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【秀頼】 大坂の陣総合スレッド 3 【家康】

1 :人間七七四年:2015/08/02(日) 22:39:09.43 ID:KpDjSjIw.net
慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権内部の対立が激化し、慶長5年9月15日には関ヶ原合戦が起こり、徳川家康率いる東軍と石田三成ら西軍が激突。
この合戦に勝利した徳川家康は慶長8年2月12日に征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きます。
けれども大坂城には秀吉の遺児豊臣秀頼が母淀殿とともに未だ健在で、徳川家を凌ぐ権威を保持したまま君臨していました。
この豊臣家と徳川家という二大権力の最終決着戦となり、戦国時代最後の大合戦となったのが「大坂の陣」です。
慶長19年10月〜12月には「大坂冬の陣」、翌20年5月には「大坂夏の陣」が起こり、慶長20年5月7日に大坂城は落城し、翌8日に秀頼・淀殿が自害して豊臣家は滅亡しました。

大坂の陣400年天下一祭
http://www.osakanojin400.com/
大坂の陣歴史検定 公式サイト
http://www.kentei-uketsuke.com/osakanojin/
大阪城歴史トークライブ《大坂冬の陣》
http://www.mbs1179.com/fuyunojin/

前スレ
【陰謀】 大坂の陣総合スレッド 2 【南禅寺】
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1337983344/
【冬】大坂の陣総合スレッド【夏】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1233143817/

大坂の陣への軍事考察
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1233315874/
大坂の陣で豊臣家が幕府軍に勝利する方法
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1201589307/

2 :人間七七四年:2015/08/02(日) 22:39:38.92 ID:KpDjSjIw.net
明石全登
幕府に依る激烈な禁教令下に集まったキリシタン部隊の中心人物。
鉄砲指揮から部隊指揮までなんでも出来る名将中の名将。
関ヶ原では杭瀬川の戦いでの指揮、福島粉砕劇など華々しい活躍をみせている。
戦後執拗な明石狩りが行われた。

長曽我部盛親
元大名。関ヶ原では西軍として活躍している。
大部隊を指揮した事がある数少ない武将であり、その点期待されていた。
藤堂隊を破るなど活躍をみせた。

大野治長
事実上の総大将。兄弟治房・治胤が戦場に立つ中秀頼を補佐。
後に和平交戦と意見をころころ変えたため兄弟仲は決裂。
最後は秀頼と自害。豊臣宰相としての器は足りなかったようだ。

真田幸村
昌幸の息子。真田丸を築き武功をあげる。
籠城を決められる際に宇治川−瀬田川ラインでの野戦主張などをしていたが実際それが有効かは未知数。
道明寺の戦いでは伊達政宗と戦い、天王寺口の戦いでは家康本陣を崩した。

毛利勝永
父は豊臣古参大名の勝信。
関ヶ原では伏見城の戦いにおいて、格別の働きにより首脳たちより感状を受けている。
天王寺口の戦いでは、次々と敵陣を突破して家康を追い詰め、
大坂城への生還を最後に果たす。

大野治房
治長の弟。主戦派の中心人物。本町橋の夜襲戦を成功させる。
大部隊の指揮は未熟だったが、岡山口の戦いでは秀忠に奇襲を仕掛け、
豊臣勝利寸前の処にまで持ち込む。
生死不明で幕府は長く探索を行った。

後藤基次
軍功豊富な事実上の参謀長。
大野治房を戦術面で補佐し、遊撃部隊としても活躍した。
道明寺の戦いでは先鋒を務め、進軍に不慣れな後続が遅れる中で、
幕府軍の先鋒大将水野勝成の大軍と長時間渡り合った。

木村重成
秀頼の元小姓。開戦論に関わった一人。遊撃部隊を率いる。
基次と共に今福の戦いでは佐竹を破り、真田丸の戦いにも加わった。
若江の戦いで叔父宗明と共に藤堂、井伊に大打撃を加えた。
木村・後藤の残存兵が、天王寺口の戦いで、勝永・幸村に道を開いている。

3 :人間七七四年:2015/08/02(日) 22:40:06.88 ID:KpDjSjIw.net
冬の陣(鴫野の戦い)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bc/Battle_of_shigino_ja.png

冬の陣(今福の戦い)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Battle_of_Imafuku_ja.png

大坂冬の陣布陣図
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/3/31/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%86%AC%E3%81%AE%E9%99%A3.png

夏の陣(小松山の戦い)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/Battle_of_Domyoji_1of2_ja.png

夏の陣(誉田の戦い)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ab/Battle_of_Domyoji_2of2_ja.png

夏の陣(八尾・若江の戦い)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2f/Battle_of_YaoWakae_ja.png

