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戦国ちょっといい話48

1 :人間七七四年:2020/04/15(水) 12:06:59 ID:DKMCvcRx.net
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

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戦国ちょっといい話47
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1559954334/
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戦国ちょっと悪い話47
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1557310620/

2 :人間七七四年:2020/04/15(水) 12:08:07 ID:DKMCvcRx.net
天正三年夏、武田勝頼が三州長篠の城を囲んだ時、権現様(徳川家康)は出陣し、信長が御加勢なされた。
この時権現様と信長、御密談にて夜中、鳶巣山に御人数を廻し、城を攻め落とし勝頼の後ろを取り切って
御合戦なされるべきとの事で、酒井左衛門尉(忠次)、本多豊後守殿(広孝)、松平左近殿、並びに信長衆
相添え差し遣わされた。この時
「出来るだけ忍んで越え、鳶巣山へ登り着いたら狼煙を上げるように。その合図によって合戦を始める。」
と仰せ含まれた。

かの山において竹右衛門(この覚書の作者:岡田竹右衛門)が仰せ付けられ狼煙を上げ、直ぐに御一戦があった。
鳶巣の城は即座に乗取った、この時竹右衛門は高名を仕った。また妹婿の中根新八と申す者、若年にて初陣として
罷り在ったが、この新八にも竹右衛門が指導した。
この竹右衛門が走り廻ったことに対して、権現様より御感の旨を仰せに成られた。

「岡田竹右衛門覺書』

この覚書だと鳶巣砦攻撃に関して、酒井忠次が進言した話を信長が外に漏れないように激怒した云々、
という話は無いのですね。

3 :人間七七四年:2020/04/15(水) 12:56:53.22 ID:XEcFJgC6.net
纏め管理人クソチョンにしては日本語じょうずだな

4 :人間七七四年:2020/04/15(水) 13:27:47.88 ID:9ZJUDGw3.net
>>3
「じょうず」すらかんじでかけないおばかさん、じさつはまだですか?
おばかなおまえでもわかるよう、ぜんぶひらがなでかいてあげたよ。

5 :人間七七四年:2020/04/15(水) 15:13:49 ID:XEcFJgC6.net
馬脚を現したクソチョン管理人w
無理せずこれからは平仮名で打っとけww

6 :人間七七四年:2020/04/15(水) 15:15:05 ID:XEcFJgC6.net
クソチョン管理人の自殺マダー?

7 :人間七七四年:2020/04/15(水) 15:28:49 ID:ckPkpsxJ.net
まとめ管理人ってきめーよな
何がアップできましたーだ
銭ゲバは銭ゲバと自己認識しろ!

8 :人間七七四年:2020/04/15(水) 15:36:56 ID:jv7TOCdb.net
進言ありました、いつ誰が聞いてるのかもわからないから激怒してカムフラージュって
あまりにもお話として出来すぎ感がある

9 :人間七七四年:2020/04/17(金) 01:29:47.12 ID:dNnHEo9X.net
乱世(大坂の陣)の後、二条にて上様(徳川秀忠ヵ)に、紫野(大徳寺)の好月(江月宗玩)、
玉室(玉室宗珀)、沢庵(沢庵宗彭)が御目見えした時、御所様はこのように仰せになった

「もはや春屋国師(春屋宗園)の弟子もこの三人のみである。むやみに掛け物など書かぬように。」

このような御意があったと沙汰され、それよりこの人々の手跡を、大小名衆も望むようになった。
その中でもとりわけ沢庵を用いたのは織田有楽殿で、判金百枚にてその墨跡を求めたが、それが偽物であると
目利きし、伏見にて御上洛の際、御前にて御詮索があり、いよいよ偽物と極まり、
「今より掛け物を買って、これを沢庵に見せるように」
との御意があった。これよりいよいよ沢庵の墨跡が流行ったという。

「長澤聞書」

10 :人間七七四年:2020/04/18(土) 01:11:13 ID:+JLDXJgn.net
三州に一揆が起こっていた頃。拙者親(藤十郎と申し候(水野忠重の事))、兄の下野(水野忠重)に
何やら不足を申し、下野の元を立ち退いて、三河鷲塚と申す所に牢人した、相聟の水野太郎作少と、
その親類である村越又一郎という者達と、鷲塚に三人で一所に居た。

このような所に、権現様(徳川家康)の御意に
「一揆殊の外起こり、一代の迷惑であると思っている。このような時であるので、罷り越して万事指図を
してほしい。是非に憑む。」
との御意にて、三州岡崎へ三人ながら罷り越し奉公をいたした。

『水野日向守覺書』

勝成の父親も一度水野家飛び出してるのか。

11 :人間七七四年:2020/04/18(土) 07:44:10.62 ID:s62VvPh3.net
その辺は、やはりあの迷惑千万大名の父親だけはある

12 :人間七七四年:2020/04/18(土) 11:56:52 ID:25IT3XhX.net
西明寺の焼き討ち

西明寺は滋賀県犬上郡にある天台宗の寺院。金剛輪寺、百済寺とともに「湖東三山」の1つに数えられる名刹だが、
ある時、滅亡の危機に瀕したことがあった。

元亀2年(1571年)、延暦寺の焼き討ちを行った織田信長は、この機会に比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを計画した。
当時の西明寺は十七の諸堂、三百の僧坊を持ち、何百人もの修行僧がいる一大寺院だったのでその対象となってしまった。
信長の命を実行するため、佐和山城将の丹羽長秀・河尻秀隆両将が軍勢を率いて西明寺に迫った。

西明寺では僧侶と周辺の住民が守備の体制を固めていた。しかしある僧の機知により、自ら房舎に火をかけ、全山焼失のように見せかけることで御本尊を守るという手を打つことにした。
僧侶らは山門近くは徹底的に燃やし、特に本堂前では一層激しい火災を発生させたため、丹羽、河尻はこれを確認すると満足して軍を返した。
この様にして、西明寺の本堂、御本尊・薬師如来、山奥に位置する三重塔、二天門は焼失を免れ現在に伝わるという。

『西明寺略縁起』
『2014年11月7日 日本経済新聞電子版 -織田勢も畏れた?極彩色 西明寺の本堂・三重塔(時の回廊)
滋賀県甲良町』

13 :人間七七四年:2020/04/18(土) 14:21:12 ID:ZzvyIiea.net
丹羽川尻の二人も気が進まなかったとこがあるかも

14 :人間七七四年:2020/04/18(土) 17:22:12 ID:Ref011sU.net
細川幽斎、聚楽第行幸の際の代作


天正16年4月16日、秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えた行幸の際、和歌御会が催された。
歌題の「寄松祝」に合わせて公家や武家などの参加者が和歌を提出したが、このとき
幽斎は豊臣秀次、足利義昭、豊臣秀長、蒲生氏郷の和歌を代作している。(『衆妙集』)

全部解説するのは大変なので、代作した秀次の歌だけ紹介。

をさまれる 御代ぞとよばふ 松風に 民の草葉も 先づなびくなり
(平和な治世であると呼び続ける松風に、民衆も草葉のように真っ先になびくのである)

この和歌は藤原定家の「をさまれる民の草葉を見せ顔になびく田面の秋の初風」や、
「をさまれる御代にあふぎの風ならば四方の草葉もまづぞなびかん」などを踏まえて
後陽成天皇の治世を慕って心を寄せる民の様子をうたうものとなっている。


幽斎自身は聚楽第行幸には参加していないが、晴れの場での代詠を頼まれることは
歌人として名誉なことであった。

15 :人間七七四年:2020/04/19(日) 02:48:39 ID:/eXYOJJ0.net
永禄五年、三州一向宗の一揆が起こった時、本多広孝は土井の城に罷り在った。その近辺の、土呂、羽根崎、
岩松、大学、浦部、八面、佐々、木野寺、櫻井、この村々は皆御敵であり、かの土井城はその中にあり、
最も敵に挟まれてその中にあった。広孝は朝夕取り合い、御忠節を仕った。

三州の諸士は、一向宗ではない輩も御敵に罷り成ったが、広孝は「猶々御忠節仕るべき」と申し上げ、
当時九歳になる嫡子を人質として岡崎に差し上げた。権現様(徳川家康)はお悦びに思し召し、この嫡子の
元服を仰せ付けられ、「康」の御字を下され、「彦次郎康重と名乗るように」との上意であった。
さらに御召しの御馬を下された。

『本多越前守利長家之覺書』

やっぱり一向宗以外にも広がった反乱だったのか

16 :人間七七四年:2020/04/19(日) 11:25:50.53 ID:/Aka1nDI.net
>>14
幽斎さんじゃなくて忠興ちゃんが出てたんだね

君が代の長きためしは松に住鶴の千とせをそへてかそへん
【『豊鑑』第三 内野行幸 天正13年(1585)4月 丹後侍従豊臣忠興(細川忠興) 後陽成天皇行幸の際の歌会にて】

豊鑑@toyokagami_bot にいろんな人の歌が出てきておもしろい

17 :人間七七四年:2020/04/19(日) 19:57:26.23 ID:KvWmAify.net
天正9年(1581)2月28日、信長は支配地各地から諸将を京都に呼び集めると正親町天皇を始めとする大観衆の前で大馬揃えを催す。
この馬揃えは大成功となり信長は自らの威信を内外に大いに広めたがその反面一時的に領内の防備が手薄になってしまう弊害もあった。北陸でも柴田勝家・佐々成政・前田利家らが馬揃えの為に上洛すると、
越後の上杉景勝は越前、越中、加賀の一向一揆と連携して動き始めた。
3月6日、成政不在の越中を突くべく上杉方の河田長親が
松倉城から出撃し近隣を焼き払いつつ3月9日には小出城を包囲した。これに呼応して白山山内衆も再び立ち上がり鳥越城の奪還に向かう。
この時、北国軍団の中で盛政だけは馬揃えに参加せず金沢城にあった。
そこへ「鳥越と二曲の二城危し」の急報が届けられると盛政は直ちに救援に向かった。しかし駆けつける頃には一揆勢は2人の将と300人余の兵を悉く討ち果たして城を奪還していた。盛政はそうと知ると猛り狂い一気呵成に一揆勢を攻め立てた。
盛政は一揆勢を追い散らしたちまちの内に2城を奪還した。その時の盛政の活躍は、
『信長公記』にも記載されており「比類なき功名である」と絶賛されている。そして盛政の武勇に敵味方とも恐れと畏敬の念を込めて鬼玄蕃と呼ぶようになった。

名将中の名将の鬼玄蕃こと佐久間盛政の誕生だな

18 :人間七七四年:2020/04/19(日) 20:11:37.31 ID:MjuAxZEm.net
>>17
コピペはどうかと
http://hannkotu.blog.shinobi.jp/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E3%80%80%E5%85%B6%E3%81%AE%E4%B8%80/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%8C%97%E9%99%B8%E6%96%B9%E9%9D%A2%E8%BB%8D%E3%81%A8%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%20%EF%BC%92

19 :人間七七四年:2020/04/19(日) 20:17:30.78 ID:7w3NWQbL.net
えっアフィ管理人コピペ転載してんの??

20 :人間七七四年:2020/04/19(日) 20:20:00.70 ID:IeLnvcP+.net
>>17
賤ヶ岳の合戦の柴田方の敗因にされてて気の毒な人という印象

21 :人間七七四年:2020/04/20(月) 00:43:08 ID:MNZT8O1e.net
そういえば信長が昇殿できるほどの官位をもらったのはいつなんだろう
上洛するまえは僭称の弾正少だろ?怪しい男だな

22 :人間七七四年:2020/04/20(月) 09:54:37 ID:0PpGAd3K.net
うーんこの
句読点削っただけの丸写しなら個人のブログだろうと情報元を記載するべきだろう。

23 :人間七七四年:2020/04/20(月) 10:18:50 ID:+n0zh/da.net
(天草国人一揆の時)
拙者(水野勝成)は小西摂津守(行長)の所に在り、志岐城攻めに加わった。この時肥後守(加藤清正)人数も
小西と同じように志岐城を取り巻いた。

志岐城はすぐに小西が請け取り、その後天草本渡城を押し詰め、朔日より取り掛かって本渡城に仕寄を付け、
二十三日目に乗り落とした。肥後守は山手の方から仕寄を付け、足場が非常に良かったが、小西は東の
水堀の方で、足場が悪く非常に迷惑した。

二十三日に城に乗り込んだ時、私は水堀を越えて堀裏に付き、一番乗りをした。私の跡に続いた
久米兵太夫が声をかけてきて、三間ほど跡を進んだ所で、胸板を鉄砲にて撃ち抜かれ、堀底へと落ちた。
私は堀を乗り越え本城(本丸)まで着いた時、松平三蔵殿(肥後殿にては加藤左助と申候)、この仁は兄弟連
であったが、私の側に参り

「未だ敵と手合わせをしていない。六左衛門殿(勝成)、頼み入るので、何卒手合わせの相手をくれないだろうか」

そう申してきたので「相心得候。私がよく見て、良い相手を見つけましょう。」と答えた。
本城の下にだしがまえ(馬出か)が有り、その門を開いて敵が突き出てきた。この時松平三蔵殿は鑓を合たが、
敵は突き捨てに仕掛け、左のこめかみを突かれたため、彼の弟に私から「早々に蔭に引き込むように!」と申し、
私はそのまま敵に突き入れ、その場にて七人を討ち取った。この内先駆けした者は私が討ち取り、残りの六人は
私の家来である山本次太夫、林志けりのすけ、近藤弥之助が討った。この三人も敵を一人ずつ討ち取った。
その他に歩行の者(足軽)も討った。近藤弥之助は弓にても良き者を射た。

山岡道阿弥がこの陣の様子を詳細に存じており、権現様(徳川家康)が伏見に居られた時、志岐天草表の
私の手柄を詳しく申し上げた所、権現様は殊の外御感になり、後で道阿弥から
「直ぐに召し遣わされるでしょうから、その事についてよくお心得に成って下さい。」
と申してきた。その後程なくして、私は御前に召し出された。

『水野日向守覺書』

天草国人一揆での水野勝成について。ここに出てくる松平三蔵、三河一向一揆で一揆方に与して牢人となった
人物ですね。

24 :人間七七四年:2020/04/20(月) 12:36:00 ID:1fE8fHjJ.net
まとめの管理人を攻撃してるアホはもう書き込むなや
迷惑だとなぜ分からないのか

25 :人間七七四年:2020/04/20(月) 13:16:40.82 ID:AHxal8qd.net
あれ?無関係という建付けでやってたはずじゃなかった?

26 :人間七七四年:2020/04/20(月) 13:20:00.58 ID:pKBkKVK/.net
アフィカスイライラw

27 :人間七七四年:2020/04/20(月) 13:28:29.01 ID:XLIid/o1.net
こいつは迷惑がわからないんじゃなくて、迷惑をかけたくてやってるんだから反応するだけ損だよ。
野良犬と一緒。かまうと懐くぞ。

28 :人間七七四年:2020/04/20(月) 13:32:31.75 ID:HXbI+mNt.net
バカもーん!反応してるのが管理人だ

29 :人間七七四年:2020/04/20(月) 13:34:05.21 ID:4XE7gkLw.net
>>28
ワロタ

30 :人間七七四年:2020/04/20(月) 15:58:42 ID:Mp0bJvmp.net
関係してようが関係なかろうが荒らされたらそら邪魔やろ
そんなアホみたいな理屈で他人と認定する脳みそどないなっとんねん、小学生でももうちょいまともな理屈つけられるぞ

31 :人間七七四年:2020/04/20(月) 15:59:09 ID:I7A3f7Nq.net
今年は“春だなあ”ですまないのが残念

32 :人間七七四年:2020/04/20(月) 17:34:52.71 ID:BGXUpeB2.net
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33 :人間七七四年:2020/04/20(月) 19:39:59 ID:tYDh4XXE.net
前に矢沢頼綱の小松明の逸話が出たときは
あとで「やる夫真田」のパクリと判明して消されてたし
(まとめの3833は現在は存在しないページに)
そういう問題のあるコピペはちゃんと弾いてるはず

34 :人間七七四年:2020/04/20(月) 19:44:01 ID:cFLSuIyI.net
なぜかは知らないが管理人が気に入らない奴が嫌がらせしてるだけ

35 :人間七七四年:2020/04/20(月) 19:51:28 ID:foq1l1Fp.net
まぁ長いスレの歴史を見ても何度か荒そうとしたヤツは出たけど全部失敗してるからなぁ。
正直こんな年齢層高そうなスレで荒らしに乗っかる人はいない。

36 :人間七七四年:2020/04/20(月) 20:18:23 ID:G7MPnyvE.net
IDチェンジとアフィ連呼だけで正直荒らしとしても芸がないしな

37 :人間七七四年:2020/04/20(月) 20:23:16.30 ID:Z71vIK2h.net
以上、管理人がお送りしました!

38 :人間七七四年:2020/04/20(月) 20:31:22.81 ID:xGkGmZDc.net
>>37
じさつ しないと みんなの めいわく なんだよ

39 :人間七七四年:2020/04/20(月) 20:34:51.98 ID:G7MPnyvE.net
>>37
くやしいのうwwwくやしいのうwww

40 :人間七七四年:2020/04/20(月) 20:51:05.39 ID:Lly6DWLn.net
お、自殺教唆か?

41 :人間七七四年:2020/04/20(月) 20:53:41.97 ID:7FJZ4UB0.net
後発のまとめブログみたいのなかったっけ?
いまも残ってるのかは知らんけど、そこの人だったりして

42 :人間七七四年:2020/04/20(月) 21:12:01 ID:ukiqIP5X.net
荒らしてるの信長スレの熱狂的なファンだと思うよ
動画内容が気に入らないみたいなこと言ってた気がする

43 :人間七七四年:2020/04/20(月) 21:18:26.95 ID:GtEUk1MN.net
探ってる探ってるwwww
俺は怖いんだぞー

44 :人間七七四年:2020/04/20(月) 21:24:01.38 ID:bnWgJ0oO.net
5ちゃんから無断転載してる内容だから
クロールして丸パクリされても文句は言えんな

45 :人間七七四年:2020/04/20(月) 21:28:57.69 ID:0Z8KI863.net
>>44
フォロワーいっぱいいるんだからツイッターでやりゃいいのにな
そうすりゃパクられもしない
あのフォロワーは飾りなのか?

46 :人間七七四年:2020/04/20(月) 21:44:27 ID:XLIid/o1.net
>>44
>>45
もしかして気がついて無いのかも知れないが、お前ID変えても自作自演してるの
丸わかりだから、気づかれないよう自演したいなら投稿するときもう少し気をつけたほうがいいぞ。

47 :人間七七四年:2020/04/20(月) 21:50:52 ID:Ry/Jp0VN.net
俺はIP透視もできるんだぞ!怖いんだぞー!

48 :人間七七四年:2020/04/20(月) 21:57:18 ID:5OzLeBG0.net
まとめ管理人が必死すぎて失笑だな
自作自演かと疑ったわ

49 :人間七七四年:2020/04/20(月) 22:20:55 ID:BH5tiVcT.net
なんかもはや可愛くなってきたw

50 :人間七七四年:2020/04/20(月) 22:23:45 ID:hTAa/JzO.net
いちいち反応しちゃう!ビクンビクン!

51 :人間七七四年:2020/04/20(月) 22:24:25.08 ID:BGXUpeB2.net
管理人スレ張り付いてて草

52 :人間七七四年:2020/04/20(月) 22:24:55.75 ID:+n0zh/da.net
私(渡辺幸庵)は柳生但馬守宗矩の弟子であり、免許印可も取った。
竹村武蔵という者があり。自己で剣術を練磨して名人と成った。彼は但馬守と比べると、
碁で言えば井目も武蔵が強い。彼は細川越中守忠興の客分として、四十人扶持を合力された。
その子を竹村与右衛門といって、これも武芸に達した。

武蔵について、武芸は申すに及ばず、詩歌、茶の湯、碁将棋など総じて諸芸に達していた。
ではあるが、第一の疵があり、洗足行水を嫌い、一生沐浴する事がなかった。
外に裸足で出て汚れても、これを拭くだけですませた。そのようであったので、衣服は汚れ、
それを隠すために、天鵞絨(ビロウド)両面の衣服を着た。
こういった事の為に、歴々の人たちは彼を疎んじて近づかなかった。

彼の子孫に久野覚兵衛といって、松平摂津守殿にす、またもう一人は久野団七といって、
松平出羽守義昌に奉公した。この人物は隠れ無き馬数寄であり、身上は五百石であったが、
金五十両より下の馬を求めず、いつも高額の良き馬を揃えていた。

(渡邊幸庵對書)

いわゆる宮本武蔵についてのお話ですね

53 :人間七七四年:2020/04/20(月) 22:29:27.08 ID:M9jdqwIy.net
パクリチェック大丈夫!?

54 :人間七七四年:2020/04/20(月) 22:44:34.93 ID:G7MPnyvE.net
アフィ連呼はやめたんだな、素直でよいぞ

55 :人間七七四年:2020/04/20(月) 22:54:36 ID:4Jp/r5Dp.net
アフィカスはアフィ連呼が効いてたのか

56 :人間七七四年:2020/04/20(月) 22:55:42 ID:Mp0bJvmp.net
そういえば播州生まれでおそらく黒田家に仕えてたっぽい武蔵が細川家に客分になってるってなかなか凄いな
後藤又兵衛は確か黒田細川間の関係がこじれてる中、細川家との連絡の取りすぎで出奔する羽目になったと記憶してるけど

57 :人間七七四年:2020/04/21(火) 07:39:04 ID:H87ejegQ.net
稲富さんもなんだかんだ許されてる(?)し武芸者は普通の士分とは別枠なのかもね

58 :あさだかなた:2020/04/21(火) 09:25:54.06 ID:M92QWwh2.net
徳川家康は年貢を3公7民にして農民に対して
思いやりがあったらしい

59 :人間七七四年:2020/04/21(火) 11:55:39.04 ID:fWjA91Hf.net
>>56
後年の知名度はともかくとして武蔵と又兵衛では身分や主君との関係でもかなり差があるのでは?

60 :人間七七四年:2020/04/21(火) 13:17:59 ID:nn+0BpMQ.net
又兵衛は武功を地道に積み重ねて出世したけど武蔵には何もないからね

61 :人間七七四年:2020/04/21(火) 14:57:05 ID:KCNPK9jT.net
マジかよ後藤アフィ兵衛最低だな

62 :人間七七四年:2020/04/21(火) 16:19:25 ID:liqqr6+v.net
お前まだいんの?
もう来なくていいよ

63 :人間七七四年:2020/04/21(火) 16:56:53 ID:mmKzAu2o.net
>>59
まぁそうですよねー、城主の又兵衛とだと全然違うんでしょうね、いつ武蔵が黒田家から出たのかもわからないし
とはいえなんかいつの間にか小倉藩と関わり持ってたり、なんか偉くなってるっぽいんすよねー武蔵

64 :人間七七四年:2020/04/21(火) 22:42:44 ID:C7ZJNW9n.net
アヒカス管理人の自殺まだ?

65 :人間七七四年:2020/04/22(水) 00:32:07 ID:Lfg00Dfy.net
お、自殺教唆か?

66 :人間七七四年:2020/04/22(水) 01:23:08 ID:we8d9f7r.net
細川三斎は中古(上古と当世の間。なかむかし)の茶の湯の者であった。茶菓子に、能登の鯖刺(鯖の
鱗と内臓を取り、背開きにして塩漬にし串に刺したもの)の頭を切って、折敷に椎の葉を敷き、それに
のせて箸を添えて出した。これを『鯖の頭の塩出し』といい、切り方に口伝が有った。

椎の葉を二つばかりに切って、それを添えて面々に出す。客はその葉で掬って喰う。無類の茶菓子である。
以前は、香の物を鉢に入れる事がなかったのだが、三斎の時代より香の物を鉢に入れて出すようになった。
彼の父である兵部大輔藤孝は丹波知行の時、三百石ばかりであったという。将軍義輝公に勤仕の時、今の
千石ばかりの身上であったそうだ。

(渡邊幸庵對書)
鯖の頭も茶菓子だったのか。

67 :人間七七四年:2020/04/22(水) 02:54:58 ID:hkP8sVeK.net
頭じゃなくて塩鯖の中身の塩を掬って舐めるんだろ
やばいくらいしょっぱいと思うぞ

68 :人間七七四年:2020/04/22(水) 07:19:06.37 ID:qR+rnLpT.net
>>67
謙信が能登を落とした理由はそれか!
茶ではなく酒のために

69 :人間七七四年:2020/04/22(水) 12:16:51 ID:GtpZWOU2.net
>>68
海水飲んでろカス

70 :人間七七四年:2020/04/22(水) 12:20:52 ID:z3kwV/5k.net
マジかよ細川アフィ斉最低だな

71 :人間七七四年:2020/04/22(水) 12:20:52 ID:z3kwV/5k.net
マジかよ細川アフィ斉最低だな

72 :人間七七四年:2020/04/22(水) 12:20:52 ID:z3kwV/5k.net
マジかよ細川アフィ斉最低だな

73 :人間七七四年:2020/04/22(水) 12:27:28 ID:AeW9hv7m.net
茶請けに沢庵食ったりするし、そういう感じか
考えるだけでしょっぱくて唾液出てくるなぁ

74 :人間七七四年:2020/04/22(水) 12:32:21 ID:cAryh7R+.net
>>72
毎日毎日嫌がらせしてマジで狂ってるなお前

75 :人間七七四年:2020/04/22(水) 16:15:41 ID:vqHhhbhA.net
普通に感想をレスしてるだけじゃん
カリカリすんなよアフィカス

76 :人間七七四年:2020/04/22(水) 16:28:43 ID:XeQVXPMx.net
読解力も無しに「アフィ」付けて満足する荒らしレスを「感想」ってw
あと、>>74はID:z3kwV/5kにレスしているようだからz3kwV/5k本人が弁明に来ないと

77 :人間七七四年:2020/04/22(水) 18:08:07 ID:EK0mT/Y4.net
アフィカスが発狂寸前で失笑www

78 :人間七七四年:2020/04/22(水) 20:20:18 ID:KQVQvbWV.net
掲示板のレスに何を求めてんだよ
それともこの板はアフィカスが転載できないレスは禁止とかいうルールでもあるのか?

79 :人間七七四年:2020/04/22(水) 20:45:18 ID:Lfg00Dfy.net
お前本当アフィしか言わないんだな
今度からアフィ太郎って呼んでいい?
あふぃあふぃうんこまんの方がいい?

80 :人間七七四年:2020/04/22(水) 20:48:40 ID:2BLTTpfI.net
だから嵐に反応するなと…

81 :人間七七四年:2020/04/22(水) 20:50:26 ID:Tj7mBC0o.net
>>80
バカもーん!反応してるのが管理人だ

82 :人間七七四年:2020/04/22(水) 21:06:46 ID:Lfg00Dfy.net
>>81
ねえアフィ太郎って呼んでいい?

83 :人間七七四年:2020/04/22(水) 21:10:48 ID:Tj7mBC0o.net
>>82
だから嵐に反応するなと…

84 :人間七七四年:2020/04/22(水) 21:10:48 ID:Tj7mBC0o.net
>>82
だから嵐に反応するなと…

85 :人間七七四年:2020/04/22(水) 21:42:23.55 ID:Lfg00Dfy.net
連投www
アフィ太郎イライラでワロタwww

86 :人間七七四年:2020/04/22(水) 22:03:59 ID:fB+gLzEF.net
アフィ太郎連呼之助が一番荒らしてないか…?

87 :人間七七四年:2020/04/22(水) 22:20:48 ID:Lfg00Dfy.net
>>86
効いてる効いてるwww

88 :人間七七四年:2020/04/23(木) 01:13:52 ID:1Hd3el8f.net
実生活でいやなことがあったのだろう。いまなら悩みを聞いてやるぞ?

89 :人間七七四年:2020/04/23(木) 10:38:30 ID:u9J4IOcI.net
専ブラでNGワードに放り込んで終わりだが

90 :人間七七四年:2020/04/23(木) 20:25:19 ID:GyP5Sdtg.net
保守

91 :人間七七四年:2020/04/24(金) 01:08:02 ID:6nyGY0u0.net
悪い話新スレです

戦国ちょっと悪い話48
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1587658011/

92 :人間七七四年:2020/04/24(金) 09:31:14.48 ID:iNHPwI09.net
管理人は責任とって割腹自殺しろよ

93 :人間七七四年:2020/04/24(金) 12:22:05 ID:fcOJOIsX.net
本物のクズだなお前

94 :人間七七四年:2020/04/24(金) 12:25:40.56 ID:aKTHm+Da.net
お、じゃあ俺はセーフだな

95 :人間七七四年:2020/04/24(金) 19:29:41 ID:POivbMZQ.net
アフィ太郎は流石に嫌だったらしいIDチェンジマン

96 :人間七七四年:2020/04/24(金) 20:03:13.81 ID:POivbMZQ.net
喧嘩ばかりしててもアレなんで地元の話を市のHPから一つ。

瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。
天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて
瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。
長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、
寛永14年(1637)秋山家墓所に五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれてます。
なお、瓦曽根村に潜居した信藤は、家康に仕え小金領(現在の松戸市)1,000石を知行した長男虎康の子昌秀のもとに
引き取られましたが、この昌秀の妹が家康の愛妾「おつまの方」です。おつまの方は家康の5男、
水戸15万石に封ぜられた武田信吉の生母でしたが、天正19年(1591)24歳の小金で病没しました。
また、武田信吉も慶長8年(1603)嗣子をなくして水戸で病没し、この家は断絶しました。
千徳丸の供養墓石は、これら戦国期のさまざまな由緒を秘めた史跡の一つともいえます。

出典:越谷市教育委員会「越谷市の文化財」

よくある落人伝説の類ではあろうが、照蓮院の敷地には幼稚園が建っていて今も子供たちを支えている。

97 :人間七七四年:2020/04/24(金) 21:38:46 ID:FAijYLAj.net
勝頼の子に千徳丸なんて子いたのか

98 :人間七七四年:2020/04/24(金) 22:16:14 ID:RkfXCnCj.net
マジかよ秋山アフィカス最低だな
つか出典ワロタ

99 :人間七七四年:2020/04/24(金) 22:47:05 ID:POivbMZQ.net
アフィ太郎また前の芸風に戻したのか

100 :人間七七四年:2020/04/24(金) 23:14:20 ID:er9yr71j.net
>>98
きみが信長スレにいる熱狂的な信長推しだって分かってるからね

101 :人間七七四年:2020/04/25(土) 00:38:22.48 ID:+CsqEYzj.net
IP透視してるのに悪いけど信長スレが何なのかも知らんww

102 :人間七七四年:2020/04/25(土) 06:20:50 ID:DdwE6Sq5.net
白々しいな
バレバレ

103 :人間七七四年:2020/04/25(土) 10:48:35 ID:ICcRQvJX.net
いくらでバイトしてるんだ?
アフィカス擁護わwww

104 :人間七七四年:2020/04/25(土) 11:04:04 ID:yYHgJGNM.net
>>103
>>80
バカもーん!反応してるのが管理人だ

105 :人間七七四年:2020/04/25(土) 12:02:58 ID:DEn6wH9T.net
なぜアフィ太郎は「まとめには広告一枚もない」というシンプルな事実から目をそむけ続けるのか

106 :人間七七四年:2020/04/25(土) 12:31:30.14 ID:DdwE6Sq5.net
頭のネジが外れた狂人には何を言っても無駄なんだろうさ

107 :人間七七四年:2020/04/25(土) 12:44:11 ID:joQ//+ij.net
>「まとめには広告一枚もない」というシンプルな事実

はいフェイク
fc2ブログって広告撤廃宣言出してたのに
なぜかまとめサイトにはスポンサーサイトが表示される不具合
アフィカスはちゃんと抗議しないとなw
ちゅうか擁護するならアドブロック解除して見てやれやwww

108 :人間七七四年:2020/04/25(土) 13:14:09 ID:DEn6wH9T.net
ちょっと何言ってるかわかんない
もしかして俺の見ているサイトとお前の見ているサイトは別物なのか

109 :人間七七四年:2020/04/25(土) 13:21:34 ID:/uUXs3bp.net
馬鹿な擁護のせいで広告剥がさなきゃなるアフィカスカワイソw

110 :人間七七四年:2020/04/25(土) 13:50:25 ID:DEn6wH9T.net
…もしかして、記事下の「スポンサーサイト」のこと?
アレの収入が管理人の懐に入っていると思ってる?

うわぁ…(絶句)

111 :人間七七四年:2020/04/25(土) 13:53:06.93 ID:joQ//+ij.net
>fc2ブログって広告撤廃宣言出してたのに
>なぜかまとめサイトにはスポンサーサイトが表示される不具合
>アフィカスはちゃんと抗議しないとなw

そこに戻るんかよw
どんな知恵遅れジジイが擁護してんだよ…

112 :人間七七四年:2020/04/25(土) 13:53:58.78 ID:/uUXs3bp.net
ワロタ

113 :人間七七四年:2020/04/25(土) 14:27:38.87 ID:8chLqiEg.net
アフィアフィ言ってるくせに、アフィリエイトのこと1ミリも理解してないのな。

114 :人間七七四年:2020/04/26(日) 01:05:56 ID:KAUisGYn.net
或いは問う、豊臣秀吉公の時代は、都に三奉行が有り、法を犯す輩に対し、或いは磔、或いは釜煎りなどの
重罰をしていたが、あちらこちらで辻斬り、追い剥ぎなどが夜ごとに起こり、止む事がなかった。

一方でこの頃では、禁制の数もさほどに無いのに、洛中洛外共に、夜であっても行き交う人は多いが、
互いに道を譲り合うため、喧嘩口論という沙汰もなく、辻斬り、火付けなどとののしる声も自然と絶えた。
ただ残念なのは、武士の気味のみ昔に立ち帰らず、諸士は心を僅かな利に労し、まるで商売人に似ている事である。

(甫庵太閤記)

甫庵太閤記の初版は初版は寛永3年(1626)という事で、同時代人の小瀬甫庵からみても、
秀吉の時代とその頃の京の治安は、このくらい違っていたと感じられていたみたいですね。

115 :人間七七四年:2020/04/26(日) 01:23:39.22 ID:SSFFTnBi.net
なんか昔は乱暴だけど活気があってよかったっていうおっちゃんそのまんまな感じの記述っすね

116 :人間七七四年:2020/04/26(日) 09:16:38 ID:DXEGb0xy.net
アフィカスの切腹まだ?介錯に立ち会ってやるから日時教えて

117 :人間七七四年:2020/04/26(日) 09:39:31 ID:tS/okJ0D.net
マジかよ小瀬アフィン最低だな

118 :人間七七四年:2020/04/26(日) 10:21:44 ID:5StJe027.net
「切腹に立ち会ってやる」なのか「介錯してやる」なのかはっきりしろ
前にも建前のこと建付けって言ってたしアフィ太郎は日本語苦手なのかな

119 :人間七七四年:2020/04/26(日) 14:11:07 ID:EE9R4ho/.net
まずは、ID:DXEGb0xyが答えてね

120 :人間七七四年:2020/04/26(日) 17:50:18 ID:RhBs69BK.net
逃げんなアフィカス

121 :人間七七四年:2020/04/27(月) 01:22:54 ID:Av8V7pWR.net
(応仁の乱での)都鄙の合戦は、山名方が利を得ることが多かったが、数年の在京に力尽くし、
財宝は尽き果て、諸勢悉く困窮した。

その上摂丹両州は細川家の領国であり、また播州は赤松家の旧領であったので、今回赤松政則が
拝領の上意を蒙り、思いのままに国人の心を靡かせ、譜代の輩を招き集め、皆かの家へ帰伏した。
そうなれば、山名方の西陣には、皆分国からの運送の道が絶たれて兵粮の入れ様が無くなり、西陣の
上下は日を逐って労苦した。その上分国の士民たちは一揆を企て、家人国人の中には謀反の者もあらわれ、
先ずそれを退治して重ねてまた攻め上がらんとて、西陣の土岐、一色、その他山名一族の中にも抜け抜けに
下国した。中でも、一方の大将であった斯波左兵衛督義廉も、分国の尾張遠江に土一揆の乱が起こり、
国人たちも騒動したため、先ずその乱を鎮めんとて、急ぎ尾州に下国した。
かつ又、東陣の細川方にも抜け抜けに帰国の人もあり、次第に京勢は手薄と成った。

このような中、同年五月五日、斯波の家老である、越州の朝倉弾正左衛門敏景が、東陣の花の御所の味方に
参った。これは、この日までに公方家より御招きがあり、細川家の取り持ちを以て、斯波治部大輔義敏より
越前国を譲り賜る、という事で味方に参るべき趣きを、約諾したためであった。よって同月二十一日、越前国
守護職拝領の御判を下され、同六月九日、敏景の嫡子、孫次郎氏景に公方家より御剣を賜り、急ぎ父子共に
越前へ下向し彼の国の乱を鎮め、追々北陸の道を切り開いて軍勢の通路、兵粮の運送の妨げが無いように
相計るべし旨を仰せ付けられた。誠に以て、父子共に稀代の面目、無双の公恩であった。

この敏景は、先祖は但州の人で本姓は日下部氏にて、尾張修理太夫高経より、代々斯波家の被官であった。
年来、斯波左衛門督義廉の家老としてかの家の執事の職を勤め、また応仁の乱に於いても武功を顕し、
山名宗全入道の褒賞にも預かった、しかしながら、この主君である義廉は尾張へ下向し、その留守を幸いとして
一方の主筋である斯波義敏に招かれて、御所方と成り、陪臣忽ちに昵近の臣に列して、越国を拝領し、
御敵退治の公命を蒙った。これによって敏景、氏景父子は急ぎ越前に下向すると、先ず義敏の怨敵である
増澤甲斐守祐徳、千福中務丞、二宮左近らを討ち取った、彼等は皆、朝倉敏景の同僚で、斯波義廉の
長臣であったのだが、近年は在国して自立を企て、乱を好む逆徒であった。この者共が滅んだ後は、
越州たちまち平治となり、敏景、氏景は國民を慰撫し、諸士を懐けて政道宜しく、子孫に至るまで
終に越前一国の守護となった。誠に以て名誉の士である。

また、その後西陣では、能州守護の畠山修理太夫義就も徐々に公方家に従い、色々に宥しを以て
御招きになり、かつ又、越前の朝倉が御所方となり彼の国を退治し、また加州は東陣の富樫介政親の
領国であり、このため能州より京陣への通路が絶たれる形となったため、在京叶い難きが故に、終に
義統は東陣へ降参して、公方家の味方と成り、隣邦越中国の乱を鎮めて能越両国の守護たる旨を、
管領の細川勝元が推挙した。これによって畠山義就ま面目を施し、これによって北陸の通路は
皆開けて、いよいよ東陣では運送の煩いが無くなり、一方で西陣は日を逐って困窮した。これによって
東陣の味方と成るものも多くなった。

『應仁廣記』

応仁の乱における、朝倉敏景の寝返りなどについて

122 :人間七七四年:2020/04/27(月) 01:37:34 ID:yWZx3ewD.net
優位に進めてた山名でも京都に居座り続ける事がとんでもなく負担だったと
上洛がどんだけデメリットでかい行為なのかって感じだなぁ

123 :人間七七四年:2020/04/27(月) 02:51:43 ID:19r+QMWd.net
かといってキープすることを諦めたらあっという間に謀反人に転落だものな
留まるも地獄、退くも地獄でもう大変

124 :人間七七四年:2020/04/27(月) 11:00:08.80 ID:vD99kK01.net
アフィ倉敏景寝返りとか最低だな

125 :人間七七四年:2020/04/27(月) 19:33:53 ID:19r+QMWd.net
本拠が割と近い山名でこれなら大内とかそらもうえらいことになってそう
時代は下るけど高国なんて西に足向けて寝られんね

126 :人間七七四年:2020/04/28(火) 01:20:34 ID:i62avEtC.net
大内さんは褒美に勘合貿易の許可だけもらったら迅速に帰ったからね
やはり頭の良さが武士じゃない

127 :人間七七四年:2020/04/28(火) 20:36:36 ID:WPub7+sJ.net
信虎公(武田信虎)の御代には軍法も信玄公の十分の一でしかなかった。

ことさら信虎公28歳の御時のくしま(福島)合戦(飯田河原の合戦)の折、譜代衆は大方が在所へ引き
籠り見物仕る。右のくしまに勝ち給いて、その時より甲州一国の衆を8年の間にことごとく絶やし給うに
付き、2百・3百あるいは5百が立て籠もった城どもを攻め取りなさることによって、矢傷・槍傷・刀傷
をたくさん手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公が家中において、譜代衆・牢人衆中で健壮なる武士を75人選び出しなさった侍衆は、
信玄公の御代に大方討死して、年寄るまで長らえたのは横田備中(高松)・多田淡路・安満(あんま)・
鎌田織部・原美濃(虎胤)・小幡山城、この6人である。

ことさら60ヶ年以来は鉄砲があることにより、武辺かせぐ衆はひとしお討死多し。鉄砲は大永6年(1
526)に井上新左衛門という西国牢人が信虎公へ奉公申し、この侍が鉄砲を持ち来たり教えたと申し伝
える。しかしながら、稀であったと聞く。

その後、信玄公の御若き時は、かち路大膳・同又作と申す牢人親子がいた。この侍が各々に教えた。近年
は佐藤一甫斎と申す牢人が来て教えているのである。今は侍衆皆が鉄砲を良く上手に撃っている中で、横
田十郎兵衛(康景)・日向藤九郎の両人は鉄砲を用に立てている。

――『甲陽軍鑑』

128 :人間七七四年:2020/04/28(火) 22:44:35 ID:2ocCnCTT.net
撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけ

だから死ぬんだよ

129 :人間七七四年:2020/04/28(火) 23:03:33 ID:Sp4C/g6u.net
つまり武田アフィ虎はクズであるということか…

130 :人間七七四年:2020/04/29(水) 07:38:57 ID:8oiWljdW.net
>>127
一番槍なんて鉄砲のいい的だろうしなぁ

131 :人間七七四年:2020/04/29(水) 20:25:12 ID:JuT1MqJg.net
文明十七年秋八月、新将軍(足利義尚)は右大将に任じられた。そして細川政元も、未だ弱冠ではあるが、
父祖代々の職を継いで管領と成り、右京太夫に補任された。

翌文明十八年秋七月二十九日、右大将拝賀の為に新将軍家は御参内あり、御供の人々は(応仁の)乱後の
微力の身なれども、我劣らじと綺羅を尽くし、辺りを払って供奉した。
洛中洛外の貴賤上下、これを見物し奉った。
東山殿(足利義政)も桟敷を構えて御覧有り、大変に嬉しく思われたという。

礼儀の故実は二階堂判官政行に仰せ付けられ、次第作法を定められた。
先ず小侍所は細川右馬頭政賢が先陣を承り、騎馬十人を進ませた。その次に、雲客二十余人、その次に重代の
武士の行進で、番長(奉公衆の番頭)が随身した。次に帯刀左右十二番、その次に将軍家が御車に召され
参向あった。次に衛府官人、次に公卿二十人が御供した。菊亭大納言(今出川)公興卿が御簾の役、
柳原別当重光卿は御沓の役を勤められた。次に畠山政長の嫡子、御児丸尚順、佐々木治部少輔経秀(京極材宗)、

伊勢備中前司貞陸、富樫介政親、等が各々騎馬で、後陣は時の管領、細川右京太夫政元が、騎馬十騎を
従え、辺りを払って供奉した。

行列正しく、天気も更に快晴で。珍しいほどの壮観であった。

『應仁後記』

室町将軍は、征夷大将軍よりも右近衛大将の任官が重要視されていたと言われますが、
公武を挙げてそれを祝う様子がよくわかる記事かと。

132 :人間七七四年:2020/04/30(木) 19:54:58 ID:SWuOrQ+n.net
>>131
義昭が結局なれなかったやつね>右近衛大将

133 :人間七七四年:2020/05/01(金) 12:30:29 ID:dv9W74xS.net
大樹は主上への貢献がちと足りなかったておじゃる

134 :人間七七四年:2020/05/01(金) 13:04:04 ID:TGNPUsIN.net
マジで足利アフィ尚最低だな

135 :人間七七四年:2020/05/01(金) 19:44:08 ID:e7pEHLcn.net
>>134
偏諱ビジネスをアフィ扱いは流石に草

136 :人間七七四年:2020/05/02(土) 12:28:05 ID:XXppo7En.net
畠山政長は公方家三代の管領職であり(義政、義尚、義材)、近代無双の名大将であった。
その手柄の多き中に、去る応仁の乱で山名方の多勢が洛中の軍に打ち勝って、相国寺の焼け跡に
陣取り、既に公方家の花の御所へ攻め近づいたため、御所方は難儀に及んだ所、この政長の手勢、加勢、
合せて二、三千の人数を以て

「今度の合戦は、政長一人の惣勝ちを見せ申さん!諸人証拠たるべし!」

と、自身声高に呼びかけた。敵は諸家合せて二、三万の大勢であったが、これを一戦に切り崩し、悉く
追い詰め、引き残る敵兵を、かの寺の蓮池へ切り込み、大いに勝利を得た。

これより山名方の者共は立て直すことが出来ず、それより文明年中まで、ただ対陣に日を送り、洛中の合戦
無く、終に御味方の御利運となった。然れば応仁の乱の惣勝ちは誠に政長一人の惣勝ちでであったと、
天下の人は皆感称した。

『應仁後記』

137 :人間七七四年:2020/05/02(土) 15:21:10.72 ID:2s/eWQiV.net
斎藤山城先祖の事

斎藤右京太夫龍興の由来を詳しく尋ねるに、三代以前斎藤山城守と申すはその昔、都において賤しき
笠張りであった人として生まれ、「ああ、むなしく朽ち果てるのも口惜しい。いかなる侍でもなって
小知をも汚したきものよ」と心中に深く思ったので、まず清水へ七月七夜籠ったのである。

満する夜の夢に「みのふまへてかさをはれ」という夢を見て、我ながらも不思議に存じ博士にこれを
尋ねれば、「なるほどこれは有り難き御告げなり。急ぎ美濃路へ御越しになって、良き大名を御頼み
なされ」と申したので、それならばと博士の申すに任せて美濃国を志して罷り下った。

するとその頃美濃国の大将を土岐美濃守時益と申して、大桑の城郭を構えていらっしゃった。笠張り
は便りを求めてこの君に仕え、中間奉公を勤めた。夢の告げは頼もしく、昼夜奉公は油断無く相勤め、
土岐の御気に入ること限りなし。

ある時、鷹野に御出になろうと催された。するとどうしたことか御鷹がそれて、かの中間の部屋梁9
尺長さ2間の長屋の中に3間柄の槍をかけてあったのだが、身の方2間は屋内に石突は外へ出ていた。
その槍の柄にかの鷹が止まった。土岐殿はじかに御居へなられ、「この小さき長屋の内に3間柄の槍
を嗜むとは只者にあらず」と感じ思し召し、御知行百石を下し置かれた。

それより立身して“斎藤山城守”と申し、御家老まで経上ったことこそ不思議なことである。それよ
り下々に情けをかけ、段々首尾を纏い時至り、土岐殿を打ち滅ぼし奉り国を押領し、「大桑は城内が
狭い」と井の口稲葉山に城を構え美濃国を切り従え、あまつさえ信長公を婿に取ったのも、かの夢の
告げであったのだろうか。(後略)

――『堂洞軍記』

138 :人間七七四年:2020/05/02(土) 15:29:09.96 ID:9m3iBBhi.net
斎藤アフィ城守最高だよな!

139 :人間七七四年:2020/05/02(土) 15:51:05.46 ID:UQtgzfg2.net
身延前で傘を張れ

法華宗に入信しろ、てことかと思った

140 :人間七七四年:2020/05/02(土) 17:25:11 ID:28fUGzQr.net
政長って普通に有能だと思うけど義就が怪物すぎるせいで割を食った感がある

141 :人間七七四年:2020/05/02(土) 22:20:22 ID:Nsgx4uuo.net
三組坂

 元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方の「三組」
の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあ
たり一帯を駿河町と呼んだ。
 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組
町」と改めた。
 この町内の坂であることから「三組坂」名づけられた。
 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降、今の湯島三丁目となった。

文京区教育委員会 平成19年3月

142 :人間七七四年:2020/05/03(日) 14:51:56.49 ID:vyOfXi5D.net
永井カ事

永井(長井)と申すは初めは永江(長江)とも名乗った。美濃居益(今須)の城主なり。これも初めは
公方に奉仕し、京都に参勤した。嘉吉の頃、備中守高景と申す人は土岐殿の外戚で同国の豊島(富島)
を知行した。

斎藤と仲が悪くなって度々合戦があり、備中守高景と同子息・四郎左衛門景秀は討死したのであった。
その跡を永井藤左衛門が知行して斎藤に従った。石丸丹波守(利光)父子は明応5年(1496)、斎
藤持是院(斎藤妙椿。妙純の誤り)に滅ぼされた。

斎藤カ事

美濃斎藤は元は越前の住人、利仁将軍の末葉なり。代々美濃国革手(川手)の城主である。土岐は屋形、
斎藤は守護代なり。しかしながら、前代の時には“土岐斎藤”といって国人も一双のように思ったので
ある。元弘の昔にも、土岐頼員は斎藤利行の婿であった。その後、高氏(足利尊氏)の御代となっても
斎藤はなおも美濃に繁昌したのである。

その初めの祖を越前守経永と号す。その子・利明、その子・越前守利永、その次・利藤。帯刀左衛門尉
は成人の子が無く、利明の二男・三位僧都妙椿(斎藤妙椿)が世を継ぎ給う。その人は武道・和歌の達
者で持是院大年公清法印とも申す。明応5年12月7日に逝去なされた。姪を養子として斎藤駿河守基
秀(妙純)と号す。また利国とも名乗った。この人に子無くして利藤の子・利綱にしばらく家督を譲り、
この人の時に斎藤家は断絶した。

しかるに、斎藤家の家僕は永井藤左衛門や同豊後守などであった。豊後守は山城国西の岡より牢人して
斎藤家に来たり、藤左衛門の与力となって度々合戦に労功を積み“永井豊後守”と号してかの家の家僕
となる。斎藤の家督断絶の時、かの家領を両人で知行した。

その頃、公方・義尹(足利義稙)と細川高国より斎藤を召されたのだが、上らなかったので公方より勢
を向けられ、永正17年(1520年)に近江勢が向かった時、革手の城はあまりに要害悪しきとして
稲葉山を取り立てこれを城となした。

その後、藤左衛門と豊後守は不和になって豊後守は病死し、その子・山城守利政の代になってやがて藤
左衛門を討ち取り、斎藤を名乗って自ら美濃半国を知行し、入道して“道三”と号す。

――『江濃記』

老人雑話にもありますが、江濃記も父子二代の下克上を記述してますね。

143 :人間七七四年:2020/05/03(日) 22:03:19 ID:lGyj4K0H.net
(明応の政変によって)この年四月、前公方(足利義材)は、上原左衛門大夫(元秀)と云う者によって
大和筒井城で身柄を確保され、直ぐに細川政元に計らい、将軍職を解官あって、忝なくも前将軍
義稙(義材)公を、伯々下部紀伊守に預け置き奉り、獄舎を造って入れ置き参らせ、遁世者ただ一人を
配膳の役に侍らせた。そして男女ともにかの獄舎に出入りすることは堅く制禁したが、前将軍家の
伯母御前の比丘尼御所が、通賢寺におられ、ただこの御方だけは、番人の免許を得られ、折々に
獄中へ御見廻さて、御物語あられた。

ある時、配膳役の遁世者が密かに、前将軍へ申した
「君、いかにもして早速にこの御所を落ちさせ給い、何方にも御座を移し、御運を開かれて下さい。
もし御本意を遂げられたならば、某の子孫を必ず取り立てて下さい。某は御跡に残り留まって、
水火の責めに遭おうとも、御行方は申しません。」

このように年頃に申し上げると、前将軍家はこれを聞き召され
「ならば、その意に任すべし。汝が忠義のほど、生々世々に忘れるべからず。子孫に至りては
必ず取り立て召し仕わん」と御約束有あった。

その後、前将軍家はすぐに御伯母御前と同じ乗輿に召されて獄舎の中を忍び出、安々と遁れ落ちられ、
北国へ御下向あった。

さて、その御跡にかの遁世者は、この事を深く隠し、何事も無かったかのように御座の場所に毎日
御膳を捧げつつ、また一人で御物語を申し上げ、今も前将軍家がここに御座有るようにもてなし、人知れぬ
ようにしていた。これは昔、鎌倉における頼朝卿の御時、清水冠者(源)義高が囚われ、落ち行き難き
状況だったのを、乳母子の海野小太郎幸氏が計らった事に相似ている。(源頼朝が木曽義仲の子である源義高を
誅殺しようとしたのを、彼の妻で頼朝の娘であった大姫の頼みで、海野幸氏が助けた故事)

こうして、十日ばかり過ぎてこの事は隠れなく顕れた。政元よりこの遁世者を搦め捕り、様々に拷問し
公方の御行方を尋問したが、ついにこの者は落ちず、後には河原に引き出され頸を刎ね捨てられた。

その日、伯々下部紀伊守の父である豊前守が頓死した。これを世の人々は皆、「伯々下部が公方に
悪しくあたり申せし御罰である。」と言い合った。また、この遁世者の行動を褒めぬものも居なかった。

『應仁後記』

明応の政変で幽閉された足利義材の脱出について

144 :人間七七四年:2020/05/04(月) 19:28:04 ID:l3w2F9Wf.net
雀部與作、先祖の領地で


雀部與作の祖父は三好長慶の家臣であった雀部伊豆であり、父の代から池田家に仕えるようになった。
大坂の陣では池田利隆にお供したが、摂津の大島で焼き働きをすることになった。

しかし大島は先祖の在所知行であったため、住民たちが與作のところに詰めてきて
「何とぞお焼き捨てなさらぬように」
と申し続けていたが、既に決まったことなので與作は許容しないでいた。
與作は香西縫殿の姪婿であったので、そのことを聞いた縫殿が利隆へ申し上げた。

利隆は御前に與作を呼ばれて「大島はその方先祖の知行か」とお尋ねになられたあと
「御陣の障りにもなるまいし、そのままにしておくように」と縫殿に仰せ付けられた。
大島の住民たちはこのことを有り難く思って、御馬のぬかわらを世話したという。


――『吉備群書集成』

145 :人間七七四年:2020/05/05(火) 00:56:32.61 ID:Enea/5dy.net
領地の任官は絶対させないし僭称も許さないと公式にした江戸幕府の意味不明さはなんなんだろうな

146 :人間七七四年:2020/05/05(火) 02:24:52 ID:iO/doWIk.net
一、それ、信玄公幼き時の御名を勝千代殿と申す。子細は御父の信虎公28歳の時、駿河のくしま
  (福島)という武士は今川殿を軽視し、結果甲州を取って己の国に仕らんと遠駿の人数を引き
  連れ甲州飯田河原まで来たり、しかも65日余り陣を張っていた。

  その時、甲州御一家の衆はことごとく身構えをして、「武田の御家はもはや滅却するだろう」
  と仕るところに、信虎公の家老・荻原常陸守(常陸介昌勝)と申す大剛の武士の武略をもって、
  信虎公は勝利を得給う。

  敵の大将のくしまを討ち取りなさったその日のその時に誕生なさった故、“勝千代殿”と信玄
  公に幼名を付け申す。すなわちその時の合戦は勝千代殿の合戦である。武田信虎公の家老の沙
  汰なり。勝千代殿誕生前に諸々の不思議が信州諏訪明神より告げ来たるという。

一、荻原常陸守は信虎公御幼少の時に弓矢の指南申し、信玄公御幼稚の時分も弓矢の物語りを申し
  上げられた。信玄公12,3歳の御時分に常陸守は70余歳で死去なり。

――『甲陽軍鑑』

147 :人間七七四年:2020/05/05(火) 23:18:59 ID:SC7VeA1M.net
文亀二年(1502)、江州の住人、佐々木六角高頼は、去る明応の頃、前将軍家(足利義材)による
江東征伐の時、居城観音寺を落ちて甲賀山に隠れ居ける所に、その後数年の乱中に程なく居城へ
立ち帰り、本城その他所々を従え、再び大名と成った。しかしその頃、彼の家臣の伊庭(伊庭貞隆)
という者が謀反を起こし(伊庭氏の乱)、今度文亀三年四月四日には、東国百済寺も兵火のために
消失した。然ればこの江南の乱中に乗じて江州を退治せんと、、細川政元内衆の赤沢澤蔵軒宗益(朝経)は
多勢を率いて江州へ乱入した。

彼等は所々の城を攻め取り、甚だ猛威を奮い働いたが、同国音羽の城主・蒲生下野守貞秀は、昔当国の
湖上に百足を射て龍宮へ渡ったと云われる俵藤太秀郷の後胤にて、武勇の士であり、剃髪の後は智閑と称した。
赤沢澤蔵軒はこれをも攻めよとて、音羽の城を取り巻き日夜激しく攻めたが、城強く、能く防いで
落ちる様子もなかった。寄せ手は攻めあぐね、徒に日数を送り、延々と囲んでいた。

この時城中に鋳物師の安河という者が籠っていたが、彼は稀代の弓の上手であり、彼が射る矢先に立つ者、
一人として命を失わずという事無かった。赤沢澤蔵軒は音羽城より三町(約300メートル)ほど遠ざけて
本陣を取っていたのだが、陣の前に、五尺廻りの柳の木があった。これに、かの安河が射た矢が、
羽ぶくら(矢の端の羽のついている場所)まで貫き通した。これを見る人々、皆舌を巻いて畏れ驚き、
直ぐにその柳を切って城中へ送り、名誉の精兵と称賛した。

『應仁後記』

敵であっても、こうやって讃えていたんですね。

148 :人間七七四年:2020/05/06(水) 06:34:26.34 ID:0n/Kroxt.net
可児郡明智の庄長山の城主の事。一説に曰く、池田の庄明智の里ともいう。実は明智の庄であろう。
明智の城のあった地を長山の地といった。これは字名であろう。

さて、明智城というのは土岐美濃守光衡より五代の嫡流・土岐民部大輔頼清の二男・土岐明智次郎
長山下野守頼兼が康永元壬午年(1342)3月に初めてこれを開築し、居城として存在し、子孫
代々、光秀までここに住せり。

(中略)光継に子息数多あり。嫡子を十兵衛尉光綱といい後に遠江守と号す。日向守光秀の父これ
なり。二男を山岸勘解由左衛門尉光信という。大野郡府内の城主・山岸加賀守貞秀の養子なり。三
男を明智兵庫頭光安という。後に入道して宗宿と号す。明智左馬助(秀満)・三宅第十郎などの父
これなり。

四男を次左衛門尉光久という。明智治右衛門光忠の父これなり。五男を原紀伊守光頼といった。原
隠岐守久頼の父これなり(原注:原久頼は関ヶ原合戦で討死した)。次は女子なり。斎藤道三の室
となる。織田信長の北の方、ならびに金森五郎八郎長近などの内室の母はこれなり。次の六男を明
智十平次光廉という。後に入道して長閑斎という。十郎左衛門光近の父これなり。

遠江守光総(光綱の誤記?)は家督を受け継ぎ明智に住し、代々の知行1万5千貫を領す(原注:
今の7万5千石なり)。大永元年(1521)の春、山岸加賀守貞秀の娘を迎えて室とした。光綱
は日頃多病であった。天文7年(1538)戊戌年8月5日に死去した。嫡子・光秀、その時わず
かに11歳なり。

右の幼少なる故に、祖父・光継入道の命で叔父の光安・光久・光廉の3人を後見とし、光秀を守り
立て城主とした。しかるに光秀は生まれ付き凡人とは変わり、幼少より大志の旨あった故か、明智
の城主としてわずか1万5千貫の所領を受け継ぐことを望みと思わず、家督を嫌って居城を叔父に
任せ置いて自身は遊楽となり、武術鍛錬のために諸方を遍歴した。

――『美濃国諸旧記』

149 :人間七七四年:2020/05/06(水) 09:41:55 ID:CKuddwdz.net
>>147
そんな名人が何で鋳物師やってんだ

150 :人間七七四年:2020/05/07(木) 09:23:24 ID:AmG6SuRt.net
>>149
生活するためだろ
あっ年老いた親に寄生してるこどおじ無職のお前には理解できないかw

151 :人間七七四年:2020/05/07(木) 15:02:17 ID:RnSax87m.net
雑人陣にて煩ひの時

一、虫には曹洞宗の百貫草。水一盃の半分を一盃に煎じて飲ませる。手に1つも握る。口伝。
一、おこり(マラリア)には亀1つを黒焼きにする。水でこれを飲ませる。
一、熱気には拾五気の木。手1束に右の煎じ様で。口伝。

――『甲陽軍鑑』

152 :人間七七四年:2020/05/07(木) 23:17:27.22 ID:IQ1diqqb.net
>>150
敵も称える弓の達人なら武士で何十貫だって稼げるだろ
知行取りになったら不労所得だぞ不労所得
なんて素敵な響き

153 :人間七七四年:2020/05/08(金) 03:19:48 ID:f/1PIr3N.net
しかるにその頃、斎藤道三という者あり。その由緒を尋ねるに、元来その先祖は禁裏北面の武士である。
藤原氏にして大織冠鎌足公六代の孫・河内守村雄の子(中略)その子・左近将監基宗。その基宗の子が
道三である。松波は代々上北面の侍だったが、基宗の代に至り故あって山城国乙訓郡西の岡に居住した。

道三は永正元甲子年(1504)5月出生。童名“峯丸”という。生まれ付き美々しく諸人に優れ、幼
少の頃より智慮賢く、成人の後はしかるべき者ともなるだろうと寵愛甚だしかった。父の基宗は峯丸が
生まれ付き只ならぬのを察して、「凡下になし置くのも残念だ」と、峯丸11歳の春に出家させ、京都
妙覚寺の日善上人の弟子となし“法蓮房”と号す。元来利発の者なので日善上人に随身して、学は顕密
の奥旨を極め、弁舌は富楼那にも劣らず、内外を良く悟りすこぶる名僧の端ともなった。

(中略)

さてまた、法蓮房は常々南陽房を引き回すほどの者なのでもっぱら無双の名僧であったが、ある時いか
なる心が付いたのか三衣を脱いで還俗し、西の岡に帰って住居し、奈良屋又兵衛という者の娘を娶って
妻となし、かの家名を改めて“山崎屋庄五郎”と名乗り灯油を商いした。後に父の氏を用いて“松波庄
五郎”と号す。元来この者は心中に大志もあったのか、出家の間にも和漢の軍書に眼を晒して合戦の指
揮、進退駆け引きの奥義を学び、また良く音曲に達し、あるいは弓砲の術に妙を得ていた。

大永(1521〜)の頃より毎年美濃国に来て油を売っていたのだが、かの厚見郡今泉の常在寺の住職
である日運上人は幼少の頃の朋友で、その知辺があることで数日常在寺に来たり、様々な物語りなどし
て当国の容体を窺った。

元来聡明英智にして武勇剛計を志し、身は賤しき商民なれども心は剛にして思い内にありといえど、時
を得ずして本国を離れ斯くの如く身を落として濃州に来たり、立身出世を心がけて川手・稲葉・鷺山な
どの城下に至り、日々灯油を売り歩いて行ったのだが、弁舌をもって諸人を欺いていた。

154 :人間七七四年:2020/05/08(金) 03:23:16 ID:f/1PIr3N.net
ある時、人に向かって申し「私めは油を測るのに上戸(漏斗)を使わずに、1文の銭の穴から通すこと
ができる!もし穴から外へ少しでもかかったならば、油を無料で進ぜよう!」と言えば、皆人はこれは
稀有の油売りだと城下の者どもは他の人の油はあえて求めず、ただ庄五郎の油のみを買った故に、しば
らくの内に数多の利分を得て大いに金銀を蓄え、なおも油を商いした。そのため稲葉山の城主・長井藤
左衛門長張(長弘)の家臣・矢野五左衛門という者は、この由を聞いて庄五郎を呼び自ら油を求めた。

すると庄五郎は畏まって銭1文を取り出し、件の油を四角の柄杓で汲み出し流れること糸筋の如く、細
く滴って銭の穴を通せば五左衛門大いに感じ、申して曰く「まことにこれ不思議の手の内なり。よくも
まあ手練したものだ。しかしながら惜しいことだ。これほどに業を良く得ていても賤しき芸である故に、
熟したところでわずかの町人の業である。哀れ、かほどの手練を私が嗜む武術において得る程であれば、
あっぱれ後代にその名を知られる武士ともなるだろうに、残念なことよ」と申した。

庄五郎はこれを聞いて、実に矢野の一言はその理に至極せりと我が家に帰り、そのまま油道具を売り払
い右の商売を止めて心中で思うには、「私はいささか軍書に心を寄せているといえど未だ熟していない。
いずれの芸を嗜むにしても、その極意の至るところは、1文の銭の穴から油が通る時に外にかからない
如く、皆手の内の極まるところにある。弓矢鉄砲で良く的当するのもこの理に等しい。それならば長槍
を手練しよう」と欲した。

庄五郎は自ら工夫して我が家の後ろに行き、藪のある所で銭1文を竹の先に釣り置き、3間半の長槍を
拵えて穂先は細い釘で作り、一心不乱に毎日毎日銭の穴目掛けて下から突いていたのだが、中々初めの
頃は掌定まらず突き通すことができなかった。しかし『極志も業も一心にあり』と兵書に言われる如く、
一心二業一眼二早速一心眼に入り早速心に入って業は定まり、後には終いにこれを突き通す程になった
ので、百度千度突くとも1つも外すこと無く、その術はほとんど一必定に止まったのである。

すなわち庄五郎はこれを旨として名師とさえ聞けばたちまち随身してこれを励み、切磋琢磨の功を積ん
で武術兵術一つとして欠けることなく、実に希代の名士となったのである。世に3間半の長槍が流布し
て用いたがこれより始まったのである。いかにもその徳はあまねく多かった。

また庄五郎は砲術に妙を得ていた。細やかにして、提針をも外さなかった。天正(1573〜)の頃、
明智光秀が砲術に妙を得ているといってその名を知られたのは、初めこの道三を師としてこれを手練し
た故である。

――『美濃国諸旧記』

麒麟がくるにも利政が銭を槍で突くシーンありましたね

155 :人間七七四年:2020/05/08(金) 03:30:29 ID:UkSAmB4F.net
雑兵物語だと長槍は叩くものだけど、三間半の槍で道三は突いてるのね

それにしても長槍の兵を組ませたのは信長って俗説あったと思うけど、あれはどっから生まれたんだろうか

156 :人間七七四年:2020/05/08(金) 12:45:36 ID:wR/yUS7S.net
商売の達人であり鎗の達人であり砲術の達人でもあるのに内政・人望0の男

157 :人間七七四年:2020/05/08(金) 14:48:47 ID:rw4XQcZv.net
>>152
どう足掻いてもお前は何の取り柄も無い無職のこどおじだけどねw

158 :人間七七四年:2020/05/08(金) 15:42:06.18 ID:ASHIDqPN.net
というかそれは国盗り物語以来の有名なお話じゃん
槍で銭突くの

159 :人間七七四年:2020/05/08(金) 18:13:26 ID:ojgmVDyY.net
>>148
>智十平次光廉という。後に入道して長閑斎という。十郎左衛門光近の父これなり。

新書太閤記で、炎上してる城の中から槍を構えて飛び出してくるシーンが最高すぎる

160 :人間七七四年:2020/05/08(金) 21:26:28.84 ID:UkSAmB4F.net
6メートル以上の槍で銭の穴通すって武芸がどうこうっていうよりは
油垂らしと一緒で曲芸の域な気も

やりこみ資格マニアめいてるというか

161 :人間七七四年:2020/05/11(月) 02:53:00 ID:2m/XX9y0.net
(長良川の戦い後)

戦が終わり首実検をすると(斎藤義龍は)信長の御陣所である大良口へ人数を出した。信長は大良
から30町ほど駆け出て、および河原で戦い合う足軽合戦があって、

山口取手介 討死
土方喜三郎 討死
森三左衛門(可成) 千石又一に渡し合い、馬上で切り合って三左衛門は脛の口を切られ引き退く。

しかし、山城(斎藤道三)も合戦に切り負け討死の由なので、信長は大良の御本陣まで引き入った
のだった。ここで大河を隔てていたので、雑人・牛馬をことごとく退かせなさり、殿は信長がなさ
るとの由で全ての人数に川を越させなさり、上総介殿(信長)の乗られる御舟1艘を残して各々は
川を打ち越えた。

すると馬武者少々が川端まで駆けて来た。その時に信長は鉄砲を撃ちなさり、敵はそこから近くに
は寄らず、信長はそこを去って御舟に乗られて御越しになった。

そのようなところで、尾張国半国の主・織田伊勢守(信安)は濃州の義龍と申し合わせて、御敵の
色を立てる。信長の館・清州の近所、下の郷という村を放火したとの由が追々注進された。信長は
御無念に思し召し、ただちに岩倉口へ御遣わしになって岩倉近辺の知行所を焼き払い、その日の御
人数は御引き取りになった。

このようであったため、下郡半国も過半は御敵となったのである。

――『信長公記 首巻』

162 :人間七七四年:2020/05/11(月) 15:47:24 ID:YxnV2kQk.net
土岐のご落胤なんてのは取って付けた名分であって実際は国人領主に担ぎ上げられた義龍が道三を討っただけ
伊達も武田も似たようなものでしょう

163 :人間七七四年:2020/05/11(月) 20:51:19.81 ID:2sf7MF5G.net
統制するならされるほうから支持されてるほうがいいというのはまあ自然なことよね

164 :人間七七四年:2020/05/11(月) 21:03:15 ID:LbbxIGpC.net
当時から義龍って土岐氏の落胤なんて名乗ってたの?
後世の俗説じゃ?

