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【信玄】甲斐武田氏総合スレッド【勝頼】其の二

299 :人間七七四年:2018/07/04(水) 04:52:01.93 ID:c1QVeTE1.net
>>281 宛続きその5
>そもそも、織田信長は最後の浅井、朝倉攻めで3万動かしているが、
>あの当時まだ武田が強大で健在なんだから、美濃にかなりの守備兵置いて出陣していた可能性はある。
ないように思われますけれどねえ。その武田が長篠で敗北して、東側の脅威が減少した上で、
勢いにのって北陸一向宗の支配する越前に、織田家オールスターともいうべき武将達で攻め込んだ兵力が三万ですのに、
なにをおっしゃっておられるのかとは思われるのではございますが、これらの件に関しましても、ご回答の方などを
よろしくお願いいたしますかねえ。

>そこから朝倉同様に交易に恵まれていた地域だから朝倉同様に加算(プラス1万前後)なら、織田は常時3万5000。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄を必死にスルーなさられようとしておられるご様子ではございますが、
朝倉の経済力はプラス10万石くらい、と過去スレとかで言われていて、
越前一国50万石余+経済力の10万石程+制圧している加賀南部の石高+
朝倉家が義景時代から80年近く前の、まだ朝倉家が勃興期だった時代でも、1万2千の軍勢を整えていた、と
記録にあり、義景時代は朝倉家5代の集積として、行政機構と統治が朝倉家の歴史で一番進んだ時代であった事から、
豊臣家軍役のように、領国からしっかりと軍役をとる感じでは通常軍役計算250人×総石高、の人数に対して
1〜2割程の増加が起こっている事例がある事から、それらを総合して考慮すると、
朝倉家2万の軍勢は特に不可思議な話ではない、という事から、類推されているだけの話でございまして、
織田は何度も書かれておりますように、交易どうたらで10数万石くらいが追加されたとしても、
そもそも根本的な問題として、織田は具体的な軍役書状などがろくに残っておらず、佐久間折檻状でも、基本的に与えられた領土の収入でひごろどれだけの家臣達を養い、
いざ合戦の時にはどれだけの軍勢を率いて参戦するか、はそれぞれの武将達に任せられていた事などが伺われるわけですから、
そもそも、織田は普通の通常軍役計算の基準でいくのも、困難な気がしなくもないように思われますし、
根こそぎ動員とやらがそもそもできるのか、とも思われる次第なのではございますが、
これらの件に関しましては、いかがなものなのではございましょうかねえ。

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