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なぜ、徳川家康は嫌われるのか?

1 :人間七七四年:2015/02/12(木) 23:51:38.49 ID:W/s52gTi.net
戦国好きな人は家康嫌いな人本当に多いけど、家康が嫌われる理由について考察するスレです。

2 :人間七七四年:2015/02/12(木) 23:56:19.02 ID:W/s52gTi.net
よく挙げられる理由としては
・石田三成や真田幸村、直江兼続の敵だから
・大坂の陣に至る過程
・信長や秀吉と比べて地味

この二つか。
あとは伊達政宗との約束を反故にしたから、なんて理由のもいるのかな

ちなみに個人的には家康は嫌いじゃない。むしろ信長の方が嫌いなんだけどね
武田贔屓なので

3 :人間七七四年:2015/02/13(金) 10:49:04.26 ID:+giP0JE5.net
また織田在日の工作が始まりましたw相変わらずのキチガイぶりを発揮w

4 :人間七七四年:2015/02/13(金) 11:34:57.14 ID:qHuuHZyN.net
なんで工作なんだwwww意味がわかりません
むしろ個人的には織田の方が嫌いって書いてあるじゃん

5 :人間七七四年:2015/02/13(金) 12:15:46.14 ID:GJDTWRA4.net
菅沼遼太が必死に工作認定wwwwww

6 :人間七七四年:2015/02/13(金) 15:41:16.10 ID:dlXnRESU.net
全部やりきってから死んだからじゃね?途中で無念の夭折を
したような感じのほうが日本人好きじゃん

7 :人間七七四年:2015/02/14(土) 01:27:24.54 ID:lsugR4i8.net
勝ち残ったからでしょ
判官贔屓然り日本人は弱者や敗者に美学を感じるからな

8 :人間七七四年:2015/02/14(土) 01:28:15.55 ID:lsugR4i8.net
ってすぐ上に似たレスがあった
よく読んでなかったスマン

9 :人間七七四年:2015/02/14(土) 03:25:18.27 ID:COMbh8gI.net
>>2
同じ武田贔屓の身だけど自分は逆だな。

10 :人間七七四年:2015/02/14(土) 11:37:05.62 ID:TVLtURdD.net
まず嫌われてない件

11 :人間七七四年:2015/02/14(土) 13:38:49.06 ID:N5ieIsSB.net
織田厨が必死に武田厨のフリを装ってるのがモロバレワロタw

12 :人間七七四年:2015/02/14(土) 13:48:46.46 ID:93fp0CEG.net
スレ主です。
>>2に追加で、明治政府が家康を悪とする認識を広めたってのも理由の一つなのかね
>>9
なんで家康嫌いなの?
自分は武田関係では岩村城の件や武田征伐やその後の残党狩りのことがあるから家康より信長の方が100倍嫌い。
あとは佐久間の追放の件とかを他の部分を考えても信長の方が嫌いだな。
まあこれは人それぞれとしか言いようがないけど

13 :人間七七四年:2015/02/14(土) 17:26:03.93 ID:dwwzbf9D.net
まあ菅沼遼太を見れば分かる通り織田好きと武田好きは相容れないだろうな
かたや尾張の新興勢力の馬の骨、かたや天皇直系の甲斐源氏で名門
俺は信長も秀吉も家康も好きだけどね。

14 :人間七七四年:2015/02/14(土) 19:07:02.83 ID:93fp0CEG.net
>>13
武田贔屓でアンチ織田なのは確かだけど菅沼とは一緒にされたくないなあ

15 :人間七七四年:2015/02/15(日) 20:57:50.57 ID:SfR2LZAE.net
武田も織田も好きだけど徳川は嫌い。
長宗我部や東北、関東の国衆を潰しまくったし、
しかも合戦じゃないのに完全に取り潰すのはなんとなく武士らしくない。

(ついでに菅沼>>3みたいな嫌なレスを平気でする奴は一番嫌だ。)

16 :人間七七四年:2015/02/16(月) 01:41:40.11 ID:bCsucouj.net
ちなみに徳川より織田が嫌いな戦国好きって少数派なのかな?
自分はスレ主でそういう人間なんだけどさ
嫌いな理由は書くと長くなるかもしれないので希望がない限り書かないけど

17 :人間七七四年:2015/02/16(月) 03:06:41.88 ID:45smawe9.net
>>16
こういうのは、流行スタリがあるから。

山岡荘八の「徳川家康」出た時は、家康人気が盛り上がった。
このところ、家康の活躍が目立つようなベストセラー小説とか大河ドラマも無いので
家康人気が鎮静化し、ゲームやラノベなどでネタとしても取り上げられる信長のほうが
人気があるというだけのことだろう。

また、終身雇用のサラリーマンが増加した昭和の頃には家康の着実な生き方が
評価されたけど、非正規社員や無職、バイトが増えている今のような時代には、
譜代でガッチリ固めた徳川幕府を作った家康に好意を持ちにくいという世相も反映して
いるのだろう。

そういう連中は、ちょっとキツイ仕事やるとブラック認定し、団塊の世代や正規社員・
公務員への妬みと憎悪をニュー速などに書き連ねている。
自分の実力の無さを棚に上げて、「実力本位の信長のような政治家・企業経営者が
いれば、自分はもっと活躍できた」と、思い入れがしやすいんじゃないかな。
「既成の仕組みをぶっ壊す」と叫んで小泉純一郎が人気をはくすのを見て、民主党も
橋下徹も「ぶっ壊す」的な発言をして人気を獲ろうとした。
そして、そういう政治家を応援する人たちは、その政治家に破壊者&新世界の建築者
である信長的なイメージを重ね、社会のリセットで自分が浮上することを夢見ている
のだろう。
そんな時代に、少なくともネットで家康のような堅実かつ非改革者タイプの武将が
人気を得ることは難しいと思う。

18 :人間七七四年:2015/02/16(月) 03:48:01.18 ID:UfNIZJmf.net
893フロントブラック企業経営者兼
テロと破壊のカルト新興宗教の創始者信長と重ね合わせる
キチガイがいると聞いて。

19 :人間七七四年:2015/02/16(月) 09:43:41.36 ID:XnWo/mZ2.net
実際は家康が「信長」みたいなタイプで信長が「家康」みたいなタイプなんだけどね

20 :人間七七四年:2015/02/16(月) 09:59:12.17 ID:FtHToD+F.net
織田厨いつもの常套手段の武田厨のフリを装って
武田を憎む人を増やそうとする工作ですねwww
だからわざわざ不自然に「俺は武田厨だけど」「武田好きだけど」
などと宣言する始末www

21 :人間七七四年:2015/02/16(月) 12:35:57.46 ID:0TU2Qj2u.net
>天皇家は足利家、織田信長、豊臣秀吉の例に倣い桐紋を徳川家にも与えようとしたが
>徳川家はこれを固辞したため葵紋の権威が上がったともいわれる。

22 :人間七七四年:2015/02/16(月) 13:33:39.21 ID:GB68twWF.net
織田厨はこれを自演でやっていて
不自然に思わないほどに半島脳w

23 :人間七七四年:2015/02/16(月) 13:48:14.58 ID:bCsucouj.net
>>20
とんでもない言いがかりだな
そもそも、こんなところで工作をして、何の利益があるんだ?

>>17
俺は徳川は特別好きなわけでも嫌いなわけでもないんだけど、なんでここまで嫌われるのかなと思ったわけだ
理由は概ね想像できたけど、そういう流行もあるのか

信長の実力主義って、実のところどうなんだろうなとも個人的には思う。
佐久間や林の追放はいくらなんでも酷い。
信長は本能寺がなければ確実に天下統一をしたであろうが、こんなに外様だらけでは織田は長続きはしないだろうな。
それと、いかに戦国時代であり、どこの大名も多かれ少なかれ残忍なことをやっていたことを考慮しても、信長の残忍さは異常、ということもまた、自分がアンチ信長である理由である。

24 :人間七七四年:2015/02/16(月) 13:55:10.70 ID:bCsucouj.net
あと思うのは、アンチ徳川の戦国好きは知り合いなんか見てても豊臣家に肩入れしている人が多いけど、豊臣贔屓が家康批判するのはなんか矛盾のような気がするんだよなあ
秀吉が織田信雄や信考にしたことを考えるとね。
まあ、秀吉にとってこの二人は主君と言うよりは「主筋」であったこと、家康にとって秀頼は主君であったという違いはあるが。
しかし秀吉は織田家から見てまあ一代の家臣とはいえ、尾張衆であり、譜代、少なくとも準譜代と言ってもいい。
それに比べて、家康は豊臣家から見て完全に外様。
また、豊臣滅亡ははっきり言って自業自得。

こういうことを踏まえると、豊臣贔屓が家康を批判するのは首をかしげるな。
長宗我部や上杉贔屓が家康嫌いなのは理解できるけど

25 :人間七七四年:2015/02/16(月) 17:14:41.79 ID:wOgxy25i.net
豊臣家贔屓が家康批判は普通の流れかと・・・

26 :人間七七四年:2015/02/16(月) 17:29:04.69 ID:GB68twWF.net
またそーやって大うそをでっち上げて…
信孝を殺したのは秀吉じゃなくて信雄だし、
秀吉は三河遠江駿河甲斐信濃の大加増と
国人領主から領地と民を奪い取り兵農分離の近代化組織にする手助けをしたのに信雄が拒否したんだし
秀吉は信雄に家康より上の官位を与えてくれるように朝廷に斡旋して
充分に織田家に忠義を尽くしている。
信雄が大バカやらなければ、
その代わりに秀次を引き上げることもなかった。

27 :人間七七四年:2015/02/16(月) 18:47:47.42 ID:bCsucouj.net
>>25
いやいや、豊臣贔屓は家康を批判するけど、「じゃあ君たちの好きな秀吉はどうなの?」ってこと。

28 :人間七七四年:2015/02/16(月) 19:02:06.70 ID:sY7C15yw.net
それは思うな。
俺は秀吉が好きだけど、じゃあ家康が嫌いかと言われればそうでもない。
むしろ江戸泰平を成し遂げた家康は尊敬に値するし、今日の日本への影響はかなり大きい。
家康が嫌い、豊臣贔屓って言ってる奴は、蓋をあけると幸村や三成好きが多くて、秀吉個人が好きな人はあまりいない。

豊臣の滅亡は自業自得というより、秀吉が一代で成り上がったことによる、逃れられない負の遺産みたいなもんだろ。
秀吉が信長や家康と違って、最初から大名たる基盤がなかったのだから仕方ない

29 :人間七七四年:2015/02/16(月) 19:18:34.68 ID:N6Cvh1Ny.net
徳川家臣団と違って、豊臣家臣団は秀吉が一代で築き上げたもの
秀吉が死んだらバラバラに空中分解してしまった
秀吉が親族を粛清してしまい、秀頼だけが一人残されたのも居たかったね
江戸幕府は徳川政権と言えるけど、豊臣政権は豊臣政権と言うよりは秀吉政権
秀吉一人だけに絶対権力があった政権で、独裁者たる秀吉が居なくなれば潰れるだけ

30 :人間七七四年:2015/02/16(月) 19:43:03.71 ID:iZt120sO.net
ゲームで関ヶ原の西軍や大坂の豊臣方を増やせ言う奴はみんな秀吉の天下統一はどうでもいいからな

31 :人間七七四年:2015/02/16(月) 21:15:21.92 ID:xDVWnDDRv
秀吉の天下統一には関ヶ原みたいな物はなかったからな

32 :人間七七四年:2015/02/16(月) 23:23:45.19 ID:rLMzVxEc.net
古くからの言うことを聞かない家臣達に振り回された守護大名に比べて
秀吉は下記のように子飼いの家臣ばかり持て、邪魔な言うこと聞かない譜代家臣がほとんどいなかったから
かなり戦う上で有利だった。

熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次・堀尾吉晴・前野長康
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。

33 :人間七七四年:2015/02/16(月) 23:25:08.06 ID:ZH9Xac1V.net
>>29
柴田はあっさり信長に敵対してるし
家康の譜代衆なんて三河一向一揆や長久手合戦前後であっさり寝返ってるし
そもそも先祖伝来の譜代衆なんてろくなもんじゃないだろ。
守護大名の譜代家臣なんて専横しまくってて在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。

34 :人間七七四年:2015/02/16(月) 23:32:01.91 ID:ZH9Xac1V.net
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)

35 :人間七七四年:2015/02/16(月) 23:32:30.65 ID:isp40ocZ.net
まあ、秀吉の縁者として、大して戦功もないのに越前北ノ庄で8万石を
もらっていた青木一矩の存在を見れば、秀吉の出自がそんなに
賤しいものではなかったことは明らか


 竹阿弥−(親戚)−青木重矩−(一族?)−武蔵七党の一つ丹党
   |           |           |
  秀吉        青木一矩       青木一重
                  |
            ----------
           |      |  
          俊矩    蓮華院(家康側室、のちのち本多

36 :人間七七四年:2015/02/16(月) 23:36:07.79 ID:ZH9Xac1V.net
>>29
徳川家臣団なんてほとんど外様ばっかりだぞ
三河衆ですら奥三河の国人とかほぼ外様しかいないし西三河でも外様が割拠
その他もほとんど旧今川・北条・武田系ばっかり。
譜代中の譜代ですら小牧長久手合戦前後や三河一向一揆で家康をあっさり裏切ってるし

逆に秀吉は熊見川時点ですら秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次・堀尾吉晴・前野長康
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
らがいるし相当規模の子飼い衆抱えてるだろ。

37 :人間七七四年:2015/02/16(月) 23:41:17.06 ID:rLMzVxEc.net
>>28
戦国時代だと成り上がりより先祖伝来の古い守護大名の方が専横化した家臣団に振り回されてあっさり崩壊してる
守護大名は家臣の専横と傀儡化した大名の権力といった腐りきった権力構造抱えてたからな
新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。

上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。
尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。

38 :人間七七四年:2015/02/16(月) 23:43:52.71 ID:ZH9Xac1V.net
秀吉なんて棚ボタと漁夫の利火事場ドロの連続で勢力広げただけだからな。結局本人の実力で勝ったわけじゃないから徳川に大敗して勝手に崩れて滅亡したんだろ
秀吉は本能寺の変というチート棚ボタがあったし、信忠や信長が殺されたり光秀が逆賊の汚名勝手に負ってくれたり
信雄と信孝がいがみあっていたり基地外のようなヌルゲーしか残ってなかったからな
本能寺の変で信長が光秀に殺されて光秀が逆賊の汚名負ってくれたおかげで、主殺しを討つ大義名分を棚ボタ的にいただいたあげく
摂津の諸侯や丹羽や信孝などをはじめ馬鹿みたいに味方が集まってくれたし清洲会議でも大きく優位になって領土を獲得してる。
あげく信雄と信孝も勝手にやりあってくれてたし、勝豊も美濃衆も会戦前くらいであっさり寝返ってたくらい、柴田側は統制が崩壊してたし、
会戦になると前田や不和や金森まで勝手に退却してくれるし、周辺諸大名も毛利上杉木曽小笠原宇喜多大友佐竹結城宇都宮那須皆川佐野真田芦名二階堂
白川結城石川岩城相馬河野十河など悉く秀吉に味方してくれたおかげで、秀吉は他力本願でヌルゲーの誰でも勝てる戦いができただけ。
しかもそんな今川氏真が指揮をとっても楽勝で勝てそうなヌルゲーの戦いですら小牧長久手合戦や熊見川合戦や小田原合戦など家臣をぶち殺されまくったり
300しかいない馬鹿な雑魚城攻めでろくに落せなかったりしてる。

39 :人間七七四年:2015/02/16(月) 23:49:06.26 ID:k8YtWGEr.net
>>29
豊臣家が滅ぼされたのは秀吉が135000の大軍で信雄に短期決戦挑んだら一万人討取られるなど大損害受けて敗走したからでしょ
このせいで秀吉は家康に土下座してわずか8000しか対秀吉に動員できなかった家康に関東8州250万石と、チート官位と5大老に地位を献上する事となった。
この時点で家康の天下はほぼ確定してると言っていい。

40 :人間七七四年:2015/02/16(月) 23:50:33.33 ID:rLMzVxEc.net
指揮能力や采配能力が劣っていようが数でごり押しすれば勝てるのが戦。
秀吉の場合は数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄や顕如や家康や朝廷に土下座しまくって和議までこぎつけただけ。
顕如に11月に土下座したり家康の下に信雄送ったり朝廷に献品しまくったり土下座攻勢をかけまくってる。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ

41 :人間七七四年:2015/02/17(火) 00:51:39.63 ID:PTrYqiyq.net
秀吉の話ばかり。徳川についてはみんな詳しくないんだな。

42 :人間七七四年:2015/02/17(火) 01:25:29.74 ID:a8BSAkSY.net
維新後、徳川家康を不当に過小評価したことが、今日の日本の政治外交能力の欠如に繋がっている。
家康研究に関して海外(英国や中国など)の方が日本より進んでいる事実が全てを物語っている。

43 :人間七七四年:2015/02/17(火) 01:45:33.16 ID:K8q/XPiC.net
>>28
確かにな。豊臣贔屓と言ってる人間の多くは、秀吉が好きというよりも三成や真田が好きで、秀吉はおまけのような気もする。

44 :人間七七四年:2015/02/17(火) 01:48:25.80 ID:krp3ZEas.net
地道にこつこつ積み上げてって大成しました
ってドラマとして面白くも何ともないからだろ

45 :人間七七四年:2015/02/17(火) 01:51:54.82 ID:K8q/XPiC.net
そもそも、家康が秀頼にしたことはかなり多くの人間が批判するのに、秀吉が織田信雄・信考にしたことは、そこまで批判の声はないんだよな。
まあ秀吉についても一定数批判はあるが家康に比べればはるかに少ない。
これがダブルスタンダードに感じる。
確かに厳密には違いはあるんだが

46 :人間七七四年:2015/02/17(火) 02:06:16.41 ID:K8q/XPiC.net
とりあえず、別の大名贔屓の自分から見ても、徳川家康の過小評価は本当に異常。
もうちょっと客観的に見れないもんかね?

なんかゲームや真田太平記、あとは大河ドラマの天地人で家康が悪役扱いだったこともあって、よく知らないくせに家康嫌いになってる人間が多いなと思う。

47 :人間七七四年:2015/02/17(火) 04:00:53.45 ID:7dGl8IFG.net
>>45
家康が秀頼にやったことで豊臣宗家が滅んでしまったからな。
秀吉は信雄、信孝へはキツく当たっていたが、織田家を滅ぼすようなことはせず、表向きは協調姿勢を取っていたしな。
だから三法師こと織田秀信も秀吉を毛嫌いすることもせず、関ヶ原でも西軍についてるし。

仮に家康が秀頼を殺しても、国松を取り立てて1万石くらいで復帰させるとか、そういう受け入れ先を入れておけばだいぶ違っただろうな

48 :人間七七四年:2015/02/17(火) 07:58:42.91 ID:y46+n65p.net
冬の陣なら兎も角、夏の陣でも戦わず大坂城が燃えても生き残った連中に、
そんな慈悲は不要かと

49 :人間七七四年:2015/02/17(火) 08:06:41.54 ID:G7/1BEYT.net
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが

50 :人間七七四年:2015/02/17(火) 08:07:11.54 ID:bkOrhxiB.net
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる

51 :人間七七四年:2015/02/17(火) 08:07:55.03 ID:G7/1BEYT.net
継承というなら織田家当主の秀信の部下というのが織田家中での秀吉の立場なんだし
信雄や信孝をないがしろにして大阪築城のために織田家臣の連中を無理やり転封させたり信雄に何ら理由なくいちゃもんつけて攻め込んだり
いちゃもんつけて改易したり
織田家当主のはずの秀信に領土や官位を授けず
美濃の国主としての地位にとどまらせるなんておかしいわな
信包や信張ら他の織田一門もさしたる理由もなく
織田政権から排除されて
どこにいったかわからん状態にまでされてるし
信張信包蒲生池田丹羽ら織田親類衆がいる
それに織田家に仕える身分なら、能力とか関係なく主君の命によって、家臣は政務や軍事を行うのが道理。
しかし清洲会議以降これが逆転し
家臣達の合議によって織田一門の領地などの裁決が行われるという逆転が発生した。
信孝と信雄が国境線争いで対立し始めてるし
さらに秀吉がそろそろ安土へ三法師を!との意見に
清洲会議の屈辱から巻き返すべく柴田が秀吉への反発を強めていて
柴田が畿内がよく治まった上で宿老総意を得て安土へ移す方がいいと
秀吉方だった丹羽に同意を求めて味方化しようとしたが見事に拒否られてる。
(柴田が合意不可能な条件を提示していて、あからさまに三法師を手元から離さない信孝とつながっていたのがわかる)
これが9/3の情勢であり、
その後、11/1になると三法師を安土に移そうとしない信孝の違背から
秀吉は信雄を柴田を除く三家老合意で担ぐことを家康へ書状を出してる。

52 :人間七七四年:2015/02/17(火) 08:08:12.19 ID:B4/xxQSU.net
秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる

信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。

清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)

柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。

信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

53 :人間七七四年:2015/02/17(火) 08:46:18.27 ID:7dGl8IFG.net
>>48
まあ政治的に考えるなら、家康のやったことは正しいよ。
なんせそのおかげで、徳川250年の安定の基礎も築けてるし。
ただ世間的な人気を考える上で、こういう処置は反感を買いやすいのよな。

54 :人間七七四年:2015/02/17(火) 13:04:30.75 ID:jSeOpu7Y7
科学技術も250年遅れる元凶となったアホはそりゃあ反感を買いやすいわな

55 :人間七七四年:2015/02/17(火) 14:57:05.16 ID:GIRKsCZL.net
菅沼が現れてまた糞スレになるのか

56 :人間七七四年:2015/02/17(火) 21:46:27.11 ID:ssyd3iiH.net
>>49-52
秀吉の話はもう不要なので、徳川家康についてのネタ投下お願いします。

57 :人間七七四年:2015/02/18(水) 16:33:37.36 ID:tN2zWD3B.net
長文コピペは秀吉マンセーが過ぎる
秀吉スレでやれ

58 :人間七七四年:2015/02/18(水) 21:12:20.44 ID:T6fmlZ5y.net
天然じゃなくて確信犯だったか。

59 :人間七七四年:2015/02/21(土) 23:39:24.54 ID:2FEnYDCa.net
>>47
秀吉が織田を滅ぼさなかったのも、秀吉の度量がどうとかじゃなく
単に織田が(家としては)徹底抗戦しなかったからじゃなかろうか。
というか、仮に織田秀信が秀吉相手に二度も挙兵してたら生かされるとは到底思えない。

60 :人間七七四年:2015/02/22(日) 06:57:28.25 ID:VOngDXPJ.net
もちろんそれもあるだろうね。

61 :人間七七四年:2015/02/26(木) 20:23:10.77 ID:MYgYUhWY.net
家康は朝鮮出兵をしていないから駄目。
対外戦争しないと人気は上がらない。

62 :人間七七四年:2015/02/26(木) 20:56:34.09 ID:utIotep4.net
秀吉が成功していたら継続してやっただろうな
自分のでも他人のでも失敗から学ぶことを忘れないから、家康は

63 :人間七七四年:2015/02/28(土) 01:33:11.14 ID:iawEbM3Q.net
>>49
フロイス談なんて伴天連追放令前と後で180度変わるような事しかかいてないからw
資料として無価値w

64 :人間七七四年:2015/02/28(土) 10:21:58.20 ID:Re1+JZgn.net
家康が追放したスペインのスパイを伊達政宗が助けた件では自分の伊達と家康の評価が逆になった

65 :人間七七四年:2015/02/28(土) 11:04:42.76 ID:+TFD64AW.net
>>63
一次史料を無価値扱いとか……
バイアスかかってるのは確かだが、そんなのどんな一次史料、二次史料でも同じ

66 :人間七七四年:2015/02/28(土) 19:59:36.65 ID:8SJDUxd0.net
フロイスの人物評なんて、フロイス自身の人間性が披露されてるだけだろ。
それを自説の根本にするのは自殺行為としか思えん。

67 :人間七七四年:2015/03/01(日) 15:51:29.39 ID:JxDSSxxh.net
日本政府(明治新政府)の敵だった徳川幕府の開祖だからに決まってるだろ
江戸時代に石田三成が悪者扱いされていたのと構造的には一緒

68 :人間七七四年:2015/03/01(日) 16:55:32.11 ID:7vrwCkRn.net
江戸時代の三成は悪者評価されていたかね
精々、叛逆(誰に対してのをぼかすのがミソ)という記述しか無い気がする

69 :人間七七四年:2015/03/02(月) 16:55:29.13 ID:ebiOMDHu.net
>>68
反逆者扱いは即ち悪者扱いで良いと思うが
江戸時代は儒教の観念が広まったことによって、事実上の居留の自由は消えて主君への裏切りは悪徳扱いになったんだから

70 :人間七七四年:2015/03/02(月) 16:58:51.84 ID:iKWlA7NE.net
>>69
あくまで東軍側から見ての叛逆なので、そりゃそう言うわな程度の感想しか出ない

71 :人間七七四年:2015/03/02(月) 18:06:36.20 ID:ebiOMDHu.net
>>70
だろ?
だから、幕府を倒した政府が政権を握っている世では、幕府の開祖が狸ジジイ呼ばわりされ、多少嫌われていてもおかしくないじゃん

72 :人間七七四年:2015/03/02(月) 19:43:17.00 ID:iKWlA7NE.net
>>71
そうだね、ただそういうのは日本の場合は政権が積極的に行わず、
民間から通俗小説の形で出るのが特徴かなと思う

なお家康は江戸時代の永夜妙談にもチビでデブで無口の
見苦しい男なんて書かれている

73 :人間七七四年:2015/03/02(月) 21:18:03.42 ID:yYGQGlEX.net
>>72
永夜妙談っての、ググっても東方project関連のページしか出てこないんだけど、
直接のソースは徳川実紀とかそんな感じ?

74 :人間七七四年:2015/03/02(月) 22:52:37.92 ID:iKWlA7NE.net
>>73
すいません妙は茗です
永夜茗談

75 :人間七七四年:2015/03/03(火) 03:06:09.82 ID:kzLfnaOS.net
ミスだったか訂正ありがとう
しかし江戸時代の書物にしても著者も時期も不明、しかも原本すら存在しない物一つを例にするのはなあ

76 :人間七七四年:2015/03/03(火) 22:07:13.72 ID:sc0uxRu/.net
家康は見た目が狸じじいだから、好かれなくても不思議じゃない

77 :人間七七四年:2015/03/07(土) 20:57:21.14 ID:bHtMXqfy.net
岡村賢二の描いた家康(老年)を見たら誰でも嫌いになれる

話が逸れるが今迄一番怖い信長を描いたのは永井豪、荻野真の信長は
怖いのではなく画が汚いだけ

78 :人間七七四年:2015/03/07(土) 22:11:22.74 ID:bFM5Y3WX.net
>>77
真田太平記だっけ?の家康は最初は典型的な嫌な奴だったけど
冬の陣の秀忠を諭す辺りから格好良く見える場面も出てきた

79 :人間七七四年:2015/03/15(日) 15:53:52.22 ID:ltU0kdw7.net
結局天下を取ったから、ひがまれている
性格がよかったら、天下など取れない
ケチ
大坂の陣以降は島原の乱くらいしか内戦のない時代をつくったことは
評価されるべき

80 :人間七七四年:2015/03/24(火) 00:28:04.55 ID:TDXnTn3N.net
>>1
戦場で華々しい活躍の逸話が少ないのがいけないのだろうかね。
本人の戦場絡み逸話で一番有名なのってたぶんアレになっちゃうし

81 :人間七七四年:2015/03/24(火) 04:27:39.58 ID:rxiGA+9V.net
信長も秀吉もその手の逸話なくね?

82 :人間七七四年:2015/03/24(火) 05:36:11.52 ID:Qfkz7mcF.net
自力で勢力拡大したってイメージがないからだろうね(あくまでも一般人のイメージね)

83 :人間七七四年:2015/03/24(火) 08:03:52.93 ID:sRiyB/al.net
家康より秀吉のほうが嫌われてるだろ
信長はそれほど嫌われていないが、信長厨の偏狭さにはみんな閉口してる

84 :人間七七四年:2015/03/24(火) 14:41:43.74 ID:wcvSOcaE.net
>>83
よう菅原遼太

85 :人間七七四年:2015/03/26(木) 20:08:41.92 ID:RSqtNPcA.net
大名の戦で華々しい活躍って何を意味してんの?
一騎打ちとか?

86 :天翔る龍 伊達政宗:2015/04/01(水) 09:13:09.49 ID:4hLHm2ASx
石田三成の方が嫌われてるだろw

87 :人間七七四年:2015/04/04(土) 21:48:16.23 ID:lulq1L5O.net
特に嫌われてるのか?

88 :人間七七四年:2015/04/04(土) 23:55:35.70 ID:weKGozKzK
特に嫌われてるよ

89 :人間七七四年:2015/04/05(日) 19:19:38.69 ID:+IddLRp9.net
正妻を長期間軟禁して虐殺するようなヤツだからじゃね?
そして、自分で殺しときながら他人に罪をなすりつけるところとか

90 :人間七七四年:2015/04/06(月) 01:02:13.71 ID:WAT0caId.net
>>89
当時の状況を把握してないばかりか
他人に罪をなすりつけたのが家康本人だと勘違いしている大馬鹿野郎がいると聞いて

91 :人間七七四年:2015/04/06(月) 14:14:33.08 ID:I5uOL6Rr.net
長期間軟禁も殺害もしてないってのか?
これはまた珍説だww

92 :人間七七四年:2015/04/06(月) 14:18:26.19 ID:I5uOL6Rr.net
まぁ家臣団が信用出来ないだろってのも分かるけどな

主君は殺害するし
次に来た正妻に対しては、いつでも殺せるように部屋の周囲に薪を重ねるわ
そのせいか次に来た正妻は逃げ帰ったな。そんな事した武将はさすがに謹慎くらったけどww

そんな三河武士だけど忠義に篤い三河武士なんだかとか
大笑いwwwwwwwwwwwwwwwww

93 :人間七七四年:2015/04/06(月) 14:31:35.96 ID:WAT0caId.net
>>91
そっちじゃねえよ「他人に罪をなすりつけた」って方だよ

94 :人間七七四年:2015/04/06(月) 17:41:16.13 ID:Xa7nTSzE.net
個人的にアレは信長から言い出して泥をかぶったと考えている

95 :人間七七四年:2015/04/06(月) 19:41:37.27 ID:I5uOL6Rr.net
>>93
部下の不手際は上司の不手際だろ
責任者なんだから
上司にしたいランキングトップに立った人が言ったら不味いだろwww

なんかチョンの思想に似てるよな
何か失敗すると直ぐに人のせい
家康って意外と韓国で人気だってのもうなずけるなwww

96 :人間七七四年:2015/04/06(月) 20:47:29.91 ID:hbT2XJff.net
ID:I5uOL6Rr

97 :人間七七四年:2015/04/07(火) 08:52:29.13 ID:tqy9JN1P.net
正妻を長期間軟禁してその後で惨殺って
家康の他に誰が居るんだろ?

正妻の実家に裏切られて、正妻の実家に攻められたのでってならあるかもしれんが
自分で裏切っておきながら、正妻を長期間軟禁してその後惨殺とか聞いた事ないわ
離縁すれば済む話だし

まぁ嫌われても不思議ない
そりゃ家臣も必死に隠すわ

98 :人間七七四年:2015/04/07(火) 17:51:07.33 ID:qw7v/u+L.net
正妻って築山殿のことか?
信長に命令されたのでは仕方あるまい

「女のことだから尼にして逃がしてやればよかったのに」
と、家臣が気を利かせず馬鹿正直に殺したことをこぼしたそうだ

99 :人間七七四年:2015/04/07(火) 18:53:14.31 ID:tqy9JN1P.net
そうやってすぐに誰かのせいにするのが
本当にチョンと同じで笑ったwwwwwwww

100 :人間七七四年:2015/04/07(火) 21:04:46.10 ID:cH+BVrcR.net
なんだ、おまえら、先週の知恵泉を見てなかったのかよ

101 :人間七七四年:2015/04/08(水) 16:15:44.84 ID:4ON+XsMb.net
http://hideyo-noguchi-mri.com/council
あの神の手、福島孝徳脳外科医も野口英世支持者だ
http://m2.upup.be/j3GS6yJ1hv
野口英世と大隈重信
http://l2.upup.be/CfE8fOSdgr
野口英世と東郷平八郎
http://m2.upup.be/qH7YjpjAGW
日本人最初のカラー写真、野口英世(大正3年アメリカで撮影)
野口英世

学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。
1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士
1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士
受賞歴
1913年(大正2年) - 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデン)
1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章
1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア)
1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランス)
1925年(大正14年) - 正五位、コーベル賞牌
1928年(昭和3年) - 勲二等旭日重光章、防疫功労金牌(フランス)

102 :人間七七四年:2015/04/08(水) 17:48:06.32 ID:WndN88qh.net
印象操作のせいだろうな

103 :人間七七四年:2015/04/09(木) 01:44:24.40 ID:5N66d0nW.net
薄汚い盗人

104 :人間七七四年:2015/04/09(木) 08:30:34.19 ID:3RbdZuCW.net
秀吉のことですね

105 :人間七七四年:2015/04/11(土) 18:09:13.88 ID:4v5StE1R.net
家康より秀吉のがよっぽど汚いと思うけど
なまじっか格式低い生まれだからか、信長や家康が持ってる体裁みたいな物が全く感じられないよね
みえすいた図々しさで取り仕切るやり口なんか、挑戦人や中国人そっくりだわ
恥を知らない人というか

106 :人間七七四年:2015/04/11(土) 18:18:04.15 ID:/iursEyI.net
秀吉も家康も謀反人だろ

107 :人間七七四年:2015/04/11(土) 21:44:30.26 ID:rw5RzqG7.net
家康は堂々と戦で滅ぼした、秀頼は自分の意志で滅びた
秀吉は幼児を飼い殺し

108 :人間七七四年:2015/04/11(土) 22:45:27.57 ID:K6xPLUZA.net
まるで幼児を殺した方が良かったかのような物言い・・・

109 :人間七七四年:2015/04/12(日) 00:58:47.32 ID:M9xzuHcM.net
そりゃ大坂夏の陣での惨劇を知ってたら誰だってクソ家康なんぞ好きにならんわ
シナチョン以外はなw

110 :人間七七四年:2015/04/12(日) 01:00:57.48 ID:He/wgG4Y.net
家を滅ぼすというのは人気的に考えれば一番やっちゃいけないことだからな
秀吉は自分の母体がショボかったってのもあるが、基本的に家を滅ぼさない方針だった。
信長だって武田を滅ぼさなければ菅沼遼太みたいなのを生み出さずに済んだ。

111 :人間七七四年:2015/04/12(日) 13:19:33.64 ID:AZWHVa28.net
明智家とか柴田家とか秀次家とか大和大納言家とか

112 :人間七七四年:2015/04/12(日) 16:34:29.34 ID:TbPPigu+.net
豊臣家を一万石の徳川一門待遇ぐらいで残しておけば
後世の評価はずいぶん違ったろうな

113 :人間七七四年:2015/04/12(日) 16:54:39.28 ID:LXx9tFMQ.net
>>112
そうしようとしてゴネたの秀頼じゃないですかーやだー

114 :人間七七四年:2015/04/12(日) 17:14:23.34 ID:B0OcQ54KK
どうせ難癖つけて来て、お家取り潰しになる
アホと違うかお前

115 :人間七七四年:2015/04/12(日) 19:41:33.42 ID:tD9TX1MO.net
幼い女子ですら尼寺に閉じ込めたのに何を語ってるんだろ?
知らないのか?
バカなのか

116 :人間七七四年:2015/04/12(日) 20:48:12.91 ID:I9nhK0+C.net
だからって二度も反乱起こした秀頼やその子国松を生かしとく訳にもいかんでしょう。
由井正雪の乱みたいな世相になったとき反乱軍が掲げる絶好の神輿になるじゃん。

117 :人間七七四年:2015/04/12(日) 20:55:18.44 ID:RBZK9YSj.net
>>115
あんた、悪口を言いたいだけみたいだな
源氏の男子を残して大失敗した平氏みたいになれと言うのかね

118 :人間七七四年:2015/04/12(日) 22:31:53.01 ID:tD9TX1MO.net
>>117
だったら尚更秀頼生かしておく訳無いじゃん

元々臣下なのは家康であって秀頼じゃないし

119 :人間七七四年:2015/04/13(月) 09:18:33.00 ID:NPJp/wV3z
秀吉子飼いの大名の福島は家康の為に必死で戦ったにも関わらずあれだからな
まして秀頼となると結果は見えてる

120 :人間七七四年:2015/04/13(月) 22:56:49.17 ID:97Yx2duw.net
>>1
所詮天下の大泥棒史観ってとこじゃないかな?
少なからず当時坂東から300万石程奪い取ってしまったこと
あるいみ三傑の織田、羽柴の遺臣すら認めなかったこと

徳川って戦争も政略もなしにたいした努力なくのうのうとして、最後に500万石ホドの領分(金銀含む)を自己決定してしまったからな
恨まれるとはただしくないかもしれないけど当時それに近い印象は与えて、天下の大泥棒という評価は当時からある

というか五右衛門殺しは秀吉なんだけど、なのに五右衛門が天下の大泥棒と言ったのは秀吉と誤解釈されてるから

121 :人間七七四年:2015/04/13(月) 22:58:35.91 ID:97Yx2duw.net
もっとも徳川評価ってタイムリーのものより江戸期の坂東武士団系の役人、名士、商人などの視点と徳川家のブロパガンだ的なもんが混ざって事実がねじれてるんだけどね

122 :人間七七四年:2015/04/14(火) 08:25:49.85 ID:iSQx3uDr.net
読点を知らないやつがなにを書いても、ねえ

123 :人間七七四年:2015/04/14(火) 20:48:05.41 ID:eRQ7qAhp.net
2ちゃんで読点つける人てキモい

124 :人間七七四年:2015/04/14(火) 23:23:34.80 ID:9Ine7JJX.net
一応日本史系だし、そこまでレベル低くないわw

125 :人間七七四年:2015/04/14(火) 23:37:21.17 ID:9Ine7JJX.net
>徳川って戦争も政略もなしに
政略はあっただろ。まあ、やっぱり戦争が足りないからだな。
家康はあまり戦争しないで、毛利や島津と平和的に解決しすぎた。

126 :人間七七四年:2015/04/15(水) 08:41:08.82 ID:kjxi9uzwV
毛利と島津を武力討伐しておれば、今も江戸時代が続いていたのに

127 :人間七七四年:2015/04/15(水) 08:33:53.13 ID:N0l9k9ts.net
関ヶ原以前はそうでもない
関ヶ原以降は徳川が天下平定したのだから当然

128 :人間七七四年:2015/04/16(木) 14:55:34.53 ID:RimLS7q1.net
家康の研究て
ほとんどが小牧長久手・関ヶ原 ・大阪の陣など政治活動中心な印象ある

今川家臣期や三河時代の青年期の動向も見れば
狸だけじゃない家康像のイメージも見えてくると思うのに

129 :人間七七四年:2015/04/16(木) 18:55:55.80 ID:y7R8fhJk.net
家康って選択肢の無い人生を着実に歩んだ印象があるな
奇をやらずコツコツと
そしたら天下が転がりこんできた感じ

所詮三河すら統一してない弱小勢力の子供だし
義元が気紛れに切腹といえば終わる人生
信長が三河と確執あるから同盟無理と言えば終わる人生

130 :人間七七四年:2015/04/17(金) 02:01:57.21 ID:icpDxgOw.net
身内に冷たいと言われるが、
孫(秀忠長男)や息子(信吉)が死んだ時は人と会わなくなるぐらいには人情はあった模様

131 :人間七七四年:2015/04/17(金) 09:12:47.83 ID:L12maXM2.net
同じ病死でも忠吉はあまりショックを受けなかったが、秀康はかなり落胆している

132 :人間七七四年:2015/04/17(金) 13:56:36.61 ID:5txrn+zX.net
正妻を軟禁後殺して、嫡男も殺してるのに
温情も何もないだろ
何夢見てんだよ

もっとも常に人間が一定の感情、能力で生きてる訳ではないけど

133 :人間七七四年:2015/04/17(金) 16:33:43.59 ID:67C0P8y4.net
家康て御三家の末っ子3人だけには優しい甘やかしてるイメージあんだけど

年取ってから生まれたせいか
離さず自分の手元で育てて愛着わいたのか

134 :人間七七四年:2015/04/17(金) 16:48:28.38 ID:EDhKRgrP.net
>>132
政略結婚の正室なんか、なんぼのものだね?
家臣団やその家族のことを思えば、信長に逆らえない

135 :人間七七四年:2015/04/17(金) 17:33:59.93 ID:5txrn+zX.net
長男・松平信康(母:築山殿):殺害
二男・結城秀康(母:小督局):33歳没、秀吉養子へ
三男・徳川秀忠(母:西郷局)
四男・松平忠吉(母:西郷局):27歳没、子供無し
五男・武田信吉(母:下山殿):20歳没、病弱で子供無し
六男・松平忠輝(母:茶阿局):秀忠によって改易だが元々家康も嫌ってる模様
七男・松平松千代(母:茶阿局):5歳没
八男・平岩仙千代(母:お亀):5歳没
九男・徳川義直(母:お亀):御三家
十男・徳川頼宣(母:お万):御三家
十一男・徳川頼房(母:お万):御三家


殺害と嫌いな子供、早世2人、病弱子1人、割と早世1人
戦国の世なら大名とはいえこんなもんか?
将軍の子供でストレスなく人生送れたのは11男子中4人

136 :人間七七四年:2015/04/17(金) 17:49:45.80 ID:5txrn+zX.net
ちなみに
1607年死亡2人
1603年死亡1人
1600年死亡1人
1599年死亡1人

家康死亡まで生きてたのは
秀忠と御三家と嫌いな子の5人
何か匂うな
江戸幕府の成立は1603年というより
1615年の武家諸法度発布

137 :人間七七四年:2015/04/18(土) 15:37:06.07 ID:GjqNJweL.net
正室を軟禁後惨殺するようなヤツは嫌われて当然
戦国時代でも早々正室惨殺なんて聞かんし

138 :人間七七四年:2015/04/18(土) 15:53:12.48 ID:lofC/O6b.net
>>80
うんこーヽ( ゚д゚ )ノ

139 :人間七七四年:2015/04/18(土) 16:04:56.67 ID:lofC/O6b.net
>>38
そんな連続はない。秀吉および家臣の努力と知恵があってこそ、一見奇跡の連続に見えることを成したんだよ。
その一瞬だけ見ると奇跡のようだが、日頃の積み重ねが生んだ結果。

140 :人間七七四年:2015/04/18(土) 16:45:54.62 ID:oNvG/izIz
>>137
信長の正室濃姫が道三死後、忽然と消息が消えてるあたり
信長が消した可能性もあるんだよね
そういう事実を把握してる家康がそれに倣ったという事情もあるかも

141 :人間七七四年:2015/04/19(日) 01:45:05.45 ID:C1cAnvBF.net
信長に虐殺された勝頼に大苦戦していたのが家康だからなあ

142 :人間七七四年:2015/04/19(日) 13:25:25.49 ID:dvGeTwaI.net
長い生きするのも戦術のうち

143 :人間七七四年:2015/04/19(日) 13:53:36.97 ID:kHfpmV0R.net
>>141
虐殺は信長の趣味だろ

144 :人間七七四年:2015/04/19(日) 14:19:13.83 ID:UYQSVnsH.net
>>141
つ動員兵力の差

145 :人間七七四年:2015/04/20(月) 20:35:18.45 ID:cf8Qet9z.net
国力差から言えば家康に大苦戦した勝頼と言うべき

146 :人間七七四年:2015/04/20(月) 21:16:21.48 ID:hIZOQsIG.net
国力差から言えば家康に大苦戦した秀吉とも言われるべき

147 :人間七七四年:2015/04/20(月) 22:10:24.48 ID:V1ooBQTa.net
国力差から言えば家康に大苦戦した北条とも言われるべき

148 :人間七七四年:2015/04/20(月) 22:23:55.45 ID:ri9qsosN.net
結論
国力差相応に家康を圧倒した信玄は偉大

149 :人間七七四年:2015/04/21(火) 08:17:34.18 ID:7dS3wKby.net
>>148
どう考えても、普通のことだろ
晴信をディスってるのか?

