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【秀頼】 大坂の陣総合スレッド 3 【家康】

1 :人間七七四年:2015/08/02(日) 22:39:09.43 ID:KpDjSjIw.net
慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権内部の対立が激化し、慶長5年9月15日には関ヶ原合戦が起こり、徳川家康率いる東軍と石田三成ら西軍が激突。
この合戦に勝利した徳川家康は慶長8年2月12日に征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きます。
けれども大坂城には秀吉の遺児豊臣秀頼が母淀殿とともに未だ健在で、徳川家を凌ぐ権威を保持したまま君臨していました。
この豊臣家と徳川家という二大権力の最終決着戦となり、戦国時代最後の大合戦となったのが「大坂の陣」です。
慶長19年10月〜12月には「大坂冬の陣」、翌20年5月には「大坂夏の陣」が起こり、慶長20年5月7日に大坂城は落城し、翌8日に秀頼・淀殿が自害して豊臣家は滅亡しました。

大坂の陣400年天下一祭
http://www.osakanojin400.com/
大坂の陣歴史検定 公式サイト
http://www.kentei-uketsuke.com/osakanojin/
大阪城歴史トークライブ《大坂冬の陣》
http://www.mbs1179.com/fuyunojin/

前スレ
【陰謀】 大坂の陣総合スレッド 2 【南禅寺】
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1337983344/
【冬】大坂の陣総合スレッド【夏】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1233143817/

大坂の陣への軍事考察
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1233315874/
大坂の陣で豊臣家が幕府軍に勝利する方法
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1201589307/

2 :人間七七四年:2015/08/02(日) 22:39:38.92 ID:KpDjSjIw.net
明石全登
幕府に依る激烈な禁教令下に集まったキリシタン部隊の中心人物。
鉄砲指揮から部隊指揮までなんでも出来る名将中の名将。
関ヶ原では杭瀬川の戦いでの指揮、福島粉砕劇など華々しい活躍をみせている。
戦後執拗な明石狩りが行われた。

長曽我部盛親
元大名。関ヶ原では西軍として活躍している。
大部隊を指揮した事がある数少ない武将であり、その点期待されていた。
藤堂隊を破るなど活躍をみせた。

大野治長
事実上の総大将。兄弟治房・治胤が戦場に立つ中秀頼を補佐。
後に和平交戦と意見をころころ変えたため兄弟仲は決裂。
最後は秀頼と自害。豊臣宰相としての器は足りなかったようだ。

真田幸村
昌幸の息子。真田丸を築き武功をあげる。
籠城を決められる際に宇治川−瀬田川ラインでの野戦主張などをしていたが実際それが有効かは未知数。
道明寺の戦いでは伊達政宗と戦い、天王寺口の戦いでは家康本陣を崩した。

毛利勝永
父は豊臣古参大名の勝信。
関ヶ原では伏見城の戦いにおいて、格別の働きにより首脳たちより感状を受けている。
天王寺口の戦いでは、次々と敵陣を突破して家康を追い詰め、
大坂城への生還を最後に果たす。

大野治房
治長の弟。主戦派の中心人物。本町橋の夜襲戦を成功させる。
大部隊の指揮は未熟だったが、岡山口の戦いでは秀忠に奇襲を仕掛け、
豊臣勝利寸前の処にまで持ち込む。
生死不明で幕府は長く探索を行った。

後藤基次
軍功豊富な事実上の参謀長。
大野治房を戦術面で補佐し、遊撃部隊としても活躍した。
道明寺の戦いでは先鋒を務め、進軍に不慣れな後続が遅れる中で、
幕府軍の先鋒大将水野勝成の大軍と長時間渡り合った。

木村重成
秀頼の元小姓。開戦論に関わった一人。遊撃部隊を率いる。
基次と共に今福の戦いでは佐竹を破り、真田丸の戦いにも加わった。
若江の戦いで叔父宗明と共に藤堂、井伊に大打撃を加えた。
木村・後藤の残存兵が、天王寺口の戦いで、勝永・幸村に道を開いている。

3 :人間七七四年:2015/08/02(日) 22:40:06.88 ID:KpDjSjIw.net
冬の陣(鴫野の戦い)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bc/Battle_of_shigino_ja.png