夏の陣(天王寺・岡山の戦い)布陣図
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/95/Osaka_no_eki_summer.png

4 :人間七七四年:2015/08/02(日) 22:41:58.73 ID:KpDjSjIw.net
慶長5年(1600年)、家康は豊臣家の蔵入地220万石を、摂津・河内・和泉の約65万石を残し、東軍諸将に配分。

慶長6年(1601)、福井城が諸大名により普請。藤堂高虎が膳所城普請。池田輝政が姫路城普請。浅野幸長が和歌山城普請。

慶長7年(1602)、本多忠勝が加納城、高虎が二条城を普請。

慶長8年(1603年)、2月、家康は伏見城で征夷大将軍に就任、江戸幕府を開く。江戸城普請。
同年7月、徳川秀忠の娘である千姫が、秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入。

慶長7年(1604年)、京極高次、藤堂高虎らにより、彦根城普請。

慶長10年(1605年)、正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗ら奥羽の大名を加え10万以上の大軍を率いて上洛。
同年4月、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲る。秀頼は右大臣。

慶長11年(1606年)、諸大名により江戸城増築。

慶長12年(1607年)、結城秀康死去。
同年12月、駿府城失火。池田輝政、加藤嘉明らが普請。

慶長13年(1608年)、高虎が伊勢・伊賀22万石に移封、安濃津城普請。
片桐且元が、秀頼による85件にものぼる寺社普請の1つ、方広寺再建を命じられる。

慶長14年(1609年)、高虎が亀山城を普請。

慶長15年(1610年)、大久保長安、加藤清正ら諸大名により名古屋城普請。

慶長16年(1611年)3月、後陽成天皇の譲位を受けての後水尾天皇即位に際して家康が上洛。
二条城で秀頼が、反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり家康と会見。
同4月、家康は在京諸大名に、幕府の命令に背かないという誓詞を提出させる。ただし、秀頼からは誓詞を提出させていない。
高虎が伊賀上野城を拡張。
浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正、死去。

慶長17年(1612年)、3月、岡本大八事件採決。本多正純一派は一時その勢力が衰退。一方で旗本に棄教令。
東国諸大名に誓紙を提出させる。

慶長18年(1613年)、2月、金地院崇伝がバテレン追放の文を起草。全国的な教会打ち壊しや主だった教徒の国外追放の開始。
大久保長安「金の棺」事件。正純一派が復権し、長安一派を粛清。
片桐且元が家康の命により、秀頼の領地より1万石の加増。
池田輝政・浅野幸長死去。

慶長19年(1614年)、4月、且元が、南禅寺長老の文英清韓に銘文を選定させた半鐘が完成。
同5月、前田利長死去。
且元が使者に立ち、方広寺の大仏開眼日を家康に具申。
同6月、イギリス・オランダに大砲、硝煙、鉛を注文。国友鍛冶に大鉄砲・大筒・石火矢の鋳造を命じる。
同7月、大坂城内にて織田信包が吐血死。
板倉勝重の報告により、家康が方広寺開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じる。
同8月、家康が南禅寺以下五山の僧及び林羅山に鐘銘文の見解を出させる。且元、大蔵局が別個に釈明。
同9月、家康が西国の大名から誓詞を提出させる。織田信雄、石川貞政が大坂城退去。
同10月1日、同日、家康が板倉勝重からの通報により出兵を命じる。片桐且元退去及び茨木城篭城。
同2日、秀頼が檄を飛ばし、諸大名の大坂蔵米を接収。
同7日、勝重大坂封鎖。長宗我部盛親は突破して入城。高山右近が長崎からマニラへ追放。
同9日、真田幸村・幸昌父子が、九度山脱出。
同11日、家康出陣。
同12日、大坂方が堺から鉄砲などを接収。
同16日、伊達政宗が江戸到着、秀忠軍先鋒を命じられる。
同19日、家康が西国諸大名に参陣命令。
同22日、家康二条城到着。
同11月4日、薄田兼相が平野焼討。
同11日、秀忠が伏見城到着。
同15日、家康・秀忠父子が京都を発ち、大坂へ着陣。

5 :人間七七四年:2015/08/04(火) 21:30:41.55 ID:Mi8FfqdQ.net
基次と勝永にはもっとしっかりと
評価されて欲しいものだ

6 :人間七七四年:2015/08/05(水) 10:28:37.60 ID:JNV1jUM6.net
大坂の陣で人攫いが多発したけどどこに攫われたんだろう?