150 :人間七七四年:2015/04/21(火) 09:40:34.81 ID:MLctm829.net
>>149
>>141-148の流れが読めてないのか?
勝頼も秀吉も北条も国力では家康を圧倒してるのに、負けたり苦戦したりしている
家康相手に国力差相応の戦果が出せたのは信玄だけ

151 :人間七七四年:2015/04/21(火) 10:57:23.92 ID:ul3jb2bj.net
国力差でいうなら真田に大苦戦した徳川

152 :人間七七四年:2015/04/21(火) 11:17:17.55 ID:2dDqSg7N.net
家康は信長からも大軍で援軍が来てたのに信玄は一蹴してるからな

153 :人間七七四年:2015/04/21(火) 11:24:56.58 ID:ul3jb2bj.net
菅沼くんちーっす

154 :人間七七四年:2015/04/21(火) 11:50:17.08 ID:w82WaBMS.net
>>152
信長から派遣された大軍といっても、三河や遠江の各要所の備えに分散し、
浜松の徳川本隊と同行できる軍は3000程度の部隊にすぎない
浜松から出動できる徳川本隊と援軍の合計は、信玄が指揮する武田本隊よりも少ない
家康は過去、寡兵をもって今川氏真の大軍を散々破ってきた経験があり、
少ない兵で多くの兵を相手にする戦い方に関し、下手に自信をつけていた(かもしれない)

しかし信玄は氏真とは違い、戦が上手かった

155 :人間七七四年:2015/04/21(火) 13:50:26.20 ID:WAX2Jtcy.net
>家康相手に国力差相応の戦果が出せたのは信玄だけ
これを偉大と評価するセンスがすごい

156 :人間七七四年:2015/04/21(火) 14:12:06.97 ID:wEww8pl/.net
要は家康が偉大って事だな
勝頼も秀吉も北条も苦戦しまくりで
家康相手には国力差相応の戦果が出せなかったからなー
上田合戦は家康の指揮じゃないし

157 :人間七七四年:2015/04/21(火) 14:54:51.04 ID:Sia0GMXd.net
自分の居城前という最大の地の利を得ていて
完全撃破されるってなかなかないよね 信長も北条のように焼き討ちされるか
家康のようにおびき出されて敗死するかどっちかだな

158 :人間七七四年:2015/04/21(火) 20:09:11.73 ID:F/gfD8OI.net
そんな大勝利をなんの戦果に結び付けることもできなかった信玄ってどんだけ政治的に無能だったんだろう。

159 :人間七七四年:2015/04/21(火) 21:46:39.31 ID:z03pRDZV.net
家康と勝頼は長篠以降
お互い追いかけごっこ演じるばっかりで
明確な勝敗つく前に武田滅んじゃった印象

160 :人間七七四年:2015/04/21(火) 22:12:42.83 ID:NJt7NdDf.net
>>125
いやいや家康ほど戦争ばかりの人生はないだろ

・今川の尾張攻めで先鋒を無理矢理勤めさせられる
・桶狭間合戦で主君義元が殺される
・貧国で一向一揆が根強い三河の数郡の小領主として独立する
・三河一向一揆で、家臣が二分するような危機に追い込まれる
・自国より遥かに強大な国力の今川や武田の侵攻を次々に受ける。
・自国より遥かに強大な武田の侵攻を受けながら、信長の畿内平定戦に次々刈りだされる(金ヶ崎の侵攻戦、上洛戦、滋賀の陣、姉川の戦い、長島侵攻戦、岩村攻囲戦など)
・自国より遥かに強大な武田の侵攻を受けながら、信長からはろくな援軍が来ない
・自国より遥かに強大な武田に苦戦している間、信長が内訌や内紛、有力者の病死に付け込んで火事場ドロして版図を拡張したため
従属に近いような関係を強いられる。
・自国より遥かに強大な武田に苦戦している間、信長が内訌や内紛、有力者の病死に付け込んで火事場ドロして版図を拡張したため
従属に近いような関係を強いられ、信康を命令で殺される
・ろくな援軍もなく、長年武田相手に敢闘し、単独で抑えてきたにもかかわらず、武田攻めでは駿河しかもらえない。
・堺で穴山と遊行中、信長が本能寺で殺され、同行してた穴山が殺され、家康も襲われて危うく死にかける
・命からがら戻ってきたものの、元の国力がしょぼ過ぎ、同盟者家康には大義名分に欠けるため、ろくな兵が集まらず、光秀討伐に行けない。
・信長が死んだ後の信濃・甲斐に上杉景勝と北条氏直が進出してくる
・北条との同盟後も、天正11年・12年と上杉景勝が揚北や越中戦線を放り出してまで川中島侵攻を続けてくる
・秀吉が馬鹿みたいな大軍を率いて、しつこく侵攻してくる。
・圧倒的に秀吉軍を蹴散らしまくってたにも関わらず、織田信雄がマンマと和議に応じ、家康も応じざるをえなくなる
・天正11年に領内で大洪水が起きて、その対応に追われ、徳政令を連発するハメになる
・天正12年に木曽義昌、天正13年に小笠原貞慶・真田昌幸・石川数正・水野忠重が離反し、領内の軍事機密が露見する
・秀吉死後、自分を敵視した奉行衆らが、自分を暗殺する計画を企てる
・秀吉死後、自分を敵視した前田が、天下の差配を牛耳ろうと威張り散らす。
・秀吉死後、自分を敵視した上杉が、自分の命に背いて、領内に立てこもり、戦線布告する。
・秀吉死後、自分を敵視した輝元や三成らが、規格外の大軍を率いて馬鹿みたいに戦をけしかけてくる。
・藤堂隊や黒田隊、細川隊などが弱過ぎて、寡兵でろくな戦闘経験もない雑魚三成相手に苦戦し、あやうく負けかける。
・関ヶ原後も、秀頼や幸村らが巨大な富と、戦国一の堅城大坂城に大軍で立てこもり、自分に歯向かう。
・ヨボヨボのジジイになっても、息子が無能すぎて頼りにならないため、仕方なく自分が采配を振るって前線まで一々出かける。

161 :人間七七四年:2015/04/21(火) 22:15:38.10 ID:NJt7NdDf.net
>>110
秀吉は家滅ぼしまくりだぞ
家康や信雄も当初は滅ぼすき満々で書状に徳川を討ち滅ぼすとか何回も書いてるが
実力では全く歯が立たなかったので母や妹や関東250万石まで差し出して土下座講和した。


・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
・利休の愛弟子の山上宗二を耳と鼻を削がれた上で打ち首にする
・利休は秀吉に完全に心を閉ざすようになりツッケンドンな態度を示すようになり、利休を殺してる
・宇留津城で城主の加来与次郎は討ち死に降伏した男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することになり、周防灘が赤く染まる
・天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国・美作国・播磨国
の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)した

162 :人間七七四年:2015/04/21(火) 22:16:22.14 ID:iycNODBl.net
秀吉は元々家康を潰す気満々でいたが家康どころか雑魚の信雄に主力決戦で大敗したので、結局家康に土下座して関八州240万石・チート官位・秀吉縁戚の地位・五大老筆頭まで献上するハメになっただけ
秀吉は小牧長久手合戦後でも家康を潰す気満々で出兵計画立てまくってたが
天正14年初頭の出兵直前になるとビビリまくって家康に信雄を送って仲介したり母や妹を差し出したりして土下座してるからな

163 :人間七七四年:2015/04/21(火) 22:17:47.89 ID:jMGg9zb6.net
秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

164 :人間七七四年:2015/04/21(火) 22:21:17.92 ID:jMGg9zb6.net
秀吉は下記のように家康を滅ぼす気満々だった。
実際に領内の主力を総動員して決戦しかけてるので実行にも移してる

3月13日丹羽宛書状 「半月程度で決着つけてやる」
4月8日丹羽宛書状 「康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための進軍であり
また「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。
龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し
家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。
桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし
小早川秀包に同道してた渡邊清忠『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる
長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も
『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)
と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。
5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、
この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)
秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

165 :人間七七四年:2015/04/21(火) 22:22:04.99 ID:9adrpucC.net
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

166 :人間七七四年:2015/04/22(水) 17:32:42.73 ID:pbtyrjH0.net
このキチガイ在日織田チョンのコピペ爆撃まじうぜぇ。
他人のレスを盗用改竄の上で武田厨のフリをして自演して気持ち悪いし。
鴨川達夫先生も小牧長久手での秀吉軍の被害は3000であり、
1万というのは家康側の誇張吹聴だと断じてますね。
これ2011年5月に鴨川氏が発表したあと、
誰も反論する人がいないよね。なんで、ほぼ決着したね。

そうだね。鴨川の発表に反論した学者は誰もいないよね。
そりゃ今までのは徳川幕府史観のただの家康贔屓だから反論できるわけがない。
キチガイ在日コピペ爆撃アンチ秀吉の織田チョンは
藤田達生編纂「小牧・長久手の戦いの構造 上下巻)
っていう最初から家康勝利ありきを大前提にして我田引水してる
2006年の大昔の糞本を持ち出して必死なだけのアホだから
相手すんな。白峰旬や谷口などと、さも分けて書いているが
すべてこの本に書いている古いもんばっかで 誰もいまさら見向きもしない。

続く2014年6/10発表での鴨川氏は三河から尾張を分断すべく
小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画だとしているね。
楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。
それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。
しかし秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう。
森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)
鴨川氏は陸軍参謀本部の妄想戦記の思考を踏襲した岩澤愿彦氏が2000年に発表した
愛知県史研究「羽柴秀吉と小牧・長久手の戦い」という論文の定説化に対して下記のように論難してる。
【三河行きの部隊に誘き出された家康を楽田の本陣と一緒に挟撃するのが秀吉の策だと断じた件を批判し、
秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わないと言っており、
家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています】
小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。
これについても鴨川への批判はいまのところ皆無です。
はっきり言って原文の正確翻訳の達人鴨川への反論など不可能ですしね。

鴨川氏は秀次の迅速な侵攻は見事で、まんまと家康を出し抜いて
岩崎城を落してしまってそれを知って焦った家康がなんとか巻き返しただけと書いていますね。
鴨川氏が指摘するように長久手は主戦場ではなく、一次史料などを見ても岩崎の戦いと書いていて
後世に4/9に勃発した戦を長久手の戦いと呼んでいるのも徳川史観いよる捏造歪曲なのでしょうね。
一年に渡る小牧対陣をあたかも長久手での家康の勝ち戦だけをクローズアップさせて
天正12年戦役全体を家康の勝利にミスジャッジさせてきた徳川史観が鴨川によって論破された。

167 :人間七七四年:2015/04/22(水) 17:34:53.11 ID:pbtyrjH0.net
織田在日アホすぎwお前こそ自分の都合よいものだけしか抽出してねーし。しかも捏造歪曲しまくりじゃんw
鴨川は一次史料の原文書状を確認し一字一句レベルでキチンと読み込む達人だしw
鴨川は武田、毛利に続いて秀吉研究をしていたからな。 だから誰も反論できないのよ。
原文書状確認作業やれる人は限られてるからな。 むしろ小牧・長久手の戦いの構造って本の方がまったく
史料列挙してねーじゃん。ウソはいてんなよ。
幕府史観のままに疑念もなく家康勝利を前提にした結果ありきの願望妄想を背景に戦を論じてる本だろうが。
そんな8年も前の当時の常識で語った本なんて読む価値すらないわ。

秀吉だけが信長の葬儀をしてるのに、何を言ってるんだ?
秀吉は葬儀の準備をしつつ、岐阜で監禁されていた三法師の近江安土への移動を催促していたんだぞ。
秀吉は死んだ信長の葬儀を立派なものにしようと、朝廷に掛け合って朝廷の職を辞して無官になっていた
故信長を贈従一位太政大臣に任じてもらい、大徳寺へ贈官宣命使として少納言舟橋国賢が派遣されてしまったために
これ以上、葬儀延引きができず、やむなく三法師を葬儀に招くことを断念して養子秀勝を喪主にして葬儀してる。
これほどの旧主への義理立てがあるかよ。だいたい信雄は秀吉に敵対した男だぞ。
それなのに信雄の官位官職を狂ったように急速に向上させて、甲斐信濃駿河遠江三河の超加増までやろうとしてたんだぞ。
信雄が我がままで自分で断ったのに、なんでそれを以って秀吉が批判されなきゃならないんだ?
やむなく信雄の代わりに秀信を取り立てて父の信忠の岐阜城を与えて官位官職につけてやったし、
信長への義理から信雄を許し、信長ですら信雄には従五位下しかくれなかったのに、
秀吉は政権No.2の正二位内大臣にしてやったほど、信雄を引き立ててやったんだぞ。
実力のない信雄に対して、旧主信長への義理立てから秀吉が厚遇していたのに、その恩を忘れて増長し、
家康家臣団が転封準備しているのを知った、信雄家臣団が、転封準備しないとまずいですよって忠告したのに
信雄は、絶対転封はないから、秀吉の命は無視していいなんて言い放って、秀吉の顔を潰してるのが信雄。
結局、信雄も秀信も有楽斎も西軍に付き、大阪陣寸前まで豊臣擁護をしているのだから、
織田家は秀吉に感謝していたのは行動でわかる。
しかし家康は何をした?秀吉や利家らが死ぬやにわかに野望を露骨にむき出し
幼君であることを良いことに、幼君のためと偽る奸臣となって
その地位を奪いたい一心で平時に乱を起こし、
幼君が成長する前に権力と権威を奪い取り独裁し
秀信を高野山で幽閉し22歳で死に至らしめたし、
信雄も公家や寺社に影響力を行使できる五山の僧たちの
全力擁護で家康を説き伏せ助命と領地宛がいをなんとか約束させただけだし
孫娘千姫と夫である秀頼を殺しただけでなく、国松まで殺し、
女子供を含めた大坂20万人大虐殺をして、秀吉の墓を暴き、神号を剥奪し、
自らは東方を照らす大権現となってる糞老人だろ。


織田家を滅ぼしたのを秀吉だと必死に中傷している織田半島人wwww
三法師を拉致傀儡にしたのは信孝。
三法師を廃して、信孝を殺したのは北畠信雄。
北畠氏が織田を滅亡させたの。

168 :人間七七四年:2015/04/22(水) 17:37:57.01 ID:pbtyrjH0.net
だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとか馬鹿主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
天正15年正月時点で、
本多重次は岡崎城代で、
酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
天正17年6/22時点ではまだ重次は岡崎城代を続けているのがわかる。

天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為、
家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉は、
背後を気にする必要もなく、
安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧した。
そしてビビり家康からさらなる追加人質を要求した秀吉は、
征伐されたくない家康が言いわけをして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
実際、家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談していただけである。
それは秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術でもあり、
石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた。

169 :人間七七四年:2015/04/22(水) 17:42:29.20 ID:pbtyrjH0.net
秀吉が秀康を一時帰国させてやるから 追加で家臣ともどもさらに人質だせやって
恫喝してきたが、徳川家臣団は人質出したくないって
家康の説得を拒否ったから、こりゃもう徳川家は秀吉に滅ぼされだめだわって
石川は指導力ない家康を見限り秀吉の元に出奔しただけだよ。

2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上がり始めた。
意見統一が出来ない家康は2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し岡崎で降伏条件の最終会談をして、
秀吉との婚姻を条件に、さらにハードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
しかし上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、 家康の小心っぷりが際立っていた。

真田昌幸にさえフルボッコされた徳川軍の弱さに呆れ果て、
石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替えした。
そして家康は信雄に秀吉との和睦をすがった。
和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われたが、
姉との婚姻関係を結んで親族になってさえ、
殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は、
自分の母を三河に遣わし、家康の上洛に謀殺の狙いは全く無いことを表し、
秀吉の功徳に新帝と上皇は喜んだ。

そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、謀反を恐れた家康は、
いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、 妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。

170 :人間七七四年:2015/04/22(水) 17:44:17.26 ID:pbtyrjH0.net
荒木栄司氏によれば慶長4年に家康は京都阿弥陀ヶ峰の豊国大明神社に諸大名が参詣するのを禁止し、
修理もせず立ち腐れにせよとと通達をしたのに
清正はこの年の11/29に豊国大明神社を肥後の立田山の勧進して阿蘇社復興を約束してる。
一見、家康に背いて豊臣へ忠節を示しているようにみえるも
清正はこの年に家康養女と結婚して家康と接近しており、
この武断派重鎮清正との婚姻同盟が家康の豊国神社立ち枯れ政策を進めさせた原動力にも思える。
農民出身の秀吉が光明皇后が730年に発願して作られた施薬院が400年間打ち捨てられていたのを嘆き悲しみ
施薬院復興を天皇に涙で直訴してみたら天皇も大喜びで許可し、
秀吉が推薦した比叡山延暦寺の僧であった全宗を早速に施薬院使に任命、
従五位下に叙され昇殿も許す破格の出世をさせた上で派遣し
貧しい人や病人や孤児へ自愛の施しをしたわけだが、
そのことを敬愛して豊国大明神社を慈悲の象徴と捉え肥後統治のアイテムとしていただけなのだろうか。
ちなみにバテレン追放令は全宗の筆によって書かれたものである。
しかし家康が信長を真似た破壊屋で、おまけに超がつく吝嗇家で
一度恨みに思ったら絶対に忘れず報復するため誰もが恐れて表面上は従っているが心では従ってない人徳ゼロの人物で
秀吉が創業の人で、敵であったものでも簡単に許すどころか領地までくれるかたじけない人
っていう世情の評価も納得できるものだねぇ。

信長のような鬱憤を晴らして快楽を求めるためだけの虐殺略奪の絶滅ホロコースト戦争という私戦ではなく
秀吉は天皇に政治を委任され惣無事令を発布し
官軍として従わないものに対して私戦ではなく公戦として戦ったので
毛利・長宗我部・島津・伊達を許した。
北条は上洛する約束を反故にするなどの表裏をしでかすほどに
悪質だったため調停失敗した無能家康に一番重い兵役賦課して先陣を命じた。

171 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:12:38.77 ID:qCGcolK/.net
>>156
勝頼は長篠まで家康を一方的に押しまくっていたが?
信長の力がなければ勝頼に勝てなかったのが家康だよ

172 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:14:33.64 ID:kZloFQJ/.net
>>小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
>>長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画

そんな事秀吉の書状のどこにも書いてないし秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。



あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる

173 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:14:53.11 ID:/IbIXY3Z.net
>>楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
>>要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。

そんな事秀吉はどこにも書いてないし、秀吉が持久戦戦法に変わり出すのは小牧長久手合戦より後の事だよ
しかしそれでも何回も三河遠州への大々的な出兵画を何回も書状で書いてる
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

174 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:15:53.17 ID:/IbIXY3Z.net
>>柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言

それが書かれてるのは小早川隆景の5/2の書状だけど原文を読むと
三河衆勝利を得、其後は一円取り合わず、小牧山を要害に取り誘い持ち固められ
と書かれてて明らかに家康の事なんだがw

>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう

秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ

>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)

彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

175 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:16:08.53 ID:kZloFQJ/.net
>秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わない

それはおそらく5月9日の毛利宛書状とか6/4の佐竹宛書状の秀吉のハッタリ喧伝書状を曲解した解釈だと思うが
どちらも小牧長久手合戦前後で秀吉の戦略が少し変更された後だし、
原文を読むと小牧表10町15町陣を張り、野合之合戦を挑むと雖も、家康小牧山城中一切罷出候間、便々在之も不入儀と存じ
などと書いてて、家康が秀吉からの合戦の挑戦を受けないと書いてるだけだぞ。
しかもこれも秀吉のハッタリ誇大喧伝で、実際には秀吉からの挑戦受けて小牧長久手で秀吉を木端微塵にしたからね

>家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています

小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

176 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:16:26.51 ID:/IbIXY3Z.net
>小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。

それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね
小幡城=家康方の拠点
小牧山=家康方拠点
だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は
小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように
という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ
鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。

177 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:16:41.87 ID:kZloFQJ/.net
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである


谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

178 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:17:01.25 ID:VIqAfVU7.net
秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから


小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)


小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

元春は秀吉との関係が悪いどころか広家を人質に出したりして関係は良好だったからねえ
ドラマは無理矢理すぎて違和感だらけだった。

秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

179 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:17:17.63 ID:kZloFQJ/.net
◎小牧長久手合戦の戦死者は1万人以上

4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人

戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる

吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

180 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:17:32.66 ID:VZxQ5ofA.net
別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた

181 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:17:47.69 ID:kZloFQJ/.net
小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく
決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』
とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河
へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨
を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被
仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。
その後も秀吉の決戦構想は
は秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる

伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、
細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、
小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、
加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、
一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい

21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)
これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われる
し、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている

182 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:18:01.76 ID:VIqAfVU7.net
秀吉は家滅ぼしまくりだぞ
家康や信雄も当初は滅ぼすき満々で書状に徳川を討ち滅ぼすとか何回も書いてるが
実力では全く歯が立たなかったので母や妹や関東250万石まで差し出して土下座講和した。


・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
・利休の愛弟子の山上宗二を耳と鼻を削がれた上で打ち首にする
・利休は秀吉に完全に心を閉ざすようになりツッケンドンな態度を示すようになり、利休を殺してる
・宇留津城で城主の加来与次郎は討ち死に降伏した男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することになり、周防灘が赤く染まる
・天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国・美作国・播磨国
の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)した

183 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:18:24.53 ID:kZloFQJ/.net
秀吉は元々家康を潰す気満々でいたが家康どころか雑魚の信雄に主力決戦で大敗したので、結局家康に土下座して関八州240万石・チート官位・秀吉縁戚の地位・五大老筆頭まで献上するハメになっただけ
秀吉は小牧長久手合戦後でも家康を潰す気満々で出兵計画立てまくってたが
天正14年初頭の出兵直前になるとビビリまくって家康に信雄を送って仲介したり母や妹を差し出したりして土下座してるからな

秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

184 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:18:53.54 ID:kZloFQJ/.net
秀吉は下記のように家康を滅ぼす気満々だった。
実際に領内の主力を総動員して決戦しかけてるので実行にも移してる

3月13日丹羽宛書状 「半月程度で決着つけてやる」
4月8日丹羽宛書状 「康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための進軍であり
また「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。
龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し
家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。
桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし
小早川秀包に同道してた渡邊清忠『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる
長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も
『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)
と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。
5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、
この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)
秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

185 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:19:54.74 ID:kZloFQJ/.net
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

秀吉が一万人殺されたのは徳川方史料はもちろんの事秀吉の同盟者の毛利の部下の書状とか
秀吉の家臣の細川側近の松井の書状にしっかり書いてあるんだが…

別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな

秀吉はできるとなれば光秀、柴田、信雄や宇都宮や南奥州の大名や東北の諸侯を改易しまくったり殺しまくってるし
信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させてる
何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込んだあげく信雄と和睦した後特に理由もなく失脚させてるし
佐々成政にいちゃもんつけて改易したり
関東攻めでも中国計略や朝鮮出兵でも降伏する人々を殺しまくってる

秀吉は結局実力では家康はおろか信雄にすら敵わなかったからな
だからその結果家康に母妹関東250万石と官位と大老職まで土下座して差し出す事になり、結果家を滅ぼされただけだし
実力がない者が家を滅ぼされるという当たり前の事が起きただけだよ

186 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:21:24.15 ID:uAsvhXI7.net
秀吉はできるとなれば光秀、柴田、信雄や宇都宮や南奥州の大名や東北の諸侯を改易しまくったり殺しまくってるし
信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させてる
何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込んだあげく信雄と和睦した後特に理由もなく失脚させてるし
佐々成政にいちゃもんつけて改易したり
関東攻めでも中国計略や朝鮮出兵でも降伏する人々を殺しまくってる

187 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:21:35.70 ID:kZloFQJ/.net
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに

6 名前: 名無しさん@chs :2014/12/02(火) 11:16:15 ID:9c5dfae37
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

188 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:21:51.77 ID:8U8p/IA2.net
秀吉は元々家康を潰す気満々で135000の兵力(3/22渡辺清忠→元行書状や4/8秀吉→長秀書状
6/2小早川秀包→藤四朗書状享禄以来年代記)を率いて短期決戦志向で戦を望んだ
(3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」3月22日渡辺清忠書状3日桂書状佐竹義重宛書状)
が信雄相手に1万人を戦死させられる大敗を喫し全く歯が立たなかったので
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して 和睦が成立しただけだよ。
そんな状況なんだから滅ぼせるわけがない

189 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:22:03.54 ID:kZloFQJ/.net
そもそも豊臣家自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

190 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:22:19.02 ID:BVcyd7kl.net
いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。

191 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:22:36.08 ID:kZloFQJ/.net
ありえないような事実と言われても秀吉が雑魚の信雄に10000人殺されたのは4/13北条氏政・氏直書状
5/2小早川隆景書状イエズス会年報 フロイス日本史当代記 に書かれてるし
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

192 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:22:51.43 ID:QssfNyUO.net
小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

193 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:23:04.30 ID:kZloFQJ/.net
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

194 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:23:55.19 ID:VZxQ5ofA.net
天正14年初頭までは出兵計画を散々部下や諸大名に具体的に話しておきながら
天正14年初頭には信雄を仲介に送って交戦さけてるんだからビビりまくってるからに決まってるじゃん
秀吉は11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
と書いていて、戦争する気満々だったんだよ。
木曽・小笠原・真田・石川・水野が寝返っていて家康なんて100万石弱程度だから
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 、信雄対策には顕如に土下座して仲介してもらって
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

195 :人間七七四年:2015/04/23(木) 01:32:50.05 ID:FdSVd4g4.net
徳川は人気ないんだよな何故か・・・昔からなのかね

196 :人間七七四年:2015/04/23(木) 20:13:09.14 ID:1o3VB//9.net
荒れているね〜w、ここでティーブレイク、源頼朝の従兄弟の話をしないか?w


■源頼朝と従兄弟2人の関東支配の裏歴史

1181年:源頼朝は藤姓足利氏を滅ぼし、三河の母方従兄弟の源義兼に足利荘を安堵する(源姓足利氏の始まり)
1181年:源頼朝の意向で、足利義兼は北条時子(政子の妹)と結婚する
1182年:源頼朝の従兄弟の寛伝が、頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる

■日光山
源頼朝が母方の従兄弟(寛伝)を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた

源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝

足利義兼(初代足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼

寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝

寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(三河県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(三河県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(三河県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する

197 :人間七七四年:2015/04/23(木) 20:14:40.29 ID:1o3VB//9.net
【源頼朝の母方従兄弟】
■藤原忠季:源実朝近習
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季

■寛伝:日光山満願寺19世座主、滝山寺(三河国額田郡)僧
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝

■野田清季:初代野田氏(三河国設楽郡野田)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季

■娘:足利義康の正室
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→娘→足利義兼

■星野範清: 頼朝右大将拝賀の先駆、星野氏(三河国宝飯郡星野)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→星野範信→星野範清

■千秋憲朝:駿河守、尾張国海東郡地頭、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→星野範信→千秋憲朝

■仁憲:滝山寺(三河国額田郡)僧
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→三河祐範→仁憲

【源頼朝の父方従兄弟】
■源為朝の娘:足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助)の正室、娘が源頼家の正室(公暁の母)
・源義親→源為義→源為朝→女→女→公暁

■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→女(鳥居禅尼)→行快

■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→女(鳥居禅尼)→鳥居忠氏

198 :人間七七四年:2015/04/25(土) 15:02:26.82 ID:CWSboNJi.net
>>160
よくよく読むと家康が弱すぎて毎回豊臣家に殺されかけてることがよくわかるな。
秀吉の偉大さが、とても良く分かる迷文だと思う。

199 :人間七七四年:2015/04/25(土) 15:06:42.38 ID:cCGdUpHn.net
>>198
いやいや、家康は秀吉より圧倒的に強いよ
秀吉は家康よりずっと弱い信雄に135000の大軍で主力決戦挑んで部下を10000人も殺されてほうほうの体で逃げ帰ってるし

200 :人間七七四年:2015/04/25(土) 15:09:30.76 ID:yfnwshqz.net
>>198
戦争というものは数でゴリ押しすれば勝てるものだが
秀吉はどれだけ家康家中で寝返りが起ころうが国力差が15倍以上あろうが
実力で戦うと家康家臣団を一人も殺せない程指揮能力や采配能力が欠如していたので
信雄対策には顕如を使って土下座仲介してもらい
家康対策には母や妹や関東250万石と大老職と官位まで差し出して土下座してる。
結局それが原因で家康に家を滅ぼされてるし
弱い者が家を滅ぼされる当たり前の事が起きただけだよ

201 :人間七七四年:2015/04/25(土) 15:21:41.56 ID:t685rGB4.net
事実としてあるのは秀吉は8倍の兵力がありながら凡将の信雄を主力決戦で大敗してその結果家を滅ぼされた事だけだからな

202 :人間七七四年:2015/04/25(土) 21:44:34.16 ID:CWSboNJi.net
>>201
日本語を書いてくれよ。しかし朝鮮人はなんでこんなに秀吉が嫌いなの?教えて?

203 :人間七七四年:2015/04/25(土) 22:09:33.82 ID:CWSboNJi.net
>>201
日本語を書いてくれよ。しかし朝鮮人はなんでこんなに秀吉が嫌いなの?教えて?

204 :人間七七四年:2015/04/26(日) 02:17:03.85 ID:BdWYFTzw.net
※193

信雄と主力決戦?
馬鹿?朝鮮人?

伊勢を秀吉の別動隊に侵略されて講和したのが信雄だけどw

205 :人間七七四年:2015/04/26(日) 07:46:51.90 ID:VT/gw/pE.net
>>204
秀吉が短期で主力決戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

206 :人間七七四年:2015/04/26(日) 07:47:20.39 ID:kaC6ZJO9.net
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

207 :人間七七四年:2015/04/26(日) 07:49:02.98 ID:IYJZFc0X.net
>>204
わずか10町程の距離の間に両軍の総力が集結して互いに戦いあってるのが主力決戦じゃなかったら主力決戦なんてどこにも存在しないだろ馬鹿

208 :人間七七四年:2015/04/26(日) 07:51:33.98 ID:KGqsre1V.net
135000のうち100000は北尾張に集結させられてて
小牧長久手の戦いの翌日に秀長軍20000がさらに到着してるし美濃にも後詰の秀勝6000がいるから
125000はいると言っていい

秀吉軍の中入り作戦が秀吉の短期決戦構想の元に行われたのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

209 :人間七七四年:2015/04/26(日) 07:54:19.45 ID:kaC6ZJO9.net
>>204
秀吉は伊勢の拠点4月以降どこも攻略できてませんけど??

逆に信雄方が伊勢浜田城や尾張の下市場城、蟹江城、前田城、長久保城を奪回し
二重堀合戦で秀吉に対してわずか1000で奇襲かけて楽田から叩き出すなど圧倒的に優勢でしたけどw


小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

210 :人間七七四年:2015/04/26(日) 07:56:21.33 ID:vOIzMGza.net
>>204

秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座依頼してるのが11/4の秀吉→顕如への書状でわかる
また秀吉は天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
しかし直前になると秀吉はビビりまくって信雄を仲介に送って戦争を避けてる


ちなみにこれがソース元の史料ね

http://iup.2ch-library.com/i/i1391605-1424840168.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1391606-1424840260.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1391608-1424840295.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1391609-1424840323.jpg

211 :人間七七四年:2015/04/26(日) 07:56:42.32 ID:vOIzMGza.net
http://iup.2ch-library.com/i/i1391610-1424840364.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1391611-1424840386.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1391669-1424848396.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1391669-1424848396.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1391679-1424848673.jpg

212 :人間七七四年:2015/04/26(日) 08:11:28.78 ID:AgNlhGwP.net
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる

三河方面へ陸海両方面から総攻撃かけるのが秀吉の戦略

213 :人間七七四年:2015/04/26(日) 13:30:47.24 ID:Evw0uFPi.net
家康への評価は超大好きか嫌いの両極端だよな
好きな人は物凄くハマるんだって家康の魅力に

214 :人間七七四年:2015/04/26(日) 14:10:09.72 ID:b8XQY+al.net
秀吉の戦略は凄いな。

215 :人間七七四年:2015/04/26(日) 14:18:38.00 ID:kaC6ZJO9.net
その戦略を見事に破壊されて信雄に10000人ぶち殺された上に二重堀合戦で奇襲食らって楽田から叩き出されたね

216 :人間七七四年:2015/04/26(日) 14:19:59.07 ID:JymQlDrX.net
秀吉より信雄の方が10枚くらい上手だったという事だな

217 :人間七七四年:2015/04/26(日) 14:33:29.21 ID:b8XQY+al.net
それも秀吉の戦略のうち。
すべて掌の上なのに気づかないw

218 :人間七七四年:2015/04/26(日) 14:34:00.49 ID:Kr+3L1G0.net
秀吉が戦下手な印象しかない
世渡りで天下取ったけど、戦だと立場に物を言わせた力押しばっかりだから
謙信と信玄の戦を馬鹿にしてたらしいけど、その武田に負けた家康の戦略にも敵わないという

逆に家康が嫌われる理由がよく解らない。かなり真っ当な人格してるし、将としても優秀で戦も相当上手い。家臣も皆強い

219 :人間七七四年:2015/04/26(日) 14:49:14.85 ID:kaC6ZJO9.net
>>217
いや主力決戦で大敗したのにそれが戦略だったとかないわ。
秀吉の兄弟の木下兄弟まであおりくって戦死してるし
秀吉は池田の親のおおちさまという人間に書状で
池田の死を相当痛んでいるし、秀次に宛てた書状からも、池田が死んで不憫でならない
次ぎこんな事やったら勘当するぞって書いてるし

220 :人間七七四年:2015/04/26(日) 14:51:10.63 ID:OygiV9wk.net
>>217
小牧長久手の前だと秀吉は短期決戦構想で>>205-206のように臨んでるが
決戦で大敗したので、結局だらだら陣を張っていくうちに信雄に前田城蟹江城下市場城長久保城浜田城まで奪回されて
二重堀合戦でも秀吉は信雄に奇襲食らって保々の体で尾張から敗走してる
明らかに秀吉の戦略は頓挫してる

221 :人間七七四年:2015/04/26(日) 17:53:24.61 ID:WBmQlhdw.net
そして西日本を制圧し、織田・徳川は完全屈服。
戦略家としての器が大きすぎる。秀吉の器は凡人には理解できない大器。

222 :人間七七四年:2015/04/26(日) 18:32:08.82 ID:n8Vbi4g+.net
西日本といっても元々大した敵がいなかったからな
四国には秀吉方で十河や河野などがいまだに頑張ってたし
九州には大友や相良や竜造寺が滅ぼされずに頑張ってたし
島津なんて秀吉がくる以前に大友に連戦連敗食らってたし

223 :人間七七四年:2015/04/26(日) 18:32:47.90 ID:kaC6ZJO9.net
西日本を制圧できたのは秀長や黒田らのおかげだけどな
秀吉は九州攻めも四国攻めも何もやってないじゃん

224 :人間七七四年:2015/04/26(日) 18:33:04.30 ID:XjTzalQq.net
いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

225 :人間七七四年:2015/04/26(日) 18:33:23.70 ID:YfUoR9sc.net
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。

226 :人間七七四年:2015/04/26(日) 18:34:20.32 ID:XjTzalQq.net
指揮能力や采配能力の弱い者は戦に負けて家を滅ぼされるという当たり前の事が起きただけだな

227 :人間七七四年:2015/04/26(日) 20:57:53.02 ID:WBmQlhdw.net
お情けで赦してもらったのに、恩人の息子7歳に牙を剥いて、
容赦の無い不義理と言い掛かりで戦に持ち込み、主君の家を滅ぼしたところだな。

228 :人間七七四年:2015/04/26(日) 21:37:10.06 ID:kaC6ZJO9.net
>>227
いやいや家康はお情けではなく秀吉は実力で戦うと歯が立たないから家康を許すしかなかっただよ

229 :人間七七四年:2015/04/26(日) 21:38:23.48 ID:2kBfyED/.net
>>227
いや、許したというより、潰せなかっただけだろ。
秀吉はできるとなれば光秀、柴田、信雄や宇都宮や南奥州の大名や東北の諸侯を改易しまくったり殺しまくってるし
信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させてる
何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込んだあげく信雄と和睦した後特に理由もなく失脚させてるし
佐々成政にいちゃもんつけて改易したり
関東攻めでも中国計略や朝鮮出兵でも降伏する人々を殺しまくってる

秀吉は元々家康を潰す気満々で135000の兵力(3/22渡辺清忠→元行書状や4/8秀吉→長秀書状
6/2小早川秀包→藤四朗書状享禄以来年代記)を率いて短期決戦志向で戦を望んだ
(3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」3月22日渡辺清忠書状3日桂書状佐竹義重宛書状)
が信雄相手に1万人を戦死させられる大敗を喫し全く歯が立たなかったので
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して 和睦が成立しただけだよ。
そんな状況なんだから滅ぼせるわけがない

230 :人間七七四年:2015/04/26(日) 21:43:09.50 ID:0sspaNA1.net
>>219 
ん?でもさ、その一方で由之がまだ幼いから池田家は輝政にということで 
秀吉に報告したら小牧での恒興達のことを槍玉にあげてその責を非難しまくり 
輝政の相続は認めないとか池田家は絶えさせる腹づもりもあるみたいなことを 
言って怒り抜き説得するのが大変だったと伊木が記録を残してるけどな。

231 :人間七七四年:2015/04/26(日) 21:48:31.41 ID:1swbr9yJ.net
小田原城攻めの時には完全に秀吉が家康を圧倒していた。
恩を仇で返す家康。

232 :人間七七四年:2015/04/26(日) 21:49:24.41 ID:Ge3/MBVz.net
>>230
伊木の記録って?
長久手町史と愛知県史の資料編見たけどそんなものは全く載ってなかったけど

233 :人間七七四年:2015/04/26(日) 21:51:45.72 ID:WugZTDl1.net
>>230
秀吉は自分の作戦で池田が戦死したのに責任を秀次や池田らに押し付けてるからな
敗戦前日の丹羽宛書状とか柏井にいる一柳に宛てた書状など見る限りハッキリ自分が作戦なのがわかるのに

234 :人間七七四年:2015/04/26(日) 21:53:48.32 ID:kaC6ZJO9.net
三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

235 :人間七七四年:2015/04/26(日) 21:54:11.59 ID:WugZTDl1.net
清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

236 :人間七七四年:2015/04/26(日) 21:55:02.51 ID:Ge3/MBVz.net
>>230
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな

237 :人間七七四年:2015/04/26(日) 21:55:30.35 ID:kaC6ZJO9.net
秀吉の小牧長久手時は羽柴軍は相当強固な権限を秀吉が握ってた。
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。

238 :人間七七四年:2015/04/26(日) 21:57:45.15 ID:WugZTDl1.net
清洲会議後秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。

秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。

秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる

239 :人間七七四年:2015/04/26(日) 22:00:47.82 ID:F3EzWb3q.net
>>230
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

240 :人間七七四年:2015/04/26(日) 22:01:33.55 ID:kaC6ZJO9.net
池田は信長の乳母兄弟
織田家で重用され信長に恩を受けていた。
明智はその恩人であり主君信長を殺した敵
その敵を殺した秀吉は敵を討った恩人
だから池田は秀吉につくのは至極当たり前

241 :人間七七四年:2015/04/26(日) 22:03:24.73 ID:kaC6ZJO9.net
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。

242 :人間七七四年:2015/04/26(日) 22:03:52.11 ID:hqDUSnMa.net
大阪築城の際にも、池田はとっくに秀吉の命令で摂津を奪われて土田舎の美濃まで転封させられてる

天正12年3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる

243 :人間七七四年:2015/04/26(日) 22:04:50.12 ID:1gkUCpwB.net
1582年時点でも秀吉に領分介入されたり、転封命令出されたりしてるのが池田

清州会議では秀信が織田の後継者と決まり秀吉はその後見になってる
さらに池田は秀吉の転封命令も、前年の1583年に聞き入れて摂津を召上げられて土田舎美濃に移動してるし
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

244 :人間七七四年:2015/04/26(日) 22:30:38.63 ID:LbiG8JXH.net
池田は秀吉の忠実な部下だったんだよな

・天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

・三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる

・清州会議の後に秀吉は摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、
若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。

・大阪築城の際に秀吉は池田を摂津から犬山城に転封命令出して池田もこれに従ってる

245 :人間七七四年:2015/04/26(日) 22:31:09.12 ID:LbiG8JXH.net
池田は秀吉の忠実な部下だったんだよな

・天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

・三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる

・清州会議の後に秀吉は摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、
若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。

・大阪築城の際に秀吉は池田を摂津から犬山城に転封命令出して池田もこれに従ってる

246 :人間七七四年:2015/04/26(日) 23:24:56.56 ID:v3zozWpg.net
>>245
IDころころ変えたり、連投したり、誰かとちゃんと会話する気無いだろw

247 :人間七七四年:2015/04/26(日) 23:52:43.78 ID:NxPwBeLT.net
掲示板とは己の主張を掲示する場であって会話する場ではない
そのことを理解してないネラーが多すぎるな

248 :人間七七四年:2015/04/26(日) 23:54:00.52 ID:V0BTRrYw.net
会話する気がないのは秀吉厨の方だもんな
毎回同じ事書かれて反論されても無視してしばらくたつと同じ妄想ひけらかしてるし

249 :人間七七四年:2015/04/27(月) 00:00:01.72 ID:amwDXnuC.net
つまり秀吉厨のほうが掲示板の使い方を心得ている訳だ

250 :人間七七四年:2015/04/27(月) 00:13:33.35 ID:7V8GzE9n.net
秀吉厨の知能は小学生より低いだろ

251 :人間七七四年:2015/04/27(月) 00:54:13.35 ID:rK7MXsWU.net
>>250
会話で負けて、議論で負けて、自己主張で負けて、最後はコピペ連投と
小学生レベルの負け惜しみ。
君はいつも同じパターンを繰り返してるなw

252 :人間七七四年:2015/04/27(月) 08:31:23.26 ID:FAKUa+aL.net
コピペ連投は、知能が小学生より低い秀吉厨じゃん

253 :人間七七四年:2015/04/27(月) 08:43:11.56 ID:nwd8gLWz.net
>>251[
いやいや、議論で負けてるのはどう見ても秀吉厨の方だろう。
だってコピペにはちゃんと根拠の史料や事例が書かれてるけど
秀吉厨のレスは単なる願望文じゃん

254 :人間七七四年:2015/04/27(月) 08:43:57.37 ID:u2egqYvJ.net
>>251
コピペにはキチンと根拠が書かれてるから負けたというのは苦しいな
秀吉厨のレスには何一つ根拠が書かれてないけど

255 :人間七七四年:2015/04/27(月) 08:44:54.45 ID:h954dm6c.net
毎回繰り返し垂れ流される秀吉厨の馬鹿な妄想リスト


・秀吉の臣下になったのが家康だから家康は秀吉以下
→論破レスhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/417-422
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/296-297


・家康は秀吉に養子を差し出したから小牧長久手は秀吉の勝ち
→論破レスhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/378-380
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/386
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/390-395
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/354-362


・家康が差し出した秀康は養子ではなく人質
→論破レス
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/233-236

・秀吉が生きてた間は家康は秀吉に勝てなかった。
→論破レス
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/365-366
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/186-199

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/85-97
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/98-107
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/128-137
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/l44-157

256 :人間七七四年:2015/04/27(月) 08:45:42.83 ID:h954dm6c.net
悉く打ち砕かれた秀吉厨のアホな妄想 と、それを論破したレス集


http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/85-97
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/98-107
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/128-137
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/l44-157

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/388-400
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/402-406
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/488-411
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/415-428
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/430-434

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/287
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/289
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/291
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/294-296
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/298
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/300-304
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/306-309
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/311-313
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/317-324
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/327-329

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/332-340
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/344-346
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/348-350
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/355-357
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/359-371

257 :人間七七四年:2015/04/27(月) 08:46:33.06 ID:jxFSGYxd.net
>>255-256
秀吉厨のバカな妄想が全部論破されててワロタwwwwwww

258 :人間七七四年:2015/04/27(月) 17:03:32.51 ID:PSiWJmdP.net
信長を利用して要領の良さで巧みに実権握っただけで、秀吉自身は大名として戦い抜いた実績や教養が無いんだもの
対して家康はこの時点で既に歴戦を経験した大大名
秀吉生前に荒立てなかった事もあるし、家康のが一枚も二枚も上手だわ

259 :人間七七四年:2015/04/27(月) 17:45:16.99 ID:scpIny49.net
結局、信長と秀吉を踏み台にして
虎視眈々と自分の時代が来るのを待って幕府を設立した
うーん、大器晩成の鏡だよな
こんなタフな精神力持った人物は稀

260 :人間七七四年:2015/04/27(月) 22:06:40.21 ID:rK7MXsWU.net
>>252-257
いくらID変えて必死に叫んでも、
文体も主張も同じじゃ意味無いというか、むしろ逆効果じゃねw???