冬の陣(今福の戦い)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Battle_of_Imafuku_ja.png

大坂冬の陣布陣図
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/3/31/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%86%AC%E3%81%AE%E9%99%A3.png

夏の陣(小松山の戦い)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/Battle_of_Domyoji_1of2_ja.png

夏の陣(誉田の戦い)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ab/Battle_of_Domyoji_2of2_ja.png

夏の陣(八尾・若江の戦い)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2f/Battle_of_YaoWakae_ja.png

夏の陣(天王寺・岡山の戦い)布陣図
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/95/Osaka_no_eki_summer.png

4 :人間七七四年:2015/08/02(日) 22:41:58.73 ID:KpDjSjIw.net
慶長5年(1600年)、家康は豊臣家の蔵入地220万石を、摂津・河内・和泉の約65万石を残し、東軍諸将に配分。

慶長6年(1601)、福井城が諸大名により普請。藤堂高虎が膳所城普請。池田輝政が姫路城普請。浅野幸長が和歌山城普請。

慶長7年(1602)、本多忠勝が加納城、高虎が二条城を普請。

慶長8年(1603年)、2月、家康は伏見城で征夷大将軍に就任、江戸幕府を開く。江戸城普請。
同年7月、徳川秀忠の娘である千姫が、秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入。

慶長7年(1604年)、京極高次、藤堂高虎らにより、彦根城普請。

慶長10年(1605年)、正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗ら奥羽の大名を加え10万以上の大軍を率いて上洛。
同年4月、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲る。秀頼は右大臣。

慶長11年(1606年)、諸大名により江戸城増築。

慶長12年(1607年)、結城秀康死去。
同年12月、駿府城失火。池田輝政、加藤嘉明らが普請。

慶長13年(1608年)、高虎が伊勢・伊賀22万石に移封、安濃津城普請。
片桐且元が、秀頼による85件にものぼる寺社普請の1つ、方広寺再建を命じられる。

慶長14年(1609年)、高虎が亀山城を普請。

慶長15年(1610年)、大久保長安、加藤清正ら諸大名により名古屋城普請。

慶長16年(1611年)3月、後陽成天皇の譲位を受けての後水尾天皇即位に際して家康が上洛。
二条城で秀頼が、反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり家康と会見。
同4月、家康は在京諸大名に、幕府の命令に背かないという誓詞を提出させる。ただし、秀頼からは誓詞を提出させていない。
高虎が伊賀上野城を拡張。
浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正、死去。

慶長17年(1612年)、3月、岡本大八事件採決。本多正純一派は一時その勢力が衰退。一方で旗本に棄教令。
東国諸大名に誓紙を提出させる。

慶長18年(1613年)、2月、金地院崇伝がバテレン追放の文を起草。全国的な教会打ち壊しや主だった教徒の国外追放の開始。
大久保長安「金の棺」事件。正純一派が復権し、長安一派を粛清。
片桐且元が家康の命により、秀頼の領地より1万石の加増。
池田輝政・浅野幸長死去。

慶長19年(1614年)、4月、且元が、南禅寺長老の文英清韓に銘文を選定させた半鐘が完成。
同5月、前田利長死去。
且元が使者に立ち、方広寺の大仏開眼日を家康に具申。
同6月、イギリス・オランダに大砲、硝煙、鉛を注文。国友鍛冶に大鉄砲・大筒・石火矢の鋳造を命じる。
同7月、大坂城内にて織田信包が吐血死。
板倉勝重の報告により、家康が方広寺開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じる。
同8月、家康が南禅寺以下五山の僧及び林羅山に鐘銘文の見解を出させる。且元、大蔵局が別個に釈明。
同9月、家康が西国の大名から誓詞を提出させる。織田信雄、石川貞政が大坂城退去。
同10月1日、同日、家康が板倉勝重からの通報により出兵を命じる。片桐且元退去及び茨木城篭城。
同2日、秀頼が檄を飛ばし、諸大名の大坂蔵米を接収。
同7日、勝重大坂封鎖。長宗我部盛親は突破して入城。高山右近が長崎からマニラへ追放。
同9日、真田幸村・幸昌父子が、九度山脱出。
同11日、家康出陣。
同12日、大坂方が堺から鉄砲などを接収。
同16日、伊達政宗が江戸到着、秀忠軍先鋒を命じられる。
同19日、家康が西国諸大名に参陣命令。
同22日、家康二条城到着。
同11月4日、薄田兼相が平野焼討。
同11日、秀忠が伏見城到着。
同15日、家康・秀忠父子が京都を発ち、大坂へ着陣。

