玄の側近であり 真田の本流である信綱・昌輝のように
一軍を率いる程の手勢が会ったとも思えず
・そもそも"家康を破った"というのは、三方が原の戦いにおいて
「(ほかの徳川武将隊でなく)家康の本隊を昌幸の手勢が破った」みたいな感じなのかも掴めません

※ Wikiにおける三方が原合戦の部分の出典は↓
「真田昌幸 (人物叢書 新装版) 単行本 ? 1996/7 柴辻 俊六 (著)」っぽいですが
この中では"甲陽軍艦"以外の史料も論拠になっているのでしょうか?

689 :人間七七四年:2016/07/28(木) 20:29:09.50 ID:oQRghfoD.net
三方ヶ原で家康を破った信玄軍に昌幸も参加してたちゅうだけの話だろ

690 :人間七七四年:2016/07/28(木) 22:15:23.98 ID:lanaOMGS.net
それだけの話だね。

691 :人間七七四年:2016/07/29(金) 16:26:45.89 ID:lCmXhnKQ.net
長いこと所領が変わっていない家ってありますかね?
ぱっと思い浮かぶのは蠣崎氏や寒河江氏といった遠国の氏族ですが
広さは問わず、他にいますかね?

692 :人間七七四年:2016/07/29(金) 16:52:03.41 ID:jqlE2XOh.net
阿蘇氏、諏訪氏などは何時から居るのかも分からないレベルやね

693 :人間七七四年:2016/07/29(金) 17:45:05.07 ID:YbWNi1Bh.net
ふと、滅亡の定義ってなんだろうか?
と思ったけど、ぐぐったら答えが出た

694 :人間七七四年:2016/07/29(金) 18:47:10.83 ID:5r+Udfc7.net
>>691
滅んだ寒河江氏もアリなら一杯居そうだけど。
とりあえず相馬氏。

695 :人間七七四年:2016/07/30(土) 02:34:05.82 ID:dAhBSCJF.net
社家の存在は忘れていました 神代から現代まで・・・これは比べ物になりませんね

696 :人間七七四年:2016/07/30(土) 16:14:09.28 ID:g2rAyIEa.net
母里太兵衛の息子(次男?)って何で
黒田家追放になったの? 忠之さんの仕業?

697 :人間七七四年:2016/08/02(火) 01:19:53.17 ID:yJCTilIp.net
真田信繁って大坂の陣の頃から「幸村」と名乗っていたというのは本当ですか?

698 :人間七七四年:2016/08/02(火) 12:16:06.96 ID:Q9zlc8D1.net
「幸村」と名乗っていた信頼できる史料は一切ありません。死ぬ2か月前の最後の書状でも信繁です。

699 :人間七七四年:2016/08/02(火) 13:29:51.42 ID:mn5ryuOE.net
森可成、金森可近(後の長近)、稲葉可通(一鉄)くらいしか例が無いのですが、美濃出身の武将の名前に「可」の字が入ってるのは何かしらの由来があるのでしょうか?

調べても何も出てこなかったので…

700 :人間七七四年:2016/08/02(火) 13:35:10.68 ID:mn5ryuOE.net
稲葉は良通だったので関係無かったです。

701 :人間七七四年:2016/08/02(火) 15:10:01.12 ID:ZcVXcoga.net
>>699
美濃森氏の通字の一つだよ>可

702 :人間七七四年:2016/08/02(火) 16:40:42.61 ID:jAP1FdqL.net
例えば、羽柴筑前守秀吉で、筑前守と官位が付けられているけど、
なぜ名古屋(地元)とはまったく関係無い場所の官位名を名付けたのだろうか?

一節には、九州まで攻めこむから付けたというけど、
九州の武将も伯耆守や山城守と九州とは関係無い官位が付けられたりする。

この理由が解る人はおりますでしょうか?

703 :人間七七四年:2016/08/02(火) 16:59:55.73 ID:mn5ryuOE.net
>>701
それは理解してます。可光からはずっと可の字使ってますよね。
森家で使われている可の字がなぜ金森でも使われたのか不思議なのです。両家に縁戚関係などありましたでしょうか…?

704 :人間七七四年:2016/08/02(火) 17:07:01.30 ID:mn5ryuOE.net
>>702
官位は戦国時代には殆ど名ばかりのものです。官位は朝廷に献金すれば朝廷公認で官位に就くことができます。秀吉の場合は、信長が朝廷に献金して筑前守の位を秀吉に授けるという感じですね。

705 :人間七七四年:2016/08/02(火) 17:07:50.46 ID:mn5ryuOE.net
>>702
この時代は官位とかは好き勝手に名乗っていた方が多かったです。その他は、先祖が使った官位を子孫代々襲名するというような事例もあります。

706 :人間七七四年:2016/08/02(火) 17:21:00.95 ID:jAP1FdqL.net
てっことは、語呂が良いとかカッコいいとかで、
その人の感性で官位を選んで付けた可能性が高い訳ですかね

707 :人間七七四年:2016/08/02(火) 18:02:35.94 ID:smxRNYdL.net
官位って金払えばいいって聞くけど、四品官以上じゃないとダメとかなかったっけ?
あと他の人と被ればダメとか、○○守は××家のみとか結構細かいルールあるよね。

708 :人間七七四年:2016/08/02(火) 18:51:43.48 ID:Q9zlc8D1.net
本来は厳密なルールがあってしかるべきものだけど戦国時代だからね。そもそもほとんどは詐称だし

709 :人間七七四年:2016/08/02(火) 19:52:51.52 ID:mn5ryuOE.net
>>707
親王任国(常陸・上総・上野)というのがありまして、そこの守には親王しか就けないという決まりがありました。これは戦国時代に於いても守られ、織田信長も最初は上総守を名乗ろうとしましたが、上総介を名乗りました。

710 :人間七七四年:2016/08/02(火) 19:55:23.68 ID:mn5ryuOE.net
>>706
異例と言っても過言では無い例を挙げると、大内義隆がいます。義隆は朝廷に莫大な献金を行い、「従二位・兵部卿」の官位を得ました。卿というのは殆ど親王が任じられる官位です。一種の権力誇示ですね。

711 :人間七七四年:2016/08/02(火) 20:26:38.52 ID:qaRjCenR.net
>>709
同じミス足利尊氏もやったり、今川家の人間ですらやらかしたり
このミスって結構他にもあったんじゃないかなあ、信長や尊氏は有名でかつ証拠物件が残ったから

712 :人間七七四年:2016/08/03(水) 03:03:28.02 ID:NY71+ABy.net
飛騨の三木氏が姉小路乗っ取って中納言自称してたみたいだけどこんなに高位のでも勝手に名乗ってよかったのだろうか

713 :人間七七四年:2016/08/03(水) 07:44:44.39 ID:HRjrFtP0.net
実力が伴っていなければ本物でも無視され、実力が伴っていれば自称でもそう呼ばれたりする

714 :人間七七四年:2016/08/03(水) 14:15:46.93 ID:RHkahsdq.net
自称のパターンでの疑問なのだけど
昨日までは武蔵守、今日から飛騨守
こういう場合、対外的にはまだいいとしても、家中ではどうやって認知していたんだろう
あらかた揃った評定の席で名乗っていたのか、予め事前に当主に告げておいて
一同が揃った場で当主から家中に通達する形式なのだろうか
それとも主だった者には廻状でも送っていたんだろうか

715 :人間七七四年:2016/08/03(水) 23:41:14.72 ID:iZXf+MQE.net
ここで聞くのがいいのか分かりませんが、昨日明け方の雷雨でふと疑問に思ったので
戦国時代って雷はどれくらい理解されてたんでしょうか
雷が起こるメカニズムはともかく、高いところに落ちやすいだとか電気であるとか
そういうのは認識されてたんでしょうか

716 :人間七七四年:2016/08/04(木) 01:57:10.39 ID:tqJi3z96.net
>>715
雷のメカニズムが解明されたのはここ100年ちょっと

それまでは、神鳴り、と言うとおり雷神様の仕業。
また稲妻と言うように、稲作に対しての風物詩みたいなものだったから、やっぱり神様の仕業だと考えられたと思う。

地震だって、ずっとナマズの所為だと考えられた時代ですしね

717 :人間七七四年:2016/08/04(木) 23:46:52.68 ID:vQXdMOHM.net
>>716
戦国時代はまだ雷神様だったんですね!
正体を知らずに激しい雷雨なんてなったら、さぞかし怖かっただろうな…
地震もナマズの仕業の時代でしたか。ちょっとほほえましいw

>雷のメカニズムが解明されたのはここ100年ちょっと
これさえ知らなかったので勉強になりました。ありがとうございます

718 :人間七七四年:2016/08/09(火) 01:05:31.49 ID:3FyK8D2P.net
メカニズムを知らなくても対処法は経験で知っているから問題無い
なにせ雷雨や台風や地震といった自然災害のオンパレードと1000年以上ガチでやり合ってきた民族なんだ

719 :人間七七四年:2016/08/09(火) 20:44:16.37 ID:NEbzg0nS.net
赤穂浪士の「人々心覚」ってなんて読むの?

720 :人間七七四年:2016/08/09(火) 20:56:38.32 ID:/76shOCp.net
ここ戦国板やで

721 :人間七七四年:2016/08/09(火) 20:59:15.71 ID:NEbzg0nS.net
板間違えとかやっちまった…
すみません

722 :人間七七四年:2016/08/09(火) 22:45:50.01 ID:gj6MoZzR.net
桶側胴が使われ始めたのはいつ頃ですか?

723 :人間七七四年:2016/08/13(土) 23:22:55.98 ID:xNCozrl+.net
>>718
問題ないと言っても地震、雷、火事、親父(台風)と昔から言われてる。
落雷の直接的な死傷者や、落雷が原因の火事は単純な火事や台風よりも
圧倒的に多かったんだろうな

724 :人間七七四年:2016/08/14(日) 11:31:10.78 ID:ISmYaOx3.net
>>723
それはあくまで怖いものだから被害とは別

725 :人間七七四年:2016/08/20(土) 09:56:17.01 ID:k6acZmNa.net
>>722
戦国時代じゃね?

726 :人間七七四年:2016/08/21(日) 23:28:06.97 ID:hY3lXwZz.net
足軽胴で有名な桶側胴や頭形兜などの量産が容易な甲冑は早くても安土桃山時代かららしいのですが
それまでの足軽はどのような甲冑をどのようにして手に入れていたのでしょうか?
腹巻などは足軽の身分でも手に入ったものなのでしょうか?

727 :人間七七四年:2016/08/22(月) 08:08:53.50 ID:nK1SnlZa.net
金さえあれば具足を用意できるけど、敵からは武将と認識されて狙われるだけだから足軽が着るメリットはほとんどない気がする

728 :人間七七四年:2016/08/23(火) 12:26:43.73 ID:9S4+p7un.net
足軽の具足は基本自弁です。代わりに軍役を務めた分年貢が免除されます。
自弁できる財力がある本百姓階級が足軽階級となります。
また一部では具足を貸与される御貸具足という制度もありました

729 :人間七七四年:2016/08/26(金) 12:30:21.11 ID:+6w7jCKn.net
                【親米ポチ】     テロリストはお前らだろ(笑)     【時代遅れ】


渡邉哲也氏「SEALDsは終わっていない…すでに公安の監視対象団体に。テロリスト予備軍や準テロリストのような扱いになってしまった」
https://twitter.com/tok aiama/status/768921457623601153
世界の公務員平均年収(円)  一位日本898万  二位アメリカ357万
https://twitter.com/sohbunshu/status/768371636286263296


覚者より 『彼らの時代はほとんど終わっている。間もなく起こる出来事が政府の力を再分配し、国民を解放するだろう。』 2016、8


   ∧,,,∧
  (´・ω・`) < 近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。
  (|   |)
   し--J


最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。

差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。


日本から始まる世界的株式市場の大暴落

ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。
マイト レーヤはまずアメリカに現れ、それから日本です。彼は日本語で話し、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。彼は「匿名」で働いております。


マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。

矢追純一 「宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ宇宙人の存在を公表しなさい。ロシアという大国の首相がね、2回も言ってるんだからね。」

730 :人間七七四年:2016/08/28(日) 21:18:43.57 ID:6XH9aG+T.net
家康は馬に乗れたのでしょうか?
壮年期以降は相当の肥満体だったらしいですが
関ヶ原とかはどうしてたんでしょう?