261 :人間七七四年:2015/04/27(月) 22:09:13.17 ID:rK7MXsWU.net
>>259
自分の時代って、7歳の子供を10年以上かけて
チクチク虐めてただけだけどなw

262 :人間七七四年:2015/04/27(月) 22:15:13.78 ID:9NZknQ5K.net
ID:rK7MXsWU

263 :人間七七四年:2015/04/27(月) 22:45:22.12 ID:rK7MXsWU.net
はーい

264 :人間七七四年:2015/04/28(火) 00:39:30.90 ID:EkXJGNof.net
スレタイだけど、別に嫌われてなくね?
信長の方が一部に嫌われてるイメージ
俺は好きだけどね

265 :人間七七四年:2015/04/28(火) 08:31:27.91 ID:PhCtmYJ+.net
普通の日本人だったら家康嫌いだろう。
だってかっこ悪いじゃん。
信長はかっこいいから人気ある。

266 :人間七七四年:2015/04/28(火) 08:45:37.49 ID:oi73uGwB.net
↑コイツが普通じゃない、という皮肉

267 :人間七七四年:2015/04/28(火) 09:24:00.80 ID:IhebrpRJ.net
普通の日本人は
子供の内は信長好きでも社会に出る頃には秀吉を
社会経験を積んで中年になる頃には家康を支持するようになる

268 :人間七七四年:2015/04/28(火) 09:54:46.47 ID:+49FMt7v.net
俺は10代の頃から家康ファンだったが

269 :人間七七四年:2015/04/28(火) 13:09:53.35 ID:QwX9HCNi.net
好きな武将に年齢層は関係ないからな
秀吉は女たらし人誑しの性格から女で嫌ってる奴は多い。
家康は単純に影が薄い

270 :人間七七四年:2015/04/28(火) 17:57:33.82 ID:FULhN6W0.net
荒れているね〜w


【三河国高橋荘・高橋新荘】

豊田市全域は皇室が所有した最大の荘園だった


源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領の荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した


・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?


・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる

271 :人間七七四年:2015/04/28(火) 17:58:14.62 ID:FULhN6W0.net
■三種の神器
現在では八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、草薙剣は熱田神宮に、それぞれ神体として奉斎


■伊勢神宮(八咫鏡)

大宮司

鷹司尚武
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B0%9A%E6%AD%A6
大給松平家’三河国加茂郡大給松平、三河県豊田市)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B5%A6%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6


伊勢神宮崇敬会
http://www.jingukaikan.jp/sukeikai/yakuin.html
>会長 豊田章一郎(三河吉田藩山口村)


■熱田神宮(草薙剣)

大宮司家

千秋家(三河国設楽郡千秋、三河県新城市)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sensyu.html

熱田大宮司千秋家譜について
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f7-4.pdf

272 :人間七七四年:2015/04/28(火) 17:58:42.87 ID:FULhN6W0.net
皇族を継ぐ日本最高の家柄、細川氏の菩提寺は豊田にある
豊田、恐ろしすw


日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)

公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子

武家(No.1、No.2)
・喜連川家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)


細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)

氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)

大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)

氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)

273 :人間七七四年:2015/04/28(火) 21:19:13.19 ID:fZzBYNfQ.net
コピペうざい。消えろカス。

274 :人間七七四年:2015/05/07(木) 12:00:23.09 ID:ClRYGO7U.net
秀吉死んでからの露骨さがあまりにも度を越してるからね
前田や上杉へのチンピラヤクザレベルの因縁とか
最後に伊達政宗も因縁つけてつぶしてりゃ完璧だったな
でも250年後に家康に嫌がらせされた上杉や伊達が奥羽列藩同盟で
譜代の保科の会津と一緒に戦うんだから世の中わからんもんだな

275 :人間七七四年:2015/05/07(木) 14:10:14.69 ID:nDfuv0y7.net
>>274
前田や上杉は謀反疑われて当然だぞ

276 :人間七七四年:2015/05/07(木) 14:14:22.80 ID:i2DNR7o/.net
信長が死んでからの秀吉の方がはるかにひどい

277 :人間七七四年:2015/05/07(木) 15:59:59.89 ID:JwITXJvnf
秀吉は信長から息子たちの事を頼むと言われてないんだが……

278 :人間七七四年:2015/05/09(土) 08:58:56.41 ID:R+qFk9st.net
地味だから

279 :人間七七四年:2015/05/10(日) 13:32:14.71 ID:ICrbXHt7.net
現代まで続く日本社会の原型を作ったのが家康だから
社会不適応者が家康を嫌うのは当然

280 :人間七七四年:2015/05/10(日) 22:29:54.95 ID:jjerwBf4.net
源頼朝だろ

281 :人間七七四年:2015/05/11(月) 12:42:48.41 ID:o55BYGrc.net
子供の頃は周りの大人がみんな家康嫌ってたわw
学校の先生まで嫌ってた
太閤さんのお城を燃やしたからとか太閤さんの子供を殺したからとか
今でも好きではないけど我慢強く賢い事は決して悪い事ではない
会社の社長なら素晴らしいと思う

282 :人間七七四年:2015/05/11(月) 13:09:55.33 ID:ZkG+mpmG.net
>>281
その太閤さんも家康以上にずる賢く、悪いことをたくさんしてきたのだが。

283 :人間七七四年:2015/05/11(月) 13:24:27.74 ID:fD7Y4TMG.net
小学生の頃は秀吉が好きだったな
いまはどれもこれもないけど三傑のなかだと一番下に見てる

284 :人間七七四年:2015/05/11(月) 16:27:26.64 ID:yPvIMstV.net
>>281は大阪?

285 :人間七七四年:2015/05/11(月) 18:45:51.94 ID:S4QWDTa6.net
明治まで武家だった家で家康公を嫌ってるのがいたなら、ソイツの存在は嘘だね
恩知らずの腰抜けと言わざるをえない

286 :人間七七四年:2015/05/12(火) 08:12:27.79 ID:zOLX6fHG.net
>>282
まあね、ただ夏の陣の関東方の大阪市民への虐殺略奪行為は
かなりひどかったらしいからそれが語り継がれていたのかも知れないね

287 :人間七七四年:2015/05/12(火) 08:12:41.38 ID:zOLX6fHG.net
>>284
大阪です

288 :人間七七四年:2015/05/12(火) 10:00:51.70 ID:IwflD81k.net
>>286
でも、豊臣家を潰しておかないと高い確率で戦国の世になるからな
無知な連中は心を鬼にして天下泰平を築き上げた家康を理解出来ないだろうな

289 :人間七七四年:2015/05/12(火) 10:35:35.22 ID:pLfy8IvGz
徳川幕府を永久に存続させたかっただけの事だろうが
何が天下泰平じゃボケ

290 :人間七七四年:2015/05/12(火) 17:52:53.71 ID:zUh5tLt4.net
豊臣は潰すが、島津・毛利は潰さないというのは家康のバランス感覚だろうね
島津・毛利まで潰すと、今度は徳川自体が腐敗するか分裂する確率が高くなる

291 :人間七七四年:2015/05/12(火) 18:34:31.13 ID:VRYlOLpu.net
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
徳川幕府は崩壊していない


http://books.google.co.jp/books?id=RVXyIQq5VMYC&pg=PA46&lpg=PA46&dq=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&source=bl&ots
=tYDHrH7uuT&sig=fBVt13JJ3pGPoJN1o7c5a6G4XE8&hl=ja&sa=X&ei=bHggU5HHKImgkgWuoYD4Bg&ved=0CDkQ6AEwAw#v=onepage&q=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&f=false
>三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた


三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)

大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司

藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司))

292 :人間七七四年:2015/05/13(水) 02:33:52.78 ID:a4Clzglq.net
>>232 
代々筆頭家老を勤めた伊木家に伝わる家録だよ 
池田及び家臣史料は愛知じゃなく兵庫、岡山、鳥取あたりを漁るといいよ。

293 :人間七七四年:2015/05/23(土) 15:35:22.50 ID:TTWuuF/g.net
家康はおのれが天下を獲るために、主家であった豊臣を滅ぼした。
もし徳川家が大老筆頭として、豊臣家を傀儡にして実権を握ってたら、今程家康は嫌われていないと思う。
日本史の鎌倉執権北条氏や、中国三國志の諸葛孔明のように。

294 :人間七七四年:2015/05/23(土) 16:19:13.51 ID:2d9aBrkw.net
日本が世界で一番平和なのに
その土台を作った家康が嫌われるとは悲しいもんだな

>>293
秀吉も己が天下を取るために、信長を滅ぼした

295 :人間七七四年:2015/05/23(土) 18:52:17.43 ID:v5gKvtKFh
ほんでも秀吉は信長から「織田家を宜しく頼む」と言われてなかったよ

296 :人間七七四年:2015/05/23(土) 23:44:50.50 ID:TTWuuF/g.net
>>294
信長を殺したのは明智だろ?
秀吉は織田家を滅ぼしてない。
今でも信長の子孫はいる。

297 :人間七七四年:2015/05/24(日) 01:40:04.48 ID:MDGeKKGA.net
まあ、一度担いだとはいえ、三法師を成人まで見たからな、秀吉。

298 :人間七七四年:2015/05/24(日) 03:28:11.63 ID:DcXOaAil.net
>>293
そしたら今度は執権北条氏扱いでやっぱり嫌われてるよ
結局家康嫌いって徳川氏じたいが滅亡しないと許せないんだと思う

299 :人間七七四年:2015/05/24(日) 04:28:02.48 ID:TWNKK8jF.net
フィクション感覚の好き嫌いだから家康を嫌えるんだよ

300 :人間七七四年:2015/05/25(月) 21:49:06.00 ID:mz1TJj6D.net
大谷吉継や石田三成が好きな武将の集計で上位に来るご時世が終わらない限り家康は反動で嫌われ続ける

301 :人間七七四年:2015/05/25(月) 22:52:16.76 ID:NmxeCVtG.net
秀吉が秀次の家系自分の亜流を
自ら潰したからな

302 :人間七七四年:2015/05/26(火) 02:02:05.38 ID:rfOt3NJr.net
家康が完璧とは思わないけど誰かの下で暮らすなら家康が一番気楽でいいやw

303 :人間七七四年:2015/05/26(火) 11:01:51.97 ID:9vtLjpkr.net
>>294
秀吉が天下を取るため、というより織田家を簒奪するために滅ぼしたのは、
信孝の一族ですよ
信長じゃなくて、その息子が立ち上げた分流のうちの一つ

304 :人間七七四年:2015/06/02(火) 13:15:27.88 ID:AK6l9Pd+.net
別に嫌われてないだろイメージなだけで
好きな武将ランキングでも上位だし

305 :人間七七四年:2015/06/02(火) 23:29:29.18 ID:iK8r+GEH.net
>>303
信孝を世継から外して分流に追い遣った張本人は秀吉なのだが

>>304
テレビでちらっと見たが、家康はお坊さんには1番人気

306 :人間七七四年:2015/06/04(木) 18:23:23.10 ID:ud2iqb9Z.net
>>303
でも織田跡取り秀信に10万石しかあたえてないよね
秀信は子供時代から手懐けられてたからおとなしいけど
逆らったら余裕で滅ぼすだろ?
そもそも秀信って名前もアレだし

307 :人間七七四年:2015/06/05(金) 00:03:11.22 ID:0I9NBwQr.net
大阪人は家康嫌ってるが都を移したのは明治政府だからね

308 :人間七七四年:2015/06/05(金) 08:09:34.92 ID:94exn5oi.net
天下の台所であり続けたわけだしね

309 :人間七七四年:2015/06/05(金) 08:49:42.30 ID:1/dsc5Do.net
大阪人の東京いじりはただのネタなのに
本気で嫌ってるとか思ってる人がいるんだよなぁ

310 :人間七七四年:2015/06/05(金) 11:36:32.74 ID:vZ7WGYeXH
>>309
http://blogs.yahoo.co.jp/myamo99/7741284.html

311 :人間七七四年:2015/06/06(土) 08:09:23.64 ID:h9D89DEl.net
大阪人は日本のどこへ引っ越して、そこで何年住もうとも関西弁
同じ課にもそういう奴がいた
あんまり鬱陶しから、逆手にとって関西人なんだから芸やれとか皆を笑わせろとか無理強いしてたら鬱になって辞めた
ごめんなさい

312 :人間七七四年:2015/06/06(土) 10:54:46.12 ID:y4Ibn9p4.net
家康が嫌いって言うか天下を取る実力はなかったのに
運と悪知恵だけで天下取っちゃったのが納得いかない
あと世間一般の評価が我慢強いとか野戦上手ってのも納得いかない
政治外交謀略が良かったという人もいるけど
そんなん戦国大名として一本立ちしてる人なら誰しもやってたレベルだし
たまたま馬鹿ばっかになる時代まで生き残ったってだけの話
老成してたとはいえ前田利家に完封される程度の政治力しかない時点でお察し

313 :人間七七四年:2015/06/06(土) 13:47:01.73 ID:5PDZ9ici.net
完封なんかされてないんだよなあ

314 :人間七七四年:2015/06/06(土) 14:29:20.94 ID:um1y9aML.net
>>312
「ぼくは頭が悪いです」
お前の意見を一行に要約してやったぞ

315 :人間七七四年:2015/06/06(土) 14:49:56.82 ID:TV4L+762.net
>>312
それまんま秀吉の事だろ

316 :人間七七四年:2015/06/06(土) 14:51:11.31 ID:9ZvwWfYX.net
家康ほど不運な人生もないよな


・今川の尾張攻めで先鋒を無理矢理勤めさせられる
・桶狭間合戦で主君義元が殺される
・貧国で一向一揆が根強い三河の数郡の小領主として独立する
・三河一向一揆で、家臣が二分するような危機に追い込まれる
・自国より遥かに強大な国力の今川や武田の侵攻を次々に受ける。
・自国より遥かに強大な武田の侵攻を受けながら、信長の畿内平定戦に次々刈りだされる(金ヶ崎の侵攻戦、上洛戦、滋賀の陣、姉川の戦い、長島侵攻戦、岩村攻囲戦など)
・自国より遥かに強大な武田の侵攻を受けながら、信長からはろくな援軍が来ない
・自国より遥かに強大な武田に苦戦している間、信長が内訌や内紛、有力者の病死に付け込んで火事場ドロして版図を拡張したため
従属に近いような関係を強いられる。
・自国より遥かに強大な武田に苦戦している間、信長が内訌や内紛、有力者の病死に付け込んで火事場ドロして版図を拡張したため
従属に近いような関係を強いられ、信康を命令で殺される
・ろくな援軍もなく、長年武田相手に敢闘し、単独で抑えてきたにもかかわらず、武田攻めでは駿河しかもらえない。
・堺で穴山と遊行中、信長が本能寺で殺され、同行してた穴山が殺され、家康も襲われて危うく死にかける
・命からがら戻ってきたものの、元の国力がしょぼ過ぎ、同盟者家康には大義名分に欠けるため、ろくな兵が集まらず、光秀討伐に行けない。
・信長が死んだ後の信濃・甲斐に上杉景勝と北条氏直が進出してくる
・北条との同盟後も、天正11年・12年と上杉景勝が揚北や越中戦線を放り出してまで川中島侵攻を続けてくる
・秀吉が馬鹿みたいな大軍を率いて、しつこく侵攻してくる。
・圧倒的に秀吉軍を蹴散らしまくってたにも関わらず、織田信雄がマンマと和議に応じ、家康も応じざるをえなくなる
・天正11年に領内で大洪水が起きて、その対応に追われ、徳政令を連発するハメになる
・天正12年に木曽義昌、天正13年に小笠原貞慶・真田昌幸・石川数正・水野忠重が離反し、領内の軍事機密が露見する
・秀吉死後、自分を敵視した奉行衆らが、自分を暗殺する計画を企てる
・秀吉死後、自分を敵視した前田が、天下の差配を牛耳ろうと威張り散らす。
・秀吉死後、自分を敵視した上杉が、自分の命に背いて、領内に立てこもり、戦線布告する。
・秀吉死後、自分を敵視した輝元や三成らが、規格外の大軍を率いて馬鹿みたいに戦をけしかけてくる。
・藤堂隊や黒田隊、細川隊などが弱過ぎて、寡兵でろくな戦闘経験もない雑魚三成相手に苦戦し、あやうく負けかける。
・関ヶ原後も、秀頼や幸村らが巨大な富と、戦国一の堅城大坂城に大軍で立てこもり、自分に歯向かう。
・ヨボヨボのジジイになっても、息子が無能すぎて頼りにならないため、仕方なく自分が采配を振るって前線まで一々出かける。

317 :人間七七四年:2015/06/06(土) 15:59:16.80 ID:NZwGKBuR.net
家康の実力がなかったら今川の大軍に瞬殺されてるしその後も武田や北条や豊臣の大軍に瞬殺されて終わりだったろうな
家康は常に5倍から10倍近くの敵とガチンコで戦って粉砕されず、逆に勝利を収めて天下を取ったんだから

318 :人間七七四年:2015/06/06(土) 18:51:48.20 ID:Z0hv2zzX.net
家康の実力がなかったら姉川の戦いで織田軍は朝倉に殺されて終わり

319 :人間七七四年:2015/06/06(土) 19:02:26.10 ID:F3UimMrW.net
長文書いてるやつって、誰かがそれを全部読むとでも思ってるのだろうか

320 :人間七七四年:2015/06/06(土) 19:23:21.40 ID:erLlf++K.net
全部読んでもたいした手間じゃないけど、重複が多過ぎる悪文で
長さの割に中身がスカスカだから、読んだ後損した気分になる。

321 :人間七七四年:2015/06/06(土) 21:01:24.92 ID:NIgICOIS.net
意見自体は的を得てるけどね

322 :人間七七四年:2015/06/06(土) 21:04:36.73 ID:9Zf4+/cJ.net
というか今時>>312のような発言は珍しい

323 :人間七七四年:2015/06/06(土) 21:11:26.92 ID:R93MUufw.net
秀吉がなりふり構わずに天下統一後に家康に難癖つけて北条征伐のように徳川征伐してりゃ全て終わった話だよな

324 :人間七七四年:2015/06/06(土) 21:18:51.28 ID:5PDZ9ici.net
それやったら豊臣政権の手の込んだ自殺だけどな

325 :人間七七四年:2015/06/06(土) 21:25:04.57 ID:dLV/V6dz.net
軍事的に徳川に勝てなかったのは、秀吉の負い目だろうからな

326 :人間七七四年:2015/06/06(土) 21:27:11.94 ID:Ots9SCTH.net
>>322
>>312は家康アンチなだけだろう。才能無い、悪運、悪知恵なんか
家康アンチのテンプレみたいなもんだろう。

327 :人間七七四年:2015/06/06(土) 22:10:41.31 ID:12FdkGt1.net
長文書いてる奴って菅沼なの?

328 :人間七七四年:2015/06/06(土) 22:11:59.56 ID:XX2OnvWA.net
他の誰に見えると?

329 :人間七七四年:2015/06/06(土) 22:44:14.45 ID:V7/pgkcU.net
>>323
そんな事したら秀吉は100%負けてただろうな
事実小牧長久手決戦で10倍もの兵力がありながら手も足もでずに家臣を1万人殺されて母や妹や関東250万石まで差し出して土下座したのが秀吉だし

330 :人間七七四年:2015/06/06(土) 22:45:23.72 ID:WHwBHn48.net
結局それが原因で豊臣家は家康に滅ぼされるからな
実力がない者は戦に負けて家を滅ぼされるという当たり前の事が起きただけ。
しかも秀吉の場合家康の10倍の国力がありながら決戦で大敗して家を滅ぼされるから情けな過ぎる

331 :人間七七四年:2015/06/06(土) 22:52:15.12 ID:nTgPS+Kr.net
秀吉ってサッカーでいうと岡崎みたいなもんだよな
ドリブルで相手を抜いたり放り込みやミドルレンジからのシュートなど、武器はまるでないけど
味方が押し込んだこぼれ球をごっつぁんゴールで叩き込むのだけは得意

家康はサッカーでいうとネイマールかメッシだな
相手を抜きまくりゴール決めれる正当派FW

332 :人間七七四年:2015/06/06(土) 22:53:29.98 ID:zITRITPJ.net
アジアカップの岡崎マジで糞だったよな
ドリブルで一人すら抜けないとかマジであんなん使ってる意味わかんね

333 :人間七七四年:2015/06/07(日) 11:32:49.87 ID:tO5HX+MD.net
秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

天正15年正月時点で、出奔した石川の後任として本多重次が
西三河の旗頭の岡崎城代で
酒井忠次が東三河の旗頭の吉田城代なんだけどwww
すでに彼らから人質として嫡男を取っている三河国は秀吉の支配に入ったといってもいい。

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。

334 :人間七七四年:2015/06/07(日) 11:34:24.77 ID:tO5HX+MD.net
アンチ秀吉織田チョン大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。

アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴
基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。

思考回路
いや秀吉の業績は全部、 信長から考えていたことで、
全て信長がやろうとしていたことを盗んだだけって論法で
秀吉を貶しているので、 在日は信長がむちゃくちゃ好き。
しかも信長なら半島侵略じゃなくて、
大航海時代みたいな進出で各地に日本街を作り、
家康みたいな鎖国もせずに貿易立国していたとか妄想するからな。
在日は家康の場合は好きなんじゃなく、秀吉を貶すツールとして利用してるだけ。
(朝鮮を侵略した秀吉の全人格を否定し悪魔と罵倒しつつ、
日本人を大量虐殺した信長や家康をマンセーする左翼脳。
それどころか豊臣政権を守ろうとした忠臣三成を自分ででっち上げた噂で中傷しつつ
看羊録曰く朝鮮人に囲まれていた輝元を全力擁護。)

335 :人間七七四年:2015/06/07(日) 11:39:26.32 ID:tO5HX+MD.net
信長の戦力集中できる最大兵力は3万が限界。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地→興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地→興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。つかできない。

北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
(秀吉文書をすべてチェックし『豊臣秀吉文書目録』を編纂した三鬼清一郎
小牧長久手の秀吉兵力を三鬼氏は10万は誇張で実際は6万と指摘)

排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
この限界の壁と突破できるのが内政軍制改革の結果であり、
圧倒的大軍による威信を背景にした「位攻め」戦略であり、
これが達成できない限り全国支配など夢のまた夢。

石高がいくら広くても、それを把握していないから、
石高に応じた軍役や装備が課せないため
中世の寄親、寄子の原始的暴力集団だったのが織田軍
武田や上杉や北条は領土を把握し軍役を課し、
兵種に応じた編成と、陣立が表すようにそれを自在に移動、
配置が可能な組織的近代軍隊だった。

336 :人間七七四年:2015/06/07(日) 11:41:42.00 ID:tO5HX+MD.net
鴨川氏 戦いの模様を再現する時はやはり当事者の書状をおいて他にはありません。
後世の著作家による伝記や家譜、合戦記や軍記物語などは
当事者の書状とは同一視できませんし、してはいけない。
合戦記や軍記物語もそれなりに真面目に作られているのでしょうが、
今日の学術的な研究とは違います。

谷口氏 後世の著作物の性質については例えば、
戦国武将たちの死去の年月日や享年を確かめる作業についても
「何の裏づけもなく作られたいい加減なものばかりである」

堀氏 徳川史観に影響され続けていることにわれわれは注意しないといけない。
江戸幕府は林羅山に秀吉が足利義昭に養子入りを断られ仕方なく関白になったと
書かせていますが、実際の秀吉は多聞院日記によれば、
天正12年10/16条において秀吉は天皇に将軍任官を勧められたが断ったと書かれています。
史観によっていつのまにか源氏しか将軍になれないとする言説が流され信じられてきました。
また小牧長久手の戦いと徳川史観も密接でその虚構性がよく現れています。
小和田氏が指摘したように家康は実際「長久手の戦い」と呼ばれている局地戦で勝利したのみでした。
実際の戦場は小牧長久手よりも遥かに広範囲にわたっています。
美濃や伊勢なども含めて全体像をみると、実際は秀吉の勝利だったのです。
だからこそ跡部氏が指摘したように信雄も家康も秀吉に人質を提出して停戦したのです。
(秀吉の人質策 藤田達生編「小牧・長久手の戦いの構造)
そして家康が勝利したという「長久手の戦い」も実際には岩崎城を奪われた家康が、
何とか長久手で秀吉軍を捕らえて逆転勝利に持ち込んだに過ぎません。
この局地戦の焦点は岩崎城の攻防にあったのですから、本当は「岩崎城の戦い」と呼ぶべきでしょう。
しかしいったん岩崎城を奪われたことを隠蔽して家康の勝利を強調するため「長久手の戦い」と呼ばれるようになったと
鴨川論文で明らかになりました。

337 :人間七七四年:2015/06/07(日) 12:01:51.41 ID:noivR3VP.net
ID:tO5HX+MD
このひと、ビョーキなの?

338 :人間七七四年:2015/06/07(日) 13:08:25.49 ID:E+bM3gpC.net
秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから


小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)


小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

元春は秀吉との関係が悪いどころか広家を人質に出したりして関係は良好だったからねえ
ドラマは無理矢理すぎて違和感だらけだった。

339 :人間七七四年:2015/06/07(日) 13:08:51.86 ID:E+bM3gpC.net
秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

340 :人間七七四年:2015/06/07(日) 13:09:24.88 ID:E+bM3gpC.net
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし

秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ

341 :人間七七四年:2015/06/07(日) 13:10:01.16 ID:E+bM3gpC.net
秀吉が直前まで出兵計画を立ててたがいざ其の時期になると
信雄に土下座して和睦の仲介やってもらった上に母や妹を差し出して土下座してきたから
家康がしょうがねぇなやれやれと思って仕方なく応じてやっただけ。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。

養子や側室として取ったのを無理矢理人質を取ったとハッタリ誇大喧伝してるのが秀吉。
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

342 :人間七七四年:2015/06/07(日) 13:10:27.61 ID:E+bM3gpC.net
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに

343 :人間七七四年:2015/06/07(日) 13:10:40.68 ID:jxISS0zx.net
秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀吉は種なしで、側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた。
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた。

講和の条件として養子に自分の子を出したり
自分と対等な同盟相手や、自分の従属者への養子で自分の子供出すってパターンは普通にあるんだが。
北条→里見の従属同盟
北条→藤田家
北条→大石家
毛利→吉川・小早川家
上杉北条同盟
織田→神戸・長野・北畠
徳川→結城
上田長尾家→古志長尾家
豊臣→小早川(秀秋)
佐竹家・伊達家→葦名家(義広・小十郎)

養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし

344 :人間七七四年:2015/06/07(日) 13:11:00.25 ID:E+bM3gpC.net
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

345 :人間七七四年:2015/06/07(日) 20:36:03.20 ID:iQ0IzWJd.net
秀吉みたいな恩をあだで返すやつは嫌いだな

346 :人間七七四年:2015/06/07(日) 22:50:48.00 ID:wVrH8jxF.net
>>337
徳川、豊臣関連のスレがあるとひたすら同じコピペを繰り返すビョーキの奴だろう。
どこでも迷惑がられてることが分からず、同じ行為を繰り返しては自己満足してるんだから
ビョーキなんだろう。

347 :人間七七四年:2015/06/08(月) 08:31:03.04 ID:zpYYINdK.net
>>346
菅沼遼太、もしくは「だが」で検索してみるといいよ。
2ちゃん各所で迷惑コピペにいそしむ荒らしだよ。
言葉遣いに特徴があるから、すぐわかる。

348 :人間七七四年:2015/06/08(月) 14:39:05.53 ID:HEx4uKXX.net
ID:E+bM3gpC
このひと、ビョーキなの?

349 :人間七七四年:2015/06/08(月) 15:56:39.73 ID:IX9NUqqK.net
>>348
ID:tO5HX+MDもID:E+bM3gpCもその菅沼遼太だよ。
自演以外の会話は出来ないから、相手にしない方がいい。

350 :人間七七四年:2015/06/08(月) 19:52:14.21 ID:rPgeSEoe.net
家康は関西や天皇家から嫌われているだけ
信長も秀吉も勤王家なので関西での受けが良いが、家康は最初から最後まで田舎大名の有り様を崩さなかった

351 :人間七七四年:2015/06/08(月) 20:27:13.84 ID:guFfafX7.net
>>350
家康は御所を大改装増築したり、皇室の所領を増やしたりしているんだが。

352 :人間七七四年:2015/06/08(月) 20:32:04.00 ID:sJx2jOhz.net
>>350みたいなのは、
結論ありきで悪口言ってるだけのお子ちゃま

353 :人間七七四年:2015/06/08(月) 20:41:38.03 ID:rPgeSEoe.net
禁中並公家諸法度

354 :人間七七四年:2015/06/08(月) 23:04:08.71 ID:5Fnkxi6s.net
家康は死の間際打太政大臣の任命があった時、
病身を押して勅使の饗応に正装で臨み、
儀礼にもちゃんと礼式通りに全て参加したんだけどね。
法度で皇室および公家を縛り付けたって意見もあるが、
自分のやるイベントに参加させたりして天皇を楽しませる反面、
御所を見下ろす建物を作る人間と地味だが衣食住を安定させる
人間のどちらが勤皇家なのか。

355 :人間七七四年:2015/06/08(月) 23:11:01.83 ID:5Fnkxi6s.net
あとついでに言えば家康は田舎大名どころか当時の文化水準で言えば
最高に近い駿河で成長した人間だぞ。
そんな環境で育ちながら、それに染まらず田舎武将と
家康アンチ連中とかに揶揄されるような人間に成長した出来たのは
何故かを考えるべきじゃないか

356 :人間七七四年:2015/06/08(月) 23:16:14.25 ID:rPgeSEoe.net
信長も秀吉も、関西の経済力と文化と朝廷の威光に心惹かれて
本拠地を畿内に置いたが、家康は違うだろ
最高権力者になったあとも、江戸から本拠地を断じて動かさなかった

これは経済力と文化と朝廷は、彼の政治に必須ではなかったという証拠

357 :人間七七四年:2015/06/09(火) 00:21:23.55 ID:qD2pTDLs.net
文化はともかく、経済力が必須でない権力は、宗教勢力以外ほとんど存在しないと思うが。
それよりも、征夷大将軍に任命されてるのに朝廷が政治に必須ではないとか。。。

358 :人間七七四年:2015/06/09(火) 08:10:24.57 ID:FQNaCy5Q.net
徳川家康は、人気の点では、織田信長・豊臣秀吉の二人に負けています。
地味だし、豊臣家を滅亡に追いこんでいった強引なやり方をみて、「好きになれない」と思われているようです。
しかし、その家康が、信長・秀吉のあとを受けついで、長く続いた戦国の乱世を終わらせたことは事実です。

359 :人間七七四年:2015/06/11(木) 18:48:04.05 ID:C3BTKx0U.net
キャラ的に、戦国時代の武将というよりは
現在の政治家っぽく感じるから

360 :人間七七四年:2015/06/11(木) 23:56:49.19 ID:Ej7ImcyW.net
ある程度調べてみると、家康は若い頃はバリバリの野戦指揮官だよー。

361 :人間七七四年:2015/06/12(金) 19:25:03.11 ID:9M92JaPg.net
単に三成が大人気だから家康が嫌われてるだけだと思うけど

362 :人間七七四年:2015/06/12(金) 20:45:26.86 ID:Et8/hdvr.net
三成は三成スレで、叩かれまくってますが

http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1400284623/

363 :人間七七四年:2015/06/12(金) 21:25:19.24 ID:egSaALI7.net
講談を真に受けたヤツが家康嫌ってる印象
叩きのネタも古いし

364 :人間七七四年:2015/06/13(土) 02:41:28.46 ID:2++u12rw.net
講談ネタ馬鹿にする人多いけどさ、三國志もファンの殆どは演義準拠で語るわけ
時々「実際は◯◯だったらしいよね」と脱線する程度
戦国だって全ての講談が史実でないと確定したわけでもなく、またその史実すら殆どが諸説ある不透明な物
講談も史実(だと思われてる事)も未確定の歴史であるのは同じ
講談だと言えば全てが事実から解離したフィクションみたいに言うのは間違い

365 :人間七七四年:2015/06/13(土) 10:16:24.98 ID:lzIesXoL.net
そもそも家康sage逸話は講談にすらない司馬が捏造した逸話が多いからな

366 :人間七七四年:2015/06/14(日) 13:41:36.23 ID:/kVQiLaE.net
>>358
戦国乱戦を終わらせたのは、日本で初めて全国統一を成し遂げた「秀吉」
家康は元々乗っ取りを企み、豊臣家臣の内乱を利用し関ヶ原という戦を起こし、再び戦乱を起こした張本人。つまり悪人!
徳川幕府は、信長ー秀吉が作った土台に乗っかっただけに過ぎない。

367 :人間七七四年:2015/06/14(日) 14:45:20.14 ID:3TyLOCca.net
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

368 :人間七七四年:2015/06/14(日) 14:46:23.25 ID:3TyLOCca.net
>>366
秀吉なんて信長が本能寺の変で殺されて光秀が主殺しの汚名を負った隙をついて信長の功積をコソドロしただけじゃん。
そもそも本能寺の変が起きた時点でもう既に誰でも天下統一できるようなヌルゲーしか残ってない。
まあ秀吉は完全に棚ボタだっただけ
毛利軍が秀吉の口から出任せ口述詐欺に見事ひっかかってあれだけの大チャンスに追撃もせず高松を明け渡して退却
普通に考えりゃ熊見川や美作攻防の2の舞で毛利に瞬殺されててもおかしくない状況だったし、秀吉に騙された毛利のアホさ加減と明智軍の兵力分散と
山崎での隘路での迎撃を捨てた恩恵にすぎない
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし

369 :人間七七四年:2015/06/14(日) 14:47:04.01 ID:v/kuM7uN.net
>>366
本能寺の変が起きた時点でもう既に誰でも天下統一できるようなヌルゲーしか残ってない。
秀吉は完全に棚ボタだっただけ
秀吉領国は本能寺の変前で直轄地200万石
本能寺後はこれに信雄信孝信張信包丹羽蜂谷池田高山中川蒲生堀など反明智の織田一門や重臣が加わるので自動的に200万石が加算され
清洲会議後は丹後の細川や大和の筒井まで臣従してくるし
丹羽や池田も臣従下してきて
旧織田家諸侯は悉く秀吉の臣家になり
人質を秀吉に出した上に、転封命令を出せる存在になり、領分に介入したり
失態を叱責したりできる上に、合戦でも秀吉の命令が逐一細かくまかり通る直轄軍と化してる。
上杉や毛利も自動的に味方になるし
徳川との対戦時だと石川も自動的に半味方になり
信雄領国の伊勢では秀吉が皆伊勢の諸侯から人質召集してたので
会戦開始早々なだれをうって秀吉方に皆がついてる。
伊勢どころか尾張ですら信雄から秀吉に寝返りを始める始末だし

370 :人間七七四年:2015/06/14(日) 14:47:23.82 ID:3TyLOCca.net
いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
秀吉の場合は数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄や顕如や家康や朝廷に土下座しまくって和議までこぎつけただけ。
顕如に11月に土下座したり家康の下に信雄送ったり朝廷に献品しまくったり土下座攻勢をかけまくってる。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ

371 :人間七七四年:2015/06/14(日) 14:48:02.09 ID:v/kuM7uN.net
秀吉が天下取れたのってほぼ100%棚ボタじゃん。
秀吉は信長一門の木下家に生まれ、ろくな活躍もしてないのに
子供の頃から自分ほど高い身分の者はいなかったというくらい
織田家でダントツの身分にいたし
世襲制でヌルヌルの身内社会の織田家で自動的に身分が上昇していき
信長が光秀に殺され、光秀が逆賊の汚名を負ったおかげで楽に500万石前後&上杉や毛利との同盟が何もしなくても手に入った。
秀吉みたいなヌルゲー環境の武将だったら誰でも天下取れるよ。
本能寺の変が起きた時点で明智が逆賊の汚名を負い
秀吉は主殺しを討つ大義名分を棚ボタ的に獲得した時点で
秀吉は本能寺前からの直轄領200万石に加えて
畿内の摂津・河内の諸侯、近江の蒲生や堀、信孝信雄信包信張らが自動的に仲間に加わり計400万石超えして
上杉と毛利も自動的に味方に加わる時点で
秀吉の天下はほぼ確定してる。
後に残ってる敵は国力が雑魚すぎて
はっきり言って今川氏真でもできる単なる作業にすぎない。