5 :人間七七四年:2015/08/04(火) 21:30:41.55 ID:Mi8FfqdQ.net
基次と勝永にはもっとしっかりと
評価されて欲しいものだ

6 :人間七七四年:2015/08/05(水) 10:28:37.60 ID:JNV1jUM6.net
大坂の陣で人攫いが多発したけどどこに攫われたんだろう?

7 :人間七七四年:2015/08/06(木) 07:38:56.01 ID:fcT+tkjz.net
家康が大名らに推奨したから
家族離散し全国津々浦々に連れ去られた。

8 :人間七七四年:2015/08/06(木) 19:38:47.20 ID:mCVzAMs7.net
ニダ

9 :人間七七四年:2015/08/20(木) 20:43:15.05 ID:yWTbtc1V.net
大坂の陣の時の徳川軍の大坂民衆大虐殺は本当に酷かったらしい

10 :人間七七四年:2015/08/20(木) 20:56:01.88 ID:GagBjnxs.net
ニダ

11 :人間七七四年:2015/09/02(水) 22:37:35.92 ID:KSRZNXSn.net
和睦をチラつかせて
相手の士気を削ぎながら
外堀を埋めていく

外堀を埋めるって慣用句になってるけど
語源の大坂の陣のスレで用いるのは難しいな

徐々に縛っていく
って感じか

12 :人間七七四年:2015/09/03(木) 23:01:54.08 ID:q57AgPnQ.net
>>11
真綿で首を締めるように

13 :人間七七四年:2015/09/21(月) 10:53:04.90 ID:+XwlyNTt.net
真田幸村の発案した通り京都に出撃して迎え撃てば
西軍有利に戦局を進められたんじゃないかと思う。

14 :人間七七四年:2015/09/21(月) 17:23:32.13 ID:KbCyzEqE.net
無理。
夏の陣では近場なのにまったく連携がとれず各個撃破されたわけで、
遠征なぞしたらもっとひどいことになるのが目に見えてる

15 :人間七七四年:2015/09/22(火) 10:19:44.27 ID:VYfmd8iy.net
そもそも京都なんて豊臣の領域でもなんでもない場所だからな
そんなところまで遠征できるわけがない

16 :人間七七四年:2015/10/01(木) 09:20:25.43 ID:az8/UmTJ.net
>>13
伏見も突破できねえよ

17 :人間七七四年:2015/10/03(土) 23:40:00.42 ID:p8+nc4TF.net
>>5
大野治房もな
いくらなんでも不当すぎる

18 :人間七七四年:2015/11/03(火) 06:45:02.23 ID:jmvZMOjh.net
徳川の豊臣いじめの集大成

19 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

20 :人間七七四年:2015/11/07(土) 20:49:54.89 ID:PT31fwD3.net
姫路に豊臣秀次の義兄の池田輝政、紀伊にこれまた秀次恩顧の浅野幸長を入れた段階で、
豊臣秀頼への嫌がらせ以外の何者でもない。実際に、池田、浅野は豊臣方より嫌がらせに
耐えかねて暗殺されたと言う説が有力だしね。

21 :人間七七四年:2015/11/07(土) 23:23:51.12 ID:AbTjC43c.net
どこが有力なんだよwwwww

22 :人間七七四年:2015/11/08(日) 07:00:25.74 ID:Szg3r0qD.net
国家安康の時点で秀頼がミスを認めて徳川家に恭順の意を示し、家康の目が届く関東かまたは岩手秋田青森の北東北に国替えしていたら、豊臣家も滅びなかったんじゃないの?