731 :人間七七四年:2016/08/28(日) 22:56:37.20 ID:tffElY5u.net
>>730
鷹狩が趣味なのに馬に乗れないわけない
死ぬ直前まで鷹狩をしているので馬に乗れないほどの肥満体ではないのがわかる
あと家康は馬術の達人ともいわれている

732 :人間七七四年:2016/08/29(月) 18:46:24.53 ID:ybo2C6K2.net
普通に馬に乗っている。肥えていたのは事実だが
金さえあれば巨馬も買えるし問題ない

733 :人間七七四年:2016/08/29(月) 18:58:56.69 ID:6U20OwOl.net
朝青龍(184cm、154kg)もモンゴルで馬に乗ってたし
肥満かどうかよりも動けるかどうかの方が重要なんだと思う

734 :人間七七四年:2016/08/29(月) 21:57:37.35 ID:vadZhrM9.net
今川義元が馬に乗れない肥満体じゃなかった?

735 :人間七七四年:2016/08/29(月) 22:00:40.96 ID:jwGAFBn6.net
どーでもいい

736 :人間七七四年:2016/08/29(月) 23:14:31.40 ID:NeXsuzA0.net
>>734
そういう話があるのは竜造寺隆信じゃなかったっけ?

737 :人間七七四年:2016/08/30(火) 00:21:21.96 ID:tWuU2Lhd.net
>>734
桶狭間の出陣前に、短躯だから落馬して縁起わるーって家臣から思われたとかなんとか
だから馬やめて輿にしたって話ならあるよね

738 :人間七七四年:2016/09/01(木) 16:53:22.36 ID:CL0LzVRD.net
>>730
家康は馬に乗れたかどうかを疑問に思うも何も、
馬術は達人級と言っていい技量があった
家康が太り始めたのは関東移封の頃からと考えられる
名護屋在陣の頃には、昔から家康を知っている連中から
「この頃太ったんじゃね?」と気にされ始めている
関ヶ原ではまだ甲冑を着用して馬にも乗っていた
駿府大御所時代、極端に肥満が進んだ
大坂の陣では甲冑を着用せずに馬に乗っていた
表面積が増えた体格に合わせて作った鎧は重量が嵩み、
鎧を着て馬に乗ろうとすると、馬が潰れてしまう
鎧抜きなら、馬も耐えられる

>>734
ありえない
今川義元は騎射術である小笠原流を修めている
馬に乗って弓を射る作業ができないはずがない
・寡兵に敗れた
・その思いがけない大敗で討ち取られた
・その戦いでは輿に乗って指揮を執っていた
といった共通項がある竜造寺隆信と混同されたものだろう

739 :人間七七四年:2016/09/01(木) 17:44:58.75 ID:r+8Ycjpb.net
『信長公記』で桶狭間の時に身分を表す塗輿を持参してたから、
輿がある→輿に乗ってた→馬に乗れなかったと短絡的に創作されただけの話で
『信長公記』でも今川義元はちゃんと青毛馬に乗ってますがなで終了な話やね

740 :人間七七四年:2016/09/02(金) 12:48:59.15 ID:/OWwNX+W.net
今川義元が鎧兜着て馬に乗ってる絵があるよね

741 :人間七七四年:2016/09/03(土) 16:46:38.48 ID:tvXmdHy7.net
ホント、今川義元が馬にも乗れない肥満て間違った認識、
一体どこから湧いたのか不思議

やはり龍造寺隆信と取り違えられたんかね
地方が大きく異なるけど

742 :人間七七四年:2016/09/03(土) 19:08:44.64 ID:c4pV0q+e.net
昔、なんかの本で読んだな。
たしか、徳川実紀に記述されたのが広まったんじゃないかって、書かれてた。

743 :人間七七四年:2016/09/03(土) 23:04:37.25 ID:8zk873oj.net
岩屋城の激戦の逸話しか知りません
谷川大膳のことなんでもよいので知りたいです
家系など調べても息子の名前すら解らずじまいです
どのような地位なのでしょうか?
宗茂公の兵学指南役とか書いてましたが特別な役割を担う人物だったのでしょうか?

744 :人間七七四年:2016/09/04(日) 13:57:55.67 ID:naMDgrzc.net
徳川実紀は違うだろ
桶狭間関連で、実紀を原因として蔓延した謬説は、
・今川義元が軍事行動を起こした目的が上洛
・敗戦後、今川氏真は蹴鞠で遊んでいた

義元が馬に乗れないと発想させるような記述があるのは実紀じゃない

745 :人間七七四年:2016/09/07(水) 20:04:28.15 ID:980ZNp7g.net
>>741
そもそも龍造寺隆信からして討たれた時に駕籠や輿に乗っていたとはされているが
馬に乗れないとは書かれていない、馬には乗っていないというだけ

746 :人間七七四年:2016/09/08(木) 22:19:40.72 ID:RU5dAhwg.net
まあな
最晩年の、確実に極度の肥満だった家康だって(鎧を着なければ)馬に乗れてたわけだしな
乗っていなかったイコール乗れない、じゃないことは判ってるよ

龍造寺隆信が馬に乗っていなかった→馬に乗れない という短絡が先にあり、
その後に今川義元に転用されたのではないかという推測が述べられているだけ

747 :人間七七四年:2016/09/10(土) 21:35:43.05 ID:vXSUzqxv.net
秀吉が肥前名護屋在陣中に、大坂在城中の淀殿が秀頼を懐妊しましたが、
当時の精子冷凍輸送・人工授精技術は実用水準にありましたか?

748 :人間七七四年:2016/09/10(土) 21:53:06.93 ID:Nk6DWhRL.net
ばーか

749 :人間七七四年:2016/09/19(月) 18:29:57.53 ID:orbcD1bq.net
関ヶ原で朽木元綱は減封とも安堵とも有るんですがどっちなんでしょうか?
2万石とも9千石ともみるんですが
ひょっとして関ヶ原前の2万石は、空いてた大溝城周辺を預かった一時的なもの、とかでしょうか?

750 :人間七七四年:2016/09/19(月) 18:45:41.59 ID:DzjVDZ49.net
元々9千石で藤堂高虎に話を付けてあり戦後9千石なので安堵ですね
たしかに朽木元綱は太閤蔵入地代官を務めていたのでどこかに1万石ほど預かり地があったとすれば辻褄が合います

751 :人間七七四年:2016/09/20(火) 20:56:37.71 ID:1+SrUXXW.net
関ヶ原の戦は1日で決着付きましたが、戦って平均的にはどれくらい日数かかるんですか?
長いと1年とかかかるんでしょうか

752 :人間七七四年:2016/09/20(火) 21:26:20.33 ID:n08HPUBu.net
応仁の乱

753 :人間七七四年:2016/09/22(木) 21:17:20.25 ID:JxagMOjz.net
戦国時代の薩摩島津には城がなかった、関ヶ原で負け組に付いて徳川方の侵攻の
おそれが出て来て、初めて城を作ったのは本当ですか

754 :人間七七四年:2016/09/22(木) 22:10:40.91 ID:5dHM/Vza.net
嘘です。

755 :人間七七四年:2016/09/30(金) 06:36:18.98 ID:AFHCJOWP.net
ウィキペディアで関ヶ原の戦い、大谷吉継、浅井畷の戦いの記事みて混乱したんですが

関ヶ原の戦いのページ:
伏見城陥落後、大谷吉継は北陸道平定に向かい〜

大谷吉継のページ:
吉継は敦賀城へ一旦帰還し、
東軍の前田利長を牽制するため越前国・加賀国における諸大名の調略を行った

浅井畷の戦い〃:
西軍の大谷吉継は前田利長の動きを封じるため、越前や加賀南部における諸大名に対して勧誘工作を行なった。
その結果、越前の諸大名の多くが、西軍に与した
前田利長は危機感を抱き、加賀南部や越前を制圧すべく、2万5000人の大軍を率いて7月26日、
西軍に与した丹羽長重が守る小松城を包囲攻撃した
大谷吉継は伏見城攻防戦など、上方にとどまっていたため、
しばらくは北陸に対する軍事行動を起こすことができなかったが、
8月3日に入ってようやく越前敦賀に入り北陸方面に対する軍事行動を起こした


とそれぞれ書いてあるんですが、浅井畷の記事だけ読むと吉継が越前・加賀の調略を始めたのが敦賀に帰還する前、つまり伏見城の戦いの真っ最中だったことになり、
関ヶ原の戦いのページと矛盾してしまいます。
それとも吉継は伏見城の戦いの最中に一旦敦賀に帰還したのち調略を開始し、調略終了後伏見に戻ってから再度敦賀に帰還したってことですか?
分かりにくくてすいませんが大分混乱しています...

756 :人間七七四年:2016/09/30(金) 21:41:21.83 ID:Ae0ODuVR.net
>>755
あなたのレスだけ見て書くけど、関ヶ原の記事の「伏見城陥落後に北陸道平定に向かった」と
浅井畷の記事の「伏見城攻防戦で上方にとどまっていたが8月3日に北陸方面へ軍事行動を開始」は
矛盾しないと思う。

ここで言う調略はお手紙作戦で伏見城を囲みながらでもできる。秀吉だって中国大返ししながら
諸大名に「信長公はご無事」とか嘘の手紙を書いて多数派工作をしている。

757 :人間七七四年:2016/10/01(土) 00:01:33.75 ID:Kj2vYZzK.net
>>756
なるほど器用なことしますね吉継も。
でもそれだと大谷吉継のページの「吉継は敦賀城へ一旦帰還し、
東軍の前田利長を牽制するため越前国・加賀国における諸大名の調略を行った 」
と矛盾しませんか?

それとも「一旦帰還し(た後、伏見城攻めに加わってから)、
東軍の前田利長を牽制するため越前国・加賀国における諸大名の調略を行った」
という解釈が正しいんでしょうか

758 :人間七七四年:2016/10/05(水) 06:38:30.11 ID:tsSv7y7w.net
三成が勝っていたら、豊臣家は安泰だったのでしょうか?
忠臣で秀頼を支えて行ったような気はしますが。

信長の忠臣だった秀吉の織田家へのふるまい、
秀頼のいちおう臣下だった家康の豊臣家へのふるまいを
みたら、勝った者が天下を取るような気もします。

1 豊臣家が長く政権を握った
2 三成が天下を狙って豊臣家は傀儡となり最終的に滅亡した
3 他の武将が乱立して戦国時代への逆戻り。
どれが一番可能性が高かったでしょうか?

759 :人間七七四年:2016/10/05(水) 12:57:00.93 ID:k9O2fUEN.net
豊臣の忠臣ってだれだよ?
という話

760 :人間七七四年:2016/10/05(水) 13:19:29.43 ID:gOIwRA7i.net
質問スレでIFられても答えようがない。妄想垂れ流しにしかならんからな

761 :人間七七四年:2016/10/05(水) 21:07:43.13 ID:zMbiQqx2.net
2ちゃんですし垂れ流しでもよいのでは。三成の勝ち方を想定した上での推測?妄想?になるでしょうが。
>>757
Wikiの当該記事の前後を読んだだけで憶測を述べますが、流れとしては>>756の通りと思います
7月11日に吉継が三成に加担し、徳川に母を人質に出した前田は徳川につくと見て、11日以降に越前・加賀の諸大名に書状による勧誘工作を行い
(実態とは違うと思いますが大河ドラマでも描かれていました)
7月18日〜8月1日の伏見城攻防戦に加わる。吉継の説得工作が成功したので、前田は危機感をもち7月26日以降加賀・越前の平定をはかって出兵したが、吉継は伏見城攻略に手間取り動けず
3日にようやく越前に入り、前田への謀略工作を行ったので浅井畷の戦いに至り、吉継は前田封じ込めに成功したとみて美濃に赴き関ヶ原の戦いにのぞむ
確かに吉継の動きは器用です。吉継が西軍につかなければ北陸が不安で関ヶ原ところではなかったかもしれません
それはともかくWikiの記述は矛盾していると思います。敦賀帰還後に諸大名を勧誘したのでは、前田の動きとつじつまが合いません
ついでに関ヶ原の戦いの「大谷吉継は北陸道平定に向かい」も大げさな表現と思います。北陸道平定というと前田攻略くらいのニュアンスになるでしょうが
吉継はそこまでは思わず、前田を封じ込めたら十分と考えていたように感じます

762 :人間七七四年:2016/10/06(木) 08:17:58.65 ID:bnRyC17q.net
分からないよ
史実ですら僅かな資料をもとに推測するのがやっとなのに
実際に起きていない事の結論を出すなんて100%不可能

763 :人間七七四年:2016/10/07(金) 07:27:28.59 ID:XIijdJRw.net
6 名前:人間七七四年
投稿日:2010/02/01(月) 08:23:27 ID:zlaqtJ5a
隠岐氏は戦国時代に合戦したことあったけ?