372 :人間七七四年:2015/06/14(日) 14:48:18.41 ID:3TyLOCca.net
本能寺の変が起きた時点で羽柴領は直轄領200万石から
主の敵討ちをする大義名分を手に入れたことにより
畿内の丹羽信張池田高山中川信孝蒲生堀信雄信包蜂谷らが秀吉指揮下に加わり400万石前後に大飛躍するからな。
上杉・毛利らもすぐに自動的に味方になるし
これに対して明智は与力下が悉く離反して20万石前後しか残ってないし。
これなら大将が誰だろうが天下取れる。
これで天下取れないのは毛利くらいだろう。

373 :人間七七四年:2015/06/14(日) 14:48:49.82 ID:8s7KIg8d.net
秀吉って天下統一事業ではなく
信長がほとんど確立した体制を信長が光秀に殺され
光秀が逆賊になった隙をついてコソドロしただけじゃん。
天下統一といってもほとんど上杉・大友・木曽・小笠原・毛利・宇喜多・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野・蘆名・真田・石川・水野など諸大名の力に依存して、同盟と土下座でまとめただけだし自力で切り取った領土なんて皆無の他力本願の棚ボタ政権だし。
結局本能寺の変などの棚ボタと漁夫の利と同盟勢力のお膳立てで政権をコソドロしたはいいが
結局信雄や家康に大敗して家を滅ぼされただけだし。

374 :人間七七四年:2015/06/14(日) 14:51:09.48 ID:cdGLCmip.net
>>366
天下を統一したのは家康だよ。
秀吉は信長の遺産を本能寺の棚ぼたをいい事に火事場泥棒したけど指揮能力や采配能力が欠如していたので10倍の兵力で雑魚の信雄に大敗して
家康には母や妹や関東250万石を差し出して土下座。
その結果これが原因で家康に家を滅ぼされてる
実力がない者は戦に負けて家を滅ぼされるという当たり前の事が起きたわけだな

375 :人間七七四年:2015/06/14(日) 17:56:27.59 ID:/kVQiLaE.net
同じ内容のレスばかりだな。
家康崇拝者は、秀吉嫌いなのか?
オレは家康嫌いだが、信長も秀吉も好きな訳ではない。

376 :人間七七四年:2015/06/14(日) 18:46:27.82 ID:LaWXxot5.net
菅沼遼太が好きなのは武田信玄だよw

377 :人間七七四年:2015/06/14(日) 18:48:15.25 ID:GtQ9g7Kb.net
家康が乗っ取りを企てたとか関ヶ原を起こしたとか言ってる時点でただの無知なアンチなんだよなあ

378 :人間七七四年:2015/06/14(日) 20:22:26.64 ID:pn+oWKPz.net
コピペしまくる家康厨の程度の低さがよくわかる残念なスレ。

379 :人間七七四年:2015/06/14(日) 20:27:35.19 ID:2A3OYZCn.net
>>375
全部一人がコピペしてるだけだからな

380 :人間七七四年:2015/06/15(月) 11:01:50.39 ID:KdvJhVyn.net
>>377
いや狙ってたのは事実でしょ
客将だった頃から家康は、豊臣政権の人間が要領悪い凡庸ばかりのに気付いてからはずっと機会を狙ってた
関ヶ原も豊臣新派を一網打尽にする方法の一つでしかなく、三成が釣れただけ
じゃなきゃ家康が会津まで動く姿勢見せるわけない

無知なアンチはどっちなのかと

381 :人間七七四年:2015/06/15(月) 12:15:58.41 ID:qCLcg6rL.net
>>380
このレスの内容全てが妄想の模様

382 :人間七七四年:2015/06/15(月) 12:48:46.73 ID:TcljXlYV.net
秀吉と利家が相次いで死に残る邪魔者は上杉くらいだったしな
テルはボンクラ過ぎて話にならなかったし

383 :人間七七四年:2015/06/15(月) 19:52:29.66 ID:KdvJhVyn.net
秀吉は家康の抑えを考えて五大老とか利家を後見人にするとか死ぬ間際にやってたんだろうが、突貫工事過ぎて大した抑止力にならなかったね
朝鮮出兵は秀頼の代に任せて、政権樹立にもっと費やすべきだった
息子を愛してるならそれが親の義務だろと。まぁ実子か疑わしいけど

384 :人間七七四年:2015/06/18(木) 07:13:30.86 ID:7PoeyiHB.net
朝鮮出兵を強行したことで、島津、毛利は身動きとれない程疲弊した。
徳川家康なんて、危険視してなかっただろう。
危険な奴だったら、信雄を擁立して(史実では同盟しただけ)すでに戦争を仕掛けるはずだし
遅くとも北条攻めの時にクーデターを仕掛ける。


まさか、近江の一部しか持ってない奴+家中の統制がとれない奴+破産寸前の奴が、
意気地無しだけど大勢力になった家康に戦争をふっかけるなんて思いもしなかったろう。

385 :人間七七四年:2015/06/21(日) 17:10:56.77 ID:ijcymVCN.net
徳川家康は、1590年初めて江戸に入国しました。藁葺き屋根の家が百ほどの大湿地帯に過ぎませんでした。
徳川家康は、後世にもっとも影響を与える日本人です。
入国当時湿地が広がり農業に適さない寂れた場所、いかにも粗相で町屋など茅葺きの家、百ばかり、ここもかしこも潮入りの芦原の寒村に過ぎなかったという。

386 :人間七七四年:2015/06/21(日) 17:28:34.50 ID:8AD/VWgX.net
>>383
5大老は大身だったけど利家死後は外様すぎるんだよな
豊臣に最後までついていきそうなのは利家以外は宇喜多秀家ぐらいしかいない
家康は最初から5大老は大した存在じゃないと看過していたのか小身中身だが秀吉と縁が深い子飼い達(加藤、福島)
を味方につけて大老達は全員敵に回して関ヶ原に臨んだ

387 :人間七七四年:2015/06/23(火) 19:36:57.37 ID:0/tEdp3s.net
利家に土下座して伏見城内から出て向島に謹慎したへたれが家康。
たまたま福島ら武断派が暴発したおかげで棚ボタできただけ。
へたれ家康は棚ボタ人生だからな。

388 :人間七七四年:2015/06/23(火) 20:30:54.03 ID:UVvoIEFs.net
そのへたれに戦で勝てなかった秀吉w
そのへたれに子孫を根絶やしにされた秀吉ww

389 :人間七七四年:2015/06/23(火) 21:05:50.79 ID:pS+/Y4h7.net
>>387
その謹慎したへたれにわざわざ自分から挨拶に向かった五大老次席がいるらしい

390 :人間七七四年:2015/06/23(火) 22:26:01.09 ID:0taNMw0x.net
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよ

391 :人間七七四年:2015/06/23(火) 22:26:40.97 ID:/7xReTEt.net
天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
1/24に信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けるとか情けなさ過ぎる
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい国力の差があるのに

392 :人間七七四年:2015/06/23(火) 22:27:03.15 ID:0taNMw0x.net
結局実際に戦いになるとどれだけ兵力差があろうがあっさり敵にひっくり返される雑魚な指揮能力しか
秀吉は持ってないから、家康や信雄に秀吉はどれだけ国力差があろうが土下座するハメになって
家族や関八州260万石まで献上するハメになっただけ。

結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ。

393 :人間七七四年:2015/06/24(水) 08:36:53.79 ID:rBhTF8YO.net
こういう煽りスレは、
いつもスレ立てた側が負けるよね

394 :人間七七四年:2015/06/24(水) 09:41:42.38 ID:Vgrwn9lZ.net
三鬼氏は秀吉文書目録を完成発表した秀吉研究での第一人者なのも知らんで貶しててワロスw
秀吉文書をすべてチェックし『豊臣秀吉文書目録』を編纂した三鬼清一郎は、
秀吉研究の第一人者だから間違いはないだろうね。
世界で一番秀吉に詳しい人と言っても過言じゃない。

(小牧長久手の秀吉兵力を三鬼氏は10万は誇張で実際は6万と指摘)

鴨川氏 戦いの模様を再現する時はやはり当事者の書状をおいて他にはありません。
後世の著作家による伝記や家譜、合戦記や軍記物語などは
当事者の書状とは同一視できませんし、してはいけない。
合戦記や軍記物語もそれなりに真面目に作られているのでしょうが、
今日の学術的な研究とは違います。

谷口氏 後世の著作物の性質については例えば、
戦国武将たちの死去の年月日や享年を確かめる作業についても
「何の裏づけもなく作られたいい加減なものばかりである」

堀氏 徳川史観に影響され続けていることにわれわれは注意しないといけない。
江戸幕府は林羅山に秀吉が足利義昭に養子入りを断られ仕方なく関白になったと
書かせていますが、実際の秀吉は多聞院日記によれば、
天正12年10/16条において秀吉は天皇に将軍任官を勧められたが断ったと書かれています。
史観によっていつのまにか源氏しか将軍になれないとする言説が流され信じられてきました。
また小牧長久手の戦いと徳川史観も密接でその虚構性がよく現れています。
小和田氏が指摘したように家康は実際「長久手の戦い」と呼ばれている局地戦で勝利したのみでした。
実際の戦場は小牧長久手よりも遥かに広範囲にわたっています。
美濃や伊勢なども含めて全体像をみると、実際は秀吉の勝利だったのです。
だからこそ跡部氏が指摘したように信雄も家康も秀吉に人質を提出して停戦したのです。
(秀吉の人質策 藤田達生編「小牧・長久手の戦いの構造)
そして家康が勝利したという「長久手の戦い」も実際には岩崎城を奪われた家康が、
何とか長久手で秀吉軍を捕らえて逆転勝利に持ち込んだに過ぎません。
この局地戦の焦点は岩崎城の攻防にあったのですから、本当は「岩崎城の戦い」と呼ぶべきでしょう。
しかしいったん岩崎城を奪われたことを隠蔽して家康の勝利を強調するため「長久手の戦い」と呼ばれるようになったと
鴨川論文で明らかになりました。

395 :人間七七四年:2015/06/24(水) 09:43:11.75 ID:Vgrwn9lZ.net
秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

天正15年正月時点で、出奔した石川の後任として本多重次が
西三河の旗頭の岡崎城代で
酒井忠次が東三河の旗頭の吉田城代なんだけどwww
すでに彼らから人質として嫡男を取っている三河国は秀吉の支配に入ったといってもいい。

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。



必死に朝廷工作して官位をあげたとか曲解もいいとこw
実際、秀吉が家康と戦っていた時は、
無位無官の平民羽柴秀吉と、
近衛中将経験者2人(信雄と家康)と戦っていた。
そして平民秀吉が家康らを圧倒したから、
朝廷は急いで秀吉を取り込もうと、
天正12年10/2に従五位下の叙爵少将の叙任の勅使を急遽派遣してんだよw
そして朝廷は同日には早くも秀吉の参内権の是非まで諮り、
11月までには参内権を許可するなど、
急いで秀吉の参内を促していたが、
有職故実の儀礼知識が無い素人秀吉は参内を逡巡し、
初参内は13年3/10の時まで待たされた。
秀吉が必死に官位官職を上げて家康らの上に行こうと働きかけていたら、
すぐ得意がって参内するはずだろがw
そもそもお前はこの時点での秀吉が無位無官なのすら知らなかったのがモロバレw
同じ文脈でお前は関ヶ原を語り、
官位官職が一番上だった家康に従わないヤツが悪いとか吐いてるが、
無位無官の平民秀吉が官位官職を持つ家康や信雄を逆に従わさせてるわけだがwww完全に矛盾www

396 :人間七七四年:2015/06/24(水) 10:00:46.71 ID:Vgrwn9lZ.net
このキチガイ在日織田チョンのコピペ爆撃まじうぜぇ。
他人のレスを盗用改竄の上で武田厨のフリをして自演して気持ち悪いし。
鴨川達夫先生も小牧長久手での秀吉軍の被害は3000であり、
1万というのは家康側の誇張吹聴だと断じてますね。
これ2011年5月に鴨川氏が発表したあと、
誰も反論する人がいないよね。なんで、ほぼ決着したね。

そうだね。鴨川の発表に反論した学者は誰もいないよね。
そりゃ今までのは徳川幕府史観のただの家康贔屓だから反論できるわけがない。
キチガイ在日コピペ爆撃アンチ秀吉の織田チョンは
藤田達生編纂「小牧・長久手の戦いの構造 上下巻)
っていう最初から家康勝利ありきを大前提にして我田引水してる
2006年の大昔の糞本を持ち出して必死なだけのアホだから
相手すんな。白峰旬や谷口などと、さも分けて書いているが
すべてこの本に書いている古いもんばっかで 誰もいまさら見向きもしない。

続く2014年6/10発表での鴨川氏は三河から尾張を分断すべく
小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画だとしているね。
楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。
それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。
しかし秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう。
森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)
鴨川氏は陸軍参謀本部の妄想戦記の思考を踏襲した岩澤愿彦氏が2000年に発表した
愛知県史研究「羽柴秀吉と小牧・長久手の戦い」という論文の定説化に対して下記のように論難してる。
【三河行きの部隊に誘き出された家康を楽田の本陣と一緒に挟撃するのが秀吉の策だと断じた件を批判し、
秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わないと言っており、
家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています】
小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。
これについても鴨川への批判はいまのところ皆無です。
はっきり言って原文の正確翻訳の達人鴨川への反論など不可能ですしね。

鴨川氏は秀次の迅速な侵攻は見事で、まんまと家康を出し抜いて
岩崎城を落してしまってそれを知って焦った家康がなんとか巻き返しただけと書いていますね。
鴨川氏が指摘するように長久手は主戦場ではなく、一次史料などを見ても岩崎の戦いと書いていて
後世に4/9に勃発した戦を長久手の戦いと呼んでいるのも徳川史観による捏造歪曲なのでしょうね。
一年に渡る小牧対陣をあたかも長久手での家康の勝ち戦だけをクローズアップさせて
天正12年戦役全体を家康の勝利にミスジャッジさせてきた徳川史観が鴨川によって論破された。

織田在日アホすぎwお前こそ自分の都合よいものだけしか抽出してねーし。しかも捏造歪曲しまくりじゃんw
鴨川は一次史料の原文書状を確認し一字一句レベルでキチンと読み込む達人だしw
鴨川は武田、毛利に続いて秀吉研究をしていたからな。 だから誰も反論できないのよ。
原文書状確認作業やれる人は限られてるからな。 むしろ小牧・長久手の戦いの構造って本の方がまったく
史料列挙してねーじゃん。ウソはいてんなよ。
幕府史観のままに疑念もなく家康勝利を前提にした結果ありきの願望妄想を背景に戦を論じてる本だろうが。
そんな8年も前の当時の常識で語った本なんて読む価値すらないわ。

397 :人間七七四年:2015/06/24(水) 10:04:07.91 ID:Vgrwn9lZ.net
関が原土下座外交の結果、
豊臣恩顧大名が20カ国で日本の1/3を支配。
伊達や毛利や上杉や毛利や佐竹など旧族外様大名達が1/3支配。
かろうじて徳川系大名は20カ国1/3支配したものの、
東海道など小国が多く面積レベルはかなり下回る劣弱な基盤しか徳川幕府にはない。
豊臣政権は立ち入り検地、太閤蔵入地設定、
与力大名による監視、
領地宛行において有力家臣の知行地や石高を指定し、
豊臣政権と有力家臣を結びつけ支配、
奉行による指南による内政干渉をしたり、
一国一円領有支配をできるだけ許さないなど、
秀吉は強力な全国支配体制を構築した。
しかし家康は立ち入り検地も蔵入地も大名家臣狙いの加増も廃止、
越後の溝口と村上の例外以外は与力大名廃止。
中小大名を移動させての一国一円支配の国持大名の増加による大名領有権の自立性の強化を背景に、
藩による分権自治を容認せざるを得なかったのが家康。
これは全て関が原で味方につけようと武断派に媚びた結果であり、
関が原が武断派によって勝利し、
西軍支持の北政所や淀とその意向で動いた女性たちも家康は処罰できず、
結果、武断派の奉ずる豊臣による論功行賞が行われ、
強欲武断派の要求を飲むハメになったからである。
幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康。

江戸幕府はホントに運がいい。
ペリー来航まで外国からの侵略がなかったからね。
まあ秀吉が朝鮮出兵で日本侮りがたし!と宣教師が報告してたことが最大の理由だが。
しかし秀吉の中央集権全国支配体制なら外国からの侵略なんて怖くもないどころか、敵地に報復侵攻できるし、
南朝鮮をはじめ、沿岸地域に拠点を設けて大航海時代→重商主義→産業革命が始まってただろう。
それだけの蓄積が日本にはあった。

しかし家康は大名たちに媚びた土下座っぷりで天下を盗んでバカ幕府を作ったので幕府には力がなかったからペリー来たら呆気なく内乱へ向けて混迷。

398 :人間七七四年:2015/06/24(水) 10:05:21.26 ID:Vgrwn9lZ.net
豊臣秀勝の娘の豊臣完子を妻に持つ九条幸家が23歳で関白に就任するという行動で
朝廷が仕掛けてきたので、天皇の義弟の摂関家秀頼を関白にさせる時に、
まだ秀頼は若いから関白はもう少し成長してからと言ういいわけができなくなったので、
家康は秀頼が23歳になる前に殺さなければならない立場に追込まれ
方広寺鐘銘事件をでっち上げて必死になっていたとか書いてあった。

なるほど〜勉強になったわ。
さすが棚ぼた人生家康だけはあるな!
天皇の義弟にして摂関家の人物である秀頼を殺すなんて大逆無道なのは信長以下の所業だよな。
豊臣秀勝の娘を娶っていた慶長13年に九条幸家が22歳で関白に就任させて朝廷がしかけてきたので、
23歳で関白になれる年齢下限が設定され、
もはや若年だから秀頼に関白はまだ早いという言い訳ができない形にしたために、
23歳の秀頼が関白になる前に鐘の刻印に理不尽なイチャモンつけて、
必死に殺したのが悪辣老人家康。

はいはいw何でもかんでも秀吉が悪いとかアホですねw
それ実際は、吉川元春と嫡男の元長が行ったことだし。
しかも東大の家わけ文書の吉川文書の該当書状の注釈にも
吉川氏の豊前宇留津城攻略の戦功
と解説してるし。
この千人の首を刎ね、男女残らず磔の残虐な殺戮を11/7に行ったあと、
11/15に元春が急死したので祟りにあったと騒いでるし。
元長もまた半年後に急死してるし。呪われたと思うのも当然。

>>遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄
それは毛利の軍記である陰徳太平記に出てくる記述であって一次史料にはないのも知らんとかwww
しかも軍記には豊前肥前両国の敵城は一揆の城と言えども、土民ではなくみんな国人どもであり、
一国の大将はおらず皆が各々に一城に拠っている。人はこれを一揆と呼んだなどと書いていて
良民層ではなく抵抗する意志があった支配国人層を磔にしていただけだし。

399 :人間七七四年:2015/06/24(水) 10:09:48.59 ID:Vgrwn9lZ.net
火事場泥棒の家康が独力で遠江を奪えるわけないだろw
主力を武田が担当していたから、
背後の虚を家康に突かれた遠江側は、
思いがけないことに戦わず次々と降伏したから遠江の領有化に成功しただけだし、
(このことは家康が謙信にそう言ってる)
遠江で唯一、まともに抵抗した氏真が逃げていた掛川城では、
家康は大苦戦しまくって全く落とせず、
駿河にいる遠江国人の人質を家康に引き渡した代わりに、
氏真を捕まえるという武田との約束があったのに、
強すぎて苦戦する氏真を捕まえることを諦め、
北条領へ氏真が移動するのを手伝うと言う講話条件を強要され、
家康が武田と約束した内容を裏切る条件を今川に強要されたじゃんよw
掛川城一つ落とせない家康が単独で今川を滅ぼせるわけねーじゃんw


家康ほどの棚ぼた大名はいないね。
棚ぼただから、とにかく武功なんてものがロクにない。
だから家臣団も全く加増されるような感状がほとんど無い無い無い。
勝って切り取った領地が無い無い無い。
とにかく極限まで棚ぼた領地拡大大名が家康。
それを証明するように、関東移封になった時の3万を超えた家臣なんてほとんどいない。
12万石の井伊直政
10万石の結城秀康、榊原康政、本多忠勝
4万石の鳥居元忠、大久保忠世
3万3000石の平岩親吉
3万石の松平康貞、奥平信昌、酒井家次、大須賀忠政

たったこれっぽっち。
あとは戦力にすらないザコ。
当時、10万石を超えていない大名の意見は聞かれない、発言権が無いとされて無力扱いされていた時代だからね。
棚ぼた領地だから、家臣の武功によって領地加増する必要性が無かった。
だから家康は100万石の蔵入地を持ってた。
しかも井伊直政なんて戦経験もロクにない新参のガキ扱いされてたくせに、
家康の尻を突いてブッチュウってディープキスしただけで、
意味不明な加増してもらった挙句に最大領地だよw
結城秀康は秀吉の養子だからだしよ。
松平シリーズなんて武功ではなく、親族だから加増になってるだけ。
もうね、家臣団は誰も家康との石高差が激し過ぎて奴隷だよ奴隷。
ほんとケチ家康の家臣団なんてやってた三河武士はバカだね。
徳川家臣団なんてぶっちゃけ清正だけで勝てるレベル。
当時、もっともハンパねぇ勇猛さで恐れられていたのは清正と忠興の二人だったからね。

400 :人間七七四年:2015/06/24(水) 10:14:26.21 ID:Vgrwn9lZ.net
家康って秀吉との天正12〜13年戦役で、
信雄、雑賀衆、高野山、長宗我部、佐々、木曽、小笠原を次々と見捨てた挙句に、
秀吉に追い詰められて縁戚にしてくれたら上洛するから許してって懇願した人だからね。
自分の保身だけに固執してただけ。

遠州錯乱とか遠州?劇と呼ばれる
遠江での相次ぐ大規模反氏真
国人達の自立行動により
三河とも連絡が取れなくなったから。
その隙に家康が永禄7年6月に吉田城を徳川方にしてしまった。
義元は重臣達との合議体制を敷いていたが
氏真は三浦正俊や小野道好ら側近を重用し独裁した為に、
遠江曳馬城主飯尾連竜が、
犬居城主天野景泰・元景父子、二俣城主松井宗恒ら
政権から外された遠江の国人重臣達を誘い今川から離反した。
しかしこの時期の駿河衆の団結は固く今川に忠誠を誓っているのが確認されている。


そもそも三河一向一揆なんて大したこと無かった。
そもそも西三河の安城周辺だけの話なのに、なぜか三河全域の一向一揆のように描いたり、
すごかったように見せてるのは大久保一族の功績を強調しようとする三河物語の超誇張。
数字じゃなくて、 一揆に参加した人名を根拠をつけて列挙しろと書いてるだけなのに、
必死に誤魔化して逃げようとするなよwww
なんら根拠が出せないで逃げようとしてるあたり、
やっぱり三河一向一揆との戦いなんて大したことは無かったってことで結論だな。
家康の三大危機のうち、
三河一向一揆と伊賀越えの二つは捏造歪曲だからな。
で、具体的に徳川家臣を二分したという顔ぶれは誰なの?
本多隆成氏
「三河一向一揆が起こったのは永禄6年の秋からで、
翌年のはじめまでのほぼ半年間」
すぐ解決されてるwww
「本来ならば一家衆寺院として一揆を指導すべき本宗寺の住職が不在であり、
いわば統一的な司令部がなく、各人ばらばらの戦いになったことである。
さらに門徒武士達の多くが、家康が出てくれば逃げるというような有様では、
とうてい勝てようはずがなかった」
主君家康とは絶対に戦わない自作自演の戦いwwww
家康がガチでやばかったのは信玄との三方ヶ原の戦いと秀吉との天正12年戦役の二つの時だけだからね。
あとは常に棚ぼたの超イージーモード。
遠江国人の大反乱で駿河から孤立した三河を棚ぼた。
武田の駿河攻めで、遠江が棚ぼた。
織田の武田征伐で、家康は大苦戦。北条が順調に侵攻したのに、
信長から駿河をもらい棚ぼた。
上杉軍の川中島南下と武田旧臣の依田が信濃佐久郡〜上野沼田エリアを支配していた
真田を北条から離反させた為に、
北条氏直が挟撃され上野国へも帰れなくなり孤立し和議になり信濃と甲斐が棚ぼた。
婚姻先の北条が滅亡し関東移封で国人家臣団の官僚化が進み棚ぼた。
秀長が死去し、秀次が自滅し、利家が死去して、いつのまにか大老筆頭で棚ぼた。
会津征伐をする家康を無視放置して、
三成を討ちに西上した武断派が三成を大垣に包囲して追い詰め、
関ヶ原でも秀忠が来援しないうちに、主力の武断派が勝利し、天下様の棚ぼた。
清正や浅野長政親子などが相次いで死去して勝手に豊臣側の戦力が大幅弱体化で棚ぼた。

401 :人間七七四年:2015/06/24(水) 10:21:38.58 ID:Vgrwn9lZ.net
森は羽黒の戦いで敗北するや、鬼武蔵の異名を穢した汚名返上したいと秀吉の助力を嘆願するようになる。
秀吉は伊勢戦線と紀州一揆が気にかかり、東美濃戦線にはあまり興味が無かったため、
森は26日にむさしの名で自筆遺言書を書き、死を決意し、宛先には秀吉軍監だった尾藤になっており、
尾藤この由御申し候べく候と書き、自分の死後に遺された家族の身の振り方を指図してる。
つまり最初から死ぬつもりで無謀な進軍をするつもりで秀吉に嘆願していた。

信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、
22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。
12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質として浜松を出発させた。
20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊(秀康)が秀吉の元に到着したと思われる。


天正12年戦役で秀吉に大敗した家康。
完全に威信が地に落ちた徳川w
翌年11月にはついに武田の影に怯えて甲信から糞漏らしながら全面撤退命令www

秀吉配下の前田が越中口から、北信濃口と越後口から上杉、飛騨口から金森、木曽郡から木曽軍が怒涛の勢いで南下。
家康が相変わらず援軍を出さないで見捨て始めるとたまらず小笠原氏が秀吉へ内通開始。
三河物語によると武田信玄の息子の龍宝の嫡男が
北信濃の一向宗と合流した師慶と
菊姫に随行していた八重森因幡守家昌に守られ犬飼村におり
その武田信道が景勝南下とともに甲斐に帰還する。
このような話を聞いた家康は甲斐は乱国になるとビビりにビビり、
なんと信濃甲斐から浜松へ全軍逃げて来いと命令。
信濃佐久郡から大久保忠世、諏訪郡より芝田康忠、甲州郡から平岩親吉らは
ものすごい勢いで真田軍の目の前から浜松へ逃走w
置き去りにされた地元の菅沼定利が一人で人質集めを始めて南信濃の崩壊を防いでくれた。
また佐久郡から甲斐への道は、まさか武田の影に怯えていたとは気づかなかった
真田昌幸が景勝によくわからんけど全軍浜松へ逃げたから調査するよと返答し
様子見していたので崩壊せずに済んだwww
家康は相変わらずのヘタレである。

402 :人間七七四年:2015/06/24(水) 10:51:47.33 ID:Vgrwn9lZ.net
そもそもフロイス曰く信長の姉妹を正室に娶っていた家康w
秀吉の妹が徳川家の正室になることを、
(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、
賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、
家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、
酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、
謀反を恐れた家康は、
いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、
徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、
9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、
11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、
秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、
徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、
妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。

信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、
正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、
家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、
11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、
後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。

403 :人間七七四年:2015/06/24(水) 11:03:12.41 ID:Vgrwn9lZ.net
柴田滅亡後、丹羽長秀は123万石の大名になったが、
秀吉が天正11年9月に大坂城をとりあえずの完成になるや、
臣従の証として大坂登城の招きがあった。
丹羽長秀はそれに応じなかったので、
秀吉から上洛延引し在国していることを咎めれた。
そこで村上義明が秀吉へ弁明の使者として派遣され、
秀吉の怒りを解いている。
秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており、
天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させたとは言え、
臣従の証として家康の上洛を要求していた。
自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており、
何とか誤魔化していたが、それも限界がきて秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込まれるだけだった。
佐々を攻略した秀吉は、佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付け、
家康は家臣を浜松に集め人質提出の相談所をし、
秀吉も東美濃の軍備を強化し圧力をかけた。
それでも重臣が人質提出を拒否し、
家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走った。
と言うのも秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたからで、
丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に、
家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖でいっぱいだっただろう。
続いて小笠原も家康を見限り、
これを受けて秀吉は1/28には出陣準備を始めるが、
家康が再度、言い訳をしたので2/8に出陣を赦免している。
そして2/26に家康は北条に釈明に駿河へ行き、
どうしても死にたくない家康は、
命欲しさに上洛するから、殺されない保証として婚姻して縁戚になり、
上洛している最中だけ秀吉の母を預かる条件で、
上洛することを承諾するという、
命欲しさの家康は武将としては最悪な生き汚さを発揮。
ひたすら家康は死にたくないので、上洛を先延ばしし、
戦を背景に問い詰められると、言い訳をして表裏して誤魔化していた日本一恥ずかしい武将。
信雄もあからさまに家康を見限っていた程のビビり。

404 :人間七七四年:2015/06/24(水) 11:04:59.97 ID:Vgrwn9lZ.net
そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを、
(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、
賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、
家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、
酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、
謀反を恐れた家康は、
いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、
徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、
9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、
11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、
秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、
徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、
妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。

405 :人間七七四年:2015/06/24(水) 11:11:03.73 ID:Vgrwn9lZ.net
慶長4年に家康は京都阿弥陀ヶ峰の豊国大明神社に諸大名が参詣するのを禁止し、
修理もせず立ち腐れにせよとと通達をしたのに
清正はこの年の11/29に豊国大明神社を肥後の立田山の勧進して阿蘇社復興を約束してる。
一見、家康に背いて豊臣へ忠節を示しているようにみえるも
清正はこの年に家康養女と結婚して家康と接近しており、
この武断派重鎮清正との婚姻同盟が家康の豊国神社立ち枯れ政策を進めさせた原動力にも思える。
農民出身の秀吉が光明皇后が730年に発願して作られた施薬院が400年間打ち捨てられていたのを嘆き悲しみ
施薬院復興を天皇に涙で直訴してみたら天皇も大喜びで許可し、
秀吉が推薦した比叡山延暦寺の僧であった全宗を早速に施薬院使に任命、
従五位下に叙され昇殿も許す破格の出世をさせた上で派遣し
貧しい人や病人や孤児へ自愛の施しをしたわけだが、
そのことを敬愛して豊国大明神社を慈悲の象徴と捉え肥後統治のアイテムとしていただけなのだろうか。
ちなみにバテレン追放令は全宗の筆によって書かれたものである。
しかし家康が信長を真似た破壊屋で、おまけに超がつく吝嗇家で
一度恨みに思ったら絶対に忘れず報復するため誰もが恐れて表面上は従っているが心では従ってない人徳ゼロの人物で
秀吉が創業の人で、敵であったものでも簡単に許すどころか領地までくれるかたじけない人
っていう世情の評価も納得できるものだねぇ。

家康のビビりっぷりは半端ねぇんだよな。
ガチで自分の命が惜しくて仕方が無い。
最強命乞い大名。
上洛する前もそうとう怖くて、
北条相手に上洛したら騙されて殺されるかもと泣きついたらしく、
家康が上洛中に北条は領内大動員をかけて、
北条側は「当方之興亡此時候間」とか、
「万一於京都表裏之扱有之者」とか、
「万一西表有相違之筋目」
などと秀吉相手に大決戦する構えをとってる。
上野も最前線の真田戦線での開戦に向けて、
部隊移動が開始され、
出遅れないように11/10までに利根川端まで15歳から70歳までは無足の者まで残らず動員して打ち出て来いとまで命じてる。
どんだけ北条に対して家康は脅威を訴えたんやwww
北条は家康に万が一のことがあったらと全力動員開始してたのに、
家康から北条へ、11/15付けで俺、東国の惣無事令の取次ぎの職を秀吉から任命してもらったんだー。
だから佐竹や宇都宮や結城や那須を攻めないように誓って秀吉にちゃんと返事しろよ!って言われた北条は茫然自失して騙されたと感じただろうね。
家康はホント、恐怖で被害妄想を膨らまして大袈裟に誇張する精神的病人。
だけど強いやつがいないと威張る威張る。秀吉死んだら、いままでへいこらしてた態度を豹変。
もうね、近衛の娘を秀吉が養女にしてたから、
秀頼の姉なんだが、天皇に嫁いでた。
しかし、そんな天皇にも居丈高に振舞い、
天皇の妻の弟を殺して、
大坂20万人を大虐殺した挙句に、無法状態にして、
それぞれの大名が近隣の村々から労働者を、領国へ大量の拉致連れ去り、
女子供達も大量拉致しての人売り商売を容認し、
摂津国を中心に家族離反大会大逆無道の限りを尽くして強欲を満たしたのが家康。
秀吉にビビらされた遺恨をこうやって、晴らしてストレス解消粛清をして反権力の俺ってカコイイとか勘違いしてるわけ。
完全に筋違いの意趣返しで罪のない人々を弾圧。
こりゃ小心者特有の心理状況でさ、ポルポト派か毛沢東レベルの傲慢権力者。
とても為政者とは思えん基地外。 信長と家康は関西の人々にとって仇だよホント。

406 :人間七七四年:2015/06/24(水) 11:15:58.81 ID:Vgrwn9lZ.net
家康が源氏姓を称するのが天正16年4月。
天正18年8月関東移封。
これは関東地方では源頼朝以来の源氏の伝統があったため家康が源氏を称することにより
関東支配を円滑にすすめさせようとする秀吉の政策が見える。
それゆえに関東入部以前から源氏姓を称する必要があった。
つまり東国平定の成功が征夷大将軍任官と関わりがある。
無位無官の平民羽柴秀吉が家康に勝利し臣従させたことを認めた朝廷は
東国平定の武功を称え天正12年10/16秀吉は天皇に将軍任官を勧められたのである。
このことで秀吉は朝廷から公認され身分が向上したことで
織田家を臣従させているため下克上にはならないのである。
また秀吉が義昭に断れたので征夷代将軍を諦め関白を狙ったとする捏造ですが、
これは堀氏によればたまたま起こった関白職を巡る二条と近衛の相論に乗じた「たなぼた」でした。

家康が伊賀を通過していないどころか甲賀郡の蒲生や山中や和田らから
人質まで取って案内させており、安全に通過してるのに
なんで神君伊賀越えとか捏造してるんだろね。
実際のルートは
6/2和泉堺から南山城路を通り山城国宇治田原山口館宿泊(徒歩十三里)
6/3南近江路を通り近江国甲賀郡信楽小川館宿泊(徒歩六里)
6/4北伊勢路から伊勢路に出て伊勢国長太から海路で深夜には三河着へ(徒歩十七里)

家康が伊賀を通過していないどころか甲賀郡の蒲生や山中や和田らから
人質まで取って案内させており、安全に通過してるのに
なんで神君伊賀越えとか捏造してるんだろね。
実際のルートは
6/2和泉堺から南山城路を通り山城国宇治田原山口館宿泊(徒歩十三里)
6/3南近江路を通り近江国甲賀郡信楽小川館宿泊(徒歩六里)
6/4北伊勢路から伊勢路に出て伊勢国長太から海路で深夜には三河着へ(徒歩十七里)

信雄が伊勢から出陣していて、
日野と北伊勢の間の土山(東海道の土山宿・現在の甲賀市)に陣取っていたって話だし
もしこの時に家康が危機的だったとすれば、それは信長暗殺に関わっていたので、
信雄の襲撃を恐れて逃げていたことにしかならん。
臣従を強制された家康は安土城で信長に土下座して、
本能寺の変決行の時の光秀家臣は家康を討ち取りに行くと誤解してたし、
本能寺の変当日の家康は、 なぜか早朝から京に向かっていたし、
信長討ち取りを聞くと、 家康が通過できた安全な道を後から付いてきていた穴山を
殺すように村々に金を配り落ち武者狩りを唆して、織田軍を避けるように逃げてるからなあ。
さらに三河に帰り着くや信長の仇討ちとか声高に主張して尾張を火事場泥棒しようとして、
秀吉から光秀を速攻で片付けたから帰れよって恫喝されてるからな。

407 :人間七七四年:2015/06/24(水) 11:17:36.67 ID:Vgrwn9lZ.net
アンチ秀吉織田チョン大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。

アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴
基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。

思考回路
いや秀吉の業績は全部、 信長から考えていたことで、
全て信長がやろうとしていたことを盗んだだけって論法で
秀吉を貶しているので、 在日は信長がむちゃくちゃ好き。
しかも信長なら半島侵略じゃなくて、
大航海時代みたいな進出で各地に日本街を作り、
家康みたいな鎖国もせずに貿易立国していたとか妄想するからな。
在日は家康の場合は好きなんじゃなく、秀吉を貶すツールとして利用してるだけ。
(朝鮮を侵略した秀吉の全人格を否定し悪魔と罵倒しつつ、
日本人を大量虐殺した信長や家康をマンセーする左翼脳。
それどころか豊臣政権を守ろうとした忠臣三成を自分ででっち上げた噂で中傷しつつ
看羊録曰く朝鮮人に囲まれていた輝元を全力擁護。)

408 :人間七七四年:2015/06/24(水) 11:35:26.37 ID:LvdP5IpB.net
14連投か。
菅沼遼太が嫌われる理由は明白。

409 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:31:35.14 ID:2oa7MVDh.net
在日織田厨涙目ワロタw
これは晒しage!