23 :人間七七四年:2015/11/08(日) 13:09:06.51 ID:ORUbHaBD.net
>>22
家を残したいなら領地を幕府にやって公家として生きればええ

24 :人間七七四年:2015/11/08(日) 13:40:57.71 ID:muhHw7jd.net
何百年の伝統を築き上げた名門家なら当人達にも家を残そうという意識も働いただろうけど
豊臣家なんて誕生したばかりの新興家だから
淀や秀頼も権力を諦めてまで家を残そうという発想はなかったのだろう
むしろ権力のない豊臣家なんて存在価値のない粗大ゴミくらいの感覚だから
淀や秀頼も迷うことなく大坂の陣に走ったと言える

25 :人間七七四年:2015/11/08(日) 17:28:28.57 ID:b1xX5AGj.net
>>22
関東か駿河あたりに国替えで江戸定府なら存続したんじゃないか。

26 :人間七七四年:2015/11/08(日) 17:40:25.80 ID:nTtqwEAD.net
自分が苦労したり親くらいが苦労しているとこ見て育っきて築き上げた家なら屈辱や忍従に耐えても残そうと頑張れるんだろうし、
累代続いて、次代への家政や外交の継承のノウハウが確立できている家なら処世もできるんだろうがな。

毛利の秀就とか、家臣に隠居させられた綱広とかもそうなんだけどさ、
そういう苦労や大変さを見ていないで、育っちゃっうと矜持ばかり高くなっちゃっててさ、
自分がいまあるものの価値を保つことがどんなに大変なことかが判らずに軽く見がちになるんだろうね。

27 :人間七七四年:2015/11/08(日) 18:17:03.44 ID:b1xX5AGj.net
最初から織田秀信並の扱いをしとけば、秀頼本人のためになったのにな。

28 :人間七七四年:2015/11/09(月) 12:17:02.33 ID:KHaJPgyo.net
織田は平家の傍流
徳川も源氏の傍流

しかも本当に平家や源氏の末裔かは怪しい

秀頼は源平藤橘以来なかった、朝廷から姓の下賜を受けた豊臣の本家本流
織田徳川とは身分が違う
おいそれと織田秀信と同程度ので扱いになど出来ない

29 :人間七七四年:2015/11/09(月) 19:04:16.31 ID:27GhJe3z.net
阿呆ですか。
毛利の先祖の大江広元は中原氏から大江氏に改姓してるし、
豊臣下賜は大江氏のときの手順を掘り起こして手本にしてるんですけどー。

30 :人間七七四年:2015/11/09(月) 19:46:55.79 ID:Loj5vuSN.net
>>28
じやあ、近衛家並みに3000石弱のこくだかでOK

31 :人間七七四年:2015/11/10(火) 02:16:07.73 ID:XfAvy9YY.net
>>28
源平は少なくとも天皇の父系子孫だし。

32 :人間七七四年:2015/11/10(火) 21:52:23.33 ID:Mxnt+2gz.net
豊臣なんて歴史も伝統もない姓を新しく作ってしまったから
権力が持てないなら別になくなってもいいかという意識が淀にも秀頼にも働いたんだろうな
それで自暴自棄になって母子そろっておかしな振る舞いを始めて自滅した

33 :人間七七四年:2015/11/11(水) 15:03:06.83 ID:nQ9qObZg.net
真田十勇士は実在したのかな?

モデルになった人物はそれなりにいたみたいけど

34 :人間七七四年:2015/11/11(水) 16:50:14.01 ID:S/IQq76U.net
実在しない

35 :人間七七四年:2015/11/16(月) 21:25:11.57 ID:hDu9nxmH.net
>>33
実在はしないかな?

三好兄弟は実在したみたいだけどね

36 :人間七七四年:2015/11/18(水) 14:48:31.76 ID:N6vtZ/km.net
大河ドラマ「真田丸」で、佐助が出るようです。

37 :人間七七四年:2015/11/18(水) 19:32:13.52 ID:xYFEt1gp.net
霧隠才蔵も出るのかね

38 :人間七七四年:2015/11/19(木) 18:31:24.06 ID:IKbKhr3C.net
>>13
東軍の主力はまだ遠いところにいたし
早めに動いていれば善戦は出来ただろうな

39 :人間七七四年:2015/11/19(木) 18:40:35.25 ID:iKzaHn25.net
>>38
まぁ、実際どうかはわからんけど淀やら大野やらがなぁ、幸村の作戦飲んでたら勝機はあったのにね