764 :746:2016/10/07(金) 22:19:33.41 ID:Bufl/d+0.net
>>750
誠に遅レスですみません、御回答ありがとうございます。
最近「関ヶ原の真実」本で「朽木が参戦しなかったのでは」という内容をみたときに、ふと湖西方面の勢力がどうなってたのか気になって質問させて頂きました。

ちょっと似たような質問なのですが、本能寺以降〜関ヶ原までの近江湖西(現高島市あたり?)の支配はどういった感じだったのでしょうか?
京の背後でもと津田信澄/明智光秀のお膝元のわりに、豊臣政権時はあんましどうなってたのか良く分かりません。堅田、塩津といった要衝もあったと聞き及んだのですが…
近江東部と比較して、軽視されていたのでしょうか?

765 :人間七七四年:2016/10/08(土) 00:33:04.20 ID:+hvwbx+s.net
現高島市にあった大溝城なんかは2〜5年ごとに領主が変わったり蔵入地になったり目まぐるしい
出世させる予定の家臣をとりあえず置いておく場所といった感じ

766 :人間七七四年:2016/10/10(月) 00:42:48.95 ID:EGytylKT.net
>>761
遅れましたがありがとうございます
Wikiが間違っていたのですね納得がいきました

767 :人間七七四年:2016/10/12(水) 11:14:20.45 ID:kNXZUyAp.net
羽柴秀吉が中国戦線で行なった兵糧攻め、三木城や鳥取城の千殺しではどのくらい毛利方の農民は死んだのでしょうか?
ネットや本で調べても、このこと自体を取り上げて吉川経家の切腹に触れているぐらいで犠牲者数がわかりません。

三木城では7500人がこもったらしいですが何人ぐらい生き残ったのか気になります。

ある議論で
A「秀吉も残酷なことをした。↑とか」
B「兵糧攻めで開城後はメシを振舞ったんだろ? 犠牲者はせいぜい敵味方あわせて数十人〜数百人ぐらいだろ」
みたいな話になりまして、具体的な死傷者戦死者の数が知りたいです。

768 :人間七七四年:2016/10/12(水) 19:03:52.85 ID:S0CAIkHG.net
一次史料で見る戦での数は基本的には後で言うところの士分の数であって
足軽などの雑兵はカウントされなかったり別枠でカウントされたりもする
まして討っても手柄にならない農民などは全く数には入らず、城方ですら正確な数は把握していなかったとみて間違いない
従って不明としか言いようがない

769 :人間七七四年:2016/10/12(水) 19:51:26.02 ID:g2N7q+iK.net
三木城は秀吉が書かせた天正記に数千人が餓死したとあり、また生き残りも皆殺しにしたと取れる書状もあり、かなりの死者が出たと思われます。
鳥取城も籠城中は同じように悲惨で開城した後に食事をさせたらバタバタと死んだと記載されてます。
正確な数字は上レスにあるように分かる物ではないですが死者数十人〜数百人なんて事はまずないでしょう。

770 :人間七七四年:2016/10/13(木) 07:36:34.38 ID:A7egBwwB.net
この時代、戦で人を殺すのは手柄であり多く討つほど良い
だから書状や自家編纂の書物では戦功として吹きまくるのが常なので数に関しては当てにならないと考えるのが無難
全滅したと記されていながら、その後死んだはずの武将が普通に出てきたり
かの有名な政宗の撫で切りも家中での書状と対外的な書状では5倍も数に開きがあり
武威を知らしめるため相当に吹いていた

771 :人間七七四年:2016/11/02(水) 12:43:23.14 ID:w6m3PYad.net
くだらない質問なのだけど、
今川氏の重臣に鵜殿氏っていたけど、同輩あたりからは何と呼ばれてたんだろう

鵜殿殿?
周りも気をつかって受領名あたりで呼んだんだろうか
長照なら長門守殿、みたいな

772 :人間七七四年:2016/11/02(水) 14:02:19.26 ID:gymOnTOG.net
>>771
気をつかうも何も普通受領名か仮名だよ。諱だけじゃなく名字も、この時代あからさまに呼ぶのは無礼。

773 :人間七七四年:2016/11/02(水) 23:26:39.03 ID:+NHWFVhR.net
>>771
常識的に考えて、その人だけ他の人と違う呼び方してたら、そっちの方が失礼だろ

774 :人間七七四年:2016/11/03(木) 01:10:57.28 ID:KIFrU9p8.net
>>771
鵜殿殿って、別に気を遣わなきゃならないほど変な言い方じゃないだろ

775 :人間七七四年:2016/11/03(木) 07:19:36.11 ID:pH32On2P.net
いや、変だよ
普通に笑うよ(´・ω・`)

776 :人間七七四年:2016/11/03(木) 11:58:22.86 ID:5+aVGgwp.net
松殿殿、鶴殿殿「せやな」

777 :人間七七四年:2016/11/04(金) 14:18:47.70 ID:OZ8Fc/8S.net
先日、古い角川映画の「天と地と」を見ました。
内容はアレとして、クライマックスの合戦シーンはお金かけて人を集めただけあって迫力がありました。
広角で戦場全体をうつして各隊ごとの動きを見せたり、陣形を見せたり、槍隊が戦ってる横を騎馬隊が
走り抜けたり・・・と合戦シーンだけでも他の戦国ものの映画とは一線を画していて、そこだけでも見る
価値がありました。

ただ、あれってどこまでリアルなんでしょうか?
もちろん本物の合戦を見たことある人はいないのでなんともいえないのでしょうが、ここがおかしい、とか
ツッコミどころも多いんでしょうかね?
人はたくさん出てるけど、若干牧歌的な感じがして・・・

778 :人間七七四年:2016/11/04(金) 14:44:23.80 ID:0Vm1NJA+.net
少なくともあんな草原は川中島にはありません。

779 :人間七七四年:2016/11/04(金) 16:36:35.19 ID:NDzXTUNk.net
娯楽映画だし

780 :人間七七四年:2016/11/04(金) 17:22:56.81 ID:QsPd4QTg.net
最近のYahoo知恵袋にて 
「大阪の陣に際し、後藤又兵衛が豊臣方につこうとした時 徳川家康から黒田長政側に戻れるよう取り計られたが(又兵衛は)断ったそうですが
 その理由はなんでしょうか?」

という質問があったのですが、そもそも そのような逸話が本当にあるのでしょうか? (初耳です)

781 :人間七七四年:2016/11/04(金) 18:07:57.87 ID:0Vm1NJA+.net
『芥田文書』にそういった記述があるそうです。

782 :人間七七四年:2016/11/04(金) 20:06:41.87 ID:QsPd4QTg.net
>>781
ありがとうございました。

783 :人間七七四年:2016/11/04(金) 20:18:05.14 ID:cK2dL+Yk.net
長政の所に戻るように働きかけられたのは二条城の会見の後では?

大坂の時は播磨一国をやるから城を出ろと言われたそうな

784 :人間七七四年:2016/11/07(月) 16:30:16.45 ID:G31ZCOPi.net
大阪の陣直前に死亡した織田信包について、Wikipediaでは
"片桐且元による毒殺の噂が流れたが、定かではない。"とあるのですが
そもそもこの話の出典は何なのでしょうか?

785 :人間七七四年:2016/11/08(火) 21:02:16.37 ID:a1w0W6IF.net
戦国時代って武将は家臣からなんて呼ばれてたんですか?
上様とか殿下とか御屋形とかありますけど、一般的には御屋形が多かったんでしょうか
殿もありましたか?

786 :人間七七四年:2016/11/08(火) 22:04:05.66 ID:BEdd1fu6.net
>>785
陛下、閣下、殿下は直接話しかけるのが憚られるような身分の高い人に対して
呼びかけるときに、代わりに階段の下に立ってる人とか建物の下に立ってる人に
声をかけるという形式の敬称なので戦国武将あたりには使わない。
屋形も幕府などの権威者から許可されないと使えない。
上様は戦国時代も含めて室町時代は大名にも使うが江戸時代になると将軍にしか使えなくなる。

大名でもないような戦国武将は殿かな。

787 :782:2016/11/09(水) 23:48:23.28 ID:kFh7juE4.net
>>786
詳しくありがとうございます
御屋形って一般的かと思ってました。けっこう特別だったんですね
勉強になりました

788 :人間七七四年:2016/11/10(木) 00:10:17.00 ID:Fk0zu8/T.net
>>787
昔は建物(おもに居住している場所)の名前を使って呼ばれていた場合があるからね
戦国や江戸時代だと二の丸様とか
御屋形様もその古くの名残り
武田信玄などは躑躅ヶ崎館が居城(城ではない)だったので御屋形様とか
殿様もそのひとつ
殿[との]ではなく殿[でん]は御殿とか神殿とか寝殿とか使われるけど大きな建物という意味がある
そこに住む人=殿様になるわけ
ちなみに殿上人はその建物に上がることができる(身分の)人ということになる
日本語って面白いよね

789 :人間七七四年:2016/11/10(木) 04:30:42.03 ID:iSivRud+.net
刈谷城について
家康家臣で刈谷城主の水野信元が武田家に内通したとかで追放されたあと佐久間信盛が城主になったけど
これって家康が「ご迷惑おかけしましたお詫びとして刈谷城さしあげます」
みたいに信長に対して釈明したものだと解釈していいの?
城丸ごと献上するのって結構なことだと思うんだけど

790 :人間七七四年:2016/11/10(木) 10:09:01.85 ID:XLb6pj8a.net
そもそも家康家臣じゃないし

791 :人間七七四年:2016/11/11(金) 07:59:49.99 ID:4gzlZi6/.net
大阪の陣の原因となった鐘、家康は呪いだと言いながら、なぜ家康もその後の将軍も鐘そのものを破棄させなかったの?

792 :人間七七四年:2016/11/11(金) 10:12:13.97 ID:0SZ/UPRj.net
>>791
アレを呪いなんていい出したのは家康の死後だっつーの。

793 :人間七七四年:2016/11/11(金) 12:04:57.49 ID:caFLy22Q.net
京都所司代に不吉じゃないかと注進する者あり
京都所司代板倉勝重が家康に報告
家康が五山の僧に鑑定を依頼
五山の僧は呪詛には触れず諱の無断使用を指摘
林羅山らが呪詛の件も含めて無断使用について清韓を尋問
清韓の弁明をいれて一時釈放
交渉役の片桐且元を大坂方が誅殺しようとして開戦

鐘銘事件は基本的には沙汰済み兼開戦でうやむやで
破棄するまでの理由がないという流れやね

794 :782:2016/11/11(金) 22:28:28.04 ID:WNeon15b.net
>>788
さらに詳しい解説ありがとうございます
屋形は建物そのものだな〜と思ってましたけど、御屋形も殿もそこから来てたんですね

795 :人間七七四年:2016/11/12(土) 04:35:02.95 ID:aMN2M04+.net
戦国時代の軍監と目付って同じようなものだと考えていいの?

796 :人間七七四年:2016/11/12(土) 09:31:06.53 ID:nnlgDTQw.net
そやね軍目付やね。ただし監査対象によって地位はピンキリだけどね

797 :人間七七四年:2016/11/15(火) 12:08:19.63 ID:yYnT3gdq.net
戦国時代の大名の子孫の話ですが
大きな会社に有名武将の子孫が在籍してて○○と△△の子孫2人を部下にしたんだなあと言った上司の逸話を聞いたことがありますが詳細分かりませんか?

798 :人間七七四年:2016/11/15(火) 12:42:29.16 ID:9p2FC8MB.net
前田家18代当主と徳川宗家18代当主が日本郵船で同僚だった時、
2人の上司が「徳川前田を従えるなんて太閤以来だな。」といった話かな

799 :746:2016/11/18(金) 03:38:17.72 ID:xt46xzqJ.net
鉄砲対策で竹束ってのが有効だったらしいですが、他の防御方法ってあったんですか?ウィキには鉄板など載ってましたがほかにある?
あと、戦国時代の話じゃないけど、江戸〜幕末も竹束って使われたの?