7 :人間七七四年:2015/08/06(木) 07:38:56.01 ID:fcT+tkjz.net
家康が大名らに推奨したから
家族離散し全国津々浦々に連れ去られた。

8 :人間七七四年:2015/08/06(木) 19:38:47.20 ID:mCVzAMs7.net
ニダ

9 :人間七七四年:2015/08/20(木) 20:43:15.05 ID:yWTbtc1V.net
大坂の陣の時の徳川軍の大坂民衆大虐殺は本当に酷かったらしい

10 :人間七七四年:2015/08/20(木) 20:56:01.88 ID:GagBjnxs.net
ニダ

11 :人間七七四年:2015/09/02(水) 22:37:35.92 ID:KSRZNXSn.net
和睦をチラつかせて
相手の士気を削ぎながら
外堀を埋めていく

外堀を埋めるって慣用句になってるけど
語源の大坂の陣のスレで用いるのは難しいな

徐々に縛っていく
って感じか

12 :人間七七四年:2015/09/03(木) 23:01:54.08 ID:q57AgPnQ.net
>>11
真綿で首を締めるように

13 :人間七七四年:2015/09/21(月) 10:53:04.90 ID:+XwlyNTt.net
真田幸村の発案した通り京都に出撃して迎え撃てば
西軍有利に戦局を進められたんじゃないかと思う。

14 :人間七七四年:2015/09/21(月) 17:23:32.13 ID:KbCyzEqE.net
無理。
夏の陣では近場なのにまったく連携がとれず各個撃破されたわけで、
遠征なぞしたらもっとひどいことになるのが目に見えてる

15 :人間七七四年:2015/09/22(火) 10:19:44.27 ID:VYfmd8iy.net
そもそも京都なんて豊臣の領域でもなんでもない場所だからな
そんなところまで遠征できるわけがない

16 :人間七七四年:2015/10/01(木) 09:20:25.43 ID:az8/UmTJ.net
>>13
伏見も突破できねえよ

17 :人間七七四年:2015/10/03(土) 23:40:00.42 ID:p8+nc4TF.net
>>5
大野治房もな
いくらなんでも不当すぎる

18 :人間七七四年:2015/11/03(火) 06:45:02.23 ID:jmvZMOjh.net
徳川の豊臣いじめの集大成

19 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

20 :人間七七四年:2015/11/07(土) 20:49:54.89 ID:PT31fwD3.net
姫路に豊臣秀次の義兄の池田輝政、紀伊にこれまた秀次恩顧の浅野幸長を入れた段階で、
豊臣秀頼への嫌がらせ以外の何者でもない。実際に、池田、浅野は豊臣方より嫌がらせに
耐えかねて暗殺されたと言う説が有力だしね。

21 :人間七七四年:2015/11/07(土) 23:23:51.12 ID:AbTjC43c.net
どこが有力なんだよwwwww

22 :人間七七四年:2015/11/08(日) 07:00:25.74 ID:Szg3r0qD.net
国家安康の時点で秀頼がミスを認めて徳川家に恭順の意を示し、家康の目が届く関東かまたは岩手秋田青森の北東北に国替えしていたら、豊臣家も滅びなかったんじゃないの?

23 :人間七七四年:2015/11/08(日) 13:09:06.51 ID:ORUbHaBD.net
>>22
家を残したいなら領地を幕府にやって公家として生きればええ

24 :人間七七四年:2015/11/08(日) 13:40:57.71 ID:muhHw7jd.net
何百年の伝統を築き上げた名門家なら当人達にも家を残そうという意識も働いただろうけど
豊臣家なんて誕生したばかりの新興家だから
淀や秀頼も権力を諦めてまで家を残そうという発想はなかったのだろう
むしろ権力のない豊臣家なんて存在価値のない粗大ゴミくらいの感覚だから
淀や秀頼も迷うことなく大坂の陣に走ったと言える

25 :人間七七四年:2015/11/08(日) 17:28:28.57 ID:b1xX5AGj.net
>>22
関東か駿河あたりに国替えで江戸定府なら存続したんじゃないか。

26 :人間七七四年:2015/11/08(日) 17:40:25.80 ID:nTtqwEAD.net
自分が苦労したり親くらいが苦労しているとこ見て育っきて築き上げた家なら屈辱や忍従に耐えても残そうと頑張れるんだろうし、
累代続いて、次代への家政や外交の継承のノウハウが確立できている家なら処世もできるんだろうがな。

毛利の秀就とか、家臣に隠居させられた綱広とかもそうなんだけどさ、
そういう苦労や大変さを見ていないで、育っちゃっうと矜持ばかり高くなっちゃっててさ、
自分がいまあるものの価値を保つことがどんなに大変なことかが判らずに軽く見がちになるんだろうね。

27 :人間七七四年:2015/11/08(日) 18:17:03.44 ID:b1xX5AGj.net
最初から織田秀信並の扱いをしとけば、秀頼本人のためになったのにな。

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