165 :人間七七四年:2020/05/12(火) 00:11:04 ID:T9xNSwQi.net
>>164
江戸後期に初めて出てきた話のはず

166 :人間七七四年:2020/05/12(火) 00:43:26 ID:9F50NLoj.net
ですよね、てことは当時の義龍は名分であってもあくまで親父が暴君だから押込するねとかそういう形にのはずよね

167 :人間七七四年:2020/05/12(火) 00:44:36 ID:uX5b18U6.net
>>162
親戚の長井と稲葉が仕切ってくれればよかったんだけどね
なぜか一色家になってしまったから…

168 :人間七七四年:2020/05/12(火) 05:35:16.13 ID:iLI6DruS.net
人数多勢無勢出立の事、

一、大軍は少旗、小軍は大旗。口伝あり。

味方が夜軍をする時、

一、あつくうってうすく出る。口伝あり。
一、険難をよく見る。これについては、素破の入る所である。ただしそれは前のこと。口伝。
一、上着・胴・肩衣・白。口伝。
一、控え軍が肝要である。
一、時を合わせることが肝要である。
一、伏せ屈りには風が大事。口伝。屈りの物見は“かきもの聞き”という。

――『甲陽軍鑑(品第四二 軍法之巻)』

169 :人間七七四年:2020/05/12(火) 10:38:25 ID:eZMewPxk.net
おまえ口伝ばっかじゃねえか(呆れ)

170 :人間七七四年:2020/05/12(火) 10:53:52 ID:9V4qoNAn.net
秘伝の巻物を奪っても口伝ばっかりだから参考にならない
てのはよくあるツッコミ

171 :人間七七四年:2020/05/12(火) 12:27:52 ID:ENjCfJRy.net
倭猿は口吸いも口伝だもんな

172 :人間七七四年:2020/05/14(木) 06:05:02.71 ID:s3NizvQB.net
本巣郡山口の城主は、

古田左金吾安長、安長弟の同吉左衛門長宗、長宗弟の同兵部少輔長政、長政子の同織部正長脇(古田織部)。

この城は昔、梶原平三景時の居城であった。当城に居住した折に、この場所の鴨を取って頼朝に献上したと
『東鑑』に見えている。また文治(1185〜1190)の頃、判官義経を来振寺で調伏したという。この
事は五大尊寺にあるなり。

さてまた古田吉左衛門は羽柴秀吉に仕えて、播州三木の城攻めの折に討死した。その子に古田兵部少輔長幸
(重勝)と二男の大膳大夫長盛(重治)という2人がいた。慶長5年(1600)、勢州松坂の城主となり
6万石を領した。その後、兵部少輔は病死した。

その時に6歳の狐子(古田重恒)がいたが、将軍家康公より大膳大夫に兄の跡目を相続し、兵部少輔となる
ようにとの旨仰せがあった。大膳が承って申すには「有難き上意でございますが、狐子を成長させて父の名
ですので兵部少輔と名乗らせ申したいのです」との由を望んだ。家康公は聞こし召して「今の世には希なる
者かな」と感じなさった。

狐子がようやく成長すると、父の挙具を残らず目録をもって元和6年(1620)の頃に渡し、もちろん6
万石の地をも付与して、自身は物寂しき様子で江戸に住んだ。潔きこと誰がこの上に立てようか。稲葉内蔵
助(道通か)・一柳監物(直盛)なども兄の跡目を名代として相続したが、いずれも古田に及ばないという。

――『美濃国諸旧記』

ちなみに美濃国諸旧記は寛永末から正保中(1624〜1648)の成立と言われるが、正保3年に古田騒
動が起こり、その後の慶安元年(1648)に重恒は狂気により自殺したという。

173 :人間七七四年:2020/05/14(木) 14:43:51 ID:rbOONCHf.net
重治とご内室の不義の子だもんな
真実を知って気狂いしたんだろ

174 :人間七七四年:2020/05/14(木) 15:49:14.23 ID:W1z6qpsm.net
家格でいえば明らかに斎藤より一色のがよっぽど上なんだから長尾氏が上杉氏名乗りだしたのと同じようなもんでしょ
義龍別に統治に問題があったわけでもなく、なんなら織田や朝倉の侵攻普通にあしらってるし、当主として申し分ないでしょ

強いて言うなら家臣の派閥やらを仲裁できるだけの実力を後継がつける前に若死にして、後ろ盾ができなかった点くらいじゃないの

175 :人間七七四年:2020/05/14(木) 16:09:56.09 ID:/wY1hd3a.net
長尾はまがりなりにも上杉から譲り受けてるんだから義竜の例とは違うんじゃないの?

176 :人間七七四年:2020/05/14(木) 16:29:29.16 ID:W1z6qpsm.net
確か義輝あたりから許可もらって母方の縁戚にいた一色氏を名乗りだしたって形で筋はしっかりしてると思う

景虎だって長尾のままでもよかったんだし、じゃあなんで上杉名乗ったのって言ったらその方が政治的に有利に立ち回れるからじゃないの?

177 :人間七七四年:2020/05/14(木) 19:51:42 ID:RVYNhZbO.net
家督を譲られて長尾のままというわけにはいかないと思うけどなあ
自ら変えたのか、譲られて変えたのか
それだけの違いだけど、イメージとしてはかなり変わってくるんじゃないのかな

178 :人間七七四年:2020/05/14(木) 20:44:57.66 ID:+R0+wK5D.net
まぁあくまで家格が上の立場の氏名乗る例ってだけだし
一色氏を名乗ることはそんなおかしなことじゃないってだけ

179 :人間七七四年:2020/05/14(木) 22:50:40.61 ID:EOK6TkPy.net
織田信雄、敵を助けた小姓を


丹羽左兵太は織田常信(信雄)の小姓である。
長久手合戦のとき池田の手に石黒善左衛門、常信の手に石黒善右衛門がいて二人は伯父甥であった。
常信の手にいる石黒と丹羽は仲が良かったが、一戦で丹羽は池田の手の石黒と槍を合わせた。

丹羽の下人が「これは味方の石黒とは一家ですよ」と申したので、石黒と仕合を止め
(丹羽は)その先で敵一人に槍を付け首を捕ったが、味方の大兵が来て首を奪われてしまった。
「これ程多くいる敵を討たず人の討った首を奪うか!」と言って先に行きまた敵を討ったという。

その後東照宮(家康)へ(徳川家臣の)西尾丹後が「常信の小姓が、仕掛けた敵を助けました」と
申し上げたので、東照宮はそのことについて常信にお尋ねになられた。
常信は敵を助けたと申すのはどうかと思われて「左様の者はございません」と返答された。

その後東照宮が常信の所へ越されて、長久手での勝利を喜ぶ御話をされた後
「最前にいる御小姓に手柄をいたした者がいるそうですが、何と申す者でしょう」とお尋ねされたので
「只今お酌をしているのは(小姓ではなく)余の倅です」と常信は申されたという。
このとき佐平太[十九歳だったという]は、お酌取りとして御前にいたという。


――『烈公間話』

180 :人間七七四年:2020/05/15(金) 07:25:04 ID:Ph9xcLPX.net
>>176
相伴衆だね

181 :人間七七四年:2020/05/15(金) 18:51:02 ID:RLxOE1g1.net
一、大野郡清水の城主  稲葉伊予守良通入道一鉄斎 始めは安八郡曽根の城主なり。
  安八郡大垣の城主  氏家常陸介友国入道卜全  元亀2年太田村にて討死。
  厚見郡鏡島の城主  安藤伊賀守守就入道道足  天正11年に討死。
  安八郡西の保の城主 不破河内守通定(光治)  天正9年に病死。

  右の四家を“西美濃四人衆”と号して、土岐氏代々相恩の旧臣である。もっとも各々天文・弘
  治・永禄・元亀・天正の頃の人々である。土岐頼芸より義興に属して龍興の代に至り、永禄
  7年(1564)の頃より織田信長に随身した。右の内、稲葉は子孫繁昌、氏家は内膳・志
  摩守が関ヶ原で終わる。不破は彦三郎より北国に果てる。安藤は関東にいるという。

一、さて通貞(不破光治)は土岐の旧臣にして、美濃の国四人衆の内より土岐頼芸・一色義龍・
  斎藤龍興に属し、永禄7年の秋より心変わりして織田信長に属した。

  この人は勇猛武功のことについてさしてその名は無い。しかしながら、その気質温和にして
  人愛深く、その姿に威厳の相あり。殊に弁舌奇麗にして談合仲裁の事に良くその理明白の人
  であった。しかしながら戦功においては、生涯の中で一立の優れた働きを知らない。時に天
  正9巳年(1581)8月に亡くなった。

  その子・彦三郎通家(直光)は柴田勝家の与力として北国征伐の烈将であった。よって越前
  国に居住し、後には加州に移った。天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では前田家に組
  し、度々武功をあらわした。子孫はどこにいるのか、その名を知れず。

  今、濃州不破郡にも不破氏を名乗る小百姓など少々ありといえども、通貞の子孫とも見えず。
  いずれにせよ彦三郎の子孫は北国にいると見える。今、西の保村にも少しの堀の跡、ならび
  に小高き丘などのようなものが見える。これすなわち河内守居城の跡と見えたり。

  ――『美濃国諸旧記』

182 :人間七七四年:2020/05/15(金) 21:26:14 ID:9hpyC+1u.net
長尾から上杉に改姓してもやっぱり当時は周りから「とは言っても本質は長尾だ」と思われてたんかな。伊勢→北条とかも。
変な話、現代だと仮に小室さんが皇室に婿入りして「予は貴族である。崇めよ」みたいな顔して来たら周りは「うーん…」って感じだろうし

183 :人間七七四年:2020/05/15(金) 21:55:47 ID:iX0iDQCr.net
少なくとも関東管領を自負する上杉謙信は北条氏をずっと伊勢氏って呼んでるよね

184 :人間七七四年:2020/05/15(金) 22:12:03.52 ID:mgHvyp7h.net
戦国期は。実際には「家格の壁」ってかなり大きいよね。

185 :人間七七四年:2020/05/15(金) 22:16:29.12 ID:tRfNmdIx.net
北条や佐竹なんかは書状の上では謙信を山内殿と呼んでるね

186 :人間七七四年:2020/05/16(土) 01:10:15 ID:P7v4WyZN.net
>>182
長尾の話だと関東の守護になっても越後の武士はフーンとしか思えないでしょ
むしろお前だけ関東いけやボケと思ったかもしれないな

187 :人間七七四年:2020/05/16(土) 07:30:29.34 ID:RAULnjBL.net
上杉憲政「北条ではない、伊勢じゃ!」

188 :人間七七四年:2020/05/17(日) 04:19:59.93 ID:Noq7djiy.net
しかるところ、当国の守護職・斎藤右京大夫義龍は実父・頼芸の仇故に養父・道三と父子の義を断
ち合戦を初め、弘治2年辰(1556)の4月、方県郡城田寺村でついに道三を討ち取り、一国を
押領し“一色左京大夫”と改めて稲葉山の城に存在した。

まことに道三の多年の不義は、諸人皆がこれを憎んだ故に、その日の合戦には多くが子息の義龍の
手に加わり、道三のもとへ馳せ参る者は少なかったのである。しかるに、明智兵庫助光安入道宗宿
は兼々道三に尊敬されて常に厚情を尽くされた。元来、宗宿の妹は道三の本室である。もっとも早
世したといえども、一度縁者の因を結んだ仲であった。しかし、宗宿はもとより大丈夫(立派な男
子)の勇士なので、道三の威を慕ったわけではない。縁辺の義父・駿河守光継入道宗善が在世の時
に道三が妹を乞い、太守・頼芸に申して縁結したものである。

道三は元来大志あった故に明智の家を一方の盾ともなす心であったので、常々礼儀を厚くして懇情
を尽くした。あるいは尾州の織田を他国の垣根となして、我が娘を信長に嫁がせた。皆大志の下心
である。弘治2年の春に至り、子息・義龍は義兵を起こし合戦に及んだところ、国中の諸士は皆実
義を糺してことごとく義龍の手に至り、道三方は微勢となってたちまち武威衰え、戦う前に道三が
打ち負けること必然と見えたのだった。この時に宗宿が思うには、

「某は今度の合戦こそどちらにも加わり難い。道三はすこぶる逆臣だから誅するのは利の当然であ
るが、彼が日頃私を重んじ厚情を尽くしたことは言葉に述べ難い。その下心の程は『身の上難儀の
事あらば頼みにしたい』との斟酌であろう。彼はまさに今大事の期に及んだ。某は恩情に心を引か
れて傾くわけではないが、彼が衰えたる時節を見て無体に攻め討つのは大丈夫のすることではない。

また義龍は実父の仇を討つと称して義兵を挙げたのに、某が道三に与力して戦えば土岐・明智の先
祖代々に対して大不孝と言えよう。故に両儀決せず、いずれも加わり難い。だが某は進退窮まった
といえども甥の光秀は当家の真嫡なれば、これ一人は義龍のもとへ参らそう」

と光秀のみを稲葉山へ遣した。さて弘治2年、鷺山の合戦終わり道三すでに討たれて後は道三一味
の面々ことごとく討死し、残る輩は皆義龍に降参して国中はようやく平均した。すると宗宿は決し
て出仕せず、つらつら思うことには「義龍は義兵の名ありといえども、(道三は)現在の養父にし
て胎内からの恩は甚だ深い。また先の太守頼芸には本室の実子が数多いる。長男の一色小次郎頼秀
は尾州にいる。二男の左京亮頼師もまた当国にいる。しかれば、これらをもって義兵を発したなら
ば実に忠義孝心であろう。

ところが今すでに義龍の代となり、私がまたこれに伏せば世上の人は憎んで『宗宿こそ懇情あった
道三をも助けず、また合戦の折には義龍にも組せず、命を惜しんで運を両端に計り勝負を眺め、ど
こへも出馬せず戦は収まり、義龍の代になったのを見てたちまち身を寄せた』などと嘲り笑われる
のも口惜しき次第である。殊に某は道三の尊敬を受けた身なれば、諸人の心は道三を心贔屓してい
る様に思って、義龍を始め私の心中を疑い思うのは必定である。

所詮長らえて諸人の口外に残るのも残念なり。ただ速やかに当城に立て籠もり、華々しく討手の勢
を引き受け討死し武名を残してこそ本意であろう。そうでなくても某が『道三と一腹ではないか』
と諸人の疑い思う折であるから、城に籠って出仕すまじと言えばすぐに討手が来るのは必定である。
某が潔く死ねば義ある道三のためにも道が立つ。主家の恨みは心にあれど現在の妹の婿の名があり、
厚情はなお甚だしい。

某50歳の上に満ちて惜しからぬ命を1つ捨てようとして死に迷い、恥ずかしき名を取れば清和天
皇より21代の血脈を保ち、汚名を付けざる明智の一家を私だけで悪名を付け末代まで恥辱を残す
ことは無念の儀である。早く義龍方へ手切れの使いを送り、一門を催して当城に立て籠もり、討手
が来たら思いのままに戦って屍を大手の城門に晒し、本丸に墳墓を残すべし」と思惟を決し、討死
と覚悟を極めたのであった。時に弘治2年9月に至り、一門を催して明智の城に籠った。

189 :人間七七四年:2020/05/17(日) 04:23:55.83 ID:Noq7djiy.net
大将の宗宿53歳、同次左衛門光久50歳、その弟・十平次光廉は尾州にいてこれを知らず。従う
一族には溝尾庄左衛門・三宅式部之助・藤田藤次郎・肥田玄蕃・池田織部・可児才右衛門・森勘解
由などを始め、その勢わずかに870余人であったが義心金石と固まり、心を一致して籠城した。

さて右の子細が稲葉山に聞こえると斎藤義龍は甚だ驚き「早く誅さねば東美濃の過半がこれに従う
だろう」と即時に討手を差し向ける。その時、揖斐周防守光親は義龍を諫めて曰く、「明智宗宿は
古今の義士なり。名を重んじ叶わないと知って籠城するのは大丈夫の振る舞いです。ただ速やかに
利害の使者を送り、ひらに帰伏の旨を申し宥めてしかるべきです」と、言った。

しかしながら義龍は血気の破将故にこれを用いず、ただ攻め討ちと決した。ここに至って揖斐も是
非なく討手に向かう。その人々は長井隼人正道利・井上忠左衛門道勝・国枝大和守正則・二階堂出
雲守行俊・大沢次郎左衛門為泰・遠山主殿助友行・船木大学頭義久・山田次郎兵衛・岩田茂太夫な
どを先手としてその勢3千7百騎。9月19日に稲葉山を出陣し、明智を目指して押し寄せた。

宗宿は少しも多れずここを先途と防ぎ戦った。元来、城の要害堅固にしてどこも破れる浅間も無く、
攻め兼ねて見合わせた故、その日はすでに暮れていった。よってその翌日、再び鬨を発して攻め寄
せたが、宗宿は前夜から酒宴をなし夜もすがら謡い舞い、死出の盃をなして、翌日城外に打って出
て思う程に一戦し早々に城に入ると、その日の申の刻、本丸の真ん中で火を掛けことごとく自害し
て果てた。康永元午年(1342)に明智開基してより年数215年にしてこの日ついに断絶した。

しかるに嫡子・光秀はここまでも城中にいたが、宗宿がこれに申したことには、「我々は自害せん
と存ずる。御身はきっと殉死の志であろうが、某らは不慮の事でこのようになり、家を断絶します。
御身は祖父の遺言もあり、また志も小さくないので、なにとぞここを落ちて存命をなし、明智の家
名を立てられなされ。ならびに我々の子供らをも召し連れて、末々まで取り立て給わるよう頼み申
すなり」と、申し置いて死んだのであった。

これによって(光秀は)死を止まり城を落ちて西美濃に至り、叔父の山岸光信のもとにしばらく身
を寄せ、すなわちここに妻子ならびに従弟どもを預け、それより6ヶ年の間諸国を遍歴して武術の
鍛錬をなし、それより永禄5年(1562)に越前の太守・朝倉左衛門尉義景に仕官して、その後
同11年の秋より足利新公方義昭公の推挙をもって織田信長に仕え、後に60万石余の大名となる。

――『美濃国諸旧記』

190 :人間七七四年:2020/05/17(日) 10:32:13 ID:JOnhKwm0.net
>>187
何故あなたは謙信公の甥よりも伊勢の子を支持したのでしょうか?

191 :人間七七四年:2020/05/17(日) 10:49:21 ID:93C6/5Km.net
景虎の息子の道満丸を見てると幼くして死んだ息子、龍若丸のことが思い出されて不憫に思ったから
だったり

192 :人間七七四年:2020/05/17(日) 11:26:36 ID:AB43ApQ5.net
取次してる神余親綱の内通疑惑に対して景勝を仲裁してたのに
景勝が強引に処分しようとしてメンツ潰されたから
処分反対派たちと一緒に景虎擁立して押込しようとしたっていうのが
最近の御館の乱の論考と上杉憲政の動き

この論だと景勝が正当後継として暫くは上杉家揉めてないけど、景勝の強引な行動が原因で主君押込未遂に発展したと

193 :人間七七四年:2020/05/17(日) 12:09:30.49 ID:vx7QZ9GX.net
>>192
守護家に対する景勝の下剋上だなこれだけ読むと

194 :人間七七四年:2020/05/17(日) 12:37:28.26 ID:ALenA1+2.net
美濃の一色もそうだけど、ここで出てくる将軍権威。
たとえ僭称に等しい形でも、足利将軍に正式に認められるというのは大きい。

195 :人間七七四年:2020/05/17(日) 13:02:00.03 ID:AB43ApQ5.net
これだと更に俗説と違い、景勝と景虎を仲裁しようとした武田勝頼を無視して景虎を討って武田北条間の関係こじれさせるし
なんだこの景勝の仲裁者キラーっぷりは

196 :人間七七四年:2020/05/17(日) 17:52:52 ID:3rhWGz36.net
景勝は御館の乱で活躍した新発田重家をちゃんと褒賞せず反乱を起こされるというミスもやらかしてるよね

197 :人間七七四年:2020/05/17(日) 20:28:14 ID:Oe09kvjA.net
織田に対抗するためには国人衆の反発を買ってでも大名権強化を進めるしかない
そう志向したのは上杉も武田も同じ
御館の乱の景勝のやりたい放題はある程度までは計算ずくだったと思われる
当然ながら泥縄方式では上手くいかないのはどちらも同じで滅亡一直線なわけだが

198 :人間七七四年:2020/05/18(月) 08:00:05.36 ID:/JhwwZip.net
景勝が織田に対抗するためにやったわけではないでしょうよ

199 :人間七七四年:2020/05/18(月) 10:16:44.34 ID:yOiPM9WR.net
謙信が死ぬなり織田が越中に攻勢かけてきてるから
景勝に危機感がなかったとは言えないかなぁ

200 :人間七七四年:2020/05/18(月) 19:05:41 ID:cAm3vF58.net
仮想敵は(もちろん最大の脅威ではあるが)織田家だけに限定されないのでは?
神余とこじれた発端は蘆名が攻めて来た(そして景勝から見て神余が独断専行した)事な訳だし

201 :人間七七四年:2020/05/19(火) 00:57:47 ID:ji8fJmPS.net
景勝の時代は何度も何度も山形に攻め込んでるから東北しか見えてないよ
理由は謎だが

202 :人間七七四年:2020/05/19(火) 07:25:20.97 ID:T+lfYZe6.net
景勝もまた鮭を愛する漢

203 :人間七七四年:2020/05/19(火) 11:00:34.63 ID:/ktdsHhO.net
武藤の保護じゃないの?

204 :人間七七四年:2020/05/19(火) 22:05:36 ID:GE2pY8cr.net
光秀(明智光秀)に子数多あり。嫡子を作之丞光重という。母は山岸勘解由左衛門尉光信(光秀の
叔父)の娘にして、千草という美婦であった。光秀が部屋住になっていた折、遊客となって山岸の
もとに来たり、桂の郷の下館にしばらく居住したのだが、ともに若年の頃なる故に密通して設けた
長男である。これによって明智氏の家督にならず氏を憚り、母方の氏を用いて西美濃に居住し、子
孫は郷士となって存在した。

次は女子なり。母は妻木勘解由左衛門範煕の娘で本室である。この女子は明智左馬助光春の室なり。
次の女子は同治右衛門尉光忠の室なり。次の女子は細川越中守源忠興の室なり。次の女子は織田七
兵衛尉信澄の室なり。

次は男子にして明智千代寿丸という。後に十兵衛尉惟任光慶という。次の男子を十次郎光泰という。
次は乙寿丸というなり。

他に養女あり。盛姫という。嫡家・光重の室なり。実はこれ土岐要人助盛秀の娘なり。古今希代の
英婦にして、光秀・光重に先立たれて後に自ら大義を志して国々の諸大名を語らい、羽柴の世を傾
けんと欲した程の烈婦であった。

また他に妾腹の男子あり。子孫は細川家にいると言われている。実はこれ左馬助光春の一子である
ともいう。また一人の男子あり。丹波の国桑田郷にその子孫ありという。

しかるに明智の城は弘治2年(1556)に落去してより後に守将なし。斎藤滅びて織田の支配と
なり、また光秀先祖代々の旧跡だからと拝領して家臣の石森九郎左衛門を代官として置いた。地形
のみで改築はなかったのである。

――『美濃国諸旧記』

205 :人間七七四年:2020/05/22(金) 03:50:07.09 ID:Qm/OZvwl.net
尾州稲生合戦事 同美作守被討捕事

弘治2年(1556)の夏頃より、林佐渡守(秀貞)・同美作守(林通具)・柴田権六(勝家)3人
の勧めによって武蔵守殿(織田信勝)は謀叛を企てられ、信長公御台所入りの御知行・笹木三郷を押
領なされた。このままではきっと河際に砦を付けられ、河東の御知行をも押さえられること必定であ
るとして、こちらより先立って清州の東50町にあたる名塚村という所を砦の城に拵え、佐久間大学
(盛重)を籠め置きなさった。

かくてこの年の8月、霖雨晴れ間なく降り続き水洪大いに流れるのを良き時節と思ったか、同月24
日朝、柴田権六勝家は末森城を出て1千余人の軍兵を引き連れ、林美作守は那古野城より7百余の人
数を率いて両口より我も我もと名塚村へ押し寄せた。

名塚村の砦よりこの由を清州に告げるため、当月21日より毎日の大雨で小多井河の水は出で鳥でも
なければ渡り難きものを、さすが水の上手を便りにして難無く川を泳ぎ越し、この由を清州へ申し上
げた。

信長公は聞こし召され「名塚村の砦はようやく塀1重堀1つ、そして大学は無勢で籠っている。両手
の大軍を引き受けて難儀に及ぶことは察し入る。今日某が後詰せねば、間違いなくこの城は落ちるで
あろう。後悔何の益かあらん。速やかに打ち立つべし!」と、上下7百に足らぬ人数を引き連れて、
即時に清州を出発されて小多井河に到着なさった。

水上みなぎり波高く渡れる様子もないところ、河向かい名塚の砦では合戦は今が盛りと見え、弓鉄砲
鬨の声おびただしく聞こえたり。信長公仰せられるは「私がこの河を渡りかねて目の前で味方を討た
せれば、これ以上の弓矢の恥辱はない。我と思う者は続いて渡れ!」と下知し給い、自身馬を入れて
さすがの大河を真っ先に駆けて一文字に渡りなさる。大将が渡り給うのを見て、総勢は我劣じと乗り
入れ、7百の人数残らず大河を渡り越えて向かいの岸に駆け上がる。

柴田これを見て稲生村の外れの道を西向きに掛かり来る。林美作は南の田方より北向きに備を立てる。
信長公は総人数を2つに分け織田造酒丞直政(信房)・同勝左衛門に人数を添えて柴田の方へ差し向
けなさる。信長公は林の陣へ指し向いて、同日午の刻に辰巳へ向かって無二無三に合戦を始められた。

206 :人間七七四年:2020/05/22(金) 03:52:39.31 ID:Qm/OZvwl.net
一番の合戦は柴田がいささかの勝利を得て、造酒丞は打ち負かされた。山田治部左衛門・佐々孫助を
始め数輩が討死し、山田の首を柴田自身が討ち取って残る軍兵を散々に追い崩し、信長公の御前近く
に追い掛かる。信長公御馬の周りには森三左衛門(可成)を始め、わずかに持槍の中間ばらまでのよ
うやく40ほどであった。

織田造酒丞・同勝左衛門は大原という大剛の者を突き伏せ首を奪ったところへ敵兵多く取り掛け、合
戦すでに大事と見え、信長公は大声で「憎き奴ばらめかな!」と御怒りになれば、さすが主君の御事
なので敵ながら恐れ憚り、そのまま掛かることはできなかった。河村助右衛門はこれを見かね、御馬
の先へ4,5町ほど進み出て晴れなる討死をしたのだった。

美作守はいよいよ勝利に誇り、信長公の御方を捨て置いて逃げる勢を追いすがって切り掛かるのを、
信長公は南へ向かって横合いに突き掛かりなさる。森三左衛門以下が槍を取って進み掛かれば、美作
勢は敗軍して信長公自身で美作を目掛け給うと、近習に召し使われた黒田半平が槍を持って美作に渡
り合い互いに突き合って、半平は左手を切り落とされた。美作も戦い疲れて互いに息継ぎするところ
を信長公はキッと御覧になり「天の与えた幸いなり!」と自身槍を引っ下げ美作を突き伏せなさった。

美作も剛の者でなお働きたるところを、御小人の口中杉若という者が走り掛かってついに美作を切り
留め首を取って差し上げた。杉若は今度の御褒美として後には侍になされ、黒田杉左衛門と名乗らせ
なさった。

織田造酒丞の下人の禅門という中間も敵方の勇士・河辺平四郎を切り倒し、主人に「この首を御取り
なされ!」というのを、造酒丞は申して、「いくらでも切り倒せよ!私めは首を取るに及ばず!」と、
なお先へ進んだが、造酒丞も森三左衛門も終始戦の下知のみしてついに首を取らなかった。

さて柴田権六は造酒丞・勝左衛門・織田左馬允(津田盛月)・佐久間大学などの諸勢に向かってなお
支えて戦っていたのを、信長公は大声を揚げて「林美作は某が自身で討ち取ったるぞ!柴田めを余す
な漏らすな!」と、一度にドッと突き掛かり給うや否や、その御威光に騒ぎ立ってさすがの柴田も崩
れ立ち、四角八方へ敗軍した。

ここで橋本十蔵という者は佐久間大学に討たれた。前田又左衛門利家はその頃は未だ犬千代といって
16歳の若武者であったが、敵方の宮井勘兵衛が射た矢を右の眼の下に受け止め、その矢を抜かずに
ついに勘兵衛を討ち留め、首を取って御目に掛けた。誠に古の権五郎景政(鎌倉景正)にも劣らない
働きであると皆人これを誉め合った。

さて信長公の御勢は皆々馬を引き寄せて打ち乗り、敵が逃げるのを追って行き、小幡守山の辺りまで
ことごとく追い打ちした。これより追い捨てて引き返し清州城へ御入りになり、この日は御休息用心
なさって討ち取った首を翌日に御実検なされた。

まず林美作守を御大将・信長公自身がこれを討ち取り給う。鎌田助之丞を織田左馬允が討ち取る。富
野左京を高畠三右衛門が討ち取る。宮井勘兵衛を前田又左衛門が討ち取り、山口又五郎を木全六郎三
郎が討ち取る。橋本十蔵を佐久間大学が討ち取る。大脇虎蔵は織田勝左衛門が討ち取る。角田新五郎
を佐々内蔵助(成政)が討ち取る。この他に河辺平四郎を始めとして屈強の首を討ち取り、その数は
450余とぞ聞こえける。

信長公は清州城へ御居住以後、初めての勝ち合戦でそのうえ逆心の張本人である林美作を討ち取りな
さったと、殊の外御怡悦であった。

――『織田軍記(総見記)』

207 :人間七七四年:2020/05/22(金) 11:49:34 ID:sEvfHqod.net
林美作を討ったのが大きい

208 :人間七七四年:2020/05/22(金) 15:29:52 ID:9CMjUVvv.net
よく勝家は許されたよな。信長政権が続いたら、いつか追放されたかもしれないけど。

209 :人間七七四年:2020/05/23(土) 09:01:54.02 ID:pvlENMfI.net
>>208
後継が無能だったら佐久間と同じ道を辿る

210 :人間七七四年:2020/05/23(土) 19:46:27 ID:mS797We3.net
自分と弟の家老両方に見切られた信長が勝利する運の強さは異常

211 :人間七七四年:2020/05/24(日) 00:07:33 ID:B7yyK1lo.net
信勝方に油断があったんじゃないのかな

212 :人間七七四年:2020/05/24(日) 01:29:39 ID:xoSedNu4.net
林秀貞「三代相恩の主人だから押し込めて腹を切らせるなんてとんでもない」
稲生の合戦で大苦戦中の信長が怒ると、優勢の柴田勢は家臣だから威光に恐れて逃げ崩れた
                    (上の『総見記』と『信長公記』だと若干合戦の推移が違う)

もちろん、太田牛一らの信長称揚もあるだろうけど
なんだかんだで信秀の認めた当主の威光も大きかったんじゃないかと

213 :人間七七四年:2020/05/24(日) 11:51:51.26 ID:T2cDKMkS.net
むしろ穏健的な信成が正当な後継者だったという論文最近見たな
なかなか衝撃的

214 :人間七七四年:2020/05/24(日) 12:53:05.09 ID:8CTNbWdt.net
>>213
スケート選手がなんかしたのか?

215 :人間七七四年:2020/05/24(日) 14:17:31.03 ID:rR8W1qw3.net
多分信勝と書き間違えたんだろう
論文出すだけならとんでもだろうとなんだろうと出せるからね、とんでもな方が衝撃的になりやすいし

内容見てないのでどういう証明のされ方をしてるのかわからんけども

216 :人間七七四年:2020/05/24(日) 15:14:56 ID:n0g5aAoo.net
信広と間違ったんじゃない?
人質になったせいで廃嫡されたんじゃないかって聞いたことある
そういう論説があるのかまでは知らんけど

217 :人間七七四年:2020/05/24(日) 15:33:31 ID:8CTNbWdt.net
いくらなんでも同母弟の信勝が嫡男なのはありえない。齋藤家が嫡男でもない輩に娘を嫁に出すわけがないし。
ただ、信秀の居城の末森城を信勝に譲られたのは大きい。事実上、二頭体制になっていた可能性は高い。

信広は捕虜にならなきゃ家督継いでいた可能性はもちろんある。
けど、大きな実績挙げる前に捕虜になってアウトだったからなぁ。

218 :人間七七四年:2020/05/24(日) 15:37:57 ID:0FVd0Msv.net
文書上は信行は信勝だったけど
信長の上総介の名乗りに対抗して
弾中正建成に(建は守護代家の通字)改名
稲生の戦いで後継者争いに負けた後は「信成」に
と谷口克広「天下人の父・織田信秀」に書いてた

219 :人間七七四年:2020/05/24(日) 17:43:42 ID:6knF1Ax8.net
谷口先生がいうのなら、そうなのだろう。

220 :人間七七四年:2020/05/24(日) 19:27:36.34 ID:B7yyK1lo.net
いまは分割相続・共同統治からの主導権争いって見方なのかな?

221 :人間七七四年:2020/05/25(月) 09:10:06.76 ID:imCpQL8D.net
信長公記首巻の義龍の暗殺団の話ってものすごく創作くさいというか、物語臭が凄いよなあ

222 :人間七七四年:2020/05/25(月) 23:06:27 ID:trmhf7vv.net
狐の嫁入り 宇宙稲荷ver

乾坤院境内のお稲荷さんは、もと緒川城にまつられていたもの。
徳川家康の母、於大は、緒川城で生まれこのお稲荷さんのもとで育ち、
六歳の時刈谷城へ移り、そこから岡崎城主、松平広忠のもとへお嫁入りすることになった。

お嫁入り当日、両家の縁組に反対する者が途中の道で待ち伏せしていることを知り、
お稲荷さんのおふだを持って、行列は少し回り道して安全な野道を行くことにした。

さて、こちらは岡崎に入る道。反対派の一団が花嫁行列を待ち伏せている。
雲もなく晴れわたっているというのに急に雨が降り始めた。
そこへ花嫁の行列が現れ、一団の侍が飛び出したところ、あら不思議。
行列が消えてしまった。
その騒ぎをよそに、野道を行った於大の行列は無事に岡崎城へ入ることができた。

このことから、天気がいいのに雨が降ると「狐の嫁入りがある」と人々はうわさするようになった。

「ひがしうらの民謡」

223 :人間七七四年:2020/05/25(月) 23:15:41 ID:1QEjTTSm.net
宇宙だの乾坤だの壮大な名前だ

224 :人間七七四年:2020/05/26(火) 01:26:06 ID:CpRwLa8R.net
侯景「板違いの向こうから呼ばれた気がした」

225 :人間七七四年:2020/05/26(火) 07:32:50 ID:lbGMsvkA.net
>>220
タワケの語源って知ってるか?

226 :人間七七四年:2020/05/26(火) 22:04:49 ID:Z78nCZoG.net
>>225
田分け?
戯け?

227 :人間七七四年:2020/05/26(火) 23:28:49 ID:388ZJOBP.net
古事記の仲哀天皇段の
上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚(うまたはけ)、牛婚(うしたはけ)、鶏婚(とりたはけ)、犬婚(いぬたはけ)
近親相姦や獣姦の禁止の箇所で出てくる「たはけ」が初出ではないか

228 :人間七七四年:2020/05/27(水) 02:45:00 ID:7sddv3kp.net
たわけ うつけ 
似てるよね。どっちも信長のイメージ

229 :人間七七四年:2020/05/27(水) 16:35:46 ID:rwYxnWI8.net
ある日後藤又兵衛、明石掃部助、小倉作左衛門らが姫路に登城し


池田家臣の若原右京は殊の外肥満した大兵で、顔に指で押せそうな程の疱瘡の痕がびっしりとあった。
月代を半額にし長い刀を携えいかつい見た目ながら、弁舌鮮やかなゆゆしき男であった。
国清公(池田輝政)の御威勢が増していくにつれ、(池田家は)諸国の浪人を数多く扶持することになった。

ある日後藤又兵衛(基次)、明石掃部助(全登)、小倉作左衛門(行春)らが姫路に登城し
広間に陣太鼓が数々あるのを見て、又兵衛が
「当家で貝太鼓を司る者は誰であろうか」
と聞くとみな「知らず」と言った。ちょうど右京が縁側に通りかかったので再度聞いたところ
又兵衛が言い終わらないうちに「我が司っています」と右京が言った。
掃部が「武者奉行は誰であろうか」と聞くと、右京は
「某が承っています。諸法度相詞、物見のことまでみな我から申し付けています」と言った。
作左衛門が「陣場奉行は誰であろうか」と言うと、右京が「某です」と言ったので
各々のお尋ねはここまでとなった。

「総じて当地(姫路)は上方への往来があり、海陸肝要の所です。しかも近くには諸浪人の集う大坂が
 あり、秀頼公は若輩なので関東(幕府)の御内存が将来どうなるか分かりません。もし変があればと
 輝政は先手の旗本軍勢一切の備配りを兼ねてから定め置かれています。そのほか三カ国の国法軍法
 御不審のことがあれば尋ねてください」
と右京が言うので、三人は不興顔で言葉もなかった。
そこに「殿様御召しなり」と右京が呼ばれ、座を立った。掃部助は
「さてさて、尊大なことを言う憎き奴かな。あの男の働きといえば、関ヶ原一戦のみである。
 我らの前で、まるで人がいないような過言をするのは出しゃばりではないか」
と憤った。又兵衛は
「右京の無礼は譬えられないくらいだが、さりながらあの頬玉や人を手のひらに握り込むような
 様子は只者ではない。この家中で一人当千の者だろう。只今吐いた広言程度はやれぬ者ではない。
 太守は人を選び取る上手である」
とかえって感嘆したという。

それゆえ(右京は)播磨の童謡に
「?右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」
と謡われたという。これにてそのときの権勢思いやるべし。


――『池田家履歴略記』

230 :人間七七四年:2020/05/28(木) 23:38:04.73 ID:x6GpqbkU.net
天文二十年(1551)春、公方家(足利義輝)は洛外の宝泉寺に御座有って、萬松院殿(足利義晴)の
御追悼に、乱世を兼ねて御嘆息され、日々心腑を悩まれた。管領の細川右京兆晴元、彼の舅である
六角父子(定頼、義賢)は無二の味方を申し上げて、随分に守護し奉った。
御敵徒である三好筑前守長慶は去年より在京して、五畿内に甚だ威を振るい、この頃は江州をも退治
せんとて、この二月七日に、家人松長甚助(松永長頼)兄弟を軍将として人数を差向け、江州志賀郡の民屋を
放火した。当国の守護、六角義賢は家臣の堀伊豆守、鯰江相模守に三百余騎を付け、湖上を渡ってこれを防ぎ
戦うほどに、松長兄弟は打ち負け帰洛した。

さて、洛中には公方家の寵臣である伊勢守貞孝父子(貞孝、貞良)が在京していたのだが、三好長慶も
細川晴元にこそ遺恨は有っても、公方家に対して異心なしとの事で、貞孝父子に諸事相談し、互いに
心底を隠さず、是非を糺して政道を執り行ったため、京中は平和に治められ、諸人安堵の思いを成した。

このような中、同年三月十四日、貞孝は館に長慶を招き饗応した。その酒宴も半ばの時、公方家の小侍である
進士美作守晴舎の甥である、進士九郎賢光という者が、貞孝の元に寄宿していたのだが、その座に走り出て、
腰刀を抜き持って、三好長慶を二刀突いた。

長慶は元来早業の人であったので、床に有った沈香の枕を持って、刀をひしと受け留めた。そのため一刀は
身に当たらず、二刀目は当たったが浅手であった。

そこで進士九郎は迫り詰め、引き組まんとした所を、ここに長慶の同朋衆である何阿弥という者が相伴に侍って
いたのだが、そのまま進士九郎に抱き着いた。それより座中に有った人々、我も我もと走り寄って、進士九郎を
斬り伏せ、刺殺した。
進士九郎は大剛の者とは見えたが、運命が尽きたのだろう、本望を遂げずして亡失した。

その頃の巷の説に、「これは進士九郎が、窮迫している公方家の御内意を蒙り、長慶を殺そうとした」とも云い、
また「本領を没収され、遺恨が有った故である」とも沙汰され、その理由については一致しなかった。
しかし何れであっても、当時威強き三好長慶に、独夫にして突き殺そうと企んだ事は、大勇の者と言うべきであろう。
そして三好長慶は運が強かったのだろう。危うき命を助かり、しかも浅手であったので、その疵も程なく平癒した。

同年七月、細川晴元方の多勢が坂本より出張して相国寺も陣取ったが、同月十四日の早旦、長慶自身が
押し寄せ、火を放って攻めると、晴元勢は打ち負け江州へ引き返した。
その後洛中には戦乱無く、この年は無為に暮れた。

『續應仁後記』

進士九郎による三好長慶暗殺未遂について

231 :人間七七四年:2020/05/29(金) 00:14:58 ID:R/rUf/c4.net
浅野内匠頭は不意を打って一方的に抜刀までしといて標的仕留めそこなうとかダッサと当時言われてたみたいだけど
進士賢光は大勇なのね

232 :人間七七四年:2020/05/29(金) 00:31:53 ID:eUQEf23X.net
長慶さんが不得意なことはないのか

233 :人間七七四年:2020/05/29(金) 01:18:33 ID:CFsNOVjD.net
>>232
長生き

234 :人間七七四年:2020/05/29(金) 01:31:13 ID:IczLibkM.net
>>231
多分浅野内匠頭も、討ち損なった後その場で切腹するなり斬死するなりしたら
評価は全然違ったと思う。

235 :人間七七四年:2020/05/29(金) 13:52:15 ID:KpdgvwWM.net
>>234
あほう
羽交い締めされてたし斬死するにも殿中に刀は持ち込めねえよ
お前の評価はいつも通りだからこどおじ部屋から出てくんな

236 :人間七七四年:2020/05/29(金) 16:27:13 ID:XJfCXw3c.net
人の書き込みをバカにしたいなら、江戸城であった刃傷事件をちょっとでも調べてから書き込めばいいのに。

237 :人間七七四年:2020/05/29(金) 16:37:46 ID:R/rUf/c4.net
多分、句点で終わらせる荒らしがいるからそれと思って煽りに来たんじゃない?
突っかかられた人には迷惑な話だけれども

238 :人間七七四年:2020/05/30(土) 13:22:42 ID:pexHAR2w.net
明けて天文二十一年(1552)春になると、去年以来、佐々木六角義賢より三好筑前守長慶へ様々の計議を
廻らせて、公方家(足利義輝)御入洛の義を取り扱い、この春に又、楢崎某を使いとして猶この事を催した。
長慶方よりも、日野上人を使節として色々の陳答有り、徐々に和平が相調った。
この時、三好長慶の申し述べる趣きは

『私は公方家に対し、元より異心はありませんが、私の父の仇である細川右京兆晴元が猶も私を亡ぼそうと
される故に、度々合戦に及び、この時公方家も晴元に一味ましますに依って、私は心ならずも御敵と成った
事は、世の通知する所です。然れども、公方家の御命の危うい時は、私はわざと陣を引き去って忠志を立てた
事多い。

然るにかの晴元は、私の一族である宗三入道(三好政長)の讒言を信じて、亡父海雲入道(三好元長)が
忠功の者であるのに、忽ちに殺された。その恨みは骨髄に徹するものではありますが、元来晴元は主君の
筋目であり、その上、私は武功を以て宗三を討ち取ったので、先ず父の仇は報じたるものであります。

今は、晴元が世に望み無く隠居され、その御子に家督を譲った上でこの長慶に渡されるという事であれば、
三好家が後見してその御子を取り立て参らせます。そうなれば、我等は晴元の御命を失うまでの事は
要求しません。この条件に同心され、晴元が剃髪の姿と成って居館を開かれれば、現在の管領には
細川氏綱を申し成し、右京太夫に補任有らしめ、その後、晴元の御子成人の時、管領職を与奪せしめ、
再度かの御子に京兆の家を相続させ、管領に申すべきです。

この条件を受け入れ、公方家は元のように御入洛され、御政務有るべし。』

長慶が申す趣、愚ならずして、公儀御内談一決の上で、御約条を交わし、和睦はここに調った。
これによって、同正月二十八日、公方家は江州朽木谷を立って御帰洛され、元の如く二條の御所に
お入りに成った。

この時、細川晴元の嫡子・聡明丸(細川昭元)といって五歳であるのを御供に召し連れられ、人質のようにして
三好家に渡された。これは六角定頼の息女、義賢にとっては妹の儲けた一男である。二男は義賢の元に
預かり置かれた。この時、六角義賢も公方家の御供をして上洛し、御帰京の義を賀し申した。

細川右京兆晴元は、心ならずも髪を剃り、永川斎心月一清と名を改め、江州堅田より父子相別れて流浪した。
晴元の家人たちも、思い思いに髻を切り、出家の姿と成った者は八十人余りであった。
主従散り散りに落魄し、皆人に哀れを催した。

さて、三好長慶は日時を移さず公方家に出仕を勤め、洛中に権威を振るった。
同二月二十六日、細川次郎氏綱が上洛有って、故武州禅門常桓(細川高国)の跡目と号し、則ち家督を
相続して管領職に備わると、同三月十一日には右京太夫に補任された。舎弟の四郎藤賢も同日、右馬頭に
任じられ、典厩の家を相続した。誠に栄枯一時に変じ、皆人奇異の思いを成した。

『續應仁後記』

将軍足利義輝の帰洛について。

239 :人間七七四年:2020/05/30(土) 15:55:40.46 ID:/zzgZhFj.net
>>236
こどおじ涙目www

240 :人間七七四年:2020/06/02(火) 21:32:11.51 ID:2A4cupeJ.net
戦国関係ないけどこれはw

https://twitter.com/Mg42Minna/status/1267251282789535744
https://pbs.twimg.com/media/EZYuUDsVcAACOol?format=jpg
https://pbs.twimg.com/media/EZYuUkNU4AAZmG2?format=jpg

淫豹ハウビッツェ.42@Mg42Minna
アメリカの騎馬警察は日本刀状の木刀を装備してると聞いたので調べてみたら、
想像の5倍ぐらいサムライソード。





と思ったらちゃんとまとめがありましたがな
なるほど2015年からの正式装備でBOKKENですかw
https://togetter.com/li/1531572
(deleted an unsolicited ad)

241 :人間七七四年:2020/06/03(水) 11:32:54.21 ID:uhszU7uI.net
腰に刺さないのか w

242 :人間七七四年:2020/06/03(水) 11:44:08.15 ID:0kFzleAv.net
>>240
使う機会なくね?

243 :人間七七四年:2020/06/03(水) 11:50:51.63 ID:AJJS9asB.net
暴動鎮圧でまさしく今騎馬突撃してるし

244 :人間七七四年:2020/06/04(木) 12:10:55.84 ID:17BtwktO.net
突撃中に木刀持たないだろ

245 :人間七七四年:2020/06/04(木) 12:52:04.18 ID:d6VMZawc.net
突撃した後近寄ってくる暴徒しばかなきゃダメじゃん
突撃中だって全員のいてくれりゃいいけどのかなきゃこれまたしばかなきゃいけないし

246 :人間七七四年:2020/06/04(木) 21:12:46.44 ID:QNBcO9Rf.net
楔を作って歩兵が突入する
まとめ見た感じ、今も昔でも有効作戦なんだね

247 :人間七七四年:2020/06/04(木) 21:22:46.04 ID:zooui/se.net
天文二十四年(1555)正月、三好長慶は明石、三木表を帰伏させ播州も平治せしめると、
同二月二十七日、帰郷した。摂州、淡州、阿州の諸勢各々凱旋し皆帰国した。

そのような中、長慶の武威は日を逐って遠近に振り響き、今は畿内近国に相手に足る者も無きが如く、
三好家は次第に繁栄した。

同年十月、改元有って弘治元年となった。

同二年正月二十七日、夜半より彗星出現し、人々は皆「また世に何事か有らん」と言い合った。
六月十五日、長慶の亡父である故三好海雲居士元長の、二十五年の遠忌であり、この追善を修せんが為に、
長慶自ら泉州堺の津へ下向し、故国である阿波からも親族が数多上津して、当津の顕本寺において、千部の
読経、十部の頓写、その他様々の作善を行い、威儀正しき法事を行った。
この顕本寺は故海雲最期の場所であり、彼は自害のとき、腸を繰り出し仏殿の天井に投げつけた。
その跡は明白に、今以て残り、諸人これを見て感歎した。
法事が済むと、各々退散した。

同七月十日、長慶の執事である松永弾正久秀が、布引瀧山城に準備をして、主君長慶を請い侍り、
その他一家の衆中も会し。饗応奔走の上に、種々の遊興を催し、猿楽の能が果てると百韻の連歌があった。
三好長慶は本より乱舞堪能の聞こえあり、連歌に至っては都鄙に隠れ無き名人であった為である。
その後各々帰府した。

さて、この布引瀧山城は河州(摂津の間違い?)において代々楠家の居城であったが、近年楠氏は
浪人の身と成り、この城を退去したために、松永はこの城を居城とした、山中には故正成を始めとして
楠先祖代々の墳墓が現在も有るという。

そうして、近年三好家の武威を以て近国は暫く無為に帰し、今年翌年と、うち続き兵革の煩い無く、
このため京都には警護の武士を遣わし置き、長慶自身は芥川に在城して多年の軍労を漸次休息し、
千句の連歌を興行して心を慰め気を養い、二、三ヶ年安居した。

『續應仁後記』

畿内における『三好の平和』の様子

248 :人間七七四年:2020/06/05(金) 08:27:52 ID:ORkven5V.net
どこがいい話なんだ…?

249 :人間七七四年:2020/06/05(金) 12:23:37.88 ID:U7faua7U.net
逸話を貼る事だけが目的化してるからね、この人
いい話とか悪い話とかは曖昧

250 :人間七七四年:2020/06/05(金) 13:04:59 ID:M4nCI0Z7.net
この人ってまとめ管理人だろ?
さすがにもういいネタなんか尽きてるだろ
どうでもいい小話をとにかくなんでも書き続けないと死ぬ病気

251 :人間七七四年:2020/06/05(金) 13:13:34 ID:LzhS+0Yt.net
別人じゃない?

252 :人間七七四年:2020/06/05(金) 13:19:46 ID:M4nCI0Z7.net
別人だとしたらかなり変人だな
てめえのブログで書きゃいいのにもう何年間も延々とココに貼り続けて
それをまとめ管理人とやらがコピペしてんのか
どんな設定だよw

253 :人間七七四年:2020/06/05(金) 13:24:53 ID:LzhS+0Yt.net
他人に煽りかまして逃げてく人とか数年単位で自分の妄想語り続ける人とか
戦国板に限っただけでも変人まみれじゃん

あと、張ってるのが一人とは限らんし ここ最近は同一本からが多いから同一人物だろうけども

254 :人間七七四年:2020/06/05(金) 19:04:05 ID:ImZXk7fH.net
アフィカス管理人の切腹まだ?

255 :人間七七四年:2020/06/05(金) 20:05:44.27 ID:bdA08ZZV.net
またこのキチガイが湧いたか。ID切り替えても文体一緒だから丸わかりだぞ、キチガイ。

256 :人間七七四年:2020/06/05(金) 20:41:22.17 ID:M4nCI0Z7.net
ID透視失敗w
見えないものが見えちゃうって病気だぞ

257 :人間七七四年:2020/06/05(金) 21:44:58 ID:vvNaFVV+.net
>>256
消えろキチガイ

258 :人間七七四年:2020/06/05(金) 22:49:18 ID:M4nCI0Z7.net
これがアフィガイジかw
なんで毎回毎回別人設定するんだろうな

259 :人間七七四年:2020/06/05(金) 23:37:57 ID:Wuu4Y5HX.net
まあ、「麒麟がくる」絡みの投稿ばかりだからいいではないか。
もしかしたら大河ライト層も興味をもって、ここにたどり着くかもしれない。
啓蒙、糸口は大事だ。

260 :人間七七四年:2020/06/05(金) 23:51:00 ID:wt4PFcb/.net
文禄4年、関白秀次に謀反の聞こえあった時、伊達政宗もこれに与しているとの説があった。
豊臣秀吉は怒り、政宗の領地を伊予に移すとした。

政宗は伊達上野、他一名を以て徳川家康の元に遣わし、「このように仰せ付けられ、伊達家の浮沈は
この時に極まりました。もはや家康公の賢慮を仰ぎ奉るより他ありません」と訴えた。

家康はこれを聞いて、両使に茶飯などを与えた。暫くして彼等は「政宗はさぞ待ち遠しく思っているでしょう。
早く帰り、ご返事を申し聞かせたいのです。」と申し上げると、家康は大声で言った

「各々が主の越前(政宗)という男は、当たりは強いように見えるが腰の抜けた男であり、後ろの弱きゆえに
そのように狼狽え付くのだ。四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか、よく分別
あるべしと言え!」
そして重ねて、秀吉より催促の有る時の返事のやり方を、細々と教え、両使は罷り出た。

間もなく、家康は秀吉の所に至った。また秀吉より政宗に使いがあり、
「昨日の要請についてどうなっているのか、早々に予州へ下るべし」と伝えに来た。

この使いが政宗の宿所に来てみると、門前には弓鉄砲、長刀を帯びた者達がひしと居並んで、今にも
打ち出しそうな有様であった。御使有ると聞いて、政宗は無刀にて出迎え、座に招いて御使の旨を聞くと、
涙をはらはらと流して申した

「上様の御威勢ほど、世に有難き事はありません。人間の不幸の中に、上の御勘気を蒙るほどの不幸は
無いと、今日こそ思い知っております。私に於いては、たとえ今回の事で御不審を蒙り首を刎ねられても
異議は申しません。況や国郡を下し賜って所を変えるとの事に、何の不満があるでしょうか。

されども我が譜代の家僕たちは、何れも訴えてくるのです。『どうして数十代の御領を離れて他国に流浪する事が
有るべきか、速やかにここにて腹を斬られ、我々も一人も生きて所を去り渡すような所存はありません』と
言い切って、ひたすらに自害を勧めるのです。私は色々と義を尽して申し聞かせましたが、家臣たちは一向に
同心せず、あなた方もご覧の通りの、狼藉の至りの有様です。

つまり、偏に現在私が御勘当の身に罷り成っている故に、数十代の家人さえ我が下知を用いず、恣にしており、
是非に及びません。」
このように述べ、使いは帰ってこの旨を報告すると、秀吉の傍に在った家康も申し上げた

「いかにも左様に、私も承っております。政宗一人の事であれば、上意を違背し旧領を去り渡し奉らざるに
於いては、私に仰せ付けられれば、即座にかの旅宿へ押し寄せ踏み潰すことに、何ほどの事があるでしょうか。
しかし、今度こちらに供を仕った、政宗の千に足らざる小勢にてさえ、家臣共が左様に思い切っているのであれば、
旧領に残り留まっている郎従達は、国を退くとは何としても言わないでしょう。
政宗の郎従等を追い払うべき賢慮がお有りでしたら、政宗については、どうぞ私にお申し付けになって下さい。
ではありますが、累代の所領を没収することで、彼の郎従たちが愁訴する事も、不憫に思います。
ですので、枉げて今回は、ご赦免も有るべきではないかと。」

このように申し上げると、秀吉は「兎にも角にも家康の計らわれることに若くはあるまじ」として、
国替えのこと沙汰無くなりその事止み、その後勘当も免されたという。

(名将言行録)

261 :人間七七四年:2020/06/06(土) 00:10:30 ID:QjiO30i5.net
まるで道化だな

262 :人間七七四年:2020/06/06(土) 00:17:27 ID:l50sQxlf.net
>>254
芸風が前と同じじゃねえか改善しろ

263 :人間七七四年:2020/06/06(土) 00:28:15 ID:orWYLZXD.net
>>260
伊達上野って留守政景か
後半の訳が力尽きてることも併せて
スレを盛り上げようとする意気は素晴らしいけど
無理に全文貼る事もないと思うよ

264 :人間七七四年:2020/06/06(土) 08:22:57 ID:jMIqNi9k.net
>>262
切腹まだ?公開動画楽しみにしてるんやが

265 :人間七七四年:2020/06/06(土) 08:49:55.03 ID:l50sQxlf.net
>>264
切腹まだ?公開動画楽しみにしてるんやが

266 :人間七七四年:2020/06/06(土) 12:24:15.65 ID:r7q0Mypy.net
左衛門佐ほどの人の無穿鑿はあってはならない


池田家臣の丹羽山城は生涯三十七度の戦で、一度も遅れを取ったことがないという。
信長に仕えていた父・助兵衛が桶狭間の戦いで戦死してしまったので、翌年(山城が十三のとき)
信長が池田恒興に
「丹羽助兵衛のせがれが物になりそうな眼差しをしているので、使ってみるように」
と仰せられたので、伊木清兵衛(忠次)の取次で恒興に召し出された。
荒木との戦で活躍し本能寺の変後に筒井順慶への使者を務め、家老として千五百貫の知行を
得たものの、山城は思うところがあり天正年間に子供と一緒に池田家を立ち退いた。
そうしたところ浅野紀伊守(幸長)に呼ばれ、三千三百石で仕えることになったという。

文禄年中の高麗陣(文禄の役)、木曽城(もくそ城、晋州城の別名)の浅野紀伊守殿の攻め口で
山城が一番乗り、亀田大隅が二番乗りしたが、そこに浅野左衛門佐(氏重)が一番乗りしたと披露した。
山城と大隅は詮議をしようとは思ったものの、左衛門佐は家老で御一族なので沙汰に及ばなかった。

慶長五年、樫原彦右衛門が詰めている砦を紀伊守殿、福島左衛門大夫(正則)殿、そのほか関東勢が
攻めているとき(岐阜城の戦い)、このとき山城は法名の徳入と名乗るようになっていたが
馬上で槍を提げて出たところ、敵方からしっかりした者が一人、徳入を目掛けて一文字に馳せて来た。
徳入は槍で内冑(額)を突き、二度目に胸板を突いて倒し、家来の者に下知して首を取らせようとしたところ
味方からすはだ者が一人来て、自分の高名にするのでこの首を下さるようにと徳入に頼んできた。
徳入が「誰が家人ぞ」と尋ねれば浅野左衛門佐の何とか八郎左衛門と申したので首をやった。
八郎左衛門はこの首を左衛門佐に持参し、その手の中で一番首として恩賞にあずかったという。

ところがその後八郎左衛門は「自分が高名したとき、徳入に奪い首をされそうになりました」と
申すようになったので、その話が浅野家中で知られるようになり
「徳入の日頃の武辺もみな左様に表裏のことをしたのでは」と噂されるようになったので
徳入はそれを聞き左衛門佐にその噂のことを伝えたものの、左衛門佐は取り合わなかった。

関ヶ原の後紀伊守殿が諸士に一献を進められる酒の席があり、その席に左衛門佐と徳入もいた。
徳入が
「よい機会なので、私の表裏の噂の実否について左衛門佐に伺いたい」
と申すと、左衛門佐は
「ちょうどそのことだ。家来八郎左衛門が心馳せの働きをいたしたとき、奪い首をしようとしたと聞き
 徳入には不似合いのことなので、日頃の武辺も表裏なのだろうかと思っていたところだ」
と申した。徳入は
「さては事実だと思っていたのか。その八郎左衛門が取った首は内冑に槍傷がある。かの八郎左衛門は
 すはだで腰刀一つを頼みにしている者なのに、取った首に槍傷があるのだ。吟味もしていなかったとは!
 初めからこのことを申し上げてもよかったのだが、一度取らせた首なので二度は申さないことにしていた。
 私は内冑と胸板に槍傷を二ヶ所負わせたが、八郎左衛門が来たとき、すはだのような者が戦場で首を取り
 高名を望むのはもっともだと思って、首を取らせた。八郎左衛門は下臈なので悪口を申すのは仕方ない。
 しかしこの席でこのことを申し出たのは、左衛門佐ほどの人の無穿鑿はあってはならないと思ったからだ。
 日頃心にはかけていなかったが、表裏のことと言えば(左衛門佐が)高麗陣で木曽城一番乗りと申したことは
 隠れなき表裏だったと一番乗りの私と二番乗りの亀田大隅は知っている。だからこれも偽りなのだろうなあ」
と詰めたので、左衛門佐は一句も告げずに赤面し、喧嘩になりそうな様子になった。

紀伊守殿が座中へ目を配りながら「徳入老、聞き届けたので堪忍してくれ」と仰せられたので
双方共に引き下がった。その後八郎左衛門は斬罪になったという。紀伊守殿が紀州へ転封になった際も
徳入はお供したが、同年の十二月に播磨宰相様(輝政)が徳入の帰参について紀伊守殿に断りがあり帰参した。
慶長六年に四千石、十年には千石加増され五千石となり、徳入は寛永九年に八十四歳で亡くなったという。


――『吉備温故秘録』

267 :人間七七四年:2020/06/06(土) 12:29:06.97 ID:crlImcgN.net
ニワスケベエ

268 :人間七七四年:2020/06/06(土) 15:41:35 ID:xGKKOjc3.net
  (桶狭間の戦いの頃、丸根砦の戦いの時)

一、この日、丸根城の守将・佐久間大学盛重より清州へ注進したことには、明日今川の
  大軍が押し寄せるとの報告だった。「猛勢を引き受けて籠ることのできる要害では
  ありません。切り出て死を遂げます」との旨を伝えた。

一、ある曰く、戦いの前に佐久間大学は諸士に向かって「当城はわずか騎士4百。今川
  のその兵が急に攻めて来れば、たちまち落ちることであろう。各々は速やかに去る
  がよい。我一人ここに死すべし」と、言った。

  すると隊頭の服部玄蕃に義を励まされ、渡辺大蔵、大田右近、早川大膳、原田隠岐
  みなが主将とともに死を遂げんと誓い、いささかもその情を動かさず、この日、骸
  を城外に晒した。

  大学の娘は後に同苗玄蕃允盛政に嫁がしめ、彼の死後に新庄越前守直好の妻となる。
  (実際は直頼)

  ――『武徳編年集成』

269 :人間七七四年:2020/06/07(日) 20:59:25.37 ID:/HBjmocw.net
日本史上最大の巨城は駿府城

270 :人間七七四年:2020/06/08(月) 03:16:57 ID:ZQsC5wnO.net
(桶狭間の戦いの時)

ここに尾州河内二の郷の一向宗、鯏浦の服部左京(友貞。織田家に属さない尾張国人)
は此度の合戦で義元に力を合わすべしと一向宗を数多引き連れ、武者舟数十艘に取り
乗って大高の下、黒末の河まで乗って来た。

まず大高城に兵糧を多く運び入れて松平元康に力添えし、自身は戦場へ赴いたところ、
19日の未の刻、はや義元討死なれば力を失い、舟に乗って帰りがけに熱田の港へ舟
どもを寄せ掛けて、遠浅の所から下り立ち町口を放火しようとした。

町人どもはこれを見て、味方の勝ち戦に力を得て、大勢が出て来て追い払ったところ、
服部の者どもは駆け散らされて数十人が討たれ、また舟に取り乗り、河内を目指して
引き入った。

――『織田軍記(総見記)』

271 :人間七七四年:2020/06/08(月) 11:22:26 ID:8SvbccW1.net
>>265
芸風に困ると鸚鵡返しのアフィ太郎w

272 :人間七七四年:2020/06/08(月) 16:30:01 ID:t/WmHlTM.net
>>271
2日間も考えてひねり出した煽りがこれですよ
ホント無能だなお前は

273 :人間七七四年:2020/06/08(月) 19:35:41.25 ID:vZ1qYyZT.net
>>271
おちんちん臭い

274 :人間七七四年:2020/06/09(火) 11:53:24.70 ID:StWSoDZL.net
>>272
悔しくてスレに張り付いてるアフィカスの切腹まだですか?w

275 :人間七七四年:2020/06/09(火) 12:10:00.76 ID:sVazz8bI.net
>>273
品格のないオゲレツ太郎の公開切腹動画まだですかー?