800 :人間七七四年:2016/11/18(金) 14:53:31.79 ID:50b7TrFp.net
鉄板、木板、竹束、あとは陣地の周りに土塁を造ったり
幕末も旧式兵制の所は竹束も使っていたようだが、新式兵制の軍は散兵戦が主流になり遮蔽物を利用しながらの戦闘を行ったので盾は使用しない
更にプリチェット弾(いわゆる椎の実の形をした現代と同じ弾丸)とライフルを施したミニエー銃が主力となった事から
竹束では防ぎきれなくなったと思われる
幕末の記述によく出てくるのは畳と土嚢
土嚢は今と同じで、畳は水で濡らして重ねると銃弾を止められるという事でどこの戦場でも多用された

801 :人間七七四年:2016/11/18(金) 15:01:00.11 ID:LEUzQ2fT.net
竹束もそのままでは抜かれるから中に砂袋入れて複合装甲にしたり
俵に土入れて転がして運べる土嚢にしたり等の工夫もしてたらしい

802 :人間七七四年:2016/11/18(金) 16:22:36.44 ID:Q8oRU9JZ.net
質問
城外戦の時、夫が敵に囲まれた時鎧を着、馬に乗って助けに
きた妻の話ってだれの話でしたっけ?

803 :人間七七四年:2016/11/18(金) 16:30:25.98 ID:LEUzQ2fT.net
富田信高妻かな

804 :人間七七四年:2016/11/20(日) 00:16:26.34 ID:fI/MIq8/.net
>>799
797、798が言ってるのに付け加えるとすれば
跳弾しやすい様に角度を意識した鎧や兜作りが行われた
長谷堂城の戦いで頭に被弾した最上義光が信長から拝領した
兜のおかげで一命をとりとめたのは有名な話

805 :746:2016/11/26(土) 23:23:58.06 ID:Qj7xTMHb.net
>>800-804の方々、御回答ありがとうございます(>_<)

806 :人間七七四年:2016/12/05(月) 23:43:11.25 ID:cx/q9SEn.net
本多忠勝のことは本多平八郎忠勝と言わないといけないのですか?

807 :人間七七四年:2016/12/05(月) 23:58:18.17 ID:eLTkupDU.net
ホンダムで良いのよ

808 :人間七七四年:2016/12/05(月) 23:59:00.82 ID:F7vPUSFy.net
本多平八郎忠勝は「名乗り」です。
本人が言う場合はいいですが他人が諱(忠勝)を名指しするのは失礼な事なので
名字+官職か、官職を持ってなければ通称で呼びます。本多中務大輔or本多平八郎
後世の現代人が呼ぶ場合は現代の用法に合わせて名字+諱の本多忠勝と呼ばれます

809 :人間七七四年:2016/12/06(火) 00:03:25.11 ID:wFpqOVTa.net
本多中務大輔藤原平八郎忠勝

810 :人間七七四年:2016/12/06(火) 00:21:25.95 ID:VlAuTbSM.net
本多平八郎藤原中務大輔忠勝の方がよくないですか?

811 :人間七七四年:2016/12/06(火) 04:28:36.66 ID:buktPJBW.net
うろ覚えだけど、「別に諱は言っても良かった。家臣が自分の主人を諱で書いてる書状が割とある」っていうの最近見た記憶あるわ
どうなん

812 :人間七七四年:2016/12/06(火) 08:59:54.57 ID:5KrFzZlQ.net
秀吉の遺言状には、宛名に
いへやす
と書いてあるね

813 :人間七七四年:2016/12/06(火) 09:31:08.81 ID:kaFxWG8H.net
諱は面と向かっての呼び捨てがまずいだけで
第三者への書状の本文や日記か何かでは普通に諱を書いてもよい
現代でも会社で社員が対外的には社長呼び捨てにするのと一緒

あと面と向かっての名指しも失礼から一周回って最上位になる場合があって
俺たちマブダチだよという意味にもなる。中には誰かれなく政宗って呼んでと言って回る某変人もいる

814 :人間七七四年:2016/12/06(火) 09:33:06.11 ID:kaFxWG8H.net
>>810
通称と官職は普通は列記しない

815 :人間七七四年:2016/12/06(火) 17:04:21.63 ID:kaFeIAW0.net
犬童頼安が相良義陽に贈った
おもいきや 倶に消ゆべき 露の身の 世に在りし顔に 見えむものとは

って句は口語訳するとどういう意味になるんですか?

816 :人間七七四年:2016/12/06(火) 21:28:03.21 ID:qD90mTwn.net
一部俺の想像だが

(人間は露と消える儚い身とは承知していたけど)共に死ぬ筈が自分だけ生き残って
もう会えないとは(なんと悲しいことだろう)

817 :人間七七四年:2016/12/06(火) 23:24:52.00 ID:kaFeIAW0.net
世に在りし顔に 見えむものとは

もう会えないとは(なんと悲しいことだろう)
になるんですね
ありがとうございます

818 :人間七七四年:2016/12/07(水) 00:47:26.05 ID:Lqol/89+.net
>>814
そりゃそうですがその上でということで。どっちもどっちと言われたらそれまでですが。

819 :人間七七四年:2016/12/07(水) 17:17:48.41 ID:9N8qk7Do.net
>>817
超訳だけどな。

820 :人間七七四年:2016/12/07(水) 23:42:54.82 ID:yJ7vvWkw.net
>>808
ありがとうございます。
では、本多平八郎と本多平八郎忠勝の違いは何ですか?
名字+通称と名字+通称+諱の違い。

821 :人間七七四年:2016/12/08(木) 01:33:53.15 ID:8MBLMhVq.net
人に名前を呼ばれるとき(書状の宛名)、本多平八郎殿
自分で名前を名乗るとき(書状の署名)、本多平八郎 忠勝

822 :人間七七四年:2016/12/08(木) 14:06:10.34 ID:MkM0PrvU.net
真田幸村所有と言われているこの具足には装飾こそ少ないものの平和な江戸期の産物だという両乳鐶付いていたり
当世具足にはつかないはずの杏葉が付いていたりしますが本当に実戦期の具足なんでしょうか?
http://i.imgur.com/zbNNISG.jpg

823 :人間七七四年:2016/12/08(木) 14:15:57.02 ID:1Y7hC+6p.net
「伝○○」はほぼ全部デタラメの法則

824 :人間七七四年:2016/12/08(木) 14:20:53.16 ID:8MBLMhVq.net
鎧は修復のたびに改良されて原型をとどめない場合もあるがこれはちょっとな

825 :人間七七四年:2016/12/08(木) 15:58:06.36 ID:MkM0PrvU.net
現代物と本歌の違いや復古調と本歌の大鎧の違いなどはと見分けられるようになってきたのですが
実戦期と非実戦期の甲冑の違いがまだよくわかりません
特に安土桃山時代の当世具足と江戸中期以降の平和な時代に作られた飾り甲冑の見分け方がわかりません

・信憑性の高い実戦期の鎧には板物の壺袖や仕付け袖、そもそも袖をつけず篠や瓢箪などで籠手自体の防御力を高めた物が多い気がしますが
下のような現代物でよく見る胴に結び付ける微妙な大きさの袖は実戦期にもあったのでしょうか?
http://i.imgur.com/9V4Arif.jpg http://i.imgur.com/9UtXmIP.jpg
・しころは杉形→笠→最上→日根野(例外に下散や一枚)までが実戦期で丸みを持たせた饅頭形は非実戦期の物なのでしょうか?

この他にも実戦期と非実戦期を見分けられそうなポイントがあったら教えてほしいです

826 :人間七七四年:2016/12/18(日) 22:08:41.99 ID:LB3jYfp7.net
大河真田丸で家康が着てる着物の肩口?の部分、
繋ぎ目がちょっと変わってるんですけど、あれは名前がついてるんでしょうか
ご存じの方いますか?

827 :人間七七四年:2016/12/27(火) 14:39:21.78 ID:cANAxnO+.net
質問です。
本能寺の変後、何故織田信孝は丹羽長秀を味方にしなかったのでしょうか?
確か清洲会議の直前まで信孝は長秀と共に行動してた筈です。
ここで長秀に自分を支持するよう要請すれば、柴田勝家の支持もあって
織田家の当主になる事も不可能では無かったでしょう。
最悪でも秀吉にしてやられることは無かったと思われます。
しかし、その後の長秀と信孝は関係が断絶したかのような印象すらあります。
これはどういう事なのでしょうか?

828 :人間七七四年:2016/12/27(火) 15:30:20.05 ID:AQrjCPsd.net
長秀が信孝を選ばなかっただけ

829 :人間七七四年:2016/12/27(火) 16:21:56.46 ID:cANAxnO+.net
逆に、なんで長秀は信孝を支持しなかったんですかね?
そんなに悪い選択肢ではないと思うのですが。

830 :人間七七四年:2016/12/27(火) 19:19:37.36 ID:osZSHB5S.net
自分と部下たちの未来を託すに足る男に見えなかったんでしょ

831 :人間七七四年:2016/12/27(火) 22:48:48.73 ID:Syed2BtR.net
信長の仇をとった秀吉に勢いがあったからなぁ。毛利も支持してるし。
一方の柴田は上杉に手こずっていた。

832 :人間七七四年:2016/12/28(水) 22:54:40.77 ID:7AHnzVf0.net
質問です
漫画、戦国ヤンキーのなかで、うつけ時代の信長について
以下のエピソードが紹介されていますが事実ですか?
・家臣たちに同じ色の物を身に着けさせた。
・ド派手な、変な馬具で飾った馬を乗り回した。
・道三に会いに行くとき、男性器を模した飾りを馬に乗せ、卑猥な言葉を
叫びながら行進した。

完全な史実ではなく、逸話程度でも構いません。ギャグシーンというより
ナレーションで<当時、信長は○○をしたと言われている>みたいな
描かれ方なので、ちゃんと元ネタあるのかと気になりました。

変な馬具というのは、漫画だと馬の胸元に前掛けみたいな板。
馬の頭に竹筒を乗せるなどでした。

833 :人間七七四年:2016/12/29(木) 10:00:16.45 ID:2Co8OFDS.net
・家臣たちに同じ色の物を身に着けさせた。
「信長公記」でうつけ時代の共はみな赤武者にさせたという記述があります
・ド派手な、変な馬具で飾った馬を乗り回した。
これは分かりません。「信長公記」に馬揃えの時に南蛮物を集めて着飾せたという話はありますが
・道三に会いに行くとき、男性器を模した飾りを馬に乗せ、卑猥な言葉を叫びながら行進した。
「老人雑話」にチンコ柄の浴衣着て道三に会いに行ったという話があります。それを誇張したものでは

834 :人間七七四年:2016/12/29(木) 22:13:01.19 ID:1Ircvf/g.net
>>833
解説、ありがとうございました。

確認ですが、うつけ時代のお供は赤武者で統一について
・一般に、信長のうつけ時代とは何歳までのことか。(桶狭間まで?)
・赤武者とは、幸村の赤備えみたいに、合戦時に赤い鎧をつける事か、普段から赤い着物だったのか。
・家臣の色を統一するのは、信長が最初なのか、他の家も普通にやっていたのか。
もしもご存知であれば教えてください。お願いします。

835 :人間七七四年:2016/12/29(木) 22:17:28.83 ID:1Ircvf/g.net
>>834
すいません。あと信長の馬具が派手だったか不明のようですが
戦国ヤンキーで描かれた
馬に前かけみたいなのをつける。
馬の頭に竹を乗せる。
などは、当時のかぶき者に多いスタイルでしたか?
戦国ヤンキーだと、そこは信長の、というより
『かぶき者、当時の不良は馬具を○○な感じにしていた』
みたいな描き方だったので

836 :人間七七四年:2016/12/29(木) 22:39:47.24 ID:2Co8OFDS.net
うつけ時代は20歳の正徳寺の会見までですかね
側近の武装を赤備えにしたと言う事でしょう。のちの赤母衣衆、黒母衣衆の原型かと思われます
色備えは以前からありました。

837 :人間七七四年:2016/12/29(木) 22:43:02.71 ID:2Co8OFDS.net
傾奇者の馬具については浅学にて知りません

838 :人間七七四年:2016/12/31(土) 08:03:11.27 ID:LUKq5GAB.net
>>836
ありがとうございました。
そういえば正徳寺の会見は桶狭間の前でしたね
信長最初の活躍は桶狭間のイメージが強いのですが
正徳寺の会見も大事ですね

839 :人間七七四年:2016/12/31(土) 08:29:20.14 ID:O9UFovDP.net
稲生で咆哮かまして相手を混乱させてるじゃん

840 :人間七七四年:2017/01/01(日) 06:36:22.25 ID:atIstRqk.net
戦国時代後期(末期)日本(合計)の鉄砲の保有量は、ヨーロッパすべての国の鉄砲保有量よりも多かった
(もしくは ヨーロッパ全ての国を合わせたのより多かった や 世界の国の中で一番保有していた など)

という記述をネットで目にするのですがこれって検証されているのでしょうか?(論文などはあるのでしょうか?)