40 :人間七七四年:2015/11/19(木) 22:40:22.17 ID:PZ4zuJOu.net
そもそも単なる雇われ浪人に作戦の発案権なんてないから
まして淀たちは自分が天下人だと思っているから戦っているのに
身分の低い浪人の言うことなど聞けるわけがない
浪人側の作戦を飲むなら戦う理由が根本的に揺らいでしまうという矛盾を豊臣は抱えているわけ

41 :人間七七四年:2015/11/19(木) 23:15:28.21 ID:iKzaHn25.net
>>40
どっちにしても、秀頼終わってるやん。

42 :人間七七四年:2015/11/20(金) 01:16:18.43 ID:z977fcY7.net
つか昨日今日集まったばかりで編成云々で時間が必要だったのは豊臣方
先手を打つ自体机上の空論

43 :人間七七四年:2015/11/20(金) 06:36:46.75 ID:QOW4gxpj.net
じゃあどうやっても豊臣方は勝てなかったということですか?

44 :人間七七四年:2015/11/20(金) 07:34:56.34 ID:sYr5V2NX.net
淀と大野が癌だよね。本当
幕府主力軍が畿内入りするまでの1カ月間何もせず
敵が集まるのを待ってただけだったし

45 :人間七七四年:2015/11/20(金) 08:20:41.27 ID:co12XW+q.net
>>43
太平洋戦争で日本がアメリカに勝利する程度の可能性はあったんじゃないw

46 :人間七七四年:2015/11/20(金) 09:21:14.35 ID:2UTfGLhG.net
幕府軍より先に兵糧弾薬が尽きはじめてるようじゃ話しにならない。

47 :人間七七四年:2015/11/20(金) 09:24:22.97 ID:1crn29sI.net
>>46
仕方ない、家康さんにうまくのせられて、色んな所に寄進しまて財力削らされたからね

48 :人間七七四年:2015/11/20(金) 09:25:33.86 ID:1crn29sI.net
>>40
つか、その浪人たちを仮でも正規雇用してやれば良かったのでわ?

49 :人間七七四年:2015/11/20(金) 10:29:08.49 ID:z977fcY7.net
その浪人たちに任せた夏の陣ではまったく連携取れずに各個撃破されてぼこられたんだが

50 :人間七七四年:2015/11/20(金) 10:55:58.37 ID:2UTfGLhG.net
>>47
その辺り見ても豊臣家に戦うつもりが全くなかったことがわかるよね。
和平恭順軟着陸路線に賭けたのはわかるし、結果が悪くてもそれが正しかったとも思うけど、いざ破綻した時にはどうしようもなくなる。
だって合戦用の軍隊なんて鍛えてないんだから。

51 :人間七七四年:2015/11/20(金) 11:01:52.91 ID:co12XW+q.net
>>47
あれは豊臣家の意志で、寺社仏閣への寄進は天下人の義務という発想に基づくもの

52 :人間七七四年:2015/11/20(金) 12:13:12.82 ID:NPIzt+WZ.net
>>49
そりゃあ連携とれんやろ?恩賞なしだとさ、正規雇用してやるって約束してやれば連携取れたかもしれんけどね

53 :人間七七四年:2015/11/20(金) 12:15:03.00 ID:NPIzt+WZ.net
>>50
まぁ、和平路線が崩壊するってのを考えて無かったんでしょうね

あと国替えに応じてたら良かったのにと思うんだけどね

54 :人間七七四年:2015/11/20(金) 12:20:14.20 ID:z977fcY7.net
>>52
活躍したら正規雇用は当たり前だが?恩賞なしのソースって何?
現に豊臣は冬の陣と夏の陣の間に浪人を正規雇用するための加増を幕府に要請している

55 :人間七七四年:2015/11/20(金) 17:32:42.67 ID:zld8dki2.net
ヤクザ並みの因縁つけてまで潰しに来てるのに和議が成立するわけない
そんなことすら分からなかったのがそう責任者やってたというのがなあ

56 :人間七七四年:2015/11/20(金) 17:53:56.95 ID:yOBrY2+W.net
アホか。大坂の陣は誰がどう見ても豊臣からの挑発で始まってる