410 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:53:42.54 ID:pbV0gkIs.net
>>小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
>>長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画

そんな事秀吉の書状のどこにも書いてないし秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。



あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる

411 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:54:02.20 ID:TfDn/7mb.net
>>楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
>>要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。

そんな事秀吉はどこにも書いてないし、秀吉が持久戦戦法に変わり出すのは小牧長久手合戦より後の事だよ
しかしそれでも何回も三河遠州への大々的な出兵画を何回も書状で書いてる
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

412 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:54:18.67 ID:pbV0gkIs.net
>>柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言

それが書かれてるのは小早川隆景の5/2の書状だけど原文を読むと
三河衆勝利を得、其後は一円取り合わず、小牧山を要害に取り誘い持ち固められ
と書かれてて明らかに家康の事なんだがw

>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう

秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ

>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)

彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

413 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:54:33.66 ID:TfDn/7mb.net
>秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わない

それはおそらく5月9日の毛利宛書状とか6/4の佐竹宛書状の秀吉のハッタリ喧伝書状を曲解した解釈だと思うが
どちらも小牧長久手合戦前後で秀吉の戦略が少し変更された後だし、
原文を読むと小牧表10町15町陣を張り、野合之合戦を挑むと雖も、家康小牧山城中一切罷出候間、便々在之も不入儀と存じ
などと書いてて、家康が秀吉からの合戦の挑戦を受けないと書いてるだけだぞ。
しかもこれも秀吉のハッタリ誇大喧伝で、実際には秀吉からの挑戦受けて小牧長久手で秀吉を木端微塵にしたからね

>家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています

小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

414 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:54:50.10 ID:QGDks/Sw.net
>小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。

それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね
小幡城=家康方の拠点
小牧山=家康方拠点
だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は
小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように
という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ
鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。

169 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:16:41.87 ID:kZloFQJ/
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである


谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

415 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:55:05.21 ID:TfDn/7mb.net
秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから


小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)


小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

元春は秀吉との関係が悪いどころか広家を人質に出したりして関係は良好だったからねえ
ドラマは無理矢理すぎて違和感だらけだった。

秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

416 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:55:20.84 ID:pbV0gkIs.net
◎小牧長久手合戦の戦死者は1万人以上

4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人

戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる

吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

417 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:55:40.38 ID:TfDn/7mb.net
別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた

418 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:56:02.80 ID:pbV0gkIs.net
小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく
決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』
とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河
へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨
を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被
仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。
その後も秀吉の決戦構想は
は秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる

伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、
細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、
小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、
加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、
一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい

21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)
これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われる
し、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている

419 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:56:20.92 ID:TfDn/7mb.net
秀吉は元々家康を潰す気満々でいたが家康どころか雑魚の信雄に主力決戦で大敗したので、結局家康に土下座して関八州240万石・チート官位・秀吉縁戚の地位・五大老筆頭まで献上するハメになっただけ
秀吉は小牧長久手合戦後でも家康を潰す気満々で出兵計画立てまくってたが
天正14年初頭の出兵直前になるとビビリまくって家康に信雄を送って仲介したり母や妹を差し出したりして土下座してるからな

秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
\
秀吉は下記のように家康を滅ぼす気満々だった。
実際に領内の主力を総動員して決戦しかけてるので実行にも移してる

3月13日丹羽宛書状 「半月程度で決着つけてやる」
4月8日丹羽宛書状 「康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための進軍であり
また「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。
龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し
家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。
桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし
小早川秀包に同道してた渡邊清忠『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる
長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も
『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)
と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。
5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、
この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)
秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

420 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:56:37.27 ID:pbV0gkIs.net
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

秀吉が一万人殺されたのは徳川方史料はもちろんの事秀吉の同盟者の毛利の部下の書状とか
秀吉の家臣の細川側近の松井の書状にしっかり書いてあるんだが…

別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな

秀吉はできるとなれば光秀、柴田、信雄や宇都宮や南奥州の大名や東北の諸侯を改易しまくったり殺しまくってるし
信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させてる
何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込んだあげく信雄と和睦した後特に理由もなく失脚させてるし
佐々成政にいちゃもんつけて改易したり
関東攻めでも中国計略や朝鮮出兵でも降伏する人々を殺しまくってる

秀吉は結局実力では家康はおろか信雄にすら敵わなかったからな
だからその結果家康に母妹関東250万石と官位と大老職まで土下座して差し出す事になり、結果家を滅ぼされただけだし
実力がない者が家を滅ぼされるという当たり前の事が起きただけだよ

421 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:56:53.39 ID:TfDn/7mb.net
秀吉は元々家康を潰す気満々で135000の兵力(3/22渡辺清忠→元行書状や4/8秀吉→長秀書状
6/2小早川秀包→藤四朗書状享禄以来年代記)を率いて短期決戦志向で戦を望んだ
(3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」3月22日渡辺清忠書状3日桂書状佐竹義重宛書状)
が信雄相手に1万人を戦死させられる大敗を喫し全く歯が立たなかったので
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して 和睦が成立しただけだよ。
そんな状況なんだから滅ぼせるわけがない

そもそも豊臣家自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。

ありえないような事実と言われても秀吉が雑魚の信雄に10000人殺されたのは4/13北条氏政・氏直書状
5/2小早川隆景書状イエズス会年報 フロイス日本史当代記 に書かれてるし
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

422 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:57:18.13 ID:pbV0gkIs.net
>小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。

それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね
小幡城=家康方の拠点
小牧山=家康方拠点
だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は
小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように
という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ
鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。

423 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:57:34.40 ID:TfDn/7mb.net
>>楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
>>要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。

そんな事秀吉はどこにも書いてないし、秀吉が持久戦戦法に変わり出すのは小牧長久手合戦より後の事だよ
しかしそれでも何回も三河遠州への大々的な出兵画を何回も書状で書いてる
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

424 :人間七七四年:2015/06/24(水) 15:57:50.90 ID:rcSDujAV.net
>>柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言

それが書かれてるのは小早川隆景の5/2の書状だけど原文を読むと
三河衆勝利を得、其後は一円取り合わず、小牧山を要害に取り誘い持ち固められ
と書かれてて明らかに家康の事なんだがw

>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう

秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ

>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)

彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

425 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:00:59.42 ID:rcSDujAV.net
>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう

秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ

>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)

彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

426 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:01:16.31 ID:TfDn/7mb.net
>小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。

それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね
小幡城=家康方の拠点
小牧山=家康方拠点
だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は
小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように
という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ
鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。

258 :人間七七四年:2014/12/01(月) 14:10:22.94 ID:mxc/WJMy
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである


谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

427 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:01:40.86 ID:rcSDujAV.net
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである


谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

428 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:02:16.38 ID:TfDn/7mb.net
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

429 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:03:09.96 ID:TfDn/7mb.net
>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)

彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

430 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:03:27.24 ID:4wnxh1Na.net
>秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わない

それはおそらく5月9日の毛利宛書状とか6/4の佐竹宛書状の秀吉のハッタリ喧伝書状を曲解した解釈だと思うが
どちらも小牧長久手合戦前後で秀吉の戦略が少し変更された後だし、
原文を読むと小牧表10町15町陣を張り、野合之合戦を挑むと雖も、家康小牧山城中一切罷出候間、便々在之も不入儀と存じ
などと書いてて、家康が秀吉からの合戦の挑戦を受けないと書いてるだけだぞ。
しかもこれも秀吉のハッタリ誇大喧伝で、実際には秀吉からの挑戦受けて小牧長久手で秀吉を木端微塵にしたからね

>家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています

小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

431 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:05:45.22 ID:4wnxh1Na.net
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
秀吉は雑魚の信雄に敵の8倍の兵力で挑みかかって大敗し
11/4に顕如に土下座して信雄との停戦の取り成しやってもらって
家康を孤立させた癖に家康相手にも自力では全く何もできず
寝返りの連鎖・天正11年からの災害の連発に備えた徳政令連発・石川らの離反による軍事機密露見で
領国が崩壊した自国の10分の1以下程度の国力の家康に必死に土下座して、従ってくれ〜と母や妹に加えて関東240万石まで差し出すヘタレっぷり。
結局自力では全く歯がたたないから滅ぼされたってだけの事だろ。
家康が温情深い性格だから、自分に土下座してきた相手だから仕方ねぇって家康は何もしなかっただけ。
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。

432 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:06:23.54 ID:TfDn/7mb.net
家康が秀吉に養子を出したのって
北条が藤田や大石家に養子を出したり
毛利が吉川や小早川に養子を出したりした
織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ。
屈服させた相手に、関係を強固にしたり、自家との一体化や支配を強固にするために
従属下の大名に養子出しただけ。

433 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:07:49.85 ID:TfDn/7mb.net
>>天正12年戦役で秀吉に大敗した家康。

雑魚の信雄に、秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉の配下として、秀吉の意志を伝達する役割を与えられていて実質的に信雄が東国取次役
秀吉が、「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座する際の、取り成し役をやれやれと思ってやってただけ。
佐々攻めの際とか、家康の上洛要請の際とか、秀吉はギリギリまで家康討伐を考えていて、各大名に宛てて出兵計画立てまくってたが
直前になるとビビリまくって信雄に取り成し頼んだり、母や妹を差し出したりして家康に土下座してるのが秀吉。

秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

434 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:08:06.17 ID:4wnxh1Na.net
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

435 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:08:22.21 ID:TfDn/7mb.net
信雄は秀吉に圧勝したじゃん。
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)

436 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:08:39.59 ID:4wnxh1Na.net
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

直接対決で家康どころか信雄相手に135000も動員してわずか20000そこそこの織田徳川相手に
長久手で1万戦死者だす歴史的大敗
その後の攻防も二重堀で大敗戸木で負け松ノ木で負け東駒野で負け蟹江で負けと何一ついいところなく
1年かけて尾張半分すら切り取れず諦めて大阪に納馬しようとしてたら
たまたま信雄が和議にのってくれただけじゃねぇかww
しかも天正13年に石川木曽小笠原水野真田が徳川から離反し軍事機密露見
天正大地震と天正11年からの徳政連発で徳川領国がめちゃめちゃになったのに
秀吉はビビリまくって母と妹人質に出す醜態っぷりじゃねぇかw

437 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:08:56.79 ID:TfDn/7mb.net
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。

438 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:09:13.65 ID:4wnxh1Na.net
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。

439 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:09:42.45 ID:TfDn/7mb.net
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。

秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした

秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座依頼してるのが11/4の秀吉→顕如への書状でわかる
また秀吉は天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
しかし直前になると秀吉はビビりまくって信雄を仲介に送って戦争を避けてる

440 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:13:29.02 ID:TfDn/7mb.net
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

441 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:13:48.68 ID:rcSDujAV.net
>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

442 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:14:18.74 ID:TfDn/7mb.net
>>人質秀康    家康と徳川家臣から人質を取った
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
>>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は
>>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww 秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

443 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:14:46.68 ID:rcSDujAV.net
3/22渡辺清忠→元行書状
勢州之儀は、為御先陣御次様・羽柴美濃守殿・滝川殿人数二万四五千にて御打ち入り候
家康尾張境陣取候之条、可被討果之由候て、築州御人数十万余にて、至濃州御陣替候、


4/8秀吉→長秀書状
去六日に池勝入・長可・孫七郎・左衛門督人数二万四五千にて、至小幡表差遣…
勢州表人数二万余りも五三日中に可令著陣候…
泉州表為番勢、備前衆一万計相越候条、岸和田・大阪ニ達、最前遣申候人数五六千候間、
至当地令著陣候事

4/11秀吉→長船・富岡
勢州表人数二万余昨日令著陣候


享禄以来年代記
21日秀吉率十二万五千兵出大阪、二十七日著陣犬山
八月下旬秀吉率十六万兵出尾州

6/2小早川秀包→藤四朗書状

我等之事、今度存外遠国令在陣、軍労雖無是非候、最前以来十万余之人数見物、本望此事候

4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし(長久手町史102号103号)
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである

444 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:21:40.90 ID:rcSDujAV.net
>>秀吉は家康に取り合う気がなく当初から持久戦目的だった

大嘘。
下記を見ればわかるが秀吉は家康に短期決戦しかけて滅ぼす気ありまくり
3/13日丹羽長秀宛書状

此表十四五日之内ニハ、世上之物狂も酒酔の醒たることく二、筑前以覚悟しつめ可申候間、

4/8秀吉→家康書状
去6日に池勝入・森武・孫七郎・左衛門督人数二万四五千にて至小幡表差遣、小幡城二ノ丸迄攻入首百余討取、則龍泉寺山を根城二拵、柏井・大草何も取積丈夫之普請申付候、今名中に首尾候間、然者小幡・森山其他不残令放火、
至参州表令手遣可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼国へ差遣候事
家康さへ討果候へは彼等儀者不入儀候間、助首城を可請取由申遣候間、彼表人数二万余も五三日中に可令着陣候、併泉州表為番勢備前衆一万計相越候条、岸和田・大阪に達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令着陣候事
家康を取巻、即時可討果候間、少しも御気遣有間敷候事

5/9秀吉→毛利輝元書状
必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす

長岡越中宛5月11日書状 
小牧表人数討入刻、家康於相慕者、遂一戦可討果処

『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)

3月22日渡辺清忠書状
家康尾州境陣取候之条、可被討果之由候て、筑州御人数十万余にて至濃州御陣替候、一両日中二家康城清州申へ被成御取寄候、天下之御弓御一大事之儀候間

3/23桂広繁→棚守書状
徳川事三介殿後見被仕候付而、可被討果之由候て尾州表へ陣替候
佐竹義重宛書状
清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たす
29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」

4/10 秀吉→亀井書状
家康小牧山二居陣候間、拾四五町二押詰陣取候、急度可討果候間可心易候

3/24秀吉→生駒書状
此表儀越川清州可押詰ため今日岐阜へ相移候

3/29秀吉→木曽書状
家康小牧山上居陣、其節為先手森武岩渓山・窪、稲葉伊予青塚、其外諸勢十町・十五町に陣持せ申候、我等儀ハ楽田城着申事候、大略今明内に可為敗軍候哉、於相踏者悉可討果事案内候

4/1 秀吉→羽柴秀勝書状
敵小牧山取上候条、十五町計に責詰、荒手を上堀構を申付候間、急度可討果候、可御心安候

4/8秀吉→毛利輝元
我等者楽田と申所に致居陣候、小牧山十四五町におし寄、不罷退様に陣取候条、急度可討果事案之内候事

5/9秀吉→毛利輝元
加賀野井城二屈強之者相籠候間、彼等を於取巻者、必家康後巻可仕儀にて候間、此口へ引出及一戦可討果と存

445 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:22:01.74 ID:TfDn/7mb.net
秀吉は下記のように家康を滅ぼす気満々だった。
実際に領内の主力を総動員して決戦しかけてるので実行にも移してる

3月13日丹羽宛書状 「半月程度で決着つけてやる」
4月8日丹羽宛書状 「康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための進軍であり
また「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。
龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し
家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。
桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし
小早川秀包に同道してた渡邊清忠『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる
長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も
『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)
と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。
5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、
この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)
秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

446 :人間七七四年:2015/06/24(水) 16:22:55.65 ID:TfDn/7mb.net
>>三鬼氏は秀吉軍戦力を10万は誇張で実際は6万と指摘しておりその中から別働隊に割ける兵力も少ない

一次資料や陣立書類から、秀吉軍は下記のように総軍フル動員で戦闘に臨んでるからそれは絶対にない。
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。

秀吉方は 秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる 」

3/22渡辺清忠→元行書状
勢州之儀は、為御先陣御次様・羽柴美濃守殿・滝川殿人数二万四五千にて御打ち入り候
家康尾張境陣取候之条、可被討果之由候て、築州御人数十万余にて、至濃州御陣替候、


4/8秀吉→長秀書状
去六日に池勝入・長可・孫七郎・左衛門督人数二万四五千にて、至小幡表差遣…
勢州表人数二万余りも五三日中に可令著陣候…
泉州表為番勢、備前衆一万計相越候条、岸和田・大阪ニ達、最前遣申候人数五六千候間、
至当地令著陣候事

4/11秀吉→長船・富岡
勢州表人数二万余昨日令著陣候


享禄以来年代記
21日秀吉率十二万五千兵出大阪、二十七日著陣犬山
八月下旬秀吉率十六万兵出尾州

6/2小早川秀包→藤四朗書状

我等之事、今度存外遠国令在陣、軍労雖無是非候、最前以来十万余之人数見物、本望此事候

447 :人間七七四年:2015/06/24(水) 17:39:35.06 ID:LvdP5IpB.net
またスレ埋め立てしてるのか。今度はどこのスレで論破されたんだ?

448 :人間七七四年:2015/06/24(水) 22:13:33.21 ID:UeDPWTcz.net
女に振られたのかも。可哀想に。

449 :人間七七四年:2015/06/24(水) 22:21:29.65 ID:VhnYeoG4.net
菅沼遼太くんは心にいっぱい傷をかかえてるからねえw

450 :人間七七四年:2015/06/25(木) 02:59:54.80 ID:JRgjxySo.net
また菅沼か

451 :人間七七四年:2015/06/25(木) 08:35:40.21 ID:Lm0V7TfY.net
織田厨がまた論破されてんのか

452 :人間七七四年:2015/06/25(木) 10:22:04.54 ID:jwl06N2C.net
世間一般ではともかく、
この板で家康と信玄が嫌われる理由は、話題に出すと菅沼遼太が荒らしに来るから。

453 :人間七七四年:2015/06/25(木) 23:33:01.87 ID:qWfS5+5O.net
菅沼君は理想が高すぎるから振られるんだよ。

ドジで、会話能力低くて、しかも誰からも嫌われるタイプなんだから、
高いレベルは菅沼君には無理だよ。もう見切りをつけて切り替えたほうがいい。豚とか山羊のメスとか。
そうしたら、憂さ晴らしのコピペ荒らしも卒業できるはず。

454 :人間七七四年:2015/06/27(土) 10:34:32.30 ID:Z4LfHE1z.net
ニート織田厨はあいかわらず連呼しかできんな お前だけだぞ連呼してんの

455 :人間七七四年:2015/06/29(月) 00:57:25.70 ID:0u8v693w.net
ニート織田厨はあいかわらず連呼しかできんな お前だけだぞ連呼してんの byコピペ男

456 :人間七七四年:2015/06/30(火) 15:10:15.16 ID:QxK2ew5S.net
>>407
ワロタw
アンチ秀吉の基地外って
ふかうすに家康の居城があったと誤読してんのかよwww

457 :人間七七四年:2015/06/30(火) 20:01:10.53 ID:E1AKHQhO.net
徳川幕藩体制で300年といってもさぁ
WWU後でも既に70年くらいだろ大した事もないんじゃね?

458 :人間七七四年:2015/06/30(火) 21:46:48.02 ID:Ab2zPyNp.net
>>457
70年を基準にして300年を語るバカを越えた>>457は果たして人間なのだろうか

459 :人間七七四年:2015/06/30(火) 23:28:25.52 ID:tiDQBcCJ.net
頭がおかしいとしか思えない書き込みと、それを上回るキチガイじみたレス。。。
三戦板じゃないんだから、お前らいい加減にしろ。

460 :人間七七四年:2015/07/01(水) 08:12:48.16 ID:KClw69G9.net
三戦板とか、
時間が止まってるやつ

461 :人間七七四年:2015/07/02(木) 01:28:11.21 ID:vT8AndNb.net
昔は寿命短いから300年でも代替わりが今より
激しいだろ

462 :人間七七四年:2015/07/04(土) 12:00:58.44 ID:dvqUgGHn.net
徳川=ジャイアンツ
織田=ドラゴンズ
豊臣=タイガース

463 :人間七七四年:2015/07/07(火) 16:44:19.19 ID:Zw1Imvxc.net
>>457
300年ではなく凡そ264年と10ヶ月です
因みに江戸幕府終焉から現在までで凡そ147年と6ヶ月です
近代日本が江戸幕府と同じ年月を重ねるにはあと117年ほど必要
我々の曾孫の代となっているでしょう
そう考えると結構長いかも

464 :人間七七四年:2015/07/07(火) 21:07:43.53 ID:QD4a3aTL.net
>>463
そも、維新政府は1945年に滅んでいるし

465 :人間七七四年:2015/07/13(月) 23:41:50.49 ID:nApqvIU6.net
家康が嫌われるのは秀吉と正面きって戦おうとせず
死ぬのを待っていたからだろう
戦を美徳とみなすバカから見れば家康は卑怯者に見えるのかもね

466 :人間七七四年:2015/07/14(火) 02:01:43.57 ID:hJK4oyFk.net
存命中はむしろ秀吉を認めてたんだろ

467 :人間七七四年:2015/07/14(火) 07:05:18.48 ID:oVqFarRF.net
秀吉が死んで豊臣政権内で内輪揉めが始まったから、これはチャンスかもと思って野心が芽生えたのだろうな

468 :人間七七四年:2015/07/14(火) 09:55:03.36 ID:4wBPtzGd.net
>>465

469 :人間七七四年:2015/07/14(火) 18:16:32.67 ID:KlxsnWaU.net
>>465
正面切って戦ったら小牧長久手で秀吉は家康より遥かに劣る
雑魚信雄相手に7.5倍の兵力差でガチンコで挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各地で蹴散らされまくり
母や妹や関東250万石を差し出して土下座したぞ

470 :人間七七四年:2015/07/14(火) 18:17:34.20 ID:sj8CGe98.net
>>466
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
1/24に信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよ

471 :人間七七四年:2015/07/14(火) 18:17:53.75 ID:KlxsnWaU.net
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。

472 :人間七七四年:2015/07/14(火) 18:18:17.68 ID:hnoRoWvj.net
結局実際に戦いになるとどれだけ兵力差があろうがあっさり敵にひっくり返される雑魚な指揮能力しか
秀吉は持ってないから、家康や信雄に秀吉はどれだけ国力差があろうが土下座するハメになって
家族や関八州260万石まで献上するハメになっただけ。

473 :人間七七四年:2015/07/14(火) 18:18:37.12 ID:31gfS0ec.net
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ。

474 :人間七七四年:2015/07/14(火) 18:22:44.36 ID:6j1Cwlqv.net
いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。

475 :人間七七四年:2015/07/14(火) 18:26:36.97 ID:wadpm1za.net
事実としてあるのは秀吉は8倍の兵力がありながら家康より弱い凡将の信雄を主力決戦で大敗してその結果家を滅ぼされた事だけだからな

476 :人間七七四年:2015/07/14(火) 19:21:21.87 ID:hJK4oyFk.net
>>470
その意見もあながち間違いではないよね
秀吉は東の雄の家康にはばかってたと思う

ただまあ秀吉もほぼ日本制覇した立場だしな

家康を懐柔する策に移行してでもまとめきるだけの覚悟もあったろうし、それが無理なら意地でもって攻めてただろう
家康も徹底抗戦してたら北条のような負けはないにしろ、勝てたとはいいきれない
少なくとも被害は甚大

お互いうまく落としどころみつけたと思う
秀吉が家康より落ちるとしたら後継者に引き継げなかったことか
家康の専横を防ぐだけの仕込みをしなかったのは完全に負けと断ぜられても仕方ない
石田三成じゃ足りなすぎ

477 :人間七七四年:2015/07/15(水) 00:34:01.82 ID:GvlgTNcK.net
またコピペ連投か
はあ

478 :人間七七四年:2015/07/15(水) 02:06:00.28 ID:n36bHU+1.net
菅沼遼太くんコピペ荒らし行為は人生の悪業を積むことになるよ。
お前死んだら地獄に行くぞ。

479 :人間七七四年:2015/07/15(水) 05:12:53.26 ID:CGvPIrMh.net
素直に家康のイベントを盛り上げようぜ

480 :人間七七四年:2015/07/15(水) 07:05:28.14 ID:wmcX/p+N.net
ゴミ織田在日のアンチ秀吉アンチ三成の必死さwww
どんだけ豊臣政権嫌いなんだよwww
看羊録に朝鮮人に回りを囲まれていたとか書かれる輝元を必死に持ち上げたり、
秀吉の墓を壊した墓暴き家康の鬼畜っぷりを称賛する基地外www
日本人を大虐殺して回った信長や大坂20万人虐殺した家康は大好き。
朝鮮人の鼻を削いだ秀吉は大嫌いとか分かりやすいわwww

481 :人間七七四年:2015/07/15(水) 08:45:08.62 ID:giMO0GE5.net
朝鮮人は今も昔も日本人より優れてるってことだろ
サッカーも日本人より韓国人の方が海外のプレミアリーグで通用してる

482 :人間七七四年:2015/07/15(水) 09:13:21.77 ID:DSTE58D+.net
韓国人は朝鮮人ということですね

483 :人間七七四年:2015/07/15(水) 11:26:35.24 ID:4g9okZkM.net
織田がどうこうより秀吉叩きたいだけか、朝鮮人は

484 :人間七七四年:2015/07/15(水) 19:23:17.44 ID:H39V4bc1.net
室町幕府 西三河の日本支配構造

【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数

・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏

三河国の奉公衆一覧(全53家)

【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、松平、丸山、三浦、大和

485 :人間七七四年:2015/07/16(木) 08:17:36.52 ID:dO8Xzq01.net
在日キモい

486 :人間七七四年:2015/07/17(金) 01:35:45.85 ID:u2VNWsUU.net
大阪行けば豪勢な食事で接待してくれたくさんの土産物も持たせてくれた。
関東250万石の太守にもしてくれた。
その秀吉公から託された秀頼を攻めたてた時の家康の気持ちは
どんなだったか

487 :人間七七四年:2015/07/17(金) 02:52:09.73 ID:yVh/bGro.net
>>486
家康「どうしてこうなった!どうしてこうなった!(AA略」

488 :人間七七四年:2015/07/17(金) 04:47:07.45 ID:Mq3CvLxk.net
平和な現代日本でもそうだが、無能なトップ見てたら危機感もつわ
秀頼とか淀殿とかに任せておいたらマズい、となればナンバーツーが動いても仕方ない

489 :人間七七四年:2015/07/17(金) 07:59:55.14 ID:XIf2Bgbq.net
託された幼君を守り立てることもできずに殺しちゃう無能ナンバー2か
自分は今川義元や三河武士団に守り立ててもらったくせにな

苦労した苦労したと自慢はしても所詮生まれながらの大名家のボンボン、
他人の家来扱いされるのはチンケなプライドが許さなかったか

490 :人間七七四年:2015/07/17(金) 08:08:44.12 ID:VB1qsozJ.net
義元はあくまで部下としてだし、三河武士は譜代の家臣なのだが

491 :人間七七四年:2015/07/17(金) 08:10:28.79 ID:8eQ1c0jp.net
自ら擁立した幼君を守り立てることもせずに飼い殺しちゃう無能重臣か
自分は織田信長に守り立ててもらったくせにな

492 :人間七七四年:2015/07/17(金) 11:44:43.03 ID:UlPOXyZ5.net
家康は秀頼盛り立ててやってたけどな
右大臣推挙もそうだし、いずれは関白だったろう
二大公儀なんて説もあるくらいだ

まあその説の時点で臣下に甘んじてはいないがそれでも豊家をとりつぶす気はなかった
結局豊臣体制は秀吉とともに瓦解してたのに権力にしがみついてなんともできなかった豊家が悪いよな

493 :人間七七四年:2015/07/17(金) 19:43:06.50 ID:OdIxMA7Q.net
日本の歴史(中世〜近世)

◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)

◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

494 :人間七七四年:2015/07/17(金) 21:40:18.56 ID:3RezoTRT.net
三河の王に支配されるのは日本人の宿命のようですなw

495 :人間七七四年:2015/07/17(金) 21:40:47.56 ID:/1PFIEKD.net
家康は努力の人

496 :人間七七四年:2015/07/17(金) 22:11:57.31 ID:rYh20Okp.net
>>492
物凄く勝手な言い分だな
国政や主家の為というなら別に大老のままでも全く問題はなかった
豊臣家に牙を剥いて滅ぼしたのは100%家康の我欲の為だよ

497 :人間七七四年:2015/07/18(土) 01:01:33.16 ID:zXWOloH4.net
豊臣政権自体が崩壊したあの状態で100%家康の我欲って言われてもなあ
「信長は我欲のために足利義昭を追放した」って言ってるようなもんだし

498 :人間七七四年:2015/07/18(土) 01:42:49.57 ID:9ZxRfjI4.net
まとめきれるだけの力のないトップと、まとめる力のあるナンバーツー
また日本が荒れると杞憂するならそのナンバーツーがまとめてくれたほうがいい

499 :人間七七四年:2015/07/18(土) 08:56:28.54 ID:avpvgBtx.net
秀頼が秀吉の種でないと察して、家康は千姫を輿入れさせたのか?
としたら一体誰の種だったと判断したのか?秀頼はホントは助かるはずだった?

500 :人間七七四年:2015/07/18(土) 10:00:18.86 ID:FaaNGTp8.net
>>499
誰の種でも現跡継ぎサマだから、そこは家康に変な思惑はないだろう
単に豊家との融和、あわよくば舅として政権乗っ取りといくつもり、くらいじゃないか

しかしながら豊家家臣団から淀殿までまるで言うこと聞かない、秀頼まかせはヤバいと思ったんだろ

501 :人間七七四年:2015/07/18(土) 15:15:05.13 ID:fmHLSahN.net
輝元が退去した後、徳川含め東軍大名が大阪城に駐兵する態勢にすれば、
もっとあっさり簒奪・傀儡化できた気がするけど……

502 :人間七七四年:2015/07/18(土) 16:29:36.59 ID:YIVFM/gG.net
>>501
それやると反発招くと思ったんじゃない?
豊家恩顧の加藤福島前田がごねだして飛び火しても面倒だし
まあその恩顧だのの連中も日和見で徳川政権にかたむいてただろうけど。

三成排除で片が付いたと早計してただけかも知らんが。

503 :人間七七四年:2015/07/18(土) 17:08:50.93 ID:KrQDuPDS.net
家康の失敗は朝廷を味方に出来なかった事だな

504 :人間七七四年:2015/07/18(土) 20:01:20.53 ID:2nuSsFP1.net
家康が形だけの地位を与えて秀頼が満足してたって時代が降ればみんなその状況に不満持つようになるよ
それを実績ゼロのくせに名実共にトップになりたがるんじゃ早めに潰すのが吉

505 :人間七七四年:2015/07/18(土) 20:11:58.78 ID:1P9UVHhE.net
>>501
家康の目標は豊臣政権の継承ではなく、関東に独自の政権を打ち立てることだから、
大坂なんて構ってる暇無いだろ

大坂は最後の最後に総仕上げとして潰せばいいわけで、実際そうしてる

506 :人間七七四年:2015/07/18(土) 23:28:32.09 ID:BJofuC1f.net
家康からは残念ながら才気のきらめきのようなものが感じられない
長年地道に務め上げた公務員みたいな感じがするので、一般に人気を博さないのだろう
前半は姉川の戦いくらいしか見せ場がないしなぁ

507 :人間七七四年:2015/07/19(日) 00:57:27.36 ID:5C4hlULj.net
■源頼朝・足利義兼(初代足利氏)と三河の藤姓熱田大宮司家

三河の藤姓熱田大宮司家
・家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
・系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))

☆源頼朝、★足利義兼
 
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河守)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)

@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
★藤原実兼→藤原通憲(信西)→女子→源義康(検非違使、陸奥守)か?→足利義兼(初代足利氏)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数

A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)→C
・他多数

508 :人間七七四年:2015/07/19(日) 00:58:45.53 ID:5C4hlULj.net
B藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見為頼(初代吉見氏)
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数

C源頼政
・源仲綱(大内守護)→有綱(伊豆守)→女子(源義経室)
・源国政(初代山県氏)
・源兼綱(実父は頼政兄の頼行)→大河内顕綱(初代大河内氏(三河国額田郡大河内)か?)
・源頼兼(大内守護)
・源広綱(実兄の仲綱に養子入り、駿河守)
・二条院讃岐

D藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Eへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)

509 :人間七七四年:2015/07/19(日) 00:59:31.36 ID:5C4hlULj.net
E藤原季範
・藤原範忠(後白河院上北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Fへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Gへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Hへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

F藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

G藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)

510 :人間七七四年:2015/07/19(日) 01:03:18.77 ID:5C4hlULj.net
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)

【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)

■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系

■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)

511 :人間七七四年:2015/07/19(日) 01:05:00.25 ID:5C4hlULj.net
室町幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)

■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、愛知県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代・渋川義顕は、同母兄の足利家氏と共に滝山寺(愛知県岡崎市)で出家(板倉右衛門入道)

【八代将軍足利義政時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、愛知県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代渋川義顕は、同母兄の足利家氏と共に滝山寺(愛知県岡崎市)で出家(板倉右衛門入道)

■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)
・高氏(三河国額田郡菅生、愛知県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、愛知県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)

管領
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、愛知県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ

■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、愛知県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(愛知県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、愛知県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(愛知県岡崎市・豊田市)で活動

512 :人間七七四年:2015/07/19(日) 01:09:46.57 ID:tBHINss7.net
>>506
信長のパシりで勝頼程度にボコボコされていたのが家康だからねえ
んでこの二人が死んだあとのどさくさに勢力拡大
なんて運のいい奴なんだとしか言いようがないんだよねえ

513 :人間七七四年:2015/07/19(日) 02:04:02.28 ID:nkrhtTA5.net
結果的に一番長期政権を築けた
運とかいってるやつは負け惜しみが過ぎる

514 :人間七七四年:2015/07/19(日) 03:16:29.88 ID:hvN+/ikp.net
やっぱり後半生の大阪イジメが響いてるんだろうなあ…

前半生で本能寺の変で三河まで逃げられずに討たれたとか
秀吉より三日前にポックリ逝ったとかだったら
今頃史上稀に見る信義の人として屈指の人気者だったんじゃないだろか
家康が生きていたら豊臣政権は続いただろうとか言われてw

515 :人間七七四年:2015/07/19(日) 06:36:24.60 ID:nkrhtTA5.net
織田も豊臣も清廉潔白じゃないしね
ことさら徳川だけタヌキオヤジ扱いするのもどうかと思う

単に判官贔屓の憂き目だろうよ

516 :人間七七四年:2015/07/19(日) 08:49:25.10 ID:/gCpu/FS.net
大坂いじめとか言われてるのも大体豊臣の自業自得なんだけど

517 :人間七七四年:2015/07/19(日) 10:07:39.01 ID:IIBKE8bb.net
>>515
秀吉はともかく苛烈なイメージの信長でさえ主君は殺さなかったからな
家康は大義名分が得られず結局は強引に主君を攻め滅ぼして、8歳の子供まで探しだして首を撥ねたから
どうやっても印象が悪くなるのは仕方がない

518 :人間七七四年:2015/07/19(日) 11:58:44.40 ID:qyKgHnqD.net
>>517
やっちゃった以上は豊臣の跡取りは絶っておかないとまた同じことの繰り返しだからね

織田豊臣はそうはしなかった、というがあちらも身内も政敵も殺しまくりなんだが。

519 :人間七七四年:2015/07/19(日) 12:57:51.59 ID:+Xa9xNJ4.net
>>517
印象悪いのは秀吉視点で見ているからだろう
普通は人生全体で判断するので、家康が最も人殺しを好まないと評価される

520 :人間七七四年:2015/07/19(日) 13:03:58.93 ID:x+o2GpLu.net
大坂20万人虐殺し、大坂周囲での諸大名の家族離散の人さらいを推奨した家康www
大商業圏は一度壊滅させて一から作り直した悪逆非道の焦土殲滅。

521 :人間七七四年:2015/07/19(日) 13:30:13.92 ID:+Xa9xNJ4.net
南京大虐殺が霞んでしまうような捏造スケールだな

522 :人間七七四年:2015/07/19(日) 14:01:17.16 ID:sf3cBWts.net
ねつ造でなく事実だよコレ

523 :人間七七四年:2015/07/19(日) 15:37:01.64 ID:QeSXw96z.net
豊臣がどう滅ぼされようと自業自得とはこの事
秀吉は主家乗っ取り、同僚を軒並み殺し、北条を滅ぼし、光秀を太閤記で悪人に仕立て、黒田への恩を仇で返し、刀狩りで身分を固定化された庶民の生活は苦しく、海外遠征で国中の大名に借金を作らせた
さらに利休を殺すは、戦下手なくせに信玄と謙信を馬鹿にするわ、自分が決めた関白を切腹させるは、本人は豪遊しながら内政不安定で治安悪いわと良い事無し
これだけ非道な事やってたら徳川に潰されても文句は言えない
例え秀頼に罪はなくとも秀吉の暴政を許して尚も存続させようとした豊臣政権の人間は同罪

524 :人間七七四年:2015/07/19(日) 17:12:05.15 ID:zXtb+B66.net
>>520
要するに大阪のテロリストを殲滅したわけだが。

525 :人間七七四年:2015/07/19(日) 20:00:59.89 ID:svH2WVVp.net
危機感の欠落した愚民が20万人w

526 :人間七七四年:2015/07/19(日) 21:12:40.54 ID:x+o2GpLu.net
秀吉は天皇から主家を上回る家格を与えられて、織田家より上の家格になっており、
下剋上になっていないので簒奪ではない。
家康の場合は完全に簒奪。

527 :人間七七四年:2015/07/19(日) 21:27:17.31 ID:QeSXw96z.net
>>526
それは屁理屈
信長は途中で死んだんだから、豊臣が織田を上回る家格貰えるのは当然
乗っ取ったという行為には変わりない
こういう、豊臣は良くて織田や徳川はダメみたいな大阪人的な発想は理解出来ない

528 :人間七七四年:2015/07/19(日) 21:30:05.34 ID:nkrhtTA5.net
>>526
秀吉と徳川では確かに秀吉の方が位は上だが
秀頼はむしろ下なんだが。

秀吉没後なので成り立たないよ

529 :人間七七四年:2015/07/19(日) 21:49:52.63 ID:nkrhtTA5.net
正直大阪人にも秀吉秀吉太閤さまーなんて人はそんなに人数いないだろ
判官贔屓で徳川嫌いな人は多かろうが。
それだけ徳川がすごいって証拠なんだけどね

秀吉嫌いとまでいうやつは基本的に朝鮮人だろう、と言っても過言でもあるまい
くせはあるが秀吉を、そこまで嫌う日本人はそうはいない

織田は…基本人気あるからなあ
早逝したのがまた後押ししてるね

530 :人間七七四年:2015/07/19(日) 21:53:05.29 ID:/gCpu/FS.net
>>526
関白家と清華家の家格が江戸開府後も持続されていたって根拠あったっけ

531 :人間七七四年:2015/07/19(日) 21:54:55.00 ID:x+o2GpLu.net
>>528
無知なのか?地位と家格を一緒にするなよ。
豊臣家は関白に就任できる家柄となり位人臣を極めている。
徳川家はそこまで家格が上がっていない。

532 :人間七七四年:2015/07/19(日) 22:06:19.03 ID:/ttpcVOz.net
秀頼は成人前に父親に死なれた段階で簒奪されるのが筋な虫ケラに落ちたよ

533 :人間七七四年:2015/07/19(日) 22:54:27.75 ID:2Phl2KVC.net
>>531
結局個人なんだよ
家格なんて言うが秀頼は地位を得るだけの力がなかった
そこを攻められた

それは徳川のせいではない
秀頼の力不足なだけ

534 :人間七七四年:2015/07/19(日) 22:58:54.57 ID:rYn4Hr8R.net
丸っきり犯罪者の理屈だな
こいつは親が弱ったら殺して財産奪いそうだわ

535 :人間七七四年:2015/07/19(日) 22:59:07.67 ID:2Phl2KVC.net
徳川が嫌われるのはわかる
実力あるのは嫌われるからな。
豊臣は結局人材が育てられなかった
そしてあまねく力を日本に示せなかった
だから排除された

しかたないよね
秀頼の政権は力不足なのだから

536 :人間七七四年:2015/07/19(日) 23:00:59.39 ID:2Phl2KVC.net
>>534
責任あるから奪い取ってでもまとめあげたんだよ
秀頼では無理だった

唯一残された手段があるなら秀吉がまとめあげて徳川を殲滅しておくべきだったんだよな

なるべくしてなった、そんだけの話

537 :人間七七四年:2015/07/19(日) 23:02:16.05 ID:/gCpu/FS.net
こいつ中世の男に対して「複数の女性を妻にするなんて女性の人権侵害だ!」って憤慨してそうだな

538 :人間七七四年:2015/07/20(月) 00:50:02.05 ID:NR8n7AYv.net
所詮は頭の悪い濃尾平野のドン百姓
三河が頭で無ければ国はまとまらないし、事実、三河が頭で国はまとまった
尾張の田舎者が三河ネットワークを理解出来るわけない

539 :人間七七四年:2015/07/20(月) 00:51:16.80 ID:NR8n7AYv.net
室町幕府樹立後(開府〜観応の擾乱) 西三河の日本支配構造


【東海道】
・伊賀国守護:仁木義直、細川清氏、仁木義長、高師冬
・伊勢国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・志摩国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・尾張国守護:中条秀長、高師泰
・三河国守護:高師兼、仁木頼章
・伊豆国守護:石堂義房、上杉重能
・遠江国守護:今川範国、仁木義長、今川範氏
・駿河国守護:石堂義房、今川範国、今川範氏
・武蔵国守護:高重茂、高師冬、高師直、上杉憲顕、仁木義章
・安房国守護:斯波家長
・上総国守護:高師直

【畿内】
・摂津国守護:仁木頼有、細川繁氏
・和泉国守護:畠山国清、高師泰、細川顕氏
・河内国守護:細川顕氏、高師泰、畠山国清

【北陸道】
・若狭国守護:斯波(大崎)家兼、斯波高経、斯波氏頼、細川清氏、石橋和義
・越前国守護:斯波高経、細川頼春、斯波氏経
・越中国守護:吉見頼隆、細川頼和、斯波高経

【東山道】
・奥州探題:斯波(大崎)家兼
・羽州探題:斯波(最上)兼頼
・上野国守護:上杉憲房、上杉憲顕
・下野国守護:高師直、仁木頼兼

540 :人間七七四年:2015/07/20(月) 00:51:51.44 ID:NR8n7AYv.net
室町幕府樹立後(開府〜観応の擾乱) 西三河の日本支配構造

【山陰道】
・丹波国守護:仁木頼章、高師詮
・丹後国守護:今川頼貞、荒川詮頼、上杉朝定、上野頼兼、仁木頼章
・但馬国守護:今川頼貞、吉良貞家
・伯耆国守護:石橋義和
・石見国守護:上野頼兼、高師泰、荒川詮頼
・因幡国守護:吉良貞家、今川頼貞
・伯耆国守護:石橋和義

【山陽道】
・備中国守護:細川頼之
・備後国守護:仁木義長、石橋和義、細川頼春

【南海道】
・紀伊国守護:畠山国清、
・淡路国守護:細川師氏、細川師春
・阿波国守護:細川和氏、細川頼春、細川頼之
・讃岐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
・伊予国守護:細川頼春、細川頼之
・土佐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之

【西海道】
・九州探題:一色範氏、一色直氏、細川繁氏、斯波氏経
・筑前国守護:一色直氏
・肥前国守護:一色直氏、一色範光
・肥後国守護:一色直氏
・日向国守護:細川頼春、一色直氏

541 :人間七七四年:2015/07/20(月) 00:52:24.25 ID:NR8n7AYv.net
室町幕府 西三河の日本支配構造

【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数

・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏

三河国の奉公衆一覧(全53家)

【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、松平、丸山、三浦、大和

542 :人間七七四年:2015/07/20(月) 01:23:05.20 ID:p5XIMpqT.net
ネガティブキャンペーンする馬鹿はみんな知能が低いから、
誰からも支持されず袋叩きにされてコピペ繰り返すよな。貧すれば鈍するって奴か。

543 :人間七七四年:2015/07/20(月) 02:09:02.61 ID:zjrnPjln.net
別に徳川嫌いでも個人の好き好きでいいのにな。
ただ、徳川が265年日本を統治したのも実力あってこそ、それくらいは知っておくべき

544 :人間七七四年:2015/07/20(月) 09:11:21.36 ID:l7Ox2ZTK.net
人格的に優れてるわけでもないのに
なぜか異様に家臣に慕われてたり、
関東移封後の10年は天下取りのための基礎堅めで
重要な時期であり、また北条の残党がいて
非常におさめるのが難しいはずもかかわらず
その間の動静が全く不明で
秀吉死後に突然台頭するし、
天下人のくせにエピソードが全くと言ってなく
謎だらけ。
好き嫌い以前に人物像すらはっきりしない。

545 :人間七七四年:2015/07/20(月) 09:37:42.36 ID:7FiCibQP.net
>>544
流石にそれは「もっと勉強したら?」としか
家康レベルでエピソードが無いとか言いだしたら
エピソード豊富な武将なんていない

546 :人間七七四年:2015/07/20(月) 09:51:06.26 ID:yRww0EPK.net
家康は低頭平身で八歩美人だったらしいから
北条の残党を押さえ込めたんだろうな
大御所になってからも、何かあればペコリと謝る癖があったエピソードが記録されているからね

547 :人間七七四年:2015/07/20(月) 09:51:43.30 ID:yRww0EPK.net
八歩美人→八方美人

548 :人間七七四年:2015/07/20(月) 12:39:39.45 ID:zjrnPjln.net
>>544
三河家臣団も一枚岩ではなかった
それをまとめてこれたのは家康のカリスマと気遣いのおかげだろう

歴史小説にすぎないが家康ネタの本よめば大体語られているよな
とにかく苦労してんだよ

秀吉側からみたらお家を滅ぼした徳川だから嫌いなのはわかる
でも徳川幕府あっての戦国終焉なんだよ
よくできた殿様だよ

549 :人間七七四年:2015/07/20(月) 13:15:55.44 ID:kLIgpjsG.net
秀吉の政権は本人が生きてる間の暫定政権同然の体だから、その間に徳川を排除する力の無かった秀吉が悪い
また明侵攻は結構だが、内政がお粗末で余計に徳川に力を蓄えさせてる
自業自得過ぎて豊臣に同情は湧かない

550 :人間七七四年:2015/07/20(月) 14:59:02.18 ID:p+LPqou0.net
秀吉好きなのは別にいいと思うんだよ
だがそれで徳川けしからん、なんて短絡するのは了見せまいよね

551 :人間七七四年:2015/07/20(月) 15:15:20.86 ID:b2GsSF7v.net
家康が作った徳川幕府という大名間調停機関があったから天下泰平の世になれた