276 :人間七七四年:2020/06/09(火) 17:12:00 ID:OB6Voun8.net
管理人スレ張り付いててコロナ禍

277 :人間七七四年:2020/06/10(水) 01:56:53.83 ID:tKLQnxUk.net
(桶狭間の戦いの時)

毛利新助(良勝)、服部小平太(一忠)などを初め、高名の輩に一々恩賞を宛て行われ、いずれも
面目を施した。さても今回、服部小平太は早く義元を槍付けたが切り倒され、新助は遅かったが、
ついに義元の首を取って末代まで聞き伝える高名となり、これは只事ではない。天の恵み、仏神の
冥加に叶いたり。

先年の清州騒動の時、新助は未だ毛利十郎(実際は別人)といって若輩だったが、先武衛(斯波義
統)の若君を生け捕って御命を助け参らせた。「代々の国主にかようの大忠を致した故に、天道に
も叶ったのではないか」と、皆人は感じ褒め合った。

――『織田軍記(総見記)』


服部小平太は義元に掛かり合い、膝の口を切られ倒れ伏す。毛利新介は義元を切り伏せ首を取った。
これひとえに先年の清州城において(織田彦五郎が)武衛様をことごとく攻め殺した時、(一族の
毛利十郎が)御舎弟を1人生け捕って助け申され、「その冥加たちまち来て、義元の首を取り給う」
との、人々の風聞であった。

――『信長公記 首巻』

278 :人間七七四年:2020/06/11(木) 02:07:06.11 ID:HTSH4nvb.net
上総介信長は御馬の先に今川義元の首を持たせられ御急ぎなさり、その日の内に清州へ御出あって
翌日に首実検をなされた。首数3千余あり。そこへ義元の差された鞭と弓懸を持った同朋衆を、下
方九郎左衛門と申す者が生け捕りにして進上した。「近頃の名誉を仕った」との由で御褒美があり、
御機嫌ななめならず。

同朋衆は義元前後の始末を申し上げ、首々に一々誰々と見知り申す名字を書き付かせなさった。か
の同朋衆には、のし付きの大刀脇差を下された。そのうえ10人の僧衆を御仕立てになり、義元の
首を同朋衆に添えて駿河へ送り遣わされたのである。清州から20町南、須賀口・熱田へ参る海道
に“義元塚”という塚を築かせなさり、弔いのためと千部経を読ませ大卒塔婆を立て置きなさった。

今回、分捕りになった義元が日頃差されて秘蔵した、名誉の左文字の刀を召し上げられて何度も切
らせられ、信長は日頃差しなさったのであった。御手柄は言葉で申し尽くせない次第である。

――『信長公記 首巻』


桶狭間の戦場で義元の同胞衆の権阿弥という者は、義元の差された弓掛けと鞭を持っていた。下方
九郎左衛門という者はこの権阿弥を生け捕って大将へ奉る。(中略)大卒塔婆を立てなさり「信長
は情けある大将かな」と、近国までも沙汰しけり。

熱田大明神へも今回の御願成就があった奉幣を捧げ、御修理を加えなされた。また今回、義元が陣
中へ差しなさった松倉郷義弘の刀をこちらへ分捕りに取って差し上げると、「これは天下の重宝で
ある」と信長公は御秘蔵なされ、この刀を御差料になさった。

――『織田軍記(総見記)』

279 :人間七七四年:2020/06/11(木) 19:54:17.42 ID:VjWg7rQ8.net
豊臣秀吉がある時舟遊びに出た時、伊達政宗にも供すべきとの事であったが、遅参して船の出た後に
やって来た、このために、馬を引き寄せ打ち乗って、ただ一騎で船を見ながら住吉の方へ乗り行った。

秀吉はこれを見て「あれは大方政宗であろう」と言われた。船は住吉にも着けられず、また漕ぎ戻された
ために、政宗もまた乗り返し、着船される所に参ると、秀吉は

「只今の馬は政宗であったか。武者振り見事なり。定めて草臥れたであろう」
と言って、饅頭の入った折を賜った。

政宗は頂戴して折を傾け、自分の着物の前を広げその中に移し、入れ包んで立ち退き、自分の
家臣を呼び寄せて「上様より拝領申したるぞ、汝らも有り難く存じ頂戴せよ。」と言って
残らず与えた。家臣たちは何れもその厚志に感じ入った。

(名将言行録)

こちらは長曾我部元親の逸話が政宗のものに変換されてますね

280 :人間七七四年:2020/06/13(土) 01:31:09.72 ID:C/rfgG4J.net
永禄十二年(1569)五月二十日、織田信長は勢州の北畠が上洛しないため征伐するとして、数万人を率いて
彼の国へ発向し、同十一月まで百余日在陣し、所々の城を攻め破り、或いはまた和議を知れて、勢州を残らず
一統に退治すると、直ぐに同十一月十一日、勢州より上洛し、この事を将軍・足利義昭に言上すると、
公方家は大いに御感有って、國光の御脇差を下賜され、御暇を賜り帰国して、長陣の疲労を休息し、大将も士卒も
相悦んで越年した。

そのような中、信長より任命された朝山日乗、村井貞勝、島田秀満の三人の奉行は、諸公家と相談し、旧式
先例を正し、禁中の御修理の事も三ヶ年で成就したため、今上の御移徒があった。
諸公家、堂上の面々も皆、信長より宅地を修理され、乱中に領地を奪われた人には、旧規証文の旨に任せて
各領地を還付されたため、朝廷も諸公家も皆々安堵の思いを成し、

「織田弾正忠信長は近代無双の執権也」

と、都鄙遠近ではそう美談した。然れども、京童の曲として、その頃このような一首の落首があった

「存命は 又信長や忍ばれん 憂と三好ぞ今は恋しき」

『續應仁後記』

本圀寺の変の後くらいの、信長の評判について

281 :人間七七四年:2020/06/14(日) 11:50:10.73 ID:dWadqL55.net
大阪冬の陣が和睦となって、従軍した諸大名も皆閑暇となり、このため幕府方の陣中では訪れた者に対し、
何れの方でも、景物(景品)を競う香合せ(香の香りで銘を当てる遊び)をしていた。

そのような所に伊達政宗が参った所、「幸いなり香をおかぎあれ」と勝負をした。
何れも鞍、障泥(馬の鞍の下にひく泥除け)、弓箭などを景品として出したが、政宗は腰につけた瓢箪を
出した。これに対しては何れも、可笑しな景品であると言って取る者が居なかった。
最終的にはこの香合せの亭主の家来が、この瓢箪を取って終了した。

政宗が帰る時、飾りをつけたままの自分の馬を「瓢箪から駒が出たぞ」と言って、瓢箪を取った者に与えた。
はじめ「奥州の大将の景物よ」と笑った者達は、この時に至って羨ましがったという。

(名将言行録)

282 :人間七七四年:2020/06/14(日) 23:51:05 ID:VcY3V/mu.net
歌舞いて瓢箪を出したら場が白けて顰蹙かったんで慌てて取り繕ったんだろう
きっと夜に強奪したはず

283 :人間七七四年:2020/06/15(月) 12:21:29.23 ID:jYTjR/rA.net
ニュース「秀吉側近の武将 駒井重勝の日記 自筆原本見つかる」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200615/k10012470411000.html

なんでこんなものがネットオークションで出てくるのだろう

284 :人間七七四年:2020/06/15(月) 16:45:17 ID:snZwuq8m.net
寛永四年(1627)二月、加藤嘉明が会津に封ぜられた。この日、伊達政宗は殿中で嘉明の子である
明成と行き逢い、このように声をかけた

「足下父子に会津の地を預け賜ると承った。会津は全く、陸奥の鎮衛の地であれば、この老耄を
よく防げ、との御事であろう。しかし足下父子によって、容易くは防ぎ留められまじ。」

そう大声を出して笑った。これに明成はその笑い声の下より

「老黄門(政宗)、もし今の禄に倍して百二十万石をも領し給われば、今からでも取り掛け申すべきを。」

と申したという。

(名将言行録)

285 :人間七七四年:2020/06/16(火) 09:09:38.93 ID:eWSfcWcK.net
>>283
今ちょうどバブル期の収集家が亡くなる時期が来てて
なにも分からない遺族が、適当に鑑定眼のない木っ端業者に処分を依頼する事が増えた
そういう業者は価値も分からず、ちゃんとしたオークションに出品するツテも持ってないので
こうやって日銭を稼ぐためにネットに流す

286 :人間七七四年:2020/06/16(火) 11:54:42.05 ID:XAEfDeGz.net
前田玄以は人となり智慮深く、色欲無く、多くの物事に通じ、強いて細事を勤めず、内典外典の
学術から歌道に至るまで兼学し、有識の聞こえが有った。

彼が所司代と成り京中を巡見の時、東寺の辺りで牛車が路に横たわっていた。玄以は以ての外に
立腹し、「所司代の通る先に、道を塞ぐこと奇怪なり!それ切って捨てよ!」と命じた。
しかしこの命を従者たちは誠しからずと思って動かずにいると、玄以は
「又主人の下知を背く曲事なり!」
と散々に怒ったため、従者たちも是非無く牛を切り殺した。

これを見聞きした者達は「此の度の所司代は乱心している。牛を切るほどなのだから、人に気に違う
事が有れば、一言も言わせず切るだろう。一体どんな目に遭わされるのか。」と甚だ恐れた。

このために、玄以は所司代に在任している最中、牛を一匹切っただけで、公事(訴訟)という事も
少なく、人を殺したこともなかった。

(名将言行録)

287 :人間七七四年:2020/06/16(火) 20:03:46.49 ID:aHk//9Lh.net
どっちかって言えば悪い話な気が

288 :人間七七四年:2020/06/17(水) 06:49:00 ID:4CrckPci.net
まーたアホが出た
ここはお前のくだらねえ価値観を披露する場じゃねえんだよなぁ

289 :人間七七四年:2020/06/18(木) 12:37:29.89 ID:s7L3jsJD.net
北条長氏(伊勢宗瑞)既に小田原を取り、その威は遠近に奮った。相模の豪傑は皆来て降ったが、
独り三浦陸奥守義同、同荒次郎義意は戦を挑むこと連年に及び、雌雄を決することなかった。
毎年六、七月に三浦より小田原の攻め入り、退き去る時は必ず馬入川にて遊泳し、汗馬を水に入れて
帰ること、数度に及んだ。しかし長氏は外に柔弱を示して共に争わなかったため、三浦の兵には
徐々に怠りが見えた。

明年、三浦の兵攻め来たり、民屋を放火し田圃を荒らしたが、長氏は兵を出さなかった。
故に三浦の兵は益々侮り、かの川辺にて酒宴を催した。長氏はその虚を窺い、これを襲った。
三浦の兵は驚き慌て、弓矢矛戟を捨てて四方に壊乱した。これより三浦の兵は濫りに小田原を
攻めなく成ったという。

(名将言行録)

290 :人間七七四年:2020/06/19(金) 00:53:50.92 ID:A3E0IVhU.net
朝倉氏の亡んだ後、越前国では一揆が度々起こり、強敵が蟠り居りけるを、柴田勝家が数年かかって
攻め伏せ、漸く一国平均した。
そうして勝家は村里へこのように触れを出した

『よろず掟を正しくして撫育を致すにつき、自今以後、一揆を起こすべき覚悟が無いという事を
汝らが相断った事、尤も神妙の至である。この事は信長公にたしかに申し上げた。
であれば、汝らの持っている武具は、もはや所持していても益のない物なのだから、少しも残らず
上へ差し上げるべきである。その代わりとして、我等は農具を拵え、各々の望みに任せて、何程も
下し賜るべし。もし兵具の類を隠し置き、なんのかんのと違背するような輩は、心底に悪事を
挟んでいるのではないだろうか。』

そう言い渡した。郷民等に承り届くと、遅参に及べばどうなるかわからないと、弓銃は勿論、太刀、鞍、
鎧等まで己が村中を穿鑿し、我劣らじと持ち参った。
集まった兵具は幾千万とその数を知れず、山のごとくに積み上がった。勝家は鍛冶を召し寄せ、農具に
打ち換えて与えると、国中いよいよ静謐にして、一揆の沙汰は無くなった。

(名将言行録)

柴田勝家の刀狩りについての逸話ですね。

291 :人間七七四年:2020/06/19(金) 11:40:20.33 ID:eM6MrUNt.net
大船検分と茶の湯

1578年9月30日、織田信長は第二次木津川口の海戦で活躍した大船の検分の為、昵懇の公家、重臣、側近を引き連れて堺の港へ赴いた。
大船は九鬼嘉隆がのぼりや旗指物をたてるなどして飾り立てており、堺衆は信長の御座船に唐物の茶道具を集めていた。
その他各所から集まった船もそれぞれに武具を並べ立てるなど装飾を凝らしていた。
堺中の人々が着飾って見物に集まり、彼らが衣服に炊きこめた香りがあたり一帯に立ち込めたという。

その後、堺衆の今井宗久、紅屋宗陽、津田宗及、天王寺屋道叱の屋敷に順番に御成した。
この時信長に同道したメンバーが宗及の『天王寺屋会記/自会記』に記録されている。

・宗及の茶の席に同席した者
近衛前久、松井友閑、佐久間信盛、滝川一益

・御供衆として供奉した者
細川昭元、津田信澄、細川藤孝、佐久間信栄、筒井順慶、荒木村次、
万見仙千代、堀秀政、矢部家定、菅谷長頼、長谷川秀一、大津長昌、
河尻秀隆、三好康長、若江三人衆

292 :人間七七四年:2020/06/20(土) 03:28:51 ID:r6tZbjLO.net
河尻がいるのが興味深い

293 :人間七七四年:2020/06/20(土) 11:05:28.43 ID:LeVTVuZE.net
賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は、北庄の城に馳帰り、籠城の手配をした。
その明日、羽柴秀吉はその城を十重二十重に取り囲み、先ず愛宕山へ登り城中を見渡すと、
種々の紋が描かれた旗、馬印が夥しく押し立てられ、静々と控えていた。
秀吉はこれを見て感歎し

「城中を察するに、柳ヶ瀬の出陣に従わなかった老人、又は女童の、物の役にも立たざる者共に、
敗れ帰りし者共相加わったのであろう。それを巍々しく城を飾りし形勢、流石に武勇を天下に
顕せる柴田程ありけるよ。」

と繰り返してこれを称賛した。
勝家は死に臨み、気象少しも平常に違うこと無く、夫々に功ある者を賞し、やがて腹掻っ切って死した。

(名将言行録)

294 :人間七七四年:2020/06/21(日) 08:47:42 ID:RnNfT6FM.net
逃げ惑った大坂城とは雲泥の差

295 :人間七七四年:2020/06/21(日) 09:28:44 ID:l4Pd2GyN.net
>>292

他が畿内の有力者と当時の側近のトップばかりだから確かに異質ではある

この時は岩村城将だから一時的に帰還してたんだね

296 :人間七七四年:2020/06/21(日) 10:49:51 ID:c8BU1PPn.net
信忠の補佐役でしょ?
武田対策か何かで呼び出されたんじゃないのかな

297 :人間七七四年:2020/06/21(日) 10:54:20 ID:+NODlI7m.net
滝川一益が関東の管領であった時、山屋敷に亭を造り、閑暇の時はここにて休憩をした。

ある日、広野に鶴が数多下り餌を食らっていた。これを見るに、鶴の中でも番をしている鳥は
四方を幾度も見合わせて、一声鳴く時も用心し、他の鳥とは格別であった。
また植木の枝、亭の軒端には雀多く来て、人をも恐れず餌を食らい、友鳥戯れていた。
一益は近臣に

「あれを見よ、鶴が用心するのと、群雀の何心無きは、人と比較すれば、鶴は私の冥加に叶う。
大名と成り、国郡多く領知して、数万人を我が物にすれども、一言をも遠慮して粗末に言わず、物を食するとも、
膳番目付などと役人が有り、濫りに食うことをしない。夜は寝ずの番、外には夜回り時回りという役人が
有って、我一人寝た後までの用心をし、家中大小上下領内の万民も、我一人を目当てにするのだから、片時も
身を楽々と持つこと出来ない。あの鶴の身持ちと同じことだ。私の昼夜の心遣いを察して見よ。
汝等は鶴を羨まず、雀の楽しみを楽しみ候へ。」

そう言ったという。

(名将言行録)

298 :人間七七四年:2020/06/21(日) 11:29:41 ID:VyXDYm6h.net
有閑、佐久間、滝川がトップで
中でも息子も供奉している佐久間が別格か。

299 :人間七七四年:2020/06/21(日) 19:24:35.03 ID:+C2Ng3sl.net
その時分より三好一家衆は身構えして、三好殿居城の河内飯盛城は殊の外騒ぐ。その由を伺って
河内国の故主・畠山高政はその頃浪人していたのだが、譜代の士の紀伊国湯川(直光)という者、
根来衆の土橋などという者が兵を催し、飯盛城へ押し寄せ向かう城を攻め取った。

三好物外軒実休はこれを聞き、飯盛の後詰として阿波国の軍勢、斎藤、福良などを引き連れ、馳
せ向かって合戦を始めたところ、根来衆の中に屈強の鉄砲の名人がおり、三好実休を狙って撃ち
落とした。これにより阿波衆は皆敗北する。

松永弾正は修理太輔(三好長慶)に申し「物外軒豊前守殿が御討死なされた上は、謀を巡らせて
士卒に力を付け申すべきです」との由を申す。三好は聞いて「万事、汝が計るべし」となかなか
出張する様子が無いため、松永は「この分では三好殿は出られまい」と、松永が城を出て方々の
一揆などを招き寄せ後詰の合戦を始めた。

松永は武勇第一の剛者で高政を攻め破り、追い討ちして良き者を討ち取った。高政は堺へ引き揚
げ、湯川は河内の誉田を落とした。これを松永衆は追い詰めて討ち取り、根来衆の大将・岩本坊
は大和信貴城のもとで討たれた。畠山は6千余騎を討たれ、三好は運を開きける。

――『松平記』

300 :人間七七四年:2020/06/22(月) 02:49:50 ID:c5KoNoYa.net
筒井には散々な目に遭ってるのに、ここでは強いな
長慶生存中だから?

301 :人間七七四年:2020/06/22(月) 12:25:43 ID:ZI+dnZf4.net
松永弾正の弟が生きてる間は強かった

302 :人間七七四年:2020/06/22(月) 20:50:23 ID:e7wXX+Ce.net
名将言行録は日本人の戦国観をだいぶ歪めたと思う。甫庵や角川とかほかにもたくさんあるけど。武功夜話、おめーはもっとだめだ

303 :人間七七四年:2020/06/23(火) 09:13:08 ID:w0d9lKIh.net
名将言行録は当時の戦国いい話まとめ

304 :人間七七四年:2020/06/23(火) 14:47:54.63 ID:eVb1P6yE.net
第一次鳥越城の戦いと鬼玄蕃の活躍
天正8年(1580年)6月23日、盛政軍と鈴木出羽守率いる一揆勢は手取川と大日川の合流点、河合の地で激突した。盛政軍は鉄砲を縦横に撃ちまくる一揆勢に苦戦し、200人余の戦死者を出して押し返された。6月28日、盛政は今度こそ一揆勢を打ち破らんと再び軍を進め、先の戦いよりやや下流の狭い隘路で、両軍は激突した。しかし、盛政軍はまたもや敗れ、一揆勢の追撃を受けて370人余の戦死者を出す大打撃を被ってしまう。鈴木出羽守率いる一揆勢は、尋常ならざる相手であった。これまで常勝を重ねて来た盛政は二度の敗北を味わって、屈辱で身悶えしたであろう。そこで、盛政は勝家と相談した上で謀略を用いる事とし、顕如と信長の和睦に事よせて、鈴木出羽守らに本領安堵の条件で講和を呼びかけた。
同年11月、この講和を受けて、鈴木出羽守と4人の息子、若林長門などが松任城に出向いて来た。ここで勝家と盛政は彼らを悉く謀殺し、討ち取った一揆勢の首領達19人の首が安土に届けられるその様子が「信長公記」に記されている。「十一月十七日に加賀一揆歴々の者十九人の首が安土へ届けられた」とあり、その中に鈴木出羽守とその子ら右京進・次郎右衛門・太郎といった名が記されており信長は大いに満足した。その上で盛政は鳥越城に攻めかかった。首領達を失い、統率力が弱まった一揆勢にこの攻撃を凌ぐことは出来なかった。とうとう鳥越城は落城したのである。主を失った鳥越城と二曲城には柴田軍が進駐、柴田家臣の吉原次郎兵衛が鳥越城の城将となり、二曲城と合わせて兵三百が駐屯した。
なお盛政は、この戦功により加賀国二群を信長から拝領する。

305 :人間七七四年:2020/06/24(水) 14:46:54 ID:6beaGiQ9.net
信友の忠言


寛永年中、(鳥取藩士の)佐分利九之丞(成忠)が天草(島原の乱)の御使者として来たときに
朋輩たちの暇乞いで「すぐに首尾よく帰宅できるとよいな」と挨拶する者ばかりだった。

その中で松浦次郎右衛門という老士が、日頃親しくしていたので名残を惜しみ、智頭駅(鳥取県智頭町)まで
見送りにきた。そうして暇乞いとして
「其方六十に及んで、生き延びても何の甲斐もないだろう。天晴死を潔くして高名されよ。
 今生の思い出を気にして、手を空しくしてでも帰宅し拙者に再会しようなどと思われるな!」
と言ったので、九之丞も
「言われずともその覚悟であった。死んだときは心安く思ってくれ」
と機嫌よく大きく笑って立ち別れたという。実に信友の忠言というものだろう。


――『雪窓夜話』

九之丞は原城総攻撃の際に本丸を目前にして戦死し、その功で子孫は千石加増された。

306 :人間七七四年:2020/06/25(木) 13:51:19 ID:zIRpi3LD.net
明智光秀が未だ十万石ばかりの頃、堀辺兵太という浪人が有り、荷俵を背負って現れ、「千石賜らんや」
と言った。光秀はこれを聞き、彼に料理などを出すよう申し付け、その間に密かに彼の荷俵を開かせて
みると、中には長身の刀槍が、いかにも見事に研ぎたて入れ置かれていた。光秀はこれを見て
「面白き志の侍なり。」
と言い、そして望みに任せて千石を与え召し抱えた。

その後、彼は数度の武功があり、丹波にて光秀が負け戦の時、堀辺は一番に取って返し討ち死にした。
人々は光秀のその明鑑に服した。

(名将言行録)

307 :人間七七四年:2020/06/26(金) 04:40:17 ID:ZfCnnGRC.net
名将言行録はほんとにやめてほしい

308 :人間七七四年:2020/06/26(金) 09:12:09 ID:VmxfpEVZ.net
読み手がフィクションをフィクションと読み取らないのが問題であって
毛嫌いするのも別に好みだが名将言行録の記述が張られるたびに逐一ネガティブなこと言うの見ててしんどいからやめて

少なくともここに名将言行録を史実だと思い込んで読む人いない

309 :人間七七四年:2020/06/26(金) 09:20:57 ID:lKTL5SEm.net
じゃあアフィサイトにも逐一注意書きを入れるべきだね
まとめアフィり人は史実厨らしいし

310 :人間七七四年:2020/06/26(金) 12:15:06 ID:pjAq1yzj.net
>>309
消えろ

311 :人間七七四年:2020/06/26(金) 17:19:24 ID:hqw32Osv.net
一、永代寺門前仲町書上

           忠兵 店相撲行事
              木村庄之助

右先祖は真田伊豆守様(信之)御家来にて、中立羽左衛門と申す。年月はわからないが、御暇を願い
浪人致し、寛延年中に寺院宮地の造営の為に、御屋敷様方より力士に相頼み勘申寄り相撲と申すものを始め、
この奉加を以て、堂宮造立をしようという事があった。この時、先の中立羽左衛門より三代目に至り、
木村庄之助と姓名を相改めた。

五代目庄之助について、寛延二年八月中に、肥後国熊本に、吉田豊後守家次の孫の有ることを承るに及んだ。
この吉田家というのは、細川越中守様御家来にて、その頃吉田善左衛門と申し、職業にては追風と名乗った(吉田司家)。
禄は三百石で、元来旧家であり、往古、恐れ乍ら後鳥羽院様の相撲御節会の時、本朝相撲司御行事との勅命を
蒙った家柄であり、庄之助は熊本に罷り趣き、この御規式、御法伝を請い、門弟入りをした所、同家門弟の内、
四人を、南は日高、北は水本、西は金田、この三人の名前は現在は解らない。そして東は木村と、四姓に分けた。
日高、金田は断絶致し、水本は南部大膳大夫様御家来に、現在その子孫が有り、長瀬越後と申す。
南部の御領分に相撲興行の有る時は行事を相勤め、他国へは一切出ないという。

庄之助については、吉田家にて高弟と成り、日本相撲行事目付と定められた。この目付の意味は、以後の
節会相撲の時、東三十三ヶ国力士どもを庄之助が召し連れ上京し、行事を相勤めるように吉田家より申し渡され、
西三十三ヶ国は同家にて力士ども召し連れ相勤めるというものであった。
またこの時、吉田家より、「三代目庄之助が木村と名乗ったのは幸いである。東は春にて木を形取り、
末々に至るまで木村と名乗るように。」と申し渡された。

こうして、五代目庄之助より、代替りの時は吉田家に神文を致し、且つ免許状をその時時に相渡すという
仕来りと成った。

(相撲行司家傳)

相撲行事、木村庄之助の由来について

312 :人間七七四年:2020/06/26(金) 17:46:03 ID:Ot269zRl.net
>>308
新参がここにいるでござる
他にフィクション風味が強いのがあったら教えて

313 :人間七七四年:2020/06/26(金) 19:12:57 ID:pjAq1yzj.net
名将言行録は
・成立が幕末〜明治と結構新しい
・怪しげな話も平気で収録。調査? 検証? 美味しいのそれ?
・その代わりといってはなんだけど、出典は明記
という感じだから、なんか、いい話・悪い話スレと似た感じだからなぁ。

314 :人間七七四年:2020/06/26(金) 20:24:58.89 ID:ZfCnnGRC.net
>>312
武功夜話
あれは昭和に書かれた偽書だから、問題外

315 :人間七七四年:2020/06/26(金) 21:08:03.07 ID:VmxfpEVZ.net
>>312
上げてくださってる方もいるけど武功夜話とか
とりあえずここの人ちゃんと出典書いてくれてるんで、出典の名前で成立年数とか調べるといいかもよ

というか、エピソードになってるのの9割9分創作と思っておいて損はないかな
普通当時の記述なんて日記や書状として書かれるものが主なんで、面白い話としてまとめてる時点でとんでもなく怪しい

316 :人間七七四年:2020/06/26(金) 21:18:22.81 ID:Ot269zRl.net
>>314
うむ、単純に作成時期を考えればよさそうなのねありがと

317 :人間七七四年:2020/06/26(金) 21:42:14.65 ID:3GCROgwI.net
武功夜話は偽書?
偽文書?

318 :人間七七四年:2020/06/26(金) 22:08:42.07 ID:HAHOHDcW.net
>>311
お兄ちゃんが絡んでるところは突っ込むところなのだろうか

319 :人間七七四年:2020/06/27(土) 02:06:23 ID:GH8lQ5W9.net
中立羽左衛門に寛延(1748-51)年中の活動履歴があるなら
年齢的に幸道(1658-1727)末期から信弘(1727-36)・信安(1737-52)の時代の家臣で
信之(-1656)とは確実に絡みはないし

五代目にあたる庄之助に寛延二年の活動履歴があるなら
中立羽左衛門はそれより数十年前の人間ってことになるし
どちらかの元号間違ってるわな

320 :人間七七四年:2020/06/27(土) 02:33:21 ID:tzyGZ50O.net
出典無しの地元の口伝みたいのももっと読みたいんだが、出典無しだと投下した人の創作って可能性も出ちゃうんだよな。

321 :人間七七四年:2020/06/27(土) 11:34:34.23 ID:gwVfw9te.net
アフィカスが必死すぎてワロタ
さすが守銭奴はやることが汚え

322 :人間七七四年:2020/06/27(土) 13:03:25.83 ID:/KjSZPvg.net
>>321
大変だね、気が狂うって

323 :人間七七四年:2020/06/28(日) 09:53:37 ID:raMnoOZ5.net
https://youtu.be/Jo-o2AwRBuQ

324 :人間七七四年:2020/06/28(日) 10:54:57.82 ID:1HkMSmcl.net
毎回律儀に「アフィ」に反応してるんだなw
NGワードとか使えない人なんだな

325 :人間七七四年:2020/06/28(日) 19:43:02 ID:jn+z5NF9.net
スポンサーサイトの広告収入はfc2に入るのであってまとめ管理人の得にはならんぞ

326 :人間七七四年:2020/06/28(日) 21:36:21 ID:cBxj0e70.net
こういう輩は罵倒できれば何でもいいんだよ

327 :人間七七四年:2020/06/29(月) 03:17:33.18 ID:/GFzlAtm.net
>>322
自殺まだ?罵倒くん

328 :人間七七四年:2020/06/29(月) 12:01:21 ID:fvPAfnIt.net
>>324
脊髄反射しちゃうアフィカスが律儀なワケねーだろ
ただの低脳の中年童貞だよ

329 :人間七七四年:2020/06/29(月) 18:29:16 ID:Imt7FFif.net
>>328
建付け君は昼休みになった瞬間に書き込みしてんのかな?

330 :人間七七四年:2020/06/30(火) 07:18:17 ID:oYaWaz4K.net
>>329
こどおじが無職を拗らせるとこんな発想になるのか
怖いねー

331 :人間七七四年:2020/06/30(火) 07:28:42.11 ID:Z4tNEGxV.net
>>330
たぶん気が狂ってるんだよ

332 :人間七七四年:2020/06/30(火) 11:22:35 ID:u7U8kNTQ.net
アフィカス気狂いで大変だな!

333 :人間七七四年:2020/06/30(火) 18:46:01 ID:FJkgH+v2.net
>>332
勤め人がこんな時間から5ちゃんやってんじゃねーよw
おじちゃん無職なの?

334 :人間七七四年:2020/06/30(火) 19:27:41.53 ID:5Q52LUhW.net
気の毒な人なんだよ
そっとしといてやろう

335 :人間七七四年:2020/06/30(火) 21:54:30.51 ID:G1TABAxh.net
織田信長公より九八郎(奥平信昌)が拝領した刀は、目貫口蓋は、去々年後藤光乗に仰せ付け、京都に於いて
掘られたもので、昔、弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ、それは、女は色に耽る者なれども、
老年なれば面は猿に似て手にあじか(土を運ぶ道具)を持ち、その中にくわえ蕨など入れ、肘に掛け後ろに
袋を負い、前打ち広げて腰を掛けていたる体が書かれており、信長はこれを見給うと、「この図を写すべし」
と命ぜられ、そうして掘られた口蓋であった。

その頃、この図を明智日向守(光秀)が狩野が絵像に写させた所、尽く出来、眼に点入れまでしてあったのが、
一夜の内にこの絵が腐り果てた。この事を明智に申し上げた所、「権者の筆跡を凡夫として写しけるによって、
このように成ったのだろうか。奇特である」と云ったという。

『当代記』

336 :人間七七四年:2020/07/01(水) 21:10:56.04 ID:wc06VcAt.net
気の毒な無職のこどおじアフィカス太郎はまだ自殺せずに生きてるのか(爆笑)

337 :人間七七四年:2020/07/01(水) 21:34:58.06 ID:+vwWQ5js.net
>>335
まじかアフィの滓左衛門最低だな

338 :人間七七四年:2020/07/02(木) 04:47:03.91 ID:EFKskqLc.net
>>335
腐り果てたのは中年童貞の阿布衣滓太郎左衛門の具足もだな
ええ話や〜

339 :人間七七四年:2020/07/02(木) 20:40:39 ID:eB+1YNj2.net
アフィカスの小銭稼ぎスレ

340 :人間七七四年:2020/07/02(木) 21:00:10 ID:AzuyZl+W.net
初めてのユーチューブデビュー動画が10:08で草
引き伸ばし頑張ったなアフィ乞食

341 :人間七七四年:2020/07/02(木) 22:01:31.81 ID:IgtsYTjv.net
天正五年十月二十三日、羽柴筑前守(秀吉)は播州に入ると、「この次に中国で一州を望む」という事を
言上した。これを信長に、右筆の楠長庵が披露した所、これを聞いた信長は不快な様子であった。
しかし暫く思案し、「申す旨に任せ、朱印を遣わす」と言った。
ところがどうしたわけか、楠長庵はこの朱印を作成しなかった。

その後、筑前守は但馬国へ相働き、敵城を数多攻め落としたことが注進されると、信長は御感甚だであった。
この時に成って長庵は、中国の内一州の拝領を許可した朱印状を作成し秀吉に遣わした。
これについて信長は、非常に心地よい様子であった。

『当代記』

342 :人間七七四年:2020/07/03(金) 00:07:43 ID:bzLtjKSz.net
>>336-340
建付け君怒りの五連投
無職バレが痛かったらしい

343 :人間七七四年:2020/07/03(金) 01:27:08 ID:wNBo2v6N.net
>>341
見事なまでのブラック企業

344 :人間七七四年:2020/07/03(金) 02:54:48.72 ID:jQfgUBPZ.net
>>342
アフィカス太郎、無職なのかwww

345 :人間七七四年:2020/07/03(金) 08:22:01.15 ID:jxzxwrPe.net
さっさとエピソード書けよ貢献しろ

346 :人間七七四年:2020/07/03(金) 11:06:21 ID:4p/J7Ad4.net
建て付け君は信長狂信者で過大評価スレでも一日中暴れてるからね
ガチの無職

347 :人間七七四年:2020/07/03(金) 12:25:52 ID:K5dLFvru.net
>>346
あれ〜勤め人がこんな時間に5ちゃんなの?
さすが自身が無職なだけあって無職の条件がよくわかってらっしゃるw

348 :人間七七四年:2020/07/03(金) 12:39:35 ID:luUt5A5f.net
さっさとエピソード書いてアフィカスの小銭稼ぎに貢献しろよ歴史バカのこどおじども

349 :人間七七四年:2020/07/03(金) 12:48:08 ID:bkGyQmFN.net
勤め人って設定はさすがにファンタジーすぎるからさ
今後は早期リタイヤ組ってことにしようぜ

350 :人間七七四年:2020/07/03(金) 12:56:18.72 ID:3rAHo/q9.net
>>346
信者の割には信長の知識が皆無なのが傑作だよな

351 :人間七七四年:2020/07/03(金) 17:48:38.89 ID:w917E9Ps.net
無職バレて怒りの連投w

アフィカスは今日も気狂い継続中

352 :人間七七四年:2020/07/03(金) 18:28:38.55 ID:bzLtjKSz.net
>>351
建付け君、ブーメラン刺さってるよ

353 :人間七七四年:2020/07/03(金) 19:29:32 ID:bkGyQmFN.net
建て付け連呼君は一日中張り付いてんのかw

354 :人間七七四年:2020/07/03(金) 20:03:34.91 ID:6wge0OdT.net
建て付け君は5ちゃんのみならず、複数の歴史まとめサイトに出没して気に入らない奴に片っ端からレッテルを貼って回る本物の狂人
相手にするだけ時間の無駄

355 :人間七七四年:2020/07/03(金) 20:04:46.64 ID:bzLtjKSz.net
>>353
建付け君、ブーメラン刺さってるよ

356 :人間七七四年:2020/07/03(金) 22:29:23 ID:bkGyQmFN.net
なんでこいつこんなにイライラしてんのw

357 :人間七七四年:2020/07/03(金) 23:01:50 ID:8DcvGy9t.net
更年期

358 :人間七七四年:2020/07/04(土) 00:23:34 ID:PnSlfXWP.net
アフィカス劇場の建て付け連呼くんはいつハロワ行くの?

359 :人間七七四年:2020/07/04(土) 06:51:24.42 ID:WCOWMh6n.net
さっさとエピソード書け養分共

360 :人間七七四年:2020/07/04(土) 12:06:21 ID:2bfCr3Bc.net
小銭稼げなくてイライラするアフィカスであった

361 :人間七七四年:2020/07/04(土) 12:46:13 ID:QozWtmec.net
建て付け信長狂信者は、一日中このようにスレに貼り付き気に入らない人に対して攻撃し続ける狂人だということがお分かり頂けただろう

362 :人間七七四年:2020/07/04(土) 13:12:10 ID:kE31HBob.net
十分八秒之介殿は銭ゲバでござるか

363 :人間七七四年:2020/07/04(土) 18:21:18.16 ID:1OYcn5s2.net
その8秒が死ぬほど大事w
と思ったら最新動画は10分弱にしてて大草原
「10分弱の動画ですが」とかわざわざ書いてるし気にしてんだなwww
そもそもチャンネル登録者が1万人からだからまだまだ道は遠い

364 :人間七七四年:2020/07/04(土) 19:43:43 ID:iefbZCEs.net
建付け君の笑いのツボがよくわからない

365 :人間七七四年:2020/07/04(土) 19:46:27 ID:kRSjex/6.net
アフィカス太郎の必死ぶりが笑える

366 :人間七七四年:2020/07/04(土) 22:21:18.39 ID:MrhYzTAZ.net
自分でも何が面白いのか解ってないだろうね。
引っ込みがつかないだけかと。

367 :人間七七四年:2020/07/04(土) 22:23:31.80 ID:1OYcn5s2.net
イライラしてんなw
カラダにも良くないから朗らかに行こうぜ

368 :人間七七四年:2020/07/04(土) 23:32:18 ID:K1RlApYW.net
天正四年十一月、織田信長公は叡覧に入れるため、内裏に鷹を据え、庭上まで参内された。
各供奉の衆の装束は結構を尽した。
退出の後は常の狩の出で立ちにて、東山の鷹野へ向かったが、雪甚だしく、秘蔵の鷹を見失ってしまった。

信長はこれを本意無きことに思われ、「この鷹を据え来た者には必ず褒美を与える」との札を立てた所、
一両日後に、大和国で発見された。信長は甚だしくこれを悦ばれた。

『当代記』

この時期の信長の威令の強さを感じさせるお話。

369 :人間七七四年:2020/07/05(日) 01:16:52 ID:k8EPX+1/.net
戦国鍋TVの新作、8月から放送らしいけど早く観たいな。

370 :人間七七四年:2020/07/05(日) 13:13:56 ID:vvrEOWDH.net
アフィカスってまだ自殺しないの?
親にもスレにも寄生してるゴミクズっていう自覚はないようだぬ

371 :人間七七四年:2020/07/05(日) 17:26:01.40 ID:uMAdPURW.net
>>368
そんなひどい雪の中で鷹狩りすんなよって思ったけど
内裏に鷹を据えるというセレモニーの一環だから延期や中止はできなかったんだろうな

372 :人間七七四年:2020/07/06(月) 08:14:05 ID:tQwxA9zj.net
11月に雪降るとか妄言も大概にしろよ
いくらなんでも盛りすぎだろ

373 :人間七七四年:2020/07/06(月) 09:05:49 ID:1iAfCj1a.net
旧暦計算なら今の11月よりは後ろになるからその年の気候次第ではあり得るんでは。
しかし腹も減ってないのに雪の中飛ばなきゃならんとか、鷹のほうも嫌だったに違いない。

374 :人間七七四年:2020/07/06(月) 11:06:26.16 ID:s0CFQ3DQ.net
天正4年11月20日明け方に京都で初雪、ただ一寸降っただけ
信長内大臣任官お礼の参内が23日
この間、21日〜25日の京都は晴(『言継卿記』)

ただし京都の東山じゃなくて近江石山寺近辺で鷹野をしてる(『信長公記』)から
『当代記』の通りに滋賀だと大雪だった可能性もほんのわずかながらあるかも

375 :人間七七四年:2020/07/07(火) 07:47:43 ID:yPD1u5Ou.net
そもそも、戦国時代は小氷期で地球全体が今より寒冷な気候だ

376 :人間七七四年:2020/07/07(火) 08:54:49.45 ID:piBEUhHC.net
信長公記に同じ話があった気がするが、天正4年条には見当たらなかった

377 :人間七七四年:2020/07/07(火) 10:02:59.13 ID:IvWV8E6Z.net
御鷹山猟御参内の事
天正5年11月18日

これかな

378 :人間七七四年:2020/07/07(火) 10:40:20 ID:piBEUhHC.net
>>377
手元ので改めて確認

天正6年11月27日条
「北野まはり御鷹つかはされ、御秘蔵の鷂(はいたか)失せ申候。方々御尋ねなされ候処、十二月朔日、丹波より居上せ進上」

これは見つけたんだが、もうちょっと詳しい描写があったような、なかったような…

公記を見る限り、信長は天正4年11月に上洛参内し、内大臣の官位を得ている。公家にもいろいろ配っている。鷹狩りについてはその後、石山世尊院で二日間、行っている。なんらかの混同が当代記ではあったのかな
京童の噂話が間違って伝わった可能性もあるし

379 :人間七七四年:2020/07/07(火) 10:41:56 ID:piBEUhHC.net
>>374
あ、見落としてました。一次史料をどうもです

380 :人間七七四年:2020/07/07(火) 13:33:40 ID:SGT8Vxh6.net
天正七年二月十八日、織田信長が上洛された。この春、信長公が在京の砌、若狭国の丹羽五郎左衛門(長秀)
が人魚を献上した。これの顔や手足は人と違わず、長さは五尺(約1.5メートル)ばかりであった。
この人魚は岩の上に登ってしばらく寝ており、その所を見つけ、これを取ったのだという。
この在京中に、三条の宗運という町人が、老父に至孝であるという事を信長公が聞かれ、諸役を免許し
米百石を下した。

『当代記』

381 :人間七七四年:2020/07/07(火) 13:43:52 ID:1MncSJu9.net
足がある人魚?

382 :人間七七四年:2020/07/07(火) 13:49:11 ID:vnEUtyqx.net
半魚人?

383 :人間七七四年:2020/07/07(火) 14:13:15.68 ID:IvWV8E6Z.net
河童やね(適当)

>>378
>>377も信長公記です。「俄かに大雪降り来たりて」等、>>368の当代記よりも詳細な記述。

同じ日の兼見卿記にも「内府御鷹山也 各着頭巾道服 心々之仕立也 御分国之大名其外馬廻数百人也
見物無比類云々 祇候禁中於小御所 有御盃之義云々 其以後東山へ御鷹山也」(東大史料編纂所より。
転記ミス御容赦)とあるので、当代記の記述(国会図書館DBで確認)が1年ずれてるのでは。

384 :人間七七四年:2020/07/07(火) 14:59:52.28 ID:emopB1HD.net
>>380
福知山城に行ったら丹後浦にトドが迷い込んで捕まったという手紙が絵付きで展示されてた
多分トドじゃなくアザラシだと思った

385 :人間七七四年:2020/07/07(火) 15:10:02.84 ID:3vqzziLb.net
献上された人魚って食べるの?生け簀みたいなので泳がせるの?

386 :人間七七四年:2020/07/07(火) 15:34:01.50 ID:n4Ey8St4.net
海獣の類いでしょ
日本だと海獣以外にリュウグウノツカイを人魚と見間違えたという話もあるとか聞いたけど

やっぱ食べるのかな?海獣だったらしばらくは飼えそうだけど

387 :人間七七四年:2020/07/07(火) 16:26:01 ID:Mg35n5Ah.net
太陰太陽暦では冬至を含む月を11月とするから11月に雪が降ってもおかしくはない

388 :人間七七四年:2020/07/07(火) 20:50:16 ID:UOpvQdJP.net
>>380
八百比丘尼「食べなきゃ(使命感)」

389 :人間七七四年:2020/07/07(火) 21:48:27 ID:sY0DV/cH.net
家康も不老妖怪の逸話あったし権力者あるあるか

390 :人間七七四年:2020/07/07(火) 23:41:18 ID:OWOT8Gkc.net
>>383
おー、ありがとうございます!これこれ!
越智玄番が欠地を回復する話。
しかし、信長は2年連続、11月に御秘蔵の鷹を逃がしていたことになる。鷹匠の消息は触れられていない。

391 :人間七七四年:2020/07/07(火) 23:51:51 ID:OWOT8Gkc.net
>>380
家忠日記に人魚みたいな絵があったね、これのことかな?

と思って調べたら家忠日記のは天正九年に安土に揚がったヒト食い人魚のようだ

392 :人間七七四年:2020/07/08(水) 00:01:29 ID:rjLtYiQe.net
戦国日本ヤバイ

393 :人間七七四年:2020/07/09(木) 13:15:27.85 ID:8tUCxMUS.net
天正九年、正月二十三日より触れられてた馬揃が、二月二十八日に行われた。
各々美を尽くした色々な出で立ちであった。
馬上の者達は百騎に及び、一番の明智日向守(光秀)は紅の出で立ちであった。
そこから次々と、書き表すのも及ばぬほどの、結構の体であった。

信長はこれらの馬の後に乗られ、先馬の前に(武井)夕庵法師を通した。その体は小袖をつまんではしょり、
白髪をかぶった出で立ちで、鞍に取り付き、まるで誠の老女が馬に乗っていて危ないように見えた。
この夕庵は信長の右筆で、歳は七十余の入道であった。

信長公の出で立ちは、ほほに頬紅をされ、牡丹の造花を腰に指し、冠物にも花を指されていた。
馬先に乗り換えの馬が十疋、それぞれ無量の仕立てであった。或いは唐織、或いは染綾薄、猩々緋などにて
泥障(あおり:鞍の四方手に結び付けて馬の腹の両脇に下げる、泥よけの馬具)とし、例えるべき様もない
結構であった。

信長の馬の廻りには小人衆が紅梅の袷、上に黄衣、立烏帽子、のし付脇差、金の鼻ねち、紅のうてはしりにて
思い思いに乗った。

池田庄九郎は惣金の出で立ちであった。その身については申すに及ばず、馬の毛や爪まで何れも金であった。
馬の毛には、ふのりを以て薄を置いたという

主上(正親町天皇)は御桟敷にて御見物された。馬場は内裏の東に、縦三町横二町ばかりに構えられた。
周りに柳を植えてあった。

また翌日には、「昨日の馬揃残り多し」と羽織頭巾にて馬に乗り、この時猩々緋を羽織った。それぞれ
先の馬上衆が、一夜の間に仕立てたのだという。

そして何者の仕業か、落書があった

『金銀を 遣捨てたる馬揃 象棋に似たる王の見物』


『当代記』

394 :人間七七四年:2020/07/09(木) 19:37:38 ID:Pvl2OpoO.net
>>393
金銀を捨てても王様が詰まされなければ勝ちだからね、将棋は
京童としては成り上がりの信長なんぞ捨て駒で、天皇こそ、といいたいのかな

395 :人間七七四年:2020/07/09(木) 21:52:22 ID:f3UPKo8d.net
援助が無ければ没落する哀れな王様なのにか?

396 :人間七七四年:2020/07/09(木) 23:58:32 ID:Pvl2OpoO.net
>>395
それが天皇の権威であり、皇家でもないのに京に住んでるだけでぶら下がるぶぶ漬けどものアイデンティティー

397 :人間七七四年:2020/07/10(金) 07:37:45 ID:oDUtpweF.net
>>396
クズジャップのアイデンティティだな

398 :人間七七四年:2020/07/10(金) 11:06:40.83 ID:zbAHFZVo.net
>>393
先頭は丹羽じゃなかった?

399 :人間七七四年:2020/07/10(金) 17:12:15 ID:ZQ4CsC64.net
中国攻めのためこの馬揃えに参加出来なかった秀吉が長谷川秀一に宛てた
「馬揃えに参加出来なくて無念だ。せめて各々がどんな出で立ちだったか教えて欲しい」って言ってる書状があるな

400 :人間七七四年:2020/07/12(日) 10:03:43 ID:9xGCmwhn.net
秀吉がキングコングのコスプレで参加していたら実物だわ。

401 :人間七七四年:2020/07/12(日) 12:08:30 ID:jBC+6l/v.net
コスプレしなくても倭猿の実物だよね

402 :人間七七四年:2020/07/12(日) 16:13:09 ID:z1pyTWFl.net
>>400
かといって十八番の瓜売りの格好で馬揃えに出られてもなあ

403 :人間七七四年:2020/07/12(日) 18:18:09.20 ID:txMFl1V7.net
倭猿の十八番は少女の破瓜だっけか

404 :人間七七四年:2020/07/15(水) 13:23:56 ID:tYNj3Jm7.net
リロードしてなかった(´・ω・)

405 :人間七七四年:2020/07/15(水) 13:28:53 ID:tYNj3Jm7.net
何故こちらに誤爆(´・ω・)
ごめん

406 :人間七七四年:2020/07/16(木) 11:45:29 ID:PRjfpM5l.net
うわぁ…
今、県内ニュースでやってたが相良藩の文書も水に浸かったみたい
家系図や幕府への提出書類も防カビ処理するって

407 :人間七七四年:2020/07/16(木) 23:46:16.44 ID:2BGFAn6P.net
文化財はこうやって失われていくわけだ

408 :人間七七四年:2020/07/18(土) 06:42:42 ID:UHCwrTEa.net
こうやって都合の悪い歴史は闇に葬って都合の良いように捏造するんだよな

409 :人間七七四年:2020/07/21(火) 00:19:32 ID:kYKXU6n9.net
元亀二年毛利元就、芸州に卒去す。
嫡孫輝元家を継ぎ、二男、小早川隆景が家のことを執り行った。
竜造寺隆信は念入りに世の転変を了簡した。
「その昔、大内氏全盛の時は、かの家に通じて家業を落とさなかった。大内は既に滅んで、毛利氏中国を呑む。
 我は初めより元就に志を運んだ。元就既に卒去し輝元その跡を継ぎ、今、義昭将軍は、輝元のもとにおわします。どうして弔い申さないでおられよう。」
かくして鍋島信生を使節とし、隆景に付いて義昭卿に通じられた。
将軍ことに御悦喜なさり、九州平均の命を隆信にくだされた。
隆景と信生は関係良好であったので、将来のことなど談ぜられ、信生は帰国された。
隆信は将軍の命を受けた後は、いよいよ弓矢の工夫を怠られることなく、九州平治の計略の外他事なかった。

『肥陽軍記』

410 :人間七七四年:2020/07/22(水) 01:30:15 ID:bZEQKy47.net
天正十四年十月、徳川家康公が御上洛された。この時「もし上洛出来ないのであれば、秀吉の妹(朝日姫)を
返した上で、干戈に及ぶ。」と一途に宣わり、殊に秀吉公は御袋(大政所)を岡崎まで下向されたため、
疑心無く上洛され、秀吉との関係はいよいよ入魂となった。これによって、家康公北の方(朝日姫)は
浜松より岡崎にお出でになり、御袋と対面し、悦ばれた。秀吉公も家康公の上洛を快悦され、刀脇差、
並びに数寄道具(何れも値千金の物也)を進ぜられたと云う。
家康公が下向されると、大政所も帰洛された。

秀吉家康が入魂した事に、小田原の北条氏政父子は心底不快であったと云われる。

『当代記』

411 :人間七七四年:2020/07/22(水) 23:33:13.10 ID:xuQjvyR8.net
ニュース「福知山城天守の写真発見 再建前の姿、明治初期撮影か」
https://news.yahoo.co.jp/articles/3e795b05e95eabe73136548c894a07f1f709b52b

光秀時代の建物ならすごいけど

412 :人間七七四年:2020/07/22(水) 23:44:07.47 ID:hzBFEgVL.net
>>406
アントニオ猪木の母方の先祖は相良氏
大ボラ吹きの猪木だけどこれはガチかな?

413 :人間七七四年:2020/07/23(木) 10:32:27 ID:TiWbhyZS.net
おいたわしや、世が世なら相良の御一門がブラジルくんだりまでお流れとは、おのれ薩長。

414 :人間七七四年:2020/07/23(木) 10:35:14 ID:TiWbhyZS.net
>>411

和歌山城でしょ。
福知山城の天守閣の写真、再建前にも出て参考にしたたけど実は和歌山城だったて話が。

415 :人間七七四年:2020/07/23(木) 16:24:52 ID:6qosQkbH.net
>>411
そんなものが現存しているとでも?
定期的に知恵遅れがわくよな

416 :人間七七四年:2020/07/23(木) 19:43:13 ID:VDm/bkkD.net
へ?

417 :人間七七四年:2020/07/30(木) 13:20:37.41 ID:YIpOKiiO.net
大阪城で豊臣秀吉の建てた城はすげーな!って言ってる知恵遅れを見た

418 :人間七七四年:2020/07/30(木) 14:20:18 ID:zgW7UjDE.net
間違いじゃないだろ

419 :人間七七四年:2020/07/30(木) 14:25:56 ID:g47pu+74.net
バカの認識:城=天守
一般の認識:城=天守や外堀・総構えまで含めた全体

天守は入れ替わってるが大阪市内各所に残ってる総構えまで含めた全体で言えば
秀吉の造った大坂城は凄いのは凄い

420 :人間七七四年:2020/07/30(木) 16:09:11 ID:Y1GqvNF1.net
慶長元年の頃、江戸に住む米津清右衛門(家康公近習)の妻女が夢想の中で次のような歌を詠んだ

 さかりなる 都の花は散りはてて 東の主が世をは次へし

この女は歌道を聊かも弁えていない人物で、奇特なことだと言われた

『当代記』

421 :人間七七四年:2020/07/30(木) 19:10:17.26 ID:YIpOKiiO.net
>>419
大阪城にいた知恵遅れはお前かw
秀吉が作ったと公言してたエレベーターの乗り心地は良かったか?

422 :人間七七四年:2020/07/30(木) 19:43:45 ID:bJhgrJof.net
知恵遅れエレベーターと命名しよう

423 :人間七七四年:2020/07/30(木) 20:21:05 ID:TZn+UkRa.net
>>419
その一般ってのは歴史好きの一般なのか、それとも歴史に興味も無いような一般なのか
歴史に興味無いような人間にとっては城なんて天守だけだと思ってそうなイメージだけど

424 :人間七七四年:2020/07/30(木) 20:39:25.02 ID:F5rNoAjR.net
マウント取りたいだけのこどおじ哀れ

425 :人間七七四年:2020/07/30(木) 22:19:29 ID:E2AcPd0x.net
>>421
大阪城模擬天守閣にいたやつがそう言ったのか。説明わるすぎだわ。

426 :人間七七四年:2020/07/31(金) 07:11:32 ID:xYJDNhA2.net
知恵遅れの脊髄反射w

427 :人間七七四年:2020/07/31(金) 16:55:58 ID:dQVhJZiJ.net
慶長五年の春、或る船が堺浦に寄った。これはイギリスという島の船で、黒船(スペイン・ポルトガル船)の
敵であるという、そのため船中には具足、大鉄砲が数多あった。具足は腰より上ばかりであった。

内府公(徳川家康)はこれを見物され、船内の上下を見聞された後、猩々緋以下の売買を問題なく許し、
また帰国も許した。

かの船は唐船の敵であるのだから、誅伐をすべきであるのにと、人々は皆云ったという。

『当代記』

428 :人間七七四年:2020/08/02(日) 23:58:01 ID:UuWTnIX6.net
慶長七年の頃より、佐渡国で掘り出される銀が倍増し、一万貫目余りが幕府に納められた。
前に越後の上杉景勝が彼の地を領納していた時は、銀の産出も僅かであったという。
また石見国の金山も産出が倍増して四、五千貫目が納められた。これも前の森(毛利)輝元の
時代は僅かな産出であったという。家康公の分国となってから、このように成ったのである。

この両国は大久保石見守(長安)が拝領していたが、ただし金山については代官として携わっていた。
銀は幕府に先のように納め、毎年石見守は、三月には佐渡に下り、八月には伏見に上り、九月十月は
石見国に下り、金山を相改め、銀をいよいよ多分に納めた。

『当代記』

大久保長安は忙しかったんですね

429 :人間七七四年:2020/08/04(火) 01:41:23 ID:2cuxrYOJ.net
生真面目な奴って妬まれたり恨まれやすいからな
上杉や毛利が産出量を偽って懐にガメてたのがバレそうになったから賄賂を送って懐柔しようとしたのに拒絶しやがった
こうなると罪を捏造するしかなくなる

430 :人間七七四年:2020/08/04(火) 12:29:43 ID:Uy3KwZat.net
慶長八年、このころかぶき躍りという事が有った。これは出雲国の神子女(名は国、但し非好女)が
仕出し、京都に上った。タテは異風なる男の真似をして、刀脇差、衣装以下殊の外異相であった。
この男の風体をした者が、茶屋の女と戯れる体を演じた。京都の上下はこれを大変に賞翫した。
伏見城にも参上し、度々躍った。その後、これを学んだかぶきの座が幾らと無く出来て、諸国へ降った。

但し、江戸右大将秀忠公は、ついにこれを見られなかった。

『当代記』

431 :人間七七四年:2020/08/04(火) 15:03:44.23 ID:8cEBySTL.net
秀康は阿国を天下一の女と絶賛しているのに
秀忠は堅物

432 :人間七七四年:2020/08/04(火) 18:47:32.57 ID:2cuxrYOJ.net
そら鼻も欠損するわな

433 :人間七七四年:2020/08/04(火) 23:11:15.32 ID:ySs8Uqbm.net
さまざまに幕府に規制されていまの形になるわけだからね
宝塚の走りみたいなもんだけど

434 :人間七七四年:2020/08/05(水) 10:01:21 ID:CZe8s72w.net
京の町衆「あら^〜」

435 :人間七七四年:2020/08/07(金) 12:29:34 ID:TJ+U+1hZ.net
囲碁に関する逸話を集めた、「爛柯堂棋話」から
「名古屋山三郎、賭碁の事」

浅草寺蔵前の某寺には大きな榧の木があり、そこの和尚はその榧の木と自身の碁の腕前を大いに自慢していた。
その話を聞いた名古屋山三郎・不破伴左衛門・高木、の三勇士は、和尚をからかってやろうと悪だくみ。
まず名古屋が和尚のもとに行き
「私は旅の者です。和尚が碁をなさると聞きました。私も碁を嗜むもので賭け碁をしましょう。
和尚が勝ったら私はここにある五十両を差し上げます。私が勝ったらこの寺の名物の榧の木をいただきます」
と言い、和尚は
「ははは、あの榧の木は50人がかりでやっと引き倒すことができるほどのものですよ。
でもまあどうせ拙僧が負けるわけありませんからいいでしょう」
と対局を開始。
実力は伯仲していたが、しだいに名古屋が優勢になり、名古屋は小用を足すというのでそっと部屋を出、
ひそかに待機していた不破、高木に
「俺の勝ちだ。榧を引き倒してくれ」
と告げ、対局にもどり、和尚を破り、そのまま寺を出た。
翌朝、和尚が「それにしても昨日の旅人、わしを負かした後さっと消えるとは、もしや化け物だったのかな?榧の木を持って行くと言っていたが」
と寺の榧の様子を見に行くとそこには木を引っこ抜いたようた後があるだけ。
「なんということ!あれは天狗の仕業じゃったか!」
こうしてこの話は近隣に知れ渡り
「天狗が榧を引っこ抜いた寺」として、それまで以上に有名になったということである。

436 :人間七七四年:2020/08/08(土) 20:54:37 ID:ZbomlZDL.net
イケメンは囲碁も強いのか

437 :人間七七四年:2020/08/09(日) 08:58:32 ID:/rmlxIEV.net
榧(かや)が読めなくて検索してしまったわ
将棋盤や碁盤用として最高級の素材らしいね

438 :人間七七四年:2020/08/09(日) 09:12:11 ID:OwP9mgom.net
今は本榧と呼ぶよ
偽榧が出回ってるからね

439 :人間七七四年:2020/08/09(日) 12:42:13 ID:2a8mygWz.net
慶長十一年の頃、江戸の普請中に福島左衛門大夫(正則)と池田三左衛門尉(輝政)の間で云い事が
起こりかけた。どういう事かと言えば、福島正則の下女が欠落ちをして池田輝政の屋敷に居たのだが、
正則の中間が輝政の屋敷の外を通った時に彼女を見つけ、門内に入り台所の前に押し付けこれを捕らえた。
しかしそこに池田家の侍中間が出てきて、「狼藉者である」として、この中間は搦め捕られた。

福島正則はこれを報告されると
「国を出る時、家中の上下に触れたように、今度の江戸普請中、喧嘩致すべからず、人に頭を叩かれたとしても
堪忍した者には褒美を与え、喧嘩を仕掛けた者は一族妻子まで同罪とするという旨を下知しておいたのに、
このような儀は是非に及ばない。三左の屋敷に搦め置かれた中間、并びに女をこちらに返されるよう使いを
以て述べ、返し遣わされればこれの首を刎ねる。
この中間を搦め捕った三左衛門の中間たちに関しては、あい構わず、折檻などなさらないように。」

このように正則より申し入れがあり、輝政も「神妙の御存分、承った。」と申し、正則の宿所に自ら赴き、
礼謝に及んだ。正則も翌朝、輝政の宿所に参り、「昨日の御出忝ない」と申し述べたことで、この件は
無事に落着した。

この左衛門大夫正則という人物は短慮かつ荒々しく、被官以下は常に戦慄していたのであるが、
今回このように神妙な存分は奇特であると、その頃の人々はみな感じ入ったという。
また「彼は時分を待っているのではないか。」とも云われた。

『当代記』

440 :人間七七四年:2020/08/09(日) 12:53:13 ID:v6EIud7L.net
伊奈図書の時と大違い

441 :人間七七四年:2020/08/09(日) 13:05:51 ID:UMJ2Jo/g.net
この時代の人はすぐに感じ入るよな

442 :人間七七四年:2020/08/09(日) 17:04:49 ID:fVDrMUUd.net
正則がシラフとか
この時期何かの病気だったんじゃないか

443 :人間七七四年:2020/08/09(日) 21:09:46 ID:ngSxZ2q8.net
酒が入っていなければ名君

444 :人間七七四年:2020/08/10(月) 00:12:12 ID:wPKUX87e.net
暴走族が捨て猫を拾うと褒められる理論でもある

445 :人間七七四年:2020/08/10(月) 16:52:26.08 ID:RK9l63yj.net
慶長十一年六月、この頃、京の町人たちが北野、賀茂あたりに行くと、かぶき(当世異相をこう云う)衆と
呼ばれる者たちが出てきて戯れ、これに町人たちは悩まされた。その上彼らは女色に浸り、覚えの外の事が
多かった。

大御所(徳川家康)はこれを聞かれると以ての外の逆鱗で、この事について虚言であると、申し分の旨を
言おうとした者たちにも

「分明の争論に及ばぬ。」

として、津田長門守、稲葉甲斐守、天野周防守、澤半左衛門、苑田久六、等が改易と成った。
その後また、大島雲八、阿部右京、矢部善七郎、野間猪介、浮田才壽が改易と成った。
それでも、未だ同類が甚だ存在していると云われたが、重ねて町人たちが迷惑に及ぶような沙汰は無くなった。

『当代記』

446 :人間七七四年:2020/08/11(火) 09:44:07 ID:Tonq6UUc.net
女色がダメならしょうがねえ
ちょっとだけホモになるわ

447 :人間七七四年:2020/08/11(火) 12:08:46 ID:vExl9+cv.net
慶長十三年
三河国苅屋城主の水野日向守(勝成)は去年十月、かぶき女で名字「出来島隼人」と
号する者を京より召し連れ下ったが、去る月にこれを引き連れ上洛し、衣装以下きらびやかにしてかぶかせた。

彼は内々に、聚楽勧進においてかぶかせる事を思い立ったが、それは然るべからずと友人が頻りに
諫言したため、それは止め、勧進法楽にてかぶき、見物の貴賤市を成した。

去年十月に彼女を連れ下った時は、亭主に銀子三十貫目を出し、今度は衣装その他の造作に銀子七十貫目が
入用であったという。

京の町人たちは彼女を歌や文章で讃え、若輩者共で見物しないものは無かった。

『当代記』

448 :人間七七四年:2020/08/11(火) 13:18:57 ID:1OHgbqvd.net
>>446
これだから文盲は

449 :人間七七四年:2020/08/18(火) 18:23:32 ID:rP7c6Hcr.net
『駿府記』から権現様の老いてなお元気な話や怪奇話、珍しい贈答品の話(悪い話を含む)
慶長16年
8月13日、朝、御浅間に出られ、鉄砲を放たれた。的を2町より遠くに置かれ、的に5度も当たった。近侍の者はみな、当たらなかった。
午刻に前殿の櫓の上に鳶が止まっていた。鉄砲を放たれ、3発とも当たった。鳶2羽を撃ち落とし、1羽は足を撃たれて飛び去っていった。距離は50間だったという
(江戸在府中の)9月19日、海上に白鳥が多いことを大御所が聞こし召され、鉄砲の上手な家臣を数人召し連れ出御されたが、風波が悪く、お船が揺れ動き、照準が定まらないので還御された
慶長17年
2月3日、遠州堺川にて鹿狩り。およそ5、6千人を引き連れ、大御所は鉄砲の巧みな者数十人を供にして撃たせた。イノシシ2、30頭を捕獲した。大雨が降ってきたので狩りを中止し、浜松に到着した
12月20日、「寒食」(古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと)として麺料理を出したところ、お気に召さなかった。与安法印が策を練り、ショウガ汁を多くして麺を柔らかくしたところ、ご機嫌が直った
同月26日、藤堂高虎と細川忠利がお目見え、島津忠恒は「焼酒(アハモリ、琉球酒)」2壺と砂糖5桶を献上した
慶長18年11月18日、鷹狩り。路地において百姓が目安を差し出したので、代官深津八九郎と百姓を御前において対決させ(遂対決)、直に訴えを聞いた。すこぶる代官に私曲があったのですぐに代官の職を召し上げた(24日にも目安あり)
慶長19年4月5日、駿府面前の浜で亀に似た肴が引き揚げられた。漁師が20人あまりで担いで持ってきた。背中は黒く亀甲のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三つ叉になっており、大きなひれがあり、腹の色はぶちだった。諸人がこれを見た

12月、このたび、平野の御殿を阿部正次が普請したところ、小壺1個が出土した。壺の中には黄金30両、「金具」9塊、南鐐(美しい銀)100両が入っていた。伊丹康勝が持ってきて語るには「5、60年前に埋めたものではないでしょうか」。発掘された金は阿部が賜った

慶長20年11月10日、大御所は越谷に渡御されたが、お鷹場に水が溜まっており、鷹狩りはなされなかった。このため代官が勘気を被った
12月9日、引き続き中原に逗留。御小人頭の稲垣権右衛門を誅殺した。鷹狩りのときに御鷹を損じたからである

450 :人間七七四年:2020/08/19(水) 11:45:50 ID:SM/T+GPd.net
>背中は黒く亀甲のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三つ叉になっており、大きなひれがあり
マンボウか何かだったのかな

451 :人間七七四年:2020/08/19(水) 12:57:48 ID:ChT2jncQ.net
家康は大将は自ら戦うものではないとか言ってたと思うが、鉄砲が上手かったというのはほんとなのかね?
とこで学んだんだ?