57 :人間七七四年:2015/11/20(金) 18:22:20.71 ID:BzM9eSa8.net
>>56 詳しく頼む

58 :人間七七四年:2015/11/20(金) 18:23:27.67 ID:zHLYlodN.net
>>54
いやいや、わしが言いたいのは幕府じゃなくて豊臣家が浪人を正規雇用を何故しなかったのかって事がいいたいんだよ

59 :人間七七四年:2015/11/20(金) 18:45:26.51 ID:z977fcY7.net
だから豊臣家が浪人を冬の陣の功績で正規雇用したわけで
でも60万石大名に落ちぶれてた豊臣家には多数の浪人に与える領地がないわけで
正規雇用したのに知行与えないわけに行かないので
豊臣家が幕府に豊臣家の領地を増やしてくれと頼み込んだわけ
ちなみに講和のときに加増を条件に入れたら蹴られたので2回目

60 :人間七七四年:2015/11/20(金) 19:28:53.63 ID:co12XW+q.net
>>57
56とは別人だが
・鐘銘は五山の僧が非礼と断じている
・豊臣家と徳川家の両属状態にある片桐且元を改易して、それを事後承認で幕府に伝える
・幕府が出兵を命じる前に浪人募集、兵粮・武器の集積を始める

61 :人間七七四年:2015/11/20(金) 20:02:44.61 ID:zHLYlodN.net
>>59
なるほど、教えていただきありがとうございます

62 :人間七七四年:2015/11/21(土) 01:28:49.87 ID:VPOBpCoA.net
秀頼が癌。

秀頼が何ができたとか、してきたというわけでもないのに、
それなりに安定した政治してきた実績のある徳川から離れる理由がないじゃん。

で、やからしたことが親父秀吉の最大の癌である朝鮮役、勝てなさそうなのに体裁のために
大名たち出兵させて疲弊させたことの二の舞いやりますよ、でまともな面子が集まるわけないだろ。

63 :人間七七四年:2015/11/21(土) 01:38:30.26 ID:irUXCaOf.net
総構え取り壊しさえなければ篭城できたろうにな
女官と淀殿さえいなければ・・・干殺しでも3年くらい耐えたというのに

64 :人間七七四年:2015/11/21(土) 01:57:11.61 ID:gtey7se+.net
方広寺鐘銘梵鐘の銘文を起草した清韓は実は本当にかくし題として意図的に「国家安康」「君臣豊楽」を考えたという話もある

65 :人間七七四年:2015/11/21(土) 06:20:41.83 ID:VPOBpCoA.net
>>63
で最後に自分の首と引き換えに、カツカツの男共の命乞いか。
そのほうが城内の人間ほっときっぱなしにして自分だけ隠れてコソコソ切腹より総大将らしくていいけどね。

66 :人間七七四年:2015/11/21(土) 08:32:07.94 ID:oNZOJZhw.net
>>63
年内には坑道戦術で惣構も破壊される予定
何より火薬が欠乏していて火力も消耗するだろうし

67 :人間七七四年:2015/11/21(土) 10:40:59.70 ID:UkrWyjUd.net
>>63
開戦してすぐに兵糧が尽きかけていました。
3年どころか半年もたない有り様です。

68 :人間七七四年:2015/11/21(土) 11:02:48.60 ID:lyCIg6tG.net
>>63
最大兵力の織田頼長ボイコット、南条元忠が内通で切腹、大野兄弟不和、三派閥対立と
城内の士気もボロボロで長期の籠城は無理でした

69 :人間七七四年:2015/11/21(土) 16:32:59.89 ID:c2GWyhbb.net
兵糧不足に陥ったのは徳川方。
当時は兵糧は現地調達だったこともあったし
20万人分の兵糧はなかなか厳しかったようだな

70 :人間七七四年:2015/11/21(土) 20:25:42.19 ID:oNZOJZhw.net
>>69
あれは人員を優先させたための一時的なもので、直ぐに大量の兵粮が送られていた
輸送も大坂は水運に恵まれた上に、その水運は完全に徳川方が掌握できたし

71 :人間七七四年:2015/11/21(土) 21:31:35.96 ID:sqRNqMr1.net
ねえよ。大規模な兵站が可能になったのは
世界的にも見ても近代に入ってから
それ以前は現地からの買い付けや略奪が主流
どれだけ日本は進んでたんだよw