ネットではググればググるほど出典もなしに「一説によれば〜」です。
当時の日本は世界"有数"の銃保有国だった というならわかるのですが、何が根拠で"日本は欧州の国よりも保有していた"とされているのかを知りたいです。

※ノエルペリンの本は読みました。
※wikipediaによれば1600年頃の人口は1200万〜2000万ぐらいらしいですが、あるサイトでは
「当時の日本の人口は2500〜3000万、欧州各国は1000万足らずだったのだから単純に普通に銃を保有していたら欧州の国より保有していた事になる」
みたいな主張がありました。(それじゃ幕末まで人口増えてないじゃ……)

841 :人間七七四年:2017/01/01(日) 11:57:00.45 ID:oHj/1spo.net
検証されてないよ

842 :人間七七四年:2017/01/01(日) 23:54:46.03 ID:7/O4WNaI.net
鉄砲の保有数は証拠は知らない。
ただ自分はネットだけじゃなくて歴史番組と歴史書籍でも同様の記述は読んだ。
けど番組でも書籍でも根拠は提示していなかった
ずっと昔にネットか何かで読んだのは
各勢力が合戦で使用した銃の使用数=最低数
戦場に投入しなかっただけで実際はもっとあるだろうからこれぐらい
という推定
あと堺の町とかの売却数からの予測

でもどのみちいつどこの専門家が計算したか提示できない以上なんとも言えない

843 :人間七七四年:2017/01/02(月) 06:40:49.43 ID:KUJN40Uo.net
明治初期にまとめられた徳川禁令考(幕府の法律などのまとめ)によれば

1615年大阪の陣の際の軍役の割合で1万石(200〜300人)につき鉄砲20丁となっているらしいので
1580年代からの太閤検地による総石高1800万石以上に当てはめると
だいたい36000丁以上ということになる。 (ガバガバ推論)

山内進「掠奪の法観念史―中・近世ヨーロッパの人・戦争・法」による
当時のヨーロッパの動員兵員によると
ttp://kousyou.cc/blog/wp-content/uploads/2013/06/20130608_580915-e1440080698121.png
常備軍のせいで国が傾くことになるスペインや元々人口が豊かなフランスで
銃が軍隊においてどの程度の割合を占めていたかがわからないと
日本が確実に世界一の保有国だった とはいいきれない。

国民の人口では日本が若干優位かもだが、例えばスペインではテルシオという陣形が用いられていて
ttp://ameblo.jp/tank-2012/entry-12141916855.html によれば
日本の戦国時代末期と同時期のスペインでは部隊の3割〜5割近くが銃兵だったことになるので
スペインが動員できたという10万〜30万の兵力にあてはめれば日本よりずっと銃を保有していた事になる。

844 :人間七七四年:2017/01/02(月) 23:45:37.65 ID:o3QGNCh9.net
江戸期の甲冑を憎悪するのは日本甲冑マニア全員が通る道なのだろうか…

845 :人間七七四年:2017/01/05(木) 21:27:13.14 ID:+hSC0vAs.net
山城って雷は落ちやすかったんでしょうか?
あと歯みがきみたいなことはしてたのでしょうか

846 :人間七七四年:2017/01/05(木) 22:03:24.41 ID:qeu6RMtY.net
歯を磨く用の楊枝を使ってました。

847 :人間七七四年:2017/01/06(金) 12:14:23.51 ID:PKWd9jd0.net
>>843
関ヶ原や大阪の陣のころは、ヨーロッパも三十年戦争で戦場が騎兵の他に銃や大砲メインの三兵戦術に変わりつつあるから、銃は相当作っていたはず

848 :人間七七四年:2017/01/18(水) 22:24:08.69 ID:3g8xhBct.net
信長と信長父の経済力の差について質問です

とある戦国本で、信長の父ちゃんが凄いお金持ちで
神社に多額のお金をポンと寄進していたとか、その財源が港からの関税とか
書いていて「信長よりもずっとお金を持っていた」
「信長は同じ神社に○○しか寄進していない事から経済力の差がわかる」
とありました。
いつの信長と比べているのかは知りませんが、尾張統一時だろうなと想像します

そこで質問です。どうして同じ尾張の主なのに、信長のほうが経済力が低いのですか?
むしろ信長は武力で他の尾張内勢力を倒した分、直轄地は多そうです。
父親の港も取り戻して関税がガッポリ入っていたんじゃないんですか?

また、信長が最大勢力のときの財力って、他の有名大名と比べてどれぐらい
凄かったのかご存知でしょうか。
単純な石高比較ではなく、金山銀山や税収を含めたものだと嬉しいです。
正確に金何両ではなく、どこの何倍とか、誰と誰の財力を合わせたより多いとかでも構いません

849 :人間七七四年:2017/01/18(水) 23:02:30.29 ID:nXbEcDUf.net
>>848
>いつの信長と比べているのかは知りませんが、尾張統一時だろうなと想像します
そこが問題だ。親父は終わりを統一してないから統一した後なら親父より増えてなきゃ
おかしい。おそらく柴田勝家とかが信長の弟を担いで家中が分裂してた時期では
なかろうかと思う。しかし本当のところはその文章を書いた人に訊かないと判らん。

850 :人間七七四年:2017/01/18(水) 23:30:57.13 ID:RehYvSHX.net
そりゃ時期とか理由とかで寄付の金額も変わるでしょうよ

851 :人間七七四年:2017/01/29(日) 20:59:53.29 ID:cVBKhbmF.net
首級について質問です。
首級は首をとれた数であって、殺した数はもっといたんでしょうか?
前田利家のような強さで有名な武将でも桶狭間で3つ首級を挙げたとか少ないです。
戦国無双みたいなゲームは論外にしても、抜群に強かった人が2つ3つの首級で
終わっているのに違和感を覚えます。
以前、戦国漫画で、敵兵の首を切り取る時は隙だらけで殺されやすいから気を付けろ
というのがあったので、乱戦で槍で刺し殺したけど首を取る余裕がなかったり
周りに敵がいっぱいいたから首なんか取ろうとしたらその間に刺されるからと
諦めたのも多数あると考えてしまいます。

長文になってしまいましたが、首級とは、ゆっくり首を切り取り持ち帰れる余裕のある
討ち取りの分だけで、その数しか殺していないわけではないのでは?
というのが気になりました。

852 :人間七七四年:2017/01/29(日) 21:19:18.80 ID:WtNKi3+p.net
首は結構重いから幾つも持てないのは事実。首級を多く挙げた可児才蔵は、戦いにおいては
敵の首を討つことが常に多くてとても腰に抱えることができなかったため指物の笹の葉をとって
首の切り口に入れておいた(あるいは口にくわえさせた)という。このため、才蔵の討った首と
合戦の直後にすぐにわかったという。これらの経緯から、「笹の才蔵」と称された。

でも比較するのは違うかもしれないけど、戦闘機乗りは生涯戦績で5機撃墜したらエースらしいよ。

853 :人間七七四年:2017/01/29(日) 22:47:43.24 ID:eOvJQz/9.net
まず史料上においては、首一つとれば十分な手柄なので漫画のようにバッタバッタ倒すような事は現実にはなかったと思われます。
また当時は数百人同士で戦闘して死者十数名といった感じでそもそも戦死者があまり出ない戦闘だったようです。
(のちに鉄砲の普及で戦死者数は跳ね上がりますが。)
ただし怪我人は山ほど出てるようなので完全破壊は1名だとしてもほかに数名撃破してる感じだたかもしれません(矢傷メインですが)
また侍にとって雑兵首は手柄にならないので殺した雑兵はカウントされません
まとめると完全武装の鎧武者同士の戦いなので死力を尽くしてやっと首一個。3つも取ればスゲーってことではないでしょうか

854 :人間七七四年:2017/01/30(月) 00:26:28.80 ID:2Hc9rOBM.net
相手をたくさん倒さないとこっちが負けるから、いちいち首を取っていられない
ってのもあるよね
あと取った首級が多いと鼻だけ削いで持ち帰るとか

戦で首を持ち帰るのは、中国の秦の時代に行われた方法らしいよ
首をひとつ取るごとに、階級?がひとつ上がるから、首級と書くそうな
とある本に書いてあった

855 :人間七七四年:2017/01/30(月) 00:48:46.29 ID:WbMf/2XV.net
いちいち首を取っていられない時は討ち捨て命令が出て首持ち帰らなくても同僚の証言があれば手柄になる

856 :人間七七四年:2017/01/31(火) 21:55:36.93 ID:l0rq5DDB.net
>>849
>>850
ありがとうございます。
尾張を統一した信長は、父親よりも経済力があったのですね。
てっきり、尾張は統一したけど、肝心の港の権利は
織田家の他の人の所領、管轄になっちゃったのかな、と思いました。
この前テレビで、信長の年収はいくらかというので、織田領の8割は家臣に
与えなければならないので、信長個人の収入は石高の二割しかないとやっていましたし。

857 :人間七七四年:2017/01/31(火) 22:47:13.03 ID:oESmQiwT.net
戦国大名の直轄地なんて二割有ったらいい方やでな

858 :人間七七四年:2017/02/02(木) 23:11:21.58 ID:pivZpNd4.net
>>853 〜 >>855
解答ありがとうございます
みんな死にたくないから防御回避重視で、死ぬ人は少なかったのかもしれませんね。
敵を殺すことより生きて帰ることを優先するというか。

859 :人間七七四年:2017/02/05(日) 18:23:03.55 ID:ZGo30mn3.net
1500年代の戦国時代で

庶民の物価とかが知りたいとですが
農具(鍬・鍬)、木桶・木樽、
牛・馬(共に農耕用)、はどの位で取引されてたのでしょうか?

860 :人間七七四年:2017/02/07(火) 13:30:24.57 ID:r85Rk9WN.net
自分は知らないし、求めている答えとは違うと思うので気分を悪くしたらすいません

毎年滅茶苦茶変わる。
これは中世近世日本の抱えていた問題で、その年の物価は米の生産量で変わります。
毎年インフレになったりデフレになる感じです。

いくらで取引、が当時何文ならともかく、現代だと何円は難しい
一文は現代の何円か、という資料が時々ありますが、算出方法で変わります。
@当時の平民の年収が平均米2石。現代の平均年収を400万とすると1石200万円の価値。
A1石は米150s。現代の10s米を概ね3500円だから、と計算すると1石5万2500円の価値。
40倍近くも価値が変わってしまう。

余計な書きこみをすいません。

861 :人間七七四年:2017/02/07(火) 18:14:30.68 ID:BxNZO11J.net
行水桶大小2つで銭70文
東寺文書

鎌20文・25文、鍬85文、鋤150文
小野正敏「中世の物価と埋納銭」より抜粋

862 :人間七七四年:2017/02/09(木) 23:09:29.67 ID:WvohM+hl.net
戦国時代の武将って傭兵として東南アジアにわたって
西洋人同士の縄張り争いに加担したらしいけど
そのときに西洋の傭兵VS戦国武将の勝敗記録とかご存知でしょうか?

騎士VS武士が実際にあったのかなと。

863 :人間七七四年:2017/02/10(金) 00:16:37.61 ID:slumYS5Y.net
>>862
>騎士VS武士が実際にあったのかなと。
江戸時代になってからだけど山田長政がシャム(今のタイ)に渡ってスペイン艦隊とか
オランダと戦ったらしい。現地のアユタヤ朝に仕えて防戦したので西洋人同士ではない。
そして既にこの時代には騎士とか居ない。また長政が仕えたアユタヤ朝が
ビルマに滅ぼされたのと長政自身が政争に敗れて殺されたのと日本人勢力自体が
アユタヤ朝から危険視されて滅ぼされたのとで詳しい記録はない。

864 :人間七七四年:2017/02/10(金) 00:37:35.28 ID:/InZvKUD.net
喧嘩早くて恐れられていたとかいうね
まあ傭兵としてはもってこいだろうけど住人にはしたくないだろうな

865 :人間七七四年:2017/02/10(金) 10:00:19.26 ID:slumYS5Y.net
日本人が危険視されたというのはリーダーである山田長政が政争に敗れて
左遷された上で戦で負った傷に毒を塗られて殺されるという状況での事だから
反対勢力にとって脅威だったということに他ならない。

866 :人間七七四年:2017/02/11(土) 13:54:28.04 ID:5+5obX1u.net
竹中半兵衛は実はそんな大した奴じゃないとかいう事ある?
俺は戦国好きだけど三国志演義のフィクション部分の話で
孔明が実際は蜀の有力政治家で軍師設定は創作らしい。
で、よく考えると弱小大名信長&秀吉が世捨て人の天才軍師と出会いどうこうとか
ちょっと都合良すぎというか、なんか信長を主人公にした小説みたいに思えた
別に批判とかじゃなくて、鉄砲三段撃ちみたいに、半兵衛の軍師ぶりも
信長秀吉をカッコ良くするための創作なのかなと

867 :人間七七四年:2017/02/11(土) 13:59:06.37 ID:5+5obX1u.net
>>866
特に16人で稲葉山城を盗った話って当時の歴史的資料に明記されてるの?