552 :人間七七四年:2015/07/20(月) 17:32:47.18 ID:lr3Lc/Gd.net
戦国も現代も施政者に力がないと荒れる
がっちり押さえ込めた徳川と、大阪界隈も維持できなかった秀頼
その差

秀吉もいい線いってたが…

553 :人間七七四年:2015/07/20(月) 21:44:50.83 ID:/XEJtJI7.net
幕府のみならず、今の巨大都市東京の基礎を作ったのも家康。

554 :人間七七四年:2015/07/21(火) 05:24:44.73 ID:9Y9rhXfU.net
徳川幕府がどうだろうと、どれだけ後の世に影響を与えていようと
戦国武将として好きかどうかはまったくの別もん

555 :人間七七四年:2015/07/21(火) 16:16:27.59 ID:HaiTljga.net
そのとおりだよ
好き嫌いは別
徳川嫌いと公言するひとはそのへんがよくわかってないんだよな
○○したから徳川は駄目、とか言うし
○○する徳川が嫌い、なら好きにしたら、だけど。

556 :人間七七四年:2015/07/21(火) 16:43:45.09 ID:GjhdLYm+.net
朝鮮を攻めた悪の豊臣政権を滅ぼし
朝鮮の文物を求めて国交を請い願った家康って朝鮮人に人気あるよね。
中国でも徳川家康はベストセラーになってるし。
家康が中韓でもっとも人気な一方で
秀吉は中韓では悪人として有名。

557 :人間七七四年:2015/07/21(火) 17:23:29.54 ID:3rjLpfXb.net
朝鮮人が日本人に甘えるがごとく、名古屋は三河に甘えるよな
室町幕府を滅ぼすとは三河を滅ぼす事だ
にも関わらず、一回戦争して負けてからは三河との対立をさけて、家康に懇願するとは甘いにも程がある

センゴクなど家康とは限らす三河の王が天下を取るまで続いただろう、事実、三河の王が天下を取り日本は急速に安定した
そもそも、仲間でもないのに恩着せがましいんだよ

558 :人間七七四年:2015/07/21(火) 17:58:04.36 ID:In/pvUPx.net
徳川家康がかつては今川家に従属していて苦渋だったというけど
そもそも、松平家から見たら、今川家とか吉良家とか一色家とか伊勢家は
主君筋の家だよ、どれもかれも。
それらに従っているのが普通。
だから、特別、落ちぶれた感覚はなかったと思うけどな、人質時代。
しかも、成人したら、今川一門の名家の女性と結婚して、
今川家の門閥に入れてもらえるし。
というか、松平家は代々、一色とか吉良と婚姻関係を持っていたしな。

永禄元年4/26付け義元→足立右馬助宛
今川方が寺部へ出陣した際に寺部と広瀬が共同して向かってきたので、
岡崎と上野の今川方が一戦に及び、
右馬助の兄が鉄砲に撃たれ討死。

書状では勝ったと自称してるが、寺部城が奪回できたとは書いてない。
それどころか岡崎まで不安定化する。

閏6/20
朝比奈→大樹寺宛
岡崎雑説出来候処、無別儀無事候間、可為御大慶候、何様来秋必可令参陣候条

結局、不安定な岡崎への出陣はなく、
かわりに義元の妹の娘と婚姻していた家康の
岡崎での自立を今川がバックアップする方向での
岡崎の安定を目指す政策へ変更される。

永禄2年5/16 家康が朝比奈の補佐を受けて岡崎での家中の掟を発布する。

11/28
家康が幡豆郡大浜郷の寺社へ所領返付の判物給付。

今川氏が代官を配置して直接に岡崎を支配することに失敗し三河は叛乱を続ける。
義元の姪と婚姻し今川一族に入れた家康を岡崎に入れて
(織田家で言えば松平信康・蒲生氏郷・筒井定次・前田利長・丹羽長重並みの厚遇)
自立に向け全力バックアップしたのが岡崎政策。

559 :人間七七四年:2015/07/21(火) 18:10:15.24 ID:J0Fc1t10.net
今川とは道閲の代にガチ戦争やってるんですがそれは

560 :人間七七四年:2015/07/21(火) 18:28:16.16 ID:In/pvUPx.net
桶狭間の戦いを機にやっと家康が岡崎支配を開始なんてのもウソで
事実は今川がノリノリで後援してくれたので、
永禄2年5/16に家康は三河の家臣団へ向けて家中の掟を明示して、
のちの自立に向けての支配統治を開始してる。
そこに義元急死、 義元がかろうじてまとめていたものだから
吉田雑説→遠州総劇と叛乱が拡大勃発し、 今川が急速に弱体化していく
(桶狭間の戦いのせいで今川が弱体化したって論法も大ウソ)
駿河と西三河の連絡線が切断されたことを良いことに家康が自立し、
火事場泥棒で三河を盗んだだけだし 清州同盟も作り話だしな。
あきらかに桶狭間の戦いネタは徳川幕府が、
今川への忠義者家康の止むを得ない自立ストーリーとして利用したのが丸わかり。
家康が義元の仇討ちを願い出たりと、
主家への忠義が強調されるネタに利用され、
義元の妹の娘である瀬名姫を妻にする程に優待し、
義元は家康に家掟を岡崎に発布させる手助けをするなど、
家康自立に向けて協力してくれるなど大恩ある人だからな。
それを裏切り侵略した家康の自己正当化にちょうど良いネタ。
そしてそれを信憑性あるものにする為に偽書状や写書状が作られたに過ぎない。
原本確認できる一次史料には義元が不慮の死としか書いてないしな。


現在知られる義元が発給した書状なんてほとんど原本あるのに、
義元は内政に力をいれていたからむちゃくちゃたくさん遺ってる。
しかし、なぜか桶狭間の戦いに決定的に関連する書状は写ばっかって言うwww
さすが架空戦記に沿って写書状を制作しただけあるなw
(信秀が死去する天文21年に桶狭間の戦いがあった事になるw
信長公記に後から付け足されている首巻部分は江戸時代のいつ誰が記したモノか不明)

今川軍は強く、永禄3年以降、感状がたくさん残っている。
むしろ感状と褒美を次々に出したゆえに、財政破綻で破綻したと言える。
それを象徴しているのが、
永禄4年4/11の夜に牧野平左衛門入道親子が逆心して敵方へ逃げた事件を契機とした
牛久保合戦における今川軍の大勝利の裏側に垣間見える。
この時、牛久保城には兵糧がまったく無かった為に、
今川家臣の牧野定成と岩瀬雅楽助が五百俵を立て替えた。
岩瀬はさらに塩硝鉛百斤を援助している。
牧野定成は自分の家臣である稲垣長茂の武功に対して6/7に早速、
領地を与えて恩賞で報いている。
もちろん今川も牧野の部下である稲垣親子に6/11に所領を与えて忠節を讃えている。
また6/17に岩瀬雅楽助に対しても今川は代官職を与えて忠節を讃えている。
もちろん兵糧を肩代わりした功績だけでなく、牛久保合戦の勝利の武功に対しても、
匂坂長能などに所領を今川は与えまくっている。

561 :人間七七四年:2015/07/21(火) 18:30:54.94 ID:In/pvUPx.net
当時、今川が去年からの吉田雑説(豊橋城)を代表とした
三州錯乱と呼んでいた大規模な国人反乱が起きていたという理由もあるのだが、
7/20の書状で米五百俵の即時返済すらできない財政状況なのが露呈。
今川はその後も三河乱国の情勢で一揆や謀反の討伐を進め、褒美を出したり、
帰参を許した際には本領返付を行いまくった。
今川直轄領がほとんど底を尽きて破綻していく姿が見える。
今川が強過ぎたがゆえに、武功への表彰が致命傷になった。
守護大名である大友が財政破綻した挙句に、キリスト教を掲げ寺社を破壊し、
ついには大友菩提寺まで破壊して寺領を没収し家臣に与えたように、
守護大名は元々、直轄領がほとんどないので破綻崩壊したのであろう。

成る程。吉田雑説が原因で、今川軍は桶狭間の戦いに勝利後に撤退したのか。
吉田は東三河最大の拠点だから、無視など出来ないからな。
三河や遠江の国人達は騒乱を起こしての反乱ビジネスによる錬金術に気付き、
自作自演の一揆や鎮圧や帰順で今川を喰い物にしたからね。
今川の財政破綻か・・・ だとすれば三国同盟後の今川の鈍い動きに合点がいく
尾張侵攻をする余裕がないにも関わらず鳴海が包囲されてしまったもんだから止むに止まれず尾張侵攻をしたというわけだな
今川家の財政破錠はなかなか興味深い視点だ。
確かに財政的には織田家の方が上だろうけど、武田と後北条はそこに付け込まった
のだろうか。 三国同盟が結構強かった?
義元は三河安定化に必死だったから尾張どころじゃ無かったよね。
で、義元本人が尾張国内に侵攻していたことを証明する一次史料はいまだに出てないの?
現状では義元は三河国内で後方指揮に徹していたとしか解釈出来ないんだよね。
そりゃ後方の東三河において吉田雑説が起きているほど三河騒乱中なのに尾張に行くわけが無い。
それが理由で西三河安定化のために姪と婚姻させた家康をバックアップして
岡崎自立策まで打ち出してるほど三河統治失敗寸前だったんだし。

遠州錯乱とか遠州?劇と呼ばれる遠江での相次ぐ大規模反氏真
国人達の自立行動により三河とも連絡が取れなくなったから。
その隙に家康が永禄7年6月に吉田城を徳川方にしてしまった。
義元は重臣達との合議体制を敷いていたが
氏真は三浦正俊や小野道好ら側近を重用し独裁した為に、
遠江曳馬城主飯尾連竜が、 犬居城主天野景泰・元景父子、二俣城主松井宗恒ら
政権から外された遠江の国人重臣達を誘い今川から離反した。
しかしこの時期の駿河衆の団結は固く今川に忠誠を誓っているのが確認されている。

562 :人間七七四年:2015/07/21(火) 18:56:51.60 ID:sOzUDtFr.net
>>558
おちぶれたとは思ってなかっただろうね
結構肝の太い行動してたし
今川も超有力大名だったし、没落しなれば家康もうまくつきあっただろうに、人質殺して台無しにした氏真

563 :人間七七四年:2015/07/21(火) 19:52:01.38 ID:ZpuTwG+n.net
秀吉の遺体の扱いがわからんのだけど

豊臣滅ぼしたのは時局の流れでもあるし仕方がないとも思うけど
その後豊国神社ぶっ壊してから遺体どうしたんだろ

現在秀吉には墓も無いけど、遺体をゴミ扱いして放置し
朽ちるにまかせ行方不明だったらいくらなんでも
流石に家康には人として嫌悪感が沸くが

そこら辺どうなんだろうか??

564 :人間七七四年:2015/07/21(火) 20:03:54.51 ID:J0Fc1t10.net
そのまま阿弥陀が峰になかったっけ >秀吉の墓

565 :人間七七四年:2015/07/21(火) 20:12:15.15 ID:ZpuTwG+n.net
>>564
そうなのか、長年のもやもやがスッキリしたし
変な嫌悪感も持たずに済んだよ、ありがとう詳しい人

566 :人間七七四年:2015/07/21(火) 20:17:33.15 ID:J0Fc1t10.net
>>565
明治に豊国廟を再建するときに墓から秀吉の骨壷も掘り返されたっぽい
だから行方不明とかにはなってないと思う

567 :人間七七四年:2015/07/21(火) 20:41:47.40 ID:GjhdLYm+.net
いやそれが秀吉の遺体じゃないかも知れないだわ

568 :人間七七四年:2015/07/21(火) 21:13:50.86 ID:3AHQpvOO.net
移されたとしても当時の史料で墳墓とされる馬塚と呼ばれる五輪塔にあるだろう

569 :人間七七四年:2015/07/24(金) 13:55:30.72 ID:SGmSAs6s.net
家康ってなんか感じ悪いよね

570 :人間七七四年:2015/07/24(金) 16:03:26.01 ID:vmLaul3q.net
そうかもね

571 :人間七七四年:2015/07/25(土) 00:58:51.98 ID:u2JyNo3X.net
真田フリークが騒いでるだけ
とりあえず家康を妖怪古タヌキにしとけば盛り上がる

572 :人間七七四年:2015/07/25(土) 09:23:37.60 ID:k16u3OhV.net
>>563
そこが京都人に嫌われるとこなんだよね
そこまでするか?と。中国人だったらやるけど。前王の墓あばいて骨に鞭打つとか

573 :人間七七四年:2015/07/25(土) 12:06:23.47 ID:1pHfC8j/.net
でも豊国神社の性質上、そのまま放置なんてできないよな

574 :人間七七四年:2015/07/25(土) 13:13:07.71 ID:6PGAP0v2.net
秀吉も一族郎党皆殺しとかやってきたから、墓をあばかれても哀れにはおもえないな

575 :人間七七四年:2015/07/25(土) 14:33:26.24 ID:choNisba.net
秀吉なんか人生の大半を他所で過ごしたのに
大阪や京都で好かれるとしたら、好いてるやつらが阿呆なのか
秀吉が家康を関東に追いやり、その後そっちが日本の中心になったから
妬みなのだろう

576 :人間七七四年:2015/07/25(土) 15:22:57.89 ID:CUL9ATw6.net
でも秀吉の嫌がらせ左遷を逆手に今も続く日本の中心としての国家システムを作り上げたのは凄いよ

577 :人間七七四年:2015/07/25(土) 15:36:11.74 ID:6PGAP0v2.net
>>575
出世物語だから好かれる
そして判官贔屓としても好かれる

でもやってきたことはかなりエグい
独裁者っぽい

578 :人間七七四年:2015/07/25(土) 15:37:16.22 ID:6PGAP0v2.net
>>576
ほんそれ
逆に京都の凋落がひどい
いや戦国時代にすでに凋落してたのが少し戻っただけか

579 :人間七七四年:2015/07/25(土) 16:41:17.39 ID:d+DL9/yV.net
>>575
秀吉は尾張も長浜も姫路も全く大事にしてないからな。
実のところ堺を潰して自ら作った町・大阪が一番好きだったんじゃないかな?

580 :人間七七四年:2015/07/26(日) 02:47:22.32 ID:w5Iup7rx.net
>>571
真田フリークは家康はまともに描いてこいつに恐れられた昌幸幸村すげえ養女を嫁にした信之すげえってする人もいる
その場合は秀忠が親の臑齧りの小悪党にされる

581 :人間七七四年:2015/07/26(日) 04:45:37.60 ID:txz4pDFC.net
家康にノーベル平和賞を与えるべき

582 :人間七七四年:2015/07/26(日) 17:27:45.50 ID:D7PMSRgY.net
第二次上田城攻防戦は秀忠だけが悪い
榊原は何故か責められないとなる

583 :人間七七四年:2015/07/27(月) 09:19:40.82 ID:ibyaKubt.net
関東に左遷とか幕府史観だから。
小田原北条氏の整備された関八州をらくらくもらえるなんて嬉しいことで、
東海のど田舎左遷の信雄の家臣団と違い、
家康家臣団は誰も反対意見すらなく、すぐに移封準備を開始してるほどノリノリ。

584 :人間七七四年:2015/07/27(月) 10:44:16.22 ID:ogiIEvqs.net
まあ秀吉と立小便したときに
貴方様に関八州を進ぜましょうと言われたとき
家康公はやったーと思っただろうね

585 :人間七七四年:2015/07/27(月) 11:40:58.77 ID:Dll2amCd.net
駿府をとられなければな

586 :人間七七四年:2015/07/27(月) 12:29:14.70 ID:3Vws4s6M.net
小田原攻め以前に、
家康が関東を知っていたわけねーだろ
小田原城の周辺くらいまでだろ

587 :人間七七四年:2015/07/27(月) 15:58:16.80 ID:lc68eBBJ.net
関東、ここでは特に江戸は超田舎だったしな
僻地へ追いやられたのはうれしくはあるまい

588 :人間七七四年:2015/07/27(月) 18:42:58.68 ID:hX6roDZy.net
そんなことないよ、江戸は昔から大都会だったよ

589 :人間七七四年:2015/07/27(月) 19:09:22.52 ID:lc68eBBJ.net
江戸城も家康はいるまえは山城だったしな
田舎、僻地、もいいところ

590 :人間七七四年:2015/07/27(月) 19:34:49.96 ID:73WiWBQA.net
家康は乗り気だったが、家臣は先祖伝来の地から離れるのを嫌がったようだ
あまり揉めなかったのは家康が家臣を説得したから
その頃はリーダーとして信望を得ていた証拠

591 :人間七七四年:2015/07/27(月) 20:21:22.75 ID:NZBBl47G.net
>>583が恥ずかしすぎる件

592 :人間七七四年:2015/07/27(月) 20:34:21.59 ID:lc68eBBJ.net
関東でせいぜい整備されてたイメージなのは鎌倉くらいか

593 :人間七七四年:2015/07/27(月) 20:41:58.34 ID:WVnmfxQF.net
なぜ家康は鎌倉や小田原ではなく江戸に居を構えたのですか?

594 :人間七七四年:2015/07/27(月) 20:45:09.75 ID:lc68eBBJ.net
そりゃ駿府をとりあげられて土地面積だけある江戸を所領として秀吉に押しつけられたからだろ

595 :人間七七四年:2015/07/28(火) 11:42:25.74 ID:4jTZgHsS.net
西側に敵対するような感じでやばいだろ
太閤の警戒を解くためには江戸あたりがちょうどいい

596 :人間七七四年:2015/07/28(火) 12:04:09.21 ID:5e6D+hev.net
実際当時はただ押し込められただけだったろうが
江戸幕府開府にあっては劉邦が巴蜀の地で雌伏したのをなぞらえてる感じかもね

597 :人間七七四年:2015/07/28(火) 12:52:26.42 ID:neVQTjLi0
小田原を居城にすると
ただでさえ落とすのが困難だったのを
更に強化される形になるから
秀吉に警戒されるのを恐れて
当時ペンペン草しか生えてなかった
江戸城を居城にしたかもしれない

598 :人間七七四年:2015/07/28(火) 20:52:33.05 ID:AVTlPziB.net
畿内に続く巨大権益の地だぞ関東って。
だから鎌倉公方を設置して足利義満時代には
奥羽の管轄権まで保持し実質的に東日本を勢力圏とし
日本を二分していたのが関東。
京都人はいまでも関東を田舎だとのたまって
天皇もいずれ都に帰ってくると思っているようだがw
もっとも関西は在日だらけだから似非京都人かな。

599 :人間七七四年:2015/07/28(火) 20:57:39.40 ID:u8dVPo2E.net
何の話をしてんだ?

600 :人間七七四年:2015/07/28(火) 22:53:50.40 ID:MYB2VSr1.net
関東でも場所によって条件全然違ってくるだろう。
江戸は太田道灌が歌で詠んだ様に葦が生い茂る湿地帯、
防御には適しているけど都市開発には向いてないところだった。
それを権力を駆使して無理矢理埋め立て、水路をとことん利用し
発展させたのが徳川。江戸城を作ったのは太田道灌だけど、
江戸の町をつくったのは家康。その違いは明白。

601 :人間七七四年:2015/07/29(水) 00:32:48.08 ID:lEyNv7OH.net
1000年前 関東平野 
で画像検索するとんでもない地図がいっぱいでてきたw
家康マジ凄いわwww

602 :人間七七四年:2015/07/29(水) 07:43:42.67 ID:aYyctKDA.net
>>601
バッカwそれ利根川東遷事業以前の地図だろ。
家康関係ないだろw織田チョンアホ杉

603 :人間七七四年:2015/07/29(水) 08:10:43.54 ID:7qaJ0eD3.net
へ?
家康が利根川が銚子の方へ流れるように、川筋付け替えを開始したんだろ
伊奈君頑張った
家康が関係ないって、阿呆か

604 :人間七七四年:2015/07/29(水) 09:37:41.15 ID:Mq2YTg1/.net
家康がやったとする一次史料は存在しない。
あれはただの伝説レベルのネタ

605 :人間七七四年:2015/07/29(水) 10:36:40.23 ID:SJOA/idb.net
出た、一次史料厨
一次史料がないから自分が正しい、ってかw

606 :人間七七四年:2015/07/29(水) 11:49:43.57 ID:4+98Bw3ui
元々は道灌が青写真を描いて
無能の家康はそれを実行しただけだから

607 :人間七七四年:2015/07/29(水) 13:57:33.09 ID:P9HgaqsN.net
>>604
では、だれがやったんだ?
自然にできたのか?

608 :人間七七四年:2015/07/29(水) 14:03:37.57 ID:aYyctKDA.net
家康が源氏姓を称するのが天正16年4月。
天正18年8月関東移封。
これは関東地方では源頼朝以来の源氏の伝統があったため家康が源氏を称することにより
関東支配を円滑にすすめさせようとする秀吉の政策が見える。
それゆえに関東入部以前から源氏姓を称する必要があった。
つまり東国平定の成功が征夷大将軍任官と関わりがある。
無位無官の平民羽柴秀吉が家康に勝利し臣従させたことを認めた朝廷は
東国平定の武功を称え天正12年10/16秀吉は天皇に将軍任官を勧められたのである。
このことで秀吉は朝廷から公認され身分が向上したことで
織田家を臣従させているため下克上にはならないのである。
また秀吉が義昭に断れたので征夷代将軍を諦め関白を狙ったとする捏造ですが、
これは堀氏によればたまたま起こった関白職を巡る二条と近衛の相論に乗じた「たなぼた」でした。

信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、
正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、
家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、
11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、
後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。

609 :人間七七四年:2015/07/29(水) 14:06:36.16 ID:aYyctKDA.net
>>603
検索で家康時代の川筋付け替え時代の地図なんてまったく表示されないのだが
お前はどの地図を見て発言しているのだ?
それともイチャモン付けたいだけのただの屁理屈か?

610 :人間七七四年:2015/07/29(水) 14:30:26.29 ID:P9HgaqsN.net
利根川東遷事業
でググれ、カス

611 :人間七七四年:2015/07/29(水) 15:01:11.47 ID:Mq2YTg1/.net
>>610
どこにも一次史料ソースないが、
まだソース出せんの?

612 :人間七七四年:2015/07/29(水) 20:43:41.17 ID:O7yNo6Vr.net
すげー。1000年前の関東平野、まともな陸地無いんじゃねーの?
全部、中洲にしか見えん。

613 :人間七七四年:2015/07/29(水) 20:51:51.23 ID:/kDbQgkj.net
>>611
戦国時代板でなにをホザいてんだ?
地図がなきゃダメなのか?

614 :人間七七四年:2015/07/29(水) 21:18:06.55 ID:QzWX1xCm.net
いくら徳川幕府よりの史実が多いにしても家康入幕前の江戸はとにかく片田舎なのは事実なわけで。
秀吉から警戒されまくって僻地へ押し込められた家康がなんだかんだで政権簒奪した苦労がしのばれるわな。

秀吉は悪くない。
だが後継者の力のなさが問題だよな
世間を荒れさせる力量の無さ、秀頼には色々無理なんだよな

615 :人間七七四年:2015/07/29(水) 22:56:56.63 ID:C2HwSZlj.net
>>601
俺も検索してみた。
こりゃ陸地あったとしてもほとんど湿地帯だろうな。

616 :人間七七四年:2015/07/30(木) 00:18:58.55 ID:GmXFKkjW.net
嫌われている訳じゃないだろうけど並居る戦国武将の中で
一番嫌いだって人がそれなりにいる一方で
一番好きだって名前挙げる人は少ない印象

なんだかんだで天下人だし偉人であろう事には異論は少ないとは思うが

617 :人間七七四年:2015/07/30(木) 01:11:33.84 ID:/VfsW9fU.net
頭のおかしな、イカれた石田信者が必要以上に貶めてるとか。
大阪のやつらとかがww

618 :人間七七四年:2015/07/30(木) 02:01:57.44 ID:HKHjxkfe.net
山内上杉や扇谷上杉の支城網と街道が整備されている
先進地帯だったのも知らんとは。
少しくらい中世関東の道についてのシンポジウムに出席して
話を聞いて勉強してこいよ。
関東の名城を歩くの執筆した沼尻合戦の存在を初めて公表して有名になった
江戸博の関ヶ原展を企画した斎藤慎一をはじめ、みんな指摘してるから。

619 :人間七七四年:2015/07/30(木) 02:02:51.21 ID:e1fTMPQo.net
結局真田フリークが原因

620 :人間七七四年:2015/07/30(木) 09:21:07.84 ID:pIFg0zp6.net
糞漏らしたから。
しかも家臣にはこれは糞でなく味噌だと言ってごまかす始末。
最近糞漏らす大人多いっていうが、その元祖。

621 :人間七七四年:2015/07/30(木) 10:13:25.71 ID:sGaVpe8K.net
>>620
少なくとも味噌って言ったのは間違いなく山岡の創作なんだよなあ

622 :人間七七四年:2015/07/30(木) 11:35:32.76 ID:e1fTMPQo.net
しかみ像描かせたりして負け戦に対して強がりとかなくていいよな

623 :人間七七四年:2015/07/30(木) 14:55:54.30 ID:yz2P7rTo.net
儂もなかなかカッコいいもんじゃろ?

by 信玄

624 :人間七七四年:2015/07/30(木) 15:06:13.87 ID:AvwCZS0t.net
>>622
打たれ強いタイプっているんだよ
失敗をバネにして再起してくる奴が
打たれ強さでは三人の中で最強だろうな

625 :人間七七四年:2015/07/30(木) 19:01:07.36 ID:pIFg0zp6.net
しかみ像の頃は結構瘦せてるのに
その後急激に太ってるな
あきらかにメタボ

626 :人間七七四年:2015/07/30(木) 20:16:18.25 ID:+W4zL5M2.net
晩年の姿を描いた肖像画は
家康の死後、将軍家光がありし日の爺ちゃんの姿を思い出して描かせたもの

627 :人間七七四年:2015/07/30(木) 21:34:01.36 ID:2E8pPzxe.net
もしもし、水戸です

628 :人間七七四年:2015/07/31(金) 01:00:47.83 ID:n0IEwUdk.net
関東は戦国時代にはとっくに鎌倉街道が整備されていて確かに先進地域だけど、
それは上州や鎌倉周辺であって、
江戸は江戸前島の付け根のど田舎の湿地帯だった。
よく知らんが新宿や渋谷も戦前?頃までど田舎だったとか。

629 :人間七七四年:2015/07/31(金) 20:28:50.99 ID:7KdeEt5T.net
三河を尊敬する文化のあった関東統治など楽勝、三河だからこそ関東は臣従した
濃尾平野のドン百姓では無理


有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所

■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い

■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む

■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む


家康入城前の江戸城主は富永直勝

三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼

630 :人間七七四年:2015/07/31(金) 21:17:20.31 ID:AyklGs31.net
家康とぼす人多いけど、あれだけの偉業を成し遂げてる事実の前には虚しいもんだよね

631 :人間七七四年:2015/07/31(金) 21:55:25.54 ID:9bfHChG1.net
「貶す」をとぼすと読んでいる人が結構いるみたいだね
結構な衝撃だわー

632 :人間七七四年:2015/07/31(金) 22:01:53.48 ID:+rssXwjt.net
ばっかじゃねーの?
三河じゃ「とぼす」がふつうだらぞ?

633 :人間七七四年:2015/07/31(金) 23:16:35.93 ID:5fMDUZnW.net
負け組武将ファンの妬みだろ

634 :人間七七四年:2015/08/01(土) 06:35:09.71 ID:S4UAlVWt.net
天下人とぼす負け組武将ファン、かっこ悪すぎw

635 :人間七七四年:2015/08/01(土) 10:38:57.81 ID:36bUEW06.net
いやいや、そういう負け組武将いての将軍家だからさ
脇役がいないと主役もないよ

ただ、明治維新まで考えると、最後の勝者は長州藩で、毛利かよって。

636 :人間七七四年:2015/08/01(土) 11:56:04.42 ID:mrxfHatc.net
江戸は神君が作られたとする幕府史観の大嘘〜実は昔から栄えていた。

江戸城は氏直に家督を移譲した後に氏政が江戸城に入り御隠居様と呼ばれ
武蔵・房総方面の実質的な領国支配をしていた関東最大の拠点である。
もともと秩父平氏の江戸氏が支配していたが、結城合戦で没落後に
扇谷上杉によって接収され、古河公方足利氏との最前線拠点として
「数年秘曲を尽くして相構」たほどのもので
扇谷上杉宿老らが力を尽くして築き上げたものであった。
そしてこの大土木工事では江戸城の北を守るために稲付城も築かれている。
南へは品川湊や関東管領山内上杉氏勢力圏である神奈川湊を進み茅ヶ崎城を経て小机城と
相模国へ抜ける交通の要衝ではあるが(ここからさらに武蔵国府中へと結ぶ大道があった)
この稲付は扇谷上杉氏の執権太田道灌が自分の支配領域を眼下に一望でき
江戸城と岩槻や川越や松山との連絡線確保という面のほかに重要な目的があった。
それは交通の要衝である岩淵防衛という性格である。
中世前期には鎌倉→丸子→大井→品川→江戸→王子を経て岩淵に至る
鎌倉街道が通り、岩淵で奥州への道筋と連絡する下道の合流地点であり
奥大道への玄関口にあたる。
当時の岩淵は西行に倣って東国西国の各地の寺社を詣でた
源雅忠の娘の後深草院二条が記したところでは
「かように物隔たりたるありさま、前には入間川とかや流れたる、
向かへは岩淵の宿と言いて遊女どもの住処あり」と鎌倉時代にすでに宿が形成されているのがわかる。
室町時代には岩淵に関が置かれ橋が設けられている。
鎌倉公方が鶴岡八幡宮の造営費として岩淵の関所を寄進していたり、
二階堂氏が岩淵の橋賃をやはり同社の修造料として寄進しており
中世の岩淵が奥州と連絡する鎌倉街道下道の合流地点に位置し、入間川の渡河地点として
橋や関が設けられているなど水陸交通の要衝であったのがわかる。

637 :人間七七四年:2015/08/01(土) 13:12:47.08 ID:36bUEW06.net
その割に当時家康入城まで重要拠点になってないよな

638 :人間七七四年:2015/08/01(土) 17:58:16.15 ID:4yJoOIxZ.net
北条氏は江戸衆を組織してその筆頭を江戸城代として江戸遠山氏に任せながら
その地位を北条一門に継がせることを狙っていた。
そして氏康がもっとも信頼していた鎌倉と小田原城を守る玉縄衆を統括する北条綱成の子である氏秀を江戸北条氏となして江戸城主として簒奪に成功。
氏秀が無くなるとその子である乙松丸を後継として江戸衆は統御される。
乙松丸の後見役として北条氏政が入り武蔵国岩槻、下総関宿や佐倉といった広大な領地を江戸城から直轄支配をしていたが、
秀吉の小田原攻めの際に氏政は小田原へ帰り籠城し降伏している。
江戸城は氏政の隠居城ではあるが実権を持ち続けていたため
実質的には北条領国全域を支配する本拠地として、
北関東侵略を続ける氏邦や氏照との連絡が容易い大拠点に成長し、
佐竹宇都宮連合軍の南下の際、氏政は江戸城より大軍を進発させ利根川を渡河し北上している。

徳川幕府は故意に家康が江戸を開発したと捏造して大恩ある東照大権現と称して、江戸の住民へ幕府への帰属意識を煽って洗脳しているが、
北条時代に江戸湊に中国船が入り、てっぽうが手に入る貿易都市であり、河川流通が発展していた大都市である。
都である京からみて関東を田舎と蔑視しているからと言って、本当にド田舎だったわけではなく、
鎌倉幕府からしてすでに埋め立て事業を行ったりしており、
人を寄せ付けない手付かずの大湿原地帯で小舟で移動する秘境だったわけではない。
徳川幕府の捏造に騙されてはいけない。
むしろ秀吉は氏政の隠居城に家康を配置し関東全域支配をし易いように配慮しただけの話。

639 :人間七七四年:2015/08/01(土) 18:46:24.62 ID:k8Encawu.net
そして秀吉の思惑どおり力を付けて活躍した家康、ってことか

640 :人間七七四年:2015/08/01(土) 19:39:28.32 ID:4yJoOIxZ.net
>>639
>>608
秀吉は家康を信じきっていたからね。
家康は秀吉死後直後から人格が豹変した。
豊臣政権は淀と秀頼を支える信雄や有楽や信包ら発言力を持つ織田一族優遇政権でもあり、
秀吉には仕えるのは当然と思っていた家康にとって、
織田家に関しては憎むべき対象だったのかも知れない。
だから秀頼の子にも流れる織田の血筋を断つため、秀頼の嫡子すら殺害する徹底的殺害を行ったのだろう。
信長に対して忍従し信康を殺さざるを得なかった家康の暗く鈍く光り続けた恨の精神が大坂大殺戮の報復になっただろう。
信長の妹の娘である淀に関係を拒否されて怒り狂った家康の屈折した思いが転化されての
信長に対して報復しきった家康はさぞ満足だっただろう。

641 :人間七七四年:2015/08/01(土) 21:11:11.24 ID:al5qlIIx.net
いやあ、そんな深読み必要ないよ
秀頼の力量不足、家康の野望、要するに時代が家康を求めてたんだろうね

642 :人間七七四年:2015/08/02(日) 05:22:36.50 ID:j5wdK5Go.net
age

643 :人間七七四年:2015/08/02(日) 10:58:55.82 ID:I+Oj8Gus.net
ぶらタモで松江の城下町散歩してたが、あそこも江戸と同様湿地帯だったんだね
かなりの大工事で城下町作った

644 :人間七七四年:2015/08/02(日) 11:31:39.36 ID:eomOFij3.net
戦国時代は堤や橋は破壊の対象だから、湿地帯に大都市なんていうのは無理だった。
平野の下流の発展は桃山時代以降。

645 :人間七七四年:2015/08/02(日) 11:55:06.31 ID:nn2Xz3gP.net
>>640
秀吉が家康を信じきってるわけないだろ
そういうあからさまなトンデモ史観って何がソースなの?
なんで上杉をわざわざ会津に置いたと思ってんだか
前田を後見にしたり、死ぬ前に急いで五大老決めたり、全部家康の抑えを兼ねてる

646 :人間七七四年:2015/08/02(日) 12:05:29.63 ID:Dj+DZrOf.net
御本尊同様、まったく空気が読めないタモリ信者>>643

647 :人間七七四年:2015/08/02(日) 12:24:24.27 ID:ac3ykP0f.net
>>645
要するにとにかく家康を貶めたいだけの人みたいだから
秀吉もすごい武将だったし、家康もしっかりしてた、それでいいのにね

648 :人間七七四年:2015/08/02(日) 13:21:39.23 ID:5MqV97AS.net
は?家康を抑える目的だったなんて
完全に幕府史観じゃん。
上杉が家康を抑えるために配置されたとかアホ妄想いい加減にしろw
輝元が西日本、家康は東日本を任されたほどなのに
なんでその家康を秀吉が警戒すんだよワロス

649 :人間七七四年:2015/08/02(日) 16:14:46.39 ID:5MqV97AS.net
ちなみに五大老自体が後世に便利上、つけたネーミング。
秀吉は五大老なんてもん知らない。
まずは無知を恥じろ。

650 :人間七七四年:2015/08/02(日) 16:52:07.17 ID:eomOFij3.net
秀吉は五大老は知らなくても五人の大老は自分で決めたのだから知ってるだろ。

それより輝元に西日本、家康に東日本を任せたということは、
関が原の合戦で雌雄を決するように秀吉が考えていたって事だよなー。
漢すぎるぜ豊臣秀吉って奴はw

651 :人間七七四年:2015/08/02(日) 16:53:55.22 ID:A07BV9O5.net
>>649

「無知を恥じろ」だって、偉そうにwwww
お前こそ「便利上」って何?wwww「便宜上」の間違いだろwwwww

日本語もろくに分からん奴が偉そうにwwww こいつ正真正銘の馬鹿だろwww
お前さ〜日本史の前に日本語勉強した方がいいんじゃないの?www

「便利上」だってさwwww マジウケる〜wwwww

652 :人間七七四年:2015/08/02(日) 16:55:05.65 ID:A07BV9O5.net
>>649

「無知を恥じろ」だって、偉そうにwwww
お前こそ「便利上」って何?wwww「便宜上」の間違いだろwwwww

日本語もろくに分からん奴が偉そうにwwww こいつ正真正銘の馬鹿だろwww
お前さ〜日本史の前に日本語勉強した方がいいんじゃないの?www

「便利上」だってさwwww マジウケる〜wwwww

653 :人間七七四年:2015/08/02(日) 16:57:22.61 ID:A07BV9O5.net
なんかおかしくてなぜか連投になっちゃったよ。すんませ〜ん。

654 :人間七七四年:2015/08/02(日) 19:24:24.41 ID:nn2Xz3gP.net
>>648
だから君の史観になったソースを出してくださいよ
ないんですか?

655 :人間七七四年:2015/08/02(日) 19:30:18.86 ID:NbI+aqkT.net
なんにしても家康を見習いたいもんだ

656 :人間七七四年:2015/08/02(日) 20:24:52.74 ID:O4O+SaMj.net
遺言状に
いへやす
と書いてあるのが笑える

657 :人間七七四年:2015/08/03(月) 00:00:04.86 ID:UWc2oIHO.net
うんこ漏らしたから

658 :人間七七四年:2015/08/03(月) 02:47:16.00 ID:L613myB4.net
悪どいから
秀吉の遺命に背きすぎだ

659 :人間七七四年:2015/08/03(月) 22:17:10.08 ID:ZIs6rWxY.net
【五大老筆頭の地位は江戸時代になってから作り出された架空の捏造職です。】

中井氏
一般に秀吉は自分の死後、秀頼成人までの政務代行者を家康に委ねた、との見方がされることが多い。
これは浅野家文書の「豊臣秀吉遺言覚書」等の記述が典拠になっているが、
原文を素直に読むと、あくまで家康は政務執行者の一人として位置づけられている。
秀吉の死後、三成はくどいほど、
十人衆(いわゆる五大老・五奉行)での合議を強調し、
秀吉薨去後の誓詞にも盛り込んでいる。

清華成には内府たがい条を発給し挙兵した
毛利や宇喜多もなっているのも知らんとか恥ずかし過ぎるw
もちろん上杉も清華成で同格だし。
秀吉は同家格の彼らの中に徳川が埋没することを狙っていたわけだ。
五大老筆頭なんて言葉は江戸幕府が作った捏造語で、
秀吉は五大老なんて言葉は知らんから。
いよいよ諸大夫成の一番下の立場でしかない三成が、
公家成の島津らはともかく、
清華成の殿上人を差し押いて、
家康打倒の首謀者に成り得る可能性は皆無だな。
どう考えても輝元が首謀者としか考えられない。
内府たがい状に 家康が諸大名の妻子を贔屓屓に国元に帰したことを弾劾してるから、
大坂には人質なんていなかった。 完全に作り話。
挙兵した西軍が伏見城を落とした辺りで、
帰属してきた美濃諸将から人質を取り始めたりしてるしな。
残念ながら、秀吉の遺言と称する二次史料の覚書に関しては、
家康を特別扱いした文面に限り、
直江状と同じで関ヶ原後の改竄で家康の正当化の作為指摘されてんだよ。

早稲田大学が持つ豊臣秀吉遺言覚書案は、
清水亮氏が宮部氏が家康の体面を重んじて江戸時代になって作成したと指摘してるし、
浅野家に伝わる秀吉遺言覚書も、
矢部健太郎氏が内府以外の文字の時に、大納言殿、江戸中納言殿、羽柴肥前殿などと、
徳川家と前田家だけは律儀を強調したり、
『殿』の敬称を付ける反面、
他の大老は呼び捨てになっていて呼び捨てになってる異様さ。
さらに人質もろともみんなで大坂に政治中枢を移動した後のさみしい伏見に家康を閉じ込めて帰国禁止にし、
いつでも武政の大坂から権威の伏見を討てる形を作ったのに、
遺言だと徳川と前田に任せるような矛盾する話になっており、
そもそも伏見に家康が置き去りで、
奉行衆も検地などで下向して全員揃うことがあまり無いのに、
バラバラで合議制なんて成立しないという点。
極めつけは、この秀吉の遺言に関して、
上杉や毛利ら関ヶ原で負けた側には全く伝わってない不審さ。
これらを挙げて浅野家文書の遺言は関ヶ原後に手が加えられた可能性があるとされてる。
実際は秀吉がもともと上杉よりも下の家格だった前田家を急速に引き上げ、
ついには秀家、景勝、輝元より早く権中納言に利家が就任するなど、
利家を政権の後見役にしようとする動きが見えるため、
秀吉の遺言には前田家の秀頼後見役にする話しかなかったのでないかと考えられる。
秀吉が家康を特別扱いする必要性が無い。
そもそも関ヶ原の戦いの時に一番上の地位にいたのは家康じゃなくて、
西軍にいて尾張奪回を狙って出陣した正二位前内大臣北畠信雄だからね。
尾張で捕縛されて家康に土下座したけど。

660 :人間七七四年:2015/08/04(火) 01:16:49.12 ID:HrRiH8yG.net
「清水と矢部は馬鹿」まで読んだ

661 :人間七七四年:2015/08/04(火) 01:21:06.37 ID:9qSJ9AQg.net
織田在日得意の
自分に都合が悪い内容は
絶対に認めないニダの
火病発症w

662 :人間七七四年:2015/08/06(木) 08:14:14.55 ID:mklJS7lR.net
>>659
伊達政宗が石田三成に宛てた書状に、家康と利家を秀頼の後見役にして
更に家康には大名の仲介役としており、加えて彼から大名に米銀を与えさせている

合議制云々が出てくるのは三成や正家が上洛する8月以降

663 :人間七七四年:2015/08/06(木) 09:58:50.60 ID:mwXD5lfi.net
荒木栄司氏によれば慶長4年に家康は京都阿弥陀ヶ峰の豊国大明神社に諸大名が参詣するのを禁止し、
修理もせず立ち腐れにせよとと通達をしたのに
清正はこの年の11/29に豊国大明神社を肥後の立田山の勧進して阿蘇社復興を約束してる。
一見、家康に背いて豊臣へ忠節を示しているようにみえるも
清正はこの年に家康養女と結婚して家康と接近しており、
この武断派重鎮清正との婚姻同盟が家康の豊国神社立ち枯れ政策を進めさせた原動力にも思える。
農民出身の秀吉が光明皇后が730年に発願して作られた施薬院が400年間打ち捨てられていたのを嘆き悲しみ
施薬院復興を天皇に涙で直訴してみたら天皇も大喜びで許可し、
秀吉が推薦した比叡山延暦寺の僧であった全宗を早速に施薬院使に任命、
従五位下に叙され昇殿も許す破格の出世をさせた上で派遣し
貧しい人や病人や孤児へ自愛の施しをしたわけだが、
そのことを敬愛して豊国大明神社を慈悲の象徴と捉え肥後統治のアイテムとしていただけなのだろうか。
ちなみにバテレン追放令は全宗の筆によって書かれたものである。
しかし家康が信長を真似た破壊屋で、おまけに超がつく吝嗇家で
一度恨みに思ったら絶対に忘れず報復するため誰もが恐れて表面上は従っているが心では従ってない人徳ゼロの人物で
秀吉が創業の人で、敵であったものでも簡単に許すどころか領地までくれるかたじけない人
っていう世情の評価も納得できるものだねぇ。

信長のような鬱憤を晴らして快楽を求めるためだけの虐殺略奪の絶滅ホロコースト戦争という私戦ではなく
秀吉は天皇に政治を委任され惣無事令を発布し
官軍として従わないものに対して私戦ではなく公戦として戦ったので
毛利・長宗我部・島津・伊達を許した。
北条は上洛する約束を反故にするなどの表裏をしでかすほどに
悪質だったため調停失敗した無能家康に一番重い兵役賦課して先陣を命じた。

664 :人間七七四年:2015/08/06(木) 12:02:03.70 ID:fcT+tkjz.net
>>662
それ慶長3年7/1の三成宛政宗書状写だよね。
当時、三成と政宗には取次関係がまったくない点と
北国と東国の大名だけを秀頼の大坂に移すとして
毛利や宇喜多らから秀頼を引き離す意味不明な内容から
偽写書状だとされているよ。
伊達家に伝わっていなくてどんな経緯を経た写か不明で諸家所蔵文書なるものから
福田千鶴氏が紹介したが誰もその書状を認めてない。
本来は前田しか書いてないのに、写の時に徳川を追加した可能性も指摘されてる。

665 :人間七七四年:2015/08/06(木) 15:36:05.17 ID:mklJS7lR.net
>>664
東国の大名は大坂へ、西国の大名は伏見へ移動させることは毛利秀元宛輝元書状にもあるけど

666 :人間七七四年:2015/08/06(木) 16:34:52.48 ID:fcT+tkjz.net
すまん書き方が悪かった。
常時在京を命じられていた宇喜多、
毛利と徳川のどちかが必ず在京しないといけない一方で、
徳川は三年在京する命令。そして毛利からは秀元が在京する命令。
つまり家康だけを在京させ、他の大老はみんな大坂にいる形を秀吉は作っているのに、
政宗書状写には毛利や宇喜多が大坂にいないとならない話が一切でてこないという事。
全員揃って合議制は成立せず、在京の家康を除いて秀頼後見役前田を首班にした政治を秀吉は構想していたと考えられる。

667 :人間七七四年:2015/08/06(木) 16:42:56.73 ID:mklJS7lR.net
>>666
だから合議制は8月に入ってからの話、7月までは家康に委任する方向だった

で、前後で全く異なる状況を調整することなく秀吉が死んだのが、その後の政権の混乱の主因

668 :人間七七四年:2015/08/06(木) 17:04:19.33 ID:mwXD5lfi.net
>>566
高価な副葬品を入れた壷などと一緒に
柩に入っていたはずの秀吉の遺体が、
なぜか粗悪品の壷の中で胡坐をかいてミイラ化した謎の遺体しか見つからず
よくわからないけど家康が改葬した秀吉の遺体じゃねーの?ってことにされてる。
ちなみに秀頼とその子の国松の遺体も不明なので、この秀吉の遺体とやらも偽物くさいとも指摘されてる。

669 :人間七七四年:2015/08/06(木) 17:59:46.18 ID:mwXD5lfi.net
>>667
慶長3年7/15付けの前田・徳川宛の輝元書状で秀頼に忠誠を誓う文書を
出しているのを根拠にしてそう言ってるのかな?
だけど長束はまだ北陸にいるものの三成が九州から帰ってきて落ち着いた
7/17に浅野や三成ら4奉行にも輝元は体調が好転してきた秀吉への忠誠を誓う書状を
出していて特に家康だけに委任する方針なんてないのでは?