72 :人間七七四年:2015/11/21(土) 22:30:55.76 ID:rbnDyd1C.net
小田原も勝つ見込み‥はさすがに無いが良い条件で講和にまではいけただろうに

73 :人間七七四年:2015/11/22(日) 03:49:51.43 ID:FCjZi4bG.net
石山本願寺の跡地だぞ
陸路での兵站線ではなく水路からでも補給できる
長陣になればなるほど大阪方有利だったのに・・・真田丸から長駆して
徳川方の大砲蹴散らせば伝説になったのにな幸村w

74 :人間七七四年:2015/11/22(日) 07:48:11.98 ID:n+aRVOeS.net
いや、幸村はそんなことしなくても現時点で十分伝説になってるし

75 :人間七七四年:2015/11/22(日) 07:58:47.36 ID:NlqmZzPX.net
小田原の陣も豊臣方が後半は兵糧不足に陥ってたからな
もう少し粘ればそれなりの条件を引き出せたかもしれないのに残念

76 :人間七七四年:2015/11/22(日) 08:49:11.69 ID:thCv20GH.net
>>71
水運が可能なら同時代の欧州でも大規模兵站は行われていたけど

77 :人間七七四年:2015/11/22(日) 09:06:00.72 ID:wxTUTihW.net
>>76
具体的には?欧州で数十万人規模の軍勢を賄える
兵站が行われてたとか聞いたことがない

78 :人間七七四年:2015/11/22(日) 09:13:23.18 ID:thCv20GH.net
>>77
先ず前提条件の修正として、兵数は日本では後方要員を含み、他では戦闘要員のみなので、数倍から場合よって10倍近い差がある

79 :人間七七四年:2015/11/22(日) 09:18:09.01 ID:AK5Eiqn5.net
>>75
でもさ忍城とかは落とせなかったしね

80 :人間七七四年:2015/11/22(日) 09:24:16.27 ID:thCv20GH.net
>>78
その上で『補給戦』では、マウリッツが二万五千近い兵(戦闘要員のみ)を動かす場合に、
河川を外れた場合は兵站の問題でその行軍に多大な困難を生じたとあるが、逆に言えば河川が近くにあれば、
兵站に問題は無かったことになる

81 :人間七七四年:2015/11/22(日) 09:44:02.59 ID:wxTUTihW.net
>>80
前提条件が違い過ぎると思うが
大阪城を囲んでた幕府軍は20万だったけど・・・

82 :人間七七四年:2015/11/22(日) 09:55:05.93 ID:NlqmZzPX.net
言っておくがヨーロッパ史はスレ違い。やるなら他でやれ

83 :人間七七四年:2015/11/22(日) 10:23:43.30 ID:thCv20GH.net
>>81
だから日本のは後方要員も含めた数

他には馬車や大砲の有無も指摘されるが、
大坂の陣では京都付近には運送用の牛車があり、
また家康は大砲を数百門単位で運用している

欧州でも大砲の輸送には水運を活用しており、
大坂の陣で大砲の大量運用を可能とした一因も、
水運が発達した場所故と言える

84 :人間七七四年:2015/11/22(日) 10:41:37.16 ID:AAlTs53h.net
大坂も小田原も補給不足が報告されてたのは序盤だけで後は解消されてた。

85 :人間七七四年:2015/11/22(日) 11:48:21.61 ID:wxTUTihW.net
>>83
後方支援って・・・
その理屈でいけば10万が篭る大阪城を包囲してた
徳川方の戦闘員は2〜5万ってことになるだろ

>>84
中近世で20万の軍勢を賄う兵站は不可能
補給路が確保されてても輸送力が圧倒的に足りない

86 :人間七七四年:2015/11/22(日) 11:51:44.69 ID:AAlTs53h.net
小田原はともかく大坂は日本一の米の集積地やで。まぁ菅沼系は何言っても聞かないだろうけど

87 :人間七七四年:2015/11/22(日) 12:32:36.48 ID:thCv20GH.net
>>85
侍と足軽に限定すればそんなもんだよ
そして槍持・甲冑持等がいる大坂方も似たようなもの