452 :人間七七四年:2020/08/19(水) 19:44:54 ID:9dfXvoM4.net
「麒麟がくる」打ち明け話

『利家夜話』
利家が語っていた話。斎藤道三の息子(義龍)がライ病で、その上、道三に不孝であるので家督相続は許さないと話しているのを聞いた人がいた。
父子の仲は悪く、合戦になって信長に注進する人がいたが、早くも道三が合戦に負け、城に火がかかっているのを信長が見て、「さてもさても、注進が遅かったことは無念である」と涙を流して帰国した。
「必ず義龍の首を取って道三に手向ける」と信長が話したと利家は語った。

453 :人間七七四年:2020/08/19(水) 20:09:57 ID:9dfXvoM4.net
書き損ねましたが、原文では「彼の癩者の首」です
NHKでは放送できません

454 :人間七七四年:2020/08/19(水) 21:23:05 ID:9dfXvoM4.net
『長篠合戦記』より
珍しくかっこいい穴山梅雪

(長篠の合戦が敗勢になり)勝頼は「討ち死にすべし」と言って、少しも退却するそぶりを見せなかった。そんなところに穴山梅雪がやってきて、「早く退却されてください」と進言した。
勝頼はまったく聞き入れなかった。すると梅雪は大いに腹を立て、「日頃からわがままで、家老の言うことを聞き入れないが為に、いまこのような状況になっているのです。この上でも聞き届けないなら、覚悟のないことだ」と言って刀に手をかけたが、それでも勝頼は聞く耳を持たなかった。
そこで初鹿野伝右衛門が両人の間に入って刀に手をかけ、梅雪に悪口を吐いた。
梅雪が話すには「伝右衛門はそういうが、なんとしても勝頼様を退却させたいからこそ申しているのだ。早く馬にお乗せしろ!」
さすがに伝右衛門もかしこまり、「梅雪様の申しようはごもっともです。いまのご無礼はお許しください」と言って、「小姓ども、それそれ!」と言い、馬に勝頼を抱いて乗せた。
勝頼は「そうであれば仕方ない、力のないことだ。馬に乗ろう」と話し、それより押し太鼓を鳴らし、整然と退却していった。


いろんな角度から史実とはとうてい思えない話でもありました。
ちなみに前段では家康使者の小栗大六が「信長が助けてくれないならしらないよ。上野を勝頼にあげる代わりに尾張もらうから。家康が先陣で尾張を攻めたら信長困るでしょ」と放言し、それを立ち聞きした信長が改心するストーリー。

455 :人間七七四年:2020/08/20(木) 00:06:44 ID:gTXp9QmS.net
>>451
一揆の頃は自らノリノリで戦ってたよ。人手不足だったんだろうけど
鬼武蔵を打ち取る鉄砲の名人もいるし
教える人はごろごろいたんだろ。

456 :人間七七四年:2020/08/20(木) 17:15:34.61 ID:PvfKO3oZ.net
妄想がひどいね

457 :人間七七四年:2020/08/20(木) 20:06:16 ID:m4rp9N8O.net
佐多岬、宇和島城いってきた
https://youtu.be/rU-jNScaFpU

458 :人間七七四年:2020/08/20(木) 21:59:40.40 ID:96SZy5U2.net
『湯浅甚助直宗伝記』
桶狭間、長篠(と本能寺)裏話

今川義元と信長の合戦の時、湯浅甚助は14歳で(小姓として)供奉していたところ、「少年の出陣は無用である」と仰せられたので、尾州笠寺の法印に預けられた。
桶狭間で合戦が始まったところ、鬨の声や鉄砲の音がおびただしく聞こえてきた。
そこで笠寺に残っていた小姓衆は信長公の替え馬に乗って戦場にはせ参じ、甚助は敵と槍を合わせ、練り倒して取った首を信長公の御前へ持参した。
すると、信長は「若輩者が戦場の騒がしいところに、なぜ軍法を破って現れたのか」とご立腹だったので、本陣へ帰った。
すると、敵の大将、義元を討ち取り、合戦に勝利したので信長はとてもご機嫌になり、笠寺へ帰陣した。
法印が合戦勝利に祝いの言葉を捧げ、飛び出した小姓衆のことの顛末を子細に話し、「武勇の励みがあったので少年まで手柄を立て、言葉がありません」と詫び言を申したので、みなが許された。
その後、三河長篠の合戦のときに、信長は甚助を呼び、「先手の滝川一益の備えへ参れ。敵は色めき立っている。早く敵の備えを崩し、どっと攻めかかれと伝えよ」と命じた。
これによって一益の陣所にはせ向かい、信長の命令を伝えたところ、信長の命令の通り、(同じ先手の)家康公が敵の先手に挑みかかり、敵の侍大将、馬場信春の備えを崩した。
このとき甚助は、甲州方の采配を手に持った武者と槍を合わせ、(馬から)突き落として首を取った。采配を添えて首実検に供した。
この委細は一益が見届けており、後日、信長公へ披露した。
これによって信長公から感状をいただき、「先手への軍使に向かって首尾よくこなし、さらには首を取って猛威を振るってから帰ってきたこと、神妙である」と声をかけられ、加増された。
これらは信長公記に記されていないが、甚助家来の倉知道珍という侍が詳細を知っており、語り伝えている。
(中略)
天正10年6月2日、明智光秀が謀反の時には、甚助は町屋に泊まっていたが、光秀の逆心によって京中が騒動になっていたので本能寺にはせ参じ、猛勢をかき分けて寺内に駆け込み、討ち死にした。
本能寺で死んだ面々の石塔が阿弥陀寺にある。

459 :人間七七四年:2020/08/21(金) 07:28:38 ID:0lsTac1F.net
コンクリ天守じゃな・・・見てくれがアレか・・・

460 :人間七七四年:2020/08/23(日) 22:43:10.86 ID:cj6DY8oA.net
慶長十四年十二月九日、去年、長崎の有馬修理(晴信)の被官達が遣わされ、明朝のあま川(マカオ)に
商いのため渡海した所、かの所のシンニヨロ(商人)并びにカピタン(是は船頭司)たちが、

「あま川の売買の様子を日本人が知ってしまえば、重ねて黒船(ポルトガル船)が長崎に着船しても、
利を得ることが難しい」

と考え、日本人三百余人を一ヶ所に呼び入れ、悉く焼害した。

この報復として被害に相当する黒船を討つべきであると、有馬修理は駿河に於いて徳川家康に訴えた。
殊に日本人を焼害したシンニヨロ、カピタンが来朝しており、幸いにかの船を計り呼んだものの、彼らは
上陸しようとせず、料簡に及ばないため、船を改造し、干戈を以て討ち果たす用意が有った。

しかし有馬のこの計画を黒船の唐人たちは見知して、この日九日に俄に船を出し逃走を図り、
十二、三里程漕ぎ帰った所、風たちまち起こって十里ほど吹き返され、”ゆわう”という所に黒船は
上がった。この間に、有馬修理は改造した船を漕ぎ寄せ、井楼を上げ黒船に漕ぎ寄せると、
素より案内が有ったため、塩硝の保管してある場所へ火矢を打ち込んだ。このため黒船は忽ち焼亡し
沈没した。前代未聞の次第であった。

(中略)

この黒船は水上の部分ばかりが焼け、水に浸かっている部分は沈んで今もその場所にあり、
二十五尋(約三十八メートル)ほどの水深に船の沈んだ部分はあった。
このため、海士たちを召し寄せ、この船に綱を付け、引き上げる事が計られた。

この船の内部には、銀が三千貫目ほど有り、印子はいかほど有るかも知れぬほどで、糸(生糸)は
少々浮き上がったのを取って、駿府への使いに持参させた。

『当代記』

「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」についての記事ですね。

461 :人間七七四年:2020/08/23(日) 22:46:24.30 ID:xUNySztR.net
『医学天正記』より
戦国最高の医師、曲直瀬道三の治療記録を抜粋。順番は「史籍集覧」そのまま

天正11年
片桐且元(40余歳)、酒を飲み過ぎて吐き、風邪の症状。右の手が張って脈はやや速かった
徳川秀忠(30歳)、風邪の症状で頭痛、声はかれて咳と痰が出る
豊臣秀吉、大坂において風邪の症状、涙が流れて声はかれて乾き、喉に痛み
慶長7年
浅野幸長(30余歳)、寒気を覚え、その後に左の腹に痛みを覚える。下痢
織田有楽斎の女中の老母(70余歳)、寒気があって汗が多く出る。脈は少し速い
天正(16日)
誠仁親王、撹乱し、前日の飲酒が過ぎていた。早朝に吐いて悶絶した。半井通仙軒が脈を診た。
半井はひきつけと診て、心臓と肝臓が弱っていると伝えた。諸臣は納得せず下がった。
また、盛方院浄勝は熱射病と診断し、葯(よろいぐさ?)を献じた。一日一夜献じたが、吐いて苦しむことは変わりなかった。
私(曲直瀬)が診たところ、熱射病だけではなく、肧と腎を悪くしていて、その上に飲酒が過ぎたので撹乱した。酒の毒を消す葯でなければ効果はないと診察したところ、諸臣は納得した。
葯を処方すると、翌日症状は治まった。私は法眼の号をたまわって再三辞退したのだが、堅く宣案をいただいたので頂戴した。
天正15年春
毛利輝元(35歳)、秀吉の命令で島津討伐に出陣し、豊前小倉にいたとき、下痢と下血が止まらず、心臓の下が堅くなっていた(?)。
左足のすねは腫れ、骨は痛んで歩けず、私は秀吉の命令で小倉に赴き、これを治療すること十数日。
輝元の足の痛みはほぼなくなり、馬に乗って豊後をへて日向に入り、私はこれに従ってさらに治療した。
島津征伐の後に軍を引き、輝元は安芸吉田に帰り、秋には回復。そのため私は京に帰った。
大野治長(30余歳)、長年の下痢が再発、大便のあとに血が出た
慶長5年
小早川秀秋(18、9歳)、酒を飲んで嘔吐。胸が苦しくまったく食事をせず。尿は赤く舌は黒く乾き、脈は細い
勧修寺晴豊(50余歳)、酒食が過ぎ、小腹が痛く吐き気がする、大便はできず不通、脈は少し速い。薬を飲んだ後、二時間後に吐いて大便が出て腹痛が止まった。
文禄2年
豊臣秀次、長らく上顎を痛めている。熱があり、顔は赤くむくんでいる
豊臣秀次、気が滅入る感じがあって、熱海に湯治。はじめの6、7日はかなり食事も進んで気力が改善した。
ところが入浴が過ぎたために気が逆に上って胸を塞ぎ、痰とぜんそくが現れて寝ることもできなくなった。
その後に私を召して脈を診るに、血管は緊張しており、脈はうつろだった。足は冷えて膝にいたり、心臓の上に気があって、その下は虚弱。
ぜんそくの声は四方に聞こえ、薬を与えると少し止まり、もう一薬で回復した
慶長3年10月2日
淀殿(30余歳)、気鬱して食事が進まずめまいを覚える
11月1日
淀殿、気鬱で胃が痛み、食べることができずに頭痛がしていた
近衛前久、気鬱、恐れおののき、酒が過ぎる。胸が熱くてもだえる。脈は少し速い

『医学天正記坤』
太田牛一(80歳)、風邪の症状で発熱、汗が多く喉が渇いて水を飲みたがる。人事不省に。脈拍は多く力なし
山名禅高、常に酒を過ぎる。たんが胸に滞る
「松平陸奥守殿」(伊達政宗)、常日頃から酒が過ぎ、咳と声がれが長く続く
加藤清正、酒が過ぎ、「黄水」を吐く
黒田長政、酒が過ぎ、胸が熱く、しばしば痛む
豊臣秀頼、ぜんそくを煩い、吸引のときにうずく。食事は進まず腹は硬く腫れる
片桐且元、背中にこぶができ、頭痛がして食は少なく、味は苦く感じる
佐竹義宣、左の脇の下が赤く腫れる、痛くもかゆくもない

このほか正親町天皇や蜂屋頼隆、蒲生氏郷(まとめ過去記事にあり)ら、そうそうたるメンツや庶民も出てきます

462 :人間七七四年:2020/08/23(日) 23:17:50 ID:My3xLEfl.net
病人多すぎ

463 :人間七七四年:2020/08/24(月) 00:14:31 ID:LeK7E6P0.net
酒毒怖すぎる

464 :人間七七四年:2020/08/24(月) 08:34:57 ID:KAicSMY6.net
豊臣家は呼吸器が弱いのかな?

465 :人間七七四年:2020/08/24(月) 13:47:36 ID:3DJQ4Clv.net
つっこむのも野暮かもしれんが
片桐・秀忠・秀吉の症例は天正11年の話じゃないぞ
『医学天正記』は「症例別」に道三本人が後年に編集したものなので、他の年号も同様の可能性が高い

466 :人間七七四年:2020/08/24(月) 15:20:11 ID:7VP0I99x.net
>>464
旧姓が朴だもんなあ

467 :人間七七四年:2020/08/24(月) 16:17:34 ID:gIEEORMO.net
秀吉軍に蹂躙されまくった半島ミンジョク

468 :人間七七四年:2020/08/25(火) 07:28:30 ID:ZKOnTXOO.net
百済系が大量亡命して天皇家にもその血が流れてるのはもはや竹田みても明らかだろ
あの顔とすぐファビョる性質はチョンそのものw
朴の唐入りは故郷奪還戦だったんさ

469 :人間七七四年:2020/08/25(火) 07:35:32 ID:DtorISwB.net
不利になるとすぐに先祖背乗りして勝ったつもりになるのが半島ミンジョク

470 :人間七七四年:2020/08/25(火) 11:00:21 ID:qTML3nS6.net
大本営発表から見ても分かるように不利になるとすぐに捏造して勝ったつもりになる先祖がチョンのジャップwww

471 :人間七七四年:2020/08/25(火) 13:16:14.36 ID:i0CMyB2/.net
いつものキチガイが、いつもの違う荒らし方。にしても、こいつ臭いな。

472 :人間七七四年:2020/08/25(火) 13:52:26.04 ID:DtorISwB.net
>先祖がチョン

まだ背乗り続けてるしw

473 :人間七七四年:2020/08/25(火) 15:05:44 ID:qTML3nS6.net
>>472
背乗りの子孫が他人の振りするなよチョンwww

474 :人間七七四年:2020/08/25(火) 18:12:08 ID:3Qis6dnE.net
慶長十五年の五月頃、京都の町人である米屋のりうせいという者、大御所(徳川家康)の御意を以て
ノビスバン(メキシコ)に渡海し、心に任せて売買し帰朝した。
猩々緋を多数持ち帰ったが、ただし彼の地に金銀は聞きしに及んだ程ではなかった。
しかしながら他の国他の島よりは多かった。

重ねて日本人が渡海することは無用であると、ノビスバンの者たちは堅く日本人に示したという。

『当代記』

475 :人間七七四年:2020/08/25(火) 18:44:16 ID:DtorISwB.net
オウム返し朴李チョン張り付いてたのかw
すっかり忘れてたわ

476 :人間七七四年:2020/08/25(火) 22:15:50 ID:ZKOnTXOO.net
なんというブーメラン

477 :人間七七四年:2020/08/25(火) 22:24:54 ID:7cWhrWBI.net
在日の背乗りチョンって聞いてもないのに半島を出すから分かり易い
そんなに気になるんだね〜〜〜〜

478 :人間七七四年:2020/08/26(水) 00:00:45 ID:Nhh5eP2/.net
しつけえ

479 :人間七七四年:2020/08/26(水) 01:48:28.73 ID:851Pf1GK.net
いつものキチガイさん、昨日から自演荒らしをやっているつもりなのに、
昆虫並みの知能だから書き分けが出来ず、ちっとも自演になってない。

480 :人間七七四年:2020/08/26(水) 06:53:46 ID:MJYiemHo.net
さすが捏造大好きな背乗りだけあってIDコロコロ変えてチョン発狂してるねwww

481 :人間七七四年:2020/08/26(水) 07:07:37 ID:Ji1qABbE.net
これがチョンのご尊顔w


https://i.imgur.com/9EQkJay.jpg

482 :人間七七四年:2020/08/26(水) 07:18:44 ID:+YdcMt4h.net
>>481
背乗りやべえwww

483 :人間七七四年:2020/08/26(水) 07:21:07 ID:MwVGUXbN.net
>>481
チョンさん最低です。

484 :人間七七四年:2020/08/26(水) 07:51:26.24 ID:Y0b+gl4k.net
>>481
こ、これは・・・ちょん?笑笑

485 :人間七七四年:2020/08/26(水) 08:59:55 ID:fjPR+ZHV.net
また新たな発見がありました。

https://i.imgur.com/G1iKljA.jpg

486 :人間七七四年:2020/08/26(水) 11:42:21.30 ID:fjPR+ZHV.net
どうやったらこんな顔になるんだよwww
背乗りチョンさん教えてクレヨン

487 :人間七七四年:2020/08/26(水) 12:34:11 ID:Z3T1cVjB.net
ひたらすら荒らし続けるキチガイさん

488 :人間七七四年:2020/08/26(水) 16:14:57.30 ID:5skW560O.net
>>487
チョンさん背乗りバレてますよhahaha

489 :人間七七四年:2020/08/26(水) 18:01:06 ID:HjDngk8Q.net
韓国サッカー代表
https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/ed/c5/1835396-374a327ac9f456b815f177f05896087b/12/2c6202f9122d184a9692a66e87f37aa4.jpg

490 :人間七七四年:2020/08/26(水) 19:39:02 ID:d9zyNFp7.net
背乗りの実態w
https://i.imgur.com/5Lykse9.jpg

491 :人間七七四年:2020/08/27(木) 05:57:47 ID:fiaB7MlW.net
背乗り悠仁が天皇になったらチョン大勝利w

492 :人間七七四年:2020/08/27(木) 09:04:26 ID:So7UglkV.net
ちょん君の火病が止まらないw

493 :人間七七四年:2020/08/27(木) 09:07:33 ID:0EYfpgvw.net
しつけえって

494 :人間七七四年:2020/08/27(木) 11:29:14.78 ID:NjyvE2Iy.net
かまわず透明あぼーんだ
レス番が飛ぶが気にするでない

495 :人間七七四年:2020/08/27(木) 12:04:18.66 ID:BhHb4Hi4.net
慶長十五年八月二十五日、琉球人が江戸に到着した。その中に歳十七、八の小姓、十四、五の小姓二名があった。
彼らはシャミセンを引き、十七、八の小姓は、名字をヲモイシラ、十四、五の小姓はヲモイトクと云った。
小唄を皆々謡い、江戸に在る衆はかの小姓を呼んで、シャミセンを引かせたという。

彼らの言語は日本人と同じ、但し少しずつは違うという。髪は頭の右にからわに結ぶばかりであった。
江戸までの上下の路次では、宿入りの時にいつも、笙、横笛、鐘太鼓、ひちりきにて管弦の如く演奏して
宿に入ると云い、これを道行と言うそうである。琉球王はこの座中にも出ず、奥に有って隠れる体であった。

琉球でも日本の真似をして、詩和漢連歌、また猿楽の能なども有る。宗教は禅、浄土など聖道宗(聖道仏教)が
有る。

『当代記』

496 :人間七七四年:2020/08/27(木) 17:39:35 ID:mWUFXUo9.net
悠仁チョンの背乗りバレてジャップ発狂www

497 :人間七七四年:2020/08/27(木) 17:47:35 ID:OBgqlHFF.net
まあまあ、これでも見て落ち着け。

大罪を犯した朝鮮人の処刑だ。

https://i.imgur.com/0fwVJO7.jpg

498 :人間七七四年:2020/08/28(金) 07:37:03 ID:pnYLCbLJ.net
https://i.imgur.com/sSvg7Mj.jpg

499 :人間七七四年:2020/08/28(金) 22:21:06 ID:xoyZfXyb.net
慶長十五年、安南国(天竺内と云々)が日本への音信のため、船を薩摩浦に去る頃着岸した。
彼らからの進物は、

一、沈香の木の柱十二本(但し一本に付き四人持ち)
一、沈香の粉柱一本
一、糖水十壺
一、沈香十斤(これは上沈也)
一、象牙二
一、鸚鵡一つ
一、孔雀一つ
一、リンケイ一つ(これも鳥也)
一、モンノ絹二疋

右の通り書立を以て注進し、近日駿府に運送されるという。
これは今後商船を寄越すためのものである。
惣別、日本に銀が多いという事が、近年唐南蛮で沙汰されているのだという。

『当代記』

500 :人間七七四年:2020/08/29(土) 13:44:22 ID:VJJdz2GO.net
倭猿が発狂してると聞いて
https://i.imgur.com/wyOwalT.png

501 :人間七七四年:2020/08/30(日) 16:59:23 ID:PeXmEUO7.net
慶長十五年、去る春、越後国主堀越後守(堀忠俊)が改易と成った時、徳川家康はその妻女
(本多美濃守(忠政)娘)を召し上げ駿府に居住させていたが、今月(十一月)九州長崎の
有馬修理息子(直純)が駿府に出仕した折、これを娶るようにと大御所が仰せに成り、彼も
異議なく承諾し、駿府に於いて見参した。
そして有馬直純が伏見に上がる時、美濃守娘も共に上ったが、これは国元の長崎に先ずこの事を
伝え、迎え船を乞うていたのである。しかし寒中にて海上が荒れ、翌春まで伏見に逗留した。

この婚姻に関しては、彼女の父である桑名の本多美濃守としては、遠国に娘を差し越すのは迷惑な
事であった。また修理の息子も二十三ばかりの者で、既に妻子があり、殊に三歳の男児も有ったのだが、
この事は大御所よりの特命であったため、元の妻を退けてこの儀に及んだのである。

『当代記』

典型的な政略結婚ですが、この後有馬直純と本多忠政娘(栄寿院)は二男三女を儲け、夫婦仲は非常に
良好だったようです。

502 :人間七七四年:2020/08/30(日) 17:34:14 ID:QPV2KjHo.net
いい話なのか

503 :人間七七四年:2020/08/30(日) 17:54:53.26 ID:LrGtNjxf.net
その政略結婚にあたって、前妻である小西行長の姪を離縁したというのは悪い話では・・w

504 :人間七七四年:2020/08/30(日) 18:25:19 ID:7LjCLwai.net
家康「儂なんて無理やり離縁させられた閉経ババアを正妻にした事あるし」

505 :人間七七四年:2020/08/30(日) 19:42:33 ID:lOgVUkwO.net
朴の血を徳川に入れようとしても無駄無駄無駄ぁー

506 :人間七七四年:2020/08/31(月) 13:27:20 ID:ybV1B4VU.net
慶長十六年三月二十七日、豊臣秀頼公が大阪を発って淀に到着され。これの迎えとして
右兵衛(家康公息、年十二歳(義直))、常陸介(家康公息、年十歳(頼宣))、并びに
池田三左衛門(輝政)、加東肥後守(清正)が淀に参向した。
秀頼公が大阪を発つ時、虚空が光ったと云々。

二十八日辰の刻(午前八時頃)、秀頼公は入洛され、すぐに家康公の御所である二条に御越しになった。
家康公は庭上まで出られ、秀頼公も慇懃に礼謝された。

家康公が座中に入られた後、秀頼公は庭上より座中に上がられ、先ず秀頼公が御成の間に入られ、
その後、家康公の出御があった。
互いの御礼有るべきとの旨を家康公は仰ったが、秀頼公は堅く斟酌有り、家康公が御成の間に
出奉り、秀頼公は礼を遂げられた。

膳部はかれこれ美麗に出来ていたのだが、還って隔心があるだろうかと言うことで、ただお吸い物
までであった。
大政所(これは秀吉公北の方也)も出られ相伴された。

その後、秀頼公はすぐに発たれ、右兵衛督、常陸介が途中まで送った。
秀頼公は直に豊国社に参詣され、大仏を見られ、伏見より船にて、その日の酉刻(午後六時頃)、大阪に
帰着された。大阪の上下万民については申すに及ばず、京畿の庶民の悦びはただこの事であった。
この時も大阪に光が出たと云々。

『当代記』

秀頼と家康の二条城会見について

507 :人間七七四年:2020/08/31(月) 18:11:12.37 ID:Zlebf2X1.net
見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後
長いので二つに分けます

斎藤内蔵之助と那波和泉守は、二人とも稲葉一鉄に仕えていたが、仔細あって両者浪人し
た。両人光秀と内々懇意であったため、光秀を頼んで信長公に訴えた。信長公が一鉄に詫
びて、那波は帰参したが、斎藤は少しわけあって切腹を命じられた。しかし、光秀が信長
公のそば仕えの猪子兵助を頼んで、斎藤を家臣にした。

明智光秀が没落して家臣が四散するなか、斎藤内蔵之助は近江に逃れたが、堅田で捕らえ
られた。太閤は三井寺の客殿の前に座を据えられ、内蔵之助を引き出してこう言った。
「お前は一鉄入道のところで不行跡があって勘気をこうむったが、光秀のおかげで今まで
永らえた。光秀の逆心のおこりもお前が張本人である。罪深すぎて裁判を行う筋もない。
すぐに磔に申し付けるだろう」と言って、「何か言うことはあるか」と二度もおっしゃっ
たが、斎藤、さして臆した様子もなく、後ろを見まわして、「綱を取っておられるのは、
侍か、雑兵か。左の手を少しゆるめて下さい」と言った。太閤が「望みどおりにせよ」と
おっしゃったので、少し縛りをゆるめた。そこで、斎藤、左の手を地面につけ、「私めは
光秀の家来になっておりましたので、光秀の申し付け通りに働きました。私自身は信長公
に恨みはありませんが、光秀が恨み申したため、家来ゆえ逆心の場まで付き従いました。
逆心をしきりに止めたのは、私でございます。こう申し上げるのは死罪を免れんがためで
はありません。罪人とのお言葉を頂戴したので、申し開きを致したのです。早く命をお取
り下さい」と申し上げ、「この一巻をご覧に入れたい」と言って、左手で右手に括り付け
てあった繻子の守り袋を差し出した。関口左門という御小姓がそばへ寄って右手で受け取
ろうとすると、その様子を見て内蔵之助は、「推参ながら、囚人のそばでは右手は出さな
いものです」とにこやかに言った。太閤がその一巻を開いてご覧になると、いつのまにし
たため置いたものか、光秀の逆心を止める諫めの書状と、それに対する光秀の返事だった。
「お前がこのたびこれを戦場まで持ち来ったのは、隙を見て降参して、この書状で恩賞を
得ようという心づもりだったのだろう。沙汰の限りの者だ」と太閤がおっしゃると、内蔵
之助、「それは普通の人の言葉、筑前守どののお言葉とは思えません。私めが心底光秀を
大切に思っていたことを、死後まで世の人々に知らしめたいばかりでございます。早く命
をお取り下さい」と言って、その後色々とお尋ねあったが、「もはや申し上げても詮無い
ことです。お許しあれ」としか答えなかった。

508 :人間七七四年:2020/08/31(月) 18:15:08.68 ID:Zlebf2X1.net
(続き)
光秀の屍が捜索の末探し出されると、首をつなげて粟田口で磔にせよという命令が下さ
れた。内蔵之助も同じ場所で磔にされることになった。光秀の槍取りは澤村権七という
足軽、内蔵之助の槍取りは伊澤十平という足軽だった。両手を釘で固定されるときに、
内蔵之助が「左手より右手が下がっています。これでは顔が真正面を向きづらくなりま
す。釘を打ち直して下さい」と言った。そのため、釘を打ち直すと、にっこりと笑って
「今少しお待ち下さい」と言って両目を閉じると、

屍ハ草野ニ埋ムト雖モ 魂魄遠天ニ帰ル 生死風前ノ燭 悟ルガ故ニ胸中鮮ヤカナリ
柳ハ緑花亦タ紅 三界眼前ニ尽ク

と大声で右の詩を唱え、「死後、この詩を丹波、亀山の永元和尚へ伝えて下さい」と奉
行に頼み、「万が一お忘れになってしまっては本意ではないので、もう一度申し上げま
しょう。書きつけておいて下さい」ともう一度唱えた。奉行が矢立で紙に書きつけると
「これにて人界からお暇しましょう」といって目を閉じた。両脇を槍でつかれた後、
また目を開いて、「因果深いとは、私のことを言うのでしょうか。まだ息が絶えないで
います。もう一度急所を強く突き通して下さい」と言って、また目を閉じて唸り声を上
げて死んでしまった

509 :人間七七四年:2020/08/31(月) 18:37:05 ID:OTWLXeKW.net
こうして半島を蹂躙する豊臣政権が生まれたのだなぁ・・

510 :人間七七四年:2020/08/31(月) 19:38:59 ID:SutMN6iN.net
後の朴正熙政権である

511 :人間七七四年:2020/09/02(水) 21:27:24 ID:EkTrbIWX.net
見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

太閤の時代の茶人は明け方ごろまで茶室に湯を沸かしておき、近づきのない者でも
通りがけに案内なしに茶室に上がって自分で茶を立てて飲み、また出て行ったと聞く。
ある夜更けに、太閤がどこからの帰りか、ふと「今自分でも茶室に湯をわかしている
ところはあるだろうか」と供の者に尋ねると、供の者が「針屋宗春以外にはございま
すまい」と答えたので、宗春の茶亭に行ってご覧になると、供の者が申したとおりに
湯が沸かしてあったので、太閤は茶を賞玩なさったという。
また、ある夜更けに何者かが宗春の茶室で茶を立てていたが、宗春が召使に「誰か
見てこい」といったので見に行くと、若党を多く連れた侍だった。よく尋ねてみると
石川五右衛門と名乗った。この時代の風儀はこのようなものであったと見える。

512 :人間七七四年:2020/09/03(木) 12:03:16.72 ID:b7iO6Yyd.net
茶で肛門を洗うと消毒作用のおかげで裂傷がすぐ治るって

513 :人間七七四年:2020/09/03(木) 22:22:52 ID:1dFb0oYm.net
『老人雑話』より、秀吉秘話を選録

・産出量を超える松茸
山城の国に山里というところがあり、(太閤秀吉から)梅松という僧侶が預かっていた。新たに松を植え、程なくして松林ができあがったので、秀吉に松茸を献上した。
秀吉は笑って、「私の威光がまったくなかったとき、私も(信長に)何度か松茸を献上した。実はよそから買って献上していたのだ」。
秀吉は側近の者に「もう松茸を献上することはやめさせなさい。(松茸が)生えすぎている」と言ったそうだ。

・大清洲捜査網
秀吉がはじめ、微賤の者だったとき、(中間?)衆の間で刀がなくなった人がいた。秀吉は貧しかったので、人々は秀吉を疑った。
これによって秀吉は城下の民家をあまねく尋ね歩き、質屋にあるのを発見した。(質屋に)尋問して盗んだ犯人を捕らえ、信長が狩りに出るときに訴え出た。
信長は感じ入り、初めて微禄を与えたそうだ。

・中国大返し、政宗っぽい秀吉
明智光秀が織田信長を討ったとき、秀吉は軍を返し、途中の尼崎の寺に入り、「法体」(出家)して京に上った。「素衣白馬」(死を覚悟)の心だった。
その寺にはいまも寺領があるという。

・信長へのはったりと大ウソ
松永久秀が(信長に謀反して)籠城したとき、信長は討手に秀吉を派遣した。
その後、秀吉から書状で信長に(攻撃前から)注進しようとした。
「何日には総構えを破り、何日には二の丸を破り、何日には久秀の首を取った」。
(秀吉の)右筆が「これで大丈夫なのですか?」と聞くと、秀吉は「この通りにならなければ信長様は私を殺す。もし計画通りにならなければ私は死ぬ」。
(秀吉は)そのスケジュール通りに「無理に討破り」、久秀の首を箱に入れて信長に届けた。
信長が言うには「この首は偽物だろう。久秀は首になっても私の前に出てくる者ではない。秀吉が(誰かの首を)たばかって送ってきたのだろう」。
箱を開いてみれば、まさにそうだった。
久秀は最後まで降伏せず、鉄砲の火薬に火をかけて焼け死んだ。

※北陸遠征で無断帰陣したあとだったので、ハッスルしたんでしょうか?大将は信忠ですけど

514 :人間七七四年:2020/09/03(木) 23:28:47.19 ID:+qahcJRU.net
途中で信忠が参陣していいとこ取りしたんだよ
親子揃ってカスだからなあ

515 :人間七七四年:2020/09/04(金) 18:06:35 ID:UxjSEEFI.net
>>511
何かおおらかで素敵やん

516 :人間七七四年:2020/09/04(金) 20:34:01 ID:Ev9vWuTi.net
チコちゃんに叱られる!★2

517 :人間七七四年:2020/09/06(日) 18:54:22 ID:6ORzFz43.net
見聞談叢より松平忠直の茶童

越後の一伯候(越前の一伯候=松平忠直のことか)は甚だ剛勇な気質だったため、
側仕えの茶童まで殊の外気が強かった。ある時茶童に気に障ることがあって腹を立て
給い、茶童の右の手を手ずから煮えたぎる釜の中へ七、八寸もつけなさった。見る間に
茹で蛸のようになったが熱そうな顔もしなかったので、「許す」と仰って手を離される
と、「有り難し」と答えざまに、その釜は東大寺の九輪釜といって添書付きの名物なの
を、茶室の外に抱えていって石に打ち付け微塵に砕いた。「なぜそんなことをするのだ」
とお聞きになると、「私めの手を茹でた釜では、殿様に差し上げるお茶を淹れることは
できず、そうなるとあっても詮のないものです」と答えた。手を茹でられたことを怨み
怒る様子もなく、一伯候は感心された。その後お取立てあって忠節を尽くしたと、亡父
(伊藤仁斎)は常々お話しなされていた。

518 :人間七七四年:2020/09/06(日) 19:29:29 ID:VR8jcI/1.net
いい話カナー?

519 :人間七七四年:2020/09/06(日) 19:55:14 ID:Fa243A2H.net
御乱心の所業の数々の中身でしょ。

520 :人間七七四年:2020/09/06(日) 22:58:02 ID:CVEMvG2N.net
DQN同士の意地の張り合いみたい

521 :人間七七四年:2020/09/07(月) 11:58:40.11 ID:F033BR/c.net
慶長十七年八月
この度来朝の唐船どもの内、ヲランダ国より来る仁、鳩ほどの大きさの鳥が一羽、大鳥一羽、
何れも生鳥を駿府、江戸に進上すべきとて、京都まで上がった。
右の小鳥は人の言うことを聞いて、その言葉のとおりに言い、大鳥は頭は鶴に似ていて、
背の毛は猪の背の毛に似ていた。

『当代記』

小さい鳥の方はオウムなんでしょうかね

522 :人間七七四年:2020/09/07(月) 16:26:08.53 ID:TbX18t4s.net
戦国スレ名物アフィのオウム返し

523 :人間七七四年:2020/09/07(月) 21:01:55 ID:r9EGHkiC.net
駝鳥?

524 :人間七七四年:2020/09/07(月) 21:08:03 ID:sHThHlBC.net
鸚鵡でバカチョン発狂

525 :人間七七四年:2020/09/08(火) 02:56:17 ID:KJVCZzH6.net
背乗りがバレてアフィジャップ発狂www

526 :人間七七四年:2020/09/09(水) 22:11:14 ID:uTWXNuJz.net
『老人雑話』より、信長?の意外な発明など

・お弁当箱
織田信長の(初期の)時代には弁当というものはなかった。安土城ができて、弁当というものができた。小芋くらいの大きさの中にいろいろなものを詰めていたそうだ。
信じない者がいそうだが、また挟み箱というものもなかった。挟み竹というものを使っていた。
挟み箱は大坂の(織田一族)津田信成が初めて作ったそうだ。

・江村老人が見た信長、細川忠興、そして思い出
織田信長は二条御新造を築き、将軍の足利義昭を従えて慶賀の能があった。「老人」(江村専斎)も4歳くらいで、乳母に抱かれて見物した。
その日、信長は自ら小鼓を打っていた。細川忠興は私よりも年が上で、6歳くらいで猩々を1番舞っていた。
そのとき、帰りに門外にて盗人に(乳母が担いでいた?それとも持ち物の?)後ろのひもを切られたことを覚えていると語った。
その頃、盗人は小柄・笄などを抜き取ることがあった。このために盗人を「ぬき」といった。いまの「すり」と同じことだ。

・三斎さまの母もファッション発明家
木綿足袋がいまのような製法になるのは、細川忠興の母(沼田麝香)が初めて作り、忠興の茶会に出るときに足が冷えるので履いたそうだ。

・自分の昔を思い出した?太閤秀吉
あるとき、太閤秀吉は宇喜多秀家の屋敷で能見物を楽しんだ。
庭に降りるとき、家康が先に降りて(秀吉の)草履をそろえた。
家康は秀吉の肩に手を置いて、「徳川殿に草履を直させるとはねえ」と言ったという。

527 :人間七七四年:2020/09/09(水) 23:24:45.40 ID:UVHCOss5.net
>>526
こういう話好きだわ

528 :人間七七四年:2020/09/10(木) 15:27:01 ID:k5JSoFGR.net
一番下の、家康が嫌味なやつになってない?

529 :人間七七四年:2020/09/10(木) 15:57:50 ID:Ffsvj1im.net
妖説太閤記で
家康が秀吉の草履を揃えて秀吉が
「わしもとうとう家康に草履を揃えさせるまでになったか」
と大喜びするシーンがあったけど
元のエピソードがあったのか

530 :人間七七四年:2020/09/10(木) 19:46:05.91 ID:4G8+elNf.net
細くて悪いんだけど、265さん
「家康は秀吉の肩に手を置いて」でなくて「秀吉は家康の肩に手を置いて」でないの? 
自分もこういうの書いてくれると嬉しくて、その場の情景知りたくてつい…

531 :530:2020/09/10(木) 19:48:29.70 ID:4G8+elNf.net
すみません265さんでなく526さん

532 :人間七七四年:2020/09/10(木) 20:01:23 ID:neOQE71R.net
読めないアフィカスが超訳してるからなぁw
そんなのふいんき()で読み取ってやるのが優しさだよ

533 :人間七七四年:2020/09/10(木) 20:11:34 ID:0VBgPJQX.net
>>530
「秀吉は家康の肩に」が正しいです
慎んで訂正します

534 :人間七七四年:2020/09/10(木) 21:21:32 ID:c8+1bs8C.net
しかしまさか脱ぎっぱなしで放ってあった訳でもあるまいに礼儀的に草履に手を添えてみたぐらいかな

535 :530:2020/09/10(木) 21:23:03 ID:4G8+elNf.net
>>533
おおお!非常にサンクス  >>532 すんません…

536 :人間七七四年:2020/09/14(月) 00:24:40.15 ID:UbLIhjN6.net
『武功雑記』(前者)と『備前老人物語』(後者)より、城に関する小品2つ

・大坂千貫櫓の由来
本願寺顕如が籠城したとき、よく横矢が掛かる櫓があった。寄せ手は難儀したので、「千貫出しても取りたい櫓だ」と取り沙汰されたので、千貫櫓と呼ばれた。

・城の本丸、本当の利用目的
城の本丸は、人質のたぐいを入れ置くためにあるという

537 :人間七七四年:2020/09/15(火) 00:24:06.07 ID:NWu9CDs1.net
慶長十九年十二月十四日、
大阪冬の陣は、これ以前より和睦の扱いが有った。秀頼公よりは、四国の内二ヶ国を給われば、大阪を退城する、
との条件を出し、大御所・将軍(家康・秀忠)からは、安房・上総の両国を進ずるとの案を出した。
しかし関東への下向は全くありえないと秀頼は堅く思われ、この和睦は調わなかった。

大御所は阿茶局(雲光院・家康側室)を召され、陣中に参られた。

同日、女性である阿茶局が、若狭衆(京極忠高)の大阪城に対する仕寄に参り、大坂城中からも、
大蔵卿局、并びに若狭宰相老女(常高院)が出合、対談に及び、専ら和睦について語った。

十九日、また両度、先の女性衆出合、和睦が調った、これによって大御所将軍より、起請文を以て
異変有るべからずの旨を示した。

城中より、織田有楽の息子・武蔵守、大野修理(治長)息子・信濃守が、証人(人質)として出された。
これに対し、後藤庄三郎(銀師、四、五年大御所の近習の如き人物である)、并びに本多上野(正純)の
両使を以て、この証人を請取、すなわち上野の陣所へ同道した。

この和睦については、惣構、并びに三の丸は破却され、秀頼公も母台(淀殿)も、関東下向の事は
沙汰無く、領地も以前のまま、本丸二の丸は前々のごとく破却沙汰は無かった。

城中について、兵糧は沢山あり、その他も特に欠けたものはなかったが、その中で鉄砲薬は欠乏していたという。
その故は、城中では皆大鉄砲を用いたためで、これまでに八百石の弾薬を消費したという。
彼らは三匁筒などはほとんど用いず、十匁、二十匁、三十匁、五十匁、百匁の鉄砲を撃ち、そのため
欠乏に至ったという。

この度の籠城の最中、秀頼はいつも惣構を廻り、少しのことでも精を入れて働く者には、その内容によって
褒美が有った。人々はみな、これを美談としないものは居なかった。

今回、大坂城中の兵たちは、『六本鑓の衆こわき』などと云って悪口した。
これは大工大和(中井正清)、後藤庄三郎(銀師)、永仁(京町人)、同茶屋又四郎らで、彼らは皆
大御所の宿直の者共であった。

大阪三の丸、惣構は破却された。

二十四日、大御所は茶臼山を立たれ上洛され、二十五日に入洛された。

『当代記』

大阪冬の陣の和睦について

538 :人間七七四年:2020/09/15(火) 21:59:08.82 ID:ELV/ZHul.net
島原の乱の際、反乱鎮圧のために板倉重昌が出向くことになった。
この時、囲碁棋士の安井算哲は
「板倉殿は戦死するでしょう」と予言した。
その後、板倉重昌の戦死の報が届き、人々が予言的中の理由を尋ねたところ算哲は
「このたびの一揆は宗門に関することです。
一向一揆を見ても分かりますように人々は宗門については妥協を許さず命を賭して戦います。
しかし板倉殿は普通の一揆と思って出陣しておりました。
この心懸けでは一揆勢を甘く見るだろうと懸念したのでそう申し上げたのです」
算哲の明察の評判は江戸中に知れ渡ったとのことである。
なお、同じ安井算哲で「初手で天元(碁盤の真ん中)に打てば必勝である!」
と豪語して見事に本因坊道策に負け越した人物(渋川春海)がいるが、それはこの安井算哲の息子である。

539 :人間七七四年:2020/09/15(火) 22:08:40.14 ID:TIWU7cjA.net
苛政が要因じゃなく宗教が理由だからと言ってるのね
実際苛政が原因じゃないんだっけ?

540 :人間七七四年:2020/09/15(火) 22:22:38.16 ID:ELV/ZHul.net
いったん転んだけど飢饉や苛政とかでこれは天主の罰だ!とキリシタンに立ち戻った人々が非キリシタンも巻き込んで籠城したようで
幕府軍が「苛政が原因であるなら藩主たちは処分するから降伏してくれ」
と矢文で告げても
「われわれは幕府や藩主に不満を持ったのではない。キリシタンとして後生のために戦うのだ」
と返しているから、きっかけはともかく籠城の首謀者にとっては宗門のためではないかと。

541 :人間七七四年:2020/09/15(火) 22:33:09.80 ID:TIWU7cjA.net
>>540
詳細ありがとうございます
きっかけこそ苛政や飢饉の可能性が高いけど、首謀者たちは宗教で覚悟完了した感じなんですね

542 :人間七七四年:2020/09/16(水) 01:33:53.50 ID:ROcezHiE.net
>>540
一気税根絶やしにしたあと、藩主一族をきっちり処分した幕府は律儀かもしれない。

543 :人間七七四年:2020/09/16(水) 13:06:20.40 ID:Ej4q/9if.net
松倉家は二代に渡って島原で苛斂誅求やって反乱起こされたからな
藩主として無能すぎる、幕府としても社会不安を鎮めるためには処罰しかない

544 :人間七七四年:2020/09/16(水) 20:24:33.77 ID:bCy7jHVc.net
キリシタンは死んだらパラダイスなんやし生きてて良いことないなら死んだ方がええやん
だからお前らもはよ死ね

545 :人間七七四年:2020/09/16(水) 21:03:56.42 ID:O4np2B6s.net
自殺したらパラダイスに行けない

546 :人間七七四年:2020/09/16(水) 22:02:58.32 ID:bCy7jHVc.net
殺しあえよ

547 :人間七七四年:2020/09/16(水) 23:22:42.39 ID:9D/83GVm.net
熊本城よりでかくて名古屋城と大して変わらない島原城の巨大さ見ると反乱起きても仕方ないと思う

548 :人間七七四年:2020/09/16(水) 23:25:16.98 ID:n0r3Rbm9.net
『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編
(松平康親(左近、周防守)家臣の語ったことで、その覚えていることを記した記録。まとめにあるものは省いています)

・剛毅で鳴らした竹右衛門の初陣
永禄年中、三河東条の近所、横須賀というところに敵が屋敷を構えていた。竹右衛門が押し入ったところ、障子をあけた場所に木戸をつくり、侍2人が差し向かって弓で防いでいた。
竹右衛門が召し使っていた者1人がそこに走り入り、脇差しを抜いて木戸を押し破り、主従で踏み込み、弓を持った武者1人を竹右衛門が切り伏せ、首を取った。
竹右衛門は17歳、まだ権平次と名乗っていたときで、初陣の働きだった。

・姉川での手柄と秀吉
元亀元年夏、織田信長に越前衆が敵対し、近江において合戦があった。
家康が加勢し、松平左近もお供した。その陣で竹右衛門の弟、五味右衛門が馬上の敵と組み合ったとき、ともに馬から落ちた。
五味は若年だったので(落ちた地面で)下に組み敷かれてしまった。そこに竹右衛門は乗り寄せ、馬より飛び降り、上に乗っていた敵を引き破って下に組みふし、五味に世話をして討たせた。
そのとき竹右衛門は葦毛の馬に乗っていた。
太閤はそのとき藤吉郎秀吉と名乗っていたが、馬上30騎ほどで控えており、竹右衛門の働きを見ていた。
秀吉は使いをやって「あなたはどこの侍ですか」と尋ねてきたので、「家康麾下の松平左近家臣です」と答えた。
その後、帰陣し、秀吉が「上方」(山の上の寺の意か)で、「姉川合戦において葦毛の馬に乗って働いていた武者は名乗り出なさい。必ず召し抱える」と言い出した。
帰陣した家康は、竹右衛門が寺に登るべきかと尋ねると、父の伊賀守がこれを聞き、「譜代の主人を捨て、いかに大身になろうとも本意にあらず」と腹を立て、この申し出を受けなかった。
(上方はそのままの意味かもしれませんが、前後のつながりが不明)

・弟の死と倍返し
遠江浜松での合戦で、竹右衛門の弟、五味が討ち死にした。
その日、竹右衛門は同所におらず、この顛末を無念に思い、「この敵を討たなければ、二度と三河に帰らない」旨を仲間に堅く申し置き、ただ1騎にて久野前に出陣した。
すると、武田信玄方の武者が1騎、物見と思えたが、乗り出してきた。
竹右衛門はすぐに掛かり合い、敵を討ち、「五味のかたきを討った」と喜んで浜松に帰陣した。
「まれな働きである」と左近から褒美をいただいた。

・先にもありますが、やっぱりこの時代は騎馬で戦っていた
駿河へ家康が出陣したとき、先手を左近が命じられた。
安倍川の中程にて竹右衛門は敵に乗り向き、馬上より切り落とした。
その武者は切られて川下へ流されていったところ、服部小十郎という者に「その首を取りなさい」と言った。
小十郎に功名を取らせ、そのまま田中八幡山へ同道し、家康にお目見えした。

549 :人間七七四年:2020/09/16(水) 23:58:47.18 ID:Wm2MUi78.net
バカチョン発狂タイム終了してたんだな

550 :人間七七四年:2020/09/17(木) 14:45:23.53 ID:lhFh2zlS.net
背乗りジャップの発狂はまだ続いてるんだなぁコレがw

551 :人間七七四年:2020/09/17(木) 23:50:47.78 ID:dTEGrb0q.net
『岡田竹右衛門覚書』より、中編

・上も下も面倒な三河武士
遠江、見附の原にいろいろと砦をもうけ、掛川へ軍事行動をしたのは本多豊後守(広孝)、鳥居彦右衛門(元忠)、松平左近(注、竹右衛門の主人)などであって、そのとき石川新兵衛という者が功名を挙げて乗り来たり、竹右衛門、星野角右衛門、左右田弥五八の3人に向かい、「竹右衛門、これを見よ」と馬上より首を見せてきた。
竹右衛門はこれを聞き、「私に対してこれを見よという言葉は不似合いである」と返した。
すぐに(竹右衛門は)角右衛門と弥五八に向かい、「おまえらはここで待っていろ。私は功名を挙げてくる」と言い、城下(敵の掛川城)に帰って功名を挙げてきた。
その間に諸軍勢は引き上げたが、その2人は竹右衛門を待っていたところ、竹右衛門は帰ってきて、「おのおの、神妙である。ただいままで待っていてくれたことはかたじけない」。
さて、左近は竹右衛門を呼んだがいなかったので、本多豊後守は「もしかしたら竹右衛門は討ち死にしたのではないか。心許ない。その様子を見届けていないので、今晩浜松において、家康様から今日の経緯を聞かれたとき、申し上げることがない。とにかく竹右衛門を呼び出すべきだ」。
左近は答えていわく、「もし竹右衛門が討ち死にしようとも、気にすることはない。先に帰陣してください」。
それでも豊後守は旗を立て、よくよく待っていたところ、竹右衛門が功名を挙げ、角右衛門、弥五八が配下を引き連れ一緒に帰ってきた。
左近はその様子を見て、「角右衛門、弥五八は5騎、10騎の侍を持っている身なのだから、左近の名前が立つのだ。なぜ、私のところにおらず、竹右衛門のところに残ったのだ」と「しかり」つけた。
これを聞くと竹右衛門は腹を立て、取った首を川へ投げ捨てた。
豊後守は竹右衛門を陰に呼び、「左近殿が角右衛門、弥五八を褒めた(その2人を発言で引き立てた)のは、その方を褒めている内意がある。その件を理解して、決して腹を立てるでない。我慢しなさい」と達し、見附へ召し連れて帰った。
そのとき、浜松より竹右衛門を呼んでこいと命令があり、左近はいろいろと言葉を尽くしたが、腹が立っていたのでまかり出でなかった。
豊後守が竹右衛門の陣所に出向き、いろいろと意見を言ったので、竹右衛門衆は浜松へ赴いた。
家康は諸大名より先に竹右衛門を御前に呼び、この日の詳細を聞いたところ、豊後守が前に出て、竹右衛門の功名の子細を述べた上で、「深入りした」と左近が叱ったので、腹が立ったので討ち取った首をおのおのに見せた上で川に投げ捨てたという経緯を詳細に語った。
家康は聞き届け、「竹右衛門は『いつてつもの(一徹者)』なので、その通りにしたのだろう」と深く感じ入った。
その後、左近に対し、豊後守が言うには「竹右衛門を召し連れないのは家康様のご機嫌が悪くなっただろう。であるから、私がなだめて家康様の前に召し連れていき、首尾良くいった」。

※やはり、三河武士は面倒くさいですね

552 :人間七七四年:2020/09/18(金) 02:14:32.03 ID:MvpVBYjt.net
中国、ロシア、韓国、北朝鮮…全ての隣国とモメまくってる日本
こんな国あんまり無いよね
しかも、原因は全て相手側に有ると思い込んでる

これくらい面倒臭い

553 :人間七七四年:2020/09/18(金) 06:55:51.60 ID:sQvf3l9c.net
隣国ともめてない国なんてねえぞ

554 :人間七七四年:2020/09/18(金) 08:22:07.44 ID:JdkYVWe7.net
バカチョンはまず戦争を終わらせてみろ
お前んとこは戦時国家だろ

555 :人間七七四年:2020/09/18(金) 21:18:26.35 ID:E9wTxwXD.net
慶長十七年七月十三日、彦坂九郎兵衛の申す所によると、一昨夜、飯田伝吉が朝比奈甚太郎、松野勘介
(共に中将殿(徳川頼宣)御小姓)が駿府の町中に於いて喧嘩に及んだ。これは甚太郎、勘介が伝吉に対し
悪口を吐き、剰え刀を抜いてかかり向かった事が原因であった。

その時伝吉は堪忍能わず、散々に切り合い、その場において松野勘介とその郎党を殺し、朝比奈甚太郎は
二、三箇所の疵によって倒れ臥した。

伝吉はその場から逐電したが、大御所(徳川家康)はこの事件を聞き召されると
「飯田は手柄を顕した。」と御感になり、これを召し返した。
また生き残った朝比奈甚太郎に対しては「悪口の罪軽からず、殺害されるべし」と仰せになった。

『駿府記』

556 :人間七七四年:2020/09/19(土) 01:06:13.08 ID:MBHNhyiF.net
>>554
無条件降伏して戦争を終わらせた倭猿とは思えないレスですね
戦時国家だと都合が悪いのかな?徴兵逃れの背乗りジャップここに極まれりw

557 :人間七七四年:2020/09/20(日) 16:10:41.30 ID:2yVsSzV0.net
覚書のいいところは誇張や勘違い、間違いはあるんだろうけど戦国の気風が感じられるところと、細かい史実が描かれているところ

558 :人間七七四年:2020/09/20(日) 21:18:12.79 ID:SqgsTnuf.net
見聞談叢より 里村紹巴のこと
里村紹巴は十一歳の時、宗祇のところに赴いて門人になることを乞うた。宗祇は奇童なりとと認めて門人とした。
紹巴はその年齢から神仏へ願をたてて(奈良の毘沙門天という)、何によってでも天下に名高くなし給えと毎日祈願した。
志あった故に願いの通りに後世に名を遺した。
紹巴の子玄仲の妻は、江戸の医者の吉田易安の娘で妙玄院と称した。
先人(仁斎)にとって外祖母にあたり、私が若年のころまで手紙のやり取りがあった。
紹巴の時代に連歌がはやったことは並大抵ではなかったと話に聞いている。
金吾中納言が流罪になったおりに、紹巴は伏見まで見送りなさった。中納言殿、別れを悲しみ給い、
籠の中から黄金一枚を取り出して永訣の印に紹巴に送り、
「伏見まで送って下さったから、夜も更けました。ここよりお帰り下さい」と鳥羽の城南寺の傍らで返しなさった。
夜中のことでもあり、今と異なり戸締りしない時代だったので、黄金を奪われることを恐れて
城南寺のそばの田んぼの畦に埋めて置き、翌日取りに行かれたそうだ。また、太閤が朝鮮征伐の時も山崎まで見送って、
韓(から)たちにその身はやく枳殻(きこく)かな
という句を奉ったとのことだ。色々の話を聞いたけれども、雑談と思って逐一書き付けて置かなかったことを今になって後悔している。
聞き覚えた発句などもだんだんと忘れてしまい、すべて烏有に帰せんことを悲しく思い書き留める。紹巴がある年の端午の節句前に、
室町通りを通りなさった時に、その頃そのあたりは貧しい有様だったので
人並みに小家も葺ける菖蒲草
という句を詠まれたと。この時代、貴賤男女まで連歌に熱中していたと見える証拠には、紹巴の小童が門前に雨の降るのを眺めていると、
蓑を着て笠をかぶっていない商人がいるのを見て、
みのを衣(き)て笠をきぬこそおかしけれ
と言うと、その商人が
なににつけても銭のほしさに
と付けたという。

この後宗祇や紹巴らの発句が色々載っていますが省略。
金吾中納言の流罪は転封の誤りでしょうか。宇喜多秀家が流罪の時には紹巴は死んでいますし。

559 :人間七七四年:2020/09/21(月) 11:07:37.34 ID:+r0rhWKY.net
確か佐吉の告げ口で筑前名島改易で敦賀だった武生だったに堪忍料だお終いデスにされたような。

560 :人間七七四年:2020/09/21(月) 18:17:11.05 ID:SwTWBn1v.net
Wikiによると秀次事件に連座して亀山城を没収されたらしいのでそっちの時かも

561 :人間七七四年:2020/09/21(月) 19:50:19.72 ID:W/E8RYZN.net
慶長十九年四月五日
今日駿府の前の浜において、亀に似た魚が網によって引き揚げられた、漁師たちはこれを城に運んできたが、
二十余人で運ぶほどの大きさであった。

背は黒く、亀の甲羅のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三股に分かれていて大鱗が有り、腹の色は斑であった。
諸人はこれを見て様々に噂し合ったという。

『駿府記』

駿府の浜に揚がった謎の巨大生物について

562 :人間七七四年:2020/09/23(水) 21:49:32.28 ID:BWWDYY4m.net
う〜マンボウ!でござる

563 :人間七七四年:2020/09/24(木) 00:58:04.17 ID:YyyVtWjH.net
北条氏康も大きな亀が捕れて喜んだ逸話があった気がする

564 :人間七七四年:2020/09/24(木) 07:17:50.00 ID:ObfmSqEa.net
チンポの話か

565 :人間七七四年:2020/09/24(木) 10:40:03.20 ID:9hWHoZeS.net
鱗があるなら魚だろう
サメだなたぶん

566 :人間七七四年:2020/09/24(木) 11:31:08.39 ID:FfmDiGmr.net
バカチョン発狂タイム終了してたんだな

567 :人間七七四年:2020/09/24(木) 19:10:00.52 ID:mX0GhiAu.net
ヤリマンボウらしいけど、ヤリマンボウちゅう名前だけでおなかいっぱいだよ

568 :人間七七四年:2020/09/24(木) 20:00:21.66 ID:8wpI9iGO.net
ヤリマンに棒が生えたのか、ヤリマンのための棒なのか…

569 :人間七七四年:2020/09/24(木) 23:52:39.61 ID:h8PVQpdT.net
試し腹が国技の未開のジャップランドのことだし奇形だろう

570 :人間七七四年:2020/09/24(木) 23:58:19.73 ID:FfmDiGmr.net
ジャップランドって下トンスリアのことか?