慶長3年8/5付と記した何者かが書いた豊臣秀吉遺言覚書の捏造文を無視するとして
慶長3年8/5付で秀吉は
「5人のしゅ(衆)たのみ申し候。いさい5人の物に申しわたし候。なごりおしく候」
と言っており名誉職で承認役の衆(大老)・実務の物(奉行)を指していて
やはり10人衆での合議を命じていると思われる。

670 :人間七七四年:2015/08/06(木) 18:30:38.30 ID:mklJS7lR.net
>>669
その奉行の内、7月初めの段階で不在の三成・正家を除く長盛・玄以を家康に付属させるつもりだった

671 :人間七七四年:2015/08/07(金) 07:49:37.56 ID:/dq136Fz.net
>>670
ん?長盛・玄以を家康に付属させるとする一次史料を教えてください。

672 :人間七七四年:2015/08/07(金) 11:23:48.36 ID:VzBnndHg.net
>>671
付属という言葉は正確ではないかな
浅野家の遺言覚書に伏見城の留守居として彼らを置き、家康が天守に登りたいとすればそれに従えとある
自分はこれを家康の指示に従えという意味に解釈している

673 :人間七七四年:2015/08/07(金) 19:17:08.85 ID:jlzoLwnd.net
浅野家に伝わる秀吉遺言覚書は直江状と同じく改竄されている。
看羊録には前田が秀頼を奉じて大坂におり、大坂内城と等しいほど高い門楼を建てて住んでいたが、
前田が領国へ帰国した後に親家康の三成が前田の家康暗殺計画を通報し、
それに乗じて秀頼に挨拶する名目で大坂へ入りその門楼を破壊しろと命令したが、
前田家臣が抵抗し家康が激怒したが宇喜多が間に入り前田家臣を諭して家臣を退去させている。

内府たがい条にも家康が北政所を追い出して大坂城西の丸に住み込み
本丸より高い城を築いたことを非難されている。

あきらかに前田には大坂城へ入ることは許可されていたが
家康には許可されていなかったのがわかる。

そもそも家康の人柄については
「秀吉が生きていた時には大変衆心を得たが秀吉に代わるようになってから
人々の望みに沿わなくなってしまった。秀吉は城を攻めて敵を打ち破った時でも、
敵人が服従すればすぐ仇であった怨みを忘れ、城池や農民領地も全然侵奪しないで、
ある場合には他の邑をもっと付けてやりさえした。
それに反し家康は恩怨を心ひそかに含み、一度でも反目するようなことがあれば、
必ず相手を死地に追いやってしまって満足した。
それ故、諸将は彼の力を畏れて表面は服従するが、一人として信服する者はいない」
と書かれているように秀吉の生前と死後で180度態度を豹変させている。

また宇喜多家の内紛で秀家に反抗して人を殺した家臣についても
家康は「秀家の不始末を幸いに殺した者の罪を取り調べなかった。
諸将はこのことをもってますます家康を小人だと言った」
とか「島津家に対して叛乱した伊集院が家康らに賄賂を使って死を免れようとした」
「義弘が我が武将が叛いたのであるからどうあっても自分が打ち殺してしまわねばならぬ」
「義弘の精鋭部隊の大半がこの内乱鎮圧の一年間に死傷し、家康らは心ひそかにこれを喜んだ」
などと書いていて明らかに家康には悪意があるのが当時の諸将の間で看破されている。

674 :人間七七四年:2015/08/07(金) 20:09:32.65 ID:VzBnndHg.net
まぁ、控えめに言っても当初は家康・利家、特に前者に比重を置いた自身の死後の形態を考えていた秀吉だが、
三成や正家が帰洛すると同時に合議制へと方針転換したが、関係各位に表明した手前、先の方針も撤回できず、
そのまま死んでしまったのが死後の豊臣政権混乱の最大の原因だな

675 :人間七七四年:2015/08/07(金) 21:33:39.99 ID:iTjwuyjd.net
いや、それ以前に秀次の時に権力抗争があったんだと思うけど
資料には具体的な経緯が何も残されてないけど、利休とか秀次とか、後は蒲生やら池田やら丹羽やらの突然死とかも色々説はあるけど全部お家騒動に絡んだ物だと思う
秀次とは関係無いとは思うが、清須会議の面子も秀吉と信雄以外全部急に死ぬか殺されてるし
陰謀とかいうほど大袈裟じゃなくても発足当初からずっと些細ないざこざが絶えない政権だったとしか思えない
だから記録にも残してないんでしょ

676 :人間七七四年:2015/08/07(金) 22:02:06.93 ID:VzBnndHg.net
豊臣政権は終始グダグダ

677 :人間七七四年:2015/08/08(土) 06:10:59.14 ID:Ed5+5/rU.net
家康の戦法は見方原で信玄に大敗したんでそれ以降、信玄を尊敬してて武田家が衰退した時、武田の家臣を大量に再雇用して武田軍法を徹底的に研究したくらい。
その武田の家臣たちな徳川時代水戸藩の礎を作ってる。

武田信玄の合戦における戦略は人は城、それと狡猾かつぬかりがない。とにかく計算され尽くされた軍略で川中島の時も上杉謙信相手に押しては引き、引いては押しでいやらしかった。
それがズルく映るのかもね。

678 :人間七七四年:2015/08/08(土) 06:13:02.04 ID:Ed5+5/rU.net
徳川の組織力ってのは武田の騎馬軍団を真似たものだ

679 :人間七七四年:2015/08/08(土) 08:31:33.86 ID:+Bkjyl56.net
赤備えは井伊が継承
水戸は、家康五男信吉が武田の名跡を継いで就封

680 :人間七七四年:2015/08/08(土) 08:40:31.36 ID:2mUBIXSh.net
三成や正家が帰洛すると同時に合議制へと方針転換したなんて事実はない。
家康は伏見城から出ては行けない取り決めになっていた。

681 :人間七七四年:2015/08/08(土) 09:52:10.41 ID:I7RN/ZMx.net
>>676
そう洗脳したい在日くん乙w

682 :人間七七四年:2015/08/08(土) 11:21:57.63 ID:TnZVZa9d.net
大阪出身の人は嫌ってたな 家康さえいなければ大阪が首都だったのにって言ってた

683 :人間七七四年:2015/08/08(土) 17:10:44.45 ID:UvhZyFNV.net
>>673
それ三成信者の矢部以外主張してねーぞ

684 :人間七七四年:2015/08/08(土) 17:49:10.42 ID:In/pps2t.net
看羊録は取り敢えず日本の上に立つ奴は、全員悪辣だという前提で書いている

685 :人間七七四年:2015/08/08(土) 18:29:31.25 ID:YE/UbQ80.net
三河や甲斐や関東以北、後は九州を田舎田舎バカにする奴いるけど中世日本の軍学はこの田舎で発達してる
一頻り全国の大名を知った家康が結局手本にする兵法が甲州軍学と北条軍学だから
武勲で名高い本多や島津も田舎の武将

686 :人間七七四年:2015/08/08(土) 20:15:45.18 ID:TnZVZa9d.net
別に誰も馬鹿にしてないだろ

687 :人間七七四年:2015/08/09(日) 12:37:40.53 ID:PTjygf3t.net
>>684
輝元は朝鮮人に同情的で良いやつって書いてるのを知らんとかw
読んでないくせに貶す工作してんじゃねぇよw

688 :人間七七四年:2015/08/09(日) 12:53:41.26 ID:upHbr7zP.net
>>687
それつまり家康は朝鮮再出兵計画してたから貶めた記述されたってことにならね?

689 :人間七七四年:2015/08/09(日) 19:26:45.21 ID:44+AXM9A.net
輝元は天下人ではないから

690 :人間七七四年:2015/08/15(土) 16:41:08.50 ID:o+eqnydh.net
チョンの記録など論ずるに値しない

691 :人間七七四年:2015/08/15(土) 18:34:17.23 ID:nL3iUopx.net
神君は謀反ではなく正当な手順を踏んで自立したと捏造するために
信長公記になかった首巻を江戸時代になってデッチあげた桶狭間の戦い。
徳川家臣の半分が神君を見限ったけど、
その家臣名はまったく挙げられない三河一向一揆
実は伊賀を通過していない本能寺の変における
神君の織田信雄を避けるような逃走ルート。
天正12年戦役で秀吉に人質を出して降伏した癖に小牧長久手の戦いと称して誤魔化す。
同格の大老だった輝元ではなく格下の三成を首謀者と捏造した関ヶ原の簒奪劇。

家康の棚ボタ人生をいかにも苦労したかのように
捏造歪曲している幕府史観w

692 :人間七七四年:2015/08/15(土) 20:56:05.59 ID:bXntZF1S.net
僻み根性丸出しで、カコ悪い

693 :人間七七四年:2015/08/16(日) 01:04:48.55 ID:TjJLLMoP.net
恨の精神。

694 :人間七七四年:2015/08/16(日) 14:16:18.17 ID:YlwVT3nZ.net
BSの歴史番組では常識のように五大老制を上げているのに
ここではそんなモノ存在しないって息巻いているんだね
テレビに踊らされている俺は間抜けだと言いたいのかお前ら

695 :人間七七四年:2015/08/16(日) 16:40:19.73 ID:HnxUgleg.net
五大老内にも順位や別格は存在したということなんだが

696 :人間七七四年:2015/08/16(日) 20:31:44.38 ID:d7aJhKWa.net
家康は大阪冬の陣・夏の陣とかの豊臣方への難癖の付け方なんか
見てたら反吐が出る。全くうすぎたねえ奴だよ。
本能寺の際に光秀に殺されてたら良かったのに。
それに比べて越後の謙信公の潔さは惚れ惚れする。

697 :人間七七四年:2015/08/16(日) 20:33:09.84 ID:Wf+3sm7d.net
>>696の言う難癖が後世徳富によって誤解釈されたものでないことを祈る

698 :人間七七四年:2015/08/16(日) 20:47:41.19 ID:HnxUgleg.net
>>696
家康嫌いの平山優も家康は豊臣家を存続させるつもりだったと考えるようになったのに

699 :人間七七四年:2015/08/16(日) 21:00:36.97 ID:5jctDtKP.net
京都民は家康さんをもっと有難がった方がいいぞ
もし江戸じゃなく京都に幕府開いてたら、首都も京都になってた、当然先の大戦で京都が焼け野原になってただろうし
原爆だって落とされてたかも

700 :人間七七四年:2015/08/16(日) 21:02:23.28 ID:+LbCwxWz.net
夏だな

701 :人間七七四年:2015/08/17(月) 08:19:58.69 ID:yo8smb6u.net
家康は服部半蔵に命じて真田昌幸を毒殺したから嫌い

702 :人間七七四年:2015/08/18(火) 00:17:22.87 ID:Eh3om0T/.net
受けいれるのが無理な要求をしておいて
豊臣家を存続させるつもりだったとか笑えてくる詭弁だ。
それなら秀頼の子を斬首する必要性はないだろw
しかも遺体を遺棄したというwwww

703 :人間七七四年:2015/08/18(火) 07:13:03.40 ID:tD40UPV7.net
夏だな

704 :人間七七四年:2015/08/18(火) 07:57:30.70 ID:Eh3om0T/.net
ほくそ笑みながら
本当は助けたかったとかw
偽善の最たる行為だよな。最低だわ。

705 :人間七七四年:2015/08/18(火) 08:40:50.94 ID:uITjYitG.net
>>702
転封・人質・参勤の何が無理な要求なのだろうか

706 :人間七七四年:2015/08/18(火) 08:43:06.66 ID:yl/FTePd.net
秀吉との誓いを守らないこれ不義・不忠なり、覇権の為に婿でも殺すこれ不仁なり
長男に自害を命じるこれ不孝なり、
義、忠、礼、孝、仁、の徳はなくあるのは欲だけで「欲川家康」と名乗ればよかったのだ。

707 :人間七七四年:2015/08/18(火) 10:08:36.17 ID:7qj63d9U.net
息子を殺すのも不仁だろ?少なくとも不孝な訳ない。
良く分かってない事を上から目線で語る恥ずかしい奴

708 :人間七七四年:2015/08/18(火) 10:36:28.72 ID:Eh3om0T/.net
京都阿弥陀ヶ峰の豊国大明神社に
諸大名が参詣するのを禁止し修理もせず立ち腐れさせる
秀吉否定政策と豊臣家の守り神を朽ち果てさせる政策をしておいて
豊臣の存続を考えていたとか何の冗談だよ。
秀吉は信長の葬儀をしっかりやってる度量の深さをみせて人心を得ているのに
家康は秀頼親子まで抹殺とか悪行三昧。

709 :人間七七四年:2015/08/18(火) 10:59:22.27 ID:s7Yu9tlV.net
秀信が秀吉に謀反したか?という

710 :人間七七四年:2015/08/18(火) 11:20:28.84 ID:uITjYitG.net
まぁ、感情か名分でしか語れない辺りお察し
恩や義理で天下は回せない

711 :人間七七四年:2015/08/18(火) 15:47:01.56 ID:Eh3om0T/.net
日本史上、前権力者の墓を盗掘した権力者って家康だけなんだよな。
正当な権力者として前権力者を祀る権力者はいるが、
前権力者を盗掘までして必死に否定したのは家康だけ。

712 :人間七七四年:2015/08/18(火) 16:42:24.54 ID:s7Yu9tlV.net
盗掘……?

713 :人間七七四年:2015/08/18(火) 23:02:13.07 ID:bhZb3o1g.net
前権力者を祀った神社を破壊したなら分かるが盗掘って
家康を自分でも理解してない言語まで使って批判したい幼稚さが哀れだね。
大体古代とは違い、遺骨くらいしか納められていない墓を盗掘してどうするんだ

714 :人間七七四年:2015/08/19(水) 00:26:33.16 ID:m69NdCk+.net
こんなスレで家康を擁護するヤツも大概だな
時間の無駄だろに馬鹿だな

715 :人間七七四年:2015/08/19(水) 10:00:23.87 ID:JutzBegg.net
秀吉の柩や遺品いれた壺が無くなってたろ。

716 :人間七七四年:2015/08/19(水) 11:28:51.82 ID:qrFwjvY8.net
家康が不人気な理由について語るスレであって、
何でも良いからあることないこと書いて家康を叩くスレじゃないって事。

717 :人間七七四年:2015/08/19(水) 11:46:55.05 ID:fin9nt1E.net
>>668
すげぇ悪党だな。

718 :人間七七四年:2015/08/19(水) 12:26:13.95 ID:cGR56bMx.net
家康が不人気な理由

事績が正しく知られていない
知ろうともしない下衆が多い

719 :人間七七四年:2015/08/19(水) 12:41:47.67 ID:CM8xiV37.net
>>717
秀吉が秀次と妻子及びその遺体にした行為よりはましだろう

720 :人間七七四年:2015/08/19(水) 13:03:06.83 ID:JutzBegg.net
秀次は謀反したんだから仕方ないだろ

721 :人間七七四年:2015/08/19(水) 15:57:47.85 ID:881PHFs5.net
馬塚と呼ばれる石塔は徳川家が豊国大明神廃絶後に、
秀吉の霊を方広寺の鎮守にするため作られた

722 :人間七七四年:2015/08/19(水) 18:55:18.62 ID:F8Ib6Neh.net
じゃあ秀頼も謀反してるからしょうがないな

723 :人間七七四年:2015/08/19(水) 20:22:09.10 ID:wRaDf3by.net
家康は秀頼の主君だったのかw

724 :人間七七四年:2015/08/19(水) 22:00:13.81 ID:CM8xiV37.net
大坂の陣の頃は徳川政権が公儀であり、家康は天下の主催者で官位も上。
秀忠は将軍の上秀頼の義父。それに刃向かえば謀反だろう

725 :人間七七四年:2015/08/20(木) 07:57:39.16 ID:EWRrrRzY.net
それなら、幕末のの毛利も謀反だな

726 :人間七七四年:2015/08/20(木) 08:15:09.45 ID:POVEe5+m.net
王政復古の大号令まではね

727 :人間七七四年:2015/08/20(木) 10:34:40.06 ID:trBrPqz4.net
三方が原で竹田の武将と峠の茶屋のおばちゃんに追っかけられたあげく
脱糞して城に逃げ帰って、しかも家臣にはこれは糞ではなく味噌だとゴマ化したんだから
嫌われても仕方がない

728 :人間七七四年:2015/08/20(木) 12:46:56.72 ID:WVkCP4NB.net
秀頼は摂関家としての家格を所持していて
しかも天皇の義弟
どう考えても家康より上の立場だから。
だからいずれは関白職に就くのは確定事項。
だから方広寺鐘銘事件をでっち上げて就任前に葬ろうと策謀を練ったのが狸爺

729 :人間七七四年:2015/08/20(木) 13:28:27.25 ID:RmgUiJrr.net
豊臣オタの難癖のレベルが低すぎて

730 :人間七七四年:2015/08/20(木) 15:18:59.70 ID:88VXMDno.net
>>729
負け惜しみ乙w

731 :人間七七四年:2015/08/20(木) 20:31:19.19 ID:0bZc2e8F.net
勝利宣言いただきましたぁ〜

732 :人間七七四年:2015/08/20(木) 21:11:55.58 ID:IGnkWQ6Y.net
>>727
出典のない話しかなくて大草原

733 :人間七七四年:2015/08/21(金) 08:54:12.72 ID:jHUC56Gg.net
神君は謀反ではなく正当な手順を踏んで自立したと捏造するために
信長公記になかった首巻を江戸時代になってデッチあげた桶狭間の戦い。
徳川家臣の半分が神君を見限ったけど、
その家臣名はまったく挙げられない三河一向一揆
実は伊賀を通過していない本能寺の変における
神君の織田信雄を避けるような逃走ルート。
天正12年戦役で秀吉に人質を出して降伏した癖に小牧長久手の戦いと称して誤魔化す。
小田原城を氏直に譲ったものの実権を握り、氏照らの北関東侵略を指揮していた
氏政の隠居城だった江戸城への転封を田舎への左遷と捏造w
同格の大老だった輝元ではなく格下の三成を首謀者と捏造した関ヶ原の簒奪劇。

家康の棚ボタ人生をいかにも苦労したかのように
捏造歪曲している幕府史観w

734 :人間七七四年:2015/08/21(金) 13:52:07.51 ID:Rwn5F6az.net
信孝にはその気がないから信雄に押し付けようと、
木曽氏に旧武田領の大乱対策で岩村口へは兵を派遣しないからそっちも準備しなくていいわ。
信雄を駿河三枚橋に派兵して家康と協力させるから旧織田領は安心してくれていい。

などと書状を出したから、木曽氏は安全帰国を条件に滝川から奪った信濃の人質を駿河の家康に渡す。
当然、信孝と国境争いしてる信雄も駿河なんざに派兵するわけがない。
なので小笠原や真田らが自動的に徳川配下になる棚ぼたで、
北条相手に有利に戦えるはずが大苦戦するクズが家康。
旧武田家臣団から学んでやっとマシになっていく。

735 :人間七七四年:2015/08/21(金) 15:28:59.14 ID:17GtezOY.net
徳川以下の以下が豊臣
城から離れていく武田本隊を追撃した徳川と北条
徳川→大規模野戦。惨敗。織田援軍も大将二名殺され、一名戦わず逃亡
北条→最大規模の山岳戦。侍大将を撃ち取り優勢に進めるが、別動隊が武田のが早かった為に接戦の末に負け。勝ちとは言えないと高坂談

その徳川と豊臣の戦い。終始、家康に振り回され信雄と和議。長らく秀吉は家康を豊臣政権の客分扱いにして徳川に逆らえず

その豊臣と氏康無き北条の戦い。わざわざ日本中から動員した兵力差を持って無理矢理兵糧攻めを続けて勝つ豊臣。もはや合戦という呼称ではなく、兵法概念も皆無の公務執行

所詮は群雄割拠時代を大名として生き抜いたか否かで戦いの次元が違い、関ヶ原等は絞り貸すの様な豊臣のさらに落ちぶれた姿

武田、北条>>徳川>>>豊臣
豊臣は織田の名を騙る恥さらしでもある

736 :人間七七四年:2015/08/21(金) 16:40:37.44 ID:3IeY3eAw.net
織田→ド田舎で弱体化しきった斉藤や内訌で分裂した北畠に負けまくり対浅井の敗戦や観音寺騒動でよわりきった六角などを火事場泥棒して版図広げるも光秀との戦いに敗れ信長殺されて滅亡、
豊臣→織田領を信長死後の混乱に乗じて棚ボタ火事場泥棒するも徳川に敗れ滅亡
武田→村上や小笠原山之内上杉北条今川など格上の国力の勢力に寡兵で勝ちまくり天下統一寸前で信玄死亡

信玄は織田徳川相手に上村合戦東美濃攻防戦三方が原と勝ちまくり天下取る寸前のところで病死
勝頼は織田徳川相手に敵国の7分の1の国力にもかかわらず敢闘するが対北条戦徳川戦や甲江同盟反故の騙まし討ちと
織田の自国の10倍以上もの大軍と期を同じくしておきたタイミング悪くおきた浅間山噴火で撤退せざるをえなくなり運悪く滅亡

737 :人間七七四年:2015/08/21(金) 17:03:18.03 ID:QbJ5pAHs.net
盗用歪曲コピペ爆撃キチガイで武田厨のフリを装う
アンチ秀吉三成の織田在日降臨www
どんだけ豊臣政権が憎いんだよw

738 :人間七七四年:2015/08/21(金) 19:12:13.10 ID:JXOfpSxt.net
>>732
そのエピソード、馬に乗ってる栄康が徒歩の老婆に追いつかれるわけないとか
wikiでツッコんでてワロタw

739 :人間七七四年:2015/08/22(土) 02:06:39.96 ID:uOsFm7Km.net
デブでお医者さんゴッコが好きな奴だからなぁ。
単純にかっこ悪いだろ。

740 :人間七七四年:2015/08/22(土) 08:54:40.38 ID:nJ1UaXrV.net
難癖が朝鮮人レベル
まだ夏か

741 :人間七七四年:2015/08/22(土) 13:01:04.57 ID:z4tU5F/+.net
age

742 :人間七七四年:2015/08/22(土) 13:44:23.27 ID:6QZbU5+K.net
>>737
憎いというより日本を戦国時代とは別な意味で荒廃させた戦犯
こいつの三流政治があったから徳川幕府を作る機会も生まれたわけだけど、歴史の面白い所で明らかに治世の器じゃない

743 :人間七七四年:2015/08/22(土) 20:40:00.24 ID:K6Q0n2bv.net
信長の内政統治放棄し際限なき課役地獄と略奪虐殺による平均亡国政策

国家体制整備のため検地や金本位制、中世社会から卒業し、
近世国家の組織の創業ができたのが秀吉。
家康はその劣化コピー体制。

744 :人間七七四年:2015/08/23(日) 09:00:43.06 ID:DOwdeio4.net
三河武士の気質はブラック企業と通じる
嫌われて当然

ワタミのような忠誠を求められ
対価を求める事が許されない

745 :人間七七四年:2015/08/23(日) 09:50:47.69 ID:nucKjy3k.net
アフターケアは随一だけど

746 :人間七七四年:2015/08/23(日) 10:54:29.98 ID:b5wspGhx.net
石川一益が秀吉に寝返ったのも当然だな。
本多忠勝や榊原康政も太閤様の家臣になりたかっただろうな

747 :人間七七四年:2015/08/23(日) 11:00:20.20 ID:nucKjy3k.net
秀吉の家臣になっても大封を得ても、本人が死ねば直ぐに没収される
封建制の基本たる家の維持を全く考えていない秀吉

748 :人間七七四年:2015/08/23(日) 13:07:41.76 ID:Rm4iO+jd.net
>石川一益
>石川一益
>石川一益

749 :人間七七四年:2015/08/23(日) 13:26:29.09 ID:/TK3/Cer.net
まことには、重大な弱点がある。
人に言われて、発狂しかねない弱点を
他人に発するのである。
言われる前に、先に言っているのか、
と、感じさせられる。

http://bbs7.aimix-z.com/mttbbs.cgi?room=kike

750 :人間七七四年:2015/08/23(日) 14:30:43.19 ID:tMfJEDzX.net
進んで秀吉の家臣になりたい奴なんて、秀吉に洗脳された連中だけでしょ

751 :人間七七四年:2015/08/24(月) 08:38:12.90 ID:NjmqVUcw.net
>>744
【リーマンショック後の総所得ランキング】
・課税所得額ならびに総所得額の推計を実施。本文中の数字は全て総所得額ベース。


総所得ランキング
01位 江ノ島電鉄線(神奈川県藤沢市〜鎌倉市)            ←相模国
02位 阪急甲陽線(兵庫県西宮市)                  ←摂津国
03位 京王井の頭線(東京都渋谷区〜武蔵野市)            ←武蔵国
04位 東急東横線(東京都渋谷区〜神奈川県横浜市)          ←武蔵国
05位 東急こどもの国線(神奈川県横浜市)              ←武蔵国

06位 東急田園都市線(東京都渋谷区〜神奈川県大和市)        ←武蔵国、相模国
07位 相鉄いずみ野線(神奈川県横浜市〜神奈川県藤沢市)       ←武蔵国、相模国
08位 東急目黒線(東京都品川区〜神奈川県横浜市)          ←武蔵国
09位 名鉄西尾線(三河県安城市〜西尾市)              ←三河国
10位 名鉄豊田線(三河県みよし市〜豊田市)             ←三河国

11位 東急大井町線(東京都品川区〜神奈川県川崎市)         ←武蔵国
12位 東急世田谷線(東京都世田谷区)                ←武蔵国
13位 小田急小田原線(東京都新宿区〜神奈川県小田原市)       ←武蔵国、相模国
14位 名鉄三河線(三河県豊田市〜碧南市)              ←三河国
15位 東急池上線(東京都品川区〜大田区)              ←武蔵国

ソース:東洋経済オンライン
http://www.toyokeizai.net/life/living/detail/AC/a9f0b48216dc7b01346aec09db603d62/
ソースのソース:株式会社野村総合研究所 第2回全国のエリア別所得・金融資産を推計
http://www.nri.co.jp/news/2010/100330.ht

752 :人間七七四年:2015/08/24(月) 08:38:47.08 ID:NjmqVUcw.net
富裕層が住む街 首都圏編 http://aurora1025.blogspot.jp/2014/02/area-in-which-wealthy-live-volume-on.html?m=1
富裕層が住む街 関西編 http://aurora1025.blogspot.jp/2014/02/area-in-which-wealthy-live-volume-on_6.html
富裕層が住む街 中京編 http://aurora1025.blogspot.jp/2014/02/area-in-which-wealthy-live-volume-on_18.html?m=1

市町村別平均年収ランキング(注意、東京都港区が抜けている)

01横浜市青葉区__:741.1万円21東京都渋谷区__:617.6万円
02東京都千代田区_:716.1万円22三河県豊田市__:616.9万円
03横浜市都筑区__:705.3万円23さいたま市緑区_:612.6万円
04東京都中央区__:670.6万円24千葉市緑区___:611.4万円
05三河県みよし市_:670.5万円25川崎市宮前区__:610.8万円
06さいたま市浦和区:667.1万円26三河県幸田町__:610.0万円
07三河県田原市__:659.5万円27神奈川県逗子市_:609.1万円
08三重県東員町__:658.3万円28三河県刈谷市__:607.1万円
09千葉県白井市__:653,1万円29横浜市泉区___:606.0万円
10千葉県浦安市__:646.4万円30三河県安城市__:604.5万円
11大阪府豊能町__:641.8万円
12千葉県印西市__:641.0万円
13川崎市麻生区__:639.0万円
14兵庫県猪名川町_:634.3万円
15東京都目黒区__:633.2万円
16三河県吉良町__:631.6万円
17東京都文京区__:630.3万円
18兵庫県芦屋市__:627.7万円
19兵庫県三田市__:625.4万円
20神奈川県鎌倉市_:622.6万円

753 :人間七七四年:2015/08/24(月) 08:49:42.27 ID:NjmqVUcw.net
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)

【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)

■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系

■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)

754 :人間七七四年:2015/08/24(月) 08:50:09.24 ID:NjmqVUcw.net
室町幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)

■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、愛知県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代・渋川義顕は、同母兄の足利家氏と共に滝山寺(愛知県岡崎市)で出家(板倉右衛門入道)

【八代将軍足利義政時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、愛知県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代渋川義顕は、同母兄の足利家氏と共に滝山寺(愛知県岡崎市)で出家(板倉右衛門入道)

■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)
・高氏(三河国額田郡菅生、愛知県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、愛知県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)

管領
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、愛知県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ

■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、愛知県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(愛知県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、愛知県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(愛知県岡崎市・豊田市)で活動

755 :人間七七四年:2015/08/26(水) 19:54:07.37 ID:8V2t3O8z.net
身分固定支配体制という暗黒時代を作った家康。

756 :人間七七四年:2015/08/26(水) 20:44:10.46 ID:oY8U8mNh.net
結構、階層間の移動はあるぞ

757 :人間七七四年:2015/08/28(金) 23:36:09.65 ID:iJpyJJ4E.net
秀吉の体制のようなマクロ経済政策ができない
大商人がやりたい放題できる欠陥体制を家康は作ったので江戸幕府では人災飢饉が頻繁に発生した。

758 :人間七七四年:2015/08/29(土) 00:31:13.84 ID:XywKucIl.net
羽柴竹善に良くしてもらったのに、彼に託された息子を殺めた。
恩を仇で返すような人には日本人は共感を覚えない。

759 :人間七七四年:2015/08/29(土) 13:16:23.44 ID:wgumiOI3.net
池沼は同じことばかり書くね

760 :人間七七四年:2015/08/29(土) 16:10:39.30 ID:QKiRlDRk.net
>>757
元々、経済観念が0の三河者に日本全土の統治とか
無理だったんだよ。もっと経済の勉強して出直せって感じ。

761 :人間七七四年:2015/08/30(日) 14:00:29.42 ID:T9ovwQ3C.net
経済観念ゼロは尾張の田舎猿だwワーキングプアw


http://aurora1025.blogspot.jp/2014/02/area-in-which-wealthy-live-volume-on_18.html?m=1


年収300万円以下比率(30%以上)


名古屋市中村区:42,32%(笑)
名古屋市中区_;41.28%(笑)
名古屋市昭和区:38.11%(笑)
名古屋氏南区_:37.29%(笑)
名古屋市熱田区:37.24%(笑)
名古屋市港区_:35.03%(笑)
名古屋市北区_:34.50%(笑)
名古屋市東区_:34.50%(笑)
名古屋市天白区:33,22%(笑)
名古屋市中川区:32.79%(笑)
名古屋市西区_:32.56%(笑)
名古屋市千種区:32.34%(笑)
名古屋市瑞穂区:31.17%(笑)


まさに田舎臭い貧乏人、田舎の貧乏人の称号がお似合いですなw

762 :人間七七四年:2015/08/30(日) 17:38:57.71 ID:PPXYBHVI.net
流通通貨を復活させた家康を経済観念無いとは笑わせる

763 :人間七七四年:2015/08/30(日) 18:05:45.65 ID:upPp2vBy.net
秀吉オタって一代しか続かない短命政権作った秀吉を持ち上げる割には江戸幕府を否定するんだよね
どんなやり方であれ長期政権の実績を作った徳川と、戦下手が横から掠め取った政権で二代目すら存続させられなかった豊臣じゃあ比べ物にならないよ
二言目には軍が云々、制度は云々と言い訳するけど豊臣はそれがダメだったから続かなかったわけで徳川を批判する材料にするのはお門違い

764 :人間七七四年:2015/08/30(日) 18:57:10.63 ID:rO7BiSe/.net
魔ぁ「秀吉主導で経済政策が打てた豊臣政権の中央集権と違って
そもそも全国レベルの政策は幕府にはとれないし
経済政策に至っては御用商人に丸投げだからね。
だから人為的な米価つり上げを幕府には矯正する力がなかった。
基本的に飢餓状態というは人為的なもので
商人の蔵の中には米がたんまりあった。
そういう意味では後北条の質屋が権力を握っていた構造を
そのまま劣化コピーしたのが幕府ということが言える。

765 :人間七七四年:2015/08/30(日) 20:37:27.09 ID:PPXYBHVI.net
具体的に中央政権と言う秀吉政権がどのような全国レベルの経済対策取ったか言え

766 :人間七七四年:2015/08/30(日) 20:38:20.46 ID:7fg9W2ZC.net
>>763
家康を否定するれば、相対的に秀吉が上がるからね
秀吉オタは寂しい思考法なんだよ

767 :人間七七四年:2015/08/31(月) 12:50:05.92 ID:PH08mwJw.net
家康の罪はろくでもない身分制度を作ったことだろう
おかげで現代までその負の遺産が残ることに

768 :人間七七四年:2015/08/31(月) 15:32:02.47 ID:OVCvLzMe.net
家康の罪は戸籍すら作れない糞官僚制度を作り、
寺社が止むを得ず檀家制度のもとで収入のために戸籍を作る。
その無能の官僚制度である明治政府の太政官制度→現在につながる無能お役所仕事の創始者だということだろう。

769 :人間七七四年:2015/08/31(月) 18:20:40.44 ID:EHt+R146.net
ワザととしか思えないその発言

770 :人間七七四年:2015/08/31(月) 20:45:16.41 ID:7T2MCuKx.net
俺が家康が気に食わない理由はただひとつ
かわいい瀬名姫に散々な仕打ちをした挙句、殺した事だ
絶対に許さない、絶対にだ

771 :人間七七四年:2015/08/31(月) 21:02:52.52 ID:T+LXXeRy.net
初代将軍の正室なのに名前の伝承すら一切残ってない辺りホント闇
ガチ謀反か無実なのかの判断ができないくらい史料がないし

772 :人間七七四年:2015/08/31(月) 21:04:41.77 ID:SSENIYFJ.net
>>767
エタ・ヒニンか?
徳川のお膝元、東京では全然問題になってないぞ
今現在、京都や大阪の方がひどいのはなぜだろうね??

773 :人間七七四年:2015/08/31(月) 21:29:38.68 ID:7T2MCuKx.net
>>771
ここまで執拗に記録を抹消しようとしたからには
相当後ろめたい理由があるんだろうな
俺個人としては今川の血筋に松平家系が乗っ取られるという
妄想に家康は駆られたんだろうと思う

774 :人間七七四年:2015/09/01(火) 00:02:22.98 ID:CXzPNj7m.net
>>773
ないわーそれはないわー
関口家や瀬名家が徳川の有力家臣として台頭してたならともかく
実際は築山殿はほぼ孤立状態だもん

775 :人間七七四年:2015/09/01(火) 00:14:54.48 ID:2cIY/2A0.net
>>772
根っからの東京人なんてほとんどいないから

776 :人間七七四年:2015/09/01(火) 01:04:46.52 ID:zjvXWojz.net
俺は根っからの東京人だぞ・・・勝手にいないことにするなよ。

777 :人間七七四年:2015/09/01(火) 11:32:41.62 ID:Tju4Gmqt.net
家康は初代今川氏、今川国氏の血を引いているが?
乗っ取られるも糞もないだろう

778 :人間七七四年:2015/09/01(火) 14:42:37.74 ID:CXzPNj7m.net
何かと思ったら今川国氏→一色公深室→……→松平信光室→……→家康とつながってるのね

779 :人間七七四年:2015/09/01(火) 14:52:31.62 ID:H4IhtR+6.net
徳川幕府の制度って確立したのは家康よりも秀忠や家光の後からでしょ
徳川幕府の政策の弱点=家康の政策というのはおかしい
えたひにんが家康のせいとか難癖
あと、正室1人が胡散臭い消え方したのが一体何だっていうんだと思うわ。
秀吉も信長も家族殺して生き抜いてきたのに、なんで家康はそこがマイナス評価になるというのか

780 :人間七七四年:2015/09/01(火) 15:11:15.16 ID:59WcsCq8.net
そりゃあ、アンチは結論ありきだから

781 :人間七七四年:2015/09/01(火) 15:47:15.31 ID:XYYTHiCL.net
信康も身の危険を感じて早いとこ信長陣営に逃げ込んどけばまた歴史が違ってたのにね
あれでっち上げなんでしょ?五徳姫の訴状だとか信長が家康に抹殺指示したとか

782 :人間七七四年:2015/09/01(火) 16:43:56.72 ID:qy4wud5T.net
信長が全く関与しなかったとは思えんけどね
それまで毎年行っていた吉良での信長と家康の鷹狩会見が、信康切腹以降はパタリと途絶えるし

783 :人間七七四年:2015/09/01(火) 16:56:05.92 ID:CXzPNj7m.net
>>781
本郷和人がやはり信長の要求によるものではないかって言ってるけどな

784 :人間七七四年:2015/09/01(火) 19:21:40.59 ID:/1TGz7gC.net
信康事件の前に
信長の三河方面での鷹狩頻度が増えているらしいが
なんだかあやしい

>>774
岡崎でふんぞり返ってたってのが一般のイメージだけども
完全アウェーの今川ゆかりの人間だし
彼女の親族はだいたい武田側に行っちまってるんだよな。
だから三河じゃすげえ肩身が狭かったとしか思えないんだが
それだけ武田に通じやすい立場だったとも推測できる

785 :人間七七四年:2015/09/01(火) 19:26:57.52 ID:gEe3//Pz.net
関口氏は三河が本貫で、室町期には一族が三河にもいたけど

786 :人間七七四年:2015/09/01(火) 20:20:27.04 ID:H4IhtR+6.net
信康も武田義信も豊臣秀次も、当時の関係者が詳しい経緯を意図的に記述してないけどこれって全部ただの派閥争いだと思うよ
歴史を知ってる後世の人からは不可解に思う点は多くても、当時の殺伐とした日本で仲間内を出し抜こうとする人間は星の数
他家の御家騒動に関わって気まずくなる事もあるだろう
その時に敢えて同盟者に気にしない振りして鷹狩りやる信長と、気を使って自重するか傷心した家康の性格の違いだったかもしれないし。まして大切にしてた息子。あまりにも何でも謀略だと決めてかかる必要はないと思う

787 :人間七七四年:2015/09/02(水) 14:42:09.38 ID:JY7RYz0O.net
「見しかよの物かたり」
男、女のへだてなく老ひたるも、みどりごも目の当たりにて刺し殺し
あるいは親を失ひ子を捕られ夫婦の中も離ればなれになりゆくことの哀れさその数を知らず

女性は誘拐し、生まれたばかりの赤ちゃんまで無差別大量虐殺した家康は史上最悪の悪人。

788 :人間七七四年:2015/09/02(水) 17:08:34.71 ID:kDpfCRVH.net
自力救済

789 :人間七七四年:2015/09/02(水) 18:47:55.93 ID:Jkd1/Jzy.net
>>787
氏真裏切って遠州に攻め込んだ時の話か?
若気の至りか余裕無かったからか知らんがその時の家康は
狼藉の限りを尽くしたって話は聞くが

790 :人間七七四年:2015/09/02(水) 18:50:26.26 ID:Jkd1/Jzy.net
ぐぐってみたら大阪の役の時か
あの時も凄惨そのものだった様だな

791 :人間七七四年:2015/09/02(水) 19:55:40.15 ID:hFy7jy8F.net
大坂はなんであんな事になったんやろな
あれじゃ上方の民衆のあいだで長らく
糞康扱いもしゃーないわ

792 :人間七七四年:2015/09/02(水) 20:07:13.62 ID:Jkd1/Jzy.net
何の得にもならない戦に狩り出されて大名連中も鬱憤が溜まってたんだろ
あと徳川に逆らうとこうなるぞって見せしめの意味もあったかと

793 :人間七七四年:2015/09/02(水) 20:27:21.10 ID:1NVdK65q.net
秀吉だって甥とその一族を皆殺しにして
首を川原に並べてさらしたんだぜぇ〜

794 :人間七七四年:2015/09/02(水) 23:57:03.82 ID:NRgohiUQ.net
大名達の手勢含まれてるし
あれだけ大軍になると
家康一人じゃ制御なんてできんだろ

795 :人間七七四年:2015/09/03(木) 17:08:22.84 ID:LkT71bi8.net
秀吉の織田家への仕打ちを考えれば豊臣が滅んだのは自業自得
家康の豊臣家への当初の扱いは秀吉に比べれば優しいもんだな

796 :人間七七四年:2015/09/03(木) 18:58:16.71 ID:08qxS9mN.net
織田家は本家も分家も沢山残したのに、どこら辺が酷いんだ?