868 :人間七七四年:2017/02/11(土) 16:02:19.19 ID:xAxrOcxm.net
確実な事績は黒田官兵衛が幽閉された時に息子の松寿丸を匿った事だけ。

869 :人間七七四年:2017/02/12(日) 11:00:35.53 ID:vwWAUCuc.net
安藤守就の娘を妻としたとか、竹中重門の父とかも確実じゃん?

870 :人間七七四年:2017/02/12(日) 12:01:47.43 ID:13YV0OGA.net
安藤守就に従って稲葉山城を一時占領す
敬念寺に禁制を出す
信長の命で秀吉の与力になる
堀秀村の調略にかかわる
秀吉の留守中に横山城を浅井から守る
福原城攻めで黒田とともに先鋒
信長へ中国戦線の報告に出向き褒美をもらう
死ぬ。秀吉泣く、弟の竹中久作が軍務を代行する

ほぼ確実と言えるのはこんだけ
武将時代の秀吉の有力な部下でそこそこ有能なのが分かるくらい

871 :人間七七四年:2017/02/12(日) 18:30:49.71 ID:xPZuKQDa.net
信長に付きたくなくて、秀吉の下ならいいよって秀吉に付いたというのは本当?

872 :人間七七四年:2017/02/12(日) 18:54:42.38 ID:13YV0OGA.net
上記しかまともな史料に登場しないから、それ以外は本当かどうかまったく分からない

873 :人間七七四年:2017/02/12(日) 20:24:44.87 ID:vMpwbjHL.net
姉川以降に秀吉の与力になったんじゃないかって考えられてるんだっけか

874 :人間七七四年:2017/02/12(日) 23:20:58.87 ID:Dl+Jgqe3.net
863
感謝。やっぱ創作多いんだ。
てか安藤に従ってって、半兵衛が稲葉山落としたわけじゃないんだ

875 :人間七七四年:2017/02/13(月) 01:16:26.25 ID:RTUbEJaa.net
史料上は占領したのが安藤と竹中というのがわかるだけ
安藤が大身だから主力と予想しただけで詳細はまったくわからん

876 :人間七七四年:2017/02/13(月) 14:01:03.77 ID:M3eX3C+R.net
前田利家でググるとwikipediaを含めて
1570年9月に石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いで
織田軍は撤退したけど、退却する味方の中で利家がひとり踏みとどまって
敵を倒す功績を上げる。
って出るけど、春日井堤の戦い、でググっても利家系のサイト
以外情報がないし、手持ちの書籍を見てもそんな戦い載っていない。
この戦いと利家の功績ってネットのデマ?

本当だとしても、ひとりでしんがりを務めたってこと?
軍勢相手にひとりで足止めってできるの?
先頭のやつ一人殺して逃げたって意味でも
自分に向かってくるマラソン集団の一位の人殴り倒してから走って
全選手から逃げ切るって考えると足速すぎるし、矢で背中を撃たれそう。

877 :人間七七四年:2017/02/14(火) 07:34:26.84 ID:+WvvCSyd.net
>>876
三好三人衆を相手にした、野田・福島の戦いでの一幕
両城を包囲中に本願寺が将軍義昭および信長に対して攻勢にでた一戦でもあり、まず佐々が崩れ次に前田が崩れた
その時に俺はこんなに頑張ってたんですよってアピールでしょ

それとちょうどいい話スレに忠勝の退却話が出てるみたいに一人で殿という話しもなくはないけど
逆に追撃に夢中になって気がつくと2、300の敵中に孤立
主従が惜しんでいたら敵の包囲を突破して還ってきて呆れられたって逸話もあったような

878 :人間七七四年:2017/02/14(火) 22:01:13.55 ID:HLBHmJcv.net
>>875
詳細わからんと言う中悪い。逸話だと16人で稲葉山城盗ったらしいけど安藤と竹中率いる部隊が何人ぐらいかも不明なの?
(人数は安藤と竹中含めて)

879 :人間七七四年:2017/02/14(火) 22:49:06.84 ID:g54Z1vUB.net
稲葉山城乗っ取りの信頼できる史料は快川紹喜書状一点のみ。
「稲葉山城は半兵衛が乗っ取って安藤伊賀守とともに治めてる。
龍興は一戦したのち後退し城を構え睨み合いをしている
義理も恥も知らない連中は竹中のもとに集まっている」。意訳

竹中が主体と読み取れもするが戦力その他はわからんな。
裏付けが取れない以上は半兵衛の逸話はその逸話が書かれてる書物の信用度に依存するとしか言えない。

880 :人間七七四年:2017/02/17(金) 20:16:49.09 ID:ggEBgr4G.net
戦国作品見ていると、屋根のあるテント、天幕を見ないんだけど
戦場や行軍中に雨が降ったらどうしていたか
総大将とか偉い人は野宿のときどうやって寝たか知りたいです。
あと偉い人は戦場娼婦みたいな人を呼んだらしいけど
外でそういう18禁なことをする場所あったの?
みんなの前でやるのもなんだし、偉い武将様が部隊を離れて森の中とか
に行ったらハニートラップで殺されそう

881 :人間七七四年:2017/02/17(金) 21:03:39.13 ID:QQ2rV+hO.net
偉い人は野宿なんてしません。寺や民家、街道沿いの宿を使います
娼婦も当然、入念に調べられた後に通されます

882 :人間七七四年:2017/02/17(金) 21:53:43.26 ID:D/uVd74u.net
戦場ではどうやって時間を知るの?

883 :人間七七四年:2017/02/17(金) 21:57:43.35 ID:mPs/Wr84.net
>>880
「小屋掛け」という言葉を百万回調べろ

884 :人間七七四年:2017/02/20(月) 10:14:23.82 ID:U6ABwlEv.net
大友家臣には高橋紹運とか田原紹忍とか田北紹鉄とか、出家して法名名乗ってる武将が他家に比べてやたらと多い気がするんだが何かしら理由があるのかな?

あと、法名にも偏倚って適用されるのか、「宗」と「麟」の字が含まれる法名持ってる武将も多いね

885 :人間七七四年:2017/02/22(水) 22:38:01.52 ID:1jchije3.net
雑賀衆って一丁一千万とかする鉄砲や、バカ高い火薬、弾薬を
どうやって買っていたの?
鉄砲集団てことはいつも銃を撃つ練習しているだろうし
弾薬の消費量すごいよね?

886 :人間七七四年:2017/03/02(木) 03:30:23.09 ID:EVvJDvfz.net
>>884
単にそういう記録が結構残存してるだけでは?

法名については臨済宗大徳寺派の命名規則に基づくもので、
高橋紹雲、田原紹忍、田北紹鉄の紹という字も該当する
他にも有名処だと、伊勢宗瑞、朝倉宗滴、三好宗渭(政勝)、細川宗立(忠興)、
武野紹鴎、津田宗及、今井宗久、千宗易なんかもそうだし、
上杉謙信も実は宗心っていう法名をもらってるんだよね

887 :人間七七四年:2017/03/02(木) 03:36:09.66 ID:EVvJDvfz.net
ごめん訂正
紹雲→紹運

888 :人間七七四年:2017/03/05(日) 06:10:00.00 ID:rjb/Fuqs.net
国人と国衆って何が違うのですか?

889 :人間七七四年:2017/03/05(日) 06:13:25.51 ID:T331M0hH.net
いっしょ

890 :人間七七四年:2017/03/05(日) 08:08:52.33 ID:+/v1di8y.net
しいて言えば個人と衆の違い

891 :人間七七四年:2017/03/11(土) 08:46:14.25 ID:ES9+cVIP.net
戦国時代の町人ってどういう階級の人で、町人はどう税金を納めていたの?

農民は年貢を国に治めて、商人は座に売上税納めていたらしいけど
自分の店を持っていない町人、店員とか小間使いとか土方仕事、職人さん
この人たちが町人だと思うけどこの人たちって税金納めてなかったの?
あと売上税は座を取り仕切る寺社に払っていたってことは大名って商人や町人
からは税金徴収していなかったの?

892 :人間七七四年:2017/03/11(土) 10:00:12.99 ID:85el6ZIo.net
>>891
地子、棟別銭、職能団体(職人は職能ごとに組織されている)にかかる職能役、等々

893 :人間七七四年:2017/03/16(木) 12:59:19.01 ID:L0ykTiqP.net
一般市民にまで税金を納めさせるには、戸籍などが整備されないと無理

894 :人間七七四年:2017/03/16(木) 16:38:02.96 ID:01aDube9.net
商人は関所や港で何度も関税かけれれてるからそれが年貢の代わりやね

895 :人間七七四年:2017/03/18(土) 16:26:51.27 ID:7CDajkuM.net
>>893
授業で、農民を管理するために戸籍制度を導入したって習ったけど
農民だけっていう意味で町の人たちの戸籍ってなかったの?

896 :人間七七四年:2017/03/18(土) 17:08:09.53 ID:VAc6hNFa.net
あった。

897 :人間七七四年:2017/03/20(月) 08:12:02.05 ID:329A0Gv7.net
信長が天下統一目指した明確な理由ってわかっているの?
今川と斎藤は攻めてきたのを倒しただけだから正当防衛でわかる
でも尾張と美濃を手に入れた後は信長から攻めにいってるし
明らかに天下統一して乱世終わらせようとしてるのに違和感

898 :人間七七四年:2017/03/21(火) 21:10:15.30 ID:cJoJfaMy.net
乱世終わらせる云々は自己正当化
信長がそんな御大層なこと言ってたかどうかは不明だしたぶん意識してない
恐らく得川家康くんあたりが自己正当化のためにいい出した

899 :人間七七四年:2017/03/22(水) 08:18:51.85 ID:6bVVH1SQ.net
えー、「天下布武」って言ってるじゃん。武力で天下を治めるってことだろう?

900 :人間七七四年:2017/03/22(水) 10:42:51.36 ID:AtlcCb4F.net
天下に(俺様が)武を布くだけで丸く納めるとかの意味はねえよ
スィーツファンタジードラマの見すぎだろ
まさか江戸260年間が平和だったとか思ってんのか?

901 :人間七七四年:2017/03/22(水) 12:52:01.33 ID:mQ1Lf/Wi.net
そもそも、その"天下"って日本全国のことなの?
畿内を抑えて足利将軍家を復興するって意思表示だったりはしないの?

902 :人間七七四年:2017/03/22(水) 13:11:48.43 ID:AtlcCb4F.net
それならすでに三好が実現してた
信長は義昭がお飾りじゃ嫌とかいい出したら早々に追い出してたろ

903 :人間七七四年:2017/03/22(水) 21:30:08.59 ID:Ri7Siuht.net
>>899
正しくは「武家が天下を治める」な

904 :人間七七四年:2017/03/23(木) 00:55:19.83 ID:yWXu7aYD.net
武って漢字は実はいろんな意味があって
武=徳って場合もあるから、天下布武も徳を布くって意味じゃ!って可能性も・・・

905 :人間七七四年:2017/03/23(木) 03:12:50.70 ID:tVa15Lsp.net
>>904
天下布武の武は、武家=足利将軍家の事だよ。

906 :人間七七四年:2017/03/23(木) 03:58:01.84 ID:1dLBeLeU.net
沢彦の七徳の武からきてるんじゃないの?

907 :人間七七四年:2017/03/24(金) 21:43:06.87 ID:d0WutArI.net
天下=畿内にしろ全国にしろ
三好追い出して義昭奉じたり、京都抑えたり、信長の場合明らかに
領土拡大じゃなくて天下統一のために動いているよね

908 :人間七七四年:2017/03/25(土) 07:43:59.90 ID:VEATtXqM.net
なら大内もそうだよね?