571 :人間七七四年:2020/09/25(金) 10:08:28.17 ID:GMCrLsA1.net
なんでも司馬遼太郎のせいにすると便利だから司馬遼太郎以前のことまで司馬遼太郎の創作にされてること多い希ガス

572 :人間七七四年:2020/09/25(金) 10:20:18.56 ID:LF5ftURf.net
司馬遼太郎のせいにするやつはたいてい無知
そのうちユダヤの陰謀とか言い出す

573 :人間七七四年:2020/09/25(金) 10:27:35.41 ID:CnNANkPy.net
前に「くわらんか舟」っていう、
家康だか秀忠を淀川の船頭が助けたからそこの船頭はどんな汚い言葉を言ってもいいことになった
って逸話が出た時もなぜか司馬遼太郎の創作扱いにされていた
(まとめの「淀川の船頭の言葉が汚いわけ」参照)
この出典は難波戦記らしいけど
昔からある落語「三十石」でも家康が助けてくれた船頭に
お礼になんでもいうことを聞くぞ、と一筆書くと
船頭が上記の言葉を言ったため、家康の部下たちがほっと胸を撫で下ろし
「しかしいくらなんでも書き過ぎた」と言ったことから
過書船と言われるようになった、ていう似た話もあるのに。
(過書は通行手形の意味なのでこの由来はこじつけ)

574 :人間七七四年:2020/09/25(金) 10:38:30.85 ID:LF5ftURf.net
「くわらんか」じゃなくて「くらわんか」ね
食らうの音便変化で食べないか?食ってけ?くらいの意味

575 :人間七七四年:2020/09/25(金) 12:49:36.27 ID:uDzLfjXO.net
>>572
最近はドルチェ&ガッバーナのせいにすればなんでもいいみたいだな

576 :人間七七四年:2020/09/25(金) 13:56:37.32 ID:03Y6vFke.net
司馬遼太郎の(小説に採用された)せい

577 :人間七七四年:2020/09/25(金) 17:54:53.08 ID:JRSa1Yrd.net
ジャップがチョンに発狂するのも司馬遼太郎の小説のせい

578 :人間七七四年:2020/09/25(金) 18:27:02.00 ID:LF5ftURf.net
「韓のくに紀行」
歴史的な人的物的交流に基づいた百済文化との同質性を確かめているが、新羅に対しては否定的立場を持っている。
朝鮮ノ役以来日韓合併に至る歴史的事件・戦争に対しては比較的に客観的視覚を保っている。
韓国と韓国人については、半島国家の地理的特性を理解しながらも、儒教文化の弊害による文化と民族性の短所を厳しく指摘していて、
この点においての韓国人の反論、反発は当然のことであろうが、個人的には概ね共感すると共に、韓国側の冷静な再考が要ると判断される。

579 :人間七七四年:2020/09/25(金) 18:42:53.63 ID:BmRectue.net
司馬遼太郎が坂本龍馬を幕末の偉人にしてしまったのは良いのか悪いのか

580 :人間七七四年:2020/09/25(金) 19:14:41.99 ID:LF5ftURf.net
偉人は偉人だぞ
他の生き残りザコのほうが目立って偉人になってる

581 :人間七七四年:2020/09/25(金) 19:58:47.26 ID:vpNfUhUV.net
そうではない
誰かが(それこそ司馬遼太郎かもしれないが)生き残ったから偉人と呼ばれるんだ
志士と名のれば道を歩いてても斬り殺され、自宅で酒を飲んでても暗殺され、という殺伐とした時代を生き延びたこと、
大なり小なり志士たる活動をして明治まで生き残ったこと自体が凄いことなんだよ

582 :人間七七四年:2020/09/25(金) 20:15:18.51 ID:CnNANkPy.net
おびただしい数の志士が、山野に命をすてた。
が、桂は生き残った。
新政府から、元勲とよばれる処遇をうけた。
皮肉ではない。
元勲とは、生きた、という意味なのであろう。

司馬遼太郎「幕末」収録「逃げの小五郎」より

583 :人間七七四年:2020/09/25(金) 20:22:10.31 ID:ZU2GCjn3.net
漫画ですまんがゴールデンカムイの
この時代に老いぼれを見たら「生き残り」と思え
を思い出したw

584 :人間七七四年:2020/09/25(金) 21:16:10.35 ID:M4CwYlWE.net
>>582
そう、それそれ
ありがとう。この文章好きだったな

585 :人間七七四年:2020/09/26(土) 09:41:57.67 ID:tVN0MDf4.net
歴史小説家だったら断然吉川が好きだな
最近のエンタメ界は司馬ばっかり映像にしてやりすぎ感が

586 :人間七七四年:2020/09/26(土) 09:58:15.90 ID:dpgR4tLw.net
俺は堺屋太一がいいな
歴史小説家じゃないけど

587 :人間七七四年:2020/09/26(土) 17:01:50.27 ID:rnApk812.net
慶長十九年十月八日、今日、竹中伊豆守(重利)が御普請の隙が明き、江戸への参府のため
大御所(家康)に御目見した。この時大御所の仰せに

「汝は福島左衛門大夫正則の友人であるので、彼のもとに使いをしてもらいたい。その内容は、
今度秀頼が野心の巧を起こしたが、これは秀頼が行ったことではない。織田有楽、大野修理、
木村長門、渡辺権兵衛、その他若輩の者達が秀頼に悪逆を進めたのだろう。

正則は太閤に好まれていたことで、秀頼とも疎遠ではない。しかしながら今度の秀頼の別心について
どのように考えているかという事について、彼が我等父子に対して逆心など有るはずもないが、下々は
狐疑を作るものである。
であるので、手元より人数を国元に下し、息男である備後守(忠勝)を添えて、大阪表の攻め口に加勢し、
正則は江戸に在るように。」

と仰せになり、江戸に遣わしたという。

『駿府記』

正則をむしろ気遣っているっぽい

588 :人間七七四年:2020/09/26(土) 17:58:21.29 ID:FUSAutg7.net
そりゃあ広島49万石がトチ狂って大坂方に付かれたら大変だからな、気も遣うだろ

589 :人間七七四年:2020/09/26(土) 19:04:56.47 ID:NnWHuGt1.net
有楽が野心の側近連中に加えられてるのね
まぁ息子がバリバリの過激派だしそれ掣肘してないしそうも見えるか

590 :人間七七四年:2020/09/26(土) 21:42:52.10 ID:N5Jcfvwl.net
関ヶ原合戦後の中川秀成の処遇と「支えたる仁」


中川秀成は石垣原の戦いの折に、与力の田原紹忍・宗像掃部(大友旧臣)が大友勢に合流し
中川家の旗指物を偽作されたため、去就を疑われることになった。
その後、秀成は姉婿であった池田輝政に家康への執り成しを依頼した。
以下はそれを受けて山岡道阿弥・岡江雪が池田輝政に秀成の安堵を伝える書状である。

  巳上
中川修理(秀成)殿について上件の条々(秀成の家康に対する忠誠)を残らず申し上げたところ
支えたる仁(口を挟む者)がいました。しかしながら中修(秀成)は忠節を斯くの如く
立てられましたので、不届きな太田飛騨(一吉)は即時に御知行を召し上げられ、また支えたる仁も
(秀成の)御近所には置かれず遠国へやられました。
この上は内府様(家康)の御心に別条がないことを両人(道阿弥と江雪)から申し渡すようにとの
仰せでした。めでたいことです。委細は中修に申し上げます。恐惶謹言
   (慶長六年)九月六日     山岡道阿
                  江 雪
         羽 三左様
               参人々御中

――『中川家文書』

591 :人間七七四年:2020/09/27(日) 01:48:49.52 ID:1b8vb2Sc.net
中川秀成の姉は輝政が家康娘を娶るために離縁されてるという
秀成にとってちょっと複雑な姉婿
まぁ、池田・徳川にこの件で引け目を感じさせて
家を保つ役に立ったとするなら結果オーライか

592 :人間七七四年:2020/09/29(火) 07:11:47.25 ID:M55+2zGt.net
日本人中国人韓国人見分けられる自信がある奴はこのクイズやってみてよ
http://alllooksame.com/app/quiz.php?tid=1

593 :人間七七四年:2020/09/29(火) 10:26:04.01 ID:D3y+QUkP.net
半島人は日章旗見せれば発狂するからすぐわかる
大陸人は所構わずウンチしたり素行が汚いからすぐわかる

594 :人間七七四年:2020/09/29(火) 15:57:10.79 ID:nLu2N2sL.net
ジャップは半島人と大陸人を見たら発狂するからすぐ判る

595 :人間七七四年:2020/09/29(火) 16:14:55.42 ID:D3y+QUkP.net
NO JAPANなのに5ちゃんに張り付く在w

596 :人間七七四年:2020/09/29(火) 17:32:16.41 ID:nz7SxZNj.net
少し長きに失するが、弾正殿(松永久秀)の領せるこの町(信貴山城)に於いて私が見た所について語る。
貴兄ら最も愛する兄弟が日本の教化のためデウスに祈るべき材料を得るためである。

前に述べたように、この領主は財力及び所領多く、多数の人が服従しているのを見て、国風により
この町に築城するに決し、一つの山を選定し、石が甚だ柔らかいためこれを切って数個の塔を作り、
その中央にゴア市の範囲の三分の一に等しい野を残した。

ここに多数の井戸を掘ったが、三ブラザにして水が多く出た。彼は最も信任している家臣と、
最も富んでいる大身たちを招き、囲いの中に敷地を分与し、家を造らしめた。着手以来五ヶ年となるが、
皆競って他よりも良く、高価な家を造った。

家は数階にして、我が国風の良き窓格子があった。またこれらの家は堀、及び塔と共に、今日まで
キリスト教国においても見たことがない、甚だ白く光沢の有る壁を塗っていた。壁がこのように白いのは
石灰に砂を混ぜず、甚だ白い特製の紙を混ぜる故である。

家及び塔は、私が見た中で最も良い瓦で、様々な形があった。また指二本分の厚さで、真っ黒なものを以て
覆っていた。このような瓦は、一度葺けば四、五百年も更新する必要はない。私は六、七百年を経た寺院の
多数に於いてこれを見た。

この地に入りて街路を歩行すれば、その清潔にして白きこと、あたかも今日完成したばかりの物のようであり、
天国に入ったような感がある。外からこの城を見れば、甚だ心地よく、世界の大部分にこのような美麗なる
物があるとは思われない。

入ってその宮殿を見るに、人の造ったものとは思えず、これについて記述するには紙二帖が必要である。
宮殿は尽く杉で造り。その匂いは中に入る人を喜ばせ、また幅一ブラサの縁はみな一枚板である。
壁は尽く昔の歴史について描かれ、絵を除いた地は尽く金である。

柱は上下一パルモを真鍮にて巻き、また尽く金を塗り、彫刻を施して金のように見える。
柱の中央には甚だ美麗なる大薔薇があり、部屋の内面は一枚板のごとく見え、甚だ接近しても、継ぎ目を
認めることは出来なかった。また他に多くの技巧を用いていたが、私にはそれらを説明することが
出来ない。

この宮殿の多くの建物の中に、他に比べても更に精巧なる室が有った。
奥行きおよび幅四ブラサ半にして、黄色の木材を用いていた。甚だ美麗にして心地よき波紋(木目)が有った。
この木材は加工甚だ良く、鏡のようであった。然れどもこれは木材の光沢ではなく、一種の漆であると思われる。
庭園及び宮庭の樹木は、甚だ美麗であると言うより他ない。

私は都において美麗なるものを多く見たが、その殆どはこれと比べるべくもない。世界中でも、この城のように
善、かつ美なるものは非ざるなりと考える。故に日本全国よりただこれを見るために来る者が多い。

『一五六五年十月二十五日附、イルマン・ルイス・ダルメイダ書翰』

松永久秀の信貴山城についての記録

597 :人間七七四年:2020/09/29(火) 17:54:51.25 ID:90ZDbwIW.net
>>596
多聞山城の方だね

598 :人間七七四年:2020/09/29(火) 18:09:36.93 ID:w0I5Mz4R.net
>>595
ジャップまた発狂w

599 :人間七七四年:2020/09/29(火) 18:32:58.55 ID:1v+J/Bc8.net
中韓コンプレックスっていうの?童貞のやつに多いよな

600 :人間七七四年:2020/09/29(火) 19:53:59.12 ID:nz7SxZNj.net
>>597
原文を確認しましたが、やはり信貴山城のこととして書かれていますね。

601 :人間七七四年:2020/09/29(火) 21:18:32.25 ID:D3y+QUkP.net
ちょんくん同盟辞めるってよ

文在寅が国連で「同盟破棄」を匂わせ 激怒した米政府は「最後通牒」を突きつける(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/5b308f9fee2268d04812ea0bfc9929b42e5d3c77

602 :人間七七四年:2020/09/29(火) 21:33:47.49 ID:8kqPF1Ig.net
童貞臭いキチガイがいるね

603 :人間七七四年:2020/09/30(水) 01:00:43.05 ID:yM8mzulb.net
>>600
横からだが、
『耶蘇会士日本通信』の註だと信貴山城のこととしてるけど、
時期的には久秀の本拠は多聞山城っぽいんだよなぁ
また、信貴山城は山城で結構な山の中
「町」とか「中央にゴア市の範囲の三分の一に等しい野」ってのは想定しづらいってのもある
一方、多聞山城は東大寺から北に1キロほどの現奈良市街の平山城だったりする

松永久秀に詳しい人に解説お願いしたい

604 :人間七七四年:2020/09/30(水) 05:16:42.93 ID:1Ol7i0vl.net
>>603
多聞がハレの城
信貴がケの城

観光誘致するなら多聞だよね
奈良を望む政治の城

605 :人間七七四年:2020/09/30(水) 10:20:11.47 ID:yrh4bzz4.net
全く解説になってないな
チンパンジーには難しかったかい?

606 :人間七七四年:2020/09/30(水) 11:53:07.62 ID:oRv9L76L.net
【悲報】愛知・大村知事リコールに反対する団体、集会で何故か韓国の歌を熱唱
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1601335784/

いとうちゃん【公式】@keitaboo2000
キムチ悪いと思って見てたら
やっぱりシメは…
#嫌いです韓国

https://video.twimg.com/ext_tw_video/1310699559824232448/pu/vid/640x360/2HsGcmAPgfzdymgE.mp4

607 :人間七七四年:2020/09/30(水) 12:20:12.57 ID:1CCcmRuZ.net
チンパン以下のネトウヨが今日も発狂かよw日本は平和だなあwww

608 :人間七七四年:2020/09/30(水) 23:06:55.57 ID:y9xqxqNT.net
慶長二十年
五月七日の巳刻(午前十時頃)に、寺尾勝右衛門が真田(信繁)の所から使いに参り
「敵合近くなりました。合戦が始まります。」と申し来た。

秀頼は装束の間に入られ「修理を呼べ」と仰せになり、修理(大野治長)が参ると、この事について
勝右衛門と談合に成られた。修理は「最前も固く申しあったように、秀頼公の御馬が出るのを合図に合戦を
始めるという事になっている。今もその事に変更はない。」と申した。
私が「勝右衛門は年寄でくたびれている様子ですから、私を御使いに行きましょう。」と申すと、
修理も「一段尤もである。急ぎ向かうように。」と申した。

茶臼山には真田、丹後(伊藤長実)、伊桑(野々村幸成)、図書(堀田盛高)、伊木七右衛門などが
一所に居た。御使の通り申すと、丹後が「ならば我々は、それぞれの備に参ろう」と申して、下に降りた。

私は真田に「御使に参りましたが、敵合が近いので先に参ります。」と断って、伊木七右衛門の子・半七(尚重)
と同道して先に参った。敵合二、三町あたりへ乗り回して帰った。先に出た事については、この家中の
者共が多く見ている。

七日の午刻(正午)に、敵味方七、八町を隔てて人数を立ち並べた。敵より三人乗り出して参った。
私は白き角取りの紙の指物を指して、畠を筋違いに、阿倍野街道筋へ一人鑓を取って出た。
敵が一人先に進んで来たのを鑓にて突き伏せ、首を取った、この時鑓の塩首が折れた。
その時、真田新参の徳岡十右衛門という者が続いて参った。その内に四方に黒煙が立って、
その後どうなったかわからなくなった。ここにて本多出雲殿(忠朝)、小笠原殿(秀政)など
討ち死にしたと聞いた。これがこの日の一番合戦であった。

この一番合戦で私より先に出たものは一人も無かった。これについて、徳岡十右衛門が現在京に
居られるので、お尋ねに成って頂きたい。大場にての事であるので、諸人見及んでいる。
稲葉丹後殿(正勝)家中に居る山口勘右衛門も私が懸かった事について証言している。
その様子を沢田次右衛門と申す者の方へ書状を送っている。

『浅井一政自記』

大阪夏の陣の天王寺・岡山合戦について。
自分の軍功について念入りに書いているのが、いかにもこの時代の武士ですね。

609 :人間七七四年:2020/10/01(木) 02:22:48.19 ID:pyId+6bq.net
大野治長が治房の家来に襲われて大体一か月程度
脇から肩を脇差で刺された後だってのに忙しいなぁ

610 :人間七七四年:2020/10/02(金) 14:58:00.26 ID:mZG3D0T3.net
『公人朝夕人土田氏由緒』より、信長、秀吉、家康の小便を支配した男
※公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)は出先などで尿筒、つまり尿瓶を懐に持ち歩き、主君の排尿を支える役職で世襲
土田氏は鎌倉幕府4代将軍、九条頼経の時代からこの職務を務めた

永正10年、将軍足利義稙様が江東へ発向されたとき、私の先祖がお供を仕り、将軍が御膳をお召し上がりの時は残飯を拝領いたしました。その際、器の上にお箸を置き、「なんじの家の家紋にしなさい」とおっしゃられたので、それより私の家の家紋にしました。
このように代々召し出され、信長公の御代までは西美濃国の土田村にて186貫の領地をいただき、住んでおりました。
信長公がどちらへいらっしゃるにも私の先祖はお供しました。
天正4年に安土のお城を普請されたときには奉行を拝命し、その後、100石を山城国西岡というところに加増していただきました。
信長公が美濃の居城より信州へ出陣された際には、美濃土田村の先祖の屋敷でご一泊されました。
信長公が他界され、領地を離れてひっそりと暮らしていたところ、秀吉公が関白に任ぜられ、ご参内の折に先祖が召しだされ、供奉しました。
家康様が慶長8年、ご参内の際にも先例を調べられ、同朋の善阿弥殿に命じられ、召し出されてお目見えしました。
御紋の時服と諸太夫の装束を拝領し、御装束櫃に相添え、諸太夫の装束で御小便筒を懐に入れて供奉しました。

611 :人間七七四年:2020/10/02(金) 16:01:28.74 ID:OeCEOrN/.net
大便はどうしてたんだろう

612 :人間七七四年:2020/10/02(金) 21:30:37.82 ID:j/QuVBbR.net
朝鮮通信使が有難く回収してトンスルにした

613 :人間七七四年:2020/10/03(土) 14:24:55.98 ID:Gj7tQVI7.net
数百年かけて練られた土田家の排尿介助術
すごい気持ちよさそう俺も体験してみたい

614 :人間七七四年:2020/10/03(土) 20:08:12.61 ID:NWOgh4lw.net
でも幕府消滅と共にその技術の伝統は断絶してるんだよな。
流石に土田氏が現代まで残ってても、この技術の伝承まではしてないだろうし。

615 :人間七七四年:2020/10/03(土) 22:08:22.84 ID:IFaIdRQ1.net
えっこれほんとの話なのか
すごい職があったんだな

616 :人間七七四年:2020/10/04(日) 01:30:29.32 ID:PhfRTH+L.net
ジャップのスカトロ性癖ってこんな時代から脈々と続いていたんだね
リスペクトするあまり飲んだり身体に浴びたりしてそう
伝統の食糞も大正時代の新聞で掲載されているくらいだし大昔は盛んだったんだろうねw

617 :人間七七四年:2020/10/06(火) 16:16:17.61 ID:KnRn4aXP.net
慶長十七年正月

七日、今日より三河国吉良で御鷹野を成されるため駿府を出発された。この日は田中まで進まれた。
八日、相良でお止まり宿された
九日、横須賀に到着された
十日、中泉に到着された。この晩、織田有楽が江戸から帰る途中、ここに於いて家康公に御目見得し、
   鷹狩で得た鶴を賜った。また上洛することを仰せに成ったという
十一日、当所で御鷹場のため御逗留
十二日、浜名に到着
十三日、吉田に到着、城主松平玄蕃頭に銀百枚を賜る
十四日、吉良に到着(中略)

十六日、御放鷹。今日青山図書助が御使いのために来た。これは御鷹野の御見回りと云々。
    京極若狭守忠高、同丹後守が使者を以て御服并びに嘉肴を献じたという。
十七日、御鷹野。今日、鷹の捕らえた鶴を仙洞御所(上皇)に進上、また伝奏の広橋兼勝、勧修寺光豊には
    鷹の捕らえた雁を各3羽ずつ遣わしたという
十八日、御鷹野。鷹の捕らえた鶴を秀頼公に贈るという
十九日、御鷹野。今日成瀬隼人正、竹腰山城守に、駿府に参るよう仰せに成った。これは名古屋の
    御普請についての仰せ付けと云々

二十日、岡崎着。城主本多豊後守に銀子百枚賜ると云々

二十一日、御鷹野。松平摂津守御前に出ると云々
二十二日、御鷹野にて得た鶴を主上(天皇)に進ずると云々
二十三日、御鷹野。成瀬隼人正、竹腰山城守が参ったと云々
二十四日、御放鷹。松平筑前守利光(前田利常)、御服二十領を献ずる。そして家康公の御鷹の捕らえた鶴が
     遣わされたと云々
二十五日、御鷹野。羽柴右近(森)忠政、緞子御袴を献上したと云々。
二十六日、大樹寺に御参詣。これは御祖父の菩提所であり、銀子五十枚を住持の僧に賜った。
     また正應寺(松應寺カ)にも参った。これは故大納言殿(松平広忠)の墳墓の所である。
     銀五十枚を院主が賜ったという。
二十七日、名古屋到着。

『駿府記』

駿府記より、慶長十七年一月、豊臣家との関係も割と安定していた頃の徳川家康の鷹狩のスケジュール。

618 :人間七七四年:2020/10/07(水) 12:14:31.09 ID:T5zb3vVE.net
日本人は子孫に名誉をのこさんとすることを熱望するが故に、彼らが非常に大切とし、幸福の大部分が
これに懸かっているとしているのが、死後の儀式(葬式)が整備され、盛大な事である。
この事は都の市において行われている葬式の次第によって容易に理解することが出来る。

死者を墓所に送る一時間前に、友人及び知人多数が、最良の衣服を着て、墓所へと行ってこれを待つ。
次に死者の親戚、知友の婦人が同所に行く。身分があり裕福な者は、甚だ美麗なる形の輿に乗り、
白絹の衣服を着す。その形は寝衣に似ている。
彼女らは頭に、薄絹に様々な絵を画いたものを被る。白きものもあるが通常はこれを用いない。
これらの婦人は各々、その分に応じて多数の婦人を伴う。皆タフエタの如き白絹の衣服を着す。

彼女らが通過した後、多数の男子が、所持しているものから最も良い衣服を着して行進する。
これらの男子は、老人でなければ武士である。

彼らの長い行進が通過した後、一人の坊主が来る、即ちこの国の司祭にして、絹および錦の衣を着け、
この着衣は光輝を発する。(導師の事)
彼は甚だ大きく、また高い美麗なる輿に乗り、頭および髭を剃り、二、三十人の坊主を同伴する。
これらの坊主も皆剃髪し、絹の衣を着て、シャツに似て甚だ薄く、また白い頭巾を被り、黒く、また短く
脚の半ばに至る法服を着す。

輿に乗って先に進む坊主は、インドー(引導)と称する、墓穴における祈りを成す者である。
引導とは、その天国に至る道を示すことである。
次に鼠色の服を着た者が、松を割って作った、長さが鑓に等しい松明に火を点じたものを負って来る。
この墓穴に至るまで死者の魂を照らし、迷うことが無いようにする為である。

次に百人、又は二百人の剃髪した坊主達が来て、大いなる鉢を鐘のように鳴らしつつ、死者の尊崇していた
サント(神仏)の名を唱えて穴に至る。次に二人が、紙にて作った、鐘の形の大いなる籠を鑓の柄に載せ、
これに色紙の薔薇の形のものを多く入れ、鑓の柄を振って紙を少しずつ外に出し、風によって飛ばせる。
紙は各種の色があり、薔薇に似ているが、既に天国に入った証拠として薔薇を降下させるのだと言い、
極めてゆっくりと進む。(紙の蓮華を散ずるもので、これを散花と言う)

次に八人の坊主が、一方に四人ずつ行進する。彼らは十七歳の青年であり、良き衣服を着ているが、
手には細長い棒を持っている。棒の端に薄い布で作った長い小旗があり(法幡)、先端は地面に達し
幅は二バルモにして、上から下まで、死者の尊崇した悪魔の名が記してある。

提灯八個、又は十個がこれに従う。提灯の側面には薄い布で包み、偶像の名を書き記し、中には蝋燭を
点じている。

次に二人の少年、鼠色の衣を着して並び進む。この色は悲哀を表すものである。彼らは長さ一コバドの
松明を携えるが、これには点火しない。これは墓所に於いて死者の体に火を付ける為のものである。

次に鼠色の衣服を着て、甚だ小さい三角の帽子を被った者多数が歩行する。この帽子は名誉の標にして、
頭の上に載せ顎の下で結ぶ。革で作られており、黒く塗って光沢が有る。エブシ(烏帽子)と称する。
彼らは頭に、死者の尊崇した偶像の名を紙に書いたものを付ける。

この次に長さ一コバド幅一パルモの板に金を塗り、金文字を以て両面に偶像の名を書いた、甚だ薄い、
白のベールを掛けたものを携えた人が歩行する(喪主であろう)。

次に甚だ美麗な輿を引く者四人が行進する。輿の中には、死者が頭を膝に載せ、祈祷を成す者のように
合掌し、頭は地に傾け不幸なる魂の葬られる所を眺め、純潔の標として白服を着け、この服の上に
紙衣を着す。これは偶像が書き残した書物を認めたもので、その功徳により救いを受けるのだと信じている。

次に子息達が、甚だ美麗な衣服を着て歩行し、最も年少の者は松明を携える。その父を焼くべき穴に火を
付けるためである。その背後より、多数の男子が塗装した黒革の小さい帽子を被り、尊崇する悪魔の名を
頭に付けて行進する。定まった場所に到着すると、坊主たちは、その場に集った人々とともに、大声で
偶像の名を唱え、鐘、および鉢を鳴らして約一時間に及ぶ儀式を行う。

『一五六五年二月二十日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

戦国期の葬式について

619 :人間七七四年:2020/10/07(水) 20:14:03.47 ID:KpYy8XVN.net
パードレがウキウキで書いてるのが分かる

620 :人間七七四年:2020/10/07(水) 23:36:29.82 ID:GcERk3uE.net
『武功雑記』より、雑記

・加藤清正と福島正則の不和
加藤清正より、福島正則に平野長元を遣わし申し入れようとしたのは「秀頼公のご恩をお忘れではないでしょう。そうであれば、わが軍の兵船があまたあるので、兵を乗せ、出船します。そのとき、福島殿も兵をあまた上らせてください。(途中に)家康の婿の池田輝政がいますが、押し攻め『フミツフシ』てしまえば、苦もないでしょう。そうなれば大坂までは『大道』を歩くよりも安心して進軍でえきるので、御意を得たい」という内容だった。
この件を申し入れる隙がなかったので、京都へ古田織部の茶会に正則が赴いたとき、長元も出向き、外露地で「卒度」(そっと)申し伝えると、正則は「いやいや、それがしは承知しがたい。家康公から大国を賜った厚恩は忘れがたい」と返事をした。
このことを長元が帰国して清正に伝えた。すると、清正は「福島はさてさて、ふがいない者だ」と腹を立て、清正と正則の仲が悪くなった。長元は平野長泰の弟である。(平野権兵衛から話を聞いた)

・島津維新の親父ギャグ
島津義久(ママ、義弘)は剃髪して維新と号した。大脇差を差し、樫の木の棒を常についていた。
あるとき、小姓たちが囲炉裏にて、火箸を焼いて慰みにしていたところに義久が現れ、小姓たちは驚いて火箸を灰の中に差し込んだ。
すると、義久は知らずに火箸を握ったが、少しも熱いという表情をせず、火をおこし、静かに灰の中に差し込んだ。
のちに西郷壱岐守に語ったのは「小姓どもが悪さをして手を焼かされている」といって、手を見せると「手ノ内焼フクレ」ていた。

・やはり面倒くさい三河武士(というより彦左)
永井善左衛門の邸宅へ板倉重宗が振る舞いに出向いた。相客は石谷十蔵、横田甚右衛門(尹松)、井上太左衛門、戸田半平、大久保彦左衛門(忠教)、今村九郎兵衛だった。
このとき、今村は鑓奉行、大久保は御旗奉行だった。
今村が言い出すには「それがしは小牧長久手のとき、人が十人で挙げるほどの手柄をどの鑓合戦の場所でも立てた。それなのに何のお褒めもなかったが、彦左はなにも優れた手柄がなかったのに、よい役職を得ているのはなぜだ?」と問うた。
彦左衛門が返答したのは「それがしは鬼神のごとくに聞こえたる岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。そのほか『チクチク』(細々)としたことはあまたあるが、甲州者みたいなやつから逃げたことは功名なのか?」。
(元武田家臣の)横田はそれを聞いて、「それがしが(武田方として徳川軍の攻勢から)高天神城に籠城したのは運を開くためではなかった。勝頼が(後詰めに)同心しなかったので、仕方なく務めを果たし、どうしようもなくなれば敵を切り抜け、勝頼の元に参るという君臣のちぎりをかわしていたからだ」。
それに彦左衛門は『(城の)狭間くぐり』というのだ」。
横田は「何を言うか。三河者の頭の上を越えて活路を開いたのだ。手助けする者もいなかった」。
彦左衛門は「その(手柄の)ほかになにかあるのかねえ(何ソアルベキカヌ)」
横田は「(本能寺後の)蘆田小屋(春日城)でも前のように私こそ働いた」。
彦左衛門は「いかにも蘆田小屋では横田が逃げたとは聞かなんだ」。
横田は「これを聞かれよ。三河衆は『口ガワルクテ』人の武功に難癖をつける『意地ノアシキ』ことだと言われている。近藤石見守に起請文を書かせて語らせれば、有り体に話してくれるだろう」。
そのとき、板倉重宗は「みんなもう、老年なんだから、孫や子のことだけ考えていると思ったが、武功争いをしているのは近頃、珍しいことだ。若い者のためにもいいことだ。気が済むまで争ってください。とてもいいことですよ」。
その言葉で座敷は静まりかえった。

・信長と根来衆と餅と馬糞
根来を織田信長が天下(畿内)を取る3年前に通ったとき、根来の法師は信長が器量の大きな人と思っていた。
そこで大きな折を進上しようとをこしらえ、3つ進上した。
信長は馬上でそれを見て、「奇特である」と言い、折を開けて笄で餅を貫いて食べ、そのほかの折は「侍ども、食べるがいい」、大庭にぶちまけると、餅が馬糞の上に転び出た。
すると、どの侍もちょうだいして食べた。
その様子を根来の法師は見て、「位のある大将だ」と感じ入った。
その後、信長が天下を取って根来に軍事行動すると、かの人は怖じ気づき、さっそく降参した。

621 :人間七七四年:2020/10/08(木) 00:54:40.99 ID:ehS9sQ5G.net
この辺りから実像と違う通説の福島や加藤像とか信長像が若干できつつある感じしますね

622 :人間七七四年:2020/10/08(木) 01:32:01.01 ID:hneWQDBE.net
「甲州ものなどに、逃げたるが高名になりたるがあると云。」は
 甲州の者で、逃げたのが武功であるかのようになってる者が居る(と謂われてる)な

「三河のものゝ頭の上をこえて通りしに、手さすものもなかりし」は
 (狭間をくぐるようにこっそり逃げたのではなく)三河者の頭の上を越えて活路を開いたが、(三河者で)手を出してくる者もいなかったぞ

ではないかと

>岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。
『三河物語』でも特記してる位の彦左衛門の(本当は)高天神城での自慢話のついでに
第二次高天神城攻防で脱出した横田をあてこすってるというのがこの話の流れかと

余談
「大久保党が徳川家裏切ったことがない」って話で大久保VS横田の第ニラウンド始める模様

623 :人間七七四年:2020/10/10(土) 00:43:35.73 ID:p7Z90aGV.net
本年(1565・永禄八年)の日本の新年は、我々の暦の二月一日に当たる。
当国各地においては、月の九日より十五日、又は二十日まで、諸侯は国王を訪問し。進物を献ずる
習慣であり、特に都においては、公方様(足利義輝)は至高の皇帝である故に、この習慣を守っていた。

公方様を訪問する者は、彼に服従しているわけではないが、みな高貴なる諸侯、又は身分高き坊主であり、
その際には各人、我が国の紙に比べて甚だ大きい紙(杉原紙)十帖と金扇を携帯するのが、古来の習慣
である。これらは献上の後、武士である僕がこれを受け取るのが例である。
そして公方様の母、及び后を同様に訪問し、或いは高価なる品、及び武器を献ずる者もある。

王は何人に対しても一言も発せず、ただ収入、及び所領多き数人の坊主に対し、少しばかりその手に
携えた扇を傾けるのみであった。

公方様を訪問出来るのは、その地位の名誉あり、また尊貴なるに因る。身分低き者は、たとえ黄金の家を
贈ったとしても訪問を許されることはない。
パードレ・ガスパル・ピレラはキリシタンたちの幸福のため、并びに異教徒がデウスの教えを軽蔑しない為に、
公方様を訪問する必要があった。また、これを成すことにより、パードレは公方様の保護を受けるに至る
ためにも、一人の大身の武士を介して、年頭にあたって拝謁をした。この人(大身)はおおいに
キリシタンに成ることを望んでいたが、戦争の際殺された。

日本人は外形を整えていなければ、その人を崇敬しないが故に、パードレはこの際、平常のごとくに
していては宮廷に入ることを許されず、主の栄光とキリシタンの幸福のため盛装をする必要があった。
最初の二回の訪問には。法衣と袈裟を着け、頭には朱頭巾を被ったが、他の二回はキモノを着し、
その上にポルトガルの羅紗のマントを着た。

『一五六五年三月六日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

足利義輝に対する正月の進物儀礼について

624 :人間七七四年:2020/10/10(土) 08:31:38.87 ID:CvXxK6f+.net
旧正月か

625 :人間七七四年:2020/10/11(日) 00:16:50.80 ID:21YW+/jL.net
私はパードレ・メストレ・ベルショールの同伴した少年の所有していた、金襴の飾りの在る
古い長袍、及び船室に用いていた古毛氈一枚を豊後より持参していたが、パードレはこの毛氈によって、
開いた広袖の衣を作り、この衣と長袍を着し、その上に甚だ美麗なる他の衣を着し、黒頭巾を被った。
私はキモノとポルトガルの羅紗のマントを着し、準備を整えた。

パードレは輿に乗り、私は他の輿に乗ったが、支那の大官の用いる、閉じ囲んだ椅子に似ていた。
十五、ないし二十人のキリシタンが同行した。私は他の品も持っていないため、硝子の大鏡、帽子、琥珀、
沈香少量、及び竹の杖を持参した。
我等の住院より公方様(足利義輝)の宮殿(二条御所)に至る距離は一レグワの四分の一にして、道は真っ直ぐ、
かつ平坦であった。

我等は先ず、身分甚だ高き料理番頭(大炊頭の事か)の家に赴いた。彼は公方様の宮廷に於いて最も重用
されている者の一人であったが、その時は外出していたためその長子が出て、我等を大いに歓待し、
鍍金の器を以てカカンゾキ(cacanzoquy)を与え(盃か)、次いでその父も来たが、我等は彼に沈香少量を贈り、
共にその家を出て宮中に赴いた。

公方様の邸は甚だ深い堀を以て囲み、橋によってこれを渡る。邸外には兵士三、四百と多数の馬があった。
パードレ及び私は中に入ったが、大身たちは皆大いに我等を厚遇した。我等は一室に入って暫く待っていたが、
これら武士はその外に居た。

次いでパードレはかの老人とともに、更に二室を進み、公方様が我等を待っている場所に到った。
老人は礼を成して退き、私は侵入したが、ここで私は尊師に証言する。私は今日まで、全く木造にして
このように好く、美事なる家を見たことがない。どういう事かと言えば、公方様の居られた室の布(襖か)は、
尽く金の繍を施して、蓮及び鳥を写した、甚だ精巧にして種々の技巧が加えてあった。
窓の格子は嘗て見たものの中で最良のものであった。

外より三番目の室に在った時、(我等を案内した)料理番頭をして、パードレの着していたカバ(マント)は
「メンズラシ」(珍しい)、即ち我が国語にて美麗なる物であるので、これを見たいと伝え、これを持ち去り、
直ぐに還付された。

次に一室の中央にある他の戸を開くと、そこに王妃(近衛稙家娘)が座しており、老人は沈香を献じた。
我等が戸の外より礼を成したる後、老人とともに公方様の母(慶寿院・近衛尚通娘)の家に行った。
この家は同一の地所の内に在るが、他の庭を有していた。我等は三、四の甚だ美麗にして、また装飾を施した
室を通り、一室に到ったが、室には多数の婦人が座していた。老人はパードレのために、定例の紙(杉原紙)、
及び金扇、私のために金色の磁器を公方様の母に献じた。次にカカンゾキ、すなわち飲むに用いる盃を
持ってきた。彼女が先ずこれを取り、次に婦人等をして、これを我等に与えしめ、また我等の間における
オリーブの実と同じ「サカナ」(肴)を、食事の際に用いるファシ(箸)、即ち棒を以て自ら我らに与えた。
もし宮廷で寵愛を得ようとする者ならば、これを以て名誉と喜ぶであろう。

公方様の母は某寺院の女長老、その他家人と共に在った。その静寂、謙譲、整頓された様子は、私をして
僧院に在るかのような思いを成させた。
公方様の母は阿弥陀の堂の戸を後ろにして座していたが、堂は清浄なる装飾を施し、阿弥陀の像は
端麗なる少年のごとく色彩を施し、冠を被り、頭より金の光線を発していた。
我等の主デウス、彼を導きデウスが創造主、および救主であることを知り、彼にのみ仕えるに
至らしめ給わらんことを。

我等は最初に立ち寄った料理番頭の家に到った時、彼らはデウスの事について長い説教を聞くことを
求めた故に、これに応じたが、彼らは大いに喜んだ。

『一五六五年三月六日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

フロイスらの、正月の足利義輝謁見の様子

626 :人間七七四年:2020/10/11(日) 16:42:48.86 ID:JOvvvpsA.net
阿弥陀にやられそうになってて草

627 :人間七七四年:2020/10/11(日) 18:39:26.73 ID:ZWUG2eHd.net
半島では洗脳おっと宣教に成功したんだよなぁ

628 :人間七七四年:2020/10/11(日) 19:44:13.54 ID:mQcjJQuN.net
まあ、猿と狸に退治されたわけだがの、

629 :人間七七四年:2020/10/12(月) 08:30:31.75 ID:oJamPMOk.net
犬が保護して猿と狸が迫害、ジャップランドは獣しかいない
今はチンパンかな

630 :人間七七四年:2020/10/12(月) 08:45:34.32 ID:t/jZIG41.net
「日本通信」版では「少年のように」だけど
1565年3月6日書簡版では
「幼子イエスのように」
とキリスト教徒としてかなりやばい表現という

631 :人間七七四年:2020/10/12(月) 20:59:54.06 ID:C1DTFX4U.net
稚児を犯す習慣のある日本に於いては少年より幼子の方が好ましい表現ですね

632 :人間七七四年:2020/10/12(月) 21:19:04.96 ID:SkVqJb7d.net
中国では寺の稚児は歯を抜かれたとか聞いたことあるけど、日本でそんな話しあったっけかなあ

633 :人間七七四年:2020/10/12(月) 21:41:50.30 ID:C1DTFX4U.net
和尚が小僧のケツにチンポ刺したら小僧のチンポが硬くなって和尚がチンポ貫いた!って驚く話ならあったね

634 :人間七七四年:2020/10/13(火) 15:18:14.69 ID:82vcNcd0.net
イルマン・ルイス・ダルメイダが(都から)豊後に向けて出発するために、キリシタンの希望に従い、
私は彼とともに復活祭の第二の八日目に、都の見物をした。
日本においてはしばしば散策し、寺院、その他古跡を見る習慣があり、都には多数の観覧すべき場所があった。
これを観るために、絶えず諸国の人々が集まった。しかしながら悉くこれを記述するのは不可能であるので、
私が思い出せる所を述べる。

我々は先ず30人のキリシタンと共に、日本全国の君である公方様の宮殿観覧に赴いた。キリシタンである家臣の
紹介によって入門を許され、休養のために別に設けられた家屋を見たが、私は今日まで見た中でも
最も清浄・爽快、かつ立派なものであり、その精巧なること、清潔なること、優雅なることに於いて、
これに並ぶ家を、ポルトガルに於いても、全印度に於いても見た記憶がない。

家の窓外には甚だ美しく、また珍しい樹木の庭が有った。杉、柏、蜜柑、その他我等の間に知られていない
樹木が植えられていた。それらは尽く人の手が加えられ、或いは鐘の形、或いは塔の形、また屋根の形、
その他様々な形を成しており、百合、石竹、薔薇、野菊、その他各種、色彩及び香気ある花弁が多数咲いていた。
彼ら(日本人)は心を慰めるため、好んで花弁の栽培を行うが故に、これを観る者には絶えず驚嘆すべき
事がある。我々にとっては特に珍しいものも有る。

同所より同一構内の他の庭に案内されたが、ここは遥かに最初の庭に勝っていると思った。
その厩は杉材の家で、屋内は全部、良き筵を敷いてあり、高い身分の諸侯を入れるに足りた。
馬はそれぞれ別の個室を有し、床、及び左右には皆板を張っていた。筵を敷いた所は馬を預けた者の居所である。

他の門を出て一の街路に出た。長さはリスボンのルアノバ(新街)の六、七倍、幅は二倍ほどで、
左右の木は皆甚だ美麗にして、高さはそれぞれ同じほどで、我等をして復活祭のときに用いたいと思わせた。
この街路はダイリ(内裏)、即ち日本全国の最も名誉あり、元は皇帝であったが、今は服従されていない
君主の宮殿に至るものである。
この内裏の諸建築はただ外部より一見し、またその庭もそのようにして観覧した。何故かと言えば、(内裏は)
これに仕える者以外は、何者も入ることを許さないためである。

この市(上京)を出て何れの方向に赴こうとしても、そこでは日本全国の中で最も清潔で、風景の良い田園が有る。
何故ならこの島(日本)は三百レグワの広さがあるが、全国に都に勝る所は無いからである。

同所を出て我等は真っ直ぐにして広く平坦たる街路を通行した。街路は城のように悉く門を備え、夜間はこれを
閉鎖する。こうして我等の通行した距離は、リスボンのセー(大会堂)よりボア・ビスタ街のエスペランサの
聖母の会堂に至る程である。この市街は緞子、その他の織物を製造加工し、また金扇、その他裕福層に
用いられる品を作る商人の家、及び事務所の在る所で、中央に阿弥陀の堂がある。全市中最も通交の多い
場所で、毎日、殊に午後、この時間は店を閉め用が無くなるため、多数の人が来て偶像に寄進を成し、
また祈祷を行う。

我等と同行したキリシタンの武士は、この堂を出て、今回改築した当国の長官の宮殿を観るため我等を案内した。
これについて述べるべき事は多いのだが、今はその庭園についてのみ述べる。但し公方様の庭のように各種の
樹木は有るが、その事については説かない。庭の中央に幅二十歩の湖水がある。水は金力によって二十三レグワの
遠方より引き、人の手によって造ったものだが、自然によって作られたような岩からここに流入している。
湖水の中に多数の島、及び小島がある。木及び石の橋によって、最初の島から他に渡る。そして皆、甚だ良い
樹木の下に有る。これについて私が記述する所は、実際の三分の一にも及ばないこと、疑いない。

『一五六五年四月二十七日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

フロイス達の京都観光の記録。この頃の京は戦乱などで衰退していたと言われがちですが、宣教師達は
非常に見事な都市だと認識していたみたいですね

635 :人間七七四年:2020/10/13(火) 16:09:06.10 ID:j42u0JCI.net
ポルトガルがお粗末なだけだよ

636 :人間七七四年:2020/10/13(火) 21:41:27.24 ID:hUql5rMY.net
衰退って言っても、戦後すぐの東京みたいな感じじゃね?
インフラは破壊されてて不十分で食料供給にも不安があるけど、人を集める力はまだまだある、みたいな

637 :人間七七四年:2020/10/14(水) 05:30:44.15 ID:uVKAm0a1.net
上京くらいは直したんじゃないの

638 :人間七七四年:2020/10/14(水) 21:02:59.89 ID:4443tF/k.net
小網神社御由緒

武蔵国豊島郡入江のあたりに萬福庵という観世音と弁財天とを安置する庵がありました。
この庵は恵心僧都の開基で、観世音と弁財天も僧都の作と伝えられています。
開基の年代は明らかではありませんが、
恵心僧都の歴史を考えれば、今からおよそ一千年前ということになります。

文正元年(西暦1466年)、庵の周辺で悪疫が流行し、人々は困り果てていました。
そんななか、網師の翁が海上で網にかかった稲穂を持って庵を訪れ、
数日間をこの庵で過ごしました。
ある夜、庵の開基・恵心僧都が当時の庵主の夢枕に立ち、
網師の翁を稲荷大神と崇めれば、村の悪疫は消滅することを告げます。
夜が明け、網師翁の姿は庵にはありませんでしたが、
庵主は恵心僧都の託宣を村人たちに告げ、翁を小網稲荷大明神と称え、
神社を創建して日夜祈願をつづけました。
すると間もなく村の悪疫は鎮まり、村人たちは歓喜したといわれています。

領主・太田持資公(道灌)も、この御神徳を聞き、
折に触れて、当神社を詣でました。
そして土地を寄附し、小網山稲荷院萬福寿寺と名づけたと伝えられています。
慶長年間(西暦1596〜1615年)には、
これらにちなみ周辺地域が小網町と名づけられ、当神社を氏神と崇めました。

以下略
https://www.koamijinja.or.jp/history.html

639 :人間七七四年:2020/10/15(木) 22:30:55.61 ID:PKG5DZ+s.net
>文正元年(西暦1466年)、庵の周辺で悪疫が流行し、人々は困り果てていました。
>そんななか、網師の翁が海上で網にかかった稲穂を持って庵を訪れ、

アマエビでもかかったのかと

640 :人間七七四年:2020/10/16(金) 07:47:46.53 ID:4lj8HkbF.net
舞鶴城と称された三春城を居城とする三春田村氏は、平安時代初期の征夷大将軍として高名な大納言・坂上田村麻呂の末裔を称していた。三春城下では次のような伝説が信じられていた。
「坂上田村麻呂の母・阿口陀媛は、夫となった坂上苅田麻呂が都に帰ってから子を出産した。阿口陀媛が下仕えをしていた家の主人が怪しく思い問いただすも、阿口陀媛は子の父の名を言わなかったため家の主人が子を捨てさせると、どこからともなく二羽の鶴が飛んできてその子を運んで育てた。人々はこの奇瑞に驚き、阿口陀媛のもとに子を戻して育てさせた」
鶴が育てたこの子こそ坂上田村麻呂であると信じられ、三春城下では鶴の包丁をしないという決まりごとがあった。しかし鶴の肉は縁起物として大変珍重されていたことから、鶴料理ができなかった三春田村氏や三春城下では鶴に見立てた三角形の食べ物で代用した。

愛姫生誕450年記念で舞い上がった地元が作ったアニメのパンフレットを眺めてて気になったちょっといい話
この話で真っ先に思い出したのは(●∀・)が家光を招待した時に鶴のつみれ汁を出してるし、同じく東北の伊達家では鶴料理に馴染みがあっただろうし
秀吉が天皇に鶴を献上して正月儀礼が鯉の包丁から鶴の包丁になって、公卿や大名にも正月儀礼の鶴の包丁が広まったりとか
伊達家に嫁いで以降に愛姫の前にも正月とか鶴料理が並んだことがあるのかな

641 :人間七七四年:2020/10/16(金) 08:25:23.02 ID:5kUSekXx.net
光秀が作った家康おもてなし御膳に鶴料理があった。御馳走だったんじゃないかな。

642 :人間七七四年:2020/10/16(金) 11:11:40.60 ID:uE7LJ6Tm.net
まとめの12366
伊達政宗とプロパガンダの影響
で伊達氏が坂上田村麻呂出生伝説を捏造して広めた話があったけど
影響はなかったのかな

643 :人間七七四年:2020/10/16(金) 15:01:47.11 ID:uE7LJ6Tm.net
よく考えたら阿口陀媛って「あくだ姫」だから
伊達家が奥浄瑠璃「田村三代記」を使って広めた「悪玉姫」の影響は受けてるようだ
(中世に流布していた「田村の草子」だと田村麻呂の母親は賤女とされる)

644 :人間七七四年:2020/10/16(金) 19:13:58.53 ID:SMG/JatR.net
三春町史なんかからまとめると
産湯とか遊んだ石とか大熊とか母を祀る社とか武芸を学んだ森とかが、戦国時代以前には阿武隈の坂上田村麻呂伝説として存在してたらしい
田村郡は一木一草に至るまで坂上田村麻呂伝説が宿ると言われるんだけど、阿武隈の伝説の要因は藤原姓田村氏も平姓田村氏も田村郡を支配したら真っ先に田村麻呂の子孫を名乗ってきた名残だとか

『田村の草子』の賤女が最も古いけど、三春田村氏は賤女を阿武隈伝説の阿口陀媛に変えて、田村麻呂の幼名を鶴に育てられた鶴子丸に改編して流布することで三春支配を強化した
この鶴子丸こと坂上田村麻呂をまーちゃんが利用するときに、領地で重要な伊達家ゆかりの熊野権現と千賀の浦(塩釜の浦、千賀の塩釜)から1字ずつとって幼名を千熊丸に再改編
田村大元帥明王から鹽竈神社に変更されてるあたりに戦国時代の権力の移り変わりが伺えるね

645 :人間七七四年:2020/10/16(金) 19:22:02.60 ID:SMG/JatR.net
>>641
鶴料理が普及したのは信長秀吉家康の頃なんだって
中国の影響で日本でも鶴は禁食だったけど、平安時代には既に公卿が隠れて食べてたり、鎌倉時代以降は狩りをする武士に食べられてたり
禁食を気にせず畿内で食べ始めたのは信長が家康をもてなしたあたりが転機で
秀吉が天皇に鶴を献上してから禁食じゃなくなった
家康の頃には鶴、雁、雉が三鳥として貴重な鳥肉扱いされたから乱獲されまくったけど各大名が禁狩礼を出して対応した
そこで鶴や雁が食べられない庶民や金のない大名は、鶴もどきや雁もどきで代用した

文章が変になったけどこんな流れらしい
鶴の包丁って本に載ってたんだったかな

646 :人間七七四年:2020/10/16(金) 20:53:24.71 ID:QFParjqv.net
記憶が確かなら、義植が山口に逃げたときに歓待した大内が鶴料理を出していたのをここで見た気がする
あと鶴の羹を出されて肝付が島津に激怒した逸話があるね
創作らしいけど

647 :人間七七四年:2020/10/16(金) 22:14:24.72 ID:vTbs50tw.net
その後鶴の汁にあたり申した
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10549.html

そういえば利家が鶴の汁を食べ過ぎてお腹が痛くなった話が前に出てた

648 :人間七七四年:2020/10/16(金) 22:39:44.95 ID:dGbp89+Z.net
寛永2年に伊達忠宗が仙台に入部した際政宗が忠宗に宛てた九ヶ条からなる覚書の一条にも
「鷹場之義、鶴・白鳥・鳫・鴨・うつら・ひはり、何にても少も無機遣、
何方をも身之遣ことくニ不苦候事、」

(鷹場では鶴・白鳥・雁・鴨・鶉・雲雀、何れも遠慮なく捕ってよい。
何処でも政宗と同様に鷹場を使ってよい。)

とあるし食べる機会は多かっただろうから普通に食してたんじゃないかな

649 :人間七七四年:2020/10/17(土) 01:44:13.52 ID:phvBLPVO.net
足利義植を饗応した大内義興は鶴の煎物(『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』)
徳川家康を饗応した織田信長は鶴汁(『天正十年安土御献立』)
後陽成天皇を饗応した豊臣秀吉は鶴あいの物(『行幸御献立記』)
徳川家光は大姫出産祝いで鶴の饗行、徳川吉宗は町奉行に御拳の鶴(将軍が狩りで獲った鶴)のあつもの、明治天皇の新年宴会に温物鶴……
室町時代前後から鶴食の例は増加してるけど鶴食せず神聖視してた三春の田村家は饗応がさぞ大変だっただろう

650 :人間七七四年:2020/10/17(土) 01:51:54.02 ID:phvBLPVO.net
「鶴はマナヅル、ナベヅル、タンチョウとあるがタンチョウは珍しく滅多にない」と記録が残るくらいタンチョウが貴重品だった
江戸時代初期には青山氏が松前から鷹と鶴を取り寄せる際、秋田藩主佐竹氏義宣に宛てて「松前から取り寄せた鷹と鶴が領内を通過するので協力をお願いします」的な書状が残ってる(『青山忠俊書状』)
盛岡藩が松前からタンチョウの活鶴をお取り寄せした際、松前藩への支払いはタンチョウ1羽10両で2羽購入、4日後に追加で1羽購入
約40年後、福井藩がタンチョウ1羽15両で購入してるため値上がりしていた
少し時代が違うがアイヌによる鶴の販売価格はタンチョウ1羽896文、並1羽672文であった、松前藩ぼったくり疑惑
戦国時代末期から明治時代の根室本庁と札幌本庁まで鶴の産出記録を残してるから面白いぞ
盛岡藩や津軽藩は松前を通じてアイヌから生鶴を買って飼育してたり
松前藩伝説の鶴職人岡田藤七は狩りで生涯300の鶴を獲ったけど卵から孵化させる境地まで達してたり
戦国から離れてくからこのあたりで

651 :人間七七四年:2020/10/17(土) 01:57:24.78 ID:phvBLPVO.net
ちなみに卵から孵化させた鶴なんかは特にだけど
生鶴で買ってきて飼育した鶴は懐いて後を着いてくるから死ぬまで飼うんだって
かの水戸光圀も飼い鶴に追いかけられたと残ってる
死んだら塩漬けにして肉や羽やを有り難く皆で分け合う

652 :人間七七四年:2020/10/17(土) 03:19:50.85 ID:PxjGZs6g.net
衛の懿公「呼ばれたような、嫌がらせされているような・・・」

653 :人間七七四年:2020/10/17(土) 12:16:05.25 ID:MAbhH7Td.net
>>652
利家「鶴を愛でても鶴にいくさをさせることはできないでしょ」
で鶴汁にして食べた結果が>>647

654 :人間七七四年:2020/10/17(土) 23:59:35.26 ID:nySHf8sO.net
利家は夜中、寝てる信長の警護を任されたほど信頼されてたと言う良い逸話なのに
下世話に男色関係だったとされてるなぁ…

655 :人間七七四年:2020/10/18(日) 16:11:36.19 ID:/O6R6YqR.net
腕枕して一晩中起きて守ってくれてるんだぞ
寝るまでピロトークなんかしてくれて
もう芯棒堪らんじゃないか

656 :人間七七四年:2020/10/18(日) 16:59:14.19 ID:/O6R6YqR.net
https://i.imgur.com/1Dv1sLp.gif

657 :人間七七四年:2020/10/20(火) 02:14:35.85 ID:Tgn36Jcn.net
こどおじには刺激が強すぎるんじゃないのか?