797 :人間七七四年:2015/09/03(木) 20:17:54.47 ID:35zBW8pQ.net
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは

01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職

太平記 20話「足利決起」
https://www.youtube.com/watch?v=wCl8VqYfgTk

798 :人間七七四年:2015/09/03(木) 20:20:42.56 ID:35zBW8pQ.net
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(三河武士団)■

【岡崎市】
・足利宗家、屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)、城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)、3つの城(細川御前田城、細川城山城、細川権水城)
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・上地氏(足利一族、細川氏分家)、城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)、高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )、屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆、屋敷(便寺屋敷)
・粟生氏(足利被官、奉公衆)、2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と2つの屋敷(梅藪屋敷、西熊屋敷)

【幸田町】
・大草氏(足利被官、奉公衆)

【豊田市】
・上野氏(足利一族、奉公衆)
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)、城(金谷城)

【西尾市】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)、城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)、城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)、城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)、城(戸ヶ崎城)
・饗庭氏(足利被官)、城(饗庭城)、饗庭氏直(花一揆総大将)

【豊橋市】
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)

【新城市】
・設楽氏(足利被官)
・富永氏(足利被官)

799 :人間七七四年:2015/09/03(木) 20:21:47.84 ID:35zBW8pQ.net
室町幕府樹立後(開府〜観応の擾乱) 三河武士の日本支配構造

【東海道】
・伊賀国守護:仁木義直、細川清氏、仁木義長、高師冬
・伊勢国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・志摩国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・尾張国守護:中条秀長、高師泰
・三河国守護:高師兼、仁木頼章
・伊豆国守護:石堂義房、上杉重能
・遠江国守護:今川範国、仁木義長、今川範氏
・駿河国守護:石堂義房、今川範国、今川範氏
・武蔵国守護:高重茂、高師冬、高師直、上杉憲顕、仁木義章
・安房国守護:斯波家長
・上総国守護:高師直

【畿内】
・摂津国守護:仁木頼有、細川繁氏
・和泉国守護:畠山国清、高師泰、細川顕氏
・河内国守護:細川顕氏、高師泰、畠山国清
【北陸道】
・若狭国守護:斯波(大崎)家兼、斯波高経、斯波氏頼、細川清氏、石橋和義
・越前国守護:斯波高経、細川頼春、斯波氏経
・越中国守護:吉見頼隆、細川頼和、斯波高経
【東山道】
・奥州探題:斯波(大崎)家兼
・羽州探題:斯波(最上)兼頼
・上野国守護:上杉憲房、上杉憲顕
・下野国守護:高師直、仁木頼兼

800 :人間七七四年:2015/09/03(木) 20:22:58.47 ID:35zBW8pQ.net
室町幕府樹立後(開府〜観応の擾乱) 三河武士の日本支配構造

【山陰道】
・丹波国守護:仁木頼章、高師詮
・丹後国守護:今川頼貞、荒川詮頼、上杉朝定、上野頼兼、仁木頼章
・但馬国守護:今川頼貞、吉良貞家
・伯耆国守護:石橋義和
・石見国守護:上野頼兼、高師泰、荒川詮頼
・因幡国守護:吉良貞家、今川頼貞
・伯耆国守護:石橋和義

【山陽道】
・備中国守護:細川頼之
・備後国守護:仁木義長、石橋和義、細川頼春

【南海道】
・紀伊国守護:畠山国清、
・淡路国守護:細川師氏、細川師春
・阿波国守護:細川和氏、細川頼春、細川頼之
・讃岐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
・伊予国守護:細川頼春、細川頼之
・土佐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之

【西海道】
・九州探題:一色範氏、一色直氏、細川繁氏、斯波氏経
・筑前国守護:一色直氏
・肥前国守護:一色直氏、一色範光
・肥後国守護:一色直氏
・日向国守護:細川頼春、一色直氏

801 :人間七七四年:2015/09/03(木) 20:24:04.48 ID:35zBW8pQ.net
室町幕府 三河武士の日本支配構造

【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数

・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏

三河国の奉公衆一覧(全53家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)

【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田

【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部

【三河源氏】
足助、水野

【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永

【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、松平、丸山、三浦、大和

802 :人間七七四年:2015/09/03(木) 20:42:03.79 ID:z2dsrBD3.net
>>796
秀吉には倅が1人しかいないのに
分家を残すもなにもないだろw

803 :人間七七四年:2015/09/03(木) 20:58:03.89 ID:ukSrdEju.net
日本語が通じていない・・・
秀吉貶めて家康持ち上げようとしてるのは
やっぱ朝鮮出兵した秀吉を恨んでいる朝鮮系の連中なのか?

804 :人間七七四年:2015/09/03(木) 21:08:01.99 ID:z2dsrBD3.net
急に変なのが湧いたな
朝鮮の話題が大好きなやつって、減らないねえ

805 :人間七七四年:2015/09/03(木) 21:09:52.13 ID:ukSrdEju.net
秀吉が織田の本家と分家をきちんと残しているのにどこが酷いのかと
質問に対して>>802の回答をすれば疑われて当然の事だと思うが?

806 :人間七七四年:2015/09/03(木) 21:31:31.67 ID:z2dsrBD3.net
ほう、では現実問題として
豊臣家分家の当主はだれにするんだ?

807 :人間七七四年:2015/09/03(木) 22:26:55.10 ID:mtdtNfiH.net
>>806
豊臣家は根絶やしにされてるのに分家とか、正気とは思えん

808 :人間七七四年:2015/09/03(木) 23:39:43.21 ID:c39TjQTY.net
木下家「あのう……」

809 :人間七七四年:2015/09/04(金) 08:19:06.41 ID:G2/GtL2/.net
三法師 秀吉に逆らわず、岐阜中納言で満足
秀頼(と取り巻き) 家康に逆らいまくり

810 :人間七七四年:2015/09/05(土) 14:26:54.19 ID:nhujs1xJ.net
家康被差別部落民説は、かなり疑わしい 妄想くさい

811 :人間七七四年:2015/09/05(土) 18:32:34.71 ID:PjvzMedX.net
>>805
秀信は織田家督を継ぐ立場なのにハナクソみたいな領土与えられて官位も全て秀吉が一人占め
信雄は秀吉のおもちゃにされてその後改易
織田秀勝もいつの間にか居城を秀吉に取られて行方不明にされ
信包も信張らも政権の蚊帳の外
どう見ても秀吉は織田家をゴミみたいにしか扱ってないわな
恩を受けた信長の子どもとは言えない扱いしかしてない

812 :人間七七四年:2015/09/05(土) 19:06:56.07 ID:dckl3S3W.net
岐阜13万石と正三位中納言がハナクソとか
二度も逆らった信雄を小領とは言え大名に取り立ててるのにゴミ扱いとは
呆れて何も言えないな

813 :人間七七四年:2015/09/05(土) 21:34:37.21 ID:V8Q5RXS2.net
秀吉信者は朝鮮人認定か徳川幕府の粗探ししか出来ないからね
戦下手も主家簒奪も国政の失敗も自滅も事実だから反論出来ず話反らすだけ

814 :人間七七四年:2015/09/06(日) 12:15:02.67 ID:LN5t9/Bc.net
釣り針がデカすぎて
エサを逃がしてしまう自演対立厨であった。

815 :人間七七四年:2015/09/06(日) 15:25:16.66 ID:IZTd8f7g.net
常に15歳以下の女を侍らせてたからじゃないの。
嘘か本当か知らんが

816 :人間七七四年:2015/09/06(日) 16:15:31.38 ID:I6J7TAKH.net
つまり家康はロリコンか
築山殿の扱いが悪かったのは年増だったからか

817 :人間七七四年:2015/09/06(日) 19:03:16.71 ID:FHKH5baF.net
>>816
それも捏造で
同い年説が有力なんだよな

818 :人間七七四年:2015/09/06(日) 19:33:13.84 ID:N3NhDqdN.net
>>812
信雄って秀吉に利用されるだけ利用されて改易されたじゃん
秀信は織田家家督を継ぐ主君の立場なのに利用するだけ利用して岐阜13万石という超小国でポイ捨て
秀吉は織田家主君の秀信の家臣で後見役なんだから秀信に織田家を継がせて官位と全領土を秀信に渡すのが道理なのに

819 :人間七七四年:2015/09/06(日) 19:34:36.84 ID:9nMkZFgi.net
>>812
岐阜13万石なんて織田家の領土から見たらハナクソみたいなもんだしゴミ扱い同然だろ。
動員兵力でいうと3000人いくかいかないかじゃね。

820 :人間七七四年:2015/09/06(日) 19:43:37.80 ID:I6J7TAKH.net
>>817
築山殿の誕生が1542年で家康が早生まれの43年だったっけ?
結婚が57年で15歳だったとすれば結婚当時は良くしてても年を重ねたら捨てたと言う事か
やはり家康はロリコンだったのだな

821 :人間七七四年:2015/09/06(日) 20:37:41.95 ID:LILVLlva.net
ロリコンが「後家好み」と言われるかよ

822 :人間七七四年:2015/09/06(日) 20:56:06.70 ID:s1ElZ4Wv.net
信雄を正二位内大臣に引き上げ秀吉政権No.2にしてあげた上に
尾張+伊勢半国から駿河+遠江+三河+信濃+甲斐への大加増転封を織田信雄拒否
改易するも家臣団を織田秀信に付けてやり、その後信雄を御親族衆として秀頼付けにして厚遇する。

秀頼に対して官位がなかなか上がらないように朝廷に介入した上に、
摂津河内和泉65万石から1ヶ国へ大幅減封を拒否→藤原に続いて朝廷を救って新姓を下賜された史上2例目である
殿上人摂関家である秀頼親子をブチ殺す。

823 :人間七七四年:2015/09/06(日) 22:41:24.79 ID:N3NhDqdN.net
織田信雄の家臣団のうち秀信につけてやりって誰の事だ?
滝川雄利も津川も分部も吉村も木造も天野も澤井も土方も津田も蜂谷も秀信につけられてたなんて史料は見た事ないんだけど

824 :人間七七四年:2015/09/06(日) 22:45:54.33 ID:N3NhDqdN.net
そもそも織田信雄は秀吉にとって主筋だし厚遇するのは当然の義務
しかし秀吉はさしたる理由もなくいちゃもんつけて攻め込んで苦戦すると和議を結んだあげく
(織田信雄や家康から開戦を仕掛けたというのは大嘘で、実際には信雄は自分の家臣を誅殺しただけで
秀吉に反旗は翻してないし、そもそも多門院日記によるとそれ以前に秀吉は信雄の領土化の伊賀を侵攻していた)
家康を懐柔するのに利用するだけ利用してポイ捨て。
秀吉は織田家家臣なんだから織田信雄には100万石以上の石高をやって織田秀信を当主として織田家を守り立てるのが責務だが
それをせずにただ利用するだけ利用してポイ捨てした。

825 :人間七七四年:2015/09/06(日) 22:47:26.47 ID:N3NhDqdN.net
継承というなら織田家当主の秀信の部下というのが織田家中での秀吉の立場なんだし
信雄や信孝をないがしろにして大阪築城のために織田家臣の連中を無理やり転封させたり信雄に何ら理由なくいちゃもんつけて攻め込んだり
いちゃもんつけて改易したり
織田家当主のはずの秀信に領土や官位を授けず
美濃の国主としての地位にとどまらせるなんておかしいわな
信包や信張ら他の織田一門もさしたる理由もなく
織田政権から排除されて
どこにいったかわからん状態にまでされてるし
信張信包蒲生池田丹羽ら織田親類衆がいる
それに織田家に仕える身分なら、能力とか関係なく主君の命によって、家臣は政務や軍事を行うのが道理。
しかし清洲会議以降これが逆転し
家臣達の合議によって織田一門の領地などの裁決が行われるという逆転が発生した。
信孝と信雄が国境線争いで対立し始めてるし
さらに秀吉がそろそろ安土へ三法師を!との意見に
清洲会議の屈辱から巻き返すべく柴田が秀吉への反発を強めていて
柴田が畿内がよく治まった上で宿老総意を得て安土へ移す方がいいと
秀吉方だった丹羽に同意を求めて味方化しようとしたが見事に拒否られてる。
(柴田が合意不可能な条件を提示していて、あからさまに三法師を手元から離さない信孝とつながっていたのがわかる)
これが9/3の情勢であり、
その後、11/1になると三法師を安土に移そうとしない信孝の違背から
秀吉は信雄を柴田を除く三家老合意で担ぐことを家康へ書状を出してる。

826 :人間七七四年:2015/09/06(日) 22:47:57.76 ID:N3NhDqdN.net
秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる

信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。

清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)

柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。

信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

827 :人間七七四年:2015/09/06(日) 22:52:57.04 ID:N3NhDqdN.net
雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえに利用しただけ
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。

清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)

三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。

10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。

秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか 10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。
日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。
(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある) 名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので
御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。
ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。 信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。 濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。 尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。

828 :人間七七四年:2015/09/06(日) 22:53:55.04 ID:2wa2gTgm.net
10/6 柴田→堀
秀吉批判の書状 清洲において誓った置目の条々に相違している。 仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが
御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。 誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。
我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して 信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして
守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。

家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である

佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。

信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。

丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。

1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部 同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。

信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。

829 :人間七七四年:2015/09/06(日) 22:56:13.26 ID:2wa2gTgm.net
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。

信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

信雄追放について イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが父の形見なのでと申し出た。関白殿はただちに、
その所領も他の国も有することまかりならぬ。汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略 じつに従順な姿勢で願ったというのに。
日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。

家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが
信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。
さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している)
そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。秀吉の野心を嗅ぎ取って柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。
それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄3を擁立。逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。
そして北条戦では家康の岡崎城には吉川広家を入れて接収し
関東移封を拒否できないようにしている。信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう

三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡 木造家の傀儡北畠信雄政権樹立 秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。

秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。

830 :人間七七四年:2015/09/06(日) 22:56:55.49 ID:HOKzhJ9k.net
菅沼遼太って、自分が秀吉より偉いし秀吉より頭がいいと思ってるんだね。

831 :人間七七四年:2015/09/06(日) 23:04:56.78 ID:FHKH5baF.net
菅沼君はスレタイも読めないんかね

832 :人間七七四年:2015/09/06(日) 23:20:24.89 ID:PyZqDLb4.net
菅沼くんはマヌケだから「スレタイの意味」が理解できない。
だから常に四面楚歌で袋叩きに遭っているのけれど、もちろんその事も理解できないw

833 :人間七七四年:2015/09/06(日) 23:30:58.14 ID:I6J7TAKH.net
スレタイ以前に日本語が読めない
何故なら秀吉の朝鮮出兵を憎む外国人だから

834 :人間七七四年:2015/09/07(月) 03:14:19.91 ID:xCGzn+u3.net
史料重視するし、勉強熱心だし、あと2つほど歯車が噛み合ってたら著名な研究者になってたんだろうな

835 :人間七七四年:2015/09/07(月) 08:28:14.86 ID:PayvNJKx.net
なんだ、大漁か

836 :人間七七四年:2015/09/07(月) 09:38:43.11 ID:AiqCRzOX.net
スレ違い長文コピペよりは菅沼の悪口の方がマシ。
菅沼遼太クン大漁おめでとう。これからもコテンパンに叩かれ続けてね。

837 :人間七七四年:2015/09/08(火) 00:01:17.81 ID:MnEXJ/S6.net
>>834
理性と品性が足らんかったなw

838 :人間七七四年:2015/09/08(火) 12:05:36.24 ID:5UYL5ufI.net
菅沼遼太の場合は勉強熱心じゃなくて揚げ足取りがしたいだけ
ゲスいゴシップ誌が政治家、芸能人などを叩くためにアレコレとネタを考えるのと同じ発想

839 :人間七七四年:2015/09/08(火) 16:05:18.83 ID:B+/dWAx3.net
まぁ本当に勉強熱心だったら論文書いて学会に持っていく位の事はするわな
それがお笑いレベルのチャチなモノであっても
専門家とパイプができるかもしれないし、そうすれば素人レベルでは見る事ができない
貴重な資料を目にする機会も得られるかもしれない
それをしないのは叩かれた事に激昂して意地張って長文ダラダラ書いてるだけだからだろうな

840 :人間七七四年:2015/09/09(水) 18:11:01.72 ID:5UCne7cw.net
専門とは言っても、歴史学者って趣味で調べてる大学教授や郷土資料館の役員や小説家だよ?
物理とは違って企業利益にならない研究だから、権威とかが殆ど無い世界
まぁ言いたい新説があるんならネットよりは学会のが間違いなく良いだろうけど

841 :人間七七四年:2015/09/09(水) 20:43:05.71 ID:rahhRsID.net
けど研究家同士のネットワークはあるだろ?
権威が無いのは同意だが逆に言えば敷居が低い
俺達みたいな素人がチャチな論説持ち込んでも受け入れて貰えやすい
研究家のネットワークに入る事ができれば
普通ならまず見る事のできない貴重な資料を目にする機会も得られるだろうし
何か新しい発見があれば情報も伝わってくる
本当に熱心に歴史を学んでるのなら、
こうしたメリットが期待できる学会ネットワークを利用するだろう?

842 :人間七七四年:2015/09/10(木) 14:13:41.34 ID:NbbamV6C.net
菅沼くんが学会デビューした場合の利益

菅沼くん
貴重な史料に触れられる
友達ができる

学者
珍しい生き物に触れる
忍耐強くなれる
人間の器が大きくなる

意外とイイかも?

843 :人間七七四年:2015/09/18(金) 19:30:10.70 ID:EbGiGh70.net
三河は古代からゴロツキの産地だでよお。壬申の乱にも
かりだされとった。

844 :人間七七四年:2015/09/19(土) 08:54:32.82 ID:dr4b3jp7.net
まぁ地元民だが豊田とか岡崎とか治安悪いイメージはあるな

845 :人間七七四年:2015/09/19(土) 16:36:30.03 ID:SJxo37Op.net
家康が嫌われてるってより三河が嫌われてるってのが正しいのかもしれない
俺は三河人だけど三河が嫌われる理由はなんとなく分かる

846 :人間七七四年:2015/09/19(土) 18:04:54.78 ID:dr4b3jp7.net
西三河はなんてゆーか田舎コンプで卑屈になってるイメージ
東三河はやたらテンションが高いイメージ

847 :人間七七四年:2015/09/20(日) 07:33:43.32 ID:GaqYQ+LE.net
東三河人は流星落ちた時にオナニーしてればみんな超能力者になれるからな

みんな!エスパーだよ!

848 :人間七七四年:2015/09/22(火) 13:14:43.81 ID:nnmSWfSu.net
現代社会においても稼ぐ力でかなわないだろうが


富裕層が住む街 首都圏編 http://aurora1025.blogspot.jp/2014/02/area-in-which-wealthy-live-volume-on.html?m=1
富裕層が住む街 関西編 http://aurora1025.blogspot.jp/2014/02/area-in-which-wealthy-live-volume-on_6.html
富裕層が住む街 中京編 http://aurora1025.blogspot.jp/2014/02/area-in-which-wealthy-live-volume-on_18.html?m=1

市町村別平均年収ランキング(注意、東京都港区が抜けている)

01横浜市青葉区__:741.1万円21東京都渋谷区__:617.6万円
02東京都千代田区_:716.1万円22三河県豊田市__:616.9万円
03横浜市都筑区__:705.3万円23さいたま市緑区_:612.6万円
04東京都中央区__:670.6万円24千葉市緑区___:611.4万円
05三河県みよし市_:670.5万円25川崎市宮前区__:610.8万円
06さいたま市浦和区:667.1万円26三河県幸田町__:610.0万円
07三河県田原市__:659.5万円27神奈川県逗子市_:609.1万円
08三重県東員町__:658.3万円28三河県刈谷市__:607.1万円
09千葉県白井市__:653,1万円29横浜市泉区___:606.0万円
10千葉県浦安市__:646.4万円30三河県安城市__:604.5万円
11大阪府豊能町__:641.8万円
12千葉県印西市__:641.0万円
13川崎市麻生区__:639.0万円
14兵庫県猪名川町_:634.3万円
15東京都目黒区__:633.2万円
16三河県吉良町__:631.6万円
17東京都文京区__:630.3万円
18兵庫県芦屋市__:627.7万円
19兵庫県三田市__:625.4万円
20神奈川県鎌倉市_:622.6万円

849 :人間七七四年:2015/09/22(火) 13:16:50.79 ID:nnmSWfSu.net
>岡崎、豊田
まさに日本の上級国民ですな


日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)

公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子

武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)


細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)

氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)

大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)

氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)

850 :人間七七四年:2015/09/22(火) 13:20:17.64 ID:nnmSWfSu.net
標準語とは日本の上級国民、三河武士の言葉である
関東に君臨したのも江戸時代に始まった事ではない


有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所

■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い

■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む

■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む


家康入城前の江戸城主は富永直勝

三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼

851 :人間七七四年:2015/09/22(火) 13:21:10.77 ID:nnmSWfSu.net
静岡大教授の山口幸洋さん(68)の研究によると、東京語と三河県岡崎市
の話し言葉のアクセントは90%が一致しているという。同県豊橋市では70%▽名古屋市
と静岡県浜松市では60%▽関西は約30%。山口さんは「武士は、開幕以前からあった
関東土着の庶民言葉を一段低く見ており、武家言葉に混じることはなかったと思う。
つまり、標準語は400年前の純粋な三河弁の流れをくむ」と説明する。

852 :人間七七四年:2015/09/22(火) 13:57:58.06 ID:F1SvksZR.net
>>1
大阪人が家康についてネガティブキャンペーンを行ない続けてきたから
これがFA

853 :人間七七四年:2015/09/24(木) 11:56:51.31 ID:0YxAejF8.net
秀吉最大の水攻めと言えば
小牧長久手での徳川軍を殲滅し
報復した時のが最高峰。

フロイス日本史

羽柴が参加したかの(小牧の)戦における敵軍(家康・信雄の軍勢の一部)は、
ほとんど難攻不落と思われた一城(竹ケ鼻城)に籠もったが、
秀吉は敵軍を水攻めにして溺死させることを決意した。
そのために土塀に似た方法で、きわめて深く広く、
周囲が二里近くもあると言われる鞏固な堤をもって
彼らを包囲し、さらに堤の中に水量の多い大河の水を引き込んだ。
この川は、その自然の流れから人工的に取り入れたものであった。
河水は周囲の地をことごとく水浸しにして行き、
もはや城内も浸水し始めたと言われた。
こうした恐怖を前にして、包囲された人たちは、
相手に多くの有利な条件を示して助命を乞うたが、
羽柴はそれに耳を傾けようとはしなかった。
だが結局、羽柴は有利な条件で和を講じ、
信長の息子なる御本所(信雄)が有していた三カ国のうち
一国半を召し上げ、人質としては御本所の一人の娘、
および三河国主(家康)の息子を手に入れた。
(略)
羽柴筑前殿は、戦争においても平和の際にも、その為すことはことごとく成就し、
日本人の談によれば、その偉大さ、ならびに領土の広大さは、前任者(信長)を凌駕した。
(略)
羽柴(秀吉)が尾張での戦争から戻ると、
坂東地方の幾人かの武将は、彼の成功を見、
友好関係を結ぶを得策と考えて投降した。
そこで秀吉は1584年(天正12年)12月の末に都に行き、
そこで人々から絶大な喝采ならびに歓喜に接した。


いくら秀吉を貶そうとも耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。

854 :人間七七四年:2015/09/24(木) 11:57:20.04 ID:0YxAejF8.net
伊木文書

如此申遣候處、家康儀頻懇望候間、人質請取相済候、可被得其意候、態申遣候、

一 此表之儀、長嶋・桑名押詰、城々数ヶ所相拵、即縄生城(伊勢国)に秀吉令越年、
  長嶋一着申付候ハん躰を信雄被見及、就衍懇望、令同心相済候条之事、

一 人質覚、信雄御實子併源五殿(有楽斎)實子・滝川三郎兵衛尉(雄利)・中川勘右衛門尉・佐久間甚九郎(正勝)
  ・土方彦三郎(雄良)・松庵(雑賀)以下、何も實子又は母出人質、何様にも可為秀吉次第由被出誓帋事、

一 北伊勢四郡相渡、今度拵候城々、敵味方破却之事、

一 於尾州者、犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)秀吉人数入置、其外新儀に出来候城々、敵味方破却事、

一 家康儀、之又同前懇望候、雖然今度信雄若人を引入、対秀吉重々不相届儀候条、即三州表押詰、
  存分に可申付覚悟候處、家康實子・石川伯耆以下出人質、何様にも可為秀吉次第由候、併信雄御外聞候間、
  侘言由、種々信雄懇望候へ共、秀吉対家康存分深候間、思案未落着、就不免置者、日來可散無念雖心底候、
  莵角打任躰にて候を聞候えば、我々慈悲成覚悟にて候条、過半可免候歟、心中難計候事、

一 右之分候えば、悉隙明候条、五三日中可納馬候、猶追々可申候也、

十一月十三日 秀吉 朱印

伊木長兵衛尉殿(忠次)

同文で他にも池田丹後入道&荒尾次郎作宛てや土蔵四郎兵衛尉宛てなどが存在するので偽文書の疑いはない。



他にも下記のような書状もある。
態令啓候、此表之儀御無事相調、去十五日に三介殿被成御参会、即、十六日に秀吉様御馬被納候、
今度御入魂之御仕合中々不大形儀候、天下静謐之段誠以珍重存儀候、家康近日人質可被出之由候間、
定而其節は各可為御甘与令察候、此中御苦労不及是非候、次尾州表為城破、拙者可罷越之由被仰出候、
被成御意候處、又御用被仰付罷帰候、何篇此方へ御帰之刻、旁々可承候間、不能詳候、恐々謹言、

十一月十七日 小野C重次(花押)

藤堂高虎様 人々御中

855 :人間七七四年:2015/09/24(木) 12:14:13.17 ID:l8v6Gjvh.net
如水だか広家だかが「私はそう思いませんが先の上様は世間の評判が悪い人でしたから」と言っている件

856 :人間七七四年:2015/09/24(木) 13:03:07.89 ID:pCdk2AHN.net
ソースがあやふやな話でどや顔されてもねえ

857 :人間七七四年:2015/09/24(木) 21:15:36.15 ID:D3L1oj+N.net
関ヶ原や大坂だけの家康を家康から遠い立場の人間視点で描くことが増えた
家康死後の政策も家康の意向みたいになってる

858 :人間七七四年:2015/09/25(金) 12:39:49.50 ID:OrOe7fbB.net
>>853

フロイスの小牧長久手の記事のデタラメ&捏造っぷり。

フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる

859 :人間七七四年:2015/09/25(金) 12:40:50.32 ID:OrOe7fbB.net
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。

860 :人間七七四年:2015/09/25(金) 12:42:15.80 ID:b99G9A4s.net
フロイスに書かれてる小牧長久手の記事の捏造

根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
             ↓
これ一次資料に全くない大嘘だし秀吉が外交喧伝で一回書いたっけ?

秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
             ↓
秀吉が伊勢に入って落としたのって峰城と神戸城と松ヶ島城くらいじゃん。これも武力で落としたのではなく
信包や田丸、津川、八重羽、岡本、関、小島ら地元の諸侯が寝返って落ちただけだし。

敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
            ↓
桑名城や戸木城や松ヶ島城、浜田城は全く落ちてないけど城じゃなかったという事か?

秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
               ↓
秀吉は3月に伊賀にはいない(3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したと書いてる)
その後3/21に美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)
24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)   27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)  29日に木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽 と非常に遅い速度で進軍。
犬山城を落したのは秀吉ではなく池田と森(3/26秀吉→佐竹書状)
犬山城主の中川が伊勢に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)

全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
                 ↓  
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
秀吉は岐阜方面から南下して木曽川を渡って犬山を攻略したのに異常レベルな妄想だな

御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した
              ↓
信雄は3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)尾張の国境地帯の陣地にはいない

羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し
              ↓
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想

861 :人間七七四年:2015/09/25(金) 12:42:42.34 ID:OrOe7fbB.net
そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
                     ↓    
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない

(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
              ↓
そんな事やった形跡ないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない

そして事態はそのように展開した。
       ↓
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない

すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
     ↓
そんなこと全くやってない

羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
                 ↓
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う

これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
                ↓
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる

三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
                  ↓
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の 巳〜午の刻。

三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
                 ↓
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている

862 :人間七七四年:2015/09/25(金) 12:43:34.19 ID:LVUIzDls.net
>伊木文書
>
>如此申遣候處、家康儀頻懇望候間、人質請取相済候、可被得其意候、態申遣候、
>
>一 此表之儀、長嶋・桑名押詰、城々数ヶ所相拵、即縄生城(伊勢国)に秀吉令越年、
>  長嶋一着申付候ハん躰を信雄被見及、就衍懇望、令同心相済候条之事、


これだけで秀吉の書状の内容のハッタリっぷりがよくわかるな。
まず第一にこの書状で秀吉は即縄生城(伊勢国)に秀吉令越年、長嶋一着申付候ハん
などと書いているが、
秀吉の10/28丹羽長秀宛書状には
此表二二十日計も隙入可申候条、執出出来次第、至大阪可納馬候
更に11月10日秀吉→大井 秀吉→土井 秀吉→には
執出数か所相拵、悉明隙候条、頓而可納馬候と書いてるし
11月11日の秀吉→津田  宛先不明書状でも
此表儀取出以下丈夫二相拵、悉明隙、二三日中可納馬分候
などと書いていて秀吉は納馬予定だったのがわかる。

第二に秀吉は、人質請取相済候などと大嘘を書いてるが
これは小野木秀次の11月17日の書状で論破済みだ。
11/17小野木→藤堂書状 家康近日人質可被出之由候間  つまり家康は11月17日時点でも人質を出していないのに秀吉は13日に人質を出したなどと大ぼらを吹いてるんだよ。
さらにこの書状によると
去15日に三介殿被成御参会、則十六日二秀吉様御馬被納候、今度御入魂之御仕合、中々不大形儀候
と書いていて秀吉と信雄の間は「入魂」といって親密な仲、つまり仲間のような関係であって臣従したわけではない事がわかる。

863 :人間七七四年:2015/09/25(金) 12:43:57.93 ID:OrOe7fbB.net
>>854
それは明らかに秀吉の誇大喧伝
9/23の織田信雄書状には

追而染筆候、羽柴此中無事之事、色々雖懇望候、一切無許容、此節可遂本意覚悟無二候間などと全く逆の事を書いていて
一方秀吉は9/8丹羽宛書状、前田あて書状  9/9秀吉→あて先不明 書状などで 信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などと真逆の事を書いていて
どちらが正しいのかと検証すると、秀吉はなぜか9月の時には11月と同条件の信雄の懇望を許さず
11月には許すという間逆の行動をとっている上に、秀吉はhttp://iup.2ch-library.com/i/i1495793-1440639248.jpg
のように天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼してる

この事から言えるのは秀吉に言ってる事は誇大喧伝ばかりで、家康や信雄の子を養子として取ったのを人質として取ったという事だけ。
秀吉の小牧長久手の戦果の誇大っぷりは下記の学者も指摘してる

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

864 :人間七七四年:2015/09/25(金) 12:47:29.58 ID:OrOe7fbB.net
>>854
下記の史料に見られるように秀吉は本願寺顕如に土下座して家康や信雄とのとりなしを懇願してる
http://iup.2ch-library.com/i/i1513560-1443152780.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1513561-1443152827.jpg
上記の史料を見ればわかるが、和議自体秀吉が信雄に負けまくり
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
秀吉は雑魚の信雄に敵の8倍の兵力で挑みかかって大敗し
11/4に顕如に土下座して信雄との停戦の取り成しやってもらって
家康を孤立させた癖に家康相手にも自力では全く何もできず
寝返りの連鎖・天正11年からの災害の連発に備えた徳政令連発・石川らの離反による軍事機密露見で
領国が崩壊した自国の10分の1以下程度の国力の家康に必死に土下座して、従ってくれ〜と母や妹に加えて関東240万石まで差し出すヘタレっぷり。
結局自力では全く歯がたたないから滅ぼされたってだけの事だろ。
家康が温情深い性格だから、自分に土下座してきた相手だから仕方ねぇって家康は何もしなかっただけ。
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。

865 :人間七七四年:2015/09/25(金) 12:52:52.29 ID:OrOe7fbB.net
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。

866 :人間七七四年:2015/10/01(木) 13:24:20.48 ID:3ov7ep/f.net
秀吉が狂ったのは大阪を本拠地にしたからだよ
あの地の住人は一向宗狂信者の根城だったわけで、頭がおかしい

尾張と長浜で育てられた秀吉は、大阪で貯金を使い果たし、発狂してしまった

867 :人間七七四年:2015/10/01(木) 13:39:53.45 ID:3ov7ep/f.net
露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢

     \   r'´ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄ ̄`、::.   ___
   l} 、::       \ヘ,___,_ ______/::.__|    .|___________
   |l  \::      | |             |、:..  |[], _ .|:[ニ]:::::
   |l'-,、イ\:   | |    ∧,,,∧ .   |::..   ヘ ̄ ̄,/:::(__)::
   |l  ´ヽ,ノ:   | |   (´・ω・`)    ,l、:::     ̄ ̄::::::::::::::::
   |l    | :|    | |,r'",´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ、l:::::
   |l.,\\| :|    | ,'        :::::...  ..::ll::::    そうだ
   |l    | :|    | |         :::::::... . .:::|l::::   これは夢なんだ
   |l__,,| :|    | |         ::::....  ..:::|l::::    ぼくは今、夢を見ているんだ
   |l ̄`~~| :|    | |             |l::::   目が覚めたとき、
   |l    | :|    | |             |l::::   ぼくはまだ39歳
   |l    | :|    | |   ''"´         |l::::   起きたらねねがいてお母ちゃんがいて小一郎がいる
   |l \\[]:|    | |              |l::::   朝ご飯を食べて、信長様に命じられた仕事をしに行くんだ
   |l   ィ'´~ヽ  | |           ``'   |l::::   午後から半兵衛と一緒に長浜を視察するんだ
   |l-''´ヽ,/::   | |   ''"´         |l::::
   |l  /::      | \,'´____..:::::::::::::::_`l__,イ::::

868 :人間七七四年:2015/10/01(木) 13:40:03.73 ID:wN3Q0ZBs.net
秀吉が大阪を本拠地にしたと思ってるヤツの
スレ違いな
能書き

869 :人間七七四年:2015/10/01(木) 13:44:49.51 ID:3ov7ep/f.net
1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/14 18:54:04 ID:P6Azl3VA

秀頼は秀吉の子供ではないのではないか。
側室が大勢いた中で淀の方だけが立て続けに2人も産んでいるのは不自然だ。
また秀吉が矮小な男だったのに対し、秀頼は偉丈夫だった。
顔も全く違ったようだ。

大野治長は淀の方と何度も密会していたようだが
彼こそが本当の父親では無いだろうか。

北政所も秀頼が秀吉の子供では無いと思っていたから
あんなにあっさりと家康に靡いたのではないか。

870 :人間七七四年:2015/10/01(木) 16:45:45.06 ID:wJYhH2yO.net
都合が悪いとすぐ秀吉の誇大宣伝と喚き散らす癖に

家康の明らかな誇大宣伝は事実だと主張するキチガイ織田在日

871 :人間七七四年:2015/10/01(木) 17:22:48.62 ID:wsNQHvpw.net
いまだに、北の政所が家康側についたと思っている者がいる。

872 :人間七七四年:2015/10/01(木) 17:30:14.03 ID:mYWOiFT8.net
偏向捏造歪曲大好きアンチ秀吉のいつもの織田厨だろ

873 :人間七七四年:2015/10/01(木) 18:34:27.96 ID:au6Msx7t.net
いいからさっさと論文書いて学会で発表して来いよ

874 :人間七七四年:2015/10/01(木) 23:54:08.87 ID:GK1m+z+F.net
>>870[
秀吉の書状を誇大喧伝とする根拠は>>863-864にキチンと書いてるけど
家康の書状の内容は明らかに喧伝じゃなくて事実

根拠は下記

4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。


松井康之書状  

家康こまき山を夜籠二出、右の衆へ切懸、一戦に而池紀父子・森小蔵・木下助左・木下勘解由、此衆打死候、其他諸卒大方うたれ申候


大方=大部分という意味だから
諸卒は大部分が家康と信雄に殺された事がわかる。

875 :人間七七四年:2015/10/02(金) 06:50:52.72 ID:MH+GvLmC.net
なるほど。これが菅沼遼太の自演荒らしか。

876 :人間七七四年:2015/10/03(土) 21:51:38.32 ID:c/tOdhkk.net
甲斐源氏って清和源氏の中でも中の下くらいのレベルだろ
それを名門ってw

877 :人間七七四年:2015/10/04(日) 07:15:48.35 ID:xIUoDzj3.net
>>867で全米が泣いた

878 :人間七七四年:2015/10/06(火) 22:53:13.58 ID:k0LMC+nl.net
明治以降の政策失敗も全て江戸幕府に責任転嫁すればいいのだから楽だよねえ

879 :人間七七四年:2015/10/07(水) 14:01:47.03 ID:u3NV2q8R.net
しかも1616年に死んだ家康の責任にしちゃうんだから
凄すぎる

880 :人間七七四年:2015/10/07(水) 18:34:25.09 ID:FiJnCgXY.net
しかし、瀬名姫に酷い仕打ちをした挙句殺したのはまごう事なく家康の責任

881 :人間七七四年:2015/10/07(水) 20:04:16.58 ID:hfjNAAjW.net
為政者が家の為に家族を殺すのは褒められる話だよ

882 :人間七七四年:2015/10/07(水) 20:45:40.51 ID:lerBYtE4.net
家臣もその家族もいるわけだからな
関ヶ原の大谷刑部みたいな行動のほうがよくわからない

883 :人間七七四年:2015/10/10(土) 08:16:58.75 ID:pvXKXWdU.net
信康が生きていたら、は本音だったかも

884 :人間七七四年:2015/10/11(日) 13:33:16.62 ID:mUYkgLgs.net
逆に家康の良い所って?

885 :人間七七四年:2015/10/11(日) 15:28:13.99 ID:wb2K5wA/.net
お前に説明してもわからないだろう

886 :人間七七四年:2015/10/11(日) 16:47:43.90 ID:mUYkgLgs.net
説明出来ないからってその言い草はないだろう

887 :人間七七四年:2015/10/11(日) 18:25:58.34 ID:/SmOf7Yo.net
家康の良いところねぇ・・・
徳川300年、戦争の無い時代を作ったのは評価されるべきだろうけど
現代人の目から見るとあんまロクな時代とは言えないんだよなぁ
今川氏真とか織田信雄みたいなのをそれなりに厚遇したところくらいかなぁ

888 :人間七七四年:2016/01/10(日) 07:07:59.08 ID:7Gjvzge7t
日本の偉人 偉業を全て贋物だというキャンペーンがチョンコと左翼学者により拡散されている。

頭の良い奴は分かっている

889 :人間七七四年:2016/08/23(火) 13:47:56.78 ID:W3+JbRwAC
詐欺師だから

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