909 :人間七七四年:2017/03/25(土) 12:05:21.13 ID:J10CJ42J.net
天下布武は将軍を助けて近畿を落ち着かせる程度の意味だから大内や六角がやってたことと同質やね
大内や六角と違う事始めたのは近畿を制圧して数年後の状況も全く違う時期だから
「天下布武」と現代の意味での「天下統一」は直接結びつけれるものじゃない

910 :人間七七四年:2017/03/25(土) 14:05:01.41 ID:Eh5jclTC.net
ずっと前から疑問だった2つの事誰か教えて

戦国時代とかに敵に攻め込まれたとして、どう察知してたのかね?
間者を常時敵国に忍び込ませてる?
国境を常に監視させて狼煙台でも立ててたの?
国境ってもだいぶ距離あるでしょうし街道沿いだけ監視してた?

あと、足利尊氏の時代で疑問なんだけど
尊氏って結構戦いで負けて九州落ち延びたりしてるけど
その間、三河とかの足利家の所領とかってどうなってたんでしょ
フツー、領地を失う=ほぼ滅亡みたいなもんですよね?
武家の棟梁的な感じで担がれてて所領失っても担いでくれる人が
いるから無問題だったとか?

911 :人間七七四年:2017/03/27(月) 08:13:17.20 ID:sT8yoheI.net
所領0から復活した大名もいるけど、普通は滅亡だねえ

912 :人間七七四年:2017/03/27(月) 11:44:36.63 ID:vTm+z0yV.net
尊氏って負けてはいるけど失領はしてないんじゃない?

913 :人間七七四年:2017/03/31(金) 15:00:34.43 ID:c10JdjnT.net
なんかバカッターで大返しの速度がそれほど速くない
秀次事件の家康はもっと早いとかいってるんだが
大返しは備中高松〜姫路までが肝心なんだろ
中国の奥地に居たはずの秀吉がもう姫路にまで来てるって知らせで光秀は狼狽した
まあこの距離感は関東人にはわかりづらいかもな
あと当時の東海道と姫路以西の山陽道は整備状況がまったく違う
https://togetter.com/li/959483

914 :人間七七四年:2017/03/31(金) 15:17:45.78 ID:SwpOqHTA.net
そやね結論出てるならそれでいいやろ

915 :人間七七四年:2017/03/31(金) 16:31:38.86 ID:tqMc4uXE.net
>>913
奥地というか、敵と対峙しているはずの秀吉が、って感じかな
秀次事件の家康は、背後に敵はいないしね

916 :人間七七四年:2017/04/13(木) 15:01:47.45 ID:Xg2mBVl8.net
test

917 :人間七七四年:2017/04/13(木) 15:04:40.45 ID:Xg2mBVl8.net
質問です

井沢元彦の本に書いてある、「信長軍は兵農分離していたから強かった、
他の大名は(武田信玄など)兵農分離してないから一年中戦えなかった」
は嘘らしいですが、実際はどうだったのでしょうか

信長以外も普通に兵農分離していたのか、
逆に信長も兵農分離していなかったのか、そこが知りたいです

918 :人間七七四年:2017/04/13(木) 15:20:53.08 ID:yUo3QHgY.net
信長も他の大名も兵農分離は進めてました。
ただし形になったのは戦国時代が終わった後の豊臣時代です。

919 :人間七七四年:2017/04/13(木) 15:54:52.25 ID:Xg2mBVl8.net
ありがとうございます

920 :人間七七四年:2017/04/14(金) 15:09:08.72 ID:nz9Sh8vH.net
前田家か越前松平家の家老の家に弓の巧みな武士が客として泊まりました。
しかし次の日に別の家老から謀反の疑いをかけられ屋敷を取り囲まれます。
弓の巧みな武士は、別の藩(当時そういう単語は使われていなかったと思いますが)
の人間で謀反とも関係ないので屋敷から退去するように言われましたが、
それを断り、その家の家老一族とともに討ち死にしました。

このスレで聞いていいものなのか分かりませんが、戦国時代末期の話だったような・・・?
この話をもっとくわしく知りたいので、よろしくお願いします。
うろ覚えですいません。

921 :人間七七四年:2017/04/16(日) 09:34:00.15 ID:ub1mEmfM.net
日本史板とのマルチ鬱陶しいなあ

922 :人間七七四年:2017/04/17(月) 18:08:15.10 ID:DcpWRz3v.net
>>920
これくわしく知りたいな
海音寺潮五郎氏の短編で似たような話を読んだような記憶がある
退去すると臆病者の烙印を押されるから奮戦して、戦国期の武士気質と
江戸期の武士道の違いを書いていたような?

923 :人間七七四年:2017/04/17(月) 19:33:54.29 ID:XZgm/VD7.net
横田騒動の柳生宗章とか
まあ弓ではないが

924 :人間七七四年:2017/04/17(月) 23:03:46.15 ID:T6Yt8/B2.net
>>920
戦国末期とは言いがたい時期ですが、日本史板で松平忠直の家臣の久世但馬守が討たれた時のことかも、みたいなことを書きました。
反応がないのでお尋ねしますが、久世の話ではなさそうですか?

925 :人間七七四年:2017/04/18(火) 18:08:15.67 ID:vXRGWp+Z.net
917です。
>>922-924
ありがとうございます。返信遅れてすいません。風邪で寝込んでしまいまして。
続きは明日以降に日本史板に書きます。本当に申し訳ありません。

926 :921:2017/04/18(火) 21:12:35.81 ID:VB6P2C0W.net
>>925
お風邪でしたか。催促して申し訳ないです。
急ぐ話でもなくご養生に専念してください。

927 :人間七七四年:2017/04/22(土) 20:54:28.06 ID:9LfkGR7I.net
「関ヶ原では刀の使用率高い」と聞いたのですが、戦国時代の合戦で刀はどれくらい使われたのでしょうか?
「室町後期は長槍で槍衾〜」って学校で言われて、足軽は鉄砲弓投石か槍装備かと思ってたのですが…

また、自分の推測では
・室町後期には合戦でけっこう刀使ってた
・鉄砲の普及でサブウェポン
・攻城戦で鉄砲と刀が便利
・朝鮮出張組で戦術がかわった
・秀吉治世下で合戦なくなり槍離れ

もあったのかなと思うのですが、どうでしょうか?

928 :人間七七四年:2017/04/22(土) 21:06:18.05 ID:hu64FrmF.net
>>927
刀は身分の上下を問わず近接武器。以上。

929 :人間七七四年:2017/04/23(日) 14:44:27.60 ID:Pek41GBF.net
槍が流行ろうが鉄砲が普及しようが乱戦になったらみんな刀やでな

930 :人間七七四年:2017/04/29(土) 00:10:35.84 ID:s81tkKLj.net
戦国時代とか、ご馳走に鶴の肉が出てくるけど、
鶴ってタンチョウじゃないよね?

931 :人間七七四年:2017/04/29(土) 01:10:20.86 ID:xpK8tien.net
くろづるだろ

932 :人間七七四年:2017/04/29(土) 21:11:25.73 ID:PijcwAn2.net
ウサギも食ってるな

933 :927:2017/05/01(月) 21:06:17.05 ID:WRYAjfE2.net
>>931
クロヅルって日本にあんまり居なかったんじゃと思ったら、
くろづるの別名がナベヅルなんだね
勉強になりました。ありがとう

934 :人間七七四年:2017/05/05(金) 12:35:42.23 ID:5orVgPSt.net
すいません
関ヶ原でねねが子飼い武将たちに「東軍につけ」と書いた
手紙が実在すると聞いたんですが、これは本当ですか?
その手紙はどこかで見れるんでしょうか?
黒田長政の手紙は知っていますが、ねね本人の手紙の存在は初耳なので
詳しい方お願いします

935 :人間七七四年:2017/05/05(金) 15:13:07.15 ID:NErGlfbT.net
便乗で質問なんだけど、黒田が関ヶ原で豊臣方に調略しまくった話は有名だけど
この時の調略というか交渉の内容って、具体的にどういう話だったのか残ってたりしますか?

936 :人間七七四年:2017/05/05(金) 19:12:16.60 ID:5orVgPSt.net
人がいませんなw
寧々本人が東軍への加担を支持する手紙が存在するとしたら
三成挙兵前に、宇喜多秀家と豊国神社で戦勝祈願したり
大津城開城後に、西軍総大将の毛利輝元と豊国神社で戦勝祈願をする裏で
東軍に味方していたということになりますが
何故、寧々は始終一貫して西軍を支持するかのような行動をとり続けたか
どなたか分かりませんか?

937 :人間七七四年:2017/05/05(金) 20:41:04.37 ID:5XEHSTqi.net
そんな手紙は聞いた事が無いからねつ造だろう。

938 :人間七七四年:2017/05/05(金) 20:44:10.47 ID:jxI/D60H.net
高台院の書状なんて無いでしょうな

939 :人間七七四年:2017/05/06(土) 10:41:51.25 ID:gph7uLWE.net
軍記物()あたりがソースなんじゃないの(鼻ホジ
あのあたりは幕府時代の印象操作がひどくて話半分に聞いてたほうがいいと思う

940 :人間七七四年:2017/05/07(日) 07:10:21.13 ID:EHqf7oCV.net
>>934
そもそもそんな話をどこで聞いたんだ、っていう

941 :人間七七四年:2017/05/08(月) 00:21:20.39 ID:w+aR98wR.net
関ヶ原でねねが淀を潰すために東軍に味方させたって言われて
証拠は?って聞いたら、それが出てきたんだよ
どんだけ調べてもねね本人が工作した手紙はないし
黒田のは知ってたんだが、ねね本人が書いたと思ってる人もいるようだ

942 :人間七七四年:2017/05/08(月) 00:32:32.58 ID:7sgwJFqM.net
>>941
証拠があると言ってる側に証明責任があるだろう。
相手が証明できないならそれでこの話は終わりだ。

943 :人間七七四年:2017/05/09(火) 19:34:00.41 ID:NGZ9G7tE.net
津田信澄が討たれたのが大坂城ということは、石山戦争終了後羽柴秀吉が大坂城を築く以前に大坂古城とでもいうべき城が在ったということでしょうか

944 :人間七七四年:2017/05/09(火) 20:32:05.65 ID:i2gULWey.net
そう

945 :人間七七四年:2017/05/12(金) 21:44:15.54 ID:IHGmRnCe.net
信長VS美濃の軽海の戦いはいつ起きたんですか?
検索すると1561年または1562年としているのを見かけるのですがどちらでしょうか?

946 :人間七七四年:2017/07/17(月) 13:12:13.72 ID:TzAfORKF.net
多賀谷重経の家臣で白井全洞(全通とも)ってのがいるんだけど
こいつの名前は「うすい」の後の読みはなんて読むのでしょうか?

947 :人間七七四年:2017/07/17(月) 13:12:44.48 ID:TzAfORKF.net
うすいじゃないや、「しらい」だ

948 :人間七七四年:2017/07/17(月) 19:31:23.72 ID:aDKhmvcW.net
他の字から見ても”ぜんとう”でいいんじゃないの?
おそらく道号かなにかでしょ

949 :人間七七四年:2017/07/18(火) 01:27:33.14 ID:z+Q9FNeE.net
ぜんどうじゃなく、ぜんとう?

明石全登は「たけのり」「てるずみ」「なりとよ」「いえのり」とか

たけ・てる・なり・いえ とか「全」を読ますらしいからさ

950 :人間七七四年:2017/07/19(水) 00:59:27.82 ID:26otbKEh.net
全通ともってあるからゼントウだろうということでしょ。「通」はトウとも読むから

951 :人間七七四年:2017/07/19(水) 02:12:09.61 ID:GpmmIT/j.net
全登もたぶん法名だと思うよ

952 :人間七七四年:2017/07/22(土) 18:36:36.89 ID:OC/q11Mn.net
なるほどdクス

953 :人間七七四年:2017/08/01(火) 00:48:14.86 ID:5xCoogpc.net
質問です
1569年に信長が毛利からの要請で但馬に秀吉2万を出兵、ってマジですか?
当時から秀吉はそんな大軍任せられるポジションだったんでしょうか

954 :人間七七四年:2017/08/05(土) 09:11:06.07 ID:ho9tgiTy.net
満を持して良い感じに進軍し始めると、何故か急死するのはなぜ?
武田信玄、上杉謙信、豊臣秀吉とか
暗殺されたの?