658 :人間七七四年:2020/10/20(火) 14:48:25.10 ID:/SKO6RgJ.net
当都の国内(畿内)に、奈良と称する人口甚だ多き町がある。数日間当地に滞在したが、広大にして
荘厳なる寺院が多数あり、特に三つの大いに注目すべきものがある。

一つはエボラ(ポルトガルの大司教が駐在する都市)の門の塔と同じ程の高さで、甚だ大きな
金属の偶像(大仏)である。私はエボラの出身であるのでこのように比較するのだが、一羽の鳩(境内には
多数の鳩がある)が、この偶像の頭で羽を休める時、下より見た者には、甚だ小さな雀のように見えるを
以て、このように断定した。手のひらは男子の大股での一歩の広さがあり、顔は幅約四パルモである。
この像の両側に他の二つの像があり、殆ど同じ高さである。他に木の立像が二つある。高さはレシオ
(リスボン市のロシオ、即ちドン・ベルド四世広場)に行く下の門の外壁と同じ程である。
その側に至って、悪魔の巨大なことに驚いたほどである。
この寺院は参拝者が甚だ多い。

第二は多数の鹿の在る事である。市内に在るのは三、四千であろう。この寺院に属し、良く人に馴れ野に出て
草を食って帰る。市街を歩行すること犬のごとくである。
彼らは寺院及び偶像に属するが故に、諸人これを尊崇し、もし鹿一頭を殺す者があれば、その罪によって
殺され、財産は奪われ、一族は滅ぼされる。鹿がもし一街にて死することが有れば、同街はその鹿が死んだ
理由を説明する義務があり、もりこれを成さざれば大いなる罰を受ける。

第三は、町内に広大にして深い湖水(猿沢池)のある事である。湖水には魚が充満し、その大きく、かつ多数
なること実に驚くべし。もし人が湖水の岸にて手を拍てば、そのようにして魚に食物を与える習慣なるが故に、
数えることも出来ないほど多数の、かつ甚だ大きな魚たちが来集するのである。
またこの魚も、寺院及び偶像のものであると称してこれを殺さない。彼らは、湖水の魚を殺す者は癩病に成るのだと
信じ、この恐怖のためこれを行わない。
坊主はこの魚を食することを、重大なる罪悪であるとし、これを重大視するが故に、もし魚を食す者があれば、
直ぐに司祭の地位から退かされ、俗人と成る。
このように彼らは、罪では無いことを大いなる罪とし、本来罪悪とすべきことを甚だ軽視している。

この地には又、牝鶏が無数に在る山がある。これも偶像に属するが故にこれを殺さない。
他にも多くの事があり、数ヶ月を費やしたとしても、観尽くし語り尽くすことは出来ないだろう。

当地においてはしばしば、悪魔が彼らと語ることが有る。狐、蛇、その他類似の獣類の形でしばしば現れる、
また夜間、死者の墓より、青く恐ろしい炎を発することが有り、その死者が地獄に有る証拠だと云う。
また死体を墓地に運ぶに当たり、悪魔が空中に在ってこれを奪うことが有る。またしばしば、人の体内に
入ることも有る。このため諸人は大いにこれを恐れ、壮麗なる寺院を建てて、前記の像を置いてこれを
尊崇する。諸侯は戦争に於いて勝利を得んことをこれに祈り、多額の寄進を成す。諸人大いにこれを尊崇する。
彼らは(傲慢で有ることを以て)その領土を奪われることを甚だ恐れるがゆえに、彼らに服従する者達に
対し、力の限り努力して当地に有るコンパニヤの人を迫害せしめ、その死を希望している。
然れども上よりこれを許されざるが故に、悪望を抱くにとどまり、その罰を受けて大いに苦しむ。

『一五六五年九月十五日附、パードレ・ガスパル・ビレラ書翰』(日本耶蘇会通信)

東大寺大仏殿の戦い以前の、奈良の様子。この時代も大仏、鹿、猿沢池が最大の注目点なのですね。

659 :人間七七四年:2020/10/21(水) 15:37:58.57 ID:ueT0Ekm0.net
約十日前、甚だ高貴にして善良なるキリシタンが当地に到着したが、彼は用務のため、他の国に至る途中、
この堺から十三レグワの高野山を通過した。

この高野山は、コンボーダーシ(弘法大師)を生きながら埋葬している。彼は甚だ悪しき人物であるが、
彼等(日本人)の間では、最も高き神の一人とされ、これを葬る時、「何人もその墓所に来ることも、また
触ることもすべからず、彼は死するに非ず、休息するものにして、世界の破壊される時に復活すべき」と
云ったという。

同所には五千人の坊主があり、甚だ憎むべき生活をしている。諸国の身分ある者が死した後、その身体を焼き、
その歯を高野に送り、石に称号を認めて墓に葬る。彼等は弘法大師の側にその歯を埋めた者は、直ぐに聖徒と
なるべしと信じている。

日本において、宗教の事に対する尊敬が非常であることは、この悪魔の前に、五百年以上、昼夜四千の
燈火が燃えていることによって知るべきである。この燈火は王侯が同所に供えたものであり、絶えず火を
點ずるため多大の収入が附せられている。
ここに燈が三、四個あり、百余の燈芯を具え、四個の松明よりもさらに光輝がある。
しかして油は、日本においては甚だ高く、特にこの地方において高く、甚だ悪しき物も、一皿金貨一バルドン
(インドの貨幣にしてポルトガルの三百レアルに当たる)の値である。

『一五六六年九月五日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

高野山についての報告

660 :人間七七四年:2020/10/21(水) 16:11:10.20 ID:6Gz0OqdU.net
>>659
コーンポタージュの何が悪いのか一切説明がないな

661 :人間七七四年:2020/10/21(水) 16:58:33.56 ID:3D2YfK1D.net
神田千里「宗教で読む戦国時代」からの孫引きだが
1565年1月20日のフロイス書簡だと
「この人物は、彼以前には全く知られていなかった、自然に反した憎むべき罪(同性愛)で日本を汚染し、
日本でそれを教えた最初の人物である」
と書かれているようだ

662 :人間七七四年:2020/10/21(水) 17:40:55.83 ID:6Gz0OqdU.net
>>661
へええ
ググったら確かにそういう俗説があるんだな、知らなかった
江戸時代の書物に書かれているとあったが、戦国末期には既に流布していたということか
外国人で一時滞在のフロイスが耳にするということは結構広く話されてたんだな

663 :人間七七四年:2020/10/21(水) 17:46:35.06 ID:FirV82We.net
キリスト教からしたら商売敵なうえに
キリストが神たる理由の復活をするし、その上禁止の同性愛をこちらでは認めてる

ってところが悪魔だの悪しきだの言われてる所以なのかな

664 :人間七七四年:2020/10/21(水) 22:20:58.70 ID:844VNxoE.net
弘法大師って宗教的なイメージ薄いよな
香川だと特に、溜池作った人になってる

665 :人間七七四年:2020/10/21(水) 23:56:47.96 ID:6Gz0OqdU.net
>>664
俺的には日本全国で杖を突いては温泉を噴かせて歩いた人って印象

666 :人間七七四年:2020/10/22(木) 00:31:51.43 ID:inicLnzb.net
>>654
夜の警護が利家だけなわけないじゃん
いつ寝るんだよ

667 :人間七七四年:2020/10/22(木) 00:31:52.31 ID:AywwUuma.net
ではその香川から

太刀受けの阿弥陀如来

戦国時代、土佐の長宗我部元親が讃岐を平定しようと、阿波から乱入してきた。そして本山寺を
本陣としようとしたが。この時の住職は
「ここは殺生禁断の地であり、立ち入られては困る。」
と言って、長宗我部軍の要求を拒否した。
すると兵士たちは、やにわに住職を、一刀のもと斬り殺した。

そして寺院の中に入ろうとすると、先程斬り殺したばかりの住職が本堂の縁側に立って、兵の侵入を
拒んでいた。これは不思議なことだと思って彼等がよく見ると、赤い血の跡が点々として、本堂の
内陣の中まで入っていた。尚もその跡を辿ったところ、厨子の中にまで血の跡は続いていた。

厨子の扉が少し開いていたため中を覗くと、脇仏の阿弥陀如来の、右の肘から血が流れていた。
「さては阿弥陀如来が住職の身代わりの成ったのか」と恐ろしくなり、長宗我部の軍は早々に
引き退いていったという。

これ以後、その阿弥陀如来は「身代わりの阿弥陀如来」と呼ばれるようになった。

『巡礼と遍路・寺々の物語』

668 :人間七七四年:2020/10/22(木) 07:59:12.36 ID:JQqpQXTA.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5989.html
同じ話は前にも出てた

669 :人間七七四年:2020/10/23(金) 12:31:13.63 ID:7OBGeLbI.net
美濃国の住民は、生来甚だ良く事理を解し、大いに救いを望むことを示している。
右の坊主が当所(堺)に於いて語った所によると、美濃の王(斎藤龍興)は甚だ有名なる
禅宗の坊主を師としていた。この坊主は三十三問を列記し、これに解答を与える者があれば
その宗派に服従すべし、と云った事は昨年の書簡にて通信したが、同国にこれと意見を事にする
他の学問有る坊主あり、王は彼等を呼びその面前に於いて両人に討論を命じたが、三十余問の人が
負けたため、王は他の宗門の門弟と成った。

この第二の人はその後、同国及び多数の学者の面前に於いて。禅宗の他の一派の坊主と議論を成して
負けたため、王はこれを捨てて第三の人の宗派に入門し。これを己の師となした。

この話を伝えた坊主(今はキリシタンとなった)は、「これによって美濃国に平和があり、国王が
デウスの事を聴くに至れば、彼、并びにその国の大部分をキリシタンと成ること、甚だ困難ではない」
と云った。

この坊主は信頼すべき持参人であるため、私は同所にあるキリシタンの武士に書簡を送り、
もし機会があれば王に語って聴聞を勧め、王がその意を決するに至れば、デウスのことを説くべき人を
同所に赴かせるため、私にこれを通知することを求めた。

美濃国に於いては、諸人、先祖の奉じた所を重んぜず、最も道理に適したことを尊重するが故に、
道理の作者を信奉する傾向が少なくない。
最も愛する者よ、主が彼等に知識と恩寵を与え、救われるに至らしめ給わらんことを祈れ。

『一五六七年六月十二日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

美濃について。
龍興の、禅宗などの師を取り替える云々と言う話は、義龍の時代の、法華宗から禅宗に転じたことや、
美濃国内における快川と別伝宗亀の対立などの事を現しているのかと。

670 :人間七七四年:2020/10/23(金) 13:05:40.94 ID:qrBf/VJQ.net
信長と敵対したのに非常に有能で思慮深いと評されてるから信長がカスだったんだな

671 :人間七七四年:2020/10/23(金) 13:16:50.01 ID:wHTOLy3/.net
もともと義龍のわがままで幕府を巻き込んで別伝の乱を起こしてすぐ死んだから
龍興にとってはどうにもならないことです

672 :人間七七四年:2020/10/23(金) 14:24:05.92 ID:3JjE8KMV.net
>>669
こういう、諸国の人の気風を紹介する話は非常に興味深いな。
義龍・龍興期の美濃は、旧来の幕府体制の権威によった統治だから
どちらかといえば前例主義なのかなと想像するんだが、その実気風は合理主義というのはどういうことか。
幕府の権威を利用しながら内実は道三譲りの実力主義だったりするのか、
あるいは単にフロイスが見聞きしたのがそういう人が多かっただけなのか。

673 :人間七七四年:2020/10/25(日) 01:25:47.09 ID:TcotcfKQ.net
しかるに土岐一族の明智日向守光秀は弘治2年(1556)の秋に当国(美濃)を出てその翌年より
6ヶ年の間、国々を遍歴してその後に織田信長公に仕え、15年の内に68万石を領した。もっとも
智謀軍慮を兼ね備えていた徳である。

しかるに、主君の信長公は元来良智の大将なので、折に触れ時に寄せて光秀を召され諸々の事を尋ね
給う。しかしながら光秀は、一度もその問いの趣を知らないということがなかった。

ある時に織田殿が光秀に尋ね給うには、「汝は諸国を修行したので、およそその国の人の風俗の善悪
を知っていることだろう。どの国は善であるのか、かつどの国は悪いのか、その心を見たるところが
あらば、語り聞かせよ」と宣う。その時に光秀はあらまし国々の人風を言上するに及ぶことがあった。

しかしながら光秀は諸国修行を志してその国を領する太守の政道、将の心持ち、家中の諸士の剛臆を
見て、仕官を志していた故に人風を知るはずもなくとも、少しずつ日を重ねて逗留する内にその地の
人に接して察しただけである。しかしその察したことが、格別(信長の望むところと)相違していな
かったところは、もっとも御感あったことであった。

中でも美濃国は光秀の生国なれば、風俗の良き国と言うのも如何なものかと(信長へは)申し上げな
かったものの、元来濃州は代々良将の住む国故、おのずと人風もよろしき国であると(光秀は)家臣
などへ話したのだという。

これによって古は知らないが、近代に濃州より出でてその名をいささか知られた武士について、あら
ましを挙げきれない。もっとも土岐・斎藤の一族だけに限ったことではない。

明智日向守光秀、蜂屋出羽守頼隆、妻木長門守忠頼(省略。美濃出身の武士を列挙)この他に当国よ
り出でて大家に仕官の面々は数多ありといえども、際限なきによりあらましはここまでを記した。

――『美濃国諸旧記』

674 :人間七七四年:2020/10/27(火) 00:30:24.00 ID:AXIGWCDj.net
永禄十二年(1569)四月二日
織田弾正忠(信長)の所へ罷り向かった所、留守であったので二条城の普請を見物して帰った。
石垣三重は悉く出来上がり、また南巽のだしの石垣も出来、今は東のだしについて、少々出来ている。
この方にあった近衛の敷地は、悉く奉公衆の屋敷となった。不運の至である。

織田信長の使いの木下藤吉郎が岡殿の所へ参ったので、私も参った。丹州の知行、佐伯の南北両庄について、
細川右馬頭が代官職を内藤五郎に渡さないため、この内藤に、木下が相添えてこれを進め、代官を
仰せ付けると申したことで、近く両人に様々に問答を加え、この両庄より八十石を岡殿に進納することに
定まったという。羨ましい事である(御浦山敷事也)
藤吉郎と対面し、盃を下した。

(言継卿記)

義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について

675 :人間七七四年:2020/10/31(土) 00:23:39.93 ID:CqjrL7Qy.net
最も愛するパードレよ、前の続きに立ち戻り、我等の最も大なる敵である霜台(松永久秀)は、和田殿(惟政)が
信長を訪問するため、私を招くことを命じ、私が都に到着したことを聞くと、霜台は私に先んじて
信長を訪問し、私が到る所は悉く擾乱し、破壊されるが故に、再び放逐することを懇願した。

信長はこれを笑い、「一人が都のように大きな都市に在って、一国を擾す原因と成るなどと考えるが故に、
汝の心は甚だ狭いのだ。」と云った。しかして、彼の顔色が悪しき時は、これに抗弁し、またこれを
見上げる者は無い。

私はロレンソ、ベルショール、アントニオ、及びコスモ、並びに主立ちたるキリシタン達と共に城に到ったが、
彼は内に在って休息し、音楽を聞いていた。このため佐久間(信盛)及び和田殿が、私が携えてきたもの、
即ち尊師が三年前、豊後より私に贈った天鵞絨(ビロウド)び帽子、及び鏡、ベンガラの杖、及び孔雀の尾、
等、富に関する諸人の考えによれば、私からの贈りものとして価値少き物を、彼に運んだ。彼は他の品を
不必要であるとして、帽子のみの受納し、私が来たのを喜び、「他日、閉暇ある時に面会すべし。」と告げた。

佐久間殿は内より多くのサカナ、即ち食物を容れたゼキンロ(食籠:金を塗った小筥)を持ってきて、
和田殿と共に挨拶し、私に何を与えるべきかと語った。
両人は私を送って外に出、美しき辞を述べ、好意を表して別れた。而して、この光景を見て大いに驚きたる
群衆を意に介さなかった事はここに説かない。

その後信長は、和田殿及び佐久間殿に対し、私を引見しなかったのは、数千レグワの地よりこの教えを説くため
日本に来た外国人に対し、いかなる礼儀を用いるべきか解らず、また密に面会する時は、私が彼に洗礼を
授けるために赴いたと、懸念する者が出てくるのを恐れたためだと云った。

『一五六九年六月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

フロイス達の信長への訪問について

676 :人間七七四年:2020/11/02(月) 14:21:50.00 ID:gpMCPYrC.net
公(池田光政)が東照宮(徳川家康)に御目見得有ったのは、五つの御歳であった。
その時、御脇差を拝領し、公が御膝下近くに居られたのを、東照宮は公の鬢髪をかきなでて

「三左衛門(池田輝政)の孫であるか、早く人になり給え」

と仰せになった。この時公は、御拝領の脇差をするりと抜いてご覧になった。東照宮は「これは危ないことだ」
と、ご自身で柄を持たれ、鞘に納められた。

公が退出される時、「眼光のすさまじき、只人ならず」との東照宮の上意が有った。

公が未だ幼き時、夜ごとに寝床に入られても、眠られること無く、夜明け頃にわずかに枕に伏された。
近侍の人々は怪しみ、「いかなる事でしょうか?又は患われている事でもあるのでしょうか」と尋ねたが、
しかじかと答えられなかった。

ところがある夜より、非常に良く寝られるように成った。そこで近侍の人々も又々その故を問うた所、

「私は父祖のお陰で、このような大国を賜っっている事は、自分の分に越えた事だと思っている。
然れば、この国民をいかがして治め養うべきかと、様々に心を尽くして思慮していたために、久しく
寝られなかったのだが、思いついたことが有って、昨日論語を読ませて聞いたが、そこで私は
『君子の儒となりて、国産を教えやすんずべき』という事を知った。
これを決断した上は、別の思慮も無く、良く寝られるようになった。」
と仰せになった。
(御歳十四の御時の事という。一説には公が学問を思し召し付かれた最初である)

(有斐録)

池田光政の少年時代のこと

677 :人間七七四年:2020/11/04(水) 15:34:53.38 ID:bivcHs1J.net
尾張の王(信長)への訪問後二日を経て、和田殿(惟政)は多数の兵を率いて当地に来たり、
「公方様(足利義昭)が私を引見することを協議したので、速やかに準備すべし」
と云った。

彼はすぐに宮殿に到って、私を待ち受けた。公方様は彼を甚だ寵愛しているがゆえに、私が何人で
あるかを告げ、パードレの名誉・地位を月の角の上に置かんとした。
私は人を堺に遣わし、ローケよし借り受けた美麗なる孔雀の尾を持参した。

公方様はその盃を私に与え、和田殿は私の次にこれを受けた。尊師の知られる如く、公方様は日本の
彫像にして、これを訪問する者に、一言をも述べるのは極めて稀な事であるが、この時は二回、和田殿に対し
私に勧めて飲ましむべしと云い、次に、彼に贈った品を喜んでいることを告げた。

私が座を立った時、彼は後より密かに座敷の戸を見、私の身長がどれほどかを計った。
我等が外に出た後、和田殿に対し常例の挨拶をなし、「公方様がもし、印度の品にて好むものが有れば、
我等は喜んでその命に応ずべし。」と述べると、彼はこの事に付き尽力し、支那の船が来た後、自分に
告げるようにと伝えた。

この訪問は、我等が都に滞在するための手始めであるが、主要にして最も確実なのは、ゴシュインと称する、
朱の印の免許状、すなわち我が国の国語にて、信長の命令、及び公方様の免許状、即ちゴゼンジ(御宣旨)
を入手する事であり、中でも信長の免許状は特にこれを請うたが、和田殿はこの交渉を引き受けた。

『一五六九年六月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

フロイス等の足利義昭への謁見について

678 :人間七七四年:2020/11/04(水) 20:51:01.23 ID:kyhY7BdG.net
>>677
月の角の上ってなんでしょ
原文が日本語の直訳で再翻訳したらよく分かんなくなった感じ?

679 :人間七七四年:2020/11/05(木) 16:42:15.50 ID:rOtplAZH.net
朝山日乗は、『禁中の御殿が破壊したことの、御修理の営みを勤めよ』との夢のお告げに任せ、重大の知行、
相伝の家人をも打ち捨てて、出雲国より侘びしき体にて上京し、近衛龍山(前久)公に対し、その旨を
望んだ所、正親町天皇の勅によって参内し、御修理の営みを催した。

この話を織田信長公お聞きになり、その志の妙なるを感じられ、召し出され一両年も試みに使われた所、
美しい心映えであり、何事につけてもはかどって行う者であるとして、旧功の村井長門同然に、禁中方の
御修理を仰せ付けになった。そして万事、流れる水のように仕事が進んだ事で、山城国西院にて、
三千貫の地を下された。これは小泉という者は、勘当を蒙り牢人と成った跡職であったのを、その小泉の
家人たちも含めて恩賜されたのである。

(甫庵太閤記)

朝山日乗について

680 :人間七七四年:2020/11/06(金) 07:32:35.54 ID:8HRlh5Fr.net
いかに口上手でもデウスの前では無意味である

681 :人間七七四年:2020/11/06(金) 07:47:17.39 ID:ipTx84SS.net
フロイス「日乗は日本のアンチキリスト、又は肉体に宿りたるルシフェル」

682 :人間七七四年:2020/11/06(金) 09:51:10.17 ID:8HRlh5Fr.net
サタンではなくルシフェルと言ってるのが最高の賛辞だね

683 :人間七七四年:2020/11/06(金) 13:59:28.90 ID:ZA1G15La.net
私(蒲生氏郷)が儒道歌道茶湯ばかりに心がけていた頃、弓矢修行を仕っていた斎藤内蔵助(利三)と言う者が申すには、
「入らぬことに心を尽くすより、家職に心を入れよ」と云い、私は度々諌められたのだが、若輩故か、さほども
耳に留めず、そのまま打ち過ぎていった。

そんな所に、織田信長公が江州観音寺へ御出馬され、先手は伊賀衆、二番に美濃衆・近江衆の寄り合い勢であった。
その中に私も在り、敵に打ち向かっていた所、斎藤内蔵助はただ一騎来たりて、
「伊賀衆は今日先手を成すが、軍立、足軽の使いようが非常に乱雑に見える。あれでは城中より人数を押し出し
かかって来れば、敗軍するだろう。

その方、備えを西の山本、竹藪の内に隠し置き、先手が崩れたならば通し過ごし、敵陣の真ん中に横入りに
駆け入れば、必ず勝利を成すだろう。

また、崩れず恙無く引き取るようであれば、その時は伊賀衆に乗り向かい
『今朝よりの御働きのため、御草臥れに成られたことでしょう。私が入れ替わって跡を受け持ちます』と
断りを入れて殿を仕れば、これも高名となる。両方とも変わらない。」

そう申したので、その意に任せ、西の山本竹藪の中に人数を入れて待っていた所、案の定、伊賀衆は深入りし
観音寺の足軽に押し立てられ敗軍した故に、私は横入りにかかり、敵は逆に敗軍し、十四、五町追い討ちをし、
三十人ばかりの首を討ち取り、信長公の御目にかけた。そして『若輩が神妙の働きである』と、御感になり、
二字國俊の御腰の物を拝領仕った。

それ以降、斎藤内蔵助の異見の如く、武士に遊芸の誉れは要らぬと会得したのである。

(蒲生飛?守氏ク書状之写)

蒲生氏郷が、斎藤利三に武士としての有り様を教えられたというお話

684 :人間七七四年:2020/11/06(金) 16:11:28.16 ID:bqJKElpR.net
なんで斎藤利三は蒲生氏郷に対してこんなに偉そうなの
方や当時は稲葉一鉄の家臣、こなた信長の娘を娶り自ら烏帽子親を務めたほどの御曹司
弓の師匠であっても戦場では身分違いで気安く指示するような立場ではなくね?
あるいは軍監として付けられてたとか? でも陪臣を軍監として他の家の軍勢に付けたりするの?

あと斎藤利三も蒲生氏郷も結局のちのち茶の湯はやってるじゃんというツッコミも

685 :人間七七四年:2020/11/06(金) 19:46:27.34 ID:FyEF9E1t.net
>>679
怪しい男だよなこいつも
尼子家臣だったのに京に逃げて近衛に気に入られるとかどういうことなんだか

686 :人間七七四年:2020/11/06(金) 23:15:19.49 ID:Q61bka++.net
>>684
この場合の弓矢って弓術じゃなくて戦のことじゃない?
アドバイス自体も「こうやるとどう転んでも手柄になるよ」って感じだから
受け入れ易いと思うし

687 :人間七七四年:2020/11/07(土) 22:42:13.47 ID:8aJnR1j9.net
近江の国人の蒲生と美濃の国人の稲葉と斎藤の三者は身分違いつえるほど身分は違わないから特に違和感はないな

688 :人間七七四年:2020/11/10(火) 10:19:40.67 ID:4Md3hubl.net
「相馬利胤と競馬」(『中泉記』より)
関ヶ原の合戦後、佐竹氏と親密な関係を結んでいた相馬氏は、佐竹の与力大名と目され改易を申し付けられた。
家中は佐竹を頼って秋田へ行くべき派と、先祖代々の地を枕に討ち死にする派で分かれたが、若き当主利胤は家臣たちを制して
「私が直々に江戸に行き、内府様に弁明する」と主張、江戸に出立した。
上杉と対陣した証拠を以て、相馬は徳川に弓を引いてはいないと説明する利胤に対し、家康は取り合わない。
しかし本多忠勝や本多正信は若い義胤に同情し、家康に執り成しをした。
すると家康は「儂の馬と相馬殿の馬とで競馬をし、相馬殿が勝てば所領安堵しよう」と言った。


競馬勝負の当日、家康が用意したのは南蛮渡来のアラブ馬。
一方義胤が駆るのは国産の小型馬。
馬力はさておき、競争をすれば前者が勝つのは目に見えていた。
仕切り役の忠勝の号令を合図に二頭の馬は走り出すも、障害の空堀をひょいひょい飛んでいくアラブ馬に対し義胤の馬はどんどん置いて行かれる。
その時、一発の銃声が鳴り響いた。予め忠勝が用意していた空砲である。
家康のアラブ馬は驚きつつそのまま駆けていったが、義胤の馬は空堀の中に落っこちた。
すると忠勝が「勝負あった」の法螺貝を吹いた。
「この競馬勝負、相馬殿の勝ちである」

689 :人間七七四年:2020/11/10(火) 10:23:19.39 ID:g76GPFP8.net
納得いかないのは家康である。
「儂の馬の方が先を走っているし、相馬の馬は堀に落ちているではないか!?」
それに対し忠勝
「殿、戦場で銃声が聞こえた際にそのまま駆け抜ければ馬も主人も死に申す。
 銃声を聞いて馬と共に穴に身を隠すことこそ優れた馬術です」
忠勝に仕切りを任せた以上文句の言えなくなった家康は、仕方なく義胤の主張を認め、相馬氏は
宇多・行方・標葉三郡の所領を安堵されたのだった。

相馬が助かった話としては政宗の執り成しが有名だけど、本多忠勝・正信の助力もあったという逸話。
後世の創作だろうけれど、十代の若い義胤とそれを応援する忠勝と正信という組み合わせが実に「いい話」だなと思ったので。

690 :人間七七四年:2020/11/10(火) 12:17:45.87 ID:DY8T00l1.net
利胤と忠勝と正信の3Pがまず思い浮かんだ

691 :人間七七四年:2020/11/10(火) 16:58:23.22 ID:wpOwM4Wp.net
義胤と利胤がごっちゃになってる気もしますが利胤の方が先に亡くなったんだっけ。

692 :人間七七四年:2020/11/10(火) 18:09:23.13 ID:H7SAkb6f.net
そんな伝統のある相馬の馬追いも、今はもう・・・

693 :人間七七四年:2020/11/11(水) 07:44:49.43 ID:BaehEZZH.net
馬と交尾する伝統か

694 :人間七七四年:2020/11/11(水) 13:02:34.18 ID:Zd444FhI.net
日本の真の王である内裏の顧問にして、甚だ身分高き人である公家達は、和田(惟政)殿に対し、
堺より都に至る道路に於いて、税(通行税)を徴収することを、彼等に許可すること切願した。
この収入は甚だ巨額なるもので、尾張の王・信長は、庶民の税を軽くするために、その徴収を免じたのだが、
再びこの徴収を再開することに関しては、総督(和田惟政)の一存に任されていた。

和田殿は公家に対し、
「この事、その他何事につけても自分の好意を得んと欲せば、彼等はただ一事を行えば、一切の報酬として
これを受けるだろう、即ち、ルイス・フロイスの事について内裏に話し、フロイスが謁見の許可を得、
また朝山日乗に与え、フロイスたち宣教師を追放し、会堂を奪った免許状を撤回することである。」
と云った。

しかして彼等の中、何人もこの事について内裏に語ることを欲さなかったために、その死に至るまで
和田殿は、彼等の請願した所を許可しなかった。

『一五七一年九月二十八日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

堺から京への関銭についてのお話

695 :人間七七四年:2020/11/13(金) 13:16:21.10 ID:/e0b8jSQ.net
日本政府がドイツの慰安婦像に猛抗議したせいで旧日本軍がドイツ人女性をレイプして慰安婦にした歴史が明らかにされてしまう

旧日本軍、戦争中にインドネシアでドイツ女性数十人を性的暴行=オランダメディア | Joongang Ilbo | 中央日報
https://japanese.joins.com/JArticle/272208?servcode=A00§code=A00
オランダの調査報道専門ジャーナリストが韓国通信社「聯合ニュース」とのインタビューで
旧日本軍が組織的にドイツ女性たちに性的暴行を加えたと明らかにした。

オランダの調査報道ジャーナリスト、グリセルダ・モレマンズ(Griselda Molemans)氏は
11日(現地時間)、聯合ニュースとの書面インタビューでオランダ戦争資料研究所(NIOD)と
米国国立公文書記録管理局などが探した資料を根拠にこのように話した。

モレマンズ氏によると、戦争当時である1942年3月初めからオランダ領であるインドネシアのジャワ島東部
ブローラ村で旧日本軍48部隊が未成年者を含むドイツ女性たちを性的暴行した。モレマンズ氏は
「30人の女性と少女がいる建物に移されてから、その建物は軍隊の慰安所の役割を果たした」と伝えた。
特に、配偶者および子どもの前でドイツ女性たちに対する性的暴行が行われ、
一日に19回の性的暴行を受けた女性もいたとモレマンズ氏は聯合ニュースに伝えた。

モレマンズ氏はインドネシアにドイツ女性たちがいた理由について
「ドイツ女性たちは教師、または農場主や石油技術者の妻だった」とし、オランダ戦争資料研究所の
証拠資料が公開されていないのでドイツでは日本のこのような戦争犯罪が知らされなかったと話した。
モレマンズ氏はオランダ戦争資料研究所にある証拠資料が2026年まで非公開となっているが、
弁護士を通じて関連書類に接近できたと話した。


今頃バカウヨはお得意のライダハンとか持ち出して話の摺り替えに必死なんだろうな

696 :人間七七四年:2020/11/13(金) 14:22:09.65 ID:p0cOtjDA.net
世界史の教科書にも出ている
1623年にインドネシアのモルッカ諸島のアンボイナで起きた
アンボイナ事件では、イギリスインド会社に雇われた日本人傭兵へのオランダ当局の拷問が発端で
オランダにより現地のイギリス人や日本人傭兵が虐殺されてるけど
これはこのスレの範疇になるのだろうか

697 :人間七七四年:2020/11/13(金) 14:59:13.29 ID:RQdLfB1T.net
アフィまとめに掲載できないので無視されます

698 :人間七七四年:2020/11/13(金) 15:07:24.83 ID:o0ronpL+.net
>>696
徳川光圀の話とか載ってた事あるし、いいんじゃない?

699 :人間七七四年:2020/11/13(金) 17:03:57.49 ID:btSWIwXi.net
九条玖山公(稙通)はまた、勇猛ある御人であった。
当時、鬼神のように世に恐れられた織田信長公には、何れの公家門跡も媚びへつらっていたのだが、
玖山公は立ちながら差し向かい

「上総介か、入洛めでたし。」

と宣って帰られた。これに信長公は機嫌悪しく
「九条殿は、我に礼を言わせに来られた。」
と、ご立腹なされた。

この事について、『例え一命を失っても公家の行跡を見た。御家に恥を残すまじき。』
と、褒め称える人々が有る一方で
『先ず時に従わない、不用の御事である』と、そしる者も有った。
また『智者は惑わず、勇者は怖れず』とあるが、この玖山公の行為こそその事であると、褒める輩もあったとか。

(戴恩記)

700 :人間七七四年:2020/11/13(金) 17:10:35.32 ID:u5KAX4m3.net
竹内季治
元亀2年(1571年)織田信長のことを「熟したイチジクの如く木より地上に落ちるだろう」と評したことから信長の逆鱗に触れ、同年9月18日に近江国永原(現在の滋賀県野洲市永原)で斬首された。享年54。

安国寺恵瓊より先に予言してましたね

701 :人間七七四年:2020/11/13(金) 21:52:41.95 ID:ftvIJXUc.net
>>695

下手したらヒトラーの逆鱗に触れて西部戦線で講和。
英独米連合軍相手にせなならん話になるで。

702 :人間七七四年:2020/11/14(土) 00:27:01.22 ID:19Eg75WB.net
大将の志というものは、死の寸前まで捨てるものではない

賤ヶ岳の戦いで敗北し捕われの身となった盛政は、秀吉の前へ引きすえられる。
この時秀吉は盛政の戦いぶりをほめ「合戦の勝敗は時の運、どうじゃ、わしに従わぬか?」
「それがしがもし御身に従おうとも、いつかはは必ずお手前に抗い叔父勝家の無念をお晴らし申す。いかなることがあろうとも勝家に叛く卑怯者にあらず。 遠慮なく首討たれよ」
かくして六条河原の刑場へと引かれた盛政に、検死の浅野長政が「捕らわれの身になりながら、叔父の無念を晴らしたいとは笑止千万。広言を吐くは身のほど知らずよ。素直に兜を脱いで秀吉公の招きに応じたらよいではないか」これを聞くや、盛政敢然として
「何を申す中国の戦国時代、呉王は父王の仇を忘れぬため薪の上に臥して身を苦しめ会稽山に於て越を破って父の仇を討ち、越王もまた苦い胆を嘗めて苦
難を忍び十数年のちに呉を破って無念を晴らした。我が朝に於ても曽我兄弟は18年の間艱難辛苦し源頼朝は雌伏20年の末に父の仇を討ったるぞ。大将の志というものは、死の直前まで捨てるものではないわ。よく覚えておけよ」きっぱりと言い30歳を一期として六条河原の刑場にて首討たれたのでした。志を死の寸前まで捨てなかった盛政。トップの姿勢はかくあってほしいものです。

703 :人間七七四年:2020/11/14(土) 01:14:16.23 ID:SpDVwbNz.net
>>702
コピペはやめようぜ。恥ずかしすぎるだろ
http://www.jeda.or.jp/keiei/keiei037.pdf

704 :人間七七四年:2020/11/14(土) 09:26:33.71 ID:bjBJGgkG.net
恥を知れ!アフィカス太郎

705 :人間七七四年:2020/11/14(土) 12:20:30.26 ID:eKnM9SJ7.net
ある時、豊臣秀吉公がいつもの御参内の時に、御装束を召し変えられている途中、施薬院にこのように云われた

「私は尾州の民間より出たため、草を刈る術は知っていても、筆を取ることさえ知らず、もとより
歌、連歌の道などを知るべきもないが、不慮に雲上に交わりを成す身となった。

ただし、我が母が若き時、内裏の御厨子所の下女であったが、思いもかけず玉体に近づき奉った事があった。
その夜の夢に、幾千万の祓箱が伊勢から播磨を指して、隙間もなく天上を飛び行き、また、ちはやぶる神が
見え、人々の手をとったという夢想を感じて、私を懐胎した。

この夢想が当たったと見えて、私は信長公より、御唐傘を許され播州に発向し、即時に斬り平らげ、別所を
従え、それよりすぐに、九州(西国という意味)にかかり、安芸の毛利と対陣し、彼等を水責めに
攻め殺さんとしたが、無道の明智日向惟任めが、六月二日に信長公を討ち奉ったという飛脚が到来した。

この事、天下にやがて隠れも無い事になるだろうから、敵に知らせず上洛するのは悪しき事だと思い、
しかじかの次第にて急ぎ罷り上がり主君の御弔合戦をいたさんと欲する。ただしこのような状況を見て、
我々の跡を追撃しようと思われるのなら、却ってその武勇は弱きに似ている、尋常に、只今一戦して、
それを弔い合戦にいたすべき、と申し使わせた所、毛利家も、さすがにあわれなることと感じたのか、
又は秀吉が主君のために身を捨てて最後の合戦をいたそうとするのを、恐ろしく思ったのか、異議もなく
人質を出したため、我々はそのまま上洛し、憎き惟任が鉾をほこりにほこって清龍寺まで出張してきたのを、
六月十三日に、山崎表より突き崩し、雑兵まで残らず討ち果たした。

惟任は主君の御罰が当たったのか、冥加尽きて、厠の中で、汚き百姓に殺されたが、その首を取り寄せて、
去る二日に失い奉った本能寺の焼け跡に、梟首にかけて我が鬱憤を散じたのである。

しかしながら、もし信長公が生きていた時、これほどの忠功を致して悦ばせ奉れば、一体どれほど自分も
嬉しいだろうかと、猶悲しみの涙が出て、しきりに落ちる故に、紫野にて御葬を勤め、太政大臣の御位を送り、
大徳寺に一宇を建立し、総見院殿を崇め奉ったのである。

(戴恩記)

秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想

706 :人間七七四年:2020/11/15(日) 12:30:38.84 ID:5UJIyJ5x.net
ある時、織田信長公が細川藤孝に「その方の干支は何年か?」とお尋ねになった。

「上様と同年であります。」
「さればうまの年か。」
「いかにも、うまの年ではありますが、出来れば変わりたいものです。」

そう申したため信長公は、「どうして変わりたいなどというのか。」と仰られると、藤孝は

「上様は金覆輪に鞍を置き、一方私は小荷駄馬であり、つねに背中に重荷が絶えません。」

そう申した所、万座の笑壺に入り、大笑いと成ったという。

(戴恩記)

707 :人間七七四年:2020/11/16(月) 08:39:08.02 ID:h1j+0dJI.net
>>706
笑いのツボって言葉この時代からあったんだな

708 :人間七七四年:2020/11/16(月) 08:42:00.01 ID:YzSQhGA/.net
息子と娘のせいか

709 :人間七七四年:2020/11/16(月) 12:04:11.15 ID:8B5u/Kgt.net
細川幽斎は御老後も力強かった。織田常真公(信雄)の所で御能があり、幽斎が訪問した所、
門番が彼を遮った。それでも通ろうとした所、門番は幽斎に向かって竹の枝を振り上げた。

しかし幽斎は、竹の枝とともにこの門番の手を握り、ひしいだ所、骨が砕け、門番はその後
湯治をすることになったという。

また和漢の歌詠があって、相国寺より月夜に、丸(松永貞徳)もお供して帰る道すがらに、牛車のある
小路をお通りになったが、

「若き時は車牛の引き置いてあるものに向かって、角を持って後ろに押しやって、力の程を試してみたものだ。
私は何度も押しやったものだよ。」
と物語された。

(戴恩記)

パワータイプだった細川幽斎

710 :人間七七四年:2020/11/17(火) 16:35:15.06 ID:1LxEqmhq.net
細川藤孝公は、御家は細川殿にて尊くおわしけれども、凡下の者を卑しめること無く、
諸芸に達せられていたが、他を謗るということはなく、
禅法に心を尽くし、神道を極められ、空言をかまえた奇特・不思議を実とせず、物祝いをされず、
さりとて物を破ること無く、一つとして謗る所のない仁君であった。

(戴恩記)

松永貞徳から見た細川幽斎について

711 :人間七七四年:2020/11/19(木) 12:52:45.20 ID:o0knkD4x.net
里村紹巴法橋は、自身について大げさに語ることの多い人で、悪しく言われることもあったが、さすが古人であり、
殊勝の心持ちを持たれていた。ある時、丸(松永貞徳)に語られた事には

「私はこの齢になっても、裸むしろを人にまかせず、貧しかった頃のことを忘れていない。故に
称名院殿(三条西公条)御忌日に御墓に参らぬことは無い。御恩を忘れぬ故である。」

私を初め今頃の者で、身が栄え年老いて、このように師の恩を重んじる事が有るだろうか。
この人が亡くなったと告げられた時、細川幽斎公はこれを聞かれて、深く惜しまれた。この時
「紹巴の歌学などそれほどのものでは無いと、世の中も申しているのに、どうしてそのように惜しまれるのですか」
と申し上げると、幽斎公は

「いや、これで称名院殿の事を言う人が、世に居なくなってしまった。」

と仰せになった。これは金言ではないだろうか。

(戴恩記)

712 :人間七七四年:2020/11/19(木) 17:23:32.21 ID:5WarbLfs.net
パワー系歌人

713 :人間七七四年:2020/11/19(木) 19:22:14.67 ID:B4oguUv3.net
牛を投げる男

714 :人間七七四年:2020/11/19(木) 20:32:30.41 ID:4WBtVYgr.net
牛は投げる物

715 :人間七七四年:2020/11/20(金) 11:53:31.97 ID:iz2k0goG.net
本多三弥(正重)は、隠れ無き剛直の武士で、元は本多美濃守の家臣であり、後に蒲生氏郷に属した。

蒲生氏郷が九州の役で、筑紫の岩石の城を攻められた時、氏郷が貝を吹こうとされたがが、この時三弥は氏郷に
「腰抜けが吹いても鳴らぬものだ!(腰抜の吹は鳴らぬ物ぞ)」
と云って、引き奪って音高く吹いた。

帰陣の後、氏郷はこれを意趣に思い、ある時、三弥が禁所にて鳥を打った事を理由として、三弥の屋敷を
取り囲んでこれを誅殺しようとした。

この時、都筑惣左衛門と云って、東照宮(徳川家康)旗下の武士が通り合わせ、その故を問うた。
しかじかと理由を聞くと、彼は三弥の大知音であったので、鑓一本を持って三弥宅へ駆け入った。
攻める者達はこの事態を氏郷に注進し、「この者、共に討ち取るべきでしょうか?」と尋ねた所、
どういうわけか「二人ともに逃がすように」と云われた。これによって、遂に命を全うした。

この都筑は面相が生まれつき、猿に似た人であった。現在も幕府の旗下にその子孫がある。

(老人雑話)

716 :人間七七四年:2020/11/20(金) 22:25:44.32 ID:HLgiVOJQ.net
猿に似ているんじゃなくまんまチンパンでしょ

717 :人間七七四年:2020/11/22(日) 14:01:02.62 ID:w52fk8aL.net
『三好』と人に云い伝わっているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
彼は細川を亡ぼして、一家繁盛した。

修理太夫は光源院殿(足利義輝)の乱(永禄の変)の以前に病死した。

彼の家中に、三人衆といって、主だった三人の家臣があった。三好日向守(長逸)という者も
その一人である。永禄八年に義輝を弑したのはこの三人衆である。

修理を、昔は人呼んで「作左」と云ったという。また三人衆とは不和であったという。

(老人雑話)

老人雑話成立の頃には、永禄の変の時に三好長慶は既に死んでいたというのが知られていたんですね。

718 :人間七七四年:2020/11/24(火) 13:43:05.82 ID:tVvbLjeX.net
藤原惺窩が浅野紀伊守(幸長)殿の所で、孟子一段を講談した。
生於憂患而死於安楽(憂患の時は生きて、安楽に成ると死す)
という段であった。

講談後、紀伊守殿は
「私は石田治部(三成)と関係が悪かった。そのため治部存生の間は、励んで人から非を入れられず、
また身も健固であった。

今、治部が死し、その上御所様とも懇ろ、佐竹、島津などとは殊の外の待遇である。
しかしこれによって気が緩み、病気が却って生じた。
賢人の語、少しも相違これなし。」

と、云われた

(老人雑話)

719 :人間七七四年:2020/11/24(火) 14:49:40.33 ID:N1fTShw8.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4598.html
浅野幸長「賢者の言葉に相違なし」

こっちは意訳のせいか微妙に違うような

720 :人間七七四年:2020/11/24(火) 17:09:25.07 ID:teRrzDH8.net
孟子といえば1616年に明で刻本された「五雑俎」卷四 地部二によれば

倭奴亦重儒書,信佛法,凡中國經書,皆以重價購之,獨無《孟子》,云:「有攜其書往者,舟輒覆溺。」此亦一奇事也。

孟子を船に乗せると沈むから孟子は日本にないとか
もし惺窩がなんとか中国に行けて科挙受けようとしたら
孟子も知らないくせに受験するのか?とかからかわれたかな

721 :人間七七四年:2020/11/24(火) 17:40:46.57 ID:ACrPSF1Y.net
しっかし、なんでこんなに儒教が広まるのは遅れたんだろ?
たしか戦国時代までは僧侶の間での教養レベルでしょ?

722 :人間七七四年:2020/11/24(火) 22:25:57.67 ID:SHF4mFjm.net
戦国時代は下剋上だしそりゃ広まんわ

723 :人間七七四年:2020/11/25(水) 01:24:17.97 ID:OiRZhIGN.net
>>719
生於憂患而死於安楽
 ttps://ja.wikisource.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90/%E5%91%8A%E5%AD%90%E4%B8%8B
 天が人に大事をなさせようとするときは、そいつの心身を苦しめることによって鍛え上げる
 外憂も内患もなく、安楽にふける国は滅びてしまう

 って大意で

「其上御所様おねんごろ、佐竹島津にも異ならず」

  だから、浅野家は佐竹島津と同じ扱いをうけてる

恐らく同じ人が老人雑話から話を拾ってるんだろうけど
投稿量の熱意は買うけど訳が雑

724 :人間七七四年:2020/11/25(水) 18:34:45.21 ID:YwnJ0G2g.net
>>722
仏教伝来の頃から江戸時代までの1000年以上広まらなかったのが。
仏教はすぐに広まったのに。

725 :人間七七四年:2020/11/25(水) 22:49:42.84 ID:yU8rReX6.net
謡を忘れないように


慶長14年(1609年)4月28日、駿府城の三の丸で、家康の息子の徳川頼宣(このとき8歳)と
池田輝政の息子で家康の孫にあたる忠継(11歳)、忠雄(8歳)、輝澄(6歳)で能が行われた。
このとき、忠継は母や兄弟と共に駿府に来た後、一度江戸に上りまた駿府に下って能をし
同年5月には四品に叙せられた礼として参内しているので江戸での叙任のお祝いとしての興行だったのだろう。
(寛政重修諸家譜によると叙任したのは慶長13年としているが間違いだと思われる。)

『伊達文庫 古之御能組』によると、能組は三輪・船弁慶・皇帝を頼宣、翁、鶴亀、江口、葵上を忠継、
車僧・経政を忠雄、猩々を輝澄が務めたという。(いずれもシテ)
この催しに関する池田輝政の書状が残っている。能が武将の嗜みとして重要だったことが窺える。

【鳥取県立博物館蔵池田輝政書状】
今春(金春)と話しましたが、近頃はいよいよその通り(能稽古を)専一にしているそうですね。
常陸殿(頼宣)も能をされるそうなので、事前に能組を尋ねた後でこちらの能組を決めて
内々に(家康の)御目にかけてもよいよう、万事落ち度のないようにするのがもっともです。
(こちらが)源氏供養をするのは無用かと存じます。また、能はまちがいなく一日中でしょう。
勝五郎(忠雄)は車僧がよいですが、常陸殿がされるのならば仕方ありません。
謡を忘れないように合間合間に油断なく稽古をするのがもっともです。

  卯月十九日    三左衛門(池田輝政)
         おしん 参る
                  以上
尚々能の数なども事前にどれだけかその意を得て、おりへ、伊予に右の通り藤松(忠継)の
稽古のことを申して下さい。已上

726 :人間七七四年:2020/11/26(木) 13:10:39.68 ID:ydaJNGMI.net
>>724
仏教は耶蘇教同様に外国の技術や文化を輸入するために見返りとして進めた国家プロジェクト
なんの付属価値のない儒教が見捨てられるのは必然

727 :人間七七四年:2020/11/26(木) 14:21:48.60 ID:7xW+vONV.net
いや中世は日本でも儒教思想が浸透していった時代で、
南北朝時代には既に明らかに強い影響を与えているし、
室町期の武家故実や、一条兼良?の『樵談治要』を見てもベースは儒教思想。
戦国期はそれこそ、一般にまで儒教的な考え方が行き渡っていってて
その結果としての近世儒教だよ

728 :人間七七四年:2020/11/26(木) 14:43:00.97 ID:y0iBiMJ8.net
日本の中世文学は漢籍の素地もあってこそだから有形無形で影響受けてる
中国のように仏教に優越する思想にこそなっていないが
琵琶法師の語り物(軍記物)の時点ですら「忠」だの「孝」だのの
儒教が強調する価値観が押し出されてるし

729 :人間七七四年:2020/11/26(木) 15:35:58.49 ID:21Sha2kW.net
そうかな、御恩と奉公なんて儒教的な道徳感、仁義に基づくというよりギブアンドテイクでビジネスライクな契約関係に思えるけどな。
それだと政権側は安定せず困るので、必死に忠やら孝やら押し付けようとしたのでは?

730 :人間七七四年:2020/11/26(木) 15:59:58.65 ID:7xW+vONV.net
>>729
せめて当時の人の記録なり日記類なり読んでから判断しようぜ

731 :人間七七四年:2020/11/26(木) 17:45:57.21 ID:tlPXMbwY.net
仏教で百箇日一周忌三回忌やり始めたのは日本伝来前に中国で儒教と習合した影響
日本に入ってきてからさらに七回忌十三回忌三十三回忌等が始まり近代になって他の年忌法要を勧める坊さんが増えた
現在法事が何度もあって面倒なのは儒教のせい

732 :人間七七四年:2020/11/27(金) 12:42:46.95 ID:whM++Ujp.net
400回忌だぞ。ただの農民で。

733 :人間七七四年:2020/11/29(日) 14:09:44.75 ID:ytRvdkqs.net
筒井順慶の先祖は近衛の家より出た人であるという。
順慶の親は順興といい(正確には順興は祖父。父は”元の木阿弥”の逸話で有名な順昭)、
順慶は一度は南都に出家として在ったが、彼は器量の人であり、還俗して武威を振るい、
国中の過半を討ち従え、添下郡筒井という所に平城を築いて居城とした。

その頃の領地は、現代の知行高で六万石ほどであったが、甥、或いは妹聟多く、一門広き故に
勢力が手広くなり、大和国の大半を手に入れられた。

(大和軍記)

大和軍記の、筒井順慶についての説明

734 :人間七七四年:2020/11/29(日) 20:01:30.24 ID:jy++18Cl.net
>>733
親子でことわざに残るようなことをやるってなかなか凄いな
大して大物でもないのに

735 :人間七七四年:2020/11/29(日) 20:20:59.79 ID:ajwkpj2B.net
順慶は洞ヶ峠を決め込むの元ネタ(史実ではないけれど)にもなってるね
まあ戦国時代の名のある武将なら一つや二つはあるんじゃね

736 :人間七七四年:2020/11/30(月) 15:26:11.84 ID:gfdmzC+B.net
黒田如水は、元来秀吉と無二の盟友であった上に、互いに片方の身代が良くなっても、片方を
必ず見捨てないという起請を取り交わしていた。

そして秀吉が天下を取られた時、如水には所領として□石を遣わしたが、彼はこれを不足に思い、
諸事やる気の無い体であった。

竹中半兵衛は又、如水と良き知音であった。ある夜、彼は如水のところへ行き、よもやまの話をしていたが、
この時如水が、かの起請の事を言い出した。半兵衛が「それを一度見たい」と言ったため、取り出して
一覧する体で眺めた。この時、火に当たっていたのだが、半兵衛はこの起請を引き裂き、火に入れて燃やした。

如水は驚いて、「これは何とするのか」と申すと、半兵衛は
「この起請があるから、秀吉に対しても不足が出来、諸事心に叶わぬことのみとなるのだ。
これがなければそのような事も無いだろう。」
と、申した。

その後は如水も仕合わせ良く、大名になったという。

(勢州記事)

黒田如水に、政宗の百万石のお墨付きみたいな話があったのですね。

737 :人間七七四年:2020/11/30(月) 18:00:41.58 ID:UFT6OoWO.net
「勢州記事」は『史籍集覧』第138に載せられてるけど、1巻が5話3ページくらいでしかないんだよね
総目解題にもどういう曰くの書籍かそれ以上説明されてないし

738 :人間七七四年:2020/11/30(月) 18:15:12.63 ID:MZpKN1Eq.net
時系列がめちゃくちゃだな、訳してて気が付かないなんて日本語が出来てない証拠だよ

739 :人間七七四年:2020/11/30(月) 18:22:15.22 ID:UFT6OoWO.net
そりゃ軍記物語の類にそういうのを求めるのはお門違いとも
でも書かれた時期のその人物や事物に対する評判や噂ってのも興味深いじゃありませんか

そういう背景の説明抜きでただ黙々と逸話書き込んでる人もどうかと思うけどね

740 :人間七七四年:2020/11/30(月) 18:38:58.05 ID:MsvebAqZ.net
アフィのためならえんやこーら

741 :人間七七四年:2020/11/30(月) 19:58:41.14 ID:5eOyWkof.net
げえーっ、生きていたのか半兵衛ー!!

742 :人間七七四年:2020/12/01(火) 01:20:22.11 ID:NdhCjhie.net
政宗の百万石がどうだとか、コメントするところがズレてる
古文書を訳すバイトでもあるのか?
無知が

743 :人間七七四年:2020/12/01(火) 01:28:19.39 ID:WJmfrtBf.net
秀吉が天下を取られた時、如水には所領として□石を遣わした
如水はこれを不足に思い、 諸事やる気の無い体であった
ある夜、半兵衛は如水のところへ行き、(中略)
その後は如水も仕合わせ良く、大名になったという


突っ込みどころ満載なのになあ

744 :人間七七四年:2020/12/01(火) 02:11:52.14 ID:L/XLCFGx.net
元ネタがツッコミどころ満載でガバガバなのは普通に笑い話にすればいいだけの話で
訳した人物に暴言吐きかけるもんでもなかろう

745 :人間七七四年:2020/12/01(火) 09:56:19.95 ID:lrk44NIf.net
せっかく訳して書き込んでるんだからコメントぐらいさせてやれよ、とは思うけど
コメントせずに黙々と紹介してくれる人を悪しざまに言うのは勘違いにも程がある

746 :人間七七四年:2020/12/01(火) 11:36:59.34 ID:bzVdN1WU.net
なんか無知がいっぱい湧いてるな
2ちゃん初めてか?

747 :人間七七四年:2020/12/01(火) 11:38:43.79 ID:FdBH5mo/.net
ネットではどうしても他人を攻撃しがちになる人が多くなるもんでしょ

748 :人間七七四年:2020/12/01(火) 11:42:04.39 ID:cCROK7ZA.net
ここのアフィカス攻撃されたらすぐ全力で言い訳開始するから面白いなw

749 :人間七七四年:2020/12/01(火) 12:09:29.92 ID:krdSY0JN.net
>>746
絶対爺さんだよね?

750 :人間七七四年:2020/12/01(火) 12:23:57.11 ID:JNlMkI2n.net
浅はかなコメントしなきゃいいのにと思うけれども、コメント入れなきゃバイト代が支払われない規則なんだろ

751 :人間七七四年:2020/12/02(水) 12:52:32.92 ID:X4bDmgcV.net
駿河国は、今川義忠討死の後大いに乱れ、合戦が数度に及んだこと関東に聞こえると。伊豆の御所より
上杉治部少輔政憲を大将として、三百余騎にて馳せ向かった。また上杉扇谷修理太夫殿(定正)より
代官として、太田左衛門大夫(道灌)、三百余騎にて馳せ登り、両陣は狐ヶ崎八幡山に陣取って、
対立している駿河衆の両陣へ使いを以て申した

『今度、豆州様(足利政知)、扇谷殿より我々が派遣された理由は、今川殿御討死の跡、御息幼少にて
上を軽んじ、各々わたくしの闘争を行うとは何事であろうか。どちらであっても、今川殿に逆心ある方に
向かって一矢仕り候との上命をふくみ、罷り向かったのである。定めて一方は御敵であろう。
御返答次第に、一合戦仕るべし。』

と、委細申し送ったが、今川の両陣ともその返答に及ばず、きまりも悪くなり陣を引いた。しかし
猶も和談はなかったため、大田、上杉は御館へ参り評定し、和談のはかりごとをめぐらせていた。

このような所に、今川義忠の嫡男である龍王殿の御母は、北川殿と申して、京公方の御執事である
伊勢守殿の御姪であり、先年、義忠御上洛の時、ふとしたことで御迎えになり、若君が誕生されたため、
北川殿として新殿を作りそこに居られた。

この北川殿の弟は、伊勢新九郎長氏と申す人で、その頃備中国より京に上り、今出川殿(足利義視)に
付けられていたが、今出川殿が伊勢御下向の時お供をして下り、それより姉君を尋ねて駿河国に下向されたが、
折節この乱に参り遭い、関東より加勢の両大将に相談をした

「かように家来の人々が二つに分かれて合戦をするのは、今川家滅亡の基となります。尤も主人に対して
意趣が無いのであれば、謀反人では有りませんが、主の家を滅ぼすのは、これに過ぎる悪事はありません。
各々の御扱いを用いず、和融の儀が無いのであれば、京都の御下知を承り、豆州様と申し合わせ、一方を
退治仕りましょう。
もし又、御扱いを承り、尤もと一同し、和談のことが定まれば、私は龍王殿の御在所を存じておりますので、
お迎えに参り御館へ返し奉ります。」

これに関東の両大将も、尤もであると一同し、この条々を駿河衆の両陣へ申し送った。駿河衆も、よしなき
私の戦を起こし、主の行方さえ知れず迷惑の砌に、このような扱いが有ることを大いに喜び、早々に両陣を
引いて、御館より共に、惣社浅間の神前にて神水を呑み、両方和談は相調った。

この時龍王殿は、山西の有徳人と聞こえる小山法栄の元に御座していた、法栄は「このような乱が
なければ、どうして譜代の主君が、このような山家に入られ、数日も御座あるべきでしょうか。」と、
龍王殿、御母公諸共に色々ともてなし慰められていた。そして和談が調うと伊勢新九郎が迎えにまいったため、
「これは目出度き次第である。」と喜び、新九郎を初めとして、御迎えの人々に、馬鞍以下、数々の引出物を
贈り、法栄父子も御供申し、駿府の御館は入り奉った。

駿府に戻られるとすぐに、龍王殿は御元服あり、今川新五郎氏親と申し奉った。
その頃、豆州様が御改名あり、始めは政知と申していたのを、『氏満』と御改めになっていた。これは
鎌倉殿(鎌倉公方)の御名乗り(通字)であり、御早世の御一門の御名乗りを、この方で取るのは、
かの幸いをこの方にて継ぐという事であり、必ず御名乗りを取るという習慣が有ったのである。
これによって氏満と御改名されたという。
龍王殿は、豆州様を御烏帽子親に頼まれた故に、氏満の氏の字を付けられ給いて、『氏親』と名乗られたと
聞こえる。

法栄の子は、今川殿近習となった、長谷川等是である。
伊勢新九郎は今度の忠功莫大であるとして、富士郡下方庄を給わり、高国寺(興国寺)の城に在城した。

(今川記)

『今川記』より、今川義忠討死の後の内乱と和睦について

752 :人間七七四年:2020/12/05(土) 14:40:26.12 ID:Z0N+W521.net
里見義弘公は常にご油断無く、小田原方より船にて狼藉に来る時は、速やかに防いで、百姓、浦人、町人に
難儀無きようになされ、淵ノ崎に番所を据え、軍船か賊船(略奪目的のもの)が来る時は、早速合図の
太鼓を打ち続け、北には瀧山、東金、所々の番所より合図の太鼓を打ちつつ、その時妻子などを山に入れて
忍ばせ、貨財を隠し、敵勢を防ぐ勢が駆けつけると、百姓、町人、浦人も、その時の大将の下知を受け、
狼藉の者たちを討った。そして百姓以下手柄の者には御褒美が下された。

『里見九代記』

里見氏の海防体制について。

753 :人間七七四年:2020/12/06(日) 17:46:00.04 ID:DKqmNioT.net
>>751

ここまで詳しい記述があるのに北条早雲が牢人扱いされていたのは何故?

754 :人間七七四年:2020/12/06(日) 20:06:44.88 ID:KSzDsiXG.net
病巣院クルリ ◆ExSH/7DvkA 2020/12/02(水) 20:08:27.663 ID:VLwRSBtRa
>>84
クルリは今後は三国志戦国板に関わろうと思います。
あの板の住人は女性、新参者でも他人を歓迎します。
平等主義者の塊のように感じられます。あの板は気持ち良すぎます

755 :人間七七四年:2020/12/06(日) 21:08:16.61 ID:zY8ldDsB.net
>>753
北条氏や伊勢氏、今川氏に伝わる系図などで食い違いが多くあやふやな部分が多かったことと講談の影響
『今川記』の記事だけ見ても、
「幕府の意向で今川家の調停に派遣された幕臣」って近年の(蓋然性が高いとされる)説も全く触れられていないし
伊勢で義視の元を致仕し姉の縁を頼って駿河に下ったと解釈すれば、身分は牢人といえる

756 :人間七七四年:2020/12/08(火) 17:27:09.40 ID:wHMS4+2V.net
(大阪夏の陣、四月二十九日の樫井の戦いの後)同日夜に入り、但馬守殿(浅野長晟)より、
大隅(亀田高綱)と上田宗箇に同心して山口まで罷り越すように申し来た。
早々に参上した所、但馬守殿は

「両人ながら呼び出したのは、今日の鑓の、一、二を改めたく思ったためである。両人共に、
今日の合戦での次第を有り体に申すように。先ず亀田より述べよ。」
との事であったので、大隅が合戦の次第を申し上げた

「上田とそれがしが鑓を入れたのは、多分同時であったと思います。しかし、あの時私の周りは
騒がしかったので、分明ではありません。」

そう申した所、上田宗箇は
「いや、左様では無かった。大隅は私よりも、五、六間先に行っていました。」

もう申し上げたため
「そういう事であるのなら、一番鑓は大隅、二番鑓は宗箇である、という事だな。」
と仰せになった。その夜はまた、和歌山へ罷り帰り、この次第は浅野家の諸侍何れも承っている。

大阪落城の後、上田宗箇と大隅は京の二条城に召された。家康公の御前へは、大隅が先に
召し出され、直に樫井合戦の次第をお尋ねに成られた。そして但馬守殿を御呼びになり、こう仰せに成った

「この亀田は、当代に至り、両度御用に立った者である。彼をただ、その方の家臣と存ずべきではない。
天下の者と存ずるべきである」
(此亀田儀ハ当代に至り両度御用に立候條、其方之者と不可存候、天下之者と可存)

誠に以て有難き御諚であると存じ奉り、涙を流して御前を立ちかねるほどであった。

その次に上田宗箇が雄目見得いたしたのだが、今度の骨折りによって(関ヶ原で西軍についたことの)御勘気が
御免となるとの御諚であった。

その日、将軍様(秀忠)にも御目見得をし、一番は上田宗箇であった。「茶の湯は上がられるか?」
とのお尋ねがあり、罷り立った。次に大隅が罷り出でると、今度の働きを聞き届けられて居られた。
これにて御振る舞いが下されたのだが、たいへん騒がしい時期でも有り、兵衛様(徳川義直・浅野幸長の娘婿)に
申し付けたので、早々に参上するように、との御諚であったので、罷り立った。
その日、上田宗箇は既に但馬守殿の元から立ち退いていたので、大隅一人が兵衛様の元に参上仕り、
御振舞を下された。保昌五郎の御脇差を拝領した。これは現在、善右衛門に遣わし置いてある脇差の事である。

(亀田大隅守高綱泉州表合戦覚書)

大阪夏の陣、樫井の戦いでの亀田高綱の活躍とその評価について

757 :人間七七四年:2020/12/13(日) 15:16:23.70 ID:MY/3Tvpu.net
但馬入道(柳生宗矩)が、有馬に入湯した時、内野あたりに鷹野に出られ、独り鷹を据え、脇差ばかりにて
あちらこちらと鷹を合わせていた。

そのような所に、物陰から大男一人が飛び出し、但馬に斬りかかってきた。
但馬入道は「心得たり」と、これを脇差で一打ちに討ち捨てた。
この時左手に据えていた鷹は、少しも騒ぎ驚くことはなかった。

名人の御事は言葉にも出来ないと、林山は常々これを物語り、心得はこれに有ると申していた。

(柳生流秘書)

758 :人間七七四年:2020/12/14(月) 16:38:26.61 ID:oxFqGjix.net
本阿弥光二が次郎左衛門と名乗っていた頃、権現様(徳川家康)は駿府の今川義元の元に有り、
竹千代様と申されていた。その頃、光二は竹千代様の道具の御用を勤めており、朝夕に御膳を
召し上がる時には、いつも御相伴を仰せつかっていた。

ある時、竹千代様に義元より御脇差を下される事があり、その刀身について光二が仕った。
彼は駿州島田國房に二腰打たせ、出来の宜しい方を御差上げた。残った一腰は、義元より光二に
下された。これは現在も本阿弥家が所有している。

後に権現様が駿府を領有された頃、本阿弥のことを浅からず思し召され、光二の筋目をお尋ねになられ、
本阿弥光悦の倅である光瑳を、別して懇意にされた。
その頃、上様の所持する刀には、本阿弥の差料もあり、上意には光瑳の金剛兵衛の刀が、ひときわ
よく切れると申されていた。
そして家臣への御褒美の時、この刀は松平右衛門太夫殿(松平正綱)に下され、首尾よく御服も拝領
したという。

(本阿弥次郎左衛門家伝)

本阿弥家と家康のつながりについて。本阿弥光二は実際に駿河の今川家に出入りしていたようですね。

759 :人間七七四年:2020/12/15(火) 12:49:16.88 ID:Q4CyFfTC.net
北小路藤七郎は正長年中より元亀の頃、美濃国金華山岐阜に流浪した。
遠州三方ヶ原において、東照宮(徳川家康)が甲駿の武田大膳大夫晴信と御一戦あそばした頃は、
元亀三年十月十二日(実際には十二月二十二日)の事であったが、東照宮が東海道見附宿の袋井腋、さつ原へ
御帰城の際、大風雨にて天竜川は満水に及び、舟で渡ることも叶い難く、御難儀の所、丁度北小路藤七郎が
行きかかり、川を見て浅瀬の瀬踏みをし、御案内したことで、恙無く川を越えられた。
御喜悦浅からず、これによって浜松城にお入りに成った。この時、殿を勤められたのは本多平八郎忠勝殿であった。

御引き揚げが済み、北小路藤七郎は三州原村までお供をし、そこで東照宮の御髪を揚げた事に対し、
御褒美として金銭が一銭、笄一対が榊原小平太康政殿を以て頂戴仕った。これによって、以後髪結職分は
「一銭職」と唱えるべし、という旨の台命を蒙った。そしてすぐにお暇を下され置き、それ以来、
一銭職の者たちは、諸国の関所、川々に至るまで、相違なく通過出来るようになった。

また慶長八年に江戸に御入国された時に、北小路藤七郎をお召に成り、「先年の御褒美」として、
青銅千疋を、伊那熊蔵殿を以て拝領した。

(髮結職由飼V事)

権現様、三方ヶ原では髪結にまでピンチを救われていたとは。
実際に髪結は江戸時代「一銭職」とも呼ばれていたようで。

760 :人間七七四年:2020/12/16(水) 00:15:38.93 ID:12ezX11T.net
丹羽山城、池田勝入討死の様子を語る

池田家家老の丹羽山城は、四男の兵部を幼少から幕府に証人(人質)として詰めさせていた。
ところが寛永元年(1624年)兵部が18才になったので、76才の山城は江戸に下って
酒井雅楽頭(忠勝)にそのことについて色々嘆いたのでそれが将軍・家光の上聞に達した。

山城には登城とお目見えが仰せつけられて、御前で雅楽頭から
「勝入様(池田恒興)の御討死の様子をくわしく言上するように」
と言い渡されたので、山城は
「慎んで申し上げますが、即座に委細の義を申し上げるのは難しいので考えて言上します」
としばらく考えてから、物覚えの通り有り体に言上した。

そうしたところ、前々から聞いていたことと少しの相違もないので(家光が)神妙にお思いになり
山城は上意で御紋付きの御羽織を拝領した上、証人も御免になったので
兵部を鳥取へ連れ帰ることが出来たという。

――『吉備温故秘録』

761 :人間七七四年:2020/12/16(水) 00:22:45.56 ID:e4iiTOrn.net
>>757
梶原一騎が極真アゲする時とそっくり

762 :人間七七四年:2020/12/16(水) 10:13:41.47 ID:X/9uLfnS.net
>>760
そんなに兵部のケツが良かったのかよ

763 :人間七七四年:2020/12/16(水) 16:56:20.08 ID:JZwQXhxJ.net
一銭職にはこういう言われもあるわけで・・・

世界大百科事典
「髪結」
髪結にはまた一銭職(いつせんしよく)という異称があった。これは享保年間(1716‐36)に
髪結仲間が公儀に差し出した《壱銭職由緒之事》によると,三方原(みかたがはら)の戦のさい
髪結職の北小路藤七郎なる者が徳川家康の危急を救って賞されたことに由来するとしている。
しかし実際は,髪結発祥期に路傍に床を置き,通行人の求めにより月代をそり,髪を結ったときの
賃銭が1文で,一文ぞりと呼ばれたことに起因し,それから一銭ぞり,一銭職となったものと考えられる。

wikipedia
藤原采女亮政之(ふじわらうねめのすけまさゆき、1335年(建武2年)4月17日[1]または7月17日[2]または10月17日[3]没)は、
日本における理美容業の祖といわれる。昭和のはじめ頃まで全国の理美容業者は采女亮の命日である17日を毎月の休みとした[2]。
功績により従五位[1]。

采女亮の子孫は代々髪結を業としていた。徳川家康が武田信玄の勢に押され敗退の際、17代目北小路藤七郎が天竜川を渡る
手助けをしたことから褒美と銀銭一銭を賜り一銭職と呼ばれるようになった(なお理美容業の定休日が17日だったのは
家康の命日が4月17日であるためという説もある[2])。その後「御用髪結」を務め、21代幸次郎の時に江戸髪結株仲間(組合)を
申請した[6]。史料は亀山天皇時代の出来事から書き始められ、吉宗や大岡越前も登場する[書 3]。



なお北小路家本家は維新後華族となったとのこと。

764 :人間七七四年:2020/12/17(木) 13:26:03.83 ID:a3nnYr0P.net
駿河に伝わることに、駿河の国府、馬場町に、山田仁左衛門長政という者があり、父は紺屋仁左衛門、
常に武機軍学を好み、いつの頃か、駿府の貨物の用にて、年々長崎に往来する人と同道して長崎に至り、
暹羅(シャム)国へ渡って居住した。

その時に彼の国では、隣国との争いあり、国王の名をヲンフウ(ソンタム)と云い、長政が器量有ることを知って
相親しみ約し、戦争の謀を長政にはかった。長政は奇才ある者であったため、彼の国の人を日本人に仕立て、
武具までも日本様に取り拵え、日本より加勢が来た、という旨を唱え、長政を大将として隣国と合戦し、勝利を得た。
これによって、国王は長政を嗣子として娘を以て娶した。

長政は浅間社が産神であったことによって開運したとして、軍船の図を絵馬として暹羅国より、寛永年中に奉納した。
この図絵、年認ともに長政の自筆であるという。
彼は一度、帰朝の願望があったが果たせず、その後毒殺によって害された、
匹夫にして外夷に至り、国威を外邦に振り輝かした、奇男の勇夫であった。
この絵馬の事は後に台聴に達し、享保年中に、江戸に召し下され上覧になった。

(山田仁左衛門事蹟)

765 :人間七七四年:2020/12/17(木) 15:58:02.81 ID:R+H3o/1z.net
和人はこうして国を乗っ取るんだよね

766 :人間七七四年:2020/12/18(金) 08:22:39.96 ID:tDieAgF5.net
紺屋の息子が書物で兵法学んで勝っちまうのか

ところで袴は白だったんですかね

767 :人間七七四年:2020/12/18(金) 15:21:42.04 ID:Z7QWz4kr.net
佐久間玄蕃允盛政は、二十一日の合戦(賤ヶ岳の戦い)では、険阻を隔てて、柴田勝家と合流することが
出来なかったため、蔵王の社を出、北ノ庄城の後巻(救援)のために加州に赴いた所で、中村の郷民たちによって
取り囲まれた。盛政はこれを見ると
「我既に運命尽き、又戦ったとしても利はない。かの藤吉猿面郎が方へ連れ行き、一言云うことが有る。」

そう言って彼等に捕われた、そして北ノ庄に連行されると、これを見た浅野弥兵衛長政は云った
「君は鬼玄蕃と言われたほどの人ではなかったのか?何を以てか死することを得ないのか。」

これを聞いた盛政は咲って云った
「汝は愚かである。源頼朝は大庭景親に負けてふし木の中に隠れ、義昭将軍(原文ママ・義稙の事か)は
細川政元に囚われて幽閉されたが、ついに免れて大功を立てた。将たるもの、どうして容易く敵に死を
免ずる事をするだろうか。」
(汝ハヲロカヤ、源頼朝ハ大庭景親ニマケテフシ木ノ中ニカクレ、義昭将軍ハ細川政元ニトラハレテ
ソノカコミヲウクトイヘトモ終ニマヌカレテ大功ヲ立テタリ。将タル者何カ容易ク敵ニ死ヲ免スコトアランヤ)

聞く者皆、舌を鳴らしたと云う。

(佐久間軍記)

768 :人間七七四年:2020/12/18(金) 15:45:49.31 ID:h8twP6Rp.net
舌を鳴らすって当時はどういう気持ちの表れなんだっけ
今だとねこを呼ぶ気持ちの表れだが

769 :人間七七四年:2020/12/18(金) 17:59:33.49 ID:Z7QWz4kr.net
>>768
この場合はおそらく、佐久間盛政が秀吉軍の前で不敵なことを言ったので舌打ちした、という感じかと。

770 :人間七七四年:2020/12/18(金) 18:31:59.74 ID:a6o/ts1Y.net
>>769
なるほど、不快で舌打ちしたったことね

771 :人間七七四年:2020/12/19(土) 09:50:00.40 ID:re0CaR1W.net
賞賛だろうに

772 :人間七七四年:2020/12/19(土) 12:50:51.45 ID:V1a9YlEB.net
賞賛だよね

773 :人間七七四年:2020/12/20(日) 09:40:35.21 ID:CZer3LRV.net
指合あればざうさなく直したり

烏丸光広が歌道の師・細川幽斎の言行を中心に書き留めた『耳底記』という書に
明智光秀の話題が出ているので抜粋して意訳。

一、雑談に云う。
  明智は連歌に指合(連歌の式目に違反していること)があれば簡単に直していた。
  全く(上の句、または下の句を)詠み加えることを知られていない理由である。
  馬を乗るのにも殊の外、上手や下手がある。乗らぬ先にすぐ馬が知るのである。
  それは下手は、乗るときに地団駄を踏んでからやろうとするのだが
  上手は、何ということもなくゆっくりと乗るように見えるのだ。

774 :人間七七四年:2020/12/20(日) 12:54:43.63 ID:IIkZwpit.net
隠れていても馬は臭いでわかりまするぞ

775 :人間七七四年:2020/12/20(日) 15:43:12.86 ID:R1+1zswf.net
家康なんか特に
なんといってもクソのかほりだもの

776 :人間七七四年:2020/12/20(日) 16:25:47.72 ID:0oo/Xw6N.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7020.html?sp
湯浴みを嫌がって泣き出すような烏丸光広のほうが臭うのでは?