輸送力はありますよね、船が

88 :人間七七四年:2015/11/22(日) 13:17:53.40 ID:wxTUTihW.net
>>86
その米は豊臣方に接収されてたんだけどね
だからこそ現地調達の目論見がはずれ兵糧不足に苦しんだ
豊臣領外からも調達はしてたようだけど
当時の輸送能力じゃ20万人分は賄いきれなかった

>>87
戦闘してたのは侍と足軽限定じゃないけどね
船ねえ。当時の造船技術はかなり低かったし
幕府は初期から大型船を規制してたよ

89 :人間七七四年:2015/11/22(日) 14:12:02.18 ID:AAlTs53h.net
これから摂取する予定と書状には書いてたけど大部分は幕府側に行ったのよね
なぜなら大阪商人が幕府に味方したから、おかげで堺は焼き討ちされたけどね
実際に大坂米を分配したのは幕府側。書状も残っている
中近世は〜とか言ってるけど現地調達は現在でも活用かつ重視されてる
輸送だけで賄うのはコストがかかりすぎて現実的ではないからね

90 :人間七七四年:2015/11/22(日) 14:19:57.58 ID:+0xMlWY4.net
福島正則の兵糧を接収したりしたんだろ?
可哀想に豊臣恩顧ではあるけどもw

91 :人間七七四年:2015/11/22(日) 15:47:46.72 ID:thCv20GH.net
>>88
当時の最大である500石積みでも500石の米を運べるのだけど
20隻あれば1万石を輸送できることに成る

後、500石積みの制限は西国大名のみ

92 :人間七七四年:2015/11/22(日) 20:46:44.67 ID:qnY+rD32.net
>>90 あいつは本物の阿呆だったから自軍の食料をええかっこしたいがためだけに
回りの東軍にばらまくぐらいやってそうだけどな 酒飲んでたら尚更

93 :人間七七四年:2015/11/22(日) 21:24:05.09 ID:wxTUTihW.net
直轄領はそうだけど豊臣領の大部分の米は
豊臣方に接収されたよ。あの時点じゃまだ幕府軍は
遠く離れてたからね

>>88
当時の船って遅いんだよ
小田原攻めで秀吉が兵糧を用意させようとしたけど
上手くいかず兵糧不足になったし
九州平定の際も、瀬戸内海を使って行軍してたのに
兵糧不足に陥った

94 :人間七七四年:2015/11/22(日) 22:16:15.13 ID:thCv20GH.net
>>93
家康は11月28日に小堀政一に命じて蔵米8万石と
豊臣氏の没収知行米5万8千石を兵糧とするように命じている

九州征伐は内陸侵攻後の話
大坂は瀬戸内海と直結しているようなもの

95 :人間七七四年:2015/11/22(日) 22:26:05.15 ID:NlqmZzPX.net
兵站軽視は日本のお家芸
物量がものをいう時代になってからも精神論が優先されてた

96 :人間七七四年:2015/11/23(月) 18:46:36.97 ID:bUmPhUPI.net
>>94
>家康は11月28日に小堀政一に命じて蔵米8万石と
>豊臣氏の没収知行米5万8千石を兵糧とするように命じている

これ他でもない家康自身が兵糧を
現地調達しようとしてるってことなんですけど

>>94
直結してるようなものくらい海上交通の便がよくても
九州平定では兵糧不足に陥った
いかに当時の輸送力が脆弱かを表している

97 :人間七七四年:2015/11/23(月) 19:50:44.56 ID:/MjGxVBb.net
輸送してるってことはヘイタンの概念があるってことやん。
後の時代と比べて脆弱かどうかは別の話しやろ。

98 :人間七七四年:2015/11/23(月) 19:54:30.55 ID:KkNxFHAH.net
軍が崩壊してないのが兵站が機能して査証やね。いくら史料や理屈を曲解しても結果が付いてきてないね

99 :人間七七四年:2015/11/23(月) 20:31:04.55 ID:ef/GG/Kh.net
>>96
そりゃ近いに越したことはない
それに蔵米は備中辺りも含む

100 :人間七七四年:2015/11/24(火) 12:18:44.40 ID:WMSjQc40.net
戦国時代は現地調達がメインと習ったが違うのか?

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