955 :人間七七四年:2017/08/05(土) 11:35:50.37 ID:hfQvLamI.net
>>953
たしか坂井政尚と一緒に遠征していたような

956 :人間七七四年:2017/08/05(土) 21:23:44.34 ID:FWr26v+g.net
>>955
おーありがとうございます!
じゃあ坂井氏がメイン大将、秀吉は与力みたいな感じでしょうか

957 :人間七七四年:2017/08/05(土) 21:58:40.66 ID:OowWLysD.net
>>956
その辺は自分にはわからない
どこかのスレで書状に秀吉の名前が先に書かれてるから秀吉が主将に間違いないって言ってる人はいたけどね
ただ坂井は尾張時代から信長の信任を受けていたりする人なので秀吉の下位に置かれるかというと個人的には疑問に感じる
信長って結構気を使う人だから、両者同格か坂井が正、秀吉が副ってところだと思ってる

958 :人間七七四年:2017/08/08(火) 11:21:54.07 ID:FkWBhAUW.net
なんかこの永禄の但馬出兵に関しては資料が少ないな
「雲伯因三ヶ国合力」ってワードで調べるとまだ引っかかるんだが
坂井が早死して後に秀吉がもう一度攻めた印象もあってか
秀吉の名前が先に出てるのが多い
ただし秀吉配下に2万人っていうのは違ってて摂津衆なんかの寄騎を
引き連れていっただけに思える ※坂井にしてもこの時期に2万人は違和感がある
だから後の軍団制になってからの何万人なんかとは違うんじゃないか
ただしそれにしては18城を瞬く間に落としたとか謎が多いな

959 :人間七七四年:2017/08/11(金) 18:47:52.78 ID:CkL5MSjK.net
尼子最後の当主が殺されずに幽閉されたのはなぜですか
3年も攻城戦したらもうテメーは許さんとなってもおかしくないと思うんですが

960 :人間七七四年:2017/08/11(金) 18:56:31.36 ID:EnE0N8yB.net
尼子旧臣を刺激しないため

961 :人間七七四年:2017/08/12(土) 14:02:46.89 ID:Wb246YEh.net
まお再興軍に参加しまくった模様

962 :人間七七四年:2017/08/13(日) 04:50:38.34 ID:k6Xlj+Ty.net
日本の逸話て忠義を果たして死んだみたいなお涙頂戴ばかりだけど、中国みたいに理を説いて助かりましたみたいなのないですか。

963 :人間七七四年:2017/08/16(水) 18:45:33.88 ID:IMD/zQPb.net
関ヶ原の戦いの落ち武者狩りって、時間的・場所的にどれぐらいまで追及が続いたのでしょうか?

例えば宇喜多軍に加わった武士がいたとして、
命からがら関ヶ原の戦場から岡山の故郷に帰り、出家するか帰農しようかとしていたところ、
新領主の捕縛隊がやってきて捕えられ、首をさらされる、なんてこともあったのでしょうか?

964 :人間七七四年:2017/08/16(水) 22:56:35.97 ID:GayA8khB.net
まず1兵卒なら、それもできたろうけど
当主クラスなら地元には戻らない(戻れない)んじゃないのかなあ
縁を頼って他国の大名に仕えるとかそんな感じじゃない
まず地元に戻っても既得権益は回復できないだろうし

965 :人間七七四年:2017/08/20(日) 11:56:25.49 ID:OiIyTr3n.net
>>963
家康が現地から離れたらほぼないんじゃないの
それ以後は首とっても褒美もらえないし重たいだけだし
名の売れてる重臣クラスならもっと後まで続いただろうが
「宇喜多軍に加わった武士」ってのが足軽歩兵まで指してるなら数日レベル

966 :人間七七四年:2017/08/20(日) 20:23:16.78 ID:UBMIQDs8.net
戦国時代って駆り出した農民とかが戦死したら、
その家族に保障があったって読んだんだけど本当かな?

967 :人間七七四年:2017/08/20(日) 21:02:15.10 ID:tcSURXfX.net
後継者が成長するまでは村が責任もって面倒見ろ。その間その家は無税。
ってとこだったかと

968 :963:2017/08/21(月) 21:08:21.16 ID:8UbMZpJ0.net
>>967
なるほどそういうことだったんだ。ありがとう
一応責任は取ってくれるんだね

969 :人間七七四年:2017/08/31(木) 08:00:57.21 ID:nbD1yfUd.net
すいません。

ちょっとお聞きしたいのですが、
織田信長のような頂点にいるような人物も、
侍(サムライ)と呼ぶのでしょうか?
侍って主君に仕える人のイメージがあるので、どうなのかと・・・

教えてください。お願いします。

970 :人間七七四年:2017/08/31(木) 09:31:38.67 ID:7wHyi/kM.net
建前上は主君は天皇(朝廷)なので問題ありません。
むしろ貴人に直接使えれる武士ということで上級武士を指す言葉でした。

971 :人間七七四年:2017/08/31(木) 10:15:54.09 ID:TD2n5bfk.net
>>969
>侍って主君に仕える人のイメージがあるので、どうなのかと・・・
言葉の由来は『「伺候(しこう)[1]する」「従う」を意味する「さぶらう」に由来する。』だけど侍という言葉自体は
武士という身分を指す言葉でしかない。もはや使える人という意味はない。
言葉の由来とか言ったら「陛下」は階段の下に立ってる人、「閣下」「殿下」は建物の下に立ってる人だよ。

972 :人間七七四年:2017/09/15(金) 06:11:39.19 ID:dXt4UrZo.net
あの武将ってこういうイメージで語られる事が多いけど
意外とこういう面もあった、みたいなの総合スレってないですかね
個人個人で立ってるスレではなく、そういった「イメージと違う」ってのを
扱った話題総合みたいなの
なければ立てたいのだけど

973 :人間七七四年:2017/09/15(金) 21:19:55.06 ID:6j2TuJ3+.net
革新的じゃなかった信長
エロダルマ肖像画じゃなかった信玄
脳筋じゃなく内政優秀な柴田勝家
三大悪が濡れ衣どころか忠臣説まで出てきた爆弾弾正

みたいな?立てたければ立てればええ

974 :人間七七四年:2017/09/16(土) 03:17:08.88 ID:x3f0rcxX.net
>>972
ここは?

実は創作だった通説・俗説3【コピペ・レッテル貼禁止】 [無断転載禁止](c)2ch.net
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1472636283/

975 :人間七七四年:2017/09/18(月) 18:37:13.71 ID:b4e9twar.net
ケツ掘るときにうんちつかないんすか?

976 :人間七七四年:2017/09/21(木) 12:36:14.82 ID:NliZxs3+.net
>>972
これに近いんだけどコーエーの
この武将能力設定はおかしい!ここが評価されるべき
みたいなスレなかったっけ

977 :人間七七四年:2017/09/21(木) 13:44:45.83 ID:UmJKwOfW.net
あるよ信長の野望で検索すれば出てくる。歴ゲー板にもあるけど基地外の遊び場

978 :人間七七四年:2017/09/23(土) 20:41:46.79 ID:5zgaPEuN.net
赤井とか波多野とか丹波国衆についていろいろ調べたいんだけど
該当するようなスレ1個もないのな

979 :人間七七四年:2017/09/24(日) 15:39:00.35 ID:LgUcWb3G.net
上杉謙信や武田信玄って出家して名前を変えてるけど戦国時代における出家ってどんな意味があるのでしょうか?

980 :人間七七四年:2017/09/24(日) 16:26:34.70 ID:4xTwE4Xq.net
>>979
名前は変えてない。「法名」という新しい名前が加わるだけ。
あと出家には色んな意味合いがある。例えば信玄の出家は、最近では甲越和睦を違反したことに対する将軍足利義輝への謝罪の意味があった、なんて言われている。
ともかくまあ、それぞれの個人、家の事情によって出家の意味はそれぞれ違うと思ったほうがいい

981 :人間七七四年:2017/09/24(日) 17:23:12.65 ID:P5vpLeTk.net
後継者に家督を譲ると同時に出家することも多いから家督を譲ったアピールで出家という面もあるように思う

982 :人間七七四年:2017/09/26(火) 16:31:38.40 ID:QoZtDgI5.net
頭を丸めるってのは現役を(名目上)退いたってアピール

983 :人間七七四年:2017/09/26(火) 19:08:40.81 ID:r0Me4Piv.net
そういえば信長は家督を譲っても出家はしてないんだっけ?

984 :人間七七四年:2017/09/26(火) 19:51:35.54 ID:MoqyhZHA.net
>>983
戦国期全体でも、家督譲っても出家しないほうが多い印象

985 :人間七七四年:2017/09/27(水) 23:50:03.61 ID:ou0ZtSC0.net
家督を譲る=隠居ではないからな
隠居=実権の譲渡でもないし

986 :人間七七四年:2017/09/28(木) 14:24:40.91 ID:sfOX4XeK.net
直虎見てて思ったんだけど出家と還俗ってそんなホイホイできるもんなのかね

987 :人間七七四年:2017/09/28(木) 18:12:33.91 ID:hprxhZ3H.net
>>986
ありゃドラマだからな。普通は立場が変わる以上家中やら親族の間での調整やら何やら、非常に面倒くさい

988 :人間七七四年:2017/09/28(木) 23:01:56.19 ID:8ehsv0NR.net
司馬遼太郎小説『義経』で、
「出家をするというのは(俗世から離れた)死後の世界の住人になるということであり、・・・(だから武士として復讐を果たしたい義経は比叡山から逃げた、という流れ)」
という描写があったんだが・・・還俗すればいいんじゃね?と思った

989 :人間七七四年:2017/09/28(木) 23:13:32.18 ID:4MCXSnT0.net
義経の同母兄義円は出家の身だけど頼朝に合流して、頼朝の命で叔父源行家の元に
援軍に行って討ち取られてる。

990 :人間七七四年:2017/09/28(木) 23:50:18.83 ID:BI9WUyCC.net
ドラマだからと言えばそれまでだが直虎は元々還俗ありきの出家だったからな
子供の頃の話だが

991 :人間七七四年:2017/09/28(木) 23:53:24.01 ID:hprxhZ3H.net
そもそも司馬遼太郎で史実を語るな

992 :人間七七四年:2017/09/29(金) 13:08:01.32 ID:knKSZPOa.net
>>988
そもそも一度は死刑になったのを清盛の義母だっけ?の願いを入れて
死一等を減じて成長したら寺に入れることを条件に生かされたんだから
還俗とか許されるわけ無いだろ

993 :人間七七四年:2017/09/29(金) 18:26:29.90 ID:wzo710Oa.net
>>992
それは頼朝だ。そして義円は還俗しないまま戦闘に参加して討ち取られてるから還俗の必要はそもそもない。

994 :人間七七四年:2017/09/30(土) 07:54:01.62 ID:zbz4KKZp.net
>>993
今若乙若も知らなさそう…(小並感

995 :人間七七四年:2017/09/30(土) 10:26:11.83 ID:5Jcptk51.net
>>994
その乙若が義円だろ。

996 :人間七七四年:2017/09/30(土) 22:16:21.69 ID:xwfnrY48.net
今若乙若牛若三兄弟のそれぞれの生育環境や成人後の活躍を見ると、
やっぱり教育の重要性がわかる。
材料(種と腹)が同じでも、こうも方向性が変わってくるんだな〜と。

997 :人間七七四年:2017/10/02(月) 17:22:35.39 ID:fmPU5wUp.net
今川義元がやられている時に家康は救援しなかったの?

998 :人間七七四年:2017/10/02(月) 18:01:32.62 ID:BOggKfOX.net
後方に下げられてたから何も出来ん

999 :人間七七四年:2017/10/03(火) 09:35:17.60 ID:poNg74Oq.net
嘘を書くな。最前線で義元の到着を待ってたら死んだと聞いて慌てて逃げた。

1000 :人間七七四年:2017/10/03(火) 10:00:25.91 ID:pETGfPtT.net
鷲津・丸根砦攻略に参加したあと大高城で休息中に桶狭間で義元討ち死。by信長公記

1001 :人間七七四年:2017/10/03(火) 15:45:08.52 ID:/ocfZgQU.net
>>997
何の義理もないんだから真っ先に逃げたんだよ
雪斎に教えてもらっただのは後世のこじつけ

1002 :人間七七四年:2017/10/15(日) 10:25:08.83 ID:39HGgVmi.net
豊臣秀吉の小田原征伐についてです

実は豊臣軍の兵站(兵糧補給)が限界に来ていてあと少し北条家が粘っていたら豊臣軍は敗北していた
という文章を読んだのですが、これってソース(史料やちゃんとした学説)があるんでしょうか?

1003 :人間七七四年:2017/10/15(日) 14:05:23.79 ID:3tulqp3V.net
たしか宣教師の記録だった気が

1004 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
2ch.netからのレス数が1000に到達しました。

総レス数 1004
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