777 :人間七七四年:2020/12/21(月) 16:07:51.96 ID:6LzXeZVW.net
権現様(徳川家康)が奥州に御発進(会津征伐)の跡に、五奉行たちが諸大名を相催し、権現様に
背き奉る企てが有るとの風聞が有った。

七月中旬、初めて惟新(島津義弘)の所に五奉行より、自分たちに一味するように申し越してきた。
惟新は「存じよらぬ儀であり、一味仕ることは出来ない。」と、二度にわたって返答したが、
その時奉行より

「今度のことは全く私の遺恨ではない。偏に秀頼様の為の企てである。あなたも最前、
秀頼に相背きまじきことを誓紙にし、かつ又、太閤の厚恩を忘却していないのであれば、
この度に及んで異議はありえないものである。もし同意しないのなら、あなたの今までの儀は
皆表裏に似たものである。」

このように、余儀のないことであると申しかけてきた。惟新は誓紙を黙視できないと考え、
是非無く五奉行に同意した。

この時、惟新の甥である島津中務太輔豊久は惟新に対して
「今度の合戦の勝負を考えてみましたが、権現様が御利運を得られるのは確実だと存じます。
詮無きことに与し、家を亡ぼされるのは嘆かわしい事です。その上権現様の、多年の我らに対する
御懇意は、並々ならぬものでした。早々に権現様へ御味方に参り、家を立てるべきです。」
そのようにたって諫言を申し上げた。これを惟新は承り

「其の方の申す通り、私もそう考えている。しかし余儀なく申し懸けられ、結果的に誓紙を破って
しまっては、たとえ権現様に味方申し上げたとしても、権現様は頼もしく思し召さず、
またそれ以後、島津家の誓紙誓言は偽事と考えられ、長く家の疵とも成るだろう。

私はあえて、これまでの御芳志を忘れ奉るのではない。これによって国元より人数を召し集めず、
有り合わせの人衆ばかりで出陣いたし、何の方便もなく一戦の上、討死に相究めたり。
さてまた、家の事は龍伯(義久)、忠恒が在国しており、この事についてはまったく存じては
居ないのだから、この事は重ねて御訴訟申し上げればよい。」

と、申し切られた。

(島津家譜)

778 :人間七七四年:2020/12/21(月) 16:57:30.84 ID:YtiveTFr.net
弁明のための創作なのは(恐らく当時でも)明白だからなぁ

義弘君が、死人に口無しをいいことに作った自分(と島津家)に都合のいい話だな

779 :人間七七四年:2020/12/21(月) 18:52:04.75 ID:aaqhnVsr.net
>>757
入道とあるから同じ柳生但馬でも親父の石舟斎の方だと思う
宗矩は入道してない

780 :人間七七四年:2020/12/22(火) 16:40:01.56 ID:7X5EPM0s.net
慶長五年九月十五日未明、関東勢(東軍)の御先手諸将は関ヶ原に出張して、戦を取り詰めていた最中、
筑前中納言(小早川)秀秋が裏切りを致し、大谷刑部(吉継)備えを切り崩した。故に石田を始め、
(西軍)諸将の備えは尽く敗北致した。

その時惟新の旗本は、先手との間が隔たっていた。そこに中務(島津豊久)が旗本に馳せ来て
「戦も是迄と見え候。それがしこれにて防戦すべし。その間に一方を駆け敗退してください。」
と申し上げた。しかし惟新はこれに
「今度の合戦に於いて討ち死にし、再び国元には帰らないと決意して出陣した以上、一足も
退くことは出来ない!」
と、大いに怒った。中務は重ねて

「家の存亡、この時に有り。よくよく思慮あるべし!」
そう声高に言い捨て
「よし、戦も激しくなってきたようだ。」と、相従う士卒十三騎にて、大勢の中に駆け入討ち死にした。

惟新も続けて駆け入ろうとしたところ、家老の長寿院盛淳が馬を駆け寄せ
「大将が死を軽くせざる事はかねてお知りに成っているはずです!それがしが名代として討死
仕るべし。中務の申した如く、家の為ですから、必ず退いてください!」
そう断って諌め、馬廻りの者共に堅く申し含めた上で、長寿院は大勢の中に駆け入り
「島津兵庫入道惟新!」
と名乗って討ち死にした。この時に、士卒も多く戦死した。

その時、関東勢は左右に分かれ、伊吹山の方に西国勢が敗走しているのを追いかけ、馳せ向かっていた。
そのため、その跡の道が少しばかり開いていた。惟新入道は残った人数をまん丸に備え、福島左衛門大夫正則の
備えの前に押しかけたが、左衛門大夫はあえてこれに取り合わなかった故に、左衛門大夫備えの前を、
いかにも静々と押し通った。

その跡より、「井伊兵部少輔」と名乗る百騎ばかりが追いかけてきた。これに対し、惟新自身が太刀打ち
までして追い返し、その合間に下知して静かに退かせたが、すぐに兵部少輔人数は追いつき、殿をしていた
後醍院喜兵衛宗重、木脇休作秋秀と戦闘になった。両人が危うく見えた時、川上四郎兵衛の兄が取って返し、
下知をして鉄砲を撃たせた、四郎兵衛の若党である柏木源藤と申す者が、鉄砲を以て大将と見えた人物を
撃ち落とし、「川上四郎兵衛!」と名乗った。その時、従っていた人数は撃ち落とされた人物に馳せ集まり、
引き退いた。後にこの人物が兵部少輔直政であったと承っている。

その後惟新は、高き所に備えを立てた所、方々より人数馳せ集まり、ようやく三百ばかりとなり、
これによって帰路についての評議をし、権現様(徳川家康)の御本陣に川上四郎兵衛を差し遣わした

『この度黙視難き次第のために、思いもかけず出陣致した事について、我々が日頃の御懇意を
忘却したのだと考えられては、我らの本意に背きます。只今御陣頭をうち通りますが、
憚りながら使者を以てそのことを申し上げます。委細は国元より申し上げるでしょう。』

そう言上し、それより駒之峠に向かった。

(島津家譜)

関ヶ原の戦いにおける、島津の「鳥頭坂の退却戦」について

781 :人間七七四年:2020/12/22(火) 18:28:20.84 ID:7X5EPM0s.net
>>780
すいません、下から12行目

×川上四郎兵衛の兄
○川上四郎兵衛忠兄

変なミスしたまま投稿してしまいました

782 :人間七七四年:2020/12/23(水) 13:57:37.67 ID:brU/Qaa4.net
惟新(島津義弘)の家老である新納旅庵、並びに本田助之丞と申す者は、関ヶ原の敗北後、出京して
鞍馬の寺中に忍び居た所を、探し出され生け捕りと成った。

検使の山口勘兵衛(直友)はこの両人をよく存じていた者故、惟新が逆徒に与した理由を委細に尋ねた。
これに旅庵は申し上げた

「惟新は権現様より御懇意にされていましたが、殊に伏見の御城に関して、御預かりに成るように、
予てより上意もありましたので、御味方申し伏見に籠もる旨を、私を以て鳥居彦左衛門(元忠)、
内藤彌次右衛門(家長カ)に申し遣わした所、彼らは『上意はそうであったかも知れないが。現在
伏見城は家康公より、両人に御預けに成られている以上、他人を籠めるというのは罷り成るまじき。』
と申し切られた故、是非無く敵に加わったのです。」

山口勘兵衛よりこの内容が上聞に達した所、惟新、疎意有るまじきと思し召されたと、非常に良い
反応であった。殊に、「龍伯(島津義久)、忠恒は在国のためこの事を知らないだろう、早々に
御断を申し上げるように」と、井伊兵部少輔(直政)、山口勘兵衛方よりの書状を相添えて。
本田助之丞を国元に差し下した。

(島津家譜)

島津勢の、伏見入城についてのお話

783 :人間七七四年:2020/12/23(水) 14:05:04.01 ID:5tzL6S0O.net
鳥居が島津を伏見城に入れなかったのはなんでなんだろうな
単なる連絡ミスか、このように島津が西軍につかざるを得なくする遠謀か(考えすぎか)
そもそも当時関東の監視役で上杉攻めに連れて行ってもおかしくない鳥居を
伏見城に入れて使い捨てにしたのもよくわからん

784 :人間七七四年:2020/12/23(水) 14:20:09.68 ID:TT5hiS0Z.net
これ島津の言い訳で本当に伏見城に入ろうとしたのかかなり怪しい、西軍首脳になる連中と連絡取り合ってたはずでしょ義弘
そしてそもそも乱がおきるとかこれっぽっちも思っていなかったから、信用できる部下を使い捨てにするわけないでしょ
後世でこそ乱がおきるのを予期してたって扱いにされてるが、そもそも気づける訳ないだろと

785 :人間七七四年:2020/12/23(水) 15:00:44.43 ID:5tzL6S0O.net
>>784
上方で乱が起きない前提で上杉討伐に行ったのなら、なおさら関東に領地を持つ鳥居を連れていかないのはおかしな話じゃないか
先鋒として使うだろうし調略にもいた方がいいだろ

家康と鳥居が別れの前の夜に酒を酌み交わしたとかって話は信憑性低いんだっけ?

786 :人間七七四年:2020/12/23(水) 15:50:12.93 ID:H68PMpJI.net
家康の都合の悪い逸話ってどんどん改変していくから凄いよな
何もかも他人のせいで家康はいやいや従ってたら天下様になってたファンタジーになってる
もちろんウンコ垂らしもなし村正禁止もなし

787 :人間七七四年:2020/12/23(水) 17:01:06.36 ID:IBgVS5v+.net
>>785
信憑性低いよ
信用できる人間に政務で重要な伏見城の留守任せることがそんなにおかしいか?
万が一の為の留守番はかなり重要な役目でよほど信用できる人間じゃないと任せられないぞ
ただ、それは使い捨てとは言わない

788 :人間七七四年:2020/12/23(水) 17:07:03.62 ID:IBgVS5v+.net
逸話の信憑性もろくに見ないで今まで語られてたのがなくなってきただけの話でしょ
それをファンタジーとか言っちゃう時点で、ろくに史学の研究がどう進んだのかもわかってない無知ですってひけらかしてるよ

789 :人間七七四年:2020/12/23(水) 17:16:35.25 ID:H68PMpJI.net
神祖様の天下が270年も続いたのになんで都合の悪い逸話くらい消せなかったの?
やっぱり反感持たれてたんじゃないのw

790 :人間七七四年:2020/12/23(水) 19:51:01.53 ID:A/TETz5b.net
乱が起こると思ってたら息子くらい国に残すだろ

791 :人間七七四年:2020/12/23(水) 20:08:57.02 ID:RJRIPgSi.net
だいたいが後日談だろ

792 :人間七七四年:2020/12/24(木) 09:40:05.63 ID:BF3EMBhL.net
>>789
「神祖でも誤る事があった」→「だから現役の俺らが誤る事もあり得るよね」
という理屈の為に積極的に訂正せず残していたという説は聞いた事がある。

793 :人間七七四年:2020/12/24(木) 13:53:23.92 ID:BAPIthdt.net
いかにも徳美らしい屁理屈で草

794 :人間七七四年:2020/12/24(木) 14:12:58.89 ID:h/f3yER2.net
ジャップは古今卑怯が美徳になる変わった文化圏だからな
訪れた異人が戸惑うのは仕方ないことだ

795 :人間七七四年:2020/12/24(木) 14:18:03.10 ID:vKv5Wdsd.net
日本の隠居政治について

宣教師ヴァリニャーノによって書かれた『日本諸事要録』によると

「すべての領主や貴族は、大いなると小なるにかかわらず、その子息が結婚して十八歳か二十歳に達すると
 邸や領地の統治を譲り、自分の為に保留した僅少の財産を持って引退し、助言をすることによって
 子息を補佐する習慣がある。」

と述べられている。隠居制度のない海外への紹介文だが、現代的な隠居のイメージとは違い
当時は当主の年齢より、嫡男の結婚を契機として当主が隠居することが普通だったようだ。
ヴァリニャーノも会っている大友宗麟が、丁度天正4年(1576)に数え19歳の義統に譲っていて
翌年に義統の嫡男の義乗が生まれている(=つまり結婚はそれより前)のでまさにその例だろうか。

796 :人間七七四年:2020/12/24(木) 14:18:26.12 ID:BAPIthdt.net
それはバカチョン文化だろ
溺れた犬は棒で叩けとかだっけか?

半万年恨んでる日本に寄生して生きてて楽しいか?

797 :人間七七四年:2020/12/26(土) 17:46:43.11 ID:1Nc7UExF.net
蘭奢待は信長以降だと『当代記』(寛永年間)、『新武者物語』(宝永年間)によれば、徳川家康が本多正純と大久保長安を派遣し
正倉院宝庫の調査を実施したが、実際には切り取らなかったといわれているが・・

近衛信尋『本源自称院記』寛永5年10月1日条に「嶋津家久を訪ふ」、「禁中より蘭奢待を賜ひ、家久に遣わす」とあるそうで、
これはいつのものになるんだろうか?




西村義明「寿徳院玄由の閲歴について」『日本医史学雑誌』第四十六巻第2号より

798 :人間七七四年:2020/12/26(土) 17:48:31.14 ID:1Nc7UExF.net
『本源自称院記』のこの蘭奢待の記述は、テレビの「なんでも鑑定団」で取り上げられたこともありましたね、そういえば。

799 :人間七七四年:2020/12/26(土) 20:10:46.33 ID:IA6pxhFd.net
家久が京都に留学して公家と仲良くなってたよな
アレは何のためだったんだろう?

800 :人間七七四年:2020/12/27(日) 00:49:30.72 ID:MrQcvooJ.net
伊勢参りの話か

801 :人間七七四年:2020/12/27(日) 07:05:33.82 ID:vj41w+BJ.net
×本源自称院記
◯本源自性院記
ですよ

802 :人間七七四年:2020/12/30(水) 01:13:19.01 ID:Gm9dgAyq.net
ある時、織田信長公が「誰にても参れ」と仰せになったため、近習の小姓一人参って仰せを待った。
しかし「もはやよし」と仰せに成り、小姓は座より罷り出た。
そして再び前と同じように人を呼ばれたため、他の小姓が参ったが、これもしばし有って、「いらず」と
仰せに成ったため、罷り出た。

また、やや有って「誰ぞ参れ」とあり、また他の人が参った。暫く有って、これも事無くて
罷り出でる所に、座の側に塵が有るのを、取って罷り出た所に、信長公が「待て」と仰せあり

「総じて人は心と気を働かすを以て良しとするものだ。武辺というものは、かかるのも引くのも
時の潮時を見るのが合戦の習いである。其の方の只今の退き様、殊勝である。」

と褒められたという。

(備前老人物語)

「森蘭丸」の逸話の元ネタですね。

803 :人間七七四年:2020/12/30(水) 07:16:01.50 ID:RuoDJSgR.net
この前の麒麟が来る

光秀が諫言
→信長「もうよい、帰れ!」光秀「帰りまする!」
→あわてる近習に信長「帰りたいものは帰せ!」
→数秒後、近習に信長「ぐずぐずするな、呼び戻せ!」

塵は関係なく、ただ気が変わりやすかっただけだったり

804 :人間七七四年:2020/12/30(水) 20:38:26.76 ID:OHqAH3+d.net
>>803
うっかり本題の丹波攻めを命じ忘れたから呼び戻しただけだぞ

805 :人間七七四年:2020/12/31(木) 10:13:32.94 ID:uwNc3Av6.net
これもいつの陣の時だろうか、その人の名も忘れたが、信長公の侍に、賭博に負けて、
馬、物の具まで取られて、浅ましき有様と成った。その明くる日、どうしようもないので、
討死すべしと思い定めて、紙子羽織の後ろに黒き餅を書き付け、大きなささ板を求めて
鋸で刻み、腰指物にして戦いを待った。

ほどなく敵味方近づいて、互いに白眼を合わせるほどに、左手に扇を持ち、右手に刀を抜いて、
大音を上げて

「愛宕参りに袖を引かれた」

という小唄を歌って一人出た。

両陣はあまりのことにあきれて、しばし見物していたが、時分を見て「さあかかれかかれ!」と
一先にかかると、続いて七、八人、声をかけ合わせ、とつと、一度にかかって突き崩すと、大方
大利を得た。
突き懸かって駆け入った七、八人の者は、あらかじめ言い合わせていたと聞いている。

(備前老人物語)

806 :人間七七四年:2020/12/31(木) 11:00:02.00 ID:Rtjp6XfZ.net
>>805
名前も忘れられたということは、死ぬ気で一発芸かましたけど結局モブで終わったのか

807 :人間七七四年:2020/12/31(木) 11:35:21.92 ID:dvxsBnop.net
>>798
これは、「なんでも鑑定団」に自分は蘭奢待を持ってるって出場者がいて、肝心の鑑定結果は贋物(香木としては本物)という顛末でした。
その番組中に天下人以外でも入手した例として、本源自性院記の記述が紹介されたとのことです。

808 :人間七七四年:2020/12/31(木) 22:15:47.90 ID:VGYMyiZN.net
>>787
家康が西の丸に移ってからは大坂城が政治の中心も兼ねてて、伏見城の重要性はかなり下がってると思う。
だからこそ、忠誠心は厚いだろうけど、家康の留守中に代理が務まるような能力や格の持ち主じゃない鳥居を城代として置いて行ったんだろ。

809 :人間七七四年:2020/12/31(木) 22:18:33.20 ID:VGYMyiZN.net
>>797
史上に切り取った記述があっても、その時切り取った分の全部が下賜された、とは書いてないので、
下賜した分と別に宮中にストックされてるんじゃね?

810 :人間七七四年:2021/01/01(金) 02:25:15.50 ID:fcuIiM/Y.net
>>809
明治の時のは粗方下賜してしまったらしいが、殆ど小さい粒状か髪の毛の様な細く刻んだものばかりだったとか。
そういやある茶道家元所有の蘭闍待もそんな感じだった。
貴重過ぎて大きく刻めないのだろう。

811 :人間七七四年:2021/01/01(金) 11:41:49.71 ID:JxZpX45E.net
織田三七(信孝)殿の侍、二宮千太郎、これも博打に打ち負けて、馬、物の具取られ、
どうしようもなく、三七殿の御前に参り

「私は不心懸故によって博打を打ち、此の如き仕合に罷り成りました。
相手の者に様々に詫ましたが、馬も具足も貸してもらえず、この上は彼を討ち果たそうと
存じましたが、私はこのようになったにせよ、相手は御用に立つべき者であり、それをこの時に
討ち果たしてしまえば、いよいよ不忠でありますので、この上の御慈悲には、御検使を受けて
切腹仕りたく存じます。」

そう申した所、三七殿は「申す所、聞こえる義も少しは有り」と言われ、黄金二枚、具足、馬まで
下し給わった。彼は翌日の合戦で組討をして高名を究めた。三七殿も御気色をなおされたという。

(備前老人物語)

812 :人間七七四年:2021/01/02(土) 03:35:02.92 ID:jYZqs+Vq.net
名将の器ですな

813 :人間七七四年:2021/01/02(土) 20:46:42.13 ID:6jgGYJZO.net
四国成敗が終わってたら信孝は伊勢と四国の両方貰えるはずだったんだろうか?

814 :人間七七四年:2021/01/02(土) 23:32:43.57 ID:3P3ILz+k.net
伊勢は信包と信雄がいるしねえ
三好の養子に入ってるし、そのまま四国にじゃない?

815 :人間七七四年:2021/01/03(日) 09:16:34.53 ID:E9l+T+Ma.net
日野に幽閉されてた神戸具盛が神戸に戻ってきてたし阿波に拠点移すつもりかもね
具盛の娘との子女が成長してるし史実通りに織田氏族から婿取れば神戸任せられる

816 :人間七七四年:2021/01/03(日) 11:30:14.77 ID:/Zw9/wbf.net
豊臣秀長、吉川経言(広家)を気遣う

吉川経言(のちの広家)の兄・元長は秀吉の九州征伐に従軍し天正15年6月5日に病没した。
このことに関連する二つの書状を抜粋して意訳。

6月4日 秀長から経言への書状 『吉川家文書 八六五号』

一、元長が病気で奉公していないとのことですが、(病気は)おろそかにするべきではありません。
  公儀のことは私が引き受けます。第一元長は若年なのですから油断なく養生するべきです。
  早々に都郡(とのこおり)に連れて行って、その方もそこへ退がり用心するべきです。
一、都郡では元長の陣屋を探すのに難渋していると疋田(秀長家臣)から聞きました。是非もないので
  どこの寺でも家でもいいので良きところに、この書面を見せ押し入って下さい。
  元長の家中まで陣取ることが大切です。

6月7日 秀長から蜂須賀家政への書状 『吉川家文書 八六七号』

書状を見ました。最近便りがなかったので嬉しいです。雨が止まないと下々は迷惑しますね。
島津中務(家久)の不慮(死去)は是非もありません。又七(豊久)に心づけをするのは尤もだと思います。
次に元長のことですが、ずっと患ってはいましたがこんなにすぐ亡くなってしまうとは思いませんでした。
元長は親父(元春)以来、関白殿(秀吉)のために奔走してくれていたのですから、私もあの蔵人(経言)に
対して少しも気を利かせないということはありません。とりわけ蔵(経言)はこのごろ細やかに
罷り越してくれるものですから、知音になったのです。その方も(経言と)入魂になって下さい。
輝元と隆景の心中は察入します。あとは(疋田)九兵衛が語ります。
____

二つ目の書状が吉川家文書にあるのは、恐らく家政が広家に渡したのだろう。

817 :人間七七四年:2021/01/03(日) 12:51:10.01 ID:fMufmaQf.net
曲直瀬玄由(寿徳院、寿徳庵)は名医・曲直瀬道三の高弟、道三の孫娘(別の高弟の未亡人)と再婚した人物


薩摩の島津義弘は元和4年春から中風に罹って意識不明が続くことがあり、それを聞き及んだ将軍秀忠は同年3月25日付で
問い合わせの御内書を送り、義弘側から4月22日に返答している
島津家久へは本多正純を遣わして見舞いの言上をさせ、薩摩の国元へも見舞いの上使を派遣したという

『徳川実紀』元和4年には、同年秋の寿徳庵の薩摩への下向とあり、近衛信尋の元和五年6月3日付見舞状には
「寿徳庵下向之事候間、一書申入候」とあるので、2度の下向が推測される

東京大学史料編纂所所蔵の『島津家文書』では、元和三年六月の将軍秀忠の上洛に家久も上京し、十月初めまで滞在した折に、
義弘の国元での病を聞いた秀忠が心配して玄由を薩摩へ遣わしたとある
なお、この滞在中に家久は参議任官、松平姓の名乗りの許可を得、西洞院家を通して後陽成上皇崩御の経過を知ったとのことです

この時期、徳川将軍家の有力大名への配慮の一端がうかがえる話でありました



西村義明「寿徳院玄由の閲歴について」『日本医史学雑誌』第四十六巻第2号より



後に玄由は琉球からの留学生・山崎休意を弟子にしているので、島津家つながりで交流が続いていたものか?
琉球の禅僧は多くが京都で修行していたので、そちらのつながりも可能性ありそうですが

休意はまとめサイト『島津の琉球侵攻とある日本人武者』の山崎二休の息子ですが、コメント欄での考察にあるように越前山崎氏の一族かもしれない
朝倉と山崎の名がクローズアップされた、今回の大河の話ができる今しかネタにできないかw

818 :人間七七四年:2021/01/03(日) 20:24:33.56 ID:bJHzZg13.net
今日の大河、「手楯」が使われたのってもしかして時代劇で初めてじゃね?
考証気合い入れてるなー。

819 :人間七七四年:2021/01/03(日) 20:34:14.17 ID:bJHzZg13.net
>>817
まとめ過去記事のそれ、コメントの皆さんは越前山崎氏であることを確信していたようだが、どうしてそんなに断言できるものかなあ。
まあ当時の人ってそういう生まれの背景ないと学問身に付かないんだろうけど。
二休の記録は琉球にしかないからわからんね。

820 :人間七七四年:2021/01/03(日) 21:54:40.89 ID:ubGXdGN/.net
球陽 附巻5

「日本山崎二休、克く忠義を操り、以て重罪を累ぬ。」
山崎二休は、名乗は守三と称し、日本越前の人なり。
其の人と為りや、生資純粋にして、学は精密に徹す。而して少幼の時より医術に志して、他方に遊ぶ。
茲に球邦は中華に往来すること歴年已に久しと聞き、意想へらく、扁鵲の妙法、球国に遺在する有らんと。
乃ち故里を辞去し、本国に来到して那覇に住居し力を国に効す。
(このあと島津との戦いについて)

「山崎」「越前」「学問に通じて琉球まで遊学できるくらいなら裕福」
→越前山崎氏かな?
だろうね

821 :人間七七四年:2021/01/03(日) 23:11:34.10 ID:T+Y1+Z45.net
うん、そう。球陽のそれしか記録がないよね。
推論すると当然そうなるだろうが、結論づけていいものかな?

822 :人間七七四年:2021/01/04(月) 11:46:57.41 ID:2qgntU3u.net
>>818
改めて見ても使い物ならないな
サーベルのハンドガードみたいな発想はなぜ生まれなかったのか

823 :人間七七四年:2021/01/04(月) 16:08:43.06 ID:MxK1srIC.net
防弾性能だけ考えれば置き楯か竹束じゃないですか。

刀の鍔ってことなら、日本刀の鍔は刃で手を切らないためのものでしょ?
戦場なら甲冑で籠手を着けるから、刀剣が重くなる護拳はいらないのでは。

824 :人間七七四年:2021/01/05(火) 09:49:01.48 ID:Zpts00sW.net
蘭奢待といえばあの糸川英夫が香りを全化学合成しようと研究してたってほんとなんだろうか

825 :人間七七四年:2021/01/05(火) 15:34:53.17 ID:hOMWL+6l.net
今川義元が戦場において、何某とやらを召し「先手の様子を見て急ぎ罷り帰るように。」と命じたが、
先手では早くも戦の半ばであるのに行き合い、逃れがたい状況であったので、鑓を入れて首一つを
取って帰り、義元の見参に入れてその成り行きを語った所、義元は大いに怒り

「様体を見計らって急ぎ帰れとこそ言ったのに、その身の働き、私に対して忠の所は少しも無い!
軍法に任せて、きっと計らうべし!」

そのように仰せに成られた。かの使いの者はしおれたような顔で、謹んで義元の前に侍ふ人に向かい、
小声で藤原家隆の歌をつぶやいた

「かるかやに 見にしむ色は なけれとも 見てすてかたき 露の下をれ」
(秋の苅萱は、心惹かれるような色ではありませんが、露の光るしなだれた様子を見れば、捨て難いものなのです)

この様子に義元はさらに怒り、「何を言っているのか!?」と怒鳴ると、近習の者がそれを申し上げた。
これを聞いて義元は暫く考え、気色和らぎ、

「とどかざる仕形であるが、急なるに臨み、奇特に家隆の歌を思い出した事は名誉である。」

として赦したという。
昔の人はこのようにやさしき事があった。ただし、「時によるべき事である。一様には定めがたい。」
という人も有る。

(備前老人物語)

826 :人間七七四年:2021/01/06(水) 17:21:27.53 ID:hk6W+Ej8.net
織田信長公の家に、弓好きの人が有り、的を射て当たらぬということがなかった。

ある時信長公がその様子を見たい言われ、日を定めてそれを見たが、他の人は的に当てるのに、
その者は当てることが出来なかった。そのうちに日が暮れ、信長公が的場より帰られる時、
「人の言うのと見る事とは違うものかな。」と仰せになった。

その後、一揆が蜂起したため人々馳せ向かったが、かの弓好きの人、信長公の馬先に進み、
さし詰め引き詰め敵を射ると、ほとんど外れた矢はなかった、そして味方はこれによって勝利を得たため、
信長公も悦ばれること斜め成らず、

「能ある鷹は爪を隠すという事がある。先の的場での事は、このような時を思って当てなかったのだな。
たしなみ深し。」

そう感じ入られ、褒美の物を給わった。
物と時によって、その種類は多いだろうが、人の芸はこのように慎むべき事なのだと、
弓をよく知れる人が言っていた。その時、かの弓を射た人の名も聞いていたのだが、忘れてしまった。

(備前老人物語)

827 :人間七七四年:2021/01/06(水) 18:44:07.62 ID:9ZqabgiX.net
本多忠勝のように普段は下手だけど戦場だけ強いのかと思った

828 :人間七七四年:2021/01/07(木) 17:15:47.53 ID:VGqIU3AW.net
ある時、古田大膳(重治)が青木民部少輔(一重)に向かって言った
「あなたは越前の真柄(隆基)を討ち取られたと聞きます。その時の様子を語って頂けないでしょうか。
私はそれを承りたく思います。」

これに対し青木は
「真柄という人物は、大剛大力の者であり、本来私などに討たれるような人物では有りませんでした。
しかし折ふしの仕合良くて、真柄が手負い、くたびれていた所に行き掛かって討ち取ったのです。
何の、様子と言うほどのこともありませんでした。」
と答えた。

これに、「語るに飾り無く仰られることだ」と、古田大膳を初め聞く人たちは皆感じ入ったという。

(備前老人物語)

829 :人間七七四年:2021/01/08(金) 16:26:54.69 ID:Ve91bGh0.net
織田内府(信雄)の家臣である、生駒萬兵衛と言う人が新参の頃、ある人が、初めて彼を知ったので、
このように尋ねた

「貴殿の名には三つの不審がある。萬兵衛の読みは『ま兵衛』なのか、『まん兵衛』なのか、
それとも『まんひょうえ』なのか、しかと承りたく存ずる。」

これに萬兵衛は申した
「不審される事、余儀ありません。しかしどのように言って頂いてもかまいません。それは
その人の服中に虚実の有る故なのです。

腹が空虚のときには、はねて言うような力がないので、『ま兵衛』と言われます。
また腹中充満して、酒気など盛んな時は、『まんひょうえ』とはねて言われます。
その本名は、生駒萬兵衛と申す者也。」

これに、かの問うた人々は又言うべき言葉も無く、「さわらずして味のある返答なり」と、
人々はみな言った。

(備前老人物語)

830 :人間七七四年:2021/01/08(金) 17:16:17.02 ID:ACa+feE9.net
マンコなのかオマンコなのか、それともオメコなのか
アレはなんて言えばいいの?

831 :人間七七四年:2021/01/08(金) 21:43:50.68 ID:fMGW7tlw.net
戦国の頃の人って(西郷隆盛もそんな感じだから明治ぐらいまでも?)
名前に頓着しないよね
現代人はアイデンティティとして漢字も読みも大事にするからちょっと不思議な感じ
まあ幼名、元服、諱といくつもあってさらにカジュアルに改名するから
人に言う名はいまでいうハンドルネームみたいな感じなのかな?

832 :人間七七四年:2021/01/09(土) 07:49:48.34 ID:OSEv1+of.net
戦国時代の鉄砲の運用って雑賀衆が伝えたのかな。
上杉家はデカい火縄銃だったり、伊達家は敵の横腹集中的に狙ったり
大名でも違いあるね

833 :人間七七四年:2021/01/09(土) 13:36:18.29 ID:uXyU3sPj.net
小田原陣の時、韮山城を囲んでいた際に、森右近(忠政)殿は味方の人と先を争って、城際まで
竹束を付けられたが、一体誰が言い出したのか、「やがて城中より敵が打ち出る様子である、
皆々旗本に集合して一手になって戦うべし!」と触れられたため、味方の勢は我も我もと後先になって
引き退いた。

その中で若尾弥平次という鉄砲頭は、彼に付けられた二十人の足軽たちに下知した
「私の下知が有るまで、この場所を去ってはならない。もしこの下知に違う者は罪有るべし!」
そう言ったが、みな耳にも入らず、終に残り留まったのは七人だけと成った。

「場所はここを立ち去るべからず。敵が来ると見えれば下知をする。その時鉄砲一撃ちして、その後
私が一番に鑓合わせをする。」と、鑓を取り手ぐすねを引いて居た所、後ろから小声にて
「そこに居られるのは誰か」との声が聞こえた。
「若尾弥平次これに有り。そなたも鑓すべしと思われるのであれば、これへこれへ!」と言って
返り見ると、それは右京という者であった。名字は忘れたので記さない。

その時右京の言った事は、「何とは無しに人々引き退いたので、私も人並みに引いたのだが、あまりに
心もとなく、帰り来て見るに其の方だけが居られた。一体どういうことなのか。」
弥平次これを聞いて「どういう理由でこうなったのかは知らない。しかし、皆々慌てふためいて
引き退くと言っても、私の方には何の使いもなく、まして鉄砲などを預かっている者が、事の実否を
聞き定めずに立ち去るべきではなく、その事を足軽に下知したのだが、臆病者どもにて大方引き退き、
わずかに七人だけが残った。もし敵が出てくるのなら、せめて残った足軽たちに一撃ち撃たせて、
これにて一番に鑓を仕るべし、そなたも鑓を致さんとするのなら、ここに居られよ。」
そういうと、「尤もに候」と、一つ所に加わった。

この右京は大身の鑓を横たえて、弥平次の右側に居た。弥平次はこれを見て「貴殿の鑓の持ちようは、
敵が来ればその鑓に私を躓かせて、自分が一番鑓をしようとする心得と見た。中々おかしき事かな。
ここに留まったのは私一人であり、私の力があってこそ其の方もここに来たのだ。その鑓の持ち様は
侍の作法ではない。きたなし。その鑓引かれよ。」と言った。
右京は「その心得では無いが、鑓を引こう」と引いた。

「それにてこそ侍れ」として、一所に有った所に、森家の家老である各務兵庫(元正)が、前線の様子が
心許ないと、長刀を杖につき来ており、二人の後ろにしばし立ち居て、かれらの先の問答の様子を
つくづくと聞き、「さては聞くに及ぶ若尾の言葉である。」と、後々まで返すがえす感じ入ったという。

その後、城より敵が打ち出ることもなかったので、面々はそれぞれの持ち口へと戻った。
「惣じて陣所においては、『天狗の雑説』という事があるもので、しっかりと、確かに聞き届けないうちは
進退はせぬものである」と、若尾は語った。

彼は十八歳から高名があり、森武蔵守(長可)殿より感状三つ、その他信濃にて森右近殿よりの感状もあり、
されば色々、心がけの事多い人であった。彼は後に作州を去って福島殿に仕え、近年紀伊の御家(徳川頼宣)
に召されて終に病死した。その頃は佐々木善兵衛と名乗っていた。

(備前老人物語)

834 :人間七七四年:2021/01/09(土) 14:23:21.22 ID:yK/TwY+e.net
三河者か

835 :人間七七四年:2021/01/10(日) 18:29:45.58 ID:8Umn3I9A.net
>>831
立花宗茂なんて理由がわからんぐらいコロコロ名前変えすぎてて
仮に大河やったら元服したらそく「宗茂」にしそう

836 :人間七七四年:2021/01/12(火) 00:50:45.38 ID:6vjf8+TQ.net
鏡島村梅之寺・乙津寺の事

厚見郡鏡島村の梅之寺というのはその昔は乙津寺と号し、ここはすなわち7里の渡海の大湊であった故
に船付大明神を鎮守とした。

(伝承によれば、この辺りはかつて「乙津島」と呼ばれて、海に浮かぶ島だったが、弘法大師によって
桑田となり、地名を「鏡島」と呼ぶようになったという)

その後、一寺に点ぜり。この寺一派の本寺にして、土岐・斎藤の両家が殊にこれを帰依して、数ヶ所の
庄園を寄付した。その記録は宗別に見えたり。

当村院内はことごとく梅樹を植えている。故に“梅之寺”と号す。按ずるに斎藤家信仰の一寺と見える。
信長御入国の後も、もっとも寺務繁く、並びもなく栄えた。

しかるに信長公は元来仏法を嫌い給いて、所々で寺院仏閣を数多破却し給いたけれども、故あって当寺
をのみ甚だ尊敬し給い、とりわけて当山の梅を愛し給いて、すなわちこれを分けて江州安土、ならびに
京都妙心寺などに移し給わったのである。よってその寺の威は甚だしく、勅願所にも異ならず。

しかるところ、天正10年(1582)6月2日、信長生害し給いてよりこの寺の威勢も薄くなったの
だという。その後、文禄2年(1593)癸巳閏5月、秀吉より寺領の御朱印を改正せられたという。

――『美濃国諸旧記』

837 :人間七七四年:2021/01/12(火) 12:58:07.18 ID:O8i+wnF4.net
>>836
美濃に海なんてなくね?と思ったら、長良川の湊なのね。

838 :人間七七四年:2021/01/13(水) 02:01:04.08 ID:O+HLA6DA.net
>>835
おまいらが IDコロコロ変えるのと同じ理由だろうな

839 :人間七七四年:2021/01/13(水) 10:15:26.32 ID:5q8DtHMz.net
>>831
家によって○○新左衛門××とか△△萬弥□□と言う感じで昔は真ん中の呼び名で呼ばれてた事が多かったとか

840 :人間七七四年:2021/01/13(水) 13:24:58.78 ID:2u+d5loY.net
関ヶ原の合戦で、筑前中納言(小早川秀秋)殿は少々高き所に陣を取られていた。
麓の方から怪しい鉄砲の音が聞こえたため、その日の使番である二宮與三右衛門を召して
「今の鉄砲の音、心許なし。急いで見てくるべし。」
と仰せに成り、「畏まって候」と馬を引かせ、徒立って麓に下りると、麓よりも武者が一騎上ってきて、
二宮に行き向かい

「貴殿は今の鉄砲の音について、麓の有様を見よとの御使いであろうか。私はその事についての、
中納言様への使いである。
今の鉄砲は薬が湿ったため、既に打ち捨てており、少しもお気遣いする事では有りません。
御心安く思し召されるように、との事ですので、もはや御出に及ぶべからず。
この旨を仰せ上げられるように。」

そう言った。二宮は聞いて、「其の方も使い、私も使いである。あれに平岡石見守(頼勝)が居られる。
石見守に仰せ入れて頂きたい。」と言った。

相手は、再三に及んで無用であると言って留まっていると、二宮は「互いに使いであれば、それぞれ埒が
明くのが良いではないか。」と、愛想無く言い捨てると立ち別れ、麓の様子を見聞きすると、あの使いが
言っていた事に変えて、彼は少し心得が有ったので、戦場の難しき体をよくよく見届けて立ち帰り、
この旨を詳しく申し上げると、中納言殿は聞き召され、「よくこそ見て参った。」と感じ入られ、
褒美などを給わった。

その時々の状況によるべきではあるが、使いたる者の心得はかくあるべきであると、
坂崎半兵衛は語った。
またこの二宮與三右衛門は、若い時には二宮千太郎と云った者である。彼は大坂の陣の時は、
天王寺口において御宿越前守と一所で討ち死にしたと、坂崎は又語った。

(備前老人物語)

このお話もしかして、問鉄砲の原型ですかね。

841 :人間七七四年:2021/01/14(木) 16:33:59.89 ID:kqJ4+uC9.net
いずれの城を攻めた時であったか、寄せ手の大将が兵二人を召し、
「先手の竹束は堀際までどれほど付いたか、これらの他、様子をよく見てくるように。」

そう命ぜられると、一人は竹束の陰を忍び忍びに見ていった。
もう一人は、「剛の者には鉄砲は当たらぬものと言い伝わっている。それのみ成らず、運は転にあるものだ。」
と言って、竹束の外を、臆せずはばからず駆け巡り、二人ながら先手の人々に大将の仰せを伝え、
様子を見届けて帰った。

初め竹束の陰を忍び行った者は、立ち帰る時には竹束の外を帰り、竹束の外を行った者は、竹束の内を
通って帰り、それぞれ先手の有様を詳しく申し上げた。

この事は、後に人々も評し、大将も感じ給わった。
その二人のうち一人は、羽柴左衛門大夫(福島正則)殿の侍、可児才蔵(吉長)と言う者であった。

(備前老人物語)

842 :人間七七四年:2021/01/14(木) 16:59:00.89 ID:EF8GGFgl.net
アフィリエイトの原型だな

843 :人間七七四年:2021/01/14(木) 19:16:41.13 ID:b4jaZeeO.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-890.html
これだと可児才蔵が
「本当は自分も、早くたどり着く外を通りたかったが、
途中で撃ち殺されれば使者の役目を果たせなかっただろう。それでは軍律違反になるので控えた。
だが、もはや使者の用は終ったので、今は撃ち殺されても別に差し支えはない」
って言ったことになってた

844 :人間七七四年:2021/01/15(金) 16:13:29.20 ID:STTwyufl.net
小西摂津守(行長)が宇土を居城にしていた時、加藤肥後守(清正)、さる仔細あって押し寄せ
攻められたことが有った。この時清正は、仕寄り場を巡見して、「今夜城より夜討ちに打ち出る事も
有るだろう。面々の持ち口用心有るべし。」と下知して本陣へ帰られた。

この時期は夜寒の頃であり、軍勢は皆具足の上に、或いは夜着を着、或いは小袖を着ていたが、
その中に、名字は忘れたが、その名は長兵衛といった兵は、具足の上に蒲団を打ちかけて居た。

城中より俄に、どよめく声が上がった。かねて予想されたことであったので、「すわ、敵こそ
出れ!」と、我も我もと騒ぎ立ち懸け出ようとするが、上に着ていた夜着や小袖が具足にまとわりついて
すぐに脱げず、もたついている間に、長兵衛は上にかけていた蒲団を投げやり、一番に馳せ出、
「もし敵が出ているなら、それがしが一番鑓である!」
と、声高に名乗った。

およそ、常に心かけていた武辺は、真実の武辺である。
そうではない武辺は、たまたまの仕合に過ぎない。
武士のことは言うに及ばず、農工商、出家沙門に至るまで、その道を嗜み、心懸有る上で
不幸になってしまうのは、力が及ばなかったという事なのだろう。
長兵衛は常に心懸けがあった故に、その時、鑓を出そうとした者は多かったが、一番鑓になったと
言うことである。

(備前老人物語)

845 :人間七七四年:2021/01/18(月) 16:45:11.64 ID:BDVowD8z.net
岐阜での合戦で城方が負けて、城中に兵を取り込む時、津田藤三郎という者が殿をした。
彼が城まで戻ると城門は閉じられていたため、門を叩いて「ここを開けよ!」と言った。
しかし門番は
「門を開ければ寄せ手が城内に入ってしまう。壁を乗り越えて入るように。」
と言った。

藤三郎はこれを聞くと
「このように取り込んだ話になるだけでも口惜しいのに、壁を乗り越えて逃げ入るなど、
大変見苦しい事である。これにて尋常に討死すべし。皆々見物せよ!」
と言って馬より降り鑓を取り直し、足拍子を踏んで立った。
すると城内より

「さても見事な振る舞いではないか!かかる兵を目前に討たすべきには非ず。さあ、門を
開くのだ!」
との声が上がり、門を開いて入れさせた。

後に津田将監(信任)と名乗る人物が彼である。

(備前老人物語)

846 :人間七七四年:2021/01/18(月) 16:53:24.85 ID:NRVdS6IN.net
洛中千人斬りした人?

847 :人間七七四年:2021/01/18(月) 16:55:07.66 ID:NRVdS6IN.net
洛外だった失礼

848 :人間七七四年:2021/01/19(火) 04:50:17.78 ID:uaKLfxRF.net
大名のくせに山科や伏見醍醐で辻斬りしていたキチガイやん、こいつ…。
跡を継いだ弟も祇園で暴れて、結局改易されてるし。

849 :人間七七四年:2021/01/19(火) 13:25:26.00 ID:yJCIqhGj.net
太閤秀吉公の御陣の時、御馬廻りの衆の陣小屋を見廻られたが、そこに、小謡うたい、小鼓を打っている
所があった。秀吉公は立ち寄られ、垣の隙間から中を伺うと、内に武者が三人有った。
一人は具足櫃に腰掛けて鼓を打ち、一人は扇を持って謡をうたった。いま一人は盃をひかえ居た。
各々皆、甲冑を帯びていた。

これを見られ、「御気色を悪くされるのではないか。」と、お供の人々は心配していた所、
そのような事はなく

「あれを見よ、退屈せぬ奴原かな。」

と、笑みを含ませられ、

「それぞれの奴原に酒を取らせよ。あまり飲みすぎて酔うなどしないように言え。」

と宣われてその場を打ち過ぎられた。

(備前老人物語)

850 :人間七七四年:2021/01/19(火) 17:17:03.48 ID:d6PfSSOp.net
>>848
初代太閤立志伝みたいだな

851 :人間七七四年:2021/01/19(火) 23:01:38.29 ID:ayOYwNf+.net
千人斬りってすげーな
歴史に残したほうがいいんじゃないの

852 :人間七七四年:2021/01/19(火) 23:41:51.20 ID:U73AQl1n.net
津田与左衛門信任は関が原の頃には改易隠居済み、後に将監と名乗るわけがない
津田藤三郎は秀信に仕えて大番頭、8千石(『岐阜落城記』)

津田藤三郎と津田信任は十中八九別人
津田将監=信任という註釈が間違ってる

853 :人間七七四年:2021/01/20(水) 14:34:13.11 ID:shinWrHe.net
一里づかつき給ふ事

今は国が収まり、土民までも安楽である。世は澆季(末世)に及ぶと言えども、君は順徳を施し給われ、
仏法王法共に繁盛する、有難き御時代である。

然れば日本の五畿七道は、人王三十二代、用明天皇の御宇に定まった。六十六ヶ国に分けられた事は、
四十二代文武天皇の御宇である。道については四十五代聖武天皇の御宇に、行基菩薩が六町一里として、
王城よりみちのく東濱に到って、三千五百八十七里に極め、また長門西濱に到って千五百七十八里と、
くわしく図書に記し置かれたが、その境は定かではなく、これによって当君の御時代に、一里塚を
作るべきよしを仰せだされた。

日本橋は慶長八年、江戸町割の時節に新しく出来た橋である、この橋の名を、人間は名付けておらず、
天より降ってきたのか地より出てきたのか、諸人一同にこれを「日本橋」と呼ぶようになったのは
稀代の不思議とされた。そして、武蔵国はおおよそ日本東西の中間の国に当たるとの御諚があり、
江城日本橋を一里塚の起点と定め、三十六町を道一里として、これより東の果て、西の果て、五畿七道
残る所無く一里塚を築かせられた。

日本は年久しく治まらず、諸国乱れて辺土遠境の道は狭くなり、また曲がっていたが、そういう所を
見計らい、直線にし道を広げ、牛馬の蹄が労せないように、石を除き大道の両辺に松杉を植え、
小河には尽く橋をかけ、大河には船橋を渡し、日本国中、民間往復のたよりに備えられた。
これは慶長九年の事である。
万民喜悦の思いを含み、万歳を願いあった。
このような将軍国王の深恩に、末代までもどうしてこれを疎かに出来るだろうか。

『見聞集』

854 :人間七七四年:2021/01/20(水) 18:50:57.59 ID:Pfwb4OzC.net
>>852
松平織田系は同姓同名多過ぎて混乱するわ
○○守までつけて欲しい

855 :人間七七四年:2021/01/20(水) 19:24:06.96 ID:cefEZM00.net
松平家忠(深溝松平、日記の方)
松平家忠(東条松平、日記の方の義弟)
松平家忠(形原松平)

織田信成(信長の弟の信勝(信行))
織田信成(信長の従兄弟)
津田信成(織田庶流、千人斬りの津田信任の弟)
織田信成(スケート)

たしかにややこしい

856 :人間七七四年:2021/01/21(木) 02:06:16.50 ID:eihVDn6k.net
織田信重とか7人くらい被ってるしな

857 :人間七七四年:2021/01/22(金) 13:37:59.34 ID:5jChY7Bo.net
徳川家康公が有る時ふと、広間に御出に成られたが、この時広間には、番衆がただ一人しか居なかった。

「どうして番の者共は広間に詰めぬのか!?」

そう仰せに成り、御機嫌もよろしく無かった。
かの一人だけ在った者が申し上げた

「たった今までここに詰めていたのですが、皆相撲見物に出てしまったのです。」

これを聞くと家康公は
「汝はどうして、他の者と共に行かなかったのか。」
と仰せに成り、奥へと入られた。深きお考えの有る言葉であったという。

(備前老人物語)

858 :人間七七四年:2021/01/22(金) 15:28:45.56 ID:laXCy1+G.net
色々調べたりすると加藤清正の庶流が佐屋の郷士として江戸時代でも続いてたりしてるから面白い

859 :人間七七四年:2021/01/22(金) 16:48:17.06 ID:3zC4LCrW.net
俺のご先祖さまか

860 :人間七七四年:2021/01/22(金) 23:25:58.77 ID:yPt2QclP.net
>>857
予定外の時間に出てくんなってことだな
社長がふらっと予告なしで一般社員のフロアに出てきたらちょっと迷惑だしな

861 :人間七七四年:2021/01/23(土) 17:34:28.59 ID:Fh3YuJ7t.net
>>860
最近の研究で出てきた人の良い家康さん像だと
最初の発言は「勤務中に役割を疎かにするとはけしからん!仕事に励むべきでは!?」と取れるし
その後の発言は「え!?相撲見物なら仕方ないね!そういうときは君も同僚に付き合った方がいいよ!(本当に必要なら小姓に探しに行かせるし)」みたいな発言とも取れる。

あるいは「たった今まで」という発言を「同僚を庇った」と解釈して「そういうときは君も行っていいんだよ(=同僚を私は責めない)」と言ったようにも取れる。
そうじゃないと三河者は責任者クラスがすーぐ腹を切ってお詫びしちゃうので。

というか本当に深い考えあったのか?
無理に持ち上げてない?

862 :人間七七四年:2021/01/23(土) 17:53:25.11 ID:WKvEYzad.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1502.html
番衆が城内で相撲取ってどったんばったんしてるとこに出くわした家康が
「相撲を取るときには畳を裏返すのだぞ」
と諭した話も出てたっけ

863 :人間七七四年:2021/01/23(土) 17:53:49.45 ID:VockI350.net
いつもどおりの気持ち悪い神君持ち上げ
言論の自由なんてものがない江戸時代に
生殺与奪権を握られてる人を正確に評価できるわけがない

864 :人間七七四年:2021/01/23(土) 23:58:03.41 ID:LnvKmP+G.net
>三河者は責任者クラスがすーぐ腹を切ってお詫びしちゃうので。

こういった「殊勝な三河者」も後世つくられたものだよね

865 :人間七七四年:2021/01/24(日) 21:10:05.29 ID:EgpbTEhE.net
>こういった「殊勝な三河者」も後世つくられたものだよね
この点は全く否定しない。ただし

本多作左衛門が三方ヶ原の敗戦後に篭城後の兵糧どうすんの?荷駄は三方ヶ原に放棄したじゃん、って話をしているときに
「それがしが密かに蓄えた米がありもうす!」
と言ったけどそこで「お前、それ横領じゃあ…」と誰かが言ったら作左衛門さんは間違いなく罪を認めてその場で腹を切るし
三河者は家康含めて空気を読んで、「さ、さすがは作左殿じゃあ!」した話は好き。
家康さんは下手したら懲罰沙汰のインシデントに出くわした時に、丸く収める方法をよく存じておられた。

866 :人間七七四年:2021/01/25(月) 01:15:26.05 ID:vUkIGv8n.net
まさにそういうのが「殊勝な三河者」だわな
たぶん後世の創作(少なくとも天下とった後
大半が松平家に歯向かった黒歴史とか封印してたんだろ

867 :人間七七四年:2021/01/25(月) 09:49:11.79 ID:hHw/MJ1q.net
秀康の小姓として付けた自分の息子を無断で甥に交代させた本多重次だぞ
役を放棄しても自ら罪を被らない人間が、
その程度で罪を認めて腹を切るとは思えない

868 :人間七七四年:2021/01/25(月) 12:45:04.84 ID:Q9O+iPhz.net
越後の堀左衛門督(秀政)の家中の諸士へのあてがい、百姓町人以下への作法等が悪しきとして、
何者かが越後の城下の町の辻に大札を立て、そこには『堀左衛門殿悪敷仕置の条々』として、
二十二、三ヵ条が書きつけられていた。

堀家の目付、出頭人などが談合し、これを左衛門殿に見せ参らせ
「かかるいたづら者をば、きっと御穿鑿あって、懲らしめのためにも法度を行われるべきです。」
と申し上げた。

左衛門殿はこの札をつくづくと読むと、ふと立ち上がって袴を着け、手水を使い、うがいをして
かの札を三度頂くと言われた

「一体どこに、これ程の諫言を私に言ってくれる者がいるだろうか。これは偏に、天が与えさせ
給わったものであろう。この札は、我が家の宝である。」

そうして札を結構なる袋に入れ箱に納め、その後、諸奉行・代官等を集め、それぞれに善悪を糺し、
家中の作法、知行割、扶持方の渡し様、町人百姓に至るまで、憐憫を加え、仕置尽く宜しく改められた。

それ以降、世の人々はこぞって彼を、名人左衛門督と云った。

(備前老人物語)

869 :人間七七四年:2021/01/25(月) 17:19:42.84 ID:Kw6qKn9S.net
Q太郎は何をやっても名人と頭に付けられるのか

秀吉が落首事件で同じことをやってたら人気が上がったのかな

870 :人間七七四年:2021/01/25(月) 18:01:21.17 ID:8fTafSj5.net
政治批判だけならともかく
秀頼が秀吉の子を怪しむ落書だったら
こんな対応が取れるわけが

871 :人間七七四年:2021/01/25(月) 21:02:50.47 ID:WnIu/gdg.net
芝居掛ってるよね
さすが信長が育てただけある

872 :人間七七四年:2021/01/26(火) 02:32:24.14 ID:YN0ixmWu.net
木津勘助の墓

本名は中村勘助といい、天正14年(1586)に足柄山で生まれました。
20代のはじめ木津村に住み、土木技術で豊臣秀吉につかえました。
豊臣家滅亡後、木津川の治水・堤防作り・勘助島などの新田開発を進めました。

寛永16年(1639)に近畿一円が冷害にみまわれ大飢饉の様相を呈したとき、
米(大阪城の備蓄米)放出を願い出ましたが聞き入れられず、
私財を投げうって村人に分け与えましたが効果なく「お蔵破り」を決行して捕らえられました。
葦島(大正区三軒家付近)に流され、万治3年(1660)に75歳で亡くなりました。

「お蔵破り」を決行したことなどから大阪の人に永く尊敬されていました。

墓は唯専寺(浪速区敷津西)にあり、鴎町公園(浪速区敷津西)に勘助橋碑が建っています。
また、大正区の上八坂神社にも「中村勘助之碑」があります。

873 :人間七七四年:2021/01/26(火) 08:08:37.60 ID:XoABijWS.net
講談「木津の勘助」だと
木津の勘助に惚れ込んだ淀屋十兵衛(米相場の基準となる米市を設立、淀屋橋をかけた豪商)とその娘。
娘が貧乏暮らしを承知で勘助のところに嫁ぎたい、と結婚を申し出ると
勘助「もらいまひょ」淀屋「あげまひょ」
というわけで勘助の家主の媒酌で淀屋の娘は嫁ぎ、嬉々として貧乏暮らし。
暮れになって家主が米相場に手を出し二百両の借金を抱えていると知った淀屋の娘は
「たった二百両ですか?私が嫁ぐときに父がお小遣いをくださいましたので使いましょう」
勘助「さすが金持ちやなあ、二百両もくれはるか」
淀屋の娘「いいえ、三千両でございます」
勘助「そんなにうちに積んどっても石や瓦と変わらん、きれいにつこうたろ」
こうして木津川の工事を行い、飢饉の時には幕府の米蔵を破って飢民に与えるという侠気な振る舞いをいたしました。

豪商、しかも米相場の元締めの婿にしちゃったら幕府の米蔵破る必要ない気もするけどそこは講談ということで

874 :人間七七四年:2021/01/26(火) 16:26:05.31 ID:qq6aRlXV.net
長久手合戦の折、森勝蔵(長可)殿がその場の穿鑿をされた時、
「今度の一番鑓は山田八右衛門、千田主水の両人である。」と定められた。

その時、千田主水進み出て
「一番鑓は八右衛門であり、その次が某です。」
と申したため、八右衛門に尋ねると
「その時はどのようであったか、私の周りは騒がしく、しかと覚えておりません。」
と申した。たって尋ねられると
「私の鑓の石突に物の触わったような覚えがありますが、一番か二番かは存じません。」
との事で、これに対し人々は

「互いに、有り体に申しており、武士の道、殊勝である、」

と沙汰した。

(備前老人物語)

875 :人間七七四年:2021/01/26(火) 21:44:33.12 ID:ne2Ef1aK.net
関ヶ原の勝ち組一族でも庶流の帰農(地主に転向)ってあるんだな。浅野長政の庶流が富山県に帰農して子孫は富山の大地主一族になってるみたいだ。大身の大名なら一門全員ついて行くもんだと思ってたからびっくり。
ttp://kinseikagatoyama.seesaa.net/article/364358356.html

876 :人間七七四年:2021/01/27(水) 01:18:41.30 ID:0bE8aSIW.net
>浅野長政の一族浅野長祐の裔長助
長祐って誰よ? ってレベルの一族だしその子孫となるとほぼ無関係じゃない

877 :人間七七四年:2021/01/27(水) 01:47:31.74 ID:uzchNKUH.net
>>876
Wikipediaに書かれてない長政の先代の庶流くなんだろうけど、武将の帰農パターンて一族崩壊以外でもあるんだなと。ちなみに肥田氏とも男系の縁戚。

878 :人間七七四年:2021/01/27(水) 11:27:46.82 ID:UV9ON2bf.net
前田に仕えていたけれど帰農したとかじゃないのかな

江戸末期に浦賀、京都・江戸の町奉行を務めた同名(wikiだと長祚)の幕臣がいるね
赤穂の支流だそうだけど、家禄3500石ってことは本家赤穂の長重流(500石)より上か

879 :人間七七四年:2021/01/27(水) 12:22:36.02 ID:K+heH9n3.net
かつて当君(徳川家康)が武州豊島郡江戸に御打ち入られてよりこの方、町は繁盛したが、
地形が広くなく、これによって、豊島の洲崎に町を建てんとの仰せがあり、慶長八卯の年、
日本六十余州の人夫を寄せ集め、神田山を引き崩し、南方の海を、四方三十余町埋めさせ、
陸地となし、その上に在家を立てられた。

昔、平相国清盛公は、津の国兵庫の浦に新京を建てんと、七ヶ国の人夫を集め、島を築かれたが、
崩れて島成就し難く、その後、石面に一切経を書写し、その石にて築いた所、誠に竜神が
納受されたのか、島は成就し、これによって経ヶ島と名付けた。そしてその島の上に
三町ほどの在家を建て、末代まで名を残した。
しかしこれを、今の豊島と比べれば、わずか十分の一に及ぶ程度である。

この新たな町はその外まで家が居続き、広大なること、南は品川、西は田安の原、
北は神田の原、東は浅草まで、町が続いている。
豊島の名の通り、民が豊かに栄えること、震旦(中国)の都は家居百万間というが、中々これと
比べるには足りない。

天地開闢より慶長までの世を考えるに、この(現代の)御代には及ばない。
上一人の御恵み深ければ、下万民、みな栄華に誇る。
「君が代は 千代に一度ゐる塵の 白雲懸る山となるまで」
(君の世が、千代に一度落ちる塵が積り、白雲のかかる山と成るまで)
久しかれぞと、人々は祝い侍った。

『慶長見聞集』

880 :人間七七四年:2021/01/27(水) 12:24:47.39 ID:B+fDInqk.net
俺の苗字は織田だけど信長とは何の関係ないよ
系図買って背乗りした連中でしょ

881 :人間七七四年:2021/01/27(水) 12:38:52.14 ID:XXqCJ3Xd.net
>>880
江戸時代以前の苗字持ちの大地主や商人は戦国時代に敗れた武将の生き残りや大名家の庶流が多いよ
昔はその辺明確に分けてたようだから手掛かりになる、正直ポッと出の下級武士の方がわけわからん出自が多い

882 :人間七七四年:2021/01/27(水) 13:56:59.50 ID:pKTdIqgZ.net
>>881
丁度いいことに、大阪の陣とかで各家こっそり両陣営に兄弟で付かせてるとかあるあるだったもんねぇ…
それで負けた側は表向き切腹でこっそりコネ辿って匿って貰ったなどという言い伝えもあるあるなわけで…
うちの母方もそんなんで士族だけどちと怪しい

…はずなんだけどな…なんか似てるかも、という話が子孫にも結構あったりするのがまたいとをかし

883 :人間七七四年:2021/01/27(水) 14:22:23.05 ID:RRZ7N1Jm.net
陣営わかれるのは普通に家中対立の結果ってのが多いんじゃない?
こっそり入れてるてのは佐野道可くらいでは

884 :人間七七四年:2021/01/27(水) 14:40:00.40 ID:Lq8wV5VS.net
その佐野道可も1589年に毛利家から追放されてて本当に無関係だった説あるでしょ

885 :人間七七四年:2021/01/27(水) 15:12:34.66 ID:XXqCJ3Xd.net
>>882
もっと賢い所は自陣とは別に水面下で一方の大将クラスに子供産ませて家を潰させない保険掛けてるとこ

886 :人間七七四年:2021/01/27(水) 20:38:57.73 ID:E0q2cVc2.net
>>868の堀秀政の次男も浅野長政の娘婿
秀吉の小姓だったけど長政の仲介で徳川に仕えてる

887 :人間七七四年:2021/01/28(木) 01:02:41.68 ID:opTrY6+x.net
>>878
wiki読む限り長祚は該当してないようだ、赤穂系では無いっぽい。時系列の推定的には関ヶ原以前の長政の兄弟かその前の世代絡みの親類、一向一揆を一掃させた後〜関ヶ原直後に帰農したと考えるのが自然かなと。

888 :人間七七四年:2021/01/28(木) 15:01:41.34 ID:D8jjl5+4.net
慶長の頃、出雲国に、小村三右衛門という人の娘に、『国』といって、形優れ、心様優しき遊女が
あったが、彼女は柳髪風にたおやかになびき、桃顔露を含める風情、舞曲花めいて、百の媚を成した。
音声雲に響き、言葉は玉を列ね、春風のような暖かさで、聞く人までも、覚えず栴檀の林に入ったのかと
怪しむほどであった。

この遊女が、「男歌舞伎」と名付けて、髪を短く切り、折髷に結い、鞘巻を指し「小野対馬守」と
名付け、今様を歌った。
舞女の誉れは世に越え、顔色無双にして、袖を翻す装いは、見る人の心を惑わせた。

それが見られた以降、諸国の遊女はその形を学び、一座の役者を揃え、笛、太鼓、鼓を鳴らし、
鼠木戸を立て、これを諸人に見せた。
中でも名を残した遊女には、佐渡島正吉、村山左近、岡本織部、小野小太夫、でき島長門守、
杉山主殿、生島丹後守、などと名乗り、これらは一座の頭にて、歌舞伎の和尚(師匠)と云われた。

『慶長見聞集』

出雲阿国の事などについて。

889 :人間七七四年:2021/01/28(木) 17:46:48.77 ID:x0lTp369.net
俺は自称薩摩守だよ

890 :人間七七四年:2021/01/28(木) 18:12:14.46 ID:6Qd90BBT.net
運賃払えよ

891 :人間七七四年:2021/01/29(金) 08:07:06.33 ID:ZzJrBT5N.net
女を使うのはエロだからだめ!→美少年使います。(若衆歌舞伎)
美少年は風紀が乱れるからダメ!→野郎にします(野郎歌舞伎)

これほんとなの?

892 :人間七七四年:2021/01/29(金) 12:52:10.15 ID:9+RMbyQt.net
いわゆる遊女歌舞伎と若衆歌舞伎は
併行して興行されて同時に禁止されてるんで
前段は違うな

893 :人間七七四年:2021/01/29(金) 13:19:09.46 ID:RLTf+xS9.net
三浦浄心による、『男歌舞伎(遊女歌舞妓)』体験レポ

さて、中橋(日本橋と京橋との中間にあった堀割に架かっていた橋)にて幾島丹後守の
歌舞妓有りと高札が立てられると、人集まって貴賤群集を成し、出るを遅しと待つ所に、
和尚(師匠)が先立って幕を打ち上げ、橋掛かりに出てきた。その姿を見ると、
いと花やかなる出で立ちにて、黄金作りの刀脇差を差し、火打ち袋、瓢箪などを腰に下げ、
猿若(下人)を伴に連れ、そぞろ立ち浮かれたるその姿は、女とも見えず、ただ端正な男であった。
古の、陰陽の神と云われた業平の面影があった。

芝居桟敷の人々は、首を延ばし、頭を叩いて、我を忘れて動揺した。
彼女が舞台へ出ると、さらに猶、近増さりする顔容は、誠に楊貴妃が一度笑めば、六宮に顔色無しと
云われている通りであった。芙蓉のまなじり、丹花の唇、花を飾ったような形で、これを見ては、
いかなる塔の澤に引き籠もり、念仏三昧の坊主頭の上人、天台山四明の洞に、一心三観を宗とされた
南光坊であっても、心迷わないという事が有るだろうか。

秘曲を尽くす舞の袖、容顔美麗に優しい事は、源義経の思い人、舞の上手と聞こえる、磯の前司の娘である
静御前や、唐土の皇帝が恋い焦がれられたという大織冠の乙姫も、これにはどうして優るであろうか。
このような美しき立ち姿に、見惚れ迷わないという人は、鬼神よりも猶恐ろしいと言うべきであろう。

その他、花を嫉み、月を妬むほどの女房たちを、同じ様に装束させて、齢二八(十六歳)ばかりであるが、
見目形、絵に描いたとしても及び難きほどであり、彼女らが花の袂を重ね、玉の裳裾を列ね、
五十人、六十人、みな美しい顔立ちで、花車なる花の色衣に、真那盤、古伽羅、紅梅伽羅といった
香を焚き染めて、歌舞妓を踊り、一同に袂を返して扇ぐ風に、その匂いが四方に香ばしく、
まるで春の園に蝶や鳥が、散り舞う花に浮かれつつ、勢いよく立っては入り乱れ、左右に分かれる
舞の袖、これには五節の舞姫も、かくやとこそは思われた。
史記に「長袖善く舞ふ 多銭善く商ふ」と云っている事も、思い知らされた。

さてまた、床几に腰を掛け、並び居る連れ三味線が、歌を上げてはかき返し、今様の一節であろうか
「夢の浮世にただ狂え とどろ、とどろと鳴る雷も きみと我との仲をば裂けじ」
との歌の中に、師匠の舞い遊ぶ、姿優しき花の曲、これこそ誠に、天人の遥迎ではないだろうか。

「天津風 雲の通路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばし止めん」と、名残を惜しむ舞歌の曲も、
早くも入相に成ると、鼓、太鼓や笛の音の拍子と合わした足踏みに、心は空に浮かれ。
「今生は夢の浮世である。命も惜しくない、財宝も惜しくない」と、貴賤老若、この道を好いて、
惚れ人となった。

古語に「一度顧みる時は城を傾け、二度顧みる時は国を傾ける」と云う。
そして仏は「一念五百生、けねん無量劫」と説く、
また宝積経に「一度女人を見れば、眼の功徳を失う。例え大蛇を見ても女人をば見るべからす」
と戒めている。
さてまた、外面は菩薩にて、内心は夜叉のごとし、とも説かれている。
誠に女の面は菩薩に似て、心は鬼なのだ。

伊勢物語に「つる草や雑草が生えて荒れた宿が、薄気味が悪いのは、一時のことにもせよ、
稲刈りをしようとすると鬼が集まることだ」と読んだのも、これは女を鬼と云っているのだそうだ。
彼女らは男を惑わす魔王であり、女に心を許すべきではない。

『慶長見聞集』

894 :人間七七四年:2021/01/29(金) 14:59:17.52 ID:eVNvVloZ.net
>>893
実際顔見たことないくせに業平がどうとか楊貴妃や静御前や乙姫がなんだとか
よくもまあ恥ずかしげもなく書けるもんだと思う

895 :人間七七四年:2021/01/30(土) 16:17:40.34 ID:/QYGEpXb.net
長久手合戦の時、鑓(一番鑓)を入れたのは家康公の御方では、平松金次郎と大脇七兵衛であった。
但し七兵衛は弓であった。

合戦後、家康公の仰せに「今度の鑓は平松金次郎である。」として、御座をお立ちになった所に、
七兵衛が御跡に付いて申し上げた
「私もその場に在りましたが、弓を仰せ付けられていたため、その役を守り矢を二筋放ちました。
これも鑓同前に成らないのでしょうか?」

家康公は御思案され、
「いかにも、汝が申す通りである。その証拠にせよ」
と、丁度手に持っておられた矢二筋を下されたという。
大脇七兵衛は良く申し上げたものである。

これは前田二郎兵衛という武功の人が語った事である。

(備前老人物語)

896 :人間七七四年:2021/01/31(日) 15:11:36.42 ID:jIZQT6cw.net
織田信長が安土に御座されていた頃、荒木摂州(村重)より仔細の事があり、使者を参らせるとして
家中より人選した所、荒木彌助でなければ使者にすべき者は無いとして、この彌助を安土へ派遣した。

彼は菅屋九郎右衛門(長頼)の取次によって御前に召された。使いの事が終わった後、信長公は
こう仰せになった

「汝は荒木彌助という者であるか。その名は内々に聞き及んでおる。これへ、これへ」
と、食籠にあった餅を二つ三つ脇差にて貫かれ、それを彌助の前に差し出された。

これに彌助は「畏まって候」と、己の脇差を抜き、腹ばいになって這い出て口を開けて
餅を賜らんとした。
この様子を御覧になって、信長公はにっこりと笑われ、その餅を御脇差ごと打ち捨てられたのを、
彌助が取って押し頂いて退き、餅を皆うち食らい、御脇差を袖にて拭うと、小姓衆にこれを渡した。

小姓衆は受け取って、鞘に収めて再び信長公に参らせると、脇差はそのまま、彌助が賜った。
彌助はこれを三度頂いて退出した。

もとより信長公の異形不思議の御振舞に、荒木のとっさの対応、古今珍しき事であると、その頃の人々は
申しあったという。

(備前老人物語)

脇差に指した餅の事、ここでは村重ではなくその家臣の話なんですね

897 :人間七七四年:2021/01/31(日) 15:28:00.66 ID:77Y0ikbF.net
信長ってめんどくさい人だよな
こういうピエロじみた振る舞いも好きだし
謹厳居士もそれはそれで嫌いじゃないし
その時の気分次第か
秀吉は気分を読むのが格段にうまかったんだろうな

898 :人間七七四年:2021/01/31(日) 15:37:47.65 ID:Vtd2rZqU.net
家康も信長に負けず劣らずの相当な気分屋に見えるけどな

899 :人間七七四年:2021/01/31(日) 17:17:39.84 ID:IK6o6DfY.net
そういう無茶振りに対応できる人は有能だからね
名人Q太郎とか秀吉を重用したのも分かる
常識人の光秀には出来ない腹芸だよ

900 :人間七七四年:2021/01/31(日) 18:58:42.46 ID:8ciGS4R/.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1647.html
根来衆と信長と馬糞・悪い話

馬糞の上に餅をばら撒かれるよりはマシかな

901 :人間七七四年:2021/02/01(月) 07:31:16.81 ID:XRjNYKKB.net
ウンコ好きなジャップw

902 :人間七七四年:2021/02/01(月) 13:59:50.05 ID:zxNV+LQA.net
明末の随筆集「五雑俎(組)」
倭寇や朝鮮出兵については日本をかなり罵ってるけど
https://zh.m.wikisource.org/wiki/五雜俎/卷10
又嘉定乙亥,僧椁セ遊山,忽得奇菌,歸以供眾,毒發,僧行死者十餘人,椁セ亟嘗糞獲免。
有日本僧定心者,寧死不汚,至膚理拆裂而死,至今庵中藏有日本度牒。
其僧姓平氏,日本國、京東、相州、行香縣、上守鄉、元勝寺僧也。寧死非命,不汚其口,亦庶幾陳仲子之風矣。

食中毒の時でも食糞(治療法)せず、清らかに死んでいった日本僧については賞賛しているな。

903 :人間七七四年:2021/02/01(月) 16:32:07.96 ID:XRjNYKKB.net
クソ食いジャップがバレて発狂か

904 :人間七七四年:2021/02/01(月) 17:56:02.05 ID:kEkWqfVz.net
嘉定乙亥って1215年でござんす

905 :人間七七四年:2021/02/02(火) 10:37:43.13 ID:9b1slNtJ.net
う〜ん....、読めん!

906 :人間七七四年:2021/02/02(火) 13:43:48.35 ID:C7ZgshtO.net
日本にも大便酒があったわけだし、この勝負引き分けだな

907 :人間七七四年:2021/02/02(火) 15:34:17.64 ID:0c9HIEwf.net
伯耆の守護である南條中務殿(南条元忠カ)は=A代々武辺の家bナあると言い伝bっている。
かの家の例にて、毎年正月二十日ぶが、具足の餅の祝いがあり、侍共が残らず城に集まった、

南條は甲冑を帯びて出られ、床几に腰を掛け、大土器にて酒宴があった。
ある時、何条は続けざまに二盃かたむけて、「おもい指しなり。其の方もおもい指しせよ!」とて、
家老に盃を指した、彼は「有り難く存ずる」と押し頂き、たっぷりと酒を受けて飲み、またたっぷりと
受けて、手に持って暫く思案する様子が見えた。

座に在る者共、誰に指すのだろうかと待っていた所、彼は頭を延ばしてかなたこなたと見巡らせ、
我が子を呼び出し、

「この土器にて、おもい指しをせよとの仰せを蒙り、暫く思案したのだが、殿様に献ずるのも
なにやら面映ゆく、汝に勝って思う人も居ない。」

そう言って土器を指した。息子は「傍若無人なり」とは思ったが、親の命であるので「忝なく存じ候」と
引き受け、二盃傾けたが、この様子が南條殿の笑壺に入り

「よく指したり、飲みたり、肴なくてはかなわじ」と、その時具足の上から差していた脇差に、
熨斗鮑を添えて与えた。

君臣親子の情、真実の道理を表わされた。末頼もしき風情であると、これを嫉む人は居なかった。

(備前老人物語)

908 :人間七七四年:2021/02/02(火) 16:39:59.22 ID:asYGmJ2t.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4866.html
伊達政宗「上様、思い差し仕るっ!」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4872.html
島津豊久の『思い差し』

この二つの逸話のせいで「思い差し」て聞くと衆道を先に連想してしまう

909 :人間七七四年:2021/02/02(火) 17:21:18.19 ID:6qUrdL17.net
ホモきもい。糞まみれのチンポコ嘗めて病気平癒するとか信じてそうだな。

910 :人間七七四年:2021/02/02(火) 19:48:37.88 ID:J9QJFelH.net
備前老人ってヘロドトスみたいなタイプなんだろうな
逸話好きすぎて変な事まで大量に書き残す

911 :人間七七四年:2021/02/03(水) 14:52:38.05 ID:Hr476j/4.net
吉村又右衛門は人の知りたる武勇の人である、と申されていた。

私(著者)が中国へ罷り下ろうとしていた頃、暇乞いとして、彼が夜中に来た。
「又いつ会えるか知れないから。」と言って、酒を飲んで過ごし、様々な事を心静かに語った。
そして「もう夜も深くなってしまった。では。」と言って帰ろうとし、私はそれを門の外まで送り、
「命あらば、又逢おう。」と言って立ち別れようとすると、吉村は名残惜しげに、私の手を取って
「今少し送れよ。」と言った。そこで二、三町ばかり語らいながら歩いていると、この時吉村は
こう語った。

「人が終わろうとする時、必ず一言を残すものだという。私は老いた。これは今生の御暇乞いである。
その方は年が若い。相かまえて、”つらくつなき”者からは遠ざかるように。尤も主人童僕であっても
その心得があるべきだが。貴人も賤しきも、人を知るという事を、心得るべきだ。

今はこれまでぞ。さらば、さらば。返すがえすも命あらば。」

そう言って立ち別れた。その時のことは、老後の今も忘れがたい。
眼にも耳にも残っている。

”つらくつなし”とは俗語で、例えば我儘で、異見も聴き入れないような、気儘な者の事を言うのだと理解している。

(備前老人物語)

912 :人間七七四年:2021/02/03(水) 20:41:30.83 ID:cMyRziqo.net
吉村又右衛門さんって福島の家老から極限の貧乏に転落した人か

913 :人間七七四年:2021/02/04(木) 14:30:23.87 ID:ETpTvNyE.net
中西彌五作と古田彌惣は並びなき友であったが、賤ヶ岳の戦いの時、戦いあい、彌五作は鑓にて
彌三を突き伏せ、兜を引き明け、既に首を取ろうとしたが、よく見ればそれは彌惣であった。

何という事かと思い、押しくつろげて、「汝は古田彌惣だな!」と言うと、彌惣は下から

「そう言うのは中西彌五作だな!かかる時に臨んで、言われざる名乗りである!早く首を取れ!」
と言った。しかし彌五作は

「どうしてそんな事ができるものか。」と、取って引き起こし、彌惣の鎧の塵を打ち払って
「不思議なこともあるものだ。」と笑って立ち別れたという。
彌五作は秀吉公の御方、彌惣は柴田殿の方であった。

その後、大和中納言殿(豊臣秀長)に仕え、終には古田兵部少輔殿(重勝)の家老となった吉田惣左衛門
という人こそ、かの彌惣の事である。

(備前老人物語)

914 :人間七七四年:2021/02/05(金) 09:38:23.18 ID:P3bpF9A9.net
公家の猪熊教利が遊び仲間の織田頼長と京都でやりたい放題やってた話が凄い好き。

915 :人間七七四年:2021/02/05(金) 11:50:54.91 ID:w+IcMkkv.net
強姦は日本の伝統芸能だからなあ

916 :人間七七四年:2021/02/05(金) 15:56:54.37 ID:sorY1wLB.net
慶長年中、徳川家康公は唐船(唐船とあるが、家康がウィリアム・アダムスに作らせた西洋式帆船の事と
考えられる)を作らしめ給い、浅草川の入り江に繋がれた。
このような大船を作り海に浮かべる事、渚からでは人力も及び難いだろう。一体どのような手立てがあって
浮かべたのか、私の分別に及ばない。

先年、江戸の御城の石垣を築かれるため、伊豆国にて大石を舟に積むところを見た。
そこでは、海中に石にて島を築き。水底の深い岸に船を付け、陸と舟との間に柱をうち渡し、
舟を動かす平地のような道を作り、石を台に乗せて、舟の中に巻き車を仕付けて、台につなげた
綱を引き、また陸からは梃子棒を持って石を押し遣り船に乗せる。
船中の巻き車の工夫は大変奇特である。

古歌に「わが恋は、千引きの石の泣く計り」と詠まれているが、千人で引くほどの石を千引きの石と言った。
今の時代には、大名衆が西国の大石を船に積み、江戸へ持ち来て、千人引きはさておき、
三千人、五千人引きの石を、幾千とも数しれぬほど引かれる事、実に夥しいものである。

さてまた、唐船を海中に出すことについて、海に綱や引き車を立てることも難しい。
陸で梃子棒を使っても及び難い。

されば昔、源実朝の時代に、鎌倉の由比ヶ浜において唐船を作られた。これに仔細有り(以下源実朝の
唐船作りの経緯と進水の失敗が延々と書かれているが中略)

先年作られた浅草川の唐船は、伊豆国伊東という浜辺の在所に川があり、これこそ唐船を作るべき
地形であるとして、その浜の砂の上に、柱を敷き台として、その上に舟の敷を起き、半作りの頃より
砂を掘り上げて、敷台の柱を少しづつ下げ、堀の中に舟を置き、この船を海中に浮かべる、という時に
至ると、河尻を堰き止め、その河水を船のある堀に流し入れ、水の力を以て海中へと押し出したのである。

こういった工夫を、昔の鎌倉の人は知らなかったのだろう。

『慶長見聞集』

917 :人間七七四年:2021/02/05(金) 15:59:32.24 ID:P3bpF9A9.net
>>915
乱交パーティーって昔からあったんだなと

918 :人間七七四年:2021/02/05(金) 22:58:01.94 ID:GCB/e8Dy.net
天皇がお手本

919 :人間七七四年:2021/02/06(土) 14:53:10.50 ID:CAEJcein.net
大阪冬の陣の時、伊勢の大将であった本多美濃守(忠政)殿の陣屋に、組の人々を集めて、
天王寺表での、それぞれの陣場の配置を渡した。

その時、古田大膳(重治)殿は病気で、家来の原十兵衛が名代として来ていた。
十兵衛は陣場の割付、地形、剣難を見渡して
「このような御割付については、ひとまず大膳に申し聞かせないことには請け取ること出来ません。
願わくば鬮取りにて仰せ付け下されますように。」
と申した。

この言葉に、本多殿は以ての外に腹立たれ、あれこれと議論したが、十兵衛は少しも臆せず
「いかに仰せられましても、この分にては請け取れません。」と申しきったため、話が進まず、
その場も苦々しい様子に見えた所に、分部左京(光信)殿が進み出て十兵衛に向かい

「其の方などの身として、美濃守殿の御言葉を言い返すなど、慮外千万、沙汰の限りであるぞ。」
と戒められ、また美濃守殿に向かい

「十兵衛の申す所は、一途に己の主人を大事に考えていることで、その身分を忘れ、御前を憚らず
慮外を申し上げたのだと思います。それを思召し分けられ、御赦免なされ、鬮取りを仰せ付けられれば、
十兵衛にとっても当座の面目、一代の名誉となるでしょう。」

そう、理を尽くして申すと、本多殿も機嫌を直し、すなわち鬮取りにされたという。

この原十兵衛は、後に森内記(長継)殿の家に仕えたという。

(備前老人物語)

920 :人間七七四年:2021/02/08(月) 15:17:28.34 ID:bwMuxoOj.net
加藤故肥後守(清正)殿に、奉公を望む浪人が三人あった。一人は仙石角左右衛門であり、
その他はその名定か成らず。

三人のうち、角左衛門は立身を望んだ。
一人は度々の用に立った人物であったが、今は老いて何の望みもなく、少しばかりの扶持を給わり、
心安く一生を送りたいと言った。
もう一人は若者で、いかにも物の用に立つべき者であると、周りの人々も見立てていた。

この三人は皆、家老である庄林隼人(一心)に因み頼んだため、隼人がこの事を申し上げた所、
肥後守はこのように申した

「仙石が立身を望むのは、侍の本意であるのだから、召し抱えるべきである。

年老いた人物について、彼が数度の用に立った事、私もよく知っている者である。然れども
今生の望み無く、後世一遍に心安く茶を飲み、当家を死所と定めたのは、殊の外踏み外したものである。
人は死ぬまで望みの有る者こそ頼もしく、何の望みも無い者は、抱え置いても要らざるものではあるが、
若きものへ示すためにも、抱え置こう。

もう一人については、その方の申す所、その方には似合わぬものであり、沙汰の限りである。
その理由は、『用に立つべき者』であると諸人が見立てれば抱え置く、となれば、我が家の若者どもは
用に立ちまじき者どもと見立てたのに似ているではないか。そうなれば当家の若者どもは、その方を
恨むという事にもなりかねない。

若い時に用に立った者を、年老いて高い知行を与え馳走するのは、そういった事を若き時に
見及び、聞き及び初めて、武道を励ますためである。
またその方などは、一言の発言も大事となる立場であるのだから、よくよく分別あるべき事である。」

と有ると、隼人も至極の道理に責められ、言葉もなかったという。

(備前老人物語)

921 :人間七七四年:2021/02/08(月) 15:29:34.61 ID:QqyOOfkf.net
毎度お騒がせでお馴染みの仙石一族

922 :人間七七四年:2021/02/08(月) 17:55:47.78 ID:GbdOq5m6.net
うんだ

923 :人間七七四年:2021/02/08(月) 18:05:21.81 ID:RWyApXzb.net
仙石家の庶家が加賀藩に2000石で仕えてるけど人持組に上がらずにずっと寄合組に居るのも闇が深い。

924 :人間七七四年:2021/02/09(火) 15:36:39.06 ID:PqG9b4iS.net
総じて茶の湯は、世を逃れ閑居隠者の成すわざであれば、不弁で粗略にして、潔いことを本とし、
元来は武道を本とした。

だからであろうか、上田主水(宗箇)の茶の湯の会に客が来て、くぐり(門)の開くのを待っていると、
主水は大筒の鉄砲を、玉を入れずに打ち放して、客を請け待ちしたという。

また多賀右近が雲州御在番していた折、茶の湯の時、花はなく、兜を置かれたという。
皆、その本を忘れぬ心であろう。

万事思い思い、心々なれば、是を是とり、非を非とするものではない。
ただ当然の理に従うべきである。

(備前老人物語)

大筒ぶっ放して歓迎したのか

925 :人間七七四年:2021/02/09(火) 15:57:55.94 ID:qKBPvKTU.net
祝砲・礼砲の類と思えばそんなに変でもないな

926 :人間七七四年:2021/02/09(火) 17:23:42.25 ID:Pi1XOIBZ.net
礼砲という儀式が共通認識としてあればいいが、なけりゃ威嚇か傾奇者の振る舞いだろ
確か、幕末に黒船がやってきて礼砲撃った時も幕府役人は礼砲を知らずに驚いたとかって話なかった?

927 :人間七七四年:2021/02/09(火) 21:58:40.72 ID:J7DuuVcu.net
祝砲礼砲はイギリス海軍からの伝来じゃねえの?
日本にそんな文化ねえぞ

928 :人間七七四年:2021/02/10(水) 00:35:27.60 ID:dCK4U9vQ.net
Wikipediaの津田秀政の項目一部抜粋

慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を
与えられて計4,010石余の大身旗本となった[1]。この時、名物唐物茶入の「安国寺肩衝(あんこくじかたつき)」を拝領したが、後に細川忠興に持ち去られた。
細川忠興に持ち去られた「安国寺肩衝」(現:五島美術館蔵)は、寛永3年(1626
年)の旱魃の際に細川忠利から金1,800枚で庄内藩主・酒井忠勝に売却され、領民救済の資金となったと伝わる。

929 :人間七七四年:2021/02/10(水) 12:25:53.59 ID:jjDIUH4k.net
借りパクなのか強奪なのか、ジャップのことだから譲り受けたなんてのは想像するに難い

930 :人間七七四年:2021/02/10(水) 12:27:36.11 ID:L69dIh30.net
なんで在が歴史板に張り付いてんの?

931 :人間七七四年:2021/02/10(水) 16:07:24.70 ID:Wd9sOa69.net
城を囲む時、仕寄り場を見聞しようと、その大将が進み出たのを、近習の輩が諫したが、
傍にあった老武者が申し上げた

「いやいや、少しも苦しからず。とくとく御出ありて、御心静かに御覧あるべし。
総じて城を囲む場合、初めのほどは、囲まれた城中は何かと騒ぎ罵って、大形の事には
目をかけぬものである。後になると、城中の人々もそれぞれ担当の持ち口を受け取り、
人気が立つと些かの事にも目をかけ、気を配るようになるもの故、人影を見れば
鉄砲を撃ち弓を放つようになる。その時は、卒爾に仕寄りの外には出ないものである。

かかるも引くも、時によるというのは、みなこのような心得を言うのだ。」

そう語った。

(備前老人物語)

932 :人間七七四年:2021/02/10(水) 17:41:04.39 ID:l6iCHpTY.net
こういうのって一兵卒が組頭に
聞いたら「いちいち聞くな!」と怒鳴られ
聞かなかったら「誰に許可取った?!」と怒鳴られ
やらないでいたら「なんで撃たない!」と怒鳴られ
やったらやったで「勝手な事してんじゃねぇ!」と怒鳴られるからな
結局何をしてもしなくても趨勢にはさほど影響はない

933 :人間七七四年:2021/02/10(水) 18:35:39.13 ID:pMpHBJJE.net
>>931
こういう戦さ場の呼吸というか駆け引きみたいな話、いいな
まあ眉唾の可能性もあるがw

934 :人間七七四年:2021/02/11(木) 14:46:00.13 ID:i3xmU3oN.net
当君(徳川家康)の江戸御打ち入りよりこの方、江戸の町は繁盛し、家居多く出来た。
しかしながら皆草葺であり、頻繁に焼亡した。

そのような中、慶長六年霜月(十一月)二日の巳の刻(午前10時ころ)、駿河町の職人の家より
火が出た。この時の大焼亡で、江戸の町家は一宇も残らなかった。

この時、御奉行の仰せに
「町中草葺であった故に、家事が絶えない。これを幸いとして、このついでに皆板葺きにすべし」
と言う由の御触れがあったため、町は尽く板葺きにて再建した。

そういった所に、瀧山彌次兵衛という者、諸人に秀でた家を作ろうと工み、街道の表の棟を
半分瓦にて葺き、後ろ半分を板で葺いた、人々が沙汰したことには
「本町二丁目の瀧山彌次兵衛は家を半分、瓦で葺いた、さても珍しき奇特である。」
そう褒め称えて、彼を『半瓦彌次兵衛』という異名で呼んだ。これが江戸瓦葺きの始めである。

古歌に「瓦の松」「軒の瓦」「瓦の屋」などと詠じている。瓦屋を「心かはらや」と、心の変わるに
寄せて詠んだ歌もある。件の彌次兵衛が人に「心かはら屋」した事、古今異ならない。

(以下瓦の歴史の解説が続くため中略)

然れば、家康公が興された江戸城の殿主は五重、鉛瓦にて葺き給われた。
それは富士山に並び、雪の峰に聳え、夏も雪かと見えて面白い。

今は江戸町は栄え、皆瓦葺きと成った。よろず広大に有って美麗なること前代未聞。
明け暮れに、人々皆見ることであるので、記すに及ばず。

『慶長見聞集』

江戸の瓦葺きについて

935 :人間七七四年:2021/02/11(木) 20:29:56.99 ID:kTxHvqDA.net
江戸の町家は一宇も残らなかった。

これもう滅びてるじゃん

936 :人間七七四年:2021/02/11(木) 23:27:28.73 ID:NT+lrpGI.net
>明け暮れに、人々皆見ることであるので、記すに及ばず。

今じゃ摩天楼だらけだから、記しておいて欲しかったなあ

以前TVで幕末の江戸パノラマ写真をカラー再現していたっけ?

937 :人間七七四年:2021/02/14(日) 16:41:25.64 ID:tAp7OMu6.net
主君の御前において、傍輩を取りなすことは、品々あるべきであるとして、ある人が言ったことに、

大和大納言(豊臣秀長)殿の御咄の法師が出頭した時、大納言殿が「今朝はどうして遅れてきたのか」
と仰られた。「御普請場の見物に参っておりました。」と申し上げると、
「法師の身にては相応しくない見所である。ところで堀石垣はどれほど出来ているか、奉行の侍どもは
精を出して仕事をしているか。」とお尋ねになった
「何れも、殊の外精を出されており、御普請は順調に進んでいるように見えました。」と申し上げると

「さもあらん。誰にも怠りなど無い。されど、その中でも殊に精を出していると見える者は無いか?
ありのままに申せ。」

そう仰せに成られた。これに「仰せのごとく。誰も怠り無く見えましたが、中でも抜きん出て諸人に
下知し、現場を飛び回り、骨を折っているように見える者が居りました。その人物について、何者かを
尋ねたのですが、つい今しがた、その名も名字もはたと忘れてしまいました。」

「誰であるか、思い出せ。」と仰せに成られると、その時法師はうち案じて
「名字は魚の名であったはずなのですが、忘れました。」
「鈴木か、益田か、魚住か。」と仰せになったが、「いや、それではありませんでした。」

「さては鯰江か」と仰せになった時、「その鯰江にて候!」と申し上げると、殊の外御気色良く
「総じて、あの鯰絵勘右衛門は慥かに用を成す人物である。」と評判も上がり、その後御加増を
給わったという。

(備前老人物語)

938 :人間七七四年:2021/02/15(月) 15:58:26.20 ID:087R8hZw.net
太閤秀吉公の童坊である何阿弥とか言う者は、面白い気質物で、常に秀吉公の御心にかなう
者であったのだが、一体どういう事か、ある時御心に背き、御気色以ての外にて、杖を取り
これを追われた。

かの童坊は逃げながら後を見返り見返り、
「先ずお待ちに成ってお聞き召されて下さい!上様も私もあまり違いはなく、ただ一日の違いです。
昨日は過ぎ、明日は知れぬ世の中で、それほどまでに御腹を立てられるのも勿体なし。
されど、今日は天下様なのですから、如何様にも成されたいままになされよ!」
(先またせ聞召されよかし、上様も私もあまりちかいハなく、たヽ一日の違也。
昨日は過つ、あるはしれぬ世の中に、かほとまて御腹をたヽせられるも勿体なし
されどけふは天下様なれハ、いか様にもなされたきまヽになされよ)

そう、ふてくされた様子で、面白おかしくつぶやくと、秀吉公はそのまま杖を捨てられ、
うち笑わせ給い

「私が過っていた、よく申したり。許すぞ。」
と仰られ

 世の中は けふばかりこそかなしけれ きのふはすぎつ 明日はしられず

と吟じられ、簾中に入られた。その時聞く人、御詠歌などと云ったそうだ。

(備前老人物語)

939 :人間七七四年:2021/02/17(水) 15:45:39.34 ID:LoJS9IHu.net
昔、上京あたりより火が出て、薬師院、菊亭殿の屋敷も延焼し、既に内裏も危うく見えた時、
八条宮(八条宮智仁親王)は、衣冠正して、太刀を脇に挟まれ、清涼殿に参り給いて

「火、近く見えたり。もし内裏にうつり候はんには玉体を守護し参らせ、行幸を他所へ
なし奉らんため、是にさぶらうぞや。
誰かある、このよし奏し申さしめ給え!」

そう声高に宣われると、宮中の男女、「実に頼もしき御装いかな」と、一度に感じ入った。

その頃、ここかしこに遊山見物などに出ていた公家衆は、大わらわになって、汗水を流し
肝を消し、逃げふためいて内裏へ駆け入ると、八条宮の御様子を見てさらに肝を消し、
逃げ惑い隠れ居る体は、見苦しいと言われても仕方がなかった。

人の善悪はこういう時に分明に成ると、織田常真(信雄)がこれを物語されたそうである。

(備前老人物語)

940 :人間七七四年:2021/02/19(金) 13:47:24.94 ID:AmlJjt7b.net
渡辺水庵翁(了)は火燵(こたつ)が嫌いであったが、年寄が火燵に当たらないのも
そっけないものであるとして、いかにも火を弱くして、常に寄り添っておられた。

寒き頃、客が来れば「先ず火燵へ寄り給え」と招いたが、老人とは言え彼は武功有る人であり、
たやすく近づくという人は少なかった。

しかしこのようでは物語も出来ないと、置火燵(熱源部分に囲炉裏の代わりに火鉢を用いたもの)を
出すと、客も心安く火にあたり、ゆるやかに四方山の物語をした。客多き時などは、さらに置火燵を
出したという。

今どきは、このような客あしらいをする人は稀である

(備前老人物語)

941 :人間七七四年:2021/02/24(水) 17:14:21.51 ID:LWZDkCAy.net
池田三左衛門(輝政)殿の家老・伊木清兵衛が病に臥して、既に末期に臨んだが、
「我、今生の望みある也。今一度、君の御目にかかりたき也。」
とあれば、これを三左衛門殿聞こし召し驚かれ、急ぎその家に至り、枕に近づいて声をかけた

「いかに清兵衛、一体どうしたのか。これほどの事と知らなかった事こそ、私が疎かった。
思うことがあるのなら、言い置くべし。その望みに従おう。元より、そなたの跡目については、
相違無いこと言うに及ばない。」

そのように、非常に懇ろに仰せになると、清兵衛は頭を上げ、両手を合わせ

「これ迄の入御有り難く、冥加至極です。私の遺跡の事は、愚息の覚悟次第に仰せ付けになって下さい。
兎にも角にも、御はからいによる事ですので、いささかも心にかかる事はありません。

ただ一つ、申したい事と言えば、これを申さぬまま空しくなれば、妄執にもなってしまうでしょうから、
恐れながら申します。

公は常に物事に、掘り出しを好ませられる御病があります。中でも士の掘り出しを専らとされるのは、
よからぬ御病です。
士はその分限よりは、一段よろしく宛行わせ給ってこそ、長く御家を去らず、忠節を存ずるのです。」

そう申すと、三左衛門殿はつくづくとお聞きになり

「只今の諫言、道理至極である。その志、山よりも高く海よりも深い。生前に於いて忘却する事はない。
それについて、どうか心安く思って欲しい。」と、清兵衛の手を取り、涙を流して、名残惜しげに
別れられた。君臣の情のあはれなる有様、その後、家風ますます良くなったという。

(備前老人物語)

掘り出しというのは、低い身分から急激に取り立てるという事ですかね

942 :人間七七四年:2021/02/26(金) 14:04:46.13 ID:X1ui9xHZ.net
シンデレラストーリーみたいなのはみんな好きだからな
え、私なんかが馬廻衆に?みたいな

943 :人間七七四年:2021/02/26(金) 15:34:07.69 ID:PTbLLrIC.net
大阪冬の陣の時、大阪城中の千畳敷にて首帳が付けられたが、松浦彌左衛門が「今福表の一番首なり」として、
帳前に首を持参した。しかし帳付けの役人は「心得たり」としたが、帳に書き付けなかった。
松浦は重ねて「早く書きつけられよ!」と言ったが、帳付けは
「私はしっかり受け取った事、相違有りません。書き付けるでしょう。」
と言っている所に、堀田図書の組の、渡部清兵衛が首を取ってきて

「それがしが一番首であること疑いなし。松浦は馬であり、私は歩行であった。故に帳前に来ることの
遅速、このようになったのである。」

そう言うと、帳付けの人「心得たり。」と、二人ながら一番首に記した。

およそ首帳は、二番首を見ぬうちは付けないものであるとの古説があるという。

(備前老人物語)

944 :人間七七四年:2021/02/26(金) 17:18:03.14 ID:MmFIGxLy.net
>>943
何となく屁理屈にも聞こえる

945 :人間七七四年:2021/02/26(金) 21:29:20.69 ID:RC+O8SPs.net
毛利家でも首帳の話あったなぁ。こちらは手負の苛立った武将に首帳役がどつかれて流血沙汰になってるけど。
よくよく考えたら合戦中に自分の武功を申告に行くって非効率な気もするけど、休憩も兼ねてたんだろうか?

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4944.html?sp

946 :人間七七四年:2021/02/26(金) 21:34:37.80 ID:w26FOHiy.net
『武将感状記』
白井甚右衛門首帖を記す事

・首を取ったことは書き付けたけど一番首だとは書付けなかった
・遅れてやってきた浅部清兵衛と比較吟味の上、松浦の方は二番首と書き付けた
・松浦に直接「これが作法です」って伝えてる

武将感状記までに分かり易く脚色されてる可能性もあるけど
妥当な処理の仕方だったんでないかな
おなじ『武将感状記』に
「首取ったからといって本陣に戻って来ずに前線で戦い続けろや」
と怒る柿崎景家を褒めてる記事があるのはご愛嬌

947 :人間七七四年:2021/02/26(金) 21:55:54.83 ID:SW/2Jl+I.net
>>946
時代
戦況
兵の立場の違い(大坂は戦功誇示に逸る牢人が多い?)

とか時代による考えの差や戦の規模の違いも
あるんだろうけど、査定する側の第一印象や忖度も少なからず有ったのではないかと思う今日この頃

948 :人間七七四年:2021/02/27(土) 10:08:10.28 ID:ncXOF1lg.net
栃木のエラスムス木像

栃木県佐野市の龍江院に所蔵されているエラスムス像は、現在東京国立博物館に寄託され
国の重要文化財に指定されているが、像主が比定されるまで紆余曲折があった。

ttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f3/Wood_figure_of_Desiderius_Erasmus.JPG

この像は当初貨狄像(中国の伝説上の船の発明者)とされていたが、大正9年(1920年)に栃木の郷土史家
丸山瓦全によって"キリスト教の宣教師の木像"として紹介されると、大正13年にはバチカンで催された
世界宗教博覧会に在日本キリスト教聖人像として写真が出品され、西洋の学者が知るところとなった。

像の右手が持つ巻物には「ER□□MVS R□□TE□□□M 1598」と刻まれており、これがオランダの
偉人エラスムスであり、ロッテルダムで1598年に就航したリーフデ号の船尾の飾りであることが分かった。
リーフデ号は幕府旗本のウィリアム・アダムス(三浦按針)が日本に漂着した際に乗っていた船である。

龍江院は幕府旗本の牧野氏の菩提寺であり、この像も牧野氏ゆかりの品と共に納められていたため
長旅でボロボロになったリーフデ号が遂に解体された際、旗本として立ち会った
牧野成里(あるいは子の成純)が木像を持ち帰ったのではないかと推測されている。

ちなみに地元ではこれは"小豆とぎババー"で夜中にお堂の中で小豆を研いでいるが、子供が親の云うことを
聞かないときはこれがやってきて子供を驚かせるという話や、この像がムジナに化けて村人を騙すだとか
「チャンピロリン」「チャンピロリン」と歌い出すなど様々な伝承があり、有名な木像であったらしい。

またエラスムス像と判明した際、これがオランダ最古の木彫になることが分かり返還要請があったが
丁重に断ったという。1998年にはオランダへの里帰り展示が実現した。

949 :人間七七四年:2021/02/27(土) 10:47:01.05 ID:0Mq45N13.net
>>948
どこをどう見て小豆とぎババーになったんだろう?笑
ブロッコリーみたいな頭とか?

950 :人間七七四年:2021/03/01(月) 16:55:48.22 ID:pSmDjqkp.net
松永弾正(久秀)が鈴虫を飼うのに、様々に工夫して養うと、三年まで生きた。
これを見て「いわんや、人間も日用の養により、長命すること疑いない。」
と言われた。

(備前老人物語)

951 :人間七七四年:2021/03/01(月) 23:26:03.62 ID:0InPvIGA.net
曲直瀬道三が松永久秀にあげた「黄素妙論」冒頭
黄帝「昔の聖人の寿命は千歳を超えているのに、現在は数十年。
それに現在は不健康なものが多い。これはどういうことか?」
素女「父親、母親の体質もありますが、一番は養生の問題です。
養生というのは毎日の食事と性交によって決まります。
少年や血気盛んな壮年の時に飲食を慎み、性行為もほどほどにしておけば病気になりません」
(このあと正しい性行為がどのようなものかについての詳述)

これを読んで鈴虫の餌を減らしたのだろうか。
カロリー制限でショウジョウバエ含めいろいろな生物の寿命が延びるのは判明しているけど

952 :人間七七四年:2021/03/02(火) 11:57:03.84 ID:vrOhN7/u.net
このおじさん多趣味すぎるだろ

953 :人間七七四年:2021/03/02(火) 15:37:00.50 ID:qnjftz2d.net
道教によると幼女の淫水を飲めば不老長寿が望めるそうだ

954 :人間七七四年:2021/03/02(火) 20:16:03.65 ID:+rSW6QQp.net
ある老人が、「年老いて身の養もいらぬもの也」と言っているのを、ある人が諌めて

「一夜の宿であっても、雨露が漏るのは良からぬものである。
昔、松永久秀が信長公に戦負けて自害に及ばんとした時に、百会(ひゃくえ・頭頂部にあるツボ)に
灸をして言った

「これを見る人は、何のための養生だろうかと、たいへんおかしく思うだろうが、私は常に
中風を憂いている。死に臨む時、もし突然中風が発して、五体心に任せなくなれば、
人から『臆したのだ』と笑われてしまうだろう。そうなれば私の今までの武勇も、尽く徒のものと
なってしまう。
百会は中風の神灸であるから、当分その病を防いで、快く自害すべきためである。」

と、灸をすませて切腹したという。
その名を惜しむ勇士は、このようにあるべきなのだ。」

と言った

(備前老人物語)

955 :人間七七四年:2021/03/04(木) 14:22:47.53 ID:835zJEu+.net
長宗我部の家人に、廿牧勘解由という武功の人があった。この人が人に語ったことによると

「大阪八尾にて、藤堂殿と長宗我部殿が戦ったが、朝の合戦の時に私も似合いの高名などしたものの、
後の合戦に味方打ち負けて、私も鑓を引き退いた。
この時、和泉守殿の母衣頭に名村岩石見という武功の者、私を見かけ、「返して勝負をせよ!」と
罵った。しかし「駆け引きは時によるべし。おのれのくそを喰らえ!」と言って退いた。

その折ふし、私の妹婿である伊尾木権兵衛という者が、「影湯殿、私もここに居る。返し合わせて
勝負しましょう。」と言ったため、鑓の準備をして二人共に引き返した。

その時、敵である石見はどう思ったのか、または功者であったためだろうか、南の方にゆく落人があり
さしかかって勝負すると見えた。その落人は、何の何某と申したが、その名も忘れた。
彼は終にそこで討たれた。
私たちはほど近くに在ったので、助け合わせたいと思ったが、敵は大勢に見えたため退散した。」
と言った。

堀伊織という人、これも藤堂にて母衣を預かる人であるが、ある時私に
「其の方は、今はいかなる浪人衆と話すのか」
と尋ねられ、廿牧勘解由の事を言って、彼が物語した内容を語った所、横手を打って
「さてもその事は、石見がいつも語っていて、「私に糞を食わせて退きし者があった。」と言っていたが、
誠であったのだな。その人を呼ぶことなるまいか。」

そう言われたので、「やすき事なり。」と廿牧を呼びにやって、石見と伊織と、勘解由と私の四人にて、
かの時のことを語った。笑い話と成り、
「偽りが無ければ、互いに物語しあえるものである。」などと言って、酒など飲んで立ち別れた。
これを交わりの初めとして、何れも親しくなった。

伊織の子供は、松平越前守殿の元に二人ある。今も親しく語らい合う仲である。

(備前老人物語)

956 :人間七七四年:2021/03/04(木) 16:41:07.73 ID:LdvA6x9H.net
おのれのくそを喰らえ!

廃れた食糞文化が窺えますねw

957 :人間七七四年:2021/03/04(木) 17:31:47.95 ID:Dp28Kb2/.net
八尾の戦いというと
元長宗我部家臣で改易ののちに藤堂家臣となった桑名弥次兵衛吉成の
旧主と戦うのに忍びず、一人突撃して戦死した話が印象的

958 :人間七七四年:2021/03/06(土) 21:54:08.67 ID:XqLmnIKO.net
>>956
お前に食わせる糞は無い!自分の食っとけ、ってことですか?

959 :人間七七四年:2021/03/07(日) 18:26:42.39 ID:QcSgVdJW.net
権現様(徳川家康)と北条の一戦(天正壬午の乱)の時、北条は人数を三枚橋まで出し、和談と成って
両将対顔の折、北条(氏政か)は床几に腰掛けており、権現様は御手を着くわけにも行かず、
御腰をかがめられて後挨拶あそばされた。
その姿を酒井左衛門尉(忠次)が見て、このように申した

「中々口惜しき後座配であります。北条は奢っている体であったのに、殿の為された礼は、
あまりに相手を敬いすぎておりました。このような事は、味方の志を弱くし、かつ又、
帰服する者も無くなります。」

そう諌めたところ、権現様は手を合わせて
「御免あれ御免あれ。この返事は、やがて申し入れるだろう。」と仰せになった。

その後直ぐに、信長公(秀吉の間違いであろう)より権現様に、後一味となるようにとの御状が
寄越されたのを見て、「北条に対し慇懃の礼にて帰服したのは、これを取るためだったのだ。」
との御意であった。そして酒井左衛門尉が御前に出た折、彼はその御状を見て感心した、

これは謙信(景勝のことであろう)、北条、信長(秀吉)はその頃の名大将であり、互いに権現様を
味方にしたいと考え、争っていた。これによって、北条と話談したと聞こえると、早速
信長公(秀吉)より一味を願う事を申し来たのである。権現様の行為は、最初から御深慮が
あった故なのである。(平野権平殿咄)

(武功雑記)

960 :人間七七四年:2021/03/07(日) 23:20:36.23 ID:gKywnyv/.net
>>959
>そう諌めたところ、権現様は手を合わせて
>「御免あれ御免あれ。この返事は、やがて申し入れるだろう。」と仰せになった。

(*>ω<)人「めんごめんご!理由は後で説明するからさ」

961 :人間七七四年:2021/03/08(月) 10:30:57.33 ID:GusFm6x7.net
>>958
クソ食い必死だな

962 :人間七七四年:2021/03/08(月) 16:11:49.27 ID:BwC2FWs3.net
秀吉公の御歌にこういうものがあった。

 武辺をば 今日せず明日とおもひなば 人にをくれて恥の鼻あき

(備前老人物語)

963 :人間七七四年:2021/03/09(火) 18:45:35.26 ID:ot1nVjgR.net
鼻あき‥

梅毒か

964 :人間七七四年:2021/03/10(水) 10:23:52.66 ID:ri6WoE0+.net
「麒麟がくる」の過去放送を見たら
家康の父、広忠を討った信長が家康と、小将棋という酔象という駒を使った駒42枚の将棋指していた。
17世紀の「諸象戯図式」という将棋の本によれば、天文年間(1532-1555)に後奈良天皇が酔象を除くよう命じたため
現行の40枚で行う将棋になったとされているが、
松平広忠の死が天文18年(1549年)であることを考えると
ちょうど小将棋から現行の将棋に代わる過渡期だから
大河の考証担当者もどっちの将棋にするか迷ったかな

965 :人間七七四年:2021/03/10(水) 10:36:18.27 ID:3vahRj4d.net
流石創作大河w
若輩の信長に暗殺実行の力も権限もないだろ

966 :人間七七四年:2021/03/10(水) 10:39:24.87 ID:w3pIaYau.net
大河史実厨はこんなところに現れるのかw

967 :人間七七四年:2021/03/10(水) 11:01:58.85 ID:x+KBllLM.net
N
H
K
大河ドラマ

まずただのドラマであるNHK大河の描写はかなりファンタジーだと思え
あれを史実かどうか批評するなんて司馬遼信者よりさらに酷い

968 :人間七七四年:2021/03/10(水) 11:13:24.98 ID:H0fb45xV.net
いろいろ言われる小和田氏だって、大河の考証なんて名前だけで制作はそんなの気にしてないってぼやいてなかったっけか

969 :人間七七四年:2021/03/11(木) 07:23:32.51 ID:MNv1AG80.net
南朝鮮の宮廷ドラマのほうがまだ史実に沿ってるよな

970 :人間七七四年:2021/03/11(木) 16:01:20.86 ID:xcRRgiiX.net
八幡大菩薩に御祈念あるべき事

その御祈念あるべき事とは、賤しくも自身が征夷将軍の職を蒙り、公のお固めとして、日本国中
六十六ヶ国を治めるべき仰せを受け給わった事は、前世の宿縁とは言いながら、父母二親の御恩であります。

但し、天下を治め素直なる世に戻すという事は、その職にあっても非常に困難であり、願わくば
八幡大菩薩の御はからいとして威勢を加えさせ給え。

このように威勢のことを祈念するのは、全く我が身が思うままに振る舞うためではありません。
この十余年、公家、武家を始めとして、僧俗男女に至るまで、(応仁・文明の乱により)一所懸命の地を
人に奪われ、憂悲苦悩を見てきて、余りに不憫に思われる故に、威勢さえ有れば道を道の通りに
行えると思うによって、偏に御神の冥慮を仰ぐものものなのです。

諸国の守護たる人の心向きのありようも、いかにも穏便に成して慈悲の心を付け給え。本当に本当に
思い直ることが無いのであれば、忽ちに冥罰を与え給うように。

再び素直なる世に立ち返ったならば、今生の願い満足して、後世までも名将軍と呼ばれる事、
人間の思い出として、これに過ぎることがあるでしょうか。

并びに大菩薩の御はからいにあるべしと、毎日、朝にしっかりと御手を洗い、御口をゆすぎ、
南方に向かわれて、至誠の心で御祈念あるべきです。神明が世に在られる者ならば、どうして
受納されないでしょうか。

この御心中の趣きを、世に隠れなくしておけば、これを伝え承った者は、一度は神慮に恐れをなし、
一度は武威を辱むるを思い、諸守護の心向きも自ずから良く直して、文明一統の天下に成るべき事、
掌をさす如くになるでしょう。

『文明一統記』

一条兼良が足利義尚、日野富子の求めに応じて政治上の戒めを著した『文明一統記』より、
八幡大菩薩への祈念について

971 :人間七七四年:2021/03/11(木) 21:57:03.59 ID:FR0ccmK2.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11209.html
同じく一条兼良が義尚と日野富子のために書いた「樵談治要」「小夜のめさめ」についての女人礼賛についての箇所が前に出ていたけど
「神功皇后は八幡大菩薩の御母で…」
と書いてることを考えると、八幡信仰は武家の棟梁として当然とは言え
日野富子と義尚の母子を神功皇后と八幡大菩薩の母子に例えて間接的にヨイショしているような気も

972 :人間七七四年:2021/03/12(金) 14:40:37.96 ID:UigjWT+2.net
東照宮(徳川家康)の御母上で、大方殿と申された方は、水野右衛門太夫忠政の御娘であった。
岡崎贈大納言家(松平広忠)に嫁がれて、天分十一年の十二月二十六日に若君をもうけられた。
これを竹千代殿と申し、即ち東照宮の御事である。
その後、また姫君が一人産まれられ、これは始め松平与一郎忠政に嫁いだ後に、保科越前守正光の
妻となられた。

大方殿は御父水野忠政が亡くなった後、御兄である下野守信元が尾州の織田に志を通じられ、
その時岡崎殿は無二の今川方であられたため、筋を通して北の方を下野守の元に送り帰された。
これによって、尾張国知多郡阿古居の領主、久松佐渡守俊勝に再婚され、そこで男子三人、女子三人を
もうけられた。

永禄三年三月、東照宮は初めて阿古居の館に渡られ、御母上に見参され、継いで三人の子息を御弟に
なされて松平の御家号を許された。
兄は三郎太郎康元、後に因幡守。次は源三郎康俊、末は三郎四郎定勝、後に隠岐守という。
父の佐渡守俊勝も岡崎に祗候したため、三河国西郡の城を給わった。

下野守信元も御外舅であるので、隔てなくおられたのであるが、ある年、織田殿(信長)の不興を得て、
東照宮も力及ばず、岡崎に招いて失い給う。然れども所領の地は、事故無く弟であった水野藤十郎忠重に
織田殿より給わった。これは当家(徳川家)と御由縁がある故であったという。(これは織田家に、
佐久間信盛が讒言したためであり、その所領の地も佐久間が申し賜って横領したのであるが、その後
佐久間は罪を得て改易された後、下野守の旧領をその弟である水野忠重に織田殿より与えられた。)

佐渡守俊勝は天正十五年の三月十三日に失せた。尾張国知多郡のうち、坂部村洞雲院に葬られたという。

大方殿に対して、当家においては非常に尊重され、慶長七年の六月、都に上られた。
これは名所古跡などを御遊覧されるためであると言われている。そして八月九日、伏見城にて
おかくれになった。御年七十五歳であったという。(或いは七十七歳ともいう。七十五歳であれば
東照宮の産まれ給いし時大方殿わずかに十五歳にて、あまりに若くおわします。七十七歳と言うに
従うべきであろうか。また水野家譜にも七十七歳と見える。)

(以貴小伝)

家康の母、於大の方(大方殿)について

973 :人間七七四年:2021/03/12(金) 17:50:37.36 ID:10+d5r6V.net
てんぶん
【天分】

天から与えられた性質・才能・職分。


一度くらい見直せやアフィカス

974 :人間七七四年:2021/03/13(土) 12:21:50.09 ID:DeFvGlRZ.net
八幡信仰の受容について沖縄の一例を。

第一尚氏、琉球国中山王の尚徳が1466年に奄美群島の喜界島を征服した際のエピソードで、文中の社寺が琉球八社の一つ
那覇市の安里八幡宮(別当寺の神徳寺も併存)です。

尚徳の外征も含めた強引な政策に家臣たちは不満を溜め込み、その死去の直後の1469年に尚円(内間金丸)のクーデターで
第二尚氏が成立しますが、第二尚氏の家紋は八幡宮同様の左三つ巴でした。
前王家も同じ巴紋だったと考えられています。


『球陽』巻2【六年、王、親しく自ら軍を率ゐ、奇界を征討す。】
奇界島、畔きて朝せず。連年兵を発し、屡々征するも功無し。王怒りて曰く、啻に功無きのみに非ず、反って侮辱せらる。
吾、宜しく親しく軍兵を領し、以て賊乱を平ぐべしと。遂に二千余の兵を率ゐ、路、安里村を歴るのとき、一鳥有りて
飛鳴して過ぐるを見る。王、弓を把り、天を仰ぎ祈りて曰く、若し我、奇界を平ぐるを得れば、一矢にて鳥を射て落さん。
若し平ぐること得されば、又射ること得ざらんと。祈り畢り、絃響き矢発す。早已に鳥、地に落つ。王、心大いに喜ぶ。
海船五十余艘に分駕し、二月甘五日、那覇開船す。行きて洋中に至るのとき、又一巨鐘の波面に在りて浮沈するを見る。
遂に船に載せ、以て八幡大菩薩の賜と為す。二十八日、奇界に至る。賊兵、港口に柵を立て塁を築き、矢石雨の如く、
決して進むべからず。王、大いに怒り、軍兵をして進攻せしむるも死者無数なり。王、愈々怒りて息まず。老臣一人班を出でて、
奏して曰く、賊兵、勇ありて智無し。之れを破ること何ぞ難からんや。請ふ、数日を延せば臣必ず賊を破るの計有らんと。
王、其の言に従ひて俟つ。三月初五日に至り、煙雨霏々たり。夜に当り天黒く対面弁じ難し。老臣、数百の軍人をして各小舟に駕し、
多く火把を帯び、佯りて軍を分つの状を為し、彼の島の背後に駕し赴かしむ。賊兵之れを見て果して其の計に中り、
止老兵をして港口を守らしめ、皆背後に往きて敵を迎ふ。王大いに悦び、急ぎ諸軍に令して一斉に上岸せしめ、火を放ち屋を焼き
喊声天に振ふ。賊兵大いに驚き、魂、体に附かず、降る者無数なり。賊首謀尽き力窮りてエにせられ、誅を受く。王、別に
酋長を立てて百姓を治めしめ、本月十三日開船して帰る。是れに由りて王、輔臣に命じ、鳥を射るの処に宮を建て鐘を蔵せしめ、
八幡宮と名づけ、並びに寺を構へて神徳と名づく。又巨鐘を鋳て神徳寺に懸く(鐘は今尚存す)。嗣いで王、驕傲愈々盛にして
残害益々甚しく、諫者は之れを罪し、[者は之れを悦びて、国政日に壊る。臣士遁隠する者計ふるに勝ふべからず。

975 :人間七七四年:2021/03/13(土) 18:46:00.08 ID:p6M/hwox.net
八幡神って8本も旗刺すの多すぎね?

976 :人間七七四年:2021/03/13(土) 19:33:50.18 ID:FyMby3WK.net
尚徳の神号(別称)が八幡按司ですね。按司は琉球の豪族の称号。
ただ肝心の八幡信仰は、王族士族はともかく、庶民層には土着信仰に押されて定着しなかったようだとか。

977 :人間七七四年:2021/03/14(日) 16:43:47.50 ID:1MjRjkLF.net
喜界島は琉球文化圏では北東端の辺境扱いなんだけど、20年ほど前の城久遺跡の発見で学説が大転換してて
ここの本土系住民の移住が、12世紀以降の琉球文化の基礎となったというのが有力視されてますね

978 :人間七七四年:2021/03/17(水) 16:48:19.52 ID:aThDU7wJ.net
御所(徳川秀忠)の御台所は贈中納言藤原の長政卿(浅井備前守殿の御事なり)の御娘にて、御諱は
達子と申す。御母は織田右府(信長)の御妹である。(諸書に記す所、みな妹としているが、渓心院という
女房の消息を見ると、信長のいとこであるとしている。もしくは、いとこであるのを妹として披露して
長政卿に嫁がせたのであろうか。)(筆者注:『渓心院文』の事か)

御兄右府のはからいにて長政卿に嫁ぎ、姫君三人をもうけ給う。長政卿越前の朝倉を助けて
織田殿に背かれたが、ついに近江国小谷の城にて滅び給う。正妻であった小谷の方(お市の方)は
織田殿の元に帰り給い、家人の柴田修理亮勝家に賜り、姫君たちを伴って越前国北ノ庄に移られた。

天正十一年の夏、勝家は羽柴筑前守秀吉のために、近江国賤ヶ岳で戦い負けて、北ノ庄に逃げ帰り、
腹切って失せた、この時、小谷の方は息女と共に落ちたまえと、勝家はひたすらに諌めたのであるが、
さらに聞き入れずして共に空しくなられた。
子供たちのことは、「筑前守の元に渡されるべし。織田殿の厚恩を受けた人であるのだから、まさか
悪しくはしないでしょう。」と、自ら文を書いて、姫君三人を輿一つに召させて、女房たちも残らず
添えて、城より出されると、敵の兵たちは中を開けて確認した上で通した。
秀吉は息女たちを迎え取ってよく労り、大切に養い育てた。

その後、時移り世改まって、姉君は豊臣太閤(秀吉)の思者となられた。淀殿と申されている人が
これである。
次女は京極宰相高次の室となり、後に常高院殿と申す。
御末は御台所にておはします。太閤は彼女を大切に養い育て、文禄四年の九月、御所にあわせ参らせた。
後に大御台所と申し奉る。大猷院御所(家光)をはじめ奉りて、若君姫君、あまたもうけさ給えり。

一説に、大御台所ははじめ、尾張国大野の城主・佐治与九郎一成に嫁いだが、一成太閤の心に
違うことが有ったため、室を奪い取り丹波の中納言(羽柴)秀勝に娶せ。姫君が一人産まれられた。
その後朝鮮の戦起こって、秀勝も大将を承って押し渡ったが、文禄二年に彼の国にて失せにければ、
内室やもめとなりし給いしを、台徳院御所に参らせたのだという。この時、(秀勝との間にもうけた)
姫君も御所の養女とされて、九条関白殿(幸家)の政所となられた。摂政殿(九条道房)の御母である。

また佐治一成が太閤の不興を得たのは、天正十二年、小牧山の戦いが終わり、東照宮(家康)が浜松に
帰られる時に、佐屋の渡りにおいて、一成己が船を以て渡らせ参らせた事によって所領を失ったのだという。
然れども、この年大御台所はわずかに十二歳にておはしませば、一成の妻と成ったというのは覚束ない。

(以貴小伝)

徳川秀忠の正妻・崇源院について。なにげにお市の方の信長の実妹否定論の根拠も入ってますね。

979 :人間七七四年:2021/03/18(木) 16:38:06.89 ID:SAHMcvNd.net
https://video.twimg.com/amplify_video/1362632547763580928/vid/1280x720/cV_OLtaNLFSxv6gK.mp4
https://video.twimg.com/amplify_video/1324065852732289024/vid/1280x720/9fozbw6c_fHqOKML.mp4

980 :人間七七四年:2021/03/18(木) 16:40:04.87 ID:kFiGMysd.net
いつ頃のことであったか。城州鞍馬において、毘沙門天百日の開帳があった。
然るに、鞍馬まで行程三里の所より、百日の間、日参する犬が有り、これを一日も怠ること無かった。

参詣の人もこれを見知り、途中にて哀れみ、弁当、飯、肴等を食わせたが、少しでも生臭い臭いが
あれば、それを食わなかった。
「さては精進をしているのか?」
と試してみると、案の如くであったため、精進物を与えた所、尾を振って食った。
これは嵯峨の在所の犬であった。百日にわたった事故に、あまねく人が見知っている。

(渡辺幸庵対話)

981 :人間七七四年:2021/03/18(木) 17:23:23.32 ID:dtAkzovh.net
お伊勢参りする犬を思い出した

982 :人間七七四年:2021/03/18(木) 21:09:49.84 ID:gm6RxHuz.net
>>981
あれは周りの人間が代わる代わる伊勢まで連れていってやったんだろw

983 :人間七七四年:2021/03/19(金) 18:25:28.42 ID:+6dfJni+.net
米国民主党に村を焼かれた人、元気そうっすねw
ああいうメンタルじゃないと歴史研究者クラスタにはなれないのか・・

984 :人間七七四年:2021/03/19(金) 22:02:42.71 ID:J/akJTGr.net
例の人またなんかあったん?
てわけじゃないのか。ほっとけよそんなんw
腰巾着云々は鏡見ろってとこだが。

SNSでの「学者」さんの馬脚のあらわしし方というのは確かに酷いが、
文豪たちのクズ伝説と同じく、作品や研究の出来で評価してやろうや。

985 :人間七七四年:2021/03/19(金) 22:10:56.55 ID:J/akJTGr.net
まあ、島津に村を焼かれた実例は数多かろうから、検証でもしてみりゃいい。
沖縄みたいにつべこべ言い続ける向きも実在するのだし。

他所だって、上杉氏研究の第一人者といわれた新潟の研究者は、
謙信は称賛するのに後継の景勝は酷評するので知られていたが、
それは御館の乱で実家の神社を焼き討ちされたからと噂されていた。
400年前だろうと焼かれた恨みは大きいのだ。

986 :人間七七四年:2021/03/21(日) 11:09:58.21 ID:1eV6ICGQ.net
「先の戦争で焼けてしまいましてなあ」と?

987 :人間七七四年:2021/03/21(日) 12:07:54.93 ID:9d3uH3uG.net
奴隷商売は良いというのか

988 :人間七七四年:2021/03/21(日) 13:04:09.90 ID:qZjb6YGa.net
奴隷商売とは?

989 :人間七七四年:2021/03/21(日) 13:23:26.88 ID:r8ohwL1m.net
謙信の奴隷狩りガーってのでしょ?
乃至氏の新刊でそこらの反論してたか

そういや乃至のパトロンの伊東潤が景勝直江を罵倒した小説書いたのも、その新潟の研究者の影響かなんて言う奴が米沢にいた

990 :人間七七四年:2021/03/21(日) 13:30:48.27 ID:lfJgYoBT.net
ほんと歴史学者ってクソばっかりだな

991 :人間七七四年:2021/03/21(日) 13:34:02.83 ID:r8ohwL1m.net
ツイッターの件なら、「右翼」退治なんて雑な言い方してしまう時点で亀田ってお方もダメダメっすよ

呉座氏に批判された女性ってのも「冷笑系」なんて言葉を使うからアレ系の人かと思ったら、やはりそうだったw



中世戦国は別として、古墳時代考古学界隈だと韓国との付き合いがあるせいか、朝鮮半島を「韓半島」と表記する手合いが多くて
極右安倍政権ガー、前近代的な皇室と宮内庁ガーと著作に書いてしまう奴はここ数年でもよくいるよ
宮内庁管理の陵墓古墳を好き勝手に掘れないのが恨み骨髄らしい

992 :人間七七四年:2021/03/21(日) 14:11:52.22 ID:lfJgYoBT.net
呉座って人もマウントするために歴史学やってるような人だしな
いちいち人けなさないと自説主張できんのかよw

993 :人間七七四年:2021/03/21(日) 17:59:45.98 ID:UsLlm37/.net
雑談するなら新スレ建てろ

994 :人間七七四年:2021/03/22(月) 08:46:26.12 ID:+bzs5jKu.net
新スレ挑戦してみる

995 :人間七七四年:2021/03/22(月) 08:49:46.59 ID:+bzs5jKu.net
戦国ちょっといい話49
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1616370564/

立てた

996 :人間七七四年:2021/03/22(月) 11:52:56.77 ID:WWcDCUR3.net
>>995
ありがとう

997 :人間七七四年:2021/03/22(月) 13:01:10.18 ID:cxpDjSiK.net
>>995

こっちは埋めておくか

998 :人間七七四年:2021/03/22(月) 13:29:26.66 ID:iF+8mVrs.net


999 :人間七七四年:2021/03/22(月) 18:26:04.66 ID:801aSVwa.net
アフィカス死ね

1000 :人間七七四年:2021/03/22(月) 18:26:41.68 ID:NspP0h+g.net
アフィカス自殺まだー?

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